あなたがあなたであるために

沖矢昴の姿で記憶喪失になってしまった赤井さんと一緒に住む安室さんの話


※謎時間軸、なんでも許せる方向け

※二人の話し方が敬語だったり砕けていたりするのは仕様です


<1> -降谷Side-



 喫茶ポアロにコナンが飛び込んできたのは、ランチタイムのピークが過ぎた頃。小学生の子どもたちがすでに下校している時間だった。

「安室さん、大変なことが起きたんだ。すぐに僕と一緒に米花中央病院に来てくれない?」

 息を切らしているコナンを見て、何かただならぬ事態が起きたのだとわかる。すぐに早退を申し出て、エプロンを脱ぎ捨て外へと飛び出した。

「いったい何が起きたんだい?」

 愛車のRX-7に乗り込みながら、コナンに問う。助手席に座ったコナンがシートベルトを締めるのを見て、アクセルを踏み込んだ。

「実は、昴さんに変装していた赤井さんが事故に遭って……」

 不意打ちで頭を撃ち抜かれたような衝撃。ハンドルを握りしめる手が震えぬよう、両手に力をこめる。

「……容体は?」

「命に別状はないんだけど、頭を強く打ったみたいで、目が覚めたら記憶喪失に……」

「記憶喪失?!」

 思わず大きな声を発してしまう。コナンは重々しく頷いて、話を続けた。どこを経由してコナンに連絡が届いたのか。気になるところではあったが、今は問い詰めないことにする。

 コナンの話によると、赤井は、車に轢かれそうになっていた少女を助けようとして事故に遭ったらしい。

 ひどい怪我はなかったが、頭を強く打ち意識を失った赤井は、救急車で病院へと運ばれ、怪我の処置と頭部の検査を受けた。そこでの検査で異常は見つからなかったが、意識を取り戻した赤井は、何も思い出せない状況になっていたのだという。

 ここ最近の記憶がないだとか、そのような生易しいものではない。自分の名前をはじめ、歩んできた人生すべての記憶を失っているというのだ。

「しかも、ちょっとややこしいことになっているんだ……」

「ややこしいこと?」

「記憶を失くしている赤井さんに、『あなたの名前は沖矢昴さん。東都大学の大学院生ですよ』って教えた人がいて……それ自体は問題ないんだけど、記憶がないから、自分のことを本当に大学院生の沖矢昴だと思い込んでしまったんだ」

