修証義(しゅしょうぎ)


                 背景 「能登鹿島駅(別名 能登さくら駅)」令和3年4月6日 撮影

第1章 總序(そうじょ)

第1回「修証義(しゅしょうぎ)」とは

「修証義」とは、明治23年に大内青巒(おおうちせいらん)(1845~1918)が編集した「洞上在家修証義(とうじょうざいけしゅしょうぎ)」を当時の両大本山(福井県の永平寺と横浜の總持寺)の禅師様が編集して作成された経典です。数ある経典の中でも、新しい部類に入るものです。「修証義」に使用されている文言は、曹洞宗の開祖・道元禅師様が記された「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」95巻の中から、重要な箇所を選別して作られたものです。(詳しくは「第2回 正法眼蔵について」でお話させていただきます)


当時の社会は、明治政府の近代化政策によって、大きな変貌を遂げていました。その影響は、仏教界にも多大な影響を及ぼし、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」や「神仏分離令」などの仏教を批判・排斥する運動によって、廃寺もしくは神社になった寺院が続発いたしました。


これまで自分たちの心の拠り所となる経典が存在していなかった曹洞宗では、こうした仏教危機の大混乱の中で、自分たちの支えとなるべき経典を作ることが急務とされ、そんな中から生まれたのが「修証義」という経典だったのです。


「修証義」の役割は“人々の心の拠り所になること”ですから、誰にでもわかりやすい経典であること、つまり、「在家教化」のための経典であることが必然的に求められました。新教典・「修証義」を通じて、明治の仏教危機に瀕した曹洞宗が選んだ「在家教化」の道とは、一般の方に仏教をわかりやすく広めていこうとする道だったのです。


従来の経典から見れば、比較的分りやすい「修証義」は明治の宗教の危機を救い、今日までお釈迦様のいのちをつなぐ役目を果たすという、多大な功績を残す経典となりました。登場後、100年以上の歳月が流れた平成の世において、そんな「修証義」を味わいながら、現代社会に生きる我々の安楽の道となることを願うばかりです。

第2回「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」について

前回は「修証義」という経典が、人々の心の拠り所となることを願いつつ、在家教化を目的に、当時の両大本山の禅師様が「正法眼蔵」を編集して作ったお経であるというお話をさせていただきました。


さて、今回は「正法眼蔵」についてお話をさせていただきます。これは、曹洞宗の開祖・道元禅師様の1231年から1253年までの23年もの間の説示を著述したものです。道元禅師様が自ら筆を取り、自らタイトルを命名された日本の曹洞宗の教えの真髄です。全部で95巻存在していますが、道元禅師様は、本当は100巻の編述を意図していらっしゃいました。しかし、志半ばに亡くなられたと言われています。


道元禅師様の説示であるという「正法眼蔵」ですが、主に禅師様が多くの修行僧と共に過ごした永平寺を始めとするお寺で修行僧に向かって説かれたお教えです。いわば、修行僧を中心に在家の方まで範疇に入れたものなのです。それに対して、「修証義」は在家に向けて、「正法眼蔵」をわかりやすく編集したものです。ですから、内容的には「修証義」は「正法眼蔵」を編集したものであっても、それぞれが目指す目的だとか、誕生までの経緯には大きな違いがあるのです。よく僧侶の世界では、「修証義」と「正法眼蔵」が同じ経典がどうかという議論が起こりますが、両者の誕生の経緯に注目すれば、両者が別物の経典であると解釈することができるはずです。


いずれにしても、「修証義」を読みすすめていく上で、「正法眼蔵」を読む必要性は出てきますし、逆に、「正法眼蔵」を読みながら、「修証義」に目を通す必要性が生じます。両者は「違う経典」でありながらも、その関係性は切っても切れない強いものなのです。そうしたお互いの深い関係性を十分に考慮しながら、次回より、「修証義」の内容に入っていきます。「修証義」は全部で一巻5章から成り立っています。まずは、「總序」と呼ばれる「第一章」からお話をさせていただきたいと思います。

第3回「仏教徒の課題 ―仏に成るということ―」

平成27年7月18日 更新

生(しょう)を明(あき)らめ死を明きらむるは仏家一大事(ぶっけいちだいじ)の因縁(いんねん)なり


「修証義」の始まりとなる今回の一句。そこでは「自分がどう生きて、どう死ぬのかをはっきりさせながら日々を過ごすことが、仏教徒にとって大切な課題である」と述べられます。これは「私たちがどう生きて、どう死ぬのかを日々の生活の中ではっきりさせながら過ごしていこう」ということです。具体的にどうすればいいのかについては、この後から順次、説明がなされ、具体化されていき、最終章である第5章の最後で明確に提示されます。


当然ながら第5章の最後の一句は各章のみ教えを全て網羅した上で生み出されたものです。ですから、答えがあるからといって、すぐに当該箇所を見ても、何か納得がいくような解答は得られるわけではありません。どんなに時間がかかろうとも、結論に至るまでの道筋を一つ一つ丹念に味わっていくことで、いつか青い実が太陽の光を浴びて食べ頃に熟すように、何かを得るときがやってくるものです。それが「悟り」であり、「成仏」ということなのです。

『「成仏」って死んだ人のことであって、生きている我々には関係ないんじゃないか?』と問われそうですが、成仏は生きている人にも大いに関係があります。というより、生きている人こそ大切な課題なのです。


「成仏」を和文に読み下してみると、「仏に成る」となります。「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」の中で「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉が出てまいります。これを道元禅師様は「一切は衆生にして悉有なり、仏性なり」と読みました。「一切(全ての存在)にはいのちが存在し、仏の性質を持っている」というのです。私たちの眼から見れば、人は人でしかなく、木は木でしかないのですが、仏様の悟りの眼で観ると、すべてが仏になる可能性を秘めた仏であるというのです。仏であるならば、悩める人々に救いの手を差し伸べてくれる存在ということになるのですが、私たちが仏の眼を得て、一切の存在を観ることができれば、全ての存在が仏の可能性を秘めていることに気づかされるのです。


「仏教徒の課題」である「成仏」―それは私たちが自分の中に眠る仏性をしっかりと磨きながら、まわりの存在の仏性を見極めることでもあるのです。

第4回「三宝帰依の日常を! ―自分の生涯に“仏”を存在させる―」

平成27年日 更新

生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし


「生死」-仏教では“しょうじ”と呼びます。これは人間の一生を意味します。この世には常に時間が流れています。それを仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といいますが、それ故に、この世に存在するものは絶えず変化していきます。この世にいのちをいただいた者は、やがて、年齢を重ねて、病にかかり、死を迎えます。それを「生老病死(しょうろうびょうし)」と言い、私たちがこの世に存在するが故に経験しなければならない4つの苦しみを指すのですが、「生死」とは、その中で、最初の“生(生まれること)”と“最後の死(死ぬこと)”を取り出した言葉です。


そんな人間の一生涯の中に「仏」が存在するならば、私たちの一生涯が穏やかなものになり、「生死」の苦しみを和らげることができるというのが今回の一句が意味するところです。


道元禅師様が夜な夜なお示しになったみ教えをお弟子様である孤雲懐弉(こうんえじょう)禅師様が筆録された「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」という著書があります。その中に「人々(にんにん)皆食分みなじきぶんあり。命分みょうぶんあり。非分(ひぶん)の食命を求むとも来るべからず」とあります。これは人間の寿命や一生涯でいただくことのできる食事の分量は最初から定まっており、人によって異なるものであるということです。長短様々、いつお迎えが来るかわからぬいのちならば、どうやって輝きのある充実したものにするかを考えていくことが大切になってきます。仏教では、その方法として「仏と共に生きる」ことを提示しているのです。すなわち、私たちが仏とのご縁を結び、仏のみ教えに従って生きていくということで、そうすれば、私たちの日常が穏やかなものになっていくというのです。それが「生死の中に仏あれば、生死なし」の意味するところです。


仏とご縁を結び、仏のみ教えに耳を傾け、仏を敬うこと―それを「三宝帰依(さんぼうきえ)」と言いますが、三宝帰依の日常を過ごしていく中で、充実した生き方が見えてきたとき、苦しみが和らぎ、安らぎが生まれるのです。

第5回「流れをつかむ ―お釈迦様とのご縁を結ぶために―」

平成27年8月日 更新

但(ただ)(只)生死即(しょうじすなわ)ち涅槃(ねはん)と心得て生死(しょうじ)として厭(いと)うべきもなく涅槃(ねはん)として願うべきもなし


私たちが生かされているこの世とはどういう世界なのでしょうか・・・?


それは『「諸行無常(しょぎょうむじょう)(この世は時間の流れがあるために、万事が絶えず変化していること)」ゆえに、自分の思い通りにいかないことが多い世界である』ということです。自分の思い通りにいかないことを「諸法無我(しょほうむが)」といいますが、いくら一生、健康で長生きがしたいと願っても、いつかは、肉体は老い、病にかかり、死を迎えます。たとえ、老いや病に無関係な若くて、健康な時であっても、人間関係や仕事のこと、勉強のことなど、誰しも様々な苦しみを抱えながら生きています。この世は苦しみの連続である-それを「一切皆苦(いっさいかいく)」といいます。


大切なことは私たち一人一人がこうした自分たちが過ごすこの世のしくみを知ることです。それはこの世で生きていくには、苦しみがつきまとうという事実を受け止めるということです。


それを受け止めた上で、「どうすれば、そうした苦しみを少しでも和らげることができるか?」を考えていくのです。その答えは「お釈迦様とのご縁を結ぶこと」です。前回、「三宝帰依」というお話をさせていただきましたが、私たちが「仏とご縁を結び、仏のみ教えに耳を傾け、仏を敬う」という、仏と共に生きていくことが必要だというのです。


お釈迦様とのご縁を結ぶ―その方法はいろいろあります。言うなれば、私たちには様々な道が与えられているということです。一番簡単なのは、書店に行って、仏教書のコーナーで、何でもいいから仏教に関する本を一冊購入し、読んでみることです。「お金がもったいない!!」というのならば、図書館で借りてもいいです。とにかく何かしらの仏教書を読んでみることです。その一冊を読みすすめながら、まだ、何か釈然としない、まだ仏教が見えてこない、というのであれば、さらに別の本を買って、読んでみるのもいいかと思います。


もし、仏教書に触れ合う中で、何か見えてきたとき、今度は、その教えを実行してみることです。仏教書を読むのはお釈迦様とのご縁を結ぶにはいいのですが、読んでいるとどこかわかったような気になってしまい、教えを実践しなくなるという難点があります。仏教の教えは、いくら頭の中で暗記したところで、何の意味もありません。「やらなければ」意味がないのです。


道元禅師様は若かりし頃、仏道修行とは坐禅と祖録(そろく)(古人の仏教に関するみ教え)を読むことだと思い込んでいました。ある日、中国の天童寺(てんどうじ)にて祖録を読んでいた道元禅師様の元に西川(せいせん)の僧なる人物がやってきて、道元禅師様に祖録を読む理由や意義について質問なさいました。「畢竟(ひっきょう)じて何の用ぞ」―祖録を読むことが一体何になるのか?と問い続ける西川の僧を納得させる解答を見い出せぬ道元禅師様は「坐禅を徹底的に行じなければ、仏法の真髄を説くことはできない」ことに気づかされます。道元禅師様と西川の僧のやり取りは、仏道修行における実践の大切さを訴えています。すなわち、「坐禅も祖録を読むことも同じくらい大切であり、お釈迦様に直結する行である。だから、どちらかに偏った見方をするのではなく、双方を大切にしていく」ということなのです。


仏教のみ教えは決して、難解な哲学的思想ではありません。我々の日常生活に根付いたものであり、いくらでも日常生活の中で実行できることばかりです。たとえば、履き物をそろえるとか、食事の際に「いただきます」や「ごちそうさま」を言うとか。こうしたことを実行することで、自分にはできると思っていたようなことでも、意外とできていないことに気づきます。また、実行を継続する中で、いろんな発見があり、自然と心が穏やかになってくることもあります。


お釈迦様とご縁を結ぶ中で、次第に平穏で安らかな日常を送ることができる―それが「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の境地です。「涅槃」とは煩悩(ぼんのう)(むさぼること・怒ること・愚痴を言うこと)がコントロールできた状態です。この世の仕組みを知り、心のやすらぎを求めて、お釈迦様とご縁をつなぐ―この流れが完成したとき、一切皆苦だった「生死」が「涅槃」になるのです。苦しみの生死とやすらぎの涅槃は決して、相反するものではないのです。また、苦しみと安らぎは、別個に存在するのでもなければ、自分の好みで分別するものでもありません。私たちの生死の中に仏を置くことで、一連の流れのあるつながったものになるのです。


この流れを体得することを願うばかりです。

第6回「中道(ちゅうどう) ―偏らず、何ごとも受け止めていく―」

平成27年8月11日 更新

是時(このとき)初めて生死(しょうじ)を離(はな)るる分(ぶん)あり、唯一大事因縁(ただいちだいじいんねん)と究尽(ぐうじん)すべし


私たちが生かされているこの世のしくみを知ること。その上でどうすればいいかを体得すること。私たちの一生涯(生死【しょうじ】)に仏様とのご縁を結べるならば、苦しみが和らいでいくというのが、前回の「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」ということです。生老病死は人間が生きていく上で誰もが避けては通れぬ問題です。その避けられない問題に対して、お釈迦様とのご縁を頼みの綱として、真正面から向き合っていくならば、「生と死の分別から離れることができる」というのです。


お釈迦様のみ教えに「中道」というのがあります。これは30㎝の真ん中の15㎝の一点を指すということではなく、どちらにも偏らないこと、どちらも受け止めていくということです。


私たちのまわりには様々な対立概念があります。たとえば、大と小、多いと少ない、明るいと暗いなど・・・。そうした概念に対して、自分の思いで好き嫌いを分別して、好きな方に傾き、嫌いなものを避けようとするのが私たちです。


しかしながら、本来は大きいものには大きいものの、小さいものには小さいもののいい面もあれば、悪い面もあるのです。何事も両面があります。自分の好みだけで判断すると、片方しか見ないので、どうしても見方が偏ってしまいます。両面を見て、よい面も悪い面も受け止め、総合的に判断していくのが「中道」のみ教えなのです。


「生死を離るる分あり」はまさに、「中道」が実践できた状態です。そういう偏らずに何事も受け止めていける状態で自分たちの生き方と死に様を明らかにしながら日々を過ごしていくことが「一大事因縁と究尽すべし」の一句に表れています。大切なことだからしっかりと参究し尽くしておこうということです。 

第7回「人として生まれたということ」

平成27年8月1日 更新

人身(にんしん)得(う)ること難(かた)し


「なぜ、自分が人として生まれたのか?」―そんな疑問を感じながら日々の生活を送っている人はいないと思います。誰しも自分が人間としてこの世に生を受け、今を生かされていることは、何の変哲もない、当然のこととして、特に意識していないことと思われます。


今回は、そんな無意識の中で疑問にさえ感じられない「自分が人として生まれたということ」がどういうことなのかを考えてみたいと思います。


「人身得ること難し」―かつて、あるご老師がご法話の席で、このみ教えを説いてくださった際に、こんな問いを投げかけながら、お話をしてくださいました。


「我々には父母という二人の両親がいるが、その父母にも、それぞれ父母がいる。それを10代まで遡ると何人になるか、計算してみたことはありますか?」


ご老師は、実際に計算されたそうです。結果はものすごい数になったとのことでした。ちなみに、私も10代まで計算してみました。その結果をお伝えします。


2(両親)+4(祖父母)+8+16+32+64+128+256+512+1024

                                     =2046


私たちは、なぜ、自分が人間として生まれてきたのかに疑問さえ感ずることなく、人として生きていることを当たり前のこととして日々を過ごしているかもしれませんが、よくよく考えてみると、実に多くの人の血を受け継ぎ、その恩恵をいただきながら、今の自分があることに気づかされます。私たちは自分だけの力で“生きているの”ではありません。過去に生きた多くのご先祖様のお力、今という時間を共に過ごしている周りの多くの存在のお力、そうした数えきれぬ存在のお力によって、“生かされている”のです。私たちの日常は、自分たちから能動的に行動する「強為(ごうい)」の部分と、周囲の計り知れぬ大きな力を受動的にいただく「云為(うんい)」の部分と、二面があります。そのことを心得ながら、日々を過ごしていくといいように思います。


10代遡って2046人のご先祖様の存在―「その中のたった一人でも欠ければ、今の自分は存在しない」と先の老師はおっしゃいました。そのお言葉は私に「一人の人間のいのちが多くの人々の力で成り立っている」ことに気づかせてくれました。まさに「人身得ること難し」です。


そうした大勢のご先祖様からいただいたいのちを受け継いで今を生かされていることを思うとき、いただいたいのちを最期まで輝かして生かすことが、何よりものご先祖様への報恩供養であることに気づかされます。こうして味わってみると、「生を明らめ死を明らめる」ことが人として生きていく上で大切な課題であることを、しみじみと痛感する一句のように感じます。 

第8回『「仏法」と共に生きる』

平成27年8月24日 更新

仏法値(あ)うこと希(まれ)なり


前回味わった「人身得(にんしんう)ること難(かた)し」というみ教えと今回味わう「仏法値(あ)うこと希(まれ)なり」は対句表現になっています。「人身得ること難し」とは、「人間」としていのちをいただくことは容易なことではない」というお示しでした。そうしたいのちの奇跡と同じく、仏法と巡り会うことも決して、容易なことではないというのが「仏法値うこと希なり」の意味です。


ここで注目したいのが、「値」という文字です。「値」を「あう」と呼んでいます。「あう」という文字を辞書で調べてみますと、「会(人と会う)」、「合(一致する)」、「逢(巡り会う)」、「遭(好ましくないことに遭う)」、「遇(偶然にでくわす)」があります。果たして、「値」はこの5つのどれかに該当した意味を持っているのでしょうか?それとも別の意味があるのでしょうか?私はこの「値」には、「人身を得る」という奇跡との対ということから、「仏法との奇跡的な出会い」という意味が含まれているように思えます。容易に出会うことのできぬ仏法ゆえに、その出会いは、それほど価値のあるもの、人間形成の中で大転換の可能性を秘めたものだと捉えていいように思います。そうした「奇跡で価値ある出会い」という意味を強調しようと、敢えて「価値」の「値」を使って、そのミラクルさを表現していると捉えるのが妥当かと思います。そんな奇跡を更に、「希」という言葉が強調しています。


「仏法値うこと希れなり」―このみ教えに触れてみると、いろんなことが思い出されます。私はお寺の子として生まれましたが、私には教師になりたいという夢があり、僧侶の道に進む気がありませんでした。そこで、大学は曹洞宗の学校ではなく、国立大学の教育学部に進学しました。平成10年のことです。


しかし、4年間の学生生活で体験した教師の現実というものは、厳しいものでした。自分が教師に対して、思い描いていた理想と現実のギャップがあまりにも大きかったのです。加えて、学生生活の開放感からか、学問より遊ぶことに比重をかけてしまい、あまり勉強をしたという記憶がありませんでした。理想と現実のギャップを埋める努力もせず、また、何の解決策を見出すこともできず、徒に遊んで過ごしてしまった4年間―今思えば、せっかくの勉強の機会を十分に生かせなかったと後悔することもあります。


平成14年、私は横浜・鶴見にあります曹洞宗の大本山・總持寺で1年間の修行をさせていただきました。その後、石川県に戻り、羽咋の永光寺(ようこうじ)で3年半の修行をさせていただきましたが、その4年半の生活で何度も悩みや苦しみに出会いました。自分の思いが通じない苦しみ、周囲とどのように接していけばいいかがわからぬ苦しみ、わがままが先行し、人を傷つけてしまう悩み。言い出せばキリがありません。教師の道を選ぼうが、僧侶の道に進もうが、人が生きていく上で苦しみや悩みは避けられません。


そんな中で平成17年より3年間、通わせていただいた曹洞宗の「布教師養成所」にて、私は「仏法」と出会いました。そして、仏法が「人が生きていく上での悩みや苦しみをどう解決すればいいのか」という問いに答えてくれることを知りました。いつも、修行の妨げとなる三毒(さんどく)(貪り・怒り・愚痴)が先行していた自分。何ごとにも見返りを求めていた自分。執着心の塊だった自分。そんな愚かさのために、自分だけではなく、周囲の人をも苦しめていたことを仏法は教えてくれたのです。


そして、仏法はこれから自分がどうすればいいのかをも示してくださったのです。「まっすぐにお釈迦様を目指し、自分を磨きながら進んで行け」と―仏教ではそれを「精進」といいますが、成仏(仏に成る、仏に近づく)まで、いただいたいのちを最期まで生かし切ることが、私がいただいた「生きていく上での課題であり、修行である」ことに気づかせていただいたのです。


そんな自分を救ってくれた仏法のすばらしさを、今度は多くの方にお伝えしていくこと―それは、僧侶である自分の使命でもあります。そうすることで、少しでも社会のお役に立てる人間になりたいと願うのです。人生は目の前の壁を乗り越えるかどうかで決まってきます。辛くてもがんばって乗り越えた方が、諦めたときよりも得るものが多いというのが、教師を目指して生きていた学生時代と僧侶を生きている今を通じて得た宝物です。どちらも仏法に出値うためには、欠かせぬご縁だったと、今はただただ手を合わせるばかりです。


現代社会は悩みや苦しみを抱えながら、どうすればそこから解放されるかがわからずに生きている人が大勢います。もしかしたら、「仏法」に出値えていれば、救われるのでは・・・。つくづくそんなことを考えてしまうのです。そうした生きる上での苦しみを抱えている人に、仏法は必ず救いの手を差し伸べます。いつでもどこでも、「仏法」は困った人の味方になって存在しています。“値い難い”仏法ですが、日常生活の中で仏法を求め、仏と共に生きていくことが、私たちに安らかなる日常を提供していくのです。本屋に言って、仏教書を買い求めて読むもよし、お寺に足を運ぶもよし、どんな取っ掛かりでもいいのです。多くの人が日常に「仏法」を拠り所としながら日々を過ごしていただくことを願うばかりです。

第9回「ご先祖様に感謝する」

平成27年8月2日 更新

今我ら宿善(しゅくぜん)の助くるに依りて、巳(すで)に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遭い難き仏法に値(あ)い奉れり


「自分のご先祖様を10代まで遡ったとき、何人のご先祖様が存在しているだろうか?」

答えは、前回、計算したように、2046人でした。何とすごい数でしょうか・・・!そんなすごい数のご先祖様の存在によって、今の自分が存在しているのであり、その中の一人でも欠けるようならば、今の自分は存在していないのです。まさに今の自分があるのは膨大な数のご先祖様のおかげなのであり、私たちはご先祖様からいのちのバトンを受け継ぎ、今を生かされているのです。


ちょうど今年は曹洞宗の大本山總持寺二世・峨山韶碩がさんじょうせき禅師様の650回忌をお迎えしております。そのテーマとして、總持寺貫首・江川辰三紫雲台猊下(えがわしんざんしうんたいげいか)は「相承(そうじょう)」という言葉を掲げられました。これは「師匠から弟子に教えや技術を伝えること」を意味する言葉なのですが、仏道の世界のみならず、様々な世界に通じます。先祖と子孫といった人間のいのちのつながりも、ひとつの「相承」なのではないかと思います。


今回の一句の冒頭に「宿善(しゅくぜん)」という言葉があります。これが意味するのは、『ご先祖様たちが行ってきた「善行」の集積』のことです。私たちが人間として今を生かされている背景には、自分たちのご先祖様が行ってきた善行の集積があるというのです。そのおかげで我々は人間として生を受けることができたというのが、今回の一句が指し示すものです。


一般的に人間は、この世に生を受けると、子どもから大人に成長し、社会で各々の役目を全うし、いつかは病を患い、死を迎えます。今や日本は人間の平均寿命は80歳の高齢化社会と言われて久しいですが、大半の人が社会に貢献しながら人生を全うします。


そうした観点で考えていくならば、人間一人の存在は大きく、かけがえのない存在であり、そうした人間を養い、育てるということは一つの善行なのです。それが「宿善」の意味するところです。


そうした「宿善」を考える上で大切なことは、ご先祖様の生き様の中で善なるものに着目し、報恩感謝の意を捧げる場を作るということです。そういう場が「先祖供養」です。忙しい日々を送る我々ですが、せめて、出勤前の3分間、寝る前の3分間でもいいから、心静かにお家の仏壇でご先祖様に向き合いたいものです。そして、命日やお盆などの忌日には、ご先祖様としっかり向き合い、お線香を立て、故人の好きだった食べものやお花をお供えして、報恩感謝の意を捧げたいものです。そうした先祖供養を通じて、私たちは遭い難い仏法と出値うご縁をいただくのです。


ちなみに、ご先祖様に対する何よりものお供え物とは「善き自分」です。お釈迦様を敬い、そのみ教えに従って、日々、善行に励む子孫の存在が、ご先祖様を喜ばせるのです。そんな私たちの生き様がご先祖様への「報恩供養」につながっていきます。どうか、よき自分をお供えする機会として、また、自分自身がよき人間になる機会として、先祖供養の場を大切にしていただけたらと願うところです。 

第10回「恵まれた生涯をいただいた私たち」

平成27年17日 更新

生死(しょうじ)の中の善生(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生なるべし、最勝の善身(ぜんしん)を徒(いたづ)らにして露命(ろめい)を無常(むじょう)の風に任すること勿なかれ


前回もお話しさせていただきましたが、今我々が、人間として日々を過ごし、仏法とご縁を結ぶことができたのも、我々のご先祖様たちの善き行いの積み重ね(宿善【しゅくぜん】)のおかげでした。


さて、今回は「無常」という言葉が出てまいりました。日本人は「無常」という言葉を耳にすると、「平家物語」の冒頭の一句(「祇園精舎【ぎおんしょうじゃ】の鐘の声、諸行無常の響きあり」)を思い浮かべるのか、強き者が滅んだり、あったものがなくなったりと、どこか寂しさや空しさを感じてしまいますが、諸行無常とは「万事は絶えず変化する」というこの世の道理です。一口に変化と言っても、様々あります。いい変化もあれば、悪い変化もあります。しかし、変化の良し悪しを決めてはいけません。そうした自分の好みに執着することによって、人は真実(本来の姿)をありのままに見ることができなくなってしまうのです。


私たちが生かされている人間社会は時間の流れがあります。それゆえに、そこに存在する全てのものは変化していきます。我々のいのち(人生)も絶えず変化するわけで、この世に生まれれば、老いや病に苦しみながら、いつかは、死を迎えます。仏教では、生老病死(しょうろうびょうし)の4つの苦しみを総じて「四苦(しく)」といいますが、それは、誰も避けることができません。


しかし、そんな苦しみも、そこから生じる迷いも、ご先祖様の善行の積み重ね(宿善)によっていただいた有難い「ご縁」なのです。大切なのは、そのご縁に私たちがどう向き合っていくかということです。見方を変えれば、老いや病という苦しみを経験するから、自分の生死を見つめ直すことができるのです。そして、その過程で遭い難き仏法とも巡り会うのです。


人生の中で、人間は自分にとって嫌なことや辛いことを経験します。しかし、何かのきっかけで、嫌なものが好きになったり、辛いことが楽しくなったりして、「救われた」とか「成長できた」と素直な気持ちで思えるならば、嫌な経験も辛い経験も悪いことではなかったことに気づかされます。「マイナスをプラスに転じる。」―仏法の力によって万事をよき方向に捉え直すことができたらと願うものです。


私たちがそんな「マイナスをプラスに転じる」ことができる力があることに気がつけば、実は自分が幸せな道を歩んでいることに気づくはずです。誰もが経験する四苦という苦しみは、仏法の力をお借りして、自分の観方さえ変えることができれば、たちまち小さくなっていくのですから!!


