普勧坐禅儀

         

                       背景 富岩運河環水公園(富山県富山市)から眺める立山連峰(令和4年5月5日 撮影)

第1回 『道元禅師様の願い ―「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」を味わうにあたり―』

平成28年11月28日 更新

2008年10月5日

この日は高源院で毎週日曜日の朝に行っている坐禅会(やすらぎの会)が始まった日です。私にとって、お寺で一般の方を対象とした坐禅会を開くのは大きな目標でした。その目標が、住職になって5年目の秋にようやく達成することができました。

 

「やすらぎの会」という名前が誕生するまでには、色々と思案を巡らしました。ただ坐禅会と言ってしまえば、どこか堅苦しいような印象を受けますし、坐禅以外の、たとえば、法話が聞きたいという方には「坐禅しかやっていない」という印象を植え付けるのではないかと感じました。

 

「何か親しみやすいいい名前はないだろうか・・・?」といろいろ思案した結果、「やすらぎ」という言葉が出てきたのです。そこには、「坐禅こそが仏道の根本であり、疲れ切った心や身体にやすらぎを与えてくれる」という確信がありました。

 

ご承知のように、今から2500年ほど昔、お釈迦様は坐禅を行い、悟りをお開きになられました。他に何をしたのでもない、坐禅をしたのです。そして、坐禅によって得られたお悟りが多くの人を安楽の世界へと誘い込んできたのです。安楽の世界に誘い込むものは、坐禅以外にあります。念仏だって、写経だって、礼拝だってそうです。しかし、その根底にはお釈迦様が行った坐禅があるのです。つまり、念仏や写経は坐禅を根本とし、坐禅が形を変えたものだと捉えることができるのです。

 

実際にやってみればわかることですが、坐禅をしてみると、背筋が伸びることで、身体が整います。これを「調身(ちょうしん)」と言います。また、静かな環境が心を整えます。「調心(ちょうしん)」ですね。さらに、調った姿勢や心によって、呼吸が調ってきます。これが「調息(ちょうそく)」です。調身・調心・調息が完成されると、安楽の世界が訪れるのです。果たして、我々の日常の中で、かほどまでにしっかりと身心を調える行いがあるでしょうか・・・?

 

「そんな坐禅のすばらしさを多くの人に伝えたい!!」という思いによって、道元禅師様は坐禅に関するみ教えを書き記されました。それが「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」です。「普」とは「みんな」を意味します。「勧」は「すすめる(誘う)」ということ。「儀」は「作法」です。ですから、「普勧坐禅儀」というのは、「みんなを安楽の世界へ誘い込む坐禅の作法」を記した一編なのです。加えて、「坐禅とはいったい何なのか?」とか坐禅をしていくうちに抱きがちな数々の疑問に対する明快な解答が記されています。

 

坐禅に親しんでいくためにも、是非一読しておきたい一冊です。

第2回「坐禅を味わう前に -思い込みを捨てる―」

平成28年11月28日 更新

第2回  「坐禅を味わう前に -思い込みを捨てる―」


「GIVE AND TAKE」(ギブ アンド ティク)―「相手に何かをすれば、自分もその恩恵をいただくことができる」―この言葉は、我々の日常的な思想の一つです。


「何かをしたら、何かを得ることができる」

つまり、「自分たちの行為は、必ず何か目的を持った上で行っている」ということです。たとえば、「生きていくために働く」とか「大学に行くために勉強する」とか・・・。一般社会においては何ら否定されることのない当然の考え方です。


そうした一般通念を仏道の世界に持ち込むのはどうなのでしょうか・・・?


坐禅を志される方には、「精神修行のために」とか「美容のために」といった目的を持って、始められる方がいらっしゃいます。しかし、坐禅とはそんな「GIVE AND TAKE」とは正反対の、無目的な行為です。何か目的を持って、いざ坐禅会に参加しても、そこでは、自分たちが思い描いていた目的は、はかなくも打ち砕かれてしまうのです。そこが、坐禅が「難しいもの」と思われ、なかなか継続できない理由であります。


そんなお話をしていますと、「せっかく目的を持って坐禅に取り組んでいるのに、それが達成できなければ意味がないではないか!!」というご意見が聞こえてきそうですが、そうした考え方が問題なのです。最初から自分の頭の中に描いた目的にとらわれて坐禅に取り組んではならない。「やりながら気づいていく」、「やっていくうちに作られていく」これが坐禅です。つまり、最初から目的を持って取り組むものではなく、目的も期待も持ち込まない「0」の状態からスタートして、一歩一歩、自然に完成されていくものなのです。


「やってみないと納得できないことを、やっていくことでお釈迦様のお悟りに近づける」-それが坐禅はもとより、仏道の基本です。最初に思い描いていたものはお釈迦様の前で簡単に打ち砕かれます。しかし、それでも諦めず、納得いくまで坐禅に喰らいつくのです。そうすれば、必ずお釈迦様のお示しになられたこの世の道理が正しく見えてきます。そして、それが自分の身心に安楽を与えるのです。


坐禅を味わう前に、まずは自分の坐禅に対する思い込みは捨ててしまうのです。そして、前編でもお話したとおり、「調心(ちょうしん)」「調身(ちょうしん)」「調息(ちょうそく)」という「心」と「身体」と「呼吸」を調えることに専念します。そうやっていくうちに、何か新たなものに気づき始める―それが「坐禅」なのです。


次回より、いよいよ「普勧坐禅儀」の内容を味わっていきます。

第3回「原点回帰 ―三宝帰依の確認―」

平成213日 更新

原(たず)ぬるに夫(そ)れ道本円通争(どうもとえんづういか)でか修證(しゅしょう)を仮(か)らん


今回より、「普勧坐禅儀」の中身を味わっていきたいと思います。まずは冒頭の一句から読みすすめていきましょう。


冒頭に「原」という文字が出てきます。「たずぬる」と読んでいることから、何かを尋ね求めることだと推測できます。「原」を使った熟語に「原点」という言葉がありますが、ここでは、“そもそも”ということで、原点に立ち返ってみるという意味で捉えるとよろしいのかなと思います。


では、何の原点に立ち返ってみるというのでしょうか?それが次に出てくる「道本円通」です。「道本(どうもと)」―これは、「道」と「本」に分かれ、「元来の道」、すなわち、「本来の道」を意味しています。仏教における本来の道とは、お釈迦様がお悟りを得られた際に行じておられた「坐禅」です。次に「円通」とありますが、これは円かに通じている様を意味しています。輪の如く、切れ目なくつながっている状態であり、どこかにまっすぐつながっている様です。


これらを総合して考えていくと、今回の一句は「お釈迦様がお示しになられた元来の仏道(坐禅)は、円通(切れ目なくつながっている道)である。」と説かれていることに気づかされます。前回、「坐禅は最初から何らかの目的を持って行うものではない。目的も期待も持ち込まない0の状態からスタートして、一歩一歩、自然と完成されていくものだ」というお話がありました。それは道元禅師様がお弟子様方に「坐禅は無所得無所悟の行いである」(正法眼蔵随聞記)とお示しになられたことにも通じるわけですが、その理由は、坐禅が「円通」だからなのです。つまり、坐禅は悟りの世界に切れ目なく、まっすぐ通じているのだから、こちらから坐禅に何か特別な期待感を持ったり、先を計算して頭を悩ませたりする必要もないというのです。坐禅は必ず安楽の世界へと導いてくれるのだから、私たちの方から余計なことを考えずに、坐禅に歩み寄っていく―そうした坐禅に「帰依」しながら、仏道の原点に立ち返ってみようと「普勧坐禅儀」の冒頭は訴えるのです。


だから、「争(いか)でか修證(しゅしょう)を仮からん」と道元禅師様はおっしゃるのです。


「修證(しゅしょう)」とは「修証義(しゅしょうぎ)」の 「修證」です。修行をして、悟りを得ること。そのことについても、何か期待して修行に取り組まなくとも、お釈迦様とそのみ教えに我が身を委ねていれば、必ずや誰もが悟りの世界に到達できると道元禅師様はおっしゃいます。そして、それは自らのご修行で、今日まで仏道を伝えておられた多くの祖師方からも証明されているのです。


仏教の基本は仏(お釈迦様)・法(お釈迦様のみ教え)・僧(お釈迦様のみ教えを伝えてきた人々)の三宝に帰依する(信仰する)ことですが、坐禅を体験する前に、今一度、今回の一句を味わい、自らの三宝帰依を確認しながら、坐りたいものです。そうすれば、次第に祖師方が味わってこられた坐禅のすばらしさや悟りの境地を味わうことができるようになるのです。

第4回 「宗乗自在(しゅうじょうじざい) -坐禅を行う者の心構え-」

平成29年2月1日 更新

宗乗自在(しゅうじょうじざい)何ぞ功夫(くふう)を費やさん


まずは冒頭の「宗乗自在(しゅうじょうじざい)」という言葉を押さえておきたいと思います。


「宗」というのは、ものごとの「おおもと」だとか「根本」を意味します。ということは、「宗教」とは、「根本の教え(真理)」であると解釈できます。私たちが生きていく上での根本的な真理だということです。「乗」とは、乗り物のことです。そして、「自在」ですが、「自在」と言えば、「自由自在」という言葉が思い出されます。自分の思いどおりに操ることを言います。また「自在」は「自分に在る」とも解釈できます。自分の中に存在しているものということです。


これらを踏まえながら、「宗乗自在」という言葉を解釈していきます。すると、「自分の中に存在していて、自由に操ることができる根本的な乗り物」だということになります。自分の中に在って、自由に操ることができるもの―それは、実は「自分自身」なのです。


「クルマ社会」と呼ばれる現代において、「乗り物」というと「自動車」を思い浮かべる方が多いと思います。我々が日頃使っている自動車は道路交通法で定められた範囲内で運転することが義務付けられています。それを無視して、勝手に乗り回せば、当然、交通違反を犯したり、交通事故が発生したりすることになります。


それに対して、「宗乗自在」という乗り物、つまり「自分自身」とは、道路交通法のような外部からの法律による制限下で乗り回すものではありません。制限や規制がなく、どう乗り回そうが「自由」なのです。


その自由というのが要注意です。自由を取り違えてはなりません。法律のように外部からの制限がないということは、好き勝手にしていいということではありません。全てが自己責任なのです。ということは、しっかりと自分を律することができるようなものを自分で設け、それによって自分を律していかなければならないのです。それができて、初めて「自在」になるのです。


仏教には「戒律」という仏教徒の守るべき規範(仏教徒の生き方)があります。それが我々仏教徒の法律です。世間の法律と違って、戒律を犯しても罰せられることはありません。しかし、罰せられるかどうかというが問題なのではなく、戒律に準じ、戒律を自らの生き方に課して、その範囲内で自らに責任を持った生き方をしていくというのが、「宗乗自在」ということなのです。


そうした「宗乗自在」を念頭に置きつつ、「どういう姿勢で坐禅に向き合うのか?」という問いに対して、道元禅師様は、何か特別な功夫(工夫)をするような、そんな難しいことは、必要ありません。ありのままの自分、今・ここに生かされている自分を自己責任の範囲内で大切にして、坐禅の世界に没頭すればいいというのです。何か特別な準備をしたり難しい特訓をしたりしてから坐禅に臨む必要はなく、ありのままの姿で、あまり構えることなく坐禅を行じていただけたらということなのです。

第5回「本来の自分」

平成29年6日 更新

況(いわ)んや全体遥かに塵埃(じんない)を出(い)ず。孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都当処(おおよそとうじょ)を離れず。豈(あ)に修行の脚頭(きゃくとう)を用うる者ならんや


以前、ある他宗派の僧侶と話していたら「曹洞宗はうらやましいですね。」と言われたことがありました。


なぜ、彼は「うらやましい」と思うのか・・・?


「曹洞宗には坐禅があります。世間には坐禅を体験してみたいという人は大勢います。坐禅は絶対的な強みだと思います。私たちの宗派には坐禅のような魅力的な強みはありません。そこが曹洞宗のうらやましいところです。是非、世間に坐禅を発信して、お寺を開放してください。」―彼はそう続けました。


その意見に私は強く引き込まれるものを感じました。自分たちの宗派の大切な修行であり、日々の生活の一部となっている坐禅が、かほどに魅力的に見えるものなのか・・・?彼の言葉は私に新たな視点をもたらすと共に、自分の背中を大きく後押ししてくれました。


しかしながら、私が住職をつとめる高源院において、毎週日曜日の夕方に坐禅会を開催していますが、ここ数年は同じメンバー2.3人でつとめさせていただいています。内容的には他所のお寺の坐禅会にも見劣りしないという自負!?はあります。しかし、人数的な側面から見れば、先の僧侶がおっしゃるような世間から注目されているという印象はあまり感じられないのが実際の所です。


こうした現状を見るに、「やはり、坐禅は特別視されているのだろうか?何か難しい、非日常的なものだと思われているのだろうか?」―そんなことを思うこともあります。


しかし、道元禅師様のお答えは「何ぞ功夫を費やさん」というものです。坐禅を難しく考える必要はないというのです。なぜなら、見も聞きもしていない未経験のことに対して、事前にあれこれ考えることが、自分を仏道から遠ざけてしまうからです。大切なのは「あれこれ考えず、今・ここにいる自分が坐禅に臨むことだ」ということです。とにかく「体験してみなさい」と道元禅師様はおっしゃるのです。


一見したところ、「今の自分」というのは、煩悩に満ちた仏の世界からは程遠い存在のように感じます。しかし、元来、自分という存在は清浄だったはずです。道元禅師様は誰もが仏になる性質(仏性)を持っていると説かれます。皆、生まれたばかりのときには、綺麗な心があるのです。それなのに、人間として生きていく中で、どこかに忘れてしまっているだけなのです。それを取り戻していくことが仏道修行なのです。


もともと清浄な心を持った人間だから・・・

わざわざ塵や埃を払ったり、雑巾で拭いたりして、掃除をする必要がないのです。

また、今の自分を大きく変えようと、どこか遠くへ場所移動するような必要もなければ、少しでも早く、簡単にそこへ行こうとする必要もありません。

今のままの状態で坐禅に臨めばいいのです。

そして、幾日も幾日も坐禅を行ずる中で、仏の世界へ向かう一本の道が完成していくのです。

第6回「中道の体得」


平成29年10日 更新

然(しか)れども豪釐(ごうり)も差あれば天地懸(はるか)に隔たり、違順(いじゅん)纔(わずか)に起れば紛然(ふんぜん)として心(しん)を失す


もともと清浄な心を持った私たち。だからこそ、何か特別に意識して、心をきれいに掃除してきれいに磨いておくような作業は不要であると道元禅師様はおっしゃいます。「本来の自分」だとか「ありのままの自分」を大切にすればいいというのです。


しかしながら、中には違和感を覚える人もいらっしゃるのではないでしょうか・・・?