 沖矢の姿で事故に遭ったということは、学生証でも持ち歩いていたのだろう。それを見た医師か看護師が、彼に教えてあげたといったところか。

「つまり、自分を沖矢昴だと思っている赤井に、『赤井』であることを思い出させる必要がある、ということだね」

「うん」

「コナン君、君は一度、記憶を失くした赤井に会っているんだろう? 赤井はどんな様子だったんだい?」

「幸い、髪と顔は昴さんのままなんだけど、あとは赤井さんそのものなんだ」

「記憶を失くしているんじゃ、演技もできないか……」

「検査のときに変声機を外されてしまっているから、声も赤井さんのものだよ」

 赤井は変声機を首に巻いていたことも忘れている。声を偽り瞳を隠す――沖矢として必要になる演技は何ひとつできない状況ということだ。

 かろうじてそのままになっている髪や顔も、気づけば取り払ってしまうだろう。

 あの碧色の瞳と声があれば十分、赤井であることは証明されてしまう。

「君の言う通り、ややこしいことになっているね」

「……うん」

 今はまだ、赤井秀一はこの世にいてはならない存在だ。赤井の存在を隠し通すためには、赤井が赤井であることを思い出す必要がある。

 コナンが自分を呼んだのは、赤井の記憶を取り戻すのに、自分の力が必要だと思ったからなのだろう。

 ゾクゾクとした震えを感じながら、降谷はハンドルを切る。すべての記憶を失っているということは、無論、自分のことも忘れているのだろう。降谷は低くおさえた声で呟いた。

「俺のことを忘れるとは、良い度胸をしているな、FBI……」



<2>



 米花中央病院、赤井の病室の前。

 コナンに緊張を悟られないよう、降谷はすかさずコンコンコンとドアをノックした。部屋の中から、「どうぞ」と赤井の声がする。コナンの言った通り、沖矢昴の声ではない。

 部屋に入ると、沖矢の格好をした赤井が、ベッドの上で上半身を起こし座っている。

 テーブルの上には、沖矢の持ち物であろう学生証、スマートフォン、財布、そしてチョーカー型の変声機があった。

「ボウヤ、彼は誰だ?」

 姿は沖矢だが、声や言い方は赤井である。違和感しかない。

「えっと……この人は……」

 どう説明すべきか迷っているのだろう、コナンが自分を見上げてくる。

 降谷自身も、赤井にどう説明すべきか考えがまとまっていなかった。すると、赤井の方から問いかけてくる。

「もしかして君は、俺の同期生かな?」

 沖矢の同期生ということは、つまり、自分は赤井に学生だと思われているということになる。

 頭にカチンとくるとは、まさにこういうときのための言葉だろう。降谷は思わず、事実と異なることを赤井に告げていた。

「いや、僕は君の先生だよ」

「安室さん?!」

 コナンが驚きの声を上げる。なんでそんな嘘を? とコナンの瞳が告げているが、降谷はかまわず続けた。

「僕は安室透。東都大学の客員教授です」

「それは……失礼しました」

 赤井は、信じられないとでもいうような表情を浮かべたが、すぐに謝罪する。先生とわかるや否や敬語になるところがおもしろい。

 赤井の強い視線を感じながら、降谷は教授像を頭の中で構築していく。おそろしいほどに手探りの状態だが、一度吐いた嘘は貫き通さなければならない。

 中途半端が許されない重圧と、嘘を吐いている負い目もあり、赤井のあの碧色の瞳にまっすぐ見つめられるのはどうにも居心地が悪かった。

 ふと、その碧色の中に微かな揺らぎを見つけて降谷は動揺する。あの赤井でも、記憶喪失は相当堪えているのかもしれない。

「いや、かまわないよ。事情はコナン君から聞きました。記憶が戻るまで、僕があなたの面倒をみます。退院したら、しばらく僕の部屋で暮らすといい」

「あ、安室さん?!」

 再びコナンが驚きの声を上げる。「大丈夫だよ」と降谷がこたえると、コナンは心配そうな顔をしながらも、異論を唱えることはしなかった。

「先生と私が、教授と院生の関係であることはわかりました。でも、本当にそれだけですか?」

 赤井の問いかけに、降谷は顔が引き攣りそうになる。こういう鋭いところは、記憶を失う前とまったく変わらない。

 降谷はフッと笑みを浮かべて言った。

「もちろん、それだけだよ。今日はもう帰ります。君の退院日にまた来るから、それまで安静にしておくんだよ」

「……了解しました」

 赤井の発する敬語にむず痒さを感じながらも、降谷は微笑む。

「じゃあコナン君、帰ろうか」

 これ以上、赤井と視線を合わせていると嘘を見破られてしまいそうだ。コナンを促して、そそくさと一緒に病室を出る。

 赤井の病室から遠ざかると、コナンがすぐに問い詰めてきた。

「安室さん、なんであんな嘘を?」



<3>



 ついカッとなって……とは言えず、もっともらしい理由を告げる。

「怪しまれないように赤井に近づくには、大学の先生とでも言っておいた方がいいと思ってね。兄や弟と言っても信じてくれないだろうし」

「でも、FBIの人達が赤井さんに連絡をしたら、すぐにバレちゃう嘘だと思うよ」

「……FBIには僕から連絡するから大丈夫さ」

 病院の外へ出て、降谷はすぐに風見に電話をかけた。

 まずは、FBIの面々と会う時間を設け、事情を説明すべきだろう。あとは東都大学の工学部に客員教授がいるという事実を作り上げる必要がある。

 外界との接点を失くすために、赤井のスマホも使えなくしておくべきだろう。赤井が沖矢の変装を解いて外へ出たりしないように、見張りの人間も配置しなくてはならない。

 やるべきことが多いので、その場で考えながら風見に指示を与えていく。

 コナンは一歩下がった場所からこちらを見ていたが、降谷が電話を切ると、様子を窺うように近づいてきた。

「待たせたね、コナン君」

 二人並んで歩きながら、駐車場を目指す。

「ねぇ、安室さん……安室さんはどうして、赤井さんと一緒に住もうと思ったの? どうして赤井さんのためにそこまで……」

 コナンは純粋に疑問に思っているようだった。自分たちのこれまでの関係を思えば、当然の疑問かもしれない。

 赤井と一緒に住むことを決めたのは、赤井のあの瞳を見たからだ。早く記憶を取り戻したいという意志の中に、一縷の揺らぎが見えた。

 赤井はどんな状況であってもひとりで生き抜く強い力を持っている。突き放しても勝手に生きていきそうな男だと言ってもいい。自分たちが手をかさずとも、自力で記憶を取り戻せるかもしれない。

