2009年度の後期は3月1日に始まった。
瀋陽は相変わらず寒く、最高温度で零度に届くかどうか、最低温ではマイナス15度くらいである。日差しは明るいので、この寒さが応える。
建物の北側の道路は、これまでの雪が踏み固められて凍り付き、歩道の一面が荒れたスケートリンクかというくらいの、恐ろしさである。
院生は6人。卒研生7人。これに田斯文という2年生が一人加わった。
彼女は研究室に来て実験を学びたいと言うことだが、先輩たちの邪魔になるだけだから、それは断った。代わりに土曜日のジャーナルクラブに出なさい、ということにしてある。
卒研生だってジャーナルクラブは新しい勉強の場で、苦労している。この新人にとっては大変な修練だろう。でも、これでめげるようでは、駄目としか言いようがない。
以下の文章は、瀋陽日本人教師の会が2009年1月に発行した機関誌「日本語クラブ」に寄稿したものです。
「日本語資料室は日中交流の場」
中国の各地に日本語を教える先生たちの集まりがあるけれど、自分たちの拠点を持っているのは瀋陽日本人教師の会だけだった、2008年春までは。
私が瀋陽に来た2003年夏には、既に日本語資料室が小北関街の3階建てのビル二階に出来ていた。細長い100平方メートルくらいの部屋だった。狭くて暗い階段を上がっていって、細長い部屋の両端の壁に窓が開いているだけの暗い部屋だったが、教師の会はここを拠点にして活動できた。私たちが何時でも使える城だった。
毎月の定例会の集まり。弁論大会の審査の打ち合わせのため。そして審査のため。ことあるたびにこの資料室に寄り集まった。
もちろん週末の土曜と日曜日は学生と一般の人たちに開放していた。資料室にいったん登録してカードを貰えば毎月5冊の本が借りられた。
毎週末には、教師の会の先生たちが当番となって午前二人、午後二人ずつ日本語資料室に詰めていて、責任を持って部屋に来る人たちの相手をしていた。
資料室に先生に連れて来られた日本語を勉強する学生たちは借りたい本を物色するだけでない。「日本人の先生たちにインタビューをしましょうね」なんて引率してきた先生に言われて、そこで初めて会うほかの学校の日本人教師たちを捉まえて日本語の腕試しをするのだ。
この資料室は図書室だが、おしゃべりはうるさいという雰囲気はなかった。日本語を勉強する学生に向けて開かれた、日中文化の交流の場だったのだ。
訪ねてくるのは引率の先生や学生たちだけではなく、本を借りるためや、ほかの人たちに会うのを目的にした教師も来るから、この資料室は毎週末には教師の会の日本語の先生たちの社交場としても機能していた。
「日本語資料室の生い立ち」
1階にはカレーの店があった。姉妹二人が経営していた。私たちは土曜日の定例会の時、少し早めに着いてここで食事をするのが楽しみだった。豚肉カレーが8元。牛肉カレーが10元。使っているのは日本製のカレールー。ちゃんと福神漬けも付いていた。
ここでカレーを食べていると三々五々各学校から先生たちが到着する。初めて会う先生に紹介されたり、誘って一緒のテーブルで食べたり、この店から何時もの定例会が始まる感じだった。
この一階のカレー店、二階の日本語資料室、そして3階を含めて、日本の企業の借りたものだった。日本語資料室の設立の経緯は、教師の会のホームページに詳しく載せている。今は残念ながら中国からアクセスできないが、その中の「日本語資料室の歴史」に載っている。
http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/
http://sites.google.com/site/kyosikai09/
簡単に言えば、日本語で書かれた本、辞書、辞典、日本語の教材などを必要とする瀋陽日本語教師の熱望に応えて、大阪に作られたNPO(「関西遼寧協会」および「市岡国際教育協会」)が本を集め瀋陽に送った。NPOに属していた「関西遼寧協会」の一員である日本企業・北大阪食品が瀋陽の北の一画に一部屋を用意して、日本語資料室として開設されたのだ。瀋陽日本語資料室の開所式が開かれたのが200年6月だったと記録されている。
この日本語資料室開設に力を尽くしたのが今も寧波で日本語教師を続けておられる石井康男先生(http://blog.goo.ne.jp/neihaを参照して下さい)で、彼はこのNPOの理事を兼任していて、NPOの日本語資料室を日本人教師の会が使わせて貰うという形だった。
そのいきさつで管理運営は石井先生がやっておられたが、2004年9月からは教師の会も「資料室係」を作って資料室の管理運営に自主的に参加した。2005年7月には石井先生が寧波に去られたので、教師の会が日本語資料室の運営に参加したのはとてもタイミングが良かったといえる。
「日本語資料室の移転」
私たちは石井先生が瀋陽を去られても、教師の会の日本語資料室は未来永劫この場所にあり続けると思っていた。しかし2006年3月になると関西遼寧協会が解散を決定し、1階のカレー店は閉店、そして資料室も閉鎖と決まって立ち退きを迫られた。移転費用は関西遼寧協会から出して頂くことになったが、場所は自分たちで探さなくてはならなかった。この時、日本語資料室にあるすべての書籍、什器、1階のカレー店にある客用のテーブルと椅子までも、瀋陽日本人教師の会に譲られた。
2006年3月末の日本人会総会に私たちは出席して教師の会の窮状を訴えた。その結果多くの方々から親切な申し出をいただいた。伊藤忠の高木純夫瀋陽事務所長の友人である郝さんのありがたい申し出を受けて、5月には振興街の開元大厦の6階に120平方メートルを越える部屋を無償で貸して戴いて、日本語資料室が移設できた。
眺めの良い明るい部屋に移った私たちは幸せだった。この日本語資料室を提供してくださったオーナーの厚意に報いるために、ここを日中友好の交流の拠点にしようというアイデアが生まれた。
しかし夏にはここもオーナーに急な事情が出来て、私たちは移転する必要が出来た。幸い、これも中国の方の好意のおかげで新華広場の集智大厦の8階に82平方メートルの部屋に日本語資料室を移すことが出来た。それで、この集智大厦を拠点にして日中友好の交流をするために、「日本語資料室文化活動」を始め、さらには「瀋陽日本語文化センター企画セミナー」も始めたのである。
残念なことには2008年の春、これもオーナーの事情で資料室を閉鎖することになった。それで「日本語資料室文化活動」は4回で終わってしまったが、瀋陽日本語文化センターとしてのセミナーの企画は「日本語文化セミナー」として毎年企画され、既に5回を数えている。
「日本語資料室を再開したい-1」
教師会の活動の拠点となっていた日本語資料室が2008年春に閉鎖されて、私たちは新たな場所を探し続けた。でも、オリンピック景気にわく瀋陽で資金のない教師の会に部屋が見つけられるはずはなかった。
資料室の図書は段ボールに入ったまま倉庫に眠っていた。書籍は利用されてこそ意義がある。そのまま利用されないのではもったいない。在瀋陽日本国総領事館・松本盛雄総領事のアイデアで、書籍をすべて瀋陽市図書館に寄贈することになったのが2009年春である。そして6月には市の図書館に本をすべて運び込んだ。
2009年の夏を過ぎると又教師の顔ぶれが変わった。1年半前の資料室のある時代を覚えている人の数は半分になった。このまま年を重ねて行くと資料室を持っていた教師会の活動は人々の記憶から消えてしまうだろう。資料室のあることが、活動にどれだけよかったかの記憶が消えてしまう。
その記憶のある人が、資料室を再興しようと呼び掛けないといけないのだ。それで手始めに、教師の会の会計を特別会計と一般会計に分けることを訴えた。
毎年の会費100元 の収入と新しい会員から頂くことにした入会費だけが教師の会の財源である。それなのに毎年の残金が少しずつ増えている。これは、教師の会の活動基金を少し でも増やそうと、今までの会員諸兄姉が寄付してきたからなのだ。このお金を一緒にしておくと教師の会の普通の活動にたちまち消えてしまうだろう。それで一 般会計から特別会計を分けることにした。この特別会計を作るにあたって、たとえば資料室の再開のために使うのが特別会計の使い道だと私はつぶやいた覚えが ある。
「日本語資料室を再開したいー2」
教師の会のある先生は日本語資料室を再開する場所のために、瀋陽でマンションを探した。有志を募ればそれなりのマンションが買えるだろう。右肩上がりの中国経済からすると10年後にはそれなりの値で売れるはずだ。それまでの間、教師の会が日本語資料室として使えば良い。
でも、これだけマンションが林立するのを見ると、マンションを買ったとして10年後に果たして無事に売れるだろうか心配になってきた。じゃ、それに代わってどうしたらよいか。答の出ない悩みを繰り返している10月半ば、瀋陽在住の劉凱さんから連絡があった。
劉凱さんは8年 間日本で暮らして日本語の勉強をして、正しく日本語が書ける、話せる能力を磨き、『日本語教育能力試験』と『全養協日本語教師検定試験』にも通った人であ る。日本語の教育、勉強になる本をほとんど集めたほか、日本語を理解するためには日本の文化を知る必要があり、様々な種類の本を集めて来た。
瀋陽に戻って北陵近くにある自宅で本を公開して、翻訳をしながら日本語を勉強したい人に教えてきたが、自宅では思うに任せない。それで自宅の家業であるお 茶を販売する店と日本語教育の拠点を一緒にして、この春、瀋陽の中心地に品和軒という店を開いた。日本語を教えているのは数人。週に二三日。中国語への翻 訳は、日本神話に興味があるし、白川静の著作を紹介したい。自分自身の著作はまだないが、ブログを持っている。
劉凱さんは2007年 瀋陽に戻って以来、翻訳や日本語教育をやってきたが、日本人と付き合う機会が少ないので、自分の日本語能力に自信を失いそうだ、この水準を保つために、日 本人と話をする機会を作りたい。その代わり日本人教師の会の集まりに自分の店を無料で使って欲しい。この提案を戴いて、私たちは11月の定例会をお店のスペースで開かせて頂いたし、12月の定例会もその場所で開催する予定でいる。
劉凱さんはさらに、彼女の店の中にはまだ整備していない一室があるので資料室として使って欲しいと提案されている。
教師の会の現在は資料室の書籍もない状態である。現状では図書室の機能を持つ資料室を考えても意味ないが、ここを資料室再開の拠点にしたらどうだろう。時間が掛かるかも知れないが、本も集めているうちに何時かは立派な資料室になるだろう。
昨年春までの書籍のある資料室が教師の間でも、教師と学生あるいは市民との間でも文化交流に大きな役割があったことを思うと、この場所を使わせて頂くことで、資料室を両国の文化交流の拠点にするという夢を実現することが可能になるのはないか。
日本人教師の平均滞在期間は2年である。私だってここにいつまで瀋陽にいるか分からない。出来るときに出来ることをすることこそ人生なのだ。今こそ日本語資料室を再開のため立ち上がろう。
カテゴリ:インターネット
長らくご無沙汰しているうちに、世の中がだいぶ変わった。
まず身近な、ネットのことから。
一つは「瀋陽だより」を私はODNで続けていたが、2009年9月にODNがこのサービスを中止した。代わりにcocologで「瀋陽だより」を続けることにした。
ところが、2009年12月から、この国からはアクセスできなくなった。siteにもアクセスできないので、更新も出来ない。
これだけではない。「瀋陽日本人教師の会」も、「山形研究室」も軒並み、遮断されている。
でも、私たちが狙い撃ちされたのではない。Yahoo、google、cocolog、exciteのホームページ、ブログはここではすべて見られないのだ。
個人が情報を発信してはいけない、ということだろうか。もちろん、人々が外部の情報に触れることも好まれないのだろう。
瀋陽日本人教師の会に私が入れてもらったのは2003年のことである。日本語教師ではないので、日本語教育から一番遠いと思われたホームページ係を志願した。
それ以来ホームページを担当してきた。
その中で、教師の会のホームページ は2009年7月からアクセス出来なくなった。
(http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/)
その前にも2008年から2009年に掛けて5ヶ月アクセス不能だったので、もうYahooはあきらめて、代わりに2009年9月からgoogleでホームページを作成しはじめた。
クラウドの考え方なので、とても作りやすく、会員にも協力を求めてホームページをつくり始めたが、2009年10月12日からからアクセス出来なくなった。(https://sites.google.com/site/kyosikai09/)
教師の会はこれ以外にもいろいろとURLは全くを持っている。
教師会活動記録 http://blog.livedoor.jp/kyoshikai_shenyang/
研修・レクリエーションブログ http://blog.goo.ne.jp/kyosikai2009/
瀋陽日本語文化祭ブログ http://blog.livedoor.jp/kyosikai2009/
瀋陽お店紹介
http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=akotan552006
レス付きゲストブック
http://geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=kyosikai2004
資料室ゲストブック
http://2nd.geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=kyosikai2007
にはいまでもアクセスできる。
しかし、
瀋陽日本語弁論大会ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/kyosikai2007
教師会HP係りの日記 http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/
にはアクセスできない。
教師会HP係りの日記は、私のひそかな楽しみなので、ここに書けないと日頃の考えが鬱屈してしまう。それで新しく、siteを作った。
教師会日記 http://blog.goo.ne.jp/kyosikai2010/
瀋陽日本語弁論大会ブログ http://blog.livedoor.jp/kyosikai2010/
も作った。
これで、ホームページは充実・更新できないが、係が普段の活動を書き込むことはできる。つまり、教師の会の活動を日常的に書いて記録として残しておくことが出来る。
コメント:
お帰り みのもんだ さん
山大爺ばんざい!楽天万歳!
巨大なイントラネットの中で、よく楽天がまだ生きているんですね。。。三木谷さんは中京と仲が良いのかとすら思ってしまう。
先生が登場されない間、「みのもんた」から「みのもんだ」にしようと思いました(笑)。
それでもみのもんたさんに怒られそうですが。。。
先生はなぜしばらくの間に出てこられなかったのか、以前先生のある文章の中で、ある可能性について書いていたのですが、考えたくない。
そちらはまだいろんな意味で寒そうですが、ご健闘お祈りします!!
(2010.03.12 23:50:02)
Re:久しぶり(03/10) みのもんださんへ さん
長らくご無沙汰してごめんなさい。それにもかかわらず、訪ねて来てくださって嬉しいです。
12月の袁丹老師の研究室創立10周年のお祝いの夜の会に風邪で欠席して以来、体調は12月終わりまでひどいものでした。それが治ったと思ったら1月3日からまたダウン。
瀋陽のこの冬は異常に寒く、11月中旬からマイナス20度の寒波が立て続けに襲ってきました。1月中旬によれよれの半病人となって帰国したときは、ホントに心からホッととしましたが、こんなことは初めてです。
日本で体力が回復するのに3週間掛かりました。いまは瀋陽に戻っていますが、実はまだ気力が戻りません。悔しいけれど年齢は無視できませんね。
ともかく、ブログは気力が充実していないとつづけられないみたいです。
この地はまだ寒いですが、それでも、氷が溶けかけています。さあ。元気を出して!
(2010.03.14 16:08:37)
体調が回復され、なによりです みのもんだ さん
先生がしばらくお休みになった理由は体調を崩されたためですね。でも、だいぶ回復されたようで、何よりです。
地理環境、食習慣、日本と色々かなり違うので、無理をせずにお体を大事になさってください。
そういえば、この楽天のブログもほどほどで無理されないほうがいいと思いますよ。
では、お元気で!! (2010.03.15 12:57:52)
コメント失礼します☆ masashi25 さん
ブログ覗かせてもらいましたm(__)m
もし差し支えなければ見に来て下さい♪
http://ameblo.jp/sapurimania/
マメ知識とかも書いてます!
