カテゴリ:さえへの日記
さえ:
評判の悪い菅さんが首相を辞めることになって、民主党では今日は代表選びです。この代表が次期の首相になるのですから、ある意味で情けない代表選びですね。
LivedoorのBLOGOSというWEB評論誌があります。8月4日に、池田信夫氏が「なぜ日本は機能しているのか」というのを書いていました。
ニューズウィークの電子版に、レジス・アルノー氏の「こんなに政治家がダメでも日本が機能している理由」というエッセーがあって、『日本の政治家はアフリカの中流国家ぐらいのレベルなのに、日本の都市は清潔で犯罪も少ない。大震災があっても人々が整然と行動するのはなぜか、と』書いているけれど、
『これは問題の立て方が逆』だというのですね。『日本の政治家がダメなのは、日本が機能しているからなのです。日本は主要国としては唯一、20世紀までは平和な国でした。そのため共同体が安定していて知識水準が高く、近代以前には国家という暴力装置も政治家も必要としなかったのです。』という逆説的な奇抜な意見が上記のブログです。
『こういう集団でリーダーになるのは、和を乱さないでチームワークを最大限に発揮する人です。こういう内向きの指導者は、平時にはいいのですが、有事に弱い。戦略的な決断ができず、手続き論や前例にとらわれて、ずるずると泥沼にはまってしまいます。』
短いブログなので、恐らく意を尽くしていないでしょうが、日本のトップに織田信長みたいな人が座ったのは珍しい例でしょうね。彼も自分の政権を実現することなく消されてしまったので、日本では強い自我を持った指導者は、普段は必要とされてこなかったと言うことなのでしょう。それは、日本の民衆がそれだけで機能できる能力を持っていたからだ、強力な個性的な指導者を必要としなかったからだ、というのが彼の説みたいですね。
民衆の考えの大まかに一致するところに自分の焦点を定めていれば、安泰で、それ以上の事態が生じると、そんなことは考えたこともなくて、どうしていいか分からないと言うような感じでしょうか。まるで仲好しクラブのまとめ役みたいですね。
でもリーダーはその人独自の信念と発想で周りの人々を納得させ、信服させる中身野あることが必要でしょう。他の分野では知りませんが、ぼくと同じ研究分野で見ると、尊敬できる教授は、研究で秀でているだけでなく、だれもがそれ以上のカリスマ性を備えています。それに惹かれて皆が付いていく、そうすると研究も進み、論文も出て自分もひとかどのものになる。。。
ただ、カリスマ性なんて言う曖昧な概念でリーダーの資質を定義してはいけませんね。周りの人たちが納得し、尊敬できる信念と発想の出来る人、そして政治の世界では、日本はどうあるべきかという構想をもちながらもちゃんと現実が見えていて、現実と理想の間の納得できる落としどころの見付けられる人が日本のリーダーに必要な資格でしょうか。
どんな組織でもリーダーは必要だし、存在していますが、一国の首相となると誰でも出来るわけではないでしょう。俺が、俺がでは、日本の首相はやっていけないことは、良く分かりました。一般的なリーダーの素質に加えて、一言で言うなら、他人の能力を見抜いてそれに任せられる人、そして自分が責任の取れる人でしょうか。
ともかく、尊敬できる人に日本の首相になって欲しいですねえ。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
昨日の民主党の代表選挙では、世論では圧倒的人気のあった前原誠司氏が敗れて、野田佳彦・現財務相が選ばれたとのことです。小沢元代表が支持した海江田万里・現経済産業相は、最初の投票では一位でしたが、一二位の決選投票で敗れました。
政治好きのさえは、前原氏を贔屓にしていましたね。さえは、ひょっとしたら、イケメン好みだったのかも。
前原氏はまだ若いから、この先、身を誤ることがなければ、チャンスはあるでしょう。
でも政治家は一般民衆に受けなくてはならないから、増税なしに日本の将来はないと思っても、それを主張できないし、民衆を説得しようともしないし、この辺が民主主義の弱いところですね。
『思考する力がない日本人、決断力を失わせる民主主義の欠点(Record China 8月29日)』と中国では、言いたい放題です。
『世界の一流国となったことを日本人は自慢していたが、今、体のあちこちが傷んでも、どう国を変えていくべきか、真剣に考えようとはしていない。それは日本の歴史的な過ちを認めないのと同じだ。日本民族は深く考えようとしない。自ら過ちを正す習慣がないのだ』
『ともあれ、日本はアジアの模範であった。現在の苦境もまた中国など途上国にいい反面教師となっている。国が決断力を失えばどうなるかというお手本なのだ。日本は民主主義がどんなものかを示す展示場となった。その欠点まで含めて見せてくれたのだ』
そら、みてごらん、民主主義は愚民政治に堕してしまうから、碌なことにならないよ、日本がよい見本だよ。強力な独裁的な指導体制が國と国民を誤りなく、輝かしい繁栄に導くのだよと言いたいのでしょうねえ。
私たちは政治と政治家をくそみそに批判する自由は持ちますが、さて政治を変えるとなると4年に一度の選挙だけですものね。まだるっこしいことですよね。
まだるっこしくても、当分は野田氏が日本の顔なのだから、しっかりやってくれよなあ、と言うしかないですね。
コメント:
野田さんと前原さん みのもんだ さん
野田さんのことはあまり知らなくて、好きではなかったが、25年間毎日駅前で演説をするとのことをニュースで知って、何かをやってくれると信じたい気持ちになりました。その信念、雑草魂を信じたいです。
その意味で、海江田さんが勝ってなくて良かったと思いはじめました。海江田さんはおそらく何もできないと思います。
前原さんは、性格がゆがんでますよ。家庭環境には原因があると思います。イノシシ、しかも無責任で、未熟の彼がトップになったら、日本にとっては本当に不幸のことと思います。
まあ、野田さんは前原さんよりも極右と言われているけどね。それでも、前原さんよりははるかにマシと思います。 (2011.08.31 00:03:46)
返事を書く
みのもんださん shanda さん
そうですか。日本の情勢に疎いので、どうしても、ミーハーになりがちです。
こうやって思うことを存分に言い合える社会はいいですね。もちろん、色々言われて苦々しく思う人たちもいるでしょうけれどね。
その人の思想が右よりでも左よりでも、日本の国と国民のことを第一に考えてくれないと、日本の将来はなくなってしまいます。 (2011.08.31 08:23:29)
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
この新学期に瀋陽に戻ってくる石田先生に頼んで、「われ日本海の橋とならん」という本を入手して、読みました。
書いているのは加藤嘉一という若い人です。この間、訪ねてきた陽方偉くんが「中国で一番有名な日本人」がいて、その人が、と言って一生懸命説明してくれました。その時名前が出てこなかったのだけれど、たまたまネットで眼に入って、ははあ、この人だなと思いました。
一読してみて、中国に長く暮らしていても、目から鱗の落ちる思いです。お勧めです、というか、さえがいたら、真っ先にこの人に眼を付けていたでしょうね。
日本の高校から北京大学の奨学生となったのが2003年春ですって。SARSで大学が休みの半年間、一生懸命に自分で中国語を勉強して、そのあと2年で中国語を完璧にマスターして、たまたま抗日デモでテレビの取材を受けました。それを契機に、彼の生活は一変して大学生をやりながら、テレビのコメンテーター、情報発信など八面六臂の活躍です。
加藤嘉一氏の書いているものを知らないのでもっぱらこの本だけが頼りですが、「第三の眼」について書いています。つまり自分を別の立場から見る眼ですね。これは、「もう一人の加藤嘉一」なのだそうです。何時も自分の中に考え得る最大にして最高のパフォーマンスを発揮する自分を思い描き、それに現実の自分を近づけるイメージですね。
ぼくもそうですね。高尚な自分があってその自分に恥じない行動を取るというのが、ぼくの行動律だと思います。
西欧人だと、これは宗教の唯一絶対神が自分の模範であり自分を規制するものですが、中国に詳しい田中信彦氏の「深層中国」によると、中国人は行動の規範は自分の中にあるので、目標を変えて安易に妥協するのは簡単なのだそうです。
ぼくも、どうも安易に流れてしまうところがいけないですね、この加藤嘉一氏は、ここで読む限りは、大した人物ですよ。
このような若いたちがどんどん出てくるといいですねえ。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
薬科大学の日本語教師に田中義一さんが新しく加わりました。あとの三人は、石田、春日、杉島先生で、揃って3年目に入ります。
今学期から林利彦さんが生命科学部の教授になって、径子夫人と8月末から瀋陽在住です。細胞外マトリックスの領域では昔から研究仲間ですが、生化学科で、たしか数年下の同窓生ですよね。
それで薬科大学の日本人の顔合わせに、又一順での食事会を計画しました。日本語の先生たちは、新入生が入学して三週間は軍事教練なので、9月一杯は二年生の相手をしているだけで、結構暇なのですって。
お隣の池島教授は、日本の学会に呼ばれていて、講義も引き受けていて水曜日から日本に行くので、出席なんてとんでもないと言って断られました。池島さんは何時も忙しがっていますね。
と言うわけで集まったのはぼくも入れて7人。又一順食荘の二階の一室に陣取って2時間、食べながら(皆は、さらに飲みながら)お喋り。
瀋陽が初めての人には瀋陽は寒いよ、普通の冬はマイナス20度だし、冬によってはマイナス30度になるんだよ、とおどかすのが楽しみです。
この間の冬がマイナス30度の口だったので、しばらくは大丈夫でしょう。春日先生は一年間ハルピンの経験があって、寒さを通り越して痛かったそうです。二重に手袋をして外套のポケットに突っ込んでいても、手先の感覚がなくなるそうです。
加藤嘉一氏の「われ日本海の橋とならん」を読んだばかりでしたので、その話をしたら、この「中国で一番有名な日本人」でも、まだ中国で働いてい日本人の間に名前は浸透していないみたいですね。
わずかに杉島先生が、そういわれてみるとテレビで見たことあるかも知れない、と言う反応でした。
ぼくが、彼の発言や記事を読んでいないけれど、この加藤嘉一って人は、この本で見る限り凄い人ですよ、なんてしきりに言うものだから、「どこが凄いんですか」なんて聞かれて、この本で読んだ彼の略歴や、彼の今までやってきたことを話しました。
いまは日本に引きこもりがちで目がうちを向いている若者が多いことを思うと、どのようにしてこの加藤嘉一が出来たか、日本の政治家、教育者、いわゆる識者は是非真剣に考えて、日本の将来を明るいものにして欲しいです。
だって日本には教育を通じて人材を育てるしか、日本がよって立つ道はないですものね。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
加藤 嘉一氏のコラムを見付けました。日経ビジネスです。それを下にペーストしますね。
加藤 嘉一(かとう・よしかず)
1984年静岡県生まれ。
2003年高校卒業後、国費留学生として北京大学留学。
同大学国際関係学院大学院修士課程修了、現研究員。
専門は東アジアの国際関係、日米中関係、中国政治・経済、朝鮮半島など。
英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、香港フェニックステレビコメンテーター。中国人民大学付属高校教師。同時通訳。
年間300以上の取材を受け、200本以上のコラムを書く。
ネゴシエーターとして1000以上の中国ビジネス交渉を成功へと導く。
香港系フェニックスニューメディア(鳳凰網)におけるブログは2008年3月に開設した後、3カ月で500万、半年で1000万、現在2500万アクセスを突破。
最新の単著に『従伊豆到北京有多遠』、『中国、我誤解イ尓了口馬?』。
趣味はマラソン。
加藤嘉一氏のオフィシャルサイト
「中国人を知り、ビジネスを回すための8カ条」
中国語を学び、同じ高さの目線で見よう
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110830/222346/?rt=nocnt#author_profile_tag
このコラムについて
加藤嘉一の「脱中国論」現代中国を読み解く56のテーゼ
得体の知れない巨人--中国といかに付き合うか。21世紀の最初の50年における国際社会共通の課題です。世界が直面している最大のリスクを、どれだけのコストをかけて管理していくか? 日本を含めた各国にとって念入りな準備が必要なことは言うまでもありません。
2010年は象徴的な年でした。
これまで、2008年―2010年の間、中国共産党は国威発揚としての北京五輪、中華人民共和国の発足60周年記念軍事パレード、上海万博、広州アジア大会を無事「成功」させました。
しかし中国の知識人たちは2010年を「外交大失敗の年」と定義しました。南シナ海におけるASEAN諸国との領土紛争や、尖閣諸島沖での漁船衝突問題では、その強硬姿勢が関係国の懸念を引き起こし、“中国異質論”を助長することになったからです。
一方、国内問題も山積しています。格差や腐敗。就職難に苦しむ若者。低賃金労働に怒りを露にする農村からの出稼ぎ労働者。4.5億を越えたインターネット利用者。など不安要素が噴出している。排他的なナショナリズムが台頭し、共産党のガバナンス力は低下している。そんな中、5年ぶりに勃発したのが反日デモです。
巨人はどこへ向かうのか? 中国社会の地盤沈下はどこで起き、何を誘発するのか? リスクをどう認識し、いかに対応するか? 中国の台頭を国内の繁栄と安全にどう生かすか? これらの問題は日本人にとって他人人事ではありません。中国の問題を「内政問題」として向き合わねばならない時代に突入したのです。引っ越しはできないのですから。
本コラムでは、これから、そんな現代中国を読み解くための「56のテーゼ」を読者の皆様と考えていきたいと思います。活発な議論を通じて、我らがニッポンの対中観を充実させていきましょう!
2011年9月1日(木)
コメント:
中国が最も注目する日本人ジャーナリスト ファンウェイ さん
加藤氏のInterview
これはYoutubeから見かけた加藤氏のInterviewです。
「中国が最も注目する日本人ジャーナリスト」
http://www.youtube.com/watch?v=mimrn15qMLc
加藤氏のファンとして、非常にお勧めしたい観点です。
(2011.09.25 00:33:31)
ファンウェイさん shanda さん
加藤氏のInterview記事のURLを教えて下さってありがとうございます。
加藤氏のことは、どういう青年だろう? これだけのことが発言できる力をどうやって身につけたのだろう? どうしてこのようにぶれない視点で、しかも危険水域を避けながら、発言できるのだろう?と、興味があります。
このURLを観てみたいのですが、中国からYoutubeにアクセスできません。残念ですね。 (2011.09.28 10:56:39)
カテゴリ:中国の将来
さえ:
Bookasahi.com 08月28日に、加藤嘉一氏の紹介が載っていました。そっくり引用しますね。
われ日本海の橋とならん 加藤嘉一さん
http://book.asahi.com/reviews/column/2011082800015.html
[文]高重治香
■根を下ろし見えた中国と日本
日本より中国で有名だ。新聞やテレビで流暢(りゅうちょう)に政治や社会を論じ、中国版ツイッターには75万人の読者がいる。中国語の著書は7冊あるが、日本では本書が初の書き下ろし。
子供の頃から背が高く、目立つタイプで浮いていた。息苦しくて世界に出ることを夢見た。高校に来た北京大学の幹部に自分をアピールすると、国費留学生として迎えられた。
2005年、反日デモを見に行った学生としてテレビで意見を言うと、翌日から引っ張りだこに。
なぜ若い日本人の声に、中国はそれほど耳を傾けるのか。
成長著しい中国にとって、世界からどう見られているかは大きな関心事だ。しかし「中国語で、中国の人に向けて発信する外国人がいなかった」。言論のタブーはあるが、制約が明確な分、「空気」に萎縮する日本より自由と感じる瞬間もある。
根を下ろして人と交わったから見えた中国がある。中国人の自己主張の強さを日本人は「中華思想」などととらえがちだ。しかし実は、自分と周囲が幸せならばいいという、中国人の無関心と個人主義の表れだと分析する。また、若者のさまざまな不満の爆発である反日デモは、「反政府デモ」と紙一重で、中国政府にとってむしろ弱みだと指摘する。
「日本の政府でも個人でも、中国の国情を理解した上で発信すれば、中国の社会は絶対反応してくる。発信もせずに怖がるのは意味がない」
離れてみて心の底では日本が好きだと気づいた。だから日本人、特に若い人に言いたい。「違いを乗り越えよう、世界に出よう」と。表題は「太平洋の橋に」と語った新渡戸稲造にあやかった。力は惜しまない。
(ダイヤモンド社・1575円)
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
内田樹という人の書いたBLOGOS「秀才について(2011年08月27日)」というのを。読みました
東北関東大震災から二週間が経った段階で書いたものだそうですが、『原発事故の先行きも不透明である。それでも、東電と政府の初動に問題があったことはほぼ確かとなった。「海水投入による廃炉」を初期段階から検討していたら、被害はここまで拡大しなかっただろう。国民の多くはそう思っている。なぜ、その決断ができなかったのか。私はこの「遅れ」のうちに日本型秀才の陥るピットフォールを見る。』という書き出しで、秀才の陥る欠陥を指摘しています。
『秀才は判断が遅い。ことの帰趨が定まったあとに「勝ち馬に乗る」ことで彼らは成功してきた。その成功体験が骨身にしみついているので、彼らは上位者の裁定が下る前にフライングすることを病的に恐れる。ひとたび「正解」や「勝者」が示されると、素晴らしいスピードでその責務を果たすけれども、「どうふるまっていいかわからないとき」にどうふるまうべきかは知らない。』
日本の官僚や大企業の人たちを批判しているのでしょう。秀才でないと日本の官僚には成れないから、日本は秀才の良いところも、悪いところもそっくり受け容れざるを得ないわけですね。
上記のブログでは秀才は与えられた責務は果たすけれど、自ら何を為すべきかの決断が付かない、と書かれていますが、秀才なら、何を為すべきかは考えられるでしょう。官僚の組織の中での保身、大企業の中での出世を考える人たちだから、人と違うことを真っ先には言いだしたくないのでしょう。もし、それが大勢と違っていたり、上司の意見と違っていたらことですものね。
昔、ぼくは民間の研究所にいたことがありますが、部長、室長という地位にいれば研究所の方向性に意見はあるし、責任もあるわけですね。部長の中の一人に、研究者としても優れた人がいましたが、何かの時絶対に意見を言わないのですね。
皆の意見が出そろってから、大勢に沿った意見を述べるのです。「勝ち馬にのる」姿勢があまりにも浅ましく、お付き合いはしませんでした。その後、案の定、他の人たちは大学教授くらいで終わるのに、彼は政府を代表する組織の一員となっています。
こういう秀才たちの情けない状態を打破するにはどうしたらよいか。上記のブログは、こう書いています。
『上から「正解」が示される前に、論拠も言い訳も立たない時点で、なお自己責任で決断が下せる人間を、統治の要所に一定数配備しておくことはシステムの保安上、必須であろう。身体感度と判断精度を体系的に涵養すれば、「胆力のある人間」は組織的に生み出すことができる。現に、武道はそのためのものである。それゆえ、「胆力のある人間」の育成は教育の最優先課題であると私は言い続けてきた。しかし、教育行政の要路にもメディアにも、私に同意してくれた人はひとりもいない。』
自分の責任で意見を述べられる「胆力」のある人を育てる必要がある、と提案しているのですね。
ぼくは他の人たちがどう考えているか分からないうちから、自分の意見を述べてしまう「おっちょこちょい」ですから、大抵上からは睨まれて、その意味では大成しませんでした。武道で腹が据わっているわけでも、何でもないのですね。意見求められているのに、何も言わないなんて、責任が取れないじゃないですか。それで何時も(真っ先に)自分の思うところを述べてきたのですよね。黙っていりゃ、祭り上げられて偉くなったのにね。
このブログの言うように、自己責任でも決断の下せる人が必要だというのに大賛成です。じゃ、それをどうやって用意できるか、武道じゃないことは確かですがどうしたらよいのか、考え中です。
コメント:
適切なタイトルが見つからない みのもんだ さん
「自分の責任で意見を述べられる「胆力」のある人」は、日本では育たない。教育の結果、良い学校に入る、良い大学に入る、良い会社に入る、大人になるまでいくつかの選別される過程で、そのような人達はますます影響力のある立場から遠ざけていく。
先生のブログで先日にも似たような内容が書かれたと思いますが、日本は成熟している国で、システムもマニュアル化している面が強いから、強いリーダシップが必要な場面は限られている。今回の原発も、太平洋戦争に突入したときも、このような強いリーダシップが必要な状況ではあったが、そのような人はもう早々と挫折したから、中枢にはいるわけがない。
そのような人達はアメリカにはいると思う。いや、中国にもいるかもしれない。それは、アメリカも中国も日本に比べ、そんなに出来ていない国ですから、そのような人が必要です、と私は思います。 (2011.09.02 12:57:20)
みのもんださん shanda さん
今の日本の欠陥ですね。でも、これを何とかしないと、つまりいざというとき、また困るわけですよね。
上の責任者がいなくても、必要なときには人に指示ができて、適切な行動が取れる能力を備えるようにするには、どうしたらよいのでしょう?
世間様に恥ずかしくないようにと言う育て方では駄目ですよね。フランスのように、人と違うことが大事だという個性を持たせる教育はどうでしょうね。 (2011.09.02 14:58:11)
宗教というもの みのもんだ さん
私が思うのは、根本的な理由は、日本の和の精神ですね。聖徳太子が提唱した「和」は、日本人の精神の真髄となり、宗教そのものとなっているからです。
その時代は、現代的に言うと、日本はグローバルの社会であり、人種も多様だったでしょう。神道と外来宗教仏教の戦いも熾烈だった。これはまとまらない、真の平和になれないから、和の精神が生まれ、これは島という生存環境にいる日本人にとって、実に幸せになれる一番大事な要素であった。
戦国時代は、実は非常に非日本的な時代であった。それによって、織田信長のような非常に強烈的なリーダシップの持ち主が生まれたが、それでも非業の死を遂げるしかなかった。怨念説とか色々あるが、和の精神をもつ日本人の明智光秀がこの極めて非日本人的な織田信長を許せないからでしょう。
組織改造の一つ有力な手段として、首相公選制、いえ、大統領制が挙げられると思います。さて、天皇は。。。
まあ、リーダシップの欠如は、非常に優れた薬の小さな副作用のようなものじゃないでしょうか。確かに、いざというときは大きな代償が支払うが、難しいでしょうね。 (2011.09.02 21:02:13)
みのもんださん shanda さん
和の精神が日本人の基調であるという見方に賛成ですね。私は好きではありませんけれど。
日本に大統領制を導入したら、と言うのに賛成です。自分の國の首長を選ぶことが出来ないなんて、最低だと思いますもの。
リーダーがどうあるべきかは色々と考えさせられることが多く、宿題にさせて下さいな。 (2011.09.04 07:49:50)
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
人に被験者になって貰い、自分で3分と感じた時間でボタンを押すという実験をしたところ、『2~4歳年齢が上がるごとに1秒長くなり、70歳代では1割増し。70歳代の人は、「本当は3分18秒もたっていたの?」と驚くことに』なったそうです。
読売新聞『時間感覚…年齢、状況でずれる「心の時計」(8月31日)』の記事がありました。
このずれは、『心の時計』と『実際の時計』の進み方の違いなのだそうです。
人の退屈な話は長く感じられますね。これは、『つまらない時間は、時間に注意が向きやすいので長く』感じられるのだそうです。逆に、集中すると時間はあっという間に経ってしまいますね。
だったら、ぼけっとしていれば時間が長く感じられるでしょうけれど、年を取って頭の働きが鈍ってくると、ぼけっとしているにもかかわらず、時間は矢のごとく過ぎていきますね。
これは、『代謝が良いほど、心の時計が早く進み、時間を長く感じる、という仮説が有力視されている。一川さんの研究室の実験でも、運動した後の方が、運動していない時より、時間を長く感じる傾向が出た。年とともに時間の経過を早く感じるのは、代謝が落ちるから』だそうです。
このブログで紹介している加藤嘉一氏は、朝起きるとランニングを一時間しているそうです。それで身体の代謝活性が高まって、一日の時間が有効に使えるのでしょうか。彼は毎日が、何かをしたという手応えを感じているのですね。
ぼくなんか、運動しなくっちゃと思って数キロ歩いて戻ってくると、そのあと小一時間ぐったりですよね。もちろん身体を動かすことで、頭がさえるという気はしますけれど。
ともかく、貧しくても金持ちでも、年寄りにも若者にも、時間は誰にでも平等ですものね。時間を有効に使わなくっちゃ、生きていることを放棄するのと同じですね。
と、自分に言い聞かせているのですが、気ばかり急くのに時間が有効に使えません。これは集中力が減ったためですね。わかっているけれど、どうしようもないってことが、あるのですね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
9月3日の土曜日は新年度の第一回なので、研究室のセミナーを中止して研究室の集まりを開きました。新入生の修士1年は、林音知、張雪城の二人、博士課程には老張の研究室で二年間の研究を終えた王一任が入りました。
迎える側は博士課程3年の陽暁艶、修士課程3年の張笑と朱Tong、2年生の崔玉Tingの4人でこれで合計7名の研究室です。はじめに、これで9年目に入る私たちの研究室の目指すところは第一級の研究者を育てることであると述べて、今まで優秀な修士、博士を送り出してきていることを話して、何が第一級の研究者なのかを新入生に考えて貰いました。
すると、一生懸命実験をする、良く頭を使うなんて言う返事が返ってくるのですよ。こういったことは、優れた研究者になるために必要かも知れませんが、それを保証するものではないですよね。
じゃ、どういう人が第一級の研究者だと思うの?と振っても、同じような返事が返ってきます。自分たちがよい研究者になるためにはどうしたらよいかを考えているみたいです。
そうか、研究をしたこともないし、人の書いた論文を読んで、他のと読み比べたこともないからか、と気付きました。優れた研究者というのは良い研究をした人のことさ。じゃ、良い研究って何だと思う?
世の中の進歩に役立つことでしょ。みんなの研究は、税金を払う人たちのお金で支えられてるのだから、この人たちにお返しをしなくていけないでしょ。直ぐに役立っても良いし、今すぐじゃなくても、いつか遠い先に役に立っても良いし。
そして研究者は科学のレベルを一段と上げることが目指していますが(新しいものがないと研究ではない)、それが大きく、その時の人々の水準を超えて大きく飛躍させる研究は優れた研究ですね。大抵はノーベル賞で報われていますけれど。
自分の好きな研究をやっていて、社会に貢献できればこんなに良いことはありませんよね。
中国の学生はみな一生懸命に勉強をしてここに入ってきます。みんなものを覚えるのは得意です。でも、仕舞ったものを使わないと、つまり頭を使わないと研究を自分で進めることにはならないのです。頭の沢山の引き出しにしまった知識を有機的に結びつけて新しい飛躍をすることをここで学びましょう。
ぼくは最初の基本的な話をしただけで、あとは暁艶と朱Tongが引き受けてくれました。暁艶は研究室が上手く動いていくためのいろいろなルールを、わかりやすく、写真を入れたりして説明しました。
今までのいろいろの雑然としたルールを系統的に並べてPPTに整理して呉れた暁艶のまとめる能力に感銘を受けました。だって、全部自発的にやってくれたのですよ。
朱Tongはどうやって実験ノートを付けたらよいか、ノートの書き方を教えました。ノートを見てあとからとても良く分かる人と、なにやらさっぱり分からない人と、色々ありますね。ノートに書かれたことは、研究室の大事に財産です。あとからすっきりと分からないと、研究室の資産価値が下がるのと同じですよね。おまけに、データ捏造の疑いが掛かっても、きちんとしたノートが残っていれば、直ぐに疑いを晴らせますものね。
うちの研究室は人数は少ないですが精鋭揃いですし、この先も精鋭が育つでしょう。楽しみにしていてね。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
ブログに「リーダーとは(2011/08/29)」と「人に対する責任と言うこと(2011/09/02)」を書いたら、「みのもんださん」から、意見を頂きました。
『適切なタイトルが見つからない みのもんださん
「自分の責任で意見を述べられる「胆力」のある人」は、日本では育たない。教育の結果、良い学校に入る、良い大学に入る、良い会社に入る、大人になるまでいくつかの選別される過程で、そのような人達はますます影響力のある立場から遠ざけていく。
中略
そのような人達はアメリカにはいると思う。いや、中国にもいるかもしれない。それは、アメリカも中国も日本に比べ、そんなに出来ていない国ですから、そのような人が必要です、と私は思います。(2011/09/02 12:57:20 PM)』
『宗教というもの みのもんださん
私が思うのは、根本的な理由は、日本の和の精神ですね。聖徳太子が提唱した「和」は、日本人の精神の真髄となり、宗教そのものとなっているからです。
その時代は、現代的に言うと、日本はグローバルの社会であり、人種も多様だったでしょう。神道と外来宗教仏教の戦いも熾烈だった。これはまとまらない、真の平和になれないから、和の精神が生まれ、これは島という生存環境にいる日本人にとって、実に幸せになれる一番大事な要素であった。
戦国時代は、実は非常に非日本的な時代であった。それによって、織田信長のような非常に強烈的なリーダシップの持ち主が生まれたが、それでも非業の死を遂げるしかなかった。怨念説とか色々あるが、和の精神をもつ日本人の明智光秀がこの極めて非日本人的な織田信長を許せないからでしょう。
組織改造の一つ有力な手段として、首相公選制、いえ、大統領制が挙げられると思います。さて、天皇は。。。
まあ、リーダシップの欠如は、非常に優れた薬の小さな副作用のようなものじゃないでしょうか。確かに、いざというときは大きな代償が支払うが、難しいでしょうね。(2011/09/02 09:02:13 PM)』
今の日本の政治の現状を誰もが憂いて、何とかしなくちゃ、どうしたら良くなるだろう、とみんなが色々と考えているのだと思います。その中で次の中国発の記事が目にとまりました。
『日本はなぜ首相がこれほど頻繁に代わっても、経済や社会に大きな影響がないのか。それは、体制が国を治めているからで、人が国を治めているわけではないからだ。重大な政策や方針はほぼ固まっており、合理的な制度や健全な政治体制も整っている。制度が成熟した国はたとえ「無人運転」でも、社会の秩序は保たれるのである。』
『日本における首相の役割は国の指導部のスポークスマン程度であり、誰が首相になっても根本は変わらない。例え政策が変わったとしても、国民の生活は安定が保たれる』というのがあります。
これは『中国人が見た日本<なぜ日本は首相がコロコロ代わっても安定が保たれているのか?>』です(Record China 8月29日)。
つまり日本の国民は民度が高くて、それぞれが自分の社会に於ける役割を自覚しているので、誰がリーダーになっても対して変わらないのだ、リーダーが駄目でも國が直ちに混乱することもない國なのだ、ということです。さらに言うと、リーダーが必要とされず、したがって、リーダーが育たない國ということかなあ。そんなの、ありかなあ。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
また今年も新入生が入ってきて、キャンパスはしばらくとても賑やかでした。9月3日は、特にクルマで家族に送られて来る学生の数が増えているのが目立ちました。
構内の駐車場だけでは足りないので、グランドを開放してクルマを止めていますが、広いグランドの3分の1は新しくて綺麗なクルマで埋まっていました。
この二年くらいで瀋陽は急速にクルマが増えています。街は碁盤目に整備されていてどの大通りも片側4車線あるのに、今や約800メートルある一ブロックが丸々クルマで埋まって大渋滞なんていうのが、始終です。
サーチナ 9月5日によると、『自動車生産台数は2000年の207万台から2010年の1826万台(世界自動車生産台数の23.5%)にまで激増し、中国は世界一の自動車生産大国に成長』したそうです。瀋陽の道もクルマで満杯となる日も近いです。
瀋陽でインターコンチネンタル(今はクラウンホテルと名前が変わりました)などの中心のホテルに行くのに、以前はタクシーを捕まえて15分くらいだったでしょ。今は30分でも怪しいです。おまけにタクシーを捉まえるのが大変です。
8年前のタクシーの初乗り7元が、今でも8元です。最近の燃料高騰を受けて、張り紙で掲示されている暫定処置で1元余分に払わなくてはなりませんが、この8年間のインフレから見たら、微々たるものです。
燃料高騰とは言っても、世界的に見れば価格は政策的に安く抑えられているみたいです。諸物価の値上がりからすると、タクシー料金は優等生に近く、運転手の生活は苦しいでしょう。タクシー運転手は、これでは食べてはいけないと言ってデモをしたという話を聞きました。
利用するぼくたちからしても、数年前はタクシーの流しを捉まえるのは5分も余分に見て置けば必ず見つかったのですが、今は相対的に安いタクシーを誰もが利用するので、空車が殆ど通らないのですよ。
タクシーを大幅に値上げして欲しい、そうするとタクシーが欲しいときに捕まるから、というのは、ぼくの密かな願いです。まるで、自分さえ良ければよいと願う「蜘蛛の糸」ですね。
でもね。タクシーが絶対欲しいのにちっとも捕まらないときの惨めさって言ったらないですよね。それが雨降りなら、空車がないのも当然のこととして我が身の不運を諦めますけれど。
もっとも、タクシー代の値上げがあったら、この薬科大学が瀋陽市の北のはるか遠くの僻地に越した時に、とっても応えるでしょうね。八十周年記念事業を控えて、大学の入り口に新しく大学の案内図が出来ましたが、今までの現在の構内案内図と並んで、新しいところの配置俯瞰図、本渓分校の敷地案内が出ています。
今まで、引越はただの噂に過ぎなかったのに、いよいよ本当のことになりそうですよ。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
大学で使うための研究費の残金が残り少なくなったで、日本円を持って銀行に行きました。ボディーガードは相変わらす暁艶です。
家楽福の中にある中国銀行に行ったら、その前に寄った建設銀行と比べて空いていてホッとしたのですが、直ぐに男の人が寄ってきて何か言っています。
きちんとした身なりで、割といい感じの顔つきです。たとえて悪いけれど、以前、教師の会の代表だった石井康男先生みたいな、人が心を許しそうな顔立ちです。
ぼくには分かりませんが、暁艶によると、何しに来たのか、もし外国通貨を交換に来たのなら、この銀行よりも良いレートで交換すると言っているそうです。
話には聞いていましたが、瀋陽に8年いて初めてこの手の人を見たわけです。レートが良いと言っても、どこまで信用できるのか分からないですよね。偽金をつかまされるかも知れないし。
だから、いいよ、と言って窓口に行って日本円を交換したいと言ったのですが、39万円しか換えられないというのです。5000ドルが限度なのだそうです。ちなみにこれは一日の交換の上限で、明日また来れば、5000ドルを限度に交換できるそうです。
この話を窓口の中の人と暁艶がやりとりしているのですが、さっきの男がまたやってきて、自分なら39万円と言わず全部換えてやる。レートは銀行の8.02に比べて、自分は8.13なのだ。80万円を交換するなら、800元も得だよ、と言い続けます。
そのお金はどこから持ってくるのか、と聞くてみると、いや、この窓口で自分の口座からその金額を出してもらうのさと言って、窓口にカードを差し出しました。中の銀行員は、すべてのやりとりを聞いていて、それを受け取っています。
窓口の銀行員は、やることをちっとも急がないのですね。後ろを見るともう三人も並んでいますが、誰も急がない。暁艶にこの話大丈夫なの?と聞くと、大丈夫ですよ、この人が自分の金を銀行から引き出して、それをそのまま私たちに呉れるのですと言うので、じゃそうしようか、と言うとその男はIDカードを窓口に差し出し、中の銀行員は、彼の言う8.13で計算した額を用意して、私たちに渡して呉れました。
つまり日本円を中国元に換えたという計算書なしに、お金を替えたわけです。もちろん、このやり方ですと公式には日本円に再度戻すことが出来ませんね。
研究費に使ってしまうので、構いませんけれどね。
きっとこの男は銀行員になにがしかのお金を払うのでしょう。この男はレートを高くしても儲かるので日本円を喜んで買ったのでしょう。そしてぼくたちも、80万円を換えて800元儲かったと言って喜んでいるので、三方得という、めでたしめでたしの話でした。
円の需要が高くなっていることを実感しました。
カテゴリ:日本人教師の会
さえ:
日本の歴史教育は偏向しているとか、アジアの國から日本は始終叩かれていますね。でも、『スタンフォード大学の学者が「日米中韓台の比較研究で分かった一番公正な歴史教科書は日本」であると言う論文を雑誌サピオに寄稿している』そうです。
これを世界中に論文として発表して欲しいですね。もっとも、人々の目に触れるかどうかは、その國の政治の形で決まりますから、政府当局が好ましくないと思ったら、闇に消えてしまうのでしょうね。
『米スタンフォード大学アジア太平洋研究センターは、日中韓と米国、台湾の高校歴史教科書比較研究プロジェクトを実施し、日本の教科書は戦争を賛美せず、最も抑制的だと指摘した』と言うことです。
『日本の教科書 :今回比較した中では日本の教科書が最も愛国的記述がなく、戦争の賛美などは全くしていない 。日本の中国進出についてのくだりは全く事実をそのまま伝えており、当時の軍と政府のリーダーたちの責任だとしている 。非常に平板なスタイルでの事実の羅列であり、感情的なものがない。』
『韓国の教科書 :韓国の教科書は特にナショナル・アイデンティティーの意識の形成に強く焦点を当てている。自分たち韓国人に起こったことを詳細かつ念入りに記述している』ということです。
『中国の教科書 :歴史学の観点から見て、最も問題が多いのは中国の教科書だ。中国の教科書は全くのプロパガンダになっている。共産党のイデオロギーに満ちており、非常に政治化されている。太平洋戦争に関してほとんど記述がなく、広島・長崎の原爆投下もほとんど言及していない。 中国の教科書は2004年に改定されているが、改定後は中国人の愛国心を謳い、日本との戦いを強調している。内戦の話は後退し、抗日戦線での勇ましい描写が増えた。南京事件などをより詳細に記述するなど、日本軍による残虐行為もより強調されている。つまり中国人のナショナリズムを煽っている。』
中国でぼくたちは、子供の時からこのような教育を受けてきた学生を相手にしているわけですから、ぼくたちはある意味では感情がぶつかってくる最前線にいるわけですね。
でも、学生は子供ではありません。学校ではそういう教育を受けてきたけれどと思いながらも、じっとぼくたちの態度、考え方を見つめて観察し、日本人は普通の人間で、決して好戦的で残虐な人間として生まれてきているわけではないと理解して行くみたいです。
その意味ではぼくたち一人一人が日本を背負っているわけです。日本人の代表として、日本人は正直で、公正で、そして勤勉で優秀な民族だと、ぼくたち一人一人の態度から理解して貰うしかない現状は、本当に歯がゆいですが、ぼくたちに課せられた大事な使命です。
話は飛びますけれど、世界がグローバル化したためか、日本の就職状況が良くないからか、こんな人で大丈夫?という人たちが瀋陽日本人教師の会でも、時に見られます。少なくとも教師という、人に影響を与える職ですから、ちゃんとした人に来て欲しいですね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
この春、うちの研究室の「みえみえ」(張嵐)は、上海の?旦大学でポスドクの面接で採用が決まったから、少しでも早く博士を取りたいと、論文発表、大学の学位審査などさまざまな手続きを私たちを急かして、6月に無事に博士号を取得して、出ていきました。
博士の発表のリハーサルでは、自分のやったことは述べていますが、論理的に内容の配置がおかしく、それでは聴いている方が内容の真価を理解しがたいので、変えるように指示しましたが、無視されました。
実際、博士の学位審査では五人の審査員のうち二人から、同じことを指摘されました。これは指導した私の責任と言うことになりますね。
これも、彼女に対して、今度私が腹を立てた伏線になっているだろうと思います。
卒業してしばらくすると、上海の?旦大学でポスドクとなって研究者になると言いながら、実は上海の会社に就職したのだと、うちの研究室の学生が言っているのです。同じ研究室にいた人たちとは連絡があるわけで、ぼくが知らなくてもいいですけれど、「みえみえ」からは何時言ってくるかなと思っていました。
国際誌に論文を発表する仕事が残っていて、8月の終わりになって、図や文献の書き直しのことでE-mailで連絡をしましたが、返事がありません。二日後にE-mailを送りましたが、まだ返事がないのです。
共同研究者になっている笑笑に、電話をするように言いましたら、まだ見ていないと言っていたそうです。
このようなメッセージを聞いたら直ぐにメイルを見て返事をするかと思ったら、それでもまったく来ないのですよ。
とうとう三度目のメイルを書きました。勤め先の名前、住所、電話なども書いてくるように、と書きました。もちろんぼくは怒っていました。だって嘘をつかれて、そのままなのですものね。
やっと来たメイルでは、笑笑から貰った電話では、これからメイルを見ると言ったから、返事をしたと思ったと書いています。社会人としては困ったものですね。そして、今の住所は書いていますが、勤め先の名前がありません。
それで、ぼくは「みえみえ」は嘘つきだと書きました。嘘をつくと言うことは人を虚仮にすることです。
大学卒業後の進路でぼくに嘘をついて平気という心境はどういうことでしょう。お隣の池島教授に、「みえみえ「は上海の複旦大学ポスドクになったのですよ、とちょっぴり自慢して、池島さんが心底から感心したのですよ。優秀な学生を育てたことはぼくたちの勲章ですものね。ちょっとは、言ってみたいですよね。
「みえみえ」が大学に行かずに会社を選んでも、それは彼女の人生の選択ですから、そんなことでぼくは怒りません。嘘をついたことを問題にしているのですよね。
ところが「みえみえ」は、もしぼくが嘘を言われたと思っているなら、それは「I am sorry」だと言うのですよ。
私は自分が嘘をついたと認めない「みえみえ」の態度にますます怒りをつのらせました。ぼくたち日本人には、全く信じられない考え方ですね。
でも、ここで、「そうか、彼女にとっては嘘も方便、うそをつくことなど何とも思っていないんだ。こんな人を相手に、ぼくが感情を乱すなんて、これは大きな損失だ、ぼくはまだ中国人に対して認識が足りないんだ」と、やっと目が覚めました。
「みえみえ」の科学者としての能力を買っていたので、つい、嘘をつく人であって欲しくないと期待をしてしまったのでしょう。
これからは損得で考えましょう。ぼくが感情を高ぶらせれば、それだけ大事なことを考えるのが疎かになります。判断に狂いが出ます。嘘を平気でつく人にそれを咎めてこちらが怒っても、彼女が考え方を変えて、嘘つきでなくなるわけでもないし、無駄なことですよね。
みんな可愛い学生たちです。でも、ここは、育った文化が違うのです。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
9月9日・10日は瀋陽薬科大学が創立80周年の記念式典・事業の日です。
この大学と提携関係にある大学や関係者、卒業生が広く招かれ、ぼくもこの記念事業への招待状を貰いました。
7日には貴志老師が到着。8日には、三重大学の西村先生・奥村先生、北里大学環境科学研究所の川西老師・伊藤先生が到着。
外国から来られる先生がたには、大学が学生のボランティアを募集して、空港での出迎えからずっと付き添って、何一つ不便・不自由がないようにしているのですよ。驚いたサービスです。
でもね、外国からの李客はケンピンスキーと言う五つ星のホテルに泊まって食事の提供されますが、ボランティアの学生たちは食事がないので、少なくとも三重大学の先生たちは、ボランティアを学生を放り出せず、8日の夜は外に出て彼らと食事をしました。
この辺のところは難しいところですね。来客が外に出るときの案内役と割りきってしまえばいいでしょうけれど、心の優しい日本人には無理みたいです。
7日には貴志老師の訪問があり、8日にはホテルでその日に到着する西村・奥村先生に会うために出掛けました。ロビーで待っているとニッキの陳さんがいるじゃないですか。
声を掛けると、彼は他に馬くん、李さんなど知った顔のスタッフだけでなく、6月にうちを卒業して今年たった一人選ばれて入社した張微も連れているのですよ。さらにはニッキの寄付講座のボスだった渡辺さんも現れました。
知らなかったのですが、今度の記念事業のスポンサーは、ニッキと揚子江薬業集団なのだそうです。9日の「中外薬学徒党教育創新与発展院校長論壇」のパンフレットは後者が作ったらしくニッキの名前は載っていませんでした。気の毒に。
ロビーで待っていても、なかなか西村先生に会えず、西村先生は国際電話でぼくに電話が出来ますが、ぼくの電話は海外に通じないので、こちらからは電話が通じません。やっと6時過ぎに、西村・奥村先生に会って久闊を叙しました。そしてこの時、学生の李くん、馬くんに会って、ボランティアの案内役制度を知ったわけです。
上に書いたように夕食のためにぼくたち全員で南に歩いて、「万象城」モールに行きました。うちの学生のお陰でこの夏にオープンしたこの豪華なモールを知っているのですもの。他には土地勘がないけれど、ここなら、喜んで、そして安心して案内できますね。
この二人の学生は日本食を知らないというので、6階の店に行きました。寿司、天ぷら、とんかつ、唐揚げなど食べながらお喋りして、楽しい時間を過ごしました。この店に最初に来たとき納豆を注文して気に入ったので、また注文たのですよ。西村先生は大嫌い。奥村先生は大好き。初めて食べた学生の二人は、一口食べて、これはどうも、と言うことでした。元々は中国伝来の納豆なのにね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
9日は、一つは海外からの賓客を迎えてのシンポジウム「中外薬学徒党教育創新与発展院校長論壇」と、もう一つは大学で院士報告会が平行して開かれました。院士って、姚新生老師のような偉い人たちです。
前者はホテルの会場で、海外の来客を中心とする会議ですから英語を使って、二百人くらいの参加者でした。
薬学の4年制は、米国が6年制になり、日本が引き続き6年制と4年制併用に切り替え、韓国も6年制にしていたのですね。いろいろの國の教育事情が次々と紹介されました。日本の薬剤師の数は殆ど飽和しているみたいです。しかし薬学系の大学が2003年には四十数校だったのが、いまは七十校を超えているそうです。
日本ではやがて次々に倒産、廃校と言うことになってしまうでしょう。母校を失う卒業生が出るかも知れないと思うと心が痛みます。好条件に釣られてホイホイと日本の薬学大学に行かないよう、学生は気をつける必要があります。もちろん前から、聞かれれば学生に危ないところがあると言っています。
中国はまだ4年生で、薬剤師の数は不足しているそうです。それに薬科大学を出ても直ぐに薬剤師になれず、数年の実務経験が必要なので、うちの薬科大学を出ても薬剤師になる人たちはあまりいないようです。
提携校の一つ、ケニアにある美国国際大学から来た先生の話では、ケニアでは医学・薬学の知識と教育の普及と共に、劇的に人々の寿命が延び、生活環境が改善されていることが報告されました。日本の常識は中国に当てはまらないし、ケニアはまだ明治以前の状態みたい。世界は広いです。
昼ご飯は、事前に申し込んでおいたのに食券をくれないものだから、当日の朝あちこちに話をしたところ、朝の会議の間に食券が届きました。それで昼は三重大学の先生たちと食べて、ら在瀋陽日本総領事館を訪ねました。ぼくはお付き合い。
松本総領事がお留守で、加藤主席領事が応対して下さいました。ただの表敬訪問かと思っていたのです。でも、三重大学、三重県、薬事連合会の三者連携による瀋陽ツアーが5年間に始まり、二年前に薬科大学と三重大学との提携協定ができたので、さらにこれから大学間の交流を通じて、官、企業同士の連携を深めていこうという壮大な話でした。
昔の国立大学しか知らない身としては、三重大学は国立大学としては型破りで、驚くことばかりです。
この西村先生がその立役者なのですね。6年前まで企業の社長だったということ、その民間社長を大学の教授に引っ張ったと言う三重大学の英断、そしてそれがいままですべて成功しているように思えます。
目標を三重地域の産業を活性化することにおいて、着々といろいろな考えが芽生え、それに基づく事業の実現が進んでいるようです。グローバル化という人の交流や物流の促進どころか、意識の改革が猛烈な勢いで進んでいるのですね。
一方、応対する加藤主席領事も堅苦しいところがなくて、だから、外交官なのかな、私たちをくつろがせて呉れました。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
10日が「瀋陽薬科80周年慶典大会」で、オリンピックスタジアムの西の総合体育館(武道館みたいなものと思ってね)で開かれました。
これは10時からなのですが8時半には図書館前に集まるように、生化学科の主任、係りの先生から事前に連絡を貰っていて、新任の林先生も一緒につれてくるよう言われていました。おまけに紅いTシャツも配布されていて、着ていくのかどうか迷いましたが、Tシャツ一つでは寒いと思って、普通の、しかしちゃんとジャケットを着けて参加しました。
大学の校庭にはバスが沢山詰めかけて、ぼくたちはこの人についていくのだよと言われて旗を掲げた人に付いていってバスに乗りました。バスは45人くらいが定員ですから、100台くらい動員した計算になりますね。
体育館はメインゲスト側に案内され、つまり主賓から見える光景が向こう側に広がりますが、半分で2000人くらい、全部で4-5千人が入る感じでした。こちらから見て向かい側は座席のブロックごとに赤、黄色、白、ピンク、青、そして新入生の兵隊の迷彩服で、綺麗に色分けされていました。学部の学生ですよね。
こちら側は、教官、父兄、同窓生と言った感じの雑多の人たちで埋まりましたが、主賓と同じ側面なので主賓からは見えません。両脇の上の方に巨大なモニターがあって、何をするかを映して見せてくれましたが、こちら側ではメインブースの側なので誰が演説しても見えるわけではなく、これをモニターに映せばよいのにと思いました。
映したって中国語が分からないわけですが、演説もただ話すだけではなく、PPTにして変化を付けるとか、目に訴えることが今の時代では必要じゃないかなと思います。
いまの人たちは耳で聴くだけですと相当の集中力が必要です。演説を聴くだけでは、内容は素通りしてしまうのではないでしょうか、なんて思いながら時間つぶしをしていました。
9時半からフロアで鼓笛隊の演奏。ダンスがあって、10時から王党副主席による主賓の紹介。主賓の紹介は、こちらの最高の人がやらないといけないのですね。勉強になりましたがこれが10分間。国旗掲揚、国歌演奏に続いて、呉校長の挨拶が20分間。連日、大変ですね。
