30.『幻想について』




 幻想や妄想には、虚偽を真実と見せかけるものと、

不明瞭なものを真実と見せかける二つがある

どちらにせよ、幻想とは、社会が個人に与える「思い込み」であり、

妄想とは、個人が本人に与える「思い込み」である。

その幻想が社会を動かす、大きな原動力の一部となっている。


 人は対人関係において、自己を顕示する。

それは「存在本能」に基づく欲求である。

着飾ったり、尊大や謙虚になったりする。

そしてそれは多かれ少なかれの妄想や幻想を作り出す。

だから世の中は幻想であふれている。


 人は、幻想に影響される。

一つはそれが幻想であり虚偽、不明瞭であることに気づかず、従ってしまうことである。

一つはそれが自分の妄想と相まって、確信となることである。

一つはそれが虚偽、不明瞭と判っていても、従わざるを得ない状況にあることである。


 たとえば学校で習ったことが間違いだったとする。

いわゆるそれは真実ではなく幻想の知識である。

しかし多くの生徒は、それが虚偽、不明瞭であるとは気づかない。

学校で習うことは全て正しいという妄想があると、

生徒はその虚偽、不明瞭を正しいと確信する。

そしてそれを正しいと判断しているものを、学校や社会が良く評価するならば、

生徒は、それが虚偽と判っても、従わざるを得ない。


 幻想は虚偽である場合も、しかしその全てが虚偽ではない。

真実を含み、一部が虚偽、

または虚偽であるかどうか不確実、曖昧なものである場合が多い。

たとえば酸っぱいリンゴを「すごく甘い」と宣伝した場合、

厳密には虚偽である。

しかし甘みが全くないわけでもなく、

甘さの判断に、個人差はある。

このリンゴは「すごく甘い」という幻想とともに市場に広がっていく。

多くの幻想は、このように一部の真実、または曖昧さを根拠に、

社会に広がっていくのである。

そして、このリンゴこそ「すごく甘い」という判断になり、

虚偽が真実に変わることもある。

これが幻想の、社会での存在を見えにくくしている。



 幻想はどのように生まれるのか?

産み出される時、二つの場合がある。

その幻想を生み出した者が、それは虚偽、不明瞭であると知っている場合、

その幻想が、生み出した者にとって妄想であり、虚偽、不明瞭と思っていない場合である。

前者には、明確な悪意がある。

後者は、愚者である。

それらが明白に判る場合、幻想はすぐに覚める。

しかしそれが見えにくいと、幻想は拡散していく。



 悪意のあるなしに関わらず、なぜ、幻想は生み出されるのか?

