領土問題及び国家承認問題等に関する見解<上>

Post date: Jun 3, 2016 9:23:41 AM

新政未来の党の、領土問題及び国家承認問題等に関する見解を述べる。

基本方針

我が国は、法治国家であり、また、本党は法治主義政党である。

領土問題及び国家承認問題等に関しても、国際法に基づいて判断するのが、筋である。

無論、国際法については、慣習に依拠する部分も多くあり、また、条約についても、その効力の法的安定性は、必ずしも保証されているわけではない。従って、国際法の解釈については、ある程度の政治的意図による変遷な意思決定が行われることは、やむを得ないことではあるが、政治的理由で国際法に対して違反することが明白な行為を行っていると、秩序ある国際平和を求めて様々な国際法を制定してきた先人の努力が水泡に帰すこととなる。こうした認識から、本党は国際法を十分に尊重し、特に明文化された国際法については、これを厳守し擁護することを、外交関係の大原則として考える。

領土問題及び国家承認問題等についても、この立場を墨守する。

竹島

文献上、公文書において「竹島」の名が出てくるのは、確認される限りでは、中国の正史である『隋書』が最初である。ただし、この時代、「竹島」というのは、今でいう鬱陵島のことであり、今の竹島(当時の松島)は、鬱陵島に附随する一つの島嶼としてしか、見られていなかった。(ここまでの事実関係については、韓国側からも異議はない。)

『隋書』においては、竹島は、俀国の領土とされている。俀国は、いわゆる「九州王朝」のことであり、当時の鬱陵島は日本の一部であると、大隋帝国を含む国際社会に認知されていたことになる。

しかし、朝鮮国の人民が、不当に我が国の固有の領土であった竹島(今の鬱陵島)に侵略行為を行うようになった。江戸時代において、朝鮮国との良好な関係の樹立を求める徳川綱吉が「竹島」を朝鮮国に割譲したが、そこに松島(今の竹島)は含まれていなかった。事実、朝鮮国が松島において施政権を行使していた、という記録は、一切存在しない。ただし、竹島・松島を問わず、日朝双方の領民が料を行っていたことから、漁場を巡るトラブルは発生していたようであるが、それのそもそもの原因は、朝鮮国の漁民及び小中華主義者による鬱陵島侵略なのである。

明治維新後、我が国は国境画定事業の一環として、松島(後に、政府により竹島と改称)を大韓帝国が実効支配していないことを確認の上、松島が我が国の領土であることを確定させた。その直後に大韓帝国は我が国の保護国となっていたため、我が国に異議ができる状況ではなかった、と現在の大韓民国政府は主張しているが、一方で、当時の朝鮮国及び大韓帝国のどの文書を見ても、学校の教科書も含め、朝鮮の国境地帯に「鬱陵島」は存在しても「独島」(日本側の言う竹島)は、存在していない。

現在、韓国は我が国による竹島編入が、のちの韓国併合の前哨戦であったと考えているが、当時の日本及び韓国の間で竹島問題が議論されたことはなく、韓国併合と竹島編入が全く無関係であったことは、明白である。

その後、大韓帝国は大日本帝国領朝鮮国となったが、昭和23年(皇暦2608年、西暦1948年)8月13日に、我が国から大韓民国として分離・独立を果たした。(同年8月15日を韓国側は独立記念日であると主張しているが、それは誤りである。)ここにおいて、韓国は朝鮮半島全域を領土として主張し、我が国も鬱陵島を含む朝鮮半島全域の独立を『サンフランシスコ平和条約』で承認し、かつ、『日韓基本条約』において、韓国が朝鮮半島における唯一の合法政府であると承認した。こうした経緯から、鬱陵島を含む朝鮮半島全域が(歴史的経緯はともかく)国際法上は、大韓民国の領土であることは、明白である。

しかしながら、竹島については一時期はアメリカ合衆国の直接統治下に置かれたものの、最終的には、連合国の判断によって日本の領土に残留することが決定された。韓国は、最後まで竹島及び波浪島を自国の領土として認めるよう主張したが、波浪島という実在しない島とともに竹島の領有権を主張していたころからも、韓国側が確たる根拠なく、我が国の固有の領土である竹島を奪おうとしていたことは明白である。

