店主独白 その3

投稿日: 2018/11/15 3:13:08

宮の裏に住み始めたころは独身だった。そのうちに妻が住むようになり、子供が産まれ、その子たちが野町小学校に通うようになった。犀星が通い、悪さをくりかえし、廊下に立たされたあの小学校である。校歌はもちろん犀星が詞を作った。「濡れし瓦を数え」とあるのは、罰を受けて流した涙で、隣家の瓦屋根がにじんで見えたということ。

犀星は幼くして実の親(小畠家)から、赤井家(室生家)に預けられ、相当ぐれたと言われている。飲んだくれの義母に激しく折檻されたとかいうエピソードは真実ではあろうが、犀星が詩人であり小説家であったことを勘案すれば、多少の誇張や脚色は否めない。後年、犀星が物書きとして成功を収めてからの帰郷では、犀川べりの宿へ足しげく通ってくる義母を描いた随筆を書いている。そこでは、おっかさんは本など読まない人だが、もし自分の書いたものを読んだら悲しむだろうと記している。いいお母さんだったのではありませんか。犀川べりのあんずの詩碑の前から雨宝院のほうをながめると、そんな感慨が胸をよぎる。

子供たちがお世話になった縁で、野町小学校に、犀星の著書20冊ほどを寄贈したことがある。それまで、小学校にはそのような史料がなかったのだ。そのとき、あらためて校舎の前の犀星碑を見たら、犀の字が間違っていて驚いた。犀の字の中の「牛」が「井」のように彫られていた。

ちなみに、小学校のできる前、藩政期には、玉泉寺という大きな寺院が建っていた。このお寺は、前田利長の正室、永姫こと玉泉院の菩提寺であった。永姫は織田信長の娘であり、利家、利長、利常三代の藩主は大変大切に扱った。利長は妻への愛なのか、信長への忠義なのかあるいはキリシタンの教えからなのか、側室を持たなかった。そのため嫡子が生まれず、藩主を譲ったのは異母兄弟の利常であった。金沢城内には利常によって玉泉丸がつくられて隠居所となったし、野田山の前田家墓地のいちばん高いところに玉泉院の墓があると言われる。玉泉寺は廃藩や廃仏のあおりを食って荒廃し、明治初期に野町尋常小学校が建った。

その小学校も去年泉小学校に統合された。その跡がどうなるのかは知らない。

高田実 記 つづく。

今回

うつのみや香林坊本店に出品していない本の写真なりともご紹介させてください。

2冊あるのは、小畠貞一の著作で、「初饗四十四」と「山海詩抄」。

貞一は犀星の甥、異母兄の子で、犀星を慕って詩人になった人。

4冊映っているのは、犀星の署名本や初版本。

「抒情小曲集 再版初刷」「庭をつくる人 」「魚眠洞発句集 桂井未翁あて署名本」「犀星発句集」です。

未翁は犀星の俳句仲間です。

近く、かのうや書店武蔵店のガラスケースに入れておきます。