伝光録・第一章
背景 富山県魚津市(令和8年8月19日 撮影)
背景 富山県魚津市(令和8年8月19日 撮影)
令和4年11月22日 更新
【本則】 第一祖、摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)、因(ちなみ)に世尊拈華瞬目(せそんねんげしゅんもく)し、迦葉破顔微笑(かしょうはがんみしょう)す。
世尊曰(せそんのたま)わく、「吾(われ)に正法眼蔵涅槃妙心有(しょうぼうげんぞうねはんみょうしんあ)り、摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す。」
お釈迦様が耆闍崛山(ぎじゃっくせん)(霊鷲山【りょうじゅせん】)という所で説法をなさっていたときのことです。霊鷲山はお釈迦様の説法地の一つで、ここで繰り広げられた人間同士のドラマは、現代にも仏教説話等、様々な形で伝わっております。
そんなエピソードの一つとなるのが、今回から瑩山禅師様によって提唱されていくお釈迦様と高弟・摩訶迦葉尊者とのやり取りです。お釈迦様が霊鷲山にて大勢の人々の前でご説法をなさっていたとき、その中にいらっしゃった迦葉尊者との出会い・関わり・師弟関係形成に至るまでの一連の流れ、そして、それに対する瑩山禅師様の詳細なご説明と見解が示されていくわけですが、その具体的な内容を語る上でキーワードとなるのが、「世尊拈華瞬目」や「迦葉破顔微笑」、「正法眼蔵涅槃妙心」です。それらに触れながら、お釈迦様と迦葉尊者とのエピソードを読み味わってまいりたいと思います。
まず、迦葉尊者について簡単に触れておきたいと思います。古代インドにおける十六大国の一つで、お釈迦様の成道や布教伝道が行われた摩竭陀国(まかだこく)のご出身で、お釈迦様の十大弟子のお一人、その中でも「頭陀第一(ずだだいいち)」と呼ばれたほど、厳しい頭陀行(質素に徹した仏道修行に励むこと)を修せられた方です。また、お釈迦様がお亡くなりになったとき、高弟の中でも年長者であったことから、お釈迦様の葬儀を執り行うと共に、葬儀の後、五百人からのお弟子様たちを集め、お釈迦様の教法を確認し合い、後世に伝える会議の場(結集【けつじゅう】)を持った方でもあります。
そんな迦葉尊者がお釈迦様のご説法をお聞きするべく、大勢の方が集う霊鷲山にいらっしゃったとき、仏教を守護する役割を有する梵天王(ぼんてんおう)がお釈迦様に一枝の金波羅華こんぱらげ(金色の蓮華)を差し出し、説法の依頼をなさいました。すると、お釈迦様は梵天王のご依頼に応じて、壇上に登壇し、人々にいただいた一枝の金波羅華を拈じてお見せになりました。
このとき、聴衆のほとんどがお釈迦様の意を解することができず沈黙してしまったのですが、ただ一人、そのお釈迦様の意を解して、破顔微笑(にっこりと微笑むこと)なさった人物がいらっしゃいました。それが迦葉尊者でした。お釈迦様は言葉だけでは語り尽くせぬ仏法のお示しを梵天王からいただいた一枝の花に込めて、聴衆に提示なさったのですが、それに対して、その場では迦葉尊者のみが、お釈迦様の意を理解し、静かに微笑むことで回答なさったというのです。これが「世尊拈華微笑」として今日まで伝わるお釈迦様と迦葉尊者のエピソードです。
お釈迦様のお悟りというのは、全てが言葉で表現しつくせぬ高尚で尊いものなのです。自らの苦悩から救われたい等、様々な思いを持って霊鷲山に集う大勢の聴衆は、お釈迦様が発する言葉の一字一句も聞き逃すまいとなさっていたことでしょう。そんな中で、一枝の華を拈じながら言葉だけでは表せぬ仏の境地・お悟りを提示なさったお釈迦様の意を一体、誰が解することができただろうか?―唯一、ご理解なさった迦葉尊者こそが、お釈迦様の後継者に相応しい人物であり、だからこそ、お釈迦様から迦葉尊者に仏のみ教えが伝わっていったのです。それが「正法眼蔵涅槃妙心」であり、後世、仏教祖師方が師から弟子へと伝えていったものなのです。
前回、瑩山禅師様がお示しになった「一枝秀出(いっししゅうしゅつ)す老梅樹(ろうばいじゅ)、荊棘(けいきょく)、時と与ともに築著(ちくじゃく)し来きたる」という偈頌(頌古【じゅこ】)について触れさせていただきました。これはお釈迦様の成道に関する偈頌なのですが、老梅樹(我)という、様々な存在から仏に成るものも出てくれば、荊棘(妨げとなるもの)を有する者も出てくるというのが、この世の定めとは言え、それを踏まえて、仏に近づく道を歩んでいくことが、仏道修行者の使命であることが確認できる偈頌であると捉えています。お釈迦様が拈じられた一枝の金波羅華は、老梅樹から誕生してお釈迦様と迦葉尊者の仏縁を育みました。また、迦葉尊者もこの霊鷲山でのやり取りによって、仏に近づくことができた人材であったと捉えらえます。今一度、瑩山禅師様がお示しになった偈頌にも触れながら、我なる老梅樹から生じた私たちも、少しでも仏に近づけるよう、日常のほんのわずかなものにも見える一枝の花にさえも目を向けながら、毎日を過ごしていきたいものです。
令和4年11月27日 更新
【機縁】 摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)、姓は婆羅門(ばらもん)。
梵(ぼん)には迦葉波(かしょう)は、此(ここ)に飲光勝尊(おんこうしょうそん)と曰(い)ふ。
尊者生(そんじゃうま)る時、金光(こんこう)、室に満(みち)て、光ことごとく尊者の口に入る、
因(より)て飲光と称す。其身金色(そのみこんじき)にして、三十一相を具足(ぐそく)せり。
唯(た)だ、烏瑟白毫(うしつびゃくごう)の欠けたるのみなり。。
お釈迦様のお悟り・み教えを受け継いだ高弟・摩訶迦葉尊者―その出生や身体的特徴が瑩山禅師様より詳細に説明されていくのが今回の一句です。
まず、「姓は婆羅門」とあります。後に「ヒンドゥー教(インド教)」がインド国民の民間信仰宗教として普及していきますが、その起源となるのが「婆羅門経(バラモン教)」で、ヒンドゥー教に基づく四つの区分の最上位と位置付けられるのが「婆羅門」です。参考までに下記の一覧表において、ヒンドゥー教における「四姓制度」に触れておきたいと思います。
婆羅門 バラモン 僧族・司祭者
刹帝利 クシャトリヤ 王族・士族
毘舎 ヴァイシャ 庶民(農工商)
首陀羅 シュードラ 奴隷族
こうした四姓制度を見てみると、かつての日本も江戸時代に「士農工商」の身分制度がありました。いずれも共通するのは、人間を出生の違いで区別し、差をつけてしまうことになった社会制度であるということです。当然ながら、現代社会においては憲法等によって、身分制度は勿論のこと、それに基づく差別行為は禁止されていますが、私たちは、こうした事例を前に、決して、過去の歴史的事実として終わらせるのではなく、これからの時代においても同様の差別意識を持つことがないよう、意識しながら毎日を過ごしていきたいものです。
ちなみに、婆羅門には四つの段階があるとされています。最初は「梵行期(ぼんぎょうき)」といって、7・8歳頃から師について住み込み状態で12年ほど祭儀を教わる「学業期」、次が20歳頃、師の元から自宅に戻り、結婚して、祭事に専念する「家住忌(いえずみき)」、そして、家事・財産の全てを成長した子どもに譲り、林野にて修行に励む「林棲忌(りんせいき)」、最後は全てを捨てて世間に出て托鉢生活に勤しむ「遊行期(ゆぎょうき)」という流れです。迦葉尊者はこうした生涯を送ることになっていた婆羅門の一人だったのです。ちなみに、師となるお釈迦様は釈迦族のご出身ということから、刹帝利(クシャトリヤ)」に属していらっしゃいました。
迦葉尊者の生没年等は詳細が不明ですが、この婆羅門の四つの段階から想像するに、お釈迦様と霊鷲山にてお会いしたのは、20歳を過ぎた家住期ではないかと考えられます。すなわち、婆羅門として更なる修行を重ね、精進していらっしゃったという、比較的、意識も高く、純一無雑な言動を取っていた頃にお釈迦様との出会いがあったのではないかということです。ひょっとすると、そうした意識の高さ、懸命に生きる姿があったからこそ、お釈迦様が掲げた金波羅華の意を唯一、解することができたのではないでしょうか?当時のインド(梵)の社会の様子や、そこに生かされている人々の日常と絡めながら、伝光録を読み解いていくと、やはり味わい深いものを感じずにはいられません。
そんな迦葉尊者の別名が「飲光勝尊」です。これは瑩山禅師様もご説明になっているように、迦葉尊者がお生まれになったとき光が差してきて、室内に充満していくと共に、迦葉尊者がその光を浴びて、「其身金色」とあるように、身心共々に輝かしい存在であったことを意味するものです。まさに迦葉尊者の姿形は、お釈迦様の法を受け継ぎ、その後継者として次世代を生きていくに相応しいものであったということでしょう。
ただ、瑩山禅師様はおっしゃいます。「三十一相を具足せり。唯、烏瑟白毫の欠けたるのみ」と。インド古来の伝説には、『全ての人は「三十二相」という32の相を具えているが、これを確実に表出させる者は、俗にあっては転輪王に、出家にあっては悟りを得る」と言うのです。三十歳臘月(ろうげつ)八日、坐禅によって悟りを得たお釈迦様は、まさに本来有している三十二相を表出させた方なのです。
それに対して、瑩山禅師様は「迦葉尊者は三十一相までは表出させている」とおっしゃっています。すなわち、お釈迦様と見比べてみると、かなりお釈迦様に近づいた存在でありながら、ほんの一つ、表出していないものがあるがために、「三十一相を具足せり」とおっしゃるのです。
その迦葉尊者に欠けているという「烏瑟白毫」というのは、「肉髻(にっけい)」のことで、頭上に骨肉が隆起しているがために高くなっている部分で、尊貴の相とされるところです。この部分が迦葉尊者には存在していないというのです。
限りなくお釈迦様に近い存在でありながら、そのお悟りに近づくまではあと一歩の所という存在―それが迦葉尊者なのです。
令和4年12月11日 更新
【機縁】 多子塔前(たしとうぜん)にして、初(はじめ)て世尊(せそん)に値(あ)ひたてまつる。世尊、善来比丘(ぜんらいびく)とのたもふに、鬚髪(しゅはつ)すみやかに落ち袈裟(けさ)体に掛る。乃(すなわ)ち正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を以て付嘱(ふしょく)し、十二頭陀(じゅうにずだ)を行じて、十二時中虚(むなし)く過ごさず。
―「三十一相を具足(ぐそく)する婆羅門(ばらもん)・迦葉尊者(かしょうそんじゃ)」―