http://sapuri.shop-pro.jp/
ちなみに愛用してるお店です☆
いつの間にか常連になってました(笑) (2010.03.17 03:30:46)
カテゴリ:日本人教師の会
中国の2010年の新学期は薬科大学では3月1日、あるいは遼寧大学などでは3月8日から始まった。
教師の会の先生たちも長い休みを終えて、また瀋陽に戻ってきた。3月13日には、新学期最初の定例会が開かれる。
それに合わせて、教師の会のホー目ページ関係の整備をした。教師の会のホームページは見ることが出来なくなって久しいが、新しいものを作り直す気力はもうない。それで、各係のブログを整備した。
教師会活動記録は http://ameblo.jp/kyosikai2010/ (新設引越)
瀋陽日本語文化祭ブログ http://ameblo.jp/kyosikai2011/ (新設引越)
研修・レクリエーションブログ http://blog.goo.ne.jp/kyosikai2009/ (既設)
瀋陽日本語弁論大会ブログ http://blog.goo.ne.jp/benron2010/ (新設)
教師会日記 http://ameblo.jp/kyosikai-diary (新設引越)
このくにでは、人々が自分たちの情報を発信するのが好ましいこととは思われていないみたいだ。
しかし、教師の会の人々の入れかわりは激しく2年経つと半数は入れ替わっている。そのためにはきちんとした記録が必要ではないかと思う。
ネットで発信することは、同時に教師の会の記録ともなる。記録を残して、どうなるの、と思わないでもないが、上記の理由で、ここに傾注しよう。
もちろん、環境を整えても、係りが書き込んでくれなければ絵に描いた餅である。「馬を水辺に連れて行っても、水を飲ますことは出来ない」なんて言う故事を思い出したりしたら、失礼かな。
2009年12月末から、このサイトに中国国内からアクセスできなくなった。見られないだけでなく、ログインも出来ないので更新出来ない。
amebloに引越サービスがあるのに気付きましたので、それを試みることにする。
成功すれば、それまでの http://tcyamagata.cocolog-nifty.com/ から
http://ameblo.jp/tcyamagata/
が新しいサイトになります。さて、成功するかどうか。。。
定例会は3月13日2時半から品和軒を借りて開かれた。
12月の定例会から今日までに、会員二人が帰国した。石脇千代子(任期満了)、中野牧男(病気で辞職)。
出席は、 有川、石田、宇野、梅木、春日、小池、杉島、瀬井、高澤、多田、巽、土屋、松下、山形、吉田、任、渡辺、それに新しく、 風間珠実(撫順市朝鮮族第一中学)で、合計18名の参加。
風間先生は青年海外協力隊員で、昨年大学を卒業したばかり。もちろん教師の会の最年少記録更新である。暖かい南国のタイに行きたかったのに、決まった任地は、寒い中国の撫順市。気の毒に。
土屋先生から、瀋陽市図書館で進んでいる図書の目録作成についての状況報告があった。1月の春節休み前までに、協力してくれる学生も含めて7回集まり、図書目録の入力作業をした。それでいままでに2158冊が終了。約6千冊から見ると、前途遼遠である。土屋先生は夏までに終えられるかどうか分からないと言う弱気の発言。でも、やるっきゃない。それも次の教師の会のの新しい年度の新しい会員が来る前には終わらせなくてはいけないという発言もあった。確かにそうだ。
弁論大会では、最終瀬審査で1、2,3位の三人が選ばれて賞金を手にする。これに落ちた人たちから成績(点数、順位)を知りたいという要望があったという。どう対処するか。
いろいろな意見が出た。しかし最終的には、点数は審査員の主観的な判断で付けられるものだから、8人の審査員による総合成績を見ても、だれもが納得できるわけではない。点数と順位を発表することで、学生を傷付けることもあり得る。弁論大会は、発表した学生に「よく頑張ったねえ」、「また、もっと続けようねえ」というのが主催者のメッセージだろう、それが一番大きな目的だろう、だから、詳細な点数と順位の発表は見合わせよう。ということになった。
それにしても、それぞれの先生方の発言は、学生に対する愛情に満ちた見識のある意見がほとんどで、それぞれに一つ一つ感銘を受ける気分だった。
夜は原味齋。北京ダックの店。費用は前回の12月の懇親会費の残りでまかなった。3月23日に帰国される梅木愛先生の送別と、風間珠実先生の歓迎を兼ねた。
梅木愛先生は青森県出身で、富山県の現役の高校職員として派遣されたので、また富山の高校の先生として復帰する。ただし、前のところに戻れるかどうかは分からないとのこと。彼女は全日本のエアライフルの記録も持っていたほどの人だ。前任の高校には富山県唯一の射撃部があって、8年目には射撃部から国体選手が出たという。戻って別の高校に任命されると射撃部なしになってしまうわけだ。彼女の心情を思いやっている。梅木先生は挨拶のとき、また瀋陽にいらっしゃいと言われて、いずれ瀋陽に戻るとしても定年になって戻って来るのが28年後です、ということだった。それを聞いて、自分のいまの歳に28を足してみて胸が突かれて絶句したのは、私だけではなかったみたいだ。
渡邊京子先生が亡くなった。呆然としている。
中国医科大学の学生である森野さんが3月13日に連絡が入った。彼のメイルによると、
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渡邊先生の状況がわかりました。非常に残念ですが、先月27日に御亡くなりになられたようです。
癌をわずらってからは、瀋陽の知り合いの方に心配をかけたくないとのことで極力状態を漏らさないようにしておられたということです。
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渡邊先生は2003年秋から昨2009年6月まで中国医科大学の日本語の先生だった。
私と妻と瀋陽に来て、瀋陽日本人教師の会に入れて頂いたのが2003年秋のことだった。京子先生と同期の入会だったことになる。妻と私は日本語教師ではないのにこの会に入れて頂いて、何時も隅で小さくなっていた。会の中の役割は違っていたけれど、同じ年配と言うことで京子先生は私たちにも優しく声を掛けて下さった。
そ していつの間にか仲良くなり、京子先生から手作りのおはぎや、筑前煮を何度も頂いてご馳走になった。京子先生がお得意になっている恵英旗袍にも紹介下さっ て、妻も私もそこで旗袍をあつらえた。レストランで何度か一緒の食事をした。レストラン東京で、大志で、新南国美食で。。。
森野さんの後便によると
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天 国にいる渡辺先生には届かないかもしれませんが、 医科大の教え子の学生の寄せ書きを御自宅に送らせていただこうと御自宅の住所を調べてもらいました。もしよろしければ、教師会の渡辺先生と仲の良い先生方 の寄せ書きを頂いてもよろしいでしょうか。私が薬科大まで頂きに参ります。
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教師の会の会員に知らせた。この寄せ書きは、あちこちに分散している会員が作成するのは困難なので、その意志のある方は森野さんのところに書いて送るようお願いした。
私は京子先生とのメイルのやりとりを読み返した。メイルと写真を見ながら、また涙がわき上がってくるのを抑えられなかった。
優しくて、何時も温かな心遣いに満ちていた京子先生。私にも優しく付き合って下さってありがとうございました。心から先生のご冥福を祈ります。
山形 達也
3月19日夜、東北育才学校の近くの石鍋居で梅木先生の私的な送別会を開いた。
教師の会の公的な送別会は12日に開いているので、私的なと言っているけれど、もちろん会員には公開して参加者を募った。梅木先生が19日なら空いていると言われたのに、私だけが独占しては申し訳ないというか、もったいないと思ったからである。
そしてさらには伊藤忠の高木純夫さんも誘った。高木さんも彼女の熱烈なファンの一人だと知っているからだ。ところが、なんと言うことか、高木さんはもうさっさと、18日に彼女の送別会をやっているのだ。
高木さんはいい女には直ぐ目を付ける。私だってそうなのだが、こちらは何時も振られ続けという大きな違いがある。
瀋陽日本人教師の会の日記-梅木愛送別会 というわけで、残念ながら高木さんは不参加だったが、当日の参加は、石田(薬科大)、宇野(航空大)、小池(師範大)、瀬井(瀋陽大)、吉田(国際交流協会)、山形(薬科大)、そして主賓は梅木愛(東北育才学校)。
場所は歴史の長い石鍋料理で名高い石鍋居。豆腐が売り物で、豆乳もサービスで出てくる。これがとても美味しいのだ。
ただし日時は最低の日だった。前の晩から雪。午後から雨に変わって、しかし気温は零度前後なので、道は歩道も道路も、雪と水と氷で、ぐちゃぐちゃの、ばりばりの、つるつるの。。。
梅木さん、別名愛ちゃんはとても率直に自分の意見を述べる。なんと言っても、気っ風がよい。すかっとしている。うじうじしていない。並み居る男どもが、彼女のファンになるわけである。
これは彼女が射撃の名手と言うことも効いているらしい。ネットで見ると彼女は全国ランキングに何度も入っているのだ。つまり、面倒なしがらみをぱっと捨てて、すかっと物事に注意を寄せられる集中力がある。そして引鉄をためらいもなく落とすという決断力がある。
なんて、ほめ続けていると、この次の女性の会員の送別会の時、言う言葉に困ってしまうかも。
ただし、私は瀋陽7年目になるから、いままでに沢山の帰国する、あるいは転任する教師の会の会員を送ってきたが、このように私的な送別会をした女性は愛ちゃん以外、皆無と言って良い。
それだけ愛ちゃんは、たった一年半の教師の会の仲間だったけれど、私を魅了した存在だった。
どうか、お元気で。また、きっと何時か、何処かで、会いましょうね。
いま教師の会の抱えているbig projectは、瀋陽市図書館に寄贈した6千冊近い書籍の目録を作ることである。市図書館の仕事じゃないかと思うけれど、市図書館には日本語の書籍を登録するシステムがない。
それで寄贈図書の目録作成が私たちに求められているわけだ。係りの土屋さんと市図書館との交渉で、MSのExcelをつかって、書籍、著者、発行所、発行年、値段などをこちらで入力することになった。
この頃の書籍にはISBN番号があるので、これを入れて、Amazonのデータベースにアクセスすると書籍情報が自動的に入力出来るソフトがある。
でも、古い本ではこの番号がないものもあるし、Amazonにデータがないものもある。そうなるとすべて手入力作業だ。図書情報の入力作業は市図書館の、外国語書籍を置いてある一部屋の一部で行う。2009年の12月から、土屋さんと高澤さんの指導でこの入力作業が始まった。
昨日、3月21日の日曜日はこの9回目で、私は初めてこれに参加した。春節休暇前の入力作業のときは、私の体調が悪かったので一度も参加出来なかった。その間に2千3百冊余が既に登録された。
午後1時に図書館に着くと土屋さんは朝から来て入力作業をやっているという。ほかには呉松さんという瀋陽大学の学生がいた。彼は高澤さんの学生で、この作業を最初から来て手伝っているらしい。会員のそれぞれが自分で持ってきたPCがインターネットで使えるようになるには、彼しかできない作業が必要である。
私のWindowsに呉松さんはインターネットからソフトをダウンロードしたが、アマゾンにアクセスできない。つまり、ISBN番号を入れて自動的に書籍情報を取得してほいほいという、少しは楽な道が選べないことになった。
この時点で土屋さんは、冷酷な声で(というか、ひそかに嬉しそうな声で)、山形さん、それじゃ、全部手入力して下さいという。そしてExcelの書式をわたしのPCにいれて、横に未入力の本を山と積み上げる。実際のところ、段ボール一箱分だ。やれやれ、マジかよ。初心者だぜ。おまけにもうすぐアラコウ(後期高齢者)だ。
同じく、今日が初めての吉田さんも現れて、彼女は土屋さんのPCを使って、同じく手入力作業を始めた。呉松さんは、私たちのPCの面倒を見つつ、本の整理を行い、なおそれだけでなく、私たちに自分で用意してきたお茶のサービスをしてくれる。
さて、吉田さんと向かい合って黙々と入力作業すること2時間。ついに腰が痛み出した。もう、いい。もう止めよう。
私が入力した本は53冊。全書籍の100分の1だ。全体から見るとまだまだだけれど、少しは貢献したわけだ。そして何よりも大事なことは、土屋さんはじめ会員の苦労が身に沁みて分かったことだ。
実を言うと、翌朝、つまり今朝は起きるとき、腰が痛くてベッドの上で輾転反側した。目が痛く、目頭を手のひらで揉み続けた。それでも頭が重くて、起き出すのに苦労した。本当に、これは大変な作業だ。この作業に携わってきた人たちに、心から素直に感謝の気持ちを抱いている。(山形 達也)
http://ameblo.jp/kyosikai-diary/entry-10488178823.html
久しぶりに論文が通った。Journal of Cellular Biochemistryに送ったのが昨年の12月。
Ganglioside GD1a suppression of NOS2 expression via ERK1 pathway in mouse osteosarcoma FBJ cells
Ting Cao, Tianyi Zhang, Li Wang, Lan Zhang, Tomoko Adachi, Toshinori Sato, Sadako Yamagata and Tatsuya Yamagata
1月終わりにeditorからメイルが来た。
ガングリオシドの機能があれこれ言われているが機構を調べた研究はほとんどない。この研究はその点で一流の仕事をしている(とまでは言っていないが)。
Despite the tremendous number of papers indicating phenotype-associated changes of ganglioside patterns in tumors and tumor cell lines, the molecular mechanisms by which gangliosides contribute to the modulation of tumor cell properties still remain poorly understood. The paper by Cao Ting et al. convincingly demonstrate that GD1a plays an important role in modulating the metastatic potential of osteosarcoma-derived cells, due to the inhibition of NOS2 expression via the ERK pathway.
二人のreviewersがこの論文は採択できる。ただしこれこれしかじかのところを書き直した方がよいという付帯意見付きだった。
ガングリオシドの発現を調べるHPTLCが一回しかしてなかったのを、もっと繰り返せという指摘があり、これはやるしかなかった。senior authorの曹Tingはもうイタリアに行っているので、いまここに残っている張嵐の仕事になった。彼女は春節休み返上で実験を繰り返した。
Reviewersの意見で受け入れても良いところは、その意見を受けて書き直し、受け入れがたいところは、それに対する反論を書いて改訂版を投稿をしたのが3月末だった。そしてそのままAcceptされた。
Journal of Cellular Biochemistryは2008年の時点で、Imact factorが3.54である。私はJournal of Cell Biologyと混同して、Imact factorが9.12だと思っていた。王麗に指摘されて間違いに気付いた。
生化学のJournalの中で一番良いとわたしが思っているJournal of Biologial Chemistryは5.8で、それよりも高いところに通ったと思って大いに喜んでいた。しかし、実はぬか喜びだった。
この薬科大学は研究費が乏しく(といっても、あるところにはあるようだ)、実験設備も貧しい。
MALDI-TOFmass質量分析計や、Cytofluorometerは2年前にやっと大学に入った。超遠心機は1台しかない上に、禁止的な使用料を 要求される(ので使えない)。Confocal Microsopeはまだない。つまり、世の中にありふれていて研究を進めるために必須の現代兵器はここには一つもないのだ。
今世の中はRT-PCRにかわってReal time PCRの時代だが、私たちのところはたった1台のThermal cyclerによるRT-PCRが技術の一つ。そして電気泳動後のWestern blottingが、私たちの使える技術のもう一つ。これに加えて、SiRNAを使うRNA silencingだけだ。
ぼくの心の中の一流誌ではなくて残念だったが、一流誌でも通った内容だったにちがいない。
そう。言いたいことは、筋の通った方角に向けて、正確な実験をして、信頼できるデータを出して、新しい意味のある知見を得ること。これに尽きる。
カテゴリ:日本で生活
日本で長い休養をとったあと、瀋陽に戻って朝晩仕事漬けの1ヶ月も経つと疲れが出てくる。妻にも会いたい。
それで思い立って、4月3日に瀋陽を経って日本に行ってきた。
旅行代理店に電話をすると、全日空に6日間の往復が7,440元だという。南方航空には空席がなかったが、共同運行のJALにはあって5,060元だ。全日空が好きだが、これならJALを選ぶしかない。
ところが実際に買う段になると、おまえは日本人だからということで5,760元を支払う羽目になった。いまどき、ここでは中国人の方が豊かなんだぜ。こっちは薄給の身の上なのに、なんという差別なんだ。
成田に着いてリムジンに乗ると窓越しに成田空港の桜が見えてくる。胸がホワーッと熱くなる。2003年に見て以来の日本の桜だ。高速道路を走っても、日本の田園に桜がほんわかと点景を作っている。
実質日本滞在の4日間の最初に日は秋葉原に行った。名古屋から出てきた娘と、大学に入学するために上京した彼女の娘に会うためだった。遠くで見るとこの二人は区別が付かないくらい似ている。
滅多に会うことのない孫娘だが、こうやって会うといとも気楽に話が出来る。利発でかわいい子だ。普段この手の若い娘っ子と口を利くなんて考えられないことなのに。
彼女は愛知県高校サッカーで、MVPとなった。サッカーが好きで大学は筑波大を選んでいる。数年後には、なでしこジャパンで走り回っている彼女を夢見つつ、早速妻と私は彼女のファンクラブを作ったのである。つまりこの日はファンクラブの第一回会合となった。
カテゴリ:日本で生活
この日の昼食をAkibaで探した。3階のすし源に行って四人で一緒に食べてから、つくばエキスプレスに乗った。妻と私は娘と孫娘に二人に別れを告げて、おおたかの森で降りた。
私たちの研究室で修士を終えて東大の博士課程に入り、この春博士号を取って産総研に就職した胡丹夫妻と、その赤ちゃんに会うためだ。3月26日生まれの男の子で、晨魏という名前が付いている。訊くと、胡丹が奥さんの秦さんと一生懸命考えて命名したそうだ。
アパートに着くと、胡丹のお母さんに会った。まだ55才で若いのにびっくり。湖南省から一人旅で成田に着いたという。昔、瀋陽薬科大学に入る胡丹を送るために一緒に来た彼の父親が、湖南省の首都で手もなくだまされて遠くの宿に連れて行かれ、高額な宿泊費をぼったくられたという話を聞いている。良くも無事に着いたものだ。
妻が胡丹の赤ちゃんにどうしても会いたい、だって孫が生まれたんだからと言って周りを笑わせていたが、歳格好からすると、胡丹が孫で、曾孫の誕生という感じかも知れない。暫く新生児を見たことがなかったので、そのあまりの小さい造りに驚いた。ともかく、驚かせないよう、ひそかに息づいて寝ている赤ちゃんをそっと覗き込んだだけだ。
胡丹は産総研のポスドクとして採用された。26人応募して4人採用された中の一人である。激しい競争の中で選ばれたと言うことは、こちらも鼻が高い。
秦さんは昨年秋東大の博士課程に入った(指導は山本教授)から、彼らは少なくともあと3年は日本にいることになるだろう。赤ちゃんの健やかな成長と二人の健康、そして研究上の成功を心から祈っている。
カテゴリ:日本で生活
二日目は銀行に行ってカードの再発行を申請し、本を探して本屋を歩き、ユニクロでジーンズを買い求めて、一日が過ぎた。
三日目の6日は妻に付き合って病院行き。温かな日で、都心の穏やかな春の日差しが目に心地よかった。私たちの結婚48周年の記念日にあたり、二人で寿司屋に行って二人だけの祝いの食事をした。この日が来てみると、よくまあ、これまでの人生を無事に生きてきたものである。来年も心穏やかにこの日を迎えたいと願う。
四日目は瀋陽に備蓄するための、なんて言うと大袈裟だが、瀋陽に持って行く菓子、せんべいのたぐいを買い集めた。私は各種のせんべいが大好きなので、これを切らしてしまうと瀋陽で暮らしていく自信がないのだ。息子も昼過ぎにはうちに来て、私が瀋陽に持って行くためのベーグルを沢山焼いてくれる。
4月8日に瀋陽に戻った。桃仙空港には国際交流処の丹丹が迎えに来ていたが、私に替わって荷物のカートを押しながら、今日は車がなくて処長が迎えに来るのですよと言う。えっと驚くわたし。
大学の運転手は3人いるけれど一人がよその部門に転出したために二人に減ってしまい、それで今日はやりくりがつかなくて自分はタクシーに乗って空港まで来たという。その事情を聞いた処長が、じゃ自分が迎えに行くと言ったらしい。
この程処長は、校長室のブレインの一人で、研究も盛んに進めていて大学では超多忙な一人である。その彼が迎えに来るというので本当に驚いた。そりゃよく知っているけれど親友と言うほどではないのだ。
というわけで、この日は、自分の車を運転して空港まで迎えにきた程処張の隣に座って、いろいろと話をしながら大学まで届けてもらったというわけだ。
研究室では私が不在の6日間の研究の進展を嬉しそうに話す院生たちに会って、私もまた心を弾ませて仕事モードに心を切り替えた。
4月10日(土曜日)に4月の定例会があった。薬科大学の食堂5階にある小部屋をを借りて3時から会議が開かれたら、まだ終わらないうちに、食事が運び込まれてきた。
会議のあと5時から食事をするからねと言うことで、この食堂の小部屋を借りて会議を開いたのである。今日の議題の中心は、4月25日(日)に迫った弁論大会の当日の運営に関するものだった。
出席は、全部で18人。有川さん、吉田さんが日本に出張中。山田実樹さん(東北育才外国語学校)が新しく加入。
終わって懇親会
弁論大会最終審査の出場者は、提出した作文で選ばれる。日本語教師がいれば、当然この出場者はそこの日本語の先生たちからいろいろと指導を受ける。しかし日本人教師のいない学校からの参加者もある。そのような学生に、翌日の11日(日)に遼寧大学の国際会館で、スピーチの指導をする予定になっている。このような学生が13名いるそうだ。「11日に遼寧大学に来て指導できる先生は?」「多田先生、渡辺先生、山形先生はいいです」多田先生は代表、渡邊先生は遠方、わたしは無能、というので外された中で手を挙げたのは11名。あと二人欲しいなと言うので、とうとう多田先生も参加。
この翌日の指導に参加する中に撫順市朝鮮族第一中学の日本語講師である、若い女性の風間さんがいた。若いも何も大学を出たばかりで派遣されてきているのだ。
その風間さんは、撫順は近いから最終バスは夜の10時まであるから今日は撫順に帰ります。「じゃあ明日は?」と聞かれて、「また撫順から出てきます。」
以前は、瀋陽大の女性の先生である瀬井さんのところに泊まったことがある。今日は駄目なの?と土屋さんが聞いているが、瀬井さんは今夜は学生が泊まりに来ることになっていて無理だという。
そりゃ気の毒だ、今日はうちに泊まったら、と、人畜無害を装う瀋陽師範大学の土屋さん。ベッドは一つだから、ぼくは床に寝るからさあ、だいじょうぶだよ、なんて言っている。
もちろん、風間さんは、いえ、うちに帰りますと答えている。それで、土屋さんは隣のテーブルの同じく人畜無害風の松下さんに声を掛ける。「ね、松下さん、先生のところベッド二つなかったっけ?」
松下さんは、「ベッドが二つあったって。。。」と、至極まっとうな返事をしている。
そうこうするうちに、やりとりを聞きつけた任さんが「あらうちにいらっしゃい」と言ってくれた。彼女は結婚していて、小学生の息子さんもいるが、泊める場所があるらしい。よかった。
もちろんわたしのところだって、大きな(巨大なと言っていい)ベッドのほかに、シングルベッドがあるけれど、女性を誘うわけにはいかないので、黙っていたわけだ。もし名乗り出て、「あら嬉しい、助かったわ」なんて言われたら、どうしていいか分からなくて心臓麻痺を起こしかねないもの。
土屋さんは赤頭巾ちゃんのオオカミを装いつつ、ちゃんと風間さんを助けたわけだ。わたしみたいな本当のオオカミには、とても真似が出来ない。
今日の話に出てきた人たちの写真です。任さんと瀬井さん
カテゴリ:研究室風景
曹Tingの論文が Journal of Cellular Biochemistry に通った。
Ganglioside GD1a suppression of NOS2 expression via ERK1 pathway in mouse osteosarcoma FBJ cells というタイトルの論文で、曹Tingがsenior author。
曹Tingは1月にイタリアのミラノ大学に行った。博士課程に入る予定である。彼女はわたしの「瀋陽だより」に何度も登場した。わがままで、自己チューで、しかしすべてにわたって整理が行き届き、実験の内容も結果の意味も考えることの出来る人である。
だから彼女から研究の進展を毎週聞いて、それについての議論をするのは何時もわたしの楽しみだった。わたしにがんがんと反発しながらも、それでもわたしと妻の意見を良く聞いて、実験の意味を理解したうえで実験を進めて良い結果が出たからこそ、こうやって良い論文となった。
彼女のアグレッシブな性格も研究者にとっては大事だし、西欧の研究社会で生きていくためには必須なものだ。曹Tingの前途は洋々たるものだと思う。
ついでに自慢をちょっと書いておくと、ここには研究設備と呼べるようなものは何もない。研究費もないに等しい。
この論文の骨子となった実験技術は、RT-PCRと、Western blotting、そしてSiRNA(あるいは、RNA silencingともいう)だけである。それでも、意味のある実験は出来るのだ。さあ、研究室の院生たち、後に続け!!! がんばれよ、みんな!!!
