仏遺教経 

                         

                         背景 石川県かほく市(平成29年5月8日 撮影)

第1回『“涅槃とは・・・? ―「生前の涅槃」と「死後の涅槃」―』

 平成27年7月18日 更新

「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」は正確には「仏垂般涅槃略説教戒経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)」といいます。このお経にはお釈迦様がお亡くなりになる直前にお弟子様に対して説かれたみ教えが記されています。

 

「般涅槃(はつねはん)」という言葉が出てまいりますが、これは「完全なる涅槃」という意味の言葉です。では、「完全なる涅槃」とはどういうことなのでしょうか?「涅槃」という仏教用語に触れながら、具体的に見ていきたいと思います。「涅槃」に関しては、仏教を学んでいく中で、よくお目にかかる言葉で、修証義・第1章の中でも「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」という形で触れられています。「煩悩(貪り・怒り・愚痴)の火を吹き消すこと」、「煩悩の火を吹き消した状態」という意味で使われる仏教用語です。

 

お釈迦様の時代、そのお言葉は今のように文字を筆記するという習慣がなかったため、お弟子様方の記憶に刻み込まれるという形で残されていきました。お釈迦様の死後、お弟子様達は一同に集い、お互いに自分たちの記憶を共有し、お釈迦様のお言葉をできるだけ多く残しておこうとしました。そうやって受け継がれていったのは、お釈迦様の生のお言葉に近いみ教えです。

 

後年、文字が発達し、筆録が可能になる中で、そうしたみ教えの数々がお経という形で残されるようになりました。それが「阿含経(あごんきょう)」という初期仏教経典です。「阿含経」の中で、「涅槃」は「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)(三毒)を滅し尽くすことである」と説かれています。これは一本のマッチの火が燃え広がって大きな火災を引き起こすように、煩悩の炎は自分のみならず周りまでも巻き込んで、どんどん燃え広がり、悪い影響を与えていくということです。

 

初期仏教経典である「阿含経」に示されたお釈迦様のお言葉が意味する「涅槃」というのは、私たちがいのちをいただいて生かされている“今”という時間の中で、私たちが目指すべき生きていく課題であると捉えることができます。修証義のみ教えをお借りするならば、「生を明らめ死を明らめていく」上で、「涅槃」の境地を体得していくという課題が生じてくるのです。

 

ところが、時代の流れの中で、世の人々の解釈によって、お釈迦様の生のみ教えに多少の変化が生じてしまいました。涅槃にはお釈迦様のおっしゃる「生前の目標としてのもの(有余涅槃【うよねはん】)」と「死後の状態を表すもの(無余涅槃【むよねはん】)」と2種類の涅槃が説かれるようになったのです。後者の“死後”の涅槃が「般涅槃」が意味する「完全なる涅槃」です。

 

ひょっとすると、涅槃というと、「生きる上での目標」というよりも「死後の状態」を表す方を思い浮かべる方が多いかもしれません。かつて「親父、涅槃で待つ」と言い遺し、自らいのちを絶った沖雅也という俳優さんがいらっしゃいました(昭和58年6月28日亡 享年31歳)。今で言う人気の高いイケメン俳優の突然の死に、当時の社会に大きな衝撃を与えたそうですが、それ故か、人々の記憶の中に「涅槃=死後の世界」という図式が出来上がったようです。(決して、亡き沖氏が悪いわけではないのですが)

 

「涅槃」という言葉を理解していく中で、仏教の歴史に踏まえながら、我々の生前の「生きる目標」として、悟りや成仏と同義的に捉えていく解釈と、「般涅槃(死後の状態)」という解釈と双方の解釈を大切にしながら、より深くお釈迦様の最後のみ教えを味わっていきたいものです。

第2回「仏垂般涅槃略説教戒経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう) ―タイトルに込められた願い―」

平成27年29日 更新

前回、「仏遺教経」は正式には「仏垂般涅槃略説教戒経(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)」というタイトルであることをお話をさせていただきました。今回は、本文に入る前に、このお経のタイトルについて触れておきたいと思います。

 

お釈迦様がお亡くなりになる直前、お弟子様の中でも、長年に渡ってお釈迦様に侍り、多くのみ教えを聞いた“多聞第一(たもんだいいち)”こと阿難(あなん)様がお釈迦様に尋ねました。

 

「師(お釈迦様)がお亡くなりになったら、私たちは何を拠り所に生きていけばいいのですか・・・?」

 

阿難様の問いにお釈迦様はお答えになりました。

 

「阿難よ、私は教えることは全て説き尽した。私が亡くなっても、怠けずに修行を続けなさい。そして、これまで私が説いてきたみ教えを拠り所として日々を過ごしていってほしい。」

 

お釈迦様の阿難様に対するお言葉には、阿難様始め多くのお弟子様たちに対して、「日常を大切にし、一生懸命、修行し続ける自分自身」と「お釈迦様ご自身が長年に渡って説いた法」を支えとして生きていってほしいという願いが感じられます。支えとは暗闇を歩く我々の足元を照らすライトのようなものです。そこから前者を「自燈明(じとうみょう)」、後者を「法燈明(ほうとうみょう)」と申しています。お釈迦様はお弟子様たちに自分がこの世を去っても、心配しなくてもいい、しっかりと修行している自分とお釈迦様のみ教えは何よりもの頼みとなる存在であり、それさえあれば安心して日常を過ごせるとおっしゃっているのです。

 

そうしたお釈迦様が阿難様始め、ご自身が亡き後に遺される人々が心安らかに生きていくことを願って説かれたのが「仏垂般涅槃略説教戒経(仏遺教経)」なのです。仏(お釈迦様)が人々の般涅槃(煩悩の火を完全に吹き消した心安らかなる状態)を願って、お弟子様たちに教え説かれた経典ということです。「垂」とは「垂統すいとう」という言葉があるように、後世に示し伝えるという意味があります。仏遺教経の「遺」も「遺言」という言葉の通り、後世の人々に遺すという意味があります。「戒」とは「悪いことをせず、よいことをする」というお釈迦様のみ教えです。お釈迦様のみ教えは具体的にはこの世にいのちをいただいて生かされている我々人間がどうやって生きていけばいいのか(あるべき正しい生きかた)を説いたものです。お釈迦様のみ教えに従って生きていけば、必ずや心安らかに生きていける―だからこそ、後世に遺して、伝えていく―それが「仏垂般涅槃略説教戒経」なのです。

 

それでは次回より、内容を味わっていきたいと思います。 

第3回 「最初の説法・最期の説法」

平成27年日 更新

釈迦牟尼佛初めに法輪(ほうりん)を転じて阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)を度し、

最期の説法に須跋陀羅(しゅばつだら)を度し給う

今回より本文に入っていきます。

 

皆さんは「仏教四大聖地(ぶっきょうしだいせいち)」というのをご存知でしょうか?これはお釈迦様の生涯において重大な意味を持つ4つの聖地です。それを下記にまとめてみました。

 

ルンビニ          お釈迦様が降誕(ごうたん)(お生まれになること)された地

ブッダガヤ       お釈迦様が成道(じょうどう)(お悟りを得ること)された地

サルナート         お釈迦様が悟りを得て、初転法輪(しょてんほうりん)(初めての説法)をなさった地

クシナガラ       お釈迦様が入滅(にゅうめつ)(お亡くなりになること)された地

 

「釈迦牟尼佛初めに法輪を転じて」とあるのは、上記の表にあるブッダガヤで成道(お悟りを得ること)されたお釈迦様が、サルナートにて生涯最初の説法をなさったことを意味する一句です。「転法輪」とは説法することです。“クルマ社会”といわれて久しい現代において、たいていの人が車を運転できるわけですが、エンジンをかけ、アクセルを踏むと動力がタイヤに伝わり、車が走り出します。そうやって私たちは車を運転して、目的地に到着するわけですが、それと同じように、お釈迦様が説法なさることで、そのみ教えが人々に伝わり、心が救われ、人としての道を得ることが「転法輪」なのです。こうしたお釈迦様がなさったような「転法輪」を、説法する者は心がけていきたいものです。

 

そんなお釈迦様にとって生涯初めてとなる転法輪によって、心が救われ、道を成した人物が「阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)」という人物です。この人物はお釈迦様が保障された王位の地位を捨て、出家されたとき、共に修行に励んだ「五比丘(ごびく)」の一人です。

 

出家されたお釈迦様が最初になさった修行は「苦行」でした。これは自分の体に火を当てて、その熱さに耐えるなどといった辛苦を強いるものです。そんな苦行をお釈迦様と共に6年近くにわたって修行したのが「五比丘」です。お釈迦様は苦行では道を得ることができないことに気づき、苦行をやめるのですが、このとき、「五比丘」はお釈迦様が辛苦の道から逃げたと思い、お釈迦様と決別してしまったのです。

 

その後、お釈迦様はブッダガヤの菩提樹の下で道を得、かつて苦行を共にした修行仲間・「五比丘」に会いに行かれました。五比丘は最初、お釈迦様の話に素直に耳を傾けようとしませんでしたが、そんな中で「阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)」が最初にお釈迦様のお言葉を受け止め、“度”されたというのです。

 

「度」という言葉は、般若心経始め、様々な仏教経典に登場する言葉ですが、「渡る」ということです。どこに渡るのかといえば、お釈迦様の世界、「涅槃」の地です。すなわち、我が身に染み付いた貪り・怒り・愚痴(三毒)という煩悩を断ち切り、人としての道を得ることですね。お釈迦様に最初に度された人物が「阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)」であったことが「仏遺教経」の冒頭にて示されています。

 

そんな最初の説法から45年―35歳の青年だったお釈迦様は80歳となり、死を迎えます。そんなお釈迦様が最後に度した人物が「須跋陀羅(しゅばつだら)」という人物でした。この人物はお釈迦様がクシナガラで危篤状態にあることを知ると、一度、お会いして教えを受けたいとお釈迦様を訪ねてきた方で、お釈迦様の最後の説法によって、度されると共に、120年の生涯を閉じました。後に曹洞宗の開祖・道元禅師様が「人はいつ病気になって体を壊すか、いつ死ぬかがわからない。だからこそ、仏道を学ぶ上で一番大切になるのは、自分の身心を省みずに菩提心を起こして修行することである」(正法眼蔵随聞記【しょうぼうげんぞうずいもんき】)と説いていらっしゃいますが、このみ教えの背景には、菩提心を起こし、老体に鞭打って、お釈迦様の最期の弟子となった「須跋陀羅(しゅばつだら)」の存在があったような気がします。

 

「阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)」に始まり、「須跋陀羅(しゅばつだら)」に終わったお釈迦様の転法輪―お釈迦様はご自分とご縁があった方々に対して、相手の能力や人格に応じて、説法をし、度してきました。そんなお釈迦様の説法の集大成とも言うべき最期の説法が「仏遺教経」なのです。 

第4回 「満足して死す」

平成27年1012日 更新

度(ど)すべき所の者は皆巳(みなすで)に度し訖(おわ)って

沙羅双樹(さらそうじゅ)の間に於(お)いて将(まさ)に涅槃(ねはん)に入(い)りたまわんとす

「阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)」に始まり、「須跋陀羅(しゅばつだら)」に終わったお釈迦様の45年間にも及ぶ転法輪(てんぽうりん)(説法)は、相手の能力や人格に応じてなされたものでした。

 

お釈迦様が病床に伏され、お別れのときが迫ろうとしていたとき、長年、お釈迦様の侍者(じしゃ)(側近)を勤めてこられた阿難(あなん)様は師に「我々の指導者がお亡くなりになったら何を拠り所にすればいいのですか?」と問いました。すると、お釈迦様は「教えることは全て伝えた。その教えたことと自分自身を拠り所として生きていってほしい。私は最期は穏やかにこの世での生活を終えて、あの世に向かいたいと思っている」とおっしゃいました。

 

「教えることは全て伝えた」というお釈迦様のお言葉が今回の一句にある「度すべき所の者は皆巳に度し訖って」の意味するところです。ここにはお釈迦様ご自身がご自分の80年の生涯に満足し、何も思い残すことなくあの世に旅立つ準備ができていること、そして、ご縁のあった方々には全て包み隠さずに伝えるべきものを伝えたという思いが込められているように思います。お釈迦様は80年の生涯の中で、ご自分の煩悩を断ち切り、清々しい気持ちで涅槃に向かわれたということでしょうが、こうした最期を私たちも見習いたいものです。そのためにも、今という時間を大切に、一日一日を後悔することがないように過ごしていきたいものです。

 

そんなお釈迦様は「沙羅双樹の間」にて「涅槃に入ろう」としていたとあります。「沙羅」というのは、椿の一種でインドの落葉高木です。お釈迦様がお亡くなりになられたときの様子が描かれている「涅槃図」を見ると、頭を北に向けて横たわるお釈迦様の両側に沙羅の木が2本ずつ立っていることに気づきます。それが「沙羅双樹」の意味するところです。

 

35歳でお悟りを開かれ、お亡くなりになるまでの45年間、ご縁のあった方々すべてに伝えるべきものを伝え、クシナガラにおいて、沙羅の木に囲まれた場所に横たわり、80年の生涯を終えようとしているお釈迦様―そのときの情景が次に詳しく描かれていきますので、次回、味わっていきたいと思います。

第5回 「静寂な夜に死す」

平成27年10月1日 更新

度(ど)すべき所の者は皆巳(みなすで)に度し訖(おわ)って

沙羅双樹(さらそうじゅ)の間に於(お)いて将(まさ)に涅槃(ねはん)に入(い)りたまわんとす

お釈迦様が涅槃に入られた(お亡くなりになった)のは2月15日の夜半と伝えられています。師との別れが近いことを知ったお弟子様が師の最期の言葉を一言も聞き漏らすまいと静かに耳を傾けているのか、あたりは物音一つなく、静寂に包まれた状態であることが「是の時中夜寂然として聲無し」の部分から感じられます。それが、お釈迦様がお亡くなりになった2月15日・夜半の様子です。

 

そんな中で、お釈迦様は集まってきたお弟子様たちに最期の説法をなさいました。それが記されているのが「仏遺教経」であり、この後に展開される「八大人覚(はちだいにんがく)」を始めとした種々のみ教えです。静寂の夜、お釈迦様は弟子たちを思い、渾身の力を振り絞って、説法をなさったということです。

 

「法要」という言葉が出てまいります。一般的には、お寺の儀式や法事という意味で使われることが多いですが、ここでは仏法の要旨として捉えておくべきでしょう。29歳で出家し、35歳でお悟りを得たお釈迦様が45年もの間説き続けてきたみ教えの中から重要な箇所を抜粋して、最後に示されたというのが「諸の弟子の為めに略して法要を説き給う」の意味するところです。

 

お釈迦様がお亡くなりになったときの様子が描かれている「涅槃図」を見ると、満月の夜、沙羅の木の下で多くの人々が泣き悲しむ中、伏していらっしゃるお釈迦様のお姿が描かれています。最期の説法を終えて、安らかに涅槃に入られたお釈迦様。永遠の別れを悲しむと共に、お釈迦様が生前、お示しになられたみ教えについて語らい合うお弟子様。こうしてお釈迦様にとって最期となった静寂な夜は更けていきました。そして、これが今のお通夜の起源になったのです。

 

私たちも同じように、故人との別れを悲しみ、思い出を語らい合う場としてお通夜を過ごしていけたらと願うものです。 

第6回 『「戒」と共に生きていく』

平成27年1日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、我が滅後(めつご)に於(おい)て當(まさ)に波羅提木叉(はらだいもくしゃ)を尊重(そんじゅう)し珍敬(ちんぎょう)すべし、

闇(あん)に明(みょう)に遇(あ)い、貧人(びんにん)の寶(たから)を得(う)るが如し

今回よりお釈迦様が実際にお弟子様たちに語られた最期のお言葉が出てまいります。

 

まず、「汝等比丘」とあります。「比丘」とは「出家者」を意味します。すなわち、自分たちの日常を捨て、家を出て、お釈迦様の下に弟子入りされた方々のことです。お釈迦様が「比丘たちよ」とお弟子様に優しく語りかけた後、人として生きていく上で護るべき大切なみ教えが語られるというのが、お釈迦様のご説法なのです。不要な前置きは一切なさらず、即座に本題に切り込み、たとえ話を用いながら、わかりやすく、端的に説法を展開していくというお釈迦様の手法は会話のテクニックの一つとして、体得したいものです。

 

今回、お釈迦様がお弟子様たちに遺したかった大切なみ教えは「我が滅後に於て當に波羅提木叉を尊重し珍敬すべし」という箇所です。「ご自分が亡くなったら、代わりに波羅提木叉を大切に敬っていってほしい」とお釈迦様は比丘たちにお示しになったのです。

 

「波羅提木叉」とは「戒」のことです。「戒」については、修証義第3章など、これまで幾度か学ばせていただきましたが、「悪いことをせず、よいことをすること」であり、具体的には「いのちを大切にすること」や「嘘を言わないこと」など、いくつか示されていますが、一言で申し上げるならば、“娑婆世界に生かされる人間として、どう生きていくか・・・?”をお悟りになったお釈迦様のみ教え・生き様のことです。

 

お釈迦様は比丘たちにおっしゃいます。「たとえ、我が身が滅びようとも、我が説きし“戒”は我そのものである。比丘たちは私の下で戒を身につけたのだから、そんな自分自身を信じると共に、迷いが生じたときには戒に立ち返ってほしい」と―戒を指標に、戒を大切に護持していってほしいとお釈迦様は比丘たちに願うのです。

 

それは、あたかも「闇に明に遇い、貧人の寶を得るがごとし」とお釈迦様はおっしゃいます。苦労してやっと手に入れた宝物を所有する人は、日中の明るい時間帯であろうが、日が沈んで暗くなった夜であろうが、時間に関係なく宝物を大切にします。やっと子宝を授かった夫婦は赤子が夜鳴きして自分たちが眠れなくとも、昼間にミルクをほしがって赤子が愚図ろうとも、苦労してやっと授かった子どもであればあるほど、大切に育てようとします。それと同じように戒を大切にしていってほしいとお釈迦様はお示しになるのです。

 

仏教徒として生かされている我々にとって、戒は生きていく上での基本となるみ教えです。それはお釈迦様のみ教え・生き様であり、「悪いことをせず、よいことをして生きていく」ということです。私たちも、今の自分自身の日常を振り返り、道から外れた日々を過ごしていないか確かめておきたいものです。 

第7回 『「戒」の習慣化』

平成27年11月日 更新

當(まさ)に知るべし、此(これ)は則ち是(こ)れ汝等(なんだち)が大師(だいし)なり、若(も)し我れ世に住するとも、此れに異なること無けん

當(まさ)に知るべし、此(これ)は則ち是(こ)れ汝等(なんだち)が大師(だいし)なり、若(も)し我れ世に住するとも、此れに異なること無けん

 

『子宝に恵まれなかった夫婦が待望の子どもを授かれば、この上なく大切に育てるように、「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)(戒)」を大切にしながら日々を過ごしていってほしい』―それがお釈迦様が最初に遺そうと願ったみ教えです。「波羅提木叉」は娑婆世界で生かされる者が護るべき生き様やみ教えのことでした。

 

そんな「波羅提木叉(戒)」について、お釈迦様は更に詳しくご説明なさいます。『「戒」は大師である』と―「大師」とは仏様(菩薩や祖師)を意味します。すなわち、「戒」はお悟りを得た仏そのものであり、娑婆世界に生かされる我々人間にとって、仏教信仰者が仏様を敬うがごとく、大切にすべき信仰の対象だというのです。それが「當に知るべし、此は則ち是れ汝等が大師なり」の意味するところです。

 

次に「若し我れ世に住するとも、此れに異なること無けん」とあります。「戒」はお釈迦様が娑婆世界に在世する・しないに関わらず大切な“大師”であることに変わりないというのです。お釈迦様がお亡くなりになって約2600年経った今、「戒」がその代役を務めながら、娑婆世界に生かされている人々が生きる指標になると共に、人々の信仰の対象であり、永遠の、未来永劫の仏様であるというのです。

 

悪いことはしない、よいことを続ける―「戒」が指し示すのは、ごくごく当たり前のことなのですが、日々の生活の中で実行していくのは難しいものです。私たち人間には、難しいからといって諦めたくなるところがありますが、その半面で難しいものに向き合い、徐々に受け止めながら、自らの習慣にしていく力も持っています。むしろ、そうした力の存在を信じ、大切にしながら、戒を習慣化させていくのです。そうすることによって、私たちの人間性がより高まり、深まっていくのです。 

第8回「持戒(じかい) ―浄戒(じょうかい)を持(たも)つということ―」

平成27年11月14日 更新

浄戒(じょうかい)を持(たも)たん者は販売貿易(ぼんまいむやく)し、田宅(でんたく)を安置し、人民奴隷畜生(にんみんぬびちくしょう)を畜養(ちくよう)することを得ざれ

大きな川によって二分されている土地があります。私たちが立つこちら側を「此岸(しがん)」といい、あちら側を「彼岸(ひがん)」といいます。「此岸」は私たちが過ごす娑婆世界、「彼岸」はお釈迦様始め、お悟りを得た仏様がいらっしゃいます。

 

春分の日と秋分の日を中心として前後一週間を「彼岸会(ひがんえ)」と申します。この間、私たちはご先祖様が眠る墓所に足を運び、ロウソクや線香を手向け、ご先祖様に手を合わせます。「彼岸会」は、お盆と同じく先祖供養を行う期間なのですが、お盆が先祖供養を通じて、お釈迦様のお悟りとご縁を結ぶ大切な機会であるように、彼岸会も普段、「此岸」に生かされている我々が、少しでも「彼岸」のお釈迦様のお悟りに触れ、そのみ教えを「此岸」の地で実践していく大切な機会となるのです。すなわち、娑婆世界に生かされている私たちが、少しでも御仏のみ教えに触れ、御仏に近づき、人間性を高めていく大切な修行の期間であるとも言えるのです。

 

そんな「此岸」から「彼岸」に渡るための六つの方法があります。それを「六波羅蜜(ろっぱらみつ)」と言いますが、その一つに「持戒(じかい)」というのがあります。「戒を持(たも)つ」ということなのですが、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)たる戒を自分の宝物のように大事にしたり、大師(自分が尊敬し帰依する仏)として敬ったりして、日常生活の中で戒を護りながら、戒と共に生きていくことなのです。

 

今回の一句の冒頭に「浄戒を持たん者」とあります。これが「持戒」であり、日々の生活の中で悪いことをせず、よいことをしていくことを忘れずに心がけていくことを言っています。そうした心がけを持続していくことで、私たちの日常生活の中にお釈迦様のみ教えが生きてくるのです。それが「此岸」が「彼岸」になるということであり、土地を分け隔てている川が埋まり、2つの岸が一つの地面になるということなのです。

 

そうした浄戒を持つ者は、意味なき不要な商売や貿易はしないとお釈迦様はおっしゃいます。また、お釈迦様は必要以上の田畑を耕したり、使用人や家畜を養ったりはしないともおっしゃっています。商売も行き過ぎると、相手も自分も滅ぼしかねないほどの物欲や金銭欲が生じてしまうことになりかねません。自分が食べていく以上の田畑を有することも同じです。また、自分が楽をしたいがために、自分がやるべき仕事を特定の他者に押し付けてこき使うことは、相手を見下し、差別的な視点で関わっていることにもなります。それらの行いは、とても「悪いことをしない、よいことをする」という浄戒を持つことからは大きくかけ離れていることは言うまでもありません。

 

自他共に惑わし、苦しみを深めるような行いを慎むことが「持戒」―すなわち、「浄戒を持つ」ということなのです。その具体例が示されているのが、今回の一句なのです。 

第9回「火坑(かきょう)を避ける ―トラブル回避の視点を持つ―」

平成27年11月18日 更新

一切の種植(しゅじき)及び諸の財寶皆當(ざいほうみなまさ)に遠離(おんり)すること火坑(かきょう)を避(さ)くるが如くすべし

一切の種植(しゅじき)及び諸の財寶皆當(ざいほうみなまさ)に遠離(おんり)すること火坑(かきょう)を避(さ)くるが如くすべし

 

お釈迦様のみ教えは「八万四千(はちまんしせん)の法門」と言われます。これはお釈迦様のみ教えが84,000個にも及ぶ膨大な数の説法をなさったことを表しています。その背景には、お釈迦様が同じみ教えをお示しになるにしても、ご縁をいただいた方一人ひとりの能力や性別等に応じて説法なさったということがあり、こうした相手(対機【たいき】)に応じて法を説くことを「対機説法(たいきせっぽう)」と申します。

 

そんな「対機説法」ゆえに、数多の経典に示されているお釈迦様のみ教えはどこかで聞いたような、どこかでお見かけしたようなものが多く、何度も同じようなみ教えに出会うことがあります。今回は「執着心を捨てる」ということをテーマにお釈迦様はみ教えを説いていらっしゃいます。これも「修証義」等、他の経典と内容が被っていますが、頻出するみ教えほど大切なものであると共に、私たち人間がその実践を苦手とすることに起因しているという視点を持つことも大切かと思います。

 

お釈迦様は「たとえ家族や親戚、財宝のような大切なものであっても、火に包まれた穴を避けるように、そこから離れなければならないこともある」とおっしゃいます。「遠離」に関しては、この後、お釈迦様によって詳しく説き明かされますが、「喧騒や人の心を惑わすものから、身心共に一旦離れ、静かで穏やかに過ごすこと」を意味する言葉です。

 

私たちが生かされている娑婆世界は「衆縁和合(しゅうえんわごう)」であるといいます。すなわち、人間始め、様々な存在が関わり合うことによって、我々の日常が成り立っているということです。そうした色々な存在が関わり合うということは、摩擦を生じさせることもあります。特に人間同士の関わり合いは、トラブルに発展することもあります。たとえば、相手と考え方が合わなくなってきたとき、相手の考えを批判して、自分の意見を主張するも、相手は聞く耳を持たず、そのうちに相手の考えだけではなく、相手の人格にまで批判の矛先が向くまでに事態が悪化することがあります。これはお互いに「自分が正しく、相手が間違っている」という決め付け(執着)、相手を認めようとしないがゆえのトラブルです。自分の意見を一方的に主張することは、ある一面ではブレることなく一定しているようで、安心感を覚えることすらあります。しかし、自分の意見に捉われるが余り、他者の主張を聞き入れようとしなくなってしまい、火坑のごとく燃え広がって、トラブルを招くことになります。それは衆縁和合たる娑婆世界に生かされる人間のあり方としては、決して、誉められたものではありません。あまり自分に執着せず、ときには他者の声にも耳を傾けながら、真の道を求めていきたいものです。

 

火坑を避けるには、場合によっては、家族親族、財宝のように我が身と同じくらいに大切なものであったとしても、一旦はそこから離れて、ものごとを見つめる視点なり、考え方が求められることがあります。どこか物事がスムーズに進まなかったり、結果に満足できなかったりと、トラブルが発生したときには、自分の執着度を測ってみることをお勧めします。意外にも「自分の執着」が原因でトラブルが起こっていることが多いことに気づかされるはずですから・・・。

第10回「中道(ちゅうどう) -「両面の存在」に気づく-」

平成27年111日 更新

草木(そうもく)を斬伐(ざんばつ)し、土を懇(たがや)し地を堀り、湯薬(とうやく)を合和(ごうわ)し吉凶(きっく)を占相(せんそう)し星宿(しょうしゅく)を仰観(ごうかん)し盈虚(ようこ)を推歩(すいほ)し暦数算計(りゃくしゅさんけ)することを得ざれ

物事には必ず両面があります。いいところもあれば、悪いところもあります。優れた部分もあれば、劣った部分もあります。万事が両面を有した存在なのです。そのことに気づくことなく、片面のみを見て、あれこれ判断したり、決め付けたりする“偏った見方”を慎み、両面の存在を知り、ありのままに両方を見て、総合的に判断していくことが、お釈迦様がお示しなった「中道(ちゅうどう)」というみ教えです。

 

「中道」を日常生活の中で実践していく上で大切なのは、“ほどほどにする”ということです。すなわち、“やりすぎない”ということです。自分の好みに捉われ、好きな方(片面のみ)を見ていれば、嫌いな方に価値を見出すことができません。その結果、好きな方ばかり見てしまい、「やりすぎ」につながっていくのです。それでは物事の真価に触れることはできません。

 

両面の存在に気づくというのは、双方の価値に気づき、それを受け止めていくということなのです。もし、それができれば、相手に対する好悪の念がなくなり、これまでのような自分の好みだけで相手を判断する視点を超えて、相手の絶対的な価値に巡り会うことができるのです。

 

こうしたものの見方、周囲との関わり方を日常の中で実践できている人は大勢いらっしゃいます。当然ながら、彼らの人生は充実した豊かなものに違いありません。誰しも後悔しない、いい人生を送っていきたいという願いを持っているはずです。それならば、こうしたお釈迦様がお示しになっている「中道」という“ほどほど”で“やりすぎない”道を歩んで見る価値はあると思います。

 

そんな「中道」という視点から、「浄戒を持つ」とはどういうことなのかという問いに対して、私たちの日常生活の様々な場面に照らし合わせながら、お釈迦様が説いていらっしゃるのが今回の一句です。草木の斬伐、田畑の開墾や地面を掘ること、無益な薬品の調合(湯薬を合和)、や占い、星座を信仰すること(吉凶を占相し星宿を仰観)、月の満ち欠けを見ながら暦を作ること(盈虚を推歩し暦数算計すること)、そうした行為が行き過ぎないようにしていくことが「浄戒を持つ」ことであるとお釈迦様はおっしゃるのです。

 

お釈迦様は決して、何も畑仕事や薬品製造等の業種そのものは批判していません。私たち人間の身心を育む食を生産する田畑において、私たちに有害なものを生産して人々を惑わすようなことをしない。人間の健康を維持し、病を回復させるはずの薬を人のいのちを奪うようなことに使ったりしない。また、そんな薬品を製造しない。そうした道から外れた誤った関わり方をしてはならないとおっしゃっているのです。すなわち、度を超えるようなことにならない程度にという、ごくごく当たり前のことをお釈迦様はおっしゃっているのです。

 

ところが、中々、自分をコントロールできず、度を越えてしまうのが私たち人間なのです。お釈迦様がお亡くなりになって約2500年-人間は今も昔も変わらないのでしょう。だからこそ、お釈迦様のみ教えがあるわけで、私たちはそのみ教えをいただきながら、自分で自分を制御しながら日々を過ごすことが大切になってくるのです。 

第11回「“普通の生活”とは・・・?」

平成27年12月24日 更新

身を節し時に食(じき)して清浄(しょうじょう)にして自活(じかつ)せよ

節度をわきまえない度を越えた行いは、「浄戒を持つ」という面から見ればふさわしくない行いであるとお釈迦様はおっしゃいます。前回、「中道(ちゅうどう)」という言葉が出てまいりましたが、何ごとも“ほどほど”が大切であり、行き過ぎは自分も周囲も全てに不快感を与え、苦しめていくだけです。

 

お釈迦様は、我々がどうやって日常生活を送っていけばいいかをお示しになられた方です。その日常において、「中道」を実践していくということは、度を越えた生活を慎むということなのです。たとえば、身なり一つにしても、食生活一つとってみても、あまりに周囲とかけ離れたものや、周りに不快感をもたらすものであるのは決して、よろしくはありません。派手すぎず、贅沢すぎず、ごく当たり前で強く意識されない普遍的な日常こそが、「中道」の日常であり、「浄戒を持つ」ということなのです。

 

ある結婚式の席上でのことです。スピーチを頼まれたS氏は新郎新婦の前に立ったとき、「どうしても伝えたいことがある」と徐に懐から一枚のメモを取り出しました。周囲の方はどんなすごい言葉が出てくるのかと期待に胸を躍らせました。ところがS氏の口から出た言葉は「普通の生活を送ってください」の一言でした。メモまで出して言うほどのことかと、周りは唖然としたそうです。

 

しかし、「普通の生活」というのはどんな生活なのでしょうか?それは、一見、簡単そうに見えて、実は奥が深くて難しいものではないかと思います。私は「普通の生活」とは平穏無事な日常ということではないかと思います。

 

私たちの日常生活を見るに、やることが多くて忙しい日々を過ごしていたり、様々なトラブルが発生したりと、中々、平穏でゆっくりとした生活を送れているようで送れていないものです。何事もなく平穏無事であったと感じる一日がいったいどれくらいあるでしょうか・・・?S氏はそうした「普通の生活」こそ、人間が生きていく上での何よりもの幸せだと信じ、それを目の前の若き新郎新婦に願ったのではないか・・・?そう思ったとき、私はS氏が誰よりも新郎新婦の幸せを願っていたことに気づき、大きな感動を覚えたのです。

 

そんなS氏も突然、あの世に旅立たれ3年が経とうとしています。私はことある度にS氏の言葉を思い出しながら、「普通の生活」を送らせていただいていることに感謝しているのです。 

第12回「世事(せじ)に参預(さんよ)するということ」

平成2年1月15日 更新

世事(せじ)に参預(さんよ)し使命(しみょう)を通致(つうち)し、咒術(しゅじゅつ)し仙薬(せんやく)し、好(よし)みを貴人(きにん)に結び親厚媟慢(しんこうせつまん)することを得ざれ、皆作(みなさ)に応ぜず

“浄戒を持つ(悪いことはしない、よいことをする)”ことを自らの使命とし、生き様としている僧侶(仏道修行者)ならば、注意すべきことがあるとお釈迦様はおっしゃっています。それが今回の一句です。お釈迦様は、この前にも必要以上に田畑を耕したり、家畜を育てたりすることなどを戒めていらっしゃいますが、今回、お釈迦様は新たに2つのことをおっしゃっています。

 

一つ目には、必要以上に修行と関わりのない世間の仕事に関わっていく必要はないということです。それが「世事に参預(さんよ)し使命(しみょう)を通致(つうち)し」の意味するところです。

 

明治5年(1872年)に明治政府より通達のあった「今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべしこと」というお触れは、これまで江戸幕府の統制化にあった僧侶の管理を新政府では行わないという意味の通達でしたが、これによって、政教分離が進み、僧侶に自由が与えられることになりました。僧侶の食生活、僧侶の結婚と家庭を持って親になること、僧侶の髪型等が僧侶個人の意思で決めることができるようになったのです。

 

この通達によって、僧侶が本来の仏道修行者であるという使命を忘れ、俗化したと指摘する声もあります。事実上、僧侶が家庭生活を営み、子どもを養育していくことが各自の自由になったのであれば、やむを得ず世事に参預せざるを得ない場面も出てきます。現実に僧職以外に仕事を持つ僧侶も大勢いらっしゃいます。また、世間の人と関わりを持つ中で肉食の場面に出会うこともあります。そうした状況を見て、一方ではお釈迦様のみ教えに反するから退けるという考え方があるのもわからないわけではありません。

 

しかしながら、明治以降、多くの僧侶がそうした世事に参預しながらも、仏法は今日にも伝わっているのです。もし、世事に参預する僧侶の姿勢が仏法から逸れたものだったならば、今日に仏法が伝わることはなかったと思うのです。お釈迦様のみ教えに忠実に仏道修行一筋に生きてきた僧侶もいれば、世事に参預しながら生きてきた僧侶もいて、仏法は今も我々の生活の中に溶け込んでいます。そこには、世事に参預せざるを得なかった僧侶も仏道修行者であるという原点を忘れずに、世事と修行を両立させ、必要以上に世事に参預しなかったということもあったのではないかという気もします。

 

尚、咒術(不思議な術)や仙薬(飲めば仙人になれるというような不思議な薬)に関わることが、必要以上に世事に関わることになり、戒めるべき対象となるのは言うまでもありません。

 

2つ目に「好みを貴人に結び親厚媟慢することを得ざれ」とあります。これは「自分の好みによって相手に対する態度を変えない」という、これまで幾度となく学ばせていただいた大切なみ教えです。相手の地位や性別といった見た目の情報だけでその関わり方を判断することは、差別的な関わり方につながっていきます。いつの世も自分の考え(好み)だけで人と関わる人間はいますが、それはお釈迦様が在世していらっしゃった時代も同じだったようです。どうやら、それが人間の本性の一面であり、そうした一面に注意していこうというのが、お釈迦様の時代からの人間の生きる上での課題だったことが伺えます。

