伊東英子をさがせ その3

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3.伊東六郎

つづいては、伊東六郎。この人のことは、文学事典に出ていた。

日本近代文学大事典 / 日本近代文学館編. — 第1巻 ; 第2巻 ; 第3巻 ; 第4巻 ; 第5巻 ; 第6巻 ; 付録. — 東京 : 講談社 , 1977.11-1978.3.

この事典の第1巻、p146に「伊東六郎」の項目がある。それによると、明治21.7.18生まれ。伊東英子は明治23.1.15の早生まれだから、学年だと1つ上。明治44年、東京帝国大学文学科に入学し、大正5年7月中退。チェーホフの翻訳をしたり、荷香のペンネームで短歌や詩も発表。また、本名で小説を発表とか、高踏書房を経営とか、いろいろなことをしていた模様。

伊東六郎の翻訳した小説は、国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができる。

    • アナテマ / アンドレーエフ作 ; 伊東六郎譯. — 東京 : 泰平館書店 , 1913.9.

    • 女天下 / アントン・チェホフ作 ; 伊東六郎譯. — 東京 : 新陽堂 , 1913.11.

    • バッドボーイ日記 / 伊東六郎譯. — 西大久保町 (東京府) : 高踏書房 , 1915.6.

例によって「伊東六郎」をGoogleブックスで検索してみた。

父西條八十 / 西條嫩子著. — 東京 : 中央公論社 , 1975.4.

168 ページ

伊東六郎氏は恋なれた俊子の誘いを素直に清潔にうけて、一時は心傷っきながらも

静かに永久刑」という小説にしたてている。く傾倒していたのは松魚氏その人であった

ようである。そして彼女はこの事件を早速「炮烙の東氏自身、ある地点であっさり

ひきあげて

実際にこの本をみてみると、p166-169は「田村俊子と岡田嘉子」という章で、田村俊子と夫の田村松魚、そして伊東六郎の三角関係が描かれていた。伊東六郎は田村俊子より年下でイケメンだったようだ。また、田村俊子はこの事件を「炮烙の刑」という小説にしており、そこで伊東六郎は宏三という名で登場している。※1

また、普通のGoogle検索で探してみたところ、最近出版された『ロシア文学翻訳者列伝』という本がヒットした。

ロシア文学翻訳者列伝 / 蓜島亘著. — 東京 : 東洋書店 , 2012.3.

この本のp290-294に伊東六郎のことが出ているのだが、この本を読んだ小田光雄は、ブログ「出版・読書メモランダム」の「2012-07-11古本夜話216 伊東六郎、古典文学研究会、向陵社版『神曲』」で、伊東六郎が姑射良のペンネームでポルノグラフィを出版していたのではないかと書いている。※2

このことの真偽はさておき、伊東六郎は大正5年に大学を中退した後、大正6年には雑誌「中外」の編集委員になった。大正10年に「中外」が廃刊になった後、「斉藤昌三によれば、昭和初年頃には阪神方面で映画会社の相当な地位に納まっていたようである」(『ロシア文学翻訳者列伝』p294)。実際には、「文藝年鑑」に書かれていたように、松竹キネマの社員だった時期もあったに違いない。※3

さて、そんな伊東六郎を追っかけていったところ、Googleブックスで、またトンデモナイものがみつかった。

人物・日本映画史 / 岸松雄著. — 第1巻. — 東京 : ダヴィッド社 , 1970.

277 ページ

立した東亜キネマの甲陽撮影所へ監督として招かれることこされた嘉次郎は田中社長

の口ききで、大正十二年末に創しな鐘太は夫人と東京へ行って結婚、生涯を共にした。

のがいい。夫人と錢太の結婚をアッサリ許してくれた。感激かんじんの伊東六郎は温厚

この『人物・日本映画史 第1巻』という本にはいろいろな映画人が取り上げられているのだが、今回みつかったのは映画監督山本嘉次郎の章。※4 大正13年、山本嘉次郎と須田鐘太が、西宮市の香櫨園にあったキネマ旬報本社に居候をしていたころのエピソード。※5 以下、277ページから引用。

