第11回 お題『ビーチ』

両片想い状態の赤安。降谷さんが海に向かってあることを叫んでいます。

なんでも許せる方向け。もちろんハピエンです。


 組織の残党が潜伏しているとされている場所は、都の中心地から離れた海岸沿いにあった。

 降谷がひとりで偵察をしに行った日。深夜から朝にかけて様子を窺っていたが、残党たちの動きは特になく、降谷は朝陽が昇ってしばらく経ってから帰路についた。

 その帰り道。陽の光を浴びてきらきらと輝く海を横目に見ながら愛車を運転しているうちに、ふと気分転換をしたくなって、降谷は車を停めた。

 ひとけのない砂浜へと降りて、降谷は大きく背伸びをする。何時間も車の中で息をひそめていたので、身体がすっかり凝り固まってしまっていた。それをほぐすように伸びを繰り返して、軽く身体を動かす。大きく息を吸い込むと、潮の香りが身体の中にぶわりと入ってきて、海が目の前にあることを実感する。

 ぼんやり海を眺めていると、ポケットに入れていたスマホが振動し、降谷はすぐにそれを手に取った。スマホには風見からのメッセージが届いている。そこには、朝の会議が延期になったことが記されていた。理由は書かれていないが、おそらく上層部の勝手な都合だろう。これで、会議の時間に間に合うように警察庁に帰る必要もなくなった。

 降谷が周囲を見渡すと、十メートルほど先に、腰を下ろすのにちょうど良い岩があった。さく、さく、と砂の上を歩き、岩の上へ腰を下ろす。「了解」と風見に返事を書いて、降谷はスマホをポケットにしまった。

 視線を上げると、波打ち際に遊泳禁止の看板が見える。ここは海水浴場として開放されている場所ではなさそうだ。そのためか、砂浜も自然のままの美しさを保っている。

 耳を澄ませると、寄せては返す波の音、頭上を飛び交う鳥たちの声、たまに車が通り過ぎる音くらいしか聞こえない。波の音に癒されながら、空の青と海の蒼のコントラストに目を細める。

 やるべきことはたくさんあるが、ほんの少しだけ身体を休めていこう。そう思った矢先。砂が踏まれる音と人の話し声が聞こえはじめたので、降谷は身構えた。しかし、組織の残党とはまったく関係なさそうな男女の姿が視界に入り、降谷は身体の力を抜く。高校生あるいは大学生だろうか。手を繋いで砂浜を歩く彼らの姿は、とても絵になっていた。何を話しているのかは聞こえないが、恋人同士になったばかりのような初々しさがある。お互い相手に夢中になっていて、降谷の存在に気づいていないようだった。

 彼らの邪魔にならないうちに引き上げよう。そう思い、岩から腰を上げたところで、海辺で飛んでいた鳥たちも驚くような大きな声が聞こえた。何を言っているのか聞き取れるほど、腹の底から張り上げたような声だ。

「まなみちゃん! 好きだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 降谷が二人に視線を向けると、彼氏の方が海に向かって大きく叫んでいた。青春を絵に描いたような光景だ。好きだと叫ばれた彼女は、恥ずかしそうな仕草をたっぷり繰り返したあとで、隣にいる彼と同じように叫んだ。

「私も、木村君が好きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 一度では終わらず、二人は何度もそれを繰り返す。胸の内にある感情を海に向けて叫んでいる二人の姿は、とても幸せそうだ。

 好きな相手に好きと伝えられる、そんな世界にいる彼らの姿が、降谷にとっては眩しくもあり、羨ましくもあった。

 降谷はずっと片想いをしていた。相手は、あの赤井秀一だ。

 赤井とは因縁もあったが、組織壊滅という目的を同じくした同士でもある。組織壊滅を経た今。自分たちは強い信頼関係で結ばれていて、たまに飲みに行く仲、いわゆる友人と呼べるような仲にまでなった。

 友人としての関係を築いていく途中で、降谷はある違和感――友人にはけっして抱かないような感情の存在に気づいた。その感情に降谷が“恋”と名付けるまで、時間はかからなかった。

