多様な感性の覚醒を
願って

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VSFSF徹底研究
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『思考と言語(新訳版)』① 

≪01≫ 【心理学のモーツァルト】 ヴィゴツキーは僅か十年ほどのあいだに、芸術や表現や学習や教育にひそむラディカル(根っこ)にとりくんだ。またたくまに多くの学芸を横断して新たな心理学に方向を与え、斬新な学習理論を組み立て、結核を拗らせて37歳で夭折した。

≪02≫  天才肌だった。そうだろうと思う。ただ、いまでこそ「心理学のモーツァルト」と賞賛されて天才扱いされているけれど、当時のソ連のアカデミーはその先駆的業績を無視し(唯物論的ではないという理由で)、ヴィゴツキーの娘たちすら父親が偉大であることを知ってはいなかった。彼女たちは、父の死後何年もたってから「念のために申し上げますが、あなたのお父さまが私たちにとっての神様であることは、ご存知でいらっしゃいますよね」とコーネル大学のプロンフェンブレンナー博士から聞かされるまで、父が他の国の学識者によって尊敬されていたことを知らなかったのである。

≪03≫  この話は、名著『天才と才能』の著者でもあるイーゴリ・レイフの『ヴィゴツキーの思想と運命』(ミネルヴァ書房)に紹介されている。

『思考と言語(新訳版)』

≪04≫ 【ロシアという熱気】 ヴィゴツキーが青春を駆け抜けたときのロシアは沸騰していた。帝政ロシアの末期だ。 芸術表現論のシクロフスキー、言語論のヤコブソン、物語論のプロップらが主導するロシア・フォルマリズムが台頭し、レーニン(104夜)、トロツキー(130夜)によるロシア革命の未曾有の嵐が近づいていた。

≪05≫  まったく同時期に、マヤコフスキー、ラリオーノフ、マーレヴィチ(471夜)、タトリン、リシツキー、ロトチェンコらのロシア・アヴァンギャルドとロシア構成主義は、世界中のどこにもないアート・デザインの表現力学を見せつけていたし、ラフマニノフ、スクリャービンらの音楽家もロシア・アヴァンギャルドに参画し、ディアギレフは若きストラヴィンスキーの才能をバレエ・リュスの舞台に登用した。

≪06≫  そんなロシアが最も大胆だった渦中、ヴィゴツキーはモスクワ大学で最初こそ法学を学ぶのだが、それではまったく飽き足らず、シャニャフスキー人民大学にも同時に入ってできるかぎり広く深く歴史と哲学を修めた。そのころからこの英明な青年は「インテリオリザーツィア」という言葉を大事にしていた。「内展化」と訳すこの言葉は、その後のヴィゴツキーの思想を貫いた歴史観であって、また心身観であった。

『思考と言語(新訳版)』

≪07≫ 【気鋭の仲間たち】 のちに「心理学のモーツアルト」と言われはしたけれど、ヴィゴツキーの才能が孤立していたわけではない。その発想や思索はむしろ騒然あるいは渾然として、また争鳴的にも、同時代の思想的芸術的なアスリートたちとともにいた。

≪08≫  なかでも歴史心理学の提唱者アレクサンドル・ルリヤ、実験心理学のアレクセイ・レオンチェフ、映画作家のセルゲイ・エイゼンシュタインとの熱い交流が互いの才能を育んだ。ルリヤはのちに神経生理学の草分けとなり、オリバー・サックス(1238夜)らと交流した。レオンチェフはのちにモスクワ大学心理学部を創設した。エイゼンシュタインについては言うまでもないだろうけれど、モンタージュの手法を開発して《戦艦ポチョムキン》《イワン雷帝》などの革命的な映画群を制作した。

≪09≫  みんな若くて意欲的だった。意外かもしれないが、とくにエイゼンシュタインからの影響が大きい。 熱い仲間たちの周辺では、やや遠くでフロイト心理学、ピアジェの幼児認識論、ベルグソン(1212夜)の記憶時間論、近くではバフチンの文学理論、スタニスラフスキーの演技論、カンディンスキーの抽象的構成、ジガ・ヴェルドフの映像編集論などが妍を競っていた。ヴィゴツキーはこれらとも交わりながら一気に『教育心理学』と『芸術心理学』を書いた。

≪010≫  のちの話になるが、ワツラフ・イワーノフという記号学者がいた。モスクワ・タルトゥ派に属する。ぼくはワシントンでのシンポジウムで、互いにスピーカーの一人として出会ったことがある。村上陽一郎・中村桂子さんと一緒だった。すでに長老の風格だったが、旺盛な知が溢れていた。イワーノフは一時紛失していたヴィゴツキーの『芸術心理学』の原稿がエイゼンシュタインのアトリエにあったことを発見した人物でもあった。 この話は、山口昌男の対談集『身体の想像力』(岩波書店)で、山口の求めでイワーノフ自身が披露していた。

『思考と言語(新訳版)』

≪011≫ 【内展化をおこしたい】 レフ・ヴィゴツキーは1896年にベラルーシのホメリ(ゴメリ)でユダヤ人の家庭に生まれた。ユニークな家庭教師から刺激を受けたようだ。そのせいか、モスクワ大学では目眩くように独特の知の冒険に突入していった。

≪012≫  第一次ロシア革命が勃発した直後の1918年には、いったんホメリに帰って複数の学校で心理・演劇・美術を教え、さらに多領域を渉猟しながらインテリオリザーツィア(内展化)をおこしていくための核心になるべき思想を追求した。また、このあとのことになるが、ウクライナにも転居して研究の核心を探していたこともある。

≪013≫  どんな核心なのか。ヴィゴツキーがめざしたのは精神科学のための理論的核心の見当をつけること、およびその理論を児童学習の現場にもたらしていくことだった。

≪014≫  当時、心理学はウニやクリの刺(とげ)や角(つの)のように多くの方向へ尖ろうとしていた。いずれも「心の科学」の探求であったけれど、中身はまだまだバラバラである。フロイト(895夜)とウィリアム・ジェームズの心理学では異なる「意識」が議論されていたし、ヴントの実験心理学とベルクソンの「類の記憶」とはほぼ別もので、アーティストたちの美術表現とゲシュタルト心理学は交差していなかった。とりわけ「思考と言葉と心理の関係をめぐる研究」が一番遅れていた。

≪015≫  ヴィゴツキーはそれぞれにインテリオリザーツィア(内展化)をおこしたいと思い、そのステージとして「児童の学習プロセス」に注目する。考古人類学や脳科学がまだ充実していなかった当時は、人間の起源における意識や言語の発生のしくみを追うには、幼児や児童を対象とするのがふさわしかったからである。

≪016≫  そこで、まずはスイスを拠点にしていたジャン・ピアジェの児童認識の発達研究の吸収と脱領域化から着手した。同い歳だった。ピアジェはヌーシャテル大学で動物学を修め、ローザンヌ大学、チューリッヒ大学、パリ大学で心理学を研究して、発達心理学の先頭を切っていた。ヴィゴツキーを刺戟する相手として申し分ない。ちなみにピアジェはパリ大学ではメルロ=ポンティ(0123夜)の後任だった。

『思考と言語(新訳版)』

≪017≫ 【ピアジェ/ZPD】 われわれは自分の「心」がどのように形成されてきたのか、知ってはいない。親もわからないし、周囲からも観察できない。そもそも「自分の心」のモデルがない。最大のネックは、われわれ自身に平均2歳半以前の記憶がまったくないことだ。では、幼児はどこから「自分」(自己)をつくるのか。そこにピアジェが切りこんでいた。

≪018≫  おおざっぱにいえば、ピアジェの児童認識発達論はスキーマ(schema)、同化(assimilation)、調節(accomodtion)、均衡化(equilibration)の4つで成り立っていた。

≪019≫  児童は初期知識の枠組としてのスキーマ(シェーマ)をつかむと、これを他のものにもあてはめ(同化)、うまくいかないと歪ませたり、取り替えたり、混ぜたりし(調節)、やがてこれらの認識の多様性の中での均衡をはかる(均衡)。ピアジェの理論は、いまでは「構成主義(bonrtructivism)心理学」の先駆的成果だと言われる。

≪020≫  しかし、この見方には疑問がのこるとヴィゴツキーは感じた。とくに、子供たちはこのような認識の発展を「教えられて学ぶ」のか、それとも自分で工夫して掴むのか、またそのとき言葉はどんな補助をしているのか、言葉づかいが学習の担い手になっているのか、そのへんが曖昧だ。

≪021≫  ヴィゴツキーはこれらをひとつずつ点検し、ひょっとするとそれらの「確かめ」が重なるところにこそ自分が探索しつつある精神科学の核心が隠れているのではないかと見通した。

≪022≫  「確かめ」が重なるところは、のちにZPDと名付けられた。ZPDは“Zone of Proximal Development”の略で、「発達の最近接領域」(あるいは最近接発達領域)を示す(←ZPDはヴィゴツキー死後以降に英語化された心理学用語)。

≪023≫  ヴィゴツキーが気付いたのは、子供たちは学習期のある時点でZPDという領域(zone)に接近し、そこで決定的な認識の冒険を得るのではないかという見方だ。子供たちは大人や先生に教えられもするし、自分で発見もするし調節もする。周囲の反応や気配を察知して、臆しもするし大胆にもなる。そうした認知の発達期で重要なのは、それぞれの児童がなんらかの「埒」に近づくと、おそらくは多くの児童に何かがおこる。その「埒」(zone)の界域がZPDだ。

『思考と言語(新訳版)』

≪024≫ 【内言と外言】 ヴィゴツキーは、ピアジェの発達理論が児童の自己中心性を重んじていたことに疑問をもち、むしろ子供たちは他者と出会うことで大きな学習の機会を得ているのではないかと見抜いたのだった。そのことを言語の習得プロセスの研究から推理した。

≪025≫  もともとピアジェは、児童の言語知覚はアタマの中での内言(inner speech)がある程度充実して、それから外言(outer speech)に出会って発達すると考えていた。ヴィゴツキーはそうではあるまいと予想した。先に外の言葉の刺激を受けてから内言が発達し、それが外に出るにしたがって外言ができあがっていくのではないか。

≪026≫  内言とは音声が伴わない言葉のことをいう。発話しないのだからそのぶん内面的であるが、アタマの中でうごめいていた「初期思考の道具」のセットともいえる。したがって内言は述語性に富み、圧縮や省略が多く、非文法的だ。一方、外言は音声を伴なう言葉で、文法的な様相や整合性をとり、作用性が高くて社会的コミュニケーション性をもつ。

≪027≫  ピアジェは内言ができてから外言が使えるようになる、つまりは思考ができるようになると推理していた。内言には自己中心(self)があって、そのため児童はいわば遊び場で独り言を言っているような状態で、あれこれの内言を試みる。ピアジェはそのなかで、児童が言語思考の知恵の輪を得るとみなしていた。

≪028≫  しかしヴィゴツキーは、子供たちにあってはアタマの中の“初期思考の道具”が先駆しているときに外言と出会い、そのあとで内言という言語を確立する(組み立てなおす)のではないかと考えた。その境界領域がZPDだった。この仮説は巨きい。ぼくがヴイゴツキーに最初に惹かれたのは、ここだった。 ZPDがどういう領域であるかについて、ヴィゴツキーは『「発達の最近接領域」の理論』(三学出版)で検討し、死ぬ間際の『思考と言語』で基本構想をまとめつつ、死んだ。

『思考と言語(新訳版)』

≪029≫ 【学習の正体へ】 あらためて言うと、ZPDは、子供にとっては他者や仲間がいる状況(社会)で何かがわかることこそが重要だということを強く示唆していた。とくに「まねたいこと」(模倣)と「くいちがうこと」(差異)についての何かがわかるのだ。ZPDはそのことにピンとくる「ちょうどいい距離」(埒)となり、発達心理を充実させる核心領域であろうことを説明する。

≪030≫  おそらくZPDでは発達しつつある思考行為と言語発現行為にとって、とても重要なコミュニケーション上の交換あるいは転移、もしくは補償がおこるところなのである。そのときまで子供たちはアタマの中でさまざまな「めばえ道具」で遊んでいたわけだ。

≪031≫  きっと予想がついただろうが、以上のことは子供にばかりあてはまるのではない。学習をしようとする者の誰にでもおこっている。かつてぼくは『知の編集工学』(朝日文庫)において、ZPDとは書かなかったが、それに似た「埒」において「エディティング・モデルの交換」がおこっていて、そのことこそ送り手・受け手によるコミュニケーション行為(シャノン=ウィバー・モデル))の説明に代わる見方になるはずだと書いておいたものだった。

≪032≫  ぼくはヴィゴツキーの言う「思考→言語」あるいは「外言→内言」でおこる交換・転移・補償を、編集工学の見方でいえば、すこぶるコミュニカティブな「エディティング・モデルの交換」のプロセスに当たっているのだろうと説明したのである。

『思考と言語(新訳版)』

≪033≫ 【学習の正体へ】 あらためて言うと、ZPDは、子供にとっては他者や仲間がいる状況(社会)で何かがわかることこそが重要だということを強く示唆していた。とくに「まねたいこと」(模倣)と「くいちがうこと」(差異)についての何かがわかるのだ。ZPDはそのことにピンとくる「ちょうどいい距離」(埒)となり、発達心理を充実させる核心領域であろうことを説明する。

≪034≫  おそらくZPDでは発達しつつある思考行為と言語発現行為にとって、とても重要なコミュニケーション上の交換あるいは転移、もしくは補償がおこるところなのである。そのときまで子供たちはアタマの中でさまざまな「めばえ道具」で遊んでいたわけだ。

≪035≫  きっと予想がついただろうが、以上のことは子供にばかりあてはまるのではない。学習をしようとする者の誰にでもおこっている。かつてぼくは『知の編集工学』(朝日文庫)において、ZPDとは書かなかったが、それに似た「埒」において「エディティング・モデルの交換」がおこっていて、そのことこそ送り手・受け手によるコミュニケーション行為(シャノン=ウィバー・モデル))の説明に代わる見方になるはずだと書いておいたものだった。

≪036≫  ぼくはヴィゴツキーの言う「思考→言語」あるいは「外言→内言」でおこる交換・転移・補償を、編集工学の見方でいえば、すこぶるコミュニカティブな「エディティング・モデルの交換」のプロセスに当たっているのだろうと説明したのである。

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≪037≫ 【知の転移性】 ついでに言っておく。ヴィゴツキーの学習理論については、キエラン・イーガン(1540夜)の『想像力を触発する教育』(北大路書房)を千夜千冊するときに少しだけだが(けれども大いに絶賛して)、触れておいた。とくにヴィゴツキーが、学習成果というものは子供にとっても大人にとっても「知の転移性」によって深い自覚とめざましい飛躍をつくっていくと考えていたことを特筆した。

≪038≫  学習が「知の転移性」によって深まるというのは、ぼく自身の実感値としても編集工学のモットーとしても、かなり当然のことである。学習には編集知の「乗り換え」と「着替え」と「持ち変え」がきわめて大事なのである。話し相手が変わったり、場所が新しくなったり、ノートを替えたり、先生が代わったり、教室の組み替えがあったり、遊び道具がガラリと変化すると、学習を劇的に変移させ、飛躍させるのだ。

≪039≫  けれども、このようなノリの「転移」を重視する考え方が教育の基本に据えられることはほとんどなかった。つまりヴィゴツキーの提案や仮説はずっと忘れ去られていたのだ。

≪040≫  教育の現場がヴィゴツキーに戻るべきことを提唱したのは、アメリカのジェローム・ブルーナーだった。ブルーナーは『可能世界の心理』(みすず書房)の第5章「ヴィゴツキーのインスピレーション」で、1960年前後にヴィゴツキーのことを初めて知って驚嘆し、すぐにルリヤを介して深く学ぶようになったということを書いている。

≪041≫  ブルーナーはヴィゴツキーの学習理論に「意識の貸与」が重要視されていることを指摘した最初の教育心理学者だった。そのあと、マイケル・コールやジェームス・ワーチや、「あなたのお父さまが私たちにとっての神様であることは、ご存知でいらっしゃいますよね」と娘に告げたプロンフェンブレンナーたちがあらわれたのだ。

『思考と言語(新訳版)』

≪042≫ 【意識の貸与】 世の教育現場や家庭では「ちゃんとやりなさい」「宿題はやった?」「もっと自分で考えて」が強調されている。継続性と反復性と自発性である。そのため残念ながら、教育業界で「知の転移性」や「意識の貸与」が注目されることはめったにない。「意識の貸与」とは、教える者、伝える者、別の考え方を相互融通するということだ。

≪043≫  ぼくからすると、これほど明確なことはないように思う。知はAからBへ、BからCへ、CからAへノリが移転されて(ときにメディアやフォーマットを変えて)、思考力が学習力を牽引し、また「教え」と「学び」が相互貸与されることによってのみ自他のあいだに学習領域が一挙に拡張することによって、そのめざましい自覚が覚醒し、躍りだすものなのだ。その躍りだすところがZPDだったのである。

≪044≫  なぜ、このことが教育にもたらされなかったかといえば、知能や学習の本来のしくみをヴィゴツキーやイーガンのように組み立ててこなかったからだった。とくに「知の転移性」が理解されていなかった。

≪045≫  だからこそ、いっときも早くヴィゴツキーをできるだけ早く取り戻したほうがいい。ただ、ヴィゴツキーも37歳で夭折したため、その意図は半ばしか熟成できなかったし、そのぶん理解されないままにあったように思う。ヴィゴツキー自身、教育と学習の本来を伝えるため、生前は迷妄を取り払うための作業に時を奪われていた。『思考と言語』はその作業進行途上の著作なのである。

『思考と言語(新訳版)』

≪046≫ 【知能はどこから?】 『思考と言語』に何度も登場するのは子供やピアジェだけではない。チンパンジーも登場する。

≪047≫  ヴィゴツキーは、当時すでに動物や類人猿の知能研究にとりくんでいたロバート・ヤーキーズやチンパンジーにひそむ知恵の可能性を仮説したヴォルフガング・ケーラーに関心を示し、そこからゲシュタルト心理学者たちの研究がどこまで有効な学習理論をハンドリングできているのかを検討している。

≪048≫  ヤーキーズは1929年にフロリダにイェール霊長類研究所を開設し、その後にこれをエモール大学に移設したヤーキーズ霊長類研究所の創設者として斯界に君臨してきた。適度なストレスのかかった学習こそ最も効果の高い成果を生み出すという「ヤーキーズ・ドットソンの法則」の発見者としても知られる。ケーラーは『類人猿の知恵試験』(岩波書店)を著して、チンパンジーが棒を活用してバナナを取る行為にどんな知能の萌芽を認めるべきかを研究して、その手の類人猿の知能研究の泰斗となった。

≪049≫  ヴィゴツキーはかれらの研究レポートにいちはやく反応して、いったいわれわれの思考は言語を伴わない動物のレベルにおいても先取りされていたのかどうかということを検討するのだが、そう考えるのはムリがあると結論づけた。言語を介在させない知恵は、たとえ動物でも幼児でも、ヴィゴツキーにとっては思考の道具とはみなせかったのである。

≪050≫  ではそれで、どうしたのか。ケーラーも所属していたゲシュタルト心理学の創発期の研究動向、なかでもクルト・コフカやクルト・レヴィンの考え方に注目した。ゲシュタルトとは「形づくられたもの」のことで、エーレンフェルスやヴェルトハイマーが思いつき、ケーラーやコフカやレヴィンが発展させた。

『思考と言語(新訳版)』

≪051≫  【反射と反応】 ヴィゴツキーがZPDの可能性を模索していたころ、モスクワ大学の心理学研究所の所長がチエルパーノフからコルニーロフに代わって(1923)、それまでのヴントに由来する内観的な意識研究が批判され、それとともにパブロフの条件反射をヒトにあてはめたウラジミール・ベヒテレフの反射学(reflexology)も批判にさらされるようになった。

≪052≫  このときコルニーロフは反応学(reabttology)を提唱するのだが、そんな時期、ヴィゴツキーも心理学研究所員として「反射学から反応学へ」という路線の研究に従事した。しかし、どうもどちらにも限界を感じた。意識の確立や認識の発達が条件反射的ではないとしても、では人間はどんな知覚反応によって意識や認識を使えるようなものにしてきたのか、そこが見えない。

≪053≫  かくしてヤーキーズやケーラーの類人猿行動観察による「動物の知恵の反応」にいったん関心を寄せたのだが、先にも紹介したように、ここにもムリがあった。そこでヴィゴツキーはケーラーの考え方の基礎になっていたゲシュタルト心理学に目をむけてみた。

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≪054≫ 【ゲシュタルトと知覚】 ゲシュタルト心理学については、すでに1273夜のコフカ『ゲシュタルト心理学の原理』(福村出版)の折におおざっぱな説明をしておいたので詳しくは述べないけれど(千夜千冊エディション『デザイン知』所収・角川ソフィア文庫)、当初はメロディなどがゲシュタルトだとみなされた。

≪055≫  メロディは一つずつの音符で示せるが、そうした要素ではあらわせない何かがある。その何かをわれわれは感知する。だから作曲家の曲想や演奏者の演奏にはあらわれる。けれども音の要素に向かってもわからず、全体に向かっていくと知覚されてくる。どうしてそうなるのか。きっとメタ形態知覚のようなものがわれわれの知覚活動にはひそんでいて、メロディはその知覚活動が認知しているのではないか。それはゲシュタルト(形態認知性)というものだろうという見方である。

≪056≫  そこでエーレンフェルスは音楽の要素には何かが加わっているのだろうとみなしたのだが、ヴェルトハイマーは「全体にあらわれる特性は要素の総和ではあらわせない」と見て、要素還元できないモダリティ(様相)のようなものが、われわれの知覚や認識には作動しているにちがいなく、それがゲシュタルトだと考えた。

≪057≫  メロディにゲシュタルトを”発見”したクリスチャン・フォン・エーレンフェルスについて、興味のある向きのために補っておく。もともとワーグナー(1600夜)に熱中し、ブルックナーに師事して作曲を学んでいた青年だったのである。

≪058≫  また数論や素数の研究にも強く、フッサール(1712夜)の幾何学研究との共振性も話題になっている。ぼくはマッハの『感覚の分析』(法政大学出版局)がエーレンフェルスをゲシュタルト発見に導いたのだろうと思っている。ちなみに言語は、たとえば「丸い四角」という虚構や数現的矛盾を言い表すことができるのだが、そのような言語的矛盾も「知覚がもたらすゲシュタルト」だと指摘したのは、エーレンフェルスだった。

≪085≫  ④心理学は連合しなければならない。それには「言語的思考」ともいうべき統一体がどのようなものであるかを探らなければならない。

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≪059≫ 【キネマと仮現運動】 ヴェルトハイマーは当時流行しはじめていた「キネマ」をヒントに、ゲシュタルトの解明に向かった。

≪060≫  映画の一コマ一コマを取り出してもその総和が何をあらわしているのかはわからないが、一定の速度で映写されるとスムーズな動画に見える。そこには知覚の新たな起動をもたらす運動がある。それをとりあえず「仮現運動」(apparent movement)と名付け、われわれの知覚には対象物のそうした運動によってつくりだせるゲシュタルト(形態質)がひそんでいるのだと考えた。

≪061≫  「仮現運動」はすでにマッハ(157夜)も気づいていたことで、知覚現象に生じてくる「ファイ現象」とも呼ばれていた。パラパラ漫画が動くように見えることにも生じるし、適当な模様のコマを回転させると色の縞模様が見えることも知られていた。多くの錯視図形(イリュージョン)も仮現によっていた。

≪062≫  ゲシュタルト心理学ではこうしたことは知覚活動の奥に作動しているもので、そこにはその場に潜在する情報体制(態勢)を選びとるプレグナンツ(独pragnanz・英pregnant)がはたらいているとみなした。プレグナンツは生物や人間が周辺の情報対象を即座に把握するための知覚能力のようなもので(それがまさにゲシュタルト知覚)、動物にも人間にも共通する。眼前の形や色やパターンやグルーピングや使い勝手をすばやく知覚する能力である。ヴェルトハイマーがメロディに、ケーラーがチンパンジーの棒づかいに注目したのはそのためだった。

≪063≫  こうして、幼児や児童の記憶や学習にもゲシュタルト知覚がはたらいているのだろうという見方が浮上してきたのである。

『思考と言語(新訳版)』

≪064≫ 【心理学前史からヴィゴツキーへ】 1927年、ヴィゴツキーは「心理学の危機の歴史的意味」を書いて、当時の精神分析、反射学、行動主義心理学を批判しつつ、ゲシュタルト心理学への接近と不満を語った(のちに『心理学の危機』明治図書に所収)。

≪065≫  なぜ、そういう論文を書いたのか。ここで少し心理学の変遷の状況を整理しておくと、20世紀の心理学はヴィルヘルム・ヴントの登場によって促された。ヴントがヘルムホルツの助手を5年間していたとき、それまで哲学や形而上学の範疇に属していた「心の世界」に覗き穴ができたのだ。

≪066≫  ヘルムホルツの科学的思索力の影響が大きく、ヴントの「心」(意識)を科学的に解明したいという意志が強かったからだろうと思う。かくてヴントが1879年にライプツィヒ大学に心理学実験室をつくったとき、今日の心理学の第一歩が始まった。

≪067≫  こうしてまずは実験心理学と民族心理学が生まれ、ヨーロッパにクレペリン、エビングハウス、フロイト、パブロフらが登場し、アメリカにチャールズ・パース(1182夜・1566夜)、ウィリアム・ジェームズ、ワトソン、スキナーたちが登場した。しかしヴィゴツキーが早くに気付いたように、ヴントの心理学は経験的な要素を内観によってさぐろうとするもので、なんであれ意識を要素的に分解するものだったし、フロイトは欲望や無意識に向かい、ワトソンらのアメリカ行動主義心理学は経験を意識ではなく行動分析によって解明しようとする機能分析的なものだった。パブロフやコルニーロフやスキナーは「刺激と反応」によって行動と心理が条件付けられていることに向かった。