 

特に世事に参預し、僧侶や檀信徒以外の人とも関わることが多い現代の僧侶にとって、「好みを貴人に結び親厚媟慢することを得ざれ」というみ教えにも十分に注意しておかなければならないと思います。 

第13回「調心(ちょうしん)・調身(ちょうしん)・調息(ちょうそく)がもたらすもの」

平成28年月1日 更新

當(まさ)に自ら端心正念(たんしんしょうねん)にして度を求むべし

毎週日曜日の夕方、高源院にて開催中の「やすらぎの会(坐禅会)」―平成28年度は「姿勢を正す」をテーマに開催させていただいております。坐禅を行ずる上で、心・身体・呼吸が三位一体で調っていることが大切です。背筋をピンと張るなど、日常の一挙手一投足、誰が見ても違和感を覚えない程度に自分の姿勢に気を配っていく(調身【ちょうしん】)ことで、自然と自分の心も調ってきます(調心【ちょうしん】)。そして、身体と心が調えば、自ずと呼吸も調い出す(調息【ちょうそく】)というのです。

 

姿勢を正していくには、自分が身にまとう服装はもちろん、自分の生活習慣をも正していくことが求められてきます。清潔感のある服や靴を身につけること。また、ヘアースタイルだとか、アクセサリー、バック、財布など自分の所持品に対しても、時と場に応じて、周囲に不快感を与えないような配慮をすることも「姿勢を正す(調身)」です。さらに、健康に留意して風邪をひいたりしないようにしていくことも「調身」につながっていくのです。

 

そうした日常生活も含め、自分の姿勢を調えようとしていくと、心そのものが調っていなければなりません。逆に、心が調って姿勢が調うこともあります。「端心正念」とは、心を調えておくことを意味します。執着心始め、自分の心の安定を乱す邪念は打ち払い、何ごとにも動じない、安定した状態を保つことです。そうした状態を保つためには、正法(しょうぼう)(お釈迦様のみ教え)を常に念じながら、仏のみ教えに従って日々を過ごす(仏と共に生きる)ことが必要となってくるのです。

 

そうやって常に正しいみ教えを求めながら、仏と共に日々を過ごしていくと、いつしか仏の悟りに近づいていくのです。「度」とは「彼岸の地」、私たちが日々生かされている“此岸(しがん)”の中に、少しでも川の向こう岸に存在する仏の世界(彼岸)のみ教えを生かしていくことです。

 

姿勢を調え、心を調え、呼吸を調える―そうした坐禅が説く我々が生きていく上での大切な3点を日々の生活の中で心がけていくことで、私たちの日常がより過ごしやすく、快適なものになっていくのです。 

第14回「瑕疵(けし)と向き合う」

平成28年2月1日 更新

瑕疵(けし)を包蔵(ほうぞう)し異を顕(あらわ)し、衆を惑わすことを得ざれ

たとえば、自分の周囲にいる人で、明らかに道から外れた言動を取る人がいたとします。できれば、本人にそれを指摘し、改善を願いたいのですが、相手が先輩であったり、自分よりも有能だと感じる人だったりすると、簡単には言い出せないものではないかと思います。こうした経験は誰しも身に覚えのあるもので、相手の立場なり、相手の反応などを考えると、中々、瑕疵けし(人の短所や欠点)を指摘するのは容易なことではありません。

 

そうした道から外れた人間の言動に対して、お釈迦様は「異を顕し、衆を惑わすことを得ざれ」とおっしゃいます。むやみやたらと感情的になって相手の言動を批判して、みんなを惑わすようなことをするのではなく、相手の状況や心情を察しながら、その言葉で相手がハッと自分の瑕疵けしに向き合い、道を正すことにつながるようなものを選びながら、相手と関わっていくことが欠点を指摘する上で大切だとおっしゃるのです。

 

また、逆に自分が周囲から瑕疵けしを指摘されることもあります。そんなときも、感情的になって相手の言葉に反論して、周囲に不快な空気を漂わせるのではなく、まずは、素直になって、相手の言葉に耳を傾けながら、本当にそうなのかどうかをよくよく考えてみることが大切です。それもまさに、前回登場した自分の心を調える「調心」なのです。

 

私たちは誰しも自分がかわいいです。自分を大切にするあまり、自分に対する批判や攻撃を受けたときには我が身を護ろうとします。それが人間の本質なのでしょう。

 

そんな性質を有した人間に対して、道元禅師様は「吾我(ごが)を離るるべし」とおっしゃいます。自分をかわいがり、自分に執着することは、迷いを生み出し、決して、悟りにはつながらないというのです。

 

中には、一生懸命勉強して有名になろうとか、いいことをして人に誉められようなどと、自分かわいさ故に自分にとってよき見返りを求めるようなことをする人がいます。一生懸命がんばっているので、それを精進と捉えれば、そうなのかもしれません。しかし、精進の先にあるものが自分かわいさゆえのエゴならば、それはお釈迦様がお示しになられた精進とは言えません。たとえ一時的には道を得ることができても、最終的にはお釈迦様がお悟りを得られたように、その道の大切なものなり、本質に到達することはできないでしょう。

 

「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法(ばんぽう)に証せらるるなり。」―これは道元禅師様が「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)・現成公案(げんじょうこうあん)」の中でお示しになられた有名な一句です。「仏道修行にとって、自分自身を明確に知ることが大切である。自分自身を明確に知るためには、自分に執着し、自分をかわいがるのをやめる必要が出てくる。そうしなければ、悟りには近づけないだろう。」と道元禅師様はおっしゃいます。たとえ自分にとって厳しいと感じることであっても、それを自分にとって必要なご縁と認め、自らが歩んでいる道のために我が身を使わせていただく―そうすることで自ずと悟りがやってくるのです。

 

こうした自他の欠点に対する向き合い方を通じて、日常の人との関わりの中にも仏法があり、み教えに従って、仏に我が身を委ねれば、必ずや道が開けていくことをしっかりと肝に銘じておきたいものです。

第15回 「足るを知る」

平成28年2月28日 更新

四供養(しくよう)に於(おい)て量を知り足ることを知るべし

これまでお釈迦様から「浄戒を持(たも)つ」ということについて説かれてきました。それは、たとえば、前回のような「人を批判しないこと」であったり、「むやみやたらと販売行為を行ったりしない(第8回)」であったりと、様々な視点から説かれていました。

 

そうした「浄戒を持つ」ということについて、今回は「量を知り足ることを知る」という観点から触れられています。これは後程、「知足(ちそく)」という言葉を用いて、更に詳しく示されます。そこではお釈迦様は「あらゆる苦悩から抜け出すには足ることを知ることが大切である。」とおっしゃっています。

 

私たちの日常生活を振り返ってみると、自分たちが抱えている苦悩が実は、必要以上のものを求めたり、いつまでも一つのことに捉われたりするような、自分自身が生み出す不平・不満や執着が原因であることに気づかされます。物事には必ず両面があります。表と裏、プラスとマイナス。どうにもならない事実に対して、マイナスの部分ばかり見て、それを強引にプラスに変えようとしてみたり、いつまでも不平不満を言ったりするのではなく、事実を受け止めていくのです。すなわち、プラスもマイナスも認めるのです。すると、次第にマイナスにしか見えなかったものにもプラスの部分が見えるようになってくるのです。そうやって、満足することができれば苦悩が消えます。マイナスの部分しか見えないような思い通りにならないことも、そこに捉われなければ、どんなに気持ちが穏やかになることでしょう。

 

そうした「知足」は、日常生活はもちろんのこと、供養の場においても大切であるとお釈迦様はおっしゃいます。「四供養」とは、①飲食(おんじき)②医薬③衣服(えふく)④臥具(がぐ)(寝具類)の四種をお供えすることです。

 

供養というと、仏様や故人などの仏前へお供え物をお届けすることを想像する方が多いと思いますが、それは生きている人間が亡き人に何かを差し上げることです。それは亡くなった方に対してだけなされるものではありません。たとえば、お中元やお歳暮、お祝いの返礼品など、生きている方に対してなされるものも広義での供養と解釈することもできます。いずれの場合にせよ、自分がよく見られたいという思いだけで高級品を差し上げようとする態度ではなく、差し上げる側は一切の見返りを求めず、差し上げることに徹する。そして、いただく側も必要以上に恐縮してみたり、不平不満を漏らしたりすることなく、相手の思いを受け止め、感謝することに徹する。そうしたモノのやり取りに関わる施す側・施される側・モノの三者が仏の道一筋の、純粋な状態であることが「足るを知る」ということなのです。

 

日常生活の中で、心身満たされぬような気持ちになったとき、自分の不平不満度を確かめ、プラスの部分に気づき、満足できるように自分の心をコントロールできたらいいのではないかと思います。 

第16回「蓄積の戒め ―“改正社会福祉法”に見る釈尊のみ教え―」

平成28年日 更新

趣(わずか)に供事(くじ)を得て蓄積(ちくしゃく)すべからず

そもそもお釈迦様のみ教えは、世俗から離れたものであることを念頭に置く必要があります。曹洞宗の開祖・道元禅師様も「僧侶(出家者)は世俗に背くべきなり」とおっしゃっておられますが、家を出て、世間から離れて生きていくから出家なのです。そして、世間と一線を画し、出家の道一筋に生きる僧侶の姿を見て、世間の生活に疲れた人々が心のやすらぎを求めてやってくるというのが、釈尊教団の構図だったのではないかと思います。

 

そうしたお釈迦様のみ教えに触れていくと、ときに世間では常識と考えられていることとは間逆のものも存在します。今回の一句は、まさにその典型とも言うべきもので、浄戒を持つ(お釈迦様のみ教えを護り、それに従って生きていくこと)上で、多少のいただきものをしても、それを蓄えてはならないというのです。

 

このみ教えを私たちの社会通念から見た場合、たとえば、企業経営の場面では、不測の事態に備え、“供えあれば憂いなし”と言わんばかりに、余剰金を積み立てるなどして将来に備えることがあったりしますが、これは、お釈迦様の観点から見ると、戒めるべき行いだというのです。

 

なぜ、お釈迦様は蓄えを戒めるのかといえば、蓄えがあると、蓄えることが目的となり、苦労して蓄えたものに捉われてしまうからです。モノを所有することはモノに対する執着を生み出します。物欲は自分でコントロールしない限り、際限なく拡大し、ときには周囲も巻き込んで、その苦しみを深めていきます。そして、諸行無常という時間の流れの中、変化を余儀なくされる私たち人間は、いくら苦労して得たものもあの世まで持っていくことはできません。だから、お釈迦様は、今、自分が本当に必要な最小限のモノだけを所有することで、自らに沸き起こる物欲をコントロールしてこられたのです。

 

経営の世界等、世俗における蓄積という考え方と出家者であるお釈迦様の思想は真っ向から対立するものですが、どちらが正しいとか間違っているという議論は不要です。大切なのは、世俗という場において、「蓄積すべからず」という思想を考えてみた場合、人様からいただいて貯めたものであれ、自分たちで苦労して得たものであれ、それらを自分たちの利益追求だけに使うのではなく、皆のために、すべてがよい方向に進めるような使い方を目指すべきであるということです。

 

社会福祉の世界では、平成29年度より改正社会福祉法が執行されます。この背景の一つには、余剰金の内部留保が目立ち、元来の社会福祉事業によって世間に貢献するような事業が展開されていないという指摘があったからです。社会福祉の本来の姿に立ち返ろうとすることを目的とした今回の法改正は、まさに世俗における「蓄積すべからず」を体現したものではないかという気がします。

第17回「戒の実践者」

平成28年5月日 更新

此(こ)れ則(すなわ)ち略して持戒(じかい)の相(そう)を説く

此(こ)れ則(すなわ)ち略して持戒(じかい)の相(そう)を説く

 

「浄戒を持つ(持戒)」ということについて、お釈迦様はいくつかの具体例を出しながら、お示しになられました。それは日常生活の中で戒(悪いことをせず、よいことをして生きていく)を護るということであり、ここでは、お釈迦様は最期に持戒ということについて、自ら略してお示しになったことが示されています。

 

“略して”というのは省略したということではありません。難しいみ教えを噛み砕き、誰もが理解できるようにしてお示しになったと解釈すべきでしょう。死を目前としたお釈迦様にそれができたのも、お釈迦様ご自身が浄戒を保持してきた“戒の実践者”に他ならないことを意味しているように思います。

 

お釈迦様が戒の実践者であるということは、別の観点からいけば、ご自身が戒を大師(だいし)と捉え、帰依(戒を仏様のごとく敬うこと)していたことも意味しています。それは、あたかも子宝に恵まれなかった夫婦がやっとの思いで授かった一子を慈しみ育てるがごときお姿です。

 

そんなお釈迦様がお示しになられた「浄戒を持つ」ということについて、一旦、箇条書きにまとめて提示しておきたいと思います。

 

浄戒を持つ

①深く世間に関わらないようにする

 ・過剰な利益を追求しない(無意味な商売をしたり、必要以上に田畑を耕したりしない)

 ・無益な薬を調合したり、占いにはまったりしない

 

②何ごとにも執着しない(中道:ほどほどにしておくことが肝心)

 ・トラブルに発展するまで問題を追及しない

 ・身なりや食事をほどほどにしておく

 ・人の欠点を追及しすぎない

 ・足るを知る(今の状況を受け止め、少しでも前向きに捉えられるようにしていく)

 ・無駄な蓄積をしない

 

お釈迦様は戒について、「中道」という、偏らない、やり過ぎないという見方で捉えることをお示しになっています。私たちもお釈迦様のように戒を敬い、戒と共に生きていくならば、お釈迦様のお悟りに近づき、心安らかな平穏な日々が訪れるはずです。 

第18回「大乗仏教と小乗仏教」

平成28年12日 更新

戒は是れ正順解脱(しょうじゅんげだつ)の本(ほん)なり故(かるがゆえ)に波羅提木叉(はらだいもくしゃ)と名(な)ずく

「戒」というお釈迦様のみ教え・生き方を、私たちも見習い、それに従って生きていくならば、私たちは心安らかな日々を過ごしていくことができる—それが「正順解脱」の意味するところです。すなわち、私たちが戒とともに生きていくことによって、私たちは正しく、順当な方向に進むことができると共に、自らを仏の道から逸らし、凡夫たらしめんとする悪しきご縁からも解放されるというのです。

 

まさに戒と共に生きることは、お釈迦様が坐禅修行によって得られたお悟りであると同時に、私たち人間に提示してくださった本来の生き方なのです。それゆえに、戒を「波羅提木叉」と名付けるというのです。

 

お釈迦様の滅後、2~300年ほどの間に、教えに対する解釈の相違から仏教教団は多くの部派に分裂しました。これは「部派仏教」と呼ばれ、仏道修行によって、自己の悟りを完成させることが特徴の一つでした。

 

そうした「部派仏教」に対して、人々の救済を誓願とし、仏に成る(成仏)ことを目的とするのが「大乗仏教」です。中国や日本に伝わっている仏教は、この大乗の立場の仏教になりますが、お釈迦様ご在世の頃の仏教(原始仏教)が、後に解釈の相違から分裂し、大乗仏教に至ったというのが、仏教の経緯です。

 

人々の救済を説く大乗仏教は、仏のみ教えはこの世のすべての存在のためにあり、皆のための教えであるというものです。それに対して、部派仏教は自分の救済です。すなわち、自分の悟りを求めるということです。そうした自分だけの救いを求めるという印象が、大乗仏教側から「小乗仏教」と言われる所以です。

 

しかしながら、お釈迦様がお亡くなりになる間際におっしゃられた「波羅提木叉」なる戒は、部派仏教の立場も、大乗仏教の立場も両方の立場によって説かれたものなのです。すなわち、自分の悟りや救済を追及する部派仏教の立場を採りながらも、実は自分が悟りを得れば終わるのではなく、その悟りは人々を救済せずにはいられなくなるものであり、必然的に自分の悟りを追及することと人々の救済はつながっているのです。また、皆の救済を願うことから始めるならば、やはり、自分自身の悟りを追及していなければ、本当に人を救済することができないわけで、大乗か小乗(部派)かという議論ではなく、双方の立場で自他共に救われることを誓願するのが、お釈迦様の原始仏教の立場が説く「波羅提木叉」なのです。

 

約2600年という歴史の中で人間が理解し語りつくせぬほどの変遷も経ながら、インドから中国、日本へと様々な国に伝わり、それぞれの地に根付いている歴史や文化と融合して今に至る仏教―そうした過程の中で大乗や小乗といった立場が主張されましたが、どれが正しくて、どれが間違っているということではなく、そのどれもが遡れば、お釈迦様につながり、原始仏教を原点とした自他共に救われるものであることを押さえておきたいものです。 

第19回 「お釈迦様の確信 -戒に帰依する生き方-」

平成28年11月1日 更新

此(こ)の戒に依因(いいん)すれば諸(もろもろ)の禅定及(ぜんじょうおよ)び滅苦(めっく)の智慧(ちえ)を生ずることを得(う)

「浄戒を持つ」ということについて、お釈迦様は最後の力を振り絞ってお弟子様方にお示しになっておられます。生涯に渡って悪事を慎み、善事を修することが「浄戒を持つ」ということでした。戒に依因するというのは、私たちが戒に帰依するということです。すなわち、お釈迦様のお弟子様方が師に全幅の信頼を置き、そのお言葉に従ったように、戒を自らの生きる指標としていくことが、戒に依因するということなのです。

 

そうやって、私たちが戒に帰依していくと、心が安定するとともに、私たちの心を乱す苦悩を取り除く方法さえも得ることができるとお釈迦様はおっしゃいます。「禅定」とは、私たちの心が落ち着いている状態を指します。私たちの心は何かの拍子に乱れ、揺れ動くものです。そんな心を、たとえどんな言葉をかけられようが、どんな状況に陥ろうが、ちょっとしたことで揺れ動くことなく、どっしりと坐禅を組んで、しばし心身とも微動だにしないがごとく、安定させていくことが「禅定」なのです。

 

それから、「滅苦の智慧」について、「智慧」とは、「悟り」を意味しています。一般に用いる「知恵」は「知識」のことですが、そんな知識を〝善を修し、悪を滅する″という「浄戒を持つ」までに深化させたのが「智慧」なのです。つまり、智慧には知識に教えの実践と成道を加えた、より広大で深い意味があるのです。

 

浄戒を持つことによって、私たちはどんなことがあっても乱れることのない心を持ち、生きていくうえで出会う様々な苦しみを小さくしていくことができるようになる―そうしたお釈迦様の確信が師をして、お弟子様始め我々に浄戒を持つ道を説いていらっしゃるような気がします。 

第20回「お釈迦様の願い」

平成2日 更新

是(こ)の故に比丘當(びくまさ)に浄戒(じょうかい)を持(たも)って毀缺(きけつせしむること勿(なか)るべし

私たちが人間としてのご縁をいただき、生かされている娑婆世界をありのままに直視したとき、そこには絶えず自分の思い通りにならない現実があり、人々はそこから生ずる苦悩を抱えながら生きていかなければなりません。仏教の開祖であるお釈迦様はそのことを誰よりも先に体得されると共に、そんな私たちがどうやって日々の生活を過ごしていけばいいのかをお示しになられました。

 

そうした私たち人間が「戒」を身につけることができるならば、人々は様々な苦悩から救われると共に、人間としての道を完成させていくとお釈迦様はきっぱりと断言なさっております。このみ教えを説いていらっしゃるときのお釈迦様は、危篤状態で、今まさにこの世での生涯を閉じられようとしています。35歳でお悟りを得、以来、45年間にわたり、人々にどうやって生きていけばいいのかを説いてこられたお釈迦様の願いは、人心の救済に他なりません。今を生きる人も、これからを生きていく人も関係なく、お釈迦様はそうした願いを持って、最期の説法に臨んでおられるような気がします。

 

そうしたすべての人々に対して、お釈迦様は‟浄戒を保つ”ことを訴えておられます。「毀缺」という言葉が出てまいりますが、毀(壊す)や缺(欠ける)がないように、しっかりと身につけていってほしいということです。浄戒を毀缺することなく、保ち続ける大切さをお示しになりながら、お釈迦様は未来永劫なる人心の救済を願うのです。 

第21回「持戒の功徳 ―本当の幸せに巡り合う―」

平成29年10日 更新

若(も)し浄戒(じょうかい)を持すれば是れ則ち能(よ)く善法(ぜんぼう)あり、若し浄戒無ければ諸善の功徳皆生ずることを得ず

悪を断ち、善を修する」という姿勢を、いつ何時も貫き通しながら日々を過ごすことは容易なことではありません。

 

古代中国の詩人である白居易(はくきょい)(白楽天【はくらくてん】)は仏教に深く帰依していた人物としてもよく知られていますが、白居易が道林(どうりん)和尚と交わした問答は仏教とはどんな教えかを知る上で、味わい深いものがあります。

 

若かりし頃の白居易が道林和尚に「仏教とはどんな教えか?」と質問したところ、「悪いことをしない、よいことをすることが仏教である」という回答が返ってきました。小さな子どもでもわかるような回答に驚いた白居易から道林和尚にツッコミが入ります。「そんなことは、3歳の子どもでもわかることじゃないですか。」ところが、それに対して道林和尚は「3歳の子どもでもわかることだけれども、80歳の老人だってやり遂げるのは難しいことだ。」とおっしゃいました。

 

このやり取りは、こうした道林和尚の明快な回答を聞いて、白居易がすっかり帰依してしまったという形で結末を迎えますが、「悪を断ち、善を修する」という浄戒を持って毎日を生きていくことは容易なことではないことが伝わってきます。しかし、少しでも浄戒を心がけながら日々の生活を過ごしてくことは、十分によいことをして毎日を過ごすことにつながっているんだとお釈迦様はおっしゃいます。それが「浄戒を持すれば是れ則ち能く善法あり」の意味するところです。

 

それに対して、「浄戒無ければ諸善の功徳を皆生ずることを得ず」とは、浄戒を持たずに毎日を過ごしていれば、善なるものに巡り合えないとお釈迦様はおっしゃるのです。すなわち、人生の価値や、人として生きる喜びなど、この世にいのちをいただいて生かされている我々が、是非、巡り合っておきたいものに出会うことができないというのです。

 

「人間として生きていく上で、一体、何が本当の幸せなのか・・・?」―考えさせられます。名誉や財産など、そういった目に見えるものを誰よりも手にしていることが本当の幸せなのでしょうか・・・?そうとは言えないように思います。人として生まれてきたことに感謝でき、人として毎日を過ごせることに喜べることが、本当の幸せではないかと思います。

 

そんな本当の幸せは浄戒を持ち続ける中で、自然と巡り合えるものなのです。 

第22回 「禅戒一如(ぜんかいいちにょ) ―浄戒を持(たも)つという生き方―」

平成29年11日 更新

是(これ)を以(もっ)て當(まさ)に知るべし、戒を第一安穏功徳(だいいちあんのんくどく)の所住處(しょじゅうしょ)と為すことを。

「浄戒を持たもつ」ということについて、どんな行いが該当するのかを、お釈迦様は私たちの日常生活における様々な場面を具体的に提示しながら、お示しになってきました。そうした浄戒を持つということが最終的にどういうことなのかを結論づけているのが今回の一句です。

 

そもそも浄戒を持つとは、私たちが日常生活の中で、お釈迦様のみ教えに従い、悪事を慎み、善事を修していくことでした。そうすることで、私たちの心が浄化され、そこから発せられる言葉や行いが調っていくのです。そこが、お釈迦様が「戒が第一安穏功徳の所住處である」とおっしゃる所以です。

 

坐禅のご経験がある方は、よくおわかりかと思いますが、姿勢を正して坐っていると、次第に荒れていた心が落ち着き始め、段々と調ってくるのを感じます。これは調身による調心ということで、姿勢が調えば、心も調ってくるということです。

 

仏教では「因果の道理」という思想が重要視されます。物事には必ず原因と結果がありますが、両者の間に必然的な関係性があることを意味しています。

 

ここで一点、気づくことがあります。浄戒を持つことによって、私たちの生きる姿勢や心遣いが調っていくことと、坐禅によって、調心がもたらされるということを照らし合わせてみたとき、その因果関係が同一であることに気づきます。すなわち、坐禅をすることも浄戒を持つことも、共に私たちの姿勢や生き方を調えると共に、心に安穏を生み出すということです。

 

ここに「禅戒一如(ぜんかいいちにょ)」のみ教えを感じ取ることができるのではないでしょうか・・・?日常生活の中で、中々、坐禅をする時間がないという声を耳にすることがありますが、それならば、浄戒を持ちながら、心穏やかに毎日の生活を送る道があることを心得ておけばよろしいのではないかと思います。 

第23回 「五根を制す -“三毒煩悩”とのつきあい方―」

平成29年11月17日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、巳(すで)に能(よ)く戒に住す、當(まさ)に五根(ごこん)の制すべし、放逸(ほういつ)にして五欲(ごよく)に入(い)らしむること勿(なか)れ

「浄戒を持つ」ということについて、ご自分の死期を悟っていたお釈迦様は、最後の力を振り絞って語り尽くされました。お釈迦様に帰依するお弟様方ならば、今のお釈迦様の状況を察し、一言も聞き漏らすまいと、お釈迦様の最期のお言葉に耳を傾けていたことでしょう。

 

そんなお弟子様方に対して、お釈迦様は「巳に能く戒に住す」とおっしゃいます。「あなた方は、もはや戒を完全に身につけたであろう。」と―浄戒を持つことができるようになったお弟子様たちのお姿を自らの目で確認した上で、お釈迦様は次のみ教えをお示しになります。それが「五根の制すべし」です。すなわち、「五根」を調えてほしいというのです。

 

「五根」とは、「眼・耳・鼻・舌・身」のことで、人間の五感を指します。五根を放逸(放ったらかしにする)せず、しっかりとコントロールしてほしいというのです。五根のコントロールとは、私たちの心の中に出現する「三毒煩悩」を断つことに他なりません。

 

三毒煩悩とは、事あるたびに私たちの心の中に現れる「貪(むさぼり)・瞋(いかり)・愚(おろかさ)」のことです。この3つが自分の心の中に生じてしまったとき、私たちがそれに気づき、言葉や行いに変換して外に出す前に、自分の中でしっかりと断ち切ることが求められます。それが「五根を制す」ということです。五根を制することなく、放ったらかしにしておけば、たちまち、制御不能となり、煩悩を帯びた言葉や行いとなって、自分の外に出て、周囲に苦しみを与えていくのです。「五欲」とは色(物質)・声(音声)・香(香り)・味・触(身体で感じられるもの)のことで、五根が対象とするものです。五根を制することなく過ごせば、その対象もまた、制御されることなく、乱れていくのです。

 

そういうことがないように、五根は制する必要があるわけですが、五根を制し、三毒煩悩をコントロールしていくことが、「悪を断ち、善を修する」という戒のみ教えにつながっていきます。三毒煩悩は人間が生きている限り、小さくすることはできても、完全になくすことはできません。人間が生きるということは、三毒煩悩と付き合っていくことであると言っても過言ではないのです。

 

自らに与えていただいた眼・耳・鼻・舌・身の5つの感覚を、少しでも人様に喜んでいただけるように、世間のお役に立てるように、そうした正しい使い方ができるように、普段から手入れを怠らないようにしておきたいものです。 

第24回 「五根を制す② -“三毒煩悩”とのつきあい方―」

平成30年11月20日 更新

譬(たと)えば牧牛(ぼくご)の人の杖を執って之を視せしめて、縦逸(じゅういつ)にして人の苗稼(みょうけ)を犯さしめざるが如し。

人間ならば誰しも有している「三毒煩悩」―それは、「貪り・瞋り・愚かさ」の3つを指します。〝毒″という言葉が意味するように、この3つの毒は、ひとたび、我々の中から言葉や行いとなって外に出れば、周囲の人のみならず、自分自身をも苦しみの渦の中に巻き込んでいってしまいます。

 

我々は生きている限り、三毒煩悩を完全に断ち切ることはできません。それは一見したところ、悪いことのように見えますが、決して、そうではありません。大切なことは、自分の心を調整して、三毒煩悩を外に出さないようにしていくことです。それが善行を修することにつながっていくのです。

 

こうした心の調整は、前回の言葉を用いて申し上げるならば、「五根を制し、放逸にしない」と表現することができます。すなわち、自らの心の中を調え、縦逸(自由気ままで、好き勝手にすること)にならないようにしていくということです。

 

そうした五根を制する、すなわち、三毒煩悩と向き合うことに関して、お釈迦様は比喩を用いながらお示しになっています。「牛を飼う者が、自分の牛に杖を見せて(牛に恐怖心を与えるという意味)、他人様の物に手をつけさせないようにするものである」と―。「苗稼」とは、「穀物や稲穂」のことです。三毒煩悩を断ち切らないということは、牛を飼うものが十分に牛を指導しないので、牛が思いのままに悪事を働くようなものであると、お釈迦様はおっしゃっているのです。自分の心は、自分次第で自分の思うようにコントロールできるものです。それを牛の飼育者のあり方を譬えに用いながら、相手も自分も喜び合えるように調整していくことが大切であるとおっしゃっているのが、今回の一句の意味するところです。

 

思うに、我々人間が生きていくということは、生涯に渡って自らの三毒煩悩と向き合っていくことなのでしょう。仏教の開祖・釈尊はお亡くなりになる間際にも、それが、私たち人間が生きていく上で重要なことであることを伝えんとしていらっしゃるのです。

第25回 「五根を制す③ ―「あおり運転」問題等から学ぶお釈迦様のみ教え―」

令和2年1月14日 更新

若(も)し五根を縦(ほしいまま)にすれば唯五欲(ただごよく)の将に涯畔無(がいはんの)うして制す可(べ)からざるのみにあらず、亦悪馬(またあくめ)の轡(くつわづら)を以(もっ)て制せざれば、将當(まさ)に人を牽(ひ)いて坑陥(きょうかん)に墜(おと)さんとするが如し。

五根(眼・耳・鼻・舌・身)を制することは、自らの中に存在する三毒煩悩(貪り・瞋【いか】り・愚かさ)を調整し、言葉や行いにして表に出さないようにしていくことでした。

 

〝クルマ社会″と呼ばれて久しい現代社会において、近年は「あおり運転」の問題や「高齢ドライバーによる死亡事故」など、様々な問題が取り上げられるようになりました。「あおり運転」に関しては、同じ公道を利用する他者の運転等に立腹して、執拗なまでに嫌がらせ行為を繰り返し、果ては相手を死に至らしめるまでの重大事に発展してしまったケースがあることは周知のとおりです。

 

こうした「あおり運転」問題が発生する背景には、クルマ社会の中には、五根を制することができないのに、自動車の運転を許可されている者が多いことを言い表しているように感じます。かく言う私も、自身の20数年の運転生活を振り返ってみると、とても五根を制しながらハンドルを握っていたとは言い切れず、只々、猛省するばかりです。

 

かの「あおり運転」は、お釈迦様の最期のみ教えである本文中の「若し五根を縦にすれば、唯五欲の将に涯畔無うして制す可からず」という箇所と見事に合致しております。涯は岸を、畔は境やほとりを言い表しています。五根を制することなく、自分の感情が赴くがままに過ごしていくと、善悪の境界線を見失って、どうにもできなくなるとお釈迦様はおっしゃっています。それは瞋りのみならず、欲望の調整ができないでいる貪りや、真実や道理を自分の都合のいいように解釈しようとする愚かな行いにも通じます。このことを、よくよく我が身に念じて、毎日の生活を過ごしていきたいものです。

 

お釈迦様はそうした五根の制御が不能になった状態を、飼い主のたづなを無視して暴れまわる馬のごときものであるとおっしゃっています。それが「悪馬の轡を以て制せざれば」の意味するところです。そんなコントロールできなくなった悪馬はやがては無抵抗の人間さえも坑陥(落とし穴)に墜としてしまうと、お釈迦様はお示しになっています。

 

「あおり運転」問題と同様に、平成31年の春に発生した「池袋暴走事故」も忘れることができません。加害者となってしまった高齢者に対する世間の怒りや批判の声は共感できる部分も多いのですが、お釈迦様のみ教えを我が身に念じながら、この事故で亡くなってしまったお二人の被害者のご冥福を祈ると共に、遺されたご主人の苦悩を我が事として受け止め、同じ苦しみを味わう人が出ないよう日々を過ごしていくことが、仏道を歩む者の役割と思っています。

第26回「“業(ごう)”に学ぶ ―自らを調え、慎ましやかに生きていく―」

令和2年1月25日 更新

劫害(こうがい)を被こうむるが如きんば苦一世(くいっせ)に止とどまる、五根の賊は禍殃累世(かおうるいせ)に及ぶ。害たること甚(はなは)だ重し、慎まずんばあるべからず

お釈迦様は業論者であり、仏教は「業」の思想であるとおっしゃる識者がいらっしゃいます。業とは自分たちの行いを意味し、自分の行いに応じた形の結果が生じます。善いことをすれば、善いことが起こります。逆に、悪事を働けば、悪の結果となります。そうした業の思想を根底に置いて、お釈迦様は我々に善事に生きる道を勧めています。お釈迦様が指し示す善なる道とは、お釈迦様のみ教えに従って、自分が発する言葉や自分が提示する行いを調えながら過ごすことです。

 

日々の生活の中で、ふと自分の日常を振り返ってみるひとときを持つことができるならば、そこから心安らかにに生きる道が始まっていくのでしょう。そのタイミングで、仏と共に生きる道を選ぶことができれば、自分の言葉や行いが調い、安心して毎日を過ごすことができるようになるのです。

 

「劫害を被るが如きんば苦一世に止まる」とは、日常生活の中で、自分を顧みる機会を持つことなく、自由気ままに、煩悩を調整することなく過ごした者が必ず経験しなければならなくなることです。すなわち、煩悩のままに生きるという業を因とすれば、一生涯に渡る苦悩に満ちた毎日を生み出していくという果が生み出されていくということです。

 

私たちが自分の五根(眼・耳・鼻・舌・身)で生み出してしまった三毒煩悩を放ったらかしにしておけば、禍殃(わざわい、災難)や累世(迷い)を繰り返し、その害はとてつもなく大きいとお釈迦様はおっしゃっています。だから、お釈迦様は、私たちに五根を調え、煩悩を言葉や行いにして外に出さないよう、自らを正し、慎ましやかに生きていくことを勧めてくださっているのです。

 

そうした善なる業を因とし、善果を感じられるような毎日を少しでの多くの人が過ごすことを願うばかりです。 

第27回「智者の心得」

令和2年月2日 更新

是(こ)の故に智者は制して而も随わず、之を持すること賊の如くにして縦逸(じゅういつ)ならしめざれ、仮令(たとい)之を縦(ほしいまま)にするとも皆亦久(みなまたひさ)しからずして其磨滅(そのまめつ)を見ん

自らの五根(眼・耳・鼻・舌・身)を調え、自らの中に存在する貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・愚(おろ)かさの三毒煩悩を言葉や行いにして表に出さないようにしていけば、心安らかなる幸せな毎日を過ごすことができるとお釈迦様はお示しになっています。そのことを私共凡夫が頭で理解するのは、さほど難しいことではありません。しかし、いざ、実行していくとなると、難解であることに気づかされます。

 

お釈迦様はそのことを踏まえ、たとえ難解なことであろうが、幾度も失敗を繰り返してもいいから、自らの五根を制し、三毒煩悩の調整を常に心がけながら、お釈迦様のお悟りに向かって精進してほしいと願っていらっしゃいます。そして、それを行じ続けることができる者を“智者”とおっしゃいました。悟りのモノの見方や周囲との接し方を体得した智慧のある者が智者であり、これまで示されてきた「五根を制す」ことが智者の心得だというのです。

 

「賊の如くにして縦逸なる」とは、罪人を野放しにしておくが如く、自らの中の三毒煩悩を調整しようともせず、放ったらかしにしておくことです。これは智者ではなく、愚者の生き様です。

 