それなのに、我々は、自分たちが満たされていることに気づくことなく、目先の事実を誤った見方で捉え、不平不満を募らせるのです。「生死の中の善生、最勝の生なるべし」とありますが、日常に不平不満を抱えた我々凡夫に対して、どんなに欲望や執着で迷うことがあっても、「マイナスをプラスに転じる」力を持った人間は、よく恵まれた、すぐれた生涯を送ることができるんだということを強く訴えたお教えなのです。


そんな恵まれた、すぐれた生涯をどう生きていくかと言えば、惰眠を貪って、時間を無駄に過ごしたり、悪事を働いて、いただいたいのちを誤って使ったりするような生き方をするのではなく、お釈迦様のお示しに従いながら、少しでもお釈迦様に近づけるように自分を磨いていけるような生き方を心がけていきたいのです。「露命」という言葉が指し示すように、我々のいのちは、いつどうなるかわからない、露のしずくのようなもので、常に無常という風にさらされています。その風にときには身を任せることも必要かもしれませんが、いつも風にさらされてばかりいるような受動的な態度であってもいけません。能動的かつ主体的に生きることも必要です。すなわち、何が自分にとって満足のいく道なのかを模索しながら、後で後悔することがないように自分の道を歩くことが大切です。それが無常の風にさらされた露のごときはかないいのちを生きる上で必要なことなのです。「最勝の善身を徒らにして無常の風に任すること勿れ」とは、「無常」という条件の中で、我々がどうやって歩むべきかを指し示したお教えなのです。

第11回「この世のしくみを知る―無常の風にさらされて―」

平成27年10月1日 更新

無常憑(むじょうたの)み難し、知らず露命(ろめい)いかなる道の草にか落ちん


冒頭に出てまいります「無常」という言葉は「時間の経過とともに、万物は変化していく」という意味を持つ言葉でしたね。


この世に生まれた人間は、時間の経過と共に変化していきます。髪に白いものが混じる。しわができる。だんだん身体の動きが思い通りにいかなくなる。そして、病にかかり、死を迎えるときがやってくる。無常の風にさらされながら、誰もが「生老病死」の苦しみ(四苦)と共に生きていかねばならないのが、「この世のしくみ」なのです。「諸法無我(しょほうむが)」という言葉が出てまいりましたが、何一つ自分の思い通りにならないのです。「いつまでも若いままでいたい」などという、「無常」とは正反対の無変化を願っても、そんなわがままは聞き入れてもらえるはずがありません。そして、いくら四苦から逃れようと思っても逃れられないのです。


「諸行無常(しょぎょうむじょう)」・「諸法無我」―そうした「この世のしくみ」を受け止め、少しでも積極的に生きていく道を求めながら、心安らかに日々を過ごしていくことがお釈迦様の願いです。誰もが平等に、差別なく、無常の風にさらされている現実の中で、そこに生ずる様々な苦難を乗り越え、いただいたいのちを全うすることが、無常の風にさらされて生きるということなのです。


無常の風にさらされた我々のいのち―「知らず露命いかなる道の草にか落ちん」とあるように、どこで何が起こって消えてしまうかわかりません。新緑の葉に一瞬宿る「露」のようなものです。朝元気に、いつものように出かけたけれども、交通事故に遭うかもしれません。年齢の順番で死が訪れるという保証もありません。まさに我々のいのちは、常に変化し、いつどうなるかわからない、予測できぬものです。


そんないのちだからこそ、一人一人が絶対的な価値を有した尊い存在なのです。

そんないのちだからこそ、「生を明らめ、死を明らめ」ていきたいのです。

第12回「限りあるときを生きる上で」

平成27年10月1日 更新

身(み)巳(すで)に私(わたくし)に非(あら)ず、命は光陰(こういん)に移されて暫(しばら)くも停(とど)め難(がた)し。紅顔(こうがん)いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし。熟観(つらつらかん)ずる所に往事(おうじ)の逢(お)うべからざる多し。


無常の風にさらされて生きる我々の中で、「いつまでも若いままでいたい」と願い、若さを保とうとしても、そんな願いを叶えられる人は誰一人としていません。若いときの艶やかな面影も軽やかな肉体も年齢と共に変化していくものなのです。それが「老い」の苦しみです。自分の身体だと言いながらも、現実には思い通りに動かせるものではありません。


今から6年前、当時30歳だった私は閉ざされた柵を乗り越えようと、柵に手をつき、思い切り足を上げました。自分では柵を乗り越えられると思っていたのですが、いざやってみると、足に今まで体験したことのない激痛が走り、しばらく痛みに苦しみました。このとき、私は確実に身体が年齢と共に老いていることを知って、ショックでした・・・。それが無常の風にさらされるということなのです。まさに「身巳に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し」というお教えを体感した瞬間でした。


続いて経典は「紅顔いずくへか去りにし 尋ねんとするに蹤跡なし」とあります。「紅顔」は若き日の初々しい顔形や肉体を意味します。「蹤跡」は足跡または、先人たちの功績を意味します。


テレビで昔のドラマや映画を視る機会があります。たとえば、今や初老を迎えた俳優さんの初々しい姿を見ながら「年取ったなあ、あの頃の面影がなくなったなあ」と感じたことがあるかと思います。


しかし、それはブラウン管の世界の中だけで起こる現象ではありません。テレビを見ている我々だって、同じように年齢を重ね、若き日の面影がなくなっていくのです。「熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し」とありますが、自分の変化に気づき、焦りを感じながら、いくら若い頃に戻りたいと思っても、それは不可能だと、過去を後悔して、今を嘆くことを戒めているのです。


数年前に東進予備校の林修先生の「今でしょ!」という言葉が流行しました。「今でしょ!」はお釈迦様もお示しになられたみ教えなのですが、私たちはどうがんばっても今しか行動できません。今を嘆き、消極的に生きるのではなく、今をしっかりと精進努力して、後悔することがないよう、一日一日を大切にしながら、積極的に過ごしていきたいものです。


時間というのは我々の願いにしたがって早くなったり、遅くなったりすることはありません。ましてや止まることもありません。一定のスピードで流れていくだけです。加えて、一人一人に与えられた時間は有限です。それは、言い換えるならば、我々に寿命があるということです。そんな限りある時間の中で、「時間の浪費」は「いのちの浪費」であるということを念頭に置かねばなりません。


限られた時間と共に生きる中で、「生を明らめ、死を明らむる」ためには、「変化に捉われないこと」、 「有限の時間を無駄に過ごさないこと」―この二点を十分に踏まえていくようにと、ここではお示しになっているのです。

第13回「執着をやめる」

平成27年10月1日 更新

無常忽(むじょうたちま)ちに至るときは国王大臣親(こくおうだいじんしん)ジツ従僕妻子珍宝(じゅうぼくさいしちんほう9たくすくる無し。唯独(ただひと)り黄泉(こうせん)に赴くのみなり


「無常の風」にさらされて生きていくとはどういうことか?それはこの世に生を受けた者は、時間の流れの中で変化し、老いを迎えて、病に苦しみ、最期には死を迎えるということでした。前回はその具体例として「老い」に関するお教えが説かれました。今回は「死」に関するお話です。


誰もが最期に必ず「死」を迎えるものの、その瞬間を迎えるとき、いくら死にたくないと願っても誰も助けてはくれません。それが「無常忽ちに至るときは国王大臣親ジツ従僕妻子珍宝たすくる無し」の意味するところです。「従僕」は使用人、「妻子」は妻や子ども、「珍宝」は宝のことです。心の内を話し合える親友であろうが、毎日手厚く看病をしてくれた病院の看護師さんや家族であろうが、生前、必死にためた貯金や財宝であろうが、死んでいく自分を救ってはくれないのです。何一つとっても死に逝く人間の前では無力であり、人間はたった一人で死んでいかねばならないのです。それが「唯独り黄泉に赴くのみなり」の意味するところです。「黄泉」とは、「冥土」や「来世」のことで、死者が向かう場所です。この世に一人で生まれた人間は一人で死んでいくのです。


29歳のとき、将来の国王としての保障された地位や宮殿での満たされた生活など、お釈迦様は全てを捨てて出家され、修行者の生活を始められました。6年後、35歳のときに成道(お悟りを開くこと)されたお釈迦様は、80歳で涅槃に入られる(お亡くなりになること)まで、どこかに定住することなく、一切の私物を所有することなく、ご自分のお悟りを布教する旅を続けられ、多くの人々に救いの手を差し伸べてまいりました。


こうしたお釈迦様の生涯からは、お釈迦様ご自身が家に住み、自分のモノを所有することは、煩悩(貪り・怒り・愚痴)を生み出し、執着や不要な苦しみの原因となることを悟っていらっしゃったことが感じられます。すなわち、「これは自分のモノだ!」と思い込んでも、煩悩が生じて自分を苦しめるだけで、それならば、「自分の~」ととらわれることを止めてしまえば、どん心穏やかに過ごしたいとなるのです。


こうした考え方は、今回のような「何一つあの世についてきてくれるものは存在しない」というみ教えに触れてみると、何か感ずるものが出てくるように思います。実は我々の身の回りにある「私物」と思っている全てが、自分の思い込みによる「私物」であって、本当はこの世に生きている間だけの借り物だったんだということに気づきます。つまり、何一つとして「私有財産」はないのです。だから、そんなものに執着して苦しい思いをする必要はないとお釈迦様は説くのです。


一度、自分自身の日常を振り返り、何かモノに対して執着しているのであれば、ストップしてみます。きっと心が気楽になっていくはずですから・・・。

第14回「業(ごう)  ―私たちの“行い”の行く先は―」

平成27年10月1日 更新

己(おのれ)に随い行くは、只是善悪業等(ただこれぜんあくごうとう)のみなり


「ただ一人黄泉に赴くのみなり」―それは、人間は一人であの世に旅立つということでした。死を迎えるとき、いくら死にたくないと願っても、助けてくれる人は誰もいません。また、いくら貯金をためても、高級外車やブランド物の洋服や宝石を持っていたとしても、いっしょにあの世へ持っていくことはできないのです。


しかし、唯一、あの世に持って行けるものがあると言います。自分が持っていくというよりも、自然と付き従ってくるということなのでしょうが、それが今回のキーワードである「業」です。「業(カルマン)」とは、「我々の行い」のことです。単純に行いには「善い行為」と「悪い行為」があります。古代インドでは「善い行いをすれば、将来、よい結果(善報)に恵まれ、悪い行いをしてしまえば、悪い結果(悪報)をもたらす。また、今の自分の幸不幸は前世における善行や悪行の結果である」と考えられていました。「己に随い行くは只是善悪業等のみなり」という今回の一句は、死によって自分の身は滅びても、自らの取った善業と悪業は付き従ってくるということを説いています。


お釈迦様は「業」は人間の身口意(身体・言葉・心)から生じ、「業」によって人間の社会が築かれていくと説きます。すなわち、私たち人間は身体・言葉・心という3つの要素で成り立っているのですが、それら3つの要素から生み出された「業」によって、私たちの日常生活が築かれていくのだというのです。


こうやって見ていくと、難解なイメージが付きまとう仏教の中で、一見、業の思想は簡単そうに見えるのですが、このインド特有の思想を解釈するのは難しく、誤解が生ずることもありました。


たとえば、身体に障がいを持っている方に対して、障がいを不幸と決めつけ(宿命論)、「その不幸は前世の行いの結果である。来世は幸せになりたいと願うならば、仏に帰依しなさい」等の法話が過去に日本の宗教者の口から発せられていたという事実があります。仏教は「今をどう生きるか?」を説くみ教えです。現世において善行を積み、よき人間になることを目指すのですから、前世(過去)の行いが悪ければ、二度と同じ過ちを繰り返さないように誓い、よき行いを心がけていけばいいのです。自分のものの見方や考え方を仏様のものに近づけ、積極的(前向き)に生きていくことが仏教の立場ですから、こうした業の思想に宿命論を結びつけてしまうと、人間として正しく生きていくための思想が誤った差別思想になってしまうことに私たちは注意を払わなければなりません。


私たちは様々な存在と関わり合いながら日々を生かされています。それを「衆縁和合」と言いますが、それゆえに、何事も思い通りには進みません。ですから、何か自分にいいことが起こるのを期待して善行に励んでも、すぐに結果は出ません。むしろ、そうした見返りを求めている間は、いつまでも善行の報いが熟することはないでしょう。


「異熟果」という言葉があります。最初は青かった柿の実が太陽の光を浴び、季節が変化していく中で赤くて食べ頃の実に変化いていきます。最初の状態とは違った、思いがけない結果が訪れるのが「異熟果」なのです。


したがって、いいことをしたからといってすぐにいい結果が起こるわけではなく、悪いことも起こります。逆に、悪事ばかり働いている人間でもいいことが起こる場合もあります。しかしながら、果実は時間が流れていく中で確実に熟します。善行も積み重ねればよき果実となります。悪行は積み重ねれば悪しき果実しか実りません。それが「業」なのです。


身口意の三業から生ずる自らの業(行い)は、周囲との関わりの中で、様々な影響を受け、いいこともあれば、悪いことが起こるときもあるものの、善行は善報を、悪行は必ず悪果を招きます。そして、自らの業は終縁和合の中で、他にも影響を及ぼします。そうした「業」という思想を正しく捉えながら、少しでも仏様に近づき、みんながいい方向に進んでいけるように日々を過ごしていきたいものです。

第15回「正しい見識を持つ 」

平成27年1日 更新

今の世に因果(いんが)を知らず、業報(ごっぽう)を明(あき)らめず、三世(さんぜ)を知らず、善悪(ぜんあく)をわきまえざる邪見(じゃけん)の党侶(ともがら)には群(ぐん)すべからず


前回より「業(ごう)」をテーマに修証義は展開されております。「業(カルマン)」は、“我々人間の行い”でした。


我々の生かされている人間世界では万物は関わり合いながら存在しています。また、我々一人一人の行いには必ず原因があり、それに応じて結果が生じます。青かった柿の実が熟して食べ頃になるように、善行には善果が訪れます。一度、柿の実を腐らせる要素が加わると柿は腐っていきますが、それと同じように、悪業には悪果が訪れるのです。それが、この世の道理です。それは、人間一人の力ではどうにもできないくらい大きな力を持っており、人間が簡単にコントロールすることはできません。


にも関わらず、我々人間はそうした「万物の関わり合い」や「因果関係の道理」を無視して、強引にコントロールしようとしてしまうのです。すなわち、何事も自分の思い通りに進めようとしてしまうのです。


仏教には「無明(むみょう)」という言葉があります。「明るさが無い」―すなわち、真実に暗いこと意味しています。我々が自分たちの生かされている人間社会の道理に暗いこと。そして、そんな人間社会で自分たちの苦しみを滅する方法を知ろうとしないことが「無明」なのです。我見(がけん)(自分の見方にとらわれたゆえの思い込みや執着)を捨てて、この世の道理を受け止ながら、苦しみを滅し、心穏やかに生きていく―それが「今の世に因果を知らず、業報を明らめず」を通じて、お釈迦様はもちろん、道元禅師様が訴えたかったことなのです。


次に「三世を知らず」とあります。「三世」とは「過去・現在・未来」のことです。自分の行いの結果は、自分だけではなく、来世に生きる人々にも影響を与えます。たとえば、人様のいのちを奪ったものは、自分はもちろん、家族や子孫までもが後ろ指を指されることがあります。もちろん、悪事を働いたのは本人なので、親が悪いから子も悪いと決めつけて、後ろ指を指すのは間違った考え方として慎まなければならないのですが、自分の行いは自分だけで完結するものではないことを十分に知っておかなければなりません。自分以外の人にも、時間の枠を超えて影響を及ぼすのです。


そうした我見を捨てて、物事をあるがままに受け止めていくことを「正見(しょうけん)する」といいます。正見はお釈迦様が生涯に渡ってお示しになった「八正道(はっしょうどう)」の最初に出てくる言葉ですが、私たちが「正しい見識を持って生きていくことの大切さ」を説いたものです。正しいというのは自分が歩む道を過去にその道を歩き切った先人たちの案内に従って外れずに進んでいくことです。仏教徒にとって、それは、お釈迦様のみ教えという案内に従うことであり、お釈迦様を指標として、自分たちの人生の道を歩んでいくのです。


それに対して、「無明」という言葉が指し示すような道理に暗く、道から外れるような生き方をしている人は「邪見」の持ち主です。僧伽(そうぎゃ)(サンガ)という目的を同じくした集団を大切にしながら日々の修行に励む仏教教団にとって、道から外れた見方しかできない者は集団の和や秩序を乱していくばかりか、誤った集団(邪見の党侶)を生み出していきます。


まずは「お釈迦様と同じ見識=正しい見識」を持てるように!

そして、「正しい見識」を持った党侶(仲間)を作るように!!

第16回「自分たちの心がけ・生き方次第で」

平成27年11月日 更新

大凡因果(おおよそいんが)の道理歴然(どうりれきねん)として私(わたくし)なし。造悪(ぞうあく)の者は墜ち、修善(しゅぜん)の者はのぼる。豪釐(ごうり)もたがわざるなり


「生(しょう)を明らめ死を明らむるは仏家一大事(ぶっけいちだいじ)の因縁なり」―修証義の冒頭にあるこの一句は、仏法僧の三宝とご縁をいただいた仏教徒の課題とは、自分の生き方と死に様を明確にすることであるということでした。これまで修証義では「どうやって生を明らめるか・・・?」という点について、2つのポイントが示されてきたように思います。すなわち、一つには私たちがいのちをいただいた娑婆世界において、どうやって生きていけばいいのかを考えたとき、まずは自分たちの生きる土俵の仕組みや特徴を把握すること(諸行無常・諸法無我)。そして、娑婆世界の終焉を意味する死を生と分別して捉えるのではなく、一連の流れとして捉えるという視点を持つこと(生死即涅槃【しょうじそくねはん】)という2点でした。


前々回より「業(ごう)」について触れられています。業は私たちの行いのことでした。私たちが死んで、肉体が消滅しても、自分の生前の行いは残るんだと修証義は説きます。ここが、私たちが「死を明らめる」上での大切なポイントではないかと思います。そういう意味で「業」の思想をしっかりと味わっていきたいと思います。


さて、「因果の道理歴然として私なし」とあります。それは因果の道理というのは自分の都合でどうにかできるものではないということです。自分にとって好都合なことも不都合なことも、自分の都合に一切関係なく発生し、何かしらの結果をもたらします。それは、善人であれ、悪人であれ関係ありません。みんなに愛される善人が辛い思いをしている様を見て、「あんなにいい人がなぜ、あんな辛い目に遭うのだろう・・・。」と思って、辛くなった経験は誰しもあると思います。しかし、悲しいかな、それは人間の心情としては理解できても、「邪見(道理から外れた誤った見方)」なのです。我々が生きている世界は誰もが個人の思いに関わらず好事や悪事に出会うのです。それが「諸法無我」というこの世のしくみです。


そういう人間社会で生きていく中で、もし、好事に出会えたならば、好事を続けられように、悪事と巡り会ったならば、自分を省みて、好事に転換できるようにしていくことが大切です。「造悪の者は墜ち、修善の者はのぼる」とあります。悪事を働けば、悪果を招き、善行を積めば、善果が訪れますが、結果の善し悪しに左右されることなく、ひたすらに前を向いて積極的に生きていきたいものです。「人間は誰しも無限の可能性を秘めた存在である」ことを多くの祖師方は説いていらっしゃいます。


「豪釐もたがわざるなり」―「善行には善果が、悪行には悪果が訪れることは、ちっとも否定しようのない、確かな事実」だと道元禅師様はおっしゃいます。しかし、そこには、「自分の生き方次第で善にも悪にも転じる」という明るい可能性が含まれています。どんな悪果を招こうが、自分の身の処し方次第で善果に巡り合えるのです。


すべては私たち一人一人の心がけ、生き方次第なのです。

第17回『「因果の道理」を明らめる』

平成27年11月14日 更新

若(も)し因果亡(いんがぼう)じて虚(むな)しからんが如きは、諸仏の出世(しゅっせ)あるべからず、祖師(そし)の西来(せいらい)あるべからず


私たちの日常生活の中には、いろんな出来事があります。楽しいことやうれしいことばかり起こればいいのですが、辛いことや苦しいこと、嫌なことも多々あります。むしろ、そういうものこそ多く経験しなければならないのが、私たちが生かされている「娑婆世界」の定めなのかもしれません。

では、そういう娑婆世界の中で、私たちはどうやって日々を過ごしていけばいいのでしょうか・・・?

大切なことは楽しいことやうれしいことだけを受け止め、辛いことや苦しいこと、嫌なことから逃げ出さないようにしていくということです。いろんな出来事がありますが、それらを自分の頭の中で捉えたときに、自分の好みだけで感覚的に分別するのではなく、全てが自分に必要なご縁であると受け止めていく姿勢が大切なのです。

人間には楽しいことやうれしいことだけを好もうとする反面、辛い出来事や苦しい出来事に遭遇したとき、それを受け止め、その中に何か自分が受け入れられるものを見出していこうとする力も持っています。そういう力を大切にしたいものです。前回より「因果の道理」に関するみ教えを味わっておりますが、我が身に起こるどんな出来事も「因果の道理」によって生じたものです。すなわち、善行には善果が、悪行には悪果がもたらされるわけですが、善果は継続できるよう、悪果は善果に変えられるような日常を送っていきたいものです。前回、「因果の道理」は“私なし”とありました。決して、自分の思い通りにならないのです。そのことが理解できたならば、どうか、我々に秘められた「苦しみをバネにして成長していく力」を大切にして、辛い出来事を人生の肥やしにしていけるような関わり方をしていきたいものです。

さて、そうした「因果の道理」を仏教に当てはめてみると、何が言えるのでしょうか・・・?平成27年は曹洞宗の大本山・總持寺(横浜市鶴見区)において、二祖峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師様の650回大遠忌法要が「相承(そうじょう)」という言葉をテーマに厳修されました。「相承」とは師から弟子に教えや技術が伝わることなのですが、インドのお釈迦様のみ教えが代々受け継がれ、やがて達磨大師(だるまだいし)様より中国にもたらされ、更には日本から中国に渡り、仏道修行に励んでおられた道元禅師様によって日本に伝えられました。日本では道元禅師様のみ教えがお弟子様の懐弉(えじょう)禅師様に伝えられ、そこから徹通(てっつう)禅師様、瑩山(けいざん)禅師様、峨山禅師様へと順々と伝わり、今に至ります。こうした仏法(お釈迦様のみ教え)が今日まで相承され、いつの世にも息づいていることが仏教における「因果の道理」だというのです。

もし、因果の道理が存在しなかったならば、仏法がインド⇒中国⇒日本という形で伝わることはなかったでしょうし、こうした仏法を伝えてきた諸仏(祖師方)は存在しなかったでしょう。今、私たちは我々の目に見えないところで、長い時間の中、幾多の困難を乗り越えて私たちの眼前にやって来た仏教とご縁を結ばせていただいているのです。

それは仏教に限ったことではありません。今自分の目の前に存在しているものは、ただ私たちの眼前に存在しているのではなく、長い時間をかけ、多くの存在の関わりの中で手をかけられながら、今、存在しているのです。そうしたモノを存在させている道のりに思いを馳せながら、それらと巡り合えたことに感謝の意を捧げ、そのご縁を大切に関わり合っていくことが「因果の道理」を知り、明らめていくということなのです。

第18回「いいことをお布施(ふせ)(プレゼント)する」

平成27年11月1日 更新

善悪の報(ほう)に三時(さんじ)あり、一者順現報受(ひとつにはじゅんげんほうじゅ)、二者順次生受(ふたつにはじゅんじしょうじゅ)、三者順後次受(みつにはじゅんごじじゅ)、これを三時という


数年前に、免許証の更新で免許センターを訪れた際に見た「飲酒運転」に関するビデオのお話をさせていただきます。


男はある会社の係長で、奥さんと5歳の女の子がいました。奥さんのおなかの中には新しいいのちが宿っていました。


仕事は順調で、大手企業との商談もまとまった上に、男所帯の部署に若くてきれいな女性の部下が配属となりました。


「もうすぐ巡り合える新たないのち」と「順調に進んでいる仕事」

日常の何もかもが上手くいっていることが、男にとって、何よりもの幸せでした。


そんな幸せ絶頂のある夜、男は新入社員の美人女性の歓迎会に参加しました。そこで飲んだアルコールが、後に男だけではなく、周囲の多くの人をも巻き込む大事件に発展するとは、誰が思ったでしょうか?


時が過ぎ、帰途につく男はタクシーを探しましたが、なかなか捕まりませんでした。そこで、駐車場に止めてあったマイカーで小一時間仮眠を取り、酔いを醒ましてから、帰ることにしたのです。


しかし、酔いが醒めたと思っていたのは男だけ。小一時間の仮眠で酔いが醒めるはずがありません。途中、静かな住宅街の中、交差点でもない場所に停車している車がありました。「こんなところに車を停めやがって・・・。」―半ば怒りの気持ちを露わにしながら、男はアクセルを強く踏み込み、その車を猛スピードで追い越しました。するとそのとき、車の陰から一台の自転車が出てきたのです・・・。


男はすぐに警察に連行され、取調べを受けました。その間、男にはねられた被害者の女子大生は病院で息を引き取りました。彼女は自営業を営む夫婦の一人娘でした。苦しい家計をやり繰りしながら、大学まで通わせてくれた両親の負担を少しでも減らしたいと、毎晩、アルバイトに通って、学費を稼いでいたそうで、事故はその帰り道に発生しました。とても親思いのやさしい娘さん・・・。そして、ご両親にとっては、たった一人しかいない、かけがえのない娘さんでした。


この事故は、その後、どういう結果を引き起こしたのでしょうか?


被害者宅

大切な娘さんの死後、お父さんは精神科の通院を余儀なくされてしまいました。お母さんはショックで寝たきりの生活になりました。


加害者宅

男は当然ながら、会社を解雇されました。

奥さんは、ショックの余り、おなかの子どもを流産してしまいました・・・。

そして、近所の人たちに白い目で見られながら、賠償金を支払うために、持ち家を売り、朝晩働きづめの生活を送ることになりました。

5歳の女の子はお母さんが働きに出ているため、夜間保育に預けられました。親子三人で公園に遊びに行った楽しい思い出・・・。そんな思い出を絵に描きながら、そこには一粒の涙がこぼれていました。

男には結婚間近の妹さんがいました。しかし、身内が人様を不幸にしておきながら、自分だけが幸せになれないと、一生懸命貯めた結婚資金を賠償金の支払に充てました。


加害者関係者

事故がマスコミに大きく報道されたことで、大手企業側から商談を断られ、会社は大きな損害を抱えました。また、事故当日、いっしょに飲んでいた部下たちも、「男に酒を飲ませた責任」を問われ、逮捕されました。


一人の人間の行いは、結果として悪果を招きました。そして、それが本人のみならず、周りの多くの人に悪影響を及ぼしましたのです。これが「因果の法」です。決して、『一人の人間が取った「あさはかな行動」が、その人だけを苦しめる』で終わるものではありません。「自分だけが責任を取ればいい」という言い方がありますが、そうではありません。自分だけの問題ではなく、周囲の人をも巻き込んで、皆の問題となっていくのです。そのことを十分に踏まえ、自分の行動を考えていきたいものです。


「善悪の報に三時あり」―「三時」とは、「おやつの時間」ではありません。「業(人間の行為)」が影響を及ぼす3つの時間のことです。①「順現報受(現世で報いを受ける)」、②「順次生受(来世に報いを受ける)」、③「順後次受(来来世以降で報いを受ける)」とあるように、自分の行いは現世以降も多くの人に影響を及ぼしていくことを説いています。


今回の例話で言うならば、

「順現報受」とは、まさに被害者や加害者の家族、関係者の現世における影響です。

「順次生受」とは、この世の灯を見ることなく亡くなってしまった男の第2子のことです。男が飲酒運転さえしなければ、元気に生まれてくることができたはずです。男の行為は「被害者」と「生まれてくる子ども」の「2つの尊いいのち」を奪ってしまったのです。

「順後次受」は、今回のお話では、描かれていませんが、もし、男の娘(5歳の女の子)が成人して、結婚し、子どもが生まれれば、その子が「飲酒運転で人を死なせた人の孫」と呼ばれるかもしれないということです。


今回の例話は決して、人事ではありません。自分の行いは、自分だけではなく場所を超え、時間を超え、自分の予想を遙かに上回る多くの人に影響を与えるのです。だからこそ、日頃の行いを正し、周囲や後世に生きる人々、みんながいい方向に進めるような行いや言葉を「お布施(プレゼント)」できるようにしたいものです。 

第19回「仏道修行の原点」

平成27年1月1日 更新

仏祖の道(どう)を修習(しゅじゅう)するには其(そ)の最初より斯(こ)の三時(さんじ)の業報(ごっぽう)の理を効(ならい)験(あき)らむるなり


ここでは、我々が仏法と共に生きていく上で、まず何を押さえておくべきかが説かれています。


道元禅師様は「因果の道理」を抑えておくようにとおっしゃいます。「因果の道理」とは「ものごとには原因があって、結果が生ずる」という真理でした。ここで道元禅師様は、そんな因果の道理を「自分たちの体験を通じて、深く知っておくように」とお示しになっています。


「効」という文字を見ると、「効果」という熟語を思い浮かべてしまいます。「ききめ」のことですね。実は、この文字を漢和辞典で調べてみると、「学ぶ」という意味があるそうです。特に「鞭打って習わせる」という意味合いがあるそうで、そこから転じて、「ききめ」という意味も出てきたようです。


また、「験」は「経験」の「験」ですね。ここでは「あきらむる」と読んでいることから、冒頭の「明らめる」の意味も含まれていると思うと、さらに内容が深みを帯びてくるようにも思います。「因果の道理」を自己の体験を通して明らかにしておくことが仏道修行の原点だというのです。


毎日、いろんな出来事があり、いろんな方と関わらせていただきます。中には今、充実した人生を送っていらっしゃる方がいます。それが自分自身の行いの結果であることは確かです。今の幸せをかみ締めるとき、自分の行いを慎みながらも、先祖への感謝の心を大切にして、それを自分たちの子孫へ伝えていきたいものです。


逆に、今、辛い境遇の中で苦しんでいる方もいらっしゃいます。中にはその原因を周囲に求める人もいらっしゃいますが、それでは何の解決にもなりません。相手には相手の考え方があれば、都合や事情もあります。それをこちら側から一方的に考えを押しつけて変えようとしても変わるものではありません。自分に原因を求め、自分から改善していく方が、どんなに早く苦しみから解放されるか?どれほどまでに周囲の環境が変化するか?結局のところ、今の状況を改善し、変化させられるのは「自分」しかいないのです。だから、他を責める前に、自己に原因を求め、自己を変えていくしかないのです。その結果、周囲が変化していきます。そこから、自分にも幸せが訪れるのです。


自分を変える努力を怠り、周囲を半ば強引に変えることを求めるから、不幸が訪れるのです。実は意外にもそんな人間は多く、そうした人間がトラブルを引き起こすのです。よくよく考えれば、変化には相当のエネルギーが必要です。それなのに自分は何も変化しないという楽な道を選んでおきながら、他には変化を求め、苦しい道を歩ませようとする―こんな身勝手な話はないと思いますがいかがでしょうか?