ずっと主賓の挨拶が続いて11時半にお開き。このあと昼も夜も豪華な宴会があるようで、申し込んであったのですが、全く音沙汰なしなので、こちらも無視してもどりました。
午後は三重大学の先生たちと約束をしてあって、西村先生と奥村先生がボランティアの学生に連れられてうちの研究室に来られました。うちの学生の他に、学部5年生と4年に声を掛けてあって、彼15人くらい来たかな、全員が日本語クラスでぼくと顔見知りでした。三重大学の先生は大学の紹介と日本に留学するひと立ちに役立つ話をされて、さらにここでは書けませんが学生と三重の両者にとって素晴らしいアイデアがあって、それを学生とキャッチボールで推敲している感じでした。今後の展開が楽しみです。
5時半からは、学生全部は連れて行けないので、案内役の李くん、馬さんとうちの研究室の学生、例の唐萱閣に行きました。ぼくたち大人3人が食事のスポンサーになったのです。
グランドで開かれている晩会をしばらく立ち見して、再会を約して9時前に別れました。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
鉢呂さんという経産相が、不適当な発言二つで首になりました。
でも、ぼくは、おかしいんじゃない、と思います。日本人は総白痴化しているそうですから、無理ないかも知れないけれど。こんなこと、とがめ立てするうちに入りませんよ。
毎日新聞 2011年9月9日によると、『鉢呂経産相は9日午前の会見で、首相に同行して8日に福島第1原発などを視察した際の印象について「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」と発言。2度目の会見では「軽率だった。被災をされている皆さんが戻れるように、除染対策などを強力に進めるということを申し上げたかった」と釈明した。(毎日新聞 9月9日20時34分)』
『鉢呂吉雄経済産業相が東京電力福島第1原発の視察を終えた8日夜、東京都内で報道陣の一人に近寄って防災服をすりつける仕草をし、「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言をした。鉢呂氏は9日午前の会見でも福島第1原発の周辺市町村を「死の町」と発言し、同日午後にこの発言を撤回して陳謝した。(毎日新聞 9月10日2時31分配信)』
大震災のあとの対策が後手に回ったために原発から放射能が漏れて、人体への危険があるため一帯の地域が封鎖されています。「人っ子一人いない」状態ですよね。
これを死の町と表現して、間違っているとは思えません。どこが悪いのでしょう。日本人の意志決定が出来ない阿呆さ加減を一億総白痴化と呼ぶようなものですね。
後者の発言は正にぴったりで、言われた日本人としては、仕方なく笑うしかない。前者の表現は比喩的にはその通りだけれど、実際にそこに住んでいていま住めなく人に対して申し訳ない、と言う理屈を付けて、彼を難じたのですね。
言葉尻を捉えて、人を陥れるやり口です。鉢呂さんがどんな人か知りませんが、経済で有能な人なら、もったいない話です。実際は素人らしいけれど。
前に8月15日の記念日を、本来は敗戦記念日なのに終戦記念日と言う日本人の曖昧さ、上辺のごまかしのことを書いたことがありました。これも、それと同じですね。彼を責める人たちは、言葉をごまかして、避難地域の人たちを、さも心底から案じて思いやっている風を装う感じです。
内実は何も考えていない。でもそれじゃまずいから、気の毒に、その人たちに向けて「死の町」はひどい、許せない。辞任しろ。と言う具合でしょうか。
もう一つの、放射能雨防護服の袖を記者にすりつける格好をして、「放射能をつけたぞ」といったのを、原発を所管する担当閣僚として不適切な言動、不真面目だと責めていますね。
でも、このようなことは場面を変えれば、単に冗談で口にすることです。それがこの場面だから許せないというのでしょうか。ぼくはユーモアだと思いますね。
放射能の濃厚な地域に行って、汚染を防ぐための防護服に原理的には放射能が付いているかも知れません。それを何処かになすりつければ、放射能は移るでしょう。放射能のあるとことに行ったのだ、と言う直接的なアピールです。
付けたぞ、というのは、放射能が視察したところにあったのだ、という表現です。実際に汚染していてもいなくてもいいことですけれど、その区域に行ったのだ。そこは汚染されているのだと、まがまがしいことを、子供のいたずらみたいな動作に例えてユーモラスに訴えたことになります。
少なくとも、ぼくはそう取りますねえ。日本人の言葉の遊びのなさ、ユーモア感覚の欠如で、ただ真面目に、前に突き進めばよいと言う日本人にはうんざりです。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
昨日は鉢呂さんが首になったことで、これはやり過ぎじゃないかとこのブログに書きました。
昨日の朝は日本に行く途中、空港で知り合いの日本人と一緒になりました。彼らは瀋陽薬科大学の八十周年記念式典に出席するために数日瀋陽を訪問していたので、日本のニュースを知悉している人たちです。
鉢呂さんの首のなったことで、昨日ここに書いたぼくの意見を言ったら、そりゃ今の日本の実際を知らない「書生論」だよと一言の元に片付けられてしまいました。
福島産の食品が、放射能で全く汚染されていないにもかかわらず、あちこちで出荷拒否にあっていること、福島の人が旅をしたら、福島から来たと言うだけで旅館に泊まることを拒否されたこと、福島から避難したパン職人がパン屋さんで働いたら、その店に福島の人が来てパンを焼いているという話が広まってパンが全く売れなくなったこと、そのような今の日本の現状から見て、鉢呂さんの冗談(例の福島の視察のあと防護服の袖を人になすりつける真似をして「放射能が移ったぞ」といったという)は、悪ふざけの域を超えていると思われるのは当然なのだそうです。
そこまでの状況は全く知りませんでした。
でも改めて思うのは、そのような風評が人権を犯すことにまで及んでいることです。放射能は目に直接見えないものなので怖いと思うのは当然ですが、福島から来た人が焼いたパンは怖くて食べられないというのや、福島から来た人をうちの旅館には泊めませんというのは、その馬鹿馬鹿しさに唖然とします。日本人の知能の程度が疑われます。
でも安全かどうかを判断する根拠となる資料が適切に公開されていないし、政府の対応を見ると、発表された全く資料が信用できないと皆が思っているそうです。
これではまるで何処かの国と同じ状態ですね。政府は都合の良いことしか言わない、政府の言うことは全く信用できない。自分たちの噂で自分たちを守ろう。人々の噂はあっという間に全国に広まります。
原発から飛び散った放射能が身体に入ったら、それを出すには、食塩の中に含まれるヨードが良いという噂が流れて、全国の店の食塩があっという間に姿を消しました。数日して食塩を買い占めて、売るに売れず、食塩を店に返す、いや、そんなものは引き取れない、と大した騒ぎになりました。
これで思うことは、一つには人々の無知が怖いことですね。人々は簡単に噂に踊らされます。そして必要なのは正しい情報公開と、人々の的確に判断できる能力ですね。これが今の日本に欠けていたと言うことなのでしょう。
資源のない日本としては、科学技術で生きていくしかないと思いますが、まだまだ道は遠いみたいです。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
一年前の記事ですが、昨日見付けました。『専業主婦の子育ては、2億円以上の機会損失!「(Reuters プレジデント 2010年4.12号)」なんですって。びくり仰天。『女性正社員の平均生涯賃金は定年を60歳として、約2億5700万円』だそうです。さえの場合はもっと前の話だから、この半分としても、ぼくたちに1億3千万円の収入をもたらしたのですよ。何も残っていないけれど、凄いことですよね。
http://president.jp.reuters.com/article/2010/03/20/9C7D2CAC-332B-11DF-9805-29E13E99CD51.php
『共働き夫婦に子供ができたとき、妻が専業主婦となって子育てに専念するのか、産休を利用して共働きを続けるのか。』
共働き夫婦に子供ができたとき、妻が専業主婦となるか、共働きを続けるのかを、生涯賃金で計算しています。
出産を機に退職しないでいると、子供の保育のために、給料の4分の1が保育料で消えるそうです。
『25~29歳女性正社員の平均賃金は月額約24万6200円なので、手取りでは約20万円である。一方、認可保育園の保育料は自治体や世帯収入、子供の年齢によって異なるが、都内で世帯の所得税額が50万円の場合(世帯収入750万円程度)、0~2歳児で月4万円台。延長保育込みなら約5万円で、手取りの4分の1が保育料に消えることになる。』
残業が多くて二次保育を必要とするときは、ベビーシッター代に月5万円以上費やすそうです。保育料と二次保育の費用で、収入の半分が消えて仕舞うので、じゃ、出産を機に退職しようと言うことになる見たいですね。
そういえば、アメリカに行ったとき、下の子は全日ベビーシッターに、上の子は小学校の放課後そのベビーシッターのうちに行って預かってもらっていたので、さえの給料は全額その費用で消えましたね。
『しかし、家計を長期的なフローで見ると事情が変わってくる。28歳で第一子、31歳で第二子を生んだケースで考えてみよう。出産のたびに産休を1年間取得して復帰したとすると、女性正社員の平均生涯賃金は定年を60歳として、約2億5700万円になる』そうです。『ここから第一子出産までの賃金を差し引いても、出産を機に会社を辞めて専業主婦になれば、2億3500万円以上の生涯賃金を手放すことになる』のですって。
『一方、子供2人の保育料を0~2歳まで月5万円、3~5歳は月2万円(2人同時保育で2人目は半額)と仮定して試算すると、保育料の合計は414万円。そこに小学生になるまでベビーシッターなどの二次保育料を月5万円として加えると約1000万円(出産手当金と育児休業給付金を加味すれば実質はおよそ750万円)。額は小さくないが、2億円と比べれば桁が』違います。
『子供が小学校に入るまで子育てに専念してから正社員で再就職した場合でも、生涯賃金は約1億7700万円にダウン。いったん退職して再就職すると、勤続年数がリセットされるので賃金も退職金も低く』なってしまます。
日本は労働人口が減って大問題です。昔の男性は妻をうちに縛り付けていたけれど、今は70%の男性が妻が外で働くことに抵抗がないそうなので、積極的女性の仕事の機会を増やすべきでしょうね。
社会的にも、家庭にとっても、いいわけですし。
もちろん社会に保育所などの受け皿を増やす必要があるでしょう。民主党がこういうことをやってくれると思ったのに、全く、もう、醜態ばかりさらして。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
中国のインターネットは制限が多くて、中国にいるといろいろなサイトがアクセスできません。ここに時々ぼやいて書いていますね。
サイトにアクセスできても、そこに載っている動画はまず殆ど全てが見られません。写真ですと、YomiuriやAsahiなどのニュース系では見られますが、ブログでは殆ど駄目です。
と言うわけで、ぼくが中国に戻ったあとの3月11日に起こった東北大震災の写真は、いくらかは見たものの、動画は日本に戻ってきて14日に初めて見ました。多くの方々命を落とされた津波の映像に、息をのみました。
小高い丘の上からの映像で、遙か向こうには海岸の松があるように見えるけれど、土埃が上がっているみたいに上の方まで色が変わっています。林のこちらには車が沢山見えますし、住宅も沢山建ち並んでいます。
津波はやがて林を通り抜けて車を押し流しながら住宅めがけて押し寄せて来るみたいです。実は余り水は見えませんが、押し流される車、壊れた家が躍動しながら押し寄せてくるのです。
それらの家から畑を通り抜けてこちらの岡に駆け寄ってくる人もいます。間に合うでしょうか。破壊の水流はあらゆるものを押し流しながら、あっという間に岡まで押し寄せました。
実験では、水の流れが強いと、膝までの水流でも人は立っていられません。それでも、倒れても水の高さは50センチなのですね。
海で、たとえばサーフィンをしているところでは数メートルの高さの波が押し寄せます。数メートルの高さでも波打ち際まで来ると消えますから、津波の高さを、普通の海の波の高さと一緒にしてはいけないわけです。
実際の津波は、津波は水面がたとえば5メートル高くなるだけでなく、その後ろに(何十キロメートルか、何百キロメートルかの巾の)その高さを維持したままの膨大な量の海水があるのですね。だから、5メートルの堤防でも、10メートルの堤防でも、あるいは15メートルでも、津波の規模によっては、その堤防の高さを駆け上がって海水が中に入ってくるのですね。
津波の高さが最大10メートルだから、堤防は12メートルもあれば良いなんて言うのでは駄目であることが、二万人の方たちの命と引き替えに、私達は学んだのです。
この教訓を今後どのように生かすか、しっかりと学会、研究者、為政者を見守っていかなくてはなりませんね。教訓を生かすしか、なくなった方がたへの鎮魂のしるしとなりません。
ここに書いたことの後半は、昨日、久々に高校の時の友人に会って、50年を飛び越えていろいろとおしゃべりをして、彼からいろいろと教わったことの一つなのですよ。お互い元気にして、また会わなくっちゃ。
コメント:
Re:津波は海の波とは全く違う(09/16) セツ さん
先生、こんばんは。もうしかして、今日本ですか? (2011.09.17 00:41:53)
セツさん shanda さん
やあ、こんにちは。このブログを見ているのですね。嬉しいこと。 (2011.09.17 07:57:02)
Re:津波は海の波とは全く違う(09/16) セツ さん
はい。毎日見てますよ。14の記事を見て、えい?と思いまして、昨日の記事を見て少し確信が出きました。 (2011.09.17 17:55:17)
カテゴリ:生命科学
さえ:
昨日は昨日は岐阜大学の木曽先生に招かれて、ぼくたちの研究の話を聴いていただきました。
岐阜にはその後一度来ていますけれど、印象深いのは1963年4月に化学教室の新人歓迎会が金華山山頂にある稲葉城の隣のロープウエイ展望台で開かれたのですよ。
ぼくたち結婚して赴任早々だったでしょう。挨拶の時「始めて結婚して、初めて名古屋に来て、、、」なんて言って、あとで皆にからかわれたことを思い出します。
その時の稲葉城が、JR岐阜駅に着いて、見上げるとそそり立つ山の上に聳えているではないですか。48年前に思いは飛んで、名古屋大学時代の生活を思い出しました。
総括すると、あまりにも当時のぼくは未熟すぎて思い出すのも恥ずかしい。やり直せるものならやり直したい、しかしできることでもなし、あの頃のスタッフ、学生の人たち、そして鈴木教授に、ただ謝りたい気持ちです。
なんて思いつつ駅の構内にぼう然と佇んでいると、「お待たせしました」と木曽先生に声を掛けられました。木曽先生は昔から若い友人と思っていましたが、あと1年半で定年なのですって。
若い人のことは何時までも若いと思っているのですが、歳月はすべてに人を追い立てているのですね。若い人は何時までも若くおいて欲しいのに。
木曽先生のほかに、木曽研出身の石田教授、33歳の今村助教が出迎えて下さいました。
木曽・石田研究室の学生さんたち約30人、ほかの先生たちも聞きに来て下さって、ぼくたちのGD1aによる腫瘍の転移制御の話をしました。木曽研究室は糖鎖合成の世界的な研究室なのですが、ぼくたちの話はシグナル伝達が主なので、接点は彼らが合成する糖脂質の生理機能と言うところですね。
日本で研究の話をしたいと願ったわけは、研究の同業者に厳しい目で批判して貰いたいと言うことです。いろいろと質問、意見を頂いた中で東京都神経研から来られたという矢部先生からは、貴重な二点を示唆しされました、なんて書くと穏やかですが、矢部先生の質問がまさにぼくたちの研究の虚を突いて、質問に答えられなかったのです。
第一は、ガングリオシドGD1aがNOS2の発現を抑制するシグナルを出すことは分かった。転移性の高い細胞はNOS2の発現が非常に高いが、NOS2の発現がGD1aの発現を抑えるか、と言う質問です。
GD1aがNOS2を抑えるので、GD1aを合成できなくなった細胞がNOS2発現を高めたと考えていますが、逆の制御系を考える視点が抜け落ちていました。
第二は、高転移細胞ではGD1aを合成するためのGM2/GD2/synthaseの発現が顕著に下がっていますが、それはどういう機構によるのか考えたことがありますかと言う質問です。
いやいや、中国で一人仕事をしていると井の中の蛙になってしまいます。ぼくはまだまだ甘いですねえ。岐阜大学で話ができてまさに大収穫です。
講演のあと、木曽先生・石田先生・今村先生とさらに一時間近く研究上の解決のための討議をしていただきました。
別れを告げて、今村先生の送られて帰る車の中で、今度「だれでも科学者になれる」という講演をするけれど、とその一部を話して、研究者の良いところを列挙したのですが、今村先生は、
「自分の書いた論文は百年後でもそれを見てくれる人があれば、そのままの形で読んで貰えるのです。こんなことほかの仕事では考えられません。」と、研究者であることの良いことの一つを挙げて下さいました。
これを入れても良いと言うことなので、9月にはこれを加えて話をしますね。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
昨日の土曜日は、外苑前のお寺でママの一周忌の法要をしました。施主はぼくでしたが、日本にいなかったので手配のすべては長男の○○がやってくれました。「ぼくは何をしたらいい?」とメイルを書くと「ただ出てくれればいい」という返事でした。
13日に日本に戻ってから、毎日が夏の気温です。32度なんていうのは、瀋陽の夏の最高気温ですよ。おまけに蒸し暑いし、今日は台風が近づいて、風のために少しは気温が下がったものの、黒服を着る日和ではなかったですね。
集まったのはぼくたちの長男とその新婚の妻。長女とその夫。
ママの長女とその夫。その長女と長男。
このママの長女はぼくの姉に当たりますが、挨拶してもそっぽを向いて返事もしない人です。ママに似て長命とすると、大変やっかいなことですね。
義兄は頭の鋭い、しかし、ごく常識人なのにね。子供たちも社会礼儀を心得て、可愛くてまともな人たちなのに。ま、人それぞれですから、非常識な人がいても許しましょう。
お寺の本堂では、今日は法事は一組と言うことでのんびりとしたものでした。ご住職のほかに陪席の僧侶が四人、二人ずつ両側に侍って、見事な喉から声を響かせて合唱、斉唱、を聞かせてくれました。
終わったところでご住職はこちらを向いて、『十三世紀にチベットに何とかという偉いお坊さんがいて、「明日自分が死ぬことが分かっても、今日は学問をする」と言ったそうです。在原業平が「終に行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」と言い残しています。やはり、生の尽きるまで勉学に励みましょう。』と言うことでした。この二つを結ぶのは一寸無理じゃないかと思いますが、ま、これも許しましょう。
「朝に道を聞かば 夕べに死すとも可なり」と言うのが論語にありますね。
朝に真実あるいは真理を聞くことが出来たら、夕暮れに死んでも良いというのは、つまり、人は真理を求めている。知って死にたい、死ぬ前に知りたい。死ぬまで学びたい、と言うことでしょうね。
孔子がいくつの時にこれを言ったのか知りませんが、人は歳を取ると、みんな哲学者みたいになりますね。
さえも、そうでしたね。ぼくも、ぼくみたいな人間でも、ちょっぴり哲学的になってくるので、一人でおかしがっています
カテゴリ:日本の将来
さえ:
今度10月に予定している講演で触れるために、理系と文系とどちらがお金を稼げるか、を調べてみました。
日本では昔から文系の方が稼げることになっていますね。実際、2008年、大阪大学大学院国際公共政策研究科・松繁寿和教授によると、文系の方が、生涯賃金というか給与というか、一生に稼ぐ金は5000万円多いそうです(日経ビジネス「文系理系の生涯賃金格差は5000万円」~さらば工学部(6)2008年8月25日)。
これは、一般的に思われていたことを裏付けています。社長も文系7割に対して理系3割といいますし、高級官僚は軒並み文系です。
実際姉の連れ合いは銀行に勤め、ぼくたちよりも遙かに高給を取っていましたね。会社の福利施設も充実しているし、従業員への貸し金の利息だって銀行は途方もない低金利だし。
いえ、何も姉夫婦をやっかんでいるのではありません。比べればこちらは給料は少ないかも知れないけれど、好きなことをやって給料が貰っていたのですから。
ただし、日本ではずっと金融業の従業員が優遇されてきましたが、日本にとって好ましいことではないですね。
金融というのは、資金を、必要なところに投資してさやで稼いでいるだけで、金融だけで価値を生むわけではないのです。付加価値を生むこと国の経済成長に寄与しているのは製造業ですよね。
でも、このような生涯賃金の調査は調べ方で変わります。たとえばIT企業で調べると、対象者714人のうち36%が文系、残りが理系出身者(Tech総研調査)でした。
『年収400万円未満までの層では文系の割合が多いが、500万円以上になると理系が逆転し、800万円以上になるとバラツキがでてくる。高い年収層では、理系が幅を利かせている』といえる見たいです。
RIETI Discussion Paper Series 11-J-020 2011年3月によると、同じ年齢で比べて国立理系出身者は国立文系出身者よりも年収が50万円高いそうです。
このような調査はある目的を持ってなされることも多いし、どこまで信用できるか分かりませんが、今の日本の経済状況を見ていると、いわゆる文系は中途で職を失ったら行き場に迷うのに対し理系はまだ働き口を見つけやすいみたいです。
高級官僚を目指すなら文系でよいけれど、そうでないなら、これからは理系じゃないでしょうか。
と言うか、日本は技術立国しか生きる道がないのですから、理系の科学者、技術者を目指しましょう。
カテゴリ:生命科学
さえ:
「トンネルを抜けると雪国であった」という川端康成の小説の冒頭がありますね。
19日に初めて長岡に出掛けましたが、高崎を新幹線「とき」が出て長い長いトンネルを二つ越えると、こちら側の晴れの天候が垂れ込めた厚い雲の下の雨に濡れた田園に代わりました。
長岡の古川先生に会いに出掛けて、今日20日の夕方戻ってきました。
二日間雨に降られて、海岸にも行けず、河井継之助の史跡も訪ねられず、へぎそばを食べて、刺身と魚料理に飽食して、いや、これを正確に言うと古川先生にご馳走になったのですが、さらに研究の話をおたがい腹蔵なく話して、楽しい時間を過ごしてきました。
でも、実を言うと、10年前に糖脂質のラクトシルセラミド合成酵素はB4GalT6だという彼の研究に基づいて、ぼくたちこの遺伝子を対象に実験を始めたでしょ?
それがなんと、B4GalT5がラクトシルセラミドを作る酵素だと言うことを古川先生の研究室で証明したのですよ。
これは大ショックですね。古川先生のような優れた研究者がこの領域に参入するのは学問的には大歓迎ですが、ぼくたちもう出番がなくなっちゃうのではないかと、冗談じゃなく心配ですよね。
これにはもう今ここでは、これ以上触れないことにして、沢山の収穫の中から一つ。
昨2010年7月31日の朝日新聞のコピーを見せて貰ったのです。「大人になったら何になりたい?」と聞かれると、子供は夢を語りますね。
その子供が成長して、人生経験を積んできた40歳以上の人たち(回答者の平均年齢は55歳だそうです)にアンケートをして、「生まれ変わって20歳から人生をやり直せるとしたら、何になりたいですか?」と尋ねたそうです。
4人に一人が「大学教授・研究者」を選んでこれが一番人気だったそうです。ワーーオ、ですね。
これですよ。今度の10月に予定している講演には、是非取り入れましょう。
「誰でも研究者になれる」という奇をてらったタイトルなのですけれど、「若い人は研究者を目指そうよ」という筋を通した話になりそうですね。
何時もさえと何でも話していたのに、こういったことも話せなくなって、とってもつらいし、悲しいです。
妹の弘ちゃんと明日会うことにしているので、彼女にシノプシスを話して、意見を聞かせて貰おうと思いました。明日合う確認の電話で、そう言ったら、「わたし、誰でも研究者になれるなんて思って言わないわよ。研究者になるなんて大変なことだわ。」と言われてしまいました。
さえ、どう? 弘ちゃんにこてんぱんにやっつけられたら、それでもちゃんとした話が考えられるかなあ?
2011年度の教師の会の初めての定例会は、私はちょうど日本への出張の時期と重なり、出席できなかった。
年度の初めての会合で代表を決めるので、そこにいない私は代表選出については何もできなかった。あとで、前期の宇野代表がまた自薦で立候補し、ほかに立候補も、他薦もなく、宇野さんが今期の代表になったという。
9月17日付けで宇野さんからメイルが入った。
皆様
本日の定例会および歓迎会、お疲れ様でした。
よりよい教師会を作り上げていくために努力して行きたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
これに対して私は、9月21日に以下のメイルを送った。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
宇野先生
ご連絡をありがとうございます。
今期も代表をされると言うことですが、前期のあなたの行動は、あなたが代表にふさわしくないことを皆に示していました。その批判を教訓に、今年は是非、成長して欲しいと思います。
代表は会員のために奉仕するための存在であることを、まず認識して下さい。会員からの声には誠実に対応して下さい。「俺は代表なんだ」と浮かれるための代表ではありません。
集まりで出合ったら、きちんと挨拶をしましょう。挨拶をしないのは今の若者だからでしょうか。しかし日本の社会では、挨拶をしないのはその人を認めていないと言うことなのですよ。大人になる訓練だと思って、教師の会ではその日に初めて会った先生たちには、目をそらさないできちんと挨拶をしましょう。心のこもった言葉で挨拶をしましょう。
瀋陽日本人教師の会は、日本語教育の(あるいは研究の)経験を積んだ、知性も品格もある先生方の集まりです。それを代表するのにふさわしく、振る舞って欲しいですし、ほかの方々、ほかの団体、組織の代表の前で、それにふさわしい話をして下さい。日本人会の人たちから、批判を聞かされて、教師の会の会員としてあなたが代表であることに恥ずかしい気持ちを何度も持ちました。
草々
山形 達也
カテゴリ:日本の将来
さえ:
9月13日と14日に、当時の鉢呂経産相が福島を視察して「死の町」と表現したことと、視察のあとマスコミ相手に、防護服の袖をなすりつける仕草をして「放射能が移ったぞ」と言ったことの責任を取らされて首になったことが、おかしいと書きました。
ぼくはこの人がどんな人か全く知りませんし、報道も見る機会がないので、起きたことだけをニュースで見て、日本人はやり過ぎだと書きました。
日本に来ても、ネットでニュースを見るくらいで、新聞を見る機会がない生活をしていので、日本の全体像が見えてきませんが、9月20日の週プレNEWSで『鉢呂前経産相の「死の町」発言バッシングは理解不能』と言う記事を読みました。
『9月17日、民主党の前原誠司政調会長は福島市を訪れ、鉢呂前経産相について、「皆さんの気持ちを踏みにじった。与党の一員として心からおわび申し上げたい」と住民らに謝罪した』そうです。
これについて、この記事では、『責任をとって当然と批判される一方で、「そもそも失言なのか?」という疑問の声も上がっている。ジャーナリストの青木理氏は、辞めるほどの発言ではない』と言っている。
『弁護士の郷原信郎氏は、政治家の発言という部分を差し引いても、「死の町という発言の何がいけないのか、さっぱりわかりません」と、引責辞任を疑問視する。』
『原発事故によって、人の立ち入れない状態になっている町。死んだような状態になっている周辺地域の現状をそのまま表現することの何が悪いのでしょうか。悲惨な現実を直視して、今後、こうした原発事故が二度と起こらないように、被災者に十分な補償をするために、そして“死の町”を今後“生きた町”に復活させるためにどう取り組むかが問題のはずです。その点についての大臣の姿勢や取り組みを批判するというのならわかりますが』とこの郷原信郎氏は述べたそうだ。
その通りだと思います。人の発言に対して理性的に対応せず、針小棒大に落ち度だけを言い立てる人たち。いつから日本人は品性がなくなったのでしょうか。悲なしいことですね。
この記事では、それ以上のことは書いてありません。最後に『野田内閣の発足からわずか9日にして起こった大臣辞任劇。野党やマスコミはまるで鬼の首を取ったかのようだが、被災地の人々の目にはどう映っているのだろう。』と言って、、この手の記事らしく、ごく穏当に締めくくっています。
この首切りに対して反対意見があることは、まだ日本が健全であることを示しています。反対意見を言う人の、社会的地位、伝達手段、影響力など、いろいろなことを考えさせられますが、日本の全人口の4分の1を占める老人世代が、積極的に発言をしたら、日本の方向に対して影響力を発揮できるのではないかと思いはじめています。
勿論これらの世代の人たちは、経験を積んで、自分の英知を磨いてきた人たちだという期待感を持って書いているのですよ。どんなものでしょうねえ。
カテゴリ:日本で生活
さえ:
この9年間、この時期に日本を離れていたから台風にはとんとご無沙汰でしたね。それが台風15号の日本列島直撃の日に居合わせました。
19-20日の長岡行きがずっと雨だったのは、この大型台風が沖縄近海に停滞していたためでした。それが20日午後から急に東北方面に時速30km位で動き出したのですよ。
今日の21日も朝から雨で、昼に弘ちゃん(おさえちゃんの妹)に会う約束になっていて、どうしようと言いつつ、こっちに来るのは午後らしいからと言うので、たまプラーザで会いました。
彼女は膝が悪くて体重を減らせと言われて、数kg体重を落としたのですって。とてもスマートになって、顔の表情も若々しく、以前は母上を彷彿とさせていましたが、今は昔の可愛い弘ちゃんでした。
さえを挟んで義妹と、義兄という関係なので、さえのことでいろいろと話して、そして余り遅くならないうちに、今度のぼくの講演のシノプシスを話して彼女の意見を聞きました。
「研究者に誰でもなれるものではないわよ」と言うのが彼女の意見ですが、それは相当に厳しい研究者像をイメージしているからですね。元はと言えばぼくと同じ化学の出身で、研究所に十年近くいて論文も書いていましたね。恐らく弘ちゃんの研究領域で、自分は研究者に向いていないと思ったのかも知れませんね。
つまり研究者になれる人、向いている人、いろいろな条件があるでしょう。ぼくが今度の講演で言いたいことは、誰でも知らず知らずのうちに、普段から科学的思考をしているのですよ、ということとと、ヴァイオリンの音色がどんなに好きでもヴァイオリニストになるのに比べれば、科学者になる方が遙かに簡単だと言うことを話したいのです。
それに科学者をやっていくための環境が昔に比べて遙かに整備されていますから。
弘ちゃんもさえと同じように、優しい言い方で、しかしぐいぐいと論旨の欠陥を突いてきます。それに対応して穴を埋めることで、お陰でぼくは話しに少し自信がついてきました。弘ちゃんは、「なんと言っても74歳のおじいちゃんが目を輝かせて研究って面白いって話していれば、みんな、そうか研究って面白いのかのかって納得するわよ」ですって。さえがぼくを揶揄うのとおんなじような感じです。
2時過ぎにうちに戻って来ましたが、雨は白い幕になって吹き飛んでいます。午後2時に浜松付近以上陸したそうです。東海道新幹線は全線運休。田園都市線も午後4時には運休。
うちの雨戸は全部閉めていますが、風が轟音と共に吹き付けています。
驚き。うちが風で揺れますよ。PCのモニターは揺れるし、蛍光灯のひもも揺れているし。今午後5時半で、このあたりに来ているのでしょうね。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
ぼくたちずっと日本を離れていて、昔からの友人に会う機会が殆どありませんでしたね。
それが、2月20日のさえのための集まりで多くの昔の級友に再会して、お互い生きているうちに会わなくっちゃと思いました。あのときは、いらして下さった方々に挨拶はしたものの、こちらは会を主宰しているので殆どの方々と挨拶以上の話はできなかったのです。
今回の日本訪問で、少しでも昔の友人に会おうと務めました。中学時代の親友、高校から大学に掛けての親友、本当に長い間離れていたけれど、再会してあっという間に昔の距離と感覚がよみがえってきて、お互い(ぼくだけかも知れませんけれど)腹蔵ない意見の交換をしました。
皆それぞれの仕事から引退して、そして優雅に、かつ豊に老後の生活を楽しんでいます。それはそれで結構なのですけれど、この間ここに書いたように、老人人口が全人口の4分の1を占める時代でになり、と言うことは働いている人たち2に対して老人1と言うことですね。
老人の年金を支える仕組みは置いておいて、老人世代が世の中に積極的に関われば、日本を良い方向に変えていくことができるはずですね
今更政治の世界に乗り出す元気と覇気はないにしても、日本の政治、社会についていろいろと意見を述べることは可能でしょう。
実際、どこからも統制を受けない、誰からも制御されないツイッターがエジプトやチュニジアでは政府を転覆させましたね。
世界で使われているFaceBook、Twitterは中国では遮断されていますが、中国製のツイッターがあります。このツイッターのつぶやきが、中国新幹線追突大事故での政府の対応を変えさせたましたよね。
今回友人と話していて、社会主義国で理想だった社会を今の日本が実現したこと、今や日本は世界の天国なのだと言うことをつくづく感じました。今の若者は、生まれたときから天国育ちですから、それを作ろうとか維持しようとかの意欲が生まれてこないわけですね。
そう言う日本の現状を見て、これじゃいけないと嘆くだけじゃなく、処方箋を考える必要があるし、今の老人世代はそれができる知恵も持っているし、ないのは発言する行動力じゃないかと思うのです。
ぼくみたいに、このブログの影響力は殆どないにしても自分の意見を言い続けることは、十分意味のあることだと思います。どうか、日本を良くするためにどうしたらよいかを考えてその意見を世の中に問うて、問い続けて欲しいと思います。
カテゴリ:日本で生活
さえ:
今日から日本は三連休なのですって。金曜日ですが休日で、そのために嬉しいことに昼間、日本にいる卒業生たちに会うことができました。王麗さん、薜蓮さん、朱性宇くん、沈慧蓮さんたちと渋谷のスペイン料理屋さんで会いました。
王麗は、心配していたのですけれど、ひどいつわりもひとまず治まったので。出てこられたとのこと。余りにひどいつわりに、男の子だねと言うことになりました。
彼女は女の子が欲しいし、夫の馬くんは女の子と熱望しているのですって。王麗が病院から帰ってきて、からかって「男の子だって」と言ったら、何とも情けない顔をして、それでもじっと我慢を飲み込んで、「そう、それでもいいさ」と言ったそうです。
中国では伝統的に男の子しか尊ばず、それが災いして男女の比が悲劇的に男に偏ってしまい、これから適齢期を迎える男は(十数年のスパンのことのようですが)三千万人が結婚からあぶれるのだそうです。
だから今から、今の若い女性は元気がよいのですね。そして実際、女の子が欲しいと言う声が聞こえるように、中国も急速に変わりつつあるのでしょう。
薜蓮はぼくたちのところに12月半ばまでいて、名古屋に行って試験を受けて、名古屋大学大学院の修士をでましたね。今は○○化学のばりばりのキャリアウーマン。
今はまだ独身ですけれど、この春紹介してくれたボーイフレンドと結婚することになるようです。日本と中国を飛び回って忙しい生活をしながら、ロマンスもちゃんと育てているみたいです。
朱くんは、6月生まれの男の子の父。写真を見せてくれました。目の細いところも含めて、笑っちゃうくらい彼にそっくりです。その子がね、運動神経が良いなんて言うので、一体何のことを言っているのだと、訝しんだのですよ。
そしたら、ネットでさっとビデオを取り込んで見せてくれました。バケツの大きさの深い盥の中で、首の回りに浮き袋を付けて、なんとぐるぐる泳いでるのですよ。身体を動かすから身体が回転しているのですけれど、いやがっているのではなく、笑いながら身体を動かしてバケツの中をぐるぐる、ぐるぐる。。
今三ヶ月なのですが、生後一ヶ月からこれをやっているのだそうです。いや、確かに、普通の子ではないようです。オリンピックの運動選手になりそうですね。
朱くんは2004年のバレンタインに、広州まで片道二日以上掛けて汽車に乗ってバラの花を届けに行ったでしょ。その相手とめでたく結婚したのですよ。
沈さんは来年春には博士となって卒業する予定で、○○製薬に入社を決めているそうです。でも、彼氏は東京だし、○○製薬に務めると大阪勤務になるから、結婚できないし、と、大いに悩んでいます。別の彼氏にしようかしら、なんて、達者な日本語でふざけています。
そう、もうこの人たちは日本語が達者なんてもんではありません。当たり前に、日本人なみに、あるいは、綺麗な日本語という意味では日本人以上にちゃんとした日本語を話しています。時に中国語に切り替えて話しているのを聞くと、そうだった、中国人なんだなと思い出すくらいです。
ぼくは、瀋陽では日本を代表していて、日中の架け橋ですねなんて言われますが、若い彼らこそこれからふたつの国の間に、しっかりとした橋を架ける有能な人材ですね。彼らと話しているとつい嬉しく、時間の経つのを忘れてしまいました。
西洋ではフクロウは智慧の象徴となっていて、さえはフクロウをいっぱい持っていますね。中国ではフクロウは好かれていませんけれど、さえの形見にさえのブローチを貰って貰いました。さえがどこで付けていたか直ぐに思い出せる思い出深いフクロウのブローチです。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
いま中国の食の危険が色々と言われていますね。この間は、下水油(下溝油)」が市場に出回っていて、店に顔の利くお役人などは自分専用の油をレストランに持参して調理に使って貰うけれど、しかし一般庶民は自衛の策はないわけです。一部の高官専用の農場があったりしたら、そしてそれが一般民衆に知られたら、騒ぎになるかもと書いたことがあります。
そうしたら、本当にあるのですね。この記事が本当かどうかを、ぼくは確かめるすべはないので、もしかしたら間違いかも知れませんけれど、これがあるのですね。
『中国で特権階級用の「有機農場」の存在が明らかに!庶民は毒食品を食べているのに…?米紙(Record China 9月22日)』というのを読みました。
『2011年9月20日、米紙ロサンゼルス・タイムズは、「食の安全」が取り沙汰されている中国で、ごく一部の特権階級向けに安全な野菜を作る有機栽培農園が極秘に存在していると報じた。シンガポール華字紙・聯合早報が伝えた。』
『北京市郊外に高さ2メートルほどの柵で覆われた農場がある。頑丈なゲートが設けられ、警備員が常駐し、出入りする車両も厳重にチェックされる。すぐ前に居を構えるお年寄りですら、「1度も中に入ったことがない」という。実はこの農場は政府機関専用の有機栽培農園で、収穫された野菜が一般向けに販売されることはない。洗わなくても大丈夫なほど安全な野菜が作られているが、食べられるのは政府高官や国営企業、外交官やインターナショナルスクールの生徒といった一部の特権階級の人たちだ。』
『一方、庶民の食卓に上る食べ物はどうか。様々な汚染にまみれ、食べれば食べるほど健康が失われるという有様。違法薬物の「痩肉精(塩酸クレンブテロール)」やブタ肉を牛肉に見せかけるための複合食品添加物「牛肉膏」、成長促進剤まみれの養殖魚、農薬漬けの野菜などいわゆる「毒食品」だらけである。 2008年のメラミン入り粉ミルク事件では6人の乳幼児が死亡、30万人以上が健康被害に遭った。』
『こうした農園の存在が明らかになったのは、当局に対する批判的な報道で知られる広州紙「南方週末」のスクープによるもの。だが、同紙はすぐに中央宣伝部から追加取材の禁止と記事の削除が命じられている。(翻訳・編集/岡田)』
特権階級の秘密農場があるなら、お金持ちは自分たちのために安全な農場を自前で持てばいいわけですよね。実際、これもあるらしいです。
『金持ちは自前で「食の安全」を確保、農場経営がブームに(2011年5月6日)』
『中国青年報によると、不動産投資に熱を上げていた中国の富裕層が、最近は農場経営に矛先を切り替えている。「食の安全」が脅かされる事件が相次ぐ中、自分たちの食べ物だけでも安全を確保しようというものだ。農場を経営して自給自足すれば、違法薬物の「痩肉精(塩酸クレンブテロール)」やブタ肉を牛肉に見せかけるための複合食品添加物「牛肉膏」、農薬漬けの野菜などいわゆる「毒食品」も怖くない。』
『だが、こうして自分の身を守れるのも豊富な資金があればこそ。中産階級と呼ばれる庶民たちは細心の注意を払って見極めるしか手立てがない。人間が生きていく上で最も基本となる「食の安全」ですら、金も権力もある特権階級にしか保証されないことに、庶民たちは不満の声を上げている。(翻訳・編集 /NN)』
政治的特権階級でも、富裕階級でもないぼくたちはどうしたらよいのでしょうね。食材の安全性を見極めようったって、出来るものではありません。
ぼくはうちで調理をするとき、野菜はすべて中華鍋で茹でて、化学で言ういわゆる熱水抽出をして農薬を除いていますけれど、果物はそんなこと出来ないし、米だって肉だって無理だし、もう諦めるしかないですね。
幸い、ぼくは次世代の子を産む必要がなくなった人間だから、まあいいけれど、若い人たちのことを思うと、このままではいけないと思います。どうしたら有効な手が打てるか、全く分かりませんけれど。
今日の午後、何時ものCZ628で瀋陽に戻って来ました。暁艶が空港で迎えてくれました。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
3月11日の大震災で福島原発が事故を起こして、放射能汚染・被爆という深刻な事態を引き起こしてしまいました。
いろいろな報道を見ていると、これは人災なのだそうです。メルトダウンを起こした一号炉はGE製で、二号炉はGE-東芝製だそうですが、地震で原子炉そのものは壊れていないということです。津波対策が講じられていなかったために、冷却装置が浸水で使い物にならなくなり、このような事態を想定してなかったために対策が後手に回って、メルトダウンを引き起こしてしまった、つまり自然災害でなく人災だったと言うことです。
いずれにせよ、核分裂が制御できなくなって放射能が飛び散ってしまったので、放射能被害が出ました。人々は住んできたところを捨てて疎開していますし、直接の被害が出るかも知れませんし、作物が汚染しているという噂による被害もでました。
そんな危ないものなら、もう要らないという脱原発運動が日本全国で起こっています。
危険なものは要らない、代わりを探そうという意見に賛成ですけれど、日本の国のこの先の選択として脱原発が可能なのかどうか、しっかりと考えないといけません。
日本の原子炉は地震では壊れなかったのですよ。経験を積んだ日本の技術で世界一安全な原子炉を作りつづけて、世界に供給することは可能なのではないかと思います。
脱原発もいいですけれど、代わりの再生可能なエネルギーで日本が必要とするエネルギーを生み出せるか、どうか。
電力供給がきつくなったら、それに合わせて日本の生活をダウンサイジングできるかどうか。
感情ではなく、勘定でよくよく考えを詰めていかないといけないでしょう。
先の菅総理は脱原発を唱えましたが、いまの野田総理は、国連の演説で脱原発に触れなかったそうです。
『首相、国連会合で「脱原発依存」に言及せず(読売新聞 9月22日)』
『野田首相は22日国連の原子力安全に関する首脳級会合で演説し、安全規制を徹底しながら、必要な原発は今後も活用する意向を表明した。』
『菅前首相が掲げた「脱原発依存」には言及せず、所信表明演説で述べた「原発への依存度を可能な限り引き下げる」という表現も使わなかった。』
冷静に日本の取るべき道を検討した結果、脱原発という考えを書生論と思って軌道修正をしているのか、あるいは原子力を食い物にしている人たちに籠絡されただけなのかをしっかりと見極めて、日本の方向を誤らないように見守っていかないといけませんね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
昨日の日曜日はね、夏の間研究室に来ていた学部学生の宋くんが、ソフトボールの試合があります。見に来て下さい、とメイルを寄越したので、朝8時半にグランドに行きました。
宋くんのいる生命科学部のほか、製剤学部、薬理学部など合計5つの学部学生がチームを作り、総当たり制で試合をするそうです。時間は1時間と言う制限ですので、3回裏表まで。
それぞれのチームはユニフォームを着ていて、宋くん、そして一緒にキャッチボールをして遊んだフランク趙くんの生命科学のチームは赤のストライプ。マックのお店の人たちみたい。
宋くんはサードだそうです。ゴロを捕って一塁までまっすぐ投げられるのかなあ、ちょっと心配です。フランク趙くんはキャプテンで、ピッチャーだということです。
ぼくがこの夏ソフトボール、グラブをかって遊び始めた理由は、体育の正課にソフトボールが取り入れられて、それを窓から見ていると、男子学生も、いわゆる女の子投げしかできないのですよ。
これは子供の時からボール投げをしていないと、全身を使う投げるという形が出来にくいということですね。あれなら、ぼくも出来るかも、と思って、道具を手に入れて遊び始めたのです。実際のところ、腕も、肩も、そして足腰の筋肉が衰えているので、ボールを投げると言うことは大変なことでした、足腰の筋肉の痛みをだましだまし夏中掛かって、まあ、少しは投げられるところまでになったのですよ。
フランク趙くんは、一緒にキャッチボールをしていて、かなり肩がよいと思いました。でも、ソフトボールのピッチャーのボールが投げられるのかなあ。
試合が始まると、どちらのピッチャーも、肩の回転なしに下手からボールを放るので山なりのボールしか投げられません。バッターは、殆ど上から落ちてくるボールを打つのですよ。トスバッティングだと思えばこれでも打てますね。
ボールが上から落ちてきて、ホームプレート前の端にあたってもこれはストライク。えっ、こんなのストライクじゃないと思いますけれど、結構これで三振もあるのです。
ともかく、打てば大抵は守備の乱れでセーフになると言う感じでしたが、双方一生懸命で、結構愉しみました。
ピッチャーがどのようにして投げるか、ビデオを見せたいと思って探しましたが、どれもYoutubeですので、ここでは見られません。今度日本に行ったらダウンロードして、それをここで見て貰いましょうね。女子でも時速100kmを越えるそうですから、野球で言うと時速150km位の感じでしょう。普通では打てませんよね。そこまで行かなくても、バッターの立場で言うと、バッターのの胸から膝の間を通るボールを投げて欲しいですね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
晴れがましいことがありました。遼寧省が外国人を表彰する制度があります。5-6年前には、栄誉賞というのを貰いましたね。今度は友誼賞というもので。遼寧省が外国人に出す賞としては最高なのですって。
8月に知らされたときは9月の日本行きの日程を決めていて予定がぎっしり詰まっていたので、それをキャンセルするなんて思いも寄らず、「そうですが、でも出席できません」って国際交流処の人たちに言っていました。
ところが、そのあとで、これは個人の名誉だけではない、大学の名誉が掛かっている。先生自分だけの力で貰うわけではない。この受賞を申請するために大学の人たちが一生懸命努力したのだ。出席しなかったら、遼寧省長の顔をもつぶすことになる。と国際交流処長の蔡さんからこんこんと説得されて、了見違いを撤回して、つまり、日本の旅行の後半をキャンセルしました。
それで、中国に戻ってきたのが24日の土曜日。月曜日には午後3時までに友誼賓館に来るようにと言う指示で、大学の車で送られてチェックイン。この一画は北陵の西隣で、森の中に建物が点在している感じの場所で、もちろん遼寧省政府のものです。北京で言うと中南海という政府の特別区画に相当するのでしょう。松の大木が林立し、道はゴミ一つ落ちていない綺麗さと静けさです。
友誼賓館は、胡錦濤主席が来ると泊まるというところだそうです。チェックインした部屋は前室付きのスイートルームでした。主席の次の次くらいの泊まるところかな。夜は6時から大宴会場の丸テーブルに通訳5人も入れて30人が座って食事をしました。お隣の通訳は、師範大学の日本語の若い先生。名前で分かる日本人は他に五人。ドイツ人1人、カナダ人1名。外人4名。
招かれた方は互いに知らないし、共通の話題もなく、主催者側のひとしきりの挨拶のあとはひたすら食事。
今日の27日の午前中は北陵に案内されて、賞の授与式は遼寧省人民会堂で午後2時から開かれました。友誼賞が30人。栄誉賞が26人。
省長の挨拶のあと、省長と、副省長が壇上に並んで、こちらは二人ずつ呼び出されて壇上に登って、偉い人から賞を首に掛けて貰うのです。
ぼくは、その授与の経緯報告の時に、「山形達也以下三十人が受賞する」と省長が話したくらいなので一番に進んで、メダルを首に掛けて貰いました。お手本がないからまごまごしながら、でしたよ。賞状も手渡されて握手して写真。でも、この写真のタイミングが合わなかったなあ。二人がそっぽを向いた写真になったみたい。
受賞式典には国際交流処からは蔡処長、葛丹丹さんも態々来てくれましたた。この賞は、沢山の人たちの好意と、努力のお陰ですね。大学の関係者はもちろん、うちの学生たち、そしておさえちゃんのお陰です。
誰もおさえのことを口にしないけれど、もし口にするとぼくが泣いちゃうから決して言わないけれど、ぼくたち二人が貰った友誼賞です。ね、これが今日のさえへの報告。
コメント:
有機農場素材の食事 みのもんだ さん
遼寧省が外国人に出す最高の賞を受賞され、おめでとうございます。まあ、これを機に、研究費配分の問題を是正してくれれば。。。と思うのが私だけではないと思います。
これはさておき。先日先生のグロブで「特権階級専用の有機農場があるらしい」との文章を書かれましたね。これは間違いなく事実と思います。私はだいぶ前、ある特権階級の家族が書いてあるブログで、この有機農場のことを無意識的に曝露された文書を読んだことがあります。
となると、今回先生の授賞式での料理は、間違いなく、この特権階級の有機農場で取れた素材を使用したものでしょう。お味はいかがでしたでしょうか。通訳の師範大学の日本語の若い先生に、「これは有機栽培か」と確認していたら、最高だったけど。 (2011.09.29 19:30:02)
みのもんださん shanda さん
そういえば、キュウリ、カブなどが生のままお皿に載っていました。こういう宴会でどうして生野菜かと不思に思ったですが、それ以上気が回りませんでした。
きっと最高のご馳走だったのですね。なるほどね。 (2011.09.30 08:01:44)
カテゴリ:研究室風景
さえ:
9月10日が教師節で、9月12日月曜日が中秋節でした。
教師節はだいぶ前の中国で、学校の先生の給料を上げたいけれど上げるほどの金が国庫になく、貧しくとも教師が尊敬されるようにという意図で教師節が作られたと聞いたことがありますよね。
学生がこぞって「教師節、おめでとう。先生、ありがとう」と言ってくれます。卒業生からもメイルが来たり、電話のメッセージでおめでとうとお祝いを言ってきてくれました。
研究室に来て一緒に夏を過ごした、今は学部三年生の宋くんからもメッセージを貰いました。
先生におめでとうというわけだから、当然良いことを書いてくるわけですね。「先生の科学に対する厳しい姿勢には驚嘆させられます。この夏先生の研究室で過ごすことができて本当に良かったです。」
さらには、「この間の大雨の日に、30分くらい膝まで水につかりながら大学まで戻ってくる間、先生は一言もぼやいたり、怒ったり、嘆いたりしませんでしたね。楽しそうに水の中を歩いてきました。その若さにびっくりです」と書いてありました。
