救い主を探す四人目の博士の旅のお話

クリスマス前にユダヤ歴史小説を書いた。

自分でプリントして、教会関係を中心に知人に配って読んでもらった。

題材のモチーフは『聖書』と『四人目の博士』(ヴァン・ダイク)である。

聖書物語をご存じの人にはパロディーとして楽しんでもらえたようである。

最初の原稿に厳しい意見がついて書きなおした。

小説修行中の課題は、登場人物の風貌を描写することである。

ちなみに日本ではクリスマスは終わって新年の準備であるが、

キリスト教国では、1月6日(三博士の訪問の日)までがクリスマスで、休暇がある。12/27

救い主を探す四人目の博士の旅のお話

今から2000年前、バビロニヤの都バビロン。

荷を積んだラクダを引いた従者ナヴィドと一人の男が町に入って来た。

従者は25才くらいの小柄で鼻の高い黒褐色の男、もう一人は30才くらいの色白で背の高い知的なユダヤ人のような顔立ちの男であった。しきりに町並みと地図を比べている。

通りには賑やかに人が行きかい、市場は売り買いする人々でごったがえしていた。

「この町がバビロンか、私の遠い祖先はこの町に囚われていたのだよ、ナヴィド、随分と遅れてしまった、まだ三博士たちは出発してはいないだろうか」

「ご主人さまを置いて、先に行ってしまわれることはないと思いますです」

二人は大通りから露地へと入り、何回か角を曲がってとある家の前に立った。

ドアの輪を鳴らすと中から一人の女が出てきた。背はあまり高くなく、やや太りぎみの、気位の高い顔立ちをした初老の女であった。

「突然お伺いしたことをお赦しください、ここは名高い天文博士バルタサール様のお宅でしょうか」

女は訪問者の姿を見るなり、驚いた様子で、

「あなた様はイスファハーン(ペルシャ)のシャーナズ様ではありませんか、どうしましょう、主人は三日前に、エルサレムに向って出立してしまいました、ガスパール様や メルチョル様がどうしても待てないと言うものですから」

シャーナズと従者は明らかに落胆した様子で、

「そうですか、仕方ありません、それではこれから三博士を追いかけて出立いたしましょう」と答えた。

「お疲れでしょうに、旅の疲れをいやし、もう一度支度を整えてから、出立されませんか、

今日はこの家でお休みください、何のもてなしもせずに出立させたと知れば、主人が怒ります」

「ありがたいお言葉に感謝します、実はもう食べるものも履くものもないありさまでして、

ところであなたは」

「私はバルタサールの妻、レイラと申します、さあこちらへ、サルム、サルム、お客さまのラクダを中庭へ、水と餌を用意して」

サルムと呼ばれた若い使用人は、ラクダを引いて裏手へと回っていった。

女中が用意した湯で汗を流し、着替えをして応接間に戻ると、食事が用意されていた。

「さあさあお座りになって、召し上がれ、今日はペルシャのめずらしい話が聞けるというので、息子夫婦や孫も同席させてくださいな」

「それでは、ごちそうになります、皆さまに神のご加護がありますように」

しばらく食べたり飲んだりしていて、シャーナズは思いついたように、

「ところで博士があの星を見つけられたのは、半年ほど前のことでしょうか」

「そうです、いつものように王宮の天文台での務めを終えて、明け方に帰ってきたときのことです、いつになく興奮しておりまして、『すごい、すごいことだ、 私の生きている間にこんなことが起きるとは』と言います、私が何のことと聞きますと、『救い主の誕生を示す星が現れた、場所はユダヤの国、その時は星と太 陽が重なる日』と言ったのです、もちろん私にはわからないことですが、他の博士たちも同じ考えで、王様を起して奏上したとか」

「そうでしたか、その話がイスファハーンの天文台に届いたのがその次の月、私も王様に奏上いたしましたところ、『その救い主とはどのような方なのか』とご 下問になりましたので私が占いました。そうしますと、『永遠の命』と答えが出るではありませんか、王様は大層驚かれて、それから救い主にご挨拶に行くとい うより、救い主をペルシャにお連れするよう命令が下り、イスファハーンを立ったのです、三人の博士はどのような贈り物を用意されたのでしょう」

「それは黄金、モツヤク、乳香、です、あなた様は?」

「私の父は織物の商人なのです、それで私は東方のシナ国の絹を持って参りました」

翌朝、シャーナズ一行は水食糧履物などの旅支度を整え、お礼に絹織物一巻を置いて、出立した。

一行はユーフラテス川に沿って上流へと進み、更に西へ西へと歩いて行った。ひと月経った時、前方にレバノンの高い山々が見えその麓の清い流れに着いた。流 れに沿って下ってゆくと、大きなガリラヤの湖のほとりに着いた。花園が広がる天国のようなところであった。シャーナズは感慨深くその景色を眺めて立ちつく していた。