というのは、大半の人は自分に自信を持って生きているわけではないからです。自信過剰に見える人はいますが、本当はそれほど自信があるわけではありません。ただ、周囲にそれを悟られまいとして、強がって見せているだけなのです。人間は中々、自分に自信が持てないものです。道元禅師様も、それを「人間の本質」として、十分に承知なさっていたはずです。


しかし、道元禅師様はそんな人間の本質を受け止めながらも、「豪釐(ごうり)も差あれば天地懸(はるか)に隔たり」とお示しになられました。


これは、本来は比較できない、絶対的な価値を有したもの同士を比較しようとすれば、双方とも本来の姿を見失ってしまうということです。これは、お釈迦様がお示しになられた「中道」のみ教えとも合致します。すなわち、小さな私見による比べ合いは、どちらか一方への固執を生み出すと共に、そうした偏った捉え方が本来有している価値を見失わせてしまうというのです。比べられない存在同士を勝手に比べるから、自信が揺らぎ、物事を正しく見ることもできなくなるのです。


我々は日頃から、自分の気づかないところで、自分の考え方や見方を正しいものだと思い込み、物事の真価や本当の姿を見失ってしまう場面に出くわしています。そうした場面にいち早く気づき、偏った見方を止めて、あらゆる角度から物事を捉え、その真価に気づきたいものです。


とにかく他者と自分を比較して、自分を卑下することほどバカバカしいことはありません。人間は、なぜか自分の境遇に満足できず、人のことばかり羨ましくなってしまうものです。しかし、自分の足りない部分を恥じているのは、実は自分だけだったりするのです。意外と、周囲の人は、そこまで感じていなければ、そんなことを思う余裕はないものです。ですから、何も自分が人の持っているものを持っていなくても、そんな自分を恥じる必要はありません。「人は人。我は我」です。同じ人間であっても、それぞれ、たった一人しかいない存在です。簡単に比較の対象とはなりません。それなのに、自分の見方だけで比較してしまうから、自信がなくなってしまうのです。“自分は自分でいい”―今の自分をありのままに受け入れられるようになりたいものです。


次に「違順(いじゅん)纔(わずか)に起これば紛然として心を失す」とあります。これも同様のことを説いています。「順番を間違えれば、肝心なものを見失ってしまう」ということなのですが、不要な比較や順番を誤った捉え方が、自己を惑わせてしまうのです。


ありのままの自分を大切にしながら、不用意な比較をせずに、物事の本質を正しく捉える―そんな「中道」のみ教えを、坐禅を通じて体得していきたいものです。

第7回「自分に酔わない -謙虚に生きる-」

平成29年8月1日 更新

直饒(たと)い、会(え)に誇り悟に豊かにして、瞥地(べっち)の智通(ちつう)を得、道(どう)を得、心(しん)を明めて、衝天(しょうてん)の志気(しいき)を挙し、入頭(にゅっとう)の辺量(へんりょう)に逍遥(しょうよう)すと雖(いえど)も、幾(ほとん)ど出身の活路(かつろ)を虧闕(きけつす)


平成20年10月に高源院を会場に「やすらぎの会」(坐禅会)を行うようになって、10年目を迎えます【平成29年(2017年)現在】。振り返れば様々な思い出が蘇ってきますが、坐禅会のある生活とない生活とでは、大きな違いがあるように思います。10年前の坐禅会を行う前と、10年後の今を見比べながら、「昔から見たら、今の自分は悟っているような気がする。」と思ったことがありました。


しかし、道元禅師様はそうした比較による捉え方は「自分を真実の道から遠ざけてしまう」と指摘なさいます。それは、言い換えれば、「自分に酔いしれないように!!」ということでもあります。これは私たちが日常生活の中で行っていきたい「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」の一つである“不酤酒戒(ふこしゅかい)”です。


不酤酒戒とは、人を酔わせ、正しい判断を失わせる酒類に手を出したり、人に与えたりしないことを自らに誓うことです。しかし、そう解釈すると、たとえば、お酒を飲んではいけないのかとか、お中元やお歳暮に酒類を差し上げてはいけないのかとか、そもそも酒類を製造・販売する杜氏や酒屋は悪者なのかといった具合に様々な疑問が生じます。本来、不酤酒戒はそこまで追及し、自己に誓うべきものではないかという気がします。


しかし、飲酒やアルコールの製造・販売の是非を問うだけならば、お酒が飲めない人ならば、簡単にクリアできるレベルのものです。特定の人が簡単に守れるようなものならば、み教えとして位置づけられることはないように思います。人間ならば誰もがつまずき、悩むからこそ、また、それを実践することで苦悩から救われるからこそ、み教えとして位置づけられるのです。


お酒好きの人が酒を飲んで酔うように、万人を酔わせてしまうもの―それが「自分」なのです。不酤酒戒とは、酒に酔わないようにということを通じて、実は自己陶酔を戒めているのです。すなわち、自分に酔わない、自分に謙虚に生きていくということを説いているのが不酤酒戒なのです。


ここまで押さえた上で本文に戻りますが、「瞥地(べっち)の智通(ちつう)」とはわずかに仏法を悟ること、「入頭(にゅっとう)の辺量」とは、悟りの世界に入ったかどうかという所、つまり、“悟りの世界の入口付近”のことです。「ほんの数回、坐禅をしたからといって、そんな自分がすごい」と酔いしれようが、「もう坐禅をしなくても十分に悟った」と思おうが、『それは本当の理解ではない。その程度では本当に坐禅を極めたとは言えない』と道元禅師様はご指摘になります。坐禅はお釈迦様から、多くの祖師方を経て、今の我々に「安楽の法門」として、伝わっているものです。お釈迦様始め多くの祖師方は坐禅を極め、生きる苦悩から救われていったのです。ですから、坐禅の背景には、大変、奥深いものがあり、ちょっと坐禅をしただけで、気軽に悟れるはずがないのです。ひたすら坐り続けてこそ、坐禅の深みが実感できてくるのです。


今回の道元禅師様のご指摘は坐禅のみならず、万事にも通じます。何事も早くて簡単に習得できることを喜ぶ傾向が強い現代社会ですが、スポーツであれ、茶道であれ、どの道を見ても、その背景には、坐禅のように深いものがあります。道を極めたプロは、その道を精進していく中で、自らが選んだ道の重みや深みを体得していきました。そうした道への重みを短時間の経験で理解したような思い上がり(自己陶酔)はあってはいけない―有頂天になることが、肝心なものを見失わせるのだ」と道元禅師様は仰っているのです。


「自分に厳しく、他にやさしく」と言います。自分に対する厳しい目を忘れずに、自分たちの道の中に隠された「真実」を見ていこう」―それが、坐禅を通じて、我々に発せられた「メッセージ」なのです。

第8回『「精進」して生きていく』

平成29年8月20日 更新

矧(いわ)んや彼(か)の祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年(たんざろくねん)の蹤跡見(しょうせきみ)つべし。少林(しょうりん)の心印(しんいん)を伝うる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名尚聞(しょうみょうなおきこ)ゆ


平成29年現在、曹洞宗の布教師の道を歩み始めて13年目を迎えますが、まだ駆け出しの頃、同じ道をずっと昔から歩き続けておられる大先輩から教わった禅語があります。それは「百尺竿頭進一歩(ひゃくしゃくかんとうにいっぽをすすむ)」という禅語です。これは「仏道修行には終わりがない。何かを得て、満足したような気がしても、そこは決してゴールではなく、更に道は続いていく。」という意味の言葉です。


前回は自分に酔わないというお話をさせていただきました。自分一人の判断で完成したと思い込むと、人間は自己陶酔に陥り、それ以上、先に進むことができなくなります。そうなると、それ以上の成長は期待できません。どんな道にもゴールというものはありません。果てしなく続く道があるだけです。ゴールはその道を歩む者が勝手に作り上げたものなのかもしれません。だから、自分でゴールを定めず、どこまでも道を究めつくしていくことが必要なのです。


今回はそうしたみ教えの根拠となる具体例としてお釈迦様と達磨大師様が登場されます。「彼の祇園の生知たる端坐六年の蹤跡」はお釈迦様に関するお話。「少林の心印を伝うる面壁九歳の声名尚聞こゆ」は達磨様のお話です。


「祇園精舎」という言葉をお聞きになったことがあるかと思います。これはお釈迦様の説法道場で、「お寺」を意味します。「彼の祇園」ですから、「あの祇園の方は・・・」ということであり、お釈迦様を指していると考えればよろしいかと思います。そのお釈迦様が「生知」―生まれながらにして自分をよく知っている機根すぐれた人材であったと道元禅師様はおっしゃいます。そこには道元禅師様のお釈迦様に対する絶賛と深い帰依の念が表れているように思います。


そんなお釈迦様の「端坐六年の蹤跡」とは、29歳で出家され、35歳で悟りを開かれる(成道される)までの6年間を指しています。29歳のとき、国王の跡取りとしての保障された何一つ不自由のない日常生活や愛しい妻子といった自分の身の回りの全てを捨てて宮殿を出た(出家)お釈迦様は、以降、6年に及ぶ苦行と、そこから修行方法を転換して行われた瞑想(坐禅)によって、35歳の12月8日の明け方、朝日が昇るのと同時に悟りを得ることができました。そうした6年間の長い道のりとそれによって得られた功績(足跡)を「端坐六年の蹤跡」と道元禅師様はおっしゃるのです。「それは、ちょっとやそっとの修行ではなく、長くて険しい道のりの修行であった。そして、それを乗り越えて、始めて悟りを得られたのだ。」と道元禅師様はお釈迦様を例に説いていらっしゃるのです。


さらに道元禅師様は達磨様にも言及されます。「少林」と言えば、達磨大師の別称とも言われるくらい、達磨様と深い関係にあります。それは達磨様が「面壁九歳」―9年にも渡り、経論も読まず、仏像も拝まず、ただひたすら心を外界に執着せぬよう、壁に向かって坐禅に打ち込んだお寺である「少林寺」のことを指しています。9年にも及ぶ坐禅修行は長くて厳しいものであることは言うまでもありません。そんな達磨様に弟子入りを請い、やっとのことで許可を得た僧侶もいました。弟子入りするにもいのちがけであり、やっとの思いで師匠と弟子が通じ合うことができたのです。その様子を表すのが「心印」という言葉です。


「今も尚、“祖師”として崇拝される方々であっても、“悟りの境地(お釈迦様に近づくこと)”に達するには長くて厳しい修行を乗り越えてきたのだから、そんなにおいそれと悟りを得ることはできない。」と道元禅師様は具体的にお二人の祖師に登場していただき、悟りを得ることの難しさを説いているのです。


しかし、だからといって、道元禅師は何も悟りを得ることができないとおっしゃっているのではありません。お釈迦様や達磨様のように、自分をしっかりと見つめ、自分に対する厳しさを忘れずにただひたすら仏の道を歩み続けていくならば、どんなに困難であっても、誰もが悟りの世界に近づくことができるというのです。すなわち、一歩一歩、精進していけば、いつか必ず目標が達成できるということなのです。「精進して生きていけば、どんなことも必ず成し遂げられる。」それが、今回のお教えに込められたメッセージです。どんなことでも精進努力すれば成し遂げられる―何とも励みになるこの一言を胸に、仏の道を歩んでいきたいものです。

第9回「古聖(こしょう)からのエール」

平成29年日 更新

古聖既(こしょうすで)に然(しか)り、今人蓋(こんじんなん)ぞ弁(べん)ぜざる


端坐六年(たんざろくねん)の末、悟りの境地を得られたお釈迦様。面壁九年(めんぺきくねん)にも及ぶ坐禅修行によって、悟りの境地を得られた達磨様。


そうした「過去に生きた悟りを得た祖師方」をここでは、「古聖」と申しています。それはお釈迦様や達磨様だけに限ったことではありません。現代から見返せば、道元禅師様はもちろんのこと、「祖師」と称される多くの方々も「古聖」です。そうした「古聖」方でさえ、長くて厳しい坐禅修行の末、悟りの世界に達したのだから、我々がそう簡単に悟りの境地に達することはできまいというのが、本段の意味するところです。


この一句は、お釈迦様を始めとした祖師方が体得された悟りの世界というのは、それほどまでに長くて険しい道のりだということを意味していると捉えることができるでしょう。しかしながら、そんなハードな道のりを「小水が石を穿つがごとく(少量の水も流れ続けていれば固い石が割れる時がやってくること)」坐禅を行じ、「立派な人」になられたのが祖師方なのです。それが我々と同じ人間である「古聖」方の修行の結果ならば、我々凡夫だって、同じようにすれば、凡夫を脱して悟りの境地に達することができるはずです。この一句は、そうした我々凡夫に対する古聖からのエールが含まれているように感じます。


果たして我々は古聖のように「水が石を穿つ」がごとき精進ができるでしょうか―?少量の水も流れ続けていれば、硬い石に穴が開くときがやってくるとお釈迦様はおっしゃいます(仏遺教経)。果たして、そんな努力が我々凡夫にできるのかどうかということです。


それは高くて険しい道のりですが、祖師方はそれを自ら歩み、道が開けていきました。我々も同じ人間ならば、その志一つで道は開けるというのが、今回の一句に込められた「古聖からのエール」なのです。

第10回「言より行 ―“言<行”の坐禅―」

平成29年1014日 更新

所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(げん)を尋ね語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休(きゅう)すべし。須らく回向返照(えこうへんしょう)の退歩(たいほ)を学すべし


お釈迦様が坐禅によってお悟りを得たのが、今から約2600年前の12月8日の明け方だったと伝えられております。当時、お釈迦様は35歳。この出来事を「成道(じょうどう)」と申します。成道は正式には「成仏得道(じょうぶつとくどう)」と申しまして、(人としての)道を得て、仏に成る(近づく)ことを意味します。12月8日はお釈迦様が成仏得道された日である―言ってみれば、この日は「仏教の誕生日」なのです。


そうした「悟りを得る」とはどういうことなのか・・・?


