教授戒文 

   


                           背景 「鼠多門」(令和2年7月20日 撮影)                                     

第1回「仏教の伝来=戒法の伝来」

令和2年9月8日 更新

夫(そ)れ諸仏の大戒は、諸仏の護持し給うところなり。

仏仏の相授(そうじゅ)あり、祖々の相伝(そうでん)あり。

受戒(じゅかい)は三際(さんざい)を超越(ちょうおつ)し、証契(しょうかい)は古今に連綿(れんめん)たり。

 

「西天東地(さいてんとうち)、仏祖相伝(ぶっそそうでん)しきたれるところ、かならず入法(にっぽう)の最初に受戒(じゅかい)あり。戒をうけざればいまだ諸仏の弟子にあらず、祖師の児孫(じそん)にあらざるなり。」(道元禅師様著 正法眼蔵「受戒」より)

 

仏教は今から約2600年前、インドのお釈迦様が坐禅修行によって体得なさった悟りを根底に置いた「我々人間のあるべき生き方」が記されたみ教えです。仏教は西天東地(インドから中国、日本へと国を超えて伝わること)し、時代を経、人から人へと伝わり、今日まで連綿と受け継がれています。まさに、今回の一句の中にもあるように、「仏仏の相授あり、祖々の相伝あり」や、「三際(過去・現在・未来)を超越し、証契(師から弟子へと悟りが受け継がれていくこと)は古今に連綿たり」とある通りなのです。

 

仏教の伝来は、「坐禅の伝来」でもあります。そんな坐禅にスポットを当てて示されているのが「普勧坐禅儀」(道元禅師様著)や「坐禅用心記」(瑩山禅師様著)です。また、仏教の伝来は、「戒法の伝来」でもあります。戒法とは、「悪を断ち、善を勧める」という、仏教徒の生き方そのものを指します。そうした戒法に焦点を当てて説かれるのが「教授戒文」です。

 

冒頭に提示させていただいた道元禅師様の「正法眼蔵・受戒」のお言葉を参照するならば、仏道に入るには、受戒(戒をいただくこと)なしにはあり得ないと捉えることができます。また、戒を受け、戒を護持すること(戒法に従って生きていくこと)が、仏弟子たる仏の生き方を受け継いだ者の使命であるという解釈も成り立ちます。ということは、我々仏教徒は、日々、坐禅を行じて身心を調えることと同じように、戒法に則った日常を送ることも求められているということなのです。だから、戒法に対する正しい理解が必要になってくるのです。

 

戒について、これまで、当山HPでは、修証義の中で味わってまいりましたが、さらにもう一歩踏み込み、戒法にスポットを当てた「教授戒文」に触れながら、より一層、戒に対する理解を深めていきたいと思います。戒のみ教えが溶け込んだ言動によって、私たちは仏に近づくと共に、私たちの日常生活がより豊かなものになっていきます。それはお釈迦様以降、悟りを得た仏祖が仏仏相授・祖々相伝してきた中で証明されています。

 

そうした戒とのご縁を作り、あるいは、深めながら、充実した日常生活を送る足掛かりになることを願い、「教授戒文」を紐解かせていただきたいと思います。

第2回「嫡嫡相授(てきてきそうじゅ) ―師から弟子へ―」

令和2年9月22日 更新

わが大師釈迦牟尼仏(だいししゃかむにぶつ)、摩訶迦葉(まかかしょう)に付授し、迦葉は阿難陀(あなんだ)に付授す。

乃至是(ないしかく)の如く、嫡嫡相授(てきてきそうじゅ)して、己(すで)に幾世、堂頭和尚(どうちょうおしょう)に至る。

 

「三学(さんがく)」とは、「戒・定(じょう)・慧(え)」という、仏道修行者が学び修するべき3つを指します。戒は「悪を断ち、善を修する」ことで、「教授戒文」では、道元禅師様による「戒を護持(ごじ)する(戒のみ教えと共に日常を生きる)仏道修行者のあり方」が示されていきます。「定」とは、「禅定(ぜんじょう)」のことで、大意には坐禅を意味します。すなわち、我が心と身体を穏やかに調えていくことです。「慧」は、「智慧(ちえ)」のことで、三毒煩悩(貪り・瞋いかり・愚かさ)を断ち、真理を素直に認め、受け入れていくことです。「戒・定・慧」の「三学」は、決して、個別に存在しているものではありません。それぞれが密接に関わり、お互いに相手を含みながら、成り立っています。つまり、戒には定と慧の要素が含まれているのです。

 

前回、「仏教の伝来は戒法の伝来である」と申し上げました。仏教が今から約2600年前にお釈迦様(釈迦牟尼仏)が坐禅修行によって悟りを得たことに端を発し、インドから中国、そして、日本、さらには欧米諸国へと今日まで多くの祖師方によって伝えられてきた(嫡嫡相授)み教えであることは、これまで幾度も申し上げてまいりました。そのことを「三学」の観点から申し上げるならば、仏教の伝来は定(坐禅)の伝来でもあり、智慧の伝来でもあると捉えることができます。

 

そうした「三学」がお釈迦様から摩訶迦葉尊者に付授(伝わる)され、さらに摩訶迦葉尊者から阿難陀尊者へと付授されていったと道元禅師様はおっしゃっています。これは師から弟子へと仏法が受け継がれていくことで、「相承(そうじょう)」と言ってみたり、本文中の言葉を用いるならば、「嫡嫡相授」と言ったりします。阿難陀尊者以降、嫡嫡相授が幾度にも渡って成し遂げられて今、「堂頭和尚」へと伝わっていると道元禅師様はおっしゃいます。堂頭和尚とは、一寺院の住職を指します。すなわち、現時点においてお釈迦様から戒法を授かった存在であり、お釈迦様に成り代わって、我々に戒法を授けてくださる方のことです。

 

曹洞宗の根本宗典という位置づけにある「伝光録(でんこうろく)」は、瑩山禅師様が加賀・大乘寺だいじょうじにおいて、お釈迦様以降、瑩山禅師様ご自身までの師から弟子への仏法の嫡嫡相授について、会下の修行者たちにお示しになったことをお弟子様がまとめ、筆録されたものです。この伝光録を紐解いてみますと、今回、登場している迦葉尊者並びに阿難尊者についての記載が確認できます。それを最後に提示させていただきます。

 

摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)

摩掲陀国(まかだこく)のバラモン(インドの階級制度の一つで、その最高位にあるもの)出身。お釈迦様の十大弟子のお一人で、頭陀行(ずだぎょう)(煩悩断滅のために、衣食住において厳格なまでに質素に過ごす修行)において釈尊教団第一の修行者。

頭陀行に対して、あまりに熱心に取り組むあまり、周囲には姿形がみすぼらしく見え、警戒された。そのため、お釈迦様がご自身の席を半分譲り(半座を分かつ)、説法の場を与え、その偉大さを周囲に知らしめた。

お釈迦様が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法をなさったとき、お釈迦様が拈じられた金波羅華(こんぱらげ)の意を、その場で唯一、理解し、にっこり微笑んだことによって、お釈迦様から仏法を付授される。

 

阿難陀尊者(あなんだそんじゃ)

お釈迦様の従弟にあたる人物で十代弟子のお一人。容姿端麗、聡明博達。お釈迦様が成道なさったときにお生まれになったとされる。お釈迦様の侍者じしゃ(側近)として20年間、お釈迦様に付き従う。誰よりもお釈迦様のみ教えを多く聞き、記憶していたという意味で「多門(たもん)第一」と評される。それはあたかも「一器の水を一器に伝えるがごとく、少しも遺漏なき」ものであったと伝えられている。そうした自分の見解等を一切混ぜ込むことなく、お釈迦様のみ教えを只管聞き続けたことによって、迦葉尊者から仏法を付授されると共に、尊者の侍者としても20年付き従う。

第3回「仏祖の慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)する -私たちの“使命”―」

令和2年10日 更新

今将(まさ)に付授して、慎んで仏祖の深恩(じんおん)に報い、永く人天(にんでん)の眼目と為さんとす。蓋(けだ)し是れ、仏祖の慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)すればなり。

 

「108歳の禅師様」と呼ばれ、僧俗問わず多くの人々に慕われた大本山永平寺七十八世・宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師様(1901-2008)は、自著「仏性を生きる ―十六条戒の日ぐらい―」の中で、「戒というのは、いましめることだと受け取って、あれもこれもするなという禁制のように思われるかもしれませんが、そうではありません。本来の立派な本性に立ち返ることが戒なのです。自分のなかにある真理を呼び覚ますことなのです。」(原文ママ)とお示しになっています。この宮崎禅師様のご見解は、戒を正しく理解し、そのみ教えと共に日常生活を送る上で、是非、押さえておきたいところです。戒は禁止事項でもなければ、他から強制され、自らに強引に言い聞かせていくものではないのです。自発的に悪を断ち、善を修することであると同時に、自分が元来有していた仏の心や性質(仏性)の存在に目覚め、お釈迦様がお悟りになった真理だとか、この世の仕組みに気づいていく上で欠かせぬみ教えだということです。

 

そのことを踏まえ、是非、戒とのご縁を結び、仏に近づく機縁が育まれることを願うのですが、「今将に付授して」とあるように、戒の付授とは、戒とは何かを学び、教わると共に、自己の生き方として実践していくのを誓うことでもあります。そして、道元禅師様は戒が「人天の眼目である」とおっしゃいます。眼目は要点のことで、戒が人間界や天上界始め、六道世界におけるあらゆる存在の指導者であることを説き示しているのが、「人天の眼目」です。

 

そんな「人天の眼目」たる戒とのご縁が育まれ、私たちが戒のみ教えと共に生きてくことができるならば、戒とのご縁を結んでくださった仏祖の恩に感謝せずにはいられなくなるはずです。それが「仏祖の深恩に報いる」ということです。戒とのご縁が育まれることで、私たちは宮崎禅師様がお示しのように、自己の本性に目覚め、真理に気づくことができます。こうして私たちが仏の提示する正しい生き方を修していく中で、日常生活も味わい豊かなものになっていくのです。それが実感できるようになれば、仏祖の深い恩に感謝せずにはいられなくなるはずです。

 

そうした仏祖の深いご恩に報いる生き方を生涯に渡って意識して続けていくことが、「仏祖の慧命を嗣続する」ということです。嗣続は「相承」や「単伝」ということで、仏法の灯を絶やすことなく燃やし続けることを意味しています。慧命とあるのは、智慧(仏の悟り)を有した仏のいのちということです。私たちが「仏祖の慧命を嗣続する」(「人天の眼目」たる戒のみ教えに従って日々を過ごし、仏に近づいていく)ことは、戒を付授する仏の願いであり、この人間世界にいのちをいただいた者の使命(命の使い方)でもあります。その使命を果たすためにも、是非、戒とのご縁を育んでおきたいものです。

第4回「帰戒(きかい)・懺悔(さんげ)を目指して」

令和2年10月15日 更新

仰いで仏祖の証明(しょうみょう)に馮(よ)って、応に帰戒懺悔(きかいさんげ)すべし。至誠(しいじょう)に語(ことば)に随って伝唱(でんしょう)せよ。

 

私たちが仏の戒法に従って日々を過ごすことには、2つの大きな意味合いがあります。一つには、私たちが仏に近づき、よき人間になることであり、二つには仏の慧命を継ぐことです。特に、後者は私たち一人一人に与えられた「生きる課題」であると共に、それによって、お釈迦様のみ教えが今日も伝わっていることは否定しようもありません。

 

