妙法蓮華経観世音普門品
背景 「長坂の棚田(富山県氷見市)」(令和7年8月30日 撮影)
背景 「長坂の棚田(富山県氷見市)」(令和7年8月30日 撮影)
令和7年9月6日 更新
大乗仏教経典の代表格として、諸宗派が重要視してきた「法華経(ほけきょう)」。全二十八章からなる中で、曹洞宗では、十六「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」、二十一「如来神力品(にょらいじんりきほん)」、二十五「観世音普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」を日常の法要儀式において読誦してまいりました。
その中で、今回より二十五「観世音普門品」を読み味わわせていただきますが、少しでも経典が説き示す世界観を身近に感じていくためにも、本文に入る前に、「妙法蓮華経観世音普門品(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)」というタイトルを通じて、知識を深めておきたいと思います。
まず「妙法」ですが、これには「仏がお示しになった尊き教え」という意があります。すなわち、「仏法」ということに相成ることでしょう。
次に「蓮華」ですが、「仏・菩薩がお座りになる席」を指し示しています。泥土において、汚れることなく香しくきれいに咲く蓮の花は、古代インドにおいて珍重されてきました。仏教では、そんな蓮華を「仏性(ぶっしょう)」という、「誰しも有する仏の性質」にたとえ、重視しています。そして、蓮華の如く尊きみ教えを「妙法」と解する観点が「妙法蓮華経」という名につながっていきます。
「妙法蓮華」は普く全てのいのちに対して、その苦悩を救済する「衆生済度(しゅじょうさいど)」が何よりもの目的です。「普門」とあるのは、「誰一人として取り残されることなく、普く全てのいのちを救済するための入り口」を意味します。そんな「普門」に導き入れるためのみ教えとなるのが、「妙法蓮華」なのです。
普く全てのいのちを救済すべく、三十三の姿に変化(へんげ)を繰り返しながら、お釈迦様に成り代わって、妙法蓮華をお示しになるのが、「観世音」という仏様です。正確には「観世音菩薩」と申します。「観音巡り」等、普段、我々が「観音様」として親しく信仰している仏様です。
観音様始めとする「菩薩(ぼさつ)」という仏様は、既に仏道修行を重ね、お釈迦様を始めとする「如来(にょらい)」様の位にありながらも、敢えて、我々凡夫に寄り添い、少しでも「普門」へとお導きするのを自らの役割としています。そんな菩薩の役割について、次回、観音様を通じて、その詳細を申し上げたいと思います。
令和7年10月4日 更新
我々にとって馴染み深い仏様のお一人として「観音様」がいらっしゃいます。観音様は正式には「観世音菩薩」と申しますが、この御名は「観」・「世音」・「菩薩」と分けて見ていくと、その功徳やありがたみがじわじわと感じられるのではないかという気がいたします。
まず「観」は訓読みで「みる」となります。「みる」と読む文字は他に4つあり、挙げてみると、「見る」、「看る」、「視る」、「診る」が出てきます。これらには物事を見る度合いや見方の違いがあるとお考えいただければよろしいかと思いますが、中でも「観音様」の「観」には、「物事を広く見渡す」とか、「深く見通す」という意味があることを押さえておきたいと思います。すなわち、自らが生かされている地において、個人的な判断による制限を設け、その中の当てはまるものには目を向けるものの、そうではないものには目を向けないといった差別的な捉え方をするのではなく、そこに存在する全てのいのちに目を向け、救いの手を施していくような見方・捉え方をしていくのが、「観る」ということなのです。ですから、「観る」は、言ってみるならば、「仏のお悟りを得た者のモノの見方」ということなのです。
そうした広く深い視点を以て、この世の一切の音(世音)に目を向けるのが「観音様」であるということになりますが、「世音」というのは、たとえば人間や動物の声、機械の音などのような耳で聴きとることができるものだけを指すのではありません。「世音」には、私たちの心の中の声のような無音のものも含まれていることをも知っておきたいところです。
