第7回 お題『我慢』

赤井さんに甘えたくてしょうがない降谷さんのお話(まだ恋人未満の赤安)

恋心に鈍感な降谷さんがいます。作中に出てくる写真は、外に流出しないように、赤井さんがちゃんと処理してるので大丈夫です。


 きっかけは、ささいなことだった。

 連日の徹夜のせいで、降谷がおぼつかない足取りで仮眠室へ向かっていたときのことだ。限界を迎えて大きくよろめいた降谷の身体を、正面から抱きとめた人物がいた。

 その人物というのがまさかの赤井秀一だったわけなのだが、相手が赤井とわかるやいなや、何を血迷ったのか、降谷は赤井にそのまま身体をあずけてしまった。

「降谷君、大丈夫か?」

「…………」

 返事をしなくてはと思うのに、声が出てこない。自分を支える赤井の腕が力強くて、安堵したように全身の力が抜けてしまう。

 立っていられなくなるほどに身体の力が抜けると、自分を抱く赤井の腕にさらに力がこもった。赤井と身体が密着し、夜風を浴びて冷え切った身体に赤井の熱が染み渡る。炬燵の外に出たくないと願うのと同じような気持ちで、しばらくこの温もりを手放したくないと降谷は思ってしまった。

 赤井から香る煙草の匂いにも、いつもならば気になるところだが、今は満足感で胸が満たされる。大きく息を吸い込んで、赤井の背中に腕を回すと、身体が蕩けてしまいそうなほどに心地よくなってしまった。自分自身でも信じられないほどに、赤井にすべてを委ねきってしまう。

「風見君から徹夜続きとは聞いていたが、まさかここまでとはな……」

 赤井がそう呟くのを聞きながら、降谷の意識は瞬時に途絶えた。

 意識が浮上したとき、降谷は仮眠室のベッドの上にいた。ぼんやりとした目で周囲を見渡すと、ベッドの横の椅子に赤井が座っていた。

「……目は覚めたかな。熱があるから解熱剤を買ってきた。起き上がれるか?」

 頷いたものの、身体が重く、なかなか上半身を起こせない。すると、赤井が背中を支えて起こしてくれた。大きな手で、片腕ひとつで、赤井は降谷の身体をいとも簡単に支え切ってしまう。身体に力を入れる必要がまったくないほど、赤井の腕は頼もしい。

 赤井から解熱剤を受け取り口に放り込む。次に水の入ったペットボトルを渡されて、薬を水で流し込んだ。喉が渇いていたようで、そのままごくごくと水を飲み続けてしまう。ペットボトルの半分ほどまで水を飲み干して、降谷はようやく声を発することができた。

「すみません、ご迷惑をおかけしました」

「いや、構わんよ。風見君には伝えてある。今日は一日休んでいいそうだ」

 仮眠室にある時計を見る。午前五時過ぎ。警察庁に戻ったのは午前一時過ぎだったので、約四時間ほど眠っていたということになるだろうか。この間、赤井はドラッグストアで薬や水を買い、この部屋で自分が目を覚ますのを見守ってくれていたのだろう。

 赤井も自分と同じく、十分な睡眠時間を得られているとは思えない。赤井に一刻も早く休んでもらわなければと、心が急く。

「ベッドに空きはまだあります。あなたも眠ってください」

「そうしたいところだが、野暮用があってね。これから少し出てくるよ。朝になったらまた戻って来るから、それまでゆっくり休んでいるといい」

「……わかりました」

 まるで子どもに言い聞かせるような赤井の優しい声に、降谷は頷くことしかできない。赤井の背中を見送りながら、降谷はゆっくりと目を閉じた。

 次に目を覚ましたときには、午前九時を回っていた。睡眠と解熱剤のおかげか、身体はだいぶすっきりとしている。スマホに届いているメッセージを読んでいる途中で、仮眠室のドアが開いた。赤井は中に入って来るとすぐに、降谷の額に乗せてあった冷却シートを外し、直に降谷の額に触れる。熱の具合を確かめているのだろう。赤井の大きな掌に額を覆われて、その心地よさに降谷は目を閉じる。また眠ってしまいそうになるが、どうにか意識を保った。

