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ヒトの負の感情より生まれた悪しき情は、時に〝魔〟となり〝怪異〟を起こす。 道理では説明がつかない不思議な現象。それは肥大化を経て周囲に影響を与え、ヒトに害を成す。 古来より〝怪異〟や〝妖〟として語り継がれてきた〝魔〟という存在。しかし、科学が発達した現代では、今やそれらの存在は迷信と唱えられるようになっていた。 多岐にわたる情報の取捨選択が求められる昨今。先進化が齎した弊害の一つに、社会が多様な感情の渦巻く場に変容したことが挙げられる。 昼夜を問わず目まぐるしく起きる感情の起伏。ひとたび具現化して小さな異変となれば、それはあらゆる手段を通じて世間へと伝播する。
退魔師や祓魔師と呼ばれる者たちの使命とは、ヒトの営みの中で発生したそれ(・・)をいち早く察知し、事件を未然に防ぐことである。〝魔〟を討つことに特化した彼らは、時折、人知れず膨張した事件に相対することもある。 今回起きた騒動は――遥か異国の地で発生した、招かれざる客の仕業であった。
* * * ある日の夜、それは突然訪れた。 夕食前にシャワーを浴びていた宰(つかさ)。濡れた髪をタオルで乱雑に拭きながら脱衣所から出ると、玄関へ向かおうとしていた同居人とバッタリ鉢合わせた。
「どうした?」
長身の男が機嫌よく見えるのは気のせいではないだろう。荷物でも届くのかと記憶を巡らすも思い当たる節はなく、親しき隣人が来たにしては普段と様子が違い過ぎる。 不思議に思い声をかけると、彼はニコリと笑んだ。
「とても珍しいお客様のお出迎えだよ」「?」
珍しい客とはどういうことか。彼の言う来訪者が誰なのか見当もつかず、宰は頭に小さな疑問符を浮かべる。 ほどなくしてインターホンが鳴り、対応に出た男の後ろ姿を見守っていると。温かな光を灯すポーチライトに照らされて現れた姿に少年は目を見張った。
「ミッシェル!? それに、兄貴と兄さんまで……!?」
日本に居るはずのない人物が連絡もなしに来訪するなんて予想できるはずもない。 喜びと驚きが混ざり合って心が弾む。少年は衝動に駆られるまま壁を伝って玄関へと足を運んだ。 ミッシェルは以前までこの家で宰とともに暮らしていた屋奈倉(やなくら)家に仕える侍女だ。数か月ぶりに相見えた少年の姿を見るなり、彼女に笑顔の花が咲いた。
「宰様! お久しぶりです!」「ああ、久しぶりだな」
とは言うものの。月に一、二回の頻度で近況報告を兼ねたビデオ通話で家族と顔を合わせているから、感動の再会という程ではないけれど。それでも生身の対面は久方振りで、リアルな姿と声に喜びを覚えるのは当然のことだろう。 艶やかな黒髪を高く結い上げた彼女と軽くハグを交わすと、突然ピリッとした鋭い殺気が後方から放たれた。何事かと見遣れば、気を張り詰めた兄二人とにこやかに笑む青年の間に一触即発な空気が漂っている。
「お前のような階級の悪魔が何故ここに居る」「弟を人質にしてボクらを誘い込むつもりじゃないだろうな」
祓魔師を生業としている屋奈倉家はみな法力を持っている。弟の家から悪魔が出てくるとは思っていなかったらしい彼らは明確な敵意を目の前の青年に向けていた。
「人質だなんてとんでもない。オレは彼の世話になっている者さ。――ここで立ち話も何だし、どうぞ上がって」
貼り付けたような表情を崩さない男が余程胡散臭く見えるらしい。 兄たちは21歳と17歳という若さでありながら、一人前の実力と認められている立派な祓魔師だ。 ヒトの姿を真似た悪魔の力量を見誤るはずもなく、以前の宰のように――いや、それ以上の警戒心を持って青年と言葉を交わす。三人兄弟のなかで特に慎重な次男は、宰やミッシェルが悪魔と共謀している、または操られているなどの最悪のケースを疑っているようだ。 このままでは家に足を踏み入れることすら躊躇いかねない。二人が全力で祓魔を始める前に、宰はやれやれと息を吐いて玄関先から動かない兄たちに声をかけた。
「そいつは療養したミッシェルに代わって、僕の身の回りの世話をしてくれている下僕だ」
理由あって〝対等な主人と下僕〟という不思議な関係を悪魔と築くことになった宰。 すべての権利は本当の主人である悪魔が持っているのだが、下僕にも自由を与えたいという奇妙な価値観によって、ケースバイケースで自ら宰の下僕になる契約が結ばれたのだ。 今こそその関係を有効活用すべきなのだろう。宰が悪魔の主として振る舞うことで、ランクの高い悪魔であれど立場の弱い存在として祓魔師たちに印象付けることができる。
「こちらから手を出さない限り敵意を向けることはないし、何なら空気同然――あ、いや……普通の使用人として接してくれて構わない。気になって仕方ないと思うが、上がってくれ」
発言を改めたのは、こちらに向けられたグリーンの瞳に「本当に空気でいいの?」と訴えられたからだ。居ない者として扱えばどうなるか――。それは決して癇に障った様子ではなく、どちらかといえば悪戯を企む反応に見えた。家族の前で何をされるか分からない不安が過り、咄嗟に訂正しておく。
「そういうことならジャマさせてもらおうか」「ふん。ボクたちが居る間はせいぜい妙な真似を慎んでおくことだな」「そう警戒しなくても何もしないけどね。まあ、よーく肝に銘じておくよ」