 それでも、降谷は放っておけないと思ってしまった。と同時に、赤井があんな瞳を向けるのは、自分以外にあってはならないとさえ思った。

 子どもじみた独占欲の中に、赤井にとっての特別は自分だけだという自負があった。こんな自信をつけさせたのは、すべて赤井に責がある。

 降谷はコナンを見下ろして告げた。

「今の赤井を、僕らの知る赤井に戻せるのは……僕だけだからさ」

「……安室さん」

「それに、一緒に住んでいた方が色々と都合が良いからね」

 コナンはそれ以上、何も言わなかった。賢い少年だ。自分と赤井の間に、他人が立ち入れない領域があることを、ちゃんと理解している。

 駐車場に辿り着き、愛車のRX-7に乗り込む。

 これから先、どうするつもりでいるのか。車の中で、降谷はコナンに自分の考えを打ち明けることにした。

 


<4>



 沖矢の姿をした赤井が退院する日。

 降谷は愛車のRX-7で米花中央病院に赤井を迎えに行くことにした。

 経過観察での入院で特に異常は見られなかったため、事故から一週間も経たないうちに退院となった。ただ、記憶はまだ失われたままのため、何か異常を感じたらすぐに病院に来るよう言われている。

 赤井をそばで見守るために、しばらくはポアロの仕事をセーブする必要がありそうだ。公安の仕事は、風見に任せていれば問題ない。自分が必要になれば、そのタイミングで連絡が来るだろう。連絡が来なければ、自分がいなくても事は進んでいるということだ。

 退院の手続きを終え、二人で駐車場へと向かう。その途中で、赤井がふと立ち止まり、問いかけてきた。

「本当に、先生の家で一緒に住むんですか?」

「ああ、そうだよ」

 敬語で話しかけてくる赤井に違和感を覚えながらも、降谷は頷く。記憶を失った赤井にとって、自分は見知らぬ他人のようなものだ。赤井にとっての自分が本当に安全で信用できる人間なのか。赤井は一種の警戒心を抱いているのかもしれない。

 と思ったが、赤井には自身の身の安全以上に気になることがあったようだ。

「どうして私に、そこまでしてくれるんですか?」

「それは……君が僕の生徒だからだよ」

「ただの生徒を、自分の領域《テリトリー》に迎え入れると?」

 記憶を喪失した赤井に初めて会った日。自分たちが本当に、先生と生徒の関係だけに留まるのかと赤井は問うてきた。あれからずっと、赤井なりに思案していたのだろう。だが、記憶を失った人間の推理にはやはり限界がある。赤井の中でおそらく答えは出ていない。

 自分たちがただならぬ関係にある、というところまで推理しているのならば上出来といったところだろうか。

 自分たちの本当の関係は、あの名探偵――江戸川コナンでさえも知らないほどのトップシークレットなのだから。

「大切な生徒が困っていたら、助けるのが先生の役目ってものだよ。一緒に住むくらいのことはするさ。さぁ乗って」

 愛車の前に辿り着いたので、赤井に助手席に乗るよう促す。おとなしく車に乗った赤井がシートベルトを締めるのを見て、降谷はアクセルを踏み込んだ。

 陽気な午後の昼下がり。このままドライブするのも気持ちいいかもしれないが、まずは家に向かうのが先だ。家に着いたら、すぐに赤井に話しておかなければならないことがある。

 マンションの前に辿り着き、車を減速させると、赤井が周囲を見渡しはじめた。

「……MAISON MOKUBA。ここが先生の家ですか?」

「そうだよ。自分の家だと思って過ごしていいからね」

 駐車場に車を停めて、マンションの中へ案内する。部屋のドアを開けると、愛犬のハロが勢いよく自分に向かって駆けてきた。

 朝、自分が家を出てからそんなに時間は経っていないというのに、ハロは全力でお出迎えをしてくれる。「アンッ! アンッ!」と、嬉しそうに鳴くハロを抱きかかえると、赤井が驚いたような表情を浮かべて言った。