〝悟り〟とは“覚”ともあるように、「目覚め」や「気づき」を意味します。お釈迦様が坐禅によってお悟りを得たということは、お釈迦様が坐禅を通じて何かに目覚め、気づいたということなのです。


そもそもお釈迦様は国王の跡取りとして、何不自由ない生活を保障されていたのですが、青年期に目の当たりにした人間の生老病死の現実に悩まれ、出家されました。6年間の苦行の末、坐禅との出会いがあり、35歳の12月8日、坐禅によって悩みが解決されたのです。


お釈迦様が気づかれたのは、ご自分がいのちをいただいて生かされている「この世の仕組み」です。「この世の仕組み」とは下記のとおりです。


・この世のすべての存在は変化する(諸行無常【しょぎょうむじょう】)

・全く性質を異にする存在同士がつながっているがゆえに、自分の思い通りにならない(諸法無我【しょほうむが】)

・この世は苦悩の連続である(一切皆苦【いっさいかいく】)


そういった「この世の仕組み」に気づき、受け止めることができたとき、お釈迦様の心の中の苦悩が解消され、心安らかな悟りの境地に達した(涅槃寂静【ねはんじゃくじょう】)というのです。それが「成道」―人間として生きてい行く上でのあるべき道を成し遂げたということなのです。


お釈迦様がそうした成道に行きついたのは坐禅という“行”を修めたからです。そんな坐禅について道元禅師様は「坐禅はいくら議論しても、何かを得ることはできない。こればかりはやってみなきゃわからない。」とおっしゃいます。それが「言(げん)を尋ね、語を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし」の意味するところです。「坐禅を言葉や理屈で捉えていくようでは、お釈迦様が坐禅を通じて体得された悟りには近づくことはできない」というのです。「解行(分別知識のみで理解しようとすること)」は端的にそれを言い表しています。


次に「回向返照(えこうへんしょう)の退歩(たいほを)学すべし」とあります。世の中にはすぐれた人は大勢います。人は自分にない能力や経験を持った人がいると、ついつい自分と比べてしまい、自分の未熟さを感じて、がっかりしてしまうものです。


実は、そうした自他を見比べて、自分を卑下することが、自分が秘めた無限の可能性を否定することになるのです。人間は誰しも無限の可能性を秘めています。


他者の可能性を認めることは大切です。しかし、何も他と自分を比べて、自分を卑下する必要はありません。大切なのは、自他共に素晴らしいものを持っていることを認めることです。ですから、外にばかり目を向けず、自分にも目を向けて、内に秘めた可能性を大切にして、自信を持って生きていきたいものです。


道元禅師様は「回向返照の退歩を学すべし」において、「議論に執心せず、心静かに姿勢を正していけば、いつしか身心が調い、心が安らかになると共に、自分の本来の姿に立ち返っていく―それが坐禅である。」とお示しになっております。「退歩」とは、根本に戻ることを意味します。自分の中に眠る元来有している可能性に気づくことだと考えればよろしいかと思います。


気ぜわしい日常生活を送る我々現代人ですが、こうした坐禅をする時間を作ることは中々、難しいかもしれません。しかし、毎日の暮らしの中で、意識的に背筋を正し、自分の心をただすことを心がけていけば、それが習慣となっていきます。言葉を多用したり、知識に捉われたりせずに、行によって、「この世の仕組み」に目覚め、納得しながら、心安らかな日々を過ごすことを願うばかりです。

第11回「身心脱落(しんじんだつらく) ―執着から解放されたとき―」

平成29年10月4日 更新

身心自然(しんじんじねん)に脱落(だつらく)し、本来の面目現前(めんもくげんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲(ほっ)せば、急に恁麼(いんも)の事を欲せよ


曹洞宗の大本山・總持寺(そうじじ)(神奈川県横浜市鶴見)をお開きになられた瑩山(けいざん)禅師様は著書「洞谷記(とうこくき)」の中で、道元禅師様が中国で坐禅修行中に、師の如浄(にょじょう)禅師様から「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉を学び、大悟だいごした(悟りを得た)ということを記されていらっしゃいます。


この「身心脱落」というのは、身も心も一切の束縛から放たれ、自由になった状態を指し示しています。すなわち、これまで自分自身が様々なものに執着していたことが、あらゆる苦悩を生み出す原因であったことに気づき、身心共々、とらわれるものがなくなって、すっきりとした状態になることを意味しているのです。


こうした状態というのは、味わったことがなければ、なかなか想像し難いものがありますが、「すがすがしい」というか、「怖いものがなくなる」というか、何ともいえない爽快な状態です。“仏教の本場”と信じて渡った異国の地・中国で、如浄禅師様に出会い、ついに悟りの境地を得ることができた道元禅師様にとって、何とすがすがしく、爽やかな瞬間を迎えられたかは想像に難くありません。


ここで「自然(じねん)」という言葉に触れておきたいと思います。これは一般的には「しぜん」と読みますが、よくよく見てみますと、読み方が「じねん」となっていることに気づきます。


「しぜん」と「じねん」の違いについて、かつて、住職になりたての頃、あるお檀家さんからご質問いただき、辞書を片手にお答えさせていただいたことを昨日のことのように思い出します。日頃、何気なく流してしまう仏教語でも、お檀家さんが一般の視点からご質問してくださることで、新たな発見に巡り会えたことが、これまで多々ありました。お檀家さんには本当に感謝です。


さて、「しぜん」と読む場合は、「人工の加わらない状態」を意味します。具体的には、「山や川や海」などです。


それに対して、「じねん」と読む場合は、「しぜん」のような“人為が加わらない”という意味に加えて、本来の性質に従って、あるがままに存在している(「自然法爾(じねんほうに)」)という意味があります。仏様のお力によって、自分の性質のままに、あるがままに存在しているということです。そこでは、人間始め何か外部の力が加わることはありません。



そうした「じねん」という点に留意しながら、「面目現前(めんもくげんぜん)」という言葉を解釈してみますと、「仏(釈尊)・法(坐禅)の力で、抱えていた執着から解放され、真の自由を得た僧(道元禅師様はじめ多くの祖師方)の眼前には新たな世界が開けた」となります。「身心脱落」による新たな世界というのは、頭で考えたり、理屈でとらえたりしようとしても、浸れるものではありません。「坐禅」という“行”を地道に続けるしかないのです。ちなみに、「面目」とは「かたち」を、「現前」とは「あらわれること」を意味します。


次に「恁麼(いんも)」という言葉が出てまいります。「このように」という意味の言葉でした。「坐禅(仏法)は頭で解釈するのではなく、全身で体得するものだ」ということを、道元禅師様は「身心脱落」などのみ教えを踏まえながら「身心を脱落させ、新たな世界に向かうには、坐禅をするしかない!」と強く訴えているのがこの箇所なのです。


こうして、道元禅師様は坐禅というのもが、「安楽の法門」への第一歩として、いかにすぐれたものかを、ご自身の体験などを踏まえて、お示しになってまいりました。そして、いよいよ次の段から、坐禅のやり方についてお示しになられます。それは、坐禅の組み方のみならず、坐禅をする環境だとか、服装、体の状態などまで、とても綿密に記されています。 

第12回「参禅(さんぜん)―坐禅に帰依する―」

平成29年1月4日 更新

坐禅の具体的方法について触れていく前に、「参禅」という言葉を味わってみたいと思います。


「参禅とはいったいどういう意味なのか・・・??」また、「坐禅と参禅は何が違うのか・・・??」―非常に興味深いところです。


坐禅一筋に生きた名僧・内山興正(うちやまこうしょう)老師(明治45年~平成10年)は、「参禅」を「坐禅に無条件降伏すること」だとおっしゃっています。(著書:「普勧坐禅儀を読む」)内山老師のお言葉をお借りするならば、「参禅」の「参」は「参る」という意味があるように、参禅とは坐禅に自分の全てを合わせるということ、すなわち、「坐禅に帰依すること」だと捉えることができます。


「坐禅に帰依する」とは、どういうことなのでしょうか・・・?


それは、毎日、坐禅をしなければ、どうにもすっきりしないと思えるほどになったり、坐禅のおかげで心安らかな日々を過ごせると感じられるようになったりすることです。そうしたレベルまで坐禅に対する精神状態を深め、坐禅で身心を調えながら毎日を過ごすことが、「参禅(坐禅に帰依すること)」なのです。


本来ならば、毎日、坐禅をする時間があることが理想ではありますが、坐禅による身心の調整を意識しながら、毎日を過ごすことも、ひとつの「参禅」というあり方ではないかという気がします。自分を調えながら、日々を過ごすことを「参禅」という言葉から味わっていきたいものです。

第13回「坐禅の条件 その1 坐禅が伝える“偏らない”環境と食生活」

平成29年11月15日 更新

静室宜(じょうしつよろ)しく、飲食節(おんじきせつ)あり。諸縁(しょえん)を放捨(ほうしゃ)し、万事(ばんじ)を休息して、善悪を思わず、是非を管(かん)すること莫(なか)れ


一般的に、“禅宗の修行は厳しい”というイメージがあるようです。永平寺様などの修行道場における修行僧たちの日常がテレビで放映されることがありますが、明け方の、薄暗くて寒そうな場所で、時折、警策(きょうさく)で叩かれる音が響く中、黙々と坐禅に励む修行僧たちの姿からは、禅の修行の厳しさがにじみ出ているような気がします。


禅宗に限らず、他の各宗派でも仏道修行というのは厳しいものです。しかし、そんな仏道修行に対する一般社会の見解を見ていると、どうも“厳しい”と “辛い”が混同されているような気がしてなりません。“厳しい”と“辛い”とでは、意味が違います。厳しさを滲ませる修行僧たちは、決して、辛い思いをしながら、我慢大会のごとき“苦行”に励んでいるわけではありません。そうしたものは既に乗り越えているのだということです。


曹洞宗の開祖・道元禅師様は「坐禅は“安楽の法門”」であるとおっしゃいました。確かに、最初は身体が慣れるまでは足もかなり痛みますし、苦行と感じるような場面もあるでしょう。しかし、習慣化してしまえば、辛さが和らぎます。そうやって辛さや苦しみを乗り越えることができたとき、「安楽の法門」という言葉に合点が行くのです。恐らく、多くの修行僧たちもそうした境地を体得しているはずです。


そうした「安楽の法門としての坐禅」となるためには、慣れも必要でしょうが、それ以外にも様々な条件があります。今回はその中から「環境」と「食生活」を取り上げさせていただきます。両方とも私たちの日常生活の中においても大切な様相ですが、坐禅の世界においても欠かすことができません。


安楽を感じられる環境とは一体、どんな環境なのでしょうか??―それが「静室じょうしつ」です。「静かな場所」ということでしょうが、道元禅師様は「静室」こそ坐禅に適した場所だとおっしゃっておられます。


この「静室」というのは、何も地下室のような、人工的に作られた無音の場所ということではありません。鳥の鳴き声が聞こえてきてもいいのです。近くを流れる小川の音があってもいいのです。とは言え、繁華街のような賑やかな場所である必要はありませんが、「自然の音は自然に任せて聞こえてくるがよい。自分が心落ち着く静かな場所がよかろう。」ということなのです。これは、いわば、両極端(騒でも静でもない)、適度な静けさを保った場所だということです。


さらに「静室」には、温度も含まれていることに注目しておきたいものです。それらも当然ながら両極端に偏らないものが望まれます。適温といいましょうか、寒いときは、エアコンでも暖房でも使って温かくし、暑いときは涼しくするということを言っているのです。何も我慢大会のごとく、寒い場所でブルブル震えたり、篤い炎天下の中、大汗をかいたりしながら行うものではないということです。


次に「食生活」です。当然ながら食べすぎてお腹を壊していれば、腹痛の苦しみに耐えながら坐禅をすることになり、とても「安楽の法門」にたどり着くことはできません。食べ物は身体に正直です。食べ過ぎれば、健康を害しますし、逆に空腹ならば、「腹が減っては戦はできぬ」と言わんばかりに、集中力が途切れます。いずれの場合も「安楽の法門」からは遠ざかってしまいます。お腹の中も、両極端に偏ることがないように調節しておきたいものです。「飲食節(おんじきせつ)あり」が意味するのは、適度な食事で正しい食生活を心がけるということです。


様々な生活習慣病が存在する中で、近年は人々の健康志向が強くなっています。健康維持のためには、食生活の改善が一つの重要なポイントになっているようですが、「飲食節あり」を標榜する坐禅が、食生活を正し、健康の維持にもつながっていくという解釈を見逃してはいけません。「坐禅は人が健康な毎日を送る一つの方法である」―はるか800年近くも前に、道元禅師様が「人間が健康な毎日を送る術」をお悟りになっていたことは注目に値すべきことではなにでしょうか。


お酒を飲む機会が多い私にとって、確かに飲みすぎた翌日は、お腹の調子が悪くて、坐禅に集中できなかったことがありました。逆に、きちんとした食事をし、睡眠を取った翌朝はすがすがしい坐禅ができました。そんな実体験を通じて、安楽の法門たる坐禅を続けていく上で、食生活の大切さを痛感します。そして、そんな坐禅を毎日繰り返していく時、食生活を調え、健康な生活を送っていきたいものです。これも坐禅が説く「調身(ちょうしん)(身体を調える)」につながっているのです。


ということで、坐禅に親しむ生活とは、体調を管理し、生活を整えるということだと気づきます。そのために偏らないことが大きなポイントでしょう。そして、物事の善悪や是非に捉われ、どちらか一方に左右されることがないようにしていきたいものです。そうした偏らない、中道(ちゅうどう)の生き方というものを説いているのが「諸縁(しょえん)を放捨(ほうしゃ)し、万事(ばんじ)を休息して、善悪を思わず、是非を管かんすること莫なかれ」なのです。

第14回「坐禅の条件 その2 坐禅中の思考―思考を停止させるのか?」

平成29年11月24日 更新

心意識(しんいしき)の運転を停め、念想観(ねんそうかん)の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ること莫(なか)れ。豈坐臥(あにざが)に拘(かかわ)らんや


坐禅のご経験がある方からいただくご質問の中で多いのが、「坐禅中についつい考えごとをしてしまって、なかなか“無(む)”になれない。どうすればいいのか?」というものです。“無”という言葉からは“何も考えてはいけない”という捉え方を感じます。それゆえに「坐禅中は何も考えごとをしてはいけない」と捉える方がおいでるのでしょう。


しかし、果たしてそんなことが可能なのでしょうか・・・?


