09.『幸福について(2)』

人は幸福を求める。

幸福とは、楽しく、豊かで、安定した状況にあることである。

それらに満足した状況にあるということである。

「楽しさ」、「豊かさ」、「安定感」、そして「満足感」、

だがこれら四つの要素は並列にあるのではない。

「安定」が底辺にあり、その上に「豊かさ」があり、

そしてその上に「楽しさ」があり、そして頂点に「満足感」がある。

船に例えるならば、船の構造が「安定」であり、

「豊かさ」は船の設備であり、

そしてそれらが満たされて余裕が出来て、

船で旅する「楽しさ」が生まれる。

そしてそんな船旅に心は「満たされる」のである。

これら四つの要素は、もちろん単に積み重なっているわけではなく、

互いに影響し合う。

そして、おおよそこのような順で満たされたとき、

人は「幸福」を感じる。

「幸福」とは、「幸福の船」に乗って人生を旅することである。

「幸福」の状態には二つの視点がある。

一つは物質的な視点であり、一つは精神的な視点である。

物質的な状態がある程度満たされなければ、

精神的な「幸福」に達することはできないが、

物質的な欲求には際限がない。

ある程度の安定や豊かさを手に入れても、

人はやがて現状に不安や不足を感じ、さらに次を追い求める。

楽しさも、より刺激的な快楽を求め続けるようになる。

一時に満足しても、やがてまた満たされない気持ちになる。

人は「足りるを知る」を知って、

はじめて「幸福」を精神的な視点から見ることができる。

物欲に追われては、幸福な状態にあっても、今の「幸福」に気がつかない、

満足を認識し、さらなる過剰な欲求を制御することができれば、

人は、「心の安定(落ち着き)」「心豊かさ」

そして「心楽しさ(爽快)」を得ることができる。

これらががまた、真の「心の満足(充足)」を生む。

これが精神的な視点の「幸福」である。

真の「幸福」を実感できるのである。

楽しさ、豊かさ、安定、そして満足を感じるのは、

人の認識や経験(記憶)、価値観(欲求度)、

性格(感情度)、理解(意識度)による。

それは人それぞれの心のあり様、

すなわち、人それぞれの意識回路の反応の仕方(精神)による。

「足りるを知る」、どの程度で満足するかは、

その人の意識回路の反応の仕方の成熟度による。

成熟度とは、それぞれの反応の処理能力と、

その反応を制御する力(精神力)が、十分に発揮される発達度のことである。

反応を制御する力(精神力)は、一章から述べてきた

「自らの四つの指令」に対して制御する力のことある。

それは「理性」によって、鍛えられる。

そしてこれが、上で述べた「心の満足」を生み出すのである。

四つの要素に満たされた船で航行すれば、

また、新たな「発見」に出会う。

いろいろな「楽しみ」に出会う機会を得る。

見過ごしてしまう「楽しみ」に気付く。

そして人は、「幸福感」に満たされる。

人は「幸福の船」に乗って、より幸福に出会えるのである。

幸福があなたを待っているのではない。

幸福はあなたに気づかれて、初めてその姿を現す。

たとえば、夜空に大きな満月が輝いていたとする。

心が他事にとらわれていたなら、それを見ても何も感じないだろう。

気持ちが落ち込んでいたなら、それに荒涼や寂寥を感じるかもしれない。

心が落ち着き余裕があったなら、その自然の美しさに感動し、

その場に立ち会えた幸福を感じるかもしれない。

だがそのためには、その景色を美しいと感じる能力が必要だ。

そして、その美しさで十分満足する心を持っていなければならない。

たとえば月に雲がかかっていたとする。

それを不満と思わず、その風景もまた良いと思う余裕があったとき、

人は真の美しさを感じる。