そして、大韓民国は昭和27年(皇暦2612年、西暦1952年)1月18日に、竹島を不法占拠した。当時は、我が国が独立国家としての主権を回復する直前であり、韓国の行動は違法にして卑劣な侵略行為である。

こうした歴史的経緯より、竹島は一度も我が国以外の国が適法に取得したことのない、日本固有の領土であることは明白である。

色丹島及び歯舞諸島

色丹島及び歯舞諸島は、古くからアイヌ民族の独立国である渡島国の領土であった。江戸幕府による侵略行為、特に松平定信らの主導した民族浄化政策や、アイヌ民族同志の内紛等によって渡島国の領土主権の範囲は必ずしも明確ではなかったが、明治維新後も明治政府は色丹島及び歯舞諸島を千島国ではなく、根室国として扱っていた。(択捉島び国後島は、千島国に編入された。)

こうした経緯から、また、地理学的事実からも、色丹島及び歯舞諸島は千島列島(千島諸島、近年は「諸島」と呼称するのが一般的)には含まれない。色丹島及び歯舞諸島は、千島諸島ではなく、北海道の一部である。

しかるに、昭和20年(皇暦2605年、西暦1945年)にソヴィエト社会主義共和国連邦は、南樺太及び千島列島だけでなく、北海道の一部をも占拠しようと考えていた。ソ連軍は、同年8月15日の停戦成立後も我が国への攻撃を続け、さらに、我が国が降伏文書に調印した同年9月2日(現在のロシア側が主張する「第二次世界大戦終結記念日」)以降も、色丹島及び歯舞諸島への攻撃を続けたのである。

こうした経緯から、ソ連軍による色丹島及び歯舞諸島の占拠が明白に違法であることが分かる。『サンフランシスコ平和条約』における千島諸島には、当然、色丹島及び歯舞諸島は含まれない。従って、色丹島及び歯舞諸島は、現在も日本固有の領土である。

なお、ロシア側は8月15日ではなく、9月2日を終戦記念日としているが、その、9月2日を超えたのちに、ソ連軍が色丹島(9月3日)及び歯舞諸島(9月5日)を占拠したことは、忘れてはならない。

尖閣諸島

尖閣諸島は、古くから琉球王国及び高山国(台湾)の漁民が近辺で漁を行っていたが、その帰属は、当初は明白ではなかった。大明帝国は、倭寇征伐の過程で尖閣諸島の存在を把握はしていたが、尖閣諸島そのものの実効支配は行わなかった。

しかし、琉球側が尖閣諸島を琉球の領土ではない、と古くから認識していたことは、明らかである。例えば、『琉球使録』という古文書には、「釣魚嶼,黄毛嶼,赤嶼を過ぎ,…古米山を見る,乃ち琉球に属する者なり」と、記されている。久米島以東が琉球王国の領土であった、というのが、当時の琉球側の認識であった。

また、大明帝国の地理学者で探検家の鄭瞬功が書いた『日本一鑑』という書物には、「釣魚嶼(尖閣諸島の「魚釣島」の中国語名)は、小東(台湾)の小嶼なり。」と、記されている。当時の明は台湾を支配していないことから、尖閣諸島は中国でも琉球でもなく、台湾の一部であるとして認識されていたことになる。

その後、島嶼は満州の国であった後金国が大元帝国から禅譲を受けたとして――このあたりの詳しい経緯については、後述する――国号を「大清帝国」と改め、すでに農民一揆で弱体化していた明を滅ぼし、中国を支配した。台湾には多くの中国人が亡命したが、次第に台湾も清に支配されることとなる。(このあたりの経緯も後述)