≪068≫  ヴィゴツキーはこれらの多くが意識や行動をあらかじめ限定させながら研究していることに疑問をもった。そうしたなか、意識や経験や欲望や無意識ではなく「知覚そのものの現象学」の確立をめざす一連のゲシュタルト心理学の動向が立ち上がってきたわけである。これは知覚・認識・思考にひそむものを内展させるに与かりそうだった。

≪069≫  1927年の「心理学の危機の歴史的意味」は、ヴント以来の心理学の変遷をほぼ点検したうえで、ゲシュタルト心理学の可能性と限界にも言及した論文である。それとともに、そこまでの心理学が人間の全体像や思考力や学習力に関心を向けていなかったことに不満があることを表明していた。ヴィゴツキーの焦りも感じられる。

≪070≫  このあたりの遺稿については、没後に編集された『ヴィゴツキー心理学論集』(学文社)、『人間行動の発達過程』(明治図書)などでフォローできる。

『思考と言語(新訳版)』

≪071≫ 【編集力の発揚】 ヴィゴツキーがどのようにゲシュタルト心理学とかかわり(ルリヤらを通してケーラーやレヴィンとは交流もした)、どんな注文をつけたかについては、あまりレヴューされていない。佐藤公治の『ヴィゴツキーの思想世界』(新曜社)が第6章でやや詳しく扱っていただけだろうか。

≪072≫  そこにも触れられているのだが、ゲシュタルト心理学についてはヴィゴツキー以降、何人かがその着想の秀でたところと決定的な限界を指摘した。たとえばメルロ=ポンティは『行動の構造』(みすず書房)で、かなりわかりにくい言い方ではあるものの、ゲシュタルト心理学を紹介したうえで心身関係の問題を知覚認識の問題に解消しすぎていると指摘したし、マイケル・ポランニー(1042夜)は『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)で、ゲシュタルトは能動的に経験を形成しようとする活動によって外部世界と内的認識活動のあいだで生じる統合であると捉えたほうがいいと指摘した。

≪073≫  ジル・ドゥルーズ(1082夜)は『襞』(河出書房新社)において、ゲシュタルトがあらかじめ存在していると見るのはおかしいと指摘して、今日の言葉でいえば多くの知覚のフィルタリングによって形成されると仮説した。フォン・ユクスキュル(735夜)が生物たちの知覚が環世界のフィルタリングによって成立しているとみなしたことを踏襲する見方だ。

『思考と言語(新訳版)』

≪074≫ 【編集力の発揚】 ヴィゴツキーがどのようにゲシュタルト心理学とかかわり(ルリヤらを通してケーラーやレヴィンとは交流もした)、どんな注文をつけたかについては、あまりレヴューされていない。佐藤公治の『ヴィゴツキーの思想世界』(新曜社)が第6章でやや詳しく扱っていただけだろうか。

≪075≫  そこにも触れられているのだが、ゲシュタルト心理学についてはヴィゴツキー以降、何人かがその着想の秀でたところと決定的な限界を指摘した。たとえばメルロ=ポンティは『行動の構造』(みすず書房)で、かなりわかりにくい言い方ではあるものの、ゲシュタルト心理学を紹介したうえで心身関係の問題を知覚認識の問題に解消しすぎていると指摘したし、マイケル・ポランニー(1042夜)は『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)で、ゲシュタルトは能動的に経験を形成しようとする活動によって外部世界と内的認識活動のあいだで生じる統合であると捉えたほうがいいと指摘した。

≪076≫  ジル・ドゥルーズ(1082夜)は『襞』(河出書房新社)において、ゲシュタルトがあらかじめ存在していると見るのはおかしいと指摘して、今日の言葉でいえば多くの知覚のフィルタリングによって形成されると仮説した。フォン・ユクスキュル(735夜)が生物たちの知覚が環世界のフィルタリングによって成立しているとみなしたことを踏襲する見方だ。

≪077≫  ここに挙げたのはいずれもすこぶる有能な「編集的解釈力」の持ち主である。その持ち主たちがゲシュタルト心理学の限界を指摘するとともに、すでにそのことを先駆していたヴィゴツキーに注目した。ヴィゴツキーこそは編集的解釈力の先駆者だったということなのである。『編集力』(千夜千冊エディション・角川ソフィア文庫)を参考していただきたい。

『思考と言語(新訳版)』

≪078≫ 【思考と言語】 大津に三学出版がある。小さな版元だが、教育・心理・学習をめぐる本が多い。なかでヴィゴツキーの翻訳ものや「ヴィゴツキー学」シリーズが光っている。

≪080≫  今日の時代、ヴィゴツキーを読み、ヴィゴツキーに学ぶことは決して易しいことではない。『思考と言語』は生前の主著ではあるが、あまりに各学説の検討にページがさかれていて、心理学に詳しくない者には読みにくい。しかし、ここに謳われようとした「思考」と「言語」の関係こそ、今日の時代の学習論の本道なのである。今夜を「ヴィゴツキーの夜」とするべく(今夜はわが79歳スタートの夜陰にあたる)、最後にいくつか強調しておきたい。

≪081≫  『思考と言語』からの引用および翻案だ。少しフレーズをつなげ、言い回しを補完してあるが、かえってヴィゴツキーらしさがよくあらわれていると思う。

『思考と言語(新訳版)』

≪084≫  ③思考と情動を切り離してはならない。むしろ情動過程と知的過程とを連合させる意味体系がありうることを模索するべきだ。

≪085≫  ④心理学は連合しなければならない。それには「言語的思考」ともいうべき統一体がどのようなものであるかを探らなければならない。

≪086≫  ⑤私たちが「自己」にこだわるのは混同心性のせいである。ただし「分離のモメント」よりも「接近のモメント」が重要だ。

『思考と言語(新訳版)』

≪087≫  ⑥模倣による学習性について。「模倣するためには、私ができることから私ができないことへの移行のなんらかの可能性をもたなければならない」。

≪088≫  ⑦児童における概念の発達について。概念は複合的思考(thinking in complexes)のプロセスで形成されるとしか言いようがない。ここには混同心性の構成がおこっている。複合的思考はすでに脈絡をもつ思考であろう。

≪089≫  ⑧複合的思考を促すのは対照(contrust)による連合である。このとき、児童はさまざまな言葉と事物のコレクションに遊んでいる。そこで重要な役割をもつのが擬概念である。

≪090≫  ⑨複合的思考は人類学者レヴィ-ブリュールの「融即」(participation)によっても説明できるかもしれない。古代人は融即によって言葉と思考をつなげてきた。

≪091≫  ⑩転移がないかぎり、児童もわれわれも想像力を作動させられない。転移は想像力が言葉によって再現できる契機になっている。

『思考と言語(新訳版)』

≪092≫  まだまだ列挙しておきたいけれど、このくらいにしておく。いずれも学習においてインテリオリザーツィアをおこすべきだという発想だ。ドゥルーズふうにいえば「脱領土化」であり、ぼくからすると学習の「編集化」なのである。

≪01≫  村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋 2013)を店頭で見て、ふうん今度はこう来たか。「多崎つくる」って何だ? 色鉛筆じゃないよな、主人公の名前なのか、何かのアイロニー? 「巡礼の年」はあれだな、 ビーチボーイズ(風の歌を聴け)、ビートルズ(ノルウェイの森)以来ずっとこの手で、『海辺のカフカ』はシューベルトだったけど、今度は浪漫派のリストで来たのかなどと思い、パラパラとページをめくった。買いはしなかった。

≪02≫  まもなくいつものようにハルキスト現象がおこり、ラザール・ベルマンの輸入盤CD《巡礼の年》が売り出されて、ちょっとした話題になっているというニュースを聞いた。ピアノ独奏曲集だ。ベルマンは70年代のロシアを代表するヴィルトゥオーソで、リストの《超絶技巧練習曲》の演奏で話題をとった(来日したときの記録は「サッポロ・リサイタル」として愛好された)。

≪03≫  しばらくして念のため村上新刊本に目を通してみたら(わが家の本棚には家人が村上作品をずっと買って並べてあるので、いつでもパラパラ読める)、土木工学科に入って「駅づくり」を夢想していた多崎つくるが、大学の後輩の灰田文紹という男から《巡礼の年》のレコードの中の一曲を聴かせられる場面があった。かのセナンクールの『オーベルマン』に感応した〈ル・マル・デュ・ペイ〉である。「郷愁」あるいは「望郷」と訳されてきた。

≪04≫  《巡礼の年》は、リストがある女性との8年間におよんだ恋愛逃避行を偲び、かなりの傷みをもって作曲したシリーズである。

≪05≫  ある女性のことはあとで正体をあかすとして、1835年5月、リストはマリーという6歳年上の女性(もちろん人妻)とパリを別々に離れてバーゼルで落ち合い、スイスを旅し、ジュネーヴからアルプス越えをしてイタリアに入り、ヴェネツィア、ローマ、ナポリ、フィレンツェに滞在した(半ばは住んだ)。早くに天才ピアニストの名をほしいままにしていたとはいえ、まだ21歳のときだ。

≪06≫  二人の生活はリスト20代の大半を覆った。マリーとは3人の子をもうけて別れるのだが(その一人がワーグナーの妻になった次女のコジマ)、その甘美ではあるけれどかなり苦(にが)みを伴った日々の思い出を、セナンクールの小説に託してつくったのが、多崎つくるが聴いた《巡礼の年》の中の一曲なのである。

≪07≫  エティエンヌ・セナンクールの『オーベルマン』(岩波文庫)はハンガリー生まれのリスト少年の気持ちをずっと占めていた青春小説である(1804年刊行)。ゲーテ(970夜)の『若きウェルテルの悩み』とともにヨーロッパの若い世代に厭世ブームや自殺ブームをもたらした曰く付きのベストセラーだった。

≪08≫  主人公のオーベルマンがフランス革命後のパリを遁(のが)れてフランスやスイスの各地を訪れ、人生の苦楽と近代社会の鬱屈を問い、パストラルな日々への思いを友人に向けた91通の手紙に綴ったロマン主義的な書簡体スタイルのもので、「人生は一場の迷妄であろう」ことをスイスの美しい自然描写にまじえて綴っていた。

≪09≫  こんな一節がある。「人生の苦悩を贖うに値することなど、何一つこの世に存在しないことを悟ってから、人生を単にやむをえぬひとつの重荷として耐え忍んできた」。

≪010≫  ぼくは高校時代に岩波文庫主義になって(小遣いで買えるのは文庫程度だ)、ヘッセ(479夜)や梶井基次郎(485夜)やワイルド(40夜)やトーマス・マン(316夜)などともに『オーベルマン』を読んだのだが、そのときはショーペンハウエル(1164夜)のミットライト・ペシミズムに近いものを感じた。のちになってアルベール・ベガンの傑作『ロマン的魂と夢』(国文社)にセナンクール論を見いだした(この本はおススメだ)。

≪011≫  リストはマリーとの日々を了え、その体験の奥に疼いている「愁い」を少しずつ曲にしていった。60歳前後までかかっている。それが《巡礼の年》だ。構成は第1年「スイス」、第2年「イタリア」となって、ヴェネツィアやナポリを哭くように謳う第3年になっていく。いわば「傷魂記」のようなプログラムだ。

≪012≫  村上春樹は多崎つくるに、第1年「スイス」の中の〈ル・マル・デュ・ペイ〉を「小さな堅い雲の塊を知らないうちに吸い込んでしまったようだった」と言わせているけれど、あらためて聴いてみるとリストのものとしては暗く、いささかぶっきらぼうで、荒涼としていながら胸に刺しこんでくるような印象だ。

≪013≫  ちなみに《巡礼の年》でぼくが惹かれたのは、村上とは違って第2年「イタリア」の、ペトラルカとダンテ(913夜)に寄せた数曲のほうだ。ペトラルカに向けたのはソネットで、ダンテに向けたソナタでは地獄篇を音にしたかったのだろうが、冒頭で例の「音楽の悪魔」の異名をとる三全音をつかっている。

≪014≫  少々もってまわった話から始めたけれど、フランツ・リストのことはその音楽もその人格も気になってきた。にもかかわらず、千夜千冊として掬するのがむつかしい相手だった。難解なのではなく、「明快であることが多様」なのである。ロ・ロ・ロ叢書のエヴェレット・ヘルムの『リスト』(音楽之友社)などを読んでも、そのへんのことが、どうも掴めない。  《巡礼の年》は、リストがある女性との8年間におよんだ恋愛逃避行を偲び、かなりの傷みをもって作曲したシリーズである。

≪015≫  多くの才能と逸話をもつ特異すぎるほどのピアニストで、かつ独特の文化を率先した体現者であるのに(文化体現者のことはあとで説明する)、いざ書こうとすると何かが必ず遺失物のようになって、どの感想をどこからどんな順で書けばいいのかおぼつかなくなってしまうのだ。

≪016≫  噂は多い。たとえば「指が6本ある」と言われた。それほどに超絶技法が得意な当代きってのヴィルトゥオーソ(virtuoso伊:達人)だった。父親はわが子の才能の開花を信じて3歳のころから指が長くなるように訓練させたという。だから指の長い少年になって、12度の音程だってをやすやすと弾いてみせた。そんな話がたくさんのこっている。

≪017≫  とはいえ録音や映像記録があるわけではないから、その演奏ぶりをまるで見たかのようには書けない。だいたいピアノの奏法を云々できるほど、ぼくはクラシック・ピアノ通ではない。リヒテルのプロコフィエフを聴いて以来、多少はレコードやリサイタルを気にするようになってはきたけれど、ときには太田香保との雑談を通して、ときには井上鑑や青澤隆明に示唆され、またときにはその手の本を読んでそこそこ刺激されてきた程度だ。

≪018≫  ただ、そんなくらいではリストのみならず、ドビュッシー、マーラー、バルトーク、サティ、バーンスタインなどもわからない。とりわけリストは噂と実像にヒラキがあるので埋まらない。

≪019≫  青柳いづみこの『ピアニストは指先で考える』(中公文庫)に、リスト研究家の野本由紀夫や音楽史の芦川紀子や演奏家の小林仁をつかまえて、リストの弾き方やピアニズムを尋ねる場面が出てくる。

≪020≫  リストは「ピアノは背中で弾け」と言っていた。そうだとすれば肩から肘をへて手首や指先に力を落としていく重力奏法を教えたことになるけれど、いづみこさんにはそうとは思えないので実際はどうだったと思うのかと各氏に尋ねるのだが、納得のいく答えがなかなか見つからない。そういうエッセイだ。いづみこさんが納得ができないのでは、とうていぼくの出る幕はない。

≪021≫  10歳のときのウィーン音楽院での先生はカール・チェルニーとアントニオ・サリエリであることがわかっている。二人はリスト少年の才能を感じていた。12歳のときは53歳の老ベートーヴェンに演奏を褒められて、両腕に抱きしめられたか、おでこにキスされた(これも噂かもしれないが)。

≪022≫  20歳(はたち)のときにニコラ・パガニーニの空前絶後のヴァイオリン演奏をナマで聴いて、その超絶技法をピアノに採り入れたことはよく知られている。10度の和音が連続したり4オクターブの音が多用されている楽譜がいっぱいあるのだから、よほどの奏法を開発したのだろうが、いづみこさんを困らせるほどなのだから、やはり実態はわからない。「悪魔のヴァイオリン」と言われたパガニーニの奏法に惹かれた理由も、わからない。

≪023≫  けれども舞台にピアノを2台向かい合わせに置いてこれを交互に弾いたのも、ソロのピアノリサイタルという形式も、リストが史上初めてやってみせたことだったのである。何をめざしていたのだろうか。何を担おうとしていたのだろうか。その過剰や負荷をどうしたかったのか。そういうことが気になっていた。

≪024≫  当時のリストを聴いた音楽家や作家たちが驚いたことについては、それなりの証言がある。メンデルスゾーンがピアノ協奏曲の楽譜をもって訪れてきたときは、その場でたちどころに演奏してみせて、「人生のなかで最高の演奏だった」と言わしめたというし、天才少女と言われていたクララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)はリストの演奏を聴いて号泣したという。

≪025≫  リストに影響を与えた5〜6歳年上のベルリオーズは「未来のピアニスト」と名付けた。アンデルセン(58夜)はリストにオーラがあったことを「彼がサロンに入ってくると、まるで電気ショックが走ったようだった」というふうに書いた。

≪026≫  これらはいずれもピアニスト・リストのことばかりで、作曲家リストや文化体現者リストの噂や評判ではない。ぼくはリストのピアノ・テクニックというより、その生き方や考え方や音楽文化に対する姿勢に関心があったほうなので(リストは世界に向かって白状したいものを音楽にしていると感じてきたので)、なんとかリストの全貌にアプローチできないかと思っていたのだが、なんとも切り込み口を見いだせないでいた。

≪027≫  そんなとき本書が刊行された。タイトルの『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』はトンデモ本あるいは売らんかな本めいていてどうかと思わせたし、中身も軽すぎてはいたが、リストの魅力を時代含みで伝えようとしていたところが、けっこうおもしろかった。

≪028≫  当時のリストを聴いた音楽家や作家たちが驚いたことについては、それなりの証言がある。メンデルスゾーンがピアノ協奏曲の楽譜をもって訪れてきたときは、その場でたちどころに演奏してみせて、「人生のなかで最高の演奏だった」と言わしめたというし、天才少女と言われていたクララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)はリストの演奏を聴いて号泣したという。

≪029≫  リストに影響を与えた5〜6歳年上のベルリオーズは「未来のピアニスト」と名付けた。アンデルセン(58夜)はリストにオーラがあったことを「彼がサロンに入ってくると、まるで電気ショックが走ったようだった」というふうに書いた。

≪030≫  これらはいずれもピアニスト・リストのことばかりで、作曲家リストや文化体現者リストの噂や評判ではない。ぼくはリストのピアノ・テクニックというより、その生き方や考え方や音楽文化に対する姿勢に関心があったほうなので(リストは世界に向かって白状したいものを音楽にしていると感じてきたので)、なんとかリストの全貌にアプローチできないかと思っていたのだが、なんとも切り込み口を見いだせないでいた。

≪031≫  そんなとき本書が刊行された。タイトルの『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』はトンデモ本あるいは売らんかな本めいていてどうかと思わせたし、中身も軽すぎてはいたが、リストの魅力を時代含みで伝えようとしていたところが、けっこうおもしろかった。

≪032≫  著者の浦久俊彦は若くしてパリに住み、アンリ・デュティユーに憧れて師事しようとして断られ、音楽学校に行くのだがまた挫折して、その後は作曲するかたわらさまざまな音楽文化活動にかかわってきた音楽プロデューサーである。

≪033≫  仲道郁代の演奏企画を手掛けたり、林真理子の「マリコとオペラ」のナビゲーターをしたり、三井住友海上しらかわホールのディレクターなどをしている。

≪034≫  著書には本書のほか、『ベートーヴェンと日本人』『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト』(新潮新書)、『138億年の音楽史』(講談社現代新書)、指揮者山田和樹との対談『オーケストラに未来はあるか』(アルテス)などがある。いずれも気楽なノリで書かれているが、本人はロッテの村田兆治ふうの全身投球をしているように思われる。そこが気にいった。そのほか「本の海で溺れたい」というツイッターを入手本の写真などとともにずっと書いている。最近はアナキズム系の本にはまっていた。

≪035≫  その浦久が19世紀文化への愛情を傾けてリストについての本を書いた。実は日本人の本にはリストについてのモノグラフが1冊しかないというありさまで(福田弥『リスト』音楽之社)、惨憺たる状況なのだが、これでやっとカラカラの喉が少し潤ったというリスト・ファンも多いのではないかと思う。

≪036≫  とはいえ、この新書1冊では千夜千冊にならないので、定番ともいうべきエヴェレット・ヘルムの『リスト』(音楽之友社)、福田弥のモノグラフ、ヴィルヘルム・イェーガーがアウグスト・ゲレリヒの日記をもとに編集した『師としてのリスト』(音楽之社)、アラン・ウォーカーの『リスト』(全音楽譜出版社)、ジョルジュ・シフラの回想録『大砲と花』(彩流社)、岳本恭治の『ピアノ大全』(プリズム)なども参考にする。

≪037≫  ゲレリヒはリスト晩年の弟子で、リスト独特のマスタークラスのピアノレッスン(マンツーマンではない指導で、リストが始めた指南スタイル)の様子をわかりやすく伝えている。シフラはリストと同じハンガリーの生まれだが、ロマ(ジプシー)の血筋をもって貧民窟に育ち、1956年のハンガリー動乱に巻き込まれるというような青少年期をへて、プロのピアニストをめざした。その高速演奏は世界一だろうと言われる。『大砲と花』とは「戦争とピアノ」のことである。

≪038≫  岳本(たけもと)は、いまも太田香保がレッスンを受けているピアノの先生で、フンメルの研究者。多くのピアノ教本を書いているのだが、そのいずれの構成もまことにユニークで、ふんだんに図表化や年表化を駆使している。ついでながら古屋晋一の『ピアニストの脳を科学する――超絶技法のメカニズム』(春秋社)も読んでみたが、こちらはお手上げだった。

≪039≫  フランツ・リストは1811年、ハンガリーの小村ライディングに生まれた。翌年、ナポレオンがロシア遠征を開始し、ベートーヴェンのピアノ協奏曲《皇帝》がザクセンのライプツィッヒで初演された。ウィーンで演奏されたとき、ベートーヴェンに代わってピアノを弾いたのは弟子のチェルニーだった。

≪040≫  さきほども書いたように、そのチェルニーがリストの最初の先生になった。リストの父親はかなりの親バカちゃんりんでわが子の才能にぞくぞくし、最初はワイマール宮廷学長をしていたヨハン・フンメルに師事させようと思っていたようだが、敷居が高くてこれはあきらめ、ウィーンに引っ越すと音楽学院に入れて、チェルニーの教えを乞わせた。

≪041≫  少年がまたとない才能の持ち主だと見破ったチェルニーは徹底してメカニカルな技法を叩きこんだらしい。それがよかったのだろう、少年はたちまち神童ぶりを発揮し、驚くべき暗譜能力を示し、作曲もやってのけた(作曲指導のほうはサリエリ)。

≪042≫  父親は有頂天になり、今度はパリに引っ越してパリ音楽学院に入れようとしたのだが、ハンガリー人には門戸が開いていなかった(リストにとってのハンガリー性は生涯つきまとったパラダイス・ロストに関係している)。厳しい批評もあった。当時のパリ楽壇の大御所カルクブレンナーは「すぐにゼンマイが切れるオルゴール時計みたいだ」と吐き捨てた。

≪043≫  ところが、ところがだ。父親の奔走で実現したパリ・デビューの晴れ舞台(1824年3月7日、イタリア座)がセンセーショナルなほどの熱狂に包まれ、大騒ぎになったのである。続いてイギリス、イタリア、スイスでも熱狂が収まらず、13歳の少年はあっというまにスターになった。さしずめオリンピックや国際競技大会で金メダルをとったスケボー少年のように扱われたのだ。このヨーロッパ演奏旅行はエラールのピアノによるもので、セバスチャン・エラールが運送費などを負担した。

≪044≫  前途洋々である。けれども少年は有頂天にはならなかった。人前でピアノを弾いて喝采を浴びる風潮にピンとこなかったとおぼしい。そんなとき父親が腸チフスで死んだ(1827・8)。後ろ盾を失った15歳の少年はどうしたか。一人で父の葬儀をすませると、母親をパリに呼び寄せ、簡素なアパートを借りてピアノ教室を始めたのである。パリはまもなく七月革命に見舞われる。

≪045≫  リストに恋愛は憑きものだ。いくつかの肖像画に見るように白皙細面のイケメンで、ハンガリアンとしての異国情緒も滾(みなぎ)っている。才能は溢れているし、性格は一途でひたむきだ。会話術にも長けていた。これならもてないわけはなく、本人も惚れっぽかった。

≪046≫  ピアノ教室に来ていたカロリーヌが初恋の相手だった。伯爵令嬢で、あえなく失恋におわるのだが、のちにジョルジュ・サンド(ショパンの恋人で、煙草を手放さなかった初期フェミニスト)に送った手紙のなかで、リストは父の死と淡い恋の喪失が続いたこの時期の心境を次のように綴っている。

≪047≫  父を亡くして一人パリに戻り、これから芸術はどうなるのか、芸術家はどうあるべきかという問いを感じはじめたとき、進むべき道の前に立ちはだかるさまざまな不可能の壁に、私は押しつぶされていました。

≪048≫  いまの私にとっての芸術は多かれ少なかれ収入を得るための職人芸にすぎず、結局は上流社会の人々を楽しませるだけのものでした。私はまる二年、病いに苦しみ、カトリックの信仰に没頭し、サン・ヴァンサント・ポール寺院に参詣しました。その聖杯の純粋無垢な女性像が雪花石膏(アラバスター)の聖器のように純白なのに反して、私は貧困と俗事にまみれ、孤独の中で母を抱えて、聴衆の前に立たなければならなかったのです。

≪049≫  私は若かったので、がむしゃらに世間との摩擦に耐えていましたが、自分の心が愛と信仰の神秘的な感情に満たされたときには、なおいっそう心を傷つけられたのです。

≪050≫  そうだったのだろう。「まる二年の病い」は鬱病だったと想定されているが、これはいいかげんな診断かもしれない。むしろ「上流社会の人々」に四方から煽られたことのほうが心を傷める原因だったと思われる。すなわち「ブルジョワ」(Bourgeois)にやられたのである。

≪051≫  フランスのブルジョワ層は18世紀末には啓蒙思想をつくり(千夜千冊エディション『神と理性』参照)、フランス革命を市民(ブルジョワジー)の手で遂行し、19世紀になると劇場文化とサロン文化を推進するとともに、ナポレオンによる王政主義と七月革命による市民主義の両方を兵器で呑み込んだ。今日にいう「クラシック音楽」は、このブルジョワ時代にそのほぼすべてを養成したのである。けれども少年にはブルジョワ趣味はスノビズムか文化毒としてしか映らなかっただろう。