渋々ながらも納得してもらえたようだ。不要な衝突が避けられたことに宰は胸を撫でおろす。 少年と二人の兄がリビングへ移り、ミッシェルが手土産で持参した本場の紅茶の用意を青年と共に始める。彼に対する不信感は相変わらずらしく「宰様を困らせてないだろうな」といった圧を感じる会話が通りがけに耳に留まった。
「急に押しかけて悪いな。こっちに来たら真っ先に宰の顔が見たくなって」「兄貴たちなら歓迎だ。確かに驚いたけど会えて嬉しい」
生真面目な次男とは対照的にラフな性格の長男は、悪魔の行動を視界の端に留めつつ宰と向かい合う。祓魔師として優秀な成績を収めている兄たちは、たとえ弟の前であろうとそこに悪魔が居れば決して気を緩めることはしない。 この警戒はただの杞憂なのだが、本職に何を言っても聞く耳を持たないだろう。彼らの気の済むようにさせるのが良いと宰は判断して、ミッシェルたちが用意したドリンクを受け取り、全員が席に着くのを待った。
「いやー。新しく使用人を迎えた話は聞いてたが、まさか悪魔と暮らしてたとはなー」
いざ、開口一番にそう切り出したのは長男だ。 双方で自己紹介を始めるよりも早く彼との関係について言及され、宰はどう返答しようかと一瞬言葉を詰まらせる。 確かに宰は新たな使用人を迎えたことしか報告しなかった。けれど、あの日、宰と一緒に遭遇したミッシェルも、今はイギリスに移っている祖母も、彼の正体が悪魔であることを知っているのだ。 こちらからわざわざ言わなくても、いずれどこかでバラされる――というより、ミッシェル伝いで悪魔から手紙を受け取った祖母が、他の家族に宰の状況を説明しているものと思っていたが。 何か理由でもあるのかとミッシェルにアイコンタクトを送ると、彼女は困ったように眉を下げ、ふるふると否定を示す。祖母には何か考えがあるらしいことを察して、宰もひとまず多くは語らないことにした。
「……色々と事情があるんだ。僕だって好きで一緒にいるわけじゃない」
悪魔と結んだ契約の内容は家族にも言えない。 とある事故で両足が麻痺した宰。出遭ったばかりの悪魔が提案した内容とは、重症だった左足のみ完治させる代わりに定期的に法力と精力を搾取することだった。その事情を兄たちが知れば、たちまち二つの死体が転がることになりかねない。 それに、ヒトの形(ナリ)をしていても悪魔は悪魔。彼は物理的にヒトを喰らう種族らしいが、宰が彼を満足させられれば被害も最小限に抑えられる。だがしかし。事実を伝えようにもやはり性的行為に及んでいる話はどうしても避けられない。 詮索はしないでほしいと二人に匂わせながら、やむなく共に暮らしていることを伝えると、次男の訝しむような視線が突き刺さる。
「不本意ならさっさと追い出せばいいだろう。悪魔を近くに置くメリットがあるのか?」「メリットは、まあ……」
あるには、ある。むしろ、一つのことを除けば宰にとってメリットだらけなのだ。 言い淀んだ少年に全員の注目が集まるなか、ひとつ指を鳴らした悪魔は上機嫌な笑みを浮かべて宰の兄たちに向けて自己紹介を始めた。
「オレは片桐麻葉(かたぎり あさは)。さっき簡単な説明があった通り、宰クンの身の回りの世話と――あとは、仕事の手伝いをさせてもらってるよ」(宰クン……)
なんて気味の悪い呼び方か。 ヒトの一般常識を会得したこの悪魔にとって、少年の家族の前で礼儀正しく振る舞うことは造作もないらしい。逆に敬称をつけた呼ばれ方に慣れていない宰の方がゾワリと鳥肌が立つ。
「カタギリ? 明らかに偽名だな」「悪魔がヒトの――まして祓魔師の手伝いをしているだと?」(反応がそうなるのも無理はないな……)
宰もしばらくの間は彼に不信感を抱いていたのだ。二人がそう思うのも無理はない。 胡散臭そうに声を上げた長男は、青年のラテ色の頭から爪先までを本性を見定めるようにまじまじと見つめる。髪の毛先に現れている緑や虚無を宿したグリーンの瞳は、欧州に見られる悪魔の特徴だ。そんな彼が日本名を名乗ったことに違和感しかないと指摘が入る。 片や次男も到底信じられないと、眼鏡を押し上げて麻葉の説明を疑ってかかった。 祓魔師の敵がすぐ目の前にいるのだ。警戒心を解くことなく、信用しようとも思っていないピリついた雰囲気に、宰は居心地の悪さを感じ始める。 麻葉は終始ニコニコとした笑みを絶やしていないが、正面から向けられた疑心をどう受け止めているのだろうか。本人が何を言っても敵意しか返ってこないのならば、助け舟を出してやるべきか。
「コイツにも縄張り意識があるんだ。テリトリー内でヒトに害を成す悪魔は階級にかかわらず排除するタイプで、魔を祓うという目的が一致すれば協力してくれるし、そう悪い話じゃない」「ふーん? 祓魔に協力、ねえ……」
嘘は言っていない。 以前ほど機敏に動けない宰に代わり、条件さえ合えば自主的に祓魔を行う麻葉のおかげで仕事の効率が上がったのは事実だ。 利用できるうちに利用した方が良いと補足すると、麻葉も完全に同意の表情で「そうだね」と頷いた(ミッシェルは何故か彼に冷ややかな眼差しを向けていたが)。
「さて、オレは今の呼び名ではあるけど一応名乗ったよ。キミたちのことは〝お兄さん1〟と〝お兄さん2〟――いや、面倒くさいな。1と2って呼べばいいかな?」「俺は何だっていいぜ?」「ふざけるな。そんな個体識別番号のような呼ばれ方をしてたまるか」
