禅語


               背景 「高源院から眺める夕暮れの金沢市内」(令和4年9月23日 撮影)

第1回「挨拶(あいさつ)」

お互いの様子を確かめ合いながら積極的に関わり合っていくこと

平成29年9月9日 更新

日常会話の中でも馴染み深い「挨拶」という言葉。実は、この言葉は仏教の言葉です。「挨」は積極的に迫ること。「拶」は切り込んでいくことを意味します。ですから、「挨拶」というのは、お互いに積極的に関わり合いながら、人間関係を築いていくという行いなのです。

 

道元禅師様はみんなが仲良く、幸せな日々を過ごしていく上で、心がけていきたい4つの行い(菩提薩埵四摂法【ぼだいさったししょうぼう】)を提示していらっしゃいます。その中の一つが「愛語」です。「愛語」は字の如く解釈すれば、「愛のある言葉」でありますから、「相手を思いやる慈しみや優しさからにじみ出る言葉」だと解釈することができるでしょう。と同時に、その言葉を用いることで、言う側も言われる側も、お互いに救われたり、成長したりすることができるという、いわば、双方が仏の悟りに近づいていける言葉が愛語なのです。愛語は“一方通行ではなく双方向ではたらく言葉”なのです。

 

かつて、あるご老師が、そんな「愛語」の具体的なものが“おはようございます”という朝の「挨拶」だとおっしゃっておられたのが非常に印象深いです。夜、「おやすみなさい」と挨拶を交わし、翌朝、目を覚ますことができた―要するに、元気に、そして、何事もなく次の日を迎えることができた―そんな喜びを「おはようございます」という挨拶によって、お互いに共有し合うからこそ、“おはようございます”という朝の「挨拶」が「愛語」になるというのです。

 

「挨拶」を交わすことで、お互いの存在を確かめ合い、認め合うことができる―それが「挨拶」の功徳(効果)であり、そうした自分から声をかけて、積極的に関係を作っていくことが「挨拶」なのです。とは言え、実際に、見ず知らずの人に声をかけにくいという面も否めません。それならば、せめて、顔見知りの人との挨拶くらいはきちんと行いたいものです。挨拶はお互いの心を和ませます。どんなときでも、自分から進んで挨拶をして、相手の心を和ませてみようではありませんか。「挨拶」がしっかりできることは、よき人間関係を築く上での基本です。まずは、自分の周囲の人にしっかり挨拶を行うことから、始めてみましょう。

第2回「洗心(せんしん)」

常に自分を点検し、心をきれいにしておく

平成29年9月23日 更新

今回は「洗心」という禅語を勉強させていただきましょう。文字から推察すれば、「心を洗う」ということですが、反省だとか自分を見つめなおすとか、日常の中で「自己の点検を怠らないようにする」ということです。掃除を怠れば部屋が汚れていくように、人間の心も手入れを怠れば、汚れていくものです。

 

学生時代、私は、この「洗心」を痛感する出来事がありました。

 

当時、富山大学の教育学部に在籍し、教員を目指していた私は、教育実習先の小学校で担当していた子どもたちの純粋な心に触れ、自分の心の汚れに気づき、忘れていたものを思い出すきっかけを与えていただきました。それは、ひたむきに努力することだとか、素直な心で人と接するというような、人間が生きていく上で欠かすことのできないものばかりでした。そんな大切なことを忘れ、字をきれいに書こうとしなかったり、なすべきことの手を抜いたりしていた自分を、私は子どもたちから逆に指摘され、心を洗ってもらったという、そんな教育実習生だったのです。教育実習に通わせていただいたあの日から、20年近く経とうとしています。私の心を洗ってくれた当時の子どもたちは今、社会の第一線で活躍していることでしょう。そんな彼らに対する感謝の気持ちは今も忘れることができません。

 

大乗仏教では、「仏性(ぶっしょう)」と申しまして、誰もが生まれながらにして純粋な心を有していると説きます。最初は汚れなき純白だった仏性も、当の本人も気づかぬうちに汚れていきます。そんな汚れに自ら気づき(セルフチェックする)、掃除をして、きれいにする習慣を作りたいものです。

 

では、どうすれば、我々は自らの仏性の汚れに気づき、掃除していけるのでしょうか。それは、日頃から善行に励むようにするということです。他を思いやる、他に感謝する。他人の指摘は素直に受け入れ、改善していく・・・などなど。「悪を断ち、善を修する」という、仏戒のみ教えに従って日々を過ごす中で、私たちの仏性は磨かれ、きれいになっていくのです。

 

とは言え、長年、溜まってしまった心の汚れは、簡単には落としきれないかもしれません。それでも、諦めずにやっていきたいものです。それが、お釈迦様がお示しになっている「精進」です。悪行を慎み、善行を積み重ね、悟りを得た仏に近づくことです。あたかも、泥水を何度もふるいにかけていけば、きれいな水になるように、仏性も何度も何度も洗っていくうちに、自然と元の純粋な心が蘇ってきます。地道で根気のいる作業ですが、今、洗浄し始めた心が、一年後には、きれいになっているはずです。そして、もしかすると、一年後の世界には、今の自分とは違った自分がいるかもしれません。それは、私たち次第なのです。


第3回「雨奇晴好(うきせいこう)」

何事もよさをもっていることを知り、物事の良し悪しに振り回されない

平成29年1017日 更新

北陸のような雪国では、雪は嫌われ者です。建物への被害、交通渋滞、除雪時の雪の捨て場所の問題。雪が降ることは、雪国に生きる人々を苦しめているようにさえ感じることがあります。

 

その反面で、こんな話もあります。

 

金沢の観光名勝の一つである「兼六園」―冬の金沢に県外からやって来る観光客の目的は「雪景色」だそうです。あまり雪が降らない地域に住む方々から見れば、“雪国の嫌われ者”も、珍しくて風情のある存在だと感じさせるのでしょう。

 

「兼六園」では「金沢城・兼六園四季物語」というイベントが開催されています。これは、夜間に園内をライトアップし、春夏秋冬の各時期における兼六園の魅力を堪能するというイベントです。以前、趣味の写真を撮るために、冬の兼六園で開催されているこのイベントに足を運んだことがありますが、ほのかなライトの光を浴び、雪に覆われた兼六園がとても美しく、感銘を受けたことがありました。兼六園以外でも冬晴れのある日、所用で新潟県に向かう道中、眼前に広がる立山連邦の雪渓に感動したこともありました。ある時はあんなにうんざりさせられた雪も、ある時は感動を呼び起こすこともある―雪ひとつとってみても、そうした「両面」を備えていることに気づかされます。

 

「雨奇晴好(うきせいこう)」というのは、まさに、そういう意味の禅語です。晴れた日には晴れた日のよさが、雨の日には雨の日の趣きが、雪の日には雪の日のすばらしさがあるのだから、自分の考え方や都合だけで、天候の善し悪しを決めつけたり、天候に振り回されたりしないようにしようということです。

 

「雨の日は気が滅入る。」とか、「今日は天気がよくて、気分も最高だ。」という具合に、我々の感情は、天候に左右されやすい面があります。しかし、どんな天候であろうが、天気にとらわれることなく、自分のやるべきことはしっかりとやり、守るべきことを守れるような人間になりたいものです。

第4回「百花春至為誰開(ひゃっかはるいたってたがためにかひらく)」

花のように、見返りを求めずに生きていく

平成29年10月31日 更新

若い頃は花に対して、さほど興味がなかった私が、高源院の住職を拝命した頃、殺風景で何もないお寺の境内に、きれいな花があったらお参りにいらっしゃった方の心が和むのではないかと思い、花を育ててみたことがありました。チューリップ、ユリ、ホウセンカ・・・。境内に色々な花を植えてみました。花にはそれぞれ特徴があり、色や形、花を咲かせる時期などが違います。また、水の与え方、肥料の与え方など、育て方も違います。しかし、それぞれ自分たちの個性を発揮しながら、一生懸命、花を咲かせ、最期には、自然と枯れていくという点では、皆、同じです。

 

こうして花を育ててみて気づいたのは、花の習性でした。水を吸い、陽の光を浴び、空気に触れながら・・・。それらを縁として、種が花となって咲き誇り、いつかは、散って枯れていくのです。花は誰かに見てもらうために花を咲かせるのではありません。

 

我々、人間には自分が周囲の人によく思われたとか、評価されたいと思うがあまり、何かいいことをするというような、見返りを求めるところがありますが、花は周りによく見られようと思って、きれいな花を咲かせるのではありません。ただ、自然の流れに従って無心に咲き、無心に散るだけなのです。まさに、無常というこの世の通りの中で、その習性に従って生きているのです。

 

こんな花のような生き方を、ついつい見返りを追い求めてしまいがちな我々人間こそ見習っていくべきなのではないでしょうか?

 

もう一つ、花を通じて、押さえておきたいことがあります。

 

それは、いのちというものは最期を迎えるまでそのままにしておきたいということです。自分の都合で花を咲かせようとしているいのちを強引に奪うとか、自らの花を自らで枯らしてしまうようなことをするのは、何とも残念なことです。それは、自分の思いや考えだけに左右されて、自他いのちの結末を作り上げるようなもので、絶対にあってはいけません。

 

誰もが一生懸命、自分の花を咲かせようとしています。その方法は一人一人違います。違っていて当然なのです。たとえ、自分とは見た目も性格も考え方も違っていたとしても、相手を認めながら、その存在を生かしていきたいものです。

 

花のように、自然の流れに従って、それぞれが自分のいのちを生かしていく。それが、「百花春至為誰開」に込められた意味です。

第5回「他(かれ)は是(こ)れ吾(われ)にあらず」

自分に与えられた使命(役目)は自分で全うする

平成29年11日 更新

それは、とても暑い日の昼下がりのことでした。中国の天童寺(てんどうじ)にて修行中の道元禅師様は炎天下の下、汗だくになって海藻を干している用(ゆう)という68歳のご老師に出会います。

 

「こんな暑いときに、しかも、ご高齢の方にこんな大変な仕事をさせるなんて、何と気の毒なことか・・・。」

一生懸命、海草を干している用老師のお姿を見ながら、そう感じた道元禅師様は用老師にお尋ねになりました。

 

「こんな大変なお仕事は、誰か下役の雇い人にやらせた方がいいのではないですか?」

 

そんな道元禅師に対して、用老師から返ってきた返答とは・・・?

 

それが、今回の提示させていただいた「他(かれ)は是(こ)れ吾(われ)にあらず」という禅語です。これは「他人がしたことは、自分がしたことにはならない。」という意味の言葉です。用老師にとって、海藻を干すことは他者に任せることでも、誰かに手伝ってもらうものではない、自分に与えられた修行であるというのです。用老師を心配して声をかけた道元禅師様にとって、これは驚くべき返答だったことは想像に難くありません。

 

その後も用老師と道元禅師様の会話は続きますが、さすがの道元禅師様もこの用老師のお言葉に頷くしかなかったようです。後に、道元禅師様は日本に帰国して、中国で体得した仏法を広めんと、福井県の永平寺を始め、いくつかの修行道場を築き、曹洞宗発展の礎を築く祖師となられますが、この用老師は道元禅師にとって、お釈迦様から伝わる修行の意義を伝えてくださった恩人の一人となりました。「他は是れ吾にあらず」を生き様としてきた用老師の存在は、道元禅師様という偉大な宗教者を生み出すためには、欠くべからぬ重要な役割を担った人物の一人だったと言っても過言ではないでしょう。

 

さて、そんな用老師が道元禅師様にお伝えした「他は是れ吾にあらず」という言葉から、我々は何を学ぶことができるのでしょうか?

 

実際に目の前で、炎天下の中、ご老人が汗を流して作業をしている姿を見たら、若かりし頃の道元禅師のように相手への思いやりゆえの言葉をかける人もいるでしょう。

 

しかし、そうした言葉かけが本当に相手を思いやっているものだと言えるのでしょうか・・・?

 

思いやりがあると思っているのは、実は自分だけであって、相手はそう感じているとは限りません。傍から見れば高齢者であっても、その方は炎天下での作業を自分の生きがいだと感じているかもしれません。だとすれば、いくらこちら側が相手を思いやって施した言葉であったとしても、相手には生きる喜びを奪われたという寂しさだけを残すことになるかもしれないということです。「他は是れ吾にあらず」という言葉から、我々はそのことをよくよく考えておかなければなりません。

 

要するに、一方的な思いやりの押し売りでは相手が喜ぶことはないということです。だからこそ、どうすれば相手がこちらの行為を受け止めたとき、喜びや希望を感じられるような言葉や行いを施せるのかを十分に考えた上で、そうした言葉や行いをお互いに施しあっていくことを心がけていきたいのです。

 

今後も続くであろう「高齢化社会」を生きる中で、高齢者を心配し、労わる気持ちを持つことはとても大切なことですが、心配しすぎて、無意識のうちに高齢者の生きがいを奪うようなことがないように気をつけていきたいものです。おじいちゃん・おばあちゃんが「他は是れ吾にあらず」とご老体にムチを打ちながらもがんばっておられるのならば、納得行くまでやっていただければいいのです。そして、そんな高齢者の姿から、若い人々も高齢者に負けないように「これこそ私の生きがい・役目だ」と言えるものを見つけ、今、生かされている自分の存在意義を明確にしていきたいと願うのです。

第6回「隻手音声(せきしゅのおんじょう)」

無言の合図を頭や耳だけではなく、全身全霊で聞き取る

平成29年11月24日 更新

「隻手(せきしゅ)」とは、片手のことです。両手を打てば、“パチン”と音を発しますが、片手では音を鳴らすことはできません。仮に、音を鳴らすことに大きな意味があるとします。両手を使って何らかの音を確実に鳴らせることができるのならば、両手には価値があります。ところが、片手だけでは音を鳴らせないとすれば、片手に価値は見出せません。しかし、もし、片手でも音を出せるようになれば、片手にも価値を見いだすことができるのです。

 

「隻手音声」は、両手で発する音だけに捉われて、それだけに価値を見出すのではなく、片手が発する音にも耳を傾け、価値を見出せるような周囲との関わり方をしていくことが示された禅語です。以前、法話のコーナーで『「観(かん)」の眼で周囲を見渡す・見通す』というお話をさせていただきましたが、自分の周囲の人々に対して、どういう人間なのかをしっかり見渡し、一人ひとりの内面までしっかりと見通しながら、相手と深くて強い人間関係を築いていきたいものです。

 

こうした関わり方を可能にするためには、「目(眼)・耳・鼻・舌・身」という五感に意(心)を加えた「六根(ろっこん)」を使い切ることが必要となります。試しに、人と会話をするとき、相手が発する言葉だけを漠然と聞くのではなく、相手がどんな表情で言葉を発しているか(悲しい表情か?明るい表情か?など)を読み取ったり、なぜ相手がそんな会話をするのか・そんな言葉を使うのかなど、相手の心情まで深く嗅ぎ取ったり、味わったりするような聞き方(聴き方)を心がけてみてください。それが「隻手音声」につながる人との関わり方です。誰に対しても、こうした関わり方を心がけていくうちに、より一層、深い関係を築いていけるのです。

 

こうしたお付き合いは、神経も使えば、時間もかかり、面倒に感じる部分もあります。しかし、そうやって得られた関係は、とても強固なものになります。SNSや様々な通信機器等が発展する中で、人間同士の関係の希薄化は年々、拍車がかかっているように感じます。コミュニケーション不全と申しましょうか、お互いの意志が中々伝わらない場面にも多々出くわします。そういう中で、ひょっとすると、他者と関わるよりかは、一人で好きなことをしていたほうが、気も遣わなくていいと感じる人も多いような気がします。

 

しかしながら、お釈迦様の「衆縁和合(しゅうえんわごう)(この世の全ての存在がつながり、関わり合って、一つの世界を形成している)」というみ教えを思うとき、いくら通信機器が発達しようが、この世は、人間同士の関わり合いなくしては成立しないことに気づかされます。ですから、SNSばかりに頼らず、自分の六根を駆使して他者と関わる力を常日頃から鍛えておくことが大切なのです。

 

人づきあいには、いいこともあれば、悪いこともあります。うれしいこともかなしいことも起こります。しかし、そのどれを取っても、自分を成長させることにつながっていくのです。そして、それは、人間同士の交わり合いを通じて育まれていくのです。喜怒哀楽すべての感情を有し、完璧ではない「人間」との関わり合いによって、人間は成長していくことを「隻手音声」から再確認しておきたいものです。

第7回「放(はな)てば手にみてり」

執着をやめ、欲を手放したとき、大切なものが手に入る

平成30日 更新

「坐禅をするとき、何かに捉われる心(執着心)を捨てれば、心豊かな境地に入ることができる。」―これは道元禅師様が「正法眼蔵」の中でお示しになったことです。同様のことは他の経典にも説かれております。たとえば、「般若心経」には「執着心を捨てることで、安楽の道を得ていこう」ということが説かれています。

 

坐禅会などを行うと、よく出てくるご意見の中に「坐禅をするとき、心を無にしろとよく言われるが、なかなかできません。」というのがあります。坐禅中に思考を停止することを「無になる」と捉えるのでしょう。かつて、私もそう捉えていた時期がありました。そして、実際に坐禅をしながら、なかなか「心を無にする」ことができず、悩んでいたものです。 『どうすれば、「無」になれるのか?』、『「無」にならなければ、人様に坐禅の功徳を説くことができないのではないか・・・?』そんな悩みを抱えながら、ときには、「無」になれない自分に情けなさや怒りを感じたこともあったくらいです。

 

そんなある日、曹洞宗では著名なご老僧が、私の悩みに明確な解答を与えてくださったのです。それははっきりと『坐禅をして「無」になれっこない』という解答でした。そして、「いのちをいただいて生きている限り、人間は思考を続ける生き物である。思考が止まるときは、死んだときである」と。このご老僧の日常の坐禅修行の生活からにじみ出たみ教えは、私の眼前の暗闇が真っ青な青空に変わるような、そんな新鮮なものでした。そして、これまで自分が考えている「無になること」ばかりを追い求めていた(捉われていた)ことに気づくことができたのです。

 

そもそも「無」になるとは何なのでしょうか?我々は皆、何かを考えながら生きています。「今日はどこへ遊びに行こうか?」「夕飯のおかずは何がいいか?」など、どんなときも、いろんな考えが頭に浮かんでくるものです。それは、ご老僧のお言葉をお借りすれば、「生きている証」なのです。それに逆らい、思考を停止しようとするような無理難題をすることに捉われるのではなく、自分たちのいのちの癖(いのちの持ち味)と素直にぶつかり合って、その実体を明らかにしつつ安楽の道を求めていくのが「無」になるということなのだと、私はご老僧のお言葉によって教えていただきました。「無」になるとは、執着心を捨て去ることなのです。そして、坐禅とは、そうした修行なのです。

第8回「無功徳(むくどく)」

自分の行いに対して、見返りを求めない

平成30年10日 更新

―時代は6世紀―

 

仏教に帰依(きえ)していた梁(りょう)の武帝(ぶてい)が達磨大師(だるまだいし)に質問しました。

「私は今まで寺を建て、僧侶を育成しながら仏教を信仰してきました。果たして私はどんな功徳を得られるのでしょうか?」

その問いに対する、達磨大師のお答えが―「無功徳」だったのです。

 

仏教興隆のために、寺を建て、僧侶を育成すること自体が尊い行いです。そこに計り知れない大きな功績があるにも関わらず、なぜ、それ以上の何かを求めようとするのだろうか?求めたところで、何も得られるはずがないということなのです。

 

我々はいいことをしたら、周りの人から誉められたいなど、何かいい反応(見返り)が来ないかと期待してしまいます。自分の行いがいいと思えば思うほど(自分の行いに酔えば酔うほど)見返りを期待する気持ちが強くなるのです。

 

しかし、自分の行為が「善行」だと思い込んでいるのは、自分だけかもしれません。もしかしたら、相手は「うれしいことをしてもらった」とは思っていないかもしれません。その思い込みは、あくまで自分の欲や執着心から生ずる自分勝手なものでしかありません。「善行」というのは、何度かお話させていただいております“愛語(あいご)”同様、双方向の働きによって、お互いに報われて始めて成り立つものなのです。

 

“真の報い”―それが「功徳」です。世間を喜ばせて目立とうなどと、自分に必要以上のことを求めるような貪りの心を慎み、まずは、相手を思いやる優しさや思いやり(慈悲心【じひしん】)を育てるのです。そんな思いやりから湧き出る言葉が愛語となり、「善行」となります。そして、そうした慈悲心からにじみ出る言葉や行動が相手の心を揺さぶるのです。そこには何か期待するような打算的な考えはありません。ただただ、相手に対する慈悲しかないのです。そして、それさえあれば、それ以上のものを求めることなく、それだけで十分に満足できるのです。

第9回「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」

素直な心を持つと、どこでも学びの場となる

令和元18日 更新

「歩歩是道場」とは、『我々の周囲はすべてが学びの場である』という意味の禅語です。これは『維摩経(ゆいまきょう)』というお経の中の「修行は道場だけのものではなく、日々の生活や言動すべてである」という一節に由来します。