―日頃の自分たちの日常を振り返り、自分愚者か智者か?―

どうか、「智者の心得」を踏まえ、「縦にして其磨滅を見る(五根を制す)」ことを心がけながら、智者を目指していきたいものです。 

第28回「心を調える」

令和2年2月8日 更新

此(こ)の五根は心(しん)を其(そ)の主と為す、是(こ)の故に汝等當(なんだちまさ)に好(よ)く心を制すべし

「眼・耳・鼻・舌・身の五根は“心”を主とする。だから、十分に心を調えるように。」とお釈迦様がお弟子様たちにお示しになっているのが、今回の一句です。

 

色(私たちの肉体・物質)という目に見える存在に対して、心は目に見えない存在です。そんな心は私たちの日常生活の中に頻繁に登場します。しかし、その正体は明確に説明できるのでしょうか。色のような自分たちの目に見える存在でさえ、多様な解釈や捉え方が成り立つのに、そうでない心ならば、尚更で、経論等においても、はっきりと定義づけられておらず、諸説が存在しているのが現実です。

 

そういう意味では、心というのは厄介な存在だといえるかもしれません。お釈迦様はそうした心の性質を熟知していらっしゃったからこそ、次段において、心の恐ろしさを、比喩を用いながら、明解に説いていらっしゃるのです。(詳細は次回、ご説明させていただきます)

 

そんな正体がわかっているようでわからない、捉えどころがない心というものを、とにかく調えるようにとお釈迦様はおっしゃっています。

 

坐禅をやってみると、姿勢が調えば、心が落ち着き、安らかな気持ちになります。日常の所作一つ一つを丁寧に行うことや規則正しい生活習慣を意識していくことで、私たちの心は調っていきます。それから、生きている限り誰しも持っている三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)を言葉や行いにして、外に出さないようにしていくことを意識していくことで、心は調ってきます。

 

そうした心の調整によって、心を主体とする五根も調っていくことを押さえ、日々の生活を過ごしていきたいものです。 

第29回「環境問題を考える」

令和2年2月11日 更新

心(しん)の畏るべきこと毒蛇悪獣怨賊(どくじゃあくじゅうおんぞく)よりも甚だし、大火(だいか)の越逸(おついつ)なるも未(いま)だ喩(たとえ)とするに足らず

令和2年2月11日付の北國新聞朝刊の社説には、「防災訓練情報」と題し、“正しく理解せねば危険招く”いう見出しが付されています。この記事によりますと、国の中央防災会議において、自治体から避難勧告が発令された場合、どのような行動をとればいいかを正しく理解できている人が30%にも満たないというデーターが出たことが紹介されています。


記事では引き続き、我が石川県が平成30年度に実施したアンケート結果を紹介しています。その結果は、避難勧告が出た場合、「避難を開始する」と正しく回答した方が66%だったとのことですが、同じ質問に対して、5年前の調査時は79%の方が正しく回答したそうです。


この事実を考えると、災害発生時における自治体の発令に対して、今一度、どのように行動すべきかを再確認する必要性があると記事は説きます。「避難勧告」は避難を開始すべきタイミングで発令されるものであり、「避難指示」は身の安全に配慮して速やかな避難が必要な場合に発令されるものです。その他、「避難準備・高齢者等避難開始」も加えると、3段階の避難行動があり、「避難準備・高齢者等避難開始」➔「避難勧告」➔「避難指示」の順で緊急度が高まるとのことです。


言葉だけ見れば、いずれも似たような印象を覚えますので、区別がつかぬままにしておけば、誤った理解や解釈をしかねません。普段の生活を見てみると、こうした似通った言葉に対して、その意味を正確に理解しないがために、誤った解釈につながる場面は多々あることに気づかされます。どうか、我が身に降りかかるかもしれない自然災害における言葉の正しい理解・解釈を通じて、日頃、自分たちが言葉に対して、どの程度まで正確に把握できているかを確かめ、正しい言葉の理解と使い方を目指す機会にしていきたいものです。


平成23年に発生した「3・11大震災」以降、地震や台風、雪害に猛暑など、あらゆる自然災害に対する関心が高まっている今日この頃ですが、そうした災害の恐怖以上に恐るべき存在としてお釈迦様が提示していらっしゃるのが、私たちの「心」です。それは毒を発する蛇や、猛獣、盗賊でさえも超える恐るべき存在であるとお釈迦様はおっしゃいます。


確かに、自然災害等は恐ろしい存在ではありますが、自分たちの頭脳や行動力を駆使して、自然さえも人間の思い通りにコントロールしようとする人間の心が、自然を脅かし、環境破壊を引き起こしているということも否定はできません。恐ろしいことです。令和2年の冬の石川県内は類まれに見る暖冬で、一度も除雪に出ていません。令和元年の夏は猛暑日が続きました。地球温暖化の影響だという説も十分にうなずけますが、その背景にはお釈迦様がおっしゃる、最も恐るべき人間の心によって、生み出されてしまった状況ではないかと思わずにはいられません。


次世代に生かされる人々のためにも、自然環境にとって何がいいのかを正確に理解し、自分たちができることが何かをしっかりと把握して、日々の生活の中で実践していきたいものです。それが恐るべき私たちの心を制することにもつながっていくのです。

第30回「考える力の発揮 ―“人間の強み”を生かして―」

令和2年2月1日 更新

譬(たと)えば人有って手に蜜器(みっき)を執(と)って、動転軽躁(どうてんきょうそう)して但蜜(ただみつ)のみを見て深坑(じんきょう)を見ざるが如し。譬えば狂象(おうぞう)の鉤無(かぎ)なく猿猴(えんこう)の樹を得て騰躍踔躑(とうやくちょうちゃく)して、禁制(きんぜい)すべきこと難(かた)きが如し。

「飽食の時代」と呼ばれ久しい現代ですが、たとえば、平成30年2月の大雪時のように、食糧の配送がストップして、“食べられない”という場面に直面したとき、食に対して無関心だったことを省みると同時に、食をいただけることに対する感謝の気持ちが芽生えてくるものです。


もう20年近く前のことになりますが、大本山總持寺での修行生活が始まって10日程経った頃のことでした。薬石やくせき(夕食)に煮豆が出たのですが、何気に口にした煮豆の甘さに、深い感動を覚えたことが忘れられません。それまでの私は、どちらかというと、甘いものには余り関心がありませんでした。ですから、数日、甘いものを口にしていなくても、欲することもなく、むしろ、これまでとは違った生活環境の中で、甘いものの存在さえ忘れていたくらいでした。


そんな私が甘い煮豆を口にしたとき、その甘みが疲れ切った身心を癒し、気持ちが和らいでいきました。「甘いものって、こんなにおいしいものなのか。」―まるで初めて御馳走をいただくかのような感動でした。そして、この1年間は、修行中の身でありながら、甘いものへの執着が最大値に達した時期でもありました。


お釈迦様が「人有って手に蜜器を執って、動転軽躁して但蜜のみを見て深坑を見ざるが如し」とおっしゃるのは、まさにご本山で甘いものに捉われていた自分のような状況であると同時に、そうした執着によって、心を制することができなくなり、我が身を滅ぼしていく様を、譬えを用いて表現した一句です。すなわち、目の前に御馳走のような、自分がどうしても口にしたいと執着している存在があれば、人はそこにばかり気を取られ、自分の身を滅ぼす大きな穴(深坑)の存在に気づかず、痛い目に遭うものなのです。まさに「甘い誘惑には、滅亡にもつながりかねない落とし穴が存在している」のです。だから、心を調え、深い坑の中で身動きが取れなくなるようなことがないようにしたいものです。


次にお釈迦様は、狂象(暴れ来るって手に負えない象)や、樹木を騰躍踔躑(勢いよく飛び回る)猿猴(サル)の譬えを用いて、心を制することなく、放逸にして生きることへの戒めを説いていらっしゃいます。野生動物と違って、人間は頭脳を有し、「考える力」という強みを持っています。その強みを発揮して、心を制し、調えながら、日々を過ごしていきたいものです。 

第31回「末法時の仏道修行 ―“八大人覚”の意識づけ-」

令和2年2月1日 更新

當(まさ)に急(すみやか)に之を挫(とりひし)いで放逸(ほういつ)ならしむること無なかるべし

計らずも、お釈迦様のご命日である2月15日の夜更けに、仏遺教経(釈尊最期のご説法)に関する原稿を執筆させていただいております。今から約2600年前の遠い昔、80歳のお釈迦様が静寂なる闇夜の中で、最期の力を振り絞り、お弟子様方に説法をなさったとのことです。そのお姿はこの上なく尊いものであったことは想像に難くありません。


そんな仏遺教経を、我が曹洞宗門では、古来より2月1日から14日までの夕べの勤行の際に読誦し、お釈迦様のご供養をさせていただく習慣があります。檀信徒の「お寺離れ」が叫ばれる時代ですが、僧侶である我々一人一人がこうした修行を心がけていれば、仏法は世間に拡まると共に、次世代にも継承されていくはずです。


お釈迦様が最期のご説法の中でお示しになった八大人覚(はちだいにんがく)(8つの仏道修行者が修めるべき徳目 下記参照)をお示しになったことに倣い、日本曹洞宗の開祖・道元禅師様も著書・「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」95巻にて、八大人覚に触れていらっしゃいます。道元禅師様は正法眼蔵を100巻まで撰述することをお考えだったようですが、1253年に永平寺において、病を抱えながら八大人覚に触れ、100巻の完成を見ることなく、54年間のご生涯を終えられたことが、お弟子様である弧雲懐弉(こうんえじょう)禅師様によってお示しされています。


★八大人覚


少欲(しょうよく)

三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)を調整し、言葉や行いにして表に出さない


知足(ちそく)

両極端に偏らず、仏のみ教えの範囲内のほどほどのところで満足できるように心がける


遠離(おんり)

自分の身心を乱す存在から距離を取り、自身を調えることを心がける


精進(しょうじん)

悪を断ち、善を修し続けることを意識して、仏のお悟りに向かってまっすぐ進む


不忘念(ふもうねん)

仏のみ教えに従って、自分の身心を調えながら日々を過ごすことを忘れずに心がける


定(じょう)

自分の身心を調えながら過ごす


修智慧(しゅうちえ)

仏のものの見方や周囲との接し方を体得し、自らの五根を制する


不戯論(ふけろん)

仏の言葉を体得し、仏の道から外れた無駄話等を慎む


そんな八大人覚の巻において、道元禅師様は「お釈迦様がお示しになった8つの徳目こそ、仏道修行者が我が身に念じて実践すべき生き方である」とおっしゃっています。道元禅師様によれば、お釈迦様が実在なさっていた正法(しょうぼう)時(仏滅後500年の正しい教えや修行、悟りが存在している時代))や像法(ぞうほう)時(仏滅後500年~1000年の教えと修行者は存在しても本当の修行ではない時代)は修行者たちは八大人覚を知り、自らの生き方として修行していだが、末法時(正法時・像法時以降、教えのみ存在し、修行や悟りのない時代)は、知るものが少ないとのことです。道元禅師様のみならず、現代の我々も、そうした末法の時代の中に生かされています。だからこそ、正法・像法時以上に、八大人覚のみ教えに触れ、我が身に念じながら日々を過ごしていく必要性があるのです。そうした理由からに、2月には仏遺教経の読誦を通じて、八大人覚を意識していくのです。


そんな修行によって、我々修行者は自分の心と向き合い、放逸(放ったらかし)にせず、しっかりと調えて、悪を断ち、善を修することを意識づけていくことができます。「挫いで」は、屈服させることです。どこか強制的な押し付けの印象がありますが、他者に持論を強制して屈服させてはなりませんが、自分に対して善を修する生き方を押し付けることは、自身の心を調えることにつながります。どうか、実践していきたいものです。 

第32回「心を辨(わきま)える」

令和2年2月22日 更新

此(こ)の心(しん)を縦(ほしいまま)にすれば人の善事を喪(うしの)う、之(これ)を一処(いっしょ)に制すれば事(じ)として辨(べん)ぜすと云(い)うことなし

―令和2年2月21日(金)―

世界中を賑わす「コロナウイルス(COVID-19)」の猛威が、我が石川県にも到来したという報道が夕闇の県内を駆け巡りました。いつか来るだろうと思っていた日が、ついに訪れました。連日の報道を通じて、刻々と変化していく世情に「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を観じずにはいられません。


未だ未体験のウイルス故に、不明なことも多く、様々な情報が流れています。それを受けて、予定されていたイベントの中止や自粛といった動きも出てきています。不特定多数の方が関わりますので、やむを得ないと思っています。また、ドラッグストア等では、マスクが品薄とのことです。不安ゆえに我先とマスクを大量購入する人が多いのでしょう。


未曽有の自然災害や戦争など、過去の歴史を振り返ってみると、いつの世も、内容は違えども、同様の事案は発生しています。そして、その都度、人間たちは様々な対応を経て、困難な状況を乗り越えてきました。


こうした中で、大切なことは周囲からの様々な情報を冷静に受け止め、対処していくということです。これまでお釈迦様が仏遺教経の中で、人々に心を根底とする五根(眼・耳・鼻・舌・身体)を調えながら日々を過ごすことを説いてくださっていることを確認してきましたが、自ら五根を調え、冷静に対処していくという心がけがなければ、我々はお釈迦様のおっしゃる「心を縦にすれば人の善事を喪う」ということになりかねません。「善事を喪う」とは、仏のみ教えから外れた言動を取ってしまうということです。マスク一つ事例に採ってみても、マスクを買い占めたくなる気持ちはわかりますが、一体、どれだけの人が優先すべき高齢者や持病のある方に対する配慮できていたでしょうか。そういう方の存在を心で意識しながら、行動できたでしょうか。果たして、自分自身が心を縦にしていなかったかどうか、よくよく振り返っておく機会ではないかと感じています。


そうした人間の習性を押さえたうえで、「五根を調え、冷静に対処する」という生き方に一点集中してみることが、お釈迦様のおっしゃる「一処に制す」という心の調え方なのです。そうやって、私たちは辨(物事をわきまえる)の毎日を過ごすことができるようになるのです。

第33回「折伏(しゃくぶく)の意識 -悪を断ち、善を修する心の調え方―」

令和2年2月2日 更新

是(こ)の故に比丘、当(まさ)に勤めて精進して、汝が心(しん)を折伏(しゃくぶく)すべし。

―令和2年2月27日(木)―

世間を震撼とさせている「コロナウイルス(COVID19)」の石川県内における感染者が4名となりました。国内では死者も出ています。また、日本政府は3月15日まで不特定多数の人が集まる可能性があるスポーツやイベントの自粛要請を表明しました。正体不明で、対応策も明確にはなっていない「コロナウイルス」に対して、様々な情報や意見が飛び交っていますが、そんな中でも私たち一人一人はできるだけ冷静に身心を調え、手洗い・うがい、外出時のマスク、早めの休息等の健康管理など、自分たちができる対策を施しながら、日々を過ごしていきたいものです。お釈迦様のお言葉をお借りするならば、それが自分の心を調え、辨わきまえて過ごすということにつながっていくのです。


そうした過ごし方を突き詰めていくならば、「悪を断ち、善を修する」ということになるでしょう。これはお釈迦様の「戒」という、生き方そのものであり、戒の受持(じゅじ)(戒を意識しながら、実践していく)ことによって、私たちの日常に安楽が訪れるのです。


そんな戒を受持して過ごすことを意識し続けながら、仏のお悟りを目指す(精進)ことによって、悪を断つことを意味しているのが「折伏」という言葉です。こうした折伏を私たちが自分の心を調えていく上で意識していくべきであり、そうすることで、毒蛇(どくじゃ)・悪獣(あくじゅう)・怨賊(おんぞく)始め、大火(だいか)の越逸(おういつ)さえもたとえとするに足りないくらいに恐ろしい“心(しん)”を調え、落ち着けてくれることをお釈迦様から学ばせていただきたいものです。

第34回「食=薬 ―食との関わり方―」

令和2年日 更新

汝等比丘諸(なんだちびくもろもろ)の飲食(おんじき)を受けては當(まさ)に薬を服するが如くすべし。好(よ)きに於ても、悪(あし)きに於いても、増減の生ずること勿(なか)れ。趣(わずか)に身を支うることを得て以て飢渇を除け。

お釈迦様の遺誡は私たちの「心」に関する話題から、「食」に関する話題に変わります。食もまた、私たちにとって、日常的かつ身近な話題です。


「食事をいただくとき、薬を飲むようにしていただくのがよい。自分の好きな食べ物は大量にいただき、苦手なものは食べないといった、差別的な食事のいただき方をするのではなく、自分の健康を調える程度の量をいただき、飢渇を除くようにするのがよい。」―これがお釈迦様の食に関するお示しです。どんな食も我が身を調える薬であり、その食によって、私たちの身体が健やかに保たれ、活力的な毎日を過ごすことができるのです。そうした“食=薬”という認識を持ち、自分の好みで良し悪しを決めつけるような差別的な関わり方をせず、感謝していただくようにとお釈迦様はおっしゃっています。


私たちは食の内容のみならず、分量に対しても、あれこれ言いたくなるところがありますが、「我が身を支えるに足るほどよい分量」を意識して、分量を問うことなくいただく大切さをお釈迦様はお示しになっています。


自分自身を振り返ってみますと、20代の若かりし頃は、「一食くらい抜いても大丈夫だ」と思って過ごしていました。しかし、40歳になった今、食の大切さがじわじわと感じられるようになってきました。食事なしの健康な毎日などあり得ませんし、元気に我が身を社会のために使うこともできません。そのことが実感できたとき、自分の三度の食を欠かさずに調理してくれるつれあい、さらには、どんな天候の日もその食材の生産に携わっておられる生産者の方々への感謝の気持ちが生じてきました。目の前にあるのはたった一杯のかけそばかもしれません。しかし、蕎麦や薬味のネギ、そばつゆ、それらの食材を生産してくださった方々、そして、かけそばを調理してくださった方々、たった一杯のかけそばにも実に多くの人々の手がかけられていることに気づかされます。そうした多くの人々のおかげさまで、自分の日々の活力となる食がいただけることに気づけば、私たちは一人ではなく、直接関わりを感じられない人も含めた多くの方々に支えられ、その力をいただいて生かされていることを実感できるのです。


そのときに、多くの人はハッとさせられるでしょう。自分の好みで食材の好嫌を分別したり、分量の多少を主張したりしていた愚かな自分の姿に思い当って・・・。どうぞ、食=薬と捉えることを意識し、自分の食に携わる方々に思いを馳せ、感謝していただきましょう。

第35回「比丘のあり方 -ミツバチの如く-」

令和2年3月日 更新

蜂の花を採るに但其(ただそ)の味わいのみを取って色香(しきこう)を損ぜざるが如し、比丘(びく)も亦爾(またしか)なり

ハチミツはミツバチが野に咲く花の蜜を取って加工し、巣に蓄えてできるそうです。ミツバチが花に留まり、蜜を吸い取っても、花の姿形が変わることはありません。色も香りもそのままです。


こうしたミツバチのような生き方を、お釈迦様は比丘(仏弟子)に願っているのが今回の一句ですが、その願いとは具体的にはどんなものなのでしょうか。


それは「何が大切なものなのかをしっかりと見極めた上で、それを受け取っていくのを意識すること」です。前回より、食に関するみ教えが示されています。“食=薬”という捉え方、分量やメニュー、内容ばかりに捉われるような食との関わり方を慎むことが示されてきました。こうした食の捉え方をお釈迦様はミツバチの喩えを用いながら、比丘に指し示していらっしゃるのです。


これは食に限ったことではありません。日常の万事において、私たちは自分の好悪の感覚に捉われ、周囲のいのちに対して、差別的な関わり方をすることを慎んでいかなければなりません。そうした比丘のあり方を今一度、再確認し、日々の生活を過ごしていきたいものです。

第36回「“物品のやり取り”という仏道修行」

令和2年3月13日 更新

人の供養を受けて、趣(わずか)に自ら悩(のう)を除け、多く求めて其(そ)の善心を壊(え)することを得ること無かれ

お歳暮やお中元等、人様と物品のやり取りをする機会がございます。物品を選ぶとき、私はなるべく事前に相手が好むものをリサーチしておき、それをお届けするようにしています。そうしたやり方は、私に限ったことではなく、多くの方がなさっていることではないかと思います。


そうした物品をやり取りする中で、時折、自分の好みではないと感じるものが届いたという経験は誰しもあると思います。せっかくの人様からの善意に対して、選り好みをせずに、感謝していただかなければならないとは思うのですが、ついつい自分の好悪の感覚が芽生え、ありがたくいただこうという気持ちになれなかったという、何とも苦い感覚を覚えたことは誰しもあると思います。


たとえいただいたものが自分の好みの品物でなかったとしても、あれこれ文句を言わずにありがたくいただく。また、自分は相手に対して、相手の好みを斟酌して物品を送ったのに、とても相手からはそこまでの気遣いを感じにくい品物が届いたとしても、過度な見返りを期待せずに、感謝していただく―それが「人の供養を受けて、趣に自ら悩を除く」の意味するところです。人様からのいただきもの(供養の品)に対して、いただくときこそが、“貪り”という煩悩を断つ機会であり、“瞋いかり”の感情を調整する修行の場であったりするということなのです。そして、そうした人様から何かをいただいたときの自身の心の調整なり煩悩のコントロールをすることが、相手の善心(善意)という善き心を壊すことなく、大切にしていくことになるのです。


―物品のやり取り―

これも大切な仏道修行の一つだということを押さえておくとよろしいかと思います。

第37回「智者のあり方 ―“中道の食生活”を通じて―」

令和2年3月23日 更新

譬(たと)えば智者(ちしゃ)の牛力(ごりき)の堪(た)うる所の多少を籌量(ちゅうりょう)して分(ぶん)に過して以(もっ)て其(そ)の力を竭(つく)さしめざるが如し

新型コロナウイルス(COVID19)の話題が尽きぬ年度末となりました。毎年、この時期は新年度からの新たな生活を迎えるべく、引っ越し等に追われる人も多いのではないかと思います。限られた時間の中で、スムーズに新生活を迎えるためには段取りのいい引っ越し作業が求められるのは言うまでもありません。しかし、だからといって、事を早く済ませようと、トラックに大量に荷物を積めば、過積載となります。時間に追われ、作業を慌てれば、事故につながりかねません。そうした事態を避けるためにも、“4月1日から新生活が送られるように”というゴール地点を見据えた上で、事前に引っ越しの計画を立て、人手が必要であれば依頼しておくなど、準備をしておくことが大切であり、それが「智者」たる、智慧のある者の仕事のやり方であるということです。


これはお釈迦様の時代にも当てはまることだったようで、お釈迦様は「智慧のある牛飼いは自分が飼っている牛のスペック(状態)を熟知しているがゆえに、それに応じた形で、決して、無理させることなく、万全に力を発せられるように仕事をさせる」とおっしゃっています。それが今回の一句です。「多少の籌量」という、相手に応じた仕事量を計算することや、「分に過す」といった分不相応にならないように配慮することは、いずれもお釈迦様が常日頃からお示しになっている「中道(ちゅうどう)」という、どちらか一方に偏らない、一つのことに捉われない生き方を説いたみ教えと合致するものです。そうした相手の状況を見ながら、全てを相手にお任せし、こちらから強引に一つの方法だけを押し付けるようなことをしないのが、悟りを得た「智者」の生き方なのです。


今回の一句は、そうした智者たる者が食事をいただくときの心得を、譬えを用いて説いた箇所でありますが、お釈迦様は眼前の食事に対して、そこに使用されている食材の生産者や調理者の労苦にも思いを馳せ、感謝していただくのは勿論のこと、“食=薬”という観点を以て、自分の身心を養う程度にいただくことを説いていらっしゃいます。当然ながら、生産者たちの労苦を慮ることなく、貪るようにして食をいただくのを慎むことは必須です。


大切なことは「中道」というみ教えを考慮しながら、食をいただくということです。そして、それは食に限らず、何事にも通ずることなのです。

第38回「睡眠の捉え方① ―昼は勤心(ごんしん)に善法を修して!―」

令和2年3月2日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、晝(ひる)は即ち勤心(ごんしん)に善法(ぜんぽう)を修習(しゅじゅう)して時を失せしむること勿れ、初夜(しょや)にも後夜(ごや)にも亦廃(またはい)すること有ること勿れ

食に関するお釈迦様の遺誡が「睡眠」に関するものに展開していくのが今回の一句です。


お釈迦様はお弟子様方におっしゃいます。「日中は、悪を断ち、善を修することを意識して、一生懸命、仏道修行に勤しみなさい。決して、時間を無駄に過ごしてはならない。それは日中に限らず、明け方も夕方も夜も同じである。」と―「初夜」、「午夜」という言葉が出てまいりますが、以下の一覧表にまとめてみました。


初夜 夕方~中夜までの間(凡そ現在の18時~22時頃)

中夜 現行の22時~翌朝3時頃

後夜 現行の午前3時頃から4時頃

大本山等の修行道場において、修行僧たちはこの時間に起床し、朝の坐禅を行ずる。

それを「暁天(きょうてん)」という。

日中は怠けることなく道に生きることが、仏道を歩む人間の生き様であり、夜が更けても怠けることなく、明け方も早くから起床して、いただいたいのちを無駄にすることがないようにとお釈迦様はおっしゃっているのです。


若かりし頃の私は、様々な仕事や社会的な役割を果たしていく上で、一日を段取りよく過ごさなくては万事が上手くいかないことに気づき、朝は早くから起床し、日中は勿論、夜は遅くまで働くという計画を立てながら毎日を過ごしていた時期がありました。状況は今もさほど変わりないのですが、ただ、体力的な衰えは年々、身に感じられるようになっており、上記の表で言えば、中夜に入れば眠くなり、6時間は睡眠をとらなければ、後夜に起床することはできない状態です。睡眠時間の確保ということも調った日中を過ごしていく上で欠かせないことを痛感している今日この頃です。


瑩山禅師様は「坐禅用心記」の中で、「三不足(さんふそく)」ということをおっしゃっています。衣服・睡眠・食の三者が不足することなく調えられていることによって、人は怠けずにしっかりと毎日を過ごせるということです。今回のお釈迦様の遺誡は、そうした瑩山禅師様のお言葉の原点になっているように感じます。昼において、道に生きるということ、それも朝早く夜も遅くまで、一分たりともいただいた時間を無駄にせず過ごしていくには、夜は睡眠をしっかりとって、自らの健康を調えておくことが欠かせないということなのです。


お釈迦様は決して、睡眠を批判したり、睡眠時間を必要以上に削ったりするような生活を推奨しているのではありません。いずれの時間であれ、やるべきことをやらずに、怠けて眠り過すような生き方は慎み、休むときには休むことを説いていらっしゃるのです。


お釈迦様が重視されているのは「昼を勤心に善法を修する」ことです。それを実現可能にしていくことを最優先に考えたとき、どんな夜の過ごし方が必要になるのか、逆算すれば、どれだけの睡眠時間が必要となるのか、何時に起床すればいいのか、そうした「昼に善法を修する」ことを目的とした一日の過ごし方を明確にしておくことの大切さをお釈迦様はお示しになっているのです。


大切なことはいただいたいのちと時間を無駄に過ごさない生き方をすることなのです。

第39回「睡眠の捉え方② ―睡眠を貪ること無かれ!―」

令和2年日 更新

中夜(ちゅうや)に誦経(じゅきょう)して以て自ら消息(しょうそく)せよ。睡眠の因縁を以て一生空しく過して所得なからしむること無なかれ。

「お釈迦様のみ教えは“中道”でしかない」と強く断言しても過言ではありません。それは捉われないことであり、偏らないことです。ですから、食事をしないことや睡眠をとらないことは否定されます。逆に食べ過ぎや寝すぎもよろしくありません。そうした両極端ではない“ほどほど”の言動を発することが「中道」なのです。こうした中道の背景にはお釈迦様が、ご自身が35歳のときに坐禅修行を通じてお悟りを得るまでの6年間、断食等で身体を痛めつける苦行を経験なさったのですが、何も得るものがなかったことに由来するものなのでしょう。


前段において、お釈迦様は「日中に善法を修する」という生き方をお弟子様に遺誡なさっています。これは、昼間は仏のみ教えを念じ、道一筋に生きることを勧めたものです。こうした善法に生きるためには、衣服・食事・睡眠の三者が不足していてはなりません。すなわち、調った生活をしていく上で、衣食住がバランスよく調えられ、充たされていることが欠かせないということをお釈迦様はご自身の実体験も踏まえた上で、我々にお示しになっているのです。


そうした「善法を修する」ことを心がけていく上で、場合によっては中夜(現行22時~翌朝3時)に読経して過ごした方がよければそうすればよい、休息を取った方がよければ取ればよい、それぞれの時間の中でどう過ごすことが「善法を修する」ことにつながるかを、自分で考え実行していくことが、「自ら消息せよ」に込められたお釈迦様の願いです。「消息」とは、音信や手紙という意味もありますが、ここでは行動するか休みを取るかを自ら選択し、判断することを意味しています。


次に「睡眠の因縁を以て一生空しく過して所得なからしむること無かれ」とあります。睡眠の因縁とは睡眠の意味始め、睡眠による結果と捉えるべきでしょう。それらは既にお釈迦様によって示されていることです。お釈迦様はそれを今一度、踏まえ、「休むときは休み、活動するときはしっかりと活動して、昼間も眠りこけて、睡眠を貪るような堕落した生活を慎むこと」をお弟子様方に示し、我々に願っていらっしゃるのが、この一句です。


若い頃は徹夜や夜遅くまでの飲酒による短時間の睡眠でも翌日はがんばれましたが、加齢とともにそれが難しくなってきていることを感じずにはいられません。中には自分は大丈夫と思っている人もいるようですが、傍から見れば、ものの考え方や判断力にムラがあり、休息を取れていないときほど、疑問を感じるものを提示してしまうように見えます。睡眠の因縁を知り、寝すぎず、起き過ぎず、睡眠を貪ることがないように―。 

第40回「無常を観ずる」

令和2年4月15日 更新

当(まさ)に無常の火の諸の世間を焼くことを念じて、早く自度(じど)を求むべし。

仏道を歩む上で、この世が「無常」であることを理解・体得しておくことは必須です。「無常」とは、‟常が無い”とあるように、万事が変化していくということです。私たちが生かされている人間世界には‟時間”という存在があります。私たち一人一人が時間と関わりながら毎日を過ごしているがゆえに、生まれたいのちは成長する一方で、やがては老い、病を患い、死を迎えていきます。これが「無常」です。


よく言われるのは、我々日本人は「平家物語」に出てくる‟祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」というフレーズの印象が強いせいか、無常というと、寂しさや悲しさをイメージしてしまうようです。また、我々は変化に対して、大なり小なり抵抗を感じるようで、老いや死については、無意識の中で無変化を願い、マイナスのイメージを持ってしまうようです。


しかし、変化というのはマイナスばかりかと言えば、そうではありません。幼い子どもは様々な可能性を秘めながら成長し、それぞれの花を咲かせることができます。また、精進努力によって、芸術でもスポーツでも、色々な道を究めることもできます。これらはプラスの変化ではないでしょうか―?大切なことは変化についても、自分の価値観だけで好悪や良し悪しを決めずに、どんな変化も受け入れていくということです。プラスの変化ならば、それを支えにして、更なる成長を目指せばいのです。逆にマイナスだと感じる変化ならば、それを素直に受け止め、プラスに転じられる可能性があるならばそれを目指せばよいし、それが難しそうならば、現状の中で喜びや幸せにつながるものを見つけ出していけばよいのです。そうした姿勢を心がけて日々を過ごすことが大切であり、それが「無常を観ずる」ということなのです。‟感じる”ではなく、観音様の‟観”となっているのも大きな意味があります。それは無常という道理を広く見渡し、深く見通していく姿勢が大切だということです。


「無常を観ずる」ことができるかどうかは、仏道に限らず、我々の日常生活にも大きく影響していきます。時間は私たちを待ってはくれません。もちろん、私たちの身勝手な都合で止まったり、早まったりすることもありません。一定のペースで未来に進むだけです。そのことを熟知(我が身に念じ込んでいること)している者は、「今」を大切にしようとします。それは「今」が二度と帰ってこないことがわかっているからなのです。ですから、どんなに面倒だと思うことも後回しにせずに、「今」やるのです。その背景には無常という現実が大火の如く恐ろしいものであることに直面し、幾度も苦しいことを経験できた姿があるはずです。


そうやって無常という現実に何度も向き合う中で、人間はプラスの成長を遂げ、仏のお悟りに近づき、人生が充実していくのです。それが「自度」なのです。

第41回『煩悩の調整 -「stay home」中だからこそ!―』

令和2年4月26日 更新

睡眠すること勿(なか)れ、諸の煩悩の賊、常に伺って人を殺すこと、怨家(おんけ)よりも甚だし。

「睡眠すること勿れ」というお釈迦様のお言葉が、我々に対して眠ることを禁じているのではないことは、もはや言うまでもありません。「諸行無常」という仕組みを持った人間世界を生きていく上で、〝今〟という時間を大切に、1分たりとも時間を無駄にすることなく過ごすことで、人間は仏のお悟りに近づいていけるというのが、前回のお示しでした。ですから、「睡眠すること勿れ」は、「時間を大切にすることを心がけながら、惰眠を貪ってはいけない」ということであり、怠けてはいけないという「不退転(ふたいてん)」を説いたものであると捉えるべきでしょう。


そして、お釈迦様は人間誰もが有する「煩悩」について、触れていらっしゃいます。今一度、煩悩について、下記の一覧表で確認しておきましょう。煩悩は「三毒煩悩」と言い、人間が生きている限り無くすことのできぬ3つの毒のごとき厄介な存在です。


貪り むさぼり

自分の欲望をコントロールできなくなること

瞋り いかり     

自分の感情をコントロールできなくなること

愚かさ おろかさ

娑婆世界(人間世界)の道理・仕組みを自分勝手に解釈し、事実の通りに捉えようとしないこと


こうした三毒煩悩は我が身心を抑えきれなくなって他者のいのちを害したり、他者の所有物を強引に奪い去ったりするような賊のごとき存在です。そして、私たちの中に発生すれば、言葉や行いとなって、私たちの外に出て、周囲に害をもたらし、苦しみを与えていきます。煩悩の発生に定まったタイミングなどありません。毎晩12時になったら現れるというものではなく、いつでも発生し、人を苦悩の渦の中に巻き込んでいく可能性を秘めているのです。そして、それは「怨家」という、自分の敵よりも恐ろしい存在なのです。なぜならば、自分の敵は自分だけを狙ってくるのに対して、煩悩の賊はあらゆるいのちに害を与えていくからです。それは今、世界中を震撼とさせている「新型コロナウイルス(COVID19)」のような存在なのでしょう。


新型コロナウイルスによる感染症対策として、「stay home」ということが言われております。不要不急の外出を控え、自宅待機することで、感染症拡大を皆で防止しようという取り組みです。そうした自宅待機中、「煩悩」という観点で、これまでの自分を振り返り、自らの中に発生した煩悩を言葉や行いにして面に出さない方法を考えひとときを、こんな時期だからこそ、敢えて設けたいものです。これこそ、「煩悩の感染症拡大防止対策」と言えるでしょう。以前のような多忙が戻れば、そうした時間を取ることは至難の業です。そうやって、緊急事態宣言が解除され、以前のような日常が再開できたとき、少しでも多くの方が煩悩を調整しながら、よりよい毎日が過ごせることを願うばかりです。 

第42回「毒蛇・黒蛇のごとき煩悩 ―“異例のGW”をどう過ごす?―」

令和2年5月3日 更新

安(いず)くんぞ睡眠して自ら警窹(きょうご)せざる可(べ)けんや、煩悩の毒蛇(どくじゃ)、睡って汝(なんじ)が心(むね)に在り。譬(たと)えば黒蛇(こくがん)の汝が室に在って眠るが如し。

前段でお示しされた「三毒煩悩」(貪り・瞋【いか】り・愚かさ)は、我々一人一人の心の中に静かに眠っていて、いつ私たちの隙を見て姿を現すかわからない、毒蛇や黒蛇のごとき魔物のような存在であるとお釈迦様はおっしゃっています。まさにその通りです。三毒煩悩はどこか別の場所に存在しているのではありません。私たちの心の中に存在しているのです。その存在場所を自覚し、目覚めさせないようにしておくことで、我々の身心が調うのです。