その際、台湾の一部である尖閣諸島も、大清帝国の一部となった。琉球処分後の日本政府の内部でも、尖閣諸島が清に帰属するのではないか、との懸念は存在していた。しかし、一部の日本人が尖閣諸島の開拓で利益を上げようと主張しており、こうした動きは清の人間から警戒感を持たれていた。例えば、『上海申報』という新聞には「文匯報に朝鮮から伝えられた消息が掲載され、台湾北東部にある島々についてだが、近頃日本人がその島に日章旗を掲げており、占拠する傾向がある」という記事が掲載されていた。こうした清国内の世論を受けて、井上馨らは尖閣諸島の日本編入に慎重な構えを見せていたが、最終的に、日清戦争の最中に尖閣諸島をこっそりと一方的に日本の領土に編入することを閣議決定し、かつ、そのことを清に通告することすらしなかった。このような行為が、国際法上、無効であることは言うまでもない。

従って、尖閣諸島が日本固有の領土である、という日本政府の主張は、明らかなデマである。尖閣諸島は、歴史的に台湾の一部であり、琉球王国に帰属したことすら一度もなく、大清帝国に帰属していたこともあった。

以上のことから、尖閣諸島の領有権については、台湾問題の項目と一緒に述べることとする。

千島諸島

千島諸島は、南千島と中千島、北千島に分けられる。南千島にあたるのが、択捉島と国後島である。

我が国は、『日露和親条約』に基づき、南千島は大日本帝国の領土であり、中千島と北千島はロシア帝国の領土である、と認めた。しかし、樺太の帰属は未定であったことから、『樺太・千島交換条約』により、日本は樺太への領有権主張を放棄する代わりに、全千島諸島を平和的に譲り受けた。

大東亜戦争の際、ソヴィエト社会主義共和国連邦は、昭和20年(皇暦2605年、西暦1945年)8月15日の停戦後も千島諸島を攻撃し、日本が降伏文書に調印する9月2日までに全千島諸島を占拠した。『サンフランシスコ平和条約』では、全千島諸島を日本がソ連に割譲する方向で調整されていたが、ソ連側と米英側の対立が原因で、同条約の文面は次のようになった。

第二条

(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。

(e) 日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。

(f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

第二十五条

この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。

第2条では、当初の案通り、千島諸島を含む領土を日本が放棄することが明記されたが、第25条において「当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したこと」が連合国の条件とされ、さらに「ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない」とされた上に、「日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない」とされ、「第二十一条の規定」に該当しない限り、千島諸島がソ連に割譲されることも、そのために日本の利益(領土主権を含む)ががいされることもなくなったのである。

なお、千島諸島の問題が「第二十一条の規定」に該当する例外ではないことは、次の通り明白である。

第二十一条

この条約の第二十五条の規定にかかわらず、中国は、第十条及び第十四条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第二条、第四条、第九条及び第十二条の利益を受ける権利を有する。

ここでは、第2条(領土条項)の規定による利益を例外的に受け取れるのは朝鮮だけである、ということが明記されている。

したがって、千島諸島がロシアの一部である、または、日本の領土ではない、というのは、『サンフランシスコ平和条約』の第2条だけを抜き出した誤った解釈であって、同条約の第21条及び第25条を無視した「木を見て森を見ない」議論である。

念のために確認しておくと、広義の講和条約に含まれる『日ソ共同宣言』は、領土問題についての最終的な解決を与えるものではない。

よって、千島諸島は日本の領土である、と言える。

この立場は、決して本党だけが訴えている奇説などではなく、日本共産党や維新政党・新風も採用している立場であり、右から左まで多くの良識ある人間が支持しているのである。

南樺太

南樺太は、日露戦争後の『ポーツマス条約』の結果、日本の領土となった。従って、その編入の歴史的経緯は千島諸島とは異なる。

しかしながら、樺太は古来からアイヌ人や二ヴフ(ギリヤーク)人、オロチ人らによって「流鬼国」という国が建国されており、『東日流六郡誌大要』という古文書には、養老4年(皇暦1380年、西暦720年)から和人(日本民族)の漁師も訪れていたことが記されている。ロシア帝国の植民地主義によって、樺太も犠牲となったのであるが、当初は我が国はこの地をロシアとの雑居地としており、ロシアもその立場を認めていた経緯がある。