そんな仏祖の戒法を、師が弟子へ伝授することが「授戒」です。逆に、弟子が仏門に入り、師から仏の戒を受けることが「受戒」です。古来から伝わる授戒の作法に則り、師から戒法を授かったとしても、自分の身体に戒法が刻み込まれ、戒のみ教えに従って過ごせているかどうかは、師の判断に頼るところであるというのが、「仏祖の証明に馮って」の意味するところです。師は自身の師より戒法を授かり、日々の修行の中で、師から仏祖の証明をいただくことができた存在です。そんな師から仏祖のみ教えに従った生き方ができていることが認められなくては、戒法を授かったとは言えないというのです。

 

そうやって師が仏祖に成り代わって授戒の証明がなされたならば、「帰戒懺悔」するようにと道元禅師様はおっしゃっています。帰戒とは、戒法に帰依することです。我が言動を何よりも戒法に従い、悪を断ち、善を修しながら過ごすことを常に心がけていくことが「帰戒」の意味するところです。

 

そうした「帰戒」を実践していくとき、必然的に「懺悔」の必要性が生じてきます。「懺悔」は一般的には“ザンゲ”と読むことが多いようですが、仏教では“サンゲ”と読み、自分が犯してしまった罪科を、二度と繰り返さないことを誓い、実践していくことを意味しています。戒法に帰依し、懺悔修行を通じて、私たちは仏に近づき、よき人間になるのです。

 

そうした懺悔修行を行う際に、口に幾度も発していきたいのが「懺悔文」です。これを「至誠」、十分に心を尽くしながら、文言を意のままに解しながら、我が語として発していくことで、懺悔修行が成立していきます。そんな「懺悔文」を、次回は味わってみたいと思います。

第5回「一佛両祖の懺悔(さんげ)」

令和2年10月20日 更新

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋愚(かいゆうむしとんじんち) 従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

 

既に仏祖の証明(しょうみょう)に依って、身口意業(しんくいごう)を浄除(じょうじょ)して大清浄(だいしょうじょう)なることを得たり。是れ則ち懺悔(さんげ)の力なり

 

「仏祖の往昔(おうしゃく)は吾等われらなり。吾等が当来は仏祖ならん。」(修証義第2章・「懺悔滅罪」)とあります。「今やお悟りを得た仏祖たる方々も、元々は我々と同じ凡夫であった。それが仏道修行に精進したことによって、仏祖となられた。我々凡夫も同じように修行に励むならば、仏祖となれるであろう。」というみ教えです。これは誰もが目標に向かって精進努力していけば、達成できるときが訪れることを指し示しており、まさに私たち凡夫に対する励ましの言葉であると捉えることができるでしょう。

 

考えてみれば、お釈迦様は35歳のとき、坐禅修行を通じて、悟りを得られましたが、それ以前の約6年間というのは、生老病死の現実に苦悩し、そこからの救いを求め、我が身を痛めつけるなどの苦行に励んでいらっしゃいました。道元禅師様といえば、24歳のときに中国に渡られ、阿育王寺(あいいくおうじ)や天童山の典座(てんぞ)(修行道場において、修行僧の食事作りを仏道修行とする僧侶)老師から仏道修行者の生き様を叩き込まれたことが、自著「典座教訓」から読み取れます。そして、瑩山禅師様は若かりし頃、有能な反面、短気な面もお持ちだったそうですが、ご自身の使命が仏法を世間に広め、人々の苦悩を救済することであるという自覚と、観音様を深く信仰しなさっていた母親の姿の想起によって、怒りの感情がコントロールできるようになり、表情も穏やかになっていったことを、自著「洞谷記(とうこくき)」(※)の中で述懐なさっています。

 

そうした最初は凡夫であった人間が、仏道修行を続けていく中で、仏に近づき、悟りを得るのは、「懺悔」によるものなのです。自分の罪過(仏のみ教えから背いた行い)を意識し、二度と行わないことを誓うのが「懺悔」でしたが、それを言葉によって、我が身に念じ込んでいく上で欠かせないのが「懺悔文さんげもん」です。

 

我昔所造諸悪業(かしゃくしょぞうしょあくごう)(我、昔より造りし所の諸の悪業は)

皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)(皆無始の貪瞋痴に由る)

従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)(身口意従り生ずる所) 

一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)(一切を我、今、皆、懺悔する)

 

この「懺悔文」が説かんとしているポイントを以下に示させていただきました。

(1)私たちの悪事は自分の中に発生した三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)によるものであるということ

(2)三毒煩悩は自分の身体・言葉・心から発生するものであるということ

 

私たちは事が思い通りに進まないなどして、自分に被害が及ぶと、周囲のせいにするなどして、他者に責任を転嫁しがちです。しかし、この「懺悔文」にもありますように、原因は全て自分にあるのです。自分の中に発生した三毒煩悩を調整することなく、表に出すから、被害を受け、苦悩を抱えてしまうのです。

 

そのことを押さえ、二度と過ちを繰り返さないよう、三毒煩悩を表出させぬよう、自分の身口意をきれいにすることを心がけて日々を過ごす―それが「身口意業を浄除して大清浄なることを得たり」の意味するところです。

 

そうした「懺悔の力」によって、身心を清浄に調えた大清浄なる存在が、お釈迦様・道元様・瑩山様といった一佛両祖なのです。そして、そんな一佛両祖の生き様を見習っていくことが、私たちのあるべき生き方なのです。

 

※洞谷記 瑩山禅師様の永光寺(ようこうじ)(石川県羽咋市)在住期間中の記録や置文が収録された一冊 

第6回「三宝帰依(さんぼうきえ) -仏の慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)するために―」

令和2年10月2日 更新

次には応(まさ)に仏法僧の三宝に帰依したてまつるべし。三宝に三種の功徳あり。謂(い)わゆる一体三宝(いったいさんぼう)、現前三宝(げんぜんさんぼう)、住持三宝(じゅうじさんぼう)なり。

 

当HP「仏教講座」における“経典(お経に学ぶ)”の中で、修証義を研鑽させていただいておりますが、その第3章「受戒入位」第1回の中でもお示しさせていただいたように、懺悔(さんげ)(自らと向き合い、二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓い、実践すること)が十二分なまでに修行なされていなければ、次の段階として示されている「仏法僧の三宝への帰依」にはつながっていきません。すなわち、懺悔を抜きにした三宝帰依など成立しないのです。それが「次には応に仏法僧の三宝に帰依したてまつるべし」の意味するところです

 

それを今一度、確認した上で、今回の一句に入っていきたいと思います。まず、仏法僧の三宝に帰依するということについては、修証義第3章「受戒入位」の項を中心に、これまでも幾度となく味わってまいりました。仏(お釈迦様始めとする悟りを得た仏様)・法(お釈迦様のみ教え)・僧(法を修行し、今日まで伝えてきた多くの祖師方)に帰依(我が身を委ね、任せきること)です。

 

仏・法・僧の三者を「三宝」と申しますが、三宝には「三種の功徳」があると道元禅師様はおっしゃいます。それを下記の一覧表にまとめさせていただきました。それぞれについては、この後、道元禅師様が詳細にお示しになっていきますので、そこで改めて味わっていきたいと思います。

 

一体三宝(いったいさんぼう)

仏・法・僧と、各々名称も内容も異なるが、真理を三方面から見た場合の捉え方であり、三者が相互に関わり合って、一体になっているということ。

 

現前三宝(げんぜんさんぼう)

仏法僧の三宝は、いずれも現前(私たちの眼前に姿を現すこと)したものばかりで、三者とも私たちと関わりのある存在であるということ。

 

住持三宝(じゅうじさんぼう)  

仏法僧の三宝は住持(仏に代わって法を説き、仏の慧命【えみょう】を嗣続(しぞく)させる)存在であるということ。

 

こうした三宝の「三種の功徳」に触れてみますと、三宝帰依が私たちの人間性を磨いていく上で欠かせない行いであることに気づかされます。人間性を磨くとは、私たちが成仏(仏に近づくこと)であり、「仏の慧命を嗣続する」という使命を果たすということです。私たちの使命を考えていく上でも、「三宝帰依」は外すことのできない大切な行いなのです。 

第7回「一体三宝 -唯一無二なる絶対の宝-」

令和2年11月8日 更新

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を仏宝(ぶっぽう)と称為(い)い、清浄(しょうじょう)にして塵(ちり)を離(な)くするは乃ち法宝(ほうぼう)、和合の功徳は是れ僧宝(そうぼう)なり。これを一体三宝と名づく。

 

「三宝に三種の功徳あり」という道元禅師様のお示しについて、①一体三宝②現前三宝③住持三宝の三種に触れさせていただきました。その中の①「一体三宝」について、詳しく示されているのが、今回の一句です。

 

そもそも「一体三宝」とは、真理を仏・法・僧の3つの側面から見た場合の捉え方で、三者は別個でありながら、相互に関連し合い、一体になっているという点がポイントです。これは「六波羅蜜(ろっぱらみつ)」や「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」などの仏教思想においても採用されている考え方で、仏教の世界では、分別という捉え方をするのではなく、一体のものとして捉え、それを構成している6つないしは4つの存在があるという捉え方をすればよろしいかと思います。

 

そんな一体三宝を形成する仏宝について、それが「阿耨多羅三藐三菩提」であると道元禅師様はおっしゃっています。「阿耨多羅三藐三菩提」は仏が三毒煩悩を断ち、悟りを得た無上の存在であるということを意味しています。そんな仏だからこそ、宝の如く敬い、帰依していくというのです。

 

次に、道元禅師様は「法宝」について触れていらっしゃいます。仏のみ教えたる法が「清浄にして塵を離くする」というのですが、法は三毒煩悩の汚れなき清浄なるお釈迦様のみ教えであり、お悟りであるが故に、それに帰依し、従っていくならば、私たちの中に存在していた三毒煩悩も調整され、表出することがなくなっていくというのです。法への帰依は仏への帰依に直結します。仏に帰依するとき、自分が発する言葉、提示する言動が仏のみ教えを帯びて、調えられていくのです。すなわち、一挙手一投足、一語一語に仏の魂が込められていくのです。これが「塵を離くする」ということなのです。

 

そして、道元禅師様は仏の慧命(えみょう)を嗣続(しぞく)する(お釈迦様のみ教えを実践する)僧宝は「和合の功徳」であるとおっしゃいます。「和合」というのは、「仲良くすること」という意味で使われますが、これは仏や法に和して打ち解けながら、我が標準を合わせていくことを意味しています。人と人が仲良く和することは、お互いに気持ちよく過せるばかりか、周囲にも安心感を与えていきます。人間同士が仲良くできるのは、相手に和し、相手にと打ち解けて、一体になろうとするからに他なりません。そこでは、相手の身になった言葉や行動の発出があります。

 

そうした和合をできるだけ多くの人々と実現できることを目指していきたいものですが、注意しておきたいのは、和合でないものを和合と思い込むようなことがないようにしたいということです。相手に対して、言いたいことも言えずに、相手に媚びるなどして、言いなりになっているような人間関係を目にすることがありますが、これは和合とは言えません。お釈迦様のお言葉をお借りするならば、「諂曲(てんごく)」という媚びへつらいです。自分と相手との関係性を振り返ってみたときに、その関係性が和合なのか、諂曲になっていないか、よくよく考えてから相手と関わっていきたいものです。

 

仏法僧の三宝は一体のものであり、そのいずれかに帰依すれば、他の二者に帰依したことになるわけですが、三宝各々に「宝」という文字が付されていることについて、大本山永平寺の西堂(せいどう)職をお勤めになった橋本恵光(はしもとえこう)老師(1890-1965)は、『自分も恵まれ、ついでに他も恵まれてゆく宝が「仏法僧」である。これ以外にもう宝は無い。』(教授戒文提唱 国書刊行会)とお示しになっています。自他共に恵まれるものが、本当の宝であり、仏法僧はそういった存在でもあるということを心に留めて、帰依の念を新たにしていきたいものです。