「オアシスのように豊かでしかも広大だ、この黄色い花は何という名前だろう、丘一面に咲いている、ここからユダヤの国に入る、わたしの先祖の住んでいた国へ」

「ご主人さま、向うに大きな湖が広がっています、舟で魚を獲っているように見えます」

「傍までで行って尋ねてみよう」

舟着き場には何そうもの舟が魚を積んで並んでいて、それを女たちが籠に入れては、近くの建物に運んでいた。一人のひげ面の日に焼けた逞しい若者に、

「この魚は何という魚でしょう、おいしいのですか」

「そうとも干して食べるんだ、ティラピアという名前だ、あんたどこから来たんだ」

ラクダとシャーナズを見比べながら不思議そうに聞いた。

「私はシャーナズ、この男は従者のナヴィド、ペルシャからエルサレムに行く途中なんだ」

「へえ長い旅をしてきたんだな、僕はサウロ、毎日魚を獲っている、良かったら今夜は家に泊らないか、このあたりには宿屋はないぜ、いいでしょうお父さん」

「それはご親切に、ありがとうございます、それでは一晩泊めていただきます」

「お父さん、そういうことだから、僕はこの人たちを家に連れて行くよ」

「ああわかったよ、後はやっておくから」

「ただいま、アンデレ、おりこうに留守番していたかい、今日はお客様を連れて来たよ、母さんはどこ、それと足を洗う水を汲んできてくれないか」

「ご主人さま、良かったですね、エルサレムまでまだだいぶありますから」

その晩は、食卓に魚料理や子羊の肉、パンなどが並んで、賑やかになった、皆イスファハーンやバビロンの話を面白そうに聞いていた。

シャーナズにとってはユダヤの国で初めて出会ったユダヤ人なので、救い主のことを聞いてみた。

「みなさまは救い主が現れることを信じていますか」

「それは信じているとも、ユダヤ人であれば、ローマの支配から私達を解放してくれる方を待たない人はいないな」

「ダビデ王のような方だろうと思っています」

「そのお方は『永遠の命』を持っておられますか」

「それは知らないなあ」

シャーナズは、何かが違うと感じたがうまく話せなかった。

次の日、二人はナザレの村に入り井戸のそばまでやってきた。井戸には壺や甕を持った女が入れ替わり立ち替わり水汲みにやってきて、おしゃべりをしては帰っ てゆく。羊に水を飲ませに来る牧童もいる。皆ラクダを見て驚いてはそそくさと去っていく。そのそばの木陰に休んでパンを食べていると、農具を持った一人の 男が声をかけてきた。日に焼けていかにも朝から農作業をしてきたという中年の男であった。

「見かけない人だが、どこの国の人かね」

「ペルシャから旅をしてきました、シャーナズという占星術師です」

「何とも遠いところから来たものだ、それでラクダを連れているのか、それならこんなところで食べなくても家の中で食べてくださらんか、どうぞこちらへ、私はヨアキムと申します」

「それはご親切にありがとうございます」

その男は、二人を自分の家に誘い、

「アンナ、アンナ、お客様だ、起きているかい」

「さあさあ奥へどうぞ、アンナ、今日は具合が良さそうだね、ペルシャからの珍しいお客様だ、お客様にお茶をお出ししておくれ」

アンナと呼ばれた中年の女は顔色がすぐれず、暗い表情ながらどこか高貴な雰囲気を持っていた。

「ヨアキムさん、奥さまは身体の具合が悪いのですか」

ヨアキムは妻に、

「アンナや、村人には話せなくてもペルシャの人なら不都合はないだろう」

と断って、

「旅の人にこのような話をするのも何ですが、実は私達には、マリアという一人娘がいるのです、去年ヨセフといういささか年の離れた、しかしごく真面目な大 工と結婚の約束をしたのですが、どうしたことか、マリアが身ごもってしまったのです、事情を聞いても、天使のお告げがあったと言うばかりで、そう信じるし かありませんでした、しかし村人に知られたら、誰が信じてくれましょう、お腹が大きくなる前に、マリアは村を出ていことのところへ行き、その後はヨセフと いっしょにベツレヘムに旅立って行きました、住民登録のためだと言って、それから何の音信もなく、心配が募って、妻は臥せるここが多くなってしまったので すよ」

「それはさぞご心配でしょう、天使のお告げで懐妊、ではひとつ占ってみましょう、ナヴィド、カードを出してきておくれ」

シャーナズはテーブルの上に一枚づつ羊の革で作られたたカードを並べはじめ、深く頷いた。

「なるほど、このカードがマリアさん、マリアさんは嘘をついてはいません、こちらがヨセフさん、ヨセフさんはそのことを知っています、それに、私の探し求 めている方がマリアさんのお腹におられるのかも知れません、なぜならお二人の間のこのカードこそ最強のカードなのです、これから私たちが二人の後を追いま しょう、奥さまどうか安心してください、私を導いてくださいます神が讃えられますように」

「ありがとうございます、これで心安らかに知らせを待つことができます、ひとつお願いがあります、ここから南に行ったエルサレムとの間の村に、親戚のザカリアとエリザベツが住んでいます、あなたさまの占いのことを話していただけますか」

シャーナズと従者は更に旅を続け、ヨアキムに教えられた村にやってきた。

幼子を抱いた一人の老女が村から出てきた。

「あなたさまはどなたですか、この子ヨハネがあんまりうれしそうに動くものですから」

「これはこれは、あなたがエリザベツさん、ヨアキムさんから伺っていますよ、実はマリアさんのことを占いまして、私が探しています、救い主のお母さんらしいということがわかりましたので、そのことをお伝えに来たのです」