従って、南樺太も我が国が侵略戦争の結果として得たものではなく、日露戦争の結果、適法に奪還した領土であるといえる。

こちらについても、事情は千島諸島と同じで、『サンフランシスコ平和条約』に基づく日本の領土である。

同様の立場は、本党以外に維新政党・新風も主張しており、多くの民族派人士がこの立場を支持している。

台湾

台湾の領有権を初めて確立した国は、オランダである。寛永元年(皇暦2284年、西暦1624年)にオランダは当時、国際法上の「無主の地」だった台湾を植民地として一方的に編入した。寛文2年(皇暦2322年、西暦1662年)には、日系中国人の鄭成功が明の遺臣らとともに、「鄭氏政権」を樹立した。しかし、そのころすでに明の中央政府は滅んでおり、明の皇帝を名乗るものもいなかった。

従って、台湾が中国の領土であった、というのは誤りである。唯一、古代の中国の史書に台湾が掲載されていた例を挙げれば、『三国志』に呉の孫権が夷州で人間狩りを行うために軍を派遣した程度である。明の時代になると台湾は倭寇討伐の記録等に掲載されるが、実効支配には遠く及ばなかった。

「鄭氏政権」が滅ぼされた後は、清が台湾を植民地支配する。だが、清は中国の王朝ではない。

大清帝国は、満洲で建国された後金国が前身であるが、その後、「大元帝国から禅譲を受けた」と称して(後述)、国号を大清帝国と改めた。そのころの清は、満洲とモンゴルを支配したのみであり、まだ中国を支配していない。当時の中国では、まだ大明帝国が健在であった。

従って、清は台湾を中国の一部として支配したわけでは、ない。事実、台湾に多くの漢民族が住んでいたのは事実であるが、清は中国人による台湾への渡航を禁じる命令も下している。当時の台湾を支配していたのは、北京から派遣された官僚であり、漢民族(中国人)の官僚が派遣されることもあったが、彼らは台湾を「中華」ではなく「化外の地」であると認識していた。(なお、明治維新後、日本政府は、台湾が「化外の地」であるならば、清の領土ではないであろう、との理屈で台湾出兵を行ったが、最終的に台湾が清の一部であることを承認した。「中華」つまり中国ではない「化外の地」ではあるが、清の領土である、という立場は、清王朝が公式文書に満洲文字を併用したり、モンゴル人官僚を重用するなど、いわゆる「中国の王朝」とは異なる側面を持っていたことと関係している。)

日清戦争後、『下関条約』によって清は台湾を日本に割譲した。その後に建国された中華民国は、清の領土のすべてを引き継いでいると主張していたが、事実とは異なる。(後述)このことから、中国が台湾の領有権を主張する正当な根拠は存在しないのであるが、大東亜戦争の際、中華民国は台湾と琉球の割譲を求めていた。

しかし、『サンフランシスコ平和条約』では、日本が台湾を放棄することは記されたものの、中国は講和会議に招待されなかった。つまり、千島諸島や南樺太と同じ状態になったのである。

連合国としては、台湾がそのまま日本の領土になることは、看過できることではなかったが、第21条における例外規定において中国については第2条(領域)は含めず、代わりに、次の条文を挿入した。

第二十六条

日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。

この条文の意味するところは、『サンフランシスコ平和条約』では、確かに台湾における日本の利益は減損されないが、同条約第2条に定めるところと実質的に同じ条件で、中国とも講和条約を結ぶ義務が日本には存在する、というものである。ただし、そのタイムリミットは「三年以内」であり、日本政府は三年が経過すると、そのような内容の講和条約を結ぶ義務はなく、同条約第25条の規定により台湾が日本の領土であることが確定する。

実際には、日本は『サンフランシスコ平和条約』と同じ昭和27年(皇暦2612年、西暦1952年)に「中華民国」と『日華平和条約』を締結し、台湾を中華民国へと割譲した。そこまでは、当初の連合国(特に西側諸国)の思惑通りであった。

だが、現実には、この『日華平和条約』は、無効であった。

なぜなら、『日華平和条約』が締結された昭和27年に「中華民国」なる国は、存在しなかったからである。存在しない国との条約は、当然、無効である。特に、領土問題に関する部分は、領土主権を有する主体は国家以外に存在しないのであるから、いかなる理屈をもってしてでも、無効である。

