Day1お題『なまえ』

両片想い状態のラブコメしている赤安。降谷さんと仲良くなりたくて、「零君」と呼び始める赤井さんの話。


 組織壊滅作戦を間近に控える昨今。作戦に直接参加する者たちにはささやかな休暇が与えられた。

 体調を万全にするために。家族や大切な人と過ごすために。様々な理由を込めて与えられた休日を、赤井は工藤邸で過ごしていた。

 PCのキーボードをタイプする音をBGMに、時間も気にせず調べ物をする。一段落ついて時計を見ると、午後三時を回っていた。起きてから口にしたのは珈琲のみ。朝も昼も抜いたせいか、どことなく空腹感もある。家にある食材で簡単に調理してもよかったが、気分転換も兼ねて、赤井は外出することにした。

 沖矢昴の姿に変装し、夕焼けの気配がする空の下へ歩み出す。夕方に近い時間帯ということもあってか、スーパーは混み合っていた。何を作ろうかと考えながら歩き回っている途中で、目の前にいる女子高生三人組の会話が耳に飛び込んでくる。真純たちと同じ年頃の子だろうか。

「今日ね、木村君に『まなみちゃん』って呼ばれちゃった!」

「マジ?!」

「急接近じゃん!!」

「今までずっと『山田さん』だったのに、急にだよ?! これって私を好きってことなのかな?」

「絶対そう! じゃないとそんな呼び方しないよ!」

「そうそう! 木村君がまなみと仲良くなりたいって思ってる証拠だよ!」

 女子高生たちは大盛り上がりで、買い物客からの視線を集めている。青春を謳歌する彼女たちの姿は、周囲の目に微笑ましく映っているのだろう。彼女たちを見る周囲の目は優しい。

「今度は、『まなみ』って呼び捨てにされるかもね~」

「それってもうカレカノじゃん!」

「え~どうしよ~」

 彼女たちは楽しそうに会話を続けながら、お菓子コーナーへと向かっていく。彼女たちの姿を目の端で見送りながら、赤井は生鮮食品コーナーへと足を向けた。

 女子高生たちの会話を聞いて脳裏に浮かんだのは、彼――降谷零のことだ。彼とはもっと親しくなりたいと思っているが、空振りが続いている。昨日も「明日、飲みに行かないか」と誘ってみたが、「行きません」と即答されてしまった。

 話し合いの末、完全にとはいえないが、降谷とは和解への道を歩みはじめている。だが、まだまだ道半ばだ。

 降谷に話が届くことを見越した上で、「どうしたらいいだろうか」とコナンに問いかけたこともあったが、名探偵の頭脳をもってしても、自分たちの関係は難事件に値するようで、答えが導き出されることはなかった。

 そこで、女子高生たちの会話である。苗字ではなく下の名前を呼ぶことで、男子は女子に親しくなりたいという意志表示をした。一方、下の名前を呼ばれた女子は、男子からの好意を感じ取り、これまで以上に男子を意識するようになっている。

 高校生の男女がみせた進展は、降谷との関係を築いていくなかで、自分が今もっとも手に入れたいと思っているものだ。

 彼の下の名を呼べば、もっと彼に近づけるだろうか。彼に意識してもらえるだろうか。そんなことをつらつらと考えてしまう。

「……零、君」

 誰の耳にも届かない小さな声で、そっと彼の名を呼んでみる。途端に、ぶわりと身体が熱くなる心地がした。これまでに経験したことのない胸の高鳴りを自覚する。下の名前を呼ぶ側にも、多大な影響があるようだ。

 溢れる感情を受けとめる余裕もなく、赤井は買い物に専念することにした。しかし、意識はすでに買い物から離れてしまっている。何を作るのか考えてもいないのに、我に返ったときには、カレーの材料がすべてカゴの中に揃っている状態だった。考えなおすのも面倒で、そのままレジへと向かう。

 買い物を終えて工藤邸に帰り着く頃には、窓辺に降りる夕陽も弱々しくなり、部屋の灯りが必要な時間になっていた。もうすっかり慣れてしまった手つきで、材料を切り、鍋へと突っ込む。具材を煮込み終える頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。

「作り過ぎたな……」

 カレー粉を入れてかき混ぜながら、赤井は呟く。いつもの癖で、大量の材料を買い、寸胴鍋でカレーを作ってしまったため、一人では絶対に食べきれない量になってしまった。いつもならば隣の阿笠博士の家へ行き、お裾分けしているところだが、今日は博士も灰原も外出しているのでそれもできない。

 しばらく思案し、赤井は警察庁にカレーを届けることにした。作戦に直接参加しない者たちが、交代で仕事をしていることを思い出したのだ。思い立ってすぐ、車に寸胴鍋を乗せて、発進させる。実際に登庁している人数が不明のため、大量のパックご飯、使い捨ての皿やスプーンを近くの業務スーパーで購入した。なかなかの大荷物になってしまい、思わず苦笑する。

 警察庁の中でも人通りの少ない駐車場に車を停め、赤井は沖矢の変装を解いた。大量の荷物を抱えて、FBIメンバー専用の部屋へ向かう。あまり人に見られたくはない姿であるため、自然と急ぎ足になった。ところが、廊下を歩いている途中、何の因果か降谷とばったり出会ってしまう。

「赤井?! なんです、それは?!」

 降谷の大きな声に反応して、近くにある部屋のドアが開き、降谷の部下たちが顔を覗かせる。ちょうど自分の通りかかった場所が、公安メンバー専用の部屋だった。ドアから覗く光景を見て、赤井は目を見開く。公安の人間にも休みは与えられているはずだが、作戦に参加する人間のおよそ半数以上が登庁している状態だった。