 

以前、一般人を対象とした僧侶に対するアンケート調査の中で、僧侶に説法を望む声が一番多いという結果が出たことが紹介されました。この回答からは医者が医学のプロであるように、仏教のプロである僧侶から、自分たちの日々の苦悩を解決してくれる仏の道を提示してほしいという願いが感じられます。

 

こうした一般人の願いに対して、若かりし頃の私は「そんなイメージに見合った僧侶だと言えるだろうか。」と自問自答したものです。当時の私は、とても仏教に精通していて、どんな質問にも答えられるという状態ではありませんでした。逆に一般在家の皆さんの方が詳しいということすらあったくらいです。

 

そんな若かりし頃の問いは、40歳を迎えた今も持ち続けていますが、同時に自らが仏のみ教えを行じながら、少しでも一般檀信徒の方々の心の声にお応えできるようになりたいと願い、毎日を過ごさせていただいております。

 

そんな私の支えとなっているのが曹洞宗の布教師としての立場です。仏教に精通していなかった自分が、「不安をかき消し、堂々とした僧侶でありたい」と願い、布教の道を目指し始めたのが、25歳のときでした。三年間に及ぶ東京の曹洞宗宗務庁で開催される「布教師養成所」での研修。ここでは、仏教の学習や法話の実演など朝早くから夜遅くまで、全国の志同じくした曹洞宗の僧侶同士が集い、研鑽しあいます。私にとって養成所で学ばせていただいたことは、人生の中でも密度の濃い貴重な体験でした。

 

その後は、曹洞宗石川県宗務所布教師から始まり、北信越管区センター布教師と色々な肩書きをいただきながら、布教活動をつとめさせていただいております。今も尚、自分の中に色濃く残っているのは、養成所でお世話になった講師である諸老師方の「布教の研修は日常生活の場全てである。」というみ教えです。布教の場だけ大切にすればいいということではなく、いつでもどこでも全てが研修の場であると認識し、一つ一つのご縁を大事にする姿勢が大切だということです。

 

「全てが自分を仏様のお悟りに近づけてくれる大切な仏縁である。」

 

私たちが出会う様々な存在も、経験する様々な出来事も、私たちの向き合い方ひとつで、全てが「学びの場」となり、成長の場にもなるのです。そうした意味を有する「歩歩是道場」を胸に秘め、仏のお悟りに向かって精進していきたいものです。

第10回「八風(はっぷう)吹けども動ぜず」

逆風・突風に惑わされずに生きていく

令和元年9月25日 更新

物事が自分の思い通りに進むことを「順風満帆」と申します。順風とは追い風を意味しています。

 

それに対して、八風(はっぷう)とは、人の行く手を妨害する風、“逆風”のことです。

 

我々は順風が吹くと、大いに喜び、舞い上がります。しかし、逆風が吹くと、たちまち悩みだし、苦しみの渦の中に巻き込まれていきます。我々の人生、その行く手には、そうした順風、逆風、様々な風が吹いています。これまで順風が吹いていたのに、何らかの原因で逆風が吹き出すことは誰しも経験があることです。そうした人生の風向きが我々に様々な影響を与えます。

 

「八風吹けども動ぜず」という禅語を味わっていく上で、まず、押さえておきたいのは、人生において風向きが変化する原因は、周囲の人間や社会など、他者が作り出しているのではないということです。自分の言動によって、風向きが変化することを、しっかりと踏まえておきたいものです。すなわち、我々が笑うも泣くも、自分の行い次第であり、他者に責任を押し付けるのは間違いであるということです。そのことを十分に自らに念じ込んでおきたいものです。

 

さて、この禅語の意味ですが、「どんなことが起こっても動じることなく、謙虚な姿勢で自分の行いを見つめ直す姿勢を崩さなければ、悟りへの道が開けてくるのだよ」ということです。我が身に吹く風が、たとえ荒れ狂った逆風であっても、謙虚な気持ちで逆風と向き合い、苦しみ抜く中で、追い風が吹くときがやって来るかもしれません。ただ辛い辛いと嘆き悲しんで、マイナス思考で日々を過ごしているのならば、辛いだけです。追い風が吹くことはありません。

 

謙虚に自己と向き合う中で生み出されていく前向きな思考や生き方は「確固たる自分」を生み出します。それは何ごとにも動じない大山のごとき自分です。自分の言動一つで、逆風は順風となり、順風が逆風に変わるのです。そのことを忘れずに、自らの言動には謙虚に過ごしていきたいものです。

 

最後に第32代内閣総理大臣・広田弘毅(ひろたこうき)の川柳をご紹介させていただきます。

 

「風車、風の吹くまで昼寝かな」

 

逆風のときこそ、ゆっくりと自己を見つめなおしながら、自己を磨き、順風が吹く準備期間として過ごしていきたいものです。

第11回「自燈明(じとうみょう)・法燈明(ほうとうみょう)」

人生という暗闇の中をお釈迦様(仏法)を拠り所とし、自分の力を信じて生きていく

令和元年1012日 更新

2月15日は「お釈迦様のご命日」です。今から約2500年前の2月15日夜、お釈迦様は80年ご生涯を終えられました。今まさに死を迎えようとしているお釈迦様の側には、お弟子様や信者様が集い、まさに死なんとするお釈迦様を見守っていました。

 

その中であるお弟子様が問いました。

「師(お釈迦様)がお亡くなりになったら、我々は何を頼りにして生きていけばいいのでしょうか?」

 

その問いに対するお釈迦様のお答えが、「自燈明(じとうみょう)・法燈明(ほうとうみょう)」です。

これは、自らを灯あかりとし、法を灯あかりとするということで、言い換えれば、「自分自身を、そして、私(お釈迦様)のお教えを頼みにして生きていきなさい。」ということです。

 

暗闇の中を歩くとき、足下を照らすライト(燈明)がなければ、誰一人として先に進むことはできません。そうした燈明の役割を果たすのが自分でありお釈迦様(仏法)であるということなのです。

 

「一寸先は闇」と言うように、我々が歩んでいる人生も、行く先に何があるか予想もつかぬ「暗闇」のようなものです。誰一人として未来は予測できません。そんな闇の中を、ライトを照らしながら、どのように進んでいくかを決めるのは「自分」です。それが、自分が燈明(自燈明)です。たとえ、周囲からいろんなアドバイスをいただいたとしても、ライトを照らしながら、最終的に決断して先に進むのは自分なのです。

 

とは言え、なかなか自分だけを頼みにするのは難しいです。そんなとき、自分を支え、正確な道案内の役目を果たしてくれるのが「法」です。つまり、お釈迦様であり、そのみ教えです。行く先に迷ったり、誤った道に進もうとしたりするときがあります。自分で先に進むことが難しければ、お釈迦様(仏法)を頼りにしなさい。それが「法燈明」なのです。

 

―「自燈明・法燈明」―

それは「仏法を拠り所とした自分を頼みにして生きていこう」ということです。それがお釈迦様の遺言となったわけです。

 

「悉有仏性(しつうぶっしょう)」と言うように、私たちの周り存在する全てのものは、お釈迦様の性質を有した存在ばかりです。言い換えるならば、全てはお釈迦様が姿形を変えたものばかりなのです。そうしたものに気づかずに私たちは日々を過ごしているわけですが、周囲の存在が発する仏性に気づき、法を自らの生きる根拠として、暗闇の中を仏の悟りに向かって歩んでいきたいものです。

第12回「天真(てんしん)に任す」

自然の流れに身を任せて生きていく

令和元年10月2日 更新

「天真」とは人為造作を加えぬ自然の状態、本来の姿を意味しています。私たち凡夫は、自分だけがいい思いをしたいと考えるがあまり、自分に都合のよい身勝手なものの見方や考え方をしてしましがちです。そうやって事実や本来の姿をありのままに受けとめようとしないがために、周囲と誤った関わり方をしては、悩んだり苦しんだりしてしまうのです。

 

こうした誤りを正していくには、自分だけをかわいがろうとする自己への執着をやめて、自然の道理に身を任せて毎日を過ごしてみる。あるいは、この世の真実を悟った仏様に我が身を委ねてみる。「天真に任す」は、そうした周囲に我が身を委ねた生き方を我々に説くのです。

 

仏教徒の根本姿勢として説かれるのが、仏法僧の三宝への帰依です。私たち凡夫に正しいいのちの生かし方を説く仏様に我が身を委ねる姿、法という、仏の教えを受け止めて毎日を過ごすという姿、周囲のいのちを敬い、仲良く関わっていくことを心がける姿、こうした三宝帰依の生き方の根底にあるのは、「天真に任す」というみ教えなのです。

 

平成23年に発生した東日本大震災を機に、度重なる想定外の自然災害を通じて、私たちは人間一人の力は大自然の大きな力みれば、ほんの一握りの小さなものであることを思い知らされてきました。ひょっとしたら、私たちは自分たちに都合がいいように周囲を作り替えていくことばかりに主眼を置いて過ごしてきたのかもしれません。

 

計らずも、今日は令和天皇が即位を宣言し、皆でお祝いする「即位礼正殿の儀」の一日となりました。新しい時代を迎えた今、過去をしっかりと踏まえ、明るい未来を切り拓いていきたいものです。そういう意味でも「天真に任す」が説くことを押さえながら、周囲のいのちを敬い、一人一人の存在を大切にしながら、毎日を過ごしていきたいものです。

第13回「明珠在手(みょうじゅたなごころにあり)」

誰もが自分の中に「よさ」を持っている

令和元年111日 更新

明珠(みょうじゅ)とは透明な珠玉(宝石)のことです。ダイヤモンドが磨けば磨くほど輝きを増すように、明珠も磨き込んでいけば輝きを増していきます。それと同じように、人間も善行に励めば励むほど、人間性に磨きがかかり、輝きを増していきます。

 

そんな我々人間が誰しも生まれながらに持っている明珠を「仏性(ぶっしょう)」と申します。涅槃経に「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」とありますが、誰しも仏性という明珠を持っていて、その存在に気づき、一心に磨けば、必ず仏に近づけるというのです。それが「成道(じょうどう)(悟りの道を完成させる)」ということです。

 

果たして、我々は自分の中に明珠が存在していることに気づいているでしょうか?そして、明珠のお掃除等、定期手なメンテナンスを行っているでしょうか?日々の生活に追われる中で、ついつい忘れ去られてしまいがちな明珠のメンテナンスを意識し、できるだけきれいな状態に保っておきたいものです。

 

ちなみに、仏になることを「成仏(じょうぶつ)」と申します。それは死後の世界の話だけではありません。生きている間にも深く関係している「仏教徒の目標」です。その目標を少しでも達成できるよう、自分の中に眠る明珠に気づき、常にきれいにしておきたいものです。

第14回「自浄其意(じじょうごい)」

意識して「心のおそうじ」を行うこと

令和元年11月1日 更新

今回、取り上げさせていただきました「自浄其意(じじょうごい)」という禅語は、「七佛通戒偈(しちぶつつうかいげ)」の一句です。「七佛通戒偈」は、たった四句の仏様をたたえる短い偈文です。

 

 

諸悪莫作(しょあくまくさ) (悪いことをしない)

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) (善いことをしよう)

自浄其意(じじょうごい) (そうやって自らの心をきれいにしていく)

是諸仏教(ぜしょぶっきょう) (これが仏様のみ教えである)

 

 

唐代の著名な詩人である白居易(はくきょい)(772-864)が若かりし頃、鳥窠ちょうか道林(どうりん)和尚(741-824)に「仏の教えとは何か?」と問いました。すると道林和尚は「諸悪作すことなかれ、衆善奉行せよ。(悪事は働かない、善行に励むことである)」とおっしゃいました。幼い頃から頭脳明晰で、5歳で詩作するほどでもあった白居易にとって、道林和尚の言葉はあまりにも端的すぎて、深遠なるものと思っていた仏教とは大きくかけ離れたものだと感じたことは想像に難くありません。思わず白居易は「そんなことは3歳の子どもでも知っていることです。」と言いました。すると、道林和尚は「3歳の子どもでも理解できるが、80歳の老人でもこれを行うことは難しいことだ。」とおっしゃいました。この言葉にすっかり得心してしまった白居易は道林和尚に惚れ込み、仏教に深く帰依したとのことです。

 

我々の心というものは、掃除という「善行の実践」を通じて、輝きを増していきます。そして、そうした“心のおそうじ“によって、私たちは生まれながらに具わっている仏性(誰もが有する仏の性質)の存在に気づきます。お釈迦様は“心のおそうじ“によって、自己の中に存在する仏性に気づきました。それがお釈迦様のお悟りにつながり、生涯の生き方となっていったのです。

 

我々人間は時に道から外れた言葉や行いを発してしまうことがあります。まさに「言うは容易く、行うは難し」ではありますが、少しずつでいいから、“心のおそうじ“を意識して、善行に励む努力を続けていきたいものです。小さな努力でも積み重なれば、必ず自らの中の仏性に気づき、お釈迦様のお悟りに近づいていくことでしょう。

 

どうぞ、自らに存在する仏性の可能性を信じて、意識的に“心のおそうじ“を!

第15回「両忘(りょうぼう)」

「YES」か「NO」か・・・?そんな「執着」を捨て、双方の価値に気づく

令和元年11月1日 更新

平成21年(2009年)6月15日から1ヶ月に渡り、高源院で写真展「撮るということ」を行わせていただいたときのことです。堂内に展示された72点の写真を撮影された写真家さんは、「写真の感想は人それぞれである。正しい・間違いを決める世界ではない。どんな感想も正しいのである」ということを仰っておられたのが印象的です。

 

考えてみると、私たちの周りには善悪や真偽など、相対している事象がたくさん存在しています。そうした対立する事象に出会ったとき、我々は目や耳など、自分の感覚器官を通じて、どちらか自分が好む方を選びます。その選択は、あくまで個人的な感覚によるものでしかなく、選ばれたから正しく、選ばれなかったから間違っているかと言えば、必ずしもそう断定できるものではありません。本当は双方とも価値やよさもあれば、欠点もある「両面」を具えた存在なのです。対立概念はそれを受け取る私たちが作り出してしまったものに過ぎず、それが執着ということなのです。

 

そこで、そうした執着から離れ、双方の価値を見出す大切さを説く「両忘(両方を忘れてみる)」を押さえておきたいと思います。「最初に選んだ方もいいが、ひょっとしたら選ばなかった方もいいかもしれない。」といった中立の見方を意識して、双方とご縁を結べるゆとりがあればいいと思います。そうした「両忘」という姿勢によって、お互いの間に生じた溝が埋まり、価値が顕現していくのです。

第16回「啐琢同時(そったくどうじ)」

お互いの意気が合うタイミングで共に御仏のお悟りに近づけるように

令和元年11月20日 更新

第16回「啐琢同時(そったくどうじ)」

 

お互いの意気が合うタイミングで

共に御仏のお悟りに近づけるように

 

 

今回は、以前、当HPの掲示板に諸行無常様がご投稿くださった「啐琢同時」を味わってみたいと思います。これは、お互いの思いが同じ状態であることを意味する禅語です。「啐(そつ)」は、卵の中から雛が殻をつついて、もうすぐ生まれることを知らしめる様を、「啄」は、親鳥が雛の様子に気づき、「出ておいで」と、くちばしで卵の殻をつつく様を表しています。そうした「啐」と「啄」の働きが合致して、雛が生まれ、元気に育っていくのです。タイミングが早すぎるもの、遅すぎてもよくありません。双方にとって、ちょうどいい具合がベストで、それを「同時」と表現しています。

 

私たちの日常生活を振り返ってみたとき、「啐琢同時」が指し示すような相手と自分のタイミングがピッタリ合致する場面というのは、お互いに意識し合わない限り、難しいのではないかという気がします。自分は相手によかれと思って言葉や行動を提示したはずが、相手にその思いが伝わっていなかったという経験は誰しもあります。こんなとき、「相手のためにと思って、してやったのに」などと思い、ちょっと損をしたような気分になってしまうこともあります。

 

しかし、よくよく考えてみたいものです。自分にとっていいと感じることを、必ずしも相手が良しとは感じないということです。相手の幸せを願い、行動を発することは大切ですが、それが本当に相手を喜ばせるのか、相手のためになっているのかをよくよく考えていきたいものです。そうすることが「啐琢同時」なのです。

 

この言葉を意識しながら、少しでも相手の願いに近い言葉を選び、行動を発していきたいものです。相手の反応を十分に確かめることなく、自分がやりたいこと、自分のできることだけを通していくのは、相手への押しつけになりかねません。相手の考えを受け止めようとせず、自分の意見だけを主張するのも同じです。お互いに相手の様子を確かめ合いながら、言葉や行いを提示し、共に御仏のお悟りに近づけるようにしていきたいものです。

第17回「法演(ほうえん)の四戒(しかい)」を味わう① 「勢不可使尽(いきおいつかいつくすべからず)」

反省を忘れずに、勢いを調整しながら日々を過ごす

令和元年110日 更新

今回より4回に渡り、「法演(ほうえん)の四戒(しかい)」を味わっていきたいと思います。

法演(?-1204)は宋代の臨済宗楊岐派(りんざいしゅうようきは)の僧侶です。その法演が掲げた寺の住職である自分を律するための4つの徳目が「法演の四戒」です。

 

その4つとは、以下の通りです。

 

①      勢い使い尽くさば、禍(わざわい)必ず至る

②      福受け尽くさば、縁必ず弧(こ)なり

③      規矩(きく)行い尽くさば、人必ずこれを繁(はん)とす

④      好語(こうご)説き尽くさば、人必ずこれを易(やす)んず

 

 

この4つの戒めは現在、法演と同じく一寺院の住職である自分はもちろん、お寺の住職に限らず、皆にとって、大きな教訓となるものばかりです。

 

―「勢いを使い尽くさないように」という戒めについて―

 

「人生は山あり谷あり」と言います。山は調子よく勢いに任せて登り調子になっている状態、谷は調子を崩し、勢いがなくなっている状態を言い表しています。

 

自分自身の人生を振り返ってみると、うまくいっている登り調子のときほど、反省するのを忘れていたことが思い出されます。そんなときは、登りの勢いに任せ、周囲に目を向けたり、気配りをしたりすることすらなく、何も考えずに突っ走っていました。しかし、実は、その先には谷が存在していたのです。勢いに任せ、グイグイと登っていたときには谷の存在に気づきませんでしたが、本当は勢いよく登っていたのではなく、谷に向かっていたのです。そして、気づいたときには、谷底で苦しみもがいている自分がいたのです。

 

こうした山と谷の繰り返しの中で、失ってしまったものに対するありがたみに気づいたという経験は誰しもあると思います。どこかで自分を振り返り、反省する場さえあったならば、谷底で苦しむことはなかったでしょう。

 

仏教には懺悔(さんげ)というみ教えがあります。これは自分の日常を振り返り、痛い目に遭った原因を突き止めたならば、二度と同じ過ちを犯さぬようにしていくことです。日々の中で、懺悔を忘れずに過ごしていくならば、必ず、往事おうじのような登り調子の勢いが返ってくるのです。

 

勢いは決して、不要なものでもなければ、悪いものでもありません。勢いがなければ、消極的な生き方しかできません。どうしても自分に自信が持てず、クヨクヨして生きていくことになるでしょう。しかし、勢いがあれば、意欲的かつ積極的に生きていけるのです。

 

大切なのは、その勢いの使い方なのです。それを説いているのが、法演の自己に対する戒めです。つまり、勢いを使い果たさないようにしようというのです。一つ間違えれば、すぐに使い果たしてしまいかねない勢いですが、日常生活の中で懺悔をしっかりと行いながら、勢いを調整していくと共に、勢いを、他者を元気づけたり、励ましたりするような、皆にとってプラスになるような使い方を目指していくことが勢いの使い方だというのです。

 

そんな法演の戒めを、我々も見習い、勢いを上手く調整しながら、日々を過ごしていきたいものです。

第18回「法演(ほうえん)の四戒(しかい)」を味わう②「福不可受尽(ふくうけつくすべからず)」

幸せは、独り占めせず、皆で分け与えるもの

令和元年12月1日 更新

前回に引き続き、「法演の四戒」を味わってまいりたいと思います。

 

宋代の臨済宗楊岐派(りんざいしゅうようきは)の僧侶・法演(?-1204)が寺の住職である自分を律するために設けた4つの徳目。その二つ目が「福不可受尽」です。

 

砂漠の中をさまよい歩いていたとします。

どこまでも続く灼熱の地、とめどなく全身を流れる大粒の汗、周りには水分補給する場所すら見当たりません。

 

そんなとき、眼前に2㍑のペットボトルが落ちていました。中には冷たい水がギッシリ詰まっています。

 

こんな状況の中ならば、誰もが何もためらうことなく水を飲むでしょう。しかし、もし、他にも行動を共にする仲間がいたら、どうするでしょうか?独り占めするか、他の仲間に全て差し上げるか、あるいは、皆で分け与えるか・・・?