 

昨年(令和元年)のゴールデンウィークは、改元もあってか、日本国中がお祝いムードで多いに盛り上がっていました。ところが翌、令和2年のゴールデンウィークはと言えば、新型コロナウイルス(COVID19)が終息する気配すらなく、緊急事態宣言の5月末日までの延長がほぼ確定といった状況です。「stay home」という言葉に言い表されているように、今年は日本中が去年どころか、これまでとは打って変わってのゴールデンウィークを過ごしております。

 

こうした状況下でこそ、これまでの自分たちがやってきたことを見直すいい機会ではないかという意見もあります。私もその賛成者の一人です。特に、これまで明確な理由もなく、〝昔からそうなっていたから〟という理由だけで行われてきた行事や組織運営、各種決まりごとなど、その存在意義を現代の視点で再確認し、必要なものは継続し、不要なものは改善していく機会が来たのではないかと思っています。

 

計らずも、今日は「憲法記念日」です。戦後、昭和22年(1947年)制定され、73年もの間、改正されることのなかった日本国憲法について、政府が2020年度中の改正を唱えながらも、コロナが猛威を振るい、それを引き留めているような感があります。そうした憲法改正のような大きな課題はともかくとして、私たちの身近なところには、見直すべきものが多々存在しているような気がします。

 

「stay home」のゴールデンウィークを過ごす中で、色々なことが頭を過ぎるのですが、この期間に三毒煩悩を放ったらかしにしたまま、惰眠を貪り、感情の赴くがまま怠惰な生活を送っているようでは、自分の身心が調うはずがありません。キャンプ場や公園で何者かが好き放題な使い方をして、食べ散らかした大量のゴミを片付けている方々の姿がテレビで放映されていました。こうした大自然を自分の好き勝手に荒らす節度を失った行為こそ、身心が調っていない行為と認めざるを得ません。異例のゴールデンウィークこそ、「三毒煩悩を眠らせる期間」と捉え、自分たちの身心を調えていきたいものです。

第43回「持戒の鉤もて、安眠の毎日を!」

令和2年21日 更新

当(まさ)に持戒(じかい)の鉤(かぎ)を以て早く之を屏除(びょうじょ)すべし。睡蛇既(すいじゃすで)に出(い)でなば乃ち安眠すべし、出でざるに而(しか)も眠るは是(こ)れ無慙(むざん)の人なり。

三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)の三者は、誰もが持っていて、生きている限り、完全に無くすことができません。お釈迦様はこの煩悩を「毒蛇」だとか、「睡蛇」であるとおっしゃっています。まさに猛毒のごとき人々を苦しめる存在であったり、あらゆる手段を用いて人々を怠けさせようとしたりする厄介者だということです。


そうした私たちの中に眠る魔物を表に出さないように手なずけてくれる‶鉤かぎ〟のごとき存在が「持戒」であるとお釈迦様はお示しになっています。戒とはお釈迦様のみ教えに従い、悪を断ち、善を修して日々を過ごすことです。お釈迦様はご自分の亡きあとは、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)(戒)を敬い、大切にしていってほしいとお弟子様たちに願っていらっしゃいます。そうした戒を日々の生活の中で意識し、実践し続けていくことが「持戒」です。


そうしたお釈迦様のお弟子様たちへの願いを、自分たちに対する願いと受け止めたいものです。私たちが持戒の日々を過ごしていくとき、自分の中に存在している睡蛇という厄介者の存在が屏除(いなくなること)され、いよいよ私たちに安眠がもたらされるとお釈迦様はお示しになっています。すなわち、自分を乱す存在がいなくなれば、安らかに過ごせるようになるというのです。そうした厄介者を表面化させないよう、‟見える化”ならぬ、‟見えない化”して、我が身心を調えていきたいものです。


そうした心がけを怠り、煩悩を放ったらかしにしたまま、身も心も調えようともせず、自分は大丈夫だと安心して毎日を過ごす人間を、お釈迦様は「無慙の人」と断じていらっしゃいます。これは悪事を働いているのに、恥じることなく過している人間を意味しています。


「無慙の人」と言われて、色々な人の顔が浮かんでくるかもしれませんが、まずは、自分自身が日々の生活を振り返り、「無慙の人」ではないかを確認しておきたいものです。その上で、持戒によって、安眠の毎日を過ごせることを願うばかりです。

第44回「慙恥(ざんち)の服の“必着”」

令和2年5月28日 更新

慙恥(ざんち)の服は諸の荘厳(しょうごん)に於(お)いて最も第一なりとす。慙は鉄鉤(てっこう)の如く、能く人の非法を制す。是の故に比丘常に当に慙恥すべし。暫(しばら)くも替(す)つることを得ること勿れ。

前段において、お釈迦様が我々に持戒(じかい)(お釈迦様のみ教えに従って、言葉や行いを調えていくこと)によって、身心を調え、安穏の毎日を送ることを願っていらっしゃることが確認できました。また、お釈迦様は自分の中の三毒煩悩(貪り・瞋【いか】り・愚かさ)を放置したまま、身心を調えようとしない人間を「無慙の人」(恥知らずの人間)と断じていらっしゃいました。それらを踏まえ、今回の一句を味わってみたいと思います。


まず、「慙恥の服は諸の荘厳に於いて最も第一なりとす」とあります。「荘厳」とは美しく装うことです。お寺の本堂には五色幕や黄金の仏具等がありますが、いずれもが本堂にありがたみを演出し、お参りする方々の心にやすらぎを与えてくれる欠かすことのできない「荘厳」です。また、日常生活の中で、服や装飾品等に気を配り、お洒落に着飾っている人はたくさんいらっしゃいます。これも荘厳と捉えることができるでしょう。


そうした様々な荘厳の中でも、お釈迦様が我々に装着を願うのが「慙恥の服」です。これは、「恥を知る」という服装です。“慙”には‶斬る〟とあるように、恥をかいて、心を切られるような思いをするという意味があります。また、恥には自らの言動をやましく感じるという意味が含まれています。持戒は何かの拍子に私たちを正道から外そうとしてくる三毒煩悩を手なずけ、調整してくれるみ教えで、まさに鉤のごとき存在です。そのことを強く自らに念じ込み、日々の生活の中で実践していくことが「鉄鉤」という、鉄のように固い鉤という言葉に込められているように思います。


そして、そうした「慙恥の服」を身にまとって生きていくことで、非法を制するとお釈迦様はおっしゃいます。悪を断ち、善を修することにつながるというのです。それゆえに「慙恥の服」は何があっても、脱ぐことなく、捨てることなく、身につけていてほしいとお釈迦様は願うのです。


そうした「慙恥の服」を意識すると共に、‶必着〟(必ず着るという意)して、毎日を過ごしてきたいものです。 

第45回「“人生の引き出し”を増やす」

令和2年日 更新

若(も)し慙恥(ざんち)を離(り)すれば、則(すなわ)ち諸(もろもろ)の功徳を失(しっ)す。有愧(うぎ)の人は則ち善法あり。若し無愧(むぎ)の者は諸の禽獣(きんじゅう)と相異(あいこと)なること無けん。

試しに、お釈迦様がお示しになっている「慙恥(ざんち)の服」(恥を知る)という荘厳を身にまとってみると、自分の過去の行いにハッとさせられ、大いなる反省をもたらされると共に、自分の行いを正しながら毎日を過ごしていこうという決意が沸き起こってきます。多忙な毎日を過ごす中で、ときに自分と心静かに向き合い、「慙恥の服」に袖を通す機会を設けていきたいものです。


我が人生を振り返ってみますと、赤面するような言動ばかりとっていたことに気づかされます。人様によく見られようと、無理に背伸びをして、却って反感を抱かれたこと。冷静に対処すれば済むことなのに感情的に出てしまい、周囲に不快感を与えたこと。時が逆戻りするのならば、やり直したいと思うようなことが多々あります。しかし、過去を悔いてもどうにもなりません。それよりもお釈迦様のみ教えに従って、善法に生きることを心がけていくことが大切です。そして、それが明るい未来を過ごすことにもつながっていくのです。


善法に生きてみると、あることに気づかされます。それは、お釈迦様のみ教えは人生の引き出しになるということです。引き出しとは対処法と言い換えることもできます。すなわち、私たちの悩みや困り事といった、人生を歩む上で必ず巡り合う苦悩を解決する方法です。「Aの方法でやってみたが、あまりうまくいかないので、Bの方法でやってみた。そうすると、成功した」という具合に、対処法が多ければ多いほど、私たちは冷静かつ安らかな気持ちで毎日を過ごすことができるのです。そして、そうした毎日が周囲に功徳(喜びや安心の提供)をもたらしていくのです。


ですから、お釈迦様は「慙恥を離すれば、功徳を失す」とお示しになっているのです。漸恥の服を着用した「有愧の人」は、恥を知って、善法を修するのです。それに対して、慙恥の服を着ない「無愧の者」は、恥を知らないので、善法を修することもなく、功徳を生み出すこともありません。まさに、禽獣(鳥や獣)と大差がないとお釈迦様はおっしゃっています。


そういう意味で、私たちが「慙恥の服」を着て過ごすことは、我が身心を調え、仏法と共に生きていくことであると言えます。そして、そうすることで私たちの“人生の引き出し”がどんどん増えていくのです。

第46回「瞋りの感情を調整する ―池袋自動車暴走事故に想うもの―」

令和2年6月13日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、若し人あり来って節節(せつせつ)に支解(しげ)するとも、当に自ら心を摂(おさ)めて瞋恨(しんごん)せしむること無かるべし。亦(ま)た当に口を護るべし、悪言(あくごん)を出(いだ)すこと勿れ。

―誰の中にでも存在している“毒蛇”・“黒蛇”のごとき「三毒煩悩」―今回より、その中の「瞋(いか)り」に関するみ教えが提示されていきます。


禅語コーナー第40回「破草鞋(はそうあい)」の中で、瞋りの感情をコントロールするのを不得手とするA氏の事例に触れさせていただきましたが、かく言う住職自身も瞋りの感情のコントロールは最も不得手とするところです。A氏の友人であるB氏のように、自分の感情を調整していけるよう、お釈迦様のみ教えから学び、失敗と成功を繰り返す毎日です。


瞋りの感情の調整について、お釈迦様は「若し人あり来って節節に支解するとも、当に自ら心を摂めて瞋恨せしむること無かるべし。」とお示しになっています。「節節支解」というのは、自分の身体をバラバラにすることです。何者かが現れて、刃で危害を加えるようなことがあろうが、心を深く傷つけられるような暴言を吐かれようが、自分の心を調えて、冷静になるように努め、瞋りや恨みの感情を面に出さないようにしていこう」とお釈迦様はおっしゃるのです。「口を護るべし、悪言を出だすこと勿れ」は自分の発する言葉に留意し、暴言を吐かないようにというお示しです。


誰しもこうした「節節支解」の加害者にも被害者にもなった経験は大なり小なりあるかと思います。明らかに被害者に非があれば、加害者側の言い分に共感を覚えることもありますが、加害者が瞋りの炎を激しく燃やしながら攻撃してくるのを、被害者側が静かに受け止め、謝罪の言葉でも発するならば、いくら被害者側に非があったとしても、多くの人は被害者に共感するでしょう。なぜなら、いくら正論でも、大声で罵倒したり、暴力を働いたりする場面は人々に不快感しか与えないからです。そのことを押さえ、今一度、自分の瞋りの感情を点検し、感情のコントロールを意識していきたいものです。


こうした感情のコントロールに留意しながら、辛いであろう毎日を一生懸命に生きていることが伝わってくる方がいらっしゃいます。2019年(平成31年)4月19日に発生した「池袋自動車暴走事故」で突然、妻子を亡くされた松永拓也さんです。事故の当日、いつも通りに妻子に見送られて会社に出勤、昼休みにはスマホのテレビ電話で通話をしたという松永さん。その後、事故が起こり、その通話が最期になるなどと、誰が思ったことでしょうか。


我が身であり、分身とでもいうべき妻子を失った松永さんにとって、この事故は「人あり来って節節支解するとも」という状況だったことは想像に難くありません。しかし、松永さんは、お釈迦様の「心を摂めて瞋恨せしむること無し」そのものと言わんばかりに、瞋りも恨みも決して、面には出しません。精一杯、感情をコントロールし、お二人の死を無駄にしないように、そして、同じ悲しみや苦しみを経験する人が出ないようにと、実名で交通事故を減らす活動を続けていらっしゃるのです。


この事故では、多くの人が松永さんに共感し、加害者の厳罰化を強く望んでいます。その背景には、「心を摂めて瞋恨せしむること無し」を貫く被害者のお姿があるように思います。一番、感情を露わにしたいのは松永さんご自身ではないでしょうか。それを思うとき、松永さんの意思に沿い、亡くなった真菜さんと莉子ちゃんが願うものは何かに思いを馳せながら、この事故を忘れることないよう、自身の瞋りの感情と向き合っていく姿勢を持たもち続けていきたいものです。 

第47回「恚心(いしん)を縦(ほしいまま)にしない ―“瞋り”と“厳しい言葉”の使い分けを!―」

令和2年6月1日 更新

若(も)し恚心(いしん)を縦(ほしいまま)にすれば、則ち自ら道(どう)を妨げ、功徳の利を失す。

「心(しん)を摂(おさ)めて瞋恨(しんごん)せしむること無し」(自分の心を調えて、瞋りや恨みの感情を表出させないようにしていく)という前段のみ教えを受け、今回の一句が提示されています。


「もし、瞋りの感情を自分のほしいままにして、調整することがなかったとしたら、どうなるのでしょうか―?」その答えは火を見るより明らかです。お釈迦様は「道を妨げ、功徳の利を失す」とおっしゃっています。どんなに善行に励み、世間からいい評判をいただいていたとしても、「たった一回の瞋りの感情を帯びた言動は、大火の如く、これまでの全てを焼き尽くし、元の状態に戻ることの妨げにさえなりかねない。」とお釈迦様はおっしゃっています。


そう言われて、ハッとさせられる方は大勢らっしゃるかと思います。私もその一人で、誰よりもこのみ教えを十分に我が身に念じ込んでおきたいと、日々の生活を振り返りながら反省させられるのです。振り返れば、「恚心を縦にして」と言わんばかりに、随分と瞋りの炎を燃やしては、周囲に不快感を与えてきたことが思い出されます。そして、自分の不始末の後片付けばかりしていたように思います。そうは言いながら、火事の記憶が完全に消え去ることもなければ、元のように原状復帰できたわけでもありません。何らかのしこりが残ったまま、今に至ることばかりなのです。それが「恚心を縦にする」ということであることを肝に銘じておきたいものです。


この「瞋り」に対して、「厳しい言葉」というのもありますが、両者は似て非なるものです。しかし、我々は、ついつい混同して捉えてしまいがちです。なぜなら、相手のためを思い、ついつい語気が強まると、怒っているように見えてしまうからでしょう。私はこの厳しい言葉というのは、大切だと思います。と申しますのは、人間は誰しも、自分に甘いところがあるため、優しい言葉で注意されても、ついつい自分に甘えてしまい、中々、問題点が改善できません。しかし、厳しい言い方で注意を受けると、ハッとなって、身が引き締まるのか、改善につながっていきます。それが厳しい言葉を大切だとする理由です。ですから、自分も発することもあれば、逆に、人様からいただいたならば、素直に受け止めなければならないと思っています。


とは言え、厳しい言い方は人を傷つけるのも確かです。そういう言葉を投げかけなければならない場面に出くわしたとき、言われる側の心情には必ず配慮することが大切です。そうした配慮の有無が「瞋り」か、相手を思いやるが故に発せられる「厳しい言葉」なのかを決定づけていくような気がします。表面的な言葉の温度だけに捉われず、状況に応じて、相手の立場に配慮した言動を提示していくことが、「恚心を縦にしない」ということなのです。そうやって、言動を発する側も発される側も妨害されることなく正しい道を歩み、功徳を積み重ねていくことができるのです。そのことを押さえ、身心を調えながら、毎日を過ごしていきたいものです。

第48回「有力(うりき)の大人(だいにん) ―“忍”を体得する―」

令和2年6月24日 更新

忍の徳たること、持戒苦行(じかいくぎょう)も及ぶこと能(あた)わざる所なり、能(よ)く忍を行(ぎょう)ずる者は乃(すなわ)ち名(なづ)けて有力(うりき)の大人(だいにん)となすべし。

知人と歓談しておりましたところ、毎週日曜日に北國新聞に掲載される「ほくりく散歩道」の話題となりました。これは、石川県出身の作家・子母澤類(しもざわるい)さんが北陸の様々な名所を訪れた折の体験談等を通じて、その地の魅力などを紹介するコラムです。先日は「大本山總持寺祖院(だいほんざんそうじじそいん)」(曹洞宗・石川県輪島市)が紹介されていました。總持寺は1321年に太祖(たいそ)・瑩山(けいざん)禅師様がお開きになった福井県の永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山です。1898年(明治31年)の火災で全山が焼失し、これを機に現地(横浜市鶴見区)に移転して100年余り。輪島の地には“跡地”を意味する「祖院」という言葉が付されたお寺が建てられ、現在も数十名の修行僧仏道修行に励んでいます。


そんな總持寺祖院で、ある早春の肌寒い日の朝、子母澤さんは朝課(ちょうか)(修行僧たちの朝の勤行)に参加されたそうです。厳しい寒さに耐えながら朝課に参加する子母澤さんの目に映るのは、極寒の本堂で寒さを面に出すことなく読経に励む僧侶方の姿でした。そんな光景に感銘を受けた子母澤さんでしたが、朝課が終わって、廊下を歩いていると、カイロが落ちているのに気づかれたそうです。「お坊さんも寒いのだな、とにんまりしながら、修行の厳しさを身近に感じた」と子母澤さんは、そのときの感想を率直に綴っていらっしゃいました。


修行僧について、子母澤さんのような見解をお持ちの方は大勢いらっしゃいます。これは、雪が降りしきる中、あるいは、太陽が燦燦と照り付ける中、寒さ・暑さをおくびにも出さずに過せるのは厳しい修行のなせる業だという捉え方です。ですから、僧侶が厳しい寒さの中、カイロを持って修行をしている姿に意外性を感じるのも合点がいきます。


こうした「仏道修行とは苦しみに耐え抜くことである」という一つの見解に対して、お釈迦様がお示しになっている仏道修行について触れられているのが、今回の一句です。忍という言葉が出てまいります。耐え忍ぶという意味を持った言葉で、仏教でも「忍辱(にんにく)」というみ教えもあります。


しかし、耐え忍ぶという字面通りの解釈でいくと、次の「持戒苦行も及ぶこと能わざる所なり」の内容と矛盾してきます。苦行とは自分の肉体を痛めつけるなどして、欲望を断ち、耐え抜くことを目的とした行です。出家間もないお釈迦様は6年間もの間、苦行に励んできました。しかし。お釈迦様はいくら苦行に励んで心の安楽を得られませんでした。苦行は自己を苦しめるだけで、何の解決にもならないことは、お釈迦様が実体験で証明なさっています。そんな苦行よりも徳のある忍とは何かを考えてみたとき、「耐え忍ぶ」というよりは、「受け入れる」とか、「認める」という解釈が妥当であることに気づかされるのです。


人間誰しも有する三毒煩悩の一つに「愚かさ」があります。何よりもの愚かさはこの世の道理を認めないことでした。時間の流れが存在しているがゆえに万事が変化していくこと。自分とは異質の存在と関わっていかねばならないがゆえに思い通りにならないこと。そうしたこの世の現実や道理を素直に受け入れ、認めていくことが「忍」なのです。


そして、そうした「忍」が体得できている人間を「有力の大人」であるとお釈迦様は断じてらっしゃいます。これは力量のある偉大な人物を意味しています。仏道修行とは、寒い日には寒さに耐え、暑い日には暑さに耐えられるといった、苦難に強い人を育てるためのものではありません。自分がご縁をいただいて生かされているこの娑婆世界(忍土にんどともいう)の仕組み・道理を認め、冷静に対処できるようになることが、仏道修行なのです。すなわち、寒い日は寒いのを認め、不満を言動に表すことがないようにしていくということなのです。


現実は私見を交え、不満を表出させるものではなく、受け入れていくものであることを我が身に念じ、「有力の大人」を目指していきたいものです。

第49回「甘露(かんろ)を飲む ―“有力(うりき)の大人”を目指して―」

令和2年日 更新

若(も)し其(そ)れ悪罵(おめ)の毒を歓喜(かんぎ)し忍受(にんじゅ)して、甘露(かんろ)を飲むが如くすること能(あたは)ざるものは、入道智慧(にゅうどうちえ)の人と名づけず。

「忍」というのは、「耐え忍ぶ」とか、「我慢する」といった捉え方をするよりも、現実を受け止めていくという解釈をすべきであるというのが、前段でのみ教えでした。私見(自分勝手なものの見方・考え方)を混ぜ込むことなく、事実を事実のままに捉えながら、たとえ自分の思い通りにいかなかったとしても、不平不満を言葉や態度に表さないようにしていくことができる人間を、お釈迦様は「有力の大人」とお示しになっています。そんな人間性を是非、身につけていきたいものです。


そんな「有力の大人」について、今回の一句は、もう少し具体的に捉えていくために読み味わっておきたいものであります。まず、「悪罵の毒を歓喜し忍受して、甘露を飲むが如くすること」とあります。悪罵(自分に対する文句や罵り)は、深く心を傷つけられるものであり、できるだけ避けたいものです。しかし、お釈迦様は、たとえ悪罵であったとしても、歓喜(喜んでいただくこと)し、忍受(受け入れること)するようにとおっしゃっています。「甘露」とは、不死を得る飲料水で、それを比喩化して、涅槃(悟りの境地)を意味する言葉として使われています。「たとえ自分にとって、耳障りで辛辣なことであっても、悟りに到達する飲み物と捉えて、喜んで飲み込むことができなければ、入道智慧(悟りを得た人)の人とは言えない」とお釈迦様はおっしゃっているのです。そして、そうした人間が「有力の大人」ということなのです。


ここで、みどり園(仮名)における「通信誌」作成にまつわるエピソードをご紹介させていただきます。あるとき、園の業務内容を世間の人々にお伝えすべく、園だよりの作成が提案され、上田次長(仮名)を中心とした4名の職員チームが誕生。そのチームを中心に、年に2回の発刊を目指し、スタートしました。3年後、年に2回の発刊は守られてきたのですが、上田次長中心に職員の息切れが始まりました。自分たちの業務外での園だより作成に対する負担、ネタ切れ等、息切れの理由は幾多もありました。しかし、上田次長の中には「何とかしてこの閉塞的な状況を打破し、読みごたえのある園たよりを作りたい。」という思いがありました。そのためには、これまでのたより作成の過程で何か不備はなかったか、頭を悩ましていた上田次長に声をかけてくれたのは、前職で通信誌作成の経験がある部下の職員・田中さん(仮名)でした。


田中さんは多少、歯に衣着せぬ言葉を発しながらも、上司である次長に園だよりの問題点や改善方法を訴えました。多少耳障りが悪く思える田中さんの言葉でしたが、上田次長は一句一時聞き漏らすことなく、しっかりと耳を傾けて聞きました。上田次長は耳に痛い言葉も黙って受け止めると共に、自分が上司だとか、相手が部下だとか上下を意識するような差別的な捉え方さえもありません。田中さんの意見に対して、即座に対応するのは難しいとはいえ、上田次長は一つ一つ受け止めながら、よりよい通信誌作成に向けて、再出発する決意ができたのです。


こうした上田次長のような生き様が「有力の大人」なのです。そして、「有力の大人」は、辛いことも苦しいことも、全てを大切なご縁と受け止めることができるので、常に成長していくのです。そうやって、仏の世界に入り、智慧(仏のものの見方・考え方)が身についていくのです。 

第50回「瞋恚(しんい)の害、猛火よりも甚だし」

令和2年7月15日 更新

所以(ゆえ)は何(い)かんとなれば、瞋恚(しんい)の害は、則ち、諸(もろもろ)の善法(ぜんぽう)を破り、好名聞(こうみょうもん)を壊(え)す、今世後世(こんせごせ)の人、見んことを喜(ねが)わず。当に知るべし、瞋心(しんじん)は猛火(もうか)よりも甚(はなは)だし。常に当に防護して、入(い)ることを得(え)せしむること勿(なか)るべし。

前段で「有力(うりき)の大人(だいにん)」という言葉が登場しました。これは我が身に降りかかる善いことも悪しきことも、甘露(かんろ)を服するがごとく、全て受け止め、プラスに解していくことができる人間を意味しています。そうした力を有しているからこそ、仮に瞋恚(怒り)始め、貪りや愚かさといった「三毒煩悩」が自分の中に生じたとしても、それを調整し、表面化させないようにしていくことができるのです。


ところが、そうでない人間は「瞋恚の害」を発生させてしまいます。そうなるとどうなっていくのでしょうか。まず「諸の善法を破る」とお釈迦様はおっしゃいます。すなわち、たった一回の怒りであったとしても、その影響を受け、これまで積み重ねてきたものが全て崩れ去っていくとお釈迦様はお示しになっています。「好名聞」とは、世間によき評判が広まることで、それも、たった一回の怒りによって壊れてしまうとお釈迦様はお示しになっています。


これはいつの時代にも当てはまることです。昔も今も、頻繁に怒りの感情を表出させる者との関わりは誰もが避けることを願うでしょう。恐らく、この先もそうでしょう。それが「今世後世の人、見んことを喜わず」の意味するところです。


そのことをも踏まえた上で、「当に知るべし」とお釈迦様は私たちに強く伝えようとなさいます。「瞋心は猛火よりも甚だし」と―瞋恚の害は大火以上の脅威であるというのです。だからこそ、「常に防護して入ることを得せしむること勿るべし」なのです。誰もが火災が起こらないよう、火に注意しますが、それと同じように、瞋りの感情で周囲を焼き尽くすことのないようにとお釈迦様は我々に願っていらっしゃるのです。


金沢市内には子どもの火遊びによって、本堂と500体の仏様が全焼したご寺院様がございます。本堂の復興だけでも至難の業でしょうが、加えて500体の仏様の復興もあるので、大変なことは想像に難くありません。そんな一大事業を当時のご住職様とお弟子様(次期ご住職様)が中心となって、檀信徒の方々のお力もお借りしながら、25年で見事に成し遂げられ、今に至るとのことです。このエピソードを耳にする度に、私は大きな感銘を覚えると共に、火災の恐ろしさ、伽藍復興の大変さが身に染みるのですが、猛火という災害から完全に元に戻るにも多くの労力と長い歳月が必要となるのに、瞋恚による害からの復興、好名聞の再取得というのは、並大抵のものではありません。むしろ、不可能であるというくらいに捉えておいた方がよろしいようにも思います。


となると、私たちはどうすればいいのでしょうか。答えは一つです。「怒りの感情を言葉や態度に出さないように気をつけていく」のです。中々、難しいことではありますが、私自身、これを我が身に十分に刷り込みながら、毎日の生活の中で留意していきたいと思っています。

第51回「人を導く」

令和2年8月2日 更新

功徳を劫(かす)むるの賊は瞋恚(しんい)に過ぎたるは無し。白衣受欲非行道(びゃくえじゅよくひぎょうどう)の人、法として自ら制すること無きすら、瞋猶(しんな)お恕(なだ)むべし。

いくら善行を重ね、好評判を得ていたとしても、たった一回の“怒り”によって、一瞬して崩れ去っていくことがあるとお釈迦様はおっしゃいます。「功徳を劫むるの賊」とありますが、“劫”には、“劫略ごうりゃく”という言葉があるように、奪い去っていくという意味があります。あたかも盗賊が宝物を奪い去ったり、凶悪殺人犯が自分の感情をコントロールできず、他者のいのちを奪い取ったりするようなもので、怒りの感情を表出させることは、他者を苦しめ、恐怖感を与えるものであることを、私たちは肝に銘じておかなくてはなりません。


次に「白衣受欲非行道の人」とあります。これは一言で申し上げるならば、「在家の方」です。インドでは行道の人(仏道修行者)が色のついた着物を着るのに対して、非行道の人(在家の方)は白い着物を着ていたそうです。そこから白衣は在家を指すわけですが、そうした一般在家の方が自分を制することなく、怒りの感情を表出させることは、大目に見てもよいだとお釈迦様はお示しになっています。“恕”は、“同情”だとか、“寛大な対応”ということです。


そうした出家と在家で違いが生ずるのは、やはり、出家者には戒律(かいりつ)という守るべきものがあるからでしょう。曹洞宗における十六条戒(じゅうろくじょうかい)の中に「不瞋恚戒(ふしんにかい)」があることを、今一度、再確認しておきたいところです。出家者たる者、解放を順守できてこそ、その名に相応しい人材と言えます。そして、在家の方は、そんな出家者の姿を見習いながら、感情の調整を心がけていただければよろしいかと思います。


実際に自らの感情を調整し、怒りを表出させないようにしていくことは、そう容易いことではありません。特に何度注意しても道を踏み間違える人間には、多少、厳しい言葉や態度を用いなければ、改善していかないのも確かです。


しかし、本当はそうした怒りの感情に頼っていても、人を導くことはできないのです。自分の仏法を行ずる姿で、周囲を正しい方向に導けるようになることがベストなのです。自分の修行不足のために、自らの生き方で人を導くのが難しいからと、ついつい怒りの感情に頼るのかもしれませんが、それではいけません。自らの生き様を調えながら、周囲を導いていくことで、自他共に仏に近づいていくことを願うのです。

第52回「瞋(いか)りと向き合う ―清涼(しょうりょう)の雲に霹靂(へきれき)の害!―」

令和2年13日 更新

出家行道無欲(しゅっけぎょうどうむよく)の人にして、而も瞋恚(しんい)を懐(いだ)けるは甚だ不可なり。譬えば清涼(しょうりょう)の雲の中に霹靂火(びゃくりゃくひ)を起こすは、所応(しょおう)に非ざるが如し。

お釈迦様のみ教えを受け継ぐ仏弟子たるもの(出家行道無欲の人)、人を教え導く上で、いくら相手が素直にこちらの言葉を聞き入れることができなかろうが、反発してこようが、自らの怒りの感情を表出させることなく、仏の如く仏法を行ずる姿で以て、教え導いていくことが求められるとお釈迦様はおっしゃっています。まさに、「瞋恚(怒りの感情)を懐けるは甚だ不可なり」なのです。


それは、譬えてみるならば、「清涼の雲の中に、霹靂が起こる(急に激しい雷が発生すること)のようなものである」とお釈迦様はおっしゃいます。それまで清々しい青空のように、穏やかな雰囲気が漂っていたところに、突然、怒りの落雷が発生すれば、清々しい空気が一変して、どんよりとした不快な空気が漂い始めます。たとえば、日常会話や会議の場等で、和気あいあいとした雰囲気が漂う中で、誰かが怒り出すことで、空気が乱れ、一瞬にして静まり返ってしまうようなものです。


こうした経験は誰しも味わったことがあるのではないかと思います。その場に相応しい空気がある中で、過度の怒りなど、その場に相応しくない言動は、突如として、その流れを大きく変える力を発揮します。そうした全体の空気を個人の感情だけで一変させてしまうような言動は、出家者としては「所応に非ざるが如し」、慎むべきであるとお釈迦様はおっしゃっているのです。


今回に限らず、こうしたお釈迦様のみ教えに触れたとき、是非、自分自身に引き当てて考えていく習慣を身につけたいものです。自分は周囲の雰囲気を一変させるような言動をとったことがなかったかどうか―。私自身、振り返るに加害者にもなり、被害者にもなったことが思い出されますが、むしろ、加害者の立場に立つことの方が多かったと反省させられるばかりです。


自分の言動一つで、周囲の空気を一変させてしまうことがあります。どうか、自分の中に存在する三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)をきちんと調えて、言葉や行いにして表に出さないようにしていきたいものです。こうして仏遺教経を味わっていくと、お釈迦様がお亡くなりになる直前に、三毒煩悩の中でも、「瞋り」に着目し、その感情を調整することについて、幾度も我々にお示しになっていることに気づかされます。この点を重視し、特に、自分の怒りの感情と向き合いながら、調整していくことを日常生活の中で、習慣化させていきたいものです。

第53回「出家者の姿 -髪を剃り、壊色(えじき)の衣を着す理由わけ―」

令和2年8月3日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、当に自ら頭(こうべ)を摩(な)づべし。巳(すで)に飾好(しきこう)を捨てて、壊色(えじき)の衣を着(ちゃく)し、応器(おうき)を執持(しゅじ)して、乞(こつ)を以て自活(じかつ)す、自見是(じけんかく)の如し。若(も)し憍慢起(きょうまんおこ)らば、当に疾(はや)く之を滅すべし。

「弟子たちよ」―お釈迦様は再びお集まりになっているお弟子様方に語りかけます。「自ら頭を摩づべし」と―


「摩」には、「磨く」という意味があります。「自分の頭を磨く」ということですから、「髪を剃るということ」になるわけですが、ここで、剃髪(出家した僧侶が髪を剃って坊主頭にすること)の理由がお釈迦様より示されているのです。人間は髪の毛があれば、ついつい自分をかっこよく見せたいがために、髪をセットして、髪形を作りますが、それは髪に対するこだわりや執着でもあるのです。出家者はそうした観点に立った上で、髪を剃り落してしまうのです。「飾好を捨てる」とは、そうしたオシャレをして、自分を着飾らないようにすることであり、目立たないよう過していくことを意味しているのです。


次にお釈迦様は「壊色の衣を着す」とおっしゃっています。壊色というのは、「色を壊す」とあるように、赤や黄色といった派手な原色に黒や青を混ぜて、原色を壊す(薄める)ことで、「中間色」を指しています。こうした中間色は派手な印象を薄め、目立たないようにしていくことに一役買っています。出家者たるもの、原色を避け、中間色たる「壊色」の着物を身につけ、髪形同様、オシャレに自分を着飾らないようにとお釈迦様はおっしゃっているのです。


そして、「応器の執持」とあります。応器というのは、修行僧の所持品のひとつである「応量器おうりょうき」と呼ばれる食器のことです。ご本山等では、修行僧は自分たちの応量器を使って、作法に従いながら三度の食事を仏道修行としていただきます。また、托鉢という修行がございます。これは、お釈迦様以前から、古くインドで行われてきたご修行で、説法によって人々の苦悩を救うことができたならば、その御礼として、布施物(食)をいただくというものです。応器は修行者が一般の方からいただいた食を入れる器となるわけですが、仏の道を歩みながら生きていく者にとって、応器を執持しながら、自活していくこともまた、頭を摩づ(剃髪)ことや、壊色の衣を身につけること同様に、欠かすことができない行いであるということなのです。


こうした僧形が完成して身体の調整ができたならば、次は心の調整です。憍慢の心が起こり、自分の心が調整できなくなるようなことになれば、早く調整することを心がけるようにとお釈迦様はおっしゃいます。憍慢は奢り高ぶることであり、尊大ぶることです。これは出家者としてあってはならないことですが、一般人も同じで、できるだけ憍慢の心を慎み、自分と向き合い、自らの心を調整する習慣を持つことが大切であることには変わりありません。

第54回「憍慢(きょうまん)の戒め ―自分に酔わない―」

令和2年9月6日 更新

憍慢(きょうまん)を増長するは、尚お世俗白衣(せぞくびゃくえ)の宜(よろ)しき所に非ず。何(いか)に況(いわ)んや出家入道(しゅっけにゅうどう)の人、解脱(げだつ)の為(ため)の故に、自ら其の身を降(くだ)して而も乞(こつ)を行ずるをや。

奢り高ぶり、尊大な態度で周囲と接することを、お釈迦様は「憍慢」という言葉で表現なさっています。憍慢であることは世俗白衣(一般在家)においても宜しいことだとは言えませんが、まして、出家したものならば、決して、あってはならない態度であるとお釈迦様はお示しになっています。「自ら其の身を降して」とありますように、「遜へりくだる」謙虚な姿勢が求められるというのです。これは出家者ほど求められる態度であるとも言えるでしょう。