 同性である彼を恋愛的な意味で好きになったその瞬間から、降谷は想いを告げることを許されない世界へ足を踏み入れることになった。

 赤井の恋愛対象は女性である。かつて女性が恋愛対象だった自分が赤井を好きになったように、赤井が自分のことを好きになってくれる可能性も少しはあるかもしれない。そんな奇跡を思い描いたこともあるが、赤井の周囲にいる女性たちを見ているうちに、その可能性はゼロであることを思い知らされた。赤井の周囲にいるのは、魅力的な女性ばかり。赤井が同性である自分に意識を向けるような契機はどこにも存在しない。

 自分が赤井に愛の告白をするようなことがあれば、きっと赤井は困るだろう。最悪、これまで築き上げた関係も壊れかねない。

 赤井の友人としてそばにいられるだけで十分だ。せめて今の心地よい関係を手離すことだけはしたくない。それが降谷の切なる願いでもあった。

 目の前にいる恋人たちがあまりにも眩しくて、降谷は背を向ける。愛車のもとへ戻り、現実へ向かうために降谷はアクセルを踏んだ。

 一週間後。降谷は再び同じ場所に偵察に行くことになった。偵察の時間を十分に確保するためには、夕方までに急ぎの仕事を済ませて、例の場所へ向かう必要がある。あまり余裕もなく、降谷が慌ただしく書類に目を通していると、スマホが鳴った。

 スマホの画面をタップすると、メッセージの受信を知らせる通知が届いている。メッセージアプリを開いて、降谷は硬直した。

『今日、飲みに行かないか?』

 メッセージの発信者は、赤井だ。誘ってもらえて嬉しい。その感情の隣で、これ以上好きにさせないでほしいという感情が芽生えるのを感じた。どこにも吐き出せない想いを、これ以上抱え続けるのは危険だ。胸の中で膨らむだけ膨らんだそれは、いずれ抱えきれずに張り裂けてしまうかもしれない。

『すみません。今日は仕事があるので行けないです』

 そう書いて、降谷はメッセージを送信した。すぐに既読になり、『了解。ではまた今度誘うよ』と返事が返って来る。

 これまでの自分ならば、『今日はごめんなさい。次の機会を楽しみにしてます』とでも送っていただろう。しかし降谷は、それをしなかった。今後はなるべく赤井の誘いには乗らないようにしよう、と心の中で秘かに決意する。降谷はすぐにスマホから目を逸らして、再び書類へと目を向けた。

 翌朝。降谷は再び、砂浜に降り立っていた。今回も組織の残党に動きはなく、朝から会議が入っていたため、以前より少し早めの時間に帰路につくことになった。朝陽はまだ昇りはじめたばかり。気紛れに触れた海の砂は熱を持たず、やわらかな温もりを湛えていた。

 まだ夜が明ける途中の時間ということもあり、砂浜に人の姿はまったくない。周りを見渡すと、近くに人の住んでいそうな建物もなかった。ふと、降谷は先日見かけた男女のことを思い出す。あの二人はいったいどこから来たのだろうか。自分のように、何かの帰り道にたまたま立ち寄っただけなのだろうか。それとも、何か目的があってこの砂浜に来たのだろうか。正解はわからないが、二人きりの世界の中で、愛を叫びあう姿は清らかで美しいものだった。

 実らぬ恋情は、胸の中だけで秘めておくには、あまりにも重く苦しい。あの男女のように、自分も腹の底から叫ぶことができたならばと降谷は思う。

 降谷はもう一度周囲を見渡し、自分以外に誰も人がいないことを確かめると、大きく息を吸って口を開いた。

「赤井ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 大きな声で赤井の名を叫ぶと、頭上の鳥たちが驚いたように羽ばたいた。自然と、胸がすっと軽くなるような心地がする。大きな声を出すとストレス発散にもなるというが、それは本当のことのようだ。続けて、降谷は叫んだ。

「赤井のバカヤロォォォォォォォォォォ!!」

 自分の声が周囲に響き渡るが、すぐに波の音に掻き消される。さらに胸が軽くなり、降谷は思わず笑ってしまった。どうせ誰も聞いてやしないと、降谷は赤井本人に言ってやりたいことを叫び続ける。「たまには禁煙しろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」と叫び終えたところで、降谷は咳き込んだ。声も枯れてきたので、そろそろやめるべきだろう。