私たちは今、生きています。坐禅ができるのは生きているからであるとも言えるでしょう。生きているということは、こころと身体はもちろん、頭も働いています。もし、「無=何も考えないこと(思考の停止)」だとするならば、 “無”とはこころや身体の働きを止めることであり、「死」を意味することになるではないでしょうか?


今回の一句は、こうした疑問に対する道元禅師様の見解と捉えることができます。すなわち、道元禅師様がお示しになられた「坐禅中における心の用い方」が示されているのです。「心意識(しんいしき)の運転を停め、念想観(ねんそうかん)の測量を止めて」とあります。「心意識」とは「ものを考えること」、「念想観」とは「心を一点に集中させる」ということです。「心意識の運転」や「念想観の測量」からは、双方とも頭を使い、あれこれ考えることを意味していることに気づかされます。人間として生きているがゆえに、こうした思考を完全に停止することは不可能であり、「頭の中に沸き起こった思考にとらわれるのではなく、涌いたものは次々と捨てていく」ことが、坐禅中における思考だというのです。


頭の中に沸き起こったものを次々と捨てていくとは、沸き起こってきた思想に対して、次々と考えを進めてみたり、何か目的を掲げたりしないようにすることだと道元禅師様はおっしゃいます。そのことが的確に表現されているのが「作仏(さぶつ)を図ることなかれ」です。「仏になることを目的に坐禅をする」ことを戒めていらっしゃるのです。


実際に坐禅を続けてみるとわかってくることなのですが、何か目的や期待を抱いて坐禅に臨んでも、簡単に裏切られてしまいます。それはバカバカしいことであり、坐禅に目的も期待も不要であることを思い知らされます。なぜなら、坐禅をすることそのものが、お悟りを得たお釈迦様と同じことをしているわけですから、尊い“仏さまごっこ”であり、仏さまそのものになっているからです。


坐禅は身体の動きを止めて坐るため、「静」のイメージが強いですが、実際は「動」です。自分自身が周囲のあらゆる存在とつながっていることに気づき、自分の存分意義を十分に感じ取りながら坐っているのです。「動」の最たるものが「頭」です。「静」の中で、いかに「動」である頭と付き合っていくのか?その答えは“ありのままに、かつ捉われずに付き合っていく”ということなのです。「静」であり、「動」である―それが「坐禅」なのです。

第15回「坐禅の条件 その3 足の組み方」

平成29年110日 更新

尋常坐処(よのつねざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団(ふとん)を用(もち)う。或は結跏趺坐(けっかふざ)、或は半跏趺坐(はんかふざ)謂(いわ)く結跏趺坐は、先(ま)づ右の足を以(もっ)て左の股(もも)の上に安(あん)じ、左の足を右の股(もも)の上に安ず。半跏趺坐は但(た)だ左の足を以て、右の股を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて斉整(せいせい)なら令(し)むべし


今回は坐禅中における「足の組み方」について触れてみたいと思います。「足の組み方」は坐禅の経験がなければ、なかなかイメージしづらいものです。そこで、できるだけイメージしやすいように、写真を用いて説明させていただきたいと思います。


まず、坐処(ざしょ)(坐禅を行なう場所)の準備について触れられています。左の写真にあるように、座蒲団の上に坐蒲(ざふ)を用いるようにとあります。坐蒲というのは座蒲団の上にある黒くて丸いクッションで、坐禅をする際に使います。この坐蒲を用いて坐禅をするのが一般的ですが、何も坐蒲を用いなければならないということはありません。「厚く坐物を敷き」とあるように、坐る場所が高くなっていればいいのであって、厚めのクッションでも構いません。ちなみに、高源院の坐禅会(やすらぎの会)では、一般家庭で使われているようなクッションを用いています。そこには「家庭の中にあるものを用いて、家の中でもいつでも気軽に取り組めるように」という意味もあります。

坐蒲(ざふ)


次に足の組み方ですが、二通りの組み方が記されています。


一つが「結跏趺坐(けっかふざ)」という左の写真のような組み方です。ご覧のように、右足を左股(ひだりもも)の上に乗せ、左足を右股(みぎもも)の上に乗せるという組み方です。仏像(坐像)の足の組み方は結跏趺坐になっていますが、この組み方は、言ってみれば、あぐらをかくような形で、足はそれぞれ股ももの上に置くというものだとお考えいただければよろしいかと思います。

結跏趺坐(けっかふざ)


とは言え、こうした結跏趺坐で一定の時間、坐禅を組むのは容易いことではありません。そこで、この結跏趺坐を少し簡便にし、誰でも取り組みやすいように「半跏趺坐(はんかふざ)」という組み方も提示されています。写真のように、左足を右股に乗せるだけで、右足はあぐらのように左股の下にくるという坐り方です。


こうした二通りの足の組み方のうち、ご自分に合う方を選んでいただいて、坐禅を行うことになりますが、何も結跏趺坐ができることがすばらしく、半跏趺坐しかできないのが情けないということではありません。どちらの坐り方であれ、坐禅が「安楽の法門」につながることが肝心であり、坐り方含め、坐禅の方法の正誤にばかり捉われていては、「安楽の法門」にはつながっていきません。

半跏趺坐(はんかふざ)

ちなみに、足を組む方向は左右逆の組み方でも構いません。「普勧坐禅儀」で道元禅師様がお示しの組み方は「降魔坐(ごうま)」と申します。「降魔」とは修行の妨げとなる煩悩を降伏させることですから、「降魔坐」とは、煩悩から離れる坐り方だと解することができるでしょう。


そして、道元禅師様と逆の組み方が「吉祥坐(きちじょうざ)」と呼ばれる坐り方で、従来、インドではこの組み方がなされていました。この組み方は説法中の坐相であったそうです。


参考までに、降魔坐と吉祥坐を説明させていただきましたが、あくまで“参考”として捉えていただけたらと、「やすらぎの会」では申し上げております。


こうして、足を組み終えたならば、できるだけゆったりとした服装で、気持ちを楽にして、安楽の世界に身を置いていくことになります。 

坐蒲(ざふ)

結跏趺坐(けっかふざ)

半跏趺坐(はんかふざ)

第16回「坐禅の条件 その4 手の組み方」

令和元年131日 更新

次に右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌(たなごころ)の上に安(あん)じ、両の大拇指面(おおぼしむか)いて相拄(あいささ)う


今回は坐禅中における「手の組み方」を学習していきます。前回同様、写真を用いながら解説させていただきます。


まず、「次に右の手を左の足の上に安じ」とあります。結跏趺坐(けっかふざ)もしくは半跏趺坐(はんかふざ)で足を組んだ上に、左記の写真1のように、まずは右の掌を上に向けて、静かに足の上に安置します。


次に「左の掌を右の掌の上に安じ」とあります。先の右手の上に左手を掌を上にして重ねるということですが、厳密に言えば、写真2のように右手の指の上に、左手の指が重なるような形になります。

右の掌を上に向けて

(写真1)

そして、「両の大拇指面(おおぼしむか)いて相拄(あいささ)う」ということですが、「拇」とは「親指」のことです。両手の指同士を重ねると、両方の親指が手持ち無沙汰のようになってしまいます。そこで、両親指を向かい合わせにして、くっつけます。軽く合わせる程度で構いません。

                         

すると、写真3のような円い形(円相【えんそう】)が出来上がります。この円相(坐禅中の手の置き方)を「法界定印(ほっかいじょういん)」と申しております。法界定印とは坐禅修行中の標印ということなのですが、以前、あるご老師が「道元禅師様も瑩山(けいざん)禅師様も法界定印という言葉を使っていない」とおっしゃっていたことをお聞きしたことがあります。確かにその通りなのですが、恐らくは、手の組み方を指し示す言葉として、いつの頃からか定着していったものではないかと考えられます。「「法界(ほっかい)」とは、「すべての世界」を意味しています。そして、「定印(じょういん)」とは、坐禅中の手で形作る“円相”のことです。


両指同士を重ねて(写真2)

“円相”が現すものは、この世の「すべての存在」です。お釈迦様は坐禅を通じて、自分とこの世に存在するあらゆるいのちは、円のように途切れずに、常につながっているということにお気づきになりました。35歳の12月8日の明け方です。それが「成道(じょうどう)」、お釈迦様のお悟りです。私たちは決して、一人で生かされているのではありません。自分とは異種の様々ないのちと関わり合い、支え合い、助け合って、生かされているというのが、この世の真実の姿です。

法界定印(ほっかいじょういん)(写真3)

上記のようなつながりを実感すると共に、この世の道理や真実を体感できる手の組み方なのです。

写真1

写真2

写真3

第17回「坐禅の条件 その5 坐禅中の姿勢」

令和25日 更新

乃(すなわ)ち正身端坐(しょうしんたんざ)して左に側(そばだ)ち右に傾き前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰(あお)ぐことを得(え)ざれ、耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要(よう)す


坐禅中の姿勢について、道元禅師様は「正身端坐(しょうしんたんざ)」であるとお示しになっていらっしゃいます。それは一体、どういう姿勢なのかというのが今回の内容です。


道元禅師様は正身端座について、「左に側そばだち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ」とお示しになっています。これは身体をまっすぐにして、前後左右に揺れ動かさないということです。


こうした姿勢は坐禅に限らず、たとえば冠婚葬祭の場であるとか、学校の入学式や卒業式、会社の入社式等の場面にも当てはまります。先日、中学校に進学した長女の入学式に行ったところ、終始、足を組んで、喋り続けているお父さんがいました。大切なお子さんの晴れ舞台に対する意識が低いように感じ、残念な気持ちになりました。何事もしっかりとした心構えで臨めば、自ずと姿勢も整っていくように思います。


とは言え、坐禅の場に目を向けると、正身端坐を維持する難しさを感じます。「結跏趺坐(けっかふざ)」もしくは「半跏趺坐(はんかふざ)」といった非日常的な姿勢で坐るのですから、確かに至難の業です。しかし、どんな至難の業でも、それを成し遂げるかどうかは、コツ(方法)を心得ているかどうかに関わっています。重い米俵を担げるのも力だけではなく、担ぎ方を心得ているからだというお話を聞いたことがあります。


ということで、「正身端坐」にもコツがあるはずです。それが、“膝”です。実際に坐蒲(ざふ)の上に坐ってみるとわかりますが、坐蒲の高さ(坐蒲屋さんのHPを見ると、だいたい15㎝程度)のために両膝が浮き上がります。膝が浮いていると、身体を支えることができません。とても「正身端坐」などできず、身体が前後左右に揺れてしまいます。


そこで、身体を支えるために、両膝を坐蒲の下に敷いてある座布団(座蒲団がないときは畳の上)にしっかりとつける必要性に迫られます。右の写真のように、両膝を地面につけることで、ちょうどカメラの三脚のように、地面上の膝と坐蒲上にあるお尻の三点で身体を支えることになります。両膝を地面につけるためには、坐蒲の中央に背骨が来るようにしなければなりません。すなわち、坐蒲に坐るときは、浅めに坐る必要があるということです。これで身体が安定してきます。


次に必要になってくるのが、背筋です。よく言われるのが、「頭の先で天を突くように」ということです。なるほど、やってみると、自然と背筋が伸びます。こうして「正身端坐」が成立するのです。



「正身端坐」のポイントは下記の3点です。

①両膝を地面(座蒲団もしくは畳の上)につけ、両膝・お尻の三点で身体を支える

②坐蒲に浅く坐る(坐蒲の中央に背骨が来るように坐る)

③頭で天を突くようにする(背筋が伸びる)


このとき、自分の耳と肩は横一直線上に並ぶ2点の座標のようになっているというのです。また、鼻と臍(おへそ)は縦一直線に並んでいるというのです。「調身」という姿勢を正すことは、まさにこうした状態を指します。そうした調身によって、我々の心も「調心」、穏やかで安らかな状態へと調っていくのです。 

第18回 「坐禅の条件 その6 目の置き所」

令和2年4月2日 更新

舌上(したうえ)の顎(あぎと)に掛けて唇歯相着(しんしあいつ)け、目は須(すべか)らく常に開くべし


姿勢が調ったら(正身端坐できたら)、できるだけ自然な呼吸を心がけるべく、口の中に空気が溜まらないようにします。「舌上したうえの顎(あぎと)に掛けて、唇歯相着しんしあいつけ」ということですから、舌をできるだけ動かさず、唇を閉じ、歯をくっつけるということです。こうして呼吸が調い、身心共々に坐禅に集中することができます。


次に目ですが、よく「坐禅中に目を閉じるのか?」という質問をいただきます。その答えは「NO」です。「目は須すべからくらく常に開くべし」とあることからもわかりますが、坐禅中には目は開いています。