「わざわざおいでくださり、ありがとうございます、でも私はいとこマリアが救い主の母だということはもう知っています、だれも信じませんけれどね」

エリザベツはそう言って笑った。

「あなたさまは占いをなさるのですか、それでしたら、どうぞ我が家にお泊りになって、この子のことを占ってくださいな、私達夫婦はもう随分と年をとり、子供の産める身体ではなかったのです、それが主の眼にとまってこの子を授かり、名前まで天使からいただいたのです」

家に入ると、ザカリアが

「私達はこの子の大きくなった姿を見ることができません、許されるなら将来を占ってください」

とシャーナズに願った。

シャーナズがテーブルにカードを並べて行き、しばらくしてその手が止まり顔色が曇った。

「この赤子は、将来ユダヤの国の行く道を指しめす、偉大な指導者となるでしょう、主なる神はこの赤子をとても愛しておられます、それ以上のことは、お二人には明かされておりません」

二人は、シャーナズの顔色を見て、赤子の将来に不吉なことが待っていることがわかった。しかし、シャーナズの言葉を喜びを持って受け入れ、

「私達の命あるかぎり、この子を立派に育てましょう」

と言った。

シャーナズはザカリアとエリザベトにも救い主のことを聞いてみた。

「救い主とは、ダビデ王のような方なのでしょうか」

「いいえ、私達は神殿に仕えていたのでわかりますが、ユダヤの民が神に立ちかえるように導いてくださる預言者のような方だと思います」

「その方は『永遠の命』を持っておられるのですか」

「そこまではわかりませんが、持っておられて不思議はないですね」

尚もヨルダン川に沿って下ってゆくと、エルサレムへの街道に出たので、街道をエルサレムへと登って行った。

三博士には追いつけなかったものの、旅は順調で、ここまでふた月であった。

エルサレムの手前で、ベタニヤという村にさしかかった。小さな男の子と女の子が道端にいて、女の子は赤子を背負っている。シャーナズはあまりのかわいさに思わず声をかけた。

「えらいね、二人で子もりかな」

「おじさんは誰、これからどこに行くの」

「私はペルシャから来たシャーナズ、これからエルサレムで王様に会うのだよ」

「エルサレムの王様には会わない方がいいよ」

「ラザロ、どうしてそんなことを言うの、見知らぬ人に向って」

「マルタ、僕の胸から声がするんだ、おじさん、ベツレヘムに行きなよ」

シャーナズは驚いて子供たちの会話を聞いていたが、側に腰を下してカードを取り出した。

一枚づつ地面に並べて、

「そうだ、君の言うとおりだ、今日のエルサレムの方角には悪いことが待っている、ありがとう、神さまのご加護が三人にありますように」

「おじさんににもね、さようなら」

シャーナズ一行が着いたのは、日も暮れかけたころ、ベツレヘムは小さな町であった。

後ろの丘に家畜のための穴がくりぬいてある、一軒の宿屋に入った。

「こんばんは、旅の者ですが、一晩泊めてもらえますか」

「ああいいですよ、今は空いていますから、二人ですね、ラクダはお預かりしましょう、こちらで水を飲ませます」

「助かります、明日はエルサレムに登るので、ここで身支度を整えようと思います」

「あなたの言葉には異国の訛りがありますね、どこから来なさった」

「私達はペルシャの者です、ユダヤの国に救い主がお生まれになったという星の印を見て、訪ねてまいりました、エルサレムの王にお会いすればその方がどこにおられるかわかろうというものです」

「それじゃ、あんたもあの家族の仲間なのかい、いやね、一か月ほど前に、中年の男と若い妊婦が泊めてくれといってやって来たのさ、あの時は、住民登録の人 でごったがえしていたからねえ、悪いと思ったけれど馬と一緒に泊ってもらったのさ、そうしたら女が産気づいて、夜中に赤ん坊が生まれてさ、無事で良かった けれど、その後が大変さ」

「どうなさいました」

「朝までに大勢の羊飼いがやってきては、馬小屋の赤子を拝むのだよ、何日かするとバビロニヤから三人の偉い博士がやってきて贈り物をするのさ、どうやら偉 い赤子らしいというので、町中のうわさになってしまってね、私は親子を馬小屋に泊めただろう、それで大恥をかいてしまった、ところがその親子三人はある 日、ふっと消えるようにいなくなってしまったのさ、ロバも消えていて、宿賃だけは置いてあった、不思議なこともあるもんだ」

「おお、神の御導きだ、その赤子こそ私の探している救い主に違いない、三博士はここに来て行かれたのか、その三博士たちはどの方角に行かれたか、わかりませんか、また親子はどこへ」

「それはわかりませんよ、でもエルサレムでないことは確かです、何か悪いことがあると言っていましたから」

「私は三博士にも親子にも会っていない、そうするともっと南か西のほうに行ったに違いない、占ってみよう」

シャーナズが占うのを、宿屋の主人たちは興味深げに見ていた。

「南はシナイの砂漠だから、やはりエジプトなのか、砂に落ちた麦の粒を探すような仕事だ」

シャーナズたちは砂漠を越えてガザの港に着いた。目の前には初めて見る海が広がっていた。二人は言葉を失って見ていた。潮風の匂いと水平線が、ここは川で はないと告げていた。大きな帆船でエジプトの国に入り、アレキサンドリアに着いた。港のある大層大きな町で、大きな石作りの建物が並び、たくさんの人が歩 いている。