第8回「現前三宝 -眼前に存在する宝と向き合う-」

令和2年121日 更新

現前(げんぜん)して菩提(ぼだい)を証(さと)りたまいしを仏宝と名づけ、仏の証りたまいし所は是れ法宝、仏と法とを学びしは乃ち僧宝なり。是れを現前三宝と名づく。

 

今回は「現前三宝」という側面からのお話です。「現前三宝」というのは、仏法僧の三宝が、いずれも現前した(私たちの眼前に姿を現すこと)存在ばかりであるということです。人間の歴史の上で、坐禅を通じて、この世の真理を悟り、周囲のいのちに救いの手を差し伸べられたお釈迦様という仏が存在していたのは事実です。すなわち、仏は現前した存在であったということです。

 

その仏が多くの人々を救ってきたという意味では、まさに前回の橋本老師のお言葉が指し示しますように、“宝”であります。それが「菩提を証りたまいしを仏宝と名づけ」の意味するところです。そして、仏が悟った真理が全てのいのちを救う法もまた、“宝”であることを意味しているのが、次の「仏の証りたまいし所は是れ法宝」の意味するところです。

 

そんな仏宝や法宝を自ら実践し、「仏の慧命を嗣続してきた方々」が僧です。曹洞宗の両祖様である道元様や瑩山様始め、各宗の開祖様や祖師方など、大勢の僧の存在によって、仏・法は今日まで伝えられると共に、多くのいのちを救ってきました。まさに僧もまた、“宝”であり、「仏と法を学びしは乃ち僧宝」なのです。

 

仏法僧の三者共々が一体の存在である「一体三宝」、そして、三者全てが現前したという事実を意味する「現前三宝」。三宝を形成する仏・法・僧の全てが自他を救う宝であることもまた、再確認しておきたいところです。

第9回「住持三宝(じゅうじさんぼう) -いのちいただきし者の“使命”として-」

令和2年11月2日 更新

天上(てんじょう)を化けし、人間を化するに、或は虚空(こくう)に現れ、或は塵中(じんちゅう)に現れたもうは、乃ち仏宝、或は海蔵(かいぞう)に転じ、或は貝葉(ばいよう)に転じて、物を化し生を化するは、是れ法宝、一切の苦しみを度わたし、三界の宅(すまい)を脱(まぬが)れしむるは、乃ち僧宝なり。是れを住持三宝(じゅうじさんぼう)と名づく。

 

今回は「住持三宝」という側面からの三宝について触れられています。本文を味わっていく前に、「住持三宝」について触れておきたいと思います。

 

「住持」については、修証義第3章・第23回「住職の使命」の中でも触れています。私たち人間の使命を戒律の観点から申し上げるならば、「仏の慧命を嗣続する」ことに他なりません。その使命を果たすべく、私たち一人一人が、お釈迦様(悟りを得た仏)のみ教えに従って、身心を調えていくことによって、仏のいのちが殺されることなく生かされ、次世代にも伝わっていくのです。

 

そうした「住持」の手本たる存在が、「住職」です。住持とは住職のことでもありますが、住職は宗教法人の代表者であり、お寺を仏様に代わってお預かりする立場の者です。だからこそ、誰よりも「仏の慧命を嗣続すること」に生きる日常を送るべきであり、そんな使命に生きる住職こそが、世間の人々の帰依を受けるに値する存在なのです。

 

そうした「仏の慧命を嗣続する」ことによって、天上界であろうが、人間界であろうが、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・天上・人間)の中のどんな世界であっても、仏のみ教えが浸透し、そのいのちが生かされていくのです。それが「虚空に現れ、塵中に現れたもう」の意味するところであり、「仏宝」と位置付けられる所以です。

 

次に「海蔵に転じ、貝葉に転ずる」とあります。そうやって「物を化し生を化する」とあるように、人でもモノでも、この世に存在するいのちが救われるのであり、だからこそ、「法宝」であると道元禅師様はおっしゃるのですが、その理由となるのが、「海蔵」であり、「貝葉」です。「海蔵」は「仏法」です。すなわち、一切のものを含む大海のような存在です。そして、「貝葉」は、古代インドにおいて文字を書写するのに用いた長くて広い葉っぱのことです。古代インドでは、当初はお釈迦様のみ教えは、言葉によって記憶され、伝授されていたそうですが、そのうち、筆録によって伝授されるようになっていったそうです。それが仏法の繁栄や仏の慧命の嗣続に絶大なる効果をもたらしたのは言うまでもありません。

 

そうした筆録に欠かせないのが貝葉です。貝葉に仏法が記され、経典として保存され、後世に伝えられていきました。まさに、海蔵たる膨大な仏法が、貝葉の存在によって、嗣続され、今日に至っているのです。だから、海蔵はもちろん、貝葉もまた「法宝」なのです。

 

そして、道元禅師様は僧が「一切の苦しみを度し、三界の宅を脱かれしむる」ゆえに「僧宝」であるとお示しになっています。僧が人々の苦悩を救ってきたことは、これまで幾度も申し上げてまいりましたので、「三界の宅を脱かれる」という点について、下記の一覧表を参考にしながら、確認しておきたいと思います。

 

欲界(よっかい)          欲望が存在する世界(六道界のすべて)

色界(しきかい)          肉体が存在する世界。自分の行いによって、それに応じた結果が生ずる世界

無色界(むしきかい)   肉体が消滅し、精神のみが存在する世界。三毒煩悩が滅した状態。

こうした「三界」の分別を離れ、悟りを得た仏様のように、自らが有する三毒煩悩が調整できるようになるのは僧のおかげであり、それが「僧宝」たる所以です。

 

どこにいても、どんな状況にあっても、仏のみ教えに従っていけば、仏の慧命が嗣続され、あらゆるいのちが救われていくという意味での「仏宝」、筆録によって膨大な量の仏の慧命を今日まで生かし続けてきた「法宝」、そして、自らを仏に近づけてくれるがゆえの「僧宝」。仏法僧の各々が、その役割を存分に発揮しながら、仏の慧命が嗣続されてきていることを「住持三宝」と言うのです。

 

そして、今、この人間世界にご縁をいただいて生かされている一人として、「住持三宝」の毎日を心がけていけたらと願うのです。

第10回「三宝帰依の日暮らしを」

令和2年1日 更新

仏法僧に帰依したてまつりし時、諸仏の大戒を得たりと称いう。仏を称(あ)げたてまつりて師とし、余(ほか)の道(みちび)きを師とせざれ。

 

道元禅師様のお示しに従い、仏法僧の三宝を3つの観点から味わってまいりました。仏法僧の三者は別個の存在ではなく、相互に関わり合いながら、一体となって私たちに救いの手を差し伸べてくれる宝であるという「一体三宝(いったいさんぼう)」。三者全てが私たちの眼前に現れ、私たちと関わっているという「現前三宝(げんぜんさんぼう)」。そして、お釈迦様以降、三宝に帰依する人々が三宝と和することによって、三宝が今日まで受け継がれてきたという意味での「住持三宝(じゅうじさんぼう)」。日々の生活の中で、三宝とのご縁ができたことによって、三宝を宝のように敬っていくことが、「仏法僧に帰依する」ということです。つまり、困ったときには仏に救いを求め、迷ったときには法を頼みとし、仏と法に和する者同士が、お互いに助け合いながら、仲良く過していくということが「三宝帰依」なのです。

 

そんな三宝に帰依できたとき、「諸仏の大戒を得たりと称う」と道元禅師様はおっしゃいます。「戒」はお釈迦様がお悟りになると共に、それ以降、仏・法に和し、仏の慧命を嗣続してきた祖師方が行じてきた“仏の生き方”です。また、それは大きいとか、小さいとかサイズがあるのではなく、無限の広がりと計り知れぬ奥深さを有した計り知れぬものです。それが「大戒」の意味するところです。

 

そんな大戒と私たちとのご縁を結んでくださったのがお釈迦様であり、そのみ教えを受け継いできた祖師方です。そうしたつながりの中で、一人でも欠けていては、私たちは大戒とのご縁をいただくことはできませんでした。だから、「仏を称げたまつりて師とし」と道元禅師様はおっしゃるのです。お釈迦様始めとする悟りを得た仏様に対して、“称揚”とか、“称号”とあるように、褒め称え、持ち上げていらっしゃるのです。そうした思いが帰依という姿勢に表れ、“称”という一文字からにじみ出ているような気がいたします。

 

そして、そうした偉大で絶対的な師だからこそ、道元禅師様は「余の道きを師とせざれ」とおっしゃって、お釈迦様への帰依の姿勢を明確になさるのです。そこには、決して、他の方を師と呼び、帰依するという、浮気する姿はありません。お釈迦様一筋です。そうやって、仏に帰依しているからこそ仏なのであり、何より仏のみ教えである「法」に従って生きているから仏であり、仏や法に標準を合わせ、和していこうとするから仏なのでしょう。もし、仏がそうした姿勢を崩してしまえば、たちまち、仏ではなくなってしまうのです。

 

「即身是仏(そくしんぜぶつ)」という言葉がありますが、本来は私たち一人一人が仏の性質を有した仏です。日常を振り返ってみると、ご両親始めご先祖様からいただいた身心を使って、恥ずべき言動を取ったり、周囲に不快感を与えるような言葉を発したりしてしまうことが多い私たちかもしれませんが、そんな私たちでも、実は自分の中に仏の種が眠っているという仏のみ教えを信じてみることが大切ではないかと思います。そうやって私たちの身心が磨かれ、仏に近づいていくのです。それが「三宝帰依の日暮らし」なのです。

第11回「摂律儀戒(しょうりつぎかい) ―“諸仏法律の窟宅すまい”に身を投じて-」

令和2年12月12日 更新

三聚浄戒(さんじゅじょうかい)有り。摂律儀戒(しょうりつぎかい)。諸仏法律を窟宅すまいとする所なり。諸仏法律の根源もととする所なり。

 

「三聚浄戒」に関しては、修証義第3章のコーナーでも触れさせていただいたことがあります。今回示されている「摂律儀戒」の他に、「摂善法戒(しょうぜんぼうかい)」、「摂衆生戒(しょうじょうかい)」があり、教授戒文でも、この後、それぞれ詳細に説き示されていきます。

 

仏教の開祖であるお釈迦様(仏)は、「止悪(しあく)(悪いことをしない)・修善(しゅぜん)(よいことをする)・済度(さいど)(他者の存在に気を配り、救いの手を差し伸べること)」を我々に願っていらっしゃいます。そうした願いを持った仏によって示されたのが、「法(仏のみ教え)」です。そして、そんな法に和して、法を自らの生き方として、日常を過ごしてきた方々が、「僧」です。ということは、「三聚浄戒」は法そのものであり、我々が仏法僧の三宝に帰依するならば、必ずや護持していくべき生き方でもあると言えるのです。

 

そんな「三聚浄戒」の中の、「摂律儀戒」について、今回は教授戒文の観点から味わってみたいと思います。ポイントは、修証義には示されていない「諸仏法律を窟宅とする所なり。諸仏法律の根源とする所なり」です。

 

「摂律儀戒」は「止悪」という、一切の悪を悉く断じる戒ということです。この中の「律儀」という言葉には、「身・口・意の過非を防ぎ、六根(ろっこん)(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄に護る」という意味があります。すなわち、私たちの六根を清浄に保つことによって、自分の中に生じた悪しき心を言葉や行いにして表出させないようにしていくことが「止悪」たる「摂律儀戒」であるということなのです。ということは、「摂律儀戒」を心がけて過ごすということは、自ずと「三毒煩悩を断つ」ことにつながっていくことに気づかされるのです。自分の中に知らず知らずのうちに発生した“貪り・瞋いかり・愚かさ”に気づき、言葉や行いにして表に出さないようにしていくことによって、私たちは過非を防止できるのです。

 