そうした音の有無に関係なく一切の音を観るのが「観世音菩薩」という仏です。ちなみに「菩薩」は「上求菩提(じょうぐぼだい)」、「下化衆生(げけしゅじょう)」を自らの役目とする仏です。「上求菩提」とは、「仏のお悟りを目指して懸命に仏道修行に励むお姿」、「下化衆生」は、「娑婆世界に存在する全てのいのちに佛の救いの手を差し伸べて救済するお姿」です。ですから、既に仏の位に達しながらも、敢えて、我々凡夫の側にいて、仏の世界へと導いてくださるのが「菩薩」であると解して然りなのです。
「世音」という点について考えていくとき、むしろ声なき声のような、音のないものに対して、しっかりと目を向けて、その訴えるものを感(観)じ取りながら、救いを施していくことに全力を注ぐのが「観音様」であると捉えてよろしいかと思います。次回よりそうした観音様のご修行、仏としての在り方を「観世音普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」から読み味わってまいりたいと思います。
令和7年10月8日 更新
【本文】
爾時無尽意菩薩(にじむじんにぼさつ)即従座起(そくじゅうざき)偏袒右肩(へんだんうけん)
合掌向仏(がっしょうこうぶつ)而作是言(にさぜごん)
世尊(せそん)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)以何因縁(いがいんねん)名観世音(みょうかんぜおん)
【書き下し】
爾の時に無尽意菩薩、即ち座より起ちて、偏に右の肩を袒(はだぬ)き、合掌して仏に向って、是の言を作す。世尊、観世音菩薩は何の因縁を以てか観世音と名づくるや。
第1回「妙法蓮華経観世音普門品 ―〝誰一人として取り残されることなく救われるみ教え〟への入り口—」でもお話いたしましたように、「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)は「法華経」の第二十五章に該当します。当然ながら、その前の第二十四章の続きとして二十五章にはいるわけですが、まず、二十四章「妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)」の最終部について、少し触れておきたいと思います。
「妙音菩薩」とは「妙音」が指し示すように、美しいお声で仏法を広める菩薩様で、仏道修行によって神通力を有し、様々な相に姿形を変えながら、人々の苦悩を救済する菩薩様として知られています。
その妙音菩薩がお釈迦様の説法をお聞きすべく「霊鷲山(りょうじゅせん)」にやって来て、自身が体得なさった仏法についてお釈迦様にお話しし終えたとき、その場にいらっしゃった無尽意菩薩が立ち上がると共に、お釈迦様に「観世音菩薩は何の因縁を以てか観世音と名づくるや」とご質問なさったというところから第25章が始まります。
無尽意菩薩は尽きること無い智慧を有しながら、あらゆるいのちの救済を自らの行いとする菩薩様です。「観世音菩薩というお名前はどのような因縁・理由によって命名されたものか」と問う無尽意菩薩様。その時のお姿はお釈迦様に敬意を表した丁重なるものであったことが、「偏に右の肩を袒(はだぬ)き、合掌して仏に向って」という一句から伝わってまいります。
「偏に右の肩を袒き」とあるのは、「偏袒右肩(へんだんうけん)」と言う右の肩を顕わにしたインドにおける敬意の念を表す礼法です。曹洞宗の葬儀や法要等の仏教行事において、僧侶が袈裟(けさ)を身にまとっているのをご覧になったことがある方ならば、想像しやすいかと思いますが、僧侶が袈裟を被着すると左肩が隠れ、右肩があらわになります。これが「「偏袒右肩」です。
そして、「合掌」は一般の方にもおなじみの仏教徒の進退(しんたい)(所作)です。「合掌」は「掌を合わせる」とのことで、右手と左手の両方の掌を合わせ、それぞれの指をきれいに合わせるという相手への敬意を有した進退です。
お釈迦様様に対して身心を以て、最大の敬意を表しながら「観世音菩薩」に対する質問を展開していく無尽意菩薩様。次回はそれに対するお釈迦様のご回答をお示しさせていただきます。
令和7年10月11日 更新
【本文】
仏告無尽意菩薩(ぶつごうむじんにぼさつ)。善男子(ぜんなんし)。若有無量(にゃくうむりょう)。百千万億衆生(ひゃくせんまんおくしゅじょう)。受諸苦悩(じゅしょくのう)。聞是観世音菩薩(もんぜかんぜおんぼさつ)。一心称名(いっしんしょうみょう)。観世音菩薩。即時観其音声(そくじかんごおんじょう)。皆得解脱(かいとくげだつ)。
