認知情報論講座201703

2017年大学セミナーで 認知情報論講座を聞いたので気の付いた話と 研究科の紹介ページ、それから2016年度の参考資料コピーを書きます。

⑴大学ネットの研究科の紹介によると、 情報科学研究科 メディア科学専攻は

認知情報論講座 人の理解と遂行の意味を探る:わかることとできることの統合に向けて 齋藤洋典 『名古屋大学大学院情報科学研究科・教授』が研究している。

1.脳はいかにして「意味」を理解しているのか、その仕組みを解き明かすために、人の認知・記憶・感情・行為などについて多角的な観点から研究を進めて。

2.人の多様な情報処理活動の過程を、認知心理学の手法や、脳波・眼球運動・行動の計測装置などを利用して、認知科学的なアプローチで解明しようとして。

3.最近は、人の知覚、記憶、言語、思考、注意や意識などの高次精神活動と、それらの活動を支える身体運動・動作・行為・行動などの身体活動との相互作用の解明を

目指しています。 例えば、言語による精神活動とジェスチャーなどの身体活動とを「つなぐ」知識処理とその「表現」について考えようとしています。

4.「想い」は表現されても、伝わらなければ「意味」を失い、また伝わっても「行動」に移されなければ、その「使命」をまっとうすることができません。

人々の 生活における認知的「支援」をどのようにすれば実現できるのかを、実践的に研究することも、わたしたちの重要な使命だと考えています。

⑵2017年の講座で聞いたこと。

西洋で発達した科学は対立法の概念で二分法の説明で考えるがこれが常に有効ではない、なぜか?ー>

思想と言語は関連が有るのか。 ー> これらの方法では評価が出来なくなっている。

例えばアメリカの学会の会議で典型的なアメリカ人と聞かれて、トランプ大統領(トランプの絵を見せ)というとアメリカ人は喜ばなかった。

オバマと言えば良かったかな。

利己と利他の違い、何で共用できるのか? ー> まだない。

(関わりの中で生きる人)

進化と利他的な行動 ー> 利他の判断の短期的に何かの利益が得られたかで判断される。

オランダにいた時に駐車場でオランダ人が私の場所を案内してくれた。 私の車が{D}マークを付けていたので同じドイツ人系と思ったかな? アジア人だけど。

マグロ(集団で一方向に行動する)とイワシ(集団で動くが集団で反転する)の群れは一緒に動く、此のふたつは全体として一体で行動する。

人称は何の為に有るのか、全ての言語に有るわけではない。 人称が動詞に表示されない言語84種類、示されない296種類、(動詞が人称に応じて変化するもの)

現代のヨーロッパ言語は一部である。

いまは日本人と言う意識が短い間でものを考える様になっている(今では最近とは若者の中では平成年間の事になっている、昭和がでない)

自分は自分を制御可能なのか?

利己、利他、今の時代は自由な決断が妨げられている。

作詞家の吉野弘さんの詩にこの辺の感じが良く表されていると斉藤教授は話していた。

以下は 河津聖恵のブログより引用

生命は

吉野弘

生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で

虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

生命はすべて

そのなかに欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分

他者の総和

しかし

互いに

欠如を満たすなどとは

知りもせず

知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに

うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように

世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

最期にQ&Aで意見が沢山出ました。

(3)2016年の講座では参考資料があって以下



2014認知科学 VOl0 21, NOlく3月1日発刊予定>

巻頭言[2014002ユ3.) く校正版>

正解のない心の間題群

The Three-Conerd World in congnitive seience

斎藤澤典(さいとうひろふみ)

「山路(やまみち)を登りながら,こう考えた・智に働けば角が立っ,情に悼させぽ流される・意地を通せば窮屈だ,兎角に人の世は住みにくい.住みにくさが高じると,・安い所へ引き越したくなる・どこへ越しても住みにくいと悟った時,詩が生れて,画(え)が出来る.」

「草枕」(夏目漱石,1906)のよく知られた冒頭の言葉である.