≪052≫  リストが喝采と悲鳴をもって迎えられた時期、パリのブルジョワ音楽サロンでは、マリア・デ・メルラン伯爵夫人、クリスティーナ・ベルジョイオーゾ大公妃、デルフィーヌ・ド・ポトツカ伯爵夫人、ル・ヴァイエ侯爵夫人らが妍(けん)を競っていた。

≪053≫  デルフィーヌ夫人はショパンとリストをサロンで会わせ、クリスティーナ夫人はリストとタールベルクを対決させた。これはそのころ「世紀のピアニスト対決」と騒がれた。リストの「6本の指」に対して、ジギスムント・タールベルクは「3本の手」があると言われていたものだ。

≪054≫  これでは若いリストの目が眩(くら)んでもしょうがない。かつてはヴォルテール(251夜)やルソー(663夜)やドルバックもサロニエール(サロンの女主人公のこと)にはいちころだったのだ。啓蒙とブルジョワとスキャンダルはフランスでは同義語なのである。

≪055≫  案の定、リストは15歳年上のアデーレ・ラブリュナレード伯爵夫人とアバンチュールに走り、ついではル・ヴァイエ夫人のサロンで出会ったマリー・ダグー伯爵夫人に愛されて、駆け落ちに及んでしまった。

≪056≫  これまで人妻マリーと呼び捨てにしてきたのはこの夫人のことだ。6歳年上の27歳。「パリの三美貌」の評判に包まれていた。なるほど肖像画もかなり美しい。マリーのほうもリストにぞっこんだったようで、のちの回想録にリストとの出会いのことを「アパリシオン」(apparition)と綴っている。「現象」だ。「扉があいたとき、異様な現象が目にとびこんできました。現象という言葉をつかったのは、ほかの言葉ではこのような強烈な驚嘆が描写できないからです」。

≪057≫  そのマリーとリストが手に手をとって、パリから出奔してしまったのである。妊娠していたからだと言われるが、それ以上の火のような恋だったのだろう。なにしろそのまま8年を一緒に旅をしたり暮らしたりし、3人の子供をもうけもしたのだ。マリーにはリストは「芸術の化身」そのものであり、リストにとってはその8年はまさに「巡礼の年」だった。マリーとの日々は『リスト=ダグー往復書簡集』としてまとめられ、562通の手紙を収めている(最後の手紙はリスト53歳のときのもの)。

≪058≫  さしものマリーとの日々が秋の落暉のごとく東欧の地平線に沈んでいったのは、ドナウ川の氾濫によって故郷ハンガリーの民に苦境が迫っていたのを見逃せず、リストみずから救済活動に動いてからのことである。

≪059≫  リストには寄せ波のようにこうした「社会的めざめ」が間歇泉のようにおこる。サン・シモンの社会主義思想に傾倒したり、フリーメーソンの会員になったり、晩年にワイマールに赴き、音楽文化と教育文化に力を注ぐことになったのも、この発奮的性格のせいだった。

≪060≫  しかしとはいえ、女性たちとの交流はなくならない。後半生ではとくにカロリーネ・フォン・ザイン=ヴイトゲンシュタイン侯爵夫人との仲が昵懇だった。カロリーネに慈善の意志が強かったせいもある。リストはカロリーネの熱い支援と愛を背景にふたたびピアニストとしての力量を発揮した。パガニーニの超絶技巧をピアノに移し、ベートーヴェンの《ハンマークラヴィーア》のようにそれまで楽譜でしかなかった曲を聴けるものにし、それまでほとんど無名に近かった同時代のシューマンやシューベルトを率先して弾いてヨーロッパ中にその名を知らしめた。

≪061≫  リストはトランスクリプションとパラフレーズの名人でもあったのだ。ともに「編曲」のことであるが、トランスクリプションは原曲をいかした書き換えでヴァージョンをつくること、パラフレーズは原作の意図を解釈して新たに変換してみせるヴァージョンのことをいう。リストはパラフレーズした作品を「幻想曲」(ファンタジー)と呼んだ。

≪062≫  実はリストのための格別なピアノも開発されていた。セバスチャン・エラールによるダブル・エスケープメントというもので、ハンマーの連続打弦の高速化を可能にした。リストの《ラ・カンパネラ》の鐘の連音にみられるような超絶技巧は、エラールの改良ピアノによって生み出されたものだった。

≪063≫  リストに最初の大ホールでのピアノ・リサイタルができるようにさせたのも、エラールのピアノのせいだった。それまで室内で聴けばよかったピアノは、千人あるいは数千人をこえるホール型の聴衆のための巨大楽器となったのだ。教会音楽から劇場音楽へ。宗教的心酔から都会的熱狂へ。

≪064≫  リストとショパンの時代、ヨーロッパは産業革命とピアノ博覧会によって変貌し、それが「クラシック音楽」の脊梁(せきりょう)をつくったのである。

≪065≫  今日のピアノは約230本の特殊鋼鉄の弦で、約20トンの力で引っ張られている。これは小型自動車20台分にあたる。当然、これらを支えるフレームにも強靭な鋳鉄が使われるようになった。そんなふうになった理由はただひとつ、エラール以降、ピアノが強大なシステムになっていったからだった。

≪066≫  サロン文化のピアノは劇場文明のピアノになったのである。これによってリストも、それぞれの音楽文化の精華をもっと巨きな文明的な動向として捉えるようになったのではないかと思う(もっとも晩年のリストは宗教音楽への回帰を模索した)。

≪067≫  ショパンのことも触れておく。ポーランド出身のフレデリック・ショパンは生年は不詳だが、リストの1~2歳年上だ。「ピアノの詩人」と言われるように、半音的和声法を織りこんだ作曲力がすばらしく、大半がピアノ独奏曲として提供された。

≪068≫  リストに似て、少年の頃から神童扱いをされ、7歳でト短調と変ロ長調の二つの《ポロネーズ》を作曲した。ポロネーズとは「ポーランド調」という意味だ。当然、ピアニストとしての腕も群を抜いていたが、生涯を通してわずか30回ほどしか公開演奏をしなかった。それでも「史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げた」(フェティスによる評)と絶賛された。

≪069≫  むろんリストとも較べられたが、二人は仲がよく(ときに適当にディスタンスをとりあい)、互いにライバル視はしていない。恋多き日々だったことも似ているけれど、ショパンは初恋のマリアとの結婚が破談になってからは(この痛みが《別れのワルツ》になった)、ポトツカ伯爵夫人の愛情と庇護を受け、その後はマリー・ダグー伯爵夫人のサロンで出会ったジョルジュ・サンドと暮らすようになる。

≪070≫  ただ肺結核などに冒されて、サンドの看護に見守られつつ、40歳にとどくことなく亡くなった。ショパンもリストも本格的な音楽教育を受けずに稀にみるピアニズムを残したこと、大いに考えさせられるものがある。

≪071≫  さて、これほど先駆的なピアニストとしての波濤をまっしぐらに突進し、ヴィルトゥオーソとしての前人未踏の先頭を切っていたにもかかわらず、1847年9月、エリザベートグードでのリサイタルを最後に、リストは報酬を受けて演奏をするピアニストとしての日々からあっさり引退してしまうのである。

≪072≫  このときいまだ35歳。75年の生涯をおくった履歴の半分にも満たない。なぜピアニストを降りたのか。いろいろの説が喧伝されてきたが、ピアニストを降りたのでもなく、ピアニズムから離れたわけでもなかった。ピアノがもたらした音楽的文明性の深奥に向かっていったのだとぼくは思っている。

≪073≫  翌36歳、リストはなんとワイマールの宮廷楽長に就任した。むろん報酬のせいではない。「葉巻代にしかならない」と言っていたほとだ。それよりもかつてバッハ(1523夜)が宮廷楽団員を勤め、ゲーテ(970夜)が宰相を勤めたワイマール公国の理想を引き継ぎたかった。

≪074≫  18世紀後半、ワイマールのあるチューリンゲン地方には30余りの領邦がひしめいていた。ワイマール公国はそのひとつで、とてもちっぽけだ。ゲーテの時代で人口10万人。その中心の宮廷都市ワイマールは人口6000人足らず。リストが赴任したときですら12000人ほどだった。

≪075≫  けれどもリストはこの公国が秘める理想と理念の広さと高さを確信していた。就任早々に「ゲーテ基金」の構想を発表し、ゲーテ記念祭、シラー記念祭を組み上げた。2歳年下のリヒャルト・ワーグナー(1600夜)が近づいてくると(そのころワーグナーはアナキズム運動に加担して、その裁定を逃れるために姿を隠していたのを、リストが救っていた)、1850年8月に楽劇《ローエングリン》のワイマールでの世界初演に踏み切り、ワーグナーが畢生の《ニーベルンゲンの指輪》の構想を打ち明けたときは、これを激励し、「いっさいを顧みることなくその仕事に打ち込みなさい」と支援した(26年後の1878年にバイロイト音楽祭で初演)。

≪076≫  そのワーグナーのもとへリストの次女コジマが嫁いでいった。縁は異なもの、変なものである。

≪077≫  ワイマール時代のリストは作曲に専心した時期でもある。ピアニストから作曲家へ。これはどうしても試みてみたかった「没入」だったろう。50年をかけた《ファウスト交響曲》が完成し、コジマの最初の夫であるハンス・フォン・ビューローの指揮で初演された。バッハ、ゲーテ、ベートーヴェンとともにリストが魂の基盤とみなしてきた『神曲』を題材にした《ダンテ交響曲》も初演された。

≪078≫  一方、オーケストラ団員35人を組織して、リストは宮廷劇場で次々に演奏会の指揮をした。ワーグナーの《タンホイザー》《ローエングリーン》《さまよえるオランダ人》、ベルリオーズの《ロミオとジュリエット》、シューマンの《マンフレッド》、ベートーヴェンの《フィデリオ》、ロッシーニの《ウィリアム・テル》、モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》《魔笛》‥‥。実に43作品を一人で仕切った。これでシューマンからブラームスまで、ヨーロッパの音楽家たちがワイマールを訪ねることになった。ワイマールは音楽の世界中心の様相を兆したのである。

≪079≫  いま、ワイマールにはフランツ・リスト音楽大学がある。リスト自身が音楽文化あるいは音楽文明を教育カリキュラムに落としこんでみたかったプランにもとづいている。ぼくはその一端を覗いてみて、これは音楽編集学校だと思った。

≪080≫  晩年のリストは春はブダベスト、夏はワイマール、冬から翌年にかけてはローマという暮らしをおくっている。ついにハンガリーとも添い寝した。ハンガリー語を喋らなかった(喋れなかった)リストにとって、自身にまつわる文化と文明の原郷としてのハンガリーは生涯の仕上げには欠かせなかったのであろう。その気分は《ハンガリー狂詩曲》に弾(はず)んでいる。

≪081≫  ローマに暮らしたのは、最後の最後になってリストが完成させたかった宗教音楽への「回帰」をはかるためだったと思う。オラトリオはリスト最後の創作仮説であり、教会音楽への接近はリストの音楽文明観の赴くところであったろう。1865年4月25日、リストはグスタフ・ホーエンローエのフライベート礼拝堂て静かに髪を剃り、聖職者として死んでいくことを決意する。

≪082≫  リストの生涯は謎が多いと言われてきた。また音楽家リストの評価はいまだ定まらないとも言われている。しかしいまや、ぼくはまったくそうは思っていない。うまく綴れない相手だとは感じてきたが、それはリストがすこぶる編集的な「世界音楽制作人生」をかかえこんだからなのだろうと思っている。

≪083≫  では最後に一言。フランツ・リストを理解するには、最近はほとんど演奏されなくなった大作《ファウスト交響曲》を、みんなで聴いてみることじゃありませんか。重ねて最後に一歌。「音は匂へど白黒の/その世の音譜つねならむ/有為の曲想いまこへて/浅き夢見て酔ひもする」。

≪01≫  男が女声以上の完璧なベルカント唱法で唄うというだけで驚異だが、それがふだんでも軽く3オクターブ半の声域をカバーしているというのだから、これは信じられない。この世の非存在の存在、それがカストラートである。

≪02≫  あるとき『もののけ姫』で有名になった米良美一に聞いたところ、小学校の上級のころから毎日毎日、自分もそうなりたいと思った松田聖子の真似をしていたら(彼は松田聖子になりたかったそうだ)、ああいう声になったというのだが、その米良にして「カストラートって、きっとぼくの5倍くらいの声ですよ」と言っていたから、まさに聞きしに勝るとはこのことだろう。

≪03≫  それが玉を取れば必ずそうなるかといえば、むろんそんなことはない。ゲイの声はそれだけでは美しいとはかぎらない。カストラートになるには少年期に玉を取らなければならないし、その苦痛を越える声楽上の習練が必要である。

≪04≫  なぜカストラートが出現したかということについては、けっこう複雑な歴史があった。

≪05≫  アンガス・ヘリオットの『カストラートの世界』やパトリック・バルビエの『カストラートの歴史』、本書に解説を寄せている永竹由幸の『オペラと歌舞伎』などを参考にごくかいつまんでいえば、まずパウロが「教会で女は話してはいけない」という禁忌をつくった。これで教会で女が唄うことが禁じられた。

≪06≫  中世、しかしながらカトリックのミサに聖歌が欠かせなくなってきた。聖歌にはむろん高音域がある。これがオヤジの男声ではそうそう出ない。そこで高音域の女声部分をうけもつ新たな「ボーイソプラノ」が誕生した。

≪07≫  けれども、いかにボーイソプラノとはいえそんなに声量はない。それにウィーン少年合唱団がそうであるように、ボーイソプラノである期間は短く、声変わりがおこって次々に交代してしまう。訓練が深まるということがない。かくして成人の男子でもなんとか似た声が出るようにと、裏声をつくって朗々と唄う「ファルセット」が登場した。ヴァチカンではこうしたソプラノ担当のファルセット歌手が何人も雇われていた。

≪08≫  16世紀末、そこへスペイン系のハーレムあたりの出身者のなかからカストラートが出現する。去勢歌手である。

≪09≫  言葉の意味からすると、カストラートとかカストラーティというのは玉と棹の両方を除去することをいう。完全去勢で玉は抜かれるのではなく、潰される。これは宦官と同じで、女性と交わることがない。これに対して玉抜きなら女性とも交わる。

≪010≫  カストラートの多くはこの玉抜きのほうだった。本書の主人公であって、映画『カストラート』の主人公でもあるシニョール・ファリネッリことカルロ・ブロスキは、女性にも愛された玉抜きのほうだった。

≪011≫  こうして1625年、ジョヴァンニ・デ・サンクトスというスペイン人歌手を最後に、ヴァチカンからソプラノ担当のファルセット歌手が姿を消した。そしてカストラートがその座を奪った。

≪012≫  それでもしばらくはアルト音域にはファルセット歌手が残っていたらしいが、それも16世紀末にはすべてカストラートが占めることになった。

≪013≫  これほどにカストラートが一世を風靡していったのは、やはりあまりの美声ゆえである。しかしカストラートがそんなに増えるにはどこかでせっせと玉抜き去勢がおこなわれていなければならない。しかも去勢手術は表向きは禁止されていた。堂々と手術ができるのは外科手術の現場である。どこでやるか。

≪014≫  ひとつはボローニャ大学のような解剖医学がさかんだったところである。こういうところでは麻酔技術も発達していて、危険とされていた去勢技術が発達した。イタリア・ルネッサンスが解剖学を発達させたことは、レオナルドの人体探求をもたらしたとともに、去勢技術の安全をもたらしたのだった。

≪015≫  が、そういう解剖医学センターだけでは足りない。そこで、隠れた玉抜き名所がつくられた。有名なのは、かつてセリエAの中田がいたイタリアのペルージャの近くのノルチアなどである。ここは仔牛やラバの去勢手術のセンターだったところで、いまでも肉屋では家畜の金玉が売られ、金玉料理も繁盛しているという。

≪016≫  このノルチアなどで去勢された少年たちがナポリあたりに送られて、ここで徹底したカストラート声楽教育が施された。聖オノフリオ学院、ピエタ・デ・トゥルキーニ学院、サンタ・マリア・デ・ロレート学院、ポーヴェリ・デ・ジェス・キリスト学院などが、そうした音楽教育を引き受けた。

≪017≫  天上界の歌声のようなベルカント唱法、バロック音楽特有の高速のスピッカートの超絶技法、奇蹟的なソルフェージュの技法は、こうしてカストラートのために考案されていった。ソルフェージュとはスカルラッティやニコラ・ポルポラがつくったカストラート用の教科書のことをいう。

≪018≫  こうして信じがたいほどの声の持ち主カストラートたちが続々と生まれていった。スカルラッティはフランチスケッロというカストラートについて、「人間がこれほど神々しく唄えるとは信じられない。どうしても天使がフランチスケッロの姿になってそこに降りてきたとしか考えられない」と書いている。

≪019≫  本書は先にも書いたとおり、ジェラール・コルビオ監督のフランス・イタリア・ベルギー合作映画『カストラート』の原作物語にあたっている。ノベライゼーションだが、よくできている。

≪020≫  主人公は史上最高のカストラートと称賛された実在のカルロ・ブロスキで、カストラートのほぼ全員がもっている“称号”はファリネッリ。舞台はヘンデルのバロック時代。物語にもヘンデルやポルポラが出てくる。

≪021≫  ファリネッリについては、ぼくはまだ読んでいないのだが、この映画のあとに『カストラートの世界』をものしたパトリック・バルビエが詳細な伝記『ファリネッリ』(1995)を書いた。

≪022≫  物語や映画の最初のクライマックスは、ぎっしり埋まった群衆に囲まれた広場でトランペット奏者と未熟なカストラートが競いあっている場面であろう。トランペットについていけずに歌手の息が事切れたとき、群衆の中からたまらず少年カルロが飛び出して、そのトランペットよりもさらに見事な音を声にしてみせ、ついにトランペット奏者が演奏を断念する。

≪023≫  実際にもこうしたカストラートと管弦楽の一騎打ちは、よくおこなわれていた。ファリネッリがトランペットと闘いあったのが1727年だったという記録も残っている。当時のカストラートは、コロラトゥーラのパッセージやブウヴラの演奏のなかにおいてさえ、そういうときの器楽演奏をやすやすと破ってみせる技量の持ち主だったらしい。

≪024≫  そのほかいろいろ見せ場があるのだが、ぼくが映画を見ていて考えこんだのは、このファリネッリの声は本当にカストラートの声なのかということだった。

≪025≫  カストラートなんてこの世にいなくなっているのだし、いったい誰がこの声を“代行”したのだろうかと、そんな奴がいるのだろうか。そのことばかりが気になっていた。

≪027≫  カストラートは18世紀末にはほとんど消えてしまった。ヴォルテールやルソーらの啓蒙主義者がカストラートを嫌ったせいでもあった。ルソーはカストラートを化物扱いさえした。啓蒙主義にとっては「理性」を欺く「偽装としてのカストラートの存在」が許せなかったのである。

≪028≫  しかしカストラートを本格的に社会から蹴散らしていったのは、 第1には王侯貴族の退嬰をもたらしたフランス革命と、第2にはヨーロッパ中を「男は男、女は女」に塗り替えていったナポレオン戦争であり、第3には女性の舞台進出を許容しはじめた性的風潮のせいだった。それとともに女性歌手たちがベルカント唱法をマスターしていった。

≪029≫  さてさて、それでもファリネッリの世にも変わった物語が残ったことをいとおしくおもうべきか、それとも、「声を失った歴史」というものもあったことをあらためて考えなおしてみるべきか。ぼくとしては、やはりデジタル合成ではないカストラートの声を聴いて、死んでいきたいと思うばかりだ。

≪01≫  ノースロップ・フライの最後の本だ。フライは1991年に癌で亡くなっているので、その1年前の78歳のときに本書を認(したた)めた。

≪02≫  総じては信仰を支える基本的な世界認識について淡々と述べたものであるが、狙いとしてはウィリアム・ブレイク(742夜)の「インゲニウム」(根源的構想性)と「ダブル・ヴィジョン」(輻湊的幻視性)に全幅の気持ちを預けて、文明史のなかでの宗教言語の役割をハイライトさせている。おそらくトロント大学での最終講義か何かをもとに綴ったのだろう。

≪03≫  文章は気張っているわけではないものの、読んでいくと研究人生の最期を静かに意識しているかのように綴っているのがわかる。なるほど、死ぬ前にはこういうふうに書くのか、こういう書き方をしたくなるのかと感じた。

≪04≫  78歳というのはいまのぼくの歳にあたる。そんなこともあって、今夜の千夜千冊にした。

≪05≫  憶えばフライは、最初の著作『恐ろしい均整』(未訳)でブレイクを全面的に採り上げていた。ブレイクの予言詩(長詩)の読み取りをもって文学批評の出発点にした。そして、最後の本にまたブレイクをもってきた。首尾にブレイクだ。

≪06≫  フライの文学研究は詩のブレイクで始まり(首)、像のブレイクに閉じたのである(尾)。文学批評研究者としての生涯をブレイクに「リテラルな忠誠」をはたして結んだということになる。その根っこにはずうっとダブル・ヴィジョンが鼓動のように脈動する。

≪07≫  ぼくは必ずしもフライに強い影響を受けた読者ではなく(アメリカン・ニュークリティシズムのファンではなかったし)、良き擁護者でもなかったのだが(たとえば聖書解釈はガダマーの方法のほうがおもしろかったのだが)、フライがブレイクのダブル・ヴィジョンに全幅の信頼をおいたことについては、文句なしに同調できると思ってきた。

≪09≫  ただし、フライはもっぱら神話的な想像力にもとづいたヴィジョンによる言語力を研究対象にしたので、ダブル・ヴィジョンの正体を解明するというような方向での批評研究をしたわけではない。シェイクスピア(600夜)、ミルトン、バートンなどのさまざまなイギリス式文学批評にブレイクのヴィジョン論を適用するほうを試みた。適用?あてはめ? それでは物足りない。

≪010≫  とはいえ、こんなことを言っていいのかどうかわからないけれど、フライはあまりに真面目すぎてほとんど本音の心情を洩さなかったようだが、実はブレイクが「神話か、さもなくばアナーキー」と考えていたことについては、内心ぞっこん参っていたはずなのである。店じまいするにあたっては、そのへんも吐露してほしかった。

≪011≫  あらためて、言う。ブレイクは世界を認識する方法的核心がダブル・ヴィジョンにあるとみなしていた。世界を描くにはダブル・ヴィジョンをもって描くしかないと確信していた。そうでない方法では、世界なんてこれっぽっちも描けないと思っていた。

≪012≫  ブレイクの言う「ヴィジョン」(像)は幻想や幻視像のことではない。ずばり「隠喩的想像力」がもたらすイメージの束のことだ。ブレイクはメタファーやアナロジーによって掴めるヴィジョンが唯一のヴィジョンであって、それこそが想像力の本体なのだと見極めていた。そういう想像力はたいてい暗示力に富んでいるのだが、その暗示(隠喩)がヴィジョンをつくるとみなした。

≪013≫  ブレイクの暗示的ヴィジョンはしばしばダブル・ヴィジョンとなってあらわれた。二重の、一対のヴィジョンが、当初の当初から想像的認識のスタートを切ったのである。ブレイクは、そう受認した。フライは、そこには想像力の起源を担う「型」と「対型」とが二つながらあらわれると見た。これは当たっている。いわば“one”と“another”で一対の、また二重のヴィジョンなのである。

≪014≫  こうしてブレイクにとっては(したがってフライにとっても)、ダブル・ヴィジョンによる隠喩的意味だけが世界に近づく戦車の咆哮となった。

≪015≫  われわれの想像力はけっして単一では動かない。目の前の花や人影や鳥を知覚しているときも、たえずゆらゆらしているし、何かを引きずったり、何かをそこに組みこもうとしている。想像力は複合的かつ輻湊的で、すこぶる編集的なのだ。

≪016≫  そこには最低でも一対の「型」(one)と「対型」(another)が同時に動いている。この一対性をダブル・ヴィジョンとみなすとすると、われわれの思索のおおもとには(白川静ふうにいえば「興」の起動には)、ダブル・ヴィジョンだけが光を放って先行しているのだということになる。

≪017≫  このことは、詩人たちが神や霊感を言葉にしていくとき、どんな秘密を重視していたかということを示唆するとともに、レヴィ=ストロース(317夜)やロラン・バルト(714夜)やノースロップ・フライやハロルド・ブルームが言うように、宗教的想像力がはたしてきた役割の重要性をことさらに告げる。

≪018≫  こういうことが理解できるには、ときには神や霊感の手助けが有効だったとしても(つまり「心の高揚」が大事なトリガーになったとしても)、そもそもダブル・ヴィジョンはもっと多くの認識や思索に出入りしているはずだし、出入りさせるべきでもあった。ぼくはそう思ってきた。神や霊感にもとづくヴィジョンばかりがダブル・ヴィジョンではないし、「心の失墜」のときにもダブル・ヴィジョンが必要なはずなのだ。そこのところ、少し噛みくだいてみたい。

≪019≫  ブレイクには「最も崇高な行為には、自分の前にもう一人を想定することだ」(The most sublime act is to set another before you.)という有名な見方があった。この「自分の前のもう一人」は神や如来やスーパーエグジスタンスや鬼のようなもので目立つだろうけれど、実際には誰にもありうる“one”と“another”の“another”でもあろうし、フィギュアやアバターでもあろうし、何かの「代」や「別」であってもいいはずのものだ。

≪020≫  もしそうだとしたら、われわれはどんな場面でも“one-another”という一対の初速カーソルあるいは初発ブラウザーによって、想像力の最初の起動を始められるということなのである。

≪021≫  ところが、ついついそうなってしまいがちなのだが、われわれは思索や表現を進めているうちに、いっかな一筋のロジックにとらわれていく傾向をもつ。やたらに社会化し、リクツっぽくなっていく。そして、自分が当初に、少しふらふらとはしていてもどぎまぎするような輝きをともなうダブル・ヴィジョンで動き出したことを、すっかり忘れてしまうという傾向をもつ。