そうした私たちが過非を防止していく上での参考書のような存在が「諸仏法律」です。これはお釈迦様がお示しになった八万四千とも言われる膨大な仏法です。「律」という言葉は、法律という言葉もありますように、掟や手本を意味しますが、仏教の世界においては、出家修行者が日常生活における掟・手本を指します。「摂律儀戒」が、そうしたお釈迦様が発し、多くの祖師方(僧)によって、実践され、今日まで受け継がれてきた法なり律が存在する家であり、その根源たる役目を持った存在であることを説いているのが、「諸仏法律を窟宅とする所なり。諸仏法律を根源とする所なり」なのです。そんな窟宅は、苦悩する人々に必ず救いの手を差し伸べてくださると共に、どうやって日々を過ごしていけばいいかを指し示してくださっています。だからこそ、我々は信頼を寄せ、安心して身を投じる(帰依する)ことができるのです。

 

そうした“諸仏法律の窟宅”に我が身を投じ、三毒煩悩を調整しながら、止悪の日常を目指していきたいものです。そうすることで、私たちは仏に近づき、よき人間へと成長していけるのです。

第12回「摂善法戒(しょうぜんぼうかい) -仏道における善と悪-」

令和2年12月2日 更新

摂善法戒(しょうぜんぼうかい)。三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)の法、能行所行(のうぎょうしょぎょう)の道なり。

 

三聚浄戒(さんじゅじょうかい)の一つである「摂善法戒」について、今回は「三藐三菩提の法、能行所行の道なり」という箇所に焦点を当てて味わってみたいと思います。

 

そもそも摂善法戒は“修善”と呼ばれるように、“善なることを行う”ことを意味しています。ところが、この善といい、前回の「摂律儀戒」に示される悪といい、世間一般には何を以て善とし、悪とするか、その判断基準が難しいのです。この点について、道元禅師様も「正法眼蔵・諸悪莫作(しょあくまくさ)」において、「善悪は時なり、時は善悪にあらず(時代によって、または、場所によって善悪は絶えず変化するものである)」とおっしゃっています。善と悪は時代や地域によって変化し、一定でないことが判断を難しくしているのです。

 

そうした世間における善悪の基準に対して、仏法の世界における善悪の基準は一つです。それは「仏法僧の三宝に帰依しているかどうか」です。すなわち、自分自身が三宝と「和す」姿勢があるかどうか、そして、そうすることによって、法に従った言動を提示できているかどうか、それが仏法の世界における“善”であり、“正しき行い”なのです。自分が三宝に帰依し、三宝に和そうとして、仏の道を歩んでいくとき、次第に自分が発する言動が「三藐三菩提の法」という仏のお悟りの境地に近づき、善なるもの、正しきものになっていくのです。

 

ここで、「和す」ということについて触れておきたいことがあります。「和合」という言葉があります。この言葉は仏法の世界のみならず、世間にも存在しています。「和合」は簡単に申し上げるならば、「仲良くすること」ですが、注意しなければならないのは、“仲良くすること=相手に媚びることではない”ということです。相手の気分を害さないようにと、言いたいことがあっても、半ば強引に自分の中に押し込んで、相手の機嫌を取るような関わり方をしているような人間関係を見ることがありますが、「和す」というのは、純粋正直な気持ちを以て、安心した状態で、お互いに我が身を委ね合うことに他なりません。自分を偽り、嘘を以て周囲と仲良くしようと振る舞うのは、「和す」とは言えないことを押さえておきたいものです。

 

日常生活を送る中で、三宝と巡り合い、三藐三菩提の法によって、次第に自分の言動が善なるものへと変化していく能動的な行いが「能行」であるならば、他者の存在によって、三宝とのご縁ができ、その力によって、自らが変化していく受動的な行いが「所行」です。それはどちらであっても問題はありません。どちらの場合であっても、自ら三宝に帰依し、三宝に和すことによって、善なる言動を発し、仏へと近づいていくことが「摂善法戒」という生き方です。日常生活の中で、一日も早く仏法僧の三宝とご縁を結び、帰依できるようになりたいものです。

第13回「摂衆生戒(しょうしゅじょうかい) 一切衆生が救われる道」

令和年1月日 更新

摂衆生戒。凡を超え、聖(しょう)を越えて、自を度し、他を度すなり。是れを三摂浄戒(さんじゅじょうかい)と名づく。

 

令和3年1月3日の午後でした。毎年、この日は金沢市内近郊の檀信徒のお宅に祈祷札を持って、新年のご挨拶にお伺いします。今年も例年通り、年始のご挨拶に出向いておりましたところ、住職の携帯にお寺から連絡が入りました。遠方のお檀家さんがお亡くなりになったというのです。昨年末に交通事故に遭われ、意識不明のまま、新年3日に静かに旅立たれたとのことです。このお檀家さんのことを思い返してみますと、平成30年4月、私が現住職地であります松山寺(しょうざんじ)において晋山結制(しんさんけっせい)の儀をつとめさせていただいた折、ご遠方から駆けつけ、ご参詣くださったと共に、式典後、「すばらしかった」と歓喜のお言葉を賜ったことが思い出されます。そのことが、どれだけ若輩住職の精神面を支えてくださったことか。そのご恩は一生、忘れることはありません。

 

あれから3年が経過した今、このお檀家さんの死によって、私の41年の人生の中で、全身全霊で取り組んだ晋山結成の記憶が蘇ってきました。“次世代を担う人々と仏様とのご縁を育む”というテーマを掲げ、新住職がお寺に入るのを彩る「稚児行列」に力を入れ、60名近くのお子様・親御様がご協力してくださいました。また、市内のみならず遠方からも多くの檀信徒の皆様が駆け付けてくださいました。そのときの私は、そうした方々にご無礼のないように、また、何かしらの思い出ができるようにと神経を注ぎ、かつてないほどに熱くなっていました。それゆえか、熱くなりすぎて、式典の前日に行われた法要の馴ならし(リハーサル)では、連携不足でミスが多いと感じた法要担当の部署に檄を飛ばしてしまうくらいでした。今思えば、相手の身になって、もう少し冷静になれなかったものかと、思い出す度に赤面し、反省を促されるくらいです。

 

これは悪く言えば、熱くなり過ぎであり、良く言えば、一生懸命だったんだと自己解釈していますが、自分の発する言動一つ一つに十分に心を込めて、あたかも仏様の如く、丁寧に執り行うことが、冒頭にある「凡を超え、聖を越えて」の意味するところです。これは、凡夫や聖人といった境界を作ることなく、対立状態を超えた、純一かつ無雑な状態を意味します。

 

そういう状態で周囲のいのちと関わってくことが「摂衆生戒」です。私たちのまわりには、人がいて、動物がいます。それらは空気を吸って、水を飲み、食べ物をいただいて生かされています。そうした存在に対して、私たちはいのちあるものと捉えます。それに対して、私たちは、道具や道端に転がる石ころのような存在は無生物であり、いのちの存在は認めません。しかし、仏教では人であれ、モノであれ、石ころであれ、生物も無生物も関係なく、万事が仏性(ぶっしょう)(仏のいのち)の宿った存在であるという観点から、いのちある存在と捉えます。そうした仏性を有した存在を「一切衆生」というのです。

 

そうした一切衆生が、その存在を認められ、差別されることなく、皆、大切にされることが「自を度し、他を度す」ということであり、それが「摂衆生戒」の目指すところです。そして、これが、一つには“悪を断つ”という「摂律儀戒(しょうりつぎかい)」の側面であり、もう一つには“善を修する”という「摂善法戒(しょうぜんぼうかい)」の側面でもあるのです。つまり、「自を度し、他を度す」という「摂衆生戒」を意識しながら、言動を発していくことが、「悪いことをしない、良いことをする」という「戒」という生き方なのであり、3つの側面を持った「三聚浄戒」ということなのです。こうした生き方を目指していく大前提となるのは、仏法僧の三宝への帰依です。今一度、自身の三宝帰依を確認しておきたいものです。

 

年頭に一人のお檀家さんとの別離を通じて、思い出された晋山結制の記憶。多くのお檀家さんやお稚児さんから喜びのお言葉を賜り、住職が掲げたテーマは達成できたように見える半面で、少なくとも、私は晋山式に携わってくださった全ての方(一切衆生)に心を配ることができなかったことは大いに反省しなくてはなりません。新型コロナウイルスの感染が再拡大の兆候を見せながら迎えた令和3年の念頭に際し、住職は「調」という目標を掲げました。この一年は、“ココロ・カラダ・コキュウ”を調えて、穏やかな言動を発しながら、一切衆生と関わっていくことを習慣づけていきたいと思っています。今年も一年、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。  合掌

第14回 「“本当の幸せ”“本当の生き様”とは・・・?」

令和3年1月19日 更新

―『三宝帰依』、その意義・その理由―

本来ならば、「教授戒文」では、「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」が示された後、「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」について触れられていきますが、その前に、もう少し、「仏法僧の三宝に帰依する」ということについて、触れておきたいと思います。

 

道元禅師様の有名なお示しに「仏法値(ぶっぽうあ)うこと希(まれ)なり」とあります。我々は父と母の存在によって母胎に宿り、そこから約10カ月の間、人間としての姿形が育まれ、この世に誕生します。生まれてきたいのちは、時間の流れの中で成長し、やがては老い、病を抱え、死を迎えます。

 

果たして、この間、一体、どれだけの人がお釈迦様と出会い、仏法と共に日常生活を送ってきたと言えるでしょうか。実際には『仏法僧の三宝を信じ、わが身を委ねるという「三宝帰依」というレベルまでの日常生活が送れた』と言える人はほんのわずかのように思います。まさに三宝とご縁が結べる可能性など、限りなく小さいのです。

 

だからこそ、道元禅師様は「早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦(しゅく)を解脱(げだつ)するのみに非ず、菩提(ぼだい)を成就(じょうじゅう)すべし。」(正法眼蔵・帰依仏法僧宝【きえぶっぽうそうぼう】)と、我々に願われるのです。誰もが自分たちの日々の生活の中で苦悩から逃れたいと願っていることかと思いますが、「三宝帰依」さえできれば、その願いは叶うと共に、私たちは「菩提を成就」、「人間性が仏のお悟りに近づくことができる」と道元禅師様はおっしゃっているのです。

 

道元禅師様が「三宝帰依」をお勧めになる理由は「此(こ)の三種は畢竟帰処(ひっきょうきしょ)にして、能(よ)く衆生をして生死(しょうじ)を出離(しゅつり)し、大菩提を証せしむるを以ての故に帰す」(正法眼蔵・「帰依仏法僧宝」)とあるように、仏法僧の三宝が「帰処」、すなわち、私たちが自宅に帰り、自分の部屋で疲れた心身をのんびりとリラックスさせてくれるような存在だからに他ならないからだというのです。

 

私自身、曹洞宗門の布教者の末席に身を置くものとして、少しは仏法と共に日常を生きてみたいと願い、坐禅に身を投じてみたり、祖師方がお示しになったに経典祖録に目を通してみたりして、意識的に仏道と触れ合う時間を設けるようにはしています(まだまだ道元禅師様がお示しになっている「三宝帰依」であるとは言い難いのですが)。そうした中で、道元禅師様の「早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず、菩提を成就すべし。」というみ教えが、すとんと自分の中に落ち、合点がいくのです。20代の学生時代、ご本山での安居(あんご)(修行)中、そして、僧侶として布教の道を歩む今。布教の道を志ようになってからは、苦悩に出会うことがあっても、早く解決方法に気づき、穏やかな方法で問題に対処できる場面が増えていったように思います。また、今年の目標に「調」という文字を掲げましたが、こうした仏法を人生の目標に掲げる習慣が、締まりのある一年を過ごすことにもつながっているようにも思います。こうして、多少なりとも仏道に出会えた今の方が、毎日が充実し、心穏やかに過ごせているような気がします。そして、この先、さらに仏道を歩み続けていけば、もっと様々な経験を積み、そこから出てくる言葉も変わっていくのではないかと思うと、未来への期待というものも沸き起こってくるのです。