「この町はアレキサンドリアと言って、マケドニアのアレクサンダー大王が造った町なのだ、この町の図書館にはぜひ入ってみたいものだ」

通りに面した家でぼんやりと人の流れを眺めている老人に

「私はペルシャから旅をしてきた者で、ユダヤ人の親子を探しています、中年の大工の父親、若い母親、赤子という三人を見たことはないだろうか」

「ここには大勢の人が来ては通り過ぎていくからねえ、いたかもしれないし、いなかったかもしれない、誰でも買い物はするだろう、市場で聞くといい」

確かにそうだと思い、市場を探して、果物を売る女に同じ質問をしてみた。

「私には覚えがないね、そうだ、市場を見回る役人に聞いてみてはどうかしら、広場の詰め所にいると思うよ」

シャーナズはその詰め所を訪ねると、太った役人が話を聞いてくれた。

「それは最近のことかい、私は見なかった、どうだろう宿屋を回っては、どこにも泊らないということはないだろう、いくつかの宿屋を紹介するよ、あんたも泊るだろう」

「ありがとうございます、それでは教えていただいた宿屋をあたって見ます」

町中を三日歩いたが、それらしい親子を見たという人はいなかった。しかし一人のユダヤ人が、

「おまえさん、この町のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)へは行ってみたかね、ユダヤ人なら毎週土曜日にはシナゴーグに礼拝に行くだろうて」

「それはいいことを教えていただきました、明日からはシナゴーグを回りましょう」

それからさらに三日、五つ目のシナゴーグで、一人の年老いたラビが、

「わしはその親子を見たぞ、何でもベツレヘムからやってきて、大工仕事を探しているとか言っておった、それで、王宮を建設しているところがあるという話をしたのじゃ」

「おお、ようやく消息がわかりました、神に感謝します、それでその王宮はどこに」

「ここからはるか南、ナイルを遡っていったところじゃよ、なつめやしの生い茂る緑豊かな土地じゃ」

「ありがとうございます、王宮へは船で行くのでしょうか」

「船はたまに出ているが、そのラクダは乗せてはもらえまい」

「それでは川沿いに歩いて行きましょう、ごきげんよう」

二人はナイルの川岸に立っていた。

「何という大きな川だろう、あのユーフラテスよりも大きい、さあ救い主のおられるところまでもうすぐだ」

川沿いに歩いて四日目のこと、ラクダに乗った十人ばかりの集団が二人を取り囲んだ。

皆ひげ面で腕が太く、刀を持っている。頭領が、

「旅の者よ、そのラクダと荷物はいただく、わしらはこのあたりを縄張りとするルクソール団だ、船を使わずに旅をするとは勇気がある、おっと逆らうなよ、争うと傷がついてしまう」

「どうかお慈悲でございます、荷物がなくては旅を続けられません、それに絹は救い主への贈り物なのです」

「救い主が何のことかわ知らぬが、今日はついておるぞ、シナの絹が手に入るとは、旅の者、心配はいらぬ、お前たちは奴隷商人のところまで丁重に送りとどけるからな」

皆が一斉に笑いだし、二人を縛り上げてラクダにくくりつけた。

「何ということだ、もうすぐ目的の場所に着くというのに」

強盗たちはオアシスの中の一軒の家にはいり、シャーナズとナヴィドを奴隷商人に見せた。

痩せて鼻のとがった抜け目のない顔をしている男が、二人をながめまわした。

「どうだ、生きのいい男二人でいくらになる」

「まあ三十年は働けるだろうから言い値で買うよ、王宮の石切り場に何人も欲しがっているからな」

「王宮、私達を王宮に売るのか」

「王宮ではない、石切り場の親方にだ、三十年働けば自由の身になれる、何と慈悲深いことよ」

と言って卑屈な笑いを浮かべた。シャーナズは、ひょっとすると救い主の親子はそこにいるかもしれないと思って、密かに期待した。

「ご主人さま、とんでもないことになりました、私達はここで殺されるのでしょうか」

「心配するな、これは神の導きなのかもしれない」

強盗の頭領がシャーナズのかばんを放り投げた。

「金目のものはいただいた、後は好きにするが良い」

二人は足に鎖を付けられ、格子の部屋に入れられた。ところが食事は鶏肉や野菜の豪華なものであった。

「たくさん食べて、色つやをださなくてはな、長旅でやせ細っていたのでは高く売れない」

二日の後、二人は鉄格子のついた箱車に入れられ、ラクダに引かれて出立した。格子から見えるナイルの流れと緑色の麦畑はとても豊かで、普通の旅ならどんなに慰められるだろうと思った。

やがて前方に大きな工事現場が見えてきて、道はナイルから離れ、砂漠へ岩山へと進んでいった。岩山のふもとに石切り場があり、近くにたくさんの小屋が並ぶ町ができていた。草木一本もないところであった。

「降りろ、どうだ良いところだろう、ここでは親方の言うとおりにしなければ、食べるものも水も手にはいらない、歩いて人の住むところに行くこともできない、三十年働くことができれば生きて出られるのだ」

