伝光録・第二章
背景 愛知県豊橋市(令和8年4月25日 撮影)
背景 愛知県豊橋市(令和8年4月25日 撮影)
令和5年8月20日 更新
【本則】第二祖、阿難陀尊者(あなんだそんじゃ)、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に問いて曰(いわ)く、「師兄(すひん)、世尊(せそん)、金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を伝うる外(ほか)、別に箇の什麼(なに)をか伝うる。」迦葉、「阿難」と召す。阿難応諾(おうだく)す。迦葉曰く、「門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)せよ。」阿難大悟(だいご)す。
お釈迦様は悟りを得て間もなく、故郷にお戻りになりました。このとき、釈迦族の王子ら数名がお釈迦様の下で出家し、仏門とのご縁を育んだといわれます。その中の一人に、阿難陀尊者という方がいらっしゃいました。阿難はお釈迦様のいとこにあたる人物で、その兄・提婆達多(だいばだった)も同時期にお釈迦様の下で出家しています。しかし、兄の提婆は中々、悟りを得られぬことから、次第に仏の道から外れていきます。お釈迦様への嫉妬から、お釈迦様への妨害行動に出たり、殺害計画を企てたりと、その悪事は枚挙にいとまがありません。
そんな兄とは違って、弟の阿難は仏の道一筋にお釈迦様に20年近く付き従い、誰よりもお釈迦様のお言葉やみ教えを耳にしたことから、「多門第一(たもんだいいち)」と呼ばれ、十大弟子(お釈迦様のお弟子様の中でも特に優れた10人の修行者)のひとりとして、数え上げられるようになりました。
しかし、かほどにお釈迦様の側で修行に励み、誰よりもそのみ教えを聞いてはいたものの、お釈迦様がそのみ教えを伝え、教団の将来を託す者としてお選びになったのは迦葉尊者でした。結果的には、阿難はお釈迦様から直接、教えを受けたのではなく、高弟の迦葉尊者から受け継ぐことになります。そんな迦葉尊者に付き従うこと20年、ようやく阿難が大悟(仏の悟りを体得すること)した瞬間とその時のやり取りが、今回の本則に指し示されています。
阿難が迦葉尊者に問いかけました。「世尊(お釈迦様)は師兄(兄弟子である迦葉尊者のこと)に金襴の御袈裟をお伝えになりましたが、それ以外に何かお伝えになったものはあるのですか?」―僧侶が身にまとう袈裟の中でも金糸模様を織り込んだものを「金襴」と申しますが、お釈迦様が迦葉尊者に金襴の袈裟を伝えたというのは、仏法を伝えたということであり、金襴の袈裟は仏法の象徴なのです。前段・第一章の機縁において、「善来比丘(ぜんらいびく)とのたもふに、鬚髪(しゅはつ)すみやかに落ち袈裟(けさ)体に掛る。乃(すなわ)ち正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を以て付嘱(ふしょく)し、十二頭陀(じゅうにずだ)を行じて、十二時中虚(むなし)く過ごさず。」とありました。多子塔前(たしとうぜん)においてお釈迦様と迦葉尊者が出会ったとき、迦葉尊者のヒゲや髪の毛がなくなり、袈裟がかかると共に、正しい仏法(正法眼蔵)が伝えられていったことが示された場面です。
そうした金襴の袈裟以外に迦葉尊者に伝えたものはなかったのかという阿難の問いに迦葉尊者は「門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)せよ。」とお答えになりました。法要や説法がある場合に、寺院の門柱に掲げる旗を「刹竿」と言いますが、それを「倒却著(倒し切ってしまえ)」と迦葉尊者はおっしゃっているのです。この言葉を聞いて、阿難はついに悟りを得るのですが、この言葉の意味するところは一体何なのでしょうか。
法を説く者がその合図として掲げる刹竿を倒してしまえば、周囲には見えなくなってしまいます。周囲に分かるように、刹竿を立てて合図を出せば、皆が気づきますが、倒してしまえば誰も気づくことはありません。そうなると、仏法を広めるという目的が果たしづらくなります。仏法を広めるために刹竿を立てることだけを考え、そこに捉われていては、仏法の神髄は見えてきません。刹竿を倒すということの意味をも併せて知ってこそ、仏の悟りへと到達できるのです。
阿難は「多門第一」と呼ばれ、誰よりもお釈迦様のみ教えを多く聞き、博識であることが強みでした。しかし、そのことに満足していれば、それ以上先に進むことはできず、到底、仏の悟りに到達することなどできないのです。お釈迦様の下で20年、更に迦葉尊者の下で20年、専一に仏道修行に励み、阿難尊者は、ようやく今、説法には欠かせぬ門前の刹竿を倒し切ってしまうことの意を悟り、お釈迦様のお墨付きを得ている迦葉尊者から認可を得ることができたのです。そして、これはお釈迦様の認可をも得たことをも意味しているのです。
令和5年9月3日 更新
【機縁】夫(そ)れ阿難尊者は、王舎城(おうしゃじょう)の人なり。姓は刹定利(せっていり)、父は斛飯王(こくぼんのう)。実に世尊の従弟なり。
第二祖・阿難尊者について、その出生や仏法との機縁等が瑩山禅師様より説明されていきます。
瑩山禅師様によれば、阿難尊者は「王舎城」のご出身であるとのことです。王舎城はお釈迦様が成道(悟りを得ること)なさったり、仏教伝道を行ったりした地とされる中インド・マカダ国の首都で、古代インドの十六大国の一つです。ちなみに、お釈迦様から迦葉尊者に仏法の付嘱がなされた「多子塔(たしとう)」のある「霊鷲山(りょうじゅせん)」は王舎城の東北にあった山で、マカダ国が仏教と縁深い地であることに気づかされます。
そんな仏縁深き地にお生まれになった阿難尊者は、「姓は刹帝利」とあるように、インド国民の民間信仰宗教であるヒンドゥー教に基づく「四姓制度」の一つに数えられる「王族・士族」のご出身であったことが瑩山禅師様より紹介されます。この「刹帝利」には、釈迦族国王のお釈迦様一族が属しています。
※「四姓制度」については、第27回に詳細を説明させていただいておりますので、そちらもご参照ください。
そして、阿難尊者の父・斛飯王は「世尊の従弟」であると紹介されています。世尊(お釈迦様)と迦葉尊者は赤の他人で初対面の者同士でしたが、阿難尊者は、そうではなく、お釈迦様一族の者であり、親族の一人として、お釈迦様とはすでに面識があったことということです。
人間の世界において、家族・親族といった関係性の深い間柄の者同士ならば、ついつい感情が入り、特別扱いをしてしまう場合もあるかもしれません。しかし、釈尊教団には、そうした感情移入による区別や差別的な関わりは一切、存在しません。もし、そんなものがあったとすれば、お釈迦様は迦葉尊者を差し置いて、真っ先に阿難尊者に仏法を付嘱なさったことでしょう。仮に阿難尊者に仏法を体得できる器がなかったとしても、そこには半目をつぶったことでしょう。
そうした表面的な関係性で感情移入せず、仏法を体得できる器が育っているかどうか、そこに目を向け、師から弟へと仏法が伝わっていくのです。そこに到るまでの過程の中で、弟子は懸命に修行に励むのです。阿難尊者もまた、お釈迦様に20年仕え、さらに迦葉尊者にも20年仕え、ついに仏法体得の瞬間を迎えるのです。
令和5年9月10日 更新
【機縁】梵語には阿難陀(あなんだ)、此(ここ)には慶喜(けいき)といひ、又は歓喜(かんぎ)といふ。如来成道の夜に生る。容姿端正にして十六大国も隣とするなし。見る人ことに歓喜す。故に名と為す。
古代インドのサンスクリット語である梵語において、阿難の名は慶喜(けいき)または歓喜(かんぎ)とも言うと瑩山禅師様はおっしゃっています。そして、阿難尊者が、お釈迦様が成道(仏のお悟りを得ること)なさった日の夜にお生まれ人になったこと、「容姿端正にして十六大国も隣とするなし(十六大国どこを見渡してみても、阿難以上に容姿の調った者はいない)」ということが説明されています。阿難尊者は今でいうところの〝イケメン〟だったのでしょう。
ちなみに、「十六大国」について申し上げておきます。古代インドにおいて、紀元前6世紀から5世紀にかけて、ガンジス川流域に中央アジアの牧畜民族であったアーリア人が定住し、先住民と交わりながら多くの小国が誕生しました。その中でも特に有力なのが「十六大国」で、お釈迦様が成道し、布教伝道なさったマカダ国や、後にマカダ国に合併されるコーサラ国が有力国として君臨していたとのことです。
そんな十六大国の中でも一・二を争うほどの美しい容姿の持ち主であった阿難尊者には「慶喜」または「歓喜」という呼び名があったということですが、「歓喜」には、「楽しい」とか、「喜ぶ様」という意味があります。思うに、容姿端正というのは、元来からのイケメンということだけではなく、穏やかな心持ち、優れたお人柄というものも加わって醸し出されているように思います。阿難尊者は、たとえ自分にとって不都合かつ避けたくなるようなことがあっても、いつもニコニコと穏やかな面持ちで、しっかりと自分の心の中で消化したり、どんなことがあっても喜ばしい気持ちで関わったりするような人間性の優れた方だったのではないでしょうか。だからこそ、「容姿端正にして一六大国も隣とするなし」と評されたのではないかという気がいたします。元来持って生まれたものに加え、日々の中で育まれていった人間性から生み出される顔立ちの良さということが、「歓喜」という言葉が説かんとしているところのように思います。
こうした歓喜の思い極まる阿難尊者ゆえに、会う人会う人にも歓喜の念が伝播していたのでしょう。阿難尊者の傍にいれば、誰もが心洗われ、喜ばしい気持ちになっていったのです。だから、「歓喜」という名で呼ばれたということなのです。我々もこうした阿難の生き様を真似ていきたいものです。
図らずも令和5年4月から曹洞宗石川県青年会会長の任に当たっておりますが、就任前に「あの人には人が寄っていかない」と陰口を言う方もいたようです。確かに私自身、40歳前後の頃は、特に血気盛んで、きちんと物事を成し遂げたいと考える余り、周囲にも厳しく接していた時期がありました。今思えば、なぜ、あんなにピリピリしていたのかと恥ずかしくなるくらいなのですが、当時は何事もキッチリこなすことの一点に執着していて、他のことが見えなくなっていたような気がします。
そんな自分を知る方からすれば、「人が寄っていかない」と評されるのも仕方ないのですが、そんな自分でも、多くの人から会長として選んでいただいたことを思うとき、「歓喜」という言葉にあるような柔らかさや穏やかさを併せ持った人間でありたいと願い、毎日を過ごしています。会長職を拝命して半年が経ちますが、果たして、「人が寄ってくる会長」になっているのかどうか、まだまだ未知数ですが、40歳前後の時期を思えば、誰かと諍いを起こしたり、不愉快な思いをしたりする場面が減り、穏やかな気持ちで毎日を過ごせているように思います。自分の意識の変化によって、少しは状況がいい方向に進んでいると思いたいところです。「歓喜」という言葉を胸に、少しでも人間性を高めながら、2年間の任期を務めさせていただきたいと思っております。
令和5年9月17日 更新
【機縁】多聞第一(たもんだいいち)にして聡明博達(そうめいはくたつ)なり。仏の侍者(じしゃ)たること二十年、仏の説法として宣説(せんぜつ)せざるなく、仏の行儀(ぎょうぎ)として学し来(きた)らざることなし。
明年(令和6年【2024年】)、太祖瑩山紹瑾禅師七百回大遠忌(たいそけいざんじょうきんぜんじしちひゃっかいだいおんき)をお迎えするに当たり、本年は来る令和6年の一大仏事をお知らせし、予め修行させていただく「予修(よしゅう)」の年として、方々で法会等が営まれております。去る9月12日から15日にかけて輪島にある大本山總持寺祖院(だいほんざんそうじじそいん)にて、毎年、修行されている「御征忌会(ごしょうきえ)」においても予修法要が営まれ、住職も法要に参列させていただきました。
そんな仏縁の中、松山寺御開山・融山泉祝大和尚(ゆうざんせんしゅくだいおしょう)が瑩山禅師三百回大遠忌に際し、「伝光録」の書写をなさったことが、この度の七百回大遠忌をお迎えする中、後世の人々のの研究によって判明、その報を受けた住職の胸には熱いものがこみ上げてきました。計らずも現・松山寺二十八世住職を拝命している私は、兼ねてから伝光録を読み味わい、令和4年からは、お寺のホームページに、その解説を掲載してまいりました。そんな中でお迎えした七百回大遠忌において、御開山様の偉業に触れると共に、自らが松山寺住職として、また、一学道の者の端くれとして、正当なる道を歩ませていただいている確信をいただくと共に、謙虚な気持ちで更なる精進を誓い、今日も報恩の行をつとめさせていただくのです。
さて、後年、「多聞第一」と呼ばれ、お釈迦様の侍者(側近)として、その側に侍り、誰よりも多くそのみ教えを耳にしてこられた阿難尊者に関する瑩山禅師様のご教示を読み進めてまいりたいと思います。
瑩山禅師様は阿難様が多聞第一であると共に、「聡明博達(道理を十分に心得た賢い者)」であると評されています。そんな阿難様はお釈迦様の側に二十年間もの間、お仕えし、そのお言葉をお聞きしながら、仏道修行に励んでこられたというのです。思うに、お釈迦様(仏)やそのみ教え(法)に対する絶大なる帰依(きえ)の念なくしては、中々、このような偉業は成し遂げられるものではないと思います。それが学道の者たる仏道修行者の本来のあるべき姿なのです。そして、それは伝光録を全て書写なさった松山寺御開山・融山泉祝大和尚も同じだと考えます。そんなことが頭の中を過(よぎ)るとき、自らの襟元が正され、令和の現代における一学道の者として、古人に恥ずかしくない生き方を心がけていこうという思いが湧き出てくるのです。