カテゴリ:薬科大学
1週間くらい前から、研究室のある建物の中を掃除のおばさんたちが、わりとまめに掃除していることに気付いた。そのうちに,壁の汚れもこすってとっている。こんなことは今までになかったことだ。
何だろうなあ、何かあるのかもと思っているうちに隣の池島教授がやってきた。
「いや、まだ何も聞いていませんけれどね。こういう風に大学内を綺麗にしているときは,誰かお偉いさんが視察に来るのですよ。きっとそのうち、そのときの数時間前に知らせがあって、偉い人が来るから部屋から出て並んでいるように,なんと言ってきますよ。」
その日、男子トイレに行くと、これまでは4つ並んでいる便器のうち手前の二つが使用不能になって覆いが掛かっていたのに、それが外されている。
直ったんだろうか。
使用後に水をフラッシュすると,これらは中を洗うよりも外に水があふれ出るようになっていたのだ。その気になれば直るものを,4つあるうちの二つくらい使えなくてもいいだろうと言うことで、使えないように囲ってあったわけだ。
試しに,上のボタンを押すと以前のように水があふれて壁から床に一斉に流れてきた。やばい、と慌てて飛び退くわたし。
つまり直したわけではないけれど,使用不能と分かったのではまずいというので,文字通り格好を付けているわけだ。
今日、学生の一人が「とても偉い人が来るんです」と言う。「胡錦濤くらい偉い人?」と半分ふざけて聞くと、そうだという。えっ、えっ?
「中央政府の,トップの15人の一人が薬学に関してここにも来るんですよ」
何時もは一流大学からほど遠い位置づけになるこの薬科大学だが,薬学と言うことか、瀋陽ではと言うことか、トップランクにいるらしい。なるほど、なるほど。結構なことだ。
カテゴリ:友だち
昼に何時ものようにパンを一つとリンゴを食べてポケーッとしていたら,電話が鳴った。受話器を取って「もしもし、Hello」というと、「こんにちは」とふくよかな声が聞こえた。
あ、懐かしい。「みどり先生ですね。こんにちは」と思わず声が弾んだ。日本からの電話だった。
「今、先生のブログを見ているんですけれどね。アクセスできないから電話をしたのですよ」ということだった。
ご主人の南本卓郎先生にも電話が替わって、久しぶりの話に心が弾んだ。
私たちの瀋陽の活動を書いているブログを日本から見て頂けるなんて、本当に嬉しいことだ。
アクセスできないというのは、HPやブログがここからはアクセス不能になってしまって,いろいろとその代わりを探して引っ越したりしているけれど,その「つなぎ」(何だか池波正太郎みたいだね)がうまくいっていないためだ。
だって、アクセスできなくなったので別のプロバイダーに引っ越したわけだが,前のブログにはその旨を書き込むすべがないからだ。
ともかく、こうやって私たちの活動を見守って下さる方があるのだから,これからも、出来るだけ書いていこう。
「黄澄澄は元気ですか? 張心健くんはどうしていますか?」どちらも南本先生たちが日本語を教えた学生だ。何時になっても昔の可愛い教え子のことが心から離れない。
「今年の6月の卒業式には行きたいと思っていたのですけれど,ちょっと難しくなっちゃって。でも来年は教えた最後の年の学生が卒業するので,是非行きたいです。」
「どうぞ、どうぞ、是非いらっしゃい。」とわたし。そのときまでここに元気でいたいものだ。
ところで昨日、薬科大学に、すごく偉い(政治局員のひとりらしい)人が来るというので建物の中を綺麗にしていると書いた。男子トイレの便器も、修理中の覆いを取り去っていると書いた。
今日の午後行ってみると、故障したままの二つの便器にはまた覆いが掛けられていた。
偉い人がここを訪ねてきたという気配はなかったが、念のため学生に訊いてみると、昨日の午後、大勢の警官に囲まれて訪問があったそうだ。この大学と,大学の偉い人たちのために、良かったねと言っておこう。
カテゴリ:生命科学
若くて有能な中国人に会った。
二日前、薬科大学の同僚の、といってもうーんと若いけれど、遊松老師から電話があった。「実はまだ会ったことはないけれど、いま美国にいる若い学者が瀋陽に来ていて、私に会いたいと言っています。それで金曜に自分のところで話をしてもう積もりだけれど、山形先生の都合はどうでしょう?」
へえ、瀋陽で職探しか知らん、と思った。そうだとすると面倒だ。しかし、遊松老師は「彼は日本の京都大学を出て、スイスで博士をとって、美国のHarvard大学でポスドクをしたあと、今度University of Pittsburghで教授になったそうです」と続けたので、その心配は吹き飛んだ。
おまけに、「彼は先生のことを知っているというのですよ。同じGlycobiologyの分野だというのです」ということだった。
昼にレストランで遊松老師の奢りで一緒に食べて、そのまま大学に戻ってセミナーになった。
セミナーで通例のPPTを彼は用意していなかったので、CV(履歴書)に載せた論文のタイトルを見せながら、彼は自分の研究を話した。
そういうわけで、詳しい研究の内容までは聴くことはなかったが、京都大学では糖質科学の研究に必要な化学合成の手法の新しい方法の開発、スイス工科大学の博士課程ではGPIアンカーの糖鎖合成、Harvardではマラリアに対するワクチンの研究をやってきて、その概要の紹介があり、発表論文は既に20報を越え、その多彩さには目を見張った。これだけの業績を挙げているなら、31歳の若さで若さでUniversity of PittsburghのAssistant Professorの職を得たのも当然だ。
セミナーのあと私の研究室を訪ねてきて一時間をおしゃべりして過ごした。彼は化学合成の分野で、そして私は生物機能の分野という違いはあるが、広い意味では同じGlycoscienceなのだ。共通の知人が沢山いる。
この新しく私の知人となった劉新宇博士は、気取りと驕りの全くない好青年だった。研究のことでは英語で意見を交換し、それ以外のことでは日本語を使っておしゃべりをした。京都大学を出てからの10年間は日本語を使う機会がなかったのに、未だに話していて全く違和感のを感じない完全な日本語を話すのである。驚きの能力だ。
昔シカゴ大学に留学している間に会った沢山の若い中国人ポスドクたちを思い出した。彼らの才能はきらきらと輝いていた。また今、輝く才能に出会えたことは、改めて生きる喜びを感じさせてくれる。
毎週土曜日は午前中の3時間を掛けて研究室のJournal Clubを行っている。このJournal Clubでは、二人のSpeakersが最新の論文を読んできて内容を皆に紹介する。当然のこと、Speakerはその論文を書いた人に成り代わって話を するわけだから、あらかじめそれを十分に読んで内容を完全に理解していなくてはならない。
つまりSpeakerの勉強になるから、規則的に巡ってくるJournal Clubは教育の場として必要である。Journal Clubで当番にあたらなければ論文を読まない学生には必須の行事である。
Speakerは、自分の話を聞き手に分からせなくてはならない。論文の著者に代わってこの研究に興味を持って貰わないといけないのだ。JCで話すこと で、人前で話す話し方、自分の話を分かってもらうという訓練を積んでいく。これがJournal Clubを行う一つの意味だ。
もう一つは、聴衆側の問題である。聴く方にとって見れば、その場でいきなり新しい研究の話を詳細にわたって聞かされる。理解できなかったら、まるまる3時間がただの苦痛と化し、時間の無駄使いになってしまう。
人の話を聴いていて、ちゃんと理解すれば必ず疑問がわき起こる。私自身がそうだから、人の話を聴いていて疑問を口に出来ない人は、つまり理解していないことを意味する。
JCの間、私が絶えずSpeakerに質問をするのは、私自身が理解するためである。私はどんなことがあっても話を聴く席にいるなら、話を理解しなければ時間を無駄にすることだと思うからである。
理解させられなければSpeakerも悪い。それなら理解できるよう Speakerに質問をすることも必要だと思って、私は質問をしてSpeakerから話を引き出す。話が終わると、少なくとも私は内容を理解している。じゃ、ほかの人たちはどうか。
理解していれば質問があるはずだ。さらには質問をしなければ演者に失礼だ。
学会の講演会場で、あるいは大学で誰かを講演に招いて話し終わったあと、会場にしらっとした空気が漂って、誰もなにも質問しないときの気まずさ。。。
これは、聴衆を話に引き込まなかったSpeakerが悪い。しかし聴くほうだって礼儀というものがあるだろう。どんなつまらない話でも、それなりに聴いていれば疑問が出てくる。
聴く方が人の話をちゃんと聴いて理解するというのは、訓練の結果だろうか。学生は講義を聴いているのだから、講義を理解するという訓練を受けているわけ だ。私もそうだ。興味の持てない話でも聴いて理解するというのは、きっと生化学の学生の時のセミナーで話を聴いているうちに身につけたのだろう。
そして、これが出来るから大学で研究室を持って学生を育てていけるのだと思う。未知の話を聴いても、興味を持ってそれを聴いて理解する能力は、教授として必須の要件の一つだと思う。
となると、博士課程の学生には、他人のプレゼンテーションを積極的に聴いて理解し、興味を示すことを要求しても良いだろう。彼らはアカデミックな分野に進もうと決意しているからだ。この訓練を積極的に積ませるには、今の私の役を彼らに割り振ることだ。
毎回Speakersが二人、博士課程の学生が二人、ちょうどよい。毎回一人ずつを受け持てもらって、JCで話される話を誰もが理解し議論が活発に行われるようにしてもらおう。
この提案に博士課程の二人が賛成してくれるだろうか。
カテゴリ:薬科大学
隣の池島教授に呼ばれた。自分のところに来ているメイルをちょっと見て下さいな、と。
内容は薬理学の教授に対する通達で、今年度は、52歳になる女性の教授はもう院生をとってはいけない。57歳の男の教授は院生をとってはいけない。62歳の博士導師は院生をとってはいけない。
つまり、女性の教授の定年は55歳で、男の教授は60歳である。この中国で男女に差別がある。定年で辞めるときには、研究室をからにしてから去りなさいと言う通知だ。
教授でも博士でないと博士導師になる資格がないが、この博士導師の場合の定年は65歳だ。
これらの教授のとれる院生の定員は、修士の学生は5人まで、博士課程の学生は3人までになっているそうだ。
池島教授は今年62歳なので、この通知をもらって差出人の李岩老師に尋ねたそうだ「自分にもこの規定が適用されるのですか。」
返事は、池島教授と、そして私は定年に関してはこの規定の適用外である。ただし院生の数はこの上限を守ること、という返事だったという。
最大でも65歳で定年になるこの大学で、こうやって仕事を続けられるのはありがたいことである。
大学が私に寄せるこの限りない好意に報いるには、少しでも良い研究をして大学に花を添え、優れた研究者を育て上げることに尽きるだろう。
ついでに話を聞くと、池島研に今院生は28人いるという。助教授やTeacherと呼ばれる日本の助手クラスの人たちが数人いるから、やっていけるのだろうが、それにしても研究費を考えたら、私など目を剥いてしまう。
まだこのほかに、学部の2-3年生が十数人来ているそうだ。良くもまあ、こんなに沢山の学生がいて研究室をやっていけるものだと感心するしかない。人の能力にはさまざまの違いがあると改めて感じ入っている。
遺伝子組み変え技術を身につけた学生が出て行ってしまい、研究室の中での伝承が絶えてしまった。新しい遺伝子を改変して細胞に発現させたいのに、なかなか導入遺伝子が出来ない。おまけに入れる遺伝子の一部配列を改変して、常時その機能が発現するようにしたいのだ。
メーカーに頼むと高い金が要求される。それで苦慮しているうちに思いついたのが、今慶応大学の博士課程にいる王毅楠に一肌脱いでもらおうと言うことだった。
王毅楠は2008年の夏、この薬科大学の修士課程を終えて慶応大学の博士課程に進学した。私から見るといまだに学生だが、今の院生から見ると大先輩になる。
この二月には、彼の指導教官にもお願いして、三月の日本の大学の春休みのころ来てもらおうかと考えた。しかし、遺伝子をつり上げるために必要なプライマーの設計に手間取りそれが届いたのが3月25日。王毅楠が瀋陽に着いたのが同じく25日。
もちろんその日は歓迎の宴となったが、研究室の卒研生まで招くと大事なので院生だけ招いて合計8人の歓迎会だった。テーブルに着いた院生たちの言うことを聞くと、彼は新しいガールフレンドの写真を持っているという。もう皆には披露したという。
それならこちらも見せてもらうことで歓迎の意を表さずばなるまい。写真を見せてと言うと、ケータイ電話を出して写真を呼び出し見せてくれた。大輪の花がぱっと開いたような華やかな美人だ。それに背も高いみたいだ。
王毅楠も178センチくらいあって背の高い男だが、聞いてみると彼女は176センチあるという。「だからハイヒールを履くと、私よりも背が高くなってしまうんですよ。何時もはそれで履かないんですけどね。」
「昨日は慶応大学の卒業式があって、彼女は着飾ってきた上にハイヒールを履いてきたんですよ。式の後、二人で写真を撮ってくれると言うことになって並んだら、彼女の方が高いんで、一生懸命背伸びしたんです。そしたら写真を撮ってくれた友だちが、全身を入れて撮ったものだから、背伸びしているところが写っちゃったんですよ。」と二人写った写真を見せながらぼやいている。こちらは笑いが止まらない。
この新しいガールフレンドは、瀋陽の大学進学校で名高い東北育才学校の出身で、慶応大学に入ってちょうど今年出たところだ。このあとも慶応大学院に進学する。すでにこの春、二人で瀋陽の彼女の実家を訪ねて二人の仲を承認してもらい、次には河南省の彼の実家を二人で訪ねて親から公認されたと聞いている。これが中国のしきたりである。
こちらにとって幸いなことは、こうやって王毅楠に数日の予定で薬科大学に来てもらって学生の実験指導を頼んでも、彼の宿泊を心配しなくてよい。彼女の実家に泊めてもらえる。こちらは、彼が義理の息子として彼女の両親に孝行できる機会を提供したという、いいことをしているわけである。
というわけで彼の招待については、往復航空券とリムジン代(の一部かな)として7万円を私の財布から出しただけで済ませてしまった。
院生6人がそれぞれ4つの遺伝発現ベクターに取り組んだが、第一段階である遺伝子の全長を増幅するのに成功したのは2つだけ。あとで検討すると、プライマーの設計に問題があったみたいだ。それでも、今までに作ったことのあるCaveolinの全長cDNAを増幅してプラスミドに入れ、発現ベクターの作成をするという一通りのプロセスは全員が学んだ。
王毅楠は3月30日に日本に戻った。前日の昼食は私がVIPを招くときに使う唐宣閣に行った。
新しいプライマーを使って遺伝子をつり上げ、そしてそれの改変遺伝子も作ってベクターに組み込むとなると、ま だまだ時間が掛かりそうである。メーカーに頼むのと、どちらが良かったか。お金は掛かってもメーカーに頼んだ方が早かったのは確かである、でも、遺伝子組み換えの技術くらい自分で持っていないと、いまどきの学生はやっていられないのも事実である。教育と研究は、にんたい、忍耐。
カテゴリ:薬科大学
薬学部の日語班3年生に対する生化学の講義が始まった。糖、脂質、タンパク質代謝に、今までは20時間をもらっていた。日本語を学習して3年目で生化学を勉強する学生相手なので、これではきつい。
今年からそれが26時間に増えたので、恐らく十分意を尽くして教えられると思う。
本質的にはヴォートの生化学に準じて講義をしているが、田川邦夫の「からだの生化学」(第2判)を読んでみると、ATPに焦点を当てて代謝を書いているのが見事で、昨年からこれを一部使わせてもらっている。
生化学は覚えることが沢山ある。下手をすると脈絡もなく並んでいる述語を記憶しなくてはならないと思う学生も多いだろう。ATPで筋を通して、それぞれの話が興味を引くように脈絡良く並べられている。知らず知らずのうちに引きつけられる内容だ。この教科書はとてもユニークな、そして私の評価では理系の生化学の学習者に取っては、一番優れた教科書だと思う。
米国の教科書造りに何時も感心していたが。日本にも素晴らしい先生がいるんだ。
第一回は話の途中で、「脳のATP濃度は3mMで、これは20秒でなくなる量でしかない、脳の容積を1.5リットルとし、ATPの分子量を507としたとき、一日に脳で作られるATPはどれだけか」という問題を出した。
考え方を誘導するので、皆が出来る。私はにこにこしているけれど、こちらの意図はいずれ試験の時、ちょっとひねって似たような問題を出すと言うことだ。
第二回は、「教科書、プリント、ノート、電子辞書をしまいなさい。ATPの化学構造を書きなさい」と出してみた。ちゃんと書けるのは女子学生の一部だけで、大半はなんとなくATPみたいだね、というものだった。ま、今の段階ではそれでよいのだ。
試験には、構造を詳細に記憶していないと書けない問題は出したくない。理解していれば、そして考えれば答えられる問題を出したい。
私が無条件で暗記を要求しているのは、アミノ酸の名前、構造、性質、三文字表記、一文字表記くらいのものだ。
この一文字表記を知っていて直ぐ性質が思い浮かぶかどうかで、論文を読んでいて理解に大きな違いができる。もちろん調べりゃすぐわかることだが、覚えている方が遙かによい。
それで、私のカバーする範囲外だが、生化学の試験に出しているし、分子生物学でも出している。
それでも、この二つの試験をくぐって私の研究室に来た学生が、ジャーナルクラブの論文に出てきた関係でRってなに?Yってなに?と訊くと、にそにそして、答えられないのだ。困ったもんだ。
この春2月24日に6年間私たちの仲間だった渡邊京子先生が亡くなった。中国医科大学の日本語の先生だったが、医科大学に日本から留学している日本人留学生の面倒もよく見ておられた。森野さんはそのひとりである。京子先生や私も加えて瀋陽日本人医学会集会と銘打って、留学生たちが年に1-2回レストランに集まり気炎を上げてきた時の世話役である。この森野さんが京子先生への追悼文をまとめた。
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2010年2月28日 山形から森野さんへ:
昨日、貴君と別れてから思い出したのですが、渡辺京子先生のその後の消息をご存じですか?