そうした日常生活の中における周囲の人々との関わり合いの中から「因果の道理」を体験的に学んでいくことが、仏道を学ぶ上で、最初に明らかにしておくべきだというのです。それは、まずは自分が仏道を歩み、自らの人間性を高めてから、周囲にも安楽が訪れるような行いを為すことなのです。 

第20回「邪見(じゃけん)か?正見(しょうけん)か??」 

平成27年12月24日 更新

爾(しか)あらざれば多く錯(あやま)りて邪見(じゃけん)に墜(お)つるなり。但(た)だ邪見に墜(お)つるのみに非ず、悪道(あくどう)に墜ちて長時(ちょうじ)の苦を受(う)く


-「因果の道理」-

それは今の状態には過去からの原因があり、今の行いは未来に迎えであろう結果につながっていくということでした。


-「三時業」―

それは未来における結果の出方を時間軸から捉えたものでした。結果が出るのは、明日なのか、自分の死後なのか、それとも更に先のことなのか・・・?いずれにしろ、自分がやったことに対して、必ずや結果が訪れるということです。


過去という原因があって今があり、今という時間があって未来という結果を生み出すということを、お釈迦様のみ教えを学んでいく上で、まず押さえておく必要があると道元禅師様はおっしゃいます。


ところが、私たち人間は自分の尺度で物事を捉えようとしてしまいます。人の話に耳を傾けず、自分の考えを押し通そうとする人がいます。“我が道を行く”ということなのでしょうが、彼らはお釈迦様どころか、周囲の人にさえも照準を合わせようとせず、自分に照準を合わせ、自分の尺度だけで物事を解釈しようとしているのです。


そんな“我が道を行く”という姿勢だけで生きていくことが、どういう結果を招くのでしょうか・・・?道元禅師様は、そうした生き方が恐ろしい結果を招くだろうとお示しになっています。


今回の一句の中に「邪見」という言葉が出ております。「邪見」というのは誤ったものの見方です。なぜ「邪見」を引き起こすのかと言えば、物事に関わるとき、自分の見方だけで見ようとするからです。


それに対して、お釈迦様は「正見」を説いていらっしゃいます。これは物事の道理に従ったものの見方、自分に都合のいい見方をせず、事実を事実のままに捉える見方です。


ある会議でのお話です。Mさんは会議の議題に関する資料を、時間をかけて一生懸命、準備したのですが、残念なことに資料は完全否定されてしまいました。会議の議事録作成を担当したKさんは事実に随い、会議の流れを克明に記録しました。するとMさんは自分が否定されている箇所はKさんの聞き違いだといわんばかりに訂正を要求してきました。Kさんは「事実は曲げられない」とAさんの要求を退けました。Aさんが日頃から自分にとって都合の悪い事実から目を背けようとする生き方が周囲から完全否定されるような資料の提示につながったとKさんは分析しました。そんなKさんは同僚からも信頼され、一目置かれる存在だそうです。自分にとって不都合なことや辛く悲しいことに直面することがあります。そのとき、自分の心が安心することだけを願い、事実から目を背けるのではなく、受け入れたくないことでも少しでも受け止められるようにしていくのが「正見」なのです。


「正見」はお釈迦様がお示しになられた「八正道」の一つです。「八正道」の全てを語るには紙面が足りないので、省略させていただきますが、道理や事実に対して、「俺が」、「私が」といった私見を一切交えずに関わっていくことです。先のAさんとKさんの例にもあるように、「邪見」の持ち主は周囲からの信頼を失います。それに対して、「正見」の実践者は誰からも慕われ、厚い信頼を寄せられるのです。そして、「正見」は人と「安楽の世界」とのご縁をつないでいきます。逆に「邪見」は人を「苦しみの世界」へと向かわせます。


「周囲の声に耳を傾けず、我が道を行くか?」―

「事実をありのままに受け止め、周囲の声にも耳を傾けながら生きていくか?」―

どちらの道を歩むも、「あなた次第」ということになるでしょう。しかし、皆が幸せになることを願うのであれば、進む道は一つです。「正見」して、「安楽の世界」を目指す道。これこそが、人として生きていくご縁をいただいた我々が、自分たちの生き方を明確にしていく―「生を明らめる」ことになるのです。 

第21回『いのち① ―たったひとつの尊いもの―』 

平成2年1月2日 更新

当(まさ)に知るべし、今生(こんじょう)の我身(わがみ)二つ無し、三つ無し


―この世に自分と同じ人間はいますか?―

当然ながら、この問いに対する答えは「NO」です。いくら科学技術が発達したとはいえ、コピー機で資料をコピーするように、人間をコピーすることはできません。今生(今を生きることができる)における身体(いのち)は2つ、3つと存在しない、たったひとつのものであることを深く認識しておくようにとここでは述べています。


そんないのちであり、二度とない人生だからこそ、いのちは尊くてかけがえのないものなのです。


―そんないのちをどう生きていくのか?―

修証義では冒頭に「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」とあります。誰もがこの世にたった一人しかいないかけがえのない存在であるならば、「成仏」(少しでも仏に近づけるように生きていく)を目標とし、それが自分に与えられた課題と捉え、その課題を果たしながら、生きていくことが大切だというのです。


それは、決して、自分だけの課題ではありません。周囲の全ての人にも与えられた課題なのです。自らの生きる課題を達成するのみならず、周囲の人が生きる課題を達成できるように、お互いに助け合い、励まし合いながら日々を過ごしていく姿勢も大切なのです。


そうした私たちの生きる課題に関連深いのが「人権」です。「人権」とは、私たちそれぞれが有する尊いいのちを生かし、幸せな生活を営むことができる権利です。


誰もが「人権」を有したたった一人しかいない尊い存在であるといいながら、いつの世も「いのちの重み」が軽視されているような場面に出会うことがあるのも事実です。いのちの問題は私たちにとって日常的かつ永遠の課題なのでしょう。とは言え、人間が生きていく上で欠かすことのできない大切な問題です。「いのちは尊い」というのは、もう聞き慣れたわかりきったことかもしれませんが、しっかりと自らに刻み込んでおきたいものです。

第22回「いのち② ―何を標準とし、どう生きていく?―」

平成28年1月28日 更新

徒(いたずら)に邪見(じゃけん)に墜(お)ちて虚(むな)しく悪業(あくごう)を感得(かんとく)せん、惜(お)しからざらめや


この世に2つ3つと存在しない「たったひとつの尊いいのち」を生きる我々にとって、最大の課題は「生を明らめ死を明らめること」でした。すなわち、自分の生き様と死に様を明確にすることであり、「自分たちの生死(生老病死)をはっきり描きながら日々を過ごすということでした。


これは更に申し上げるならば、お釈迦様が坐禅を通じて得たお悟りの視点から、自分たちの生死を明らかにしていくということなのです。それによって、私たちが仏に近づけるように生きていく(成仏)という目標の達成につながっていくのです。


とは言え、お釈迦様の視点を体得するのは簡単なことではありません。時間も要すれば、捨てなければならないものも多々あります。「生きることは苦しいことだ」とおっしゃった先人がいらっしゃいましたが、成仏を目標とする私たちの生きる道は決して、平坦なものではありません。困難な険しい道なのです。


しかし、そんな困難な道だからこそ、歩ききった先には真実があるように思います。今から約2600年前の12月8日の明け方、坐禅修行によって悟りを得たお釈迦様は、そうした困難の道を歩み、真実に到達なさったのではないかという気がします。


そうした成仏への道を歩もうとせず、手抜きをして、お釈迦様のみ教えから外れた道を歩んでいくことは、多少の困難は回避できても、最終的には自分だけではなく、周囲も巻き込んで苦しみの渦を大きくしていくのではないかと思います。それが「徒に邪見に落ちて虚しく悪業を感得せん」が意味するところです。道から外れた誤った見方で日々を過ごすことは、自他共に苦しむ生活を生み出していくのです。それは「たった一つのいのち」を生かされている我々にとって、残念なことでしかないと道元禅師様はおっしゃいます。


だからこそ、お釈迦様のみ教えに従って、物事を正しく見、成仏を目指していきたいものです。そうやって「たった一つの尊いいのち」を明るく、積極的に生きていくことができるのではないでしょうか?それができずに、暗くて消極的な生き方をしているならば、残念なことです。お釈迦様に照準を合わせて、明るい道に方向転換していきたいものです。 

第23回「“仏性(ぶっしょう)”に気づく」

平成28年月8日 更新

悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報(ほう)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依(よ)りて、悪の報を感得(かんとく)せざるには非ず


いよいよ修証義・第1章の最後の一句にたどり着きました。


「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(仏教徒にとって大切なことは、自らの生き様と死に様を明確にしておくことである)」で始まる第1章をじっくり読み味わってみると、この章では仏教の根本思想について触れられていることに気づきます。“三宝印(さんぼういん)”(諸行無常【しょぎょうむじょう】・諸法無我【しょほうむが】・涅槃寂静【ねはんじゃくじょう】)始め、“因果の道理”―1章はそうした仏教の基本的思想に触れながら、後に続く2~5章の導入部の役割を果たしているのです。ちなみに、冒頭の「生を明らめ~」に対する解答は現段階では明確にされていないことを押さえておきます。


今回の一句を味わっていく上で、「仏性(ぶっしょう)」という仏教の根本思想を併せながら見ていくと、より味わい深いものになっていくような気がします。「我は迷いに導くものであり、仏性はさとりに至らせるものである。」―これは「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」に示された一句です。私たちはこの世に一人で生かされているわけではありません。多くの存在と関わり合いながら生かされているのです。それを「衆縁和合(しゅうえんわごう)」だとか「縁起(えんぎ)」と申しました。私たち一人ひとりは小さな存在かもしれません。しかし、その小さな存在が、それぞれに与えられた役割を果たしながら、お互いに関わりあって、大きな世界を作り上げているのです。言ってみるならば、私たち一人ひとりがこの社会を担う大切な部品のような存在なのです。


そんな部品に故障が生ずれば、社会の歯車が狂いだします。一つの部品の故障が、その部品と関わりのある部品をも故障させていきます。そうした現象が増えていくと、歯車はどんどん狂っていきます。それを食い止めるためには、いち早く故障した部品の存在に気づき、修理するしかありません。修理すれば、部品は復活し、本来の役割を担うことができるようになります。


同じことが私たちの人間社会にも言えるのです。一人の人間がこの世の道理から外れ、自分勝手な視点で都合のいいように世の中を解釈すれば、周囲の人間も巻き込んで、苦しみを深めていきます。まさに「大般涅槃経」に示されている「我は迷いに導くもの」なのです。それを食い止めるには、私たち一人ひとりが「仏と共に生きる」ことが求められてくるのです。すなわち、私たちがお釈迦様のみ教えに従い、仏道修行を行っていくということです。そうやって、私たちはこの世の真理に気づき始めるのです。つまり、私たちが生かされている娑婆世界の仕組みを受け止めることができるようになるのです。


そして、私たちは実は自らが仏様と同じように仏道修行によって仏のお悟りに近づける力を持っていることにも気づくのです。その力が「仏性」なのです。


「仏と共に生きる」こともなく、お釈迦様とのご縁が薄い日々を過ごしているとすれば、たとえ道から外れたことをしていても、私たちは自らを正そうとすることもなければ、その報いを受けることもあるまいと思うことでしょう。私たちには「仏性」という自らに秘められた仏の種があるにも関わらず、その存在に気づかずに日々を過ごすことは残念なことであると道元禅師様はおっしゃいます。一日一日を大切にしながら、少しでも仏様とのご縁を深め、「仏と共に生きる」ことで、自らに秘められた「仏性」という宝物に気づけるようになったらと願うばかりです。

第2章 懺悔滅罪(さんげめつざい)

第1回 『「慈しみの門」を探して』

平成28年2月13日 更新

仏祖憐(あわれ)みの余り広大の慈門(じもん)を開き置けり。是(こ)れ一切衆生を証入(しょうにゅう)せしめんが為なり


修証義・第2章―そのタイトルは「懺悔滅罪(さんげめつざい)」です。「懺悔」という言葉は一般的には「ざんげ」と読まれることが多いですが、仏教の世界では「さんげ」と読みます。本章では我々が「懺悔」によって、日常生活において自分たちが犯してしまった大なり小なりの“罪”を滅し、清らかなる心を持った人間として生きていくことが説かれています。

 

“罪”と聞いて、多くの人は殺人や強盗といった犯罪を想像することでしょう。ほとんどの人は罪を犯し、社会の裁きを受けたという経験はないはずです。ですから、罪を滅すと言っても、自分とは無関係だと感じるのではないかと思います。

 

しかしながら、「滅罪」が指す罪とは、犯罪のような社会的責任の重いものだけに限定されているのではありません。たとえば、罪には問われない日常レベルの悪事(嘘をつく、悪口を言う、人を批判する)といったものも含まれているのです。つまり、ここでの罪とは、「仏教における罪」であり、仏法(お釈迦様のみ教え)に背く行為を意味しているのです。

 

そうした仏法に背く行いをしないようにと仏教では「戒」を説くのですが、いくら戒のみ教えがあっても、道から外れてしまうのが我々、人間なのです。お釈迦様を始め、多くの祖師方は、そんな人間の性質を十分に理解していました。そこで、ご自分たちも我々と同じ人間であることを認識しながらも、どうすれば、仏法に背いた者が救われるのかを説かれました。

 

その方法が「懺悔」です。懺悔は自らの過ちに気づいたならば、二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓って日々を過ごしていくことです。懺悔によって、犯してしまった罪が消えることはなくとも、小さくなっていく―それが滅罪です。

 

そんな道から外れやすいがゆえに滅罪が欠かせぬ我々人間に対して、全ての人間を救いたいと願う「憐みの心(愛情)」を持っている祖師方は、あちこちに罪を償い、再出発を目指すための場所を設けました。それが「広大の慈門を開き置けり」の意味するところです。私たちが素直に自分と向き合い、仏のみ教えに従って、謙虚に生きていこうとする姿勢があれば、私たちは仏様とご縁を結ぶことができるということです。自分の家であれ、学校であれ、近所のスーパーであれ、それらは私たちの関わり方次第で、仏祖が設けた「慈門」となります。仏祖は常に我々に無限の広がりを持つ救いの門を開いてくださっているのです。そこには高い通行料も厳しい門番もいません。誰も差別されることなく、自由に入ることができます。なぜなら、仏祖は「一切衆生を証入せしめんが為なり(私たちが救われることを願っている)」からです。

 

第2章の冒頭の一句が言わんとしているのは、日常の全てが仏道に入る縁であるというのです。楽しいこともうれしいことも、悔しいことも悲しいことも、親しい人も嫌な人も、皆、自分を悟りの世界へと誘い込んでいるのです。ただ、我々が「良し悪しを比較して、いいほうだけに捉われたり・・・。苦楽を比較して、楽な道を選んだり・・・。」と、比較して、好きな方だけを選ぶから、なかなか全てが仏道に入る縁だと思えないのです。

 

いちいち物事を比べて見るのをやめて、日常の全てが仏道に入る縁である―そうやって周囲を見渡せば、あらゆるご縁に感謝できるようになってきます。そうした見方を通じて、今一度、仏祖が開かれた「慈しみの門」を探して、悟りへの道を探していきたいと願うのです。

第2回「差別なき救いの門」

平成28年2月27日 更新

人天誰(にんでんたれ)か入(い)らざらん



「日常の全てが仏道に入る縁である」というのが前回のお話でした。それは、誰もが差別されることなく平等に救われるということを意味しています。そんな仏教の根本思想を強調して、人々に印象付けようとしているのが今回の一句です。


まずは冒頭の「人天(にんでん)」という言葉に注目してみます。これは「人間界」と「天上界」を略した言葉です。「人間界」や「天上界」とは一体何なのか?それを明確にしておくために、「六道(ろくどう)」に触れておきたいと思います。「六道」とは、いのちあるすべてのものが自分の行いによって到達する6つの世界のことです。これより、その6つを簡単に申し上げます。



(1)地獄【じこく】

怒り狂っている世界です。

何らかの原因で怒りが生じている世界―そこでは結局、「怒られる人」はもちろん、それ以上に苦しんでいるのが、「怒っている本人」です。


(2)人間【にんげん】

これが「人天」の「人」を意味する「人間界」です。我々が住むこの娑婆世界です。


(3)餓鬼【がき】

お釈迦様がお亡くなりになる直前に残された「知足(ちそく)」というお教えがあります。「満足することを知りましょう」というお教えです。そのお教えとは正反対なのが「餓鬼界」です。限りなく貪りの心が起こって、なかなか満足できない「不知足」の世界です。


(4)畜生【ちくしょう】

理性が働かぬ世界です。本能のまま、やりたい放題という世界です。


(5)天上【てんじょう】

「人天」の「天」を意味する「天上界」です。

「有頂天」という言葉からも想像できるように、喜びに満ちた最上の世界です。一見したところ、理想の地のように思える世界ですが、あまりに居心地がいいと、そこに生かされている人は楽を覚え、辛いことや苦しいことを受け止める力を失います。楽しみだけでは人は成長できません。いいことをも悪いことも両方とも経験できるのが人間にとっての本当の幸せなのです。まさに、天上界での喜びは「仮の喜び」なのです。


(6)修羅【しゅら】

何ごとも自分本位で、自分に都合のいい考え方をする世界です。自分が一番正しいと思うことが、不用意な争いや対立を生み、果ては戦争に発展する恐れを秘めているのです。



こうした六道の世界を見ていきますと、人間界に生かされている我々にとって、実は他の世界も決して、我々と無関係な場所ではないことに気づかされます。そう、どの世界も我々にとって心当たりのある経験したことがある世界なのです。人間として生かされている我々が、自分の行いひとつで怒り狂った状態になって苦しむこともあれば、やりたい放題をしたり、欲望をコントロールできず、あれこれ貪っては苦しんだりしてしまうというのです。六道の各世界は我々の生き方一つで、いかようにでも経験することになる世界なのです。そして、そこには必ず何らかの苦しみがあります。


だから、お釈迦様は、その苦しみから我々を救うみ教えを説き、我々が仏道と縁を結べる「救いの門」を設けられたのです。今回の一句では「人間界」と「天上界」を略した「人天」という言葉が使われていますが、たとえ自分の行いによって、六道世界のいずれかに行くことがあっても、各所に仏道に入る門があり、いつでも救いの手を差し伸べてくださっているというのです。そして、その門は能力や身分で人を差別するような門ではありません。誰でも入ることができ、誰でも救われる門なのです。


どの世界に転じて、苦しみを感じることがあっても、そこには必ずお釈迦様が設けられた「差別なき救いの門」があります。それを信じること。そして、困ったときには「救いの門」を探してみること―それが今回の要となるみ教えです。

第3回「仏性(ぶっしょう)を持(たも)ち続ける」

平成28年12日 更新

彼(か)の三時の悪業報(あくごっぽう)必ず感ずべしと雖(いえど)も懺悔(さんげ)するが如きは重きを転じて軽受(けいじゅ)せしむ。又滅罪清浄(まためつざいしょうじょう)ならしむるなり



第1章・「總序(そうじょ)」の中で、「三時業(さんじごう)」について触れました。業(私たちの行い)には、何らかの原因があり、必ずや何かしらの結果をもたらし、報いを受けることになります。そんな業の結果や報いが生ずるタイミングに関するみ教えが「三時業」です。


ちなみに三時業を今一度、下記の一覧表にまとめ、おさらいしておきます。


順現報受(じゅんげんほうじゅ) 現世において結果が生ずる

順次生受(じゅんじしょうじゅ) 来世において結果が生ずる

順後次受(じゅんごじじゅ) 来来世において結果が生ずる


いいことをすればいい結果が、悪いことをすれば悪い結果が訪れるという「因果の道理」は誰しも経験したことのある明白な事実ではないかと思います。仏教では「今」という時間と、「ここ」という場所しか仏道修行ができないという観点から、「今」、「ここ」を起点として、過去や未来とのつながりを考えていきます。今の自分は過去の行いによるものであり、今の自分の行いが未来の自分を決めていくのです。


そうした道理において、もし、悪事を働き、その結果が我が身に訪れたとき、どうすることが求められるのでしょうか・・・?仏教では、結果を受け止め、自らを省みることはもちろん、自らの生き様を改善し、二度と同じ悪事を働かないようにしていくことが求められるのです。それが「懺悔(さんげ)」という仏道修行です。懺悔によって、重罪が軽くなり、私たちはきれいな人間に生まれ変わることができるというのが、今回の一句が指し示す内容です。


きれいな人間に生まれ変わる―それは何も全く別の人格を有した人間に生まれ変わるということではありません。本来誰しも持っている純粋な心に気づくということなのです。そうした誰もが元来、有するきれいな心が「仏性」です。それは、仏の性質であり、私たちが日常生活の中で、自らの掃除を怠っていたがために、いつしか垢やほこりにまみれ、見えなくなっていたものです。


そんな仏性をきれいに掃除して、本来の姿になるまで磨き上げていくこと。あたかも、汚れたガラス玉を磨き続けて、最初の輝きを取り戻していくように、本来の姿に気づき、それを取り戻していくことが「懺悔」なのです。


私たちの周りにはいろんな人間がいます。いい人だと感じる人もいれば、嫌なヤツだと感じる人もいます。しかし、どんな人も仏性も持った存在であり、元来の心が汚れていたわけではありません。縁によって今の自分になったのです。すなわち、善き縁に巡り合い、善き人にも恵まれている人は善き人となり、悪縁によって、悪しき人たちと関わっている人は悪しき人となるのです。その時々の縁が、その人の今を決めていくのです。


しかし、だからと言って、悪縁から我が身を立ち退かせようともせず、悪事ばかり働き、善事を修することを怠るようではいけません。仏性を磨き続け、本来の姿に取り戻すのです。そして、それができたならば、仏性を持ち続けるようにしていくことが大切です。そうした日頃から自己の中に眠る仏性を確かめ、持ち続けるような「よい生き方」を心がけていきたいものです。

第4回「心の大掃除」の習慣化

平成28年3月23日 更新

然(しか)あれば誠心(じょうしん)を専らにして前仏に懺悔すべし



私には3人の子どもがいます。そのため、クリスマスは一般のご家庭のように、毎年の恒例行事となっております。本来は、クリスマスは仏教とは関係ないのですが、子どもには「家がお寺だから、クリスマスはしません。」といっても通用するはずはありません。最近の子どもたちは、サンタの正体をお見通しだと聞きますが、それでも、ケーキを食べて、サンタからプレゼントをもらうのは、子どもにとって、楽しみなものでしょう。子どもに夢を与えるクリスマス―せめて、子どもたちがサンタの正体に気づくときまで、夢を与え続けていけたらと思っています。


さて、クリスマスが終れば、年末です。充実した日々を過ごせたという方もいらっしゃれば、あまりパッとしなかったという方もいらっしゃると思います。いずれにせよ、多くの方は一年を振り返りながら、家の大掃除に追われ、新年を迎えるのではないかと思います。


「なぜ、年末には大掃除をするのだろうか?」と問われれば、「きれいな気持ちで新年を迎えたいから」と答える方が多いと思います。やはり、自分の身辺をきれいにしておけば、気持ちよく新年を迎えられますし、何となくその年がいい年になるような気になります。そう思うからこそ、大掃除をするのではないでしょうか?


そんな家の大掃除と同じように、行っていただけたらと願うものがあります。それは「自分の心の大掃除」です。できれば、この1年間で自分の心にこびりついてしまった垢や埃を年末の大掃除できれいにしてから、新年を迎えたいものです。


そんな「心の大掃除」について示されているのが今回の一句です。“誠心(じょうしん)”とは、読んで字のごとく、「誠の心」です。「正直な心」だとか、「嘘偽りのない心」など、私たち誰もが有する純粋な心のことです。仏教ではそれを「仏性(ぶっしょう)」といいます。元来、人間は誰しも仏性を持った存在なのですが、娑婆世界における日々の生活の中で、次第に汚れ、その存在に気づかないほどになってしまうのです。


だから、定期的に仏性のメンテナンスを行う必要性が出てきます。自分と心静かに向き合い、仏性の存在を確かめると共に、汚れがあるならば定期的に掃除しておくのです。「誠心を専らにする」には、私たち自身が自らの仏性の存在に気づいていくことが前提条件となるのです。


そうした純粋な心で自らが犯してしまった過ちに対して、二度と同じことを繰り返さないことを誓うのが「懺悔」です。仏教徒の懺悔とは、やはり、自分自身が信仰する仏様と対面し、眼前の仏様にその意を表することでしょう。


そうした仏教徒が懺悔する姿のごとく、私たちも過ちを犯してしまったら、その相手を仏様のごとく敬い、我が身を省み、誠心誠意、純粋な心で懺悔の意を表していくのです。


かつて、ある先輩から「自分の苦しみの原因はすべて自分が作ったものだから、人や周りの環境のせいにしてはいけない」と教わったことがありますが、人間はついつい思い通りにならないことがあると、その苛立ちからか周囲にその原因を求めてしまうものです。


しかし、誠心を専らにする(純粋な心で物事を見る)と、責任転嫁の矛先が周囲ではなく自分に向くようになります。人のせいにできなくなるのです。相手に対する怒りや憎しみしかなかったのが、だんだんと謙虚な姿勢が芽生えてきます。だから、事あるごとに誠心を専らにし、懺悔という修行を繰り返しながら、自らの仏性が磨かれ、人間としての元来のあるべき姿に立ち返ることができるのです。それが“心の大掃除”です。


年末には今年一年を振り返り、心の大掃除をして、新年を迎える―

年末年始だからこそ、懺悔の意識が芽生え、気合いが入りやすいという面もありますが、心の大掃除は年末でなければならないというものではありません。いつでもすべき大切なことなのです。心の大掃除が習慣化することを願っております。

第5回「懺悔(さんげ)の力」

平成28年10日 更新

恁麼(いんも)するとき前仏懺悔(ぜんぶつさんげ)の功徳力(くどくりき)、我を拯(すく)いて清浄(しょうじょう)ならしむ



今回は「恁麼(いんも)」という、一見難しそうな言葉からスタートしています。この言葉は、経典の世界では、よくお目にかかる言葉で、「このように」という意味の指示語として解釈していただければと思います。「このようなとき」ということですから、前段の内容を指していることは自明です。


前段では「心の大掃除を習慣化させる」ということで、「定期的に汚れやすい我々の心をきれいにし、本来有する純粋な心(仏性)に気づく」ということについて触れられていました。それが「懺悔さんげ」という、自分に正直かつ謙虚になって、自らが悪事を働いたのならば、それを認め、同じ過ちを繰り返さないことを誓う修行なのです。


そうした懺悔によって、人は救われ、元来、備えているきれいな心(仏性)を取り戻すことができる―それが「前仏懺悔の功徳力、我を拯いて清浄ならしむ」の意味するところです。「功徳(くどく)」というのは、行いに対する報いのことです。善行に励み続けていれば、いつか必ずや善果を招き、仏性を取り戻せるのだと―これは懺悔の力を保証するものです。それだけではありません。我々に対する励ましのメッセージであるとも解釈できます。


とにかく、「懺悔」というのは、汚れやすい我々の心をきれいに掃除し、よき自分を持たもち続けるためには欠かせぬ修行です。仏教というのは、「悪を止め、善を行うためのお教えである」と、あまたある経典で幾度となく説かれていますが、誰しも、善の道を歩もうとすると、悪の道からの“お誘い”がやって来ます。そのお誘いに乗ってしまうと、次第に人はあるべき正しい道から外れ、自分の身を滅ぼしていくのです。だからこそ、そんな甘いお誘いの声に乗って、身を滅ぼすことがないよう、道から外れることなく、しっかりと善の道を歩んで行く必要があり、そのための行いが「懺悔」だということです。


“懺悔の力”―それは、我々が人として生きる上で、確実に悟りの道へと近づけてくれる力です。お釈迦様のお悟りに到達できる一つの手段としての「懺悔」を日常の行いとして身につけていきたいものです。