お釈迦様の侍者として、二十年の歳月を過ごされた阿難尊者について、瑩山禅師様は「仏の説法として宣説せざるなく、仏の行儀として学し来たらざることなし」とお示しになっています。「宣説」は「自分の見解や主義を述べること」であり、「行儀」は「立ち振る舞い」を指します。二十年という長い期間、誰もが帰依し、敬意を表する偉大な方と過ごし、最もその言葉を聞いた者であれば、誰彼かまわず、自らの見解を言いふらしたくなるものです。しかし、それは凡夫(ぼんぶ)の所業であり、学道の者ならば、師から自らの教えを受けるにふさわしい者と認可されない限りは、そのようなことはしません。阿難様はそのことをよくよくご理解なさっていた学道の者だったということなのです。瑩山禅師様の「宣説せざるなく」の一句からは、阿難様が真の仏道修行者であり、お釈迦様の高弟・迦葉尊者(かしょうそんじゃ)からお釈迦様のみ教えを受けるに相応しい人物であったことが明確に証明されているように感じます。
それでいて、阿難様がお釈迦様の行儀をしっかり学び取っていたという一句からは、師の「自らが誰よりもお釈迦様の侍者として、お釈迦様のことを存じ上げているんだ」というような横柄な態度は一切、感じられません。黙々と仏道修行を重ねていらっしゃったお姿だけが伝わってきます。
「多聞第一・阿難尊者」ゆえに、お釈迦様が阿難様ではなく迦葉尊者に仏法を伝えたことは、一見したところ、阿難様にとっては、おもしろくないことだったと思えるかもしれません。しかし、そんな捉え方は、学道の者の捉え方とは言えません。誰が何を言おうが、周囲からどのような捉え方をされようが一切関係なく、ただ只管(ひたすら)に仏の道を歩むのが「学道の者」なのです。成果や見返りを求めることなどナンセンスで、仏の道一筋に、何年も何十年も生きてきた結果として、阿難様は迦葉尊者から仏の道をお伝えいただくのに相応しい人間となり、法が伝わっていったと理解すべきなのです。
多聞第一・阿難尊者の生き様からは、「学道の者」としてのあるべき姿がにじみ出ているような気がいたします。よくよく学んでおきたいところです。
令和5年9月27日 更新
【機縁】世尊(せそん)、迦葉(かしょう)に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を伝付せしきざみ、同(おなじ)く阿難に付嘱して曰く、副弐伝化すべしと。之に依(より)て迦葉に随ふこと亦二十年、あらゆる正法眼蔵、悉く通達せずといふことなし。
お釈迦様の侍者(側近)として二十年、誰もが敬う尊師のお言葉を誰よりも耳にしたにもかかわらず、そのことを他者に自慢げに言いふらすわけでもなく、自らの見解をまくし立てるようなことも一切なさらない。それでいて、お釈迦様の行儀(立ち振る舞い)については、完璧なまでに学び取っていた真の学仏道の者である阿難尊者。ところが、世尊(お釈迦様)が直接、仏法の真髄(正法眼蔵)を伝付なさった迦葉尊者は阿難尊者のような親族の一人ではなく、全くの他人でした。また、阿難尊者と同等の力量を有する仏法伝付に相応しい人物でもありました。
そんな阿難尊者に対する正法眼蔵の付嘱というきざみ(事例)について、瑩山禅師様は「副弐伝化すべし」というお釈迦様のお言葉を提示なさっています。ここに、お釈迦様がお示しになった阿難尊者に対する仏法伝付の思いが示されています。
「副弐」には、「補佐」や「助手」という意味があります。すなわち、「お釈迦様に補佐的に付き従いながら、仏法を伝えていく」というのが、お釈迦様の阿難尊者に対する仏法の付嘱なのです。すなわち、お釈迦様からの直接的な法の伝付ではなく、迦葉尊者を通じての間接的な伝付ということです。
この背景には「多聞」ということは、仏に近づく上では欠かせないものの、それだけでは、仏の心に通じ、仏の道を体得したとは言えないという見解があります。すなわち、自らが耳にしたことは、徹底して行じていく中で、いつか必ず、道を得る瞬間が訪れるということなのです。お釈迦様は阿難尊者にそうした時間を20年間与えると共に、自らに代わって迦葉尊者に「副弐伝化」の大役を与えました。そして、それによって阿難尊者が道を完成させたのです。そのことを指し示すのが、「迦葉に随ふこと亦二十年、あらゆる正法眼蔵、悉く通達せずといふことなし。」です。
多聞第一、優れた学道の者である阿難尊者が仏に近づき、そのお悟りを完成するためにいただいた20年間。この中で阿難尊者は更に学仏道に精進し、ついに迦葉尊者の下で仏と成りました。この瞬間はお釈迦様のお二人の高弟への願いを、それぞれが達成した瞬間でもあったことを心に留めておきたいところです。
令和5年10月8日 更新
【拈提】夫れ祖師の道の他家に類せざること、之を以て証本と為すべし。
今回から瑩山禅師様による拈提(修行者への提示)が始まりますが、その冒頭において、瑩山禅師様は「祖師の道が他の道とは異なるものであることは、これまでの話が証明している」とおっしゃっています。〝これまでの話〟とは、他でもなく、前段の機縁の中で示されてきた迦葉尊者から阿難尊者への仏法の伝付に関するエピソードです。
機縁の冒頭において、師から弟子への仏法の伝付というのは、たとえば、親戚だから認めるというような、相手の立場など、表面的な関係性に感情移入して為されるものではないというみ教えがございました。あくまで当人に仏法を体得できる器が育っているかどうか、言ってみれば、本人の精進が仏法伝付の決め手となっていくということなのです。
阿難尊者は「多聞第一」と称され、長らくお釈迦様に仕え、誰よりもお釈迦様のみ教えを耳にしてきた方でした。機縁の中に「歓喜(かんぎ)(穏やかな心持ち、優れたお人柄が表情ににじみ出ていること)」という言葉がありました。そこからもわかるように、お釈迦様という偉大なる師と長期にわたり関わっていたからこそ、善き人間性が育まれると同時に、仏のみ教えをいただくには十分すぎるくらいの器を有した存在にまで育っていったのです。そのことは、他の誰から見ても疑いようのないものだったはずです。
しかし、お釈迦様は阿難ではなく迦葉に法を伝えると共に、阿難に対しては迦葉を通じての間接的な仏法の伝付(副弐伝化)という手法を取ることになさいました。この背景には、「多聞」という他者からの言葉を聞くのみではなく、自分の耳で聞いて体得したことを通じて、自らの力で仏の道を歩んでいく姿が培われてこそ、法の伝付が実現されるということがあるのです。それが「精進」ということなのです。
そうした阿難の現段階での修行者としての状態を深く見極めると共に、阿難への勇猛なる精進を願うお釈迦様の深い愛情に満ちた「副弐伝化」という方策そのものが、他の様々な道とは異なる、一線を画したものだということをしっかりと押さえ、次回以降、瑩山禅師様の拈提を読み進めてまいりたいと思います。
令和5年10月15日 更新
【拈提】阿難すでに多聞第一、広学博達なり。仏まのあたり 聴許(ちょうきょ)しましますこと多し。然(しか)れども、尚(な)ほ正法を伝持し、心地(しんち)を開明することなし。
「多聞第一」と称される阿難尊者は、お釈迦様の側にお仕えして20年。この間、「仏まのあたり 聴許しましますこと多し」とありますように、お釈迦様から離れることなく、常にお釈迦様を目の当たりにし、そのお言葉をお聞きすることが許されていました。それゆえ、「広学博達」という言葉にも示されているように、幅広い広い知識を有した有能な存在として釈尊教団の中で頭角を現していったのでしょう。ちなみに、「機縁」の中でも、瑩山禅師様は有能なる阿難尊者を「多聞第一にして聡明博達(そうめいはくたつ)なり」と、今回と同様に評していらっしゃいました。
しかし、いくら多聞第一の有能なる阿難尊者であっても、お釈迦様が直接、法をお伝えになったのは迦葉尊者で、阿難尊者には「副弐伝化(ふくじでんけ)」という間接的な形で法の伝授していくことになっていきました。お釈迦様が迦葉尊者に法をお伝えになって以降、さらに20年、阿難尊者は迦葉尊者に付き従って、法を体得なさるのです。
そんな多聞第一にして、広学博達、聰明博達と評される阿難尊者がお釈迦様から法を受け継ぐに至らなかった理由は何なのでしょうか―?それが示されているのが、今回の一句です。「正法を伝持し、心地を開明することなし」とあります。誰もが認める有能な阿難尊者でも、仏のお悟りを体得していなかったことが、お釈迦様の法を受け継ぐに至らなかった理由であると瑩山禅師様はおっしゃっているのです。すなわち、阿難尊者が「未証果」なるがゆえの展開だったということです。
いつの時代にも頭の回転が速い有能な人間はいます。彼らは周りよりも秀でた能力を持っているがゆえに、周囲から一目置かれ、頼られることでしょう。ところが、そんな中には、あまりに周囲にチヤホヤされてしまうと、自分は優れていると勘違いしてしまう人間もいるもので、そうなってしまえば、周囲に横柄な態度で接するようになるなどして、忽ち、信頼を失ってしまうことになるのです。今まで培ってきたものの全てが、一瞬にして水泡に帰すのです。
そうならないように、自らの身心を律しながら周囲と関わっていくことの大切さを説くわけですが、こと仏道の世界では、有能であることに満足し、そこで終わってしまうようでは、仏道を成し遂げることはできないということを、しっかりと押さえておきたいものです。仏を目指し、少しでも仏に近づけるよう、「精進」していくことによって、正法を伝持し、心地を開明できるのです。お釈迦様の下では「仏まのあたり 聴許しましますこと多し」の阿難尊者は、迦葉尊者の下で、そうやって精進し、ついに仏果を得たのです。そのことを理解し、以降の瑩山禅師様のみ教えを読み味わってまいりたいと思います。
令和5年10月29日 更新
【拈提】迦葉、畢波羅窟(ひっぱらくつ)にして、如来(にょらい)の遺経(ゆいきょう)を結集(けつじゅう)せんとせしとき、阿難、未証果(みしょうか)なるに依(より)て、彼の室に入ることを得ず、許さず。時に阿難、密(ひそか)に思惟(しゆい)して、速やかに阿羅漢果(あらかんか)を証す。而して入らんとするに、迦葉の曰く、既に証果せば神通(じんずう)を現じて入るべしと。時に阿難、小身を現じて鑰(かぎ)の穴より入る。終(つい)に畢波羅窟に入る。
「未証果(仏道修行によって仏の悟りを得るに至っていないこと)」ゆえに、お釈迦様から直接、法を受け嗣ぐまでに至らなかった阿難尊者ですが、尊者の師であり、お釈迦様から直接、法を伝付された迦葉尊者もまた、そのことを厳しい眼で以て捉えていたこと。そして、それを受け取った阿難が師のみ教えに随い、弟子としての第一歩に立つまでに至ったこと。それらが、今回の一句を読み味わう中で感じ取れます。
―「迦葉、畢波羅窟にして、如来の遺経を結集せんとせしとき、阿難、未証果なるに依て、彼の室に入ることを得ず、許さず。」―迦葉尊者が畢波羅窟でお釈迦様の最期のみ教えについて、結集(お弟子様を始めとする関係者と話し合うこと)の場を設けようとしたとき、阿難が未証果だったために、この場に招くことを許さなかったというのです。「如来の遺経を結集する」というのは、お釈迦様がお亡くなりになった直後に迦葉尊者を座長として、お釈迦様の最期のお言葉(遺経)を収集し取りまとめたといわれる「第一回結集」を指しているものと考えられます。この結集は中インドの王舎城付近にあったとされる畢波羅山(ひっぱらざん)の麓の石室で行われた模様です。畢波羅窟はお釈迦様が食後の坐禅をした場所です。また、重病にかかった迦葉尊者がお釈迦様のみ教えを聞いて体調を回復させたり、坐禅中にお釈迦様の死を知るに至ったりした地でもあります。
そんな大切な意味を持つ第一回結集に、聰明博達で、「多聞第一」と呼ばれるくらいに、誰よりもお釈迦様の側に長く仕えた阿難が参加できないというのは、あってはならないことであると同時に、阿難なしにお釈迦様の最期のお言葉を収集し、まとめきるのは至難の業であることは想像に難くありません。しかしながら、未証果であるという師の判断がある以上は、阿難の第一回結集への参加は叶いません。
阿難尊者は「密に思惟して(そんな状況を踏まえ)」、「速やかに阿羅漢果(煩悩を断ち、為すべきことを為して人格を完成させた者に与えられる仏の弟子としての最高位)を証す」とあるように、仏道修行によって、師の認可を得ることにしました。
そんな阿難に対して、迦葉尊者は「神通を現じて入るべし」とおっしゃいました。「神通」は、「仏道修行によって体得される言葉では表せぬ摩訶不思議な力」を指します。阿難は師の言葉に随い、「小身を現じて鑰の穴より入る」とあるように、完全に門を閉ざされ、簡単には入ることができない石室に身体を小さくして、鑰(カギ)穴のような小さな隙間から入っていったと言うのです。すなわち、師から入室を許可されていない畢波羅窟に入るために、師の言葉に随って、仏道修行に精進し、師から入室を許可されるまでの存在になったということを指し示しているのが「神通を現じて(畢波羅窟に)入る」なのです。
こうして畢波羅窟に入り、第一回結集の場に参加することが認められた阿難尊者-これはまさに、ようやく迦葉尊者の弟子として正式に認可されるための第一歩を踏み出したということなのです。いよいよ阿難尊者が仏と成るための道が深まっていくのです。
令和5年11月5日 更新
【拈提】諸弟子悉く曰く、阿難は仏の給仕(きゅうじ)として多聞にして広学なり。一器(いっき)の水を一器に伝ふるが如し。少しも遺漏(いろう)なし。願くは阿難を請(しょう)して再説せしめん。
未証果と言われていた阿難尊者が、〝神通(じんずう)を現じて、鑰(かぎ)の穴より畢波羅窟に入る〟とあるように、迦葉尊者のお言葉に随って、仏道修行に励み、ようやく、その認可を得られるところまで来ました。
そんな阿難尊者について、他の修行者たちが迦葉尊者に「阿難を請して再説せしめん」とあるように、「再度、阿難尊者に法を説くチャンスを与えてくださいますように」と、懇願なさっているのが今回の一句です。「諸弟子悉く曰く」以下に示される修行仲間が発する言葉の中には、師から弟子への仏法の相承(そうじょう)というものが如何なるものであるか、明快なたとえを用いながら示されています。それが「一器の水を一器に伝ふるが如し」という一句です。これは「相承」というものを明快に指し示すたとえとして、今日まで受け継がれている一句です。