昨年の初夏、膵臓ガンの疑いで急遽その後の滞在を取り消して帰国されました。メイルを出しても返事がなくて案じています。もしご存じでしたら、教えて下さいな。
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2010年3月13日 森野さんから山形へ:
渡邊先生の状況がわかりました。非常に残念ですが、先月24日にお亡くなりになられたようです。
癌をわずらってからは、瀋陽の知り合いの方に心配をかけたくないとのことで極力状態を漏らさないようにしておられたということです。私自身も渡邊先生のお見 舞いに行くかどうか卒業生と話をしていましたが、滞在時間に空きがなかったのと、逆に気を煩わせてはとおもい、あえてお見舞いにいかなかったことを後悔し ております。
渡邊先生からは大学の人間関係で困ったときに幾度か助けていただいたこともありますし、お部屋に誘っていただいて幾度か元気付けてもらったことが思い出されて本当に胸の詰まる思いです。
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2010年3月13日 山形から森野さんへ:
今日の午後、今学期初めての教師の会がありました。渡辺京子先生はどうしておられるかという話も出ました。戻ってきて、貴兄から届いた悲しい報せを読みました。
心の優しい先生でした。そして料理もお上手で、筑前煮やおはぎの差し入れを良く届けて下さいました。
瀋陽で親しくなった友人に逝かれて、心が悲しみで痛んでいます。
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2010年3月15日 森野さんから山形へ:
今回、渡辺先生がお亡くなりになったことを知って、本来医師の家庭で育った私は人の死に対して普通より免疫力が強いものだとおもっていたのですが、思い起こして渡辺先生が損得を考えず私に与えてくださった恩を思い返すと何故だか涙がこぼれてしまいます。
天国にいる渡辺先生には届かないかもしれませんが、医科大の教え子の学生の寄せ書きを御自宅に送らせていただこうと御自宅の住所を調べてもらいました。
もしよろしければ、教師会の渡辺先生と仲の良い先生方の寄せ書きを頂いてもよろしいでしょうか。私が薬科大まで頂きに参ります。
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2010年3月16日 山形から教師会の会員へ:
悲しいお知らせです。昨年夏まで私たちの仲間だった渡邊京子先生が2月27日に亡くなら れたとのことです。医科大の学生である森野さんから知らせがありました。渡邊先生は2003年秋から昨2009年6月まで中国医科大学の日本語の先生でした。
彼から受け取った新しいメイルでは、渡邊先生のご自宅に、学生たちが弔意を表して寄せ書きを送るそうです。私たちも誘われていますが、私たちが集まって一つの紙に書き込むというのには、かなりの困難を伴うと思います。
それで、渡邊先生のご家族に弔意を届けたい方は、それぞれWordにお書きになって(あるいは自筆をスキャンしてPDFファイルにし て)、森野さん宛にお送り下さいませんか。
期限は、ひとまず今週末までと言うことにしませんか。無期限ですと、森野さんによる取り扱いも大変でしょうから。
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2010年3月17日 森野さんから山形へ:
デザインの仕事をしている友人と相談してメッセージの送り方を決めました。
添付の印刷イメージをご覧ください。2ページしかありませんが、1ページ目が表紙で、2ページ目は内容のイメージです。
すべて縦書きで縦に閉じる小冊子にし、内容は先生方の文と学生の寄せ書きを集めたものにします。寄せ書き本という感じです。恐らく50ページ程度の本になりそうです。
特に問題なければこのまま進めさせていただきます。よろしくおねがいします。
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2010年4月21日 森野さんから関係者へ:
渡邊先生へ弔意の言葉を送っていただいたみなさま
本日約90人分の弔意の言葉を載せた本ができあがりました。頁数は111ページにもなりました。添付写真のとおりです。
明日にでも渡邊先生と御家族のかたへお送りしておきます。
4月25日(日)は第14回瀋陽日本語弁論大会最終審査の日だった。何時ものように、商貿飯店の3階の大会場で開かれた。主催者は日本人会で教師の会の主催ではないけれど、教師会が全面的に協力しないと開催できない一大イベントである。
教師の会のこの日の係は7時45分までに集合、それ以外の私たちは8時までに集合。全員が集まった時点で代表の多田さん、続いて弁論大会の総元締めの高澤さんが挨拶して、長い一日が始まった。9時開会まではそれぞれの係りが打ち合わせのあと互いに走り回って準備と点検、確認に忙しく、見ていて(参加してというべきだろうが)この一時間の緊張感がとてもいい。
8時半までには審査員を務める人たち が会場に到着したので、係りの松下さんは審査員控え室の一室に審査員たちに集まってもらった。採点の時のポイント、基準など詳しく皆に伝えるためだ。要点 を説明し始めて暫くして、一人が入って来て席に着いた。松下さんが尋ねた、「失礼ですが。。。
するとこの人は憤然とした面持ちで「日本人会会長です」と言い放った。
うわっ、なんだ、そりゃ。「日本人会の○○です」でいいはずだ。
やれやれ、今年の日本人会幹事会に、教師の会からオブザーバーとして出る先生は大変だろう。
中国にいる日本人教師は、肩書きでは生きていない、教師としての実力だけだ。そのまえで、俺は日本人会長だぞ、知らないのかと力んでいる。ま、可愛いと言えば可愛いが。
私が初めて弁論大会に参加したのは2004年の春だった。司会役を仰せつかった。原稿に沿って役をこなしていくのだったが、来賓紹介というのがあって、遼寧省人民政府○○様のほかに、来賓・日本人会会長○○様というのがあって愕然としたのを覚えている。
主催者が日本人会なのにどうして会長が来賓なの?
運営を丸投げで背負わされた教師の会の、雇われ司会者としてはもちろん原稿のまま読むしかなかったが、これはおかしいと申し入れて、さすが翌年からはこの悪習はなくなった。
私が初めて弁論大会に参加したのは2004年の春だった。司会役を仰せつかった。原稿に沿って役をこなしていくのだったが、来賓紹介というのがあって、遼寧省人民政府○○様のほかに、来賓・日本人会会長○○様というのがあって愕然としたのを覚えている。
主催者が日本人会なのにどうして会長が来賓なの?
運営を丸投げで背負わされた教師の会の、雇われ司会者としてはもちろん原稿のまま読むしかなかったが、これはおかしいと申し入れて、さすが翌年からはこの悪習はなくなった。
主催者が日本人会なのに、会の始まりに主催者としての開会の挨拶もないことに気付いて、やっと今年から日本人会から開会の挨拶がプログラムに織り込まれた。会の運営も段々良くなる、と思っていた矢先にまた臭気を嗅いだ思いだった。
というわけで出だしの気分は良くなかったが、スピーチ大会が始まると学生たちの熱演に引き込まれた。以前多かった絶叫型スピーチがほとんどなくなった。
その場で題を与えられて5分考え、2分以内のスピーチをする即席スピーチは、あらかじめ念を入れて用意した原稿を話すのと違って本人の実力が否応なく出る。毎年途中で言葉に詰まってそのまま投げ出す学生が何人かはいたものだが、今年は誰もが、至極まともにまとめているのが際だった違いだった。
即 席スピーチの題が、パソコン、旅行、音楽、色、誕生日、友だち、故郷、方言、魔法、春、花、料理、携帯電話、時間、趣味、というように、奇をてらったもの でなくごく日常的な話題として話が出来るものが用意されていた。学生がそれなりの勉強をしていれば、こなせる題が用意されていたと言うことだろう。
最後に行われたアトラクションと表彰式は、私はドアの閉まらない控え室の留守番として残っていたために会場を見ることは出来なかったが、声は聞こえてきた。
「大学一部の表彰でーす。三位○○さん、二位○○さん、一位○○さん」と名前を司会者が呼び上げていたが、「若き日の、希望に燃えて、、、」というメロディが流れてくると、「それでは、選手の皆さん、前に出て。」なんて思わず司会者が言ってしまう楽しい瞬間もあった。
教師の会の会員は昨年度から半分くらい入れ替わっている上に、会員数も減っている。それなのにさしたる問題も起こらず、弁論大会としては大成功といって良い。いろいろと表に出ない問題点もあったが、それはまたいずれ。
この秋大学院に入学する学生は1月に全国統一試験を受ける。中国はこういう制度である。
2月の終わりには成績が出て、学生はこれに基づいて行き先を決める。薬科大学の合格の基準に満たなくても、何処かよそに行くことも可能である。
私のところにも3月半ばに男の子が来て、先生のところの修士課程に入りたいという。いろいろと話してみて、受け入れようかと思って、そう返事した。
4月には各大学で、1月の試験に合格した志願者に面接を含む二次試験を行って、最終的に合否を決める。私たちは外国人なのでこの合否判定に関わらない。
あとで結果を聞くことになるが、先の志願者は卒研生としてうちに在籍している学生ではないので、どうなったか不明のままである。連絡もない。
私たちの研究室の修士2年である黄澄澄さんが、この子にどうなったか電話をして聞いてみようと言った。
数日後には電話が通じて、この男の子は二次試験の結果が良くなかったので、先生のところには行けないと思って、ほかの先生に会ってそちらに行くことを決めたという。
そうか、来ないのか、と印象の薄れた男子学生の顔を思い浮かべようとした。来たくなければ来なくても良い、と思っただけである。
でも、黄澄澄さんは、でも、こちらに断りもなしに勝手に決めているなんて良くないですよ。失礼です。私はそういって叱りました。それで、この子は明日、先生のところに謝りに来ると言っています。
黄澄澄さんは、礼儀にもとると言って怒っている、これは凄いことだ。
でも、結局この学生は顔を出さなかった。そんなものだろう。顔を出したって、ばつの悪いだけだ、と思ったんだろう。失礼と言えば失礼だが、だからといってこちらに何が出来るわけでもない。
人生、なるようにしかならない。しかし、この秋学生が入らないと、その2年後には研究室を閉じることになる。
これから毎年、段々と、研究室の人が減っていくことになるのは淋しいが、仕方ないことだろう。誰でも定年になる教授が味わうことだ。
この薬科大学も2012年には遙か北の方の新しいキャンパスに移ると言うし、私も2年後の健康だって分からないし、辞め時かも知れない。
薬科大学を辞めたあとどのように生きていくかを、遅いと言えば遅いけれど、そろそろ真剣に考えることにしよう。
最近出来た中国人の友人朱紅飛さんと話していて、中国でツクシが見られるかなという話になった。清朝の初代皇帝であるヌルハチのお墓のある東陵の周囲の小山だけが、このあたりで残っている自然なので、もしあるとすれば、そこだろうという。それで、5月の連休に彼女を案内役にして東陵の周辺にハイキングに行こうかと計画した。
それで、教師の会の全員にメイルを出した。
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4月の定例会の時に予告したように、弁論大会の次の週末には、朱紅飛さんの案内で「踏青」に出かけましょう。瀋陽にもやっと春が訪れました。
日時:5月2日は連休の日曜日で大混雑が予想されます。朱紅飛さんのお話では月曜日ならかなり状況は良いと言うことですので、予定を5月3日(月曜日に)しました。
目的地:バスで東陵を目指します。瀋陽近辺で自然が残っているのは東陵のうらの山しかないそうです。ここが目的地です。東陵には入りません。
朝鮮族も、漢族も狗肉を食べますが、満族は決して食べないと言うことをご存じですか?
朱紅飛さんから伺った話ですが、明軍に攻められて傷ついたヌルハチは草原に囲まれて火を付けられました。気を失っているヌルハチを、狗が自分の身体を河でぬら してヌルハチの周りの草を濡らして燃えるのを防いで、ヌルハチは助かったと言うことです。その犬は気がついたヌルハチの隣で死んでいるのが見つかりまし た。
それで満族は狗肉を決して食べない。この犬の塚が裏山にあるそうです。ここもハイキングの時に通るので、このような話もそのとき朱紅飛さんに伺いましょう。
内容:2時間近くゆっくり歩いて、ツクシ、のびるに出会うかも。
昼食:中街に戻って、遅い昼ご飯を回族のお店で。
集合場所:5月3日月曜日午前10時までに馬路湾168号バス停にお集まり下さい
付録:水のボトルと、あとはお好みのスナックなど。ハイキングの服装で。雨なら中止。
必須:参加される方は、4月30日金曜日の昼までに、山形宛にメイルを下さい。参加の人数によっては、集まる場所を変えるかも知れませんので、この期限を守り下さい。
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その後集合時間を9時に変えて、再度全員にメイルを送った。
最初にメイルを送ったのが弁論大会の前だったので、そのとき会った先生方のうち、その日は参加出来ないと言われたのが二人だった。
誘いを書いて、期限までに二人から、都合が付かなくて参加出来ないというメイルがあった。結局それだけだった。つまりほとんどの人たちからは無視されたのだった。
一寸ひどいんじゃないかなと言うのが私の率直な感じである。ただの知らせではないのだ、一緒に遊びに行きませんかと誘っているのに、二人以外からは返事がなかった。
誘いを無視しただけでなく、私を無視したと言うことだと思う。でも、そう認識すると傷は深くなるし、会員との関係も修復不能になる。同じことは私だってやっているんだろうなと、反省するだけにとどめておこう。
カテゴリ:生命科学
前に書いたように、田川邦夫の「からだの生化学」という本に感心している。それで、生化学の最初の授業の時にこの本の一部をコピーして学生に渡した。一人一人に当てて、すこしずつ声を出して読ませた(本当は違法かも知れない)。
これはこの3年生の学生が1年生の時に勉強した日本語能力を、今どのくらい身に着けているかを知りたいためである。
誰も初めて目にすると思われる言い回しの言葉もほとんど楽々と読みこなしていて、感心させられた。その後の授業のとき、学生の一人が、あのとき読まされた生化学の本の抜粋がとても面白かった。もっと読ませてください、といってきた。
時間があれば、実際読ませてみて、それを解説してというやり方も可能だろうが、時間的に無理だし、人の本を全部コピーして配布するわけにもいかない。それで、東京工業大学の時の同僚だった先生から送られた生化学の本がまだ手元に残っていたので、それを10冊上げるから皆で工夫して分けて読みなさいとこの学生に言った。
「読んでも試験に全く関係ありません、本を読んでもっと勉強したい人だけに見て欲しいのです」
この本を取りに来た学生は、それから数時間後には以下のようなメイルをよこした。
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山大爺先生 こんにちは。
私は三年生の?广会です。??の?です。(笑い)
生命化学の本、どうもありがとうございました。中学校から私は生物の授業が好きです。先学期に勉強した生理学や今が勉強している生化学も大好きです。これらの授業を勉強すると同時に、自分の生活の現象を連想して、面白いですね。自分の体の働き方や、各臓器の機能をわかってきて、栄養物の吸収過程と代謝の意味をわかって、時々、なるほどそうですのかという感じが出ます。興味がもっと深くなりました。機会があったら、できるだけ沢山の生化学の知識を学びたです。
大学一年生から日本語を勉強し初めて、日本語が好きです。今学期から、日本人の先生の授業を受け、専門科目の知識を学ぶのは日本語の勉強にとっても、専門知識の勉強にとっても大挑戦だと思います。実は先生の授業が始まっあ前、私はは分かられるかなと心配しました。受けたあと、一緒懸命に勉強すれば、80%ぐらいの授業の内容は理解できると発見しました。むずかしいところがあるけれども、理解したら、面白いと感じます。それに先生が様々な例を出して、分かりやすい言葉で授業をしてくれて、本当に助かりました。グルコースの消費量や、ATPの生成量などを自分自身で計算で、知識が印象にのこりました。ありがどうございます。
ようやく春が来ましたね。連休の日私は杉島先生と一緒に丹?の青山?へ旅行するつもりです。遼寧省の一番大きいな滝があるところと言われています。楽しみにしていますね。
ではまたね。
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私の書いた返事は以下の通り。
?广会さん
早速のお礼のメイルをありがとう。嬉しく読みました。
驚いたのは、素早く礼状が来たことだけではなく、貴女が実にきちんとした日本語でお礼のメイルを書いていることです。
良くこれだけ書けますね。もちろん貴女の能力に敬服しますが、同時に、これだけ教えた日本語の先生(田中先生?伊藤先生?)に感服しています。
実際、生化学の第一時間目にはプリントした日本語一人一人に読ませましたが、皆が思った以上にちゃんと読めていて、私が驚いていたのを覚えているでしょう?