【書き下し】
仏、無尽意菩薩に告げ玉わく、善男子、若し無量百千万億の衆生あって、諸々の苦悩を受けんに是の観世音菩薩を聞いて、一心に観世音菩薩を称名すれば、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得ん。
無尽意菩薩の「観世音菩薩というお名前はどのような因縁・理由によって命名されたものか」という問いに対して、お釈迦様は「偏袒右肩(へんだんうけん)」、「合掌」といった言葉が指し示すように、敬意を以て丁重にお答えになりました(仏告無尽意菩薩)。その内容が今回以降、順次、お示しされていきます。
まず「善男子」とありますのは、仏道修行に邁進する在俗の男性信者を指すものであることを押さえておきます。ここではお釈迦様が無尽意菩薩を優れた仏道修行者と捉え、敬意を以て「善男子よ」と呼びかけた上で、その問いにしっかりとお答えになろうとするお気持ちが伝わってまいります。
「若し無量百千万億の衆生あって、諸々の苦悩を受けんに是の観世音菩薩を聞いて、一心に観世音菩薩を称名すれば、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得ん。」お釈迦様はおっしゃいます。「大勢の人々がいて様々な苦悩を受けて悩み苦しんでいるとき、観世音菩薩のお名前を聞いて、一心にその名をお称えするならば、即時に観世音菩薩の御名の功徳を観じ取り、苦悩から救われることができるだろう。」と—
「称名」というのは、仏菩薩の名をお称えすることです。心の奥底に潜む苦悩といった〝声なき声〟も含め、この世のあらゆる音(世音)を広く見渡し、深く見通しながら、誰一人として取り残すことなく救いの手を差し伸べてくださるのが「観世音菩薩」でした。日常生活の中で、苦悩に出くわしたとき、そんな観音様のお名前を口に発することで、自分の中で意識できるようになっていきます。それが仏の世界への入り口となり、我々を救う様々な仏のみ教えとの出会いが実現し、必ずや苦悩から救われていくのです。
「一心称名」―そんな観音様のお名前を意識しながら日々を過ごしていきたいものです。
令和7年10月18日 更新
【本文】
若有持是(にゃくうじぜ)。観世音菩薩名者(かんぜおんぼさつみょうしゃ)。設入大火(せつにゅうだいか)。火不能焼(かふのうしょう)。
【書き下し】
若し是の観世音菩薩の名を持する者あらば、設え大火に入るとも、火を焼くことを能わず
令和6年元日に発生した「能登半島地震」では、輪島市の朝市で火災が発生し、甚大な被害が出ました。この背景には付近の道路の通行止め、断水や防火水槽の倒壊による消火栓の使用不可、地盤の隆起による河川の水の使用不能と、様々な悪条件が重なったことが被害を大きくしてしまったとの見解があります。
当時、曹洞宗石川県青年会の会長職を拝命していた住職は発災から20日が経過した1月20日、輪島の会員の安否確認のために現地入りし、被害のあった朝市通りの状況を目の当たりにしました。灰と化した建物に加え、目に留まったのは炎上してサビついている何台もの乗用車です。その燃料であるガソリンは勿論のこと、家庭内のプロパンガスや暖房用の灯油、そして電気と、私たちは様々な可燃性の高いアイテムに囲まれて日常生活を送っていることを再確認させていただいた瞬間でした。そして、こうした日常生活を送る我々にとって、一度、大火が発生したならば、人間一人の力で消化させることなど、容易なことではないことを思わずにいられませんでした。
そうした大火を「観世音菩薩の名を持ずる者あらば(観世音菩薩の御名を一心にお称えするならば)、その被害を押さえることができる」とお釈迦様はおっしゃいます。お釈迦様のお示しになっている「大火」とは、決して、火災のことを指しているのではありません。火災の如く一度発生したら、周囲を巻き込み、大きな被害を与えてしまうものを指して「大火」とおっしゃっているのです。
では、それは一体、何を指すのでしょうか。それが「三毒煩悩」の一つとして示されている「瞋(いかり)」なのです。瞋りという大火が発生したとき、それを消火することなく、放置しておくとどうなるでしょう?当然ながら、言葉や行いとなって表出し、周囲の人々に害を与えていくことでしょう。