見た目は穏やかな初老の職人風の石切り場の親方と黒い巨漢の奴隷頭カシムがやってきて、二人を受け取った。

「なかなかに生きがいいではないか、また頼む、おいこっちだ、カシムこいつらに仕事を教えてやれ」

シャーナズは、

「王宮ならば親子に会えるかもしれないと思ったが、ここは女や赤子の住めるところではない」

とがっかりした。奴隷商人が、

「親方、こいつらのかばんだ、中にほしいものがなければ渡してやってくれ」

カシムは二人を石切り場に連れて行って、岩の割り方や動かし方を教え、腕を組んで見張りに立った。周りには、大勢の男たちが、岩に穴を開けたり、たがねを 打ち込んだりして働いていた。突然割れた大岩が倒れて土煙を上げた。二人は見よう見まねでハンマーをふるったが、きつい仕事であった。日が肌を刺し、すぐ に喉が渇いた。休憩になると、塩と水が与えられた。夕方、奴隷頭の合図で、皆が仕事を止め、一列になってあの小屋の町へと帰って行った。

一つの小屋から湯気が立ち上り、良い匂いがあたりに漂っていた。男たちは行列を作って夕食を受け取っては、自分の小屋に入っていった。良く見ると足に鉄 の輪をつけた者と付けない者とがいた。受け取った食べ物は、一碗の豆と肉を煮込んだものであった。思ったよりまともな食事に、ナヴィドが

「ご主人さま、おいしそうですね、それに食べきれないほど量があります」

と言った。

「そうだな、これだけ食べないと身体が持たないということだろう」

カシムに指示された小屋に入ると、そこには八人ほどの男たちが、黙々と食事をしていた。

足は鎖でつながれていた。家具らしきものはなく、寝るところだけが十人分あった。隅に水壺と便壺が置いてあった。皆が一斉に二人を見て、またすぐ食べはじめた。

親方がやってきて、

「どうだ、仕事はできたか、かばんを受け取れ、わしの欲しい物はいただいた、一つ言っておくが、逃げ出そうとは思わぬことだ、鎖ははずせないし、カシムを倒すことはできない、夜の砂漠を歩くと、サソリやクサリヘビにやられてしまう、三十年なんかあっという間だぜ」

カシムが二人の足輪に鎖をつなぎ、食事をした。うまいと思った。隣の黒褐色の男に、

「奴隷がこんなうまいものを食べているとは驚いた」

と声をかけると、

「知らないのか、この仕事は、王様のお慈悲なのだ、農民は飢饉になると飢え死にするかもしれないが、私たちは必ず食べることができる、隣の小屋には自由民もいるぞ」

「自由民は給料がもらえる、奴隷の給料は親方が受け取るんだ」

「30年働いて出て行った者がいるのでしょうか」

「三人にひとり、病気や事故に遭わなければ出ていける、しかしここを出ると食うのに困る」

食事を済ませ、横になっていると、灯明を持ったカシムがやってきて鎖をはずした。

「親方が呼んでいる」

カシムの後について親方の家に入ると、テーブルには見覚えのあるカードが並んでいた。

「休んでいるところを済まなかった、きれいなのでこれを頂いた、どうやって使うのか教えてくれないか」

「これは占いのカードです、私は占星術師なのです、決められた修行をしないとこのカードはそう簡単には使えません」

「それではひとつ占ってくれ、私の寿命はどれくらいだ」

「それを知ってどうなさいますか、人の寿命を知らせることは許されておりません、よろしければそのカードを返してください」

「いやお前がこのカードを手にしたら何か不思議な技を使うかもしれない、だが今の言葉で、お前は石切り場にはふさわしくないことがわかった、自分の買値を払うことができるなら自由にしよう」

「いえ、この異国で私に金を工面することはできません、神の思し召しと思い、定めの通りに働きます」

シャーナズは、腹を決めたつもりであったが、さほど遠くない王宮の建設現場に、救い主の家族がいるかもしれないと思うと、居ても立ってもいられないようになってきた。そのチャンスは半年ほどしてやってきた。カシムが、

「これからしばらく、切りだした石を、王宮のほうに運ぶ仕事になる」

「石を荷車に乗せるのですか」

とナヴィドが聞いた。カシムはうすら笑いを浮かべて、

「まあついてこい、こっちだ、大石を乗せられる荷車などない」

カシムは石切り場の端に二人を連れて行って、丸太の敷かれた道を指差した。

「この道が王宮まで続いている、石を引くのは奴隷の仕事だ、石を届けたら、丸太を担いで戻ってこい、明るいうちに戻らないとサソリが出るぞ」

十人の奴隷が一組となって、切りだした石を丸太の上に乗せ、綱で引く者と後ろから押す者に分かれた。道はゆるやかな下りであったが、容赦なく日差しが照りつけ、皆を疲れさせた。半日以上かかって一個の石を王宮の奴隷頭サナクトに渡し、丸太を担いで帰路についた。

「ナヴィド、神のお計らいだ、次に来たときに私は抜け出して、救い主を探そうと思う、

何とかカシムをごまかしてくれ」

「ご主人さま、無茶はなさいませんように、下手をすると殺されてしまいます」

「はじめは、王宮の奴隷に様子を聞くだけだ、すぐに皆に追いつく」

次の日、石を引いて王宮まで来ると、シャーナズは腹が痛いと言って倒れ込んだ。奴隷頭がシャーナズを小屋に運び込むよう指示を出し、一人の奴隷がシャーナズを小屋に寝かせた。