その日のことは、8月22日のブログ「まるで洪水の中を歩く」に書いています。
薄暗い夜の闇の水流の中で、ぼくが一番気にしていたのは、マンホールの蓋が開いていてその中に落ちてしまうことをでした。だから気が張っていて、ぼやくひまもなかったのでしょうけれど、歳を取ると何事にも怒りっぽい人って、結構沢山いますね。
そう言う意味では、若いと思われるのかも知れません。
実際、鏡に映る自分を見たり、学生さんたちと一緒に写した写真を見たりしない限り、自分が歳を取ったなんて自覚はまずありません。老人一般にそうでしょうけれどね。
腰が痛くて椅子から立つたびに悲鳴を上げたり、情けないことは沢山ありますが、それでも老化を余り自覚していないというのは、一体どういうことなのでしょう。知覚と、認識を司る脳の神経働きがもう鈍ってしまったためかも知れないですけどね。
中国では、年相応と言うことがとても強く求められる社会ではないかという気がします。つまりこの年なら、老人らしく振る舞うのがここの社会。
しかし、周りのこと、人のことが余り気にならないのがぼくの特質だし、それでずっとやってきたのだから、今更変えようもないかも知れません。体力が続く限り、そして興味が続く限り、研究が続けられると嬉しいですね。
カテゴリ:生命科学
さえ:
この間、『脳を透明化する試薬、ヒトへの応用も ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト 9月5日』と言う記事を読みました。
『新開発の化学薬品によって、近い将来、頭の中を科学者に見透かされてしまう時代が来るかもしれない。この薬品は、脳組織を完全に透明化できるからだ。』
『Scaleというこの化学薬品は、生体組織を透明化して光を奥深くまで通すことにより、細胞その他の構造に標識としてつけられた蛍光を直接観察できるようにするものだ。開発者たちによると、この発明は、医用画像の新た領域を拓く可能性を秘めているという。』
このScaleの材料は尿素、グリセロール、界面活性剤(Triton-X)だそうで、マウスの胎児を丸ごとScale溶液に2週間漬けて、透明に変化した写真が添えられています。
そして『UCLAのトンプソン氏によると、Scaleはそのほか、CTスキャンやMRI(核磁気共鳴画像法)といった、より複雑で高価な技術に頼る前に、撮像対象を詳しく観察する上で役立つ可能性がある』と書いています。
CTスキャンやMRIは生きたままの生体材料を非侵襲的に観察できる方法ですね。それをする前にこの方法を試せるのではないかというと、この方法が生きたままの材料に使えて、生きたままの個体の中身が見えるみたいな印象を与えかねません、
実際、記事には「透明人間」の実現はまだ先、なんて書いてありますから、慌て者が読むと、この方法で、生きたままの材料が体表面の数ミリ内側まで透明になって観察できるように読めてしまいます。
でも、この方法を使って透明化している材料は、固定して、つまり死んだ材料なのですよね。生きているままを透明化してその内部が観察できたらいいですけれど、そうではないのですね。
どうしてこんな紛らわしい内容の記事が出るのでしょうか。書いている人が内容を本当に消化しないで書いているからでしょうか。科学はちっとも難しいものではないのに、わかりやすいようにしようと(?)センセーショナルに書くと、まるで間違がった情報になってしまうのですね。
理化学研究所のニュースリリース8月30日によると、『生体をゼリーのように透明化する水溶性試薬「Scale」を開発-固定した生体組織を傷つけることなく、数ミリの深部を詳細に蛍光観察』というものです。書いてあることは正しいし、この手のことに詳しい人には、正しくメッセージが伝わるでしょうけれど、この組織が「固定した」もの、つまり殺した組織であることを見逃すと、次は透明人間か、ということになるのでしょう。
ぼくたちも科学に慣れていない人たちが間違えないようにメッセージを発信するよう、注意しなくちゃね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
ずっと前に、研究室の安全のために防犯カメラを取り付けることを考えていると書きましたね。見積もりは一カ所から取っただけですが、先ず大学の中で取り付けの許可を取らないといけないと思って、大学のあちこちに聞いて貰いました。
武装保安処と言うところがあって、大学の警備を受け持っている部署があります。ここの許可を貰えばいいと言うことが分かったので、そこに書類を出しました。申請書に許可の印鑑を貰いたいと思ったのですが、いずれ見に来るという返事でした。
ところが、大学の八十周年記念事業と重なって、そしてそのあとはぼくが11日間ここを留守にしていたので、昨日になりました。
武装保安処から取り付け場所のチェックに来ると思っていたのに、来た人は若い二人連れで、これが警備の人かと思っていたのに、どうも様子がおかしい。実は取り付けに来た人だったのです。
そして武装保安処のリーダーはそのあとやってきました。背が高く武張っていて、いかにも強くて、有能そうな人です。そしてカメラは剥き出しよりも、ケースに入っている方が安全だと言っていきました。それで取り付けることはOKになりました。教授室の前と実験室の前の二カ所です。
取り付けに来た人の試算では、ケーブルが70メートル必要で1 m当たり3元、その40mで420元、カメラが345元で二台で690元、500HDD付きの機器が950元。その他で合計2350元と言うことになったのですが、うちの学生は、それじゃ高い、他のところに頼もうなんて言い出して、実際に取り付けに来ている人たちを前に値段の交渉するのですよ。すごいですねえ。結局2300元になりました。
うちの研究室は女性が多いので、夜遅くは心配があります。監視カメラで監視していることをこのあたりに徹底させれば、犯罪の抑止力になるに違いないと思うので、防犯カメラ設置に踏み切ったわけです。
監視カメラ作動中!!!と言う注意書きを壁に貼りました。
今朝、部屋に来ると冷蔵庫が動いていないのですよ。カメラと記録装置の電源を取るために、使っているプラグを引っこ抜いて代わりに電源として使っていたのですね。昨日は気付きませんでしたが、まったく、もう。
これはともかく、むかし、政権にとって好ましくない人物を監視する社会を描いた「Enemy of the States」という映画がありましたが、いまのロンドンでは街角にはカメラがあって四六時中監視されているという話ですね。世知辛い世の中になったものですが、人々の善意だけで世の中が成り立っているわけではないので、仕方ないことでしょうね。日本の街角にも監視カメラを増やした方がいいと思います。
カテゴリ:日本の将来
たtさえ:
9月だというのに、もう冬がそこまで来たという気配です。一昨日の最高温度15度、昨日が13度で、最低温度が2度です。今朝の最低温度はマイナス2度だったそうです。
冗談じゃないよといいたいくらい、急に寒くなりました。明日の土曜日10月1日から7日間は国慶節の国家休日、中国の誕生日を祝う祝日です。
ぼくは特に休暇の予定はなく、この間長岡を訪ねたとき、糖脂質の合成酵素がB4galt5だと言うことを知りました。昔ぼくたちがB4galt6を調べたときの結果を論文にしていないので、それが論文に出来るかどうかを考えましょう。cDNAを貰ったり、分子生物学的手法を指導して貰ったり、いろいろな人たちの世話になっていますので、このままにしてはいけないですものね。
『ブータン、日本の常任理事国入りを一貫支持:26日に両国首脳会談
インド新聞 11年9月29日』
と言うのを見ました。ブータンが国家開発理念として「国民総幸福量(GNH)」を作っているのを最近知りましたが、日本の安保理常任理事国入りの共同提案になっている國は、モルジブとブータンだけと言うことは、これで知りました。
ついでのことに国連についての記事も目に入ったのですが、『国際連合(国連)は、英語で「United Nations」で、第二次世界大戦の、「連合国(これは日本語}」とおなじなのですね。
つまり、国連は、第二次世界大戦の戦勝国の連合として発足して、その戦勝国の中の主要5大国であるアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国が拒否権を持つ国連安保理の常任理事国になったのですって。
つまり、日本は戦争に負けた國として入っているわけで、第二次世界大戦と同じ枠組みを維持している組織の中で、安全保障理事会の常任理事國に入りたいなんて、ある意味では笑止の沙汰と言うべきでしょう。
日本は莫大な分担金を払い続けて国連機能を維持してきましたが、拒否権を持つ國の横暴をいさめるには、国連解体、出直しの提案したらいいのじゃないですか。
すべての國が対等の資格でない国連であることを、先ず明確にしないといけないでしょう。それなのに、国連中心で行くとか日本の政治家が言うなんて、ぼく以上に不勉強で、愚かだと思いますね。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
前の菅首相は脱原発を唱えたのに、そのあとの野田首相は就任後初の米国訪問で、すぐには「原子力撤廃の道」を歩まず、原子力発電所の安全性を「世界トップレベル」にすると言ったそうです。
原発の事故が起きて、それもチェルノブイリ並みの、あるいはそれ以上の事態になったにもかかわらず安全と言い続けた日本政府と東電は世間の信用を失い、日本の人たちは一挙に原発嫌いとなって、皆が脱原発を唱えています。
それでも、私たちは日本の将来のエネルギー事情を冷静に考える必要があります。日本は資源がない國で、人材しかありません。人材は磨いてこそ価値があり、日本は教育と研究で国をたてるより他ありません。
この人材で、日本初の科学技術を高め、そして産業を盛んにしてやっと日本は生きていけるのです。いまの日本の生活水準は世界最高です。若い人はこれが当たりまえと思っていますけれど、これを維持するには、それだけのものが必要ですよね。具体的に例を挙げれば電力であり、これはいま盛んに議論されている再生可能なエネルギーで供給されればいいですけれど、なかなかそうはいかないみたいです。
いまの日本の技術なら地震に安全な、そして今回のことで懲りて、最悪のことが起こってもなおかつ破滅に至らない原子炉を日本が設計することは可能でしょう。羮に懲りて、膾を吹くの愚を行ってはなりません。
サーチナ9月28日の記事によると、9月28日野田佳彦首相が原子力発電を支持するには三つの理由があると言うことです。
(1) 原発輸出は日本経済けん引に有利
(2) 安価な原発コスト
(3) 原子力を撤廃すれば、地方経済の発展が遅れる
ここには書いてありませんけれど、日本の原子力発電の裏には巨大な利権があるそうです。これで食っている大勢に人たちがいるとのことです。日本人は本質的には働き者と思っていますが、楽をして生きていこうという人たちも大勢いるみたいですね。
今回の大震災で、いろいろ隠れていたこと、知らなかったこと、無関心だったことが皆の前に曝されました。一生懸命考えて、日本にとって最善の道を選びましょう。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
大震災で大きな被害を受けた日本を復興させるために、どうしたらよいかと色々と議論されています。もちろんその一つが増税ですね。国民はあれこれ政府に注文を付け、文句ばかり言うけれど、税金は少ない方がよい、というのは昔から変わらない心理ですよね。
『フランスの富豪らが国の財政赤字削減を支援するため、高額所得者への増税を政府に要請した(ロイター2011年8月23日)』そうです。大富豪が自発的に要請したというのが、何とも凄いですね。
『週刊誌ヌーベル・オプセルバトゥールのウェブサイトに掲載された嘆願書は、企業首脳やビジネスリーダー、個人ら16人の連名で、同国の富豪らを対象にした「特別貢献税」の創設を提唱。海外への租税回避をさせない仕組みが必要だとしている。われわれはフランスの制度と欧州の環境から恩恵を受けていることを理解しており、その維持に一役買いたいと望む』と訴えました。
これはEUROの危機の中で、『フランスでは国債の格下げ観測もでていて、政府が高所得者向けの増税や住宅関連税制優遇の縮小、企業向け税控除の縮小などを検討している』中で、出て来たものです。自分の国を救うために敢えて自分たちの財産を國に出そうという犠牲的な精神に感動しましたが、国債の格下げを恐れる大富豪たちが、フランスを助けて、自分たちを守ろうと言うことらしいとも指摘されています。
アメリカでのオバマ大統領は富裕層(年収100万ドル)から最低でも中間層並みの税率で税金を課そうと発表しました。
米国の所得税は日本と同様、所得税が増えるほど税率が上がる累進制なのに、どうして富裕層の税率が中間層を下回かというと、給料には10~35%の6段階の所得税率はで税金がかかるけれど、キャピタル・ゲイン(配当や株式の値上り益)の税率は15%なので、収入の内容によっては総所得に対する税率が低くなるらしいです。
著名な投資家のウォーレン・バフェット氏によるとこれで、200億ドルの歳入が増加すると言う計算です(ちなみに、2011年度の財政赤字は1兆6450億ドル)。バフェット氏の意見に反応を寄せた人たちの中で、賛成するのは、3分の2いるそうです。
日本でも日本の富豪たちに「愛国税」を課したらいいという意見も出ています(板垣 英憲「マスコミに出ない政治経済の裏話」011年09月20日の、『野田佳彦首相は、国家の非常事態を救うため「金持ち大増税」で富裕層の「愛国心」の有無を試せ!』http://news.livedoor.com/article/detail/5877481/)。
でも、ぐずぐずしているうちに、前にも書きましたが、日本から逃げ出す富裕層が増えているので(『財政破綻、放射能汚染――“ジャパンリスク”を嫌気した富裕層の「日本脱出」が始まった!』週刊ダイヤモンド2011年10月3日)、日本から逃げられない私たちが日本を支える増税を負担することになるのでしょうね。
私たちには、守るべき財産というほどのものがないから、自然に、こういうことに疎くなっているからでしょう。自分の國を十分たちで守るのは当然のことと、せめて思おうではありませんか。
自分たちで盛り立てるにふさわしい國であって欲しいですね。いえ、「あって欲しい」なんて弱いですね。「私たちの誇るに足る國にしたい」というべきでしょう。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
10月に専門でない内容の講演を引き受けてしまって、色々と調べています。
もちろん伝えたい内容はすっきりと筋が通っているのですけれど、枝葉で膨らませて、あるいは綺麗な花で目先をごまかして、「研究者になろうよ」という話を通そうという魂胆です。
日本の科学研究費を調べてみました。この研究開発費の定義には色々あって、いままでの値の筋が通っているわけでもないみたいですし、世界各国で同じ基準で計算しているという保証もないようです。ですから大体の目安ですが、2003年には、アメリカが2897億ドルで1位、 2位は日本(1122億ドル)、3位はドイツ(594億ドル)、4位は中国(466億ドル)でした。
2010年はアメリカが世界の研究開発費の3分の1を占めてダントツなのは変わらず、2位は日本(1420億ドル)ですが、3位は中国(1114億ドル)と僅差で続きます。
2011年はアメリカが4053億ドルで相変わらずダントツの1位ですが、2位は逆転して中国が1537億ドル、日本は3位に落ちて1441億ドルと予想されています。アメリカが全世界の研究開発費の3分の1としますと、日本、中国がそれぞれ、10.6%、11.4%ということになります。
トップ10%論文シェア数で見てみましょう、生命科学では、アメリカがダントツの50%を占めています。日本はわずか5%。中国は3%。研究開発費の割合が分かりませんけれど、同じ比率なら日本発の論文で上位を占める割合は18%くらいあって良いことになります。つまり、日本の生命科学系への投資が少ないか、あるいは研究者の効率が極端に悪いかのどちらかですね。
投稿論文数に対するトップ論文数は、アメリカでは30%に対して50%ですから質の良いと言うか、注目を浴びる論文が多いのですね。日本ではほぼ同じ割合ですが、中国では逆転しています。
中国の研究論文で目につくのは化学・材料・物理・計算機。工学系の多いことです。材料のトップテンでは22%を占め(アメリカは25%、日本は8%)、工学では17%(アメリカでは24%、日本は5%)と秀でています。
分野ごとのシェアを見ていると、アメリカはどの分野でも同じくらい、つまりどの分野でも実績を挙げています。日本は生命科学系よりも工学系成果が高く、中国は殆ど工学系で世界に貢献しているというところでしょうか。
今度の講演の目的は、日本の今後は研究開発にしか生きる道はないこと強調することになるでしょう。ぼくは生命科学系ですけれど、日本が発展を続けるには、どの分野かにこだわることはないでしょうね。
カテゴリ:生命科学
さえ:
昨年の7月30日の朝日新聞に、「生まれ変わったら就きたい職業」というのが載っていたのを、この9月に長岡に行ったときに古川先生に教りました。年齢40歳以上(平均年齢55歳)の三千人に聞いたところ、一番人気が「大学教授・研究者」だったと書きましたね。
これはそのあと、医師、弁護士、パイロット、学芸員、公務員と続きます。
眺めてみると、「大学教授・研究者」が他と比べて、何となく違う感じです。この上位4種の職業(大学教授研究者、医師、弁護士、パイロット)は技術習得が困難なグループに属していて、実際の職業としては手堅い職業です。
しかし、同じように専門職と言っても、この「大学教授・研究者」は創造的職業であるところに大きな特徴があるように思います。おまけに私の経験で言うと、時間が自分の意志で自由に使えます。医師は大事な職業ですけれど、この1位と2位ではその内容に大きな違いがありますね。
この公務員までは手堅い職業です。公務員の人気は日本では6番目ですが、中国ではダントツ一番人気です。この間近くの千山に薬科大学の外国人教師の遠足に参加して行ったとき、沢山の寺院仏閣がありました。中には、公務員になれるよう祈る会堂が作られていて人気を集めていました。小学生まで、ゆくゆくは公務員になりたいと念じている國が中国です。
何故って、言うまでもないと思いますけれど、権力がありますから、一般の人たちに威張っていられます。そしてその権力は金に結びつきます。ここでは、自分の持つ力を使わないのはただの馬鹿と思われていますから、公務員は殆どが大金持ちになるわけですね。
つまりここの公務員は日本で言う公務員と、天と地ほどの隔たりがあります。
公務員に続く人気は、7位ジャーナリスト、8位アナウンサー、9位通訳・翻訳、10位俳優です。
13位カメラマン、15位画家・芸術家、18位伝統工芸職人、19位クラシック演奏家、22位ミュージシャン23位陶芸家と続きます。このあたりの職業は自分の個性を出して生きていきたいという願いですね。子供の頃の願望がこうやって表れているのでしょう。
ぼくもクラシックの演奏家にあこがれていましたっけ。高校の頃世の中に33・1/3回転のLPレコードがではじめて、そのHiFiの音の繊細さと華麗さに胸躍らせて、と言うか、脳みそをとろけさせながら聴いていました。受験勉強に名を借りて毎晩クラシックに聴き惚れていました。
現実、プロの演奏家になるには、最低でも1万時間の練習が必要ですから、善悪も分からない3歳児くらいからひたすら毎日5-6時間の練習を繰り返さないと演奏家にはなれません。つまり親が決めることですね。でも大抵の子は親から強制されて嫌々やっているうちに、本当に嫌いになって放り出してしまいます。
それに耐えて練習を続けて、なおかつ天分があって、さらに運にも恵まれた人が真のプロの演奏家になれるのです。それに比べて、科学の世界は先人の成果は誰にでも手の届くところに、つまり眼前に展開されているわけで、その成果を見手利用しようと思ったら誰でも出来るわけです。つまり科学の研究者になりたかったら、誰でもなれるというわけですね。
これが、今度の話の導入部になります。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
10月5日にスティーブ・ジョブズが56歳で亡くなりました。2004年に膵臓がんに罹って治療を続けながら、毎年の新製品の発表には舞台に立って製品の説明をしていました。今年も6月に皆の前に同じように表れましたが、アップルのCEOを8月に退いて、そして今日、この悲報を聞きました。
1989年にマックを買ったときは130万円くらいでした。その時以来、マッキントッシュの虜になって、新製品の出る度に買っていましたね。マックにどのくらいつぎ込んだかわかりません。
これだけ応援していたのですから、Windowsに追われて敗色濃厚な頃、アップルの株を買っておけば良かったですね。なんてことはともかく、アップルのお陰で楽にコンピュータを使ってきました。
Johns Hopkins にいる友人のY.C. Lee教授は、マッキントッシュは馬鹿でも使える、Windowsは誰にでも使いこなせるわけではない、といって、Macの信奉者を笑っていましたが、この馬鹿でも使えるというのがMacintoshにはじまり、iPod、iPadに発展していったスティーブ・ジョブズの基本的な考えだったのだと思います。
インターネットが普及して、ぼくたちには必須の研究の文献がデータベース化されて、それがインターネットで自由にアクセスできる時代になりましたが、自分のコンピューターの内部も、一瞬にして検索できるようにしたのはMacでした。確か2004年のことだったと思います。Windowsでも、今では出来るみたいですね。
大昔は文献は読んでその内容を手書きのメモにするしかなかったのですけれど、1960年代からはそれをコピーして自分の手元におけるようになり、それが今では電子ファイルにして自分のPCに入れておけるようになりました。
でもこの手の文献は、必要なときに直ぐに取り出せないといけません。
PCの中で整理をして置かなくても。この検索で一瞬にして必要な文献を見つけ出すことが出来るようになって、これほど嬉しいことはありませんでした。
My Wonderful Macです。整理の出来ない、怠け者への福音ですね。
スティーブ・ジョブズからの贈り物で、ぼくは研究者としての寿命を永らえているのです。いま、しみじみと、スティーブ・ジョブズに改めて感謝の念を捧げています。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
瀋陽で、とうとう炊飯器を買ってしましたよ。ヤマダ電機が瀋陽に店を出していて、二度目に行ったときに買いました。
米は特別栽培新潟越光をスーパーの家楽福で見付けたのですが、他の米と比べて数倍の値段でしたよ。この炊飯器で炊いたご飯は、つやつやと光って、何もおかずはいらない、ご飯だけで食べられる感じで、感激でした。
炊飯器目一杯の5.5杯分を炊いて、一方、ウシのすね肉800グラム(56元、 日本円にして約600円)を奮発してカレーを作って、昨晩は研究室の女子学生4人と幸せに晩ご飯を腹一杯食べました。
2003年に、瀋陽で教授楼に一室を貰ったとき、いわゆるFurnished apartmentでしたよね。家具、台所用品、冷蔵庫、電子オーブン、炊飯器、洗濯機など全部新品で揃っていました。
でも、この炊飯器は、炊いていると蓋がずれて湯気が漏れてしまうので、付ききりで蓋を抑えていましたね。それでも、美味しく炊けないので、とうとうぼくたちはこれを諦めて、加圧鍋をガス台に載せてご飯を炊くようになりました。
この春からはさえのためにご飯を作る必要がない、つまりぼくのことだけを考えればいいわけで、うちで一人分作ることがだんだん億劫になってしまいました。暁艶の厚意にすがって彼女が食堂から買ってきてくれるのを一緒に食べています。
それだけでは申しわけないので、時にはぼくが作ったり、外に食べに行ったりしています。でも、ここで食べるご飯があまりにまずいので、これはもう炊飯器を買って自分で米を炊くしかない、と思い立ちました。
ヤマダ電機に最初に観に行ったときは、「日本で一番よく売れている日本製」と宣伝しているPanasonicの炊飯器に4500元の値段が付いているのにびっくり。ぼくのひと月の生活費が飛んでしまいます。それで象印はあるの?と聞いたら、7700元の値段を示されて、肝をつぶしました。冗談じゃないよ、そんなの買えないよ。
ネットで日本の状況を調べて、日本でずっと使っているのと同じ程度の炊飯器が2-3万円で買えることが分かりました。それで、「さあ買うぞ」と腹を決めてヤマダ電機に行ったのです。国慶節の休暇の4日目です。中国製だと1600元-2000元で最高のものがあることが分かり、最初に薦められたのがSANYOのでした。
SANYO製品は贔屓にしてきましたけれど、この春、会社がなくなってしまったのでアフターサービスに問題があります。それを指摘して(これを言わないと、先方はSANYOを売りつける気でした)TOSHIBAにしました。1580元でした。
このクラスだとIHヒーターではないのですね。でも内釜が厚くて、これならいいご飯が炊けそう、としっかりと思わせる造りでした。実際使ってみて、満足しています。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
成田の第二ターミナルから瀋陽に向けて出発するときは、通関を済ませたあと三省堂で最後の本の買い物をします。手荷物のゆとりを見ながら、持てる範囲で本を買い込みます。今回は、原子力発電関係の本数冊を買って、小説は村山由佳の「ダブル・ファンタジー」を文庫本で買いました。
十年前に気付いて見ると、日本には若い女性作家が沢山いました。有吉佐和子、山崎豊子、三浦綾子、永井路子、曾野綾子、宮尾登美子だけじゃないのですね。
気付いてからは、あれこれを探して読みました。村山由佳、唯川恵、佐藤多佳子、梨木香歩、辻村深月、江国香織、恩田睦、あさのあつこ、三浦しをん、など沢山読みました。
村山由佳は、「天使の卵」を読んだとき、純愛をこうも透明に描ききるかと感心して、その続編にあたる「天使の梯子」も読みました。感動ものの純愛物語ですね。でも誰でも人はなまぐさく生きていますから、こんな綺麗ごとでは人生を生きているとは言えないでしょう。村山由佳はそれを承知で、異性を好きになると言うその情動と、人を好きになると言う狂おしいほどの気持ちと行動に焦点を当てたのでしょうが、きれい事過ぎて作家としては物足りない感じでした。
ですから、「翼 cry for the moon」は恋愛小説なのに、アメリカの抱える諸問題を深く追求していて、半端じゃありません。これを読んだときには、村山由佳は本物の小説家なのだと惚れ込みました。「星々の船」も、「すべての雲は銀の… Silver Lining」もそれぞれの人生で人々の抱える問題に鋭く分け入っています。
さて、「ダブル・ファンタジー」です。中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞の受賞作品ですって。
出版元の文藝春秋の惹き句は:「才能に恵まれながら夫の抑圧に苦しむ人気脚本家・奈津。
創作への関与に耐えられなくなったある日、デビューから敬愛していた演出家との関係をきっかけに家を飛び出した。
演出家の支配的で圧倒的な性愛に溺れたあと、不意に突き放された奈津は、かつての先輩との再会で新たな情事を重ねていく。
自らの殻を破るような性遍歴が最後にもたらしたものは――。」
性の描写が延々と続きますけれど、昔の富島健夫の官能小説のような感じはまるでありません。誰かと性愛をともなうめくるめく恋がしたいと言う主人公の思いは村山由佳そのものの表現だからじゃないでしょうか。脚本家の主人公が自分からの脱皮を図ったように、村山由佳もこの小説で見事な変身というか、新たな境地に脱皮を遂げたと言えると思います。
それにしてもと、ぼくは思います。人にとって性は、あるときは魔物となって人生を狂わせ、あるいは人生を昇華させる大事なものですが、男にとっての性と、女にとっての性はまるで違うのですね。
女は男なしには性への開眼はないのだ、その意味では女は男に頼る存在なのだ、と言うことを改めて感じさせられました。
ずっと、女と男は別の生き物だけれど、対等の存在だと想って来ましたが、実は違うと言うことをこの小説で明らかに認識したように思います。
さえはどうだったのでしょう? ついぞ、このような話をしたことはありませんでしたけれど。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
肉食系女子という言葉が流行りだして、まだ珍しかった頃は、男も強かったと思うけれど、今の日本では、肉食系というと女子のことを指して、草食系というと男子を指すようになってしまいました。
おまけに女性が、男は優しい人がいいなどというものですから、男は我も我もと、羊の皮を被って優しいふりをしているうちに、本当の羊になってしまったみたいですね。
ぼくの身の回りの若い友人が何人も独身のままでいます。どの友人も、仕事の達人で男として魅力的だと思うのですが、女性がみるところは違うみたいです。
このひとり者のままの友人たちに訊くと、「結婚したいですよお」、と言う返事が返ってきますが、彼らはずっと一人のままで暮らしています。ことによると、「結婚したいよお」と言う顔をすることがいけないのかも知れませんね。あるいは、時勢に乗って草食系を装うべきところを、転じ損なってしまい、相手にされなくなってしまったのでしょうか。
なんて思っていたとき、面白いスレッドをみました。
「何で日本の若者は草食化したんだ?」
以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/09/29(木) 21:10:02.69 ID:G2b+rQRg0
リリー:「草食系男子」なんてマスコミが作り出した架空の生き物だよね。
あれは、女性が男性から言い寄られなかった時の為の言い訳なんだよ。
女が「この人、私には手を出さないわ。草食系なんだわ」てね。
その女に魅力がなかっただけの話で、振られた理由にしているんだよ。
男の人も草食系でいるほうがもてるだろうって。
本当は自分に魅力がなくて男性が傾かなかったのに言い訳として言葉作って利用しているだけ。
最近の女性誌とか見てると、草食系とかアラフォーとか
自分たちの努力の欠如を言葉をつくって相手のせいにしようとするよね。
女性は現実から逃げるところがある。
40代をアラフォーと言ったり、“40代のおばさん”でいいじゃないか。そのことに自信を持てばいい。
みうら:あいつら怖いものに名前をつけて柔らかい表現にして
自分たちが傷つかないよう言葉つくってんのね(笑)
思いっきり笑っちゃいました。とくに、『40代をアラフォーと言ったり、“40代のおばさん”でいいじゃないか。そのことに自信を持てばいい。』
『あいつら怖いものに名前をつけて柔らかい表現にして、自分たちが傷つかないよう言葉つくってんのね』は、正に日本人の特質を就いていますね。
これが正しいかどうかは別として、一面を突いていうることは確かでしょう。ものごとはいろいろな角度から見ないといけませんね。そうすると、生きることが、ますます楽しくなるようです。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
朝ネットでニュースを見ていたら、『中高で運動部、生涯体力維持=未経験の20歳下と同レベルも―文科省体力調査 (時事通信 10月10日)』というのがありました。
一見してわかりにくいタイトルですが、言いたいのは『中高で運動部にいると20歳若くいられる―文科省体力調査』ということです。
これは継続調査で、1964年度から毎年実施してきました。今回は昨年5~10月、6~79歳までの約7万4000人を対象に、年齢に応じ一部を選択式として6~8項目をテストしたそうです。
『運動部での活動経験の有無と運動能力の関係に注目すると、中高で運動部に所属した45~49歳の男性の平均点(34.41点)は、経験のない25~29歳(35.43点)よりは低かったものの、20~24歳(33.50点)や30~34歳(33.74点)より高かった。中学時のみ経験がある45~49歳(32.32点)よりも2点ほど高く、大人になっても高い体力水準を維持していた』
この記事は45-49歳の大人が、20歳若い体力を維持していられると言うことですね。70歳を超えても、若いときの運動効果で、同じように若さを保っていられるかどうか知りたいところですが、それについては何も書いていません。
若いときに運動部にいたような人は運動に関心があってそれを続けているから、何もしない人に比べて体力に差が付くという見方もありますね。ずっと運動を続けているかどう違ってくるのか、どの程度違うのかを調べる必要があると思います。
きっとその観点でも調べていると思いますが、その発表がないのは、あまり差がないか、あるいは、差がありすぎて、人々を愕然とさせるか。
だって本人にとっては、この手の発表は、歳を取ってから聞いても後戻りしようがありませんものね。
女性では、男性よりも運動部にいたという効果はもっと歴然としていたそうです。子供には間に合わないから、孫たちに訴えましょう。運動部で身体を鍛えておけよって。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
夏の間うちの研究室に来ていた宋くんが、ソフトボールの試合があるから見に来ませんかと声を掛けてくれたのは、一月くらい前のことでした。5つのチームが総当たり制で試合をやるというので、一つだけ、彼のチームがでるのを見ました
エラーと悪送球と乱打戦で、どっちもどっちという感じでしたが、9-8で試合を制したそうです。
結局5チームの中の2位だったそうですが、その後で話を聞くと、全国大会のためにこの大学から1チームが出て、それが既にこの東北地区の代表チームなのだそうです。これから全国のチームと、桂林に出掛けて対戦するのですって。
その代表チームが毎日朝晩2時間ずつ練習していますよと言うので、ちょっとだけ観に行きました。
ピッチャーの投げるボールは、プレートからホームまで最低でも1.8 mの高さがなくてはいけない(最高の高さは3 m)というルールなのだそうです。ボールが緩いですから、投打を比べると圧倒的に打つ方が有利です。となると、勝つためには少しでも守備のエラーを減らすことですね。
見ていると、ころころエラーをしています。気付いたのは、ボールを取ったらどこに投げようとか思いながらボールを捕ろうとしているので、ランナーが気になって、ボールから目を離してしまうのですね。
ボールから目を離すことがなければ、エラーをすることなくボールが捕れます。と言うことは、ピッチャーが投げる前に、もしボールが自分のところに来たら自分はどこに投げよう、と考えておけばいいわけです。つまり予習ですね。
ここのところが、おろそかみたいです。
フライを捕るのを見ていると、左手を高く上げてキャッチしています。この時はグラブにボールが入ったのに、ボールが飛び出ていました。キャッチのあと素早く右手で押さえることが必要です。フライを捕るとき、ボールの落下点を目がけて走り寄るのはもちろんですが、左手はなるたけ目に近い方が、計算狂いをしません。つまり、取りやすいのです。おまけに太陽が上にあるとき、日射しが目に入るのを細かく防止できます。
内野も外野もゴロを捕るとき腰を落としていないし、両足をブロックして、捕れなくても身体に当てて前に落とすという形になっていません。間単にトンネルをしています。
三遊間にゴロが来てサードが取りに行ったとき、ショートがぼんやりしています。レフトフライを隣の10番目の選手がぼやっと見ています。お互いカバーをし合って、ミスを少しでも早く補うことが必要ですよね。
このように気付いたことを、宋くんと友だちのピッチャーのFrankに来て貰って教えました。
ぼくの指摘したことが身に付けば、きっと全国優勝間違いなしですね。他のチームの実力を知らないから、まあ、何とも言えませんけれど。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
村山由佳の「ダブル・ファンタジー」を読んだ感想を数日前に書きました。ぼくの一番感じたことは、「そうか、女って、男で開眼するんだ、女は男に依存しているんだ」という発見でした。35歳の脚本家の主人公はこのままでは一皮むけない、と焦っています。「女には賞味期限がある」と説明しています。
賞味期限のあるのは、生物(なまもの、いきもの)としては当然ですが、賞味期限って、老いを意識するまでかなあと思っていたので、調べてみました。
すると、『老いへの意識に男女差=女性は29歳、男性57歳―英国 (Record China 3月29日)』と言う記事があって、女は29歳から老いを感じるのだそうです。
女性が老いを感じるのは「胸が垂れた時」、「肌のつやや張りがなくなった時」、「行動が母親と同じようになったと感じた時」だと書いてあります。
「行動が母親と同じようになったと感じた時」というのは傑作ですね。子供を育てる母親となると、否応なしに自分が子供だった頃母親がどう言っていたか、どういう態度だったかを思い出すでしょう。子育て真っ最中の母親がこのように思うなら、老いを感じる年が平均29歳と、結構若いわけですね。
多くの女性が「胸が垂れた時」、「肌のつやや張りがなくなった時」を老いの始まりと認識しているようです。29歳とは若すぎる気がしますけれど、昔の化粧品のコマーシャルに、「25歳はお肌の曲がり角」と言う傑作なキャッチコピーがありましたっけ。
あれは26歳だったかなあ。肌の張り具合から判断すれば、生物的には、その通りなのでしょう。でも人間的には、それ以降もどんどん魅力を増しているわけです。人生を知らない若い女は、所詮生意気なだけですよね。
男の多くが57歳以降に老いを感じるそうです。性能力の衰えを老いと感じるわけですね。
青年期以降は衰える一方の身体ですが、57歳までは初めての女の前に出ても、あっちの方は引け目を感じることなく、何とかなるってことでしょう。
その頃ぼくはどうだったか良く覚えていませんけれど、今はもう立派な老人ですよね。人は若いと言ってくれるけれど。生物的には、もうとっくに賞味期限切れなのでしょうね。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
もう一つ、Record Chinaが出所ですけれど、『女性は46歳から男性にスルーされる―米メディア (Record China 7月3日)』というのがあります。
『調査を受けたある女性は、40代半ばに入った途端、男性がドアを開けてくれない、混雑したバスでも席を譲ってくれないなど、自分が「透明人間」になった感じがするようになったという。また同時に、彼女達の意見や観点が重視されなくなったと不安になり始める』ようになったそうです。
さらに、『50代半ばに入ると大多数の女性が他人から素敵だとみられることが少なくなると感じる。しかし、60歳を過ぎるとまた自信を取り戻し、あまり気にしなくなるという』
道を歩くと、女性は必ずすれ違う男から視線を向けられます。若くて綺麗な女を連れていると、それこそ人目を惹くのが良く分かります。時にはしつこいくらい、じろじろと上から下まで。顔と、胸を注視するそうですね。
でも、連れが若くないと、ちらと目を目を向けるだけです。これが、「スルーする感じ」なのでしょうね。
この世に自分はたった一つの唯一の存在なので、認められていれば嬉しいし、無視されれば哀しくなるのは当然ですよね。それまで見つめられていたのが、スルーされるようになる、残酷なことです。
最初の記事の中で、英ランカスター大学のキャリー・クーパー心理学教授は「老いに関する男女間の意識の大きな差は、社会の現実がもたらしたもの。われわれの社会においては、女性の魅力は特に重要である」と話しているそうです。
クーパー心理学教授は男の教授なのでしょう。だから、女性を気にして、大事にしているという発言なのでしょうね。
女性は何時でも何処でも、年齢の如何に関わらず魅力的な存在です。でも、女性に魅力を感じたくても、何時も自分のことばかり話していたり、世の中のことを攻撃ばかりしている人は、相手をしたくなくなりますね。
ま、これはお互い様のことですから、年を取っても客観的に自分を見て評価できる第三の目を持っていることが必要でしょう。それで初めて、生物学的賞味期限にはとらわれない、別の意味の賞味期限を延ばすことが出来るようになると思います。理想的には、賞味期限を死ぬぎりぎりまで延ばしたいものですね。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
以前ここに新しい婚姻法が施行されて、結婚した二人が離婚したとき、うちを買ったのが夫の親なら、うちは離婚の時の財産分の対象にならないなどとした婚姻法改訂があったと書きました。
もともと昔から中国では、結婚のために男性側は家を買い、女性は嫁入り道具、今ではくるまなど、を持って来る習わしがあるそうです。親が結婚する息子のためにマンションを買うのはごく普通に見られることですが、親が買って息子(夫婦)に与えたうちが離婚でみすみす半分になっては気の毒、という見方で、改訂があったのでしょう。
もっともな改訂と思ったのですけれど、最近の記事を見ると、これは大変評判が悪いのだそうです。
女性から言わせると、この婚姻法改定では、婚姻において(もともと)強い立場である男性側のみを守るものだとして、多くの女性の怒りを買ったのだそうです。
『女性の怒り買う婚姻法の新解釈、半数以上の女性が財産の平等分割を提唱―中国 Record China 8月24日』
結婚後に夫婦共同でローンを支払ってマンションを買っても、不動産証明書に妻の名前が入ってなければ、離婚したときには不動産の所有権は夫の物となってしまうわけですね。それで、はじめから対等に名義を書こうと主張するなら当然のことですけれど、それだけでなく、夫が買ったうちでも名義を半分私のものにしろ、そうでないと別れると言う女性も増えたそうです。
さらに女性の権利意識が高まってきて、収入の高い女性では、結婚年齢が遅くなってきているみたいです。日本は何十年も掛かって結婚に興味のない女性が徐々に増えてきていますが、中国は急激に増えるのではないでしょうか。
中国の実情は男尊女卑の社会であることと、歴史的に家は男が継ぐので男の子を頼るということから、男女産み分け、あるいは選別をやってきたために、中国の男女のアンバランスを作ってしまい、この十年のうちに結婚適齢期の三千万人の男が相手にあぶれると言われています。
結婚を選ばない女が増えると、適齢期なのに相手がいない男がますます増えます。今は結婚しない女を、剰女と呼んで蔑視した風潮がありますけれど、今に結婚できない男を、剰男と呼んで気の毒がることになりかねませんね。
コメント:
中華民族は危ないかもしれません。 ファンウェイ さん
剰男という言葉はすでに使われていますが、剰(聖と同じ発音sheng)闘士(聖闘士)ともよく呼ばれています。中国だけでなく、香港や台湾など華人社会に結婚しない女性はものすごく多いです。とくに香港の現状は一番深刻です。台湾の出生率は日本の方より低いです。結婚しなく、子供を生まない女性は多いからです。三千万人の男は結婚相手を見つけないといことはおおざっぱに同年齢の男女数を統計した結果です。しかし、違う年齢層の男女が結婚するケースは多いので、このリスクがだんだん各年齢層に分散される可能性があると言われます。先生は将来日本の女性が奪われる心配は要りません。(笑) (2011.10.15 01:26:52)
ファンウェイさん shanda さん
同じ年代同士以外で結婚しても、男性の数が絶対的に多いことには変わりはないですよね。つまり、3千万人の男が結婚したくても、あぶれちゃう。
剰男くんは、日本の女性を獲りに来たって良いのですよ。お互い様ですもの。 (2011.10.15 06:44:57)
カテゴリ:日本の将来
さえ:
10月12日から16日まで日本に滞在しています。津にある三重大学で国際ワークショップがあり、昨年に引き続いて瀋陽薬科大学から呉校長とぼくが招かれたのですよ。しかしこれも昨年と同じく、校長が出張できなくて、ぼく一人が参加しました。
三重大学は地域イノベーション学研究科という大学院を5年前に作って、国立から離れて独立法人化した今後の大学がどうやって生き延びるかについて、一つの見事な方向性を示したものとして、全国から注目されています。
一般的には大学院の研究科というと研究内容が、例えば「生命科学」みたいに、一つの言葉でくくれるものでしたけれど、この「地域イノベーション」研究科はそれぞれ別々の専門の先生たちの集まりですので、学生教育の核となるよう、1年1回の英語だけを使う国際ワークショップを企画して、今回が3回目でした。
ひょんな話で、ぼくは「誰でも研究者になれる」というタイトルの講演を引き受けたのですが、そういう話は学部学生にも聴いて欲しいから、是非「日本語」で話して欲しいと言われたのですよ。国際ワークショップですから、講演も、運営、要旨集も全て英語なのにね。
という訳で、話した事もないトピックの話の内容をいろいろと考えて、13日の講演に臨みました。聴衆はほぼ満席。講演時間は予定通り45分間、ぴたり。もし時間があったら、三重大学との共同研究の話をしようと思って用意していましたが、これは割愛しました。
質疑の時間は、研究者の政治的責任をどう思うかなんて重たい質問も受けましたが、出席している先生たちがいろいろとご自分たちの研究に対する考え方、研究への自分の思い、あるいは研究の思い出などを、出席している学生に研究とは何かをこの機会に伝えたいと、お話し下さっことも含めて、およそ30分。
研究者は一人一人、研究に対して違う思いを抱いていますね。こういった話は、普通は功成り名遂げた科学者が、一般向けに話すもので、ぼくみたいな、当たり前の研究者が研究にどのように取り組んできたかを話すことは、殆どないのですね。
この講演は少し焦点を変えて、もう一度お茶大で使うので、ここでは内容には触れませんね。
というわけで、滅多にない、貴重な経験をしましたが、聴いてくれた若い人たちが、「よっしゃ、研究者を、やったるでえ」と思い立ったかどうか。。。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
10月12日から16日まで日本に行ったでしょ。
12日は瀋陽から直行便で名古屋に飛びました。中部空港から高速船に乗って、津のホテルに到着したのが午後3時でした。そのあと、松阪市の山の中にある万協製薬に案内されました。同行は鶴岡教授、西村教授、そして公用車の運転手は奥村教授という豪華メンバーです。
この会社は1995年の神戸大地震で神戸の工場が壊滅してしまったあと、大学の同級生だった社長、社長夫人、現在の工場長の三人が、三人で松阪市の山奥に工場を建てました。年商3千7百万円から、今では約20億円にまで発展したそうです。
皮膚に付ける外用薬に特化した会社で、沢山の薬を作っています。企業理念のなかには、「独創性を持ち迅速・確実・安価・快適であることを最高の価値基準とする」ことを謳っています。「快適であること」を重視しているとは、ユニークですよね。
2008年の三重県経営品質賞、2009年日本経営品質賞、2011年環境経営優秀賞、などを受賞して、今や社長は全国で講演に引っ張りだこだそうです。話には何度も聞いているこのユニークな松浦社長に会えないのは残念でした。
パートも含めて90名という従業員をきめ細かく面倒を見ています。4人ひと組の疑似家族を作って、以前は一年に三度の食事会をさせていたそうですが、今では一人当たり十万円を支給して、海外旅行を自分たちで企画して出掛けるよう支援しています。
この家族の組み合わせは毎年変わり、自発的申し出ではなく、経営幹部が組み合わせを決めると言うことでした。
2階には4千冊に及ぶ漫画、数百冊のアニメ映画のコレクションがあるのは、壮観としか言いようがありません。会社の従業員を家族扱いすることで全社員の一体感を作っているようです。
地域イノベーション学科はこのように三重県の企業で成功している社長を講師として招いて、企業運営の話をして貰うというユニークな試みをしているほか、定員5名の研究科の大学院の博士課程に学生としても受け入れていて、この松浦社長は、今は博士課程2年生なのだそうです。
三重大学の地域活性化にかける大胆な意気込みには、昔の大学しか知らないぼくなど、聞くたびにびっくりしています。
コメント:
たゆまぬ努力に感謝 kaikaku21 さん
ご訪問ありがたく思います
「何人かの先生たちが作ったブログに、教師の会からリン クを張れば、教師の会としてはひとまず目的は果たせるこ とになる。」
これからも学問、友好のためがんばってください。
(2011.10.16 09:05:46)
kaikaku21さん shanda さん
何時も大胆な提案をしておられますね。
ブログでは各個人が自分の思いを述べることができるのですもの。
こうやって、日本を良い方向に変えることが出来るよう、少しでも務めましょう。 (2011.10.17 08:38:04)
カテゴリ:研究室風景
さえ:
Tシャツの人たちもいた中部空港から瀋陽に戻って来ると、気温は14度。
今朝の気温は1度ですよ。今日は最高でも8度くらいにしかならないそうです。おお、さむ。
空港には大学の運転手さんのほか、暁艶と一任が出迎えてくれました。
ラボに着いて、みんなとお土産の名古屋のういろう、マスヤ製菓を見学して頂いたお土産のせんべい、を一緒に。
ほら、中国で端午節の時に粽を食べるでしょ。日本でもこの端午節は男の子の節句として祝われてきて、同じように笹の葉にくるんだ粽を食べるけれど、中身は中国と違って、この「ういろう」ですよ。米の粉を練って蒸したもので、日本の伝統的なお菓子です。
原料がお米なので、重くなるし、値段も安いので、名古屋だけのお土産でね。他のところにはないので、今回初めて買ってきたわけ。
三重大学では大学を三重県の産業と一体になって発展させるものと考えて、新しい学問の展開のために、今までの工学部、医学部、農学部などから先進の研究室が集まって、新しく「地域イノベーション学研究科」を作って、それが國で認められたのが5年前かな。
大学院の新設は國が認めないと出来なくて、このところずっと新しい研究科の新設はどこの大学が申請しても、殆ど認められていないのです。だから、これは快挙ですね。
毎年修士12人、博士6人の入学を認めて新しい研究科が始まったけれど、研究室の研究内容は、それぞれで全く別々でしょ。それで、研究科を一つに纏めるための試みの一つがこの「国際ワークショップ」の開催で、全部英語でやろうというものでね。話す人も、質問も、ワークショップの運営もすべて英語。
だから初めて英語をを人前まで話すというわけで、英語の原稿を書いてきてそれを読み上げる人もいれば、PPTのスライドに全部書いてあって、それを読んでいく人もいました。もちろん、Japanese Englishと言って良い人もあったし、ぺらぺらとしゃべる学生もいたけれど。
その中で、ぼく一人だけ、話の内容を全員に理解して欲しいから日本語で話して欲しいと言われて、日本語で話したのですよ。
でも、それ以外に、人の講演を聴いているときは、何かを訊かないと失礼だし、それは英語で質問したけれど、ぼくの英語でわかりにくいみたいで、分かって貰うのが大変でした。
すると、「先生の英語は抜群に上手いのに、どうして分かって貰えないのですか」と、学生に訊かれました。
きっとね、ぼくの英語がChinese Englishだったのでしょう。
これで、全員の大笑いをとりました。。。
以上の会話はすべて英語です。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
13日には国際ワークショップに一日中出席して、14日の午前中は今年から発足した三重大学・社会連携研究センター・地域研究支援部門を矢野教授に見せて頂き、ぼくが瀋陽に十年近くいる間の機器の進歩に目を見張りました。
この機器ならあれも出来る、これも出来ると、いろいろと夢が膨らみました。もちろん瀋陽の現状を思い描くと、夢しょぼんですけれど。
この後も一日中付き合って下さったので、この部門長の若い矢野教授と大分親しくお話が出来ました。Discussionが共同研究に発展すると良いですね。
午後案内されたのが、製菓のマスヤ株式会社でした。さえは、おにぎりせんべいを覚えているでしょう?