では、なぜ「目を閉じるのか?」という疑問が涌いてくるのでしょうか―。それは坐禅をしている人を見ると、目を閉じているように見えるときがあるからです。


なぜ、そう見えるのでしょうか?その原因は、坐禅中の目の置き所にあります。目線をキョロキョロさせているようでは坐禅に集中できません。そこで、目線は「斜め下45°くらい」が適度であるに下ろすと指導させていただきます。そうなると、若干、下方に目線を置くわけですから、目は自然と半眼になっていきます。周りから見れば、目を閉じているように見えるのです。いたって当人は目を開けているのです。


正身端坐(しょうしんたんざ)という姿勢を維持するためには、呼吸や目線にも気を配り、作法に従っていくことが大切になってくるのです。

第19回 「坐禅の条件 その7 坐禅中の呼吸」

令和2年15日 更新

鼻息微(びそくかすか)に通じ、身相既(しんそうすで)に調え欠気一息(かんきいっそく)し


今回は坐禅中における呼吸についてのお示しです。調身(姿勢を調えること)によって、調心(心が落ち着き、穏やかになること)、調息(呼吸が落ち着き、特別に意識することなく呼吸がなされること)が実現できるわけですが、調息を考えていく上で、「欠気一息」という言葉に着目してみたいと思います。


‶欠〟は体の中の空気を吐き出すことです。身相既(しんそうすで)に調えたら(足を組み、手を組み、背筋を伸ばして姿勢を調えること)、一度、体の中の空気を静かに吐きだし、ゆったりと一呼吸しましょう。決して、坐禅中に呼吸に捉われることがないよう、呼吸に対して何か意識することなく、普段と変わらぬ呼吸をすることが「坐禅中の呼吸」であり、欠気一息は、そうした呼吸をもたらす上で欠かすことのできない所作なのです。そのことを抑えておきたいと思います。

第20回 「坐禅中の思考 ―“不思量底(ふしりょうてい)”を思量(しりょう)する―」

令和2年5月23日 更新

左右揺振(さゆうようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。


冒頭に「左右揺振(さゆうようしん)」とあります。これは坐蒲上に座っている身体を安定させるべく、身体を左右に揺らして、動かないようにさせていくことです。 道元禅師様が“兀兀(ごつごつ)として坐定”とおっしゃるくらいですから、身体をゆっくりと左右に揺らしつつ、「ここだ!」という一点を掴んだら、そこで心も身体を安定させ、どんなことがあっても動かさないということで捉えればよろしいかと思います。それは、〝確固たる決意〟という心構えであり、 “大山(たいざん)のごとく不動”という姿です。


呼吸が調い、心と身体が安定して、いよいよ坐禅の形ができあがったならば、「箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ」と道元禅師様はおっしゃいます。


「不思量」というのは、「思慮分別しないこと」を意味していますが、自分の頭を働かせて色々と考えごとをしないようにすることです。「底」は「~という」とか「~のような」というくらいに解釈しておきましょう。ということは、「不思量底」は「坐禅をしている最中は思慮分別を巡らすようなことをしない」ということになります。


しかし、我々人間は考えごとをする生き物です。生きているとはそういうことだとも言えるでしょう。ですから、頭の働きを停止させ、何も考えずに過ごすことは至難の業です。それなのに、「不思量底」という言葉からは、まるで道元禅師様が坐禅中は思考を停止させよとおっしゃっているようにも思えてしまいます。


実は道元禅師様は思考停止を求めているのではありません。生きているのだから、坐禅中であれ、何か考えてしまうのは当然です。ただ、「坐禅中はそうした湧き上がってくる思考に捉われないように」と―。それが道元禅師様のおっしゃる「不思量底」なのです。頭の中に浮かび上がる思考にいちいち立ち止まって、何かを考えてしまえば、ただ考え事をしているだけに過ぎず、身心が調わないばかりか、「安楽の法門」に入ることさえできないのです。あたかもハエを追い払うが如く、頭の中の考えを手放し、兀兀ごつごつと坐るのが「不思量底」の説くところなのです。


ここで押さえておくべきポイントは、自分ではなく、坐禅(仏法)に標準を合わせることです。自分と坐禅(仏法)を天秤にかけてみたとき、正しいのは自分ではなく、坐禅(仏法)の方であり、そちらに我が身を委ねていくということです。それが「参禅(さんぜん)」ということなのです。 

第21回「坐禅の要術(ようじゅつ) ―坐禅は“こころと身体の健康法”―」

令和2年11日 更新

不思量底如何(ふしりょうていいかん)が思量(しりょう)せん。非思量(ひしりょう)、此(こ)れ乃(すなわ)ち坐禅の要述(ようじゅつ)なり


第13回より「坐禅の条件(方法)」について、道元禅師様の見解(み教え)を読み味わってまいりました。作法の観点から見れば、坐禅には細やかな注意点があるものの、それらは実践で習得すべきものだと考えています。とにかく、坐禅は「やって、やって、やり続ける」ことが大切です。


坐禅会で坐禅指導をさせていただくことがございますが、色々な方丈様の指導方法を拝見しながら、指導者の生まれ育ってきた年代や考え方なども影響しているのでしょう、どこか作法を忠実に守り抜くことだけが強調された説明をなさる方丈様がいらっしゃいます。もちろん、作法は大切なのですが、そこだけに集中してしまうと、「坐禅の作法が体得できたから、もう、やらなくてもいい」というような解釈をしてしまい、継続的な坐禅だとか、日常生活に溶け込んだ坐禅というものにはつながっていかないような気がします。最初は作法に忠実であっても、次第に「安楽の法門」を通過できるよう、坐禅を「やって、やって、やり続け」ながら、我が身を禅の世界に委ねられるようになりたいと感じるのです。


そんな坐禅を行う上で、“最大のねらい”(要述)となるのが「非思量(ひしりょう)」』であると道元禅師様はおっしゃいます。これは、前回も出てまいりましたように、坐禅中に沸き起こってくる様々な考えに、いちいち捉われない」ということです。


坐禅というのは、決して、思考を停止させて行なうものではありません。思考が止まるのは、呼吸が止まるとき、すなわち、死ぬときであり、それが坐禅の目指すものではないことは明白です。ただ、頭の中に沸き起こる思考を放置しておけば、単なる“考え事”になりかねないのも確かです。ですから、思考が沸き起こってきたら、そこに止まらず、即座にそれを手放していく必要性が生じてくるわけで、次々と沸き起こる思考に捉われることなく、姿勢を正し、こころを調え、呼吸をしていくことだけを念じ続けていくのです。それが「非思量ひしりょうの坐禅」なのです。


こうした坐禅を毎日行ってみると、必然的に気づかされることが出てきます。それは、自分自身の日常生活を調えることの大切さです。普段から栄養バランスに配慮した健康な食生活を心がけ、暴飲暴食を謹むことで、体調を調えておくこと。また、自室等、自分の身の回りを常にきれいに整頓しておくこと。そうした日頃から自分自身(周囲の環境も含む)を整理整頓し、調えておくことを留意するのが、「安楽の坐禅」という、身心共々に充実した坐禅につながっていくのです。


日々の安楽の坐禅によって、自分の衣・食・住が調っていくとき、実は“坐禅は一つのこころと身体の健康法である”ことに気づかされます。近年、こころと身体の健康のために、職場の休憩時間に坐禅を行う企業があるとのことで、テレビで紹介されていましたが、この会社のように、日常生活の中で、ほんの10分ほどでもいいから、坐禅を取り組む人が増えていくことを願うばかりです。 

第22回 「道元禅師様の坐禅観―“坐禅は習禅に非ず、安楽の法門なり”―」

令和2年6月1日 更新

所謂(いわゆる)坐禅は習禅(しゅうぜん)には非ず、唯是安楽(ただこれあんらく)の法門(ほうもん)なり


「正法眼蔵隋聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」は、道元禅師様が修行者たちに折に触れてお示しになられたことを、弟子の弧雲懐弉(こうんえじょう)禅師様が筆録された祖録です。これを紐解いてみますと、「無所得無所悟(むしょとくむしょご)」という言葉が登場します。これは道元禅師様の坐禅観を示すみ教えの一つで、坐禅を行うに当たり、たとえば、人間性が磨かれるとか、集中力を高めていきたいといった、何か自分にいいことが起こるのを期待して坐禅に臨んでも、そんな期待は空しく裏切られるだけであるということを説いています。


このことは、実際に坐禅を“やって、やって、やり続けていく”うちに合点がいきます。そして、それは坐禅に限らず、万事に通ずることにも気づかされます。何事も自分の思い通りにはいかないものです。やる前から抱いていた淡い期待など、厳しい現実の壁を前に、簡単に裏切られてしまうという経験は、誰しもあるのではないでしょうか。そのことを道元禅師様は坐禅を通じて、お伝えしたかったのではないだろうか?―「無所得無所悟(むしょとくむしょご)の坐禅」という言葉に巡り合うたびに感じるのです。


そうした「坐禅はやる前から、是非等をあれこれ議論するものではない。坐りながら様々な発見がある。そして、気づけば、安楽の地にいる」というのが、「坐禅は習禅(しゅうぜん)に非ず、唯是安楽(ただこれあんらく)の法門なり」の意味するところです。この一句は「普勧坐禅儀」の中でも著名な代表的一句であり、「無所得無所悟」同様に、道元禅師様の坐禅観が端的に示された名句ではないかと思います。ちなみに「習禅」とは、坐禅の方法を習って体得することです。前回、作法の習得ばかりを説く坐禅指導のお話をさせていただきましたが、これぞ「習禅」の典型なのかもしれません。そんな「習禅」を道元禅師様は否定していらっしゃることを、ここで押さえておきたいものです。


もう一点押さえておきたいのは、お釈迦様始め道元禅師様や歴代の祖師方が修行し、今日までそっくりそのまま受け継いでこられた坐禅というのが、「安楽の法門」であったということです。姿勢・心・呼吸の三者を調え、やって、やって、やり続づける中で、気づけば安楽の世界に我が身があったのです。そして、そうした日常のご修行の力が、多くの悩める人々の救済にもつながっていったように思います。こうした「安楽の法門」たる坐禅は、無限の可能性を秘めていることを改めて感じるのです。

第23回 「公案現成(こうあんげんじょう) ―物事をありのままに見る視点の養成―」

令和2年6月22日 更新

公案現成(こうあんげんじょう)、羅篭未(らろういま)だ至らず


「安楽の法門」たる坐禅には、様々な可能性が秘められています。それは、坐禅を「やって、やって、やり続けていく」中で、体得できると考えています。


そうした坐禅を通じて出会うご縁の中で、今回は「人心の救済」について、道元禅師様の「公案現成(物事をありのままに見る)」という観点から学ばせていただきたいと思います。


人心を救済していく上で、救う側の私見(自分に好都合な考え方・やり方)が強すぎれば、苦悩する相手を救うことができなくなることを押さえておきたいものです。なぜなら、私見を優先すれば、相手の声に耳を傾けることができなくなり、気がつけば、自分が考える最善策を押し付けてしまっているからです。それでは、中々、人を救うことはできません。


では、どうすれば、人心を救済できるのでしょうか。大切なことは、眼前の存在をありのままに見て、必要に応じて救いの眼差しを施していく姿勢を持つことです。すなわち、自分の眼前に広がる世界に対して、私見を排して、ただ現実の通りに、ありのままを見渡し、その奥底まで深く見通すことです。そうすることによって、相手が発する願いや声なき声が聞こえてくるのです。それを説いているのが、「公案現成(こうあんげんじょう)」です。「公案」とは、私情を交えぬ絶対的な仏祖のみ教えを意味しています。そして、全てが包み隠さず、ありのままに出現していることを意味しているのが「現成」です。すなわち、「公案現成」とは、目の前に顕れている物事に対して、一切、私見を交えずに、素直にそのまま受け止めていくことなのです。


そのことを、譬えを用いて言い表しているのが、「羅籠(らろう)未だ至らず」です。羅はあみ、篭はかごのことです。鳥があみに掛かり、篭の中でもがき苦しむような様子を想像していただければよろしいかと思いますが、それは、あたかも自分の考えなどに執着し、物事を柔輭に考えられなくなるような、不自由な状態を指しています。言わば、自分の視点・思想に捉われることは、自分自身を苦悩させるということなのです。


現成している存在のままにものごとを受け止めることで、真実に気づき、視野が拡がっていきます。そして、それが人心の救済へとつながっていきます。これもまた、坐禅の力であり、坐禅が秘める様々な可能性の一つなのです。

第24回 「正伝の坐禅によって ―龍のごとく、トラのごとし―」

令和2年6月2日 更新

若(も)し此の意を得ば龍の水を得るが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。当に知るべし正法自(おの)ずから現前して、昏散先(こんさんま)づ撲落(ぼくらく)することを。


「坐禅は習禅(しゅうぜん)には非ず、唯是安楽(ただこれあんらく)の法門なり。公案現成(こうあんげんじょう)、羅籠未(らろういま)だ至らず」

【意訳】坐禅は方法や技術を習得しながら行うものではなく、ただ坐ることで、我が身心が調っていく行いであり、全ては自分たちの眼前にありのままに姿を現している。


この前段の一句は普勧坐禅儀の中でも道元禅師様の思想が色濃く表現されている中心的な一句だと思います。それを受けて、今回の一句が示されていると解すべきでしょう。まず、「若し此の意を得ば」ということですから、先に申し上げました前段の内容を指しながら、「もしも、これを理解・体得できたならば」というくらいに解釈すればよろしいかと思います。


“此の意”を得たら、どうなるのでしょうか。道元禅師様は「正法自ずから現前して、昏散先づ撲落することを」とお示しになっています。「正法自ずから現前」とは、「公案現成」のことで、この世の真理・道理は既に我々の眼前に現れているということです。「昏散」とは心が乱れて活気のない状態であり、「撲落」は自分の身心を束縛する存在から解放され、自由になった状態のことで、まさに「羅籠未だ至らず」の状態です。