 

独り占めすれば、自分の喉は潤うでしょう。しかし、他の仲間の喉が潤うことはありません。逆に、他の仲間にあげれば、彼らの喉は潤っても、自分の喉は決して、潤いません。仲間の中で誰かが救われ、誰かが犠牲になる―それでいいのでしょうか?そんなことはありません。誰も犠牲にならないよう、皆に平等に分け与えて、皆が救われることが、法演が今回の戒めに込めた願いなのです。

 

こうした法演和尚の願いを前に、「灼熱の砂漠の中で、皆が苦しんでいる中で、自分だけが水を飲めて救われればいい」と考える社会であってほしい願うものです。皆が苦しんでいるとき、ごく一部の人だけが救われようとするから、争いが発生するのです。争いの果ては「いのちの奪い合い」に発展します。もし、平等に分け与えることができるならば、争いも殺生も起こらないはずです。

 

人として生きていく上で、この「法演の戒め」が放つ意味を忘れずに過ごしていく必要性を感じます。

第19回「法演の四戒」を味わう③「規矩不可行尽(きくおこないつくすべからず)」

「マニュアル」にだけ捉われたり、頼ったりせず“適度な関わり方”を目指す

令和元年12月1日 更新

曹洞宗中興の祖と仰がれる江戸期の禅僧・卍山道白(まんざんどうはく)老師(1636-1715)は加賀の大乘寺(だいじょうじ)・第27世住持をお勤めだった頃、「椙樹林清規」(しょうじゅりんしんぎ)を撰述なさいました。これは修行道場である大乘寺における規範や修行方法が綿密に記されたものです。大乘寺ではこれに則り、綿密な仏道修行がなされました。それと同時に、この清規は全国の修行道場に多大な影響を与えました。

 

「規矩大乘(きくだいじょう)」という言葉があります。「規矩きく」とは「規範」や「マニュアル」のことで、大乘寺における規範に綿密な日常の修行の様から生まれた言葉であり、曹洞宗の修行の規範が大乘寺にあることが色濃く表れている言葉でもあります。

 

僧堂での修行は集団生活という性格上、どうしても規矩は必要で、実際に、規矩のおかげで、修行道場が成り立っているという側面があります。

 

しかし、法演は「あまり規矩に捉われすぎるのもよくない」と説きます。法演は規矩の存在やマニュアル通りに事を進めるのを否定しているのではありません。規矩に縛られ、がんじがらめになるのではなく、ほどほどに関わっていこうというのです。

 

仏教の開祖であるお釈迦様は「中道(ちゅうどう)」の生き様を実践された方でした。これはどちらか一方に偏らない生き方です。すなわち、全ての存在を認め、大切にしていく関わり方なのです。周囲に対して、私見で価値を判断し、自分の好みで好悪を分別する私たちですが、この機会に「中道」の捉え方を体得したいものです。そんな「中道」のみ教えが、法演が説いた「規矩不可行尽」の根底にはしっかりと根付いていることを感じずにはいられません。

 

「中道」の視点から規矩を捉えていくとき、規矩に偏り、規矩だけを重要視してしまうと、指示待ちで、自分で判断する力が育たなくなってしまう可能性が否めません。逆に規矩を軽視していては、自由気ままで、好き勝手な生き方になりかねません。規矩というマニュアルとの関わり方を通じて、万事に対して、あまり頼りすぎず、かといって軽く捉えすぎず、適度に関わることを体得していきたいものです。

第20回「法演の四戒」を味わう④ 「好語不可説尽(こうごときつくすべからず)」

何事も全てを説き尽くさず、一考与えるような余韻を残して説く

令和元年12月25日 更新

「法演の四戒」も今回でいよいよ最後となります。

法演は最後となる第四句の中で「味わいのあるすばらしい言葉をこと細かく説き明かしてはいけない」とお示しになられました。

 

かつて布教師養成所に通わせていただいていた頃、講師のご老師が同じことをおっしゃっておられたことが思い出されます。「全て語らず、敢えて、聞き手に一考与える余地を残すことで、余韻の残る話が生まれる。」と―。

 

ご老師のお言葉は、当時、駆け出しだった私にとって、衝撃的なものでした。なぜならば、私は法話とは、お釈迦様や祖師方のみ教えを全て残らず説き尽くすものだと思っていたからです。

 

確かに、聞き手の立場に立ったとき、全て話していただければ、たくさんの得るものがあるかもしれませんが、全てを一度に把握し、理解するのは至難の業です。加えて、聞き手が自分の視点から味わっていこうとか、自分の問題として考えていこうとするような姿勢は育ちにくいかもしれません。仏のみ教えにもさることながら、何事も自分の「五感(眼・耳・鼻・舌・身体)」に「心」を加えた「六根(ろっこん)」をフルに駆使して触れていくならば、その真実性に気づき、同じ言葉でもより一層、味わい深くなっていくのです。

 

布教の道を歩む一人として、そうした「自分の視点からの味わい」という余地を残しながら、すばらしい言葉が持つ余韻を聞き手と共有できる布教を目指していきたいものです。

第21回「喫茶去(きっさこ)」  

相手との間に「境界」を作らずに接する

令和年1月日 更新

「喫茶」とはお茶を飲むことです。我々は、日頃、お茶やコーヒーなどの飲み物を口にしますが、それは、我々の日常の、ごくありふれた風景です。「喫茶」は日常生活の全てを意味すると共に、そこから転じて、日常そのものが仏法そのものであることを表しています。

 

そうした「喫茶」に「去」という助詞がついた「喫茶去」は趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)和尚(778-897)のお言葉で、来客が誰であれ、差別することなく「まぁ、お茶でも召し上がりなさい」とお茶を勧めるという意味があります。

 

周囲の存在に対して、自分の価値基準にとらわれるがあまり、人間は「比較の目」を持って接してしまいがちです。元来、全ての存在はこの世にたった一つしかない尊きいのちであり、そう簡単には比較できるものではありません。それなのに、我々は自分の尺度という小さな基準で、価値の有無、物事の良し悪しを決めようとしてしまうのです。そして、そうした捉え方が両者の間に差別を生み出していくのです。

 

差別は仏のみ教えから外れた行いであることは言うまでもありません。そうした差別を生み出さないように、気軽にお茶を勧めるが如く、誰に対しても分け隔てなく、お互いに境界を作ることなく、全てのいのちを大切にしながら毎日を過ごしていくことを、「喫茶去」のみ教えから学ばせていただきたいものです。

第22回「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」 

自己反省を怠らない

令和2年16日 更新

お寺の入り口に「脚下照顧」と書かれた札が置かれているのを目にすることがあります。“脚下”とは足元のことであり、”照顧”は用心、すなわち、注意を払うことです。自分の足下という最も身近で、自分もよくわかっているような気がする場所ですが、あまりにも身近すぎる場所のためか、実はわかっているように思えて、あまりわかっていない場所でもあります。そうした自分の足下にもしっかりと注意して、自己反省を怠らないことが、脚下照顧の説くところです。

 

人間の目は外を見るようにして働きます。そのため、私たちは周囲の状況ばかりに目が向いてしまい、自分の内面に対しては、自分で意識しない限り、中々、注意を払えないものです。

 

かく言う私も、人の欠点や不十分な面ばかりに目が向いてしまい、それを指摘することが多くなった時期がありました。今思えば、この頃の私は自分自身を見つめ、十分に反省することがないままに、人様の粗探しばかりしては、それを口にせずにはいられなかったように思います。

 

そんな私が、あるとき、ハッとさせられたことがありました。個室で外線電話を使って外部の方とやり取りをしていたとき、室内の状況を確かめず、大きな音でノックをして、元気よく入ってきた人がいました。私は彼に「中の状況を確かめてから入室するように」と注意しました。ところが、後日、私も他の方に対して同じことをしてしまい、当人に謝罪すると共に、自分が人様に注意したことと同じことをしていたことを反省させられたのです。それ以来、私はつとめて自分の言動に厳しく、より一層の自己反省を心がけるようにしております。そうした自分に目を向け、意識を働かせていくことが「脚下照顧」なのです。

 

自分をよくよく省みると、意外と人様に注意していることと同じようなことを自分もしていることに気づかされます。そこに気づいたとき、荒々しかった言動が穏やかになっていくように思います。毎日を穏やかに過ごしていくという意味でも、「脚下照顧」が習慣づくことを只々願うばかりです。

第23回「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」

そこで満足しないで、さらに精進努力していく

令和2年23日 更新

布教の道を歩み始めて12年目を迎えました。この12年を思い返してみると、色々なことが思い出されます。駆け出しの頃、資格や肩書きとは程遠い中身の薄い話をして、聴衆の皆様をがっかりさせたことがありました。そんなときは、反省が促されると同時に、次への入念な準備につながっていきました。こうして準備に時間をかければかけるほど、次第に好評価をいただくこともできて、やりがいや達成感を覚えたものでした。その反面で、だんだん場慣れしてしまうのか、無意識のうちに、反省を怠ってしまうこともありました。予想以上によい反響があると、注意していても、ついつい自分に酔いしれてしまうものなのでしょう。「結果良好と感じても、必ず何か反省材料を探そう」とは思っているのですが、自分に酔って、反省を怠ってしまい、新たな失敗を生み出して苦しむという経験もありました。

 

考えてみれば、スポーツでも、芸術でも、道を極めていくには、そう簡単に終点に到着できるはずがありません。どんな道も長く険しいものです。そんな道を、たった数年で踏破するのは不可能に近く、踏破できたと感じるのは、勘違いで、それは思わぬところでサービスを受けて、安心してしまうようなものなのです。

 

今回取り上げさせていただいた「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」は布教の道を歩み始めた私が少しいい気になって、いつまでもサービスエリアで腰を下ろして休んでいたときに、布教師の大先輩からいただいた言葉です。「尺」は長さの単位で、だいたい30㎝くらいの長さです。それが「百尺」ですから、3000㎝の長さ=30mもの長さです。「竿頭」は竿さおの頭のことですから、「百尺竿頭」とは、30mの竿の先のこと、すなわち、はるかに高くて遠い場所のことで、そんな簡単に到達できぬ場所、悟りの世界を指しています。そこは、ちょっとやそっとの努力だとか、たった数回程度の経験で到達できるような場所ではありません。生涯かかって一生懸命努力して初めて到達できる場所なのです。

 

目標を達成したような気になって、自分に甘んじていては、必ず失敗するときがやって来ます。サービスを受けても、そこに甘んじることなく、常に謙虚に反省する心と精進していこうとする志を忘れずに生きていくことが大切です。

 

自分に酔いしれそうなとき、大先輩から教えていただいたこの言葉を思い出し、自らを律していきたいものです。

第2回「平常心是道(へいじょうしんこれどう)

特別なことをせず、日常生活を大切にしていく

令和2年1月23日 更新

現在、文章を整理しております。今しばらくお待ちください。

第25回「眼横鼻直(がんのうびちょく)」

あれこれ考えずあるがままの状態を受け容れていくこと

令和2年日 更新

額面どおりに受け止めれば、「眼は横についていて、鼻は縦にまっすぐについている」ということです。

 

しかし、そのように説明されても、「そんなのは当たり前だよ!!」と感じる方が多いと思います。かく言う私自信も、初めてこの禅語に出会ったとき、そう感じました。

 

そもそも、この禅語は道元禅師様が5年間の中国での仏道修行を終え、帰国されたときに述べられた言葉です。海を隔てた異国の地で、長年に渡り仏道修行に励まれた28歳の若き道元禅師様にただならぬ期待を寄せ、お会いしに来られた方の中には、このお言葉を聞いて、「異国の地で5年もの間、厳しい禅の修行に励んでこられた方が一体何を言い出すのか。」と感じた方も大勢いらっしゃったそうです。

 

しかし、一見、当たり前のように感じるお言葉の奥には深い意味があるわけで、だからこそ、このお言葉が真理を示すみ教えとして、今日まで伝わっているのです。

 

-「目は横、鼻が縦」の奥にあるみ教えとは-

 

それは、「眼前の事実に対して、あれこれ思いをめぐらすのではなく、ありのままの状態を、ありのまま受け入れていこう」ということです。つまり、目は横で、鼻は縦でしかないのだから、それを受け止め、他のことにとらわれないようにしようということなのです。

 

時間の流れの中で万事が変化する「諸行無常」、または、自分と異なる存在と関わっているが故に、万事が思い通りにならない「諸法無我」という現実の中で、私たちは様々な苦悩を経験していかなければなりません。たとえば、加齢によって我が身が思うように動かなくなることに苦しんだり、相手が自分の思うように動いてくれないことに対して、怒りの感情を覚えたりすることがあります。こうした事実をありのままに受け止めようとせず、自分の意見ばかりを声高に主張するような言動は、自分のモノの見方や考え方がベストであるという“こだわり”があるからに他なりません。すなわち、自分のやり方だけに執着しているのです。そうやって現実を素直に受け入れらようとせず、自分に都合のいい方を選び、どちらか一方に執着することが不要な苦しみをも生み出していくのです。

 

そうした苦悩を生み出す原因が、自己の「選別」や「執着」であることを知ると共に、物事をあるがままに受け容れていく大切さを説いているのが、今回の禅語が発するお示しです。そして、それは、道元禅師様が5年間の仏道修行で体得なさった仏法の真髄の一つでもあるのです。

第26回「夢」

「無常」を観じ、執着心を捨てる

令和2年2月24日 更新

「夢」は、現実とは大きくかけ離れた“理想的なもの”だったり、どんな内容だったかさえも忘れてしまうくらいの“はかない存在”だったりするものです。形なき「無常」なものです。

 

そんな夢なのですが、ときに我々は夢に強い願いを抱くことがあります。たとえば、「新年最初の“初夢”がいい夢だったから、どうか今年1年がいい年になるように」といった感覚的な願望です。

 

しかし、1年がいい年になるも悪い年になるも、その1年を生きる「自分」次第なのです。初夢がいい夢だったからと言って、いい年になるとは限りません。逆も然りです。いい年にしていこうと願い、それに応じた形で日々を過ごしていくことで、いい1年になるかどうかが決まるのです。はかない夢に捉われ、夢の良し悪しに一喜一憂することは、自分の可能性を狭め、自分を苦しめるだけです。だからこそ、夢に対する捉われは捨てて、一日一日を真剣に生きていきたいものです。それが「夢」という禅語が我々に指し示すみ教えなのです。

 

「夢」に限らず、我々は愛するヒトや、大切な品物などに対して、執着してしまいがちです。そして、その執着が自分を苦しめるのです。決して、“夢”そのものは否定されるものではありませんが、“夢”という禅語を通じて、執着を生み出す自分自身をコントロールして、少しでも仏のお悟り、安楽の境地に近づけたらと願うのです。 

第27回「主人公」

仏性(ぶっしょう)を有した本来の自己

令和2年2月2日 更新

一般社会では“テレビドラマや映画などの主役”を意味する「主人公」という言葉。しかし、禅の世界では“本来の自分の姿”を意味しています。“本来の自分の姿”とは純粋無垢の清浄な心を持った姿であり、その心が“仏性”でした。誰しも本来有している仏に成れる性質です。

 

修証義第2章「懺悔滅罪(さんげめつざい)」では、「懺悔(さんげ)」という仏道修行・生き方について触れられています。懺悔は、日々の生活の中で段々と汚れていく自分の心をきれいにして、本来の姿に立ち返る(仏性を取り戻す)修行です。また、別の見方をすれば、誰もが持っている純粋な心(仏性)をきれいなまま保ち続ける修行とも捉えることができるでしょう。前者の捉え方を、懺悔を理解する上での初歩的段階とするならば、後者こそが、修行を通じて体得した、本来の懺悔だと捉えることができるでしょう。いずれにせよ、“成仏じょうぶつ(仏になる、仏道成就【ぶつどうじょうじゅ】)”を生きる目標とする我々仏教徒にとって、本来の自己を確認する「懺悔」は欠かせない修行です。

 

「主人公」という言葉を通じて押さえておきたいのは、日常生活の中で自分の中の「主人公」を求め、心の汚れを拭い、きれいな心を保持しながら、“成仏”を目指すことです。そうした懺悔によって主人公を大切にしながら、日々を過ごしていきたいものです。 

第28回「無可無不可(かもなくふかもなし)」

何事も最初から○×を決め付けない

令和2年日 更新

お恥ずかしい話ですが、若かりし頃の私は、曹洞宗のお寺に生まれながら、坐禅が好きになれませんでした。その理由は「坐禅をしても足が痛くなるだけで何も喜びを感じられないから」というものでした。師匠(父親)の跡を弟子(子ども)が継ぐ“世襲制(せしゅうせい)”という形態の中で、本当は自分が継ぐお寺(宗派)のみ教えに納得できないのに、跡を継ぐことに矛盾を感じますが、そんな気持ちで跡を継いでも、当然ながら、やる気も起らなければ、僧侶として生きる喜びさえも感じにくくなるものです。思い起こせば、若かりし頃の私はそんな僧侶だったような気がします。

 

しかし、24歳のとき、高源院というお寺の住職を拝命し、25歳のときから3年間、布教師養成所に通わせていただいたくようになるうちに、いつしか、考え方が変化していきました。お釈迦様や道元禅師様の時代は、修行僧は、流れる雲のごとく、師匠と呼べる人材を探し歩き、やがて出会った師匠の下で仏門に入りました。しかし、世襲制が主流となった現代では、道から自分たちの方にやって来るのです。何も師匠を探し歩かなくとも、仏道とご縁が結べるのです。たとえ、それが自分で選んだ道ではなくとも、仏様と出会うことができるということに気づかせていただいたとき、やっとやる気が沸き起こり、僧侶としての自覚が芽生えっていったように思います。今や「やすらぎの会」で坐禅を行い、HPを通じて「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」や「坐禅用心記」を発信していく中で、私は人々と坐禅の世界を共有できるようになりましたが、そこまで辿り着かせていただくには、幾多のハードルを乗り越えねばならなかったのです。

 

そうした過程を振り返りながら、私は足が痛くて喜びを感じられなかったから坐禅が好きになれなかったというよりは、坐禅を行う前から、自分の思い込みや決め付けで坐禅を否定していたことに気づかされたのです。要するに、「やる前から、好き嫌いを分別し、やりたくない言い訳をすべく、あれこれ理屈をこねていた」のです。

 

「無可無不可(かもなくふかもなし)」とは、何事も「行う前から良し悪しを決め付けない」という意味の禅語です。やりもしないで、自分勝手な解釈で好悪の分別を起こし、悪い部分ばかり見て、やろうとしないから、そのものが本来持っている価値に気づくことができないのです。何事も本来は○×を容易には決めることができません。なぜなら、万事が良し悪しのような“両面”が存在しているからです。それなのに、私たちは○か×のどちらかに捉われ、自分の解釈だけで好嫌を分別し、好きなものだけを受け入れ、嫌いなものを避けてしまうから、本質に気づけないのです。

 

本質はやってみることで見えてくるものです。やってもいないのに、自分の解釈のみが先行し、○×を分別し、その結果、×になった方の本質に気づかないというのでは何ともったいないことかという気がします。「坐禅アレルギーの克服体験」を通じて、私は何事も即座に○×を決め付けず、時間がかかっても、やりながら本質に気づいていくという姿勢を大切にしていきたいと思っています。 

第29回「一期一会(いちごいちえ)

一回一回のご縁を大切にする

令和2年3月14日 更新

今回提示させていただいた「一期一会」は、世間ではよく知られている禅語の一つではないかと思います。「一期」とは、人間が生まれてから亡くなるまでの一生涯のことを指します。その一生涯において、その人と出会うのは「一回」だけであるというのが、「一期一会」の意味するところです。

 

しかしながら、実際には1回だけのご縁だった方もいらっしゃれば、2回、3回と続けて幾度もお逢いできる方もいらっしゃいます。もちろん、一生涯のお付き合いの方もいらっしゃいます。それが縁というものなのでしょう。

 

また、別の側面から見ていくと、私たちは「諸行無常」の中で生かされています。誰一人として明日を生きる保証のない、まさに露のごときいのちを生かされています。そして、いつ、別れが訪れるかわかりません。次に逢えることさえ保証されていないのです。

 

だからこそ、相手とのご縁をいただいた瞬間が「最初で最後かもしれない」と意識して、相手との関わりを大切にしていく必要性が出てくるのです。それが「一期一会」という禅語が我々に訴えかけていることです。

 

令和の時代に入り、これまで、ご縁のあった方々との別れが相次ぎました。買い物に行けば、いつも穏やかに応対してくださったお寺の近くにある商店の奥さん、私の子どもたちをご自分の孫のようにかわいがってくださったお寺の奥さん、他県に出かけた際のお土産をお渡しに行ったとき、とても喜んでくださった知人のお父上。そうした方々が鬼籍に入られるたびに、生前の出来事が思い出されると同時に、最期にお会いした時のことを思い返すと、もっとじっくりお話させていただければよかったと後悔の念が沸き起こってきます。

 

