今日25日の全日空の便で瀋陽に戻った。台風12号の影響を受けて朝から強い雨の音が続いて3時半に目覚めてしまい、洗濯、掃除などしてから、小雨の中を5時半に昨夜のうちに頼んでおいたタクシーで出発した。
全日空は成田で出発が40分遅れ、日本の空域から韓国の空域に入るところで また待たされて結局1時間20分遅れで到着した。迎えの国際交流処の蔡さんたちを待たせてしまった。
同じ飛行機にはお隣の研究室の池島先生も同じように休暇から戻るところで、瀋陽空港のバッゲージクレームで一緒になった。その時の話だと、乗っている間中葡萄酒、ビールを飲み続けたという。今回の夏の休暇で日本に戻る時も、キャビンアテンダントに勧められるままウイスキーやワインを飲んでいたら、次には「免税品機内販売」でもいろ いろと勧められて、只酒を飲んで断ったりしたら男じゃないというので、勧められるままに化粧品を沢山買ってしまったという。
化粧品は全部日本のお嬢さんたちに取られたそうで、今度のフライトでは、それを教訓にして、飲みながらも隙を見せないように頑張ったとのことだった。それで買わずに済んだと言う攻防を、まじめな顔をして話すので、荷物のでるのを待つ間退屈しなかった。池島先生は学究の徒どころか大学者でありながら、このように廻りの人に気配り・心配りのサービスの出来る人なのだ。
瀋陽に着いた時の気温が20度だった。瀋陽空港は瀋陽の南20 kmくらいのところにあって、高速道路で結ばれている。高速道路の両側は植樹帯となっていて、柳と楊が主体で植わっている。楊の一部の葉がもう黄色になり始めていて、夏が終りに近づいたことを実感した。瀋陽の街の空は半分以上秋の頼りなげな薄い雲に覆われている。
大学の門を入ると、新学期は来週から始まるからまだ人影は少ない。それでも、男女の二人がぴったりとくっついて歩く姿が忽ち沢山目に入って来た。これは瀋陽に戻ってきたという実感を与えてくれる。今の時候は薄着の二人がぴったりするのにもってこいの季節だ。
教授室には胡丹くん、王麗さんが待っていて歓迎してくれた。久しぶりの王麗さんがすごく美人に見える。彼女のボーイフレンドの馬くんはいま会議出席で日本に行っていて不在である。「あまり美人なので見違えてしまったよ。本当は一人の時の方が、くつろいでいられるのではない?」と思わず言ってしまい、危なく叩かれるところだった。
この二人の関係は、馬さんが病気で入院して点滴を受けているベッドの横に王麗さんが座り込んで、「私のことが好き?」と迫ったという。「否」と言ったりしたら点滴の針が抜かれそうな気迫だったので、馬さんは「諾」と答えてしまったという話になっている。二人は近々結婚するはずである。
胡丹くんも王麗さんもこの夏は故郷に帰っていない。鄭くんと王くんは1週間たらず故郷に帰っただけである。大学院生の人たちはほとんど毎日研究室で実験をしていたわけだ。王くんは黒竜江省の出身で、4日間故郷に帰った間に、彼の両親が探したという朝鮮人参を老師の健康にといって礼物に持ってきてくれた。
毛毛(というのは子供時代の自宅での両親・親族からの呼び名で、実名は王毅楠)くんは学部を出てこの9月に修士に入る学生なので、卒業後の2ヶ月近い休暇を楽しんだらしい。学部時代の仲間とモンゴルに2週間の予定で遊びに行ってきたといって、乳で作った飴風の菓子を土産に持ってきた。毛毛くんと同期生ということになるが、外部から大学院を受験した女子学生がいる。面接して私はOKの判定を出したが、この学生は来るのだろうか。
私たちの持ってきた大福や、杏タルト、毛毛くんの土産を食べながら研究室の学生に聞くと、「ここに来ますよ、来るに決まっています。」という返事が返ってくる。大学からは何も聞いていない。本当に来るのだろうか。大体合格したかどうかも報されてはいない。もっとも、この毛毛くんが私のところに入るのも、合格したとも配属されたとも公式には何も聞いていないのだから、女子学生だって期日になれば、研究室にやってくるのかも知れない。
明日一日は毛毛くんを除いてそれぞれから夏休み中の研究の進展状況を聞くことになった。皆張り切っているので、どのように進んだのかを聴くのが楽しみである。やはり私たちの生活の場は瀋陽のこの大学にある。休みは終わった、いざ。
タクシーが5時30分に迎えに来て、小雨の中をたまプラーザへ。
5:50分発の成田行きのバスに乗る。かなりの人。8割くらい座席が埋まったという感じ。
7:20到着。直ぐチェックイン。朝食を食べてBF1に行ってサンドイッチの四つ買う。瀋陽に持って行くつもり。
出国手続きに外まで人が並んでいて、驚き、これでも夏の最盛期を過ぎているはずだ。
酒大小1本ずつ買った。9:40搭乗。しかし、40分くらい遅れてtake off。日本空域から韓国空域にはいるところで、また40分くらい足踏み、実際は旋回か。瀋陽到着は12:30の代わりに13:50.
入江夫妻が薬科大学に行くと言うことで池島さんと一緒だった。3時前にアパートに着き、荷物を置いて、大学へ。胡丹、王麗が待っていた。直ぐに王Pu、鄭大勇、王毅楠もきた。
7時にアパートに帰って、持ってきたサンドイッチで夜食。10時に寝る。
朝洗濯をして、ラボに6:50.
今日は皆と一日面談の日。4人で6時間かかった!休み中の研究の進み具合の話と討論。指導。
9時鄭大勇。10時-11時半胡丹
昼カラフールに買い物。夜加藤先生夫妻をうちに呼ぶつもりなので。まず簡単なレストランNubaで昼食。会員になるとやすくなると言うので19元を払って会員となった。
2時王麗。3時王Pu。4時-5時半胡丹。
うちに着いたのが5時45分で、それからパエジャの支度を始める。加藤夫妻は6時半。このほかインゲン、豆腐、キノコ炒めの一品料理。
楽しいおしゃべりに興じて9時まで。
疲れて、朝7時半まで寝ていた。
掃除、洗濯をしてラボに10時。〜5時過ぎまで。研究のことをいろいろと考えて一日を過ごした。
9時にバス停で加藤夫妻と待ち合わせ。大西門路上市に行く。
竹板の指導を受けた。難しい。まだこつが分からない。
昼は馬焼麦に行って、そしてご馳走になってしまった。4人でシュウマイ500グラム、ほかにおかずが3品。おなかが一杯。
満員バスで医科大学近くの遅・苑さん夫妻の住居へ。それが、ない。この一帯が完全に壊されている。ショック。
どっと疲れが出て、駅の方に行きましょうかと誘われたけれど断ってうちに帰る。3時間寝てしまう。
夜はまだおなかが一杯でパス。ホームページのエッセイを書いて、載せた。
胡丹に遅さんに電話を入れて貰う。通じた。息子の嫁がでたらしい。4日日曜日に訪ねることになった。よかった。
胡丹に頼んで、修士に入る予定のハルビンの王暁東に電話をして貰う。3日朝着くとのこと。3日朝研究室の公式の初会議がある。これに間に合うか。
1時胡丹と研究の話。3時鄭大勇と研究の話。
パスポートを蔡さんから返して貰って郵便局に行く。天津名物の菓子がNick Tanから送られてきた。専家証の名前の訂正はまだ。蔡に預けたまま。
薬科大学の日本人教師の親睦会を計画するので、都合を訊くメイルを出す。安藤さんはPCを持ってきていないらしい。
日本からこの瀋陽薬科大学に来ている学生の(2年が終わった)安藤さんは、学業を断念して帰国するという。それで椅子、CDラジカセ、トースター、扇風機、蛍光灯などを貰った。日本の職が見つかっているそうだけれど、学業中断はもったいないのにと思う。それなりの事情があるのだろう。
研究消耗品、物品の支払いはこの半年私の金をすべて出していたけれど、大学の金が使われずに残ったので今後は校費からの支払いにする。このことを王麗に話した。ただし、明日1590元は、私の金を払う。
夕方椅子に座り損ねて後ろに転ぶ。額が置いてあって、その角で頭の付け根を強打、忽ちこぶが出来る。呆然と転がったまま。
6時半、池島研で入江夫妻を交えてコンパがあり、そこに顔を出す。入江の「上を向いて歩こう」池島の「仰げば尊し」。私はいつもの詩吟を唸ってしまった。
こぶは出血はしていなかったが。寝るにも枕で圧迫されると痛い。やれやれ。不注意の事故ばかり。よくぞここまで生きてきたものだ。
帰ってそーめん。インゲン、豆腐、キノコの煮物。
私たちが瀋陽に戻った翌日の金曜日に、瀋陽薬科大学の日本語教師である加藤先生も関西から戻ってこられた。今回は文子夫人も一緒だった。彼女は日本の衆議院総選挙があるので、その投票に間に合うよう瀋陽には2週間の滞在である。日曜日の今日、何時ものように瀋陽の街を一緒に見に行こうと誘われた。
朝9時にアパートの下のバス停で待ち合わせて、中街のある大西門まで212路バスに乗った。久しぶりの瀋陽の街がだいぶ綺麗になっている。路に沿って街路樹が急に増えている。薬科大学も高さが2メートルある無愛想な石と煉瓦の塀を壊して、軽やかな鋳鉄製のフェンスに換えている。塀と歩道の間には、もうこの春に楊を二列に植えてある。商店街の看板も綺麗に取り替えているところが多い。
胡丹くんに先日聞いたところによると、来年のガーデニング博覧会が瀋陽で開かれるのに合わせて街を綺麗にしているのだという。商店街の新しく取り替える看板も、まず市の担当者に見せてデザインが承認されないといけないそうだ。といっても、看板を綺麗に作り替える費用は、瀋陽市ではなく個人持ちなのだという。どの店も数百から数千元の出費だ。
中街の路上市も、加藤先生に連れられて来るのがこれで数回目なので、置いてある品物が少しは目に留まるようになってきた。今までは、どれもそこに置いてあるものが珍しくふわふわと目移りがしていた。たとえば、掌中に入る気付け薬入れに様々の素材があり、飾りや絵の題材にも様々なものがあることが分かってきた。
古本も、これまでは「唐詩選」や「紅楼夢」みたいな知っている名前しか目に入らなかったけれど、今ではかなりの題名が目に飛び込んでくる。印鑑用の石も高価なものから1元で買える石まで沢山あるけれど、目利きということはないにしても、一つ1元の石の中から気に入ったものを至極簡単に選び出すことが出来るようになってきた。
やがて古物商の入った大きな古物会館に着いてその二階に行ったのは、二ヶ月前に買った竹板を持ってきたからである。1ヶ月で出来るようになるとのことだったけれど、いくら練習してもその時聴いた音にはならない。根本的に扱い方が間違っているのではないかと思って、店の主人の王さんに再度習おうと思ったのだった。
竹板を出して左手に付けて手を振ってみる。バシャ。王さんは「上手くないというのでなくて、それは違う。」と首を振って、竹板を私の手から取って自分の左手に付け、パカポコ、パカポコ、そして次にはパカッ、パカッ、パカッ、とやって見せてくれる。手の動きが速すぎてよく分からない。「ゆっくりやって下さいな。」すると、ゆっくりと 一回だけ、パカポコ。
このやりとりと何度もやっていると、一緒に来た加藤夫人の文子さんが可愛い声で「私もやってみたい。」
それで王さんが壁から外してきた別の竹板を左手に装着して、手を振ると、パカポンと音が出た。「すごい。最初の一振りで音が出るなんてすごい、天才だ。」と王さんはじめ賞賛がいっぺんに文子さんに集まった。私は王さんのように鳴らしたくて左手を振っているけれど、ちっとも王さんの音にならない。加藤先生も、見ているうちにやってみたくなって「貸してご覧よ。」と文子さんから奪い取って、「ほら。」と王さんに向けてやったけれど竹板はゆらゆら振れているだけで音が出ない。妻の貞子は右手用の竹板でパカポンと鳴らそうとしている。
王さんは連続してならさなくて良いから、「一回だけ鳴らしなさい。手の緊張を取って、手を洗ったあと水を手から払い去るように降ってご覧。」と何度も教えてくれる。パカポコ、パシャ、カシャ、フチャ、の音を聴きながら、結局、文子さんがA、私がB、貞子がC、加藤先生がDと成績が付けられてしまった。褒められたからでもないだろうが、文子さんは「私もこれが欲しい。」ということになって彼女も竹板を手に入れた。
「再見。」「また教わりに来ますね。」ということで店を後にしたけれど、文子さんは竹板を鞄に入れずに左手に付けて、音を出しながら歩いている。とても気に入ったみたいだ。自分に素直に振る舞える文子さんはもう大事な友人の一人だ。竹板の仲間となったことも嬉しい。
満州時代の絵はがきを中心に置いている店に寄ったりしているうちに昼になった。中街の馬焼麦の店に行って美味しく昼食を食べた後、私たちが目指したのは、中国医科大学近くの旧日本人街に住んでいる遅さん、苑さん夫妻の住居だった。二ヶ月前に思いがけず出合った87歳と86歳 の二人は、旧満州国時代に日本語教育を受け、その後数奇な人生をたどった人たちだ。今日の目的は再度会って昔の話をもっと聴きたいというのがひとつ。もう 一つは、遅さんは戦前の大連にあった森永製菓に勤めたと聞いている。それで懐かしいかも知れないと思って、日本で現在の森永のキャラメル、チョコレート、ビスケット、ココアなどを幾つか買い求めてきたのだった。
森永製菓の製品を知るためにインターネットで調べたときに、ついでに森永の社史も見たけれど、当時の満州国にも会社があって森永製品を販売したとは書いてなかった。遅さん、苑さんの時代が終わってしまえば、森永の人たちも知らない歴史が消えてしまうことになる。これも歴史に残らずに消えていくことのひとつなのだ。中街から満員のバスに乗った。「財布に注意してね。」と加藤先生にささやかれたけれど、混んだバスが揺れてバランスを失って私が押してしまった若い男が自分の尻のポケットをしきりに、まさぐって財布を確認しているのには思わず一人で笑ってしまった。この満員バスは街が大混雑で、着くのに相当時間がかかった。瀋陽も、クルマが増えて交通渋滞は日常的である。
バスを降りて目的の住宅街を目指して歩く。あの当たりだというところに近づいても家がない。ない。何もない。代わりに片づけられた瓦礫の間に見越しの松が二本ぽつんと残っているだけだ。なんと、二ヶ月の間にこの一画の住宅が全部取り壊されてしまったのだ。そういえば、前回ここに来たとき、ここはいずれ取り壊されると聞いたけれど、まさかと信じられなかった。遅さん、苑さんはどうしたろう。そして、あのとき私たちを取り囲んでニコニコと話しかけてきた近所の人たちの生活はどうなっただろう。私たちは突然開けた空間の向こうに聳え立つ州際飯店を見ながら、しばらく呆然と佇んでいた。
久しぶりにKanさんにあった。この4日間一日中講義があったとのこと。新人の面倒を見る気があるかどうか訊く。これは礼儀。
朝。日本語教師の坂本氏がくる。二ヶ月滞在。その間、30時間で、分子生物学の用語解説を4年生にするという。こちらの講義と重なる部分がありそう。
胡丹がトマトを沢山買ってくれた。4元。
25日から中国に来ていた入江夫妻が帰国した。11時半fairwell。その前にしばらくおしゃべり。長い、長ーい付き合いで、仲が良いのか悪いのか誰にも評価できない関係。加藤先生のHPを紹介してメイルを送った。
王Puのstable tranefectantsは、HPTLCで見ると糖脂質のパターンはほとんど影響を受けていない。いくつかの重要の遺伝子発現に大きな変化があるにもかかわらず。
王麗:LL細胞でPkn1SiRNAの効果が出ない。断念するのも残念。LLに入れるのは初めてなので、ほかのSiRNAを試してみる。plasmidとretrovirusの二つを入れて比べる。
Nick Tanから天津の十八街・大麻花が送られてきた。夕方加藤氏夫妻を招いて、45分くらいおしゃべり。
王毅楠:cav1を抑えた細胞で、様々な遺伝発現のチェック中。
新学期が始まるに当たって、ホームページ係を二年やってきた経験から、28日に以下の提案を会員にメイルした。
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9月17日から新しい年度の瀋陽日本人教師の会が始まります。いままでの例ですと、最初の集まりで会の中にいろいろある係りが決まります。
教師の会の役割には、弁論大会係、ホームページ係、資料室係、研修係、日本語クラブ編集係、連絡係、などあります。このほかには、ミーティング、書記があります。全員誰もが、どれかの係をする約束になっています。
この次も私はホームページ係を希望していますが、その経験と立場から一つ提案があります。
ホームページ係が教師の会のすべてに目を配るのは、今までの経験から言って難しいものです。しかし一方で、ホームページの拡充は、この会として常に望まれていると思います。
それで提案ですが、このそれぞれの担当の係の数名の中からひとりがホームページ係も兼任する(担当する)というのはどうでしょうか。ホームページ専任の2名くらいのほかは、それぞれの係が集まってホームページを運営するという提案です。
現在のホームページのコーナーの半分以上は、専門の係が担当することになり、よりよくなると思います。各係のホームページ担当者は内容を考えて用意するだけ にして、その原稿からホームページの作成と、ウェブサーバーへのアップロードということは、ホームページ専任の係が担当することにしましょう。
ホームページに「瀋陽暮らしの智慧」というコーナーが作られています。これの更新のためにこれの担当専門の係もあると良いと思っています。いかがでしょうか。
以上の提案を次回の定例会で相談していただきたいと思います。 定例会の司会がどなたか分からないので、現在の会員の方々全員にメイルしました。
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いままではホームページ係が考えて関係者に当たっていたけれど、それぞれの人たちに任せようというものである。
ホームページ係の負担は軽くなるけれど、ホームページの更新が行われずに内容が軽くなる危険もある。
その時は、また考えよう。担当者が何もせずにいたとしても、充実したくないというのは、それも会員の意志なのだから。
昨夜到着の貴志氏来訪。Macをinernetにつなげるお手伝い。電話線。OK。預かっていたSwiss Army knifeと自転車を渡す。滞在は二ヶ月の予定。
昨夜坂本氏を含めて公式歓迎会だったとのこと。引き続き教務と教える内容について議論があったという。
坂本氏から電話。分子生物学日語の「DNA複製」を8時間講義する事になったという。おどろき。専門用語は半分に削減するという。中薬日語には別に10時間話すという。専門の研究者でもなく、分子生物学の講義を大学でしたこともない人がいきなり講義できる大学とは一体なんだろうと思う。教育される学生の立場を全く考えていないとしか思えない。
昼近くのパン屋に買い物。
加藤氏から電話:明日夕方の招待。
Kanとmeeting:休み中かなり実験をした。puzzlingな結果が多い。名城大学とジョイントのgatheringがあるという。一人1題のポスター発表。
研究費の支払いで正規の領収書を貰うと1.3~1.5倍高くなるが、校費から支払うことにした。毎月末、王麗から明細とバランスの報告を貰う。
夜帰ってカレー。ご飯はパエジャ風に炊いたので(上手くできた)、帰って1時間後には食事が終わった。
gelsolinへのシグナルを勉強する。いままでのtransfectantsでの、遺伝子発現を見て関連を調べる。データが足りない。
教師の親睦会は(南本みどり先生と電話で話して、誰も不都合なし)5日月曜にしましょう。孔府餃子?それとも好来屋?
昼まえ、貴志氏から電話。胡丹への頼み事。安藤知恵先生が北京経由で到着したという。薬科大学の電話が通じなくてぷんぷん。4月に電話が変わったのだった。6月に教えなかったか?
昼に金瓜を買う。3KG。6.3元。マンゴーを買おうと思ったら二つで36元。やめた。このあと安藤先生に交流処で会った。部屋はC301だという。
教師会の加藤先生の文章への投稿があった。
王PUとmeeting。Gelsoinを対象に論文作成を考えて実験するように指示。「群盲象をなでる」の話をして。ガングリオシドの効果の詳細な機構は分からないが、それでもたとえば爪の記載をしよう!という話。
HurricaneのKaterinaにNew Orleansが襲われた。Tulene大学にはYu-Teh Liと Su-Chen Liがいる。見舞いのmailを送ったが、配達不能といって戻ってきた。
午後6時、加藤氏宅に招待された。ほかに坂本氏も。豪華な食事。7品!加藤氏の収集品も見ることが出来て楽しい3時間。加藤氏の雑誌「収集」への寄稿文のまとめを借りて帰る。
明日の土曜日は新学期の研究室の公式初会合。研究室規則と細則をチェック。
北駅郵便局に荷物が来ているという通知がある。小川さんからか。
今期の講義予定表を申告。実は胡丹が引き受けて王Puが作成してくれた。分子生物学講義16時間の申告。
ShenZhenへの旅を誘ってくれているYao先生とは夜会うことになる。8時。王麗と王毅楠が一緒に会合に参加して助けてくれることになって、都合の良い王麗と「孔府餃子」に夕食を食べに行く。おいしい、やすい。3人で57元。
Yao先生と旅行内容の詰め。9月20日〜24日に縮小。
9月3日の土曜日は朝から空が晴れ上がって秋晴れの好天気だった。大学について正門を潜ると、新入生歓迎の大横断幕が数本かかっていた。正門の脇には幾つかの机があって新着の学生の案内をしている。新入生も三々五々到着している。一人で荷物を引いているよりは数人のグループの数が多く、よく見るとそれぞれスーツケースを引きずった両親、場合によってはお兄さん、あるいはおじいさん、おばあさんも一緒である。時たま新入生を乗せたと思しき車が到着して、中に入っていく。
今日は新しい修士の学生も到着するはずで、研究室としても新年度の第一回の集まりは、研究室の規則を説明し、一緒に話し合って今後の研究室の運営に備えようという予定である。新しい修士学生としては薬科大学の薬学部から毛毛くんが最優秀の成績で入っているが、このほか黒竜江大学から王暁東さんが入学することになっている。彼女からの連絡も、大学からの通知も全くないために、彼女が本当に入学したのか、試験に受かっても本気で来る気かどうかその日まで分からないという仕組みである。
嬉しいことに8時半にドアにノックがあって、小柄な王暁東さんが入ってきた。以前、彼女の面接をしたときは胡丹くんに翻訳を頼んだので、彼も一緒にいた。それで胡丹くんは、彼女があまりにも可愛いいので、山大爺が気に入って入学できたのだと冗談半分に皆に吹聴していたので、皆も新しく来る彼女に興味津々であった。
4月に会ったきりで、愛くるしいお嬢さんという印象だけが残っていて正確な顔は思い出せなかったけれど、会った途端に記憶が蘇った。貞子にも紹介し、お互いによろしくと中国語で言い合っている。皆もにこにこと歓迎している。
8時からは全員が揃って新年度の初会議。研究室の憲法というべき規則を私が読み上げた。
1. 本研究室は第一級の研究者を育てることを目指す。
2. したがって、ここでは研究を生活のすべてに優先させなければならない。
という具合に、第一章は元気よく続くのである。暁東さんに「分かった?同意する?」と聞いたら、「ほかの皆が同意するなら。」と答えたので、皆も一緒に笑ってしまった。
研究費も設備も何もない三流の研究室にいながら、学生を一流の研究者に育て上げるというのはまるでナンセンスを絵に描いたように見えるだろうけれど、私たちはそれが可能であることを信じ、かつ学生にもそれを信じさせたいのである。これは学生がこんなヘボな大学にいてなどと、自分でめげてしまったら芽が伸びない、自信を持つことでわずかでもある可能性を伸ばそうというのが私たちの戦略である。どうしてこのようなことになったかは、また別の時に書きたい。
だいたい二時間弱で最初の研究室の集まりを終えた。教授室の窓から下を見ると、運動場にも道にも何十台という車が停まっている。路には大勢の人たちが歩いている。胡丹くんに聞くと、新入生は今日のうちに大学に着いて入学手続きをすればよいのですとのことだった。「体育館の前に行くと人がいっぱい集まっていますよ。見に行ってらっ しゃい。」と勧められて、貞子とカメラを持って眺めにいった。
研究棟を降りて路に出ると駅から新入生たちを運んでくるバスが到着するところに行き合った。路を歩いているのと同じように親子連れの新入生が多い。遠くから来たのだろう。停まっている車のナンバーを見ると遼寧省が圧倒的に多いが,となりの吉林省、その先の黒竜江省ナンバーも見ることが出来た。遼寧省だけで日本の3分の2くらいの面積がある。昨年の入学の時にはこれほどの数の車がなかったから、中国が急に豊かになっていることが実感される。それと同時に、この薬科大学が全国的な大学からこの東北の地方大学へと様変わりしていることも意味している。↗️
胡丹くんの学年の新入生で遼寧省出身者は全体の10分の1もいなかったが、今では半分を占めるようになったと聞いている。薬科大学はこの地盤沈下をおそれて、瀋陽地区のほかの大学と合併して国立大学に戻ることを計画しているという噂をこのごろは何度も聞くようになった。勤め先の大学の地位が上がるという話は歓迎である。
しかし、合併するとこの便利な地から離れてどこかに移転するだろうから、生活が不便になるだろう。折角、お隣りに巨大スーパーのカルフールのある生活が始まったばかりだというのに。↗️
今着いたワゴン車は公安と書いてあった。つまり公用車だが中からはほかと同じように荷物を持った親子が降り立った。公私混同はここでは当然の風景なのだ。たとえば結婚式でも親が地方政府の有力者ならば、公用車を連ねて招待客を隣接する省から運んでくるなんていうのは当たり前で、誰も不思議に思わない。地位は権力で、権力は誇示するためにあると誰もが思っているようである。本人はともかく、廻りの一般庶民もそう思っているところに、この中国の抱える問題を見る気がする。
こんなことを考えて思わず肩に力が入ってしまった。廻りには、親と離れて一人で来たらしい新入生が肩に力を入れて歩いている。↙️
8時半に王暁東が現れた。9時から研究室の初会議。研究室憲法と規則を全員に周知徹底。研究室機器の管理の分担はこの次。会計の係を王Puはやっても良いという。
昼から今日到着した新入生を校内を歩いて観察。帰って昼寝。ネットのエッセイを書く。
夜明け方4時半(1時頃だと思っていたのだ)までかかって、宮本輝の「海岸列車」を読む。読むほどに引き入れられた。彼の小説の内容はともかくとして小説作法が巧みである。
8時半に起きてSaeのパンケーキ。太好了。10時からKerrefourにgrocery。
1時半にバス停で加藤夫妻と待ち合わせて南胡公園西門近く、中興街のアパートに移った遅・苑夫妻の一家を訪ねた。子供たち4人孫二人も集まって大歓迎。夜のご飯まで引き留められて大いに楽しいんだ。森永製菓の製品のおみやげを持って行った。
よるHPにこの一部を書いた。私たちも疲れたから、遅さんたちはもっと疲れただろう。
先週日曜日に訪ねたところ、遅・苑夫妻の家を含めてその一画の住宅は全部取り払われていて、加藤夫妻と私たち四人は廃墟にしばし呆然と佇んだことをすでに書いた。
幸い翌日、胡丹くんに電話を掛けて貰って連絡が付いた。最初はことの顛末が飲み込めなかった陳さんは、二ヶ月前に訪ねた私たちが会いたがっていることを理解すると、自分で私たちの薬科大学に出向くという。でも、87歳と86歳のお二人である。とんでもない、直ぐには訪ねて行けないけれど、次の日曜日午後2時に私たちが引っ越し先を訪ねますということになった。南湖公園の近くということなので公園西門で電話を入れる約束をした。
土曜日朝7時半、研究室に着いたばかりの私たちに加藤先生から電話があった。「今、遅さんから電話があってね。今日訪ねていらっしゃいというのですよ。でも、今日の土曜日は先生たちの都合が悪いはずだから、やはり明日の午後行くと言ったのですよ。そしたら餃子をこしらえて待っていますって。」
日曜日の朝9時過ぎにはうちの電話が鳴った。電話は遅さんで、電話にでた貞子にきちんとした日本語で、「今日は会えるのですね。何時ですか?」といった。「今日午後、加藤先生ご夫妻と私たち4人で、午後2時頃伺います。」と何度も日本語で、やがては中国語混じりで繰り返して、やっと「今天下午二点。」と分かって貰った。「それでは南湖公園西門まで来て下さいね。」ということだった。電話を置くとまたすぐ「豚饅頭を作って待っていますからね。」という電話が掛かってきた。
先週月曜日 に連絡がとれて以来、遅さんと苑さんたちは一日千秋の想いで、私たちのことを待ち望んでいるに違いないと思う。胸がキュンとする。
日曜日の午後一時半に大学近くのバス停で加藤先生夫妻と待ち合わせ、バスで文化路を西に行き南湖公園の一つ先の方型広場で降りた。南湖公園の西門まで1kmくらいを歩いて、遅さん宅に電話すると先日会った長男の遅さんと、後で分かったけれど次女の大学生の息子である王くんが西門まで迎えに来てくれた。ややこしい路を10分くらい歩いて中興街のアパートの一画の一階にあるうちまで案内された。玄関の外には、次女が出ていて、玄関には長女と息子が立っていて、そして遅さんと苑さんが中にどうぞと私たちを迎えて歓迎をしてくれた。しばらくは互いに興奮して互いに何を言ったのかよく分からなかったけれど、結局、あの中国医科大学の近くの二人の住んでいた住居は市街再開発のために壊されて、住民はちりぢりになったという。
市当局は、どこかに家族のいる人たちにはそこに行きなさいということで数万元を渡し、一方、身寄りのない人には移るところを世話したらしい。ともかく、もうその生活に戻ることはなく、それまでの平和な隣近所の連帯は一切それで終わってしまったわけである。
遅さん苑さんは6人の子持ちで、子供の一人のうちに引き取られたということらしい。子供たちのうち4人は近くに住んでいるとのことで、毎日誰かが来て世話をしてくれるとのことだった。遅さんは今日はシャツにズボンを穿いてきちんとした身なりである。奥さんの苑さんもねずみ色のしゃれたスーツを着て、丸い緑の玉の首飾りを着け正装している。子供たち、といっても誰もが50歳以上だけれど、皆きちんとした衣装を付けてお客を迎える気持ちであることが歴然だった。それに引き替え、私たちは今日も暑いのでシャツ一枚の普段着姿だった。そうなのだ。昭和の初めは、それなりのお客を自宅に迎えるときは家族揃って正装したものだった。
二ヶ月前におおざっぱに聴いた話を今回は少し念入りにたどった。奥さんの苑さんは早くに父親を亡くし、母親に育てられて家が貧しかった。小学校では日本語の教育も受けたが、特に3年生の時から日本人の先生が担任となり、男の鳥居先生の計らいにより公費で小学校を終えることが出来たという。「片親で頑張っていた私を沢山助けて下さった。」と深い感謝の気持ちで鳥居先生のことを語っていた。
鳥居先生のおかげで日本語の勉強に本気になったためだろうか、そのあと旅順高等公学校師範女子部という学校に入った。この学校では漢語の先生以外すべて日本人の先生で、いっぽうで学生はすべて中国人だったという。中国人の日本語教育のための学校だったわけだ。↗️
苑さんは勉強のほか、舞踊、体育、テニス、水泳が大好きの活発な明るい少女だった。このころの写真が何枚か残っている。元気そうな可愛い少女が写真の中で笑っている。学費は公費だったので卒業後は先生を3年やる約束になっていて、大連の小学校で3年間先生を勤めた。↙️
その後、1年間天津の横浜正金銀行(その後の東京銀行)で働き、 次に三菱天津公司に移ったが、数ヶ月で終戦を迎えたという。 ご主人の遅さんは大連市立実業学校商科を戦前卒業して、森永製品販売株式会社、次に大連鉱油株式会社、三つ目に天津徳盛永五銀行に勤めているときに終戦を迎えたという。福島徳之助氏を校長に抱く大連市立実業学校の生徒は殆どが日本人だった。陳さんの受験時は270人受験して10人が合格した。受験はすべて日本語だったという。2クラスあって、1クラス60人のうちの5人の生徒だけが中国人だった。先生はもちろんすべてが日本人で、漢語を教えた先生も塩田一雄といって日本人だったという。簿記を教わった古屋先生はビールは俺のお茶だといって24本も飲んだことがあるといって、私たちとビールを飲みながら懐かしそうに話していた。
森永の社史をインターネットで見たときに大連のことは何も書いてなかったので詳しく思い出して貰うと、別府龍という名の常務が取り仕切っていた森永製品販売株式会社には中国人は遅さんしかいなかったという。森永製菓の工場は大連市雲井町27番地にあってビスケットなどを作っていたが、遅さんのいた森永製品販売株式会社とは別組織だったらしい。
森永でも、次に移った大連鉱油株式会社でも、遅さん以外のすべては日本人の組織で何時も日本語を使っていた。宮崎吉利社長の率いる大連鉱油株式会社では、中国人としてはたった一人の遅さんは会計課にいてそろばんを使い(と言いながら五つ玉のそろばんを抽斗から出して見せてくれた)上司の長谷川課長のもとで働いていたけれど、中国語 も分かるのでとても大事にされたという。
天津に本店のある天津徳盛永五銀行に勤めたときに北京支店の副支店長となり、本店のある天津に縁が出来て、友人から紹介を受けて苑さんと終戦直後の1945年10月10日に結婚したということだった。遅さんと苑さんのお二人は今年で60年目の結婚記念日をもうすぐ迎えようとしている。
(この話続きます)
7時から校庭では新入生の軍事訓練開始。本科生1400。専科生800名。
王毅楠、王暁東は講義選択。王暁東はこの地区の共産党委員会に出頭。
貴志氏は土曜日に胡丹に原稿の打ち込みをさせたようで午前中その印刷にかかり切り。90枚づつだという。A4へ70%縮小コピー表裏。
午後貴志さんから電話で、羅さんと話すから誰でも好い直ぐ来て手伝ってくれと言うことで胡丹が飛んでいく。学生をそんなに勝手に使わないでくれ。貴志さんのために待機しているのではないのだ。
旅行会社が航空券を届けに来た。二人分、広州往復で4840元。
陽暁艶から相談事の電話。2時に会う。研究者としての資質についての話。彼女は率直で思慮深く見える女性である。大学院の受験を控えていろいろと悩んでいるようだ。
3時鄭大勇と話。apoptosisの実験は順調に進んでいる。SiRNAのstableは、SiRNAの入った方のmRNAが高い!こんなことありか!新発見か!
5時半に集まって、6時から孔府餃子で薬科大学の日本人教師の親睦会。加藤夫人を加えて13人。山形が幹事。おいしい料理をたらふく食べて何と一人30元。-9時まで。
快晴。午前中貴志氏がコピー機を使用。90枚ずつ。何と3週間で40時間の講義だという。impossibleだ。
遼寧省に(山由を一字におさめた漢字)岩という玉の産地がある。行ってみたいね。という話。教師会の遠足にどう?
apoptosisのprimerを二つ設計した。
6:30~8:00 p.m. 王暁東に話し。ところが英語が通じない。基礎的な学力がない。分かってもらえない。
帰りに貴志氏の時間表を作ったので届ける、不在。
帰りにワンタンと水を買って、これが晩ご飯。ともかく疲れた。
Kanさん:病院の検査で自律神経失調症とか。
8月29二までに提出を命じたProgress Reportがまだ誰からもでていない。注意。来週の土曜日まで期限を延ばす。
8時半。馬文jie(中薬)がくる。陳Jingの紹介。卒業研究に来たい。そのあとは就職か、日本行きを考えていて院試を受けないから今からラボに来られるという。返事は留保。同じく68期中薬日語の陳陽から電話、明日会いに来る。加藤先生に励まされたらしい。
primer(Calmも)、注文。
高知工科大学学長岡村甫、国際センター長伴美喜子、工学科井上先生たちが訪問。目的は互いに不明、友好親善のためでしょう。工科大学に留学しているこの大学の人たちの日本語の進歩の話。
昼、北駅Green Hotel格林大飯店にある郵便局に行く。小川さんと大貫さんからの贈り物が届いていた、GilsonのPipetemanとTipsが届いた。ありがとう。タクシーで往復。快晴、タクシーの窓を開けておいても汗ばむ。
王敏偉老師から教師節のお祝いで大きな花束が届く赤のカーネーションが60本は飾られている。豪華絢爛。赤いカーネーションは花の一つ一つが紫色の紙で囲んである。中国ではこの色の取り合わせが好まれているみたい。
電話代を払ってうちのADSLが通じるようになったが、odnのまいぺーじにアクセスできない。それで、HPの更新も出来ない。
朝9時陳陽(68期)がくる。卒業実験と大学院の話。話しているうちにここに来たいと言うことになった。卒業実験は留保。
朝、坂本、貴志氏が来てコピー。昼好利来で月餅を買って加藤文子さんにおみやげとして届ける。途中加藤氏に行き会う。好利来でパン(9元)、途中女子寮の近くで大学のパン(2元)。
1時半、王毅楠のprogress。3時王PUと話。SiRNA。土曜日の論文はまた変えて、Clostridiumのalpha toxinにすることに決めた。Gas gangreneを調べる。
5時15分に加藤氏夫妻と会って原味齋という北京ダックの店に行く。割り勘、77.5元。由緒のある店。文子さんは明日帰国。今日でお別れ。
昨日からodnのmypageにアクセスできない。それで、遅・苑さんの話の続きが載せられない。それにしてもすべて遅い。メイルはなかなか入ってこない。internetも絶望的。
午前中、明日のセミナーの用意をした。
午後姚老師。旅行は20日〜24日決まり。
話 の最中に生まれて初めて視野狭窄が起こった。周りが見えなくなって真ん中だけ。真っ暗というわけではないがはっきりしない。真ん中の映像の回りには(2時 に方向)黒いギザギザがちかちかと動いている。右目、左目関係なし。つまり脳の問題。目をつぶると、映像は消えるが、開けると続く。
栗原博氏来訪(姚新生老師の研究所の副所長)。父中国、母日本。薬大卒。北大で博士(小林先生)。科研科学、サントリー研究所を経て昨年に中国へ。50歳。姚老師と一緒に来訪。
姚新生老師来訪。栗原博氏も一緒。22日までここにいてシンセンにはいないが大歓迎するとのこと。
その前に加藤先生が、遅・苑さんの写真を明日持って行くつもりだとのことで見せに寄った。
遅さん・苑さんと話しているうちにお二人の子供たちが昔のアルバムを出して見せてくれた。苑さんは師範部の3年生の時に日本への修学旅行に参加している。昭和12年頃になるだろうか。旅費は全部公費だったという。
20日以上を掛けて阿蘇山、神戸、大阪、京都、名古屋、伊勢、東京などに行ったという話で、実際噴煙を上げる阿蘇山の火口、「伊勢の二見浦」の夫婦岩の写真がアルバムに貼ってあった。東京では宝塚歌劇に行って、遠くから双眼鏡を使って観たという。彼女は、「阿蘇山」や、「二見浦の夫婦岩」などのことばを正確な日本語で発音した。苑さんは日本語で話していても、話が佳境に入ると中国語になってしまう。このときは加藤先生の出番である。
れにしてもこの見事さは驚きである。学校時代に6年日本語使い続けたにしても、日本語を使わなくなって60年が経っているのだ。皇居前で二重橋を背景に全員がしゃちこばって写った写真も見ることが出来た。当時の二重橋付近は全くの聖域で、声を出すこともはばかられた場所だったと思う。当時市電と呼ばれた路面電車に乗っていて皇居の近くを通ると、運転手だろうか、「皇居遙拝!」という声が掛かって「直れ!」と声が掛かるまで皆そちらに向けて最敬礼で頭を下げ続けなくてはならない時代だった。
あの時代を知っているから、いまの北朝鮮の圧政を人々があきれたように語るのを聞いて、「60年前までの日本が全く同じだったのですよ。お上が威張っていて、ちょっと批判めいたことを言うと特高に引っ張られて責め殺された時代だったのです。平和憲法を捨てて、このような日本に戻りたいのですか。」と言いたくなる。
お二人の昔の写真をアルバムで見せて貰ったけれど、残念なことに二人の結婚の写真、およびそれ以降の写真が全くない。訊くと文化大革命の時に、戦前日本人の会社に勤めたとか、外国語である日本語が遣えるじゃないかという理由で総括を受けた間に散逸したという。小説ワイルドスワンを思い出す。近所どころか、自分の身の安全のためには親子の間でも、「恐れながら」といって権力に訴えでて生き延びることをはかった時代を経験してきた人たちなのだ。
夕食に餃子を用意するから一緒に食べていくように勧められた。見ると、長女、次女の二人が餃子の皮を練って、なかにいれる具を用意しようとしている。それを知って、貞子と文子さん二人がお手伝いしましょうと言いながら台所に行った。
あとで聞くと、4人で一緒に餃子を手際よく作りながら中国語で様々なおしゃべりをしたということだった。何時もだと、中国語の出来る加藤先生が一緒で、どうしても話は彼に頼ってしまうことになる。ところが、台所では「中国語以外いっさい通じないし、頼るのは自分たちしかいない。」というわけで、二人とも、持てる力を総動員して話し続けたようだ。
おかげで、文子さんと貞子は今日一日で中国語を沢山しゃべった感じだし、中国語で彼らと交流している実感がもてて、大変幸せな一日だったに違いない。それで餃子を作りの手伝いを終えて戻ってきた文子さんと貞子は二人ともほほを上気させていた。四人の中では私は一番駄目で、話が中国語になると加藤先生から時々中国語で説明を受けるだけで、断片的な知識しか入ってこない。中国語を聞いてもまだほとんど分からないし、話すことも出来ない状態が続いている。まあ、いい。いつか出来るようにしてやる。
やがて5時になって夕食となった。私たちがそれまで話していた遅さん・苑さん夫婦二人の寝室に折りたたみの出来る丸いテーブルが運び込まれた。丸いテーブルを遅さん・苑さん・私たち4人、長男の遅さんが囲んだ。今このうちには長女、次女のほか、6番目の末娘も来ているし、あと二人の孫たちもいるはずだけれど、ここには来ない。一つには食事を用意する裏方に回ったのと、もう一つは戦前の日本並の男尊女卑の影響かも知れない。
たちまち机の上は、拉皮、焼き豚、牛肉蒸し焼き、ソーセージ、ハム、椎茸と青梗菜、エンドウ豆炒め、鳥肉の天ぷら、卵焼きなど、十種類の皿が並んだ。「どうぞ、どうぞ、食べて、食べて。」と遅さんに勧められる。見た目も綺麗だし、おいしい。
私たちのおかずの取り方が遅いと、というか食べ方が遅いと、中国では滅多に見ることのない菜箸を一組用意して、遅さんがどんどん取り分けてくれる。「これは自分の箸ではなく、公共の箸だから、汚くないですよ。遠慮しないでどんどん食べて下さいね。」と87歳の遅さんは私たちへの気配りと全体への目配りを忘れない。こんなにすてきな料理をどうやって作ったのかと訊いたら、長女の息子が2級の資格を持つ料理人で、今日は台所で腕をふるっているのだという。先ほどであった背の高い美青年のことだった。やがて蒸し餃子が次女の手によって山盛りになって運ばれてきた。昨日は、豚饅頭を作りますからねとのことだったが、餃子のことを陳さんは豚饅頭と呼んだので、夕食に餃子のほか更に肉まんじゅうもでるのではないことが分かってほっとした。
こんなに食べきれない!「餃子は東北地方の名物だけれど、店で食べるとそんなにおいしくないよ。うちの餃子はどこの店よりもおいしいのだから。」と予め聞かされていたけれど、実際おいしい。瀋陽では餃子で名高い老辺餃子館というのがあるが、文子さんは中国語で「この餃子は、老辺餃子館の餃子に比べて大変おいしい。」と遅さんはじめ家族の一人一人に言っている。
遅さんが言うには日本人はあまりニラが好きではないので、今日はニラを入れなかったと言うことで、私たちに気を遣っていることが分かった。この遅さんの客への心配りはたいしたもので、加藤先生がビールをこぼせば直ちに布巾の手配をするし、私がズボンに餃子の汁を落とした時には直ちにタオルがあったはずだとベッドの上を探して渡して くれた。
長男が加藤先生にビールの一気飲みの中国式乾杯を強いた時、「日本式で行きましょうよ」と割って入ったりもした。87歳の遅さんだ。私があと20年生きていたとして、20年後にこんな気遣いが周りに出来るだろうか?今だって無理なのに。
遅さんは皆に気を配りながらも、自分でもよく食べ、よくビールを飲み、「心臓と高血圧なので本当は好くないのに。」と、奥さんの苑さんが心配そうだった。そうこうするうちにおなかは一杯になり、時間は6時半を回り、それでは今日は失礼しましょうとなって、別れを告げた。娘さん二人に路を先導されて歩き出したが、家族中が外に出て、私たちが角を曲がるまで見送ってくれた。
私たちが瀋陽の街を歩いていて、昔の日本人住宅らしいと思って近づいたのが縁となって、戦前の日本人に縁のある遅さん・苑さんと行き会った。そして驚いたことに夫婦二人とも戦前の日本に関係のある人たちだった。あのとき、私たちが中国医科大学に沿って歩きながら右手を見なければ、住宅は目に入らなかったろう。その時その住宅街に足 を踏み入れたとしても、近所の人たちが写真を撮っている私たちに話しかけてこなければ、遅さんたちに会うこともなかったろう。そしてそれが2ヶ月後遅かったら、二人の住む一画は跡形もなかったわけだから、出会いもなかったのだ。
人生は不思議な偶然の積み重ねの連続だ。ひととの出会いを思うと、それに運命を感じることがあっても不思議ではないとつくづく思う。
あさmypageにアクセス出来た。HPの更新をした。
今日は教師節。朝ラボに行くと、大きな花束。研究室全員より。ほかに茶碗二つ。秦さんからは里芋の芽。かわいい、のが贈られてきた。JCのあとで全員花と一緒の写真を撮った。
JC;胡丹:MMP9を細胞膜に発現させると活性が下がる。angiogenesisの活性が下がるという話。
全員多かれすくなから質問を出して2時間頑張った。
TCY:ClostridiumのPhospholipaseCの細胞への毒性作用をガングリオシドが邪魔するという話。教育効果。ただし質問はほとんどなし。1.5時間。昼まで。
今日は外部から参加者なく、中の9人のみ。Kan、WangPu, WangLI, HuDan, Dayong, WangYN, WangXDとSae ,TCY。
6時半、王麗と馬さんのうちへの招待。昨日結婚届を出した。贈り物は二つくっついた玉のペンダント。
朝 Kerrefourにgrocery。そのあとラボに行く。
夕方、国際交流処の李さんから明日から始まる学会に出るようにという知らせ。これは瀋陽薬科大、南京薬科大(今は中国薬科大)、名城大学のジョイントシンポジウム。
夜10時、胡丹が明日の通訳を頼まれたがよいかという電話。
Kapinski Hotelで学会。名城大学から学生も入れて50名くらい来ているとのこと。金田学長、石原、小嶋、高谷、岡田、永松、西田教授ら
昼はホテルで、午後のセッションは薬科大学の図書館で。
夜もホテルで歓迎会
後列左から、貴志豊和教授・山形達也・一人おいて・坂本先生・李夢春国際交流処長・山形貞子
Nikki(日揮)の渡辺さんに挨拶した。何時も来る小俣さんの上司らしい。
Glycoconjugate Journalに依然としてアクセスできない。名古屋大学の北島氏に聞いてOKされたので原稿を分割して送る。
王敏偉老師より18日昼の食事に招待された。
夕方、原味齋で多田夫妻に会う。ほかに岡沢、石井みどり(新人)。
教師の会の代表になってほしいとの熱意ある要請だった。おことわりした。
日曜日の夕方、うちにいると薬科大学国際交流処の李さんから電話があった。「明日から第4回瀋陽、名古屋、南京学術研究会が瀋陽で開かれるから、先生の研究室の学生さんに出て貰うように、もう話しました」ということだった。こちらの知らないうちに学生の手伝いを駆り出してしまうなんてひどいとは思ったが、うちの研究室は日本語能力抜群の学生がいるのでこのような時に頼むのも当然だし、中国なら何でもありと思って、「いいですよ。」と承知をした。「学生さんには明日朝7時50分に大学の前からバスが出ると言いました。」とのことだ。もちろん、これも「いいですよ。」である。
李さんは名古屋にある名城大学薬学部に留学したことがあって、日本語を話すので国際交流処の中では頼りになる存在である。しかし、日本語が完全ではないので、彼は言いたいことはこちらに伝えるけれど、こちらが頼みを持って行くと、とんと話が通じないことが始終あるというのは私たち日本人の間の評判である。
今日の電話は割合はっきりとした内容で、「李さんは今日は言いたいことを、日本語できちんと伝えたみたい。」と貞子に李さんの電話を説明した。貞子も、「学生を学会の手伝いに使うなら、その前に私たちに断らなくっちゃね。」というけれど、ここではこのような事には慣れっこなので、別に怒りもしない。
30分くらいすると研究室の院生の毛毛くんから電話があった。彼の話によると、「明日の研究会に、私たち二人は出席するように。バスが朝7時50分に待っているからそれに乗るように。」という電話が李さんからあったという。
私は絶句してしまった。先ほど李さんから電話を直接貰ったが、内容が全く違う。李さんは毛毛くんには中国語で話しているので、そこでは間違いは生じない。毛毛くんの日本語はしっかりしているから、彼が言い間違えることはないだろう。ひょっとしてと思って、「学生が研究会を手伝うように言われたのではないか。」と聞いたら、それはないという。
すると李さんの意図が、彼の話した日本語と私の理解した日本語との間で大きくずれたことになる。彼が言い違えたか、私が大きく曲解したかである。私は日本語何十年もしゃべっているのだ。後者だとは思いたくない。
ともかく直ぐに大学の研究室に行ってみると、学会参加者用にはふつう配られる鞄が机の上に二つ置いてあって、研究会の抄録が入っていた。学生の王くんは李先生がさっき持ってきましたという。こうなると学生が手伝いに駆り出されたのではなく、私たちが駆り出されたのは明らかだった。
翌朝大学正門前には大型バスが2台止まっていて、先生たち、手伝いと思われる学生たちを、瀋陽の街を東西に流れている優雅な運河のほとりに建つホテルに運んだ。バスに乗る時に一緒になったのは、日本人の貴志先生と、坂下先生だった。薬学用語や分子生物学の特別講義をするために、8月終わりから瀋陽に二ヶ月の予定で滞在している。聞くと同じく、昨日突然の電話でこの研究会に参加するように呼び出されたという。
私たちの部屋の隣には私たちよりも古くから研究室を構えている池島先生がいる。数日前に池島先生に出会った時に、「近く開かれる研究会で講演をします。」と聞いて初めてこの研究会のことを知った。
池島先生によると「第4回瀋陽、名古屋、南京学術研究会」は、7月頃研究会の開催の通知と演題募集があったという。私たちは気づかなかったし、特に知らされなかったから全く知らなかった。その時池島先生に聞いた話では、瀋陽薬科大学、名古屋の名城大学薬学部、南京薬科大学が毎年回り持ちで薬学研究会をやっているということだった。
やがて隣の研究室の池島先生がバスに乗ってきて後ろに座った。当面の関心事であるこの研究会のことを聞いてみる。池島先生は研究会に参加申し込みをしたので参加費の400元を払ったし、演題は学生のポスターと併せて6題出したので100x6で合計千元払ったのですよとのことだった。私たちはゼロである。前の日に知らされて、急に駆り出されて私たちは不満だけれど、無料というところが微妙である。
日本にいれば、「前日に知らせて駆り出すなんて失礼な。」ということになるだろうけれど、中国に暮らしているとそれは当たり前のことで、いちいち目くじら立てていたら、ここでは生きていけない。ここなら何でもありだ。池島先生は千元払って参加し、こちらは急に駆り出されたというのが角が立つならば、是非にと参加を要請されて、ここ にいるわけである。
この何でも突然というのが、ここに来て一番違和感を感じることの一つである。卒業研究発表会の日程や、修士論文、博士論文の審査会は予め知らされることはなく、突然数日前に、ひどい時には直前に開催の通知がある。大学の先生が誰かの接待と一緒に食事に誘ってくれる時もいきなり「行きましょう。」である。予めこちらの都合を聞くとか、事前に知らせて予定に入れさせようという気遣いはない。
ここではどちらが偉いかと言うことが、こういう時の決め手なのだと思う。物事を決める側が偉いという感覚なのだ。つまり会合なら、偉い人の都合で日時が決まる。こちらはひたすらそれに従う以外ない。都合を聞かれるほどお前は偉くはないと言うことが言外にある。
食事に誘われる時もそうだ。急に誘われて、行くか行かないかの選択しかない。行けば誘った人に忠誠を示したことになる。友好関係が続く。断ることが重なれば恐らく見捨てられる。
今回の学術研究会もいきなり知らされた。日本にいてこのような扱いを受ければ、「いきなり会合に出ろとは何を失礼な。」というのが大方の反応だろう。都合も聞かずに、向こうの自由になる小もの扱いをされたと怒って、普通なら行かないのではないかと思う。
でもここで「直前に誘うとは失礼な。」なんて言ったら、ここの中国人はびっくりするに違いない。「先生の興味のありそうな学術研究会に誘っているのですよ。突然だというけれど、都合が悪いなら来なくても構いません。ともかく会合のあることを先生に知らせて、誘っているのですよ。何で怒るのですか?知らせなかったら怒っても良いけれど、ちゃんと誘っているのです。来ますか、来ませんか?」
ここは面子を重んじる国だ。時には面子だけが人の行動を決めるという。日本でずっと生きてきた私には、面子へのこだわりがよく分からない。今回のやり方は私の面子を無視しているのではないかと思われるが、これは今後の研究課題である。
odnのmailが全く繋がらない。odnのmypageにも繋がらない。息子の愛知に頼んで原稿を送って、そこからアクセスしてアップロードして貰った。
3時胡丹と話し。
2005年度第一回の教師会の定例会が開かれた。
新人2名、短期新人1名を加えた合計34名が今年度の会員数。
年度末で石井代表が転任された(ただし、特別会員)ので、代わりにいままでの副代表である多田先生が代表に選出された。多田代表の指名で、副代表に鳴海、南本卓郎両先生。
HP係からの提案で今年度から各係の中から1名がHP担当と言うことになり、合計10名近い大所帯でHPが運営されることになった。
HP専任:山形 達也
HP及び研修係兼任:岡沢 成俊
終了後数分間の顔合わせ。今後の方針は次回ということに。
なお、会員の懇親会は次回(10月15日)の定例会のあと。
JC:王麗、Kan
午後教師の会、今期最初の会。代表には多田氏を選出。
よる、Sara Watersの茨の城を朝4時半まで掛かって読む。
金利賓館で王老師の招待。彼の学生が博士を取ったお祝い。100元のワインを手みやげに持って行った。
午後ラボ、TakaraにSiRNAを発注した。
夜、夏樹静子の「我が郷愁のマリアンヌ」を読んだ。
契約1年延長の申し入れをした。2006年秋に修士学生を受け入れるから。問題なし、程卯生処長と、程剛研究科長に話して、契約書を作るという。国内学会に出ないかという話。ありがとう。
学会であった森本氏(モリモト天津)が陳氏と胡丹のinterviewに来る。自社に採用したいのだ。一緒に付き合う。胡丹は結局就職ではなく博士課程を選ぶという。
上海の沈慧蓮のご両親から月餅が送られてきた
先日の薬科大学の日本人教師の集まりで会計で余ったお金18元で飴を買って皆に配る。
呉学長に会う。一人。brandyを持参した。ま、お礼ですね。
昨夜5日間の旅行から瀋陽に帰って来た。姚崇舜老師に誘われて中国の南にある広州・東ガン・深セン・珠海を訪ねたのだった。
この姚老師とは、2年前の夏に私たちが薬科大学に来たときにたまたま大学で行き会い、一緒だった国際交流処の李先生に紹介された。彼女も、3年前に亡くなったご主人も、薬科大学の教授で何年も前に定年退職したけれど、彼女は今は南の広州にある大学に研究室を持っていて、夏には南の猛暑を避けて北の瀋陽に戻ってきているという説明だった。
私たちの住んでいるところは薬科大学の構内に接した16階建ての教授楼と呼ばれる文字通り薬科大学の教授のための建物で、姚老師の部屋は階段を隔てて私たちの隣である。隣りといっても、彼女は広州住まいなのでふだんは会うことはない。私達が夏休みに入っても直ぐには日本に帰らずに大学で仕事をしているので、そのころになると避暑で瀋陽に戻ってくる項老師と路で出会ったりする。
挨拶はしても言葉が互いに通じないので、長い間お隣というだけの関係だった。それでも、彼女からは広州に是非遊びにいらっしゃいと誘われていた。その誘いが何度も繰り返され、もうこれ以上は断れないという状況になったのがこの夏のことである。これで断ったらもうお付き合いできない、というくらい熱心に誘われたのだった。
というわけで、せめて10日くらいは必要という旅行計画を9月20日から24日までの5日間に絞って、一緒に旅行しましょうということになった。姚老師は私達のために広州行きを伸ばして夏から瀋陽に滞在したままだった。
そして、言葉が不自由だから通訳が必要という理由で、薬科大学の日語班の5年に在学中の孫娘である小陳も今回の旅行の一員となった。小陳の両親は、広州から数十キロメートル南の東ガンに住んでいるので小陳が両親に会えるというのも理由の一つのようだ。
というわけで、20日朝私たち四人は一緒にアパートを出て瀋陽空港に向かった。瀋陽は秋の気配だけれど広州は夏なので、着いたら直ぐに脱げるようにTシャツにデニムの長袖を羽織った姿である。
この後、広州への旅行記を書くことがなかったのは理由がある。一緒に旅行してぼくたちが出費したのは旅費だけだった。宿泊、食事は全て彼女の教え子たちが行く先々で持ったのだ。姚老師はそれを当然のこととして振る舞う。ぼくたちはもちろん彼女の教え子たちに感謝したけれど、心の中で大いに抵抗があった。昔教えた教え子はそれぞれ一端の人になっているから、彼らにたかるのが当然という老師の考えが、ぼくたちには受け入れ難い。
それでこの旅行は、楽しむことができなかった、もちろん老師の心遣いには感謝しているけれど。
現会員名簿をHP用にも編集をした。2003年度の会員名簿を残したので、2004年度も同じようにして残す。今後は毎年の会員名簿を保存しよう。
現会員名簿は会員紹介を付けて、membersという名に変えた。
会員紹介で二人の会員の更新が届いたので編集した。以上の作業をしたけれどgeocitiesにアクセスできず、uploadが出来ない。大学のLANが細くて外部に繋がらないことが、この頃は頻繁に起こる。研究遂行にも大変困難な問題となっている。
10月1日から始まる国慶節の大型連休の初日、加藤先生からマンホールの蓋を見に行こうと誘われた。ちょうど今、日本から薬学の集中講義に来ておられる貴志先生は、中学2年生のとき瀋陽の北東数十キロメートルにある撫順市で終戦を迎えたという。貴志先生は、従って戦前の奉天と呼ばれたころの瀋陽もよく知っていて懐かしい土地である。 ↗️
大和ホテルと呼ばれた建物が今も重厚な雰囲気を漂わせて残っていて、今は「遼寧賓館」として使われていることを知っていても、一世を風靡した満鉄の名を付けたマンホールの蓋が今でも残っていることはご存じなく、歴史の研究家である加藤先生に誘われて、街の探訪に出かけるというのでそのお供をした。↙️
加藤先生は瀋陽薬科大学の日本語の教師であるが前身は高校の歴史の先生で、現代史、特に中国現代史の研究家である。すでに西安で2年、長春(戦前の新京)で2年過ごしていて著作も数多い。瀋陽でも授業時間以外は大抵街を歩いて史跡の実地見聞と史実の考証をしておられる。
道路の下に埋設した下水、水道、ガス、電気、電話などの管に地上からアクセスするための穴が一般にマンホールと呼ばれている。
開いたままでは危険だから鉄製の蓋があり。この表面に市の紋章など、この施設の責任者、管理者のマークが入っている。 戦前の当時の奉天で一大勢力だった満州鉄道株式会社(満鉄)の紋章の刻まれたマンホールの蓋は、満鉄病院として最初に建てられ、満州医科大学を経て現在の中国医科大学の構内にいくつかが残っていることを加藤先生は見つけていて、数ヶ月前に街を案内された時に教えてもらった。↗️
今回の旅が始まる太源街は当時は春日通りと呼ばれていた。北端には満鉄総局の巨大なビルが右手にあり、奉天鉄道局がそれに続く。今は瀋陽鉄道当局が使っている宏大な建物である。今の太源北路、以前の春日通りを南に向けて歩いて行くうちに当時の銀座街のあたりで、右に曲がり左に曲がり、どこを歩いているのか分からなくなった時、その道の真ん中で加藤先生が足を地面にこすりつけて「ほら」とにっこりした。↙️
見るとマンホールの蓋に満鉄のMとレールの形のIを組み合わせた満鉄のマークの入った蓋があった。この蓋にも3種類のあることを加藤先生は見つけているという。このほかにも、奉天市のマークの入った蓋もあり、これも字体の違いで2種類あるようだ。そのあとは私たちも下を見ながら歩く。大抵は簡体字で左から書かれている現代の蓋である。
やがて住宅を取り壊している最中の一画に出て加藤先生の足取りが速くなった。つまり私たちに早く見せたい一心なのだ。「凄いのがあるんですよ、本には書いていないのに、私が見つけたのです。」と言って示されたのは、半分アスファルトに埋まっているが、中心にあるのは紛れもない日本の郵便マーク〒の入ったかなり大型の蓋である。 郵便マーク〒の両側には字があるようだがすり減っていて読めない。右側の字は、「電」に見えないこともない。詳細は分からないながら、埋もれてしまった史実が歴史の研究家に語りかけているのだ。このあたりは街中が汚くあたりはゴミだらけで、この蓋は果物の皮の残骸に囲まれながらも加藤先生に向けて燦然たる光を放っているようだ。
そのあと太源北路に戻って南に向いて当時の中央郵便局の横を通っている時だった。先ほどから、私たちは道の表面をマンホールの蓋を求めて眺めて歩いていたが、道ばたの物売りが広げた布の横から覗く鉄の蓋を見ると、何と先ほどの郵便マーク「〒」が入っていて、しかもそれを挟んで右から「電話」と書いてあるではないか。新品みたいな綺麗な蓋である。
私と貞子は直ぐに先を歩いている加藤先生と貴志先生を呼び返した。加藤先生は大喜びである。物売りさんに少し動いて貰って早速写真を撮り、私たちはその姿を写真に納め、忽ち私たちは立ち止まった通行人の興味にとり囲まれてしまった。
「郵便マーク〒は郵政で手紙ですね。電話も扱っていたのでしょうか?」と加藤先生。戦前から〒が郵便だけを表したかどうかは知らないが、戦前子供の頃、母方の祖父の家に行く時に通る柿の木坂郵便局は、玄関を入ると右手の奥に小さなボックスがあり、窓口で通話を申し込むと、中でつないでくれてそのボックスの中で電話で通話できる仕組みになっていた。 戦前電話はどこのうちにもあるというものではなかった。もちろん目黒区平町の我が家にもなかった。
電話のある誰かに用があって、母が柿の木坂郵便局まで出かけて電話をしたのを、お供だった幼い私が覚えているわけだ。母は実家の電話を使いたくない事情があったのだろう。祖父のうちでは広くて長い廊下の隅の壁に付いていたのを覚えている。つまり、戦前は、郵便局と電話局とは、少なくとも末端では一体のものだった。だから当時の奉天市でも郵便局が電話も扱っていて、「話〒電」と書いてあったのだろう。
目の前は以前の中央郵便局だったところで、ここで太源北路は中山路(当時の浪速通り)と交差している。
私たちの目で見つけものが加藤先生の役に立って、私たちとしては「師への恩返し」が少しでも出来たと思って嬉しかった。嬉しさのあまり、「消火栓」という蓋では師である加藤先生とは別の説を立てるに至った。
地下の埋設管には多くの種類があり、マンホールの蓋がその中身を表している。蓋を見て歩いているうちに、円盤である蓋の円周上に「消火栓」という字が来るように書かれた蓋を見つけた。
円周上で考えると「消」から始まって字は左回りに読むことができる。同じ内容を表す蓋として、左書きの「消火栓」「消防」「LD」も見つかったがこれ らは左書き(左から字が始まる)なので戦後のもの(つまり中国のもの)であることは明らかである。円周上の「消火栓」は蓋の中心に「水」と読める形があるのでこれを基準として見ると三字は三角形に配置されていることになる。上に「消」を持ってくると、下の基線に左から「火」「栓」となるから、これは左書きで戦後のものだというのが加藤先生の説である。
しかし、戦前は右書きだからこのように円周上に書く時は左回りではないか。左回りで書くと三角の形では上に「消」が来て、下に「火」「栓」となるわけだ。私は左回りを採るが故にこの蓋は戦前のものだといい、加藤先生は戦後のものだという。読み方一つに掛かっている。
さて、史実はどうなのだろう?