1971年に亡くなったゆつきさんがこれが気に入っていて、というか、これしか食べられなくて、これを持ってお見舞いに行きましたね。1969年から発売して、もう40年を超えるこの主力商品を作っているお菓子屋さんで、本社と工場が伊勢にありました。
その工場を見学しました。せんべいの原料の米を洗って、米粉にして、練ってから、くり抜いて成形したせんべいを乾かすために、80 mの距離を数回ベルトコンベヤーで運んで乾かすそうです。これをガスバーナーで焼いて、たれを付けて、のりを付けて、乾かして、最後にパックに入っておにぎりせんべいが出来てくるまでに、米の処理を始めてから、三日間かかるのですって。設備を見れば、大規模処理工場ですね。
これに較べればジャガイモをスライスして油で揚げて、ハイ、できあがりの、ポテトチップスの製造工程は、きっと実に簡単で、単純でしょうね。
せんべいを作って売ることをこれだけ大規模に、設備投資して行うには、何度も社運を賭しての決断が必要だったでしょう。そしてこの設備を動かして大量のせんべいを生産・出荷しながらも、何時需要が下がって、この設備が無意味になるかもという恐怖を何度も、何度も味わってきているでしょう。
マスヤを見学して社長の話を伺って、創業家、経営者の気持ちをちょっとだけ推察することが出来ました。浜田社長に較べたら、大学教授なんて、はるかに気楽な商売といえそうですよ。
浜田社長も、地域イノベーション研究科の博士課程3年生だそうです。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
昨日は、マスヤ製菓を訪ねたことを書きましたが、もうちょっと、書いてみますね。
マスヤの浜田社長は伊勢の赤福の経営者の弟さんで、つまり二百五十年続いている名門のお菓子屋さんに育った人なのですって。そして自分は全く独立して別の店を張っているわけですが、オーナー社長の経営なので、ファミリービジネスといわれる経営形態の中で、どのようにしたら永続する企業として成功するかを日夜、考え続けているそうです。
明治の始めに福沢諭吉が日本人に欠けているものは自律の心だ、と言ったのを受けて、企業も自律する心を持つ人の集まりでないといけないと考え、それを育てることを経営理念にしていると言うことでした。
ぼくなんて企業経営からは遠く隔たった世界に住んでいて、大学の研究室を運営しているわけです。でも、大学教授は小企業のオーナーみたいなものだと言われています。企画、運営、現場、営業、集金の全ての細かいところに目を配って、一人でその役を全部こなしているわけですものね。
その立場からみると、研究室の目指す方向への一体感を研究室の学生一人一人が確りと持ってくれることがとても大事です。
ぼくたちの世界でも、論文のねつ造、データ偽造が世の中を結構、賑わせていますが、これを起こさないためには各自の自律心が必要で、そのために研究室の憲章を作って、ルールを決めて皆に徹底させていますよね。
マスヤの浜田社長はとても真面目な性格で、企業の発展のために心を砕きすぎるくらい考えているという強い印象を受けました。企業とは縁遠いと思ったぼくたちも、マスヤの経営理念と近いものがあることに気づいたのが大きな収穫で、勉強になりました。
会議室には「会社から見た良い社員とは」というのが貼ってありました。
意欲があり、志のあること
人から信頼されること
相手に気配りの出来ること
誠実で、正直であること
社会人として品位のあること
自分の意見を持っていて、それを述べられること
人に感謝の気持ちの持てる人
研究室の運営でも、研究室にとって良い学生は、これとかなり共通性がありますね。第一級の研究者に育てあげるのが、研究室憲章に書いてあるぼくたちの研究室の理念ですから、全く同じではないですが、マスヤの経営理念という見方も取り入れて、また考えて見ましょうね。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ おさえちゃん:
10月20日の今日はさえの誕生日。「さえ」って呼んでいるうちに、涙で声が出なくなります。
1958年に東大の化学教室の前でさえに再会してからは、ずっと特別な日でしたね。
瀋陽に持ってきたさえの去年の手帳を見ていると、1年前の誕生日には、黄澄澄、王麗、王毅楠、鄭大勇、陽暁艶、ぼくたちの娘、そして妹の弘ちゃんからお誕生日おめでとうというメイルやカードを貰っていますね。
ぼくは、一日前の19日に日本の出張から戻ってきて、20日には瀋陽からさえに沢山メイルを書いているけれど、その一つは次のようなものでした。
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さえ お誕生日おめでとう。
昨日の夜は10時半に寝たのに1時半に目が覚めてしまい、その時はうちにいるつもりで、しかも、You are my sunshineを声を出して歌っていました。さえの誕生日が意識下にあって、You are my sunshine なんて歌って目が覚めたのだと思います。
もう75歳なんだ。信じられないことですね。
さえは、決して無理しないで身体作りに励んで下さいね。そして、がんに負けずに立ち向かうぞと思ってね、ぼくのために。
さえのお誕生日にいられなくてごめんなさい。瀋陽にいて、さえのことを思いつつ、一方で研究のことも考えますね。
朝の温度は0-1度くらいらしい。寒いです。
ちゃいぼう
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これが最後のお誕生日になってしまいましたね。
You are my sunshineは、ぼくたちが仲良くなって、鵜の木のうちに行くたびに、お父様を囲んで歌った沢山の歌の一つでした。Sound of Musicのトラップファミリーみたいに、三枝家は親子六人で何時も歌を歌っていましたね。その楽しい時間も過ぎてしまいました。ぼくの心の中に残っているだけ。
お父様も、お母様も去ってしまい、そしていまは、さえがいません。
You are my sunshineの歌は、もう二度と口に出せません。
これがいまの現実なのだと分かっているけれど、さえのいない世界には耐えられない、何をしても、何を考えても空しい思いです。これじゃいけない、気をしっかり持って生きて行かなきゃと、一方ではちゃんと分かっているのだけれど。
ね、さえ。挫けているぼくを見たくないよね。
カテゴリ:友だち
さえ:
日本への出張から戻ってきた翌日、教授室のドアが大きな音で叩かれて、入ってきたのは川西老師でした。「おや、まあ」とぼくはびっくりしてから思いだしたのは、大分前に隣の池島先生から、川西老師が15日から瀋陽に二週間ほど滞在と聞いていたっけ。
5年前にこの大学に環境学科を作るときから手を貸していて、学科の教育、実習も本人自らだけでなく日本のあちこちの先生を連れてきて手伝っています。今年もこれで4回目の瀋陽訪問でしょう。そこまでやるかと言うほど、薬科大学の発展に尽くしています。
昨日の朝、大学について国際交流処の横を通りながら、一度くらい食事に誘おうかな、でも、そう言うと忙しいから国際交流処の人に申し出なさい、アレンジしてくれるから、という返事が何時も返ってきます。
そう言われたら、もしそれが自分だったら自分が国際交流処の人に、誰それと一緒に食事をしたいからそのように手配してくれと、言うだろうなあ。今度も同じように言われるだろうから、面倒くさいな、まあ、様子見しようか、なんて思いながら横を通り過ぎて歩いてきました。
それがですよ、不思議な暗合で、朝のうちに川西老師から電話が掛かってきて、昼は学生と食事に行くから、良かったら一緒に付き合わないか、と言うことでした。もちろん快諾しました。
昼に二人の学生を連れてと言うか、いつもは、この二人に案内されて食事をしているみたいですが、今日はぼくが一緒なのでどこでも行きたいところに行きましょう、大学持ちです、と言うので、お気に入りの唐萱閣に行きました。
「ここは、値段も手頃で、雰囲気も良く、これはと言うお客を案内するところですよ」と言ったら、「だって一度もここに、連れて来ていないじゃない」と言われてしまいました。そうかも知れないけれど、いままでだって、何度もこっちがご馳走しているじゃないですか。。。
ま、先輩だし、世話になっているし、年寄りだし、と自分をなだめて、仲好しの学生のJingさんも一緒だし、楽しくおしゃべりをしました。
「でも、良く保った方だね。普通はこんなに保たないよ。段々良いクスリがでるようになったんだね」と川西老師はぼくに言います。9月に会ったときも同じことを言われました。
おさえちゃんのことですよ。2003年春にがんの手術を受けて、そのあと今年の1月まで良く保ったよと、慰めて言っているのでしょうけれど、ぼくにしてみると、人の傷口に会う度に塩をすり込んでいるとしか受け取れません。
不思議な感覚を持った人です。次に会ったときにも同じことを言うようなら、きっとぼくの堪忍袋は切れちゃうかも。
カテゴリ:友だち
さえ:
瀋陽に戻った翌日の朝、メイルを開くとその一つは田中誠二さんが亡くなったという知らせでした。何十年ぶりに、この間の9月に会ったばかりなので、凍り付きました。
さえも知っての通り、中学の同級生で仲好しでしたよね。高校もクラスは違ったものの同じでした。でも、そのあとの進路が違うし、ぼくは名古屋に行ってしまったし、つきあいは絶えてしまいました。卒業後の集まりにぼくは殆ど出ていないので、集まりで会ったのは15年前くらいでしょうか。でも、そういう時ってゆっくりお喋りできませんよね。
さえのための2月の集まりに、ちょっと体調を崩しているので参加出来ない旨の、丁重な手紙を貰いました。それが気になっていたので、9月に日本で用事があるときちょっとでも会いたいと、夏にメイルを出して、会うことにしたのです。
いまから12年前に心臓を悪くして、生死に関わる大手術を受けたと言うことでした。ぼくはそのことをちっとも知らなかったし、いまも体調が良くないとのことなので、じゃ、会わなくっちゃと思ったのです。
鷺沼の駅の改札口で待っていてくれた誠二さんは、子供の頃の優しさのまま大人になり、歳を加えたと言う顔をほころばせて、ぼくを迎えてくれました。ぼくも、もし犬だったら、しっぽを激しく左右に振っていたに違いありません。
桂子夫人も一緒で、そのまま「うかい」に案内されました。ああ、こうやって、三人で会ったな、と蘇ってきたのは、新婚当時の誠二さんを訪ねたことがあって、ですからその時は五十年近い昔の、若い三人でしたよね。
その五十年の間、互いに違う生活を送ってきたのに、ぼくたちってそういうことを話題にしないのですよ。たしか昭和電工でかなり偉い地位にまでなったと思いますが、それはいまは関係ないことですね。子供が何人いて何しているのか、孫の代がどうなっているのか、お互い秘密にしてるわけじゃないけれど、そんなことにも大した関心はなく、いまどうなのか、何を考えているのか、世の中をどう見ているのか、などの話を、五十年の断絶を飛び越えて、昔の親しさのまま話し合いました。
もちろん、高校の時、誠二さんのお母さんの実家の松本のうちに招かれて、おばあさんが作ってくれた手打ちの蕎麦が、ぼくにとってはぼそぼそで食べるのに大変苦労した思いでや、その時初めて連れられていった美ヶ原からみる景色の雄大さが、いまでもぼくの高原へのあこがれの原点であるとか、大学2年生の夏は紹介された八ヶ岳山麓のお寺で過ごしたとか、昔の思いでは一杯あります。
「うかい」でご馳走になったあと、直ぐ近くのお宅にお邪魔して、最近凝っているというオペラから、アンナ・ネトレプコのルチアをみせてもらいました。
この10年近くオペラを見る機会がないので、アンナ・ネトレプコを全く知りませんでしたが、『難曲をゆとりを見せて歌いきるところがすごいですねえ。声も美しいですが、美人でだいぶ得をしているのじゃないかな』というのがぼくの正直な感想です。再生装置にも凝っているらしく、臨場感溢れていて、ついつい、惹き込まれて終わったときは涙が出ていました。
誠二さんはぼくの知っているオペラは殆ど持っていて、『次回にはアンナ・ネトレプコの「椿姫(2005年ザルツブルク音楽祭の収録」を見せよう』、『じゃ、また次に日本に戻ったら、寄らせて貰うね』と再会を約して別れたのに。
そのあと、お礼のメイルに書きました。『どうかお二人ともお大事に。お互いのためにどちらも長生きしなくちゃいけませんよ』と。
誠二さんからの返事の結びは、『貞子夫人の分も含めて、貴兄が健康で長命で過ごせることを祈念しています。我々夫婦も病を克服して人生を全うすべく努める積りです。』とあったのに。
桂子夫人も夏に手術を受けたと言うことで、いまはまだ体調の良くないときでしょう。彼女がくじけないよう、願うのみです。
カテゴリ:生命科学
さえ:
10月も終わりに近づいて、大学の構内の銀杏の葉が黄色に輝いて来ました。今朝はもう風に舞って散り始めています。ラボに着く前に、風に吹き散らされる黄金色の敷物を踏み分けながら構内を何周もしてきました。
このところ散歩をしないので、運動不足です。先週日曜日に日本から戻ってきて来て以来、PCの前に座りっぱなしでした。
研究室の土曜日のセミナーは僕が二度も日本に行きましたし、国慶節の休暇もあったりして、9月から始めていなかったのです。いままでは土曜日の演者のうち一人を、Glycobiologyのクラシックな論文紹介にあてて、本人に勉強させると同時に、みんなもいままでの科学の発展を勉強するという形だったのですけれど、どうも不十分じゃないかなと思うようになりました。
Glycobiologyの成果は一般の人は知らないし、大分沢山の成果が集積されているので、一寸くらい論文の背景を読んでも全体像をつかめないわけです。
それと、もう一つ、ぼくはここで大学院の講義をしていないでしょ。よその研究室に所属している人に講義しても、大抵は単位ほしさに来るだけで、僕の努力に見合わないという理由でした。
でも、この間、長岡の古川先生に会ったとき、「いいんですよ、自分のところの大学院学生に対する教育と思えば」と言われて、なるほどと思いました。うちの学生の教育と思えば、やる気も出ます。
それで、大学院の正課としては今年は間に合わないので、今年はうちの研究室のセミナーとしてぼくが講義を始めよう、それを元にして来年度以降は大学院の正課に申請しよう、と思って用意を始めました。
幸いなことに、Essentials of Glycobiology 2nd Ed.がネットで見られるのですね。これをダウンロードしてこれを底本にすることにしました。
昨日の土曜日が第一回でした。
本の一部をPPTで皆の前にみせて、皆にあてて読ませて、その部分を別の言葉で言わせてみる、ぼくが解説する、と言う形で全員参加のセミナーという形にしました。皆にみせるPPTはPDFにして配りました。
この次からは事前にPDFファイルを配りましょう。皆が予習をしてきて、大事なところを解説して、質疑に応えて、と言うアメリカの授業のような形にしましょう。
Glycobiology における重要な発見というのがリストになっていて、内容は納得できるものですけれど、ぼくたちの研究が入っていません。それで、1968年のChondroitinases、1986年のEndoglycoceramidase の発見を年表に付け加えで皆に渡しました。
元の本とは違うと気付いたら、皆はどう反応するでしょうね。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
前に経済産業大臣だった鉢呂さんが失言問題で辞めさせられましたね。一つは記者会見の時に記者の一人に袖をなすりつける真似をして「放射能つけちゃったぞ」といったということ、もう一つは福島の町を視察したあと「死の町」と形容したこと、この二つが咎められて辞職に追いやられました。
ぼくは、それはやり過ぎだと書きました。9月13日「就任早々の大臣が首になった」。最近それに関して、気になる記事を見ました。
週刊 上杉隆【第196回】 2011年10月13日『鉢呂前経産相の「放射能つけちゃうぞ」発言は虚報だった!』http://diamond.jp/articles/-/14408
『火曜日、筆者が司会を務める『ニュースの深層』(朝日ニュースター)に鉢呂吉雄前経済産業大臣が生出演した。冒頭、筆者は鉢呂氏が発したという「放射能つけちゃうぞ」発言の真意について聞いた。』
『放射能と言った記憶がないのです。確かに相槌を打ったような気もしますが、それもはっきりせず、自分で言ったような記憶はない。私も長年政治家 をやってきていますから、自分で言った言葉については大抵覚えております。でも、放射能という言葉自体、あまり使ったことがありませんし、放射性物質など ということはありましたが、なにしろ記憶にないのです。でも、優秀な記者さんたちがみんなそう報じるので、どうしてなのかなと思っておりました』
『結論からいえば、鉢呂氏は「放射能」も「つけちゃうぞ」も発言していない。発言のあったとされる当日、東京電力福島第一原発所の視察から戻った鉢 呂大臣(当時)が、赤坂宿舎に集まった4、5人の記者たちと懇談したのは事実だ。だが、防護服を着用したままの鉢呂氏に「放射能」という言葉を使って、水 を向けたのは記者たちのほうであり、それに対して、鉢呂氏は何気なく相槌を打っただけというのが真相なのだ。』
この上杉さんの文章からすると、鉢呂さんは「放射能をつけちゃうぞ」と言っていないのに、それを問題視されて辞めさせられたというのです。本人はどうして反論しなかったのでしょうね。もう一つの「死の町」が大問題で、官房長官も咎める態度に出たから、申し開きをしても意味ないと思ったのでしょうか。
もしこれが本当なら、マスコミファッショですよね。
上杉隆の次のコラムでは、「死の町」は文脈からして問題視することではないと書いています。『「放射能つけちゃうぞ」発言捏造をめぐる記者クラブの“やり方”――そしてさらなる新事実 週刊 上杉隆【第197回】 2011年10月21日』
当然ですよね。これを問題視する人こそおかしいよとぼくは書きました。
上記の、上杉隆の『鉢呂前経産相の「放射能つけちゃうぞ」発言は虚報だった!』と言うコラムにジャーナリストから全く反論がないそうです。
上杉隆が信頼に足る人物なのかどうかまったく分かりませんが、もう一つ問題になるのは、この記事が本当かどうか検証のしようもないわけですね。
ここで、はたと思うのは、然るべきマスコミのニュース・記事として読むと、ぼくたちはそれを信じてしまうと言うことですね。実際のところ、嘘か、本当か確かめようもないのですけれど。
いずれにせよ、人の言葉に安易に踊らせられないよう、良識だけはしっかりと持っていたいといけません。
コメント:
中国は大きすぎる kaikaku21 さん
上海旅行のブログ読ませてもらいました。懐かしく思いました。
世界の卸売り市場、義烏(イーウー)の帰りに寄りました。
中国は先生ご指摘の通りでなにもかも大きくただビックリするだけです。
自然災害が世界的に多くなりましたが何か意味があるのでしょうか。 (2011.10.24 17:01:28)
カテゴリ:日本の将来
さえ:
昨日は鉢呂さんの辞任問題について、上杉隆という人のBLOGから引用して、以前ぼくが書いた「こんなことで辞めることないじゃん」と言う見解を補強しました。
それが、BLOGSを見ていると、『上杉隆氏が辞任届提出 ー読売新聞記者への″暴言″で引責 (2011年10月23日)』というのですよ。
(http://news.livedoor.com/article/detail/5959375/)
驚いて読んでみましたが、上記の鉢呂さんの事とは関係ないみたいでした。この人は自由報道協会の暫定代表を務めていたそうです。
『20日に開かれた小沢一郎元民主党幹事長の記者会見後、出席していた読売新聞の記者と質問のマナーを巡って口論になり、上杉氏は激高し「なめんな、この野郎」などと発言。この様子がUstreamやニコニコ生放送で中継され、上杉氏らと読売新聞記者双方への批判が殺到』したそうです。
自由報道協会とは『公的な記者会見の開放を訴えるとともに、記者会見を代行主催する非営利団体として2011年に発足、福島第一原発事故に関する国会議員や識者の会見などを主催、記者クラブに参加できないフリーのジャーナリストやメディアへの門戸を開いてきた』ものだそうで、閉鎖的で、特権階級化した記者クラブに風穴を開けた存在のようですね。
問題になった小沢一郎元民主党幹事長を巡るごたごたの真相は良く分からないし、興味がもてないのですが、政治の情報公開こそ政権と民衆の間の公平さを保つ唯一の方法ですから、彼がそれに努力していることを大いに評価しましょう。
マスコミは中立、公平と言いながら、権力と馴れ合っていますから、蓋をされた臭いものをかぎつけて暴いていく勇気を持つジャーナリストが必要です。
でも、正しいことをしていると思っていても、人は驕ったり、傲慢になったらいけませんね。
カテゴリ:生命科学
さえ:
日本から加藤晃一教授(岡崎分子科学研究所・名市大)が二人のスタッフを連れて瀋陽の私たちを訪れています。上海で開かれる学会に出席するために中国に来て、その前にわざわざ北のはずれの瀋陽まで訪ねてきてくれたのです。
どうやって歓迎しようかと研究室の学生と話しているうち、大学を出て25年のうちに150を超える論文を然るべきジャーナルに発表していることが皆に伝わって、みんなびっくり仰天。
それまでは、ここでは山大爺が一番の教授だと思っていたのに、はるかに凄い研究者がいるんだ、おまけに写真を見ると山大爺よりもハンサムだしと、彼らが来る前からみんなは期待に胸躍らせて待っていました。
24日の午後遅く着いて、ホテルにチェックインした後は万象城のモールに出掛けて、食通広場であれこれを選んで一緒に食事をしました。25日は朝9時に大学に来て、大学の歴史館と薬草標本館を見て、研究室でおしゃべりをしました。今日は科学の日にして、うちの研究室の研究の紹介。昼は研究室全員を誘って唐萱閣。2時から図書館の講義室で、先ず加藤教授の講演。
一言で言うとNMRを用いた生体分子の相互作用の解析で、NMRが単に生体分子の構造解析に使われるだけでなく、相互作用をしている分子の解析にいまや使われていることから、まず話が始まりました。
特に相互作用に糖鎖が絡んでいる場合、いままではその解析は大変だったのですが、N15、C13、H2標識を用いる三次元NMRにより解析をして、例えばN-グリカンの根本にあるαフコースが抗体とFcレセプターの相互作用を阻害していることを分子のレベルで見事に解明した結果が示されて、この解析法の威力がまざまざと分かりました。
細胞の中の、あるいは外の、情報は、ある分子がある特定の分子を認識して結合することで情報を伝えますが、今や、どんな分子に結合するかではなく、その結合の内容が分子レベルで三次元的に解明される時代になってきたのですね。こういう先端的な科学から見ると、ぼくたちは一体何をやっているのだろう、宇宙戦争時代に地上で石を投げて戦争しているみたいな感じに思えてしまいますが、ある分子間相互作用が記載されなければ、その先の分子レベルの解明は出来ないわけです。つまり、ぼくたちの研究も必須な先導役なのですよね。
次の講演は同じく分子科学研究所の矢木真穂助教授で、ガングリオシドGM1によるβアミロイドの沈積する分子メカニズムの解析がやはりNMRを用いて行われていて、この話にも興奮しました。βアミロイドがGM1と反応するとき、糖鎖部分ではなく、糖と脂質の間の構造を見分けて二カ所で結合することを見つけています。
そうなると、GM1だけでなく他のガングリオシドでも良い訳で、実際に調べるとGM2でもβアミロイド沈積を惹き起こすそうです。沈積したβアミロイドがさらに他の分子を引き込んでその堆積が増えていく機構はまだ分かりませんけれど、明確になればそれを阻害する薬も開発できますね。
薬科大学もこれからのこの世界をリードしていくつもりなら、クスリの開発に先立つ分子機構の研究にこそ力を注がないといけないと思うのに、スタッフの誰一人としてこの講演の内容に興味を示さないのですもの、情けないことです。
うちの研究室の学生はみな興奮して、この様子では修士を出たら全員が彼のところに行ってしまうのではないかなあ。
カテゴリ:友だち
さえ:
26日は、分子科学研究所の加藤晃一教授とお二人を瀋陽の故宮に案内しました。うちの研究室からは陽暁艶と、崔玉?さんが付き合ってくれました。6人にはタクシーが二台必要ですから、中国語の堪能な二人がいないと間に合いません。
タクシーに加藤教授と乗ったので、早速日本語でサイエンス。
NMRをコンピュータと同じように、確立されて誰でも使える技術と捉えることが出来るか、つまり、このNMRに経験がなくても、NMRを用いる分子間相互作用の解析に入っていけるのかと訊くと、答はYESなのですよ。
うちの学生は、NMRのイロハも知らないけれど、科学的思考が出来るように育っていますから、実際にその気になれば転換可能みたいです。
NMRをやっている人が、分子間相互作用の解析をする対象をすべて自分で見付けるとは思えないですよね。面白い対象を、鵜の目鷹の目で物色しているのではないかと、考えてしまいます。
何処かで何か面白いものが見つかった、じゃ、自分が解析しようと思うとき、早い者勝ちなのか、棲み分けが出来ているのかに興味がありますが、NMRの研究者にとっては自分のスタイルがあるので、何にでも手を出すことはないけれど、本質的には早い者勝ちだそうです。
まあ、これは科学の世界ではどこもそうですね。これは、昨日書いたように、宇宙戦争時代に、地面に上に這いつくばって石を投げる戦いをしている感のあるぼくたちも、たとえばいまやっている研究でガングリオシドが最初に反応する分子を見付ければ、その反応機構を分子レベルで研究する対象になるわけですね。
加藤教授によると、いまにぼくたちみたいな生物系の研究者が、見付けた対象を分子的に解析するために、NMRを使える人を自分たちで抱える時代になるんじゃないかと言うことでした。
もちろん一方では、加藤教授のような先端的な専門家は、新しい技術開発をしてNMR解析の能力をどんどん高めているのですね。
昨日、うちの学生が先生はどの位働いているのですかと質問すると、24時間ですよと言う返事でした。ラボにいるときだけではなく、うちで寝ているときも考え続けていると言うことみたいですね。
それで、いま瀋陽に来て仕事から解放されて久し振りにのんびりとした時間だということでしたが、ぼくも土日なしに朝の7時から夜の8時まで何時もラボにいますから、彼らの訪問のお陰で、同じように自分を解放して休みを楽しみ、同時に勉強も出来ました。
一緒の矢木真穂助教授は、「こんな言い方では失礼かも知れませんが、まるでお祖父さんのうちに来たみたいです」と言うことでした。くつろげたと言うことでしょう。嬉しい言葉ですね。別れるとき彼女は、ぼくを優しくハグしてくれました。
サイエンスを語りつつ三百年前の清朝の創設期に思いを馳せて、昨日までのきつい冷え込みが去った快適な一日を一緒に楽しみ、夕方、上海に向かう彼らを桃仙空港に見送りました。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
65歳以上の人口が総人口に占める割合を高齢化率と言って、高齢化率7% - 14%が高齢化社会、14% - 21%で高齢社会、21% -を越えると超高齢社会というそうです。
日本は1970年に高齢化社会、1995年に高齢社会になり、2007年からは超高齢社会となりました。(資料:日本-「国勢調査」、「日本の将来推計人口-平成14年1月推計」:中位推計(国立社会保障・人口問題研究所)。
中国は1999年から高齢化社会に入り、『2010年11月1日までに、中国では60歳以上の高齢者は1億7800万人に達し、人口総数の13.26%、65歳以上の老人は1億1900万人、人口総数の8.87%を占めている。』
日本の1970年の高齢化社会に相当する割合ですけれど、中国は世界で唯一の老齢人口が1億人を超える国ですし、その老齢人口は日本の総人口並みですよね。
瀋陽の街は碁盤上に綺麗に区切られた都市で、私たちがここに来た頃の街は7階建てくらいの一般向け住宅が建ち並び、人々はこれに住んでました。今ではこれが至るところで壊されていて、高層ビルがこれに置き換わっています。それでも、街には至る所に公園があり、ここを歩くと驚くほど多くの老人に出合います。
これが日本と違うところですね。日本では老人が全人口の五人に一人くらいはいるはずなのに、街では滅多に見かけません。うちに引っ込んでいるか、病院暮らしなのか、ともかく中国では公園は老人であふれかえっています。
彼らは台を囲んでカード遊びをしたり、老人が二胡を弾いて傍では老女が大声で歌っていたり、大勢集まってダンスに興じていたりしています。大学でも60歳が定年なので(女性は55歳)、元気をもてあまして公園に集まっているのでしょう。
上海では60歳以上の老人の数は331万人となって、上海市人口の23.4%を占めていて、2030年は40%を占めると見込まれているそうです。
『上海市教育委員会が発行した「第12次5カ年計画」によると、2015年までに、若干のハイレベルの老年大学を開き、老年教育の窓口にする。10カ所の理論研究、コース開発、教師育成、情報管理などの基地を建設する。100冊の老年教育教材を編集し、100カ所のモデル老年社会教育基地を建設する。3000カ所の団地基準化学習場所を建設する。10000の老人学習チームを設立する。』
『これまで、上海市で、各クラス、各種の老年教育機関が277カ所ある。年に40万人が学習に参加している』そうです。暇を持てあましている老人を教育学習に駆り立てるのも良いですが、もっと老人パワーを生産的なことに使えないものでしょうか。考えてみましょう。
伝統がずっと生きている中国では、大学を出たら沢山稼いで両親の面倒を見ると言う学生が多いです。それも良いですけれど、日本のような核家族化も進みそうですから、これからは老人ホームを経営すれば確実にビジネスになりますね。1億人以上の老齢人口なのですよ。
特に金持ちに絞っても、金持ちこそ老人の面倒を人に任せたいでしょうから、十分にハイクラスの老人施設を作れば、良いビジネスとなるでしょう。
日本でワタミがやっているような中産階級向けの老人ホームも、ヘルパー養成の学校も沢山作って人を育てる必要があることを考えると、総合的には大きな多角経営のビジネスになりますね。今度日本のノウハウを調べてきましょうか。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
『深夜に購買希望者が殺到!超お買い得マンション―上海市(Record China 10月28日)』と言うのがありました。『上海市のあるマンションで400物件が一斉に売りに出され、深夜だというのに1000人もの購入希望者が行列して殺到した』そうです。
『1平米あたり2万3500元(約28万円)で売り出していたこの物件。1000人が殺到した理由は、1平米あたり6000元(約7万円)という大幅な減額によるもの』だそうで、安くなった理由は共同購入だからと書いてあります。
共同購入というのがよく分からなかったので、調べてみました。
中国では、値段は売り手と書いての双方の交渉で決まりますね。つまり値段はあってなきがごとしですから、慣れていないと買う方としては高値でつかまされるのではないかと、とても不安です。
買うときはともかく値切ります。ぼくたちも、まだ中国に慣れていないときに、観光地などで値切って買ったでしょ。大体三倍くらいにふっかけているという感触でしたね。
もっとも、本当に中国になれてくると、三分の一に値切って買ったものが、普通の市場では半分もしない値段で売られていましたね。
つまり『中国には値切りの文化が根付いていて、一人では強気で値切れないけれど、大勢なら大幅値引きも可能だ』ということで、共同購入というのが始まり、大変な人気なのだそうです。
『26歳のホワイトカラー、金さんは毎日1時間半かけて割引商品を物色する。昨年10月には見知らぬ4人と「アウディ」を共同購入し、1500ドル以上安くなった』と言う話もあります。
このマンションの元値が1平米当たり31000元ですから、日本円に換算して、約35万円です。
いま東京都の新築マンションの平均は1平米当たり76万円ですから、日本の半分です。港区の新築マンションの高値は1平米当たり145万円ですから、それと比べると4分の1ですね。
それでも給料の格差は約10倍近くありますから、日本の数倍から10倍の負担と言うことになります。
広州、上海、北京といった都市では新築3LDKのマンションを買おうとすれば、300万元(約3670万円)以上は必要です。『広州、上海、北京などの都市の平均月収は4000元(約4万9000円)。共働きでも世帯収入は8000元(約9万8000円)。収入の50%をマンション購入に充てるとしても月4000元、年5万元(約61万5000円)程度。利子を計算に入れずとも支払いに60年以上かかる計算になる。社会主義の中国では土地の購入は許されず、70年の使用権を買うという形式。支払いが終わったころにはそろそろマンションとのお別れが近づいている計算だ。』
中国の男は結婚するためにはマンションを手に入れないといけません。金持ち以外の普通の男の子は、本当に大変。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
中国の汽車の中で売っている弁当は六ヶ月腐らないのだそうです。『日中駅弁対決!「幕の内」VS「6カ月腐らない弁当」、その軍配は?―中国掲示板(Record China 10月29日)』
『この駅弁、中身はご飯、ジャガイモ、タマゴといったオーソドックスなものだが、「防腐剤無添加」で常温保存が可能というから画期的だ。普通なら真空か低温でしか6カ月ももたないはずだが、一体どんな技術でこれを実現させたのだろうか?』
『「これはありえない」「なにか問題やウソがあるのでは」と』話題になっているそうです。
『10月8日、上海市閔行区疾病予防管理センターの検査結果が明らかとなったが、特に問題はなかったという。なぜ品質保持期限がこんなにも長いのか。誰もが気になるところだが、製造メーカーは企業秘密だとして回答を避けた。』
調べてみると細菌数などは問題なかったと言うことですが、そりゃそうでしょう。その時点で細菌が基準を上回っているはずはありません。どうやってそれを可能にしているのか、防腐剤・保存剤は何をどれだけ使っているのかなどを明らかにしない検査って、意味があるのでしょうか。
中国の月餅は中秋の名月に合わせて売り出されて、その日の翌日には市場から姿を消します。市場で買えるのは2ヶ月足らずです。その時期に合わせて膨大な量を生産して売り出すのですから防腐剤などが必要ですね。日本のお菓子ように、ひとつひとつ密封されて、脱酸素剤が入っていることは極めてまれです。
先日ある人が、月餅を買って一年置いておいたけれど、全く腐らず、食べてみたら味もそのままだったと言うことでした。これは素晴らしいことなのか、防腐剤も沢山食べることになって身体に悪いことなのか、ともかく月餅を買うのを遠慮してしまいますね。実際、多くの添加物が入っているので、この夏多くの國が中国からの月餅の輸入を禁止したそうです。
このように話題になれば、買わなければいいのですけれど、そうでないとどんなものを買わされているか、私たちには防衛のしようもありませんね。
この中国の汽車の駅弁は美味しくないそうです。日本の駅弁を食べてみると、『感動と嫉妬で「心中穏やかでいられなかった」とつづっている。どれも美味しそうで色彩も鮮やか。品数も多く、ざっと数えただけで20種類以上も入っている。こんなにボリュームたっぷりなのに、油っぽくないためどんなに食べても胸焼けしない。「なんて幸せな気分にさせてくれるのか」と絶賛している』と書いてありました。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
中国では、どんどん新築マンションが建てられるけれど、一般庶民は年収の60年分を注ぎ込まないと買えないのが現状のようです。それでもどんどん建てられて次々と売れていくのは、中国の若者としては買わないと結婚も出来ないし、家庭も築けないし、つまり人生が描けないから買わざるを得ないみたいです。
うちの研究室は女子学生ばかりですから、結婚しても夫がうちを用意するので自分には関わりないことみたいです。面白い社会ですね。
この國では、大学の数をどんどん増やして卒業生を増やしています。高速道路をどんどん増やして、いまや世界一の延長路線です、高速鉄道を中国中に張り巡らせることにして、この夏の温州の大事故で計画は減速しましたが、それでもその方向に進んでいます。こうやって、國の発展の基礎になるものを激しく作っていますね。
でも、出生率が極度に低下しているそうです。1人の女性が一生で産む子供の平均数を特殊合計出生率というでしょ。人口を維持できる特殊合計出生率では2.1だそうです。日本は1.27で、日本の将来が危ぶまれていますね。
以前はフランスが1.20と低くてどうなるかと心配していたら、いまは1.89になったそうです。これでも人口減に方向ですけれど極端な低下ではないですね。
『若者の生活苦と不動産価格高騰が中国の出生率低下を招く―英紙(Record China2011年10月27日)』によると、最低出生率の国(地域)はどこも華人居住区で、シンガポール(1.09)、香港(0.97)、マカオ(0.91)、台湾(0.90)と続貴、中国本土はなんと、1.22なのだそうです。人口減で大騒ぎをしている日本の1.27に比べても低いですね。
原因として考えられるのは、『子供の質を重視することや、女性の教育水準や就職率、給与水準が上がり出産のコストが上がったことが』が考えられるようです。アメリカの場合には不動産が10%上がると出生率は1%下がるそうなので、このところの不動産のものすごい値上がりも、出生率の低下を促進しますね。
この記事の分析によると、『若い世代には多くの負担がかかっている。学校に入るのも、仕事を探すのも難しい。仕事が見つかっても結婚はまた難しい。子供を産み育てるには金がかかる。そこに住宅購入とくれば、ほとんど一生分の給与が費やされ、子供を持つのは遅くなり、子供の数も自然と少なくなり、子供を持たないこともありうる。これはその国の若者の生活の大変さを物語っている数値といえまいか』と言うことですが、いまの学生を見ていると大いに納得できます。
大学の卒業生が630万人もいて、就職先は足りません。卒業して仕事を直ぐ見つけられる人は恵まれています。うちを買わないと結婚できないから結婚するのも大変。結婚できても、子供の教育にはべらぼうに金が掛かるみたいです。
日本でも生活の大変さが出生率に影響を及ぼしていると分析されています。日本では50年掛かったのが、中国では15年で近代化に成功したそうです。
近代化に急速に追いついて、その意味ではまだ若い中国で、若者がもう深刻な生活の大変さに直面していると言うことは、この国は走り続けているのをちょっと止めて、落ち着いて対策を講じないといけないと言うことでしょうか。
カテゴリ:インターネット
さえ:
世の中はiPhone 4Sが出て、それが日本ではソフトバンクとKDDIの両方から発売されて、結構な騒ぎになっています。ソフトバンクのほうが情報伝達量が二倍ある。いや、KDDIのほうが良く繋がるし音質が良い、などなど。
ぼくたち大昔、初台にあるNTTのあの豪華なビルを見て以来、アンチNTTですから、昔はボーダフォンを使っていましたね。その後は、夜の9時まではソフトバンク同士は無料というので中国の留学生が使っているから、ぼくたちもソフトバンクの仲間に入りました。
と言っても、当たり前の携帯を使っていて、iPhoneが発売されてKasiaが直ぐに手に入れて、その話によると凄い、もう殆ど持ち歩けるPCだと言うのを聞いていましたけれど、ぼくたちには必要ないでしたね。
でも、最近、次の記事を読みました。
『スマートフォンに向かって歌うだけで即座に曲を探してくれるSoundHound。1日の楽曲検索数は400万超(TechCrunch Japan 10月27日)』
『モバイル端末のマイクを前にして、ちょっと歌って見るだけでその楽曲を探しだしてくれるSoundHoundをご存知だろうか。音楽検索と言えばShazamが有名だが、SoundHoundはSound2Sound’テクノロジーにより音をそのまま音として認識して検索する。従来の音をまずテキスト化するというような手間を取らずに検索してしまうのだ。』
こりゃ凄い。だって、映画にしたって一部を思い出して、あれなんだっけとか、歌の一部、あるいは曲の一部が頭に浮かんで、それをハミングしてこれなんだったっけ、といままでお互いによく尋ねていましたよね。どちらかというとぼくが訊いて、さえが教えてくれていたけれど。
いまはさえに訊くことが出来なくなってしまって、他のことならググっちゃったって良いけれど、メロディだとそうは行かないですよね。それが、直ぐに教えてくれるとなると、これは凄い。流石Steve Jobsですね。でも記事によると、『SoundHoundは最近iOS版をアップデートし、AppleのiCloud対応とした。これにより音楽や検索履歴をすべてのiOSデバイスで同期できるようになった』ということで、つまり、直ぐにApple storeに発注してしまいそう。
呆けが進んで、同じ曲を思い出して、SoundHoundが教えるままに、発注しそうになったら、iPhoneは教えてくれるのでしょうか。
カテゴリ:友だち
さえ:
今朝もあの新聞配達の自転車に乗っているお姉さんに会いました。歩道を歩いていると後ろから、「ハロー」という何時もの声が聞こえました。すれ違うときはハイタッチを交わすのですけれど、今日は後ろからで、それでも肩を叩いて腕を触って、最後に手にタッチしたら、クルミを呉れました。
あいかわらずこちらは中国語を話せないのに、出合うと何時もにこにこと挨拶してくれます。この間名前を聞いたのですよ。すると王さんでした。
何時もフレンドリーで、何時か会って日本人かと聞かれて「おはようございまーす」と言われたときから、全く変わらない微笑外交です。昨年、さえも一緒に写真を撮りましたね。道で会うと、挨拶を交わすだけなのですがそのあと一日、心がほんわかと温かいです。
でも、この頃中国のニュースを見ると恐ろしいことばかりです。
ついこの間は、二歳の女の子がクルマに轢かれて倒れているのに、通行人はそれを眺めたままで何もせず行ってしまっいました。19人目の人が助けたけれど、その前にまた次のクルマに轢かれているのでよ。
一部始終は交通の監視カメラに写っていて、映像に基づいて通行人を同定して調べたら、誰もが「そんなの知らなかった」と言ったそうです。わずかに一人の女性が「見て見ぬ振りをしたことで、こころが咎めている」と言ったのが救いですが、でも何もしなかったのです。結局この女の子は病院で9日目になくなりました。
近頃は、道で老人が倒れていても、誰も助けないそうです。
倒れた老人が「倒れたのは自分のせいだ、誰も悪くない、だから助けてくれ」と叫び続けて、やっとこの老人を病院に通報した人がいたそうです。
あるいは倒れた老人が、懐から百元札を出して「これを上げるから助けてくれ」と叫んで、やっと助けを得ることが出来た、というのがニュースになる國なのですよ。
数年前に、倒れている老人を助けた青年が、「おまえが私を突き飛ばして怪我させたのだ」と訴えられてこの青年は有罪となって、罰金を払わされたそうです。裁判所の見解は、この青年に、「もしやましいことがなければ、この老人を助けて病院に運んだりしなかっただろう」という見方だったそうです。
裁判所も裁判所ですが、このような見方が出てくる社会的背景を思うと、慄然としますね。
礼節の國というイメージは、もうすっかり吹き飛んで、とげとげしい人情のひとかけらもない國になってしまったという感じです。
もしぼくが道で倒れて、王さんが行きあわせたら、きっと助けてくれるでしょう。でも、彼女の知らない人が倒れていたら、王さんは目を背けて行ってしまうということでしょうか。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
昨日ここに書いた、ひき逃げされた少女がやっと助けられるまでに、18人もの通行人が見て見ぬふりをして通り過ぎたという話は、中国中に大議論を呼び起こしているみたいです。やっぱり、これは恥ずかしいことだし、このことに知らん顔は出来ないと言うことですね。
この事件は、明らかに中国人が人としての基本的なモラルを失っていることを示しています。
『何故中国人は道徳心を喪失したのか? 少女の死を機に議論―中国(Record China 2011年10月26日)』によると、網易ブログのエントリー「中国人が道徳、誠実さを欠く五つの原因」がこの問題を考察しています。
その五つの原因として「法治の欠如」「憲法、法律が機能していないこと」「政治リーダーが誠実さを欠いていること」「伝統的メディアとその記者が権力におもねり、真実を追究しないこと」「教育の政治化」が挙げられています。
これらの原因を取り除かないかぎり、中国社会の道徳は回復しないと主張しているそうです。
ここに挙げられている五つの原因は相互に絡み合っていて、どれか一つを変えることも出来なければ、一つを変えても他には波及しそうもないし、まるでいまのままでは「中国人のモラルを良くするなんて無理だよ」だと言っているみたいですね。
日本では、困っている人を助けるのはまだ当たり前のことですよね。それがニュースになることはあまりないのじゃないでしょうか。東京のJRの線路に落ちた人を救おうとして、自分が亡くなってしまった韓国人のことを思い出します。彼の父親は、人として当然のことをしようとしたのだ、と言ったと思います。
つい最近は、浙江省杭州市の西湖で13日、おぼれる女性を見て水に飛び込んで助けたウルグアイ人女性がいました。
彼女は西湖に観光に行き、女性が水に落ちるのを見ました。周囲の人はただ見ているだけだったし、水に落ちた人を撮影している人も7人か8人いたそうで、最初は事故ではなく、魚でも捕っているのだろうと思ったそうです。
でも、そのうちおぼれていると分かり、写真を撮っているだけの人々に、「人が死にそうになっているのに、写真を撮るだけなんて、どういうことなの」と英語で怒鳴って、自分が飛び込んで女性を岸に引き上げたそうです。『おぼれる中国人助けた外国人女性、写真撮っていた野次馬を批判(サーチナ 10月31日)』
知っている人には親切で、こころ許す仲になるととことん親切な中国人も本当だし、知らないと全く路傍の石以上にに無視できる中国人も、本当の中国人です。四千年の長い歴史がはぐくんできた人の生き様です。中国人のDNAに染み込んだ性格は、簡単には変わりようがないのでしょうね。
カテゴリ:研究室風景
一年後にはさえ:
昨年の秋学期は、色々と出来事があって、毎月やっている院生研究室の院生の研究報告会Progress Reportを全くやっていませんでした。2月末に戻ってきてからも、毎月のProgress Reportの集まりを開きませんでした。これはぼくに心のゆとりがなかったからでしょうね。
それでも毎週の学生の個別指導では研究を直接見ているので、ぼくは問題ないにしても学生同士が他の人の研究を聴くチャンスがないのが問題でした。今年度の新学期になっても、二度も日本に行ったりしたので、11月からProgress Reportを始めるぞと言うことにしました。話をしてこなかったシニアの院生は沢山の内容が溜まっている上に、新人が3人いますので、先ず、彼らに分かるように話をするところから開始です。
笑笑の報告から始まりました。「GD1aのシグナルはGrb2を通ってMAPK経由でNOS2を抑制する」と言う研究です。笑笑の話を新人の3人がただ黙って聞いています。ウエスタンブロットの実験結果が出てきて、そこには沢山の分子のリン酸化が示されています。
それでぼくは「EGRFのチロシン残基のリン酸化の話をしているけれど、チロシン以外のアミノ酸がリン酸化されることはあるか、あるとすると、どのアミノ酸か」と、新人に訊きました。
情けないことに、新しい修士の1年生は全く知らないのですよ。リン酸化を知らないのにただ受け身で聞いているなんて、どういうことでしょう。ここは勉強する集まりだから遠慮なく知らないことは訊きなさい。と言って、説明しました。セリン・トレオニンのリン酸化の方が、チロシンのリン酸化に比べて遙かに多く使われていることも。
ErkにErk1とErk2が出てくるけれど、ぽけっとして見ているだけです。一体これなんだと思わなきゃね。
ウエスタンブロットでActinがコントロールに使われています。新人に、これなんだと思う?と尋ねます。分からなきゃ、話をしている笑笑に訊きなさい。というわけで、笑笑は一生懸命説明をしました。
修士1年生は卒研の経験もないし、この大学でもないので、基礎知識が恐ろしいほど不足しています。いまGlycobiologyの講義を始めましたが、もっと基本的な基礎知識を教えないといけないみたいです。
一年後には三人が出てしまうので、そのときやっと経験二年になるいま2年生の崔玉Tingが最年長になるのですよ。そして三人が経験一年。。。
カテゴリ:薬科大学
さえ おさえ おさえちゃん:
おさえに報告です。大学の先生たちを食事に招きました。
この9月に遼寧省政府の友誼賞というのを貰ったでしょ。これは当然受賞を申請してくれた大学の人たちがいたわけだし、ぼくが受賞するのにふさわしと思われる業績を挙げられたのには、この大学の多くに人たちの支援があったからでね。
それで、この際このように特に世話になった人たちを招いて食事会をしようと思いました。きっとおさえもそう言いだしたに違いありません。国際交流処の蔡処長と葛さんに相談を持ちかけました。