〝1〟に該当する長兄は自分の呼ばれ方に興味がないらしい。 対する〝2〟の次男はこめかみに青筋を立てて反論する。気まぐれな悪魔の冗談をスルーできない生真面目な彼は、麻葉との相性が極めて悪そうだ。
「別に俺たちの名が悪魔に知られたところでデメリットは何もないからな。知りたいなら教えてやる。――俺は長男の『環(たまき)』。こっちが次男の『寿(ちとせ)』だ」「タマキくんとチトセくんと――それから宰クン、だね」
環の紹介のあと、麻葉は虚無の眼差しで長男から順番に視線を配る。
「―――……」
屋奈倉家の三兄弟を横並びで見た麻葉も例に洩れず「似てない」と思ったことだろう。 同じ両親から生まれたのに宰だけが淡い金髪に縹色の瞳で、上二人の兄は黒髪と茶色の瞳を持つ日本人なのだ。それぞれを見比べられた後に発せられるお決まりの言葉を待つ宰は「よく言われるし、もう慣れた」のセリフを心の中で用意する――のだが。
「なるほど。兄弟なだけあってよく似てるね」「ああ。よく言われ――……ん?」「うん?」
反射的に返答したセリフが途中でおかしいことに気付いた宰の語尾は途切れ、そして最後に疑問符が残る。麻葉も何か妙なことを言ったかと不思議そうに首を傾げていた。――そうだ、コイツはヒトを外見で判断するタイプではないことを思い出す。 髪や目の色は違えど面影が似ている――そう認められた気がした。嬉しさのような、気恥ずかしさのような。自然と頬が緩むのを隠すように軽く咳払いをした宰は環と寿に話題を振る。
「な、何でもない。そんなことより、連絡もなしに急に日本に来てどうしたんだ? 観光か?」「だったら良かったんだけどな。フツーに仕事で犬探しだ」「犬……? 祓魔師を辞めて探偵業でも始めたのか?」「環。そんな説明じゃ伝わるわけがないだろう」
環の主張を素直に受け取るなら、逃げた犬を追っているようにしか聞こえない。 だがイギリスで逃げた犬がどのようにして日本に来たのか興味深いところだ。長兄の説明では結論以外の情報は得られず、やれやれと寿は溜め息を吐いた。
「宰のところに行くなら明日にしようってボクは提案したのに。環が『サプライズの方が宰は喜ぶ』なんて言うものだから……。まったく、そういうのは本題の準備を自分で済ませてからにしてくれ。――すまない、単刀直入に言うと、宰の元を訪れた理由は、近ごろ〝黒い犬(ブラックドッグ)〟か〝黒妖犬(ヘルハウンド)〟の噂が出回っていないか情報を集めたかったんだ」「いや……、どちらも聞いたことがないな」
毛色の黒い犬なら探そうと思えば簡単に見つけられそうなものだが、後者の〝ヘルハウンド〟となれば話は別だ。世界中で愛されるファンタジー作品にもモンスターとして登場する有名なその名は、イギリスに伝わる悪しき妖精の一つだと聞いたことがある。
「宰でも知らないなら、まだ協会から伝達が来ていないんだな。――ミッシェル、資料はあるか」「はい。日本語に翻訳した資料を用意しています」
犬の話題が出たときから、茶封筒を取り出していたミッシェル。 その中にまとめられていた資料を束ごと受け取った宰は、初めにタイトルと概要に目を通した。どうやら麻葉も自身と関わりのある国の事件には興味があるらしく、少年の横からひょいと覗き込んで内容を読んでいた。
「『〝黒妖犬〟による関連死6件と○○街のゴーストタウン化の因果関係について』――事件発生日と場所、捜査資料と……。それから新聞の切り抜きもあるのか」「目撃情報の多い地域のテレビ番組でも、狂暴化した野犬の被害が拡大しているとして不要不急な外出は控えるよう呼びかけがされています」「そこまで逼迫した状況なのか。イギリスのような先進国にも野良犬がいるのは意外だな」「いえ、飼育放棄されたペットなどは通常保護されるので、宰様が想像されているような治安ではないのですが……。今回の発端は飼い主または施設から脱走した犬が野犬化したものと言われています」
野犬に噛まれれば感染症に罹(かか)る可能性がある――という内容の報道。たとえその正体が架空の存在だとしても、住民に注意を促すならば適切な案だと納得する。
「黒妖犬(ヘルハウンド)は昔から目撃証言があるからそう珍しいものでもないらしいが……。前回の出現は19世紀の前半。近代化が進んで二百年近くは大きな混乱もなかったのに、ここまでの事態はさすがに妙だと警察と祓魔師協会がタッグを組んで捜査をしているんだ」「巷じゃ『一度見れば気を病み、二度見れば発狂し、三度見れば死に至る』なんてウワサも流れてる。発生源となった街は事件が明るみになった頃にはすでに昼夜を問わず市民の引きこもりが大量発生。しかも、単純に外出を控えた様子じゃなくて、コミュニケーションが取れないほど怯えている人が四割弱を占めるもんだから、序盤の捜査が難航したんだと」
寿(ちとせ)、環(たまき)の順で補足を受け、再度資料に目を通す宰。 調査資料によると浮浪者を喰い殺した犬が魔物化したことが発端らしい。噛殺の死体は日に増え、半月経った最新の情報では10人以上に及んでいるらしい。 住民が外出を控えていることは良い傾向だが、残念ながらそれが凶悪な野犬を魔物化させる状況を作り上げている。複数人を喰い殺した業とそれを不安に思う住民の恐怖心がエネルギーとなって、徐々に影響力を持つようになったと結論付けられていた。
