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さえ:
昨日の全日空機でチビ楊が瀋陽を訪ねてきました。
二年前に学位を取ったとき、彼女の指導教官の佐藤先生を瀋陽薬科大学を学術講演に招きたいので、先生を案内して一緒に薬科大学に来て下さいな、その時貴女は「薬科大学を卒業して日本に留学し、日本で就職して研究者の道を歩んでいる自分の姿」という後輩たちを元気づける話をしてくださいな、と頼んだのですよ。
彼女の先生を瀋陽薬科大学を訪ねて欲しいとかねてより思っていたので、チビ楊が案内役になればとても好い組み合わせですよね。
ところがその後のことですが、小島を巡って両国間の感情が急速に険悪になりました。薬科大学を訪問した日本の大学の先生がホテルからタクシーに乗って来る途中、日本人と分かって放り出されたりする事件もあって安全に懸念が出て、彼女の先生を招く自信がなくなったのですよ。
チビ楊は2007年に大学院を終えた後しばらく音信不通となっていたのですが、さえの追悼会の時には連絡が付いて久しぶりに会いました。そのとき、チビ楊はさえから受けた恩は決して忘れない、今自分の出来る恩返しは研究をまとめて学位を取ることだといっていて、実際、慶応大学に学位論文を提出したのは翌年でした。
その時にチビ楊に会って、先に書いたように、瀋陽に佐藤先生と一緒にいらっしゃいなという話になったのです。チビ楊はその後も研究成果を論文にして発表を続け、この3年間に10報の論文を出しました。
そしたら研究成果が認められて海外から招聘のオファーが三つあったのですって。
その中から米国のNIHを選んで行くことにしたのですが、後の二つがハーバード大学とケンブリッジ大学で、ハーバードの先生は職のオファーを出して断られたのは初めてのことだったらしく怒りまくったそうです。
今米国行きのビザ申請の手続きの最中で、待っている間に瀋陽を訪ねてきたというわけです。
今朝は、春日先生の日本語クラスで呼ばれて1時間の講演をしました。日本語を勉強し始めて半年の学生に、日本語の勉強のこつとか、外国人にとっては外来語を表すカタカナが大変頭の痛いものなのですが、英語を積極的に勉強することでマスター出来るとかの話をしたみたいです。中国語で講演していたので片言隻句しか分かりませんでしたけれど、話し方は自信に満ちていて、そうかと言って押しつけがましいところが全くなく、彼女は教師としても、リーダーとしても一流の人物になれるのではないかと思います。1年生にとっては大先輩に当たるチビ楊の話を、彼等は目を輝かせて一心に聞き入っていました。
彼女は話を「チビ楊(チビヤン)と呼ばれているのですよ」と始めたのですよ。昨日の夜は春日先生も招いて一緒に会食をしたのですが、春日先生が出会って最初に「チビ楊さんと聞いていたので、小さいかと思っていたら大楊ですね」と、びっくり。
背の高いJohnをLittle Johnと呼ぶみたいに、ぼくたちは彼女をチビヤンと名付けたのですよね。○○ヤンというのは、昔よく使われた親しい友達を呼ぶときの使い方でしたね。今は死語かも知れませんけれど。
日本語を初めて半年の学生はチビが小さいという意味であることが分かっていなかったと見えて、この話は受けませんでした。
午後は3時半から新2教室(200人はいる)を予約してあります。チビ楊さんは「薬科大学を卒業して日本の慶応大学へ、会社の研究所で働いてから米国NIHへ」という題で学生に講演をします。
コメント:
Re:チビ楊が瀋陽を訪ねてきた(03/14) みのもんだ さん
先生、お帰りなさい。
どうなさったのか、と思いましたが。
今回のテーマについてですが、逞しい学生さんを育てておられましたね。
会社の研究所から米国NIHへ、そういう転身は外国人留学生の場合はたまにあることですね。
やはり、移民国家としての米国にはそのような土壌がある、ということでしょうか。
(2014.03.16 21:37:32)
みのもんださま shanda さん
長い間ご無沙汰しました。
1月に春休みで日本に帰って腰を痛めたのですよ。飛行機の椅子に座っていたための筋肉痛だと思っていたら、激痛で動けなくなってしまいました。若い頃にやったぎっくり腰と同じ症状で、1週間してやっとの思いで病院に行ったら、立派な椎間板ヘルニアと診断されたのですよ。
それで瀋陽に戻るのも大分遅くして2月の終わりに戻ってきて、その後はリハビリに励んでいました。
友人に「ちっともブログを更新していないね」とメイルを貰って、こりゃいかんというわけで再開しました。でも、身体を動かさないと、頭の働きが鈍るみたい。。。 (2014.03.17 19:32:23)
カテゴリ:生命科学
さえ:
金曜日の7・8時限目は新2教室には学生が80人くらい集まり、そこでチビ楊が講演をしました。200人入る教室が埋まらなかったのでチビ楊はちょっと不満だったみたいですけれど、学生は講演の掲示を見て自発的に集まったのです。とても貴重なことですよね。
彼女は人前で話すことが全く苦にならないどころか、大好きみたいです。しかも、話がうまいのでしょう。所々で学生を笑わせながら、連続二時間の話しの間に誰一人眠らせることなく、学生の視線と興味を一点に集中させることに成功していました。
5時半に終わった後はうちの学生の蘆さんと秦くんが、ここに集まった学生の中の希望者と一緒にチビ楊が食堂で食事をする用意をしていて、もちろん会場でも参加希望を募ったのですが、食堂の個室に部屋を予約して懇談が引き続き行われました。
朝は春日先生の教室で1時間、そして午後は新2教室で2時間、合計3時間も中国語の講演を聴きました。ぼくに中国語ははもう十分なので夜の集まりはスポンサーとなっただけで、参加しませんでした。翌日分かったけれど、何と712元の出費でしたよ。。。
夜の9時半にチビ楊から電話が掛かってきて、9時に食堂を閉める時間になるまで集まりが続いてその間ずっと質問を受けて話し続けたこと、それで、ご馳走がいっぱいあったけれど集まった学生たちが満足して食べただけで自分は殆ど食べる暇がなくてお腹が空いていること、それでも、こうやって学生に話が出来て、瀋陽に来て良かったとしみじみ話していました。
土曜日はぼくたちの定例のジャーナルクラブに、チビ楊をゲストとして迎えて「油脂と健康」という彼女の研究を中心とした学術講演をして貰いました。いつものメンバーに加えて、昨日彼女の話を聞いた学部学生も8人くらいやってきました。
オメガ3(或いはn-3)と言われる、私たちヒトは作ることは出来ない脂肪酸があり、これの摂取が心臓血管病発症の機会を減らすとか、赤ん坊の脳の発達に必須とか、大人になっても頭の働きを鍛えるとか言われて久しいですね。
元々はイヌイットの人たち(昔はエスキモーと呼ばれていました)が野菜を食べずアザラシの肉を常食しているのに血管系の病気が少ないことから詳しく調べられて、ヒトの作ることの出来ないオメガ3系の多価不飽和脂肪酸がアザラシにあり(元はというとアザラシの食べる魚に含まれ、さらに言うと、魚自身は作り出すことが出来ず、魚が食べる動物性プランクトンが作ります)、それが世界の注目を浴びました。
魚にはオメガ3系の多価不飽和脂肪酸のほかに、単価不飽和高級脂肪酸があります。単価不飽和脂肪酸で炭素の数が18のオレイン酸(C18:1)はオリーブ油などの植物に豊富で、ラードなどの飽和脂肪酸に比べて身体によいことになっています。C20以上になると、植物にもありますが、含まれる割合は極度に減ります。
ちょっと寄り道をすると、プロスタグランジンなどを作るためのアラキドン酸はオメガ6のリノール酸から作られ、これはヒトの体内では合成出来ないので、このリノール酸は必須脂肪酸と言われています。
オレイン酸よりも長いC20:1やC22:1の単価不飽和高級脂肪酸は、当然アザラシの肉にも、いわゆる青魚にも沢山含まれていますが、どうしてか大して注目を浴びなかったのですね。
チビ楊のいる会社は日本でも有名な漁業会社で、収穫した魚は油、肉、肥料など、ありとあらゆる用途と必要に合わせて市場に出していますが、新しい用途も生み出すためさまざまな研究をしている訳ですね。今まで、植物油にはなく、魚油に含まれるC20:1やC22:1などの単価不飽和高級脂肪酸の効果は誰も研究していなかったのに目を付けて、その研究を始めたわけです。
その成果がこの3年間に立て続けに発表された彼女の論文ですね。
まだその機構は分かりませんけれど、たしかに魚油の単価不飽和高給脂肪酸は高脂血症、高コレステロール症、II型糖尿病に著効があることが見事に示されています。C20:1やC22:1の単価不飽和高級脂肪酸の二重結合の位置はオメガ3ではないのですが、食事にこれらの単価不飽和高級脂肪酸を与え続けると、体内のオメガ3の多価不飽和脂肪酸が増えるですよ。これは今の生物化学の知識では説明出来ません。
好奇心が沢山刺激されますが、当然のこと、米国のNIHもこの研究を知って彼女を研究員として招聘しようという気になったでしょう。本人が希望しているのでなおさら当然のことです。この先、チビ楊はもとの会社に戻ることなく、学術研究者の道を歩くに違いありません。
カテゴリ:生命科学
さえ:
いま日本では小保方さんという若い理化学研究所研究者がNatureに出した論文のことで大騒ぎです。簡単に言うと、3年前に小保方さんが早稲田大学に出した博士論文はこのNatureの論文とは全く関係ない主題なのに、その論文に載っている図と同じものがNatureに使われている、つまりNatureの論文の内容は疑わしい。
ついでにもっと詳しく調べた人がいて、小保方さんの博士論文のIntroductionの部分の約20ページが、広くネットで読むことの出来る全能細胞の解説と全く同じであるそうです。
ぼく自身がこの論文で指摘されている欠陥(流用、あるいは剽窃)を見つけたわけではないので、それについては何とも言えません。
初めてニュースを聞いたのは1月末に日本に春休みで戻った頃で、話を聞いて、大したことを見つけたなあ、iPS細胞の概念を初めて提出したのが日本の山中博士ですから、その概念の上を行く全能細胞の簡単な作り方が日本で見つけられて良かったなあ、という感想でした。
その後、Natureの論文を実際に読んでみて、もちろん今話題になっている欠陥は分かりませんけれど、驚いたのは生後間もないマウスのリンパ球で実験をしていることでした。
リンパ球は自分の身体の作るタンパク質以外の異物に対して抗体を作ることが出来ますが、それはリンパ球が自分自身のDNAを組み替えてさまざまな配列のDNA(つまり元来自分で持っていないDNAの塩基配列を無数に作り出すことで、異なる配列のタンパク質を認識出来る抗体を(沢山の種類)生産出来るようになると言うことを、利根川博士が見つけてノーベル賞をもらい、私たちはこれを教科書で読んで学んでいるわけですね。
この組み替えが起こったDNAを再度組み替えて受精卵と同じDNA配列に戻すことは、容易なことではないでしょうね。分化した細胞のDNA(メチル化、ヒストンのアセチル化などの修飾を受けているけれどDNA配列は本質的には変わっていないと思われています)が遺伝子導入で(これが山中博士の方法ですね)リセットするのに比べると、それだってまだ機構の説明が付いていませんが、大変なことでしょう。
それが、細胞の環境を30分ちょっと酸性にするだけで、初期化が起きてしまうと言うので、びっくり。一体、どのようなメカニズムなのだろうかと、むくむくと疑問が湧きました。といっても、疑ったのではないのです。学問的に全く考え難いことなので、どうしてだろうと思いますが、学問の進歩はそれまでの常識が次々と覆るのは当たり前ですから、新しい概念が出ることは受け入れて、その新規さに感嘆したわけです。
そう言えば、がん組織では細胞増殖が盛んなのでその環境は酸性になることが知られています。細胞周囲が酸性になることでがん細胞が初期化されて全能性を獲得するのが容易なのだろうか、つまり盛んな増殖能力を獲得するのだろうか、とするとこの小保方さんの論文と通じるものがあるね、と思ったりしていました。
ところで、このように世間が騒いでいても小保方さんは何のコメントもしないのですよ。理解に苦しみます。唯一の可能な解釈は、すべてが捏造だったのだろうかと言うことですね。
ネットで理研の野依さんが15日に記者会見で語ったところによると、Natureの論文に切り貼りの図を載せているそうですが、違った写真から目的に合うような写真を切り貼りで作ることに、著者の小保方さんに全く罪悪感がないことに驚いたということです。
それで思い出したことですが、ぼくたちが瀋陽に来る前にいた研究所で、私が採用試験の結果で相談を受けて強く推薦して採用された若い研究員の研究報告を見ていた管理職の人たちが、その報告に載っている図画が切り貼りの合成写真だと言うことを見つけて、秘かに問題にしました。私はその結果を見せられただけで、何の権限も持っていなかったので誰にも話をしていませんでしたが、その研究員はその事実の指摘を受けたのかどうか知りませんけれど、それから間もなくして母校に職を得て研究所を辞めました。
小保方さんは、写真の切り貼りで合成写真を作ることは全く問題ないと思っていたそうですが、いつからそのような風潮が当たり前になったのでしょうね。ぼくたちの研究倫理では考えられないことですが、倫理観の問題だけではなく、PCで切り貼りが出来る時代に育っていないからかも知れません。
切り貼りで作る新しい写真は元々存在していないものだから嘘である。これで人を説得することは詐欺である。捏造を含む論文を書いたら、それで一巻のお終いで、二度と研究者としての将来はない。という教育を改めてしないといけないと言うことですね。
そう言えば、あのときの研究員は今は40歳を超えたくらいですが、その後どうしているでしょうか。切り貼りを普通にやって生きているか、あるいは今回の小保方さんの事件で、あれっと密かに反省したか。。。
カテゴリ:生命科学
さえ:
赤ん坊が生まれると母乳で育てるのが一般的ですが、母乳の出が悪いなどの理由があると人工乳で育てます。さらに女性が母乳で育てると自分の容姿に関係するからという理由で早々に母乳哺育をやめて粉ミルをで作った人工乳に切り替えることが、一頃米国で、そして日本で、流行りましたね。
いまの日本では母乳が良いということになって、一時流行した人工乳哺育は下火になりつつあります。
アメリカに疫学調査では、母乳育ちは人工乳に比べて消化器の感染による病気が50%少ないという結果を出しています。(資料1)
母乳の何か良いのかというと、IgAが含まれているからとか、子供の腸内細菌叢を助けるからとか、いろいろと言われています。日本のサイトを見ると、母乳を飲む方が子供のインシュリン分泌が高くなるので消化を助ける、あるいは、子供が便秘しにくいとか言われています。
最近のJBCに、面白い論文が出ました。(資料2)
これによると、母乳に含まれているヒアルロナン(HAと省略しましょう)が小腸上皮細胞に働いて、細菌をやっつけるディフェンシン2を分泌させるからだというのです。このHAは生体高分子の一つで皮膚、軟骨、関節液や結合組織に多く含まれているもので、分子量400万になる大きなそして含水性の高い分子ですよね。
母乳で調べると、出産の後2ヶ月間はかなりたくさんのHAが母乳に分泌されています。この母乳由来のHAや、あるいは精製したそして分子量が35 kDaのHAをマウスに与えるとマウスの仔でも大人でも、小腸上皮によるディフェンシン2の分泌が高まります。与える時にこのHAを分解する酵素で処理してしまうと、その効果がなくなるのでディフェンシン2を分泌させるのはHAであるということになります。
ディフェンシン2というのは小腸上皮細胞やマクロファージが細菌の存在をTRL4によって感知すると、分泌する鉄砲玉のような分子で、細菌にあたると鉄砲玉が相手に穴をあけて細菌は死んでしまうのですよ。
調べてみると実際に小腸上皮にTRL4が発現していることが大事です。それ以上の細かな機構はまだわかりませんが、母乳の中のHAが赤ん坊の腸内感染を防いでいることが明確に示されたのですね。
マウスの大人でも、ディフェンシン2が増えるのも示されました。ということは、ヒトでもHAを食べれば腸内感染を減らせるということです。
このHAは今では化粧品、スキンクリーム、ローションなどにも添加されていて、その供給元はニワトリのとさかです。あの赤い、ぶよぶよとした。。。
この精製されたHAを食べ続けようと思うとかなりの費用がかかるでしょうが、手っ取り早く食べるとすると、ニワトリの足(ニワトリの爪)が良いです。皮膚にHAがかなり含まれています。ニワトリの爪は形が紅葉みたいなので、日本では鶏もみじと呼ばれていますが、まず普通には食べないので手に入りません。
しかし中国では食肉を売るところでは当然手に入りますし、スナック菓子としてもいっぱい売られています。イギリスではこれまで捨てていたニワトリの足が売れることがわかったというので、回収して中国に輸出を始めるというニュースを読みました。(資料3)
中国での衛生状態は日本に比べると概して良くないのですけれど、それでも大して悲惨なことにならないのは、彼がこのニワトリの爪を非常に好んで食べるからではないか、というのが、ぼくの今日の発見です。さ、今日もまた、おやつにどうぞ。
(資料1)
Howie PW, Forsyth JS, Ogston SA, Clark A, Florey CD.
Protective effect of breast feeding against infection.
BMJ. 1990, 300, 11-16.
(資料2)
Hill DR, Rho HK, Kessler SP, Amin R, Homer CR, McDonald C, Cowman MK, de la Motte CA.
Human milk hyaluronan enhances innate defense of the intestinal epithelium.
J Biol Chem. 2013, 288, 29090-290104.
(資料3)
「英国の廃棄物が中国ではごちそうに!英閣僚、直ちに輸出すべしと提言―中国メディア 」 Record China 2012年11月24日
この正月は一大決心をした。2003年の秋に参加して以来、瀋陽の生活である意味では心のよりどころだった瀋陽日本人教師の会を辞めることにした。
私は2009年に資料室の再立ち上げを企画し、それ以来資料室の運営と充実に心を砕いてきたつもりですが、2013年の秋に代わった新しい代表から理不尽な激しい攻撃を受けて、集まりに出る気が失せました。
その時の状況は当時のブログに書いています。
1年半近くたって、またその集まりに戻る頃ではないかとも思いましたが、結局辞めるという選択をしました。
現在の代表をしている中谷先生に書いたメイルは以下の通り。
—— —— —— —— —— ——
中谷 豊先生
ご無沙汰しております。
年が明けて、教師の会はさらに新しい活動に向けて躍進の様子、お喜び申し上げます。
ところで私は2012年秋から、会友という名前の、何等活動しない状態でうち過ぎてきましたが、2013年度も半ばを過ぎたことですし態度をはっきりさせようと思うに至りました。つまり、退会したいと思います。
2003 年の秋以来2012年の夏までは、瀋陽日本人教師の会は私にとってはとても大事な集まりで、その活動の維持と発展のために私は自分たちの研究以外には最大の努力を注いできました。しかるに2012年度の鈴木代表によって、それまでの私の活動が間単に否定され、会の集まりに出る気を失いました。
その後は、教師の会がどのように推移するかと見守ってきましたが、私を擁護する声もありませんでしたし、資料室はいつの間にか副代表の主宰する日本語学校に移転することが決められました。2009年以来資料室の再興に努めていた私には何の断りもなしの事後通告だけでした。これは私にとっては信じられない話ですし、とても寂しいものでした。
在瀋陽日本国総領事館主催の天皇誕生日のお祝いの集まり、新年の祝詞交換会も2012年秋からは招ばれなくなりました。瀋陽日本人教師の会が招待者名簿の作成に関わっていますので、当時の執行部の悪意にも失望しました。
2012年度はもちろん、2013年度に入っても教師の会の名簿を送ってくださるようお願いしましたが、全く無視されました。
という訳で、今は瀋陽日本人教師の会には全く興味を失いましたので、会友でいる意味がなくなりました。
中谷先生のご健康を祈ります。
草々
—— —— —— —— —— ——
2003年以来の懐かしい人たちの顔が眼に浮かぶ。途中で辞めてしまうなんて情けない話だが、何ごとにも終わりはあるものと思うしかない。自分で決めたことだ。諦めよう。
後記
なお、中谷さんからこれに対しての返事はなかった。
長年会員として参加し、或いは積極的に活動に関わってその活動を楽しんできた瀋陽日本人教師の会から抜けたことを、昨日このブログに書きました。
この数年の会の状態が私にとって満足出来ないものになったので抜けたのですが、批判するだけではなく自分が会の運営に参加する道も、もちろんありました。
実際、瀋陽に来てから2年目の2005年にそれまで瀋陽に長年おられてこの会の中心だった石井康男先生が寧波に去られた後、代表に何度も推薦されました。でも、ぼく自身が本物の日本語の教師ではないので、日本語の先生の集まりの中心になっても先生たちの気持ちが分からないと思って辞退し続けました。
2007年にさえのがんの再発が見つかってからは、教師の会どころではない日が来ると思って、代表になることを避けてきました。2010年の秋、それまで代表だった多田先生が帰国されたままで代表になり手がいなくて苦慮したときこそ代表を引き受けるべきでしたが、さえの病状がまさに篤くなっていたときでした。
2010年は代表のなり手がいなくて会の危機と言って良く、やっと代表になった宇野さんは、人としてまるで未熟で教師会の信用が外部機関に対して失墜しました。代表になったことが嬉しくてたまらないような人がなるのですから、うまく会が機能するはずがありません。彼が二年間代表を続けた後、彼を会員の一人である鈴木さんが痛烈に批判して代わりに立候補して、反対もなく2012年度の会の代表になりました。
この会は、会員の中から立候補すると、表だって反対がない限り代表になる仕組みです。私たちがこの会に入ったとき、代表は瀋陽に長くいる人の中から立候補または互選で選ぶとなっていておかしいなあと思ったものです。それはある年の初めての集まりに、初めて参加した新人が「あ、私がなりたいわ」と立候補して代表となりその一年間めちゃくちゃな運営だったことに懲りて、この規則が出来たそうです。
2009年から私は資料室を再び立ち上げるために全力を注ぎました。多田先生は瀋陽を去るときに沢山の本を寄付して下さったし、石田先生は日本から本を一箱送って下さいました。でも資料室をここまでにしたのは私の力が大きかったと思います。資料室に本を集め、個人的にも沢山の本を日本から送りましたし、まさに私費を投じて資料室の充実に力を注ぎ、本の整理をしました。
しかし、以前ブログに書いたように、2012年度のすずき代表は彼の方針に反した意見を述べる私が目障りだったのでしょう、ぼくのやり方をあげつらったのです。本に貼るラベルをどうして日本で買ったのか、中国で買えば安いじゃないかとか、資料室のために送った本の送料が高すぎる、自分の必要な本を送ったのだろうとかまるで下司の勘ぐりですね。資料室に寄付する本の送料を教師の会が負担することは以前の会で決めてあることなのでよ。私はこのとき一度だけその規定によって送料を請求したのです、そのために私たちや私以外の会員が教師の会にお金を貯めてきたのですから。
品性下劣で厭なやつと付き合うことは自分に許せないことですから、ぼくは会に出ることを止めました。
この代表はそれまで貿易会社をやっていたようですが、知り合いの伝手で撫順にある学校の日本語教師になったようです。代表になってからは日本語教育を専門にしてきた日本語教師を誰一人として代表を助ける副代表(三人でした)に選ばず、かなり偏った考えの持ち主でした。日本語を教える資格を持つ先生たちへの劣等感の裏返しなのでしょうか、教育に携わっていた日本人教師を目の敵にしていたように思います。
2013年秋には高校の日本語教師の中谷先生が代表になって、教師の会の立て直しが図られています。たとえば、資料室は私が会の集まりを休んでいる間に、副代表の一人の吉村先生が経営に関わっている○○日本語学校に移されました。これはこれで利用しやすくなるという利点があります。
瀋陽日本人会が、この○○日本語学校にある資料室の本を瀋陽日本人会の会員にも貸し出すことにして、在瀋陽日本人に公告しました。
(昨日、日本人会から会員宛に知らせが届きました)
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瀋陽日本人教師の会資料室のご案内
瀋陽日本人教師の会昨年、本会の資料室を瀋陽市国潤外語培訓学校の好意によって該校に移転したことにより、多くの日本の方や中国人の方々にもご利用頂きたく、ご案内させて頂きます。
名称 : 瀋陽日本人教師の会資料室
場所 : 瀋陽市国潤外語培訓学校 沈阳市和平区15纬路32号