人とのご縁はいつ、何が起こり、どうなるかわからないものです。だからこそ、一回一回のご縁が最期のご縁(たった一回のご縁)になるかもしれないと思って、お互いにいい余韻が遺せるような言葉や行いを発しながら、相手との関わりを大切にしていきたいものです。

第30回「雪裡梅花只一枝(せつりのばいかただいっし)」

苦難を乗り越えることで、真の生き方に近づける

令和2年3月1日 更新

高源院の住職を拝命した頃、少し殺風景な境内が色彩豊かになればと思い、花の栽培に意気込んでいた時期がありました。とは言え、私はそれまで花を育てた経験はほぼ皆無でありましたので、実際に育ててみると、勝手がわからず失敗することも多々ありました。

 

そんな失敗談の中から学ばせていただいたことについて触れさせていただきます。

 

ある秋の日、私はチューリップの球根を買い求め、きれいな花をたくさん咲かせようと意気込んでいました。ところが、そこまで意気込んでいたにも関わらず、すっかり鉢植えを忘れてしまい、気がつけば、3月の終わりを迎えていました。玄関で少し芽を出した球根たちにふと気づいたとき、ハッとした私は、いつも仏花を買いに行く花屋さんにその話をして、何か妙案はないか教えを請いました。

 

花屋さんの奥さんの話では、「3月末では、球根を植えても花は咲くだろうが、あまり大きな花は期待できないだろう」ということでした。何でもチューリップの最適な植え時は10~12月くらいだそうで、その理由は、チューリップは冬の寒い時期に土の中でじっと耐えるからこそ、春になってきれいな花を咲かせるのだということでした。花屋の奥さんの明快なご説明に私は只々頷きながら、小さくてもいいから一本でもきれいな花を咲かせてほしと願い、プランターに球根を植えたのでした。

 

「雪裡梅花只一枝(せつりのばいかただいっし)」という禅語があります。「雪裡」というのは、深い雪の中のことです。つまり、とても寒い場所のことであり、逆境的な厳しい状況をたとえた言葉です。そんな冷たい雪の中で耐えている一枝の梅の花というのは、いつか雪が融け、暖かい春が訪れたとき、きれいな花を咲かせることができるという―なぜならば、冷たい雪の中で耐え抜いたからに他なりません。

 

そして、それはチューリップや梅といった植物に限った話ではありません。人間だって同じではないでしょうか?苦しみや辛さに満ちた逆風吹き荒れる時期に、それに負けず、必死に耐えながら自分を磨くなど努力をした人ほど、追い風が吹いたとき、きれいな花を咲かせることができるのです。誰もがそんな経験があるのではないでしょうか?今、逆風で辛い思いをしている方がおいでるならば、どうか、そんなときこそ自分磨きに精を出し、いつか必ず吹いてくる順風に乗って、きれいな花を咲かせていただきたいと願うのです。

 

ちなみに、遅まきながら植えた球根は私の願いが通じたようです。その年の4月が冬に逆戻りしたかのように、ときには雪がちらつくような寒い日もあったおかげでしょうか、冷たい土の中で耐えたチューリップはすくすくと育ち、5月の初旬にきれいな花を咲かせたのでした。

第31回  「一行三昧(いちぎょうざんまい)」  

あれこれやらずに一つのことに集中し、今を一生懸命生きる

令和2年3月1日 更新

―20代の頃はお笑い芸人の道を歩み、不動の人気を得る。

30代では、役者の世界に入り、数々の当たり役に恵まれる。

その中で、棟方志功を演じたことがきっかけとなり、水墨画を描き、数々の芸術作品を生み出していく。

50代半ばに始めた書道でも大きな話題を呼び、道を大成。

60代になって関心を持った瞑想がヨガへとつながり、インストラクター検定の中でも難関のレベル1に合格―

 

これは俳優に芸人に芸術家と実に多くの肩書を有する片岡鶴太郎さんの人生です。私が子どもの頃にはお笑いの世界から役者の世界に活躍の場を移されていた時期で、芸達者で深みのある演技がとても魅力的な、子どもにも安心感を与える役者さんのお一人でした。

 

そんな鶴太郎さんを久しぶりにテレビでお見かけしたのが、TBS系列で毎週金曜日19時から放映されている「爆報theフライデー」という番組でした。2019年8月23日放送分では、故・夏目雅子氏の銘に当たる女優・楯真由子(だてまゆこ)さんの近況が取り上げられていました。子役時代から高い演技力を評価され、将来を期待されていた楯さんでしたが、“名女優・夏目雅子の銘”という重圧から精神的ダメージを受け、芸能界から遠ざかってしまったとのことでした。それでもシングルマザーとして、我が子を育てるべく、キャバクラで必死に働く楯さんには、本当は芸能界に戻り、歌をやりたいという思いがありました。

 

そんな楯さんにとって、時代劇での共演以来、俳優の師であると同時に、楯さんの継母である故・田中好子さんに絵画を教えた師ある存在が鶴太郎さんです。鶴太郎さんは数十年ぶりに再会した楯さんの近況と本音にじっくり耳を傾けながら、一言、「自分がやりたいと選んだ道ならば、しっかりと究めなくてはならない」というアドバイスを発せられました。

芸人、俳優、芸術、ヨガetc。これまで様々な道を歩み、その道を究めてきた鶴太郎さんの言葉は深みのある重いものでした。そんな鶴太郎さんがご自身の人生を振り返りながら発せられる一言一言が、若き楯さんの心に響き、楯さんの頬に涙が伝っていました。

 

今回提示させていただいた「一行三昧」という禅語は、まさに片岡鶴太郎さんのように、三昧ざんまい(一つの道をしっかりと歩むこと)によって、一つの行が大成されていくことを意味する言葉です。一つの道を歩みながら、別の道を歩もうとも思えば、歩めるかもしれません。しかし、双方の道を大成することは不可能です。道に対して十分な理解もできず、中途半端になるだけでしょう。

 

鶴太郎さんのように道を究め、体得していくには、その道だけを注視し、歩むことが大切なのです。そうやって体得していった道が自分の人生の肥やしとなっていくのです。どんな道でも構いません。何か一つを選び、その大成という大目標に向かって、コツコツと精進していくことが、人間の人生を豊かにしていくことを俳優はじめ数々の肩書を持つ片岡鶴太郎さんから学ばせていただきたいものです。

第32回「無作妙用(むさのみょうゆう)」

自然のままに我が身を任せ、素直に生きる

令和2年3月21日 更新

やるべきことが片付かぬままに、新たな仕事が追加され、課題がどんどん溜まっていったという経験は誰しもあると思います。そんなとき、皆さんはどんな反応を示しますでしょうか。

 

自分自身を振り返ってみますと、若かりし頃は、こうした状況に陥ったとき、イライラすることが多かったように思います。思い通りに事が進まぬ苛立ち、期日に間に合わないかもしれないと思う焦り、相手を怒らせるのではないかという不安に、無能な人間と思われたくないという見栄。そうした様々な感情が噴出し、自分が発する言葉や行いに顕れていたように思います。今にして思えば、経験不足ゆえに度量や視野が極度に狭かったのではないかと思います。

 

そんな自分が周囲からアドバイスをいただいたり、幾ばくかの人生経験を積ませていただいたりする中で、狭かった度量や視野が少しずつ広がってきたのでしょうか、40歳を過ぎた今、仕事が貯まっても、イライラすることが多少は減ったように思います。その背景には、「無理やり進めようとしてもうまくいくものではない。周囲の状況に身を委ねながらやっていく方が成功することが多い」ということに実体験を通じて気づかせていただいたからに他なりません。

 

世の中には、「早いに越したことはない」と言わんばかりに自分が思い立ったときに仕事を終わらせようとする人がいます。それは決して、間違いではありません。ただ、相手がある場合、必ずしもそのやり方が正しいとは言い切れないのです。自分は今が最適なタイミングだと思っていても、相手にとってはそうではないかもしれません。却って相手を急かせ、上手くいくものが上手くいかなくなることだってあり得るのです。大切なのは相手の性格や能力、仕事のペースにも十分に配慮しながら、言動を発していくことです。それは相手に我が身を任せていくことでもあるのです。

 

自分から言動を発し、自分のペースで進めようとすることに対して、自分から何も発信せず、自然に委ねることを「無作」と言います。この「無作」こそが「妙用」という絶妙なるタイミングであるというのが、「無作妙用」の意味するところです。そこには自分から何とかしようとして発する言葉も行いもありません。すなわち、私心や執着のない、自然の状態です。だからこそ、相手があることならば、相手のどんな考え方にもペースにも馴染み、事が円滑に進んでいくのです。

 

あまり自分の方からばかり発信せずに、相手の様子もよくよく伺いながら、最適なタイミングを掴んで、言動を発していく―そうすることで、自然なままに良い状態で事が運ぶこということを「無作妙用」は説いているのです。 

第33回「花枝自短長(かしおのずからたんちょう)」

それぞれが自分の得意分野を最大限に発揮する

令和2年3月2日 更新

人に頼るのが苦手な人、あるいは、「自分でやった方が早い」と思って人の力を借りようとしない人、そういう人はどこにでもいます。それは決して、悪いことではありません。しかし、全てを自分の力だけで成し遂げられるならばいいのですが、どんな人間も得手があれば不得手があります。それゆえに、不得手とすることをやらなければならないときに、それを得手とする人の力を借りない限り、事を勧めることができません。一人で事を勧めることには限界があるのです。

 

何事も自分の力だけで成し遂げられるかと言えば、そうではありません。身の回りのことや小さな事ならばいざ知らず、事が大きくなればなるほど、人手が必要となります。様々な能力を有した者同士が協力し、自分の力を最大限に発揮することで、一大事が無事円成していくのです。

 

寒い冬の間、寒さの中でじっと耐えていた植物たちは、春になって暖かくなってくると、一斉に芽吹きます。桜のように多くの人を魅了する美しい花、地面に這うように咲く多年草のネモフイラは青い絨毯のように美しく、鮮やかで色とりどりのチューリップやフリージアの花は春の訪れを知らせてくれます。自然は季節ごとに姿を変え、夏には夏、秋には秋、冬には冬のすばらしさを体現しています。それぞれが精一杯、自分たちのいのちを輝かせ、その融和・和合が人々の心を魅了するのです。

 

「花枝自短長」―短い花にも長い枝にも、それぞれのよさや味わいがあります。そうした大自然に生かされる植物たちと同じように、人間も自分たちの得意分野を生かしながら、支え合い、助け合っていくところに集団や組織の素晴らしさがあるように思います。

 

「花枝自短長」が実践されている組織には助け合いの精神が働きます。そこでは組織を形成する個々のメンバーが相手の得手不得手を理解し、和合しています。だからこそ、組織の寿命が延び、そこに存在している花や枝が生き生きと自らの役割を果たし、生きる喜びが実感できるのです。組織を引っ張るリーダーこそ、「花枝自短長」を知り、個々が遺憾なく個性を発揮できる環境づくりを目指していただきたいものです。 

第34回「百不知百不会(ひゃくふちひゃくふえ)」

「知らないことがたくさんあること」を素直に認めて過ごす

令和2年10日 更新

自分が知らない話題で場が盛り上がると、何とかして、その話題についていきたいという思いからか、ついつい知ったようなことを口にしてしまったという経験は、大なり小なり、誰にでもあると思います。人間には自分の知らない話題が出てくると、自分だけが取り残されたような不安を覚えたり、あるいは、知らないことが恥ずかしく思えたりしてきて、無知だと思われないように振る舞おうとするところがあるようです。

 

しかし、それは自分の言葉や態度に対して、偽ることになり、当然、正しいこととは言えません。ですから、知らないことがあれば、恥ずかしがらずに、知らないことを素直に認め、わからないことがあれば、わかっている人に素直に教えを請う謙虚さが必要になってくるのです。そうやって、学びを継続していけば、人間は成長していきます。自分の無知を認め、常に謙虚に学び続けていくことは、知らなかったことを知ることにつながっていくのです。

 

周囲の存在に対して、偏ったものの見方をすることも無知を生み出す原因になるように思います。人間には一つの存在に対して、たとえば、「好き・嫌い」や「善し・悪し」のように、自分の好みや価値観で二分して捉えてしまうところがあります。そうした性質が「興味のある・なし」を生み出し、興味がないものから目を逸らさせてしまいます。そして、「知っている・知らない」につながっていくのです。

 

かつての私はそういうものの捉え方をしていました。そのために話題が偏っていました。知っている話題ならば、いくらでも話のネタが出てくるのに、知らない話題になると、何も話せなくなってしまうのです。そうした偏ったものの捉え方が、布教の道を歩む上で、大きな障害となり、随分と悩んだことが思い出されます。

 

そんな私の悩みを解決してくれたのが、タレントのタモリさんです。平成26年3月31日に32年間にわたって平日のお昼に放送されてきた「笑っていいとも!」が終了した際、番組のコーナーの一つであった‟テレフォンショッキング”における過去の名シーンが放送されました。このコーナーでは、毎日、俳優や芸術家、スポーツ選手にアイドルと、様々な分野で活躍する異年代のゲストとタモリさんが数十分に渡ってトークを行うのですが、タモリさんの知識の豊富さ、話題を生み出す引き出しの多さに改めて感銘を受けたものです。知識や興味に偏りがあれば、タモリさんのような魅力的なトークはできません。人を惹きつけるのも難しいでしょう。どんな分野にも興味を持ち、自分の方から関わっていく積極性が自分の学びを深めると共に、そうした姿勢が布教の場にも必要であることを、様々な道の最前線を歩む人と会話を楽しむタモリさんから教えていただいたのです。

 

この世には様々な存在があり、一人の人間が完全に全てを把握するのは不可能です。知らないことがあって当たり前、それを素直に認め、日々、謙虚に学んでいくことで、人間はタモリさんのような魅力的な人間味を有した、話題豊富な存在になっていくのです。 

第35回「一日不作一日不食(いちにちなさざればいちにちくらわず)」

やるべきことはしっかりとこなし、空しく一日を過ごさない

令和2年4月25日 更新

〝一日〟は「その日」や「24時間の終日」を意味する言葉です。その「一日」において、為すべきことをきちんとこなして過ごすことは、決して、難しいことではありません。意識して心がけていけば、誰でも行えることです。もし、それができなければ、どんなにお腹がすいても、「為すべきことをしない自分には食事をいただく資格がない」と我が身に強く言い聞かせるくらいに、一日を空しく過してはならないと戒めているのが、「一日不作一日不食」です。

 

この禅語は古代中国の禅僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師(749-814)のお言葉です。大いに禅風を鼓吹し、中国の禅宗史上に名を連ねる懐海禅師の元には多くの修行者が集い、やがては百丈山大智寿聖禅寺というお寺が建立されたくらいです。そうした中で、修行道場における規則が記された「百丈叢林清規(ひゃくじょうそうりんしんぎ)」が誕生、後の禅林における規矩きく(規則)の原点となりました。

 

そうした自ら定めた規定を自ら遵守し、亡くなる日が訪れるまで、ひたすら仏道修行に勤しんできた百丈禅師。ある日、お弟子様たちが禅師のお身体を心配し、掃除を止めることを求めるも、禅師は一向に耳を貸さず、掃除を続けました。そのため、ついにお弟子様たちが掃除道具を隠してしまったというのです。

 

道具がないので、掃除ができなくなった百丈禅師にお弟子様たちの願いが通じたのか、その日は、禅師様は終日休息を取られました。しかし、その代わりに、終日食事も召し上がられませんでした。「為すべきことも為さず、終日、休息していた人間に仏飯(ぶっぱん)(食事)をいただく資格はない」とおっしゃる百丈禅師。禅師の仏道修行に対する厳しい捉え方と、自らに対する厳しさが伝わってくる逸話のように思います。

 

百丈禅師様のように、自らの道や生き様にかくも厳しく向き合うことは至難の業かもしれませんが、こうした厳しさを忘れずに一日一日を大切に過ごすことが、充実した毎日を送ることにつながっていきます。そして、そうした日々の過ごし方によって、私たちの歩む道が開け、大成していくのです。自分たちの日常を振り返りながら、為すことも為さず、怠けて過ごしているのならば、仏飯をいただく資格はないくらいに自己と厳しく向き合い、いただいた時間といのちを無駄にせずに過していきたいものです。

第36回「和顔愛語(わげんあいご)」

「和やかな顔」・「穏やかな言葉」で周囲と接する

令和2年4月2日 更新

私たちは衆縁和合(しゅうえんわごう)(自分と周囲のヒト、モノ、大自然等の存在が関わり合い、支え合っていること)しています。それゆえ、お互いに労わり合いながら関わっていくことが求められます。そのことを念頭に置き、和やかな笑顔を発し、穏やかな言葉を提示しながら日々を過ごすことを説くのが「和顔愛語」です。

 

「和顔愛語」を心がけて毎日を過ごすには、自分の心が調っていなくてはなりません。すなわち、三毒煩悩(貪り・瞋【いか】り・愚かさ)が調整され、言葉や行いになって表に出ない状態であってこそ、表情や言葉が穏やかになるのです。心が調っていない状態で、言葉や行いを発したのでは、周囲に不快感を与え、場合によっては、争いに発展してしまうこともあります。そのことを踏まえ、できるだけ自分の心を調え、「和やかな顔」・「穏やかな言葉」が発せられるよう、我が心を調えておくことを心がけておきたいものです。

 

そうした心の調整をしていく上で、以下の一覧表の三点に注意を払っておきたいものです。

 

(1)相手の長所を認めることを心がけ、相手に対する悪意は早めに断つ

 誰もが悪い所ばかりではありません。いい所もあります。

 万事はいい所と悪い所の〝両面〟を併せ持っているのです。

 もし、相手に対して苦手と感じるのならば、相手の悪い所ばかり見ているからです。

 いい所にも着目すれば、自ずと自分の心が調い、悪意が消えていきます。

 

(2)不平不満は視点を変えながら断っていく

 周囲に対する否定的な捉え方や意見は、その場の雰囲気を乱し、暗いものにしてしまいます。

 自分の意に沿わなくても、視点を切り替え、マイナスはプラスに転じられるように。

 そうした視点の持ち主は心が調っているので、表情も言葉も穏やかです。

 そして、どんな困難も乗り越えられるのです。

 人生を上手く歩んでいるように見える人がいます。それは本人が誰よりも自分の身心を調える努力をしているからです。

 

(3)あらゆる苦悩や困難にしっかりと向き合う

 マイナスをプラスに転じることができれば、あらゆる苦悩や困難は解消していきます。

 苦悩も困難も自分を成長させるために必要な壁です。

 苦悩を乗り越えた先には身心共々に穏やかで清々しくなった自分がいます。

 そして、そんな自分には恐れるものがないので、恐怖や困難に出会っても冷静でいられるのです。

 

衆縁和合の日常において、立腹したり、混乱したりしてしまう場面は数知れず。そんな場面に出くわしたときに、状況に流され、身心共々に乱れることなく、上記の一覧表を思い浮かべながら、平穏な表情と言葉を心がけていきましょう。 

第37回「安心(あんじん)」

仏法によって、心が安定し、やすらぎを得ること

令和2年10日 更新

世間一般には〝あんしん〟と読みますが、仏法の世界では〝あんじん〟と濁って読みます。本日(令和2年5月10日)現在、新型コロナウイルス(COVID19)が世界中に不安を与えている中で、「安心(あんじん)」が指し示すように、仏法を学び、不安を取り除いて、心を安定させ、安らかな気持ちで毎日を過ごしていきたいものです。

 

未知なる「新型コロナウイルス」の正体が少しずつ見えてくるようになる中で、国の緊急事態宣言の発出や不要不急の外出自粛等による感染拡大防止の風潮は、経済や各種イベント行事にも影響を与えました。そんな中で、私共の宗教界も宗教活動が制限されている状況です。「三密(密集・密室・密接)」を避けるという点では、古来よりそうした形で執り行われてきた宗教行事ですから、三密を避けた状況での対応策を見出すのは至難の業です。

 

こうした中で、世間ではzoom等のアプリを使って、インターネットでの会合や飲み会などが行われるようになりました。そうした流れの中で、宗教界でもzoomを利用した坐禅会や法話などを発信する動きが出てきています。私もパソコンやスマホにこれらのアプリをダウンロードし、一日も早く休止中の坐禅会を再開したいと考えているところです。苦悩を苦悩として見ていれば、マイナスの部分しか見えてきませんが、万事両面(プラスとマイナス)があることを押さえ、少し視野を広げてプラスの部分にも目を向けていくと、コロナ禍の日常の中にも喜びや希望が見いだせるのではないかと思います。そうした捉え方が、仏法が指し示す「安心(あんじん)」であり、zoomを用いた宗教活動を模索し、実践していくことも「安心」の為せる業のような気がします。

 

ちなみに、ある方丈様はfacebookを用いて、‟おうちでおはなみ”と銘打ち、街中の桜並木やお寺の境内の花を投稿しています。これまで震災等のボランティア活動を通じて、被災者の苦悩に寄り添い続けてきたことによって、コロナのような未曽有の苦悩を前にしても、動ずることなく、人々の苦悩に向き合おうとすることができるのでしょう。これぞ、まさに菩薩様の生き様であり、「安心(あんじん)」によって生み出される仏道修行なのです。 