自分や属する集団において、利益を生み出すからである。

一般にイメージを植え付け、欲求を生み出し、または欲求を抑え

自分の優位にものごとを運ぶためである。

幻想は、人の感情を揺さぶり、

人に快楽、安心、意欲

または不快や不安、恐れを与える

そしてそれらは、その幻想を産み出した者を多くは優位にする。


 また幻想は、社会を単純化する。

人々が状況を判断し選択する複雑さ、煩わしさを省く方向に向かせる。

すなわち幻想は、人から思考を奪うのである。

世界規模のものから、国家規模、

社会、組織、企業、集団、隣人まで、

いろいろな形で幻想は生み出される。

形式化されたものは、伝統や慣習、常識や知識、主義や信条

権威や制度、法律や規範となる。




 社会は三つの要素で成り立っている。

一つは、確実なもの、いわゆる秩序である。

一つは、未だ不確実、不明瞭なもの、未知や偶然などである。

そして、もう一つが、虚偽である。

これらは互いに絡み合っている。

そして全てを確実なものと思わせるために、幻想がはびこる。

この社会から、幻想を取り除くことは出来ない。

幻想は、人が社会で生き抜いていくための戦略である。

すべてを疑っていては、人は社会で生きづらい。

しかし、すべてを真に受けるのではなく、

違和感や矛盾を感じたら、

これは幻想ではないかと懐疑的になる必要もある。

それが人生の効率を上げ、

幸福への道しるべとなるのである。




 虚偽ではないが、不明瞭なものを明瞭に見せかけるのも、幻想である。

以下、後者について論じよう。


 社会の効率が良ければ、

生活にムダ、ムラ、ムリがなくなる。

生活に余裕が出来、豊かになる。

そのためには、秩序の構築が必要となる。

社会の効率を上げるため、確実な秩序の構築のため、

日々、文明は進歩する。

これが秩序主義の方針であるが、

その秩序構築にも、容易に幻想が入り込む。


 社会には「明瞭なこと」と「不明瞭なこと」がある。

「明瞭なこと」は、確実な秩序として形成することは容易である。

しかし社会は、「不明瞭なこと」も、秩序化しなければならない。

そうしなければ、社会が混乱し、安定しないからである。

「不明瞭なこと」も断定しなければ、社会が潤滑に回らないからである。

それは、真実であるか虚偽であるか判らない。

「不明瞭」を秩序化する、

そこでも用いられるのが、「幻想」である。


 例えば、集団にはリーダーが必要である。

リーダーがいないと、集団は烏合の衆となってしまう。

ゆえにリーダーが立てられるのだが、

リーダーには、みんなを引き連れていく資質が必要となる。

しかし、その資質は「不明瞭」「不完璧」である。

ゆえにリーダーは、自分が優秀であり、自分に従えば間違いがないように

「幻想」を作り出す。

こうして、集団は曲がりなりにも安定するのである。

そしてそのために、「リーダーに大した能力がない」場合にも、

集団の安定のために、その事実は「不明言」になるのである。

能力のないリーダーのもとでは、その集団は効率が悪い。

しかしその事態は、改善されず放置されるのである。

まずは「安定」が優先されたのである。


 効率UPは幸福そのものである。

幸福の要件は、「安定」「自由」「快楽」「制御」である。

それらを満たすには、「秩序」が必要であるが、

「幻想」は、根拠が不明瞭な「秩序」である。

不明瞭な「秩序」は、不明瞭な「幸福」を生み出す。

しかし、確実な「秩序」より容易に生み出されるのである。


 家の土台作りを例にとろう。

土台が丈夫であれば、建物が安定する。

それは堅実な「秩序」である。

しかし土台を丈夫にするにはコストがかかる、

時間もかかる。

ゆえに過剰な丈夫さは不必要となるから省かれる。

そこに科学的な根拠が用いられるなら、それは確実な「秩序」である。

しかしそのためにも、コストや時間、能力が必要とされる。

ゆえに簡略化として、経験や常識感によって、それがなされるなら、

それは不明瞭な「秩序」となる。

そんな土台の上にも、曲がりなりにも家は建つ。

不明瞭な「秩序」、幻想の元に建てられた、不確実な「秩序」。

多くの「秩序」が、このように幻想を基盤としているのである。



 ふたたび別の例を挙げよう

「ヨーグルトが健康によい」という説がある。

ヨーグルトを常食とするブルガリア地方の人々に長生きが多いというのを根拠に

いくつかの細かな検証結果を持って、

その説が、一般化して信じられている。

しかし大きな効果を示すエビデンス(証拠)はない。

まだ不明確のままである。

これが「ヨーグルト幻想」である。

大手食品メーカーが、優秀の人材の集まった研究室で、

いくつかのヨーグルトを開発し、大々的に販売している。

幻想は、真実として世間に広まっている。

一般の者の誰が、これが幻想だと思うであろうか?

研究者の一人が、これが幻想だと思っても、

ヨーグルトが体にひどい害を与えるわけではなく、

また何らか多少の効果があるなら、

あえてそれを言って、ヨーグルト市場を潰し、

メーカーやそれに関わる人々に損害を与えようとはしないであろう。

こうして幻想は生き延びていくのである。


 幻想は、社会を動かす大きな原動力になり得る。

虚偽である幻想は、結果的には、ほとんどが不毛となる。

文明にとって無意味なこととなる。

ただの流行、人騒がせに終わる。

人々にとって、やがて大きな無駄となる。

無駄が全ていけないこととは言えないが、

文明の発展を遅らせるだけでなく、

やがて文明を滅ぼしてしまう恐れもある。 


 不明瞭を根拠にした幻想は、

その根拠が確実だった場合は、真実となる。

しかしそれが仮説であるという承知は必要である。

それが虚偽である可能性があること、

その幻想に、振り回され過ぎない覚悟は必要である。

幻想によって、秩序が構築されることがあることもやむを得ないが、

この秩序主義が唱える秩序思考の、

フィードバック機能によって、絶えず現状の秩序は見直されるならば、

社会の動向に、正しく対処することが可能である。




《2021.11.