交通アクセス:地下鉄-南市場 徒歩15分
バス 188,246,272(太原街行き) 徒歩1分
188,246,272(浑南,五爱街行き) 徒歩5分
詳細情報は添付している地図、写真にあります。
連絡先: 携帯:186-09888905 E-mail:yoshimrm@yahoo.co.jp
(資料室担当 吉村 政和)
ご利用時間:平日9時~15時、土曜日9時~11時30分
利用方法 :閲覧は利用時間内で資料室 (椅子、机は20人分あります)内でお願いします。
貸し出しは、1人1回5冊まで可能です。
貸出期間は2週間までです。
本を借りる場合は貸出表に必要事項を記載して下さい。
※本貸出表のサンプルを添付しております。
利用対象者:日本の方、日本語学習者はもちろん日本について知りたい方ならばどなた」でも自由にご利用できます。
※施設内には日本語が話せる者が常にいる為、中国語に自信がない方でも大丈夫です
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図書を有効に利用出来るようになって喜んでいますが、本当を言うと、この資料室を作ってきた私には何の知らせもないので、ちょっと鼻白んでいるところです。
教師の会のいまの代表は、さらに再開された研修会を広く日本語教育に携わる中国人教師その他の関心ある人たちに開放して開催するとか、今の状況に即した改革を図っているようです。
実際、教師の会の改革は焦眉の急で、この数年の間に魅力を失った教師の会から去る人が増えて実質の参加者は10人くらいになっているみたいです。中谷先生の努力が功を奏して、改革が遅きに失したことにならないように願っています。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
瀋陽では、この1週間気温が上がり続けて昨日の最高気温は20度になりました。朝の室内では28度にもなっているのですよ。まだ下着のサーモテックを脱ぐには早いので、汗が出てきます。
窓を開けて風を入れたいところですが、朝から外は真っ白で隣の建物が見えないほどでした。大学に着いてからネットで調べると外のPM2.5は300を超えていて、窓を開けるのは躊躇われます。それで、部屋の冷房をONにしたのですよ。今朝のAQIは209でした。Very Unhealthy ですけれど、これが普通です。
WHOに発表によると中国とインドでは大気汚染のための死者の数が突出しているそうです(資料1)。何とも、やばい国ですね。
昨日はレンギョウが咲いているのを見つけました。ここでは迎春花といいます。今朝は大通りの桃の木が花を付けているのを見ました。例年より早いのではないかと思います。これで長い冬ともお別れで、嬉しいですね。
ところで昨日、密かに(心の中では大いに)自慢できることをしました。
この建物の10階に一つの部屋貰って倉庫にしているでしょ。この頃は頻繁に使うことがなく、4年くらい前に大掃除をしたきり使っていなかったと思いますが、中に入れたものが必要になって出掛けました。以前からドアが開けにくいという話を聞いていましたが、外開きのドアが開きません。
よく見ると、鉄の扉が鉄の枠の中でゆがんでいるのが分かりました。右側が蝶番で、そちら側の上の方には隙間がありますが、ドアの鍵の付いている左側はとくに真ん中から上部がぴったりと枠にくいこんでいる感じです。
鍵は掛かっていないみたいで、少しドアが枠から浮いています。把手がなくなっていて引っ張りようもなく、最初は手の打ちようもないと思いました。
でも、ドアが左にかしいで枠にきつくはまり込んでいるなら、右の方向にドアそのものを動かしてやれば良いのではないかと思いついて、ドアの左側と枠の間にドライバーを金槌で打ち込みました。
打ち込んで、次にやっとの思いでドライバーを抜き取ると、そこに一寸だけ隙間が出来るのですよ。じゃあ、ドアの左側と枠との間に、ドライバーを打ち込んでいって隙間を作ればドアが開くはずだと考えて、作業に取りかかりました。
一緒に行った二人の学生はしばらくの間、ぼくの作業をただ眺めていただけですが、やがて、希望を感じとったようで隙間を広げる作業を代わってくれました。
やがて、この作業が功を奏し、ドアは静かに手前に開いたのですよ。腰は大分痛くなったけれど、大感激の瞬間でした。
(資料1)
「WHO報告の大気汚染700万人死亡、大多数は中印両国」 2014年03月26日
http://blogos.com/article/83111/
カテゴリ:生命科学
さえ:
Natureに載った小保方さんの STAPの論文はどうも怪しいと世間で騒がれていますけれど、普通に読んだだけでは、いわゆる偽造、剽窃、捏造疑惑など出てくるわけがありません。
実験検証はその実験が対照をきちんととっていて、ものを言うために必要十分な考慮の下に実験がなされているかが第三者にとって大事なところです。査読をするときはここが一番大事です。
著者が言いたいことを裏付けるのに十分なデータとなっているかどうかの一つ一つの積み重ねが一つの論文となるわけで、論理的に意味のある考えの下に検証可能な実験がなされていることが論文の価値を決めるポイントですね。嘘を見抜こうと思って査読をすをするわけではありません。
ちゃんと一流紙の査読を通ったはずの論文でも、往々にして実験が不備だったりして、そんなこと言えないじゃないのと思わず口に出ることもあります。
ですから、ぼくたちのJournal Clubは一流誌に新しく発表される論文を読んでそれを紹介しますが、結果を鵜呑みにするな、審査員になった気持ちで人の論文を読みなさい、実験が論理的になされていてその主張したい結果を科学的に支持出来るかどうか何時も批判的な気持ちで読みなさいと、何時もみなに言っています。
こうやって論文を読みながら、学生は科学的思考法を身につけていきます。
それでも、論文の中に意図的になされた偽造があったとしても、それは辻褄が合うように細工されているのは当然ですから、見抜けないのが普通です。
Natureに載った小保方さんの STAPの論文ではFig. 1にDNAの電気泳動が載っていますが、別々の結果を継ぎ接ぎをしていることを見破った人がいます。
大したものですね。本質的に切り貼りのうその電気泳動図を出すことなどあり得ないという先入観がぼくたちにはあるので、写真そのものの偽造は見抜けないのでしょうね。
小保方さんも、汚れた電気泳動図よりも二つを寄せ集めた方が綺麗になると思って継ぎ接ぎをしたのか、或いは不都合な真実を隠して新発見という都合の良い内容にでっち上げるための泳動図を作出したのか、どちらかでしょう。
前者の、悪意のない切り貼りだとしても、これは以前ここに書いたように、多分これが原因で若い研究者が以前ぼくたちのいた研究所から追い出されています。
Fig. 2eではそれが小保方さんの博士論文に、全く別の内容の記述の実験として載っていたものと同じだそうです。同じ領域の研究者でも、査読をする人たちでも、或いは一般の読者でも小保方さんの博士論文までは読むことはありませんから、これを見抜くのは困難なことです。
しかしあら探しに熱心な人が見つけたように、これが別の全く違う主旨の論文に載っていたものとなると、このNatureの論文の内容の信頼性を一挙に喪わせるものですね。
世間をこれだけ騒がせても、小保方さん本人が出てきて一語も発言しないことは、これが捏造であることを限りなく示しているように思えます。もしこれが自分だったら、そして論文を書いた以上捏造ではありませんから、説明するのに言葉が足りなくても、泣き出したとしても、嘘ではない、捏造ではない、真実の結果なのだと声の限りに主張し続けるではずです。
本人が認めない限り、このNatureのSTAP論文が捏造なのかどうか直ぐには分かりませんが、もしも捏造だとしたら、小保方さんには研究者としての将来はないでしょう。前に書いた私の知っている事件では、その若い研究員は研究所から追い出されても母校で拾われてその後大学内で昇進していきましたが、小保方さんの場合には有名になり過ぎました。
気が早すぎるかも知れませんが、これが捏造だとしたらどのような罪に問われるのでしょうか。
道義的な責任が問われて職を失うだけでしょうか。
東京大学教授だった私の知人は、研究室の助手が書いた論文が捏造とされたために監督責任を問われて解雇され、その後職に就いていません。
以前同じ研究班にいたことで知っている某私立大学教授は、科研費を私的目的に流用した疑いで解雇されました。最近その消息を知りましたが、シンガポールの国立大学の教授をしています。
「罪を憎んで人を憎まず」と言われていますし、罪をあがなったら(前職を失い、刑期をつとめたら)建前としては前科者としては扱わない社会ですが、研究のモラルに抵触した人が再び研究職に就くことには問題があるように思います。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
書くのが遅くなりましたが、1月末に成都に遊びにきました。大学の春節休暇は6週間あるのですけれど、おさえちゃんのいなくなった日本のうちに帰ってぼくが一人でいるのは精神的に良くないからと、日本の滞在期間を短くするために暁艶が中国で遊びにいく計画を立ててくれました。
今年の卒研生の一人の盧思竹さんが成都出身なので、彼女に案内役になってくれるかなと頼んだところ快諾してくれました。昨年は無錫に候滔くん、杭州に劉通くん、上海に楊方偉くんがいたので同じように彼らを頼って遊びにいったのと同じです。
成都は三国志で出てくる劉備が諸葛孔明の策によって蜀を建国したときの首府です。二千年の歴史があるのですね。しかも名前がそのあと一度も変わったことがないという珍しい都市です。ぼくはこのくらいしか知識がなかったのですけれど、中国人が中国で一番住みたい街が成都なのだそうです。気候は温暖、食べ物がおいしく、人々の暮らしもゆったりしていて、あちこちに茶館があって街の人たちがそこでお茶を飲みながらおしゃべりや麻雀で時間を楽しく過ごすのだと、と皆が教えてくれました。成都という言葉は魔法のように皆のあこがれを引き起こすみたいです。
瀋陽からの飛行機は、途中内モンゴルの包頭に寄ったので5時間掛かって成都に着きました。ダイレクトフライトでも4時間くらい掛かるみたいです。瀋陽と成田は2時間半から3時間ですから、中国は広いことを実感します。
空港には盧さんの父上が車で迎えにきてくださって、友人が持っている日本で言うマンションの一室(日本式に言うと2LDK で100平方メートルくらい)に案内されました。そのお友達は幾つかのマンションを持っていて、今たまたまここが空いているので使わせてもらえるのだそうです。18階の高層ビルの16階でした。この建物のある敷地や、周りの一帯には30階から40階建ての住居用の高層ビルが林立しています。ここは第二環状道路の内側で、後で第二環状道路の外側にある盧さんのうちで夕飯のご馳走になりましたが、そこも30階建ての高層ビルが林立する住居区でした。
成都の街の内外を観光して歩いた五日間の印象をまとめると、どうしても瀋陽と比べることになります。人口は瀋陽の700万人に対して900万人の成都は、遥かに豊かな街だと思います。冬なのに街路樹が緑の葉を茂らせているのでそれだけでも印象が違いますけれど、道はきれいに整備され、ゴミも全くと言ってよい程落ちていないし、きちんとしていて清潔です。街を歩く人たちも唾や痰を吐く人はきわめて少ないですし、衣食足って礼節を知るという中国の言葉にぴったりです。
地下鉄には乗る機会がありませんでしたが、バス網が非常によく発達していて、しかもそのバスがどれも低床で乗りやすく、車体がきれいなのですね。瀋陽でも数年前からやっときれいな車体のバスが走り始めましたが、そのもう一つ先を行っています。
バスに乗って見ていました。優先席が空いていると若い人も座りますけれど、老人が、あるいは老人でなくても座っている人たちよりも年長の人が乗ってくると、直ぐに席を譲っているのです。
驚きの光景です。十年前には日本から瀋陽に着いた僕たちは、バスで年寄りに進んで席を譲る若者たちの姿に感激しましたけれど、このごろはあまり見かけなくなっていたことを、今回改めて認識しました。もちろん、成都の街の中心で遊んでから混んでいるバスに乗ったぼくは、ちゃんと席が譲られたのですよ。瀋陽ではまず味わったことのない経験です。日本では全くない経験したことがありません。
街で出会う人たちの身なりは誰もがきちんとしていて、貧しさを感じさせる人たちには、ついぞ行き合わせませんでした。松葉杖をついてお金を無心して回る男も、擦り寄ってきてコップを突き出す女も皆、身綺麗なのですよ。
瀋陽に重工業、航空機産業、IT産業などがあるのに比べると、成都にはそのような工場は殆どないという話です。それでも街全体が豊かなのですね。おまけに、バスに乗っているとわかりますけれど、背の高い人は少ないのですよ。ぼくでも人の中に埋もれてしまうことがないのです。女性は美しいし、街はきれいですし、食事はおいしいし、このさき住み続けることがあったら成都にしたいですね。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
14年前に瀋陽を訪れたときに見た中国の案内書のイラストに、眼が異様に大きな三角形の人の頭が載っていました。三星堆遺跡から発掘された古代文明との説明でした。
1986年四川省で発掘された青銅製人頭像を作った文明は、三星堆文明と名付けられています。中国文明は黄河沿いに発達した黄河文明じゃから始まったと言われてきましたが、揚子江沿いにもそれとは別にいくつかの文明が発達したことを示しているということです。
つまり歴史は勝者のものであり、後に中原を支配した国々に繋がらない文明は長い間歴史から消えていたわけですね。秦の始皇帝の統一の前の7カ国の地図には四川省の蜀は入っていますが、三星堆文明から秦の国へと歴史は繋がっていません。
この大胆にデフォルメされた人の顔の実物を何時か見たいねとさえと話していましたよね。このたび、四川省の成都を訪れてその願いが叶いました。
成都の北にある広漢市の郊外で発掘された遺跡には土地の名前が冠されて三星堆遺跡と呼ばれ、その広大な遺跡の一部に博物館が作られていました。成都の武侯祠からバスが出ています。パンダ基地経由で約2時間。
発掘によると、一辺が4 Km位の長城で東西南が囲まれていて北が河に面している国だったみたいです。今は広い地域がこの博物館のために整備されていて、遺跡の発掘された場所の一部です。美しい公園のように整備された敷地のなかには建物が幾つか点在していて、その一つが青銅館でこの博物館の遺物の中心の位置を占めています。説明によると、この三星堆は約5千年前から2千年前に栄えた文明で、記号が残っているけれど解読されていません、それでも王朝の王の系図が幾人かたどれるみたいです。
圧巻が青銅人頭像で、まるで飛行メガネを掛けた宇宙人です。良くここまでデフォルメをする想像力を働かせたものと驚きです。世の中はフランスで印象派やキュービズムの絵画が出るまでは、人は正直に、その見た形を実直に写し取ることしか出来ませんでしたよね。
この大きな、下に突の三角目玉を思いつく想像力に感激しながら、自分を鏡に映してみていて、大発見をしました。
鏡に映るぼくはハンサムと言われた頃の若い頃と大分違って、目の下がたるんでいて暗い色が付いています。房事過度に亘ると目の下に隈ができると言われていますが、そんな感じですね。ぼくは房事過度に及んだことはないし、今では長年に亘ってとんとご無沙汰ですからぼくの目の下の隈は加齢によるものでしょうけれど、ともかくこの隈まで含めて目とすれば、巨大な三角形の目玉が出来ます。一般的には誰でも老人になると、大抵目の下がたるんでいますよね。
昔は老人になるまでに病気や戦いで死にますから、老人は珍しい存在だったでしょう。そして老人は智慧の固まりのはずですから、少なくとも伝承文化の中では、人々は老人を大切にしたでしょうね。つまり賢人は老人であり、それを象徴するのは老人の腫れた下瞼を含む大きな三角目玉だったということでしょうか。これは下瞼の腫れが三角目玉を思わせるという話を暁艶に喋っているときに、二人の会話が引き出した結論です。つまり巨大な三角目玉は賢人を象徴しているのだと。
この青銅製人頭像は王の墓の埴輪として使われたものらしいですが、王は賢人に取り囲まれて眠りに旅立ったと言うことでしょう。
別のところに展示されている大きな青銅縦目仮面を見ると、大きな耳、瞳が長く突き出した目玉、大きな鼻に驚かされます。これは王の仮面ということで、そう言われてみると、なるほど、王のあるべき姿を象徴していますね。
大きな耳で民のつぶやきを洩らさず集め、突き出した眼ですべてのものを眼中に収め、敏感な鼻で収拾したすべての情報を頭に収めるのが世の上に立つ人の資質なのだということがとても分かりやすいです。おまけにこの仮面は大きな唇で笑みを浮かべているのですよ。為政者は強面ではいけない、民には優しく接しなくてはならないことを身を以て示しているのでしょう。
この三星堆文明と、その後の中国主流の文明は繋がっていないみたいですが、三星堆遺物の中にある青銅神樹には龍が巻き付いています。神聖な生物としての龍の神話はこの三星堆文明にもあって、それが中国の主流の文明として後代に伝わった可能性があるというのが、成都を五日間に亘って案内してくれた蘆さんの話です。だって、別々の地域に興った文明が龍の神話を同じように共有するのは考えにくいと言われると、その通りですものね。
記号が解読されれば謎は解けるでしょう。そしてまた、保存状態の良い人骨が発掘されれば、ミトコンドリアDNAの分析でさまざまのことが分かってくるでしょう。いろいろと知りたいことが沢山あります。生きると言うことは楽しみを与えてくれますね。
カテゴリ:生命科学
さえ:
4月1日に理研は記者会見をして、小保方さんのNatureの論文には不正があったと発表して、小保方さんを切り捨てました。
DNAの電気泳動図に切り貼りがあったのと、分化した細胞の写真が関係のない論文から持ってきた盗用・剽窃が不正であるという発表です。しかしSTAP細胞が分化した細胞から出来るのかどうかについては触れていません。
小保方さんは別の場に弁護士付で現れて記者の質問に答えたようで、理研の決定に不満を表明しています。
小保方さんはDNAの電気泳動図に切り貼りは、同じものを美しくみせるためであって、騙すという悪意があったのではない。分化した細胞の写真を間違えたのも悪意からではない、選ぶときの単純な間違いだった。つまり悪意がなかったから不正ではないという主張をしています。
ぼくは彼女の行為は悪意があろうがなかろうが、不正だと思います。ぼくたちは今まで決してしたことのないことです。
ぼくたちは日夜心血を注いで実験をして、実験結果を出しています。1回の実験では偶然そうなったかも知れないので、その実験を別々に(独立に計画して)少なくとも3回実行して(標準偏差を計算できる最少数ですね)、その実験結果に基づいて主張をします。標準偏差値が0.05以下に収まらないときには5回、7回と実験数を増やします。
Real time PCRがある実験で得られる結果であることもあるし、電気泳動が結果であることもあります。たとえば、電気泳動をする試料は、細胞をある条件で、たとえばある試薬のある濃度で、ある一定時間処理したものだとすると、この実験そのものを数回独立に繰り返すのですね。電気泳動後普通はPVDF膜にブロットしてから免疫染色をしますが、このときの染色されたバンドの濃さがデータになります。
実験の回数分の電気泳動のパターンが出来ます。nで表される実験数になるわけですね。統計処理をしたデータをグラフにして示し、その元になる電気泳動図は、数回の実験の中で代表的なものを一つ選んで、参考に載せます。電気泳動をしたときに一つのレーンが不鮮明だからと言って、その部分を同じような実験のレーンからとってきて切り貼りすることなど思いもよりません。
数回の実験の中には必ず統計処理と同じ傾向を示す図があるのでそんな必要はないわけですね。不鮮明で見せられないレーンがある電気泳動は失敗であって、同じ試料からの電気泳動を繰り返しています。
つまり私たちは、電気泳動をしたときに一つのレーンが不鮮明だからと言って、その部分を同じような実験のレーンからとってきて切り貼りすることは決してありません。私たちは実直に実験を繰り返して信頼できるデータを得られるようにしているのです。したがって、小保方さんのしたことは不正です。
小保方さんは悪意のない行為だと言っていますけれど、自分の都合にあわせて実験結果に作為を加える行為は不正以外の何ものでもありません。無から有を生じること(捏造と言います)との間に、差がないのです。切り貼りをして無から有を作ったわけではないから許されると言うのは詭弁です。
今回、理研の判断は、この行為を不正と断じました。完全に賛成です。小保方さんのこのケースを例にして、科学論文を書くときの私たちの姿勢を改めて学生に教育しようと思います。
カテゴリ:生命科学
さえ:
世紀の発見と言われて評判になったSTAP細胞が実際に存在するかどうかは、科学論文に対する小保方さんのいい加減な態度のために、大分怪しまれています。
小保方さんの論文が責められているのは、論文の中にDNAの電気泳動図に切り貼りが見つかって、これは捏造(内容が信じられない)、分化した細胞の証拠となる写真が関係のない論文に載っているので盗用・剽窃である(つまり内容が疑わしい)と、理研の上層部によって指摘されました。
科学論文は研究者のいのちです。科学論文を書くに当たり、研究者のモラルとして、研究不正を行ってはいけないと誰でも思っているはずです。
研究者は研究不正を行ってはいけないし、加担してはいけないし、周りのものに対して行わせてはいけないのです。ここで、研究不正とは何かというと、片瀬久美子さんによると
『研究不正には、特に悪質なものとして捏造(fabrication) ・改竄(falsification)・剽窃(plagiarism)の3つがあり、略してFFPと呼ばれています』(資料1)
これを詳しく述べると(資料2)
(1)捏造:データや研究結果を作り上げ、これを記録または報告すること。
(2)改ざん:研究資料、試料、機器、過程に操作を加え、データや研究結果の変更や省略により、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。
(3)剽窃・盗用:他人の考え、作業内容、研究結果や文章を、適切な引用表記をせずに使用すること
これで研究不正の定義がはっきりしますね。
今回のSTAPを巡る意見が飛び交っている中で、どうして研究者は研究不正をしてはいけないかという話は何処にも出てきません。研究者としてのモラルの根源なのだから、言うに及ばずと言うことみたいです。
研究者として当たり前のモラルであるにしては、世の中の論文の1割くらいが大なり小なり不正な論文だということですから、整合性がありません。
考えてみると、研究者は研究不正に手を染めたら何故いけないかという理由を誰からも聴いたことはありません。
個人の倫理として、「論文にデータの捏造はしてはいけないことだ」と思っているのは結構ですけれど、その倫理の根源は何処にあるのでしょうか。
個人は罪深いものだ、しかし絶対的な神が自分を見張っているから自分は不正を行わない、という人もいるでしょうけれど、神を信じているはずの西洋の世界にも論文の偽造は多発しています。つまり、倫理観というのは定義の出来ないあやふやなものでしかありません。
ぼく自身、どうして研究不正を行わないかと、突き詰めて考えたことはありませんが、今回の事件を契機に考えたたところ、これで大丈夫かというという感じですが、以下の考えに基づいていることが分かりました。
先ず唐突ですが、何故ぼくは人を殺さないか、と質問をしてみます。人を殺すのは人としての倫理に外れるとか言う答えは嘘ですね。同じ種族を徹底的に殺し尽くすのはHomo sapiensだけですものね。人を殺して見つかれば捕まって死刑になるから怖いという抑止力はあるかも知れませんけれど、罰則がなくてもぼくは人を殺しません。
どうしてか。それはぼくが人を殺しても良いなら、人がぼくを殺す権利もあると言うことを認めることになります。
それはご免です。ぼくは理不尽に殺されたくないから、お互い人殺しをしないよね、命を尊重しようねと言う社会を作っているのだと思います。「自分の欲せざるところを人に為さず」という約束で自分の住む社会を作っているのだと思います。
論文でも同じです。
もし誘惑に駆られて、剽窃・改竄・捏造した嘘を論文に一部でも入れたら、論文は信用できないものとなります。もしも、自分が不正をすることを自分に許したらしたら、他の人も嘘の論文を書くということです。どの論文もインチキになってしまいます。
そんな嘘だらけの社会で、研究をしている意味が出てくるでしょうか。互いに真実の一歩を積み重ねていくからこそ、科学は正しく進歩していくわけですね。
研究の不正をしないのは、ぼくが社会と交わした約束なのです。互いに発表した研究成果を信じるためには、剽窃・改竄・捏造などの研究不正によって論文を書いてはいけない。つまり人を信じるためには自分は不正をしない。その結果、自分の選んだ研究者という生きる道を守ることが出来ます。
