第10回 お題『嫉妬』

赤安を携帯電話のない世界に飛ばしてみました。

赤安は恋人同士ですが、周りにはまだ秘密にしています。


 レストランの個室で、降谷は赤井と食事を楽しんでいた。高層ビルの最上階にあるレストラン、しかも夜景のよく見える窓際の席は、赤井が予約してくれていたものだ。時刻は夜の八時。まだデザートには早い時間である。もう一杯、ウィスキーでも飲もうかと考えていたところで、赤井のスマホが鳴った。

 赤井が素早くスマホの画面をタップし、応答する。相手は女性のようだった。相手の話を聞いているうちに、しだいに赤井の眉間に皺が寄っていくのが見える。赤井の口ぶりからするに、どうやら仕事の電話ではなく、飲みの誘いだったらしい。FBIのメンバーで集まって飲み会を開いているようで、赤井を呼ぼうという話になったようだ。

 赤井が断りの言葉を告げると、「どうして来れないの?!」と、甲高い声が聞こえてくる。電話の相手は酔っ払っているようで、声も大きく、降谷の耳にもよく届いた。その声に降谷は聞き覚えがあった。最近来日したFBIのメンバーのひとりだ。降谷の胸の内に、モヤモヤしたものが広がっていく。

 赤井は「今日は大事な約束がある。また、今度にしてくれ」と言い、電話を切った。その女性のことは気がかりだが、みんなで飲むせっかくの機会を逃して良いのだろうか。

「良いんですか? 誘いを断って」

 降谷が問うと、当然断るさ、といわんばかりの口調で赤井は言った。

「良いんだよ。君との時間の方が大事だ」

 続けて、「スマホは便利だが、こういうときは困るな」と赤井は苦笑する。

 赤井の言う通りだと降谷は思った。スマホの長所であり短所であるところ。それは、どこにいても電話できるところだ。緊急の呼び出しがあるかもしれないので、赤井も自分も、特段の事情がない限り、基本、電話には出るようにしている。たとえそれが、恋人とデートしている最中であっても、だ。

 降谷は空になったグラスを手で弄びながら呟いた。

「もしこの世にスマホがなかったら……誰にも邪魔されずに、二人きりの時間を過ごせるのかもしれませんね」

 降谷の言葉に、赤井が一瞬驚いたような表情を浮かべる。自分らしくもない言葉を言ってしまった。降谷は慌てて、「今のナシ! ちょっと酔っ払ってしまったみたいです!」と誤魔化す。

 しかし赤井は、降谷の言葉を嬉しそうに受け取って、「俺もそう思うよ」と、微笑んで言った。

 翌朝。降谷はけたたましい音に叩き起こされた。近所迷惑にもなりそうな激しい音だ。いったいどこから鳴っているのかと、布団から身体を起こし、音の聞こえる方へ足を向ける。

 どうやら外からではなく、自分の部屋の中で鳴っているようだ。視線を巡らせ、その音の発信源を特定する。部屋の隅に、レトロな黒色の電話があった。「回転ダイヤル式電話機」とも呼ばれている、旧式の電話機だ。以前、首輪爆弾をはめられて地下に潜ったときに使用したものと同じタイプのものだ。

 いったいなぜこんなものが自分の家にあるのだろう。自分で持ち込んだ記憶は、もちろんない。部屋の鍵はきちんとかけて出かけているので、自分以外の誰かが持ち込んだ可能性も低い。