「少しも遺漏なし」とあるように、「一滴も漏らすことなく、残すことなく、眼前の器に入っている水を別の器に移し替えるように、お釈迦様のみ教えがそっくりそのまま師から弟子へと受け継がれていく」のが、「相承」です。眼前の器の水は、他の器に移し替えても、移し替えた先の器の形に応じながら、納まっていきます。そこでは、移し替えた水の色や性質、味等、一切、その本質が変化することはありません。それと同じように、師のみ教えに対して、弟子が水が形を変えるように、自らが謙虚かつ柔軟に師のみ教えを受け止めていくこと。また、師も自らの師からいただいた仏法を遺漏なく弟子に伝えること。それが「一器の水を一器に伝ふるが如し」に示された仏法の相承なのです。
諸弟子が悉く阿難尊者を推すのは「仏の給仕として多聞にして広学」であるからに他なりません。これは誰よりも長くお釈迦様に仕え、多くのみ教えを聞き、学も広い阿難尊者こそが、お釈迦様の直弟子である迦葉尊者のみ教えを受け継ぐに相応しい人物であると誰もが評しているということです。
そんな諸弟子の意見を受けて、迦葉尊者が阿難尊者に再説を請います。詳細は次回、見ていきたいと思います。
令和5年11月12日 更新
【拈提】迦葉、阿難に語(かたり)て曰く、衆悉く汝を望む。汝再び座に登り、請(こ)ふ宣説(せんぜつ)せよ。時に阿難、密(ひそか)に如来の付嘱を護し、又迦葉の所請(しょこう)を受(うけ)て、遂に立(たち)て衆の足を礼し、座に登りて、如是我聞一時仏住(にょぜがもんいちじぶつじゅう)と宣説して、一代の聖教(しょうぎょう)悉く宣説す。
「迦葉、阿難に語(かたり)て曰く、衆悉く汝を望む。汝再び座に登り、請(こ)ふ宣説(せんぜつ)せよ」―他の修行者たちが「阿難の再説(阿難尊者が再び大衆の面前で説法を行うこと)」を望んだことを受けて、迦葉尊者は阿難尊者に再説を請い願います。それを受けて、いよいよ阿難の再説が始まるのが、今回の一句です。
迦葉尊者の要請(所請)を受けた阿難尊者は、「立て衆の足を礼し」とあるように、修行者たちにひれ伏して(自らの頭を相手の足につけて拝むこと)、説法者の座る席に身を置いたというのです。これは古代インドにおける仏教の礼法の一つで、最高の敬意を表する「頂礼(ちょうらい)」というものに該当します。人間の体の中でも大切な部位でもある頭を相手の足につけて拝むというのは、自分という存在を放下して相手を敬う修行に他なりません。そこには、阿難の迦葉尊者を始めとする修行仲間の切なる願いを真剣に受け止め、それに応えようとする修行者としての姿が垣間見られます。
そうした一大決心を以て、法座に臨む阿難は「如是我聞一時仏住」と宣説します。これは「一代の聖教」とあるように、お釈迦様が生涯に渡ってお示しになられた仏法を指しています。これは〝多聞第一〟と称されたように、いつ、どんな場面においてもお釈迦様に仕え、そのみ教えを耳にしてきた阿難だからこそ語れる説法ではないでしょうか。そのように感じます。
ちなみに「如是我聞」というのは、「かくの如く我によりて聞かれたり」という意で、お釈迦様亡き後に、お釈迦様の説法を語り、まとめ上げるための会議の場となった「結集(けつじゅう)」において、阿難尊者が発した言葉と言われております。「如是」には「信頼」、「我聞」には「仏のみ教えをよく護り保つ者」という意味がそれぞれ込められています。ここは、ご自分が絶対的な信頼を寄せると同時に、一人の仏のみ教えを護持する仏道修行者として、一時(あるしばらくの時期)、仏と住した際、徹底的に耳にした「一代の聖教」を、誠意の限りを尽くして大衆に宣説したことを、阿難尊者が声高らかに宣言なさった場面とも言えるような気がいたします。
令和5年11月19日 更新
【拈提】迦葉、諸弟子に語(かたり)て曰く、如来の所説と異(かわ)れりや、否(いな)やと。諸弟子曰く、如来の所説と一字も異れるなしと。諸弟子は皆是(こ)れ三明六通の大羅漢なり。聞漏(ききも)らすことなし。異口同音(いくどうおん)に曰く、知らず、是れ如来再来しましますか、是れ阿難の所説かと疑ふ。仏法の大海水、流(ながれ)て阿難の身に入ると讃歎(さんたん)す。
迦葉尊者の所請(要請)を受けて、一大決心を以て「一代の聖教(お釈迦様が生涯に渡ってお示しになった仏法)」を再説(説法)なさった阿難尊者。今回は、それに対する諸弟子の所感が述べられていきます。ちなみに諸弟子については、「三明六通の大羅漢」であると説明が付されています。「三明」とは次の三つです。
① 「宿命明(自己及び他己の過去の運命や状態を知る智慧)」
② 「天眼明(自己及び他己の未来の運命や状態を知る智慧)
③ 「漏尽明【ろうじんめい】(一切の煩悩を断ち、悟りを得る智慧)」
また、「六通」は「六神通」とも言い、「仏菩薩が仏道修行によって得る六種の神力」を意味しています。六つの力の中には、先の「三明」に加え、次の三つがあります。
① 「神足通【じんぞくつう】(身体を意のままに自由にできる神通力」
② 「天耳通【てんにつう】(一般には聞き取れない音声までも自由に聞き取れる神通力)」
③ 「他心通【たしんつう】(他者の心の中までも自由に測り知ることができる神通力」
こうした「三明」と「六通」を併せて、「三明六通」と申しますが、阿難の再説を聞いた諸弟子は、「三明六通の大羅漢」と称されるように、日常の修行によって、一般人の能力をはるかに超えた力を有する羅漢(仏様)であり、まさにお釈迦様と大差がないほどの力量を具えるにまでになった方々であることを理解しておきましょう。
そんな諸弟子に迦葉尊者は「阿難の再説は如来(お釈迦様)がお示しになったことと異なるものか否か」とお聞きになります。それに対して、三明六通の大羅漢であり、〝多聞第一〟と称される阿難尊者同様に、如来の所説を「聞漏らすことなし」の諸弟子の回答は、異口同音に「如来の再来なのか、阿難自身の説法なのかがわからないくらいである」というものでした。「仏法の大海水、流て阿難の身に入ると讃歎す」とあります。大きな海の如き広大無辺なるお釈迦様のみ教えが、「一器(いっき)の水を一器に伝ふるが如く」、そっくりそのまま阿難に伝わっていったかと思われるほどに、阿難の再説はお釈迦様そのものであり、お釈迦様の領域に今にも達しそうなくらいに尊く、優れたものであったと諸弟子は称賛していらっしゃるのです。
こうした諸弟子の称賛からは、阿難の力量がもはや迦葉尊者の認可をいただければ、お釈迦様の仏法を伝授されるべき者として十分なまでに高まっていることが伝わってまいります。人生の壁というものは、その壁の高さに応じた修行を、どんな困難も受け止めながらも継続していくことよって、いつか必ず乗り越えられることができるということを指し示していることも押さえておきたいところです。
令和5年12月10日 更新
【拈提】如来の所説、今に流伝(るでん)するは阿難の所説なり。実に知る、此道(このどう)は多聞に依らず、証果に依らざることを。之を以て証拠と為すべし。
前段では「三明六通の大羅漢」と称される諸弟子方が阿難尊者の説法をお聞きになって、「如来の所説と一字も異れるなし」と異口同音に評されたとありました。これは阿難の仏道修行が十分にお釈迦様の領域に達したことが、力量のある大勢の修行者たちによって証明された瞬間と言えるでしょう。
これを受けて、瑩山禅師様は「実に知る、此道は多聞に依らず、証果に依らざることを。之を以て証拠と為すべし。」とおっしゃっています。諸弟子の阿難尊者に対する評価からは「此道(仏道)というものは、多聞であることが大事なわけでもなければ、証果(仏道修行によって悟りを得た結果)によって評価されるべきものでもない」ことがはっきりと証明されたということです。これは言い換えるならば、「流伝」こそが、仏道における必須条件であるということなのです。
「流伝」とは、「水が流れるが如く、教法が世間に拡がり伝わっていくこと」を指し示す言葉です。「一器(いっき)の水を一器に伝ふるが如く」という例えにもあるように、いくら師の教えを多く聞き、体得したかのように見えても、お釈迦様から脈々と流伝されている教法を多く聞き、体得していない限りは、仏法を会得したとは言えないということなのです。
仏道修行者たる者、何を学ぶのか?何を行ずるのか?何を体得するのか?これらの問いかけに対する答えは「お釈迦様の教法」以外にはないということを、「流伝」という言葉を通じて、再確認しておきたいところです。
令和5年12月17日 更新
【拈提】然(しか)も尚ほ迦葉に随ふこと二十年、今の因縁の処(ところ)にして始めて大悟す。既に如来の成道の夜に生れし人なり。
本章の「機縁」の中でも触れられていましたように、阿難尊者はお釈迦様から直接、法を伝付されたのではなく、お釈迦様のお弟子様である迦葉尊者に二十年間付き随い、それが因縁となって、法を付嘱されたのでした(副弐伝化【ふくじでんげ】)。
仏教が重視する「因果の道理」とは、「何事も原因があり、それに応じた形で結果が生ずる」というものでした。お釈迦様に付き従って二十年、さらに迦葉尊者に付き従って二十年、この両者の中で、どちらか一方でも欠けていたとすれば、仏弟子・阿難の誕生はあり得なかったことでしょう。
また、阿難尊者が「如来の成道の夜に生れし人なり」とあるのも、何か因縁めいたものを思わずにはいられません。お釈迦様が一週間近くに渡り、「この坐から立つまい」と心に決め、只管に坐禅修行に打ち込んだ結果、ついに成道(仏の道を完成させ、仏と成った)なさった12月8日の夜、迦葉尊者はこの世の生を受けたというのです。そもそも阿難尊者はお釈迦様のいとこにあたる方で、お釈迦様のことをよく存じ上げていらっしゃったことは想像に難くありません。そして、その人間性の偉大さに感銘を受けていたことも考えられます。
そんなお釈迦様が成道なさったという特別の日にお生まれになったことも一因となって、阿難尊者は仏法に目覚め、仏道修行者への道を歩み始めたのでしょう。その結果、阿難尊者の大悟が叶ったのです。そして、これが仏法の流伝・仏教のいのちの永続という果を生み出していくのです。
令和5年12月24日 更新
【拈提】華厳(けごん)等は聞かざる所なり。然れども仏の覚三昧(かくざんまい)を得て、聞かざる所を宣説す。然れども祖師道に於(おい)て不入なることは、我等が不入と全く以て一同なり。
「華厳経(大方廣佛華厳経)」はお釈迦様の最初のご説法が記されたものです。つまり、お釈迦様が成道なさってから2~3週間ほど後に、ご自身が菩提樹の下でお悟りになったことをまとめ、初めて人々にお伝えしたものが記載されているということですが、それは多聞第一と称される阿難尊者でさえも耳にしていない内容のようです。
しかし、阿難尊者は、そうしたお釈迦様の処女説法は聞いていなくとも、「仏の覚三昧」を得ていたため、たとえ聞いていないことであっても、しっかりと宣説なさったと瑩山禅師様はおっしゃっています。「覚三昧」というのは、「覚(仏のお悟り)」と「三昧(心を一境に専注すること)」と分けて捉えればよろしいかと思います。「仏の悟りにおける心を専一にすること」を意味しています。すなわち、阿難尊者はお釈迦様のお悟りというものにしっかりと我が身を向けて、お釈迦様と一つになっていたということなのです。これは言ってみるならば、「多聞第一」ということを既に超えて、もはやお釈迦様に近いところまで阿難尊者の実力が高まってきていることを意味しているのです。それゆえに、直接、お釈迦様からお聞きしていないことであっても、まるでお釈迦様がお示しになるかのごとくに、我が言葉として発せられることができているのです。そして、これが「祖師道に入る」ということなのです。
「祖師道に入る」ということは並大抵のことではありません。相当に仏道修行を積み重ねてこそ為せる業です。この娑婆世界に生かされている多くの者は「凡夫(ぼんぶ)」であり、まだまだ祖師道に「不入」の者ばかりです。そうした凡夫たちとは異なり、長年にわたる仏道修行を経て、祖師道に入り、仏の覚三昧を得るまでになったのが、阿難尊者であるということを、今回は押さえておきたいと思います。
令和6年1月14日 更新
【拈提】抑(そもそ)も阿難は乃往過去(ないおうかこ)の昔、空王(くうおう)の所(みもと)にして、今の釈迦仏と同時に阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)を発(おこ)しき。阿難は多聞を好む。故に未(いま)だ正覚(しょうがく)を成ぜず。釈迦仏は精進を修しき。之に依て等正覚(とうしょうがく)を成じたまふ。
「阿難は多聞を好む。故に未だ正覚を成ぜず。」
「釈迦仏は精進を修しき。之に依て等正覚を成じたまふ。」
この瑩山禅師様がお示しになっている阿難尊者とお釈迦様の対を為す修行観・修行方法にこそ、仏道修行の本質がはっきりと見て取れるのではないか?—そんな気がしております。
優れた師に随い、仏道修行とは何たるか、そのみ教えを、「多聞」とあるように「聞いて聞いて聞きまくった」としても、あるいは、若かりし頃の道元禅師様が中国でご修行中に古人の経典・祖録を「読んで読んでよみまくっていた」のを、西川(せいせん)の僧なる修行者に咎められましたが、そうした参考書を読んで知識を得るようなことをしたとしても、日常生活の中で教えを実践し続ける「精進」という姿なくしては、「正覚」や「等正覚」という言葉が意味する「仏のお悟り」というものには到底たどり着けないというのです。そのことを、瑩山禅師様はお二人の仏道修行者の修行観・修行法を取り上げながら、具体的にお示しになっているのが今回の一句です。この対となっている一句は、一仏道修行者として、是非是非、我が身に念じ込んでおきたいところです。
