第13回 お題『一か八か』

恋人未満の赤安。一か八か、降谷さんにキスを仕掛けた赤井さんは…


 一か八かの賭けのあと。

 赤井は自分の頬が痛むのを感じながら、降谷の背中を見送った。


 ほんの数分前の出来事である。

 赤井は警察庁の休憩室でたまたま降谷と二人きりになった。お互い何日もまともに寝ておらず、少しでも気を抜くとそのまま気を失ってしまいそうな状況だった。

 時刻は深夜一時を過ぎている。二十四時間稼働している自販機には感謝しかない。ソファに深く腰を下ろし、もう何杯目かもわからないブラックコーヒーを飲みはじめると、意外なことに降谷が隣に座った。ソファの端に寄って座ったりせず、赤井の手が届きそうなほど近くに、だ。

「……君も休憩か」

「……ええ」

 会話ともいえない言葉を交わし、お互いに黙り込む。降谷の手には、玉露のペットボトルがあった。玉露はコーヒーよりもカフェインの含有量が多いと、降谷が以前話していたのを思い出す。降谷もまだまだ働かなければならないらしい。

 降谷がペットボトルの蓋を取り、こくこくと飲みはじめる。ペットボトルの三分の一ほどを飲み干すと、ソファの背もたれにぐったりとした様子で身体をあずけ、降谷は目を閉じた。

 自分を信頼してくれているのだろうか。降谷は安心しきった姿をみせている。緊張感で張り詰めた糸がふと緩んだ瞬間を目の当たりにしたようで、赤井はどことなく微笑ましい気持ちになった。

 ほとんど味もわからなくなったブラックコーヒーを飲みながら、赤井は降谷を眺める。降谷は身体を休めながらも、意識は完全に手離してはいないようだった。その証拠に、廊下で物音がすると、手がぴくりと動く。何かあれば身体を起こせるほどの意識は残しているということだ。

 とはいえ、降谷が緊張感を解いていることには変わりない。こんなにじっくりと降谷を見つめる機会というのは、後にも先にもそう簡単には転がってはいないだろう。良い機会が巡ってきたとばかりに、赤井は降谷の顔へと視線を向けた。

 いったい何日寝ていないのか。目の下の薄黒いクマが痛々しい。それとは対照的に、降谷の唇は、やわらかな色をしていて可愛らしかった。身体の力を抜いているためか、唇もわずかに開いている。本人は誘っているわけではないだろうが、思わずキスしたくなるほど、その唇は随分と無防備だ。

 もし降谷を狙う輩がいたら、今がチャンスとばかりに襲いかかるかもしれない。もちろん、降谷に返り討ちに遭うだろうが。

 そんなことを考えているうちに、自分も、その降谷を狙う輩のひとりであることを赤井は思い出す。

 赤井は降谷にこれまで何度も告白をした。君が好きだと、恋愛的な意味での告白を繰り返した。しかし、降谷は、「それはあなたの勘違いですよ」「あなたの恋愛対象は女性ですよね」などと言うばかりで、こちらの気持ちを信じてくれようとはしない。もちろん、降谷自身の気持ちがどうであるのかは一度もきかせてくれたことがなかった。

 “言葉”で伝わらないのならば“行動”で伝えるしかない。そうは思うものの、具体的にいつどのように行動すべきかまでは考えがまとまっていなかった。

 ところが今、その行動を起こせるチャンスが目の前に転がっていることに、赤井は気づいてしまう。

 一種の賭けのようだと赤井は思った。

 自分がその行動を起こせば、降谷は否が応でも、自分に恋愛対象として見られていることを自覚するだろう。

 そのとき、降谷が自分の行動を受け入れてくれたり、顔を赤らめたりするようなことがあれば、降谷も自分に対して同じ感情を抱いていることがわかるはずだ。もし、その逆で、降谷が本気で嫌がったり、自分に攻撃したりするようなことがあれば、現時点で降谷が自分に恋愛感情を持っている可能性は低いと考えられるだろう。もしそうなったときには、関係修復に時間はかかるだろうが、また一から、降谷を口説きはじめればいい。

 何もせず一歩も進まないよりは、ある程度リスクを抱えることを受け入れて、前に進むべきだろう。赤井は自分にそう言い聞かせた。

 まだ中身の入っているカップをテーブルの上に置くと、かすかに音が響く。その音に降谷の手がぴくりと反応したが、赤井はその手を上から包み込んで、降谷に覆いかぶさった。さすがに降谷も異変を感じたのか、ぱちりと目を開く。目が合うのとほぼ同時に、赤井は降谷の無防備な唇へ、己のそれを重ねた。

 降谷との初めてのキスに、胸がドクリと鳴る。自分でも思っていた以上に身体が昂ってしまい、降谷の唇からすぐに離れることができなくなってしまった。それでも、最初から激しく貪るようなことはしない。優しく、二、三度、重ねて、降谷の顔を見る。