これは、連合国側の致命的なミスともいうべきものである。朝鮮については、既に述べたように第21条で第2条についても挑戦に対しては例外である、と明記していた。だが、中国に対しては、第26条及び『日華平和条約』によって代替措置としようとしたのであるが、これは、中華人民共和国の存在を無視していた連合国の完全なミスである。

昭和23年(皇暦2608年、西暦1948年)に、中国革命が勃発、統治能力を失っていた蒋介石政権に反発する中国の多くの農民や労働者は、毛沢東率いる人民解放軍を支持した。その権力欲を除くと、高邁な理想に向かって全力で邁進する毛沢東が、腐敗していた中国湖民党に変わって当時の国民の支持を得たのも当然であるといえる。(その毛沢東が、経済政策及び農業政策において、致命的に馬鹿であったことから起きる悲劇は、当時の国民はまだ知らない。)

その結果、中華民国は、崩壊した。

台湾は、当時、中華民国が占領統治を行っていたが、正式に中華民国領となっていたわけではなかった。しかし、当時の中国国民党は、台湾で略奪を大いに行っており、さらには、たばこの密売を巡る現地住民とのトラブルを軍事力を持って解決しようとし、36万4000人もの住民を虐殺していた。(二・二八事件)無論、当時の台湾人とは日本人のことであり、そして、後述するように彼らは今も、本来なら日本人なのであって、日本政府が何らの法的根拠もなく国籍をはく奪しただけなのである。

話を戻すと、中華民国は既に滅んでいるにもかかわらず、蒋介石率いる中国国民党は、台湾に逃げてきて新しい政府を作り、自分たちこそが「中華民国の正統政府」である、と僭称した。これが、「台北政府」である。当時の中国の政党政府は、既に中華人民共和国に写っており、「台北政府」による台湾支配は、不法占拠以外の何物でもなかった。(台湾事変)「台北政府」は、台湾の住民への徹底的な弾圧に踏み切り、その犠牲者数はいまだに不明であるが、一説には、延べ58万3000人以上が投獄され、その内、14万人以上が死刑になった、とも言われている。(白色テロ

従って、白色テロの真っ最中に「台北政府」が「中華民国」を僭称して結んだ『日華平和条約』は、無効なのだ。

それでは、中華人民共和国と我が国の関係を見てみよう。

我が国は、昭和47年(皇暦2632年、西暦1972年)に中華人民共和国と広義の講和条約である『日中共同声明』を締結した。そこには、次のように記されている。

三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。

ここでは、よく読むと、日本は台湾が中国の一部である、とは、決して「承認」はしていない。日本はあくまで、中国の言い分を「理解」し「尊重」するだけである。

つまり、日本は『日中共同声明』においても、台湾を中国に割譲していないのである。

このことから、台湾を巡る国際法上の地位は、南樺太及び千島列島と同じであることが分かる。

つまり、台湾は国際法上は日本の領土なのである。

朝鮮

『サンフランシスコ平和条約』では、第25条の規定に例外規定が存在しており、朝鮮に限って第2条の利益を受け取ることができる、ということは先述した。つまり、朝鮮の独立は『サンフランシスコ平和条約』で日本政府も承認したわけである。

問題は、朝鮮の正統政府がどの政府であるかが、この条約には明記されていない、ということである。

昭和27年の時点で、朝鮮半島には朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国との二つの政府が存在し、どちらも、自分たちが正統であって、残りは違法な政権である、と主張していた。つまり、「どちらも正統」という立場を採用することは、困難である。

これについて、日本政府は『日韓基本条約』で次のように明記した。

第三条

大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。

つまり、大韓民国の身が韓国の唯一の合法政府である、ということである。従って、朝鮮半島全域が韓国領であり、「朝鮮民主主義人民共和国」を僭称している政府は「平壌政府」と呼称すべき違法政権である。

西沙群島及び南沙群島(新南群島)