 次を最後にしようと決めて、降谷は口を開く。本人に直接言うわけでもないのに、緊張で胸が高鳴った。

「赤井……好きだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 好きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 あの恋人たちは互いに愛を叫びあっていたけれど、自分にはそれができない。二人ではできないので、一人で。自分は、ひとりで十分だ。そう自分に言い聞かせる。ふと、降谷は自分の頬が濡れていることに気がついた。意図してではない、自然と零れ落ちた涙だ。

 自分のこの一方通行の叫びは、きっとこの雄大な海が包み込んで消してくれるだろう。そんなことを思いながら、降谷は頬を拭った。

 その後、降谷は偵察に行くたびに、この砂浜に寄り道して帰った。叫ぶだけ叫んで心をすっきりさせてから次の仕事へ向かうと、なんとも清々しい気持ちで仕事ができるのだ。合同会議で赤井と会うことがあっても、仲間として、友人として、演じることなく自然に接することができた。

 良いストレス発散方法を見つけたのかもしれない。日が経つにつれて、降谷はそんな風に考えることもできるようになった。「たまには代わりますよ」と、風見が偵察の交代を提案してくれることもあったが、それを断るくらい、降谷はあの砂浜を気に入っていた。

 偵察を続けていくうちに、組織の残党が動きを見せる日が出てきた。初めてあの砂浜に訪れてから約一ヶ月が経った日。降谷は今日を最後に、しばらく偵察を控えることを決めた。偵察に気づかれるリスクを避けるため、次の作戦を練るため、あえて現場に向かわない方法を選ぶことにしたのだ。

 しばらくはこの砂浜ともお別れである。さみしい気持ちを湛えながら砂浜に長く佇んでいると、夜明けの色が海の上から昇ってきた。そろそろ帰庁しなければならない時間だ。

 いつものように、「この前の作戦のアレは何だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」「あんな遠いところから撃つなんて聞いてなかったぞ、FBIぃぃぃぃぃ!!」などと、赤井への文句を叫んでいたが、時間も迫ってきて、降谷は一度口を閉ざす。

 最後に叫ぶのはいつも、心の準備が必要な言葉だった。誰かが聞いているわけでもないのに、この言葉を叫ぶとき、降谷はいつも緊張で胸がドキドキするのだ。

 降谷は大きく息を吸って口を開いた。

「赤井……好きだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 好きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 思う存分叫んで、例えようのない高揚感に身を浸す。不足した酸素を補うように大きく深呼吸をしていると、背後から声がした。

「俺もだよ、降谷君」

 ひどく驚いて、降谷はびくりと大きく身体を震わせる。おそるおそる振り返ると、砂浜に自分以外の影が降りていることがわかった。視線を上げると、その人物の姿がはっきりと目に入る。砂浜に降り立つには不釣り合いな、黒で覆われた男。しかし、今日はニット帽をかぶってはおらず、癖のある黒い髪を潮風にたなびかせていた。

 あまりにもこの男の名前を叫び過ぎたものだから、神様のいたずらでここに呼び寄せられてしまったのか。そう思ってしまうほど、赤井がここにいることが降谷には信じられなかった。いったいいつから、赤井はここにいたのだろう。

「なんでお前がここにいる?!」

 降谷は頭が真っ白になった。一歩、二歩、赤井から遠ざかるが、逃げ出す余裕もないほど、頭が混乱しきっている。赤井はどこか困ったような表情を浮かべて言った。

「悪く思わんでくれよ。万が一のことを考えて、君が偵察に行く度に尾けさせてもらっていたんだが……まさかこんな寄り道をしているとは思わなくてね」

「えっ……ということは、もしかして、ずっと、聞かれ、て……?」

 偵察に行く度に、と赤井は言った。降谷はさらに頭が混乱した。赤井の言っていることが本当ならば、この砂浜で自分が何を叫んでいたのかを赤井は知っている、ということになる。海に向かって叫ぶ自分の姿は、傍から見ればひどく滑稽だっただろう。

 なぜ今まで赤井は黙っていたのか。なぜ今まで自分は赤井の尾行に気づかなかったのか。怒りと恥ずかしさと悔しさが同時に込み上げる。しかし、そんな降谷の心境をよそに、赤井はどこか照れくさそうな、嬉しそうな、普段の男の表情からは想像もつかない顔をして言った。