「ありがとう、私は石切り場のシャーナズという者だ、ちょっと聞きたいことがある、ここにユダヤ人の家族が来てはいないだろうか、赤子がいるはずだ」

その奴隷は、恐ろしいものを見る眼付で、シャーナズを見、

「奴隷同士で話すことは許されていない」

と言い置いて、逃げるように小屋を出て行った。シャーナズは呆然と奴隷を見送り、さも腹痛が収まったかのように装って小屋を出た。

「ご主人さま、何かわかりましたか」

「いや、ここの奴隷から聞き出すことはできそうにない、他の手を考えよう」

担いだ丸太がやけに重く感じられた。

シャーナズは何日か石を運び、王宮の様子を観察していて、水運びをしている女たちが目にとまった。石の受け渡し場所からはかなり遠い。

「あの女たちに聞けば、家族のことがわかるかもしれない」

シャーナズは前にしたように、腹痛を装って倒れ、小屋に運び込まれた。奴隷が小屋を出てゆくと、気づかれないようにそっと小屋を抜け出し、水場に向って走り出した。シャーナズが水場に着くと、女たちは顔をこわばらせて一斉に後ずさりした。

「私はあやしい者ではない、ちょっと聞きたいことがあるだけだ、ここにユダヤ人の親子が」

そこまで言って、突然頭に痛みを感じて気を失った。女たちの悲鳴が遠のいてゆく。

目が覚めると、そこは小屋の中らしく、奴隷頭とナヴィド、カシムが立っていた。頭がずきずきと痛み、手を当てると血がついた。

「世話をやかせやがって、サナクト迷惑をかけたな、こいつの始末は石切り場でするよ、内密にしてくれるか」

「ああ、好きにするが良い、次はその場で殺す」

「ナヴィド、こいつを担げ、帰るぞ」

石切り場の小屋に三日寝かされている間、食事は出なかった。カシムがやってきて、

「親方の許しが出た、お前を殺さない、だが石運びはさせない、死ぬまで石を切り出せ、親方が呼んでいるぞ」

頭に布を巻いたシャーナズが親方のいる小屋に入ると、あきれたように、

「お前は頭が良いのか悪いのか、よく殺されなかったものだ、よっぽど救い主のことが気になっているのだろう、占ってみろ」

テーブルにあのカードが置かれた。カードを並べていたシャーナズが

「北の方角、遠い」

とつぶやいた。肩が落ちてうつろな目が泳いだ。

「ほう、わかるものなのだな、当たっている、実はな王宮の知り合いに聞いてみた、その家族らしいユダヤ人が最近仕事を辞めて、ユダヤの国に帰って行ったそうだ、残念だったな」

「そのことを知っていて、私の占いを試したのですか」

「そうだ、私のために占いをしてくれるなら、仕事を軽くしてやってもいいぞ」

夕方、仕事を終えた奴隷たちが、食事を持って小屋に入ってきた。ナヴィドが

「ご主人さま、起きられるようになりましたか、これを半分お食べください」

と碗を差し出した。

「ナヴィド、もう救い主は王宮にはいない、私は神のなされることがわからなくなった、もう救い主に会わなくてもよいということか」

「ご主人さま、神さまにはお考えがおありなのです、次のお告げがあるまで、待ちましょう」

シャーナズは驚いてナヴィドを見た。

「お前は、このような時にも神を信頼できるというのか、私は恥ずかしい、私には主人の資格がないよ」

それから三十年が経った。

ある朝、代替わりした親方(先代の息子)が、白髪となり顔にしわの刻まれたシャーナズとナヴィドを自分の小屋に呼んだ。

「もう石切り場へ行くことはない、満期だ、良く生きてここを出られるまで無事だったものだ、お前たちは何度もここから逃げ出そうとした、その度に死にそうな目にあっても、助かったのは、身体が丈夫で、酒におぼれなかったせいだろう」

毎朝石切り場に行くことが当たり前になっていた二人は、突然の言葉に戸惑い、

「もう一度言ってくれ、満期だって?」

と聞き返した。その答えの前に、奴隷頭が大きな金具を持ってきて、二人の足輪を切断した。足が軽くなり、喜びが湧いてきた。

「やはり神のご加護があったから、生かされていたのだ」

親方が二人の前に二つの袋を置いた。じゃらんと音がする。

「これは帰りの旅費だ、お前たちが途中で死ねばわしのものになったが、残念なことをした」

と言って笑った。

「奴隷に旅費が出るのですか」

「知っているだろう、この仕事は王のお慈悲なのだ、旅費を渡さなければ墓を二つつくらなくてはならん、故郷に帰るのか、それともまだ救い主とやらを探すつもりか」

「はい、王様の命令です、私の命のある限り、それが故郷を離れた目的ですから」

「わたしもここを出る、もう王宮はほとんど完成している、死ぬ時は故郷のオアシスがいい、私の父にはかわいそうなことをした、ここで死んでしまった、おまえの故郷は確かペルシャだったな」