このような論理の展開は奇矯に響くかも知れません。研究者の倫理として、大上段に構えて人に説教できるものではないみたいです。
でも、どうして研究不正をしたらいけないか、それぞれの研究者に本音を訊いてみたいと思っています。
(資料1)http://blogos.com/article/83237/
『STAP細胞の問題はどうして起きたのか 』 片瀬久美子
2014年03月28日
(資料2)http://blogos.com/article/83594/
『理系は「悪意」の意味が分かっていない!(STAP論争)』 小笠原誠治
2014年04月02日
2014.04.11 EDって何だか知っている?
カテゴリ:研究室風景
さえ:
先週のJOurnal Clubで紹介された論文の図の中に、EDという略語が出てきました。
実験の内容から見て、それは実験で用いられている試薬の濃度が受容できる範囲にあることを意味していることは明瞭でした。普通はEC50 という表現を使いますよね。
『薬物や抗体などが最低値からの最大反応の50%を示す濃度を指す。 EC50は元来英語の"half maximal (50%) effective concentration"の略語』(ja.wikipedia.org/wiki/EC50)
これに対してIC50という言葉もあって、よく使われます。
『IC50は元来英語の"half maximal (50%) inhibitory concentration"の略語である』(ja.wikipedia.org/wiki/IC50)
『この定量的値は、特定の薬物もしくはその他の物質(阻害剤)が注目する生物学的プロセス(もしくはプロセスの要素、例えば酵素、細胞、受容体、微生物)の半数を阻害するにはどれだけの濃度が必要かを示し、より低い値を示す化合物は阻害剤としての活性がより高いと言える。IC50は薬学研究において阻害剤の有効性を示す値として広く用いられている』
演者は汗をかきながらEDの意味を上記のように説明してくれますが、ぼくの知りたいのはこの言葉は何の略語なのかと言うことです。
演者は知らなかったのですがもとの論文には書いてあって、それを調べた学生がEffective Doseの頭文字ですと教えてくれて、ぼくの疑問が解決しました。
中国で分子生物学や、生物化学の講義をしてきましたが、一般に中国の学生は専門用語などに略語が出てくるとその意味だけ覚えて、もとの言葉は何だったかには興味を示しません。時間と頭のスペースの無駄と思っているみたいです。
もとの言葉が分かるとそれから次々と言葉を辿って、知識と理解が広がっていくのに勿体ない話です。
ちょっと大げさな例を挙げると、こういうことです。
生化学で基本の中の基本であるATPも内容をきちんと理解していないので、殆どの学生は論文の中に、AMP kinaseが出てきても、AMPで活性化されるキナーゼだなと言うだけです。AMPが何なのか、それとATPとの関係はどうなのかを理解していません。
ATPが消費されてADPになると、もちろん正常な状態ならこのADPから細胞内でエネルギーを消費してATPが作られますが、それが出来ないときにはADP2分子からATPとAMPを作り、このATPを緊急に使います。
使われずに溜まっていくAMPは細胞にとってはエネルギーソース欠乏の危機を告げるシグナル分子です。それでAMPは特異的なキナーゼと反応して一連の反応を行い、細胞にエネルギー枯渇の危機を伝える訳ですね。AMP kinaseという言葉が出てきたら、ここまで考えられないと勉強は一体何のためにしているのかと言うことになっちゃいますね。
紹介された論文の図の中に出てきたEffective Doseに話を戻すと、ここではEC50を使えばよいケースです。わざわざ馴染みのないEDという言葉を使う必要はないはずです。
それで、集まっている学生たちに、この論文で「わざわざEDという必要はないと思いますよ、EDというのは一般的に何を意味するか知っていますか」と尋ねました。すると、誰も知らないのですね。
「一般的にEDはErectile Dysfunctionの略語で、今は何処でも一般の人に通じる言葉なんですよ。だから、この著者はわざわざここでEDを使ってみたんじゃないかな」
研究室では英語を使っていますが、学生はすべての英語を知っているわけではありません(もちろんぼくだってごく限られた一部の英語しか知らないし、使えませんけれど)。
それで、この説明には直ぐには何の反応もありませんでした。それで「辞書で(みなスマートフォンをもっていますから)調べてご覧よ」と言ってから「男性の10-20%がこれで悩んでいるんだよ。若い男でもね。男性に起こる症状だけれど、女性も無関係とは言えないんだよね。もちろん、申告した人しか統計に出ないから正確な値は分からないわけで、実はもっと多いのではないかな」と、こうなると、ぼくの独壇場です。
「男性は偉そうに振る舞っているでしょ。でも、男性が心理的な原因でEDにおちいった時、女性が一寸でも批判めいたことを言うと、もう立ち直れないほど繊細なものなのなのさ。だから女性もEDをちゃんと理解しておく必要があるんだね」と、まあ、ここまでは言いませんでしたけれど。
この著者はわざわざここでEDを使って、一寸したいたずらをしかけたんですね、きっとニヤッと笑いながら。お蔭で、多分このJournal Clubも、退屈なものにならないで済んだんじゃないかな。
カテゴリ:生命科学
さえ:
ぼくたちは細胞内シグナル伝達が専門じゃないけれど、今時、細胞を扱った研究をしていれば、否応なくそれが出てきますね。
例えばカルシウムシグナルでは、カルモジュリンの先にカルシニューリンが来て、その先にNFATがきます。ホスファターゼであるカルシニューリンがカルモジュリンで活性化されるとNFATについているリン酸基を加水分解するので、リン酸基の外れたたNFATは核に移動して転写因子として働きます。転写因子は遺伝子のプロモーター部位にある特異的配列に結合して、転写を助けます。
NFkBでも同じです。細胞質ではIkBというタンパク質がNFkBに結合していて、この状態だと転写因子であるNFkBは身動きがとれません。細胞に刺激があってIkKというキナーゼが活性化されてIkBをリン酸化すると、IkBの結合が外れてNFkBは自由になって、核に移行して目的の遺伝子に結合できます。
つまり、転写因子はDNAに(塩基が特別の配列で並んだ場所に)結合する部位を持っています。実際、クロマチン免疫沈降はという実験法はこの性質を利用しているのですよね。
ある転写因子が活性化されていれば、ある特定の遺伝子のプロモーター部位に結合しているはずだ。だからこの転写因子を活性化した条件でクロマチンを取り出して(超音波でDNAを引きちぎっておきますが)、この転写因子に対する抗体で免疫沈降して、その免疫沈降物の中に目的とする遺伝子が含まれているかどうかをPCRで調べて、もしそれがあれば、めでたしめでたし、仮説が実証されたということになります。
ほかの転写因子でも状況は同じで、活性化を受けて、核に移行して目的の遺伝子のプロモーターに結合しますから、学生は転写因子は活性化されると核に移行してDNAに結合するものなのだ、と覚え込んでいます。
でも、活性化された転写因子が核に行くのは簡単なことではないはずです。
人が新幹線を東京駅で降りて駅から皇居を探していくみたいな感じで捉えて良いと思いますが、この人は皇居に行けば自分が役立つことを知っているだけで、皇居が何処にあるかも知らないし、行ったとしても警備をどうやって通り抜けるかも知らないのです。
細胞はそのために巧妙な方法を備えています。細胞の中の核は細胞の中では特別に仕切られた場所で、入り口は沢山ありますが検問所と同じで狭められていて、特別なシャトルバスに乗っていない分子は通り抜けられません。
細胞には沢山のタンパク質があってそれぞれの場所で働いていますが、細胞質で作られたタンパク質がどういう方法でそれぞれの場所に運ばれるか(Protein sorting)の話を何時か研究室でしたことがあります。
細胞膜の上に存在しているタンパク質や細胞から分泌されるタンパク質は、タンパク質合成の直ぐ後というか合成の最中に、連続的にER膜の中に取り込まれますが、これはER膜に取り込まれるための目印がタンパク質に付いているとか(Signal peptide)、ミトコンドリアに行くタンパク質、ペルオキシゾームに行くタンパク質にはそれぞれの行き先表示の印が付いているからです。
核に運ばれるタンパク質も同じです。もちろん、核に運ばれるタンパク質も細胞質で合成されますね。でも、核の中で働くDNAポリメラーゼなどの核に運ばれるタンパク質には、核移行シグナルが組み込まれていて、ここに核の内外をシャトルするバスの働きをするタンパク質が結合し、GTPのエネルギーを消費して狭い入り口をくぐり抜けて、核に運びます。核から細胞質に運び出されるときもおなじです。
それじゃあと、ここでぼくの話を聴いている学生に質問をします。
転写因子のNFkBが活性化されて核に移行するときは、どういう機構で核に行くことになると思いますか?
すると折角聴いた話は頭からすっ飛んでしまって、「IkKが外れて自由になったNFkBはDNAに結合できるサイトがあるので、DNAのある核に飛んでいってDNAに結合出来ます」という答えが返ってくるのですよ。
転写因子がDNAに結合するサイトを持っていることは必須ですし、だからDNAに結合できることもその通りですが、核を目指して飛んでいくのは別の話ですよね。
『NFkBは核で働くタンパク質だ。だから核に運ばれる必要がある。今、聴いた話からすると、NFkBには核の移行シグナルがあるはずで、普段はNFkBが細胞質にあって活性がないと言うことは、働きを阻害するIkKがNFkBに結合して、核移行シグナルを隠して(阻害して)いるのだろう。IkKが外れることは核移行シグナルが露出することではないか』という答えを期待していたのに、期待はずれも良いところです。
一を聞いて十を知るのは天才ということになっています。中国でも『挙一反三』というそうですが、ぼくはそれを要求しているわけではありません。
材料は全部頭の中にあるのですよね、しかも今与えられたばかりで忘れる暇もないはずです。関連あることを必要に応じて結びつけて抽出するだけですね。
それが出来ないのです。子供の時から勉強というと与えられたことをひたすら覚えるだけという教育を受けていると、こういうことになってしまうのでしょう、勿体ない話です。
カテゴリ:友だち
さえ:
日曜日に、2010年にぼくたちの研究室で卒業研究をした女子学生のJiang JiaHuiさんが訪ねてきました。今は日本の会社に就職が決まって、瀋陽で申請しているビザが交付されるのを待っているのだそうです。彼女がぼくを大学に訪ねてきたのは昨年の秋で、日本の九州大学の大学院で修士課程を修了して、職を探しに中国に戻ってきた時でした。
「あれっ、何か一寸違うなあ。半年のあいだに韓国に行って整形手術を受けたんじゃない?」
元々目の大きな人でしたが、その目がはっきりと目立つようになっているのですよ。韓国に行った?という冗談は直ぐに否定されましたが、二重瞼にする手術は受けたのですって。彼女のチャームポイントは目に移ったのを見破ったぼくの眼力のすごさ。。。
2009-2010年はさえの具合が良くなくて余り瀋陽にいることが出来ず、研究室はぼく一人だったのですけれど、卒研生の申し込みを端から受け付けて、7人採用してしました。一人の教授が採用できる卒研生の限度一杯でした。卒研生は何時もなら2人で、よほど多くても4人しか採用しなかったのにね。
培養室が何時も満員で、とうとう細胞培養の汚染が起きてしまい、これは研究室のほかの人たちも被害を受けたわけですから、これに懲りて翌年から卒研生は最大で3人に減らしました。
卒研生の7人の中では彼女だけが日語以外の出身で、したがって、大学院は九州大学に行きましたが日本語が話せない状態で行ったのです。それでも、九大はかなり国際的に開かれているらしくて学部にも大学院にも留学生が多く、彼女も留学生会館に暮らし、研究室にも外国人学生が半分以上いて、全く日本語を必要としないで研究を行って修士号をとったという話です。
そのためか昨年秋に戻ってきた彼女と話をしていても、日本に留学した日本語の出来る学生とはかなり違っていて、日本の生活、日本の文化、日本の人たちに溶け込んでいない印象でした。早い話が日本に留学すると殆どは日本が気に入ってしまい、就職も日本で見つけて中国には戻ってこないのですよ。
彼女が就職した会社は世界で名の知られた製薬会社です。どんな仕事をするのかと尋ねると、会社の事業に対する外部からの問い合わせ、苦情の対応など、日本人を顧客とする会社の窓口になるそうです。
これって、大変な仕事ですね。新入りの人に務まる仕事ではないんじゃないかな。それどころか会社に長くいて会社の事業のすべてを知り尽くしている人じゃないと、実は務まらない仕事ではないかと思います。
毎年3月15日になると中国の中国国営中央テレビ(CCTV)で企業の横暴を暴く番組が人気を博していますが、今年はニコンがやり玉に挙がりました。「ニコン製D600で撮影した写真には黒い粒状の像が映り込むという苦情があって、それに対してニコンの窓口が飛んでもない対応をしていますね。おまけにこれは隠し撮りされて証拠が残っています。 (資料1)
「スモッグが中に入り込んだせい。いまは空気が悪いでしょ。こればかりは我々もどうしようもできない」(上海市の担当者)
「完全に(黒点を)なくしたいなら、ちりが全くない場所に行くしかないんじゃないですか」(広東省広州の担当者)
窓口がこんな対応をしたら、高価なNikon D600のユーザーが怒り狂うのは当然ですね。あれから一ヶ月、各地のニコンの売り場は閑古鳥が鳴いているそうです。顧客対応は事と次第によっては、このように会社の命運にも及ぶ重大なものですから、新人の、しかも日本語がまだ自由でない彼女にこのような仕事をさせる会社は、世界的な会社ですけれど、大丈夫なのかなと思ってしまいます。
つまり会社はこの仕事を重要視していないのかも知れません。電話交換手のように人工知能が発達するとなくなってしまう職業くらいに思っているのかも知れません。ぼくはうちの学生が職に就くと、その職種はが発達したらなくなってしまう職種かどうか何時も気にしています。でも、お客様窓口は、先に書いたように会社の顔ですし、ベテランでないと務まらないほどの内容だと思います。窓口案内などと言うと大した仕事じゃないみたいに思いますが、実は簡単に人工知能によって置換されない職種のはずです。
お昼ご飯はぼくが研究室で作ってそれを一緒に食べながら、人工知能が発達しても生き残れる職種を話題にして話が尽きませんでした。それにしても、彼女はこれからは頑張って日本語を勉強しないといけませんね。
(資料1)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0403M_U4A400C1000000/
「狙われたニコン 外資を裁く中国のテレビ番組」Nikkei 204年4月7日
カテゴリ:生命科学
さえ:
先日、卒業生が訪ねてきたときにコンピューターが発達して失職するような職種じゃ困るねと話していて、大学教授はどうかなと考えました。「 機械との競争」(著者:エリク・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー、 翻訳:村井章子 )という本が日本で出版されていて、これを紹介した記事をネットで読みました(資料1)
この本には、コンピューターによって置換されてしまう職種が書いてあります。最近では電話交換手などもう廃れてしまった職種がありますから、コンピューターの台頭で脅かされる人が関心を持つのは当然ですね。ぼくは大学教授・研究者が将来どうなるかに興味があります。
コンピューターによって置換されてしまう職種のワースト20が詳しく紹介されていて、受付・レジ係、時計の修理工、保険の集金者、データ入力者、裁縫師、など、単純作業の繰り返し業務はロボットで代替されてしまうというのは、直ぐに納得できます。
保険引受け業務、保険鑑定士、融資担当者、スポーツの審判、というのもこのワースト20に入っています。海外旅行保険の申し込みが今はネットからできるようになっていますから、保険引受け業務がなくなるのも分かります。保険鑑定士、スポーツの審判は判断が必要な職種だと思われますけれど、決まった枠の中の判断なのであらかじめデータを与えておけばコンピューターで代替できてしまうのですね。ルーティンの判断ならデータを蓄積しておける人工知能には敵わない時代がもうすぐそこまで来ています。
人はどんなに頑張って知識を増やしてもその正確さにおいてはコンピューターに敵いません。チェスのチャンピオンはもうとっくの昔にコンピューターに負けましたし、将棋でも人は追い詰められました。コンピューターのデータに入っていない、つまり予測できない場合にのみまだ人は勝てると言うことは、創造性がまだ人が握っている優位性ですね。
その本ではコンピューターが発達しても残るトップ20の職種が載っています。レクリエーションセラピスト、聴覚医療従事者、作業療法士、ヘルスケアソーシャルワーカーなどが挙げられていて、クリエイティブで人とのインターフェイスが大事な職種が将来も残ると書かれています。
内科医と外科、心理学者、小学校教員も入っています。これらも、人とのインターフェイスが大事な職業ですね。大学教授・研究者は入っていません。
大学の大きな目的は人を教育することですし、人の飽くことのない好奇心を育て、それを追求するための研究の場でもあります。まずは教育によって人が職を得て生きて行かれるようにし、高等教育によって彼等が指導的な立場に立てることを期待し、大学によっては国家百年の計を建てられる人材を育てようという目的もあるわけですね。
教育の原点は知識の伝承ですから、長いあいだ大学の根本は教授による講義でした。いまでも科目によっては門外不出のノートによる講義を続ける教授もいるようですけれど、自然科学の領域ではぼくたちが知っているべきことは論文、解説、教科書、成書で広く世間に行き渡っています。
つまり、講義は知識の伝授だけが目的ではなくなりました。ぼくは分子生物学の講義では、分子生物学が如何に面白い学問であるか、ぼくの話で学生が興味をそそられて自分でもっと勉強する気になるように、自分の頭を使って考えられるようにしたい、と思って話をしています。
講義録を読んでいるだけの大学教授は、コンピューター時代には不要の長物になりますね。実際、あちこちの大学で講義をネットで公開しています。先日スタンフォード大学教授のアルツハイマーに関する講義をネットで聴きましたが、内容は分かりやすく聴き手の興味をそらさないように話が進んでいきます。これでアルツハイマーについての興味がそそられれば、さらに自分で調べればよいわけですし、さらに詳しく調べることは自然科学の領域ではかなり簡単です。
こうなると、一つの専門領域で講義は一つあれば間に合ってしまいます。どれか一つの専門家でない限り何百人、何千人もの教授が不要になってしまいますが、このネットの講義の不備な点は聴衆が疑問を感じたときに、簡単には質問が出来ないことです。そうなると各大学に一人は専門家がいないといけませんが、早晩、質問に対してコンピューターでも痒いところに手の届くような的確な答えが可能になるでしょう。つまり講義しか能のない大学教授は不要になりますね。
つまりコンピューター時代には、研究能力のある人しか生き残れないのではないでしょうか。創造性しかコンピューターに打ち克つことは出来なくなるでしょう。
しかし研究の多くは、当然新しいことなのでまだ世の中には存在していませんけれど(コンピューターのデータベースには入っていないわけですが)、その殆どは既存の事実の組み合わせの上に積み上がっています。つまり、自分のやっている研究と関係ない論文を読んで、ふと新しいことを思いつくようにです。世の中の研究では、別々の事象を結びつけると思いがけない用途、新しいルートが拓けるような発見がほとんどです。
ですから、コンピューターが賢くなれば、私たちが蓄積した知識のあいだに関連があるかどうかふと思いつくように、蓄えた事柄のあいだを結びつけて新しいことを提案する(可能性を言うだけで実証されていないことが多いでしょうね)ことが出来るようになるでしょう。
PubMedなどの論文のデータベースはキイワードで論文を検索できますが、企業ではもう十年以上前からキイワード同士の関連性を検索できるようになっています
細胞内のある分子ではこういうことが分かっている、別の無関係と思われていた分子ではこういうことが分かっていて、両者の関連でもこういうことが分かっている、という具合にです。さらに別の研究から推論してきて、両者に、さらに何かを加えれば、こういう新しい関係になるのだ、ということがコンピューターに出来るようになれば、真に創造性のある研究者以外は不要となり、事実を確認するための技術者だけが必要と言うことになってしまいますね。
そう言う時代を見てみたくもあり、そんな時代まで長生きしたくもない、という気持ちです。
(資料1)
これからの20年で現在のアメリカの雇用の50%以上がコンピューターに代替される
[2013/9/23]
http://social-design-net.com/archives/9672
カテゴリ:薬科大学
さえ:
瀋陽薬科大学で仲良くしている先生の一人であるYS教授に誘われて、薬科大学の南校を見てきました。
薬科大学はぼくたちが来た2000年頃から郊外への移転の話があって、それも東北大学や中国医科大学と合併して移転するという話でした。それがなかなか実現しないうちに、その移転先も瀋陽の東の郊外だったり、北の外れだったり、やがては東北大学や医科大学からも振られて単独で、北の、今に地下鉄が延長するらしいという地点に移転するという話になったのが、もう5年くらい前のことでしょうか。瀋陽市北部への移転は、大学の新聞に鍬入れ式をする校長と書記の写真が載っていましたから、こんどはいよいよ本当かなと思ったものです。
それから一年もしないうちに、あの話は没になってこんどは本渓に移ることになったという噂が流れました。本渓は瀋陽から南に60Kmくらい行ったところで、今の瀋陽を中心とする大都市圏構想では、瀋陽を囲む7つの衛星外郭都市の一つです。古くから鉄鉱石採掘の町として発展していて、新中国ができたあと、地下大鍾乳洞が見つかったことで名高いところです。
移転のためには財源が必要で、そのためには今の敷地を売却するという噂でした。薬科大学は実にこじんまりとした敷地に建物がひっそりと、そしてびっしりと建っていますが、瀋陽の中心を十字に走る地下鉄沿線に沿っていて、今や繁華街の一部になりつつあると言っても過言ではないくらい便利なところですよね。高く売れるのは間違いありません。
前にもこのブログに書いたと思いますが、東京で都市の発展のために都心部から大学を郊外に移転させた多くの私立大学は、その結果として進学生の減少に苦しみ、バブル崩壊の後はふたたび都心復帰を目指しました。都心の拠点を少しでも残しておいた大学は、そこに高層の建物を建てて大学の復帰を果たし、学生の人気を呼び戻しましたが、都心に拠点を失った大学は悲惨なものでした。中国に先駆けて大学の都心から郊外移転を行った東京の現状は、よい教訓になるはずです。
それで大学の上層部に宛てて、日本の経験を教訓にすることで、本渓に大学の一部を移したとしても、全部が移ってしまうことはしないで、今の敷地の半分でも確保して置かないと瀋陽薬科大学の学問的地位も含めて将来危ないものになるだろうから、まだ検討の余地があるなら是非移転計画を再考して欲しいと書きました。
その後、これという反応もなかったのですよ。言ってみればよそものが、しかも何の地位も背景もない人間が何か言ったって聞く耳持たないってことかな、と思っていました。やがてそのころ大学の書記が交代して(書記が大学では最高の位で、学長の上ですよね)何とぼくの部屋に新任の挨拶に来られたのですよ(中国の慣習では考えられない話ですね)。そして、ぼくの出した意見書は至極もっともで、大学のほとんどを本渓に移すけれど、ここの敷地の半分近くは(つまり建物の半分くらいは)残すことにしたと言うことでした。ぼくの意見書が決め手になったとは思えませんけれど、移転積極派と移転慎重派の意見対立があったとしたら、慎重派に重心を移す役には立ったかも知れませんね。
ともかく本渓の地に大学は土地を得て建物を建て始めたのは2年前ですから、中国の建築の速さからするともう全部出来ていて良いわけです。しかし、まだ計画のうち1/3くらいの建物が出来ただけだそうです。
YS教授に誘われた日は瀋陽のPM2.5が200を超えて近くのビルも霞んでいて、まして遠くまでは見晴らせない空でした。10年前に本渓鍾乳洞に案内されたときは一般道路でしたので、車で4時間掛かりましたが、今は高速道路が出来ています。本渓に行っても空が霞んでいたら、この大気汚染は北京方面からやってきたに違いないといいつつ、YS教授は車でを走らせましたが、とうとう現地についても空は汚れたままでした。
本渓よりも手前のインターチェンジで降りると、この一帯が製薬事業の拠点として開発されていて、製薬会社、工場がずっと建ち並び、それを行くと新しい街の中心なのか、外れなのか判然としませんが、山あいに瀋陽薬科大学の本渓南校キャンパスが見えてきました。
今の薬科大学の敷地よりも広い場所に、現在の薬科大学にある建物と同じくらいの数の建物が既に建っていますが、まだこれでも計画の1/3にもなっていないそうです。いまは新入生を含めて3千人くらいの学生がここで生活しているとのことです。学部としては生産管理学部の建物が出来ているだけですが、ほとんどの教授は常駐していないと聞きました。建物の内外は新しくて綺麗ですが、なんだか元気が出ませんね。
米国ですと大学だけで成り立っている小さな街があって、学生は何の俗事にも患わされることなく勉学にいそしむ光景が普通にありますけれど、ぼくはシティーボーイの育ちですからね、ここで教育を受ける学生たちに同情してしまいます。
瀋陽の伝統ある瀋陽薬科大学に入ったのに、こんな山の中の学校で暮らすんじゃ話が違うんじゃない?と折角入った新入生が次の年にまた全国統一入学試験を受け直すためにどんどん辞めているんじゃないかな?と思わず口に出かかりました。
コメント:
Re:瀋陽薬科大学の本渓(南校)キャンパス(04/21) 76k孔 さん
残念ですが、しかたがありません。
薬科大学はだんだんよくなるとお祈ります。 (2015.03.03 19:13:02)
Re:瀋陽薬科大学の本渓(南校)キャンパス(04/21) shanda さん
瀋陽薬科大学の殆どは、昨年度中に本渓に引っ越したみたいですね。学生だけでなく、先生たちもあのようなところに行きたがらないみたいだし、大学の将来は暗いのではないかと案じています。 (2018.02.21 10:30:54)
カテゴリ:中国事情
さえ:
薬科大学の本渓キャンパスを訪ねた帰りには、YS教授の車は高速道路を瀋陽に向けて戻る途中に出来ている全運村を目指して走りました。瀋陽の街と、その南にある瀋陽国際空港(桃仙机場)の中間に位置しているこの村は、昨年の全国運動会の時の会場として新しく作られたのです。日本で言うと国体にあたります。国体があるごとに各県では新しく会場などを整備しそれに便乗して街作りを進めますが、中国の人口は日本の十倍以上ですから、その規模も十倍以上と雄大なわけです。おまけに土地は広いし、国有ですから、土地を真っ新にして為政者が計画を立てればその通りに出来るわけですね。
行ってみると、一望見渡す限りの平原(昔、日本から行った行った人たちが満州平原の西にすとんと落ちる夕日を見てその雄大さに感激した、その平原ですね、空が濁っていてこの日は太陽も、夕日も見られませんでしたけれど)に、片側4車線から主要道路では5車線(片側ですよ)の道が碁盤の目のように走り、ブロックには点々と建物が建ち、或いは建築のためにずっと続く塀で囲まれています。かなり走ってから左手に堂々たる建物が見えてきて、国際会議場と紹介されました。でも、茫漠として人の住んでいないこの街で国際会議がどうやって開かれるのでしょう。
さらに3ブロックくらい走るとこの街の中心が見えてきました。名古屋の街を例に挙げれば、名古屋大学の豊田講堂に当たるところに高層ビルが三つ建っていて、その中心にある棟の一部は昨年のスポーツ大会の時の事務局として使われました。スポーツ大会の後は、ここに瀋陽市の市政府などの中心施設が移ってくる予定で作られたそうです。
その建物の前の広場に立ってみると、名古屋大学の豊田講堂の前に立ったときと同じ光景です。この建物から南に向かって、言ってみれば百メートル道路がのびています。その百メートル道路の両側には立派な建物が立ち並んでいます。遼寧省博物館、科学技術館(上野の科学博物館みたいなものですね)、遼寧省図書館、遼寧省文書資料館などなどと、大きな看板が出ています。ところがどの建物も新築のぴかぴかのまま、全く人が入っていません。全く使われていません。