一体、人間はどんなときに憍慢になるのでしょうか。たとえば、出世したり、何らかの役職を拝命したりするなど、地位を得たとき、人間は尊大になりやすいような気がします。それまで同等の立場だったのが、周囲との間に上下関係が芽生えると、人の上に立つ者は、自ら注意を怠れば、尊大な態度が言葉や行いになってにじみ出てしまうものです。だからこそ、人の上に立つ者は、この点に留意しながら、周囲と接する必要が出てくるのです。


また、「慣れ」も留意しなければならない憍慢のように思います。自分に与えられた仕事や役目について、真剣に取り組んでいくと、成熟し、成果が出てくるようになります。そうやって慣れてくると、その人の存在は重宝され、組織の中においても、重要な存在なることでしょう。しかし、「慣れ」が“狎れ”になるようではいけません。たとえ役職のない者であったとしても、人間は重宝がられていれば、いつしか礼節を欠いた態度を取るようになってしまいます。これも憍慢ということです。


地位による憍慢、慣れによる憍慢。他にも憍慢を探せば、いくらでも該当するものは出てくるでしょう。また、私たちにも思い当る節があり、反省を促されるものもあるでしょう。こうした憍慢に共通するのは、自分に酔い痴れ、周囲の存在を見下す態度です。仏教の戒律の中に「不酤酒戒(ふこしゅかい)」とあります。自分を酔わせる酒を飲んだり、他者に飲ませたり、あるいは、売買等をしないということではありますが、「不酤酒戒」が我々に説こうとしているのは、自分に酔わないということなのです。何よりも自分を酔わせ、周囲に迷惑をかけるような悪い酒は、地位を得た自分、周囲から羨望のまなざしを一手に受ける自分です。それらは自分を憍慢にさせ、自分を酔わせる可能性を秘めているのです。


そんな状況になったときこそ、自分を律し、自分に酔わないようにしていくことが大切です。それが憍慢を増長させない秘訣なのです。

第55回「諂曲(てんごく)の戒め -心の調整・慈悲の育成―」

令和2年9月14日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、諂曲(てんごく)の心(しん)は道(どう)と相違す。是の故に宜しく応(まさ)に其(そ)の心を質直(しつじき)にすべし、当(まさ)に知るべし、諂曲は但(た)だ欺誑(ごおう)を為すことを。

前回、お釈迦様は「憍慢(きょうまん)(驕り高ぶること・尊大な態度)」を慎み、「自らの身を降して」謙虚に生きていくことをお示しになりました。


憍慢に引き続き、お釈迦様がお示しになるのは「諂曲の戒め」です。「諂曲」とは、「媚びへつらうこと」です。“諂”は、“へつらう”を意味し、他者に気に入られようと、心にもないことを言うなどして、媚びを売ることを指します。そうした「諂曲」という心構え・態度が、仏の道に相反するものであるとお釈迦様はおっしゃいます。だから、心を「質直(正直)」にして、媚びへつらいといった嘘を慎むようにとお釈迦様はお示しになっているのです。


そのようにおっしゃられると、誰もが合点がいくのではないかという気がいたします。しかし、いざ、自分自身の日常を見つめなおしてみたとき、「諂曲」という態度が全くないかと言われれば、多くの人がそうではないことを認めざるを得ないのではないかという気がします。かく言う私自身もその一人です。


「諂曲」という態度で、人と関わってみると、虚しさを覚えます。相手に媚びると、最初は相手も気をよくして、会話が盛り上がるかもしれません。しかし、本心からではない嘘の会話は、たちまち言葉が出なくなり、会話の流れが止まります。そして、相手にも媚びていたが故の言葉であったことが伝わります。「欺誑を為す」とありますが、「あざむく」とか、「だます」ことを意味しています。こうした本心からではない言葉のやり取りをしているようでは、人間同士の信頼関係など築けるはずがありません。そのことを肝に銘じておくようにとお釈迦様はおっしゃっています。


場合によっては、自分が接する相手は自分よりも目上の人であったり、年長者であったりすることがありますが、相手が誰であれ、「諂曲」という、欺誑の態度で関わることを慎み、本心からの会話を心がけていきたいものです。この本心というのは、お釈迦様のお言葉をお借りするならば、「道と相違しない言葉」ということになるでしょう。それは、相手の立場に立って、相手を思いやる慈悲の言葉です。そうした言葉を発していくには、慈悲心を育てていくことが欠かせません。


お釈迦様始め道元様や瑩山様は坐禅による心の調整をお示しになっていますが、そうした調心を心がけていくことが、慈悲心を育て、諂曲の戒めへとつながっていくのです。私自身、今一度、この「諂曲」み教えを肝に銘じ、周囲の人々と道に相違しないように関わっていきたいものです。

第56回「端心(たんしん)・質直(しつじき)を本(ほん)と為す」

令和2年20日 更新

入道の人は則ち是の処(ことわり)なし。是の故に汝等宜(なんだちよろ)しく応(まさ)に端心にして質直を以て本と為すべし。

「諂曲(てんごく)」という、人に媚びへつらうことに対する戒めがお釈迦様より為されています。これは、相手を騙し、欺くことに他なりません。だからこそ、お釈迦様は戒められるのです。そして、それは、言うまでもなく、入道の人(仏の道に入った者)たる者ならば、慎むべき態度であるとお釈迦様はおっしゃっています。


お釈迦様が戒められた「憍慢(尊大で横柄な態度)」と「諂曲」という言動に注意を払って、周囲の人々と関わっていくと、随分と人と関わることが心地よく、楽しくさえ感じられるようになるものです。人間の感情は、その時その時の状況で変化するもので、私自身、40年弱の人生を振り返ってみると、周りには負けまいと、随分、強気になっていた時期があったことが思い出されます。自分の存在が忘れ去られていくことだけは避けたい、また、そうなることが寂しくて怖かったのでしょう。それゆえに、まさにお釈迦様がおっしゃるような「憍慢」な人間になっていたように思います。そんな自分に気づいたとき、自らの言動を反省すると共に、肩ひじ張って強がるのをやめて、素直で謙虚な態度を心がけながら周囲と接してみるように心がけました。すると、会話に笑いが増えたり、表情に笑顔が出るようになったりして、随分と人と関わることが楽しくなってきたのです。


尊大で横柄だったからこそ、周囲が不快感を覚えて、警戒するのです。そうなってしまうと、周囲の人々とのトラブルが増え、人と関わることが苦痛にさえ感じるようになるのです。つまり、自分が「憍慢」とか、「諂曲」という態度を取ることが、自己を苦しめることになるのです。だから、お釈迦様は慎むようにとおっしゃるのです。そのことをしっかりと押さえておきたいものです。


そして、私たちが目指すべきは、「端心にして質直であること」です。心をきちんと調えて正しておくこと(端心)、そして、正直であること(質直)。この2つを心がけていくことが、周囲とのトラブルを減らし、穏やかな日常へとつながっていくのです。自分の心を偽って、取り繕うのではなく、正直と謙虚さを心がけながら、毎日を過ごすことを願うばかりです。 

八大人覚(はちだいにんがく)

第57回「少欲(しょうよく) “欲望の蠢(うごめ)きを真理に的中させる”」

令和2年9月2日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、当(まさ)に知るべし。多欲(たよく)の人は利を求むること多きが故に苦悩も亦また多し。少欲(しょうよく)の人は無求無欲(むぐむよく)なれば則ち此(こ)の患無(うれいな)し、直爾(ただち)に少欲(しょうよく)すら尚(な)お応(まさ)に修習(しゅじゅう)すべし、何(いか)に況(いわ)んや、少欲の能(よ)く諸(もろもろ)の功徳を生ずるをや。

今回より仏遺教経は「八大人覚(はちだいにんがく)」と呼ばれる箇所に入っていきます。これは、大人(だいにん)(仏道修行を成就させた仏)が踏み行う8つの徳目(み教え)です。お釈迦様はお弟子様を通じて、後世を生きる我々に少しでも「八大人覚」のみ教えに生き、仏に近づくことを願われたのです。


そんな八大人覚のトップバッターとして、まず、お釈迦様がお示しになるのが「少欲」です。お釈迦様は少欲に対して、「多欲」という言葉も用いられていますが、両者を比較しながら読み進めていくと、よりお釈迦様のみ教えが味わい深くなってくるように思います。


「汝等比丘、当に知るべし」―お釈迦様はお弟子様方に語り掛けられます。

「多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦多し。」と。「自分の欲望を調整できないものは、自分の利益ばかりを追求するために、苦悩が尽きない。」とお釈迦様はおっしゃいます。それに対して、「少欲の人は無求無欲なれば則ち此の患無し」―「欲望の調整を心がける者は、苦悩が少ない」とお釈迦様はお示しになるのです。


お釈迦様が我々凡夫に対して、お示しになっていることの一つに「三毒煩悩の調整」があります。これは、当HPでも幾度も取り上げてきたことで、三毒(貪り・瞋【いか】り・愚かさ)が自分の中に発生したならば、言葉や行いにして表に出さないようにしていくということでした。この三毒は誰しも有するものであり、人間が生きている限り、決して、無くすことができません。お釈迦様は「無求無欲」とおっしゃっていますが、これは、「欲望を完全に消滅させることをよしとする」ものではなく、「過度に求めることを慎むこと」を意味していることを押さえておきたいものです。


この三毒の中における“貪り”の調整というのが、「少欲」です。すなわち、「少欲」というのは欲望のコントロールを意味しているのです。お釈迦様は縁起えんぎ(全ての存在がつながり、関わり合っている)という真理をお悟りになりましたが、自分の欲望をコントロールすることがないままに、周囲の存在と関わっていくことは、周囲を苦しめていきます。


しかし、その半面で、欲望を完全になくすことは生きている限り、不可能であると共に、欲望の中には私たち人間が生きていく上で欠かすことのできない欲望が存在していることも否定できません。たとえば、食欲や睡眠欲といった存在です。これらを調整して、表出させないようにすることなど、不可能というよりは、決して、行ってはならないことでしょう。


では、少欲のみ教えを通じて、お釈迦様は我々に求めていらっしゃるのでしょうか。臨済宗の古老であります故・松原泰道老師(1907-2009)老師は、著書「遺教経に学ぶ 釈尊最期のみ教え」(平成15年 大法輪閣)の中で「欲望の蠢(うごめ)きを真理(道)に的中する営みにしているかどうかが大切である」とおっしゃっています。この観点こそが、お釈迦様が我々に求めていらっしゃる「少欲」であり、「少欲」を捉えていく上で欠かすことのできない重要なポイントです。自分の中に発した欲望が周囲で関わっている存在始め、自分自身を苦悩させているようならば、「直爾に少欲を修習すべし」とあるように、真理に的中できるような欲望の発し方を目指すべきでしょう。そうすることで、「諸の功徳が生ずる」のです。つまり、周囲も自分も幸せをかみしめ、喜びに満ちた毎日を過ごせるようになっていくというのです。


以上を踏まえて捉えていくならば、私たち人間が生きていく上での課題とは、この無くすことのできない三毒煩悩といかにして関わっていくかということになります。そして、それは周囲を苦しめるような欲望ならば、“自分の中で自覚して調整し、表出させない”ことが求められるということなのです。 

第58回「六根の調整 ―“欲望の蠢(うごめ)きを真理に的中させる”べく―」

令和2年10月5日 更新

少欲(しょうよく)の人は則ち諂曲(てんごく)して以て人の意を求むること無し。亦復諸根(またしょこん)の為に牽(ひ)かれず。

少欲(自らの欲望を調整し、周囲に苦悩を与えないようにしてく)のみ教えについて、前回は故・松原泰道老師(1907-2009)の「欲望の蠢(うごめ)き真理に的中させる」という見解を参考に味わわせていただきました。「真理に的中させる」ということは、少欲という「欲望をコントロールしながら毎日を過ごしていく生き方」そのものが、仏道修行であり、仏の生き方であると捉えることができます。ということは、日常生活における少欲行の積み重ねによって、我々は仏に近づいていけるということなのです。


そうした『欲望を真理に的中させるように調整できる者ならば、「諂曲」という態度で周囲と接することはない』と、お釈迦様はおっしゃいます。諂曲は相手に媚びへつらうことでした。すなわち、相手の地位・肩書や性別等、見た目でわかる情報に捉われ、相手との関わり方を意図的に変えることを意味しています。「諂曲」という周囲との関わり方では、相手と本音で接することなどできません。これは、結局、相手を欺いていることなのです。自分の利益を最優先して、相手に好かれようとか、相手に気に入られようといった、「人の意を求める」態度は慎み、相手が誰であれ、誠実かつ謙虚に関わっていきたいものです。


次に「諸根の為に牽かれず」とあります。「諸根」は、これまで幾度も取り上げられてきた「私たちの六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」を意味しています。自分だけが救われたいと願えば、六根もそういう働き方をしてしまいます。逆に、六根自体が「真理に的中させる」ことを意識した使い方を心がけていくならば、そういう働き方をしていくのです。私たちが目指すべきは、言うまでもなく、後者の真理に的中させる六根の働かせ方です。そうすることによって、少欲の生き方が実践できるようになるのです。


そんな生き方を目指す上で、まずは、自らの六根を確認し、必要があれば、その調整から始めていきたいものです。

第59回「心にゆとりを持つ」

令和2年10月12日 更新

少欲を行ずる者は、心則ち坦然(たんねん)として憂畏(うい)する所無し。事に触れて余り有り、常に足らざること無し。

坐禅によって、私たちの姿勢が調えば、心も穏やかになっていきます。これが坐禅のもたらす「調身」・「調心」です。心が調うというのは、心の中の心配事や不安要素がなくなって、冷静になれたり、穏やかな気持ちになれたり、自信が持てるようになったりすることです。それは、不安定だった心が安定してくるということでもあります。


地震が発生すると、揺れが収まるまでの間、どうなるのかと心配になるように、自分の足下が不安定で、おぼつかないことは、人を不安にさせます。心配事さえなくなれば、私たちの心の中から不安要素がなくなり、安定して落ち着くことができるのですが、そのことに気づくことができれば、心配事を引き起こす原因を早目に対処してなくすことによって、不安定な心が安定していくのです。それが「調心」であり、これこそが私たちの目指すべき心の状態なのです。そして、それが「坦然」という言葉が意味するところなのです。「坦」は「平坦な状態」で、心の中に憂えることや心配事、苦悩することがなく、余裕さえある状態です。


この余裕こそが必要です。それは、決して、自信に満ち溢れる余り、傲慢で横柄な態度を醸し出すことではありません。周囲を思いやり、気を配れるだけのゆとりを持つことなのです。人間は誰よりも自分が大切であり、自分に危害が及べば、自分の身を守ろうとしてしまいます。そんな習性を有していることが悪しきことでもあるかのように、周囲への気配りが行き届かない人間がいれば、その言動を批判するような場面が見受けられることもありますが、自分たちの性についてあれこれ論ずる以前に、我々一人一人が自分の心を坦然に調え、ゆとりを持てるように心がけていくことが大切なのです。


そうした心がけが基本となって、「少欲」という欲望の調整が実現されていくのです。そして、「足らざること無し」とあるように、心にゆとりがあることによって、次に示される「知足(ちそく)」のみ教えにもつながる「不平不満の解消」や「足るを知り、感謝の念を持って過ごす」こともつながっていくのです。

第60回「少欲ある者は涅槃(ねはん)あり -“少欲の生き方”を目指して―」

令和2年1018日 更新

少欲ある者は涅槃(ねはん)あり。是れを少欲と名(な)づく。

お釈迦様は「大人(だいにん)(仏道修行を成就させた仏)が踏み行う8つの徳目(み教え)」である「八大人覚(はちだいにんがく)」のトップバッターとして示された「少欲」についてお示しになってまいりましたが、今回の一句はその最後となる箇所です。ここでは、「少欲ある者は涅槃あり」とあります。お釈迦様は自らの欲望を調整できる者には、涅槃がある」とおっしゃっています。


「涅槃」に関しましては、これまで幾度も触れてきた仏教用語です。世間一般には2月15日のお釈迦様のご命日ちなみ、そのご遺徳を偲んで営まれる「涅槃会」が認知されているかと思いますが、この場合の涅槃は、「聖者・釈尊の死」を意味します。


こうした「涅槃=覚者の死・肉体の生滅」という捉え方は、お釈迦様がお亡くなりになってから百年~二百年後、そのみ教えに対する人々の解釈の相違から、いくつもの諸派・部派に分裂していく中で生じたものです。こうした派に分かれた仏教は「部派仏教」と呼ばれますが、ここでは、覚者の死たる涅槃は「無余依涅槃(むよえねはん)」と呼ばれています。


それに対して、「有余依涅槃(うよえねはん)」というのは、三毒煩悩(貪り・瞋いかり・愚かさ)を滅した状態、すなわり、私たちが自分の中に三毒煩悩が生じたことに気づいたとき、それを言葉や行いにして表に出さないよう、自分の心を調えていくことを意味する涅槃です。


こうした部派仏教における涅槃の解釈も、時代が進み、中国や日本に仏教が伝わった西暦紀元前後の大乗仏教の時代には、さらに分化されていきます。有余依涅槃や無余依涅槃に加え、「本来自性清浄涅槃(ほんらいじしょうしょうじょうねはん)」(一切の存在が元来より真理や仏の性質を有しているという解釈の涅槃)」や「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」(迷いや涅槃、生と死、どこにも住するところのないという解釈の涅槃)といった見解も登場し、現在に至っています。


それらを踏まえ、今回、お釈迦様がお示しになっている涅槃を解釈していくならば、「有余依涅槃」、すなわち、「三毒煩悩を滅した状態」という立場の涅槃であると解せばよろしいかと思います。前回、「心坦然として」とございましたが、心にゆとりを持ち、三毒煩悩を調整しながら、我が身心を調えていくことを、お釈迦様は「少欲」と名づけなさったということなのです。


私自身、日常を振り返ってみますと、毎日の生活に追われ、心に余裕を持てずにいる場面が多々あることに気づかされ、反省するばかりです。心にゆとりがないことが原因となって、三毒煩悩を帯びた言葉や行いの発出につながっていることは確かです。以前、ある講演会で、「忙しいというのは、心を亡くすことだ」と教えていただいたことがあります。何かと気ぜわしい生活を送る我々は、日々の忙しさの中で、心を亡くしていないだろうか、心にゆとりを持つスペースを持てずにいるのではないか、よくよく自分自身と向き合いながら、確かめておきたいものです。そうやって、心を失うことなく、心のゆとりを意識的に作り出し、「少欲」の生き方を目指していきたいものです。

第61回「知足(ちそく)を観ずる -分別を避ける―」

令和2年10月25日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足(ちそく)を観ずべし。知足の法は即ち是れ富楽安穏(ふらくあんのん)の処(ところ)なり。

少欲(しょうよく)(心にゆとりを持ち、自らの三毒煩悩を調整していくこと)の次に、お釈迦様がお示しになっているのが「知足(ちそく)」です。これは世間一般でも、“足るを知る”とあるように、何事に対しても“満足できること”とか、“感謝できること”という意味で使われています。


そんな「知足」について、お釈迦様は最期を迎える瞬間、お弟子様に何を語られたのでしょうか。それを「仏遺教経」のみ教えを手がかりに、仏教の観点から味わっていきたいと思います。


本文を見てみますと、お釈迦様は「人生のあらゆる苦悩から救われたいと願うならば、知足を観じなさい」とお示しになっています。「諸行無常(しょぎょうむじょう)(万事が時間と関わるがゆえに、生老病死等の変化を受け入れていかねばならないこと)」や「諸法無我(しょほうむが)(様々な存在との関わりの中で、思い通りにならない現実を受け止めていかなくてはならないこと)」とあるように、私たちが生きる人間世界には様々な苦悩が満ちています。そんな世界の中で生きていくには、出来得るだけ、我が身を苦悩から遠ざけておかなければ、生きること自体が辛くて困難なだけのものになってしまうことでしょう。そうなってしまうと、生きる気力が芽生えてこなくなるのです。


そこで、お釈迦様は「知足を観ずること」が欠かせないとおっしゃるのですが、この「知足を観ず」とは、どういうことなのでしょうか。そもそも「観」は、「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)様(観音【かんのん】)様」の「観」であり、訓読みすれば、「観(み)る」となります。私たちは、自分の目で周囲の様々な存在や情報を見るときに、自分の好みや価値観に捉われ、“好き・嫌い”等の分別を生じさせ、どちらか一方だけの価値を認めるような、偏ったものの見方をしてしまいがちです。しかし、それは凡夫のものの見方であり、悟りを得た仏様のものの見方は、そうではありません。万事の価値を認めるような見方・関わり方をしていきます。それが「観る」ということなのです。そして、そうしたものも見方が「仏眼ぶつがん」だとか、「智慧(ちえ)」であり、そうした見方を以って知足を捉え、日々の生活の中で実践していくことが、「知足を観ず」ということなのです。


「知足を観ずる」ことができるようになると、たとえ、どんなに辛くて苦しいことがあっても、そこから逃げず、事実として受け止めることができるようになるはずです。また、自他を比較して、他者を羨望のまなざしで見ることがなくなり、自分は自分でいいと自己に満足できるようにもなるはずです。こうした捉え方は、自己の中に生じた貪りの心が調整され、心が満たされた状態です。それから、今まではマイナスと思っていたご縁(苦手な人との関わりや嫌な仕事を行うことなど)にプラスものを見出すことができるようにもなります。そうやって、あらゆるご縁に感謝できるようにもなるのです。


心が満たされ、何事にも感謝することができれば、「富楽安穏」の境地が訪れるのは言うまでもありません。これは自分の身心が安らかで穏やかな状態になることを意味しています。私たちは心にゆとりをもつことで、欲望が調整されていきます。また、私たちは心が満たされていくことで、足ることを知ります。そうやって心を調整しながら毎日を過ごしていくことによって、私たちは仏に近づき、日常生活の苦悩が安楽へと変化していくのです。


そうした日常生活が訪れることを願うとき、自分の好みで、周囲を分別するのをやめ、万事に価値を認め、大切にしていける視点を養うことが求められることを、今回は押さえておきたいところです。 

第62回「不知足の戒め」

令和2年1日 更新

知足(ちそく)の人は地上に臥すと雖(いえど)も、猶(な)お安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処(しょ)すと雖も亦(ま)た意(こころ)に称(かな)わず。

大本山永平寺様や大本山總持寺様のような修行僧が大勢いる禅寺では、それぞれが担当すべき役割が割り当てられ、お寺が運営されています。A僧侶はお寺の檀信徒接待係、B僧侶は修行僧の食事作り担当、C僧侶はお寺の伽藍修繕係といった具合に役が配られることから、これを「配役」と申します。あたかも映画やテレビドラマのキャストのごときものです。


時折、芸能人がオファーのあった役が自分に合わない等の理由で断ったという話を聞くことがありますが、禅寺においては、依頼された配役を自分の都合で断ることは、基本的に許されません。それは、たとえ、どんなに不本意な配役であったとしても、嫌な顔せずに受け入れ、黙々と務めさせていただくことが禅僧には求められるということです。


仮に不本意な配役であったとしても、それを演じ切るためには、自分の心を調え、楽しく、気持ちよく務められるようにしておく必要性が出てきます。それに対する解答の一つを、お釈迦様がお示しになっている「知足」が指し示していることに注目すべきです。


「知足の人は地上に臥すと雖も、猶お安楽なりとす」とお釈迦様はおっしゃいます。地上とは冷たくて固い地面の上です。そんな場所で休息を取るように勧められても、身体が休まらないと思って、拒否する人も出てくるでしょう。


しかし、それが「不知足の者」だと、お釈迦様は戒めなさるのです。足るを知り、何事にも感謝の意を忘れずに過ごせる「知足の人」ならば、たとえ冷たくて固い地面の上であっても、自分なりに何か安眠できる方法を考え、実践してしまうのです。知足の者は自分が思う条件と合わないからといって、拒んだり、文句を言ったりするようなことはしないのです。


それに対して、「不知足の者」は、「天堂に処すと雖も亦た意に称わず」とあるように、安楽この上ない天堂(天上界)にいても、何らかの不平不満を言葉や態度に示すものだとお釈迦様はおっしゃるのです。


こうした「不知足の者」は私たちの周りにも該当者がいるような気がしますが、まずは、自分自身が「不知足の者」と言われんばかりに、何に対しても、感謝することができず、不平不満を言葉や態度に表していないだろうかを、よくよく考えておきたいところです。試しに自分の日常を振り返ってみると、知らず知らずのうちに、不知足この上ない言葉や態度が出ていることに気づかされ、ハッと反省させられることがあります。禅僧が不平不満を表すことなく、自分の配役を務めるように、私たちも人からの依頼や、自分がこなすべき仕事・役目に対して、快くお引き受けし、気持ちよくつとめさせていただくことが大切です。「知足」のみ教えを通じて、そうした心構えを学び、日常生活の中で留意して過ごしていきたいものです。 

第63回「知足の発見 -お釈迦様の成道(じょうどう)―」

令和2年11月12日 更新

不知足の者は富めりと雖(いえど)も、而(しか)も貧しし。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は常に五欲の為に牽(ひ)かれて、知足の者の為に憐愍(れんみん)せらる、是れを知足と名づく。

「知足」というみ教えについて、今回も足るを知らぬ“不知足の者”と対比させながら、説き示されています。こうした対比を通じて、教えをいただく側は、自己の日常を振り返りながら、不知足の言動を省み、知足の生き方を目指していけるようになるような気がいたします。


「不知足の者は富めりと雖も、而も貧しし」-「足るを知らぬ者は、裕福なのに、満足する方法を知らないがために、その心遣いや人間性が貧しい」とお釈迦様はおっしゃっています。


それに対して、「知足の人は貧しと雖も而も富めり」とあります。「足るを知る者は、どんなに貧しい生活を送っていても、人間性が豊かで、心遣いも温かい」とお釈迦様はおっしゃっているのです。


誰しも立派な豪邸に住み、大金を持ち、使用人を雇い、ご馳走をいただき、高級品に囲まれた生活をしてみたいと思った経験があると思います。しかし、いざ、そんな何不自由ない裕福な生活を送ってみると、必ずや虚しさを覚えるときがやって来るのではないかという気がします。そして、その虚しさが仏のお悟りへとつながることもあります。


それを証明してくださっているのがお釈迦様です。お釈迦様は幼くして実母を亡くされたがために、母のぬくもりを知らぬものの、将来の国王という地位を保証され、何不自由ない生活を送っていました。ところが、青年期に差し掛かった時、お城の窓から外を眺めると、自分と同じ人間がある者は老いの苦しみを味わっていたり、また、別のある者は病気の苦しみの真っ只中であったり、また、別のある者は死の苦しみを味わっているという、私たち人間が誰しも経験する生老病死の現実を目の当たりにされ、苦悩されたといいます。そして、お釈迦様は、その苦悩から救われたいという一心で、将来の保証された地位や裕福な生活を捨て、一修行者としての道を選ばれました。お釈迦様が29歳のときです。初めは自分の身体を痛めつけるなどして苦悩に耐える修行を行っていたお釈迦様でしたが、6年後、35歳の12月8日の明け方、坐禅修行を通じて、ついに悟りを得るまでに至りました。これが「成道じょうどう」です。


たとえ裕福な生活であったとしても、そこに自分が合点し、満足したり、感謝の意を表したりすることができない限り、不平不満を生み出しかねません。そのことをお釈迦様はご自身の体験を通じて体得されたからこそ、「知足」というみ教えが生み出されたのではないかという気がします。思うに、坐禅修行を通じて、悟りを得たお釈迦様は、このとき、足るを知る“知足の者”となられたのではないでしょうか。そして、過去のご自身を“不知足の者”と捉え、憐愍(憐みの目で見られること)なさったのではないでしょうか。「不知足の者は常に五欲の為に牽かれて、知足の者の為に憐愍せらる」とあります。五欲というのは、私たちの五根(眼・耳・鼻・舌・意)から生ずる五つの欲望です。いつも五欲に捉われては、足るを知らぬまま、いつまでも人間として成長することのないまま、その人間性も深まっていかないのです。だから、足るを知る者から憐愍(憐みの目で見られること)されるです。


こうやって見ていくと、お釈迦様の成道というのは、「知足の発見」だったのではないかという気がしてまいります。このことに気づいたとき、仏教のみ教えの縦横無尽の深さに触れ、全身に衝撃が走るのを覚えたのです。

第64回「遠離 -クマにご用心!?―」

令和2年11月1日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、寂静無為(じゃくじょうむい)の安楽を求めんと欲せば、当に憒閙(かいにょう)を離れて、独処(どくしょ)に閑居(げんご)すべし。

悟りを得た仏(大人【だいにん】)の為すべき行いとしてお釈迦様がお示しになっている「八大人覚(はちだいにんがく)」。その三つ目として示されているのが「遠離(おんり)」です。一つ目の「少欲」、二つ目の「知足」同様、この後、お釈迦様よりその内容が喩えを用いながら、詳しく説明されていきます。


日頃、周囲の存在と関わっていく中で、自分を混乱させ、三毒煩悩を発生させるようなものと出会ったときに、そこから一旦距離を取り、自分の身心を穏やかに調えてから、再び、周囲のとの関わりの中に戻っていくことが「遠離」の指し示すところです。


「遠離」のみ教えを味わっていく前に、本文に出てくる言葉を見ておきます。「寂静」とは「涅槃」のことで、一切の迷いや妄想から離れた心穏やかなる境地を意味します。「無為」は様々な執着から離れた自由無碍の状態です。また、「憒閙」は心が乱れ、騒々しい様を言い表し、「閑居」はそうした乱雑な場から距離を置いて心静かに過ごすことです。


私たちの周りを見渡してみると、人や動物、事件や事故等の出来事など、自分の身心を混乱させてくる存在が多々あることに気づかされます。たとえば、最近の注目度の高い出来事の一つである「クマの出没による人的被害の問題」がそうです。石川県内では山間の福祉施設の職員さんがクマの被害を受け、大けがをなさいました。最近は野良犬や野良猫など、街中で野生動物を見る機会も少なくなったこともあり、野生動物を見慣れていない我々現代人にとって、尚更、クマに出逢ったときの衝撃や混乱は想像を絶するもののような気がします。もし、私自身の目の前にクマが現れたならば、冷静さを保つ自信はありません。だからこそ、クマへの注意喚起が必要になると共に、自分がクマに出逢ったときの対処法も普段から考えておく必要があると思います。たとえば、必要がなければ、クマの出やすい山間には近づかない、行く必要があるときは、鈴など、高音を発して、クマを近づけないようにする道具を持参するなどの対策を取ることが大切です。こうした対策を取ることが「遠離」なのです。


クマを始め、自分の身心をかき乱す存在に対して、自分の身心を静寂に調えてから関わることが「遠離」なのですが、以前、十数年、福祉職の現場に奉職している知人のY氏が「どんなときも相手と静かに話し合うことが大切だ」とおっしゃいました。この言葉をお聞きしたとき、私は「遠離」のみ教えを思い起こすと共に、どちらかと言えば、感情的になって周囲と関わってきた自分自身を反省させていただきました。それ以降、つとめて冷静な言葉や態度を心がけていますが、それを教えてくれた自分よりも若いY氏には只々、感謝するばかりです。ふっと日本の小説家・吉川英治氏(1892-1962)名言・「会う人、出会うもの、すべて我が師なり。」が思い出されますが、日常生活の中には、至る所にお釈迦様のお悟りやみ教えが存在しています。それを見つけ出す眼を養い、自分に苦悩が訪れたとき、救いを求められるようになりたいものです。

第65回「遠離の人 -帝釈諸天(たいしゃくしょてん)も敬重(きょうじゅう)する者とは・・・?-」

令和2年11月22日 更新

静処(じょうしょ)の人は、帝釈諸天(たいしゃくしょてん)の共に敬重する所なり。是の故に当に己衆他衆(こしゅたしゅ)を捨てて、空閑(くうげん)に独処(どくしょ)して、滅苦(めっく)の本(ほん)を思うべし。

11月に入り、再び新型コロナウイルスが猛威を振るい始めました。これから冬に向かう中で、一体どうなるのか、誰もが不安な毎日を過ごしていますが、私たちの周りを見渡せば、自然災害やミサイル、殺人鬼に交通事故と、コロナのように、自分の身心を混乱させ、冷静さを失わせる存在は数え上げればきりがないような気がします。そうした存在があることを知った上で、もし、自分の眼前に現れるなどして、自分と関わることになった場合をある程度は想定し、冷静に対処できる策を予め準備しておくことが大切になってくるように思います。そうすれば、脅威の存在に対して冷静に関わっていくことができるでしょう。それが、お釈迦様がお示しになっている「遠離(おんり)」なのです。


そうした「遠離」が実践できる者(遠離の人)は、帝釈諸天でさえもが敬い、尊重する存在であるとお釈迦様はおっしゃっています。帝釈天は仏法の守護神です。自らの中に発生した三毒煩悩を表出させることなく、自らの身心を調え、どんな状況であっても、冷静に言葉・言動が提示できる「遠離の人」に対して、人は安心感を覚え、全幅の信頼を寄せますが、それは人のみならず、仏教の世界における神様も同じであるとお釈迦様はおっしゃっているのです。


だからこそ、「己衆他衆を捨てて、空閑に独処して、滅苦の本を思うべし」とお釈迦様はおっしゃいます。「己衆他衆を捨てる」とは、己衆(自分や自分の身内)がどうだとか、他衆(他人との関わり)がどうだと、自分と周囲の関係に対して、心を乱し、冷静さを失った言葉や態度を発しないようにすることです。日々の生活の中で、人でもモノでも、何かと関わるとき、自分が心乱れることがないよう、冷静さを保つことが大切です。それが「空閑に独処する」の意味するところです。それは、たとえてみるならば、静かな空間で、誰にも心乱されることなく、落ち着いて過ごすようなものです。


そうやって「滅苦の本を思うべし」とお釈迦様はおっしゃるわけですが、自分を混乱させ、苦しめる存在に対して冷静に関われるよう、その本(対処法)を考えておくようにということです。とにかく、「遠離」ということが、日常の自分のあり方となるよう、自分の身心を調え、できるだけ混乱することがないよう、冷静に過ごすことを目指していきたいものです。

第66回「大樹(だいじゅ)の衆鳥(しゅちょう)、どう関わる??」

令和2年11月2日 更新

若(も)し衆(しゅ)を楽(ねが)う者は衆悩(しゅのう)を受く、譬(たと)えば大樹(だいじゅ)の衆鳥之(しゅちょうこれ)に集れば、則ち枯折(こせつ)の患(うれい)あるが如し。

「遠離」のみ教えをお示しするに当たり、お釈迦様は2つの例え話を用いていらっしゃいます。今回は一つ目のとなる「大樹の衆鳥」に関するお話です。


常に生きようとして地面に根を張る木々は、強風や刃など、外部から何らかの力を加えない限りは、倒れることはありません。これは人間であれ、動物であれ、いのちを有する者すべてに当てはまる特性なのでしょう。そんな特性を有する大樹(大きな木)を倒すほどの大きな力を持った存在となるのが、衆鳥(鳥の大群)です。衆鳥が大木に宿れば、葉を散らせ、枯枝は折れ、やがては木を倒して、そのいのちを奪うことにもなりかねません。


そんな大樹の衆鳥のごとき存在が私たちの周囲にはたくさん存在しています。たとえば、新型コロナウイルスが蔓延し始めた頃に、世間の人々を混乱させた“トイレットペーパーがなくなるという噂やデマ”がそうです。こうした根拠なき情報が人々に不安を与え、冷静さを失わせてしまうのです。


こうした自分を混乱させる存在に対して、いくらその存在がなくなることを願っても、消え去ることはありません。また、そうした存在を批判し、責め立ててみたところで、自分の苦悩が解消してくわけでもありません。大切なことは、そうした存在との正しい関わり方を身につけていくということです。すなわち、自分を混乱させたり、不安にさせたりするような存在は何かを知った上で、そうした存在に出逢ったときには、静かに距離を取り、自分の冷静さを保持した上で、関わっていけばいいのであり、それが「遠離」ということなのです。そして、日常的に「遠離」のみ教えと共に生きていくことが、人間的な成長となり、お釈迦様へと近づいていくことになるのです。