「私はやはり救い主の後を追います、もう他のことをしている時間はなさそうです」

「そのお方は今どこにいるのか、わかるのか、それになぜ異国の救い主にこだわるのだ、人生の半分を使ってまで」

「救い主は『永遠の命』を持った方だと思うからです、今度こそエルサレムに行きます、そこで何かがわかるはずですから」

「これを返そう、父が持っていたものだ、お前のものだったのだろう」

それは一くくりのカードであった。

二人が石切り場を出ると、相変わらず太陽が暑く輝いていた。しかし風はさわやかで、空の色がくっきりとして見えた。

「ご主人さま、こうして生きてここから出ることができるとは思いませんでした」

「私もだよナヴィド、神のご加護に感謝しよう、これからは寿命との競争だな、先を急ごう」

二人を載せた荷車は、砂漠を横切り、出来上がった王宮の側を通って、ナイルに出た。あふれるほどの水の匂いとナツメヤシの香が全身を包んだ。船着き場で荷車を帰し、船で川を下った。河口からアレキサンドリアを経て、海を渡り、ガザの港に戻ってきた。

途中、船から見えるもの全てがなつかしかった。強盗に捕まった街道やオアシスですら。

ガザに下り立った二人は、休憩するのも惜しいと、エルサレムに向って登っていった。

やがて丘の上に大きな町が見えてきた。町の入口には、刑場があり、柱が三本立っていた。

町の中は大勢の人々で賑わっていた。街角にローマ兵が二三人づつ立っていた。雷のような大きな音がしたので、そちらに向かうと、大きな神殿の前の広場は黒山の人だかりだった。一段高いところで誰かが叫んでいる。

「何があったのだろう、どうしてこんなに人が多いのだろう」

隣のユダヤ人がそれに答えてくれた。

「今日は五旬祭だよ、異国の人よ、それに何かとんでもないことが起こっている」

その好意に甘えて聞いてみた。

「あそこで叫んでいるのは誰でしょうか」

「ナザレのイエスの仲間さ、漁師のくせに頭目のペトロと呼ばれているガリラヤのサウロ、過越祭のときにそのイエスが木に掛けられて処刑されたのだ、私達 は、ユダヤの国を独立させてくれる救世主かと期待していたのだが、あっけなく死んでしまって、がっかりしたもんだよ、ところがあの連中ときたら、救い主イ エスが生きかえったと言い触らしはじめて、この騒ぎさ、イエスが殺されたというのに恐れを知らないやつらだ」

一人の若者が話しに割って入った。

「恐れを知らないのはお前だろう、イエスはベタニアでラザロを生きかえらせたではないか、自分が生きかえっても当然さ、私はペトロたちの話を信じるよ」

シャーナズは思わず目を見張った。

「救い主、漁師サウロ、ナザレ、あれはサウロなのか、神のご加護だ、ナヴィド行こう」

二人は人混みをかきわけ、必死で前に進んだ。見物人を抜けると、そこには様々な言葉で神を賛美する、数百人の群れがいた。その真ん中にいる先ほどまで声を張り上げていた男の前に出た。

「サウロさん、お久しぶりです、覚えていますか、ペルシャのシャーナズとナヴィドです」

「おお思いだしました、三十年ぶりではないですか、確かあなたは救い主に会いに行くと言って旅をしておられました、それでは、先生の生まれたときに貢物を 持ってこられたというのはあなたでしたか、今日はめでたい祝日です、ぜひ私達といっしょに過ごしてください、私達はこの人たちに洗礼を授けなくてはいけま せん、大変な忙しい日になりますよ」

「洗礼といいますのは何のことでしょう」

「そのお話はまた後でしましょう、よろしければ手伝ってください、お母さん、マリア、

この二人が手伝ってくれます、何かできそうなことを言いつけてください」

それだけ言い残して、ぺトロは、進み出て順番を待つ人ひとり一人に声をかけ、頭に水を注いだ。シャーナズの前に一人の女が立っていた。澄んだ瞳が印象的な知的な中年の女性であった。やさしく微笑むと、

「あなたは、どちらの国からきましたか、前にお会いしたでしょうか」

シャーナズの両の眼からとめどなく涙が流れて止まらなかった。話したいことは山のようにあったが、言葉にならなかった。

「ヨアキムさんとアンナさんにはお会いしております、私はあなたたちに会いたくてエジプトまで」

そのとき、周りから

「水が足りません」

「布はありますか」

という声が聞こえて来て、

「あらいけない、あなたはその水瓶をアンデレのところへ持って行って」

「あなたは、空の甕に水を汲んできて、広場の隅に湧水があります」

二人が洗礼の手伝いをしていると、

「全ての罪を洗い流し、復活した我が主イエスに結ばれて永遠の命に生きなさい」

という祈りの言葉が聞こえた。

シャーナズはそれこそ雷に打たれたように感じて、立ちつくした。

この日洗礼を受けた者は三千人とも言われた。

夕方、人気の少なくなった広場からペトロの仲間たちが下りてきて、一軒の家に入った。

家の主はニコデモといい、イエスの遺体を引き取って葬ってくれた人であった。

部屋には食事が用意されていて、男たちがテーブルのまわりに座った。ペトロが一同を代表して賛美と感謝の祈りを捧げた。それからパンを裂いて皆に手渡し、 葡萄酒を回して飲んだ。皆晴れやかな表情をしていて、今日の出来事を話しながら食べ始めた。しばらくしてペトロが立ちあがり、シャーナズとナヴィドを指し て、