-「知情意」について, 「草枕」の冒頭から講義の枕を振っていた矢先のことである.教室で学生の手が挙がつた.「おや,最初から質間か」と思つたら, 「先生,今の言葉の漢字を黒板に書いてください」と求められた.百名ほどの受講者の中にいた質問の主は留学生ではない.新入生向けの講義の一揃・(ひとこま)の風景である.

知情意」から語り始め,その統合の肝要を説くもくろみは,・「知」についさえ語らぬ前に頓挫した,講義内容の再考に心が動いた莉那であった,

「草枕」が世に問われて百年が経過した.学生が問うたのは文言の意味ではなく,その表記であっ・た.漱石の文体を勘案すると,学生の求めは郁子 (むべ) なるかな,あるいは 「わかり急ぎの教育」の所産ここに至るか.

ちなみに漱石は筆を継いでこう述べる.

「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない・やはり向う三軒両隣りにちらちらするた

だの人である・ただの人が作った人の世が住みにくいからとて,越す国はあるまい‥

越す事のならぬ世が住みにくければ,住みにくい所をどれほどか,寛容(くつろげ)て,束 の間の命を,束の間でも住みょくせればならぬここに詩人という天職が出来て,ここに画家と

いう使命が降(くだ)る・めらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし,人の心を豊かにす

るが故に尊(たっ)とい」

「それから」半年間の講義の後に,とある学生の感想にこうあつた,「教養のないことを痛感しました」と.またしても,一新した講義の敗北だと考えた.

もとより十五回の講義で詩画,彫刻の神髄に届こうはずもない.

教養主義を講義の旗織としたわけではない,もし教育の成否が効率でほなく,掲げた志によ

つて測られるなら;こう言いたい.「早くわかることよりも広くわかること,深くわかることが大切な時がある」.

講義の企図は, 「わからないことを深く考えることの効用」を問うことにあった。

時間を生け贄としても,考えるに値する問いがあると,語りかけたかったのである.

そうした語りに対じて,つい数ケ月前まで受験の虜 (とりこ)であった新入生はこう言う. 「質問は正解が一つに決まっていることに限ってほしい.考えても正解のないことを質問しないでほしい.答えのでない心のことはいつか暇な時に考えたい.」

総じて分別を急ぐ彼らの心の砦は手強く,不寛容に閉ざされた門は重い.反復挑戦は多くの勧めるところだが,心の門に至る道は険しい.

ところが,時に私たちを取り巻く現実は,けども容易にそのかたくなな門を打ち砕き,時にその砦さえも押し流す.

例えば,それほ残念なことに2011年に起こった東北地方太平洋神地震と福島原子力発電所での掌故である.

とりわけ

後者は,科学技術やそれを担う専門家たちに深い失望の念を投げかけた.

その 情念の根深さを考えると,私たちもその失望の対象から無縁ではあり得ない.

あの事故に対応したのは,新鋭の自律素行ロボットでもなく,

・ヴェラブルスーツを身にまとった特殊戦士でもなく,.「生身の人」であった.

3年の歳月が流れたが,復興の担い手は,複雑な念を抱きつつも活勒する等身大の人である,

あの事故が専門家の知識を超える炉心溶融 (メルトダウン)であったのか,

その先の炉心溶融貫通 (メルトスル一)であったのかは,もとより本稿の論点でほない.

あの時,私たちの肺腕を貫通したのは物質ではなく,正解のない心

の間題群を問う「意味」だったのではないか.

あの事故を境として,「正解のない心の間題ほいつか暇な時に考えればいい」とする学生たちの,否,私たちの分別の砦は完膚なぎまでに粉砕された.

さて,正解のない心の間題群の中から何を優先すべきか.彼岸は暦の中の時 であり,到達すべき目標の地でもある.しかしまた到達点は通過点にすぎない.

「人生は同じこどを二度味わうという費沢を私たちに許してはいない」と書いたのはブルーナーJ・S.だったか,いつか読もうと書架の片隅においた本が時の経過に見つからぬことがある.