第6回「坐禅と懺悔」

平成28年4月29日 更新

此功徳(このくどく)、能(よ)く無碍(むげ)の浄信精進(じょうしんしょうじん)を生長(しょうちょう)せしむるなり



「懺悔(さんげ)」がキーワードとなる第二章―前回より「前仏懺悔(ぜんぶつさんげ)」に関するみ教えが説かれています。仏様を前にして、自らの悪事に気づき、二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓うのが「前仏懺悔」ということです。


仏様を前にということですから、たとえば、ご自宅のご仏壇の前に姿勢を正して、しばし鎮座し、心静かに向き合うもよし、お寺の本堂に安置されているご本尊様の前に身を置くもよし、様々な方法があります。大切なことは心静かに自分と向き合うということです。あたかも、お寺やご自宅の仏壇の前に身を置いて、自分が信仰する仏様の前で今の自分の姿を正直にさらけ出すように、日常生活において、何か悩み苦しむ瞬間を向けたときに、こうした「前仏懺悔」をやってみるといいのではないかと思います。


そんな「前仏懺悔」に相通ずる仏行が「坐禅」です。鎌倉時代に一般民衆にもわかりやすい仏教をということで誕生した「鎌倉仏教」の一つである曹洞宗では、その修行の中心に坐禅が置かれました。曹洞宗の開祖・道元禅師様は「坐ることは誰にだってできる修行である」と仏教の原点に回帰して、坐禅を提唱されたのです。


高源院では、そんな坐禅を一般の方にもお伝えすべく、毎週日曜日に「やすらぎの会(坐禅会)」を開催しています。今年(平成28年)で開始から8年が経ちました。開会当初は、早朝6時の開催でしたので、冬の寒い時期でも半ば凍えながら坐禅をしたものです。まさに、“寒さとの闘い”と言える状況でした。その頃から今も続けて参加してくださる方がいらっしゃることをありがたく感じています。


参加者にお伝えしていることは、「坐禅を継続することは、仏様のいのちをつなぐこと」だということです。坐禅はお釈迦様がお悟りを開くきっかけとなった尊い行いです。その坐禅を完全にストップして、この世から消してしまったとすれば、お釈迦様のいのちを断つことにもなるのです。


そんな坐禅を今、我々も同じようにさせていただくことが、少しでも仏様に近づくと共に、自己の中に眠る「仏性」を掃除して、きれいにしておくことにもつながっていきます。それが「仏のいのちをつなぐ」ということなのです。そこには、寒いも暑いもありません。ただひたすら、仏のいのちをつなぐことに全力を挙げるのです。


そうした坐禅という「心静かに身体を落ち着けて坐り、自己と向き合う」という行いを続けていくと、「自分がどう生きていくべきなのか?」という自分の生きる道が次第にはっきりしてくるのです。それが、坐禅(前仏懺悔)の功徳(報い)です。


そして、その報いが「能く無碍の浄信精進を生長せしむるなり」だというのです。「碍(げ)」とは「さまたげ」のことですから、悟りの道を歩む上での障害物だと捉えていけばよろしいでしょう。そんな障害物が“無い”わけですから、坐禅(前仏懺悔)を継続することによって、何かに妨害されることがなくなるというのです。そして、「浄信(正法を信じること)」と「精進(努力すること)」を生長(長く生かす:継続)させるというのです。「精進」はよく耳にする仏教用語ですが、「精(混じりけのない純粋な状態)」で「進む」ことを意味しています。仏様のお悟りに向かって、浄信を持って、前仏懺悔を行じていくならば、我々は必ずや仏様に近づけるということです。何とも前仏懺悔の報いというのは、計り知れないものなのだということです。


懺悔の一つの形としての「坐禅」―それを真剣に取り組むものは、必ず仏祖に救われる―それを信じ、それを励みに、これからも「やすらぎの会(坐禅会)を通じて、坐禅に精進していきたいものです。 

第7回「変革 ―自分が先に変われば、相手も変わる―」

平成28年日 更新

浄信(じょうしん)一現(いちげん)するとき、自侘同(じたおな)じく転(てん)ぜらるるなり



平成28年5月現在、私は曹洞宗石川県青年会に所属し、事務局長として日々の運営に携わらせていただいておりますが、それ以前は曹洞宗石川県宗務所や金沢市仏教青年会など、宗派内外の組織や会の運営に携わらせていただきました。そうした僧侶だけの会以外では、子どもの保育園の保護者会など、一般の方も参加される会にも携わらせていただいています。そんな中で第一に感じることは、どの会も固有の性格を持ちながら、それぞれの目標に向かって真っ直ぐに進んでいこうとしている点で尊い方の集まりばかりだということです。


今から7年前のことです。平成21年(2009年)に一年を表す漢字として、「変」という文字が提示されました。自民党政権から民主党(現:民進党)への政権交代など、随処で旧習を変革することが声高に主張された時代だったように思います。これまでの常識に疑問符が打たれる中で、“変革の波”を受け入れられた方はいざ知らず、受け入れられなかった方にとっては、ついていくのも大変だったのではないかという気がします。


「変革」ということについて、私自身、いい方向に発展していくならば、大賛成です。しかし、「何でもかんでも変えればいい」というのには、正直、疑問を感じます。なぜなら、仏教が「縁起説(えんぎせつ)」を説くからです。「縁起説」というのは、この世の全てが関わり合い、支え合いながら存在しているという説です。ということは、何か一つを変えれば、それに関わる全てが必然的に変化を迫られるからです。


たとえば、この原稿一つにしても、すべての文字が関わり合って原稿が成立しています。そんな中で、どこか一つ表現を変えれば、全体に影響が出てくるのです。何かを変えるということは、周囲に影響を与えると同時に、他の変える必要のないものまで変えなければならないことになりうるのです。皆にとってよかったはずのものが変化して悪いものになってしまったという例は我々の周りにも多々あるように思います。


昔、中唐の詩人・白居易(772-846)が道林和尚に「仏教とは何か?」という問いかけを行った際、「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)(悪いことをしない よいことをしよう)」という問いが帰ってきました。これは「皆が悪い方向に行くようなことは止めて、いい方向に進めるようなことをしましょう」ということですが、「変革」を考えるとき、よくよく考えに入れておきたい言葉ではないかと思います。果たして、その変革案が本当に皆にとっていいことなのだろうか・・・?旧習を築き上げてきた人たちに対する個人的な批判だとすれば、提示される変革案は悪意のあるものであり、決して、皆がいい方向に進めるとは限りません。そうした個人的見解は少し横に置いておき、全体がよくなることを願い、そうした方策の一つとして、「変革」という手段を考えていきたいものです。


そうした変革を考える上で、今回の「浄信一現するとき、自侘同じく転ぜらるるなり」も大切な意味を持っています。人は変革を求めるとき、ついつい自分ではなく相手に変わってもらうことを願います。私自身がそうでした。しかし、ある方から「相手が変わることだけを願うのは、少し都合がいいのではないか?」と指摘され、ハッとしたのです。人間はそれぞれ長い時間をかけて、今の自分を作り上げてきました。それをたった一言で、変えてくれと言われても、そう簡単に変わるでしょうか?私はそんなに簡単に自分を変えられません。それは誰もが同じです。人格はそう簡単には変えられないのに、“相手に変革を求める”というのは、あまりにもわがままなことであり、人格を持った相手に対して失礼なことなのです。


人から変革を求められても簡単には変われないものですが、「相手ではなく、自分から先に変わること」によって、変革は可能となります。自分から変わっていこうという気持ちさえあれば、人は変われます。自分の変化が相手を変化させます。それが「自侘同じく転ぜらるるなり」ということです。“自侘同じく”ですから、相手も自分も同時に変わっていくということです。


そして、「浄信一現」というのは、仏祖をまっすぐに信じる気持ちが自分の行動と一体化するときということです。すなわち、仏祖のみ教えに従った行動(仏と共に生きる)ということなのです。相手が変わることを願う前に、自らの浄信を一現させる、自分が仏と共に生きることによって、皆がよい方向に変革されていくというのです。


自分から先に変わることで、皆が変わるということを心の片隅に意識していただければと思います。 

第8回「“口動”ではなく、“行動”を」

平成28年5月27日 更新

其利益普(そのりやくあまね)く情非情(じょうひじょう)に蒙(こう)ぶらしむ



懺悔(さんげ)とは、二度と同じ過ちを繰り返さないことでした。そうすることで、私たちは少しずつ“よき人間”となっていきます。それは私たちの成仏(仏に近づくこと)や、持戒(仏のみ教えに従って生きる)ことにもつながっていきます。そういう意味で、懺悔は仏道修行の基本的修行であり、私たちが人間として生きていく上で欠かせない大切な行いだと捉えることもできます。


そんな懺悔ですが、決して、簡単にできるものではありません。なぜならば、いくら言葉で反省の言葉を示しても、それが行動として現れなければ、懺悔とは言えないからです。反省の言葉は誰でも言えます。しかし、反省を行動に示すのは、そう簡単にできることではありません。


日頃の自分を振り返るとき、どうでしょう?―「いかに口先だけの反省が多いか」と呆れてしまうことがありませんか・・・?私自身、そんな瞬間が多々あります。そんなとき、少しでも「口先だけで反省するのではなく、行動に現していく。そうやって、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしていきたい」と心に誓うのですが、なかなか難しいものです。とは言え、懺悔を意識して、二度と同じ過ちを繰り返さないことを自他に強く誓うと同時に、少しでも我が身心を磨き、きれいに保ち続けていきたいものです。


そうしたきれいな心による懺悔が行動に現れれば、周囲が変わるのです。前回のお話にもありましたが、自分から変化しなければ、周囲が変化することはありません。それなのに、人間は自分が変化しようとせず、相手を変化させようとするのです。これぞ、まさに自分への執着であり、自分の考えや主張が正しいと思えば思うほど、自分に酔ってしまい、さも自分が正しいと言わんばかりに、相手に自分の思想を押し付けてしまうのです。


しかし、いくらこちらの主張を通そうとしても、相手は変化しません。なぜなら、相手にも相手の考えや主張があるからです。だからこそ、「こちらから変化しよう」と道元禅師様はお示しになるのです。汗を流し、苦悩しながら、自分から変わろうとする姿が相手の心に変化を与えます。そうやって相手が変化するのです。“口動”ではなく、“行動”を―それが懺悔の鉄則であり、仏教全般に通ずる根本思想なのです。


そうした行動による懺悔の力が普く全てのものを変化させていくというのが、「其利益普く情非情に蒙ぶらしむ」が指し示すお教えです。「情」というのは、いのちある「生物」のことですから、「非情」とは、その反対の「無生物」を意味しております。生物・無生物の分別は一切ありません。それは私たちが自分の頭の中で作り上げた区別でしかないのです。誰であろうが、どんな状況であろうが関係ありません。自ら変化し、自ら行動することで、懺悔の功徳が拡がって行くのです。


相変わらず様々な問題を抱える今日の世相―少しでも多くの人が「行動」による懺悔を修行することで、明るく穏やかな暮らしが訪れること願うばかりです。 

第9回「ほとけの眼(まなこ)」

平成28年月2日 更新

其大旨(そのだいし)は願わくは我れ設(たと)い過去の悪業(あくごう)多く重なりて障道(しょうどう)の因縁(いんねん)ありとも、仏道に因(よ)りて得道(とくどう)せりし諸仏諸祖(しょぶつしょそ)我を愍(あわれ)みて業累(ごうるい)を解脱(げだつ)せしめ、学道障(がくどうさわ)り無(な)からしめ 



悪事を働けば、罰が当たるのでしょうか・・・?



—娘が1歳の頃のお話です―


保育園に迎えにいったその日は、ちょうど「花まつり(4月8日のお釈迦様のお誕生日)」でした。保育園の玄関先には誕生仏(生まれたばかりのお釈迦様を模した仏像)が安置され、保護者が甘茶をかけて、お参りできるようになっていました。


娘と一緒に誕生仏に甘茶をかけてお参りしていた私のところに、あるお母さんがやってきて、「仏さまに甘茶をかけたら、何かご利益はありますかねぇ・・・?」と尋ねてこられました。


いつもとは違って、玄関先に仏様がおいでるわけですから、何かしなければ、罰が当たるのではないか・・・?そのお母さんはそう思われたのでしょう。そうした考え方は、仏事だけではなく、日常生活の中にも見受けられます。たとえば、嘘をついたり、食べ物を粗末にしてしまったりすれば、罰が当たるのではないかというのは、今も尚、根強く残っている考え方のようで、そうした質問はしばしば耳にいたします。


確かに、小さい頃、お年寄りから、「嘘をついたら、閻魔様に舌を抜かれる」などと教わった経験は誰しもあるかと思います。科学技術が発達した現代において、そうした昔からの言い伝えは、「迷信」と捉えられがちになっていますが、昔の人たちは、そうした両親や祖父母から聞いた言い伝えを信じることで、自分を律していたのです。言わば、言い伝えは“人々の暮らしに密着した信仰”ともいうべき大切な教えであり、そこには確かな根拠はないものの、人々は言い伝えを大切にし、悪事を働けば、仏さまから天罰が下るのではないかと考えていたのです。


さて、悪事を働いたら、仏様から罰が下されるのでしょうか・・・?答えは「NO」です。仏様は我々が悪事を働いたからといって、即座に罰を下すようなことはいたしません。凡夫(我々人間)は誰かに失礼なことをされれば、立腹したり、無視したりするかもしれません。しかし、仏様、「諸仏諸祖」はそんなことでは怒りません。諸仏諸祖は「仏道に因りて得道」されていらっしゃるわけですから、相当な修行を積まれ、悟りを得て(人間性を完成すること)いらっしゃいます。ちょっとやそっとのことで惑わされたり、怒りをあらわにしたりはしないでしょう。たとえ、私たちが過去に数知れぬ罪を犯していたとしてもです。


では、仏さまは、数知れぬ罪を犯してきた我々(過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも)に対して、どのような態度をお示しになられるのでしょうか・・・?


それが「我を愍みて」という箇所に表されています。「あわれんでいる」のだと・・・。つまり、せっかく“仏性”というすばらしいものをいただいたのに、それに気づかず、生かそうともしないこと我々に対して、また、たとえ悪事を働いたとしても、懺悔という自分を改善する方法があるのに、それをしようともしないことに対して、「何ともったいない・・・。残念だなぁ・・・。」と、がっくりと肩を落とされるのです。“あわれみ”―それが修行を積まれた「仏さまの眼」なのです。


この諸仏諸祖の“あわれみ”の眼こそが、人を懺悔へと導くのです。罪を犯したことに対して、一方的に怒ったり、無視したりしても、人は真剣に反省しようとは思いません。自分があわれみの眼で見られるから、人はしっかりと罪を悔い改め、二度とあわれみの目で見られないように、自分を変えていこうとするのです。


怒りや無視という方法しか知らない我々凡夫にとって、こうした“あわれみ”という「仏さまの眼」こそ、身につけたいものです。人を説得し、教え導くとき、“あわれみ”が導く側と導かれる側を共に成長させていくのです。そのことをここで押えておきたいと思います。

第10回「仏さまの眼差し」

平成28年12日 更新

其功徳法門普(そのくどくほうもんあまね)く無尽法界(むじんほっかい)に充満弥綸(じゅうまんみりん)せらん哀れみを我に分布(ぶんぷ)すべし



数知れぬ悪事を働いた者に対して、修行を積んで悟りを得られた仏さま(諸仏諸祖【しょぶつしょそ】)は仏法の扉を大きく開き、あわれみの眼差しを以て関わってくださいます。そして、その眼差しは我々に「懺悔(さんげ)」を促してくれるのでした。


今回の一句では、そうした仏さまのあわれみの眼差しが、無尽法界に及んでいくとあります。「無尽法界」とは尽きることのない制限なき世界のことです。すなわち、仏さまの眼差しは、広大な無限の世界に際限なく広がっていくというのです。


そして、「充満弥綸」とあります。無限の世界に広がっていった仏さまの眼差しは、煙の如く消滅するわけではなく、そこにしっかりと根付いていくというのです。


ということは、仏さまの眼差しは、我々のまわりの至る所に存在しているということになります。ところが、我々が純真な気持ちで自らの悪事を懺悔し、二度と同じ過ちを犯さないことを心に強く誓わない限り、仏さまの眼差しに出会い、仏さまの救いをいただくことはできません。いくら仏さまが仏法の門を大きく開いていても、私たちにその中へ入ろうという気持ちがなければ、仏さまと出会うことはできないのです。


往々にして、我々人間は自分に甘くなりがちです。ですから、自分の犯した悪事に対して、なかなか素直に反省しようという気持ちになれなかったり、自分の行為を棚に上げ、他人や世の中のせいにしたりしてしまうのです。そうやって自らに謙虚になれないことが、「仏法値(あ)うこと希(まれ)なり」(修証義第1章)とあるように、仏さまとの出会いを難しいものにしてしまうのです。また、そんな気持ちが元来、誰の心の中にも存在している“仏性”というきれいな心を汚してしまうのです。


そこで、仏さまと出会うと共に、どうか“仏性”をきれいに保っていこうという願いを込めて、「哀れみを我に分布すべし」と誓願するのです。これは、「どうか仏さまとのご縁を結ばせてください」という願いの言葉です。そして、心の底から懺悔を志し、自ら仏に近づいていくことを願う者の言葉です。


私自身、自分の日常を振り返るに、なかなか謙虚な気持ちになれなかったりして、仏さまとのご縁を結ぶことができないことがあります。そんな私が仏さまに出会い、懺悔の場に巡り合えたならば、仏さまの眼差しを全身に浴びて、少しでも仏さまに近づけるようになりたいものです。 

第11回「生きる目標―成仏(じょうぶつ)—」

平成28年月1日 更新

仏祖(ぶっそ)の往昔(おうしゃく)は吾等(われら)なり。吾等が当来(とうらい)は仏祖ならん



悪事を犯した人間に対して、仏さまのように、あわれみの眼で接することができるかと問われれば、難しいのではないかと思います。仏さまのお悟りの境地に達するまでには、まだまだ修行が足りません。それが今の自分です。


今回の「仏祖の往昔は吾等なり。吾等が当来は仏祖ならん」という一句では、そうした我々ではありますが、実は仏さまになれる可能性を秘めていることを示唆していると共に、仏さまと呼ばれる方々も、最初は我々と同じ人間だったということが示されています。


そもそも、お釈迦様にしろ、道元様や瑩山(けいざん)様にしろ、我々と同じ人間です。そうでありながら、仏道修行に励み、仏性を磨き続けてきたからこそ、仏となられ、祖師と呼ばれるまでに至られたのです。ということは、我々も仏さまと同じように仏道修行に精進するならば、たとえ悪事を犯したことがある者でも、二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓い、仏さまに近づいていこうと日々を過ごすことならば、仏さまのお悟りを体得できるときがやって来るというのです。また、悪事を働いたものに対しても、いつかは仏さまのように接することができるときがやってくるというのです。


最初から仏さまのような優れた人間はいません。誰もが最初は欲をコントロールすることができなければ、すぐに怒りや貪りの感情を表してしまうような凡夫(ぼんぷ)だったのです。ところが、祖師方は長年の間、坐禅を中心とした禅の修行を行ない続けたことで、人間性を高め、仏さまになられたのです。そこが我々、凡夫との大きな違いなのです。


「成仏」という言葉があります。この言葉は、死後の世界の言葉だと思われがちですが、本当は、むしろ生きている今の言葉なのです。「成仏」を読み下すと、「仏に成る」となります。つまり、お釈迦様や道元様・瑩山様のように、“人間性を完成させる”ということです。この「成仏」こと「人間性の完成」が、我々の生きる目標なのです。この世で最期を迎えるまでの間、少しでも人間性を完成させるべく、「成仏」を生きる目標として日々を過ごしていきたいものです。


「仏祖の往昔は我等なり、我等が当来は仏祖ならん」―この「成仏」の可能性を示唆する一句を、私は自らに念じ込み、常に忘れずに日々を過ごしております。この一句をいつも心の中に持って、少しでも「成仏」できるように、日々を過ごしてまいりたいものです。

第12回「ほとけの救い」

平成28年11月7日 更新

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)是(かく)の如く懺悔すれば、必ず仏祖(ぶっそ)の冥助(みょうじょ)あるなり



今回、登場するのは「懺悔文」と申します。文言の意味等はこちらの解説をご参照いただき、今回は違った視点から、この文言を味わってみたいと思います。


修証義第2章・第4回『「心の大掃除」の習慣化』でもお話させていただきましたが、懺悔は掃除にたとえるとわかりやすく解釈できます。


平成22年7月のお盆は暴風雨に見舞われました。住職になって6年、こんなに荒れたお盆は始めてでした。あまりの悪天候で境内から墓地にかけて、イチョウの若葉が舞い散り、お盆中に大掃除をするという、これも住職6年目にして初めての経験をさせていただきました。


掃除を終えて、枯葉一枚落ちていない境内を見ると、とてもすがすがしい気分になります。禅寺というのはきれいに掃除されていてナンボですが、その環境を維持するためには、どんなに忙しくても、掃除は日課として欠かさず行い、常にすがすがしい状態を常に保っておかなければならないと、改めて感じた次第です。


落ち葉が散っているから境内を掃除する―

掃除をしなければ、きれいにならない―

毎日、掃除をするから、きれいな状態が保てる―

これらは、誰もが納得できる当然のことです。常にきれいにしておくためには、常に掃除をしていなければなりません。いくら掃除をしてきれいにしたとしても、ゴミがあれば、再び掃除をしなければ、きれいな状態は保てません。


それは我々人間も同じです。

日々の生活の中で、知らず知らずのうちに過ちを犯してしまう私たち―反省(懺悔)を繰り返していく中で、同じ過ちを繰り返さないようになっていきます。

そうやって、常に自らと謙虚に向き合い、反省(懺悔)が習慣化していくことで、我々はきれいな心を保てるようになるのです。

まさに「過ち」とは境内の落ち葉のようなものであり、「懺悔」とは落ち葉の「掃除」ことなのです。落ち葉同様、一度犯した過ちは、掃除をしない限り、また繰り返してしまうものです。そうやって何度も何度も過ちを犯すから、汚れがこびりつくのです。そして、いざ掃除しようとしても、なかなか汚れが落ちないのです。


だからこそ、常に「懺悔」をして、心を掃除しておかなければならないのです。「成仏(じょうぶつ)(仏に成る)」という人間共通の目標を考えるとき、「懺悔」とは人間性を完成させていく上で欠かせぬ修行であると同時に、私たちの志次第で、いつでもどこでもできる修行であることに気づかされます。


そんな「懺悔」を欠かさず行なう者には、「仏祖の冥助(みょうじょ)」があると道元禅師様はおっしゃいます。それは、懺悔する者は、仏祖の温かい眼差しによって“救い”を得ることができるということなのです。 

第13回「身口意(しんくい)の三業(さんごう)で懺悔する」

平成28年11月21日 更新

心念身儀発露白仏(しんねんしんぎほっろびゃくぶつ)すべし。発露(ほっろ)の力、罪根(ざいこん)をして鎖殞(しょういん)せしむるなり



前回登場した「懺悔文(さんげもん)」において、今、自分が苦悩に満ちた日々を送っているとすれば、その原因は他の誰かにあるのではなく、自分であるということが説かれていました。自分が自分の心の中に作ってしまった悪意が、言葉や行いとなって自分から飛び出し、周囲に届いてしまったことによって、相手も自分も苦しむことになり、今の苦悩に満ちた現実が生み出されてしまったのです。


しかし、そんな自分の身(行い)・口(言葉)・意(心)によってもたらされた現実も、懺悔によって変化してくというのです。悪意はどうやって発生するのか?そして、どういう対処をすれば、悪意を断ち、苦悩を取り除くことができるのか―?

私たちが悪意の性質や発生の道筋等を押さえると共に、全ての原因を自らに求め、改善していく姿があるならば、いくらでも状況は自分の望む方向に変わっていくのであり、それが第2章のテーマである「懺悔」だというのです。


とは言え、そうした懺悔は口で言うほど簡単なものではありません。私たちは幾度も失敗を繰り返しながら、段々と謙虚に自分と向き合うことができるようになっていくのではないかと思います。懺悔は一度にできるものではなく、成功と失敗を繰り返しながら、習慣化していくものであり、そうやって私たちは成仏、すなわち、自分の人間性を完成させていけるのではないかと思います。


そんな「懺悔文」に示されたみ教えを踏まえながら、今回の一句を味わってみます。


「心念身儀発露白仏(しんねんしんぎほっろびゃくぶつ)」は、「心念」・「身儀」・「発露白仏」と3つに分割して捉えていくとわかりやすいです。「心念」とは「心に念じる」ということですから、心による懺悔を意味していることに気づかされます。同じように捉えていくと、「身儀」は「身の所作」、つまり、我々の身体で行なう“行い”としての懺悔のことがわかります。そして、「発露白仏」ですが、「発露」とは「さらけ出すこと」であり、「白仏」とは「仏さまに申し上げる」ということであります。「白」というのは、「純白」等の意味だという解釈も成り立つかもしれませんが、ここでは「告白」という言葉から推察して、「白=申し上げる」という解釈をしております。要するに、“口(言葉)”で行なう懺悔のことです。


「心念=心」、「身儀=身体」、「発露白仏=口」―すなわち、「身口意しんくいの三業で懺悔すること」です。つまり、身口意の三業をフル活用して、全身全霊で自分をさらけ出していくことが、成仏につながる懺悔だというのです。


「心」による懺悔―それは、第12回 「ほとけの救い」で申し上げたように、常に心の掃除を怠らずに、きれいな心を保ち続けることです。


「身体」で行う懺悔―それは、第8回 「“口動”ではなく、“行動”を」で申し上げたように、同じ過ちを二度と繰り返さないという誓いを、自分の行動で体現して行くことです。


「口(言葉)」で行う懺悔―それは、第4回『心の大掃除」の習慣化』で申し上げたように、仏に帰依する仏教徒のごとく、周囲を敬うことによって、自分に素直になり、誠心誠意で懺悔の意を表すことです。そうやって素直に自分をさらけ出すことを出発点として、最終的には、多くの人と素直に自分をさらけ出し合いながら、何でも言い合い、聞き合うことができる“絆づくり”が目指せたらと思うのです。


そんな身口意の三業による懺悔が「罪根を鎖殞(しょういん)させる」ということですが、「鎖殞(しょういん)」は、「懺悔滅罪」の「滅罪」を表しています。“鎖”は“とかす”、“殞”は“おちる”を意味します。身口意の懺悔によって、人は仏様の救いを受けるのみならず、過去の罪を小さくし、「人間性の完成」という、いただいたいのちのあるべき生かし方への迫っていくのです。


2章は今回で最後となり、次は第3章「受戒入位」に入ります。

2章では幾度か成仏という言葉が出てまいりましたが、3章では成仏への道が具体的に示されていきます。

その前段として、欠かせないのが2章のテーマである「懺悔」なのです。

心念身儀発露白仏(しんねんしんぎほっろびゃくぶつ)すべし。発露(ほっろ)の力、罪根(ざいこん)をして鎖殞(しょういん)せしむるなり



前回登場した「懺悔文(さんげもん)」において、今、自分が苦悩に満ちた日々を送っているとすれば、その原因は他の誰かにあるのではなく、自分であるということが説かれていました。自分が自分の心の中に作ってしまった悪意が、言葉や行いとなって自分から飛び出し、周囲に届いてしまったことによって、相手も自分も苦しむことになり、今の苦悩に満ちた現実が生み出されてしまったのです。


しかし、そんな自分の身(行い)・口(言葉)・意(心)によってもたらされた現実も、懺悔によって変化してくというのです。悪意はどうやって発生するのか?そして、どういう対処をすれば、悪意を断ち、苦悩を取り除くことができるのか―?