 降谷が考えている間も、黒電話は容赦なく鳴り続けている。このままでは近所から苦情が出てしまうかもしれない。降谷は慌てて受話器を手に取った。

 相手が誰かもわからないので、自分の名は言わずに、電話に出ることにする。

「……もしもし」

 電話をかけてきたのはいったい誰なのか。思案する間もなく、聞き慣れた声が耳に飛び込んでくる。

「降谷さん! なかなか電話に出られないので、何かトラブルでもあったのかと思いましたよ!」

「……なんだ、風見か。いったいどうしたんだ? スマホにかけてくれればいいのに……」

「……スマホ? スマホって何ですか? 何かの略称ですか?」

「えっ……君、忘れたのか?」

「忘れたも何も、自分は知りませんが……それより、今日は外出されるとお聞きしていたので、今のうちに確認したいことが」

 風見にさらりと受け流されてしまう。急いでいるようなので、雑談をしている場合ではないということなのだろう。

 風見はいくつか仕事に関する質問をしてきた。これまでの自分たちならば、スマホで電話をかけるなり、メッセージを送るなりして、やり取りできていた類のものだ。風見が一度に情報を聞き出そうとしている様子から、スマホがないせいで、そうせざるを得ない状況になっているのだと降谷は理解する。

 すべての質問に回答し終えると、風見は言った。

「自分も本日は外出していますので、何かあればポケベルを鳴らしてください」

「ポケベル、だと?」

「……ポケベルが何か?」

「いや……なんでもない」

 降谷は我が耳を疑ったが、聞き間違いではなかった。風見の口ぶりからするに、自分たちは普段、ポケベルを使っている……ことになっているらしい。 

 黒電話の次はポケベル。まるで時代が逆戻りしているかのようだ。ふと視線を上げると、壁には張り紙があった。そこにはぎっしりと電話番号が手書きされている。筆跡は自分のものだ。誰がどの番号なのかが一目でわかるようになっている。もちろん、他の人間が見てもわからないように暗号も交えて書かれてあるが、赤井やコナンのような推理に長けた者が見ればすぐにわかってしまうだろう。

「降谷さん、疲れているのでしたら、今日は少し休まれては……」

 自分の様子がおかしいと思ったようで、風見が心配そうに言う。

「そうだな。タイミングをみて、少し休むよ……」

 そう返し、二言ほど会話を交わして降谷は受話器を置いた。チン、と空しい音が部屋に鳴り響く。

 降谷はすぐに家の中を探索することにした。まずは、スマホだ。いつもならば肌身離さず持っているが、先程寝ていた寝室にも、台所にも、どこにもなかった。スマホがない代わりに、ポケベルがポツンとテーブルの上に乗っていた。

「……夢だな」

 降谷はそう結論付けた。昨晩、「この世にスマホがなかったら」などと思ってしまったがゆえに、スマホのない世界が夢に出てきたのだろう。しかし、夢にしてはあまりにもリアルだと降谷は思った。物に触れれば手に感触が伝わるし、頬を勢いよく抓ると痛かった。

 降谷は再び黒電話の前に戻り、張り紙に書かれた電話番号に目を通すことにした。その中に携帯電話の番号と思われる番号はひとつもない。本当にこの世界にはスマホがないのだろう。ひとつひとつの番号を目で追っていくうちに、赤井が宿泊しているホテルの電話番号が目に入った。赤井はそのホテルに広い部屋を借りて、母親のメアリー、そして妹の真純と一緒に宿泊していると聞いている。スマホの有無以外に変化がなければ、宿泊している場所にも変化はないはずだ。

 それに、もしかすると、赤井も自分と同じ状況になっているかもしれないと降谷は思った。自分だけではなく赤井も一緒の状況であれば、きっと心強い。

 黒電話の穴に指を通し、降谷はそのホテルに電話をかけた。受付が取り次いでくれ、すぐに宿泊先の部屋の電話に繋がった。電話に出たのはメアリーだった。赤井と電話をするときには、直接赤井のスマホに電話をかけるので、基本的に誰かに取り次いでもらうことはない。メアリーの声に、降谷は緊張した。