尊者にとって、生涯に渡る師となる世尊(お釈迦様)と初めて出会った場所が「多子塔前」であることが瑩山禅師様より提示されます。「多子塔前」において、お釈迦様と迦葉尊者は出会い、正法眼蔵(仏法)が伝わったのです。それは仏教史における「初めての師から弟子へと教えの相承そうじょう」が為された決定的瞬間とも言うべき場面でしょう。
この決定的瞬間について、瑩山禅師様から詳細に説明が施されていきます。まず、「世尊、善来比丘とのたもふに」とあります。「善来比丘」というのは、インドにおいて修行者たちを「ようこそ、いらっしゃい」と歓迎する際に発せられる言葉です。そんなお釈迦様からの温かい歓迎のお言葉をいただいた瞬間、「鬚髪すみやかに落ち袈裟体に掛る」とあるように、迦葉尊者のヒゲや髪がなくなり、袈裟を身につけた、すなわち、「清浄なる出家者の姿になった」というのです。そして、「正法眼蔵を以て付嘱し」とあるように、お釈迦様から迦葉尊者に仏法が伝わり、仏教史上初の師弟関係が多子塔前において誕生したというのです。これは、仏教が後世に伝来していく上での礎ともなった重大な場面と捉えて十分なものです。
そうしたお釈迦様のみ教えを受け継いだという高弟・迦葉尊者は「十二頭陀を行じて、十二時中虚しく過ごさず」という人物であったことが瑩山禅師様より紹介されます。「十二頭陀行」は「修行僧が衣食住における貪りや執着を振り払うための12の修行」です。迦葉尊者は「頭陀第一」と称されたように、誰よりも徹底的に頭陀行を修し、厳格かつ質素な日常を過ごしてきた人物です。「十二時中虚しく過ごさず」からは、一日中、頭陀行に徹底した迦葉尊者の生き様がにじみ出ているような気がいたします。
ここで「十二頭陀」について、一覧表にて下記の一覧表にて触れておきます。
在阿蘭若処 ざいあらんにやしょ 戸外の静かな地で過ごすこと
常行乞食 じょうぎょうこつじき 他者の接待を受けず、自ら食を乞うこと
次第乞食 しだいこつじき 貧富の差なく食を乞うこと
受一食法 じゅいちじきほう 午前中一回と決まっている食事以外は食さないこと
節量食 せつりょうじき 定まった量の食を受け、それ以上、多くの食を受けないこと
中後不得飲漿 ちゅうごふとくおんしょう 午前中一食以外、以降は正食をいただかないこと
著糞掃衣 ちゃくふんぞうえ 人が捨てた汚衣を縫うなどして着用すること
但三衣 たんさんね 定まった三衣以外は着用しないこと
塚間住 ちょうかんじゅう 墳墓にあって住すること
樹下住 じゅげじゅう
露地坐 ろじざ 屋外の草地や樹下に住むこと
但坐不臥 たんざふが 常時坐禅を行じて、横にならないこと
こうして見てみますと、「十二頭陀」が大変厳しい修行であることが伝わってまいりますが、一つの行に徹底することが仏道であることに改めて、気づかせていただくのです。
令和4年12月25日 更新
【機縁】 但(た)だ形の醜悴(しゅうすい)し衣の麁陋(そろう)なるを見て、一会悉(いちえことごと)く怪(あやし)む。之(これ)に依(より)て、処処の説法の会毎(えごと)に、釈尊座を分ち迦葉を居(お)らしむ。然(しか)しより衆会(しゅうえ)の上座(じょうざ)たり。
―瑩山禅師様より「十二頭陀を行じて、十二時中虚しく過ごさず」と評される迦葉尊者(かしょうそんじゃ)―
後に徹底した頭陀行(厳格かつ質素な修行)によって、「頭陀第一」と称されましたが、それゆえに人々の眼には尊者のお姿が「形の醜悴し衣の麁陋なる」とあるように、みすぼらしくて粗末なものに見えたのでしょう。この舞台となる霊鷲山においてお釈迦様の説法をお聞きすべく集っていた一会が悉く尊者を怪しんだのは致し方ないのかもしれません。
修証義第4章の中で道元禅師様は「其形陋(そのかたちいや)しというとも、此心(このこころ)を発(おこ)せば、已(すで)一切衆生の導師なり」とお示しになっています。此心は「菩提心(ぼだいしん)」を指し、「自分の中に存在している本心・本来の姿」を意味するものです。それを持って毎日を生きる者ならば、たとえ、その姿形がみすぼらしかろうが、人々を導く仏であると道元禅師様はおっしゃっているのです。このお言葉の背景に迦葉尊者のお姿があったのではないかと想像するに、仏教の深みを思わずにはいられません。まさに道元禅師様も瑩山禅師様もお釈迦様のみ教えに従い、その生き様に帰依した祖師方だったということです。
そうした誰もが怪しむ迦葉尊者に対して、お釈迦様は常に自らが説法される際には、その隣に居らせたというのです。それが「処処の説法の会毎に、釈尊座を分ち迦葉を居らしむ」の意味するところです。この理由は他でもなく、お釈迦様の迦葉尊者に対する絶対的な信頼です。たとえ会衆全員が迦葉尊者の表面的な姿に捉われて怪しもうが、お釈迦様は違います。目に見えるものだけで判断せず、その内面にまで広く目を向け、深く見通しながら、人を判断し、物事を分析していくのが、お釈迦様のモノの見方なのです。これこそ「正見」なる「正しいモノの見方」なのでしょう。是非、私たちも見習いたいものです。
こうしてお釈迦様からその本質を見抜かれ、座を分ちて、その隣に侍した迦葉尊者はお釈迦様の高弟として、後継者として会衆から認識されていくようになるのです。それが「会衆の上座たり」の意味するところです。
令和5年1月8日 更新
【機縁】 唯、釈迦牟尼仏一会の上座(じょうざ)たるのみに非ず。過去諸仏の一会にも不退(ふたい)の上座たり。知るべし、是れ古仏なりといふことを。唯諸(もろもろ)の声聞(しょうもん)の弟子の中に排列(はいれつ)すること勿(なか)れ。
―お釈迦様からの絶大なる信頼を受け、その臨位に侍する迦葉尊者―
そのみすぼらしくて粗末な姿ゆえに、当初は釈迦牟尼仏一会の中では怪しまれてしまいましたが、一会の師たるお釈迦様の正見(しょうけん)(偏らないモノの見方)によって、一会の上座として認識されるようになっていきました。
それだけではありません。「過去諸仏の一会にも不退の上座たり」と瑩山禅師様はおっしゃいます。「不退」には、「不退転(ふたいてん)(仏道修行において、お釈迦様のお悟りに向かって、退くことなく進んでいくこと)」という言葉があるように、「仏道修行において得た功徳を失わないようにしていく」という意味があります。お釈迦様のお悟りというのは、お釈迦様が三十歳臘月(さんじゅっさいろうげつ)八日に坐禅修行によって体得したときに誕生したわけではありません。実は、それ以前の、はるか太古から存在していた真理で、それに気づき、言語化して多くの人々にお伝えしたのがお釈迦様だというのが正しい捉え方です。そんな過去世も含め、現時点は勿論のこと、さらには未来世においても釈尊教団随一の不退なる仏道修行者であることがお釈迦様から発せられているのが、「過去諸仏の一会にも不退の上座たり」です。
これを踏まえ、瑩山禅師様は会衆に対して、「知るべし」と喚起を促した上で、迦葉尊者が「古仏」であるとおっしゃっています。「古の仏」、すなわち、「過去世に存在していた仏」ということです。お釈迦様のお悟り同様、迦葉尊者は今という時間・ここという場所にすい星のごとく現れた優れし者ではありません。過去世から不退に仏道を歩みながら、仏のお悟りを積み重ねてきた結果、今・ここに姿を表した存在であるということなのです。「古仏」というのは、そういう観点から捉えた古からの仏という意味でからの言葉なのです。
そうした「古仏」であるがゆえに、瑩山禅師様は「唯諸の声聞の弟子の中に排列すること勿れ」とお示しになっています。「声聞」は「お釈迦様の説法・み教えを聞いて修行に励む仏道修行者」です。今・ここに集いし修行者と排列(配列)できる存在ではなく、すでに道を完成させた別格の修行者であるということです。
こうした諸の観点から、お釈迦様は迦葉尊者の器を見抜き、ご自身がお悟りになった仏法を伝えていったのです。
令和5年1月15日 更新
【機縁】 然るに霊山会上八万衆前(りょうぜんえじょうはちまんしゅまえ)にして、世尊拈華瞬目(せそんねんげしゅんもく)す。皆心を知らず、黙然(もくねん)たり。時に摩訶迦葉独(まかかしょうひと)り破顔微笑(はがんみしょう)す。世尊曰く、吾(われ)に正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)、円明無相(えんみょうむそう)の法門あり、悉(ことごと)く大迦葉(だいかしょう)に付嘱(ふしょく)すと。
機縁の最後に第一章・本則の内容が繰り返されます。今回の舞台となる霊鷲山(りょうじゅせん)において、梵天(ぼんてん)(仏教の守護神)が一枝の金波羅華(こんぱらげ)(金色の蓮華)を差し出して、お釈迦様(世尊)に説法の依頼をなさったとき、梵天の勧請によって壇上に登られたお釈迦様は無言のまま、そこに集いし人々(霊山会八万衆)に金波羅華をお見せになりました(世尊拈華瞬目)。ところが、その意を解する者はなく、辺りは静まり返っていました。(皆心を知らず、黙然たり)
そんな中で、ただ一人、お釈迦様の意を解し、にっこりと微笑んだ(破顔微笑す)者がいました。それが摩訶迦葉尊者です。お釈迦様の三十二相から見れば「肉髻(にっけい)(頭部が隆起して高くなっている箇所)」のみが欠けた三十一相を有し、みすぼらしい姿(形の醜悴し衣の麁陋なる)で、周囲の会衆からも怪しまれるほどの存在ではありました。しかし、お釈迦様からは「古仏」として、その本質を見抜かれ、全幅の信頼の下、席を半分譲り受け、一会の上座として認められていくのです。
そんな迦葉尊者を、お釈迦様は「正法眼蔵涅槃妙心、円明無相の法門を悉く大迦葉に付嘱す」とおっしゃって、自らの後継者・弟子となさいました。「正法眼蔵涅槃妙心」は端的には「仏法」を示すお言葉として、本則で登場していますが、「円明無相」については、今回が初めての登場となります。これは一切の執着から離れた状態を指しています。お釈迦様が三十歳臘月八日(さんじゅっさいろうげつようか)の坐禅によって整理・体得なさったお悟り・み教えというものは、何かに捉われることのない自由で、あらゆる事象をも認め、受け止めたものです。それをそっくりそのまま迦葉尊者に付嘱するということは、迦葉尊者には、それだけの力量があることをお釈迦様がお認めになったからに他なりません。「大迦葉」というお釈迦様が発せられたお言葉には、そうした意味合いが含まれているように感じます。
こうしてお釈迦様のみ教えが迦葉尊者に相承されていきました。次回の「拈提(ねんてい)」からは、瑩山禅師様がこの相承に関する見解をお示しになっていきます。
令和5年1月22日 更新