さらに、“此の意”を読み味わっていくならば、お釈迦様や道元様・瑩山様が行じ伝えてきた“ホンモノの坐禅(正伝の坐禅)”が我々に指し示すものと捉えることもできるでしょう。「正伝の坐禅」は、道元禅師様のお言葉をお借りするならば、「無所得無所悟(むしょとくむしょご)の坐禅」ということです。これは、坐禅をしても、何も得るところもなければ悟るところもない、すなわち、坐禅を行う前からあれこれ期待を抱いて臨んでも、自分の思い通りにはならないということです。余計な期待を持ち込むことなく、ただ、坐ることに我が身を委ねれば、自ずと安楽の法門を潜っているのです。


そうした「正伝の坐禅」が身につけば、我が身心が何物にも捉われない自由な状態になるというのです。それをあたかも水を得て生き生きと動き出す龍のようであり、広い大自然の中を自由に走り回るトラのようなものなのであると道元禅師様はお示しになっています。すなわち、お釈迦様から代々伝わる坐禅に、できるだけ私見を交えずに接していくことで、私たちは水を得た龍や山を駆け回る虎のように、何にも捉われず、心安らかな状態が実現できるということなのです。

第25回 「卒暴なるべからず ―“安楽の日常生活”を目指して―」

令和2年日 更新

若(も)し坐より起(た)たば徐徐(じょじょ)として身を動かし安祥(あんしょう)として起(た)つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず


今回は坐禅が終わってからの注意点が示されています。


毎夏、曹洞宗石川県青年会が主催となり、2日間の日程で「子ども禅のつどい」が開催されます。これまで青年会員の一員として、携わらせていただき、幾度か坐禅指導の場もいただきました。毎年、参加するお子様もいれば、初めて参加するお子様もいらっしゃいます。しかし、坐禅の経験があろうがなかろうが、その技術に上手い・下手があるわけではありません。どの子どもたちも普段は学校に通い、習い事に勤しむなどの日常生活を送っており、坐禅をする機会はあまりないと思われます。ですから、経験者でも初体験のような感覚で臨んでいるのではないかという気がします。


そんな子どもたちが一定時間の坐禅を終えると、これまでの足の痛みや、じっと動かずにいたことの苦痛など、どちらかと言えば苦しみから解放されたような気分になるのでしょう、ついつい声をあげたり、伸び上がったりしてしまいます。これは致し方ないことなのでしょうが、道元禅師様は「卒暴(大声を出したり、激しく身体を動かしたりすること)なかるべからず」とおっしゃって、注意を喚起します。坐禅は坐禅堂に入って、坐禅を組んでから、お堂を出るまでの全てが修行です。ですから、坐禅が終わったからと言って、気が抜けて、声を出したりするのではなく、「徐徐として身を動かし、安祥として起つべし」とありますように、ゆっくりと身体を動かし、静かに立ち上がるようにと道元禅師様はおっしゃっているのです。


この一句を通じて、道元禅師様がお示しになっているのは、「坐禅をしている周囲の人々に配慮するということ」です。「徐徐として身を動かし」とか、「卒暴なるべからず」といった、周囲のいのちに気を配りながら、迷惑をかけないような立ち振る舞いであるとか、その場に相応しい言動が求められるということです。


こうした周囲への配慮・気配りというのは、道元禅師様が常日頃からお示しになっていることです。たとえば、「典座教訓(てんぞきょうくん)」では、修行僧の食事作りを司る典座(てんぞ)の仕事を、坐禅と同じ仏道修行という次元にまで高めて捉えると共に、修行僧が身心共々に健康に仏道修行に励むことのできる食事作りを施す上でのみ教え等が説かれています。また、「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」では、そうやって典座がこしらえた食事を、仏道修行としての観点からいただく上で、留意すべき作法等が示されています。これらの経典を通じて、周囲で食事をいただいている方々に配慮した食事作法や食器の扱い方が示されているのです。坐禅であれ、食事であれ、そこには必ず誰かがいます。そうした全てのいのちに配慮し、皆が気持ちよく過せるように取り計らっていくことが、禅の修行なのです。自分だけが悟りを得られればいい、救われればいいというものではありません。


これは仏道修行の世界だけに限ったことではありません。私たちの日常生活全般に通じることです。新型コロナウイルスが騒がれ始めた2月の終わり頃、ある会合で、マスクをつけている参加者を見て、「騒ぎすぎではないか。」とおっしゃった方がいらっしゃいました。ご自身はマスクをつけていらっしゃいませんでしたが、マスクをするのは感染拡大防止だけが理由ではありません。周囲の人々に不安を与えないようにするための配慮でもあるのです。どうか坐禅を通じて、お互いに周囲のいのちとの関わりを意識しながら、周囲に気を配っていくことを心がけていきたいものです。それが「安楽の日常生活」の実現へとつながっていくのです・


毎夏の「子ども禅のつどい」は、残念ながら、令和2年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、お休みとなります。坐禅を通じての子どもたちとの関わりの中で、毎年、考えさせられることや反省させていただくことが多々ありますが、坐禅に触れあうことができる機会として、これからもご縁のある限り、関わっていけたらと思っています。

第26回 「坐禅のチ・カ・ラ」

令和2年7月13日 更新

嘗(かつ)て観(み)る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も此(こ)の力(ちから)に一任(いちにん)することを


「お坊さんは幽霊を見たことがありますか。」

「お坊さんは幽体離脱ができますか。」

「私の将来を占ってもらえませんか。」


一般の方から、上記のような質問をいただくことがあります。しかし、僧侶というのは、霊能力者や占い師のような何か特別の力を有した存在ではありません。お釈迦様から伝わる法を世の人々にお伝えする(下化衆生【げけしゅじょう】)と共に、自ら法を実践し、仏に近づく(上求菩提【じょうぐぼだい】)ことを役目としている人間なのです。ですから、幽霊を見たり、幽体離脱したりすることができるはずがありません。


「成仏(じょうぶつ】」という言葉があります。正しくは「成仏得道(じょうぶつとくどう)」と申しますが、一般的には死後の世界のことと捉えられていますが、死後のことというよりむしろ、生きている私たちの“生きる課題”であり、私たちが仏のみ教えに従って日々を過ごし、仏に近づく(成る)ことを意味しています。


そうした私たちの成仏に対して、我が曹洞宗の開祖・道元禅師様がお勧めになっているのが「坐禅」なのですが、かつての坐禅修行者の中には、坐禅を続けていく中で「超凡越聖」とか、「坐脱立亡」といった事例が数多存在していたと道元禅師様はおっしゃっています。そうした事例が、先にも申し上げましたような、僧侶が不思議な力を有する存在という解釈にもつながっていくのでしょう。「超凡越聖」とは、凡夫だったものが、聖なる存在(悟りを得た仏様)の位に入ることです。それは、“凡と聖”といった、相反する概念のいずれかを取捨選択するようなことがなくなり、双方の価値を認め、受け入れる力を有することができるようになることを意味しています。「坐脱立亡」は坐禅をしながら、あるいは、立ったままの状態で亡くなる(涅槃に入る)ことを意味しています。坐禅による悟りの体得ということでしょう。


「超凡越聖」や「坐脱立亡」が指し示すのは、坐禅が有する「不思議な力」です。それらは言葉では言い尽くすのは難しいですが、坐禅によって私たちの身心が調っていく過程において、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が磨かれ、不思議な力を発するようになっていくということなのです。

第27回「坐禅とハラスメント」

令和2年7月1日 更新

況(いわ)んや復(ま)た、指竿針鎚(しかんしんつい)を拈ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(きょ)するの証契(しょうかい)も未(いま)だ是(こ)れ思量分別(しりょうふんべつ)の能(よ)く解(げ)する所(ところ)にあらず


昨今は人権思想が浸透し、お互いの人格を否定するような言動を慎む動きが常識化しつつあります。教育現場における体罰や企業における労働者の不当解雇は勿論のこと、「パワーハラスメント」を始めとする、各種ハラスメントの防止に向けた対策は年々、進んでいます。


そうした「ハラスメント防止」が叫ばれる時代の中に生かされている私たちが、一度、立ち止まって、「ハラスメント」について考えてみる機会となるのが今回の一句です。「指竿針鎚」、「払拳棒喝」という言葉が登場しています。いずれも師家しけ(僧侶の先生)が修行僧や学人を、悟りの世界に教え導きいれるための転機(はたらきや方法・手段)を意味する言葉です。「指竿針鎚」は教師が授業中に指示棒を用いて、板書の内容を生徒たちに説明するように、師家が自分の指なり、竿や針、鎚といった道具を使って、修行僧を指導教化していくことです。「払拳棒喝」は、学人が払子(ほっす)(法要時に導師が手にする猛毛などを束ね、柄をつけた仏具)や拳、棒、喝(殴ったり怒鳴ったりして指導すること)を用いて、修行僧を指導教化することです。こうした指導も思量分別(我々の思いや考え)では十分に説明し尽くすことができず、まさに“不思議な力”を有したものであると道元禅師様はおっしゃっています。


こうした「指竿針鎚」や「払拳棒喝」に対して、不思議な力を有するという解釈以前に、行為そのものに疑念を覚える方も多いのではないかという気がしますが、道元禅師様はハラスメント行為そのものの是非を説いていらっしゃるのではありません。表面的にはハラスメント行為に見えるかもしれないような言動でも、その背景に存在している仏法に着眼なさっていらっしゃるのです。


道元禅師様がお弟子様方にお話になったことを高弟・弧雲懐弉(こうんえじょう)禅師様が筆録された「正法眼蔵随聞記しょうぼうげんぞうずいもんき」を紐解いてみると、道元禅師様のお師匠様である天童如浄(てんどうにょじょう)禅師様に関するエピソードが記されています。それによると、如浄禅師様は夜中の2時や3時から夜の11時頃まで修行僧たちと共に坐禅三昧の日々を過ごしていらっしゃったそうです。まさにビックリするようなお話ですが、当然ながら、これだけの長時間、睡眠時間もほとんどない状態で坐禅三昧の修行をしていると、修行僧の中には襲い来る眠気に負けて、坐禅を組んだまま眠ってしまう者もいました。そんな修行僧に対して、如浄禅師様はあるときは拳で、また、あるときはご自分のスリッパで殴りつけて、叩き起こしていたというのです。現代的視点からいけば、パワハラとも取れる言動にも思えますが、そう捉える前に、如浄禅師様が修行僧たちに語った思いに触れておきましょう。


「国を治める役人、田畑を耕す庶民が休む間もなく苦労しながら、一体、どれだけ身を粉にして働いているか。そうした苦労から逃れて、出家したにも関わらず、修行を怠って、眠りこけているのは愚かなことである。」


ハッとさせられるお言葉です。ここには如浄禅師様の坐禅に対する深い帰依が感じられます。それは坐禅こそが自分たちと仏様との絆を深めていく上で欠かせない行いであるという確固たる信心です。如浄禅師様は、そんな坐禅を存分にできる出家という身にありながら、徒に眠りこけて時を過ごすのは、まるで国王が政治を怠り、庶民が働かないのと同じ愚かで恥ずべきことであるとお考えになっています。だからこそ、自らも修行僧と共に坐り、眠る者を殴ってまでも、坐禅を行じさせたのです。そんな如浄禅師様の拳には少しでも仏道との絆を深めてほしいという願いと、修行僧への深い愛情が存在しています。まさに「愛のムチ」です。そして、そんな如浄禅師様の厳しい愛のムチに込められた思いは修行僧たちに伝わり、一生懸命、坐禅修行に励んだというのです。


このエピソードが我々に指し示しているのは、相手を思いやり、その成長を切に願う上での厳しさは、必ずや相手に伝わり、指導者も教え子も共に成長していくということです。このことはハラスメント防止が叫ばれる現代において、よくよく考えておかなくてはならない視点であるように思います。感情が赴くままに言葉を発したり、行動を提示したりするから、ハラスメントになるのです。そこでは「叱責された」とか、「痛い目に遭った」といった痛みだけが残り、指導者も教え子も救われないばかりか、成長もありません。逆に、表面的な温かい言葉や穏やかな言動だけでは、誰も成長しません。温かいか冷たいかといった、両極端な言葉や行いのやり取りに終始していては、救いも成長もあり得ないということなのです。


とにかく人と関わる中で、お互いが救われ、成長できることを願い、言葉や行いをやり取りしていきたいものです。そうした姿勢からにじみ出てきたものが道元禅師様のおっしゃる「指竿針鎚」や「払拳棒喝」であり、そこには仏法が存在しているのです。

第28回「物事の本質を捉える」

令和2年7月24日 更新

豈(あ)に神通修証(じんつうしゅしょう)の能(よ)く知る所とせんや。声色(しょうしき)の外(そと)の威儀(いいぎ)たるべし。那(なん)ぞ知見(ちけん)の前(さき)の軌則(きそく)に非(あら)ざる者(もの)ならんや


前回、道元禅師様の師・天童如浄(てんどうにょじょう)禅師様のエピソードをご紹介させていただきました。それは一日のほとんどを坐禅三昧で過ごし、眠りこける修行僧は拳やスリッパで打つなどして、眠りから目覚めさせ、坐禅に集中させるという厳しい修行でした。これは現代の目から見れば、“パワハラ”と捉える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、その行為の背景にある如浄禅師様の御心に触れてみると、自身の仏道修行者としての自覚に欠けていたことに気づかされ、パワハラと断じ切るのが難しくなるような気がいたします。


暴力や暴言に対する世間の目は厳しくなっていますが、それは、相手を思いやることなく、自分の感情の赴くままに、そうした行為を発していることが一つの原因になっているように思います。もちろん、暴力や暴言は肯定できませんが、その是非を問うならば、そうした“悪しき行いとされているもの”の背景に存在するものにも目を向けながら、物事を多面的に捉えていかなくてはならないと思います。そうやって考えていくと、物事の是非というのは、そう簡単に断じられるものではないことに気づかされます。ある一定の範囲までは是非で判断できても、それを超えて、さらに「本質」に迫ってみると、是非で判断すること自体、妥当かどうかが疑わしくなってくるような気がします。