第38回「稽古照今(いにしえをかんがえていまをてらす)」

先人の経験や教えを学び、日々の生活に生かしていく

令和2年5月0日 更新

この禅語では、「稽古(けいこ)」と書いて、‶いにしえをかんがえて〟と読んでいます。習い事や鍛錬を意味する「稽古」ですが、これは、そもそも、古いにしえを慕い、古を考えることによって、学習や練習に励むことを意味しています。そんな稽古によって、今を照らすということは、過去に生きた先人たちの体験や教えを学ぶことが、我が人生を輝かしいものしていくと捉えるべきでしょう。

 

新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、様々な行事・イベントが中止や自粛となりました。石川県内でも青柏祭(せいはくさい)(国重要無形民俗文化財指定・ユネスコ無形文化遺産登録)等の祭りや金沢マラソンが中止となりました。いずれも史上初の決定とのことです。1000年近い歴史のある青柏祭においては、記録に残る中で初めての中止とのことでしたが、金沢マラソンを始め、戦後に始まったイベントの多くは中止の前例がほとんどありません。過去に前例があれば、当時の記録を読み返すなどして、対応策を講じることができたでしょうが、前例がないために、その対応策自体が暗中模索の中で考えていかなくてはならなかったことでしょう。イベントの執行者側に携わる方々の苦慮が慮られます。

 

そういう意味で、よりよい今を目指す上で、過去を学べる記録等の重要性に気づかされるわけですが、5月に入り、北國新聞では「流行病はやりやまいの北陸史」というコーナーが設けられ、興味深く読ませていただきました。このコーナーは、今から100年前の1918年(大正7年)—1920年(大正9年)にかけて、世界的なパンデミック(大流行)となった「スペイン風邪」による当時の北陸の様子を学ぶことを目的としたものです。スペイン風邪は後年の研究によって、インフルエンザウイルスによるものであったことが判明した伝染病です。

 

1918年11月16日付の記事には、金沢市の児童総数15,300人に対し、8割に当たる12,183人の児童が悪性感冒に罹病し欠席したことや、相次ぐ死者で金沢市内の火葬者数が平時の3倍を超えたことが記録されているそうです。スペイン風邪による死者は世界で2千万~5千万人、国内で25~45万人とのことですから、今回のコロナ同様、海を渡って全世界に感染が拡大し、多くの人々を苦悩させた点では、典型的な前例だったことが伺えます。

 

当時の金沢市内における全児童の8割がスペイン風邪に罹患した背景には、皆勤賞を目指し、多少、体調が悪くても登校させる風潮が少なからず影響したのではないかと、当時の新聞は記録しています。勉学や労働に真面目に取り組むのは大切なことですが、これからの時代は、感染症が発生したら、今回のように直ちに休校、自宅待機、在宅勤務等の処置を講じ、その中でどう学習し、どう働くかを今後は考えていくことが求められてくるような気がします。

 

ちなみに、コロナの除菌にはアルコール消毒がいいとのことで、大量の飲酒をしようとしていた酒好きな方がいらっしゃいましたが、100年前にも同様の方がいらっしゃって、昼夜の飲酒によって、却って死期を早めたという笑えない話もあるようです。過去は様々な情報を現代の私たちに発しています。一つ一つ学びながら、よりよい日常生活を目指していきたいものです。 

第39回「点滴穿石(てんてきいしをうがつ)」

コツコツと努力し続けることが大きな成果を生む出すことにつながる

令和2年日 更新

先日、お寺にお参りに来てくださった方から、「隅々まで掃除が行き届いていて、心が洗われました。また、お参りさせていただきます」という温かいお言葉をいただきました。こうした愛語が私たち僧侶の修行を支えてくださっていることを再確認させていただいた瞬間です。

 

―「禅寺というのは、きれいに掃除されていて当たり前なんだ」―

若かりし頃、しばしお世話になっていた高源院の本寺様であります羽咋市・永光寺様のお檀家様から教わったことです。このお言葉が今も僧侶としての自分を支えてくれています。日々の多忙さの中で、気を緩めれば、掃除の手も緩んでしまいます。ですから、たとえ落ち葉一枚、雑草一本であっても注意を払い、清浄な境内を目指すことが、禅寺の環境づくりには欠かせないと我が身に念じ込み、極力、作務(さむ)(掃除や草取りなど)を行うように心がけています。今回、そうした日頃から、短時間でもいいからコツコツと掃除をし続けていくことで、ありがたみのある寺院環境を生み出すことを、参詣者から教えていただいたのであります。

 

お釈迦様がお亡くなりになる直前、お弟子様方に「精進」ということをお示しになっていることは、これまで幾度もお話させていただきました。「精進とは、たとえ少量の水でも、毎日、流し続けていれば、硬い石が変形し、割れるときがやって来るようなものである」とお釈迦様は明快な譬えを用いて、お示しになっているわけですが、「点滴穿石」は、そうした「精進」を説いた禅語なのです。

 

―「ほんの10分の草取りをどう捉えるか」―

毎日、10分間、草取りの時間を取ることを続けることを面倒に感じる方もいらっしゃるかもしれません。そんな小さなことに時間を割く余裕はないと思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そのたった10分の時間に手をかけることで、今回の参詣者のような心癒される方が出てくるのです。これは境内の草取りに限らず、万事に通じます。ささやかなことで構いません。自分ができる範囲でいいから、世間に何か喜びを提供できるようなことを見つけ出し、コツコツと続けてみるのです。そして、そうすることが何らかの「社会貢献」につながっていくのです。 

第40回「破草鞋(はそうあい)」

破れた草鞋(わらじ)の如き、役に立ちそうにないものも、自分の人生の肥やしになっていく

令和2年6月12日 更新

以前は、檀務(お檀家さん宅への月参りや葬儀、法事)に出向く際には、「雪駄(せった)」(丈夫なサンダルのような履物)を使用していましたが、ここ数年は黒い皮靴を使用しています。急な雨等で、足元が濡れたままお檀家さんのお宅にお邪魔することがないようにするためです。買ったばかりの靴は光沢もあり、見栄えはいいのですが、堅くて足になじんでいないのが難点です。ですが、そんな靴も、毎日使用する中で、段々、我が身に馴染んでいきます。これは靴に限らず、電化製品や服にでも当てはまることでしょう。

 

現代のように道路がアスファルトで舗装されていなかった時代、人々は外出時には、草鞋(わらじ)を履いていました。草鞋も靴同様に、使っていく中で、次第に馴染んできます。そして、そのうち磨り減って、使用できなくなるときがやって来ます。

 

そんな磨り減った(破)草鞋のように、私たちも日常生活の中で様々な経験を積み重ねながら、日々を過ごしています。うれしいことや成功したこともあれば、失敗や恥ずべきこともしています。特に後者は思い出したくないことであったり、あまり役に立ちそうもないことだったりするようにも思われます。しかし、実はそうではありません。失敗も恥も、全てが自分の人生の肥やしとなっていくのです。それが「破草鞋」の意味するところです。

 

A氏は怒りっぽい方です。友人のBは温厚な方です。そんなA氏がある日、B氏に「俺は感情のコントロールができないんだ。だから、お前がうらやましい。お前のようになりたい。」と本音を漏らしました。今や年齢を重ね、温厚なB氏ですが、実は若い頃はA氏同様に感情のコントロールが不得手で、若い部下への暴力を上司から厳重注意さえたこともあるくらいです。そのとき、B氏は恥ずかしい思いをしたそうで、以来、自ら気をつけて感情をコントロールするようになりました。心に怒りを感じれば、よくよく考えて、言葉や行いを発するようにしているそうです。これは道元禅師様が「正法眼蔵随聞記」の中でお示しになっている“三度顧(みたびかえ)りみる”という仏道修行者の心構えに合致する生き方です。そうやって、我が身を反省し、仏のみ教えに従って日々を過ごしてみるとどうでしょう。世間は、B氏は温厚な方だと捉え、今や信頼を置かれるようになったのです。これぞ「懺悔(さんげ)」であり、そうやって、ときに自分が歩んできた道を振り返りながら、反省するなどして、道を歩み直していくことが「破草鞋」の願いです。

 

一足の草鞋を履きつぶすまでの間に経験する様々な出来事は、自分の人生を豊かなものにしていくものばかりです。その中でもB氏のように、自分の弱点は周囲の力をお借りしながらも、最終的には自分の力で克服していくしかないように思います。今年(令和2年)は新型コロナウイルスに翻弄され続けた一年になりそうです。その中で、“我が身を調え、冷静に対処することの大切さ”を学ばせていただきました。多くの人が「自分の弱点は冷静になれないことである」ということに気づかされたことでしょう。私もその一人で、今は冷静さを身につけようと毎日を過ごしています。

 

コロナ禍の時代を生きていく中で、自身の弱みに気づき、それを強みに変えていくことが求められています。そのことを「破草鞋」のみ教えを通じて、再確認させていただきたいものです。 

第41回「本来の面目(めんもく)」

「元来の姿」や「原点」に目を向けてみる

令和月1日 更新

令和4年の幕開けと共に、昨年末から懸念されていた新型コロナウイルスの「オミクロン株」による感染拡大が現実のものとなり、沖縄・山口・広島には1月9日より「まん延防止重点措置」が適用されました。コロナ対策においては、「後手後手」と批判された前政権を踏まえ、現・岸田内閣は先手先手によるスピード重視の判断がなされているようです。

 

こうした事例のように、何らかの選択肢が与えられるなどして、判断を迫られる場面というのは、我々の日常生活の範囲内を見渡してみても、誰しも心当たりがあるのではないでしょうか。その判断基準となるものは、各々、違いがあるとは思いますが、私自身、何らかの判断を迫られたときに基準としているものの一つに、「原点」があります。「原点回帰」という言葉がありますが、「そもそも、本来はどうだったのか?」、「元々はどんな状態であって、そこから何を目指していたのか?」、議論が長引き、中々、結論にたどり着けない問題や複雑で難解な課題ほど、原点に立ち返り、再度、本来の姿を思い返すことによって、難解と思えたことが簡単になり、問題の解決を見ることがあることがあります。是非、押さえておきたいものです。

 

そんな「原点」であったり、「本来の姿」であったりということを指す禅語が、「本来の面目」です。「面目」には「姿」とか、「様子」という意味があります。時間の経過や周囲の様々な存在との関わりによって、本来の姿や様子は、どんどん変化していって当然のものなのです。新たな価値観が育まれることもあれば、知らなかった事実を知ることによって、不安や恐怖に苛まれることもあるかもしれません。その結果、自分が得てしまったものによって、正確に判断する力が鈍ってしまうことが出てくるのです。そうした自分の正しい判断を鈍らせるようなものならば、そこに捉われることなく、捨て去ってしまう方策を身につけていくことの大切さを「本来の面目」は説いています。

 

同じ人間なのに、なぜか周囲から見たときに、調子がよさそうに見えるときもあれば、そうでないように感じる場面に出くわすこともあります。その原因に、悲しいかな、当事者が周囲の声を聴きすぎて持たなくてもいい考え方や視点を得てしまっていることも一因のようです。組織をまとめていくときなど、周囲の声を聴くことは必須なのですが、そこに左右されて、組織のまとまりを欠くという事態にならぬよう、常に「原点」なり、「本来の姿」に目を向ける視点を併せ持ちながら、全体の幸せを願い、和合を推進していきたいものです。

第42回「無位(むい)の真人(しんにん)」

あらゆる執着から解放される

令和4年1月1日 更新

「無位」は「位のない状態(位を超えた状態)」を意味し、「真人」は「悟りを得た人」、すなわち、「あらゆる執着から解き放たれ、自由の境地を得た人」を指しています。

 

令和4年の布教教化のテーマとして、「放下著(ほうげぢゃく)」という禅語を掲げさせていただきました。これは「私たちを束縛するものや、執着を発生させるものから解放し、自由の境地を得ること」を目指すものです。今回、提示させていただいた「真人」というのは、まさに「放下著」を体得できた人と捉えることができるでしょう。

 

こうした「放下著」という言葉を取り上げ、「真人」を目指していこうと思ったきっかけは、昨年のある出来事を通じて、色々と思い悩んだことが背景にあります。長年、身を置いている組織の中で、実績が積みあがってきたのでしょうか、以前よりも組織の中で発言力を持つようになってきたと思い込んでいた私が、ある日、甘い判断をしてしまい、他者から誤りを指摘していただいたことがありました。指摘してくださった方は、私を貶めるなどといった悪意は一切なかったのですが、私の中には判断が甘かったがゆえに、誤った答えを導き出してしまったことだけが悔やまれ、理論立てて物事を考え、意欲的に発言する気持ちが薄れていってしまったのです。自信喪失というのは、こういう状態なのでしょう。この出来事以降、発言するにしても、どこか自信が持てず、それが周囲にも伝わってしたのか、今までのように、周囲の信頼を得られているという感覚を持てなくなってしまい、自信喪失に拍車がかかってしまったのです。

 

こうした状態が半年ほど続きました。自分の中で、何とかしなければともがくのですが、いくらもがいても、中々、暗闇から抜け出すことはできませんでした。まさに“スランプ”という状態です。何をするにつけても自信が持てず、他者に意見を求めて、その反応を見ながら、自分の意見が正しいかどうかを判断してみるという状態が続きました。そして、他者の意見と自分の意見が合致した場合はともかく、そうでなかったときは、また、自分を責め、自信を失っていました。

 

そんな私が、ある時、たまたま立ち寄った書店で手にした一冊の本によって、再び自信を取り戻すことができたのです。その本には心の持ち方として、「自尊心を高める」ことが勧められていました。本は「自尊心というのは、自分を信じることであり、自分を愛することである」説くと共に、「自尊心が高い≠傲慢・自己中心的・自惚れが強い」とも説き明かしています。自己中心的だから他者の評価を求めようとするのであり、威張ったり、横柄な態度を取ったりするのであるという説明に合点がいきます。「自分の中に存在している価値を信じ、自分を愛する視点を持つ」ことを正しく理解させていただくと共に、自分を信じ、愛せなくなってしまうという状態に捉われてしまったから、自信喪失につながっていたことに気づかされたのです。

 

「自分の価値」という言葉を、仏教が説くる「仏性(仏に成れる性質)」等の言葉に変換することは可能です。自尊心を意識しながら、自らの仏性を認め、「無位の真人」に近づけるよう、日々、精進していきたいものです。 

第43回「言語道断(ごんごどうだん)」

言葉で表現しきれないものも大切にしていく

令和4年1月23日 更新

「言語道断」は、一般的には相手の言動に対して、“もってのほか”という意を示すときに使用される言葉ですが、元々は禅語で、「言葉では言い尽くせない奥深い道理」という意味があります。

 

会話に手紙にSNSと、我々は普段、言語を使って、コミュニケーションを取ります。私たちの日常生活の中で、言葉が果たす役割は大きく、そのためか、我々は何事も言葉を用いて表現しようとしてしまいがちです。それゆえか、言語化・文書化できないものが信用できなかったり、抵抗を感じてしまったりする場面も見受けられます。

 

しかし、何事も言葉で表現しきれるものではありません。以前、ある檀信徒のお宅に月参りにお伺いした際、さだまさし氏の楽曲「北の国から~遥かなる大地より~」の話題で盛り上がったことがあります。この曲は、故・田中邦衛氏(享年88歳)の代表作・「北の国から」の主題歌として有名ですが、そもそも、これはコンサートツアーで北海道を訪れたさだ氏が脚本家の倉本聰氏の富良野のご自宅に招待された際、倉本氏の強い要望により、10分程度で作られた曲とのことです。北海道の広大な大地をイメージしながら、「アー」や「ンー」のみで構成されているこの曲を、さだ氏は「もう二度と書けないくらいの完成度の高い一番素晴らしい曲である」と評していらっしゃいます。

 

この「北の国から~遥かなる大地より~」の世界観が、まさに「言語道断」が指し示す禅の境地と合致しているように思います。北海道の広大な大自然を言葉で言い表そうとすれば、何か適当な言葉が見つかるかもしれません。しかし、それは北海道の一側面だけを見た部分的な捉え方であったり、北海道のことをあれこれ調べたり、あるいは幾度も訪れたことによって生み出される表現のような気がします。初めて北海道を訪れた人が率直に抱く思いは、「アー」や「ンー」のような言葉にならない感動ではないでしょうか?だからこそ、「北の国から ~遥かなる大地より~」が40年近くたった今も、北海道をイメージする名曲として多くの人々の心に残っているのではないかという気がします。

 

言葉だけを重視して、言葉に捉われていたのでは、こうした名曲は生み出されることはないでしょう。それは坐禅も同じで、言葉では表現しきれない世界観を背景に背負っています。坐禅会で初めて坐禅を経験なさった方に感想を求めることがありますが、言葉に詰まる方もいらっしゃいます。その心境を推し量るに、まさに「アー」や「ンー」の境地なのではないかという気がします。日常を振り返り、言葉を中心とする理屈優先の考え方によって、大切なものを見失っていないだろうか、よくよく考えておきたいところです。世の中には言葉では表現し尽せないものもあるのです。そのことを、今一度、押さえておきたいところです。 

第44回「一路平安(いちろへいあん)」

お互いの人生が平安に過ごせることを願い合う

令和4年1月30日 更新

先日、facebookを覗いておりましたところ、旧友が海外赴任のために異国の地に旅立ったことを記していました。彼によれば、滞在は数年になるとのこと。彼のお子さんと我が子が同級生ということもあり、どこか他人事ではないような感覚を持ちました。コロナ禍の中、家族を残して海外に旅立つ決心や、並々ならぬ覚悟が思い起こされると共に、再び元気な姿で日本の土を踏む日が訪れることを、只々、願うばかりでした。

 

時同じくして、あるお檀家さんのお宅に月参りにお伺いしたところ、そちらのお宅もご子息様の海外赴任が決まったとのこと。旧友と同じく数年は妻子と離れ離れの生活になるとのことで、こちらも他人事ではない気がすると同時に、元気に再会できる日が訪れるのが待ち遠しい限りです。

 

こうしたサラリーマンの海外赴任の事例は、勤務先に海外支店や出張所のある方ならば、あり得る話で、同様の経験をなさった方も多々いらっしゃるのではないかという気がします。僧侶の世界でも、同様の事例がないわけでもなく、他国の寺院や宗教施設に派遣され、数年過ごした方もいらっしゃいます。そうした方々の心情を慮るに、様々な心配も残しつつも、一大決心を以て、事に臨まれたのであろうと、只々、頭が下がるばかりです。また、送る側も、様々な心配を抱えながら、無事に再会できる日を願い、毎日を過ごしていくのでしょう。一人の人間の居場所が変わるという一大事に関して、本人始め周囲の人々の様々な心情が交錯する中、旅立ちから帰国までの一路(一本の道筋)が無事平安であることが、皆の共通の願いであることには変わりありません。

 

今回、取り上げさせていただいた「一路平安」という言葉には、旅立つ者の道中安全に対する願いが込められています。そこには相手のことを我が事として捉える「同事(どうじ)」の視点なり、他者のことを最優先に考えていこうという「自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心を発(おこ)す」という姿なりが見え隠れしています。すなわち、相手の無事を願うがゆえに発せられる禅語が「一路平安」なのです。

 

海外赴任だけが「一路」ではありません。私たちの一生涯そのものが「一路」なのです。誰もがご両親様から先祖代々のいのちをいただいて生かされているという点では同じです。この世に生まれ、あの世に旅立つまでの一連の流れもまた「一路」なのです。

 

誰もがそれぞれの「一路」を一生懸命に生きています。そのことに思いを馳せながら、お互いの「一路」を思いやり、平安に過ごせることを願って毎日を過ごしていきたいものです。 

第45回「耕雲種月(こううんしゅげつ)」

“今・ここ”にいただいた仏縁を一生懸命に生きていく

令和4年日 更新

令和4年2月4日、北京冬季五輪が開幕しました。昨夏の東京オリンピックにおける地元・石川県勢の目覚ましい活躍が記憶に新しい中、今大会では石川県から唯一代表に選ばれたアルペンスキー日本代表の小山洋平選手の活躍が期待されます。

 

小山選手は四年前の平昌五輪では代表候補の選考会で落選。以降は、只管に練習に没頭したとのこと。ところが、令和2年12月に、新型コロナウイルスに感染したことで、ワールドカップが欠場になるなど、逆風との闘いも余儀なくされたとのことです。しかし、そんな幾多の壁に出会っても、小山選手は決して、諦めることなく、次々と乗り越え、令和3年12月のワールドカップでは八位入賞。五輪派遣への切符をつかみ取ることができたというのです。

 