≪022≫  では、いったいどうすれば当初のダブル・ヴィジョンを思い出せる状態(喚起できる思考力)をつくっておくことができるのか。ブレイクは先にも書いておいたように、「自分の前のもう一人」を想定しながら思索したり表現することだと考えた。

≪023≫  これがブレイクの「インゲニウム」(ingenium)である。もともとインゲニウムは「エンジン」(engine)の語源にあたるラテン語で、哲学や文芸では「生まれながらの才能」を意味することが多いのだが、わかりやすくいえば、われわれの心身のどこかに先駆的に備わっているだろう天賦状態を感じる才能のことだ。何かを生み出すことを促進し、状態を工夫できるエンジン的才能だ。

≪024≫  フライはその天賦状態には原初の「型」と「対型」がともなうとみなし、その両方をヴィヴィッドに想起できるようにしておくことをブレイクが発見したと読み替えた。エンジンには「型」と「対型」があるべきなのだ。

≪025≫  これも当っている。たしかにわれわれはインゲニウムの片隅から「自分の前のもう一人」を輩出させることができるのだ。

≪026≫  ただし、このことはブレイクが先駆して発見したことだとしても、心身の高揚がなければ近接してくれないものだと決めこむことはない。ダブル・ヴィジョンを躇(ためら)わないエディティング・キャラクターを用意できるなら、誰もが社会に頼ったりリクツに陥ったりしない方法で、敢然と“one-another”に遊べるはずなのだ。

≪027≫ 我田から水を引く話になるけれど、少々、松岡正剛の事情を持ち出してみる。 ぼくはこれまでの78年間のうちの三分の二ほどを、大小さまざまな編集的官能によって埋めてきた。おかげでとても愉快だった。おそらく少年のころからそうしたかったので、そうなってきたのだろうと思う。

≪028≫  計画的だったかといえばそうではなくて、好きなことがいっぱいあったから、そうなった。そうなったというのは、いつも二つ以上の既知と未知とがぼくの手元近くでスパークしながらまざっていったのだ。

≪029≫  日光写真に夢中になったことは、その後にそこへ水墨山水の滲みや書道の風韻のあれこれやチームラボの猪子寿之君を呼び入れた。シャープペンシルが好きになるとパウル・クレー(1035夜)の線と色がそこに入り込み、量子力学を齧るようなるとウンベルト・ボッチョーニの画法やオブジェクト指向のしくみが読み解けた(1106夜、千夜千冊エディション『全然アート』など参照を)。

≪030≫  ことほどさように、こういうことが次々におこっていった。やがてこれらはだんだん多対的でネットワーク状になっていった。贅沢にいうなら華厳的になっていたのだ。

≪031≫  最初から編集的だったかというと、そんなことはない。途中から、これはひょっとすると多様な編集をしているんだ(=イメージやヴィジョンの編集がおこっているんだ)ということに気が付いた。そう気がついたのは、自分がしていることが学術研究のプロセスとは異なると思っていたからで、それをあえて「編集している」と感じるようになったのは、どんな時代の想像力もメディアの力と交流していることを忘れたくなかったからだ。

≪032≫  なぜそんなことがなんとか継続できたのかといえば、そのつどあることを心掛けてきたせいだった。あることは三つほどある。

≪033≫  一つは「他の修羅に学ぶ」ということだ。「松のことは松に習い、竹のことは竹に習う」ということ、「生命的で創発的な現象は負のエントロピーを食べている」と思えること、また「逸脱を敬える」ようにすることだ。それで充分に“One thought fills immensity”(ブレイク)になった。ここには「他から借りてくる」ことを隠さないこと、また「模倣する力」を与えたいという気持ちもはたらいていた。“Imitation is criticism”(ブレイク)なのである。

≪034≫  二つ目には、どんなこともできるだけ「ARSに向かっていく」というふうに心掛けたことだ。ARS(アルス)はもちろんアートでもあるが、方法でもある。ぼくはどんなときも、主題よりも方法そのものに感応できるようにした。芸術とはかぎらない。科学も芸能も遊びもARSだと思えるようにしてきた。多くの編集的官能はこのARSと隣りあわせになっていくことによって支えられてきた。

≪035≫  三つ目には、おそらくこのことが一番の心掛けだったろうと思うのだが、自分が「何かの代わり」なのではなく、何かが「自分の代わり」だと思えるように仕事をしてきたということだろうと思う(そのように仕向けて仕事をしてきた)。これは自分を主語にすることをさておくということで、そうするほうが何かがずっと混在しうるということでもあるけれど、もっと正確にいうと「自分の前のもう一人」をどんな難所においても想定できるようにするということであった。

≪036≫  この三つ目「何かが自分の代わり」だという暗示こそ、ぼくの中にブレイクのダブル・ヴィジョンが継続的に喚起していく魔法をもたらしたのである。

≪037≫  ノースロップ・フライに言寄せて勝手な話をしているようだが、まあ、大半はその通り。今夜の千夜千冊にフライ78歳の遺言的一書をとりあげたのは、フライがウィリアム・ブレイクに戻っていることに心から敬意を表したかったという、その一点だけが動機なのである。

≪038≫  だから正直をいえば本書についてはいろいろな不満もある。フライはダブル・ヴィジョンを敬虔なるものや至高の文芸性に特定しすぎているところがあるのだが、それはあまりにもったいない。ブレイクは一般化を嫌ったが、ダブル・ヴィジョンはむしろ編集的一般意志にあてはまるはずなのだ。あらためてこのことを強調しておきたい。

≪039≫  それはそれとして、実は本書をとりあげたについては、もうひとつ、感想がある。フライの本書を読んで、ぼくがこれまで試みてきたことが宗教性とかなり深い類縁性をもっていたことを告げられたような気がしたということだ。

≪040≫  70代半ばのころから、ぼくは自分の内外に「内なる仏教性」とでもいうものがふつふつと滲み出しつつあることを感じていて、その意味を捕まえておかなくてはいけないと思うようになっていた。折からの近江の三井寺や石山寺からのエールに応じることと相俟って、仏教的編集性(あるいは編集的仏教性)にひそむエンジン(インゲニウム)をあらためて実感しなおそうという気になったのである。

≪041≫  仏教もキリスト教も、その根幹に動向しているのは何かというと、むろん「想像力」である。しかしながら、なぜ宗教が想像力をバネに比類のない思想の束や行動の束を形成できたかということは、仏教史においてもいまなお説明しきれていない。宗教上において仏教がわかりにくくなったのではなく、想像力のことがわからなくなったからだ。

≪042≫  今日、想像力をそのまま束ねて、言葉づかいにも変更を加えないまま平気でいるのは、たとえば小説やマンガや映画やアニメであろう。他のもの、たとえば政治や商取引や社会活動は、コンプライアンスに縛られて頻繁にその表明力を変更をせざるをえなくなった。

≪043≫  そうしたなか、いくぶん乱暴なところはあるものの、小説やマンガや映画やアニメは想像力を麻痺させていないままにある。これらは宗教行為とはみなされない。まるごとフィクションであると思われているからだ。

≪044≫  しかしひるがえって、宗教こそはフィクショナルな想像力をいかして形成されてきたとも言いうるものであって、そのルーツにはアニミズムやシャーマニズムが関与して、もともと宗教はそれを断ち切らないで波乗りしていったともいえるのだった。ということは、想像力のおおもとにはアニミズムもシャーマニズムも、呪術的宗教性も、浄化のための精神性も組みこまれていたということである。

≪045≫  いま宗教教団は「霊感」を表面化させることに神経を尖らせ、まるで民主的な信仰行為だけでその束を維持しようとしているかのように映るけれど、これは宗教の本質をひどく歪(いびつ)にさせ、麻痺させる。それだけでなく、個々の中に出入りする“one-another”を動かなくさせていく。

≪047≫  この過誤や膠着をどうするか。ぼくには仏教がここを柔らかく突破していくのではないかと思われる。ただし、最近の仏教は残念ながらダブル・ヴィジョンを解釈できていないままにある。ここが、まずい。ブレイクは“Without contraries is no progression”と言っていた。ほんとうは仏教も(多くの宗教も)、これでいきたいはずなのに。

≪048≫  ちなみに文中挿入の英文はすべてウィリアム・ブレイクの詩句から選んだもの。念のため。ちなみに、もうひとつ。堀越耕平の『僕のヒーローアカデミア』の飯田天哉は「インゲニウム」を名のっている。念のため。

≪01≫  ある日、フィッツジェラルドやカート・ヴォネガットを読み始めたら、どうも以前の読書感覚とは違っている。そこそこ歳もとったのだから再読感が変わっているのは当然だけれど、その違いではない。何がおこっているのか。

≪02≫  そのうち15歳の息子のノアと『グレート・ギャツビー』の話になったら、息子も学校の授業で読んでいたらしく応じてきたが、ふいに「でも、文学なんて死んでるんじゃないの」と言った。たしかに文学は死んでいるかもしれない。小説や物語は生きているだろうけれど、文学は死んだというのは当たっている。そうか、自分はまだ文学としてフィッツジェラルドやヴォネガットを読んでいるから乗れないのかと言いきかせてみたが、しかしそんなことで読書力が変質するものなのか。

≪03≫  ふりかえってみると、自分にとって本という存在は、これまではいつだってパラシュートを開くための紐であり、脱出用のハッチであって、現実の人生から出ていく扉だったのだ。それがそうではなくなったのか。

≪04≫  本書の著者のデヴィッド・ユーリンはもともとは「ロスアンゼルス・タイムス」の文芸欄担当記者で、その後はかなりディープな読書家として多くの書評やエッセイを書くかたわら、作家をしたりUCLAで文芸を教えたりしてきた。アレグザンダー・トロッキが好きだというのだから、かなり「際」や「端」が見極められる読書家だ(トロッキはポルノグラフィック・サスペンスの鬼才だった。フランシス・レンゲルの筆名で相当数のポルノ小説を発表した)。

≪05≫  そのユーリンが読書感覚に変異を感じたのである。おそらくちょっとした感覚だとおもうのだが、ずうっと本を読んでいると、アスリートが腰やスナップの切れ具合、バットやクラブの振り具合で最初の衰えを感じるように、この変異はすぐわかる(ぼくもすぐわかる)。すぐわかるだけに、ヤバいのだ。

≪06≫  読書通というものは、音楽通や料理通や骨董通と同じではないが、それに似たところもあって、一冊の本を読み始めるとすぐにその本(その著者)の狙い・技倆・味付け・モダリティにピンとくる。ついでその一冊が自分にとってどういうものか、だいたいのアディクション(嗜好性)の度合が見えてくる。しかし最終的にアタマとカラダに残るのは、その本その人の魂胆なのである。

≪07≫  だから変異を感じるとしたら、この魂胆の感じに狂いが生じたということになる。魂胆は書き手と読み手の持ち合いなので、同じ本を再読しているのに魂胆のズレを感じるとしたら、これは読み手のほうに何かの変化がおこっているせいなのである。ユーリンがかつてから好きだったフィッツジェラルドやヴォネガットの再読感で何かの変異を感じたというのは、日本でいえば漱石や川端の読み方が変わったというより、おそらく織田作之助や久生十蘭や石川淳の読み味が変わったというのに近い。それはそうとうヤバいはずだ。

≪08≫  そのうちユーリンは、自分がかつてのように本のパラシュートを開けていないのは、自分のせいだけとはかぎらないのではないか、読書魂胆を見誤らせる夾雑物のようなものに見舞われているのではないかと感じた。

≪09≫  体調か、人間関係か、人生に倦いたのか。いや、そういうのじゃない。ひょっとすると、周囲がすべてネット環境になっていることと関連しているのかもしれない。あそこには刺激と欲望がめちゃくちゃに散乱していて、そんなことに冒されるはずがないと思っていたのに、いつのまにか集中力が擾乱されてしまったのかもしれない。

≪010≫  そう思っていたらキンドルに「本」が入って、これを試しに読む連中が身近にも出始めた。ある友人は「小説はまあまあ読めるが、エッセイや一般書は読めないね」と言った。キンドルでは思考力に深みの拍車がかからないというのだろうか。ある者は「黒白の画面が気にいらない」と言った。作家のニコルソン・ベイカーは「画面が白黒であるより、ディスプレイが緑がかった灰色なのが問題だ。あれは病人の色だ」と言った。

≪011≫  何がおこっているのかよくわからないので、ユーリンはキンドル2を仕入れてみた。なるほど『ギャツビー』が読めなくなった感覚に近いものがある。なんだか深い体験がこないのだ。うーん、このせいなのかとおもううち、ニコラス・カーが『ネット・バカ』(青土社)でネットは確実に読書力を減退させると書いた。やっぱり、そうか。

≪012≫  けれども、なぜ電子のインターフェースが読書力を邪魔するのかはわからない。ユーリンは紙であれネットであれ、読書力は結局は自分の問題だろうと思うことにした。そこへiPadが発売され、またたくまに1000万人のアメリカ人が使い始めた。そんなとき気になるニュースに出会った。

≪013≫  2010年5月9日、バラク・オバマがハンプトン大学の卒業式のスピーチで、注意力と注意力の欠如について、および本質と外観について語り、このことを掘り下げて考えてみることが陰影に富み、知的に洗練される本質に近づけるのだということを言ったのである。そこそこいいことを言うじゃないかとおもっていたら、しばらくしてこのスピーチがネットで炎上していることを知った。ネットユーザーたちは一般教書演説をもじって「一般iPad演説」とからかっていた。

≪014≫  オバマはこう言っていたのだ。「みなさんは二四時間たえまなく情報を提供しつづける社会の中で成人しました。この社会はわたしたちにあらゆる情報を浴びせかけ、あらゆる種類の議論を見せつけます。しかしそれらを真理の秤にかけてみると、必ずしもすべてが重要なわけではありません。iPodやiPad、エックスボックスやプレイステーション、どれひとつとして私は使い方を知りませんが、それらの出現によって情報は気晴らしとなり、娯楽となり、エンターテインメントの一種となったのです。力を与えてくれるものでもなければ、私たちを解放してくれるものでもありません。そうした情報のありかたはあなたたちを圧迫しているばかりか、私たちの国や民主主義さえ、これまでになく圧迫しているのです」。

≪015≫  ネットでは「オバマはネットを規制するつもりだ」とか、「国民がネットで事実を知りすぎると、あんたの社会主義計画の邪魔になるのかい」などと、やけに喧しい。

≪016≫  ユーリンは、この応酬は互いに空転していると感じた。ネットユーザーたちの意見もつまらないし、オバマのほうもネット社会がどんな文化力をもちうるかを使いもしないで無視している。おそらく問題はiPadのテクスチャーやSNSのしくみにあるのではなく、ネット社会からいまだ新たな「熱い読書力」が浮上していないだけなのだろうと感じた。

≪017≫  こうしてユーリンはそれ以降、少しずつネット環境とネット端末機をいじるようになり、せめて小説だけは電子読書もするようになっていく。

≪018≫  本書でユーリンは、読書力というものは本を運ぶメディアが「紙であるか、電子であるか」にかかわらず、ひとえに物語の複雑性に分け入るかどうかにかかっていると見ている。そのことをフランク・コンロイの『彷徨』(晶文社)につなげているところが、際々に強いユーリンらしい。

≪019≫  コンロイは『マンハッタン物語』(講談社文庫)で驚くべきことを小説にした作家だ。物語は一人の少年がピアノにめざめ、独学で習得した音楽技能をフルに駆使して自作した楽曲を、ついにロンドン交響楽団と共演するところまで昇りつめるというものなのだが、その随所に指とピアノとの細密な格闘のこと、選曲が人生を変えてしまうほどの大事であること、鍵盤にはピアニストの全肉体が関与することなどを、くどいほど鮮明に描き出した。

≪020≫  なぜ言葉だけでここまで筋書きに沿ってピアノとの不即不離の関係が描けるのかというほどの小説だ。クライマックスでは生き別れの父親がナイトクラブでジャズを弾いているとき、互いに父子であることを知らないままに連弾をするという胸詰まるシーンも繰り広げられる。

≪021≫  ここまでくれば、紙も電子もあるはずがない。書き手がどこまで立ち入ったかということと、読み手がどこまで立ち入る気があるかということ、そこに「熱い読書力」が生まれるかどうか、読書はそこにかかっているとしか言えない。ユーリンはそのことをコンロイの『彷徨』を読んで以来ずっと守り続けてきたということを、本書であらためて実感している。

≪022≫  が、これで本書がおわっているのではない。電子ネットワーク時代の読書がどういうものであるべきなのか、どうあってほしいのか、ユーリンはさらに考える。

≪023≫  あらためて目勘定でざっと言うと、300ページほどの小説はおよそ10万語の情報量になっている。これだけの言語質量とコンテキストを「熱い読書力」で愉しむには、それなりの書き手と読み手の交歓が要請される。それがうまくいけば「読む心」、すなわち「魂胆」の共有ができあがる。

≪024≫  かつてウィリアム・ジェームズは「経験には注意を向けるべきだ。自分の注意したものだけが心になっていく」と示唆したものだった。まさにそうだろう。注意のカーソルが対象に応じて自分の心に向かって動かなければ魂胆とは出会えない。

≪025≫  しかし10万語の小説を堪能するにはけっこうな注意の持続が必要だ。これを鍛えるにはツイッターをいくらやっても養えないし、iPhoneでいくら情報をタップしていても無理である。それなのにネット体験で豊饒なものがあるような幻想が生じるのは、どうしてか。理由ははっきりしている。ユーチューブで3日で100万回以上の、1週間で1000万回以上のアクセスがあったことに気をとられるからである。そんなことはまったく個人の充実体験にかかわりのない出来事なのだ。ルイス・コーエンが指摘したように、SNSは別々の情報にたくさん出会えることが豊饒な体験だという錯覚をつくる。それが自分にも関係しているという幻想をつくる。これではとうてい10万語のコンロイのピアノ小説についての賛歌など生まれない。

≪026≫  コーエンはこうも書いていた、「仏教徒たちは水を描写するには泥が沈むまで待ちなさいと言うが、オンラインの情報は浮き上がった泥が沈むことがない。水はたえず搔き回されてばかりいる」と。かくしてユーリンは電子読書にはそれなりの覚悟をしたほうがいいんだと思うようになる。

≪027≫  本書の結論は、その書きっぷりが正直で優美であることに反して、けっこう激越なものである。それは「注意散漫のネット社会のなかで、読書こそはこの社会に対する最大の抵抗なのである」ということだった。大いに共感できる結論だ。ぼくにとっても、読書と編集は社会の情報編集に対する抵抗であったからだ。

≪028≫  先だって角川財団学芸賞・城山三郎賞などの授与式後のパーティで、初めて篠田正浩氏に会った。そのとき「松岡さん、千夜千冊すごいね。あれは映画何十本分ですよ」と言っていた。同じパーティでやはり初対面の辺見庸氏と話したら「千夜千冊、読んでるよ。ほら、お互いに闘争をやめない同志だからな」だった。

≪029≫ 「千夜千冊」がいつも映画1本分をめざしているとか、闘争のための準備や突撃になっているなんてことはない。もっと気楽に書いている。けれども、5本か7本に1本くらいの割合だろうと思うのだが、「千夜千冊」は一冊の本と、その一冊がかかえる背景連鎖との全面的な戦争をしてきたようなところも、少なくない。いや戦争とはかぎらない。ともに思索を共有しうるところはこちらも支援を惜しまず、一緒に泣きたいときは著者以上に泣くためでもあった。

≪030≫  ぼくは「千夜千冊」を書き手と読み手の結託を示すために綴ってきた。書評ではない。批判もめったにしない(谷崎の『陰翳礼讃』と、あと一、二冊だけはケチをつけた)。

≪031≫  なぜそんなふうにしたかというと、ぼくにとって1990年代の世界と日本が最悪だったのである。ポストモダン以降の批評と文句の挙句がこうなのかと落胆した。そのことは『インタースコア』にも『国家と「私」の行方』(いずれも春秋社)にも書いたことなのでここでは省くけれど、そのことがあって2000年2月から「千夜千冊」をネット上に開始したのだった。以来、毎夜一冊ずつ書いた(土日はお休みにした)。あえてネット上にリリースしたため、紙の編集を得意にしてきた松岡正剛がネットで本のことを書くのは「矛盾じゃないか」「もったいない」「書き捨てになる」「コメントはとらないのか」「あんなに書いて無料なのは(課金しないのは)ネット経済に対する無視だ」などと言われた。まだブログという用語が出回っていなかったし、ましてキンドルもスマホもiPadもなかった時期だった。

≪032≫  本というものは、自費出版でないかぎり、版元で必ずやなんらかの編集がなされて書店に出ていく。タイトリングや目次や見出し付けや校正もされる。索引や解説がつくこともある。編集がされない本など、ほとんどない。だからどんな本にも編集のよしあしが関与する。コンロイの『マンハッタン物語』は英語の原題は“BODY & SOUL”というまさに魂胆をあらわすタイトルだったのに、つまらない邦題にしたものだ(この翻訳タイトリングはへたな編集の例だ)。

≪033≫  一方、本を読むとは何かというと、読み手はこれを自由に編集してよろしいということだ。どんな本もいろいろな感想をもって読んでもいいということは、読み手は好きに「本読み編集」ができるということである。つまりは読書もまた編集の継続なのである。「千夜千冊」で本を案内すると決めたとき、この2つの編集に関して「本は編集されている」ということを宣言したかった。

≪034≫  もうひとつ、言いたかったことがある。それは「メディアはメッセージである」(マクルーハン)とともに、「メディアは編集である」(松岡正剛)ということだ。もっとも、このことには大事な但し書きがいる。「だから、どんなメディアの内容も編集がおわっていることに気をつけなさい」だ。新聞、雑誌、テレビ、すべてが編集後の産物なのである。ぼくの本をめぐる編集力は、この「メディアが次々に済ましていく編集」に、本の中から抵抗してみせるカウンター・エディティングでもあった。

≪035≫  ところがインターネットは、これらの中間編集プロセスをすっとばして成立する様式を公開するようになった。思いもかけない出来事だった。これは快挙であろう。世界中で高速の多重交換日記ができて、それを他人も覗きこめるというのだから、こんなディスエディティングなことはない。それを「編集からの自由」の登場と言われても仕方がない。しかし、その爆発量があまりにも大きすぎた。歴史上のどんな情報爆発よりカンブリア紀並みに巨大巨種巨様だった。書き放題、出し放題、見せ放題になった。のみならず、ネットは文句たらたらになったのだ。オバマ・スピーチに対するいちゃもんも次々に付く。

≪036≫  わが「千夜千冊」は、このようなインターネット上で「読む」と「書く」とをあらためてつなげるため、あえて本ばかりを案内しつづけることにしたのである。それでどうなってきたか。ぼくも何度も変調をきたした。変調はユーリンのように他人行儀なものでなく、けっこう自分に覆いかぶさってきた。

≪037≫  ついでながら「千夜千冊」がどうやってリリースされているかというと、まずは数週間ずつ十数冊の本の候補がアタマの中とデスクの上を行ったり来たりする。しかし一夜に一冊としたので、ここからどの本にするかを選ばなくてはならない。

≪038≫  候補にはおおむね七割が既読本、残りは初読本が上がっていて、当夜が近くなるにつれ、これらを高速に入れ替え出し変えながら、読み手としての感想を書き手としてのリプリゼンテーションに移行させていく。ついで、どこかで『リア王』にする、チョムスキーでいく、『アーリア神話』を書くなどと決着させるのだが、いざ書き始めてみると何かが当日の読み書きコンディションにそぐわない。変調がある。魂胆がその日のわが等身大に向かってぴったりしないのだ。それで、書きなおしをしたり本を変更したりする。

≪039≫  超古典たちは別途、ずらりと待機させてある。困ったときに老子やソポクレスや維摩経に戻れるようにしておくためだ。送られてきた本がおもしろそうなので(贈本が多いので)、ふいにそちらへ飛び移ることもある。内田繁の『インテリアと日本人』やナタリー・サルトゥー=ラジュの『借りの哲学』はそんなふうに飛び入りした。これらは「読みながらもう書き出している」といったほうがいいかもしれない。

≪040≫  だいたいはこんなふうに本を選びながら読み書きするのだが、これが300冊、1000冊、1500冊と続いてくると、「本の海」を航行しているようにも「本のパノラマ」を連続制作しているようにも感じてくる。そうなると本や著者が異なっているのに、その要約や案内や感想が似たり寄ったりにならないような工夫をすることにもなる。つまりはブンガク、ヒヒョー、ロンダンとはまったく別の編集をほどこすことになっていく。これでは世論の噂からはどんどん遠のくばかりだが、それこそがぼくが果たそうとしてきたことなのだ。

≪041≫  書き上がったテキストをサイト・フォーマットに流し込み、図版とキャプションを入れ、ホットワード・リンクをつけるのはスタッフがしてくれる(当夜は小西静恵・仁禮洋子・寺平賢司だ)。それが上がってくるとプリントをして、そこからは推敲と赤字入れになる。これを2〜3回くりかえす。

≪042≫  こうして「千夜千冊」の作業をすることは「読む」と「書く」とを頻繁に往復することだった。一般の読者はこんなことをしないし、作家たちも「読む」のは資料か愉しみのためで、専念するのは「書く」ほうだけだ。それで十分だ。

≪043≫  しかしぼくのように15年以上にわたって一冊ずつの本に「読む」と「書く」を同時に縫い取っていくと、文章を読んで何かを感じるというプロセスがいったいどのように出来上がっているのかが、かなりよく見えてくる。自分の読書力の変調がどこに兆すのかもアスリートのように感知できるし、骨董を見ながらあれこれの判定を総動員してもなお自分の価値観を凌駕するものがあるように、本にも「読みの値打ち」がつけられるようにも、なってくる。むろん、多様な書きようがあることも身についてくる。