「抑も阿難は乃往過去の昔、空王の所にして、今の釈迦仏と同時に阿耨多羅三藐三菩提心を発しき」とあります。お釈迦様も阿難尊者も乃往過去(遠い昔)、空王(世界が成立する以前のずっと昔に存在していた仏様)の下で、仏道修行に励み、「阿耨多羅三藐三菩提(悟り)」にたどり着いたというのです。このとき、阿難尊者は「多聞」という形での修行を、また、お釈迦様は「精進」という方法で、それぞれ悟りを得たというのです。
しかし、長い年月を経た今、瑩山禅師様は『「多聞」では「正覚」や「等正覚」といった本当の意味での仏のお悟りに到達できない、「精進」という日々の仏の修行の積み重ねによってこそ、仏のお悟りに近づけるのだ。』とおっしゃっているのです。そして、その根拠となるのが、今から約2600年前、お釈迦様の「三十歳臘月八日(さんじゅっさいろうげつようか)」と伝わる菩提樹の下での坐禅修行による「成道」に他ならないのです。
-令和6年1月1日-
穏やかな元日の夕刻に能登半島を襲った最大震度7を記録した「令和6年能登半島地震」。図らずも曹洞宗石川県青年会会長として、この災害に携わらせていただき、お寺を全国の曹洞宗青年会からの支援物資の受け入れ先として開放すると共に、自らも被災地に支援物資を届けるなど、微力ながら被災地支援を続けさせていただいております。余震や二次災害の心配から、未だ手付かずのままの被災地、長引く断水生活等、変わり果てた被災地を目の当たりにしながら、長丁場が予想される活動。「阿難は多聞を好む。故に未だ正覚を成ぜず。」・「釈迦仏は精進を修しき。之に依て等正覚を成じたまふ。」の対句を胸に、支援を続けさせていただきたいと今日も奮起するのです。
令和6年1月28日 更新
【拈提】実に知る、多聞は道の障礙(しょうげ)たることを、是れ其(その)証拠なり。故に華厳経に曰く、譬えば貧窮(びんぐう)の人の宝を算(かぞ)へて自(みずか)ら半銭の分なきが如し。多聞も亦復(ま)た是(かく)の如しと。
ある炎天下の昼下がり、額に大粒の汗を流しながら、懸命に海藻を干す一人のご老師。
その姿を目の当たりにした若かりし日の道元禅師様。
そんな道元禅師様に「炎天下の中で海藻を干すことが高齢になった自分に与えられた修行だ」とおっしゃるご老師。
その言葉を受けて、道元禅師様は仏道修行とは何かをお悟りになったと述懐されています。
この「典座教訓(てんぞきょうくん)」に示されているエピソードが「他は是れ吾に非ず」という、「他人がしたことは自分がしたことにはならない」という意味を有する禅語へとつながっていくわけですが、今回、瑩山禅師様より「実に知る、多聞は道の障礙たることを、是れ其証拠なり」の一句は、まさに瑩山禅師様から発せられる「他は是れ吾に非ず」であると思っています。
「多聞」が指し示すような「師の教えをすべてしっかりと聞き入れ、佛道の何たるかを体得していること」はすごいことであり、一見したところ、それができれば、成道(仏のお悟りを得た)なさったように思ってしまうかもしれません。しかし、よくよく考えれば、それは師から学んだみ教えを受けて、自ら仏の道を歩んで体得なさったものではないことに気づかされます。師の教えや言葉を聞いただけに過ぎないのです。それだけで理解したというのであれば、それは誤った捉え方でしかありません。ここに「多聞は道の障礙たること」の根拠があるように思います。まさに、これが仏道修行者の陥りやすいところとも言えるでしょう。とにかく、師の教えを自ら行ずることが佛道にとって大切なのです。坐禅という行をやって、やって、やりまくってこそ、佛道が見えてくるのです。
さらに瑩山禅師様は華厳経に示された「譬えば貧窮の人の宝を算へて自ら半銭の分なきが如し」という一説を以てお示しになられます。「他者が有する宝の数にばかり目を向けているようでは、結局は自分が得るものは半分の量ほども得られない」と言うのです。「隣の芝生が青く見える」と言わんばかりに、他者にばかり目を向け、その幸せを妬み、不平不満を言うような人はどこにでもいます。しかし、そんなことをしてみたところで、自分が幸せを得ることなど到底できず、自分が得るのは本当に得られるものの半数にも及ばないものだと、この華厳経の一説は指し示しているのです。そして、「多聞」とは、そういうものだと瑩山禅師様はおっしゃっています。
1月1日の「令和6年能登半島地震」発災後から毎週末には能登半島地震の被災地である珠洲・輪島といった地区に支援物資を届ける日々が続いていますが、自らの足で訪れた避難所と人様から情報をお聞きして関わる避難所とでは、支援方法に違いが出てくる面も否めません。やはり、自分が見聞きした避難所ほど、何が必要で、次はどんな支援が可能なのかが明確に見えて来るものなのです。自らの目や耳で確かめていくことによって、相手に対する支援方法が確実に見えてくるのです。「阿難は多聞を好む。故に未だ正覚を成ぜず。」・「釈迦仏は精進を修しき。之に依て等正覚を成じたまふ。」の対句が思い起こされます。自ら動き、行動していく、そんな精進を修していくのです。
令和6年2月4日 更新
【拈提】親切に此道に訣著(けつじゃく)せんと思はば、多聞を好むこと勿れ。直(じき)に勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)すべし。
前段において、瑩山禅師様からは「多聞は道の障礙(しょうげ)たること」というお言葉や、華厳経の「譬えば貧窮(びんぐう)の人の宝を算(かぞ)へて自(みずか)ら半銭の分なきが如し」という一節を引用しながら、「多聞も亦復(ま)た是(かく)の如し」というお言葉をいただきました。
これについて、よくよく注意しておきたいのは、瑩山禅師様は「多聞」という行為そのものを否定しているわけではないということです。瑩山禅師様は「多聞」を良しとし、多聞に捉われ、そこで立ち止まっているようでは、仏のお悟りに到達することはできないということをお示しになっているのです。そのことをしっかりと押さえておきたいものです。
そうした観点を以て、瑩山禅師様は「親切に此道に訣著(けつじゃく)せんと思はば、多聞を好むこと勿れ。」とおっしゃっています。「訣著」は「決別」とか「断ち切る」という意味で解すればよろしいかと思います。すなわち、ここには多聞を好み、そこに執着して立ち止まってはならないという瑩山禅師様の願いが込められているのです。
「とにかく仏のお悟りに向かって、ただひたすら真っ直ぐ突き進んでほしい」―そんな瑩山禅師様の思いが「直に勇猛精進すべし。」という一句からにじみ出ています。それは坐禅修行を只管(ひたすら)に行じ続けることに他なりません。そして、そこには、それしか仏のお悟りにつながる道はないという瑩山禅師様の確固たる信念・修行観が垣間見られるのです。
―令和6年2月3日(土)―
早朝6時半から開催される松山寺の定例坐禅会には6名の方が参加され、40分間の坐禅の後、本堂にて参加者のお一人に点てていただいたお抹茶をいただきながら、歓談させていただきました。松山寺坐禅会を開始して約1年半。1年近くもの間、毎週参加されている方もいらっしゃれば、以前から坐禅をなさっていた方もいらっしゃいます。生きてきた道程も坐禅会への参加理由も物事の考え方もそれぞれ違いますが、「坐禅」という行を通じて、穏やかな心持ちで過ごせるようになったという方、坐禅をしながら誰もが必ずぶつかる疑問を語り合い、どこかすっきりした表情になられ方、初めての試みは時が経つのも忘れて、お互いに坐禅を通じて得た貴重な体験を共有しながら、とても和やかな雰囲気で過ごせたのが印象的でした。
―「直に勇猛精進すべし」―
この瑩山禅師様のお言葉を胸に、これからも参禅者の皆様との坐禅修行のひとときを大切にしていきたいものです。
令和6年2月18日 更新
【拈提】然(しか)るに敢保(かんぽ)すらくは、伝衣(でんえ)の外、更に事あるべしと。因(より)て或時問(あるときとい)て曰く、師兄(すひん)、世尊(せそん)金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を伝(つたう)る外に、別に箇(こ)の甚麼(なに)をか伝ふと。迦葉、時到ることを知(しり)て、阿難と召す。阿難応諾(おうだく)す。迦葉声に応じて曰く、門前の刹竿を倒却著せよと。阿難、声に応じて大悟(だいご)す。
―令和6年2月10日(土)―
石川県かほく市にある「石川県西田幾多郎記念哲学館」において、毎年、2月に開催される「禅文化体験会 —哲学館で坐禅をしてみよう―」に講師としてお招きいただき、30名の参加者と約2時間の貴重なひとときを共有させていただきました。2時間とは言え、ずっと坐禅をし続けるのではなく、休憩を挟みながら20分の坐禅を2回、そして、30分程度の講話という形で行われました。企画自体はもう何十年も前から行われているようですが、昨年まで講師をおつとめになっていた同宗派のドイツ出身の方丈様が横浜の大本山總持寺に赴任されることになったため、その後任としてお役をお引き受けし、今回初めて、講師として参加させていただくことになりました。
そんな「禅文化体験会」において、参加者のお一人から「坐禅中に雑念が沸き起こってくるのをどうすればいいのか?」とのご質問をいただきました。前回、松山寺の定例坐禅会における「茶話会」にて、参禅者の皆様と盛り上がったのも同じ話題でした。私自身も大本山總持寺での修行中、毎朝の坐禅を重ねていく中で、同じ疑問を抱き、かなりの期間、悩み続けていたという経験があります。ひょっとすると、こうした疑問は坐することを重ねていく中で、誰もが自ずとぶつかる疑問なのかもしれません。
私は、こうした疑問を抱く方々にお会いしたときにはいつも、自分が救われた故・板橋興宗(いたばしこうしゅう)禅師(1927-2020)のお言葉をご紹介させていただきます。「何も考えないというのは、死んだ人だ。生きている間は何も考えないことなど不可能だ。考えて当たり前、それが生きているということであり、それでいいのだ。」―私にとって、このお言葉は、あたかも大河の水をせき止める土石流を押し流すがごときものであると共に、坐禅中は必ず雑念が沸き起こってしまうことを否定し続け、それ以上先に進むことのできなかった自分を大きく前進させてくださるお言葉でした。雑念が沸き起こってもそれでいいのです。そんな自分を無下に否定することなく、雑念と付き合うことが生きているということなのです。また、雑念と付き合ってこそ、仏の悟りにつながっていくのです。雑念(凡)を知らぬところに仏の悟り(聖)など理解も体得も不可能であり、凡と聖の対立概念の双方の理解があってこその仏のお悟りと解すべきと心得ております。
「坐禅をしているときに雑念が浮かんでも、そんな自分を否定することなく、徹底的に雑念と付き合いながらも、雑念に捉われることがないように。」―そんな意識を以て、今日も坐禅修行に努めさせていただくのです。そして、これこそが迦葉尊者と阿難尊者のやり取りを通じて、瑩山禅師様が会下の修行僧たちに強く訴え願う「勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)」ということに他ならないのです。
―「然るに敢保すらくは、伝衣の外、更に事あるべしと。」―
「敢保」には「自分の心の中に堅く思い定める」ことを意味しています。第55回「第二章・本則 門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)する」の中で、阿難尊者が師兄(迦葉尊者)に「世尊(お釈迦様)が迦葉尊者に伝えたのは金襴(きんらん)の御袈裟以外にありますか?」と問われたことが紹介されています。「金襴の御袈裟」は「仏法の象徴」であり、それを身にまとうことが許される僧侶は、お釈迦様からそのみ教えを嗣ぐだけの力量を有すると認められしもののみということです。これが「伝衣」の意味するところです。
そんな阿難尊者の問いに対して、迦葉尊者は阿難尊者の機が熟するタイミングをしっかりと見届けた上で、阿難の求めに応じるがごとく「門前の刹竿を倒却著せよ」とお答えになりました。「阿難、声に応じて大悟す」とありますから、この迦葉尊者のお言葉によって、阿難尊者は大悟(仏のお悟り)を体得なさったことになります。
ちなみに、阿難尊者を大悟へと導いた「門前の刹竿を倒却著せよ」というお言葉ですが、「刹竿」は「法要や説法がある場合に、寺院の門柱に掲げる旗」のことで、それを「倒却著(倒し切ってしまえ)」というのが、「門前の刹竿を倒却著せよ」です。これが意味するのは「旗を立てることだけを思っていても、仏のお悟りには近づけない」ということでした。すなわち、旗は立てるものであると決めつけ、そこに捉われてしまえば、もし、旗が倒れてしまえば、その状態は勿論のこと、その際の対応でさえも考えられなくなってしまうのです。凡と聖のごとく、旗が倒れることを知ってこそ、本当の旗が立てられる、すなわち、確実に仏のお悟りに近づき、仏法を体得できたと言えるということです。今回は、その点を押さえておきたいところです。
令和6年2月25日 更新
【拈提】仏衣自然(ぶつえじねん)に阿難の頂上に来入す。其金襴(そのきんらん)といふは、正(まさ)しく七仏伝持(しちぶつでんじ)の袈裟(けさ)なり。
迦葉尊者の「門前の刹竿を倒却著せよ」という一言によって、ついに大悟(仏のお悟りを体得すること)なさった阿難尊者。このとき、「仏衣自然に阿難の頂上に来入した」と瑩山禅師様はおっしゃっています。
「仏衣」とは、「仏袈裟」のことで、仏と成りし者が身に付ける正式な衣装を指します。それが「自然」とあるように、「他から力が加わることなく、自らそうなっている状態」で阿難尊者の頭上に置かれていたというのですから、尊者の大悟(仏袈裟を身にまとうものとして認可されたこと)、そして、それを迦葉尊者がお認めになったことを表しているのは、もはや言うまでもありません。