どんな困難な状況に直面しても、その現実を心静かに受け止めつつも、決して、諦めることなく、目標に向かって真っ直ぐに進んでいくことを、仏教では「精進」だとか、「不退転(ふたいてん)」という言葉で説き示しますが、今回、提示させていただいた「耕雲種月」も同様のことを指し示しています。“雲を耕す”とか、“月の種をいただいて植える”とありますが、どちらも容易くできることではありません。というよりも、むしろ、労苦を伴う不可能とも言うべき行いです。しかし、そんな労苦を伴うようなことに対しても、決して、厭うことなく、月の種があるならば、我が眼前に拡がる人生の田畑に植えて、花を咲かせるまで耕し続けていくように、人生という道を、仏のお悟りに向かって只管に邁進していくことを説くのが「耕雲種月」なのです。

 

そもそも私たちは誰もが、この娑婆世界において、ご両親様から先祖代々伝わるいのちをいただき、それぞれの人生という道を歩んでいます。そして、その中で、都度都度に様々な道を選択し、今という時間・ここという場所で一生懸命に生きています。そうした各々の人生は各々のご先祖様からいただいた仏縁ということもできるでしょう。

 

そんな仏縁たる人生には困難がつきものです。しかし、それを乗り越えて先に進むことで、目標に近づくこともできれば、達成できることだってできることを多くの先人たちが証明しています。来る2月16日の小山選手の演技を楽しみにしながら、我々も「耕雲種月」を心に留めて、日々を過ごしていきたいものです。

第46回「青山常運歩(せいざんじょううんぽ)」

見返りを求めず、縁に随って生きていく

令和4年2月13日 更新

石川県内で言えば白山連峰(はくさんれんぽう)、お隣の富山県では立山連峰(たてやまれんぽう)と、山は人々にとって身近なものです。また、山岳信仰にも見られるように、神仏や霊魂が存在する信仰の対象物として、人々は畏敬の念を持って捉えてきました。

 

禅の世界でもまた、そうした山の存在を重視しています。特に我々人間のように、ちょっとしたことで動揺してしまうような存在と対比して、何があっても動ずることなく、堂々とそびえ立つ姿を取り上げ、山のごとき生き様の重要性を人々に説き示すものが多いような気がします。今回の「青山常運歩」もまた、そうした意味を説き示す禅語です。「青山」は、「青々とした木々が生い茂った山の姿」を表しています。「運歩」は、「縁に随う」ということです。山は、夏は青々とした姿と下界の暑さを忘れさせるような心地よい様相を表し、秋は鮮やかな紅葉に彩られ、冬は雪化粧といったように、春夏秋冬、様々な変化を見せてくれます。また、自分の足下を不安定にさせるような強い地震が起きたり、大雨で地盤が緩み、土砂災害を引き起こしたりすることもあります。こうした外界の様々な変化の影響を受けながら、自らも変化していくことが、「運歩(縁に随うこと)」なのです。

 

周囲の変化を受け止めるということに対して、私たち人間ならば、季節に応じて我が身が変化することは受け容れられても、自然災害による変化は、でき得る限り避けたいといったように、自分の都合に応じて、現実を受け止めるか否かの判断をしているような気がします。

 

しかし、山にはどんな状況も受け入れる度量の広さがります。そればかりか、たとえ外から我が身を傷つけるような力が加わったとしても、決して、崩れ去ることなく、黙々とそびえ立っているのです。何かにつけては動じてしまいがちな心を持った私たち人間だからこそ、こうした山の存在を意識し、少しでも見習っていきたいと感じた先人たちが仏道の世界に多々いらっしゃったのでしょう。だからからこそ、「青山常運歩」のような言葉が存在しているのではないかという気がします。

 

曹洞宗の開祖・道元禅師様は、坐禅が「無所得無所悟(むしょとくむしょご)の行」であるとお示しになっています。やってみる前から自分に都合のよい期待を抱いて坐禅に臨んだとしても、自分が思い描いていたような期待を得ることはできないということを説いています。山は人間と違って、自分に都合のいい、余計な期待など抱きません。現状をあるがままに受け止めながら、堂々と存在しているのです。まさに山は「無所得無所悟」の存在なのです。そうした姿を見習いながら、日々を過ごしていくとき、あれこれ期待を抱いたり、見返りを求めるたりするようなことはしなくても、今まで気づかなかったような新たな出会いや発見があるのではないかという気がします。

第47回「春光日々新(しゅんこうひびあらたなり)」

一つ一つの価値や意義を大切にしていく

令和4年2月20日 更新

本日・令和4年2月20日(日)夕方現在、金沢市内は一瞬にして辺り一面が白銀の世界となりました。日中は時折、降雪しては路面が白くなったかと思えば、境内の大木の枝が揺れ動くほどの強風が吹いてみたり、あるいは、雪も風もどこへやらと言わんばかりに穏やかになってみたりと、立春も過ぎているのですが、一日を通して春と冬を繰り返すような、はっきりしない天候の一日となりました。暦の上では春とは言いながら、北陸はまだまだ冬のような毎日が続くようです。

 

そんな中、我がお寺では、兼ねてより予定されていたお檀家さんの四十九日・大練忌(だいれんき法)要が営まれました。法要が始まる直前までは、荒天ではありましたが、法要後、外の世界に目を向けてみると、穏やかな春の日差しが降り注いでいました。

 

図らずも、故人様の戒名には、「慈光院」という院号を付けさせていただきました。これは、故人様が仕事一筋で同僚にも慕われていたこと、そして、温厚で物静かな方であったこと、それらを踏まえながら、そのお人柄がお亡くなりになった真冬という季節の中で、ほんの一瞬、人々の心を安心させてくれる淡い陽ざしのようであることから付させていただいたものです。

 

そんな一瞬、我々の心をホッとさせてくれた春の陽ざしというのは、春なのに、まるで真冬のような荒天の中に射すものもあれば、まさに春だと言わんばかりに、穏やかな空気を演出し続けてくれるようなものもあります。他にも色々な春の陽ざしが出てくるでしょうが、どれ一つ取ってみても、似て非なるもの、一つとして同じ春の陽ざしは存在しないのです。一つ一つにそれだけが有する価値や意義があるわけで、それを説くのが「春光日々新」なのです。

 

私たちの周囲の何一つ取ってみても、同じものはありません。たとえ同じように見える商品であったとしても、それが自分たちの眼前までに運ばれてきた道程は異なるわけで、使用方法が違えば、キズや塗装の剥がれなど、様々な違いが生じていくのです。それゆえ、同じように見えて、実は一つ一つが違うのです。

 

そうした事実を踏まえ、一つ一つの価値に気づき、大切にしていく姿勢を、「春光日々新」から学ばせていただきたいものです。

第48回「正法興隆(しょうぼうこうりゅう)」

正法(お釈迦様のみ教え)によって、自らの言動を調え、平和な世の中を目指していくことによって、次世代に明るい未来を残していく

令和4年2月2日 更新

「お寺の住職」というお役目をいただいて、15年目を迎えようとしています。今一度、「住職の使命とは何か?」という問いを我が身に投げかけてみたとき、今回、提示させていただいた「正法興隆」という言葉が真っ先に出てまいります。「正法」は言わずもがな、「お釈迦様から脈々と伝わるみ教え」に他なりません。すなわち、この世の真理の核心を突いた正しきみ教えであり、私たちがいただいたいのちを生きていく上で欠かせないみ教えであるということです。

 

その「正法」を、この世に広めるべく、お寺を舞台として、日々、坐禅や経典・祖録の修学、掃除を始めとした境内美化・維持活動(作務さむ)といった仏道修行に勤しむのが、我々、住職たるものの役目・使命なのです。「興隆」とは、こうした住職の役目・使命を表す言葉を意味します。正法を興隆させることによって、平和で人々が幸せを感じることができる世の中を目指していくのが、住職たるものの役目・使命なのです。

 

これまで、修証義第3章・受戒入位の中で、「住持三宝(じゅうじさんぼう)」という言葉に触れた際に、「住職」とは、「住持職」といって、仏法僧の三宝に帰依し、世間に広めていくことによって、仏のいのちを現世のみならず次世代にもつないでいく役目があるというお話をさせていただきました。また、「教授戒文」では、「仏の慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)する」という表現がありました。これも同様のことを言い表しています。お釈迦様のみ教えを受け継いだものの役目は、様々な表現を用いながら、仏典の随所に登場していることに気づかされます。

 

私たち一人一人の行いは決して、大きなものではありません。しかし、事の大小に関係なく、一人一人が正法興隆を意識していくことによって、現状がよい方向に進むばかりか、次世代にも明るい未来を残すことができるようになっていくのは確かです。私たちが正法興隆を意識するというのは、日頃から自らの言葉や行いを調えていくことに他なりません。今の私たちの日常は過去に生きた先人たちの言動の影響を受けて成り立っています。そして、今が過去になるとき、未来の良し悪しは今の私たち次第ということになるのです。

 

ちょうど今、ロシアによるウクライナ侵攻が、世界中を震撼とさせています。こうした世界情勢に目を向ければ、私たち一人一人がいくら我が身心を調えたところで、早急に世界の平和が立て直せるものではありません。確かに、周囲に目を向ければ、私たち一人一人の努力だけでは解決できない問題も多々あります。しかし、たとえ小さなことであっても、一人一人が意識して、行動に移していくことによって、次第に良い方向に変化していくのです。

 

コロナウイルスにロシアのウクライナ侵攻と、私たちは日常を脅かす存在に取り囲まれながら、不安の毎日を過ごしていますが、今一度、「正法興隆」という言葉の重みを我が身にしっかりと刷り込んで、住職15年目のスタートを切りたいものです。 

第49回「明歴歴露堂堂(めいれきれきろどうどう)」

今の自分が持っているものが、嘘偽りなく、そのまま姿を現す

令和4年日 更新

私は24歳のときに、約1年間のご本山での安居(あんご)(修行)を終え、高源院の住職を拝命致しました。あれから17年の歳月が流れたわけですが、振り返ってみますと、僧侶として自信を持って堂々とお檀家さんに接することができるようになったのは、ごく最近のことのような気がします。その理由を、若かりし頃は、ご本山での安居期間が短かったためではないか、だから自信が持てないのではないかと考えたこともありました。

 

そんな私とは正反対で、ご本山に長く安居していらっしゃった方も大勢いらっしゃいます。先日、そんな中のお一人である先達が書かれた記事を興味深く読ませていただきました。その方は何年ものご本山での安居を終えて、地元のお寺に戻ってしばらくたったある日のこと、一時間の説法の依頼をいただいたのですが、何を話せばいいのかわからず(これを、ご自身は自信がなかったと述懐なさっています)、近隣のご住職様に相談に伺い、アドバイスを請うたというのです。この記事を拝読させていただきながら、安居の長短に関わらず、誰しも初めてのことを前に自信を持って、堂々とできるものではないという、極々自然で、当たり前のことに気づかせていただきました。自信過剰になったら謙虚さを忘れずということは勿論のこと、自信がないときは自信を持てるように自分を鼓舞していきたいと感じると共に、過去の修行のことに捉われず、「今という時間」・「ここという場所」で、精一杯、仏道を歩むことの大切さを再確認させていただきました。

 

さて、この先達にアドバイスを与え、その背中を後押ししたご住職様がおっしゃった禅語というのが、今回提示させていただいた「明歴歴露堂堂」です。「明歴歴」は「はっきりしている」ということであり、「露堂堂」は「堂々と立派な姿をはっきりと現している」ことを意味しています。

 

私は、この禅語が意味していることを、現在、曹洞宗の布教師の道を歩む身として、幾度も自覚してきました。どんなに背伸びをして、人様の心を動かすようなことを言おうとしても、自分自身が日々仏道修行に勤しんでいなければ、何も出てきません。人様の心を動かす説法を求めようと、どんなに美辞麗句を学ぶだけ学び尽しても、出てくるのは内容の薄っぺらいものであり、とても自分が期待したようなものではないということです。日々、坐禅を行じ、お釈迦様の辿った道を自らも真似するかのように後を追い続けていく中で、自ずと自身の身心が磨かれ、仏の行い・仏の言葉というものがにじみ出てくる、すなわち、はっきりと姿を現すようになっていくのです。それが「明歴歴露堂堂」なのです。

 

先の先達はおっしゃいました。自分の説法の良し悪しの評価は聞いてくださった檀信徒の皆様にお任せし、自分は毎日、仏道修行に勤しむだけだと。私も同感です。無理して背伸びせず、いただいた時間を大切にしながら、仏として生きていく中に、仏の悟りが自ずとにじみ出てくるのです。  

第50回「作雨作晴(あめをなしはれをなす)」

雨の日が続いても、必ず晴れの日が訪れる(一つの状況だけを見て、一喜一憂しない)

令和4年3月13日 更新

令和4年3月13日現在、オミクロン株のまん延による新型コロナウイルス第6波の感染はピークアウトしたとはいうものの、依然として、感染者数の高止まり傾向が続いています。また、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、世界中の平和は脅かされ続けています。そんな中で、発災から11年の歳月が流れた「3.11大震災」当日は、各地で追悼会が営まれ、未だ復興の途上であることを再認識させていただきました。こうして我々の日常を見渡せば、実に様々な問題を抱え、色々な課題と向き合いながら毎日を生かされていることを感じずにはいられません。一日も早い安心できる日常、平和な毎日の到来というのは、誰しも共通の願いではないかという気がします。

 

そんな状況下、3月第1週の金沢市内は、2月末に降った大雪もどこへやらと言わんばかりの、穏やかで温かい毎日が続きました。やはり3月というのは、こうした穏やかな晴天がしっくりくる季節のように思います。

 

しかし、そんな穏やかな天候も長続きするものではありません。特に北陸という地域は、昔から「弁当を忘れても、傘は忘れないように」と口酸っぱく言われてきているように、天候の変化が激しいのが特徴です。何でも今週の中旬は雨模様の日が続くとのこと。何事も人間の小さな頭で測った通りにはなりません。ましてや天候を始め、自然の脅威がどんなものかは、11年前の「3.11大震災」が証明しています。自分の願いが叶ったかのように晴天が続くこともあれば、お望みではない雨が降ったり、大雪になったりするのが、この世の道理です。今回、提示させていただいた「作雨作晴」は、そんな道理を我々に説き示す禅語なのです。

 

お天気同様、人間も調子のいいときもあれば、そうでないときもあります。自分の思い通りに事を進められると感じることもあれば、そうでない場合もあります。その原因は、私たちは一人で生かされているのではなく、自分とは異なった多くの様々な存在と関わり合って生かされているからに他ならないからです。

 

そのことを大前提として押さえた上で、調子が悪いと感じるときは、どうか自分の日常に目を向け、身心を調えることを心がけていただくとよろしいかと思います。自分の心が春の晴天のごとく穏やかになれば、笑顔が増え、穏やかな言葉と態度がにじみ出てくるはずです。そうなれば、どんなに難しく困難を抱えた問題に出会っても、苦労はあれども、乗り越えることができるはずです。どうぞ、お試しください。

第51回「応病与薬(やまいにおうじてくすりをあたう)」

自分よりも先に相手に目を向け、その苦悩に応じた救済策を施していくこと

令和4年3月20日 更新

医者が病人を診察して最も適した薬を与えて病苦を癒すように、仏や菩薩が衆生(人々)の苦悩に応じて、薬(教法)を与え、苦悩を癒すことを説いた禅語が「応病与薬」です。そもそも仏教の開祖であり、私共仏道修行者が指標とするお釈迦様は「対機説法たいきせっぽう」と申しまして、相手(対機)の機根や状況等をよくよく見究めた上で、それに応じた形で説法をなさいました。すなわち、あくまで相手を最優先に考えて、相手に応じた言葉を選びながら説法をなさったということです。そうした点から見れば、「応病与薬」は「対機説法」をわかりやすくたとえた禅語であると言うこともできるでしょう。

 

ある夜、ついつい深酒をしてしまい、真夜中に目覚めた私は中々、寝付くことができず、スマートフォンを弄っておりました。すると、ビジネス書や経済書を発行している東洋経済新報社のWEBメディア・「東洋経済ONLINE」に『「説明が下手な人」に共通する致命的な4大欠陥~判で押したように「同じ思考回路」だ』という記事が掲載されており、ついつい見入ってしまいました。

 

記事では、「説明が下手な人は同じ思考回路をしている」と指摘します。そこには四つの特徴があるそうで、その第一に掲げられているのが、『「相手が聞きたいこと」を考えず「自分が伝えたいこと」だけを話す』という特徴です。記事はさらに『説明がうまくいかない最大の理由は「相手を無視しているから」』と指摘します。合点のいく指摘であると共に、これぞまさに「応病与楽」と合致するものであると感じ、さらに興味深く記事を読み進めていきました。そもそも相手に向けて説明しているはずなのに、説明する側の緊張や経験不足が原因となって、説明することで精一杯になってしまい、相手のことを考え、思いやる余裕がなくなってしまうから、「相手ファースト」の大原則がどこかに飛んで行ってしまうというのです。

 

こうした説明における留意点は僧侶の説法にも相通ずるものがあります。私自身も、これまで幾度も話し手目線の法話を展開し、聞き手である参詣者(聞法者)を置いてきぼりにして、反省を促されたことがあります。僧侶というのは、社会から離れた場所に別個に存在するものではありません。社会の一員なのです。そんな社会に生かされている一人として、同じ世界に生かされている人々が何を考え、どんな悩みを抱えながら日々を過ごしているのかをしっかりと見極め、それを救済する薬(教法)が提示できる存在でありたいと願うものです。コロナや戦争など、様々な苦悩を抱える現代社会ですが、そこに少しでも「病に応じて薬を与えられる」存在であれるよう、日々、精進させていただきたいものです。

第52回「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」

真っ直ぐな心を忘れずに、自らの道を歩んでいく

令和4年3月2日 更新

「直心」とは読んで字のごとく、「真っ直ぐな心」を意味しています。仏の道もそうですが、芸術であれスポーツであれ、どんな道も、その目標の到達・達成を目指すとき、真っ直ぐな心を以て、自らが歩む道と向き合っていく姿勢が欠かせないことは言うまでもありません。道に対して、自分勝手な解釈や考え方(仏教では「吾我【ごが】」」と申します)を持っているようでは、いつまでも道を究めることなど不可能なことは自明のことです。

 

道を歩み始めた頃は、その道の特徴を少しでも早く理解・体得したいと、師の教えや言葉にも従順に従い、素直な心で道を歩もうとしていくものですが、次第にどんな道なのかが見えてくると、狎なれが出てきてしまい、事あるたびに自分の考えや理屈が道を阻んできます。こうなると、最初はあったはずの直心などどこへやら、師の言葉さえも聞こうとしなくなってしまうことがあるのが、我々人間なのでしょう。そして、そうした横柄な態度が言動にも顕れ、やがては大きな失敗につながっていくのです。取り返しがつくものであればいいのですが、そうでなければ大変です。こうした道を歩んでいく上で陥りがちな人間の習性というものに留意しながら、直心を忘れずに道を歩むことが、道場(仏道修行の場)そのものであるということを説くのが、「直心是道場」なのです。

 

長引くコロナ禍は、これまで余裕のなかった日常生活に随分とゆとりを与えてくれました。最近はあるお檀家さんの影響を受けて、絵手紙を習うようになりました。また、スマートフォンで“クラシル”なる料理のアプリを発見し、暇さえあれば台所に立っては、家族の食事や自分の晩酌のおつまみを調理する機会が増えました。自分の描いた拙い絵手紙でも、励ましのお言葉をいただいたり、見よう見まねで作った料理でも、おいしいおいしいと食べてくれたりする人がいれば、俄然、気力が充実し、また、やってみようという気持ちになるものです。失敗もありますが、こうしたコロナ禍で出会えたご縁を大切にしていきたいと思うとき、「直心是道場」という禅語をかみしめながら、新しい道に対して、決して、横柄になることなく、直心を以て歩んでいきたいと願うのです。 

第53回 「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」

誰もがこの世にたった一人しかいない尊い存在であることを自覚し合う

令和4年日 更新

今回の一句は、多くの人が一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。そもそもこの一句は、今から約2600年前の4月8日、仏教の開祖・お釈迦様がお生まれになった際に、周囲を7歩歩行され、右手で頭上(天上)を、左手で足元(天下)を指して発せられたとされるものです。この日にちなみ、お釈迦様の慈悲の念に準なぞらえた甘茶を灌そそぎ、そのご生誕を祝して営まれるのが、「釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ」)、いわゆる「花まつり」です。

 

ふと天井を見上げれば、私たちの頭上には限りなく空が拡がっています。また、足元に目を向ければ、限りなく拡がり大地の上に自分という存在が生かされていることに気づかされます。お釈迦様が自らそうお発しになられたように、天上天下、全世界、どこもかしこも、自分という存在はたった一人しかいないことに気づかされます。

 

しかし、それは自分だけではありません。周りの全ての人に当てはまります。また、過去に生かされてきた人々、これからの時代に生かされるであろう人々、いつの時代に目を向けても、誰もがこの世にたった一人しかいない尊い存在であったことに気づかされます。大切なことは、自分だけが尊いのではなく、誰もが尊い存在であるということです。そのことをお互いに自覚し合い、相手の存在を大切にしながら関わり合っていくことを願うのが、「天上天下唯我独尊」なのです。そして、お釈迦様のご生誕を祝して注がれる慈しみの雨には、そんな意味合いが込められていることをも押さえておきたいものです。