校長とか院長とか皆自分の研究室の仕事以外に役を持って忙しく動いている人たちですから、こちらで日にちを勝手に決めるわけにはいきません。それで、このような人たちの日程を見て、何時か晩餐会を開けるようにしてください、と国際交流処に調整を頼みました。
それが9月の終わりのことでしたから、それから一ヶ月経ったころ、11月3日の朝、今日が都合良いと電話が掛かってきました。それも、ぼくの申し出た話と違って、大学がお祝いにぼくを招いてくれるというのですよ。
それじゃ話が違います、こちらがお礼をしようというのですよと、押し問答をして、ぼくがホストになることは認めて貰えましたが、日にちはその日に決定済みです。
何しろここに8年以上暮らしていますから、きっとその日になって「今日やる」と言ってきそうな予感があったので、暁艶を巻き込んでお土産に何が良いかを物色してあらかじめ注文して手に入れていました。腰のところを温めるようになった電気ウオーマーです。
これだけは準備が良かったけれど、大学がホストになるという話だったので、招きたい人たち全部に連絡が行っていないし、場所を決めて皆に連絡をするのに汗だくでした。中国語のメッセージを携帯で打たなくてはいけないし、こういったこと全部を暁艶が一日の実験を中止して手助けしてくれました。
というわけで、場所は大学が最初にやると言っていた豪華なレストラン粤海明珠をそのまま予約し、暁艶とぼくは5時までに着いてメニューを見て料理を選び、なんて書くと立派ですけれど、ぼくはもう疲れ果ててしまって、頭は全く働かず、ぼーっとして全部暁艶に任せました。
今日のお客は、程卯生副校長、蔡洪宇国際交流処長、王鴎国際交流処副処長、楊静玉生命科学院副院長、鄒莉波薬理学教授、呉英良薬理学教授、遊松分子生物学教授、張栄生物化学教授、葛丹丹国際交流処員、林利彦教授です。こちらはぼくと暁艶の計12名。
林利彦教授は新任ですから、こういう機会に大学の優れた指導者たちと知り合えるようにと思って招いたのですよ。
最初はぼくの中国語の挨拶で、どうして今日これをやるのか、皆様ありがとう、と言う内容をたどたどしく話して、乾杯。みんなが口口におめでとうと言ってくれて、こちらはおかげさまでと返事をして、お互いにこにこ楽しくあれこれお喋りをして、そして豪華な食事を楽しみました。これで、ここにさえがいたなら申し分なかったのですけど。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
『子供の孝行心を養うためのプロジェクトがスタート、5年で100万人を目標―中国(Record China 11月1日)』というのを見ると、中国全土で、孝行心を養育するためのプロジェクトが始まるそうです。4-6才の子供が対象ですって。
話を聴かされている子供の写真が写っていました。「アア、もう退屈でやってらんねえ」とでも言う、ふてくされた顔でした
この頃での教育では、『知識の偏重、徳育の軽視の現象が見られる。プロジェクトでは子供の孝行心を養うことを通じ、孝行文化の普及教育を実施し、小さなころから目上の者を敬う美徳を培っていきたい』のだそうです。でも、2007年の河北省の大学生の調査では、大学入学の理由について、32%の学生が「両親に良い暮らしをさせてあげたいから」と答えていたそうです。これを日本で調査したら、どんな数値になるでしょう。
ぼくだって、親のためなんて書くはずないし、ひょとすると、日本では零%になっちゃうんじゃないかな。
つまり日本人の私たちから見たら、遙かに親孝行ばかり考えている学生が沢山いることになりますが、それでも、足りないわけですね。その孝行心を養育するために、どういう教育をするのでしょうね。
中国では、親、老師、上司、権力者を敬い、従えと言う儒教精神がずっと根を張っていたように思います。その長幼序ありと言って世の中の秩序を守らせようとした孔子の論語は、共産党政府によって否定されたのですよ。
もちろんそれでも、その考えが根強く残っているので、だから大学の学生の半分が自分の将来は親に楽をさせることだと、当たり前に答えるわけですね。それが減ってきたからと言って、「親を大事に」と言っても今の時代に効き目があるでしょうか。
大事にしなくてはいけないと、自然に心から敬える親であることが、先に来なくっちゃね。
これは国家も同じでしょう。國を敬え、國のために死ね、と、いくら言い聞かせても、尊敬したい國、その国民であることが誇りである國、その國の存続のためなら自分の命を賭しても良いと思える國であることが先でしょ、なんと言ってもね。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
子供の孝行心を養うためのプロジェクトのことを書きましたが、11月2日のRecord Chinaでは、『孝行心に富む子供を100万人育成?そんなん、中国社会が病んでいる証拠だ!』と言うタイトルで、「中国民主同盟」の党員がブログでこれの批判をしていたと載っていました。
中国は一党独裁なので、政党は共産党しかないように思いますが、実際は結構沢山の政党があるのです。と言っても野党ではなく、その政党に入っているからといって、就職、出世、に何の悪影響もないという、言ってみれば御用政党ですね。
この大学の前の呉校長は共産党員で、校長の次には党書記を兼職し、最高の地位を占めていました。この9月に副校長だった畢老師が校長の職につきましたが、畢校長は別の党の党員だという話です。
というわけで、「中国民主同盟」の党員は野党ではないのですけれど、手厳しく批判を展開しています。『孝行心とは目上の人々に対する思いやりであり、中国の文化価値の根幹をなしている。だが、孝行心があるか、ないかの判断は人それぞれ。中国倫理学会は「成績優秀な子供の96%に孝行心があった」と報告しているが、幼い子供の一体何を基準に「孝行心がある」「孝行心がない」と判断したのだろうか?』
『孝行心は尊ばれるべきもので、幼い子供のころから培われるべき精神だ。だがそれは社会全体の意識のなかで自然と学び取るもので、「プロジェクト」などという形式で教えるものではない。』
社会がちゃんとしていれば、孝行心は自然と養われるものだと、ぼくと同じようなこととを言っています。問題は社会がどうちゃんとすればいいかですね。
『中国には「○○学会」や「○○委員会」などの下部組織が多数存在する。そのどれもが上部組織に寄生し、国民の血税を使っては無駄な調査や計画を実施。デタラメな数字やデータを公表しては国民をだましている。このような行為こそ「民族に対する不孝」だ。政治体制を改善しようともせずに反腐敗キャンペーンを連呼するのと同様、「孝行心プロジェクト」は社会全体が病んでいる現れだ。』
公務員の汚職など政治の腐敗は、政治体制が悪いのだと言いきっていますね。その体制を変えようとせずに腐敗をなくそうというキャンペーンはただの空念仏だと、断じています。いまの政治体制が悪いのを改めないで、孝行心を教育しようなどと言う小手先のがまやかしは金の無駄遣い以外の何者でもないと、いいきってます。
国慶節で首相が、汚職を何とかしないと國が危ないと言いましたが、体制の中からもこれじゃいけないという声がしきりに出るようになったのですね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
ぼくたちが2003年に薬科大学に招かれたとき、何度か食事に招かれましたね。校長や副校長などの他は、大学のいろいろな人たちの組み合わせでした。それで、ぼくたちが大学の主要な人たちを、いまは再開発でなくなってしまったレストラン阿福仔に食事に招きました。
あのときは、料理を選ぶのにさえを蔡さんが手伝ってくれたけれど、食事になったら極めてわずかしか出てきませんでしたね。蔡さんがぼくたちを気の毒に思って注文を控えたらしいし、お客は皆これで良いよいいよと言ってくれたけれど、ぼくは面子を失ったように思いましたっけ。
中国では一番の上席にお客を招いた側の主人が座ります。左側の校長と右側の副校長に挟まれて、結構気がつかれましたっけ。ですからそれ以来、招待側のぼくはそこの対面の席に座ります、これが日本式だと言って。もちろん今回もそうしましたよ。
二度目の招待は、研究室のセットアップと日本からの実験器具などの受け容れと搬入に大変お世話になった生化学科の老張老師と小張老師、それに事務方の人たちを、別の日に火鍋(しゃぶしゃぶ)の宴会に招きましたね。
大学の主立った人たちを招いたのはこの時の二回と、そして一人になったぼくが招いた今回で、三回目です。はじめの二回を昔のことなのに鮮明に覚えているのは、ぼくたちが主役を張ったからでしょう。
つまりOne of thoseであるのと、Only Oneとして振る舞うのとで印象がまるで違うわけですが、これで気付くのは自分が仕切ることが好きなのだと思います。大学や組織の中ではOne of thoseですけれど自分の研究室では、すべては自分が思うままですから、それが好きだからずっと続けていられるのか、あるいは長くやっているからそれに慣れきってしまったからなのか、ともかく、自分が主役であることが大好きなのだろうと思います。
だから、ぼくはいまの生活が気に入っていて、これを何時までも続けたいわけですね。
これはぼくだけでなくみんな多かれ少なかれ、少なくとも大学教授をやっているとそういう性格になるのでしょう。誰からも「先生、先生」と言われていると、自分は特別の人間なんだという気になってしまうのでしょう。ですから、定年を設けて、もう良いですよ、お辞めになって下さい、と言うことにするのですね。
いまの日本は一律に定年で辞めさせるのではなく、研究費が取ってこられる人たちは特別の延長を認めています。でも、これだって、弟子がやっている研究費の審査員に学界の重鎮が、「何とか俺を頼むよ」と言えば、通ってしまいそうですから、必ずしも良い制度ではないですね。
この大学では後進の道をふさいでいるわけではないし、この大学の例外としてぼくは優遇して貰っていますが、公式にはあと1年半の契約です。ことによるとあと1年延長が認めて貰えるかも知れませんが、それで終わりにしないと、悪い例を残すことになってしまうでしょう。気をつけましょうね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
この大学との契約を延長したのは去年でした。その時さえは日本に行って療養していたので、あとで知らせましたね。
ぼくたちがここに来たのは2003年で、最初は5年の契約でした。しかし、毎年学生が来るし、修士の学生が入ると年限は3年間ですから、2006年からは、学生を採って良いですかって呉校長に毎年訊いて、いいよという返事を貰って学生を採っていましたね。
それを続けていてはっと気付いたら2010年で、2008年以来ずっと正式契約なしだったことに双方が気付いたのでした、それで2008年に遡って改めて5年延長という契約書を取り交わしました。その時に、そのあともまだ学生を採る気でいたので、さらに延長が可能かを訊いて、校長は、いいですよ、先生については全く問題ないですよ、と言うことでした。
この秋も博士課程と、修士課程ににそれぞれ学生が入ったので、契約期限の2013年を越えて1年の延長が認められていないといけなかったのですが、ぼくも、誰も、それに気付いていませんでした。
10月になって、理科基地の4年生の女子学生(仮に思さんとしますね)がいまはここで卒研生をしたい、来年からはここの院生になりたい、と言ってきて、OKをしたのですが、契約のことはすっかり忘れていました。
そしたら、10月22日の土曜日の朝、思さんが、基地クラスの担任に山大爺の契約は2013年までだから、そこには進学できないと担任の先生に言われた、どうしよう、と泣きそうになって言ってきました。
なるほど、手続きが不備でした。それに9月15日にそれまで副校長だった畢老師が校長になることが発表されました。と言っても、噂だけで流れていて、それが公開されたのは何故か1ヶ月経ってからなので、正式に彼が校長になったのを知ったのは10月終わりです。
というわけで、畢校長にお祝いを述べるためにも会おうと思いました。会えるかどうかの都合を尋ねて貰ったときに、この期限のことも聞いて貰ったところ、延長は大丈夫と言うことでした。ひとまず安心です。でも、ちゃんと向かい合って話し合わなくっちゃね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
先週の水曜日の夜、Progress Reportを一年ぶりに再会しました。笑笑が話をしたけれど、この9月から参加した院生たちに研究のバックグラウンドを理解させるために、いろいろとぼくが説明を加えたりしたので、第一部がやっと終わったところで夜の8時半となってしまい、それでお終いにしました。
その次がまた一週間経ってしまって、昨晩その続きを始めました。
この間、分からなければどんどん質問をしなくちゃいけないよと、新人を叱咤激励したためでしょうか、はじめの話は二次元電気泳動から始まったのですが、モノクローナル抗体を使っているのにどうして沢山余分なスポットがあるのだろう、という質問がでました
モノクローナル抗体なら特異的で一種類のタンパク質を攻撃する抗体なので、抗体としては単一ですけれど、それを作成するところに問題がありますね。大体モノクローナル抗体をどうやって作るか知っているの?と訊ねても、新人はうーんと言うだけです。それで笑笑の代わりに前に出て、1975年にケーラーとミルシュタインが考え出したモノクローナル抗体の作成法の話をしました。
そうやって単一の抗体だけを作る細胞をクローニングすることが出来たら、後は抗体を作らせるだけですが、普通は、ネズミの腹水に細胞を播種して増やします。腹水を取り出して細胞を除いた上清は抗体を含んでいてすぐ使えますけれど、腹水が沢山のタンパク質を含んでいます。
おそらくこれがこの原因でしょうね。抗体だけを綺麗にすれば、このバックグランドのバンドは消えるでしょう。
ネズミ由来でないタンパク質を抗原としてネズミに打ったときに抗体が出来てくる原理を説明したら、その抗体にどうしてまた抗体を作らないかという質問が出て、自己と非自己を抗体は見分けるという話をしました。
何で、沢山の異物に際限なく抗体が作れるのかという疑問が出てきますが、それは抗体産生細胞のおおもとがDNA配列を再編成して、様々な配列の特異性を持った抗体をつくれるように分化するからです。利根川さんはこれでノーベル賞を貰いましたね。
ここに着目すると、一卵性双生児は遺伝子は全く同じですが、育っていくときにこの抗体産生細胞がカバーする配列については二人の間に違いが出てきます。この点では全く同じじゃないですね。
おまけに最近、脳細胞の分化のときにも、DNA配列の再編成があることが見つかりました。脳細胞の多様性を保証するために巧妙な仕組みがあるのですね。
現在では、これ以外の所では、どの細胞でも遺伝子は同一であると思われています。もちろんここに来るまでの歴史をひもとくと、多くに人たちが沢山の研究をしてきました。Gordon, Briggs and Kingなどの研究で、細胞分化に伴って遺伝子の性質が変わると思われていたのが、Dollyの誕生で概念がまたすっかり大きく変わりましたね。遺伝子は本質的には変わらない、と。それが、山中さんのiPS細胞の発見につながりました。
このDollyは誕生したときから歳をとっていましたね。どうしてか、ということから、テロメア、テロメラーゼの話になり、どうして人は120歳以上生きられないかという話をしました。
ここにはおざっぱに書きましたが、話が次々と質問を呼んで、ぼくは笑笑を押しのけたまま、1時間半も話をしてしまいました。でも、質問が出ると言うことは良いことで、ぼくも話をすることをとても楽しみました。みんなも話を聞くのがこんなに面白い事はなかったと口々に言ってくれましたよ。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
昨夜も続けてProgress Reportを開きました。三回目ですけれど、話し手はまだ最初の笑笑のままです。
ガングリオシドがこの細胞で、セカンドメッセンジャーであるNOガスを生産する酵素NOS2の生産を抑制します。ガングリオシドで活性化される細胞側の経路は、GRB2/SOS/RAS/RAF/MEK/ERKで、こうやって伝わるシグナルが最終的には、NOS2の生産を抑えるのです。
うちの修士一年生に入ってきたばかりの二人は、このシグナル伝達が良く飲み込めないでいます。細胞の中の情報は(外でもそうですけれど)、分子間の相互作用で伝わるという根本的なコンセプトが欠けています。この薬科大学では学部学生でもちゃんと理解されていますけれど、よその大学から来ている人たちは、薬科大学の大学院に入るという受験勉強ばかりしていて、本当に大事なことを知らないみたいです。
よその大学から大学院に結構学生が入ってきますが、それは入学試験に合格するからで、いわゆる学力はここに比べて大幅に落ちるというのが通説です。シグナル伝達の基本を知らないのですよ。情報伝達は分子間相互作用なのだという基本的なコンセプトがないわけです。
いまここで彼らがちゃんと理解しないと、このまま、訳も分からずに実験をすることになります。このProgress Reportはちょうど良い機会ですから、この際徹底的に理解させようと言うのが、ぼくの取った基本的な方針です。だって他の機会ってないのですもの。
この細胞はがん細胞なので、実際はNOガスを生産するNOS2が沢山作られています。しかし細胞の中では、この生産を抑えるシグナルもあって、それはGRB2/SOS/RAS/RAF/MEK/ERK経路を活性化して、NOS2の生産をちょっとだけですけれど、抑えているのですね。
ガングリオシドは同じ経路を利用してNOS2生産を抑えています。
でも、この上流のシグナルが違うのですね。何もないときはRGFRが活性化されて、このシグナル経路が活性化されています。
EGFRの活性を抑えるか、EGFRの発現量を抑えるとNOS2の生産が増えます。つまり何時もは抑制のシグナルを出しているわけですね。
しかし、EGFRの活性を抑えても、EGFRの発現量を抑えても、ガングリオシドを与えるとNOS2の生産は抑えられます。つまりガングリオシドのシグナルはEGFRを通らずに、GRB2/SOS/RAS/RAF/MEK/ERK経路を活性化して、NOS2を抑えているのです。
それでは、それは何だろうと、GRB2抗体による共沈、あるいは抗リン酸化チロシン抗体による染色で、その謎探しをしています。ところがここのところをいくら説明しても、新人には分かって貰えないのですよ。
コメント:
Re:プログレスレポートで新人教育 その一(11/11) shougyoku さん
今晩は!初めまして、お立ち寄り有難うございます。
難しいお話なので、あとでじっくり読ませてもらいます。
ひとまずは御礼です。。。 (2011.11.11 18:07:31)
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
中国の犬ってこの頃とっても小さいのですよ。
ぼくたちが中国の瀋陽に来たころ、犬の姿をあまり見かけませんでしたね。時々大きなシェパード、あるいはラブラドルレトリーバーを連れている人がいましたが、非常にまれでした。
猫は全く見かけませんでしたね。ともかく犬も猫も普通に飼っている姿は見られませんでした。それが、その後数年の間に、犬や猫が街に、人と一緒にいるのを見るのが当たり前になってきました。人々の暮らしが急速に豊かになってきたのですね。
でもね。毎日、大学に通うとき住宅団地の建物の間を通り抜けて来るので犬をよく見かけるのですが、犬の大きさが猫みたいなのです。つまり、小さいのですよ。
犬が増えだした頃はペキニーズ、ラサアプソ、マルチーズなど、それぞれの普通の大きさだったのに、いつの間にかすごく小型しているのです。小さなチワワよりも大きいですけれど。
チワワは小さいなりに賢そうで(実際この間日本で警察犬の検定に通ったというニュースを読みました)可愛い顔をしていますけれど、この妙に小さくなった犬はちっとも可愛くないのですよ。日本の狛犬さんの顔を思い浮かべてみて下さいな。小さいのにあの顔です。
犬が増えるにつれて瀋陽では、ラブラドルレトリーバーおよびゴールデンレトリーバーを除いて、大型犬飼育の禁止令が出されたと言う話です。それで小型犬を飼うのは納得できますけれど、小型犬や中型犬でも結構食べますから、猫みたいに小さくする方に選択を掛けて、餌の量を減らすことで、自分たちの暮らしに取り込みやすくしたのではないか、と思っています。
ニュースによると、ハルピンでも犬を飼うのは小型犬だけという条例が出たそうです『一家に犬1匹政策、大型犬の肩身が狭くなる―黒竜江省ハルビン市(Record China 11月12日)』
『2011年10月18日、中国・黒竜江省第11回人民代表大会常務委員会第28回会議にて「ハルビン市養犬管理条例」が承認された。条例の規定によると、犬は各世帯1匹までとし、大型犬や獰猛な犬は飼育禁止となる。』
『条例は他に、「法人は飼い犬を住民に譲ってはいけない」「住民は飼い犬を法人名義で登記してはいけない」「飼育者は犬の吠え声を抑える必要がある」「オープンテラスでの飼育は禁止する」「公共場所での犬小屋設置および器具の放置は禁止」「定期的に犬の毛の手入れをし、お風呂に入れなくてはならない」などがある』そうです。
住宅の間を通り抜けるときに何時も見かける数匹の犬は、手入れされていなくてとても汚いので、「綺麗にしなさい」という条例があるのは理解出来ますね。それでも、「犬の糞は綺麗に始末しなさい」なんてのもありません。
今の時期は、冬に備えてどのうちも貯蔵用の白菜、ネギを道ばたで山ほど干していますけれど、「これに犬の放尿禁止」なんてものありません。この小さい犬は互いにじゃれ合いながらあっちの白菜におしっこ、こっちのネギにおしっこです。やれやれ。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
この薬科大学に来る前は、姚新生老師がここの校長でしたが、2003年に着任したときは呉春福老師が校長でした。若くてびっくりしましたね。それから8年。この9月18日付けで、呉老師は兼任だった党書記専門となり(と言っても、大学で最高の地位ですけれど)、これまで副校長だった畢開順老師が校長に昇格しました。
畢副校長は、ぼくたちの一階下に研究室を持っていますし、大学主催の宴会などでホストを良く務めていたので出合う機会が多く、さえのことを自分の母親と同じ年代なので、お母さんのようだと何時も言っていましたね。
二年前さえが大学の主要な人たちに公式に別れを告げたとき、彼のところにも行って礼物をあげましたし、彼は彼でがんに効くという蛙の卵巣の高価な干物を用意して待っていてくれました。
大学はこういうこと一般にそうなのか、畢校長の昇格を直ぐには公表せず、噂が流れているだけでした。大学のHPに正式に発表されたのは10月半ば過ぎです。ともかく、畢校長の昇格を知って個人的にお祝いを言いたいと思っていました。
ところが、連絡がなかなか取れないのですね。
やっと電話で繋がった校長秘書室の誰かが言うには、国際交流処の蔡処長を経由して会いたいと申し出なさいというのですよ。いま、校長秘書室に電話をして会いたいと言っているのにね。何と、官僚的なのでしょう。まるでNOと言っているみたいなものじゃないですか。
前の呉校長の時は会いたいときは校長秘書室に電話をしておくと、直ぐに、何時何時ならば会えるという連絡がありました。会いに出掛けると彼の事務室で、他の誰も介在せずにお喋りが出来ました。
ぼくたちは外国籍教授ですから、国際交流処の管轄でいいのですが、校長に会いたいときには、その交流処長経由でなきゃいけないなんて、ぼくの神経を逆なでします。こういう事大主義がぼくの一番嫌いなところです。ま、ここは中国だから、事大主義の本場みたいなものですけどね。
それで、畢校長の携帯に会いたいとショートメッセージを入れました。直ぐに返事があっていまは出掛けているけれど月曜には戻るから、とありました。「好的」と返事を送りました。
前日の日曜日に国際交流処の葛さんから9時に会えるから校長室に来るように、そして自分は記録係だから通訳として陽さんを連れていらっしゃい、と言うことでした。
さて、先週月曜日の11月7日9時に管理棟に暁艶と行って、校長応接室に案内されると、畢校長の他、崔国際交流処長も同席しているのですよ。
あれま、彼を迂回して会見を取り付けたのがわかっちゃいましたね、と最初から緊張を強いられました。
でも、これは外国からの賓客などを迎えるとき以外に見たことのないスタイルです。ぼくの訪問を用心深く待ち構えているのか、校長が替わってこのスタイルになったのか、どっちなのでしょうね。
コメント:
どじょう校長 みのもんだ さん
そちら瀋陽はすっかり冬らしくなったのでしょう。
お体をお気をつけくださいね。
さて、畢校長面会のことですが、おそらく、着任したばっかりですから、色んなことを慎重に、慎重にやっているのではないかと推測しています。校長に昇格したといっても、党書記の前任呉校長の下で、No.2の立場はなんら変わっていませんから。
まあ、どこの国の新任どじょう総理も、記者のぶらさがりを取りやめ、慎重に、慎重にやっているのと、似ていると思いますが。 (2011.11.15 00:20:27)
返みのもんださん shanda さん
久しぶりですね。お元気ですか。
言われてみて、なるほどねと思いました。ちょっとこちらも神経質になりすぎたようです。ありがとうございました。 (2011.11.15 09:24:58)
カテゴリ:薬科大学
さえ:
新しい校長に会いにいったのは、もちろん就任のお祝いのためです。この間大学のHPを見たら9月18日付で、中共遼寧省委組織から「畢開順・呉春福同志職務任免の通知」というのが出ていました。
瀋陽薬科大学党委員会宛:
遼寧省委員会決定「畢開順同志を瀋陽薬科大学校長・党委員会副書記に任命、呉春福同志の校長職務を解く」という内容です。大学の校長(ここでは学長というと余りよい言葉とは思われていません)の任免は共産党が握っているのですね。
開放政策で、いまや中国は資本主義国の繁栄の上をいっていて、一体どこが社会主義国だと言われますが、こういうところでは、ひやっとした感覚が戻ってきますね。
畢開順先生とはここに来た2003年以来のお付き合いなので、良かったですね、おめでとうと言うことで小さな礼物を持っていきました。それに、この間の大学の主要な人たちを招いたとき校長は多忙で出席できませんでした。皆にお土産をあげたので、その一つも持っていきました。
10月に三重大学に、校長と私が国際ワークショップに招かれました。その時は呉校長でしたが、出張の都合がつかずに私だけ出掛けたのでその報告をしました。数年前に交流協定が締結された時に、畢開順校長は蔡さんと三重大学を訪ねているそうです。三重大学は来年も国際ワークショップを計画しているので、その時は是非ご出席願いたいと言うことですと伝えました。来年はあちこちに出掛ける予定なので、是非三重大学にも、と言う返事でした。
あとは、ふたつ折りいってお願いがあって、ひとつはぼくの薬科大学での期間延長のことです。いまの正式契約ですと2013年夏までなのですけれど、いま修士一年生の学生が2名、博士一年生の学生が1名在籍しているので、彼らが順調に卒業するのは2014年夏ですので、1年の延長を認めて欲しいとお願いしました。
良いよ、良いよ、問題ないよ、と言うことでした。
基地クラスの学生が一人ここに来たがっていましたが、そうなると3年延長して2016年までの契約になります。可能かも知れませんけれど、もうこの辺で将来の予定をちゃんと建てましょう。延長しても2014年夏まで、と。
そうしたら日本に戻って、さえと一緒に暮らしましょう。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
11月7日月曜日の朝、畢校長に会って、ぼくの契約期間は2013年夏までになっているのを1年延ばして下さいとお願いしてきました。もう一つの選択は2015年までなのですれど、それを言い出すのは止めました。
前に校長に頼んだときは2015年まででも良いよと言うことでしたけれど、誰とも利害相反はないはずのぼくに対しても、結構反対者がいるわけですよ。当然ですよね。みなが60歳あるいは博士指導の資格のあるときは65歳の定年で辞めるのに、66歳からここで超法規の扱いで働いているんだから。
そのようなストレスを抱えて生きていくのはぼくにとって良いことじゃないので延長は断念しました。
というわけで後2年半でここを辞めましょう。じゃ、辞めてから何をしましょう。これは前から何時も言っていることだけれど、盲導犬のパピーを育てたいと言うことは前から思っているでしょ。
犬は大好きだけれど、前のジロちゃんが死んでしまって以来、心の中に痛みが残っています。
それでも犬を育てて社会に貢献したいと思いますけれど、さえが言うには、「今からじゃどっちが長生きか分からないじゃない、こっちが先に死んだら犬が可哀相でしょ」、って。
その時は、ま、仕方ないとしか言いようがないじゃない、でも、犬に死なれちゃうのもつらい、と思っていたので、盲導犬のパピーを生後二ヶ月から育てて、訓練の始まる生後1年まで育てて、送り出するというのはどうでしょう。
その時は別れに違いないけれど、そのあと立派に人のために尽くすのだもの。死んじゃうのじゃないもの。送り出すことなら、学生を育てて巣立つのを毎年見送っているのだから、耐えられるますよ。
でも犬を育てるだけじゃもの足りません、もっと何か出来ることはないかな、と晩ご飯を食べながらつぶやいたら、暁艶が日本語の先生はどうです?というので、びっくり。
それって、中国にいるってことでしょ。暁艶は、そうですよと言う。
辞めた後中国に居るという選択肢もあるわけですね。ヴィザ貰えるならね。暁艶は来年の春、博士課程を終えますが、「もし私も瀋陽に居たら、毎日犬を見に行きますよ」、だって。
暁艶も犬が大好きで、道を歩いているときに特にラブラドールレトリーバー(ぼくにはゴールデンレトリーバーと見分けがつきませんけれど)に出合うと、駆け寄ってしばらく遊んでいるのですよ。
5年前に暁艶が初めてこの教授室を訪ねてきた時を思い出します。関さんに連れられてきた彼女は大きくて、まるでニューファウンドランダーみたいでした。ほら、名古屋のお隣のうちにいた真っ黒で、人より大きなジャッキーですよ。人懐っこくて、ぼくたちに会うと、まるでにこにこと笑っているみたいでしたね。
暁艶も犬が大好きです。でも、危ない、危ない、彼女たちもアパートで犬を飼って、不在になる日中に犬を預かるなら良いけれど、あなたたちの子供を見てくれなんて言い出さないでね。中国に居たって良いけれど、暁艶の子供の世話はごめんだよ、犬の仔なら良いけれど、暁艶たちの子供の責任を持つなんて、とんでもないって。これだけは、はっきり言っておかなくっちゃ。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
日本語の先生って、きっと難しいですよね。他にやることもないから、日本語の先生でもやろうか、日本人なんだし、なんて軽い気持ちじゃ出来ませんよね。
さえは以前、瀋陽に行くなら日本語の先生もやろうかなと通信教育で勉強を始めましたね。大分やった上でもうこんなのやっていられないと投げ出したでしょ。
真面目なさえが日本語教師の資格をマスター出来ないのに、ぼくが出来る訳がないじゃない。
ぼくはもちろん、敬語を含めて、場面に応じて一番適切な日本語を使い分けることは出来ると思っていますよね。だからといって、日本語を教えられるわけじゃない。今更、日本語を勉強したくない、勉強するなら中国語が良い。
瀋陽の日本人教師の会を見ていると、中学あるいは高校で国語専門をやってきた人、あるいはたとえば社会科の専門だった人たちが更に日本語の先生になる短期の講習で認定を受けてから、中国に来ています。経歴は知りませんが、日本語教育をしている学校から派遣される人たちもいます。
これらの人たちは大丈夫だと思いますけれど、それ以外に、中国からの求人に応えて、日本人だから日本語が使えるという理由で、先生をやっている人たちもいます。このような人たちに日本語を教わる学生は気の毒です。一番大事な基礎を学ぶときに、適切な指導が出来ず、好奇心溢れる学生の疑問に的確に答えられないでしょう。
と言うわけで、ここで日本語を教えている一部の人たちに対しても、はてなと思っているのに、自分がいい加減な日本語教師になれるわけがないでしょ。
でも暁艶は、「一から教えるのじゃなくても、かなり日本語の出来るようになった学生の日本語の会話の相手になるくらいなら、出来るんじゃないですか?それなら先生のキャリアに一番ぴったりかもしれません」と、言うのですよ。
なるほどねえ、そんなら出来るかもしれないなあ。いろいろな状況に応じて適切な言葉遣いで相手をするなら、大して苦労しないかもしれません。その場その場での正しい日本語を教えられるかな、確かにね。
すると、暁艶は、まだほかのことを言い出しました。
「日本よりも中国で有名な若い人がいるでしょ?」。「ああ、それって、加藤嘉一のことでしょ」と返事をすると、「あの人って中国語で沢山本を書いているじゃないですか。先生も書いたらどうです?」
「だって、先生、日本語でブログを毎日書いているでしょ。日本語で良いじゃないですか。何しろ遼寧省政府から立派な賞状を貰った先生なんだから、中国政府がお墨付きをくれますよ、きっと」と、もうこの辺になると、おさえちゃんと同じように、ぼくをからかっています。
ぼくと付き合うと、ついからかいたくなるのがぼくなのかなあ。
政府のありがたいお墨付きがついたら、その途端にきっと、ぱたっと売れなくなるって。。。
ともかく、この先も沢山の選択肢がありますね。若いときは、沢山の選択肢があって、未来は希望に満ち輝いていました。
歳を取ると言うことは、それが暗黒に包まれた先の見えない一本道になることだと思っていたのですけれど、いやあ、どうして、まだ沢山の選択肢がありそうです。暁艶のおかげで、明るい未来が見えてきました。
コメント:
Re:引退したら日本語教師をやる? つづき(11/17) cottoncandy さん
日本語を教えるには、一番大事なのは、学生たちに日本のことについて、興味を湧かせることだと思いますね。素敵な研究者でもある大爺が日本語教師になったら、学生はきっと先生の超ファンになって、ガンガン日本語を勉強するよ。10年前に、私は大爺とメールフレンドになった頃、山大爺からのメールを何回も読んで、そのメールの内容を日本語勉強の資料となった経験を思い出しました。 (2011.11.17 14:14:40)
cottoncandyさん shanda さん
貴女の日本語は見事で、書いても、話しても、日本人と区別がつかないですね。そのような貴女が、私の日本語のメイルを参考にしていたなんて、光栄です。
貴女のお墨付きが貰えそうだから、日本語教師に転身しようかな。 (2011.11.18 08:36:38)
カテゴリ:インターネット
さえ:
前に書いたでしょ? 理科基地の女子学生が来年秋にぼくたちの研究室の院生になりたいっていう話を。
理科基地は全部で8年間の修行期間で、博士号取得まで一貫教育です。つまり、学部から大学院も入試なしで進学できます。
そこだけを見ると、るんるんの素晴らしいコースみたいですけれど、内容は熾烈な競争と選抜です。毎年の試験で成績の悪い学生はどんどん振るわれて、学部を終わるときも試験の成績が悪ければ、はい、それまでよ。その先はなし。
学部4年生の理科基地の女子学生を思さんとしておきましょう。彼女が院生になりたいと言ってきた時は、ぼくの残りの期間のことが念頭になかったので、もちろん歓迎でした。
でも、問題だと指摘されて、新しい校長から口頭で延長できるという返事を貰ったのですけれど、待てよ、あと1年半を更に1年延長するならともかく、3年も延ばすとなると、結構大変なことだと考え直しました。
それで、校長と会ったときは2013年を2014年まで延長することを認めて貰うだけで十分だと思いました。それですから、この思さんには、貴女が来ても2012年秋からは2年しかないので、修士を取るのも難しいのではないかと話しました。
言うまでもなく中国の修士の期間は3年間です。彼女の場合には特別コースなので修士と博士合わせて4年という、通常必要な最低期間の5年よりも短い期間が設定されています。
そう言うと、思さんはどうしてもぼくのところに入りたい、2年間で頑張って修士を終えるから大丈夫だと主張します。そりゃ、2年間で修士号に値する研究をし遂げることも出来るけれど、それが出来るという保証はないんだよ。その時に修士号がとれれば、晴れてどこの博士過程に進学できるけれど、取れないときは、悲惨です。折角の4年で博士が取れるという特権がなくなって、しかも既に2年を棒に振って、振り出し地点にいるのだから。
すごく無謀なことですよね。そりゃ、来てくれるのは嬉しいけれど、そんな犠牲を払わせるわけにはいきません。おまけに、そのあと彼女の将来をいくら長く見ていたくても、難しい相談ですよね。
実際、ぼくたちがここの卒業生を送り出すとき、一番先に考えるのは先方の教授が若いことです。そうでないと、彼らが将来頼りに出来る人がいなくて可哀想です。
と言うわけで、思さんも熱心に来たがったのですが、こちらも熱心に彼女を説得して諦めて貰いました。と言うことは、いまいる修士1年生の二人、博士1年生の一人が最後の戦力ですね。さあ、ぼくも一緒に頑張りましょう。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
この頃良く見るニュースはお金持ちになった中国人がどんどん外国に移住しているという話、そして子供たちを外国、特にアメリカに留学させているという話です。
お金持ちが外国に出て行くというのは前にも書きました。昔は汚職で大儲けをした役人が捕まる前に財産を密かに外国に移して、自分も逃げてしまうという話しがよくありました。いまでは役人ではなく普通に金をも儲けた人たちが(と言っても政府に食い込んで違法に儲けたのかも知れませんけれど、それは置いておいて)その金を持って外国に移住することが多くなたみたいです。
最近目立つのは子供をが国の大学に留学させるだけでなく、もっと小さいときから諸外国に送り出していると言うニュースを良く見ます。
『米国土安全保障省によると、米国の私立高校に入学する中国人学生の数は2005~2006年の65人から、2010~2011年は6725人と100倍以上に増えた。韓国に代わり、米国の寄宿学校の外国人学生の中で最多を占める。』そうです。
これには色々と理由があるでしょう。直接的には、早くから子供を米国になじませて、米国の、しかも良い大学で学位を取らせたいというわけですね。背景には、この国よりも米国が良いと言うことです。
ぼくたちの若い頃の日本では、日本よりも環境の優れた米国で研究をすることが普通でしたが、いまはあまりいきたがりません。
いまの若者は覇気がないと年寄りは言っていますが、理由は日本を出て苦労してまで米国で勉強する理由を見付けなられないからです。
これから見れば、中国の若者が米国に行きたがる背景は明らかですね。sika藻4分の3は行ったきりで、中国に戻ってこないという話です。
当然、この大学の中でも、尊敬する張教授も遠教授も子供をアメリカの大学に留学させています。大学院ではなく、大学ですよ。
この大学が昔の盛名に反してこの頃はぱっとしないみたいですが、この十年間、この大学がレベルの上昇を目指して努力している感じがしません。
自分が教授をしている大学を自分たちの子供に薦められない大学って、いったいなんなのでしょうねえ。先生たちが子弟を留学させている話を聞く度に、暗然としてしまいます。
胸を張って、この大学が優れた大学だと言える日が来るようにすることが私たちの努めですよね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
ぼくたちが瀋陽に来た翌年に加藤先生が日本語教師として薬科大学に赴任して、瀋陽のあちこちの歴史的な建物に案内してくれましたね。
一番最初に案内されたのが中街で、20世紀初めの建築が大通りのあちこちに残っていましたね。上にドームを載せている建物が20世紀初期の中街の写真に写っています。いまでも三カ所残っています。
あの頃から、中街の再開発を始めていましたが、西北側の並びはやっと1年前に出来上がって、大きなモールになりました。中街の一番西端(門のたっているところ)には中国最初の出店というヤマダ電気があります。むかし何だったのか覚えていません。
その少し奥がこれも歴史的な金の店ですね。これも昔、加藤先生に連れられて中に入って、店の由来を書いた事績を写真に撮りましたね。
未だに中街ではあちこちの店の工事が続いていますし、道は始終工事されていて、ほこりっぽいことこの上なしですけれど、どんどんとおしゃれな店が建ち並んでいます。
行くときはタクシーで行きましたが、この運転手の乱暴ではない運転に感心していました。瀋陽ではクルマも信号を守らないことがあるけれど、歩く人だって規則は守っていないでしょ。赤信号でも、飛んでくる車を避けながら平気で道を渡ります。
右側通行ですから、信号が赤でも昔は(と言っても信号が全部の交差点に設置されてから十年たっていませんから数年前までのことです)右折車は曲がって良かったのが、いまは右折専用信号に従う必要があります。
それでもまだこれを守らないクルマが沢山いますが、このタクシーは信号が何であっても平気で横断する歩行者を押しのけることなく、人に先を譲るところがあって感心したのでした。
そのうち片側四車線の道が渋滞となり、車はじりじりと進み、やがて前に動かなくなったクルマがあって運転手と思われる女性がクルマの左に立っていました。他の車はこれを避けて通りすぎていったのです。ところがこのタクシーの運転手はこの車の後ろに近接して止め、なにやら言ったと思うと後ろを振り返りながら外に出て、その車の女性に話しているのですよ。
押してやるから、乗ってハンドルを道ばた側に切るようにと言っているのでしょう。はじめは何のことか分からなかった女性も、それを理解して運転席に入り、この運転手が後ろを押して、クルマを道ばたに寄せました。
瀋陽に九年にいて、自分は仕事をしている最中なのに、このように困っている人に親切をみせる運転手を初めて見ました。こういう良い日は気持ちが良いです。
大きなモールの中に出来たユニクロに寄って、ウルトラライトジャケットを買いました。もうこれを着る時期は過ぎようとしていますけれど、日本の冬にちょうど良い感じのダウンジャケットのジッパーが壊れてしまい、そうかといって真冬のコートを着るのでは厚すぎるし、と言うので買い求めたのです。459元でした。日本円だと5500円でしょうか。
親切な運転手さんに出合って気持ちの弾むままに、フランネルのシャツも二つ買ってしまいました、二つで278元。日本円で3300円くらいですね。
コメント:
幸福度 みのもんだ さん
世の中のマジョリティと違うことをやるには、半端じゃない勇気、信念、そして、覚悟が必要と思います。中国も、日本も、どの社会にも適用するでしょう。
その親切なタクシー運転手さんはどんな信念の持ち主でしょうか、気になりますね。そして、その信念を支えているものはなんでしょうね。
話はそれますが、最近、ブータンの国王夫妻が日本に訪れ、「心」の伝道をしています。経済発展の引き換えに、失ったものも多い、と諭しているようです。これも考えさせられますね。 (2011.11.20 12:05:59)
みのもんださん shanda さん
幸福度を目指そうというブータン国王の提案は、周りと自分を見比べておろおろと暮らしている私たちには大きな警鐘ですね。
でも一般庶民に、自らの暮らしに満足するように教えてきたのが昔の権力者たちですから(儒教は為政者のための教えですよね)、自分の小さな幸福に満足することが大事だと思うのも、問題だと思いますよ。 (2011.11.20 20:50:04)
カテゴリ:中国の将来
さえ:
1978年に中国の開放政策が採られて以来、海外留学が始まり、留学熱は依然として盛んです。ぼくたちの来た頃は奨学金が貰えないと留学できない人たちが大半でしたが、いまでは逆に、大半が自分の(親の)金で留学を果たします。この数年の間にがらりと様変わりしました。
経済的に豊かな人たちが増えたこと、その子弟が大学に入ってきていること、世の中が発展しても依然として生活の苦しい農村からの進学生が相対的に減ったことを反映しているのでしょう。2003-2004年は学生で携帯を持っている人がとても稀でした。いまは、全員が1-2台の携帯を持っています。
留学した人は戻って来るのが普通の國でしょうけれど、中国から海外の國に留学した中国人は、開放政策が始まった1978年以来107万人いて、でも、帰国した人は27万5仙人で、海外に行った人の4分の3が戻っていないそうです。『人材の海外流出が深刻、世界最多の80万人=「良い制度」で引き留めよ(Record China 11月16日)』
もちろん中国政府は策を講じています。自国の科学を発展させるために海外の優秀な研究者を、科学院の研究所長に任命するとかとか、豪勢な住宅や莫大な研究費などがあるという、経済的には破格の条件で呼び戻したのは、いまから約10年前までのことです。いまはこのようなポストは殆どなく、留学組が戻るのは熾烈な競争となってきました。
おまけに、生活費・住宅価格の高騰、環境汚染の深刻化、食品安全の不透明性、道徳の低下、低い福祉レベルなどが祖国に戻るのをためらわせているのかも知れません。
上記の記事によると、中国国家情報センター予測部の張茉楠副研究員は『そのため、富や人材をどのような“良い制度”で引き留めるかが中国政府の重要な課題となっている。“良い制度”とは、政府による経済的な見返りではなく、独占が打ち破られること。そして、経済の自由、財産権の自由、移動の自由などが保障されることだ。』と論じています。
思想の自由、信条の自由は打ち出していませんけれど、移動の自由を打ち出していますね。これは、富の偏在をもたらしている一つの元凶である農村戸籍の固定化を打破しようと言うことでしょう。
実際、共産党は労農兵から出発したはずなのに、政権を取ったら農村出身者を農村戸籍で固定して都市住民と生まれながらにして差別してきたのが、おかしいことだと思います。農民を無知なままにしておいて、依らしむべし、知らしむべからず、と言う政策がそろそろ限界に来たと言うことでしょうか。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
11月17日金曜日は昼から雪が降り出しました。気温が低いので溶けずに積もりました。
帰るときはもう夜でしたが雪明かりで足下が光っているのが見えます。人が雪の降っているうちから歩くので、歩く路は踏み固められてツルツルなのです。
滑る氷の上では出来るだけ小股に歩く必要があり、忘れてうっかりすると足を滑らせてしまいます。この夜は転ばなかったけれど、二度も滑ってしました。そのため元から具合の悪い右膝の靱帯がゆるゆるになった感じで、歩くと膝関節で脛の骨都半月板が微妙に食い違って、痛んでいます。ぼくの弱点ですね。
土曜日の朝も、よちよち歩きです。昼間は、大学の構内の一部では、学部学生がクラスごとに場所を割り当てられて、雪かきならぬ、氷り削り取りをしていました。それでも綺麗になったのは構内のごく一部なので、夜帰るときは同じように滑りながら歩いていました。後ろから「老師!」と聞き覚えのある声が聞こえて振り返ると、うちの学生の王一任、張雪城くんの二人が追いついてきて、「先生お供しましょう」。
つまり、ぼくを両側から挟んで、つり上げる格好で、滑ったりしないようにうちに送り届けてくれようというわけです。「暁艶先輩も、ほらもう直ぐ追いつきます」というのでもっと後ろを見ると、暁艶がこの氷の上を駈けてくるのですよ。
と言うわけでうちのアパートの入り口まで、この三人がぼくを送り届けてくれました。
路が氷になる時期に何時も思うのは、簡単な脱着式のアイゼンが手に入らないだろうかと言うことです。日本で探すと、本格的な岩登り、氷壁登りのアイゼンを売っていて、これではとてもじゃないけれど大袈裟すぎます。
人に触ったら大怪我をさせてしまいます。ベルト式になっていて、プラスチックの小さなスパイクが付いたものもありますね。これなら良いかも知れません。
アイゼンの話しをしたら、暁艶が靴屋に行って探してみますということでした。そして靴底でプラスチックがジョーズの開いた口の歯並びのように激しくぎざぎざになった靴を見付けてきて、ぼくにくれました。
これじゃ同じように滑るのじゃないかと思いましたが、滑ることが減りました。多分、きざきざの歯の間に小砂利が喰い込むから、これが硬い異物となって氷の表面に食い込んで、滑りにくくするみたいです。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
また昨日の火曜日の昼から雪でした。朝から空は灰色でいまにも降るという感じでした。最初は雨だったのが直ぐ雪に変わり、温度が零度以下だったのでたちまちさらさらと積もりました。
昨日の晩は6回目のProgress Reportの日でした。溜まっていたProgressの報告を、新人三人のために丁寧に進めているのでなかなか終わりません。旧人四人のうちまだ二人目です。
二本鎖のSiRNAを加えることで遺伝子発現を抑えて、その効果を調べるのがいまやぼくたちの主流の仕事ですが、SiRNAを細胞に与えるときに、Lipofectamineと言う試薬を使います。RNAがどうして細胞に取り込まれるのかという話になりました。
RNAってマイナスに荷電しているでしょ。細胞はどうですか?