≪044≫  かくしてはっきりとしたのは、「読む」と「書く」とはまったくもって同じ穴のムジナだということだった。

≪045≫  ユーリンの本書『それでも、読書をやめない理由』は、4年ほど前に読んでいて、昨夜、マーキングをしながら読みなおし、書き始めてからはユーリンを文楽人形にして、ぼくが人形遣いとしてこの本の顚末を動かすように書いてみた。結果、今夜の「千夜千冊」は「それでも、松岡正剛が紙と電子の読み書きをやめない理由」に向かっていったわけである。はい、御注文はこれでよろしかったですか。

『理科年表を楽しむ本』①

≪01≫  ぼくの書棚は、いまは赤坂稲荷坂の編集工学研究所と松岡正剛事務所、および麻布の自宅に分かれている。5万冊ほどあるかとおもう。30年近くの蔵書がたまりにたまってこうなったのだが、仕事場ではスタッフや来客も見られるようにした。

≪02≫  こんなふうになっていると、書棚の編成も容易ではない。できれば1年に一度の改変がのぞましいのだが、それを全貌におよぼすのは困難だ。おまけにその書棚空間のあちこちにはスタッフの机や椅子や会議用テーブルがあり、そこはかれらの住処やアトリエの風情をもっている。ときには書棚にスタッフの持ち物や書類や小物が、ばあいによってはコーヒーカップがおかれていたりもする。だから、ときどき珈琲色に汚されたりもする。多くの書物は日々の仕事の現場に交じっているわけなのだ。

≪03≫  それでも立派な書庫をつくるという気分にはなれない。状況に応じて書棚構成をつくり、その書棚と書籍に接すればいいので、純粋な図書幾何学的な空間のようなところで静謐に書物に接したいとは、ちっとも望んでいないのだ。むしろ苛酷な条件のなかで書籍をあれこれ工夫をして配置していく苦闘をたのしんできた。

≪04≫  そのぶんいろいろな不都合もおこる。「しまった」もおこる。そのひとつが書棚と書籍の関係にいくつもの死角が生まれ、こんなところにこんな本がいたかという仕打ちをしてしまうことである。

≪05≫  3年ほど前は、ぼくの書斎にすべての辞書・事典のたぐいが集中していた。いまはそれがジャンルごとに分散した。辞書や事典というものは、何かの都合でパッと見るためにある。その瞬間に引けない辞書や事典は億劫だ。そのため長らく書斎の中にレキシコグラフィック・ディスプレーを試みてきたのだが、それが分散してみて、まったく見なくなってしまったものがいろいろ出てきた。『理科年表』がそのひとつである。数年ごとに買い替えることもしなくなったし(いま手元にあるのは1995年版だった)、ほとんど開かなくなってしまった。

『理科年表を楽しむ本』

≪06≫  今夜の話に入る前に、最初に質問をひとつ。『理科年表』がどこで編集されているかは御存知だろうか。文科省? 理科学会? それとも国際規格をつくっているどこか? いや、東京天文台(1988年から国立天文台になった)である。年度ごとに刊行されている。発行発売は丸善がうけもっている。

≪07≫  天文気象から物理化学まで、ありとあらゆるデータが表形式で収まっているのだが、年度ごとに変化するデータが多いというほどではない。だからしょっちゅう見るものではない。理科現象の基本をおさえるデータブックなのである。何かのきっかけでちょっと調べたいことや確認したいことがあるとき、『理科年表』は何十年も務めてきた執事のように正確な応接をしてくれる。

≪08≫  最近のぼくは邪険な理由ではないものの、あれほど誠実だった『理科年表』を見なくなってしまったのだが、あるとき本屋の片隅に「理科年表読本」(丸善)というシリーズの数冊が並んでいるのを知った。『地震』『くもった日の天文学』『地球から宇宙へ』『太陽系ガイドブック』『数の不思議』などというシリーズだ。なかに『理科年表を楽しむ本』があった。

≪09≫  かつての立派な執事への敬意をこめて買ってみた。パラパラ見ていると、けっこうおもしろい。「夕方の西の空の月はどんな形か」「北極星は北の空の中心にあるか」「南半球では春の次に冬がくるか」「地球は一定の速さで公転しているか」といったヘッドラインがずらっと並んでいて、その問いに簡潔な答えがついている。そして、そのように答えられるのは『理科年表』にこんなデータが載っているからだという“おまけ”の解説がついている。なんだか「かたじけない」という気分になった。

≪010≫  そのうち丸善から第2弾が出版された。今度は『理科年表をおもしろくする本』というもので、もっと示唆に富んでいた。かつてのロゲルギスト・グループのエッセイをおもわせた。ぼくはその一人の高橋秀俊さんにはずいぶん影響をうけたのだ。「自転車ダイナモとエネルギー変換」「変化する光速」「原子スペクトルで銀河の速さを知る」なんてエッセイは、その昔日のロゲルギスト・エッセイを髣髴とさせただけでなく、あの時代の科学エッセイでは書けなかった新たな科学データにもとづいていた。

『『理科年表を楽しむ本』

≪011≫  データというものは、いくら詳しくともその意味がわからなければ、すべて死に体である。そこでデータ(data)を意味が読めるカプタ(capta)にする必要がある。欧米にはいまデータ・サイエンティストという職能が生まれつつあるが、これはデータをカプタにする役割をもつ。

≪012≫  カプタという名称は型破りな心理学者のR・D・レインによる用語で、データを「いろいろ解釈できる意味情報」にしたものをいう。データが編集可能体になったものがカプタである。したがって、写真や図版を説明するキャプション(caption)もカプタ状態になっている。

≪013≫  データはさまざまな情報を処理できるように形式化され、符号化されている。たいていは数値化されているけれど、単語や概念、記号式のもの、文節的なもの、アルゴリズムの断片、暗号化されたものなどもデータになりうる。しかし、これらは放っておけば自分からは何も語り出しはしない。だから、データはカプタに向かっていく。

≪014≫  実は編集工学というのは、このようにデッド・データをライブ・カプタにしていく方法を研究開発するのがもともとの仕事だった。けれども、そのためにはまずは正確で豊富で多様なデータがなければならない。『理科年表』はその基礎データ集で、この本はそのカプタ集なのである。

≪015≫  本書もエッセイの段落ごとに『理科年表』との照応を示してくれている。けれどもこれを読んだときも、ぼくは書棚の一角に忘れ去られた『理科年表』を覗きにはいかなかった。ごめんな、東京天文台、ごめんね、理科年表。

『かくれた次元』

≪01≫  テレビなどで動物の映像記録を見ていると、いろいろ教えられる。キリがないくらいだ。そのなかのひとつだが、意外なことに動物たちの多くが敵や追走者がある程度近づくまで逃げようとしていないということがある。最初はゆっくりとしか動かない。あるいはじっとする。そしてかなり相手が近づいてから、バッと逃げていく。

≪02≫  これは動物に逃走距離あるいは臨界距離があることを暗示する。その距離にならないと逃走のトリガーにスウィッチが入らないのだろう。ということは、おそらくそれぞれの動物たちには「混みあい」の度合を調整する何かの機能が隠れているはずなのだ。しかし、セイウチやオットセイの混みあい方とフラミンゴやミツバチの混みあい方とは異なっている。

≪03≫  これらはふだん目に見えている「なわばり」とか「ニッチ」とかとはちょっと異なったものである。動物たちのディスプレーの特徴だけを見ていてわかるものでもない。もっと反応的で、文化的なのだ。これらは内分泌学(endocrinology)に擬していえば、何かの次元が体の外に洩れた外分泌学(exocrinology)ともいうべきものなのだ。そこでエドワード・ホールはこれらの隠れた次元をまとめて「プロクセミックス」(proxemics)という造語にした。「知覚文化距離」とでも訳せるのだろう。

≪04≫  体験は文化によってかたどられている。自分が体験したことだからといって、それが自分だけにしか理解できないものなどと自慢しないほうがいい。そこには「隠れた次元としての文化」というものがある。それがプロクセミックスだ。本書はこのプロクセミックスに関する史上最初の仮説の書である。いまでは古典に属するが、発表当時はかなり話題になった。

『かくれた次元』

≪05≫  エドワード・ホールはデンバー大学やコロンビア大学で文化人類学を修めた学者さんであるが、早くに『沈黙のことば』(一九五九 南雲堂)を書いて、行動文化にも文脈があることを披瀝して有名になった。「ボディ・ランゲージ」という概念を提唱し、民族文化にハイコンテキスト・カルチャーとローコンテキスト・カルチャーがあることを説明してみせたのは、ホールが最初だったと思う。

≪06≫  ぼくは日高敏隆さんと岩田慶治さんの二人から、別々に「エドワード・ホールのコミュニケーション文化論がおもしろいよ」と言われた。日高さんは「ついにエソロジーもここまで来たね」と添え、岩田さんは「人間の行動文化を俯瞰している新しい人類学だ」と応援をくりだした。

≪07≫  一言でいえば、ホールは「文化はコミュニケーションである」と捉えたのである。だから文化は集団やグループの中で伝わるものだとみなした。漠然と伝わるのではない。「型」(pattern)によって伝わる。ホールはその「型」には、主として「順序」「選択」「適合性」が関与するとみなした。「順序」はフランス料理、中国料理、日本料理の順序や風呂の入り方や飲み会の進行にあらわれ、「選択」はフォーマルな恰好や普段着にあらわれ、「適合性」は挨拶の丁寧度や健康の規準などにあらわれる。

≪08≫  文化やコミュニケーションを「型」で捉えたのである。すこぶる明解な見方で、それでいて文化の型にも迫っていた。ぼくは大いに刺戟をうけて、いったい「型」とは何なのだろうかということに興味をもった。パターンだけではない。フォーム、スタイル、マナー、モデル、テンプレート、モードも「型」である。日本語の「型」とこれらのちがいも気になった(その後、「編集の型」に注目するのは、このときの刺戟が大きい)。

≪09≫  ホールが文化主義に流れないところも気にいった。知覚や動作や「混みぐあい」に注目しているのである。

『かくれた次元』

≪010≫  人間の進化は遠距離感覚器の発達に特徴がある。視覚と聴覚だ。そこには遠さと近さをさまざまな方法で知覚するしくみができあがっている。この感覚器から入力された情報を、自分たちの社会に適用していった。それが文化の基礎になる。たとえば「ここ」(inside here)と「むこう」(outside there)の認知が、村をつくり、地域をひとつにし、国を自立させていった。

≪011≫  けれどもそれがどのようにできあがっているかは、たとえばイタリア人が顔をつきあわせて会話をしていたり、日本人が遠くから会釈しあっていたりする行動だけを見ているだけでは、何がそこに作用しているかを説明しきれない。いままではそれを「習慣」とか「国民性」としか呼んでこなかったわけであるが、ホールはこれをプロクセミックスとしてやや詳細に前方に投げ出すようにした。

≪012≫  たとえば、日本人もいつしかトイレのドアをノックするようになった。会社では上司の部屋に入るときは必ずノックをするように教えられる。では、日本人はアメリカ人と同様にノックをしているかというと、そんなことはない。「トン・トン」「トン・トン」「入ってます」なのだ。それがアメリカでは(ハリウッド映画を見ればすぐわかるが)、トン・トン・トン・トン・トンとすばやく何回もノックする。こういう差異はどこから生じるのか。体に染みついた社会や文化が発するリズムなのである。「型」なのである。

≪013≫  すでにわれわれは、誰かと接していたり人前にいたりするとき、何かのきっかけで顔を赤らめたり上気したり、冷や汗をかいたりすることをよく知っている。この反応はあきらかにフィジカル(生理的)な反応なのだが、そこには微妙なメンタル(心理的)なものが関与していることもよく知っている。われわれの体にはメンタリティの具合を厳密にフィジカルな反応に切り替える装置が機能しているようなのだ。つまりわれわれには「冷たい目付き」とか「赤恥をかいた」とか「腸が煮えくりかえる」とか「肝を冷やした」ということが、実際におこっているようなのである。

≪014≫  その心身関係の化学作用のメカニズムを解明することは、本書の目的にはなってはいない。そのかわり、どんなプロクセミックスがはたらくときにそのようなことがおこるのかに注目をする。それが風土や社会のちがいで変化することに注目する。

『かくれた次元』

≪015≫  ホールが特異な観察的技量を発揮するのは、プロクセミックスを人間に適用する場面だった。人間におけるプロクセミックスは「密接距離」「個体距離」「社会距離」「公衆距離」の四段階によって構成されているのではないかと仮説した。

≪016≫  概略すると、「密接距離」というのは愛撫や格闘を成立させるプロクセミックスで、ここには慰撫と保護、あるいはその逆の嫌悪と排除という感情が芽生える。ホールはこれをエルボー・ディスタンスとよんで、人間の肘の距離によって感覚されているとした。「個体距離」は人間が個人を感じられるギリギリの距離をいう。ここには自己と他者を隔て区別する「泡のようなもの」が介在する。相手が自分のエルボー・ディスタンスよりはっきり外にあることが感じられる距離である。

≪017≫  「社会距離」は四フィート以上一二フィート以内にあって、ここでは相手から隠れようと思えば隠れられるし、そのまま相手に感じられずに立ち去ることもできる。逆にここから相手に近づいていくと、相手に社会的な関心があると感じさせることができる。「公衆距離」は二五フィート以上のもので(遠方相の場合)、そこでは人々は他人を無視した街頭者のようにふるまえる。

≪018≫  本書はこうしてプロクセミックスの分類的特徴をおおざっぱにつくりつつ、各国の文化特質の違いがプロクセミックスである程度は説明できるのではないかという領域に進んでいく。

≪019≫  ホールが最初に選んだのは、ドイツ人とイギリス人とフランス人におけるクロスカルチュラル・コンテクスト(通文化的文脈)であるが、日本の読者にはその次のアラブ人と日本人の相違のほうが頷ける。ホールはアメリカ人たちが「インディレクション」(遠回し)だと感じる日本人の独得のプロクセミックスを、たとえば安部公房の原作を勅使河原宏が映画化した《砂の女》を引きながら、たくみに分析してみせる。「間」を持ち出して日本人のプロクセミックスを説明する箇所はまったく不十分なものではあるが、本書のなかではそれなりの説得力をもっている。

『かくれた次元』

≪020≫  ぼくが本書を読んだのはこの本の翻訳版が出たころで、ちょうど「遊」を創刊する前後だったので、いろいろの影響をうけた。とくに「文化を脱ぎすてることはできない」という言葉が強烈に響き残った。「人間は文化というメディアを通してしか意味ある行為も相互作用もできない」というふうにもあって、「そうか、文化も大きな意味のメディアなのか」と得心したものだった。

≪021≫  今度、三十年ぶりに本書にざっと目を通してみて、すでに本書の主張がほとんど〝常識〟になっていることに気がついたものの、最後のページに次のようにあることは見落としていた。そこにはこのように書かれていた。今日なお通用するだろう警告である。「民族の危機、都市の危機、教育の危機はすべて互いに関連しあっている。その大きな危機とは、人間が文化の次元という新しい次元を発達させたことを忘れたときにおこるのだ」。

≪022≫  われわれには、それが自分に属しているものかもしれなくとも、説明のつかない作用や科学的に立証できない力をほったらかしにする傾向がある。そのため直観、勘、虫のしらせ、インスピレーションの正体を追究しなくなり、相性、ウマが合う、虫酸が走る、ピンとくる、心意気などは日常会話にしか登場しなくなる。しかし、抗生物質の発見者のひとりだったルネ・デュボスはインスピレーションが反応ではなく応答であることを突きとめ、マイケル・ポランニーは直観には暗黙知がはたらいていることを証したのである。

≪023≫  ゆめゆめあきらめてはいけない。われわれはきっと何かの「おかげ」でうまくいっているのである。

『かくれた次元』

≪024≫ 参考¶エドワード・ホールは文化人類学者であるが、若い頃から知覚と文化の関係に関心を寄せていたようだ。これはフランツ・ボアズやエドワード・サピアが言葉と文化の関係に最初に関心を寄せた文化人類学者であったことを受けたもので、その後の文化人類学の行方を決定づけた。ホールの著書にはベストラセラーとなった『沈黙のことば』(南雲堂)のほか、『文化を超えて』『文化としての日本』(ともにTBSブリタニカ)などがある。

『斜線』①

≪01≫  邦訳には「方法としての対角線の科学」というサブタイトルが付いている。この方法は若くしてカイヨワが最も得意とした方法で、タテでもヨコでもなく、ナナメなのである。このナナメは事態や事物を観察している当初には見えない。ナナメはそこに想定されてきた規制のプロトコルに対して新たに発動された破線、補助線、あるいはインターフェースであって、一度かぎりのナナメではない。いくつかの対角線が交差して、そこからさらに浮上してくるナナメなのだ。 

≪02≫  カイヨワのナナメは文科系と理科系を区別していない。そこを跨ぐためにナナメを発想したのでもない。カイヨワにあっては文科系と理科系はもとより一緒くたになっていて、その一緒くたの景観をよぎる視線そのものがナナメなのである。そのようなナナメの錬磨は、最初の著作から始まっていた。 

『斜線』

≪03≫  カイヨワは二四歳のときにカマキリの研究をした。『神話と人間』(一九三八)という本になった。カマキリのメスが交尾中にオスを食べてしまう異常な習性を観察しながら、そこから「歯のはえた膣」や「毒をもつ処女」といった人間文化にのこる説話や神話に対角線をのばして、これらにひそむ類似性の考察をもって「対角線の科学」の最初の一歩を踏み出した。 

≪04≫  つづいて『人間と聖なるもの』(一九三九 せりか書房)で、自分を破滅させることがあきらかであるようなコトやモノを「聖なるもの」としてつくりあげてしまう人間文化の奇怪な習性に着目し、これを生物の擬態や活動に照らしあわせ、そこには「遊び」としかよびようのない動向があるのではないかと見た。これはルドルフ・オットーの「聖なるもの」の発見に匹敵するものだったが、そこに「遊び」(jeux)を見いだしたのがナナメなところだった。 

≪05≫  この独自の見方を発展させたのが有名な『遊びと人間』(一九五八 岩波書店・講談社学術文庫)である。「アゴーン」(競いの遊び)、「アレア」(賭けの遊び)、「ミミクリー」(真似の遊び)、「イリンクス」(目眩の遊び)という遊びの四分類は、カイヨワがこれらの底辺においたメタ遊戯概念としての「パイディアとルドゥス」の両極設定とともに、いまなおこの水準を飛び出るものがない成果になっている。パイディア(paidia)は自在で気まぐれな熱中を、ルドゥス(ludus)はやや縛りのある熱狂をさす。

『斜線』

≪06≫  カイヨワが当初から試みていたこのような「対角線の科学」に対して、そういう見方は動物や昆虫に人間化を迫り、人間文化に生物的現象をあてはめたにすぎないのではないかという批判が一部から浴びせられたことがあった。アントロポモルフィスム(擬人主義・神人同形同性説)に陥っているのではないかという批判だ。カイヨワは呆れた。 

≪07≫  カイヨワはかえって奮起して、『メドゥーサと仲間たち』(一九六〇 思索社)を書いた。ここでカイヨワが挑戦したのは自然淘汰説と生存競争説という壁である。カイヨワはこれを崩しにかかった。 

≪08≫  カイヨワの反撃は、こういうものである。生物がなんであれ生存競争しかしていないというのはおかしい。生物にはむしろ人間の目や社会的な思考では解けない到達点というものがあって、これにくらべれば人間はむしろ不自由きわまりないものになっているのではないか。人間の特性は自由の行使にあるというが、たとえば蝶々の文様のように何万年もかけて同じ文様を踏襲する法則のようなものをいまだにつくっていないではないか。文学におけるシュルレアリスムも、美術におけるアンフォルメルやアクションペインティングなども、鉱物や動物が自身の内外に造形したものにはとうてい及ばない。人間が今後も自由を選びたいというなら、その行為はもっとたどたどしく生きることを覚悟すべきではないか、そういう論旨だった。 

≪09≫  そのうえでカイヨワは昆虫の「擬態」を持ち出し、擬態には自然淘汰説では説明できないものがあり、むしろ自然淘汰説こそ自然のなかの有用性にこだわった者たちのアントロポモルフィスム(人間中心的連想観)が押し付けられているものだと反論し、返す刀で、古代ギリシア以来のメドゥーサ神話のまったく新しい解釈を披露してみせたのである。ここには、世界中のいろいろの仮面論をとりあげつつも、それらとはおよそ異なる仮面と成人式の伝授をめぐる仮説がもりこまれていた。 

『斜線』

≪010≫  このあたりで、もはやカイヨワに文句をつける者はほとんどいなくなったのだが、カイヨワの思索は止まらない。『自然と美学』(一九六二 法政大学出版局)や『幻想のさなかに』(一九六五 法政大学出版局)や『石が書く』(一九六六 新潮社)の連打では、ついに「美」や「美意識」の欺瞞を暴くというほうへ流出した。宇宙から鉱物までの自然物を総動員させて、人間が何を美として感じてきたのかという無意識領域にひそむ動向をつかみだしたのである。 

≪011≫  いまでもよく憶えているが、ちょうど『自然と美学』を読みおえたらしい杉浦康平さんが、「いや、これでみんな言い切っているね。すごいよ、カイヨワは」と言っていたものだった。  

≪012≫  発表当時、ほとんど反響のなかった『戦争論』(一九六三 法政大学出版局)も驚くべき考察を秘めていた。戦争がなぜ「気持ちのいいもの」になりうるのか、戦争において国家と国民が一体になってしまうのはなぜか、無秩序な市場の浪費よりも厳密で暴力的な戦争の経済のほうが絶大な効果をもつのはなぜかといった問題が、われわれにひそむ「内なるベローナ」として白日のもとに晒されるのである。ベローナとはローマ神話で軍神マルスに従う女神のことをいう。 

≪013≫  あまりに隠れた社会本能を抉ってばかりいたせいか、こうした連打に伴走する者(とくに学界)が少なくなっていた。けれどもカイヨワはおかまいなく驀進しつづけた。 

≪014≫  ぼくが感動したのはとりわけ『蛸』(一九七三 中央公論社)と『反対称』(一九七三 思索社)である。『蛸』は西洋の蛸と東洋の蛸をめぐる神話・説話・表現を列挙しながら、「想像の世界を支配する論理をさぐる」という目標で書かれていた。『反対称』は、自然界や生物界では着々と対称性の崩壊がおこっていて、ついには植物における蘭の花の反対称性の発現(ランはもはや対称的な花の形をとりえない)のように、その進行はしだいに地球上の細部、すなわち人間界にも及んでくるのではないかというもので、あっと目を洗われた。 

≪015≫  塚崎幹夫さんが訳した『反対称』の日本語版には特別メッセージがついていて、「熱力学の法則と生物の進化の法則、カルノーとダーウィンのあいだには矛盾が存在する。この書物はこの矛盾を解こうとするものである。私は反対称を、物理学の法則から生物を解放し、複雑にし、多様にした基本的原理であると考えている。反対称と無対称をはっきり区別する必要がある。このような主張は、日本の文化において、特に強い共鳴をよびおこすことができるのではないかと、自分勝手な推測をしている」とあった。ぼくはこれを読んで、よし、いつかカイヨワに会いに行こうと決断したものだ。 

『斜線』

≪016≫  ここで体験談をはさんでおくと、ぼくがパリのカイヨワに会いに行ったのは、「遊」第Ⅰ期を了えるにあたって、「相似律」という特集を組もうとしていたのだが、その作業が半ばすぎたときだった。この「相似律」を入稿する前に、その全コピーをカイヨワに見せようと決断したのである。初めての海外旅行だった。 

≪017≫  相似律というのはぼくが勝手に名付けた法則のようなもので、太陽のX線写真と鉱物の表面が酷似していたり、コロラド川の航空写真と脳のニューロン・ネットワークと電気の放電パターンが似ていたりするような、いわば〝異種間相似関係〟とでもいう証拠を徹底的に並べていくと、そこに相似律としかいいようのない「あらわれ」が見えてくるというものである。木村久美子をアシスタントにして半年ほど来る日も来る日も図版を集め、それらを次々に似たものどうしに配列していくのは快感でもあった。こうして植物繊維の拡大写真と皮膚病写真とアンリ・ミショーのドローイングが見開きページに収まっていった。 

≪018≫  ぼくは「相似律」全ページのコピーを旅行鞄につめこみ、勇躍、村田恵子とともにカイヨワの自宅を訪れた。カイヨワは開口一番、「日本の平家蟹は元気ですか」と笑った。カイヨワは『平家物語』も歌舞伎の『平家蟹』も、さらにはカニのしゃぶしゃぶについても研究済みだったのである。 

≪019≫  それにしてもカイヨワが一日目も翌日も、アニメの怪獣のように酒気を帯びていたこと、それにもかかわらず明晰な推理を次々に繰り出してくることには、驚いた。誰かに似ていると思ったが、すぐにそれが稲垣足穂であることに気がついた。そしてその数日後、日本からの電話で稲垣足穂が亡くなったことを知らされたのである。 

『斜線』

≪020≫  話を戻して「対角線の科学」のことになるが、カイヨワは『反対称』によってジャック・モノーに反撃を加えてもいた。モノーは『偶然と必然』(みすず書房)において、生物学の法則が熱力学の第二法則を侵害している証拠はまったくないと書いていた。 

≪021≫  一見すると、高度情報分子が構造的に転写され、さらに増殖していくのは熱力学第二法則に矛盾しているように見えるのだが、それはタンパク質の立体特異性にむすびついた情報化学のせいであって、モノーはこの情報化学のプロセスでは第二法則にもとづく熱力学的対価を生物は何の狂いもなくちゃんと支払っているというのである。ただしモノーはそう言いながらも、タンパク質の情報プログラムを作るアミノ酸の配列順序の決定は偶然によるもので、その偶然が種の特性を決めているのであって、そこには量子レベルでは突然変異による変化があっても、それらは生物の全体の保存機構によって帳尻をあわせているので、生物全体においては自然淘汰は必然の不可逆過程にほかならないと説いた。  