そして、その「仏衣」は、「仏法の象徴」たる「金襴」であり、「七仏伝持の袈裟」であるとのことです。「七仏」はお釈迦様がお悟りになる以前に、この世の真理を体得なさっていた六名に、お釈迦様を加えた七名の仏様です。これはお釈迦様がお悟りになったこの世の真理・仕組みというものが、はるか昔から存在していると共に、それら体得なさっていた方々がいらっしゃったこと、そして、お釈迦様がそれを明確化し、多くの人々にお伝えするという偉大な功績を残されたことを意味しています。「伝持」という言葉が用いられていますが、これぞまさに、お釈迦様のお悟りが過去の七佛から代々伝わり、脈々と受け継がれてきているものであることを物語っているのです。
「仏衣自然に阿難の頂上に来入」したことによって、お釈迦様のみ教えは更に時を超えて、後世に受け継がれていくのです。
令和6年3月3日 更新
【拈提】彼(か)の袈裟(けさ)に三つの説あり。一つは如来胎内(にょらいたいない)より持すと。一つは浄居天(じょうごてん)より奉ると。一つは猟師(りょうし)これを奉ると。
阿難尊者が大悟なさったとき、「仏衣自然(じねん)に阿難の頂上に来入す」とあるように、仏のお悟りを得た者が身に付けることを許される仏衣(仏袈裟)が自然と阿難尊者の頭上に現れたことが、前回、瑩山禅師様より示されました。
また、この「仏衣」は、「仏法の象徴」を意味する「金襴(きんらん)」であり、お釈迦様以前から存在している過去の6名の仏様から脈々と受け継がれる「七仏伝持(しちぶつでんじ)の袈裟」であることも瑩山禅師様がお示しになっています。これらは過去七佛を含むお釈迦様から迦葉尊者へとお伝えになった仏祖正伝の仏法が阿難尊者にも伝えられたことを意味しているのです。
そんな「彼の袈裟」について、瑩山禅師様は三つの説があるとおっしゃっているのが、今回の一句です。
① 「如来胎内より持す」 如来(お釈迦様)の胎内から来るものであるという説。
② 「浄居天より奉る」 一切の煩悩を断じた聖者たる「浄居天」からのいただき物との説。
③ 「猟師これを奉る」 猟師(詳細は不明)からのいただき物であるとの説。
こうした諸説ある「七仏伝持の袈裟」ですが、そのいずれが正しいか否かということを論ずるというよりも、それぞれの諸説を受け止めながら、「七仏伝持の袈裟」を解していくことが大切ではないかということです。そうすることによって、この袈裟と私たちとの距離がグッと縮まり、実感を以て捉えることができるような気がするのです。
この袈裟について、私は釈尊を始めとする多くの如来は勿論のこと、仏法の世界における様々な神々、猟師に代表される一般在家の方、そうした多くの方々の仏法に対する願いや期待が込められたものだという解し方をしております。仏法の象徴たる仏衣(袈裟)を身に付ける資格を有する者だと言うならば、こうした誰もが仏法に救いを求めていることをしっかりと押さえ、それに見合った日常を過ごしていく必要があることを改めて認識するのです。
令和6年3月17日 更新
【拈提】又外(またほか)に数品の仏袈裟あり。達磨大師(だるまだいし)より曹渓所伝(そうけいしょでん)の袈裟は、青黒色(しょうこくしょく)にて屈眴布(くつじゅんぷ)なり。唐土(とうど)に到(いたり)て青き裏を打てり。今六祖塔頭(たっちゅう)に蔵(おさ)めて国の重宝と為す。是れ智論(ちろん)に謂(いわ)ゆる如来麁布(にょらいそふ)の僧伽黎(そうぎゃり)を著(つ)くと、是(これ)なり。
仏の悟りを体得せし者に被着が許される「仏衣(仏袈裟)」について、「仏法の象徴」たる「金襴(きんらん)」以外のものに触れられているのが、今回の箇所です。
「達磨大師より曹渓所伝の袈裟は、青黒色にて屈眴布なり」とあります。「達磨大師」と言えば、インド第28祖の祖師で、中国に禅のみ教えをお伝えになった中国禅宗初祖です。「曹渓」は「中国6祖・慧能禅師(えのうぜんじ)」のことで、今回、瑩山禅師様がお示しになっている仏袈裟は達磨大師様から6祖の慧能禅師まで脈々と受け継がれているものであることが確認できます。
そして、その仏袈裟は「青黒色の屈眴布である」と紹介されています。「屈眴布」は「木綿の花心を集めて織った布」で、表が青黒色で裏は緑の仏袈裟であるとのことです。表面の「青黒色」は原色の青ではなく、青に黒を混ぜた中間色のような色で、これは「壊色(えじき)」と呼ばれる「美しい原色に黒ずみを入れて、元来の色の性質を壊した色」です。
尚、この仏袈裟の裏面に施された緑色は「唐土に到て青き裏を打てり」とあるように、唐土(中国)において施されたものと解してよろしいかと思います。そんな屈眴布が慧能禅師の塔頭(墓所)で大切に保管され、国の重宝となっていると瑩山禅師様はおっしゃっています。
また、「大智度論」という経典には、「謂ゆる如来麁布の僧伽黎を著く」とあることが提示されていますが、「麁布」とは、「粗末な布」を意味し、「掃き溜め等に捨てられていた布片を何枚も縫い合わせ、壊色で染めた」という元来の袈裟とも合致しています。「僧伽黎」とあるのは、仏道修行者が身にまとう仏衣のことです。
インドから伝わったお釈迦様のみ教えは、決して、欠けることもなく、不要に追加されることもなく、時代を経て、場所を超えて、そっくりそのまま中国にまで伝わっていることは今回の箇所からも明白です。そして、その象徴となるのが六祖慧能禅師の眠る墓所である「六祖塔頭」だということを押さえておきたいところです。
令和6年3月24日 更新
【拈提】彼の金襴は金氎(きんじょう)なり。経に曰く、仏の姨母(いぼ)、手づから自ら金氎(きんじょう)の袈裟を紡トク(ぼうとく)して、持して仏に上(たてまつ)ると、是なり。
前回は中国六祖・慧能禅師(えのうぜんじ)の塔頭(たっちゅう)(墓所)で大切に保管され、国の重宝となっている「青黒色(しょうこくしょく)の屈眴布(くつじゅんぷ)」について触れられていました。今回は「彼の金襴」とあるように、再び「仏法の象徴」である「金襴」について、触れられていきます。
まず、彼の金襴は「金氎(きんじょう)」であるとのことです。「金氎(きんじょう)」は金糸を加えて織られた布です。
そして、「経に曰く、仏の姨母、手づから自ら金氎の袈裟を紡トクして、持して仏に上る」とあります。経は「賢愚経・第十二巻 波羅離品 第五十」とのことですが、これによれば、金襴がお釈迦様の叔母である摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)自ら紡ぎ、精魂を込めて織った手作りの品であること、そして、そんなお袈裟をお釈迦様に献上なさったことが読み取れます。
摩訶波闍波提は、お釈迦様の実母である摩耶夫人(まやぶにん)の妹に当たる女性で、お釈迦様をご出産なさって間もなく他界された姉に代わって、浄飯王(じょうぼんのう)(お釈迦さまの父)に嫁ぎ、母親代わりをつとめた方です。また、浄飯王が亡くなった後に、お釈迦様の下で出家され、釈尊教団初の比丘尼(びくに)(女性出家者)になった方でもあります。
そんな姨母が自らの手で織り上げた「金襴」という仏衣であることを考えてみたとき、そこには実子ではないものの、養母として、あたかも我が子のように大切に養育してきた者の母性を思わずにはいられません。また、比丘尼として仏法僧の三宝に深く帰依する姿も感じられます。母親として、比丘尼として、摩訶波闍波提の様々な思いや願いが込められた「金氎(きんじょう)」は自ら手を下して、お釈迦様に献上された品であることを知っておきたいところです。
そして、仏道修行者というのは、自らの修行を自らの手を始め、全身を駆使して体得していくものであることを、再確認しておきたいところです。
令和6年3月31日 更新
【拈提】是れ多品中(たぼんちゅう)の一二のみ。其霊験(そのれいけん)の如きは、数多(あまた)の因縁、経書に有り。昔婆舎斯多尊者(ばしゃしたそんじゃ)、悪王の難に遭(あい)て、火中に五色(ごしき)の光明を放つ。火滅して後、仏袈裟安然(あんねん)たり。仏衣なることを信ず。慈氏(じし)に伝授する、夫れ是なり。
お釈迦様の叔母に当たる方で、自身の亡くなった実姉・摩耶夫人(まやぶにん)に代わって養母としてお釈迦様をお育てになり、後に釈尊教団初の比丘尼(びくに)(女性出家者)となった摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)が自らの手で織り上げた「金襴(きんらん)の仏衣」―最初に、その霊験あらたかなる因縁が数多の経典に記されていることを瑩山禅師様がご紹介になります。
その一つとして、瑩山禅師様が取り上げていらっしゃるのが、「婆舎斯多尊者(ばしゃしたそんじゃ)」のエピソードです。「婆舎斯多尊者」はお釈迦様の法を受け継いだインド二十五祖で、「伝光録」でもこの後に触れられていく祖師です。師に当たる獅子菩提尊者(ししぼだいそんじゃ)が教化説法に訪れた北インドの地・罽賓国(けいひんこく)の長者の子であった婆舎斯多尊者は左手に宝珠を握りしめていたといいます。この宝珠は「龍王経」を念じた「婆舎(ばしゃ)」という童子が龍王からいただいたものであり、この宝珠を握る人物こそが童子の再来であると知った獅子菩提尊者は婆舎斯多尊者と命名し、自らの弟子としたとのことです。
獅子菩提尊者は婆舎斯多尊者と出会った罽賓国(けいひんこく)で大いに仏法を説きました。しかし、国王は仏法を嫌い、信じようともしませんでした。そのために寺院は破壊され、僧侶は殺害される大変な事態になりました。獅子菩提尊者ご自身も国王に頭部を断たれ、その際に血ではなく白乳(びゃくにゅう)が流れ出たことが、「第二十四祖 獅子尊者章」にて瑩山禅師様より語られます。
そんな仏法にとっては逆縁ともいえる大変な時代の中で、「悪王の難に遭いながら」も、いのちがけで仏法の宣揚に身を尽くしてきた獅子菩提尊者と婆舎斯多尊者の師弟ですが、婆舎斯多尊者は火の中に基本色と言われる青・黄・赤・白・黒の五色の光を放ったところ、火が消えたとき、仏袈裟が大きな害もなく全くの無傷の状態で、そのまま忽然として姿を現したというのです。これは仏法にとって逆縁の時代の中にあっても、お釈迦様がお示しになった法は正しく絶対的なものであること、また、婆舎斯多尊者が「光明」という「悟りを得た仏が自らの身体から放つ仏の光」を発するまでになっていたこと、そして、獅子菩提尊者や婆舎斯多尊者の時代のようにすんなりと仏法が伝わっていかないような大変な中にあっても、法に帰依し、伝え広めていかんとする情熱に満ちた者たちによって、仏法が今日まで伝わってきたこと、そうした数々のことに気づかされるのです。
思うに順縁によって、物事が順調に進んでいくときよりも、こうした逆縁によって苦悩に満ちた時期の方が人々はその苦しみを一生懸命、乗り越えようとするからか、多くのものを得たり、人間同士の絆を深めていったりできるような気がします。ひょっとしたら、獅子菩提尊者や婆舎斯多尊者の代で、「悪王の難に遭って」仏法が消滅していたかもしれません。それが後に、国を超え、時代を経て、今日まで伝わってきているご縁を喜ばずにはいられないのです。
そんな幾多の困難を経て伝わる仏法が五十六億七千万年後に登場する未来仏の弥勒菩薩様(慈氏)にまで、しっかりと伝わっていくことを願わずにはいられません。そして、これからも多くの人々がお釈迦様から伝わる正しい法によって未来永劫に救われていくことを願うのです。
令和6年4月14日 更新
【拈提】正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、両人に付嘱(ふしょく)せず、唯迦葉一人、如来の付嘱を得る。また、阿難、二十年給仕して正法を伝持す。然れば此宗(このしゅう)、教外別伝(きょうげべつでん)なることを知りぬべし。
―「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、直指人心(じきしじんしん)、見性成佛(けんしょうじょうぶつ)」―お釈迦様から伝わる禅の境地について、後世の仏教祖師方がこれらの言葉を用いてお示しになりました。
不立文字(ふりゅうもんじ)
お釈迦様から脈々と伝わる正伝の仏法(正法眼蔵)というものは、文字や経典を通じて理解するものではなく、仏道修行によって体得できるものであるというみ教えです。この言葉は中国唐代の六祖慧能禅師(638-713)の頃から言われるようになったもので、その指し示す内容については、道元禅師様も「学道用心集」等の著書の中で、幾度となくお触れになり、仏道修行者たちに戒めている点でもあります。
教外別伝(きょうげべつでん)、
正伝の仏法というものは、経典や文字の中に存在しないというみ教えです。先の「不立文字」と指し示すところは同じで、「不立文字・教外別伝」とセットで曹洞禅の特色と捉えられています。こちらも中国唐代に用いられるようになった言葉で、言葉や文字では表現し尽くせぬ深淵広大なるお釈迦様のお悟りの境地を一言で集約したという点では、仏教史における大きな進展であったと捉えて然りかと考えます。
直指人心(じしきじんしん)
人間の心を直視したとき、それが仏性(仏に成れる性質)を有したものであることを自覚すること。そして、これが禅の境地だというのです。坐禅修行を〝やって、やって、やりまくっていく〟中で、次第に自分の心の中が穏やかに調っていきます。そんなとき、自分の中に存在していた善き人間としての姿に気づかされます。これが直指人心の指し示すところなのです。
見性成佛(けんしょうじょうぶつ)
自分が元来、仏性を有した存在であることに気づくこと。坐禅は誰もが元々、佛であったことを悟らせる行です。すなわち、坐禅によって、私たちは本来の自分を知ることができるのです。
お釈迦様は自らのみ教えを付嘱する存在として、迦葉尊者のみをお選びました。それが「正法眼蔵、両人に付嘱せず、唯迦葉一人、如来の付嘱を得る」の意味するところです。阿難尊者の方は、二十年もの間、迦葉尊者について、正法を付嘱されました(阿難、二十年給仕して正法を伝持す)。