 飲みに行く約束を降谷が断ったのも、今日は仕事をするつもりだったからなのだろう。仕事であれば仕方がない、と赤井は心の中で納得することができた。

「……あぁ、実はカレーを作り過ぎてしまってね。もし庁舎に誰かいればと思ったんだが、まさかこんなに仕事をしている人間がいるとは……」

「寸胴鍋って……作り過ぎたってレベルじゃないでしょう」

 自分の持っている荷物を、降谷が覗き込む。近くに降谷がいることを意識し、赤井は緊張した。と同時に、スーパーでの女子高生たちの会話を思い出す。

 今ここで、「零君」と呼んだら、彼はいったいどんな反応をするだろうか。

「れ――」

「今日、FBIの登庁メンバーは三人と聞いています。ここにいるメンバーを合わせても、ちょうどいいと思いますよ」

「そ、そうか。寸胴鍋で作った甲斐があったよ。……君も食べてくれるか?」

 降谷は何度か目を瞬かせたあと、穏やかな笑みを浮かべて言った。

「ええ、もちろんいただきます」

 彼はカレーが好物なのだろうか。もしそうであれば、数時間前の自分を賞賛したいと赤井は思う。名を呼ぶタイミングは逃したが、貴重な彼の笑顔を手に入れることができた。

 降谷は息つく間もなく、「そうだ、そのパックご飯、温めますよね。鍋と一緒に温めましょう」と言い、給湯室へと案内してくれた。大量のパックご飯を湯煎で温め、隣ではカレーの入った寸胴鍋を温める。温め終えると、公安メンバーのいる部屋へ鍋やご飯を運ぶ。別室にいるFBIのメンバーも呼んだため、部屋の中はさらに賑やかになった。

 降谷と二人で、白米とカレーを皿に盛りつけてゆく。あっという間にすべてのメンバーに配り終わり、あとは自分たちの分だけとなった。部屋にいるメンバーはカレーを食べることに夢中で、こちらを見ていない。今がタイミングだろうと赤井は思った。口を開く前、まるで愛の告白をするかのような緊張感で、胸が高鳴った。

「手伝ってくれてありがとう。零君」

「……なっ」

 降谷が硬直する。部屋の後方で、何かが崩れ落ちる音がした。続けて、ざわざわと周囲がざわめきはじめる。自分の声を聞いている者たちがいるようだったが、周囲の反応を気にかけている状況ではない。赤井は降谷の分を盛り付けて、皿を差し出す。

「これは、零君の分」

「…………」

 降谷は動かない。固まったままの降谷に向けて、赤井はもう一度、名を呼んだ。

「零君?」

「……は、はい、いただきます……」

 降谷は震える手で皿を受け取った。見れば、降谷の顔は赤く染まっている。怒らせてしまったかと思ったが、彼の口から自分を非難する言葉は出てこない。降谷は静かにスプーンを持ち、カレーを口に運んだ。食レポのような感想が返って来るかと思ったが、降谷は何も言わずにもぐもぐと咀嚼している。

 赤井は自分の分も盛り付けて口に運んだ。温めなおしたおかげか、具材もきちんと煮えている。何の偶然か、これまで作ったカレーのなかで一番美味しいと感じた。

「零君の口に合っただろうか?」

 降谷が肩を震わせる。「零君」という呼び方に、こう何度も敏感に反応するとは、まったく予想していなかった。

「ええ、まぁ……でも、僕はもう少し辛い方が……」

「……そうか」

 自分以外の人間が作っていたならば、「おいしい」と彼は言っていただろう。自分に対して正直に物を言うのは実に彼らしいと赤井は思った。子どもたちも食べるからといつもの癖で辛さ控えめで作ってしまったが、もし次があれば少し辛めのカレーにしよう。そんなことを考えていると、降谷が小声で言う。

「あなたの作ったカレー、ずっと食べてみたかったんですよね」

 赤井は思わず目を見開いて降谷を見てしまう。降谷は、「なんですか、その顔」と眉を吊り上げて言った。悪態をつきながらも、彼は瞬く間にカレーを食べ終えてしまう。降谷は鍋を覗き込むが、自分の分でちょうどなくなってしまったので、余りはない。降谷の行動が、もっと食べたかったと言っているようで、胸が擽ったくなる。

「……次は、零君の好みの味でたくさん作るよ」

 次は君のためだけに作るよ、という気持ちを込めて言う。

 降谷は手元にあった緑茶のペットボトルを掴み、ごくごくと勢いよく飲みはじめた。空になったペットボトルを机に置き、大きく息を吸って降谷は言う。

「そ、そ、その、『零君』っていうの、やめてください! みんなの前では!」

 拒絶されるかと思いきや、降谷は条件をつけてきた。降谷の顔が赤いのは、怒っているのではなく、恥ずかしがっているせいなのかもしれない。

「みんなの前でなければいいのかな?」

 部屋中がしんと静まる。部屋にいるすべての人間が、自分たちの会話に集中しているような気がする。周囲が固唾を呑んで見守る中、降谷はプイと顔を逸らし口を開いた。

「……い、いいです、よ」

 どこからともなく、ヒューヒューと口笛が鳴る。意味ありげな周囲の反応に、降谷は気づく余裕もないようだ。自分だけが彼を独占しているようで、気分が良い。

「そうか。じゃあ、二人きりのときだけ呼ぶことにしよう。……零君」

「だから、今、呼ぶんじゃない!」


 その後。ついみんなの前で「零君」と呼んでしまい、降谷に怒られてしまう赤井の光景が度々目撃されることになる。

 そして、遂に訪れた組織壊滅作戦の日。ハリウッド映画のごとく降谷の危機を救おうとした赤井が、「零!」と叫び、周囲を驚かせたのはまた別の話。