≪022≫  しかしカイヨワは、これに疑問をもった。どこかに重要な対角線やナナメが欠けていると見た。そしてカイヨワは「形成」ではなく「破壊や崩壊」に目をむける。すなわち、量子的な突然変異は必ずしも偶然の産物なのではなく、そこに対称性の破れという必然が関与しているのではないかと予想したのだった。これはシュレーディンガー以来の量子的生命観を継いでいた。また、南部陽一郎やデイヴィッド・ポリッツァーのヒッグス粒子仮説の一部を先取りしていた。 

≪023≫  驚くべき仮説だった。そもそも「対称」とは均質性や等方性をもったシステムが安定を獲得したときにあらわれる属性であるが、ここに何かのきっかけでごくごく部分的な破壊がおこったときは、その破壊をうけたシステムは新たな特性を獲得して、そのシステムのべつの安定のレベルに達しようとする。これは無対称のシステムが安定を取り戻そうとする動向とは異なるもので、熱力学でいえばむしろ「負のエントロピー」に向かっている動向だと考えられるのだが、カイヨワはこのような見方に立って、生物と情報とシステムの新たな解読の方法を模索したのだった。 

≪024≫  今日ならば、非平衡系の熱力学や複雑系の化学によって説明のつくことも、まだ創発性や相転移の科学がほとんど見えていなかった時期に、これだけの仮説を独自に雄弁に語れるということは稀有なことだった。しかし、カイヨワはカマキリや蛸の観察このかた、このような仮説こそが得意だったのだ。 

『斜線』④

≪025≫  こうして「対角線の科学」の到達点として、本書『斜線』(一九七五)が登場した。ナナメの乱舞だった。ただし、これは原著でいうと『イメージ・イメージ』の後半部分であって、前半部分は日本語訳の本では『イメージと人間』になっている。思索社が大冊を二冊に分離し、表題と訳者を変えて出版したためだった。 

≪026≫  併せて読むとすぐわかるように、内容は変化に富みながらも一貫している。最初はファンタジー文学やSFから入って、そこに出てくる幽霊やデーモンや怪物のイメージの出所を尋ねる。そこから夢や幻覚に出没する奇形のイメージの問題を扱い、そのようなイメージの鋳型こそがあたかも「ピュロス王の瑪瑙」のように、多くの知識に幻想係数をあたえたのだろうという展望を出す。ここではプリニウスからアタナシウス・キルヒャーさえもが、いいかげんな想像力を行使している例として俎上に載せられていく。 

≪027≫  後半では、美術館の神像や仏像をなぜ人々は拝まないのか、「月の石」など鉱物成分的にはどうということもないのに、なぜ人々はそこからあらぬ想像力をはたらかせるのか、地獄のイメージはなぜ民族をこえる同質性をもっているのかといった問いが次々に発せられていく。 

≪028≫  ついでカイヨワはラマルクに焦点をあて、その生物学がめちゃくちゃなものに見えていながらも、実はそこには想像力の機能として意外に正しい方向が示唆されているのだという、ぼくがバンザイを叫びそうなことを言う(なぜラマルクをそのように論じることがバンザイを叫ぶほどの話なのかということは、第五四八夜および『遊学』(中公文庫)のラマルクの項目を読まれたい。ぼくは半分以上はダーウィン主義者だが、残りはラマルク主義による斑模様の体をしているのである)。 

≪029≫  カイヨワが何を書いたかは、あきらかである。「想像力は対角線の上でこそ結ばれるべきだ」と書いたのだ。 

『斜線』⑤

≪030≫  千夜千冊の読者ならばお気づきのように、カイヨワが唱える「対角線の科学」はかなり編集工学の発想や方法と重なっている。ぼくが初の海外旅行をカイヨワ訪問においた理由もきっとわかってもらえるのではないかと思う。しかし、ぼくとちがってカイヨワは、こうした「対角線の科学」を築きあげるにあたっては、そうとうの準備期をもっていた。  

≪031≫  最初は学生としてデュメジルやモースの講義に熱中していた。十九歳のときはシュルレアリスムの渦中に飛びこんで、すぐさまブルトンと論争した。ブルトン主流のシュルレアリスムと袂を分かつと、ついではジョルジュ・バタイユ、ミシェル・レリスとともに「社会学研究会」を結成して、もっぱら「社会的本能とは何か」という徹底討議をした。このときの蓄積は大きかった。次に「レットル・フランセーズ」の編集をとことん引き受け、戦時中にはロンドンの亡命政権の依頼で南米に飛びこんだ。ブエノスアイレスに「フランス文化会館」を創設する準備をし、ボルヘスらの南米文学の紹介を買って出たのはこの時期である。カイヨワはたえず聖と俗の鏡像関係に興味をもちつづけていたのである。 

≪032≫  かくて、右に書いたようなカマキリの研究から始まるナナメな「対角線の科学」の思索と執筆がスタートしていったのだ。カイヨワはこのときから化石や鉱物や生物標本の収集、世界各地の伝承の調査、サン゠ジョン・ペルスの作品などを対象にした詩学研究、少数民族の昔話研究などにも着手する。ぼくはカイヨワが世界の知を糾合する雑誌「ディオゲネス」の編集長であったことにも関心をもっているのだが、これについてはインタビューするのを忘れ、いまもそのままになっている。どこかの研究者に詳細を教えてもらいたい。 

『斜線』⑥

≪033≫  カイヨワに会ってからというもの、ぼくはカイヨワのことを「偉大な遊学者」とか「オブリックな遊学者」とよぶようにしてきた。 

≪034≫  オブリック(oblique)とはフランス語の斜線とかナナメという意味だ。何がナナメなのかといえば、文理(文系と理系)をまたいでナナメであり、幻想と現実をまたいでナナメ、また本能と社会をまたいでナナメなのである。しかし世間では、カイヨワの業績をひっくるめて「学際」(インターディシプリナリー)の発見者と言ってすましている。ほんとうは知を鉈切りにするところが凄いのに、ちょっとお上品にカイヨワ先生に肘掛け椅子に鎮座してもらおうという配慮なのだろう。 

≪035≫  学際的なのは前提の前提だ。やはりはナナメ対角線の人というのが、カイヨワ先生の真骨頂である。それに肖って、ぼくも編集工学を説明するときはしばしば「対角線を結ぶ編集工学」とか「対角線にひそむ関係を発見する編集工学」と言ってきた。けれどももっとざっくばらんには、ナナメな夜は、ナナメな気分で、ナナメな編集術を、ナナメに走りたいということである。 

≪036≫  一言、加えておきたいことがある。それはカイヨワ先生は少年時代から「星の配列」に胸ときめかせて夜空を見上げていたということだ。とくに南米在住期の長かったカイヨワは、つねづね「ぼくの目の奥には南の空から見る天体が半分入っている」と言っていた。月曜日は千夜千冊第九〇〇夜になる。ぼくもいささかオブリックな夢を語ることにする(後記:九〇〇夜は賢治の『銀河鉄道の夜』でした)。 

≪037≫ 参考¶
 カイヨワの著作はほぼ邦訳されていると思うが、著作権の都合か、同じ本がいくつかの版元で刊行されている。『本能』『メドゥーサと仲間たち』『反対称』『イメージと人間』『斜線』(思索社)、『神話と人間』(せりか書房)、『自然と美学』『幻想のさなかに』『夢と人間社会』『戦争論』(法政大学出版会)、『文学の思い上がり』(中央公論社)、『聖なるものの社会学』(弘文堂・ちくま学芸文庫)、『遊びと人間』(岩波書店・講談社学術文庫)など。 

「対称性人類学」

≪01≫  これは「カイエ・ソバージュ」と名付けられた中央大学などでの講義録の最終回にあたっているらしい。5冊目である。カイエ・ソバージュはきっと「とはずがたり」という意味だろう。 

≪02≫  1冊目が『人類最古の哲学』で、『熊から王へ』『愛と経済のロゴス』『神の発明』と連打されて、そして本書というふうに続く。あいかわらず表題編集賞を贈呈したいくらいに、タイトルはフォトジェニックだ。つい読まされる。このシリーズも刊行されるたびにざっと読んできたが、講義録というより、講義記録をおおざっぱな下敷きにして、ですます調で自在に枝葉をのばし、そこにあらためて強い輪郭線を引き直しつつ、それをもういっぺん流れを整えて仕上げたという印象だ。書物というもの、それでいい。 

≪03≫  そもそも中沢新一は、多様な知識を組み合わせた思想の流れをナラティブに仕立てられるという才能の持ち主で、海外にはよくいるけれど、最近の日本には少ない“思想作家”のタイプにあたる。文体にも明晰な特徴があって(「ぼくたち」とか「私たち」と書くクセは気にいらないが)、だから、つねに「読ませる思想」をめざして書いてきた。たんに読ませるというより、ナラティブとして読ませる。これがうまい。 

≪04≫  それを感じたのはいつだったろうか。初期の『チベットのモーツァルト』(1983)やフラクタル思想を議論した『雪片曲線論』(1985)ではなかった。南方熊楠をめぐった『森のバロック』(せりか書房)くらいだったように憶えている。とくに田辺元を西田幾多郎やジャック・ラカンを媒介にしながら徹底してフィーチャーしてみせた『フィロソフィア・ヤポニカ』(2001集英社)では、思想のナラティビティがよく組み立てられていた。 

「対称性人類学」

≪05≫  中沢がぼくの前にあらわれたのは、『遊』1030号(1982)に原稿を寄せたときである。同志社から無料の「遊塾」に来てそのまま工作舎にいついてしまった後藤繁雄が原稿を依頼した(『チベットのモーツァルト』はまだ出ていなかった)。 

≪06≫  チベット密教のニョンパについて書いていた。当時、そんなことを書けるのは中沢だけだった。それまでの多くの密教論は歴史的な理論とマンダラをはじめとする図像の解析には熱心だったが、今日ただいまの現在的な「行」を問題にする者など、一人もいなかったのである。 

≪07≫  その後、友人の奥村靫正が中沢本の装禎を連続して担当し、せりか書房がこれらを支援した。何がきっかけだったのかは知らないが、このあたりで急に“ニューアカ”(ニューアカデミズム)の掛け声が叫ばれて、中沢は浅田彰と並んでメディアの寵児となった。ぼくはそのころの中沢とはまったく交流しなかったのだが、ニューアカ・ブームもあっというまに退嬰したある日、NTTの情報文化フォーラムに呼んだ。これが久々の再会だった。津田一郎の「先行的解釈」論に噛みついていたのを思い出す。 

≪08≫  中沢は中沢で、そのころはぼくの『遊行の博物学』(春秋社)を新聞書評して、たとえば「松岡正剛は男っぽい」というような感想を書いていた。男っぽいというのは“仁義が切れる思想”という意味らしく、ふーん、面白いことを書くなと思っていた。 

「対称性人類学」

≪09≫  そのあとも、シンポジウムなどを含めて何度も中沢とは顔をあわせる機会があったにもかかわらず、いま気がついたのだが、ぼくは中沢とは一度としてゆっくり話したことがなかった。 

≪010≫  だいたい作家というものは自分のナラティブの性質や特徴を話すのがめっぽう苦手なのであるが、作家の資質のある中沢にもそういうところがあって、ぼくがそれを察知して遠慮したかもしれないが、そうではない理由だったのかもしれない。 

≪011≫  ともかくも、そんな事情があって、ぼくは中沢の不実な読者であろうとしてきただけだったのである。 

「対称性人類学」

≪012≫  さて「カイエ・ソバージュ」であるが、ここに採り上げられたナラティブな素材はさすがに眼がゆきとどいていて、レヴィ=ストロースも認知考古学も、贈与交換論もシンデレラ論も、華厳経もバタイユも、マルクスも琉球ウタキ論も、いずれもこれほど適確には料理できまいというほど絶妙なプロットの中に、湯がいた白菜やゴボウや大蒜漬けした豚肉のように放りこまれている。 

≪013≫  しかも、このナラティブ思想料理は一気には進まないようになっている。だいいち、これらの素材は「氏」も「育ち」も別々な話題ばかりなのだから、これを安易につなげてもしょうがない。そこでいつものことだが中沢は、いちいち鍋を取り替える。たとえば母型鍋、カーニバル鍋、トーラス鍋、メビウス鍋、スポンティニアス鍋、魔法鍋、相対思想鍋というふうに。 

≪014≫  これは中沢の語りが「場面」をもっているためで、ぼくには好ましい。学術論文の多くはこの「場面の自覚」(トポグフィックな思考プロセスの解明)がたいてい抜け落ちて、1ページ目から役も立ちそうもない論理をいじくるために(つまりトピカが脱落しているために)、その論理が活躍できる場面がまったく見えなくなっていくという度しがたい傾向があるのだが、さすがに中沢はそのようなことを本能的に避けている。 

≪015≫  本書で「対称的思考」とよばれているのは、これらの別々の鍋の中でおこっている個別現象にひそむ本来な動向をつなぐ思考方法のことである。それは放っておけば流動的知性として流出しつづけ、放浪に放浪を重ねるものになるのだが、そこを勇敢にも対称的思考に括りなおしたい。結局、本書が言いたいことはそこなのだ。 

≪016≫  そして、その対称的思考によってくみたてる思想の全貌を「対称性人類学」と名付けたいということだった。 

「対称性人類学」

≪017≫  中沢がめざす人類学の方法が「対称的思考」と名付けられているのは、そもそも人類の神話的思考が二項操作的だったからである。 

≪018≫  中沢の解釈によると(多くの人類学者もそのことを言ってきたのだが)、古代人は民族や部族や風土の区別の多少はあるものの、総じてはプラス(ポジ)とマイナス(ネガ)を組み合わせた二値的な論理によって自分を含めた世界を理解しようとした。そこはたいていバイロジカルだった。複論理的だった。 

≪019≫  このバイロジカルな操作が、ときにマイナスを強調して怪物や奇形のイメージを創出し、ときにマイナスからプラスへの移行を強調してさまざまなイニシエーションの物語を生み、ときにプラスがマイナスを吸収しすぎて苦悩するようにもなってきた。 

≪020≫  途中、そのようなハイブリッドな混成状態は数々生み出されるだろうものの、しかし大きくみれば、そこには必ずや対称的思考がはたらいているというのが、本書の立場なのである。それは、初期の宗教がこれらのハイブリッドな混迷する物語の結末を模索するようになっていることにもあらわれる。たしかに、神話も宗教も、これらをバイロジカルに扱って事態を先に進めるように編集されてきた。 

≪021≫  中沢はこのような見方を、イグナシオ・マッテ・ブランコの『無限集合としての無意識』から示唆された。この研究書にはまさに「複論理の試み」というサブタイトルがついていた。  

「対称性人類学」

≪022≫  しかし、ここまではとくに新しくも珍しくもない(場面付きの語り方は面白いが)。 

≪023≫  そこで中沢はこれらを通して、「抑圧されていない無意識」のはたらきをできるだけ純粋なかたちで取り出したいと考える。むろん、歴史の中に取り出すのではなくて(本書はそれに終始しているが)、この現在の社会に取り出したいというのだ。 

≪024≫  これは新たな倫理の提出にあたる。けれども残念ながら、今日の社会にはびこっている大半の倫理は、キリスト教や仏教の現状などを思い浮かべればわかるように、とんでもなく歪んだものになっている。そのため、まずはその“矯正”に乗り出さなければならず、しかもその矯正の方法を市場社会や欲望社会とも多少は“宥和”させなくてはならない。 

≪025≫  こうして中沢は本書では、いったんレヴィ=ストロース的な「野生の思考」に戻り、そもそもどのように「熊は王になったのか」、そもそもどのように「神が発明されたのか」、そもそもどのように社会は「贈与と交換によって経済をつくったのか」と問うてきて、これらをつなぐ対称的思考の復活を主張するのだった。 

「対称性人類学」

≪026≫  以上のことは、十分に共感をよぶ話であるはずだ。神の発生から説いて、人間社会に取り戻されるべき対称的思考が「純粋な無意識」に出会うことができるなら、これは誰も文句はないはずだ。 

≪027≫  しかも、「カイエ・ソバージュ」全5冊にわたって駆使された思想料理の素材は“とりたての有機野菜”ともいうべきものばかり、料理の手際も申し分ないのだから、これはそうとうにおいしい話であるはずなのだ。 

≪028≫  ところが、このように褒めたうえでこういうことを言うのは証文の出し遅れのようではあるけれど、中沢がこれらのすべてを物語ってもたらそうとする結論は、ぼくとはまったく異なるものなのである。 

≪029≫  いや、調理の途中には異和はない。むしろ二人で併走しているかのような錯覚さえおこる。 

≪030≫  が、結論はまったく逆になる。中沢はどうやら「純粋な無意識」を取り出したいか、それに出会いたいか、それを人々に見せたいようなのだが、ぼくはまったくそんなことを考えない。 

≪031≫  中沢は対称的な意識を対称的な意識の土壌から取り出すことを最大事の「正」の思想的課題においているのだが、ぼくの思想が向かう方向はそっぽを向いていて、むしろ反対称性の面白さや「負」や「奇」のほうに課題を見出している。 

「対称性人類学」

≪032≫  この食い違いは、ある種の読者にはたいへんに興味深いものだろうから(中沢ファンにも松岡読者にも)、少し解説してみたい。一見、二人の食い違いを強調するように読めるかもしれないが、かえって中沢のナラティブ思想の特色が浮き彫りになるかもしれないので、粗相なことながら、ちょっと試みてみる。 

「対称性人類学」

≪033≫  中沢の対称的思考は美しい。それはラカン的な鏡像過程をいかした思考を文体におきかえているからで、まさに『フィロソフィア・ヤポニカ』でいうなら西田幾多郎的ではなく田辺元的であり、フェリックス・ガタリ的ではなく、ジュリア・クリステヴァ的である。建築家でいうのならフランク・ロイド・ライトではなくミース・ファンデル・ローエ風だということになるだろう。 

≪034≫  それだけではなく中沢の倫理思想は「正しさ」を求めているところがあって、バリティ(偶奇性)でいうのなら、いわば「偶」を完成するための思想なのである。連歌師にあてはめれば宗祇に近いというところだろうか。 

≪035≫  これに反してぼくはといえば、「正しさ」に関心はなく、「奇」や「負」の本来こそ凝視したいほうなのだ。ライト的であって、西田的であり、連歌師ならば心敬に近いものがある。それだけでなく社会における人間思考の正当性の根拠律などよりも、人間がついつい逸脱してしまう「ほか」や「べつ」が大切だと思っている。中国水墨山水画の価値観でいうのなら、もともと「神品・妙品・能品」が絶賛されていたのだが、これに南の辺角山水が加わってからは「逸品」が自律してきたような動向にこそ、関心がある。 

≪036≫  さらにいうのなら、「正解」よりもデュシャンの「誤植」のほうが好きなのだ。 

「対称性人類学」

≪037≫  中沢とぼくがさまざまな世界素材を解読しながら次々に動かしていく編集的プロセスには、おそらくそんなに違いはないだろうと思われる。 

≪038≫  素材の卵は同じ卵だし、油もほぼ同種の油、それでつくるオムレツはやはりオムレツなのだ。きっとフライパンも火加減もあまり変わらない。それなのに、中沢のオムレツは対称的でバイロジカルで、ぼくのオムレツは反対称でオブリックなのである。 

≪039≫  中沢のオムレツには「あて」があり、ぼくのオムレツには「あて」がない。中沢のオムレツはひょっとして万人に向けているのかもしれないが、ぼくは「あてどもない」ところで食べてもらうだけの、いわば少数者のための数寄オムレツなのだ。  

≪040≫  いったいどうしてこれだけの方向の逆転がおこるのか。いずれ中沢自身による“解説”も加えてもらったほうが公平ではあるが、とりあえず想像するには、おそらく次の3つほどの要因があるのではないかとおもわれる。 

「対称性人類学」

≪041≫  第1には、対称性をどう見るかという見方についてのことだ。中沢のいう対称性は非常に大きくて、反対称性もそのぶん大きくなっている。すなわち「世界」や「全体」に対する解釈にどのような対称性があらわれるかが、中沢の関心になっている。つまりそこではエリアーデやハルヴァや、またダライ・ラマのように、つねにアクシス・ムンディ(世界軸)の平衡を問うようになっている。 

≪042≫  それゆえ中沢はマイナスの世界を表示する非対称や反対称にも深い理解を示していて、神話や初期宗教ではその非対称や反対称にも存分な世界観が与えられていたと見る。流動的知性とは、そのことだ(ぼくはこれを『ルナティックス』で採り上げて、試みに「月の知」というふうにもよんでいた)。 

≪043≫  しかし近代社会以降になると、そのような知の大半が暴力や犯罪や貧困のほうに引っ張られてしまい、そのぶん、対称力をもっている社会のほうも近代国家として一挙に肥大し、とどのつまりは今日のアメリカのような絶対的な優位軸をつくりあげていった。これでは対称軸が狂ったことになる。 

≪044≫  そこで、この歪みの是正には「本来の対称軸の回復」が必要になる。熊が王になり、シンデレラが片方の靴を捜す必要がある。そう、考えた。  

「対称性人類学」

≪045≫  もし対称的思考が社会や人間の根源的なバランスをたもてる唯一の方法だと見るのなら、これらの見方は当たっている。おそらくデモクラティックな考え方もこういう見方をとるだろう。 

≪046≫  けれども、ぼくが見る対称性は、たえず動くものなのだ。それは最初こそアクシス・ムンディに対応するものであってもいいけれど、やがては第564夜の丸山真男の項目や第899夜のカイヨワの項目でも書いておいたように、対称の発生はしだいに反対称の動向に向かっていく。そして、かつての「ある」を、次の「なる」に変えていく。しかも、そのように「なる」になったところでは、もはや当初の対称性の「ある」の時点や原点は振り返らない。 

≪047≫  もうちょっと詳しくいえば、二値的な当初の対称性よりも、その後に派生した多複合的なアシンメトリーの割れ目の模様のほうに可能性を見たい。これがぼくの採っている対称感覚なのである。 

≪048≫  わかりやすくいうのなら、ぼくが興味を寄せている対称性は世界大のものではなくて、生物でいうのなら種や科の規模であり、社会文化でいうのなら、建築や演劇のひとつひとつであり、文学作品や一曲の音楽やその演奏法や茶碗であって、また量子力学や流体力学が周辺に向かっていく規模なのだ。 

≪049≫  なぜ、そんなことが好きかというと、ぼくはどんなことでも、大から小に、国家からクラブに、家から棚に、構造から装飾に、ピアノからピアノ演奏に向かっていくことが好きなのである。つまりは「全体としての病気」にも、まして「全体としての健全」にも、まったく関心がない。ただひたすら「次第」にのみ心が動かされているわけなのである。 

「対称性人類学」

≪050≫  第2には、中沢も歪みや非対称の発生には十分に気がついているのだが、それらを補修可能なものと見ているということがある。 

≪051≫  これは神話作用というものがもともとブリコラージュ(修繕)をその基本的な力にしているのだから、そう見たってかまわない。今日なお宗教はそうした神話の補修復活を願っている。けれども、そのような可能性が現実的な社会のどこにあるかというと、第772夜の『ホモ・ルーデンス』や第838夜のシャルル・フーリエのところに書いたように、社会の全般におこるなどとは考えにくい。むしろ逸脱するか遊民になるか、蔑まれる人々として生きるか、あるいは半分くらいは閉じたようなコモンズにその可能性がやっと萌芽するくらいなのである。 

≪052≫  これは実は、宗教史でもそのようになっていたはずで、たとえば原始キリスト教期のクムラン宗団などは(第174夜)、非対称そのものの溜まり場であったはずなのだ。 

≪053≫  こういう事情からすると、対称性の破れについては補修するという健全な方法もあるけれど、ぼくとしては、むしろこういうときは「べつ」や「ほか」の対称性に向かってしまうか、雪舟の後期水墨画のようにアンスタビリティを求めて進んでしまうほうが面白いと思えてしまうのだ。 

≪054≫  もうひとつは、いっさいの攻撃や進攻や圧力には、それを諌めたり墨子のように向かうという方法があるのだが(第817夜)、これは「負」というまったくあらたな方法の話になっていくので、ここでは省きたい。  

≪055≫  いずれにしても、ぼくの思考はたいそう危ういわけで、世の中のデモクラシーのためなんぞにはならないようにしたいのだ。 

「対称性人類学」

≪056≫  第3には、世界にとって「無意識」はそんなに重要なのかどうかということがある。 

≪057≫  これはまことにやっかいな問題で、おそらくこういうことを語るのはぼくより中沢のほうがずっとふさわしいのであるが、ぼくはいろいろ考えたすえ、無意識を純度高く想定するのには無理があると結論づけたのだ。 

≪058≫  ということは、精神病理についても同じことで、あれは人間の精神に「純正レベル」というものを措定するから、そこからはみ出たものや分裂したものを病理と扱うのであるけれど、そもそも意識や無意識の関係を複合的な関係に見るのなら、医師と宗教家を含めて、早々にその複合関係の中に入ったままに事態や問題を顧みるべきではないかと思うのだ。 

≪059≫  さらにいうのなら、意識や無意識について、医師と宗教家が社会の高みに立とうするのは、それこそが20世紀がついに撤廃できなかった社会病理ではなかったのかとも見えるのだ。 

≪060≫  信仰は、あっていい。その信仰が無意識を求めたり、信仰が到達しているところが無意識の界域(仏教で言う法界)であると思うのも、むろんあって、いい。けれどもそれを、心理学のような科学や精神病理学のような学問が跡付けるのには、ちょっと無理がある。ぼくにはそう思える。 

「対称性人類学」

≪061≫  これでは何も“解説”したことにはならないかもしれないが、ざっとはこういう事情の相違がかかわっているのではないかと思われる。「世界と無意識」を信頼する中沢に対して、ぼくはのっけから逸脱して「横丁と思い出」を信頼しているということでもあったろう。 