【拈提】 謂(いわ)ゆる彼時(か)のときの拈華(ねんげ)は祖祖単伝(そそたんでん)し来りて、妄(みだ)りに外人(げにん)をして知らしむることなし。故に経師論師(きょうじろんじ)、多くの禅師(ぜんじ)の知るべき所に非ず。実に知りぬ、其実処(そのじっしょ)を知らざることを。
―「謂ゆる彼時の拈華は祖祖単伝し来りて、妄りに外人をして知らしむることなし」―
霊山会八万衆(りょうぜんえはちまんしゅ)(霊鷲山に集いし大勢の人々)の中で、無言のまま金波羅華(こんぱらげ)を提示なさったお釈迦様の「拈華」の意を、唯一、解することができた摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)。この師と弟子のやり取りが基本となり、正法眼蔵涅槃妙心(仏法)が今日まで伝わってきたことが瑩山禅師様より説明されていきます。そのやり取りに関する具体的な内容は、当然ながら、それぞれの師弟間では異なってはいるものの、そこには、この「拈華瞬目」に見られる精神が流れており、決して、外人(仏道から外れた人々)が知ることも、入り込む余地さえもない、仏道を行ずる師と弟子の信頼関係だけが織りなす世界だったと解することができます。
ひょっとすると、そうした世界観を頭の中だけで理解しようとしたり、むやみやたらと言葉で解説したりするのは間違っているのかもしれません。「経師(経典の字面のみで意味を解釈していく立場をとる師)」、「論師(仏教を経論等の文字で解釈し、実践が伴わない師)」、「禅師(専ら坐禅修行に励み、禅に通じた師)」の「知るべきところに非ず」という瑩山禅師様のお言葉はよくよく見極め、そのお示しせんとしている論点(実処)を押さえておきたいものです。
お釈迦様の時代、全ての禅法に通じた修行者は「禅師」と呼ばれていましたが、時代が進んでいく中で、仏教に専門分野が生じ、細分化されていくようになりました。そうした中で登場するのが、「経師」や「論師」といった立場の方々です。この他にも「律師(りっし)(戒律の順守を主とする師)」、「三蔵師(さんぞうし)(経典のみを学し、仏道修行に乏しい師」、「法師(ほっし)(仏道修行によって法を説き、人々に布教教化を施す師)」といった方々がいらっしゃったそうですが、仏教が日本に伝来した際には、朝廷が特に徳が高く、功績も顕著な僧に禅師の称号を送っていたり、江戸時代までは住職に禅師の称号を与える習慣もあったりしたそうです。明治時代以降は、曹洞宗の大本山が永平寺と總持寺に固定されていく中で、両大本山の住持職(貫首【かんしゅ】)に対して、皇室から禅師号をお送りするという形で定着しております。
今回、瑩山禅師様の拈提おける実処とは何かを考えていくとき、仏道の世界において、師から弟子に仏法が伝わっていくということに着目したとき、特定の分野からの視点のみで解釈してみたり、自分と相手の間に何らかの立場の違いなどを作って、特定の人の立場は聞き入れないといった姿勢では実処を捉えることはできないということです。決して、瑩山禅師様は坐禅をすることも経典祖録を読むことも、否定なさっているのではありません。坐禅だけを重視して行じてみたり、経典祖録の読解・解釈ばかりに専念するといった、何か一点に捉われるような解釈の仕方をするのではなく、常日頃から坐禅も経典祖録の読解・解釈も、全て重視し、どれも行じていく姿勢なしには、「拈華瞬目」を始めとする、祖祖単伝の実処を捉えてくことは難しいというのです。
仏教は専門家・細分化することなく、「経師」・「論師」・「律師」・「禅師」といったそれぞれの立場を包括した視点で捉えていくことが大切だということを、瑩山禅師様のお言葉から、しっかりと押さえた上で、日々の修行に勤しんでいきたいものです。
令和5年2月5日 更新
【拈提】 然しかも恁麼(いんも)なりと雖いえども、恁麼の公案こうあん、霊山会上(りょうせんえじょう)の公案に非ず。多子塔前(たしとうまえ)にして付嘱(ふしょく)せし時の言げんなり。伝灯録(でんとうろく)、普灯録(ふとうろく)に載る所は、是これ霊山会上の説といふこと非なり。最初に仏法を付嘱せしとき、是かくの如きの式あり。
「拈華瞬目(ねんげしゅんもく)」に見るお釈迦様から迦葉尊者への祖祖単伝(そそたんでん)(仏法の付嘱)というのは、「八万衆(はちまんしゅう)」とも言われる大勢の修行者が集いし霊鷲山(りょうじゅせん)で行われたことと解するのではなく、正確には「多子塔前」にて為されたことと捉えるべきであるというのが、今回の一句の指し示すところです。
この点については、宋代(1004年~1007年)に法相宗の僧侶・道原(どうげん)が編纂した“一七〇〇の公案”と称され、お釈迦様始めとする祖師方のお言葉を収録した「景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)」や雲門宗の雷庵正受(らいあんしょうじゅ)(1146-1208)が「景徳伝灯録」を継承し、そこに一般在家の言葉を加えて編纂した「嘉泰普灯録(かたいふとうろく)」においても、はっきりと明記されていることが瑩山禅師様よりお示しされています。
これを受けて、今一度、伝光録の「機縁」に目を向けてみると、多子塔前において、お釈迦様と迦葉尊者が初めてお会いしたとき、お釈迦様が「ようこそいらっしゃい!」と迦葉尊者を喜び迎え入れなさったこと、そして、その瞬間に迦葉尊者のヒゲや髪がなくなり、袈裟がかかるという清浄なる出家者としての姿に生まれ変わったことが記されておりました。この多子塔前における一連の儀式のごとき出来事によって、「最初の仏法の付嘱」という、「お釈迦様から迦葉尊者への祖祖単伝」がなされていったことを、ここでしっかりと押さえていおきたいところです。
令和5年2月12日 更新
【拈提】故に仏心印(ぶっしんいん)を伝ふる祖師に非ざれば、彼(か)の拈華(ねんげ)の時節を知らず、又彼(か)の拈華(ねんげ)を明らめず。
「拈華瞬目(ねんげしゅんもく)」に見る「多子塔前(たしとうまえ)におけるお釈迦様から迦葉尊者への仏法の付嘱(ふしょく)の式」は仏法を体得なさった師が弟子の力量を子細に点検し、認め、証明したことを意味する大切な場面です。以降も多くの仏教祖師方によって、こうした場面が展開され、仏法が今日まで伝わってきているというのが前回のお示しでした。
この師が弟子を認め、悟りの境地に達したことを証明するのが、「仏心印」です。「仏心」には、「誰もが生まれながらに有する仏に成れる性質」という意味があり、「仏性(ぶっしょう)」とも言い換えることができます。『一人の仏道修行者が坐禅修行を始めとする仏道修行によって、自分の中に元来、存在していた清浄なる心(仏性)というものを、いつの間にか見失っていたことに気づき、仏の悟りの境地に到達した。そして、自らと同じような道を歩みながら、仏と成った者と出会い、師の立場となって後継者として認め、仏法を伝えていった』こうした関わりによって、2つに分かれていた師と弟子が一本に交わっていくのです。祖祖単伝(そそたんでん)という師から弟子へと法が伝わるというのは、このような師と弟子が一体化していくことであるというのを、ここで押さえておきたいものです。
この点が見えてくると、多子塔前で繰り広げられた拈華瞬目という、初めての仏法付嘱のエピソードについて、その時節や内容を詳細に調べ、自らの中に明らかにしておくことが欠かせないことに気づかされます。祖祖単伝の仏法付嘱というのは、仏教の世界において、それほどまでに重要なものであるということを併せて確認しておきたいところです。
令和5年2月19日 更新
【拈提】諸禅徳(しょぜんとく)、子細(しさい)に参到(さんとう)し、子細に見得(けんとく)して、迦葉(かしょう)の迦葉たることを知り、釈迦(しゃか)の釈迦たることを明らめ、深く円妙(えんみょう)の道を単伝(たんでん)すべし。
「多子塔前(たしとうまえ)で為されたお釈迦様から迦葉尊者への仏法の付嘱(ふしょく)の式」というのが、師から弟子へと仏法が伝わってきた祖祖単伝(そそたんでん)の原点であったことは、これまで確認してきたとおりです。瑩山禅師様は会下の仏道修行者に「諸禅徳!」と呼びかけた上で、この「拈華瞬目(ねんげしゅんもく)」のエピソードにみる言葉だけでは表現し尽くせぬほどの深淵な仏法の相承(そうじょう)というものを、子細(詳細に渡って)参到(参じ極めること)し、見得してほしいと願っていらっしゃいます。そんな瑩山禅師様の願いが十分すぎるくらいに感じ取れるのが、今回の一句です。
「迦葉の迦葉たることを知り、釈迦の釈迦たることを明らめる」というお言葉の中には、お釈迦様と迦葉尊者、各々のご生涯を知るのは勿論のこと、両者の関係性や以降の祖祖単伝というものについても、一本の道となった関連し合っているものと捉え、子細なる参究を施していってほしいという思いがにじみ出ているように感じます。仏教というのはお釈迦様のみで完結するものでもなければ、迦葉尊者の存在によって、全てが語りつくせるものでもありません。お釈迦様以前に存在していた過去の七佛に始まり、お釈迦様の成道(じょうどう)、そして、「拈華瞬目」に示されるお釈迦様と迦葉尊者の祖祖単伝、それらを起点として、以降、今日までの師から弟子への円状の如きつながりを持った仏法の相承というものを、ときには特定の祖師や師弟関係にポイントを押さえながら一点集中的に、またあるときには広大なる視点を以て全体的に捉えてみるのです。そうした参究というものが、瑩山禅師様が我々後世に生かされる人々に願う仏道の参学方法であることを押さえておきたいところです。
令和5年2月26日 更新
【拈提】拈華(ねんげ)は暫(しばら)く置く、彼(か)の瞬目(しゅんもく)せし所、人人明(にんにんあき)らめ来るべし。汝等(なんじら)よのつね揚眉瞬目(ようびしゅんもく)すると、又是れ瞿曇(くどん)の拈華瞬目せしと、一毫髪(いちごうはつ)も隔(へだた)らず。汝等、語話微笑(ごわびしょう)すると、魔訶迦葉(まかかしょう)、破顔微笑(はがんびしょう)せしと、全く毫髪も異なることなし。
「拈華瞬目(ねんげしゅんもく)」に見る師・瞿曇(くどん)(お釈迦様)から弟子・魔訶迦葉(まかかしょう)への仏法の付嘱という、仏教史上、初めての祖祖単伝について、瑩山禅師様は我々仏道修行者に子細なる参到(さんとう)・見得(けんとく)を願っていらっしゃるというのが前回の内容でした。
そして、今回、瑩山禅師様はそうした「拈華」に関するお話は「暫く置く」とおっしゃっているように、この話題を一旦、ストップさせていらっしゃいます。その上で、次は「瞬目」ということについて触れていくとお示しになっています。この「瞬目」もまた、我々学道の者にとって明確にすべきものであるということなのでしょう。それが今回の一句が指し示すところです。