今年の春からずっと私たちの研究室のセミナーに出ている学生の陽暁艶さんが訪ねてきた。薬学部英語班で、この秋最終学年に進学している。背が高く、明瞭な英語を落ち着いて話す思慮深げな女子学生である。後期に入ると私たちの研究室に来て卒業実験をする可能性が高い。
明日がお祖父さんの誕生日で、親戚家族が集まってお祝いがあるという。故郷は中国の最西端の新疆である。今は一週間続く国慶節の休暇だが、あまりにも遠くて学生の彼女はとてもお祝いの席に帰れない。それで、暁艶さんは自分の写真をメイルに添付して送りたいのでPCを使わせて欲しいと言ってやってきたのだった。
お祖父さんの歳を聞いてみると70歳になるということだ。私とたいした違いはないから、彼女は私の孫娘同然という年頃である。お祖父さんのことを大変懐かしそうに話すので、聞いてみるとお祖父さんとお祖母さんに育てられたらしい。同じように新疆から来ていて今年度博士課程に進学した王麗さんも、子供の頃両親は働いていたので祖父と祖母に育てられましたと言っている。
私たちは、正規に招聘を受けて薬科大学に赴任するまで、ボランティアとして毎年一回講義に来ていた。私たちを講義室に案内してくれた学生の班長さん(級長にあたる)は、「先生たちの歳になると、ここでは誰もが仕事を辞めて孫と遊んでいます。この歳になっても講義をするなんて日本の先生たちは本当に変わっていますね。」という。私たちは「孫も可愛いけれど、孫と遊んでいるよりも学生相手に過ごしたい。仕事が好きなんだし、」と心でつぶやいて、班長さんの言うことをそれ以上理解しなかった。
私たちは二人とも東京の出身で、大学を出て結婚と同時に就職したのが生まれ育った場所を遠く離れた名古屋大学だった。子供が出来たときには大いに困った。親兄弟親戚が全くいない土地で子供をどうやって育てるかという難問に直面した。どこにも頼るところがないので、同じ悩みを持つ仲間と一緒に乳児を育てる私設の共同保育所を作ったのだった。名古屋福祉大学の一室で、1963年のことである。
子供が大きくなってくると、大学の一室では乳児と幼児すべての面倒を一緒には見られない。次の年齢に応じた施設が必要となる。それで、あちこちの場所を借りて学童保育所を作った。母親は不要品回収業となって各家庭を回って資金となる廃品を集め、父親はガレージを貸してくれた篤志家のガレージを清掃して床を張り、何とか保育所として使えるよう働いた。一方で、妻の貞子は仲間と名古屋市に日参して、働く両親のための保育所を作る必要性を説いた。うちの子供たちは名古屋市がこうやって作ってくれた最初の公立保育園卒である。
そんな経験をしている私たちは、女も男と同じ権利と義務を持って働いているという解放後の中国の様子を聞いて、働く母親のためには公的な、あるいは職場の保育園があるはずだともう頭から信じていたのだった。先進的な中国では働く女性のために保育園も整備されているに違いない、と。
しかし、これは全くの思いこみだった。中国に公的な保育所はほとんどないようだ。働く女性に代わって子供の面倒を見るのは、その親の世代なのだった。中国では子供を共同で育てる公的な保育所がなく、子供を育てるためにはジジババの世代が、公式の制度にはなっていないにしても、社会の制度に組み込まれていたのだった。
年寄りを敬い、目上に敬意を払う伝統を持っていた中国も今はすっかり変わってしまったと言われる。しかし儒教の影響がまだすこしは残っているらしく老師を大事にするし、さらに実地に祖父と祖母に育てられた記憶があるので、今ここの学生のジジババに当たる年頃の私たちは、彼らにとても大事にされるという「良いとこ取り」をしている感じがある。
定年になったので孫の面倒を見ようというは、ある意味では自然である。中国の定年は一般に男子55歳、女子50歳であると聞いている(この大学はそれぞれ5歳上である)。
この中国の定年になる年齢を見て何とも思わず見過ごす方は、無意識の男女差別者である。この男女差は明らかに差別であって、中国は建国に際して女性解放を唱いながらも、実は根強い男性優位、女性蔑視社会であるらしい。憲法は男女平等をうたいながらも、実際は明らかな憲法違反をしていることになる。そして誰も文句を言わない。
ここの大学の教授では日本よりも女性の教授が多い。そういうこともあって男女の差別を目の当たりにすることはないが、人前で女性が派手に泣いて涙を見せるのは、女性の地位が低いことを語っているように思える。泣くというのは甘えである。対等なら女だけ泣くことはあり得ない。事実、日本の職場で女性は決して泣かない。日本では男女平等で差別がない、とはとても言えないが、それでも女性は公的な場では泣かない。
男女の地位で差別があるかないかを世界的に見ると、差別の少ないほど上位に来るように並べて日本は38位で、中国は33位で日本よりも上であった(「ダボス会議」を主催する世界経済フォーラム、2005年5月16日)。しかし根強い男性優位とそれと裏腹の女性蔑視は、男児出生率を見ると、中国は断然日本を引き離している。
自然の男女出生率は世界どこでも、そして何時でも女子1に対して男子1.05である。国営通信新華社の発行する時事問題誌・半月談によると、1990年に女児1に対し、男児は1.11だったが、2004年には女児1に対し、男児1.17に上り、海南省や重慶市などの一部農村地域では1.30に達したという。
これは大変なことである。結婚適齢期が来た時、男性の30%は相手が見つからないのだ。仮に毎年男子が千万人産まれるとして、適齢期の十年を考えると、3千万人の男性が結婚したくても出来ないことになる。「米寄こせ」みたいに「女寄こせ」と言って暴動を起こしても解決できる問題ではないと思うけれど、いずれ暴動が起こっても不思議はない数である。
現在幾ら差別があろうと、これからの女性は貴重なものとして扱われるだろう。だから、恐らく親からは望まれない性として生まれたかも知れないが、彼女らは明るく伸び伸びとしているに違いない。私の孫娘たちに幸多かれと私は願っている。
大学や研究所では外部から大学や研究機関の人たちを始終招いて、講演会・セミナーをするのが普通である。日進月歩の科学の進展についていくための簡単な方法であり、研究教育機関がどれだけ研究と教育に熱心であるかを測る一つの尺度である。私が以前いた大学では、私の研究室ですら、平均すると毎月2回外部から人を招いてセミナーをやっていた。外国から訪ねて来る研究者のこともあるし、国内の研究機関から招くこともあり、それが友人のこともあり、業績で名前を知っているだけで招聘することもあった。
優れた研究業績を挙げた人たちを招いて直に詳しく話を聞くと、勉強しながら親交を深めることが出来る。研究室の学生は「セミナーが忙しくて実験する暇がないよ」とぼやいたりしていたけれど、毎月2回のペースでずっと続けていた。私の分野はGlycobilogyという新興の分野だったので学内で宣伝に努めたと言うこともある。
若い学生の人たちにとっては、目の前で親しく話を聴き、優れた先達と会話を交わすことの意味は、その時々のトピックスが良く理解できるだけでなく、将来計り知れない恩恵があるかも知れない。セミナーの時はただ聴いていただけにしても、将来その先生に会ったときに「先生が招かれたセミナーをあのとき私は聴きましたよ」と言えれば、受けがぐっとよくなるに違いない。私の研究室が開催する招待セミナーですらこのように頻繁だったから、大学の生命理工学部では毎日一つや二つの講演会があっ た。
ところが、瀋陽薬科大学に来てみると講演会は大変珍しいものであることに驚いた。大学の掲示板に貼ってあるのは、講演会以外には博士の発表会だが、この外部の訪問者たちによるセミナーは平均して月に数件くらいではないだろうか。つまり学術交流が以前いた日本の大学に比べて残念ながら活発ではない。
外部からの訪問者によるセミナーの大まかに言って3分の1は日本人の先生がたである。これは,この大学が日本の大学との提携に熱心なためであろう。この大学から日本に留学した先生たちは多い。たとえば王麗さんの指導教官は日本の大学に5年間留学したそうで、日本語を日本人と全く同じように操ることが出来る。おまけにこの薬科大学はエリートコースの日本語班を設置しているくらいだから、日本の大学との提携に熱心なのは当然と言ってよい。しかし肝心の日本側は提携にあまり乗り気ではないようだ。
大学間の提携で薬科大学がまず求めるのは教職員の交流、学生の交換教育である。研究のインフラストラクチャー、研究費、研究の質と厚さを思うと、中国の教職員が日本に行きたがるのは当然だろうと思うが、日本から交換でこちらに来る教官、学生の希望者は少ない。日本から教官は一人も来ていないし、今年の春までは1階下にある研究室に四国の大学から院生が一人1年間の予定で来ていたけれど、今年はいない。
ところで。先日日本の金沢大学から来られた先生のセミナーは面白かった。彼の研究では、空間記憶の定着という、脳の中のなにやら訳の分からない働きが、もう既に生化学的な解析の対象となっていることが驚きだった。私は脳研究では全くの門外漢だが、幸い日本語の講演を学生が通訳する仕組みになっていた。たまたまうちの研究室の胡丹くんが通訳をしたが、彼が中国語にしている時間は、今日本語で聴いた話を頭の中で反芻して理解するための時間に使えた。そんなわけで門外漢なりに、研究内容を理解することが出来て、その素晴らしさに感激してしまった。
実験動物を使って学習させるのは八方通路という器具を使う。中央から八方にプラスティックの囲いの道が延びた先に、中央からは見えないように餌が置いてある。どの通路の先に餌を置くかというのは実験期間中変えない。この場所を覚えたかどうかを知るための実験だからだ。通路のこの真ん中にラットを置いて、餌にたどり着くまでの時間を計る。毎日これを繰り返すと、数日でラットはまっしぐらに餌を目指すようになる。これで、ラットは学習して記憶したことが確かめられる。
この実験をするとき、この八方通路は実験室の中で行うが、実験室の様々なものの置き場が毎日変わってはいけないそうだ。つまり、ラットは通路の真ん中に置かれたときに、自分の進むべき通路を、部屋の壁に掛かった時計の位置、電灯の位置、ゴミ箱の位置などと関連づけて覚えるのだという。ほうきの置き方、その時の実験者の位置にまで注意を払わないと、それがラットの記憶を混乱させて良い結果が出ない。
餌のある場所を覚えるというのは空間的配置として記憶することであり、それが、脳の海馬の細胞のある特定の信号分子をOnOffさせて伝わり、記憶として定着すると、ある分子の生産が増えることが明らかになったという話だった。私の学生の頃は、あまりにも難しすぎて、脳の働きなど研究の対象とはならないと思っていたのだから、科学の進歩は急速である。
講演が終わって私も聞きたいことが一杯あったけれど、会場の学生たちからも次々と質問が出た。ここは情報の乏しい疎外地かと思っていたけれど、瞳を輝かせて若い人たち質問をするのを聴くと、良いなあ、若い人たちが世の中の進歩を担っているのだなあと、つくづく嬉しくなってしまう。金沢大学の山田先生も若いのだ。
彼らのために、そして私のために、金沢大学の山田先生、また講演にいらして下さい!!!
2005年度第2回の定例会と歓迎会だった。
私・山形は10月8日から風邪に掛かり、それが酷くていつまで経っても熱が引かず調子が悪い。それで、この日は欠席してしまった。
それにしても日本語クラブ第21号(2005年度第1号)の原稿は、明日16日の締め切りである。原稿の集まりが悪いと編集長・中道先生がどんなに嘆かれるかと思うと、重い頭を抱えて内容を考えなくてはならない。
やれやれ、風邪がどんどん悪化しそう。
中国では稲や麦を食べる害鳥としてスズメが駆除されてしまったという話を、耳にしたことがあるだろうか?大勢の人たちが田圃に集まって横に列を作って追うと雀は飛んで逃げるけれど長くは飛べない、休もうと思っても人が追いついてきて囃し立てるのでまた飛ばなくてはならない、やがて疲れで飛べなくなって捕まり、雀は最後の一羽まで焼き鳥になってしまったという話しだ。嘘みたいな話だが、沢山の人々が群れて雀を追う姿も想像できて、ありそうな気もしてくる。
話しの真偽はともかくとして、今の瀋陽薬科大学の植え込みには多くの小型の雀がいて囀っている。主楼の屋根裏には岩燕が巣くっている。このように鳥は中国でも人にとても身近な存在だが、鳥の起源は謎に包まれているという。古くはドイツで始祖鳥という爬虫類と鳥を結ぶと思われる動物の化石が見つかっているけれど、始祖鳥は既に羽毛を持ち、しかも翼における羽毛の配列が現代の鳥とまったく同じなのだそうだ。だから鳥になった最初の生物ではない。中国でも始祖鳥の化石が見つかっているがこれは肺の他に気嚢をもち、明らかに鳥としては更に進化しているという。
この中国で始祖鳥の見つかったのは遼寧省で、遼寧省といえばこの瀋陽はその省都である。ここ瀋陽から南に車で3時間くらい走ったところで始祖鳥は1992年に農夫によって発見されたと聞いた。
薬科大学に暮らしてみると日本からこの大学を訪れて講義をする先生が結構多い。薬科大学が日本各地の大学と提携している成果だろう。そのような先生は大学の賓客として扱われ、講義の合間にあちこち観光に案内して貰える。毎年来る先生は瀋陽やその郊外には行き尽くしているので、案内できる新しい場所が必要である。
たまたまこの9月に日本から環境科学の講義に来た西川先生は見かけはおじいさんだけれど、好奇心のかたまりそのもので、山でも何処でも出掛けて石や鉱物を沢山拾ってくる。この先生を今回案内するのに、この化石の出る場所がよいのではないかと外事処の処長の頭にひらめいたらしい。西川先生は私の長年の友人なので、彼を化石の出るところに案内するときに一緒に出掛けませんかと言って私たちも誘われた。
前日までの大雨で出掛けられるかどうか心配だったその土曜日は、朝から瀋陽は晴れ上がった。このような秋晴れの日を、ここでは「天高気爽」というそうだ。日本からは他にも薬学の貴志先生が一行に加わり、外事処の車で総勢7人が遼寧省の渤海湾に面している錦州の先の義県を目指した。
瀋陽薬科大学のあるところは瀋陽市の市街地の南のはずれで、瀋陽市を南で区切っている渾河に近い。瀋陽の西南も同じ位の距離で市街地から外れるかと思っていたら、とんでもない、高速道路を走って、いつまで経っても町並みが続く。場所によっては大学のあるあたりよりも遙かに町並みが美しい。瀋陽は大都会である。
やがて高速道路は沈京高速に入り、車は一路西南に向かった。このまま行くと北京に着くが、北京までは600km以上あるという。沈京高速道路は片側3車線で、無愛想に遮音壁で仕切られている日本の高速道みたいなことはなく、道路の横では二三十メートルにわたって何列にも植えられた柳楊の並木が続く。隙間からはもう色づいた田圃が見えた。畑は、トウモロコシか、高梁である。
「ほら、あの赤いのが高梁ですよ。穂先が赤いでしょ。昔の高梁は背が高くってね。高梁が伸びると高梁に馬賊が隠れられたんでね。このあたりの満州では馬賊が出たんですけどね。今は背の低い品種に変わったんですね」と、西川先生の解説が入る。
「昔、背の低い品種があれば良かったのにね。馬賊が隠れるところがなくなっちゃうから。今では、高梁酒なんかではよく使われているけれど、殆ど食べなくなってしまってね。」「いやいや、だからね、むかし日本がこっちの北の方まで米作が出来るようにしたんだよ。」
そうか、中国も確実に豊になってきたんだな、と大学の招待所の朝の食事の定番であるお粥を思い出す。昨年夏、瀋陽に定住することになるまでは、私たちも毎年訪れる訪問教授だったから、大学の持っている宿泊施設である招待所に泊めて貰って、朝はその食堂で食事をすることが多かった。
食堂に朝行くと、白い米のかゆ、黄色の小米のかゆ、黒米のかゆなどが大きな鍋に入っていて、ひしゃくでお椀によそって好みの漬け物と一緒に食べたけれど、高梁のかゆはまだ知らなかった。
「ほら、ほら、あれが黄米でね。こっちでは何と言っているのかな、作物の時は確か谷子(Guzi)って言うけれどね。食べるときは小さな黄色の米と書いてね、平たく言うと粟ですよ。あっ、ほら、あっちは赤い高梁でね。ね。ね。わかるでしょ?」西川先生は大変な物識りで、それを人に教えるのが特に大好きである。長年大学で教師をやってきたので、愚昧の輩の相手に慣れているから、時にくどいこともある。
貴志先生は相手をするのに疲れた風で、風景に見とれている様を装って生返事をしている。それでも、西川先生の相手は貴志先生に任せて、出掛ける前にinternetで大急ぎで調べた中国の化石のプリントアウトを眺めてみる。それによると、中国の特に遼寧省は化石の宝庫で、いままでに恐竜の化石はもちろんのこと、コアラの先祖に当たる有袋類の化石、鳥の進化をたどることの出来る多くの化石が見つかっているという。
米国のダイナソア国立公園には恐竜の発掘現場をそのまま覆って博物館にして、中に入るとまさに恐竜の骨格を掘り出している現場を目の当たりにすることが出来る。毎日埋め戻しているのだろうけどね。中国でも、是非このような博物館を作って欲しい。
9人を乗せた車は化石を求めて、高速道路を一路南西に向けて驀進する。
沈京高速道路の両側には広大な畑が拡がっていたが、やがて田圃に変わり、稲が黄色くなっている。さらに走って盤州を過ぎるとそれが見渡す限りの湿地帯になって、浮き島に蘆が生えている感じでそれがどこまでも続いている。道路の上の標識には酒という字の右側の酉が、赤い車の絵文字になっていて、それに×が引いてある。元来漢字は絵文字であることを思い出せる巧みな造形だ。「酒を飲んだら運転するな」という、とても分かり易い注意である。
やがて車は錦州出口を降りて阜錦道路に入った。やがて義県の街で高速道路を出て、奉国寺という寺に着いた。瀋陽から約250 kmで、3時間位だった。ここは仏教のお寺で七つの大仏がある。綺麗に手入れされた可愛い寺である。建物の配置は塔がないだけで典型的な仏教寺院造りで、奥の大仏殿には、七体の仏像がならんでいた。それぞれ9.5メートルの高さと言うから、結構な大きさである。日本の仏像は古くて大抵塗りがはげているが、ここの大仏は極彩色だ。何しろ日本の古びて古色蒼然の仏像しか知らないから、ここの大仏はなまめかしい。
この寺は1020年 遼の時代に建てられたという。遼とは今の中国東北地方に版図を広げた契丹王朝の建てた国家であって中国の中央政権から見ると北の蛮族(北夷)である。寺の 一部に遼、それに引き続く金の時代の版図、遺物が展示されているから、今では蛮族としては扱われていないように見える。しかし、11世紀半ばには150万人いた契丹族はその後数を減らし、後世ではその人口は零になっていた。歴史の中に埋没するとは、こういうことを言うのかと思う。
境内の左手には土産物屋が並んでいた。寺の造りと本質的に同じ造りの建物なので調和を壊さず、眼に煩くない。「あった、あった」と西川先生、貴志先生の二人は「化石」と看板を掲げ た店に入っていって興奮状態である。始祖鳥の見つかった場所から昆虫、魚、植物の化石も沢山出ているので、化石はこの一帯の名物であり土産は化石なのだ。
西川先生は、化石の出るところに週末に案内されることを薬科大学の学長に話したとき、「3-5元の安いものにしなさい。高いものは偽物のことが多いです」という忠告を受けたと言うことだ。店に額に入れて飾ってあるものは、安くても100元 という値が付いている。虫眼鏡まで置いてあって、いくらでも覗いて調べられるようになっているが、始めて眺めてみて、偽物と本物の区別など付くわけない。
菊花石のような石、玉、鉱石も沢山置いてある。西川先生は石を一つ一つ見ながら「これは本物」「これは贋物」なんていっている。「どうしてわかるんです」と思わず訊くと「だって、いまじゃいくらでも鉱石を溶かして作ることが出来るから、こんなに綺麗なのは怪しいね」とのことだ。
寺の中の化石の店では誰もただ眺めるだけだったけれど、寺の外にも化石の店があって、そこに行くと、すでにもう目が慣れているから、誰もがいよいよ気の済むまで選んで買う気になってきた。壁には、魚の化石を二つに割ったという二枚の岩が並べて額に入っている。大きい魚では別々の額に入っている。人によっては二つとも買うのだろう。それぞれ400元なんていう値が付いている。
店の隅には段ボールに沢山の薄い岩のかけらが入っていた。大体が一辺5から10センチ位である。どれも薄い岩で、私の知識では頁岩と呼ばれる岩のかけらである。それぞれ表面に小さな魚、昆虫、植物の葉の一部などが化石となって付いている。仔細に眺めても、本物を知らないから何とも言えないけれど、本物らしく見えるとしか言いようが ない。
むかし、日本刀の鑑定の出来る人は幼少の頃から、本物の刀を見続けて育てられたという。そうすると長じて一目で刀の真贋を見分けられるようになると言う。となると、たった今化石を見て、真贋がわかるわけがない。唯一のよりどころは、学長の言葉である。実際、岩に細工したり、描いたりという細かな細工をすれば人件費がかかるから、掘ってきただけの化石より高いという道理である。3-5元の岩のかけらなら、本物の化石である可能性が高い。
というわけで私たちも化石選びに参加して、西川先生、貴志先生が捨てた残りかすから4枚を選び取って合計20元を払った。メダカ位の魚、ケヤリムシみたいな生物、がそれぞれ浮かんでいる。肴の付いている岩の裏を見ると、フナムシみたいなムシの半分が付いている、これは間違いなく化石だろう。ここまで手の込むことを5元でするはずがない。
1億5千年前の時代のこれらの生物が見つかって、これらの生物の詳細な、そして膨大な分類表が出来ているに違いない。私もその端くれだけれど、科学者のやることは門外漢にはまるで浮世離れしていることだろう。二人の先生は立派な額入りの化石を買って満足げである。
午後は義県の西の郊外に出掛けた。道は舗装してあるけれど、周りは畑で大分街中から見ると道も細くなった。ちょっとした丘を越えると、一直線の橋があって長さは2km位あるのではないだろうか。その橋を渡ってから右に折れて川岸に沿って少し進むと、行き止まりが目指す萬佛堂石窟だった。
ここはこの大凌河の左岸部に立つ丘で、その岩盤に大小様々な仏像が刻んであった。解説によると、北魏の時代(499年)と言うから、三国志の後の南北朝の頃だろうか。仏を刻んだ石は腐食しているけれど、彩色の跡が所々残っている。どれも柔和な顔をした細長い顔の仏だった。清の時代に彫られた石仏もあった。現代的といって良い顔つきだった。
石窟の彫られた崖は南面していて、直ぐ下が広い大凌河の河原だ。ちょうど石窟を巡ることが出来るように回廊がもうけられていたが、回廊の高さは30メートル位ある。大変な苦労をして仏を岩に刻んだに違いない。この石窟の場所から大凌河がよく眺められる。2kmくらいの幅広い河床があるけれど河は蛇行していて、水のある部分は100メートル位の幅しかない、残りは一面の茫漠たる広がりで、トウモロコシ、高梁などの作物が植わっているように見える。この丘から周囲を眺めると「一望千里」という言葉が実感することができた。中国は広い。
この石窟境内にも土産物の化石を売る店があり、二人の先生は「200元だって安いじゃない」と、又ここでも子供のように興じて化石の土産をあさることになった。この日の実際の予定は、北票という街の近くの化石が見つかる地層まで私たちを案内してくれるはずだったが、この何度もの化石選びで時間がとられてしまい、私たちはそのまま瀋陽に戻ることになった。鞄の中に秘かに金槌とドライバーを入れてきたが、役立たなくて残念だった。
昨日は妻の貞子の誕生日だった。研究室の学生にすると、私を補完する母代わりか祖母代わりとして頼りにしている存在なので、彼女の誕生日を是非祝いたい。「先生、もうすぐ貞子先生の誕生日ですが、先生はどうしますか?お祝いにケーキを買うつもりですか。」「?」
「先生がケーキではなくちゃんとしてものを買うなら、私たち学生がケーキを買ってお祝いをしますけれど。」ということだった。私が彼女に何をプレゼントするかはともかく、「じゃ、一緒にケーキを買う仲間に入れて。」と頼んでおいた。↗️
中国のケーキに使われている生クリームは、ちょっと昔までは「どうもね」というものだった。遠慮して口には出さないけれど、あまり口にはしたくない代物だった。早い話が偽物のクリームで、ちょっとでも食べると直ぐに胸焼けがした。
それが最近はましになった。大衆ケーキチェーンの「好利来」で出しているケーキは、まあまあである。特においしいとは言わないけれど、食べたあとで決して苦しむことはない。↙️
さて、当日5時頃、教授室に7人の学生がざわざわと集まった、大きなケーキの箱を持って。頭に載せる紙製の王冠も一つある。「先生、これを被って。写真を撮るから。」と王麗さんに言われて妻は実験着を脱いで紙の王冠を頭に載せた。写真を撮るのは私である。学生は胡丹くんを除いて全員がケータイを持ってはいるが、デジカメは持っていない。
箱を開けると巨大なバースデーケーキが顔を出した。上には「祝貞子老師。生日快楽」と書いてある。「祝」が「おめでとう」にあたる。「生日快楽」も「お誕生日おめでとう」という意味になる。ただし「結婚おめでとう」という意味で、「祝結婚」とはいうが、「結婚快楽」とは言わないそうだ。その時は「新婚快楽」だという。なるほど、なるほど。ずっと続く結婚が楽しいものかどうか誰も分からないが、新婚は誰にとっても楽しく、嬉しいものに違いない。ケーキの上にはプラスチックで出来た薔薇のつぼみのようなものが乗っていて一番上に点火する場所がある。実験室のアルコールランプ用の点火器具を持ってきて、誰かが明かりを消して部屋を暗くした。妻が火を付ける。途端に、その花のつぼみの先から炎がロケットの噴射のように勢いよく吹き出し、つぼみが割れて花が開き、ぽんと倒れた花弁の一つ一つの上に火のついたローソクが乗っているではないか。
暗闇に10本くらいの小さなローソクの火が揺らゆらと動き、妻の貞子と集まった若者たちの無邪気な顔を照らし出した。直ぐにHappy Birthdayの音楽が始まった。薔薇の花の下の方にオルゴールが仕込まれているらしい。今年黒竜江省から修士過程に入った暁東さんが可愛い声で歌い始めて、皆も唱和した。貞子がナイフで一筋切ってあとは関さんがケーキを切り分けた。今は私と貞子を入れて9人いるが、9つに切るのは簡単ではない。
「8つに切リましょう。私たち二人で一つを分けるから。」と貞子が宣言した。40センチのバースデーケーキは、切り分けても相当実力あるボリュームで、20センチの紙皿を軽くはみ出してしまう。それでもさすが若さの勝利、学生たちは元気にケーキを平らげた。学生たちの半分の量だったけれど、私と貞子には多過ぎた。
来年2月になると卒業研究の学生が5人来るから、一人あたりのケーキのノルマが減って少しは楽になるだろうか、なんて考えながら食べ終わった。実験室のスペースからすると学生は3人採るのがやっとなのだが、5人の申し込みがあった。最終的に3人に絞り込んでから、選に外した学生に断りの電話を入れた。するとあまりにも相手の学生がつらそうで、こちらもそれ以上断るのがつらくなって初志を撤回して志望者全部を採ることにしてしまった。
日本の大学にいたときは、学生が自主的に卒業研究の希望研究室を調整して、最終決定として持ってくる。学生は下見に来るけれど、誰が来るかは先方で決めてくる。今ここでは、学生がそれぞれに希望を述べに訪問してくる。それを端から受け入れたら良い学生を逃してしまうかも知れない。それで、10月半ばまで希望を聞こうといっていたら、こちらの受け入れ可能数を上回ってしまったのだ。ここでは全学から希望者が来るから、前の大学みたいに学科単位で学生が集まって決めるようには行かないだろうが、もっと上手い方法はないものだろうか。
さて、あれだけのケーキを食べたあとも、うちの学生たちは元気に食堂を指して出かけていった。残された私たちは、「今日の晩ご飯なしね。」ということになった。貞子は日本から戻って 来たばかりで疲れている。私は貞子のいない間、たちの悪い風邪に掛かったのが長引いて、未だに食欲がない。「よくぞ、この歳まで生きて来たものだわ。」と貞子が言う。私自身もそう思う。若い頃は五十歳以上の自分なんて想像もつかなかった。それを遙かに超してしまったわけだ。
それで昨日は早めにうちに帰ったが、おなかは満杯だし、疲れてもいるし、それで、節目の日だというのに二人でしみじみと話を交わすでもなく、それぞれに寝てしまった。
私たちは長年に亘って何かしら研究室を持っているので、身の回りの人たちの誕生日を祝う習慣がある。毎年巡ってくる誕生日に、あまり嬉しそうな顔をしないスタッフに「貴女のこの歳の誕生日は一生に1回しかない特別の日なのだ。」とその日に意味を持つように何時も偉そうに説教していたが、いざ自分たちとなると、普段の日と変わることはなかった。貞子のこの歳の誕生日はこの日しかないというのに。
瀋陽に寒波が訪れた。昨日の朝は外に出ると水たまりが凍り付いていたくらいの温度だったうえに風が強くて、大学の研究室に着くまでには体の中まで凍えてしまった。今日は用心して、東京にいたときの冬支度で出掛けていった。今朝の予報によると最低マイナス5度とのだった。
まだ銀杏はすべての葉を落としていないし、太陽も雲一つない中天にあって日射しを注いでいるので、この寒さと目に入る景色とはちぐはぐで落ち着かない。
一般家庭にとって今の時期は、冬の白菜の仕込みの時期である。オート三輪や小型貨物に白菜を山のように積んで各家庭をというか、団地を廻って売っている。買う方は数十個単位で買って、どうするかというと、外の空いているところに、所狭しとばかり並べて置いておく。干して水分を出すためらしい。
初めて瀋陽に来て冬を越すことになったときこの風景を見て、「冬越しにはこれだけの白菜を買わないといけないのだろうか、冬の間はほかの野菜は手に入らなくなってこれで食いつなぐのか、僕たちはどうやって買って、そしてどうしたら置いておけるのだろう、」と慌ててアパートのお隣の部屋に訊きにいった。
「いえ、いえ。これは東北地方の習慣で、冬に備えて白菜を漬けておくのですよ。今では冬に野菜が買えるけれど、長い間冬の間は秋に買い込んだ白菜だけで過ごしたものです。」とのことだった。団地で一つの家族が大きな白菜を二十個も買ってどう処理するのかと尋ねたら、階段室に連れて行ってくれた。階段の踊り場に、アリババに出てくる盗賊が一人は楽に入れるくらい大きな瓶が二つも置いてあった。「これに入れて塩で漬けるんですよ。」
それで納得したが、この時期の白菜干しは凄い。裏庭の空いているところはもちろん、それだけでは足りないから、道ばたにも並べて干している。道ばたといっても小さな道だけではない。八車線道路の歩道と車道との間に平気で並べる。車が排気ガスを撒こうが、土砂を跳ねかけようがぜんぜん気にしていない。干した後で十分洗うと思いたいが、瀋陽は水が豊富とは言えないから、日本で見かけるように景気よく大量の水を使って白菜を洗うようにはいかないだろう。そう思うだけで、口の中がじゃりじゃりしてきた。
このように白菜干しは瀋陽という都会でも秋の風物詩だが、それでも気温が零度を割る寒波の訪れで、今日は白菜が殆ど外から姿を消していた。推測だが、凍らしてしまっては美味しい白菜の漬け物にならないからだろう。
この秋の風物詩には白菜とともに、長ネギがあって、長ネギも道に沢山干してある。長ネギは寒波が来てもそのままだから、水分の含有量の低い長ネギは白菜よりも凍るという害が少ないみたいだ。私は長ネギが好きではないから、これだけの長ネギをどうするのか不思議で、訊いてみると、東北の人たちは長ネギが大好きで、みそをつけて1本2 本を平気でかじってしまうそうだ。きっと冬の夜長の大きな楽しみなのだろう。
夏の間は27度くらいまで上がったアパートの中の温度も、夏が終わってだんだん下がってきた。27度が24度になり、そしてそれが20度になったのは数日まえである。壁が厚い作りなので、外気の影響を簡単には受けにくいようになっているが、外気温の低下とともに室温も下がる。それで外は零度になる寒波が来ても、まだ室温は19度ある。私たちの住まいにクーラーは入っているけれど、暖房器具としては電熱敷布しかない。あと10日近く経って11月1日になると地域集中暖房が入って、部屋の温度が21度に保たれるようになる。
最初の秋は、10月12日に初雪に出会って、心底驚いた。それがこの辺りでは普通なのだという。昨年は10月終わりに初雪だった。今年はまだ雪が降らないが、温度は零下にまで下がった日が2日続いたので、例年のように冬を迎えていると言っていいだろう。
昨年は12月に入って夜中は零下30度近く、日中でも零下10度以下という日が2週間以上続いた。「こんなことは珍しいですよ。普通は2月の春節の頃が一番寒いのですけどね。」といって皆に慰められたけれど、慰めは何の足しにもならなかった。瀋陽の冬用の靴を買い、厚い靴下も履いたけれど、足先には子供の頃以来の霜焼けが出来た。今年はどんな冬になるだろうか。やけっぱちで楽しみにしている。
第2回定例会の時に、遼寧省による外国専家表彰のことが伝わって、それがホームページに載ることになった。多田先生と、南本先生のお骨折りである。
たいへん面映ゆいことながら自分に関するニュースをアップロードした。
今年から加入された先生方の紹介記事を「会員紹介」欄に載せた。石井みどり、中野亜紀子、辻岡邦夫の三先生である。
熱のある時に届いた原稿を夢うつつのうちに扱ってどこかに失ってしまったりして、先生方にはご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。
昨日10月31日に、日本人会の幹事会が開かれ、都合の付かなかった多田先生に代わって山形がホテルマリオットで開かれた会に出席した。
皆それぞれ忙しいだろうに、進出企業のトップの人たちが集まって、真剣に日本人会の議題を討論している姿勢に感銘を受けた。
教師の会の人たちも企業の人たちとは目的が違うが、それぞれ皆全身全霊を打ち込んでこの地でがんばっている。
建物の一室で水が溢れ出したときに、床に流れた水が階下に落ちて大騒ぎをしたという経験をお持ちの方はあるだろうか。私はこれを何度も経験をしている。鉄筋コンクリート造りであろうと日本の建物は水に対してはザルみたいなものである。
以前のこと、名古屋大学に助手となって初めて赴任した時、私は発生学の研究室に出入りしていた。そこの加藤先生の指導のもとにニワトリの胚を使った実験をしていて、よい結果がでたのでそれを人に示すために顕微鏡写真を撮った。研究で使う写真は納得のいくように自分で印画紙に焼き付けるので、どの研究室も中に自前の暗室を備えているのが常識だった。
その日は、昼から暗室にこもって写真焼き付けの技術を教わりながら写真を焼いていた。写真の処理には水洗がつきものである。大きい流しに大きなバットを置き、処理中の印画紙を入れて水を流しっぱなしにして洗う。そのうちに停電になり、断水になってしまった。直ぐに収まるだろうと研究室のたまり場と呼ばれる小部屋に部屋の人たちと集まっておやつを食べたりして談笑していた。
停電も断水もいっこうに復旧する気配もなく、夜になった。私たちはおしゃべりに疲れて結局一日を無駄にしてうちに帰った。すると夜中の3時にアパートの管理人に電話だといって起こされた。その頃は各家庭に電話を引くというのはまだ常識ではなかったのである。
電話は私の所属する化学教室の先生からで、理学部の建物で水がでて大変なことになっているから直ぐに来いという招集だった。当時の私たちの住んでいたのは大学の直ぐ隣といって良いお千代保稲荷のそばで、歩いて5分というところだったので大学の建物には直ぐに着いた。
私の所属する化学教室は建物の1階と2階を占めている。入ってみると、1階でも2階でも化学教室の助手、助教授、教授といった人たちが総出で床に溜まった水をほうきで掃き寄せモップで拭いて水を集めていた。この建物はザルみたいな建物で、上の階で水を出すと直ぐに下に漏れる造りになっていて、こんなことは良くあることだが、今回は特に規模が大きいということだった。まるで事情がわからなかったがともかく水掃除に精を出しているうちに「3階の生物の部屋から水を出した」らしいと聞こえてきた。
やがて水元は3階の発生学研究室で、流しの排水口に印画紙が乗って塞いでしまい水が溢れたと言うことが伝わってきた。「昨日は断水だったから、水栓を閉めるのを忘れて帰ったんでしょうね」という話を聞くまでもなく、力が抜けた身体を奮い立たせて3階にいくと、そこには生物教室の人たちがいて水掃除をしていた。生物教室の先生たちに混じって昨日の加藤さんもいて、目を合わせて「やっぱり?」。「やっぱり。」と会話を交わした。私たちがこの水漏れの原因を作ったのだった。
1階、2階、3階の床に溜まった水を取り除くのに、職員総出で結局明け方まで掛かった。3階の生物教室では廊下が洪水になっただけだから床に積んだ書籍が濡れたくらいのことで本質的な被害がなかった。しかし、上から落ちてくる水はところを選ばないから建物の1階2階を占める化学の研究室では、研究室の機器、机の上も水浸しになって、床の水を拭き取るだけでは済まない大きな損害と迷惑を与えてしまった。
翌朝、前日に一緒に写真を焼いた発生学研究室の加藤さんと私が一緒に、生物教室、化学教室の先生たちを順番に訪ねて謝って回った。驚いたことに翌朝の化学教室の中では、新任の助手の私の夜中の働きぶりが目立っていて大いに評判があがっていた。その私が洪水の水元の犯人のひとりとして謝ったので、上の生物教室が水を出してけしからんという怒りが薄まってしまったみたいだ。弁償も、これといったお咎めもなく、ことは収まったように覚えている。
日本の建物は、水を出すと直ぐに階下に漏れるというのは別のところでも経験した。横浜の青葉台の住宅公団の建物に住んでいた時、洗濯機の排水パイプにさわってしまい廊下に水を吐き出した時は、階下のうちに水漏れを謝りに行く前に床を拭き始めたけれど、間に合わなかった。拭いている最中に下のうちから「水漏れですよ」と知らせてき た。上を拭き終わってから下のうちの水始末に出かけたが、天井のあちこちからまだぽつぽつと水が滴っていた。
東京工業大学の長津田キャンパスの建物は、東工大の建築科の錚々たる先生が設計したという斬新な造りの建物だったが水には弱かった。名古屋大学の洪水の経験があるので学生にはよくよく注意するよう徹底したつもりだったけれど、それでも階下の研究室には2回謝りに行った。今でも思い出したくない悪夢である。
中国で暮らすと日本との違いが目に付くのは当然としても、だいたいが住み慣れて身になじんだ日本の方がよいと思うのもごく当然かもしれない。しかし建物の造りについては断然中国に軍配があがる。高層建築に使う鉄筋の数の少なさには目を見張る思いだが、水が漏れる造りではない。ほかの建物での経験がないから一方的過ぎるかも知れないが、ともかく、この建物では水がでても下には漏らない。それも、実験室とこの教授室という別の場所で洪水を合計3回経験したが、どちらも階下に全く影響な かった。
洪水といっても、水の出しっぱなしのような、こちらに責任があるものではなかった。給水管のパイプが割れた、水栓がいきなり壊れて水を噴き出した、給水管のパイプの接続から水が漏れ出した、という原因だった。宇宙ロケットを飛ばすことに成功している国にしては、ちぐはぐなところがある。
今日の洪水にしても、昨日給水管の接続からわずかな水漏れがあるのを見つけて、大学のしかるべき部署に学生から連絡して貰った。昨夜のうちに、水漏れが加速したのだろう、朝来てみると教授室が一面の水浸しだったのだ。さすがに、今朝の電話の口調に驚いて水掃除が終わった頃には修理に来てくれたが、昨日のうちに来ていればたいした水漏れではなかったのだ。こういうところが中国らしく、大きい目で見るとちゃんとバランスが取れている。
金曜日、加藤先生が瀋陽史跡探訪の新しい記事(7番目)と一緒に現れて、二人でホームページビルダーを使って文章と写真を編集した。
土曜日には写真のtitleを変更してwebに載るようにして、無事providerにuploadした。
日本語クラブ21号(今年度第1号)の印刷が今日日本語資料室で行われると聞いている。中道編集長を悩ませ続けた原稿の集まりが遅いという問題は無事解決したのだろうか。
日本語クラブ21号は1週間先の日本人教師の会の定例会の時に配布される予定。
10月の国慶節の休暇に友人の加藤さんに誘われて、北に汽車に4時間乗って長春の町に遊びに出掛けた。往きは汽車で行きましょうと加藤さんが座席指定の汽車の切符を買っておいてくれた。座席指定を買うのはその汽車の始発駅なら問題ないが、途中の駅だと買えないという。しかし、途中駅からは座席がなくても汽車に乗って、座席が空いてさえいれば座るのはお構いなしなのだそうだ。これは切符がコンピュータで管理されていないためらしい。
汽車には硬座、軟座、寝台車とあって、これまでに南に4時間離れた大連には2回日本のグリーン車に相当する軟座に乗った。今回、加藤さんは普通の人たちが乗るので、汽車は硬座の方が楽しいですよと勧められて、座席は初めての硬座だった。乗るまでは、金属か、プラスチック成形の表面の硬い椅子かと恐れていたけれど、軟座ほどの柔らかさではないにしてもまあまあの椅子だった。ただし、通路を挟んで片側は6人掛け、反対は4人掛けである。つまり一人分の占めて良い面積が狭い。
瀋陽駅では発車時刻の50分くらい前に駅に着いて中に入って大きな待合室の中で並んだ。4列くらいずらりと入り口から改札口と思われる方向に向かって椅子が並んでいて、その椅子の間に既に多くの人たちが立ち並んでいる。それぞれ別の行き先の汽車だ。座席指定でも、一刻も早く汽車に乗りたいということらしい。実際10分くらい前に改札が始まったときは、二つしか開いていない改札口に向かって大勢の人たちが殺気だって詰め寄せた。
この汽車は始発の瀋陽駅から満席で通路に立つ人がいた。一両に数人位は立っているかなと思っているうちに停まる駅で次々と人々が乗り込んできて、通路を隔てて分かれて座っていた私たちは通路に立つ人たちに遮られてしまった。3人掛けは狭く、通路にどうしても身体の一部が出るけれど、通路側からは立っている人たちに押されて、4時間 の汽車の旅は楽ではなかった。
このように混雑した汽車だったので立っている人たちはつらかったろうが、座っている人たちは汽車が動き出す前から、食べもの出して連れと分け合って食べ出した。バナナ、ミカン、ソーセージ、トリ肉、肉まん、賑やかなことで、私も学生の頃の汽車の旅を思い出した。そのころの旅は駅で売っている四角な土瓶風の素焼きの容れものに入ったお茶が定番だった。ポリエチレンや缶入りのお茶の自動販売機なんてなかった時代のことである。そして、赤い糸の網の袋に入ったミカンやゆで卵を汽車に乗 るのも待ちかねて、いそいそと食べ始めたものだった。
斜め向かいに座っている人は硬座の客にしてはきちんとスーツを着て、ひまわりの種子を食べていた。「香瓜子」と書いた紙の袋から種子を一つずつ取り出して歯で軽く外皮を噛んでから中の種を口に入れている。オウムが種子を食べるほど上手ではないが、中の種を指でつかむことなく上手に処理している。それでも、外皮のかけらが時々口に残ると、口の中から直接外に飛ばしている。瀋陽から長春に着くまでの数時間、彼はひまわりの種子が二百グラムくらい入った紙袋を握って床を殻だらけにしてい た。
これに触発されて、うちに帰った後、近くのカラフールで「香瓜子」と袋に書かれたひまわりの種子を買ってきた。種子には軽く塩味と、そして何と表現して良いか分からないけれど、中国らしい香りが付いている。このようなおやつは、テレビを見ているときにはぴったりの食べ物である。数時間手と口を動かしていても、口に入る実質的な量は実にわずかなものなので、食べ過ぎるという問題は起こらない。ただし、彼らほど上手く皮がむけないから、殻は机の上に集めているはずだけれど、床の廻りは 殻だらけとなって妻の顰蹙を買っている。
数日前、うちと大学の通い道に当たる集合住宅の裏の道を歩くと、大きな袋が沢山置いてあった。長さ1メートルくらい断面が60x30センチくらいだろうか、ビニールの袋である。中にはひまわりの種子がぎっしり入っている。通り道の両側に四段に積み上げ、あわせて百個くらいが並んでいる。そして広場にはこの袋で堤防みたいに仕切って四畳半くらいの空間を作り、覗き込むとその中にはひまわりの種子が拡がっている。中には人が入ってスコップを使って種子をひっくり返している。何をしているんだろう。集まっている人たちに訊いたが、「向日葵」としか聞き取れない。何をしているのかを知りたかったけれど、返事が複雑すぎて理解できなかった。
冬に備えて白菜や長ネギを干しているからその連想だと種子を干していることになるが、これだけのスペースではここに詰み上げてある袋全部の種子をまかなえない。この通り道にひまわりの種子の袋が積み上げてあったのは二日間だけで、三日目には消えていた。それでもそこにあった証拠に、向日葵の種子の殻があちこちに散らばっていた。
どのような目的で向日葵の種子を袋から出して地面に直接拡げていたのか分からないが、これが「香瓜子」と書いた袋に入っている種子となって売られるのだとすると、あまり綺麗な扱いとは言えない。今、中国と韓国とで「キムチに寄生虫の卵が付いている、いやおまえのところこそ卵が付いている。」と言って互いにやりあっているが、白菜の露天干しが道ばたを利用しているのを見ると、「さもありなん」と思える。
もう香瓜子を食べるのをやめようか、だけどプルーンやサンザシなどの干した果物は大体同じように処理されているだろう。やっと気付いたが、今までに寄生虫の卵も、ほこりもゴミも食べて来ただろう。それでも生きているのだから、大体身体が免疫を獲得して耐性になっているかも知れない。今さら寄生虫の卵が入ってきたって、既に身体の中に育っている寄生虫が先住民族の権利を振りかざして、新しい卵を追っ払うかも知れない。
さて、どうしようか。ひまわりの種子は理想的な間食なのだ。何といっても美味しいし。
昨夜は薬科大学で初めて音楽会に行った。瀋陽では音楽会があることは稀である。市の中心地に立地する市政府の建物に面して巨大な芝生の広場があり、これを囲んで、遼寧省博物館、大劇場などが立ち並んでいる。5月に友人を案内してこのあたりを歩いた時、大劇場の窓にはその先の予定として二つの音楽会が張ってあっただけだった。こちらが熱心に調べないためもあるけれど、そこまで出かけるのが面倒だし、まだこの大劇場には行っていない。
初めて音楽らしいものを聴きに行ったのは、瀋陽に来て半年経って、そのころ研究室にいた白さんが近くの南劇場で音楽学校の発表会があるから行きましょうと誘ってくれた時である。そのあたりは三好街といってコンピュータの街として発展しているが、魯迅芸術学院、音楽院などが立ち並んでいる一画で、その音楽院の人たちの発表会というものだった。
行ってみると、数人のグループが歌を歌い、楽器の演奏をし、というものだったが、何よりも驚いたのはマイクロフォンを使い大音響でスピーカーを鳴らすことだった。お客は発表している生徒の家族や親族だから小さな子供たちも来ていて、そうなると、音楽を聴くよりも通路を走り回り、合間には食べ物の音が激しく。どちらの音が大きいか分からないくらいだった。あきれて、せっかくの白さんの親切だったけれど幾つか聴いただけで出てしまった。
さて、数日前に友人の加藤先生から電話があって音楽会に誘われた。彼は薬科大学では中薬学院の1年生に日本語を教えているが、そのクラスの時に学生が券を配っているので聞くと「音楽会の券です」ということで1枚貰ったが、「更に音楽好きの友だちの先生のためにあと二枚もらえないか?」と頼んだという。学生たちは考えた末にあと二枚呉れたと言うことだった。この音楽会は大学の敷地内にある、客席が階段状になったいわゆる講堂を思い浮かべて欲しい。千人くらい入る大きさで、倶楽部と呼ばれている。文字通りこの字を書く。ところで、この字はどちらの国の発明だろう。日本か中国か。
音楽会は遼寧省高雅芸術学院の演奏会だという。学生の演奏だけれど、薬科大学は自分たちの学生を楽しませるために、演奏家を呼んだり映画会を催したり、あるいは学生たちの踊りや音楽会などをこの倶楽部で時々やっているのだという。その一環である。私たちは学部の1年生に縁がないからこのような催しがあることを全く知らなかった。倶楽部の席は千人くらいだから1学年全員を収容できない。最初学生が券を学生以外に配るのをためらった理由もよく分かる。
昨夜6時前に迎えに現れた加藤先生と連れだって大学構内の倶楽部に向かった。座席は指定されていて貰った席ははるか上の席だったけれど、教え子たちを見つけた加藤先生が聞いたところによれば「どこでも良いです、前にいらっしゃい、」ということで前から数列というかぶりつきの席に陣取った。席に着いている学生は少なかったけれど、日 本語を勉強し始めてまだ2ヶ月という加藤先生の教え子たちに次々と挨拶された。「あなたは音楽が好きですか?」「あなたは中国にどれだけいますか?」などと口々に聞いてくる。2年ここにいる私の中国語よりもよほどましである。
翰・施特労斯誕辰180周年交響音楽会と書いてある。洗星海は中国の作曲の名前のようだ。約翰・施特労斯は三人で考えて、ヨハン・シュトラウスと読めるということになった。きっとウイーンワルツやラデツキーマーチを聴かせてくれるのだろう。
音楽会はなかなか始まらない。日本語の勉強を始めたばかりの学生と、中国語の不自由な私たちとの自前の会話はもう話題がつきてしまった。それぞれが加藤先生の助けを借りないと話が出来ない状況となった。講堂はまだ人が半分くらいで、「きっと時間ではなく、お客が集まったら演奏が始まるのでしょう、」などと私たちはふざけている。実際、ここから見える舞台の袖ではバイオリンを抱えた人たちが何人も立ったまま入場を待ちかまえている。
やがて、楽員たちが舞台に上がってきた。盛大な拍手。学生と聞いたけれど、皆黒色の正装をしている。最初、女性二人による長い長いお話しがあって、やっと指揮者が登場した。私たちがここに来た時入り口でたばこを吸っていたおじさんである。
指揮棒一閃、ヨハンシュトラウスの「こうもり」序曲が始まった。見事な演奏である。惜しむらくは、舞台に林立しているマイクロフォンを見て厭な予感がしたが、予感通り舞台袖の大きなスピーカーからも音が聞こえることである。音が入り交じって平板になってしまう。でもスピーカーが大音響でなくて良かった。次は1945年に40歳の若さで他界した洗星海の作曲と思える曲で、「大海よ、私の故郷」という中国人の愛唱歌を思い起こさせる曲趣を持っていた。
続いてヨハン・シュトラウスのポルカ、リストのハンガリー狂詩曲2番のあとで女性歌手が登場した。ほっそりとして背が高く青い服に身を包んだ彼女は、シュトラウスの「春の声」を唱った。低音にはちょっと難があったけれど、コロラチュールも綺麗に転がしたし、「ワオ」とばかりにすっかり彼女の虜になった。
次のビゼー・カルメン組曲1番に続いて登場したのは女性バイオリニストで、洗星海の作曲に違いないバイオリン協奏曲を演奏した。流麗な演奏で初めての曲ながら中国的なメロディーとリズムに魅せられて聴いていると、突如ホールの電気が消えた。スピーカーの音が切れてからも二秒くらい続いた生のオーケストラの音はか細く清冽だった。
場内はたちまち拍手と人声で満たされ、携帯電話の明かりがあちこちを局所的に照らしていた。動かしている人の携帯電話は暗闇に幻想的に青白い光を播いている。携帯電話がこんなに明るいの?と驚いて自分のを出して蓋を開けると、相当な明るさだ。ただし他の人のカラーとは違ってモノクロだったけれど。数分して停電が直ってバイオリン協奏曲が再開された。停電の間に隣の学生から聞いた話だと、この洗星海の曲は大変有名な曲だという。しかし再開されて1分もしないうちにまたも停電だった。気の毒なバイオリニスト。
停電が直って再度続けられた演奏は、それでも途中に邪魔が入ったとも思わせないほど整然と進み、最後はコーダを盛り上げて終わった。曲も楽しかったし良い演奏だった。次は男性のピアニストで、これも洗星海のとおぼしき四楽章からなるピアノ協奏曲だった。非常に技巧的な曲である。何となくプロコフィエフを連想したけれど、同時代の人だから関係はないだろう。
最後はアンコールに応えてラデツキーマーチだった。始まると直ぐに手拍子がわずかながらも始まったから、中国の学生もウイーンで行われているこの曲の演奏スタイルに、私たち同様テレビを通じて馴染みになっているのだ。世界は狭い。
手拍子はどんどん増えていった。中国の学生も、民衆も、もっともっとテレビを見て世界を知ると良いのに、と最後は教訓的なことを考えてしまったが、久しぶりによい音楽を聴いて心が暖まった。外に出て零下数度の気温をものともせず帰途につくことが出来た。加藤先生、ありがとう。
12日は2005年度第3回定例会。
会則の改正最終案が承認された。会員資格が、日本人で日本語を教える教師だけだったのが、日本語を使って教育・研究を携わっている人たちにまで広がった。
というわけで、私たちも晴れて公式の会員であることが認められたわけである。めでたし、めでたし。パチパチ。
航空学院に新任の先生二人。
日 本人会と教師の会との関係が報告され。議論された。しかし、歴史的な経緯を正確に知っている人たちはいないので、現状の日本人会から受ける扱いは教師の人 たちに不満を生じているようである。日本人会主催のクリスマス会が12月11日に開かれるが、参加者は減るのではないか。
瀋陽日本人弁論大会が来年4月には第10回を迎える。日本人会のほかに瀋陽市人民政府外事弁公室、瀋陽市教育委員会も主催団体だが、資金源は日本人会なので、実質日本人会主催と言って良い。
そして運営では教師の会が全面的に担当している。
問題は、たとえは弁論大会入選作品集には瀋陽日本人教師の会の名前はないことだろう。教師の会はこれに命をかけるという感じがするほど一生懸命なのに。
そ して、大会で実質的に運営する教師の会が司会もする。二年前の大会では、出席している日本人会の数人の人たちを主賓として名前を読み上げたのだ。原稿を見 て私は絶句したけれど、その時はそのまま読み上げた。実行委員会にこれの見直しを要求したけれど、この春は中止になったのでどのようになっているか知らな いが、日本人会のこの態度も問題だろう。
明らかに両者の間に乖離がある。しこりがある。
11月12日の定例会で承認された会則をホームページに載せた。
新人の林与志男・八重子夫妻の写真と紹介を載せた。
高山敬子先生の写真が新しくなった。可愛い〜と思わず叫びたくなるような。
新疆の民族衣装に身を包んだ鳴海マダムのすてきな近影を、会員紹介欄に載せた。
日本語クラブ21号は11月12日付で会員の手に渡った。その原稿も受け取っているけれど、ホームページに載せるための写真の処理に時間が掛かってまだ載せるところまで行かない。
もう一寸時間を下さい。
今年は11月に入っても割合暖かい日が続いたけれど、とうとう寒くなってきた。昨日今日の日中の最高気温は3度くらい、最低がマイナス8度くらいという感じで、零度を挟んで温度が上下している。まだ瀋陽に来て買ったコートや靴までは必要とせず、東京にいた頃ユニクロで買った冬のコートで済ませている。それでも冷たい北風に備えるために、襟元を埋めるマフラーは必需品である。
数日前から新たなマフラーが私のコレクションに加わった。これは、1年前から私達の研究室に出入りするようになった女子学生からの贈り物である。彼女のことは、昨年2004年11月27日付で、「大っぴらに涙を流す中国の女性」というタイトルでエッセイを書いている。
この薬科大学には基地クラスという1学年30人編成の特別コースがある。教育は全部英語で行われ、学部教育と博士課程が8年間でセットになっている。普通だと、学部4年、修士3年、博士3年の10年掛かるところなので、特別教育促成栽培を売り物にしているコースである。学部から大学院に入る時には、彼らは試験を受けることなく全員推薦進学になる。私たちは聞かされていないが、学部学生2年の時に希望の研究室に出入りして研究に親しみ、3年の時には3週間研究室に行って実験をして研究を味わい、そして4年生の後期の数ヶ月はほかの課程の学生と同じように、どこかの研究室に所属して卒業研究をするのだという。
昨年彼女は2年生になったばかりだった。そのコースで説明を受けたとおりに、私のところを希望して、私の研究室に出入りしたいと言って来た。しかし、そのようなことを知らない私は断ったのだった。藪から棒に学部の2年生が来て、研究室に時々来て実験を見学して研究とはどんなものか勉強したいと言ったって、迷惑なだけである。
何時から来たいのか聞くと今日からだという。そんなことをいきなり言われても、何の用意もない。大学がこのコースの学生に特別に約束していることなどこちらは全く聞かされていないから、彼女の面倒を見る義理があるとは思っていなかった。それで断ったが、彼女は大粒の涙を目からぽろぽろ流しながら、なおここに来たいと訴えたのである。
最後にはこの涙に根負けして彼女の受け入れを認めてしまった。毎週土曜日の研究室のセミナーに出席すること、これが彼女に課した義務である。この土曜日のセミナーはジャーナルクラブと呼ばれていて、一流のジャーナルに載った最新の研究論文を紹介する勉強会である。学部2年の学生には理解を超えた世界だと思う。
心配したとおり、毎週出てきていたけれど、論文紹介の約3時間の間、顔を堅くしたまま座っているだけで何の質問も出ず、内容を理解しているとは全く思えなかった。
忘年会や新年会などの研究室のパーティーに呼ぶと出てきたけれど、なかなか皆ともうち解けなかった。あまりに力が違いすぎるのである。幾ら日常的に英語を使って暮らしていても、院生の中に学部2年生が入るには無理がある。そして春学期になった頃、土曜日に授業が入ってしまったと言ってセミナーに出てこなくなった。初めは出られないという連絡が毎回あったけれど、何時しかそれもなくなった。
彼女のことで大学から正式に書類が来たわけでもないから、研究室に何時の間にか来なくなってもそれだけのことなので、放っておいた。これが数日前に彼女が再び訪ねてくるまでの話である。
その日は普段から速度の遅いinternetが特に遅く、米国のNCBIのデータベースにアクセスして遺伝子情報を調べていた私は大分苛々していた。1ヶ月前に合成を依頼したプライマーを使ってPCRをするとバンドが沢山出て、不適当なプライマーだと分かったために、遺伝子情報を調べてどこに欠陥があったのか探していたのだ。原因を見つけて新しい設計を早くしないと皆の研究が遅れてしまう。
調べてみるとNCBIに登録されている遺伝子とEnsemblに載っている遺伝子とは、5ユ側の前半は同じなのに、後ろ半分が全く違うことが分かった。前回設計したプライマーはこの共通部分だけではなく、後半の両者で異なる部分をも含んでいたから、それが原因でおかしな結果になったのかも知れない。前半の、両者共通分だけで遺伝子の増幅を行えば、大丈夫ではないか。
と言うところまで漕ぎ着けた時に、胡丹くんから「先生。」と声を掛けられて目を挙げると、Macの向こうには胡丹くんと並んで、彼女が立っていた。彼女の顔をずっと見ていない。断りもなく研究室に顔を見せなくなって数ヶ月経つだろうか。いつもは女性に愛想の良い私が、顔を挙げたまま何も言わないので、胡丹くんは焦って口ごもりながら「彼女は学部を変わったので来られないと言っています。」と言った。まだ心の半分はMacの画面に残したまま、「何処に変わったの?」と聞くと、胡丹くんが「薬学部に変わりました。」という。彼女の基地クラスは元々が薬学部の中なのだ。
基地クラスは促成栽培だけあって、1科目でも70点以下を取ると進級できずに基地クラスから追い出されてしまうと聞いたことがある。きっとそれだろう。気の毒に。しかし、そう思っても私の立場ではどうしようもない。
胡丹くんが続ける。「そのためにここに来る必要がなくなりました。」「それで先生に上げようと彼女が自分で編みました。」と言って、白とねずみ色の太い糸で編んだマフラーを私に手渡した。彼女は依然として無言である。「謝謝。」と私は彼女に言った。彼女は依然として堅い顔をしたまま一礼して、胡丹くんに見送られて部屋を出て行っ た。
手の中のマフラーは暖かい感触を私に伝えているが、彼女とは結局話らしい話をしなかった。彼女は終始堅い顔をしていたけれど、きっと基地クラスで進級できなかったことを自分の落ち度による恥と思い、猛然と気にしていたのだろう。もう少し何とか言って慰めれば良かった。
だけど、基地クラスの制度に従ってここに出入りしていたが、別のところに移ったらその制度がないので来る必要がなくなりましたと言うので、良いのかね。ま、そうだろうけれど、それはつまりここに来たくて来ていたわけではないのだ。制度で強制されて来ていただけなのだ。来る気は元々ないのだ。そんな子なら、気にすることもないじゃないか、と思いながら、再びMacに戻ってプライマーを設計し、それが目的の遺伝子以外とは反応しないことを確かめながらも、依然としてこだわっていた。やっぱり、ここに出入りしたければ何時来ても良いんだよと、言えば良かった。
その日から急に冷え込んだので、帰る時からそのマフラーを愛用することになった。首の回りに暖かみを感じるたびに、あれで良かったのかなと心がどうしても引っ掛かるのである。
土曜日の午前のセミナーが終わると週末の自由な時間が沢山あるような気がして幸せな気分になる。
それで午後は日本語クラブのwebのための編集の続きに取りかかった。今回の日本語クラブは原稿が満載で、チェックポイントが多い。
Word の原稿に付いてきた写真は、一つ一つリサイズして(縦横の比がゆがめられているのだ)、おまけに写真の番号を付け直す(Wordで写真を載せるときにはこ れを気にしなくて良いけれど、internetではそれぞれの写真に別々の英数字のtitleを付けることが必須)。
それと不思議なのは、Wordで綺麗な原稿にしても、それをHPビルダーに持って行って(その段階ではまったくおかしくない)、webで見ると字体や字の大きさが所々でおかしくなっている。
おかげで、タグを少し覚えてhtml文書として校正することを覚えたが、とても全部には手が付けられない、膨大すぎる。というわけで、すべてを綺麗な表示にできない。
Wordの日本語クラブの原稿についていた写真のうち数枚の解像度が低すぎてwebでは使えない。2枚は、どうしてかモノクロをカラーに変えられないし、リサイズも出来ない、コピーも出来ない。どうしてこうなるか不明。
それで、合計7人の先生方に改めて写真を送って欲しいと依頼した。今日までに二人以外からは写真が届いた。
今回は、原稿が長いので二つに分割しているけれど、相互に飛べるようにして日本語クラブ21号が二つに分かれていることが分からないようにすることに成功した。今まで、出来るはずだと思っていたのが、ファイルをたぐる記号(#)を見つけることが出来たので、初めて出来るようになった。ワーーーイ!
