.『科学について』


 真実を求めるには、論理が重要である。

論理は、大きく三つの構造からなる。


 一つは、「演算の論理」である。

部分の和は全体となる。

 一つは、「集合の論理」である。

これは物事の所属、定義に用いられる。

 一つは、「確率の論理」である。

これは、複雑な要因が引き起こす結果を

全体的な傾向で表わしたものである。


 ある事象に対して、論理が組み立てられる。

その方法には二つある。

演繹法と帰納法である。


 演繹法は、過去の事例(論理)を参考にして、次の論理(仮説)を組み立てる。

たとえば、サイコロを振って1の目の出る確率が1/6であれば、

2の目の出る確率も1/6である、というものである。

三段論法も、これに含まれる。

「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、論理の飛躍が含まれる恐れがある。


 帰納法は、現状の複数の事例を総括して、次の論理(仮説)を組み立てる。

たとえば何回もサイコロを振って、2の目の出る確率が1/6と求めることである。

事例の採取の仕方によって、論理が偏向する恐れがある。

たとえば、少数回の実験で結論づけるなどである。


 演繹法、帰納法どちらにしろ、そこで立てられた論理(仮説)が正か偽かを判定し、

正であれば普遍化するのが、科学である。

まず正偽の判定の手段は、その論理が成り立つデータ、

または、その論理が成り立たないデータの集積である。

そのデータは、多ければ多いほど良い。

そして集積には、偏向や意識が含まれてはいけない。

厳密に、不必要な影響を受けない状態、ランダム、または自然な状態で行われなければならない。

数学では、全く影響を受けない純粋な条件で考察されるので、その結果、その仮説は「正」となりうるが、

現実の状態を扱う科学は、ほとんどの場合、その仮説は完全な「正」とはなりにくい。

科学では、その論理が成立する集積が多くなるほど、より「正」に近づいていくが、

仮説は仮説のままである。


 われわれが真実を求めるのは、起こった問題を解決したいからである。

そのために、解に導く論理を求める。

そしてそのために、科学が過去に証明してきた、

より近似する「正」としての論理(仮説)を利用するのである。

しかし仮説は仮説である。

「偽」である可能性が高いものでも、近似「正」としてされているものもある。

それは科学と言えど、人の関わるものであるから、

そこに錯誤、偏向、作為が入り込むことがあるからである。

ゆえにわれわれは、科学の結論を利用するには、

その論理の整合性をたえず問わなければならない。

   その論理に矛盾するものはないか?

   その論理に反するものはないか?

これを問うのが、「知性の整合性」である。



 世の中には、多くの情報が流れる。

それらはそれぞれの論理を持っている。

その論理は、科学的検証を受けたもの、

その検証が十分でないもの、検証されていないものがある。

そして検証されていながら、実は「偽」であるもの、

検証されていなくても、「正」であるものも存在する。

また、検証出来ないものもある。

われわれは、それらの論理を「たぶん正」として利用する。

すべての知識を得ることなど出来ないから、当然である。

問題解決のために、その論理を利用するのであるから、

問題が解決すれば、その論理が正でも偽でもかまわない。

論理は、その手段であるからである。

 しかし問題をふたたび解くためには、その論理が正しい方が良い。

それが正しいかを見極めるのが「知性の整合性」である。

いわゆる納得である。

自分の知識、経験、感覚から、納得出来るのが、「知性の整合性」である。

それは個人の知性に由来する、だからそれらこそ、錯誤、偏向、作為になりやすい

当然、科学的追求よりは劣るものである。

しかし、その意識を持ってこそ、

科学の結論を正しく扱えるのである。


 多くの先人、学者が多くの説を述べてきた。

巷には、書物が溢れている。

われわれは、それらの中から納得出来るものを選んできた。

納得だけを根拠にするのは、誤りも多い。

科学的検証を受けたものを納得するのが、科学的態度である。

しかしそれらの完璧を求めていては、ようとして問題解決が進まない。

それで、「納得」に頼るのである。

「納得」も知性が豊かになれば、「知性の整合性」としてより有効となる。

科学的態度を意識して、「知性の整合性」を使うのが理想である。




(2023.1)