自分に不安を与え、混乱させてくる存在に対して、私たちは感情的になってしまうことがありますが、そうやって騒いでみたところで、何も解決しません。自分が冷静さを保ち、不安が解消できるような距離感を掴んで、関わっていくことを心がけていきたいものです。

第67回「老象が自力で泥沼を出るとき」

令和2年1月2日 更新

世間の縛著(ばくじゃく)は衆苦(しゅく)に没す。譬(たと)えば老象の泥(でい)に溺(おぼ)れて、自(みずか)ら出(い)づること能(あたわ)ざるが如し。是(こ)れを遠離と名(な)づく。

新型コロナウイルス感染拡大の中で発生した“トイレットペーパーがなくなる”というデマを一例に挙げてみてもわかることですが、人間は不安や焦り、怒りといった感情によって冷静さを失ってしまうと、どんな行動に出るかわかりません。普段では考えられないくらいの量のトイレットペーパーを一人で買い占めてみたり、品物がないからといって店員さんに暴言を浴びせたりと、感情的になっている者の周囲では、トラブルや争いが発生し、関係者全員が苦悩を味わうことになります。「世間の縛著」というのは、そうした私たちの日常生活の中で発生するトラブル等の諸問題で、それらは私たちを縛り付けて自由に行動する機会を奪うと共に、「衆苦に没す」とあるように、私たちを苦悩の渦の中に巻き込んでいきます。


このことを、お釈迦様は再び明快な譬えを用いながらお弟子様方にお示しになっています。前回は「大樹(だいじゅ)の衆鳥(しゅちょう)」という、大木に集う鳥の大群での喩えでしたが、今回は「老象の泥に溺れて、自ら出づること能ざるが如し」とありますように、泥沼にはまって、自力で脱出を試みようにも、できなくなっている老いた象の喩えを用いて、「遠離」をお示しになっています。自分の感情をコントロールしない限り、トラブルの渦中から脱出することができず、苦悩が付きまとうだけだとお釈迦様はおっしゃっているのです。


もし、今、何らかのトラブルの渦中にいて、苦悩する日々を過しているとするならば、一旦、その場から距離を取って、冷静に自分を振り返ってみることをお勧めします。「何が原因でトラブルが発生したのか」、「自分の言動に何か反省点はないか」、「そもそも自分が原因を作ったのではないか」。一人冷静に考えるべきポイントが多々見えてくることでしょう。あたかも老象が泥沼の中でじっとしているように、自分と向き合ってみるのです。そして、自分の中で何らかの回答が見えてきたとき、再びトラブルが起こっている関わりの中に戻り、解決の方向へと進めていくのです。そうした流れを問題が解決するまで根気よく繰り返していくのです。そうすると、老象は泥沼から自力で脱出できるのです。それが「遠離」なのです。

第68回「精進 ―少水の常に流れて、則ち能く石を穿(うが)つが如し―」

令和2年12月13日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、若し勤めて精進すれば、則ち事として難き者なし。是の故に汝等当(まさ)に勤めて精進すべし。譬(たと)えば少水の常に流れて、則ち能く石を穿つが如し。

「八大人覚」の四点目としてお釈迦様が提示なさっているのが「精進」です。これについても、これまでと同様に明快な譬えを用いながら、説き示されています。


そもそも「精進」は「お釈迦様のお悟りに向かって、ひたすら仏道修行に励むこと」を説いたみ教えです。『どんなに困難と思われるような一大事であろうとも、掲げた目標の達成だけを思って、毎日を過ごしてほしい。そうすれば、「事として難き者なし」、どんなことでも達成できる。』とお釈迦様はおっしゃいます。だから、『「当に勤めて精進すべし」と、「精進」をしっかりと念頭に置いて、毎日を過ごしていただきたい。』とお釈迦様は我々に願われるのです。そして、そうした生き方が「勤心に善法を修す」ということにもつながっていくのです。


しかしながら、我々人間は、何か目標を掲げ、その達成に向けて日々取り組んでいく中で、上手くいかない場面に出くわせば、「自分には無理なのか」などと思い込んで、諦めたり、別の道を目指そうとしてみたり、怠けて時間を無駄に費やしてしまうことがあります。確かに、道を究めること自体が困難を伴うものです。しかし、だからと言って、「自分には無理だ」と思うのも、決めつけであり、思い込みであり、そうした考え方が道を究める上での障害になるのも確かです。大切なことは「できないと思い込まない、決めつけない」ということなのです。


また、精進していこうという気持ちはあるのに、周囲の環境が調わず、自分の思うように事が進められないこともあります。令和2年が間もなく終わろうとしていますが、新型コロナウイルスに翻弄された一年だったように思います。このために、これまで普通に行われていた法要や法話が中止を余儀なくされ、令和2年における私がご依頼をいただき、実現できた法話の場は3回という、16年前の駆け出し時代よりも少ないという結果になりました。今年は年頭に布教のテーマを掲げ、計画書も作るなど、強い意気込みを持って、布教教化に臨みましたが、“コロナ”という外部の要因によって、事として進めることができませんでした。


こういう事態に陥ったとき、私は「風車、風の吹くまで昼寝かな」という広田弘毅・第32代内閣総理大臣(1878-1948)の一句を思い起こすようにしています。そうやって過ごしてみるとどうでしょう。布教に関連するネタ探しなど、実はやるべきことがたくさんあることに気づかされ、そうした布教の準備に今まで以上に時間をかけることができた一年となりました。そして、そのことに対して、随分と達成感を覚えたものです。こうしたことは、いざ追い風が吹いてきたときに、ゆっくり時間を取ってやろうとしても難しいことばかりです。むしろ、今のような向かい風が吹いているときにこそ、準備に時間をかけて、いざというときにスムーズに動き出せるようにしたいものです。そうやって、少し視点を変えれば、様々なものが見えてくることを再確認させていただきました。


だから、どんな状況になっても、諦めてはならないのです。怠けて時間を無駄に浪費するようなことがあってもいけません。少しでもいいから、諦めずにやり続けていくことによって、必ずや、一大事たる目標が達成できるのです。お釈迦様がおっしゃる「少水の常に流れて、則ち能く石を穿つが如し。」というたとえこそ、是非、肝に銘じておきたいものです。ほんのわずかな量の水でも、流し続けていれば、硬い石が割れるときがやって来るのです。


新型コロナウイルスもイギリスやアメリカでワクチンが開発されるなど、コロナの感染防止対策は日々、着実に進んでいるのを感じます。これも「精進」のなせる業です。こうした仏道の世界で示されている「精進」を、普段の仕事など、日常生活にも生かしていくことを願うばかりです。 

第69回「“全集中”で進む」

令和2年12月19日 更新

若し行者(ぎょうじゃ)の心数々懈廃(こころしばしばげはい)すれば、譬えば火を鑚(き)るに未だ熱からずして而(しか)も息(や)めば、火を得んと欲すと雖(いえど)も、火を得(う)べきこと難(かた)きが如し。是れを精進と名づく。

令和2年の流行語大賞トップ10にも選ばれ、社会現象ともなっている大ヒットアニメ「鬼滅の刃」。その中で使われている代表的な言葉に、“全集中の呼吸”というのがあります。これは、人食い鬼を狩る力を持った剣士の集団である“鬼殺隊”が身につけておくべき特殊な呼吸法です。著しく強化された心肺によって、一度に大量の酸素を血中に送り込み、筋肉を強化させて瞬間的に身体能力をアップさせる特殊技能で、そこから様々な剣術も生み出されていくようです。


こうした技術を習得していく方法は修練以外になく、才能は無関係だそうです。これぞ、まさにお釈迦様がお示しになっている「精進」そのものであり、前回の「少水の常に流れて、則ち能く石を穿(うが)つが如き」という喩えともピッタリと符合することに気づかされます。


そんな「精進」について、今回、お釈迦様は二つ目の喩えを提示して、お示しになっています。それが「火を鑚るに未だ熱からずして而も息めば、火を得んと欲すと雖も、火を得べきこと難きが如し」です。“鑚”には、“キリ(穴をあける道具)”だとか、“火を得る”という意味があります。原始時代の人々が木と木を擦り合わせて、火を起こしていましたが、これが“鑚”です。現代はマッチやライター等を使って簡単に火を起こすことができます。しかし、原始時代の火起こしは、方法が限定されている上に、その方法自体が、少しでも手を緩めれば、結果を得られないものでもあります。たとえどんなに手が疲れようが、「火を起こすという目標が達成できるまで」は、木と木を擦り合わせ続けなくてはならないのです。「精進」というのは、そういうものであるとお釈迦様はおっしゃるのです。


「行者の心数々懈廃すれば」とあるのは、仏道修行者が自らの仏道修行が限界に達したと思い込んで、道を歩むのを諦めることです。そうやって進むのを止めれば、後退し、目標の達成が困難であることは言うまでもありません。自分が掲げた目標を達成させたいと願うのならば、火が起こるまで木を擦るがごとく道を歩むしか方法はないのです。


ちなみに、“鑚”を用いた熟語に“研鑽”という言葉があります。どんなことがあっても諦めずに学び続けることです。これも「精進」に他なりません。それぞれに歩んでいる道は違いますが、「全集中の呼吸」を習得するが如く歩んで、目標を達成していきたいものです。一度に進むことはありません。ゆっくりと、一歩一歩でいいのです。ただし、着実に進んでいけるようにしたいものです。

第70回「不忘念(ふもうねん) -正法(しょうぼう)を心に留めて-」

令和2年12月27日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、善知識(ぜんちしき)を求め善護助(ぜんごじょ)を求むることは、不忘念(ふもうねん)に如(し)くは無(な)し。

「八大人覚」の五つ目となるのが「不忘念」です。これは「「忘れることなく、(我が身に)念じ込んでおくように」というお釈迦様からのメッセージなのですが、それでは、我々はどんなことを常に念じながら毎日を過ごしていけばいいのでしょうか。


お釈迦様が涅槃(ねはん)(悟り)に至るための八本の道としてお示しになった“八正道(はっしょうどう)”の一つに、「正念(しょうねん)」があります。常に正しい道(正法)を心に留めて過ごすようにということなのですが、この正法というのが、お釈迦様がお示しになった涅槃への道です。それは何か一点に偏らない道であり、捉われない生き方であり、“中道(ちゅうどう)”と呼ばれるものです。中道を心がけているから、自分の好きなものだけを大切にしてみたり、価値を認めたりするような、偏った関わり方をすることがなくなるのです。中道を意識していなければ、自分が選んだものだけを重視し、選ばれないものの価値を認めることなく、敬遠してしまいます。そして、そうした関わり方が三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)を生み出していくことは、これまで幾度となく学ばせていただいた通りです。それらを踏まえ、お釈迦様は中道の生き方を行じていく上で、「正念」という、常に「正法を心に留めるのを忘れないこと」の大切さをお示しになっているのです。


それは「善知識を求め善護助を求めることよりも大切である(如くは無し)」とお釈迦様はおっしゃいます。善知識は正法を説いて、正しく導いてくださる師匠であり、道を同じくする仲間のことです。また、善護助は正法を念じながら、手を貸してくれる存在です。仏道はもちろん、芸術でもスポーツでも、どんな世界でも、道を体得していく上で師の存在は欠かせません。しかし、お釈迦様は仏道においては、まずは「正法を我が身に念じ込もう」という意識を常に持たもち続けることが肝心であるとおっしゃっています。なぜならば、そうした意識があるからこそ、善知識なる善き師・善き仲間とのご縁ができ、善護助なる存在の援助をいただいて、仏の道を悟りに向かって真っ直ぐに進もうとするからです。


何よりもまず、正法を体得できるよう、そのことを常に念じながら、正なる言葉を発し、正なる言動が提示できるよう、毎日を過ごしていきたいものです。

第71回「“心を摂(おさ)める”ことの習慣化」

令和年1月日 更新

若(も)し不忘念(ふもうねん)ある者は、諸(もろもろ)の煩悩の賊、則ち入(い)ること能わず、是の故に汝等常(なんだちつね)に当に念を摂(おさ)めて心(むね)に在(お)くべし。

「不忘念」とは、「正法(しょうぼう)(お釈迦様がお示しになった正しい道)を常に意識して過ごすこと」でした。そうすることによって、私たちは自分の中に知らず知らずのうちに発生してしまった三毒煩悩(貪り・瞋【いか】り・愚かさ)といった悪しきものを調え、表出させないようにすることができるようになります。それが「諸の煩悩の賊、則ち入ること能わず」の意味するところです。


だから、「常に当に念を摂めて心に在くべし」とお釈迦様はお弟子様方にお示しになります。「摂」には、「調える」とか、「正す」という意味があります。禅門には12月8日のお釈迦様の成道(じょうどう)にちなみ、12月1日から8日までの約1週間、他事を一切行わず、坐禅三昧の1日を過ごして、自分の心を調えていく「摂(せっ)(接)心(しん)」という修行があります。特に12月の摂心は12月を“臘月(ろうげつ)”と呼ぶことから、“臘八摂心(ろうはつせっしん)”と申しますが、こうした仏縁を通ずるもよし、とかく、日常生活の中で、煩悩という悪しき賊が我が身に入り込んで、周囲のいのちに苦悩を与えぬよう、自らの心を調えることを“心に在く”(習慣化させる)ようにしていきたいものです。


令和3年の新春を迎え、1月3日は恒例の檀信徒宅への年始のご挨拶にお伺いいたしました。新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからず、東京都始め関東地方の一都三県の知事が政府に緊急事態宣言の再発要請をする状況下、予定されていたご法事等の延期を決断するお檀家さんも何軒かございました。そうした中で、空いてしまった時間をどうしようかと、年始挨拶の後、子どもたちの初売りで立ち寄った書店で目に付いた数冊の本を購入し、空き時間を読書に充てることにしました。私が選んだ本の一冊は“「怒らない人」が人生10倍得をする”(植西聰 ロング新書)です。この本を読んで心を摂めることを習慣化させていくことを願いつつ、機会を見つけては、その内容をご紹介できたらと思っています。


今年は読書で過ごす静かな一年が始まりました。

第72回「安心のある生き方とは? -正法を意識して生きる―」

令和3年1月10日 更新

若(も)し念を失する者は則ち諸の功徳を失す。若し念力堅強(ねんりきけんごう)なれば、五欲の賊の中に入ると雖(いえど)も、為に害せられず。譬(たと)えば鎧を著(き)て陣に入(い)れば、則ち畏(おそ)るる所なきが如し。是(こ)れを不忘念と名づく。

令和3年1月10日(日)。3連休の真っ只中となったこの日、8日から降り始めた雪で金沢市内の各所では、地域住民が協力し合いながら除雪に汗を流す姿が多々、見受けらえました。金沢市内で45㌢、お隣の富山市では124㌢(1月9日午後7時時点)とのことで、平成30年2月以来、3年ぶりの大雪の冬を迎えています。特に、9日の日中は短時間で雪が降り積もり、こうした降雪を“ゲリラ豪雨”ならぬ“ゲリラ豪雪”とまで言うそうです。


こうして雪が降ると、私のお寺は除雪箇所が広範囲なこともあり、早朝5時から除雪に出ることにしています。そうやって朝早くから除雪をしておくことで、日中の檀務(ご法事や月参り)も支障なくこなせるのですが、多くの一般家庭の場合、まだ日の射さぬ早朝から除雪を行うことは、ほとんどないと思います。たいていは、明るくなってから、日中の時間帯に行うことが多いのではないかという気がします。


そうした中で、近隣の者同士が和気あいあいと協力しないながら除雪に汗をながせればいいのですが、悲しいかな、「雪が降ると、その人間の本性が見える」と言われるように、降雪時における雪のトラブルはつきものです。除雪した雪の捨て場を巡るトラブル、交通事故等による交通障害など、雪に対して、まさに、お釈迦様がお示しになっているように、我が身心を調え、冷静に関わっていかい限り、トラブルを避けることは難しいでしょう。非日常的な雪を前に、沸き起こってきた三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)の賊を調整することができず、トラブル三昧の日々を過ごすことだけは避けたいものです。雪が降った時始め、災害など緊急時こそ、高鳴る感情をコントロールして冷静になり、周囲と仲良く協力し合えるような自分でありたいものです。


お釈迦様が「不忘念(正法を常に意識して過ごすこと)」というみ教えを通じて、今回、お示しになっているのは、まず、「念を失する者は則ち諸の功徳を失す」とありますように、正法を意識するのを忘れ、自分の好き放題、わがまま勝手に振る舞う者は誰からも信頼されなくなるということです。“念を失す”とは、“失念”という言葉がありますように、周囲の信用を失うことを意味しています。


それに対して、「念力堅強」とあるように、「不忘念」が常に意識できる者ならば、「五欲の賊の中に入ると雖も、為に害せられず」、たとえ自分の中に三毒煩悩が発生しても、それによってトラブルに見舞われることがない、すなわち、害が発生しないというのです。「念力」というのは、「五力(信力・精進力・念力・定力【じょうりき】・慧力【えりき】)の一つで、持続力のことです。正法を常に意識し続ける力を持つことは、「鎧を著して陣に入る」ようなものであるとお釈迦様はおっしゃいます。すなわち、畏れるものが何もなくなるということです。つまり、仏のみ教えに従って日々を過ごすことが、あらゆる恐怖や不安から逃れ、安心した日常生活を送る最善の方法であるということなのです。


どんな状況にあっても、自分の身心を調え、穏やかな態度で、物静かに言葉を発することを意識して過ごすことが、恐れのない、安心のある生き方につながっていくということを、お釈迦様は「不忘念」のみ教えを通じて、我々にお示しになっています。そのことを忘れることなく、我が身に念じ込み、毎日を過ごしていきたいものです。

第73回「定(じょう) -“1995年1月17日”に思いを馳せて-」

令和3年1月1日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、若(も)し念を摂(おさ)むる者は心則ち定(じょう)に在り。心、定に在るが故に能(よ)く世間生滅(せけんしょうめつ)の法相(ほっそう)を知る。是の故に汝等常(なんだちつね)に当(まさ)に精進して、諸の定を修習(しゅじゅう)すべし。

「念を摂むる」という言葉が再び登場します。(詳しくは、仏遺教経第71回「“心を摂める”ことの習慣化」をご参照ください)「不忘念」とは、日常生活の中で「正法を意識しながら生きていくこと」でした。そうした日常の過ごし方によって、我々の身心が穏やかになり、調っていく(念を摂むる)ことができると共に、私たちの身心に安心がもたらされるとお釈迦様はおっしゃっています。それが、今回から示されていく「定」です。「不忘念」によって、「心則ち定に在り」とあるように、八大人覚に示される8つのみ教えが別個に存在しているのではなく、それぞれ関連し合い、つながりあって、お釈迦様がお示しになっている“八大人覚(私たちの目指すべき8つの生き方)”になっていることを、今一度、再確認しておきたいところです。


さて、「定」ですが、心が安定し、あらゆる妄想分別を引き起こすことのない、不動の状態を意味しています。私たちの心は、動じやすく、ちょっとしたことで不安定になる弱い存在です。そのことを知り、不安定な心を安定させ、できるだけ動じないようにしていこうというのが、「定」です。


本日令和3年1月17日は「阪神・淡路大震災」が発生して26年目を迎えます。

―1995年1月17日、早朝5時46分―当時、高校入試に向けて早朝から猛勉強に励んでいた15歳の私は揺れを感じたものの、まさか、少し離れた兵庫県では震度7を観測し、多くの家屋や道路が全壊・倒壊、火災が発生し、ライフラインが分断され、多くの尊いいのちが一瞬にして失われるなど、思ってもいませんでした。今回の一句の中に「世間生滅の法相」とありますが、私たちの過ごす人間世界には、ある地点では、地震などの自然災害に直面している方がいれば、別のどこかでは何事もなく過ごす方がいるということがあります。それが「法相」、「この世の姿」です。そうした中で、特に、震災のような場面に直面すれば、誰しも不安が募ります。そんなとき、冷静でいたくても、中々、冷静でいられません。


自然災害に限らず、「新型コロナウイルス」等の感染症など、私たちのまわりには、人々に大きな不安を与える要素が多々あります。そうした存在に出逢ったとき、不安定になって当然の自分たちの心を、できるだけ冷静に調え、動ずることがないようにしていくことが、お釈迦様のおっしゃる「定」なのです。お釈迦様は「定」を提示しながら、「当に精進して、諸の定を修習すべし」とおっしゃっています。「精進」は、「混じりけのない純粋な状態(精)で、真っ直ぐに進んでいくこと」でした。「定」が体得できるように、精進を重ねていくことが、私たちに求められる生き方であることを、押さえておきたいものです。


-「阪神・淡路大震災」26年目の今日、お釈迦様のみ教えに触れ、我が不安定な心を、できるだけ調えて、安定させていけるように-それが、26年前の今日、まだまだ生きたいと願いながら、その願いを叶えぬことができなかった多くの被災者への供養につながっていくと信じています。

第74回「定を得(う)る者 -“智慧(ちえ)の水”を持(たも)って-」

令和3年1月24日 更新

若(も)し定(じょう)を得(う)る者は心則ち散ぜず。譬(たと)えば水を惜しめる家の、善く堤塘(ていとう)を治するが如し。行者(ぎょうじゃ)も亦た爾(しか)なり、智慧(ちえ)の水の為の故に、善く禅定(ぜんじょう)を修して漏失(ろうしつ)せざらしむ。是れを名づけて定と為す。

「定を得る者は心則ち散ぜず」とお釈迦様はお示しになっています。これは、「定を修習(しゅじゅう)(体得)し、日常生活の中で実践できる者は、どんなことがあっても心が動ずることなく、冷静でいられる」ということです。


こうした「定を得る者」というのは、譬えてみるならば、「水を惜しめる家の、善く堤塘を治するが如し」であるとお釈迦様はおっしゃいます。これも実に明快な喩えではないかと思います。水は生物が生かされていく上でも、産業活動を継続していく上でも、不可欠な存在であることは誰もが周知のことです。ところが、特に今の日本に目を向けてみたとき、ダムや水道が十二分に整備され、現代に生きる私たちは水に事欠いたという経験もほとんどありません。そんな中で、ともすれば、水の存在を意識せずに日々を過ごしているのではないでしょうか。大雪や極寒の中で水道管が破裂し、水道が使えなくなるといった自然災害による断水を目の当たりにしたとき、水の存在や、その大切さに気づかされ、ハッとさせられた経験がある方も多いのではないかという気がします。


そんな水ですが、ダムや水道が存在しなかった時代、人々は水不足に苦しんだとき、その改善方法を模索するなどしながら、水と共に生きてきました。また、世界に目を向ければ、水道のない国では、遠く離れた水源までバケツ持って水汲みに通うこともあるそうです。水に恵まれた我々現代人にとって、「水を惜しめる家の堤塘を治する」という、「大切な水を貯めて、外に漏らさないようにする」という苦労や労力というのは、想像するのは難しいかもしれませんが、そうした水道のない地域に生きる人々が水汲みのために、毎日、自宅と水源を往復することを我が身に置き換えて考えてみれば、少しは、お釈迦様がおっしゃる喩えの意味が見えてくるのではないかという気がします。「どんなことがあっても動じることなく、冷静に心を持たもつ」という、「定」の生き方を、大切な水を漏らさぬが如く、意識して護り続けていきたいものです。それが「行者」たる「仏道修行者」の在り方なのです。


そうした行者が日々の仏道修行によって、外に漏らすことなく、大切に護り続けるものを、お釈迦様は「智慧の水」とおっしゃっています。「智慧」は「八大人覚」の一つで、次回からお釈迦様より具に遺誡されていきます。「仏の悟りを得たもののモノの見方・考え方」を意味する「智慧」。「何事にも動じず、冷静な心で過ごすことを心がける」のが、「智慧の水」を漏失させないであり、それが「定」という生き方なのです。

第75回「智慧のある日常生活を」

令和3年1月31日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、若(も)し智慧(ちえ)あれば則ち貪著(とんじゃく)なし。常に自ら省察(しょうさつ)して失(しつ)あらしめざれ。

前段において、お釈迦様は「智慧の水の為の故に、善く禅定(ぜんじょう)を修して漏失(ろうしつ)せざらしむ。是れを名づけて定と為す」とお示しになっています。これは、「智慧(仏の悟りを得た者のモノの見方や考え方)」を水に喩えながら、水に乏しい地域に生きる人々が水を大切にするように、どんなことがあっても、智慧が意識され、動じることなく、冷静さを保つことが大切であり、それが「定」であるということでした。


そんな「智慧」について、今回よりお釈迦様の遺誡が始まります。瑩山禅師様が「坐禅用心記」の中で、「三学(戒・定・慧)」について触れられていらっしゃいますが、智慧はその中の一つである「慧」のことです。これは、自分の中の三毒煩悩を調整することによって、体得できるようになる真理のことです。瑩山禅師様は「坐禅は戒定慧(かいじょうえ)に干(あづ)かるに非ず、而(しか)も此の三学を兼ねたり」(坐禅用心記)とお示しになっているように、戒定慧の三者は個別に存在するのではなく、「干」が指し示すように、お互いに関連し合い、関わり合っています。ですから、坐禅をすることは、「戒の実践」であり、「定の実践」であり、「慧の実践」であるというのです。


そうした慧(智慧)が定(禅定)とも関連しあっていることは、瑩山禅師様のみならず、お釈迦様の最期のみ教えからも読み取れるわけですが、「智慧あれば則ち貪著なし」とあるように、智慧が体得できていれば、地位や名誉、財産といった、我が身を苦しめる存在に執着することがなくなるというのです。


私の知り合いのA氏は、職場での実力が認められ、若くして肩書を得、出世しました。しかし、A氏を抜擢した上司が人事異動となり、その後任として着任した新しい上司と、方針が対立するなどして、結局、A氏は肩書を失うことになりました。人目を気にするA氏は、当初は降格人事に納得がいきませんでしたが、数ヵ月後、降格によって顧客と関わる機会が増えるなど、本来、自分がやりたいと思っていた仕事が今まで以上にできることに気づき、降格を喜ぶようになったのです。A氏のような経験をした人は数知れずいらっしゃるでしょうが、ほとんどの方が、口をそろえて「それでよかった」と言います。これが地位や名誉に執着していた者が、そこから解放され、自由を得た歓喜の声ということなのでしょう。


「智慧」があるというのは、自分にとって逆境と思えるような現実に対しても、前向きに、プラスに捉えることができることを意味しています。逆に、「智慧」のない者は、逆境を逆境のままに受け止めるので、万事がマイナス思考で、否定的に見えてしまいます。しかし、そこからは何も見えてきませんし、何も生み出されてきません。歓喜よりも苦悩が多い人間世界において、「智慧」を体得し、水を惜しめる家の如く、大切に維持して漏失させないようにしていきたいものです。そのためにも、定期的に智慧のある日常を送れているかどうかを確認する必要が出てきます。それが「自ら省察して失あらしめざれ」の意味するところです。「省察」は「よくよく考えて、明らかにすること」です。多少時間を要しても、物事を前向きに捉えることを習慣づけ、智慧のある日常生活を目指していきたいものです。

第76回「道人(どうにん)の在り方 ―“智慧(ちえ)の省察(しょうさつ)”の習慣化―」

令和3年2月7日 更新

是(こ)れ則ち我が法中(ほっちゅう)に於(おい)て能く解脱(げだつ)を得(う)。若し爾(しか)らざる者は、既に道人(どうにん)に非ず、又白衣(びゃくえ)に非ず、名づくる所なし。

『我が法中(釈尊教団において、釈尊のみ教えの真っ只中にあること)において、「智慧」を体得できている者は、「解脱(悟り)」を得ている』とお釈迦様はおっしゃっています。仏道修行者にとって、智慧のある日常生活を送ることができているかどうかの省察(しょうさつ)(逐一チェックすること)が欠かせません。お釈迦様のみ教えに従い、仏法と共に日々を過ごしているか、三毒煩悩を調整し、仏の悟りを踏まえた言動が提示できているか、智慧のある日常を確かめるチェックポイントは多々あります。


そうした智慧のある日常生活を省察することを怠る者、省察した上で、更なる精進が必要なのに、その自覚に乏しい者、そうした者は道人(出家者・仏道修行者)とは言えないとお釈迦様はおっしゃいます。これは合点がいくことでしょう。


ところがお釈迦様は、さらに「白衣に非ず」ともおっしゃっています。「白衣」というのは、純白の衣そのものではなく、「在家人」を意味しています。つまり、道人たる出家者の対極にある者が「白衣」ということなのですが、これは、インドにおいて、在家人は白い着物を身につけ、出家者は色の着物を着ていたことが起源となっています。


智慧の省察を怠り、精進しようとしない者は、出家者でもなく、在家人でもなく、何とも名づけようがないというのが、今回のお釈迦様のお示しの内容です。これは智慧の省察や道の精進というのは、何も出家者だけに求められることではなく、在家人の中にも行っている人は多々いらっしゃるということです。言い換えれば、だからこそ、出家者は「智慧の省察」と「道の精進」を確実に修したいのです。


当山のHP「仏教講座」では、“人に学ぶ”というコーナーを設け、著名人始め、メディア等で紹介されている様々な分野の人々を紹介させていただき、その生き様を学ばせていただいております。取り上げさせていただいた方のほとんどが、自らの道を歩まれる中で、智慧を省察し、道に精進している在家の方ばかりです。そうした在家の方は、他にも数多いらっしゃることでしょう。道人の端くれたる住職も、不退転に道を歩む在家の方の生き様からも色々なことを学ばせていただき、日々、仏道を精進していきたいと願っております。

第77回「実智慧の者は」

令和3年14日 更新

実智慧(じっちえ)の者は、則ち是れ老病死海(ろうびょうしかい)を度(わた)る堅牢(けんろう)の船なり、亦た無明黒暗(むみょうこくあん)の大明燈(だいみょうとう)なり、一切病者(いっさいびょうしゃ)の良薬なり、煩悩の樹(き)を伐(き)るの利斧(りふ)なり。

普段より自らの日常生活を振り返っては、少しでも智慧(仏のお悟り)を体得できているか否かを省察しょうさつし、精進を怠ることのない者を、お釈迦様は「実智慧の者」とおっしゃっています。今回、そうした「実智慧の者」について、お釈迦様4通りの喩えを用いながら、表現なさっています。それぞれ下記に提示し、解説させていただきます。


(1)老病死海を度る堅牢の船 ―どんな苦難も乗り越え、目的地に向かう船のごとき存在―

お天気のいい日にドライブに行ったり、あるいは、海水浴を楽しんだり、そういった日常的な関わりを想定してみたとき、“海”というのは、自然災害や水難事故などに注意さえしていれば、さほど危険もないように思います。しかし、漁業のような天候に左右される命がけの経済活動であったり、去る令和3年2月1日施行の「海警法(中国周辺海域における中国海警局の権限等を定めた法律)」にまつわる領海や国家間の平和の問題、また、去る2月8日に発生した海上自衛隊「そうりゅう」と貨物船の衝突事故であったりと、視野を拡げてみれば、海というのは、きれいな面や穏やかな面だけでは捉えられないように思います。様々な側面を含んでいるのです。そういう意味では、「生老病死」と隣り合わせの人間の人生も同じで、お釈迦様はそれを踏まえ、「老病死海」という表現をなさっているような気がします。すなわち、老いや病気、死といった我が身に迫る危険等も含む海であると。そんな海において、実智慧の者は「堅牢の船」であるとお釈迦様はお示しになっています。どんな荒波や事故にも対応できる堅固な船のごときものであるというのです。


(2)無明黒暗の大明燈 ―無知の暗闇を照らすライトのごとき存在―

「無明」とは、「道理に暗く、真理に無知であること」を意味しています。瑩山禅師様は「坐禅用心記」の中で、「十二因縁」の思想について触れていらっしゃいます(詳しくはこちらをご覧ください)。無明という、この世の道理に明るくないことが、三毒煩悩を発生させ、自他を苦しめていくのです。そのことを踏まえ、暗闇を照らす大きな燈明(ライト)のごとき智慧を体得し、道理に明るく、真理を知り尽くそうとする生き方を目指していく必要があります。それが「無明黒暗の大明燈」に込められたお釈迦様の願いなのです。


(3)一切病者の良薬 ―万人にとって、“食事”のような存在―

道元禅師様は「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」の中で、食事をいただく際にお唱えする「五観(ごかん)の偈」についてお示しになっています。その中で、「食事は私たちの身心を健全に調えてくれるよき薬であるがゆえにいただく」という内容の偈文があります。万人の健全な日常を保証し、明日へのいのちをつなぐ食事のごとく、全ての人を救い上げる力を持った智慧のみ教えだからこそ、是非とも体得していたいと願うのです。


(4)煩悩の樹を伐るの利斧 ―どんな困難にも使える優れた道具のような存在―

よく砥ぎ澄まされた斧は、どんな大木も切り倒してしまいます。いい仕事には経験豊富であることもさることながら、使用する道具が優れていることも必須です。自分の中に発生した三毒煩悩が、どんな状態になったとしても、研ぎ澄まされた斧のごとき優れた道具によって、解消できる―そんな力を有するのが「智慧」なのです。


お釈迦様の「智慧」に関する4つの喩えを読み味わってみましたが、私たちがお釈迦様のみ教えに従い、「智慧」のある日常を過ごすことが、私たちの苦悩を取り除くと共に、身心を調え、仏のお悟りに近づけていくことは確かなことなのです。そうした智慧が体得できるように日々を過ごすことは、もはや申し上げるまでもないことです。

第78回「明見(みょうけん)の人 ―聞(もん)・思(し)・修(しゅう)の慧を以て―」

令和3年2月21日 更新

是(こ)の故に汝等(なんだち)、当(まさ)に聞思修(もんししゅう)の慧(え)を以て、而(しか)も自ら増益(ぞうやく)すべし。若(も)し人智慧の照(しょう)あれば、是れ肉眼(にくげん)なりと雖(いえど)も、而も是れ明見(みょうけん)の人なり。是れを智慧と名(な)づく。

「実智慧(じっちえ)の者」ということについて、前回はお釈迦様が明快な喩えを用いながら、お示しになってくださいました。そうした智慧を有した者を、お釈迦様は今回、「明見の人」という言葉で表現なさっています。「明見」というのは、この世の道理に自分の都合や好みなどの私見を一切混ぜ込むことなく、ありのままに受け入れられる力を意味しています。これが「智慧」であり、そうした明見の人の眼は、肉眼であっても、そこに映るものの全てが仏のお悟りそのものだということなのです。


新型コロナウイルス感染拡大のために、1年間延期になった「2020年東京オリンピック」の開催が5か月後に迫った2月の半ば、東京五輪組織委員会会長の女性蔑視発言による辞任・新しい委員長の就任といった大きな出来事が世間の注目の的となりました。前会長の発言については、大会ビジョンに掲げられた3つの基本コンセプトである「多様性と調和」に反する発言であるというのが世論の指摘の中に多々見受けられました。まさに、その通りで、今回の問題となった性別は勿論、出身や障がいの有無といった見た目の情報は、部分的には事実を示していても、全体的に捉えてみれば、事実を説いているとは言えないことが多いのです。大切なことは、見た目の情報ではなく、「その人が何をやってきたか」であり、「今までどう生きてきたか」ということなのです。ですから、私たちの眼一つとってみても、障がいのあるなしは問題ではなく、これまでどんな使い方をしてきたかが大切であり、その使い方が仏様のものの見方・捉え方を見習った「明見」であることを目指すのが重要であるということを、しっかりと押さえておきたいものです。


「その人が何をやってきたか」という点について、今回、お釈迦様がお示しになっている「聞思修の慧」に触れてみたいと思います。今、お釈迦様は八大人覚(はちだいにんがく)(人間として生きていく上で踏み行うべき8つのみ教え)の一つとして、「智慧」についてお示しになっていますが、これを具体的に言い表したのが、「聞思修」の「三慧」と呼ばれるものです。「聞慧」は教法を聞くことです。仏のお悟りに近づく上で、それを正しく説き示してくださる師の存在が大切であることは、お釈迦様始め、道元禅師様も瑩山禅師様も幾度もご指摘になっていらっしゃいますが、そうした師の言葉に自分の一切の私見を交えず、素直な心を持って耳を傾けてみるのです。そうすることによって、智慧が得られるようになるというのが「聞慧」です。