今回の日本語クラブ21号のwebへの編集ほど手間取ったのは初めてだったが、やっと午後にはサーバーにアップロードできた。
一人の先生からは、お願いした写真が来なかったが見切り発車してしまった。
字体の不揃いもなく(出て来るはずのない原稿をコピーしても出てくるのが不思議)、サイズも同じで綺麗な仕上がりになった。原稿は二枚あるけれど(20号までは1部、2部と分けていた)それを感じさせない仕組みに仕上がったのが嬉しい。
HPビルダーを使い始めて1年半経って、やっとhtml文書がいじれるようになった。
夕方、二人の先生のブログを教師の会からリンクを張ってアクセスできるようにした。題して「瀋陽日本語教育現場の声」と、物々しい。
もうすこしブログを持つ先生がたが増えると良いのだけれど・・・。
新薬が上市されると、これは人の命に関わることもあるから厳しい基準で評価される。副作用で人が死ぬほどのクスリなら、どうして一口に新薬十年といわれる開発の間にそれが気付かれなかったろうという疑問が起こる。クスリは効き目が大事な一方で副作用も目をつぶって通れないことだからだ。
むかし、製薬会社が出来て最初に薬を作り出した時は、人々が長い間に使って効能が分かっていた生薬から有効成分を取りだし、それを化学合成してクスリとした。やがて生化学が発展して身体の中の反応が詳しく分かってくる。一方で有機化学が発展して、その物質がまだ存在しないという理由だけのために、膨大な数の有機化合物が次々と合成された。これらの化合物を試験管の中での生化学反応に加えることによって、反応を阻害する薬、助ける薬が次々とスクリーンされて役に立つ薬が開発されてきた。微生物による感染症を防ぐ薬も、大昔の梅毒に効くサルバルサンから始まって、最近まで同じような方式で開発されてきた。
最近の新薬開発は大分変わってきたと言う。生体の反応は、それが生体内の自然の反応でも、外来微生物による侵襲にしても分子と分子の反応である。片方の分子の立場に立てば、相手となる分子を認識する反応である。分子が相手となる分子を認識するにはそれぞれが互いに具合良く、言ってみれば鍵と鍵穴のようにうまくはまりこむ関係が必要である。このとき、それぞれの分子の間で、水素結合、静電結合、ファンデルワールス結合が出来る。というか、それが出来ないと、二つの分子の間が一見すると鍵と鍵穴のようにうまくはまりこんでいても、結合が成立しない。
このことが分かってくると、それならコンピュータを使って、細胞膜にあるあるタンパク質受容体にぴったりはまりこむ化合物を検索、あるいは設計すればよいことになる。この受容体とそれと反応する分子とが反応することで生体反応は引き起こされるのなら、もしこの反応が好ましくない場合には、それを阻害すればよい。
受容体に反応する分子をリガンドとよんでいるが、受容体と結合して反応の手を塞いでしまう物質を設計しても良いし、リガンドと結合して受容体と反応できなくさせても良い。一般にはリガンドをブロックする化合物が使われる。どうしてかというと、受容体と結合して反応の手を塞いでしまう物質だと、受容体がリガンドと結合したのと同じ結果になることがある。その可能性を排除するのは余計な手間が掛かるからである。
今話題になっているインフルエンザウイルスに対する薬は簡単に言うと、今書いたような方法で探されたものである。インフルエンザウイルスはウイルスの表面に、シアル酸(N-アセチルノイラミン酸)を認識するヘモアグルチニンと、シアル酸を切断するシアリダーゼという2種類のタンパク質のスパイクが沢山突き出た栗のイガみたいな形をしている。このヘモアグルチニンがノドの上皮細胞の細胞表面にあるシアル酸を認識して結合し、そのあと細胞への感染を果たして細胞内で増殖する。細胞内で増えた大量のウイルスは細胞膜からエキソサイトーシスにより出て行く時に、自分のシアリダーゼを使ってウイルス粒子を膜から切り離す。
インフルエンザウイルスに対する新薬戦略はこのシアリダーゼによるシアル酸の認識を無力化することにあった。今までの研究に基づきコンピュータで調べると、シアリダーゼにはポケットがあってそこにシアル酸が入り込んで認識されることが分かった。それならそこに代わりに入り込んで、シアリダーゼの結合ポケットを塞いでしまう化合物を見つければよい。
こうやって開発された市販名タミフルは、インフルエンザウイルスの一次感染を防ぐには、原理からして無力である。ウイルスがいったんのどの細胞に感染して増殖して細胞から出てくる時に、もしタミフルを服用していればそこでウイルスを無力化できる(ウイルスを遊離しない)ので、それ以上ひどいことにならないという原理である。従って風邪に掛かったなと思ったら48時間内に服用せよと言われている。
しかもこの薬にはウイルス感染を治す効果はない。ひどくしないだけだが、それでも貴重な薬である。今までのワクチンは、ウイルスが変異を起こすと無力になった。ウイルスの遺伝子の変化がアミノ酸の変化を引き起こしてシアル酸を認識出来なくなるとウイルスは存在できなくなるから、この薬はA、B型のどのウイルスに対しても有効である (C型は9-O-アセチルノイラミン酸を認識するので無力である)。もちろん今怖れられているトリインフルエンザN5H1型が人から人への感染力を獲得したとしても、有効である。
ところで今このタミフルの副作用が大きな問題になっている。
先ほど増殖したインフルエンザウイルスは細胞表面のシアル酸に付いているところをシアリダーゼで切り離されると書いた。しかしシアル酸が細胞の表面に単独で付いているわけではなく、糖脂質や糖タンパク質の糖鎖の先端に付いているので、糖鎖全体としてみると多数の複雑な糖鎖が細胞の表面にあることにある。これらの糖鎖は細胞表面の飾りではなく、それぞれが大事な役割を持っていることがだんだん分かってきた。実はまだ分かっていないことの方が多いので、私などの出番がまだあるのである。
たとえばシアル酸を持つ糖脂質はガングリオシドと呼ばれているが、このガングリオシドは脳に多く、このガングリオシドを作ることの出来ないネズミを人工的に作成すると、このネズミは神経の発達がおかしくなって突発的に死んでしまう。具体的な作用機作はまだ分かっていないが、ガングリオシドの重要な役割を示唆している。
一方でこの数年の間に、シアル酸を認識するタンパク質(SigLec)が何種類も細胞表面に存在することが知られてきた。このようなタンパク質とシアル酸を含む糖鎖との相互作用が、細胞の正常な機能のために大事なことに違いないことは容易に想像できる。結合反応があれば、それを解除する反応もなくてはならない。つまり、シアル酸を切るシアリダーゼが働かないと生体は困るわけで、実際私たちの細胞には多くの種類のシアリダーゼがある。
タミフルはインフルエンザウイルスのシアリダーゼに結合して増殖後の拡散をブロックするだけではなく、生体内のシアリダーゼに結合してその機能を阻害する可能性がある。実はインフルエンザウイルスシアリダーゼの認識する糖鎖は、シアル酸単独ではなくシアル酸を含めた糖鎖である。生体内のシアリダーゼも同様である。シアル酸を含む糖鎖には沢山の種類がある。したがって、タミフルが両者を全く同じように阻害するとは思えないが、それは実際に調べてみないと分からない。
というわけで、タミフルの副作用(正確には副作用ではない)は生命科学を知っていればある程度予測されることである。製薬会社も当然これは知っているだろう。もし生体内のシアリダーゼとタミフルの相互作用を調べていて、その作用を全く阻害していないことを記述しているなら、発表して欲しい。今回の副作用は全く新しい生体反応の存在を示唆しているわけだから。
カテゴリ:研究室風景
私たちの研究室の修士3年生である胡丹くんは、来年ここの修士課程を出たら日本の博士課程に入って勉強したいと言っている。
胡丹くんは糖質科学の研究をやりたいと希望しているので、日本の大学に所属するこの分野の有数の研究者のリストを書いて秦くんに「よく調べて、何処に行きたいと希望するかを言ってくれたら、メイルでお願いを書くから。」といって渡しておいた。
その中で超有名一流某大学の先生のところに行きたいというので、長文のお願いを書いた。
ところが友人だと思っていた某大学の先生からは、あっさりと簡単な断りが来た。某有名大学の教授になると、こんなにも冷たいものか。
胡丹くんが次の行き先候補を持ってくれば、またお願いのメイルを書くことになる。
ところで胡丹くんは彼のガールフレンドに付き添って昨日から毎日病院に行っている。彼女が下血しているそうだ。病院から戻ってきた彼に聞くと「抗生物質の点滴を十日くらい続けるそうです。」という返事が返ってきた。どういう診断を受けたのだろうか。
ここの学生は、何かあると直ぐ病院に行って、そして点滴を受けて帰ってくる。
私はここに2年以上いるけれど、病院には決して行かない。どう見ても衛生的ではないのに、注射されそうになったら断れないからだ。
教師の会のホームページからリンクを張って、先生二人の個人的なブログにアクセスできるようにした。これは「瀋陽日本語教育現場の声」を関心のある人たちに伝えるという一大プロジェクトの一環である。
ついでに私のHPにもリンクを張った。
このようなブログを作る仲間を増やすために、仲間の男性教師Bさん(岡沢先生)に、次の時の定例会にブログの作り方の解説をして下さいとお願いした。
「承知しました。しかし、説明をその時にしただけでは誰も始めないでしょうから、今のHP 係(8人いる)が今すぐブログを始めましょう。やりかたは簡単です。ブログを始めるのがいかに簡単だったか、あるいは苦闘の様子を話すと皆にわかりやすい から、直ぐに始めましょう。」そして私にも名指しで、「HPだけではなくブログも始めなさい!!!」と、檄が飛んだ。
名 指しの私は逃れようがなく、この忙しいのに、何と、ブログ造りを始めてしまった。今週の木、金、と新しい内容の講義がある。そして土曜日は研究室のセミ ナーで新しい論文を紹介しなくてはならない。勉強のために全く知らないカルシウムイオンチャンネルに関する論文を紹介する予定で、読むものがたくさんあ る。
火曜日の朝には、推薦されるままのYahooでつくったところ、出来が気に入らない(字の間隔があいてしまう)。それで夜帰ってからDoblogで作り始めた。ところがこれはアクセスに時間が掛かって、ドメインを二つ作ってしまったらしい。けれど自分のページにアクセスできない。
次にinfoseek にアクセスして、楽天にブログを作った。これはスタイルが多少田舎臭いところがあるが、初心者でも迷うところが少ない。おまけにブログへの書き込みは公開 するところだけではなく非公開分も指定できる(つまり秘密の日記が書いておける)。これはあとで自分だけで見ることが可能である。
と言うわけで火曜日には3つのサイトにブログを作ってしまった上に、水曜日には私のMacについているexciteでブログを作った。これは大分スマートだし、アクセスも簡単である。問題は、カテゴリーにどのように指定したらよいのか、まだ分からないことである。
つまり今4つが走っている。まるでブログ荒らしである。ごめんなさい。二〜三日のうちにどれか一つに絞り込もうと思う。楽天かexciteになりそうである。
ほかの先生たちもやっているかなあ。
やって欲しいよなあ。こんな大爺が頑張っているんだから。
カテゴリ:ブログ
瀋陽日本人教師の会というのがある。日本語教育に携わっている先生たちの集まりである。
教師たちの現場の声を伝えるホームページを作ろうという声が上がって、男性教師Bさんが「それにはそれぞれがブログを作ることです。簡単ですよ。やってみましょうよ。」と勧めるので、それに乗って作る気になった。
何人かの先生たちが作ったブログに、教師の会からリンクを張れば、教師の会としてはひとまず目的は果たせることになる。
あとはそれぞれの、つまり現実問題としては私の、たゆまぬ努力だけ。
というわけで、ここに私もブログを持って、毎日とは行かないかも知れないけれど、瀋陽から大学の現場の雰囲気を伝えようという体勢は整ったことになる。
再見。
コメント:
お疲れ様でございます 男性教師B さん
元凶の教師Bです。できるだけ先生方に試しにブログを作ってもらいたいと思うのですが、どのようにしたらよいのでしょうか。ヤフーのメールアドレスを使っている人なら トップ→ブログ→作成 でできてしまうものなんですけどね。更新を続ける人数人でコミュニティをつくるか、廃墟続出を覚悟である程度皆さんに作っていただくか。 どんなものでしょう。 (2005.11.26 02:40:50)
だいたいが 山大爺 さん
おっちょこちょいで、しかも書くことが苦にならない人でないと、こんなことを始められませんね。
私は昔は自意識過剰で悩んでいましたが、今はそれをさらりと投げ捨て、裸のままの自分をさらして怖いものなしですが。 (2005.11.27 08:06:05)
筆不精ですが・・・ 女性教師D さん
なるほど。私は「おっちょこちょい」だからブログ開設プロジェクトにうまくのせられたのかあ。今頃気づいて、10日以上前の記事にコメントするところがまた私の抜けているところなんでしょうね。 (2005.12.05 19:08:33)
Dさんが shanda さん
「おっちょこちょい」じゃなかったら、敬遠してしまいそう。「おっちょこちょい」でよかった。
元気で研究熱心な学生が今ひとつドジばかりやるのです。「おっちょこちょい」を教えたら、直ぐに覚えて、ヘマをする度に「I am occhokochoi」といって皆を笑わせていました。今は、カナダに行きました。 (2005.12.05 22:14:37)
カテゴリ:研究室風景
primersがやっと届いた。日本だと、注文日を入れて3日で発注したprimerが手元に届く。
primerは今やDNA鑑定、犯人特定などで世間の隅々にまで知られている、遺伝子増幅PCRに使うものである。特定の遺伝子ごとにそれぞれに(そしてそれだけに)適合するprimerを使う。
ここではprimerを上海に頼む。手に入れるのに数週間掛かる。注文はコンピューターのonlineで出すから瞬時である。先方の発送はEMSだから、上海からでも1~2日で到着する。
先週注文して2週間経っているのにまだ来ないじゃないか、催促しなさいと叫んだ。それから1週間経たずに手に入った。催促を受けてから合成に取りかかっただろうと思わざるを得ない。
10月初めに北京に発注したソフトアガーはまだ来ない。理化学会社に在庫がなくて、アメリカに発注するなら3~4ヶ月掛かるのは常識である。国内在庫があるからと言うので注文したのだ。その後何度電話をしても、誰も責任を取らない。
やれやれ、何という国なのだ。
コメント:
研究材料 男性教師B さん
理系だとどうしても専用の機械・材料がきちんと手に入らないといけないので大変ですね。文学系の場合はオンライン化されていないためとにかく本や論文を入手できるようにしないといけないわけですが、主要な学術雑誌すらちゃんとそろえているところがそれほど国内にあるとも思えないので、結局半年に一度日本に戻ったときにかき集めてくるしかありません。ネットで手軽に論文が手に入れられるような仕組みがほしいところです。 (2005.11.26 02:48:37)
競争相手 山大爺 さん
アメリカは科学領域での今後の強力な競争者として中国を位置づけています。
宇宙ロケットをとなしてる国ですから、当然そうなるでしょう。
でも、一人一人の仕事への誠意、能率重視が身に付くのにはまだ時間がかかりそうです。
(2005.11.27 08:03:02)
オリジナルというもの 男性教師B さん
中国のロケットはソ連製のもののデッドコピーだからうんぬん、という話をよく聞くことがあり納得していたのですが、とはいえよくよく考えてみると実際に飛ばすのに成功しているわけで、失敗続きの日本の最先端ロケットとは対照的です。技術的・金銭的な条件が違いすぎて比較するべきものではありませんが、それにしても印象の違いは大きなものです。
というわけで卒論を控えた4年生のゼミ的授業であれこれとやっているのですが、引用とオリジナルの区別をつけましょう という基本中の基本がどうしても守ってもらえません。道のりは果てしなく遠いようです。 (2005.11.29 02:00:00)
引用とオリジナル shanda さん
これを明確に区別しないで人のことでも自分の考えたことみたいに話すというのは良く聞きます。
理系でもそうです。
発表の時にその区別をしっかりつけて話すよう、指導していますが、ほかの大方の人たちの発表ではこれが至極曖昧です。
不思議な文化ですね。 (2005.11.29 09:26:59)
カテゴリ:研究室風景
私たちは2000年からこの大学に毎年1回来て講義をしていたが、2003年からはここに定住している。
来てしばらくは、いきなり部屋に訪ねてきて「日本に留学したいので、良いところを紹介して欲しい」と言ってくる学生が後を絶たなかった。中国人の日本留学熱は依然冷めていない。出来れば欧米諸国に行きたいのだろうけれど、今はvisaも厳しいし、隣国なら行くのは近くて良い。
このように安直に言ってくる学生にはもちろんその場でお断りをしている。「良いところに行きたい」というのは自分が専門として将来何をやりたいかではなく、日本の有名大学の名前を希望しているからだし、だいたい今会ったばかりの学生を推薦することなど出来るわけがない。
それで、「あそこは日本人の先生だけれど2年以上そこにいないと推薦してもらえない。」と言うのが評判になったためか、卒業研究で私たちの研究室に入ってくる学生も、推薦して欲しいと言わずに自分でインターネットで探すようになった。
一人は京大大学院の試験に通ったら来ても良いと言うことらしいし、もう一人は富山大大学院に行くことになったと聞いている。しかし最近また日本の大学院探しをしているので、もっと有名大学に乗り換えたいのかも知れない。
それならそれで、先方への断り方を教えなくては大変失礼なことになるかもしれない。中国人は何でも自分のものの考え方が第一優先で、不都合になった時の断り方を知らない。だいたいが知らん顔で済ましてしまう。文化の違いと言えるが、私たちにはいつまで経っても馴染めないものである。
コメント:
研究計画書 男性教師B さん
昨日、何人かの日本人の手を経て「研究計画書」の日本語チェックを頼まれました。現物を見て嫌な予感はしたものの、枚数2枚と聞いて いいですよ と安請け合いしてしまった以上やらないわけにもいかず、普段の学生の作文の添削の数倍の手間と後悔に襲われました。
何よりもやる気を奪ってくれたのが、研究計画書なのに研究計画が全く書かれていないという素晴らしさです。自己紹介とエッセイの合わせ技になっていました。こんなの出しても通らない、そもそもこれまで聞いていた話から想像するにこれが日本へ送られる可能性はかなり低そうだ、と考えてしまうと、目の前の意味の取れない文を読める日本語に直している作業が実に虚しいものに思えてしまいました。
まあ顔も名前も知らない、どこの誰が書いたのかもわからない文章の校正をほいほい引き受けてしまった私が悪いのでしょうけれども。 (2005.11.26 05:59:59)
瀋陽日本人教師の会というのがあって、私たちはそこに入れて貰っている。日本語を教える日本人教師が異境の地で互いに互いに助けあうという目的で作られている。私たちのような「日本語を教えないけど日本人教師」が入って二年経ったこの秋、会員資格は「この地で日本語を使って教育・研究にあたる日本人教師」という具合に会則が改められた。私たちも今は大手をふるって会員である。
日本のNGOの助けを借りて、数年前にビルの3階を借りて日本語資料室というのが開設され、今、教師の会はここを拠点として活動している。毎月一回定例の集まりがあり、病気や出張などのやむを得ない理由を持つ人たち以外は出席する。出席率は何時も9割を超えている。
この会は会のスムースな運営のためにいろいろの係が置かれているが、会員は誰もが何かしらの役割を果たすことが求められている。このような会は珍しい。大抵の会は運営のための係を数名置いて後は何も求められない一般会員で良いことを考えると、この会はとてもユニークである。私もそのユニークさが気に入って、この教師の会を少しでも助けたいという気になってしまったのだった。
代表と代表を助ける連絡係、日本語クラブ編集係、ホームページ係、日本語教育研修係、日本語弁論大会係、書記、会合運営係、資料室係などがある。最初の1年、私はホームページ係をしながら日本語クラブの編集に携わったが、二年目以降はホームページ係専門である。資料室係は昨年度から作られて、この係の努力のおかげで、資料室が格段と整理されてとても綺麗になった上に使いやすくなった。
日本語の辞典、辞書、教科書、文学書、教養書、娯楽書、ビデオなどが壁一面に置かれていて、この会の会員はもとより、各大学・学校の学生でここに登録をした人には自由に借り出すことが出来る。従って日本語の先生に連れられて日本語を学ぶ学生はここをよく訪れることになる。
1階にはカレーを出すレストランがあって、普通の日にはこの店の女主人が3階も管理しているが、もちろん、ついでである。それで、教師の会では毎週土日は、午前の部、午後の部と分けて、会員の先生たちに日直を割り当てている。現在会員は三十数名いるので、半期に二回くらい当番をすればよい。それでも希望者のない時は、資料室係の先生が自発的に当番を買って出ている。資料室係の先生がたの真面目さには脱帽ものである。
土曜日の午前中は私たちは大学でセミナーをやっているので、資料室の日直は大抵が日曜日である。今まで何度も日直をしたけれど、来訪者はほとんどない。初めて資料室を訪れて利用者になる学生には利用証を発行する。その利用証を書いてラミネート加工をするやり方を何度も教わっているにもかかわらず、まだ初めて利用するという学生の来たことがなく、何時も肩すかしにあっていた。日曜日よりは土曜日の方が学生の利用率が高いらしいというので、今回は土曜日の午後、資料室の当番をすることになった。
今日の午前のセミナーは時間が掛かってやっと12時に終わり、私たちはタクシーに乗って資料室に出掛けた。交代時間は1時だが、着いたらまず1階の店でカレーを昼食に食べようという魂胆である。「小北関街にやって」とタクシーに言うと今日は1回で通じた。そのあと運転者がなにやら言うので、「ごめん、ごめん、日本人なんだ。」というと、「日本人なのか、もう何年ここにいるんだ?」と訊く。このくらいは分かるので「2年さ。」までは良かったけれど、そのあとは「ちんぶんかんぷん」だった。
それでも、こちらが中国語で話しかけると、彼は「ティン・ブ・ドン」という。これは「聞いても分からない」という意味で、私たちが中国人に話しかけられて、真っ先に言う言葉がこれである。中国語で話しているつもりなのに、中国人に言われてしまって、こちらは目を白黒である。いまだに言葉の道は遠い。
ちなみに、「ちんぶんかんぷん」は大辞林によると「珍紛漢紛」と言う字をあて、「言葉や話がまったく通じず、何が何だか、さっぱりわけのわからないこと」書いてある。これは、中国語の「ティン・ブ・ドン。カン・ブ・ドン」がもとであると、なにかで読んだことがある。「ティン・ブ・ドン。カン・ブ・ドン」を早口で発音すると「チンプンカンプン」になる。
「ティン」は「聞く」「ドン」は「分かる」であり。「カン」は「看(見る)」なので、「聞いても分からない、読んでも分からない」である。ここに暮らすと中国語がもとに違いないと言うことを実感する。
さて、午前の日直の先生から引き継ぎを受けて妻の貞子と二人で資料室にいた今日の午後は、今回も期待に反して訪問者が一人もいなかった。1階のレストランが閉まる3時半頃、それでは私たちも店仕舞いして帰ろうかと言うことになった。それも帰るなら、店の女主人が店を閉めて帰ってしまう前がよい。自分で鍵を閉めるという手間が要らないからである。それであわただしく身支度をして「それじゃ、お先に。」と店を出てタクシーに乗った。
タクシーが2ブロックくらい行ったところで、湯沸かしの電源を切るのを忘れたことに気付いた。戻らなきゃいけない。だけど運転手に何と言ったらいい?
窮すれば通じるとはよく言ったもので、「さっきのところに戻って欲しい。」とは中国語で正確に言えないまでも妻は意を何とか通じさせて、タクシーは店の前に戻った。「待っていて。」と私独りが店に戻ったが、店のガラス戸は中から自転車に使うチェーン錠が掛けられていて中に入れない。でも、店の女主人は中にいることは確かである。しかも3階に。
ガラスドアの隙間から私は思いつく限りの中国語と日本語で、私が用事があって戻ってきていることを叫び続けた。すると、店の外の通りにたむろしている人たちがわらわらやってきて、一緒になって、「おーい、開けて呉れよ。」とドアや窓ガラスを叩いたりしながら、一緒に叫び始めたではないか。この人たちが入って来られないように、彼女が3階で帳簿を付けている間は、店を中から鍵を掛けているというのに。
なかなか叫びは通じない。すると妻を乗せたまま道に停まっていたタクシーの運転手も降りてきて、私の加勢を始めた。私はドアの隙間から叫び続け、彼は歩道から3階に怒鳴り続けたのである、街の喧噪のただ中で。
10分くらい叫び続けたような気がしたけれど、実際は恐らく5分もしないうちに彼女は叫びを聞きつけて降りてきて、鍵を開けて私を入れてくれた。それで、忘れた湯沸かしの後始末をやることが出来た。
中国人はこういうときにとても親切だと聞いていたがその通りで、困った私を何人もの見ず知らずに人たちが助けてくれた。日本でもきっとそうだろう。庶民はどこの国でも気が良くて親切なのだ。
同じタクシーでアパートまで帰って、15元の運賃に20元を出して、おつりの5元を「貴君のよ」と言って運転手にあげた。ドジなことをした日だったにもかかわらず、こちらもなにやら良いことをした気になって、気持ちが和んだ一日だった。
カテゴリ:研究室風景
陽暁艶さんが、昨日の夕方、教授室に訪ねてきた。入り口で「入って良いですか?」と声が掛かって、「明日のセミナーに出られなくなりました。授業が入ってしまったのです。今年いっぱいの土曜日の午前中は授業があるので出られません。残念ですけど。」と言う。
彼女は昨年度から私たちの研究室に出入りしてどうしても勉強したいと言ってきた。とても感じのよい学生だったのでOKした。
「それじゃ仕方ないけれど、残念ですね。金曜日の夕方はどうです?」「ええ、大丈夫ですが?」
「来週の金曜日の夕方研究室でパーティーをやるけれど、出られます?」と、これは私。彼女にも来て欲しい。
「ええ、出られますけど、ボーイフレンドがいないけど、出ても良いですか?」
これは、私たちの研究室のパーティは伝統的に、ガールフレンドかボーフレンドを連れてきて良いことになっているのである。元来、少人数の研究室だったのでこういうことを始めたが、とても良い感じである。身近な研究室のことだけではなく話題が広がって良い。
暁艶さんにはまだボーフレンドがいないとのことで、「いないから、来るのを遠慮しなくちゃ、」と冗談を言ったのである。
来週の金曜日は久しぶりに楽しいパーティーになる予感がある。
コメント:
独り者の憂鬱 男性教師B さん
パートナー同伴のパーティーとは欧米的で面白そうですね。日本の研究室でやったら出席できない男子学生がほとんどになってしまいそうですが… (2005.11.28 13:54:16)
不思議な国の山大爺 shanda さん
ここに来た時は、構内を人目も気にせず男女のペアが歩いているので、はじめはびっくり。
彼らはべたべた、くっついています。
何か頼み事で女子学生が私を訪ねてくる時など、何故か見知らぬ男の学生が一緒に入ってきます。紹介するでもなし、しゃべるでもなし・・・。
ともかく私達の研究室は、全て公認、まとめて面倒を見ています。 (2005.11.28 17:50:41)
カテゴリ:研究室風景
毎週土曜日の午前中は研究室のセミナーをやっている。二人が当番になって、一流誌に載った最新の論文を読んで、英語で紹介する会である。
昨日は私も当たっていた。カルシウムの細胞への出入りがどのようにコントロールされているかというNatureの論文に加えて、この新発見につながる領域の全貌の紹介をした。
なんだか、講義みたいになってしまったが、もちろん私の勉強になった。これで、Stim1という、tumor suppressorであり、カルシウムの細胞内貯蔵濃度のセンサーである分子を手元に取り込んだ感じである。
この分子は、ガングリオシドGD1aで制御されていると言うのが、私たちの研究室の最近の研究成果である。いまは、どのような機構でガングリオシドがこの合成を制御しているかということに取り組んでいる。
コメント:
はじめての書き込み 女性教師A さん
先生の本業のお話、私にはちんぷんかんぶんです。でも聞き慣れない専門用語の文章読むとなんだか脳がいい感じに刺激されます。ところで先生、ご本業の研究に加えてブログやHPの管理などいろいろ幅広くやっていらっしゃって、一体いつ寝ていらっしゃるのでしょう。素朴な疑問です。 (2005.11.27 23:05:29)
セミナー 男性教師B さん
文系ではたいていゼミと呼ぶのは英語化が進んでいない(皆英語ができない)ためなのでしょうか。セミナーというと学会主催の勉強合宿を連想してしまいます…
生物は物理化学選択だったため基本すらわからないのですが、文系のゼミの運営のため試行錯誤しているところなので一度見学にうかがわさせてもらえると大変勉強になるように思います。機会がありましたらよろしくお願いします。m(-_-)m (2005.11.28 06:45:21)
私達の研究室セミナー shanda さん
セミナー、ゼミ(ナール)はいろいろの場合に使いますね。
研究室に講師を招いて講演して貰う時もセミナーですし、研究室主催で院生のための勉強会もセミナーです。
私たちの土曜日のセミナーは、ジャーナルに載った論文の紹介なのでジャーナルクラブとも呼び、水曜日の自分たちの研究進捗状況の話はプログレスレポートと呼んでいます。どちらもセミナーなのですけれど。
研究室に所属する学生以外の参加は断っていますが、このたびはご希望を入れて、何時でもどうぞおいで下さい。 (2005.11.28 09:33:46)
ゼミ見学 男性教師B さん
お計らい大変ありがとうございます。ではすぐに、と言いたいところですが自分の授業と重なっていまして、うまくこちらが休みになるときを狙います。水曜日の進捗状況報告会は通常何時からとなっていますでしょうか? (2005.11.30 04:34:23)
水曜日のセミナーは shanda さん
それぞれの研究の進捗状況の発表なので、それこそ企業秘密なのですよ。おまけに実験のやり方を咎めたり、しかったりして彼らの面子をつぶしますから、ほかの人たちに見られたくないでしょう。
ですから、水曜日は申し訳ありませんが公開できません。
土曜日は、学生が(私のこともありますが)論文を自分で見つけて読んできて、それを英語で発表するのです。私を含めて誰もが英語修行中の身ですから、聞いていて疲れますよ。 (2005.11.30 10:11:53)
男性教師Bさんの熱心な勧誘によって、女性教師DさんがBlogに登場した。
これで、教師の会のHPからリンクしている個人Blogは4件になった。それぞれを訪ねれば瀋陽の日本語教育の現場がのぞけるという趣向。
男性教師Cとして登場している私は、最終的にはラクテンのblogだけに書き続けていて、あとは自然消滅。
ラクテンのblogはほかのと比べてあか抜けていないのが難だけれど、使いやすいのが気に入った。ただし、ラクテン仲間はあまりacademicではないみたいな印象を受けている。これは、教師の会のHPの中にBlogがあればよいのだから、我慢しよう。
三日坊主にならずに6日間続いたので、昨日自分のHPからもリンクを張り、Blogを持っていることもメニューに載せた。
男性教師Bさんの熱心なBlog布教に応えて、Blogがもっと増えて欲しいし、そしてその時は続けて欲しい。
ところで、日本語クラブ21号をwebに載せてから、少しずつ写真を増やした。
昨年度までの会員だった沢野美由紀先生からは、瑠璃ちゃんの写真が届いた。会合には何時も連れられて出て来ていた瑠璃ちゃんは物怖じしない性格で皆からかわいがられていた。
このほか印刷された日本クラブには入っていない写真が載っているのは、鳴海、高山、峰村、丸山、石井、加藤、金丸の諸先生の分です。
今回の21号並みに以前のページもこぎれいにしたいのですが、時間が掛かりそう。ま、引退したら、ね。
カテゴリ:研究室風景
昨晩、日本に留学している朱性宇くんから電話があった。私達の研究室の1期生と言える朱くんは昨年4月から慶応大学大学院に留学している。奨学金にも恵まれて快適に研究生活を送っている。
彼には同級生の恋人がいて広州で就職したので、まだここにいる時のSt. Valentine's Day(中国では情人節と呼ぶ)では片道3日も汽車に乗り、彼女に会いに行った。1週間休みますと言って、実際に彼女に会っていたのはそのうち1日だけだったらしい。ヤレヤレ。男はつらいね。
その彼女も日本で勉強する決心を固めて、今年の初め日本に行った。慶応大学の先生は、朱くんの奥さんが来たと思っている。中国で結婚届を出しているのだろう。
彼女は一生懸命に勉強をして、今年の9月東京工業大学大学院を受けて入学することが出来た。昨日の電話は、入学金半額、授業料全額免除の通知を受けたと言う喜びの電話だった。よかった。この免除があれば、朱くんの奨学金でぎりぎりかも知れないけれど、二人で暮らしていける。
朱くんは優秀なだけでなくとても良く気が付く人で、薬科大学にいる間は5年間クラスの班長だった。班長なので、皆に心配りをするのかも知れないが。
慶応大学を訪ねて研究室セミナーに参加した時も、皆それぞれが椅子を見つけて着席したのを確認してから自分も座っていた。この気配りは彼の身に付いたものなのだ。
コメント:
遠恋 男性教師B さん
一日会うために片道3日かけていくというのはすごいものですね 地球の裏側より遠そうな距離です (2005.11.29 01:37:54)
沖縄でしたっけ? shanda さん
となりの島の雌犬に恋した犬が海を泳いでいく話がありますね。このこと以来、朱くんに会うとテレビで見た海を泳ぐ犬の顔に彼の顔が重なって見えますよ。 (2005.11.29 09:18:17)
カテゴリ:薬科大学
薬科大学の中央に1周400メートルのトラック競技場がある。この400メートル走路のところに、1週間前からトラックとブルドーザーがやってきて土盛りの土手を築いた。
冬のスケート場作りの始まりだ。今朝来てみると昨夜から水を出し始めたみたいで楕円形のリンク予定地の10分の1くらいが水と氷で薄く覆われていた。これから10日くらい掛けて撒いた水を凍らせてスケートリンクの氷が出来上がる。
大学の冬の体育はスケートなのだという。授業時間以外に滑るのは自由である。やがてリンクの内側に氷の土手をもう一つ築いてアイスホッケー専用のリンクが出来て、それは見事に上手い男たちが滑り始めるようになる。
冬は間近だ。
コメント:
滑って転んで 男性教師B さん
うちでは広いグランドはそのままで、真冬にはマイナス20度の中で学生がサッカーに興じている光景を見ることができます。何を考えているんでしょうか。
スケートリンクはバスケットボール場に作られるのですが、去年学生に勧められるままに十数年ぶりのスケートに挑戦し、凸凹なリンクで滑って転んで頭を打ち、失神したことも今では懐かしい思い出です。後遺症で若干頭の弱いヒトになってしまったような気がしないでもありません。 (2005.11.29 00:56:25)
頭を打って shanda さん
危ない経験でしたね。
私はシカゴに修学している間にスケートを覚えました。野外で同じように作ったスケートリンクでした。
帰国してからは時々スケートに通いました。向ヶ丘のスケートリンクで転倒して頭を打って、しばらく意識がなかったそうです。そしてそれ以来頭の弱い人になったと言うことです。 (2005.11.29 09:13:24)
スケート転倒とネット発信度の相関係数 男性教師B さん
私の場合、整備されていないというより水まいて凍らせただけのリンクで、凹凸に気づかず瞬間的に転倒して頭を強く打ち、意識が戻るまでしばらくかかったそうです。その後皆でご飯を食べて戻ったのですが、私の記憶にあるのは次の日起きたところからです。若い女の子たちとの食事を覚えていないなんてどうしたことでしょうか。不覚です。(いつもは公平性等のために特定の学生と食事することはありません)
ブログでうだうだと文章を書くには、一度スケートで転倒して気絶することが必要なようですね(サンプル数2)。ではブログ開設を拒否する方々にはまずスケートに興じてもらおうということになりますね。 (2005.11.30 04:49:51)
偉大な発見です!!! shanda さん
男性教師Bさんへ。
サンプル数はまだ少ないけれど、これを増やす努力をしましょうか。
ブログプロジェクト変じて「スケートに誘って転んで貰う」プロジェクト」。
でも結構大変そうですね。
おまけに校庭のリンクにはまだ水を蒔き切っていないし。 (2005.11.30 10:04:29)
カテゴリ:瀋陽の生活
頭から被って首にはめるマフラーがこの地にあります。腹巻きを思い浮かべて下さい。それを首の太さにはめることとして作ったら?ほっそりとした毛糸の筒が出来ますよね。これを二重にして頭から被ります。
これを隣の研究室の大島教授が私たち二人に下さいました。彼は中国生活が長くて、このようなものを見つけてこられるのです。今は日中最高温度も零度近辺です。風が吹くと襟元から冷気が凍みて身体が震え上がります。
私がこれを首につけると妻が笑い転げました。私の首が短いからです。二重のマフラーは下からまくれ上がって自然に三重になります。でも、これを顎から口元までずり上げても下の方もちゃんと覆われていて、空きの出来ないのは首の短いおかげなのです。
彼女には出来ません。首が短くて得することもあります。
コメント:
マフラー 男性教師B さん
そういえば私は-30度でもマフラーをしません。移動が短い上に歩くだけで汗をかく体格なので、建物に入れば冬でも暑い暑いと言っています。暑いからちょっと外出てきます! なんていうほうです。
ところで、奥様の名前がブログリストに載っていませんがこれは一体どうしてしまったことなのでしょうか。前向きな善処をご期待申し上げます。>男性教師Cさん (2005.11.30 05:25:48)
瀋陽の寒さでも shanda さん
マフラーなしで済むとは凄い人ですね。日本語教育の情熱に燃えていらっしゃるのですね。
ところで妻は絶対にブログをやらないタイプですよ。スケートリンクで転んで頭を打つというのも、うまくいかないでしょう。彼女はスケートの達人ですから。 (2005.11.30 10:20:58)
カテゴリ:友だち
と言うと、中国人の友人と思われてしまうだろうけれど、実は日本人の友だちである。瀋陽に来るまでは私たちの友人は研究者仲間がほとんどだった。研究に明け暮れていると、それ以外の友人と過ごす時間がまずない。
瀋陽に来て日本人教師の会という日本語を教える先生たちの会に入れて貰った。そこで出会う人たちは今までの研究者仲間ではないので、私たちは新鮮な世界に接した感がある。
そのひとりである加藤正宏先生は昨秋薬科大学に着任した日本語教師で、もとは高校の歴史の先生だった。瀋陽は昔の満州国の中心都市の一つだったから、史跡を訪ね歩くのが無上の喜びのようだ。加藤先生からは戦前の満鉄や奉天市のマークの付いたマンホールの蓋を見て歩く楽しさ、路上市で探す古本を見つける喜び、石を買ってきて印鑑を彫る楽しみなど、様々なことを教わっている。
今ちょうど、加藤夫人が2週間のビザなし滞在中で、昨夜は彼らのアパートに招かれて美味しい巻きずしをご馳走になった。お互いに専門が違うのにこういう友人が出来たというのは、以前には思っても見なかった瀋陽での生きる喜びである。
コメント:
ネタの宝庫 男性教師B さん
マンホールネタや古本市はブログにもってこいのテーマなのですが、なんとか加藤先生にもブログプロジェクトに参加していただきたいものです。特にマンホールは同好の士が大勢いそうですね。マンホールに関するブログを書いている人も大勢いそうな気がします。そういう人たちにとってはこの地はある意味憧れの地かもしれません。 (2005.12.01 01:45:29)
まず無理でしょう shanda さん
加藤先生を誘いたいけれど、先ず無理でしょうね。つまり、そういうタイプではないのですよ。
ブログをやりましょうではなく、「あなたにはとてもできないでしょう」と言えば、反発してひそかにやってのける、と言うタイプでもないみたいですし。
(2005.12.01 12:36:58)
残念至極にございます 男性教師B さん
うーんそうですか。残念です。加藤先生が加わってくれれば外部からのお客さんも見込めて面白くなりそうなんですけどね。 自助努力で自分のところからトラックバックで客を呼ぶようにします。まずは自分が面白い文章を書けないといけないんですね。そこからすでに難問です… (2005.12.01 12:53:39)
カテゴリ:研究室風景
今日の夕方は研究室のセミナーで、Progress Reportと呼んでいるものだった。研究室の院生は毎月1回自分の研究を全員の前で英語を使って報告する。今日の演者は関くんと鄭くんだった。
関くんはsiRNAを使って二種類の糖の合成を改変した細胞を作った。それぞれのクローン細胞を25株くらい取ってそれぞれの糖脂質と糖の合成酵素の発現を丁寧に調べた。大変手間の掛かる仕事だけれど彼は一切の手抜きをしない。この改変細胞を使ってシグナル伝達を調べ始めたのだった。
鄭くんはある条件下の二種類の細胞の挙動を調べて、その時のシグナルの伝わり方を比べている。
研究室が始まって2年経ち、やっと今、話をする院生に仲間から的確な質問が飛び、自分の見解を述べ議論するするようになった。これまではずっと、誰が何を話しても、まるで関係ないよ、まるで分からないよと聞き流していた院生だった。細胞のシグナル伝達なんて聞いたこともなかったのだ。が、自分たちもシグナル伝達の研究をするようになって、自分でもいろいろと考えるようになったことを示している。
今までは私たちが司会も、質問も、議論も、指導的発言もすべてやってきたのだが、今日は院生の発言を聞きながら、妻と二人で満足の視線を交わしたのだった。
夜の帰り道は牡丹雪が舞い、うちに着くまでに真っ白になりながらも、火曜日に池島喬先生からプレゼントされた首巻きに顎まで埋めて幸せな帰り道だった。
コメント:
半人前からの脱皮へ向けて 男性教師B さん
うーん、先生方お二人でも二年かかってしまうんですね。うちできちんとした議論が院生間で成立するようになるまでいったい何年かかることやら… 丸写しするな、きちんと引用しろ、自分の意見は?と言い続けてる現状からは果てしなく遠い世界のような気がしてきました。
未熟者の私の場合、同化して共に成長していく、という心づもりでいいのかもしれません。研究室の先輩として後輩を手取り足取り、という感じの指導体制を整えたいところです。文系では普通は個人作業なのでそのような形はとらないのですが、全寮制だしまだ研究テーマも決めてないし研究したいこともないし、という状況なので理系的な共同体での研究に大いに学びたいと思うこの頃です。 (2005.12.01 04:08:42)
なるほど shanda さん
文系の男性教師Bさんが、何故私たちのことに興味を持たれるかが分かりました。
不思議に思うのですが、社会主義国として始まったこの国は、民衆一人一人の意見を大事にして議論討論を重ねて成立してきたと思っていました。
これは全くの思い違いのようです。この国は上意下達で、意見、批判を公式には言わないという習慣に皆が染まっているのではないでしょうか。 (2005.12.01 13:26:31)
人民.共和国 民主主義.共和国 男性教師B さん
私の世代だと、協賛主義国家はトップの石ですべてが決まるものだという認識が子供のときから強いようです。さらに国名は国を挙げてのギャグなのだと理解していたりします。
上意下達は絶対的ですね。国のシステムとして完成されているようで、自分の意見を述べるというのはシステム的に難しいようです。学問の場にまでそんなことを持ち込まないでほしいと切に思うのですが。 (2005.12.02 06:23:28)
今日の午前中、院生がサーマルサイクラーの字が見えなくなりましたと言ってきた。この機器はDNAのPCRを行わせるDNA増幅装置で、今の私達の研究室の一番大事な機器である。この1台がほとんどの院生の実験に使われているので、学生の増える来年の2月までにはもう1台必要で、今それを買うための工面をしている。1台どころか、今のが壊れたら2台買わなくてはならない。
今時の機器は表に液晶を持っていて、そこに情報が示される。今の設定だと、最初のサイクルが92度30秒、次いで63度60秒、などと設定した情報がこの液晶画面に出てくる。だから機器がたとえ正確に温度制御されても、その内容が読み取れなければ機器は使えない。
実験室に機器の名前を見に行くと嬉しいことには、これを買った時の会社の名刺が貼ってあった。この機器はもちろん日本から持ってきているので日本の会社だが、買ったのは6〜7年前のことだった。
この名刺にはe-mail addressも載っていたので、「まだ通じるかなア。通じて欲しいものだ」と思いながらも、mailを書いた。
「突然失礼致します。大分前にASTECのPC707-02を購入しました。今日突然液晶が暗くなり字が読みにくくなりました。どのようにしたものでしょうか。
ところで、購入時私は東京工業大学にいたか、あるいは日本皮革研究所に移っていたか、と思いますが、2003年に機器ごと中国に渡って、瀋陽薬科大学で研究・教育に携わっています。従って液晶の交換が必要でも、機器を日本に送ることも、技術者の方にこちらにきていただくことも容易ではありません。
液晶の取り替えと言うことだけで、それが素人にも出来ることなら、代わりの液晶を(この次日本に行くのが2月です)日本で購入して持ち帰ります。
それとも、もうすぐに液晶が機能しなくなるのでしょうか。そうなると私たちの研究は完全に止まってしまいます。液晶だけでなく、私達の研究室の研究も真っ暗になります。状況判断と対応をお知らせ下さいませんか。」
今の機器が壊れたらどうしても1台直ぐに必要になる。一方で今の1台では足りないのでもう1台来年2月を目途に購入しようと考えていたが、そうなると近々2台分の資金が必要である、それをどうやって捻出しようか。mailを出したあと、私と貞子は昼のパンを食べながら、相談していた。食欲の出る話ではない。
結局、機器も試薬も研究に必要なもの全ては私たちの年金から買っている。研究を進めるために必要なものは必要だ。買うしかない。と言う分かり切った答えがでたときに、電話が鳴った。
電話にでて「Hello」というと、「Can I speak to Mr. Yamagata?」という。「Yes, he is speaking」と答えた途端に言葉は日本語に切り替わって「ASTECの○○です。」
電話は日本からに違いないが、ここが日本であるみたいに明瞭に聞こえる。「今、いただいたmailに返信を書いたのですが、どうも文字化けしてしまったらしいので電話をしています。先ず、mailを確認して貰えますか?」と言うことだった。
Internet回線が細いのでmailを調べるのに時間が掛かって、その間貞子が代わりに電話で「お世話になります」なんて話している。
mailは すっかり字化けしていたが添付された機器の写真は明瞭だった。電話による説明では「液晶は数年から十年は持ちます。もちろん液晶の故障と言うこともありま すが、考えられる原因は、一つには温度の低下です。粘性が高くなると液晶表示が出にくくなることがあります。もう一つは、添付した機器の写真で分かるネジ がありますね、これを廻すと液晶の明度が調節できます。それかも知れませんよ。」
「もし液晶が駄目になっていたら、それを交換することも出来ますよ。でも、先ずネジを調べてみて下さい。」と言うことだった。「やってみて直ぐに報告しますから。」と答えた私が直ぐにネジ回しを持って実験室に向かったのは言うまでもない。
時間はちょうど午後1時で午前中使われていた機器は空いていた。外は雪でも暖房のために室温は22度ある。温度が低いからという理由ではあるまい。液晶表示調整ネジの問題か、あるいは液晶が壊れたかだ。
「今から直してみるから ね」と実験中の院生2人に声を掛けて、機器のスイッチを入れた。液晶には字が出てこない。そこで機器の後ろのねじを見つけて回すと、液晶盤がすっと白く なって字が黒々と浮き出てきたではないか。もうすこし回すと字も明るくなって地の色にとけ込んでしまう。ちょうど良いところで止めると、表示を読むのに何 の問題もない。
私の手許を見ていた院生は「そういえば昨晩の掃除の時にネジに触ってしまったかも知れません。」という。良かった。ともかく直ぐに直ったし、機器を2台買わなくて済んだ。
教授室にも戻って来てからASTECの○○さんに直ぐmailを書いた。機器が直ったことはもちろんだが、何よりも心を明るくさせたのは、この日本の機器会社の対応の良さと速さである。島津の分光光度計も、MS機器の画像解析装置も、Coronaのプレートリーダーも、故障と思われた時に問い合わせると直ちに返事が来た。二十三年前に買ったニコン顕微鏡も、部品在庫はとっくになくなっているのに、修理をしてくれた。一方中国の会社ではこのような対応は全く考えられない。
自分たちの製品と仕事に愛 着を持ち、責任感の強い企業戦士たちの存在は日本の大きな財産である。彼らは日本の誇りだ。構造計算を偽造し震度5にも耐えられないマンションを発注し、 設計し、建築した人たちが日本人の中にいることは大きなショックだったが、一方、大方の日本人はこのように責任か溢れる人たちなのだ。中国が今の勢いで発 展しても、信頼を得るようになるのはまだまだ時間が掛かるだろう。
カテゴリ:研究室風景
研究室の朝は私たちが一番乗りである。うちを7時前に出るので、7時一寸過ぎには教授室に来る。研究室の院生・学生は朝8時までには研究室に来て、しかも先ず私たちに必ず挨拶することになっている。一日は挨拶から始まることを教えている。
おかしなことと思われるかも知れないが、彼らの間では朝会っても挨拶をしないのが当たり前なのだ。
そういえば、日本でも、朝会っても知らん顔しているのが当たり前の研究所があった。そこに行ってから私たちは、朝出会えばそれが誰でもていねいに朝の挨拶をした。一・二年のうちに、朝の挨拶をすることが所員の間で定着した。
その研究所の所長は、所員の誰彼を「あいつは挨拶をしない。けしからん奴だ」と罵倒していたが、挨拶をするのは地位の下の人であって自分はそれに応えるだけだと思っている傲岸さは、私には馴染めないものだった。
古くからの友人であったその所長に、私は「相手を認めているかどうかの表れなので、挨拶をするのはお互い様でしょう。自分から最初に挨拶したらよいじゃないの?」と、私たちのやっている通りのことをいたけれど、彼には全く通じなかった。
ひと様々とはよく言ったものだ。人なつっこくて良い奴なのだが、愚かなのだ。
コメント:
挨拶 : 良い奴でもなく愚かな日本人B 男性教師B さん
子供のころ、先生や近所の人を別にすると、私は挨拶をしない子供でした。友達同士で朝会っても無言か おう 程度でした。
個人的なメンタリティの他に地理的な要因も強く関与しているような気がするのですが、おはようございます・こんにちは・こんばんはという挨拶言葉は少なくとも私の日常語彙には含まれていませんでした。
おはよう と言う習慣が全くなく、高校のときに女の子から おはよう と言われて即座に返せず、その後二度と口を聞いてもらえなかったなんてこともありました(涙。
こんにちは に至っては大阪の子供としてはほとんど外国語であり、恥ずかしくて使わない・使えない語彙でした。今でも昔からの友人相手には絶対言えません。
某放送局でバイトしていたときは挨拶がラクでした。よく言われるように オハヨーゴザイマス 一種類で済むのですが、何よりも気恥ずかしさのぬぐえない コンニチハ を言わなくて良いというのが最高でした。
今はさすがにそんなことは言っていられません。自分が日本では決して言わなかった挨拶を学生に強要しています。しかしなにしろ使い慣れていないもので、とっさに出てくる挨拶言葉は学生以上によく間違えます。それでも全く恥ずかしさを感じないのはもともと こんにちは こんばんは が私の日常語彙の中に入っていない、いわば学生と同様に外国語だからなのかもしれません。 長文失礼いたしました。 (2005.12.02 07:05:32)
「自分の尺度で世間を測ってはいけない」 shanda さん
というのは、長年の間に得た教訓ですが、それがBさんのコメントでがたがたと大きく警告的に振動しました。
Bさんの世界は想像もしなかったことでした。
うーん、なるほど。世界は広い。そうか、Bさんは全く知らない別の顔を持っていたんだ。このような新鮮な発見があるから、人との付き合いは楽しいですね。
(2005.12.02 09:33:37)
「挨拶の有無」と「挨拶言葉」 男性教師B さん
えー、すみません。自分でも二つの問題を混同してレスを返しておりました。
「挨拶をするかどうか」と「どんな挨拶言葉を使うか」というのは全くの別問題なわけですね。
私の関心は後者にあったので、自分のことをだらだらと書き散らしたわけですが、よく見直すと男性教師Cさんの文章にはどんな挨拶表現を使っているかは一言も書かれていないのでした。書かれていないことを勝手に想定して反論する、という学生が書いてきたら私でも厳しく指導してしまうようなことを自分でやってしまっていました(恥。どうもすみません。
私の書き込みの意図としては、子供時代私が挨拶しない無礼な子供であった(今も?;;)ことはどうでもよくて、大阪弁で暮らしていた私にとって「おはよう」「こんにちは」なんていう挨拶は口に出すのもはばかられるほど恥ずかしい教科書上の日本語であったわけです。で、友達と会った場合なんと言っていたかというと「おっす」「おう」なんてところなわけです。先生や近所の人に対する敬語としては使えましたが、友達同士の間で使える日常用語ではありませんでした。もちろん文法の問題と違ってこのような語用論の問題は地方差・個人差が非常に大きいものであることは間違いありませんが。
(2005.12.03 08:02:25)
エラー: 長すぎ (涙 男性教師B さん
もちろんある程度大人になれば社会的なルールとして「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」と言うことが要請されるのですが、私にとっては「こんにちは」は未だに違和感のぬぐえない言葉です。
学生にならもちろんこちらから積極的に言いますが、教師会の際など、大先輩の先生方や妙齢の麗人方に「こんにちは」などという(私にとって)恥ずかしい言葉は言えず、「お疲れ様です」とか「どうも」とか挨拶表現でない言葉に逃げてしまいます。無言に逃げてしまうことも往々にしてあるわけです。
こんなことを考えていると、日本語において挨拶をするということはいったいどういうことなのだろうか、なんていうことをうだうだと考え始めてしまううことになってしまいます。
これを日本語の文法についてとことん追求してやっているのが私の専門分野ということになります。実に世の中のお役に立てない「研究」です。まあ実質的に研究費を使わない趣味みたいなものなので社会のみなさまにはご容赦願いたいところです。 (2005.12.03 08:03:20)
挨拶の根元は? shanda さん
挨拶は相手を人として認めているかどうか、と私は定義しています。同じクラスでも、けんか相手にはそっぽを向いて挨拶をしませんでした。大人になってもそうでした。
でも、喧嘩していなくても、挨拶をし損なうこともありますよね。人が沢山いて、しかも自由に身動きできないような、教師の会の時など特にそうです。
あるいは挨拶の必要のない間柄もあります。それでも、挨拶言葉は使わなくても、「やあ」とか「よっ」と言って相手の顔を見てから話が始まりますね。
異邦人の集まりのアメリカでは、自分は危険人物でないことを示さないとお互い落ち着きません。相手を無視するのは敵意の表明でもあるわけです。
顔見知りでなくても、エレベーターで、買い物のレジで並んで、互いに話しかけるのは、もとはこれが原因でしょう。彼らが人懐っこいだけではありません。
Bさん、私たちお互いに挨拶をし損なっても、それが必要のない仲なのですよ、きっと。 (2005.12.03 15:55:25)
カテゴリ:薬科大学
瀋陽もとうとう零度以下の世界に入った。
12月1日の瀋陽の朝は前夜に降った雪のために一面真っ白となって、久しぶりに綺麗な街となった。道の雪は歩く人、そこを走る車に押しつぶされて固く凍り付く。
薬科大学の構内では午前中から構内の道を区分してそれぞれのクラスが割り振られて担当分の雪かきである。氷を割ることになるので、結構大変な作業である。ここは女子学生の方が多いので、女子といえども作業を免れない。
何処の世界でも見られるように、シャベルの数が足りないのか、交代要員なのか、要領がよいのか、半分近くは作業を見ている。
一方で今年入学した学生だろうか。雪の降り積もって地面まで枝を垂らした松を背景にしたり、校庭一面の銀世界を背景に写真を撮っているグループが沢山いる。南から来て雪を初めて見た人たちも沢山いるのだ。
私たちもまだ雪と氷の世界に慣れたとは言えないけれど、それでも、歩き方が小股になった。氷の上は何時滑るか判らないのが怖い。
ネットの上でお友達のみみたさまから質問をいただきました。
「最近遺伝子組み換えの講義を聴きました。
素朴な疑問がいっぱいですの。
遺伝子を組み込む時、DNAのつながりのどの場所でも適当に入れるのかしら、それで他の遺伝子が壊れないのかしら。」
