気体分子と生物学
生物学において,気体分子が膜輸送体によらず濃度勾配(細胞内外の分圧差)を駆動力に受動的に膜脂質を通過するというのは一般的な見解のようである。これが正しいとすれば,気体分子をエネルギー代謝に用いることは理にかなっている。生命活動においてエネルギー代謝は最大の物質フラックスであり,その円滑な駆動は生命活動の根幹をなす。
たとえば始原的な生物とされるメタン菌は,エネルギー代謝において分子状水素を消費しメタンを生成するが,代謝の結果生じる細胞膜内での分圧差はそれぞれ基質の補充と生成物の排泄を自動的に促すため,生育環境の定常状態が維持されている限り,きわめて単純でありながら恒常的な生命維持機構を保有していると言える。今この文章を読んでいるあなたも,酸素を吸い二酸化炭素を吐き出すことで,この文章を読み続けている。
もちろん,生体を構成する主要元素が軽元素であって,その軽元素の環境中での存在形態が気体分子であるだけで,生物がエネルギー代謝に利用する物質が気体であることに必然性はないかもしれない。しかし,生命活動が常に生息環境に依存し,生命と地球環境が互いに影響を及ぼし共進化してきたと考えると,細胞膜が気体分子を自由に通過させるという特徴が,地球史・生命史を通じて保持され続けてきたことに,何らかの意味を見出さずにはいられない。また,細胞膜を通じた受動的あるいは能動的な気体・水・イオン・高分子有機物の相対輸送速度の調整は,細胞の機能維持,つまり生命の維持において重大な要素である。
この話題は一細胞についての細胞膜を通じた物質輸送の理解を進める細胞生物学研究的ではあるが,試験管を用いた分離株の単独培養系を想定すれば,試験管内の細胞内部・培地・気相というリザバー間のフラックスを調べる地球化学研究であると見なせる。フラックスの定量的な理解にあたって安定同位体ラベルは強力な手段であり,軽元素分子を代謝する微生物を調査対象とする場合,軽元素(特に気体分子)の安定同位体地球化学の手法が,生物学において大いに活躍することが期待される。
(川口2015地球化学より一部改変)