ブルース・リー フィルモグラフィ


金門女 (ゴールデン・ゲート・ガール) (未) (1941)

Golden Gate Girl


別題:金山涙 、Tears of San Francisco


製作会社:米・Golden Gate Film Company、香港・大觀聲片有限公司 (美國分廠)
公開日:米公開1941年5月15日/香港公開1946年1月10日/日本未公開

監督:伍錦霞(エスター・エン)、關文清(ムーン・クワン)/脚本:關文清
出演:曹綺文(娘、孫"樂樂"2役)、關文清(父親)、黃鶴聲(若者)、劉熾南(店員)、陸雲飛(料理人)、李振藩(孫"樂樂"嬰児期※ノークレジット)、他

概略

サンフランシスコのチャイナタウンにある骨董屋の娘(曹綺文)は、骨董店の店主である厳格な父親(關文清)から観劇を禁じられていたが、ある時店の従業員(劉熾南)の手引きで、こっそりと広東オペラの劇を観に行く。娘はそこで中国から公演に来ていた広東オペラのスター(黃鶴聲)と出会い、二人は恋に落ちる。これを知った父親は激怒、娘を勘当し、店員もクビにしてしまう。娘と役者は一緒に暮らし始めるが、役者はチャイナタウンの演劇界から追放され中国に戻ってしまい、取り残された娘は赤子(ブルース・リー)を産んだ後死ぬ。骨董店店主は私生児を孫とは認めようとせず、店を解雇されていた従業員と料理人(陸雲飛)の二人が赤子を引き取り、二人は赤子を"樂樂(ルゥルゥ)"と名付け、洗濯屋を営みながら赤子を育てる。やがて赤子は美しい娘(曹綺文、2役)へと成長する。時は1941年。折から巻き起こった「一碗飯運動」の最中、運動の決起集会の檀上で演説をする孫娘の姿を見た店主は、孫娘の人徳に感動し、自分の孫であることを認め、誇るべき孫娘だと彼女を受け入れる。

南洋商報(シンガポール)
1946.9.12広告

解説

ブルース・リーが生後3ヵ月で出演したことで知られる作品。米国在住の香港人向けに米国で製作された米国と香港の映画会社との合作による広東語映画。米国ではサンフランシスコのチャイナタウン内の映画館・大中華戲院で1941年5月15日に公開され、香港では終戦後の1946年になって公開されています。
ブルース・リーは曹綺文演ずる主人公が産んだ娘"樂樂"(ルゥルゥ、こちらも曹綺文が1人2役で演じている)の赤ん坊時代の役として登場。映画製作時、映画に広東オペラが登場する為、当時アメリカ巡業中であった広東オペラ俳優であるリーの父・李海泉の劇団が呼ばれ、産まれたばかりのリーを連れていたことから、赤ちゃん役に丁度いいと登場する事になったようです。映像として記録されたブルース・リー最古の映像としても貴重な作品ですね。

監督はベテランのムーン・クワン(關文清)が担当したと公開当時は宣伝されましたが、実際はプロデューサーでもあったエスター・エン(伍錦霞)が監督を行った事が判っています。エスター・エンはアメリカ初の女性アジア人監督として知られる人で、この映画を監督した時はまだ27歳という若手だった事もあったせいか、知名度も高いムーン・クワンを前面に出す事になったのでしょうか。
このあたりの経緯など、2013年に製作されたエスター・エンの生涯を追ったドキュメンタリー映画「ゴールデン・ゲート・ガールズ」(金門銀光夢/Golden Gate Girls)で知ることが出来ます。また、このドキュメンタリーでは「金門女」本編シーンも紹介されていて、ブルース・リーが登場するシーンを観る事が出来ます。

映画の最後で語られる「一碗飯運動」とは、1938年に勃発した日中戦争で戦火に遭った被災者を救済する為に興ったチャリティ運動で、1938年にサンフランシスコのチャイナタウンで行われたキャンペーンパレードをきっかけに、アメリカ全土やアジアの中国近隣国、香港等にも広がっていった慈善運動だそうです。米国では当時のキャンペーンのバッジやポスター等が歴史資料館等に収められていたりする、知られた運動のようで、当時日本は海外から非難の目で見られていたことが判りますが、そういった情報は日本で語られる事はあるはずもなく、今日まで触れられる事は全くといってもいいほどなくて、日本では殆ど知られていませんね。

米国公開当時の映画館の様子。
公開日が5/15であることと監督が2人であることが読み取れる。

ドキュメンタリー映画「ゴールデン・ゲート・ガールズ」

ギャラリー