私たちが悪意の性質や発生の道筋等を押さえると共に、全ての原因を自らに求め、改善していく姿があるならば、いくらでも状況は自分の望む方向に変わっていくのであり、それが第2章のテーマである「懺悔」だというのです。


とは言え、そうした懺悔は口で言うほど簡単なものではありません。私たちは幾度も失敗を繰り返しながら、段々と謙虚に自分と向き合うことができるようになっていくのではないかと思います。懺悔は一度にできるものではなく、成功と失敗を繰り返しながら、習慣化していくものであり、そうやって私たちは成仏、すなわち、自分の人間性を完成させていけるのではないかと思います。


そんな「懺悔文」に示されたみ教えを踏まえながら、今回の一句を味わってみます。


「心念身儀発露白仏(しんねんしんぎほっろびゃくぶつ)」は、「心念」・「身儀」・「発露白仏」と3つに分割して捉えていくとわかりやすいです。「心念」とは「心に念じる」ということですから、心による懺悔を意味していることに気づかされます。同じように捉えていくと、「身儀」は「身の所作」、つまり、我々の身体で行なう“行い”としての懺悔のことがわかります。そして、「発露白仏」ですが、「発露」とは「さらけ出すこと」であり、「白仏」とは「仏さまに申し上げる」ということであります。「白」というのは、「純白」等の意味だという解釈も成り立つかもしれませんが、ここでは「告白」という言葉から推察して、「白=申し上げる」という解釈をしております。要するに、“口(言葉)”で行なう懺悔のことです。


「心念=心」、「身儀=身体」、「発露白仏=口」―すなわち、「身口意しんくいの三業で懺悔すること」です。つまり、身口意の三業をフル活用して、全身全霊で自分をさらけ出していくことが、成仏につながる懺悔だというのです。


「心」による懺悔―それは、第12回 「ほとけの救い」で申し上げたように、常に心の掃除を怠らずに、きれいな心を保ち続けることです。


「身体」で行う懺悔―それは、第8回 「“口動”ではなく、“行動”を」で申し上げたように、同じ過ちを二度と繰り返さないという誓いを、自分の行動で体現して行くことです。


「口(言葉)」で行う懺悔―それは、第4回『心の大掃除」の習慣化』で申し上げたように、仏に帰依する仏教徒のごとく、周囲を敬うことによって、自分に素直になり、誠心誠意で懺悔の意を表すことです。そうやって素直に自分をさらけ出すことを出発点として、最終的には、多くの人と素直に自分をさらけ出し合いながら、何でも言い合い、聞き合うことができる“絆づくり”が目指せたらと思うのです。


そんな身口意の三業による懺悔が「罪根を鎖殞(しょういん)させる」ということですが、「鎖殞(しょういん)」は、「懺悔滅罪」の「滅罪」を表しています。“鎖”は“とかす”、“殞”は“おちる”を意味します。身口意の懺悔によって、人は仏様の救いを受けるのみならず、過去の罪を小さくし、「人間性の完成」という、いただいたいのちのあるべき生かし方への迫っていくのです。


2章は今回で最後となり、次は第3章「受戒入位」に入ります。

2章では幾度か成仏という言葉が出てまいりましたが、3章では成仏への道が具体的に示されていきます。

その前段として、欠かせないのが2章のテーマである「懺悔」なのです。

章 受戒入位じゅかいにゅうい

第1回「懺悔(さんげ)の“次”に」

平成28年11月2日 更新

次には深く仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)を敬い奉るべし



私たちは「今」という時間、「ここ」という場所に“いのち”をいただいて生かされている存在です。いのちはこの人間世界において、我々一人一人に与えられた時間です。そんないのちは人によって、長短の違いはあれども、どうやって生かしていくかを考えていくことは、我々に共通に与えられた課題です。


仏教では、その「人間としてどう生きていくか?」という問いに対する答えを、「少しでも生きる上での苦しみを和らげ、人間性を完成させていく(成仏【じょうぶつ】)こと」だと説きます。すなわち、在家のものであっても、仏の世界に入って、戒(仏のみ教え)を受けて生きる出家者のように日々を過ごしていくことが勧められているのです。


“戒”とは、自発的に善を行なうことで、同時に悪をも断じる行いです。仏さまの弟子として生きていくならば、必ず身につけておくべきものだと言えるでしょう。そうした“戒”に関するみ教えが説かれるのが「第3章・受戒入位」なのですが、その前段階として、意識しておかなければならないのが、今回の一句です。


まず抑えておきたいのが“次には”という出だしです。何の変哲もない、一見、見逃してしまいそうな出だしかもしれませんが、“次”とは、いったい、何の“次”なんでしょうか・・・?ここは次から次へと流していくようなことだと思って読み進めてしまえば、肝心なものを掴み損ねてしまうでしょう。


“次”・・・それは「懺悔(さんげ)」の“次”ということです。つまり、“次”という一字には、前段の2章から続いているということを示しながら、2章で示された「懺悔」を日常の行としてしっかりと行うことを大前提とし、次のステップに進んでいこうということなのです。


その次のステップというのが、今回、記されている「仏法僧の三宝を敬い奉る」ということです。三宝を自分の拠り所として、敬っていくことが、苦しみからの解放や成仏という人間の生きる課題を達成していく上での基本的姿勢であることが、これから説かれていくのです。



「懺悔したら、三宝に帰依する」―一つ一つのステップをしっかり踏んで、苦しみから逃れ、成仏を目指していきたいものです。 

第2回「どんなことがあっても・・・」

平成28年11月2日 更新

生(しょう)を易(か)え、身を易(か)えても、三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし



第2章「懺悔滅罪(さんげめつざい)」・第2回「差別なき救いの門」の中で「六道(ろくどう)」についてお話させていただきました。詳しくはそちらをご参照いただけたらと思いますが、人間にはそれぞれの人生の中で、やむを得ず人としての正しい道から外れてしまうことがあります。何かに怒り狂ったような時期を過ごすことがあれば(地獄)、やたらと高価なものを求めてみたり(餓鬼【がき】)、本能のままに過ごしてみたり(畜生【ちくしょう】)・・・。自分で注意していなければ、道から外れてしまうのが我々人間なのでしょう。


しかし、いくらやむを得ず道を外れてしまったとしても、“懺悔”(そこで自分の過ちに気づき、自ら人として歩むべき道を軌道修正していくこと)をしなければ、いつまでも道から外れたまま進歩もなく、周囲にも迷惑をかけ、自分も周りも苦しい思いをするだけです。


そんな我々に対して、たとえ道を外れることがあったとしても、どうか「三宝帰依(三宝を供養し敬い奉ること)」だけは忘れないでほしいというのが、道元禅師様の願いです。自分の考え方が変化し、どのような生き方をしようが、そこに「三宝」の2文字を思い起こしてほしい・・・。そうすることで、自らの苦しみを解消し、しっかりと人としての道を歩み、少しでも“成仏”を目指してほしいというのです。


「六道」という六つの世界の中で、我々はそのどこかに身を置いて、苦しんだり悩んだりしながら日々を過ごしています。そんな中で少しでも、安楽と成仏を目指すことを願って、道元禅師様は我々に“懺悔”と“三宝帰依”の大切さを訴えるのです。

第3回「人から人へ・・・」

平成28年11月30日 更新

西天東土仏祖正伝(さいてんとうどぶっそしょうでん)する所は、恭敬仏法僧(くぎょうぶっぽうそう)なり



修証義・第1章 第17回『「因果の道理」を明らめる』の中でも触れさせていただきましたが、今から2500年前にインドでお悟りを開かれたお釈迦様のお教えは、その後、達磨大師(だるまだいし)様によって中国に伝わり、そこで日本からの留学僧だった道元禅師様によって日本へと伝えられました。これが「西天東土仏祖正伝(さいてんとうどぶっそしょうでん)」するということです。


今や、その仏法はさらに広まり、欧米諸国にも伝わっています。言葉も違えば、文化だって異なるにも関わらず、仏法は海を越え、世界中に広まっていきました。これは本当に奇跡ともいうべきすごいことです。そんな奇蹟を生んだのも、“因果の道理”すなわち、“ご縁の力”によるものなのです。


しかしながら、この奇蹟が起こった理由を別の角度から見てみると、あることに気づきます。それは“仏法を世界中に広めたのは、人間である”ということです。確かに、言葉も文化も生活環境も違います。しかし、皆、同じ人間です。喜怒哀楽の感情を持った者同士なのです。だから、皆がすばらしいと感じるものならば、誰もがすばらしいと感じることができるのです。


仏法は誰が見てもすばらしいものであり、どんな人でも救える力を持っていた―だからこそ、世界中に広まっていったのです。


そんな人から人に伝わった仏法の根底にあるものは、三宝への帰依です。それが「恭敬仏法僧(くぎょうぶっぽうそう)」と表現されています。三宝帰依を根っことした仏法がインドから、中国に伝わり、そして、日本に継承され、日本から欧米諸国へと伝わっていったということです。人から人へ・・・。坐禅の実践を通じて・・・。

第4回「“薄福少徳(はくふくしょうとく)の衆生”に願うもの」

平成2日 更新

若(も)し薄福少徳(はくふくしょうとく)の衆生は三宝の名字猶(みょうじな)お聞き奉らざるなり。何(いか)に況(いわん)や帰依し奉ることを得んや



―インドから中国へ、そして、中国から日本へ、さらに欧米諸国へ―

お釈迦様のみ教えは人から人に伝えられ、その土地の文化や習慣と融合しながら、それぞれの地に根付いてきました。


そんなお釈迦様のみ教えの基本にあるのが「三宝帰依」です。私たちがそうした三宝とご縁を結んでいくことで、日常生活の中に仏法が浸透していくのです。


とは言え、仏教が伝わっているとしても、そこに暮らす全ての人が三宝とご縁を結んでいるとは限りません。


今回のお話は、そんな三宝とのご縁を結んでいない人のお話です。いったい、道元禅師様はそういう人々をどう捉え、何を願っているのか-?それを修証義から読み味わってみたいと思います。


思うに、人が三宝と巡り合えるタイミングは、それぞれの人生経験(悲しみや苦しみの体験)などによって、違いがあるものではないかと思います。早くに出会える人もいれば、遅い人も、未だに出会えていない人もいます。


今回、登場している「薄福少徳(はくふくしょうとく)の衆生」という言葉を文字だけで判断するならば、「福が薄くて徳が少ない」とありますから、冷酷非道な人間像を思い浮かべてしまいます。


しかし、人々に温かい眼差しを向けられる道元禅師様のお言葉であるという観点からこの言葉を捉えていくならば、冷酷非道な人間と捉えるよりも、「(諸事情によって)三宝と未だご縁を結んでいない人」と捉えたほうがよろしいかという気がします。そう捉えていくと、「三宝の名字猶お聞き奉らざるなり。何に況や帰依し奉ることを得んや」へとスムーズにつながっていくのです。「三宝とのご縁がないから、三宝という名すら聞いたことがない。だから、帰依したくてもできないのである」と説いているのです。ここでは、日本の文語文に用いられる「反語表現(はんごひょうげん)」が使われています。「三宝とのご縁がないのに三宝に帰依できるはずがない」という、語調を強めた強調表現です。


人それぞれ、三宝に出会うタイミングに違いはあるものの、三宝は常に門戸を開き、人とご縁を結ぼうとしているのです。それなのに、私たちの方が自分の都合や誤った考え方を捨てきれないでいるがために、三宝とのご縁を結べずにいるのです。


そんな人間を道元禅師様は決して、無信仰者だとか、誤った人間であるなどと非難しているわけではありません。諸事情によって三宝とのご縁に巡り合えていないだけであり、もしも、少しでも早く三宝に出会えたら、日々の苦悩から解放される道が開け、いただいたいのちを正しく生かすことができただろうに・・・と残念がっていらっしゃるのです。


「薄福少徳の衆生」がそのことに少しでも早く気づき、三宝とご縁を結ぶことを道元禅師様は願っていらっしゃるのです。

第5回「芯を持つ ―三宝を心の拠り所とする―」

平成29年2月日 更新

徒(いたづら)に所逼(しょひつ)を恐れて山神鬼神等(さんじんきじんとう)に帰依(きえ)し、或(あるい)は外道(げどう)の制多(せいた)に帰依すること勿(なか)れ。彼(かれ)は其帰依(そのきえ)に因(よ)りて衆苦(しゅく)を解脱(げだつ)すること無(な)し



道元禅師様は未だ仏法僧の三宝とご縁を結んでいない方々が少しでも早く三宝とご縁を結ぶことを願っておられます。なぜならば、私たちが三宝とご縁を結ぶことができれば、三宝が確かな拠り所となるからです。そして、そうなることが、我々が生きていく上で避けられぬ様々な苦しみを和らげ、この世にいただいたいのちを完成させることにつながっていくからです。


ところが、未だ三宝とのご縁を結ぶことができない人は、苦しみに出会ったとき、自分の心の拠り所がはっきりしていないので、海のものとも山のものともわからないものにすがってしまうというのです。それが「徒(いたづら)に所逼(しょひつ)を恐れて山神鬼神等(さんじんきじんとう)に帰依(きえ)し」の意味するところです。要するに、この一句は我々に三宝以外の不確かなものを信じ込んでしまうと、余計な苦しみを背負うばかりか、人間性の完成さえもままならないというのです。


たとえば、「占い」の結果にすがってしまうと、運勢がよければ飛び上がるように喜んでみたり、逆に、悪ければ落ち込んでしまったりするというというように、占いの結果だけでその日一日を過ごす気持ちが大きく揺れ動いてしまうことになりかねません。仏法僧の三宝以外のものに帰依するということは、こうした自分の気持ちを極度に不安定にするような存在と関わっていくということでもあるのです。


また、「外道(げどう)の制多(せいた)」に対しても、むやみやたらとすがってはいけないと道元禅師様はおっしゃっています。「外道の制多」とは、自称・宗教団体を名乗るような組織や団体のことです。つまり、表面上は釈尊の教えを提示し、世間の悩める人々の救済を謳いながら、内実は営利目的で営まれているような組織や団体のことです。人知れず苦しんでいる自分を救ってくれるものがないとき、人はついついそうした団体組織に引き込まれがちになります。しかし、そんなことをしても、「衆苦(しゅく)を解脱(げだつ)すること無し」なのです。つまり、苦しみから救われることはないと、道元禅師様は明確な解答を提示していらっしゃるのです。


ですから、しっかりと仏法僧の三宝を自分の心の拠り所とし、自らの信仰を確立してほしいと道元禅師様は願うのです。若さゆえに経験が足りなかったりすると、核となる考えがなかったりするからか、人間は周囲の影響を受けやすくなり、考え方がブレたりしてしまうものです。そうなると、もはや自分の判断で物事の是非を判断することさえできません。そうしたむやみやたらと誰彼構わずに周囲に迎合しようとするようでは、何をやってもうまくいかないのです。


そうならないためにも、自分の芯となるものを持つことが大切です。芯とはポリシーとか方針などといった言葉で表現することもできるでしょう。「三宝を芯とする」-すなわち、三宝を心の拠り所とすることで、自らの信仰を確立していくと同時に、普段の日常生活の中でも芯を持って生きていくことで、自分のあるブレない生き方を願うばかりです。

第6回「三宝帰依がもたらすもの」

平成29年2月14日 更新

早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦(しゅく)を解脱(げだつ)するのみに非ず、菩提(ぼだい)を成就(じょうじゅう)すべし


三宝に帰依することによって、「衆苦(しゅく)を解脱(げだつ)する」ことができると道元禅師様は仰います。それが三宝帰依によって得られる一つ目の功徳です。道元禅師様はこの前段で、三宝以外のものに帰依したところで、苦しみから救われることがないことをお示しになっていらっしゃいます。


次に“菩提の成就”とありますが、これが三宝帰依のもたらす二つ目の功徳です。「菩提」とは「ほとけさまのお悟り」です。ということは、“菩提の成就”とは、これまで何度か申し上げてきた私たち人間の共通の“生きる目標”である「成仏(人間性の完成)」であることに気づきます。


三宝帰依は、人間が生きていく上で巡り合う様々な苦しみを和らげることができる上に、各々の人間性の完成につながっていくのです。だからこそ、少しでも早く三宝とご縁を結んでほしいと道元禅師様は願うのです。


そもそも誰もが、最初は三宝とご縁のない「薄福少徳(はくふくしょうとく)の衆生(しゅじょう)」なのです。だから、最初は自分が帰依すべき心の拠り所がありませんでした。その結果、心を惑わし、困ったことがあれば、場当たり的なものに救いを求めようとしてきました。しかし、結局は救われることもなければ、人間性を完成させることもできなかったのです。


そうした三宝とのご縁になかなか巡り合えないというのが、我々の現実ではないでしょうか?しかしながら、2章の冒頭に「仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり」とあるように、三宝側は、常に我々に対して広大な門戸を開いているのです。


しかし、私たちの方が三宝に歩み寄らない、すなわち、三宝帰依の姿勢がないために、三宝と巡り合えないのです。私たちが三宝とご縁を結び、仏さまの広大の慈門をくぐるかどうかは、我々次第です。できうれば、仏法僧の三宝に我が身を委ね、その門をくぐってみたいものです。

第7回「清らかな信心 -三宝帰依の心構え-」

平成29年2月1日 更新

其(そ)の帰依三宝(きえさんぼう)とは正(まさ)に浄信(じょうしん)を専(もっぱ)らにして



前回、“三宝帰依”が「苦しみからの解放」と「人間性の完成」という2つの功徳をもたらすことを学習しました。


それを踏まえ、今回はどのような心構えで三宝に帰依するのかを学習してまいりたいと思います。


三宝帰依の心構え―それを指し示すのが「浄信」という言葉です。この言葉は、すでに第2章「懺悔滅罪」の中に登場しています(第7回 「変革 -自分が先に変われば、相手も変わる-」)。そこでは、浄信は「仏祖をまっすぐに信じる気持ち」だとお話させていただきました。すなわち、ただ只管ひたすら、ひとすじに三宝に身も心も委ねていくということです。


ということは、浄信は「帰依」につながっていることに気づかされます。“帰依”の“帰”は“帰投(身も心も投げ入れる)”であり、“依”は“依存(そこから絶対に離れない)”です。自分の身も心も三宝にすっかり委ねて、お任せしてくことが三宝帰依の心構えなのです。


そこには、“三宝に帰依すれば、何かいいことが起こるかもしれない”と何かを期待するような、見返りを求めるような心はありません。ただ只管、三宝を信じ、三宝に我が身を委ねようとする清らかな心しかないのです。それが仏と共に生きる仏教信者の姿であり、三宝帰依とは、そうした見返りを求めぬ純粋な心から生ずる清らかな信心なのです。

第8回「“いる・いない”に関わらず…~如来の十号から学ぶ~」

平成29年日 更新

或(あるい)は如来現在世(にょらいげんざいせ)にもあれ或(あるい)は如来滅後(にょらいめつご)にもあれ



お釈迦様には色んな“呼称”が存在しています。「如来十号(にょらいじゅうごう)」とは、そんなお釈迦様をこの世の救世主として讃えた10種類の称号です。


今回は紙面に余裕がありますので、簡単ではありますが、十号をご紹介させていただきます。


①如来(にょらい)・・・如実(真実の世界)から到来した者、如実に来至した者

②応供(おうぐ)・・・煩悩を断ち、供養を受けるに応じた徳を有する者

③正偏知(しょうへんち)・・・知らないことがない者

④明行足(みょうぎょうそく)・・・理論を極め、それを実践できている者

⑤善逝(ぜんぜい)・・・正しく行い、正しく語れる者

⑥世間解(せけんげ)・・・世間を熟知している者

⑦無上士(むじょうし)・・・この上なく最も勝れた者

⑧調御丈夫(じょうごじょうぶ)・・・いかなる者も仏道に導き、成仏させることができる者

⑨天人師(てんにんし)・・・正しい教えで人を導ける無上の師

⑩仏世尊(ぶっせそん)・・・世尊(この世で最も尊い者)


さて、この十号を踏まえた上で、修証義を読み味わってみたいと思いますが、如来がお釈迦様を意味していることは言うまでもありません。「現在世」とは、「今・ここ(人間世界)に存在している」ということですから、お釈迦様が約2500年前の2月15日に亡くなるまでの80年間、この娑婆世界に実在していた事実を説いています。


それに対して、「滅後」とは、「滅した後」ということですから、「亡くなった後」ということになります。すなわち、お釈迦様がお亡くなりになられてから今日に至るまでの、この長い長い時間を指しているのです。


お釈迦様が実在していらっしゃった過去と、そうでない現在―相手が自分たちの目の前に存在しているかどうかで、人々の反応は変わってきます。たとえば、子どもの頃、担任の先生がいないと怠けていたのが、担任の先生が来たら、さも今まで自習をしていたかのように振る舞うような、あの誰もが身に覚えのある経験のようなものです。人間というのは、ついつい誰かが見ているところでは相手によく思われようとするのに、人目がなくなった途端に、手を抜いてしまうものなのです。


しかしながら、悟りを得た“仏”としてのお釈迦様は生存していなくても、そのみ教えを代々伝え続けてきた多くの“僧”の力によって、法(お釈迦様のみ教え)は、「今・ここ」に受け継がれ、歴然と存在しています。だから、私たちは三宝とご縁を結ぶことができるのです(自分のものの見方や考え方次第ですが・・・)。そして、お釈迦様は既に亡くなった過去の人だから、そのみ教えは時代には合わないと、十分に検証することなく決めつけているようでは、三宝と出会うことができないのです。


お釈迦様の存在は、我々の目の前に“いる・いない”といった、我々が考えているような小さな基準を超えたものです。どんな時代であれ、どんな状況であれ、お釈迦様は存在し、そのお示しは色褪せるものではありません。いつでもどこでも通用するものです。そうしたお釈迦様始めとする仏法僧の三宝とのご縁は、どんな状況(時代)であっても、こちらから求めていくことで結ばれるご縁なのです。

第9回「帰依のかたち―合掌低頭(がっしょうていず)-」

平成29年24日 更新

合掌(がっしょう)し低頭(ていず)して



「日常生活の中で、仏法僧の三宝に帰依したら、抱えていた苦悩から救われたという実感を得た。」―こんなとき、三宝への感謝の念が芽生えてきます。こうした感謝の念によって、自然と三宝に手を合わせ、頭が下がってきます。それが「帰依のかたち」―すなわち「合掌低頭(がっしょうていず)」です。


お寺で生活をする中で、幾度となく合掌低頭をする場面があります。曹洞宗石川県青年会では、毎年、夏休みに小学生を対象に「子ども禅のつどい」を行わせていただきますが、子どもたちに‟仏さまの前を通る時は、一度、仏さまの方を向いて、合掌低頭しましょう”と教えます。すると、子どもたちは、仏さまの前で合掌低頭を欠かさずに行なっています。


こうした仏さまの前で合掌低頭をするというのは、まさに我々仏教徒の「帰依のかたち」です。すなわち、仏法僧の三宝を拠り所とし、その功徳(お力)で毎日を心安らかに過ごせることに対する感謝の念から生ずる姿です。最初は自分の意志ではなく、他から言われて行なっていたことでも、三宝とのご縁が深まっていく中で、「帰依のかたち」が自然と身についていくのですから不思議なものです。



それからお寺の法要に参加されたことがある方はおわかりかと思いますが、法要の前後、僧侶は“坐具(ざぐ)”という布を敷いて、三度礼拝を行ないます。これを「三拝(さんぱい)」と申します。三度の礼拝にはそれぞれ意味があります。1回目は仏に対して、2回目は法に対して、3回目は僧に対して、それぞれ感謝の念を表した「帰依のかたち」なのです。


合掌低頭という「帰依のかたち」に込められた思い―それは浄信から生み出された清らかな感謝の念なのです。

第10回「帰依のことば」

平成29年4月24日 更新

口に唱えて云いわく、南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法(なむきえほう)、南無帰依僧(なむきえそう)



浄信を専らにして仏法僧の三宝に帰依し、合掌低頭して帰依のかたちを表しながら、口にする「帰依のことば」が「南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法(なむきえほう)、南無帰依僧(なむきえそう)」です。これは梵語(ぼんご)(古代インドのサンスクリット語)の「ナモ」を音訳した言葉で、「帰依」を意味する言葉でした。


ということは、「南無帰依仏(なむきえぶつ)」とは“仏”に対する帰依を、「南無帰依法(なむきえほう)」とは“法”に対する帰依を、「南無帰依僧」とは“僧”に対する帰依を意味していることに気づきます。すなわち、これらは帰依三宝の意志を発した言葉、「帰依の発露」を表現した言葉なのです。


そうした帰依には、帰依できる理由があります。次回はそのお話をさせていただきます。

第11回「帰依の理由(わけ)」

平成29年4月2日 更新

仏は是(こ)れ大師(だいし)なるが故に帰依す、法は良薬(りょうやく)なるが故に帰依す、僧は勝友(しょうゆう)なるが故に帰依す



修証義第3章・「受戒入位(じゅかいにゅうい)」は「三宝帰依とは何か?」という点からスタートしています。ここで、今一度、これまでの流れを押さえておきたいと思います。


1、三宝とは何か?―仏・法・僧

2、三宝に帰依することによってもたらされるもの―安心(あんじん)と成仏(人間性の完成)

3、帰依のこころ―純粋な信心から生ずる心

4、帰依のかたち―合掌低頭(がっしょうていず)やお拝


こうした流れの中で、今回の一句では「帰依の理由」が示されています。なぜ、我々仏教徒が三宝に帰依することができるのでしょうか?それは仏=「大師」であり、法=「良薬」であり、僧=「勝友」だからであると道元禅師様はお示しになっています。


「仏=大師(だいし)」である

「大師」とはこの世の真理を悟った偉大なる師ということです。それは「第8回・“いる・いない”に関わらず・・・~如来の十号から学ぶ~」にて登場した「如来の十号」を参照していただければ合点がいくかと思います。あの10個の称号によって表されるお釈迦様はまさに、この世において何も知らないことがなく、人間のどんな悩みや苦しみにも救いの手を差し伸べられる偉大な存在(大師)であることがわかります。だから我々は仏を信用し、安心して身を任せられる(帰依できる)のです。


「法=良薬(りょうやく)」である

いつの世にも「悪い薬」に手を出して、身を滅ぼす者がいます。最悪の場合にはいのちに関わるところまで行ってしまうこともあります。「悪い薬」は一見、人を幸せにするようなフリをしながら、人を悪の道に誘いこんでしまうとんでもない存在です。


そんな「悪い薬」に対して、「良薬」は苦悩を抱えた人々に救いの手を差し伸べてくれます。服用する者に安心をもたらし、仏への道を完成させてくれる―だから、我々は信用して、法に帰依できるのです。


とうやら、そんな良薬と我々はなかなかご縁を結ぶことができないようです。だからこそ、どうか少しでも多くの人が「悪い薬」の本質に気づき、「良薬」を服用してくれたらと願うのです。



「僧=勝友(しょうゆう)」である

僧は勝友であるがために帰依できるということですが、勝友とはすぐれた友達ということです。仏教における勝れた友とは、共に仏の悟りを目指して歩む仲間のことです。


私が布教師として駆け出しの頃の出来事です。ある布教師の大先輩から自分の法話に対して厳しいご意見をいただいた私は、しばらくは口を聞くのも嫌になるくらいに落ち込んでいました。そんな私を励まし、真実に気づかせてくれたのが、お坊さんの仲間たちであったり、お寺の坐禅会に足を運んでくださった参禅者の温かい笑顔であったり、お寺の近くを通りかかったからと訪ねて来てくださった知り合いでした。そうしたお一人お一人の心遣いが自分の中に浸透していくうちに、私は自分に欠けていたものに気づかせていただいたのです。それは、駆け出しの私が、あたかも長年、布教の道を歩んできたベテランのごとき横柄な態度で法を説いていたということです。この気づきによって、私は自らを顧み、一生涯に渡って、謙虚な姿勢で法を求めていくことの大切さに気づかせていただきました。勝友の存在は私に心の安心を与え、新たな気づきをもたらせてくださったのです。勝友は一人では歩けぬ困難な道をも歩行可能にしてくれます。共に仏の道を歩むもの同士、困ったときは助け合い、励まし合うことができる。そして、決して、裏切ることのない存在であり、深い絆で結ばれたもの同志である―だから、信用して、帰依できるのです。


三宝という大きな存在に安心して身を委ねられるのは、自分自身に安心を与えると共に、正しい道へと導いてくれるからなのです。だからこそ、少しでも早く多くの人が三宝とご縁を結ぶことを願うのです。

第12回「戒 ―自らの意志で行動する―」

平成29年月9日 更新

仏弟子となること必ず三帰(さんき)に依(よ)る。何(いづれ)の戒を受(う)くるも必ず三帰を受けて、

其後(そののち)諸戒(しょかい)を受くるなり。然(しか)あれば、即ち三帰に依よりて、得戒(とっかい)あるなり



仏教徒にとって、「三宝帰依(さんぼうきえ)」が欠かせないということを道元禅師様は再三に渡って説いていらっしゃいます。なぜならば、「西天東土佛祖正伝(さいてんとうどぶっそしょうでん)する所は恭敬仏法僧(くぎょうぶっぽうそう)なり」とありますように、三宝帰依がインドから中国、そして日本へと伝わってきた仏教徒の基本姿勢だからです。こうした三宝帰依をしっかりと身につけ、日常生活の中で持続していくのが仏教徒の姿だというのです。


こうした内容を踏まえながら、今回の一句を見ると、まず“仏弟子”という言葉が登場しています。そのまま解釈すれば、“仏様の弟子”ということですが、これぞまさに三宝帰依する仏教徒のことなのです。それも、たった今、仏教徒として目覚め、三宝に帰依していくことを誓った人という意味で解釈していけばよろしいかと思います。ここでは、お釈迦様の世界に身を投げ入れ、お釈迦様の足下に立った人にとって、「三帰」が欠かせないと説かれているのです。


「三帰」とは何か・・・?仏弟子に欠かせぬものとは「三宝帰依」でした。ですから、「三帰=三宝帰依」なのです。


次に「戒」という言葉が出てまいります。「戒」は仏教における重要なみ教えの一つですが、修証義の中では、今回が初めて、それも突如として登場したような印象を覚えます。一般的に解釈するならば、「戒め」ということですが、仏教における「戒め」とは「お釈迦様の戒め」、即ち「仏戒」です。すなわち、お釈迦様が自分自身に誓った戒めのことです。それは、決して、「してはいけない」と他から強いられたものではなく、自らの意志で「やらない」と誓いを立てたものです。今後、修証義を読み進めていくうえで、仏戒がより具体的に説き明かされていきますが、ここでは、仏戒が‟自発的な誓い”であるということを押さえておきたいと思います。


そんな自発的な戒というものは、自発的に三宝帰依することによって必然的に身につくものだと道元禅師様はおっしゃいます。それは、いくら、他人に勧められたとしても、自分の意志で誓ったものでなければ、本物が身につかないということです。何事も自分の意志で決め、自分で行動して身についていきます。人様の真似ばかりしていては、いつまでも本物にはなれないということです。これはまさに、「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)(自らを灯りとし、法を灯りとして生きていこう)」のみ教えにも通ずるように感じます。



「然あれば、即ち、三帰によりて得戒あるなり」―自らの意志で仏弟子(仏教徒)になりきることによって、お釈迦様の戒法が身につくということを訴えているのです。

第13回「感応道交(かんのうどうこう) -双方の心が通じ合ってこそ―」

平成29年日 更新

此帰依仏法僧(このきえぶっぽうそう)の功徳必ず感応道交(かんのうどうこう)する時成就(じょうじゅう)するなり



仏法僧の三宝に帰依することによってもたらされる功徳は、「感応道交かんのうどうこう」によって完成されると道元禅師様はおっしゃっています。「感応道交」―今回の一句を紐解いていくうえでキーワードとなる言葉です。今回はこの言葉を触れながら、道元禅師様のみ教えに味わってみたいと思います。


子どもの頃に公園の砂場で砂山を作り、トンネルを掘って遊んだ経験は誰しもあるのではないかと思いますが、なぜ、砂山にトンネルが掘れるのでしょうか??それはトンネルを掘る者同士がお互いにトンネルを掘って山を通じ合わせようという気持ちがあるからです。だから、どんな山であってもトンネルが掘れて、通じ合うことができるのです。「感応道交」とは、こうした砂山のトンネル掘りのようなものです。私たちと仏法僧の三宝、双方がトンネルを掘って、お互いの心が通じ合ったとき、三宝帰依の功徳がもたらされると道元禅師様はおっしゃっているのです。


ここで抑えておきたいのは、仏法僧の三宝は常に我々人間に向かってみ教えを発しているということです。三宝は常に、誰に対しても差別することなくトンネルを掘っています。


それなのに、仏のみ教えを受け取れていないと感じるのはなぜでしょうか?