細胞の表面はマイナスのChargeです。ええ。正解ですけれど、どうしてですか?
毎週土曜日にぼくはGlycobiologyの話をしているのですよ。まだ個別の糖タンパク質や、糖脂質の話をしていませんが、これらがシアル酸を持っていることは何度も話しています。細胞外マトリックスのプロテオグリカンはすべてマイナスにChargeしています。その繰り返し構造に硫酸基がついている話もしてます。
これらが細胞表面にあることも話しています。でも、だからと言って、細胞の表面がマイナスに荷電していることに、結びつかないのですよ。これは優秀と言われる中国人学生の一つの欠陥ですね。知識は詰め込んでも、それをいろいろと結びつけて考えることが出来ない。。。
RNAもマイナスですから細胞と反発して取り込まれにくい、それで、正に荷電した両親媒性分子のLipofectamineを使ってRNAを中に取り込んだリポソームを作って、細胞に融合させているのですね。
元々、細胞は外来物質を取り込む機能があるので、放っておいてもいつかは、ちょっとだけ取り込むはずですが、RNAだとその前に分解されてしまいます。DNAだと実際に入るのですよね。
そんなこんなで8時過ぎまで掛かったProgress Reportのあと、男子学生の王一任くんと張雪城くんが二人でぼくをうちまで送ってくれました。
雪がまだ氷になっていないので滑ることはありませんでしたが、風が強く、降ってくる雪だけでなく、積もった雪が粉となって吹き飛ばされて顔に襲ってくるのですよ。
若い男の子たちに、両側と顔を守られて無事にうちに帰りました。
今朝は6時20分にうちを出てきたら、大学構内に足跡を付けた最初の人がぼくでした。何となく、嬉しい感じです。でも、今日と明日の最低温度の予報は、マイナス24度です。これでは、瀋陽で何とか生き延びるという感じになって来ますね。
カテゴリ:カテゴリ未分類
さえ:
二度目の定年を最近迎えた林利彦先生が薬科大学の教授に迎えられて、この夏の終わりに着任したと書いたでしょ。
そのあとどうなったか、報告していませんでしたね。
この林先生がどこの学部に所属するか、全くその話もなしに着任してきたそうで、行くところもなく、初めのうちはずっと東北大の敷地の一画にある建物に140平方メートルのアパートを貰って、そこに一日中いるという話でした。
そのうち生命科学院が歓迎会をしたと言うから、そこが受け容れることになったみたいということでした。
研究室決まらなかったみたいですが、国際交流処の手配したこの建物の6階にオフィスを貰宇ことが出来て、毎日そこに来ているということを、10月の第二週に知りました。
10月半ばに、ぼくが日本に5日間行って戻ってくると、林先生が来ていうには、「はじめは本渓にラボを呉れるという話だったけれど、あんな遠くじゃ大変だなと思っていたら、池島先生のところで受け容れてくれるという話になって、その方が近いし、そうすることにしました。」
そのあと池島さんが来て、「林先生が来て、ずっと放ってあって、どうするのかと思っていたら、国際交流処の蔡さんから、林先生を自分のところでひきうけられないかと言ってきたので、OKしたのですよ。これで中日薬学研究所に教授が二人出来て、名目が立ちます」ということでした。
池島教授のところは全部中国語でやっていますから、林先生は中国語を理解出来るようにならないといけませんね。
どういうことかというと、日本の大学の読書会、セミナー、ジャーナルクラブでは、英語の論文を日本語で読んでいますが、それと同じで、中国語で英語の論文を紹介しているそうです。
うちの研究室は英語を使って、英語だけで英語の論文を読んでいます。英語の勉強としては、どちらが学生に力を付けさせるのに良いでしょうね。
池島教授のところではもう一つの勉強会があって、たとえばScienceの小記事を学生に配って、20分くらいの時間を与えて読ませて、それから中国で質問して学生に答えさせるのです。ですから速読の力がつきますね。
英語を中国語で解剖して学ぶのと、英語を英語で読んで理解できるようになるのと、どっちが学生の実力向上に軍配が上がるでしょうね。
それはともかくとして、金曜日の夜は研究室で火鍋パーティをして、これに林先生夫妻を招くつもりです。
コメント:
Re:林利彦教授が着任して(11/24) 名取幸和 さん
林先生が中国に居られること、中国が林先生の研究に着目されていることを知り驚きました。 林先生の研究が中国でも開花されることを願っております。
林先生のお兄様(利蔵様)の紹介で、林先生が東大で教鞭をとられているときにご教授を頂いたことがあります。 その後はコラーゲン研究分野とは縁のない分野の研究開発に参画しておりますが、数日前のある会議にて林先生の研究が話題となり、先生にコンタクトしたいと考えた次第です。ご迷惑でなければ、林先生へ弊メールアドレスyrnatori@beige.plala.or.jpをお伝えいただきたくお願い申し上げます。 昨今の中日関係には暗澹とさせられますが、中国における林先生の活躍が光明を灯す切っ掛けとなることを願っております。 (2012.10.27 15:03:44)
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
瀋陽日本人教師の会は「日本語クラブ」を出しているでしょ。ぼくたちが編集をやっていた頃は中道編集長が何時も皆に檄を飛ばして、がんがん原稿を集めて、年3回出していましたね。
数年前から年2回になりましたが、昨年からぼくは全く書いていません。実際、日本語クラブどころではない激動がぼくたちを襲ったのですよね。
この間、薬科大学の日本語教師の石田先生と杉島先生を研究室で食事に招いたとき、日本語クラブの原稿を11月の終わりの締め切りで集めていると聞きました。その時は、書こうとも、書かないとも、書きたくないとも、思ったわけではないのです。
それが、数日前に日揮の陳さんが同じく日揮・中国食品室の西尾さんを連れて訪ねてきてお喋りをしたのですね。当然、話は中国の食べ物のことになります。それで、メラミン入りの牛乳などの偽装食品や、下水油や、絶対腐らない月餅などが話題になったのですよ。
こういったことが頭にあったのか、一昨日明け方の夢の中でこれを題材にして、ぼくが小説を書いているのです。ああでもない、こうでもないと考えているうちに、本当に考えながら眼が醒めてしまいました。
それっきりになるところだったのに、何故か題材が気に入って、じゃ書いてみるかと、生まれて初めて短編小説に取りかかりました。小説なんか書いたことのないぼくがですよ。
小説ってフィクションですよね。ウシの涎のようなエッセイならいくらでも書けるような気がしますが、フィクションを生み出せる頭の構造ではないので、いままで小説を書こうかなんて思ったこともありません。
もちろん、小説を読むことが大好きな人間としては、小説が書けたらいいな、だけど書けるはずがない。と思っていました。零から面白いストーリーを紡ぎ出す小説家の能力って何時も尊敬しています。
さて、ともかく書きたいように書いてみると、地の説明ばかり並ぶ、小説とはほど遠いものとなりました。
それでも書いているうちに、勝手に設定した主人公が気に入ってきました。ごく普通の、東北の最果ての黒竜江省の農村出身の男です。日本に行ってアルバイトをしながら勉強をしたし、会社務めをしたこともあり、いまは瀋陽のレストランで料理人として雇われています。ごく普通の、そこら辺に当たり前にいる男を通じて現代中国が描けるか、なんて、言っちゃうと大袈裟ですけれど、このままにするのはもったいない、つまり、連作第一作の誕生です。
この主人公に名前を付けました。李小陽です。これは、笑笑と話していて、彼女が名前を付けてくれたのです。ごく普通の男の名前です。名前からは何の予感もない。いまは普通の生活をしている当たり前の男。でも、この男はいまに何かしそう、かな?
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
もう11月も終わりそうです。16日にはブルドーザーが一日中校庭で唸っていました。トラックの内側に丸く土手が築かれて、冬のスケートリンクの用意です。直ぐに注水が始まりましたが、そのあと雪が立て続けに降って、雪が凍りついています。
瀋陽は、とうとう冬に突入です。昨晩も雪が降ったみたいです。
土曜日のセミナーで10月22日から毎回Glycobiologyの講義をしていますが、11月9日からは毎週3回のMolecular Biologyの講義も始まっています。時間が断片化されて、何となく落ち着かない毎日です。
1年前の11月26日には、さえが食欲不振で弱ってしまって入院したと知らされました。直ぐ日本に行く用意をして、講義の残りと試験は劉老師にお願いして27日に日本に行って、直ぐ長津田病院に行きました。
それから二ヶ月、さえと一緒にいました。さえはもうこれが治って病院から戻れることはないと覚悟していたし、ぼくもこれがさえと一緒にいる最後の時間だと理解していました。ぼくたちが一緒にいられる最後の貴重な時間でした。
でも、思い出は曖昧です。さえと何をしゃべったかはっきりと思い出すことが出来ません。こんな哀しいことはないと思うのに、断片的にしか思い浮かべられないのです。「大好きなちゃいぼう、しっかり抱いて」と両手をさし伸ばして、さえは何度もぼくに甘えました。さえはあんなに率直に気持ちをさらけ出していたのに、ぼくはさえの気持ちにちゃんと応えたでしょうか。あれ以来ずっと、自問自答しています。
もちろん、さえの死が直ぐに来ることを理解していても、気持ちの上ではとても受け容れらないし、そのために記憶の抑圧、記憶の拒否が起こっているのだと思います。そんなの、嘘だ、受け容れたくない、とぼくの一部は必死で思って、記憶を消そうとしているのですね。
あのときのぼくだって、さえがもう直ることはないと思いつつも、これは一時的な入院なんだ、治ってうちに戻ってこられるのだと言う希望に必死にすがりついて、現実を直視しないでいたのだと思います。
この世を去ろうとするさえの考えと気持ちをもっとしっかりと聞いて、受け止めておくべきでしたね。起ころうとしている現実から眼をそらそうとしていたことを、とても後悔しています。これはぼくの負債です。これをひきずって、ぼくは生きていきましょう。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
誰か人に意見をするとしますね。意見というのは言われる方にとってはネガティブに思えることですから、耳に痛いし気分が良くないですね。だから、そのあとちょっぴり、好感を持っていると言うことも付け加えます。
「貴女は人に対してとても優しいけれど、時々意地悪になるね」と言うのと、「貴女は時々意地悪になるけれど、本質的には人に対して優しいね」というのと、どっちが良いでしょう。
当然、後者ですね。いずれの場合も、後ろの方に力点が置かれているからですし、褒めてけなすのと、けなして褒めるのでは、あとに残る感情から見ても、後者でないと人間関係が崩れます。でも、褒め言葉を付け加えられないこともありますね。
ぼくたちの立場からすると学生を研究者に育てているのだから、必要なときには必要なことを、きちんと言わないといけません。学生に対する注意ですから、どうしても受け取る方は叱られると思いがちです。おまけに人前だと、面子をつぶします。
面子をつぶさないためには、あとで一人だけ呼んで注意をしないといけないのですけれど、待ったなしと言うことがありますね。セミナーをしているときなどは、どうしてもその場で注意をすることになります。
英語の発音だって、その場で訂正すれば直ぐに分かるし、みんなも学習しますよね。でも、一人の学生の時にあまり訂正するとその学生の面子をつぶすことになるので、ほどほどにしないといけません。だって、面子をつぶしっぱなしなのですものね。
日本人のぼくは、面子をこのようにして捕らえていますが、中国人の面子はもっと意味が広いみたいです。
あの人の「面子は大きい」と言うときには、その人は他の人に出来ないことが出来る、と言う賞賛です。オリンピックの入場券を手に入れたいとき、普通には買えないのがその人に頼むと、あちこちの人脈を使って入場券を瞬く間に手に入れてしまうとか、正規の登録ではとても自分が選ばれないとき、その人に頼むと自分が指名されるとか、そう言うことの出来る人は「面子が大きい」のです。
「面子が大き」くて、人に出来ないコネでいろんなことが出来るから「面子がでかく」なります。ま、どこの社会でもそうですね。日本ではどんなに有能な人でも、面のでかいやつは嫌われますが、中国は力のある人は偉そうに振る舞うのが当たり前の社会みたいです。
『社会のしくみが頼りにならず、人に頼らねばならない社会において、このような「面子の大きい人」は極めて便利で、かつ大きな利益を上げられる可能性を持つ。それは時として便利や利益というレベルを超え、自分や家族の安全すら確保してくれる人である可能性がある。』
『だから普通の中国人にとって、「面子の大きい人」とは、非常に頼りになる、なんとかしてお近づきになりたい人である。というより、「面子の大きい」人が近くにいないと安全・快適な生活を実現するのは難しい。だから「あの人は面子が大きい」という表現は、中国社会では最大級の褒め言葉である。周囲から尊敬と羨望のまなざしで見られる人物を意味する。そして誰もが自分もなんとか自分の面子を大きくしたいと考える。「面子が大きい」と世間から言われるような人になりたいと思うのである。』
『面子とは何か ~中国社会を動かすエネルギー源』(田中 信彦)からの引用です。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
金曜日の夜研究室の火鍋パーティーをしました。昨年の冬はぼくがいなくて出来なかったので久しぶりです。9月には新入生を迎えたし、最近では卒研生も加わったし、寒くなったし、卒研生の試験時期が近づく前のちょうど適当な時期です。
研究室のみんなに引き合わせるのにちょうど良いと思って、林教授夫妻も招きました。しかし、夫人は夜遅くで歩きたくないと言うことで不参加。代わりに薬科大学の日本語教師のうち、男の先生である春日、田中先生を招きました。
IHヒーターは研究室の実験のために使っているのと、うちの分とで二台。教授室の同じ壁から電源を採るとヒューズが飛ぶので、両側の壁から電源を採ります。
総仕切人には修士2年生の崔さんになって貰いました。うちの院生たちは昨日からマイナス10度の凍った道を歩いて買い出しに行き、この日は昼から総出で、野菜を洗い、切り、果物サラダを作り、準備に大わらわでした。いままでは羊蠍子の羊の骨のあらの煮込みを買ってきてそれをベースにすることが多かったのですが、薄切りになった肉を3 kg買ってきて、今回は全部ここで作ることにしました。14人だから一人当たり200グラム。
火鍋は日本で言うしゃぶしゃぶで、味は自分で付けます。中国では、日本のポン酢、ごまだれ、キムチ味なんて言う限られた数の味が情けなく思えるくらい沢山の種類のたれを売っています。使ってみないと味が分からないのが難ですけれどね。
5時半から開始。二つの鍋のうちこっち側は、新しく買った鍋が大分大型なので煮立つのに時間が掛かりました。一つの鍋に七人がぶら下がっている勘定です。向こうがどんどん食べているのに、こっちはじっと我慢。。。
この日の集まりが何時もと違ったのは、私を加えて日本人が四人いたことです。何時もは日本語を話すことのないぼくが、つい嬉しくて学生をほったらかして、日本人の先生たちと日本語で話し続けました。
ぼくは日本語を話すことに堪能しましたけれど、学生たちはおとなしくして食べるしかなく、気の毒なことをしました。大いに反省しています。終わってから何時もなら、ぼくは詩吟をしたり、カンツォーネを歌ったりするのに今回は止めました。代わりに日本語クラスの朱さんが早口言葉を披露してくれました。「なまごめ なまむぎ なまたまご」「となりのきゃくは よくかきくう きゃくだ」「とっきょきょかする とうきょうとっきょ きょかきょく」
良くこんなことをを覚えていますね。オーストリアに留学したいと言って準備を進めている朱さんですが、もったいない話です。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
ブータンの若い国王夫妻が近頃日本を訪問して、昔のダイアナ王妃のような一大ブームを巻き起こしたそうです。実際、綺麗な王妃らしいですが、日本で注目を集めたのは、1972年に、ブータン国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクが提唱した国民総幸福量(Gross National Happiness, GNH)のためです。
GNPで表せない精神的な豊かさを指標にしようという試みで、
『2年ごとに聞き取り調査を実施し、人口67万人のうち、合計72項目の指標に1人あたり5時間の面談を行い、8000人のデータを集める。これを数値化して、歴年変化や地域ごとの特徴、年齢層の違いを把握する。国内総生産(GDP)が個人消費や設備投資から成り立つように、GNHは 1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、8.生活水準、9.自分の時間の使い方の9つの構成要素がある。GDPで計測できない項目の代表例として、心理的幸福が挙げられる。(Wikipedia)』
実際に、『2005年5月末に初めて行われたブータン政府による国勢調査では、「あなたは今幸せか」という問いに対し、45.1%が「とても幸福」、51.6%が「幸福」と回答した』そうですが、他の国で同じ尺度で調べていないので、それぞれの国民の幸福度は比べられませんね。
ぼくは幸福でしょうか。さえが居なくなってしまった今はこれ以上ないほど不幸だと思います。でも、さえがいないという嘆きを除けば、客観的に見てぼくは幸福だといえます。だって、好きなことを、好きなようにやって生きていられるのだから。
一方で、悲惨指数(Misery Index)というのが、米国の経済学者Arthur M. Okunによって提案されています。経済的な苦しさを表す経済指標なのですね。
インフレ率(消費者物価上昇率)と失業率の絶対値を足した数値だそうです。
『一般に悲惨指数の上昇は、経済の黄信号と言われ、10.0を超すと、その国の経済政策に対する国民の不満が高まる』と見られています。
米国の悲惨指数は12.9、イギリスでは悲惨指数は12.4。ギリシャは22.7、スペインは25.5と、とても高い数値です。アメリカはウオール街で若者がデモを続けていますね。ロンドンでも若者の一過的なデモがありました。
日本の悲惨指数は意外に低く、3.7だそうです。若者の間に、職はなし、展望はなしで、閉塞感が広がっていると良く言われるのに、どうしてこんなに低いのかというと、『デフレのせいでインフレ率が抑えられていると同時に、非正規労働者やワーキングプアの増加が失業率に反映されていないなど』の理由があるのだそうです。人によっては、危険値の目安である10.0に近いのじゃないかという説もあるくらいです。
統計は何処かに数値のからくりが入っていて、そうなると直接比べる意味がなくなるので、困りますね。インフレ率(消費者物価上昇率)と失業率の絶対値をたしたものなら、政情による操作が入らないし、国民の幸福度を客観的に測る物差しになりそうなのに、残念ですね。さて、この中国ではどのような値なのでしょうか。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
今週は中薬学部の4年生に、毎日分子生物学の講義をしています。毎日というのは自業自得で、先週の木曜日の講義の前に突然お腹がおかしくなって、とうとう講義をキャンセルしたためです。
昨日は朝8時からの講義で、学生に訊くと何時もは講義がなくて遅くまで寝ていられる日なのに、ぼくの代わりの講義が入ったから来たのだと言うことでした。休む人もなく感心なことでした。
最高気温がマイナス3度で、最低温度がマイナス11度でした。今日の予報は最低温度がマイナス14度だそうです。校庭では、体育の時間でしょうか、大勢の学生がスケートをしていました。1年生の体育と見えて、転んでいる生徒が沢山散見されました。
昼ご飯の用意をしていて、さあパンが焼けたからチーズを載せて、あとはハムを載せて、と言うときに、北大から日立に行った中川さんが飄然と部屋に入って来たのですよ。「他の人もいます」と言うことで、あと日立の大連の工場にいる、渡辺社長と、剣吉部長、そしてこの前に会って既におなじみになった関さんの三人が入ってきました。
一体どうして?と言う疑問には、薬科大学に卒業生の採用に来たのですよ、と言うことでした。もっと詳しく聞くと、関さんがここの卒業生ですから、彼女からこの大学に渡りを付けて、ひと月前に求人をしたいと申し出たら、沢山の申し込みがあって、履歴書、推薦書、成績証明書などを出させて、そのうちの8人を選んで今朝ここで面接したと言うことでした。
全く知りませんでした。ま、知る必要もないし、知っていたからどうって訳ではないですけれど、7月にここを訪ねてきただけなのに、実行力がありますね。驚きました。
大連の工場には百人くらいいるそうですが、日本語を話す人は少ないそうです。ここの卒業生の関さんを採用して、日本語を話す人が良いことが分かったので、ここでの採用に踏み切ったと言うことでした。
そうでしょ、ここの卒業生はとっても良いでしょ。大体、大学の1年生のときにすべての時間を注ぎ込んで日本語を習得して、そのあと英語を勉強してから、専門の薬学(これは化学でも、工学でも良いですけれど)を日本語で勉強した学生を送り出すところは、ここしかないのですよ。
他の大学でも、日本語学科があるところでは、日本語を勉強する学生はいます。けれども、日本語学科で日本語を学ぶ訳なので、日本文化史とか、文学史、日本のマスコミなどを勉強しているかも知れないけれど、それだけなのですね。科学の専門知識も持って、しかも日本語の操れる人は、ここの出身者だけです。中国広しといえども、ここの大きな特徴ではないでしょうか。
それなのにこの大学ではそれを大きな特徴として宣伝している様子がありません。中国と日本との関係が何時も微妙だからでしょうか。
日本語教育にもっと力を入れれば、もっと日本語に堪能な学生が沢山育つのに、もったいない話だと思っています。日本語の勉強は1年生の1年間だけで終わって、あとは二年生の9月から12月はじめの日本語1級能力試験の間勉強を続けるだけで、3年生になって専門の分子生物学を日本語で(日本人によって、つまり、ぼく)教わるまで空白なのですね。
日本人の専門家を招いて、2年生から3年生の前期までの1年半を、希望者だけでも日本語の科学の本を一緒に読むなどのカリキュラムを作ると良いのにと思っています。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
今は海外に出掛ける中国人が多く、そしてどこでも評判が良くないですね。周りには他に人がいないかのように辺り構わず大声を出し、つばは吐く、痰は吐く、ゴミはところ構わず直ぐに捨てるし、列は作らずに群がって平気で割り込むし、ともかく諸外国で嫌がられています。
これを一言で言うと民度の問題と言うことになるのでしょうか。とかく中国人は民度が低いと言われ、何時になったら良くなるのだろうと、中国人自身もいろいろと論評をしています。
最近見た記事では、中国人の、ひいては中国のイメージが悪いのは報道が悪いのだ、中国人の行動が悪いと伝えるマスコミが中国人の評判を損ねていると主張しています。
『旅行者のマナーと暴露報道、中国のイメージダウンの原因に―中国メディア(Record China 11月29日)』
実際に中国人の行動は顰蹙を買うものが多いけれど、マイナス面ばかり報道するメディアがいけないのだと言っています。『高度情報化時代の今、どんなニュースも瞬く間に世界を駆け巡る。報道は国家のイメージを作る重要な要素。たとえマイナス報道が真実でなかったとしても、一度作られた悪い印象はしばらく消えない。マイナス面を報道するなというわけではなく、質と効果を考えるべきだ。暴露目的の報道は事態を改善せず、国家のイメージを悪化させるだけだ。』
マスコミよ自粛せよと、自虐的な報道をするなと、恐らく中国のマスコミに訴えているのでしょうね。
昔、日本の自民党で長期政権を誇った佐藤という総理大臣がいました。ノーベル平和賞を貰った人で、それ以来ノーベル平和賞の評判は地に堕ちたような気がしますね。ノーベル賞はともかくとして、佐藤政権の終わりの頃は国民からすっかり見放されていましたが、国民の間の評判が悪いのはマスコミが悪いのだと決めつけて、記者会見を開いても新聞記者の出席を許さず、一方的にテレビカメラの前で話しだけをして、テレビで放映させていたのを思い出しました。
マスコミが状況を煽るのは事実ですが、元は何だったか考えれば、マスコミの所為にするのはおかしな話ですね。
今は沢山の中国人が世界観光に出掛けて悪い評判をまき散らしていますが、今から50年前は日本のノーキョーさんの団体様ご一行が、世界中に日本人のおかしなイメージをまき散らしました。世界中から散々悪口を言われましたね。しかしそれと同時に、世界を見てきた人が日本の社会に増えて、日本の人たちの感覚も世界に向けて開かれたものに変わってきたのですよね。
今の中国人の評判はさんざんと言っても良いですけれど、そのうち良くなるでしょう。少なくとも先ず、自分たち以外も周りに人々が居ることを認識して振る舞う、世界の共通のマナーを身につけて欲しいですね。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
中国では下水油(中国では地溝油といいます)が市場に出回っていて、誰もが戦々恐々としています。精製技術が進んで、今の普通の検査では下水油だと分からないそうですし、ですから市場に堂々と出回っているという話です。
中国の一年間の消費油2300万トンのうち300万トンがこの下水油だと言われています。
はっきり下水油と分かるなら、そして品質が粗悪なら、安く出回るので屋台みたいなところが仕入れるでしょうから、屋台で食べなければいいだけです。でも見た目も、検査をしても分からない状況では、どこでも安い油を仕入れて使うでしょうから、逃げ場がありませんね。
そう言うときに、素晴らしいニュースを読みました。
『世界に羽ばたけ! 下水油…オランダ航空が「産油国・中国」に着目(Yahoo News 11月25日)』
それによると、オランダ航空が『担当者を山東省青島市に派遣して、サンプルを買いつけた』そうです。すでにこのオランダ航空は廃油を使って航空機を飛ばしているのだそうですね。
先ず、20トンを購入してテストをしてOKなら、年間12万トンを買い上げるそうです。年間300万トンの産油国である中国に目を付けたというわけ。
ボーイング777-200の満タンで171トンですから、20トンというのは大した量ではありませんね。
オランダ航空は1トンを3000元で買いたいと言い、中国は6500トンで売りたいと言うことです。中国側の計算は、『原料収集コストが、1トン当たり4500元、加工に1500元、運送や検査費も加えて6500元との計算だ』ということです。値段が適正かどうか、ぼくには判断できませんが、航空燃料に使うなら、食べられる(あるいは検査にパスする)くらい綺麗にする必要はないので、地溝油を集める手間と、ゴミを微細なところまで取り除くだけで使えるのでないでしょうか。つまり、もっと安くなるでしょう。
オランダ航空の買い取るのは年間300万トン供給される下水油のわずか4%です。価格が少し高くなるでしょうか。下水油が市場から姿を消すためには、世界中の航空会社がオランダ航空とおなじようなことを始めないといけませんね。
航空会社は燃料を節約するために必死ですが、実際に経費のうちどの位燃料を使っているのか、調べる方法がありませんでした。いまどきGoogleで分からないことはないみたいなので、使い方が合っていないのでしょうね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
10月後半から毎週二回プログレスレポートを開いて、1年以上ここにいる院生が報告をしていますが、研究室の新人に対する教育という面が強いです。ちょうど良い機会だから、研究室で、そして先輩が何を研究しているかを徹底的に知って欲しい。研究を理解する絶好の機会ですよね。
だから、分からなければ、あるいは疑問があれば遠慮なく何でも、直ぐに質問しなさいと言うのに、黙っているものだから、こっちから訊くわけですよ。
この前は朱さんが報告をしました。ある遺伝子のcDNAを釣って、ベクターに組み込んで、遺伝子の発現ベクターを作りました。
ベクターに組み込むために制限酵素を使うでしょ。両端を別々の酵素で切った場合、あるいは一つの酵素で間に合わせた場合とか、どちらがよいか考えるのはよい訓練ですね。
更に制限酵素は。sticky endを作る場合と、blunt endを作る場合とありますね。両方がblunt endを作る酵素だったらどうなる?とか、ね。
制限酵素はいろいろな細菌から取っているけれど、その細菌ではこの酵素は何のためにあると思う?と訊くと、新人は顔を見合わせるばかり。
もし細菌に自分の仲間のDNAが入ってきたらどうなると思う?
じゃ、もしその細菌と違う種類の細菌のDNAが入ってきたら?
ぽかんとしています。細菌は無性生殖だけで増えると思っているのでしょうか?遺伝子の多様性を作らないと、環境の変化ですべてが一瞬にして絶滅してしまいますね。
ほら、F+(Fプラス)と F-(Fマイナス)の大腸菌の接合ってあるでしょ。
接合したらどうするんですか? そう、F+からDNAがF-の中に入るのですね。
入ったらどうなる? そう、自分のDNAとの間に組み替えが起こるのですね。
入ってきたDNAが自分の仲間のDNAじゃなかったら、組み替えが起こると、もう自分じゃなくなってしまいますね。こんな事が起こったら困るでしょ。
だから、細菌は、自分以外のDNAを分解するように、制限酵素を作っているのですよ。
この制限酵素はどうして自分のDNAを分解しないのでしょう?
え? どうしてだと思う? 何か仕組みがあるに違いない位のことは考えつきなさいよ。じれったいね、ほんとに。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
日本のニュースを見ていたら、『「彼女いない」がマジョリティー 「いい時代になった」「胸張って歩ける」の声(J-CASTニュース 11月26日)』というのがあって、びっくり。そして、何と情けないことでしょう。
いずれ、赤ん坊の声が聞こえない社会が来てしまうのでしょうか?
SFの読み過ぎかも知れませんけれど、男の生殖機能と生殖能力が衰えたら、人は絶滅していまいます。
いわゆる環境ホルモンには沢山の種類があるのでいろいろの作用がありますが、男性ホルモンと拮抗して男性ホルモン作用を弱めてしまうものも知られています。近年、精子数の減少があちこちで報告されていますけれど、一番の原因は、人類が産業革命を始めて以来の、この化学物質の多用が原因でしょう。
当然のこと、環境ホルモンの作用の結果、精子数の減少だけでなく異性を追いかけようという意欲も衰えて、いわゆる草食系男子になることも、この面からも理解出来ます。
この調査が公表されて、『デートスポットで伏し目がちに歩いていた「独り身」も胸を張れる時代がやってきた。最近の調査で、街行く若者たちの過半数以上に「彼氏・彼女」がいないことが分かったのだ』そうです。これは、例の「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と同じ心理ですね。日本人は皆と同じだと安心してしまうところがあるから、困ったものです。
これはいい加減な調査ではなくて、『2011年11月25日、国立社会保障・人口問題研究所が発表した「出生動向基本調査」(独身者調査)』なのだそうです。つまり信用して良いのでしょう。
それによると『異性の交際相手がいない18~34歳の未婚者が男性で61.4%、女性では49・5%に上り、いずれも過去最高になった(10年6月実施)。前回の2005年調査と比べると、「交際相手がいない」割合は、男性では9.2%、女性で4.8%増加している』とうことで、適齢期で半分は相手が居ないのですね。
でも、それを肯定して満足してるかというと、『前出の「独身者調査」で「いない」と回答した男女のうち過半数が「交際を望んでいる」』そうですから、単に相手が見つかっていない、相手を見付けるのに積極的ではないということみたいです。
つまり世紀末はまだ迫っていないみたいですが、いい女を見て食指が動かないない世の中になっているみたいなのは心配です。ま、動きすぎても、問題ですけれど。
もちろん、ここでは、男の立場で書いていますが、女が食指を動かしたって良いわけです。その時は何が動機になるのでしょうね。背が高くて、と言うのは見て分かることですが、収入が多いかどうか分からないし、そうなると、顔や、所作や会話でしょうか。男が女を見て判断していると同じようなところで女も男を見るのでしょうね。
ぼくはもうこう言うことは関係ないですけれど、それでも男女の間のことを考えると、とても面白いです。でも、問題は男女がお互い興味がなくなって、家庭を作ることが減ると、もろに少子化社会に直面するわけで、実は大変深刻な問題なのですね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
研究室の昼は何時もパンを買って、沢山買ったときはフリーザーで保存しておいて、昼は何時もパンでしたね。大抵チーズは欠かさないようにして。それは今も続けています。
晩ご飯は、はっきり覚えていないけれど、多分夏頃からですね、この夏は日本に戻らなくて瀋陽にいて、もちろん夏休みなので毎日オフィスに来ていたけれど、夜のご飯を自分で作る時間が出来たのでした。
オフィスで作るので、油を使う調理は出来ません。もっぱら煮るだけですね。でも、以前からぼくたちは野菜を茹でて農薬を熱湯抽出で除いて、あとは水煮みたいなものでしたでしょ。同じ感じで調理をしています。
味は、日の出料理酒、キッコーマン醤油、にんべんつゆの素、(以上は。万象城の地下一階のスーパーで買えます)、シマヤ鰹だし、味の素コンソメ、李錦記牡蠣油などです。
以前は生肉を使わずに、ベーコンを時々入れていましたけれど、この頃は暁艶が相棒なので豚肉、牛肉を買ってきて使うことが増えました。時々、二週に一度くらいの日曜日、研究室に来ている院生を食事に招きます。
12月4日は瀋陽日本人会のクリスマスパーティで、今年はマーベロットでは入り切らなくてシェラトンに移して開かれました。ぼくはこれに行く気になれなくて参加を見送ったのですが、日本語教師の石田先生もこれに行かないと言うことだったので、日曜日の昼に食事に招きました。そのための買い物は、暁艶が朝7時に近くの朝市に出掛けて整えてくれました。リュックに一杯と手提げ一杯で、戻ってきました。
牛肉はスネ肉を800グラム。これをタマネギと人参と耐圧鍋で煮ました。味を調えると、もうそれで美味しい牛肉シチューのできあがり。
もう一つは、湯葉を煮込んで、これの味を調えた上で卵を人数分落とし込み時間まで置いておきました。石田先生が着いたあとでお喋りしながら、あらかじめ茹でておいたほうれん草を入れてさっと煮てできあがり。ご飯は、丸美屋の炊き込みご飯の素で4.5合。
院生は、笑笑と音知が実験から手が離せなくて、暁艶、崔、朱さんの三人。皆おいしがって食べてくれたのですが、終わってぼくがお冠。崔が牛肉シチューの中身を食べただけでスープは捨てるのですよ。ぼくは頭に来ました。
学生食堂のうどんの汁を飲まずに捨てるのは分かりますけれど、ぼくの作った牛肉シチューを食べ残すなんて、信じられません。焼くのではなく、煮た牛肉だから肉のうま味と栄養は全部スープに出てしまうわけですよね。残った肉は滓みたいなものです。
そう言っても食べないのですよ。ぼくが調理して招いているのに、このような食べ方は失礼です。もう二度と不愉快な思いをしたくないから、うちの学生をぼくの料理に招くことは止めましょう。
どうも、ぼくもまだ料簡が狭いみたいだなあ、と思っていますけれど、相当傷ついたってことです。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
薬学部の学生の陳佳卉さんって覚えているでしょ?
遊松教授のお嬢さんの日本語の家庭教師をしていたときに会いましたが、あのときは2年生でした。今は5年生で、卒業したら米国の大学院に行くと言って行き先を探しています。3年生の後半から私たちのセミナーに来ていましたし、推薦書を書くよう頼まれています。
ぼくは原則として、推薦書は学部学生には書かないのですが、彼女は特別。
この秋、自分もうちの研究室のセミナーで話してみたいと言ってきました。それは結構なこころざしだけれど、今は、ぼくが毎週Glycobiology の講義をしているので毎回一人しか話が出来ません。一回りに二ヶ月かかります。ですから一人が割り込むだけでも影響が大きいので、うちの何時ものセミナーのローテーションに入りたいという希望は断りました。
しかし、自分でセミナーを開いて、みんなに聞いて貰いたいと、うちの研究室の人たちや、お友だちに話したら?