しかし、それだけではありません。瞋りの感情を制御できず発してしまった当人自身が、後に何かのきっかけで社会的な制裁を受けたり、自らの言動を恥じたりする場面に巡り合うときがやってくるのです。要は「大火」たる「瞋」の感情というのは、表出させれば、自他共に害を及ぼし、苦しめていくことになるのです。そのことをしっかりと押さえておきたいところです。
若かりし頃は「瞬間湯沸かし器」と揶揄され、感情的になっては瞋りの言動を表出させてばかりだった住職ですが、近年、X(旧Twitter)等のSNSにおいて、さしたる理由もなく怒りの感情を表出させ、世間の人々の批判に晒されている方を目の当たりにしては、ようやく感情のコントロールの重要性に気づき、自分に言い聞かせながら過ごす日々です。自分の感情をコントロールできず、周囲に不快感を与えるのは、一社会人として許されることではありません。たとえ、SNSがあろうがなかろうが関係なく、感情のコントロールを生涯の課題と捉え、毎日を過ごしていきたいと考えています。
そのためにも「瞋」の感情が沸き起こって来たならば、即座に「観世音菩薩」の御名を思い起こし、感情のコントロールを行っていくのです。それが今回の一句におけるお釈迦様のお示しなのです。
令和7年10月25日 更新
【本文】
由是菩薩(ゆぜぼさつ)。威神力故(いじんりきこ)。若為大水所漂(にゃくいだいすいしょひょう)。称其名号(しょうごみょうごう)。即得浅処(そくとくせんしょ)。
【書き下し】
是れ菩薩の威神力に由るが故に若し大水の漂わす所となるも、其の名号を称すれば、即ち浅処を得ん。
令和6年元日の「能登半島地震」発生から8カ月余りが経過した9月21日、奥能登を中心に再び自然の猛威が復興に向けて前向きに進んでいた人々の日常を直撃しました。「令和6年9月能登半島豪雨」です。この災害により、16名が死亡。河川の氾濫と土砂災害が多発しました。この豪雨が能登半島地震の復興を遅らせてしまったと指摘されるほど甚大な被害をもたらせたことは言うまでもありません。
2008年(平成20年)の「新語・流行語大賞」に〝ゲリラ豪雨〟という言葉が選出されて以降、度々、各地に甚大な被害をもたらす「線状降水帯」の発生と、これまでにも増して、水害の恐怖を覚えずにはいられません。
住職の住む金沢市内においても、この令和7年夏は幾度か豪雨の脅威を目の当たりにすることがありました。とりわけ、8月7日の豪雨においては、ほんの数十分で車が通れなくなるくらいに道路が冠水したかと思えば、雨が止むと、一瞬にして水が引いていく様を目の当たりにしました。それまでは連日にわたる猛暑・酷暑で水不足が心配されており、少しでも雨が降ればと願ったものですが、いざ、雨が降れば、とてつもない被害が出てしまいます。まさに〝いのちを生かすも水、いのちを殺すも水〟、水の恐怖を実感しつつも、「あるべき水との日常的なかかわり方」というものを考えていかねばならないと感じております。
前段において、お釈迦様は「観世音菩薩の名を持ずる者あらば(観世音菩薩の御名を一心にお称えするならば)、大火の被害を押さえることができる」とおっしゃいました。それは大水も同じです。一瞬にして人々の平穏な日常生活を飲み込み、方々に甚大な被害をもたらす大水ですが、人々の観音様への信仰・帰依によって、その害を押さえることができるというのです。
ただし、ここで注意しておかなくてはならないのは、決して、観音様のお名前をお唱えすれば、火災や豪雨の被害を免れられるということではないということです。かつて古老は「愛着の水が観音の慈悲の水(法水)となる」とお示しになりました。「観世音菩薩の名をお称えすれば、大火の如き燃え盛る瞋りの感情を穏やかに調え、周囲と和しながら関わっていく道がを眼前に顕れる」のです。「観世音菩薩の名をお称えすれば、いのちを奪う水がいのちを生かし、仏のお悟りへと導いてくださる仏法の水となる」のです。それが古老のお示しの意味するところです。
そうした観世音菩薩の称名の意を正確に解しながら、「普門品」に示されているお釈迦様のみ教えを味わっていきたいものです。
令和7年11月2日 更新
【本文】