例えば遼寧省図書館(今の瀋陽薬科大学を東に行ったところに大きな建物がありますね)は、係員が移動を渋っているそうです。
ま、当然ですね。新しい街は広くて綺麗に整備されているけれど、人が住んでいないから、図書館の利用者がいるわけもありません。街の中を大分走り回りましたが、出会う人たちは道路の整備の作業員か、街路樹の手入れの要員だけです。こんなところに移って係の人たちもどうやって暮らしたらよいと言うのでしょう。博物館だって同じですね。
というわけで、図書館も博物館も建物は見事に出来ていますが中身はがらんどうのままです。スポーツ大会のアスリートたちが滞在したアパートは、恐らく分譲か賃貸に出されているはずですが、まだ人は入っていないみたいです。瀋陽からここに来るまでの地区に(瀋陽の川を越えて南に出来た新しい開発区は現在とても活気を呈していますが、この全運村から5Kmしか離れていません)、山ほど高層マンションが建っているのですから、お金次第でしょうけれど、こんな不便なところに来なくてもよりどりみどりで入りたいところを選べるはずです。
中国では、土地を民間業者に払い下げてそこに高層マンションが次々と建つという住宅建築ラッシュで景気を引っ張っていると言われてきました。そして、需要もないのに建物を造りすぎて、人の住んでいないゴーストタウンが次々出来てしまったとも言われています。
特に内モンゴルのオルドス市郊外に作られたニュー タウン「カンバーシ新区(康巴什区)」が日本で
も良く知られていますね。オルドスのニュータウンでは人口100万人の目標に対して、計画完了の2010年の時点で3万人しか住んでいないゴーストタウンになっていて、鬼城と呼ばれています。瀋陽を南に5 Km行っただけの身近な場所に、立派な鬼城があったのですね。東北開発計画が出来たときのまま中国が発展していけば、やがては何時かは、この全運村もめでたく瀋陽の一部になって活気を呈するでしょう。
ぼくたち日本人から見ると、こんなに広い土地に、これだけ広い道を無数に走らせて新しい街を計画できる中国が文句なく羨ましく見えます。何しろぼくは、首都の国際空港がたった一本の滑走路しかない状態で開港して、二本目の滑走路が出来たのが35年も経ってからだという国から来ていますからね。
でも逆に言うと、街は綺麗でゴミは一つも落ちていない日本の、人も羨む綺麗さは、日本の国土が狭いからですよね。国土の70パーセントが山なので住むためには使えませんから、人が手を入れずに放っておける場所なんてないのです。汚したり、遣い尽くしたらほかに移れば良いなんて贅沢が出来ないわけですから、日本は国土は小さいながら輝いているのでしょう。小さいなりの日本の利点ですね。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
広州に行ってきました。JiNan大学のYao老師が招いて下さいました。ぼくたちが来る前にはこの薬科大学の学長だったYao先生ですよ。いま、Yao老師の研究グループでは昨年の一月に日本から戻ってきた胡丹が准教授となっていますし、それまでとは違った新しい領域の研究を始めた胡丹の仕事の進み具合も知りたいし、暑くもなく寒くもない時節も適切ですし、思い立って出掛けました。
19日土曜日のセミナーには日本のUK教授を招いて、さらに昼の接待をしてから夕方の飛行機に乗ったので、広州に着いたのは9時過ぎでした。街の中心地にあるホテルに入ってから一寸した食べ物を買いにホテルの外に出たのは、もう夜の11時を過ぎていました。それでもまだ多くの店は開いているし、人々も結構歩いているし、あちこちで店の外に置かれているテーブルで食べたり、カードをして遊んでいます。夜の早い瀋陽から出掛けたので、驚かされました。
広州市の人口は1300万人と発表されていて、そのうちの840万人は広州の戸籍を持っていない市街からの流入者だそうです。つまり働くために外部から広州に来ている人たちが多い訳で、実際街を歩くと若い人たちが圧倒的に眼に入りますし、そのために街が生き生きと活気を呈しています。
広州は中国のずっと南に位置していて、湿度は高く、従って洗濯が一晩で乾いてしまう瀋陽とは大違いでどの建物もベランダは洗濯の干し物のオンパレードですが、それだけにこの高湿度は肌に優しく、瀋陽暮らしでぱさついている肌がしっとりと潤い、ぼくも美人になった気がしました。
この街は昔から産業の中心地でしたから街は豊かです。滞在中は案内されて街のあちこちに行きましたが、この広い広州の街は何処に行っても電線が外に出ていないのですよ。広い広州市の全体が、日本の丸の内並みに綺麗に整備されています。日本はかつてはGDPではアメリカに次いで世界の二位になったこともありましたが、社会資本の蓄積という点では、実に情けないままですね。
広州の南の外れにある宝墨園に案内されて訪れました。この宝墨園は、北京の頤和園みたいな庭園を考えて貰うと、想像できると思います。歴史的な建造物ではありませんが、さまざまの展示館の中に趙泰来蔵品館というのがあって、ここには英国籍の趙泰来さんとその家族が集めてきた中国の古い文物が寄贈されて展示されています。
一階には周、春秋・戦国時代の香炉、晋、唐時代の仏像彫刻があり、釈迦牟尼仏、観世音菩薩、文殊菩薩などがずらりと並んでいる有様は壮観としかいいようがありません。この仏像一つがあれば日本ではお寺の秘仏本尊となりますから、日本のお寺が何十となくできてしまう数の仏像があるわけですね。彼の名高い、京都太秦広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と同じポーズの仏像も二体ありました。広隆寺のはひとつの角度からだけしか美しく見えませんけれど、ここの弥勒菩薩の半跏像はどの角度から見ても美しい顔でした。
趙泰来さんの収集したものは、ほかにも、皿、唐三彩、玉(これらは二階)、書画、仏画(別の建物)、乾隆帝の墨、筆、硯(これも別の建物)にもおよび、外交官だった趙泰来さんの祖父以来三代が集めた文物が、すべてここに寄贈されています。富豪が富を自分のものだけにしないで、こうやって多くの人々に還元するのには、心から感銘を受けます。訊いてみると、中国の南の地方の人々には、このような風習があると言います。
事業をして稼いで大金持ちになって、このような形で世の中に貢献できたら事業家になる意味があるなあと、もうぼくには遅いですけれど、心の隅でつくづく思いました。来世には是非、大成功する実業家になりましょう。
(参考)趙泰来さんについては、下記のURL:
http://baike.baidu.com/view/1332617.htm
カテゴリ:中国の生活
さえ:
この間ネットに、『日本に行って最初にしたいことは何?オモシロ回答に思わずニンマリ―中国ネット』という記事が出ていました。(資料1)
「日本に行ったら最初にしたいことを教えて」と題したスレッドが立ち、中国人ユーザーから多くの回答が寄せられているということです。
読む前に予想したのは、「日本のトイレに入ってウオッシュレットでおしりを洗う経験をしてみたい」という回答ですが、意外にも入っていませんでした。西欧から来た旅行者が一番感激したのはウオッシュレットだったという、昔読んだ記事が頭にあったからでしょう。
ぼくがシカゴ大学に留学したのが1969年-71年で、バスルームにはシャワー付のバスタブとトイレがありました。トイレの後はシャワーヘッドで洗うという習慣が出来て、何時も快適な気分を味わうことが出来ましたが、トイレそのものにシャワーを付けておしりを洗うようにしたらどんなに良いかという発想はありませんでした。ウオッシュレット(正式な一般名称は温水洗浄便座というみたい)を思いついて商品化した人は、さすが、ですね。自転車を発明した人、自動車を発明した人と同じように、人々から感謝されてしかるべしと思いますが、大袈裟かな。
日本で、建築家の友人のうちを訪ねたときウオッシュレットが取り付けられているのを見たのは、1980年代の最初の頃だったでしょうか。それを見たときはびっくりしました。話には聞いていたので、あれだ、と分かりましたけれど、実際には便座に座らずにスイッチを入れてトイレの中に水を噴き出させてしまいました。あとで、友人に謝ったら、「いいの、いいの。みんなやるんだから」と言うことでした。
日本ではトイレと風呂場は別々ですし、風呂で水洗をひねればシャワーから温水が直ぐに出てくるようになったのは住宅公団の新しく建ったマンションに移った1982年からですから、それまではおしりを事後に洗うことはなかったわけです。そして今思うと、痔に苦しんだ時期とぴたり重なります。
痔はいくつかのタイプに分けられますが、その一つに痔瘻がありますね。肛門周囲の分泌腺に細菌が入り込んで引き起こすのが原因で、これにも悩まされました。でも、ウオッシュレットを使うようになってからは、これになることはありませんでした。ウオッシュレットの実利的効用の第一ですね。
疣痔と呼んでいる内痔核とも、長いあいだお友達でした。肛門周辺の静脈叢の静脈瘤が鬱血するのが原因だそうで、暖めると具合が少しは良くなります。女性の場合には便秘が主要原因らしく、さらに『アルコールは肛門部のうっ血を来す元になります。唐辛子、わさび、こしょう、カレー粉などの辛いものも排便の際に肛門部へ刺激を加え、負担をかけ』るので良くないみたいですが、ぼくの場合はウオッシュレットを使い出した時期と、痔核の悩みから解放された時期と重なります。
しかし痔核の病因から考えると、肛門の清潔さと痔核は関係ないはずで、ぼくがいま一番疑っている原因は、セックスだったのではないかと思っています。実際若いあいだは何時も悩まされていましたが、いつの間にか解放されましたものね。セックスと痔核との関係はものの本には書かれていませんけれど、控えろと行ったところで誰も従わないから書かれていないのか、あるいは実は全く無関係なのか、そこの所を何時か機会があったら医者に訊いてみたいですね。もし関係があるといわれても、若いあの頃はその忠言を全く無視して、一方ではいつも痔核に苦しんでいたでしょうけれど。
この「日本に行ったら最初にしたいことを教えて」に対して、ぼくなら何をしたいかなと思ったのですが、
「おいしいものを食べる」
「ラーメンが食べたい」
「本物の寿司が食べたいな」
などの食べ物についての意見には同じように賛成です。日本に着いたら、日本のラーメンを食べたいし、日本の餃子を食べたいし、回転寿司に飛び込みたいし、厚くてジューシーなトンカツが食べたいし、と考えるだけで唾が出てきます。でも上に書いたように、ウオッシュレットには多くの思い入れがあるのに、「日本に行けばウオッシュレットのあるトイレが使えるなあ」と特に思わないのでどうしてかというと、中国で住んでいるアパートのバスルームにはバスタブはなく、トイレのとなりにシャワーがあります。つまりトイレに座ったままシャワーヘッドが必要なところに届くのですね。ウオッシュレットがあると同じことが出来るので、ぼくは何時も座ったままシャワーを使って洗っています。
中国人が日本に行って、ウオッシュレットのあるトイレを使ってみたいと言わないのは、今のぼくと同じで、何時もトイレの後は、実はシャワーで綺麗に洗っているからなのかなと、いままでは思っても見なかったことに気付きました。新発見ですね。
これが本当かどうか、この先中国で人に尋ねてみましょう。
(資料1)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140414-00000002-rcdc-cn
「日本に行って最初にしたいことは何?オモシロ回答に思わずニンマリ―中国ネット」Record China 4月14日(月)2時12分配信
(資料2)
http://medical.yahoo.co.jp/katei/170209000/
「内痔核」
カテゴリ:日本の将来
さえ:
昨日Yahooのブログを見ていたら、神田敏晶さんの書いた『日本人の英語、アジア30ヶ国内で第28位、文科省ではなく総務省のテレビ電波対策が必要だ!』というのがありました。(資料1)良い意見ですね。全面的に賛成です。
日本時の英語力は『TOEFLテストによると、日本は、アジア30ヶ国の中で第28位』なんですってね。
世界で使われているTOEICテストでは、『さらに落ちて39位』という悲劇的な位置です。
『日本の英語教育の教師の70%以上が英検準1級未満、TOEIC730点未満というデータもある。TOEIC700点スコアを採用している企業の入社試験にも至ることができない人が英語の先生をやっているのだ』と訴えています。調べて見ると、TOEICの満点は990点でした。
日本政府は『(2020年東京オリンピックまでに)と、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画(2013/12)」をたて、「英語教育推進リーダー」を置き、2014年度(今年だ!)から指導体制整備を強力に推進するということだ』そうですが、神田敏晶さんは、そんなことよりも、日本のテレビ局それぞれが、毎日2時間の英語放送をするようにすればよい、という提案です。
英語教師を教育して底上げを図っても、その効果はあまり期待できそうもありません。何人かを6ヶ月くらい外国に送っても、大して英語がうまくなるはずもありません。威張るわけではないですが、ぼくだって二年間シカゴにいたのですものね。英語教師ではありませんが、二年間で、まあ、英語を喋る度胸が付いたくらいですよね。
ぼくたちの職業柄、英語は仕事と切っても切れない関係ですが、同僚を思い浮かべてみると、誰もが英語に堪能です。TOEICテストで日本人は世界の39位なんて信じられないくらい、みな見事な英語の遣い手です。日本の英語教師の実力は余り褒められたものではないわけですから、おそらく私の同僚は才能があるか、自分で努力したのでしょう。生命科学の研究者としてそれぞれひとかどの人物になるくらいの人たちは、概して有能であり、英語もうまいのだと言ってしまえば、その通りかも知れませんけれどね。
でも、英語が使える能力を個人の資質に帰してしまうと(今まではそれしかなかったのでしょうけれど)、問題の解決にはなりません。その点で、神田敏晶さんはとても良い提案をしています。英語圏では個人のIQに関係なく誰でも英語を使っているわけですから、誰でも英語の環境に置かれれば英語に馴染むことは論を待たないはずです。もちろん誰でも英語力が上がるわけではなく、若い人ほど効果が大きいでしょう。2020年の東京オリンピックが一つの目標なら、出来るだけ早く始めることですね。
ただし、各テレビ局が英語放送を始めるには相当の用意が必要でしょう。英語に堪能な日本人や、ネイティブスピーカーに対する広い雇用が生まれるでしょうし、一方では職を失う人も出てくるでしょうね。
一方、今の中国では英語と限る話では無いですが外国のドラマの放送が続々と中止されています。
最初は2008-2009年のことで、米国映画を延々と放映するチャンネル、冒険やチャレンジを放映するディスカバリーチャンネル、テニスかゴルフを見せるチャンネル、英語を使って放映される韓国のテレビなどが続々と禁止されて、ぼくはそれでケーブルテレビにお金を払って中国でテレビを視聴するのを止めました。それ以来、ここではテレビを一切見ていません。それでも中国では動画サイトで外国ドラマが見られましたが、その放映が動画サイトからつい最近禁止されたみたいです。(資料2)
『いずれの作品にも、中国当局が不適切として検閲の対象とするような行き過ぎた政治的・性的描写はなく、配信中止の理由は不明だ』(資料2)そうですが、2012年から放送内容に対しても締め付けが厳しくなっていて、NHKによると『規制強化の背景には,2011年10月の中国共産党中央委員会総会で「社会主義の核心価値体系の建設推進」などを謳った「文化体制改革」に関する決定が出たのを受けて,政府が放送メディアに対し,利潤追求よりも党の宣伝強化を重視するよう要求したことがある』そうです(資料3)。政権による締め付けが厳しくなってきたということは、つまり、情報管理に必死にならざるを得ない事態になってきたと言うことなのでしょうか。
日本のテレビでは、ばかばかしいお笑い番組ばかりですが、それを減らして英語番組にする割り当て時間には幾らでもゆとりがあるでしょう。でも、英語放送にも当然スポンサーが付かないといけないわけですね。日本は自由の国ですから、視聴者がいないと当然新しい試みも成り立ちません。ということは、英語放送はお笑い番組から始めるのが一番でしょう。作るための敷居は高いけれど、これに成功すれば日本は一気に、英語も当たり前に使える国になるでしょう。テレビを観て笑いながら、お笑い芸人の使う英語を覚えましょう。
さて、そうなると、日本人が国際学会で喋るたびに、余りにも場違いでみなが大笑いの渦に。。。
(資料1)http://bylines.news.yahoo.co.jp/kandatoshiaki/20140428-00034870/
「日本人の英語、アジア30ヶ国内で第28位、文科省ではなく総務省のテレビ電波対策が必要だ!」
神田 敏晶 2014年4月28日
(資料2)http://www.afpbb.com/articles/-/3013766
「中国動画サイトから米国ドラマ4本消える、規制強化か」
2014年04月28日
(資料3)http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/focus/472.html
「中国政府,海外ドラマなどの放送規制強化」
2012年4月「放送研究と調査」
カテゴリ:生命科学
さえ:
生体ってすごいですね。ちっとも無駄な、或いは無意味なことをしていないのですね。
ぼくたちは数あるタンパク質の種類の半分は糖鎖で修飾された糖タンパク質だってことを知っています。糖鎖が付くことで、タンパク質の安定性が増したり、行き先が決まったり、酵素の場合には活性が変わったり、いろいろなことに使われていることが分かっています。
この糖鎖の合成されるのは細胞の中のER膜とGolgi器官のなかです。糖鎖を合成する糖転移酵素はERおよびGolgiの膜のうち側に埋め込まれて、働いています。しかも違う種類の糖転移酵素は糖鎖の合成される順に並んでいて能率良く糖鎖の合成を行っているみたいです。
この糖転移酵素が記載されて直ぐに、膜に結合しているところで糖転移酵素がタンパク質分解酵素によって膜から切り離されることがあることが見つかりました。膜から外れると分泌タンパク質と同じ状況ですから、細胞から外に、つまり血流中に分泌されて血管の中を流れて全身を巡ります。膜からは外されましたが、酵素の機能は完全に保ったままです。
どの糖転移酵素でも状況は同じですが、特にST6Gal-1と呼ばれるシアル酸転移酵素の場合には血清中の濃度が高いので、いったい何をしているだろうかと言われてきました。
糖タンパク質の糖鎖の一番外側はシアル酸が付いているのが普通です。このシアル酸のある糖鎖がSiglecで認識される生体反応がありますし、血清糖タンパク質の場合ではシアル酸がないと、たちまち肝臓にあるGalactose認識レクチンに捕まってしまって、血流から除去されてしまうとも報告されています。
血液中を流れるST6Gal-1と呼ばれるシアル酸転移酵素が何をしているかの解明に執念を燃やした研究者がいました。ST6Gal-1の遺伝子を調べると、いくつかのプロモーター領域があって、違う細胞で、違う刺激により転写が進むように作られているそうです。その領域のうちのP1部分を取り除いたマウスを作りました(ΔP1マウスと呼びましょう)。そうすると血清中のST6Gal-1酵素の濃度が下がって、活性が下がります(資料1)。
生体は外部からの侵襲を受けると免疫関連の細胞を急増させて生体を損害から守ろうとします。例えばチオグリコール酸をマウスに入れてやると腹腔中にマクロファージが増えますが、これはマクロファージを大量に集めたいときに使われている方法です。
この操作をΔP1マウスにやってやると、対照の正常マウスに比べて、免疫関連細胞が腹腔中に沢山出てきます(資料2)。しかし、これらはちゃんと働いてくれないのですね。これらの免疫細胞は骨髄の中で血液幹細胞から作られます。マクロファージも骨髄中で血液幹細胞から作られます。
免疫関連細胞が沢山作られても、これらに免疫細胞としての機能がないのは、このΔP1マウスにサルモネラ菌を感染させると、対照マウスに比べて、サルモネラ菌を殆ど殺せないことで分かります。つまり未成熟なののですね。
そしてこの未熟な細胞は、調べて見ると細胞表面のシアル酸が欠けていました。外からST6Gal-1酵素とCMP-Siaを足してやると機能のあるマクロファージになることが分かりました。
一方、ST6Gal-1と呼ばれるシアル酸転移酵素が細胞から外に放出されるのは主に肝臓で、骨髄から遠く離れています。しかも、正常なマウスの場合でも、マクロファージになる前駆細胞はST6Gal-1というシアル酸転移酵素を殆ど発現していませんが、成熟したマクロファージは細胞表面の糖鎖はシアル酸を末端に持っているのです。
これらをすべて合わせた考えると、免疫細胞の成熟にはシアル酸が付加した糖鎖の成熟が必要である、糖鎖の合成はガラクトースの付加までは免疫細胞内で行われるが、その後はそれらの糖鎖を含むタンパク質が細胞表面に発現されてから、肝臓由来で血液から供給されるST6Gal-1を使って、細胞外でシアル酸を付加するのだ、という壮大な仮説が出来ます。
そして Roswell Park 癌研究所のJoseph T. Y. Lau博士は、それが起きていることを見事に証明しました。免疫細胞の成熟に必要なシアル酸の付いた糖鎖を作るのに、遙かに遠くの器官から捨てられた糖転移酵素(細胞のGolgi器官の膜で働いたのに、そこから切り離されたことはもうそこでは機能しないことを意味していますね)が血流で供給されるのに頼っているのですよ(資料3)。
糖鎖の転移反応には、もちろん当該の糖転移酵素が必要ですが、糖鎖を受け取る伸びかけの糖鎖が必要ですし、さらに当該の活性化された糖鎖(この場合にはCMP-シアル酸)が必要です。Lao博士はこのCMP-シアル酸が血小板から供給されることも証明しました(資料4)。血小板は骨髄の中で分化成熟する血液細胞の一つである巨核球から出来てきますから、骨髄の中ではお隣り同士ですよね。おまけに、以前から血小板はさまざまの分子を小さな顆粒に入れて刺激に応じて放出することが知られています。
1980年代の終わりから1990年代の中半に掛けて糖転移酵素が続々と(約200種類あると言われています)記載されて以来、細胞膜から切り離されてしまう糖転移酵素の役割は人々を悩ませました。簡単な答は、Golgi器官の中で特定のタンパク質を(必要があって)切断するタンパク質分解酵素がたまたま糖転移酵素を切ってしまったのだ、つまり血流中を流れる糖転移酵素は不要になった酵素なのだ、というものです。
問いが出てから二十年以上掛かって得られた答です。Joseph T. Y. Lau博士は1990年からこのST6GAl-1の研究を行ってきました。一見して不要と思われた酵素が遙かに遠くの器官で細胞の成熟に必須の働らきをしていることが分かって、一読者でしかないぼくも狂喜しました。それと同時に、生体では役に立たないものはないのかも知れないとまで思われ、このような精妙な機構を作り上げてきた生命にますます敬意の念を深めます。
(資料1)
Gycobiology, 13, 591-600 (2003)
(資料2)
Blood, 108, 3397-3405 (2006)
(資料3)
J. Biol. Chem., 289, 7178-7189 (2014)
(資料4)
J. Biol. Chem., 289, 8742-8748 (2014)
カテゴリ:中国の旅
さえ:
上海に行ってきました。最初の卒業生の一人だった沈慧蓮さんが上海で結婚式を挙げる、ついてはぜひ出席してくださいと招かれました。彼女の東大の博士課程のときの指導教授だった松木先生も同じく日本から招かれていて、驚いたことに結婚式の前日なのに、私たちを上海空港に迎えるために沈さんが来ていたのですよ。最初に浦東空港の第一ターミナルでぼくを拾って、次に第二ターミナルで松木先生を迎えて、磁気浮上リニアモーターカーに乗りました。値段は2004年のときと同じ値段なんですって。あのときも出迎えてくれた沈さんが、リニアモーターカーが最高時速410 Kmを出した瞬間の写真に写ってそれが残っていますが、今回は301 Kmが最高でした。
沈さんのお宅にそのまま招かれてお昼ご飯は彼女の母上の手作り料理でもてなされました。軽いお昼ご飯ということでしたが、とんでもない、おいしい料理を沢山いただいて、もうお腹いっぱいになっても、上海ワンタン、そしてさらにぼくの大好物でしょうと、白玉の胡麻餡(瀋陽では元宵、あるいは湯円)までご馳走になって身動きできないくらい。
その後、楊方偉くんが来て、彼は僕たちのこの二日間の案内役なのだそうです。それで、2008年の万博あとに残してある中国パビリオンに清明上河図があってそれが動くのですよというのを見に出掛けたのですが、なんと沈さんがまた案内役です。明日結婚する人ですよ。
彼女の結婚相手の周さんは同じく上海生まれなのですが、彼女同様日本の企業で働いています。新郎の周会社の上司と同僚二人が日本から招かれていて、彼女と同じく彼がこの招いたお客を空港に出迎えて、いま街を案内しているのですって。
ぼくたちの結婚式は50年以上も前のことで、細部は覚えていませんけれど、もう二度と結婚式はしたくないと思ったくらい結構大変でした。その前日に人を空港に出迎えて一日観光案内をして回るなんてとても考えられませんね。
夜はこの二つのグループが合流して大蟹王という清時代からあるという店でご馳走になりました。周さんの会社の二人は東工大の出身者で、半導体関係の最先端技術を駆使している若者たちです。でも、気の良いことこの上なしで、黄酒(日本で人気の紹興酒みたいなもの)が気に入って飲みまくって、元気いっぱいでした。
以前の夜の見所は上海の電波塔でしたが、今は浦東地区に金融センタービルができていて、100階にある展望台は474メートルなのだそうです。案内役の楊くんがぜひ行きましょうと連れて行ってくれました。展望台に登るには180元ですよ。ざっと3千円です。日中の為替次場でなく実質的な給料の差から検討すると、なんて考えていましたが、上海の中心部のマンションが60平方メートルで4千万円ということですから、東京とほとんど変わらないのですね。
474メートルの高さから見ると、トム・クルーズのミッションインポシブルに出てきたビルが直ぐ隣りなのですが、遥か下に見えました。南側の隣には、さらに背の高いビルが建築中ですし、ドバイの世界一高いビルがすでにその後のトム・クルーズのミッションインポシブルに出てしまいましたから、このビルは出番がないかもしれません。
上海は整然とした美しい大都会です。地震の危険がないため建物の建築には耐震基準の規制がないので、様々な形のビルが建ち並んで目を楽しませてくれます。日本の耐震基準だと、どうしても建物の形は目を引く形にできませんから、上海にはぼろ負けです。おまけに、広州で気づいたように、上海も殆どどこに行っても路上に電線が出ていません。街が豊かな証拠ですね。残念ながら、日本は街作りでは上海に負けています。
カテゴリ:友だち
さえ:
沈さんたちの結婚と披露宴は上海市内の大きなホテルで行われました。いままで大学にいる関係で結婚披露宴に招かれたことがありますが、ただ大騒ぎの悪ふざけという印象が強いものでした。しかし今回は、二人とも日本の生活が長いというためもあるでしょうけれど、とても落ちついたものでした。
式は参列者の前で二人が結婚の誓約書に署名をするという形で行われました。宴会場のフロアには教会風に設えられたこじんまりとした会堂があって、祭壇に当たる場所に新郎が一人で立っていて、会堂の入り口から父親に手を取られた花嫁がベールに包まれた姿で入ってくるのを待ち構えます。二人がバージンロードを歩いてきて、父親が花嫁の手を新郎に渡すのも教会の結婚式風です。違うのは牧師に当たる人の姿がないだけ。
披露宴では、二人が入場して演壇に立つと、沈さんの博士の指導教官だった松木先生(今年の3月に退官された東大教授)が、通訳役の楊方偉くんと共に演壇に並び、松木先生の挨拶されました。これは、日本風の主賓の挨拶ではなくて、結婚の証人としての発言なのだそうです。実際、出席者からの挨拶は松木先生の一つだけでした。
披露宴の始まる10分くらい前に松木先生は、花嫁側のお祝いのご挨拶じゃなくて結婚の証人としての発言と聞かされて、「じゃ、新郎のことにも触れなくてはいけないな」と急遽内容を手直しされたみたいです。でも、さすが仲人や主賓の挨拶を沢山こなしてきた東大教授らしく、少しも破綻のない結婚の証人の挨拶になっていました。
披露宴の始まったときを含めて花嫁は三度の色直しををしていましたが、会場に現れる度にそれぞれのテーブルを回って、にこやかに人々に挨拶をし、お酒を注いでまわってるのです。驚きのサービスです。結婚式の前日にぼくたちを一日街を案内してくれましたし、ぼくは直ぐに瀋陽に戻りますが、この結婚式の後も、他の招かれた人たちは日本に戻るまで二日間案内されて上海観光をするそうです。驚きの「おもてなし」です。