≪062≫  中沢自身は本書の最後で、こう書いていた。少し長くなるけれど引用しておこう。 

「対称性人類学」

≪063≫  神話的思考からはじまった『カイエ・ソバージュ』の探求をとおして、あらゆる思考を生み出す「マトリックス」というものが、私たちの前に浮上してくることになりました。それは姿形のあるものではなく、ひとつの物質的な機構ですらないのですが、私たちの持つ思考する能力を支えている「見えない大地」のような働きをしているものとして、私たちが生み出そうとしてきた対称性人類学の基礎にすえられたのでした。 

≪064≫  そのマトリックスは、認知考古学がホモサピエンスの「心」の基体として見出そうとしている「流動的知性」の働きとまったく同じつくりをしているものですが、同時にフロイトの探求以来精神分析学が「無意識」と名づけて深い研究をおこなってきたものと、多くの点で共通した作動を見せるのです。その作動の特徴を「対称性」としてとらえることができます。 

≪065≫  そうすると、神話的思考というものを、他の科学的思考などと隔てている最大の特徴である「分類上ちがうものの間に深い共通性のあることを見出す能力」こそ、この対称性にしたがって作動する論理、すなわち対称性論理にほかならないことが、はっきりととらえられるようになりました。 

「対称性人類学」

≪066≫  一言、註釈をしておくと、この文章で、「分類上ちがうものの間に深い共通性のあることを見出す能力」という箇所は、まったくぼくが考えていることと同じである。ぼくはそれを「編集能力」と言ってきた。 

≪067≫  けれども、この能力が、さて無意識をあらわしていたり、無意識との逢着をめざしているかというと、ぼくのほうが自信をなくしてしまうのだ。おそらくは、ぼくのような思考方法は「いつか」のための、「どこか」のための、少数のための方法なのである。 

≪068≫  追記。中沢新一は世界の「変容」にも、自身の視軸の「変容」にも鋭い機転をもっている人物だ。そのことは9・11をめぐった『緑の資本論』(集英社)でもよく伝わってきた。今後も問題作や話題作を次々に提供してくれることは、まちがいがない。 

≪069≫  それゆえ望むらくは、そこに本格的な物語制作が介入してくることである。思想の時代は、つまらない。中沢の小説や戯曲の作品をこそ、見てみたい、読んでみたい、奨めてみたい。 

『ニワトリとタマゴ』①

≪01≫  松岡正剛事務所をつくったのは1982年が暮れるころのことだった。つくったというより、工作舎を残るスタッフに預けたままに去ったとき、高橋秀元・木村久美子・澁谷恭子・吉川正之だけを連行してとりあえず自宅を探し、その一室に事務所を落ち着かせたというだけのスタートだ。 

≪02≫  猫も多かったので麻布十番近くの庭付きマンションの一階を定め、ぼくだけでは賃料がままならないので木村・澁谷・吉川がここに同居した。まりの・るうにいを含めて5人、それに7匹の猫。しばらくしてオモチャとリボンという犬が加わったから、これは松岡正剛事務所をつくったというよりもローレンツ的な雑居を始めたというのが当たっている。 

≪03≫  ここで、きわめてまずいことがおこった。5人が四六時中にわたって一緒なので、さてどういう日々を送るかということになって、あまりに放縦ではよくなかろうと朝食や夕食をちゃんとつくって食べることにしたのだが、これがけっこう規則正しくて、全員がたちまち太ってきたのだ。われわれは互いに盗み見をしながら、うろたえた。人生の大失策のように思えた。 

≪04≫  それなら全員がストレッチをするとか食事メニューを変えるとか、せめて早朝ジョギングをするというのが改善のコースだろうが、われわれはたんに自分たちが豚のような生活をしているという猛反省に入ってしまった。そして誰が言い出したのか、なんと「豚から人へ」という強引な転換をはかることになったのだ。 

『ニワトリとタマゴ』②

≪05≫  豚から人になるためには、何をするか。たいしたアイディアが出なかったのだろうとおもう。そこで人になるための本を共同で読み合わせしようということになった。なぜかプログラムはすぐ決まった。生物学をやろうというのだ。 

≪06≫  こんなことで体重が減るはずもないのに、なにかの思い込み(思い違い)でわれわれはこのプログラムが正しいと錯覚したようで、さっそく各自が1冊ずつ本を選んでその報告をすることになったのである。ローレンツの『攻撃』(みすず書房)、デズモンド・モリスの『裸のサル』(角川文庫)などが候補になったが、このときぼくが推したのがアントワーヌ・ダンシャンの『ニワトリとタマゴ』だった。ニワトリか、タマゴか。この、古来言い習わされてきた大論争を遺伝科学をもって理解してみようという思いからだったのだが、いま反省してみると、こういう問題にとりくんだからには大好きなタマゴ料理をいくら食べても大丈夫だろうという、たいへんな勘違いをしたようだ。 

≪07≫  それはそれ、本書はなかなかおもしろかった。著者がもともと純粋数学者で、それから分子遺伝学に入ったというところも悪くなかった。そのころはパリのパストゥール研究所の室長だったはずである。ここは以前にぼくも訪問したところだった。 

『ニワトリとタマゴ』③

≪08≫  第1章が「ニワトリからタマゴへ」である。第4章で「タマゴからニワトリへ」になる。この構成が、なかなかうまい。 

≪09≫  話の流れは、自己再生的な核酸と自己言及的なコドンを主人公に、モノーやジャコブの研究成果を横断しながら、どうやらメッセンジャーRNAがタマゴなのではないかというふうに進む。この、自己再生する核酸と自己言及するコドンの対比は、太りつつあったメンバーが真剣に受けとめるには恰好の話題になった。 

≪010≫  途中、そもそも遺伝暗号がどのようなもので、それによってどんな機能が成立したのかという、はなはだ分子遺伝的なメカニズムの説明と、にもかかわらずそこにはメカニズムだけでは解けないオーガニズムが関与しているようだというような話が、かなりじっくり続く。われわれも太ったのはメカニズムによるのか、オーガニズムによるのか、ついつい考えこんだ。 

『ニワトリとタマゴ』④

≪011≫  後半、今度は情報コードというタマゴから、なぜニワトリのような、どでかくて、死があって、しかも「自己」をもった情報成体が仕上がるのかという話になる。われわれもどでかいニワトリの気持ちになって、この問題を考えた。ダンシャンは疎水性のアミノ酸と極性のアミノ酸の相異、および外からやってきて細胞の中に棲みこんだミトコンドリアの介在に着目し、なかなかスリリングな議論を展開してみせていた。 

≪012≫  しかし、これらの検討で「ニワトリが先か、タマゴが先か」という議論の決着はおこらない。ダンシャンはこの結論をちょっと機知に富んだ方向に導くために、エピローグを用意する。それが「虹の蛇」という章になる。「虹の蛇」(Rainbow Serpent)というのは、西アフリカのベニンやナイジェリアあたりに伝わるフォン族の神話に出てくる、ウロボロスのような生物である。オーストラリアのアボリジニの神話にも似た虹蛇がいて、いくつもの名で呼ばれている。ウロボロスとちがうのは、自分で自分の尾っぽを食べているのではなくて、自分の尾っぽが別のものの口になっているような幻想生物だ。いわば虹の尻尾が蛇の口になり、蛇の尻尾が虹の口になるというものだ。 

≪013≫  ダンシャンは、実はニワトリとタマゴは同じものの原因と結果なのではなく、この虹蛇のように蛇と虹の両方にまたがるようなものなのだと言いたかったのである。つまり「堂々めぐり」というのは同じレベルのものの原因と結果がぐるぐるウロボロス状態になっているのだが、虹と蛇ではそこに超分断と超融合がおこっている。生物の発生をめぐる謎にも、そういう超分断と超融合があるのではないかというのである。 

『ニワトリとタマゴ』

≪014≫  結論は微妙だった。なかなか難しくもあった。何がニワトリとタマゴを分けるのかというと、ダンシャンによると、均一な情報混合物の対称性が破れるときに最初のニワトリとタマゴの区別がおこり、ついでそれによって生じた遺伝コードがその生じた非対称性を生かして個体構成のコピーという対称性を再生産するときに、ニワトリとタマゴが連続性をもつというのである。 

≪015≫  ようするにニワトリとタマゴを分けるのは、先行する情報の対称性がどのように破れるか(超分断)、その破れたどうしの情報断片がどのように互いに関係性を発見するか(超融合)、このことにかかわっているというのだ。これは生物学というよりも、数学っぽい見方の提案だった。 

≪016≫  ぼくはちょっと満足して、得意になってニワトリ・タマゴ論争をブレイクスルーする視点の説明を同居人たちにしたのだが、うまく伝わったかどうか。ちょっと太り始めていた澁谷恭子と、だいぶん太り始めた高橋秀元や吉川正之はおおいに揺さぶられたようであったが、いっこうに太りそうもない木村久美子はどうも何が大事な話かがわからないふうだった。 

『ニワトリとタマゴ』

≪016≫  ぼくはちょっと満足して、得意になってニワトリ・タマゴ論争をブレイクスルーする視点の説明を同居人たちにしたのだが、うまく伝わったかどうか。ちょっと太り始めていた澁谷恭子と、だいぶん太り始めた高橋秀元や吉川正之はおおいに揺さぶられたようであったが、いっこうに太りそうもない木村久美子はどうも何が大事な話かがわからないふうだった。 

≪017≫  われわれは、やはり研究の対象が生理的すぎたことを反省し、問題は気持ちにあるんだからということで、次は勇躍、「脳」の学習に入ったものである。しかし、たとえどのように気持ちを持ち替えても、太ったことを本の共読で解消しようというのは、ムリがあった。もっと長い目で変化を見つめるべきだという結論に達した。 

≪018≫  こうして松岡正剛事務所の最初の巨大プロジェクト、NTT出版の最初の記念的刊行物『情報の歴史』の共同作業が始まったのである。準備に1年半をかけたものになった。その終盤の作業に野田努や太田香保が加わった。この巨大なタマゴからやがて編集工学研究所というニワトリが生まれたことは、諸君が先刻、ご承知のことである。 

「過程と実在」

≪01≫  ネクサス(nexus)というのは結合体や系列体のことをいう。ヘンリー・ミラーが英語で同名の小説を書いた。パッセージ(passage)とは推移や通過のことである。ウォルター・ベンヤミンはフランス語で同名(=パッサージュ)の記録を書いた。ぼくもそのことを第649夜と第908夜に書いておいた。 

≪02≫  現代哲学の思潮に不案内な向きには、また、お堅い現代哲学を講義している連中には、さぞかし意外なことだろうが、ホワイトヘッドの有機体哲学には、このネクサスとパッセージが交差しながら脈動している。 

≪03≫  ネクサスとパッセージは見えたり見えなかったりしながら多様にくみあわさって、ホワイトヘッドの宇宙論と世界観の縫い目になったのだ。 

「過程と実在」 ②

≪04≫  よくあることだし、べつだん責められることでもないけれど、ホワイトヘッドはやたらに難解に読まれるか、まったく知られないままか、そのどちらかばかりの不当な扱いをうけてきた。これは両方ともおかしいし、もったいない。 

≪05≫  道元の宇宙とかカントの宇宙とかホーキングの宇宙という言い方があるように、ホワイトヘッドの宇宙があると見たほうが、いい。その宇宙はコスモロジカル・コスモスで、すぐれて連結的(connected)で、多元的である。 

≪06≫  コスモロジーだから、そこには宇宙や世界の要素になる要素の候補が出てくる。ホワイトヘッドのばあいは、これを「アクチュアル・エンティティ」(actual entities=現実的実質・現実的存在)と名付けている。 

≪07≫  どういうものかはのちにも説明するが、たとえば、一羽の鳥、神経細胞、子供がいだく母親という観念、東京神田小宮山書店、エネルギー量子、自我、ギリシアの歴史、地球の表面、衝突する銀河系、夕方の虹、タルコフスキーの映像、森進一の演歌、松岡正剛の恋人などがふくまれる。 これらは、このコスモロジーが通過するカメラの目には、一種の「経験のパルス」として映る。またコスモスからすれば、それは「侵入」(ingression)として映る。 

≪08≫  これらは、このコスモロジーが通過するカメラの目には、一種の「経験のパルス」として映る。またコスモスからすれば、それは「侵入」(ingression)として映る。 

≪09≫  いまあげたアクチュアル・エンティティを、お好みならば数値や記号に絞ることもできるし、メンデレーフが果敢にそうしたように、元素周期律表にすることもできる。第311夜にあげた『理科年表』もアクチュアル・エンティティの可愛らしい表示例なのである。 

「過程と実在」 ③

≪010≫  哲学というものは、一言でいえば計画である。アリストテレス哲学(291夜)もレーニン哲学(104夜)も、計画を練り、計画を実行に移そうとした。 

≪011≫  そのうちの数理科学を背景にした哲学の計画には、ラッセルやカルナップのような論理的な計画もあれば、ライヘンバッハやトマス・クーンのような、思索の歴史を再構成するような計画もある。多くの哲学書とは、その計画を手帳のスケジュールに書きこむかわりに、使い古された哲学用語で繰り返しの多い言明を、少しずつずらしながら連ねていくことをいう。 

≪012≫  しかし、なかには目が飛び出すほど斬新で、目が眩むほど大胆な計画もある。 

≪013≫  ライプニッツには普遍計画があって、それにもとづいた普遍記号学の構想がその後の数理哲学の体系や特色を次々に産んでいった。ライプニッツは自分で計画を実行に移すより、歴史がその計画を実行することがわかっていたようだ。 

≪014≫  ホワイトヘッドの計画は、最初は記号論理の用語とインクで書かれた計画だったが(それがラッセルとの共著の『プリンキピア・マテマティカ』にあたる)、その後はホワイトヘッドが想定したすぐれて有機的(organic)なコスモスに包まれた計画にした。 

≪015≫  人間がそのコスモスに包まれてプロセス経験するだろうことを、ホワイトヘッド独自の用語とオーガニックなインクをつかって書いた計画書である。 その計画書はいくつもあったけれど、それらをマスタープランに仕立てたのが『過程と実在』なのである。  

≪016≫  その計画書はいくつもあったけれど、それらをマスタープランに仕立てたのが『過程と実在』なのである。 

「過程と実在」

≪017≫  ホワイトヘッドは「ある」(being)と「なる」(becoming)のあいだを歩きつづけた哲人だった。「ある」(有)と「ない」(無)ではなくて、「ある」と「なる」。つねに「ある」から「なる」のほうに歩みつづけた。 

≪018≫  そして、ときどき、その「なる」がいつのまにかに「ある」になってしまったヨーロッパ近代社会の理論的な不幸を鋭く問うた。ときに科学哲学の眼で、ときに歴史哲学の眼で、ときに生命哲学の眼で。ホワイトヘッドはヨーロッパの近代社会と近代科学が「なる」の思想を喪失していったことを嘆くのである。 

≪019≫  そのようなホワイトヘッドの哲学は、もっぱら「有機体の哲学」とか、「プロセスの哲学」とよばれてきた。 有機体(organism)という言い方は、哲学の歴史のなかでほとんど言挙げされことがなかった言葉だが、『過程と実在』以降、ホワイトヘッドが想定したコスモスの特色を一言でいいあらわすときにつかう最重要概念に、格上げされた。 

≪020≫  有機体哲学は、宇宙や世界の出来事(event)がオーガニック・プロセスの糸で織られているということ、あるいはそのようにオーガニック・プロセスによって世界を見たほうがいいだろうということを、告げている。オーガニック・プロセスそのものが宇宙や世界の構造のふるまいにあたっているということである。 このことは、『過程と実在』の原題である “Process and Reality” にもよく表象されている。 

「過程と実在」

≪021≫  ホワイトヘッドのオーガニック・プロセスは、構造であって、かつ方法でもあった。「世界が方法を必要としているのではなく、方法が世界を必要としたのだ」。 おこがましくもぼくの言い方でいうのなら、「世界が編集されているのではなくて、編集することが世界と呼ばれるようになった」というふうになる。ここには、やはり、「ある」から「なる」への歩みが特色されている。  

≪022≫  しかし、このようなオーガニックな方法をもった哲学や思想が、近代以降の欧米社会に登場したことはない。 なぜなら、それまでの思想では、世界の形や現象の姿をオーガニックに見るというばあいは、ほとんど生命や生物のメタファーで眺めていたのだし、世界の形や現象の姿をプロセスで見るというばあいは、原因と結果のプロセスに実証の目を介入させることばかりが意図されてきたからだ。 しかも最近は、オーガニックといえば有機栽培やオーガニック食品をさすようになって、それが宇宙のアクチュアル・エンティティとかかわっていることも、ホワイトヘッド社製であることも、すっかり忘れられている。 

≪023≫  ホワイトヘッドはオーガニック・プロセスの素材と特徴によって世界と現象があらかた記述できると考えた。 その素材は、さっきも言ったように、アクチュアル・エンティティである。アクチュアル・エンティティは「ある」と「なる」のすべてのプロセスを通過している「経験のパルス」の一つずつをさしている。これをホワイトヘッドは好んで“point-flash” ともよんだ。「点-尖光」というふうに訳される。 

≪024≫  一方、世界と現象をあらわしている特徴は、ホワイトヘッドの考え方によれば、「個体性」と「相互依存性」と「成長」、およびその組み合わせによって記述ができるとみなされていた。個体的な特徴を見ること、それらがどのように相互依存しているかを見ること、そして、結局は何が成長しつつあるのかを見ること、これで大事な特徴がすべてわかるということだ。  

「過程と実在」

≪025≫  このような計画をもち、その計画を構造として記述できた哲人はいなかった。ライプニッツから飛んで、途中にガウスやヴィーコ(874夜)や、ときにはエミール・ゾラ(707夜)を挟んでもいいのだが、やはりその大きさからいうと、次がホワイトヘッドだった。 

≪026≫  そうなったにはむろん才能も、作業における緻密の発揮も、環境もあるのだが、ホワイトヘッドを稀有の哲人にしている理由がもうひとつあることを、ぼくは以前からおもいついていた。それはホワイトヘッドに“zest” (熱意)があったということだ。 

≪027≫  ホワイトヘッドの宇宙は “zest” でできていて、ホワイトヘッドの教育は “zest”のカリキュラムだったのである。 

≪028≫  さて、今夜はめずらしく英語(英単語)を多用しながら綴っている。そうしたいのではなく、ホワイトヘッドの文章には独特の概念がちりばめられていて、これをある程度のスピードで渉(わた)っていくには、ぼくには翻訳語だけではカバーしきれないからだ。 

≪029≫  たとえば、『過程と実在』を貫く概念のひとつに “concrescence” という言葉があるのだが、これには「合生」という翻訳があてられている。いい翻訳だとはおもうけれど、ホワイトヘッドが合生を語るにあたっては、しばしば「具体化」(concretion)をともなわせて、つかう。合生と具体化は日本語の綴りでは似ていないが、英語では“concrescence” と “concretion” は共鳴しあっている。 

≪030≫  こういうことがピンとくるには、少しは英語の綴りが見えていたほうがいいだろう。 

「過程と実在」

≪031≫  残念ながら日本では、ホワイトヘッドの有機体哲学はそんなに知られていない。ぼくはたまたま二つのコースで同時にホワイトヘッドをめざしたことがあったため、20代の後半をホワイトヘッド・ブギウギで送れた。 

≪032≫  ひとつは、アインシュタイン宇宙論と量子力学の解読者としてホワイトヘッドを読むことになったもので、ここでは“Concept of Nature” という原題をもつ『科学的認識の基礎』(理論社)から入った。とくに『科学と近代世界』と『観念の冒険』と『象徴作用』には没入した。 

≪033≫  そのころのぼくは、初期のホワイトヘッドがさかんに強調していた「延長的抽象化」(extensive abstruction)という方法に首ったけで、誰彼なしにそのカッコよさを吹聴していたものだ。それに感応したのが、いまは編集工学研究所の代表をしている澁谷恭子だった。彼女はある年のぼくの誕生日にホワイトヘッド・メッセージを贈ってくれた。 

≪034≫  もうひとつは、コンラッド・ウォディントンの発生学から入ってホワイトヘッドに抜けていったコースだった。そのときはウォディントンがホワイトヘッドの弟子筋だとは知らなくて、気がついたらホワイトヘッド・ループに入っていた。ぼくが思うには、このウォディトンこそがホワイトヘッド有機体哲学の最もラディカルな継承者なのである。 

≪035≫  ちなみに、ホワイトヘッドの弟子筋には多くのミニ哲人がいるけれど、フォン・ベルタランフィ(521夜)とバックミンスター・フラー(354夜)とグレゴリー・ベイトン(446夜)は、そのうちのとびきり巨きな継承者たちだった。 

「過程と実在」

≪036≫  それにしてもホワイトヘッドが日本でなじみが薄い理由は、わからない。日本語訳はけっこう早くからおこなわれていたのである。とくに先行者の市井三郎さんは啓蒙者も兼ねていた。 

≪037≫  なかで注目すべきは、マルティン・ブーバー(588夜)の研究者でもあった京大の山本誠作さんによる孤高の翻訳作業で、それこそ“zest”が翻訳を加速させたのではないかというほどの集中と継続だった。それをまた、京都の松籟社が支えつづけていた。松籟社は「ホワイトヘッド著作集」全14巻にも取り組んだ。 

≪038≫  が、如何せん、実売部数はなかなか伸びなかったろうとおもう。ぜひ入手していただきたい。 

≪039≫  というわけで、ここではぼくも、なんとかホワイトヘッド戦線を拡張しようとしているのである。ちなみにここに使う訳語はみすず書房版で平林康之さんが翻訳にあたった『過程と実在』に従った。 

「過程と実在」

≪040≫  ところで『過程と実在』は、刊行当初から「英語で書かれた哲学書のなかで最も難解な書物」といわれていた。 

≪041≫  抽象性がきわめて高いという意味だろうが、さて、はたして、そうなのか。 

≪042≫  ぼく自身はこういう言い方は大嫌いで、ふだんでさえ「君の話は抽象的でよくわからないよ」という会話を聞くと、このおっさんとは二度と会わないようにしようとおもうのだが、ホワイトヘッドのばあいは、こういうおっさんから抽象的だと言われているのではなくて、世界中の哲学研究者たちが本書の刊行当時、「これは稀にみる難解な書物だ」と音を上げたのだった。 

≪043≫  難解なのではない。あまりに重要なことばかりを書いてるだけなのだ。 

≪044≫  そうなのではあるが、アインシュタインの一般相対性理論の論文がやはり難解だとみなされ、当時、世界でこれがわかるのは3人くらい、勘違いをしたのを入れても5人くらいだろうと言われたように、それと同じで、これはホワイトヘッドの中身に入っていけなかった連中が喚(わめ)いたのだった。が、噂というものは怖い。これがホワイトヘッド戦線に響いてしまったのである。 

≪045≫  ともかくも今夜はそういう理由もあって、ホワイトヘッドの独特の概念の香りを味わってもらうために、あえて英語を交ぜているのだと思われたい。 

「過程と実在」

≪046≫  さて、ぼくのこれまでの理解では、ホワイトヘッドの思想の記述には、つねに独特の「包む概念」と「分ける概念」と「繋ぐ概念」とが使われている。それをホワイトヘッド・シソーラスのようにして、案内したい。 

≪047≫  世界や出来事や現象を大きく「包む概念」には、すでに紹介してきた「有機体」や「プロセス」や「ネクサス」がある。ホワイトヘッドの時代には「ネットワーク」という用語がほとんど使われていなかったけれど、これらの概念が示すところはすこぶる網目状であり、互いがどちらの原因とも結果ともなるようになっている。 

≪048≫  このような「包み」をあらわすイメージは、このほか、統一性(unity)、延長的連続体(extensive continuum)、客体的不滅性(objective immortality)、さらには存在論的原理(ontlogical principle)、自己超越体(superject)などもあって、記述にあたってはこれらが組み合わされる。 

≪049≫  とくに重要だとおもわれるのは、「抱握」(prehension)である。抱握はすこぶるホワイトヘッドらしい用語で、哲学史上ではデカルトの「思惟」やロックの「観念」を普遍化し中立化するために提案された。ホワイトヘッドとしてはライプニッツのモナド(単子)による世界把握のイメージを、当初はこめたかったようだ。 

≪050≫  しかしやがて抱握は、自然理解を二元分裂(bifurcation)させてしまう哲学や科学の見方に対する異議申し立てに使われるようになり、そのうち、何かの対象や出来事や現象を抱握するとは、そこに主語と述語を分断しないでそれらを包みこんで把握することだというふうに、ダイナミックに発展していった。 

≪051≫  『過程と実在』の第4部では、公共性と私立性のような問題も抱握によって分ける必要がなくなるだろうという“予告” もしていた。 これでおよその見当がつくように、これらの「包む概念」は、世界を包むとともに、それを感知している自分の意識や経験を包んでいる概念なのである。だから、これは宇宙の風呂敷なのであるが、その風呂敷はわれわれの知覚や経験の模様でつくられるのだ。 

「過程と実在」

≪052≫  「分ける概念」は、そんなに難しくはない。基本はやはり分割(division)である。 けれどもホワイトヘッドは二元分裂を本気で嫌ったのだから、何かを分けて見ようとするときは、それを幾つかに分けつつも、その分岐したものたちにくっついているゴム紐を切らないようにするという考え方を、執拗にさぐった。 ぼくが感心したのは、われわれが分割を怠惰にしてしまうのは、そもそも想像力に分断がおこっていることに気がつかないからで、その想像力の分岐発生の場面をよく観察すれば、その次に発揮され駆動される想像力には、不用な分断はおこらないというところだった。 

≪053≫  『過程と実在』第3部では、想像力には、次のような分断予兆がはたらいているのではないかという仮説がたてられている。 ①物的想起(physical recollectin) ②観念的想像(conceptual imagination) ③命題的想像(propositional imagination) ④保留された判断(suspended judgment) 