若有百千万億衆生(にゃくうひゃくせんまんおくしゅじょう)。為求金(いぐこん)。銀(ごん)。瑠璃(るり)。硨磲(しゃこ)。瑪瑙(めのう)。珊瑚(さんご)。琥珀(こはく)。真珠等宝(しんじゅとうほう)。入於大海(にゅうおだいかい)。仮使黒風(けしこくふう)。吹其船舫(すいごせんぼう)。飄堕羅刹鬼国(ひょうだらせっきこく)。其中若有(ごちゅうにゃくう)。乃至一人(ないしいちにん)。称観世音菩薩名者(しょうかんぜおんぼさつようしゃ)。是諸人等(ぜしょにんとう)。皆得解脱(かいとくげだつ)。羅刹之難(らせつしなん)。以是因縁(いぜいんねん)。名観世音(みょうかんぜおん)。
若し百千万億の衆生ありて、金銀瑠璃硨磲瑪瑙珊瑚琥珀真珠等の宝を求めん為めに、大海に入るあらば、仮使(たと)い黒風其の船舫を吹いて、羅刹鬼国に飄堕するも、其の中に若し乃至一人の観世音菩薩の名を称する者あらば、是の諸人等皆羅刹の難を解脱することを得ん。是の因縁を以て観世音と名づく。
前段でも申し上げましたように、大切なのは、「観音様のお名前をお唱えすれば、火災や豪雨の被害を免れられるというのではなく、自分の中に大火の如き怒りの感情が発生したとしても、観世音菩薩を意識できるならば、それが仏のお悟りへと導いてくださる仏法の水となり、たちまち怒りの炎は消火されていく」ということです。その点を再確認しておきます。そうした難事に巡り合った我々に対して、「観世音菩薩の御名をお称(とな)えする」ことによる「観世音菩薩の意識」が人々を苦悩から救い上げるのです。だから、「観世音菩薩の御名をお称えする功徳」をお釈迦様はお示しになっているのです。それが「以是因縁。名観世音。」の意味するところです。
今回は火難、水難に続き、風難の場合について触れられています。風難に巡り合ったときも、これまでと同じで「観世音菩薩の称号」による「観世音菩薩の意識」があるならば、「百千万億の衆生」であれ、必ずや風難の苦悩からも救われるとお釈迦様はお示しになっています。
「金銀瑠璃硨磲瑪瑙珊瑚琥珀真珠等」について、各々の詳細は紙面の都合上、割愛させていただきますが、いずれも海底に存在する「財宝」であることは変わりありません。それらを求めるべく、船を出し、海に入ったとき、どこからともなく行く手を阻むがごとく嵐を伴う黒い烈風が船上を吹き荒れ、仏の道から外れし羅刹(悪鬼)が存在するような地にたどり着いたとしても、観世音菩薩の御名をお唱えし、その存在が意識できるならば、羅刹の国もたちまち仏国土に変化していくというのです。それは、言ってみるならば、海底の財宝に眼がくらみ、自ら苦悩の渦の中に巻き込まれていくような者であっても、人々を正しくお導きくださる観世音菩薩の存在を信ずることができるあらば、仏は救いの手を差し伸べてくれるということをも指し示しているのです。
難事や苦悩が眼前に生ずるには、その原因となる出来事が直前にあったはずです。しかしながら、観世音菩薩を思い、その名を意識できる者ならば、必ずや仏の救いの手が及び、正しき仏のお悟りの方向へと導かれていくのです。そのことを押さえながら、毎日を過ごしていきたいものです。
令和7年11月8日 更新
【本文】
若復有人(にゃくぶうにん)。臨當被害(りんとうひがい)。称観世音菩薩名者(しょうかんぜおんぼさつみょうしゃ)。彼所執刀杖(ひしょしゅうとうじょう)。尋段段壊(じんだんだんえ)。而得解脱(にとくげだつ)
【書き下し】
若し復(ま)た人あり、當(まさ)に害せられんとするに臨み、観世音菩薩の名を称する者は、彼(か)の執(と)る所の刀杖(とうじょう)、段々に壊れて、解脱することを得ん。
児童福祉法第41条に則り、児童相談所長の判断に基づき、各都道府県の知事が保護者のいない子どもや虐待を受けた子どもを入所措置し、18歳(最大20歳まで延長可能)まで養育援助することを目的とするのが「児童養護施設」です。近年は平成23年に発出された「社会的擁護の課題と将来像」に基づき、施設の小規模化(一軒家のごとき建物において、より家庭的な雰囲気の中、一人一人の子どもの居場所を確保し、手厚く擁護することを目的とした形態)が進んでいます。
住職は縁があり、令和6年10月より金沢市内のとある児童養護施設で理事長職を務めさせていただいております。養護の現場では、職員たちは様々な課題を持った子どもたちに向き合い、日々、悪戦苦闘しています。
そんな中で、色々な問題に出会い、その解決に向けて試行錯誤することが多々あります。その一つに「包丁の管理」がありました。施設では安全面への配慮の観点から包丁はカギのかかる場所で保管しています。