薬科大学の専門科目の講義は、ともすると教科書を効率的に覚えればよいという教え方が多いみたいですが、私は皆が生化学に興味を持って、もっともっと学びたくなるような講義をしようと思っています。
これからも、質問があったら遠慮なく訊いて欲しいですし、私の話が分からなかったらこれも遠慮なく理解できるまで聞きただして下さい。
それでは、楽しい休日をお過ごし下さい。
草々
4月27日の昼食後、研究室の電話が鳴った。「Wei、もしもし、Hello」と返事をしたら、「もしもし、山形先生ですか、初めて電話をしますが、埼玉の山崎です」ということで、山崎先生とのお付き合いの幕が上がった。
彼の話だと、瀋陽生まれの彼は息子と一緒に瀋陽を訪ねることにしたので、インターネットでいろいろ調べているうちに、私の名前に行き当たった。大学では私より3年若い薬学部出身で、今慶応大学薬学部の特任教授だという。
声の感じが元気で優しく、良い人柄が声ににじみ出ている。「この29日に瀋陽に行って3日滞在するのですが、今度の土曜日にお邪魔して良いでしょうか」
「どうぞ、どうぞ。その日は午前中にはJournal Clubがありますが午後なら空いていますよ」「それでは瀋陽に着いたら電話します」
30日の金曜日の夕方は、卒業研究にきている学生たちを励ますために、教授室で火鍋パーティを計画していた。上手く連絡が付いたらこれに誘おうか。研究室の学生とも話したいと言うことだったし。
ところが間の悪いことに、電話が掛かったときに私はちょうど席を外していて、誘うことが出来なかった。遼寧賓館に宿泊というメッセージで折り返し電話をし たけれど不在だったのだ。それでもその後の電話では話が通じて、土曜日は午後1時なんて言うのではなく、昼食を一緒に食べましょうよ、ということにした。
土曜日、大学に山崎教授とご子息の山崎さんが現れたのは、セミナーのちょうど終わるところだった。私とも初対面だったが、セミナーで集まっている学生ともいきなり初対面である。
山崎先生から研究の話を伺えれば、薬学の、しかも創薬の現場に長く身を置いた先生だし、学生たちの専門と同じではないが、良い刺激となるだろう。「自己紹介を兼ねて、何か話してみてくださいな。」
彼の経歴を訊くと、スイスのChiba-Geigyに10年いて、その後はNovaltisに10年いて、そして(いまは慶応大学薬学となった)共立薬科の教授になったという華麗な経歴の持ち主である。
「クスリの開発はとても大がかりなものですが、臨床試験で駄目となったクスリでも、実は調べ直すと別の薬効を持っていて役に立つことがあるのですね。研究をしている開発者は柔軟な頭と広い視野を持っていないと、とても大事なことを見逃してしまいます。」
「たとえば、Tamoxifenって知っていますか?」「これは経口避妊薬として開発されたにのですが、いよいよ人で調べたら毒性が強いので、開発中止の なったのですね。でも、その後調べてみると、乳がんに良く効くことが分かったです。アメリカでは高脂肪食を撮るため乳がんがとても多いのですが、このクス リのおかげで乳がんの死亡率が劇的に下がったのですよ。」
私たちはEsr2の機能をたまたま詳しく調べているから、Tamoxifenがエストロゲンの拮抗的阻害剤であることを知っているが、元は避妊薬とは知らなかった。
「開発の当初目的と違う薬効が見つかった有名な例では、Viagraがありますね」と水を向けると、山崎教授は初めは多数の女子学生を前にして遠慮がち だったが、狭心症の特効薬として開発され、それが毒性テストの時に、実は全く別の、海綿体に局在するPDEを強く阻害して、勃起を助けるめざましいクスリ となったことを熱を込めて話してくれた。だらんとしているのがこうやってピンと立ったり、と手つきも良かった。きっと、短時間だったが彼の話にこめたメッ セージは、皆の記憶に強く残るものとなるに違いない。
午後1時からは天潤川菜食府に席を移して総勢14名で昼食。初対面ながら直ぐに互いに親しい気持ちを抱いた人たちと、3時半まで食事とおしゃべりに楽しく時間を過ごした。
こうやって思いがけない人と出会って有益な楽しい時間が持てたのも、インターネットのおかげである。
5月3日月曜日は連休最後の日。かねてより朱紅飛さんを中心に教師の会の会員に向けて東陵公園の丘陵にハイキングを計画していたけれど、参加者が石田先生と私だけだったので、それぞれ学生も誘って出かけた。
うちの研究室からは院生、卒研生合わせて9人。石田先生の日本語クラス1年生からは4人が参加。
東陵公園行きのバスは馬路湾から出る。そこに行くのに大学からバスを二つ乗り継いで1時間近く掛かった。馬路湾で朱さんに会った。人で混雑している。東 陵公園行きのバス乗り場は長蛇の列である。タクシーやマイクロバスに乗せたい客引きが大勢やってくるが、結局バスで行くことにした。
何時もだとこのバスは東陵公園に2元で行くけれど、今日は4元だ。
東陵公園までこのバスで約1時間だった。今日の瀋陽は雨の予報だったが、幸い雨が降ることもない一日だった。
東陵の中に入らず、右側の森林公園に入る。入り口で一人10元取られた。何時もは2元なのに。中国では客の足元を見て商売をする。
中国では、金が稼げるときに儲けようとしない正直者は、才覚のない愚か者なのである。役所でしかるべき地位について、地位を利用して儲けようとしない人がいないのは、それがここでは当然の、ある意味では、正義だからだ。
なんて言うことを考えながら歩いていると、明軍との戦いで傷ついて失神したヌルハチを救った犬の碑があった。明軍はヌルハチを焼き殺そうと草原に火を放っ たが、犬は自らを水に浸して彼の周りの草を濡らして延焼を防ぎ、そして死んだという。だから、満族は犬の肉を食べない。感動的な物語だ。
こんかいの踏青はツクシがないかなと言うことだったが、みちから丘に踏み出してみると、黒土にスギナがちょろちょろ生えているのが見えた。じゃ、ツクシはと、目をこらしたがなかった。スギナもここで見かけただけだった。
このあと新しくできたらしいお寺を見て、1時間半を掛けてこの新緑が出始めたばかりの丘をを歩いた。お碑路をここで食べると思った学生たちが食べ物を持ってきていてそれを分けて貰って、食べながら森林浴もどきを楽しんだ。
1時半に、中街に戻り、老辺餃子にいって食事をした。瀋陽7年で、この店の餃子が初めて美味しいと思った。
カテゴリ:瀋陽の生活
風薫る五月になった。
何時も五月になるとハイネを詩「美しい五月になると」を思い出す。春を瀋陽で迎えるようになってからは、特に春の喜びを感じる。
11月から始まる長い、長い、そして寒い冬をやっと終えて春になったという身体を突き抜ける喜び。
5月3日には劉凱さんの計画で東陵に隣接する山にピクニックに出かけた。東陵は清朝の初代恋うてであるヌルハチの葉かである。約400年前に造成され、そのまま大事に保存されてきた。瀋陽の周辺に自然はここしか残っていないという。
ただし、私は風邪を引き込んでいる。
これには遠因があった。4月30日には、研究室で火鍋パーティをした。名目は卒業研究の学生の激励である。連休の前日だし、夜の10時まで宴は続いた。そして私はレクエストに応えて、詩吟をした。
これは、私のほかに日本人がいたら恥ずかしくてとても吟じられない無手勝流の詩吟である。でも、腹の底から大声を出すので気持ちがよい。学生があまりの蛮声に驚いて、もう聴きたくないという。それで今までの7年間で、これを入れてやっと3回目である。
というわけで大声でのどを痛めた。その翌日、日本からの来客があって、おもてなしのために研究室の学生も含めて昼の宴会をした。
そのとき、四川名物の水煮魚も食べた。これはあまりにも辛いので気をつけて食べないと、のどをいためてしまう。うっかりして、喉に辛みが入って声帯を痛めた。
そして翌日の日曜日。暖かくてセーターを脱いだ。やがて咳が出たけれど、喉をこのようにして痛めたためと思って気にしないで数時間過ぎた。そして、気付いた。これは寒さにからだが反応しているんだ、と。
しかし、時既に遅く、風邪を引き込んでしまった。5月3日はピクニックを計画した立場として、クスリを飲んで参加した。
4日からは、休暇も終わって立て続けに講義がある。風邪はまだ治らない。
というわけで、すっかり消耗している。
5月の定例会は千品軒で5月15日3時から開かれた。
出席は15名
石田薫、風間珠実、春日信興、小池保利、杉島和子、 瀬井康代、高澤祐一郎、 巽保隆、土屋登、 松下宏、山形達也、 山田実樹、吉田登美子、 任絵美、渡辺文江
欠席は3名
有川里菜、宇野浩司、多田俊明
全員が出席しても18名という数である。
渡辺文江先生から、瀋陽には教師の会に入っていないけれど、日本語教師として働いている日本人が数人おられる。たとえば語学学校の先生は、先日の弁論大会の審査員としてきて頂いたそうだ。そして彼女は、出来ることなら日本人教師の会に入りたいけれど、語学学校が忙しいのは週末なので、教師の会の集まりや活動と重なってしまうので、入れないとその先生の気持ちを紹介した。
そして渡辺先生は、今この会には会友という制度がある。このような、教師の会に入って会員と同じようには活動できないけれど、それでも連帯の気持ちを持ちたいという人たちに会友となって貰ったらいいのではないか、と発言された。
ところで、教師の会の会則には会友という決まりはない。
そこで私が、司会の高澤先生の許しを得て発言した。
「実は、会友というのはこの会の会則には書いてありません。あくまでも潜りのもので、名簿掛かりをしている私が勝手に始めたものです。」
「この会の一つの大きい特徴は、全員がそれぞれなにがしかの役を持ってこの会の運営に貢献すると言うのがあります。これは素晴らしい制度です。誰か一部がこの会を運営して、それ以外の人はそれにおんぶするのでありません。つまりこの会は皆が作っているという意識の元に運営されます。」
「しかし、この理念にそぐわないことも出てきました。それは、一つには秋に来られて短期間だけこの会に (1年分の会費を払って)会員となって下さった先生があります。でも、もちろん短期間なので何かの役はありません。一時参加されたあとの期間は、日本に帰国されていますが、会費の点から見ると立派に会員です。」
「さらに、それまでの仲間だった先生が忙しくなって、何かの役を持って活動することは無理だと言ってこられたことがあります。今まで一緒の仲間だったのに、それだけのことで、はいそれではさようならとは言い難かった私は、それでは、会友というくくりにして、『役はない、会費は払う、好きなときに、何か出来ることがあったら会に出てきて会員と同様に振る舞って良い』というのはどうでしょう。と提案して、会費を頂いて、別に会友という欄を作ってそこに登録をしました。短期間だけ参加される先生もここに登録しました。」
「もう3年くらい続いていると思います。当然、会で話し合わなくてはいけないと思いつつ、そのままになっています。この責任はすべて私にあります。勝手なことを始めていて申し訳ないことですが、ちょうど良い機会ですから、会友というものについてご意見を頂きたいと思います。」
さらに追加して、会友という形で仲間が増えるのはよいことだし、会の活動が出来なくても会費がいただけるというのは会にとって利点ではないか、と言う発言が渡辺先生からあった。
私も、利点を見ればそうだと思って、次回にきちんと審議できるよう、会友の定義などをまともって持ってきましょうかと言ったところ、土屋先生から「金だけ払って何もしない人が会に入ってくるなんて許せない。」とはいて捨てるような発言があった。
強い語調には驚いたが、実際、人はいろいろな意見を持っている。お互い腹蔵ない意見を述べ合って一致点を見つけるしかないのだ。
今回はこの議論をするためには時間が限られていたので、話は次回に持ち越された。
カテゴリ:薬科大学
薬科大学では給料は毎月の8日、9日、10日のどれかに支給される。いままではだ。
考えてみると日本の公務員の給料日よりも早い。
今月は8、9日が週末だったから、10日に貰えるかと思っていた。何時ものように、国際交流処から「ハーイ、先生」と言ってから英語を話す若い葛丹丹が来るのを期待していたが、彼女は来ない。
それで11日の火曜日に学生の一人に電話をして貰った。すると、給料はここまで来ているが、忙しいから持って行けなかった。明日行きます、という。
水曜日には持って来ると思ったが、来ない。
木曜日も来ない。たまたま木曜日の夕方大学の校門で葛丹丹に出会った。「あれ。給料まだ貰っていないよ」
すると、「今まで忙しいから行けなかったけれど、明日持って行きますね。」とにこっ。
彼女の笑顔の免じて、許しているけれど、その木曜日に来ない。金曜日も来ない。もちろん、土曜日は私たちは研究室の活動があるけれど事務は休みだ、もちろん、来るわけがない。
ということは、だ。月曜日に来るとして5月24日である。2週間の遅配じゃないか。そんな、忙しいで済ませられることじゃないだろ
土曜日に日本語の先生に、「日本語クラブ」の原稿を送ったついでにぼやいてみた。すると、もちろん貰っていないどころか、1ヶ月の遅配だという。つまり2 月の休みの時の給料が支給されていないという。6月に2ヶ月分まとめてくれると言っているけれど、だいじょうぶかなと言うのが日本語の先生の感想である。
ほんと、だいじょうぶかな。。。
コメント:
ついにここまで来たのか みのもんだ さん
先生、ご無沙汰しております。
十数年前から、中国で経済発展が比較的に遅れている内陸部で給料が遅配しがち、と聞いたことがあります。でも、大都市で、更に、特権階級の外郭団体のような位置づけの大学、アメを特権階級からもらい続けてきた知的階級まで、給料が遅配。。。
日本の中央銀行は基本的に政府と独立していることと違って、中国の中央銀行は中央政府の言いなりで、刷り放題に紙幣を増刷している、そんな状況でも先生達の給料支給に追いつかないのか。
世は末だな。。。本当に。 (2010.05.23 18:02:38)
Re:給料がまで出ない(05/22) shanda さん
みのもんださん
久しぶりですね。お元気のようで嬉しいです。
これで7年も中国に暮らしていますが、給料が遅配しがちの状況があるなんて知りませんでしたよ。本当に遅配なのか、単に持ってくるのをサボっているだけなのか(実際何時も配ってくれます。もちろん受け取りノートにサインをしていています)、まだ分かりませんが、今日はもう26日ですよ。 (2010.05.26 12:53:18)
私たちは研究室の毎週土曜日の午前中を公式行事のJournal Clubにあてている。
二人の演者がそのときの最新の論文から興味深いものを読んできて紹介する。Speakerは論文をきちんと読んで理解する、それを人に話して分からせるということを勉強する。
聴く方は、初めての話をその場で聴いて理解するという勉強である。
学生の勉強には必須の作業である。日本の研究室では普通日本語を使って、英語の論文を読んで、解剖して、理解しているわけだが、私たちはここではこの勉強を英語を用いて行っている。
隣の池島研では教授が中国語を話すので、日本並みに中国語で英語の論文を読んでいる。
このセミナーは研究室の学生の必須の勉強だが、よそからでも参加したいという学生にはどうぞといっている。しかし、来たって、分からないよ、続けられるかな?と付け足している。
今まで2年とか3年の学生で、やってきても長く続いた試しがなかった、私たちも彼らが長く続けられるよう、特に何の努力をしなかった。
ところが、研究室のJournal Clubそのものが、Speakerの努力が足りないと聴いている方は分からないままで終わってしまうし、一方で、話す方が万全でも聴く方がここに出ていればいいんでしょ?という態度では理解されないまま無駄に時間が流れる。
それで、数週間前から、JCでは司会者を置くことにした。この司会者は、Speakerが十分研究の背景を述べたかどうかに注意深く耳を傾け、聴いている 全員が、研究の背景をしっかり理解したかどうかを確認して、Speakerに研究の話を進めさせる。実験すべてを理解しながら論文を理解しようと、時には Speakerに待ったを掛けながらその場をコントロールする。
学生の反応を聞くと、前よりも良くなったようだ。3年生の参加者も少しは分かるようになってきたらしい。
一方で、隣の池島教授は2年3年の学生がセミナーに沢山聞きに来て大変だ、大変だと言っている。私は彼のいる学部では学生が2-3年のうちから研究室に出入りするシステムがあるのだと思っていた。
ところが最近分かったのだが、池島研ではこうやってセミナーを公開して、聴きに来たい学生を参加させ、彼らが卒業研究を池島研で行いさらには大学院にも来るような、システムを作っているのだった。
研究室に来たい学生の数では池島研は私たちを圧倒している。内容はともかくとして大きな差はこのPublicityだということに、やっと気付いたわけだ。
私たちもセミナーを公開して、山形研究室ここにありという広報にこれから務めようか、幸いJournal Clubは少しは初心者でも分かるようにやり方を変えたし、なんと言ってもここでは英語が勉強できるのだ。
2010/05/26
ここは薬科大学だが、研究科はいくつかに別れている。私は、生化学・分子生物学系と、微生物学系の二つに所属しているらしい。
それが、薬理系にも所属することになりそうである。それはこうして始まった。
何時もうちで採用する卒業研究生は4人が最高人数なのに、今年は私の頭がゆるんでいたらしく7人も採ってしまった。研究室の院生も含めて全員が1台しかないPCRの機器を使うので、この機器は何時もフル回転である。おまけにこれが動いているときでも皆が待っている。
以前、うちの機器が壊れたときに薬理にある共通機器を使わせて貰ったことがある、利用者が殆どいないので、直ぐに使える。もちろんあとでは使用料を払わなくてはいけない。
うちの機器が混んでいるので、この薬理にある機器を使ったらどうかと思いついた。しかし使用料をがっちりとられるが、これは私が薬理に所属していないからである。
うちの研究室の院生の半分は指導教官が薬理にもいて、薬理にも所属している。それなら、そちらの先生に頼んで使用料を安くして貰えないかと思いついた。
それで院生の暁艶と一緒に出かけて、薬理の呉教授にあってお願いしたところ、快諾され、大いに喜んだ。
いっぽうで、私たちの研究室は志望の学生が少ないという問題を抱えているので、生化学の主任である小張老師に会って私たちの問題を話したのだった。
小張は私達の抱える問題を初めて聞いたようだが、直ぐに理解していくつかの解決策を示した。
その一つが、私の専門系を増やして薬理からも学生が採れるようにしたらどうかというものだった。実際、私が講義をしている学生は薬学なのに、彼らは私の専 門系ではなかったのだ。うちの院生に訊くと、私のところに来るのに皆それぞれ多いに苦労している。そして、私が所属する生命科学及び生物薬剤学部で、私は まったく講義をしていないのだ。とうぜん、学生が来ないわけだ。
それで小張老師は直ぐに動いてくれて、研究生処と話を付け、薬理の主任とも話を決めて、私が薬理の専門系も担当することが決まった。正式には来年度からだが、もう有効らしい。
そして小張老師のもう一つの示唆が(もう既にここに書いているけれど)、研究室のセミナーを学部学生にオープンにしたらどうかというものだった。
このシナリオに従って講義をしている一部学生に、土曜日のセミナーを開放したと伝えた。早速数人から参加したいという申込みがあった。小張老師も彼女のEnglih Pharmacyのクラスで宣伝したと言うことだ。今度の土曜日にはどの位来るのだろうか。
薬理の呉教授に、研究生処の判断を伝え手、薬理系の主任による承認を求めると、呉教授もそれを認めてくれた。そして私たちのところで研究室のセミナーを開 放するという話を知ると、以前、池島さんのところで学生が少ないという悩みがあって、それなら学部学生に開放したらいいのではないかと示唆をしたところ、 今の隆盛につながったということだった。