「ああ。最近の君は、俺のことを避けていただろう。君に嫌われるようなことでもしたかと思ったが、まさかその逆だったとは……」

 赤井の表情を見て、赤井の言葉を聞いて、降谷はすっかり置いてけぼりにしていた大事なことに思い至る。

「……ちょ、ちょっと待ってください。そういえば、今さっき、あなた、何か言いませんでしたか?」

「言ったな」

「僕の聞き間違えでなければ――」

 降谷が言い終えぬうちに、赤井は微笑んで繰り返した。

「俺もだよ、降谷君」

 降谷は大きく目を見開いた。砂を踏む音が聞こえる。赤井が自分に近づく音だ。赤井が自分に近づいた分だけ、降谷は赤井から遠ざかる。砂の立てる音が、降谷の胸の音と呼応するかのように騒がしい。

「う、嘘ですよね? あなたの恋愛対象は女性でしょう?」

「今まではそうだったが、それすらどうでも良いと思えるほど、君のことを好きになったんだよ。降谷零君」

「…………」

 降谷は言葉を失くした。すべて自分の聞き間違いではないのかと、降谷は我が耳を疑いたくなった。自分にとって都合の良い夢でも見ているのではないかとすら思った。しかし、赤井の真剣な目が、赤井の告白が事実であることを否が応でも伝えてくる。

 深い碧にまっすぐ見つめられて、降谷は居た堪れなくなり目を伏せた。赤井の言葉を真正面から受け止めるには、まだ心の準備が足りていない。それを見越しているのか、赤井は子どもに言い聞かせるように言った。

「君は気づいていないようだが、俺が飲みに誘っているのは、君にもっと近づきたいと思ったからだ」

「……それは、友人として、でしょう?」

「急いては事を仕損ずる、というだろう? まずは友人として仲良くなるところからはじめるつもりだった。だが、それが君をこんなにも苦しめていたとは……」

「僕は、苦しんでなんかいませんよ」

 そう告げる声が震えてしまい、降谷はぐっと唇を噛み締める。小さな反抗は、赤井の腕に掻き消された。両腕で抱き寄せられて、降谷は目を瞬かせる。赤井に強く抱き締められて、降谷はどうすることもできずに立ち尽くした。

 赤井の両腕にさらに力がこもる。空はどんどん明るくなっていき、砂の上には、自分たちが重なる影がくっきりと浮かび上がりはじめていた。

「嘘はよせ。最近の君は、俺の誘いを断りながらも、ここで泣き叫んでいただろう?」

「…………ッ」

 赤井にはもう、すべてを聞かれてしまっている。今ここで何を言っても、嘘に嘘を重ねてゆくだけだ。

 赤井の唇が、自分の耳にそっと近づく。降谷が身体を小さく震わせると、赤井は腕にさらに力を込めて言った。

「君が好きだ。好きだよ、降谷君。……君は?」

 ささやくような小さな声。けれど耳に直接吹き込まれるそれは、広く大きく響いて、降谷が逃げ出すよりも早く、心ごと捕まえようとする。

 ――こんな奇跡が生まれて、本当に良いのだろうか。

 とんとん、と自分の背中を優しく叩く音。赤井の優しい仕草に、降谷は自分が泣いていることに気づく。

 自分の小さな泣き声を、波の音が優しく包み込んだ。暗い夜が、静かに明けてゆく。

「僕も、好きです」

 そう告げるのと同時に、降谷のスマホが振動した。

 降谷は軽く咳払いをして、電話に出る。電話は風見からで、すぐに警察庁に戻ってほしいというものだった。

 降谷が涙に濡れた頬を乱暴に拭おうとすると、赤井がそれを引き留める。赤井の指でゆっくりと涙の跡を拭われて、降谷は顔に熱が灯るのを感じた。「早く帰りますよ!」と声を荒げて言うと、赤井が名残惜しそうに言った。

「今度ここに来たときは、あの恋人たちのように二人で海に向かって叫ぼうか?」

 赤井の手が自分に伸びてくる。

 真っ赤になった顔を見られるのが恥ずかしくて、降谷は片手で自分の顔を覆い、もう片方の手で、赤井の手を握った。

 さく、さく、と、砂浜には二人分の足音が鳴り響く――。