「……なるほど。黒妖犬(ヘルハウンド)を見た人によるメンタルの不調と、野犬や噂を信じる人による恐怖心が、街をゴーストタウン化させた原因に直結するんだな」
気分の落ち込みや、野犬を警戒する抑圧的な生活。日常がそんな感情で支配されていては、いずれ魔を呼びやすい精神状態に陥りやすくなる。いや、負が負を招くサイクルが街全体で構成されている以上、黒妖犬(ヘルハウンド)の繁殖はすでに容易な環境である可能性が高い。 新聞やテレビなどのメディアによる報道も、ある意味、住民の不安の助長に繋がっているようだ。
「イングランド中の祓魔師を総動員してでも早急に対処しないと、他の町村まで被害が及びそうだな」
資料を麻葉へと手渡し、宰は手元のティーカップを摘まむ。 ミッシェルと麻葉が淹れてくれた紅茶はやはり茶葉も水も日本のものとは違うようだ。ストレートで飲んだ感想は、香りは薄いものの味はまろやか。ミルクティーで飲むのが主流だとわざわざ飲み比べ用にピッチャーまで用意されていて、さすが紅茶の国と呼ばれるだけあると感心した。
「街一つを恐怖に陥れるほどの犬って数匹って規模じゃないね。しかも二度目の目視で発狂するなら一人一回の祓魔が限度だし、一つの地域に二、三人で当たるのは危険で、かと言って人員を大量投入するのも現実的じゃなさそうだ」
資料をパラパラとめくっていた麻葉はある項目が載せられたページで目を留めた。 事件として承認されたあとの協会の動きは被害を抑えるどころか拡大させる一方だった。妖精という存在が迷信になった現代。その危機感の希薄さと事態を軽視した人々の対応は褒められたものではないと麻葉は指摘する。 祓魔師の敵に煽るような言い方をされては、本国の協会本部に属する者なら憤慨したことだろう。 しかし環と寿は数か月前まで日本の協会に所属していた身だ。最上位級の悪魔の言うことは最もだと素直に認めた、寿は神妙な面持ちで事態が深刻な状況に陥っていることを告げる。
「後手に回った対応であることは否定しない。ロンドンでも黒妖犬(ヘルハウンド)に関する証言が最近になって挙がるようになって、ようやく協会と警察が殲滅に向けて動き出したばかりなんだ。だが、その矢先に厄介なことが起きた」「厄介なこと?」
ただでさえ収集の付かない事態に陥っていることは今日初めて聞いた宰でも分かる。 さらに事態を悪化させることとは一体何なのか。直前の言葉を反芻すると、次男は資料を指差して、とある人物の名を挙げた。
「対処した協会の祓魔師によると《魔霊の先導者(ヘカテー)》と名乗る者が黒妖犬(ヘルハウンド)の統率を始めたらしい。その者の圧倒的な魔力から上位級の悪魔ではないかと協会内でも憶測が広がっている。まあ、悪魔であれヒトであれ、魔物化した野犬の力を悪用する者は看過できない」「黒妖犬(ヘルハウンド)の増殖だけでアウトブレイクとエピデミックの境にあるレベルになってるもんな。ここで誰かの意思が入ろうもんならイングランドやイギリス中の問題だけじゃなくなるし、やろうと思えば世界に拡げることだって可能になる」「―――……」
環の発言を聞いた瞬間、心が大きくざわつく。 嫌な予感に近いその感覚は、実力のある二人の祓魔師がいま目の前に居ることで他に考える余地を与えない。環と寿が大混乱の渦中にあるイギリスから遠く離れた日本まで来たのは黒妖犬(ヘルハウンド)から逃げおおせたのではない。事件の捜査に加わり、最前線で動いているからこそ、縁のあるこの国を訪れたのだ。《魔霊の先導者(ヘカテー)》という各地に厄災を齎しかねない上位級の悪魔を追って。 知らない方がマシだった情報を実の兄達から告げられて宰の思考は停止する。 祓魔師たちの邪魔をしないよう、なるべく聞くに留めていたミッシェルが比較的親身に受け答えする悪魔に意見を求めた。
「アサハ、《魔霊の先導者(ヘカテー)》について知っていることはないか?」「いま世間で騒がれてるヤツのことを聞かれてもねぇ……。イギリスの悪魔でオレが知ってるのは、せいぜい百何十年前の話だし、当時はあんまり格下に興味なかったからなー」
麻葉が日本に来てから台頭した悪魔ならば知るはずもない。 まったく覚えがない雰囲気を醸しているが、上手いこと恍けたフリをしてこの場を流す魂胆かもしれない。ここは念に念を重ねておくべきだろう。
「……本当に知らないんだろうな」「名前なんていくらでも変えられるからね。会ってみないことには知り合いかどうかも分からないさ」
それはそうだ。事実、真名を隠してその国に適した偽名を用いている事例が目の前にいるのだから、兄たちが追っている《魔霊の先導者(ヘカテー)》も呼称の一つならば特定のしようもない。
「そもそも、ヒトか悪魔かも分からないし、正確な情報も掴めてないんでしょ?」「残念ながらな。《魔霊の先導者(ヘカテー)》に遭遇した祓魔師が三人居るんだが、全員が半狂乱の状態で発見されて数日後に亡くなったらしい。悪魔の名前を聞き出せたのもやっとで、背格好どころか黒妖犬(ヘルハウンド)を率いてる理由も判明してないんだと」「へぇ? なーんにも分かってないのに、日本(こっち)に来ることだけは分かったんだ?」「人命を犠牲に得られた情報なんだ。そう煽るな」
長男の環(たまき)はあまり表情が変わっていないが、次男の寿(ちとせ)は先程から顔色が優れないように見える。 反応からして捜査に加わっていた二人は、その半狂乱になったという祓魔師と対面したのだろう。 宰と同じくらい冷静な寿が表情に出すくらいだ。相当惨い現場だったに違いない。