鐘太は絵が描けるのでカットを描き、嘉次郎は雑文や穴埋め記事を書き、無芸の豊秋はもっぱら「サブちゃん」こと田中三郎 社長の将棋のお相手をつとめたりしていた。旬報社の近く西宮市西浜新家二二六〇に旬報の出資者伊東六郎の家があった。昭和三年ごろには阪妻プロの仕事をし ていたが、大の洋楽ファンで、レコードをたくさん集めていた。嘉次郎たちは毎夜のごとく押しかけては、レコードを聞かせてもらった。ところが、多情多感な 鐘太はいつか六郎夫人と恋におちてしまった。結婚するつもりだが、許されなければ心中しなければならない。ある夜、鐘太はそう嘉次郎にうちあけた。嘉次郎 は無責任に即座に結婚に賛成したが、出資をあおいでいる田中社長は困った。けれど、かんじんの伊東六郎は温厚な紳士で、おまけにものわかりがいい。感激し た鐘太は夫人と東京へ行って結婚、生涯を共にした。

ここで述べられている六郎夫人が、伊東英子であることは間違いない。大正13年だから、このとき伊東英子は34歳だった。

※1 田村俊子の「炮烙の刑」は、大正3年発行の『木乃伊の口紅』に収録されていて、デジタルコレクションで読むことができる。

※2 姑射良は、大正7年に東京帝國大学国文科卒の姑射良雲(別名:姑射若水)で、伊東六郎とは別人と思われる。

※3 『松竹百年史』によると、伊[東]六郎は大正11年7月に松竹本社営業部の外国部長に入社就任している。

※4 余談だが、山本嘉次郎の妻千枝子は『カツドウヤ(故・山本嘉次郎)女房奮闘記』という本を出している。それによると、山本千枝子は林真珠という名で文章を発表していて、「處女地」でも活躍していたようである。

※5 山本嘉次郎著『カツドウヤ水路』のp.76-77にも同様のエピソードが出ているが、その本では「旬報の出資者」となっているだけで、伊東六郎の名は出てこない。


4.須田鐘太

須田鐘太。「すだ しょうた」と読む。

Googleで検索すると、昭和20年代前半に映画の企画・製作をしていたことがわかる。どうやら大映に勤めていたようだ。そこで、大映の社史を探したところ、『大映十年史』という本があることがわかった。

大映十年史 / 大映株式会社編. — 東京 : 大映株式会社 , 1951.

これをみたら、須田鐘太は、なんと、大映の取締役だった。顔写真も掲載されているが、二枚目のいい男。

こんな重役クラスの人なら、「人事興信録」にも掲載されているだろうとチェックしたら、1951年の第16版と1953年の第17版に掲載されていた。

人事興信録 / 人事興信所編. — 第16版. — 上 ; 下. — 東京 : 人事興信所 , 1951.11.

人事興信録 / 人事興信所編. — 第17版. — 上 ; 下. — 東京 : 人事興信所 , 1953.9.

以下、第17版の上、す之部の3ページから引用。

須田 鐘太(すだ しょうた) 大映(株)取締役・東京撮影所長 大阪市出身

明治二十八年一月十五日に出生した京大土木科を中退し昭和十七年一月大日本映畫製作東京第二撮影所長となり本社企畫者を經て同二十一年六月大映東京撮影所 次長兼企畫部長に就任し翌二十二年十二月取締役に選ばれ東京撮影所長プロデューサーを歴任同二十六年勞政擔當となり後東京撮影所長を委囑された[住]杉並 區永福町三五四[電]松澤32六八三

伊東英子の誕生日は明治23.1.15だから、須田鐘太はちょうど5歳下の同じ日の生まれということになる。

また、取締役のような偉い人なら、亡くなったとき新聞に載るはず。物故者をまとめた『人物物故大年表』をチェックしたところ、須田鐘太は昭和30(1955)年4月7日に亡くなっていたことがわかった。朝日新聞の縮刷版をチェックしたら、4月8日の朝刊7面に出ていた。7日の午後3時、肝臓病のため死去、享年60歳。告別式は新宿区牛込河田町の月桂寺で。