「先生は犬を飼ってるんですか?」

「そうだよ。もしかして君、犬は苦手だったかい?」

「いえ、そんなことは……」

「じゃあ、仲良くしてくれると嬉しい。名前はハロっていうんだ」

 抱きかかえたハロを赤井の顔に近づける。赤井は目を瞬かせ、そっとハロの頭を撫でた。

「よろしく、ハロ君」

「アンッ!」

 ハロは大きく一声鳴くと、元気よく降谷の腕の中から飛び出し、部屋の中へと入っていく。ハロを追うように、降谷は赤井に部屋の中へ入るよう促した。

「さぁ入って」

「はい」

 玄関のドアに鍵をかけ、部屋の中へと進む。

 部屋に盗聴器などの余計なモノが仕掛けられていないかを確かめ、窓の外もよく観察し、まだ昼間だがカーテンを閉めた。自分の行動に赤井が訝しむような表情を向けているのを感じるが、説明よりも外界からの接点を絶つことが先だ。

 家中を確かめてようやく、降谷は赤井に向き直る。

「待たせたね。まずはじめに……君に話しておかなければならないことがあります」

 降谷は赤井が被っている沖矢の変装マスクに手を伸ばした。しかしその手は、瞬時に赤井に掴みとられてしまう。

「先生は、私のこの顔の秘密を知っているんですね?」



<5>



 降谷の手首を掴む赤井の手に力がこもる。振り払おうとしてもビクともしない。降谷は身体の力が抜けていくのを感じた。

「気づいていたのか……」

「ええ……目覚めてすぐ違和感を覚えたので」

「気づいていたのに、外さなかったのかい?」

「外すにも手順を知らないので、間違って破くかもしれませんし……それに、変装している理由がわからない以上、変装を解くのは危険かと」

「なるほど」

 赤井は、自身が変装を要している状況だということを瞬時に理解していたようだ。

 病室に監視カメラを設置し、病室の周辺に見張りも配置していたが、赤井が沖矢の変装を解いたという報告は一度もなかった。赤井がおとなしく入院生活を送っていたのは、この変装マスクの存在に気づいていたからなのだろう。

 変装しなければならない状況というのは、一般の学生にとって普通ではない。普通ではない以上、目立った行動は控えるべきだと察したのだろう。記憶を失っていても、状況把握の能力と捜査官として培われた勘は健在のようだ。

 タイミングさえあれば自身の境遇を知る手がかりを探ろうとしていたのかもしれないが、その道は降谷が塞いでいる。

 赤井のスマホは使用できない状態にしていたし、FBIには話を通してあったので、誰かが赤井を訪ねるようなこともなかったはずだ。外界との接点が絶たれた赤井にとって、できることは数少ない。そこで赤井は、無理に動こうとはせず、静観を選んだということなのだろう。

「それで、私が変装をしている理由を先生は知っているんですよね?」

「ああ、知っている……」

「その理由を、教えてはくれないのですか?」

「……君の本当の顔は、ある人物に酷くよく似ていてね。今、表に出るのは少々厄介なんだ……」

「犯罪者にでも似ているんですか?」

 赤井の問いかけに、降谷は思わず笑ってしまいそうになる。

「いや、そんなんじゃないよ。ただ、君が本当の姿で出歩くと混乱を招くから、できればこの家からあまり出ないでほしいと思っている。どうしても外出したいときは必ず僕の許可を得ること。変装は僕が手伝うから心配しなくていい」

「……そこまで私に過保護になる理由が? いったい私は誰に似ているんですか?」

「それは……君が記憶を取り戻せばすべてわかることだよ」

「今、教えてはくれないんですか?」

 逃がさないとでもいうように、赤井の手が力強く降谷の手首を握りしめてくる。

 赤井の感情を受け止めながらも、降谷は赤井に答えを告げることはしなかった。



<6>



 赤井が記憶を取り戻すのに、どれくらいの時間がかかるのかはわからない。怪我の治癒とは異なり、予想することも難しい。赤井が早く記憶を取り戻せるように、自分が知る赤井のすべてを、今すぐにでも教えてあげるべきなのかもしれない。記憶を失くした赤井を放っておけずに自分の家まで連れて帰ってきたのだから、その役目は自分が担っているといってもいいだろう。だが、自分の口が思うように動いてくれない。

 自分の手首を掴む赤井の手をそっと撫でながら、降谷は言った。

「君が記憶を取り戻すための手助けはする。でも、すべてを教えることはできない」

「なぜですか? すべて教えてくれた方が効率的だと思うのですが」

 赤井の言う通りだ。ただ口を開いて事実を述べればいいだけなのに、なぜそれができないのだろう。学校の先生が生徒にすぐ答えを教えたりしないように、今答えを教えては自分たちのためにならない――そんなことを考えているわけでもないのに、自分で自分の思考がわからない。