 

仮に今、生きることに苦悩を感じたり、どこか不平不満をぬぐい切れず、嫉妬や怒りなどの三毒煩悩を抱えながら毎日を過ごしていたりするとすれば、三宝とご縁を結び、三宝に帰依していくことをお勧めします。すぐに三宝帰依の効果が出るわけではありません。何年も時間を要するかもしれません。しかし、必ずや人生が変化します。苦悩に満ちた生活を送る人々は余道(よどう)(仏道以外の道)に惹かれ、救いを求めがちです。しかし、道元禅師様は「そうした余道に帰依しても、苦悩からは逃れられない」と断じます。

 

「此れ(余道)への帰依は、勝に非ず、此の帰依は尊に非ず」(正法眼蔵・「帰依仏法僧宝」)

 

このみ教えを胸に、「三宝帰依」の日常を目指しながら、毎日を過ごしていきたいものです。そして、自身の三宝帰依を確認した上で、次回より十重禁戒を味わってまいりたいと思います。


第15回「不殺生戒(ふせっしょうかい) “仏の慧命(えみょう)を続(つ)ぐ”」

令和3年1月25日 更新

十重禁戒有(じゅうじゅうきんかいあ)り。第一不殺生。生命(しょうみょう)の不殺(ふせつ)にして仏種増長(ぶっしゅぞうちょう)し、仏の慧命を続(つ)ぐべし。生命を殺すこと莫(な)し。

 

今回より「十重禁戒」について触れられていきます。その第一として登場するのが「不殺生」です。道元禅師様のみ教えに従って読み進めてみますと、「不殺生」は、「生命の不殺にして仏種増長し、仏の慧命を続ぐ」ことであると示されています。「生命の不殺」とは、「生命を殺すこと莫し」に言い表されているように、「いのちを奪わない(殺さない)こと」です。これは、私たちの周囲の全ての存在に対して、いのちがあることを認め、そのいのちを殺すことなく、“生かす”ことを説いているのです。

 

「殺生」ということについて、こうして仏教における戒律の第一に示され、それを遵守する大切さが説かれているように、法律においても、「殺人罪」として位置付けられ、その罪を犯した者が厳しく罰せられるのは自明のことです。「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」の項において、仏教が指し示す戒律を三つの側面から捉えた場合、戒律には、「悪いことをしない」という、「摂律儀戒(しょうりつぎかい)」としての側面と、「善いことをする」という、「摂善法戒(しょうぜんぼうかい)」の側面があることを学ばせていただきました。“悪いことをしない・善いことをするとは何か?”を具体的に考えてみたとき、第一「不殺生」ということになるのです。

 

それにしても、上記に示した「不殺生」は大半の人が護っていることであるのも確かです。果たして、道元禅師様が言わんとしている不殺生とは、人間だけにいのちの存在を認め、それを殺さずに、生かすということなのでしょうか。そうではありません。もっと広範囲で奥深いものを、道元禅師様は「不殺生」を通じて、お示しになっていらっしゃいます。

 

そもそも周囲に対して、いのちの存在を認めるというのは、どういうことなのかを考えてみたとき、道元禅師様は人間だけにいのちが宿っているとはお考えになっていません。私たちのまわりには人間始め、動植物、物品や機械など、様々な存在があります。そうした存在に対して、一般的には人間や動植物など、空気を吸って、呼吸をし、食物をいただきながらいのちを養っている者だけに、いのちの存在を認めがちなのですが、仏教では全ての存在に平等にいのちを認めるのです。

 

そのいのちを、道元禅師様は「仏種」と表現なさっています。これは、「仏性(ぶっしょう)」とも言い換えることができます。すなわち、どんな存在にも宿っている「仏の性質」のことで、私たちを救い、仏のお悟りへと近づけてくれる性質のことです。私たちが一切の存在に対して、自分の私見に捉われて、関わり方を変えるようなことをしていれば、仏種は見えてきません。仏種の存在を認めようとする者にのみ、仏種は応じてくれるのです。

 

そんな仏種を増長させるというのが、不殺生なのです。すなわち、不殺生というのは、あらゆる存在に対して、そこに宿るいのちを認めようとする関わり方をすることなのです。

 

そうした関わり方をしていくためには、まずは相手を敬うことが大切です。そうやって、丁寧な言動を心がけることが求められていきます。丁寧であるということは、自分が発する言動が穏やかで調ったものであることが基本です。すなわち、自分の中の三毒煩悩が調整され、言葉や行いになって外に出ないような状態が保たれている必要があるわけで、それが「不殺生」であり、「仏の慧命を続ぐ」ということなのです。生涯に渡り、仏のみ教えに従って、我が身心を調え続けていくことによって、お釈迦様のお悟りは絶えることなく、末代まで生かされ続けていくのです。もし、仏のみ教えから外れるような行いをしたならば、たちまち、仏のいのちは失われます。すなわち、仏のみ教えが断続され、保てなくなってしまうのです。そうならないように、我が言動を調えながら日々を過ごすことが、「仏の慧命を続ぐ」という「不殺生」であることを、押さえておきたいところです。

 

仏法僧の三宝に帰依することができたとき、その対象である仏の存在を大切にし、敬っていくことでしょう。そうした姿勢によって、仏の慧命が続がれていくのです。

第16回「不偸盗戒(ふちゅうとうかい) -“心境如如(しんきょうにょにょ)”なる生き方を目指して―」

令和3年月2日 更新

第二不偸盗(だいにふちゅうとう)。心境如如(しんきょうにょにょ)なれば、而(すなわ)ち解脱門開(げだつもんひら)く。

 

あらゆる存在に対して、いのち(仏性)があることを認めた上で、どんないのちに対しても、自分の好悪の感覚に捉われ、接し方を変えるような差別的な関わりをすることなく、その存在を敬い、生かすこと。そして、そうしたお釈迦様のみ教えと共に生きることを通じて、仏法を護持し、絶やすことなく次世代へとつないでいくこと。それが第一「不殺生」が指し示すことでした。

 

この「不殺生」のみ教えは奥深く、重要な観点が多々、内包されていますが、その中でも、自分の感覚だけで物事の是非等を判断し、好悪を分別する捉え方を慎むという点に着目していくと、「第二不偸盗」というみ教えが自ずと生じてくるように思います。“盗”という文字から多くの人は“盗みを戒めるみ教えである”ことが推察できるでしょう。お察しの通りで、“偸”もまた、「盗む」という意味があります。

 

毎朝、新聞に目を通しておりますと、大抵、どこかで窃盗事件が発生していることが報道されています。食料品や化粧品などの日用品の盗難から、果ては、振り込め詐欺等に見られるような多額の金品の盗難等、私たちの日常生活における「盗み」というのは、「殺生」と同等、もしくはそれ以上に発生している悪事の一つではないかという気がします。

 

そもそも、なぜ、「盗み」という悪事が発生するのでしょうか。それは、自分のモノと他者のモノという分別が生じたとき、そこに好悪の感覚が発生して、他者のモノを羨んでみたり、欲しくなってみたりするからに他なりません。そして、この感情を自分の中で調整することなく、縦ほしいままにしていると、三毒煩悩となり、貪りの言動となって表出していくのです。これが「盗み」が発生する原理です。

 

こうした原理は人間ならば誰しも発生させる可能性を持っています。そのことを踏まえた上で、貪りの心が生じないように我が身心を調えていくのが「不偸盗」における大切な第一の視点です。

 

第二の重要なポイントとなるのが「心境如如なれば、而ち解脱門開く」です。「心境」というのは、「主観と客観」のことで、「自と他」のことを意味しています。「如如」というのは、「本来のあるがままの姿」のことで、それが区別のない一体の姿であるということです。すなわち、どんな存在であれ、いのち(仏性)を有したものであり、仏法僧の三宝に帰依するものであるならば、全てを仏様のごとくに捉え、敬っていく姿勢が求められていくのです。そういう“仏性を有した存在である”という意味での一体であり、「如如」ということなのです。

 

そうした「如如」なることを認めることができたとき、「解脱門が開く」のです。「解脱」は「三毒煩悩の束縛から離れた悟りの境地」です。『「盗まない」という「不偸盗」を通じて、万事が仏性を有した仏の如き大切な存在であることに気づけば、私たちは仏に近づける』というのが、「不偸盗」における道元禅師様のお示しなのです。すなわち、「不偸盗」は窃盗を戒めるのは勿論のこと、人でもモノでも万事を大切に扱うことを説いたみ教えであるということを、是非、押さえておきたいものです。

 

この点について、最後に、住職の若かりし頃の失態を通じて得た「不偸盗」を最後にご紹介させていただきます。大本山總持寺(横浜市鶴見区)で修行させていただいていた頃、行鉢(ぎょうはつ)(僧堂内での修行僧が作法に則って食事をいただく修行)中に、事もあろうに、誤って自分の応量器(おうりょうき)(食器)を床に落としてしまったのです。兼ねてより先輩の修行僧から、「応量器は仏様を敬うかのように大切に扱いなさい」と教わっていたのですが、今思えば、当時の私は反骨精神旺盛で我が強かったのか、そうした先輩からの教えに聞く耳を持っていなかったのでしょう。だから、自分の空腹を早く満たせればよいという、食を貪る心が勝り、食をいただくために必要となる応量器に思いを巡らせ、大切にしようとする気持ちが欠けていたように思います。まさに「心境如如」などという、応量器に仏性の存在を認めたり、万事を仏の如く敬ったりする姿勢など、微塵にもなかったのです。だから、作法に準じた応量器の使い方をせず、床に落とすという不始末につながっていったと、今更ながらに、当時の自分を反省させていただくのです。

 

こうした「心境如如」のみ教えを意識していけるかどうかによって、私たちが発する言葉や態度にも大きな影響が出てくることは言うまでもありません。こうしたみ教えを大切にしながら、万事の仏性を認め、敬いながら関わっていきたいものです。

第17回「不貪淫戒(ふとんいんかい) -“三輪清浄(さんりんしょうじょう)”なりて、諸仏の道と“同(ひとつ)”になる―」

令和3年2月日 更新

第三不貪淫(だいさんふとんいん)。三輪清浄(さんりんしょうじょう)なれば、希(こいねが)い望む所無し。諸仏の道は同(ひとつ)なればなり。

 

昭和60年のテレビコマーシャルに「禁煙パイポ」の宣伝がありました。“私はこれで会社を辞めました”と中年男性が悲壮感満載で小指を立てながらポツリと語る姿は一世を風靡し、今も多くの人の記憶にとどまっているのではないかと思います。

 

この男性が小指を立てて表現しているのは、言うまでもなく“異性”のことで、異性との関わり方に対して、自分の欲望をコントロールすることができなくなれば、家庭や仕事など、自分が大切にしてきたものまでも失わざるを得なくなることが、このCMを通じて世間の人々に発信されているように思います。

 

そうした“異性との関わり方”を起点として、周囲のいのちとのあるべき関わり方を体得し、我が心の中に発生した三毒煩悩を調整していくことを目指すのが、「第三不貪淫」です。この「不貪淫」は、修証義第3章「受戒入位」では、「不邪淫(ふじゃいん)」となっています。この理由は、修証義の成り立ちと関連します。そもそも、修証義は一般在家を対象とした曹洞宗の宗意安心(しゅういあんじん)を目標として編纂された経典であり、あくまで一般在家には、「異性との関わり方に留意しながら、自らの身心を調えていく」という点が重視されたため、「不邪淫戒」になっているということです。それに対して、「教授戒文」は道元禅師様が出家して、仏道に入る者や仏道修行者を対象としてお示しになった仏戒に関するみ教えゆえに、「不貪淫」となっているのです。

 