掲示板に書くには長いので、ここに書きます。
「答えは、その通り。」「組み込まれる遺伝子は勝手に何処でも入ると思われています。その結果、ほかの遺伝子を壊すこともあるでしょう。」
細胞に入れるための組み込み遺伝子(遺伝子そのものや、改変遺伝子や、遺伝子発現を抑える遺伝子も含めて)を作成するのは今ではこの分野の駆け出しの学生でも出来ます。細胞に入れるのも簡単です。
その前に、遺伝子はDNAである、と言うのは常識になっていますね。染色体はDNAのつながりですが、ヒストンタンパク質がくっついて、DNAを小さなスペースに巻き込むのに役立っています。DNAの長い配列の中には、遺伝子として使われる配列と、使われていない配列がある、と理解されています。
この場合遺伝子と言っているのは、mRNAに転写されてタンパク質のアミノ酸配列を決めるDNAと、転写されてリボソームRNAや、転移RNA(tRNA)を作るDNAを指しています。
つまり遺伝子はDNAです。ある特定の遺伝子そのものを入れてその遺伝子で決まるタンパク質を発現させたいとか、ある遺伝子の発現を抑えたいとか、様々な目的に合わせて、DNAをいじることが出来ます。
DNAを切ったり、つないだり、その配列を調べたりするのは、今はとても簡単な技術です。DNAに何をしたいかを考えて、DNAをいじって望みの形にして、ベクター(運び屋)に入れます。DNAの配列の上流には、細胞に取り込まれた時に、そのDNAが発現されるようなプロモーターと呼ばれる配列をつなぎます。
入れたいDNAを細胞に取り込ませるのは簡単です。しかし、染色体(DNAが繋がっていてその所々が遺伝子と呼ばれている)の何処にそれが入るのかをコントロール出来ないのが現状です。場合によっては働いている遺伝子の間に入ってそれを壊したり、何か望まないことを始めるかも知れません。
みみたさまのご心配の通りです。
実際、ADA遺伝子が欠けていて重篤な病状を示すSCIDでは、はじめは遺伝子を導入して治療が成功しましたが、その後続けて癌が出来るのが分かり今では中止されています。
癌が出来たと言うことは、取り込まれた遺伝子が、大事な遺伝子の配列の中に入って、その遺伝子の作るタンパク質の機能を失わせてしまい、細胞が癌化したと考えることが出来ます。
大事な遺伝子の機能が失われて、癌が起こることは今ではよく知られています。このような大事な遺伝子を、癌抑制遺伝子と呼んでいます。
私は知りませんが、この遺伝子治療で運び屋(ベクター)に用いたアデノイウルスが、染色体の特定の場所にDNAを運んだのかも知れません。2例だけですが、もし同じところに運んで発癌を引き起こしていたのなら、そしてそこに行く原因が分かれば、逆に、特定の望む場所にDNAを導入する方法を見つける端緒になるかも知れません。
もう一つの遺伝子治療の問題は、DNAを細胞に入れることは出来ますが、入れる相手の細胞を限定できません。「DNAを入れたい細胞に全て漏れなく、一定の数だけを入れる。そして入れたくない細胞には決して入れないこと。」これは現在達成できていません。
これが、癌は遺伝子の変異が原因であることが判った現在でも、癌を引き起こした変異遺伝子を狙った遺伝子治療が実際には出来ない理由の一つです。
以上のように遺伝子治療は問題が山積みですが、研究は一つずつ障害を乗り越えていくでしょう。いつかは現在の障害が除かれて、遺伝子治療で病魔から救われる人たちが増えてくると思います。
私たちがやっている研究は、糖脂質の働きを調べるために、糖脂質を作る酵素タンパク質の遺伝子を細胞に(あくまでも培養細胞が相手です)入れたり、その遺伝子の働きを抑えるDNAを細胞に入れたりしています。
これが生体分子の働きを知 る一番確実な方法です。10万くらいあると言われているタンパク質の働きの全てが知られてはいませんし、同じように沢山あるタンパク質以外の分子の働きも 全てが分かっているわけではありません。それで、世界中で先を争ってこれらの研究が続けられています。
タンパク質に転写されたり、リボソームRNAに転写されたりして役立つ遺伝子はDNAの数%にしか過ぎず、残りはジャンクDNAと言われていました。今この残りのDNAも何か役立っているのではないかと言われるようになりました。これは別稿で書きましょう。
カテゴリ:生命科学
私のホームページの掲示板に、ネット上の友だちから遺伝子組み換えについての質問が書かれていた。
失礼かも知れないが、全くの素人がこのような疑問を持つと言うことが嬉しかった。何を話しても滅多に質問の返ってこないようにしつけられた中国の教育に飽き飽きしているためもある。
話を聞いて疑問が出るのは、話をちゃんと聞いて理解した証拠なのだ。
私は、遺伝子組み換えの専門ではないけれど分子生物学をかじっているひとりとして、問題点を出来るだけ理解しやすいように書いてみた。そして私のホームページに載せた。掲示板に載せるのは適当ではない長さになってしまったからである。
午前中の2時間が掛かってしまったけれど、そのあと明るい気持ちでほかの用事に取りかかることができた。
窓の外も雪が陽光を反射してとても明るい。
カテゴリ:瀋陽の生活
冬になると悩まされるのは手足のかゆみです。昔はこんなことはありませんでした。瀋陽に来て以来なので、瀋陽が寒いためか、歳のせいなのか。
夜寝ていて温まってくると、手足が無性にかゆくなります。夢うつつにも、掻きすぎると傷が出来ることを意識して出来るだけ爪を立てずに掻いていますが、我慢できずに掻いてしまいます。
かゆみが痛みに変わって、そうなると、かゆいという信号が来なくなって、また寝付いてしまうように思います。
なお、シャワーは朝晩浴びています。皮膚に乳液を塗るとかゆみが減るので皮膚が乾燥しすぎているためかも知れません。しかし、塗ると、パジャマ、下着、シーツが汚れるので、出来ればやりたくありません。
何か食事を換えることで体質改善を計って成功したとか、良い方法をご存じの方は教えて下さい。
コメント:
乾燥とかゆみ 男性教師B さん
薬学の専門家にこういう話題でコメントするのは非常に緊張するのですが、シャワー・風呂で石鹸で丁寧に洗うと皮膚の油分を完全に落としてしまい、乾燥したこの地ではコーティングのなくなった表皮の水分が抜けてかさかさになったりかゆみが出たりするわけですよね(間違っていたらすみません)。というわけで石鹸を少なめにするとか石鹸を使わないとか、いっそのこと中国人風にシャワーの回数を減らすとか(笑。 そう考えれば当地の学生があまりシャワーを浴びないというのも清潔好きじゃない、不潔だ、というだけではない合理的な理由があるのかもしれないという気がしてくるのですがいかがでしょうか。 (2005.12.03 07:00:57)
シャワーを浴びない shanda さん
立派な理由があることが分かりました。
これから私が隣に座って臭くても、不潔なのではないですからね。どうかよろしく。 (2005.12.03 15:16:50)
加藤先生にくっついて瀋陽の街を歩いていて、夫婦ともに戦前日本語教育を受けた遅さん・苑さんと出会った話は以前書いた。その後訪ねて行ったら彼らの住宅は新規区画開発のために取り壊されていたこと、それでも移った先を尋ね当てて訪れたことも前に書いた。
彼らは第二次世界大戦の終結した1945年の10月10日に結婚して、このたび60周年を迎えている。私たちはお祝いに行きたかったけれど、その日は都合がつかずお祝いの電話を研究室の秦くんに掛けて貰って、何時か訪ねることを約束した。
訪ねると言っても私たち二人では話が出来ないから加藤先生の都合次第である。ちょうど加藤文子夫人が15日間のビザなし滞在で瀋陽を訪れていた先週末に、私たちは遅さん・苑さん宅を訪ねることが出来た。↗️
60周年のお祝いと思って知恵を絞ったけれど、親族ではない知り合いである。高価な贈り物を持って行くなんて考えられない。それで先日妻のバースデイケーキを作ったケーキチェーンストアの好利来で、「祝結婚60周年・遅・苑夫婦」と書き込んだケーキを注文した。 ↙️
その日の午後加藤さん夫妻 と待ち合わせて、遅・苑さん二人のうちに出かけた。加藤さんはその後一度一人で彼らのうちを訪ねているので案内役である。加藤さんはバスに乗れば1元で行けるし、行き先を運転手に言って通じさせる手間も掛からないと言う理由で何時もバスを選ぶけれど、今回は私が大きなケーキの箱を抱えていたからタクシーに なった。タクシーを止めたのは大通りのバス停に近くで、彼らのうちからは大分離れている。それでも、私たち3人は加藤さんに付いていくだけでよい。加藤さ んは私たちの先を走り歩いて、訪ねるうちが何処なのかを探している。 結構迷った挙げ句うちを訪ね当てると、お二人のほかに娘さんの一人も在宅だった。私たちは記念日には来られなかったけれど60周年のお祝いに来たことを、まっとうな中国語は加藤さん夫妻からしか出なかったものの、それぞれ口々に述べて再開を喜んだ。
遅さんが言うには、「テレビで先生を見たよ。驚いた。」とのことだ。遼寧省政府がこの地で働く外国人を招いて友誼賞や栄誉賞を与えた行事を見ていたら、「先生が出てきて、そりゃ驚 いたよ。」と嬉しそうに話す。これは事実で、9月終わりに私は遼寧省から呼ばれて賞を貰った。外国人の会社の経営者はこの地に金をもたらすから一回り大きな金色のメダルの友誼賞を貰い、大学で教えている私たちは銀色の小さいメダルの栄誉賞を貰ったのだった。テレビクルーが来ていたけれど、まさか私が映って いるとは思わなかったし、ましてそれをテレビで見て驚き喜んだ人たちがいるなんて嬉しい驚きだった。
今回は事前に知らせず突然訪ねてきたれけれど、それは予め知らせると食事の支度をさせてしまうことになるので、それはいけないと考えて前触れなしに訪れたのだった。
それで、お祝いの品々を上げて直ぐに帰るつもりだったけれど、結局引き留められてしまった。そして遅さんは娘たちに応援に来るように電話をしたらしい。
私たちの来た時に両親の世話 をするために日中はここにいるらしい三女のほかに、長女、四女がそのうちにやってきた。すでに最初と二回目の訪問で互いに知っている。長女は入ってくるなり、テレビを指して、私も指して、テレビで見たと言うことを私に満面に笑みを浮かべながら伝えている。受賞を喜んでくれる人たちがいて本当に良かった。
加藤さんは悪のりして「この先生は私なんかと違ってえらーい人だから表彰されたのですよ。私なんか貧乏人の百姓で、全然身分が違うんだから」なんて言ってふざけている。「だけど文 化大革命の頃は、貧乏百姓が人民の一番上で、学者知識人は最低にランクされて、とんがり帽を被らされて引き回されたんですよ。世が世なら私は最高の地位にいるんですがねえ。」とにやにやしている。嘘も良いところで、外国人友誼賞は大学によっては半年いるだけでも受賞者に推薦される。薬科大学は大学の格付けが低い上に、人数が多いから順番がなかなか回ってこないだけに過ぎない。
にやにやしながらも加藤さんが一瞬はっとしたのは、遅さんも文化大革命の時には、「戦前日本人と付き合った、好い思いをした、外国の手先だ。」と罪状が並べ立てられて総括されたことをちらっと聞いたことを思い出したからだ。
「結婚60年 の間に何が一番楽しかったですか?」という加藤さんの質問に、奥さんの苑さんは「子供で部屋が一杯だったとき(満堂)。」と答えていた。6人の子供のうち 瀋陽には4人いて、いまここにその3人がいる。同じ質問を遅さんに振ったけれど、遅さんは「ない。」と言うことだった。
大連市立実業学校商科を卒業して、森永製品販売株式会社にいた頃、ほかの中国人は50円くらいの月給の時に、彼は80円を貰っていて、これは日本人並みだったという。「かけうどんが1杯8銭で、親子どんぶりは80銭。カツ丼が1円で、鰻丼が1円20銭 だった。鰻丼は美味しかった。」という。繰り返してにこにこしている、味を思い出しているのだろうか。
「エビ、いかの天ぷら、カレーも食べた。納豆も美味しかった。」ということで、関西人の加藤さんは「妻は納豆が嫌いですよ、私は食べるけれど。遅さんは納豆が好きなのですか?」 「好きでしたよ。」「ここにあればまた食べたいくらい好きですか?」「ここにあれば納豆が食べたい。」という返事だった。
この次日本から納豆を持ってくるかなあ。大方の中国人は嫌いだから、持ってきて、もし厭な時は皆に嫌われてしまうなあと思う。 森永にいた時長春の支店にも1年行って、その時には小杉支店長のうちに一緒にいて食事は支店長の家族と一緒に食べたようだ。小杉支店長の奥さんからは優しくして貰って、「日本の女性は本当に優しい。世界一の女性だ」と言って、妻の貞子や史子夫人の顔を見る。二人は「そりゃあ、昔はねえ。」と異口同音に答えたが、私たちも聞かれれば 同じに答えるに決まっている。
私たちと話す機会が出来てからは日本語を60年ぶりで使い、そして戦前のことを良く思い出すようになったらしい。思い出してみると懐かしい思い出ばかりで、世界ががらりと変わってしまった新生中国以降は、戦前に比べたら生彩のないものだったのではないか。だから、結婚したのは1945年だったが、「それ以降の60年 の間の一番楽しい思い出は何ですか?」と聞かれて「没有」とぽつんと答えたのだろうか。「今は非難される戦前の日本占拠時代でも、そのころそこで自分の青 春時代を送った人たちに取っては、一番輝いていた時代だったのですよ。」と以前聞いた加藤さんの言葉が、遅さんの思い出を聞きながら、私の脳裏に蘇ってい た。
今までひそかにBlogを始めていた女性教師Eさんの存在が明らかになった。彼女は今年いっぱいで瀋陽を離れなくてはならない。それで、瀋陽の教職の思い出、教室のこと、日本語教育のこと、教え子のことを書き始めたという。
これで、5人、
今朝、男性教師Bさんからmailが入っていて、新たに男性教師Fさんが加わったという。某大学の日本語学科で藤村の「破戒」を教えているというので高度の日本語教育に関わっている。
これで、6人。このプロジェクトを発足させ、声をかけ始めてから参加者が倍増した。教師の会の「瀋陽の日本語教育の現場の声」は大分声が大きくなったにちがいない。
この増加の趨勢を背景に男性教師Bさんは12月10日の定例会でBlog Projectを説明し、いっそうの勢力拡大を図るということだ。
先生方、始めるのを急がないと、男性教師Hか女性教師Hになってしまいますよ。
カテゴリ:研究室風景
風邪を引いた院生が二人出てしまい、2日金曜日に予定していた研究室の鍋パーティは延期になった。
皆がっかりだけれど喜んだのは土曜日のセミナーに当たっていた二人。
さて土曜日になってその日の朝の研究室セミナーのために、一人が用意した紹介論文は、7月に別の院生が紹介した論文だった。どうしてこんなことが起こるのだろう。すでに聞いた話を忘れていると言うことは、その時の記憶がないと言うことであり、そのときに理解していなかったことだ。
これは研究者・教育者にになりたいという博士課程の学生としては恥であり、深く反省して欲しい。
コメント:
大学院へ行く理由 男性教師B さん
生命科学の博士課程ともなればやはり皆研究者になることを目指して入ってくるわけですよね。日本の理系では学歴による平均年収の最大値は修士号ですが、中国でも同じなのでしょうか。
文系の場合は日本では学部卒が最大値となります。学部卒で大企業に入るのが年収の面では最善手で、大学院に進むというのは世捨て人になる覚悟が必要です。特に最近は少子化と院重点化で世捨て人続出です。文部省様の政策のおかげでございます。
しかし中国は日本と違って(?)ちゃんとした学歴社会であるようで、収入が上がるからor学歴が高くなるから文系でも大学院へ進む、という動機があるようです。ある意味では健全なのかもしれません。
したがって「研究院」という名前なのにも関わらず、勉強が足りないと思ったから(終わりなどないのに)、成績が良かったからといった理由で進学しており、研究がしたかったから、と答えた学生がうちの院では今のところゼロなのは悲しいところです。
水のみ場まで連れて行ってやることはできるが、という成句を連想して気が遠くなってしまいました。 (2005.12.05 01:18:32)
オフレコのぼやき1 shanda さん
研究室の院生を見ていると、彼らはとても研究熱心です。一生懸命実験を進めています。しかし、研究が好きで研究をしているという人は多くはないように思えます。
では、何のためかというと、学位が欲しいからです。少しでも早く手に入れて有利な就職をしたい。就職して少しでも銭を儲けたいからです。
企業でも修士卒の方が就職してからは有利です。日本と同じで、博士号を持つことは企業よりもアカデミックな方向を意味しています。
この日の問題の院生は、実はteacherなのです。
teacherとは増える学生に対して安く教師をまかなう方法です(学生を増やすのは学校の収入を上げるためです)。
大学を出て直ぐteacherに採用されると、彼らは学生に教える立場になりますが、教えるための実力を持ちませんから、教えるというのは学生の前で文字通り教科書を読むだけです。
そして学生が勉強するというのは、教科書をひたすら暗記することです。大学の勉強がですよ! (2005.12.05 06:18:28)
オフレコのぼやき2 shanda さん
teacherの大半は平行して修士過程を出て、さらに博士課程に入って博士号を目指します。博士を持つと、講師、副教授(助教授)など上の地位の試験を受ける資格が出来るのです。給料の基礎部分と、講義の数で計算される付加部分は、地位で金が違います。つまり地位が上がると収入も高くなりますので、博士過程に進むのは立派な動機付けです。
ですから、博士号の獲得を目指して実験をすることに彼女は一生懸命なのですが、研究たるものは何かをまだ理解していません。私たちの指令のもとに進めるのが研究だと思っています。何も考えられないのですね。実験結果から何が言えるか、それではその次に何をしたらよいか、何度聞いてもまだ答えが出てきません。
それを自分で考えられるようにするのが私たちの使命ですが、一方成果も上げないと、両方困ります。彼女はいつまで経っても博士を終えられないし、こちらは博士の学生の指導も出来ないと言うことになります。
優秀な学生に囲まれてうはうはしているだけの毎日ではありません。
カテゴリ:瀋陽の生活
ケーキやパンを売っているチェーンストアがある。
先日二人で好利来で菓子を買った時、1箱4元の老婆餅(パイの中に餡が入っている)が3箱10元だったので、それに加えて1つ5元のクッキーを3つ買い求めた。合計25元のはずなのにレジには27元と出ている。そうではあるまい、これは間違っているよ、セールなのだから12元でなく10元だ。
と言う具合に何度言ってもらちがあかず、なにやらレジのお姉さんもまくし立てている。どうやら金を貰って領収書を出す段になると判ると言っているようなので、ともかく100元を渡したら、先ずレシートを呉れた。最初に27元と書いてあって、下に2元、2元、100元、77元と言う具合に数字が続く。
よく分からない。しかし、レジのお姉さんは77元のおつりを呉れた。そこでもう一度話を蒸し返したら、12元のところが10元なので、2元引く。さらにサービスで2元を差し引くので、2元と書いてあることが判った。
最初から引き算をして23元払えていってくれればよいのに、分かり難いことをするところだ。複雑すぎるのと、こちらが判らないのとで、別のお客を大分待たせてしまった。
ちなみに、ここも勿論そうだけれど中国のほとんどの店ではほとんど英語が通じない。
カテゴリ:瀋陽の生活
今日の天気予報では、瀋陽は最高温度マイナス6度、最低温度マイナス17度です。
30日夜に降った雪は1日には踏まれた硬く凍り付き、大学の構内は割り当てられた学生が、除雪というより氷割を毎日してきました、今日でほとんどの構内道路は無事に歩けるようになりました。
しかし、大学から外に出ると歩道は誰も除雪をしないので、真ん中は踏まれて硬くてつるつるの氷です。端の方はまださらさらの、踏むときしきし鳴る黒くなった雪です。
昨年は歩道に面する店には、雪かきをするようにという市の指令が張ってあるのを見ましたが、今年は見かけなかったので、お上の命令がなければ誰も自分の店の前の雪かきをしないということのようです。
ズボンを二重に穿いて、冬用の内張のある靴を履いて、帽子で耳を覆って、首巻きに口元まで包んで、マフラーを巻いてダウンのコートを着込んで歩いています。滑らないよう用心してよちよち歩くので、まるでみにくいペンギンみたいです。
コメント:
PINGU-dance 男性教師B さん
女性教師EさんはBon-Dance、女性教師DさんはAwa-Danceを満喫していらっしゃるようですが、男性教師CさんはPINGU-Danceに興じていて頭を打ち、ブログ症候群に罹患してしまったということなのでしょうか。
http://www.more-shop.net/collections/photo/P404_2.jpg (2005.12.04 00:58:15)
うわ また(涙 男性教師B さん
すみません。また二重投稿してしまっています。可能でしたら削除していただけませんでしょうか。私は楽天とは相性が悪いようです。そういえばネットショッピングもヤフーオークションや価格.comしか使わず、楽天には入ったこともありませんでした。 (2005.12.04 02:58:24)
ブログ症候群 shanda さん
他に一杯やることがあるのにね。
気が付くと自分のブログに来てコメントがまだ来ていないかなと探し、そしてついでに新しく何か書き込んでいます。
毎日書いて来ただけでなく、この2日は毎日3回も書いてしまいました。
こんなことを続けていたら私のホームページのエッセイが種切れになります。
これを、ブログ症候群というのですね。
感染元は男性教師bさんであることを証言します!
皆さま、彼の甘言に乗ってはいけませんよ! (2005.12.04 08:52:45)
ブログ症候群 コメント性強迫障害 男性教師B さん
私の場合、ブログ症候群にかかっているだけでなく、Cさんをはじめ他のブログにコメントを書かなければならない、しかも普通に書いてはいけない、何かネタを書き込まなければならない、という強迫性障害にかかりつつあります。 まあそのうち飽きて適度な範囲に収まりますけどね。 (2005.12.04 10:34:02)
ブログ症候群のメリット 男性教師B さん
特に教師Bの場合、男性教師Cさんのブログにはネタでないまじめな書き込みも時々させていただいております。長すぎです というエラーに怒られることもままありますが、通常の日記以上に 書くこと による思考の整理が日常的になされていることは確かです。でも毎日書き散らしてすみません。m(-_-)m (2005.12.04 10:39:52)
確かに今は shanda さん
男性教師Bさんはブログプロジェクトの号令を掛けてそれまで無縁の人たちを巻き込んでしまったのですから、after careをしなくてはいけないという気持ちでしょう。
こちらにしても、もし教祖のBさんの訪問とコメントがなければ、何をやっているのか分からない寂寞感におそわれるでしょうね。 (2005.12.04 20:59:11)
カテゴリ:ブログ
元々が私はコンピュータ依存症候群みたいなものだった。
うちにも大学の部屋にもPCがあり、PCを使ってデータベースにアクセスして遺伝子情報や構造を調べるか、論文を探すかする作業が多い。論文はモニターで読むこともあり印刷して読むこともある。ともかく、モニターを見ているか読んでいるか、いずれにしてもPCに依存している。
mailに何時もアクセスしている。大抵はmailに直ぐに返事を書く。書けないときには返事がいつまで経っても書けないことを知っているので出来るだけ直ぐ書くことに努めている。
自分のHPは1週間に1回エッセイを書いてきた。しかし、約2週間前から始めたブログは、毎日書いてきただけではなく、この二日間は1日3回も書くという始末である。
もう立派なブログ症候群と言えるのではないだろうか。
第1。書かないではいられない。
第2。自分のブログの反応が気になる。
第3。他のことが出来ずに何時も自分のブログを眺めている。
もう第1段階を通り越して、ほとんど第2段階である。第3になったらお終いである。
どうしてこのようなことになるのだろう?
コメント:
第4段階 男性教師B さん
私の場合、第3段階を通り越して第4段階に入ってしまっているような気がしてきました。
第4。反応のない自分のブログを見限り、他人のブログを眺めている。
うーん 人間としてダメなような気がしてきました。しかし今の私の仕事は試行錯誤の部分が多いのでブログでああでもないこうでもないとひとりごちるのが仕事の一部だといえなくもなさそうです。 (2005.12.04 14:11:59)
教祖Bさんへ shanda さん
他人のブログにコメント書き込んで自分の思考が整理できるなんて、やはりBさんは教祖だと思いますね。
私は、何を書いたのか忘れてしまう恐怖と何時も闘っていますよ。今書いたことと以前のコメントとに矛盾を平気でさらけ出すのではないかと何時も恐れています。 (2005.12.04 21:22:40)
開き直る という選択 男性教師B さん
いえ 白紙から考えるということが出来ず、他の人の文章を元にまぜっかえしたり自分に引き寄せたりして遊んでいるだけなのです;;
同じことを二度言ってしまう恐怖は今のところ持っていません。自分は同じことを何度も言う人間だと開き直っているのです。
でもCさんのところでよくやる二重投稿はさすがに開き直れません。操作ミスだと認めます。いつもすみません。
(2005.12.05 00:30:44)
脱帽もの shanda さん
それにしてもブログプロジェクトに参加した人たちのブログを何時も見て回って、コメントを書き入れて激励するそのたゆみない熱意は凄いものですね。コメントがブログを続ける力を与えてくれますから。Bさんには本当に脱帽ものです。マイナス20度の外では帽子が脱げませんが・・・。 (2005.12.05 06:29:57)
第一段階の一歩手前 女性教師D さん
Shandayeさんのブログ、楽しみに拝見しています。今日は、料理をしながら見ていたので罰が当たったのか、鍋を焦がしてしまいました。これで私もブログ症症候群の仲間入りかな。まだ初期症状だと信じたいのですが。 (2005.12.07 20:00:46)
ワオ、助けて。 shanda さん
ね、ブログを楽しみに見ていますなんて書かれると、ますます書かなきゃ、と思ってしまうじゃないですか。
Dさんが第一段階依存症にならないうちに、こちらは段3段階になってしまいそう。
いっそ、つまらないご託を並べるな、と書いて欲しい・・・。
もっともそんなことを書かれたら死にたくなってしまうかも。 (2005.12.08 12:33:46)
カテゴリ:ブログ
昨日は晴れているのに細かな雪が舞っていた。今朝外を見ると夜中に降ったと見えてかなり白くなっている。今日の予想では、最高マイナス4度、最低温度マイナス15度。このくらいならどうってことはない。
風邪を引いた院生は今日は出てくるだろうか。昨日彼のケータイに電話したけれど出てこなかった。彼はいつものようにケータイを身につけずにどこかに出掛けて行っていたのだろうか。それとも熱に浮かされて呻吟していたのだろうか。
研究室で風邪が二人。私は10月の風邪で大きな打撃を受けたから、また引くようなことはしたくない.それには体力温存、寝るに限ると思うけれど、ホームページやブログが気になって直ぐ目が覚めてしまう。今度はこれを書こうとか、あれはどのように展開したらよいだろうかなど、夢のうちに目が覚めてしまう。
そうなるとベッドでぐずぐずしていないで起き出してしまう。立派なブログ症候群である。
カテゴリ:薬科大学
雪が降り続いています。牡丹雪というには一寸小さいけれど、それに近いので、この中国語の表現は鵞鳥の羽毛がふわふわと降りてくる感じをつかんでいますね。研究室の院生の一人が教えてくれました。
辞書を見ると「下着鵞毛大雪」というのが載っていました。
ついダウンフェザーの下着かと思ってしまいましたが、牡丹雪が降ることです。中国語は英語と同じ語順だと言うことになっていますが、これは違うみたいですね。
先日の雪は固く凍り付いて校庭のスケートリンク予定地を覆っています。またこの雪で、雪をどけるか溶かさない限りスケートリンクを作ることは出来ませんから、大変な労働を(誰かが)するか、この冬はスケートなしとなるでしょう。
コメント:
スケートリンクの作り方 男性教師B さん
まあリンクを作ったことはないのでわからないのですが、水を張って平らにする→凍らす を何度か繰り返せば雪の上にでも直接スケートリンクができそうな気がするのですが、どんなもんでしょうかねえ。 (2005.12.05 12:10:21)
雪といえば ameyi さん
この雪、人工雪っていう話なんですが、本当なんでしょうか?
中国人の先生の話ですが。夢が壊された気分です。真実を知る人はいないんでしょうかねぇ。
(2005.12.05 14:53:10)
人工雨 shanda さん
瀋陽に来た時、雨が降るとこれは人工雨だと言うことを聞いたことがあります。でも、雪もそうなんでしょうか。
本当にそうなら12月24日には真っ白にして欲しい。教徒ではないけれど、狂徒みたいな日本人ですから、きっと喜びます。それ以上に中国人が喜んで飲み食い踊って一晩を過ごすだろうなあ。勿論一緒に付き合います。 (2005.12.05 15:41:57)
人工雪といえば 男性教師B さん
日本人にとってはスキー場の雪なわけですが、あれは実際に「作っている」雪なのに対し、ここの人工降雨・降雪は「降る時期を調整する・早めている」というものなわけですよね。ヨウ化銀等で雨や雪が降る「きっかけ」を作っているだけなので、ある意味降っている雪は本物です。でもあんな降り方はないですよねえ。
ところで、空中にヨウ化銀なんか撒いて環境への影響はないんでしょうか… とても体に悪そうなんですが>男性教師Cさん (2005.12.06 01:26:04)
しかしホワイトクリスマスといっても 男性教師B さん
人工だと思うとなんだかなあですね。
いや、政府による手作りのホワイトクリスマスだと思えばなかなか粋な計らいのような気もしてきました。
というか、日本的には雪が降ったところで祝う相手がいなければ虚しいだけなわけでして。
ということで12/24や2/14のような商業主義にまみれた他宗教の行事便乗には断固反対致します。
広告代理店の思う壺にはめられるのが嫌なだけで、個人的事情により反対するのではありません。断じて。 (2005.12.06 01:42:21)
沃化銀が shanda さん
身体に悪いかどうか、きっと誰も知らないでしょうし、現にこうやって使っているのだから、「悪いはずがない」という答えが出るに決まっています。だって人工雨産業というもので潤うっているところがあるに違いないし。
塩化銀と同じで難溶性でしょうから、身体に悪いことをしそうもないでしょうが、実際には(何か悪さをするのではないかと疑いながら)実験して調べないと分からないでしょうね。 (2005.12.06 08:53:55)
カテゴリ:インターネット
宇宙ロケットでは世界のトップに肩を並べた中国だが、internetが遅くて研究に支障のでるのがこの中国だ。線が細いのはこのあたりでは設備投資をしていないからだ。恐らく、北京大学、精華大学の一流大学ではこんな悩みはないだろう。
混むのは、ケーブルを太くしないにもかかわらず利用者が増える一方だからに違いない。その利用者にはこの大学の人たちも含まれているはずだから、遅いのはこの大学でdatabaseにアクセスする人たちが増えた証で、慶賀の至りである。
先週金曜日にアクセスできたのが最後で、今日もアメリカのNCBIのdatabaseにアクセスできなかった。NCBIは遺伝子、mRNA、タンパク質の配列情報など必要なすべてのdatabaseを含み、それらの検索・比較手段も提供し、さらに生命科学の文献を網羅している。ここにアクセスできないと研究者には致命的である。
たとえばTNFaのプライマーを作ってTNFaのmRNAの量を調べたら、予想外の大きさのDNAが増幅された。これが介在配列イントロンによるためなのかどうかは(つまりRNA試料にDNAが混入していたことになる)、TNFaのイントロン、エキソンのdatabaseを調べればたちまち答えが出る。
internetが自由に使えないことで、この国の科学の発展が大幅に阻害されている。
コメント:
インターネットの使い方 男性教師B さん
回線が混みまくるのには、単に利用者が増えているということ以上の理由があるような気がしています。
昔は トラフィック増大を防ぐために全員宛メールではなくメーリングリストを なんて今から見ると信じられないようなことを言っていた人もいたわけですが、当地の学生たちのネットの使い道はネットゲーム、違法音楽ダウンロード、しまいには映画も全て違法ダウンロードで入手しようとするしまつです。
大勢で2時間動画のダウンロードなんてやってればどんなにサーバーを増強したところで焼け石に水なのでしょう。
ここは一つ韓国のように国を挙げてIT立国を目指し、ロケットの予算をサーバーにまわし、違法ダウンロードを殲滅して、coder大量量産ではないIT産業の集中拡充を… と行けばいいですが、現実は常に理想と逆向きですね。 (2005.12.06 04:06:20)
いらいら 女性教師A さん
そうですか。大学でも同じ悩みを抱えていらっしゃるのですね。こちらに住んで1年ですが、いまだにクリックしてから待つ時間の長さには慣れません。いつもイライラしています。本当に体に悪い。でもやっぱりインターネットなしではいられないのが悲しい性です。クリック→いらいら、クリック→いらいら。これの繰り返しです。本当に体に悪いったらありゃしません。 (2005.12.06 05:39:14)
インターネット環境 男性教師B さん
確かそちらはダイヤルア(略 >女性教師Aさん
まあ私としては、ネット環境でもっとも大きな世界観の違いは常時接続できるか否かであると考えています。常時接続である(または恒常的につないでも金銭的に大丈夫)かどうかにより、インターネットの使い方は全く変わってきます。
日本で言えば従量制課金から定額制への変化です。いつでも使える&いつでもつながっている ということがネット利用者にとって大きな意味を持ってきます。メッセンジャーは常時接続利用者をターゲットとしています。
というわけで私にとっては表示までの待ち時間はそれほど苦になりません。もちろん限度はありますが…。
というわけで、女性教師Aさんにはタブブラウザの導入を強くお勧めします。同時に複数のページを開き、タブを切り替えてページをぺらぺらめくる感覚です。私の場合、常に10~20枚のHPが開いてあります。リンクをクリックして別のページを眺めていれば、精神衛生上健やかにブログライフが送れるのではないでしょうか。
起きた直後なので乱文失礼しました。 (2005.12.06 06:38:11)
大学に苦情を shanda さん
時々申し立てていますが、internetの遅いのは大学の外の話だ(ごもっとも)と言うことでおしまいです。
「我が校の質を高めるためにinternet接続速度を上げるよう、私は努力するであろう」くらい言って欲しいものですが。 (2005.12.06 08:36:43)
Bさん:タブブラウザの導入? shanda さん
「女性教師Aさんにはタブブラウザの導入を強くお勧めします。」というのはなんでしょうか?
今はExplorerを使っていますが、複数のウインドウを開いて同時にあちこち探していますよ。
特にタブブラウザって言うと、どうやって手に入れられるのでしょう? (2005.12.06 08:40:05)
朝のinternet shanda さん
朝一番に米国のNCBIに繋がりましたが、そこから先のdatabaseで、繋がっているのにデータが出てきません。細くて送ってこられないのでしょう。
つまり、それをやりながら、これを見て書き込んでいます。 (2005.12.06 08:42:44)
カテゴリ:インターネット
internetの接続が遅いと言うことを書き続けている。
今朝来て、NCBIにアクセスできた。しかし遺伝子番号を入れてdatabaseにアクセスしたら、フレームは出てくるけれどその先はいつまで経っても進まない。
これはそこへの接続が遮断されているのではなく、細くなっていると言うことだ。ここでは接続の遮断は良くあることなので、遮断くらいで驚いては生きていけない。
著名ジャーナルの一つであるJournal of Biological Chemistryにはアクセスできる。論文のダウンロードをすると、数KB/secで始まったかと思うと直ぐに速度が下降して数百bytes/secになった。見ていると1kbytes/secを前後している。500KBの論文を7分ぐらい掛かって取り込んだ。これはだいたい何時もの速度である。
ダウンロードに時間が掛かっても、取り込んだ論文を直ぐに読めるわけではないから構わないが、データベースにアクセスする時間が掛かり、欲しいデータになかなか行き着けないと、時間のロスである。
結局、朝7時半から2時間経っても、NCBIの欲しいdataにアクセスできなかった。
いったい何処でどうなっているのだろう。妻はふざけて「中国は今アメリカの対抗者と位置づけられているから。中国向けの回線を細くしているのよ。」というのだが、案外真相かも。
カテゴリ:薬科大学
inernetで欧米のdatabaseにアクセスできないと私たちの商売はあがったりである。つまり、遺伝子配列情報など研究に必須な情報が調べられない。
それに文献が調べられない。昔は図書館が論文の載ったJournalを取っていた。勿論今も日本の図書館は沢山のjournalを取っている。
この薬科大学では図書館は殆どjournalをとらない。予算がないからだ。WTOに加盟するまでは海賊版のjournalが並んでいたが、加盟以来それを止めてしまった。
昨今のjournalはどれもinternet上の電子fileで閲覧できる。しかし、大学が金を払って図書館で取っていればの話である。図書館で取っているとpasswordが使えるから図書館のある大学の人たちはそのjournalの論文を読むことが出来る。この薬科大学にいる私たちはpasswordがないから出来ない。
それで個人で会員となって、ある程度重要なjournalは自分でカバーして、新着分に目を通している。カバーできないjournalは無視して、将来必要という時に、日本の友人に頼んで入手して貰った文献だけを読む。
今日は朝からやっていて未だに遺伝子情報にアクセスできない、これで3日連続である。これじゃ、ここでやっていられないよ。「こんな具合ではやっていけません」と学長に言って出て行こうか?と妻に言った。
「辞めてどうするのよ?」と妻は言った。「何処も行くところがないじゃない?それよりも私たちの学生に責任があるわよ。ちゃんと育てなくっちゃ。」
その通り。定年過ぎて中国に来た私たちはもう行くところがない。ここは得難い、そしてありがたい職場なのだ。文句を言ってはならない。しかし、外部情報から切り離されたら、どうやってまともな研究が続けられるのだ?
カテゴリ:瀋陽の生活
昨日の夕方近くの家楽福にグロサリーに行きました。歩いて15分くらいで行き着きます。家楽福は、カルフール(Karrefour)で、瀋陽には3つある大型スーパーです。日本では不振で潰れたそうですね。
歩道は相変わらず雪と氷です。スーパーは道から少し引っ込んで建てられていますので自分の地所の除雪はしてありますが、ぐるりと取り巻く歩道は、ほかのところと変わりなく、雪と氷です。
マイナス10度の中で、三輪車にサンザシの実の菓子を売っている店、剥いたパイナップルを並べている店、ポンせんべいの店、にぎやかに交差点の近くの歩道を占領しています。
そして病院の塀の前では何時ものように、雪と氷の上に直接布を広げて、その上に手袋、帽子、靴の中敷きなどを並べているおばさんも出ているのです。場所さえあれば何処でも商売をするのが彼らの根性ですが、これは凄いことですね。
カテゴリ:インターネット
今朝は早くからinternetにアクセスしようと言うので6時半にうちを出た。いつもより30分早いだけだがまだ陽は上がっていない。今日の日の出はちょうど7時頃である。気温はマイナス18度くらいではないだろうか。
いつもの通り道に、それでも三輪車の屋台がすでに4台出ていた。せいろを載せた鍋から湯気を噴き出しているのは小篭包だろう。まだ机や椅子が届いていないらしく、歩道ががらんとしていてお客もいない。ふだん通る7時頃には歩道一杯に机を並べて、低い椅子に座って朝のおかゆや、小篭包を食べている人が沢山いるのだ。
朝早くならと思ってinternetを立ち上げたところ、NCBIのHPには同じように繋がるけれど、遺伝子検索には相変わらずちっとも繋がらない。こんなことでは埒が明かないので、Ensemblにアクセスした。これはイギリスが中心になっている遺伝子databaseで、遺伝子情報なら同じと思いたいところだが、アメリカのNCBIと少し違う配列が入っていることが多い。
今までNCBIを中心に調べてきたので、ついNCBIを使いがちだが、実は今までも介在配列イントロンの情報はEnsemblで調べていた。それで、今朝アクセスできたマウスのTNFbの遺伝子情報を調べると、作成したプライマーで増幅できるDNAが308bpだったが、イントロンを加えると753bpになり、これに一致するバンドがあったのは資料に混入していたTNFbのDNAによるものだったことが確かめられた。
ひとまず当面の課題は片づいたけれど、DNA増幅に必要なプライマーや遺伝子サイレンシングのためのsiRNAの設計は始終やっているし、そのために遺伝子databaseの利用が必須なので、NCBIにアクセスできないと本当に飯の食い上げである。うちの学生からも眼の輝きが失われるだろう。
カテゴリ:研究室風景
研究室の戸棚にはディスポの紙コップが置いてあるが、これはお客さん用であって、院生・学生は自分のコップを使うか、備え付けのコップを使うことになっている。勿論、私たちの私費で賄っている消耗費を減らすためだ。
ここ最近朝来ると紙コップが使われた形跡がありゴミ箱に捨てられていることがあった。紙コップの使い方としては正当なのだが、これが続くと困る。
とうとう研究室の備えつけの割り箸ではない箸も捨てられているのを見て、「困ったもんだ」ということで、朝挨拶に来る人たちに注意をした。誰も「さあ」、と首をかしげるので、犯人を捕まえたいわけではない、使い方が分かってくれればいいのだから、実験室に行って皆に、特に新人に話しておくように言っておいた。
夕方、9月から来た院生が来て「済みません。知らなかったものですから紙コップを使ってしまいました。」と言いに来た。そのあとからは、10月から来ている学生が「昨日お弁当を食べた時に箸を使って、私が使った箸が汚いと思って捨ててしまいました。ごめんなさい。」と言いに来た。分かってくれれば良いことなのでこちらは怒りはせず、にこにこしているだけである。
正直な申告を待ち受けているなんて、なんだか「ワシントンのサクラの木」みたいな話だなと思って一人笑ってしまった。ただし中国では「ワシントンの桃の木」となっている。英語のcherryは、中国語は桜桃なのである。
二つ目の質問は、「(染色体の中の)DNAの大部分は(遺伝子として)使われていないといわれていたけど、実は重要な役目があるんじゃないかという新説が出たとか。」というものでした。
染色体にあるDNAは1本の二重鎖DNAで、タンパク質の配列を指令する部分のDNAを遺伝子と呼んでいます。細胞にはタンパク質を作る工場であるリボソームのrRNA(rはリボソーム)や、アミノ酸をつけて運ぶ転移RNA(tRNA)などが必要で、これはもちろんrRNAやtRNAの遺伝子であるDNAから転写されます。mRNAとなってリボソームでタンパク質合成を指令するか、リボソームでそのままのRNAとして役立つかの違いはありますが、RNAに転写されるから遺伝子と呼んでいるわけですね。
DNAの端から端までがこのような遺伝子ではなくて、遺伝子と遺伝子の間はタンパク質やRNAに転写されない部分で、Non-coding regionと呼ばれていました。ヒトでは遺伝子に対して数倍のNon-coding DNAがあるとされていて、これが役に立たないジャンクDNAと言われてきたものです。
タンパク質を作る時、遺伝子であるDNAはその配列がそっくりRNAに転写されてプレmRNAになりますが、実はその全部がタンパク質を作るために必要ではありません。この不要な部分を核の中の小さなRNAの助けを借りて取り除き、残りをつなぎ合わせます。これをスプライシングと呼んでいます。取り除かれた配列は介在配列イントロンと呼ばれています。こうやって成熟mRNAとなって核からタンパク質製造の場所である細胞質に運ばれます。
この遺伝子の一部としてRNAに転写されながら捨てられてしまうイントロンは、遺伝子を発現するためのエンハンサー配列として役立つものも知られていますが、言ってみれば先ほどのジャンクDNAの仲間扱いをして良いでしょう。何故、こんな無駄なことをしているのだろう、と長い間議論されてきました。ちなみに大腸菌のような生き物には、このような無駄はありません。
このようなDNAは長い間、と言っても何千年もではありません、DNA配 列の解読がされることによって分かったことなので、近々この十数年のことですが、何故こんなものがあるのだろうと言うので様々な仮説が出されてきました。 不要な、無駄なものを持つことは生存に不利になると考えられるので、何かが存在する以上は意味があるはずだという考え方です。従って、これが進化に役立っ たという説がありますが、このような説が当然出ることはお分かりになりますね。この仮説の弱点はそれを実証できないことです。そうかも知れないけれど、だ けどさ、無理しているのではないのと言うのが大方の反応でした。
さて、先ほど、「mRNAの成熟課程に核の中の小さなRNAが関与して」と書きましたが、この成熟課程にすくなくとも数種類のRNAが関与していることが知られています。このRNAも当然しかるべき配列のDNAから転写されているわけで、そのようなDNAは遺伝子と言うことになります。
このほかに10年くらい前に、小さいRNAがタンパク合成の場所でその合成を阻害したり、そのmRNAを壊したりすることで遺伝子発現を調節していることが見つかりました。これはマイクロRNA(miRNA)と呼ばれています。はじめは特殊なものと思われましたが、調べるとこのようなRNAが結構な数あることが分かってきました。しかも、先ほどのいわゆるジャンクDNAから転写されるものだけではなく、mRNAの成熟課程で捨て去られるイントロンから出来てくるものもあることが分かりました。
つまり転写されないので無駄なジャンクDNAと思われていたところが、遺伝子の発現調節に使われていることが分かってきたのですね。
2003年までには300種のmiRNAが見いだされています。今年のCellという最高に信用度の高いジャーナルに、ヒトにはこのようなRNAが1,000種あるだろうと報告されました。このmiRNAはゲノム配列の中から構造を予測して探すのですが、この探し方を変えることでmiRNAは1万種以上存在するのではないかと、今年の初めの国際学会で議論されたと言うことです。今では論文となってジャーナルに載るよりも、国際学会でホットな話題が発表されるのが早いことが多いのです。少し前までは、論文にする前に人前で話すと人に取られてしまうので、国際学会はすでに論文で報告したことだけを話すお祭りでした。
このmiRNAは配列特異的に(塩基対を作って二本鎖が出来ることです。この塩基対を作ること、つまり片方の配列が決まればそれと二本鎖になる相手の配列も一意的に決まると言うのが、分子生物学というか、DNAの持つ一番大事な秘密なのです。相補的な関係と呼んでいます)、mRNAを探し出してRNAの二本鎖を作り、そのmRNAを切断して壊してしまいます。このほか、タンパク質の翻訳を阻害したり、さらに最近では転写レベルでの遺伝子発現の調節をしているという証拠が出され、今やこのNon-Coding RNAはこの世界の一番ホットな関心を集めています。
と言うわけで、「長い間(染色体の中の)DNAの大部分は(遺伝子として)使われていないといわれていたけど、実は重要な役目があるらしい」というのが今の一番新しい考えです。このような魅力的な領域には多くの優秀な人たちが集まりますから、数年のうちには全体像がはっきりするでしょう。
と言う具合に生命科学も日進月歩です。
遺伝子発現の調節がどうしてそんなに大問題なのか、ということを、もう一回、一寸だけ書きますね。
カテゴリ:瀋陽の生活
昨夜家に帰って何時ものように簡単に食事を作った。クリームシチューだった。
いつもは大食なのに全然食欲がない。首が痛いし頭も重い、こめかみも痛む。これは風邪の初期症状だなと思って早めにベッドに入った。
うつらうつら10時間寝てしまい、それでも頭が重い。それで今朝は妻だけ出掛けて私はまたベッドに入った。3時間後に、もう寝ていられなくて起き出したけれど、頭が重い、熱を測ったら37.2度あった。起き抜けの体温にしては高すぎる。案じたとおり風邪の初期で、身体がウイルスと闘っているのだろう。
それで11時には研究室に出てきたけれど、「ウイルス厳禁」なんて皆に言われてマスクをしてPCに向かっている。午後、院生の関くんに会って仕事の話を話し合ったら帰ることにしよう。
風邪の初期に、身体を大事にするのが一番なのだ。なかなか出来ないことだけれど。
結局この日は 午後2時には家に帰ってベッドに潜り込みました。一眠りして37.8度。頭が痛んでいます。また寝て、結局丸1日ちょっとで、風邪から立ち直ったみたい。
これ次の日の昼に書いています。おかしいと思ったら、ともかく決して無理しないこと。 (2005.12.09 14:06:30)
カテゴリ:瀋陽の生活
今日帰宅すると、カジュアルイタリアン茎帝尼(SANTINI)というレストランが店を畳んだという案内がオーナーシェフから来ていた。何時か行くことを夢見ていたのに残念である。
今年の初めに来た案内では、「東京お台場で料理長を4年務めた経験を生かし瀋陽でも完成度の高い、パスタ、ピッザ、デザート等を提供したくて、お店をオープンしました。
パスタは生の卵麺、ピッザは薄生地を使用、デザートはプリン、シュークリーム イチゴのケーキ等、生クリームをたっぷり使ったデザートを提供しています。」
というもので、想像するだけでも嬉しくなってしまった。私たちも日本にいた頃は自家で生のパスタを練っていたくらいだ。今ここでは日本から持ってきた貴重なスパゲッティを時々食べている。
今年も夏になった頃、東北大学(この瀋陽には日本と同じ名前の大学がある。ここは中国の東北地方なのだ)の日本人の日本語の先生からmailを貰った。
「日本人オーナー経営のイタリアンレストランです。味もよく、日本人好みのイタリア料理が食べられます。内装も雰囲気があってとてもいい感じです。瀋陽でパスタが食べたくなったらお勧めです。
この店、いつ行っても客がいません。30元という値段が影響して中国人客が来ないのでしょうか。行く度につぶれてないかどうか不安になります。」
何時か、何時か、と思いながら、とうとう実現しないうちに撤収の案内が来てしまった。案の定、という気もした。大体、中国では中華料理以外見向きもされないところがある。中国人の間でイタリア、フランス、ドイツ料理の話など聞いたことがない。
それでも普通の西洋風レストランにはスパゲッティがメニューに載っている。何時だったか簡単なものを食べたいといった妻は、茹ですぎのふにゃふにゃに呆れて、一口以上食べようとしなかった。
私たちは何を置いても、このイタリアンレストランに駆けつけるべきだったのだ。よいイタリアンレストランがないといって嘆く前に。
人生、後悔のない生き方をしようとつい最近も思ったばかりではないか。
コメント:
ああ ついに・・・ 男性教師B さん
残念でなりません。土曜の昼は定番としていつも食べに行っていました。今度からはどうすればいいんでしょうか(涙 先週の土曜日に行ったのが食べおさめとなってしまいました。普通にうまかったのになあ;; (2005.12.09 01:29:22)
佳人薄命かなあ shanda さん
でも、Bさんは楽しんだのだから、いいじゃない?このオーナーシェフは新しい場所を探しているみたいだから、協力して探してあげて!でも、東北大学の近くじゃ商売にならないから駄目ってわかってしまったでしょうね。 (2005.12.09 13:46:18)
遺伝子発現の調節がどうしてそんなに大問題なのか、ということを、もう一回、一寸だけ書きますね。
ヒトゲノム計画が終了して、人の遺伝子の数が2万2千個と見積もられました。数年前には10万前後と思われていて、まさかこんなに少ないとは誰も思いませんでした。大腸菌で4,288個。線虫で19,099個。トウモロコシが3万。そしてヒトが22,000個。まさかこんなに少ない数の遺伝子で高度な知能の制御機構が発達しているなんて。
ヒトのタンパク質の総数は約10万個と見積もられています。遺伝子がタンパク質の配列を決めますから、タンパク質の数くらいの遺伝子があると初めは思われたのですね。
少ない数の遺伝子で多数のタンパク質を作る秘密は、前に書いたスプライシングです。mRNAの 成熟の時に不要な介在配列イントロンが捨てられると書きました。イントロンが沢山あるとき、必要な部分(エキソンと呼びます)をつないでいくのですが、順 番にエキソンをつなぐか、エキソンの一つを飛ばしてつなぐかなどの方法によって、遺伝子は同じなのにタンパク質の配列が同じではないタンパク質が出来て来 ます。それにしても全く新しい機能のタンパク質を生み出すことは出来ません。
ヒトが持っている高度な知 能、創造性、感情など、全ては細胞内あるいは細胞外の化学物質の相互作用の結果です。この化学物質にはヒトの遺伝子が指令して合成したタンパク質も入って います。でも、恐らくそれだけでは、これだけの高度なヒトの生命活動を説明できないと殆どの人が思っていたところに、non-coding DNA領域から沢山のRNAが転写されていて、しかもまだ全てではありませんがmiRNAとして遺伝子の発現を制御することが分かったのです。ですから、いまは高度な生命現象を、実はこのnon-coding RNAが握っているのではないかと言うことで世界中が沸き立っているのです。
non-coding RNAを生み出すところはジャンクDNAと言われていた部分とイントロンですから、(染色体の中の)DNAの大部分は(遺伝子として)使われていないといわれていたけど、「実は重要な役目があるんじゃないかという新説」となったわけです。
ところでこのmiRNAの発見と並んで、同じ方法で遺伝子発現を人為的に操作する技術が導入されて、生命科学に大変革をもたらしました。というのは、10万 と言われるタンパク質、あるいは2万2千個と言われる遺伝子のどちらを考えても同じことですが、ゲノム解読が済んでも、これらの全ての機能が分かったわけ ではありません。これらの機能を調べる必要があります。その方法として、タンパク質を指令する遺伝子を、新たにある特定の細胞に大量に発現させるか、ある いはそれを壊して何が変わるかを見るのが一番確かな方法です。
遺伝子に適切なベクターをつけて細胞に入れて発現させるのは、一番最初にも触れたようにかなり簡単な技術です。しかし、遺伝子の発現を抑えるのはそんなに簡単ではなく今までに様々な方法が出ては、消えています。消えるのはもっと効率の良い方法が出されるからです。
先ほどの例でおわかりのように、遺伝子発現はmRNAのレベルでそれと相補的な配列を入れてやれば、mRNAを壊せるので、抑制できます。外から入れるRNAは安定ではないので、どうやって入れたらよいかと言うのが悩みでした。
研究が進んでmRNAと相補的な配列ではなく、それと同じ配列でも抑制効果があることが見つかり、さらには二本鎖を入れても良いことが分かり、それがどのようにして目的のmRNAを破壊するかが調べられ、ほぼmiRNAの作用と同じやり方でmRNAを切断して壊すことがわかりました(この方法全体をRNAi=RNA interferenceと呼んでいます)。
適切なプロモータ配列をつけたDNAを細胞に入れれば、それは細胞内でRNAを作り続けます。mRNAと相補的な配列を生み出すようにこの DNAを設計すれば、これは、永続的に細胞の中で狙った遺伝子を壊し続けます。このようにして外から加えてmRNAを壊すやり方をsiRNA(small interfering RNA)と呼んでいますが、今私たちの世界では時代の寵児です。猫も杓子も、そして私たちまでも、これを使っています。数年前にはsiRNAを使った論文は一つもなかったというのに。
そしてこのsiRNAは、抗ガン剤として、C型肝炎の治療に、そしてそのほかの病気の治療に使えるのではないかと世界中が色めきたっています。勿論、薬物を狙った細胞や組織だけに運び込む技術(ドラグデリバリーシステム=DDS)が先行しないと、効き目も薄いでしょうけれど。
と言う具合に生命科学も日進月歩です。目が離せませんよ。
カテゴリ:瀋陽の生活
気温がマイナス20度近いと吸い込む空気が冷たくて肺が痛い。それでマスクをするとマスクから漏れてくる呼気でめがねが曇り、まつげが凍り付き、瞬きするたびに眼の開くのが一瞬遅れる。嘘みたいだが本当のことだ。
今度の風邪は初期対策で早めに一日安静に徹したのが奏功したのか、今朝の体温は36.8度まで下がっていた。それで、朝は妻よりは少し遅れて出掛けたのだが、凍った道で向こうから来る若い二人連れに道を譲った途端に滑って、二三度バランスを取りかけて、とうとう最後には尻餅をついてしまった。どすん。痛い!