 降谷は硬直していたが、しだいに自身に何が起きたのか理解しはじめたようだ。降谷はぶわりと顔を真っ赤にして、すぐにこちらに拳を向けてきた。あえて避けなかったので、降谷の拳は見事に自分の頬に命中する。手加減はされているものの、それなりに痛い。

「い、いきなり何するんですか?!」

 降谷の声が裏返っている。降谷は本気で驚いたようだった。まさか自分がこんな真似をするなど、露ほども思わなかったのだろう。降谷に対する自分の感情がどんなものか。どれほど強く激しいものか。降谷は自分を見くびっていたのかもしれない。

「君には何度も言ったはずだ。俺は君が好きなのだと――」

 そう告げると、降谷の顔がますます赤くなる。よくよく見れば、降谷は耳まで真っ赤にしていて、瞳はどことなく潤んでいた。一瞬たりとも見逃さないよう、赤井は降谷をじっと見つめる。降谷はしばらく気が動転していたようだったが、熱い視線を向けられていることに気づいたのだろう。降谷は自分に背を向け、休憩室を駆け足で出て行った。

 赤井はその場に立ち尽くした。今の降谷の反応は、いったいどう捉えるべきなのだろう。

 降谷が自分に対して恋愛感情を持っているか否か。どちらともとれる反応をされてしまったような気がする。

 徹夜続きで頭がうまく働かないせいか、考えがよくまとまらない。だが、今ここで立ち止まっている場合ではないと赤井は思った。


 赤井は休憩室を出て、降谷を追いかけた。彼の足音を頼りに歩を進めると、降谷は公安のメンバーが詰めている部屋へと戻ったようだった。別組織の人間が入るべき部屋ではないことはわかっているが、今はそれを無視して、その部屋のドアを開く。

 部屋の中はいつの間にか灯りが消されていて、各々のデスクの上にある、パソコンのディスプレイの灯りだけが、不気味に光っていた。

 部屋の様子を見るだけで、降谷が部下たちを全員自宅に帰したあと、自身の身体を休めるために休憩室を訪れたのだということがわかる。部下を差し置いて休憩したりしないところが降谷らしい。

 赤井が部屋の中に足を踏み入れると、窓際のあたりから物音がした。赤井はゆっくりと窓際の席へ移動する。そこが降谷の自席なのだろうか。彼はデスクの下に身を隠していた。隠れるにしてももっと最適な場所があるはずだが、彼も彼で、徹夜続きで頭が働いていないのかもしれない。

「……降谷君」

 声をかけると、降谷が大きく身体を震わせた。他に逃げ場がないと悟ったのか、降谷はデスクの下でじっとしている。しばらくの間、静寂が続いた。このまま膠着状態が続くかと思ったが、降谷は小さな声で呟くように言った。

「……さっき、僕にキスしましたよね?」

 赤井はデスクの上に手を乗せて、デスクの下を覗き込んだ。目が合うとすぐに、降谷は顔を背けてしまう。「こっち見ないでくださいよ」と言う彼の声は、どことなく甘い。

 降谷が見せる態度は、自分のことを嫌がっているようには見えなかった。嫌がるどころか、むしろどこか嬉しそうで、恥ずかしがっているようにも見える。

 もし、自分の思い違いでなければ、降谷のこの態度には期待せざるを得ない。

「……ああ、したよ」

「僕にキス……できるんですね」

 いつもより幼い声音で、「僕、男なのに……」と、降谷が言葉を重ねる。降谷は演技ではなく本気で、自分が彼に対して恋愛感情を持っていないと思っていたようだ。いや、彼の口ぶりからするに、そう思い込もうとしていたのかもしれない。

 まるで、こうだと決めた場所に向かって迷い込んだ子どものようだ。赤井がキスをしなければ、降谷はずっと迷い子のままだったに違いない。

 赤井は手を伸ばし、降谷の手を握った。「出ておいで」と、彼の手をぐいと引き寄せる。降谷は戸惑いながらも、頭をぶつけないように気をつけながら、デスクの下から這い出てきた。窓辺から差し込む月の光が、降谷の顔を照らす。降谷はまさしく迷子のように、視線を彷徨わせはじめた。

 赤井は片膝をついて、降谷と視線を合わせる。瞳を揺らす降谷に、もう何度目かもわからない想いを赤井は告げた。

 もう二度と、彼が迷わないように。

「性別関係なく、俺は君のことが好きだからな。ところで、君の方は俺をどう思っているんだ? その反応……俺の都合の良いように受け取っていいのかな?」

 再び静寂が訪れる。降谷の息遣いだけが聞こえてくるこの空間に、赤井は緊張と期待で胸が高鳴った。

「……好きにしてください」

 そう告げる降谷に、赤井はもう一度、唇を重ねた。逃さないように、降谷の顔を両手で包み込む。

 降谷は顔だけでなく耳まで熱くして、自分の口づけを受け入れていた。

 どんなに深く彼の唇を奪っても、降谷が殴ってくることはない。彼の拳を受けた頬の痛みすら、今は甘く響く。

 どうやら、賭けは成功したようだ。