そうした「不貪淫」ということについて、「三輪清浄なれば、希い望む所無し」と道元禅師様はおっしゃいます。「三輪」とは、「身(しん)・口(く)・意(い)の三業」のことで、「私たちの身体・言葉・心」を意味しています。その三者が「仏の如く調い、清浄になっているならば、あれこれ欲したり、望んだりすること自体がない」と道元禅師様はおっしゃっているのです。すなわち、自分自身が仏のみ教えに従い、清浄な生き方を保っているならば、相手を必要以上に求めるとか、高価な品を追い求めてみたり、自分の思いを叶えようと奔走したりといった言動自体が起らなくなるというのです。そこでは、対象に対して、自分の好みで好悪等を分別し、好きな方を選ぶなどという視点は起こりません。対象の全てが仏様であり、仏様のお徳を有した仏体なのです。だから、万事が大切な存在であり、選びようがないのです。選びようがないから、貪りが発生することもなければ、必要以上に執着して、あれこれ追い求めることもなくなるというのです。

 

そうなってくると、もはや自分の日常が悟りを得た諸仏の道と一体化し、同じものになっていくのです。それが「諸仏の道は同なればなり」の意味するところです。「第三不貪淫」を通じて、押さえておきたいことは、「三輪清浄なりて、諸仏の道と同になる」ということです。「三輪清浄」が自分の生き様の根底になくては、「不貪淫」が実現できません。自分の周囲に存在するあらゆるいのちを仏の如く敬いながら、我が三輪を清浄に調えていくとき、人は諸仏と道を同じくできるようになっていくのです。

第18回「不妄語戒(ふもうごかい) 仏の言葉・仏の行い・仏の心遣いを目指して」

令和3年2月16日 更新

第四不妄語。法輪は本(もと)より転ずれば、剰(あま)ることも無く、欠くることも無し。甘露(かんろ)は一潤(みなうるお)せば、実(じつ)を得(え)、真(しん)を得(う)るなり。

 

現在、人気絶頂の女優・浜辺美波さんと俳優・横浜流星さんのW主演で令和2年夏に放送されたテレビドラマ「私たちはどうかしている」(日本テレビ系)の中で、ドラマの舞台となった老舗和菓子店「光月庵(こうげつあん)」の座敷の床の間に「不妄語戒」と書かれた掛け軸がかかっていました。ドラマの中で、浜辺さん演じる和菓子職人・花岡七桜(はなおかなお)が横浜さん演じる光月庵御曹司・高月椿(たかつきつばさ)に掛け軸の意味を問う場面がありますが、「嘘をつけば地獄に落ちるという意味がある」と説明されていました。「第四不妄語」―“妄語”が意味するのは、そんな“嘘”、すなわち、“真実ではない言葉”です。

 

「第一不殺生」は「殺生をしないこと」ということを通じて、「周囲のあらゆる存在を認め、そのいのちを生かすこと」が示されていました。「第四不妄語」も、それと同じ視点によって示されています。すなわち、「嘘をつかないこと」を原点として、「真実の言葉を使い、真実の所作を行ずること」が説かれているのです。つまり、周囲に存在するいのちに対して、その存在を認め、相手と丁寧に関わる心を以て真実の言葉や行動を発していくことが「不妄語戒」なのです。まずは、そこを押さえておきたいと思います。

 

この「真実」というのは、意味も広範囲で抽象的な印象がありますが、それを紐解く上でのヒントとなるのが「法輪を転ずる」です。これは「仏が法を説くこと」です。そうなると、真実とは“仏の教え”であると解釈できるわけですが、仏は法輪を転じ、真実を提示しながら、娑婆世界に生かされているあらゆるいのちを救います。これを道元禅師様は「甘露一潤す」とお示しになっています。「甘露」は「涅槃」のことで、「人々の苦悩を救う悟りの世界」のことです。仏の説法は、この世の全ての存在を性別や年齢、出身地等、見た目の情報に左右されることなく、差別なく救いの手を差し伸べてくださいます。それは「剰ることも無く、欠けることも無し。」とあるように、あたかも円を描くようにして、救いを求める者が誰であれ、どんなことがあっても一定量の真実の法を提示して、差別なく救いの手を差し伸べてくれるというのです。これが「第四不妄語」の功徳なのです。

 

かつて大本山永平寺の西堂(せいどう)職をおつとめになった橋本恵光(はしもとえこう)老師(1890―1965)は自著「教授戒文提唱(国書刊行会)」の中で、『不妄語の「語」は、ことばという字であるけれども、実は表現ということを意味する。(原文ママ)』とおっしゃっています。老師のお示しに従うならば、我が身口意しんくいの三業で以て、仏の行い・仏の言葉・仏の心遣いを表現していくことが「不妄語戒」であると捉えることができます。私たちの表現というのは、言葉だけに限られたものではないことに是非、着目しておきたいところです。三宝帰依によって、行いや心も仏のみ教えに従って調え、言葉だけに頼らず、全身で仏のみ教えを説くことが「不妄語戒」の目指すところなのです。

 

ということは、坐禅に身を投じ、大山のごとく黙々と坐ることも「不妄語戒」を修行していることであると言えるのです。実際、我が姿勢を調え、兀兀(ごつごつ)と坐っていると、まるで自分と周囲が一体になって融け合っているような感覚になります。そうやって自分が周囲のあらゆるいのちとつながっていることに気づかされるのです。「自分と周囲の全てが関わり合い、つながっている」―これが、私たちが生かされている娑婆世界の嘘・偽りのない真実の姿です。そうした真実に気づく行いこそが、仏の行いなのです。

 

仏の教えこそが真実であると捉え、真実の言葉・真実の行い・真実の心遣いを我が身口意の三業によって提示できるようになることを、「不妄語戒」を通じて、体得し、地獄ではなく、仏の世界を目指していきたいものです。

第19回「不酤酒戒(ふこしゅかい) ―“慢なる酒”にご用心!―」

令和3年日 更新

第五不酤酒(だいごふこしゅ)。将(も)ち来ることも未(な)く、侵さしむることも莫(な)き、正に是(こ)れ大明(だいみょう)なり。

 

読んで字の如く、“酒”をテーマとした仏のみ教えです。酒を飲めば、人は酔います。そして、酒を飲むなら、楽しく飲みたいと誰もが願っていることでしょう。しかし、酒の飲み方を誤れば、ちょっとした口喧嘩だったはずが殺人事件に発展したり、短い距離の運転と思って握ったハンドルによって、重大な事故が発生したりと、戒律(仏の生き方)に大きく背く結果が生ずることが起こり得ます。

 

そうした酒というものに対して、その性質を押さえた上で、「日常生活において、どうやって酒と関わっていくことが、仏のみ教えに叶った行いになるのか」ということを学び、自らの身体に習慣として刷り込んでいくことが「第五不酤酒」のねらいです。

 

まず、「酤」という文字に着目してみたいと思います。一般には見慣れない文字ですが、これは「買う」とか、「売る」という意味を有した文字です。ということは、「不酤酒」というのは、酒の売り買いを戒めるみ教えだという解釈になります。

 

しかし、そうなると、「酒を販売する全国数多の酒屋さんなり、居酒屋やバーなど、酒類を提供する飲食業は仏のみ教えに反した悪しき行いをやっているのか」という疑問が生ずるでしょう。しかし、それは間違いです。なぜなら、仏教は特定の方に批判の矛先を当て、排除するようなことはしないからです。「不酤酒」において説こうとしているのは、「自分と酒との関わり方」であるということを、しっかりと押さえておきたいところです。すなわち、眼前に酒があり、それを体内に取り入れたとき、どんな行動を提示しながら周囲と関わっていけばいいのかという点を説こうとしているということです。

 

仏教では自分の中に発生した三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)を調整することを説きます。つまり、三毒煩悩を表出させて、周囲に不快感を与えないような言動の提示を説くのです。この点に着目したとき、酒には、飲めば三毒煩悩を発生させ、表出させるスピードを速めてしまう特性があるが故に、できることならば、酒の売り買いや提供は避けるべきであるものの、もし、どうしても飲酒しなくてはならない場面があるならば、仏の飲み方とは何かを考え、それを心がけていくことが重要になっていくことに気づかされます。

 

昭和の傑僧のお一人で、臨済宗妙心寺派21代管長・山本玄峰(やまもとげんぽう)老師(1866-1961)は、大の酒好きの禅僧としても知られた方ですが、「酒が悪いのではなく、酒の飲み方が未熟なのだ」とおっしゃったとのことです。たとえ、殺人や傷害までには至らなかったにしても、酒に酔ったのをいいことに暴言を吐くなど周囲に不快感を与えるような言動も慎むべきでしょう。そうした事の大小にかかわらず、今一度、山本老師のお言葉を胸に、自身の飲酒を振り返り、穏やかな飲み方を心がけていきたいものです。

 

また、飲酒する者に限らず、万人が注意しなければならないことがあります。それは「慢」ということです。「慢」は酒のように人を酔わせてしまいます。お釈迦様は「憍慢(きょうまん)」ということに触れ、戒めていらっしゃいますが(詳しくはこちらをご覧ください)、地位や仕事への慣れなど、酒に酔うが如く、自分を酔わせるものが私たちのまわりに存在しています。そうした“慢なる酒”に十分なくらいに用心を払い、自分を調えていくことが「不酤酒」における最大の留意点なのです。これが「買う」という側面からの「不酤酒」です。

 

逆に「売る」という側面からの「不酤酒」というのは、周囲を酔わせないことです。自分が発した言動によって、周囲が慢心するようなことがないように留意するという視点も併せ持つことが大切です。そうした「酔わない」・「酔わせない」を説いているのが、「将ち来ることも未く、侵さしむることも莫し」なのです。どこからも自分を酔わせるものが来ることもなければ、自分から相手を酔わせるようなものを発することもないということです。「酤」における「買う」を意味するのが「将ち来ること」であり、「売る」が「侵さしむること」という捉え方も興味深いです。そして、そういう状態によって、「大明」という、全てが雲一つない晴れ渡ったような状態が実現できるというのです。

 

自らを酔わせる“慢なる酒”を意識し、誰もが酔うことなく、自らの身心を調え、仏のお悟りを目指していきたいものです。

第20回「不説過戒(ふせっかかい) ―周囲と“同(ひとつ)”になるとき―」

令和3年3月日 更新

第六不説過(ふせっか)。仏法の中(うち)に於いては、道を同(ひとつ)にし、法を同にし、証(さとり)を同にし、行いを同にするなり。過(とが)を説かしむること莫(な)し。道を乱さしむること莫し。

 

「“過”を説くことなかれ」というのが、六つ目となる仏戒の説かんとしているところです。“過”とは、“過ち”ということです。他者の失敗や罪過を話題にして不用意に攻め立てない、また、相手の人格を否定するような言動を発しないというのが、「不説過」なのです。

 

この「不説過」を自分たちの日常生活の中に当てはめてみたとき、考えてみたいことがあります。もし、周囲の誰かが失敗を犯したとき、あなたはその人を責めるでしょうか。あるいは、責めることなく、許すなり、フォローするなりして、相手のミスを庇うでしょうか。また、ミスをした相手によって、責めるか許すか、その態度が異なるということはないでしょうか。普段の日常生活を振り返ってみたとき、他者の失敗に対して批判的な見方が生じたり、場合によっては、相手によって、その対応に差が生じたりするのではないかという気がします。

 