うちの研究室の定期的なセミナーにはしないし、強制的に出席するようにとも言えないけれど、もし自分でやるつもりなら、ぼくは必ず出席するし、やってみたら、と励ましました。
それがこの日曜日の午後2時からやると言って、ぼくとも顔見知りのクラスの友だちを3人集めてきました。うちの研究室からは、親切な暁艶と崔玉Ting、それとぼくが聴き手でした。
がん細胞にそれが欠けてているために細胞分裂が止まらないタンパク質(ここではP16)を外から塩基性のペプチドを使って導入するという研究でした。
陳さんはすごく面白がってこれを選んだみたいですが、実験の内容を理解しないで(というか理解しようともせずに)結果だけを説明したのですよ。実験を理解しないで、研究論文が何を主張したいか評価できませんよね。こんな読み方じゃ、先方の大学院に希望しても教授が受けいれないよ、と論文を読む要点を指摘しました。
もちろん、がん細胞に欠けているタンパク質をペプチドを使って運び込もうというやり方は、(色々ながん細胞をターゲットとしてクスリなどを運び込もうという研究は沢山ありますが、そのひとつとして)大事な研究の一つと思います。
でも、正常な細胞には入れないで、がん細胞だけに運び込む特別な方法はまだ見つからないのですよね。この論文の方法だと、がん細胞だけでなく、周りの正常細胞にも同じように取り込まれてしまいます。
がん細胞と正常細胞の違いを見つけ出そうという研究は今までに山ほどありますけれど、どれも恒久的ながん細胞をターゲットとすることが出来ません。
科学が進んでも、まだぼくたちは無力ですね。何とかそれを乗り越えるために、がん細胞がどうして転移するかの機構を探り、これを止める方法を見つけようというのがぼくたちのスタンスです。
陳さんはまだ未熟であることを見せましたが、これから卒業して大学院に進もうと言うところですから、今は論文をちゃんと読むことが出来なくても、やがてそれが出来るようになるでしょう。
ぼくたちがそれよりも増しなレベルにいるのなら、ちゃんと研究を進めて成果を出さなくてはね。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
この夏から北京の在中国米国大使は中国系のゲイリー・ロックになりました。中国系の人が任命されたというので、米国でも中国人が偉くなったと身内の昇進みたいに喜び、更に中国重視の表れだと喜んだみたいです。これは、一般大衆の反応で、政府はどうなのか知りませんけれど。
夏の赴任に際して普通人に混じって、誰からも注目されることなく普通に飛行機に乗ったそうです。着任したときの写真を見ましたが、空港から出てきたロック大使は手荷物を自分で運んでいました。
ぼくはこれを学生に見せましたよ。「すごいじゃない。大使が自分の手荷物を自分で運んでいるでしょ。赴任の場合は知らないけれど、日本の大使や公司が外国に出張すると、自分は手ぶらでね。手荷物はお付きが皆提げて付いていくのさ。中国でも同じでしょうね」
その時の記事『中国の高官はロック大使の「公僕」ぶりを見習え(Record China 2011年8月14日)』では、『高官が全く高官ぶらない。これこそが正しい姿だろう。役人というのは人民の公僕だ。それなのに中国の役人はどうしても偉ぶらないと気が済まないらしい。だが、ロック大使に出来ることを我々中国の役人が出来ないことはあるまい。どうか、省部級の高官はロック大使に学んでほしい』と結んでいます。
いや、まったく。
12月3日のRecord Chinaによると、12月1日のニューヨークタイムスを引用して、『ゲイリー・ロック(駱家輝)米駐中国大使の清廉ぶりが中国民衆の心を鷲掴みにし、中国役人の腐敗ぶりを際立たせている。これを快く思わない中国当局が報道機関にロック氏関連報道を控えるよう命じたようだ。』
これはもう本末転倒みたいですね。ロック大使の清廉を見習って公務員の堕落を直すのが筋でしょうけれど、都合の悪い記事はとりあえず報道禁止にしてしまえというのは、ここの常套手段ですね。
米国は『大使の体に流れる中国人の血と飾らない人柄は世界中の中国人から愛されている。米国は中国人に中国人を抑えさせ、中国の政治を混乱させようと企んでいるのでは?』と思わせるところまで計算して、ロック大使を選んで派遣したのでしょうか。そうだとすると、大した企みの出来る人がいるわけですね。
日本を開戦にまで追い詰めたハルノートの名前で残っているコーデル・ハル国務長官とか、単純な日本人は思いも及ばないしたたかな人たちがいる國ですから、さもありなんですね。中国も負けず劣らずしたたかですから、良い勝負でしょうけれど、今の日本の政治家で彼らに太刀打ちできる人がいるでしょうか。情けない國です。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
昨日の午後3時過ぎ、教授室でドアのノックがあって返事をすると30歳前の男が入ってきました。中国語だったので、分からないから英語で言ってくれと言うと、たどたどしく、「自分の妹が日本にいるので、日本語を書いて欲しい」というのですよ。
妹なら中国語で十分通じるでしょ、何で日本語にして欲しいと言いに来るの。妹が必要とするなら、日本で知り合いに頼めばいいでしょ」と思いましたが、それは置いておいて、「そんなことを言ったって、大体あなたのことを知りませんよ。あなたは何者なのですか」と訊きました。
すると、自分のことは名乗らずに、自分はこの大学の卒業生だというのです。
じゃ今はどこにいるのだというと、南の広州にいるというのですよ。南の広州からここに来て、一体何しているんだって訊いたら、今瀋陽の女友達のところに来て居るっていうのです。
何度聞いても名乗らないので、この若い男の言いなりになる必要はないと判断しました。
「ともかくあなたのことは知らないし、自分の名前も言わないあなたに、頼まれて何かする必要を認めない。頼みを聞くことは出来ませんね」と何だか分からない頼みを断りました。大体ぼくは人に親切ですけれど、警戒心が働いたのですね。
「隣にも日本人が居ますか」というので、「ええ」と返事をしました。そのあと隣の池島先生のところに行ったでしょうか。
日本と中国と文化が違うでしょ。ですから、こうやって飛び込みでこんな事をいきなり頼むことが当たり前なのかどうか、うちの院生たちに訊いてみました。みんな、それはおかしいんじゃないですか、と言うことでした。
そう言う頼みが必要となったかも知れないけれど、あらかじめ電話をして都合を聞くし、名前も名乗らないなんて、きっと変な人ですよ、と言うことでした。
気になりますから、うちの研究室に備え付けている防犯カメラの画像を、巻き戻して、その部分を調べて、保存しておきましょうね。
一般に中国社会では人と人の物理的関係は日本よりも遙かに近いですね。物理的というのは、人の近くに寄る距離のことです。日本人の意識からすると、彼らは初対面でも驚くくらいに近くに近づきますよね。
学生なら、少なくとも先方はぼくを知っているから平気なのでしょうが、部屋の奥にいるぼくの机の横の、手の届くところまでつかつかと(づかづかと)やってきます。ぼくはもうそれ以上は下がりようがなくて、人を目の前に迎えるわけですよ。理化学機器の売り子も同じように、づかづかやってきます。
心理的にこれではまずいので、この頃は人が来るとぼくのところに来る前に急いで立って、立ち向かうことにしています。
立ち上がって、あちらには歓迎して近づいているように見えるかも知れませんが、立ち向かっているわけですよ。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
1980年代に生まれた若者は、人口に「八〇后」(バーリンホウ)とひとくくりに言います。ぼくたちが中国の瀋陽薬科大学に初めて来た頃の学生で、今は日本で働いている楊志宏さんは姉が一人いる次女ですが、一人っ子政策の始まる年に生まれて、「ぎりぎりセーフ、あと1年遅かったら、流されていたわ」と笑っています。楊志宏さんは、「八〇后の人たちは、わからないですねえ。私たちと全く違うもの」と言っていました。
それから十年たって、今は「九〇后」(ジュウリンホウ)が学生の時代です。うちの大学院の院生は「八〇后」ですから、学部学生が研究室に出入りすると、「全然違いますねえ」と言っています。一口に言うと、「九〇后」はそれまでの世代と違って、「先進的、個性的、反抗的、自己中心的」とくくれるみたいです。「八〇后」と同じように、生まれたときから一人っ子で、大事にされ、わがままに育っているにしても、社会環境がまるで違います。中国社会が豊になり始めたのは90年代半ばからです。
「八〇后」は子供の頃はまだ社会が貧しかったけれど、「九〇后」は、生まれたときから豊かな社会を当たり前のものとして育った、というところが大きく違うでしょうね。
その彼らが大学を出るのは来年で、全国の大学卒業生は680万人と言われています。2005年は338万人でした。2010年は630万人、2011年は660万人です。卒業生の数が急増しています。以前は大学はすべて国営だったのが、十年前から大学経営の自助努力が言われだしました。手っ取り早いのは学生数を増やすことですから、この十年に学生数が八倍に増えたと言われています。
2009年の日本の大学卒業者数は54.1万人ですから、大ざっぱに人口比10倍と計算して、もう日本の規模を上回っているのですね。
卒業生が増えても中国の就職状況はこの数年芳しくないみたいです。公式発表で10%は卒業しても就職口がないそうです。実際には30%があぶれているとも言われています。
そのためか大学院受験者集が毎年うなぎ登りです。2010年には、47.2万人の定員のところを、140万人受験して、競争率2.9だったそうです。ちなみに、古い数字ですけれど、日本の2007年度の修士課程入学志願者数は24.3万人で、合格者数は15.5万人。倍率は1.6でした。
そんなわけで、世間は就職難ですが、この薬科大学の卒業生は全く困った様子がありません。北京の資生堂に受かっても、もっと条件が良いところがあるとそれを振ってしまうくらいです。もったいない事するねえ、と思わず口にでてしまいますね。
以前、彼らと同じように、「ぼくを生まれた年代でくくると『三〇后』となるのかなあ」と王麗に言ったら、「いえいえ、先生は『七〇后』(チーリンホウ)ですよ」と言うことでした。
若者に「あなたは幾つ?」と訊いて、「八〇后」という返事が返ってきたら、「そうなの、ぼくは『七〇后』だよ」というわけです。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
昨日の最低温度はマイナス18度だそうでしたが、きっとそれは朝来るときの温度だったと思います。昼はマイナス12度からマイナス15度くらいになっていたのじゃないかと思います。
昼に床屋に行こうと、大学の研究室を出ました。外にありますが歩いて8-10分のところです。朝と違って帽子をかぶっていなかったので、昼間になったのにまだ寒いと思いました。それでも、床屋に行くのに帽子をかぶることはないな、忘れて帰るかも知れないし、と思って帽子なしで出掛けたのでした。
床屋に着いたら、お目当ての職人さんがいません。諦めて、また出直すことにして大学に戻りました。
帰り道、どんどん気分が悪くなっていくのです。気が遠くなっていく感じです。
ぼくは滅多にないことですが、血糖値が低下したとき、あるいは貧血を起こしそうなときの気分です。一緒にいた暁艶に支えられて、ともかく部屋まで戻って、「甘い飲み物を作って」と叫んでへばってしまいました。
ハチミツ入りの紅茶を直ぐに作ってくれて、頭を起こしてそれを飲んでホッと一息。
でも、血糖値が下がって気分が悪くなったことは今までに数えるくらいしかないし、朝の11時にビスケットを口にしているから、血糖値の下がるはずはありません。そこで思いついたのは、寒さです。
頭に帽子をかぶっていなかったので、頭から熱が逃げて、頭が冷えすぎて血液の循環が悪くなって、脳の血糖値不足になったのでしょう。
昔、フィンランドで冬は帽子が必需品と言われたことを思いだしました。厳寒のなかを、帽子なしに歩いていると、失神することがあるのだそうです。もちろんフィンランド人は帽子なしで冬出歩くことはありません。
瀋陽の冬はフィンランドほどではありませんが、まだこれからはマイナス20度以下に下がりますし、マイナス30度になるかも知れません。今日の貧血が警告になって良かったと思いました。
久しぶりに瀋陽日本人教師の会の定例会に出た。今期になって4回目の会合に初めてでたわけだ。知らない顔ばかりというのは大袈裟だが、3分の1の人は初対面だった。
会合に出られない間は、教師会の議事録のブログを見ていたが、「1. ○○について」「2. △△について」というような記述だけで、何を議論して何が決まったかが書いてない。
それでも昨日の集まりで、弁論大会に関して気になる話しが出た。大会で審査をして、1-3位を入賞と評価して表彰するが、入賞しなかった学生から、順位と点を教えて欲しいと言われたそうだ。
それで、いままで散々議論して、公表できない理由はないと言うことで、聞かれれば結果を公示することにしたという。
わたしはこの議論に参加していないので、決まったことに文句を言ってはいけないが、結果を知らされていなかったと言うことを盾にして、自分の意見を言った。
『1から3位までは恐らく6人の審査員の評価がだいたい一致するでしょう。しかしそれ以下は、審査員ごとに大分違うでしょう。つまりStudent t-testを計算すると信頼が置けない数値となるのではないかと思います。
審査員は教えるプロの日本人教師から3名、日本人会から2名、中国人教師から1名という配分ででています。日本人会からでる審査員は専門家ではなく、どのような信条で点を付けるのかは、非専門家の私には良く分かります。
つまり、教師の会が責任の持てる採点は半分の人数なのに、外部に公示してその内容に教師の会が責任を負うというのは、やり過ぎだと思います。
つまり科学者の眼から見ると、責任の追えない数値なのに、それを自分の責任で発表するのはやり過ぎなのです。と言うか、明確に言うと、間違いです。
点数を公示するとすべての参加者がそれを知り、審査会にでていた他の人たちの意見も加えて、この点と順位はおかしいではないかと言い出す可能性があります。
そんなことないでしょ、というのはナイーブすぎますね。私たちはいつもすべての可能性を想定しなくてはいけません。』
それでも、多くの人たちから攻撃を受けた。自分たちが議論して決めたことに何で門外漢が文句を付けるのかという感じを受けたのだが。
もし、学生、父兄、その先生たちから、これはおかしいじゃないと言われたときに、教師の会でない人たち半分の審査員も含めた結果の責任を教師の会がどうやって取れるのか、とれっこなないのに、今の教師の会に人たちは、とても不思議なひとたちだと思う。
公示しない理由は何かと聞かれて、答がないので公示することにしたというのが、理由みたい。そう言うのが理由になるのかな。
集まりで、多くのひとたちが語気も鋭くこう決めたのだとぼくにいう以上、わたしは言いたいことは言ったのだから、もう結構。
わたしは、採点結果の公示とその結果は日本人会の責任であることを日本人会に明確に伝えるようと、この会で司会と代表に念を押して、お終いにした。
12月10日土曜日に開かれた12月の教師の会の定例会では、研修が一つ組まれていた。この研修は、教師の会の昔の集まりでは、時々やっていた。
前期の終わりに、教師会の集まりの一体感を作るためにも、教師が瀋陽にいる目的のためにも、次期からは研修を再開しましょうと、私は全員に訴えた。
それで9月から始まったけれど、粟野先生による初回の研修にも出られず、私が研修に参加するのは今度が初めてだった。演者は東北育才外国語学校の中谷先生で、話題は「敬語について」だ。
日本語の敬語は外国人による日本語学習の中でもっとも難しいものだ。だって、それに相当するものがないのだもの。でも、この敬語の使い方が身につかないと、日本語はマスターできない。
それで、日本語教師はこの教え方に努力してきたわけだ。今日の話は、敬語の教え方を従来法と、新しい教え方に分けると、日本語学習の初心者には、新しい教え方が遙かにわかりやすいというものだった。従来法が何かはわたしは知りませんが、この新しい方法は、わたしが聞いても、すっと理解出来るものだった。
敬語は、尊敬語、謙譲語、丁寧語の三つに分けるが、この謙譲語を分からせるのに、「受け手尊敬」という考え方を導入するという。相手に対して自分を下げて(へりくだって)、相手を上げることで尊敬する言いまわしになるという捉え方だ。丁寧語は、「聴き手尊敬」と、考えるとわかりやすいらしい。
実際、説明を聞くと、なるほど、と納得できる。それにしても日本語の先生たちは新しい概念を教えるために、大変な苦心と苦労を重ねている。
聴衆のひとりから「あなた」という言葉は相手に対して失礼だと言って教えているそうだが、という発言があった。中国で日本語を教えているけれど、日本語教師が本職ではない人のようだった。
確かに、学生がやってきて「先生、あなたは、、、」なんて言われたら鼻白む。だからといってあなたは相手に対して失礼な言葉じゃなく、尊敬語だ。普通使わない理由として、知らない相手、あるいは目下と思われる人には使って良い、しかし名前も知って人には、使わないのが普通だ、と言うことだろう。
と言うわけで、会員の日本語教育に対する熱意には感心した一日だったが、宇野代表が懇親会で述べた言葉はいただけない。
懇親会で皆が挨拶をして最後が宇野代表だったが、話しの結びが、「まだ言いたいこともありますが、『他の人も色々と言ったので』、え、ま、これで。」でした。
ここの『他の人もいろいろと言ったので』は、『他の先生がたも色々とおっしゃったので』でしょうね。そうじゃないと、とても失礼なはなしだ。代表だからと言ったって、若年の宇野さんが遙かに年長の尊敬すべき先生方に言って良い言葉ではない。
宇野代表は本当に日本語教師の資格があるかどうか、疑わしい。
2006年から1年間瀋陽大学の日本語教師だった田中義一さんが、再び、今年の秋からは薬科大学の日本語教師となった。
前のときは瀋陽大学の前任者の丸山先生が、「次の先生は私の部屋をそのまま引き継ぐのですよ、私が使ったシーツやタオルもそのままで良いって言って、私の発つその日にやってくるのですよお」と訴えるので、ぼくたちは初めから田中先生を「なんだか嫌らしい」と色眼鏡で見ていた。
田中先生は最初に出席した教師の会で、「私は夢がありました、一つは外国に行って仕事をすることです。それがとうとう叶いました、とても嬉しいです」と、これはま、結構なことだ、夢が叶ったのだから。
続いて、「わたしには、もう一つ夢があります。結婚したいです。ずっと以前から結婚したいと思っていましたが、どうしてか叶わず、とうとう新天地の中国に夢を追ってやってきました」と、ここで教師の会の中の3分の一位を占める若い女性の先生たちを見回して、こぼれてくる笑みを抑えきれずに、「いや、もう、来て良かったです。もう一つの夢も叶いそうです」と言ったから、若い女性の先生方からは総スカンを食った記憶がある。
それで私たちも事前の色眼鏡が強化されて田中先生を見ていたのだが、段々と、ともかく率直な人だと分かってきた。
今年の秋に薬科大学に来て教師の会に出て、またしても「自分の夢は一つは叶ったけれど、もう一つの夢である結婚したいというのがまだです。中国に来て、さあ、頑張るぞ」と言ったかどうか、仔細は知りませんが、結婚相手を探しているのだと宣言したという。公開の席でこんなことを言われたら、大抵の未婚の女性は、表向きは引いてしまうだろう。人は率直なだけでは、いけない。もういい加減な年なのだから、その辺のことを覚えなくっちゃ。
でも、話を聞いているとまったく無防備に無邪気な人に見える。12月の会のあとの懇親会では指名されて、「私が物理学で博士号を持っているって、どうして知ったでしょうねえ。薬科大学の物理学の先生が今度日本と中国の物理学に違いを話そうと言ってきたのですよ。」
そんなこと言ったって、物理で博士号を取った話は初対面で皆に話しているし、メイルアドレスもDrtanakaで始まるのだから、知らない人がいるとは思えない。
「英語と中国語も使って日本語を教えているけど、学生は拍手をしてくれるんですよ。可愛いですねえ。この間、『私とデートをしませんか』と言う文型を教えてね、それが終わってから『私とデートをしませんか』って学生に言ったら、一斉に『ノー』でしたよ。ハハハッハ」。
ぼくは田中先生が瀋陽で再び日本語を教えたいという強い希望を伝えて薬科大学に彼を紹介したので、先ず何よりも学生にとって優れた日本語教師であって欲しい。
久しぶりに池本先生に会った。
池本先生は2005年から教師の会の仲間だったが、2008年の資料室の閉鎖のあと仕事が忙しくなって、集まりにでられなってしまった。
しかしそのまま、それまでの大事な仲間が会員から去ってしまうのが残念で、会友という制度を作って、会費は納めることで会員としての権利はあるけれど、役に就くという義務を免除したものを作った。
昨年度は、池本先生はその会友の会費も納めるために集まりにでる時間もないということなので、ぼくが彼女の分を立て替えた。こんなことで止めて欲しくなかったからだ。
今年度も、同じくぼくが立て替え。
とうとう池本先生は忙しいのに、立て替えたお金を払うために時間を作って呉れました。
長い間会わないうちに池本先生はますます美しくなって、眩しく輝いていた。彼女の生活が充実しているからに違いない。
今期、教師の会ではまた研修を始めたが、以前、池本先生の研修を聞いて、これがプロの教師だと実感したのを強く覚えている。
本物の教師に日本語を教わる中国人は幸せだ。
中国政府も、日本語の教師として日本人なら誰でもいいなんて言わずに、ちゃんとした教師を選別するようにして欲しいと、改めて思う。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
今日は日本に来ました。公開シンポジウムの講師として招かれています。
大学の送りの車は手配されていて朝7時に迎えに来てくれましたが、交流処の葛さんが来られなかったので、暁艶が見送りに付き合ってくれました。マイナス15度くらいデマ、外で車を待っていると脚が凍り付きました。
見送りがなくても一人でも大丈夫かと思っていたのですけれど、空港でチェックインして搭乗券を受けとって、大きなスーツケースを引いて搭乗口に向かいかけて、暁艶が「え、え、え」と驚いて教えてくれました。よかった。
一人だと段々危なくなるのですねえ。
飛行機は半分以下の搭乗率だったのではないかな。年末間近で、空いているときなのでしょう。
この間初めて書いた短編小説のことを考えていました。
これを、以前、教師会で一緒だった加藤さんに送ったのですよ。
主人公の設定が同じく教師会の仲間だった池本さんを彷彿されるものだったので、きっと加藤さんはこれを読んで、そうかそうかと面白がるだろうな、と思ったのですよ。
主題としては下水油を取り上げたので、当然、加藤さんはこの夏まで中国にいたんでニュースを知っているし、いや、自分が書くなら材料をこう扱うとか言ってくるかと思ったのです。
そしたらね、料理人の背景は池本さんの話の借り物だし、油の話だって全部知ってることしか書いていない、下らない、というのですよ、すごい剣幕で。
全く、鼻白みました。くそったれ、オタンコナス、オタンチンのパレオロガスめ、と心で思い切りけなしてぼくの自尊心を守りつつ、それでも、ここまで言われたのだからこの次はどうやって鼻をあかそうか、いや、糞味噌に言われることも大事なのだ、ぼくは甘チャンで終わるところを、ここで生まれ変わって、不死身で立ち上がるのだ、ま、見ていろよ、眼のなかったことを後悔させてやるぜ、なんて考えているうちに、肝心の次の小説の中身を考えることなく寝てしまいました。
何のかんのと言っても、毎日疲れているのでしょう。
目が覚めたら富士山がはるか右手に見えていました。おそらく、日本海を横切って富山か新潟辺りで本土に入ったのでしょうね。珍しいことです。
成田に近づいたら、多分真っ先に飛び出したいからでしょう、あいている前の席に後ろから中年の女性二人が移ってきました。
そしたら、ぷーんと、戦後すぐの上野地下道の匂いが漂ってきました。中国は大国になって大分鼻息が荒いですが、こういったところがまだまだですね。
成田空港ではリムジンバスの整理員に若い女性が登用されていました。これも初めてのこと。荷物を持つのは大変だろうと思っていたら、受け取ってタグを付けて運ぶところまでは、自分でやっていました。バスに乗せることろは今まで通り男の係員でした。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
16日はお茶の水女子大学で糖鎖研究センター公開シンポジウムがありました。
今大学構内の銀杏の大木で出来ている並木が見事に色づいて、それはもう見事でしたよ。ぼくは初めて見ましたが、さえは何十年も前、毎年この景観を見ていたのですね。
主催者の先生に会うのはさえのときの集まり以来ですが、何しろ長い研究のお付き合いですから、11時半に伺って食事を交えて色々とお喋りが尽きませんでした。お茶大の学生食堂の食事は定食の399円でしたが、中華風野菜で、気のせいか薬科大学の学生食堂よりも上品で、上等でした。
講師6人のうち一人はお茶大の立派な先生で初めて話を聴きました。一人は現在お茶大で仕事をしている若い人でしたが、彼を育てた先生は昔から知っている人ですし、他の三人も昔の研究者仲間でした。ぼくはこの9年間、ほとんど学会に出ていないのでごご沙汰をしていましたが、懐かしい面々でした。
しかもそれぞれの研究の話を聞くと、ほれぼれとするように見事な研究の展開で、嬉しいことでした。こういうのって、毎年聴いていたわけですが、このように久しぶりというのも、聴いてインパクトがあって良いかもしれません。学会に出ていなかったと言っても、勉強不足と言うことでしょうけれどね。
昔の名古屋大学のころの教え子の鈴木さんも、ポスドクをやった片桐さんも、ぼくが話しをするというので聴きに来てくれました。嬉しいことです。
やっかいだ学から留学している胡丹、王毅楠の二人も来たのですよ。懇親会が終わってから、御茶ノ水駅に近いところで、大分お喋りをしました。
このシンポジウムは一般の方々が聴きにこられるのでごく易しく話しをするようにと言われて、その用意をしましたが、こういうのって、とても難しいですね。一般新聞に科学記事の解説を書くようなつもりでないと、研究の話しはつい難しくなりがちです。
次の機会があるなら、今日の教訓を生かしたいと思っていますけれど。どうでしょうね。
コメント:
Re:お茶大で公開シンポジウム(12/16) cottoncandy さん
その日に山形先生の携帯に電話をかけましたが、繋がらなかったので、ワンリに電話して、そして、山形先生がお茶大で講演されることを知りましたね。今先生のブログを拝見させていただいて、非常に残念だと思いますね。私はその日の夜も、毎日のように、お茶の水駅を通りましたね。 (2011.12.24 16:24:07)
カテゴリ:日本で生活
さえ:
土曜日は東大の柏キャンパスに行ってきました。秋葉原から普通電車に乗って35分くらいでした。つくばエキスプレスは綺麗ですけれど、東急などの在来の私鉄に比べると値段が高い感じですね。
山本一夫先生に駅で迎えられて研究室に行きました。柏キャンパスから西を見ると雪を戴いた富士の山が見えるのですよ。しかも雄大に。
おまけに、空は真っ青で空の端まで青く、白い富士が浮かび上がって、息を呑む景色でした。
この頃の瀋陽では、空は蒼くても、眼を降ろしていくと中天の半分くらいから青色が薄くなって空の裾は白というか、ねずみ色というか、空が汚いので、空が丸々青いのを久しぶりで見ました。
この前ここを訪ねたときは、さえも一緒でしたね。3年前でしたっけ。
今日は建物の掃除の日だそうで、研究室の人たちは殆ど休みでした。陳陽、秦さんも今日は来ていなくて、教授室で、研究の話しをすること一時間半。
何しろ長年、情報過疎地帯にいるものですから、知らないことばかりです。仕事の話しをした上で、色々と分からないこと、知らないことを教わって、勉強をしました。今後の研究方針もこれこそと言うのが決まった感じで、ここを訪ねてきて良かったでした。
それで、うちに着いたのは4時。息子たちが迎えてくれました。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
18日の日曜日は、土曜日に泊まりがけで来てくれた子供たちを見送りがてら、駅まで歩いて、駅前のスーパーで瀋陽に持って帰るものを買いました。
日本の生ラーメンの評判がよいのですよ。でも持って運べる量は知れていますよね。カレー、シチュー、ハヤシの素、コンソメ、中華味なども。
うちで子供たちに瀋陽のご飯の話しをしました。やっとの思いで東芝の(中国産の)炊飯器を買ったこと、2 Kgで40元くらいする(約560円くらいです。日本よりはちょっと安いですね)「越光」を買ってもあまり美味しくないことを話したら、米を炊くときに「お釜にポン」を入れると良いと子供たちが教えてくれましたので、それもひと袋。
午後は、さえの部屋で数時間を、何もしないで過ごしました。ただ座ったまま。
あのときの、混乱のままです。さえの読みかけの本もそのまま。入院する前、浅田次郎の「草原の虹」を読みたいと言っていたのに、買いませんでした。さえも読めないだろうし、ぼくも読めないだろうと思ったのです。実際、さえの入院していた間、うちに帰ってぼくは一冊の本も読みませんでした。
そのときは、何も、願を掛けていた訳じゃないです。本を読むことで、現実と違う世界に没入したくなかったからです。目が覚めている限り、さえのことを考えていたかったからでした。
その時何を考えていたのか、ある部分は鮮明ですし、そうでないものは全く欠落しています。考えが、願い事が、空しいと言う気持ちが良く分かります。考えることは自由で、自在に空想の翼を広げることが出来ますけれど、現実何も残りませんものね、実際に行動に移さない限り。そして、あのときは現実に何も出来ることがありませんでした。
願っても、祈っても、何の役にも立たないということを知りつつ、それでも、愛しいさえと共に過ごした時間を思い、それまで漫然として過ごした時間がのろわしく、一緒にやってきた研究とその後の展開を考え、さえの現実の苦しみが少しでも少ないことを願い、一方で、少しでもさえに生きていて欲しく、身もだえしました。そのときを思い出しても涙が溢れだします。
病床のさえと過ごした二ヶ月の間、さえが残した言葉を心の支えにして、ぼくは生きていきましょう。
カテゴリ:生命科学
さえ:
月曜日は理化学研究所の鈴木チームを訪ねました。さえは知らなかったことですが、ここにはこの夏からもう一人うちの部屋から黄澄澄がお世話になっているのですよ。
鈴木匡さんは井上康男研究室の出身だから、彼が学生のときから知っています。井上先生に頼まれて東大大学院で講義をしていたので、彼の研究室は良く訪れていました。井上さんは、できの悪いぼくをからかうのが面白くて付き合っていたのではないかと思いますけれど、仲良くしていましたよね。
今回嬉しかったのは、鈴木さんが彼の研究室の研究員、そして技術員の研究発表を用意して待っていてくれたことです。午後1時半から4時過ぎまで6人の研究報告を聞きました。たった一人のぼくのために、研究室の全員が午後の時間をつぶして付き合ってくれたのです。
王麗も含めてあと三人いるはずなのですが、全員がいて話を聴いたら、ぼくの講演時間を削るしかなかったでしょうね。
世界最先端の研究と研究アイデアを、瀋陽に行って9年になる、つまり世の中から9年は遅れているぼくに話してくれたのです。
どの話しも背景を直ぐにを理解する能力がこちらに欠けていたので、先ずそこを詳し聴いて、それぞれの素晴らしい話しをたっぷりと聞かせて貰って、大いに満足しました。まともな科学に飢えていたのですね。綺麗な実験と明晰な考えを追うことがこんなに嬉しかったかと、気付いていなかった心の飢えが久しぶりに満たされた感じでした。
それに、鈴木さんのところで実験を始めてわずか3ヶ月の黄澄澄も、ちゃんと報告する内容があるのですよ。しかも、ちゃんと良い狙いで、それが確からしいと言う。感激でした。
ぼくは瀋陽の大学のインフラストラクチャーの良くないのが、そして研究費のないのが、ここで優れた研究の出来ない原因だと、人の所為にしていますが、実は違うみたいですね。鈴木さんなら、今のぼくの立場におかれても。もっと良い研究を学生にやらせられるのではないかな。
ま、その通りだろうけれど、ボスの資質がすべてだと決めつけてしまうとぼくの立場がないから、この辺にしましょう。
5時から講演をして、多くの質問、意見を聞かせて貰いました。体調を崩して緊急入院していた王麗も、講演のときには病院を抜け出して会いに来てくれたし、旧井上研の瀬古さん、安形さん、金森さん、昔のぼくの研究助手だった敦子さん、昔の理学部化学科の同級生の上村陽子さん、以前の研究の仲間たち、谷口先生にも会えました。学問づくしで、心が綺麗に洗われる思いの一日でした。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
日本で用事を済ませて瀋陽に戻りました。足掛け六日間の旅でした。5泊のうち、うちに滞在したのは二日間だけですが、その時は子供たちが泊まりがけで来てくれました。うちの中も外も、彼らのお陰で綺麗な状態に保たれていました。
瀋陽から成田に着いてリムジンに乗り、見慣れた風景が車窓に流れていくのを見ながら、しみじみ日本は良いなと思います。風景が眼に柔らかいのですね。
街は綺麗ですし、路も清潔。空気も綺麗です。
瀋陽に戻ると、瀋陽空港は一頃よりは明るくなりましたが、まだ薄暗いし、建物増設工事の影響を受けて雑然とした印象が否めません。道路は汚いし、空気も汚れています。
それでも、日本に着いたときとまた違った感じでホッとします。帰って来た、ぼくの仕事をするところだ、と言う安心感です。
日本はいくら綺麗でも、ぼくが仕事をするところではないのですものね。
研究室で皆に会いました。でも、雪城くんは寮の同じ部屋の人が水痘に罹ったのでうちの研究室の人たちからは総スカンを食って研究室に出て来られないそうです。みんな、感染したりすると研究室に来られなくなるので、それをとても恐れているみたいです。
瀋陽に戻った晩は、大学が外人教師を招いてご馳走してくれる一年に一度の日でしたが、旅行の疲れがあるので出席を遠慮しました。
でも、研究室の院生が次々と不在中の研究の話をしたいと言ってやってきて、結局うちに帰ったのは9時を過ぎてからでした。
旅の余韻のなかで研究を考えつづけて、夜は遅くまで起きていました。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
旅は足掛け六日間でしたが、研究室を不在にした分だけみんなの研究から遠ざかっていたわけで、早急に研究のキャッチアップが求められます。
午前中は研究室の院生の話を聴いて、議論し、色々と指示をするのに忙しく過ごしました。もちろん、日本で勉強してきた新しいことも伝えました。
ところで今、この大学中で水痘が流行っているのだそうです。昔、さえと結婚してしばらくしてから帯状疱疹ウイルスに掛かって、頭の半分の表面が痛み続けたことがありましたが、水痘も同じウイルスなんですってね。
一度掛かると再度発病しないことになっていますが、子供のときに掛かると軽く済むのに、大人になって掛かると重症になり、時には死ぬこともあると言うことを聞いています。
研究室にはまだ水痘に罹っていない院生が数人いて、寮の同室者から患者が出た雪城くんの出入りを禁じてしまっていました。
水痘に罹りたくないという同じ理由で、土曜日のセミナーも皆が乗り気でないので、今週は中止することにしました。外部の人に接しないのが一番ですよね。おまけに、本当はぼくたちに関係ないけれど、24日ですしね。
日本に行く前から、試験問題を作るように言われていたのを思いだして、とりかかりました。難しくてはいけないし、易しすぎても駄目だし、そうかと言って記憶だけ試す問題は作りたくないし。
大体分子生物学の真髄は、たったひとつのところにあると思っています。A=T,G=Cの相補性ですね。この相補性こそが分子生物学の原理ですし、それが理解できていれば、もう十分な世界だと思います。
でも講義で、真核生物のmRNAのポリAテイル修飾の話しをして、じゃ、細胞のRNA抽出物からこのmRNAだけを集める方法は、と聞いても、直ぐには答が返ってこないのですよ。
そう、彼らに必要なのは、考えることです。考えろ、かんがえろ、です。覚えるのではなく、考えること。理解すること。
カテゴリ:ブログ
Tech Onと言うサイトの中にEditor's Noteと言うのがあって、主として、日本のテクノロジーの内容を他の分野の技術者にわかりやすく解説する、あるいはそれに対する見解を要約するというものです。書いている池松由香さんは技術者ではないようです。
そのなかに、「相手に思いを伝える文章の書き方」というのがありました。
(011/12/08池松 由香=日経ものづくり)
文章で相手に思いを伝えるために大切だと池松さんが思っていることが3つ挙げてありました。1-3はその抜粋です。
(1)伝えたいことがあるか
伝えたいことがあるかどうかは、実はものすごく大切な要素ではないでしょうか。私自身も原稿を書く前の構想段階では、ノートの一番上に「伝えたいこと」と大きく書いて、その下に1行で伝えたいことを書くように心がけています。
(2)相手の視点に立てるか
技術者の方々が何を既に知っていて、何を新しく知りたいと思っているのか。それを想像するのが非常に難しいのです。幸い、取材で多くの技術者の方々にお会いできるので、少しずつではありますが、想像できるようになってきました。まずは相手(の要望)を知ること。それが、伝わる文章の大前提のような気がします。
(3)利他の心はあるか
例えば、書き手の自慢話ばかり書いてある文章。読み手が知りたいかどうかなんて、お構いなしに自分の言いたいことばかり書いていると、相手に思いが伝わるどころか不快にさせてしまいます。相手の利益になる情報をなるべく文 章に盛り込む努力をすること。これも、興味を持って読んでもらうための大事な要素ではないでしょうか。
これは、ぼくたちが研究の解説や総説を書くときの心構えと同じでしょうね。
解説の時は、何を伝えたいか、相手はどんな情報を求めているかを考えますね。総説の時は、その時期までのある分野の研究の進展を、漏れなく、依怙贔屓なく網羅し、更に自分の見解を付け加えます。
ブログを書くときはどうかって?