「その《魔霊の先導者(ヘカテー)》はいつ日本に来るのか、目星はついているのか?」「これから来るのか、もう来ているのか、それすらも分からん。日本の祓魔師協会が情報を持ってたとしても、俺たちに情報開示されるまで手続きやら許可やらに時間がかかる。だから先に申請しつつ宰のトコにも来たってわけだ」「なるほど……。今のところ僕のところには協会から連絡を受けていない。だが、知り合いの退魔師たちなら何か情報を掴んでいるかもしれない。明日僕の方で当たってみよう」
協会本部の後手な対応が惨事に至っているというのに、日本の祓魔師協会も情報を隠しているとは思いたくないが。 麻葉ですらこの事態を知らなったようだし、隣人の祓魔師に聞いたところでイギリスとは無縁な彼こそ完全に初耳の反応を見せるに違いない。 他に手掛かりがあるとすれば、まずは討魔を専門とする退魔師たちに聞いてみるのが一番の近道な気がする。黒妖犬(ヘルハウンド)などという存在は知らなくても、直近で黒い犬の姿をした妖魔を討伐したかどうかの確認は取れるはずだ。 一度見れば気を病み――という噂も気がかりではあるが、あの精神が屈強な猛者たちならば一度の対峙くらい平然と耐えそうだ。 兄たちが渡英してから出会った退魔師たちの話を伝えると、二人は驚いた表情をして互いに顔を見合わせた。それから感慨深く頷いてみせる。
「何と言うか……。この数ヶ月で随分と変わったな? いや、頼もしくなった、の方が適切か?」「頼もしい? 僕は何も変わってないと思うが」
寿の率直な感想に宰は首を捻る。 変わってはいない――というより、麻葉が傍に居る限り、宰は自分を変えてはいけないのだ。 この悪魔は宰の僅かな心境の変化に敏い。下僕(エサ)の機嫌取りをするほど自分好みの味に執着している彼が宰の成長を望むだろうか。いや、ヒトは生きている限り不変であることはあり得ない。ともすれば、この変化は麻葉にとって些細な問題なのだと宰は悟った。
「ちょっと前まで友達付き合いもほとんど無かっただろ? それがいつの間にか一丁前に退魔師の知り合いなんか作っちまって」「それは……そう、かも、しれない……」
学校で話す友達は居たけれど、放課後や休日に一緒に遊ぶ友達はほとんど居なかった。 宰の両足が不自由になった事故が起きてから、加害側の相手から離れるために転校したのだ。あの事故と麻葉との出遭いがなければ今の生活は確実に無かったと言える。
「ま、充実してんならいい。悪魔を下僕に従えてるって聞いたときは嘘くせぇって思ったけど、楽しく過ごしてんなら何よりだ」(コイツとの生活が楽しいなんて、一回たりとも思ったことはないがな)
少しでも面倒くさがれば「惰性はよくないよ」と指摘してくるし。一人で出かけようとすれば何処に行くだの何時に帰るだのを宣言させられるし。さすがにミッシェルもここまで口煩くはなかったのに、お世話係とは名ばかりの厄介な母親役を迎えた気分だ。 だが、本音を口にしようものなら、宰と麻葉の秘め事に言及される危険がある。五日に一回の約束の他に、悪魔の気まぐれに振り回されている生活だけは何としても兄たちには知られたくない。 まあ…だの、ああ…だの、歯切れの悪い相槌を返す宰は帰り仕度をする三人を眺める。
「ホテルは取ってあるのか?」「ああ。こちらでの調査もあるから協会の近くに数日泊まることになっている。後でそこのリンクを送ろう」「助かる」
凶悪な魔物と上位級悪魔の来日という最悪なニュースを受けたけれど、しばらく環と寿がこちらに滞在するなら心強い。ミッシェルに対して、麻葉と口裏を合わせて半ば強引に追い出した罪悪感が心残りだったものの、真実を知らない彼女がかつての主人との再会を喜んでいるのだから、自分も以前と同じように接しようと心に誓う。
「明日はボクも環も一日調査だから、次会えるのは明後日だな」「そんじゃ、退魔師たちから何か情報掴めたら連絡くれ」「分かった」
二人が外へ出て、玄関先に留まったミッシェルは見送りに来た宰と麻葉に一礼する。
「御夕食の準備中にお邪魔しました。滞在期間中はいろいろとお世話になると思いますが、ご助力お願いいたします」「足を使って動き回るのは実質兄貴たちだろうからな。僕が力になれるか分からないが、人手が必要ならコイツを使ってくれ」「えー? 協力するなんて一言も言ってないんだけどなー」「協力しないとも言ってないだろう」
ヒト側の問題ならば自分たちで解決してくれとでも言いたげな面持ちだ。 悪魔にしてみれば祓魔師や退魔師の苦戦は喜ばしいことだ。しかし、エサが絶滅すれば楽しみもなくなる。ヒトと悪魔、どちらにも加担しない曖昧な立場を匂わせている理由はそれがあるからに違いない。 そんな日常茶飯事なやりとりがミッシェルには面白おかしく映ったのか、彼女は小さく笑った。
「ふふっ。ありがとうございます。いつもカメラ越しでしか宰様の様子が窺えないので、正直、この悪魔の言いなりになっているのではと心配していたんです。ですが、思いのほか仲良くやれてそうで安心しました」「仲良く……!?」「でしょ? オレ、人付き合い上手い方だし、面倒見も良いからね」