若い二人連れは私には目も呉れずに行き過ぎていく。
やっと立ち上がって、おしりを引きずり、いえ、足を引きずり歩き出したら向こうで声が聞こえた。歩道ではなく車道の端を反対側から歩いていたおじさんだった。言葉は分からなくても言いたいことは分かる。車道の端は雪と氷がなくて無事に歩けるところだ。「ここを歩きなさい。見てご覧よ、ほかの人たちも歩いているじゃない。大丈夫だからね。じゃ、気をつけて。」
「謝謝」と繰り返して、おじさんの厚い肩を叩いて謝意を伝え、そのあとは無事に大学までたどり着いた。PCに向かって気持ちよく仕事を始めたが、そのあと動くたびに右の尻が痛んで、朝の出来事を思い出す。若者たちの忌々しさと、おじさんの親切と。
カテゴリ:瀋陽の生活
落ち着いてもう一度イタリアンレストランから来た挨拶状を見ると、11日をもちまして閉店と書いてあった。ということは今日は店を開いている。明日は教師の会の定例会と懇親会。明後日は瀋陽日本人会のクリスマスパーティ。ということは今日なら行けるわけだ。
と思い立ったのが午後4時。東北大学のブログ仲間の先生(男性教師Bさん)に電話した。近くにイタリアンレストランが出来て、まあまあの味だけれどちっとも流行っていないのが心配だと教えてくれた先生である。
電話に応答がないのでE-mailしたら、しばらくして携帯に電話が掛かってきた。夕方用事があるけれど8時なら大丈夫だという。8時でもいい、一緒に行きましょう。他に誘う人があったらどうぞ誘って下さい。と言って電話を切ったのが5時頃だった。東北大学には他にも日本語の先生がいるので仲間が数人が増えるだろう。中華料理ではないから、仲間の多い方が絶対よいというわけではない。
約束の15分くらい前にレストランの近くにある待ち合わせのホテルに着いたら、日本人教師の若い女性教師の面々がずらりと集まっているではないか。びっくりしてしまった。半分以上は今回のブログプロジェクトでBさんの誘いに乗った人たちだ。彼女らはブログ教祖Bさんの人望で集まったらしい。大したものだ。
ホテルからレストランまでは数歩の距離で、着いてみるとゆったりとした内装の綺麗な店だった。しかし中にいるのはウエイター数人だけで客の影は皆無だった。二階に上がって10人分の席を作ってもらい、それぞれメニューを見て頼み、食べながら普段と違うおしゃべりをしてきた。
料理はいろいろ取って分け合った中で私の味わったのは、シーザースサラダ、牛タンのマルサラ酒煮込み、海鮮トマトソーススパゲッティ、サラミのピザ、ティラミスだった。折角出掛けたので、おいしさを口を極めて賛美したい気持ちはあるけれど、乾麺のゆで加減はよかったが、自家製の生パスタはいまいちだったし、トマトソースもオリーブオイルの使い方が足りないのではないかと思う味だった。もちろん、今まで食べた中国のイタリア料理の中では出色であるが、期待が大きかったのでちょっと残念だった。
一人当たり56元を払ったが、この値段ならもっと美味しい中華料理があると私でも思う。中国人ならもちろんそう思うだろう。中国ではイタリア料理が流行らないわけだ。この店は一旦撤退したあと、場所を選んで再起するとオーナーシェフが挨拶に来て言っていたが、この先は苦難の道ではないかと案じられる。
それでも、思いがけない収穫は、毎月1回教師の会で顔を合わせるけれどなかなか話す機会のない若い女性教師の人たちとくつろいでおしゃべりできたことだった。それを思えば、このレストランに出掛けたことは十分に意義のあることだった。客足のない二階は、私たちを見て暖房を入れたくらいだから冷え切っていて、脚は寒さに震えていたけれど。
コメント:
いい気分で・・・ 女性教師I さん
Y先生ご夫婦とあんなにたくさんお話したのは初めてのことでした。そして本当に楽しいひと時が過ごせてうれしかったのです。ステキな会話とステキな笑顔のとなりでちょっと緊張してしまったくらいです。
ブログをきっかけにいつもあまり話す機会のない先生方とお話ができるって、とてもよいことですね。 (2005.12.10 02:47:30)
再起を希う 男性教師B さん
こいねがう って打つと希うって変換されるんですね へえ。
私は単純に「うまいパスタが食える」という動機でよく行ってましたが、雰囲気と味がよくても物価を考えると庶民が気軽に行ける外国料理という感じではない値段ですね。
道が険しいのは間違いないですが、こちらとしては何とか再起を願いたいと思います。どうしたところで狙いは外国人でしょうから、領事館エリアか河畔付近に移って(マリオット裏あたりはが地代が安そうです)、ホテルのバカ高いレストランとは違った(外国人なら)気軽に行けるイタリアンのお店として復活してほしいところです。
中華に飽きた我々日本人留学生・教師の食生活のためにも(笑 (2005.12.10 07:30:24)
私が書くと shanda さん
どうしても説明的になりますが、女性教師Eさんが描くと、ホワーッとムード溢れる描写になります。
http://blog.goo.ne.jp/otentosmile (2005.12.10 07:37:14)
ブログプロジェクトのおかげです shanda さん
>女性教師Iさん:
本当に、教師会の時に出会って毎回ニッコリ挨拶するだけの間柄だったのに、昨夜は隣に座ってもう百年の知己みたいな気になっていました。
教祖Bさんに感謝ですね。 (2005.12.10 08:53:46)
はじめまして。 女性教師E さん
おじゃまいたします。女性教師Eです。昨日のイタリアン楽しい時間でしたね。
先生方と席が離れていたのでお話できなくて残念でした(涙)やっぱり、大人数なら円卓のほうがいいですね。
教師会ではないところでのお食事会もいいですね。
第2弾は、タイ料理にぜひ!あそこもお客さんが少なかったです・・・が、味はおいしかったですよ! (2005.12.10 09:36:40)
第2回オフ会 男性教師B さん
>第2弾は、タイ料理にぜひ!あそこもお客さんが少なかったです・・・が、味はおいしかったですよ!
決定です。そこでやりましょう。いつにしましょうか? クリスマスをタイ料理で なんてのもいいかもしれませんね。 (2005.12.11 08:05:38)
昨日の12月の定例会でHP係からブログの勧めがあった。
日本語教育に携わっている現場の教師の声を生々しく発信しようという試みで、これには各個人がブログを持って書きまくらなくてはならない。通常は敷居が高い。
それで、岡沢先生が各係のHP担当者に、ブログを始めなさいと勧誘、あるいは命令を出したところ、奏功して、今日現在8名9サイトが走っているというわけだ。
こんなに簡単に作れますよと言うことで、後どれだけの先生が乗ってくれるだろうか。今すでに女性教師Aさんから始まってIさんまでいる。アルファベット26文字に入りきらない数の教師の数だが、さて、どうでしょう。
今日の12月の定例会は終了後に今期で帰国する斉藤先生の送別会が予定で組まれていました。
ところが定例会の議事の最中にこの9月に代表に選ばれたばかりの多田先生が同じく今期限りでアモイに移るという発表があり、全員の胸に衝撃が走りました。7年間にて瀋陽の主だった石井先生に7月に見捨てられたばかりでした。
と りあえず南本副代表が必要なときには代わりを務めて、3月はじめの定例会で代表選出をしようと言うことになりました。短期の滞在の先生が多い中で例外的に 長い石井・多田先生などを見ていると、瀋陽にずっとこのまま永久にいらっしゃるという安心感となってしまっているので、こういう現実を突きつけられると慌 ててしまいます。
というわけで、送別会は斉藤先生と、多田先生が対象でした。
多田先生が何時も送られる人を「フレー、フレー」といって送るので、多田先生が斉藤先生にエールを贈り、そのあと全員で多田先生にエールを贈りました。
カテゴリ:研究室風景
今朝の研究室のジャーナルクラブは、卒業研究生3人も加わり、見かけは賑やかな集まりだった。彼らは私の生物化学の分子生物学の講義を聴いているけれど、ここで聞く話は世界の最先端の研究だから、まるで端緒がつかめずにおろおろしている。
修士2年の鄭くんはそんなことにお構いなくJBCから新しい論文を紹介した。
論文を読むことで新しい知見を得ることが出来るが、もう一つ興味のあるのは、どういう研究の展開をしているかという研究者の考えの過程を知ることである。論理的にこうなるはずだと思って調べたらその通りだった。別のところの話題の反応がここでもあるかと思って調べたらそうだった。などというのは言ってみれば凡人の発想で、刺激的ではない。
生体の反応から、何故それに目を付けたのかの論理的説明がかろうじて出来るくらいの頭のひらめきで、考えついてそれを調べたら大当たりだった、なんて言う研究は興奮する。こちらもそれを夢見て、とんでもない無駄な思考の遊戯を重ねることになるかも知れないが、人の創造性、想像力の無限の力を垣間見ることは嬉しいことだ。
今日の話はその一つで、得られた事実も大事だけれど、もう一つ得をした気になった。さらに、このような論文を自分で探してそれを紹介する力を鄭くんが身に付けたことも嬉しいことだった。
カテゴリ:ブログ
今日の12月の定例の教師の会で、数週間前から始まったブログプロジェクトの紹介というか、PRがあった。もう2回に亘って全員にmailで情報を流した上で、教師Bさんは「たった5分で作れるブログ」の話をした。
今ブログを始めているのは教師の会の中のHP担当係の中の8名である。他の先生たちにとってはまだ敷居が高い。分かって貰おうと思って、既に走っている8名の持っているサイト9個を紹介して読んでみて下さい、こんな具合ですよ、と知らせておいた。
ところが、言われたように実際にアクセスしてみると、「それらに目を通すだけで2時間掛かっちゃったわよ。」と言われるし、さらには、コメントにコメントが続いて、つまりおしゃべりじゃないの、あれをやっているだけで毎日何時間も掛かるじゃない。つまり暇じゃなきゃ出来ないわよ」と決めつけられてしまった。
このところブログプロジェクトにどっぷりつかっていて、妻に「あなたよほど暇なのね」と嫌みを言われている私にはつらい言葉だ。
「ブログは暇じゃなきゃ出来ない」と決めつけるのは簡単だが、教師の会のブログは、瀋陽という異境の地で、日本語教育に努めている生の声を発信しようという試みである。これには十分な意義がありそうだ。しかもその時の気持ちはこのように書きつづらないと、残らない。暇でなきゃ始められないというものではなく、忙しくてもやる気になれば出来るというものだろう。
それに、もう一つ大きな効用があって、年間せいぜい8回の定例会で顔を合わせることしかできない間柄でも、このブログで対話して親しみがぐっと増すことになる。実際、HP係でブログ仲間となった先生たちとはもう長い付き合いのように気心の知れた仲間となった。この面だけを考えても、ブログを始める意味はあるに違いない。
私は、もう意味など考えなくったって書き続けられる依存症みたいらしいが。
コメント:
ここに書き込んでいいものか、 morika さん
ちょっと迷いました。
瀋陽だよりとは、まったく雰囲気が異なっているのが新鮮。書いておられる文章にも、先生皆様のやりとりにも、「ぶふっ!」と思わずふきだしてしまいます…。奥さまの「あなたよほど暇なのね」にも、フフフフフ。こちらをのぞきにくる楽しみが増えて嬉しくなりました。 (2005.12.13 00:25:22)
morikaさん、おじんです shanda さん
熱烈歓迎・歓迎光臨です。
ブログから手を引こうかと思っているのに、何となくこちらの方が良いみたいなお言葉ですね。
参ったなあ・・・。
やはり毎日ちょこちょこっと書き込むのと、「瀋陽だより」みたいに身構えて書くのとでは、やはり違うのですね。 (2005.12.13 13:45:46)
カテゴリ:友だち
今日の教師の会のショッキングなニュースは、この9月に教師会の代表に選出したばかりの多田先生が今期限りで瀋陽を去ることにしたというものだった。
大体瀋陽に7年という石井康男先生が寧波に移られることになって急遽涙の送別会をしたのが、この7月はじめのことだった。
そして9月の新学期には多田先生を代表に選んだのだった。だからまさか、である。皆耳を疑ったが、一身上の都合で聞いてもやむを得ない事情である。
それで定例会のあとの送別会は、今期限りで帰国される女性教師Eさんだけでなく多田先生の送別も一緒と言うことになってしまった。
この多田先生は細やかに気配りのよい方で、話をすれば滅法巧みで皆を楽しませる。そして特技は別れの時の、フレー、フレー、○○○、の三唱である。まず、女性教師Eさんの送別のために、多田先生が音頭を取った。そしてこれがお手本となって皆が練習をした。
そして送別会の最後は全員で多田先生のために、
フレー、フレー、○○○
フレー、フレー、○○○
フレー、フレー、○○○
を三回繰り返したのである。
今日の会に参加した人たちの中に、きっと多田先生の跡継ぎが出来たに違いない。
コメント:
継続は力なりです。 うさぎ さん
先生、フレーフレーですよ。何でも自分に出来ない事は「貴方は暇ね」なんてで片付けられますが、時間は作るもので暇な時間はありません。私は今ではPCで簡単に年賀状を作ってますが、今までは手作りの凝ったのを作ってましたが、貰った相手は一応喜んではくれましたが、いつも一言「貴方は暇ね」で一生懸命作った私はガッカリでした。仕事でもだらだらするのでなく、私は朝一日のノルマを決め達成すればサボるのではなく、息抜きに当ててます。(仲間にわからないように)うふふ・・。
PC上でしかお喋り出来なくても、心和みますよ。こうして先生とお話させていただけるようになり、行った事のないシン陽が目に浮かびます。もっと、いろいろなお話聴かせてください。
先生、イタリアンレストランでの食事が出来て良かったですね。閉店!って文字が飛びこんできたらショックのほうが大きく日時が目にはいらなかったのですね。でも心残りが一つでも解消出来て良かったです。
ブログへの書き込みの一般参加は私がはじめてでしょうか? (2005.12.11 10:23:32)
うさぎさま 歓迎光臨 shanda さん
教師の会の仲間以外でコメント書いて下さったのはうさぎさまが初めてです。嬉しいことです。掲示板にはcorocoroさまが書き込みをして下さいました。
仰る通り、継続は力なりですが、そう思いながらもそれが続かなかったことが如何に多いことか。
でも、嘆いても始まりません。昔のことはさらりと忘れて、新しいことを追いかけるのが私の長所です。
イタリアンレストランで教師の会の仲間と会ったと思ったら、もう、今度はタイ料理に行く話がきまったみたい。ブログの効用ですね。
今日は瀋陽日本人会のクリスマス会がありました。
(2005.12.11 17:17:41)
恐れていたとおり、ブログを始めたらホームページのエッセイを書くのがとても困難になってしまった。ふだん2500字前後で書くのに2時間近く掛かる。その時間はともかくとして頭に何も無しでPCに向かうわけにはいかない、導入、主題、結論が頭の中に出来ていないと書き始められない。
ところがブログという手軽 なコミュニケーション手段を手に入れたら、考えようと思っても考えが細切れになってしまって、エッセイの纏まった中身が浮かんでこない。ブログを手軽、と 呼んではブログを書いておられる方々、あるいはブログの感覚で日記を書いていらっしゃる方たちに申し訳ない。でも、私の書いているブログは、あらかじめ考 えておくこともなくPCに向かうと15分もあれば書けてしまう。
このブログは、教師の会が 瀋陽という異境の地で「日本語教育に携わっている日本人教師の涙と愛の物語」を教師の会のホームページに載せたいと思い、しかし、なかなか実現できないで いるときに、それぞれにブログを書いて貰ってそれにリンクするだけでいいのじゃないという示唆を貰った。
現場の声を発信したいと考え出して1年以上たっている。もう待てない。その時既にブログを瀋陽に来て始めて1年という先生が二人いるのを知っていた。それで二人の了解を取って、ホームページに「日本語教育現場の声」と銘打ってリンクを張った。女性教師Aさんと男性教師Bさんである。日本人教師が三十数人いるのに二人だけでは淋しいので、私のこのホームページにもリンクを張って男性教師Cと名乗った。
そしてBさんに次の教師会では、キャンペーンを張ってブログ仲間を増やすことを考えましょう、と連絡した。Bさんは迷わず、ブログの作り方を皆に教えるに当たって、まずHP係の間でブログを作ろうというキャンペーンを始めた。HP係は今年度から増やして、教師の会のいろいろな係ごとから一人が参加しているので7〜9名いることになる。
そしてBさんは名指して、まず私もブログを作りなさい、HPに 書いているのと自ずと違う面があるから、是非やりなさいと命令してきた。今までブログみたいに忙しいやりとりが日常になるようなことはまったくやる気がな かったのに、このときは仲間のBさんの顔を立てて、ま、やってみるか、と思ってしまった。見かけはもうちょっとしっかりいるので皆だまされているが、実は 昔から軽佻浮薄を地で行く男なのだ。
誘われたとおり、早速Yahooで作ってみた。それで自分のサイトを見ると、書いた字面の字の間が所々空いて見にくい。他のはどうだろう。それで既に馴染みの女性教師AさんのDoblogを開けてみた。NTTという大会社なのに、これがとても重くて扱いにくいのだ。IDを登録しているうちに、二回も別のIDで登録してしまった。それなのに自分の書き込み画面にたどり着けない。
たまたまinfoseekにアクセスして見て、ここにもブログを作った。ここが楽天であることは作って始めて知った。そして翌日、男性教師BさんのExciteを開けてみるととてもスマートである。直ぐに登録して書き込みをした。使いやすい。
この楽天は自分のブログのトップに楽天というマークがでんと出て来る。他のブログではこういうことはなく、それに比べると垢抜けないけれど、それが私の体質に合ったのか、Yahooのブログと並んで、楽天にもふたつ目の書き込みをしてしまった。まだこの時点ではどれにするか決めていなかったのである。三日目はどうしてか楽天だけに書き込んだ。
さて、Bさんはブログを人に勧める音頭取りを始めただけあってこまめに見回るだけでなく、コメント欄に書き込みをしてくれたのだった。それも、楽天の方だけに。
礼儀としてコメントには応えなくてはならない。こうやって書き込みが増えていくと。この楽天を消すことなど思いも及ばなくなる。自分の汗だけではなく人の思いやりも無にしてしまう ことになる。それで、私は他のを整理してとうとう楽天一本で行くことにした。泥臭い、と心の中でどつきながら。つまり私と楽天は心惹かれるものがあって、 ぴったり似合っていたに違いない。
Bさんの熱意が功を奏し、 「実はもう持っていたのですけど」という仲間が二人、そしてブログを始める仲間が次々と増えて、2週間おうちには合計8名9サイトになった。ブログプロ ジェクトを始めたのはBさんだけれど、このプロジェクトには私も責任を感じる。それで、皆のサイトのせっせと廻って、Bさんと同じようにコメント書いて残 した。
そして、私もブログはこん な具合に書くのかと思いつつ毎日書いているうちに、何時の間にか一日に3回書く日が続いてしまった。Bさんに言わせると立派なブログ依存症なのだそうである。自分で、何故こんなにブログを書きまくっているのか訳が分からない。答えが見つからないのだ。恋に落ちるみたいにブログが好きになった?否。書くのが 大好きというわけでもなく、人の書いたブログが恋しいわけでもない。それでも、次々書き足している。皆のサイトを見ている時間もふくめて毎日数時間を超え るようになった。
確かに依存症だ、中毒だ。どうしてよいか分からないところもやっかいなブログ依存症候群である。一方では、このまま続くはずがない、それなら自分の心の動きを観察していようという部分もある。というわけで、ブログにどっぷりとはまりこんでいるけれど、大きな収穫もある。
というのは、教師の会は定年過ぎの先生たちと、若くて元気なほとんどが女性の先生たちとの二層構造になっている。定例会に毎月集まるだけなので年8回の会で顔を合わせるだけなので、私たち老年組は若くて元気な先生たちには構って貰えない。
それが今はブログで親しくコメントしあって、昨日など久し振りに会ったにも拘わらず、お互いかどうかは知らないが、少なくとも私はもう百年の知己のような親しみを感じつつおしゃべりをすることが出来た。このodnのホームページの仲間で、実際に会ったのは1回だけれど、彼女の歌声に耳を傾けた時の気持ちは長年の親友の歌を聴く心境だった。まだ会っていないodnの数人の人たちにも同じ気持ちを持っている。これこそインターネットのポジティブな面の素晴らしい効用であろう。
カテゴリ:瀋陽の生活
今日の最高温度マイナス10度。最低マイナス22度。それでも瀋陽は好天です。
瀋陽にある日本人会のメインイベントは今日のクリスマス会です。五つ星ホテルのマリオットを会場として使います。昼の12時から午後3時まで。今日の参加者は207名だったそうです。
夏から瀋陽で始まった日本人補修校の1年生3人から中1の2人までの17人が、一番最初に出てきて、赤鼻のトナカイやジングルベルなどのクリスマスソングを歌いました。日本人子供たちってなんて可愛いのだろうと、このパーティに出ると思います。指導と伴奏は男性教師Bさんです。サンタの装束をしていました。昨日は白酒で酔っぱらって楽譜があっても違う曲を弾いていましたが、今日は大丈夫でした。
食事の間は中国の世界に誇る瀋陽雑伎団の面々。次々と信じられないほどの芸を見て、隣の小3の女の子は見ていて力が入って肩が痛くなったと言ってお母さんに揉んで貰っていました。
食事が終わって恒例のビンゴゲーム。瀋陽に進出している日本企業や関連企業あるいは個人から沢山の寄付を仰いでそれが豪華景品となるということです。昨年は800点だったのが今年は1500点集まったと言うことで、平均でも一人当たり7個。凄い!と期待しました。
ビンゴゲームは10人まで。次々と、瀋陽ー成田往復航空券、ホテル○○の宿泊券、エアコン、などが幸運な人たちの手に渡っていきます。9位までたあと、最後の一人に、ビンゴが7人当たり出てじゃんけんで勝負をして一人だけ10位のDVDレコーダー賞が貰えました。舞台まで出ていって夢敗れた6人は、鼻から選外の私たちよりかわいそうです。
そのあとテーブルごとに順位を付けて景品が配られました。私たちは22のテーブルで一番最後を引き当てて、それでも全日空のカレンダーと、ゴルフボールが入っていました。
この会のために毎週会議を重ねた幹事さんたち、企画に、準備に、設営に、運営に、そしてサンタの衣装で、本当にご苦労様でした。
帰りは3ブロックの雪と氷の中を歩いてうちに帰ってきました。マイナス15度くらいの空気を吸って、よい運動でした。
コメント:
クリスマス会 qiteng さん
教師Eです。どちらにいらっしゃったのでしょうか。お会いできなくて残念でした。
最高気温が-10度。温度を実際に目にすると信じられませんね。マイナスの世界で暮らしているんですね、私達。わー。それでもマオクーやミエンクーを穿いたり、ロングのダウンジャケットを着ているからなのでしょうか、外に出ている顔のみ、寒いと感じます。あ、これだと、どれだけ厚着をしているかわかってしまいますね(笑)
(2005.12.11 20:08:19)
なんとまあ残念 shanda さん
たった207人の中でEさんを見分けられないなんて、私の目は節穴ですね。ドジドジドジ。
帰りは科普公園の中を歩いてきました。まだ雪が綺麗でした。
(2005.12.11 20:51:01)
想像できない気温ですね 3303corocoro さん
瀋陽の気温をお聞きしたら、私達は寒いなどと言ってはいけないような気がしてきました。
やはり、鼻の穴がスースーとくっつく感じがするのでしょうね??(札幌在住時の幼少体験より)
それにしても楽しそうなクリスマス会!ビンゴゲームの商品が豪華で驚きました。
(2005.12.11 21:44:59)
やってみなくちゃわからない 教師I さん
CさんやEさんの話を見ていると、クリスマス会というのは「不錯」なんじゃないかという印象を受けます。わたしはまだ参加経験がないのですが、一度参加してみようかしら、などと考えたり・・・。
ブログと同じで、とりあえず実際に自分で経験してみなくちゃ分かりませんからね。 (2005.12.11 23:43:25)
今日の寒さは眼が痛かった shanda さん
>corocoroさま
札幌など日本も寒いところがあるわけですから、瀋陽で寒い寒いと言っているのは滑稽なことかも知れませんが、初体験ですのでどうしてもこのことばかりに話題が集中しますね。
ほんと、息を吸うと鼻の穴がぱりぱりとくっついて、まぶたは閉じるたびに睫毛がくっついて開けるのがワンテンポ遅れます。
クリスマス会は日頃殆ど会うことのない日本企業人ばかりですので、ひたすら豪華な食事と、ビンゴゲームを楽しみに参加しています。何時か当たるに違いないと思って。
>女性教師Iさん
回りはみんな知らない人たちで、そして彼らは互いによく知っている会に行って、殆ど構って貰えず、楽しみは食事とビンゴゲームだけ。
瀋陽に何人かの知己が出来ているので毎回出掛けますが、何時もどうしようかと思った挙げ句、出掛けています。お付き合い、お付き合い、と唱えながら。 (2005.12.12 09:35:27)
11日の日曜日は瀋陽日本人会の主催するクリスマス会が五つ星ホテルの一つであるマリオットホテル(万豪酒店)で開かれた。教師の会の会員は、この会には個人の資格で入っている。それでも、教師の会からも実行委員が出ていて、今年は南本卓郎先生だった。
この日までの準備はもとより、当日は赤い服を着て、受付、運営に走り回るのである。
会費は一人150元。このほかにテーブルごとの勝ち抜き試合があり、これの参加料が一人10元。
12時に、日本人会長の挨拶に引き続き在瀋陽日本総領事館の小河内総領事の今年を振り返るという講話があって、全日空窪田さんが乾杯の音頭を取っ手会が始まった。
最初の出し物は、今年発足した日本人補習学校の生徒たち17人で、岡沢先生に率いられてクリスマスソングを歌った。
日本人の子弟がこのところ急激に増えている。実際にはもっといるけれど、土曜日に開かれる補修校にはこれしか通っていない。今に日本人学校開設の要望が強まるだろう。今のところ、補習校で働いているのは、多田、岡沢両先生の二人である。
雑伎団の演技を見ながら食事が出た。
テーブル対抗は、「ドラエモンの作者は手塚治虫である「光の三原色は、赤、青、黄色である。○か×か」というような質問で振るっていって、最後に残った4テーブルでじゃんけん。買ったテーブルは1千7百何十元を手にした。
それから皆の期待に満ちた視線を浴びて。ビンゴゲーム。豪華景品が次次と幸運な人たちに配られた。
今日の総合司会は、ブリジストンの潮田さん。体育大学の元気な学生と、全日空の安藤さんが司会。
3時にお開き。お疲れさまでした。
教師の会からは、私たちの他、南本夫妻、峰村、高山、竹林、斉藤、多田先生などが参加。
カテゴリ:瀋陽の生活
今日の予報は最高マイナス10度、最低マイナス21度。
大学の正門から入ったら中に超長大トレーラーが4台止まっていた。そのうち2台は二本ずつ銀杏の成木を積んでいる。あとの2台は槐の小振りの木を数本ずつ。どれも根は綺麗に掘り上げられて荒縄で綺麗に囲われている。薬科大学にこれから植えるにしても、薬科大学から送り出すにしても、どう見てもこれから植える移植用の木だ。
来年5月から半年間、世界園芸博覧会がこの瀋陽で開かれるので、市はその準備に一生懸命だろう。その一環だろうか。それにしても零下20度以下になる時期に、木の移植をして大丈夫なのだろうか。
カテゴリ:薬科大学
薬科大学の真ん中には校庭があって、その400メートルトラックの内側に水を張っていると以前書きました。雪が降ってでこぼことなりどうなるかと思っていましたが、毎晩氷点下の寒さの中で(誰かが)水を撒いて雪を溶かしてとうとう氷面を作り上げました。
私たちの新実験棟はここに面して建てられていて、5階にある私の部屋からは眼下にこのスケートリンクが眺められます。今朝から体育の授業が始まったらしく、2百人くらいの色とりどりの学生が滑っていました。
冬たけなわです。
「春たけなわ」「宴たけなわ」というのは良く聞きますが、あまり「冬たけなわ」という言葉を聞いたことがありませんね。「人生たけなわ」といいますから、盛んなことを言うのでしょう。それなら冬たけなわでも良いはずですね。
辞書によれば、「物事の一番の盛り、真っ最中のこと」だそうです。盛りを少し過ぎたときにも言うそうです。それじゃ、私も人生たけなわ。でも、私の冬たけなわの方がぴったり来るみたい。
コメント:
日本語教師として 教師I さん
辞書に「物事の・・・(以下省略)」と書いてあるから、「たけなわ」の前に「冬」がとれるかどうか?「たけなわ」の前にとることができる名詞には制限がかかっているのではないですか?ですから自分で自由に創作してはいけないのです。日本語学習者によく見られる誤用です。例えば「~っぽい」は「~の傾向がある、~の感じがする」という意味だし名詞に接続できるから「彼は遊びっぽい」もOKだ、と考えます。「~っぽい」の前にとる名詞や動詞にはかなり制限がかかっているのです。 (2005.12.13 00:51:18)
一応ツッコミ 男性教師B さん
意味論的に言えば、「たけなわ」は慣用的表現なので脳内辞書において「春たけなわ」「宴たけなわ」で語彙化されているために自由な表現を取れない、という説明になります。
「N/Aらしい(様態)」「V/A/NA/N/Auxらしい(推定/伝聞)」は文法的要素なので比較的どんな意味の語でもつく、
「Nっぽい(様態)」「N/V/Auxっぽい(推定/伝聞)」は語彙的ながら若干文法化が進んでいるのでいろいろな語を取りうる(取れる語に制限がある)、といったところが一般的な説明になります。
(2005.12.13 04:59:24)
グーグル万歳。 男性教師B さん
ところが実際の「~たけなわ」の用例をGoogleで見てみると、意外にいろんな語が来ることがわかります。
年末商戦たけなわ、祇園祭もたけなわ、蹴球五輪予選たけなわ、[各種の]シーズンたけなわ、秋たけなわ、マンション問題たけなわ、学園祭がたけなわ、紅葉たけなわ、新品種育成のための交配作業たけなわ、運動会たけなわ、シルイチャー[沖縄方言:アオリイカ]たけなわ、スキーシーズンたけなわ、審議たけなわ、学芸会練習たけなわ(懐かしいw)、光合成たけなわ etc.
といった感じでいろいろな用例があがってきます。ん?というのもありますが誤用例は誤用例として意味拡張を考える上では貴重なデータです。
ざっと見てみると、「季節[+語感]」たけなわ、あるいは「行事」たけなわ、という形でまとめられそうです。
通常「春」が言えれば「冬」が言えていいわけですが、この場合は[+語感]という制約が効いてきます。プラスイメージであれば、「スケートシーズンたけなわ」が十分いえるというわけです。
「真っ盛り」との違いはこの部分の制約の強さだと考えられます。真っ盛りの方が文法化されている/慣用表現度が低い、ということになります。
単純に考えれば慣用句だから、で済みそうなところですが、実例に当たると案外いろいろ言えそうなことがわかります。
で、結論は、『グーグル万歳』です。 (2005.12.13 05:14:19)
お二人の先生方 shanda さん
ご意見をありがとうございました。
なるほど、こうやって説明するのだ、なるほど。と言う具合に、「冬たけなわ」を使わない理由が分かりました。
今日は一寸インチキをして、戴いた書き込みを読みながら納得していく過程を今日のブログにして載せました。
ですから二重の意味で、ありがとうございました。 (2005.12.13 14:35:26)
カテゴリ:瀋陽の生活
昨夜帰るとき、朝見た銀杏の木などを積んだ超長大トラック4台がまだ大学の正門近くの通路に停まっていて、しかし轟々とエンジンを鳴らしていた。回りは暗闇で見えないけれど、排気ガスでもうもうだった思う。暗闇なのに車がかすんでいたから。
エンジンを掛けていたのは3台で、ちょうど掛け始めなので、ますますエンジンを吹かしていたのだ。そして、エンジンの真下には真っ赤な炭火があり、一人はさらに炭火を最後の1台に運んでいくところだった。
ディーゼルエンジンはシリンダー内のガスを圧縮した熱で点火するので、点火プラグを持たない。エンジン起動の時にはエンジンを予熱しておかないといけないが、マイナス20度だとエンジンに組み込まれているヒーターでは足りないのかも知れない。
それにしても外からの火で加熱するなんて、凄い。マニュアルに書いてあるんだろうか。それともマニュアルでは禁じていることをやっているんだろうか。ここの人たちの生活の上での創意工夫は凄いものがある。何でもやってのける。
中国の多くのトラック、バスは排気パイプから黒い煙、青い煙を盛大に吐いて走っている。日本の車よりも整備が悪いのだろう。だから、今も凄いことになっているに違いないけれど、風がなかったから車を迂回すれば排気ガスを避けることが出来た。瀋陽は毎日零下の寒さだが、幸いこのところ風がひどくないので何とか凌いでいられるのがありがたい。
コメント:
注意: 外から炎を当てないでください 男性教師B さん
エンジンをかけるためにエンジンを火鉢で加熱するなんて、なんだかハイテクなのか匠の技なのか良く分かりません;;
さすがにマニュアルに外から炎を当てろなんて記述はなさそうですが(引火しそう)、禁止事項として乗っていればそれはそれで面白そうです。 (2005.12.23 13:20:10)
カテゴリ:瀋陽の生活
昨日ここに、眼下に見える校庭のスケートリンクが学生たちで花盛りなのを見て、「冬たけなわ」と書きました。
早速書き込みをいただきました。「辞書に「物事の一番の盛り、真っ最中のこと」と書いてあるからといって、「たけなわ」の前に「冬」がとれるかどうか?その前に来る名詞には制限がかかっているので、(「春たけなわ」と言うからと言って「冬たけなわ」などと)自分で自由に創作してはいけないのです。」と言うおしかりです。
なるほど、なるほど、確かに「冬たけなわ」とは聞いたことがないから、使ってはいけないのですねえ。
そしてそれには理由があるのでしょうね。「それは「春たけなわ」「宴たけなわ」のように語彙化されているために自由な表現を取れない」のだそうです。語彙というのも慣用で出来てくるでしょうから、特別の物事が選ばれ、ある名詞は使われない理由があるのでしょうね。
「通常「春」が言えれば「冬」が言えていいわけですが、この場合は[+語感]という制約が効いてきます。プラスイメージであれば、「スケートシーズンたけなわ」が十分いえるというわけです。」
なるほど、プラスのイメージを持っているときに使えるのですね。だから「ベビーブーム退職たけなわ」とか、「平成不況たけなわ」とは決して言わないわけですね。
冬にプラスイメージを持つ人は普通は誰もいないから、誰も使わないし、従って「冬たけなわ」と聞くと違和感があると言うことが分かりました。
昨日は窓の外のスケートリンクが賑わっているのを見て、「冬だから出来るのだな」と思ったので、冬にマイナスイメージではなく、プラスのイメージを重ねていました。だから「冬たけなわ」を口にしても自分ではあまり違和感がなかったのですね。
理論を知らなくても、誰もが日本人として、日本語を無意識に正しく使っているところが凄いと思います。たとえ日本語を人に教えられなくても、論理的に説明できなくても。
勿論、こんな訳の分からない難しい日本語を、理路整然と説明できる先生方には、ただただ感服します。お二人の先生方、ありがとうございました。
コメント:
ベビーブーム退職 男性教師B さん
ベビーブーム退職ってマイナスイメージのある言葉なのか、と目が覚めました。
構造的な絶望的不況に長期間あえぐ文系院生にとっては、ベビーブーム退職→空きポスト大量創出→雇用機会の創出(増加というより;;) という連想により最大限のプラスイメージのある現象であります。
したがって私の脳内の日本語では「ベビーブーム退職たけなわ」は大いにOKなのです。 (2005.12.13 18:42:14)
ハフッ shanda さん
これ、何か困ったときのうちのジロというイヌの仕草でした。
日本人なら同じように思うなんて言うのは昔の神話ですね
私もこれからは多面的な、複眼的な(以上無意味な言葉ですが)、つまり私から見て裏返しの見方をしてみましょう。 (2005.12.13 19:42:43)
ブログへの参入 うさぎ さん
「たけなわ」の話題ではないのですが、私(うさぎ)はブログへの書き込みの方が性に合ってるみたいです。掲示板への書き込みの皆さんはDNAとか細胞とかタミフルの事とか専門的な分野についての内容で返事が先生に講義を受けてるようで(授業料も払ってないのに・・・。これは私の体裁のいい言い訳です)難しく、背伸びすれば話題について行けそうですが、息抜きのつもりが息が詰まりそうになる感じです。
その点、ブログは生活感があり私はその方に興味が沸きます。そんな息抜きのつもりでのブログへの書き込みはだめですか?
今、先生が瀋陽で体験されてるマイナス気温の生活は想像もつきません。だから、毎日の先生の書き込みに声援を送ってます。頑張ってくださいと。
日本もここ2.3日大寒波が居座ってますが、私の住んでる所はマイナスにはなりません。震え上がってます。到底、瀋陽では暮らせないでしょうね。 (2005.12.13 19:44:43)
うさぎさま shanda さん
どうぞ、どうぞ、ブログにどうぞ。何時でもお気軽にお寄り下さい。そしておしゃべりしましょう。
瀋陽の今の時期はとても寒いですが、それなりの格好をしていれば、大丈夫です。ズボンは夏のジーパンですが、下には新聞で見た「ヒマラヤ探検隊が着る下着」に相当するものを着ています。
風が吹くときにはこれだけでは駄目で、もう一つズボン(若者がぞろっとというか、どぼっとというか、穿いている奴です)を重ねます。
室内温度が21度くらいありますから、上は下着、Yしゃつ、薄いセーターが普段の服装で、外に出るときはダウンの厚いフード付きジャケット。首巻き、マフラー、毛糸の帽子、そして二重の手袋が必需品です。靴は瀋陽で買った内張のある靴です。
こんな格好で滑って転ぶのですよ。重い分だけ衝撃が強くて痛いです。
これからもご声援に応えて、頑張って歩きますからね。 (2005.12.13 22:14:12)
教師の立場と個人の立場から 女性教師D さん
日本語教師の立場としては、確かに「冬たけなわ」は誤用と言わざるをえませんね。でも、個人的にはその用例、気に入りました。「冬たけなわ」なんて冗談で言って楽しめるようになったら日本語超級ですよね。
この-15度前後というのは、ちょっと出かけるぐらいなら恐ろしい寒さというほどではなく、零下初体験を楽しんでいます。 (2005.12.14 21:11:40)
カテゴリ:研究室風景
昨日は大学院修士課程2年生の鄭くんと仕事の話をした。彼は別の大学からここの大学院に入って、生命科学の基礎学力があまりあるとは言えず、初めは彼も、そしてこちらも苦労をした。だって、この領域の言葉が全く通じないのだから。
最初の1年は、日本の大学院と違って講義がびっしりとあるので、研究に割ける時間はあまりない。それで、博士課程の陳さんに頼んで、彼女の実験を見ながら少しは研究に慣れるように計らった。1年経ったところでテーマを与えたが、与え放しというわけにも行かず、手を取り足を取りと言う感じで綿密に実験を指導してきた。
そのためか、実験が割と良い感じで進み面白い結果が出始めてきた。論文にするなら、こういう具合にデータを積み重ねていって作ろうと、原型を書いて渡したのも励みになったんだと思う。あと半年くらいで一寸した論文になると言う感触が感じられるようになった。
今2年生の半ばなので、博士に進学するならあと3ヶ月で申告しなくてはならない。博士には修士課程の2年生から進学することが可能である。一方、修士で出るなら3年間の修士課程をやる必要がある。それで、昨日どうするのか聞いてみた。答えは就職だった。あれえ、一寸がっかり。でも、論文にするための期間をもうすこし長く見積もって良いことになったわけだ。
コメント:
博士課程進学 男性教師B さん
日本では博士課程進学というのはかなりの自信と覚悟がないとできませんよね。文系の場合は修士に入る時点でその選択がやってきます。文系の場合、大手企業企業に就職しようと思ったら大学院なんて考えるまでもありません。文系院卒だとそもそも企業の採用枠がありません(笑 研究職を目指す以外の選択肢は現実的になくなるわけですが、昨今の現実を見てみるに、文学部系統で大学院に入院;;した学生が最終的に大学などの研究職につける割合は1~2割だろうと言われています。その他の8~9割の夢破れた方々がその後どうなるかは、想像するだに怖いものがあります。良心的な研究室は、「就職はないぞ。大学の同期が係長課長でばりばり働いている時にアルバイト生活でも耐えられるんだな」と聞いてくれるそうです・・・ (2005.12.23 13:05:50)
博士課程進学 男性教師B さん
日本では博士課程進学というのはかなりの自信と覚悟がないとできませんよね。文系の場合は修士に入る時点でその選択がやってきます。文系の場合、大手企業企業に就職しようと思ったら大学院なんて考えるまでもありません。文系院卒だとそもそも企業の採用枠がありません(笑 研究職を目指す以外の選択肢は現実的になくなるわけですが、昨今の現実を見てみるに、文学部系統で大学院に入院;;した学生が最終的に大学などの研究職につける割合は1~2割だろうと言われています。その他の8~9割の夢破れた方々がその後どうなるかは、想像するだに怖いものがあります。良心的な研究室は、「就職はないぞ。大学の同期が係長課長でばりばり働いている時にアルバイト生活でも耐えられるんだな」と聞いてくれるそうです・・・ (2005.12.23 13:13:21)
カテゴリ:カテゴリ未分類
今日の予報は、最高温度マイナス8度、最低マイナス20度。どうです。今日は一寸暖かいでしょう?最高温度が上がったのですよ。
「冬たけなわ」とう使い方が正しいか間違っているかを巡って、日本語の先生から色々意見を戴きました。完全な誤用でないなら、新しい感覚を生み出すものとして新しい用法は試してみて良いのではないでしょうか。
というのは、以前日本にいた頃、研究費申請が何時も頭を悩ませる難事であり、かつ大事(おおごと)でした。特に数億円の予算が付く大型研究費の申請は数人から数十人の研究班を作って申請しますが、このネーミングが大変重要なのです。新しい研究ですから、研究内容を完全に把握して理解できるのは同じ研究者仲間しかいませんが、この研究を採択するかどうか決めるのは全くの異分野の人たちです。同じ生命科学の中でも無理なのに、数学や物理、宇宙天文学の老大家たちが審議するのです。
となるとタイトルからして使い慣れた言葉は使えません。全く新しい、そうかと言って全く新規ではかけ離れてしまいますから、新鮮な言葉で新しい領域へのチャレンジを匂わせるネーミングが必要で、これには何時も頭を絞りました。3年目に「スーパー糖鎖分子」という名前で大型研究が認められました。「スーパー糖鎖」という誰にとっても新鮮なネーミングの成功だと思います。
このようなことは、多かれ少なかれ誰しも日常やっていることです。人の気を引くために言葉に一寸した工夫を加える。言葉の新感覚。これは作詞家の使命です。
ポジティブなイメージで冬を思い浮かべることが出来るなら、「冬たけなわ!スキーのあとは○○温泉で!」というコピーを作ることができますよね。
そして聞くのにも何の違和感もありませんよね。よし、行こうっと、という気になりませんか。
言葉は日進月歩なのだと思います。
コメント:
Super Area Studies? 男性教師B さん
ネーミングって難しいですね。内容を正確に表すよりもイメージ・インパクト重視。お役所相手だと頭の固い官僚さんのココロを掴むキーワード、環境・国際・人間・情報、なんていうのを一昔前に聞きました。
そういえば私の出身学科は履歴書上は「超域文化科学科」という名前になっています。学部再編でネーミングに困って適当につけたとしか思えない名前で、履歴書を書こうとするといつも微妙な気持ちになります。
実質的な学科名は「言語情報科 学」でしたが、所属になっている教員数は50人強とむやみやたらと多いのに、情報科学の専門家が一人もいないという不思議な学科でした。今はさすがにいるみたいですが。名前に釣られた同期の友人たちは、あまり得るものもなく結局SEとして就職していきました。 (2005.12.14 16:28:18)
言語の創造性 男性教師B さん
「正しい日本語」という言葉が実は嫌いなBです。
>完全な誤用でないなら、新しい感覚を生み出すものとして新しい用法は試してみて良いのではないでしょうか。
そういえばチョムスキー御大が「言語の創造性」と言っていたときの内容はまさにこれだったように思います。
言語変化の中心を担うのは意味拡張の結果の慣習化です。とはいえなかなか変えたいようには変わらないのが難しいところです。 (2005.12.14 16:38:54)
学科の名前って shanda さん
難しくって○○大学にいる間中、とうとう私は覚えられませんでした。今はその後の拡大改組で変わってしまって、また何が何処なのか探すのが難しくなりました。
コピーライターは、考えてみれば新しい語法を考えている人たちですね。彼らに任せきりにせず、私たちも言葉に新しい息吹を吹き込みましょうよ。 (2005.12.14 17:23:31)
正しい日本語 morika さん
盛岡のように一年の半分近くは冬で、近場にスキー場が山のように(?)あるような場所では「冬たけなわ!」が、使えます。きっと。…いや、それにしてもshanda様の開き直り、または強引ともいえる、このポジティブさ…。感心してしまいました…ふふふふ。
ところで今日立ち読みした本で「こだわり」という言葉は本来はよくない意味に使われていたのに、今ではよい意味として使われている(味へのこだわりとか)、と書いてありました。そういわれてみれば私もそう使っていました。本当は「正しい日本語」を使いたいと思っています。でもまったく「使えてない」(ワカモノ言葉ですよ)。言葉は日進月歩と言い聞かせ、柔軟な心で対応していきたいと思います。 (2005.12.18 17:32:58)
よっしゃ shanda さん
冬たけなわ、スキーと温泉の盛岡に行こうっと!
私の子供の頃は、「全然」は「全然よくない」というように否定形が続きました。高校の時一緒にスキーに行った大学生のお兄さん、お姉さんたちが「全然、すてき」とか、「全然、いいじゃん」なんて言うのを訊いて、「今の大人は!」と思っていましたっけ。その後、すっかり用法が変わりましたね。 (2005.12.18 21:03:33)
イマドキの若いもんは 男性教師B さん
こだわり や 全然 は数十年で用法が変わった目立つ例ですね。語彙的な用法は ら抜き のような文法的な変化よりは(主に年配の言葉に関して一家言ある方の)抵抗が少ないようです。
それにしても子供の時に「今時のワカモノは!」と思っていた男性教師Cさん、さすがです(笑 (2005.12.20 03:41:03)
全然カッコよくない? 男性教師B さん
全然~ない についてですが、全然+否定・全然+肯定という二分では考える材料にするには少々大雑把すぎるようです。
1.全然正しくない (意味×形式×)
2.全然悪くない (意味○形式×)
3.全然ダメだ/問題外だ(意味×形式○)
4.全然いい/かっこいい(意味○形式○)
と、意味上で否定かどうか、形式上否定かどうか
という二つの軸で考えると問題がある程度見えてきます。
1や2は誰もが正しいと思うところでしょう。
4は若者だけが使う言葉、正式な言葉ではないという感覚を持っている人が多そうです。
3番はどうでしょうか。「大人」の中で判断が割れるかもしれません。「ない」がないからダメ、とかじゃなくて、自分の語感で使えるか使えないかの判断を一度チェックしてみてください。
結局のところ、全然+ない から 全然+肯定 への変化は意味と形式の二つの軸があるために中間的なものが存在し、それが橋渡しの役割をしているのではないかと考えられるふしがあります。
ちなみに歴史的な資料に目を向けると、明治期には全然+ないの用例が文豪の小説にも結構たくさんあり、「 全然 は否定と呼応しなければならない」というルールは比較的新しく意識化されたものだそうです。
ちなみに、これといわゆる「半疑問形」を組み合わせるとタイトルの言い回しになります(超かっこいいよねー、の意味です)
(2005.12.20 03:54:41)
なるほど、全然奥深いんだね shanda さん
全然を肯定文に使う使い方に抵抗を感じていましたが、「『全然駄目だ』という、意味は否定で、形が否定文でない使い方と、『全然悪くない』という、形は否定文で内容は肯定の形があるので、両者から必然的に、『全然かっこいい』と言う、意味も形も肯定形がでてきたというのは納得できます。
こうなると文系も科学だと言われても、素直にうなずけます。ありがとうございました。 (2005.12.20 09:24:41)
カテゴリ:研究室風景
昨夜は毎週1回ある研究室の研究報告(Progress Report = PR)の日だった。院生の立場からすると、毎月1回話す順番が回ってくる。
昨晩の当番は、博士課程の陳さんと、麦都さんだった。それぞれ結構仕事が進んでいて1ヶ月分の仕事量も半端ではない。私たちはそれぞれの人たちと毎週1度の研究の検討のミーティングで詳しく話をしているから内容をよく知っているけれど、初めて聞く院生に分からないだろうと思う。まだ話慣れていないから、聴いている人の立場で話が出来る人はまだ少ない。それで、質問をしてもっと詳しい説明をさせるし、こうやって改めて聴いていると別の疑問も出てくる。
と言うわけで私たちがいつもPRを主導してそのまま終わってしまうけれど、昨晩は違った。セミナーに出て質問もしないで黙っている人は参加したことにならない。人の話だと思って理解もしないでじっとその時間を耐えているだけでは、勉強にもならないし、ものを考える訓練にもならない。
それで、毎回必ず質問をしてセミナーを活発にしなさいと言い続けていたけれど、昨晩はそれぞれが何か言うまで終わらないと私は宣言したのだった。
博士課程の陳さんは最年長で、しかもteacherである。教職に就いているので、先生なのだ。だから、ものを言いにくいのかも知れない。だいたい講義の時も、先生の話は「偉い(先生は偉い)」先生の話を聴かせて頂いているという感じで、質問はなかなか出てこない国である。だからこそ、ここで質問をすると言うことを学ばなくてはならない。
人の話を聴いていれば必ず疑問が出て来る。訊くのは、自分のためだし、演者に敬意を表すことでもある。演者に敬意と友情を表すためにも、質問しなさい!!!