「どうしてだろうね……簡単に言葉にできそうにないんだ」

 頭の中で考えを整理し言語化する。今まで難なくやってこれたことが、なぜか今は、ひどく難しく感じる。相手が赤井でなければ、その人の出生から今日までを時間をかけて説明し尽くしただろう。赤井が相手だからこそ、自分はこんなにも混乱してしまうのだろうか。赤井に対して、言葉では言い表せない複雑な感情を抱いているから――。

 碧色の瞳と目が合う。自分を探るようなその瞳の奥に、この男の本音が見え隠れしている。この男の興味は、自身の記憶よりも、赤井のことを語ろうとしない自分へと向けられている。

 尋問でもされるのだろうかと一瞬身構えたが、予想に反して赤井は表情をやわらげた。赤井の手から力が抜けていき、自分の手首から離れてゆく。降谷は心の中だけで、ほっと安堵の息をついた。

「納得はできませんが、今は先生の言うことに従います。それで、私は一日中この姿でいなければならないんですか?」

 赤井の手が、自身の顔や髪に触れていく。被り物をし、違和感のある状態で何日も過ごすのは、さすがに堅苦しいのだろう。

「昼間はその姿でいてほしい。夜には君の変装を解こう」

「わかりました」

「それから、これを君に……」

 降谷はポケットからスマートフォンを取り出し、赤井に差し出した。

「このスマホは?」

「僕が持っている予備のスマホだ。僕のアカウントで通販アプリにログインしてある。必要な物はこれを使って好きに買ってもらって構わない。……常識の範囲内で」

「ありがとうございます」

 スマホを受け取った赤井は、そのスマホの中身を慣れた手つきで確かめはじめた。記憶は失くしているが、知識は失くしていないという事実を垣間見る。

「一応、今日明日の生活には困らないように、服や下着は買ってある。日用品も一通り揃えてある。僕の部屋以外は自由に入っていいから、不足しているものがないかは早めに確かめておいてほしい。他に、質問は?」

 赤井は顎に手を当て、しばらく思案する素振りを見せた。いったい何を言われるのだろうかと少しばかり緊張したが、赤井の口から飛び出したのは、その緊張感も吹き飛ぶほどにしょうもないことだった。

「煙草を吸っても構いませんか?」

「喫煙者であるという記憶はあるのか?」

「いいえ。ただ、口元がさびしいと感じることが度々ありまして……おそらく煙草を欲しているのではないかと。私がどの銘柄を吸っていたかくらいは教えてくれますよね?」

 どこか挑戦的な目で自分を見る赤井に、降谷は反抗する気も起きず、やれやれと肩を竦めた。

「……煙草は買ってきてやる。吸うのは、換気扇の下かベランダで頼むよ。ハロがいるからね」

「了解」

 赤井の返事に、降谷は思わず目を見開いた。耳慣れた言葉に、身体が震える。赤井は何事もなかったかのように、部屋の中を物色しはじめた。

 赤井自身は気づいていないのだ。記憶を失くす前と同じ調子でその言葉を発したことを。今の声音は、自分のよく知る赤井のそれだった。



<7>

 


 自分の許可なく外出しないこと、と念押しして言ってから、赤井の煙草を買うために降谷は家を出た。

 あまり遠出はしたくなかったので、近所にあるコンビニに入り、目的の煙草の番号を店員に告げる。箱数をきかれて、二箱、とこたえた。ダース買いするかどうか悩んだが、これを機会に煙草を吸う本数を減らしてゆくのもいいかもしれない。自分と一緒に住むのだ。赤井には健康的な生活を送らせてやる、と降谷は心に決める。

 家に帰り、煙草の入った袋を差し出すと、赤井は礼を言ってそれを受け取った。

「火をつけるものはありますか?」

「ちょっと待っててください」

 マッチくらいならば部屋に置いておいたはずだ。降谷が自室にマッチ箱を取りに行き、戻ってくると、赤井はすでにベランダにいて、箱から煙草を取り出しているところだった。外から姿が見えにくい位置に立っているのが、なんとも赤井らしい。沖矢の姿であっても、必要最低限の注意を怠らない。その思慮は、記憶の有無には関係なく、赤井自身にもとから備わっているもののようだ。