次の「思慧」は師から聞いた教法について、思いを巡らせることです。聞いた教えを、自分の日常生活の場面に置き換えて、考えてみるなどして、学びを深めながら、我が身に刷り込んでいくのです。こうした「思」というプロセスも怠ってはなりません。


そして、「修慧」というのは、教法の実践によって智慧を得ることです。知人の中に、福祉の現場で日々、利用者と関わりながら、その安全で快適な生活の提供を常々、目指している方がいらっしゃいますが、利用者の生の声をしっかりと聞き、利用者の立場になって相手を思い、考えを巡らせるからこそ、利用者にとっての最善策が実現できることを、本人との会話から感じます。お釈迦様がお示しになっている「聞思修の慧」は、何も仏道の世界だけに通ずるものではありません。一般社会においても通ずると共に、少しでも多くの人が「聞思修の慧」を以て、明見の人となり、その生き方を実践していくことによって、世の中が平穏で、安心感のある世界になっていくことを強く感じるのです。


三慧の中でも、特に「聞く」ことの重要性と、それを言動の根底に置くことの大切さを、普段の生活の中で、常々感じます。人との対話を通じて、自分の考えが強すぎるがあまり、人の話を遮って、持論を展開すること。相手の意見が間違っていると決めつけて、長々と反対論を展開すること。こうした聞き方では、誰もが望む静かで安心感のある対話など不可能です。何よりも聞くことが、世の中全体の幸せにつながっていくことを押さえながら、心静かに人の話を聞く力を養っていきたいものです。

第79回「不戯論(ふけろん) ―自らの日常会話を振り返る―」

令和3年2月2日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、若(も)し種々(しゅじゅ)の戯論(けろん)は、其(そ)の心則ち乱る。復(ま)た出家すと雖(いえど)も、猶(な)お未(いま)だ得脱(とくだつ)せず。是(こ)の故に比丘当(びくまさ)に急(すみやか)に乱心戯論(らんしんけろん)を捨離(しゃり)すべし。

大人(だいにん)(悟りを得た仏)が踏み行うべき8つの徳目(み教え)である「八大人覚(はちだいにんがく)」を読み進めてまいりましたが、いよいよ8つ目となる「不戯論」に入りました。お釈迦様は「戯論」なるものをお弟子様たちに戒めていらっしゃるわけですが、「戯論」とは、一体、何を意味しているのでしょうか。それを提示させていただく前に、これまで読み味わってきた「八大人覚」について、少し振り返っておきたいと思います。


「少欲(しょうよく)」、「知足(ちそく)」、「遠離(おんり)」・・・振り返ってみますと、私たちの心の中に発生した三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)をどう調整し、どんな心持ちで、また、どんな行動によって、毎日を過ごしていくかという視点から示されていました。そうした中で、“どんな言葉を用いるか”、すなわち、“三毒煩悩を調整して、言葉を発する”という点については、まだ具体的に示されていなかったことに気づかされます。そうした私たちが普段、発する言葉に関するみ教えとなるのが「不戯論」なのです。


これまで学ばせていただいたことから見ていけば、「戯論」が「道理に合わない言葉」であり、「真実ではない議論や見解」であることを意味していることは容易に察しが付くと思います。戯論による会話では、「心則ち乱る」とお釈迦様がおっしゃっているように、穏やかな心持ちになることなど、到底、不可能です。また、「出家すと雖も、猶お未だ得脱せず」とありますように、たとえ出家の身にあっても、戯論を発し合っているようでは、得脱(一切の煩悩を断って、悟りを得ること)しているとも言えないとお釈迦様はおっしゃっているのです。


だから、こうした出家・在家を問わず、人々の心を乱す戯論の会話を、「捨離(直ちにストップさせること)すべし」とお釈迦様はお弟子様たちに願うのです。お釈迦様がおっしゃるように、出家者ほど「不戯論」を心がけるのは言うまでもありませんが、そのためには、日々の自分たちの日常会話をよくよく振り返り、戯論があるならば、自ら発することがないように注意していく姿勢を心がけていきたいものです。


出家者の戯論という点については、私自身もよくよく反省しなくてはなりません。相手に思いを馳せることなく発してしまった汚い言葉、怒りの感情を帯びた言葉、必要以上に相手を責める言葉、本人のいないところで発した悪口。これらは誰もが思い当たるのではないかという気がします。そして、仏教では修証義における「愛語」のみ教えだとか、戒律における十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)、業(ごう)のみ教えにおける身口意しんくいの三業(さんごう)において、私たちが発する言葉について、幾度も注意喚起がなされていることを押さえておかなくてはなりません。我が心の中を清浄に調え、丁寧で穏やかな言葉を心がけていきたいものです。


また、言い方(言葉の発し方)のみならず、会話の内容にも留意していきたいものです。特に我々、出家者がお釈迦様のお悟りや仏法に関する話題を避けているようでは、出家者としての価値を失うと共に、社会からは、その存在自体が疑問視されることでしょう。以前、僧侶の集まりで曹洞宗門のある団体が制作したDVDを視聴したことがありましたが、その中に登場する僧侶の乗っていた車や演者の僧侶に関する私的な話題で盛り上がり、肝心の宗派を代表するご老師が語った重大な問題について誰も触れようともしないという、笑いごとにはならないような出来事がありました。「不戯論」を考えていく上で、まずは出家者自身自分たちの会話を調えていかない限りは、一般社会に対して、何も訴えるものが出てこなくなるような気がいたします。そこを重視し、日常生活の中で発する言葉というものに、十二分なまでに留意して過ごしていきたいものです。

第80回「寂滅(じゃくめつ)の楽(らく)を得んと欲する ―発言に男女の性差なし―」

令和3年日 更新

若(も)し汝寂滅(なんじじゃくめつ)の楽(らく)を得んと欲せば、唯当(ただまさ)に善く戯論(けろん)の患(とが)を滅すべし。是(これ)を不戯論と名(な)づく。

自分たちが発する言葉というものを調えながら、普段の会話について思いを巡らせることの大切さを説く「不戯論(ふけろん)」のみ教えをお釈迦様がお示しになっています。


発言という点について、折しも、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗前会長の「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という「女性蔑視発言」が物議を醸しだしました。お檀家さんの月参り等、人様と関わることがあれば、何かと、この一件が話題になることが多かったですが、そんな中で、大半の方が「発言は決して、許されるべきものではないが、世間のバッシング(過剰なまでの批判)には違和感を覚える」とコメントされていたのが印象深いです。かく言う、私自身もそのように捉えております。


元衆議院議員の宮崎謙介氏が「今の日本は、“一億総攻撃病”に侵されている」とおっしゃっていましたが、そんな現代の日本に対する一抹の不安を覚えながら、森前会長の一件を通じて、お釈迦様がお示しになっている「不戯論」をしっかりと味わっておきたいと思います。まず、お釈迦様は「汝寂滅の楽を得んと欲せば、唯当に善く戯論の患を滅すし」とおっしゃっています。「寂滅」とは、「悟りの境地」を意味します。すなわち、「心が穏やかで静かになった状態」のことです。これは「涅槃(ねはん)」とも言い換えることができます。「涅槃」は、お釈迦様の死をも意味しますので、我々は「涅槃=死」と捉えがちですが、それは偏った捉え方で、正確な解釈とは言えません。「涅槃とは、今、いのちある間に、仏のみ教えに触れながら、身心を調え、安らかで静かな境地で以て日々を過ごすことである」という点をしっかりと押さえておきたいものです。


そのことは、誰もが求めているはずなのですが、現実を考えてみたとき、もしかすると、半ば理想論だと捉え、諦めている部分もあるかもしれません。しかし、お釈迦様は「戯論さえ慎めば、誰もが寂滅という境地を得ることができる」と断言なさっています。これをしっかりと信じ、現実を変えていきたいものです。すなわち、戯論の患を滅することを意識しながら、寂滅の境地を理想で終わらせることだけはないようにいきたいものです。


そういう意味では、仮初に現代社会が“一億総攻撃病”に侵されていたとしても、森前会長の発言は現実世界に寂滅をもたらすことができなかったのは確かです。「戯論」であったと認めざるを得ないでしょう。その上で、今一度、考えておきたいのは、果たして、森前会長がおっしゃるように、「女性だけが会議を長引かせているか。」ということです。「誰かが発言したら、我も我もと挙手して発言するのは女性だけ」なのでしょうか。


先日、参加させていただいた会議は、3つの議案に対して、所用時間が2時間というものでした。参加者の発言に耳を傾けながら、ふと感じたのは、会議の進行を妨げる発言が若干存在したということです。たとえば、自分の過去の役職に捉われ、そのときの経験や能力を見せびらかさんとしているように感じられるもの、前に進もうとしている話をストップさせて、持論を展開して、足を引っ張るもの。こうした発言によって、会議の方向性がズレ、議長が軌道修正する苦労が慮られました。ちなみに、これらの発言は女性ではなく、男性からのものでした。つまり、発言に男女の性差はないということなのです。すなわち、男女問わず、言葉を発する者一人一人が、自分の発言によって周囲に不快感を与えないか、その場の空気を壊さないか、流れを止めて、誤った方向に進めていないか、そういったことによくよく思いを巡らせながら、言葉を提示していくことが「不戯論」であるということなのです。


大切なことは、周囲に思いを馳せながら、責任のある発言を心がけていくということです。そうした我々一人一人の言葉への配慮によって、寂滅の楽を得ることができるようになっていくのです。

第81回「怨賊(おんぞく)を離する―“遠離(おんり)”がもたらす“涅槃(ねはん)”の境地-」

令和3年3月14日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、諸(もろもろ)の功徳(くどく)に於(おい)て、常に当(まさ)に一心(いっしん)に諸(もろもろ)の放逸(ほういつ)を捨つること怨賊(おんぞく)を離するが如くすべし。大悲世尊所説(だいひせそんしょせつ)の利益(りやく)は、皆巳(みなすで)に究竟(くきょう)す。汝等但(なんだちた)だ将(まさ)に勤めて之を行ずべし。

本日(令和3年3月14日)は住職地である松山寺(しょうざんじ)にて「涅槃会」をつとめさせていただきました。コロナ禍が一向に収束する気配が見えぬ中での法要修行となりましたが、コロナの早期撲滅・退散を祈願させていただくと共に、コロナ禍の真っ只中における日常生活について、お釈迦様がお示しになった「八大人覚(はちだいにんがく)」から学ばせていただく機会として、つとめさせていただきました。


私たち人間が生きていく上で、涅槃(お釈迦様のお悟り)に少しでも近づいていくことによって、安心のある日常生活が送れるようになるのは言うまでもありません。「八大人覚」というのは、その具体的な方法が示されたみ教えなのです。そんな「八大人覚」を踏まえ、お釈迦様はさらにもう一歩踏み込んで法を展開なさっていきます。それが今回から提示される箇所です。いよいよお釈迦様の最期のみ教えも最終箇所に突入していきます。


お釈迦様はこれまで同様、「汝等比丘(弟子たちよ)」とお弟子様たちに穏やかに語り掛け、教えを発されます。まず、「諸の功徳に於て、常に当に一心に諸の放逸を捨つること怨賊を離するが如くすべし」とあります。お釈迦様は、我々が日々の生活の中で善行を心がけながら過ごす上で、怨賊(盗人)を避けるが如く、放逸(勝手気ままな振る舞い・善行を心がけようとしないこと)を避けるようにしていくことを願っていらっしゃるのです。「放逸」を慎むことに関しては、これまでもお釈迦様から発せられてきました。これは私たちが少しでも涅槃に近づいていく上で、欠かすことができないことなのです。そして、こうした放逸を生み出すものを、我が身から遠ざけながら、自らを調えていくことが、八大人覚の中で示されてきた「遠離(おんり)」のみ教えとも合致するのです。


そうやって、お釈迦様は正法を念じ、それを「勤めて行ずる」よう、我々にお伝えになっています。その根底にあるのは、「大悲世尊所説の利益は、皆巳に究竟す」というお言葉です。「世尊」というのは、お釈迦様の別称で、「この世における尊い存在」という意味があります。その世尊は「大悲」という言葉が付されているように、「人々の苦悩を救済し、安楽を与えることができる」存在なのです。そして、そんな世尊が所説(説き示してきたみ教え)のご利益・功徳については、究竟(行きつくところまで行きついた至極の所)であるが故に、我々は仏法の大海に安心して我が身を投げ入れ、帰依していけばいいということになるのです。


自分の勝手な解釈を捨てて、お釈迦様のみ教えに従い、我が身心を調えていく―そうした仏法僧の三宝に全幅の信頼を以て我が身を委ねていく中に、安心のある日常生活が実現されていくのです。それが「涅槃」の境地なのです。

第82回「精進 -後悔しない生き方-」

令和3年3月21日 更新

若(も)しは山間(せんげん)、若しは空沢(くうたく)の中に於ても、若しは樹下(じゅげ)、閑処(げんしょ)、静室(じょうしつ)に在っても、所受(しょじゅ)の法を念じて忘失(もうしつ)せしむること勿(なか)れ。常に当に自ら勉めて精進して之を修すべし。為すこと無(の)うして空しく死せば、後(のち)に悔(くい)あることを致さん。

前段において、人間は自分勝手な解釈を捨て、仏法僧の三宝に我が身を委ねながら我が身心を調えていくことによって、安心のある日常生活が実現されていくことを確認させていただきました。こうした意識を忘れることなく、お釈迦様のお悟りに向かって真っ直ぐに突き進んでいくことが「精進」です。だからこそ、お釈迦様は「当に自ら勉めて精進して之を修すべし」と我々に強く願われるのです。


精進は今、自身がどんな状況に置かれていようが、どんな環境下にあろうが関係なく、誰もが忘れることなく踏み行っていただきたい行であるとお釈迦様はおっしゃっています。それが「若しは山間、若しは空択の中に於ても、若しは樹下、閑処、静室に在っても、所受の法を念じて忘失せしむること勿れ」の意味するところです。山間は山の中、空沢は物静かな場所、樹下は木の下、閑処や静室も静寂な地を意味しています。たとえどこにいたとしても、法を念じ続け、精進していくことが欠かせないというのですが、その理由をお釈迦様は「為すこと無うして空しく死せば、後に悔あることを致さん」とおっしゃっています。精進を意識することなく、何も為さずにいつか訪れる死を迎えてしまうことほど、残念なことであり、確実に後悔をもたらすというのです。お釈迦様は、そのことを熟知しているがゆえに、法の精進ということをお示しになっているのです。これぞまさに、お釈迦様の我々に対する「老心」であるような気がいたします。


実際、誰もが「後悔しない生き方」を願っていることでしょう。それならば、是非とも、お釈迦様がお示しになっている「精進」という、仏道を歩み続け、自らの身心を調えていく生き方を行じていきたいものです。


ちなみに、山間や空択等の私たちの住環境に関して、曹洞宗の太祖・瑩山禅師様は「人と関わることによって、心静かに坐禅修行ができなくなるからと言って、一人静かに山谷に住んで仏道修行に励んでも、仏の悟りに近づくどころか、誤った道を進むことにさえなりかねない」とおっしゃっています(伝光録【でんこうろく】・第14章「拈提」)。この理由を瑩山禅師様は「一人静かな環境を求めることは我が身を最優先とした考え方であるから」とお示しになっています(同章「拈提」参照)。どんな環境であれ、自分の見解に基づいた良し悪しで論じづけることなく、我が身を仏の道へと導いてくださる正師を求め、志同じくした仲間と共に仏の道を精進していくならば、どこであっても、そこは身心共々に安楽をもたらす静寂なる環境になるのです。


そうした環境を調えながら、仏の道を精進していくことが、我々の「為すこと」であり、そうすることによって、“後に悔のない”生き方につながっていくことを、ここで今一度、確認し、お釈迦様の老婆親切に報いる日常を過ごしたいものです。

第83回「不忘念(ふもうねん) ―“自己判断”よる三宝帰依の日常を―」

令和3年3月2日 更新

我は良医の病を知って薬を説くが如し、服すと服せざるは医の咎(とが)に非ず。又た善く導くものの、人を善道に導くが如し、之を聞いて行かざるは、導くものの咎に非ず。

お釈迦様はおっしゃいました。


「私はよき医者で、よき薬を説いているような存在である。そんな私が示した薬を服すかどうかは医者が関知するところではない。そんな私は、人を善き道へと導きいれるようなものである。その言葉を聞いて、善道を歩むかどうかは、師(善道に導く者)の責任ではない。」


こうして今回の一句を読み味わってみますと、中には責任転嫁の印象を覚える方もいらっしゃるかもしれません。そう捉えると、このお言葉と、あらゆるいのちに救いの手を差し伸べることを役目とするお釈迦様の生き様との矛盾を感じるかもしれません。


しかし、このお言葉は決して、責任転嫁の言葉ではありません。よくよく考えれば、その通りであることに気づかされるのです。お釈迦様は、“優れた医者”というたとえを用いながら、自らが人を善道(仏のお悟りの道)へと招き入れる“よき師”であるとおっしゃっています。“善き師”とは、仏遺教経の中では“善知識ぜんちしき”という言葉で表現されていました。また、修証義第3章の言葉を使えば、“大師だいし”ということでもあります。そうした“善き師”たるもの、良医が良薬を勧めるように、善き師としての教えを説いて勧めることはあっても、決して、押し付けるようなことはしないのです。だから、良薬(善き教え)を服すかどうかは、それを受けた者の判断にお任せするしかないのであり、あくまで自己責任の下で我が人生を生きていくことが、我が人生を歩んでいく上での大原則であることを押さえておかなくてはなりません。


我々凡夫は、自分に都合が悪くなれば他者に責任転嫁します。やれ、「上司が悪い、世の中が悪い」と言い出し、どこまでも自分の非を認めることなく、謙虚に反省することさえありません。私たちの日常生活において、周囲を見渡せば、様々な存在があります。自分にとってプラスになるものもあれば、マイナスになるものもあります。良医たるお釈迦様が発する良薬たる「仏法」は、私たちにとってプラスになるのは確かです。しかし、それが自分にとって本当にプラスになるかどうかは、自分しかわかりません。だから、自分で判断するしかないのです。


そうした自己判断を下す上で、お釈迦様始めとする道元様や瑩山様のような祖師方、今日まで仏法を師から弟子へと伝えてきた多くの僧の存在は、私たちが仏法と共に生きていく上での判断材料となる善き存在であり、まさに「勝友(しょうゆう)」です。自らの日常を振り返りながら、より善き人生を歩んでいきたいと願うならば、仏法僧の大海に我が身を投じるという、「三宝帰依の日常」を送ってみるのも悪くはありません。確実に人間性がより良い方向に磨かれていきます。


今回、味わってみたお釈迦様が発せられたお言葉を我が身に刷り込んで忘れることなく(不忘念【ふもうねん】)、自己判断による三宝帰依の日常を願うものです。

第84回「四諦(したい) ―“苦(く)・集(じゅう)・滅(めつ)・道(どう)”の理解と実践―」

令和3年日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、若(も)し苦等の四諦(したい)に於て疑う所ある者は、疾(はやく)之を問うべし。疑いを懐いて決を求めざること得(う)ること無かれ。

爾(そ)の時に、世尊(せそん)、是(かく)の如く三(み)たび唱えたもうに、人問いたてまつる者なし。所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、衆疑(しゅううたが)い無きが故に。

刻一刻と迫る自らの人生の終幕をヒシヒシと感じながら、お釈迦様(世尊)は、お弟子様たちにおっしゃいました。


「苦等の四諦の中で、疑問点がある者がいたら、早く質問してほしい。疑問点を持ったままでは正確な理解は得られまい。」と―。


お釈迦様は「三たび唱えたもう」とあるように、幾度もお弟子様たちに質問はないかとお聞きになりました。「三」というのは、世間一般には「三回」などと解釈しますが、仏教の世界においては、定まった回数を言っているのではなく、「何回も」という意味で使われることを押さえておきたいと思います。


しかし、そんなお釈迦様に対して、「人問いたてまつるものなし」とあるように、お弟子様たちからの質問は誰一人としてありませんでした。なぜなら、「衆疑い無き」とあるように、全ての者がお釈迦様のみ教えを理解できていて、何一つとして疑問点がなかったからです。それは、あたかも雲一つない、晴れ渡った青空のごとき心境だったのではないかという気がします。


ここで、お釈迦様がお弟子様たちに確認なさった「四諦」について、下記の一覧で確認しておきましょう。これは、悟りを得たお釈迦様が鹿野苑(ろくやおん)において、初めてなさったご説法(初転法輪【しょてんほうりん】)です。


苦諦(くたい) 生きることは苦しみの連続であり、それは避けられない道理であるということ。

集諦(じったい)生きる上での苦悩を生み出すものの原因は三毒煩悩と善悪の行いであるということ。

滅諦(めったい)一切の煩悩がなくなり、あらゆる苦悩が滅した状態(涅槃)

道諦(どうたい)滅諦に至る手段や修行(八正道はっしょうどう)


この四諦については、私たちも是非、確実に抑えておきたいものです。と申しますのは、四諦に対する理解なき者は、いつまで経っても、この世を正しく受け止め、理解することができないがために、何かにつけては私見に捉われ、苦悩の渦中から逃れることができないからです。まずは苦諦を受け止めることが肝心です。その上で、他の道理に目を向けてみると、集諦において、私たちの苦悩の原因がはっきりと明示されていることに気づかされます。そして、滅諦においては、私たちが生きていく上で、どんな状態を目指すべきかが示されると共に、道諦においては、どうすれば苦悩の渦中から逃れられるかが的確に示されています。道諦における「八正道」について、詳細に説明する紙面の余裕はありませんが、自らの言動や考え方において、“偏らない”ように留意していくということです。すなわち、自分の好みや都合を最優先するあまり、好き・嫌いといった、相対する捉え方が生じて、周囲との関わり方が偏るようなことをしないようにしていくということです。


こうした四諦というものを正確に理解すると共に、日常生活において意識的に実践していける力を有しているのが、世尊たるお釈迦様であり、そのお弟子様なのです。

第85回「天眼第一(てんげんだいいち)・阿那律尊者(あなりつそんじゃ)、その背景にある仏法(おしえ)」

令和3年4月11日 更新

時に阿(あ)ヌ(※)楼駄(るだ)、衆の心を観察して、而も仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊(せそん)、月は熱からしむべく、日は冷(ひや)やかならしむべくとも、仏の説きたもう四諦(したい)は、異ならしむべからず。                            ※ヌは「少」の下に「兎」

今まさにいのちの炎の揺らめきが消えかかろうとしている2月15日の夜半。静寂に包まれた暗闇の中で、お釈迦様はお弟子様たちに、四諦(苦・集・滅・道)の真理について不明な点はないか問いかけました。しかし、その場にいる全てもののは、「衆疑い無きが故に」とあるように、お釈迦様のみ教えをしっかりと理解できていたので、誰も問うものはありませんでした。お釈迦様との永遠の別れが刻一刻と近づく中で、語るべきものが語り尽くされ、問うべきものも問い尽くされた状況というのは、全てが解決した雲一つない晴れ渡った青空のようなものなのか、あるいは、まだお聞きしておくべきことがないか模索を続けているかのようなものなのか、その場にいる者の心の中は異なっていたのではないかという気がします。


そんな中、一人の高弟が、“衆の心を観察”しながら、言葉を発しました。「世尊、月は熱からしむべく、日は冷やかならしむべくとも、仏の説きたもう四諦は、異ならしむべからず。」―この臨終迫るお釈迦様の枕元にお集まりになっている一人一人の心情を丁寧に読み取りながら、お釈迦様に向かって発された言葉は「空に昇る月が熱くなり、太陽が冷たくなるようなことがあっても、師がお示しになった四諦の真理が変わることはありません。」という内容のものです。夜空に浮かぶ月は冷やかに、日中の空に昇る太陽は燦燦と照り輝くのがこの世の道理であり、それが簡単にひっくり返るものではありません。お釈迦様のみ教えは、それと同じものであると、高弟のお一人はおっしゃったのです。


この高弟とは、お釈迦様のお弟子様の中でも特に優れた「十大弟子(じゅうだいでし)」のお一人である阿ヌ楼駄という人物です。「十大弟子」は、それぞれが弛まぬ仏道修行によって、誰にも勝るとも劣らぬ長けた能力を身につけた方々です。その中でも、阿ヌ楼駄は、「天眼第一(てんげんだいいち)」と称された人物です、「天眼」というのは、「天人が備える眼力」のことで、「一切の存在における生死の相を悟る霊感的眼」を意味しています。そんな能力に長けていた阿ヌ楼駄だからこそ、そのときの状況を正確に把握し、それに応じた言葉を発することができたのでしょう。阿ヌ楼駄の一言によって、お釈迦様の最期に更なる深みが増したといっても過言ではありません。また、その場に集うお弟子様たちも、後世に生かされる我々も、もう一歩進んだところまでお釈迦様のみ教えに触れる機会をいただけたのも確かです。そういう意味では、阿ヌ楼駄は釈尊入滅(しゃくそんにゅうめつ)時において、人々をあるべき方向性に導いてくれたキーパーソンであり、その役割の大きさと、仏道修行によって培われる能力に帰依の念が沸き起こってくるのです。


ちなみに、阿ヌ楼駄について、少し触れておきますと、別名、「阿那律(あなりつ)」ともいい、お釈迦様の従弟に当たる人物です。釈尊の説法中に居眠りをしてしまい、釈尊から叱責されたことによって、以降、眠ることなく坐禅修行を続けることを誓いました。これは、まさに断食などに匹敵する苦行です。そんな阿ヌ楼駄に対して、釈尊はときには医師も交え、幾度も中止するよう言いますが、阿ヌ楼駄は聞き入れることができず、ついには失明してしまいます。しかし、肉眼を失った代わりに、天眼を得ることができ、それを発揮しながら、十大弟子のひとりとして後世に名を残すまでの存在になられたというのです。


私たちの中にも、阿ヌ楼駄のように、何らかのきっかけで目や耳などの感覚器官、あるいは手足など、身体の機能の一部を失った方がいらっしゃいます。また、年齢を重ねていく中で、身体が衰えていくのは誰にでも当てはまることです。「目が見えないというのはどんな感覚なのだろうか」―私は時折、両眼を閉じて、今まで当たり前にやっていたことをやってみようと試みることがあります。すると、できていたことができない現実を突きつけられ、悲しさや寂しさを痛感するのです。とは言え、「見えない現実」にハッとして目を開ければ、何もかもが見えます。しかし、もし、いくら目を開けても何も見えなくなってしまったとするならば、その恐怖や失望感というのは、想像を絶するものではないかという気がします。


障がいを持った方々が、幾多の困難や想像を絶する苦悩を経験されながら、それらを乗り越え、明るく、元気に過ごしているお姿を拝見するに、頭が下がるばかりです。また、阿ヌ楼駄が失った肉眼の代わりに天眼を手に入れたように、身体の別の部位や心といった、他の器官が他者に秀でて発達しているようにも見えます。こうした背景には、諦めたり、怠けたりするするのではなく、ご自分たちのできる範囲で精一杯がんばるという、「精進」のお姿が垣間見えます。お釈迦様は、「精進」について、「少水の常に流れて石を穿つが如し」とおっしゃいましたが、自分のできる範囲でコツコツとやっていくという地道な生き様というのは、誰にでも大切かつ必要な生き方ではないかという気がします。


釈尊入滅時の要となる天眼第一・阿ヌ楼駄尊者のお言葉はこの後も続きますが、そこからしっかりと私たちの目指すべき生き様を学ばせていただきたいものです。

第86回「八正道(はっしょうどう)に生きる」

令和3年4月1日 更新

仏の説きたもう苦諦(くたい)は、実に苦なり、楽ならしむべからず。集(しゅう)は真(まこと)に是れ因なり、更に異因(いいん)なし。苦若(くも)し滅すれば即ち因滅(いんめつ)す、因滅するが故に果滅(かめつ)す。滅苦(めっく)の道(どう)は実に是れ真道(しんどう)なり、更に余道(よどう)なし。

お釈迦様の十大弟子のお一人である阿(あ)ヌ※楼駄(るだ)(阿那律尊者【あなりつそんじゃ】)のお言葉が続きます。


※ヌは「少」の下に「兎」 以降、本文中では「アヌルッダ」と表記します。


「お釈迦様がお示しになっている苦諦(人生の現実は全てが苦であるという道理)は、本当に苦しみであって、決して、楽なものではない。集諦(じったい)(苦しみの原因が我々の中に生じた三毒煩悩であるという真理)もその通りであって、他に原因はない。苦しみが滅すれば、その原因である煩悩も滅するだろう。原因である煩悩が滅すれば、その結果である苦しみも滅するだろう。この滅諦めったいに至るための道(道諦【どうたい】)こそが真道であり、それ以外に道はない。」と―。「真道」とあるのは、「仏祖の大道」ということで、仏のお悟りへの道です。アヌルッダのように、常にお釈迦様と行動を共にし、そのみ教えに幾度も幾度も触れてきた高弟たちにとって、お釈迦様が指し示す真理は疑いようのない、絶対の存在であり、唯一の苦悩を解決する手段なのです。


そう言われても、皆様の中で、お釈迦様のみ教えを聞いて、中々、納得できないとか、疑いを懐くというようなことがあるという方がいらっしゃるかもしれません。私自身も幾度もそんな経験がありましたが、何度も確認していく中で、いつしかすんなりと受け入れられるときが訪れたのは確かです。「いや、自分はそうは思わない」といった具合に、私見を交えて否定するのではなく、腑に落ちるまで疑問と向き合うことによって、ようやく理解できるようになるのです。そういうものであるということを理解しておくことも大切です。この過程には、自分自身の日常レベルにおける人生経験も大いに影響してくるため、“早く”とか、“簡単に”というわけにはいかないところもあります。むやみやたらと焦らず、それでいて、決して、諦めることなく、真道と向き合い、滅苦の道を歩んでいきたいところです。


ちなみに、「道諦」について触れておきますと、これは「八正道(はっしょうどう)」のことで、先の四諦(したい)と共に、坐禅によって悟りを得たばかりのお釈迦様が鹿野苑(ろくやおん)にて初めてなさったご説法(初転法輪【しょてんほうりん】)の内容です(下記一覧参照)。“正しい”というのは、世間一般の基準ではく、仏のお悟りの基準で測ったもので、仏のお悟りに叶ったものは正しく、そうでないものは正しいとは言えません。もう少し具体的に申し上げるならば、自分の価値観を最優先して、何か一点に捉われたり、偏ったモノの見方や捉え方をしたりすることも正しいとは言えません。“偏らないこと”が“正しいこと”であるのです。


正 見 しょうけん    偏らないモノの見方・捉え方をすること。智慧(ちえ)。

正 語 しょうご       偏らない言葉の使い方をすること。愛語。

正 業 しょうごう    偏らない行いを心がけること。不殺生(ふせっしょう)や不偸盗(ふちゅうとう)など。

正 命 しょうみょう         仏の生き方を心がけること

正精進 しょうしょうじん 仏のお悟りに向かって真っ直ぐに進んでいくこと。

正 定 しょうじょう         心を穏やかに保ち、安定させること。禅定(ぜんじょう)。

正思惟 しょうしゆい         偏らないモノの考え方・思考の巡らせ方。

正 念 しょうねん         偏らないように記憶すること。不忘念(ふもうねん)。


日々の生活の中で、“偏らない”ということを意識しながら言動を発していくことが「八正道」の実践につながっていくことを、是非、肝に銘じておきたいものです。 

第87回「あらゆる事態を想定して」

令和3年4月24日 更新

世尊(せそん)、是(こ)の諸(もろもろ)の比丘(びく)、四諦(したい)の中(なか)に於(お)いて決定(けつじょう)して疑い無し。此の衆中(しゅちゅう)に於て若(も)し所作未(しょさいま)だ弁ぜざる者あらば、仏の滅度(めつど)を見て当(まさ)に悲感(ひかん)あるべし。

お釈迦様の高弟のお一人であるアヌルッダのお言葉は、さらに続きます。


「世尊(お釈迦様)、今、この場に集う者たちは、四諦の道理を十分に理解し、体得できており、疑うところもございません。もし、この中で修行が熟していないがために理解が不十分なものがいるならば、お釈迦様の入滅(死)に直面したとき、悲痛の思いを発するでしょう。」と―。「決定」というのは、「仏のみ教えを固く信じて、どんなことがあっても動揺することなく冷静でいられること」です。「八正道(はっしょうどう)」に生きる釈尊教団の修行者たちにとって、四諦(苦・集・滅・道)という、この世の道理や仕組みは否定のしようがない事実でしかありません。そして、そのことを熟知しているからこそ、いつしか訪れるであろう師・釈尊との別れの覚悟が決まっていると共に、その瞬間を迎えたときに冷静に対処する心の準備ができているのです。


考えてみれば、私たちが冷静さを失い、感情的になるのは、想定外の事態が生じたときではないでしょうか。不測の事態を予期できておらず、心の準備ができていなかったことが起ると、誰だってどうしていいかわからなくなるものです。


しかし、そんなときに、でき得るだけ早く動揺する我が心を調え、冷静に対処していきたいものです。いつまでも心が落ち着かず、感情的になればなるほど、言葉や態度にも表れてしまい、周囲に不要な不安や恐怖を与えてしまいます。私自身、これまでの人生を振り返りながら、幾度もそんな場面に遭遇したことが思い出され、只々、反省するばかりです。いかに心を調えることを習慣づけておくことが大切か、過去の自身を懺悔さんげしながら、同じことを繰り返さぬようにしていきたいものです。


また、不測の事態に対応していく上で、予め起こり得ることをできるだけ予測しておくことも大切です。未来を予測しても完全にその通りになるとは限らないからという意見もわかるのですが、予想が当たるかどうかではなく、起こり得る可能性を想定しておくことによって、いざ、事態が発生したとき、冷静かつスムーズに対応できるものであるということを押さえておきたいのです。


今回のアヌルッダのお言葉は、私たちにあらゆる場面を想定して、心の準備をしておくことによって、穏やかで迅速な対応につながっていくことをお示しくださっているような気がします。常日頃から様々な可能性を思い描きながら、事に当たっていきたいものです。

第88回「初発心(しょほっしん) -“夜電光を見て、道を見ることを得うる”を願って-」

令和3年月2日 更新

若(も)し初めて法に入(い)る者あれば、仏の所説(しょせつ)を聞いて即ち皆得度(とくど)す。譬(たと)えば夜電光を見て、即ち道を見ることを得(う)るが如し。

アヌルッダの言葉が続きます。


アヌルッダようなお釈迦様の「十大弟子(じゅうだいでし)」と呼ばれた方々は、お釈迦様とのお付き合いも長く、ご縁も深い方々ばかりです。この方々は、お釈迦様のお人柄やお考えになっていることまで、よくよく理解できていることでしょう。そして、お釈迦様から多くのみ教えをいただき、余すところなく吸収して、もはや他に学ぶことがないくらいまでに十分に理解できた方々と言うことができるでしょう。それは前段で取り上げさせていただいたアヌルッダの言葉からも明確です。


そんな十大弟子とは反対に、初めてお釈迦様のみ教えに触れるような方々(初めて法に入る者)がいらっしゃったとしても、仏の所説(お釈迦様のみ教え)を聞けば、必ずや理解を得られるとアヌルッダは太鼓判を押します。「得度」というのは、出家して、仏の戒法を得て仏門に入るという意味で使われる仏教用語ですが、突き詰めれば、“度を得る”とあるように、仏のみ教えを得て、身心共々に静寂なる涅槃(ねはん)の境地に渡(度)ることを意味しているのです。