「瞬目」とは「まばたき」のことで、「揚眉」は「眉をあげること」です。「揚眉瞬目」とあるのは、眉を上げて、目をパチパチと瞬かせることから、「日常の動作所作」をたとえたものと解します。「よのつね」という言葉が付されていますから、私たちの日常生活の中において普段から為されることと捉えていけばよろしいかと思いますが、そうした日常レベルの所作と「瞿曇の拈華瞬目(破顔微笑)」、すなわち、「お釈迦様が一枝の金波羅華(こんぱらげ)を拈(ねん)じた意を知った迦葉尊者がにっこり微笑んだエピソード」とは、何ら大差なきものであるというのが、今回の瑩山禅師様のお示しです。「一毫髪」という言葉が用いられています。「毫」には、「動物の細毛」という意味があり、そこから「ほんのわずかなもの」と解します。多子塔前で為された師から弟子への仏法相承という神聖なる儀式と、我々の日常のあらゆる所作との間には、何の隔たりもない、ほぼ同等のものであるというのです。
それは仏道修行者の「語話微笑」にも言えることだと瑩山禅師様はおっしゃいます。「語話微笑」は「仏祖の言葉や教示を語らい合うこと」で、これと「破顔微笑」というものも「全く毫髪も異なることなし」とあるように、大差がないというのです。
瞿曇と迦葉尊者のやり取りは、一見、我々凡夫の見識や日常生活からは大きくかけ離れた尊いもの見受けられます。勿論、そうした面も有しながらも、実は私たちの日常生活とは微塵もかけ離れたものではないという側面があることが瑩山禅師様より提示されています。「拈華」の話題を一旦、休止させてまで語れる「瞬目」について、我々の日常生活と大差ない上に、密接に関わり合っているという点を重視しながら、触れていきたいところです。
令和5年3月5日 更新
【拈提】然(しか)れども、彼(か)の揚眉瞬目(ようびしゅんもく)せし者を明らめざれば、西天(さいてん)に釈迦あり迦葉(かしょう)あり、自心に皮肉骨髄あり、許多(こた)の眼華(げんげ)、多少の浮塵(ふじん)、無量劫来(むりょうこうらい)、未だ曽(かつ)て解脱(げだつ)せず、未来劫(みらいごう)も亦沈淪(またちんりん)すべし。
瞿曇(くどん)(お釈迦様)から迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に仏法が付嘱された際の「眉揚瞬目」に見るやりとりは、私たちの日常生活の中で何気に為されていることから大きくかけ離れたものではないというのが前段でのお示しでした。
この「眉揚瞬目」のエピソードを細部にわたって明確にしておくことが仏道修行者の課題であると瑩山禅師様はおっしゃっていますが、「もし、それを明確にしなかった場合、どうなるのか?」ということについて、今回は触れられています。
まず、「西天に釈迦あり迦葉あり」とあります。「西天」はインドを指しますが、お釈迦様も迦葉尊者もインドにおいて、仏法と出会い、仏の悟りを体得なさいました。「眉揚瞬目」の指し示すところ明確にするとき、太古の昔にインドの国で為された仏法の付嘱を基本として、それがそっくりそのまま現在の世に伝わり、未来へと受け継がれていくという流れを確認しておきたいところです。この繰り返しによって、仏法が今日まで伝わっていることは疑いようがありません。
次に「自心に皮肉骨髄あり」とあります。「皮肉骨髄」は「皮・肉・骨・髄という、私たちの身体を構成する重要な要素」のことで、そこから「相伝の仏法」を指します。そして、「許多の眼華」とありますが、「許多」は「多くの」、「眼華」は「本当は実在しないのに、人々の迷いによって生じてしまった架空の花」のことです。「多少の浮塵」における「浮塵」は、「仏道修行の妨げとなるもの」のことで、「眼華」に見るような迷いであったり、執着といったりするもののことであると捉えればよろしいかと思います。「無量劫来」ですが、「劫」は長時間ということで、過去世からの長い時間、その反対に永遠の未来を意味するのが「未来劫」です。「眉揚瞬目」に触れることなく、仏道を行じていくということは、お釈迦様や迦葉尊者の存在を蔑ろにするばかりか、自分の中に仏法を体得することもできず、「眼華」や「浮塵」に捉われたまま一向に解脱(悟りを得ること)することもないと瑩山禅師様はおっしゃっているのです。そして、未来劫においても「沈淪すべし」とあるように、「沈淪(落ちぶれること)」していくだけであるというのです。
それほどまでに世尊(せそん)(お釈迦様)の「眉揚瞬目」のエピソードを明確に捉えていくことは我々仏道修行者にとっての大きな課題であるということを今一度、再認識しておきたいところです。
令和5年3月12日 更新
【拈提】若(も)し一度(ひとたび)彼(か)の主人公(しゅじんこう)を識得せば、魔訶迦葉まさに、汝諸人(なんじしょじん)の鞋裏(あいり)に在(あり)て動指(どうし)することを得ん。
一般的に「主人公」といえば、「物語などのフィクション作品の中心的な存在で、ストーリーを作り上げていく者」を指しますが、禅の世界では「仏性を有する本来の自分」を意味する言葉として用いられます。
前段において、瑩山禅師様は「彼(か)の揚眉瞬目(ようびしゅんもく)せし者を明らめ」ない限りは、我々はいつまでも仏道の本質に近づくことができず、「眼華(げんけ)」や「浮塵(ふじん)」といった自らを迷わせるものに捉われてしまい、一向に解脱(げだつ)(仏のお悟りを得ること)することができないとお示しになっていました。
この点をしっかりと認識した上で、仏道修行を勤しむとき、「彼の主人公を識得する」ことができるようになるというのです。「識得」は「見極める」と解すればよろしいかと思いますが、こうした眉揚瞬目を明確にすることを重視した日常的な仏道修行によって、「主人公の識得」が実現していくとき、「魔訶迦葉まさに、汝諸人(なんじしょじん)の鞋裏(あいり)に在(あり)て動指(どうし)することを得ん。」と瑩山禅師様はおっしゃっています。「鞋裏」とは、「靴の裏」のことですが、ここは「私たちにとって身近な場所でありながらも、常に意識を向けて見ることがないような場所」であることに気づかされます。まさに「主人公」が意味している「仏性」の性質とも合致しているように見受けられますが、こうした普段から中々、意識されないながらも、間違いなく自分そのものである場所が、我々の「鞋裏」なのです。
そんな「鞋裏」に存在していて、「動指」、すなわち、「自由自在なる動き」が可能になるというのが、「彼(か)の揚眉瞬目(ようびしゅんもく)せし者を明らめる」ことによって到達できる境地と解していけばよろしいかと思います。すなわち、今回も前段・前々段でもお示しされていたように、仏法の世界における最初の師(お釈迦様)から弟子(迦葉尊者)への悟りの付嘱というものを参究し尽くしていけば、「私たちの日常生活の中で何気に為されていることから大きくかけ離れたものではない」ということにたどり着くというのです。
一見したところ、非日常的で難解な仏道修行ですが、お釈迦様や迦葉尊者を始めとするどの仏教祖師方も、私たちと同じ娑婆世界にいのちをいただき、そこに生かされ、そこで仏法と出会い、仏法を体得なさったのです。私たちの日常と同じ空間の中で仏法との出会い・体得がなされたことを今一度、押さえておきたいものです。
令和5年3月19日 更新
【拈提】知らずや、瞿曇眉揚瞬目(くどんようびしゅんもく)せし所に、瞿曇乃ち滅却(めっきゃく)し了(おわ)ることを。迦葉破顔(かしょうはがん)せし所に、迦葉乃ち得悟し来ることを。是(こ)れ即ち吾有(わがう)に非ずや。
今回の一句は「知らずや(知っているか?)」という瑩山禅師様の問いかけによって始まりますが、それは瞿曇(お釈迦様)の「眉揚瞬目」に関しての問いかけです。「眉揚瞬目」については、今まで幾度も述べられてきた通りで、お釈迦様から迦葉尊者に仏法の付嘱(ふしょく)がなされた際に、お釈迦様が金波羅華(こんぱらげ)を拈じて、目を瞬かせたことを指していますが、これは前回も触れさせていただいたように、私たちと同じ娑婆世界にいのちをいただいた者同士が、私たちの日常と何ら変わりのない空間の中で仏法と出会い、体得なさったことを意味しているのです。
これを受けて、迦葉はお釈迦様の眉揚瞬目の意を解し、にっこりと微笑んだ(破顔)わけですが、そうした仏法付嘱の場面において、瑩山禅師様は「知らずや」と聞き手である会下の修行者たちに注意喚起を与えながら、「瞿曇乃ち滅却し了ることを」と発していらっしゃいます。「滅却」には「なくなってしまう」という意味があります。お釈迦様が「眉揚瞬目」なさった瞬間、迦葉は破顔し、得悟した(悟りを得ること)ということですから、迦葉に法が伝わったその瞬間、それまでは瞿曇と迦葉というそれぞれ別個の存在であった二人が、師と弟子という関係性となった、すなわち、二者の存在から一体の存在へと変化していったという解釈が成立します。これぞ瑩山禅師様から提示される新たな視点であると共に、こうした解し方を提示すべく、瑩山禅師様が敢えて、「知らずや」という問いかけをなさっているようにも感じられます。
師と弟子の関係性というのは、そうした仏法を介した一体に溶け合ったものであることを「滅却」という言葉から押さえておきたいところです。
令和5年3月26日 更新
【拈提】正法眼蔵却(しょうぼうげんぞうかえ)りて自己に付嘱し畢(おわ)りぬ。故に喚(よん)で迦葉(かしょう)と為すべからず、喚(よん)で釈迦と為すべからず。
「瞿曇(くどん)(釈尊)の滅却」という「二者だった師と弟子が一つに溶け合い、一体化していくこと」が仏教史上、最初となる仏法の付嘱という場面において成し遂げられたことは、後世の仏法付嘱・相伝(そうでん)の規範となり、今日にも受け継がれてきました。
そうしたお釈迦様以降、2600年もの長い歳月の中で成し遂げられてきた師と弟子による正しい仏法(正法眼蔵)の付嘱というものは、お釈迦様や迦葉尊者だけのものでもなければ、お二人に特化された特別ものでもない、誰もが師であるお釈迦様の役割を果たし、誰もが弟子である迦葉尊者となって、今日まで仏法が伝わってきているのです。現に多子塔前(たしとうぜん)における仏法付嘱の場面では弟子である迦葉尊者も、この後には阿難陀尊者(あなんだそんじゃ)を弟子として迎え、その師となり、仏法をお伝えしています。
そんな仏法の付嘱というものが、特定の者のやり取りだけを取り上げたものではないことを強調すべく、「喚んで迦葉と為すべからず、喚んで釈迦と為すべからず」と瑩山禅師様はおっしゃっています。