 マッチ箱を投げ渡してやろうかとも考えたが、なんとなく近づいてみたくなって、気づけばマッチ箱からマッチを取り出し火をつけていた。

 赤井は口に煙草をくわえて、自分が灯した火に顔を近づけてくる。煙草に火が灯るのを見て、降谷はマッチを振り火を消した。

 今は記憶を失い沖矢昴の姿であるにもかかわらず、煙草を吸う仕草は赤井そのものだ。身体が覚えてしまっているのかと思えるくらい、煙草を吸う所作は自然で、赤井は味わうように煙草を吸った。

「……うまい」

「その煙草の味、覚えているんですか?」

「記憶にあるかないかで言えば“ない”んですが、懐かしく感じます」

「……そう、ですか」

 人の記憶は、聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚の順に忘れられていくものらしいと聞いたことがある。嗅覚や味覚が記憶に残りやすいと考えれば、赤井が煙草の匂いや味に既視感を覚えても不思議ではない。

「人の記憶は、聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚の順に忘れられていくと聞いたことがあります」

「……」

 赤井が自分とまったく同じことを考えていたことがわかり、降谷は息をのむ。

「この煙草に懐かしさを感じるように、この部屋にもどこか懐かしさを感じる……私が先生の家に来たのは初めてではないですよね?」

 この家に来てまだ半日も経っていないのに、そこまで見抜かれていたとは。

 部屋の中を物色していたときに、何かが記憶の断片に引っかかった可能性はある。だが、赤井の場合、“この家に来たことのある感覚”をまず先に手に入れた可能性が高い。普段は意識しなくても、それぞれの家に“匂い”というのは存在するからだ。

 赤井は昔から、論理的な思考で結果を導くことに留まらず、一種の勘をも味方にしてしまうところがあった。

「その質問については、ノーコメントだ」

 降谷が告げると、赤井はフッと不敵な笑みを浮かべた。降谷のこめかみから汗が伝う。この場合、「ノーコメント」と言った時点で、その事実を認めたようなものだ。嘘でも、そんな事実はないと言うべきだったのだ。普段の自分ならば、嘘をつくことも誤魔化すことも、難なくこなしてみせるのに、相手が赤井だとどうしてもうまくいかない。

「それは、残念です」

 残念と思っていないような口調で、赤井が言った。降谷は一言二言言い返したい気持ちになったが、ぐっと我慢する。口を開けば、さらに自分で自分の首を絞めることになりかねなかった。



<8>



 まだ昼食を取っていなかったので、降谷は冷蔵庫から材料を取り出し、肉野菜炒めを作った。あまり調理に時間をかけたくないときによく作っていて、赤井にも美味しいと言われたことがある。炊き立ての白いご飯、味噌汁、ほうれん草のお浸し、そして肉野菜炒めをテーブルに並べて、赤井と向かい合って座る。こうして赤井と食事をするのは初めてではないのに、赤井が沖矢の姿をしていることもあってか違和感も少々食卓に加わった。

「これは美味しそうですね」

 赤井が感想を述べるのを聞いて、降谷は思わず吹き出すように笑ってしまう。赤井が自分の料理を見たときの常套句だからだ。もちろん敬語ではなく、「これは美味そうだ」などと砕けた口調で言っていたのだが。

 冷めないうちにどうぞ、と降谷が促す。しかし赤井は箸を料理に伸ばそうとしない。

「……どうしました?」

「いえ……食事の前に何かをしていたような気がして。手は洗いましたし、何も不足はしていないと思うのですが……」

 赤井がこの家で食事をするときにしていたこと、病院ではおそらくしていなかったこと……降谷は思案し、その答えに辿り着いた。何かが足りないということに気づいたということは、記憶が完全に絶たれたわけではないのかもしれない。そんな期待をも同時に抱く。

「それは、これじゃないですか?」

 降谷が両手を合わせて「いただきます」と言うと、赤井が目を見開く。そして、降谷に倣うように、赤井も手を合わせて「いただきます」と言った。赤井が頬を緩ませて笑う。降谷の与えた答えが、しっくりきたのだろう。

「……ええ、これのような気がします」

 答えが見つかって嬉しいのか、顔を綻ばせたまま、赤井は料理へと箸を伸ばした。大した料理を作ったわけでもないのに、赤井は料理ひとつひとつに感想を述べるのでなんとなく気恥ずかしくなる。

 初めて赤井に自分の料理を振る舞ったときのことを降谷は思い出していた。あのときも、赤井はこうして料理ひとつひとつを賞賛したのだ。食レポかと思うほど饒舌になる赤井が珍しくて、途中から笑い転げてしまったのを覚えている。降谷にとっては楽しい記憶だった。