さて、『サンフランシスコ平和条約』第2条で我が国が放棄した領土には、西沙群島及び新南群島(今の南沙群島)も含まれる。そこは、今、中国、「台北政府」、ベトナム社会主義共和国、自由ベトナム国、フィリピン共和国、ブルネイ王国、マレーシアが領有権を主張している。

だが、『サンフランシスコ平和条約』第25条の規定によると、これらの地域の領有権を主張できる国は、限られている。

まず、「台北政府」は国家ではないから、当然、領有権を主張できない。

中国、ブルネイ、マレーシアは、『サンフランシスコ平和条約』に署名などしていないから、当然、同条約第25条の規定により、脱落する。

フィリピン共和国は、『サンフランシスコ平和条約』に署名し、批准している。従って、フィリピンには、南沙群島の領有権を主張する権利がある。

ベトナムについては、ベトナム国(南ベトナム)が『サンフランシスコ平和条約』に署名している。ベトナム社会主義共和国をベトナム全土の正統な政府として認めるか、自由ベトナム国が南ベトナムの正統な政府であるか、によって結論は異なるが、ベトナムが西沙群島と南沙群島の領有権を主張すること自体は、問題はない。

それでは、ベトナム側とフィリピン側の主張とを比べてみよう。

まず、フィリピンは南沙群島の東半分は「無主の地」であり、本来の南沙群島は西半分だけなのであり、いわゆる南沙群島の東半分については戦後になってからフィリピン人が発見したものである、という理由で実効支配を行った。(「Aquino's Spratly Islands Call」 英字紙『THE TIPLOMAT』西暦2010年11月1日号、参照)これが、詭弁であることは、言うまでもないであろう。フィリピン共和国は、今では南沙諸島全域の領有権を主張しているが、国際司法裁判所に対して訴える際には、南沙諸島はフィリピンの200海里以内に入っているからフィリピン領である、と主張している。(「RH caught in a maritime battle for world power」参照資料

ベトナム側は、南沙諸島と西沙群島の双方が、慶安3年(皇暦2310年、西暦1650年)から本来、ベトナムに帰属していたのだ、と主張している(アメリカ陸軍の資料を参照)が、当時のベトナムは内戦状態であった。従って、ベトナム政府がこれらの地域を実効支配したとする記録は存在せず、日本政府が後に「無主の地」としてこれらの地域を編入するわけであるが、この期間、ベトナムの漁民が漁等に使用していたとすれば、ベトナムが戦後に日本が放棄した後で、その領有権を受け取ることは適法である。

ベトナム側は、当初から西沙群島及び南沙諸島の全域の領有権を主張していたのに対し、フィリピン側はその主張する領土の範囲も変遷している。そもそも、これらの地域は、『サンフランシスコ平和条約』が締結されるまで、日本の領土であったのであり、その直後に領有権を主張した国に領有権が与えられる、というのが、妥当であろう。現時点では、西沙群島及び南沙諸島はベトナムに帰属する、と考えた方が妥当な考えである、と思われる。

満洲

満洲は、現在、中国の実効支配下にある。(外満洲については、ロシアの実効支配下にある。)満洲というのは、本来は女真族という民族を指す部族名で、満洲地方には、古代からすでに漢族(中国人)や朝鮮族、モンゴル族も住んでいた。古代の満洲から朝鮮半島北部にかけて、高句麗という国が存在したが、この国は当初は騎馬民族の国家であったものの、次第に、遊牧民と農耕民とに分かれるようになり、農耕民のほうが韓族と同化して、今の朝鮮民族の原型ができる。対して、遊牧生活を続けた方は、後に唐や新羅の支配に対抗して「渤海国」という国を建国した。渤海国は大日本帝国の朝貢国でもあった。

しかし、渤海はやがて、モンゴル族の大契丹国に滅ぼされる。大契丹国は、後に大遼帝国と名を改める。女真族は国を失った後も一定の勢力を保っており、平安時代の日本の九州を襲撃、当時藤原道長との権力闘争に敗れて大宰府の長官としていた藤原隆家と交戦したこともあった。そうした中、遼への反発から女真族らが大金帝国を建国し、一時期は中国北部を支配するなど、チンギス・ハンの手によって再びモンゴル帝国に支配されるまでの間、繁栄していた。モンゴル帝国分割後は、フビライ・ハンの大元帝国の一部となった。