これが「幸福」である。

「幸福の船」に乗っていたから、その幸福を得たのである。

幸福の構造について、さらに詳しく論じよう。

底辺の「安定」には秩序が重要である。

秩序によって、安定がもたらされる。

そのためには「秩序思考」が必要である。

「秩序思考」は、論理思考、システム思考、バランス思考、

シンプル思考からなる。

論理思考は、ものごとを因果関係(確率)から見て、

原理原則を重視する考え方であり、

システム思考は、ものごとを多方向(多元的)から見て、

仕組みや計画を重視する考え方である。

バランス思考は、極論になることを避けて全体の調和から見る、

確率や統計を重視する考え方であり、

シンプル思考は、思考の筋道が複雑になるのを避けてわかりやすくする

考え方である。

「幸福の船」の設計や運航に、この4つの思考方法からなる「秩序思考」を用いる。

底辺の基礎作りには、特に「論理思考」が有用である。

「安定」にもとづく「豊かさ」は「自由度」とも言い換えられる。

「安定」や秩序は拘束の度合いが強い。

必要な拘束の中で、より自由であるのが「豊かさ」である。

「豊かさ」は、解放感を生む。

たとえば人の移動距離には限り(拘束)がある。

乗り物を使えばその移動距離(自由度、解放感)は広がる。

その乗り物を選べることが「豊かさ」である。

しかし100m先へ行くのに自動車を使う必要はない。

それは無駄(贅沢)である。

無駄は「安定」を脅かす「豊かさ」である。

「安定」や秩序は、維持し続けることが肝心で努力を要するが、

ずっとそのままの状態で良いというものでもはない。

より安定化、秩序化するように変化(成長、成熟)していく必要もある。

今の状態を見直しできるのが、この「豊かさ」から生み出される余裕である。

ものごとが多すぎれば「無駄」となり、少なすぎれば「無理」となる。

多かったり少なかったりすれば、それは「ムラ」である。

「余裕」は、程良く満たされた状態から生まれる。

その程度を判断するのもまた、それぞれの人の「精神力」である。

「精神力」は、その「余裕」をもって、

必要なときに、現状の「安定」や秩序を構築し直す。

さらに大きな「安定」を求めて。

この「豊かさ」には、「秩序思考」の特に「システム思考」が有用である。

人は生きる。

今日の糧を使って、明日を生きるための糧を得る。

明日を生きるために、今日を生きるのである。

生きることに、目的はない。

生きるために生きるのである。

そして、出来るだけ今日の糧を消費せず、

明日の糧を出来るだけ多く得ようとする。

出来るだけ効率良く生きようとするのである。

効率良く生きようとするのは、出来るだけ長く生きるためである

大きな無駄がなく、効率良く生きている者は、

自分や自分の回りの環境を円滑に進める。

それが次の「幸福」の要素である「楽しさ」となる。

その楽しさ、効率の良さは、「幸福」の他の要素である「安定」「豊かさ」から

生み出され、そしてそれらを見直すものでもある。

この「楽しさ」には、「秩序思考」の特に「シンプル思考」が有用である。

「満たされる」気持ち、それは「足りる」という気持ちである。

先に述べた「足りるを知る」という意識、

「この程度で十分である」という認識である。

「これ以上は望まない」という覚悟である。

そこには、四つの思念が必要である。

完全や完璧にこだわらない「愚念」(ロジック思考)

…主に意識野の反応に対して

思い込みや偏見から解かれる「解念」(シンプル思考)

…主に認識・記憶野の反応に対して

しがらみや他人意識から脱する「脱念」(システム思考)

…主に感情野の反応に対して

叶わぬ欲求や望みを諦める「諦念」(バランス思考)