これに対して、他県では包丁を管理しないという施設さんがありました。その施設さんに長年に渡り勤務する職員さんはおっしゃいました。「包丁は我々の健康を維持し、いのちを育む食事を作るための大切な道具です。大人(職員)は子どもたちには正しい使い方を教えていく義務があります。」
使い方によっては人々のいのちをつなぐことにもなれば、一つ間違えれば、人のいのちを奪うことにもなりかねない包丁。大切なことは「本来の使い方を厳守し、それを伝えていくことだ」ということに、私は気づかせていただき、目が覚めるような思いになりました。
今回の一句の中に「刀杖」とあります。私たちの日常生活の中には、そうした使い方によっては人々を保護する道具でありながら、害を与える凶器にもなりかねないものが多々あります。
そうした存在を前に「観世音菩薩の名をお称えすれば」、人を害するような誤った使い方が為されることはなく、人のいのちをつなぎ、護るという仏法に従った正しい使い方が提示されるようになるとお釈迦様はお示しになっています。これぞまさに「十六条戒」における「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」の最初に示される「不殺生戒(ふせっしょうかい)」にも合致した「刀杖」の使用方法であると解します。
さて、我が施設では当分、包丁は保管庫にて管理しながら使用することになるでしょう。その背景には定員に満たない職員数の問題もあれば、職員の力量の問題もあることは否めません。しかしながら、施設全体で職員の定着やスキルアップを目指し、皆で協力しながら、いつか包丁との正しい関わり方が伝えられるような環境づくりをしていきたいと願っています。
令和7年11月15日 更新
【本文】
若三千大千国土(にゃくさんぜんだいせんこくど)。満中夜叉羅刹(まんちゅうやしゃらせつ)。欲来悩人(よくらいのうにん)。聞其称観世音菩薩名者(もんごしょうかんぜおんぼさつみょうしゃ)。是諸悪鬼(せしょあくき)。尚不能以(しょふのうい)。悪眼視之(あくげんしし)。況復加害(きょうぶかがい)。
【書き下し】
若し三千大千国土の中に満つる夜叉羅刹、来って人を悩まさんと欲するも、其の観世音菩薩の名を称する者を聞く時に、是の諸々の悪鬼も、尚(な)お能く悪眼を以て之を視ず。況(いわん)や復(ま)た害を加えんや。
前回の「刀杖」同様、我々の心がけ一つで周囲に多大なる害を与えるのが「夜叉」であり、「羅刹」という存在です。人に傷害を与える「夜叉」、人や動物の血肉を食する悪鬼とされる「羅刹」、絵本や物語などの空想・フィクションの世界でそれらの狂気に満ちた姿を目の当たりにしたことは誰でもあるはずです。
しかし、現実世界において、「夜叉」や「羅刹」を目撃したという話を聞いたことはありません。今年は秋田県や岩手県などの東北地方を中心にクマの被害や目撃情報が跡を絶ちませんが、そんなクマのような、本物の「夜叉」や「羅刹」に関する情報は、未だ嘗て、ありません。
では、一体、実在しない「夜叉」や「羅刹」の存在をどのように解していけばいいのでしょうか?
それは、私たちの心の中に存在し、周囲も含め、結局は自分自身も苦しめてしまう「三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)」のことを指すのです。「欲来悩人」とありますが、私たちの心の中に存在している三毒煩悩は、ときに周囲の人心を傷つけ、苦悩を与えます。大切なことはそうした性質をよくよく理解した上で、自ら調整し、表出させないことです。
それを実現していく上でも、「観世音菩薩の名を称すること」や、「観世音菩薩の名を称する者を聞くこと」が欠かせないとお釈迦様はお示しになっています。観世音菩薩の存在を意識し、その名を口にしたり、耳にしたりすることが、私たちの心の中を善い方向に調えてくれるということなのです。そればかりではありません。周囲に被害を拡大しないようにしていくのです。
皆が仲良く和し、穏やかな心持ちで過ごせることを願うとき、観世音菩薩への信仰の念をしっかりと自身に刻み込んで毎日を過ごしていきたいものです。
令和7年11月22日 更新
【本文】
設復有人(せつぶうにん)。若無罪(にゃくむざい)。杻械枷鎖(ちゅうかいかさ)。検繋其身(けんげごしん)。称観世音菩薩名者(もんごしょうかんぜおんぼさつみょうしゃ)。皆悉断壊(かいしつだんえ)。即得解脱(そくとくげだつ)。
【書き下し】