 

僧侶になって、「天上天下唯我独尊」が意味するものを肌身で感じ取ったことは幾度もありましたが、中でも、私よりも若く、妻子やご両親を遺して先に突然、旅立たれたA氏には、一人の人間の尊さということを強く考えさせていただきました。会社に出勤する際も、退社して、家に帰ってきたときも、いつもと変わらない様子だった方が、翌日には呼吸が止まり、会話など、生前、当たり前に為されていた行いの全てがストップし、静かに臥せっているという「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の現実は、あまりにも突然過ぎる、辛くて受け入れがたいものでした。

 

以降、毎月のご命日にはご家族そろって故人様のご供養を続けさせていただいております。そうした触れ合いの中で、次第に当日の出来事始め、過去の楽しかった思い出、たった一人の父親という存在を失ったゆえの思ってもみなかった心の変化等が静かにご家族の口から発せられていきました。時が流れ、ご家族は様々な苦悩を少しずつ受け止めながら、一生懸命、前を向いて日々を過ごしています。そうした方々に対して、毎月の読経供養の場が、少しでもご家族の苦悩に寄り添いながら、故人の尊さに思いを馳せ、ご家族の絆をつなぎ続ける機会として提供できればと願いながら、今月も務めさせていただきます。

 

天上天下、どこを見渡してみても、誰もがこの世にたった一人だけの存在です。そのことを皆が自覚し合い、たとえ相手が受け容れがたい存在であったとしても、その存在を決して、邪険にすることなく、尊重していけるようになりたいものです。

第54回 「松樹千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)」

どんな逆境に巡り合おうとも、前を向き、力強く生きていく

令和4年日 更新

新型コロナウイルス感染拡大の影響で、昨年・一昨年のゴールデンウィークは、様々な“おうちで●●”という言葉が登場したように、どこにも出かけず、家で静かに過ごす連休となりました。

 

それに対して、令和4年(2022年)は“3年ぶり行動制限なしGW”ということで、多くの人が「待っていました!」と言わんばかりに連休を満喫。各地の観光地は賑わい、コロナ前の水準に戻ったという声も多々聞こえてまいりました。ほとんどの方は感染症対策を施した上で行動していらっしゃったとは思いますが、果たして、これまでの2年間の感染状況を思い起こすに、今回のゴールデンウィークの人流はどんな結果を引き起こすのでしょうか・・・?不安の念が拭えないのも確かです。

 

とは言え、こうした状況下、住職も三児の父親ゆえに、過去二年間のように過ごすことは難しく、感染症に留意しながらの家族サービスを挙行しました。どこもかしくも、サクラは遥か昔に散ってしまい、サクラにとって代わるようにしてツツジの花も見頃も終盤に差し掛かっているような感がありました。まさに辺り一面に緑がまぶしい新緑の季節です。終わりかけのツツジを見ながら、四季折々に変化していく花々には、その時節しか味わえない魅力があるのを再確認しました。

 

それに対して、季節の変化に関係なく、ほとんど同じ姿のままでいる植物もあります。その代表的存在が“マツ”です。葉が枯れれば茶色くなって落葉するものの、すぐに新しい青々とした葉が生えてきます。そうした変化はあれども、年がら年中青々(翠)として、不変であるかのような姿(千年)を保ち続ける松の木(樹)の特性を捉え、その常住さに重視した禅語が「松樹千年翠」です。季節に応じて変化し、一度は人の心をグッと惹きつける場面のあるサクラやツツジのような花とは違って、年中不変で、花を咲かせるような目立った場面を持たぬマツですが、太陽が照り付ける真夏の暑い日も、大雪に埋もれた真冬の寒い日も、気候に関係なく不動の青さを演出する生命力に感銘を覚えずにはいられません。

 

「諸行無常」という、万事が変化していく世界に生かされる私たち人間ですが、自分を元気づけてくれるような存在ばかりならばいざ知らず、時には自分を落胆させる出来事に出くわしたり、不安を与えたりするような言動を提示してくる人間と出逢わなくてはならないこともあります。そうした周囲の影響を受けて、常々、変化していく私たちですが、暑い日も寒い日も常住不変の姿を提示しているマツのように、少しの変化で落ち込んだり、怯えたりすることがないよう、どんな変化にも屈せずに受け止めて、前向きに元気に生きていけるようになりたいものです。

第55回「唯嫌揀択(ただけんじゃくをきらう)」

自分を迷わせてしまう“選り好み”の習性を捨てて、何事もよくよく見極めて、その価値を認めていく

令和4年5月28日 更新

「唯ただ揀択(けんじゃく)を嫌う」と訓読みします。「揀択」は「選り好みをすること」で、取捨や憎愛といった2つの選択肢に対して、どちらか一方に捉われてしまうことを意味しています。一方を選び、一方を捨てるといった揀択の考え方なり周囲との関わり方をお釈迦様始め、歴代の仏教祖師方はお認めになっていません。全てを受け止め、その価値を認めていくことを説いていらっしゃいます。それが仏教です。そして、そんな仏教の一側面が、昨今の「誰一人として取り残されることなく」をキーワードとする「SDGs」とも通ずるのです。

 

曹洞宗門で著名なご老師がご遷化(せんげ)(お亡くなりになること)になりました。地元紙始め、メディアでも報道されたご老師の訃報を受けて、生前、ご縁のあった方々が最期のお別れにお寺まで駆け付けたのは勿論のこと、数日に渡り地元紙の投書欄にご老師に対する追悼文が寄せられていたのが印象的でした。厳しいながらも温かみもあるお人柄。そして、坐禅を始め、仏道修行に邁進されるご生前のお姿が思い出されました。そうした仏の如きご生涯が一般社会に大きな影響を与え、人びとの心の支えになってきたことが追悼文を拝見しながら痛切に伝わってきました。

 

―「子どもの頃はガキ大将で、それゆえか、反骨精神が強く、理に反すると判断したことは、相手が誰であろうが、歯に衣着せぬいいようで言葉を発した」―

ご老師のご法話をお聞きした方が追悼文に認められたお言葉です。ここに見られるご老師のお人柄は、ときには相手に厳しい印象を与えてしまうこともあったかもしれません。不快感を覚えた方もいらっしゃったかもしれません。しかし、そのときの自分が受けた印象だけで相手の人となりの全てを判断してしまえば、相手を正しく理解することなどできません。なぜ、相手が厳しい言葉を発したのか、なぜ、相手が不愉快な態度を取ったのか、その原因を相手の人柄だけに求めていては、いつまでも相手を理解することができないばかりか、自分自身も成長することはないでしょう。そもそも、自分には相手を不愉快にさせ、怒らせてしまうようなことはしていなかったと言い切れるでしょうか。相手の人格を責め立てる前に、自分の言動に目を向け、謙虚に振り替える姿勢を持ちたいものです。そうすることによって、相手が間違っていて、自分が正しいという揀択がなくなり、双方を認め、受け止めていけるようになっていくような気がいたします。

 

―「唯だ揀択を嫌う」―

こうして見ていくと、いかに「揀択」という人間の習性が、我々を迷わせ、正しい判断力を欠かせてしまうことかに気づかされます。様々な存在と関わっていかなければならない日常生活の中で、自分を迷わせ、正しい判断力を欠かせてしまうものの一つが揀択であることに気づき、揀択を嫌って、毎日を過ごしていくことを心がけていきたいものです。私自身、それが亡きご老師から教わった御仏のみ教えと捉え、日々を過ごしていきたいと願っています。合掌

第56回「大衆一如(だいしゅいちにょ)」

吾我を放ち捨て、周囲と和合していく

令和4年12日 更新

前回は曹洞宗門の著名なご老師がご遷化(せんげ)(お亡くなりになること)されたことを受け、地元紙に掲載されたご老師に対する追悼文に触れさせていただきました。こうした古老の生き様に触れさせていただくとき、まだまだ我が仏道修が未熟であることを痛感せざるを得ません。昔の人は生き方も、ものの考え方も現代人から見れば遥かに優れていたということなのでしょうが、そういう部分を少しでも見習いながら精進していくことが、今を生かされている私たちの使命ではないかと感じております。

 

さて、過去に生きたご老師のお一人で、ご遷化になって13年近くが経った今も、住職が尊敬申し上げている禅僧がいらっしゃいます。その方が生前、よく口になさっていた「大衆一如」という言葉を、今回は味わってみたいと思います。

 

「大衆」は世間一般には、‟たいしゅう”と呼んで、不特定多数の人を指しますが、仏教の世界では、‟だいしゅ”と呼んで、一つの禅院で修行に励む修行僧たちのことを指しています。また、「一如」とは、「全く等しく、異ならないこと」を意味しています。自分が周囲の様々な存在と一体化し、和合していくことを説くのが「大衆一如」なのです。

 

禅院の日常というのは、修行僧たちが仏道修行を通じて、志を同じくし、周りの者とも理解し合いながら、仲良く修行に励むことによって運営されています。修行僧が吾我を発揮して、自分の意見ばかりを主張し、他者を受け止める姿勢無くしては、禅院の運営は成り立ちません。それは一般の企業や家庭の中にも通ずることで、禅寺がその特徴であり、強みと言っても過言ではない「大衆一如」の姿を提示していくことによって、世間の手本となり、布教にもつながっていくのです。

 

このご老師は、幼い頃から十数年に渡り、いくつもの禅院でご修行を積まれました。この間、色々なことがあったと推察されますが、そうした長年のご修行によって体得なさったことであり、人びとにお伝えしたかったことが「大衆一如」という禅語であったのかなと思うと、その重みを感じずにはいられません。一人一人が全く異なる考え方・性格の持ち主の中にあっても、何よりも仲良く関わっていくことが大切なのであり、それを少しでも実現できるようにしていきたいと感じるのです。

 

「大衆一如」の言葉を我が身に引き当ててみるとき、和するよりも争う場面ばかりが思い起こされ、必ずしも、禅院の和合に貢献してきたとは言えないことを反省する住職ですが、そんな中で、長引くコロナ禍によって、お寺の法要儀式が中止となり、これまで頻繁に顔を合わせていた僧侶方とお会いする機会が激減してしまったことが、住職に「大衆一如」ということを考えさせる機会を与えてくださったような気がしております。

 

そんな住職が「大衆一如」を目指す上で心がけるようになった3つのことを、最後に触れておきます。

①相手のちょっとしたことに捉われて、批判したり、責めたりしない

②怒りの感情が沸き起こっても、それを言葉や態度に表さない(ユーモアと穏やかさを心がける)

③穏やかさを心がけながらも、正すべきは正し、教えるべきは教える

第57回「安眠高臥対青山(あんみんこうがせいざんにたいす)」

年齢相応に我が身の現況を受け止め、気品のある生き方を心がけていく

令和4年6月26日 更新

誰よりも熱い志を以て、我が職責を全うしてきた北村氏(仮名)。一つのことに‟全集中”と言わんばかりに向き合う性分ゆえ、他のことが目を向ける余裕すらなくなることもあります。また、自分の情熱が最高潮に達しているときに、自分よりも冷静な人がいれば、自分を批判していると感じてしまうのか、あるいは、情熱がないように見えてしまうのか、ついつい怒りの感情が沸き起こり、諍いになってしまうこともありました。

 

そんな、誰よりも熱く、ときには自分の情熱を周囲に押し付けているとも思われながらも、一生懸命に生きてきた北村氏も、気がつけば古希を迎えようとしています。コロナ禍の2年間、業務が激減し、以前のような大きな仕事もなく、情熱的な日常生活を送れなかったものの、最近は、ふとしたきっかけから、コロナ禍前のように行動する機会が増え、周囲を驚かせることもありました。

 

そうした中で、ついつい熱くなってしまい、発してしまった言葉が周囲の人を傷つけてしまうこともありました。そんな北村氏(仮名)の言動に対して、ハラスメントではないかという声も挙がりました。コロナ禍で大声を出すことに対して世間の警戒感は以前にも増して強まっています。また、働き方改革等、見方によっては顧客よりも労働者の目線に立った動きも以前より見受けられることが多くなってきました。それから、ハラスメントに対する世間の意識は高まる一方です。

 

こうした世間の変化に中々、対応できず、感情のコントロールを失したかのような言動を繰り返してしまう北村氏(仮名)に対して、社会が変化していることを伝えようとしても、これまで大声を出して感情表現をすることを普通に行っていた氏は「顧客の目線に立てない社会がおかしい。だから、大声で訴えるんだ」などと取り付く島もありません。穏やかながらも核心だけはつくという形で言葉を提示していかなければ、中々、相手に意思が伝わりにくい時代になりつつある昨今、ひょっとしたら、氏は「生きにくさ」を感じているのかもしれませんが、何とか時代の流れにも合わせていければ、随分、生きる困難が和らいでいくようにも思います。

 

時間との関わりの中で生かされている私たちは、年を取ったり、病気を抱えたりして、変化していきます。北村氏(仮名)の事例を見れば、生まれつきの性分もあれば、老いや病による身心の変化というものもあり、当人は理不尽さを感じたとしても、受け止めていかねばならぬ現実でもあるのです。

 

そのことを踏まえながら、外に何かを求めてみたり、世間の様々な心配事に心を悩ませてみたり、他者と争ってみたりするのではなく、今の自分の現況を受け止めながら、のんびりと心安らかに過ごす生き方を勧めるのが「安眠高臥対青山」です。「高臥」は、「俗世間を離れて、気品のある生活をすること」を意味しています。これは、言わば、「心を患わせることなく、周囲の存在と一つになって、悠々と生きていく姿」を指しているのです。

 

様々な人生経験を積み、今の人間社会を築き上げてきたのは、他でもなく、人生の先達である方々です。いわゆる高齢者と呼ばれる方々ですが、そんな方々に対して、世間では‟老害”という言葉を用いて排除する動きも見受けられます。その背景には、先輩を認め、敬おうとしない風潮にも原因があるでしょうが、そうした空気を高齢者自身が作っている面も否めないような気がします。今の時代、感情のコントロールが利かずに、大声を出すことが、周囲に恐怖感を与えるばかりか、コロナ禍によって、世間が回避したがる傾向が強まっていることを、よくよく受け止めた上で、穏やかな言葉、和やかな笑顔が生み出せるよう、高齢者自らが気品に満ちた生き方を率先していくことが求められているのです。そのことを、是非とも、押さえておきたいところです。そして、それは若い方であっても無関係なことではありません。若者もいつかは高齢者になる身として、今のうちから生き方を調えておくようにしたいものです。

第58回 無言誠有功(むごんまことにこうあり)

無言の中にこそ、尊いものやメッセージが存在している

令和日 更新

様々な知識を有し、語彙力もあり、それゆえ、「立て板に水」と言わんばかりに軽快な話し方をする方をお見掛けすることがあります。「お話がお上手だなぁ」と感心してしながらも、曹洞宗の一布教者の端くれとして、少しでもその話術を見習いたいと思うこともあります。


こうした方と会話をしていると、段々、話に引き込まれ、ついつい時がたつのも忘れて話し込んでしまうこともあります。誰とでも会話ができる方は、どんな人とも親しくなれるばかりか、集団の中でも中心的な存在になることもあります。


その反対に、どちらかと言えば口数も少なく、会話をしてもあまり続かない方は、あまり親しい人もなく、いつもポツンと一人で過ごしているような印象があります。話し上手な方から見れば、どこか損をしているような印象がぬぐえない場面に出くわすことさえあります。


しかし、寡黙な方が本当に損をしているのかといえば、決して、そうではありません。以前、ある無口なお寺のご住職さんのお話をお聞きしたことがあります。その方丈様は檀信徒の前でも仏頂面でほとんど言葉を発することがない、気難しそうな印象の方だそうです。ところが、檀信徒からの信頼は絶大で、しれは、まるでお釈迦様に帰依する仏弟子や信者のごときものだというのです。


―なぜ、無口な方丈様が檀信徒から慕われるのか―?

その理由が今回提示させていただいた「無言誠有功」という禅語です。この方丈様は無口ながらも、毎日、夕刻を告げるべくお寺の梵鐘を突かれるそうです。ある檀信徒曰く「1分1秒と遅れたことがない」とのこと。それほどまでに正確な時報なのです。また、伽藍は老朽化が進んではいるものの、徹底的に掃除がなされていて、チリ一つないとのこと。別の檀信徒曰く「何も言葉を発することがなくても、この方丈さんならば信頼できるのだ」と。檀信徒が口々に方丈様への厚い信頼を語り合う傍でも、方丈様は無言かつ仏頂面のまま。お会いしたことのない方丈様ではありますが、その素晴らしき生き様がヒシヒシと伝わってきました。


話し上手だからと言って喜ぶ必要も、話し下手だからと言って落ち込む必要もありません。この方丈様のように多くを語らなくとも、日常生活の中で自らがやるべきことを黙々と丁寧にこなしていればいいのです。それが仏道修行なのです。こうした禅者の生き様を少しでも見習い、私たちの日常に反映させていきたいものです。

第59回 一打一諾(いちだいちだく)

相手の成長を願って言葉・行動を発し(打)、それを受け取る側は相手の願いを承諾する

令和5年3月11日 更新

「ブラック企業」なる言葉が登場し、社会の中で「ハラスメント」が取り上げられるようになって随分と時間が経ちました。この間、我々の社会環境も、そこに生かされる人々の考え方も大きく変化したような気がします。長時間労働や上司や同僚からのハラスメント行為は改善され、働く者にとっては、働きやすい職場環境が実現していきました。


こうした改善は大変、喜ばしいことと思っていましたが、先日、インターネットでブラック企業に対する「ホワイト企業」なる言葉を取り上げた記事を目にしたとき、必ずしも手放しでは喜んでいられないことに気づかされたのです。この気づきは、私に世の中の労働というテーマについて、一側面からの偏った見え方であったことを教えてくれました。


「ホワイト企業」とは残業が少なく、社員の福利厚生も充実していて、有給休暇も取得しやすいといった働きやすい職場を指しているそうです。一見したところ、これで給料面の保証があれば、誰もが就職したいと考えるのではないかという気がします。


ところが、そうした企業に就職した方の中には、離職を考える方も多いというのです。その理由は上司がハラスメントを考慮して言葉を選ぶためか、部下に優しく振る舞うものの、厳しさがないので、部下が成長できる職場環境ではないということだそうです。過度に厳しいブラック企業も問題ですが、過度に優しすぎる「ホワイト企業」も確かに問題です。


最近はその職場で長年勤めてきた方が、上役への就任を拒むという話も聞いたことがあります。彼らは上長になれば部下に厳しく接することも避けられず、万が一、それが〝パワハラ〟だと訴えられても、誰も守ってくれないのだから、このまま静かに退職まで過ごした方がいいと考えるそうです。そうなると、一体、誰が経験の浅い社員を育てていくのでしょうか―?これが「ハラスメント」ということに対して、社会が関心を持ち続けた結果なのかと思うと、何とも言えない気持ちになります。


人間の成長には穏やかな関わりだけではなく、厳しい関わり(打)も絶対に欠かすことはできません。どちらかに偏ってしまうから上手くいかないのであり、状況に応じて使い分けていくことによって、人は育っていくのです。この状況判断による使い分けというのは、口で言うほど簡単なことではありませんが、厳しい関わりをいただくものが、それを我がこととして謹んで受け止める(諾)という、発する側といただく側の双方が救われ、成長していけるようなやりとりをしていくことが大切であり、それが「一打一諾」の説くところなのです。


今、社会は長かったコロナ禍から脱却し、ようやく以前のような風景が眼前に現れようとしています。ハラスメントと認定されるような暴言・暴力は決して、許されませんが、社会の健全なる成長を考えるとき、あまりホワイトすぎる言動ばかり発していても成長は見込めないことを念頭に置いておきたいものです。相手の成長を願った適切な「打」と、それを自分のことを思う周囲の愛情と謙虚に受け止める「諾」によって、コロナ禍から脱却した新しい世界を作り上げていきたいものです。

第60回 無心(むしん)

何事にも捉われることのない、一切の意識が働いていない状態

令和5年3月25日 更新

松山寺坐禅堂を舞台に毎週土曜日の早朝坐禅会を行うようになって半年が経ちました。昨夏、あるお檀家さんのご紹介で知り合ったT氏からのご要望で始めた坐禅会も、気がつけばご縁がご縁を生み、常時5~6名の方が参加されるようになりました。今朝(令和5年3月25日)は1月から足しげく通ってくださるM氏がお知り合いのN氏を連れてご参加くださいました。新しい方も交え、心静かなひとときを過ごすことができたことに唯々、感謝するばかりです。


坐禅をしていると、ふっと意識が遠退いていくような、不思議な感覚に陥ることがあります。それが〝居眠り〟につながってしまったことも多々ありますが(汗)、我が身心を縛る何かから解き放たれたような、言葉では言い尽くせない心境になることがあります。「無心」という禅語がありますが、この禅語が説く「一切の意識が滅された状態」というのは、こういう心境を言い表しているのかと思います。


