論理とは「ものごと」の関係の関連を示す方法のことである。

それには三つの関係がある。

一つは「ものごとの定義」をあらわす所属(集合)の関係である。

たとえば「人間は哺乳類である」というような、

その「ものごと」がどの集団に属しているかということを示すものである。

「ものごと」はどれも、いくつかの集団に属している。

それらの所属をいくつか集合させることによって、

その「ものごと」の全体象が顕わになり、

それは言葉によって定義として確定される。

しかし、たとえば「人は泳ぐ動物である」というような

全体の一部のみが所属している場合や、

「人は経済的動物である」というような

全体の一部分だけを示している場合もある。

これらの関係は「所属の関係」を複雑にし、

その定義を不明瞭なものにしてしまう。

一つは「部分の合計は全体である」という組み合せ(演算)の関係である。

これはジグゾーパズルのように、

部分の組み合わせが全体となるという論理である。

全体をばらした部分を、ふたたび組み合わせれば、

その部分が余ることはないし、足らないこともないことを表す。

全体や部分が明確ならば、数式のように誤りの起りにくい論理である。

一つは「ものごとの変化」をあらわす因果(確率)の関係である。

「ものごと」に何かがプラスされる、

または何かがマイナスされることによって、全体が変化することを示す。

「風が吹けば枝が揺れる」というような確率的な因果関係のことである。

確率が100%ならばそれは数学的な関係となる。

そして原因と結果の間には時間的経過がある。

確率がからむため、どうしてもその論理は恣意的となってしまう。

一つ目の関係は二次元的(平面)、二つ目は三次元的(立体)、

三つ目は四次元的(立体+時間軸)と呼ぶことができる。

そして言葉は二次元的なものである。

二次元的なもので、複合的なものや三次元、四次元的なものを

説明しようとすると、当然無理が生じる。

この無理がいろいろな議論をさらに不十分なものにしてしまうのである。

そして「所属の関係」にも「組み合せ」「因果の関係」にも曖昧さがある。

この曖昧さをなくそうとするのが科学の技術である。

科学は分析や実験を繰り返すことにより、

「所属」や「組み合せ」「変化」をより明確にする。

私たちは、その情報を利用するが、それらに精通しているわけではない。

科学者しか真実に近づけないのか、

しかし科学者と言えど、容易に真実に近づけない。

そこには膨大な時間と労力がかかる。

人生には時間に限りがある。

一般人の私たちには真実を知ることは不可能なのか。

だから私たちは「常識」に頼る。

「常識」は、経験的に得られた「類推真実」である。

「常識」である限り、やはり曖昧さは残る。

それをフォローするために、その類推が正しいか、

その類推に至った論理が正しいかどうかを判断する

二つの指針を用いる。

一つは、「論理を外れるものはない」ということであり、

もう一つは「互いに関連する論理は矛盾しない」ということである。

これらは。この世のすべてのものごとが「論理構造の中にある」と

いうことである。

この二つの指針を用いて、ものごとの真否を判断していく、

または仮説を立てていくことを、「想定論理」の思考と呼ぶ。

ものごとの関係を、言葉でそれらを説明するには無理があると述べた。

だけども逆に、三次元、四次元的なものを二次元的な言葉で説明するから、

人は要約されて早く理解が出来る。

それが言葉を使う利点であり、そして危険でもある。

たとえば、赤い果物を「リンゴ」と名付けることで、

その言葉を使うことによって

一瞬にして共通の認識でそのものを捉えることが出来る。

しかし「共通の認識」と言えど、各人によって多少の認識のズレがある。

そのズレを含んだまま議論が続いてしまう恐れがある。

これが上で述べた「無理」という危険である。

だが言葉には、もっと危険がある。

それはたとえば、この世に存在しないものや、

漠然としたつかみどころのないものにまで、

名付けてしまえるということである。

言葉は認識を要約する。

仮想の認識が要約されて、あたかもこの世に実在するように、

人に錯覚をさせてしまう。

「社会」、「経済」とか「自由」、「平和」などの漠然とした観念が、

そのように名付けられたことによって、

まるでわかりやすく理解できるような錯覚をさせてしまう。

観念を要約すべき言葉が、言葉のニュアンスから

勝手に新たな観念を作り出してしまうこともある。

ものごとの関係を示す論理も曖昧であるが、

それを説明する言葉も曖昧である。

しかし言葉を使わないわけにはいかない。