そして、過去の師と弟子のように、これから先も様々な師と弟子が現れ、仏法を付嘱し、一体化していくことが一般的に成し遂げられる可能性はいくらでもあるということを指し示しているのが「正法眼蔵却りて自己に付嘱し畢りぬ」です。仏法の付嘱というのは、非日常的であり、神聖な特別のものという印象がある半面で、真に道を求める者同士の仏縁によって、日常的なレベルで為されてきた事実もあるということを押さえておけばよろしいかと思います。
令和5年4月9日 更新
【拈提】曽(かつ)て、一法の他に与ふるなく、一法の人に受(うく)るなし。之を喚(よん)で正法(しょうぼう)と為す。彼(か)れを顕(あら)はさんが為に、華を拈じて不変なることを知らしめ、破顔(はがん)して長齢(ちょうれい)なることを知らしむ。恁麼(いんも)に師資相見(しししょうけん)、命脈流通(めいみゃくるずう)す。
「拈華微笑(ねんげみしょう)」に見るお釈迦様から迦葉尊者(かしょうそんじゃ)への仏法の付嘱(ふしょく)というのは、仏教の世界における師から弟子への仏法の相承(そうじょう)(師匠から弟子に仏教のみ教えが伝わっていくこと)の原点となったものです。以降、これと同じことが多くの子弟間で繰り返されてくわけですが、そこでは二者だった師と弟子が仏法を介して一つになっていくということが成し遂げられてきました。それが前回の一句が指し示す内容です。
こうして相承されてきた仏法は、「一法の他に与ふることなく、一法の人に受るなし」とあるように、お釈迦様の時代以前から他に何種類もあったりとか、内容が多岐にわたったりするといったものではありませんでした。お釈迦様から迦葉尊者へと付嘱された仏法こそが「正法」であると瑩山禅師様はお示しになっています。そして、その「正法」は、以降も姿形を変えることなく、今日まで受け継がれてまいりました。
この「正法」というものが、どういうものを指すのかを明確にしたのが、お釈迦様の多子塔前(たしとうぜん)における「世尊拈華瞬目(せそんねんげしゅんもく)」、「迦葉破顔微笑(かしょうはがんみしょう)」なのです。多子塔前において、お釈迦様はそこに集いし多くの人々に無言で一輪の花をお示しになりました。ほとんどの者がその意を解することができぬ中で、仏法というものは文字や言葉だけでは語り尽くせない奥深いものであることを体得していた迦葉尊者のみが無言のままにっこりと微笑みながら、お釈迦様の意を解したのです。『正法たる仏法は、過去においても、現在(いま)においても、未来においても変わることのない「長齢」なるものである』—一枝の花を掲げながら、お釈迦様は、そのことをもお示しになっていたのです。勿論、迦葉尊者もそのことを十分にご理解なさっていたことでしょう。だから、お釈迦様から正法が伝わっていったのです。
こうした師と弟子が互いに相見(あいまみ)え、仏法を介して一つに溶け合っていく様を指し示すのが、「師資相見(しししょうけん)」です。それは師弟間がぴったりと重なり合い、僅差のない対等な状態を指しているのです。そんな師資相見による仏法の付嘱が、とどまることなく、滔々と流れる流水の如くになされる様を表しているのが、「命脈流通(めいみゃくるずう)」です。まさに今日まで仏法が伝わってきたのは、「命脈流通」という言葉が指し示す通りのものなのです。
全く異なる人間である者同士が、仏法とご縁を結び、仏法を通じて次第にその関係性を深め、やがては一体化していくという構図の中で、今日まで多くの師と弟子によって仏法が受け継がれてきたことを確認しておきたいところです。
令和5年4月16日 更新
【拈提】円明(えんめい)の了知(りょうち)、心念渉(しんねんわた)らず、正(まさ)しく意根(いこん)を坐断(ざだん)し鶏足山(けいそくさん)に入り、遥かに慈氏(じし)の下生(あしょう)を待つ。故に魔訶迦葉(まかかしょう)、今に入滅(にゅうめつ)せず。
円明(見事で完全なこと)なる悟りの境地に、心念といった自分の心の働きによって作られた理屈だとか、自分に都合のいい考え方などといったものが入り込む余地などありません。正法は「長齢」なる永遠不変の存在なのです。
鶏足山という地名が出てまいりますが、ここは迦葉尊者入寂(かしょうそんじゃにゅうじゃく)の地と伝えられています。「入寂」とは、「僧侶の死」であり、また、「坐禅によって、静寂なる世界に安住する」ということをも意味しています。「正に意根を坐断し」とあるように、迦葉尊者は、お釈迦様の下で三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)を断ち、仏と成ったわけですが、今回の一句では、そんな迦葉尊者が、その後、鶏足山を自らが永遠に仏として坐す地と選ばれたというが瑩山禅師様より紹介されています。
次に「遥かに慈氏の下生を待つ」という一句に注目してみたいと思います。鶏足山に入られた迦葉尊者は、仏と成って、坐禅三昧の生涯を送られたということですが、迦葉尊者は、そうすることによって、慈氏(弥勒菩薩【みろくぼさつ】)が姿を現すのを待ち続けているというのです。「弥勒菩薩」は56億7千万年後に娑婆世界に生きる人々の前にお姿を見せると言われていますが、お釈迦様に次いで仏と成る菩薩様ということから、「将来仏」とも称されています。
弥勒菩薩様が出現なさるとき、「竜華三会(りゅうげさんえ)」と呼ばれる人心を救うべく開かれる三度の大法会・大説法の場が設けられると伝えられております。このとき、過去において、お釈迦様のご説法を聞き漏らしてしまった者たちも弥勒菩薩様のみ教えに触れることができるとのことから、弥勒菩薩様はお釈迦様のお弟子様として、未来において人々を救う待望の仏様であるという解釈がなされているのです。
そうした将来仏である弥勒菩薩様の登場を鶏足山で坐禅をしながら待ち続けている迦葉尊者様—その肉体は既に滅びているものの、そのお心は今も尚、「師資相見(しししょうけん)」とあるように、多くの師弟間を始めとした後世の人々に受け継がれながら、今日まで生き続けています。まさに「命脈流通(めいみゃくるずう)」という言葉の通りであり、それが「摩
訶迦葉、今に入滅せず」の意味するところなのです。
「師の肉体は既に無くとも、そのみ教えは永遠に生き続けるものである」—こうした考え方が仏教の世界にあることを知っておくことによって、仏教に対する理解の一助となり、その解釈が深まっていくように思っております。
令和5年4月23日 更新
【拈提】諸人、若し親く学道して子細(しさい)に参徹(さんてつ)せば、迦葉不滅のみに非ず、釈迦も亦(ま)た常住(じょうじゅう)なり。
道元禅師様がお示しになった「教授戒文(きょうじゅかいもん)」の中に、『第一不殺生(ふせっしょう)。生命(しょうみょう)の不殺(ふせつ)にして仏種増長(ぶっしゅぞうちょう)し、仏の慧命を続(つ)ぐべし。生命を殺すこと莫(な)し。』という一説があります。「戒」は「仏と成りし者の生き方」を指しますが、その第一に掲げられている「不殺生」というのは、人であれ、動植物であれ、モノであれ、すべての存在に仏のいのち(仏種)が宿っていることを認めた上で、万事を殺すことなく生かす(増長)ことが大切であることを説いたものです。道元禅師様は仏種を有する存在に対して、そのいのちを生かし続けていくことを「仏の慧命を続ぐ」とおっしゃっていますが、これが仏道修行を行じていく上での何よりもの重要な目標であると言っても過言ではないような気がします。そうすることによって、仏のいのちは永遠に生き続けると共に、仏教のみ教えが過去のものではなく、現在にも生き生きと輝き続けていくことができるのです。
今回の一句の中で、「迦葉不滅のみにあらず、釈迦も亦た常住なり」という瑩山禅師様のお言葉がありますが、この根底にあるのが、「仏の慧命を続ぐ」ということであると捉えています。すなわち、今を生かされている私たちが約2600年も前の時代から連綿と受け継がれてきているお釈迦様のみ教えを日常生活の中で行じ続けていくことによって、仏のいのちが受け継がれ、お釈迦様や迦葉尊者のいのちが永遠不滅かつ常住なるもの(常に存在していること)となっていくのです。
「親く学道して子細に参徹する」—私たちが仏道に親しみ、細部にわたって仏の道を参究していくという修行を日常的に継続していくことで、仏の慧命が嗣続(しぞく)されていくことを、今一度、押さえ、明日からの日常を過ごしていきたいものです。
令和5年4月30日 更新
【拈提】故に汝等諸人、未曽生(みぞうしょう)より直指単伝(じきしたんでん)して、古(いにしえ)に亘(わた)り今に亘りて築著磕著(ちくじゃくかつじゃく)す。
仏道について、私たちが日常的に親しみ、詳細に参究していくことによって、「仏の慧命(えみょう)が嗣続(しぞく)されていく」ことを、前段において確認させていただきました。
こうした仏道というものが今・ここに存在すると同時に、人々が学び、修行していけるのも、はるか2600年前、「三十歳臘月八日(さんじゅっさいろうげつようか)」とあるように、お釈迦様が12月8日の明け方に坐禅修行を通じて、悟りを得たこと(成道【じょうどう】)に端を発し、そこからお釈迦様のお弟子様となる迦葉尊者に仏法のすべてを受け継いだこと(直指単伝)によって為されていることをも確認しておきたいところです。「未曽生」という言葉には、私たちがこの世にいのちをいただくはるか昔という意味や、私たちが仏道と出会うずっと以前の頃という意味も含まれています。まさに古に亘り今に亘る(亘古亘今【ごうこごうこん】)という言葉が指し示す通りです。
そうした古くは過去の時代にまで遡り、新しくは現在に至るまで、師と弟子による仏法の付嘱というものは、「築著磕著」という言葉に表されるように、捉われのない自由なるものであったことが瑩山禅師様よりご紹介されています。「築著」というのは、「方々に打ち当たること」で、「磕」という文字にも、「石がぶつかり合うような音」という意味があります。
お釈迦様と迦葉尊者以降、多くの師と弟子の間で為されてきた「師資相見(しししょうけん)」というものは、師も弟子も何か一点のことに執着し、不要に身心を惑わされることのない、捉われから解放された自由なる境地の中で為されてきたということを、今回は確認しておきたいところです。
令和5年5月7日 更新
【拈提】故に諸人二千年前の昔を思慕(しぼ)すること勿れ。唯急に今日(こんにち)に弁道(べんどう)せば、迦葉鶏足(かしょうけいそく)に入らず、正(まさ)に扶桑国(ふそうこく)に在(あり)て出世することを得ん。