何よりもかによりも、書きたいことがあるから、書きまくっているわけでしょ。
相手に伝わるかどうか、読んだ人がどう思うかはお構いなしに、です。このブログの書き方に慣れてしまうと、研究の解説や総説を書くのに邪魔になりますね。気をつけなくっちゃ。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
今、うちの修士三年生の人たちは来年夏に卒業してから進学する博士課程を探すことに専心しています。
張さんはアメリカの大学に申請を書いています。彼女は理由があってニューヨークに行きたいのですが、あのあたりにはぼくの知り合いがいません。ですから、彼女が行きたいところを選んで、ぼくはそのたびに推薦書を書いています。
もう一人の朱さんは、この間ここで講演をしたぼくの友人の研究に熱中してしまって、そこに行きたいと言うことです。幸い前向きに考えて貰えるらしく、申請書を書いて来春入試を受けて、と言う手続きが進み始めました。
すると先方に出す書類の中に、そこで行いたい研究の提案という項目があるのですね。一般的には、これは形式みたいなものですが、今回は本気で書くように求められています。
これを書くことによって、入学を申請する学生が、そこで行われている研究をどの程度理解しているかが一目瞭然ですし、もう一つは、この新しい学生がひょっとして、目新しい(そこでは考えてもいない)研究対象を提案するのではないかという軽い期待もあるのではないかと思います。
朱さんは勉強家ですし、頭の回転も図抜けて良い学生ですが、ぼくと比べると知識には大分差があります。それで彼女にヒントを与えるためにぼくも色々と考えました。研究領域が違うわけですが、もし彼らの技術で研究対象にするなら、と言う観点です。
もちろん彼らは、自分たちでも研究対象を開発していますが、同時に、そのような眼で世界中の研究を何時もウオッチして、ここからは自分たちの対象という研究が出れば、いち早くそれを使って調べることをやっています。
昨日の午後は、彼らの視点に立って、広く知っているとは言っても限られているぼくの知識のなから研究対象の候補を探して、研究提案を考えてみました。結構面白いものを思いつきましたので、彼女に示唆したところです。
こういうことを考えるときは、至福の時ですね。ぼくはこうやって考えることが好きみたいです。
彼女も考えているでしょうから、今日はこれから彼女とこのことを徹底的に議論して、提案を煮詰めましょう。
教師の会は仲好しクラブなので、長年ずっと会計監査の必要もなしにやってきた。
私は長らく執行部を助けてきましたけれど、昨年度に新しい代表が立候補して選ばれて以来、会の運営に全く関係がなくなりった。会員は平均二年で変わる。それで、会の統一見解というか、決まりというか、モラルを受け継ぐために、古い会員のわたしは必要なときに色々と思うところを述べてきた。
12月の定例会のときに幸い会計係から、一人で会計の全責任を負うのは負担だし、会計監査を置いた方がよいのではないかという申し出があって、定例会でその提案が認められした。誰かやる人はないかという司会の言葉に志願して、会計監査を担当することになった。
と言うわけで、教師の会に貢献することが出来るようになったが、うんと控え目にしないといけない。某国の世代交代時期の粛正を見るまでもなく、権力者はそれ以前に力を持ったものの存在を好まない。会の運営は新しい人たちに任せよう。
まだ今期が始まったばかりだが、会計係の石井仁先生は前期の終わりに帰国予定なので、今は前期の途中だが、資料室に集まった。
数年前に、会計を一般会計と特別会計に分けた。以前は教師会の会計基盤を強くするために、本を出版するなどして資産を増やす努力をした。その後は、特別会計に特に入金を計っていないので、毎期繰り越しのとき、前々期の繰越金を特別会計に入れるようにした。
今は、特別会計は資料室の本を増やすことに使って良いことになっている。今度の休みの前に、会員に本を増やす努力をお願いしよう。
資料室に集まったついでに、会員から要望のあったコピー機の修理が定例会で認められているので、私たちのいる時間に業者に来て貰った。
午後は資料室でやることを全部終えて、そしてオーナーの劉凱さんにお茶をご馳走になり、いろいろとまた古代文字の話を伺った。
あ、今日はクリスマスイブなんだ。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
毎日気ぜわしく暮らしていて、24日が聖誕節であることを全く認識していませんでした。11月に担当した中薬の分子生物学講義の締めの試験のための試験問題を考えて、午前中呻吟していました。
何時ものように昼は凍らせたパンを切って焼いて、チーズを挟んでかじりかけたら、何と、突然部屋に入ってきたのは鄭大勇です。そして後ろに見知らぬ女性が付いてきて、「これがぼくのガールフレンド」と言って紹介してくれました。
ワオ、とうとう、ガールフレンドを射止めたな、と言う感じです。彼女は「こんにちは」って日本語で挨拶するのですよ。日本の仙台に2年間いて、地震と津波の前には瀋陽に戻ってきて、交易の会社で働いているそうです。
クリスマスだからお祝いに来ましたと言って綺麗な篆刻用の石を二つくれました。一つは白に青い紋が入っているのです。一つは暖色系。どちらもモンゴル産で本渓で手に入れたと言うことでした。何時か、大勇の名前を彫って上げたいですね。
大勇の研究はそのあと論文に出来なかったのに、ときどきこうやって訪ねてきてくれるのですよ。昨年も、さえが6月初めに二週間瀋陽に来ていたとき、ちょうど彼が訪ねてきましたね。あのときよりももっとふっくらして、落ち着いた、つまり成熟した表情でした。来年には結婚するみたいなことを言っていました。
毎年クリスマスの夜は、恋人がいない、あるいは恋人と一緒に過ごせない,家族の元に帰らない「家なき子」と一緒に過ごすのですが、今年は水痘で休んでいる雪城くんを除いて、何と全員が参加でした。お気に入りの唐萱閣に行きました。
7人なので円卓を囲んでもぼくがどうしても話しの中心となり、お喋りは全部英語でした。最後にそれぞれが今心の中にある言葉を漢字で書いて見ようと提案して、それを当てっこしました。ぼくは司会者を務めました。
成長了
新生活
米国
永遠年軽(Ever Young)
進歩
幸運・加油
上から、陽、朱、張、崔、王、林です。四六時中一緒のところで実験に励んでいますから、それぞれがに思うことは端から見て一目瞭然なのですね。
外に出るとマイナス20度の凍り風。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
あれから十一ヶ月経ちました。さえについては、ぼくの心の時計は止まったままです。
あのときは、先のことは全く考えたこともなかったし、そして考えられるものでもなかったけれど、時間だけは確実に過ぎていきます。
学生は次々と実験を進めて成果を出し、論文を書き、卒業していきます。友人が瀋陽に講演をするために訪ねてきます。新しい院生を迎え入れて、研究室は、こともなく先へ先へと進んでいきます。
物理的にはそうですね。時間は過ぎてゆく。人生はそこに落ちてくるひとひらの雪。溶けて、そして昇華して消えてしまう。
ぼくのMacは使わずにいて数分経つと、中に入っている写真を使ってスライドショウを始めるでしょ。さえの写真が出てくる度にぼくの心は引きちぎられる思いでしたが、やっとこの頃は「やあ、さえ」と言えるようになりました。
さえがいなくなってしまったことを理不尽と思い、認めることを拒絶して、しかもそれを嘆いていましたが、一年近く経って、それをやっと受け容れるようになってきたみたいです。
12月のお茶大のシンポジウムで会った人たちに「奥様はお元気ですか?」と聞かれて、「いえ、それがこの1月に。。。」と泣かずに言えました。
でも、理研で講演したとき、最後に謝辞をのべるとき、研究に参加した人たちの名前をスライドに出して述べながら、つい言葉に詰まってしまいました。涙を出すまい、と思ったら、声が出ませんでした。
どうして、こんなに悲しいのでしょうね。51年前の父の死も、一年前の母の死も、そのまま受け容れているのに、どうしてさえの死がこんなに悲しいのでしょう。仕事のかけがいのない相棒だったから、というのは真実ですけれど、そうだとしたらとても利己的な理由ですね。
人は半分の存在で、だからbetter halfを求めると言います。better halfを求めて、見付けて一緒になって、そして何時かそのhalfを喪ったら、もとの駄目半分。もうアウトと言うことですね。本当にそうだと思います。
こんなことを思い重ねながら、あとの生を生きていくのでしょうか。
コメント:
Re:Better halfということ(12/26) 横谷めぐみ さん
長い間、ご無沙汰しておりました。とてもとても辛い1年でしたね。こちらが探せませんで、知らないまま時が過ぎてしまいました。公私共にパートナーでいらっしゃったので、私などが想像も出来ないお気持ちだろうとしか言いようがありません。この場をお借りしてお話しすることではありませんがお許し下さい。また訪問させていただきます。 (2011.12.26 23:58:35)
めぐみさま shanda さん
書き込みをありがとうございます。ブログを訪れるのが間遠になってしまいました。メイルアドレスを探して、メイルをしますね。 (2011.12.29 16:24:42)
カテゴリ:日本語について
さえ:
日本経済新聞を読んでびっくりしました。『なぜ広まった?「『全然いい』は誤用」という迷信(2011/12/13)』というのですよ。
つまり、『全然いい』は正しい使い方なんですって。へええ。
記事によると、『「全然いい」といった言い方を誤りだとする人は少なくないでしょう。一般に「全然は本来否定を伴うべき副詞である」という言語規範意識がありますが、研究者の間ではこれが国語史上の“迷信”であることは広く知られている事実です。迷信がいつごろから広まり、なぜいまだに信じられているのか。こうした疑問の解明に挑む最新日本語研究を紹介します。』
「『全然いい』は誤用」というのは迷信だっていうのですよ。ぼくたち、この言葉「全然いい」を聞く度に、「嫌あね」って言っていましたよね。つまりぼくたちは、根っから『全然いい』は誤用と思っていたのでした。
『明治から昭和戦前にかけて、「全然」は否定にも肯定にも用いられてきたはずですが、日本語の誤用を扱った書籍などでは「全然+肯定」を定番の間違いとして取り上げています。国語辞典で「後に打ち消しや否定的表現を伴って」などと説明されていることが影響しているのか、必ず否定を伴うべき語であるようなイメージが根強くあるようです。』
昭和28年の冬、白馬山麓にスキーに行きましたが、一緒に行ったのは母の友人の子供たちで当時は大学生でした。その人たちが、『全然いい』を連発したのを初めて聞いて、内心あきれ果てて帰って来て、母に言った覚えがあります。明治終わりの生まれの母は、京都府立高女の高等科で資格を取って女学校の国語の教師を数年していました。その母は大正の初めに育って、昭和の始めに先生をしていたはずですが、『全然いい』はおかしいよというぼくの意見に反対しなかったと思います。
戦後には言葉の乱れが良く言われましたから、ぼくも、これは意識して新しい言葉の使い方に挑戦している若い者たちの言葉だと思っていました。ですから、その後も肯定的には使ったことは一度もなかったように思います。
この日本語学会で発表した人たちの調査によると、昭和10年代では6割が肯定表現で使われているそうです。金田一京助ですら、「前者は無限の個別性から成り、後者は全然普遍性から成る」(日本語、金田一京助)と学術誌に書いているのですって。
全然という言葉に「本来否定を伴う」というぼくたちが持っている意識は昭和10年代の段階ではまだ発生していなかったのに、いつの間にか、「本来否定を伴う迷信」になってしまったか、言葉の研究者が解明しているのだそうですよ。
ぼくが若いときから持っていた信念がひっくり返るという驚きです。言葉は生き物だという、良い証拠ですね。
なお、ぼくたちがおかしいと言っているのは、「食べづらい」「理解しづらい」という言い方ですね。ぼくたちは決してこうは言わず、「食べにくい」「理解し(難)にくい」あるいは「理解し(難)がたい」と言っていますよね。
「~づらい」という語感の悪いことばが、いつの間にか日本中に広がって、「~難い」を駆逐してしました。言語学会でこれはどうしてなのか、取り上げて欲しいですね。
コメント:
興味深く拝読しました。 ファンウェイ さん
メリークリスマス!このブログを興味深く拝読しました。私たちが「全然」を学んだ時、確かに否定文に使われる言葉と教えられました。日本に来てから、しばしば「全然」を使う肯定文を聞いたら、何だ違和感が生じました。これと似たようなもう一つの単語:「絶対」。否定的な言い方に用いられるという印象が強いですけど、肯定にも使われるのは良く聞こえます。「~~づらい」は日本に来てから勉強した言葉です。「~~しにくい」の代わりに、「~~づらい」は先に言いたくなりました。 (2011.12.27 12:04:51)
ファンウェイさん shanda さん
あなたの日本語は相当高いレベルのようですね。
この「『全然いい』は誤用」の記事は、「全く」の驚きでした。昭和の初めの語法が二十年しないうちにすっかり反対に変わっているというのですものね。
中国でも、今は「同志」の意味が新中国建国の頃と違うそうですから、同じように、言葉は「生きている」ということでしょうか。
でも、日本の流行語はめまぐるしく変わります。どれも寿命が短いですね。 (2011.12.29 16:18:21)
カテゴリ:朝鮮半島
さえ:
北朝鮮では将軍の死で多くの人が慟哭していると報道されています。世界中が呆れてこれを報道しています。
レコードチャイナの北朝鮮、いつかどこかで見た光景を思い出させる国―中国
<レコチャ広場>が12月26日、『北朝鮮、いつかどこかで見た光景を思い出させる国』と言う記事を載せていました。
中国の女性ジャーナリスト・閭丘露薇氏が書いているブログだそうです。
『金正日(キム・ジョンイル)総書記の死去で号泣する北朝鮮の人々の姿を、全世界の人が目撃した。中国の若者の多くがこの光景を不思議に思っている。いくら一国の指導者が亡くなったからとはいえ、民衆の嘆きぶりは私たちの目にはあまりにも奇妙に映る。』
『以前北朝鮮を訪問したときに金日成親子の英雄的物語を目に涙を浮かべて説明してくれた博物館の女性職員や、独特の口調で金正日総書記をたたえる有名な女性アナウンサーを私は笑うことができない。なぜなら小学生の頃の私も、同じような口調や身振りで祖国や共産党への愛を表現していたからだ。赤いスカーフを首に巻き、頬紅まで塗って、紙製の花を手に持ち音楽に合わせて振り回していた。あの頃の私たちはそれを心から楽しんでいた。』
『1976年9月9日(毛沢東が亡くなった日)以降の私たちも、今の北朝鮮の人々と同じように明日が見えなかった。しかし、中国は変わった。北朝鮮も変わっていくだろう。独裁者もいつかは死ぬ。同じように世の中も変わる。ただそれが遅いか、早いかの違いだけだ。』
日本でも、みんなが北朝鮮の呆れた体制を話題にして、彼らを見下していますが、その日本も敗戦の日までは、全く同じだったことを忘れています。
ぼくの通った小学校は運動場に朝礼台があって、朝礼台の後ろには国旗掲揚台と、天皇の写真を入れる金庫がありました。そこは神聖な場所として、敬礼することなく傍を通ることは出来ませんでした。
皇居の横を通る市電では、皇居の横を通過する間中、皇居に向けて敬礼することを強要されていました。不敬罪というのがあって、天皇の神格を疑う発言は処罰されたのですよ。
支配体制に対して疑いを全く差し挟ませないという点で、私たち日本人は、今の北朝鮮と、同じ状況に生きていました。体制を疑うもの、反抗するものには、投獄、処刑(あるいは秘密裏のリンチ)があったのです。今思い返しても、ぞっとする時代です。
日本は軍部の主導で無謀な戦いに踏み出し、近隣諸国に多大の損害を与え、日本人も600万人が死にました。それでも、あの戦いに負けて良かったと生き残った日本人は思っています。これが、原爆を落とされながらなおかつ米国を憎まない最大の理由ではないでしょうか。
若い人たちには声を大にして、改めて歴史の教育しないといけませんね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
三日前に突然停電があって、それを直すと言うので昨日の大学は、朝8時40分から4時半まで停電になりました。
実験の予定のあったうちの院生は朝5時から大学に来て、仕事をしました。ぼくは冬冬食品でパンを買って、皆に「朝ご飯」の差し入れ。
停電になっては何も出来ないので資料室に行きました。資料室に行って、新しい本の追加情報をPCに入れて、さらに本の整理をしようと思ったのですが、あまりにも寒くて元気が出ず、諦めました。
マイナス20度近い寒さでしたが朝はタクシーで行ったので、寒さをあまり認識しなかったのですよ。昼ご飯を2ブロック歩いて食べに行ったら、それだけですっかり冷え込んでしまって回復しないのです。寒いと頭が働きませんね。
それで今日から下着は重ね着にしました。
夜は、生化学部の新年会がありました。去年はここにいなかったし、一昨年は出られなかったし、三年ぶりでした。新洪記の三階を借り切って開かれたのですよ。
驚いたのはメインテーブルに呉書記の他にぼくたちも座って、つまりVIP扱いで落ち着かないことおびただしいものがありました。
二百人くらい集まった大半の人たちを未だに知らないのですけれど、それでも何人かの人たちからは、おさえちゃんのことを訊かれ、あるいは慰められました。
言葉が通じないから、皆はぼくの扱いに苦慮していますよね。敬して遠ざけて、と言った感じでしょうか。初めてこの手の会に出たという池島さんは、中国語は英語なみに出来るので、多くに人たちのにこやかに談笑していました。でも、中国語が分かると言うことで、ぼくにはない悩みを抱えているみたいです。
ぼくは、中国語が分からないというのこと盾にして生きていくしかないし、それが一番良いことではないかとも思っています。
カテゴリ:友だち
さえ:
マイナス20度の寒さで外を10分も歩いていると、知らないうちに鼻水が垂れてきますね。鼻道と気管上皮が寒さから守るために粘液の分泌を盛んにするからでしょうけれど、手は厚い手袋だし、紙を出すのもままならず、困ります。
こういう時は涙も自然にでてくるのですよ。こういう寒い中を、さえと手を繋いで歩いたなあと思うと涙が出てきますが、それと区別が付かずにいて、研究室についてから、眼鏡まで濡れていることに気付いたりします。
鼻水が自然に出て来ないときは、鼻毛が凍り付くのですね。息を吸うときばりばりと音がして。鼻道が細くなるわけですから、力を込めて息を吸わないといけませんね。バリバリ。。。スウー。。。
どちらも低温で起こりますけれど、鼻毛が凍るのが先か、それを鼻水が垂れてきて溶かすのか、どっちが起こるのかまだ見極めていません。
ところで下着は、ユニクロのサーモテックを出してきて重ね着したと書いたでしょ。これはマイナス20度以下というこの寒さのタイミングとしては大正解でした。
しかし、トイレにいくと、それまでは二重の手間だったのが三重になっていて、もぞもぞと掻き分けないといけないし、もぞもぞ触っていると刺激で漏りそうになるし、隣に人がいたりすると、何時まで何を長々とやっていると思われそうで焦ります。
昨日なんか、一枚を後ろ前に穿いてしまったのじゃないかと、焦りました。同じような経験をする人もいるでしょうけれど、あまり聞きませんね。
え?さえ。そう言うことは人には言わないものだって? はい、分かりました。
ところで昨日は、李好枝老師とそのご主人を招いて一緒に食事をしました。ほら、ここに来たときに同じ建物で、ぼくたちを自宅に食事に呼んで下さった老師です。豪華な食事のあと、五里河公園まで一緒に歩きましたよね。
それ以来ぼくたちと親しい友人でしたが、やがて南の方に移ってしまいました。
この9月の80周年記念事業のときに久しぶりに大学正門で会ったのですよ。
2003年に退職して南の方の大学で教えてきたけれど、もう一切辞めることにしたそうです。瀋陽は外は寒いけれどうちの中は暖かいから南に住むよりも、冬は過ごしやすいのですって。
ご主人は書家で、素敵な書を戴いているでしょ。慈母が縫ってくれた衣を着て、、、と言う有名な詩です。彼は数年前に病で倒れて、今も立ち居振る舞いは不自由ですが、書を描くのには何の差し支えもなく、以前通り雄渾な書を描くそうです。
お宅の壁に掛かっている見事な書体をご主人の字かと思っていたら李老師の書いたものだそうで、これには驚きました。彼女はレストランの壁に掛かっている草書体もすらすらと読み下していましたから、時間を掛けて書を学んだのでしょう。
久闊を恕しつつ、唐萱閣で楽しい時間を過ごしました。そのうちこの二人から書を習いましょうか。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
日経の12月30日の社説によると、『厚生労働省の労働政策審議会が、年金の支給開始年齢の引き上げにあわせ、定年後も65歳まで希望者全員を継続して雇用するよう企業に義務づける案をまとめた』そうです。
年金を65歳過ぎないと支給しないことにしたから、それまでどうやって生きるかはそれぞれの人にとって大問題です。雇用が65歳まで保障されれば文句ないわけですね。
でも、親方日の丸と関係ない民間企業は、生き残りを懸けて贅肉をそぎ落とし、新しい事業の展開を図り、必死で生きているわけですね。固定経費で一番多いのは通常人件費ですから、当然、能率が悪いのに高賃金を払わなくてはならない高齢者には早く辞めて貰い、企業の新しい血となる若い人を雇用したいでしょう。
企業が人件費に回せる総額は決まっています。その中で、定年を延ばして高齢者に賃金を払うと言うことは、若い人の雇用機会を奪うと言うことですね。自分たちの力しか頼りにならない民間企業にしてみればとんでもないことで、これは政府が強制できることではないはずです。
それなら民間は止めて、公務員だけその定年を延ばすしかないなんてことになったら、ますます日本の病根が深くなりますね。何もしないで高給を貰っている公務員という見方はあながち間違いでもないでしょう。この連中が65歳まで大手を振って、私たちの税金に食らいついているなんて、冗談じゃないよね、全く。
でも、年金資源がなくなったから、支給年齢をを引き上げなくてはならなくなり、それに伴い、定年を引き上げるよう動き出したわけですね。年金支給も65歳よりさらに上げたいくらい資源が足りなくなっているみたいです。
年金支給年齢を65歳に引き上げることは先に決まっているから、定年を60歳から65歳にする必要が出てきたわけです。
この動きに反対するとなると、解決方法を出さなくてはなりません。大まかにわけてオプションは二つですね。
一つは思い切って年金支給額を大きく下げることですね。従って年金支給年齢を上げる必要性をなくしていままでどおり60歳にし、そうやって若い人の雇用を守ることです。
年金を払うからと約束して、勤労者と会社から金を集めながら何処かに費消してしまった政府の責任は大きいと思うけれど、ない袖は振れない。幸い、年金をちゃんと払う約束した自民党政府じゃないから、蛮行めいているけれど、前政府の約束をチャラに出来るはず。
もちろん高齢者が生きていける額より減るとなると、大反対が出るでしょう。もう、働いて稼ぐことも出来ないしね。
もう一つは、定年から年金支給年齢までは、自助努力とすることです。そうなれば誰だって、必死になって考えるでしょう。大体、人はちゃんと雇用されて生活が保障されるなんて、憲法にも書いてないでしょ。
國が、國のしなくてはいけないことは、人々の食と職を保証することだ、これは古代ローマ帝国の時代から、國が成り立つために必須の条件だったと言うことは、塩野七生の本を読むと分かります。それが出来ない政府は支持できないわけですから、辞めて貰うしかない。
それでも、政府も国民も、守れない約束を巡って振り回されていたら、日本が沈没してしまいます。
最低でも生きていくことを保証する年金が削られたら、ぼくたち後期高齢者は堪ったものじゃない。生きてはいられないことになります。
國を破綻させた政治家と官僚を恨みながら、天寿を全うせずに死んでいくほかないでしょう。それでも、代わりに日本の新生が可能であることを信じながら。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
2011年が終わりました。日本の大震災と原発による放射能漏れは、日本の国内ニュースだけでなく、新華社の国際十大ニュースの4番目に入っています。
何十年も前に原子炉の炉心熔融で、地面がどんどん掘られて地球の向こう側まで達してしまうと言うことでした。その時、これはチャイナシンドロームと呼ばれていましたね。
日本の応用科学者と事業家と政治家の傲慢さによって、これが起こりうることが分かって、世界中が震撼したのですね。大地震と津波による大きな人命被害は言うまでもなく痛ましく悲痛なことですが、私たちに、災害の可能性に備える想像力が欠けていることを教えてくれました。
ところで、中国政府直轄の新華社が選んだ2011年国際10大ニュースは順位付けがないのですが、発表順にみると、
『1』西アジア北アフリカの激動
『2』中国の経済総量世界第2位に
『3』欧米の債務危機が全世界の経済に衝撃
『4』日本の強い地震が津波と放射能漏れを誘発
『5』米国がビン・ラディンを射殺、アルカイダに打撃
『6』スーダン南部が独立、アフリカの版図に変更
『7』「アフリカの角」の干ばつが人道被害誘発
『8』世界人口70億を突破、開発の圧力増大
『9』西側との対立でイラン核危機激化
『10』朝鮮の最高指導者金正日氏逝去
下に引用した共同通信社のそれと比べると、世界平和に関係する事件、人道的ニュースに強い関心を寄せているように見えます。そう言うポーズなんだ。
【1位】北朝鮮の金正日総書記が急死、世界に波紋
【2位】欧州の財政危機拡大、政権交代相次ぐ
【3位】中東に民主化の波、カダフィ大佐死亡
【4位】米特殊部隊がビンラディン容疑者を殺害
【5位】タイで大洪水、日本企業が操業停止
【6位】東電福島第1原発事故で欧州に脱原発の動き
【7位】米国で反格差デモ、世界へ拡大
【8位】ニュージーランド地震で日本人28人死亡
【9位】米アップル創業者ジョブズ氏が死去
【10位】中国高速鉄道で追突事故、40人死亡
ところで年頭に当たり、今年の計画を樹てました。
論文は少なくとも4報を書いて投稿し、出版すること。時間を見付けて総説も書くこと。新しい研究目標に向けて邁進すること。
ね、さえ。ひとりでも何とか、やっていきますからね。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
12月31日に、30日付の日経新聞の記事に基づいて、「定年を引き上げる法律が出来る?」というブログを書きました。
世の中は、これにどんな反応を示しているかを、一寸調べてみたら、山口巌さんの『65歳雇用義務化は、結果赤ん坊からミルクを奪う事になる (Blogos 2011年12月29日)』に行き当たりました。
このブログは、『企業は、必要なら70才でも雇用を継続すべきだし、40代でも、不要と判断すれば馘首すべき、というのが私の基本的な考えである。企業の決算に、責任を負えない政府が決して口出しすべきではない』と主張していて、ぼくもそう思いますから、世の中の人の正常の反応だろうと思えます。
但し、どうしたら破綻した年金に対応するかについての意見は書いてありません。反対を言うなら対案を出すべきだと言われて育った世代なので、このブログには不満がありますね。
しかし元気よく、『同時に、票乞食に過ぎない国会議員が、老人層に対し、千切れんばかりに尻尾を振り続ける今日の状態も異常であり、放置すべきではない』と、政府に噛みつくのはよいのですが、最後にとんでもないことを言っています。
『その為には、殆ど納税していない、一定年齢以上の老人の公民権見直しを検討すべき時期に来ているのではないだろうか?』
このブログには読者が意見を述べる欄があり、それをみると、山口巌さんの意見に賛成意見があるのは理解出来ますが、この公民権停止に賛成する意見が幾つかあったのには驚きました。
私たち成人が等しく持つ選挙権は、歴史的にわたしたちが勝ち取ったものではなく、日本の敗戦の結果、私たちに転がり込んだものですね。
だから、その意味と、ありがたみを十分認識していないと言うことでしょうか。「リタイアした人に、選挙権や被選挙権を与えるなんてもってのほか」という、信じられない発言が出るという社会になったことを、改めて認識しないといけないみたいです。
このショックをどう乗り越えて対応したらいいのか、考えるのにしばらく時間が掛かりそうです。
カテゴリ:日本の将来
さえ:
今年の春節は1月23日です。大晦日が22日ですから、公式の休日は22-28日の七日間だそうです。
大学では、今年の前期は20週でなく19週で終わってしまい、7日から休暇になります。珍しく早いですね。
それでも6日がぼくの分子生物学の試験ですし、採点をしなくてはなりませんから、日本に戻るのは12日にしました。
それまでは、大した出来事もなく毎日が過ぎていきます。もちろん、年末には新年会がありましたし、31日には研究室の全員がぼくの誕生祝いを開いてくれました。1月1日の昼は、大学の友人が誕生祝いの食事に招いてくれました。
それ以外は、研究室で論文を書いたり、文献を調べたりしています。今年は暁艶が博士を卒業する年なので、学位請求のための論文を出版しなくてはなりません。暁艶はこれまでずっとのんびりモードでやっていましたが、昨年夏からは気合いが入ってきました。
朝から夜中まで実験をしていても、それがとても楽しいと言うようになりました。
実験結果が出てきて、それを別の面から補強する実験をしたり、さらに研究の展開を図るなど、研究の中身が濃くなればなるほど、面白くなるのは当然です。これでやっと本物の研究者になるわけですね。新しいことが次々見つかり、それまで隠されていたことの実態が段々浮き彫りになっていくという快感、しかもそれを自分が解き明かしているのですから、一度覚えると研究者稼業は辞められません。
一番好きな研究をやっていて、それで給料が貰えるなら、これほど良い商売はないというのがぼくの持論です。
その研究がすべて直ぐに社会の人々の福祉に繋がるなら良いのでしょうけれど、成功する確率はそんなに高いものではありません、百に一つくらいかな。新薬の開発では3万の研究開発のうち、あたるのは一つです。
しかし社会は投資した金に応じた成果を気ぜわしく求めますから、研究者は今は厳しい職業になってきました。研究者の意欲こそが研究の原動力なので、締め付けすぎるのは研究という土壌を殺してしまいます。社会が発展しているときのゆとりがないと、研究は難しい環境に追い込まれますが、しかし、研究なくして、社会の発展はありません。
発展しなくたって良いじゃないか、と言う声もあるでしょうが、江戸時代までの閉鎖的な固定社会に暮らしたい人がいるとは思えません。研究を大事にしないと、社会は進展しないことを世の中の人にはよく考えて欲しいとも思います。
そしてぼくの役目は、若い人たちを育てて、かれらの研究意欲を少しでも加速し、研究しやすいように助けることでしょう。それがこれからのぼくの課題です
カテゴリ:研究室風景
さえ:
うちの研究室で一番大事な機器というとわかるでしょ。これなしにはぼくたちの研究は全く出来ないと言う研究室の生命線の細胞培養装置。ぼくたちの研究室の立ち上げのとき、日本から輸入して購入したのですよ。5万元近くしました。それから一年365日、8年を越えて毎日動いています。
その機器を使い始めて直ぐ、センサーか、濃度制御装置がおかしくなって電話をしたら、北京から直ぐに会社の人が飛んできて直してくれましたね。てきぱきとした仕事ぶりに、「これも中国なのだ」と感心したことを覚えています。その頃のブログに書いたような気がします。
それから9年、この間一度だけおかしいことがあって、その時はもう瀋陽に代理店が出来ていて、そこの人が来てくれました。この時も直ぐに来て、たちまち原因を見付けて直してくれました。一日も休めない機器なので、とてもありがたく、この会社の見事なサービス態勢に、「中国もここまで来たのか」と改めて感心しました。
そして今度も、ガス濃度が規定よりも高くなっていることが見つかり、瀋陽の会社に電話をしました。翌日来てくれて、長年の間にガスを送るパイプの内部が汚れてしまったと言うことでした。
日本では起こった験しのない事故ですから、使っている圧縮ガスがすでに汚れていたと言うことでしょうね。
来た人は、うちの研究室の真空掃除機を使ってパイプを綺麗にして、それだけで800元の出張修理代を要求したと、事に当たっていたうちの院生から報告を受けました。
院生の、「え、それだけでそんなに高いの?」と思う気持ちがそのまま相手に伝わって、800元だけれど、これを会社に内緒にしてくれるなら500元に負けるよ、と言う提案があり、交渉していたうちの院生は、それでよいと手を打ってぼくのところに来ました。お互いインチキなのですから、もっと安くしても良いわけですけどね。
ちゃんと受け取りを貰っておくのだよ、と500元を渡しましたが、会社に内緒なので、正式の領収書は書けない、自分の受け取りでと言って自筆の受け取りを置いていきました。
つまり、これですよね。中国で会社を持って人を育てても、社員は会社のために働かず、会社を利用して自分の懐を肥やすことに精を出すというのは。
これをきつく取り締まると、みんな厭になって会社を辞めてしまう。こんな社員でも、会社で働いて貰うためには、見て見ぬふりをするか、発破を掛けて働いて貰い、彼の懐に入る金を増やすと同時に、会社にももうけが入るようにするしかない、と聞いています。
日本から中国に会社が来るのは経済的必然だと思いますし、ここで新しい形の仕事に携わる中国人が増えるのも必然ですが、彼らの意識だけは昔のままでちっとも変わらないのですね。中国がGDP2位の大国になっても、人々の意識が変わらないと、どうしようもない國のままでしょうね。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ おさえちゃん:
ブログは書いても、あるいは記録は付けていても日記は書いたことのないぼくが三年当用日記を買ったのは、一年一寸前の2010年の暮れでした。
もう、さえが治ることはないという絶望の日でした。長津田の病院に通うのに田園都市線の長津田駅を降りて、実際に駅から出る前に、商店街を通り抜けます。そこにある書店に立ち寄って、三年当用日記を手に取りました。
今感じていることを、感じたことをそのまま書き留めておこう、この瞬間はもう二度と巡ってこないのだからと思ったのです。三年日記にすると一年後には必ず一年前のことを眼にするわけですね。
その時は、そ時の気持ちを後に思い出すことがどんなにつらいことなのか、想像できなかったし、一方では、その一年後のぼくにその今のの気持ちをシェアして欲しい、と言う依存する気持ちもあったと思います。
だって、何時も一緒だったさえは病院に入っているし、治る見込みもなく、寂寥感と孤独感がぼくを支配していました。一人ぼっちを、もうすでに噛みしめていたのですよ。
11月末に入院して、一ヶ月後にさえはうちに帰るのが許されてうちに戻ってきたけれど、たちまち状態が悪化して、二日後には再入院したのが年の暮れでした。
さえの使っている携帯はそのままさえの枕元において、何時でも電話をしてねと言っていたけれど、実際に掛かってきたのは1月2日の朝5時過ぎでした。
「直ぐに来て欲しいの。こっちは朝から待っているんだから。お休みなんでしょ。まだ寝ているって?いいから、直ぐに起きて、ここに走っていらっしゃいよ」
ぼくはあさの8時過ぎには病院に行きました。翌日の3日も、そして翌々日の4日の朝も電話が掛かりました。
でも、早朝の電話はその三日間だけでした。それっきりでした。自分に対して抑制力の強いさえがぼくに甘えたときだったのですね。
三年当用日記を買ったと言うことは、三年は日記を付けるつもりだったのでしょうけれど、さえのことを考えると、悲しく、そして心が引き裂かれる思いなので、春に瀋陽に戻ってからは日記帳を閉じたままです。
その代わりに、さえ宛のメイルを2月の終わりから、ここにブログとして書き始めました。何時まで続くか分からないけれど、さえに毎日の出来事を書き綴っていきましょう。
カテゴリ:生命科学
さえ:
一昨日朝、お隣の池島さんから知らせがあって、「大学じゃなくて政府の教育局が教授の研究業績を提出するように求めていますが、知っていますか?締め切りは明日の夕方です」ということでした。
大学の要求じゃないと言っても、彼の場合は薬理学教室主任から通達が回ってくる訳で、それならぼくの場合は生化学教室主任から通達が来るはずですが、何時ものように、何も知らせが来ていません。
池島さんには何時も教えてくれる親切を感謝しつつ、うちの院生に、生化学の主任に連絡して事情を聞くように頼みました。
すると、ぼくたちのところに言ってきていないだけで、作業を進めていたそうです。何でなのか知りませんけれど。
届けの内容を見ると発表論文を書くのですが、事細かく指定されています。
教授名、、専門、2011年度のImpact Factor、論文著者名、AF(所属)、TI(論文題名)S、O (投稿ジャーナル)、などまでは分かりますが、SN、J9、 PD、PY、VL、IS、BP、EP、GA、UT、などと書かれていますが、何のことか分かりません。
色々と調べまくったら、Impact Factorの総元締めのトムソンロイターの決めている方式なのですね。
さらに分かったのは、トムソンロイターはWeb of Knowledgeと言うサイトを作っていて、ここで各種文献が検索できることでした。検索項目を入れれば、調べたい論文がリストされるのは、PubMedと同じです。
でも、流石にImpact Factorの本家本元だけあって、このImpact Factorが一緒に出てくるのですよ。
掲載ジャーナルのImpact Factorを今まで人々は問題にしていたわけですが、そうではなくて自分の論文そのもののImpact Factorが出る訳なので、自分の研究が世間からどう見られているかという、厳しい評価が突きつけられます。
世知辛い世の中になってきましたね。
面白がって、昔の自分の論文のImpact Factorを調べてみました。
1986年のEndoglycceramidaseは、143回引用されています。
1968年のChoncroitinasesは、1056回引用されていますし、コンドロイチン硫酸の微量定量法は、1468回引用されています。へえ、そうなんだ、という驚きです。
ここに来てからの研究で初めて書いた論文の引用数は16回です。まだ少ないですね。でも、これからの研究がここに注目を集めることを期待しましょう。
今まで検索にはNCBIのPubMedだけしか使っていませんでしたが、これからはWeb of Knowledgeも使って、検索漏れのないように万全を期しましょう。
それにしても、このようなデータベース作りをしてくれる人たちに感謝感謝です。科学の進展はそのお陰ですものね。
カテゴリ:朝鮮半島
さえ:
昨年暮れの北朝鮮の将軍の死去は世界の十大ニュースの一つになりましたね。三代続きの世襲になるのかが大きな焦点でした。
その上で、北朝鮮の意固地な國の態度が変わるのか、あるいは若い跡継ぎが力を示すべく、あるいは軍部を抑えきれずに西側相手に戦争を挑むのか、世界中が固唾を飲んでみまもっています。特に日本は北朝鮮の核ミサイルの射程距離内なので、北朝鮮に圧力をかけ続けるだけでは危険があり、綱渡り外交を強いられています。
それが昨日のRecord Chinaの記事によると、北朝鮮が今までの強硬な西側攻撃を弱めたと言うことです。『北朝鮮に変化のきざし?=教科書から「米帝国主義」の記述が消え、インターネットの解説も―中国メディア(Record China 2012年01月06日)』
北朝鮮にいて、北朝鮮の新版英語教科書の監修に協力している英国人がいるのですね。『東洋史研究者のスチュワート・ローン氏によると、新版教科書には米国敵視の記述はなく、「日本帝国主義」という表現も消えていた』という話しです。
『新教科書ではインターネットも日常生活の一部として詳細に説明』しているので、これは今後ネットを開放するという準備ではないかと言うことです。
板垣英憲氏のBlogos(2012年01月05日)によると、『北朝鮮軍の兵力は120万人(総人口の5%)と言われている。このほか、予備役470万人、労農赤衛隊350万人、保安部隊19万人だ。少なくとも120万人は、生産労働に携わっていない。』
『ちなみに、日本の場合、人口1億2000万人、陸海空3自衛隊員は24万人(総人口の0.2%)である。』
実際大した産業もないのに、生産に携わらない兵隊を食べさせて、軍事力を維持するだけで、国民が生きていくのに必要な富は消えてしまいますね。今のままでは、飢えた狂犬としても生き続けることは出来ないと言う判断は、世の中の誰でも出来ることなのに、北朝鮮ではそれが御法度だったわけです。
西側の教育を受けたことがあるというこの跡継ぎが、軍隊に暴走させることなくそれを抑えて、国を開放していくのは大ごとなのかも知れませんが、板垣英憲氏のBlogos(2012年01月05日)のタイトル『北朝鮮は日本を見習い「武器」を捨てて「エコノミックアニマル」に変身した方がよい』と言う提案を受け容れて変身するのが、生き延びる道でしょう。
この昨日のニュースに見る変化の兆しが、その方向であるように、期待したいですね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
2011年度の前学期が終わりました。ずっとぼくの受け持ってきた生物化学と分子生物学は今期から一緒の科目になって、ぼくの担当は分子生物学のうち28時間。35%に相当するので試験の配点も35点です。
○×でなく記述式の試験をすると、たちどころに学生の理解度が分かりますが、採点する方も面倒だし、学校側にも好まれていません。さらに、試験の成績が悪くなってしまう問題は、教師として問題視されると聞いています。
10点は○×式で、どれも読んで直ぐに分かる記述にしました。
たとえば:
A mRNAの配列をセンス鎖と呼び、mRNAが読み取るDNA配列を鋳型鎖と呼ぶ
B RNAポリメラーゼはその反応に、4種類のNTP、鋳型のRNA、Mg2+、が必要である
C プロモーターは、遺伝子の転写を開始するためのシグナルで、転写開始の-(マイナス)10bp付近にある配列は共通性が高く、Pribnow boxと呼ばれている
D タンパク質合成でアミノアシルtRNAが選ばれるとき、tRNAに付いているアミノ酸も大小二つのリボソームにより認識される
ちなみに、AとCが○です。11題の中で○を5個付けるのですが、平均6点でした。
答が直ぐに分かる問題を3題、15点。これで25点となって、25/35=71点となってOKのはずでしたが、ここまでで平均21点となって、全体の平均点を下げてしまいました。
あと二題。十分に説明したけれど、ちゃんと理解していないと書けないのが、ひとつで5点。
最後の5点には、遺伝子の発現を抑える近代的な方法を、mRNAの発現制御に絞って説明したので、次の問題を出しました。もちろんテロメア、テロメラーゼもDNA複製のところで詳しく話しています。
『ヒトの体細胞はテロメラーゼを失っていますが、変異を起こして癌細胞となるとテロメラーゼを発現します。テロメラーゼを癌治療のためのターゲットにすると、癌を征圧できるかも知れません。どのようにしたら、これが可能になるか、考えを書いて下さい。(5点)』
まともに答を書いていたのは二人です。あと三人が、良い線を行っているという感じ。書いてあることを頭に詰め込むだけでなく、有機的におたがいをつなぎなさい、考えなさい、と何時も言って教えているのですけれどね。
学生はとても優秀で意欲満点なのですけれど、考えることはとても苦手です。考えるという教育を受けず、無批判に人の意見、通達、お達しを受け容れるように教育されてきたからでしょうか。
この教育法が改まらない限り、日本にもまだチャンスがあるかも知れませんね。
コメント:
変わらないですね みのもんだ さん
>考えるという教育を受けず、無批判に人の意見、通達、お達しを受け容れるように教育されてきたからでしょうか。
先生のおっしゃるとおりですね。勿論これは先生のご存知の通り、この数十年から始まったことではなく、始皇帝が中国を統一してから焚書坑儒で代表された思想の統制、知的階級の押さえ込み(あるいは懐柔)は、今日までずっと続いてきたわけです。
特に現代では顕著です。学校では考えさせる教育はしていないし、試験も丸暗記が中心の出題で、それを上手に適応した学生達が、いわゆる優秀なものと選ばれ、大学に入ってきたわけです。勿論なんらかの理由で、考える能力が多少長けている学生もいるが、それはあくまでも一部で、先生も経験されているとおり、少数ですね。
考えることほど、体制の統治にとって不都合のものはないから。考えれば考えるほど、いろんなことがおかしいと気づき、中国の場合、このような人たちは不満分子と呼ばれ、大体、社会の隅に追いやられるか、中国を出るしかありません。実際、1989年のあの大事件で、日ごろの考えをやっとの思いで、意見を沢山口にした教職員は、先生が勤めておられる今の大学で何人かは居たが、その後ずっと冷や飯を食わされていることは知っています。
変わらないでしょうね。永遠と。だって、教育は変わらないから。既得権益階級で、自らの手で教育を改革し、自分の墓場を掘る人がどこにいるか。
そのことを見抜き、敢えて口にした西欧諸国の国のトップが居た。サッチャー元英国首相だ。彼女は、「中国は永遠に強い国になれない。なぜかというと、自分の国を押し上げる思想がないから」。このような教育環境、このような思想の統制、あと100年経っても、中国から思想家が出ないでしょう。そのような卵はいるが、潰されるか、懐柔されるか、国を出るか、どちらかでしょうね。 (2012.01.10 00:44:33)
みのもんださん shanda さん
コメントをありがとうございました。鉄の女首相の発言は知りませんでしたが、この國の問題点を見事に喝破していますね。
今この國でも、現状を憂いて、体制が変わらなければ将来はないと言っている人もでてきました。その発言が容認されると言うことは、國も将来のありかたを模索していると言うことでしょうか。
しかし、大躍進時代の前の50年代に、皆に好きな提案をさせてそれが出たところで一斉に粛正したと言われている國ですから、なにが起こるか考えると、しかも自分がそこに身を置いている現状ではじわじわと恐怖感がしのび寄ります。 (2012.01.13 09:05:12)
お帰りください みのもんだ さん
いよいよ明日日本に帰られますね。お気をつけてください。 (2012.01.13 12:59:12)
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
嫁に、なんて書くとびっくりするでしょうけれど、春に息子が結婚したのですよ。それで、その彼女に贈り物を探そうと、中街金を売る店に行きました。
中街には清朝時代からの金の店が今でも三軒あって、以前の加藤先生の中街探訪の時にも案内されましたよね。何となくシャムの寺院の飾り付けみたいに見えますが、ごてごての飾り付けがしてあって遠くからでも金を売る店と分かるようになっています。
店に入ると警備員が三人くらい入り口に立って警戒していました。正月三日間に割引をして売ったときに人々が殺到したそうですが、いまでも沢山の人々が買いに来ています。
この数年、中国が金を買いまくって金相場が急騰しているそうです。國が買っているのか、人々が買いあさっているのか、その辺のところは良く分かりませんが、お金が貯まってくれば、紙の紙幣よりも、安心できる金を買うのは、中国人の智慧としては当たり前なことでしょう。
しかし、ぼくたちにとっては当たり前ではないので、金を売る店に初めて入ってもうろうろとしてしまいます。お金を金に替えるなら、一番意味のあるのは地金でしょう。実際そのコーナーもありましたが、嫁への贈り物なので、腕輪にしました。
1グラムあたり388元。うちに戻ってきて、これを為替相場で換算すると4732.9円です。田中貴金属店の相場で見ると日本ではグラムあたり、4253円ですって。10%損している感じですね。ま、仕方がない。買ってしまったのだから。
買い物にはもちろん暁艶が付き合ってくれました。「今ここに大学の人がいて私たちを見たら、先生が私に金の腕輪を買っていたことになりますね」と言って笑っていました。
終わってから中街恒隆広場地下にある川人百味という四川料理の店に行ったのですよ。酸湯肥牛という料理を取って一口食べたら、悶絶しそうな辛さでした。舌を千本の鋭い槍でつつかれる痛さでした。おまけに塩辛いし。
辛いものは大好きですが、こんなに辛いのは初めてでした。店の服務員に、これがこの店で一番辛い料理?と聞いたら、とんでもないと言って首を振るのですよ。打包にして持って帰って、スープを捨てて洗うこと四回。それでも、食べるときうっかりすると咳き込む辛さでした。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
中国の『ユーザーの9割が「ネット検索依存症」、思考を放棄した若者たち―(Record China 1月8日)』なのだそうですが、ぼくも似たようなもので、一日中PCと睨めっこしているので、時にはあちこちにあそびにでかけます。
この間、目に付いたのが、女性の立場から、『合コンやお見合いパーティーなど、初対面の人同士が集まる場所で、ステキな男性を見つけるためにはどうしたらいいのでしょうか?』と言うブログがありました。(infoseek Women 1月9日)
http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/story.html?q=cyzowoman_09Jan2012_18051
こちらは物色される立場になるわけですから、どれどれ、敵はどこに目を付けるのかな、と思って、読みました。
すると、『まず相手の「耳」を見ましょう。人相学では、耳にはその人の人生のすべてが表れている』ので、耳に目を付けるのだそうです。以下はその引用です。
1 『耳の大きさ。耳が大きいと、明るく積極的な性格でしょう。自信にあふれていて、おしゃべりで話題豊富。社交的です』
日本では言われたことはないのですが、中国でぼくは始終、耳が大きいと言われます。性格も積極的だしね。ここで得点一点ですね。
2 『耳の厚さ。耳が厚いほどエネルギッシュです。持続力もあり、仕事運、金運ともに強運です。初対面では、押しが強く、やや暑苦しいタイプに見えるかもしれませんが、バリバリ仕事をするので将来性があります』
3 『耳の色。ほどよく赤みがある耳が良い耳です。人に信頼され、協調性もあり、健康状態も良好です』
4 『耳の穴。耳の穴が大きいのは、大胆で野心的。運勢の波の上下が大きいので、公務員的な仕事には収まりきらないタイプ。将来事業を起こして社長になる器です』
これは、自分では見たことはないけれど、耳の穴はかなり大きいはず。子供の頃から姉がいつも耳垢をとってくれていましたが、とても採りやすいと言っていました、大学生の頃信州で夏を過ごしていたら、姉が友人と遊びに来て、耳垢をとってくれたとき、その友だちに、とっても取りやすいわよ、と言ってぼくは彼女の膝に頭を載せました。「アラ、ほんと、すごい、鼓膜が銀色にちゃんと見えるわよ」ということでした。ここでまた得点一点、合わせて二点。
5 『耳たぶ。ふっくらと厚く大きな耳たぶの男性は、器が大きく、大人物になります。財運もバッチリ』
そうなのですね。ここで耳が大きいと言われているのは、この耳たぶが大きいと言うことなのだそうです。ぼくは大きいなんて思ったこともないですが、言われてみると、周りの学生たちの耳たぶは、ごく慎ましいものです。ここで得点一点、合わせて三点。
つまり、この耳による観相では、ぼくは高得点を挙げそうですが、耳は大きくて積極的でも、話題が豊富で社交的な人ではありませんね。耳の穴が大きくても、事業を起こして社長になるなんてことはなかったし、耳たぶがふっくらと厚く大きくても、器が大きいとは思えないし(大きかったら人が放っておきませんよね)、財運も全くないですね。
と言うわけで、観相がいかに当てにならないか、良く分かるというのものです。
でも、初対面で人をどうやって見抜くか、その人を理解するかというのはとても大事で必要な技ですね。人はこうやって何時も、密かな緊張を強いられながら人を観察して生きています。見ただけで相手のことが分かったらどんなに良いか、と言う願望でしょう。
このブログは女性に男を初対面で見抜くにはという技の伝授でしたが、男にとっても女性が何を考えているのか知りたくてしようがない。あの物理学者のホーキンスも言っているように、永遠の謎は女性なのですものね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
今年の瀋陽は昨年に比べて大したことないとみんなが言っていますが、日中温度が上がってマイナス10度になるかならないかですし、最低温度はマイナス20度を割っていることもあります。
今が暦の上で一番寒くなる時みたいですね。本当にそれを実感しています。うちを出て大学に着くまでに耳が完全に冷え切って、というか、凍り付いた感じです。そう言えば、シカゴも寒いでしたね、日中温度が華氏で零度以下のサブゼロコールドの日が数日続くのでした。あのとき耳に出来た霜焼けがこりこりの軟骨となって、耳殻に残っています。
うちを出ると最後に大学の正門に西から歩いてくるのですが、この歩道にある下水のマンホールから汚水が時々溢れまていますよね。高低差の殆どない瀋陽だから、詰まると悲惨なことになるわけで、今の時期、歩道一面に溢れたのが凍り付いていて、ぼくたちやむなくその上を歩いているのですよ。
その前の店は牛肉餅の店で、気の毒に、商売あがったりでしょう。
こっちは日に二回歩くだけでも、全く情けない思いです。誰もが、当局に通報しないか、言われた当局が何もしないか。
これは、前者じゃないかと思うのですよ。
何時か二歳の女の子がクルマに轢かれて血だらけになって倒れているのを、何人もの人が黙って通り過ぎたという映像つきの話しが公開されましたね。
怪我をして血を流して倒れている子を、何もしないで無視して通り過ぎた人たちはネットでは、口を極めて罵倒されました。でも、親切心を出して面倒に巻き込まれるのは嫌だというのが、すべての中国人に共通する心理みたいです。
実際に、倒れている老人を親切に助け起こしたら、おまえが突き飛ばしたと言うことになって有り金を撒きあげられる事件とか、いろいろなことがあったので、皆自衛に走るのですね。
このような情報は一般市民の間にあという間に広がるもののようです。昔から、庶民は情報を頼りに、生きぬいてきているからですね。
うちの院生たちに、道で誰か滑って転んで、そして立ち上げれないのを見たとしたら助けるかと聞いたら、周りを見回して、監視カメラに写っているなら、助けるというのです。
これは自分の善行が記録されるならやっても良いと言うことかと思ったら、そうではなくて、自分がその人を突き飛ばしたのでないことが証明されるものがあるなら、助けても良いと言うことで、なければ、自分の身を守ることが大事なので見捨てると言うことでした。
触らぬ神に祟りなし。生ぬるい日本人には及ばない知恵で彼らは生きていますね。ぼくは、ともかく滑って転ばないよう、うーんと気をつけて歩いています。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
ぼくは、今ほど働いていたことはなかったと言えるほどに、勤勉に仕事をしています。さえはぼくをあからさまに非難したことはなかったけれど、何と怠け者のぐーたら亭主だと思い続けていたと思います。
「人は持って生まれた才能を使わなければ、それは造物主の神様に申し訳ないわよ」って言っていたのが、耳に痛く、しっかりとぼくの心に棲みついていました。
今やっと怠け者の人生を返上していますが、生物学的には老齢もいいところで、働きたいときには身体が言うことをきかないって言う状態です。ぼやいても意味ないことですけどね。
心構えはする時間は十分あったのに、おさえちゃんに死なれて、その打撃でぼくはずっと、ただ生きているだけでした。もちろん、研究室の院生の研究にはこころを配っていたけれど、さえのことばかり考えていて、悲しみに溢れるこころを抱いて、研究に頭が働いていたとは思えません。やっと、秋頃から研究に本気になってきたかなと言う感じがします。色々とアイデアが湧いてきます。
院生はみんな一生懸命に実験に取り組んでいますよ。
院生の話では、教授が怒らず、院生相手に怒鳴りもしないのに、朝から晩遅くまで院生が研究室で実験を進めているのはうちのラボだけですって。
これは自慢しても良いことですね。ぼくは院生に、研究室で実験をするのは、すべて自分のためなのだと言うことを徹底的に分からせます。だから自発的に喜んで実験をするのだと思います。あとは、良い成果を出し続けることが出来れば、言うことはありません。
笑笑は、ぼくの浮気癖に付き合ってあれこれテーマを変えて実験をしてきましたが、ホスファターゼのところを調べて面白い結果が出てきました。
朱Tongは、Nue2の過剰発現の結果細胞の増殖が阻害されますが、これが旨く説明できるkey moleculeを見つけたみたいです。
暁艶は、成長因子の制御機構で全く新しい経路を見付けました。その証拠固めに、朝から晩まで実験をしています。
崔はNeu3の過剰発現細胞のモノクローン細胞を沢山取りました。分析は満足するものですが、まだ調べたりないうちに春節休暇になって、うちに飛んで帰りました。
ぼくは、ずっと論文をまとめていました。ひとつは殆ど出来上がり、もう一つも骨子は書き上げました。実験結果待ちですが、せいぜいあと1ヶ月くらいなものでしょう。14日に日本に戻ったら、色々とうちの用事はありますが、suspendedの論文に取り組むのと、約束の総説を書きましょうね。