そしてそんな言葉を使って、

曖昧な論理を出来るだけ明らかにしなければならない。

言葉の持つ危険を十分に承知して、言葉を使うべきである。

そのためにはやはり「すべてのものごとには論理があり、

それらは互いに矛盾しない」という指針をたえず意識して

使用していくしかない、

一つの論理を言葉で表したのが、「命題」である。

論理学では「命題」は、「真」または「偽」に分けられる。

しかし現実では、「命題」は「おおよそ真」、

または「おそらく真」となることが多くある。

たとえば、「日本人は内向的である」という命題があったとする。

常識的に、この命題には多くの人がうなずくはずである。

しかし、「日本人」や「内向的」という言葉を正確に定義したとしても、

当然、この命題が「真」だとは言い切れない。

一部に、外交的な日本人もいるに違いないし、

統計調査があったとしても、サンプリング(抜き打ち)調査である。

サンプリング調査には必ず蓋然性(確実性)や信憑性の問題がある。

また特に「日本人」でなくても、

「人間は全て内向的である」のかも知れない。

だから正確には「日本人はおおよそ内向的」である。

または「日本人はおそらく内向的である」となる。

一般的な思考や議論は、いろいろな命題の

積み重ねや対立から成り立っている。

でもこのように漠然とした表現の命題をいつも用いていては、

思考や議論は不明瞭となって進まなくなる。

だから,この「おおよそ」や「おそらく」と言った表現は省略される。

こうして実際のいくつかの命題は、

確かなのかそうでないのか分からないまま感覚的に使われてしまう。

これが現実の常である。

命題が「真」や「偽」と割り切って判断できないような、

以下のパターンがある。

(1)偽と真が混在している。

(2)大雑把、大局的で、真とも偽とも言えない。

(3)特殊的、部分的で、真とも偽とも言えない。

(4)真に近い偽である。

詭弁者は、上のパターンを利用して、「真」と「偽」を曖昧にし、

さらに「偽」の疑いを払う、または「偽」を「真」と思わせるような、

以下の方法を用いる。

(a) 権威や権力を用いる。

「日本人は内向的であると学者も言っている」

(b)その場の状況(雰囲気、感情、道徳性)を利用する。

「日本人が内向的であることを今さら論じてる暇はない」

(c)データを恣意的(都合のいいよう)に用いる。

「日本人が内向的であることは

東南アジアの比較データからわかる」

(d)比喩を用いて、同じ意味だと思わせる。

「井の中の蛙が外を見ようとしないように、

日本人も内向的である」

(e)一般論や常識が当てはまっているように思わせる。

「日本人が内向的だということに誰も異論はないでしょう」

(f)一般論や常識の思い込みを指摘して、

発想の転換を正しいと思わせる。

「アメリカ人は日本人よりもさらに内向的である」

(g)論理を積み重ねることによって、正しいと思わせる。

「島国に住む者は閉鎖的である。閉鎖的な者は内向的となる」

(h)論点をずらして、正しいと思わせる。

「日本人は内向的である。

その内向性が武士道を生み出したのだ」

(i)反論を否定する

「日本人が内向的であることを否定する理由は、何一つない」

(j)論理が誤っている

「大陸の行き止まりにいる日本民族は、ゆえに内向的となる」

詭弁者は以上のような方法で議論を不毛にする。

誤魔化しを承知して詭弁を使う者もいれば、

それに気づかず詭弁を使っている者もいる。

なぜ詭弁を使うのかと言えば、

それはどちらにしても、自分都合にものごとを進めたいからである。

悪意のある者は、ものごとの「偽」を「真」に、

「真」を「偽」に錯覚させ、人をたぶらかすために詭弁を用いる。

だが多くの者は、自分の主張を強調しようとして、詭弁を用いる。

これはものごとの「真」「偽」が、上に述べたように、

多くが曖昧で、経験的、感覚的にしか説明できず、

相手を100%納得させることができないためである。

「真」を求めることを目的としながら、

自分にとって納得できる「真」を求めてしまうからなのである。

だからその自分にとっての「真」が、本当の「真」の場合もある。

だが、詭弁を用いたことに変わりはない。

われわれは知らずに詭弁を使ってしまう。

それを防ぐためには、あの二つの指針を持って、

たえず今時点で分かっている状況から、その論理を検証して、

論議を進めるよう心掛けなければならない。

「論理を外れるものはない」

「互いに関連する論理は矛盾しない」

この二つを使って絶えず真理を見直す。

その意識を、「知性の整合性」と呼ぼう。

(2011・3・6)