「こころ]はいささか長い前口上の後に,時にあっけない物語の幕切れを用意する.心せねばならぬ.

周知のように,情報処理の観点から人の知的活動の解明を目指したダートマス会議(1956)から,ほぼ六十年が経過した.

ノーマンDが今後の認知科学の課題として「認知科学の展望」(198I)を公刊して以来三十年を優に超える,

2014 年9 月,名古屋大学で第31 回の日本認知科学会をお引き受けするに際して,旗職鮮明を計り,「今一つの知:fantasy 一歩前」を大会のテーマに掲げた (本号ブルーぺージ参照).

このテーマの主題は,恩師石原 岩太郎氏の 「人生を観る 今一つの心理学(1993)」に,副題は廣松 渉氏の「哲学入門一歩前 モ ノからコトヘ(1988)」に由来する.両氏の書名ほともに二義性を有する.

石原氏は,まえがきでミンコフス・キーの言葉 「科学は,自然から詩情を剥ぎ とり.…そのあらゆる呑気を奪い去った後に,自然のある局面を呈示している」を引用し,

自らの思いを 「自然の中に詩情を認めないとは,人間の中にも詩情 を認めないことである.したがつて,科学的心理学が描き出す人間像にも,詩情が欠落していることになる.

私はこの欠落を補い,人生観の基礎と成るような心理学を求めた・一人ひとりの人間に親身になってくれる心理学を求めて,お ぼつがない「一人旅に出た.」と記す.

また,廣松氏は 「一つには,勿論,門に入 る一歩手前という意味であり,もう一つには,門をくぐってから一歩前へ !という含みです」と述べる.

さて今回の大会では,知情意の統合に欠かせぬものとしてfantaSy を掲げた.

Fantasy は,早くわかるための分別や効率とは反対の極に位置する・それは心を豊かにする詩情や情緒と親和性が高く;弱く傍-(はかな) い性質を帯びている.

文字に尽くせぬ EantaSy の一例を音楽に求め,歌手の渡辺歌子さんに本大会の招待講演を依頼した.多数の方々のご参加を切に願う.

最後に,ここでは読者諸氏をfantasyの門へ誘う一つのヒントを文字で示す。

弱さ」という感覚世界についてデザイナーの内田繁(2011)氏はこう語る.

「弱さとは否定的なものをさすのではない,人間の心を対象としたものである.

美的世界において「弱さ」は独特なニファンスをつくりだす.繊細で一見壊れやすいもの,小さくて細やかなもの,柔らかくて不定形なものには,固くて丈夫で大きなものには見られない独特のものがある,また見えない何かを想い,

.静かにたたずむさまは,人の気持ちにやさしさと静けさ,危うさと切なさをつくりだす.

こうした弱さとは,強さとの対比の問題ではなく,弱さが独自に持つ特性である.

、、、そうした弱さを「人生の無意味さや弱点の根源」として見るか,あるいはそれゆえに「幸福の根底 と捉えるのかによって,議論は大きぐ分かれる,」

認知科学は誕生から半世紀を経て,知のはたらきを,身体,感情,そして芸術などの諸活動から広ぐ捉え,またそれらの関わりを脳の表層だけでほなく脳の深部にまで求めつつある.

さらに進化の観点からほ,心のはたらきには変わらない部分と移ろう部分があることが了解されよう.

知をめぐる問いは,結果として数えられる 「知」の早さから、「広く知るはたらき」を経て, 「深く知りたいと願う心の動き」のfantaSy にも向げられつつある.

「美というものは位の高さなのであって,働きの強さではない」という観点から, 「すべてほ 「そうであるか,そうでないか」の問題ではなく「それで心が 安定して心の喜びも感じられるかどうか」.の問題なのだ」(岡 潔,1968),

知情意の枠を超えて考えてみることも認、知科学の将来にとって決して無駄なことではない.認知科学という山路を登りながら,そう考えた.

(名古屋大学大学院情報科学研究科)

以上です