なおぼくは、日本風に披露宴でご挨拶をすることになった場合に備えていましたので、その予定していた祝辞の内容を書いておきますね。
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沈さんの結婚式(結婚披露宴) 2014年5月3日
おめでとうございます。沈さんの結婚式(結婚披露宴)に招かれてとても嬉しいです。
私が中国の瀋陽にある薬科大学に来て研究室を持ったのは2003年の夏でした。
新しい研究室の大掃除、実験器具、そして薬の買い入れ、整理などで沢山の学生が手伝ってくれました。私と妻は日本人の習慣で何時もそのたびにお礼の言葉を述べていましたが、あるとき学生の一人が、「先生は私たちにお礼の言葉を言いすぎます。もう言わないで下さい」と私に言いました。
驚いていると、「お礼は他人同士が言うものです、親しい関係でお礼を言ったら、もう親しくしたくないというのと同じです」
気がついてみると、彼等は仲間同士でお礼を言っていません。それで、私はそれ以来、研究室の学生に対して極力お礼の言葉を減らすようなりました。
やがて研究室が始まって、最初の卒業実験の学生として入ってきた中の一人が沈さんでした。何時も元気いっぱいの彼女は、好奇心が強く、ですから学業も優秀なのでしょうけれど、研究室に新しい実験器具が届いてそれを開けようというと、その場には彼女がいますし、日本からお菓子が届くとそのときは何時も彼女がいます。日本では何にでも興味を示す人のことをミーハーといいますので、私は親しみを込めて彼女にミーハーの沈さん、つまりミハチンというあだ名を付けました。
最初の学生以来、研究室を巣立っていった学生は60人を超えますが、私からあだ名を付けられた学生は沈さんただ一人です。
日本語が良くできて、心配りが良い沈さんは、老師の面倒とても良く見てくれました。ピザハットでは、サラダバーで小さな皿にサラダを如何に沢山盛りつけるかも教わりましたし、大学の周りには沢山の飲食店がありますが、蘇氏拉面なら美味しいし、安全と言うことも教えて貰いました。
やがて卒業の時期が来て、沈さんが私に向かって言うには、「先生に言って良いですか?先生は他の日本人みたいではありません」
私は、私の日本人離れした英語の発音が素敵だと言われるに違いないと思って「不敢当」という言葉を用意して、彼女の続く言葉を待っていました。しかし、彼女の言うには「他の先生はきちんとお礼を言うのに、先生は言いませんね」
このように彼女は強烈な印象を残して卒業しましたが、その後招かれて上海に遊びに行って、彼女のお宅に数日滞在させていただいたし、或いは沈さんがいなくても上海のおうちにその後二回も寄ったりするくらい、ご両親ともとても仲良く付き合ってきました。
その親しい沈さんが今回結婚されると言うことですが、会ってみると新郎の周さんは真面目な好青年で、一目で私も気に入りました。お互い5年間のお付き合いを経て結婚されるとのことで、お互いを理解し合った上で新しい生活を始めるということは、お二人のご結婚の成功を保証しています。
ところで、中国は19世紀半から1世紀に亘って、諸外国から痛めつけられました。日本も西欧の列強の尻馬に乗って中国に侵略し、中国の財産と人命に甚大な被害を与えました。1949年の新中国の誕生以来数十年の困難な時期を超えて、中国は今立派に復興しようとしていますが、日本を憎むこと甚だしいところがあり、両国の関係は難しい状況が続きます。
しかし、お互いに引っ越すことも出来ませんし、それぞれ特徴のある両国が英知を出して助け合えば、これからますます厳しくなる地球上の人類の生存の助けにもなるに違いありません。そのために必要なのは、草の根レベルの個人的な交流です。沈慧蓮さんのご主人も日本で仕事をしておられるそうですし、お二人のご結婚が、二つの国の相互理解の促進と結びつきを強めることににますます貢献されるに違いないと信じて、喜んでいます。
本当におめでとうございます。
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カテゴリ:生命科学
さえ:
上海の沈さんの結婚式に参加するために二日間上海に滞在しました。結婚式のあった翌日は、滞在していた1934年創立のPark Hotelから出て人民公園の駅から地下鉄2号線に乗りました。2号線の途中にある実家に帰る途中という沈さんも一緒です。地下鉄が混んでいて、先まで乗っていくぼくのことを沈さんは心配していましたが、ぼくには座席が見つかって座ることが出来て、立ったままの沈さんとお喋りを続けました。
やがて沈さんの降りる駅が来て、彼女はぼくの隣の女性に「お願いしますね」と中国語で話しかけて降りようとしたら、その隣の女性は「わたし日本人ですから、わかんない」とつぶやくのですよ。
というわけで、お隣の女性が紅龍駅で磁気浮上リニアモーターカーに乗り換えるために降りるまで、いろいろとお喋りをしました。上海やら、瀋陽やらの見所や、人情や国情などお互いにとりとめもなく話していたのですが、ぼくが瀋陽の大学に11年もいると知って、どんなことをしているのかとぼくに尋ねました。
やっている研究の話を一般の人たちに話しても直ぐに分かって貰えないのが普通なので、一寸考えてから、「いま、日本では小保方さんが有名でしょ、言ってみればあのようなことをやっています」
彼女はびっくりして、「あれって、本当なんですか。飛んでもない凄い話みたいだし、まるで嘘かも知れないし。どうなんでしょう?」と言うのですよ。この話題は日本では一般の人々の間に広く、かつ深く知れ渡っていて、長い僻地暮らしで情報に疎いぼくなどが取り上げる話では無かったのですが、彼女の降りる駅に到着して、幸い、それ以上これを話すことはありませんでした。
日本の評論家という評論家すべてが、これを巡って何らかの意見を述べたでしょうから、今更何も言うことはありませんが、「3年間に2冊しか実験ノートがない」そうですから、本人が記者会見で「本当のことです」と幾ら力説しても、他に実験証拠を出さない以上、彼女の言うことを信じることは出来ませんね。まともな研究者だったら、あり得ないことです。
理研の幹部も問題ですね。彼等は記者会見で、小保方さんを未熟と言って切り捨てています。昨日は、小保方さんの行っていた不服申し立てを再審議せずと門前払いしました。組織の責任者(研究室なら教授)は研究室の中では学生を批判しつつ育てるべきですが、外に向かって批判しても意味がありません。批評家ではないのです。指導するということは責任を持つことですから、どうしてこのようなことが起こったかを検証し、二度と起こらないようにするのが彼等の責任ですよね。
STAP騒動がもたらした唯一の良いところは、研究とはどういうものなのか、世間の人々が知るようになったことでしょう。
いまの科学研究は世間のニーズという誰かが選んだものに合致するものにしか研究費が出なくなりました。でも、誰かが選ぶというのは、それが流行の対象になってきたからなのですよね。ある意味では、得られる結果を見通しているのです。でもどんなに智慧を集めたつもりでもそれ以上の智慧のでない愚かな人間どもが選ぶ中に入らない研究に、本当に意味のある研究があることを歴史が示しています。
大型予算の付く研究テーマになる前に、小さな幾つもの研究の芽が出て、それが浮かんでは、消えていくのですよね。研究は本来は個人のアイデアに基づくものですから、それを例え失敗でも育ててやらなくてはいけません。
何十億という予算を付けた大型研究だって(ぼくの理解できるのは同じ糖関係の領域だけですけれど)、実情は論文の数だけは立派に出ていても、世間に役立つ成果は一つがやっと言うのがゴロゴロしているはずです。国が貧しくなり、研究費が乏しくなり、どこかにまとめて大型研究として投資したいという役人の切羽詰まった気持ちには同情しますが、それぞれの大学の研究者に最低の研究の行える研究費を保証することが、日本の将来のために絶対必要ではないかと思います。
100のうち当たるのは二つ三つと、鷹揚に構えなくてはいけません。研究というのはそういうものです。
カテゴリ:日本の将来
さえ:「アホでしょう」みたいな賞を作りたい
ぼくたちは商売柄英語を使う能力が大事なのを知っていますね。いまでは英語が世界の共通語ですから、何時も読むのは英語で書かれた論文です。発表の場も英語論文ですし、学会に出掛ければ英語が公用語です。つまり英語能力なしには生きていけません。
日本での日常生活が英語環境ではないので、ぼくたちは苦労しますが、ぼくの知人は誰もが英語の達人です。英語のうまくなる個人的資質があったのか、密かに努力したのか分かりませんが、ぼくがやってきたのは1984年にフィンランドの先生がぼくの研究室に留学したとき以来、研究室のセミナーを英語で行うようにしたことです。日本人同士が英語で話す照れくささを乗り越えて、ぼくたちは研究を討議するときに英語を使うことに慣れました。
でも英語を使って、国の文教政策を議論したり、決めたりしてきた訳じゃありません。
最近ニュースを見て「ぶったまげた」のは(打ち込んで転換すると、「ぶった曲げた」になりますが、本来は「ぶっ魂消た」ですから、いまは余り使われない言葉かも知れません。老人語か死語扱いかも。子どもの頃は仲間同士でよく使いましたね。いまなら、単に「ヤベーのは」になるのかな)。『 文科省、省内会議に英語導入 「まず自分達から」』という日経新聞の記事です。(資料1)
『省内の幹部会議の一部を英語で行う方針を決めた』、これは『英語教育をめぐる議論を活発化させる目的』で、そのために(Yahoo!などの)『民間企業で英語の公用化に携わってきた人を採用する』のだそうです。
日本の官庁の高級幹部は公務員上級試験の上位合格者ですが、高得点の人から昔の大蔵省、次いで昔の通産省に入省したのですね。最下位の人しか行かないのが日本の文科省というのは良く知られた話です。おそらく他の官庁に対しては劣等感が優勢支配している官庁でしょう。それでも、日本の教育行政を一手に握っていますから、大学などの教育機関に向かっては威張っているわけです。
日本の中で石を投げれば大学教授に当たると言われるほど日本は大学の数が多く、したがってどうしようもない大学教授もいるでしょうけれど、それでも尊敬に足る人格と学識に優れた教授も沢山います。この人たちを支配しているのが文部官僚ですね。こんな馬鹿なことを言う彼等にじっと我慢を強いられるのですから、日本の大学の先生たちは本当に気の毒です。
日本の教育を議論するのに、英語を使って議論しようというのは、戦争に負けて日本が崩壊したときに、米国の占領軍が来て日本の憲法を始め、法律、教育をすっかり変えましたね。それと同じことを期待しているみたいに見えます。
文科省では、当然のこと今まで日本語を使って議論をしてきたでしょうけれど、どれだけ優れた方針を出して、日本を良くすることに成功したでしょうか。文科省の官僚が英語で喋って議論をした気になったからって、普段の日本語あたま以上の智慧が出る訳じゃないですよ。
どう見ても、こんなお馬鹿な文科省が日本の教育行政を左右しているようでは、日本の将来は末世を迎えてしまうでしょう。人材育成の教育こそが日本の命運を握っているというのにね。
「文科省の役人が英語で会議を開くことに反対」なんて言ってデモをしても効果はないでしょう。この馬鹿さ加減と阿呆くささに気付かぬ文科省の役人には、イグノーベル賞みたいな「阿呆でしょう」という賞を作って、差し上げたいですね。全く、馬鹿に付ける薬はないものか。。。
(資料1) http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG28049_Q4A430C1MM0000/
『 文科省、省内会議に英語導入 「まず自分達から」』日経新聞 2014/4/30
英語教育をめぐる議論を活発化させる目的で、文部科学省が省内の幹部会議の一部を英語で行う方針を決めたことが30日、分かった。民間企業で英語の社内公用語化に携わった人物を新たに採用して「英語会議」を担当させる。中央省庁が省内会議に英語を導入するのは異例。
文科省は、英語教育に民間の視点を取り入れるため、海外での勤務経験や英語能力テスト「TOEIC」800点以上などを条件に、任期約1年の非常勤職員を公募。審査の結果、民間企業で社内公用語化を担当した社員を5月1日付で採用することを決めた。
肩書は「英語教育プロジェクトオフィサー」で、英語教育に関する企画立案などを担当。この職員が参加する幹部会議の一部を英語で行うことを想定している。同省幹部は「職員自らが英語を活用することで、英語教育への視野が広がるはずだ」と期待する。
小中学校の英語教育を巡り、文科省が昨年12月公表した「改革実施計画」は、小学5年生から教科化し、中学校の授業を原則英語で行う構想を掲げている。現在、有識者会議が実務的な課題を議論中で、同省はその議事録の英語訳を公表することも検討している。
カテゴリ:健康問題
さえ:
食べ物でも何でも良いのですが、ものが半分に減ったときに、「もう半分になっちゃった」と嘆くのと、「まだ半分も残っているぞ」というのでは、その心構えが違うとよく言われますね。この言い方で性格が分かるということです。発想がポジティブかネガティブか、ですね。さらにいうと、人生に前向きに生きているか、ただ受け身で生きているか、ですが、ここまで解釈するとなると、大袈裟かも知れません。
でも、どちらを答えるかはその置かれた状況に依るでしょうね。何時も「まだ半分も残っているぞ」と楽観的にものを見る人も、もし中世のお城で、敵軍に十重二十重に囲まれて籠城しているお侍なら、残る矢玉が半分になり、蓄えてあった食料が半分になってしまったら、恐らく「もう半分になってしまった、まだ救援は来ないのか」と思うでしょう。
さて、人生です。自分の寿命を、もう半分使ってしまったのか、まだ半分も残っているのか、これは終わってみない限り個人の寿命は分からないから、言いようはないわけですね。ぼくの場合は、どう見ても半分以上過ぎてしまったわけですが、もう残り少ないよ、というのと、まだまだ生きているさ、と考えるのとでは大分違うように思います。
そのためもあって、ぼくは「いまお幾つ?」と聞かれると、「我才七十七歳」と答えています。この「我才」というのは「私はまだ」という意味です。「私はもう」なら「我已経七十七歳」でしょう。中国ではもし訊きたければ、お年寄り相手にためらいも遠慮もなく、「お幾つ?「と訊くのが当たり前です。
ぼくが幾つまで生きていることになるのか分かりませんが、まだ77歳なんだと思っているのは本当なのです。
どんな風にこの先を生きていくと思っているかというと、あと十年くらいで呆けてきて、そして呆けてしまえば自分の人生という自覚はなくなるでしょうから、そこでぼくの人生は終わりでよいのです。ともかく、いずれ呆けるという前提で生きています。
もちろん、出来るだけ呆けたくないと思っていますけれど、ね。
死因の3分の1はがんですから、そして長生きするほどがんになる確率が高くなりますから、がんを患って死ぬ確率と半々でしょう。つまり、出来れば自分の死ぬことを自覚しないで済む呆けるの
が良いなあと、思っているだけです。
以前書いたことがありますが、(2012/10/06「歯の健康が大事なんて教わらなかったですね」)身体の健康で言うと、歯は20歳代で下の前歯4本と上の前歯1本を失い、50歳代で奥歯1本を失い、いまでは自前の歯が22本です。残っているのも、詰め物や被せものだらけですが、60歳で総入れ歯が当たり前だった一代前の母の頃から見ると、大したものと言って良いでしょう。
これは四十年くらい前に、花森安治の「暮らしの手帖」の記事を読んだためです。歯茎の磨き方を知って、それ以来、歯磨き粉を付けることなしに歯茎のマッサージを続けてきたお蔭と言っていいのかも知れません。この記事が言うには、歯の表面のブラッシングも大事だけれど、もっと大事なのは歯茎のマッサージだ、歯磨き粉を付けるとその味でもう良いという気になって歯茎のマッサージを続けられないから、それを付けないで歯茎を10分-20分間歯ブラシで擦ろうというものです。歯茎から出血してもそれを無視して擦り続けなさい、何時かそれが止まるから。その時歯茎は健康を取り戻しているのですよ、と。出血が止まっても、生涯に亘って歯を失いたくなければ、同じように何時も歯茎の摩擦を丁寧に続けなさい、とも。それで、いまでも一日三度、毎食後には歯ブラシで歯茎を擦り続けています。
ぼくは実験科学者の端くれなので、ぼく自身で、歯磨き粉を付けてそれ迄みたいに歯をブラッシングするのと(実験で言うと、これが後者に対するコントロールです)、歯磨き粉を付けずに歯茎をブラッシングするのと両方を行って比べないと、後者の効果はわからないと言いたいのですが、実際は一人の人間で同時には出来ないわけですね。人生と同じです、人生もコントロールを置きようがなく一つの生き方しか選べないので、果たしてそれが良かったかどうか、実は本当は評価できないのですよね。
というわけで、厳密には科学的なコントロールがないので、歯茎のマッサージが良かったかどうか、確かには言えませんが、それを30年以上続けてきて、まだ自前の歯が23本も歯茎にしっかりと付いていますので、恐らく、花森安治の暮らしの手帖の記事のお蔭で、歯の健康を保っているのではないかと思っています。
もう20年も前になりますが、歯科技師学校で歯科生化学の講義を受け持ってそのために歯科生化学を勉強したことがあります。教科書や本を読んで、歯が人の健康のどんなに大事かを学び、これをもっと早く20歳代で勉強していれば、前歯を歯槽膿漏で失うことがなかったのにと思ったものです。歯と歯茎の健康が身体の健康の大いに関係することも最近では大きくクローズアップされています(資料1)。
歯がしっかりしていれば固いものもかめて、それが記憶力の増大にもつながるということです(資料2)。
それで若い人たちへ一言:
昔から明眸皓歯といって白い歯がもてはやされています。米国では歯は白くなくてはいけないし、歯並びも綺麗でないと相手にされません。でも誰もが歯並びがよいわけではなく、お金を掛ければ歯列矯正が出来ますが、たとえ歯並びが悪くとも、歯が白くなくても、歯茎のブラッシングは大事です。歯茎のブラッシングを今から、本気で始めて、それを生きている限り続けましょう。
磨いて歯茎から血が出れば、それは歯周病ですが、歯茎のブラッシングを続けることでそれを治せます。
それで、一生健康に(少なくとも77歳までは)、「死ぬまで元気に」暮らせるのですよ。
(資料1)http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20140423/1056876/
『歯が抜けると認知症!? クローズアップされる歯の喪失と認知症の関係』日経新聞 2014年04月24日
(資料2)http://www.nikkei.com/article/DGXDZO70687690S4A500C1W13001
『 脳の活性化も 「よくかむ習慣」の様々な効用』日経新聞 2014年05月03日
カテゴリ:健康問題
さえ:
今年の2月に日本に戻ったときに、見事、椎間板ヘルニアを発症しました。
瀋陽から成田への飛行機の座席に座っているとき背中をすとんと落とすような座り方だと疲れるので、背筋を伸ばして2時間半座っていました。飛行機を降りて違和感がありましたが、これは飛行機の座席に長く同じ姿勢で座っていたからだと、自分で納得していたのですよ。
でもそのあとも腰がうずくので、むかし買った中山式指圧器をうちで見つけて、それをリビングの床において仰向けになって腰を載せると、背骨の両側にバネの付いた突起が当たって気持ちがよいのです。快感、快感。というわけでぐりぐりと押し続けて、さて立ち上がろうとしたら、つまり、先ず仰向けの位置から先ず横を向こうとしたら、腰を原点にして体中に激痛が走って、身動きが出来なくなりました。
それでも、このままじゃ良くないと思って、ともかく腰の下から指圧器を引きずり出して、そのまま床の上で上を向いていました。このまま動けなかったら、もうぼくの人生お終いという言葉が、天井をむいたままのぼくの脳裏をかすめました。
やがて数時間してトイレに行きたくなり、体中の激痛と戦いながら腕の力で這いずって、先ずおさえちゃんの具合の悪くなったときに買って一度も使ったことのない四本脚の杖の所まで身を運んで、その杖を手にしてやっと身を起こしました。腕の力だけだと、こんなに身体が重いとは認識していませんでしたね。後は思わず悲鳴を上げながら、じりじりと歩いてトイレまで。
戻りには机の上に置いてあった携帯電話を見つけて握りしめて、長椅子まで戻って携帯電話を身につけたまま仰向けに寝ました。トイレに行かなくて済むよう、水も飲まずにね。
翌日も杖にすがって長椅子とトイレを往復するだけ。食べ物は買い置きのスナック菓子だけ。二階にあるぼくの部屋に行きたいのですが、階段では脚が持ち上がりません。腰が痛むだけで、もう完全な障害者になりはてました。
もちろん、息子に電話をしようかと思いましたが、電話をすれば彼か彼の妻かどちらかが仕事を放り出して駆けつけてくるに決まっています。留学生のOくんは、ぼくのうちが彼の住処と勤め先の間になるので、電話をしたら、彼も勤務を投げだして飛んでくるでしょう。それだけの価値があるか、いや、ない、若い人に甘えるようなことじゃない、と考えて彼等にSOSを出すのを止めました。骨が折れたわけじゃなし、じっと時間の過ぎるのを待てば、動けるようになるに違いない。
それから五日経って、そろそろ歩けるようになったので近くの総合病院の整形外科に行きました。ウオーキングで足を挫いたとき訪ねた病院です。整形外科医のお医者さんの来診日ではなく別の日に来いといわれたのですが、そんなゆとりはありませんよね。状況を言うと、じゃ一般医が診てあげましょう、ということになりました。医者と話をすると、直ぐにX-rayとMRIの検査です。
ズボンを脱ぐのもつらいのに着替えをして検査を受けて、やがて検査結果が出ると、その初老の医者は、写真を見せながら至極嬉しそうに「立派な椎間板ヘルニアですよ」と教えてくれました。第三腰椎と第四腰椎、第四腰椎と第五腰椎、第五腰椎と仙骨の間の椎間板が三カ所で背後に見事に顔を出しています。「手術したら良いなんて言いますけどねえ、これじゃ手術しても難しいですよ。先ずこの腰椎バンドをして躯幹部を締め上げれば動きやすくなるから、後は痛まないようにしながら腰を鍛えることですねえ」
というわけで、その後の日本でのいろいろな予定をキャンセルし、瀋陽に戻る予定を10日間先に伸ばして、のんびりした日をうちで過ごしました。お喋りの相手はお喋りは、もっぱら中国にいる暁艶です。中国ではごく一般的なQQを教わって、それを使ってビデオチャットをしていました。
でもこの発症の影響は大きく、ぼくは一人で歩く時は何時も時速6 Kmの速度で歩いていましたけれど、瀋陽に戻っても当分はよちよち歩きで、以前の歩き方に戻るには2ヶ月の期間が必要でした。腰の筋肉を強化するためにいろいろと自分なりの工夫をして、ひとまず元の身体に戻るためには、二ヶ月のリハビリテーションの期間が必要だったわけです。まだ何かにつけて腰が痛むので不安は抱えていますが、一応は健常人に戻りました。
カテゴリ:健康問題
さえ:
ずっと身体を動かさないでいると、驚くほど早く筋肉が衰えるのですね。若い時って、大して運動をしなくても筋肉が落ちるという経験を殆どしませんよね。カウチポテトの毎日でも健康体を保てます。
でも、歳をとってからは、今日もし身体を動かせば明日身体を動かす筋肉はちゃんと残っているという感じです。一日でも身体を動かすことをさぼると、てきめんに、身体の不自由になって報いが来ます。毎日毎日の少額の貯金だけが翌日の動きをやっと保証するという感じですね。
これが分かっていたらねえ、若いときから身体を鍛えておいたのにね。
今回椎間板ヘルニアを発症したことで歩くことも含めて運動を全く停止してしまったので、身体の筋肉を元に戻すこと、そして腰周りの筋肉を鍛えることを、痛みが少し治まってからは、いろいろと工夫しました。
歩くことが一番良いに違いないと思いましたし、今でも思っています。でも、発症してから3週間後に瀋陽に戻ったわけですが、PM2.5が200-300の空気の中では歩きたくないので、暖かくなって空気が綺麗になるまでは、ウオーキングはお預け。
以前、もう20年も前のことだったでしょうか、百歳を超えた金さん、銀さんが話題でしたね。腹ばいになって、足首に500グラムの鉄アレイを付けて下肢をひざで曲げて折り返しているのをTVで見ました。金さんたちはゆっくりとやっていましたが、ぼくの場合には関連筋肉を鍛え上げる目的なので、錘なしで力を込めて踝がお尻にバタンと音がして当たるくらい速くやります。この、ぼくは「下肢の蹴上げ」と名付けた運動を、初めは恐る恐るやってみて、それでも腰が大丈夫みたいというので30回、40回とだんだん増やしていきました。初めは40回もやると、例の腰の部分が痛いし、太ももが痙ったのですよ。
今では毎朝目覚めてから、俯きに寝たまま少なくとも100回の「下肢の蹴上げ」をやっています。それも足首を下ろすとき足首を平らにしないで、つま先をベッドに打ち付けるようにしています。足療に行って足の親指のつま先を指で押されると、思わず悲鳴が出るでしょ。ですから、きっと、これはつま先の血行をよくして身体によいはずですよね。ですから毎朝、バタン、バタンと100回音がして、おさえちゃんがいたら、そんなの朝早くから人の迷惑よ、ときっと止めるでしょうね。
今では200回「下肢の蹴上げ」をしても、太ももは疲れません。日曜日の朝は300回やっています。それでも太ももに違和感はありませんし、実際、太ももの前部を走る大腿四頭筋、背部にある大腿二頭筋がしっかりとしてきました。ここだけは人に見せられそう。。。
その後は上向いて寝て、両足を斜めに上げる運動ですが、それだと退屈だし耐えるだけなので、中空に向けての自転車漕ぎにしました。両足で一回と数えて、100回。これで2分くらいです。
そして腕立て伏せの代わりに(つまり半分怠けて)腰を付けたまま上体だけ腕の力で上げ下げをする、怠け者の腕立て伏せを80回。
昨年の11月にブログに研究室ではPCを机の上に重ねた机に載せて、一日中立ったまま仕事をしていると書きました。能書きみたいに「アイデアがわき出てくる」ことはありませんけれど、身体の具合がよいと思って続けてきました。椎間板ヘルニアを発症した後でも、瀋陽に戻ってからはそれを続けているのですよ。立ったまま仕事をし始めてから、もう半年になります。
ぼくがこの歳で、ゴキブリみたいに元気だというのが近隣の研究室で話題になるみたいで、ぼくを真似てとうとう立ったままでPCを使う仕事スタイルを始める先生が現れました。
歩く速度は4月に入ってやっと昔並みの速さになりました。ですから、腰の患部周りの筋肉は大分鍛えたのではないかと思いますが、腰の痛みはいまでも時々起こるので、状態を決して甘く見ることはなく、人並みに動けるようにするための運動を続けています。
つまり、高齢になると言うことは、実に不本意なことですが、このように身体のどこかに不安を抱えるということなのですね。
カテゴリ:日本語について
さえ:
先日、仲良しの紅さんのお宅に伺ってお喋りをしているとき、日本語の使い方の話しになりました。生まれたときからの遣い手であるぼくたちにとっては、何の問題もなくその場その場に応じて適切な言葉遣いをしますが、それを教えるとなると、つまり、どうしてこうなのかと理由を付けて教えるとなると、至難の業ですね。日本語の使い方を教える日本語教師は本当に尊敬に値します。
紅さんは日本に行って日本語を勉強しただけでなく、さらに日本語を極めるために勉強を続けて、日本語教師の資格を全養協日本語教師検定と、社団法人日本語教育学会認定の二つを取ったのですよ。中国で日本語を教える日本人教師の半分はこのような資格を持っていないと思いますから、大したものです。
「差し上げます」と言う謙譲語の話になりました。紅さんによると、これは与えるの謙譲語ですが、目上に向かって直接使うのは良くないとのことでした。
ぼくはうちで育つときは親に対して敬語を使って話してきましたが、この頃は使うことがあまりありません。親に向かって、「これを、差し上げます」っていうだろうか、と頭の中にママの顔を思い浮かべながら何度も口の中で繰り返してみました。子どものぼくがママに何かを上げる場面はなかなか思いつきませんが、その場面があるとすると、そう言うと思います。
でも、一寸引っかかるところがあるのです。何か、押しつけがましい、という感じです。ですから、「歌を歌って差し上げます」というのは飛んでもない。でも、今は流行の「それでは、歌を歌わせていただきます」と人前で言うのも、おかしな表現だと思っています。「(僭越ながら)歌を歌わせて戴きます」「(つたない歌ですが)私の歌をお聴き下さいませんか」かな。
ひょっとしてと思ってインターネットで調べると、NHKのサイトに一つありました。それをここに引用します。
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「差し上げます」?