「だいぶ下がったようだな」

「ええ、おかげさまで。ありがとうございます。僕はそろそろ家に帰りますので、あなたも早く帰って休んでください」

「君を家に送り届けてから、俺も帰るとするよ」

「そこまでしてもらうわけには……」

 これ以上、赤井に迷惑をかけるわけにはいかない。さすがにここは断るべきだろうと思ったが、目の前に出されたビニル袋を前に、意識がそちらに向いてしまう。

「何か腹に入れておいた方がいいと思ってな。苦手なものはないか?」

 ビニル袋の中を覗くと、ゼリーやレトルトのおかゆ、栄養ドリンクやスポーツドリンク等々、風邪を引いたときの必需品といわれるような飲食物が入っていた。降谷が外に買い物に行かずに済むように、あらかじめ買っておいてくれたのだろう。赤井の優しさが、胸にじんと響く。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 赤井の厚意を、降谷は素直に受け取ることにした。

 その後。降谷は赤井の言葉に甘えてマスタングで自宅まで送ってもらい、その日一日は家でゆっくりと休養を取ることができた。


 その日をきっかけに、降谷は赤井の姿をこれまで以上に目で追うようになっていた。

 自分を抱きとめ、支えた、赤井の腕の力強さ。煙草の匂い。大きな掌の感触。赤井が自分に与えてくれた温もりが、いつまで経っても忘れられなかった。睡眠不足と発熱とで、正常な判断ができていなかった可能性もあるが、赤井に触れられて、降谷は心地よいと感じてしまったのだ。また触れてほしいと思ってしまうほどには。

 しかし、それを赤井に懇願することはできない。本人に話せるようなもっともらしい理由もなければ、赤井にとってのメリットも何ひとつないからだ。そして何より、降谷零が赤井秀一にそんなことを願い出るという状況を受け入れることができない。己のプライドが、それを許さないのだ。

 どうすることもできないまま、降谷はただ、赤井に触れられたい気持ちを我慢し続けることしかできない。体調は万全だが、精神的には赤井欠乏症に陥っていた。

 欠乏症は日に日に悪化の一途を辿った。

 ある日。会議室の前で、めまいを起こした女性を支える赤井の姿を見た。相手が女性だからだろう。すぐそばにいた女性の警察官に協力を求めて、赤井はすぐにその女性から離れたが、その光景は降谷の目に焼きついた。赤井は人として当然のことをしただけだというのに、胸がもやもやとする。挙句の果てには、その女性のことを羨ましいとさえ思ってしまった。ほんの一瞬であっても、赤井の腕に支えられたことが羨ましくて仕方がなかったのだ。

 今度は自分が、赤井の目の前で躓いたフリでもして支えてもらおうか。そんな馬鹿げたことを考えてしまうほどには、この欠乏症は重症化していた。

 もちろん、赤井に対してこんな感情を抱いていることは、誰にも知られないよう振る舞っている。しかし、それにも限界が訪れたらしい。

 合同捜査会議が終わった後。降谷は赤井に呼び出され、小さな会議室にいた。赤井の顔を直視できず、降谷は窓の外を眺めた。夕焼けに夜の色が重なる、美しい時間だ。

 降谷が現実逃避しかけているのを引き留めるように、赤井がゆっくりと口を開く。

「最近、よく俺の顔を見ているだろう。何か気になることでもあったかな」

 あの日をきっかけに、赤井の姿を何度も目で追っていた記憶が降谷にはある。赤井は気づいていないと踏んでいたが、見込みが甘かったようだ。理由が理由なだけに、赤井に正直に話すことは戸惑われた。