それに対して、仏法の世界の場合、道元禅師様は「仏法の中に於いては、道を同にし、法を同にし、証を同にし、行いを同にするなり」とお示しになっています。相手(周囲)に対して、歩調を合わせるが如く関わっていくのが仏法の世界であるということです。そうした周囲との関わり方によって、自分と相手との間を分け隔てる垣根がなくなり、一体化していくというのが「同」の意味するところです。そのことに気づく中で、実は自他を分別する垣根というのは、自分が勝手に作り上げていた存在でしかなく、本当は最初から存在していなかったことが見えてくるのです。修証義第4章「発願利生(ほつがんりしょう)」の中で、道元禅師様が「四枚(しまい)の般若」の一つとして掲げている「同事(どうじ)」というのは、まさにこういうことを説いたみ教えということになるのでしょう。「周囲と自分を同にする」のが仏道であり、そうなっている世界が仏法の世界なのです。

 

そうした周囲と同になっている関係性を思い描いてみたとき、たとえ相手がミスをしても、それを責め立てるような言動が生じるはずないのです。そもそも、仏法の世界では、そんな言動自体が存在しないのであり、まさに「過を説かしむること莫し」なのです。また、他者の人格を否定するような、相手の身心を混乱させるような言動も存在しないのです。それが「道を乱さしむること莫し」ということです。「第五不酤酒(だいごふこしゅ)」において、「将(も)ち来ること未(な)く、侵さしむることも莫き」とありました。「自分を酔わせる酒のごとき存在によって、酔うようなこともなく、他者を酔わせることもないように」とのお示しでしたが、それと同じように周囲と同になることによって、周囲の過失を責めたり、相手を混乱させたりするような言動を発することないようにしていくことが、「不説過」の目指すところなのです。

 

ある福祉施設での出来事です。利用者の家族から電話があり、応対した職員がその内容をメモに書き留め、担当職員に引き継ごうとしました。メモの内容は家族の利用者との縁を切らんと願うもので、決して、利用者に見られてはならないものでした。ところが、事もあろうに、そのメモを利用者が見てしまったのです。当然ながら、利用者は大きなショックを受けました。利用者に見られてしまったのは、ほんの一瞬の間に起こった事故ではありましたが、応対した職員は自分が利用者に見られないようにする配慮が足りなかったと、自らの重大な過失を認め、施設長に報告し、担当職員に謝罪しました。

 

すると、担当職員はかほどに重大な過失であったにもかかわらず、その職員を責めることなく、利用者の様子を伺いながら、その心の傷を癒やす関わりを続けてくれたのです。自らの過失を反省する職員は言いました。「怒られるくらいの重大ミスだったが、もし、誰かに自分の過失を責められていたら、立ち直るのに時間がかかったかもしれない」と。以来、その職員も他者の過失を責めないように留意すると共に、職場の人間関係が同(ひとつ)に近づき、職員間の信頼関係も強化され、職場環境がより一層良くなっていったとのことでした。

 

“周囲と同になる”という仏法の世界を是非、手本にしながら、この娑婆世界を過ごしていきたいものです。

第21回「不自讃毀他戒(ふじさんきたかい) -“世界平和の実現”に向けて、尽空(じんくう)を証(さと)り、大地(だいち)を証(さと)る-」

令和3年3月17日 更新

第七不讃毀自他(だいしちふさんきじた)。乃仏乃祖(ないぶつないそ)、尽空(じんくう)を証(さと)り、大地を証りたもう。或(も)し大身と現れたまえば空(くう)に中外(ちゅうげ)無く、或し法身と現れたまえば地に寸土(すんど)無し。

 

修証義第三章「受戒入位」では、“不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)”となっているのに対して、「教授戒文」では、“不讃毀自他”となっているのが興味深いところです。その理由は明確になっていないようなので、今後も参究の余地があるとして、試みに禅学大辞典で“不自讃毀他”を調べてみると、“不讃毀自他”と意味は同じで、「自分を誉め、他を謗るようなことをしない」とあります。人間たるもの、いいところもあれば、悪いところもあります。そのことに目を向けることなく、自分の欠点を認めず、他者の欠点ばかり指摘しては、相手に恥辱を生じさせるようなことは、仏の行いではないことは言うまでもありません。特に大勢の人がいる前で、特定の人間を批判したり、罵倒したりするようなことは慎みたいものです。そんな「不自讃毀他」ということを、私たちも仏のみ教えと共に生きる一人として、留意していきたいものです。

 

さて、本文を見てみると、「乃仏乃祖、尽空を証り、大地を証りたもう。」とあります。“乃”には“昔”とか、“以前”という意味があります。ですから、乃仏乃祖とは「教授戒文」をお示しになった道元禅師様以前の祖師方、すなわち、戒法をお悟りになったお釈迦様(仏)や、それを代々相承してくださった祖師方を指していることに気づかされます。そうした仏教の祖師方が空や大地を証ったということなのですが、これはどういうことかと申しますと、私たちの頭上に拡がる空にしろ、足元に拡がる大地にしろ、いずれもが無限のであり、制限がないということなのです。それが、仏がお悟りになった本来の姿なのですが、にもかかわらず、空や大地に自分たちの尺度で制限を設け、「100㎡の土地は私のもの、その隣の50㎡はあなたのもの」といった具合に、境界線を設けているのは、私たち人間に他ならないのです。そして、そうした境界線を設けることが、争いを生み出していくのです。

 

コロナ禍冷めやらぬ令和3年3月16日、アメリカからブリンケン国務長官とオースティン国防長官が来日。日本政府の茂木敏充外相と岸信夫防衛相と両国の政権発足後初となる「安全保障協議委員会(2プラス2)を都内で開催しました。会合では去る2月1日に施行された中国の「海警法」に関して、地域の混乱を招くとする深刻な懸念が表明されました。この法律は、自国が設定した管轄海域に違法行為の疑いがある外国船が侵入したと判断した場合、追跡・監視・拿捕だほ(船舶抑留等の実力行使)できることを定めたもので、「2プラス2」は、それに対応する堅固な日米同盟をアピールする場となったようです。これを受けて、3月17日の北國新聞社説には「今後は日米同盟をさらに堅固にしていく上での具体論が求められるだろう」とありましたが、現実の娑婆世界における国家間の関係は、いつの時代も平和と争いを繰り返してきたことは歴史が証明しています。そうした中で、「不自讃毀他戒」にあるように、「尽空を証り、大地を証る」という乃仏乃祖の行いを、娑婆世界に生かされている我々も見習いながら、自らの言動に反映させていきたいものです。「大身と現れたまえば空に中外なく、法身と現れたまえば地に寸土なし」とあるのは、我々が仏と共に生きることによって、悟りを得た仏様の御身を意味する大身や法身が現れたならば、空には中外の区別がなくなって一体と捉えられるようになり、また、大地においても、寸土(少しの土)でさえ、大地に一体化していると捉えられるようになることを説き示しているのです。

 

私たち一人一人が、少しでも「尽空を証り、大地を証る」ことができるようになれば、自他の区別がなくなります。これが、前回も提示させていただいた“同ひとつになる”ということです。このとき、必要以上に自分を褒め称えたり、相手を罵倒したりすることはなくなっていくでしょう。そうやって平和が実現されていくような気がします。平和の実現は、“持続可能な開発目標”を謳う「SDGs」の目標の一つにも掲げられている“平和と公正をすべての人に”とも合致しております。私たち一人一人の意識と修行が世界の平和につながっていくのです。

第22回「不慳法財戒(ふけんほうざいかい) “従(したが)い来(あた)えて、惜しまざる”ためには・・・?」

令和3年3月24日 更新

第八不慳法財(だいはちふけんほうざい)。一句一偈(いっくいちげ)は万象百草(ばんぞうひゃくそう)なり。一法一証(いっぽういっしょう)は諸仏諸祖なり。従(したが)い来(あた)えて、曽(かつ)て惜しまざるなり。

 

法(お釈迦様のみ教え)や財物を惜しむことなく周囲の何某かに差し上げることを説いた戒で、修証義第四章・「発願利生(ほつがんりしょう)」に出てくる「布施(ふせ)」・「愛語(あいご)」・「利行(りぎょう)」・「同事(どうじ)」の「四摂法(ししょうぼう)」にも通ずるものです。

 

ふと、自分たちの普段の生活を振り返ってみたとき、心の底から相手に喜んでもらえるようなことをしようと思うこともあれば、その反対に、たった一枚の紙でさえも差し上げるのがもったいないと思って、出し惜しみをしてしまうような場面もあります。なぜ、そうした行為の違いが生ずるのでしょうか?そもそも、なぜ、人間には「惜しむ」という行為が起こるのでしょうか?それは、自分の好みや考え方に引きずられ、周囲に対する態度を変えてしまうからです。つまり、自分が好きなものに対しては好意的になれるのに、苦手なものは意識的に遠ざけ、その価値さえも認めようとしないといった分別して捉えることが、「惜しむ」という行為につながっていくのです。

 

戒のみ教えに触れていく中で、「周囲と“同(ひとつ)”になる」ことの重要性を幾度も学ばせていただきました。「“同”になること」ができるから、周囲の過ちを必要以上に攻め立てたりすることがなくなり、その存在を認め、大切に関わっていくことができるのです。そうした意識から生ずるのが「四摂法」に示されている「布施」等の行いなのです。

 

ところが、自分が周囲と“同”になることができなければ、たった一句の法語であれ、たった一偈の仏法であれ、自分だけが有利になるような使い方をばかりを考えて、周囲の幸せを願って、施す(伝える・教える)といった態度にはなれないでしょう。一切の存在が溶け合って境界線のない状態になったとき、「施し合い」という行為が芽生え、惜しむという行為そのものがなくなるのです。すなわち、惜しみようがなくなるのです。

 

そこでは、万事が諸仏諸祖です。修証義のコーナーで「布施」のみ教えに触れた際に、施す側・施される側・施物の三者が仏法そのものであるというお話をさせていただきました(詳しくはこちらをご覧ください)。これは「三輪空寂(さんりんくうじゃく)」と呼ばれるもので、物事を施し合う中に存在する三者に何ら愛憎等の執着がない状態を意味しています。そういう状態が同事へつながっていきます。そして、そんな状態で発せられる行いが「利行」であり、言葉は「愛語」となっていくのです。

 

そうした「三輪空寂」を説いているのが、「一句一偈は万象百草なり。一法一証は諸仏諸祖なり」です。「万象百草」というのは、もろもろの草が転じて、「この世の一切の存在」を意味する言葉です。また、「一法一証」は「仏のみ教え・お悟り」のことです。“万事が仏のみ教え・お悟り”という状態になって、物事の施し合いがなされるために「来(あた)えて、惜しまず」となっていくのです。仏法に準じた施し合いだけが為され、仏法では説かれていない「惜しむ」という行為自体が存在しなくなるのです。

 

こうした「不慳法財戒」のみ教えに触れながら、我が日常生活を振り返ってみたとき、まだまだ周囲と“同”になりきれてないことに気づかされ、反省させられるばかりです。今一度、“同”を強く意識しながら、自らの言動に反映させていけるように心がけていきたいものです。

第23回「不瞋恚戒(ふしんいかい) ―“感情調整”を意識して―」

令和3年3月31日 更新

第九不瞋恚(だいくふしんい)。退きに非ず進に非ず、実(じつ)に非ず虚(こ)に非ず。光明雲海(こうみょううんかい)あり、荘厳雲海(しょうごんうんかい)あり。

 

今回のテーマは「感情の調整」です。感情の中でも、とりわけ怒り(瞋【いかり】)に焦点を当てていますが、瞋りは貪りや愚かさと共に私たち人間の中に生じる三毒煩悩の一つで、これらを調整しながら身心共々に静寂な日常を目指していくことが、仏教の指し示す我々人間が生きていく上での課題です。

 

「不瞋恚」を端的に申し上げるならば、「怒らないこと」ですが、“瞋”には“目を吊り上げて激しく怒る”という意味があり、“恚”には“敵意を持って怒る”という意味があります。いずれも、相当に激しい怒りの感情を意味しているのですが、そんな感情が沸き起こってきたときに、どう対処しながら穏やかで静かな言動を提示していくかということが最大のポイントです。そして、そうすることによって、どんな状況でも受け入れる力を養い、穏やかな身心を維持することをも目指すことも押さえておきたいものです。