それでもなかなか質問が出ない、見渡して年長者が発言しないと、質問があってもなかなか言いにくいらしい。何となく言い出す順番が出来ている。こちらはひたすら忍耐である。
人の話を聴いて、分からないままで良いという気持ちが私には我慢できない。話を聴いての疑問でなく、そこで使われる言葉が分からないという質問でも、勿論歓迎である。
これを次の演者の麦都さんの時も続けたで、昨晩のPRの終わったのは9時を回っていた。さっさとやってくれたら8時には終わっていた。これからはもっと皆が積極的に参加しようと言う気持ちになって、早く終わるようになるだろうか。
コメント:
遠慮は損! うさぎ さん
私はこの歳(?)になると、喋りすぎる傾向にありますが、若い時は人前では恥ずかしく自分の意見も言えませんでした。
でも、セミナーでは毎週報告し、質問、疑問をぶつけ合う機会があるならば学生にとって、この上ない一番の授業だと思いますが、もったいないですね。
この間(12/10)私の勤める会社は中途入社の方達の教育として会社の組織を知ってもらう為に(正社員は4月)午前だけ休憩をはさみながら各分野の指導者が説明するだけの眠くなるような会を行なったのです。それが終わると受けた方々に感想文を提出してもらってました。感想文は「眠かった」「まだはっきりわからない」「これから勉強します」などこちらが期待するような感想はなく、休日返上してまでという気持ちが強かったので、昨年から趣向を変えて何か士気が上がるものと考え、CONSNSUS(コンセサンス)ゲームを取り入れました。5~6人が一組で題材を出し、それについて一人一人が意見を出してリーダーがまとめで発表するというゲームなんですが同じ題材でもいろんな意見が出て「なるほど」と言うように各グループの発表に耳を傾ける様子は固い雰囲気の場が和らぎ皆で参加してる実感を得たようです。このゲームは自己表現や論理的思考力を公的な場での会話を身につけさせるという目的で行ったので成功しました。やはり一方通行的な会話は手ごたえが見えず寂しいですね。先生の心、学生知らずですね! (2005.12.15 16:37:39)
上意下達が shanda さん
この国の仕組みのようです。大衆討議で何かを決めるなんてことはないみたいです。しかも指導者は無謬が前提みたいですから、質問して答えられないなんて局面に追い込んでしまうと、体面を失わせることになります。そんなことをしてはいけません。だから、公式の場では質問はしないという体質が誰にも染みついているみたいですね。
この体質を変えないと彼らは科学者になれませんが、時間が掛かりそうです。
でも、中国は優秀な科学者を輩出しています。アメリカの生命科学の研究でも、彼らの活躍は目覚ましいものがあります。一頃ビザの審査を厳しくして中国の留学生に対する敷居を高くしましたが、これはアメリカが自分の首を閉めるようなものだという議論で、徐々に緩くなって来ていますね。つまり中国人はとても優秀なのですよ。
ところでそちらの昨年までの研修会で、研修を受けた人たちが正直に「眠かった」と書くなんて、やはり私たちの世代とは違ってきていますね。 (2005.12.15 18:01:35)
感想文は無記名です うさぎ さん
さすがに「眠かった」などと書く者は無記名です。でも年代の差は言葉の使い方の壁にもなってます。びっくりするような、理解できないような言葉が飛び交います。が何時の間にかにその中に染まってる、染まされている自分にも驚きます。でも、きれいな日本語を使いたいものです。
(2005.12.15 19:18:05)
薬科大学の日語班の学生は shanda さん
とても綺麗な日本語を使います。まずまともな日本語を教わるからですね。
そのくせ、私たちに返事をするときには「うん」と言います。
日本に行くことが決まっている学生には、まずこの返事を直し、日本で人にご馳走になったら「ありがとうございました」と言うように教え、毎日シャワーを浴び、下着を替えるように言っています。 (2005.12.15 22:34:14)
耳が/の痛い話 男性教師B さん
私が大学4年~院生時に出ていた(院生時の)指導教官のゼミでは、言おうとしても言えない雰囲気があったため、基本的に質問というものは出ませんでした。そのため私にとっては耳の痛い話です。
最も理由は中国と全く同じではありません。もちろん自由で活発な議論をしにくい雰囲気はどのゼミでもあるわけですが、そのゼミの場合、何か言うともれなく手加減なしで叩き潰されるからというのが最大の原因でした。学部のゼミではTA/聴講で出ている院生が何か言ってはつぶされ、院のゼミではわざわざ聴講で来ている他大教官のOBが何か言ってはつぶされ、ということをやっていました。
もちろん教育的手加減なしでその場で議論する(といってもキャリアと知識量が桁違いなので傍目から見ると発現した直後につぶされているようにしか見えない)というのは徒弟制度的な研究者養成の観点から見ると非常に意味のあることですが、単位が欲しくて授業に出ているだけの学生にとってみればいい迷惑以外のなんでもありません。
ところが最近、自分でもゼミで同じことをやっているんだなあと気づくことが多く、反省することしきりです。もっとも他のタイプのゼミ・授業をろくに受けたことがないので、活発に意見の出る方法なんて皆目分からない・想像すらつかないというのが実際のところなのですが… (2005.12.16 08:45:48)
教授として不適任? shanda さん
文系のゼミは経験がないので見当違いかもしれませんが、大学はまずは教育機関ですよね。教授が学生を指導するところに意味があるはずですよね。
学生と話すときに学問としての真面目な議論は一番大事ですが、キャリアと知識量が桁違いの学生を教育的手加減なしでやりこめるよりも、良いことに気付いたと言ってその意見をさらに引き出して、敷衍するのが教授の役割だと思います。
Bさんの以前の指導教官は、私の目から見ると大学教授に値しませんね。どんなに「偉い」人かもしれませんけれど。 (2005.12.16 11:59:30)
カテゴリ:薬科大学
この秋大学院に進学した王毅楠くんは入試で抜群の成績を収めたうえに、大学卒業時に優秀学生として表彰されると言うので、当時なにやら書類を沢山書いた。
このときはうちで卒業研究をやった3人は3人ともとても優秀だったにも関わらず、3人にABCをつけるようにと言う指示がきて、私はこれに抗ったのだった。全てがAでなければ納得できないと思ったほど3人とも抜群の学生だったからだ。結局学科主任の先生が順位をつけたのだが、その中でさらに毛毛くんに最優秀賞を取らせることで、私との折り合いをつけたらしい。
二日前に、学科主任から電話があって「最優秀学生を出した先生として表彰する。ついては木曜日の1時半にクラブ(講堂のこと)に来るように」と言う知らせがあった。電話は胡丹くんが受けて、これこれしかじかですが、先生出掛けますか?という。王毅楠くんが表彰されたのは彼が入試で古今未曾有の成績を取ったからであって、私は全く関係がない。それでも、このようなことで表彰される機会なんて今までなかったし、こんな珍しい経験はしておくものだと思って、「行くから、胡丹くんも一緒に行って。」と返事をしておいた。
さて当日の今日、付き添いの胡丹くんと講堂に行ってみると大勢の先生たちが続々と集まっている。壇上には16人の椅子が置いてある。学長を真ん中に副学長以下学院長がずらりと並んだ。女性が5人くらい。
今日は訊いてみると「十五教学工作総括2005年教育工作会議」なのだそうだ。
色々な計画は5年計画で進められると言う。今日はその第10回5年計画の総括の日だったわけで、呉学長の総括演説を1時間聴いてしまった。事前にパンフレットが渡され、演説はそれにすでに印刷してある言葉を間違いなく読み上げるものであった。
私たちが中国語の教科書を読むのと違って読み上げるのがとても速い。直ぐに置いて行かれて、数字のところで追いつくという感じだったが、この大学も結構やっているんだという内容がちりばめてあった。胡くんが時々解説してくれる。
賞は優秀教学成果奨が最初だった。知っている先生も貰ったので訊くと、色々の測定機器をコンピューターでつなげて管理できるようにしたと言うことだった。それで学長始め何人もがこの奨を貰っていた。
遼寧省十五教育科学優秀成果奨とか、中青年教師講義大奨などが次々と渡される。沢山受賞者がいるので、壇上の16人が手分けしてそれぞれに渡すという仕掛けである。私は優秀本科卒業論文を書いた学生を育てたという栄誉賞を呉学長から手渡しで貰った。副賞は500元である。給料の10分の1だから結構な額だ。
王毅楠くんは優秀論文賞で自分自身が表彰された上に、先生に孝行をしたわけだ。ちょうどこれで研究室の全員で一回宴会が出来ることになった。今日は参加者全員約千名が厚いコートを着たまま集まった寒い会場だったが、あとの気分は悪くない。
コメント:
受賞…歴…? 男性教師B さん
受賞おめでとうございました。 ところでこういうのでも履歴書の賞罰欄には一応書けるんですよねえ? 書いたところでたいしたプラスにならないような気はしますが、履歴書の花にはなりそうです。
と就職活動が十年間に渡る人種の文系院生にとっては微妙に気になってしまいます。
出来のいい学部生の論文指導に全力を注いで、日本の雑誌に載せるのを来年の目標にしようかな…と邪な考えが頭をよぎります。
これで新着コメント欄を全てBの書き込みで埋めました! 完全復活ということでよろしいでしょうか(笑 (2005.12.23 13:28:24)
Bさん お帰りなさい 感激です shanda さん
筋肉痛も克服して完全復活ですね。
ここの大学は始終、たとえば九一一みたいな機会ごとに文章、手芸、写真、ポスターなどのコンテストがあって、そこで賞を取ると学生は履歴書に書いていますね。
どんなことが得意なのか分かるのが見る方には良いみたいですね。
私もまた履歴書を出す機会があったら、書き込みましょう! (2005.12.23 13:46:36)
実際に始まるのは来年3月からだが、今年度の卒業研究の学生は、前にも書いたように5人採ることにしてしまった。教授は6人、助教授は3人まで採れることになっているというから、私たちの部屋は9人まで採ることが出来る。
実験室(二部屋で合計120平方メートル、通常の研究室規模の3分の1くらいである)が狭いから3人で限度なのに、断りそびれて5人採ってしまった。そのあとに希望してきた女子学生は、9人まで採れるのは上限ではなくこちらの義務みたいに言って、当然私たちからOKが貰えると思って頑張ったが、これは本当に気の毒だけれど断らなくてはならなかった。
5人のうちの2人はこの薬科大学の大学院の試験を受けて、通ったら私達の研究室に来るという。試験は1月半ばにあり、彼らはその受験勉強に必死である。ただ合格すればよいというも のではなく、入試の成績で授業料免除、さらには奨学金支給などの資格が取れる。中国は豊かになったとはいえそれはごく一部の人たちだけであって、大半の親 は子供を大学にやるために数年分の年収をつぎ込むことになる。だから入試でよい成績を上げることは、何よりも一番の親孝行なのだ。勿論、学部も大学院も、 無事合格してからも毎年の表彰や資格を得るために、何時も試験勉強で頑張るわけである。
この入試受験組以外の3人は、卒業したら日本の大学院に進学することを決めた学生たちである。 一人は秋に日本から講義に来ていた貴志先生を頼ってその紹介で熊本大学に決めた。あとの二人は、自分で行きたいところを決めて手紙を書いて、それぞれ京都大学、富山大学に決めたという。↗️
決めたというと語弊がある。正しく言うと、学生が先方の先生に手紙を書いて留学生としての採用して欲しいとお願いし、向こうの先生が「いいでしょう。もし大学院の入試に通った ら、自分の研究室で面倒を見ましょう」という返事をくれたというものである。留学が保証されたわけではないが、留学の方向が決まったわけである。中国の大学院統一入試を受ける必要はないし、私たちのような日本人の研究室に来て、そのやり方を少しでも長く学べば自分の役に立つと思っている訳である。↙️
というわけで、10月の終わりから講義を受けていない時間には研究室に来て、実験を始めている。来年の夏か秋には日本に行くことになる学生たちである。日本の大学院に紹介したのは私たちではないから責任はないけれど、うちの研究室を出る以上彼らの将来がとても気になる。 彼らは3人とも日語班出身で、それなりの日本語を話すけれど、日本語の基本を知っているのと、実際に日本語を聞いてやりとりをするには場数を重ねる必要がある。研究室の公用語は英語だが、勿論必要なときは、と言うか普段私たちは日本語を話しているから、その会話の輪に入って磨きを掛けることが必要だ。しかし、まだ親しくないし遠慮 があって、なかなか積極的に話しに来ない。
それで、妻の貞子は特別に時間を設けて日本語で話す時間を作ろうと言い出した。その集まりでは日本に留学したときの心得を話すという。
今までにここから留学生を 何人か紹介して送り出しているが、彼らの話で一番印象づけられたのは、大学院で講義を聴くと速すぎて初めはまるで付いていけないと言うことだった。彼らはここの日語班出身の選り抜きだった。普段私たちと話していても全く問題がない。しかし、講義では専門の言葉と、全く新しい内容と、独自の考えが出て来るうえに、当然の話、ここで私たちが日本語で講義するのと違って話す速度に斟酌を加えない。最初の数ヶ月は泣くほどか、死ぬほどか、ともかく必死になって付いていった、思い出しても悪夢の数ヶ月だったらしい。
「だから」と貞子は三人に言う。「私はゆっくり話しません。私の話の速度でも話が分かるようにならなくてはいけないのよ。ともかくこうやって話すのを聞いて、そして一緒におしゃべりすることによって、日本語に慣れましょうね。」
話題は日本と中国の教育制度の比較から始まり、親の子供に対する期待感、思い入れ、将来の親の面倒をどう見るかの違い、そして日本の中の中国人留学生の抱える問題になっていった。
「ね。あなた達は一人一人の人間で、たとえば満さんだし、貴女は陳さんだし、あなたは馬さんよね。でも日本人の中に入ると、貴女は一人で、しかも中国人代表なのよ。」 「何か変わったことをすると、満さんはこうなのかではなく中国人ってこうなんだと言うことになってしまうのね。」
「厭な話をするけれど、2年前に九州の福岡で一家4人が殺されたのよ。小さな子供二人も一緒に鉄アレイをくくりつけられて生きたまま海に沈められて殺されたわ。これはこの一家に恨 みを持った人の犯行だろうと思われたけれど、結局この一家に何の関係もない中国人学生二人がお金を取るために、そしてそれも大した金額ではなかったという 話だけど、この一家を殺したのよ。」
「私たちの子供の頃の昔の日本は、家に鍵を掛ける必要すらないところだったけれど、今は違うわね。ドアの鍵をピッキングで開ける、ガラスを破って開けると言う泥棒、強盗が増えて、中国人の犯行であることをよく聞くわ。」
「勿論日本人だって人を殺すし、泥棒、強盗だってやるけれど、この中国人がやったというのは厭でも人の耳に残るわけ。どうしても今の日本では中国人の評判はよいとは言えないのよ。だから、あなた達は一人一人が中国人の代表だと思って、行動しましょうね。」
ここに座って聴いている女子学生3人に、修士を卒業したら日本に留学したいと思い始めている胡丹くんも加わっていて、ここで一斉にうなずく。が「はい」ではなく胡丹くんの「うん」が力強く響く。
貞子は言う。「人の話を聞いて『うん』といって良いのは友だち同士の親しい間柄だけなの。先生の話を聞いて『うん』と返事をすると、先生は決して怒らないけれど、(何だ、こいつ は。人を馬鹿にして聞いているのか)と思ってしまうわ。親しくなった友だち以外には、何時も必ず『はい』という習慣をつけましょうね。」
胡丹くんは「うん」といいかけてあわてて「はい」と言い直して、皆の微笑を招いた。 「それからね。私たちが瀋陽に来て驚いたのだけれど、中国では色々なものを誰のものと言って区別しないみたいね。共産主義の国で分け隔てがなくて物を共有しようという理念かも知れ ないと思ったわ。私の机の上のペンが直ぐなくなる。定規を使おうと思うとない。とうとう、机の上にある物は持って行かないでと叫び続けたのを覚えているけ れど、・・・」
胡丹くんが「そうでしたねえ。」と相づちを打った。その頃の妻は「使いたければ使ってよいけれど、これは私のものだから、あなた方はそれを私から『借りて』いるのよ。人から借りたものは、使ったら直ぐにきちんと返しなさい。」と言い続けて彼らに教えたのだった。
「日本に行ったら、そこに ある物は誰かのものなのよ。必ず断ってから、使いなさい。そしてすぐに返しなさい。誰も意地悪な人はいないから、頼まれれば大抵快く貸してくれるわ。でも 黙って使っていたら、「ああ、中国人ってこうなんだ」と言って中国人全体に悪いレッテルが貼られてしまうの。分かる?」
「はい。」とみんな一斉に頷くのだった。妻の話はまだ続く。
カテゴリ:瀋陽の生活
在外公館では天皇の誕生日の近くにそれを祝う公的なパーティを開くらしく、今年は妻に招待状が届いた。桐の花の紋章の入った立派なカードである。
その日は、この大学で長くお世話になった国際交流処長の李さんが定年退職をされるというので、薬科大学の日本人の先生たちによるお祝いとお礼の集まりが計画されていた、それで、その初めてのパーティには出席できない。
出欠の返事がいるとは書いてなかったけれど、行けないから総領事館に電話をしなくちゃと妻は言っていた。私はちょうど用事があって出掛けてしまったので、そのあと戻ってきてから「電話した?」と妻に訊いた。
「それがね、最初にでた中国人らしい人から日本人に代わったのだけど、『あ、いいんです、どちらでもいいんです。連絡してこなくてもいいんです』と言われてれてしまったの。せめて、電話をありがとうくらい言えばいいじゃない。これで、出席しますなんて言う連絡だったら、『まるで嬉しがっちゃって』と言われるようなものだわ。」
領事館の若い日本人女性秘書に、きちんとした感じの良い(正しくでなくても良いとして)日本語の使い方を指導する必要があるのではないだろうか。この薬科大学の日語班の学生の方が、よほどきちんとした「正しい」日本語を話せると思う。
コメント:
心のこもった日本語とは。 うさぎ さん
まずは私もブログ依存症にかかったみたいですね。覗いたら返事を書きたくなります。どうしましょう!ただ、私は覗き見だけのたちの悪い愛読者なのでは?
言葉遣いについては偉そうに言える立場ではないんですが、今の人(全般)は言葉少ないと言うか表現が下手ですね。いらぬ流行言葉は、すぐ真似るのに「感謝」「労い」「誤り」の言葉が出ません。どうしてでしょう?
私達と言うか私は「有り難う」「御免なさい」「ご馳走様」「お疲れ様」等口癖(大げさ)になってます。電話では相手が見えないから余計に丁寧になります。(余談・電話の声と実際にお会いしたらイメージが違いますねなんて言われます。どうゆう意味でしょう。フフフ・・)
先生の奥様に届いた招待状の返事された時の電話の応対は失礼ですね。文面からも私でさえムッ!とします。総領事館という日本国の機関で応対する人として不適任です。敬意を表してお断りしてるのに。一言ぐらい「ご丁寧に!」ぐらい言えないものでしょうか。
私も奥様と一緒になって憤慨してしまいましたが、私も先生にメッセージを書き込んで送信してしまってから間違った言葉遣い、誤りに気が付くのですが、その時は遅かりしです。私自身、もっと日本語を勉強しなくてはとメール交換するようになってつくづく思います。 (2005.12.16 11:11:22)
ご心配なく。私もブログ依存症です。 shanda さん
仕事をしながら、始終気になって、何時でものぞけるようウインドウが開いています。
そして、時々更新して、何か新しいコメントを見つけたときの胸のときめき。そして直ぐに返事を書かないと気が済まない・・・。
コメントを書いていて日本語の転換ミスというのは、始終起こりますね。よほど気をつけているつもりでも、ちょろっとやってしまいます。お互いさまですし、正式の論文ではないのですから、ま、気にしないことにしましょう。
今日は李先生の送別会の予定なのですが、何と今日、李さんから日本総領事館のパーティに呼ばれたと言って断りが入ったと言うことです。ヤレヤレ。 (2005.12.16 11:48:23)
昨晩は薬科大学の国際交流処長だった李さんが来年2月に定年退職をすると聞いていたので、そのお祝いと送別の会をすることになっていた。今薬科大学には日本語の先生とその家族が7人。私たち二人、そしてお隣の池島先生の合計10人がいて、いままで何かにつけてお世話になってきた。
李さんは名古屋にある名城大学に留学したことがあり、日本語が話せるので、日本人は彼にはいろいろと世話になってきている。今までの日本人も彼の労苦には酬いていて、彼の長男は日 本の大学を出て日本の大学で職に就いている。次男は日本に留学したことがあるし、三男は今アメリカに留学している。
送別会の当日になった昨日、李さんから突然、在瀋陽日本領事館主催で開かれる天皇生誕日記念祝典に出るので自分の送別会には出られないという連絡が入った。
もし日本人が自分のための 送別会に出席できなくなったら、幾らその通りだとしても、これを理由にはしないだろう。皆が集まってやってくれる送別会をそんなものと取り替えるのか、と 言うことでいっぺんに皆から見放されるに違いない。急に体調が悪くなったという以外の理由は通らないだろう。
ということは、中国ならこれが断りの理由としてまかり通ることが出来るという発見である。未だに、この突然のキャンセルには驚き呆れているけれど、所詮、文化が違うとしか言いようがない。
そういうわけで、夜予定していた送別会は主役に振られてしまって、集まりは流れてしまって虚脱感だけが残った。どうにも落ち着かない。幸い、王毅楠くんが優秀卒業論文を書いて、その指導教官というので私が500元の賞を貰っている。別の名目で集まればよいわけだ。それを使ってドバーッと行こう。そう思ったら途端に元気が出てきて、別の名目も思いついた。
ちょうどいま私はネットのソプラノ・リリコの友だちから一緒に二重唱をしようかと誘われている。彼女のHPで 今まで歌ったものが書いてあったのを見ると、「椿姫第二幕のバリトンとの二重唱」というのがあった。掲示板に「あ、それは前に歌ったことがある、懐かし い」と書き込んだら、「何時か一緒に歌いましょう」という嬉しいお誘いを戴いたのだ。セミプロの歌い手から声を掛けられて、夢かとばかりに驚き、飛び上が るほど嬉しかった。
椿姫の第二幕にパリ郊外で暮らし始めたヴィオレッタとアルフレードの二人を、アルフレードの父親が訪ねてくる。ヴィオレッタに会い、妹が結婚することになっているので(兄が娼婦と 暮らしているのは外聞をはばかるから)別れてくれという場面がある。「今は彼との愛だけに生きているのです。そんなことをしたら私には死ぬことと同じで す」とヴィオレッタは言いつつも、別れることを受け入れてしまう。痛切な場面だ。私は自分がバリトンを歌うためもあって、「椿姫」ではここが一番好きで胸 が打たれる場面である。
これがまた歌えるかも知れないなんて信じられないことだ。15年の空白を置いて声が出るものかどうかも分からないが、試そうにも、今の瀋陽には楽譜も、音源もなく、隣の張先生のいびきががんがん聞こえてくるほどの安普請のアパートに住んでいるので歌うための声が出せない。日本に戻るまで何も出来ない。 それならカラオケに行って声を出そう!声を出す練習をしよう!と思いついたのだ。↗️
瀋陽のレストランの個室にはカラオケ設備のあるところが多い。大学の近くのハリウッドというレストランは、高い割には料理がいまいちだが、個室が多いので利用しやすい。私は声の制御が出来ないのでカラオケは苦手であり、いままで歌ったことがないけれど、今日は歌いたい。↙️
それで、この日、集まるはずだった日本語の先生たちと研究室の院生・学生を誘った。そして、思いがけず500元の賞金が王毅楠くんのおかげで手に入ったこと、そして皆さまの迷惑をも顧みず歌の練習をしたいので、今日の費用は全部私持ちで皆さまを招待しましたと前置きをして、宴会が始まった。全部で17人がいてテーブルが二つになったので、こちらは私たち日本人、あちらは学生たちと言う具合になった。
カラオケでオペラの練習が出来るわけではなく、カラオケを利用して歌声を出そうという計画なのである。それで、歌は中国人も大好きな「北国の春」を中国語で歌おうと計画して、ひそかに午後2時間かけて練習したのだった。 実は日本語の歌もあまりなじみないので、覚えるのに大変苦労をした。それでも、「今日は私がスポンサーだから」と悪びれずにマイクを握った。立ってみると。モニターで中国語がどん どん横に流れていき、最初は唖然として付いていけずに日本語を歌ってしまった。続けて「ハイ、練習でしょ。」と言われて繰り返し、繰り返し、とうとう4度 目には何とか様になったかなというところで、盛大に拍手を貰った。「もう、いいよ。もう。」ということだろう。
もう一つ用意してあったのは、王立平作詞・作曲の「大海阿、故郷」というもので、中国の人たちは小学校の時習うと聞いたことがある。ゆったりとしたメロディで雄大な海、広大な中国 を思わせる曲調を持ち、薬科大学の日本人教師の一人である稲垣先生の歌うのを一度聴いて気に入った曲である。この楽譜のコピーを用意して、まずは皆で歌っ て覚えましょうという提案をした。稲垣先生のあとについて歌ってみて、直ぐにどの先生もこの曲が気に入ったようだ。
何時も「私は音痴ですよ。」と言ってこ ういうときには逃げ回る加藤先生も一緒に歌い始めた。このあとカラオケに合わせて数回歌ったのでどの先生も、隠し芸の持ち歌になりそうだ。
貞子は薦められて、いつも のように、「瀬戸の花嫁」から始まって、「夜来香」「月亮代表我的心」を歌っているかと思ったら、次には「何日君再来」も日本語に続いて中国語で歌ってい るのには驚いた。何時の間に中国語で歌えるようになったのだろう。彼女の声は柔らかく、しみじみ上手いと思わせる歌い手だ。
学生は恩師思いで私たちが楽しむのを一生懸命聴き手に回り、私たちの楽しむのを支援するだけで、自分たちはあまり歌おうとしない。やがて9時になったし、彼らを残して私たちだけで支払いをして先に帰ることにした。 勘定を貰うと880元。ガーン。900元持っていたので払えたけれど、そばで見ていた先生たちが、「私たちも払いましょ」と言う。「当然よ、私たちだって少しくらい払わなくっちゃ。」と言われて「それじゃ、私たちの歌への喜捨と言うことで、戴きましょう、ありがとうございます。」といって一人あたり50元を戴いた
家に帰って頭が冷えてから計算すると、17人で頭割りすると52元となる。何と言うことか、私がご馳走しますと大見得を切ったのに、そして下手くそな歌の、しかも練習をさんざん聴かせてしまったのに、こちらはただの2元を払っただけだった。羊頭狗肉も良いところで、まるで詐欺である。皆を食事に招待しながら私が負担したのは私たちの研究室の学生の分だけだった。
恥ずかしいことである。今朝になって朝一番に「ごめんなさい」のmailを書いたのは言うまでもない。誰にも格好の悪いことの一つや二つはあるのだ。自分も許し、人も許して生きていこう。
カテゴリ:瀋陽の生活
昨夜は薬科大学の国際交流処長だった李さんの定年退職に伴う送別会の予定だった。薬科大学にいる日本人の先生たちと一緒にお世話になった李さんのために計画した。
それが直前になって、李さんから用事が出来たから出られないという。総領事館による天皇生誕日祝賀パーティに出ることになったからという理由である。
前から分かっていることだろうし、直前に断ってくるなんて全く鼻白んでしまう。こんなことって、ありか?
しかし、このようなことはここでも驚かずに受け入れなくてはいけないのだろう。何事もその場にならないと決まらない国なのだ。
これが早くから分かっていれば、妻は総領事館の招待状を断らなかっただろう。彼女は送別会が先約なので断ったのだ。全く・・・。怒りよりも呆れてしまう。えーい。何とかしないと、と思って思いついたのが独自のパーティだった。
コメント:
中国人の血液型はB型? うさぎ さん
私は占いはあまり信じませんが、友達が占いに凝ってて、マイペースな人にB型が多いって言うんですが、中国人は他人の物でも目の前にあれば勝手に使うし、自分の考えも公の場で公表しないし、予定も勝手に変更するしでは、友達に言わせればB型人間そのものですね。ちなみに私はO型なんですが、占いは大雑把らしいのですが、違うんです。緻密に計画し、時間も約束より早く行く方だし、計画通り、約束通り出来なければ腹が立つ性格です。今回の先生方のパーテイーの主役が素抜けではやってられませんね。骨折れ損でしたね。
先生をブログに捕られて掲示板の皆さんお寂しそうですね。私は要領がいいのかしら?うふふ・・。今までの人生も要領良く生きてます。でも、本業に影響がありませんように!返事を頂くのはとても嬉しいです。 (2005.12.17 13:44:47)
ウサギさま。驚かないで、私の血液型は shanda さん
yamaGATAです、なんて、ね。ガーン。お粗末でした。
実はこの際言いたくないけれどB型で、それも典型のBと言われています。
何時も自分本位、自分のしたいこと最優先、何時も自分を信じ、人からどう思われているかが殆ど気にならない、・・・
まだ書きましょうか、だんだん自分が厭になりそう。そして、嫌われそう。
この日のあとの顛末は、HPの「瀋陽だより」に書きましたので、あとでご覧下さいな。
昨日は、送別会がなくなって気が抜けてしまったのですが、気を取り直してハチャメチャに楽しんだ日にしてしまいました。 (2005.12.17 15:49:12)
おみごと!yamaGATA、おおうけです。 うさぎ さん
やはり言葉は難しいです。ちょっとした発言で傷つける事にもなりかねません。私の回りはB型人間ばかりです。主人もB型です。慣れてます。マイペースの方が研究職に向いているのではないでしょうか。他人の意見に左右されてたら良いものが生まれないでしょう。
掲示板も読ませていただきました。声を出すことは良い事です。発散出来ます。日本では今、第九があちこちで歌われてます。皆で歌えば音痴も怖くない。ごめんなさい声楽家様!。
先生、日本は近年にない大寒波です。と言ってもそちらには敵いませんが寒ーいです。 (2005.12.17 16:33:13)
うさぎさま B型は大胆ですよ shanda さん
今日は薬科大学の先生の忘年会に招かれて、また「北国の春」を歌ってきました。
まだ覚えて2日目です。
今頃の集まりは彼らの言葉では新年会と言います。ですから、新年おめでとう、クリスマスおめでとうと言って乾杯しました。
彼の研究室の学生、そして研究室の出身で今ここで先生になっている人たち合わせて40人近くの会でした。
集まった学生さんをこちらはまったく知らないのですが、皆礼儀正しく、彼らの先生の友人である私の歌を、下手くそなのに、笑って受け入れてくれました。 (2005.12.17 23:25:07)
カテゴリ:研究室風景
土曜日の午前中は、何時も研究室のジャーナルクラブです。二人が最新のジャーナルから自分で見つけてきた英語の論文を英語で紹介します。
一人は3年目のベテランで、一人は修士の1年生ですが、それぞれ内容のしっかりした論文を選んできて、しかもきちんと理解して話をしていました。
人の話には反応するのが礼儀です。おまけに、質問しようと思って聴けば内容を明確に理解できますから、訓練としても人の話を聞いたら必ず質問しなさい、と言い続けてきました。研究室に長い人で3年目で、彼らは私たちと同様に、話が分からなければ納得するまで質問するようになってきました。しかし参加したばかりの学生には、分からないことを聴くのは気後れがするものなのでしょう。何時も黙っています。
毎回それぞれの人たちが何を発言したかを記録して後で点を付けるよ、と言ったりしてきました。それでもなかなか質問が出ないのは、研究報告会の時と同じです。ですから水曜日に引き続いて、「誰も何か一つや二つの質問をしなさい。それが済むまで終わりにしませんよ。」と宣言しました。
今までは8時半から始めて二つの話が終わるのに3時間前後掛かりますが、昨日は終わったのが12時半でした。そしてぐったり。私たちは昼ご飯も直ぐには食べたくないほど疲れました。
だって、こうやって神経を使う上に、まともではない英語の、しかもおかしな発音を何時も聴いて、それを理解し続けているのですよ。何時か発音だけでも正しい発音を教えなくてはいけないと思っています。
コメント:
コメントすべし 男性教師B さん
>人の話には反応するのが礼儀です。
これを読んでしまうと、コメントをつけずにすますことは許されないようです(笑
母語で難しい話を聞いて質問をひねり出すのも難しいわけですから、外国語で聞いて質問するというのはいっそう大変なことですね。
最も外国語を話すとなるととたんに人が変わったようにしゃべりまくる人も稀にいますが… (2005.12.20 15:21:54)
カテゴリ:薬科大学
昨夜はこの薬科大学の王先生が自分の学生や、卒業してここで教職に就いている自分の以前の学生全部を招いての宴会があって、それに私たちも招かれました。学生以外に招かれたのは私たち「老師夫婦」だけでしたので、学生さんたちを知りませんでしたが歓迎されました。
今私達の研究室の博士課程にいるKanさんはこの王先生の研究室出身です。宴たけなわの時に私も立ってお礼と挨拶を述べました。その時このKanさんが王先生の研究室から来ていてと述べたときに、「彼女は心優しく、しかしエネルギーに満ちた人で、もしここがアメリカならセクシーダイナマイトと呼ばれるくらい元気な人で、私達の研究室でも中心になっています」と話しました。
ダイナマイトが通じませんでしたが、彼らは辞書で調べて「上手な人、目立つ人、誉め言葉」と書いてあるのを見つけてくれました。と言うわけで、私はこれでよかったと思っていましたら、うちに戻ってから、妻に「セクシーという言葉はセクハラよ。」「今に訴えられるかも知れないわ。これからこんなことを口に出さないでね。」と厳重に注意を受けました。「セクシーと言われて喜ぶ女性はいないんですからね。」と言うことでした。
「北国の春」を歌ったハイな気分はどこかに吹っ飛んでしました。「ハイ。気をつけます。」
コメント:
境界が難しい 3303corocoro さん
セクハラ、、と一口にいっても、ここからはセクハラと感じるのが人それぞれなので難しいですよね・・・。
昔、OL時代に銀恋などよく歌いましたがそんな時肩に手を置くオジサマがよくいました。
現在なら間違いなくセクハラになりますね。。。
(2005.12.18 21:54:00)
考えると難しいことですね shanda さん
セクハラであるかどうかは二人の関係、その場の状況で変わってくるのでしょうね。
「相手の嫌がることをしない。」これは当然のことですが、鈍感でなければ直ぐに分かるかと言うと、そうでもないところが難しいですね。
まして「嫌がりそうなことをしない」となると、用心に越したことはありません。女性に近づかないこと、何も言わないこと、になってしまいます (2005.12.19 05:02:09)
セクハラの定義 男性教師B さん
セクハラとは何か、と考えるといろいろとややこしいことがあってわけが分からなくなるものですが、こと男性側にとっては実用的で簡単な定義があります。
相手の女性がセクハラだと思ったらセクハラ
実に簡単な定義です。客観的な基準などありません。予防策はCさんの言うとおり、「近づかないこと、何もいわないこと」です。
電車の痴漢逮捕なんかが典型的ですが、実際にやっていようが濡れ衣だろうが詐欺だろうが、周りの人や駅員は女性側の言い分を信用します。もちろんそうしないと被害にあった女性の保護にならないためですが、勘違いや冤罪で有罪にされたり社会的信用をなくしたりという目にあってはたまったものではありません。そして、一般に「やっていない」ことを証明するのは非常に困難です。
したがって満員電車で取るべき態度は「乗ってから降りるまでずっと両手をバンザイ」です。某公務員の友人は片道1時間ほどの通勤ですが、「筋トレになってちょうどいい」と言っていました。ニッポンのサラリーマンって大変だなあ、と思ったものです。 (2005.12.20 05:28:26)
受難の通勤電車 shanda さん
私は何時も車でしたけれど、朝満員電車に乗らなくてはいけないときもあり、痴漢と思われないためにどうしてよいかに慣れていないから余計緊張して、目的地に着くとぐったりでした。 (2005.12.20 06:36:18)
相手にセクハラと思われたらセクハラ shanda さん
と言う定義は明快ですね。
しかし、これでは、後の祭り。あいつはセクハラ男という評判だけ残ります。
男性受難、男性萎縮の時代みたいですが、女性を対等の存在と芯から思うまでは、これが何時も問題になるでしょうね。 (2005.12.20 06:44:04)
カテゴリ:生命科学
マウスは一番身近な実験動物で、多くの純系がある。純系というのは、個体の間で遺伝子のばらつきがほとんどないように作られている。兄弟同士を掛け合わせ続けて20代経つと純系になると言われている。
私たちはマウスの培養細胞を使って実験しているけれど、色々な処理をして細胞の転移姓が変わったかどうかは、どうしてもマウスを使わないと調べられない。最終的にはマウスを殺さなくてはならないから、やりたくない実験だけれど、やむを得ない。
日本の大学や研究所では動物飼育設備は完備していて、自分の研究室に持ち込んで飼うなんて考えられないけれど、ここでは、それ以外の方法は考えられない。今の時期はマウスの輸送に難点があるので普通は手に入らないが、やっと扱っているところを探して二系統を5匹ずつ購入した。
雄しか手に入らなかったが、この雄は同じ母親から同時に生まれた雄の兄弟である。生まれが別の雄を一緒にするとどちらかが死ぬまで殺し合う。テリトリー争い、そして雌争いであり、人も本当はこうなんだということが分かる。
マウスを飼うと忽ち部屋が臭くなるので、マウスは臭いとよく言うけれど、これはマウスに失礼である。人も一部屋に閉じこめられて垂れ流しを強制されれば同じように臭うに決まっている。マウスの臭いは床敷きを毎日変えれば防げる。だから、今、小さな実験室に院生学生9人とマウス10匹が仲良く共存している。
コメント:
我が社はビーグル犬です うさぎ さん
先生は沢山の方と交信されてるので、私は書き込み止めておこうかなと思うのですが、ブログを読んでしまうとつい、PCに手が乗ってます。我が社は動物薬も開発してるようで、その実験台はビーグル犬、それも血統証付きだそうです。年、何頭が犠牲になり死んで行きます。だから慰霊祭が行われます。でも犬を飼ってた私は(15才
で亡くなりました)涙、涙、涙です。でも実験していい薬を作って頂かないと動物も長生き出来ませんし、複雑な思いです。うちの愛犬も人間がかかるあらゆる病気になり動物病院のお世話になりました。治療のおかげで15才まで生きれたみたいです。マウスは室内で飼えますが犬は散歩もさせないといけないらしく、飼育専門の方をつけてるようです。そう言った感じで良い犬を使うとそれなりに費用もかかるようです。研究するって大変ですね。
先生、セクハラは個人個人の気持ちの持ちようだとおもいます。最近は自意識過剰気味だと思います。階段の上り下りでも見られたくなければロング履けばいいじゃないですか。嫌な事言われたら、その場で注意すれば済む事ではと思うのはセクハラを受けない(哀しい)歳になったからでしょうか。 (2005.12.19 13:51:20)
うさぎさまには shanda さん
こちらからアクセスできないので、是非、何時もおいで下さい(アクセスできるなら、教えて下さいな)。
実験動物はどうしても必要ですが、イヌが好きなのでイヌを犠牲にするのは可哀想ですね。薬科大学でも使っていて、散歩で歩いているのを見掛けます。街で見るのはペキニーズばかりで大型犬を見たことないので、かなり特別の風景です。
相手の気持ちを大事にしていればセクハラにならないかというと、そうでもないわけで、考え込むと大変難しいことです。
女性に向かって美しいと思うことすらセクハラなのだと、女性を見るたびに言い聞かせていますが、そう考えることすらセクハラみたいだし・・・。 (2005.12.19 15:53:03)
先生のブログのファンになれて うさぎ さん
いつも温かい言葉を掛けて頂きついつい甘えて書き込みさせてもらってます。アドレスは持っていますが、HPまでは手がけてません。こうして先生のHPにお邪魔出来るようになったのは、ひょんなきっかけからなんですよ。
来年になれば私の素姓がわかるかもしれません。案外と先生の近くにいらっしゃるかも?(うふふ)
今は結構大胆なことを書いてますが素姓がわかると、どうなることでしょう。また、違った角度からお話出来れば幸いです。
今から心して慎重に書き込みしなくてはと、もう萎縮してます。(本当はノミの心臓なんです) (2005.12.19 19:35:22)
うさぎさまには shanda さん
そのうちひょっこりと会えそうな感じですね。楽しみです。
インターネットはIDだけでお付き合いしているわけですが、それだから自由でよいという意見がありますね。面と向かって対話をしなくてよいと言うことがネットの最大の特徴でしょう。自由で、時間の制約を受けないことが一番大きな利点でしょうか。
思わず引き込まれて、もちろん嫌なら逃げ出せるにしても、普段ならまったく考えたこともないことを考えると言う経験も出来ます。
と言うわけで、うさぎさま、何時でも、そしてどこでも大歓迎です。 (2005.12.19 20:30:29)
ネットの利点・欠点 男性教師B さん
オンライン上での付き合いは、仮名で好きなときに好きなとこから、というのが特徴ですね。チャットの場合は両者同時でないとできませんが。
人間のコミュニケーションというものは顔を突き合わせて語り合ってこそうんぬん、というお叱りを受けることがしばしばあるのですが、オンライン上の付き合いというのは通常の付き合いに取って代わるものではなく、むしろ付き合い方の手段の一つと考えた方が良いと私は思っております。
特にココにいると、顔をつき合わせて話し合える日本人というのは数が限られてしまいます。オンライン上では空間の制限がありません。中国と日本とアメリカでネットを使ってウェブカムで顔を見ながらボイスチャットで家族団欒、というのが21世紀では普通になりうるように思います。
無論匿名性は「違う自分になれる」「「○○社の誰々」という属性から一時的に解放される」といった利点を持つものの、欠点を多く持つことも事実です。しかし、対面コミュニケーションにも欠点がある(時間・空間の制約)があることを思えば、別物であって競合するものではなく補完しあう関係として利用すればメリットは大きいものと思います。 (2005.12.20 04:38:03)
時空を越えて shanda さん
教師の会で顔見知りになっていても、それ以上ではなかった方たちと、ネットで気軽に意見を交わせるようになり、親しみも増します。まして、まったく見ず知らずの方たちとも言葉を交わせるのがネット社会ですね。 (2005.12.20 07:16:56)
カテゴリ:瀋陽の生活
今日の予報によれが最高マイナス8度で、最低18度です。ひと頃よりもちょっと暖かですね。
今日は夕方6時過ぎに大学を出ました。この寒さの中でも、正門から外に出ると歩道には山査子飴売り、中華風クッキー売り、ぽん煎餅作り売りなどが、それぞれ小さなランタンを付けてまだ商売をしています。特に凄いのは青年で、彼は電話カード売りです。
朝は私たちの方が早いので何時からかは知りませんが、9時頃には見かけたことがあります。つまり朝9時から夕方7時まで大学正門を出た直ぐのえんじゅの木の下にいます。椅子に座っていることもあります。前には、私たちは時には跨いで歩くのですが、カードと書いた小さな看板を置いているだけで、商売道具は肩から掛けた小さな鞄だけ。
雨の日も、そして雪の日も、もちろん氷の日もいつもそこにいます。「ああ、あそこに行けばカードが買える。」大学の人が誰でも知っています。食堂の一画にも売り場がありますが。このお兄さんの方がちょっ安めになっていると言うことです。
何時も誠実に同じところに立ち続けて、彼は継続することで購う信用の価値を知ってます。
コメント:
商売と信用 男性教師B さん
「いつでも買える」ということに大きな価値がある、ということに気づくのはなかなか難しいことですよね。
安くない店に行って「没有」「没有」を連発されると、商売する気あんのかよ、とこちらが頼む気をなくしてしまいます。
このカード売りの青年のような商売人魂を持った誠実な人が増えないと、外資系スーパーに全てを持っていかれてしまいますね。カード売りの彼に関しては簡単に転職してしまったらこちらはがっかりするわけですが、商品を愛し、誠実さを添えて売るといったプロ根性を持った店員さんが増えてほしいものです。 (2005.12.20 04:07:34)
自分の仕事に誇りを持とう shanda さん
中国の店で、自分の仕事を愛していると思う人たちに先ず出会いませんね。
彼らが変わったら真に日本の脅威でしょうね。 (2005.12.20 09:35:10)
カテゴリ:瀋陽の生活
隣の研究室の池島喬先生は中国暮らしの大先輩で、ここより北の長春に5年いてからここ瀋陽に移ったので北国の暮らしに慣れている。私の妻は呼吸器が弱いのでここの冬を心配していることもあって、池島先生も何かと気遣ってくれる。
この冬気温が零度以下に下がりそうになったときには、「昔は何処にもあったけれど、このごろは安くてもうけが少ないらしくて手に入りにくいんですよ。」と首巻きを下さったし、その後もうがい薬のイソジン、もらもののお裾分けですよと言いながらホカロンなど戴いている。
昨日は妻にマスクはお持ちですかと言って国産の(もち、中国産の)マスクを下さった。ウイルスよけにも、ここの煤煙よけにもマスクは必需品である。
今朝、出がけの妻は、コートを着る前に池島先生から戴いた首巻きを付け、新しいマスクを掛けた。
中国産のマスクは何処かが倹約してあるのか伸びがよくなくてきつい、彼女は鼻が高いのに、押しつぶされて扁平になっている。
「なんだか」と妻は、大昔のこと黛じゅんが歌った「恋の奴隷」の「あなた好みの、あなた好みの・・・」のメロディで、「『イケジママ好みの、イケジマ好みの、おんなになり』そうだわ」と歌っている。鼻がひしゃげて、声もひしゃげていたけれど、ぴったりだった。
この姿をこのままイケジマ先生に見せなくっちゃ。
コメント:
Re:あなた好みの、あなた好みの(12/20) nakamichi さん
おもしろい!貞子先生と鼻歌と、それを眺める達也先生。中国のマスクがどんなに掛けにくいかを知っているから、切実で、でも可笑しくて、とってもユーモアを感じます。 (2005.12.25 13:47:43)
いらっしゃいませ 男性教師B さん
ようこそおいでくださいました(男性教師Cさんの場所ですが)。
ぜひ女性教師Jさんとして新たなネット人生をお始めくださいませ。
(2005.12.25 15:50:40)
カテゴリ:薬科大学
陳陽くんは薬学部日語の5年生で、後期の卒業研究では私達の研究室に来ることになっている。大学院を受験するので1月の受験に備えて勉強しているという。
日本語は3年の時に、女性教師の高山敬子先生に習い、4年になってからは加藤正宏先生に習っていた。4年後期からは日語の授業がなくなるが、日本語の勉強を続けていて、今でも日本語で作文を書いて加藤先生のところに「直して下さい」と言って持ってくるそうだ。
その加藤先生は今月の30日には帰国してしまうので、その後は私たちに見て貰えますかと言って訪ねてきた。そんな、入試の直前じゃないか。そんなことやっていていいのかい。でも、「試験は大丈夫です。先生、心配してくれなくても良いですよ。」とにこにことしている。
彼は髪はチャパツで、着ているものもパターンに凝った派手なものだし、おまけに2m近い長身なので人目を引く。彼の学年でなくても7千人いる学生の大半が彼を知っているし、日本語の先生の間でも、「ああ、あの子」と言う具合に話が通じる。
もう一つの特徴は、話し方がチャーミングな女性である高山先生そっくりなのだ。言葉はそっくり真似して覚えることだと言うけれど、彼を見ると語学学習の典型を見る思いがする。仕草も高山先生そのもので、ともかく日本語が上手いのだが。
彼は右手の先を軽くほほに添えて「じゃ先生、寒いから身体に気をつけなさいね。」といって陳陽くんは帰っていった。
コメント:
私の分身 女性教師D さん
授業中は、できるだけ女ことばにならないように気をつけています。今のところ、変な癖がついた学生はいないと思っているのですが・・・・・・私の分身がいるかもしれませんね。「出席をとります。」「そうですね。」と言う度に、それを小さな声でリピートする学生が多いことが気になっている女性教師Dです。
(2005.12.20 20:06:28)
D先生の分身が shanda さん
50人?百人?目下増殖中ですね。
陳陽くんのクラスに、彼みたいに高山先生を思わせる話し方の人はいません。一生懸命勉強をして、一人飛び抜けて日本語が上手だからだと思います。
ですから、分身が出来ることは先生の喜びとすべきことでしょうね。 (2005.12.20 22:05:07)
怖いくらいに ameyi さん
似てきますよね。
私の場合、誰も私に似た日本語ではないので少し安心しています。授業以外の私の口調は、だら~っと語尾が伸びてしまっているので。
ただ、中国人の先生の口癖『なぜですか』という自問自答が、最近みんな定着しつつあるので困ります。
癖って怖いです。 (2005.12.20 22:46:44)
先生は shanda さん
どうしても教え諭す言葉を使い、ときには命令の口調になりますから、学生もそっくりそれが出るのですね。
実際に君たちが先生に使うときはこうなのだよ、と別に教えるのは、また別の苦労でしょうね。
(2005.12.21 08:53:32)
おかまことば 男性教師B さん
昔何かの漫画で、子供の頃の海外暮らしが長く、家庭教師のお姉さんがふざけて女言葉を教えたためにゴツい男なのに女言葉でしゃべる日本人の高校生、という設定があって、そんなのありえねえぇと思っていたのですが、あながち絵空事でもないんですね… (2005.12.23 09:49:39)
カテゴリ:瀋陽の生活
朝の気温は昨日の最低気温と同じだとして、マイナス19度。今朝は5メートルくらいの風が吹いて小さな雪の粒がほほを打った。体感マイナス二十数度というところだろう。
このくらい寒いと鼻水がでる。鼻水はマイナス30度くらいだとそのまま凍り付く。
前の冬の元宵節の時に五里河公園のランタン祭りと花火を見に行ったときは、寒くて寒くて本当に身体も鼻水も凍り付いた。その後の帰り道、飛び込んだ五つ星の万豪酒店で、身体に温かさがしみ込み鼻水が溶け出したときのホワーッとした気持ちは忘れられない。コーヒーとケーキを食べてホテルを出るときに払った勘定も高くて、これも忘れられない。
ラボについて鼻をかみながら妻に、「こんなに寒いと鼻水が出ちゃうね」というと、妻は憤然とした面持ちで「私は出ないわよ」と返事をした。何か侮辱したことになるのだろうか。女性の気持ちは未だに分からない。
コメント:
お久しぶりです まり さん
先日は書き込みありがとうございました。
とてもうれしかったです!!!
瀋陽には、雪が降ったら24時間以内に雪かきをするという条例があるそうですね。
どれだけ寒いんでしょう。想像もつきません。
鼻水ですけどあのブーッとかむ音、本人は平気でも、他人には酷く不快な音みたいですよ。
「いいよ鼻かんでも」と言ってくれる人も、かんでる時にはしかめっ面してますもの。
マナー違反のように思えたのではないですか。
侮辱したととった訳じゃないと思います。
けど、寒い所から暖かい所に出ると、つーっと垂れますよね。
出たら、鼻かみたい。そっと拭うくらいだといつまでも垂れるんですもの。(汚い話でゴメンなさい) (2005.12.21 09:59:31)
まりさま shanda さん
以前、私の研究室に滞在していたフィンランドの女性研究者は、くしゃみをすると「Excuse me」といいますが、ハンカチを使って鼻をかむときには盛大な音を立てて平気でした。私たちは何時も唖然としていました。これは文化の違いですね。
(2005.12.21 13:44:14)
カルチャーギャップ 男性教師B さん
何をはしたない、みっともないとみるかは民族によってずいぶん違っているようですね。
交通マナーがなってない、といってもそれは日本の習慣に照らしてのことだけですから、現地の習慣に慣れなくて、いつまで待っても道が渡れない、と言ったところでそれはその人が困るだけで、現地の人があまり困っていないのなら文句を言う筋合いはないような気がします。
逆に中国人から見た場合、食器を持って食べるなんてマナー違反もいいところなわけですし、話すときに息を吸うスーッという音は話の内容以上に気になる・気に障るようです。「対不起」を連発するのもきっとかなりの違和感を感じているであろうと思われます。
日本人が忌み嫌う中国人の唾・痰吐きですが、単に自分にとって不快だからといって、最低だ・民度が低い、とまで言うのは行きすぎなのです。ナショナリズムについても似たようなことが言えるような気がします。
と、極端な文化相対主義に立つとこんな考えになるわけですが、かかってきた間違い電話で「お前誰だ」と言われた挙句無言で切られると、私でも未だに気分が悪くなります。文化相対主義に徹するのも難しいものです。 (2005.12.23 08:53:11)
カテゴリ:薬科大学
今朝は4年の学生が訪ねて来た。今学期は薬学部の日語班2クラス分を一緒に持っていて、それぞれのクラスから一人ずつの代表である。来週の末にある分子生物学の試験勉強をしているけれど、分からないことがあるから質問したいと言う。
講義ではパワーポイントを使っていて、その中から1回2時間分として36枚のスライドをコピーして配っている。聞くと、その中で字が小さくて読めないところがあってそれを訊いていたけれど、本心は「どんな試験問題が出るのですか」と言うことのようだった。ズバリ聞けないところがまだ初々しくて可愛い。
「ともかくやたらに暗記しようとせずに、よく読んで理解しようと努めなさい。理解すれば、自然と頭に入るものですよ。そうして勉強すると、身に付いて忘れないけれど、暗記するだけだともう次の別の試験を受ける時にはすっかり忘れてしまうから、無駄ですよ。」
彼らは暗記に強いが、考えることは苦手である。暗記するだけでなく頭を使って考える訓練をしたいけれど、彼らは日本語で理解するという条件を負っているから決まった時間内では難しい。
しかも大学院の入試は全国統一試験で、標準教科書から出題される。従って彼らは教科書をひたすら覚えたいのだ。それで私の希望とは裏腹に、試験問題も考える問題を出しては気の毒なのだ。
コメント:
暗記について kazumi さん
私は日本語や英語といった外国語そのものを教えるのが仕事なので暗記は結構勧めているほうです。でもその外国語を使って何か学問をしようとする場合は話は別ですよね。話がずれるかもしれませんが、同じ内容でも母国語でなく外国語を使ってその知識を入れた方が分かりやすい場合がありますね。日本のニュースを英字新聞で読んだりするときに私はよく感じます。学期末ですからどこも試験の時期なのですね。 (2005.12.22 00:18:16)
暗記主義の功罪 男性教師B さん
勉強=暗記 という絶対的な方針があるためにできる学生ほど暗記しか目に入らない傾向が強いようですね。
能力試験で、一問1~2点の単語の問題はほぼ完璧なのに、試験直前になってもまだ単語の暗記をしようとする姿にあきれました(涙 そんなことするぐらいなら一問3点の聴解や5点の読解でミスらないための技術を磨け、と;;
とはいえ日本もそれなりに暗記主義が健在です。結局のところ試験が暗記を要求しているからなんですよね。その点では私の場合大学入試が転機になっています。(もちろん大学入試レベルの試験なので数学だろうと暗記で乗り切れるのですが、非進学校だったため、暗記するべき知識を誰も教えてくれず、無理やりその場で考えて解いていました。今考えると効率の悪い勉強法ですがその後の役には立っています)
大学院入試が全国共通だというのも驚きましたが(よく考えればアメリカでも共通試験ですが)、内部生/外部生の不公平がないぶんいいのかもしれません。
しかし、院試の準備をしている4年生にどんな勉強をしているのか聞いてみると、文学領域の「勉強」が全て「文学史の暗記」だというから驚きました。実際に入試で出るのはそればかりだそうで。いくら文学嫌いの私でも、小説を読まずして何が文学かと言いたくもなります;; (2005.12.22 05:23:35)
暗記主義というもの shanda さん
>kazumiさま
私が日本の悪口を言うときは、「日本は世界に誇るinternetの接続速度を持っているが、調べるべき何のdatabaseも持っていない。役に立たない書き散らしばかり出てくる」と言っています。英語が世界の言語であることは科学の世界でdatabaseを使うと(と言うか、使わざるを得ません)否応なく分かります。
>男性教師Bさま
記憶することが人の脳の働きの基本的役割ですが、それを互いに連関させることが人の創造性を生み出しているわけでしょう?
大学にいる間の勉強時間をひたすら暗記だけに当てているのが、実にもったいないと言う気がしています。
(2005.12.22 08:56:22)
暗記という作業 男性教師B さん
覚えた端から忘れていく私にとっては、脳の最も重要な役割は記憶することよりも忘れることなのではないか、という考えのほうが実感としてしっくり来ます(極論ですが)
ということで私の場合、暗記するためにはゆっくりじっくり一字一句覚えていくという方法より、ざっと読む を数十回繰り返しながら忘れたところを覚えなおすという作業が効率のいい暗記法になっていました(ここしばらくこういう勉強をやっていませんが…)。この場合、覚える内容(教科書やノート)に書いてあることは絶対であり、疑問に思って立ち止まったりしていては完全に暗記するところまでとても行けません。時間がいくらあっても足りません。
もちろん一度じっくり、あるいは数回読んだだけで完全に覚えられる人もいるわけですが、そういう学生が先の内容の暗記に進んでしまうところが悲しいところです。
というわけで、三年生の能力試験が終わった次の時間の授業から、勉強(既存の知識を理解・暗記する)と研究(未知の問題をじっくり考え込む)の違いをこれでもかというほど強調して、これから一年半は皆さんは研究をやるんですよ~ と洗脳しています(笑
十数年間の暗記至上主義の呪縛からなんとか解き放つためには、催眠術でも使わないと不可能なのかもしれませんが…(涙 (2005.12.23 09:06:12)
137億年前に宇宙が誕生したという。
そのうち、私たちの知っている物質が4%、暗黒物質23%で、アインシュタインの予言した暗黒エネルギーが70%。
その誕生したときの宇宙の大きさは?暗黒物質って?暗黒のエネルギーとは?