それは我々の方が三宝に向かってトンネルを掘ろうとしていないからです。すなわち、お釈迦様は平等に我々衆生にみ教えを発しているのですが、そのみ教えをいただく我々一人一人の機根や理解力、人生経験等に違いがあるため、受け取り方に違いが生じてしまうのです。


同様のことをお釈迦様は法華経の「薬草喩品(やくそうゆほん)」の中で説いていらっしゃいます。雨は草木を平等に潤しているのに、雨の恵みを受け取る草木にはそれぞれ違った存在であり、異なる育ち方をすると―しかしながら、草木が雨の恵みをいただいて、自分のいのちを最大限に発揮しながら伸びていくように、我々人間も仏のみ教えを一心に受け止めていけば、その人間性が磨かれ、仏の悟りに近づいていくというのです。


こうした仏法僧の三宝と感応道交しながら、少しでも仏の悟りに近づいていけるようにしたいものです。そして、三宝との感応道交を通じて、周囲の人々始め、様々な存在との感応道交を目指していきたいものです。自分の考えが正しいと思えば思うほど、人間は自分の意見を相手に押し付けてしまいます。しかし、相手にも考えや性質があります。相手のトンネルの掘り方を注視しながら、お互いの間に存在する山にトンネルを掘っていきたいものです。それは、相手の言葉や態度など、相手が発するものを確かめながら、自分の意見を発していくということです。

第14回「“トンネルを掘る”ということ」

平成29年8月6日 更新

設(たと)い、天上(てんじょう)・人間(にんげん)・地獄(じごく)・鬼(き)・畜(ちく)りと雖(いえど)も、感応道交すれば、必ず帰依し奉るなり



前回、我々が仏法僧の三宝と“砂場のトンネル掘り”のごとく心を通じ合わせれば、三宝の功徳をいただくことができるというお話をさせていただきました。これは人間同士のよき関係作りにも通じるみ教えです。


しかし、スムーズにトンネルを掘れればいいのですが、ほとんどの場合、そんなに簡単には掘れません。たとえば、最初はうまく掘れていたのに、途中に硬い岩があって掘れなくなったとか、山火事でトンネルを掘るどころではなくなったとか、様々な状況が起こります。


そうしたトンネルに起こる様々な状況を表現したのが「天上・人間・地獄・鬼・畜」です。これはいわゆる「六道」でありますが、詳しくは第2章の第2回「差別なき救いの門」をご参照いただけたらと思います。それら6つの世界は決して、我々と無関係ではありません。我々の住む娑婆世界(人間世界)のどこかで、必ず巡り合うものばかりです。愛や名誉、お金など、沸き起こる欲望に飢えた者同士の関係(餓鬼)、何かにつけて文句を言い、愚痴ばかりこぼし合っている者同士の関係(畜)などなど・・・。身に覚えがあるものばかりです。


そうした一見、トンネルが掘れない、お互いの意志が通じ合いそうもないと思えるような山であっても、道元禅師様は「諦めてはいけない」とおっしゃいます。道元禅師様は我々に、たとえ、どんなに困難なトンネル掘りであったとしても、「必ず掘れる」と信じて、コツコツと掘ってほしいと願うのです。それは、たとえ相手がどんなに難しい人であったとしても「いつか必ず気持ちが通じ合えるはずだ」という信念を持って関わっていくということです。こちらが諦めずに相手と気持ちを通じ合わせようと働きかければ、いつか必ず相手が応えてくれるときが訪れるということです。こちらから「感応道交」させていくということです。そうすることで、どんなに関係作りが難しそうな相手でも、仏様に帰依する仏教信者のごとく、必ずお互いに相手を敬い合える関係になれると道元禅師様はおっしゃっているのです。 

第15回「縦横無尽の功徳」

平成29年8月18日 更新

既に帰依し奉るが如きは生々世々(しょうじょうせせ)、在々処々(ざいざいしょしょ)に増長し、必ず積功累徳(しゃっくるいとく)し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就するなり



三宝を信じ、敬うことができる者―そうした三宝に帰依できる者たちは必ずや迷いや苦悩を離れ、悟りに近づけると道元禅師様は説かれます。いつの時代でも、どんな場所でも、「三宝帰依」ができるならば、必ず心の中の苦悩から解放され、仏の悟りに近づけるというのです。


いのちは絶えれば、別のいのちに生まれ変わるというのが「輪廻転生(りんねてんしょう)」という仏教思想ですが、これは、いのちというものが姿形を変えながら未来永劫に生き続けるという思想です。ですから、人間の場合でもどこかで誰かが亡くなれば、別のどこかで新たないのちが誕生しているわけで、それが繰り返されるから、この世から人間が絶えたことがないのです。


そうしたいのちの永続性を道元禅師様は「生々世々」という言葉で表現していらっしゃいます。これは、「いつでも」ということです。そして、「在々処々」とは「どこでも」ということで、空間の無限な広がりを示しています。これらは三宝に帰依すれば、その功徳が時間的にも空間的にも限りなく横に広がっていくことを意味しているのです。


横だけではありません。縦にも無限の広がりを見せていくと道元禅師様はお示しになっています。それを現しているのが「積功累徳」という言葉です。三宝帰依の功徳は横に広がるだけではなく、縦にも積み重なっていくというのです。


ひたむきな三宝帰依によって、その功徳が縦横無尽に拡がっていくとき、「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」を成し遂げられると道元禅師様はおっしゃいます。多くの漢字が連なるために一見、難しい印象を覚える「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」という言葉は、「悟り」を意味します。私たちがひたすら三宝帰依することによって、成仏-仏の悟りに近づけることを説いているのです。

第16回「祖師方が衆生に願うもの」

平成29年日 更新

知るべし三帰(さんき)の功徳(くどく)、其(そ)れ最尊最上深甚不可思議(さいそんさいじょうじんじんふかしぎ)なりということ世尊既(せそんすで)に証明(しょうみょう)しまします。衆生当(しゅじょうまさ)に信受(しんじゅ)すべし



お釈迦様は相手の職業、人柄、理解力などを踏まえながら、対機(たいき)(相手)に応じた形で教えを説かれたと伝えられています。それを「対機説法(たいきせっぽう)」と申しますが、たとえば、大工さんには大工の仕事を用いて、教えを説いたというのです。そうしたすべてを対機に合わせて説かれたのが仏教ですから、自然と様々な側面を有し、誰でも救うことができるものとなったのです。まさに仏教はオールマイティで、尊く、深い教えなのです!

そうした「仏教(法)を含む三宝に帰依する功徳もまた、尊く不可思議で深いものである」ことを世尊(お釈迦様)が既に証明してくださっていると道元禅師様が仰っています。それが「知るべし、三帰の功徳、其れ最尊最上深甚不可思議なりということ世尊既に証明しまします」という箇所です。


次に「衆生当に信受すべし」とあります。冒頭の「知るべし」もそうですが、「べし」という助動詞がつかわれていることに、教えの深さを感じずにはいられません。「べし」という助動詞には「~しなさい」という命令の意味と、「~してほしい」という願いの意味があります。私は今回使われている2つの「べし」にはお釈迦様や道元禅師様が我々衆生に対して、三宝帰依の日常を送ることを願うと共に、その功徳を信受(信じて受け入れる)し続け、少しでも仏様のお悟りに近づくことを強く願っているように感じるのです。「命令」と「願い」―それは祖師方から我々に向けられた強い願いなのです。そして、その願いは時間と空間を超えて、常にその時代を生きる人々に発せられ続けているのです。


道元禅師様は人々が三宝に帰依することができれば、必ずや救われ、心安らかに生きていくことができるし、戒(仏様の生き方)が身につくとおっしゃっているのです。戒に関しては、次回から具体的に説かれていきますが、今回の箇所は戒を説く上での橋渡し的な役目を果たしていると同時に、様々な苦しみを抱える私たち現代人が三宝帰依(三宝を自分の支えとして生きていく)できれば、今の苦悩から解放され、苦しみを和らげることができるというのです。今回の箇所は第3章の前半部における中心テーマであった「三宝帰依」の総まとめとなる部分です。そして、三宝帰依の日常を過ごすことは、祖師方からの我々現代人に対する強い願いであったことを今一度、押さえておきたいと思います。

第17回「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)―止悪(しあく)・修善(しゅぜん)・済度(さいど)への道―」

平成29年9月19日 更新

次には、応(まさ)に三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を受け奉るべし。第一摂律儀戒(しょうりつぎかい)。第二摂善法戒(しょうぜんぼうかい)。第三摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)なり。



第3章の前半では、我々が仏法僧の三宝に帰依しながら、日々を過ごしていくことの大切さが説かれてまいりました。三宝帰依を基本とした日常生活によって、「戒」という仏様の生き方が身につき、私たちの人間性が完成されていくというのです。


三宝帰依によって身につく戒は「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」と申します。本文では「第一摂律儀戒(しょうりつぎかい)。第二摂善法戒(しょうぜんぼうかい)。第三摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)なり」と提示されています。その内容を下記にまとめてみましたので、ご参照いただけたらと思います。


三聚浄戒


摂律儀戒 悪いことをしないと誓うこと(止悪)


摂善法戒 善いことをすることを誓うこと(修善)


摂衆生戒 人様のお役に立てるような生き方をするのを誓うこと(済度)


「聚」という文字には「集める」という意味があります。ですから、この3つは、個々に独立したものではなく、それぞれ関連し合い、一つに集まって「戒」を為していると解釈すべきでしょう。この3つを自らに誓い、毎日を過ごしていくことが戒を身につけて生きていくということなのです。


この相互関係を図式化すると、次のようになります。


三聚浄戒


摂律儀戒(悪を絶つ)=摂善法戒(善を行う)


摂善法戒(善を行う)=摂衆生戒(人様のお役に立てるような生き方をする)


摂衆生戒(人様のお役に立てるような生き方をする)=摂律儀戒(悪を絶つ)



3ついずれもが関連しあっていることに気づかされます。ですから、どれか一つを実践すれば、必ず他の2つにつながり、3つ全てを実践することになるのです。そうやって「止悪・修善・済度」は完成されていくのです。


次回はこの「止悪・修善・済度」をもう少し具体的に味わってみたいと思います。

第18回「成仏への道―十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)―」

平成29年9月23日 更新

次には、応(まさ)に十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)を受け奉るべし。第一不殺生戒(ふせっしょうかい)。第二不偸盗戒(ふちゅうとうかい)。第三不邪淫戒(ふじゃいんかい)。第四不妄語戒(ふもうごかい)。第五不酤酒戒(ふこしゅかい)。第六不説過戒(ふせっかかい)。第七不自賛毀他戒(ふじさんきたかい)。第八不慳法財戒(ふけんほうざいかい)。第九不瞋恚戒(ふしんいかい)。第十不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)なり



「止悪(しあく)・修善(しゅぜん)・済度(さいど)」を自らに誓いながら日々を過ごす「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」―それは3つで「戒」という一つのみ教えを表すのでした。


そんな「三聚浄戒」を具体的に10個に分けて示されたのが「十重禁戒」です。下記の一覧表にその内容を提示させていただきました。



不殺生戒(ふせっしょうかい)

殺生をしない。あらゆるいのちを大切にし、その存在を殺さずに生かしていくこと。


不偸盗戒(ふちゅうとうかい)

盗みを働かない。自らの欲望を制御していくこと。


不邪淫戒(ふじゃいんかい)

貪らない。自らの欲望を制御していくこと。


不妄語戒(ふもうごかい)

うそをつかない。うそ・偽りの言葉を使わず、真実の言葉を使って会話をする。


不酤酒戒(ふこしゅかい)

酒に酔うかのごとく、自分の能力などに酔わない。自己陶酔せず、謙虚な姿勢で毎日を過ごす。


不説過戒(ふせっかかい)

人の過ちを責め立てない。相手の言動を肯定的に捉えるようにする。


不自賛毀他戒(ふじさんきたかい)

自慢や他人の批判を慎む。相手の言動を肯定的に捉えるようにする。


不慳法財戒(ふけんほうざいかい)

人に何かを与えることを惜しまない。みんなが喜ぶ言葉や行いをお互いにやり取りする。


不瞋恚戒(ふしんにかい)

怒りの感情を露わにして、周囲に不快感を与えない。笑顔と穏やかな言葉を心がけていく。


不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)

仏法僧の三宝を謗らずに、敬って帰依していく。


最後には三宝帰依の実践も説かれていますが、これは仏教徒たる者の基本姿勢として外すことはできません。


この10個の具体化された戒のみ教えはお互いに関連しあっています。ですから、一つを実践すれば、自ずと他の戒も実践していることになります。自分ができるものでいいのです。その選んだ戒の道をただひたすら歩んでいくならば、必ずや私たちの人間性が高まっていく―すなわち、成仏(仏に成る)のです。

第19回「正行(しょうぎょう)と助行(じょぎょう)―受持(じゅじ)・読(どく)・誦(じゅ)・解説(げせつ)・書写(しょしゃ)」

平成29年103日 更新

上来(じょうらい)、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)、十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)是(こ)れ諸仏(しょぶつ)の受持(じゅじ)したまう所なり



仏教の開祖・お釈迦様の生き方である「戒」はインドから中国、そして、日本へと伝わりました。いつ、何時も仏教を信仰する人々によって護られ、受け継がれてきた戒はまさに、「諸仏の受持したまう所」なのです。


ここで、「受持」という言葉が出てまいります。これは「法華経(ほけきょう)」の「法師品(ほっしぼん)」(法華経を説く者の心構えが説かれた部分)に詳しく出てくる言葉です。それを少しご紹介させていただきます。


『法華経の教えを弘めていく者には「5つの実践」が必要である。5つは、1つの「正行」と4つの「助行」に分けられる。正行とは主となる大切な実践で、法華経の教えを常に実践することである。助行とは正行を肉付けするための補助的実践であって、具体的には、法華経を目読すること(読)、口や心の中で誦すこと(誦)、説法すること(解説)、写経などお経を書くこと(書写)、そうやって教えが全身に植え付いていくのである。』(法華経 法師品より)


つまり、「受持」とは、自分の身心に法華経のみ教えが浸透し、どんなときも実践できるということなのです。そのために、書いたり読んだりすることが効果的なのは言うまでもありません。そうした「助行」によって「正行」が実践できるようになっていくのです。


それは仏教全般に当てはまることで、当然ながら、「戒」にも通じます。これまでお釈迦様のみ教えを受け継いできた祖師方は、お釈迦様に深く帰依し、決して、怠ることなく戒を護り、戒と共に生きてきたのです。すなわち、信仰を保ち続けてきたのです。それが「受持」なのです。


仏弟子として生きていくということは「戒が受持できている」ということなのです。

第20回「受戒 -戒と共に生きるということ-」

平成29年10月1日 更新

受戒(じゅかい)するが如きは三世(さんぜ)の諸仏(しょぶつ)の所証(しょしょう)なる

阿耨多羅三貌三菩提金剛不懐(あのくたらさんみゃくさんぼだいこんごうふえ)の仏果(ぶっか)を証(しょう)するなり



様々な仏様が自らの生き方としてきた“戒”―今回の冒頭にある「受戒」とは、「戒を受ける」ということです。すなわち、私たちが仏様と同じように、戒をいただき、戒を受持(じゅじ)しながら日々を過ごすということです。そうすることで、仏の位に入ることができるということです。


そんな「受戒するということはどういうことなのか?」というのが今回の内容です。


道元禅師様は『受戒するということは「三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三貌三菩提金剛不懐の仏果を証することである」』と説かれます。


「三世」とは「過去・現在・未来」ということです。すなわち、“いつの時代も”ということです。そんないつの時代の仏様たちも「所証」(証明)してきたものとは、いったい何だったのでしょうか・・・?


どの仏様たちも自ら戒と共に生きてきました。そして、それによって、仏の道を完成させてきました。それが後世に伝わり、仏教の2600年に及ぶ長い歴史が成立するのですが、その長い歴史の中には、いつの時代の仏様も自らの生き様で「戒を持たもちながら仏の道を歩めば、人はいつか必ず悟りに近づける」ということを証明してこられたように思います。


経典は「阿耨多羅三貌三菩提金剛不懐」へとつながっていきます。この言葉は、「仏教語」らしく難解な漢字が多用されています。ここでは少しでもわかりやすく理解していくためにも、「阿耨多羅三貌三菩提」と「金剛不懐」とに分けて解釈していった


まず「阿耨多羅三貌三菩提」ですが、一言で申し上げるならば「悟り」ということです。迷いや苦悩から離れた無上なる仏の境地です。


次に「金剛不壊」とあります。金剛とは金剛石のことで、ダイヤモンドです。ダイヤモンドは簡単には壊せない堅さと万物を破壊しようとする力を持った堅い石です。


そうしたダイヤモンドになぞらえて、仏の悟りは「何にも敗壊することなく堅固不動である」というのが「阿耨多羅三貌三菩提金剛不懐」の意味するところです。


そして、「仏果を証するなり」へとつながっていくのですが、仏果とは「修行の結果として、到達できる仏陀の位」です。


多くの仏様は受戒して、自ら戒と共に生きてこられた結果、簡単に壊れることのない確固たる仏の悟りに近づくことができたというのです。それはどの仏様もそうであったということですから、否定しようのない確かなものなのです。


様々な苦悩を抱えながら日常を過ごす私たちですが、戒と共に生きてきた仏様を見習って、日々を過ごしていけば、いつしか苦悩が取り除かれ、仏の悟りに近づくときがやってくるのです。そのことを頭の片隅において、戒と共に生きていけたらと願うのです。

第21回「世尊の願い」

平成29年1月1日 更新

誰(たれ)の智人(ちにん)か欣求(ごんぐ)せざらん。世尊(せそん)明らかに一切衆生(いっさいしゅじょう)の為に示しまします。



仏教の開祖であるお釈迦様(世尊:お釈迦様の別称で、この世における最も尊い方の意)は、周囲の人々に対して、性別だとか、年齢だとか、家柄だとか、そうした見た目の違いで分別し、差をつけるような関わり方(差別)をすることを否定されました。そして、見た目の違いに関係なく、仏の道に向かってまっすぐに精進する者ならば、誰もが仏の生き方である「戒」を身につけ、仏さまに近づくことができるとおっしゃったのです。


すなわち、お釈迦様(世尊)は「受戒によって成仏できる」ということを一切全ての人間にお示しになったというのが、今回の一句が意味するところです。


この「一切衆生」という言葉には重要な意味が含まれているように思います。と申しますのは、ここにはお釈迦様の生き様が色濃く反映されているように感じるからです。


「一切衆生」とは、過去・現在・未来の三世に渡って、この世に存在する全てを指すのですが、世尊であるお釈迦様は80年のご生涯の中で、「この世のすべてのいのちを救わん」と一切衆生に温かい眼差しを向けられたと共に、差別せず、和合しながら関わっていきたいと願ってこられたのです。


一切衆生の成仏を願った開祖・お釈迦様―我々にとって智者たる世尊が我々に「欣求(願い求めること)」してきたことを的確に捉え、限りあるいのち、少しでもお釈迦様のお悟りに近づけるような日々を過ごしていきたいものです。

第22回「ブッダまでの道のり」

平成29年11月14日 更新

「衆生(しゅじょう)、仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。位大覚(くらいだいがく)に同うし巳(おわ)る。真に是れ諸仏の子(みこ)なり」と。



「戒(悟りを得た仏様の生き方)が身についたならば、仏と同じ位に立つことになる。それは、まさに、仏の子(みこ)(仏弟子)になることである。というのが今回の一句が意味するところです。ここは、これまで道元禅師様が説いてこられた「戒」に関するみ教えのまとめとなる部分です。


“大覚(だいがく)”という言葉が出てまいりましたが、これは“大いなる目覚め”ということで、悟りを得ることであり、「悟りを得た人」を指す言葉です。


「悟りを得た人」のことを、ブッダ(覚者かくしゃ)とも申します。ブッダというと、お釈迦様を想像される方が多いかもしれませんが、あくまで、ブッダとは「悟りを得た人」を意味し、ブッダの一人がお釈迦様であるということです。


これまで「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」、「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」と、具体的に戒を学んでまいりましたが、これらを確実に身につけていくことで、「仏の子」になれると道元禅師様はおっしゃっています。


実は、ここが今回の一句における重要なポイントです。道元禅師様は戒を身につければ、ブッダになれるとはおっしゃっていません。あくまで仏の子、ブッダの子であり、仏弟子であるというのです。それはブッダの世界の入り口に立ったばかりということであり、もし、会議室のような場所に多くのブッダが集っているならば、その末席に座っているようなものだというのです。


戒が身についても、やっとブッダの足下に及ぶようなものだということは、それほどまでに、ブッダの世界への道のりは長く、深いものだということです。そして、戒を身につけ、諸仏の位に入ったとしても、修行が終わるわけではありません。仏道修行というのは、いのちある限り、永遠に続くものなのだというのです。たとえ、困難に出会ったからといって、志半ばで仏道を歩むのを諦めてはいけません。まずは「仏の子」に近づけるよう、一歩一歩、進んでいきたいものです。そうすることで、私たちはいただいたいのちを輝かせ、人間性を完成させていくのです。 

第23回「住職の使命」

平成29年11月1日 更新

諸仏の常に此中(このなか)に住持(じゅうじ)たる各々(かっかく)の方面に知覚(ちかく)を遺さず



「お坊さん」、「和尚さん」、「方丈ほうじょうさん」、「住職さん」・・・・こうやって上げてみると、「僧侶」には、様々な呼び名があることに気づかされます。これらの呼び名は、その場の状況などに応じて使い分けられるのですが、中でも「住職」という呼び名について、今日は触れておきたいと思います。


「住職」とは、“住”む“職”ともありますように、日頃、お寺に住んでいて、仏様にお仕えし、伽藍をお護りしながら、人々に仏のみ教えをお伝えしていくお役が与えられた僧侶のことです。いわば、一寺院の責任者であり、会社で言えば、社長のような存在なのです。


そんな「住職」にとって、お寺とは自分の修行の場として、そして、人々へ仏のみ教えをお伝えしていく教化の場として与えられた大切な場所です。いわば、住職にとって、お寺とは仏様のいのちのともしびを現代社会の中で生かし続けていくための場なのです。自分にとっても、周囲の人々にとっても「救い」となり、「悟り」にも近づいていく上での大切な場がお寺です。だからこそ、身をもってお守りしていくのは住職の使命とも言えるでしょう。


今回の一句の冒頭に出てまいります「住持(じゅうじ)」という言葉は「住職」と同義の言葉です。すなわち、戒を身につけ、戒を実践することで、お釈迦様から伝わる「悟りへの道」・「救いの道」を現代社会の中でお示しし、仏様のいのちのともしびを輝かせていくことが「住持」たる「住職」の使命なのです。


そうした住持(住職)という使命を果たしていくならば、仏のみ教えが輝き、「知覚ちかくを遺さず」ということになるのです。「知覚」とはものごとを自分の好みで選り分けようとする、いわば、好き嫌いをしてしまう心です。仏弟子たる住職が率先して、周囲を選り好みせず、仏様のみ教えをお伝えするという自らに与えられた使命を果たしていくとき、周囲の人々も自らの煩悩を小さくしていくことでしょう。


こうした住職の使命に関するみ教えに触れるとき、改めて自分の背筋を正していただく場になっているような気がします。今回のみ教えを通じて、今一度、決意を新たにしたいものです。仏のみ教えを受け継ぎ、それを現代社会に生かしていくという使命をいただいた住職として、お寺で修行に励み、お寺をお護りしていく者として・・・。

第24回「戒の功徳 ―釈尊の“成道”にちなみ―」

平成29年1日 更新

群生(ぐんじょう)の長(とこしな)えに此中(このなか)に使用する各々の知覚(ちかく)に方面露(ほうめんあらわ)れず



本日12月8日は仏教の開祖・お釈迦様がお悟りを得た(この世の道理に目覚めること)日です。これは「成道(じょうどう)」と呼ばれます。時代は今から約2600年前。お釈迦様、35歳のときの出来事です。


そんなお釈迦様の生き様であると共に、人間が生きていくうえでの道標となるのが「戒」でした。戒が身につけば、自分の好みで物事を選り好みすることがなくなるというのが、前回のお話でした。


そんな戒を私たち(群生)が身につけることができれば、その功徳が、たちまち私たちの日常生活に発揮されていくというのが「群生の長えに此中に使用する」が説くところです。戒の功徳は私たちの日常生活の隅々まで広がり、多くの人々を悟りの境地へとお送りするというのです。


次に「各々の知覚に方面露れず」とあります。「知覚」とは「思慮分別すること」でした。ついつい私たち人間は自分の好きなものは受け入れられても、嫌いなものは遠ざけようとしてしまうものです。そうした性質が戒を身につけることで、小さくなっていく―すなわち、どんな場面においても、選り好みせず、平等に接していくことができるというのです。


私の好きな禅語に「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」という言葉があります。「どんな場でも選り好みしなければ、自分を成長させてくれるご縁となる」という意味の言葉です。自分とご縁のあるものに対して、“嫌い”という感覚が働いてしまうと、せっかくのご縁も断ち切れてしまうというのです。


一見、やりたくないと感じる仕事も、付き合いたくないと思う人も、やってみなければ、また、付き合ってみなければ何も見えてきませんし、何もわかりません。成道したお釈迦様のように、この世の道理に目覚め、少しでも物事の本質を見抜ける目を持って日々を過ごしていく上でも、戒を身につけていきたいものです。

第25回「真価に気づく」

平成30年1月31日 更新

是時十方法界(このときじっぽうほっかい)の土地、草木(そうもく)、牆壁(しょうへき)、瓦礫皆仏事(がりゃくみなぶつじ)を作(な)すを以って、其起(そのおこ)す所の風水(ふうすい)の利益(りやく)に預かる輩(ともがら)、皆甚妙不可思議(みなじんみょうふかしぎ)の仏化(ぶっけ)に冥資(みょうし)せられて、親(ちか)き悟りを顕(あらわ)す



お釈迦様のみ教えとは、私たち一人一人が自分の周囲の存在に対して、どのように関わっていけばいいのかという問いに対する解答です。すなわち、私たちと周囲とのあるべき関わり方です。