麻葉という悪魔がどんな性格か知っているくせに、コイツとの関係が良好に見えるとはどういうことか。 ミッシェルの言葉を素直に受け取ったお調子者は褒められて気を良くしたらしく、放心する少年を余所に鼻高々に誇っていた。 何度も言うが、麻葉との生活は楽しくもなければ仲良しでもない。 たった数か月で周囲から見た自分と悪魔の関係性だけが、少年にとって悪い方向に変化している事実を突きつけられ、わなわなと震える宰だった。
* * *
「っっったく! 兄貴たちもミッシェルも一体どう見えてるんだ……!!」
三人が去り、静かになったリビングで腹いせにクッションに拳をお見舞いした宰。 ボスッと鈍い音を立ててめり込んだそれを、実際に手を出すことは敵わない相手に重ねながら、さらにもう一度叩き込む。
「あっはは。普段冷静なキミがそこまで感情を露わにするなんて。彼女の発言がよっぽど効いたみたいだね」
キッチンに一人で立つ麻葉はスープを温めながら作りかけだったメイン料理を手際よく仕上げている。物に八つ当たりする下僕(ペット)を見守る彼は、少年の苛立ちを気から感じ取っているのか、愉快そうに声を上げて笑う。
「キミが心身ともに健康で居てくれるだけで、オレは彼らから信用を得やすくなるみたいだね」「ふん。協会本部のあるイギリスで祓魔師をやっている兄貴たちが、そう簡単にお前を信用するはずがないだろう」「そうかなあ」
はあ、と大きく息を吐いた宰は今一度深呼吸をして気を落ち着ける。少し暴れて気が晴れたあとは凹んだクッションを綺麗に整え、それをソファの端に戻した。
「信用を得るためだか自分の立場を守るためだか知らないが……。兄貴たちの話を聞いている間、気付いていながら敢えて口を挟まなかった話があるだろう」「その話が何のことか分からないけど、聞かれなかったから言わなかっただけだよ」「だろうな」
食事の準備が進むダイニングテーブルに、宰は一足早く席に着く。今晩の献立は照り焼きチキンと野菜がたっぷり入ったコンソメスープだ。 自分一人だけの料理が並べられるのはいつものこと。少年が食事をしている間に麻葉は片付けやら明日の朝食分の仕込みを始めているのだが、今日は先程の事件について洗いざらい吐いてもらう必要がある。 食事には手を付けずに麻葉が向かいの席に座るまで待っていると、彼は調理道具を簡単に片してから、少年の意図を汲み取って正面に着いた。
「やれやれ。食事中は飯がマズくなる話をしたくないって前に言ってなかったっけ?」「お前が今夜出掛けるから今のうちに聞いておこうと思っただけだ」
一体いつの話を持ち出すんだ、と言ったところで、数百年生きている彼には数ヶ月前のことも昨日のことのような感覚なのだろう。 麻葉の外出の都合で話し合いの場を設けるには今しかない。気の悪くなる話でも、事の重大性を思えば聞くしかないのだ。
「それで、聞きたいことって?」「最初から全部だ――と言いたいところだが、いくつか要点を絞っておこう。これまで黒妖犬(ヘルハウンド)が出没したとき、祓魔師たちはどう対処していたんだ?」「対処法なんて無いよ。一度の目撃で耐える人とそうじゃない人の違いは精神力があるかないかさ。疚しい感情を抱えていればそれは罪となって自分を内側から蝕む。それを否定することや平静を保とうとすることにもエネルギーを使うからね。やがて疲弊して心身ともに疲れてしまう仕組みだ」
日本で発生する一般的な悪魔とそう大した差はないと麻葉は言う。 魔物の気に触れるだけで蓋をしていた罪の意識が膨張する。己の中で湧き出た感情と理性が対峙し、気が削がれて自制が利かなくなり、本能が露出することで人々から狂ったように映るらしい。
「だから兄貴たちは前線で動けているんだな」
立派な祓魔師になるため幼少期から数々の修行を積んでいた環(たまき)と寿(ちとせ)。真っ当な道を歩んできた自信は何よりも強い武器になる。 一度の遭遇で心折れるようなメンタルではない二人だ。兄たちのことをよく知る宰は麻葉の説明に安堵した。
「なら、次に黒妖犬(ヘルハウンド)を統率している《魔霊の先導者(ヘカテー)》についてだが――」「悪いけど、正体のことならオレは本当に知らないよ」「お前が相手を庇おうが庇わなかろうが、僕たちがそいつの真名を当てない限り正攻法でやり合う術はない。僕が聞きたいのは《魔霊の先導者(ヘカテー)》が日本に来ることで懸念される影響だ」
黒妖犬(ヘルハウンド)を操ることができる能力は厄介極まりない。 危険度の高い相手であることは話を聞いただけで想像できるが、同レベルの強さを誇る悪魔はこの事態をどのように捉えているのか。 これから日本でも捜索が進めば、英日の祓魔師たちが手を組んで警戒網を張ることになる。ヘタをすれば人魔大戦の一つとして歴史に残る規模になるかもしれないのだ。 麻葉自身に害が被ると分かった場合、彼は自分のために動くだろう。そのとき、最上位級の実力を持つ悪魔は一人で対処できると余裕ぶっているのかが純粋に気になった。
「影響、ね……」
伏し目がちで顎に手を当てて黙った麻葉の表情はいつになく真剣だ。 大したことなければ軽やかに「気にすることないんじゃない?」とでも言いそうなものだが。すぐに返答がないから良い答えではないのだろう。そう悟った宰はメインの料理に箸を伸ばす。 適度な厚みに切られた鶏の照り焼きはひと手間を加えることで柔らかくなるらしい。甘辛いタレと仕上げにまぶしたハーブの調和は味覚と嗅覚を同時に刺激し、舌の上で最大限に広がっていく。 こってりとしつつも宰好みの味付けがされたメイン料理はとにかく白米が進む。コンソメスープは非常にあっさりとしていて、一口大にカットされた野菜の甘さがちょうど良い塩梅だ。ボリューミーな肉料理とたっぷりの野菜は育ち盛りな少年の胃を満足させる最強のコンビである。 自分のペースで食べ進めるなか、ようやく答えを出したらしい麻葉が顔を上げた。