なるほど、悩みは抱えていないで、いろいろと相談をしてみるものだ。この中国で親切な学生だけでなく、思いやりのある老師たちに囲まれて、私は幸せである。
カテゴリ:研究室風景
研究室のJournal Clubは研究室のためにやるもので、公開するとか言う性質のものではなかった。当然のこと、研究室の院生、卒業研究の学生は参加するけれど、学部の学生が来たいと言ったときには、続けてくる覚悟を確かめた上で参加を認めていた。だって、最新の論文を読んで紹介する勉強会に、学習途上の学生がついてこられるわけはないからである。
でも、隣の研究室の卒業研究の学生が、どうしても参加したいというのを昨年秋から認め、この春には学部の2年生がこれもどうしても出たいというので、参加を認めた。
しかし最近、私はセミナーを公開することが研究室を広く大学にPRする機会になると言う認識を持ったので、先週の講義の時に3年、4年の学生にJounal Clubを公開すると宣言した。英語のクラスを持っている小張老師も自分の学生に、英語のセミナーに出たければ山形研に顔を出しなさいと話した。
それで、初回の新しいスタイルのJournal Clubが5月29日土曜日だった。
前の日学生の張くん、胡くん、院生の暁艶さんなどが手伝って、教授室の机のレイアウトを変えて、収容人数を増やした。今は私を入れて14人だが、あと10人くらい増えるだろうと言う計算だった。
当日の朝、次々の見覚えのない顔も混じって、ざっと20人くらいの学生が殺到した。実験室の椅子をすべて持ってきても足りず、隣の池島教授にお願いして椅子を10個借りた。
発表は最初が黄澄澄。
この日の新しい試みを知っていたので、論文の基礎的背景から説き起こし、その説明に30分を使った。背景が十分分かった上で論文の紹介に入ったが、いざ実験の内容になると、新人が技術的内容を理解出来ないことになりその初歩的な説明に、大汗をかいていた。私も、彼らが分からないことは、前に出て行って説明したし、興味を持って付いてこられるかどうかを何時も気にしていたので、黄澄澄が2時間掛けて最初の論文を終えたときには大いに疲れた。
もう次の王月の論文は止めたらと言いたかったのに、結局これも続けたので私はもう集中できなかった。そのためかどうかは分からないが、学生も十分には理解出来なかったように思う。
さて、この試み、成功しただろうか。学生側は付いてこられなければ段々人数が減るだろうから、彼らに受け入れられたかどうかは、そのうちに嫌でも分かる。
こうしてやってみると、発表者が選ぶ論文がその人自身が面白がって興奮するものでないと、聞き手にその興奮が伝わらない。つまりこの興奮がこの論文を是非聴きたいと、聞き手の興味をかき立てることになるわけだ。
さて私達ひとりひとりはどう受け止めたか、月曜日に集まってお互いの意見を交換してみよう。
カテゴリ:薬科大学
男子学生が一人訪ねてきた。見たような顔だがはっきりとは思い出せない。
わたしたちのJournal Clubを先週から公開することに踏み切ったので、この頃沢山の学生が訪ねてくる。その一人かと思った。
日本語が駄目だから英語でいいかというので、もちろんと返事したが、彼の言っていることは分からないし、こちらの話も通じない。
それで大学院生の黄澄澄に通訳として来て貰ったら、いつかの学生だって言うのだ。いつかの学生というのは、3月半ば、大学院入試二次試験の前に私達の研究室に来たいと言いに来た学生だった。
そのときは、いいですよ、試験頑張ってねと言ったのだが、二次試験の後音沙汰がない。黄澄澄が電話をして彼を捉まえると、試験のできがいまいち良くなかったので、遠慮してほかの研究室に行くことにしたという。
黄澄澄は、来たくないならそれでもいいけれど挨拶に来るのが筋でしょと怒って、彼に謝りに来なさいと電話で言っていた。
しかし、直ぐ来るというのに来ないし、それから2ヶ月も彼から全く音沙汰がなかったのだ。その学生がいま、やっと謝りに来たのだった。
来たくない学生に来て欲しくない。断りの挨拶だって、するのが当然だが、まだ学生で、出来なくても仕方あるまいと思っていた。
しかし、敷居が高かっただろうけれど、こうやって謝りに来たのだ。結構なことだ。
最後に「来てくれてありがとう」と言って握手をして送り出した。
コメント:
なんだか みのもんだ さん
黄澄澄が恐るべし。。。
と思いました。 (2010.05.31 12:23:23)
みのもんださん shanda さん
そのとおり。
彼女が、この学生に電話をして「ここに来ないと言っています」と言ったので、私は「そうなの、仕方ないね」と、一見平然と受け止めたのですが、彼女が「まずこちらに断らないなんて間違っています」と怒りを見せたので、私は彼女にすっかり感じ入りました。 (2010.05.31 12:53:14)
歴史上の人物というと みのもんだ さん
北条政子を思い出させます、黄澄澄さんの気風は。
さて、中国の源頼朝はどこでしょう。頼んだぞ、黄澄澄さん。
そして、よろしく頼みますよ、山大爺! (2010.05.31 23:39:02)
小学校の時の同級生だった田宮務が亡くなったと聞いて、びっくり。会おうと思ったら会うことが出来たのに、何時でも会えると思って先延ばしをしていた自分を後悔して、知らせのメイルを読みながら、涙があふれた。
この歳になれば、何時だれが死んだっておかしくないことは百も承知している。でも田宮は、小学校を卒業して以来、変わらない若々しい面影のまま私の心に住みついているので、晴天の霹靂の思いだった。
昭和20年末の東京第一師範付属小学校で私は、その一年前に縁故疎開や学童疎開で離散した生徒を集めて男女合同で再開した3年生のクラスだった。疎開に行ったまま戻ってこない生徒数の減少を補って、4年生、5年生のはじめに補欠募集をして生徒が増えて、再び私のクラスは2組の男子クラスになった。
田宮が入って来たのはこの4年生の4月からだったように思う。正確には覚えていない。戦後の小学校教育はそれまでと大きく様変わりして、クラスの中に5-6人くらいからなる班が作られて、そこが学習の単位、自治活動の単位となった。
この班割りが、担任の加藤先生に依るものなのか、自主的なものなのかも今は覚えていないが、気付いてみると、私は何時も田宮と同じ班にいた。
何時のころからか、私はクラスで「お嬢さん」というあだ名を貰い、ことごとに山本とか野村とかの悪童どもに、あだ名がお嬢さんだからという、それだけの理由でからかわれていた。
田宮は「おじいさん」と呼ばれていた。これは田宮が温厚で、決して荒げた態度を人に示すことがなかっただけでなく、彼が述べる意見には人を承伏させる重みがあり、何時も大人の判断力を示していたことを全員が認めていたからだろう。
田宮は私がいじめられていても特にかばうことはなかったが、私が悪童どもに追われて半泣きで教室に逃げ帰ってくると、彼らに向かって「もういいじゃないか」というのだった。私に向かっては元気ないじめっ子も、田宮には歯が立たなかった。田宮の身体が大きかったと言うことはない。私と変わらない小柄な背丈だった。それでも、悪童は田宮に言われると威圧されて、私にそれ以上何も出来なかった。
勿論、そのくらいだから、田宮が私をお嬢さんと呼んで嘲笑することは決してなかった。
小学校の卒業式のあとの謝恩会で3組の女子クラスは、卒業する生徒を指名して芸をやらせるという演し物を用意した。田宮は、ラジオで野球の実況解説をする アナウンサー役に指名され、渡された原稿を読んだ。顔を紅潮させながら明瞭な早口で、彼は見事に演じきった。ついでながら、私は自分が指名されたらどうし ようと一人やきもきしたのに、お呼びは掛からなかった。その頃も女生徒の目にとまる存在ではなかったわけだ。
田宮は卒業の時には小学校卒業時に伝統となっている滝澤賞を、クラスでは大須に次いで二番目の席次で貰った。つまり、田宮は成績も良かった。
でもあの頃のぼくたちには、成績がよいかどうかは友だちと付き合う上での基準ではなかった(その後だってそうだ)。信頼できるかどうか、これがすべてだ。田宮は小学校の間、ぼくが心の底から尊敬する友人であり、何かにつけて頼りにしている友人だった。田宮が言ったからと、田宮の言うとおりに振る舞っていたような気がする。田宮は今の言葉で言うと私の守護神だった。
大人になって年賀状をやりとりするようになって、田宮とも年賀状を交わすようになった。それが、私たちが働き盛りだった40歳代のころ、やがて途絶えた。田宮がどうしているか、どうしても分からなかった。
それから約二十年経って田宮の消息が知れた。事業の上で友人の借金を連帯保証したために、その2億円の負債を一人で背負った田宮は一切をなげうってその返済に努め、それを返し終わったあと、再び同窓会の私たちの前に現れたと人づてに聞いた。
やがて、千葉の金谷に、今は住んでいることを知った。子供相手の事業も続けながら、毎年正月には、はるかに千葉の海を眺められる自然の中でゆったり暮らしている様子を、50首くらいの和歌に読み込んで、それが「金谷の里」という小冊子になって送られてきた。
心和む歌の数々だった。どの歌にも解説が付いていた。大きな夢とそれを打ち破る手ひどい挫折があっただろうに、穏やかな響きが歌の隅々まであふれていた。
今年も2月に私が日本に一時休暇で戻ったときには、「金谷の里」が届いていた。ぱらぱらとめくって今年は歌の数が少ないことがちょっと気になった。それでも、又あとで見ようと本を自室の机に置いたまま、私は中国に戻った。
もう60年近く、田宮には会っていない。でもその間、私の心の中で田宮がにこにことしたあの頃の顔で、私を何度励ましてくれたことだろうか。田宮の身体がこの世から消えても、これは変わることはないだろう。私が生きている限り、田宮は私の心の友人として生き続ける。
二日前、田宮務が亡くなったと聞いて私は彼の思い出を書いた。その後、もしやと思ってインターネットで「田宮務」を入れると数件のヒットがあった。そのうちの一つは、私が「瀋陽だより」で2004年に書いたものだった。
それ以外に、二つが見つかった。どちらもSawadaさんという写真家のブログだった。その一つを引用する。
「金谷の里」(http://sawada-studio.com/blog/2010/01/post-287.html)
『2010年1月24日 コーヒーを飲みながら先週キンダーの代表、田宮務さんから届いた短歌集のページをめくる。
田宮さんは年に一回、現在住んでいる千葉県金谷の豊かな自然の移り変わりやその時々の心境を歌った「金谷の里」という自作の短歌集を発行していて今年で第九集となる。
その歌集を読めば田宮さんの一年間の様子や心境が手に取る様にわかってしまう。
短歌というとチョット退屈なイメージがあるが、ユーモアのセンス抜群なのでとても面白い。また、解説があるので素人にも分かりやすいのだ。
今回の短歌集で私が一番好きな歌です。
齢重ね 生きてる事の 幸せは 一椀の飯 二合の 晩酌
<解説> 若い時はそれなりの野望や自負等で勢いのある生き方があると思って暮らしていましたが、この年齢になると飯が旨いと感じたり僅かな酒に酔い、安らかに眠りに入る事等が幸せな生き方ではないかと感じるようになりました。(金谷の里 第九集より)
第十集、楽しみにしております。』
これは私も印象に残った歌だった。
Sawadaさんは写真家で、仕事の関係でブログを書くだけでなく連絡先も公開しておられる。それで、澤田光伸さんに衝動的にメイルを書いた。前のブログに書いたように、田宮とは60年近く会っていなかったけれど、ずっと彼のことは懐かしく思い続けていた。
その私の知らない田宮の人生と仕事の軌跡と交わった人を見つけて、無性に嬉しくなったためだと思う。
直ぐに澤田さんから返事が来た。
それによると、『キンダー(田宮務が代表である会社で、幼児教育や一泊保育を行っている)では「ちゅうちゅうマン」と言う名前で園児や先生達に親しまれてい ました。「良い子にはホッペタにチューをします。悪い子にはお尻にチューをしちゃうぞ~。ムッムッムッムッム~」といった感じで大人気でした』とあった。
昔の友人の、私の知らない人生に触れた方から頂いたメイルで田宮務のその後の人となりが鮮やかに浮かんできた。彼に死なれたことを知って胸に出来た空洞が、ほわっとした暖かさで少し埋まった気がする。
彼が多くの人たちに親しまれて、田宮にふさわしい人生を生きたことを知って、とても嬉しかった。しかし「金谷の里」第十集を見ることはなくなってしまったのが悲しい。
生化学教室主任の小張老師から連絡があった。新しい場所の建物の設計図を作るところだが、それぞれの要望を出しなさい。部屋の数、それぞれの用途、空調、電源、などなど。
新しい場所の建物とは、こういうことだ。
この薬科大学は瀋陽市の南の方に位置するが、南北に青年大街沿いに走る地下鉄路線より東に一ブロック離れているだけだし、将来は大商業地域として発展が予想されるところに位置している。
ちょうど私の来た頃、市の再開発を受けて目抜き通りに位置していた瀋陽師範大学、遼寧大学、航空大学、瀋陽理工大学などなどが、遠くに引っ越していった。
瀋陽薬科大学も当然その移転の話が出ていただけではなく、さらに東北大学、中国医科大学、農業大学と合併するのしないのと話が出ては消え、それが再燃しては消えが、繰り返されてきた。
それがいよいよ今年の初め、二年後には本格的に引っ越すことになったという。場所は、市の遙か北に移った遼寧大学、それよりも遠い瀋陽師範大学、それよりも北に出来た航空大学よりも、さらにもっと遠い北の先にある土地なのだそうだ。
どうせ引っ越すなら早く越すことにしていれば、まだ、瀋陽市に近いところだったのに。狭い市内の敷地から越して数倍大きな規模の薬科大学にすると大学当局 は考えているらしいが、日本の場合を見て分かるとおり、渋谷から厚木の山奥に出て行った青山学院は、今や都心回帰ではないか。山奥の大学に人が集まるわけ がない。
大学は授業料で成り立つから、人が来なければ大学も発展できない。この便利な瀋陽市内から遠くに越して、なおかつこの大学が数倍に発展するなんて、とても信じられない。
それでも、ともかく、この土地は売却したらしくそれで遠くに広い土地を買って新しい建物を造るという。既に4つのコンペ入選作が模型として図書館に飾られている。
うちの研究室は中国語の全く分からない私が教授で、ほかに教官が一人もいない、ほかの研究室に比べて全く不利である。それで学生の、博士課程に在学中の張嵐に頼るしかない。
それで、彼女に事情を話して基本的要求を作ってもらった。
教授室:今まで通り。このままの大きさで要求して良いのか、一寸後ろめたいところがある。60平方メートルもある部屋だ。この広さの教授室を持っている教授はこの大学に私のほかには8人しかいない。ただし、学生のセミナーもここで十分まかなえる。
学生室:私達にはこの部屋がない。池島さんのところ大きな部屋を持っていて、そこに学生がそれぞれ机を置いているが、私達は実験室も狭いのでだれもが1メートルの巾の実験台が机兼用で使われている。学生の生活を考えると必須だ。
細胞培養室:今は狭すぎる。いまの普通の実験室の一画を仕切って作った培養室は狭くて、危険が一杯だ。20平方メートルはどうしても欲しい。池島研は60平方メートルの培養室を使っている。
生化学実験室:今の528(38平方メートル)くらい独立に欲しい。
Cold Room:そしてその半分の4度の部屋が欲しい。これがないから生化学実験に私は及び腰である。
P2レベルの実験室:今の528(38平方メートル)くらい独立に欲しい。前室も必要だ。
暗室:小さくても必須である。ただし共用でも良い。
洗浄室及び蒸留水製造室:今は528にすべてが雑居していて危険である。
動物飼育室:私達は実験動物を使わない方針で研究を行っている。
カテゴリ:薬科大学
薬科大学の引越は今度は本当らしい。新しい建物に移ったときの研究室の広さなどの希望を訊いてきた。
詳しくは、「研究室日記」
http://blog.goo.ne.jp/tcyamagata/e/8df9d8a573427fb3e5726196a0a2af89
今朝、関さんからメイルがあった。自分を、私達の研究室のスタッフにしないか、そうすると。いろいろと助けになるよと言う。
彼女は大学を出て直ぐTeacherになった。同時に修士課程に入り、数年かかって修士をとって、2003年にたまたまここに来た私達に指導教官から紹介されて博士の学生になった。
Teacherと言うことは年間二百時間くらい授業を受け持っている。何時も忙しがっていて博士を取るための研究になかなか集中できないし、やる実験は乱暴だ。教えようとしても、自分はほかの学生と違って修士を持っているし、Teacherだと言うわけで受け付けない。
彼女のあとから2004年秋に博士になった学生は、2007年に見事に学位を取った。2005年に博士に入った学生は2008年にこれも立派に学位を取った。
しかし関さんは論文一つも書くことなく、6年経った。その間、何度私はののしられたか分からない。最初のころは指導が悪いと言うことだった。そうちに、良い研究をして博士が二人も出たので、そうは言えなくなった。
彼女は言う、「ほかの研究室なら私に学生を沢山付けて、博士論文を作るのだ、こんな分からず屋の日本人のところに来るのではなかった」と。無能で怠け者の上に、人に感謝することを知らない彼女は、選択を間違ったのだ。
しかし大学にも事情があって、大学の情けで、2009年6月学位論文発表をした。あと2年以内に論文を出せば博士にするという条件である。
彼女は子供が出来て昨年12月以来大学に来ていない。そして今日、メイルを寄越して、私の研究室のスタッフにしろと言う。
今までだって大学からの知らせは彼女を経由して届けられてきたはずだが、実際は殆どこちらはツンボ桟敷だった。何度、隣の池島教授に大事な連絡を教わって救われたか分からない。状況を話して生化学の小張主任から情報が来るようになったのは昨年秋からである。
彼女が研究室にいたころ、自分は教官だというので何時も学生に対して威張っていた。直ぐに怒鳴り散らしていた。彼女はここにいるときは害毒しか流さなかった。
その関さんを、何が悲しくて、何が嬉しくて、私達の研究室の教官スタッフにしなくてはならないのだろう。むしろ、誰もいない方がましである。
カテゴリ:研究室風景
4月半ばに雪が降った瀋陽も、5月には春が到来し、1週間前から最高気温が30度を超えて、ポロシャツ一枚の生活をしている。
薬科大学の教授室、実験室二つと細胞培養室には2003年、ここに来て研究を始めて以来空調機を付けている。教授室の空調機は5年したところで壊れたが、修理してまだ動いている。
528の実験室のエアコンは6年目に壊れたが、修理に人を呼んだら点検しているときに動き出して、その後も時々動いている。それから、だましだまし動かしていたが、2シーズン経ったところでとうとう動かなくなってしまった。
空調機が必須なのは、瀋陽が埃の多い街だからである。窓を開けていると実験机にうっすらの埃が溜まる。埃と分子生物学の実験とは両立できない。それで、最初から空調機を備えているのだ。
その空調機が機能しなくなって、このところ送風だけ動いていたが、とうとう送風だけではこの熱さはしのげなくなったと実験室の院生から苦情を貰って、中街の蘇寧電気まで院生の暁艶と買い物に出かけた。
3階まで行くと、Haierを初めとするブランドに混じって、三洋電機、大金(ダイキン)、Panasonic、三菱重工、三菱電機の日本のメーカーも沢山出ている。隣にはSumsungがある。
この電気屋の従業員はすべてSumsungの名前の付いた名札を付けている。
最初はHaierを買うつもりだった。中国で一番信頼できる電気メーカーである。いろいろの機種のどれもコンデンサーをは同じで、室内機に違いがあり、それで値段も違うのが気に入った。コンデンサーが同じなら、一番安いので良い。
ところが、4,500元の機種はない、5,500元のもない。7,000元のもない。もう製造していないという。おいおい、そんなものをここに置くなよ。