 米粒ひとつ残さず食べ終えると、赤井は再び何かを考えこんだ。降谷はすぐに、赤井が何を考えているのかを見抜くことができた。

「食事が終わったあとは、さっきと同じように手を合わせてこう言うんですよ」

 降谷が両手を合わせて「ごちそうさまでした」と言うと、赤井も同じように両手を合わせて「ごちそうさまでした」と言う。降谷が「おそまつさまでした」と言葉を重ねると、赤井が目を瞬かせた。

「それはなんですか?」

「ごちそうさまって言ってくれた相手に対して、料理を提供した側が言う言葉です。大した料理ではなくて申し訳ないという意味で、日本人らしい謙遜な気持ちを込めた言葉なんですよ」

「大した料理でしたよ」

 間を開けず赤井が言うので、またしても笑ってしまう。「大した料理だったぞ」と以前赤井が口にした言葉が瞬時に思い出されて、またしても笑いがとまらなくなってしまう。以前と同じやり取りを自分たちが繰り返しているなんて、赤井は思ってもみないだろう。

 記憶を失う前でも後でも、赤井の言うことに変わりはない。記憶を共有できないことが寂しいと感じる気持ちはゼロではないけれど、赤井は赤井なのだと知ることができて、降谷は素直に嬉しいと感じる。

 あまりにも自分が笑うので、赤井が不思議そうな目をしてこちらを見ていた。降谷は目尻に浮いた涙を人差し指で拭って、赤井に感謝の気持ちを述べた。

 過ぎし"彼の日"と同じように。

「ありがとうございます」



<9>



 瞬く間に夕方になり、ハロの散歩に行くことにした。赤井は退院したばかりなので、運動は制限した方が良い。このまま家で留守番をしてもらった方が安全でもある。だが身体をまったく動かさないというのも良くないだろうと思い、赤井も外に連れ出すことにした。

 もちろん、遠出や人の多い場所は避けなければならないし、人の目が赤井に触れないようにしなければならない。降谷は注意深く周囲を見渡しながら、赤井と並んで歩く。家の近くにある遊歩道を歩き、小さな公園へと入った。公園で遊んでいた子どもたちはすでに帰ってしまったのだろう、自分たち以外に人はいない。リードを外すと、ハロは待ってましたとばかりに勢いよく駆け出した。

「アンッ! アンッ!」

 自由に楽しそうに走り回るハロを見守りながら、降谷は座れる場所を探す。ベンチもあったが、なんとなく目の前にあったブランコに座ることにした。赤井も自分についてきて、隣のブランコに腰を下ろす。

 軽く身体を揺すると、ブランコがキイキイと懐かしい音を立てた。ブランコに乗るなど何年振りだろう。赤井も身体を軽く揺すって、キイキイと音を立てている。赤井は脚が長いので、動きもぎこちなく、窮屈そうにも見えた。

 しばらくキイキイとお互いの鳴らす音が響き合う。降谷は声を立てずに笑った。赤井とこうしてブランコに乗る日がくるなんて、夢にも思っていなかった。これまで想像したこともない、穏やかな時間が流れている。

 赤井がふと口を開いた。

「ここにはよく来るんですか?」

「いや……たまに来る程度だよ」

 いつも散歩をするときには自分のトレーニングも兼ねているので、河川敷など別の場所に行くことが多い。今日は病み上がりの赤井と一緒なので、ゆったりと腰を落ち着けられる場所を選んだのだ。

 いつか赤井が全快したら。誰が一番早く走れるか、河川敷でハロと一緒に競争をするのも楽しいかもしれない。叶うかどうかもわからない未来のことを考えていると、赤井がブランコの動きを止めて、まっすぐこちらを見つめてきた。

「今度は、先生がよく行く場所に連れていってくれませんか?」

「それはいいけど、どうして?」

「先生のことをもっとよく知りたいなと思いまして……」

「え……」

「色々教えてください、安室先生」

 そう言って、赤井が目を細めて笑う。まるで沖矢のような言い方と表情をしたので、降谷は思わずムッとしてしまった。

「アンッ!」

 ハロが駆け寄ってきたので、降谷はブランコから腰を上げる。持ってきていたボールを取り出して、一緒に遊んであげることにした。その間ずっと、赤井の視線を感じて降谷は落ち着かなかった。

