北陸の歴史愛好家やクリスチャンは、高山右近のことを知っているように思う。
北国新聞にもしばしば大きく取りあげられる。
来年2015年2月3日が右近没後400年である。
400年前の1614年11月、右近は長崎からマニラに向かう船の中にいた。
小さな船に日本を追放される右近の家族などが押し込められていた。
潮流と季節風の関係で、難儀な船旅であった。
二か月かけてマニラに着いたのが12月も下旬。
疲労困憊してマニラ港に入港した右近一行を待っていたのは、
フィリピン総督以下の大歓迎であった。
間もなく右近は熱病に冒されて、重体となり、天に召された。 11/28
その後の、右近一行のことを伝える資料は少ない。
コラムになるように、右近の妻と娘が日本に帰っていたとすれば、
その理由はなんだろうか。フィリピンでは殉教の英雄の家族として、
何不自由ない暮らしが約束されていたはずである。
何か耐えがたい出来事があったのであろうか。
それとも日本に重大な忘れ物をしたのであろうか。
資料が少ないことは、小説にとっては良いことである。
どれだけ想像の翼を広げても、事実と違うと指摘されないのだから。 11/29
桜坂 コラム 2014.5.31
加賀藩政後期にキリシタンは居たのだろうか?
高山右近が金沢や藩内に住んでいたのは、一五八八年から一六一三年までの二十六年間と言われている。
その間に洗礼を受けた者は右近の家来や横山家の人々をはじめ数百名、藩主利長公までが心を寄せていたとなると、
右近が去った後も、加賀はキリシタンの王国のようであったのだろうか。
現実は、藩内のことは幕府に筒抜けであったので、キリシタン取締は他国同様に行われ、
一七世紀後半ごろには、表向きはキリシタンは存在しなくなったと思われる。
藩のキリシタンの子孫に注がれる目は厳しいものがあった。そのため、弾圧に向って殉教をいとわない、
正統なキリシタンは絶滅したであろう。
しかし、各家に伝わるキリシタン遺物(マリア観音のような)を大切にし、密かに拝む人々は居ても不思議ではない。
七尾の仏教寺院は信仰を捨てなかったお武家の隔離所のような場所と言われている。
そのような人も、宗門改めがあれば、ご絵を踏み、仏教徒であると届けたのであろう。
長崎浦上のキリシタンも、殉教に突き進むような人々ではないが、
二百年以上信徒の組織を保って、教えやしきたりを受け継いでいったことは、驚嘆に値する。
浦上の人々をキリシタンと呼ぶなら、個々の家の宝として、マリア観音を大切にするだけの人々は
キリシタンとは呼べないのではないだろうか。
もしそこに、漢訳の聖書がもたらされたら、というのが当誌連載の小説「白き峰を仰ぎて」の設定である。
この小説には、能登のことは描かれていない。更に加えるなら、もしそこに高山右近の一族が帰国していたら、
という『仮説』も興味深いものであった。
今年五月それは『史実』となった。キリシタン研究家の木越邦子さんたちが、
右近の妻子の帰国を裏付ける手紙を発見したのである。
以前から、能登には右近の墓と言われるものがあり、右近の子孫と言われる高山家が存在している。
木越さんの案内でそれらを訪ねたこともある。ただ、見つかったキリシタン遺物は後年のものが多く、
決定的な史料とは言い難いものもあった。
今回の発見によって、右近の妻子は何を目的に帰国し、どこに住み、何をなしたのか、がぜん興味が湧いてくる。
右近直伝のキリシタンの教えやしきたりが密かに伝授されていったのであろうか。横山家をはじめ、
右近とつながりの深かった家は、妻子とどのような関係を持ったのであろうか、
藩はどのように妻子の存在を幕府から隠したのであろうか。
木越さんならずとも、書いてみたいと思う人は多いのではないだろうか。
高岡十治郎