「多聞第一」と称され、多聞を好み、誰よりも仏のみ教えを多く聞いていたことを誇りに思っていた阿難尊者がお釈迦様からのみ教えを付嘱される存在とはならなかった背景には、「阿難は多聞を好む。故に未だ正覚(しょうがく)を成ぜず。釈迦佛は精進を修しき。之に依て等正覚(とうしょうがく)を成じたまふ」という瑩山禅師様の見解があるように感じます。成仏というのは、仏のお悟りに向かって坐禅を精進し続ける以外に道はないのです。そこには文字や経典の理解など存在しません。頭脳明晰でも仏の悟りには近づけません。
「然れば此宗(このしゅう)、教外別伝(きょうげべつでん)なることを知りぬべし」―我々がお釈迦様からご縁をいただいた曹洞禅の世界は、そうした仏行によって理解が深まり、内容が明確になっていく世界であることを、よくよく知っておきたいところです。
令和6年4月21日 更新
【拈提】然るに近来おそろかにして一同とす。若し一同ならば、阿難は即ち三明六通の羅漢、如来の付嘱を受て第二祖阿難と曰(い)はん。
瑩山禅師様によれば、「近来おそろかにして」の語が指し示すように、当時(1300年代初頭)の仏教研究に不十分な部分が否めなかったようで、頭陀行(ずだぎょう)(煩悩を断つべく質素な生活に徹するすること)第一の迦葉尊者と多聞第一の阿難尊者が共に「三明六通の羅漢(仏道修行の積み重ねによって、為すことの全てを為し、お釈迦様と同列までに達した聖者)」と捉える傾向にあったようです。それが「一同とす」の意味するところです。
ところが、お二人のお悟りの境地を瑩山禅師様は「一同」とは捉えていらっしゃいません。その根拠となるのが、前段にもある「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、両人に付嘱(ふしょく)せず、唯迦葉一人、如来の付嘱を得る」です。すなわち、お釈迦様は正法を迦葉尊者のみに伝えたのです。それは多聞第一たる迦葉尊者が未だ正法を伝えるには十分な器を具えていなかったからに他ならないからです。だから、阿難尊者は迦葉尊者に「二十年給仕すること」によって、迦葉尊者より正法を伝持されたのです。
「如来の付嘱を受て第二祖阿難と曰(い)はん」とあります。お釈迦様がお二人を一同に正法を伝えるものとしてお認めになったならば、阿難尊者は「第二祖」と称されていたことでしょう。すなわち、第一祖が迦葉尊者であり、第二祖が阿難尊者となって、同時にお釈迦様から仏法を付嘱されたという解し方です。これは本来の仏法の付嘱と異を呈していることは言うまでもありません。今回は、その点を押さえておきたいところです。
令和6年4月28日 更新
【拈提】今経教を会せんこと、阿難に勝る人あらんや。若し阿難に超過する人あらば、許すべし、教意一(きょういいち)なりと。若し啻(ただ)に一なりと謂はば、何ぞ煩(わずら)はしく二十年給仕し、今、倒却刹竿著(とうきゃくせっかんじゃく)の処にして明らめん。
〝多聞第一(たもんだいいち)〟と称され、誰よりも多くお釈迦様のみ教えを耳にしてきた阿難尊者について、瑩山禅師様は「今経教を会せんこと、阿難に勝る人あらんや」と問いかけていらっしゃいます。『阿難尊者以上にお釈迦様から生のみ教えをお聞きした者がいるだろうか、いや、そんな者がいるはずがない。仮に阿難に超過する者がいたとすれば、「教意一」と称される存在である。』と瑩山禅師様はおっしゃっています。
「教意」とは、「仏が一切衆生のためにお示しになったみ教えの本意」を意味しています。以前、「教外別伝(きょうげべつでん)」という言葉に触れさせていただきました。お釈迦様より伝わる仏法は言葉では言い尽くせぬ広大かつ深淵なるものです。だからこそ、我が宗では言葉や文字で仏法を語り尽くすことに重点を置かず、インドのお釈迦様のみ教えが達磨大師様を通じで西方の中国へと伝わり、やがて道元禅師様によって日本に伝えられたという事実を踏まえ、そこでの祖師方の言動や、それにまつわる思いを重視するのです。これが「教意」に対する「祖意」というものです。
「祖意」という観点からいくならば、伝光録に記載されている瑩山禅師様のお言葉も「祖意」を重視したものです。その上でお釈迦様から迦葉尊者、迦葉尊者から阿難尊者へと仏法が付嘱されていく中での会話や言動、心情といったものが具に示されているのです。もし、阿難尊者が教意の面で一番の存在だったならば、20年もの間、迦葉尊者に付き従って仏道修行に勤しむことはなかったでしょう。また、「倒却刹竿著(とうきゃくせっかんじゃく)の処」とあるように、「金襴(きんらん)の袈裟以外に迦葉尊者に伝えたものはなかったのか?」という阿難尊者の問いに対して、迦葉尊者がお答えになった「刹竿を倒し切ってしまえ(仏法を広めるための目印となる旗竿でさえも倒し切って見えなくなるようにすることを知らなければ、仏法を体得することはできないという意)」という悟りの境地にさえも到達できなかったであろうと、瑩山禅師様は推察なさるのです。
心と身体で体得していく仏法について、文字や言語の側面から入っていくとすれば、「祖意の重視」ということを欠かしては本物の仏法を体得できないことを瑩山禅師様のお言葉から学ばせていただきたいところです。そして、こうした側面を重視した仏道の理解によって、仏法はその核心部に迫っていけるのです。
令和6年5月5日 更新
【拈提】知るべし、経意教意(きょういきょうい)もとより祖師の道とすべからず。仏の仏ならざるに非ず。給仕して、設(たと)ひ侍者たりと雖(いえど)も、仏心に通処なくんば、争(いか)でか其心印(そのしんいん)を伝へん。多聞広学に依らざることを知るべし。
「経典の意義や意味」を指し示す「経意」や、「仏が一切衆生のためにお示しになったみ教えの本意」である「教意」というものは、「祖師の道とするべきものではない」と瑩山禅師様はおっしゃっています。これが前段にもあった「祖意の重視」ということにつながっていきます。師が弟子を〝仏法を伝えていくだけの器を有した存在〟と認め、仏のみ教えが受け継がれていく過程において、そこでの会話や言動、心情というものに重点を置くのが「祖意」なのです。
そうした「祖意」の観点から迦葉尊者に20年来に渡り、侍者として給仕(付き従ってきた)してきた阿難尊者という二人の師弟間における仏法の付嘱に今一度、触れているのが今回の一句です。
「多聞第一」と称され、誰よりもお釈迦様のみ教えを耳にてきた阿難尊者はまさに、「多聞広学」とも言うべき存在でした。しかし、阿難尊者は単なる知識に長け、頭脳明晰な存在であったかといえば、そうではなかったことが瑩山禅師様のお言葉から読み取れます。それが「仏心に通処なくんば、争でか其心印を伝へん」の一句です。阿難尊者は仏心(仏の広大なる慈悲心)に通じていたのです。すなわち、阿難尊者には仏のお心を理解し、体得していこうとするお姿があったのです。これが大きいところで、だからこそ、迦葉尊者から仏のみ教えを受け継ぐ力量を有した者と認められたのです。
「心印」という言葉が出てまいりますので、触れておきます。〝印鑑〟という言葉もあるように、〝しるし〟とか、〝証明〟を意味するのが〝印〟です。お釈迦様から迦葉尊者、迦葉尊者から阿難尊者に見られるように、師が弟子を仏法付嘱の器を有した存在と認め、許可することの繰り返しによって、今日まで仏法が伝わってきたわけですが、これを「印可」と申します。
迦葉尊者の場合、多聞第一と称されつつも、仏のお心(仏心)に通じようと日々、迦葉尊者に20年も給仕しながら、仏道修行に勤しんでこられました。そうやってついに迦葉尊者との「倒却刹竿著(とうきゃくせっかんじゃく)」の問答を通じて、師の印可をいただくことに相成ったのです。これが師と弟子が一体になるということです。そこでは師はもとより、弟子も「心印に通処」していなければ成り立たなかったということを押さえておきたいところです。「祖意を重視する」ということは、「仏の心印に通じようとすること」なのです。
令和6年5月12日 更新
【拈提】設(たと)ひ心さとく耳ときに依(より)て、諸(もろもろ)の書籍聖教を以て、一字も遺落する所なく聞持すと雖も、心若し通ぜずんば徒(いたづら)に隣の宝を算(かぞ)ふるが如し。
「祖意の重視」、すなわち、「仏心(仏のお心)に通処する」ということなしに仏道の体得や師から弟子への仏法の付嘱ということは成し得ないことが、瑩山禅師様より再三に渡って説き示されてまいりました。今回の一句もまた、そうした観点からのお示しであると共に、「徒(いたづら)に隣の宝を算(かぞ)ふるが如し」というたとえを用いながら、「仏心に通処」することの重要性が指し示されています。
どんなに聡明で物事を的確に判断したり、〝多聞第一〟と称された阿難尊者のように一字一句とも聞き漏らすことなく聞いていたり、あるいは、書籍や経典を学び尽くして知識を得るだけ得ていたとしても、仏のお心に通じていなければ、何の意味なければ、何も得るものもありません。到底、仏のお悟りに近づいたなどとは言えないでしょう。それはあたかも、他者が暮らしている隣の敷地に置かれている宝物に目がくらみ、無駄にその数を数えて自己満足するようなものであると瑩山禅師様はおっしゃっています。
そもそも「隣の宝」などと評されるようなものは、他者が苦労を重ねてようやく体得できたものであって、自分自身が努力して得たものではありません。今から20年前、住職が曹洞宗布教師養成所に通わせていただいていた頃、布教の基本を教わった講師の諸老師方から「他人の借り物の説法などホンモノの説法とは言えない。法を自ら体得し、自らの言葉でお釈迦様のみ教えを語ることが大切だ」とご教示いただいたことが思い起こされます。これが「隣の宝を算(かぞ)ふる勿れ」ということなのでしょう。布教の道を歩んで20年たった今、そうした「隣の宝を算(かぞ)ふる」ことについて、いくらそんなことをしていても、ホンモノが身につくことがないことがわかるようになってきました。
禅の修行道場の台所で修行僧たちの食事作りを自らの仏道修行とする「典座(てんぞ)」の心構えの一つが「自ら手を下す」ことであるということが、「典座教訓(てんぞきょうくん)」の中で示されています。これは、布教は勿論のこと、仕事も芸術も趣味にも通ずるみ教えで、自ら手を下して修練を重ねていかない限り、いつまで経っても技術等を体得していくことなどできません。自分が手を動かすことなく、他者が自ら手を下して体得したものを、あたかも自分が苦労して体得したなどと勘違いしないように、何事も「自ら手を下し」ながら、「隣の宝を算(かぞ)ふる」ことがないようにいていきたいものです。
令和6年5月26日 更新
【拈提】恨むらくは経教に其心なきには非ず。然れども阿難未通に依てなり。何(いか)に況(いわん)や東土日本、依文解義(えもんげぎ)、経の心を得ざるをや。更に知るべし、仏道ゆるかせならざることを。
道元禅師様や瑩山禅師様始め、お釈迦様のみ教えを受け嗣ぎ、仏道に邁進してこられた仏教祖師方が書き遺された経教(経典・祖録)について、瑩山禅師様は「恨むらくは経教に其心なきには非ず」とおっしゃっています。すなわち、「経典・祖録が悪いのではない」と言うのです。この観点もまた、しっかりと押さえておきたいところです。
「祖意の重視(仏のお心に通処する)」ということに触れてまいりましたが、これこそが仏道修行にとって、そして、仏のお悟りに近づき、到達していく上で外せないポイントでした。そのためには、経典・祖録の存在も欠かすことができない、というよりも、坐禅を主とした仏道修行において、経典・祖録は仏道を体得していく上での〝補佐〟となる大切な存在であるという受け止め方が、「恨むらくは経教に其心なきには非ず」に込められた瑩山禅師様の捉え方であると考えています。
大切なことは、修行者が「祖意に通じる」ということです。そういう点からすれば、阿難尊者は「未通」であった、すなわち、祖意に通ずるまでに至っていなかったと瑩山禅師様はおっしゃっています。だから、お釈迦様は阿難尊者ではなく、迦葉尊者に法をお伝えになったのでしょう。それを受けて、阿難尊者は20年に渡り、迦葉尊者に侍し、ついに祖意に通じるときが訪れたのです。
こうした阿難尊者が祖意に通ずるまでの状況というのは、インド以降、仏教が中国や日本へと東の地に伝来していく中で、図らずも多くの修行者が経験することになりました。「依文解義」というのは言葉や文字の表面的な解釈によって、仏法を理解する者のことで、しばしば、道元禅師様や瑩山禅師様がご指摘なさってきた仏道修行者としてのあってはならない姿勢を指しています。こうした姿勢では経の心(経典・祖録に記されている表面的な文字の奥底に秘められた祖意)に到達できるどころか、「仏道ゆるかせならざることを」とあるように、「仏道修行からは程遠く、仏道修行などとは言えぬものとなってしまう」と瑩山禅師様は修行者に対して注意喚起をなさっているのです。
私自身、甚だ微力ながらも経典祖録を読み味わいながら、日々の仏道修行に勤しむ一修行者ではありますが、経典・祖録というものが坐禅を中心とした仏道修行における祖意を解釈していく上での一助を担うものとの理解を以て、経典・祖録に過度に捉われることのないように日々の修行に励んでいきたいと思っております。
令和6年6月2日 更新
【拈提】一代聖教に通ずる阿難、如来の弟子として宣説せんに、誰か従はざらん。然れども迦葉に給仕し従ひて、大悟の後再び宣説せしことを知るべし。
「多聞第一」と称され、一代聖教(お釈迦様一世一代のみ教え)に他の誰よりも通じていた阿難尊者が如来(お釈迦様)の弟子として、人々にそのみ教えを指し示せば、誰もが耳を傾け、阿難のお言葉に従ったことでしょう。
ところが、阿難尊者は、お釈迦様のお側に20年に渡って侍して後、その一番弟子である迦葉尊者に侍し、ついに大悟(悟りを得ること)して、仏法を説き広められたのです。瑩山禅師様はその点をしっかりと押さえておくようにとお弟子様たちに指示していらっしゃるのが、今回の一句です。