数多の仏様の中でも、観音様(観世音菩薩【かんぜおんぼさつ】)やお地蔵様(地蔵菩薩【じぞうぼさつ】)を始めとする「菩薩(ぼさつ)」様は、「仏のお悟りを求めながら(上求菩提【じょうぐぼだい】)、周囲のいのちに心を配り、その苦悩を救うこと(下化衆生【げけしゅじょう】)を役目とする仏様」です。これは、菩薩様が、我々衆生が苦悩から救われることを願い、悟りの世界に導く案内人としての役目を有するということです。この役目に注目したとき、“度を得る”というのは、菩薩様のお導きによって、大きな川の向こうにある仏の世界に渡るようなものであると捉えることができます。川の向こうにある仏の世界を「彼岸(ひがん)」と申し、その反対に我々が生きる川のこちら岸を「此岸(しがん)」と申します。「此岸」にて「彼岸」のみ教えを伝えながらも、「此岸」と「彼岸」を分け隔てる川の存在をなくして、二つの世界を一つにすると共に、実は“此岸こそが彼岸である”ことを、此岸に生かされている我々に気づかせるのが、菩薩様の役目なのです。


この“此岸こそが彼岸である”という気づきは、まさに「夜電光を見て、即ち道を見ることを得るが如し」の感覚です。暗闇の中に差し込む一筋の光によって、見えなかった行先が見えるようになれば、我々は安心して、前に進んでいけるでしょう。夜の電光という、一筋の光明は道を歩むものにとって、貴重な大発見なのです。


得度ということに対して、自分自身に当てはめてみたとき、お寺に生を受けた私は、小学校六年生の春に曹洞宗の定め通りに得度式を受け、仏門に身を投じさせていただきました。得度について、何か特別な自覚もなく、寺の子として成人し、23歳になって、大本山總持寺(横浜市鶴見区)で修行をさせていただきました。思えば、僧侶であることに無気力で、仏道に精進していこうという志も薄く、惰性で過ごしていたような気がします。


そんな私が、ご本山での修行を終え、24歳のときに高源院住職を拝命。25歳になって布教師養成所に入所させていただき、講本となった「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」を1年がかりで読み味わわせていただいたことが、仏道を精進する志を固めた大きなきっかけになったような気がします。まさに「夜電光を見て、即ち道を見ることを得」た機縁でした。そして、これが、仏門に身を投じて13年目の私に訪れた、“遅ればせながらの「初発心(しょほっしん)」”だったような気がします。そして、その機縁によって、今の幸せがあるような気がするのです。


初めて法の世界に入る者が、仏の所説に触れながら、我が人生の方向を彼岸の地に定める「初発心」という機縁を、出家のみならず、在家信者の方にも持っていただくことを願うのです。 

第89回「感応道交(かんのうどうこう) -師と弟子の心が通じ合うということ-」

令和3年5月日 更新

若(も)し所作巳(しょさすで)に弁じ苦海(くかい)を度(わた)る者は但(た)だ是この念(ねん)を作(な)すべし、世尊(せそん)の滅度一(めつどひと)えに何ぞ疾(すみやか)なる哉(や)と。

引き続き、アヌルッダはお言葉を発します。前回は「初めて法に入る者」に対するお言葉でしたが、今回は「所作已に弁じ苦海を度る者」とあるように、「仏道修行によって、為すべきものは全て成し遂げられ、生きていく上での苦悩が解決された者」、すなわち、得度の因縁を成した者に対するお言葉です。「是の念を作すべし」とあるのは、前段にある「仏の所説を聞いて皆得度す」を受けてのことで、得度の因縁を成した者が、お釈迦様のみ教え(仏の所説)をいただいて、身心共々に静寂なる涅槃の境地に度る(入る)ことを指しています。


そうした方々は、「世尊の滅度一に何ぞ疾なる哉と。」とあるように、『「釈尊(世尊)の入滅(死)が、何と一方ならぬ速やかなものであるか」と捉えるべきである』と、アヌルッダは静かに道を得た者の心がけを語るのです。それは、いのちあるものは、いつか必ず最期を迎えるという道理を、そのまま受け止めることが大切であるということです。


こうしたアヌルッダのお言葉の奥底に潜むお心とは、どのようなものであるのでしょうか。それを推察するに、今、アヌルッダ始め、お釈迦様の最期のみ教えに耳を傾ける者の多くは、お釈迦様と共に長い時間を共に行動し、お釈迦様のみ教えを十分すぎるくらいに聞いて、道を体得した方々ばかりです。たとえ、間もなく師・釈尊との永遠の別れが訪れようとも、決して、心乱れることなく、眼前の現実を受け止めることができる方々ばかりです。しかし、仮に、その中に「初めて法に入る者」だとか、「道を体得できているようで、できていない者」がいた場合、道を得た者たちならば、お釈迦様に代わって、四諦八正道(したいはっしょうどう)の真理・み教えを説いて、法に入らせることができるということをお釈迦様にお伝えくださっているのです。弟子たちが間もなく入滅せんとするご自分の代行ができるまでに成長したお姿に触れたお釈迦様のお気持ちはいかばかりか。それは、お釈迦様にとって、うれしく、心強いことはないでしょう。悟りの道を歩んでこられたお釈迦様にとって、何よりもの人生のプレゼントだったかもしれません。計らずも本日は「母の日」ですが、親にとって、この成長した姿こそ、何物にも代えがたい最高のプレゼントなのではないかという気がします。それと同じことではないでしょうか。


こうした師弟関係には、長年の信頼関係によって培われた“阿吽の呼吸”とも言うべき心の通じ合いが垣間見れます。そして、これぞ、まさに「感応道交(かんのうどうこう)」ということではないかという気がします。こうした釈尊教団における師と弟子の心の通じ合いを、私たちも日頃の人間関係の中で少しでも築き上げていくことができたらと願うものです。

第90回「お釈迦様の“大悲心(だいひしん)”―最期の最期のご説法の始まり―」

令和3年5月16日 更新

阿(あ)ヌ(※)楼駄(るだ)、此の語を説いて、衆中皆悉(しゅちゅうみなことごと)く四聖諦(ししょうたい)の義を了達(りょうだつ)すと雖(いえど)も、世尊此(せそんこ)の諸の大衆(だいしゅ)をして皆堅固(みなけんご)なることを得せしめんと欲して、大悲心(だいひしん)を以て復(ま)た衆(しゅ)の為に説きたもう。


※ヌは「少」の下に「兎」

お釈迦様の高弟のお一人であるアヌルッダが師に代わって、衆中(その場にいる者たち)に発した言葉は、師と「感応道交(かんのうどうこう)」している高弟だからこそ発せられるものであり、まさに、的確な“代弁”であったと評すべきでしょう。


代弁というのは、簡単そうに見えるかもしれませんが、決して、そういうものではありません。相手が何を思い、何を感じているのか、そうした相手の心の中というものは、完全に見えるものではないので、全てを理解するのは不可能です。たとえ、相手との付き合いも長く、その人柄や性格が理解できているからといっても、それは、こちら側の勝手な思い込みでしかない場合もあり得るでしょう。


しかしながら、完全に理解できなくても、ある程度までは理解することはできます。少なくとも、お釈迦様とアヌルッダ始めとする十大弟子のように、常日頃から、相手のことを思いながら大切に関わり、共に行動している者同士ならば、可能なはずです。それを証明しているのが、今回の一句における「衆中皆悉く四聖諦の義を了達す」です。これは、アヌルッダが衆中の様子を注意深く伺いながら、「その場にいる者たちは皆、四聖諦(苦・集・滅・道)という、この世の道理を了達(しっかりと体得すること)できている」というメッセージをお釈迦様に発したということなのです。ここには、アヌルッダが師の心情に思いを馳せながら、師に仏法がしっかりと浸透している釈尊教団の人々の成長したお姿をお見せして、安心していただこうとするアヌルッダの師に対する最後の願いが垣間見えます。


お釈迦様もまた、そんなアヌルッダのお気持ちを十分にお察しになっていました。この場面は、もし、自分もその場にいて、目の当たりにしていたならば、感動の涙を流す瞬間でありましょう。そんな高弟・アヌルッダの温情に師・釈尊は最期の力を振り絞って、「大悲心を以て」最期の最期の説法をなさろうとするのです。「大衆をして皆堅固なることを得せしめんと欲して」とあるように、「その場にいる者の心をさらに強固なものにして、確実に安心を覚えていただけるように」との願いを込めて―。


このときの釈尊の心情を指し示すお言葉が「大悲心」です。これは「偉大なる慈悲」であり、「人々の苦悩を確実に救い上げることを強く決意したお心」とも申し上げるべきもので、まさに「抜苦与楽(ばっくよらく)」ということでしょう。ここから語られるお釈迦様の“最期の最期のお言葉”は、これまでのどんなお言葉にも勝るとも劣らぬ大悲心に満ちたものとして、語られていきます。一語一語を大切に嚙み締めながら、“釈尊最期の説法”を味わっていきたいものです。

第91回「諸行無常の体得 ―他人事ではなく、我が事として―」

令和3年5月23日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、悲悩(ひのう)を抱(いだ)くこと勿(なか)れ。若(も)し我れ世に住すること一劫(いっこう)するとも、会うものは亦(ま)た当(まさ)に滅すべし。会うて而(しか)も離れざること終(つい)に得べからず。

迫り来る死期を悟りながら、身心を蝕む病魔による苦しみは想像を絶するものではないかという気がします。しかし、それでも衆(その場に集いし者たち)のために、「大悲心(だいひしん)を以て」、お釈迦様は最期の最期の説法に臨もうとなさいます。“最期まで道に生きる”―これぞ道の人の最期のお姿なのでしょう。それゆえに、これから始まるお釈迦様のお言葉は、これまで以上に心して読み味わってまいりたいものです。


「汝等比丘、悲悩を抱くこと勿れ。」これは、先に示した状況下において、お釈迦様が開口一番におっしゃったお言葉です。「自分との別れが訪れようとも、泣き悲しんだり、悩み苦しんだりする必要はない。」とお釈迦様はおっしゃっているのです。「若し我れ世に住すること一劫するとも」とあるのは、「仮にお釈迦様のご生涯が永遠に続くものであったとしても」ということです。「劫」というのは、「非常に長い時間」を意味するもので、仏教では時間の単位を表す言葉として用いられるものです。かりそめにも、人間のいのちが永遠のものであったとしても、「会うものは亦た当に滅すべし」とお釈迦様がおっしゃるように、どんないのちも必ず滅するときがやって来るというのです。永遠に生き続けるいのちなど存在しないのです。「いのちある全ての存在は生成すれば、変化を繰り返し、やがて滅していく」ということこそが、この世の確固たる道理であるというのが、最期の最期の説法において、お釈迦様が最初にお示しになったことなのです。すなわち、お釈迦様は「諸行無常」という、この世の道理を強くお示しになっているのです。そして、そうしたこの世の道理の根拠となるのが、「会うて而も離れざること終に得べからず。」です。「どんないのちも確実に最期を迎える」ということです。


今回の一句を通じて押さえておきたいのは、お釈迦様のみ教えを学ばせていただく上で、こうした「諸行無常」の道理こそを、何よりも体得できるようになることが肝心であるということなのです。「諸行無常」の体得とはどういうことなのでしょうか。それは“我が事として捉える”ということです。つまり、“自分もいつかは死ぬいのちを生かされている”ということを自覚し、自らのいつか訪れる死を覚悟しながら生きていくということなのです。


人間は見ず知らずの人間の死に対しては、ほとんどの場合、他人事であるかのように、さほど関心を示すことがないように見受けられます。ところが、最愛の人との別れの場面では、悲しみの涙を流します。まさに「四苦八苦(しくはっく)」における「愛別離苦(あいべつりく)」ということでしょう。こうした最愛の人との別れを受け止めていく力を持つことも、私たちが生きていく上で大切なことです。


そうした他者の死に対しては、相手との関係性の強さに比例するかのように、悲しみの度合いにも違いが生じてしまうのですが、いざ、我が身に死期が迫ったと感じたとき、私たちはどんな心境で、現実と向き合うのでしょうか。私は今、ご縁があって、年に2回の健康診断を受けることができる環境に身を置いていますが、30歳半ばを過ぎた頃から、生活習慣病など、健康に気を遣わなければならないと感じるような検査結果や医師の診断をいただたくようになってきました。それまで健康や病気のことなど、あまり気にかけることはなく、どちらかと言えば無関心であっただけに、医師から聞いたことがないような話をお聞したり、見たこともないような検査結果を目の当たりにしたりしたとき、ふと、「死」の予感が過ぎって、青ざめたことさえありました。


幸いなことに、これまでのことは、全て取り越し苦労でしたが、お釈迦様がおっしゃるように、人間はいつか必ず死にます。今は元気だと思って過ごしていても、気づかぬうちに病魔が我が身を蝕んでいたなどという話は世間には五万とあります。そうした状況を他人事ではなく、我が事として捉えたときにどう生きていくのか―?お釈迦様は仏のみ教えに従い、仏の道に生きて、少しでも仏に近づいて生涯を全うすることをお示しになっています。そして、それが、いつかは死ぬいのちであることを自覚し、死の覚悟を持って生きていくということなのです。

第92回「お釈迦様の愛語 -“自利利人(じりりじん)の法”を具足(ぐそく)する人々へ-」

令和3年5月30日 更新

自利利人(じりりじん)の法は皆具足(みなぐそく)す。若(も)し我久しく住するとも更に所益(しょやく)なけん。

鈴木氏(仮名)は38歳の若さで妻子を遺して突然死なさいました。あまりに突然過ぎた最愛の人との別れに、ご家族は幾度も涙を流しました。そして、今、周囲の人々と支え合いながら、辛く苦しい現実を少しずつ受け止めようとしています。


今から50年前、山田氏(仮名)は同じような悲しい出来事を体験なさいました。2人の子どもと義理の親を抱え、山田氏は必死に働いて子どもを育てました。子どもたちは立派に成長し、それぞれ独立して、一生懸命生きています。また、義理の親の介護にも尽力され、その最期を看取りました。あれから50年。昭和・平成を経て、時代は令和。この間、山田氏は最愛の連れ合いのご供養を欠かすことなくお続けになり、過日、50回忌のご法要を無事にお勤めになりました。


これらは「諸行無常」という、この世の道理に直面した方々の体験談ですが、果たして、もし、私たちが同じようなことを体験することになったとき、どのように受け止めるのでしょうか。難解と思われがちな仏教の中でも、「万事が変化し、生成消滅を繰り返している」ことを指し示す「諸行無常」というみ教えは、比較的、共感しやすいがために、理解するのは、さほど難しいことではないように見受けられます。しかし、この現実が我が身に引き起こされたとき、それを一体、どれだけの人が我が事として受け止めていけるのでしょうか。そうなると、「諸行無常」を理解することは、決して、容易くないことに気づかされます。『「諸行無常」の道理など簡単に理解できる』などと思っているうちは、所詮は、他人事としてしか捉えられておらず、お釈迦様が我々に願うことのほとんども体得・理解できたとは言い難いことを、肝に銘じておくべきでしょう。


「諸行無常」のみ教え一つ採ってみても、辛い現実、不都合な出来事、そうした自分にとってマイナスに映る現実に対して、そこから目を背けることなく、どんなことでも受け止めていく力を持つことは、私たちが“忍土(にんど)”たる苦悩多き娑婆世界に生かされていく上で、決して、外せません。そうした力を身につけていく上で、お釈迦様のみ教えを理解・体得していくことが大切です。それは、自らお釈迦様のみ教えに従って日々を過ごす中で、身についていくものなのです。


そうしたお釈迦様のお悟りを追求して、精進していくことが「自利」です。そして、自利によって、周囲のいのちに心を配り、皆が一人残らず幸せをかみしめられるような言葉や行いを提示していくことを「利人」と申します。観音様(観世音菩薩様)やお地蔵様(地蔵菩薩様)を始めとする「菩薩様」という仏様は、「上求菩提(じょうぐぼだい)」と「下化衆生(げけしゅじょう)」の両者を自らの役目とする仏様です。前者が「自利」であり、後者が「利人」ということなのですが、大悲心(だいひしん)を以て説法をなさっているお釈迦様は、今、この場に集いし者たちは、こうした「自利利人の法」を具足している(身につけていること)と、断言してくださっているのです。と言うことは、アヌルッダ始め、今、病床に臥せるお釈迦様の元に集いし者たちは、「自利利人の法を具足し、仏になった者たち」であるとお釈迦様がはっきりと証明してくださっているというのです。


そんな仏に成った者たちだからこそ、「若し我久しく住するとも更に所益なけん」とお釈迦様はおっしゃるのです。「もはや仏に成っている者たちが大勢いる中で、自分は役目を果たし、これ以上、この娑婆世界に生かされていく必要はなくなったのだ」と。自らと共に仏道修行に励んできた者たちを仏として認め、この先、自らに代わって、仏の役目を果たしてくれる大切な存在であると、期待を込めて、お釈迦様はエールを送っているのです。これぞ、お釈迦様からお弟子様たちに発せられる最高の「愛語」ではないでしょうか。まさに、この一句は、感極まる一句です。


「諸行無常」という道理を我が事として受け止めていくことを、お釈迦様は最期の最期の説法の中で、強く我々に願っています。その強い願いを今一度、しっかりと受け止めながら、日々を過ごしていきたいものです。

第93回「仏法の展転(てんでん) ―仏道修行者の役目―」

令和3年日 更新

応(まさ)に度(ど)すべき者は、若(も)しは天上人間皆悉(てんじょうにんげんみなことごと)く巳(すで)に度す。其(そ)の未だ度せざる者には、皆亦(ま)た巳(すで)に得度の因縁を作(な)す。自今巳後(じこんいご)、我が諸(もろもろ)の弟子、展転(てんでん)して之を行ぜば、即ち是(こ)れ如来の法身常(ほっしんつね)に在(いま)して而(しか)も滅せざるなり。

―迫り来る死を目前に大悲心(だいひしん)を以て語られる愛語の説法―

仏遺教経を読み味わいながら、お釈迦様の最期のご説法を一言で表すとすれば、このように表現できるのではないかという気がします。


そんな最期のご説法において、お釈迦様はおっしゃいます。「応に度すべきものは、若しは天上人間皆悉く巳に度す。」と。「天上人間」とあるのは、「天上界と人間界」を指しています。修証義第2章の中では、“人天(にんでん)”、という言葉で表現されていました。ここでは、お釈迦様は「この世に存在する、生きとし生ける全てのいのちに、余すことなく法を説き、その苦悩に救いの手を差し伸べてきた。」とおっしゃっているのです。


そして、お釈迦様は「其の未だ度せざる者には、皆亦た巳に得度の因縁を作す。」とおっしゃいます。現世において、ご自身が救いの手を差し伸べることができなかった者たち、すなわち、後世に生きる人々に対して、「仏のみ教えとのご縁を育み、苦悩から救われる場を作った。」と、お釈迦様はおっしゃっているのです。


道元禅師様は「典座教訓(てんぞきょうくん)」の中で、「世尊(せそん)の二十年の遺恩(ゆいおん)」という言葉を用いていらっしゃいます。これは、お釈迦様が100歳までの寿命を与えられていたのを、自ら20年縮めて、後世の人々に施してくださったという仏教の世界における伝説です。これが指し示すものと、今、取り上げさせていただいているお釈迦様のお言葉とが見事に合致していることは、明白です。お釈迦様は自らの20年分のご生涯を、後世に生かされるであろう多くのいのちに細かく細分化して施すと共に、そこに法を遺して、仏とのご縁をつなぐ土台作りをなさって、この世でのお役目を終わろうとなさっているのです。


そして、もう一つ、そんなお釈迦様亡き後に、法を後世に伝えるという大役を担う存在として、お釈迦様が期待を寄せるのが、「我が諸の弟子」です。「展転」とあるのは、反物を転がすと、段々と拡がっていくように、お釈迦様のみ教えが、あちこちに拡まっていく様を表したものです。仏法の展転こそが、遺されたお弟子様たちの仕事なのです。それだけではありません。今、ここに生かされている我々出家者もまた、お釈迦様のみ教えを受け継ぎ、出家の立場を名乗るのであれば、「展転」ということが、大切な役目の一つであることは同じであり、今一度、そのことを再確認しておきたいところです。


果たして、我々出家者は、日常生活の中で仏道修行に励み、その生き様を存分に発揮しながら、世間にお釈迦様のみ教えを拡めていると言えるでしょうか。それが出家者の存在意義であるとすれば、今、社会は、それを求めているのではないかという気がします。果たして、そんな社会の求めに応じた日常を送れているのだろうか―?「自らの襟元を正さなくてはならない」と強く意識する一句です。


そんなお釈迦様が願う「展転」という出家者の役目が娑婆世界において存分に発揮されているならば、「如来の法身常に在して而も滅せざるなり」とあるように、偉大なるお釈迦様の存在が娑婆世界に常に存在し、滅して消えることはないというのです。「法身」は、お釈迦様のお姿の中でも、「永遠の真理そのもの」を言い表すものです。道元禅師様が「教授戒文きょうじゅかいもん」の中で、「不殺生戒」とは、「仏の慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)することである」とお示しになりましたが、我々出家者がお釈迦様のみ教えを滅ぼす(殺す)ことなく、自ら修行して、娑婆世界の中で生かしながら、後世の人々に伝えていくことが、法身を「殺生をしない」という生き方であり、「仏の慧命を嗣続する」ということなのです。


お釈迦様の大悲心を以て語られる愛語のご説法は、その場にお集まりの方々のみならず、後世に生かされる天上人間界全てに生かされる人々をも対象とした「永遠なる絶対不変の真理」なのです。そのことを今一度押さえ、仏のみ教えを味わい、修行させていただきたいものです。 

第94回「憂悩(うのう)を懐くこと勿れ!―お釈迦様からの“愛語のエール”を受け止めて-」

令和3年6月13日 更新

是(こ)の故に当(まさ)に知るべし、世は皆無常なり。会うものは必らず離るることあり。憂悩(うのう)を懐くこと勿(なか)れ、世相是の如し。当に勤めて精進して早く解脱(げだつ)を求め、智慧(ちえ)の明(みょう)を以て、諸(もろもろ)の痴暗(ちあん)を滅すべし。

お釈迦様は、お弟子様たちを始めとする方々(現世での80年のご生涯の中で“直接的なご縁のあった方々”)のみならず、「世尊の二十年の遺恩」をいただいて、後世に生かされる方々に対しても、「得度の因縁」を為して、仏縁を育まれたことを明言なさいました。それを受けて展開されるのが、今回の一句です。


「是の故に当に知るべし」と、お釈迦様は「だから、しっかりと知っておいてほしい」と強く前置きなさいます。これは、この後に述べられることこそが、私たちがこの娑婆世界に生かされていく上で、しっかりと心しておきたい一句であると捉えておくべきでしょう。それが「世は皆無常なり。会うものは必らず離るることあり。」です。「この世は無常であり、出会いがあれば、必ず別れが訪れる」ということです。これは「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を具体的に説いたものの一つとして解しておくべきでしょう。


今、お釈迦様は高弟・アヌルッダのお言葉を受けて、最期の最期の力を振り絞って、大悲心に満ちた愛語のご説法をなさっていますが、その中心思想が「諸行無常(しょぎょうむじょう)」です。大切なことは、このことを他人事ではなく、我が事として捉えながら、毎日を過ごしていくことであり、それが仏道を歩んでいくということなのです。


こうした「諸行無常」の道理に従って生かされていくことが、この娑婆世界の掟であるということが、「世相是の如し」というお言葉から読み取れます。特定の人だけが諸行無常の苦悩を味わうわけではありません。この世に生かされている全ての者が大なり小なり、早かれ遅かれ、味わう現実・道理なのです。だから、「憂悩を懐くこと勿れ(心配するな)」とお釈迦様はおっしゃるのです。


「諸行無常」の現実が我が身に訪れることは、この上ない苦悩を伴うものです。しかし、それは誰にでも平等に訪れる現実であり、そのことに対して、自分だけが辛い思いをしていると、勝手に決めつけ、マイナス思考になることほど、残念で寂しいことはありません。自分で自分の可能性を否定するようなものですから。そのことは、よくよくお釈迦様のみ教えを味わっていけば、誰もが気づかされるはずです。そうした娑婆世界の道理に苦悩することなく、少しでも前を向いて生きていけるようにとの願いを込めて、「当に勤めて精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て、諸の痴暗を滅すべし」とお釈迦様はおっしゃっているのです。「仏のお悟りに向かって、まっすぐに精進し、少しでも仏のモノの見方・考え方(智慧の明)を身につけ、我が身に沸き起こるマイナス要素(痴暗)を断ち切っていこう!」―死を目前にしたお釈迦様が現世のみならず、後世に生かされるであろう見ず知らずの人々にも心を配って発せられた愛語のエールを、お釈迦様の二十年の遺恩をいただいて、今を生かされている私たち一人一人が、しっかりと心に留めて、毎日を過ごしてきたいものです。

第95回「智者・釈尊の死生観-死の恐怖が歓喜(かんぎ)になる!?-」

令和3年6月20日 更新

世は実に危脆(きぜい)なり、牢強(ろうごう)なる者なし。我れ今滅を得(う)ること悪病を除くが如し。此(こ)れは是(こ)れ応(まさ)に捨つべき罪悪のものなり、仮に名づけて身と為す、老病生死の大海(だいかい)に没在(もつざい)せり、何ぞ智者(ちしゃ)は之を除滅(じょめつ)することを得ること、怨賊(おんぞく)を殺すが如くにして、而も歓喜(かんぎ)せざること有らんや。

「諸行無常」なるがゆえに、生成すれば、変化を繰り返し、やがては消滅していくというのが、この世の道理です。そうした娑婆世界に生かされているものならば、万事、諸行無常の道理にさらされることから逃れられません。だから、「諸行無常」を現実として受け止めながら生きていくことが求められるのであり、お釈迦様はそれをお示しになっているのです。


「諸行無常」ということを考えてみたとき、一つには、「何事にも期限がある」という側面があることに気づかされます。3月に決算期を迎える株式会社などの法人では、6月末までに事業活動や決算の承認、役員の専任といった重要な案件の決議がなされます。役員について、定款ていかん(法人の規則)には、その任期が記されていますが、これを期限と言い換えることができるでしょう。役員の任期(期限)は、解任事由が生じたり、再任されたりしない限り、任期満了によって終了し、後任に選任されたものが役を務めることになります。


任期を終え、次の者が役職を務めるようになると、周囲も今までのように、役職の者として見てくれるわけではないので、発言力にしろ、周囲への影響にしろ、役職を司っていた頃から見れば、随分、低下してしまうことでしょう。まさに「世は実に危脆なり、牢強なる者なし。」です。どんなに権力を振りかざし、大手を振って歩いていたとしても、「諸行無常」の道理を前に、誰一人として、強く立ち振る舞うことなどできないのです。


そんな娑婆世界において、「仮に名づけて身と為す」とあるように、我々人間は、身体というものを仮にいただいて、いのちを生かされている存在に過ぎません。そんな私たちが、無常の風にさらされながら、いのちの期限が迫ってきたとき、心静かに、流れに身を任せればいいとお釈迦様はおっしゃっているのです。それが「今滅を得ること悪病を除くが如し。此れは是れ応に捨つべき罪悪のものなり」に込められたお釈迦様の願いです。誰だって我が身に死が訪れるのは恐ろしいです。しかし、最期で生に執着して、ジタバタしても仕方ないのです。修証義第1章の中に「国王大臣親ジツ従僕妻子珍宝助くるなし」とあるように、死を迎える者を誰も助けられません。私たちはたった一人であの世に向かうことになるのです。そんな諸行無常の風にさらされている私たち人間の生涯を、お釈迦様は「生老病死の大海に没在せり」と言い表していらっしゃいます。


そのことを“智者”たる“悟りを得た仏道修行者”ならば、重々承知できているがゆえに、生への執着や、死に対する恐怖感というものを、あたかも怨賊を殺すがごとくに自らの中に押し殺し(苦悩を現実として受け止め)、歓喜(喜ぶさま)の心を表しさえするとお釈迦様はおっしゃいます。これは、死を目前に控えた智者・釈尊の「死に対するお言葉」と捉えても過言ではないような気がします。死の恐怖は、諸行無常を完全に体得した仏道修行者である「智者」の領域に達したとき、随分和らぎ、恐怖から歓喜へと変化していくとお釈迦様は証明してくださっているのです。


こうした捉え方ができるようになるためには、道一筋に精一杯、いただいたいのちを生きてこそ、得られるものではないかという気がします。自分にご縁をいただいた道を真剣に歩み、自らが歩んできた道に後悔することがないよう、智者・釈尊を見習っていきたいものです。

第96回「一心に出道(しゅつどう)を勤求(ごんぐ)する ―人生を歩むポイントとは?―」

令和3年6月2日 更新

汝等比丘(なんだちびく)、常に当に一心に出道(しゅつどう)を勤求(ごんぐ)すべし。一切世間の動不動(どうふどう)の法は、皆是(みなこ)れ敗壊不安(はいえふあん)の相(そう)なり。

自分がいただいた道を真剣に歩むということについて、お釈迦様はお弟子様たち(仏道修行者)に対して、「一心に出道を勤求すべし。」とおっしゃっています。すなわち、「ただ只管(ひたすら)に、道(仏道)とは何かを求め、仏道修行者としての道を歩み続けながら(一心に出道を勤求する)、仏の悟りに到達していってほしい」ということです。これは、まさに智者たる師・釈尊からお弟子様たちに向けられた願いです。つまり、お釈迦様は仏道修行者に対して、何よりも「精進」をこそ願っていらっしゃるのです。


こうしたお釈迦様の願いは仏道修行者のみならず、誰に対しても当てはまります。我々は誰もが自分たちの道を歩んで生きています。学生という道、技術職や事務職、福祉職等、自分が司る仕事という道、または、スポーツという道や芸術という道。そうした自らが歩む道が具体化している人もいれば、何をやっているのかはっきりしていないという人もいるかもしれません。


しかし、誰もが「人生」という道をいただき、歩んでいるという点では、同じではないでしょうか。そうした人生において、どんなときも「精進」を意識しながら、道を歩んでいくことを忘れないようにしていきたいものです。これぞ、先にお釈迦様がお示しになった「不忘念(ふもうねん)」のみ教えとも合致しているのです。


そんな私たちが歩んでいる人生という道には、時間という存在があります。時間の存在、そして、時間との関わりによって、道は変化に富み、様々な存在とのご縁が育まれていきます。これが「諸行無常」です。お釈迦様はお弟子様たちにおっしゃいました。「諸行無常を他人事ではなく、我が事として受け止めていけるように」と。誰もが“いつか死ぬ人生”を生かされています。死は突然我が身に迫ることもあります。まさに「一切世間の動不動の法は皆是れ敗壊不安の相なり」が指し示しているのは、そういうことです。このこともまた、しっかりと我が心に留めて、人生を歩んでいくことが大切です。世間というのは、いのちあるものが生かされている娑婆世界のことであり、そこで起こる出来事を、心や身体が動かされるようなもの(心境の変化、病や加齢による体調の変化)とそうでないものに分類しながら表現しているのが「動不動の法」です。そして、それが脆くて壊れやすい脆弱なものであり、不安定であることを言い表しているのが、「敗壊不安の相」です。


「諸行無常」を我が事として捉え、「一心に出道を勤求」することを心がけながら、人生という道を精進していく大切さを再確認しておきたいものです。

第97回(最終回)「怠けるな! ―お釈迦様のご遺言―」

令和3年日 更新

汝等且(なんだちじばら)く止(や)みね、復(ま)た語(もの)いうこと得(う)ること勿れ。時将に過ぎなんと欲す、我滅度せんと欲す。是(こ)れ我が最後の教誨(きょうげ)する所なり。

仏教の開祖・お釈迦様(享年80歳)は紀元前5世紀(紀元前6世紀説、紀元前7世紀説、諸説あり)に実在された方です。その80年のご生涯について、下記の一覧にまとめさせていただきました。


●降誕(ごうたん)

4月8日、迦毘羅(かびら)(インドの釈迦族の国)国王・浄飯王【じょうぼんおう】と摩耶夫人【まやぶにん】の子として誕生。生後間もなく、実母・摩耶夫人が亡くなるも、叔母(母・摩耶夫人の妹)・摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)(後に釈尊の下で出家。教団初の女性出家者となる)に育てられる。

●結婚

16歳のとき。妻・耶輸陀羅姫(やしゅだらひめ)(後に釈尊教団にて出家)。一子を授かる(羅睺羅【らごら】)

●出家

29歳のとき。将来の地位を捨て、家族とも離れて、宮殿を出る。6年間にわたる苦行を中心とした出家求道の旅。

●成道(じょうどう)

12月8日、35歳のとき(30歳説あり)。1週間に渡り、菩提樹の下で一人、坐禅・瞑想。仏陀(ぶつだ)となる(仏と成る。人間世界の真理を悟り、自らの心中の苦悩を解決することができる)。

●初転法輪(しょてんほうりん)

最初の説法。鹿野苑(ろくやおん)において、出家後、共に6年に渡る苦行を修してきた5人の仲間に仏法を伝える。以降、45年間に渡ってインドの各地を旅し、多くの人々に仏法を伝え、人々の苦悩を救済する。

●入滅(にゅうめつ)

2月15日夜半、80歳のとき。拘尸那伽羅(くしながら)にてご逝去。


これまで「仏遺教経」において、お釈迦様の最期のメッセージを読み味わってまいりましたが、これは上記一覧の中では、入滅の項におけるものです。その中でもお釈迦様の臨終間際のお言葉となるのが、今回の一句です。


「汝等且く止みね。復た語いうこと得ること勿れ」―お釈迦様はお弟子様たちに静かに語りかけます。「もう悲しむのを止めましょう。言葉を発するのも終わりにしましょう」と―。最期の最期に渾身の力を振り絞り、大悲心を以て愛語を語るお釈迦様が一貫してお示しになったのは、「諸行無常」という、人間世界における真理です。この世には時間というものが存在しています。そして、全ての存在が時間と関わっているがゆえに、変化を余儀なくされています。それが「諸行無常」の指し示す道理です。すなわち、生まれたいのちは、いつか必ず死を迎えるということです。まさに「会うものは亦た当に滅すべし」なのです。そして、そのことが「時将に過ぎなんと欲す、我滅度せんと欲す」というお釈迦様がお発しになっている生のお言葉から漏れ伝わってきているような気がします。それは、まさに今、死を迎えようとしているいのちが発する実体験を通じた最期のお言葉とも捉えることができるでしょう。


こうして展開なさってきたみ教えを最期の「教誨(教え諭すこと)」であるとおっしゃって、お釈迦様は静かに80年のご生涯を終えられます。こうして「仏遺教経」の舞台幕が降りていきます。


お釈迦様が「諸行無常」という道理を通じてお伝えしたかったことは何だったのでしょう。それは、我々人間には始まりがあれば、必ず終わりを迎えるいのちを生かされているからこそ、怠けることなく、真理を求めて、仏の道を歩むことが大切であるということです。それこそが、私たち人間たるものが踏み歩むべき生き方であるとの信念を以て、お釈迦様は仏のお悟りを目指して、真っ直ぐに進んでいく生き方をおススメになっているのです。それは、具体的に申し上げるならば、「怠けるな!」ということなのです。そして、そうした生き方が「精進」や、「不退転(ふたいてん)」という言葉で表されているのです。


この「怠けるな!」というお言葉をお釈迦様の最期の教誨であると胸に刻み込んで日々を過ごしていきたいものです。まさに、人生を「怠けるな!」ということこそが、お釈迦様のご遺言なのです。そんな精進だとか、不退転の生き方こそが、いつの時代も我々人間に求められてきた“あるべき生き方”であることを、しっかりと肝に銘じておきたいものです。


私たちがご先祖様から代々受け継いでいただいたいのちは、“限りあるもの”です。また、たとえば、事故や自然災害等が発生すれば、健康で元気だったいのちが、一瞬にして尽きてしまうことだって起こり得るという、まさに、“いつ終わりを告げるかわからないもの”とも言えます。そうしたいのちの特質に目を向け、人間としてどう生きていくべきなのかを、“生き方の達人”たるお釈迦様のみ教えを参考にしながら、毎日毎日を大切に過ごしていきたいものです。