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/161.html
2013.06.01
「執筆料として5万円を差し上げます」という言い方は、おかしいのでしょうか。グレーゾーンですが、謝礼などを支払うときにこのような言い方をすると、気分を害する人も少なくないことは知っておいたほうがよいでしょう。
解説
「差し上げる」は、「与える・やる」という意味を表す謙譲語です。自分から相手に物を渡すことを表すのに「差し上げる」という謙譲語を使うという点では、まちがっていません。ですが、「差し上げる」を使うときには、ほかにも注意点があるのです。
たとえば、「イベント主催者が来場者に対して」という場面で「記念品としてキーホルダーを差し上げます」と言うのは、まず問題ありません。それに対して、「出版社が執筆者に対して」という場合に「執筆料として5万円を差し上げます」と言うと、ひっかかりを感じる人が多くいます。このことは、ウェブ上でおこなったアンケートの結果にも表れています。これは、なぜなのでしょうか。
「差し上げる」は、「それによって聞き手に何らかのメリットが生じることを、話し手が期待している」ような状況で使われるのが典型的です。「キーホルダー」の例で言えば、それを受け取ることは聞き手(=キーホルダーをもらう人)のためになるはずだ、という話し手の前提があります。
それに対して「執筆料」の例の場合、そのお金を受け取ることはもちろん聞き手(=執筆料の受け取り手)のメリットになるのですが、それ以前にそれは正当な「労働の対価」です。正当な権利であるのにもかかわらず、「…5万円を差し上げます」という言い方で「これで聞き手にメリットがあるはずだ」のような態度をおもてに出すのは、不適当です。「どうだい、お金もらえてうれしいだろう」といった悪印象が生まれかねません。「5万円をお支払いいたします」と言ったほうが、礼儀正しく感じられます。
同じように「(~して)差し上げます」という言い方にも、注意が必要です。「傘を貸して差し上げましょうか」と言われたとしたら、やはり「押しつけがましさ」を感じてしまいます。「傘をお貸ししましょうか」のほうが、謙虚な印象を受けます。
さて、「安くして差し上げますよ」というような言い方は、どのように言いかえたらよいでしょうか。ここまで読んでくださった方々はもう、教えて差し上げなくてもお分かりですよね。
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目上にものをあげるとき、「これを差し上げます」という言い方は、これで行くと間違っていませんね。でも、どうして(何故)これを上げるの?と言うのが陰に付いているわけですね。
謙譲語の「差し上げる」は、「与える・やる」という意味ですから、普通に使うときは、「与える」、「やる」、と言うことになります。人からものを貰うとき、ぼくはうちでは親からも、「これをやるよ」と言われたことは一度もありませんでした。
社会人になって、研究所にいたとき上司にあたる部長から「これをやるよ」と本を渡されたときは、一瞬驚き、そして上司を憎みました。いまでも覚えているくらいですから、人から見下げられたという感情は、激しい怒りとなって残るものなのですね。
日本では古来から、目上から目下に何かを「やる」というのは日常的に使われていました。でもぼくの育った時代のうちでは、犬に餌を「やる」くらいしか使っていませんでした。うちで子どもは親に敬語を使って話していましたが、目上、目下の関係を浮き出させる用語は、うちでは親が使っていなかったので、「これをやるよ」と言われてショックが大きかったのでしょう。研究室の序列ではこちらが下だけれど、人を目下や犬扱いにするなんて(犬を軽蔑している訳じゃないですよ)と言うわけですね。ともかく学問的には尊敬していた部長でしたが、それ以来、心の中で縁を切りました。研究室にいる研究員を自分以下の存在ととして認識する人とは折り合えないからです。
彼にしてみると、目下としてぞんざいに扱ったのではなく、親しみを込めたのかも知れませんね。言葉の扱い方一つで人間関係はがらりと変わってしまうところが日本語の怖さです。ぼくは誰のことでも本質的には対等の関係と思っていますので、だれにでも丁寧語を使って話しています。
むかし、ぼくと姉が親に向かって何時も敬語を使って話しているので、近所では「あの子たちは養子なの?」と訝しんだと言う笑い話みたいな話しがありましたっけ。
カテゴリ:ジョーク
さえ:
4月16日、韓国の済州島近くでフェリーボートが操舵の誤りで沈み、乗客のうちの300人近くが助からないという悲劇が起きました。この船に事故が起きたとき、傾き掛けた船、横倒しになった船、沈み掛けた船が次々とネットに載っていて、沈むまでにはかなりの時間(2時間半)があったので、乗客は助かるに違いないと思っていました。
その後の報道で多くの人たちが犠牲になったことを知りました。船長や船員による適切な指示がないどころか船長がいち早く船から逃げ出したとか、船体の改造によって重心が上がっていたとか、救難の知らせに多くの船が集まっていたのに救出が適切に行われなかったとか、すべては人災だったみたいです。
その後の処理も、船会社を初め、海運当局、政府の関係者が無責任な言動を繰り返すばかりで、初動体制が良ければ船長が逃げ出した後でもまだ人命を救えたのではないかと、歯がみをする思いでした。犠牲になった人々や、残された家族の人たちの胸中を思いやって言葉がありません。
その後、韓国で船に乗って生き残るときのはどうするかという風刺漫画を扱った記事が出ていました(資料1)。
「船のチケットを買う時に船長が代理でないか確認する」
「乗る前に船に改造された過去があるか調べる」
「事前に自ら全地球測位システム(GPS) で位置を確認できるようにしておく」
「乗る前に最低3カ月は泳ぐ練習をする」
「逃げやすいよう船員の近くの部屋を取る」
「救命胴衣が足りるか数えて おく」
「船で異常が起きたらすぐに甲板に出る」
「船室にとどまるよう指示があったら事故と判断する」
漫画の最後に
「以上の点を押さえて初めて、 韓国で安全に乗船できます」
読者の投稿には:『甘い。「乗らないに限る」です』というのがありました。
それで思い出したのが、『沈没船ジョーク』です。世界の笑い話に、諸国の国民性をねたにしてからかう笑い話が幾つもありますが、その一つですね。(資料2)
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様々な民族の人が乗った豪華客船が沈没しそうになる。船長は乗客を集め、各国の乗客を海に飛び込ませるため、船長は次のように言った。
アメリカ人には 「飛び込めばあなたは英雄ですよ」
イギリス人には 「飛び込めばあなたは紳士です」
ドイツ人には 「飛び込むのが規則です」
イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」
フランス人には 「飛び込まないで下さい」
日本人には 「みんなが飛び込んでいますよ」
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これには、さまざまな国が付加されていて、韓国人には、「日本人は飛び込みましたよ」と言えばよいそうです。なるほどね。
そして、中国人には「おいしそうな魚が泳いでますよ」といえば飛び込むとなっています。
でも、これは違うんじゃないかな。魚を使うとすれば、「魚がただで沢山獲れますよ」じゃないかな。高速道路で荷物を積んだトラックが事故を起こす度に、周辺の住人が総出で積み荷をさらっていくのは始終ニュースになっています。
しかし、中国での現実を見れば、もっとよいのは、『さて、最後は中国人の乗客だが、船長が頼むまでもなく、みな勝手に先を争って海に飛び込んだ』かなと、密かに思っています。機を見るに敏、自分の損得が最優先、これが中国人でしょう。なんて書くと、周りの人たちから総スカンと言うことになっちゃうかな
(資料1)
<韓国船沈没>「韓国で安全に乗船する方法」、痛烈風刺漫画が人気―韓国
Record China 5月6日(火)5時20分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140506-00000002-rcdc-cn&pos=1
(資料2)
早坂隆『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ)
カテゴリ:中国事情
さえ:
レコードチャイナに最近載っていた記事ですが、『歴史で見る日中の差=屈辱をチャンスと捉える日本人、無知に憤るだけの中国人―中国ネットユーザー』と言うタイトルです。(資料1)
『日本メディアの報道によると、20日北海道函館市のペリー広場で式典が開催された。同式典は米国のペリー提督が率いる黒船来航160周年を祝ったもので、式典には函館市の工藤寿樹市長や、ペリーの故郷である米ロードアイランド州ニューポート市のヘンリー・ウィンスロップ市長らが出席した』
『これに関連して中国のネットユーザーは、「日本人は黒船来航を屈辱と感じていないだけでなく、世界に進出した契機として見ている。ペリー上陸記念碑の碑文 を伊藤博文が揮毫(きごう)していることからもそのことがうかがえるだろう。一方、中国人がアヘン戦争の英軍に献花することなど想像もできないだろう。中国の無知な青年は、下らない抗日ドラマを見て憤るのが精いっぱいだ」と独自の見解を発表した』
と言うもので、読んでいて違和感がありました。「中国の無知な青年は、下らない抗日ドラマ漬けになっている」と嘆くことには異論はないですが、「中国人がアヘン戦争の英軍に献花することなど想像もできないだろう」という所は、日本人が160年前のペリー来航を祝う式典のニュースを受けて書いていますから、中国でも、アヘン戦争をした英軍の記念碑(を作って)それに献花するぐらいになって欲しいと言っているように読めます。
アヘン戦争を簡単に要約すると、次のようになります。(資料2)
産業革命を起こし、増大する生産力を背景に植民地獲得に乗り出した英国帝国は清国から大量に茶、陶磁器、絹を輸入していたのに、逆に清国に輸出するものがなかったのですね。それで英国からは清に大量の銀を払わなくてはならず、この片貿易に困った英国はインで栽培していた阿片に目を付けました。阿片吸引者は清国で確実に増えて行きましたが、清国中枢は阿片に耽る庶民が増えて愚民になるのを、初めは歓迎していたみたいです。しかし、阿片輸入のための支払いに清国から銀がどんどんと減っていき、物価騰貴も招いて世情が騒然としていきました。それで、18世紀の終わり頃からは清国ではたびたび密輸禁止令を出すようになりました。
物価も上がり住みにくい世の中になるにつれ、一般庶民にアヘン吸引の悪弊が広まり、不健康な人が増えて、社会が退廃していったので清国でも阿片を一掃しようとついに道光帝が決意して(常習吸引者には死刑で臨もうとまで思ったみたいです)、阿片流入の防止のために全権大使として林則徐を選び(日本の当時の長崎に相当する)広州に派遣しました。
日本の長崎では貿易は徳川幕府の専管事業でしたが、広州では民間業者が外国相手の朝貢貿易を担当していました。十軒の特許商社です。彼等は阿片の密貿易で儲けたいわけですし、清国皇帝の取り巻きには急に阿片を禁止するよりは緩やかに絞っていこう(その間に既得権益で儲けられる)とか言うのもいたりして、さまざまの駆け引きがありますが、最終的には、退行していく清国を代表する林則徐と、それに率いられた漢族主体の貧弱な武装の兵士たちが、主として英国人の貿易商人に向けて、「以後、永久に阿片を持てこみません。違反したときは死罪となるも可です」という誓約書を書けと迫ったのですね。
英国の商務監督はエリオット大佐でしたが、誓約書を書くことを拒否して、広州から追放されました。アメリカの承認は誓約書を書いているのですよ。ですから追放処分を受けていません。
立ち退かされたエリオット大佐は本国に向けて清国の暴虐振りを大袈裟に伝えて、母国の同情を買いました。1840年2月に英国政府は清国への開戦を決めましたが、議会の議決は賛成271に対して反対262だったのです。保守党のグラハムは、「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉になる戦争を、私はかつて知らないし、読んだこともない」と言って反対演説を行いました。
どのように贔屓目に英国を見ても、この戦争の正義、戦う大義は清国にありました。英国の自国民には行き渡らないように禁じている阿片を、清国の民衆に喫ませるために、起こした戦いなのです。後に英国は、この戦いは「自由貿易」と「門戸開放」を求めた戦いだったと強弁していますが、英国が清国に好きなように阿片を売るための戦いだったのです。許せない戦いですね。それでも、正義のあった清国は完膚無きまでに英国に打ち負かされました。
その後は良く知られている列強各国による中国への進出ですね。日本はこのアヘン戦争による西欧の脅威の戦力を聞いたにも関わらず実地に戦って(薩摩藩、長州藩)それを味わい、負けて、それが開国に繋がりましたが、幸い、西国諸藩の武士階級という知識階級の存在が明治維新へと導いてくれました。
アヘン戦争はその後百年続いた中国の屈辱の歴史の嚆矢なのです。表向きはともかく、中国人が内心で英国への怒りを持っていなかったら、おかしいですね。アヘン戦争の英軍に献花することなど、あり得ないはずです。
アヘン戦争を思い出したついでに思うことは、事大主義に犯されていた清国はアヘン戦争に先立つ6年前に英国と戦火を交えて、彼我の戦力の差をいやと言うほど思い知ったはずですが、戦力の増強を怠りアヘン戦争では一方的に負けました。この教訓を、日本も忘れないことですね。備えなければ、戦い(侵略)が誘発されて、しかも負けるのです。戦いには正義など関係なく、幾らでも理由は見つけられるものですものね。そして戦勝国が正義になるとは、ぼくたちが学んだことです。
(資料1)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140522-00000011-rcdc-cn
『歴史で見る日中の差=屈辱をチャンスと捉える日本人、無知に憤るだけの中国人―中国ネットユーザー』Record China 5月22日
(資料2)陳舜臣 『実録 アヘン戦争』中公新書 1971年
カテゴリ:中国事情
さえ:
前に引用した早坂隆の「世界の日本人ジョーク集」の中に、「それぞれの幸福」という題のジョークがありました。(資料1)
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イタリア人の幸福とは、愛人とパスタを食べながらTVでサッカーを観ているとき
イギリス人の幸福とは、うまいブラックジョークが決まったとき
ドイツ人の幸福とは、計画通りに物事が運んだとき
スペイン人の幸福とは、うまいものを食べてのんびり昼寝をしているとき
日本人の幸福とは、食事をさっさと終えて再び働き始めたとき
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この日本人の所は見事ですね。実に日本人の性分を言い当てていると思います。ぼくなんて、働く時間と稼ぎとは全く連動していないのに、暇な時間があると罪悪感を覚えてしまいます。PCに向かって立っていて、論文読みに疲れるとネットサーフィンをしていますけれど、何か後ろめたいですよね。確かに、働いているときに一番幸せを感じます。
それでは、ここには載っていないのですが、中国人の幸福は何でしょうか。
一番ありそうなのは、「家族が全部揃って美味しいものを食べるとき」でしょうね。ここでは祭日に家族が一人も欠けずに集まること、一緒に集まって食事をすることをとても大切にしますものね。
それでは当たり前すぎてジョークにならないので、一寸ひねって考えてみました。
「結婚したときは親に家を買って貰ったけれど、やっと自分たちの金で二つ目のマンションが買えたとき」なんてのはどうでしょう。ともかく中国では、男が結婚して住むうちを用意できないと結婚できません。うちも用意できない男は甲斐性なしというわけで、結婚できる可能性が殆どありません。
大学を出て、厳しい就職戦線をくぐり抜けても、自分の給料くらいではうちは買えません。親が金を持っていれば、息子にマンションを買う金を出すわけですね。つまり、親が金を持っていない子どもは悲惨です。日本みたいに新婚の二人は零から二人で力を合わせて新しい生活を始めるなんてことは、ここでは論外です。貧乏は拡大再生産し、富は二代・三代に亘って栄えます。
親にマンションを買って貰って結婚して給料は好きなことに使える男と、自分の給料で金を貯め、うちを買って結婚することを夢見て、歯を食いしばって働いている男との差は大きいですね。年を経るにしたがってその差はどんどん大きくなっていくでしょう。
親からうちを買って貰っていても、普通に給料を貰っているだけでは、二軒目のマンションを買えると言うことは、殆ど不可能なことです。この瀋陽でも、街中のマンションは普通の年収の20倍を超えています。それでも、どんどん建つマンションが売れていると言うことは、給料以外のもうけがあると言うことでしょうね。
ぼくの住んでいるアパートは大学の敷地に建っている16階建ての教授楼で、大学の先生たちに分譲されています。入った時には沢山の顔見知りの教授がいましたが、今残っているのは退職した元教授ばかりで、現役の教授は他にも林立して建てられている高層マンションに引っ越して行ってしまいました。
くるまもそうです。今の瀋陽では片側4車線の道路が四通八達しているのに、くるまが増えてしまい、渋滞は始終です。くるまの値段は日本におけるよりも高価です。大学の安い給料を貰っていてこれらの高価な外車が買えるなんて、実に不思議ですが、大学構内はこれらの高価なくるまで満杯です。
日本ですとお金持ちはそれが表に出ないように振る舞いますが、中国では人にそれを見せびらかすのが普通みたいです。地位が上がれば威張り散らすのが当たり前というのと同じですね。ですから、「二つ目のマンションが買えたとき」に、それを口に出来る幸せは相当なものでしょう。自分の人生は成功しているんだぞ、と見せびらかせるのですから。
(資料1)
早坂隆『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ)
カテゴリ:日本の将来
さえ:
内田樹氏の書いた「GQの人生相談6月号」で『やっぱり年金には入っておいた方がよいでしょうか? 年金制度は崩壊する、ということを耳にしたのでおたずねします』と言う質問への答を読みました。(資料1)
内田樹氏は「日本辺境論」を書いた人で、大評判になりました。昔ぼくも読んで大いに感心したことがあります。日本人は西欧を中心と見て自分たちは辺境人だというコンプレックスからすべてを発想していると言うことのようですね。反論したい気が起きましたが、見事に煙に巻かれてしまったというのが正直なところです。
今回の答えも見事です。そうだ、その通りだ、よくぞ言った、と声援を送ります。国民が信頼しているから国があるのであって、信用しなければ存在できずに消えてしまうのが国なのだ、株券と同じなのだ、と喝破しています。今までこのように考えたことはありませんでした。
『年金というのは「政府に対する信用」に基づいているという意味では通貨と同じです。「日本円が使えなくなるらしい」と聞いた日本人たちが「じゃあもう日本円をドルに換えよう」と一斉に動いたら、日本円はたちまち紙くずになります。日本銀行券が通貨として機能しているのは、日本銀行が発行するこのぺらぺらな紙切れに価値があると「みんなが思っている」からです』
『年金だって同じです。年金制度が成り立つのは無窮の国民国家という幻想です。日本国は100年後も200年後も存在していて、まともに統治されているということを前提にして年金制度は設計されている』
『日本の年金制度や健康保険制度は世界で最も優れている制度の一つだと思います。制度自体は。ただし、国民の信用供与によって成立しているので、みんなが国を信用しなくなったらその瞬間に崩壊』します。
『100年後も日本はあると思いますか? と問われると、僕も「あります」とは断定できません(彗星が衝突するかも知れないし、地殻変動があるかも知れないし)。でも、どんなことがあろうと、国家というのは国民からの信用供与によってはじめて成立するものです。国民が国に対して信用供与すれば、信用に値する国家ができあがり、誰も信用しないと、なるほど信頼に値しない国家ができあがる。その点では株と一緒です。みんなが買えば高くなる。みんなが売れば安くなる。国民と国家の関係はそんなふうにダイナミックで生成的な関係なんです。国民とは別に自存しているわけじゃありません』
『「この国を住み易い国にしたい。そのためには身銭を切ってもいい」と思っている人の数が多ければ多いほどその国は住み易くなり、「この国は住みにくいし、先行きもわからないので、無駄に年金も税金も払いたくない」と思う人の数が増えれば増えるほど、その国はますます住みにくくなる。それだけのことです』
最近の河野太郎氏のブログによると、2012年の年金保険納付率は40%なのですね(資料2)。これじゃ、近々、現行の年金制度が成り立たないことになるでしょう。
若者は年金保険を払わないことによって、日本という国を信用せず、将来を託していないことになります。少子化を心配するまでもなく、日本が消えるときが直ぐそこまで来ているみたいです。
今のぼくは短い将来ですが、それを日本という国に託していますし、この美しい自然に恵まれている日本という国に消え去って欲しくないのですけれど、そのためには、どうしたらよいのでしょうね。愛国教育みたいに、頭ごなしに日本の国旗と国家を敬えなんて言われたって、反発しか覚えないのと同じですよね。日本人なのだから日本の国を頼るべきだ、その証拠に年金の掛け金を積み立てるべきだと言われても、一寸計算すれば破綻が目の前じゃないか、と言うことになります。
うさみのりやさんの書いているように(資料3)、国民を欺瞞する年金の計算を発表することは止めて、正直な数字と見通しを国民の前に示すべきでしょう。そして日本を存続させるにはどうしたらよいかを皆で真剣に議論すべきでしょう。そのためには、高齢者の既得権だった年金を手放さなくてはいけないかも知れないし、世の中から少しでも速く消えることが世のため、日本のため、地球のためと言うことになるかも知れませんけれどね。
(資料1)http://blogos.com/article/87217/
『GQの人生相談6月号』 内田樹 2014年05月27日
(資料2)http://blogos.com/article/87217/
『こんなに低い保険料納付率』 河野太郎 2014年05月28日
(資料3)http://blogos.com/article/87355/
『厚生労働省の人達とお話ししたこと 〜もう大本営発表は辞めませんか〜』 うさみのりや 2014年05月28日
カテゴリ:薬科大学
さえ:
今は薬学日語の3年生に日本語で分子生物学の講義をしているのですが、話しの始めに笑いを誘って、彼等の気分を柔らかくしてから始めたいと思って、最初の講義の時に「沈没船のジョーク」を口にしました。でも、学生たちは日本語がそんなに自由ではないらしく、口頭で話すだけでは直ぐに分かって貰えないのですよ。それで、次回からはPPTの最初にこれらのジョークを書いて見せています。
前回は「それぞれの幸福」と言うジョークを話しました。講義では毎回終わる少し前に出席を取るという理由で、簡単な設問を出して配った紙に書いて貰いますが、このときはその紙にこのジョークの結びにくる「中国人の幸福は?」に対する自分の考えを書いた学生がいました。
「中国人の幸福とは、お茶を飲んで、本を読むことです」
「中国人の幸福とは、子どもの面倒をみて愛する人と生きるとき」
と、みな大真面目に考えているみたいです。「私にとっての幸福は、分子生物学の試験で良い成績を取るときです」なんてのもありました。実際、学生はそれぞれの科目で良い成績を取るのに必死です。日本では考えられないことですね。日本の就職ですと、何処の大学を出たかが問われていて、成績は殆ど考慮されないみたいですが、中国では大学の成績が一生付いて廻るからでしょう。ここでは、教科書を丸暗記していたら満点が取れる試験ですから、彼等は頭を使って考えることが大の苦手です。
ぼくの分子生物学の講義は、DNAから始まるのですが、ワトソンとクリックのDNAの二重らせんモデルが1953年に発表されるまでの話しに2時間を掛けます。次は、ワトソンとクリックのDNAの二重らせんモデルに行き着くまでの話し。3回目はワトソンとクリックのモデルで遺伝子の複製が矛盾なく証明できることを示したメーセルソンとシュタールの実験の説明から始まります。(資料1)
大腸菌をN15の重い窒素の同位体を含む培地で培養して、親のDNAをN15で標識して置いて(これを0世代とします)、その後普通のN14を含む培地に移して増殖させていきます。半分くらいに増えたとき(0.5世代)、2倍に増えたとき(F1ですね、1世代とします)、2世代になったとき、3世代になったときに大腸菌からDNAを抽出して密度勾配遠心でDNAを重さに応じて分離します。
すると、0世代ではN15の重いところにDNAが来ます。当然ですね。1世代ではN15とN14の間の中間の重さにDNAが一つのピークとして現れます。これは、親の(0世代の)のDNAの二本鎖のそれぞれが鋳型になってDNAを複製したからですね。
次の2世代になると、2つのDNAのピークが現れます。1つのピークはN14の軽いところ、もうひとつは1世代の時と同じ中間位置に、同じ量で現れます。
3世代になると、DNAのピークはN14の軽いところと、1世代の時と同じ中間位置の所に、3:1の量比で現れます。すべては ワトソンとクリックのモデルから導かれるDNAの複製で説明できる、と言うことはワトソンとクリックのモデルが正しいことを示しているわけです。このDNAの複製方式はSemi-conservativeと呼ばれています。
細胞が分裂するときに親の遺伝子を正確に二つの娘細胞に与える仕組みが、このモデルで見事に示されたわけです。ここで、DNAが複製されるときに、親の二本鎖のDNAが適当に娘のDNAに入り込むという(Distributive)方式、それともうひとつ、親の2本鎖を鋳型にして作った新しいDNAが二本鎖となって新しいものだけが娘に伝わる(もう一つの娘細胞は親と同じものを受け継ぐことになるConservative)方式を考えてみようと学生に言いました。
それぞれの仮説が正しいとすると、メーセルソンとシュタールの実実験をしたときにDNAはどのような分離パターンを示すと思うか、と言う質問です。当然、いまここで勉強したパターンとは違うわけですね。
学生はこんな風にものを考えたことなんて多分ほとんどないので、大分面食らっているみたいです。モデルは目の前にあるのに、それがDNAのピークとしてどうなるかと言うだけなのですが、大変みたいです。あれこれ助言して、考えられるように仕向けて、そのために大分時間を使いましたけれど、終わった後、みんなは頭を使った喜びに満ちた顔をしていたと思います。毎回こういう良い設問が出来ると良いのですけれどね。
(資料1)例えば、以下のURLに載っています
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/rika/koutou/seibutu/se18/DNA/fukusei.htm
メセルソン・スタールの実験(アニメーション)
カテゴリ:日本の将来
さえ:
若者が年金保険を収めないと、今のような年金制度は破綻してしまうみたいです。40%の若者しか納付金を納めていないらしいので、彼等が保険料を国に払い込む気になるにはどうしたらいいだろうかと、気になります。5月30日のブログに書いたように(信頼されなければ国は滅びるのだ)内田樹氏の論法によれば、国を信頼するから日本人は日本円を使うし、貯金をするのだし、将来も国があると思うから保険料を納めるのです。もし、日本の将来が信用できなければ、保険料を払わずに国外脱出を計ることになりますし、それはつまり日本という国が破綻することを意味しています。
最近、永江一石氏の書いたブログを読むと(資料1)、今の日本で自分を幸せと思っているのは60歳以上の人たちなのですね。社会人となったばかりの20代の人たちと、社会で中核以上になる40〜50代の人たちの幸福度は非常に低いのです。
『 全体の幸福感を性・年代別で見てみると、男性で最も幸福感の平均値が高かったのは60代以上で「6.94点」、女性で最も幸福感の平均値が高かったのは60代以上で「7.05点」となり、ともに60代以上が幸福感の平均値が高い年代であることが分かりました。また、60代以上に続いて、10代位以下でも幸福感の平均値が高い結果となりました』
彼の考察によると幸福度は収入があることと、健康であることの二つがそれを支える双璧です。そして高齢者層の資産は多く、若者は少ない、今の60歳代以上の人たちが過大な年金を貰って、生活に困らないから幸福なのだと説いています。そして問題は、今の若者が60歳を超えれば幸福感を持てるようになるわけではない、それは彼等は老後に現行のような年金が貰えないからだと。
若者はお金がない上に、『20歳から国民年金は徴収されるけど、1935年生まれは払った額の5.8倍ももらえているのに、1985年生まれは1.7倍しかもらえない』というのですね。