≪054≫  結局、「分ける」ことが自縄自縛にならないためには、それらが元の関係を保存していたり、新たなアームを出して関係を複合化しているようにすることなのである。これは三浦梅園(993夜)の「一、一即一」の条理学にこそ懸案されていたことだった。『過程と実在』第2章第2節には、意訳すれば「多は一になり、一によって支えられる」というメッセージがあったものである。  

≪055≫  分けるだけではないとすれば、そこで、「繋ぐ概念」が必要になる。ここには、すでに紹介した「合生」があるが、その根底にはあくまで “becoming” というイメージがある。 

≪056≫  コスモスというものは、本来は自律的に生成消滅をくりかえす自己超越体なのだから、そのどこかで人為的に橋をかけるとか、釣糸をたれるというようなことはしていない。 それにもかかわらず生命や生物体に自己修復性や自己加害性があることは、ホワイトヘッドにとっては注目すべきことだった。そこにはきっと、自動ミシンのようなものが動いているにちがいない。 

≪057≫  こうして何かと何かを「繋ぐ」と見えたことは、そこに何らかの遷移や通過があったということなのだ。これが、有機体哲学がたえずトランジションやパッセージを重視する理由になっていく。つまりはオーガニック・プロセスの重視なのである。 

≪058≫  こうしてホワイトヘッドは、まずは「延長的抽象化」という方法をもちだし、ついでは述語的形態(predicative pattern)によって分かれ目を繋ぐという見方を提出したのちに、それならいっそ、「関係性」(relatedness)という見方を全面開花したほうが、それまでさんざん使われてきた「性質」「属性」「機能」といった見方よりずっと有効で、しかもそれらをも取りこぼさないということを主張するにいたったのだ。 ひるがえっていえば、そのような関係性を失わない現実的な出来事こそが、アクチュアル・エンティティであって、その内部には“point-frash” が秘められていたのだった。 

「過程と実在」

≪059≫  ホワイトヘッド自身が言っていることなのだが、哲学とは自己矯正であるという。 しかしながら、哲学の自己矯正が社会や学問の自己矯正になるようには、社会も学問もそこまで成長していないというのが、ホワイトヘッドの慚愧に耐えないことだった。そこで、有機体哲学を展開しつつあったちょうど中間期くらいのところにあたるのだが、ホワイトヘッドは当時の社会や学問にはびこっている思考法について、告発をした。 

≪060≫  この告発は『過程と実在』の序文に示されている。なかなか激越なものである。少し言葉を補って紹介する ①思弁することが重要だということが確信できないでいる。 ②言葉は命題を十全に表現できると思いすぎている。 ③能力をのばす心理学というものがあって、そのことを開発することには何 の哲学めいたものがひそむと考えすぎている。 ④主語-述語がしっかりしていれば、何かが表現できていると思いすぎている。 ⑤知覚の問題は知覚論的な言説によってしかアプローチできないと思いこんでいる。 ⑥空虚な現実態(vacuous actuality)というものがあると思いこんでいる。 ⑦カントがそうだったのだが、純粋に主観的な経験があれば、そこから客観的世界についての理論的な構成ができると思いこんでいる。 ⑧不条理や背理法をもちだせば、それで何かの本質的動向を暗示できると考えすぎている。 ⑨論理が不整合になっているにもかかわらず、それはその論理に先行する何の規定がまちがっていると反省できないようになっている。 

≪061≫  今日にもそのまま通用できるような、そこまで言っていいのかと心配したくなるような「不信」も指摘されているが、そのことを除けば、これは胸がすく告発だ。 ホワイトヘッドは過剰な哲学が大嫌いだった。「ちょうどそのぶんだけの思索」をすることをもって、それを組み合わせていく哲学がありうることを、生涯をかけて表示しつづけた。自分自身の初期の過剰な思索の傾向を自己矯正していくような哲学を創造すること(ぼくとしては自己編集といいたいが)、それもまたホワイトヘッド自身のための有機体哲学だったのである。 

≪062≫  とはいえ、こんなにも厳格な自己矯正ができる者がいるのだろうか。これはホワイトヘッドが哲学界と科学界に突き付けた談判状か離縁状のようなものだったのだ。なかなかマネはできそうもない。 

≪063≫  そこで、余計なことだとはおもうけれど、ぼくが上記の9項目をいいかえておくことにした。こういうものだ。 ① 考えるべきだ。「そりゃ、考えすぎだよ」という友人や知人の非難を撥ねのけること。 ② 言葉を使い尽くしたほうがいい。そうしたら囚われていた主題から解放される。 ③ 能力はスキルアップの鍛練からしか生まれない。心の問題はカンケーない。 ④ 「私は」という主語をはずして、述語に入ってしまうほうがいい。 ⑤ 感覚や知覚は、モノに託してみるべきだ。買い物で得たモノ以外で、大切にできるモノをつくりなさい。 ⑥ 想像しているだけのことが多すぎるので、そんなにも困惑しているのである。 ⑦ 何かについて純粋であると思うことは、そのことを純粋から遠のかせるばかりになる。 ⑧ 「逆説的に言うとねえ」という言い方をやめなさい。そういうときは何も主張がないだけなのだから。 ⑨ 理屈っぽくなったときは、その理屈を途中からではなく、最初から捨てること。 

「過程と実在」⑩

≪064≫  最後に、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの履歴を手短にガイドする。 ホワイトヘッドが生まれ育った環境は、ホワイトヘッドの思想と地続きだった。イングランドはケント州ラムズゲイトだが、すぐ近くにカンタベリーのアウグスティヌスがイングランド上陸の第一歩をしるした記念碑や、エドワード黒太子の墓碑があった。 祖父も父親も聖職者で、教育者である。父親もアルフレッド名なので、ホワイトヘッドにはいつもA.N(ノース)がつくのだが、その父親は校長であって、イギリス国教会の祭司を兼ねていた。幼いころのバートランド・ラッセルが地球は球体だということを拒否しているというので(よくまあ、そんな子がいたものだが)、困ったラッセル家がこの子の説得を頼んだのが、ホワイトヘッドの父親だったのである。 

≪065≫  ともかくも古色蒼然の風土と家柄をもって、ホワイトヘッドはイングランドの歴史の中から出身してきたのである。14歳から通った学校もなんと675年の創立で、アルフレッド大王も通っていたというのだから、これは吉備真備や空海や石上宅嗣が通っていた学校そのままのところに、漱石や鴎外が通っていたようなものだった。言い忘れたが、1861年の生まれだ。 

≪066≫  大学はケンブリッジのトリニティ・カレッジである。ここが曰くつきのゲイ・カルチャーの巣窟であったことは知る人ぞ知るであろうが、ホワイトヘッドはそこをなんとか凌ぎながら、純粋数学にも応用数学にも傾倒していった。 24歳でフェローになると、数理物理学と力学の講義を担当して、ハミルトン方程式とブール代数に夢中になった。それから8年をかけて結実したのが『普遍代数論』である。ライプニッツを意識した。 

≪067≫  ホワイトヘッドは最初はカントには甘かったが、そのころ流行のヘーゲルには辛かった。弁証法が科学だとも哲学だとも思えなかったのだ。 しかし、乗り越えるのならこの二人ともどもだと見たホワイトヘッドは、カントもヘーゲルも批判できるようにするためにも、しだいに数学的思考の統合の枠を広げていった。 そこへ直弟子のバートランド・ラッセルが共同研究をしたいと言ってきた。いくぶん面倒だったが、話をしてみるとほぼ問題意識が近い。そこで二人は共同で研究執筆をすることにした。これがものすごいものだった。7年間を不眠不休に近くコンをつめ、1910年の『プリンキピア・マテマティカ』の第1巻とした。 

≪068≫  この仕事は20世紀の数理哲学の原点となったものである。が、そのあとは、二人は別々の方向に目を転じていった。ラッセルは言語哲学に向かい、ホワイトヘッドは数理物理学の論理的な基礎づけとしての科学哲学に向かった。大学もケンブリッジからロンドン大学に移った。こうして綴られたのが、『自然認識の諸原理』『科学的認識の基礎』『相対性の原理』の、いわゆる科学哲学3部作である。ぼくはこの3冊を、自分でも驚くほど熟読したものだ。 これらに書いてあることを一言でいえば、空間や時間や物質やエネルギーを派生させる新しい基本概念として、出来事(事象)を提案して、そこにアクチュアル・エンティティの動向を記述できる拠点をおいたことである。 

「過程と実在」 ⑪

≪069≫  1924年、ホワイトヘッドはハーバード大学に招かれる。アメリカにはこんな数理哲学者はいなかったから、寄ってたかってホワイトヘッドの説明を“頂戴” する取り巻きがあっというまに、ふえていった。「ホワイトヘッド家の夕べ」とよばれた有名なサロンには、師に“お返し” をしない者も、しょっちゅう駆けつけた。 師のほうはそんなことはいっこうに平気で、むしろ雑談で放出した言葉の、奥にひそむ「未発の言葉」(概念)をさがしはじめていた。それが『過程と実在』と『観念の冒険』になる。 

≪070≫  なぜホワイトヘッドがこの時期に “難解な深化” をはたしたかというと、もともとホワイトヘッドには“significance” (意味付け)に熱中することころがあって、この時期は宇宙や自然の内部での相互作用の結節点と縫い目に意味付けをしようとしていたからだとおもわれる。 とくにその縫い目に意味を与えようとしたことが、ホワイトヘッドをめっぽう深くした。縫い目は役目をはたしたあとは、その上にアイロンをかけられて消えてもかまわなかったのに、事態に裂け目があるときはその接近をとりもつために捨て身のミシン活動をする。そのことに意味付けをしようとしたことが、ホワイトヘッドをニュータイプの哲人にしていったのである。 

≪071≫  その後のホワイトヘッドは、たとえばアメリカの参戦に断固反対したり、子供の教育に大きな関心をもち、教育の基本方針を計画したりするようになる。 この教育論がまたすばらしい。ここではその計画を伝えることを省いておくが、その中心に何が据えられているかというと、「本当に教育をしたいのなら、難しいことから先に教えるべきなのです」という卓見だった。 その理由をホワイトヘッドは知り抜いていた。人間というものは、たいてい「空想化」「精緻化」「普遍化」の3段階で何かを知ろうとし、何かを学ぼうとするのだから、その最初の「空想化」の段階こそ最も難解でいいということなのだ。すなわち、子供が一番の“prehension” (抱握)の持ち主だということなのだ。 

≪072≫  最後に、おまけをひとつ加えたい。 ホワイトヘッドが渾身をこめて提起した「抱握」という方法は、いったい何に近いものかというと、われわれがふだんからおなじみの、あの“feeling” だというのだ。フィーリングとは抱握のことだったのだ。 つねにネクサスとパッセージを走るオーガニックなフィーリングであろうとすること――。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学とは、このことだったのである。 

『ホワイトヘッドの哲学』①

≪01≫ ぼくの話を30年前に聞いて、ホワイトヘッド哲学に本格的にとりくんだ人がいた。 おおいに責任を感じるとともに、なんだか嬉しい。 今夜は、ホワイトヘッドをめぐるふりをして、世界の見方って、ときに、こんなふうにつながっていくという話を、ちょっとしてみたい。それは、世界もわれわれも、非連続の連続だということだ。 

『ホワイトヘッドの哲学』

≪02≫  本書の内容に入る前に、著者の中村昇さんについて書いておきたい。いまのところ個人的にはまったく面識がないのだが(近々出会いたいと思っているが)、中村さんのほうはぼくのことをよく知っているらしい。なぜそんなことがわかったかというと、本書の冒頭近くにぼくが登場する。 

≪03≫  「1978年だから、もう30年近く前になる」とあって、予備校の友人におもしろいところがあるから行かないかと誘われ、当時、ぼくがやっていた工作舎のスペースで開いていた無料の「遊学する土曜日」に中村さんがちょくちょくやってきていたというのだ。そこではぼくが、稲垣足穂(879夜)をちょっと涙を浮かべながら話したり、荒俣宏君(982夜)や吉野裕子さんと対談したり、量子力学や相対性理論について語ったり、吉田一穂(1053夜)の詩を読んだりしていたのだが、その「遊学する土曜日」に何度か通っているとき、中村さんはぼくが話すホワイトヘッド(995夜)の話に強烈な印象をもったのだという。 

≪04≫  中村さんは1957年の佐世保の生まれで、いまはレッキとした中央大学の哲学教授である。「遊学する土曜日」に来ていた当時は意気軒高な浪人だったらしい。受験中の浪人ではさすがにホワイトヘッドについては何も知らなかったようだけれど(というよりも当時の知識人でホワイトヘッドをちゃんと読んでいるのは、ご老体の市井三郎ほか日本全体で10人未満しかいなかっただろうと思う)、よほどぼくが熱心に話したとみえて、ホワイトヘッドをそうとう別格に扱っている松岡正剛の口吻から、何かピンとくるものを感得してくれたようなのだ。 

『ホワイトヘッドの哲学』

≪05≫  その後、中村さんはホワイトヘッドを含む現代哲学を、たとえばヴィトゲンシュタイン(833夜)やベルクソン(1212夜)などを専門的に研究するようになった。本書の前には『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』(春秋社)なども書いている。大学で哲学を研究する前は、土方巽(976夜)のところで暗黒舞踏のレッスンも受けていたらしい。 

≪06≫  なぜ暗黒舞踏などに関心をもったかということは、うすうす見当がつく。中村さんを「遊学する土曜日」に誘った予備校の友人は加藤博という青年で、のちにぼくが「遊塾」を開いたときに参画した青年でもあり、その彼がそのころは暗黒舞踏に親しんでいたということを聞いていたからだ。それにしても親友が暗黒舞踏しているからといってそこに顔を出すというのは、やはり中村さんも変わっている。きっといまなお、そういう風変わりな趣きをもつ哲人なのだろう。もっともそういう哲学研究者こそ、ぼくには信用できる。 

≪07≫  だいたいアカデミズムの畑では、暗黒舞踏に関心をもったり、『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』といった長ったらしいタイトルの本を書く研究者には、ふつうは眉をひそめる。ちなみに、タイトルがやたらに長い本は業界では書評欄にとりあげにくく(記事スペースが決まっているためです)、それだけでも損をしているのじゃないかと心配するのだが、たとえ長くともこういうスバリの表題をもった書物は、中身の見当がつかなくとも覗いておいたほうがいいとも言いたい。たとえば内村鑑三(250夜)の『余は如何にして基督教徒となりしか』だ。ぼくはこのタイトルで内村を読み始めたのである。 

≪08≫  こういう例もあるのだからタイトルはいくら長くたっていいのだが、そんなことはともかく(笑)、そういういささか風変わりな中村さんが、当時、ぼくが『遊学』に書いた30年ほど前のホワイトヘッドについての文章を、本書では次のように評してくれていた。「この書きだしは、いま読んでもうまい。ホワイトヘッドの哲学の特徴を、短い文章で射抜いている」。 

≪09≫  書きだしというのは、『遊学』(いまは中公文庫)のホワイトヘッド論の書きだしのことで、ぼくは次のように書いていた。 

『ホワイトヘッドの哲学』

≪010≫  いろいろなものがピッチング・マシーンで投げられたように次々にむこうから飛んでくる。われわれはこちらにいて、その飛んでくるものが何であるかを見ている。飛んでくるものがあまりに速くあまりに多ければ、そのいちいちを識別することが不可能となり、ただおおざっぱな差異を見るにとどまり、それらが比較的緩慢に飛んでくるばあいは、そのすべてに命名を与える余裕すら生まれる。  

≪011≫  われわれが「自然」に対してとっている立場はこのようなものだろうか。ポンポンと飛び出してくるリズムのみを「自然」と見る立場もあれば、そのひとつひとつのもつ様態や飛び方を見て、そこに「自然」を思う立場もある。いくつかのパターンやグループに分けて、これを「自然」と見る立場があってもおかしくはない。 

≪012≫  しかし、この比喩は完全にまちがっている。われわれ自身もその飛んで来ているものの一部であり、われわれは自身飛びつづけている状態のままに首をひねって周辺を眺めようとしている――このようになっているはずなのだ。つまり、われわれはピッチング・マシーンのこちら側でバットを構えているのではなく、一個のボールとしていまなお空中にあるままなのである。 

≪013≫  中村さんは、「その通り。ホワイトヘッドは、観察者も流動しつづけるものとして世界のなかに放りこむ」と書き、さらに「ホワイトヘッドの哲学の本質を、当時これだけ深くえぐるのは、並大抵の力量ではない。ほかの思想家や哲学者や芸術家についてもそうだが、松岡は、本質を見抜く独特の能力をもっている。これは、かなり驚くべき力だ」とも付け加えた。たいへんありがたい鑑定だ。 

≪014≫  というわけで、本書を以上のような誼みもあってのうえ、少々紹介しようと思うのだが、ところで、またまた寄り道になるのだけれど、本書を紹介したいのは、むろんぼくのホワイトヘッド説明よりずっと正確でタメになるものがあるからなのだが、もうひとつは、ぼくがこの「ピッチング・マシーンの比喩」をごく最近、あるところで30年ぶりに話したばかりだったということが手伝っていた。 

『ホワイトヘッドの哲学』

≪015≫  あるところというのは、イシス編集学校の「離」でオフ会「表沙汰」というものを催したとき、その30人ほどの離学衆たちとの宴がいよいよ暁方に及んだとき、ぼくはその場を締めるために立って、「ぼくたちはピッチング・マシーンのこちら側にいるのではなく、ピッチング・マシーンとそのボールとともに世界を飛んでいるのだ」とやったのだ。今年の5月17日の夜明けのことだった。   

≪016≫  みんな水を打ったようにシーンと聞いていてくれていたが、どんな気持ちで聞いていたのかはわからない。それがぼくのホワイトヘッド論の一部であったことは伏せたので、ただふわふわとした飛行感覚に乗っただけかもしれないし、午後1時からの「表沙汰」にみんなそうとう疲れ切っていただろうから、まさに“上の空”だったかもしれない。しかしあのときぼくは、この話をどうしてもしたくなったのだった。 

≪017≫  そういうときって、あるものだ。誰にも多少の経験があるだろうが、とくにぼくにはしばしば「嗚咽」や「間歇泉」のように“或る話”がビデオ再生するごとくに突如として噴出することがあって、それがいつどこでどのような場面に噴出してきたかということ自体が、何かの“解錠(リリース)”になる。 

≪018≫  つまり、どこで何をどのように言い放つかということが、おおげさにいうのなら、ぼくの存在学の深化の、契機あるいは再契機になるわけだ。“解錠”と言ったのは、そのことが昔のことゆえ錠を降ろしていたままになっていて、それが何かのきっかけに解錠され、リリースされてくるからだ。 

≪019≫  こういうときは、内容よりも、聞き手とともに自分がどんなふうに存在学的な再契機に出会えたかということのほうが重要だ。ヴァレリー(12夜)ならさしずめ「雷鳴の一撃」というところだが、それが5月17日の夜明けでは、ホワイトヘッドについて30年前に話した場面状況の急激な再現だったのである。

≪020≫  そしてそれは、きっと中村さんが本書『ホワイトヘッドの哲学』を書こうとしたときに蘇ってきた「松岡正剛との出会い」の再生噴出でもあったにちがいない。こういうこともあったので、そのうち機会がくれば、本書のことを紹介しなければと思っていたわけである。 

『ホワイトヘッドの哲学』

≪021≫  前置きが長くなった。 それでは、中村流のホワイトヘッド哲学の要点だけをざっと紹介する。ぼくのホワイトヘッド論の一端は995夜にも、『遊学』にも、書いたことなので、ここではくりかえさない。 

≪022≫  中村流ホワイトヘッド論は、木村敏の『時間と自己』とジル・ドゥルーズ(1082夜)の『襞』を補助線にして案内される。これはうまい案内の仕方だった。なぜならホワイトヘッドはその哲学の一部始終で、たえず「出来事」(event)を重視していて、木村敏もドゥルーズも世界や自己が「こと」や「もの」を組み合わせた出来事によって織り成されているとみなしているからだ。 

≪023≫  おおざっぱにいえば、ホワイトヘッドもそのように世界を見ていると思えばいいだろう。すべては関連しあっている「過程」(process)であって、その過程そのものが「実在」(reality)なのである。過程が実在なのだ。実在は過程なのである。したがって「出来事」はやがて『過程と実在』という大著のなかでは「アクチュアル・エンティティ」(actual entity 活動的存在)と呼称を変える。 

≪024≫  出来事とかアクチュアル・エンティティというのは、ホワイトヘッドが「こと」や「もの」を、とりわけ「こと」の本質を徹底的に絞りこんで仕上げた概念である。世界というものを見極めるための究極の相手のことだ。それゆえアクチュアル・エンティティには世界最小のプロセスも含まれている。いや、そのプロセスを見ているのは観察者であるわれわれなのだから、実はわれわれも過程的実在として“そこ”に“いる”わけだ。 

≪025≫  そのように世界を見極めること、またそのことを抽象化して唯一無二に仕上げてしまうという見方そのものを、ホワイトヘッドは「抱握」(prehension)というふうに名付けた。 

≪026≫  われわれは知覚するとか、認識するということをいつもおこなっているけれど、とくに知覚や認識がないばあいでも、世界が漠然とであれこんなふうになっているのだろうと思うこともおこっているわけで、そのように世界をどこかで感知していることが、そもそも「抱握」の大前提なのである。ということは、どんな出来事も世界も、実は「抱握の関係のありかた」だというふうにもなる。 

『ホワイトヘッドの哲学』

≪027≫  今日、世界をどのように見るかということは、すなわちどのように抱握するかということは、社会観においてはかなりめちゃくちゃになっている。 

≪028≫  アメリカが扇動してイギリスがこれに追随した金融ゲームによって、この20年ほどで多くの社会的価値観の規範がずたずたになり、とくにビジネス社会に携わっている者の思考力と行動力は、すっかり一様になってしまった。頼るのはコンプライアンスばかりという有様だ。 

≪029≫  しかし、そういう社会観を含んでのことであるが、世界の本質というものは、もともと「非連続の連続」なのである。これはもとをただせば「場」の本質からきていることで、科学観でいうのなら、ファラデー(859夜)やマックスウェルが「電磁場」を“発見”してからこっち、ずうっとそうなっている。電場がプラスになったり、マイナスになったり、磁場が揃ったり、揃わなかったりするという、この「場」のほうに、世界のポテンシャル(つまり可能性)というものがある。 

≪030≫  電磁場だけでなく、われわれがすっぽり包まれている重力場まで考えてみれば、このことはすぐわかる。世界はその「場」において、もとから出たり入ったりなのである。 

≪031≫  ホワイトヘッドもこのような世界の見方(抱握の仕方)を一貫して採ってきた哲人で、「場」のことを「延長連続体」などと言うこともあるが、世界の流動的現象のいっさいが、この「場」のほうから出来(しゅったい)するというふうに見てきたのだった。物質も生命もわれわれも経済も、この「場」のほうに本来を出所させ、その動向を陥入させている。 

≪032≫  中村さんは、これをまとめてホワイトヘッドは「関係性の森」を考えたのだというふうに解説した。関係の究極がアクチュアル・エンティティであり、そのように関係を見るように、われわれは関係づけられている。まさに、その通りだろう。これをネクサス(網の目の世界)との関係と言ってもいいはずだ。 

≪033≫  ということは、ようするに、世界は「かかわり方」なのである。「場」とのかかわり方なのである。「関係性の森」なのだ。ネクサスなのだ。それが世界というものの本質であって、それ以外の世界は世界観には入らないということなのである。(仮にどんな宇宙がパラレルに併存しようとも)。 

『ホワイトヘッドの哲学』

≪034≫  というようなわけで、ホワイトヘッドはそのような「かかわり方」の一番小さな単位をアクチュアル・エンティティと呼んだわけである。そして、このアクチュアル・エンティティが「縁起する」というふうに考えた。 

≪035≫  縁起というのは仏教用語だから、ホワイトヘッドはそんなふうには言わずに、「経験の生起」とか、「アクチュアル・オケイジョン」(actual occasion)と言った。アクチュアル・オケイジョンは「活動的生起」などと訳す。まあ、用語はどうであれ、世界はそこに、そこから、いつでも、急速に、われわれのかかわり方を巻きこんで、生起しているわけである。 

≪036≫  こういう見方を総じて「ホワイトヘッドの有機体哲学」という。ぼくも何度も説明してきたが、中村さんはこれを「フィーリングの渦巻く海」についての哲学というふうに解説した。これも当たっている。ここでフィーリングとはまさに「感じ」(feel)ということで、それが何を意味するかは446夜のベイトソンのところで説明したので省略するが、一言でいえば、出来事とわれわれの「あいだ」は、必ずやフィーリングをともなっているということだ。 

≪037≫  しかし、たんなるフィーリングだとは思わないほうがいい。このフィーリングは世界の本来とのべつ交感しているフィーリングなのだ。つまりは、抱握である。だからこの“抱握フィーリング”には肯定的な感じもあれば、否定的な感じもある。この正と負の両方を含んでフィーリングなのである。ベイトソンはそれを「相補的分裂生成」と言ったけれど、ホワイトヘッドは「合生」(concrescence)と言った。 

『ホワイトヘッドの哲学』

≪038≫  ここから先、中村さんは主にベルクソン(1212夜)との比較を通して、またときどきヴィトゲンシュタイン(833夜)を引き合いにして、さらにホワイトヘッドの有機体哲学の核心に入っていくのだが、今夜はこのくらいにしておこう。ヴァスバンドウの『倶舎論』も出てくる。ぜひとも本書を手にとることを勧めたい。 

≪039≫  ついでに、中村さんがこのような考え方をもったことのメタレベルな思考については、『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』(春秋社)を読まれるといい。めったにお目にかかれない説明が随所に出てきて、きっと示唆をうけることだろう。実はその「あとがき」にも、ぼくが出てくる。 

≪040≫  ヴィトゲンシュタインという名前を知ったのも、松岡正剛の「遊学する土曜日」だったというのだ。これまた、なんとも懐かしくも、嬉しいことである。