理解できない。付いていけない。
地球は46億年前に誕生した。生命は35億年間に誕生したという。
瀋陽日本人教師の会は何時誕生したのだろうか。石井先生の瀋陽赴任時、つまり7年前にはあったらしい。
何時か歴史を調べよう。
私にとっては私がこの会に参加し、ホームページつくりに加わった2003年秋からこの瀋陽日本人教師の会は存在している。
ついでに書いておくと、ホームページ作成は最初は大変だった。
ホームページ作成のためにはWindows パソコンを使わなくてはならない。私は1987年からNECパソコン、1989年から切り替えてMacを使っているのでパソコンではベテランの領域にはいるけれど、Windowsは使ったことがない。ホームページ作成も経験がない。
だから、使いにくいWindowsを前にして毎日がトホホという心境だった。
2003年9月に係になって翌年の2月に相棒の河野先生が瀋陽を去って帰帰国された。それまで二人で勉強をしていたわけだが勉強だけで実際には何一つ進んでいなかった。前年度までに作られたページに更新も全く出来ていなかった。
2月半ば、日本から戻ってきた私は心機一転、ホームページビルダーに取り組み、懸案の更新に成功したが、今思い出しても、あの辛い切ない気持が甦る。
もっとも一旦出来るようになれば、やり方が違うだけでホームページ作成に困難はなくなった。それ以来、山形達也は教師の会のホームページ作成の中心となって、会員の助けを得て情報を集めながらその内容をどんどん増やしていくことになった。
ホームページを自由に作るようになったといっても、Macに比べてWindowsは使いにくく遅れている。世界中の人たちに使われていてソフトの種類も圧倒的に多いけれど、だからといってMacより優れていることにはならない。はるかに使いにくいマシンだと思う。
カテゴリ:薬科大学
シンセンから10日間の予定で薬科大学に滞在中の姚先生が私たちを訪ねてこられた。姚先生は今は広州市とシンセンにある二つの大学に大きな研究所を構えて、天然薬物化学の研究に傾注している。70才を過ぎてなお矍鑠として現役である。
姚先生は薬科大学の前学長だった。在職中は薬科大学を強力にすべく、瀋陽にある中国医科大学、東北大学、農業大学を一緒にして連合大学を目指し、そしておきまりの抗争の挙げ句、暗礁に乗り上げて潔く任期前に辞任したという。
この合併案は私たちが赴任してからも浮上して、そしてまた消えた。この四大学は部門が重複するところがなく互いに補完しあうから優れた総合大学になる素地があるが、それまでの学長が学部長に格下げになってしまうので、面白くないから反対しているとかいう噂が流れていた。
最近、遼寧省長が乗り出してこの四大学は合併して強力な大学にしなくてはならないと宣言し、これまでの反対意見は引っ込んだらしい。姚先生の話では、二年のうちには瀋陽の東にあるヌルハチの墓である東陵の近くに建物を建て、揃って移転することになるだろうと言うことだった。
普段は穏やかな先生だが、この話の時は「それ見たことか」というような高揚感が伺えた。
コメント:
大学合併 男性教師B さん
大型の大学合併といえば東工、一橋、医科歯科、東外大、芸大の合併計画の頓挫が懐かしいところですが、どこの国でも合併話は利権争いになって難しい問題なんですね。
日本の場合は大学法人化というがけっぷちの状況を用意することや、市町村合併のように補助金というエサで釣るやり方でなんとかしようとしていますが、ここはさすが中国。省知事の鶴の一声で決まってしまうんですね。これはこれでとても便利なような気がします…
しかし男性教師Cさんと同僚(格が違いますが)になれるかもしれないというのは楽しみなことですが、東陵のあたりですか… 不便になりますね(涙
まあ移転が実現する頃には今のメンバーは そして誰もいなくなった になる可能性が限りなく高いわけですが。
(2005.12.23 09:35:18)
今度の話は本当らしいですね shanda さん
合併の話は何度も出ては消えていたようですが、こんどは本当に実行されるみたいですね。
大学がそれなりに良くなることを歓迎しますが、街から遠くなるのはつらいですね。月一度の定例会に出てくるのが文化の香りに触れる唯一の機会になりそう。 (2005.12.23 14:34:03)
カテゴリ:研究室風景
姚先生は日本の学術会議に相当するのが科学院と工程院で、彼はこの工程院の院士という名誉ある肩書きを持っている。この薬科大学には姚先生しか院士がいないと聞いている。
今私たちのところにいる胡丹くんは姚先生のところで卒業研究をして、そこの修士課程に入っていながら方向転換してこちらに来たので、依然として姚先生は彼の恩師である。胡丹くんは姚先生の前では直立不動で、言葉が震える。
この胡丹くんは日語出身なので一番私たちの面倒を見てくれているし、姚先生に会うたびに、「ちゃんとこの先生たちを大事にして仕えなさい。」と言われている。胡丹くんは私たちには「うん」と言う返事しかできないが、姚先生には「はいっ」と返事をしている。
同じ恩師でも、彼は院士という科学者としては最高の名誉を持ち、こちらはしがない定年退職再度就職組である。正直に彼の気持ちを表しているかと思うと、可愛いものである。
中国の先生は学生の名前を姓名で呼び捨てにするのが一般だ。私たちもそれに倣って「胡丹」と呼んでいる。しかし姚先生は胡丹くんのことを、私たちの前では「胡丹さん」と呼ぶ。中国語では「小胡」である。先生がこの呼び方で自分の学生を呼ぶのは珍しいことだと思う。科学者として偉大な姚先生は、学生に対して偉ぶっていないのだ。私たちも彼を「胡丹さん」と呼ぶようにしようか。
コメント:
同僚の呼び方 男性教師B さん
私の場合、学生に対してはほぼ全員「フルネーム+さん」で呼んでいます。姓だけだと呼びにくかったり弁別性に乏しかったりするので…
同僚の場合はどうかというと、年配の先生方にはさすがに○○先生とつけることになります。男性教師Cさんの場合は匿名の場合のみ「Cさん」と呼ぶ勇気が出ます。面と向かうと恐れ多くて「先生様」ぐらいつけてしまいそうです。
中国人の日本語教師は設立時期の関係でうちの場合30前後の女性が多いのですが、私は全て「フルネーム+さん」で通しています。これは日本での出身研究室の習慣を引きずっています。
ところが教師会の若い女性の日本人教師はさすがに「○○さん」とは呼べません。自分の習慣が相手への配慮に負けています。人によっては拳が飛んできそうな気がしますし(涙
(2005.12.23 11:42:30)
同じですね shanda さん
教師の会で、○○さんと呼ぶと拳固が飛んできそうと思って自粛しておられる、その気持ちはよくわかりますよ。 (2005.12.23 14:04:09)
私はODNユーザーの一人なのでODNユーザーホームページを渉猟する楽しみがある。その中で次々と素敵な発信をしている人たちを見つけ私の心の友としているが、その一人に声優志願で勉強中の女性がいる。
彼女の心の優しさと鋭い感受性が見事な筆の運びで毎日のエッセーに反映しているので、彼女のウエブサイトを訪ねるのが何時も大きな楽しみの一つになっている。仮におやつさんとしておこう。このごろおやつさんの仕事が忙しくなったと見えて更新が少なくなってしまったが、まだ盛んに書かれていた2月頃のエッセイの中に、女の勘に付いての一文があった。
会社で内部告発を行ったために、いっさいの仕事を与えられずに30年近く会社の中の孤独な部屋に出勤していた男性が、遂に訴訟に踏み切った。しかしそれまでの状況を、この男性の妻は一切知らされていなかったと言うニュースを見ておやつさんは書いていた。
彼女は、もしこれが自分たちに起こったらどうだろうと考える。いや、このようなことは起こるまい。なぜなら、毎日帰る彼の顔色から彼がたとえ黙っていても、(この後原文のまま引用させて下さい)『気になって聞かずにはいられない、「どんな嫌な事があったの?」。それに対し、話してくれる時もあれば、「別に何にもないよ」と返事が返ってくることも。
「何もないって顔じゃないよ」話してくれない事に私は余計に不安になる。唯でさえ疲れている彼に煩く聞いてしまう。それは時に、彼自身が意識しない程些事の場合もある。そうなると私が聞いても、彼だって答えようがない。だけど分かる、感じるんだもの、何かあったって。シリタイ、シリタイ、アナタノコトヲ。
以前TV番組で検証していたが、微妙な変化に対する観察能力は女性の方が高いようだ。色を見分ける細胞の数が、男性は3個なのに対し、女性は5個と多い。これは子育てにおいて、赤ちゃんの顔色などを見る為だとか。この観察力が、俗に言う「女の勘」の元になるとも。それにしても彼が言いたくない事まで聞いてしまうなんて、どんなに優れた能力も困りものである。』
おやつさんの見事な筆運びで、自然と私は妻の勘に思いを馳せるに到った。実際妻の勘は鋭い。私の身体の具合の悪いことは直ぐに見抜くし、都合が悪くて話したくないことでも「どうしたのよ?」と言われてしまう。妻に知られたくないことだってある。その攻防を繰り返して数十年たち、妻に何も訊かれずにこちらがほっと胸をなで下ろしているときは、妻は訊かない方がよいと思って訊かないだけだということが、このごろ分かってきた。こちらが利口になって分からせないようになったと思っていたのはとんでもない間違いで、彼女の方がはるかに上手で、訊かない利益を学んでしまったのである。
刺激されて思ったのは、妻と私の気持ちの機微ではなく、研究室でも同じように女性は凄く良い勘を持っていると感じ入ったことがあったからだった。
私たちの研究室は妻と二人で研究室の運営に当たっている。研究室の公用語は英語だけれど妻は英語が得意ではない。というより、はっきり言って並の日本人にも及ばない。シカゴ大学に留学した経験があるにもかかわらずである。これは私が間に入ったのがいけなかったのだと思う。彼女は話は私に仲介させて自分では面倒な英語会話力を習得しようとはせず、ひたすら研究に勤しんでいたのだった。
1年前のこと、私たちの研究室の学生で日本語を理解できる学生は二人だけだった。私たちは中国語が話せないから、残りの学生とは厭でも英語で話さなくてはならない。すべての学生が英語がうまいわけではなく、お互い五十歩百歩の学生もいて、こういうときはお互い汗をかいて苦闘している。
しかし大事なことはこちらが指導する立場にいることだ。彼女の言っていることが分からないと困るのは学生なのだ。たちまち間違った実験をしてしまうことになるので、彼らは妻のブロークンの英語を一生懸命に聞いて理解しようとする。
英語を日常的に使っている基地クラスから来ていた徐さんは、妻に言わせるととても勘がよい。妻のブロークンの英語をyes、yesと言いつつ辛抱強く聞いてから、今度は彼女の流暢な英語で妻の言いたかったことを繰り返して確認する。
すると妻はうまく話せないだけで、聞くのは困らないから、徐さんの言う内容ことはよく分かり、「そうそう、その通り。そういう具合にやってよ」ということになる。妻が十分意を尽くせなくても、徐さんは勘が良くてまず間違いなく妻の意思は伝わっている。だから徐さんは3週間の実習だったけれど、その短期間に実験をして私たちの気になっていた点を明らかにして、その次の研究に繋がった。
博士課程の関さんとは英語でやりとりするほかないが、関さんはまず問題なく妻の言いたいことを理解する。時には聞いている私には分からないようなことでも、ちゃんと分かってしまう。しかし、これが男性となるとなかなか分かって貰えない。
特に学生の譚玄くんにはまるで通じない。この譚玄くんは優しい顔立ちをして笑顔を絶やさず穏やかな性格であるが、筋骨隆々として、運動会があれば徒競走に出て悠々と一位を獲得して来るくらいで、男らしい男と言えそうである。つまり、以前に書いたテストステロンが人の行動を支配しているという理論に従えば、彼のテストステロンの量はかなり高いに違いない。今一般の生命科学者に信じられているところによると、テストステロンの高い人は、深い想像力に欠けていて、思考はかなり単純で、行動は直線的であるという。
だから譚玄くんは妻の英語を聞いておかしなところ、欠けているところを補って理解しようとはしない。聴いたら聴いたとおりなのだ。その時分からなければ、そのまま分からないだけだ。勘を働かすと言うことが全く苦手である。
基地クラスはこの大学の精鋭を選りすぐっていると言う話だから、徐さんはそれだから優秀なのだとも言えるが、この譚玄くんもこの大学の学生にしては大変珍しく、実験をやりながら自分で色々と考えることの出来る人なのだ。ある時は私たちが見落としていた可能性を指摘する実験を、自分で考えて結果を出し、にこにこしながら持ってきた。
と言うわけで、研究室でも女性の勘は鋭いが男は鈍いという例がある
胡丹くんは私の1ヶ月分の給料に相当する血球計算板を手の中でへし折ってしまった人である。ガラスが如何にもろいかを考える暇もなく、洗ったガラス板を拭こうとして壊してしまったのだ。
カテゴリ:研究室風景
私のエッセイやブログでは、私達の研究室の学生・院生を胡丹くんとか、王麗さんなどと書いている。この「くん」は男子であること「さん」は女子であることを意味してるだけで、実際には「くん」も「さん」もなしに、姓名を中国名の発音でそのまま呼んでいる。つまり呼び捨てにしている。
日本に私たちが世話して留学している学生に会ったとき、女性はたとえば「楊さん」、男性も「朱さん」と呼んでいる。この違いは私の歴史にさかのぼってしまうことだが、以前私は自分の研究室にいた人たちを、学生も、スタッフも男性は「○○くん」、女性を「○○さん」というように呼んでいた。
初めは「○○くん」と呼んで何とも思わなかった。しかし学生はいずれ卒業して社会人になり、どうかすると同じ研究者の社会に入って、こちらよりもはるかに上等な研究者になるわけだ。そのような一廉の人物を、以前こちらが先生だから、あるいは上司だったからと言って「○○くん」呼ばわりすることはおかしいと言うことに気付いたのは、大分歳を取って、多分40歳を越してからだった。
過ちを改めるに遅すぎると言うことはない。それで、私は自分のところの男子卒業生や、以前のスタッフを「○○さん」と呼ぶように変えたのだった。卒業生がまだ若くても、卒業すれば「○○さん」である。何でこのようなことにもっと早く気付いて実行しなかったのかと、今思うと冷や汗が出る。
それなのに今ここでは名前を中国の発音で呼び捨てをしているが、これは入郷従俗、郷に入っては郷に従えと言うことである。将来はどうしよう。日本の発音に変えて「○○さん」と言うことになりそうである。
コメント;
姓で呼ぶかフルネームで呼ぶか 男性教師B さん
ここに関連の深いコメントを二つ下に書いてしまいました。すみません。
うちでは学科の方針により事務処理も日本語で行う、ということになっているので、私は遠慮なく「○○○さん」と呼んでいます。同年代の中国人同僚からBセンセイと言われてもとりあえずはそのままにしています。同僚の教師が社会人院生として私のゼミに出てくることがあるためどうにもややこしいのです。
ところで、中国人を呼ぶときに気になるのが姓だけで呼ぶかフルネームだけで呼ぶかという問題なのですが、男性教師Cさんは[姓+さん]or[小+姓]で呼ばれているわけですね。
20人クラスぐらいで授業をした場合、李さんや劉さんが3人4人になることがあり、面倒なので私は全て[フルネーム+さん]で通しています。しかし他の日本語教師の皆さんは[姓+さん]が多いようです。 (2005.12.23 12:05:48)
学生はフルネームの呼び捨て shanda さん
日本語を教えるクラスでは、姓名を日本語で呼び、それに男女を問わず「さん」とつけていると聞きました。学生同士もそれで呼び合っています。
でも私達の研究室では、学生が日本語が分かる、分からないを問わず、中国式に中国語の発音でフルネームをよび、それには「さん」をつけません。
同僚は中国語の姓に「老師」をつけて呼んでいます。あるいは若い女性の先生は「小○」と呼んでいます。 (2005.12.23 14:01:38)
中国は今年二度目の宇宙ロ ケットを打ち上げた。もうこの宇宙科学の刮目的成功は当たり前になって大学でもこれといったことはなかった。一昨年宇宙ロケットに成功して、世界で有人宇 宙ロケットに成功した第3番目の国になった時は中国中が成功によって大騒ぎだった。大学の中にも色とりどりのポスターが貼られて、この快挙が祝われてい た。このときは直ぐそのあとで日本の衛星ロケットが打ち上げに失敗してしまった。「おめでとう。良かったね、成功して」という私に研究室の王くんは、にそ にそと出てくる笑いをかみ殺して「日本は失敗してしまいましたね」と同情して見せたけれど、この失敗が中国中の喜びを更に加速したことは想像に難くない。
宇宙ロケットというのは精密機械であり、精密制御の申し子なので中国は日本が開発していない技術を持っていることは確かだけれど、これは一点豪華主義と言うところであって、ほかの民生品は六十年前の日本の敗戦後の混乱期の製品と似たようなものもまだ多い。
たとえばプラスチックのラックを例に取ると、肉厚でがっしりとした製品も勿論あるけれど、それだと値段が張るせいか、肉厚を落として薄くした製品も出回っていて、丈夫さは値段と間違いなく比例している。安いものは間違いなく粗悪品である。
粗悪でも、一カ所に置いて動かさなければそれなりに物入れか物置の役は果たすので市場に出回っているのである。うちの玄関廊下においた靴の台はこの手のやつだ。掃除の時ついうっかり手で引っ張ると分解してしまう。ごく丁寧に扱わないといけない。
しかし椅子ともなるとキャ スターが華奢なために壊れてしまうと椅子の用をなさなくなる。私たちが大学の新設の教授室に案内されたとき、私と妻用の二組の机と椅子が、だだっ広い60 平方メートルの広さの部屋に置かれていて度肝を抜かされたのだった。なにしろ、机の広さは畳1畳より大きいくらいで、椅子の背は、こちらが立っていても胸 の位置まで来てしまうくらい豪華なのだ。
この二組の机が向かい合わ せに置いてあって、隣の池島先生は「先生たちお二人は愛し合っていて、互いにいつも見つめ合っているから、この配置なんです」なんていう馬鹿なことを言っ ていた。配置は直ぐに互いに真正面に向き合わないような配置に直したから良いとして、この椅子は豪華すぎて不自由だった。
豪華で大きいから座面が大 きく、脚の短い私としては、深く腰掛けても膝のところで邪魔されておしりが椅子の後ろまで行かない。したがって浅く腰掛けて作業するか、背もたれに寄りか かってトロンとお腹を折ることになってしまう。仕事をするという意味では機能的ではない。どうも見かけだけ飾っている感じである。
この教授室の椅子は見かけ の豪華さと裏腹に二ヶ月もしないうちに椅子の回転が悪くなって、しかも傾いてしまった。キャスターの一つが壊れたのだ。ひっくり返して調べてみると、薄い プラスチックの小さなヤワなキャスターで、鉄で補強された木製の椅子の重さを考えると、壊れないのが不思議な位ちゃちである。
交換して欲しいと思って も、椅子を売ったところは言を左右にして替えてくれない。新しいのを欲しいと思ってもそこでは手に入らない。日本なら、壊れれば直ぐに付け替えてくれる し、自分で修繕したければ東急ハンズに行けば好きなキャスターを自分で選べる。それに第一、今はキャスターが簡単に壊れるような椅子は売っていない。
壊れた椅子をずっと我慢して使っていたけれど、これでは身体に良くない。豪華でも使いにくい椅子なので、いっそのこと新しいのを買おうと思って家具の専門店に出かけた。家具城と呼ばれている専門店が、瀋陽の西のはずれにあり巨大なビルを構えている。
どのくらい大きいかという と、面積がラグビー場くらいといったらよいだろうか、それ程巨大な売り場も、柱で区切られるブロックごとに実は区切られていて、それぞれが別の店である。 つまりここでは店ごとに陣取りをしていて、商品で分かれていないので、こちらの店の事務椅子、そしてまた歩いてここにもあったといって事務椅子を検討しな がら、最終的には満足できる椅子を選んだ。一つ250元(日本円で約3500円に相当する)だった。
ともかく新しい椅子が手に 入って毎日の生活が快適になった。どのくらい快適かというと、一寸触るだけでもスーッと椅子が床を滑っていくのだ。使い始めてしばらくして、座ろうとした らおしりで押してしまって、座ろうとした時には椅子がなかった。「やったア」と思いながら、下に落ちながら椅子を求めて身体を後ろに運んだので、床に後ろ 向きに投げ出されたように倒れて、その拍子に頭を打った。
すると、まだ床に倒れてい るうちに、まさに見る見るうちに打った箇所が腫れて瘤になった。頭に瘤をこしらえるなんて、子供の時以来久しぶりのことだ。椅子の悪口を言い続けたので椅 子の復讐かな、なんて馬鹿なことを考えながら久しぶりの瘤に感激して床に座ったまましばらく瘤を撫でていた。
この椅子はそのご1年使い 続けているが、動きが依然として快適である。つまりその気になればやれるのだ。見かけ倒しの質の粗悪な椅子が存在するのは、見掛けが豪華でしかも安いもの を求める人たちがいるからであろう。賢明な消費者が健全に育つことが、この中国で質の良い民生品が出来るための必要条件だろう。
カテゴリ:研究室風景
日本にいたときは冬のマフラーはアクセサリー的な要素だった。コートとの色のマッチングが重要で、保温の意味は薄かった。マフラーを首に巻いて暖かいと思わず思ったような情景は思い浮かばない。恋人から貰ったマフラーならそれなりの感懐があったろうけれど、妻も見ているここのブログにそれを書くのは危険である。
昨日の朝、胡丹くんが手に紙袋を捧げ持って部屋に入ってきて、にこにこしながら「これ先生への贈り物です。彼女が自分で編みました。」
白と赤色の混ざった1本のマフラーと、黒と白の混ざったもう1本のマフラーだった。クリスマスカードも一緒だった。
昨日は一日この素敵なマフラーを首に巻いて過ごした。部屋は20度に保たれているけれど、そして窓の下には暖房のコイルが置いてあるけれど窓側はどうしても寒い。一日論文を読んで過ごしたので、身体はどうしても温まらない。首の温かさに守られて昨日は仕事がはかどったのだった。
二ヶ月前に女子学生から送られたマフラーをずっとしていたけれど、これからはこの新しい胡丹くんの彼女が編んだマフラーを身に付けよう。あの女子女子学生にはそれきり会っていない。その後どうしているのだろう。挫折を味わって泣いただろうけれど、もう立ち直って新しい環境で学業に励んでいるだろうか。
カテゴリ:カテゴリ未分類
Yahooニュースによると「黄禹錫ソウル大教授の“ES細胞培養成功”はソウル大調査委員会は黄教授による「データ捏造による虚偽」と断定された」という。
今まで発表された論文には数%の捏造があるという調査を読んだことがある。真実を探求する科学者にはあってはならないことだが、研究者は誰しもこのような誘惑に駆られたことがあるだろう。
たとえば、細胞を培養して成長曲線を描くという単調な実験で、3日目の値が異常に高いとする。これを無視すれば、毎日順調に細胞が増えている。細胞の数は3つの測定値の平均だ。調べてみると測定値の1つが異常に高い。これを除けば、平均はよい値に収まる。
ということで3つの測定をするというのを2つだけにするのは正しいだろうか。この場合3つの平均を取るのは、最初に細胞を播くという操作で正確に均一な数を播くということはできないし、細胞数を数えるところにも誤差が入るからだ。一つを勝手に削ることは、人為的に結果を操作することである。従ってこれは正しくない。
何時も5つ測定して、最高と最低を除くと決めるのもよい。しかし、得られたデータを前にして中から好きなものを任意に選別しては科学ではない。
先ほどの場合、3日目に細胞の数が増えたのは測定の間違いだと思ったら、それは置いておいて、もう一度細胞を培養して成長曲線を計り直すしかない。実際、私たちは同じ実験を必ず3回繰り返して、いずれも同じ結果の場合のみこれを信用することにしている。
人は間違いを犯すものだ。人は甘美な誘惑に駆られるものだ。人は名誉という欲望につられるものだ。科学論文が必ずしも真実ばかりではないのはこのためだ。
どうすれば、データの捏造が防げるか。捏造したデータはいずればれるかも知れない。しかし捏造したことが何時かは明らかになると言うだけでは、抑止力として弱いだろう。
結局は真実への忠誠心、人としての誠意に頼るしかない。嘘をつくのは恥ずべきことだ、人を欺くことは許されないことだと思って育たないと、危ないものである。科学者も、耐震偽造の1級建築士も人としての同じ弱さを抱えているのである。
コメント:
研究における「誠実さ」 男性教師B さん
ES細胞の件はよく分からないこともあって詳しく追っていないのですが、阪大医学部の件ではいろいろな面で驚きました。臨床医は24時間体制で診療するため出世のための研究論文なんて書く時間はないとは知っていたものの、いくら優秀な学生だからといって学部生に研究を丸投げしてたとは…
またそのことで指導監督していた教官はもちろん、臨床医として輝ける未来が開かれている本人も含めて誰も責任らしい責任を取っていないこともこれまた驚きです;
再現が難しい・大変な実験ではデータに対し「誠実」であることが大前提ですが、文系の場合それに相当するのは大規模調査・アンケートでしょうか。再現性もなく追試も不可能で、しかも条件をそろえるのが至難の業、さらに得られたデータを統計処理する際にも十分に恣意性が入る余地があります。
競争やプレッシャーがかかると改竄捏造の誘惑に駆られるものですが、研究というものに対する姿勢として最も前提となるのは「誠実さ」であるということを再確認させられるお話でした。この地での研究指導の困難さを痛感する次第です。 (2005.12.25 02:44:47)
論文を書くときに shanda さん
先人の研究にはすべて目を通して、それを土台にするなり、論破するなり、背景に組み立てるなり、大いに勉強の成果を利用します。
このときその内容を引用することはに大事なことだけれど、その英語をコピー&ペーストして自分の文章に組み入れてはいけない。「それは小なりと言えども剽窃なのだ。決してしてはならない」と学生・陰性に教えていますが、なかなか分かって貰えません。
倫理上問題外というだけでなく、もう一つは、これをやっていると英語の力が身につかないからですが。 (2005.12.26 22:39:15)
「引用」の意味 男性教師B さん
どうやら先行研究に関しては悩みは全く同じようですね;;
まず「なぜフィクションがいけないのか」「なぜパクリがいけないのか」という感覚に乏しい学生が多いため(これは教育を含めた文化の違いなのでこれ自体で優劣を判断することは間違いです)。、
レポートを書くときは色々調べて書いてね、といったところで、
(1)調べた内容を丸写し
(2)調べた内容を表現だけ改変
(3)いろいろ調べた内容を自分の言葉で勝手にまとめる
(4)いろいろ調べた内容を引用の形で丸写しして並べ、引用をメインとして自分の言いたいことを伝える。
(5)いろいろ調べた内容を引用の形で丸写しして並べ、解釈や検討、発展を述べ、自分の話を作る
このように段階付けして考えると、(1)や(2)は論外ですが最初はこれをやってくる学生が多い、しかし注意するとかなりの数の学生が次のステップへ進みます。
(3)と(4)が微妙なわけですが、いくら「引用はきっちり形式を守りなさい」といったところで(3)の方が上等だと思うようで、(3)から(4)へはなかなか行ってくれません。もっとも(3)と(4)は日本人でも(3)の方が優れていると考える人はかなり多いでしょう。
無論(3)から(5)の段階へ飛べればいいわけですが、そんな芸当ができるのは極一部の「研究の才能」がある学生だけです。私の今期のゼミでは(4)の強調が足りなかったようです。
(5)は王道というかこの形で書ければ論文として合格ですよね。 (2005.12.27 12:15:12)
カテゴリ:瀋陽の生活
今日が24日でクリスマスイブであることは全く念頭になかった。内外の友人からカードを貰ったし、今日もe-mailでカードが2通送られてきた。でも、午前中は研究室のセミナーで、私も演者だったので忘れてしまった。
毎週土曜日には公開することにしていので、ホームページに何かエッセイを書かなきゃと、この数日ずっと思っていた。しかし、このところブログを書くことで頭の中が細切れになっていて何も思いつかない。呻吟しつつ椅子に腰を下ろそうとして、軽く後ろに動いた椅子のために転けそうになって、椅子の話を思いついてともかく午後一生懸命に書いて載せた。
午前中妻は風邪気味だと言っていたが、そのころにはひどくなっていて4時頃うちに帰ったけれど、彼女は夜のご飯は要らないと言って寝てしまった。鼻水は出るし、熱も出始めたらしい。
一人分の食事を作る気力も湧かず、とうとう今夜は帰りがけに、もしかしてと思って買って帰ったバナナ2本を食べて終わりになった。なんとまあ、と言うクリスマスイブだった。
7時頃学生の陽暁艶さんから電話があって「Merry Christmas!」と言う。どうしているかと聞いたら大学院の入試の勉強をしていて今夜も一人で過ごしているという。淋しいみたいだ。うちで食事をするなら誘ってもよいけれど、今日はどうにもならない。ともかくおかげで今日が何の日か思い出したというわけである。
恐らく街の中心は一晩中お祭り騒ぎのはずである。ひと頃の日本みたいにこの日はお祭りなのだ。便乗のお祭りに無縁になって何年経つだろう。
コメント:
くりすますってなに? おいしいの? 男性教師B さん
と非キリスト教信者である私は言いたくなるところでありますが、無論私が現代の日本的な意味におけるクリスマスと無縁であることの負け犬の遠吠えに過ぎません。
とはいえここ2週間土日も仕事で休みがなかったので、今日は午前中働いた後、夕方からさっきまで爆睡しておりました。私は3日同じ時間に起きると脳内目覚ましがその時間にセットされてしまうため、明日も夕方寝~1時起きをやると起床時間が現在の3時から1時へとさらに早まります。時差は何時間なんでしょうか;; (2005.12.25 02:54:46)
カテゴリ:カテゴリ未分類
今日のYahooニュースによると「中国で深刻化している男女の出生比率の偏りを是正するため、医学的に必要性がない性別判定、中絶などを対象に、最高懲役3年の罰則を盛り込んだ法の改正案が、全国人民代表大会(全人代=国会)常務委員会に提出された」という。
「中国では農村地域に男尊女卑の風潮が根強く残っていて、同国の現在の男女の出生比率は1.19対1に達し、正常値とされる1.06対1の水準を大きく上回っている」と書かれていた。
男女平等を革命と共にいち早く成し遂げたと思っていたのは大きな誤解で、中国はいまも日本と同じ程度の男尊女卑国である。
日本では男女の産み分けにここまで露骨な男女差別はないようだが、中国の男女の性比は将来深刻な問題に発展するだろう。懲役3年という刑罰を設けてこれが防げるだろうか。
中国庶民の生き方を見ていると、日本人よりも遙かに生きかたが逞しい。「出生前の検査ではないんだから違法ではない」と言って、産まれた女子を間引きをすることで対応することにならなければいいのだが。
コメント:
男女平等と伝統の間で 男性教師B さん
周りを見る限り、中国は日本よりもはるかにという男女平等という点では徹底していると思いますが、我々が見ているのは所詮都市の一部だけです。
農村に行けば「イエ」「跡継ぎ」「労働力としての男性」が強く望まれるのでしょう。強い父系社会であることもあいまって、一人っ子政策とのギャップから来る無理が生じるのはある意味必然です。
しかし性比の差の問題はどうでしょう。ある程度人数が違ってしまえば、もうそれはそれとして現実を受け入れざるを得ません。結婚できない男性/女性がいる、というのは少子化問題にとっては大変ですが、中国の場合はむしろ逆ですから問題なさそうです。大人はある年齢になれば結婚するべきである という社会規範が崩れてしまえば、既婚・未婚による社会的差別は基盤をなくしてしまいます。
要するに モテない男 が社会的に肩身の狭い思いをしなくて済むような社会になりうるわけです。極論であることは重々承知ですが、見方を変えればある種の「バリアフリー化」を加速しそうな現象でもありうるわけです。 (2005.12.26 15:51:08)
なるほど shanda さん
バリアーフリーを実現している過程だというのは面白い見方ですね。だけど、結婚したくても出来ない男が1千万人いたらそれだけで戦争が始まりそう。日本など一番のねらい目でしょう。日本の女性はまだ世界一だと思われているふしもあるし。
ところで、「既婚、未婚による差別をなくすよい機会」というのは、Bさんがもてない男だからじゃなく、結婚することで縛られたくない男の意見なのではありませんか。 (2005.12.26 22:32:05)
カテゴリ:研究室風景
子どもの頃の楽しみなクリスマスといっても戦争と重なっていたから、世の中が落ち着いてきた中学の頃からしか記憶がない。依然としてうちは貧しく、ものもなかったけれど、それが当たり前と思っていたので何の苦痛でもなかった。それでも毎年庭から掘り出して来て鉢植えにしたツリーに、デコレーションを飾ったクリスマス。木の下には木を削って作った家族それぞれへのプレゼントを置いた記憶が甦ってくる。
それと結婚する前のふわふわした気分のクリスマス。子どもが出来てからの毎年の心の温まるクリスマスパーティが次々と思い出される。結局今は私たちしかいないし、依然として異教徒だからクリスマスだからといって特別な日ではない。妻は風邪引きだし、クリスマスの日曜日だと言っても大学に出掛けるだけだった。
陳さんも王麗さんも結婚しているのでラボでは姿を見かけなかった。胡くんも素敵な彼女と二年目の記念日を祝っているのだろう。この日ラボに来たのは、独身組の院生4人だけだった。「ほかにやることもないですしね。友だちと中街に遊びに行ってもカップルばかりだし。
それでよいのだ。
薬科大学にいると皆早々と相手を見付けていることに驚く。狭いところに若い男女が24時間一緒に暮らすのだから、相手を見付ける気持になるのは不思議ではないが、まだ社会を知らないうちにクラスの中でカップルになるということはいいのだろうか。何時も二人でくっついていては、他の友人が出来ないだろう。他の素敵な人と知り合う機会をすべて逃がしてしまうだろう。
人生急ぐことはないのだ。おまけに淋しく悲しい時期があるから、パートナーが見付かれば人生はよけいに明るくなる。今はその準備なのだ。嘆くことはない。
コメント:
適齢期? 男性教師B さん
中国は日本と違って平均初婚年齢がずっと若いですから、大学なんていう一部の人しか行けないところに行かない普通の若者はさっさと結婚して家庭を持ってしまうようですね。それを考えると学生結婚が禁じられている(解禁されたんでしたっけ?)以上、修行中の身だからといってあえて恋人を作らない、なんていう選択肢はあまり考えられないのでしょう(作りたくても作れない、という層の男性は国を問わず一定の割合でいるわけですがそれはおいといて;;) (2005.12.26 10:40:30)
学生結婚の解禁 shanda さん
憲法で保障されているのに、学生は結婚してはいけないという規則がついこの春まで生きていたようですね。為政者によって法の解釈が自由に変わるという恣意性はいけませんね。日本も憲法を巡ってはどう言いつくろっても違憲状態になっていますから、隣の国のことを言えませんけれど。 (2005.12.26 22:24:26)
未婚の母 nakamichi60 さん
先日の新聞に大学1年生(18歳)で赤ちゃんを産んだ事件?!が報道されてました。学校は検討した結果処分はしない方針を出したって。この国にしては進歩的!このことは雑誌などでも結構派手に取り上げたらしいです。教室でその記事の見出しを見ていた私に学生の一人が教えてくれました。「でもどうして生まれる間際までまわりに知られなかったのでしょうね。」と疑問を投げかけたら、その当人はもともと細かったうえに体型を隠すデザインの服ばかり着ていたのですって。こういったことはきっとこれからもたくさんおきそうな予感、いえ起きて当然かもしれません。何しろカイカクカイホウの時代ですから。 (2005.12.27 22:57:09)
カテゴリ:瀋陽の生活
ゴキブリは中国では持ち込みが禁止されていると言うことを昨日のyahooニュースで読んだ。コレラ菌やチフス菌、脊髄灰質炎(ポリオ)などウイルスの媒介するというので嫌われている。誰も好んで密輸しないだろうけれど、オランダのロッテルダム港から上海に入港したコンテナ船に積まれていたコンテナ用の空き箱にゴキブリが沢山入っていたそうだが、すでに死んでいたという。
ゴキブリは中国にもいるけれど、2cmくらいの小型で色も淡く、日本のヤマトゴキブリ、チャバネゴキブリほど憎らしくない。日本と同じでもっぱら台所をすみかとしているけれど、もちろんあちこちで見つかる。うちの居間は昼間は人気が全くないから、ゴキブリも伸び伸びと安心できるところらしく、昨日など、ゴキブリが昼寝していたと妻は言う。
うちに帰ってきて床にゴミが落ちているので、捨てようと何気なくつまんだら、「それが動き出したのよ。びっくりして指を放したら、あれはゴキブリだわ、ちょこちょこと戸棚の下に入ってしまったの。」
「だって、いきなりつまんだのではなく、その前歩いているときゴミが落ちていると思ったのだから、ずっとそこに居たのよ。昼寝しているところを急につまみ上げられて吃驚したに違いないわ。」
外は零下20度以下でも室内は21度という快適さなので、私たちはこの冬に日本に戻ったときの室内の寒さを思っておびえるが、ゴキブリも「瀋陽よいとこ、一度はおいで。」と歌いたい気分なのだろう。中国にたどり着いたゴキブリは暖房のない上海の寒さで参ったに違いない。
コメント:
ゴキブリに対する恐怖 男性教師B さん
人間がゴキブリを毛嫌いする理由って一体何なんでしょうか。感染症を伝染させるというのはあるでしょうが、そういう知識がなくても生理的に嫌悪感を感じるように思います。遺伝子情報なのでしょうか;;
日本の大きめのゴキブリだったら、触覚を取ってしまえばメスのクワガタやカブトムシとぱっと見はそんなに変わらないわけで… かたや悪魔、かたや女王様です。
私の場合は昔は大して怖がらなかったものの、大学生のときにボロアパートで大量に出て、退治しようと丸めた新聞を構えたときにこちらの顔面向かって猛スピードで突っ込んできたときの恐怖から、どうも苦手になってしまいました。
(2005.12.27 12:37:26)
ゴキブリが飛びかかってきた shanda さん
以前、日本にいてしかも若い頃、追いつめたゴキブリがカーテンに登って、さあ叩こうと新聞紙を振り上げたら、突如私めがけて飛んできました。
この恐怖。
今思い出しても、真っ青になります。 (2005.12.27 13:30:35)
瀋陽にゴキブリ? 3303corocoro さん
ゴキブリは種類に関わらず寒いところにはいないのだと思っていました。
札幌の実家では見たことがありませんし・・・。
おかげさまで、今の我家でもまだ1度も出たことがなく
それは素晴らしいことだと思っています(大げさ)
あと数日で新年ですね。
来年もshandaさんにとって素敵な1年になりますよう☆
(2005.12.28 23:38:38)
ゴキブリのような二度打ち 男性教師B さん
瀋陽のうちの寮で出るゴキブリは、小さく色も薄く動きも比較的遅いので、日本のゴキブリよりも「昆虫」っぽくてまだ毛嫌い感がましです。慣れの問題かもしれませんが。
ところで最近ブラウザや回線の不調でゴキブリの出現率並みの頻度で二度打ちしてしまっております。申し訳ございません。 適宜削除お願いいたします>男性教師Cさま (2005.12.29 11:38:23)
カテゴリ:生命科学
分子生物学の試験が今週の木曜日にあるのですが、また今度は別の学生が二人連れだって私のところにやってきました。
私は講義の時には、いろいろと学生に質問しながら講義を進めましたが、その時の答えを知りたいというのです。たとえば、「DNAとRNAとは何処が違うのですか。どちらが安定な構造ですか。それは何故ですか?」というのは今期の私の講義の範疇にはなく、当然知っているはずですし、知っていることが必要な事柄なので質問しました。
その時に答えと理由を十分話したつもりですが、彼らのメモを見ると、まるで分かっていないのですね。
こんなことは教科書を見て構造を見れば直ぐに分かることですが、教科書には「DNAとRNAの構造は○○が違うから、RNAが安定である。それは○○だからである。」と、親切な教科書だと書いてありますが、通常はこのような形では書いてはありません。構造を見て考えれば直ぐに分かることですが、彼らはそれもしないで、答えを聞きに来るのです。
やることがどうも安直です。教科書は正しい。教科書に疑問を持ってはいけない。という具合に教育され続けて、なおかつ彼らは薬学という科学を学び、職業にしようとしているのです。
科学をする心を育てるのは、ここではとても大変なことです。
コメント:
科学的態度を養う 男性教師B さん
当然過ぎて教科書にも載っていないようなことを質問しに来る学生がそれほど多くないことを祈ります(もちろんその当然の知識に「疑問」をもってどう考えても腑に落ちない、なんていう形で持ってくる質問であれば歓迎ですが、そうではなさそうですね;;)
数学オリンピックなどでも中国の学生は好成績を収めているようですが、どうも受験数学の延長でいわば雑技団的に問題を解いてるんじゃなかろうかという悪寒がしてきました。数オリレベルといっても所詮は時間を短く区切られた問題なのでパターン暗記の積み重ねのうまい学生が鍛錬を重ねれば上達してしまう可能性があります。それでは数学者としての将来は…ということになりますよね;;
まあ日本でも高校までの教育で「疑問を持つ・考え抜く」という面は軽視され続けているわけですが、何とかならないかなあというのは常に悩みの種です。BやCさん以外の先生方、何かいいアイディアありませんかーー (2005.12.28 06:11:16)
カテゴリ:薬科大学
薬科大学は日本でも入学者の半分以上は女性だという。一般に女性の方が男性よりも試験勉強に強いし、薬剤師という資格を持つことを目指す女性の方が男性よりも多いと言うことになる。中国でも事情は同じで、瀋陽薬科大学の入学者の7割近くは女性である。特に成績で選ばれる日語コースは圧倒的に女性ばかりで、毎年クラスに男性は数人しかいない。講義をすると男子は何時も後ろにひっそりと座っている感じで存在感が薄い。
大学のスタッフの中で女性の占める割合は公表されていないので正確な数字は分からないが、印象としては半分を超えている。これはteacherと呼ばれている人たちの殆どが女性だからである。teacherは大学を出ていれば採用され、教壇に立って教科書を読んで学生に教える人たちである。
teacherをやりながら大学院を出て博士号を取り採用試験に受かれば助教授になれるので、助教授も女性が目立つ。教授にも結構な数の女性がいて、3割位は女性が占めているのではないだろうか。
日本では統計によると(2005年版男女共同参画白書による)、女性研究者は11.6%で、米国の32.5%、フランス27.5%、イギリス26.0%、に比べて遙かに少ない。
大学教授の数は、今朝のYahooによると「米国13・8%(1998年)、フィンランド18・4%(同)、フランス13・8%(97年)の一方、日本は4・1%(98年)にとどまっている」という話だ。これを打破するために、「名古屋大は27日、教授など教員の採用で、研究や社会貢献などの業績が同等であれば、新年からは女性を優先して採用するとの方針を発表した。4年制総合大学では初の試みという。」
快挙である。名古屋大学が始めれば他の大学もこれに続くだろう。そして女性の教授が増え、女性への門戸開放が実際に進み、社会の仕組みが変わっていくだろう。
男性と女性は生物学的には違う生き物だと私は思っている。だから平等を推し進めて悪平等にしてはいけないが、機会は平等でなくてはならないのだ。
コメント:
アファーマティブアクション的な負の面 男性教師B さん
名大は全学の方針でやるんでしょうか。工学部理学部あたりでは猛反発or無視になるような気がします;;
薬学部や外国語学部や女子大などではもともと女子学生の比率が高いのでやるべきだとは思いますが、男子学生ばかりの数物系では大変になるような気がします。助手人事ぐらいだと「業績が同等」なんて形式的な条件のように見えてなりません(特に文系の業績評価に慣れていると)。
工学部でこの方針を実行するとしたところ、男性D院生orPDの流出が止まらなくなり、実際に助手採用が決まるころにはその研究室での研究体制が崩壊してしまっていた、という噂を聞いたことがあります。
入学試験であれば機会の平等としての意義が大きいと思いますが、現在の日本の大学教員採用では学部によっては機会の平等にならず、結果の平等としての側面が強くなってしまいそうに思いますが、どんなものでしょうか。現在の中国であれば十分に機会の平等になると思いますが… (2005.12.29 09:19:54)
ウーーーーン shanda さん
難しいんですね。
実はうちの○○が名古屋大学医学部にいるので、こりゃいいと喜んだのですが・・・。 (2006.01.05 17:21:07)
カテゴリ:研究室風景
定例の研究室のセミナーで、研究の経過報告に積極的に質問して人の研究にも積極的に関与するように、誰も最低質問の一つや二つをするまで終わらないと決めたのが、今月初めだった。これは大いに効果があったと評価できる。昨夜は議論がなかなか果てることがなく、終わったのが9時半を廻っていた。
鄭くんはRT-PCRという技術を使って細胞がある条件でアポトーシスを起こしていることを示るデータを出した。そのデータを見て、秦くんが「他の論文を読むとタンパク質の増減を見たり、リン酸化を見ているのに、これでは違う」みたいな言い方をした。秦くんは自分でもよく論文を読む珍しい院生で、ものをあまり考えない中国の学生には出色の人材である。
「そうじゃないでしょ。このデータはアポトーシスに関与する分子がその方向に向かっていることを示しているじゃない。だからこれはこれで、それが主張できるかを議論し、そしてこれとは別にタンパク質のレベルで、その発現やタンパク質の活性化を調べたほうがよいという意見として言わなくちゃ駄目よ。」
「今みたいな言い方をしたのでは、人の論文に書いてあることだけが正しいと思って言うように聞こえるわ。目の前の実験結果で何を言えるかを考え、それでよいのかどうか、十分かどうか、もし不十分なら何をしたらよいか、別のやり方でこの見解を指示するにはどうしたらよいかを考え、『さらに、こうしたらいいのではないか』と、こう言うときにはいわなくちゃ。」と、妻に意見を言われて、秦くんは、「そうですね」と反省してしまった。
新人の暁東さんはまだ内容がよく理解できない。それで「PDMPってなんですか」みたいに、話の中に出てくる試薬がなんなのか、何のために使われているかを訊いてくる。この研究室にいて知らずにいられたら堪ったものではないから、これでいいのだろう。
関くんはあるsiRNA処理が効果を示さず、ターゲット分子の発現は全く変わらないという結果を出していた。これには、siRNAの設計が悪い、合成したものが違っていた、siRNAの取り込み効率が悪い、様々な原因が考えられるが、ターゲット分子の発現を見るためのプライマーの設計が正しくない可能性もある。
このプライマーは今回初めて使ったものだから、設計した大きさにDNAが増幅されていることだけがこの分子の発現を見ている証拠である。しかし間違って別の分子を見ている可能性もある。そのためには取り込まれた細胞で、このターゲットを抑えたときに影響の出ることが分かっている分子の発現がどうなっているかを調べればよい。簡単なことである。
そのように言うと関くんは「でも発現が全く変わっていないのに(他の分子が変わるわけがないでしょう)やりたくない」という。彼はよく仕事をするけれど、かなり頭が固い。誰でも様々な可能性を考えられる(とも限らないが)。その考えられる可能性を実際にすべて調べる必要はない。けれど、そうやって調べた結果がすべての思いこみをひっくり返すことがある。
siRNAが取り込まれた証拠に細胞はかなり薬剤で死滅したと言うから、このsiRNAがmRNAをサイレンスできなかったか、サイレンスしたけれどそれを検出できなかったかの二通りの可能性しかない。後者の可能性はごくわずかだ。しかし、わずかでも調べてみるべきだとは思わないのか?
調べてみれば無駄骨に終わるかも知れないが、こういう可能性も調べておこうと思うようになって初めて一流の研究者になるだろう。
コメント:
勉強のための勉強、研究のための勉強 男性教師B さん
自分からどんどん論文を読む秦さんはいい意味で珍しい存在ですね。そんな中国人学生がいるなんてうらやましい限りです。
○○の論文にこう書いてあったからあなたの考えは違う、というのは日本では中韓からの留学生の議論や論文でよく見る言い方だったりするのですが、結局先行研究を「勉強」しているためなのではないかと最近は思っています。
東アジアの学生が大学まで続ける暗記型学習は「書いてあることに疑問を持たずとにかく覚える」というものですから、その延長で先行研究を読むと、書いてあること=正しいこととして暗記することになります。
研究のために先行研究を読む場合は知識を得ながら批判的に検討していくわけですが、研究活動の中では「研究」と「勉強」の差が小さい部分だと思われます。大量に文献を読む・理解するというところまでは共通で、その先で暗記するor批判的検討に分岐します。あと一歩の秦さんには頑張っていただきたいものです(年上の方に失敬な言い方ですが… (2005.12.30 20:15:31)
教育効果というもの shanda さん
このとき関くんは、私が調べてみるように言っても直ぐにOKせずに、But...なんてぐずぐず言っているので最後には、"No But! Do it!"と私は言いました。
二日後に私のところにやってきて、調べてみたら私の言った通りだったということでした。siRNAを入れた細胞では、その先にあると予想された分子が激減していることがPCRで分かりました。
何でも諦めずにやってみるものです。 (2006.01.05 17:32:02)
カテゴリ:薬科大学
上海の日本領事館員が自殺したことで、日本と中国の間がまたぎくしゃくしている。領事館員のプライバシーのために詳細は公表されていないと言うが、下司の勘ぐりを働かせると、スパイ映画に出てくるみたいに女性を近づけさせ、その現場を押さえて、もし書類をこちらに漏らさないとそれを公表するぞという脅しがあったのだろう。
日本は中国側の「遺憾な行為」があったと、奥歯に物の挟まったような公式な抗議を中国にした。
29日の定例記者会見で中国外務省の秦剛副報道局長は、「中日双方はこの件について、はるか以前に結論を出している」と述べ、既に決着済みとの立場を強調。その上で「日本は1年半もたった後に問題を蒸し返し、しかも自殺と中国当局者を結び付けた。(何らかの)意図があるのは明らかだ」と日本政府の対応を批判したという(30日Yahoo)。
また政府間の対立が激化しそうだが、国と国とはこのような言葉でやり合うものだろう。実際にこのような事件があれば、当該国は抗議をしないわけにはいかないし、抗議された方は「何を言っているのですか、そんな馬鹿なことあるはずはないでしょう」というに決まっている。抗議をした、それに返事をしたということが大事なのだろう。
事件の詳細は分からないが、それにしても色仕掛けで罠にはまることは誰でもありそうである。私には秘匿すべき機密情報はない。強いて考えると、大学で講義をしているから試験問題が機密情報だ。しかしどう考えてみても重要情報ではないから、このような事件に出くわす機会はない。悔しいけれど、何の心配も要らない。
コメント:
酒・女・歌 男性教師B さん
男性教師Cさんから試験の問題を事前に手に入れるにはどのような手が可能でしょうか。
まずは酒で酔わせてというのが定番でしょうが、Cさんはお酒を召し上がらないのでこの手は使えません。
次は女ということになりますが、常に多忙な上にたいてい奥様と一緒にいらっしゃるCさんを連れ出すのは難しそうです。 連れ出してしまえば簡単、かどうかは情報不足でわかりませんw
最後に歌ですが、歌をどうやって使えば罠にはめることが出来るのかわかりません;;
結局のところ、安定した高速ネット回線を提供する、というのが男性教師Cさんから情報を引き出す一番いい手なのではないかと思いますが、そんな環境を用意できる権力を持っている人が試験情報を手に入れて何に使うのかもこれまたわかりません…
(2005.12.31 11:00:44)
お酒は飲めませんけれど shanda さん
それ以外は大歓迎ですよ。
必要とあらば妻を出し抜いても一人で出掛けるでしょうし、N響のバックでアリアを歌う誘惑があったらきっとほいほいと乗りそうですよ。
ほんと、そのくらいの秘密情報を持ちたいですね。 (2006.01.01 11:41:39)
アリア 男性教師B さん
N響のバックステージでアリアを歌う、であれば実現可能かもしれません(笑
まあそれはともかく、薬科大学にピアノ(調律してあればどんなのでもいいです;;)が自由に弾けるところがあれば、出張して伴奏いたします。そういう遊びが気軽に出来る習慣がつくといいですねえ。 (2006.01.05 08:33:52)
ワーーォ shanda さん
ピアノ伴奏付きで歌えるんですって?!
こんな感激はまたとありません。
あること、ないこと、何でもしゃべってしまいますよ。 (2006.01.05 17:00:10)
昨日、薬学部69期日語班4年生の分子生物学の試験があった。日語班は3年生前期から日本語を学び、後期にはいると日本語を学習しながら私の日本語の生物化学の講義を受け、そして4年生になったところで日本語の分子生物学を学んだのである。
彼らの前の学年の試験では、数多くの文章を書いておいて○×を付けさせる問題にした。しかし、文章をずらずら並べておいて○×をつけさせると、正答率は半分である。全部○か、全部×を付けることで何も知らなくても半分の点が取れてしまう。それでは安易すぎる。
それで、トピックスを限ってそれぞれに5つ文章を書いて、その中から正しいものを一つ選べというようにした。これだと○を二つ以上付けたらそれだけで間違いになるから、どれが正しいかの正答率は5分の1になるので、学生は頭をひねらなくてはならない。
しかしこれでは設問の側も問題作成に頭を絞らなくてはならない。結構大変である。まして昨年と同じではいけないが、講義で話した内容で大事なところは同じである。それで、今年は趣向を変えて、「○○とはなにか」とか「○○について記述せよ」という設問にした。
こうすると問題作成は簡単である。ただし様々な答えが出てくるだろう。それで模範解答を用意し、様々な場合を考慮して「これを書けば1点」、「ここを理解していることが分かれば2点」というように、配点を考えた。個別の配点を足していくと、その設問の解答に与えた点を越えてしまうが、これはつまり、学生は日本語で書くというハンディキャップがあるので、採点は甘くしてあるのだ。
これで7題。8問目は計算問題で、「ある生物の一倍体遺伝子(通常は生殖細胞)は2億塩基対 (2 x 10の8乗 base pairs) を持っていた。この生物のDNAのアデニン含量は23%であった。この生物の二倍体(通常の体細胞)のシトシン塩基は何個あるか?」
一見難しそうだが、DNAの二重鎖ではアデニンはチミンと、シトシンはグアニンと対を作るという原理を理解していれば計算は何と言うことない。この原理がDNAの持つ一番大事な、そして唯一の原理であって、これさえ理解していれば分子生物学で怖いものは何もないというのが私の信念なのである。
ただし計算には落とし穴が用意してあって、1塩基対は2個の塩基を含むこと、二倍体(私たちの普通の細胞)は一倍体(生殖細胞)の二倍の塩基(あるいは塩基対)があること、にひっかるようになっている。
最初の学年で講義の時に学生にこれを質問したら、どのように問題を説明しても数人の学生しか出来なかった。つまり、分子生物学の講義を受けていても、殆どの学生はDNAの塩基対の概念を理解していなかったのだ。それ以来、毎年の講義の度に応用としてこれをやっているが、その後は皆すらすらと解いてしまう。試験が絡むと皆神経をとがらせて先輩から後輩へと問題が伝授されているようだ。
それでも、塩基対を理解さ せるために毎年練習させ、試験に出すよと言って、実際に試験にも出している。彼らは何でも暗記するから、これも塩基対の概念としてではなく、試験問題とし て暗記しているのかも知れない。アデニン含量をチミンに変えたり、その%の数字は何時も変えているけれど。
さていよいよ採点をすると、延々と時間が掛かった。60人の答案を見終わるのに6時間近く掛かったと思う。最後には目が腫れ上がった感じだった。この次はこのような記述問題は止めて、問題作成に時間が掛かったとしても、採点が簡単な設問にしよう。
勉強は暗記することではな い、理解することだと私は何時も繰り返しているが、今回の設問では暗記を強要したことになるかも知れない。だが、どのように言ったところで、彼らは暗記以 外の勉強するという方法を知らないのだ。そして理解しているかどうかを調べるために問題を作成するのは容易ではない。
mRNAについて構造や特徴を説明したときには、学生に考えさせるために、細胞の中のmRNAだけを集めるためにどうしたらよい?と講義の合間に訊くことにしてる。細胞の中のRNAはリボソームのRNAが殆どで、mRNAは1%位しか存在していない。真核生物の(つまり私たちの)mRNAはポリAの尻尾(テール)がついているので、ポリTを用意しておけばこれと結合する。DNAの相補的塩基対の原理である。
しかし、質問に誰も答えられない。私は「DNAの相補的塩基対の原理ですよ」とは言わずに、「どうすればいい?」と訊くのである。「mRNAだけにあって、他のRNAにはない特徴は?」と訊くと、5'キャップ構造とか、スプライシングでイントロンがないとか言っている。「mRNAだけに3'ポリAテールがあるでしょう?」と3'ポリAテールと言う特徴を指摘して、「これがあると、どうなの?」と言っても、シーン。
「分子と分子が集まると言うことはその間に親和力があると言うことでしょ?」「それじゃ、ポリAと親和力のあるものはなーに?」と言っても、まだ首をかしげている。
「ね、女性がいれば男が集まってくる。」と言って、殆どが女子学生で埋まっている席を見渡す。「男には女が。これが親和力でしょ?」
するとやっと「ポリTがあれば結合します。」という答えが出た。やっと相補的塩基対がDNAの特徴であることに思い至ったのだ。相補的塩基対が大事であることを学んでも、それを使ってものを考えようとはしない。頭を使うことは大事なことなのに、使う訓練をしないから暗記したものはついぞ使わずじまいで、引き出しにしまったままである。
次は、暗記していれば出来る問題で70点、あちこちの引き出しから出して重ね合わせて考えないと答えが出ない問題で30点という配点で問題を作るように、今から考えよう。
カテゴリ:薬科大学
薬科大学で私の所属している学院の新年聯歓会(忘年会と新年会の兼用のもの)が開かれ、私たちは初めて出席しました。というのは、最初の年はどこに所属しているか誰も知らなくて声が掛かりませんでしたし、二年目に直前になって招待すると言われたときは、既に日本領事館に薬科大学の学生と一緒に招かれている日だったので出席できませんでした。
私たちの入っている建物には薬理学部、中薬学部を中心に入っているので、私たちの製薬工程学部からは私たちだけです。普段顔を合わせることがないので、ほとんどの人たちを知りません。
大きなレストランの会場に120人くらいが来ている中での顔見知りは数人の教授だけですので、それだけでだいぶ緊張しましたが、その上、何と私のためのお祝いがあったのです。つまり1月1日は私の誕生日だからと言って、会の一番最初に壇上に呼び出されて大きなケーキの箱が手渡され、Happy Birthdayの曲が鳴り響いて全員が一緒に歌ってくれました。
今までこのようにして祝われたことはありません。うちでもその日は新年おめでとうの日なので大抵は忘れられているし、休日だから集まることもないので研究室で祝われたこともないと思います。というわけで120人が集まって祝われた「生誕快楽」は私にとっては空前絶後の初体験。感激の時間でした。
でも、来年はどうしましょう。新年聯歓会がこの時期に開かれればまた私の誕生日と重なってしまいます。また全員によってお祝い?どうしましょう、このように晴れがましいことが毎年繰り返されたら?