それ以上の値段になると日本製も対象に出来る。三菱重工7700元が同じような性能だ。7880元を7280元にすると言っている三菱電機のも、似たような性能だ。50平方メートルを冷房する能力がある。
日本ので機器メーカー全部が束になっても、韓国のSumsongの半分の売り上げにもならないというのが、頭をかすめる。この際日本のメーカーを応援しよう。
と言うわけで、三菱電機のエアコンを買ってきた。翌日取り付けて貰える。
高価な買い物だが、これで皆が落ち着いて実験できるなら安い出費だ。1962年に私が名古屋大学理学部の鈴木旺教授の生物化学研究室に助手で就職したとき、鈴木教授がまず実験室に空調機を入れるところに行き合った。
まだ、空調設備が常識ではなかったころである。おまけに新設の研究室で研究費はまるで足りなかった。それでも、これは必要なことなんですという鈴木教授のすました顔を今のことのように思い出す。
時は流れて50年。同じことを私もやっている。
カテゴリ:研究室風景
5月29日から研究室の毎週土曜日午前中のJournal Clubを公開にした。公開といっても今まで通り教授室の一画で行うので、だいぶ混雑することになるけれど、何処かに部屋を借りてまで、とは考えていない。
最初は20人を越える人たちが来たが、次は十数人になった。そして3回目は十人くらいになり、と段々落ち着いてきた。
その3回目は私がSpeakersの一人になっていた。全くの新人が来ているので、彼らに時間の無駄をさせないためには、十分に分かる話をしなくてはならない。と同時に、聴いていて引き込まれる、興奮するような話でなくてはいけない。
でもだいたいJournal Clubは最新の学術論文から選んでくるのだから、読むのも話すのも興奮するようなものが何時もあるわけではない。
どうしようと思いながら論文を探した。昔はJournalを手にとって読んで探すが、今はInternetだ。ただし、すべてのJournalがネットで読めるわけではない。私が読みたいようなJournalは大学が購読していないので、殆どのものは読めない。JBCは私がASBMBの会員なので、勿論読むことが出来る。従って私が取り上げるのはどうしてもJournal of Biological Chemistryに偏りがちだ。
重要な論文、面白い論文、興奮する論文、と考えているうちに、そうだ、と思い当たった。既に3投稿して出版が約束された曹Tingの論文を紹介しよう。これなら、十分面白いし、大事な意味のある論文だし、深く掘り下げて解説できる。
というわけで、6月12日は、曹Tingの論文を紹介した。3年生の諸君も、完全には分からないまでも、私達が重要な研究をしているというメッセージは伝わったようだ。
久しぶりに日本から瀋陽に来た妻も参加していて、「良かったわよ」なんていってくれた。
そう、今回は成功した。この次は、どうしよう。
この薬科大学に招聘されたのが2003年春で、その時は5年の契約をした。契約は2008年まで有効だが、修士の学生を採 ると言うことは、採用してから3年間責任が生じるので、2006年度の学生を採る前には2009年までいても良いですか、とあらかじめ口頭で許しを貰っ た。
これを毎年繰り返して、一方で契約はそのままなので、2008年夏からは、無契約状態に入ってしまっていた。ついこの間久しぶりに呉校長に会ったとき、こ の先数年はここで仕事を続けたいと話したら,いいけど、そういえば契約がそのままになっていたっけ、国際交流処の程所長に話しておくと言うことだった。
それを受けて今日、国際交流処の徐寧さんから電話で,契約書のことであとで程処長と一緒にここを訪ねるという。そんなのは申し訳ない、こちらはただの教授 で先方は、校長助理(つまり校長の公式ブレイン)で、しかも私達外国人を総括する国際交流処の処長である。こちらが伺うといったけれど、結局押し切られ た。
10分もすると二人が現れた。契約書が出来ている。見ると2008年の契約の日づけた。遡って契約をすると言うことになる。
そして契約の期限は3年間で、2011年夏になっていた。しかし、それでは困る、現時点で修士の1年生がいる。今年と来年が学生を考えると、許されるならば、2014年までここで仕事をしたい。何時までもいたいだけいていよと言われているけれど、期限を切って考えておかないと将来計画が立てられない。
程処長は私の希望は全く問題ない。2008年から5年間、つまり2013年までにしましょうとこともなげに言う。その先1年延ばすのは問題ないですよ。
話をしていて見えてきたのは、この大学としては外国人と言うことで特別扱いをしていることに問題はないけれど、ここで仕事をするために必要な専家証をは発行している国家機関が問題なのだという。
つまり、高齢の人をどうして雇うのかと言うことを大学は説明してクリアなくてはならない。これが、結構面倒らしい・当然と言えば、そうなのだが、何時までもいたいだけどうぞといわれていてそこまで考えていなかった。
ということで、2008年に遡ってそれから5年間、2013年夏までの契約にサインをした。あと3年(あるいは4年)、この大学の発展のために出来る限りの力を尽くそうと思う。
今年度の卒研生は7人もいて、過去最大の人数である。4人に絞るつもりが、次々と申込みがあって断るのが気の毒だったのと、断るのが面倒だったのと、ま、多少は多くても研究室が元気になるか、と思ったのが原因である。すべては私の責任である。
実際、人数が多いというのはたちまち問題となった。私達の研究室は腫瘍細胞を用いて転移の機構を調べているので、当然のこと細胞の培養が必須である。つま り全員が細胞培養室を使う。この培養室が狭くて2 x 5メートルくらいの大きさしかない。この中にクリーンベンチが二つしかない。つまり同時に使えるのは二人しかいない。
しかしそれでは埒が明かないので、数名が何時も培養室にいる。人が沢山入っているから,細胞にカビが生えたり酵母が生えたりという汚染の機会が急上昇した。培養皿が微生物で汚染されると、実験はパアである。すべてやり直しだ。
このような過酷な条件に、今までの院生も卒研生も一緒に置かれてしまった。それでも、それぞれ実験に励んで、卒業の時期が近づいてきた。6月半ばが卒業研 究の発表があると言うことは勿論分かっているので、5月半ばからデータをまとめるよう、そして卒業論文を書き始めるよう何度も言った。彼らの実験を直接指 導している大学院の先輩たちも、何度もそういった。
そして卒業研究の発表練習の第一回を6月13日と14日に行なった。驚いた。データをPPTの画面に突っ込んであるだけで、発表からはほど遠い(PPTは英語で作り、練習は英語。そして最後の発表は中国語をつかう)。
第一回目はともかく筋書きが出来ているか、それでよいかどうかのチェックである。第二回目は17日と18日に行った。この時はもっと細かく全体のバランス を見ながらいろいろと変更点を指示する。ここまでは研究室が全員参加していたが、もっと細かいところは私一人でやるしかないので、6月20日と21日をそ れにあてた。
日曜日は朝8時半から始めて、4人を終えたのが夜の10時だ。月曜日は私が疲れてしまって,3人をともかく終えたのが午後6時だった。
人数を足すと7人になるが、卒研の一人は、四川省に用事があるといって14日からいなくなって21日に戻ってきたので、最初の一回しか練習しなかった。
大学と国は端午節で13、14、15日は連休だった。この間休んで遊びに行った学生は3人もいた。今までの学生からは想像も出来ないことだ。
卒業論文は発表の前の22日の午後5時までに生化学の主任に出すこと、という通知が前から来ていた。勿論学生には伝えてある。
22日の午後5時に実験室に行ってみると、まだ論文を書いている学生がいる。ほかの人は出したの?いいえ、という。周りの院生にも訊いてみるが、今年の学 生は、期限を守るという観念が全くないみたいだ。どうして?と訊いても、へらへらと笑っている。院生を振り返ると、首をすくめて横に振っているだけだ。
『赤信号、みんなで、わたれば怖くない』という新・新・新人類の出現か。私にも、院生にも、彼らがどうして論文を期限までに出さずにいて平気でいられるのか、全く理解出来ない。
卒業研究の発表は一人発表8分、質問7分の合計15分で,明日、6月24日の朝8時半から始まる。
2009年度最後の定例会は6月19日の午後2時から千品軒で開かれた。
出席:有川、石田、宇野、春日、小池、杉島、瀬井、高澤、多田、巽、土屋、松下、山形、山田、吉田、任、渡辺、
風間は懇親会から参加(撫順から来るバスで悪酔いしてしまって、ずっと休んでいたそうだ)
特別参加者:伊藤(本渓学院)
報告事項:「資料室」
資料室:資料室の閉鎖されたのが2008年3月。別の資料室がみつからなくて、とうとう書籍6千冊を瀋陽市図書館に寄付したのが2009年春。
寄付した図書の目録作成に取りかかったのが2009年12月15日。
土屋・任両先生の音頭の元で,図書入力の完成したのが今年の6月18日(つまり昨日)。
一方、2009年の10月には劉凱さんから自分の店を資料室に使わないかと言う申し入れがあった。教師の会は「資料室再興ワーキンググループ」を12月の定例会で作って資料室再興を検討してきた。2010年3月には,教師の会に資料室を千品軒の一画を使わせて貰って再興することを答申して、教師の会で了承された。
教師の会と千品軒の劉凱さんとの間に、使用についての覚書を取り交わしたのが2010年6月19日で,5月に遡って使用料金1200元を支払ったことを報告した。
「資料室再興ワーキンググループ」は今後は「資料室係」となるので、今後どうかよろしく。
今回の集まりでは、
劉凱さんの特別スピーチ「漢字の成り立ちとその背景 甲骨文の解読」 が企画されていた。
劉凱さんは日本語を私達と同じように読み書きできる素晴らしい人と認識していたが,彼女は甲骨文字と神話の研究も深く行っているということで、今日はその一端が披露された。
たとえば星という字の上の日は二つの星を意味しているという。星が二つというのは、二重星であるシリウスを形取ったらしい。中国では天狼星と呼ばれる一番明るいシリウスは、実は白色矮星の二連星だというのは現代の天文学の知識なのだそうだが(1862年、当時世界最高の望遠鏡によりAlvan Clarkがこのシリウスが二連星であることを発見したという),肉眼では二連星には見えないのに、どうして古代で見えたのか。
実は、と話は続く。今も存在するアフリカの部族でドゴン族に伝わる神話がある。神話に曰く:
* 人間の目には見えぬ“ポ・トロ”こそ、全天で最も重要な星である。
* ポ・トロは、天空で最も明るく輝く“母なる星”の主伴星であり、その周りを50年で一周する。
* ポ・トロは楕円軌道を描いて回っており、“母なる星”はその焦点の一つに位置する。
* ポ・トロは地球上のいかなる物質よりも重い“サガラ”という金属でできている。
* “母なる星”には、ポ・トロの四倍も軽く、ずっと大きな円軌道を描くエンメ・ヤ(第3の星)が回っている。
* エン・メヤの周りには、ノンモ(魚人)の住む“ニャン・トロ”が回っている。
* 遠い昔、ノンモが地上を訪れ、人類に文明を与えた。
http://www.aritearu.com/Life/Sky/Sirius.htm
ポ・トロはシリウスしか考えられないという。つまり、ドゴン族はシリウスを信仰し、シリウスが伴星を持つこと(シリウスが連星であること、伴星はシリウスBと呼ばれる)や、その公転周期が50年であること、さらには、シリウスの伴星が白色矮星であることなどを知っていたかのような伝説を持っている。
漢字の起源では,中国と遠いアフリカと似たような古代の話を持っていることが述べられただけだが、15万年前のアフリカに住む『イブ』とあとで名付けられた女性から,今のすべての人類が派生していることを考えると,アフリカ起源の人類がその頃の神話を持ったまま中国にたどり着いて、漢字を作ったときにこのシリウス伝説を星という字にしたとは考えられないか。
劉凱さんは、そんなことはありませんと,私の考えは一蹴されてしまったが。
5時半から新南国美食で開かれた懇親会は送別会兼用だった。今年度で任地を去る先生は、二年組:有川、高澤。三年組:瀬井、多田、巽の5人。
仲良くなった仲間を見送るのは,悲しくて、淋しい。送る言葉を述べながら、涙が思わずこぼれそうだった。
この間の教師の会の定例会に、久しぶりにアリちゃんこと有川さんが現れた。今期で瀋陽を去るというのに、つまり公式には今日でお別れなのに、にこにこと幸せそうに顔が輝いている。
「こんにちは、久しぶりですね。あれっ、とっても嬉しそう」と声を掛けると、「そうなんですよ。来るときのタクシーでも運転手さんい、どうしてそんなに楽しそうなの?」と訊かれてしまいました。
「今日でお別れなのが、嬉しくって幸せみたいじゃない?」というと、「教師会、大好きなので、お別れは悲しいです。でも、大好きなみんなにこうやって会えるから嬉しくて幸せなのです。。。」と大きな目を、もうウルウルさせていたっけ。別れは悲しい。でも大好きな人と会えるのは幸せで嬉しい。
6月23日の夜は、高木純夫さんの送別会を教師の会の有志が集まって開いた。高木さんは伊藤忠商事の瀋陽・ハルピン事務所の代表だ。この事務所は、ちょうど今中国大使に民間から任命された伊藤忠の丹羽宇一郎会長が、2004年に設置を決めたものだそうだ。従って高木さんは、初代所長である。私が日本人会の幹事会にオブザーバーとして出席し始めたのが2005年の秋からだった。この幹事会は瀋陽在住の日本企業の人たちが仕切っている。研究者の 世界にずっといた私にとっては、どのようにして付き合って良いか全くわからないひとたちばかりである。
でも、 その中の高木さんは、商事会社のやり手らしく人をそらさない如才なさの中に、アカデミックな雰囲気も持ち合わせ、私を煙たがらずに、あるいは、距離を置こ うとせずに、相手をしてくれたのだった。つまり高木さんは、目線をこちらと同じところにおいていて、当然のこと職業も、身分も違うけれど、それとは 関係なく同じ人としてこちらと話そうという態度が気持ちよく、たちまち、かれのことを好きになってしまった。
会議での発言も、見かけも若々しい。年を聞くと私よりも一回り若い、同じ誕生日である。もっと若いと思っていたのでこれには驚いたが、私のことも若く見えると言われるので、これはお相子である。
2006年春には教師の会の小北間街にあった資料室が突然閉鎖されて、私達は途方に暮れた。3月末の日本人総会でその時会長だった南本卓夫先生が窮状を訴 え、多くの方々から支援、助言、具体的な援助を頂いた。
その中で高木さんの友人のビルのオーナーからの申し出を私達はありがたく受けて、開元ビルに125平方メートルという広い部屋を無償で貸して頂いて資料室 を再開した。
しかしこの資料室も数ヶ月で閉鎖の憂き目にあってしまったが、責任を感じた高木さんは次の場所を探すのとその交渉に全力を尽くして下さった。相手が瀋陽市と言うこともあってこれはとうとう不調に終わったが、高木さんと総領事館の森領事は3ヶ月間、私達の次の資料室探しのために奔走してくださったのだ。
12月になって、前の時に同じようにビルを貸そうといって下さった方を頼って集智ビルに資料室を開くことが出来た。この時の契約書作成は高木さんに全面的におんぶした。 2007年4月から高木さんは日本人会会長となり、教師の会と日本人会との間を近づけるためにいろいろと務めて下さった。定例会にもオブザーバーとして参加して、その後の懇親会にも出て下さったことが何度もあったし、資料室の公開セミナーにも普段着で参加されたこともある。このように、教師の会を支えて下さった高木さんが、いよいよ6年の瀋陽滞在を終えて帰国されるという。教師の会にとっても、私にとっても親しい友が去るの を見送るのは悲しい。しかし、一方で、高木さんとこうやって一晩一緒の食事をして、彼の該博な知識と知恵の一端に触れることはとても嬉しいことなので、悲しい送別会とは裏腹に、とても楽しい時間を過ごしたと感じられた。
後列は
松下 宏 遼寧大学 ・劉 凱 千品軒・渡辺 文江 遼寧大学外国語学院・吉田登美子 遼寧省国際交流協会 ・山形 達也 瀋陽薬科大学
参加は
前列左から・有川 里菜 遼寧省実験中学 ・瀬井 康代 瀋陽大学 ・高木純夫さん・多田 俊明 瀋陽薬科大学・高澤祐一郎 瀋陽大学外国語学院
日時:2010年6月23日(水曜日)午後6時から9時
場所:唐萱閣 元帥府 024-23886989 瀋河区五愛街26号甲1
この大学の中で生化学は弱小学科のためか、毎年の卒業研究の発表は良い場所が取れず、生化学学生実験室を使って行われてきた。薬品棚が載っている実験台と実験台の隙間でPPTのプロジェクターを映すのだ。
ところがどうしたことか、今年の場所は主廊29号室で行うことになって、これはダンスホールに使えるくらいの広い部屋である。全部で発表する学生は34人。私達のMagnificent Sevenは最初の7人である。
卒業研究発表の三日前になってやっと詳細が知らされた。一人口頭発表が8分、質疑7分の合計15分だという。しかし私達は昨年と一昨年の例に倣って、口頭発表5分と言う練習をしてきた。急に内容を増やしようもなく、従って、24日の発表会では、ひとり10分くらいの時間でどんどん先に進んだ。
今年は人数が多かったために、発表練習が2回しかできなかった。それでも、PPTは綺麗だったし、話も起承転結が明瞭で、だれの発表も印象的だったので、ひそかに胸をなで下ろした。ひとり15分のところを10分で進むのも良い。
講演も質問もすべて中国語で、相変わらず私の怠慢で私には分からないから、生化学のTeacherたちの質問は、右後ろからは院生の暁艶は英語で、左後ろからは黄澄澄が日本語でリアルタイムに説明してくれた。この生化学のTeacherたちは4人が出てきていて、手分けして発表を評価・採点するのである。
私達の使っている細胞はどのようにして得たのか、PCRをするときのやり方、SiRNAの与え方とかについてだった。一人一人の発表は単純な内容だったと思うけれど、質問は講演内容の筋を理解したうえでのものではなかった。
と言うわけで7人の発表が75分で終わって、私は解放された。幸いというか、中国語が分からないため全部の発表を聴くことから免除されている。
このあと、急いでうちの7人の中から最優秀の学生を一人私が判定しなくてはならない。Magnificent Sevenの中から一人を選ぶのは簡単なことではないが、10月からの実験がすべて上手く進んだ姜嘉慧さんを選んだ。遺伝子抑制の細胞をクローン化することが研究の最初にしなくてはいけない場合、最後の最後に微生物が混入して失敗した人たちが多かったので、彼女は幸運だったのだ。
夜は、彼らの送別会を天潤川菜食府で開いた。卒業するのは、胡忠双、王新桃、張心健、許雪静、林玉家(名前の二字は二つとも金ヘン)、方家、姜嘉慧の7人。院生は、張嵐、陽暁艶、黄澄澄、王月、朱彤、張笑の6人。そして私の合計14人。
許雪静さんは、江蘇省で日本系企業に就職する。胡忠双くんは順天堂大学、王新桃さんはニューヨークのLong Island大学、張心健くんは名古屋大学、林玉家さんも名古屋大学、方家さんは北大、姜嘉慧さんは九大にそれぞれ進学する。
それぞれが挨拶をしたとき、だれもがこの研究室はめっぽう忙しく、実験は過酷だったけれど、この研究室に来て良かったと言ってくれた。お世辞半分にしても、沢山の卒研生が何時も実験室にあふれていて、院生たちは大変な苦労をしたわけなので、その労が報われたと思う。
私は、彼ら7人がこの先良い人生を切り開いて生きていくよう切に願うと同時に、院生6人の限りない忍耐心と、優しさ、指導力に心から感謝した。
瀋陽には2006年から大手新聞社の支局が出来ている。そのうちの一つ読売新聞の支局長をしている比嘉さんからインタビューの申込みがあった。科学新聞の記者とは私達の研究成果のことで何度か会ったことがあるが、一般新聞の記者からインタビューを受けるなんて初めてのことだ。