「無心」について、もう少し詳しく申し上げますと、この禅語は「無心定(むしんじょう)」といって、一切の心の働きを滅して、穏やかに調えていくことを意味するものです。坐禅をやってみると、姿勢を調えることによって(調身【ちょうしん】)、穏やかな気持ちになり(調心【ちょうしん】)、呼吸が落ち着いてきます(調息【ちょうそく】)。呼吸が落ち着くというのは、息を吸ったり吐いたりすることに何ら意識することなく、自然な状態でなされることを意味しています。これが坐禅の功徳(効力)ということなのですが、決められた形で足を組み、手を組み、背筋を伸ばして坐ると言うと、一瞬、自由を奪われたような感覚に陥りますが、実はそうではなく、他の余事を行う必要性がなくなるので、却って、心を一点に集中させることができるのです。その結果、心が穏やかに調い、「無心」という状態を覚えることが出てくるというのです。


よく坐禅会に参加している方から「今日は無になれた」というような感想をお聞きすることがあります。彼らの言う「無」というのは、「無心」が指し示すような一切の意識が働いていない状態を指しているように感じます。こうした「無心」の体験というのは、何かと気忙しくストレス過多な日常生活を送る我々にとって、一旦、日常の喧騒を離れ、明日からの英気を養っていく上で効果的であることは間違いありません。


しかし、あまり「無心」ということを追い求めすぎると、坐禅が発しているものや、その坐禅を通じて、お釈迦様がお悟りになったものにたどり着くことができないばかりか、どんどん離れていってしまうことも確かです。「無心」が体験できなかったことを後悔したり、「無心」になれなかったからといって坐禅を諦めたりするようなことになるのは何と勿体ないことでしょうか。そもそも、人間の心の状態というのは、その時その時の状況によって良い方向にも悪い方向にも変化するものです。そうした心の変化に捉われて一喜一憂するのではなく、坐禅をする際には、ただ姿勢を調えて坐ればいいのです。そうすれば、心も呼吸も穏やかになってくるのです。


他から何か自分に都合のいいものを持ち込むのではなく、お釈迦様から脈々と伝わる形に合わせ、そこに我が身を投げ入れていくことによって、「無心」という得も言われぬ境地にたどり着くことができるのです。

第61回「本源自性天真仏(ほんげんじしょうてんしんぶつ)」

誰もが元来、仏の如き純粋かつ清浄な心を持った存在であったことを受け止める

令和5年月2日 更新

令和4年、曹洞宗石川県宗務所(当時)からの依頼で、「曹洞宗教誨師(そうとうしゅうきょうかいし)」の任を勤めさせていただくことになりました。「教誨」というのは、宗教を通じて、受刑者を諭し教える(誨)と共に、その道徳心を育てていくことを目的とした行為です。来る5月8日に教誨師として初めて、地元の施設を訪問させていただくことになり、先達が遺してくださった資料を紐解きながら、その準備に勤しむ毎日を過ごしています。


資料によれば、曹洞宗の僧侶が教誨活動を展開していく上で、多くの先達が受刑者と共に坐禅を行じてきたとのことで、それを知った私は大いに感銘を受けました。特に坐禅について、昨年の夏から我が住職地・松山寺では毎週土曜日の早朝6時半より坐禅会を行うようになり、最近は常時6、7名の方と清々しい心持ちで身の引き締まるひとときを過ごしております。そのためか、尚更、教誨活動と坐禅修行をつなぎながら、受刑者の道徳心を育成する一助を担えたらと願うのです。


また、教誨には法話も欠かすことはできません。定められた時間内で完結に分かりやすい法話を行い、教誨の目的を達成できたらと思っております。法話の内容については熟考するのは言うまでもありませんが、この先の教誨活動における共通の基本テーマであり、主題として取り上げさせていただきたいのが「本源自性天真仏」という禅語です。「本源」というのは、読んで字のごとく、「本来の源」であり、「根本」を意味するものです。


日常生活の中で、何かと迷いや苦悩が多く付きまとう我々ですが、元来、誰もが、あらゆる迷いや煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)というものが調整された清浄なる存在(自性)であるというのです。また、「天真」には「人為や造作の加わっていない本来のままの姿」という意があり、我々人間は、本当は仏に成れる性質を有した清浄なる存在であるというのが、「本源自性天真仏」の意味するところなのです。


要は、母体から生まれたばかりのときは、純粋かつ清浄なる存在であったはずが、成長していくにつれて、どうしても他者を始めとする周囲とのかかわりの中で、垢や汚れが生じていくものであるということです。このことは、誰にでも起こりうることであり、その結果として、今の自分が存在しているということなのです。


そうした今の自分の立ち位置に着目したとき、元来は天真なる仏の如き純粋無垢な存在であったことに目を向け、そこに気づいていくことによって、道徳心の育成に寄与していけるような教誨活動を展開していきたいと考えるのです。5月8日に行わせていただく人生初の教誨活動がどうなっていくのかはわかりませんが、「本源自性天真仏」を常に意識し、対象者に伝えていけるような教誨を目指していきたいものです。

第62回 「体露金風(たいろきんぷう)」

仏道修行の積み重ねによって、人間の本質が見えてくるようになる

令和月2日 更新

中国で成立した禅宗五家(曹洞宗・臨済宗・雲門宗・法眼宗・潙仰宗)の一つで、宋代には臨済宗と共に隆盛を極めたと言われる「雲門宗」―その開祖・雲門文偃(うんもんぶんえん)(864-949)禅師とある僧との問答の中に出てくるのが「体露金風」の禅語です。「樹凋(きしぼ)み、葉落つる時、如何(いかん)」と問う雲門禅師に対し、「体露金風」と返す僧。「体露」は「すっかり露われ、丸出しになること」を意味し、「金風」は「秋風」のことを指します。


春に芽吹き、夏には青々としていた木の葉が、秋になって生気を失い、枯れ落ちていくことを「樹凋み、葉落つる時」という一句が表しています。「そんなときの心境はいかなるものか」と問う雲門禅師に対して、「秋風によってすべてが丸出しとなっている」とお答えになる僧。ここには「秋風が枯葉を吹き飛ばして木の全てが露われ出すように、私たち人間も自分の持っていた煩悩が吹き飛ばされていく中で、人間の本質が露呈してくる」との意が示されているのです。


今日(令和6年3月2日)の早朝、松山寺定例坐禅会を務めさせていただきました。先月より第一土曜日のみ行うようになった坐禅後に参加者同士の親睦を深める場として始まった「茶話会」において、ある参禅者の方から「毎週、坐禅に通うことで、一週間で心の中に溜まった色々なものがリセットされ、気分が一新される」との感想がございました。同じようなことを私自身も思いながら、日々、坐禅に勤しんでおります。土曜日の朝の行を終え、時間が経てば、再び色々な煩悩が生じて積み重なっていくことでしょう。しかし、「体露金風」が指し示す煩悩が完全に取り払われ、「仏性を有した人間」としての本質が見えてくるまでには、何度も何度も坐禅修行を繰り返していかなくてはならないことのは確かです。そのことを是非、押さえておきたいところです。


と申しますのも、参禅者の中には、坐禅中に煩悩が生じた自分を否定的に捉える方も少なからずいらっしゃるからです。そんな感想を、今朝の松山寺坐禅会でも発せられた方がいらっしゃいました。その方の場合、ご自身を否定しているわけではないものの、一度や二度の坐禅が金風となって煩悩(枯葉)を落とすことなどできるわけではありません。地道な修行の積み重ねによって、成し遂げられていくものなのです。そのことを、しっかりと理解しておく大切さを、「体露金風」の禅語を通じて確認しておきたいものです。

第63回「金毛獅子変成狗(きんもうのしし、へんじていぬとなる)」

皆がお互いに相手を思い、助け合う力を有した存在であることを自覚して日常を過ごす

令和6年月12日 更新

終戦間近の昭和20年(1945年)10月に石川の地で産声を上げた「現代美術展」(通称:現美)は現在、金沢21世美術館及び石川県立美術館において、第80回現代美術展が開催されています(会期は3月29日から4月15日まで)。この80年の長きの間、多くの文化勲章受章者や文化功労者、人間国宝を輩出し、「美術王国石川」としてのイメージを築き上げました。まさに石川県民にとっては、「春といえば〝現美〟」というくらいに親しみやすく、日常生活の中に浸透している美術展です。

 

そんな石川県に生かされる一人として、「いつかは現美に自分の作品を出せるようになりたい」という願いを持つようになったのは、ご縁があって書道を教わり始めたことがきっかけでした。書の道を歩み始めて8年、毎年、夏が近づくと、「石川の書展」に自らの凡作を出品させていただいております。これを何年、何十年と続け、書の世界で「勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)」していくうちに、いつか、〝現美出展〟という壮大なる夢が実現できたらと願うのです。

 

さて、そんな今年の石川の書展において、出品作品として選ばせていただいたのが、「金毛獅子変成狗(きんもうのしし、へんじていぬとなる)」です。「金毛獅子」は「すぐれた人物」のことで、仏教の世界では仏道修行を重ね、仏のお悟りに近づくだけの力量を有した者と捉えます。それに対して、仏教では「狗」を未だ修行の足りぬ凡夫と捉えます。直訳すれば、「すぐれた修行者も時と場合よっては、狗になることもある」というのが、「金毛獅子変成狗」となるのでしょうが、これは一体、何を意味しているのでしょうか?

 

修証義第4章・発願利生の中で、「彼岸(ひがん)(仏のお悟りの世界)」と「此岸(しがん)(凡夫が生かされている娑婆世界)」について、触れさせていただきました。数多存在する仏様の中でも、観音様やお地蔵様は、私たちにとって親しみやすく身近な存在の仏様です。こうした仏様は「菩薩(ぼさつ)」と総称され、お釈迦様のように仏のお悟りを有する、まさに「金毛獅子」とも言える存在です。しかし、敢えて自ら志願して、彼岸には渡らず、敢えて此岸の地に身を置いて、そこに生かされている凡夫に仏のみ教えを伝え、彼岸へと渡らせ、彼岸と此岸を一つの仏の世界にしていくことを役目としているのです。

 

「金毛獅子変成狗」は、そうした菩薩様の役目を説く禅語なのです。此岸において、彼岸を一段上の世界と捉え、此岸に苦しむ人々を見下すような関わり方をしているようでは、菩薩とは言えません。たとえ高い能力を有していても、相手と目線を同じく、場合によっては、自らの目線を低めてでも、相手と関わっていくのが、菩薩のお姿なのです。

 

そうした相手を思い、お互いに助け合う力は誰しも有しているはずです。そんな菩薩の役割・お姿というものを見習いながら、日常生活を過ごしていきたいと願うのです。

第64回「一日不作一日不食(いちじつなさざればいちじつくらわず)」

空しく時間を費やしているのに、仏飯(食事)だけはいただくようなことをしない

令和6年4月20日 更新

中国唐代の禅僧で〝百丈禅師(ひゃくじょうぜんじ)〟と称される懐海(えかい)禅師(749-814)は「百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)」を制定し、修行道場の規矩(きく)(規範)を作り上げた方として知られています。懐海禅師は亡くなるその日まで作務(さむ)(掃除等の労務)を怠ることなく、お寺の行事も徹底して行われるような仏道修行者だったそうで、あるとき、禅師のお弟子様たちが高齢であるにもかかわらず、懸命に働き続ける師を心配して、掃除道具等を隠したというのです。道具がなくては仕事ができないと、その日は休まざるを得なかった懐海禅師ですが、その日から一切の食事も採らないようになってしまったとのこと。びっくりしたお弟子様たちが懐海禅師にその意を問うたところ、禅師から帰ってきた言葉が、「一日不作一日不食(いちじつなさざればいちじつくらわず)」、「一日、何もせずに空しく時間を費やしているのに、仏飯をいただくわけにはいかない」との回答でした。これを聞いて慌てたお弟子様たちは即座に掃除道具等を出したとのことです。


「一日不作一日不食(いちじつなさざればいちじつくらわず)」というのは、決して、「働かざるもの食うべからず」とあるように、「労働しない者に食事の資格がない」ということを説いているわけではありません。先般、修証義第4章・発願利生の中で「治生産業固(ちしょうさんぎょうもと)より布施に非(あら)ざることなし」という一句を読み味わわせていただきましたが、私たちの日常における労働というものを仏道修行の次元に高める、すなわち、世間のお役に立ち、人々に喜んでいただけるレベルにまで高めた労働を提供していくことが、「布施」というみ教えに合致した労働であるということでした。こうした「布施」の観点を以て、坐禅に限らず、掃除も炊事も、日常の全てを執り行っていたのが懐海禅師だったいうことなのでしょう。


そんな懐海禅師からにじみ出てきた「一日不作一日不食(いちじつなさざればいちじつくらわず)」」の一句に触れるとき、自らにいただいた時間(いのち)というものを浪費することなく、世間のために、人々のために使わせていただくことを自らの喜びとできるような次元にまで高めていけたらと願うのです。

第65回「趯倒浄瓶(てきとうじょうびょう)」

理屈よりも行動(行)がものをいうのが禅の世界

令和6年日 更新

前回に引き続き、中国唐代の名僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師(794-814)に関する禅語をご紹介させていただきます。


今回、提示させていただいた「趯倒浄瓶(てきとうじょうびょう)」は懐海禅師が大潙山(だいいざん)の住持職を選任するに当たり、修行僧のリーダーである首座(しゅそ)の華林善覚(かりんぜんかく)と修行僧の食事作りを修行とする典座(てんぞ)の潙山霊祐(いさんれいゆう)に、それぞれの所見をお聞きしたとき、霊祐が取った行動に端を発するとされる禅語です。


浄瓶(手を洗う水を入れた瓶)を置いて、「これを瓶と呼ばすして、何と呼ぶか?」との難問を二人に問う百丈禅師。それに対して、善覚首座は「少なくとも、これを棒切れと呼ぶわけにはいきません」と答えました。同じ問いに対して、霊祐典座は浄瓶を蹴り倒したというのです。


現代の視点から見れば、霊祐典座の行いは何と暴力的なものかと感じる方も多いとは思いますが、二人の回答から百丈禅師が大潙山の住持職として選んだのは霊祐典座でした。その理由は、善覚首座は眼前の浄瓶を浄瓶としてしか見ていない(浄瓶に捉われている)からこそ、必死になって別の言葉で言い換えようとしていたのに対して、霊祐典座は眼前の浄瓶に捉われることなく、自分の日頃の仏道修行というものを、浄瓶を蹴るという大胆な行いによって指し示したからです。二人の日頃の仏道修行がどのようなものか、そして、それによって何を体得しているのか、「これを瓶と呼ばすして、何と呼ぶか?」という問いを発することで、百丈禅師はそれぞれの資質を見抜いたのです。


百丈禅師の問いに対する善覚首座の回答と同じことを問われれば、ともすれば私たちも同じように、必死になって頭を巡らせ、何かもっともらしい回答を発しようとすることでしょう。しかし、そこには無理に頭で考えた理屈によって、自分が日頃からやるべきことをやっていることを見せようとする見栄が垣間見られるのも事実です。言葉や理屈を発さなくとも、自らの行動で以て、その日常を見せていくことは人々を納得させ、何よりも説得力を有するものであるということを、「趯倒浄瓶(てきとうじょうびょう)」にまつわるエピソードを通じて知っておきたいところです。


そして、これは禅の世界に限らず、一般の社会においても通ずるみ教えであることも併せて押さえておきたいところです。

第66回「俱胝竪一指(ぐていじゅいっし)」

他者の借り物で終わらせず、自らの力で物事を解釈していく

令和6年日 更新

中国・唐代の金華俱胝(きんかぐてい)禅師は、何らかの質問をされれば、決まって無言で指を一本立てて回答を出す禅僧として知られています。


その俱胝禅師が若かりし頃、ある尼僧さんがご自身の修行なさっていた庵にいらっしゃいました。このとき、俱胝禅師は修行不足ゆえか、尼僧さんの問いに答えることができませんでした。俱胝禅師はそんな自身の不甲斐なさを嘆き、長らく苦悩の日々を過ごしたことがありました。


あるとき、俱胝禅師は思い立ち、庵を出て、諸方行脚に出かけました。そして、後に師となる杭州天龍(こうしゅうてんりゅう)禅師と出会い、自らの胸の内の苦悩を話しました。すると、天龍禅師は無言で指を一本立てました。このとき、俱胝禅師は豁然として悟りを得たというのです。


以降、俱胝禅師は師の天竜禅師の如く、無言で指を立てながら人々の問いに回答してきました。あるときそんな俱胝禅師の真似をした童子がいました。それを見た俱胝禅師は童子の指を切り落としたというのです。余りの痛さに泣きわめく童子に対して、俱胝禅師は指を一本立てて見せました。すると、童子はかつて天龍禅師の下で大悟した俱胝禅師の如く、悟りを得たというのです。


この「一指を立てる」という行為について、仏道としての解釈なしに、その意を解そうとしても、本来の解釈にはたどり着けないことでしょう。すなわち、「一指を立てる」という行為について、仏道を根拠とした自らの解釈なしに、むやみやたらと行うことは、単なる他者の猿真似でしかないということなのです。それが、俱胝禅師が童子の指を断った理由です。


それに対して、童子は自らの指を断たれ、泣くほどに痛い思いをして始めて、自らの行いが何ら仏道の理解もなければ自らの創造性もない、俱胝禅師の猿真似であったことを思い知り、大悟することにつながっていくのです。


ある尼僧さんとのかかわりを通じて、自らの修行に思い悩んだ俱胝禅師が天龍禅師の「一指を立てる」という行いから学んだ〝他者の借り物で終わらせず、自らの力で物事を解釈していく〟ということは、仏道はもとより、どの世界においても大切な視点であり、考え方です。何ら悪気のない子どもの指を断ったという、ハラスメントに対する意識が厳しい現代の視点からすれば、ハッとさせられるのは否めませんが、その背景にある「むやみやたらと他者を真似ず、自らの力で自らの道を歩んでいく姿勢」というものは持ち合わせ、毎日を過ごしていきたいと感じるのです。

第67回「一華開五葉(いっけかいごよう)」

お釈迦様が咲かせてくださった仏法の花を大切に育て、次世代へとつないでいく

令和6年日 更新

一華(一輪の花)が元となって、花が五輪(五葉)に増えていくのか、それとも、五輪に増えた花が発展の種となって、さらに花を咲かせていくのか、そこには様々な解釈や捉え方があるような気がいたします。


今回の「一華開五葉」は、インドから中国に禅のみ教えをお伝えになった達磨大師(だるまだいし)(生没年不詳)が弟子となる慧可大師(えかだいし)(487-593)にお伝えになった句の中に登場します。


『吾(わ)れ本(もと)、茲(こ)の土(ど)に来たり、

法を伝えて、迷情(めいじょう)を救う。

一華五葉を開き、結果、自然(じねん)に成る。』


「迷情」は「凡夫の迷いの心情」を意味する言葉ですが、達磨大師が茲の土(中国)にやって来たのは、お釈迦様から伝わる仏法を迷える人々にお伝えし、その苦悩を救うためであるということを、大師自らが発していらっしゃることに気づかされます。


そうした迷える凡夫を誰一人として取り残すことなく救うと共に、確実に仏のお悟りへと近づけてくれる仏法について、道元禅師様は「一華も五葉も共に仏法であり、仏のみ教えがしっかりと現れた優れたものである、だから、誰一人として取り残すことなく人々を救うことができる」と解していらっしゃいます。達磨大師のおっしゃるように、まさに「結果、自然に成る」で、人々を救う力を有した仏法とのご縁が育まれれば、その結果は自然と決まってくるのです。


本日(令和6年7月6日、土曜日)早朝、松山寺では定例坐禅会が開催されました。今回は初めての方をお迎えし、3名の参禅者と40分の坐禅、その後、本堂にてお茶をいただきながら、しばし歓談のひとときを過ごさせていただきました。初めての坐禅を体験する方に、毎週のように松山寺に参禅にいらっしゃって1年半が経つ2名の先輩参禅者からは「坐禅を続けていくうちに見えてくるものがある」とか、「坐禅によって新たな発見があり、それが日常生活や仕事につながっている」とのお言葉をいただきました。日々、坐禅に勤しむ仏道修行者だからこそ自然と発せられる坐禅観のように感じ、大きな感銘を受けました。これが「一華開五華」の指し示す世界観なのでしょう。


既に2600年もの昔、お釈迦様によって開花された一輪の仏法の華は、後世の大勢の人々によって大量の五葉を開かせていきました。「今という時間」・「ここという場所」において、仏と共にいただいたいのちを生かされている私たちもまた、五葉の一つとなって、きれいな一華を保ち、次世代へとつなげていく役割を担っていきたいと願っています。そして、そんな願いを以て、この先も毎週土曜日の朝は松山寺坐禅堂にて40分の参禅に身を委ねていきたいと思っています。