「……正直、悠長に構えてる場合じゃないと思うよ」「長考していた割には随分と面白味に欠ける答えだな」「期待に沿えない回答でごめんね」
わざとらしく皮肉めいた言葉を返すと彼は苦笑いをする。 しかし、麻葉の軽い謝罪がただのそれで終わるわけがない。言葉の裏に明らかな真意が秘められていることを確信した少年は、眼前のおかずに目を向けたまま「別に」と言い放つ。
「そのつまらない返しをしたからには、それなりの理由があるんだろう」「いやー、バレちゃったか。《魔霊の先導者(ヘカテー)》の話を二人のお兄さんから聞いた感じ、オレや眞羅(まら)に近い考えを持っているんじゃないかと思ったんだよね」「近い考え?」
隣の祓魔師宅に居付いている上位級悪魔の名前が挙がり、宰は眉を顰めた。 こちらから手を出さなければ温厚な麻葉とは真逆と言っても過言ではない、野蛮でガサツなオレ様気質の悪魔。 頭脳と実力で今のクラスに成り上がった麻葉とは異なり、腕っぷしひとつで上位級まで上り詰めた眞羅(まら)。脳筋寄りとはいえ、常時ヒトの姿を保ち、日本で悠々自適な生活を送るくらいの知能はある。麻葉が言わんとしていることが汲み取れず、続きを待つ。
「日本に来た理由さ。オレの場合は自分で選んだわけじゃないけど……。眞羅は人魔大戦から離脱して行き着いた先がここだって言ってたからね。オレたちがずっと日本に住みついているのには理由があるし、《魔霊の先導者(ヘカテー)》が日本を選んだ理由もそれに近いと思ったんだ」「お前たちがこの街にいるのは『過ごしやすいから』と言っていたな」
〝魔界の異端児〟と称されている麻葉は、自称する通り、とにかく悪魔らしくない悪魔だ。綺麗好きなゆえに混沌とした魔界の環境が合わない、ヒトの姿で人間社会に溶け込むのが好き、気に入った獲物はすぐ喰らわず自分好みに育てる――など、他の悪魔とは異なる性質を持つ個体なのだ(ちなみにそんな彼のことを、宰は〝ヘンな個体(ヘンタイ)〟と呼んでいる)。 麻葉にとっての好適な環境とは、何も整えられた街並みに限った話ではない。 ヒトの秩序を保つための適度な法律(ルール)があり、悪魔の生存に不可欠な欲望が多数存在することは必須条件だ。生温い環境で育まれた欲――特に自分本位や身勝手さが本質であるほど上質な味になりやすいと彼は言う。
「平和に慣れた日本人は警戒心が薄く悪魔が溶け込みやすいんだ。退魔師や祓魔師は精鋭揃いだけど、そもそも母数が少ないし、人口もそれなりに多いからメシにも困らない。極東の楽園なのさ」「その条件だけ聞けば別に日本じゃなくてもいいだろう。危険意識が低く、人口密度の高い国や都市なら他にもあるはずだ」
悪魔が定住するのに好適な場所はいくらでもあると指摘すれば、麻葉は「そうだね」と頷きつつ、けれども大胆に頬杖を突き、虚無なグリーンの瞳を少年へと向けた。
「他と日本の違いを挙げるなら、インフラの整ったG7に加盟する経済国であることかな。島国という余所に伝播しづらい地形はナニ(・・)かをするには最高の実験場なのさ」「―――……」
黒妖犬(ヘルハウンド)の特性を利用する《魔霊の先導者(ヘカテー)》の目的が麻葉の仮説通りだとするなら、この国でも環の言っていたようなエピデミックが起きる可能性がある。
「悠長にしてられないって意味、分かってもらえた?」「……お前の推測通りに事が進むならな」
沈殿した胡椒を残してスープを飲み切り、食べ終えた食器を下げやすいように重ねる。 満腹感は得ているのに嫌な話を聞いたせいで心に妙な引っ掛かりを感じてならない。キッチンに一度戻った麻葉が運んできたレモネードを流し込むように飲んだ。
(近い考え、か……)
意外にも縄張り意識のある目の前の悪魔が《魔霊の先導者(ヘカテー)》の考えに賛同したなら。今日まで祓魔を手伝っていた彼が悪魔側に加担することになったなら。自分は人々を守りながら麻葉や《魔霊の先導者(ヘカテー)》を止めることができるのだろうか。《契約の締結(エンゲージ)》によって宰が兄や人々を裏切ることにならないかと不安に思う。 この悪魔の元で得られた自由と、背負った代償がいかなるときでも宰に付き纏って離れない。
「神妙な顔しちゃって。怖がらせちゃったかな」「馬鹿を言え。日和見が好きな日本でお前の予想する通りのことが起きれば、イギリスの対応以上に後手に回ることになるんだぞ。最悪のケースを想定していただけだ」「確かにね。協会内であれこれ揉めそうな気がするし、支援は期待できないだろうなー。退魔師たちが動く可能性を考えると、案外そっちと手を組んだ方が面白い展開になるかも」
ね、と同意を求められても、宰は肯定も否定も示さない。 反応の鈍くなった少年をしばらく見つめていた麻葉は会話の興味を失ったのか真顔に戻る。 外出の時間が迫っているのだろう。身支度を整えるためにリビングを出ようとしたその背中に宰は声をかける。
「ミッシェルにはああ言ったが、僕が『動け』と言ったらお前は動くのか」