仏道修行者にとって、むやみやたらと過去に思いを馳せ、古を慕ってみたり、今の自分たちが修行不足であるなどと、自らを卑下するようなことを思ったりする必要はありません。瑩山禅師様が「唯急に今日に弁道せば」とおっしゃっているように、〝今という時間〟・〝ここという場所〟において、只管(しかん)に坐禅を行じ、一心に仏の道を求めていればよく、それが学道の者のいのちの使い方だと捉えることができます。「今」・「ここ」において怠けて過ごす余裕などありません。「露命(ろめい)」という言葉が指し示すように、私たちのいのちは、まさにいつ・どうなるかわからない、はかないものなのであることを再確認しておきたいところです。
―令和5年5月5日・午後2時42分—
ゴールデンウィークの真っ只中の穏やかな昼下がり、5月8日の新型コロナウイルスの5類への移行や世界保健機関(WHO)による緊急事態宣言終了の発表等、いよいよ世間がコロナ禍前の状態に戻り、賑わいを見せ始めていた最中、石川県能登地方を震源とする震度6強・マグニチュード6.5の地震が発生。この地震によって、一人が死亡、33名の方が負傷されたとのことです(令和5年5月7日現在)。この日の北國新聞の報道によれば、今回の地震でお亡くなりになった65歳の男性は、昨年の6月に発生した珠洲地震で被害を受けた奥様のご実家の修繕作業のために週末になると珠洲に足を運んでいらっしゃったそうで、この日も傷んだ倉庫の屋根の修繕作業中に被災されたとのことでした。この男性を知る方は「真面目で優しく、近隣の方々にも気を遣う方だった」とそのお人柄を慕い、故人を偲んでいらっしゃいました。まさに男性は、「今」・「ここ」において、「唯急に今日に弁道せば」という言葉にふさわしく、いただいたいのちを一生懸命に生き、全うされた方だったように思われます。こうした方お一人お一人のお力によって、我々の日常生活が成り立っているという視点を忘れてはなりません。
そして、「唯急に今日に弁道せば」という道を真摯に生きる人々の生き様によって、後世の人々にも道が伝わっていくということも押さえておきたいところです。仏道の世界において、「今」・「ここ」において弁道修行を重ねてきた迦葉尊者だったからこそ、鶏足山(けいそくせん)に入り、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の登場を待ちながら、永遠の仏道修行に入られたのでしょう。また、お釈迦様のみ教えがインドの祖師方から中国に伝わり、さらにそこから扶桑国(日本)へと伝わって、出世(この世に出現すること)したとも言えるのです。これが一つの仏道の世界における道理なのです。
そして、この道理は仏道の世界以外にも、私たち人間が生かされている娑婆世界の様々な場面において相通ずる道理でもあることを知っておきたいところです。特に今回の石川県能登地方を襲った大きな地震を想うとき、我々一人一人が、はかないいのちを生かされている自らの生き様を問いかける場を設けたいと願うのです。この地震でお亡くなりになった男性のご冥福をお祈りすると共に、これ以上、自身による被害が拡大しないことを願うばかりです。
令和5年5月14日 更新
【拈提】故に釈迦の肉親今猶(な)ほ暖かに、迦葉微笑また更に新たならん。恁麼(いんも)の田地(でんち)に至り得ば、汝等却て迦葉に嗣ぎ、迦葉却て汝等に受けん。
「釈迦の肉親今猶ほ暖かに」
2600年ものはるか昔に、この世に実在していたお釈迦様の肉親が今も尚、暖かいぬくもりを持っているというのは、どういうことなのでしょう。それは、言うまでもなく、お釈迦様の存在が決して、過去の一時代だけのものであるとか、既に尽きてしまったものであるというのではなく、今も尚、生き続けているということです。
「迦葉微笑また更に新たならん」
お釈迦様のお弟子様である迦葉尊者が、霊鷲山(りょうじゅせん)における多子塔前(たしとうぜん)において、お釈迦様から仏法を付嘱するにふさわしい人物と目された瞬間に、師(釈迦)と弟子(迦葉)が一つに溶け合い、仏法が伝わっていきました。まさに「師資相見(しししょうけん)」や「命脈流通(めいみゃくるずう)」ということが成し遂げられたということであり、これが仏法の誕生です。こうした仏法の誕生もまた、過去の一時代のものだけではなく、師と弟子の双方の条件が調うことによって、いつの時代にも起こりうることだというのです。
以上の2つのようなことは、毎日、仏道を歩み、「恁麼の田地に至り得る(仏の悟りの境地に至る)」ことによって、為されていくというのが、今回、瑩山禅師様によって指し示されています。「汝等却て迦葉に嗣ぎ、迦葉却て汝等に受けん」とあります。私たちも日々の修行によって、迦葉の跡を継ぐこともできれば、迦葉から教えをいただくこともできるのです。
私事ですが、今年の4月に「曹洞宗石川県青年会」の会長を拝命しました。会長就任1カ月も経たない令和5年5月5日、能登地方を震源とする震度6強・マグニチュード6.5の地震が発生。青年会で長らく共に活動してきた前会長のお寺を始め、多くの方々が被災されました。
これまで青年会では災害が発生した際には、被災地に駆けつけ、ボランティア活動に汗を流してきました。そうした諸先輩方の活動を参考にしながら、曹洞宗石川県宗務所や被災地との十分に連絡を取り合い、被災地からのニーズに合わせ、ボランティア活動を務めさせていただくことにしました。
そんな青年会としての第1回目の活動が、5月13日(土)に行われ、レンタカーのトラックを駆って、会員3名で参加させていただきました。現地の被害状況は想像以上に凄まじく、言葉を失ってしまいました。
お伺いしたご寺院様では、檀家総代さんも共に汗を流しておられました。被災直後にも関わらず、和気藹々と作業をなさる気丈なお姿に、ボランティアとして被災地を救うべき私が、逆に救われたような心持ちになりました。この日は近くの野球場に開設された災害ゴミの仮置き場にトラックで廃材等を運ぶ作業をさせていただきました。ちょうど土日ということもあって、県内外からボランティアセンターに登録して活動される方、被災者のお子さんや親せきの方が集い、収集所周辺は多くの車で渋滞ができていました。
被災地が元の状態に戻るまでには、まだまだ時間がかかりそうですが、私は被災地の状況を目の当たりにして、被災地の人々に思いを馳せながら、いただいたいのちを精一杯、被災地のために使わせていただくというのが、お釈迦様から迦葉尊者へと受け継がれた仏道というものの一側面と考えています。こうした我々の生き様によって、「釈迦の肉親今猶ほ暖かに、迦葉微笑また更に新たならん」ということが実現することを願うばかりです。
令和5年5月28日 更新
【拈提】七佛(しちぶつ)より汝等に到るのみに非ず、汝等まさに七佛の祖師たることを得ん。無始無終古来今を絶して、即ち是れ正法眼蔵付嘱有在(しょうぼうげんぞうふしょくうざい)ならん。
「七佛」とあるのは、お釈迦様を含めた7名の仏様のことです。一般的には、仏教は今から約2600年前、お釈迦様が三十歳臘月(ろうげつ)八日、明星の出しとき、坐禅修行によって悟りを得たことによって、その歴史が始まったと伝えられています。しかし、正しくは、お釈迦様がお悟りを得る以前から存在していた「この世の真理」というものに気づき、それを言語化して、一般にお示しになったと解すべきなのです。すなわち、悟りを得るというのは、何もお釈迦様が新しいものを発見し、人々に提示したということではないのです。お釈迦様以前の時代、遥か太古の昔から存在していた真理というものに、お釈迦様もお気づきになると共に、それを坐禅によって明確になさったということなのです。
そうしたお釈迦様のお悟り以前から存在していたこの世の真理というものを体得していた仏様がお釈迦様以外の6名の仏様で、次の通りです。
① 毘婆尸佛(びばしぶつ)人寿(人間の寿命)8万歳のときに出現、菩提樹下で三度の説法を施し、34万8千人の人々を救済したと称せられる仏様
② 尸棄佛(しきぶつ)人寿7万歳のときに出現、分陀利樹下で悟りを得、20数万人の人々に説法を施し、救済したとされる仏様
③ 毘舎浮佛(びしゃふぶつ)人寿6万歳のときに出現、沙羅樹下にて悟りを得、説法をなさったとされる仏様
④ 拘留孫佛(くるそんぶつ)人寿5万歳のときに出現、尸利樹下にて悟りを得、4万人の人々に布教教化したとされる仏様。
⑤ 拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)人寿4万歳(3万歳)のときに出現、烏曇波羅(うどんぱら)樹下にて悟りを得る。拘留孫佛同様、インドにて実在したとされるお釈迦様以前の仏様で、この仏様にちなんだ遺跡等が確認されている。
⑥ 迦葉佛(かしょうぶつ)人寿2万歳のときに出現、尼狗律(にぐりつ)樹下に坐して悟りを得、一回の説法で1~2万人の人々を救済した。お釈迦様のお弟子様である摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)とば別人。
前回の「釈迦の肉親今猶(な)ほ暖かに、迦葉微笑また更に新たならん」という言葉が指し示すように、お釈迦様のみ教えというものは、私たちが真摯に求めていくことによって、次第に現前してきます。そして、私たち自身が過去の仏様と一つに溶け合い、一体化していくのです。
そうした過去の仏様と、今を生かされている仏道修行者の一体化ということを、お釈迦様以前の「過去七佛」と称されている仏様にまで範囲を広めて指し示されているのが、「七佛より汝等に到るのみに非ず、汝等まさに七佛の祖師たることを得ん。」の一句です。先にも申しましたように、仏教というものは、お釈迦様のお悟りによって始まったというよりも、それ以前から存在していた真理というものを、お釈迦様が明確になさったと解釈すべきものです。そして、そのみ教えが未来永劫に受け継がれ、今、私たちの眼前に存在しているのです。まさに始まりもなければ、終わりもない、「無始無終古来今を絶して」という言葉の通りなのです。
そんな仏法(正法眼蔵)というものが、〝今という時間〟・〝ここという場所〟において付嘱され、存在(在在)していることを再確認させていただく仏縁となるのが、今回の一句なのです。
令和5年6月11日 更新
【拈提】之に依(より)て釈迦も迦葉の付嘱(ふしょく)を得て、兜率天(とそつてん)に今に有在(うざい)なり。汝等も霊山会上(りょうじゅえじょう)にして有在不変易(うざいふへんにゃく)なり。