そのことを踏まえ、今回の一句を味わってみましょう。お釈迦様から脈々と伝わる坐禅修行に意義や価値を見出し、自分たちの宗派の根幹に据え置く道元禅師様にとって、「日々の坐禅修行の積み重ね」が私たちの人生に奥行と幅をもたらし、深みを与えていくとお示しになっています。「神通修証の能く知る所とする」というのは、坐禅を神通(簡単に計り知ることのできない不思議な力)や修証(悟り)だけで限定的に解釈すべきものではなく、様々な捉われから脱した自由無碍な捉え方をすべきであるということです。「声色の外の威儀たるべし」や「知見の前の軌則」が意味するのはそうした状態です。


ともすれば、私たちは是非を判断する過程で、自分の六根(ろっこん)(眼・耳・鼻・舌・身体・心)で捉えるもの(六境【ろっきょう】)だけで全てを判断してしまいがちです。それが「知見」ということなのですが、本当はそこで止まらず、その先にある本質に迫る捉え方をすべきなのです。それが「知見の前の軌則」の意味するところです。物事の本質は私たちの六根で体得できる範囲をはるかに超えたところに存在していています。そのことを押さえ、簡単に是非や白黒を決めつけないようにしていくことを、坐禅のみ教えから体得していきたいものです。

第29回「坐禅と人権 ―上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ばず―」

令和2年7月31日 更新

然(しか)れば則ち上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶこと莫(なか)れ。専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是(こ)れ弁道なり


物事の本質というのは、表面に顕れている情報だけでは判断したり、見抜いたりできるものではありません。それは万事に当てはまります。自分の目や耳に映るものだけに捉われ、それが正しく絶対なのだと思っているようではいけません。周囲の状況を広く見渡し、あらゆる存在の声なき声にまでにもしっかりと耳を傾けながら、総合的に判断していくことで、本質が見えてくるようになるのです。


ソフトボール部に所属する二人の中学生の少女がいました。自尊感情が低いがために、自分に自信を持てず、中々、技術が上達していかない先輩(2年生)と、何事にも前向きで、積極的に取り組み、もはや先輩も追い越しそうな勢いの後輩(1年生)。それに対して、周囲は上達の早い後輩の少女をついつい誉めて、盛り上げようとしました。それは後輩の少女に対する対応だけを考えれば、何の問題もないように見受けられますが、そんな場面を目の当たりにしている先輩の少女は、後輩と比較されることに傷つき、どんどん自信を失い、自尊感情がさらに低くなっていったのです。その感情が暴言等の問題行動となって先輩少女からにじみ出てきたとき、周囲の大人はハッと気づきました。後輩少女を誉めることが、先輩少女を傷つけていたことに。大人たちは2人の少女に対して、どんな対応がベストなのかを考え、先輩の少女に自信を持ってソフトボールに取り組むことで、積極的に生きる力を身につけさせたいと願うと共に、後輩の少女を先輩の少女が見ている前で過剰に誉めるのではなく、ごく普通に認めつつ、双方の努力を認め、いいところ探しをするようにしたのです。


その結果がどうなっていくのかは、これからのハッキリしてくるのでしょうが、少女たちの周囲の大人がハッとしたのは、自分たちが今回の一句において道元禅師様が否定しているような「上智下愚を論じ、利人鈍者を選んでいた」ことに気づかされたからです。大人たちは決して、二人の少女を差別する気がありませんでした。しかし、いつしか、プラス思考でどんどん成長していく後輩少女の表面的な情報ばかりに目を奪われ、そこに価値を見出すようになっていたのです。そのために知らず知らずのうちに先輩少女の努力を認めず、苦悩にも気づかなくなっていたのです。


大切なことは「弁道功夫」することであると道元禅師様はおっしゃっています。弁道も功夫も、ひたすらに仏道修行に励むことを意味しています。これは坐禅(仏道)の世界は、賢いも愚かも鈍いも、そうした表面的な個人の特徴など、一切、問題としないことの表明です。いろんな存在があっていいのです。その一人一人が、ひたすらに仏道修行に邁進しているかどうかが大切であり、個々の“精進”が重要視される世界なのです。


仕事の処理能力だとか、他者とのコミュニケーション能力といった、見た目に分かりやすいものだけで人を判断しているような組織では、組織の中で不要とされた人は、弱者として排除され、強者だけが残っていくという、差別的な組織になっていくでしょう。それでは組織の中の全ての人が自分の能力をいかんなく発揮することなどできません。一人一人が異なった能力を持っています。よい組織はそのことを熟知していて、個々の能力を伸ばそうとします。それは「上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ばない組織」です。そこでは組織に属するものの得意分野が発揮できるようなシステムが作られ、働くことに喜びを感じ、組織運営への貢献が実感できるのです。どうか、個人個人の本質を見抜き、表面的な能力だけで差別的な対応をしないような周囲との関わりを、道元禅師様の坐禅のみ教えを通じて、体得していきたいものです。

第30回「分別からの自由 ―故・板橋興宗禅師様のみ教え―」

令和2年日 更新

修証自(しゅしょうおの)ずから染汚(ぜんな)せず、趣向更(しゅこうさら)に是れ平常(びょうじょう)なるものなり


―令和2年7月5日―

福井県・武生市にある御誕生寺(ごたんじょうじ)のご住職で、大本山總持寺(横浜市鶴見区)の元貫主・板橋興宗(いたばしこうしゅう)禅師様が93歳にてご遷化(せんげ)、お亡くなりになりました。まさに曹洞宗門を代表する禅僧のお一人である板橋禅師様の元で、今から18年前の2002年(平成14年)、当時、駆け出しの修行僧であった私は、「行者(あんじゃ)(老師の付き人)」というお役をいただき、修行させていただきました。ほんの3か月間という短い期間でしたが、禅師様からは実に多くのことを教えていただきました。行者として、どういう心構えで老師に接すればいいのか、どんなことに留意し、何に注意を払いながら過ごすことが求められるか、禅師様から学ばせていただいたことは数知れず、そのみ教えが、今も私の中に息づいています。


今回は、そんな板橋禅師様から教えていただいた「坐禅に関するみ教え」をご紹介させていただきたいと思います。それは坐禅中に考え事をしてもいいかどうかに対する、禅師様のお言葉で、坐禅について、長年、解決の糸口がつかめぬままでいた私の疑問を見事に解決させてくださったみ教えでもあります。


坐禅に励む者の頭の中は、「心意識しんいしきの運転を停やめ、念想観(ねんそうかん)の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ること莫なかれ。」と道元禅師様がおっしゃるように、決して、思考が止まっているわけではありません。当人は生きているわけですから、頭の中には様々な思考が沸き起こっています。そのこと自体、問題視する必要はないのですが、頭の中に沸き起こってくる思想を気にして、そこで立ち止まるようなことがないようにすることを意識しておきたいものです。それは「自然のままに任せる」ということで、思考を強引に停止させようとするのではなく、沸き起こるがままにして、我が身を委ねていくということです。


ですから、坐禅中に頭の中を空っぽにして、何も考えないようにする必要はないのです。そうした状態を世間一般に「無になる」と表現することが多いようで、18年前の私自身、「無になる」ということに気を取られ、必死になって、毎朝の坐禅の際には思考を停止させようとしていました。しかし、中々、思考を止めることができず、どうすればいいのか、随分と悩んだことが思い出されます。


そうした悩みを抱えたまま、ご本山での修行を終えて、数年経ったある日、板橋禅師様のご講話を拝聴させていただく機会がございました。その際に、板橋禅師様に私同様の疑問を抱えながら、坐禅をしているという方がいらっしゃって、「どうすれば坐禅中に無になれるのか、何も考えずに過せるのか。」という質問をなさいました。


すると、板橋禅師様はにっこりと微笑みながら、「坐禅中に何も考えないということはあり得ません。人間が思考を停止するのは、死んだときです。生きているうちは、頭の中に沸き起こってくるものは、沸き起こってくるがままに、自然に任せておけばいい。」禅師様の口調は穏やかながらも、長年に渡り、坐禅と共に生きてこられた方が醸し出す力強さが感じられました。このときに私が体験した「長い長いトンネルから抜け出し、眼下に明るく広大な景色が広がっているのを目の当たりにしたような感覚」は生涯忘れることができません。これが長年抱えていた疑問が解決する瞬間なのでしょう。そして、こういう感覚が「悟り」なのかもしれません。


「無」に対して、「有」という概念があるように、「是と非」だとか、「善と悪」といった対立概念は我々の周囲に数多存在します。私たちは、そうした対立概念について、そのいずれか一方だけに価値を認めてしまうから、偏った捉え方をすることになるのです。ところが、それでは、物事の本質になど、気づけるはずがありません。上記のお話は、“無”に捉われるがあまり、道元禅師様がお示しになっている坐禅の本質に気づかぬままでいた者が、板橋禅師様から、その本質を教えていただいたということなのです。


今回の一句に「染汚」という言葉が使われております。これは、個人的見解で分別したものに対して、どちらか一方に捉われるような、偏った関わり方を意味するものです。「修証(身を修めることと悟りを得ること)の分別なきところの趣向(行先)は、平常である。」と道元禅師様はおっしゃっています。分別から自由になった先には、平常(私たちの日常)があるというのです。すなわち、悟りは決して、非日常的な特別のことではなく、我々の日常の中で、坐禅をやって、やって、やり続けていく中に、いつしか姿を現すときがやって来ると道元禅師様はおっしゃっているのです。


本質を見失わせ、真実から遠ざかってしまう分別の捉え方を慎み、万事に価値を見出すようなものの見方・考え方を、坐禅を通じて、体得していきたいものです。

第31回「家風を信じて」

令和2年8月11日 更新

凡(およ)そ夫(そ)れ自界他方(じかいたほう)、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印(ぶっちん)を持し、一(もっぱ)ら宗風(しゅうふう)を擅(ほしいまま)にす。唯打坐(ただたざ)を務めて兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂(い)うと雖(いえど)も、祇管(しかん)に参禅弁道すべし。何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛却(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境(じんきょう)に去来(きょらい)せん。


仏教は今から約2600年前、インドの国で、お釈迦様が坐禅を通じてお悟りを得たことによって生まれました。その後、達磨大師(だるまだいし)様によって、インドから中国に伝わり、日本へと伝わりました。そして、今や、仏教は、欧米諸国にも広まっております。そんな仏教と共に、坐禅もインドから中国、日本へと伝わり、欧米諸国にまで広がりました。


こうして自界他方(自分の世界とそれ以外の世界)、西天東地(インド・中国)へと伝わってきた仏教も坐禅も「等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす」と道元禅師様がおっしゃるように、共通に「ほとけのしるし」を擅(占有)してきたものであります。道元禅師様が「一」を“もっぱら”と読んでいらっしゃることに奥深さを感じます。そもそも、「一」には、“もっぱら”という意味があるのですが、一般的な“ひとつ”という意味も加えて味わっていくと、自界他方・西天東地、各所に伝わる仏法が同一のものであることが、強調されているように思えてくるのです。これは修証義の言葉を使えば、「単伝(たんでん)」ということなのでしょうが、たとえ、この先、場所が変わっても、コップの水を別のコップにそのまま移すが如く、変わることなく伝わっていくということです。


ちなみに、「宗風」とは、「一宗の家風」ということですから、我が宗門が釈尊から伝わるみ教えとして、大切にしている坐禅のことを指しているのは言うまでもありません。そこでは、日常生活の中で起こるものをあれこれ持ち込まず、自然のままに、為すがままに我が身を坐禅に委ねること(坐禅に帰依すること)が大切です。「兀地に礙えらる」とあります。宗風の坐禅は、まるで大山のごとく不動で、動かない修行であり、そんな坐禅が単伝され、宗風となったのです。


自界他方、西天東地、どこを見ても千差万別というように、様々ないのちが生かされているがゆえに、様々な出来事が起こります。お釈迦様が「衆縁和合(しゅうえんわごう)」とおっしゃったように、全てのいのちが関わり合い、つながり合って生かされていますので、我々は自分たちの周囲で起こる出来事の影響を多かれ少なかれ受けることになります。しかし、どんな出来事が起ころうとも、お釈迦様から脈々と伝わる「坐禅の家風」を受け継ぐ者ならば、ただひたすらに坐禅を行じていけばいいのです。それが「万別千差と謂うと雖も、衹管に参禅弁道すべし」の意味するところです。


そして、「自家の坐牀を抛却して、謾に他国の塵境に去来せん。」とあります。自分の生まれた故郷を離れ、他国で暮らすようなことをしなくてもよいということですが、これは他に道を求めなくてもよいということです。お釈迦様と出会い、坐禅とのご縁をいただいたのならば、その家風を信じ、我が身を委ねていけばいいのです。なぜならば、坐禅という家風が今日まで伝わっているのは、ひとえに正しかったからに他ならないからです。邪道だったならば、坐禅の歴史は早々に途切れていたことでしょう。自界他方・西天東地に広まることもなかったはずです。これまでの長い歴史の中で、多くの人が信じ、救われてきた道だったことを長い歴史が証明しています。どうか他家の門を叩いて、教えを請うようなマネをすることなく、自分たちの家風を信じ、坐禅によって身心を調えながら、少しでも仏に近づいていきたいものです。

第32回「光陰虚しく渡ること莫れ!―“いただいた時間”を大切に過ごす―」

令和2年8月1日 更新

若(も)し一歩を錯(あやま)れば、当面に蹉過(しゃか)す。既に人身(にんしん)の機要(きよう)を得たり、虚しく光陰(こういん)を度(わた)ること莫(なか)れ。


お釈迦様と出逢い、坐禅とのご縁をいただいたのならば、一もっぱら、その家風を信じて、我が身を委ねていけばよい」というのが前回のお示しでした。


お釈迦様を始めとする仏教の祖師方は、悟りを得るまでの間、幾多の困難に遭遇して悩んだり苦しんだりしながらも、坐禅の道を歩み続け、悟りに到達なさいました。そんな悟りへの道は、私たちにも開かれているのですが、もし、その一歩を間違うとどうなるのでしょうか。それは、言ってみれば、自分たちの勝手な思い込みや判断で、お釈迦様の指し示したガイドブックにない道を進んでしまうということなのですが、当然、その後はタイミングを失するなどして、誤った方向に進んでいくことになるでしょう。「蹉過」とあるのは、好機を逸することを意味しています。悟りを得た祖師方は、一歩を誤ることなく、師のみ教えに従って毎日を過ごしてこられたからこそ、タイミングを逃すことなく、悟りを得ることができた方々なのです。


