03.『幸福について』

人は「幸福」を求める。

だが、何が「幸福」であるかを具体的に決めることは出来ない。

「幸福」とは、「楽しく」「安定した」「豊かな」状態にあることだが、

何がそうであるかを決めることは出来ない。

それらは比較の状態にあるものだからである。

たとえば「楽しく」感じるのは、過去にそういう経験をしたことがあまりないからで、

そういう経験を繰り返せば、やがて飽きて「楽しく」感じなくなってしまう。

「この状態」が「幸福」であると具体的に決めることは出来ない。

今までに「幸福」だと感じた瞬間の積み重ねが、「幸福」だと言える。

しかし人は、「幸福」が何かを具体的に求め、生きる目的にしようとする。

人が「楽しく」感じるのは、『理性ついて』で述べた4つの指令に、

自分が従い、それが満たされた時である。

特に、意識野から発せられる第四指令の「達成欲求」「秩序欲求」、

そして「成長欲求」が満たされたとき、より知的な「楽しさ」を味わうことになる。

だが、この「秩序主義」はその4つの指令に従順に応じない立場である。

それは、この「楽しさ」につられて、自分を振り回されないようにするためである。

自分の意識回路から発せられる、この4つの指令を拒否してはいけない。

これらは、人が生きるための活力を生み出し、命や種族を守り、

そして、生きる時間を有効にするために発せられているからである、

人が生命の長い進化の中で得てきた、命の仕組みだからである。

だが人は、さらに新たな命の仕組みを手に入れた。

それが「理性」である。

「理性」は、客観性を目指す。

「客観性」は,自分をとりまく環境を整備することである。

環境を、「楽しく」「安定に」「豊か」な状態にすることである。

環境を「幸福」な状態にすることにより、

自分が、より確実に「幸福」になれる。

すなわち一次的に自分の「幸福」を求めるのでなく、

環境を「幸福」にすることで、自分も「幸福」となる、

二次的な思考である。

だから、環境の「幸福」のため、自分の「幸福」を

我慢しなければならないこともある。

自分を完全に犠牲にしてしまうことはないが、

短絡的な4つの指令には従わず、それが満たされたときの「喜び」を捨てる、

または、指令に歯向かう不快や苦しみを受ける選択を行う。

その判断の基準とするのが「秩序」である。

「幸福」は比較の状態である。

4つの指令は、貪欲に「楽しさや喜び」を求めるが限りがない。

「足りるを知る」ことが大事である。

それには二つの意味合いがある。

一つは、過剰に求めることに意味がない、

または障害しかないために、多くを求めない。

もう一つは、大雑把に手を広げるより、狭い範囲でも深くつきつめたほうが、

得るものが多いということである。

これらもまた、「理性」の働きである。

そして前章でも述べたが、「理性」は完全ではない。

複雑に絡み合ったものごとを解きほぐすことや、

経験のないことに足を踏み入れることに対して、

「理性」が頼る知性の論理性だけでは、はかり知れないことがある。

ゆえに「感性」を利用する。

「感性」は、ものごとから「違い」を感じる力である。

「感性」は、知性の総合判断力から「違い」を感じることによって、

他とは違う価値または意味を、そのものごとの中に見出す。

論理性では探りえないことを、「感性」は漠然と感じる。

感じる「違い」とは、「魅力」であり、

「違和感」、または「納得感」、「バランス感」などの気づきである。

ゆえに「感性」には、「感度」が重要である。

「感度」を高めるには、「繊細さ」が必要である。

そして、「感性」は本能や欲求にも影響されやすい。

だから「感性」が見つけれるか、見つけられないか、

また見つけたものが、ただの偏見か真実に近いものか、

その精度は、心の持ち方による。

すなわち、心にある領域「理性」の存在の確かさによる。

確固たる「理性」は「感性」を利用して、微妙な「違い」を知り、

そこに潜む因果を探る。

人が幸福になるためには、その環境も幸福にしなければならない。

それは「人」と「環境」のどちらが優先されるべきと簡単に言えるものではないが、

最終的に、より幸福となるほうを優先すべきである。

だから自分の幸福より、環境の幸福を優先することも多くありうる。

「意識」が客観となった状態、それを「理性」と呼んできた。

それは意識の中に、出来るだけ客観的なスペースを作ることだと述べた。

外からの情報を出来るだけ受け入れるため、

その場所は、風通しを良くしなければならない。

外からの情報をかたくなに拒否している者がいる。

そういう者は、「理性」というスペースを十分に持たないため、

傷つくのを恐れて、意識を閉じ込ませてしまっている。

気まぐれに恐る恐る外を覗くか、

自分の主張だけを外に向かって吐き出すだけである。

「理性」のスペースを持つ者は、 窓を開放する。

それは外からの情報をこだわりなく受け入れると同時に、

内部にストレスなどの鬱憤を溜めない。

それは、「感性」を高める。

そして、そこに爽快の風が流れる。

その「爽快の風」こそ、新たな幸福の感覚である。

(2009・8・25)