お釈迦様のお側に長らく仕えていたにもかかわらず、なぜ、阿難尊者はお釈迦様の下での大悟が叶わなかったのでしょうか。それは誰よりもお釈迦様のみ教えに触れ、それを体得できていたとしても、「祖意に通ずる」という面が薄かったためです。それゆえに、阿難尊者は仏のお悟りに通じているとは言えませんでした。だからこそ、お釈迦様以降、迦葉尊者に侍し、「祖意に通じる」ときが訪れた、それが「機縁」の〝倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)〟の場面において示されている阿難尊者の大悟なのです。
これは言ってみるならば、阿難尊者が師の迦葉尊者と通じ合ったことを意味すると共に、お釈迦様ともついに通じ合うことができたことをも意味しているのです。そうした師と弟子の双方が共に祖意に通じて始めて、弟子の大悟が成立していくことを押さえておきたいところです。
令和6年6月9日 更新
【拈提】恰(あたか)も火の火に合するが如く、明かに実道に参ぜんと思はば、己見旧情(こけんきゅうじょう)、憍慢我慢(きょうまがまん)を捨て、初心を廻(めぐら)し仏智を会すべし。
今回、瑩山禅師様がお示しになっているのは、「己見による仏道修行の危うさ・脆さ」ということですが、同様のことを道元禅師様も「学道用心集」等の中でお示しになっています。
「己見(自分の考え、自己の見解)」であったり、「旧情(昔から自分の中に培われてしまった物事の捉え方)」であったりというものは、一見したところ、それを持ち合わせていれば、自分のポリシーを持った者と周囲が一目置くこともあるでしょう。
ところが、そうした自分の見解が何よりも正しいと絶対視するようになると、段々と「驕慢我慢」という言葉が指し示すように、「自分を称え、他者を軽蔑する」ような驕り高ぶった態度が生じるようになるものです。こうした「驕慢我慢」が「実道を参ずる」、すなわち、仏道修行を行じていく上での障害物となるのは言うまでもなく、だからこそ、道元禅師様も瑩山禅師様も仏道修行者に対して、強く戒めなさっているのです。そのことを学道の者であるならば、重々に理解しておく必要があることを、今回の一句を通じて、今一度、確認しておきたいところです。
「実道に参ずる」には、火に火が加わり、大きな炎を揺らめかすが如く、自らを仏の道・仏のみ教えに合わせながら、自らが仏と成っていく姿勢が欠かせません。仏道修行者は常に自らと向き合い、己見旧情、我慢驕慢の態度に留意し、自らの発心(ほっしん)【初心となる仏の道を歩もうと志したとき】を思い返しながら、仏智(仏のみ教え・お悟り)の体得につとめていきたいものです。
令和6年6月16日 更新
【拈提】謂(いわ)ゆる今の因縁、日頃は金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を伝へて、仏弟子たるの外、更に別なしと思へり。然(しか)れども迦葉に従ひて親く給仕して後、更に通ずることあることを。
お釈迦様は自らの悟りの境地をお弟子様としてお認めになった迦葉尊者にお伝えになったわけですが、「金襴の袈裟」は、それを証する印となるのものでありました。これ以外に何か証明するものはないわけですが、阿難尊者は以前から自分に染み付いてしまった自分の考え方(「己見旧情(こけんきゅうじょう)」)や、自分を絶対視する「憍慢我慢(きょうまがまん)」という考え方を一切有することなく、迦葉尊者に親しく従い侍して、実道に参じてまいりました。
そうやって仏道修行に励み続けてきたある日、ついに迦葉尊者と阿難尊者に「更に通ずることあることを」という言葉が指し示すように、師から弟子に対して、仏法が付嘱される瞬間が訪れたというのです。火に火が加わって、大きな炎の揺らめきが生ずるがごとく、山の中で発した大声がこだまして自分の耳元に返ってくるがごとく、その瞬間は因縁時節が叶って訪れたというのです。それが「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)」なのです。
令和6年6月23日 更新
【拈提】迦葉、時既に相適(あいかな)ふこと知て、阿難と召す。恰(あた)かも谷神(こくじん)の喚(よ)ぶに従ひ響(ひびき)を作(な)すが如し。阿難乃(すなわ)ち応ず。石火の石を離れて出るが如し。夫れ阿難召すも、阿難を喚ぶに非ず。響き応じ応ふるに非ず。
迦葉尊者が20年に渡って自らに親しく侍してきた阿難尊者を、お釈迦様のみ教えを伝えるに相応しい人材と認めた瞬間、すなわち、「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)」の時節について、瑩山禅師様は「恰(あた)かも谷神(こくじん)の喚(よ)ぶに従ひ響(ひびき)を作(な)すが如し」と比喩を用いながらお示しになっています。「山の中で発した声がこだまして、自らの耳に戻ってくるようなものだ」と。まさに、「迦葉、時既に相適(あいかな)ふこと知て」とあるように、迦葉尊者が「今こそ来るべき瞬間が訪れた」と、双方に最適な時節が到来したのを自らの身心を以て体得なさったことが読み取れるように感じます。そして、その実感を以て、迦葉尊者は阿難尊者を召す(お呼びになる)ことになさったのです。
これに対して、阿難尊者は応じました。ひょっとすると、阿難尊者の方も、「恰(あた)かも谷神(こくじん)の喚(よ)ぶに従ひ響(ひびき)を作(な)す」が如く、感じるものがあったのかもしれません。それが瑩山禅師様の「石火の石を離れて出るが如し」というたとえに言い表されています。すなわち、「何度も何度も火打ち石を打ちながら、やっと火が起こるタイミングが訪れるようなもの」であったというのです。瑩山禅師様は先のたとえとは異なる表現を用いながら、迦葉尊者の召集を受けた阿難尊者の心境をお示しになっているのです。
そして、「夫れ阿難召すも、阿難を喚ぶに非ず。響き応じ応ふるに非ず。」とあります。これは師と弟子の双方が機縁の熟したことを感じ、お互いに自分の取るべき行動を取ったことを意味しています。すなわち、師か弟子のどちらか一方が発した一方通行の行いでもなければ、それに応ずるかのようにして、どちらか一方が動いたというものでもない、双方がそれぞれ自分の思いを以て動いた行動が見事なまでに合致し、「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)」という仏法の世界が体現されていったということを言い表しているのです。ここには師と弟子の双方が決して、自らに甘えることなく、仏道修行一筋の日常を送るという大前提があり、それによって、双方の機が熟し、お釈迦様のみ教えを伝え合う師と弟子の関係が成立していったということが感じ取れます。今回の一句を通じて、その点を押さえておきたいところです。
令和6年6月30日 更新
【拈提】倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)といふは、西天(さいてん)の法に、仏弟子及び外道(げどう)等議論せんとするとき、両方に旗(はた)を建て、若し一方負(まく)るとき、乃ち此旗を折り倒す。負るとき鼓鐘を鳴らさずして、負くるを表す。謂(いわ)ゆる今の因縁も、迦葉と阿難と相並んで、旗を建るが如し。
「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)」とは、師と弟子の双方が自らの力で仏法の旗を立てたことを意味するものです。すなわち、双方が日々の仏道修行を通じて、自らの力で以て仏の悟りを体得できた、すなわち、「仏と成った」ということを指し示しているのです。
西天(インド)の法では、仏教に帰依する仏弟子と外道(仏教を信じぬ者)たちが仏教等の話題について議論する場合、双方が旗を立て、議論に負けた側は鼓鐘(太鼓や鐘など、音の出る鳴らし物)を鳴らすことなく、旗を倒して敗北宣言をするとのことです。今回の一句において、まずは、瑩山禅師様よりそうした西天における風習が言及されています。
これに対して、「倒却門前刹竿著」における迦葉尊者と阿難尊者の師弟には勝ち負けがありませんでした。ですから、どちらかが旗を倒すこともなければ、鼓鐘を打ち鳴らすこともない、共に旗を立て、共に鼓鐘を鳴らすことのない状態であったというのです。それが「迦葉と阿難と相並んで、旗を建るが如し」の意味するところです。
師と弟子の勝ち負けなどが一切、存在せずなく、共に仏道修行を重ね、仏と成る―そのことが見えてきたのが、「時既に相適(あいかな)ふ」ということなのでしょう。そんな瞬間に迦葉尊者から阿難尊者にお釈迦様の法が伝わっていったのです。「倒却門前刹竿著」におけるお二人の因縁には、仏法相承における唯一絶対の師弟関係が描かれていることを言さえておきたいと思います。
令和6年7月7日 更新
【拈提】此に到て阿難すでに出身すれば、迦葉、旗を巻くべし。一出一没なり。然れども今の因縁然るに非ず。迦葉も是れ刹竿(せっかん)、阿難も是れ刹竿。若し刹竿ならば此理顕(あら)はるべからず。刹竿一度倒るるとき、刹竿乃ち顕はるべし。
迦葉尊者から阿難尊者への仏法の付嘱が示されている「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)」について、これは師と弟子のいずれかの勝ち負けが示されたものでもなく、双方が日頃の弛まぬ仏道修行によって、成仏(仏と成ること)の時節因縁が訪れたことを指し示すものでした。
そうした単なる勝ち負けの話ではないことを指し示す言葉が「一出一没」です。これは、どちらか一方が出れば、もう一方が没するようなものではないということです。また、「出身」という言葉が用いられています。これは「仏道修行によって、迷いから脱却し、悟りの世界に到達すること」を意味しています。もし、「一出一没」であるならば、勝った側は出身し、没した側が旗を巻いて、降参したことを宣言するでしょう。
しかし、「倒却門前刹竿著」においては、「迦葉も是れ刹竿、阿難も是れ刹竿」、双方が旗を立てたというのです。まさに双方が出身し、没する者がなかったわけで、そこには「一出一没」の理論など、存在しません。この理論は前段の言葉を用いるならば、「西天(さいてん)の法」が指し示す「勝者が旗を立て、敗者が旗を倒す」というインドの一般社会における理論とも合致するものだと言えるでしょう。しかし、幾度も申し上げるように、迦葉尊者から阿難尊者に仏法が伝えられた場面においては、世間一般の「西天の法」が出てくる場面など、存在し得なかったと、そのように解することができるのです。
そもそも迦葉尊者は阿難尊者に対して、自身がお釈迦様から付嘱された仏法の旗を倒すように命じました。そこには「阿難尊者がこれまでの仏道修行の集大成として、自らの力で自らの旗を立てて、さらに仏法を広めてほしい」という迦葉尊者の願いが込められていました。
そうした師の願いに対して、弟子・阿難は見事なまで、また、完璧なまでにお答えになりました。すなわち、「刹竿一度倒るるとき、刹竿乃ち顕はるべし」、仏法の旗が倒れても、ちゃんと仏法が顕現してきたというのです。
お釈迦様から脈々と伝わる法に従い、日々の仏道修行に励む私たち学道の者ですが、長らく自らの身心で体得してきた仏法を、「自らの力で旗揚げし、自らの力量で広めていく」ことが学道の者の目指すべきところであることを、「倒却門前刹竿著」のエピソードから教えていただいたような気がします。こうした姿勢を以て、今日も仏道修行に勤しんでいきたいところです。
令和6年7月21日 更新
【拈提】迦葉、倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんじゃく)と指説するに、阿難師資の道通ずるに依て言下(ごんか)に大悟す。大悟の後、迦葉も乃ち倒却し、山河皆崩壊す。之に依て仏衣自然(ぶつえじねん)に阿難の頂上に来入す。
「倒却門前刹竿著」について、そこでは師と弟子が勝敗を競い合い、どちらかが勝ったり負けたりするというような世界観はありません。師も弟子も共に悟りを得(大悟)、共に身心を調え、救われたというのが「倒却門前刹竿著」なのです。まさに「阿難師資の道通ずるに依て言下に大悟す」とあるように、師と弟子が感応道交(かんのうどうこう)、お互いに仏法を以て相通ずることができたとき、弟子・阿難の大悟が実現したということなのです。
そして、そこにはもう一点、忘れてはならないのが弟子・阿難の決意です。お釈迦様に帰依し、その道を行ずる学道の者の一人として、自らの力で仏法を広めていくという阿難の強い決意も顕れているのです。
そうした阿難の大悟によって、「山河皆崩壊す」とあります。「山河」は世間一般には山や川、すなわち、この娑婆世界を形成する国土を意味する言葉ですが、仏教ではそこからさらに発展的に捉え、「森羅万象」、「この世に存在するすべてのいのち」というものを、象徴的に捉えたものとして解します。
そうした「山河」が「崩壊」するというのはどういうことなのでしょうか。今年の梅雨も線状降水帯が発生するなどして、土砂災害等の被害が出た地域もありました。石川県でも昨日(7月20日)早朝に大雨洪水警報が出されるほどの雨が降り、ある地区の野球場ではのり面が崩壊するという被害も出たとのことです。
こうした一般的には破損や倒壊を意味する「崩壊」という言葉ですが、今回は「一体化」という意味で捉えていけたらと考えます。すなわち、山と河が一体となって、一つに溶け合いながら、この自然界を作り上げているように、師と弟子が仏法によって相通じ、お釈迦様のお弟子様として一つになったことを言い表しているのが、「崩壊」という言葉だということです。
そうした山と河が一つに溶け合うがごとく、師と弟子が一体化できたからこそ、「仏衣自然(ぶつえじねん)に阿難の頂上に来入す」、仏と成りし者が身に付けることの許される「仏袈裟」の着用が師・迦葉尊者から認められたということなのです。仏道修行に励みし者にとって、最終的にはその道を指し示す師、そして、お釈迦様、そうした存在との「感応道交」によって、弟子の大悟が実現するということを押さえておきたいところです。
令和6年7月28日 更新
【拈提】然れども此因縁(このいんねん)を以て、赤肉団上(しゃくにくだんじょう)、壁立千仞(へきりゅうせんじん)にとどまること勿れ。浄潔にとどまること勿れ。進(すすん)で以て谷神(こくじん)の有ることを知るべし。