そうした問いに対する解答の一つに、「あらゆるものに対して、自分の好みに捉われて、好悪の感情を起こさず、平等に差別なく接する」というのがあります。そうしたものの見方や関わり方によって、一つ一つの存在が有する固有の価値を見出せるようになっていくと共に、前回お話した戒の功徳にも通じてくるのです。


人間だけではなく、犬や猫であれ、身の回りにあるコップや一冊の本、果ては、野に咲く草花にしろ、道端に転がる石ころにしろ、すべてに存在価値があります。見た目には一つ一つは全く異なる存在ですが、全てが固有の価値を有する平等な存在です。「かわいい子どもがいてくれるから、一生懸命働ける」、「その一冊のおかげで救われた」、「道端に咲くタンポポを見て、日頃の疲れが吹っ飛んだ」―ふとしたご縁で、誰かが何かに救われることがあります。あたかも悟りを得た仏様のお力で、心の中の苦悩が消えて、安心感を覚えるように―それが存在価値というものです。


そうしたあらゆるモノの存在価値を仏教的観点から説くと、「是時十方法界の土地、草木、牆壁、瓦礫皆仏事を作すを以って」ということになります。すなわち、あらゆるものが「戒の実践者」たる仏様が姿形を変えたものである―「仏の化身」であると説いているのです。私たちが自分の見方に捉われ、自分の好みで周囲と関わっているならば、全てが仏の化身であることに気づくことができません。そうした一点集中の狭いものの見方ではなく、広く見通し、深く見抜いていくことで、それらが秘める価値が見えてきて、いつしか物事の真価に気づかされていくのです。それを「甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、親き悟りを顕す」と説いています。「甚妙不可思議の仏化」とは仏が有する摩訶不思議な力によって、私たちがあらゆるものの真価に気づくことを指します。「冥資」とは知らぬ間に加護を受けているということを意味しています。


「あらゆるものに対して、好き嫌いの感情を起こさず、平等に差別なく接する」―そういう道をお釈迦様が見出したのは、お釈迦様が「いつ・どこでも・すべてのものが真理を説いている」ことをお悟りになったからです。すなわち、あらゆるものに存在価値があることに気づかれたからであり、私たちもそこに至ったとき、私たち自身がすべてのものから知らぬ間に恩恵を受けていたことに気づかされるのです。そんな真価に気づけるような接し方を目指していきたいものです。

第26回「自然=“じねん”が意味するもの」

平成30年日 更新

是無為(これをむい)の功徳とす、是無作(これをむさ)の功徳とす



前段で道元禅師様は、私たちが自分の狭い見解から解放され、物事を広く・深く捉えることができるようになったとき、この世の全ての存在(十方法界の土地、草木【そうもく】、牆壁【しょうへき】、瓦礫【がりゃく】)に仏さまの悟りがあることに気づかされるとおっしゃっていました。


仏さまの悟りは仏道修行によって、得られたものには変わりありませんが、更に突き詰めていくならば、そもそも最初から存在していた悟りというものが、たゆまぬ仏道修行によって段々、姿を現し、自覚できるようになったというのが本当の所です。これは、言ってみるならば、0の状態から一生懸命精進して100になったというのではなく、精進しながら自然と100に気づいたということです。


そのことを道元禅師様は「無為の功徳」であり、「無作の功徳」であると表現なさっています。無為とは「~のために」といった明確な目標や目的のない状態、言わば、作り事ではない自然の流れによって生じた状態ということです。お釈迦様が坐禅修行によって、この世の仕組みに気づき、仏に成られたとき、自然と戒が身についていて、戒の生き方を実践していたというのは、まさに「無為の功徳」なのです。


そして、無作とあります。作り事ではない、働きのない状態ということでしょう。やはり、人工を加えない、自然の働きであったということが繰り返し強調して説かれています。


「自然」という言葉が出てきましたが、思い出すのは、高源院の住職になりたてのころ、お檀家さんに「なぜ、仏教では、自然を“しぜん”ではなく、“じねん”と読むのか?」と、ご質問いただいたことです。これは非常に重要な問いで、まだ駆け出しだった私は、即座にいろいろと調べさせていただき、お答えさせていただきました。今思えば、貴重な学習の機会をいただいたと感謝しております。


“じねん”という読み方には、あるべき変化によって、ありのままの姿になっていくという意味があります。それは、この世のすべての存在における真実の姿であり、「諸行無常」の意が込められています。


今年(平成30年1月)の金沢市内は6年ぶりに60㎝の積雪を記録するという、大雪の冬となりました。本日(2月4日現在)、暦の上では立春といいながらも、路肩には、まだ溶けきっていない雪が山積み状態になっています。


しかし、だからと言って、この雪がいつまでも地上にあるわけではありません。春が来て暖かくなれば、融けてなくなります。これが「諸行無常」です。そこには、外部から手を加えてみたり、何か人を驚かせ、喜ばせたりしてやろうというような意図はありません。時間との関わりの中で、縁に随って変化し、あるべき姿に落ち着いていくのです。それが物事の本来の姿であり、“じねん”という読み方が指す「自然」なのです。すなわち、戒を身につけようとして、毎日を過ごしていたら、いつしか戒の功徳が発揮できるようになっていたということなのです。 

第27回「発菩提心(ほつぼだいしん) ―“悟りを得る”とは―」

平成30年2月日 更新

是れ発菩提心(ほつぼだいしん)なり



今から約2600年前の12月8日の明け方、お釈迦様は坐禅修行によって、成仏得道(じょうぶつとくどう)(仏と成り、道を得ること)なさいました。お釈迦様が悟りを得た瞬間です。


「悟りを得た」―それは具体的にはどういうことなのでしょうか?―


私たちの周りには人間、動物といった、いのちある存在のみならず、モノ始め、道端に転がっている石ころ、道路の片隅にひっそりと咲いている一本の名も知らぬ草花といった無生物など、様々な存在があります。自分がそうした存在とつながっていることを明確に意識することが悟りの原点です。


その上で、それら一つ一つの存在に対して、自分の好き嫌いに捉われることなく、全ての存在に価値を見出すことができるようになると共に、どういう関わり方をしていけばいいのかを体得したというのが、「悟りを得た」ということです。それは言い換えれば、自分があらゆる存在の価値を見出し、平等に接することができる力があることに気づかされたと見ることもできます。


これまで自分の中に意識することさえなかった自分の尊い姿を発見できたことを、道元禅師様は「発菩提心」とおっしゃいました。菩提心というのが、自分の中に眠る尊い姿や心のことであり、そうした菩提心を起こして日々を過ごしていくのが「発菩提心」です。


修証義ではここで初めて「菩提心」という言葉が出てきましたが、私たち一人一人が、自分の周囲の存在とのつながりに気づき、あるべき関わり方を実現していきたいものです。その具体的な方法に関しては、この後、第4章にて触れられていきます。

章 発願利生ほつがんりしょう

第1回「菩提心を発(おこ)すということ① -皆が救われる道とは・・・?ー」

令和51019日 更新

菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すというは、己(おのれ)未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつ)し営むなり。


前段・第3章「受戒入位(じゅかいにゅうい)」の末尾において、「発菩提心(ほつぼだいしん)」という言葉が出てまいります。それを受けて、第4章「発願利生(ほつがんりしょう)」では、最初に「発菩提心(菩提心を発す)」ということについて触れられていきます。


「成仏得道(じょうぶつとくどう)」とは、「長年の仏道修行によって、仏の道を得、仏と成ること」を意味していました。それは自分という存在が、人やモノ、動植物や大自然といった周囲の様々ないのちとの関わりの中で生かされていることに‶気づく〟ことによって、周囲の存在を自分の価値基準だけで選り好みせず、全ての価値を認め、受け入れていくということでした。


そうした周囲と関わっていく上で意識しておきたいのが、「己(おのれ)未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり」の一句です。これは「自分よりも先に周囲の全ての存在に目を向け、救いの手を差し伸べる」ということです。たとえてみるならば、大きな川に架かる橋があるとき、たとえその先に自分が欲するものがあったとしても、自分が率先して橋を渡って手に入れようとするのではなく、自分と同じように周りに欲する者がいるならば、彼らを優先することを心がけて行動していこうということなのです。そして、それが戒を受け、仏の位に入ったものの姿であるということなのです。


2011年(平成23年)3月11日発生した「東日本大震災」から12年が経ちました。以降、人々は地震や津波だけではなく、「線状降水帯」に見る豪雨はじめ、台風に豪雪と、四季の変化の中で発生する様々な自然災害を経験し、その都度都度に災害に対する意識を高めてきました。


こうした大災害が発生したとき、果たして、「発菩提心」の観点から考えるならば、一体、どんな行動が取れるのでしょうか。当然ながら、誰もが大自然の驚異から我が身を守りたいことでしょう。しかし、それは自分だけではなく、周囲の一切衆生の共通の願いなのです。そのことを意識した上で、皆で手を取り合い、危険から身を護る姿勢が「己(おのれ)未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり」の説かんとしているところのように思います。すなわち、自分だけではないことももちろんのこと、相手側だけでもない、自分の相手も共々に皆が救われる道を説いているのです。


自然災害のみならず、私たちの周囲には様々な危険があります。ここ最近(2023年10月19日現在)、全国的にクマが出没し、富山県ではその被害を受けたとみられる方が尊いいのちを失いました。クマが怖いのは皆同じです。だからこそ、お互いにクマから身を守る方法を伝え合い、クマが出没する時間帯や場所を把握して、近づかないように声を出し合う必要があると感じます。それも「己(おのれ)未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり」につながっていくような気がします。


また、人間関係のトラブルも私たちの日常にはつきものです。組織の中には、まるでクマのように、誰彼構わず暴言・暴力を用いて、周囲を乱す者がいることがあります。そういう人物に対しても、組織の中でお互いに情報交換をしあって、お互いに自分の身を護ることが効果的と考えます。これも「己(おのれ)未だ度(わた)らざる前(さき)~」ということなのでしょう。


自分だけが救われようとしても、自分は勿論のこと、周囲も救われることはありません。しかし、周囲が救われることを願って毎日を過ごせば、必ずや自分も救われるときが訪れるのです。こうした図式・因果関係を「己(おのれ)未だ度(わた)らざる前(さき)に~」の一句から学んでおきたいところです。

第2回「菩提心を発(おこ)すということ②―どんな人も、どんなときも‶自未得度先度侘(じみとくどせんどた)の心を発す―」

令和5年10月27日 更新

設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或(あるい)は天上(てんじょう)にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度侘(じみとくどせんどた)の心を発(おこ)すべし。



今回は「自未得度先度侘」という言葉が出てまいりますが、前段の『己(おのれ)未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつ)し営むなり』という一句を端的に言い換えたものと捉えればよろしいかと思います。これは「自分が我先にと救われることを願って行動するのではなく、周囲が救われることを願い、最優先していく中に、我が身が救われていくものである」という不変の真理に気づくと共に、その気づきを自らの言動に反映させていくことの大切さを説いたものでした。


そうした『己未だ度らざる~』というのが、『菩提心を発す』ということであるならば、「自未得度先度侘の心を発す」というのは、「菩提心を発す」ことであると解することができます。


そんな「菩提心を発す」という心がけを、在家の一般檀信徒の皆様であれ、我々のような出家の僧侶であれ、立場に関係なく発すこと。また、たとえば、六道世界には「天上界(何もすることがないような楽の世界)」や「人間界(様々な苦悩と共に生きていく世界)」とあるように、我々の日常は、何らかのきっかけで様々な様相に変化していくものですが、そんな中で、どんな環境下にあっても、菩提心を発し続けること。そうした立場や環境に左右されることなく、常に「自未得度先度侘」の心を意識しながら、言葉や行動を発していくことが、「菩提心を発す」ことなのです。それが今回の一句の指し示すところです。


毎日を過ごしておりますと、何だか周囲もニコニコしていたり、事が順調に進んでいるように見えたりして、心持ちが穏やかになることもあれば、どこか周囲が自分に対して当たりが強く、刺々しく見えてしまい、気分が落ち込むこともあります。しかし、「日日是好日(にちにちこれこうにち)」なる禅語があるように、本当は「いずれの日も最良の一日」なのです。いい日と悪い日があると思うのは、我々凡夫の勝手な思い込みでしかないことに気づかされます。


いい一日と感じるようなときには、生かされていることに感謝し、嫌な一日と思ってしまう日には、次の善きご縁に巡り合うための機縁と捉え、いつも穏やかな心持ちで、皆が救われることを願って言葉や行いを発していく、それが「自未得度先度侘の心を発す」が指し示す「菩提心を発す」ということなのです。

第3回「一切衆生の導師、その条件とは・・・?」

令和5年1日 更新

其形陋(そのかたちいや)しというとも、此心(このこころ)を発(おこ)せば、已(すで)に一切衆生の導師(どうし)なり。設(たと)い七歳(しちさい)の女流なりとも即ち四衆(ししゅ)の導師なり。衆生の慈父(じふ)なり、男女(なんにょ)を論ずること勿れ、此(こ)れ仏道極妙(ぶつどうごくみょう)の法則(ほうそく)なり。



髪を剃り、法衣を身にまとっている僧侶ーだからといって、「一切衆生の導師(この世の全ての存在に法を説き、悟りの世界へと誘導するみちびき手」であるかと言えば、必ずしもそうではありません。「菩提心を発(おこ)す」ということについて論じられていますが、「此心を発せば」とあるように、僧侶たる出家者が菩提心を以て自他共に救われるべく謙虚な姿勢で言葉や行いを発しているならば、「一切衆生の導師」と言えるでしょう。今回の一句を通じて、私は世間の一僧侶として、自らの立場に対する自覚を新たにし、謙虚な姿勢で周囲と関わっていくことを再確認させていただくのです。


そうした一切衆生の導師の条件について、道元禅師様は何よりも「菩提心を発(おこ)している」ことを挙げていらっしゃいますが、そうなると、出家者といっても菩提心を発していないものは一切衆生の導師とは言えないでしょうし、「七歳の女流(7歳くらいの幼い女の子)」であっても、菩提心を発しているならば、一切衆生の導師であり、「四衆(出家の男女・在家信者の男女、四種の仏教教団を構成する存在)」のみちびき手とも言えるということなのです。


ですから、「其形陋し」とあるように、いでたちのみすぼらしさだとか、地位や身分、体型といった表面的な姿は勿論のこと、出家者か在家信者かといった立場的なもの、男性か女性かといった性別の観点、そうした表面的に目に見えるものに捉われ、それだけで相手を判断するのではなく、「菩提心を発して言葉や行いを提示しているかどうか」という観点で一切衆生の導師か否かを判断していくことが、元来の正しい捉え方(仏教の観点)だということになるのです。道元禅師様は、それを「仏道極妙の法則」という言葉で表現なさっています。仏道の絶妙かつ奥深い側面を言い表した言葉です。


女子柔道家の松本薫さんが北國新聞に連載している「野獣の子育て」というコーナーに興味深いお話が掲載されていました。ある春先のこと、毎日、二人のお子さんを保育園まで送り迎えをしている薫さん親子は、沿道の桜の木が芽吹き、花を咲かせるのを楽しみにしながら保育園までの道を通っていました。ついに桜が満開になり、大喜びする親子。しかし、春の雨風が一瞬にして桜を散らしてしまったというのです。がっかりしながら「桜散ったね」と言う母に、幼い娘さんが「ママ、どこにお目目があるの?こんなにも咲いているのに!」と雨風で地面に散った桜を指さして言ったと言うのです。このとき、薫ママは満開の桜にばかり注目していて、散ってしまった花には目も向けなくなっていたこと、美しい部分しか見ようとしていなかった自分に気づき、恥ずかしさを感じたというのです。


まさに、薫ママにとっては、幼い娘さんがいつしか長い歳月をかけて自分が築き上げてしまっていた物事の捉え方を指摘してくれた「一切衆生の導師」だったことを感じずにはいられなかったエピソードのように感じます。幼い娘さんには散った花にも価値を認める菩提心があり、それが言葉となって現れたのでしょう。そして、薫ママも、このやり取りを通じて、元来、ご自分が有していた菩提心の存在に気づいたからこそ、ハッとなさったのです。ほんの日常の些細な出来事かもしれませんが、ひょっとすると、私たちは、日常の気忙しさの中で、こうした菩提心のやり取りがあることにさえ気づかずに過ごしているのかもしれません。そう思うと、いかに日常を丁寧に過ごしていくことが大切かを思わずにはいられなくなるのです。


こうやって修証義に示された道元禅師様のみ教えを読み味わってまいりますと、出家者であれ在家信者であれ、「菩提心を発す」ということを常に念頭に置き、皆が喜び、救われるような取り計らいをしながら毎日を過ごす大切さが再確認されます。一つ一つの場面に心を用いながら、いただいたいのちを丁寧に生きていきたいものです。

第4回「菩提の行願(ぎょうがん)―苦悩は仏縁なり―」

令和5年110日 更新

若し菩提心を発(おこ)して後(のち)、六趣四生(ろくしゅししょう)に輪転(りんでん)すと雖(いえど)も、其輪転(そのりんでん)の因縁皆(いんねんみな)菩提の行願(ぎょうがん)となるなり



「菩提心を発す」ということを常に念頭に置きながら毎日を過ごしていても、「諸行無常」なるが故に、万事には変化がつきものです。人間はいつか必ず老い、やがては死を迎えます。「六趣四生に輪転す」とありますが、私たちは日常において、周囲の様々な存在との関わりの影響を受けながら変化せざるを得ないという事実を知っておきたいところです。


「六趣四生」について触れておきたいと思います。「六趣」は「六道(ろくどう)」のことで、私たち人間が現世及び来世において、自らの発した言動の結果、輪転(次の生に赴くこと)するとされる6つの世界(①地獄②餓鬼③畜生④修羅⑤天上⑥人間)を指します。これは以前、修証義第2章「懺悔滅罪(さんげめつざい)」の中でも触れさせていただきましたので、今回は簡単な確認のみに留めさせていただきます。「四生」というのは、いのちある者の4つの形態のことで、次の通りです。


胎生(たいしょう)母体から生まれるもの

卵生(らんしょう)卵から生まれるもの

湿生(しっしょう)湿気のある場所で生まれるもの

化生(けしょう)何物にも委託することなく業(ごう)によって生まれるもの


すなわち、私たちが自らの言動によって「輪転(輪廻【りんね】)」した結果が「六趣四生」のいずれかの姿形になるというのが、「六趣四生に輪転す」の意味するところなのです。


そして、その輪転の因縁(原因)は「菩提の行願」であると道元禅師様はお示しになっています。つまり、輪転の原因は仏の誓願によるものであるというのです。たとえば、今、周囲からも嫌われ、孤独で地獄の世界にいるような苦しい毎日を送っているとか、修羅のごとく周囲と対立し、争いの真っ只中の日常を過ごしているとか、六道のいずれかに該当するような日常を過ごし、大きな苦悩を抱えているという方は少なからずいらっしゃるはずです。しかし、その苦悩は周囲の誰かが作り出したものでもなければ、社会が生み出したものでもありません。自分自身が作ったものなのです。それが仏教における「業(ごう)」の思想でした。そして、ここに「他者に責任転嫁してはいけない」という世間一般の道徳の根拠があるとも言えるのです。


さらにもう一点押さえておきたいのは、「菩提の行願」という観点です。それは「自分が生み出した苦悩とのご縁を育んでくださったのが仏様である」という視点です。また、「仏様の誓願によって、苦悩とのご縁をいただいている」とも解釈できます。


ここに気づくとき、一つ、はっきりと言えることが出てきます。それは「苦悩は逃げるのではなく、向き合うものである」ということです。誰しも余計な苦しみなど避けたいものです。しかし、苦悩を味わい、それを乗り越えれば人間は大きく成長していくのです。そういう意味では、苦悩は仏様が与えてくださった人間の器を磨き、成長させる大切な機縁と捉えることができるのです。


このことに気づいたとき、私は日々の生活の中で突如として訪れる苦悩というものを受け止めることができるようになりました。苦悩と出会った当座は、かなり勇気を振り絞るものの、徐々に受け入れながら、難題に立ち向かうようにしています。このとき、人間的な成長を覚え、それが私自身の生きる喜びになっていることを思う今日この頃です。

第5回「今生(こんじょう)の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願(ほつがん)すべし!」

令和5年12月22日 更新

然あれば従来の光陰(こういん)は設(たと)い空しく過ごすというとも、今生(こんじょう)の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願(ほつがん)すべし



前段において、「輪転(輪廻)」という仏教思想について触れさせていただきました。私たち人間始め、あらゆるいのちは永遠に同じ姿のまま生き続けるのではありません。「諸行無常」とあるように、「時間(光陰)とのかかわりの中で変化していく」のです。その変化は自分の関知し得ぬところで起こるもので、そうやって様々な存在に姿形を変えていくことが、「輪転(輪廻)」の説かんとするところなのです。


こうした「輪転(輪廻)」というのは、自分の力で為されるものでもなければ、周囲の影響を受けて為されるものでもありません。前段において、「菩提の行願(ぎょうがん)」という言葉が出てまいりましたが、まさに「仏の誓願」によるものであるとの受け止めをすべきものなのです。


生まれたいのちはあっという間に成長するものの、やがては老い、病気との付き合いが始まり、最期には死を迎えます。そうした「時間とのかかわりの中に生かされている自分である」という理解のないままに毎日を過ごしていくことは、まさに「従来の光陰は設い空しく過ごすというとも」ということと合致する勿体ない生き方と言えるでしょう。


だからこそ、「今生」という、いのちをいただき、生かされている「今」、物事を考え、行動に移せる「今」こそ、仏の誓願を持って生きていく、すなわち、「発願(菩提心を発して生きていく)」タイミングであると言えるのです。それが今回の一句において、道元禅師様が我々に投げかけているメッセージなのです。


そんな道元禅師様のみ教えを胸に、「今生の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願すべく」仏縁を育んでいくことを切に願うのです。

第6回「令和6年年頭に際し-能登半島地震が与えてくれた機縁-」

令和年1月日 更新

設(たと)い佛に成るべき功徳熟して円満(えんまん)すべしというとも、尚(な)お廻(めぐ)らして衆生の成佛得道(じょうぶつとくどう)に回向するなり



「今という時間」・「ここという場所」において、いただいたいのちを生かされている自分という存在が、いのちのある間、少しでも仏に近づいていけるように毎日を過ごしていくことが、仏教が指し示す私たち一人一人の生き方です。


そうやって仏のみ教えに随い、仏道一筋に生きていく者が、やがて仏に近づく、すなわち、「佛に成るべき功徳熟して円満」したからと言って、そこで仏道修行を終えるというのは誤った考え方です。仏の修行は生涯に渡るものであると共に、仏の如く、仏の真似をしながらいただいた時間を過ごすからこそ、佛だと言えるのです。


これは例えてみるならば、仕事や役職の第一線から退いた者が「元職」となるようなもので、辞めてしまえば、その道の人とは言えなくなるということです。一生涯に渡って仏道修行を行ずるからこそ仏なのであり、修行を止めてしまえば、「元仏」という言葉などありませんが、言葉では言い表せぬ存在になってしまうだけなのです。


自分の見解で自らの修行を終焉させるのは間違った考え方で、仮初に自らの成佛が意識できたとしても、今度は周囲の様々ないのちが佛に近づけるような言葉や行いを取り計らっていくのが、「発菩提心」した者の在り方だというのです。それが「尚お廻らして衆生の成佛得道に回向するなり」の説かんとするところです。


ー令和6年1月6日ー

石川県内は〝元日に未曽有の大地震を経験する〟という思いもよらない年明けを迎えました。この「令和6年能登半島地震」と命名された震災における死者が、6日現在で126名の死者、210名の安否不明者が出ております。


ちょうど今、曹洞宗石川県青年会会長の任に当たっている私は、発災直ちに全国曹洞宗青年会の皆様のご支援をいただきながら、災害復興支援活動を開始。被災地からの断水による水不足解消を求める声を受け、全国の曹洞宗青年会に呼びかけ、自坊(住職地の寺院)を水及びポリタンクの受け入れ先として開放させていただきました。


すると、早速、全国各地から支援物資が送られてくるようになりました。20年前に修行させていただいた大本山總持寺(横浜市鶴見区)の同期の仲間たち始め、富山・福井両県の青年会、更には一般檀信徒の方と、多くの方とのつながりを認識すると共に、昔のご縁が再びつながるのを肌身で感じ、唯々、頭が下がります。そして、人様に助けていただいたことで、これまでの自身が我が身のことで精一杯で、周囲に目を向けられずにいたことを大いに反省させていただいたのです。


令和6年の元日の北陸を襲った大地震は、まだまだ「仏に成るべき功徳熟して円満せず」の住職の認識を一新する機会になりました。そして、そんな機会を与えてくださったのは仏に成るべき功徳熟して円満しながらも、「尚お衆生の成仏得道に回向する」多くの人々のおかげさまであることをしっかり胸に刻み込み、そのご恩に報いるべく、被災地支援に精を出していきたいと思っております。

第7回「周囲の喜びこそ、我が幸せ-能登半島地震が与えてくれた機縁②-」

令和6年1月13日 更新

或(あるい)は無量劫(むりょうごう)行いて衆生を先に度(わた)して自(みずか)らは終(つい)に佛に成らず



-令和6年1月13日-

「令和6年能登半島地震」発災から13日が経ちました。この10日前の1月3日、被災地から断水による水不足解消を求める声をいただいた私は、檀信徒の皆様への年賀のご挨拶を終えて、当面の飲料水を持って、一路、被災地へと向かいました。現地には全国曹洞宗青年会(全曹青)副会長2名、曹洞宗石川県青年会会員1名も同行し、多少なりとも被災者のお役に立てたのではないかと、安堵の気持ちを覚えながら金沢に戻ってまいりました。あの日から10日、連日、全国から寄せられる支援物資の受付対応をさせていただきながら過ごしておりますが、日々の慌ただしさのためか、随分と時間が経過したような気がしております。


この10日間を一言で申し上げるならば、「曹洞宗石川県青年会会長」というお役ゆえの仏縁とは言え、周囲の誰かのために、どこかで困っている方々のために、我が身を使わせていただいた期間でした。新聞報道等では今も尚、被災地では道路の分断による集落の孤立や、水道や電気などのライフラインの停止といった状況が続き、日常生活が戻るまでには、まだまだ時間を要するだろうとの声が挙がっています。「無量劫」という言葉が出ていますが、「はかり数えられぬ程の多量」を意味する「無量」に、「劫(長い時間)」という言葉が付されています。まさに今回の地震からの能登の復興は「無量劫」のものと捉え、覚悟を決めている私たちがいます。


そんな「無量劫」の中で、曹洞宗石川県青年会会長である私は被災地の方々が震災前のように、安心した日常生活を送っていただくべく、我が身を使っていく毎日を過ごすことになると思っています。「衆生を先に度して自らは終に佛に成らず」とありますが、「自分のことよりも先に周囲をどんどん喜ばせていくということです。


ただ、このみ教えを読み味わっていく上で、注意すべきは、決して、相手だけが救われ、自分が疲弊し、疲れ切っていることを良しとするものではないということです。これは相手が喜び、幸せを感じながら生きている姿を目の当たりにすることが自分自身の喜びであるということなのです。周囲の幸せ・相手の喜び、人々の笑顔―それらを自らの全身で感じ取れることが何よりもの幸せであると共に、そうした捉え方ができるのが、「佛」であるということなのです。


このことを我が身に念じ、今日も被災地支援に勤しんでいきたいものです。

第8回「但(ただ)し衆生を度(わた)し衆生を利益(りやく)する-能登半島地震が与えてくれた機縁③-」

令和6年1月1日 更新

但(ただ)し衆生を度(わた)し衆生を利益するもあり。



-令和6年1月19日-

「令和6年能登半島地震」が発災して二十日が経とうとしています。この間、被災地のことを思わずに過ごした日は一日もありませんでした。それは、このタイミングで曹洞宗石川県青年会会長の任をいただいた責任感からくるものなのかもしれません。或いは、ご自分のお寺が全壊もしくは半壊等の甚大な被害を受けた同宗派の方丈様方の思いを察する余りのものかもしれません。去る1月14日、石川県青年会の会員2名と共に能登半島の最果て・珠洲市に支援物資の水道水を運ばせていただきましたが、道中、幾度もお伺いしたことのあるお寺の変わり果てた姿を目の当たりにしながら、言葉を失い、その場に立ち尽くす自分がいました。はたまた、一度に最愛の妻子を亡くされた方々に対する同じ父親として感ずる思いから来るものもるような気がします。同じ父親として、もし、自分が同じ立場だったとしたら―奥様と3人のかわいいお子さまを一度に失った方が葬儀の場で気丈に喪主挨拶をおつとめになるお姿を拝見しながら、とても他人事とは思えぬ気持ちになりました。いずれにせよ、自分と被災地の間に共通する何かに動かされながら、毎日を過ごしているのではないかという気がいたします。


