高山右近追放後の加賀藩キリシタンの動向について

右近没後400年の諸行事が終わり、その中で提起された課題について考察したいと思う。

県立美術館の高山 右近展は内容の充実ぶりや注がれた情熱とエネルギーの大きさに感銘を受けた。県立美術館における木越隆三氏の講演、カトリック金沢教会における村瀬博春 氏による講演を拝聴することができた。両氏の講演は、視点は違えども右近の人となりや当時のキリシタンを理解するうえで資するところ大であった。共に右近 以後のキリシタンにふれていた。

木越氏は、加賀藩内でキリシタンが急速に衰えていったこと、横山家の長知、康玄親子が弾圧の中心を担うようになって言ったことに触れ、その理由として、キリシタンが仏教の一派と見られていた、右近の働きが浅いものであった、との見解を示された。

この点については加賀藩金沢と肥前浦上を比較し、更にキリシタンと浄土真宗を比較すると事の本質が見えてくるように思う。加賀は右近来沢の前100年間、一揆(本願寺)領国であり、浄土真宗門徒は信仰のみならず度重なる戦によって強い絆を結んでいた。信長と本願寺のいわゆ る石山合戦が収束するときにも、北陸門徒は徹底抗戦を叫ぶ教如を支持した。門徒と前田家は敵同士であった。その前田家が庇護するキリシタンや右近は一般的 に領内の門徒に受け入れ難いものであったと思われる。

1500人といわれる藩内キリシタンの多くは、前田利長、高山、横山、宇喜田、内藤、長、津田といったキリシタン武将的当主の家来やそ の家族で構成されていた。信仰受容の形態は上から下であって、藩主や当主の勧めで受洗した者が多かったと思われる。当主が追放されたり、お家第一で棄教し たりすれば、家来も同調する下地があった。お家第一とは、家の存続を全ての上に置くということで、信仰はその下に位置付けられる。必然的に棄教につながる 考えである。

また宣教師追放と 教会堂の閉鎖の後、信徒の組織ができなかったことは、致命的であったと思われる。それは浄土真宗も同様であるが、信仰の構造が「救い主であるイエスを信じ る」ことによってのみ神との契約が成立し、救いがもたらされることにある。これは簡単なようで難しいことである。人間は弱い存在であり、常に信仰を強める 努力、神の助けを求める努力が続かなければ、信仰は冷えて衰え、ついにはまわりの人とかわらぬ存在になる。毎週のミサに与らなくなって教会から離れるとど ういうことになるか、は私たちの良く知っていることである。

右近追放の前に、金沢のトルレス宣教師が追放され、その後1回しか宣教師が来た記録がない。浦上では、幕末まで全村3000人の信徒が、自ら組織を作って信仰を伝えることができた。これは奇跡である。浦上では信徒のまわりの人もまた信徒であった。金沢では奇跡はおきなかった。

浄土真宗では蓮如 が講を組織して御文を与え、門徒は毎月講に集まって信心を確かめ合ってきた。日々御恩報謝の念仏を唱え、死ぬまで信心を保つ仕組みができていた。これと比 べても、私たちが毎週のミサに与り、聖書のみ言葉を聞き、信仰宣言を唱え、聖体を拝領することの意義が大きいことがわかる。

幕府は、キリシタンから司祭と教会を取りあげることによって、キリシタンを自然消滅させることができたはずである。加えて過酷な弾圧をくりかえし、根絶を図った。その結果殉教を望む信徒数万人が処刑されて日本からいなくなったのである。

村瀬氏は、天神信 仰と茶道にキリシタン信仰の継承を見た。私はそうであると言い辛いものを感じる。茶道とミサに共通点があるとしても、茶道はミサではない。茶道を究めれ ば、心が平安になっても、霊魂が救われるということはない。救いの根本はあくまで神の恩寵と人間のイエスに対する信仰であるからである。

右近追放後、妻ジュスタと娘ルチア、右近の孫ひとり(計3人)が加賀に戻り、横山康玄(やすはる・ルチアの夫)と再会したという宣教師の記録がある。また志賀町には右近の子孫である高山家がある。七尾市の本行寺にはキリシタン遺物が多数残されている。1620年に宣教師フェルナンデスが加賀藩領内に入り、3か月金沢に滞在したという記録もある。1630年の迫害では藩内から殉教者が出ている。藩の家老横山家の家譜からは初期の(キリシタン)記録が抹殺された強い痕跡があり、特にルチアの夫であった康玄についてそうである。

筑前福岡の黒田家でも同様に、キリシタンに関わる記録は全て抹殺された。そうであるなら、江戸時代を通して、加賀藩にキリシタン信仰が絶無であったとも言えない。

右近追放から270年、イエズス会に代わってパリ外国宣教会の宣教師が来県する時まで、石川県(加賀藩)におけるキリシタン(キリスト教)信仰は長い眠りに入った。

2015年2月6日