前段において、「無始無終古来今を絶して、即ち是れ正法眼蔵付嘱有在(しょうぼうげんぞうふしょくうざい)ならん」とありましたように、お釈迦様によって人々に明確に示された仏法は、お釈迦様以前から存在していたものであると共に、「釈迦も迦葉の付嘱を得て」とありますように、「お釈迦様がお弟子様の迦葉尊者に伝えた」からこそ、〝今という時間〟・〝ここという場所〟において存在(有在)していることを、前段に引き続き、再確認しておきたいところです。
「兜率天(とそつてん)」という言葉が用いられております。これは、弥勒菩薩(みろくぼさつ)(56億7千万年後、お釈迦様に続いて成仏する【仏に成る】とされる仏様)が住するとされる世界を指します。お釈迦様から迦葉尊者に仏法が伝わったことによって、次世代の仏様と称される弥勒菩薩様の元にも正法がもたらされ、有在(存在している)というのです。
また、「汝等も霊山会上(りょうじゅえじょう)にして有在不変易(うざいふへんにゃく)なり」とあります。「仏法を学び、仏道を行ずるものならば、霊鷲山(りょうじゅせん)において、有在不変易(何の変哲もなく存在し続けること)であろう」というのです。すなわち、仏法は時代や場所といった外的要因に関係なく、求める人のところには、ちゃんともたらされていくものであるということなのです。
仏法を求めぬ人のところには仏縁が育まれることはありません。仏法は求める人のために、時代や場所に関係なく、ちゃんと準備されていて、すぐに姿が表れるようになっているのです。今回は、その点を、今一度、押さえておきたいところです。
令和5年6月26日 更新
【拈提】道(い)ふことを見ずや、常在霊鷲山(じょうざいりょうじゅせん)、及余諸住処(ぎゅうよしょじゅうしょ)、大火所焼時(だいかしょしょうじ)、我此土安穏(がしどあんのん)、天人常充満(てんにんじょうじゅうまん)と。唯、霊山会上のみ所住処(しょじゅうしょ)に非ず、豈(あに)、梵漢本朝(ぼんかんほんちょう)も亦た洩(も)るることあらんや。如来の正法流転(しょうぼうるでん)して一毫髪(いちごうはつ)も欠(かく)ることなし。
令和5年5月8日、「新型コロナウイルス感染症」が五類感染症に位置付けられたことによって、随分とコロナ禍前のような日常が戻ってきたような気がします。金沢市内も兼六園やひがし茶屋街といった観光地周辺には日本人のみならず、海外からの観光客の姿を見かけるようになってきました。また、お寺の世界でもコロナ禍の約三年間は、〝法要なし・法話なし・人と人との関わりなし〟といった毎日が続きましたが、次第に再開の動きを見せ、6月23日には「峨山園法要(がさんえんほうよう)★」(曹洞宗石川県宗務所主催)が4年ぶりに本格開催され、ご法話を務めさせていただきました。
その席上でお話させていただいたことを一部、ご紹介させていただきます。平成20年に3年間の曹洞宗布教師養成所での研修を終えた私は、曹洞宗の布教一筋に15年間やってまいりました。ところが、コロナ禍で法要の中止、法話の機会の喪失という思いもよらぬ現実に直面したとき、「このまま法話の機会がなくなるのではないか・・・。」と、将来に不安を覚えました。しかし、法話の依頼のあるなしに関係なく、仏道修行(坐禅)と仏教の学習(曹洞宗の祖師方が示された経典祖録の学習)の2点は怠ることなく習慣化させていこうと思い直し、この3年を過ごしてまいりました。誤解を恐れずに申し上げるならば、「仏様の真似をして過ごした3年間」でした。すると、大変な毎日ではあるものの、どこか心が落ち着き、穏やかな気持ちで毎日を過ごせるようになっていったのです。コロナ禍前、ご法話で「仏様の真似をして過ごせば、毎日が穏やかな気持ちで過ごせる」と説いたものですが、図らずも、コロナ禍において、それを我が身で実感できたのです。
ここ数回、「伝光録」において、瑩山禅師様が「釈迦の肉親今猶ほ暖かに」(第46回)とか、「無始無終古来今を絶して」(第47回)、「有在不変易(うざいふへんにゃく)」(第48回)とお示しになったように、仏法とは太古の昔から存在していたものを、お釈迦様が明確にし、今日まで伝わっていることが確認できました。そして、仏法はこの先も未来永劫に存在し続けていくものだというのです。
しかし、それは私たちからのアプローチがない限りは、それらの存在を確認することはできません。すなわち、私たちが意識的に日常生活の中で仏の修行をする(仏の真似をする)ことによって、仏の存在が実感できるようになるということです。
今回の一句の中で、瑩山禅師様は法華経(ほけきょう)「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」の一説を引用なさっています。「常在霊鷲山(じょうざいりょうじゅせん)、及余諸住処(ぎゅうよしょじゅうしょ)、大火所焼時(だいかしょしょうじ)、我此土安穏(がしどあんのん)、天人常充満(てんにんじょうじゅうまん)」。これの意味するところはまさに、仏のいのちが永遠無量なるもの(寿量)であるということです。「如来寿量品」では、お釈迦様が常に霊鷲山に在って、説法を続けていると説きます。実際には今から約2600年前の2月15日の夜半にお釈迦様は80年のご生涯を終えていらっしゃいますが、仏は入滅(にゅうめつ)【お亡くなりになること】の姿を現しながらも、仏の教えを求める者に対しては、姿を現して、苦悩を救い、仏の悟りの世界へとお導きになるということを説いているのです。すなわち、お釈迦様の霊鷲山上での説法は、「霊山会上のみ所住処(しょじゅうしょ)に非ず」とあるように、当時のものだけではなく、現代においても、将来においても、求める者の眼前に姿を現してくれるのです。
それは時間的な面のことだけを言っているのではありません。場所に関しても同じで、「梵漢本朝(ぼんかんほんちょう)も亦た洩(も)るることあらんや。」とあるように、仏教がインドで発祥し、そこから中国・日本へと伝わってきたように、仏のお悟りは時と場所を超えて広まっていくものなのです。こうして「如来の正法流転(しょうぼうるでん)して一毫髪(いちごうはつ)も欠(かく)ることなし。」とあるように、時と場所を超えて伝わってきた仏法は、仏教の原点であるお釈迦様がお悟りを得たときから、ほとんど形を変えることなく今日まで伝わっているというのです。
冒頭にも申しましたように、私はコロナ禍中に、自分なりに積み上げてきた布教教化の道が、想定外の事態を受けて失われていくのではないかという不安を抱えました。そうした思いがけない困難に出会い、あれこれと思い悩んでいた私の眼前に「如来の正法」が現れ、一仏道修行者の端くれとして、やるべきことをやって時が来るのを待てばよいと伝えていってくれたような気がします。
こうして振り返ってみれば、まさに「八風(はっぷう)吹けども動ぜず」という禅語もありますが、困った時には、仏の世界の門を叩き、そのみ教えを希いながら、進むべき道を進んでいく大切さを、身をもって教わった3年間のコロナ禍だったように思います。「霊鷲山上の仏は永遠なり」—是非とも心しておきたい言葉です。
★峨山園法要
大本山總持寺二祖・峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師のご生誕地である石川県津幡町・瓜生(うりゅう)において、禅師のご生誕を祝しながら、そのご遺徳を偲ぶ法会。昭和40年から毎年、営まれている
峨山園法要の様子(右は平成30年、住職が法話を担当させていただいたときのものです)
令和5年7月9日 更新
【拈提】若(も)し然(しか)れば此会(このえ)は、是れ霊山会(れいざんえ)たるべし。霊山は是れ此会たるべし。唯諸人の精進と不精進とに依て、諸仏、頭出頭没(ずしゅつずもつ)せるのみなり。今日も頻(しき)りに弁道し、子細(しさい)に通徹(つうてつ)せば、釈尊直(じき)に出世なり。唯、汝等自己不明に依て釈尊昔日(そのかみ)入滅(にゅうめつ)す。
前回、毎年6月23日に営まれる大本山總持寺二祖・峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師様(1276-1366)の生誕法要(峨山園法要【がさんえんほうよう】)について触れさせていただきました。峨山禅師様といえば、当時、今の石川県・輪島市にあった大本山總持寺(現在は明治期の大火を機に横浜市鶴見区に移転、輪島には「跡地」を意味する「祖院(そいん)」の語が付された大本山總持寺祖院がある)と石川県・羽咋市(はくいし)にある「永光寺(ようこうじ)」の50数キロ離れた両寺の住職を兼務なさっていた際に、朝のお勤めをすべく毎朝のように行き来された「峨山越え」を行じられた禅僧として、多くの人々に敬われ、今日まで語り継がれている方です。この峨山禅師様の91年のご生涯は「仏の道一筋に、仏道に徹底して過ごされたもの」と申し上げても過言ではありません。
様々な形はありますが、「仏の道一筋に生きてこられた」という点においては、どの仏教祖師方にも共通しています。仏教の開祖であるお釈迦様は勿論のこと、以降、そのみ教えを受け継ぎ、日本に禅のみ教えをもたらし、福井県に永平寺をお開きになった道元禅師様も然り、大本山總持寺をお開きになった瑩山禅師様も然りです。こうした生き様が「精進」なのです。
「精進」について、お釈迦様はお亡くなりになる直前、「少水の常に流れて、則ち能く石を穿(うが)つが如し」という、大変明快なたとえを用いて、お示しくださっています。どんなに硬い石でも、そこに向かって少量でもいいから毎日毎日水を流し続けていれば、その石が変形し、割れるときが訪れます。それと同じように、「ほんのわずかでもいい、自分のできる範囲のことでいい、毎日、目標に向かってコツコツ努力し続けることで、我々が掲げた大目標も達成できる」というのが、「精進」の説かんとするところです。「自分たちのできる範囲で」という言い方は、近年、世間で言われるようになってきた「SDGs(持続可能な開発目標)」にも通じるような気がいたします。少水ほどの量でいいから、生涯に渡って続けていくことに意義があり、だからこそ、「持続可能」とか、「できる範囲で」という言葉に大きな意味があるような気がいたします。
そうした「精進」ということを、「精進と不精進とに依て」、すなわち、「精進するかしないか」によって、「釈尊直に出世なり」とあります。私たちが精進するかしないかによって、遠い昔日の昔に、すでに入滅(お亡くなりになること)なさっているお釈迦様が、私たちの眼前に現れるというのが、今回の一句の意味するところです。「頭出頭没」とありますのは、「姿を現したり消したりすること」を指しています。