いったい何故だろうと言うのには訳があって、元々は「海外で活躍する日本人」という囲み記事があって、これに伊藤忠瀋陽・ハルビン事務所長である高木純夫さんがインタビューを受けることになっていた。しかし、彼は7月で帰国するので適当ではない、その代わりに瀋陽に7年もいて日中友好に「活躍している」山形を登場させたらと提案したらしい。
6月28日の夕方、高木さんから電話が掛かってきて、上記の状況を知った。私は慌てた。だいたい、23日に高木さんの送別会をしたあと、彼から直ぐに礼状も頂いたし、その時の写真も送って頂いたのだが、卒業研究生を送り出した虚脱状態が続いたまま、何の反応もしていなかったからだ。それだけでも慌てるのに十分だが、さらに新聞記者にインタビューを受けなさいと言う話だ。そんな記事に取り上げられるほどのことをしてきたわけではない。
しかし、高木さんと押し問答をしても全く意味のないことだ。潔くこの話を受けることにして、読売新聞音記者からの電話を待った。直ぐに電話が掛かってきて、いつから瀋陽にいるのですか、とかどういういきさつがあって瀋陽に来たのですか、など聞かれた上で、近いうちに一度会えませんかと言うことになった。
翌日の午後を指定した。新聞記者に会うなんて、きっと昔なら心が躍っただろうと思う。しかし、全く何も感じない。「歳を取ると言うことは感動を失っていくことだ」と言う誰かの淋しい言葉を思い出した。それでも、どういうことが焦点を浴びるのだろう、と思った。きっと、日中友好に役立ったかどうかだろうな。でも、これは私の視点から論議できることでもないしね。
それで思いついて研究室の院生の暁艶に尋ねてみた。彼女は、「そりゃ先生は日中友好に貢献していますよと言う。だって、私達ずっと学校で反日教育を受けてきました。ここに来るまで日本人なんて見たこともなかったのですよ」という。
思わず言ってしまう、「日本人は血に飢えた殺人鬼と教わったのでしょう?」
彼女はにこっと笑って、「ここで日本人を見て、イメージにあった日本人とずいぶん違うことが分かりました。とても真面目で、陰日向のない働き者で、しかし ユーモアいっぱいで、ちっとも威張っていないすぐれた日本人を見て、それまでの日本人のイメージがすっかり変わりました。これは私だけではありません、大学中の学生が同じ印象を持っていると思います。これは日中友好の上でとても大きな貢献じゃないですか」という。
本人が目の前だから褒め言葉もあるだろうけれど、大学で学生に講義をして、研究室を持って研究成果を出していくという以上に、数字では計りきれない貢献もしているかもしれない。
さて、火曜日の午後現れた新聞記者の比嘉さんは、年の頃は三十歳代前半に見受けられた。私くらいの背丈の、ぼそぼそとおしゃべりをする人だ。今薬科大学に読売新聞の記者だった多田先生が日本語教師で赴任しておられるので、思わず大柄で元気の良い多田先生と比べてしまうが、新聞記者に一つのステレオタイプがあ るわけでもない。
まずおきまりの、私の経歴からと言う質問から始まり、やがて、何のきっかけで生命科学の研究者になったのですかとか、どうしてがんの研究を今も続けているのですかとか、中国の学生はどうですかとか、いろいろな観点からの質問があった。日中友好に役立っていますかなんて言う質問はなかった。ま、当然だ、本人が 評価することではないからね。
研究室を案内して学生ともおしゃべりをしていたのを含めて2時間近く、彼に付き合った。終わってみて、今まで話したことで何か焦点のある一つのストーリーが出来たのかな、と人ごとながら心配になって聞いてみた。「こんな事から何か書けるんですか?」
「大丈夫ですよ、メモしたことから、ちゃんと話は出来ます」という。そりゃ話は書けるでしょう。でも、「海外で活躍する日本人」ですよ。読み甲斐のある話になるのかしらね。本人が心配する事じゃないけれど、本人じゃなければ心配しないわけだし。
この「海外で活躍する日本人」は電子版で、つまり日本では読まれない海外版なのだそうだ。残念なことである。この記事を読んで、後に続こうと思う読者がいるとしたら、日本にいるに違いない。惜しいことだ。
7月3日の読売新聞海外版に載ると言うことだった。新聞が出たら私にも送ってくれると言うことだ。楽しみにしている。
今年のと言うか、2009年度の卒業研究生は7人いたが、その中の一人に張心健くんがいた。卒業研究の希望者は個別に研究室を回ってきて申込みをする。会って希望を聞いてリストに入れる。
張心健は名古屋大学の医学部に行きたいと言うことだった。名古屋大学は私が1962年に最初に就職をしたところである。若くて世間知らずの私だった。今思い起こすと恥ずかしいことばかりである。それでも、懐かしい大学だ。名古屋大学に行きたい学生なら一肌脱がなくてはなるまい。
張心健は日本語がたどたどしい。殆ど話していることが分からない。この時は英語を話す院生がちょうど部屋にいて、彼女が通訳となって彼の希望が分かった。それで日本語をいったいだれに習ったのかを聞くと、南本先生だという。
南本卓郎先生はみどり夫人共々、2004年から3年間ここの日本語の先生で、私達とも仲良くして下さった。この尊敬する友人の教え子なら喜んで面倒を見よう。研究室に来て良いと返事した学生はこの段階で5人を超えていたが、それで、彼にもOKを言った。
早速、南本先生からメイルが届いた。張心健は自分で名古屋大学の先生に連絡を取っていること、山形研究室に入るように勧めたことが書いてあった。
しかし、『張心健の日本語はこのところメキメキ上達してきましたが、ほんの少し前まで判読できないようなメールしか書けなかったので、意思の疎通が思うようにはかれず、もどかしい限りでした。6月私達が瀋陽へ行った時も、私達と話すのにガールフレンドの通訳が必要でした。』とある。
最終的に面倒を見ることになった7人のうち一人は中薬の出身で、日本語を全く話さない。英語でお互い話をすることになる。残りの6人は薬学日本語の出身で、張心健以外は皆日本語が達者だった。実験室で彼と話すときは、日本語でも英語でも話が通じない。必ず誰か他の人による通訳が必要だった。
秋から実験を始めて、年が変わって3月になった。ちょうどその頃、外付けの500GBのポータブルHDDが欲しくなった。瀋陽の秋葉原と呼ばれる三好街はここから近い。勿論私一人では用が足せないから誰かが一緒に来て貰わないといけない。私は実験室に行って張心健に一緒に来て貰うよう頼んだ。勿論そこに居合わせた学生が通訳をしながら、興味津々でほかの学生も院生も私達を取り囲む。
「行きます」と彼は言った。じゃ、これから行こう。院生の中で、特に日本語の上手な黄澄澄と朱彤の二人は、「何かあったら電話して下さいね、何時でも待っているから」と言ってくれる。
三好街までの道々、日本語を使っていろいろと話しかける。なかなか通じない。日本語を勉強する学生の殆どは勉強を始めて10ヶ月あとには日本語能力試験4級を通る。1年と4ヶ月あとには日本語能力試験1級を受けて、昔は大半の学生が1級試験を通り、今はクラスの2-3割が通るという。「そうすると日本語能力試験の1級は持っていないんだね?」と思わず聞いてしまう。
ところが、本当に驚いたことに、張心健は2年生の初めの日本語能力1級試験に受かった数少ない学生の一人だった。1級を持っていないんじゃない?と疑って、大変失礼なことをした。
彼は南の方の出身で方言がひどくこの大学に来たとき、話が通じなくて肩身が狭かったという。日本語を勉強し始めて、中国語よりも日本語で話す方が仲間と話が通じるようになったという嘘みたいな経験をしている。この冗談みたいな話は以前の65期の学生の時にも聞いたことがある。
最初の日本語の試験を通らなかった学生はその後も努力を続けるので、ずっと日本語を勉強する。張心健は一点集中の試験勉強が得意で、日本語の勉強が済んで英語の勉強を始めて、日本語をすっかり忘れてしまったということらしい。
この日の三好街行きは、ともかく目的のHDDを買うことが出来た。戻ってきたら、研究室の皆が良かったですね、話が通じたのですねと喜んでくれた。
6月に入って南アメリカでサッカーの世界杯が始まった。治安が悪いだけでなく、ブブゼラの騒音がグランド覆い尽くしているという。調べるとブブゼラの殆どは中国製だ。日本では2000-2500円くらいの値段がついているが、中国の製造元出荷価格は2.5元(33円くらい)らしい。一つ手に入れたいじゃない?
そう思って張心健に聞くとインターネットで買えるという。一つ買ってと頼んだ。卒業研究の発表が済むと卒業研究の学生は翌日からいなくなったが、数日して彼は新しいブブゼラを届けてくれた。価格4元、送料11元合わせて15元(200円くらい)だ。払うと言っても、「いえ、先生これは贈り物です」という。
吹くと、ブーーーッと鳴る。良い感じだ。張心健の思い出に、ありがたく頂くことにする。
「何時、日本に行くの?」「10月です」
「そでは何時、故郷に帰るの?」「ハッカ」「?」
「ハッカ」??? ブーーーッ。
8日のことだった。と言うわけで、張心健は8ヶ月研究室にいて、だいぶ日本語が話せるようになった。まだまだと言っていいが、張心健は性格が明るく積極的な性格だから、日本に行っても全く問題はないに違いない。次に日本で会うときを楽しみにしている。
7月6日の火曜日の朝、読売新聞瀋陽支局長の比嘉さんから電話が掛かった。「インタビューした記事が出ましたよ。それを持って伺いたいのですが、一緒の食事はどうですか?」
待ち焦がれた電話だった。3日に新聞に載ったのだ。何時コピーが届くかとこのところ、E-mailを見るのを連日楽しみにしていたのだ。ちょうど妻も瀋陽に来ているので、彼女も食事に誘うよう頼み、さらに多田先生も一緒の食事に誘うよう提案した。
多田先生は読売新聞社の記者出身で、今は薬科大学で日本語の先生だ。比嘉さんの大先輩に当たる。あとで分かったが、お互い電話では何度も話しているけれど、まだ会ったことはなかったそうだ。
と言うわけで大学の近くで昼ご飯をご馳走になりつつ、再びおしゃべりに興じた。
比嘉さんの書いた記事は「人 世界が舞台」という囲み記事だった。
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「研究者養成 瀋陽で熱中」 山形 達也さん 73
生化学の研究者として50年。東工大教授を経て2003年に民間研究機関を退職し、活動の舞台を中国遼寧省瀋陽の瀋陽薬科大学に移して研究と学生の指導に打ち込んできた。邦人としては中国でも数少ない理系の長期滞在研究者の一人だ。週末も研究室に通うといい、「今でも現役の研究者です」と胸を張る
最新の研究成果も簡単に入手できるインターネットが異境での研究を支える。06年以降、指導する中国人学生との連名で7本の論文を国際的な学会誌に発表した。研究室の若手は「ここは設備は十分でないが、先生の指導で成果が出ている」と誇らしげだ。
理系の研究者を志して東大に入学した1956年は、生化学が発展期を迎えつつあるころだった。若い講師の熱気に触れ、「この学問を一生の仕事にしよう」と誓った。
人 体の軟骨部分に含まれ、細胞組織に保水性や弾力性を与える「コンドロイチン硫酸」と呼ばれる物質の構造研究に役立つ酵素を発見するなど、早くから業績を重 ねてきた。日本での糖鎖生物学研究の草分け的存在の一人でもあり、専門誌の創刊にも尽力。妻はがんを、長女は疫学を研究する学者一家だ。
中国へ移るきっかけは、瀋陽薬科大学と提携関係にある日本の大学の関係者に勧められたことだ。「生化学の研究が発展途上にある中国なら、学生の教え甲斐もありそうだ」と決意。妻と共に、高価な実験器具を持参して瀋陽にやってきた。
中国人学生の勤勉さは予想以上だった。良い成績を収め、奨学金を得て「親孝行がしたい」と懸命に学ぶ姿に、指導意欲をかき立てられた。研究室の門をたたく学生には「一流の研究者にしてやる」と殺し文句をぶつける。既に40人以上の学生を研究室から送り出し、20人近くが国内外で研究者として活躍している。
現在の教え子6人はいずれも女性。「中にはモデルのような美人もいるが、年を取ったから気が散らずに済みます」と笑う。最初は5年間の滞在予定だったが、すっかり中国が気に入り、さらに5年間の契約延長を決めた。「瀋陽日本人教師の会」(会員約20人)の副代表も務める。
経歴と穏やかな話しぶりからは想像しにくいが、「瀋陽でイェーイ」というタイトルで日常生活をつづるブログを更新する側面もある。「気分は若いですよ」
(瀋陽 比嘉清太、写真も)
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いや、大したものだ。新聞記者ってすごい。2時間近く会っただけで、余分な言葉を使わずに、話した内容を的確に記事にしている。しかも、私をわずか940字で要約している。前回の私のブログは、1938字と2倍も字を書いているのだ。
高木純夫さんのお陰で、新聞に記事が載ったし、新しく比嘉さんと知り合うことが出来た。感謝、だ。
今学期は公式には7月17日まであるが、私達の研究室では10日の土曜日を今学期最後のジャーナルクラブと言うことにしていた。その日の演者は大学院博士課程最高学年の張嵐さんと私ということになっている。
張嵐が来て「先生、今度のジャーナルクラブはお休みにしましょうよ。だって、新学期からは二人の演者のうちの一人は、歴史的に大事な論文を紹介することにしたでしょう。来学期一番最初に先生で幕開けというのがいいんじゃないですか?」という。
うーん。半年に20回しかジャーナルクラブはないのだ。4-5回しか回ってこないんだから、私は余り変更を加えたくない。しかし、一方で、自分の順番だから、面白い論文を見つけてきて初心者にも分かるように話すと言う要求に応えなくてはならない。自分でも、この機会に新しいことを学びたいので、これと論文を決めるまでには結構時間が掛かる。今回は5つの候補にまで絞った挙げ句、まだ迷っている。
ちょうどその時、北京の友人から電話が掛かってきた。最初は「李です」と言われても分からない。どこの李さんだろう。北京の李です、と言われて記憶がよみがえってきた。
以 前日本にいるとき知り合った中国人研究者だ。私が日本皮革研究所に移ったときにポスドクを雇用できる研究費があって、それで人を探していた。彼もそれに応募してきた。李さんは糖の合成の研究分野にいたので、私のところよりも北大にもっと適当なこところがあった。それでお断りして彼は北大に行き、そこで研究を続けて10年くらいして、彼は北京に教授として戻ってきたのだった。
その時に採用して仲良しになった呉さんは北京で今仕事をしているし、この李さんと友人と言うこともあって、2年前北京から二人で瀋陽に私達を訪ねてきてくれたことがある。
電話で李さんが言うには、中国の糖質科学の研究者の学会がこの夏長春で開かれるのですよ。それに先生を招きたいのですが、参加して頂けませんか?糖の研究者が一堂に集まるという良い機会だから先生是非いらして下さい。
聞いてみると、8月10日-12日に学会があるという。だいぶ目前に迫っている。きっと、参加者が足りないし、目玉になる人が来なくて、どうしようかと鳩首相談をしているときに、李さんが思いついたに違いない。
「基調講演をお願いしたいのです」「だって、私はいまだに中国語が全くしゃべれませんよ」「いえ、英語でいいんですよ」という具だ。
ちょうど今、妻の貞子が治療の合間に瀋陽に来ていて、彼女が日本に戻る7月17日に合わせて日本に一緒に帰り、長い夏休みを楽しもうと思っていたのに、その予定が流れてしまう。
おまけに、8月1日-6日には、国際糖質シンポジウムが日本の幕張で開かれるのにも出ようかと思っていた。中国の学会に出るためには8月7日の土曜日には成田を発たなくてはならないから、国際シンポジウムにはゆっくり出ていられない。
中国の学会に出る利点を考えてみた。
中国で学会に出ても言葉の問題があるので、学問情報と言う点では収穫は余り期待できない。しかし今まで中国の糖関係の研究者というと、昔の関係の数人しか知らないから、中国の糖質研究者に会うのにはまたとない機会だ。
私の研究室を出た人たちは学部生もすべて入れると40人以上いる上に、大半は研究者の道を歩んでいるから、私が中国の大家と顔見知りになっておくのは、彼らの将来のために大いに意味があるに違いない。
自分の夏休みを犠牲にして皆のためになることをするのだ、なんて思ったらやけに元気が出てきて、じゃ10日のジャーナルクラブもやめにしましょう、と元気な声で張嵐に指示を出していたのだった。
この二つの間に因果関係はないのに、訳の分からない結びつきをしてしまうところが、この頃の困ったところだ。
前に書いたように、招待を受けてこの夏に長春で開かれる中国の学会に出ることにした。
この決断は結構なことだが、問題は、中国が全く駄目な私としては一人で旅行が出来るかどうか危ういのだ。2007年に同じように誘われてウルムチで開かれた学会に妻と二人で参加したときにも、同じ問題に直面した。
誰か研究室の学生を誘おう。ウルムチは中国の西域で観光の地としても名高い(この1年は民族間の衝突で名高くなった)。誰か一人一緒に来て欲しいと言ったら、全員が希望した。その中から最高学年の王麗は博士論文で忙しいはずという理由で候補から除外して、1年生も除いて、なお4人の候補があった。
王麗はウルムチのある新疆出身なので、候補から外れて怒り心頭である。お土産を買ってくるからねとなだめて、さて、四人から一人をどうやって選ぶか。彼らに任せても選べないので、全員の見守る中、あみだくじを作った。
結局、男子学生の陳陽がくじを引き当てて、その晩は皆からご馳走を迫られて焼き肉屋で散財したそうだ。ただし、陳陽が皆にご馳走をしたのは後にも先にもこの時の100元だけという話が研究室に執拗に残っている。
費用はこちら持ちで1週間遊んでこられるのだから、皆の羨望の的になったのも当然のことだろう。勿論陳陽は、遊んだだけではない。彼は、旅行の間私達のことを十分見守り、世話を焼いてくれた。
この夏に誰か来て貰うとしたら、一つ問題がある。前回は私達二人だったから学生は男女どちらでも良かった。今度は私一人だ。そして研究室の学生は女性ばかり である。女性じゃまずいね。今年卒業した男子学生に頼もうか、と妻と話しつつ迷ったが、学生では学会に行っても勉強にはならない。私の案内だけで終わって しまう。この際、女子学生でもやむを得まい。
研究室に学生は6人 いるけれど、学会に出て勉強になるという意味では博士課程の二人を候補にしよう、と言うことで、それぞれに事情を話した。張嵐は是非行きたいという。暁艶 はとても行きたいですが、まず上海にいる男朋友に相談してからという。翌日、彼が言って良いと言ってくれましたと嬉しそうに言いに来た。
一人分の費用をこちら持ちで出して一緒に来て貰う気だったので、二人から一人を選ばなくてはいけないと思った。しかし、二人が費用半分づつを自分で出して来てくれれば二人を連れて行ける。ともかくどうするか二人で話し合って欲しいと言った。
しかし、中国の歴史を知っていますか?と暁艶がいう。「二桃殺三士」という言葉があります。これは一つの席を争って互いに殺し合うのではなく、自分が相手のために身を引くと言うことなのです。1年前までの研究室では、一つの席を争って殺し合ったかも知れないけれど、今の研究室は皆仲良しだから、自分が相手のためにそれを相手に譲ることになるのです。。。
確かに話し合いでは、互いに相手のために譲り合うという謙譲の美徳は日本では普通に見られる事柄だ。そうか、中国でもあるんだ。
今は死語になっているらしいけれど、この「二桃殺三士」の最後の「士」は士大夫のことで一般の人たちとは違う教養人のことだ。この美徳は、昔は知的階級の間のみで見られたことと思って良いかもしれない。
しかし今回は、張嵐と彼女の研究の話をしているうちに彼女は今実験室を離れるのは自分のために良くないと思ったらしく、学会には行きたいけれど撤回すると言い出して、ことは自然に解決した。彼女の謙譲の美徳の表明かも知れないが。
私は8月に暁艶に連れられて、長春まで旅をする。