この時期の雑誌「キネマ旬報」をチェックしたところ、「キネマ旬報」118号(1955.5上旬)に、筈見恒夫「鐘太さんの思い出」をはじめとする追悼記事が掲載されていた。が、残念ながら須田夫人に関する記述はなかった。

5.須田英子

さて、先に掲げた岸松雄著『人物・日本映画史 第1巻』には「東京へ行って結婚、生涯を共にした。」と書かれていた。似たようなことが(やはりGoogleブックスでみつけた)岩崎昶著『映画が若かったとき』のp368-374にも書かれている。こうしたことから、須田鐘太が昭和30年に亡くなるまで、伊東英子、いや、須田英子は存命で、須田鐘太と生活を共にしていたと思われる。昭和30年、須田英子は65歳だった。

ここで文献による手がかりは途絶えてしまったのだが、さらに探すとすれば、たとえば以下の2通りが考えられる。

    • 須田鐘太が生前住んでいたのは「杉並區永福町三五四」なので、杉並区役所に問い合わせる。

    • 須田鐘太の告別式が行われた月桂寺に問い合わせる。

なお、須田英子名義で何か作品が書かれていないかチェックしたが、それらしいものはみつからなかった。

まとめ

以上をまとめると、次のようになるだろう。

伊東英子(いとう ひでこ)、明治23(1890).1.15生まれ。旧姓の「伊澤英子」をはじめ、「ひつじくさ」、「濱野ゆき」、「濱野雪」、「濱野雪子」の名で、明治末期から昭和前期にかけて作品を発表した。

没年は不明だが、須田鐘太が亡くなった昭和30(1955)年には存命だったようなので、少なくとも50年後の2005年までは著作権が存続していたと思われる。

nikiitaさまからの情報によると、没年は昭和48(1973)年で、著作権は50年後の2023年まで70年後の2043年まで存続している。

今回の調査では、インターネット上で公開されているデータベースを多用した。特に、Googleブックスがなければ、ここまでたどりつくことはできなかっただろう。感謝感謝。

なお、当方のサイト「ネコ印二百科事典」に、今回調査した伊東英子、伊東六郎、須田鐘太の文献リストを掲載したので、興味のあるかたは参考にしてほしい。

追記(2012/9/23):

「季刊銀花」19号(1974.9)に、秦秀雄「寂寞孤高の芸術家 藤井達吉の絵」という文章が掲載されているのをみつけた。このうち、p101に以下の記述がある。

達吉の歿後、諸家がその思い出を記している文がある。その中に元大映多摩川撮影所長夫人、故須田英子の一文は、達吉の日常を知らせ、彼に親炙したしたこともない私に彼の日常を彷彿としのばしめる好記録である。(以下略)

この記述の元を探したところ、『孤高の芸術家藤井達吉翁』という本であることがわかった。

孤高の芸術家藤井達吉翁 / 松尾信資編. — 東京 : 丸善 , 1965.8.

この本のp182-188に、須田英子の「思い出のかずかず」という文が掲載されている。藤井達吉をしのぶ文章で、達吉の葬儀(1964.8)には健康がすぐれなくて参列できなかった、とある。

また、秦秀雄は「故須田英子」と書いているので、須田英子が亡くなったのは1964.8から1974.9の間であると思われる。

追記(2013/2/21):

nikiitaさまから、以下の情報をいただきました。どうもありがとうございました。

お探しの須田英子は私の伯母にあたります。昭和48年7月20日に亡くなりました。

大願院鐘室妙英大姉が戒名です。

追記(2016/4/8):

伊東英子について、神戸女子大学の永渕朋枝教授が以下の論文を書かれています。

永渕朋枝. 藤村発行「処女地」に執筆した〈無名〉の女性達 : 伊東英子・林真珠. 神女大国文 (26), 11-27, 2015-03

永渕朋枝. 「処女地」の伊東英子「凍つた唇」 : 別名・・「少女画報」の伊澤みゆき・「青鞜」の濱野雪. 国語国文 84(8), 20-41, 2015-08

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