…主に欲求野の反応に対して

ここで述べた「満足」には、「秩序思考」の特に「バランス思考」が有用である。

人の意識は、意識回路で生まれる。

上で述べた四つの思念について、次はその意識回路に従って論じよう。

意識回路は、認識・記憶野ー欲求野ー感情野ー意識野からなる。

認識・記憶野においては、いかにものごとが、

精度をもって、正しく、多く認識できるかが求められる。

ここでは誤認識、記憶のすり替え、

または思い込みによる認識、記憶の制御が問題となる。

そこで導入されるのが、「解念」という観念である。

人はものごとを、自分が納得できる範囲で都合良く理解しようとし、

そのためにものごとを曲解する。

事実とは違うことを認識・記憶させてしまう。

その性質から人を解き放とうとする思いが、「解念」である。

シンプル思考とこの解念から、「整然」という心構えが生まれる。

「整然」とはものごとを整理整頓して、スムーズに事を運ぼうとする態度である。

欲求野は、ものごとを快楽追求、不快苦回避のフイルターに通し、

行動のモチベーションを引き起こす。

全てが自分の欲求の思い通りになる訳もなく、

欲求が通らないフラストレーションが、当然起こる。

そこをどう制御し、沈静化させることが問題となる。

そこで導入されるのが、「諦念」という観念である。

自分と、その回りの環境との間には、当然、いろいろな衝突、齟齬、

軋轢が起こる。

自分の思い、行いを主張することも必要だが、

主張してもどうにもならず、自体を混乱させる場合も多い。

人が道で交差するとき、一方が道を譲らなければ、

どちらも通れない時がある。

道を譲る、先に行くことを諦める。

これが「諦念」の基本である。

こうすることによって、ものごとがスムーズになるのである。

人は、ものごとや方法に執着することによって、多くの苦しみを生む。

どうにもならないことにいつまでも拘っていては、先へ進めない。

考えてもどうにもならないことに時間を費やしても、ただの無駄である。

諦めが肝心である。

その思いが「諦念」である。

バランス思考とこの諦念から、「裕然」という心構えが生まれる。

「裕然」とは遊び心を持って、融通自在にものごとに対する態度である。

欲求野で判断された快楽追求・不快苦回避の要求を全身に伝え、

それに対応する体制をとらせるのが感情野である。

それは主に、他人や群れへのアピールが中心となる。

他者に示す喜怒哀楽などの感情表現である。

それらの指示は感情ホルモンなどの伝達物質による科学的な反応によるため、

自己の意識回路にも影響を及ぼす。

意識回路の働きも、平常性を失う。

感情に影響され理性が十分に働かない状態は、問題解決にもちろん思わしくない。

感情による他者への自己表現は、コミュニケーションの発達した現代には、

不要となりつつある。

他人への感情、または他人からの感情に影響されないようにするのが、

「脱念」という思いである。

他人や群れを気にしない、

他人の自分に対する批評や、群れのしがらみから脱するのが、

この「脱念」という思いである。

システム思考とこの脱念から、「泰然」という心構えが生まれる。

「泰然」とは信念に従って揺るがず恐れず、何事にも堂々と振る舞う態度である。

人は膨大な量の記憶ができる脳を手に入れた。

そして大脳の「ワーキングメモリー」という場所で、その記憶した情報を

取り扱えるようになった。

いくつかの情報を比べたり、まとめたり、分解や組み合わせの

作業ができるようになった。

それが意識野での、観察・記憶・分析・推理・創造の五つの知能を生む。

その能力を使って、人はものごとについて思考する。

しかしその能力は、もちろん人によって違いがある。

そしてその能力の高い人においても、それは完璧ではない。

能力だけでなく、人は得る情報によっても影響される。

情報の量が少ない、多すぎる、偏りがある、誤謬を含むなどによって、

人は判断を誤る。

人はその時のタイミングや偶然に影響される。

人の知能は有用であるが、また抜け落ちも多い。

それを自覚することが、「愚念」である。

人は基本的に愚かである。

愚かであることを自覚して、ものごとをわかりやすくするように努める。

そしてものごとは、愚かである自分の考える通りには進まない。

思い通りにならなくても、それが当然だと思う。

ものごとは完全、完璧には進まない。

それでいいと思う心が「愚念」である。

ロジック思考とこの愚念から、「毅然」という心構えが生まれる。

「裕然」とは迷いや戸惑いを断って、すべきと思ったことを果敢に行う態度である。

「幸福」は、四つの要素からなる。

上で述べてきたことをまとめよう。

「安定(秩序)」 …ロジック思考 …「愚念」 …<毅然> …(意識野)

「豊かさ(対応)」…システム思考 …「脱念」 …<泰然> …(感情野)

「楽しさ(効率)」 …シンプル思考 …「解念」 …<整然> …(認識・記憶野)

「満足(制御)」 …バランス思考 …「諦念」 …<裕然> …(欲求野)

生きることは、明日の糧を得るための戦いである。

エネルギー獲得への挑戦である。

だから多くの困難や苦痛に出会う。

しかしまた、多くの喜びもある。

生きている喜び、

生命反応の喜び、

身体が動く喜び、

身体で感じる喜び、

成長する喜び、

ものごとを知る喜び、

考えれる喜び、

愛する喜び、

エネルギーを獲得できる喜び、

エネルギーを使う喜び、

ものごとに対応する喜び、

ものごとを達成する喜び、

他者と共感する喜び

自己確立の喜びなど

これらの喜びに気づけば、人は幸福となる

(2013・9・24)