ぼくたちは現行制度で年金保険を収めてきて、60歳を超えてから年金を貰っています。年金によってぎりぎりの生活は保障されますから、さらに必要な分はそれまでに貯めた金を消費して死ぬまで生きる設計を立てています。これは働いている時期に年金制度が作られていて、退職後はそれに頼って生きられるというので将来を設計した結果ですね。今、この歳で年金が貰えないという事態になったら、たちまち生きることに破綻してしまいます。
若い人たちは非正規雇用が圧倒的多数で、しかも収入が低い人たちが多いみたいですけれど、それは現状の日本のサラリーマン社会の生活しかないと思っているからじゃないですか。年収が低いから資産が作れないと言う現状を肯定するのではなく、是非、自分を磨いて給料の高い職業に就くなり、自ら起業するなり、海外に雄飛するなり、日本の社会にみなぎっている閉塞感を自分で打ち破る努力をして欲しいです。良いアイデアさえ出せれば、資金はネットで集められる時代ですよね(資料2)。言い訳ばかりをしていては、生き延びられない社会になってきたのですね。
その一つとして政治運動があって、 永江一石氏のいうようなヤング党(永江しによると、ださすぎるので仮称だそうです)の立ち上げがあるとすれば、もちろん結構なことだと思います。
『国の予算には限りがある。ヤング党(ダサすぎるので仮称)の公約は「国を担う若者に優しい国へ」です。高年齢者の皆さんには「あなたは支払った額の5.8倍ももらえるけど、若者は1.7倍しかもらえない」ということを周知させ、無駄に病院にいったりすることを控えてもらう。「あなたの医療費はお金の無い若者が負担しています」が標語だな。日本人だもの、これが徹底されれば「自分たちは十分もらってるから若い人たちになんとか残してあげましょう」という考え方が高年齢者の方にも生まれてくると思うんです。奨学金の団体に寄付したら相続税免除とかね』
『若い人たちを大事にといっても、税金払わなくていいよというのではなく、教育費を減免して高等教育を受けやすくするとか、将来確実に移民に取って代わられる単純労働者ではなく、ドイツみたいに「手に職を付ける」授業料の安い公立の専門学校の創立をガンガンして、スペシャリストを育てるべき。これからの日本はサービス業が中心になるわけだから、大工になる、シェフになる、板前になる、通訳になる、みたいな若者のキャリアアップのために投資しないとだめなんではと思います。単純労働者より、スペシャリストのほうが将来稼げる額がずっと大きいし』
ぼくはこのようなヤング党が立ち上がったら、ヤング党を支えるために出来るだけの寄付をする気でいますよ。
(資料1)http://blogos.com/article/87381/
『データに見る「老人だけが幸せな国、日本」』 永江一石 2014年05月29日
(資料2)http://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ270KN_X20C14A5SHA000/?dg=1
『夢はネットで叶える 組織や国には頼らない』 日経新聞 2014年06月03日
カテゴリ:日本語
さえ:
日本語を何十年も使ってきて、今一寸悩んでいます。
誰かにご馳走になったら、その後お礼をメイルで書きたいでしょ、PCを使って。それで、「嬉しい」意を伝えたいと思って、「うれしいでした」と打ち込むと「嬉し胃でした」という具合に変換されます。これが「たのしいでした」でも同じで、「他の恣意でした」のように変換されます。つまり、この言い方はないと言うことらしいです。
この半年くらいがとても気になるので、以前は多分大丈夫だったのではないかと思います。ことによると記憶違いで「うれしいでした」と言う語句を使っていなかったかも知れませんが。
「嬉しい」、「楽しい」、は形容詞で、過去形は、「嬉しかった」、「楽しかった」、ですよね。
「嬉しい」、「楽しい」、を丁寧に言うと、「です」が付いて、「嬉しいです」、「悲しいです」、になりますよね。
「嬉しかった」、「楽しかった」、を丁寧に言うと、「嬉しかったです」「楽しかったです」なのでしょうが、この言い方はぼくには舌足らずで。稚拙な感じがしますので、使ったことがありません。
昔はぼくでも至極丁寧に、「嬉しゅうございました」、「楽しゅうございました」と言うこともありましたが、ごく改まったときだけでした。今、この言い方は年配のご婦人に間に残っていると思われます。
ですから今では、「嬉しいでした」、「楽しいでした」と言っているのだと思いますが、PCで転換されないことはこの言い方が拒絶されていることを意味しています。
ネットを見るといろいろな意見が載っているサイトが二つありました。
『嬉しいでした、楽しいでした、悲しいでした・・・この日本語はおかしい?』
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4265690.html
『「楽しいでした」という言い方は正しいですか?』
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2006/0224/079510.htm?o=0
見てみると、殆どが、そんなことは聞いたことがない。それは文法的に間違っている。そんな言い方を海外の人に日本語として教えるな。と言う意見でした。
中には鹿児島では当たり前に使われていて、それは鹿児島方言なのだろう、間違いだが、方言だから大目に見るか、という感じでした。ぼくは鹿児島と全く関係はないのですけれどね。
その中の肯定的な幾つかの文章を引用します。
『文法的には「楽しいでした」でOK』
投稿者:ss
2006年2月28日 10:53
「楽しいでした」「楽しかったです」は、「楽しい」に、丁寧にする「です」と過去を表わす「かった」を付け加えたものですね。「です」と「かった」のどちらを先につけるか、順番だけの違いです。
で、この順番ですが、過去の「かった」よりも丁寧の「です」を先につけるのが文法的に正しいのです。なので「楽しいでした」が、正解。
ただし、これは私が大学で研究をしていた10年前の話なのですが、その時点ですでに「楽しいでした」は普通言わない言い回し、違和感があるという状態でした。なので、言語は生き物ですから、現在は文法的にも「楽しかったです」でもOK、ということになっているかもしれませんね。
(これって、日本語を研究対象にしている大学に行けば、答えが得られると言うことでしょうね)
『方言なの?私も知りたい!』
投稿者:しっぽな
2006年3月2日 9:39
義母からの手紙やメールに「この間はとても楽しいでした」とか、「お便り、嬉しいでした」という文がしょっちゅうあり、「んー??」と思っていました。会話では「楽しいやったわ」って感じ。
義母はずっと中学校の国語の教師だったので、そうそう間違った日本語を使うとは思えず、きっと方言で、身内の間でだけ使っているのだろう、と思っていました。夫はあまり言わないので、古い方言というか、言い回しなのかなーと。
義母の場合、私が慣れたのと、使い方のニュアンスが可愛らしい感じなので、あまり気にならなくなりましたけど、正確な日本語としては間違っていると思います。
(いや。ぼくの母も国漢専攻科を卒業した国語の教師でしたよ)
『それって・・・』
投稿者:薩摩おごじょ
2006年3月2日 19:14
方言です。
鹿児島弁では、普通にそういう言い回しをします。
文法的には間違いだと分かっているのですが・・・。
小学校低学年くらいだと、作文でこのように書いても、無理に直させることなく、目をつぶる場合もあるようです。
「楽しかったでした」と言う人すら居ます。
間違いだと知ってさえいれば、
方言なんだし、目くじら立てなくても良いんじゃないのかなぁ。
(何故、鹿児島の方言なのでしょうね。標準語として東京から発進された日本語が全国で使われるようになって、「正しい」使い方の「嬉しいでした」が日本中に広まったけれど、次に違う使い方が広まって多くの所では駆逐されたのに、日本の果ての鹿児島に残っているという見方もあると思いますね)
『かつては一般的な言い方』
投稿者:着道楽
2006年3月5日 13:30
私も海外で日本語教師をしている者です。
形容詞と形容詞(あるいは形容詞と形容動詞)の活用の問題ですが、その分類自体、歴史が浅く、「間違い」だとは言い切れません。
形容詞でも「おいしいでした」という言い方のほうが、かつては一般的だったそうです。しかし、日本へくる外国人の増加にしたがって、日本語教育の草分けとなった方々が、「おいしかったです」という言い方を採用したそうです。それに対し、当時の文部省は難色を示したとか。
方言だという説は、年代や地域によって「~でした」のほうが定着し、現在「方言」として残っていることだと思います。
詳しくは「日本語Q&A,な形容詞,い形容詞,形容動詞」というサイトに出ているので、一度ごらんになるといいでしょう。
私は学習者には、このような過程をそのまま説明し、「間違いではないが、現在はあまり使わない表現。日常会話や試験では ~かったです を使うほうがいい。」と言っています。ここまで説明すると、学習者もすっきりするようです。
(「おいしいでした」が一般的だったと言うことは、「嬉しいでした」、「楽しいでした」が一般的に使われたと言うことでしょう。ぼくはこれを使っていたのだろうと思います。日本語の変遷をしっかりと記録している研究者があると思いますが、その人たちにしっかりと訊きたいですね)
『NHKでやっていましたよ』
投稿者:もも。
2007年5月5日 20:25
数ヶ月前のNHKのBS放送でやっていました。恐らく普通のNHKの番組の再放送だと思います。
視聴者がハガキで質問をし、それに語学研究の先生(大学の教授?)とにかく専門の先生が答える形式です。ハガキには「おいしいでした」という表現は正しいですか?とありました。
先生は「最近はおいしかったです、という表現が好まれ、おいしいでしたという表現は耳慣れないが文法的には正しい」とお答えになりました。
現在形の場合「おししいです」という表現は正しい。
過去のことを言うならば「おいしかった」でいい。
それを丁寧な表現でいいたいのはら「おいしゅうございました」(楽しいの場合は楽しゅうございました)
しかし「です」の過去形は「でした」なので形容詞の「おいしい」に「でした」をつけるのは間違いではない。
完璧に覚えていませんが、こういう内容だったと記憶しています。
年配の方の方がこういう表現をするようなことも言ってました。
うんと考え込んでいたら、「嬉しかったでした」、「楽しかったでした」と言う言い方が頭に浮かび上がってきました。これは、形容詞と動詞を両方過去形にする使い方ですね。これですと、まったく違和感を覚えません。きっと、ぼくは昔は、「嬉しゅうございました、「楽しゅうございました」と言わなくなったあとは、「嬉しかったでした」、「楽しかったでした」と言うようになったのではないかと思います。公開したら、おそらくこれも、ネットでは異端であると言って攻撃されるかもしれません。
でもね。ぼくは若い人から見れば、昔の言い回しの保存者であり、とりもなおさず、それは老人語・死語を喋っているというわけですよね。
追記1:
なお、以下のURLでは、次の意見が書かれています。
『日本語Q&A』
http://nhg.pro.tok2.com/
(このホームページは、樹(いつき)こと江崎玲子が個人で管理運営しています。日本語教師歴17年目の日本語教師です。 )
http://nhg.pro.tok2.com/qa/keiyoushi-1.htm
質問:友達からのメールに、「あのレストランは美味しいでした。」と書いてありました。「美味しかったです。」の間違いじゃないのですか。
回答:わかばさんは、きっと若い方なのですね。
「美味しいでした。」と書かれたのは、年配の方じゃないですか。
かつては、「美味しいでした。」という言い方のほうが一般的だったようです。
外国から来た方々のための日本語教育が必要となって、日本語教師の草分け的な先生たちが外国人にとって学びやすい日本語を整備しました。
そのとき「美味しかったです。」という形容詞文の過去形を採用したのだそうです。当時、文部省は難色を示したけれど、日本語教師側がある種強引に踏み切ったところ、今では、「美味しいでした。」より、「美味しかったです。」の方が馴染みよくなったんですね。
追記2:
調査によると、年配者には「美味しいでした」を使っている人たちもいますから、かつては一般的だったというのが頷けます。ぼくは立派な年配者。
http://nhg.pro.tok2.com/reserch/reserch1-4.htm
日本語調査結果(4)
形容詞文の過去形
調査終了(02/01/28~02/07/16)TOTAL:105
美味しかったです 95.2%
美味しいでした 1.9%
どちらも言わない 2.9%
50代/60代:16
美味しかったです 68.8%1
美味しいでした 2.5%
どちらも言わない 18.8%
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
以下は、例の早坂隆氏の著作「世界の日本人ジョーク集}から取ったアメリカ人の傲慢さを対象にしたジョークです。日本では良く行き渡っているジョークですよね。これを英語にしてみました。ここでは中国の学生に話すので、登場する日本人を中国人に変えました。
An Arrogant American(傲慢的美国人)
紐育行きの飛机で、美国人と中国人が隣同士で座っていた。美国人が中国人に話しかけた。
美国人「By the way, which nese are you?」
中国人「What do you mean?」
美国人「I am asking you which nese you are. Are you a Japanese, a Chinese or a Vietnamese?」
中国人「I am a Chinese.」
しかし、美国人の傲慢な話し方に腹を立てた中国人は、早速言い返した。
中国人「By the way, which key are you?」
美国人「What? Which key am I? What are you asking me about?」
中国人「Well. Are you a monkey, junkie, or a donkey?」
美国人はとても失礼な話し方ですね。それに対して小気味の良い痛烈な言い返しです。
もとの話しでは、Yankee, monkey, or donkeyなのですが、相手はYankeeに決まっているのに、それを訊かずに、monkey(いたずらっ子)、junkie(麻薬中毒者)、あるいはdonkey(うすのろ)かと言い返す方が強烈じゃないかと思って、一寸変えてみました。
殆どの米国人は世界に興味を持っていないのに、彼等は世界を自分たちが仕切っている、あるいは仕切るのが当然だと思っているみたいです。外国人に対して傲慢な米国人がステレオタイプとして登場すると、なるほどと思わせますね。
このジョークでは、隣の乗客をアジア人と見て、どのニーズだと米国人が聞くわけですが、ニーズの付くアジアの国は決して多くはありません。
調べて見ると上に書いたように、日本人(Japanese)、中国(Chinese)の他には、台湾人(Taiwanese)の三カ国だけです。ベトナム人(Vietnamese)の語尾はミーズで、同じようなのは、タイ人(Siamese)、ミャンマー人(Burmese)の三カ国です。タイ人に使われているSiamは山田長政の頃からあるタイの古語ですし、Burmaはミャンマーと言われる前の1989年までの国の名前です。
フィリッピン人はFilipinoで国名のPhillipinsと綴りが違いますが、これは長らくスペインの植民地だったからでしょう。語尾をこのように変化させるのはラテン語系ですね。同じようなのが、パキスタン人(Pakistani)、バングラディッシュ人(Bangladeshi)です。
それ以外の諸国はAmerica人がAmericanとなるみたいに変化しています。ラオス人(Laotian)、インドネシア人(Indonesian)、マレーシア人(Malaysian)、ブルネイ人(Bruneian)、韓国(Korean)、北朝鮮人(North Korean)、インド人(Indian)、カンボジア人( Cambodian)、シンガポール人(Singaporean)、スリランカ人(Sri Lankan)、と言う具合です。
ここではアジア諸国をぼくたちの概念でくくっていますが、世界的に見ると(西欧の見方では)、レバノンやトルコより東、つまり彼等の理解を超えた化外の世界がアジアなのですよね。
もうひとつ、アメリカ人を皮肉ったジョークを一つ(同じく出典は、早坂隆氏の著作です)。これも、英語に直しています。
「捕鯨は禁止だよ」Commercial whaling banned
An American complained to a Japanese, "We do not approve the commercial whaling to eat whale meats, never, ever..."
A Japanese was wondered and asked him. "Why?"
"Whales are an intelligent animal species with a full sense of sentiment. They are innocent, so cute and lovely. They live in peace and do not threat lives of other animals. They should never be killed to eat."
After listening to this postulation, the Japanese said, "Okay, I got it. We will eat the Americans instead, from now on."
これを書いていて、ふと思ったのですが、このところ隣国と領海問題で騒ぎを頻りに起こしている国があります。この「捕鯨は禁止だよ」は美国人の自分勝手さをからかっていますが、美国人を○○人に代える新版にしたら、受けるかもしれませんね。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
日本の男性の生涯未婚率が20.1%だということで(50歳で未婚の男性の割合)驚いています(資料1)。男性の5人に一人が結婚することなく一生を終えます。ぼくの知人も結婚していない男性が何人もいますけれど、ぼくの知っている世代ですから、5人に一人よりは少ないみたいです。
それよりも知っている女性で独身が多いのです。直ぐに何人もの人たちが思い浮かびます。高学歴で、働いていて、とても魅力的な女性たちです。この傾向が日本の少子化を招いているに違いないと思っていました。未婚の女性の割合は10.1%なのだそうです。
彼女たちが結婚したがらない社会が悪い、彼女たちを結婚に踏み切らせない男たちの責任だ、などといろいろと気炎を上げることができますけれど、具体的にはどうしたら良いでしょうね。多くの人たちこれの解決策を出していて、そしてどれも未だに有効ではないみたいです。
ぼくは今中国にいて思ったのですが、この国では(ぼくの見聞は大学という狭い社会に限られますけれど)若い男女は結婚に対する抵抗感が少ないようです。日本の若者みたいに疑義を持つことなく、若いうちに相手を捜して結婚していきます。
この国の離婚率が50%になろうかという時代ですから、手軽に結婚して、いとも簡単に離婚するのかもしれませんけれどね。
この傾向の違いは、社会構造の違いと言えばそうかも知れません。中国ではまだ親を大事にする風習が強く、親の面倒を見るということは自分が結婚して家庭を持つのは当たり前という感覚につながっているでしょう。日本の社会の50年前を思うと良いのかもしれません。ぼくたちの結婚した1960年代の生涯未婚率は男女ともに1%台です。結婚するのが当たり前の社会でしたね。
ですから中国の事情を引いて、こうしたら良いかも知れないと言っても、それは社会の変化が50年遅いだけだと言われるかもしれませんが、中国の大学生活が日本と決定的に違うのは、中国の大学生は大学で全寮の宿舎、しかも同室者四人というように共同生活を経験することではないかと思います。
大学で同性同士にしても、他人と一室にいることに慣れるということは、日本人にはないことです。この薬科大学に日本から留学して来る学生は、日本人の日本語教師と同じように大学から宿舎が与えられてひとりで暮らしています。たまに希望して中国人学生並みに寮に入りたいという奇特な学生もいますが、ひと月と保たずに個人部屋に逆戻りです。
他人のことではなくぼく自身にしても、教師の会の集まりで宿泊することになると他人との同室にはとても抵抗を感じます。生理的に受け入れられないのですね。
もし大学の学生生活で他人との共同生活を4年間もしていたら(ぼくの人生観はだいぶ違っただろうと思いますが、それは置いておいて)、他人と同室には全く抵抗がないでしょう。
そして人と暮らすのが当たり前と思って生きてきたら、大学を出て、さてと思ったときに、今度は結婚相手を捜して一緒に暮らすことへの抵抗感が少ないのではないかと思います。
相当に粗雑な意見だと自分でも思いますが、思い出してみると、戦前の高等学校の寮生活をした人たちは全寮制の良さを吹聴し続けました。その経験のないぼくたちはこれに対して言い返すこともできず、黙っているしかありませんでしたが、今一度、この全寮制の良さの主張に、もうひとつ別の視点に立って耳を傾けてみてはどうでしょうか。
(資料1)http://www.jili.or.jp/lifeplan/lifeevent/mariage/12.html
『「生涯未婚率」というのは何のこと?』生命保険文化センター
カテゴリ:薬科大学
さえ:
6月に半ばになったので、このブログにはっきりと書かないといけないでしょう。今期の終わりで瀋陽薬科大学を辞めることにしました。
いろいろと理由はありますが、一番大きいのは二つの国の間の軋轢です。中国の大学に招かれてきて仕事をしていますから、ぼくは客人としての節度を当然守ってこの国で暮らしています。言いたいこともありますけれど、お客である以上、言っては失礼に当たることは言わずにいます。それはとても神経を疲れさせます。
第二の理由は、ぼくの健康に対する懸念です。
前に書いたように今年の2月に椎間板ヘルニアを発症して身動きできなくなったときに思いました。
これがひとたび治っても、再発するかも知れない。大学の仕事を続けていたら、その時は多くの迷惑を人に掛けることになる。中国では大学院教授でも65歳が定年なのに、それを枉げて招いてくれた厚意を忘れてはいけない。身動きできなくなる前に辞めるべきだ。もちろん、今は何の問題もありません。健康そのものです。歩くのだって3キロメートルを30分掛からずに歩きます。腕立て伏せだって40回くらい屁の河童です。ラインダンサーになるくらい、脚を高く蹴上げることだって出来ます。でもね、何時かはアウトになりますよね。
それに第三の理由として、自分の知的能力に対する懸念が出てきました。
大学の先生というのは一国一城の主ですから、学会に出る、研究者仲間が多くいる、論文を沢山読むなどを怠っていると、たちまち自己肥大化が進んでしまいます。だって、研究室にいるのは教育を受ける学生ばかりですから、学問的能力からいうと学生は端から競争になりません。研究室のセミナーで、論文の理解力では大人と子どもの競争です。研究の背景を知れば、たちまちこの論文の占める意味が理解できるのは長年研究の世界にいるからですし、学生はぼくには遠く及びません。
ま、そんなわけで、まだまだ自分の頭はちっとも衰えていないと思うのですけれど、この春それに疑念が生じました。
東工大の時の学生だった仲田大輔くんが研究所で行った研究について論文を書くに当たって、ぼくに意見を求めてきたのです。こちらは、研究をするのも、論文を校正するのも、それを書くのも長年のプロですから、仲田くんの書いた論文を読んでみて、何処を直したらぴかぴかした論文になるかが直ぐに分かりました。
実に見事な着想で、今までとは逆転の発想による新しい研究展開に成功し、目から鱗の新しい発見をもたらしています。でも、自分が行ってきた研究の進め方にこだわっていて、世界中が驚く発見をしたのに、説得力のある書き方が出来ていないのですね。論文の構成をがらりと変えればよいわけで、それを示唆すると仲田くんは直ぐに分かってくれました。
もちろん細かな内容もしっかりと見て、彼とも何度も議論して論文の正確さを確かめました。Natureの不正論文投稿で有名になった、あの小保方さんの共同研究者がちょこちょこと何かしたなんて言う程度ではありませんよ。仲田くんに及ばずながらも真剣に彼のデータを吟味し、論文をどう構成したらよいかを考えぬいて彼に助言しました(もちろん、ぼくは仲田くんのこの実験のアイデアに、そして発見に全く関わってはいませんから、あの小保方さんの共著者が沢山みたいに、この論文の共同著者ではないですよ)。
いろいろと見解を述べている過程で、ぼくは一つの誤解をしていたことが分かりました。糖タンパク質の糖鎖の研究の専門家でなければ冒しやすい間違いで、仲田くんから指摘されてぼくの間違いに気付きましたけれど、ぼくにとってはその誤解に気付かなかったぼくのことが許せません。糖鎖科学のほとんどすべてが理解できると思って、むかし世界の糖質研究の振興のためにFCCAを創設し、これが務まるのはぼくしかいないと思ってジャーナルであるTIGGの編集長を十年に亘ってやったぼくです(*)。こんな基礎的な間違いをするようになっては、もう駄目です。(今までは麒麟のつもりだったけれど)ついに老いた駑馬になったのだと認識しました。
辞め時ですね。
(*)その頃の苦労話を、Yamagata, T. What could be better than indulging in TIGG? Trends Glycosci. Glycotechnol 11, 159-178 (1999)に詳しく書きました(https://www.jstage.jst.go.jp/browse/tigg/11/59/_contents)。日本語と英語の二カ国語です。そのPDFはhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/tigg1989/11/59/11_59_159/_pdf
FCCA: Forum Coming of Age. http://www.fcca.gr.jp/FCCA-J/index.html
TIGG: Trends in Glycoscience and Glycotechnology. http://www.fcca.gr.jp/TIGG/
カテゴリ:研究室風景
さえ:
いまは卒業の時期で、修士の学生、卒研生は論文書きに追われています。さらに彼らのメインイベントは論文の発表会です。修士は発表15分、質疑応答5分が与えられていますが、卒研生は発表5分、質疑応答3分という忙しさです。彼らは、そのリハーサルを始めました。
修士の発表では審査員の全員が講師、助教授でできていて、まとめ役の一人が教授です。卒研生の発表では教師の一番下のランクである助手と講師が審査員を務め、ヘッドは助教授が担当します。審査員というのは発表後に質問をする人たちです。面白いことにここでは、質問をするにも教師の間のランクがその順番に反映されています。事大主義ですね。
東工大ではこれらの行事のすべては教授の責任でしたね。
学生の作るPPTはそれまでの先輩たちの発表を見習って、彼らの研究の背景、実験内容、結論が述べられています。それぞれ彼らの研究を映した力作です。でも、話を聞く人たちへの配慮は皆無です。実験内宇土のその結果を、ペラペラと話すだけです。
でも、報告をする人たちはその研究を修士の学生なら3年近く、卒研生でも6ヶ月やってきています。報告を聞く人たちは、それを採点する先生たちも含めて、言って見ればほとんど素人同然です。何年か前のことですが、うちの学生がsiRNAを遺伝子発現阻害の方法として使った研究を話したら、siRNAについてもっと話して下さいと言われました。2年前にぼくたちがやっとReal time PCRを使い始めたときその理論的検考察をしたら、質問が殺到してそれだけで20分を超えました。
ですから素人相手には、言葉で話すだけではなくビジュアルにして、話している意味が一瞬で明確につかめるような図を書くように、いつも指導しています。
でも今年の修士の一人は、PPTには修士論文に載せた図を並べるているだけで、それをわかりやすくすることに抵抗するのですよ。
例えばRT-PCRで得られたCT値の書かれた数字の並んだ表を眺めて、その数値を見比べて、なるほど演者の言う通りこの値が20だから、ほかの30という値に比べて沢山発現されているのだなとわかるのは専門家だけです(CT値は2のN乗の値で表されていて、検出するレベルになるまでにそれだけ増幅したという数値です、数字が大きい程、もとが少なかったことを意味します)。
このRT-PCRの結果は、最初に存在したDNA分子の数でも表すことができます(InitialTemplate Number)。これで表すと、どの分子の発現が元々多いのかが、数値で直ぐにわかります。ぼくはさらにそれを楕円の大きさにして描いて、直感的に最初の量を比べられるようにすることを提案しました。
でもこの学生の言うのは、「だって発表は15分なんですよ」
つまり、たった15分の発表なのに、どうしてそんな手間をかけるのかと、大いに不服です。
発表時間はたった15分しかなく、一つの図は10秒から20秒くらいしか人目にさらされない訳ですね。それだけの時間で話していることを理解してもらうために見せているスライドですから、それを有効に利用しない手はありません。当然、一目で要点が分かるようにする必要があるでしょう?