 陽もすっかり落ち、ハロも満足したようなので帰路につく。家に帰り着くと、ハロは赤井にじゃれついた。赤井もまんざらではない表情をしてハロと遊んであげようとしている。

 その間、降谷は夕食の準備をした。賞味期限の近づいている卵が大量にあったので、夕食はオムライスにすることにした。簡単にサラダとスープも用意して、瞬く間に夕食が出来上がる。

 赤井は手を合わせて、「いただきます」と言い、オムライスを口に運んだ。オムライスの頂上には、小さな日本の国旗も立てている。まるで子ども向けに作った料理のようだと思ったが、赤井は目を綻ばせて楽しそうに食事をしている。オムライスに立てた旗はただの飾りだが、赤井がほしいと言うのであげることにした。赤井が組織にいた頃の姿――ライや、普段の赤井を知る者がこの光景を見たら、ひどく驚くに違いない。

 昼食のときと同じように、赤井は降谷の料理を賞賛して、米粒ひとつ残さず食べ終えた。

 そして、いよいよ、この時間がやって来る。

「先生、夜になりました。私の変装を解いてくれませんか」



<10>



 獲物を捕らえるような真剣な瞳に見つめられて、降谷は息を呑む。すぐ我に返り、詰めた息を吐き出した。

「わかりました。解きましょう」

 降谷と赤井は隣の部屋へと移動した。和室なので、畳の上に腰を下ろす。

 降谷が変装マスクに手を伸ばすと、赤井は目を閉じた。碧色の瞳が瞼に隠れる。おとなしく目を閉じるということは、赤井は自分をそれなりに信用しているということなのだろう。今ここで自分が拳銃を取り出せば、赤井の命はない。赤井の命は、今まさに自分の手中にあるといえるのではないだろうか。そんなことを考えていると、かすかにマスクに触れる指が震えた。

「……どうしました?」

 赤井の声に、降谷は静かに苦笑する。ほんのわずかな機微にも気づけるとは。記憶を失くしていても、やはり赤井は油断ならない男だ。

「いいえ、なんでも……」

 気を取り直して、降谷は赤井の顔に触れた。

 変装マスクは少々乱暴に扱っても破れることはないが、それを感じ取らせないように、降谷は慎重にマスクを取り外す。

 マスクを外すのに特別なコツなど不要だということがわかれば、赤井は自身で自由に変装を解いてしまうだろう。記憶を失くしている今の赤井に、変装を解く自由を与えることはできない。だからこそ、降谷はゆっくりと必要以上に時間をかけてマスクを剥がしてゆく。

 そして、いつ振りだろうか。降谷の目の前には、素の赤井が現れた。癖のある黒髪に、彫りの深い端正な顔。目を閉じた赤井の姿を目にすることなど滅多にないので、胸がどきりと高鳴る。久しぶりに見た男の姿に、「赤井」と呼びかけてしまいたくなるが、もちろんそれはできない。すばやく平常心を取り戻し、降谷は口を開いた。

「はい、終わりましたよ」

 ゆっくりと赤井が目を開ける。マスクを外されて、首から上がだいぶすっきりしたのだろう。赤井は心地よさそうに息をついた。

「ありがとうございます。ええと、鏡は……」

「はい、どうぞ」

 顔より少し大きめの鏡を手渡す。鏡を受け取った赤井は、マジマジと自身の顔を見つめながら呟いた。

「――これが、俺の本当の顔か……」

 赤井は自身の本当の顔を見て、どんな感想を抱いているのだろう。赤井の表情からは何も読み取れない。本当の答えが返って来るかはわからないが、降谷は問いかけた。

「……その顔に、見覚えはありますか?」

 赤井はしばらく何かを考える素振りをみせたが、ゆっくりと左右に首を振った。

「……いいえ、ありません」

 抑揚のない、感情を極限まで削ぎ落したような静かな声。その声音が隠す感情はどんなものか。今の降谷にはわからなかった。

「そうですか……」

 ふと、赤井の視線が、顔から剥ぎ取ったマスクへと向けられる。赤井はマスクを手に取り、注意深く見回したあと、降谷に問いかけてきた。

「これはどうすれば? 何か手入れが必要なんでしょうか?」

「これは僕の方であずかります。手入れもしておきますので……。明日の朝には、また変装をしてもらいますからね」

「……わかっていますよ」

 赤井の手からマスクを受け取り、降谷は腰を上げる。

「そろそろお風呂の準備をしてきます。あなたはハロと遊んであげてください」