大明帝国建国後は、元は中国の支配を放棄してモンゴルのみを支配し、国号は「大元帝国」「モンゴル帝国」を引き続き名乗ったものの、歴史家からは「北元」と呼ばれることになる。満洲は、明に服属したが、明による女真族への差別的な支配には反感が募り、ヌルハチによって後金国が建国された。この時、ヌルハチは自国の別名として「満洲国」も採用している。これが、満洲という言葉の始まりである。ヌルハチは満洲文字を制定するなど、中国やモンゴルの民族と自国民との差別化を図り、満洲民族を確立させた。

後金国は、さらに、内モンゴルを平定、朝鮮を朝貢国として服属させたが、明との戦いには敗北したため、中国派支配していなかった。しかし、第2代国王のホンタイジは、大元帝国の皇帝であるリンダン・ハンから禅譲を受けて、自ら皇帝の位につき、国名を「大清帝国」に改めた。この時点では、清は中国を支配しておらず、清を中国の王朝であるとするのは明らかに誤りである。

清が中国を支配するのは、明が農民一揆で内戦状態に陥ってからである。清は混乱を防ぐために、中国の支配に明の官僚だった人物を重用する一方で、公文書には漢字だけでなく満洲文字も併用させるなど、満洲民族の独自性を失ずに統治体制を確立した。満洲・台湾・中国・チベット・ウイグル・モンゴルの諸地域を明確に区別しており、各地域を超えた移住も制限された。しかし、外満洲については、ロシアの恫喝の元で結ばれた不平等条約によって、ロシア帝国に割譲された。

辛亥革命の際、清は皇帝一族の身分保障と満洲・チベット・モンゴル・ウイグルの諸民族の自治を条件に中華民国に統治権を譲るが、のちに中華民国はこの約束を破るため、中華民国は清の領土の全域を支配する正当な根拠を有しない。満洲については、これにより「無主の地」となっていた。

満洲は辛亥革命以来、無主の地であるから、中国の一部ではない。昭和6年(皇暦2591年、西暦1931年)に、日本の関東軍が清の元皇帝である愛新覚羅溥儀を擁立して満洲国を建国した。(第一次満洲事変)無主の地において新しい国を作ることは、当然に合法である。満洲国は大東亜戦争についても、中立の立場を堅持していた。しかし、ソ連と中華民国は大東亜戦争の際に、宣戦布告もなく満洲国への侵略を行い、満洲国を占拠した。(第二次満洲事変)現在でも、満洲国臨時政府が満洲国の独立回復を求めて活動している。

こうした経緯からすると、満洲が中国の一部であるというのは明らかに詭弁であり、満洲国の独立が回復されるべきであるといえる。新政未来の党は、満洲国臨時政府が満洲の正統政府であるという立場である。

チベット

チベットの法的地位も、満洲と同様である。チベットは、ダライ・ラマをはじめとする複数のチベット仏教の支配者を指導者としていたが、大元帝国及び大清帝国によって、一時、国家主権を奪われていた。しかし、大明帝国の一部となった、という歴史的事実は存在しない。チベットは、モンゴル皇帝がチベット仏教の檀家となることを条件にその支配を認めたのであり、元から禅譲を受けたと称する清もその立場を踏襲しただけであって、そのためか、いまでもモンゴルにはチベット仏教の信徒が大勢存在しているが、彼らは決して、チベットを中国の一部である、等とは見なしていなかったのである。満洲や台湾同様、チベットは歴史的に中国の領土である、とは、言えない。

また、辛亥革命の後、中華民国は清から禅譲を受ける際に「満蒙回蔵各族待遇条件」という契約をし、チベットの自治を認めることを条件としていたが、中華民国はこれを保護にした。このことからも、中華民国にチベットを支配する正当性は認められない。

チベットは、辛亥革命の直後に「大チベット国」として、独立を宣言している。この独立は、当然に有効であり、戦後の中華人民共和国によるチベット侵略は、違法・無効である。

従って、新政未来の党は、大チベット国の独立を承認する。