「アンデレ、この人たちを覚えているかい、もう30年になる、先生の生まれたことを星のお告げで知って、ペルシャから旅をしてこられた東方の博士たちだ、お母さんは覚えておいでですか、ベトレヘムの馬小屋のことを」

座がどよめいた。アンデレは少し不思議そうな顔をして二人を見つめた。

「ペトロさん、それは少し違います、私たちは三人の博士ではなく、四人目なのです、三博士を追いかけて旅をしてきました、今日救い主のお母さまにお会いできて、うれしくて涙が止まりません」

台所の入口に立っていたマリアが、

「私もお会いできてうれしく思いますよ、あなたのことは父母から聞いていました、ペルシャ、ラクダ、カード、忘れません、私達はベツレヘムからエジプトに渡り、しばらくしてナザレに帰りましたが、あなたたちとは会いませんでしたね」

「私達二人もエジプトまで探しに行ったのですが、強盗に捕まり、王宮の石切り場に売り飛ばされて30年の間働いていたのです、全ては神のご計画なのでしょう」

「そのような辛い目に会っておられたのですか」

「ペトロさん、ぜひ、私達にもあの洗礼を授けてください、洗礼を受ければこの老いたる身、いつ死んでも構いません」

「わかりました、しかしあなたは異国の人、ユダヤ人ではありません、まず割礼を受け、ユダヤ教徒になってください、それからイエスさまの教えをお伝えしましょう、その後で洗礼を授けましょう」

「私の祖先はバビロンの囚われ人です、私はユダヤ系のペルシャ人なのです、すでにわが家で律法が忘れ去られて久しくなります」

「そうだったのですか、それでユダヤ人の顔立ちをしているのですね、皆異存はないですね」

ヤコブやヨハネやマタイたち使徒は皆深く頷いた。

シャナーズとナヴィドは割礼を受けてから一ケ月ほど使徒たちと共に暮らし、イエスの福音を教えてもらった。

「ぺトロさん、イエスさまを救い主として信じれば、永遠の命に入ることができることがわかりました、私達は洗礼を望みます」

「私が先生から学んだ教えは全てお伝えしました、これから洗礼と聖霊を授けますので、学んだことを東の国の人々に伝えなさい」

「はい、ペトロさん、命令のとおりにします」

ペトロが用意された水を、シャーナズとナヴィドの頭に注ぎ、祈りの言葉を唱えた。それに続けてペトロが二人の頭に手を置くと、炎のようなものが下ってき て、二人は聖霊に包まれた。これまで経験したことがないような、神への愛、人々への愛、そして勇気がわき上がるような気持ちになった。

出立の日、使徒たちはそれぞれの働きのために出かけていて、お母さんとよばれているイエスの母マリア、マグダラのマリアたちが二人を見送った。

「いろいろとお世話になりました、これからペルシャに帰ります、来た道をたどるつもりです、ベトレヘム、ベタニヤ、ナザレ、カフェルナウム(ガリラヤ湖)にはどうしても立ち寄りたいのです」

「お気をつけて旅をなさってください、もし私の親類に会ったら、マリアはエルサレムで元気にしていると伝えてください」

「それから、これは私にとってとても大切なものでしたが、もう不要になりました、これを異国の占星術師の思い出として受け取ってください」

シャーナズはマリアにカードを渡した。

「確かに、あなたが生まれ変わったことの証人になりましょう」

「救い主にはお会いできませんでしたが、皆さまにお会いできたのですから同じことです、

胸を張ってペルシャに戻れます」

二人はエルサレムを出発し、ベトレヘムで宿屋の馬小屋に泊めてもらった。ベタニヤではラザロ兄弟に再会できた。毎日、生きかえったラザロを見ようと、尋ねてくる人がいて、すっかり有名人になっていた。

ザカリアの家には誰も住んでおらず、ヨハネと両親の墓がひっそりと草に覆われていた。

ナザレにはイエスの従妹たちやマリアの親戚が住んでいて、伝言を伝えることができた。

ガリラヤ湖のほとりの船着き場では、相変わらず漁師たちが魚を水揚げしていた。湖の岸辺に沿って北のほうに歩いていくと、一人の髪の長い男が焚火をして魚を焼いていた。

「パンを持っていないかね、いっしょにお昼はどうだい」

「ええ持ってきています、これをどうぞ、おいしそうな魚ですね」

「それは良かった、さあ座って食べなさい」

そう言って、男は祈りとともにパンを裂いた。二人はあっと驚いて、ほほ笑んでいる男を見つめた。目鼻立ちがマリアに良く似ていると思った。話したいことが山ほどあったはずだが、何も言う必要はなかった。パンと魚を食べ終わると、その男が立ちあがって、感謝の祈りを捧げ、

「さあ、行きなさい、私の話したいことは全てペテロが話してくれた、これからは聖霊がいつもあなたたちと共におられる」

そう言うとかきけすように姿が見えなくなった。

二人は花の咲き乱れる丘に登り、もう一度ユダヤの国を振り返ってから、ペルシャをめざして歩いて行った。

シャーナズは王の喜び ナヴィドは良い知らせ という意味のイランの男性名です。

この物語はフィクションです。 2014.12.16 高田実 C