お釈迦様の存在は昔日のものであり、今の時代には通用しない、現代とは無関係なものと捉えているようでは、お釈迦様とのご縁が育まれることはないでしょう。それが「自己不明」の言い表すところです。お釈迦様の存在は遠い昔に亡くなったのではなく、今も、そして、これから訪れる未来においても生き続ける永遠の存在なのです。要は私たちの「頻(しき)りに弁道し、子細(しさい)に通徹(つうてつ)する」という、仏道を求め、精進していく姿があるならば、必ずやお釈迦様が姿を現し、私たちに救いの手を差し伸べ、仏のお悟りへと導いてくださるということなのです。そのことを忘れることなく、弁道修行に邁進していきたいものです。
令和5年7月23日 更新
【拈提】汝等已(なんじらすで)に仏子たり。何ぞ仏を殺すべけんや。故に急(すみやか)に弁道して速(すみや)かに慈父と相見(しょうけん)すべし。
道元禅師様や瑩山禅師様始め、各宗の宗祖といったお釈迦様以降のみ教えを受け継ぐ仏教祖師方は「仏の道一筋に生きてきた」方々でした。前段では、そうした仏道修行に徹底した生き様を指して「精進」と申しておりました。精進によって、既に入滅(にゅうめつ)(お亡くなりになること)なさっているお釈迦様が私たちの眼前に姿をお見せになり、み教えを提示なさるのです。それが「頭出頭没(ずしゅつずもつ)」の意味するところでした。
〝仏の道一筋に生きてきた仏教祖師方〟を、「仏子」という言葉で表現することができます。大乘寺(だいじょうじ)二世住持職をおつとめになっている瑩山禅師様は眼前に集う修行者たちに対して、「汝等已に仏子たり」と呼びかけていらっしゃいます。ここには瑩山様がたとえ彼ら修行者の経験値や能力の差に違いがあれども、そこには一切目を向けず、一人一人を尊き仏道修行者として捉え、お認めになっていらっしゃることが見受けられます。そうした仏子たる者の使命として、瑩山禅師様が仏子に願うことが明示されているのが、今回の一句です。一つは「何ぞ仏を殺すべけんや」とあるように、「仏のいのちを殺さずに生かすこと」です。もう一つは「急に弁道して速かに慈父と相見すべし」ということです。
「仏のいのちを生かす」ということについて、これは道元禅師様が「教授戒文(きょうじゅかいもん)」において、「不殺生戒(ふせっしょうかい)」を説いていらっしゃいますが、その中にある「仏の慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)する」とも合致します。すなわち、今・ここにいのちをいただき、生かされている者が、仏のみ教えと出会い、仏のみ教えに随って仏道修行に邁進することによって、仏の存在が“見える化”していく(頭出頭没)のであり、そうやって、仏のいのちが現世に広まり、次世代へと受け継がれていくのです。
こうした仏と出会い、そのみ教えに随って修行していくことが「弁道」です。弁道によって、「慈父」たる「お釈迦様」との「相見(お会いすること)」が可能となるわけで、この論理展開は誰もが合点のいくものではないかという気がします。
仏子たるもの、弁道(仏道修行)に精進し、慈父たるお釈迦様に相見できますように。それが仏子たるものの使命であることを再確認しておきます。
令和5年7月31日 更新
【拈提】よのつね釈迦老漢(しゃかろうかん)、汝等(なんじら)と俱(とも)に行住坐臥(ぎょうじゅうざが)し、汝等と俱に言語伺候(ごんごしこう)して、一時も相離るることなし。
「仏子(ぶっし)」として、「仏のいのちを生かす」ことを自らの使命としてきた方々は、いつ、どんなときであっても、お釈迦様のお姿が拝見でき、そのみ教えに触れることができるのでした。そのことを再度、瑩山禅師様が他の言い回しで提示なさっているのが、今回の一句です。
「よのつね釈尊老漢、汝等と俱に行住坐臥し、汝等と俱に言語伺候して、一時も相離るることなし。」—「お釈迦様は常に、あなた方修行者と行動を共にし、その様子をお伺いして穏やかな言葉で接しながら、片時もあなた方から離れることはない。」ということです。「行住坐臥」というのは、「私たちの日常の立ち振る舞いのこと」のことで、「言語伺候」には、「謹んでお伺いしながら言葉を発する」という意味があります。
このように、私たちの方から、お釈迦様を求め、その慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)していこうとするならば、たとえ今は既に亡くなっている釈迦老漢であっても、我々の求めに応じて、まことしやかに丁重なる姿勢で私たちと関わり、仏のみ教えを発しながら、私たちの心を穏やかに調えてくれるのです。平穏無事な日常というものは、誰もが願うものです。そうであるならば、釈迦老漢を求めていくことがよろしいかと思います。そうやってお釈迦様と行住坐臥を俱(とも)にし、一時も離れることなく過ごすことによって、穏やかな日常の到来を目指していきたいものです。
令和5年8月6日 更新
【拈提】一生若し彼(か)の老漢を見ずんば、諸人悉く皆不孝の人たらん、巳に仏子といふ。若し不孝の者たらば、千仏の手も及ばず。
前段では、瑩山禅師様から「仏を求め、そのみ教えから学ぼうとする姿勢を持った者に対して、お釈迦様(釈尊老漢)はしっかりと応じてくださる」とのお示しがございました。
その反対に、今回は「一生若し彼の老漢を見ずんば」とあるように、釈尊老漢のみ教えを一生涯、一度たりとも求め見ることがない者について触れられています。「一生若し彼の老漢を見ずんば」―そういう人間は「不孝の人である」と瑩山禅師様はおっしゃっています。「不孝」について、「不幸せ」を意味する「不幸」ではなく、「不孝」とあることに注目してみます。
「不孝」というのは、古代日本の律令(刑法と刑法以外の法典)の中に制定されている八虐の一つで、祖父母または父母に対する犯罪行為を指しています。もっとも、瑩山禅師様が在世していらっしゃった中世は、律令制度は終焉を迎え、不孝も「祖父母や父母との家族関係の断絶」という意味で用いられるようになりましたが、いただいたいのちを全うしていく上で、仏に見(まみ)えることのないまま生涯を終えるようなことは、律令制度において禁じられていた「不孝」を犯すに等しいくらいのものであると、瑩山禅師様は我々に強く指し示していらっしゃるのです。
そうした「不孝」の者に対して、瑩山禅師様は「千仏の手も及ばず」ともおっしゃっています。「千仏」というのは、「過去・現在・未来に存在する数多の仏様」を指しています。仏を求めぬ者には、どんな仏も手を差し伸べてくれないのは言うまでもありません。
何かと苦悩が付きまとう娑婆世界に生かされる私たちにとって、その苦悩を救ってくれるのが釈尊老漢始めとした仏様です。釈尊老漢は救いを求めれば必ず応じると共に、私たちを仏の世界へと導き入れてくれます。こちらからお釈迦様にアプローチし、不孝の人とならぬようにしていきたいものです。
令和5年8月13日 更新
【拈提】今日大乗の子孫、また恁麼(いんも)の道理を指説(しせつ)せんとするに卑語(ひご)あり。諸人、聞かんと要すや。
【頌古】知るべし、雲谷幽深(うんこくゆうしん)の処(ところ)、更に霊松(れいしょう)の歳寒(さいかん)を歴(へ)る有り。
瑩山禅師様は「伝光録」の各章における最終箇所は、必ず「頌古(じゅこ)」で締めくくっていらっしゃいます。「頌古」は「祖師方の古則に対して、偈や詩を用いながら簡潔に宗意を示したもの」でした。加賀・大乘寺において、大勢の修行僧を前に、瑩山禅師様は「大乗(乘)の子孫、また恁麼(いんも)の道理を指説(しせつ)せんとするに卑語(ひご)あり。諸人、聞かんと要すや。」と呼びかけになりました。「卑語」というのは、「下品な言葉」ではなく、「自らを謙遜なさっておっしゃった評価の言葉」です。瑩山禅師様は修行僧たちに心して聞くよう促しながら、釈迦老漢(お釈迦様)から愛弟子・迦葉尊者(かしょうそんじゃ)へと仏法が伝来していく中に示されている道理について、頌古を用いながらお示しになるのです。
―「知るべし、雲谷幽深の処、更に霊松の歳寒を歴る有り。」―
本日は旧盆(8月盆)の真っ只中、テレビでは炎天下の中、お墓参りをする家族連れの姿が報じられていました。金沢市内は7月の新盆(7月盆)のため、8月盆の時期は特別の行事がありません。そこで、私は以前から、他県の友人のお寺のお手伝い(棚経【たなぎょう】)に出向いておりました。棚経(たなぎょう)は、檀信徒の皆様のご家庭にあるご仏壇に読経し、過去帳に記載されたご先祖様の戒名をお読みして、お盆の先祖供養をするというものです。
コロナ禍によって、長らくお伺いしていたお寺の棚経がなくなり、今年から新たにご縁のできたご寺院様にお伺いすることになりました。本日がその第一日目となりましたが、お寺はまさに、瑩山禅師様のおっしゃる「雲谷幽深」という言葉がピッタリの静かで緑の多い山間に佇んでおり、お檀家さんも田園が広がる静かな農村で先祖代々の家や土地を護り次ぐ方々ばかりでした。一日で20件近くのお檀家さん宅をお伺いしましたが、初対面かつ20分程度の短い時間での訪問なのに、なぜか以前から知り合いであったかのような、すっかり意気投合したかのような方が何人もいらっしゃったことが、とてもうれしく、印象的でした。一見したところ、のどかな田園風景が広がる一帯ではあるものの、そこに生きる人々の様々な人生が絡み合い、のどかな中にも奥深さを思わずにはいられませんでした。物事を捉えていくとき、表面的に表れているところだけで判断するのではなく、その背景に存在している様々なものにも目を向けながら、広くかつ深く捉えるようにしてく大切さを再確認させていただいたように思います。それが「知るべし、雲谷幽深の処」の意味するところです。
そんな「雲谷幽深の処」には、「更に霊松の歳寒を歴る有り」とあるように、「長年の寒さに耐える霊験あらたかなる松がある」とあります。様々な苦難と共に毎日を過ごしながらも、それを受け止め、しっかりと生きていく者だからこそ、物事の本質や仏法の神髄に近づいていけるのであり、雲谷幽深における奥深さにも気づくことができるようになるのでしょう。
長い人生の中で、初対面の方との出会いは幾度も経験することですが、最初から意気投合し、深い関係を築けるというのは、滅多にないことです。その滅多にないことが釈尊老漢と迦葉尊者の間に起こり、それが後世への仏法伝来の起源となったことは重々に承知しておくべきことです。お二人が師弟関係を結ぶに至った理由は、お二人がまさに「雲谷幽深の処」が体得できる存在であり、「霊松の歳寒を歴る」存在だったからです。そんなお二人の生き様に触れながら、私たちも自らの人生を、より一層深めていきたいと願うところです。