「いえ、特に何もないですが……」

 降谷のこたえに、赤井は納得いってないようだった。

「君は、自分がどんな顔をして俺を見ているのか、わかっているのか?」

「……え?」

 自覚していないのか……と、赤井が困ったような声で呟くのが聞こえる。赤井はスマホを取り出し、画面を何度かタップすると、画像フォルダの中身を自分に見せてきた。

「これは、ジョディが撮影して俺に送ってきたものだ」

「こ、れは……」

 赤井のスマホを覗き込んですぐ、降谷はその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。

 写真は全部で五枚ほどあった。その五枚の写真はすべて、赤井に向けている降谷の表情を映したものだった。

 赤井に熱い視線を向けている写真。何か物欲しそうな表情を浮かべて赤井を見ている写真。顔を赤くして赤井を見ている写真。赤井に見惚れるような表情を浮かべている写真。最後の写真は、どこか寂し気な表情を浮かべていた。その写真の端には、以前、めまいを起こした女性が映っている。あのとき自分がこんな顔をしていたとは、思いもよらなかった。

 自分を映した写真のはずなのに、まるで自分ではないような気さえする。いくつもの顔を演じ分ける自分も、赤井の前では形無しのようだった。

 その上、撮影されていることに気づかないほど、赤井を熱心に見ていた証拠を突きつけられたようで居心地が悪い。

 部屋のドアへちらりと視線を向けると、それに気づいたのか、赤井が自分の目の前に立ちはだかった。赤井は自分を逃してくれるつもりはないらしい。

「いったいどんな気持ちで、こんな顔を俺に向けていたのかな」

 赤井の問いかけに、降谷は大きく息を吐く。誤魔化すことも、しらをきることも、もうできそうになかった。

「先日、睡眠不足と発熱でふらふらになっていた僕を、あなたが介助してくれたことがありましたよね」

「ああ」

「あのときからずっと、あなたに触れられたことが忘れられなくて……」

「…………」

「……誠に不本意ながら、あなたに抱きとめられて、額に触れられて、心地よいと感じてしまったんです。あまりにも心地よかったから、またしてほしいなと思ってしまって……気づけばあなたの姿を目で追ってました。あなたの、せいですからね。僕がこんな風になったのは。あなたがいけないんですよ」

 全部赤井のせいだ、といわんばかりに念を押して言う。赤井は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに顔を綻ばせ、降谷に近づいてきた。

 赤井は何も言わないが、自分の願望を叶えてくれるつもりらしいことが降谷にはわかった。赤井の腕が、降谷の背中に回る。しかし、ただ触れているだけで、あのときのような力強さはない。降谷はどこか物足りなさを感じた。

「これでいいだろうか」

「ダメです。もっとぎゅってしてください」

 正直に告げると、赤井が苦笑する気配が伝わってくる。

「ああ」

 赤井の腕に力がこもる。力加減を探るような手つきは最初だけで、ぐっと強く強く抱き締められた。背骨が折れてしまうのではないかというほど激しく抱き締められて、降谷はようやく満足する。大きく息を吸うと、あのときと同じように赤井の煙草の匂いが自分の身体の中に入って来た。恍惚とした気持ちで赤井の背中に腕を回そうとしたところで、はっと我に返る。

「満足しました。どうもありがとうござ――」

 すぐに離れようとしたが、赤井にそれを引き留められた。後頭部を大きな掌で包まれて、自然と赤井の胸に顔を埋める形になる。赤井の胸に、降谷は自分の顔を幾度もすりすりと擦りつけた。赤井から伝ってくる温度が上がり、あのとき以上の心地よさを感じる。赤井の吐息を間近で感じて、降谷は胸が高鳴った。

「……俺だけにしてくれないか」

「え?」

「君がこうして甘えるのは、俺だけにしてくれないか」

 赤井の言葉に、自分は赤井に甘えたかったのだと降谷は気づく。否定したい気持ちもあったが、今はこの心地よい空間に浸っていたかった。この空間は二人だけのもので、赤井にしか作り出せないものだ。

「あなた以外の人と、こんなことできませんよ」

 そう告げると、満足のいくまで、赤井に強く激しく降谷は抱き締められた。