でも学生はいくら言って聞かせても不得要領です。再計算する手間が面倒なのですね。
それで、学生には、発表する本人だけが内容を良く熟知しているけれど、聞いている人は、そのとき初めて聞く訳だから、素人だったらよほどわかりやすくスライドを作らないと、誰も話を理解できないのだよ。聴衆は、その時間は仕方なくあなたの話を聞いているけれど、鳩の群れと同じことで、つまり馬鹿同然なのだよ。その人たちにわかってもらうためのプレゼンターションなのさ。この先も、人前でプレゼンテーションをする機会は何度もあるでしょうけれど、目的は自分の言いたいことを人に伝えることにある訳ですよね。独りよがりの内容では、職を失うだけです。
ここまで言ってやっと、RT-PCRの結果は、ある遺伝子の発現量は数字の大小で表されるようになりましたが、さらにこの数値を可視化したいですよね。でも、ぼくはもうここで疲れ果てて、もっと内容を良くするよう指導する意欲を失いました。
ここで11年間学生の教育と研究に専念してきましたが、すべて学生を思い通りに染め上げる訳にはいきませんし、もしそんなことをしたら、教育者として増上慢なことこの上ないことです。ぼくたちのできることは、学生が判断できる材料を増やして、彼らが自分で理解して、自分で判断して、選ぶようにすることですものね。思うように行かないのも当然です。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
前回は修士の学生の一人のPPTの描き方について、発表する学生がこれでも良いと思う表わし方と、ぼくが満足するそれとが大きく違うことを書きました。ぼくは話が一目で分かるように、数字の羅列ではなく、数字の大きさを例えば楕円の大きさで表して比べるような工夫が欲しいと要求しているのでしたが、学生は面倒な計算をしたくなくて、とうとうこれは中途半端に終わりました。
修士の学生としてもう一人がいます。この林音知の場合、実験データが結構振れるので、大きな研究構想のあちこちを担当して当たりを付ける仕事を主にやってきましたが、修士論文の発表となるとそれを人が理解できる形にまとめないといけません。一つの本筋のある実験ではないのでまとめるのに苦労しますが、ガングリオシドが制御しているシグナルという意味でまとめました。
最初は実験ごとに、例えば一つの阻害剤を使ったときに、例えばTNFa、MMP9、COX2、NOS2、が上がるか、下がるかでまとめていましたが、これではそれぞれの遺伝子が全体としてどのように制御されるかを理解するのが簡単ではありません。彼女の用意した発表を聞いて、話を遺伝子ごとにまとめ直すように示唆し、かつそれぞれの実験の意味が分かるように、それぞれのスライドの左端にシグナル経路を書き入れるようにしました。
ぼくが示唆したように書き直すためには、先輩である暁艶が全面的に協力しましたが、そのお陰で発表内容が見違えるようにわかりやすく、かつ意義が直感的にスライドを見ていて直ぐに理解できるものになりました。
日曜日に修士論文発表が行われました。この学生は発表の前日遅くまで発表するPPTの作成をしていて、話す内容も十分こなれていないのを修正し続けていたので、当日の朝もこの学生は不安がいっぱいでした。
それで、「言うことに自信を持って話しなさい。もしも不安げに話すと、それは何も言わないと同じことですよ」
「それに、この話をすべて把握しているのはあなた一人で、聞いている方は全く初めて聞くんだから、この領域では自分が第一人者なのさ。前で聞いている人たちは鳩の群れと同じなんだよ、言うことに自信を持っつことだよ」と、ぼくのお得意の励ましの台詞を吐いて元気づけました。
日曜日の朝8時から始まった修士論文発表会で、彼女は無事に15分の発表を終えたと思ったのでですが、その後の各審査員の先生たちによる質問に答えているのを聞いたうちの研究室の人たちが、頭を抱えているのがすぐ目に留まりました。
発表も、質疑もすべて中国語なので全くわからないぼくのために、研究室のほかの学生がぼくの周りに座って英語で説明してくれるのです。彼らの説明によると、「FBJ細胞のうちでGD1aがあるのとないのと二種類の細胞を使って比べるのはわかるけれど、肺がん由来のLewis細胞を使うのはどうしてか」という質問があって、これに対して、「Lewis細胞ではTLRが沢山発現しているからだ」と見当違いのことを答えているのですよ。
GD1aの効果がぼくたちが中心的に使っている骨肉腫由来のFBJ細胞に現れるだけでなく、ほかのがん細胞でも同じように現れることを示すために肺がん由来のLewis細胞を使っているのですけれど、まるで方向違いのことを堂々と答えています。
ですから、「それでは、TRLはGD1aによる制御にどのように関わっているのか」なんていうまるで本筋と関係ない質問まで受ける始末です。彼女はこれに対しても堂々と、まるで関係ないことを答えています。
さらに「そのカルシウムチャンネルはGD1aによって発現が阻害されるのか」という質問があって、それに対して彼女は「その通り、うちの研究室の研究で、阻害が既に示されています」と答えたそうです。ぼくたちは、そんなことを調べたこともないのですよ。
つまり、彼女は自信を持って演台に立ちなさいとぼくが指示したのを、「相手は何も知らないのだから、何を言っても構わない。嘘でも良いから堂々と返事をしなさい、と勧められた受け取ったみたいです。
いや、もうぼくは頭を抱えています。相手は何も知らないのだからお前さんがその場を主導できるのだよと言いましたが、まさか嘘を堂々とついて、その場に君臨するとは思いもしませんでした。
こういう思い込みをする林音知はこれで卒業ですから、もう接する時間はありません。どうしたら良いのでしょうね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
学生の修士論文発表のことを書いてきました。リハーサルで学生の用意した話がそれでは印象が薄いよ、こうしたら良いのじゃないかとぼくは自分の考えを言いますが、学生はなかなか話すときの話し方の良し悪しを理解しません。わかってくれる学生ならば良いのですけれど、わかってもらえないこともあります。こういう時ぼくは、よほどのことがない限り自分の意見が最上のもとして押し付けることはありません。
だから、駄目な教師なんだよな、一番良いと思ったらそれを押し付けても学生にそれを体得させて納得させるのが本当だろ。それをしないことで、自分のことを良い教師と思っているなんて、似非教師そのものじゃないか、と思わないでもありませんけれど、なかなか自分のスタイルは変えられません。人の心の中にずけずけと踏み込める熱血教師にはなれないのですね。元々、原子以外には絶対的なものなどないと思っている人間だからでしょうね。
以前のうちの博士の卒業生の張嵐の論文発表のリハーサルを聞いていたら、研究の流れが逆になっていて愕然としたことがありました。それじゃ話のインパクトがなくなってしまうじゃないの?
彼女はガングリオシドGD1aがNOS2の発現を抑える研究をしていました。この細胞ではMAPKシグナル経路がNOSの発現を抑えていることをまず明らかにしました。実際に、この細胞は普通の状況でEGFRからシグナルを送ってすぐ下流のGRB2を活性化し、これがMAPKを活性化しています。GD1aのシグナルを調べるとEGFRを通ることなく、直接GRB2を活性化し、引き続いてMAPKを活性化していることで、NOS2を抑えることがわかりました。
これってすごい発見ですよね。GD1aは既存のNOS2発現を抑えるシグナル経路を活性化して、NOS2発現を抑えるのですよ。
ですから発表するときも、このような順序で話せば良いのに、GD1aはGRB2を経由してMAPKを活性化してNOS2の発現を抑えた、そしてさらに調べると、この細胞はEGFRが刺激してGRB2を経由してMAPKの活性を上昇させてNOS2を抑制しているという話です。
なんだか、香辛料の入ってない四川料理、カレーを入れ忘れたインド料理を、ホップの抜けたビール、おととい栓を開けて冷蔵庫に置いておいたコカコーラを飲みながら食べているという間の抜けた話になりました。
ぼくは直ぐに問題点を指摘して、注意したのですけれど、博士論文をこのように書いてしまったから、もう話は変更できないと言い張ります。もちろん、そんなことはないのですよ。話すときは口頭で話す効果の最大を狙って話を構成して良いのですから、変更しても、全く問題ないのです。でも、彼女はそう言い張って変えようとしませんでした。人に言われて直すのは面子に関わるのか、面倒だったのか、話し方の重要性をわかっていないのか。。。
ま、しゃあないよね。最後はぼくの問題じゃない。。。
案の定、審査員の一人から、話の順番を(ぼくがうえに書いたように)入れ替えたら、遥かに内容の価値が伝わるだろうと指摘されました。自分で自分のやった価値がわかっているのかね?とも。
この審査員に拍手。。。
あの、馬鹿奴、と思いながらぼくはこれを聞いていました。せっかく良い研究をしても、ぼくの言う通りに手を動かしていただけで、これが理解できない張嵐は博士に値しないね、とまで思いながらね。
さてこんなことを書いている今、同世代の人たちがどんどん世を去っています。6月13日にはオペラのバリトン歌手だった平野 忠彦さんが亡くなりました。未だこうやってせっかく生きているのに、人の行いを悪く言っているなんてもったいない話ですね。さえ。もう、こういうことは終りにしましょうね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
今年の卒業研究生は二人でした。蘆思竹さんと、秦翌陽くんです。ふたりとも90年代生まれで、中国が豊かになってから育っています。のびのびした明るい性格で、活発で、晩会では舞台でモダンダンスを披露する腕前ですが、成績も優秀、それも試験の成績が良いだけではなく、何時も自分の頭を生き生きと使っていて、付き合っていてとても嬉しい学生です。
蘆思竹さんはFBJ-LL細胞とFlow Cytometryを使って、秦翌陽くんはRAW264.7細胞とを使って、細胞のカルシウム濃度を調べて、見事な結果を出しました。FBJ-LL細胞はカルシウム濃度を測定する色素であるFluo4を取り込ませたあと浮遊細胞にできるのでFlow Cytometryを使って調べることができました。一方のRAW264.7細胞は頑固で培洋皿から離れにくい上に、直ぐにくっついてしまうのでFlow Cytometryを使うことはあきらめ、Fluorescence Variscanを用いたのです。今回の卒研生には研究の方向を指示しただけで、細かなことはポスドクの暁艶に任せました。暁艶はかれらの相談に乗りながら、彼らが主体性をもって考えて実験をすることに主眼を置いて指導し、研究を進めさせました。今回のそれは成功したと思います。
この結果を単独では論文にするにはあまりにも簡単すぎるので、このあとはメカニズムを解明する実験を加えれば良いと思っています。
卒業研究の発表は、本文5分、質疑が3分のところを、蘆思竹さんは11分、秦翌陽くんは14分も演壇に立っていたほど、熱のこもった発表内容でした。
打ち上げの晩会は、東北大学近くの四川料理の店で、お隣の邸老師の研究室と合同で行いました。お隣りは大きな研究室で学生も多いので、ぼくたちの人手不足を時々補ってもらっていますし、ぼくたちに足りない研究費を別の意味でカバーすることでも助けていただいています。最後の晩会が十人では寂しいんじゃないかと言うことで、合同の晩会が提案されました。邸老師の研究室は四十人も学生がいて、その殆どが女子学生です。ぼくの悩みは彼らみんなが若くて、美人で、元気がよいのになかなか顔が覚えられないことです。廊下ですれ違うとき、誰ににっこりしていよいか、悩みです。そうかといって誰にでもにっこりしていたら、頭のおかしな奴だと評判が立ってしまうでしょうし。
1年前の学生を送り出す晩会では、Samuel UllmanのTheYouthという詩を引用して皆に話をしました。でも、誰も覚えていないのですよ。
ま、そんなものですね。ぼくだって新聞に載るくらいの東大総長の式辞の中の片言隻語の一つも、そのときでさえ、覚えていないのですものね。
それでも何か言わないと格好つかないと思って、しかし自分の考えを言える程大して老成していませんから、今回も人の言葉を借りました。自動車王と言われたHenry Fordの言葉です。
Anyone who stops learning is old, whether twenty or eighty.
Anyone who keeps leaning stays young.
The greatest thing in life is to keep your mind young.
というものです。
Next time when we see together, do not be the oldest among us!!! (笑い)
と話を締めくくりました。
学部の卒業生で、蘆思竹さんはUniversity College of London 薬学部、秦翌陽くんは千葉大学医学部、ずっとぼくたちのセミナーに出ていた葉王可くんは名古屋市立大学薬学部、劉順俊くんは九州大学先導物質化学研究所の修士課程に進学します。
修士の卒業生の、張雪城くんは瀋陽の抗体生産の会社に研究員として就職、林音知さんは愛知学院大学の博士過程に進学します。
暁艶さんは日本でポスドク。
王一任くんは張景海老師の研究室で博士号を請求するための残りの研究をします。曹発楊くんは張栄老師の研究室に戻って修士課程を続けます。
全員の健勝と発展を祈っています。
カテゴリ:中国事情
さえ:
6月も終わりに近づいて、修士学生を送り出し、学部卒業生を送り出し、一方では未だ学部の講義は続いていますけれど、研究室の片付けを始めました。11年分ですよ。相当なものが溜まっています。
まず真っ先にアパートの中を片付け、日本に送る衣類、本などを段ポールに詰めました。これを研究室に運び出してアパートを片付けるのに、うちの学生と、お隣の研究室の学生たちが来て手伝ってくれました。アパートでは旅先のホテルにいるみたいになりましたが、これで、何時でも何の問題もなく出発できます。
あとはオフィスの片付けをしています。この間は実験室に置いてある段ボールを取りにでかけたところ、実験室には誰もいなくて鍵がかかってました。でも、鍵を置いてきたことに気づいたのですよ。オフィスに戻ろうとしたら、オフィスで片付けをしていた暁艶が、段ボールを運び出すのにカートがいるはずと思ってカートを持って追いかけてきました。
その暁艶も鍵を持たずに出てきたのですよ。ぼくが鍵を持っていると思ってオフィスも自動でロックしてきたのです。
やれやれ、二人で文字通り顔を見合わせましたが、鍵がない、そのうえ携帯電話もない、となると、うちの研究室の学生に連絡したくても、どうしようもないのですね。
幸い、おとなりの研究室で暁艶と仲良しの学生がうちの学生の一人の携帯電話の番号を持っていたので、電話をしてくれました。でも、このうちの学生は街に出ていて、ほかに大学に残っていると思われる学生に電話をしてくれたのですよ。
結局、30分後に2年生の曹くんが昼寝から起こされて実験室に駆けつけてくれるまで、となりの研究室に行って一休みしていました。
何も持っていないとき、電話すらできないという状況になるのは大変困ります。必要な人の電話番号を覚えておかないといけません。電話番号は、昔と違って電話そのものに自動登録になっていまっているので、良く掛けるからと言っても、まず覚えていませんよね。
こういうときの奥の手は、QQやEvernoteの自分のID番号とパスワードを覚えていれば良いのだそうです。誰かのPC(スマートフォン)を借りれば、自分のQQやEvernoteのIDにアクセスして、そこに書いてあれば調べられることがわかりました。これからは、これらの必要事項を覚えていないといけません。
高齢者には難題ですね。鍵を忘れるから、誰かの携帯番号を覚えていないといけない、という要求です。番号が覚えられるくらいなら、鍵だって置き忘れたりしませんよね。
昨日は郵便局に行って荷物を出しました。段ボールが18個もあって、学生諸君が6人も一緒に手伝ってくれました。
ネットで新しい段ボールを買ったのに、そしてそれと同じ、サイズ1とかサイズ3のChina POSTと書いてある段ボールをここで買って使わないと日本に送ることはできないと係員が怒鳴るのです。そんなはずはないと主張したのですが、学生が、まあ、ここは係員を怒らせたら損ですよとなだめるので、改めて段ボールを買い、それに中身をその場で移して送れるようにしたのですが、10時半に着いて、金を払ってすべての終わったのが午後の1時でした。
ここでは順番なんてないのです。ぼくの荷物が沢山あるでしょ、あとから用事のある人がくると、係員はぼくたちの対応を中断して、そっちを先に済ませるのがごく当たり前の習慣みたいです。そりゃね。こちらは大量の荷物を持ち込んでいますから、直ぐに済む人を先に入れて上げようと思うのは人情ですね。でも、係員がそうしようと思っても、それは現にサービスを受けているぼくたちの承認があってはじめてOKのはずでしょうが。
という訳で、人がくるたびに後に回され続けて、結局2時間半かかったという訳です。
日本とはすべてが大違いで、郵送する荷物の中身はその場で係員の目の前で詰めないといけません。壊れるのを恐れてプチプチでラップしてあるのでも、命令されれば開封して内容を確認してもらわないといけません。この怒鳴りまくり係員が一人で全部を見るのものですから、時間が延々とかかる訳です。
形のうえでは人民共和国ですけれど、人民であるはずの官は一般大衆を全く信じていないということなのでしょう。
中国の郵便局には大いに文句がありますね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
今週の火曜日になってから、大学に日本に向かって出発する日時を伝えたのですが、急なことなのに、昨日の昼には大学が畢校長の主宰で送別の宴を開いて下さいました。
十一年前、畢校長は副校長でしたし、蔡処長は国際交流処の中で処長のほかのたった一人の係員でした。国際交流処はいまは職員十人近くを抱える大所帯です。
薬科大学はぼくが来たころは中国の大学のランキングで、150位くらいでした。7年くらい前に遼寧省でナンバーワンの高校である東北育才学校に行って話しをしたとき、壁を見上げると、中国の上位大学百校の名前が刻まれているのですよ。君たちよ、目指せ、上位校を!と毎日檄を飛ばされている訳ですが、瀋陽薬科大学の教授が話しにきたというのに、百校の中に薬科大学がなくて肩身が狭いなあと思いましたっけ。
最近のランキングですと87位になっています。
中国の大学のランキングは大学の学生数が大きく評価される仕組みになっているので、少人数の瀋陽薬科大が上位になる望みは殆どないのです。
それでも百校の中に入ったということは、どういうことなのでしょうね。集めた研究費も大学の評価に入るので、そのためかも知れません。いくつかの研究室は良い研究を出し続けていますから、そのためかも知れません。
ぼくたちの研究室の簡単な総括をしましょう。ぼくとさえにしてみれば、毎年5万元の研究費で、良くここまでやったなあというところですね。
もちろん、それだけでは足りないので、日本に行ったときに日本の金で買った研究資材の費用を勘定に入れないでも、この中国で使った私財は11年間で163万元になります。つまり2,600万円です。このほか私の研究を支えるために多額の試薬を買って送ってくださった日本の先生方の支援もありました。
さえとぼくの給料を投じましたし、日本から持ってきた金もあります。このうち、四宮さんは彼のいた二年間の間に、3千元x24ヶ月=7万2千元を研究費に寄付して助けてくれました。この私財以外にも、2008年度には日本の水谷糖質科学研究振興財団からは400万円(28万元にあたる)の研究費をいただきました。大学は研究室の立ち上げに30万元を用意して呉れました。
これらの合計をすると、276万元です(日本円にすると約4,400万円)。投稿準備中の論文も入れて、その数で割ると論文一つあたり17万元になります。日本円にすると、論文1編あたり272万円です。日本にいた頃に比べると効率は上がっていますが、対費用効果では大したことはないですね。
論文を出す効率では自慢できないとすると論文の質を主張したいところですが、科学の進歩全体から見ればたいした地位ではありません。それでも一つだけ誇って良いことは、研究室の学生の育成に、ぼくたちの全力を投じたことでしょうか。さえは起き上がれなくなった病床の中でも、学生の研究の一つ一つ、一人一人の気持ちを心から案じていましたね。
瀋陽の研究室では、研究のうえで目指したゴールには到達しませんでした。時が来てこの大学を去るにあたり、それでも、ぼくの心は達成感でいっぱいです。この大学の学生数から見たらほんの僅かとは言え、ぼくたちの研究室で育っていった学生諸君を思うと、誇らしさで胸が膨らみます。
彼らが良い人生を送れるよう、そして瀋陽薬科大学がますます中身の濃い大学になるよう、願って已みません。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
ぼくたちの研究室はその後を継ぐ人を捜していましたが、結局見つからず、そのまま解散という運びになりました。
つまり山形研究室はこれで終了で、すっかり片付けました。幸い、卒業生の一人の王Puくんが近くの東北大学の副教授になっているので、研究試薬の殆どは彼に渡しました。そのほかの機器は周りの世話になった研究室に譲っています。殆ど研究室を空にして別れを告げたいと思っています。それにしても、片付けは相当大変な事業ですね。
暁艶が片付けのアレンジをするのに才能のあることを見せてくれました。大きなところでは、まだ未開封のピペットなどの実験器具などを近隣ラボに譲る代わりに未払いの支出を代わってもらうなどして、数万元の未払い支出をぼくの懐から出さないで済むようにしてくれました。日本に送るぼくの私物の仕分け、荷造りもほとんどぼくの手を煩わせることなくやってくれました。彼女の采配がなかったら、とてもこんな風に手際良く片付かなかったでしょう。
アパートの中を片付け、教授室を片付け、ともかく大変なことでしたが、この勢いで、日本のうちの中も片付けましょう。日本の研究所を引き払って2003年に中国に来たときのままで、家中が散らかっているのです。
帰国の前の日に隣の池島教授に挨拶に行きしばらくおしゃべりをしました。彼は長く瀋陽にいますが、いまやっとぼくが瀋陽に来たころの年頃ですので、未だこの先春秋に富んでいると言えるでしょう。
「日本に帰ってすることがないと人は直ぐにぼけてしまう恐れがあるけれど、何をするつもりなのか」と彼は尋ねます。ぼくのことを「文筆が立つから、日本で中国のあれこれを書いて飯の種にしたら良い」と言います。
しかし、これにはぼくは一家言があります。中国にいる間は(ある程度きついことを言いつつも)耳あたりの良いことを述べていて、中国を離れて身が安全となると言いたい放題で中国の悪口を言う人がいます。ひと頃、中国のことが一番良くわかる日本人として持て囃された人も、そのうちの一人です。
ぼくは中国には言いたいことがいろいろありますけれど、客人として滞在している間には(遠慮して)口にしなかったことを離れた途端に悪口雑言に変える人にはなりたくありません。それは人間の品位としての問題です。ぼくの標準とする線から見ると許されない行為です。
いまの日本では中国を悪口の種にする本が喝采されることは明白ですが、ぼくはそれに組しません。内輪ではあれこれ言うかもしれませんけれど、日本人に大受けるような話しはできません。おまけに、知り合った中国の人たちはみんな大好きです。
未だ深く考えたことがある訳ではないですけれど、この先やってみたいことがあります。
日本語の教え方を学んでみたいのです。日本語を教える人たちのためには日本語教師の資格認定試験がありますので、日本に帰ったら、まずはこれの勉強を始めて来年11月の試験を受けようかと思っています。実は、さえが中国に行く前に通信教育でこれを受講して、こんな馬鹿馬鹿しいことやっていられないと言って投げ出しました。ぼくもさえと同じ理系思考の人間ですから、日本語教育に携わる人たちの難しい考えかたを持て余してしまうかもしれませんけれどね。
日本のうちに住むのは、もうさえもいなくなって私一人きりでしょ。部屋を改造してぼく自身が1階に住めるようにして(つまりバリアーフリーの高齢者用に)、上階は手を入れて個別に学生が住めるようにし、留学生の宿舎にして下宿屋の親父をやろうかと思っています。留学生を選ぶ条件は、ぼくが犬を飼いたいので、留学生の条件は犬が大好きであること。留学生は何処の国でも良いですけれど、いま念頭にあるのは中国人ですね。
必要なときに犬の世話をしてもらえれば、もう一つやりたいこと、つまり、世界のあちこちに行って、訪ねるのではなく、しばらく暮らす生活をしてみたいと思っています。犬も飼いたいし、世界中のあちこちで住んでみたいとなると、この留学生会館の親父という考えは悪くないですね。
今のところ、これが気に入っています。日本ではしばらくは何の予定も立てずに、いろいろと考えてみようと思っています。
このブログもしばらくはお休みします。再開するときは、瀋陽通信ではなくなっていますね。
コメント:
Re:さあ、日本で何をして暮らしましょうか(06/30) 牛尾 真志 さん
ご無沙汰いたしております。久しぶりに達也さんのページを検索したどり着きました。
そうでしたか、瀋陽薬科大学での研究・教育活動お疲れ様でした。こちらにもどらられたら我孫子に是非いらっしゃってください。大歓迎です。
アドレスはchan0670@yahoo.co.jpです。真志 拝 (2014.07.27 08:33:30)