日々、仏道修行に勤しむ一人として、まだまだ感情のコントロールが上手くいかないこともあれば、ある一点に捉われてしまい、中々、考え方を変えられないでいるような場面に出くわすこともあります。恥ずかしながら、お釈迦様は勿論のこと、迦葉尊者や阿難尊者の足下にさえも及ばない自分と認めざるを得ません。
そんな自分ではありますが、お釈迦様始め道元禅師様や瑩山禅師様、そして、その他の多くの仏教祖師方と少しでも「感応道交(かんのうどうこう)」することができたとき、ようやく仏の道を歩む一人として、師を始めとする周囲からも認可されるのではないか、伝光録第二章における迦葉尊者と阿難尊者のやり取りを拝見しながら、そのように捉えています。思うに仏道修行における道の大成というのは、「諸仏との感応道交」と「師(周囲)からの認可」がキーポイントなのではないでしょうか。
そうした迦葉尊者と阿難尊者のやり取りにおけるキーポイント(此因縁)を思うとき、私たちは決して、仏のお悟りに向かって精進努力することだけは怠ってはいけないと思います。たとえ思い通りにいかない場面に出くわしたことで怒りの感情を発出し、後悔するようなことになったとしても、何かのタイミングで憎い相手を貶めることに執着していたことに気づいてハッとしたとしても、そんな自分を責めたり卑下して終わるのではなく、そんな自分を改善し、二度と同じ過ちを繰り返さないように誓うのです。そうやって、幾度も幾度も我が身の日常を振り返り、仏のような穏やかな人間になっていく、これが仏教の指し示す「懺悔(さんげ)」ということなのです。
「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)、壁立千仞(へきりゅうせんじん)にとどまること勿れ。浄潔にとどまること勿れ。」と瑩山禅師様は我々仏道修行者にお示しになっています。‶今・ここ〟にいのちをいただいて生かされている「我が身(赤肉団)」は、そう簡単には登り切ることのできない直立絶壁(壁立千仞)を眼前にしたとしても、浄潔(清浄潔白)の中で汚れた部分を有する自分に気づいていたとしても、諦めず、怠らず、卑下することなく、仏のお悟りに向かって、真っ直ぐに進んでいくのです。それが「精進」だということです。
そうしたどんなことがあっても「精進」を続ける者に対して、仏は必ずこだまの如く、必ず何か返しを発してくることでしょう。それが「谷神」です。
「谷神の有ることを知るべし」―そうした「谷神」の存在を信じ、今日も怠けることなく、仏道修行に勤しんでいくのです。
令和6年8月25日 更新
【拈提】諸仏番番出世し、祖師代代指説す。唯是れ此事なり。心を以て心を伝ふ、終(つい)に人の知る所に非ず。
お釈迦様の大悟(お悟りを得ること)以降、2600年、インド・中国・日本と多くの諸仏・祖師が代々、番番(かわるがわるに)出世して、人々に指説(仏法を指し示すこと)してまいりました。「出世」は、世間一般には「地位や身分が上がること」を意味しますが、仏教の世界では「出家者が世に出て悩める人々に法を説いて救済すること」を意味します。
最初は一介の凡夫(ぼんぶ)だった者が師のお導きの下、仏道修行に励み、やがて師の認可を得て、祖師・諸仏として認識されていくまでには随分と険しい道のりがあるでしょう。その道中で幾度となく、「進(すすん)で以て谷神(こくじん)の有ることを知るべし」とあるように、大山(たいざん)で発した声がこだまするかの如く、仏が救いの手を差し伸べ、進むべき道を方向付けてくれたことでしょう。精進している者に対して、仏は必ず応えてくれます。それが「唯是れ此事なり」の指し示すところです。まさにそれこそが諸仏番番、祖師代代、自らの身心を以て証明してきた確固たる真理なのです。
そうやって代々受け継がれていった様が「心を以て心を伝ふ」という一句の中に示されているように感じます。そして、それは「終(つい)に人の知る所に非ず」が言い表すように、誰彼もが容易には計り知ることのできないほどの深遠な意味を有すると共に、長大なる時間を費やして始めて体得できるようなものであることをも、併せて理解しておきたいところです。
現代の視点からすれば、時間や労力を要するというだけで敬遠されがちなものかもしれませんが、それが仏道修行であることを押さえ、どんな困難な場面に出くわそうが、谷神の存在を手がかりに、怠けたり明らめたりすることなく、仏のお悟りに向かって精進していくのです。それが諸仏番番出世・祖師代代指説して伝えしものであることを押さえておきます。
令和6年9月8日 更新
【拈提】設(たと)ひ顕(あら)はれたる赤肉団(しゃくにくだん)、迦葉尊者も、是れ那人(なにん)の一面両面に出世するなりと雖も、迦葉尊者を以て那人とすること勿れ、今汝等諸人、箇箇壁立万仞(ここへきりゅうばんじん)せる、彼の那人の千変万下(せんべんばんか)なり。
お釈迦様始め、阿難尊者も迦葉尊者も共通して、その日常における仏道修行とは「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)、壁立千仞(へきりゅうせんじん)にとどまることなし」という一句が指し示すように、『「今・ここ」にいただいた我が身(赤肉団)を徹底的に仏の修行に費やす』というものでした。それはまさに「精進」のお姿です。
とは言え、これは言葉で説明するのは容易いことかもしれませんが、その実際というのは、「壁立千仞」とか、「箇箇壁立万仞」といった言葉が指し示すように、険しくて高い道のりであることは言うまでもありません。そうした道程を、お釈迦様以降、仏教祖師方は覚悟を決め、精進して歩んでまいりました。そして、その結果として、お釈迦様のみ教えが今日にも伝わっていることは、これまで幾度も確認してきたことです。
「那人」という言葉が登場します。これはまさに仏道修行に精進し、仏の悟りを体得なさった方々を指しますが、瑩山禅師様は「迦葉尊者も、是れ那人の一面両面に出世するなりと雖も、迦葉尊者を以て那人とすること勿れ」とお示しになっています。迦葉尊者のみが那人ではありません。お釈迦様は勿論のこと、その高弟であり、迦葉尊者の師でもある阿難尊者も然り、そして、お釈迦様という那人から脈々とつながる道筋の中における那人としての迦葉尊者であるということを瑩山禅師様はお示しになっているのです。それが「彼の那人の千変万下なり」の意味するところです。瑩山禅師様は後世の仏道修行者に対して、この点をしっかりと押さえてほしい願い、「今汝等諸人」と呼びかけていらっしゃるように思います。
いずれの仏教祖師方も個人単独での悟りなどあり得ません。全てがお釈迦様から端を発する仏縁・つながりの中での悟りであることを、しっかりと押さえておきたいところです。
令和6年9月15日 更新
【拈提】若(も)し那人(なにん)を識得(しきとく)せば、諸人一時に埋却(まいきゃく)せん。若し然らば倒却刹竿(とうきゃくせっかん)を我外(わがほか)に求むべからず。
迦葉尊者から阿難尊者に仏法が伝わり、阿難尊者がいよいよ大悟(仏の悟りを得ること)するに至るとき、キーワードとなるのが「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんちょ)」でした。迦葉尊者は阿難尊者に言います。『「刹竿(門前に掲げる仏法の印)」でさえも倒し切ってしまうくらいの気構え・心持ちがなければ仏法は体得できない。』と。一見したところ、ほんのわずかな一言かもしれませんが、その背景にはこの世で初めてお釈迦様から伝わる仏法を体得なさった迦葉尊者の言葉では言い尽くせぬくらいに仏道修行積み重ねられた修行者の生き様があります。それは計り知れぬほどの重みと限りなき深みを有するものと捉えても過言ではないでしょう。併せてここでは、迦葉尊者はお釈迦様から初めて後継者として選ばれた偉大なる仏道修行者であることをも再確認しておきたいところです。
そして、そんな迦葉尊者から仏道を伝えるに相応しい人格に育ったと認められし阿難尊者もまた、偉大なる仏道修行者であります。「那人(仏の悟りを体得したもの)」であるお二人は共にお釈迦様からの流れを体得すると共に、それをお釈迦様からも認可されしお二人なのです。
大切なことは、師のつながりの中での「那人」であるという理解を持つこと(識得)です。ここを欠かすと仏道の解釈を誤る(埋却する)危険性があります。すなわち、お釈迦様や迦葉尊者・阿難尊者の大悟が〝個々になされたもの〟であるという捉え方は誤りであるということです。お釈迦様がいらっしゃっての迦葉尊者、迦葉尊者あっての阿難尊者であるということです。かの「一器(いっき)の水を一器に伝ふるが如し」の有名なたとえが指し示すように、お釈迦様のお悟りをそっくりそのまま修行して体得し、後世にお伝えになったということなのです。
―「師のみ教えをそっくりそのまま修行し、自ら体得していく」―
これが「我外に求むべからず」に込められた瑩山禅師様の願いです。仏道修行者がお釈迦様から伝わる仏法というものを、お釈迦様を始めとする歴代仏教祖師方に求めながら、自ら体得していくという姿勢です。「那人を識得すること」を「埋却」することなく、「我外に求める」ことなく、自らも仏道修行に邁進していくことを意識して、今日も修行に励むのです。
令和6年9月22日 更新
【拈提】今日大乗の子孫、また著語(じゃくご)せんと思ふ。諸人、聞かんと要すや。
【頌古】藤枯れ樹倒れ山崩れ去り、渓水瀑漲(けいすいばくちょう)して石火流る。
「伝光録」の各章を締めくくる「頌古(じゅこ)」。これは「祖師方の古則に対して、偈や詩を用いながら簡潔に宗意を示したもの」でした。
瑩山禅師様は大勢の修行僧を前に、「今日大乗(乘)の子孫、また著語せんと思ふ。諸人、聞かんと要すや。」と呼びかけになりました。「著語」には「今を生きる修行者が自らの視点を以て、古の修行者の言葉や行いを端的に評した言葉」という意味があります。まさに「頌古」ということでありましょう。
そんな今回の瑩山禅師様の「頌古」は「藤枯れ樹倒れ山崩れ去り、渓水瀑漲して石火流る」とあります。
迦葉尊者が阿難尊者にお伝えになった「倒却門前刹竿著(とうきゃくもんぜんせっかんちょ)【刹竿(門前に掲げる仏法の印)でさえも倒し切ってしまうくらいの気構え・心持ちがなければ仏法は体得できない】」こそが、迦葉尊者から阿難尊者に仏法が伝わっていく上で外すことのできない重要なポイントです。瑩山禅師様は後世の修行者がそこを押さえ、日々の修行に生かしていくことを願って「頌古」として示されたと考えるのです。
「門前に掲げられた仏法の印を倒し切ってしまう」というのは、藤の花や大量の様々な樹木を抱えながらも堂々とそびえ立っている大山(たいざん)でさえも崩し去ってしまうような勢いを有したものであるということ、また、渓水(谷川の水)が「石火流れる」という言葉が指し示すように、ものすごいスピードで瀑漲(水しぶきを上げて勢いよく流れ去る様)していくようなものであるということです。
一つの目標に向かって、時間と労力をかけて、コツコツと積み重ねていく様を「精進」と捉えることができますが、そうやって精進して作り上げてきたものであったとしても、仏法のために崩して倒し切ることも必要であり、それができなければ仏の悟りには近づけないというのが、今回の「頌古」が指し示す「倒却門前刹竿著」なのです。
それは言ってみれば、たとえ自分が苦労して作り上げたものであったとしても、それを
完璧なもの」と思い込み、そこに捉われていては、ホンモノに巡り合うことができないということでもありましょう。
とは言え、一回、積み上げたものを崩して最初から積み直すことは勇気や根気のいることで、その決断と実行は決して、容易なことではありません。最近、住職は時間のあるときに動画サイトで昭和に放送されたドラマを見る機会が多いのですが、女優・堀ちえみさん主演の「花嫁衣装は誰が着る」(1986年4月23日~10月15日 フジテレビ系にて放送)の中で「倒却門前刹竿著」に通ずるエピソードがありました。岡田奈々さん演ずる新進気鋭のデザイナー・ユリ麻見が自身の新作発表会の3日前に、恩師である世界的デザイナー・藤崎明江(演:梶芽衣子さん)にデザインを盗作され、先行して世間に発表されてしまいます。これを受けて、時間と労力をかけて準備してきた自身のデザインを出せば、世間から恩師の盗作をしたと疑いをかけられると思ったユリ麻見は自分のデザインをきっぱりと捨てる英断を施し、周囲の力も借りながら、たった3日間で新しいデザインを生み出し、発表会を成功させたというストーリーです。ドラマの中の世界と言われればそれまでなのですが、場合によっては自分が長年かけて築き上げてきたものを倒し去る英断を持つことも、人間が生きていく上で必要なのではないかということを、「倒却門前刹竿著」のみ教えと併せながら感じたのです。
令和6年9月21日、元日の地震から復興を遂げようとしていた能登の地を、今度は前例のない集中豪雨が襲いました。発災後、曹洞宗石川県宗務所対策本部と共に曹洞宗石川県青年会会長の立場で会員の安否確認を行い、今後の対応を協議していく段階まで来ましたが、この先もこうした場面に出くわすことはあると、改めて痛感した次第です。
そんなとき、周囲の幸せや無事を願いながらも、一仏道修行者として自分が積み重ねてきたものを倒す必要があるならば、倒すだけの勇気・英断が持てるような修行者でありたいと、「倒却門前刹竿著」のみ教えから思うようになりました。勿論、人様が苦労して立てた竿を自分勝手な考え方を以て倒すようなことはあってはなりません。それは自分の思想を相手に押し付けることです。自分が立てた旗を倒せるのは、あくまで立てた自分だということです。周囲の立てた旗を倒すか否かは立てた当人が判断すべきことなのです。
そのことを念頭に置き、仏法のため、周囲のためにいただいたいのちを費やすことのできる自分でありたいと願って、今日も仏道修行に勤しむのです。