肩越しにこちらを見る瞳と視線がぶつかる。 喜怒哀楽の情が読めない表情はどこか冷たく感じ、少々高圧的な聞き方だったかと内心で反省した。
「それは捜査に協力するしないの話?」「……まあ」
言葉を濁す必要がどこにあっただろう。「そうだ」と一言頷けばいいものを、小さな罪の意識に呑まれて喉が詰まる。
「ここ数日はかなり骨の折れる調査になるだろう。万が一、黒妖犬(ヘルハウンド)に遭遇したら、きっと僕だけでは対処しきれない。討伐も任せることになる」
祓魔師でもない、悪魔(麻葉)に。 さっきは互いに茶化した会話で済ませていたが、悪魔が下僕の頼みを無償で引き受けるはずがない。 麻葉の興味と《魔霊の先導者(ヘカテー)》の目的が一致してしまう前に、彼が祓魔師側に加担するメリットを提示しておかなければ、あっさりと手のひらを返されてしまう気がした。
「まさかタダ働きさせるつもりじゃないよね?」「お前の努力次第による――と言いたいところだが、結果を見てから報酬を決めるのはフェアじゃない。そこで一つ、交渉したいことがある」「へえ。聞くだけ聞こうかな」
こちらに体を向けて壁に寄り掛かり腕を組む麻葉。好奇の潜むグリーンが刺さる。 足の不自由な自分にできることは、なるべく最善の手が尽くせるよう盤面を整えることだ。 宰は麻葉の下僕(エサ)ではあるが、同時に〝下僕(駒)〟を指揮する〝主人(脳)〟でもある。戦闘と頭脳に秀でた彼を有効活用しない手はなく、契約を行使するための新たな契約を宰は提案した。
「調査・護衛・討伐。この三つの項目それぞれに評価を設ける。一つの項目に対し一つの報酬を麻葉が決め、最終結果が評価基準をどの程度満たしたかを基に僕がジャッジを下す、でどうだ」「なるほど? つまり、オレが手を抜けば大した報酬は貰えないし、宰の要望を完璧にこなせば求めた報酬がそのまま貰えるってわけだ」「不当な評価だと感じたなら、お前の〝主人〟権限で僕にペナルティをつけてもいい」
ヒトと悪魔。どちら側にも付ける彼をこちら側に利のあるよう立ち回らせるには、相応の代価が必要になる。交渉などと言って体裁を取り繕っているが、これはある種の願いにも似た交渉だった。 ――あれだけ悪魔の力を借りないと豪語していたのに。 いざというときに頼らなければならない自分の力不足に悔しさを覚える。
「……クク。いいね、面白そうだ。キミの必死な提案を受け入れよう」
新しい玩具でも見つけたように、口角を上げてくつくつと嗤う悪魔は宰の傍に寄った。 長身の青年に間近で見下ろされ、どことなく圧を感じていると彼の手が頬に触れる。 これ以上ないほど至近距離まで迫った瞳。心臓を鷲掴みにされた感覚がして息を呑んだ。
「交渉成立。自分で言い出したことなんだ、もう後には退けないよ」「分かってる」
最上位級の悪魔を利用するのだから、生半可な覚悟では無駄に代償を払うだけだ。 何を求められても逃げるつもりはない。すでに意を決しているのだと宰は強く睨み返す。
「評価内容はあとで考えておく。お前も今晩のうちに報酬を考えておけ。……話は以上だ」
頬に添えられたままの手を払い、半ば強引に会話を終える。 わかった、と頷いた麻葉は再び外出の準備に戻り、その場に残った宰は内心で大きな溜息を吐いた。
(粗削りだがこちら側に加担するメリットは提示できたはずだ。アイツが完全に協力するという保証はないが、自主的に調査する動機付けにはなっただろう)
あとは、一人になった時間を使って抜けのない評価をしっかり考えるべきだ。
(アイツを相手に策略を練るのはしんどいな……)
数百年に亘り、ヒトの欲望と行動を見届けて知略を身に着けた悪魔。そんな強者と相対する機会など、普段の祓魔では滅多にないのだから気疲れするのも無理はない。
「それじゃ、行ってくるよ」
ぼんやりとテーブルを見つめていると、仕度を終えた麻葉が廊下から顔を出す。 その場から適当な相槌を返して見送ろうとするも、無表情のままこちらから目を逸らさない青年に宰は疑問符を浮かべる。
「何だ」「これだけは言っておくよ。報酬にキミの魂なんて要らないからね。自己犠牲でオレを動かそうと考えてるならそれは大きな間違いで、キミの終わりを決めるのはキミじゃない。そんなくだらないことに気を遣うより、オレにどれだけ強欲な評価を突き付けるか考えておいて」「……………」
ドMか、このヘンな個体(ヘンタイ)め。 玄関のドアが閉まる音が聞こえ、足音が遠のく。訪れた静寂に時計の秒針の音だけが響いた。
(……僕なりに誠意を示したつもりだったんだけどな)
麻葉が宰を飼っている理由は、快楽漬けにした祓魔師を喰らうためだ。 出会ってまだ一年も経っていないから、染まりきった状態とは確かに言えないけれど。最大の要求にそれを入れても構わないという心意気で提案したことを『くだらない』と評されるのはどこか腑に落ちなかった。 気を悪くさせたのか、ただ素面に戻っただけなのか。アイツの表情から感情が消えたタイミングが分からない。 宰の提案を『面白そう』と言ったり嗤ったりしていたから、少なくとも前者ではないと思いたいが。 どこで何を間違えたのか見当も付かないけれど、今はとにかく評価内容について考えるしかない。
(前言撤回したくなるほど、強欲にまみれた評価基準にして弱音を吐かせてやる)
手厳しいなあ、と困ったように笑いながら、ギリギリやり遂げられるラインを見極めて――。