 

近年は「あおり運転」や「ハラスメント」、あるいは「ヘイトスピーチ」等に見られる暴言・暴力に対して、世間の注目度が高まりつつあります。また、世界に目を向ければ、米中の新冷戦、北朝鮮のミサイル、ミャンマーのデモ等、怒りの感情が一つの引き金となり、極度の緊張感が蔓延し、人間のいのちを奪い去るまでに発展するような事態まで招いています。こうした諸問題を背景に、感情的になって大声を出したり、暴力行為を働いたりすることに対して、社会の眼は以前にも増して、厳しくなる傾向にあり、人々は静けさを求め、暴言暴行や騒音に対して、過敏なまでに不安や恐怖を覚えるようになりました。そうした時代だからこそ、暴言や暴力の防止を声高に主張するとか、逆に、戦争中だからと言って、荒々しい言動が許されるかといえば、言うまでもなく、そういうことではありません。時代の状況に応じて、感情を調整したりしなかったりするというのではなく、どんな状況下であれ、「不瞋恚」を意識しながら感情を調整し、穏やかな日常生活を目指すことが大切なのです。

 

「教授戒文」を通じて、仏戒というものを学ばせていただく中で、「“同(ひとつ)”になる」ということが大きなポイントの一つでした。自分と周囲のあらゆるいのちとの間に垣根を設けることなく、一体化して、融け合うことを目指すのが「“同”になる」ということです。

 

そんな状態を目指していく上で、周囲に対する「慈悲(じひ)」が芽生えてくることでしょう。慈悲は、わかりやすく申し上げるならば、相手に対する気遣いや、思いやりのことです。そうやって周囲に慈悲を巡らせていくとき、ハッとする瞬間が訪れることでしょう。それは、たとえば、悪気なくやってしまったことで、明らかに周囲に迷惑がかかっているのに、当の本人はそのことに気づかず、何食わぬ顔をして平然としているという場面に出くわしたときです。こんなとき、穏やかな言動で本人に改善を願っても、その願いを叶えることは難しいでしょう。逆に、多少の厳しさを以て、本人に注意喚起をした方が、本人は自らの過ちに気づき、反省を促されることがあるのです。

 

ここで押さえておきたいのは、瞋りの感情そのものは否定すべきものではないということです。瞋りを言葉や行いに変換して表に発していくとき、そうすることで、自己の過ちに気づき、二度と繰り返さぬようにする「懺悔(さんげ)」に至るならば、瞋りも法となって、人を導き、人を救うのです。「不瞋恚」において道元禅師様が説かんとしているのは、瞋りの感情を具体例とした感情の調整なのです。慈悲心を根底に持って、厳しく接するべきときは怒りの感情を伝え、穏やかに関わればいいときは和やかな言動を心がけるのです。常に怒り続けているのも周囲に不安を与えるだけです。逆に、全く怒らずにいても人を導くことはできません。感情は状況に応じて調整するものであるというのが、「退きに非ず進に非ず、実に非ず虚に非ず」です。「怒りの感情を退けるでもなく、感情のままに突っ走るでもない、真実と虚構の両面も併せ持っている」のです。そして、「光明雲海あり、荘厳雲海あり」とあります。「大空と一体化した雲と広大な海が一体となって、この娑婆世界を作り上げている」というのが、この世の真実であり、そこに気づいたとき、「不瞋恚」が実現されていくのです。

 

怒り口調や険しい表情など、表面的には厳しい言動であっても、そこに相手を思いやる慈悲心があるならば、相手に恥をかかせないよう、敢えて人のいない場所を選んで、言葉を選びながら静かに注意するなど、慈悲心ゆえの言動によって、怒りが表現されるはずです。そして、そんな怒りを帯びた慈悲は、必ずや相手にその真意が通じます。このとき、過ちが改善され、正道を歩むきっかけができると共に、両者の人間関係が強固なものになっていくのです。相手に媚びて、良好な関係を築こうと、穏やかさだけを追求しながら関わっていても、言いたいことも言い合うことができず、お互いにどこか遠慮が見え隠れしているような、ニセモノの関係しかできません。相手と自分の間に、少しでも強固な信頼関係を目指していく上で、「ときには退き、ときには進む」という感情調整を心がけながら、周囲と関わっていきたいものです。

第24回「不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) ―“薩婆若海(さつばにゃかい)に帰す”生き方を―」

令和3年月3日 更新

第十不謗三宝(ふぼうさんぼう)。現身(げんしん)、演法(えんぽう)、世間の津梁(しんりょう)は、徳、薩婆若海(さつばにゃかい)に帰して、称量(はか)るべからず。頂戴奉覲(ちょうだいぶごん)すべし。

 

仏戒(仏の生き方)というものを、10通りの観点から示した「十重禁戒じゅうじゅうきんかい」を味わってまいりましたが、ついに最後の10箇目となる「不謗三宝戒」に辿り着きました。「教授戒文」では、最初の大枠として、「懺悔さんげを通じて、仏法僧の三宝に帰依する」ことが示され、そこから三聚浄戒さんじゅじょうかい、そして、十重禁戒へと入っていきましたが、最後に再び三宝帰依に帰着するという形で説法の幕が降ろされることが、非常に興味深いところです。やはり、「三宝帰依」ということは、仏教徒として、さらには、人間として正道を歩んでいく上で、外すことのできない基本姿勢であるということを、今一度、確認しておきたいところです。

 

さて、今回は「不謗三宝」ということで、字面から判断すれば、「仏法僧の三宝を謗そしらない」ということを説いているのは言うまでもありませんが、これは、言い換えるならば、「三宝帰依」を説いていると解すべきでしょう。すなわち、仏法僧の三宝に対して、私見を交え、むやみやたらと誹謗中傷のごとく否定するようなことは慎み、我が身を三宝の大海に投げ入れ、委ねていくことが、仏法(人間のあるべき生き方を指し示したみ教え)と共に生きていくということなのです。

 

本文中に「現身」とあります。これは、「仏」のことなのですが、この娑婆世界において、我々の眼前に姿形を表した仏様として捉えればよろしいかと思います。また、「演法」というのは、「法」のことで、仏が娑婆世界を舞台として仏法を演説し、それによって、多くの人々が苦悩から救われてきたということです。そして、「世間の津梁」は仏法僧の三宝を今日まで伝えてきた「僧」を意味しています。“津”は“渡船場”、“梁”は“橋”ということなのですが、娑婆世界に生きる人々が仏法の大海を渡り、悟りの地に渡る上で欠かせぬ渡船場であり、橋ということです。言い換えるならば、娑婆世界における全ての存在を救うと共に、私たちの中に無意識のうちに形成された娑婆世界と仏の悟りの世界との間の境界を取り払い、双方が一体となって、一つに溶け合っていることに気づかせてくれる善き師であり、勝友しょうゆうであるのが「世間の津梁」なのです。

 

そうした境界がなく、どこまでも果てしない広大な海のごとき仏の智慧を意味しているのが「薩婆若海」です。そこに帰着してしまえば、A地点は自分のもので、B地点はあなたのものといった、境界を意識する(称量る)ことがなくなるのです。これぞ仏戒における重要なポイントの一つとして掲げられている「“同(ひとつ)”になる」ということが徹底した状態なのです。

 

こうした三宝帰依によって、仏戒という生き方に巡り合うことができるということを、しっかりと自覚し、敬意を以て三宝とのご縁を結ぶことを願って、「頂戴奉覲すべし」と道元禅師様は締めくくっていらっしゃいます。「覲」には、「目上の者にお会いする、まみえる」という意味があります。私たちが仏法僧の大海に我が身を投げ入れ、決して、そこから離れることなく、一体となって融け合いながら関わっていくことを自らの生き方に反映させていきたいものです。

第25回(最終回)「“引請(いんじょう)”という責務 ―“仏の慧命(えみょう)の嗣続(しぞく)を願って―」

令和3年4月日 更新

此の十六条の仏戒の、大概(たいがい)は是(かく)の如し。教わるに随い、授かるに随い、或は礼受(らいじゅ)し、或は拝受(はいじゅ)すべし。吾(わ)れ今引請(いまいんじょう)せん。

 

「108歳の禅師様」と呼ばれ、多くの人々に慕われた大本山永平寺第七十八世・宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師様(1901-2008)は、「戒というのは、本来の立派な本性に立ち返ることであり、自分の中にある真理を呼び覚ますことである。」とおっしゃいました。今から約2600年前の12月8日の明け方、坐禅修行によって本来の立派な本性に立ち返り、自分の中にある真理を呼び覚まされたのがお釈迦様です。そんなお釈迦様に全面的に帰依(我が身を委ねる)した高弟・摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)にお釈迦様がお悟りになった法が伝わり、摩訶迦葉尊者から阿難陀尊者(あなんだそんじゃ)に同じように法が伝わっていきました。そこから仏法は拡がり、インドにおいて二十八祖、中国において二十三祖、師から弟子へと伝わり、我が国にも永平寺開祖・道元禅師様によってもたらされ、今日に至っています。

 

そうしたお釈迦様から脈々と伝わる仏法は、仏戒でもあります。仏戒は、お釈迦様から伝わる“悪を起ち・善を修する”という言動を指しますが、「教授戒文」は、その仏戒について、道元禅師様によって提示されたものです。道元禅師様は「教授戒文」の中で、仏戒について、十六通りの方法で大まかに概要をお示しになってまいりました。まずは「三帰戒(さんきかい)」です。これは「南無帰依仏(なむきえぶつ)」・「南無帰依法(なむきえほう)」・「南無帰依僧(なむきえそう)」という、仏法僧の三宝に帰依するということです。次は「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」です。「悪を断つ」ことを誓う「摂律儀戒(しょうりつぎかい)」、「善を修する」ことを誓う「摂善法戒(しょうぜんぼうかい)」、そして、周囲のいのちに配慮することを心がける「摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)」です。そして、そうした仏戒を日常生活の場面に即して、具体的に十通りの形で示されたのが「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」です。「三帰戒」+「三摂浄戒」+「十重禁戒」で「十六条戒」なのです

 

「十重禁戒」を読み味わっていく中で、「“同(ひとつ)”になる」というキーワードが登場しました。これは自分と周囲の存在との間に垣根を作らないことです。垣根によって、自と他の区別ができると共に、そこに自分の好みや都合が混じっていくことで、差別が生じていきます。「摂衆生戒」というのが「周囲のいのちに配慮した言動を心がけることである」とするならば、それは「“同”になる」のを目指すことによって実現できると捉えることができるでしょう。そうなると、「悪を断つこと」、すなわち、「善を修する」というのも、周囲と「“同”になる」ことによって実現できることに気づかされるのです。

 

こうした仏戒というものが師から弟子へと受け継がれてきた歴史が、仏教の2600年余りに及ぶ歴史なのです。ここでは、師に帰依する弟子たちは、一切の私見を交えることなく、師の教えに随い、仏戒を授かってきました。まさに「教わるに随い、授かるに随い」です。師はもちろんのこと、仏法僧の三宝に礼拝(礼受・拝受)しながら。そうした仏戒というものと私たちのご縁を結んでくださる“誘導役”を担うのが師なのです。「引請」とあるのは、「誘導」のことです。

 

少しでも多くの人々が、「自他の垣根を取り払う」と共に、「本来の立派な本性に立ち返り、自分の中にある真理を呼び覚ますこと」を願って、出家者には「引請」という責務があることを意識していきたいものです。そのためにも、仏戒に対する弛まぬ学習と日常生活での修行を心がけていきたいものです。そして、そうした日々の積み重ねによって、「仏の慧命を嗣続する」ということが実現し、仏教の歴史が未来へと刻まれていことを再確認しておきたいものです。