「おはようございます。あか……秀一さんは、そちらにいらっしゃいますか?」

「秀一ならさっき出て行ったぞ。秀一の同僚とかいう女が迎えに来てな」

「同僚? ああ……ジョディさんですね」

「いや……彼女とは違う、別の女だった」

「そ、うですか……」

 昨日、赤井のスマホに電話をかけてきた女性だろうか。降谷の胸の内に、再びモヤモヤとしたものが広がっていく。

 朝のこの時間。赤井がその女性と一緒にいるとしても、仕事であってプライベートではないはずだ。そう自身に言い聞かせはするものの、思考が嫌な方向へ向かおうとする。

 つい黙り込んでしまった自分に、メアリーが気を遣って問いかけてくれた。

「秀一に何か用か? 伝言があるなら伝えておくが……」

「あ、いえ……お気遣いなく。本人に直接会って伝えます」

 メアリーに礼を言って電話を切る。本人に直接会う、といっても、赤井が今どこにいるのかがわからない。スマホがあれば、「今どこにいる?」とメッセージを送るだけで返事が返ってきたが、今はそれができないので、知る手段すら奪われているといってもいい。

 赤井から何かメッセージが届いてやしないかと、テーブルの上に乗っていたポケベルを降谷は手に取った。ポケベルの画面は、スマホのような液晶画面ではない。一度に表示できる文字数も少なく、レトロな画面には数字で『0114106』とだけ表示されていた。電話番号でもない数字の羅列は、誰が送ってきたのかもよくわからない。何か意味を持つのかどうかさえもよくわからなかった。

 赤井もこうした数字を受信できるポケベルを持っているのかもしれないが、張り紙に赤井のポケベルと思しき番号は書かれていなかったので、こちらから発信することもできない。まさに八方塞がりだ。

 降谷は思案した。このまま家にいても何もできないし、何の情報も得られないだろう。時計を見れば、ポアロのバイトに入る時間が近づいている。降谷は身支度を整えて、とりあえず自宅を出ることにした。

 自宅からポアロに辿り着くまで、降谷は不思議な光景を見た。いつからか姿を見せなくなった公衆電話が、街の至るところに設置されているのだ。順番待ちまでできているところもある。本当にこの世界にはスマホがないのだと、街の光景からも降谷は思い知らされることになった。

 ポアロでバイトしている最中も、料理の待ち時間にスマホを触っている客はひとりもいなかった。スマホのかわりに、読みかけの文庫や、店に置いてあった雑誌などを手にして読んでいる。サラリーマンと思われる男性は、ノートパソコンを開いて仕事をしていた。それを見て、自分の家のノートパソコンもそのまま置いてあったことを降谷は思い出す。

 スマホが存在しないこと以外は、昨日まで自分のいた世界とまったく同じなのかもしれない。しかし、そのパソコンでネットができるのかどうかはわからないので、確かめる必要がある。

 ネットができれば、赤井のメールアドレスにメールを送ることができる。赤井がパソコンを開くことがあれば、きっとメールを読んでくれるだろう。

 ポアロのバイトを終えたら、警察庁に向かう予定になっている。自分の席にはノートパソコンがあるので、それを見て確かめてみればいい。

 一筋の光が見えてきて、降谷は安堵の息を吐く。

 今、自分がここで仕事をしている間にも、赤井はあの女性と一緒にいるのかもしれない。仕事とはいえ、二人きりで行動することもあるかもしれない。そんなことを考えると胸が潰されそうな心地がしたが、降谷は赤井を信じて、時間が過ぎるのを待つしかなかった。

 夕方。バイトを終えて、降谷は急ぎ足で警察庁へと向かった。自分たちに設けられた部屋に入るのと同時に、部下のひとりに名を呼ばれて、降谷は振り返る。

「降谷さん、お電話です! 赤井さんから」

「赤井だと?!」

「は、はい……」

 あまりにも大きな声を出してしまい、部下を驚かせてしまった。降谷は誤魔化すように笑って、部下に渡された黒電話の受話器を手に取る。メールを送る手間が省けたと思いながら、降谷は電話に出た。

