12.『圧力について』

世界には、圧力が発生する。

それは人に対する圧力である。

その力によって、人は押し出されたり留められたりする。

それは自然界から発生するもの、

所属する社会から発生するもの、

対人から発生するもの、

そして自分自らから発生するものがある。

多くの圧力は、自然の流れに従って発生する。

それは機械の歯車を回すように、

互いに絡み合って状況を様々に動かす。

状況を変えていく。

因果の道理から発生するものであれば、やむ負えないことも多い。

人の意志や行為から生まれる圧力において、

道理に従わない、理不尽なものがある。

その圧力が問題である。

それは状況を不合理に変える。

そんな圧力は、人間社会に満ちている。

所属する社会から生まれる圧力は以下のようにして生まれる。

人が集団で何かの行為をしようとするとき、

最も効率の良い方法が選ばれるのが理想である。

しかし人が集まれば、当然、意見が分かれる。

意見がまとまらない場合、または意見が出ない、

混乱が予想される場合、またはその仕組みから、

権威のある者の意見がとり入れられる。

権威のある者とは、経験が豊かである。

またはそのことに関する知識や知恵を持っている。

その行為が十分に実行できる。

その行為の結果に対して、責任が取れる者である。

そしてその能力が、集団の中で認識され、

その権威を持つことが認められている者のことである。

多くに認められた権威者であるから、

当然、その行為や指示は正しいことが多い。

しかし、その権威ある者の考えがいつも正しいとは限らない。

明らかに効率が悪い場合もある。

しかしその者の意見には従わざるおえない場合が多い。

理不尽でありながらも、その行為を行わなければならないこともある。

そうしなければ集団がまとまらないからである。

結果の良し悪しにかかわらず、そこで発生した圧力が、社会圧力である。

権威者がみんなから認められていること、

彼に従うことをみんなが納得して、その社会に属していることから、

ある程度の無理や理不尽が起こるのは仕方がない。

一番の問題は、権威者の要素がなくて、権威者の振りをする、

みんなが認めていないのに、権威者として認められているように錯覚させる、

そういう威圧者が存在することである。

彼らが、より理不尽な圧力を生む。

なぜ、人はこのような威圧者の存在を許してしまうのか。

威圧者は自分のことを権威者だと見せかけようとする。

それはその者の自己顕示欲やプライドが生んだ欲求である。

その者は、その欲求から自分の都合のいいように物事を動かしたい。

真の権威者の持つ責任は負う気はないが、

回りに自分の権威は知らしめたい。

そのために威圧者は、態度や言葉によって、回りに不快苦をまき散らす。

回りの人々は、その威圧者の不快苦を避けたい。

そしてその威圧者の自信に満ちた持った権威的な態度に

多くの人は思わず従ってしまう。

こうして威圧者の理不尽な圧力を許してしまうのである。

そしてさらに悪いことに、権威者がその威圧者のパワーに誤魔化されて、

本当に権威を委託してしまう場合がある、

また権威者がその権威の範囲を超えて威圧者になることも多い。

社会には、権威者の圧力と威圧者の圧力が存在する。

そしてそれらは所属する集団を何らかの方向へ導く。

権威者の導きが間違っている場合もあれば、

威圧者の導きが偶然、正しい場合もある。

また導きが間違っていても、結果が良かった場合や

その逆もありうるので、そのことが状況をより複雑にする。

そして権威者、または威圧者は個人とは限らない。

それらが集団で存在することも多い。

規範や伝統などは、権威者の集団から生み出され、

しきたりや慣習などは、威圧者の集団から生み出されることが多い。

多数の強みを活かして無責任に面白がって威圧する集団、

一部の威圧者に煽動され短絡的に行動する集団などがある。

それらは漠然とした威圧集団である。

人は集団に入れないこと、仲間外れにされることに不安を感じる。

集団であることは、多数は正当であるような錯覚を生む。

「村八分にする」という脅しで、集団は個人を威圧する。

社会はいくつかの歯車が組み合わさって動いている。

それを動かすのは因果である。

因果は複雑に絡まっている。

圧力は歯車を無理に回し、新たな因果を発生させ、

社会の状況を良くにも悪くにも変える

その圧力が明らかに間違っている場合がある。

間違った因果で社会が動く。

その圧力を生み出した権威者または威圧者が間違いを認める、

または修正すればよいが、自分の権威の維持や正当性を守る、

プライドを守るために、それを強引に押し進める。

その理不尽が、社会をより理不尽な状況に追い込む。

理不尽は社会にムダやムリやムラを生み出す。

秩序を乱す。

また、間違いを承知で、何らかの効果を期待して発せられる圧力もある。

一般に結果が全てで、原因はあまり問われない傾向があるからである。

社会には理不尽と知らずに発せられた圧力と、

理不尽と承知して発せられた圧力がある。

それらは真実を遠ざけ、効率を悪くする。

結局、秩序を尊重していないから生まれるのである。

対人から発生する圧力とは、

人同士の快楽追求と不快苦回避の欲求のぶつかり合いから生まれるものである。

人にはその欲求が満たされないとき、または満たされにくいと感じたとき、

全身に感情という衝動行為を起こさせる。

それは対するものや群れに対して、自分の今の状態をアピールするものである。

これが対人の圧力となる。

人には二種類のタイプがある。

一つは対立型であり、一つは協調型である。

快楽追求の欲求の強いタイプが前者になり、

不快苦回避の欲求が強いタイプが後者になる傾向が強い。

前者は他者を抑えて自分の都合を優先することを欲し、

後者は他者の都合を優先して事態がすみやかに進むことを欲する。

当然、前者が圧力を発し、後者がその影響を受けることになる。

存在本能から発生する「承認欲求」、

自分の存在価値を認めさせたいという欲求である。

その欲求が真実の因果を歪め、理不尽な因果を生み出す。

対立型と協調型、

前者は他者に勝つために手段を選ばない。

自らの能力を上げて勝とうとするのは正当だが、

それ以外に、威圧による他者への圧迫や、

嫌がらせや批難などの繰り返しによる他者への妨害で

優位に立とうとする。

すなわち他者を貶めることによって、

自分を優位に持って行くのである。

しかし時には他者から反撃を受けることがあるため、

出来るだけ仲間を集めて、多数で攻撃しようとする。

だが他者に圧倒的に勝つことは結局無理であるため、

彼らはずっと欲求不満である。

究極、彼らは人を人と扱わず物扱いするようになる。

彼らは厄介者として、他者を圧迫し続ける。

自己もまた自分に圧力を及ぼす。

体質、体力、性格、経験、知識が

自分の行動を規制する。

大抵の自己規制は、人の全体のバランスから正しいが、

社会的に理不尽な場合も多い。

自分で自分の規制を外すことは

人は絶えず自分を正当化するため

非常に困難である。

今の自分を認めるような意見しか受け付けない。

人は圧力を受ける。

それは自然界から、社会から、

対人から、そして自分からである。

それらの圧力は、従うべきもの、

従わざければならないもの、

従わさせられるもの、

どちらでもいいもの、

従いたくないもの、

避けるべきもの、

反発するものがある。

それらの圧力は、秩序を守るためにも働くが、

その秩序を固持したり、歪めたり、形骸化したりもする。

秩序を尊重する者は、

これらの圧力の関連を明確にし、

時にはそれに抵抗しなければならない。

(2017/02/11)