設(も)し復(ま)た人ありて、若(もし)くは罪あり若(もし)くは罪なきも杻械枷鎖を以て其の身を検繋せられんに、観世音菩薩の名を称する者は、皆な悉く断壊して即ち解脱を得ん。
日常生活の中で、相手の何気ないちょっとした一言や態度に引っかかってしまい、心の中がモヤモヤするといった場面は、誰しも経験したことがあるかと思います。こうした何か一点への「執着」というものが、我々人間の心を乱し、言動に影響を及ぼしていくのは自明のことです。
今回の一句の中には、「杻械(手かせ・足かせ)枷鎖(首にはめ、身体をつなぐ道具)」とか、「検(手かせ)・繋(つなぎとめる)」といった、執着を意味する言葉が多々、登場します。私たちの日常を見るに、そうした存在が多数あるようですが、そのことに気づく必要があると共に、執着の結果、どのような事態が生じるかを知っておく必要があります。そうすることによって、周囲はもとより、自分自身にも苦悩が及ぶことになることを押さえておきたいところです。
仏教には、こうした何か一点に執着し、自分の言動に対する自由が奪われてしまうような状態を避ける方策を指し示す一面があります。「観世音菩薩普門品」では、これまで同様、「観世音菩薩の名を称すること」を通じて、観世音菩薩の存在を意識し、その名を口にしたり、耳にしたりすることが、私たちの心の中に生じた執着を調え、周囲に被害を拡大しないようにしてくれると説きます。日常生活において、何か一点への執着によって、自身の心の中が乱れそうになったとき、よくよく思い返したいところです。
令和7年11月29日 更新
【本文】
若三千大千国土(にゃくさんぜんだいせんこくど)。満中怨賊(まんちゅうおんぞく)。有一商主(ういちしょうしゅ)。将諸商人(しょうしょしょうにん)。斎持重宝(さいじじゅうほう)。経過険路(きょうかけんろ)。其中一人(ごちゅういちにん)。作是唱言(さぜしょうごん)。諸善男子(しょぜんなんし)。勿得恐怖(もっとくくふ)。汝等応当(にょとうおうとう)。一心称観世音菩薩名号(いっしんしょうかんぜおんぼさつみょうごう)。是菩薩(ぜぼさつ)。能以無畏(のういむい)。施於衆生(せおしゅじょう)。
【書き下し】
若(も)し三千大千国土の中に満つる怨賊(おんぞく)、一人(いちにん)の商主あり、諸々の商人を将(もっ)て、重宝(じゅうほう)を斎持(さいじ)して険路を経過せんに、その中の一人是(こ)の唱言を作(な)さんに、諸々の善男子、恐怖を得ること勿(なか)れ、汝等当に一心に観世音菩薩の名号を称すべし。是の菩薩は能く無畏(むい)を以て衆生に施す。
今回は〝交通の難所〟と呼ぶにふさわしい険しい山道を何人かの商売人が高価な財宝や物品を荷車に載せて運んでいる場面が描かれます。自分自身がそんな商売人の一人になったつもりで読んでみると、経典の内容が味わい深く感じられるような気がいたします。
「山を越えて町に入れば、この高価な品を値で購入してくれる人がいるだろう。しっかりと儲けを得るためにも、何としてでもこの険路を乗り越え、品物を事故なく無事に運ばなくてはならない。」まさに手に汗を握るようなスリルに満ちた状態で、商売人は必死かつ慎重に荷車を引いていることでしょう。
そんなとき、仲間の商売人の一人が「諸々の善男子、恐怖を得ること勿れ」と言いました。「皆、何も恐れることはない」と。手に汗を握り、慎重に事を進めている場面において、意外な印象を覚える言葉ですが、なぜ、彼はそう言い切ることができたのでしょうか?それは続きの「汝等当に一心に観世音菩薩の名号を称すべし」という言葉の中に顕れています。彼は観世音菩薩様を深く信仰し、これまでも今回のようなスリリングな場面や危機的状況に出会ったときには、観世音菩薩の御名をお唱えし、窮地を乗り越えてきた—そのように推察されます。
その背景には「是の菩薩は能く無畏を以て衆生に施す。」という一句が指し示すように、彼自身が観世音菩薩様の功徳というものを熟知していたことが考えられます。「無畏を施す仏様」―これが観世音菩薩様であると共に、人々が観世音菩薩様に深く帰依し信仰する最大の理由と考えます。「無畏」とは、「恐怖なき状態」を意味します。すなわち、我々衆生がピンチに陥るような場面に出くわしたとしても、観世音菩薩を意識し、その名をお称えするような観音信者であるならば、観世音菩薩様は窮地の恐怖を取り除いてくれるというのです。それが「能く無畏を以て衆生に施す」の意味するところです。