それと同じように、私たちもお釈迦様が指し示したガイドブックに従って毎日を過ごしていけば、たとえ正道から外れて、邪道に向かうようなことが起こっても、修正しながら、悟りという目標にたどり着くことができるのです。それが「既に人身の機要(最も重要な所)を得たり」の説くところです。


今の自分たちの日常を振り返ってみたとき、もし、何かしらの苦悩を感じるようならば、即座にお釈迦様のみ教えを参考にして、軌道修正していきたいものです。私たちがこの人間世界でいただいている時間は無限ではありません。誰しも平等に与えられているのは、“1分=60秒、一日=24時間”だけです。そんな限られた時間は有効に活用すべきなのです。お釈迦様が「昼は勤心(ごんしん)に善法(ぜんぽう)を修習(しゅじゅう)すべし」とお示しになりましたが(仏遺教経)、常に自分自身の生き方と向き合いながら、修正すべき点は、面倒くさからずに、修正していく習慣を持ちたいものです。


道元禅師様は中国の石頭希遷(せきとうきせん)禅師様の「光陰虚しく度ること莫れ」というみ教えを引用なさっています。「限りある時間を大切にして修行に励もう」ということです。これは、一般人の日常生活にも十分に当てはまります。道元禅師様が石頭希遷禅師様のみ教えを通じて、私たちが限りあるいのちを大切にし、有効活用することの重要性を強く訴えていることを、今一度、再認識し、いただいた時間を大切に過ごしていきたいものです。

第33回「時間を大切に、毎日を大切に」

令和2年8月21日 更新

仏道の要機(ようき)を保任(ほにん)す。誰か浪(みだ)りに石火(せっか)を楽しまん。加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は草露(そうろ)の如く、運命は電光に似たり。倏忽(しゅくこつ)として便(すなわ)ち空じ、須臾(しゅゆ)に即ち失す


私たち人間は、時間という存在と関わっていかなくてはなりません。生まれたいのちは成長していきますが、やがては老い、病気を抱え、死を迎えていきます。それが「諸行無常」ということなのですが、頭で理解するのはたやすくとも、それを我が事として受け止めていくのは、難しいです。しかし、それでも「諸行無常」という道理をしっかりと受け止められるようになることが大切です。なぜならば、「諸行無常」が体得できれば、人生が充実していくからです。そうやって仏のみ教えと共に生きることは、人生の長短に関係なく、人生が豊かになっていきます。そのことを確実に押さえ、お釈迦様のみ教えに従い、「昼は勤心に善法を修習する」ことを願うのです。


そうした仏のみ教えと共に毎日を過ごすことを、道元禅師様は「仏道の要機を保任す」とおっしゃっています。「要機」というのは、「最も肝要なこと」であり、保任とは、我が事として大切にしていくことを意味しています。「持戒」というのが、戒(お釈迦様のみ教え)を大切に持ち続けていくことを意味していますが、「仏道の要機を保任する」というのは、持戒と同じものと捉えていけばよろしいかと思います。


とにかく道元禅師様が今回の一句はじめ、私たちに言葉を重ねてお伝えしようとしているのは、私たちがいつ、どうなるかわからない「諸行無常なるいのち」を生かされているということです。「石火電光」とは、そのことを、譬えを用いて表現したものです。稲妻や石を打ったときに火花が飛び散るように、ほんの一瞬で消えてしまう可能性を秘めたいのちを私たちは生かされているのです。「形質は草露の如く、運命は電光に似たり」というのも同じことを説いています。


こうした諸行無常という道理が現前しているにもかかわらず、私たち自身始め、多くの人が、そんな自覚なく「明日もあるから大丈夫」と、自分勝手に保証なき未来が訪れると思い込み、決めつけているのです。だから、安心して、ついつい日々を徒に過ごしてしまうのです。そうやってどれだけの貴重な時間を無駄にしてきたでしょうか。今一度、自分の過去と向き合い、これから先は、いただいた時間をみだりに浪費することなく、勤心に善法を修して過ごしていきたいものです。「倏惚として便ち空じ、須臾に即ち失す」が説き示すのはそういうことです。時間というのは、長いようで、実は、倏惚(犬がサッと走り去っていくがごとく、極めて短い時間)や須臾(ごくわずかの時間)と言うように、短いものです。そのことを今一度、押さえ、時間を大切に、毎日を大切に過ごして、少しでも仏に近づいていきたいものです。

第34回「参坐禅修行を志す人へ ―“参学の高流”へのメッセージ―」

令和2年8月2日 更新

冀(こいねが)わくは其(そ)れ参学(さんがく)の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習って、真龍(しんりゅう)を恠(あや)しむこと勿(なか)れ。直指端的(じきしたんてき)の道に精進し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴し、仏仏の菩提(ぼだい)に合沓(がっとう)し、祖祖の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。


昔、ある国王が人々に目かくしをさせて、象を触らせ、後でどんなものだったかを聞きました。すると、象の足を触った人は足についての感想を、耳を触った人は耳の話を、尻尾を触った人は尻尾の感想を、それぞれが述べました。皆、同じ象を触っているのに、触る場所が違えば、出てくる意見も違ってくるのでしょうが、このお話は、一部分だけに触れたり、見たりしていたのでは、全体像が掴めず、真の姿を把握することができないということを説いています。それを指し示しているのが「摸象に習う」です。「摸像」というのが経典祖録の文字ばかりに捉われ、仏道の全体が把握できていないことを意味しています。この点はお釈迦様から伝わる坐禅を説く我々僧侶にとって、特に注意しなければならない点です。“坐禅をやって、やって、やり続ける”という日常なしに、法を語っても、それはせいぜい大法の一部分に触れたにすぎず、ホンモノからはるかにかけ離れた中身の薄いものでしかありません。そのことを肝に銘じて、日々の布教に勤しんでいきたいものです。


「摸象に習う」に並立して提示されている「真龍を恠(あや)しむこと勿れ」でも同様のことが説かれています。「葉公(しょうこう)の龍」ということわざがあります。中国の春秋・戦国時代、楚の国に葉公(しょうこう)という人物がいました。彼は大の龍好きで、部屋中が龍の彫刻や絵画などのグッズであふれかえっていました。ある日、そんな彼を喜ばせようと、ホンモノの龍が彼の前に姿を現したのですが、彼は驚いて気絶してしまったというのです。このお話はニセモノに価値を見出してばかりいると、ホンモノの真価に気づかないものであるということを説いています。「参学の高流(坐禅修行を志す優れた人)」こそ、道を修し、「真価を見通し、全体を見渡せる目を持つ」ことが求められます。そして、そうしたものの捉え方は、まさに観世音菩薩様(観音様)の“観”に込められた「物事を広く見渡す・深く見通す」というものなのです。


それを心がけながら、「直指端的(じきしたんてき)の道に精進せよ」道元禅師様はおっしゃいます。「直指」は言葉や文字を用いて事細かく説明するのではなく、端的に説明し、伝えることを意味しています。お釈迦様始め道元様や瑩山様といった、仏様や祖師方が我々に直指単伝してきたのは、ただ一つ、「坐禅」です。難解かつ複雑な言葉や教えの羅列ではありません。その坐禅を“やって、やって、やり続ける”ことが「直指端的の道に精進すること」であり、そうやって多くの祖師方が悟りを得、お釈迦様の坐禅が今日に伝わっているのです。


そんな仏様や祖師方のような、学ぶべきものを全て学びつくし、体得したものを超越した自由無碍の境地に至っている方々を「絶学無為の人」と道元禅師様はおっしゃっています。そして、そんな方こそ、尊貴(尊ぶ)べきであるともおっしゃっています。なぜなら、絶学無為の人を尊貴し、坐禅修行に励んだ人々が、今日の世界に仏法を伝え、我々とのご縁を育んでくださったからに他ならないからです。絶学無為なる人を師と仰ぎ、その後に付き従えば、善き刺激をいただき、どんどん自分の襟元が正されていくのです。そして、そうすることが「仏仏の菩提に合沓(がっとう)する」ということです。「合沓」は混じり合うことです。お釈迦様以降の祖師方が指し示す「直指端的の道」に精進してくことで、次々と仏のお悟り(菩提)とのご縁が育まれていくというのです。それと同じことを「祖祖の三昧(ざんまい)を嫡嗣てきしせよ」が説いています。これは、道元禅師様が祖師方の伝えてきた「三昧(坐禅)」を自ら実践し、嫡嗣(後世の人々に伝えていくこと)を願うお気持ちそのものなのです。


いよいよ「普勧坐禅儀」も結末に近づいていますが、今回の一句を通じて、道元禅師様は坐禅に限らず、何事も理屈をあれこれ口にする前に、とにかくやってみることが肝心であり、そうやってご縁をいただいたものをやって、やって、やり続け、追求していくうちに、悟りという、その道の完成が見えてくるということを人々にお伝えしたかったのではないかと感じます。かく言う私自身も「参学の高流」を目指して、襟元を正し、少しでも坐禅を通じてお伝え出来るものが持てるように精進してまいりたいと感じております。

第35回(最終回)「絶学無為(ぜつがくむい)の人 ―故・板橋興宗禅師様の生き様―」

令和2年日 更新

久しく恁麼(いんも)なることを為(な)さば、須(すべか)らく是(こ)れ恁麼(いんも)なるべし。宝蔵自(ほうぞうおの)ずから開(ひら)けて、受用如意(じゅようにょい)ならん。


いよいよ道元禅師様が筆録された「坐禅のススメ」も最後の箇所になりました。この「普勧坐禅儀」のラストにて、道元禅師様はいったい何をお示しになるのでしょうか。


まず、「久しく恁麼なることを為さば、須らく是れ恁麼なるべし」とあります。「恁麼」という言葉は仏教経典には頻繁に登場する言葉で、「このような」という意味を持った言葉です。ですから、「長らくこのようなことをなせば、必ずやこのようになるだろう」ということなのですが、「このような」とは何を指しているのかを考えたとき、これまで道元禅師様が「普勧坐禅儀」の中でお示しになってきたことの全てを指していることに気づかされます。それが何かを考えていきましょう。


まず、前段において、「直指端的(じきしたんてき)の道に精進せよ」というお示しがありました。これは、お釈迦様から道元様・瑩山様といった祖師方に伝わり、今日まで伝えられている「坐禅」という修行を“やって、やって、やり続ける」ことを意味しています。そんな坐禅を日々、行じ続けていくことによって、「絶学無為の人」、すなわち、この世の仕組みを体得して、身心が自由無碍の境地の達した尊き存在になることができるというのが、「久しく恁麼なることを為さば、須らく是れ恁麼なるべし」の説き示すところです。


本日(令和2年9月3日)の北國新聞朝刊・「いしかわ文化万華鏡」には、去る7月5日に93歳にてご遷化になった板橋興宗禅師様が大きく取り上げられていました。禅師様がお亡くなりになって2ヶ月。禅師様の兄弟弟子のご老師や、お弟子様、大本山總持寺で禅師様の側近をお勤めになったご老師、親しくお付き合いをなさっていた檀信徒の方、多くの方が生前の禅師様のお姿を思い起こし、コメントなさっていらっしゃいました。


中でも、板橋禅師様が「直指端的の道に精進する」と」いうみ教えがピッタリと言わんばかりに、坐禅を“やって、やって、やり続けてきた”ことに触れられているご老師もいらっしゃいました。「今どきの坊さんで、あれほど坐禅に打ち込んだ人を知らない」―このお言葉を肝に銘じ、少しでも「絶学無為の人」たる板橋禅師様に近づけるよう、精進してまいりたいものです。


そんな板橋禅師様は「坐禅を続けると、心が柔らかくなり、どんなことにもすぐ対応できる強さをそなえる」とご自身の著書の中でも説いていらっしゃるとのことです。私は、このお言葉は「坐禅をするとどうなるか」という問いに対する板橋禅師様のご解答と捉えています。すなわち、坐禅によって、心が調い、身体が調い、呼吸が調うという、「調心・調身・調息」ということを、我々凡夫にわかりやすくお伝えくださっているように感じるのです。


この「坐禅をしたら、どうなるか」という点について、道元禅師様は「宝蔵自ずから開けて受用如意ならん」とお示しになっています。「宝蔵」とは、教法の蔵ということで、仏のみ教えがぎっしりと詰まったものであり、仏法そのものを意味しています。そんな宝蔵たる仏法を、「受用如意」、自由自在に使用できるようになると道元禅師様はおっしゃっています。如意というのは、「意の如く」とありますように、自分の思うがままにということです。


それらを踏まえた上で解釈してくならば、坐禅によって、仏のみ教えを自分の思うがままに自在に操れるようになるということは、私たちは、坐禅を“やって、やって、やり続けてく”中で、仏に近づき、仏のごとき存在になっていくと捉えることができます。そして、それをもう少し具体的に捉えていくならば、板橋禅師様がお示しになったように「心が柔らかくなって、どんなことにも対応できる強さが具わる」ということになると、私は捉えさせていただいております。どんなことにも対応できるということが、「宝蔵自ずから開けて受用如意ならん」という、仏法を自在に扱える仏のごとき存在になることと通じ合っているのです。


「普勧坐禅儀」の最後の一句を味わわせていただくタイミングで、板橋禅師様の坐禅観に触れさせていただくと共に、それがお釈迦様から道元様・瑩山様へと脈々と伝えられてきたものであることを再確認させていただけたことに、この上ない感動を覚えます。そして、板橋禅師様のような「絶学無為の人」と巡り合うことができた仏縁に感謝しながら、私自身も少しでも「絶学無為の人」を目指し、精進していきたいものです。