「お電話変わりました。降谷です」

「降谷君、お疲れ様」

 受話器越しとはいえ、自分の耳に届いた赤井の声に、降谷は胸がいっぱいになる。と同時に、別の感情も沸き起こって来た。

 連絡を取りたいのに、連絡が取れない。いったいどこで何をしているのかも、まったくわからない。普段ならばこんなに気にすることはないのに、昨日電話をかけてきた女性と一緒にいると聞いてから、気持ちがまったく落ち着かなかった。自分は今にも胸が張り裂けそうな気持ちでいたのに、赤井は普段通り、まったく変わらない様子でいる。

 自分はこんなにも参っているのにと、沸々と怒りのようなものが込み上げてきた。

「あなた、今いったいどこで何をしているんですか?!」

 再び大きな声が出てしまい、部屋の中にいた部下たちの視線がこちらに集まって来る。気にするな、と手をひらひらと振り、降谷は彼らの視線に背を向けた。

 降谷の大きな声にも微動だにせず、赤井は今日の出来事を振り返るように言った。

「組織の残党が、我々の仲間と接触をはかってきたようでね。朝からその現場に向かっていたよ」

「昨日、あなたに電話をかけてきた女性と一緒に?」

「迎えに来たのはその彼女だが、現場で他のメンバーと合流したよ。君が心配するようなことは何もないから、安心してくれ」

 はじめから仕事とわかりきってはいたけれど、赤井の口から聞くと安心する。スマホがないせいで、いつも以上に感情が乱れていたのかもしれないと降谷は自省した。

「そうですか……それで今、あなたはどこから電話を?」

「警察庁から十分ほど離れた場所にある公衆電話だよ。真純から聞いたんだが、朝、俺に電話をかけてきてくれたんだろう?」

「ええ。あなたが出て行ったあとだったので、メアリーさんが電話に出てくれました」

「そうか。朝はすれ違いになってしまってすまない。そろそろ君が警察庁に戻る頃だと思って電話したんだが、今度はタイミングが合って良かった。……それにしても、スマホがない世界というのは不便だな。降谷君」

「あ、あなたもスマホを覚えてるんですか?!」

 仲間を見つけて嬉しい、という感情が真っ先に飛び出し、思わず大きな声を上げてしまう。赤井が電話越しに微笑む気配が伝わって来た。

「ああ。どうやら、スマホの存在を覚えているのは、君と俺くらいのようだ。この世界の住人は、スマホの存在を忘れてしまっているようでね。ジョディ達にスマホの話をしたら、夢でも見たのかと笑われたよ。……ああ、そうだ。この世界で現役のポケベルの使い方を調べてみたんだが、俺からのメッセージは見てくれたかな?」

「……え? もしかして、あの数字だけの?」

「ああ。その数字の意味は……君ならすぐわかるだろう?」

 あの数字は赤井からのメッセージだったのか。降谷は画面に表示されていた数字を思い出す。

 表示されていた数字は『0114106』。

 初めてこの数字を見たときには、意味不明な数字だと思った。しかし、発信者が赤井となると話は別だ。赤井から自分へのメッセージ――何か特別な意味が込められているに違いない。

 降谷は記憶を手繰り寄せる。確かポケベルは、数字の語呂合わせでメッセージを送るやり方が流行っていたはずだ。

 0は――零。

 114106は――1(あ)1(い)4(し)10(て)6(る)――愛してる。

「あなたって人は……」

 顔が熱い。自分の顔は今、部下には到底見せられないほど真っ赤になっているだろう。

「不便ではあるが、今はこの世界を楽しんでみようと思ってね。俺達の願い通り、ここはスマホのない世界になった。明日になればまた状況は変わるかもしれないが、今日は、誰にも邪魔されずに二人きりで過ごせる。――今から迎えに行くよ、零」

 赤井は甘い口調でそう言って、電話を切った。

 するとすぐ、自分のポケベルが音を上げる。ポケベルの画面には、『10391101』と表示されていた。

「今すぐ会いたい、か……」

 この世界も悪くはない。降谷はそんなことを思いながら、受話器を置く。チン、と響くその音に、降谷は微笑んだ。