これまで「火難」、「水難」、「風難」、「刀杖(とうじょう)」、「夜叉羅刹(やしゃらせつ)」といった私たちの中に存在する「三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)」を様々な形でたとえたものが登場しました。私たちが自らの中に生じた三毒煩悩を調整しようとなければ、それらが怒りなどの感情を帯びた状態で言葉や行いとなって表に生じ、周囲に火難や水難等のごとく甚大な害を及ぼしてしまいます。その害は周囲のみならず、自分自身にも及びます。
それを防ぐためにもお釈迦様は、私たちに「三毒煩悩の調整」を通じて、「自らの心の中のコントロールの必要性」を説きますが、そういう意味で観世音菩薩様がどういう仏様なのかを知った上で、普段の生活の中で観世音菩薩様への帰依の念を持ち、深く信仰していくことが、「三毒煩悩の調整」につながっていくとお釈迦様はお示しになっているのです。
その点を今一度、しっかりと把握しておきたいところです。そのためにも、今回は観世音菩薩様が「無畏を施す仏様」であることを、しっかりと押さえておきます。
令和7年12月7日 更新
【本文】
汝等若称名者(にょとうにゃくしょうみょうしゃ)。於此怨賊(おしおんぞく)。当得解脱(とうとうげだつ)。衆商人聞(しゅうしょうにんもん)。俱発声言(ぐほっしょうごん)。南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)。称其名故即得解脱(しょうごみょうごそくとくげだつ)。無尽意(むじんに)。観世音菩薩魔訶薩(かんぜおんぼさつまかさつ)。威神之力(いじんしりき)。巍々如是(ぎぎにょぜ)。
【書き下し】
汝等若(なんじらも)し名を称する者あらば、此の怨賊に於(おい)て当(ま)さに解脱することを得べし。衆々(もろもろ)の商人聞いて俱(とも)に声を発して、南無観世音菩薩と言うなり。其の名を称するが故に即ち解脱を得。無尽意(むじんに)、観世音菩薩魔訶薩(かんぜおんぼさつまかさつ)、威神(いじん)の力、巍々(ぎぎ)たること是の如し。
「無畏(むい)(恐怖なき状態)を施す仏様」というのが「観世音菩薩様」でした。そんな観世音菩薩様の御名をお称えするならば、たとえ貪り・瞋り・愚かさの三毒煩悩に満ちた言動によって、窮地に陥るような場面に遭遇したとしても、心の中が穏やかに調い、三毒煩悩が調整されていくというのです。そして、そうやって我々は仏に近づいていくのです。明日(12月8日)はお釈迦様が仏に成った「成道(じょうどう)」の日です。そんな縁日をお迎えするに当たり、私たちも少しでも自身の三毒煩悩を調え、仏様のような人間に成(な)りたいものです。
さて、「施無畏」なる観世音菩薩様であるが故に、お釈迦様は「汝等若し名を称する者あらば、此の怨賊に於て当さに解脱することを得べし。」とお示しになります。「観世音菩薩様の御名を発することで、三毒煩悩を調え、解脱(仏のお悟りを体得すること)する」と。そして、「衆々の商人聞いて俱に声を発して、南無観世音菩薩と言うなり」とあります。前段において常に危機的状況に瀕したときに、「観世音菩薩様の御名をお称えして」困難に立ち向かってきたかの商人たちと同じように、私共も観世音菩薩様の御名を発していこうというのです。
こうした観世音菩薩様の御名をお称えする功徳や意義を、お釈迦様は無尽意菩薩に丁寧にお示しになりました。このお示しは当然ながら、無尽意菩薩を代表とした我々を含む後世に生かされるであろう全てのいのちに対して発せられたお釈迦様のメッセージです。お釈迦様は「観世音菩薩魔訶薩、威神の力、巍々たること是の如し」とおっしゃっています。「魔訶薩」とは、「仏の自位にある偉大な存在」とのことで、「菩薩」のことを意味します。既に成道し、仏のお悟りを体得していながらも、我々凡夫の苦悩を救済し、少しでも多くの者を仏位に入らしめるべく、敢えて、我々の側にいて仏のみ教えを提示してくださるのが、「菩薩」、すなわち、「魔訶薩」なのです。
そのはたらき・お力は「威神の力」とあるように、優れたものであり、不思議なものでもあります。まさに煌々とした偉大なるものです。
そのことは、「巍々(高く大きな形)」という言葉からも理解できます。そんな観世音菩薩様に常日頃から帰し、自身の生きる指標としながら、少しでも仏に近づいていけるようにしていきたいところです。