佛の道を歩ませていただく一人の仏道修行者として、今は唯々、被災地に思いを馳せながらも仏の道を歩んでいくことだけを念じながら毎日を過ごしています。それがまさに「但し衆生を度し衆生を利益するもあり」ということです。「但し」における「し」は「強調」を意味するもので、「唯々」と解すべきでしょう。「利益」は世間一般には「りえき」と呼びますが、仏教では「りやく」と呼んで、人々に何らかの救いを差し伸べていくことを意味しています。唯々、周囲の人々に救いの手を差し伸べ、仏のお悟りへと近づけていけるような言葉や行いを発することを、何よりもの幸せ・自らの生きる喜びとしていける存在が仏だということです。そんな仏としての生き方を意識しながら、今日も過ごしていくのです。

第9回「薩埵(さった)の行願 —四枚(しまい)の般若(はんにゃ)の根底には―」

令和6年1月27日 更新

衆生を利益(りやく)すといふは四枚(しまい)の般若(はんにゃ)あり、一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ)、是(こ)れ則ち薩埵(さった)の行願(ぎょうがん)なり。



「菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)す」ということをテーマとしている第4章「発願利生(ほつがんりしょう)」。今回より、その具体的な内容となる「四枚の般若」について触れられていきます。


前半部において、「菩提心を発す」ことは、「自未得度先度他(じみとくどせんどだ)の心を発す」ということであるとのお示しがありました。これは〝他者の喜び・幸せ=我が喜び・幸せ〟と捉え、日々を過ごしていくということでした。


では、私たちが日常生活において、どのような行いをすれば、〝他者の喜び・幸せ=我が喜び・幸せ〟と捉えることができるようになるのでしょうか?それを指し示すのが、後半部です。キーワードは「四枚の般若」です。「般若心経」や「般若湯(はんにゃとう)」、「般若」は我々にとって、馴染み深い仏教用語でありますが、これは「私たち誰もが有する煩悩を、よい方向に調整すること」を意味しています。すなわち、周囲が喜び、幸せを感じられるように、自身が発する行いや言葉を調整していくことであり、それが「般若」なのです。そして、これは菩薩(薩埵)が事を成し遂げようとする上での誓願(行願)でもあるのです。


そんな「般若」が四通り存在しているというのが「四枚の般若あり」の指し示すところです。「一者布施、二者愛語、三者利行、四者同事」ということで、この後、道元禅師様よりそれぞれが詳細に明示されていくわけですが、全般にわたり「同事」という、「他者との間に垣根を作らない」、すなわち、「〝他者の喜び・幸せ=我が喜び・幸せ〟と捉える」という観点が存在しています。そんな観点で周囲への関わり方を説く「布施」、言葉の発し方を説く「愛語」、行いの発し方を説く「利行」、大まかに解せばそのようになると考えます。


そうした「四枚の般若」を大切に受け止めながら、毎日を過ごすのが「菩薩」という仏様なのです。そんな菩薩の行願を受け止め、日々の生活の中で生かしていくのが、私たち衆生に求められる生き方であることを押さえておきたいと思います。

第10回「布施① —不貪(ふとん)という関わり方―」

其布施(そのふせ)といふは貪らざるなり



「四枚(しまい)の般若」の一つ目として、まず「布施」が掲げられています。「菩提心を発(おこ)しながら日々を過ごす」というのは、「〝他者の喜び・幸せ=我が喜び・幸せ〟と捉える」という観点を以て過ごすということに他ならないわけですが、「布施」とは、そんな観点を以て周囲と関わっていくことを説いたものと捉えることができます。


「布施」と言うと、世間一般には「仏事供養をしてもらった僧侶に支払う謝礼」という意味で用いられています。しかしながら、道元禅師様は「布施」について、「貪らざるなり」とお示しになっています。まず、我々は、これが本来の「布施」を意味するものだと認識すべきでしょう。


「貪らざるなり」ということですから、「貪らないことが布施である」ということになりますが、「必要以上にモノを求めないこと」、すなわち、自分の周囲に存在している様々なモノに対する正しい関わり方、菩提心を発した仏としての扱い方を説くのが「布施」であるということに気づかされます。


「修証義」の原典となっているのは「正法願蔵(しょうぼうげんぞう)」ですが、その「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の一説をご紹介させていただきます。


「その布施といふは不貪(ふとん)なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらわざるなり。」


「よのなかにいふへつらわざるなり」という点について、道元禅師様は「相手が気に入るように振る舞うことである」と注釈なさっています。すなわち、「布施」というのは、自分の周囲のモノに対して、貪らないという関わり方をするのは勿論のこと、自分の周囲に存在している人に対しても、相手によって態度を変えて接するような関わり方をしないことを説いたものであることに気づかされるのです。要は、布施とは人であれ、モノであれ、自分の周囲に存在しているあらゆるいのちに対する仏としての関わり方を説いたものなのです。


モノに対しては、他者の所有物を強引に奪うなどはもってのほかで、自分が手に入れられる以上のものを求めるような関わり方をしないということ。また、人に対しては相手によって態度を変えるといった、媚び諂うような関わり方をしないということ、それが「布施」であるといことを押さえておきたいと思います。

第11回「布施② この世に自分の所有物など一切ない!?」

令和6年日 更新

我物(わがもの)に非ざれども布施を障(さ)えざる道理(どうり)あり



周囲に存在しているヒトやモノとのあるべき関わり方を説くのが「布施」でした。道元禅師様は「布施とは不貪(むさぼらないこと)」であるとお示しになります。それは言ってみれば、「仏様のヒトやモノとの関わり方」と捉えることができるでしょう。さらに申し上げるならば、「周囲のいのちのあるべき生かし方」とも言えるでしょう。第3章「受戒入位(じゅかいにゅうい)」において、「不殺生(ふせっしょう)」について触れさせていただきました。「周囲のいのちを生かす」ということですが、まさに、「不殺生」ということの具体的な行いが「布施」であると解することができるのです。


「不貪」という観点から、もう一歩「布施」のみ教えに踏み込んでみたいと思います。それが今回の一句が指し示すところです。「我物に非ざれども布施を障えざる道理あり」とあります。「この世に自分の所有物など一切ない」と道元禅師様はおっしゃいます。それがこの世の道理を説いた正しき真理であるというのです。


しかしながら、そうは言いながらも、私たちは身の回りを見てみると、衣服にスマホ、自家用車に持ち家と、実に多くの「所有物」に囲まれながら暮らしていることに気づかされます。にも拘らず、「自分の所有物など一切、存在しない」という道理が歴然と存在しています。そのことを、どのように解していけばよろしいのでしょうか。


考えてみれば、衣服一枚とってみても、一生涯に渡って自分が所有し続けることができるかといえば、そうではありません。時間との関わりの中で消耗され、最後は掃除用の布として役目を終えるか、ゴミに出されるかという命運を辿ることになるでしょう。また、サイズが合わなくなって他者に差し上げたり、リサイクルショップに持って行ったりする場合もあります。自家用車にしても持ち家にしても同じです。モノも我々人間のいのちと同じでいつかは老い、別れの時がやってくるのです。その反対に、所有者の自分の方が死を迎え、先にあの世に旅立っていく場合もあります。


実はこの世の全てが、時間との関わりの中で、変化を繰り返し、やがては最期を迎える存在であることに気づかされます。そうした永遠ではない、限りあるときを過ごす存在ゆえに、永遠に所有し続けることができないというのが、「我物に非ざれども布施を障えざる道理あり」、「この世に自分の所有物など一切ない」の指し示すところなのです。


令和6年1月1日に発生したマグニチュード7.6、最大震度7を観測した「能登半島地震」は、我々に「我物に非ざれども布施を障えざる道理あり」の現実を知らしめてくれました。私たちがこの娑婆世界で生きていくということは、この現実の厳しさと向き合い、受け止めていくことに他ならないのでしょう。


しかし、だからこそ、ここにご縁をいただいて生かされている者同士、お互いに共感し合い、支え合い、助け合いながら過ごしていくことを切に願うのです。そうしたこの世に生かされる自身の在り方を今一度、考えさせていただく機縁となった令和6年の立春のように思っております。

第12回「布施③ 多面的な捉え方を意識して―対立概念を超えたところにある真実―」

令和6年2月16日 更新

其物(そのもの)の軽(かろ)きを嫌わず其功(そのこう)の実(じつ)なるべきなり。



この世の全ての存在は時間との関わりの中で、変化を繰り返し、やがては最期を迎えます。そうした存在に対して、私たちは自分のモノの見方や考え方で評価を下しながら関わっています。見た目の良し悪しや量の多少、分量の軽重等、私たちは往々にして、自分の眼や耳でキャッチできる表面的な範囲の中で、物事を判断していることが多いです。こうした良し・悪しや軽・重といった対立概念というのは、私たちの日常の様々な場面に見受けられると共に、それに対して、一喜一憂しながら毎日を過ごしているのが、私たちの現実の姿ではないかという気がします。


たとえば、相手の心の中まで十分に慮ることなく発された言葉や態度に対して、不快感を覚えるという経験は誰しもあるかと思います。そうした軽率な発言や行動というのは、まさに〝軽い〟ものとして批判的に見られる場合が多いです。


しかし、〝軽い〟ことが必ずしも悪いことかと言われれば、そうではありません。誰に対しても柔らかく、軽やかに、かつ、穏やかな態度で接することができる人は、慕われることでしょう。また、フットワークがよく、行動的な人は周囲から頼られることが多いです。何かと批判的に捉えられがちな〝軽い〟というのも、場合によっては好感度が高く受け取られることもあるのです。その反対に〝重い〟ということも、「重厚」とあるように、奥深く信頼感の高い印象を覚えることもあれば、あまりに重苦しくて、近寄りがたく見えてしまう場合もあります。


こうした軽重に見られるような対照的な概念というのは、その物事に対して私たちが捉えた一側面からの判断されることが多く、そのために、全体像が正しく評されない場合があることに気づかされます。ここで大切なのは、万事は軽重に見られるような双方の性質を有した存在であることを十分に理解した上で、そうした対立概念を超えたところに物事の本質があるのを知るということです。「其物の軽きを嫌わず其功の実なるべきなり」は、そういうことを指し示しているのです。


そうした側面から「布施」のみ教えを解していくとき、「布施」とは、様々な要素を有した物事の本質に気づく行いであるとも捉えることができます。一点だけを見て、そこに執着するのではなく、多面的な捉え方によって、周囲のいのちを受け入れていく―そうすることによって、真実が見えてきます。それが「布施」の説かんとするところなのです。

第13回「布施④ 一句一偈(いっくいちげ)の法・一銭一草(いっせんいっそう)の財(たから)こそ布施すべし!」

令和6年2月22日 更新

然(しか)あれば則ち一句一偈(いっくいちげ)の法をも布施すべし、此生侘生(ししょうたしょう)の善種(ぜんしゅ)となる、一銭一草(いっせんいっそう)の財(たから)をも布施すべし、此世侘世(しせたせ)の善根(ぜんこん)を兆(きざ)す。



善悪に軽重、長短等、私たちの周りは数々の対立概念が存在しています。それに対して、自分の好みや都合でどちらか一方を選び、それに執着してしまうようでは、自分が選ばなかった方の価値や素晴らしさというものは、いつまでたっても見えてくることはありません。何事も両面があります。そのことをしっかりと押さえ、どちらか一方だけを重視するといった偏った関わり方を避け、均等な視点で両面に関わっていくことが大切です。それがお釈迦様の指し示す「中道(ちゅうどう)」というみ教えであり、我々が目指すべき仏の生き方であることを、今一度、確認しておきたいところです。


そうした中道の観点から申し上げるならば、「一句一偈」や「一銭一草」という言葉に言い表されているような、〝ほんのわずかな分量〟で構わないから、物事の大小に捉われることなく、言葉や物資といったものを、自分の周囲に存在しているいのちに施していくことが、「布施」という仏の行いであると解することができます。


「此生侘生」とか、「此世侘世」という言葉が出てまいります。いずれも「この世(今生)」と「あの世(来世)」を意味しています。「彼岸(ひがん)」や「此岸(しがん)」とも同義でありましょう。物事の大小に捉われることなく、周囲の喜び・幸せを願って施される行いというものは、今世来世に関係なく、善種(善き結果を生み出す種)となり、善根(善き結果を増長させていく根)となると道元禅師様はお示しになっているのです。


―令和6年2月22日―

能登半島地震発生から2カ月が経とうとしているこの日、兼ねてより計画を進めておりました被災した曹洞宗寺院への復興支援作業に僧侶・寺族5名で赴かせていただきました。広大な伽藍の至る所に震災の爪痕が大きく残っており、大変な状況が伝わってまいりました。参加された先輩の方丈様と堂内の片付けや掃き清掃を行いながら「もし、一人でこれらの作業をするとなったら、どこから手を付ければいいのか、気が滅入ってしまって中々手がつかないだろう」ということを話しておりました。活動時間は3時間ほどでしたが、ご住職様が思っていた以上に作業が進んだようで、「他に被災されたお寺さんのことを思ったら遠慮もあったが、頼んでよかった。すごくうれしかった。」と幾度も感謝とお礼のお言葉を発していらっしゃったのが印象的でした。


先の方丈様との会話の中にもありましたように、一人でするのは大変な作業も、五人で行えば、一人分の作業量や作業時間は「一句一偈」や「一銭一草」という言葉が言い表すほどのものかもしれません。しかし、そんなわずかな量を施しただけで、それをはるかに上回るほどの大きな喜びに出会えるのならば、他にどんな「生きがい」があるのでしょうか。こうした出会いがあるからこそ、私たちは進んで善種・善根というものを育て、拡げていけるような気がいたします。


「一句一偈の法」・「一銭一草の財」を布施することを心がけ、身心共々に豊かなる人生を歩んでいきたいものです。

第14回「布施⑤ 仏法のやり取り-法施(ほっせ)・財施(ざいせ)が一つになるとき-」

令和6年14日 更新

法も財(たから)なるべし。財も法なるべし。



ほんのわずかな分量でいい、自分ができる範囲内でいい、周囲のいのちが喜びの笑顔を見せ、幸せを感じていただけるような言葉や行いを施し合っていくことが「布施」の目標です。


「法施(ほっせ)」という言葉があります。「法を施す」ということですが、人々を苦悩から救う法(お釈迦様のみ教え)を学び、日常生活の中で実践していく中で、法を施すことができるようになります。誰しも周囲のお役に立ちたいという願いを大なり小なり持って毎日を過ごしています。その願いを叶える一つの行いが「法施」だと言えるでしょう。そして、これが前段にあった「一句一偈の法をも布施すべし」ということともつながっていくのです。


また、「財施(ざいせ)」という言葉もあります。「財を施す」ということですが、いくばくかの金品によって相手が救われるならば、それを施していくこともまた、「布施」なのです。そして、これもまた、前段における「一銭一草の財をも布施すべし」につながっていくのです。


そうした「法施」と「財施」という二者の関係性について、両者は別個に存在するのではなく、一体に溶け合って存在しているものであることを指し示すのが、今回の一句です。法は人々を救う財(たから)となって施されると共に、我々にとって何よりもの財(たから)とは、お釈迦様から脈々と伝わる「法」であるということを押さえておきたいものです。すなわち、「仏法のやり取りをすること」が「法施と財施が一体化した布施」だということです。


ここで大切なことは、法を財として施す側(施者)と、法を財として受け取る側(受者)、さらには財である法そのものが、お釈迦様のみ教えに則った清浄なるもの、正しく尊いものであるということです。こうした布施行にまつわる三者各々が清浄で、尊い関係性にあるからこそ、法が実現されていきます。日常生活を営んでいく上で、そんな法の実践を心がけていきたいものです。

第15回「布施⑥ 自らの力を頒(わか)つとき ―能登半島地震発生3カ月を迎えるに当たり―」

令和6年3月30日 更新

但(ただ)、彼が報謝(ほうしゃ)を貪(むさぼ)らず、自らが力を頒(わか)つなり



法を財として施す側(施者)と、法を財として受け取る側(受者)、さらには財である法そのもの、この三者が、お釈迦様のみ教えに則った清浄なるもの、正しく尊いものであることが日常生活の中で布施行を実践していく上でのポイントでした。そこでは、施す者の分量の多少は関係ありません。モノであれ、言葉であれ、行いであれ、「彼が報謝を貪らず」とあるように、施す側が自分に何かプラスになるものが返ってくるのを期待するようなことはせず、ただ相手に喜んでいただくことだけを願って施していくのです。そうした他者の喜びや幸せというものを、我が喜び・幸せとしていくことが仏の法に叶った生き方であり、そこにいただいたいのちを費やしていく(自らが力を頒つ)のが、「布施」の目指すところなのです。そのことを今一度、押さえておきたいところです。


まもなく「能登半島地震」発生から3カ月が経とうとしています。曹洞宗石川県宗務所に設置された現地対策本部の下、曹洞宗石川県青年会並びに曹洞宗石川県婦人会は被災地での実働部隊として、物資運搬、寺院復興支援、炊き出し等の活動に尽力してまいりました。


こうしたボランティア活動が具体化されていく中で、組織間の連携や情報の伝達方法等をめぐり、様々な議論がなされる場面も出てまいりました。ときには考え方の違いによって白熱したやり取りに展開していくこともありますが、そんな中、青年会のまとめ役である私にとって、大きな心の支えとなったのが、「いいことをしているのだから」というある青年会員の言葉でした。被災しながらも、より大変な地域に生きる人々に喜んでいただくことを願って行われる各種活動によって、少しでも被災地の方々が喜び、前を向いて生きていこうという気持ちになれるならば、その行いこそが「布施」という善き行いなのです。それをもっともっと徹底的に追究していけばいいのではないではないか―?それなのに、ボランティア活動にまつわる組織図や連携の不備等の課題にばかり目を奪われ、捉われていた自分に気づかせていただき、大いに反省させていただいたのです。


「組織の不備は私たち人間の力を以て、いくらでも正していける」と人は教えてくださいました。それも考え合わせれば、大震災で苦悩する人々と共に生きていく中で、一体、何を重視し、何に着目すべきなのかを考えれば、答えは一目瞭然のような気がします。言うまでもなく、今は自らに返ってくる報謝(報恩感謝)などを期待している場合ではありません。被災地の一日も早い復興と、被災者の幸せを願い、自らの力を頒つときなのです。そのことを十分に踏まえ、3カ月目の日常を迎えていきたいところです。

第16回「布施⑦ 菩薩(ぼさつ)様の役割 ―彼岸到(ひがんとう)に気づく―」

令和6年日 更新

舟を置き、橋を渡すも布施の檀度(だんど)なり



「彼岸(ひがん)」という言葉は、春や秋の〝お彼岸〟等、比較的、日常生活に浸透している仏教用語の一つではないかと思います。この言葉は、目の前に大きな川があるとすれば、その川を渡った向こう岸(彼の岸)という意味があります。それに対して、川の此方(こちら)岸は「此岸(しがん)」と申します。仏教では悟りを得た仏の世界を「彼岸」とし、未だ悟りに到達せぬ凡夫(ぼんぶ)の世界を「此岸」とします。そして、「此岸」に生かされている者たちが少しでも仏道修行を重ね、仏のお悟りの世界に渡っていくこと(到彼岸【とうひがん】)を願い、「彼岸」の時期には法会を行うのです。


「此岸」において、我々凡夫に「彼岸」の世界の具体的な内容を知らしめると共に、「舟を置き、橋を渡して」彼岸の地に渡らせてくれる役目を有する仏様がいらっしゃいます。それが「菩薩(ぼさつ)様」です。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)や地蔵菩薩(じぞうぼさつ)など、私たちの周りを見渡してみると、様々な菩薩様がいらっしゃることに気づかされます。そうした菩薩様は本来であれば、仏道修行を重ね、彼岸の地に渡るだけの力を有した存在なのですが、敢えて、我々凡夫を救うことを切願し、此岸に身を置いて、凡夫の布教教化に専念なさっていらっしゃるのです。


そうやって見ていくと、今回の一句にある「舟を置き、橋を渡す」ということが、「菩薩様の役割・悲願」であることに気づかされます。そして、それが具体的な「布施」の行なのです。「檀度」とあるのは「布施」のことです。そもそも「檀」は「檀家」とか、「檀信徒」という言葉に付されていますが、これは「施し」という意味を有した文字です。まさに寺院に対して、「舟を置き、橋を渡す」のが「檀家」の役割ということなのでしょう。


そう考えていくと、寺院に過ごす僧侶も檀信徒の皆様に対して、菩薩様の一人として、少しでも檀信徒の苦悩を救い、「彼岸」の地に赴けるような言葉がけや行いを提示していく必要性があるのは言うまでもありません。寺院と檀信徒との関係において、双方が「舟を置き、橋を渡す」ことを意識しながら、菩薩としての役割を果たしていくことによって、「彼岸」と「此岸」を分け隔てる大きな川がどんどん小さくなって、仕舞いにはなくなってしまうことでしょう。


そう、本来は此岸にいて彼岸を目指す「到彼岸(とうひがん)」と言うよりも、此岸が彼岸であったことに気づく「彼岸到(ひがんとう)」なのです。「彼岸」法会等の場において、そのことに気づくことさえできれば、それで十分なのです。

第17回「布施⑧ 労働の意義 ―〝働き方改革〟が浸透した中でも、忘れてはならないこと―」

令和6年4月19日 更新

治生産業固(ちしょうさんぎょうもと)より布施に非(あら)ざることなし



最愛のご家族を亡くされたことがきっかけとなって、毎月のご命日に読経にお伺いさせていただくお宅がございます。故人様の供養ということで、住職と一緒に「修証義」を読経することが習慣となって1年、あるとき、修証義第4章・発願利生を一緒にお誦みした後で、ご家族の方から「産業という言葉がお経の中に出てくるはビックリしました。」とのお言葉をいただきました。同じことを、私自身、初めて発願利生をお誦みしたときに感じたことが思い出されると共に、いつしか、最初の頃の感覚を忘れ、素朴な疑問さえ抱くことのない新鮮味を失いつつある自分に気づかせていただきました。


そんな檀信徒の方との印象的なやり取りが思い出される今回の一句ですが、「治生産業」ということについて、この言葉が登場するのは「法華経(ほけきょう)」という経典です。その指し示すところは「世間一般の仕事」で、現代の使い方と比べても大差はありません。「人々が生計を立てていく上で欠かせぬ各種職業」ということなのですが、仏教では、その仕事を仏法のみ教えに随って行じていくことの大切さを説きます。


そうした〝仏道における労働〟という観点から触れられているのが、今回の一句であると解すべきでしょう。すなわち、法に従い、仏道修行として世間一般の業務に従事していくこともまた、「布施」であると道元禅師様はお示しになっているのです。


―「役人は人の役に立ってこそ“役人”である」―

かつて、石川県羽咋市(はくいし)の市役所職員として、同市神子原町(みこはらまち)で生産された神子原米をローマ法王に献上したことによって、限界集落だった町を蘇らせた“スーパー公務員”こと、高野誠鮮(たかのじょうせん)氏が発せられたお言葉です。元々、日蓮宗の寺院にお生まれになった高野氏は、現在は住職としてお寺の護持に尽力される傍ら、様々な社会活動にも精力的に参加なさっていらっしゃるそうですが、高野氏が長年にわたる社会生活の中で培ってこられたご経験がらにじみ出てくる「役人は人の役に立ってこそ“役人”である」という言葉からは、「人様に喜んでいただけるような仕事をする」のは、役人に限らず、接客業であれ、作業員であれ、給料をいただいて、生活の糧としている者ならば、是非、心の中に念じておきたいところです。こうした労働の基本的姿勢とは、人様に喜びをお届けすることであるということを言い表しています。給料をいただいて働く者の基本姿勢というのは、「喜びの提供」という“布施行”でありましょう。


「相手に喜びを届けるということ」は、決して、簡単なことではありませんが、「人と接するとき、果たして、相手に喜んでいただけるようなものが提供できているかどうか」という視点を、特に仕事を持つ方ならば、一度、ご自分に問いかけていただきたいところです。


“働き方改革”が叫ばれ、随分浸透してきた昨今ですが、過剰なまでの時間外労働の短縮等、これまでの労働方法において、見直すべき部分があるのは事実でしょう。しかし、そういう中において、高野氏が説く「役人は人の役に立ってこそ役人」というような、相手に喜んでいただけるような仕事をするという姿勢は忘れずに意識していきたいものです。


仕事をしていると、忙しいときもあれば、大変な作業に出くわすこともあります。しかし、そうした労苦を乗り越えてみると、お客さんの笑顔や相手の喜びが必ずや自分の喜びとなり、働く意欲を掻き立てていく場面が訪れるのです。


―「相手に喜びを届けることを目標に、自分も一生懸命働いて、生きる喜びを噛みしめていく」―“働き方改革”が浸透した現代にあっても、みんなが喜び、幸せになれるような労働を提供していくことを再認識しておきたいものです。

第18回 「愛語① 言葉の布施行 ―日常会話において心がけるべきこと―」

令和6年日 更新

愛語というは、衆生を見るに、先(ま)ず慈愛(じあい)の心を発(おこ)し、顧愛(こあい)の言語(ごんご)を施すなり



「菩提心を発す」とか、「自未得度先度他(じみとくどせんどだ)の心を発す」というのはどういうことなのかが指し示されているのが、本章「発願利生」ですが、それは〝他者の喜び・幸せ=我が喜び・幸せ〟と捉え、日々を過ごしていくということでした。


それを日常の場面に即し、4通りの具体的な形で提示されたのが「四枚(しまい)の般若(はんにゃ)」でしたが、今回より、その2番目となる「愛語」について触れていきたいと思います。


文字から推察すれば、「愛語」とは、「愛のある言葉」となるのでしょうが、本文を見てみますと、「愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり」とあります。「慈愛」とか「顧愛」とありますが、これらはほぼ同義で「愛おしみ、慈しむこと」ということですが、そうした言葉を〝施す〟ということですから、「愛語」は〝言葉の布施行〟であると共に、この後に示される「利行(りぎょう)」や「同事(どうじ)」を含め、四枚の般若は別個に存在するものではなく、お互いに関連し合い、それぞれのみ教えを含んで一体となった〝仏たるものの行い(菩薩行)〟であると解すべきなのです。


そんな〝言葉の布施行〟たる「愛語」について、「衆生を見るに、先ず」とあるところに注目してみます。普段、私たちは家族や友人、職場の同僚等、色々な方と接する場面がありますが、「そうした周囲の人々と関わる場面において」というのが、「衆生を見る」ということであり、ただぼんやりと周囲を眺めるようなレベルの話ではないということを押さえておきたいところです。


そんな場面において、「先ず」とあるのは、「真っ先に」ということもさることながら、「いかなるときも」とか、「どんな相手であっても」という意味が込められていることを押さえておくべきでしょう。あまりの忙しさに周囲に目を配るだけの余裕がないときや、避けたくなるような相手と関わらなければならない場面もあるのが現実です。しかしながら、仏様(菩薩様)というのは、そんな場面に出くわしても、自分の感情をコントロールして、相手の都合に合わせ、その要望を聞こうとするのです。中々、仏のお悟りに近づけぬ凡夫たる私たちですが、そうした仏の行いを知ったならば、少しでも見習っていくことで、誰もが仏に近づけるのであり、我々はそんな性質を有した存在であることを自覚しておきたいところです。


「どんな状況であれ、どんな相手であれ、何よりも相手を思い、相手を愛おしみ、慈しむ視点を心がけ、言葉を施していく」―そんな言葉を発することによって、相手が喜び、幸せになることを我が喜び・幸せとしていけるようにしていくのが、「愛語」の目指すところなのです。


そうなると、「相手にどんな言葉をかければ愛語になるのか」、また、「その言葉を発することによって、相手にどんな影響を及ぼすのか」といった、先の見通しを持って言葉を発していくことの大切さに気付くはずです。道元禅師様が夜な夜な修行僧たちに仏道修行や修行者のあり方等についてお示しになった「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」を紐解いてみると、道元禅師様が何度も心を巡らせ、考えを巡らせながら、相手のためになる言葉や行いを発していくことを説いていらっしゃることが分かります。そうした心持ちが「慈愛の心を発し、顧愛の言語を施す」ということにつながっていくのでしょう。


とは言え、それは決して、簡単なことではありません。近年は時代の流れと共に会話のスピードが速くなる傾向があるそうで、かつてはNHKのアナウンサーが原稿を読むスピードは1分間に300語前後でしたが、最近は350語ほどだと言われております。これは量にすると400字詰めの原稿用紙一枚もないくらいなのですが、スピードが速く、テンポよく会話がなされる現代は、とてもあれこれ考えて言葉を選んで会話をする余裕はなさそうです。


だからこそ、常日頃から「慈愛の心を発し、顧愛の言語を施す」ことを心掛けておくことが重要になってくるのです。そうした日頃の心がけによって、テンポよく自然な形で「愛語」が日常会話の中ににじみ出てくるようになるものなのです。私たち一人一人が常日頃から「慈愛の心」を持って会話ができるよう、自分自身を磨いておくことが大切なのです。