コメント:
お誕生日おめでとうございます/*した 男性教師B さん
Cさんの生誕日がなんだかすごい日なのでさぞ毎年大勢でお祝いしているものかと思っておりました;
「一緒にされてしまう」の究極のケースだとは気づきませんでした。それどころか忘れられているとは;
これからは毎年新年会のオープニングセレモニーとして定着することと思いますよ。多分。 (2005.12.31 11:18:04)
生日快楽 ameyi さん
お誕生日おめでとうございます。
お誕生日を盛大に祝ってもらえるなんて羨ましいですよ。とってもとっても。
忘れられるといえば、私。
忘年会などの行事は出席しても皆、
「この学生何?」です。
私、教師としての存在ゼロです…。 (2005.12.31 13:31:48)
誕生日 女性教師J さん
モノ日と誕生日の一致って、注目されることがないって納得。私も夫の1月2日の誕生日を口先だけのおめでとうで済ませてきたように思うし、自分の5月3日もゴールデンウイークたけなわ(!)で職場でも一度も注目を浴びることなくきましたもの。元旦のお誕生日おめでとうございます。その日ご一緒できて楽しかったです。 (2006.01.03 01:40:52)
お晩です。 morika さん
お誕生日だったのですね!!!
おめでとうございます。
そして新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
120人のHappyBirthday合唱!
どんなにか、大迫力だったことでしょうね!
毎年そうやって盛大にお祝いしてもらえるかもしれないなんて、なんという幸運。よかったですね!お母様に感謝ですね。祝っている方も、嬉しい気持ちになると思います。 (2006.01.04 20:08:10)
みなさま ありがとうございます でも shanda さん
来年度の忘年会で、またこのお祝いがあったらと思うと身がすくんでしまいます。参加する人だってきっとうんざりしますよね、「また、彼奴じゃないか、もういい加減にくたばって呉れよ」なんてね。 (2006.01.05 16:56:23)
カテゴリ:瀋陽の生活
2005年が過ぎて2006年の新しい日が明けました。
皆さま、謹賀新年。新年快楽。
31日の午後、遼寧賓館と今は呼ばれている大和ホテルに来ました。1937年の建築です。満州国時代の奉天市の中心地の豪華なホテルとして、歴史的要人や、多くの旅客を迎えてきました。今は歴史的建造物として丁寧に改修が加えられ、昔の面影を保ったまま使われています。
天井が高く、壁の浮き彫りの飾りや、シャンデリアに昔日の格式高い面影が見られとても落ち着いた雰囲気です。椅子もまさか70年前のものではないでしょうけれど、依然と同じスタイルに作られているに違いないと思わせる優雅さです。
久し振りに湯舟に湯を張って入浴したら体中の疲れが吹き出て、夜は早めに寝ました。心地よい感じに一晩中包まれて寝ていましたが、朝6時に起きたところまだ疲れが抜けていません。1年の疲れは意外に溜まっていると言うところでしょう。
一年の計は元旦にありと言います。心鎮めて今年の計画を練りましょう。
コメント:
ダブルでおめでとうございます 3303corocoro さん
新年、そしてお誕生日、おめでとうございます。
元旦のお誕生日、実は私の父と同じです。
考えてみるとケーキでお祝い、なんて一度もなかったです。。。
いつもお餅でお祝いで(?!)
年越しはホテルでお過ごしだったのですね。
もう少しゆっくりしてどうか日ごろのお疲れをいやしてください!
今年もお世話になります、よろしくお願いいたします!
(2006.01.01 11:50:24)
Re:以前は大和ホテルと呼ばれた遼寧賓館(01/01) tocco さん
お誕生日おめでとうございます!
120人の方達にお祝いされては本当にいい誕生日でしたね!
今年もよろしくお願いいたします! (2006.01.03 11:39:53)
corocoroさま、toccoさま shanda さん
お祝いの言葉をありがとうございます。自分の誕生日を祝われるなんて気恥ずかしいも好いところですが、今は素直に喜んでいます。
今年もよろしくお願いいたします。 (2006.01.03 11:44:10)
カテゴリ:カテゴリ未分類
ホテルに滞在してテレビを付けるとNHK衛星放送が入る。普段は見ることが出来ないので、取り澄ましたNHKのアナウンサーの声でも、日本語が懐かしい。つい見入ってしまう。
NHKの衛星放送は、たとえば「NHK8時のニュースです」というのが、ここの朝7時3分に入る。時差は1時間だから、3分遅れで放映されるわけだ。
その3分を使って映像、内容のチェックを行っているのだろう。NHKの別のチャンネルに回すと「躍進する中国」という内容だ。豊富な外貨を手にした中国が次々と世界の企業を買収しているという内容だ。時々、「映像権の問題で放映できません」という絵がでて映像が中止される。その間声は聞こえている。見せたくない映像は何だろうと想像してしまう。中国の拡大する力の宣伝をNHKがしているというのにね。絵を止めるだけで済まなければ、全部を別のものに転換してしまうのだろう。
報道の自由度では世界の最低が北朝鮮で、中国もほとんど最下位に位置している。このような国を世界中が気にして恐れなくてなはならないのだ。
コメント:
静止画テレビ 男声教師B さん
> 映像が中止される。その間声は聞こえている。
ここの部分を見た時にふとある番組を思い出しました。
話題の人物が出てきたときは静止画になって音声のみ。かつてそんな番組がありましたよね。しかも外国からの「有害な」情報を遮断したわけでもなく、自国の中の出来事、もっとも「権威」ある会議でした。
日本もそれほど報道の自由度が高いわけではないのかもしれません。
(2006.01.05 09:42:31)
日本の報道の自由度は shanda さん
160の国のうちで40番台でしたね。
先進国と見なされている中では最低にランクされています。
普通の生活をしていると分かり難いですが、新聞報道や論説に広告主から無言有言の圧力があるなど、いろいろなことがあるようですね。 (2006.01.05 17:05:07)
カテゴリ:研究室風景
ホテルで二日間を過ごして大学に戻ると、教授室には大きな生花が二つ届いていた。一つは大学の外事処(国際交流処)から、もう一つは「山形研究室より、お誕生日おめでとうございます」と綺麗な字で書いてあった。
30日の学部の新年会で思いがけず誕生日を祝って貰いケーキを戴いたので、翌31日午前中にそのケーキを研究室に持ってきた。いつもなら土曜日は休みではないけれどこの日は休みと宣言してあったためか、実験室に来ていたのは二人だけだった。こういう訳で突然ケーキを食べることになったと話して、残りの人たちを呼び集めて貰った。
試験のある学生もいたし、連絡の付かない秦くんのような院生もいた。それでも8人が集まって呉れて私のための誕生祝いとなった。麦都さんなどは「ケーキを自分たちで買っていないのに先生が用意して」と済まなそうな様子を見せたが、昨夜学部の集まりで貰ったと聞いたら、全員が元気付いて大きなケーキに挑戦することになった。
上に載せたプラスチックのバラの花に火を点けると、ロケットみたいに火を噴いてバラの花びら14枚に乗っているローソクに点火して花びらが開く仕組みである。Happy birthdayのオルゴールも響いて、初めて祝って貰う誕生日の嬉しさが心に染みた。
今日は百合の花の香りが部屋中に馥郁と立ちこめている。生花は昨年も同じように研究室の皆から届けられたのだ。ケーキがなかったからと言って、今まで誕生祝いをして貰わなかったと言ってはいけなかったね。
コメント:
Re:誕生日のケーキを食べる(01/03) tocco さん
すごい細工のケーキですね!まるで結婚式に使われる様なケーキが普通に売ってるんですか?
日本ではあまり見かけないけどこれって受けますよね!いいなぁー! (2006.01.04 08:37:58)
返事を書く
toccoさま shanda さん
中国は火薬・製紙法・羅針盤を発明した国であることを思い出しました(あと一つあったはずですが)。花火、かんしゃく玉は日常的ですよ。結婚披露宴では束にした風船が連続して花火とともに割れていきます。
ですから、このバラの仕掛けもここではごく当たり前の工夫なのでしょうね。 (2006.01.04 09:55:57)
カテゴリ:研究室風景
おう7暁東さんは昨秋大学院の修士課程に入ったパルピン大学出身のお嬢さんだ。大学ではこれと言った卒業研究もしていないし、薬科大学の大学院に入っても修士課程1年のうちは講義が沢山あってまともな実験はできない。それで見習いとして、今は実験を見て少しでも学ぶよう博士課程の陳さんにくっつけている。やっと4ヶ月経ってPCRが出来るようになったかなという程度である。
よく講義に出ているので毎朝部屋に来ることはないが、それでもこのごろは夕方講義の時間が空くと研究室にやってきて笑顔を振りまいている。学部1年生の日本語のクラスにも出て日本語の勉強をしていると言うことで、私たちに積極的に日本語で話しかけてくる。込み入ってくると英語にしなくてはならないし、そうなると彼女が十分ついてこられないという問題があるが、それでも彼女は笑顔を失わない。
王麗さんは「あの子はいいですよ。開心果ですよ。皆を楽しませる人ですよ。」という。何のことか分からない。大体、開心果がわからない。よくよく訊くと、開心果はピスタチオのことだった。ピスタチオは殻が割れて中が見えている。つまり、心を包み隠さず、開けっぴろげで明るい性格という意のようだ。
今までの知識とあまりにもかけ離れた話なので、セミナーの内容はまだよく分からないようだが、それでも臆せずごく初歩的な質問をして皆から微笑まれている。中国人は知らないということを極度に隠す傾向があるが、その点彼女は率直でよい。ことによると、将来うんと成長できるかも知れない。
カテゴリ:瀋陽の生活
零下二十数度という凍り付く寒さの中でも「住宿単間」あるいは「単間住宿洗浴」とB4位の大きさに書いた板を手に持って歩道に人々が立っている。大学の隣には大きな陸軍病院があるので、この見舞客を泊める商売に違いないと思っていた。
このあたりには住宅アパートが立ち並んでいるので、その自分のうちの一間を貸すのだろう。ここでは二間しかないアパートが普通なので結構大変だろうけれど、それでも日銭のはいる商売である。
かれらは昼間はもちろん、夜9時や10時の遅くまでいるし、朝7時にはもう見かけることもある。大変勤勉な客引きなのだ。中年以上の女性が多いが、男性もいるし若い女性もいる。うち中で手の空いている人が外で客を待っている感じである。
見慣れてくると、この看板を持った人たちは陸軍病院に近いところよりも大学の門に近いところに多く立っている。どうしてだろう。大学から出てきて荷物を持っていない私たちも、声を掛けられることが始終である。
古い映画で言えば「アパートの鍵貸します」である。そう。時間貸の部屋なのだ。聞いたところによると「何時か瀋陽のテレビに取材されて、私たちの大学の学生がよく利用していることが取り上げられました。恥ずかしいことです。」
恥ずかしいことかどうかは、様々な意見があるだろう。少なくとも言えることは、需要があるところには供給があると言うことだ。「住宿単間」の方だって、最初は高い値段でも、それを見習って自分のうちの部屋を貸す人が増えればそれなりに落ち着いた価格になるだろう。一時間で7元。一晩で30元と聞いたような気がする。
コメント:
Coming to New York shanda さん
という大分昔のEddie Murphyの映画を中国のテレビで見て、その中に王子が好きになった女の子に自分の職業を羊飼いと言い、「言ってみればファミリービジネスさ」と言うのがあって、「ファミリービジネス」が頭に残っていました。 (2006.01.05 17:09:21)
同棲のかたち 教師J さん
卒業と同時に先に就職した恋人のところへ行く学生に、一緒に住むの?と言ってしまったら、彼女あわてて強く打ち消しました。「彼のアパートは部屋が余っているから、そこに住むんです。」ドアは別でも、いつも一緒にいるに違いないのになあと思いながら、それ以上の野暮なことは聞かないことにしましたが。 (2006.01.06 00:50:44)
中国では shanda さん
日本と同じで役所への届けで婚姻が有効となりますね。未婚の男女の同棲は日本では禁止されていませんが、ここでは法律で禁止されていると聞いたことがあります。
もっとも法律はあってもないがごとしで、ここでは誰も気にもとめないみたいですから、「禁止されていると言うことは実際にあることだ」くらいに思えばよいのでしょうね。 (2006.01.06 08:43:09)
カテゴリ:研究室風景
今年の農歴(旧暦)による元旦は1月29日で、聞くところによると、その1週間前から休暇が始まり旧暦1月15日(今年は2月13日になる)の元宵節まで正月気分が続くという。昨年は元宵節には瀋陽に戻っていたからそのお祭り気分は十分味わった。今年の大学は1月14日から2月20日まで5週間休暇である。
お隣の池島教授によると、「2月の春節休みの間、大学の休暇に合わせて休んでいては研究が全く進まないから、私は日本に帰国しませんし、休みません。学生にも休ませません。」と言うことだ。私は夏以来だから夢にも出てくる日本の蕎麦が食べたいし、日本のラーメンが食べたい。ついでに言えば鰻も食べたいし、天ぷらも食べたい。料理だってうちの広い台所でのびのびと作りたい。
何故か日本に戻る理由として真っ先に食い物しか出てこないが、もう一つの立派な理由は、日本に戻ったらうちのインターネットで思うままアメリカのデータベースにアクセスして文献を調べ、遺伝子情報を探そうと思っているのである。ここでは調子の良いときで、数kb/secが一番速い速度である。文献検索のPubMedなど、internetは探しに行ったきり梨の礫である。つまり情報過疎地なのだ、ここは。
このところ私たちの研究室の院生の研究は快調に進んでいるので、5週間の休暇の間まさか全員がその期間中ずっと故郷に帰るとは思っていなかった。それでも1月14日から2月20日までのカレンダーを作って「自分の名前を書いて、休暇中の連絡先を書いておいて」と言って白板に張っておいた。私たちは1月14日から2月14日まで休暇と書いて、日本の連絡先も書いて、である。
ところが皆はなかなか書き入れない、何度も催促をした。結果は、2人が1月14日から帰省、2人が15日から帰省、休暇は2週間という秦くん以外は、戻ってくるのは私たちよりも遅い2月19日となっている。ガーン。
そうか、研究が好きでやっているわけではないのだ。やらなくてはならないから、やっているだけなのだ。私たちが毎日叱咤激励しているからやっているのであって、自発的にはする気がないのだ。アーーァ。
コメント:
Re:賽の河原か、ここは(01/06) tomo9415 さん
はじめまして♪私も学生に非常勤講師で教えてるんですが・・・。すごく共感できました(笑)。自分ひとり、学生に対してひたすら片思い、という状態に近いかも♪自分と学生のテンションをあげるのに毎回必死です。 (2006.01.06 10:00:31)
今は寒いでしょうね。 sennjyou3033 さん
金杯自動車に 合弁(合作)の関係で 2週間くらい言った事があります。
ちょうどクリスマス前後でしたから 北稜?公園の池のが凍っていたのを思い出します。
そのときの事を書きましたのでTBさせてください。 (2006.01.06 11:40:45)
どこかで区切りを! うさぎ さん
またお邪魔します。研究職は、ずーと実験、記録を続けなければいけないので止められませんが、どくかで休止して仕切り直ししないと休めませんね。それに我慢してると不満が爆発して良い結果になりません。どこかで給油(美味しいもの食べるの結構)して満腹にして下さい。我が社の研究員も好きで実験しているのならいい研究成果も出て良い商品へと結びつくのでしょうけど上からの制圧でしぶしぶやっているみたいなところがあります。こちらは死活問題がかかってますから真剣にやってもらわないとこまるのですがね。でも研究職は辛いです。一度実験に入ると昼夜関係ありません。私のような事務職と違って定時に終わることなく、いつもサービス残業でブツブツ言ってます。先生も日本へ給油しに帰って来て下さい。(帰って来られても頭の中はデータ-収集で一杯でしょうけど)人を動かす人間はいつ休めばいいのでしょうか? (2006.01.06 12:41:06)
瀋陽からこんにちは shanda さん
>tomo9415さま
同じ「自分ひとり学生に対してひたすら片思い」同士なのですね。
片思いにしないよう何とかしなくちゃと思い続けて2年、依然片思いの壁です。黙々と励む師の背中を見て学ことを期待するのは無理なことかも知れません。
師の持つ権力にひれ伏すか、師によって利益にありつくか、モティべーションはこの二つしかないのでしょうか。
>sennjyou3033さま
瀋陽をご存知なのですね。今日は最低がマイナス23度ということです。外では顔と目が凍り付きますよ。
瀋陽も車が増えました。それもマナーの悪い車ばかり増えています。 (2006.01.06 12:45:31)
うさぎさま shanda さん
暖かいお言葉をありがとうございます。
でも実を言うと、「私など毎日PCに向かっていますから、毎日遊んでいるようなものです。」って言うと、半分は強がりで、半分はほんとです。だって、げんの証拠に、今こうやってコメントを書いているでしょう?
ま、半分以上は仕事をしていますけれど(これ、希望・・・)。
ただ、中国にいると毎日が中華料理で、そしてそれは総じて美味しいですけれど、ずっとここにいると、やはり日本ソバ、日本製のラーメンなど食べたいものが目の前にちらついてきます。
あと1週間! (2006.01.06 12:53:37)
一昨晩は薬学部英語班5年生の陽暁艶さんと一緒に食事をした。彼女は2月後半から始まる後期から私たちの研究室で卒業研究をすることになっている。他の人たちはもう既に研究室に来て実験を始めているけれど、彼女は1月14日の大学院入試を控えているので、まだ研究室に実験をやりに来ていない。
それでも1年前から研究室 のセミナーには来ているし、落ち着いて英語を明確に話す彼女は私のお気に入りである。と言っても研究室の学生の誰かだけと特別に食事に行くなど、今までに したことがない。そんなことをしたら「偏心」である。この偏心というのはここではよく使う言葉で、誰かをひいきにすることだ。私たちは研究室の学生はすべ て平等に扱い、食事に誘うときは一緒だ。しかし、今の彼女はまだうちの研究室の学生ではない。誘っても良い。
故郷である新疆を遠く離れてクリスマスを一人で過ごし、正月を一人で過ごして試験勉強をしている彼女がわざわざ誕生日のお祝いを持ってきてくれたので、近くのレストランに食事に招いたのだった。受験前の気分転換と栄養補給の役に立つだろうと考えて。
出掛けたレストランは大学 の近くの会翠飯店で、以前来たときここのフロアマネージャーの女性が、片言にしても堂々と英語を話すのでとても気に入ったのだった。中国で英語が通じると ころはホテルのフロント位なもので、ともかく英語で欲しいものが注文できるなんてとても珍しいことだ。すっかり気に入って、その時は「こんなに英語が話せ るんだから、どこかで独立して店を持ったらどう?」なんてけしかけたものだ。英語が話せる彼女が奥に引っ込んだら意味がないから、相変わらずフロアにいな くてはなるまい。つまり意味のないことだったけれど、お世辞にはなっただろう。
と言っても、このレストランも料理をショウケースに入れて展示している段々増えている店の一つだ。日本の蝋細工とは違って、実際の料理の素材が皿や鍋に入れてある。どのような調理法が使われるかは料理名で分かるとして、どのくらい材料を使うかが分かるわけだ。
暁艶さんとショーケースを 見にテーブル席から立って出て、マネージャーも交えて相談した。どの材料が新しいかとか、調理法についても細かく聞ける。料理名だけでは詳細は分からな い。そうやって、西域牛肉(肉がフワーッと軟らかく唐辛子と炒められている)、鶏腿きのこ炒め(きのこの形が鶏腿に似ているのでそう呼ばれる)、挽肉を詰 めた茄子とエビのオイスターソース味あんかけ、小白菜干しエビ味(日本にはない小型の白菜を使う)、豆腐と漬け菜と豚肉のスープを選んだ。
やがて運ばれてきた美味し い味付けの料理を食べながら今度の試験のことを聞くと、彼女の受けるのは受験科目は生物科学、有機化学、英語と政治の4教科だという。たった4教科で夜昼 休まず数ヶ月も勉強するのか?というと、「そうです。教科書を隅から隅まで暗記しないと出来ない問題が出ます。」という。競争率はこの大学で3倍あるの で、楽なことではないらしい。
暗記だけを要求する勉強を したって将来役には立たないのではないかと、日頃思っていることを口にすると、「上海の中国科学院は独自の試験問題を出し、そこは「どれだけ理解している かを問う試験問題が出ます。」という。それじゃ「そこを受ければいいのに」とつぶやいたら、「競争率は34人に一人の合格率です。」という返事が返ってきた。
おまけに入学試験に通って も、この薬科大学のような田舎の大学を出たのでは、目当ての先生の研究室に入れて貰えず、おまけに科学院はうなるほど金があって大型プロジェクトが動いて いるから、「入ってもロボットみたいに歯車の一部になって分析装置を動かすだけになる」と言う、なるほど、受験生は受けなければ地獄、受けても地獄という わけで苦労しているんだ。
ともかく試験のために教科書ばかり読んでいては身体によいはずがないから、「先ず食事が第一、第二に運動をして体調良く保つこと、そして第三が勉強だね。」と締めくくった。試験の前に食事に招きながら試験のことを話すのは心ない話で、「話題を変えようね。」
すると「先生たち二人はど のようにして知り合ったのですか?」と先ず聞かれてしまった。英語だから正確に言うと「二人はどのようにして恋に落ちたのですか?」と聞いている。今まで 中国に来てから学生には何度も聞かれている。年頃だから関心のあることかも知れないが、日本では学生から同じことを聞かれた記憶がないのが面白い。
いろいろと私たちの話をす ると「私にボーイフレンドが出来たら、大事なことは何でしょうか?まず健康であること、そして私が彼を愛していること、そして私が彼のことを愛しているこ と。このほかに何が大事ですか?」と訊いて来た。入試の1週間前にこんな話でくつろげるならゆとり十分と言って良い。きっと試験には通るだろう。
「もちろんあなたが彼を愛 していることも大事だけれど、一番大事なことは。」と私はアランの幸福論を思い出して、ここで彼女に話しておこうと思った。元はと言えばアランの受け売り だし、かなり気取っているので口に出すのは気恥ずかしい内容なのだが、私の信条となっている考えである。
「昔の賢い人が言っていて(このときはアランの名前が思い出せなかった)、これは逆説みたいに聞こえるのだけれど、あなたが彼を愛しているなら、それよりももっと自分を愛しなさい。」
「彼のことが好きになっ て、彼を愛して、愛し抜いて自分を失って愛の奴隷になるのではなく、自分を愛して自分を大事に磨きなさい。自分を大事にする人は、そして自分を高めていく 人は、彼からも愛されるでしょう。彼に依存するのではなく、自分も独立した人格を保ちなさいね。」
実際今まで生きてきて、私は自分というものをしっかりと持たない女性は願い下げである。これが愛を永続させるこつではないだろうか。長年のうちには愛しているとは自覚しなくなっても、少なくとも飽きることはないだろう。長い人生、飽きないことが大事なのだ。
あれやこれやと話が弾んで2時間。沢山の食べ残しが残ったのをすべて「打包」にして彼女の同室の友へのお土産とし、彼女の入試突破を願って別れたのだった。
カテゴリ:友だち
日本語を教えている日本人教師の会の集まりの時に、若い女性の先生が「授業のあと生徒がいろいろと聴きに来て、丁寧にに説明すると『分かりました。これで先生と友だちです。』と言ってニコニコしながら帰っていくのです。日本の日本語学校で教えているときは『これで先生と友だちですね。』と言われると、『いえ、私は教師で、あなたはたちは生徒です。』とはっきり言っていたものだけれど。」と複雑な表情だった。
生徒と友だちになれるか、あるいは、なってよいかという問題である。いまの日本の生徒は先生に対してどのように付き合っているかは知らないが、先生は生徒から友だちのように信頼されたいと思っているのではないだろうか。
別の女性の先生はこの話を聞いて、街に一緒に買い物に行って呉れたりする学生の成績が悪かったので、そのままの成績を付けたら「私は特別なのに。」と言って怨みがましい顔をして抗議をしたという。
それで思い出したのは、中国では「友だちの友だちは友だち」という言葉だ。今あなた(仮にAさんとしよう)は東京に暮らしているとする。あなたの東京の大学で知り合った中国人の友だちがいて、彼には友だちBさんがいて京都に用事が出来たとしよう。もちろんあなたはBさんのことは全く知らないが、あなたの中国人の友だちはあなたの友人Sくんが京都にいることを、あなたから聞いて知っていた。
するとある時京都住まいのあなたの友人であるSくんのところに突然Bさんがやってきて、「私はAさんの友だちです。これこれのことで便宜を図って欲しいのですが、まずは泊めてください。」と言ってくることがあり得ることを意味している。
これは私たち日本人には想像を絶することだが、そうでなければ友だちではない。中国では友だちとはいざというときには頼れる人のことだ。友だちは多いほどよい。友だちが多いことは彼のコネの多さであり、これが彼の出世に繋がるのである。
この感覚で、生徒から「先生は友だちです」となると、将来困ることになる。実際、上に書いたように、特別な付き合いは、成績も変える力を持っていると思われているからだ。
私も研究室では胡丹くんから「忘年的朋友」と言われている。歳は大きく離れているけれど親友だと言う意味である。彼とは長い付き合いで日本人が中国人とどんなに違うかを彼は知っているから、案ずるようなことは起こらないだろう。
コメント:
Re:先生は友だち(01/07) のとぶるが さん
ここでは初めまして. のとぶるがです.
思う所が一杯あってとても語りたいのですが、ここはぐっと我慢です.
ただ私は、農家の方の前では先生でも指導者でも科学者でもない「物知り○○さん」でありたいナと日々思っとります. 甘いですかね… (2006.01.07 21:44:04)
のとぶるがさま shanda さん
歓迎光臨
我慢しないで語り合いましょう!!!
自分のやっていること以外のものを知らないので、色々と教えて下さいな。 (2006.01.07 23:03:56)
カテゴリ:カテゴリ未分類
中国の人口は公的には13億と言われている。道々歩きならが器用に手鼻をかむのを見て眉をひそめるのは物質的先進国の人たちである。「何手不潔なのだ。どうしてティッシュぺーパーを使わないんだ?」
ここで少しものを知っている人は言う。「彼らが全部ティッシュペーパーを使ったら地上の樹木を全部遣い尽くして、地球が丸裸になってもまだ足りないんだ。」
ティッシュペーパーは日本でも馴染みの角形の箱に入って3個一組で売られているのは日本と同じである。違いは日本のは箱にぎっしりとティッシュペーパーが入っているけれど、ここで買うと、すかすかで半分も入っていない。実質よりも見かけが幅をきかすという精神が、ここでも生きているようだ。
面白いのは、補充用のティッシュペーパーが箱入りと同じような形で、しかしビニールに入って売られていることだ、これは箱と違ってぎっしり入っている。最初は使い終わった箱に詰め替えていたけれど、やがて、このまま使って何の支障もないことが分かった。
トイレに紙は常備していないから小型のティッシュペーパーは必需品である。これには日本で見るよりもかなり上質の紙が使われている。冬場は風邪を引くだけでなく外を歩くと鼻水が出るからこの手の小型ティッシュペーパーは欠かせない。
最近、学生たちがこれではなくトイレットペーパーの芯が元々ないような巻紙を携帯していることを知った。売り場に行くとティッシュペーパーよりも沢山の製品があり選択肢が多いことが分かった。
買ってみると、もちろん紙質はトイレットパーパーよりもしっかりしている。最初は手でちぎって使っていたけれど、切り口を綺麗にするためにこのごろははさみで切って使っている。やがて、今までティッシュペーパーを使って不必要な部分を無駄に使い捨てていたことが分かってきた。それで、その切る大きさがだんだん小さくなり、今ではティッシュペーパーの4分の1も使わないで鼻をかんでいる。
そう。地球に優しくを実行しているのだ。この次には手鼻をかむことを覚えなくては。
コメント:
郷に入っては tomo9415 さん
郷に従うべきですよね♪レッツチャレンジ!手鼻!!で、その後、手を洗うのでしょうか??
私は以前、玩具メーカーに勤めていたんですが、他社が抗菌素材の玩具を発売するたびに、同僚たちと「抗菌素材にしたっワーカーがラインで思いっきり手鼻をかんでるんだから意味ないよね~」と笑ってました。世界の人が手鼻をかむ日も近そうですね。 (2006.01.08 12:42:05)
結構難しいみたい shanda さん
片方の鼻腔を指で押さえて勢いよく息を鼻から吐き出すと、勢いよく跳んだ鼻水は地面にまっすぐ。
指先を汚すようでは、まだまだ半人前のようです。と言っても指先で鼻先をちょっとぬぐって、それを衣服になすりつけているのがよく観察されます。
さすが大学の建物中でやっている人は見かけませんね。 (2006.01.08 15:15:18)返事を書く
中国化 女教師J さん
プッ!先生が手鼻!shandaさんもいよいよ本物の中国化を目指すのですか??道路に無数に落ちている痰、あれを見ないように見ないようにと気をつけて歩き、ああまた見ちゃったと顔をしかめる毎日。あれも資源節約のいい方法なのかと、視点を変えるべきか! (2006.01.09 13:05:41)
カテゴリ:薬科大学
中国にはプライバシーはないと言っても差し支えないような気がする。大学の入試の成績は今はinternetで公開されるし、大学の中の試験成績も公開されている。学生についての教官に対する連絡も学生が見るかどうかに配慮なく送られてきて、学生は自由に覗き込んで見ている。
学生が卒業後の進路に必要で在学成績を手に入れても、これは厳封されているわけではない。その取り扱いには、当事者も誰も注意を払っていない。平気でそこらに置いてあるし、これは誰もが人の成績を知っているから秘密にする気にもならないことを意味している。
集まりで遠くの誰かにメッセージを送りたくて紙に書いて「これをあの人に廻して」と頼むと、リレーで送られるのはよいけれど、誰もが中身にしっかりと目を通す。秘密は守られようがない。プライバシーがあるという概念があるのかどうかも分からないところがある。
最初の頃の給料は外事処に呼ばれてそこで受け取っていた。今は外事処の係の劉さんが届けてくれる。「はーい。今月の給料ですよ。」と言ってニコニコとして教授室のドアを開けて入ってくる。私たちだけが部屋にいるときは良いとして、そこに学生がいてもお構いなしである。ノートに受け取りのサインをするが、そこには○月分○○元と書いてある。給料の入った袋の上にも書いてある。それを学生と話している大きな机の上にニコニコしながら置くのだ。つまり、私たちの給料の額は学生から隠すべきものではなく、秘密でも何でもなくて、彼らは当然知っていることなのだった。
今日あたり、今月の給料を持って劉さんが入ってくるはずだ。
コメント:
成績余波 教師J さん
同僚が期末の成績をコンピューターに入れたその夜、ある学生から「なぜ私の成績は及(最低の合格点)なのですか。」と抗議の電話が来たそうです。日常の提出物の評価はみんな「優」なのにと。同僚は自分の評価の観点を説明したそうですが、納得せず「我恨你(あなた)。」と恨まれたって。成績がコンピューターで即座に見られる時代なのですね。主任に確かめたらコンピューターを通して見ることができるのはもちろん自分の成績だけですって。当たり前ながらちょっと安心。 (2006.01.09 13:22:29)
卒業研究の学生で日語班出身(日本語専攻)の4人のうちこの夏この大学を卒業したら日本に留学する予定でいる学生を毎週1回集めて、妻が日本での心得を中心に話している。
日本の大学院で試験を受けて第一次試験に通ったら「次は面接があって、大抵その希望している研究室の教授から『何故貴女は日本に来たいのですか、どうして私のところを希望するのですか?』と訊かれるわよ。日本語をしゃべる練習だと思っていってご覧なさい。」
一人の学生は「私は日本語を習って日本語を通じて日本が好きになりました。日本の料理は見た目も美しく飾ってあって綺麗ですし、とても美味しいです。日本の料理を沢山食べてみたいです。それに京都や箱根など美しいところが沢山あります。ここに入学できたら、日本のあちこちを訪ねてみたいと思います。」
私はこちらで仕事をしながら耳に入るともなく聞いていたけれど、笑い転げてしまった。妻も、彼女の同級生も笑っている。日本語としては至極まともだし、正直でよいけれど、これではどうだろう。面接の先生も首をかしげてしまうだろう。
「とても正直でよいけれど、日本には勉強のために行くのでしょう?大学で面接を受けるときに、日本料理が美味しいから食べに来たと言っても的はずれだわ。中国では出来ないから日本ではこの勉強をしたいとか、この大学では同じ研究分野でもここが進んでいるから先生のところで勉強したいとか、よく資料を読んでおいて、きちんと話しなさいね。」と妻に言われていた。
「はい、そうします。」と彼女は神妙だった。しかし次に、日本の大学院の修士課程に入っても博士課程は同じところではなく別のところに進学しても制度的には問題ないことを聞いて、「面接の時に『私は今は先生のところを希望しますけれど、修士課程の2年を終わったら、○○大学の博士課程に移りたいと思っています』と言おうと思います」という。
妻はびっくりして「あなたは正直でいいけれど、でも、これから試験に通った貴女を引き受けて奨学金や研究の面倒を見ようと言う先生に、初めから『私は2年しかいませんよ。2年したらほかに移りますから。』と言ったらまずいんじゃない。先生との関係が壊れたら2年後に移るのも難しいことになるわ。2年の間によい研究をして、別のところに気持ちよく推薦していただけるようにすることが大事よ。」と一生懸命である。
聞いている彼女は「はい。」と言っているけれど、大丈夫だろうか。常識がないというか、ぶっ飛んでいるというか、一人っ子育ちで何でも思いのままになると思っているのか、利用できるものはすべて利用するという中国人気質なのか、あるいは中国の新人類なのか。
彼女を推薦しているのは私たちではないので、彼女の事に私たちは全く責任がないけれど、この先大いに気に懸かることである。
「平 均初任給は1,000元?続く大卒の就職難」というニュースを読んだ。昨10日のYahooの記事によると「上海での大卒初任給平均は1,000元(約1 万4,400円)前後に下落し、同市の出稼ぎ労働者の最低賃金635元と接近した。2005年秋の大学卒業生は355万人で今年は約400万人に達する見 込みなので、05年の就職率である72.6%を適用すると」100万人近くの大学生が就職できないと予測される。
この安価な余剰労働力に乗じて経験の無い新卒者を低い賃金で雇用しようとしても、安い給料では専門人材の採用は難しいとニュースでは紹介されていた。
「英語能力を備えた貿易部門の大卒者を3人募集したところ、応募してきた大学生はたったの1人。会社が示した初任給は1,500元プラス歩合給だが、英語力を備えた大学生の給与の要求レベルは高く、専門人材の採用は難しい状況という。」
これを「低い賃金で雇用しようとする会社側と専門的な技術を持っている大学生のプライドの間で雇用のミスマッチが起きていることを示すものだ」と書いてい る。学生を送り出す側としては、「安い給料で自分の能力を安売りするな、がんばって高給を勝ち取れ」と言いたいところだが、経済市場は需要供給の関係で決 まるから、大学を出ただけが取り柄の学生が思い通りの給料を取ることは難しいだろう。
400万人の卒業生がいても、企業の必要とする能力を持たない卒業生が多いとも言えよう。いま瀋陽では、瀋陽薬科大学、東北大学、中国医科大学、中国農業 大学の4つが合併して新しい大学になろうとしているが、その効用の一つに学生数が5万人を超えて、○○大学に次いで全国2番目のマンモス大学になるとい う。しかし、学生数が多いことを誇ってもこの就職難では意味がない。
合併を好機と捉えて、どうすれば今後必要とされる分野の人材を育てられるかを考えて欲しい。そうなってこそ一流大学と見なされるだろう。そのためには、冷 静な現状分析と冷徹な将来計画が必要で、それに基づいて優れた業績を持つ研究者を集めることである。その優秀な研究者を集めるためには魅力的な研究拠点作 りと集金力が欠かせない。どちらも難しそうだががんばって貰いたい。
中国の大学卒の人たちの就職難と初任給が下がってきた話を、うちの研究室の修士3年の胡くんに話した(中国で修士の学位を取るためには3年コースが必要である)。
「でもね。」と胡くんは言う。「給料の差はどんどん広がっていますよ。ぼくの田舎の親戚は料理人で、遠くに出稼ぎに行っていますが、毎月800元の給料ですよ。春節・労働節・国慶節の休みに故郷に帰ってくる汽車賃を考えるとたいして稼いでいるとは言えません。」
「一方で、ぼくの同級生が北京に会社にいますが、日本語が出来て、しかも専門の化学・工学の言葉が分かるというので、毎月1万元以上貰っています。大学を出て2年働いているだけですよ。たった2年で友だちは大金持ち。大きなアパートに住んでいます。同級生だったぼくの稼ぎはまだ零です。」
胡くんはこの薬科大学の日本語コースを出ていて、コース随一の日本語遣いである。日本から来た先生が日本語で講演をしてそれを中国語で同時通訳するのも、よく秦くんに頼んでいるくらい日本語が良くできる。しかし、胡くんの場合にはここで通訳をしても一文にもならない。大学は学生を使うのは当たり前だと思っているからだ。
「その魯くんは毎月沢山の金を貰うけれど忙しくてお金を使う間もないし、ガールフレンドと付き合う暇もないみたいです。広い部屋にひとりぼっちで、ぼくの方が幸せです。」と胡くんは言ってにやにやしている。胡くんは同学年の彼女とこの春節休暇には一緒に故郷に帰り、正式に婚約を披露するつもりのようだ。彼女も故郷の近くに就職を決めたという話で初任給も悪くない。
胡くんは修士が終わったら日本の大学院の博士課程に入って勉強したいと思っている。農村出身の胡くんには私費留学をする金はないので奨学金が頼りである。どの大学でも日本政府奨学生を希望するけれど、中国にいて政府奨学金を取るには、当局の大物との間にパイプがないと先ず不可能なことらしい。それで日本の大学で奨学金が出そうなところを探しているけれどまだ見つからない。少なくとも奨学金の面倒な申請をしてくれる先生が見つからないと、留学が出来ない。
この夏修士を終わっても日本の大学院の博士課程で進学するところが見つからなければ、月5百元で雇って上げるからねと言っていたけれど、北京に行けば月1万元である。それが駄目でも5百元のために彼女と別れて独り瀋陽に留まるとは思えないから、この夏修士課程が終わった段階での胡くんとの別れは先ず間違いないものとなってきた。
中国政府が日本の中で対中国批判が多すぎるといって日本政府に報道規制を要求したということが、1月9日のYahooニュースに出ていた。
「中国外務省の崔天凱アジア局長は9日、北京での日中政府間協議で『日本のマスコミは中国のマイナス面ばかり書いている。日本政府はもっとマスコミを指導すべきだ』と述べ、日本側に中国報道についての規制を強く求めた。」
これを読んで、なるほど、中国は報道規制をやっていると誰もが思っているけれど、マスコミを指導していることを当局が明言しているんだね、と改めて納得した。昨年4月に盛んだった反日デモを演出するのも、それを抑圧するのも当局の意向次第だったのだ。
日本では言論の自由は憲法で保障された国民の権利である。日本政府も時には統制したいだろうけれど、表向きはあり得ないことである。「日本外務省の佐々江賢一郎アジア大洋州局長らは『そんなことは無理』と説明したという。」
報道の自由度は世界160カ国の中で最低が北朝鮮で、中国もそれに近い。日本は四十数番目に位置している。決して完全な自由ではない。言論の自由は憲法で保障されているにも関わらず、報道の自由は、つまり言論の自由は十分保証されていないということを意味している。
日本では誰でも好きなこと言い、マスコミは好きなことを好きなだけ書きまくっているようだが、これもスポンサーの機嫌を損ねない範囲である。つまり、言論 は自由なようでいて、実は全くの自由ではない。広告主がつむじを曲げたら、正当な批判も発表されることなく上からの圧力で抑えこまれてしまう。さらには政 府当局と財界が水面下で繋がっていることも常識である。
勘ぐれば、今の日本でマスコミが好きなだけ中国批判をしているのは政府も秘かに黙認していると言うことで、中国もそれを知って言っているのだろう。だから、日本政府に言うわけだ。「ちょっとやりすぎだろ?」
もちろん日本政府は「そんなことは出来るわけないでしょう。お門違いなことを言わないで下さいよ。それより、日本で中国のマイナス面ばかり強調されないよ うに中国自身が身を正したらどうですか?」と返事するわけだ。しかし日本のマスコミの一部はある程度は政府の意向を汲んでいるだろうし、お互い狸の化かし 合いが続くわけだ。
カテゴリ:瀋陽の生活13日昼には在瀋陽日本領事館で名刺交換会が開かれ、それに招かれた。名刺交換会と言う名前の新年会で、領事館の守備範囲に私などが入ってるはずはないのだが、私の友人が前の中国大使だった関係で瀋陽に来たときに総領事に紹介されたのだった。小河内敏朗総領事とはそれ以来のお付き合いである。
1年前の名刺交換会は門のところで公安警官による厳重な取り調べがあったけれど、今回は、どうぞお入り下さいと言うことでパスポートのチェックもなく門を入れて貰えた。もちろん門の内側には顔見知りの領事が待ちかまえていて挨拶を交わしたから、一応チェックはしているわけだ。
定刻になると集まった100人位の客を前に先ず君が代の演奏があり、次いで総領事の年頭の挨拶があった。「昨2005年の日中関係は波乱の年でした。」という切り出しで始まった。そうだった。瀋陽でも瀋陽初めてといわれる反日デモがあった。その時期は、領事館からは始終安否を問う電話があったし、安全情報が私たちに何時も送られてきた。「在瀋陽領事館は在留邦人の安全を守ることが大きな使命です。」と、最初に会ったとき総領事が私に話し、思わず総領事をとても頼もしく感じたのを思い出した。その信頼は未だに裏切られた事がない。
領事館の仕事は在留邦人の保護だけではないに決まっているが、それが公言されるのを聞くことはとても嬉しいことである。アメリカという国には問題点が沢山あるが、米国公館は外国でアメリカ人の生命保護を第一にすると公言しその通り行動することだけは私には涙が出るほど感激する。国はこうでなくてはいけないのだ。大体それが国の有るべき姿だと思う、国民が国を作っているならば。
総領事の挨拶は「今年は互いの国の理解が歩み寄るような年になるように期待したい。戌年にあやかって安産と行きたいところです。」と締めくくられた。
そのあとサロンに移って、瀋陽日本人会長も加えて鏡割りが行われたが、そのあと「総領事からお知らせです」というアナウンスで、総領事が「突然のことながらこの2月に半ばに3年半の任期を終了して帰国することになりました。」と言う挨拶があった。公務員なので数年の任期で移るのは当然のことだろう。
知己となった好漢が私たちのいる地から去ってしまうのは寂しい。しかし、次には昇進が待ちかまえているだろう。彼のためには喜ばしいことだし、外交官として腹の据わった人物が別の地で日本のために活躍する事はとても嬉しいことだ。
小河内総領事の将来のご健勝とご発展を祈る。
瀋陽には瀋陽在住の日本人で作っている瀋陽日本人会というのがある。登録者は3百人足らずと言うことなので、何万人も日本人が住む上海や大連に比べてかわいらしい規模と言って良い。
この会が瀋陽に出来て以来、この地の日本語学習振興のために毎年日本語弁論大会を開いてきた。今年で弁論大会は10回目になる。この地域で日本語を勉強する学生が増えて日本語遣いが増えれば、ここに進出した日本企業は大いに恩恵を受けるわけだから、当然の目玉事業であろう。
日本語弁論大会に出場する 学生は瀋陽とその近辺で日本語を学ぶ大学生、高校生、各種学校生徒なので、学校で教える先生たちの協力なしには弁論大会は挙行できない。日本語を教える学 校のすべてに日本人の日本語教師がいるわけではないけれど、主要なところには日本人教師がいるので、教師の集まりである瀋陽日本人教師の会は、この弁論大 会を実行するときの主力である。
毎年年末の12月になると、日本語弁論大会実行委員会が学校宛てに弁論大会開催通知、参加のための要項などを配布する。弁論大会に無制限に参加申込があっては収拾がつかないから、日本語の作文を書かせて応募させる。この作文の審査をして実際の弁論大会の候補を選んでいる。
これも申込者が多くては審査が出来ないので、今では各学校の参加人員の上限が指定されている。薬科大学でも12月半ばには参加希望者を一堂に集めてある題目の下に作文を書かせて、日本語の先生たちが審査して最終参加者を選んでいた。薬科大学選出のチャンピオン候補たちは弁論大会用に改めて作文を書くことになっている。
3月にはこのようにして集まった作文を実行委員会の先生が手分けして読み、次には互いに交換して読み、結局全部に目を通して最終の弁論大会参加者が選ばれる。端で見ていても大変な作業である。
毎年4月に開かれる弁論大会の当日の運営も教師の会が行う。私は実行委員会によって事前に詳細に書かれたスクリプトにしたがって司会役を勤めたことがあるに過ぎないが、この準備、運営、そして事後の作文集の発行などすべてに亘って教師の会の先生たちの貢献は大きい。
ところが、である。ところ が、弁論大会のあとの6月頃に発行される作文集を見ると、第○回瀋陽日本語弁論大会入選作品集と書かれた表紙の下には「瀋陽市人民政府外事弁公室・瀋陽市 教育委員会・瀋陽日本人会」と書かれているけれど、「瀋陽日本人教師の会」の名前は何処にもない。
文集の終わりの方を繰ってみると、瀋陽日本人会が「政府関係の調整と資金・会場の手配を担当し」、日本人教師の会は「スピーチ作文の募集・審査・大会当日の運営などの実務的な業務を担当している」と書かれているだけである。
教師の会は瀋陽およびその 近くで日本語教師区に従事している先生たちの集まりだが、所属する職場も大学、それも日本語学科もあれば、第二外国語の日本語と言うこともあるし、高校、 ソフトウエア製作のための学校の日本語教師など様々だし、教えている内容も違う。共通項は日本を離れた中国で日本語教育に携わっていると言うことだけであ る。
したがってこの会はこの異国に暮らして互いに助け合いましょうというのが唯一の目的である。それ以外の求心力がない。しかし、この弁論大会を準備し開催することで教師の会の中の親密度と連帯感がぐっと増すのを実感してきた。
日本語弁論大会の準備と運 営を通じて教師の人たちの働きぶりを見ると、この弁論大会に命をかけていると言って良いほどである。それなのに、最後に出来上がってくる「瀋陽日本語弁論 大会入選作文集」に教師の会のクレジットがない。資金を出している日本人会の名前だけ大きくて、具体的に働く教師の会の名前がないのは不当ではないか、と 私は思っていた。
瀋陽に7年いて半年前に寧波に移った石戸先生に最近会うことがあったので、この疑問をぶつけてみた。「それはね。日本人教師の会は中国当局の認めた認可団体ではないからですよ。」ということだった。これには、もう少し説明がいる。
瀋陽日本人会も、省政府あ るいは市政府の認める団体ではない。しかし日本からの企業進出が欲しい当局は瀋陽日本人会と定期的に会合を持っているから、非公式にかも知れないが暗黙の うちに当局もその存在を認めている。弁論大会の挙行も当局は認めている。当局が資金も会場も出すわけではないが、開催を認めると言うことはここでは決定的 なことであり、従って大会主催者は瀋陽市人民政府外事弁公室・瀋陽市教育委員会・瀋陽日本人会」となっているわけだ。
日本人教師の会こそ弁論大 会の実働部隊だけれど、その名前を公式に載せると「これは何だ?」と言うことになりかねない。当局が一旦「これは一体何だ?」と問題にすると、その存在を 黙認するわけにはいかなくなる。いままでその存在を黙認していたのが、目の前で存在を主張されると、それを潰さなくてはならなくなる。
「この弁論大会の作品集に瀋陽日本人教師の会の名前を載せると、その存在が危うくなるので、あくまでも影のお手伝いと言うことになっているのです。」という説明だった。
うーん。私たち日本人から 見ると、理解しがたい論理である。納得できないけれど納得せざるを得ない。政権維持のためにはありとあらゆる事があり得るわけで、外国人の団体があること に神経をとがらせる当局の意思も分かる。分かるというのは賛成することではないが、ほかの方法はない。
瀋陽日本人教師の会の名前が出ていないので日本人会が私たちにひどい扱いをしていると思っていたけれど、実情はそうではなかったようだ。この地では物事には複雑な背景があることを学んだ。
この地で活躍する日本企業 の人たちは、言葉に尽くせない苦労を影で重ねているに違いない。「日本人から見てなんて弱腰な。」と思うようなことでも、実際上はそれ以上のことが出来な いし、その弁解のために口にすることも出来ないことがあるかもしれない。日本の対中国外交も、そうなのだろうか。
カテゴリ:日本で生活
14日朝の南方航空627便で帰国した。1年ぶりの南方航空だった。1年オープンで買ってあった帰りの便なので選択の余地はないのだが、その間2回の往復に乗った全日空とどうしても比べてしまう。全日空の方が乗客に対する扱い、乗務員の乗客に対する態度、航空機そのもの、などがずっと良い。
5ヶ月ぶりの日本は雨だった。瀋陽では10月以来雨にご無沙汰だから、久しぶりに雨でぬれた街を眺めた。緑が多く、しっとりと落ち着いた街を見て感激である。
家についてショックだったのは、雨で濡れた衣服を脱いで取り替えようとした時だった。うちにあるズボンのどれも入らない。いや、入るのは入るけれど、息を詰めてみても、お腹のところで5センチくらい開いてしまう。全部試しても駄目。仕方なくそのまま階下に降りて息子に言った。「32インチのズボンを持っていない?貸してほしいんだけれど。」
台所で一緒に晩ご飯の支度をしていた息子の彼女は、前の閉まらないズボンをはいた私をめざとく見つけて、目を丸くしている。息子は「そんなに大きいのはないよ。あったとしても親父さんのだよ。」
結局大きいのは見つからず、昔の背広のズボンが穿けることを見つけて事なきを得た。今の時期は新聞広告で見る「ヒマラヤ探検隊も使っています」という厚い下着を着ている。つまり着ぶくれしているわけだが、それにしても瀋陽にいる時は何ともないことだったのに、帰国したら穿けるズボンがないというのは驚きだった。
風呂に入る時に計ると体重は増えていなかった。太ったのではない。普段穿いているズボンがすべて瀋陽に行っていて、つまり瀋陽は仮の出張先ではなく、日本の家こそが仮の宿になっていることにショックを覚えたのだった。
コメント:
お帰りなさい! うさぎ さん
暖かい雨でのお出迎えになりましたね。瀋陽とは天と地の温度差ですが体調を崩されませぬように。
「ショック」の原因も気候によるものではないでしょうか。暖かすぎて胴回りが緩んだのではありませんか(笑)これから一ヶ月日本の食事でお腹一杯充電されれば本当にお腹が出るかもしれませんね。久しぶりのご自宅はいかがですか?小正月も終わり、私もやっと正月気分が抜けて始動します。「瀋陽だより」はちょっと、おあづけでしょうがブログの日記は楽しみにしてます。 (2006.01.16 10:32:27)
うさぎさま 今日は shanda さん
日本に帰ってきて一杯食べたいものがあったのに、今日病院に行って、やはり美食はいけないんだなあと分かって、悲しく帰ってきました。
今夜はご飯と漬け物と言うことになりそうです。とほほ。 (2006.01.16 18:31:34)
5ヶ月ぶりに病院に出かけた。1995年に最初の異常が見つかった持病のチェックのためである。
その年の2月、米国カリフォルニアの学会から帰ってきて自分は至極健康だと思っていた時、丁度研究室で開いたセミナーに出席した友人の西川先生が、「あなたの顔色が悪い。これは内蔵のどこかがおかしいに違いない。私の友人に名医がいるから診て貰いなさい」と言って勝手に書いた紹介状を強引に私に押しつけていった。
気にもしていなかったのにその後毎日西川先生から、やいのやいのと電話が掛かってくる。ともかくその病院に出かけないと毎日が電話で面倒なので、紹介されたクリニックに出かけたのが3月初めの日曜日だった。平和クリニックの熊谷先生は私よりも十歳くらい年上の先生で、まず最初は東工大工学部を出てから医者を志したという異色の先生だった。私には自覚症状が全くないのに上半身を裸にされてあちこちが押された。うつぶせにされて左の肩の付け根のあたりが押されると痛い。右側は痛くない。上向きに寝てお腹の右を押されると猛烈に痛い。お腹を押されれば痛いに決まっていると思っていると、「膵臓が悪くなっていますね。血液も調べておきましょう。」と言うことで採血されて帰った翌日、その熊谷先生を紹介してくれた西川先生から電話があった。「血液検査でトリプシンが正常値の十倍もあるということですよ。直ぐにまたあのクリニックに行きなさい。」
そういわれても学期末の大学はやることが、山ほどあってとても病院には行けない。その翌日も一日中仕事に追われてやっと夜の9時頃大学から家への途中のファミレスで魚定食を食べて家に帰った。帰りの車の中でお腹の後ろあたりが痛くなってきた。痛みはだんだんひどくなる。背中側が痛い。脈を打つごとに痛みが全身を突きぬける。うちに帰って横になっても起きても、身体を丸めてもそらしても、痛みは続き一晩中寝るどころではなかった。翌朝車を運転して平和クリニックに出かけた。西川先生の予言通り、そして熊谷先生の見立て通り急性膵臓炎が始まったのだった。絶対絶食が言い渡されたけれど3月学期末の大学は休めない。それで、クリニックに1日おきに出かけて点滴を受けたのだった。これが3週間続いて、私はすっかりやせ細ったけれど、痛みは治まった。3月の研究室行事も終わり卒業生を送り出すコンパで私はスープだけ飲んでいた。
「膵臓炎の主な原因はストレスとお酒です。お酒を飲んではいけませんよ。」と熊谷先生に言われて1年間教えを守った。しかしまた1年経って卒業のシーズンが巡ってきた。今度は卒業実験の4年生の時から面倒を見た二人が修士を卒業するのだ。それでつい卒業祝いの会で嬉しくなって、1年間飲まなかったアルコールを飲んで騒いだところ、またその夜から膵臓が痛み出してしまったのだった。学期末は1年中で一番忙しいので体調も最低になっていたからだろう。
この膵臓の痛みは不気味で、耐え難いものがあり、この痛みでの病気で死にたくはないと思わせるものがある。こうして急性膵臓炎から1年経ってまた絶対断食断飲となって、クリニックの点滴通いが始まったのだった。平和クリニックは厚木の奥にあり、家から25kmくらいあるので国道246号が空いてている時でも1時間、何時も道は混んでいるので2時間くらい掛かる。何も食べずにいる身の病人が自分で車を運転して通ったのだった。
その2年目の時には、周囲の人たちが今度は駄目だと思ったという。秘書の志をりちゃんが泣きはらした目をしているのも見た記憶があるけれど、そのときはそのためだとは思わなかった。志をりちゃんは恋多い乙女だったから、また失恋して泣いているのだと思っていた。
ともかくそのときは危機を脱することが出来て、膵臓との付き合い方が分かってきた。アルコールはいけない。暴食もいけない。そして、もし痛み出したら直ぐに絶食すること。
その後、アルコールもずっと飲まないでいて久しぶりに飲んでも直ぐには膵臓が痛くならないので、安心して飲み出して、どっとひどい目に遭って後悔、反省、悔悛の繰り返してをしてきた。中国に来た時、この地の白酒があまりにも美味しく、中華料理にぴったり合うことを見つけてしまった。膵炎の発作は数年収まっていたので安心して、ついに白酒を何時も飲むようになって3ヶ月。とうとう膵臓がやられてしまった。このとき、瀋陽で知り合った日本語の先生である野呂先生に「身体に悪いと分かっていて飲むなんて、そりゃ馬鹿ですよ、大馬鹿ものですよ。」とやんわりと窘められたのが効いて、2003年の12月1日以来私は1滴のアルコールも口にしていない。野呂先生は、その後劣悪な環境に暮らすケニアの子供達に役立ちたいと言って現地に出かけて、現地で亡くなってしまった。彼女の約束したことなので、私はアルコールを再び口にするわけにはいかない。
今日、昨年の8月以来久しぶりに厚木の平和クリニックの熊谷先生を訪ねた。「あ、大分太りましたね。十年前に最初にあった時はひどい顔色でびっくりしたけれど、今は健康そうですね。」と言われたが、「はい、診察台に寝て」と言われて押された左の背中はきりっと痛むし、仰向けで押される胃の左の方も痛い。「まだ、ありますね。造影して撮るCTスキャンをした方がよいので、○○クリニックを紹介しますからそこに行って撮ってきて下さいね、」と言うことになった。
朝食べずに出かけて、うちに帰り着いたのが2時半だったが、私が元気で仕事を続けられるのもこの名医のおかげである。
日本では「できちゃった婚」が増えていて、今や4組に1組は妊娠してからの婚姻だという(今日のYahoo)。ハリウッド映画では大分前から馴染みになっていたが、今や日本でもポピュラーになってきたようだ。調査によると未婚者では「大賛成、幸せなら良いじゃないか、できちゃった婚もありでしょう」と言う肯定派が55%もいる。
ちなみに既婚者ではこの数字が44%である。自分は「正しい」婚姻をしたと思っている人たちの割合が「できちゃった婚」で減っていけば、いずれはこの数字は同じになるだろう。
「できちゃった婚」は良いも悪いもないと思う。妊娠してしまって結婚届を出そうというのだから、結構な話ではないか。問題にするとすれば、結婚という法律的あるいは社会的行為以前に、性行為があるという点だが、いまや「結婚前は身を清く」というのは完全に死語であろう。
日本に戻ってきて、たまたま井上靖の「流沙」という小説を読んだ。これは昭和52年-54年毎日新聞に載ったという。ピアニスト志望の章子はパリに留学してピアノ修行をしていたが、28歳の時友人の勧めで考古学者の東平とドイツのボンで結婚する。彼女は東平に自分の一番大切なものを捧げたという意識だったが、P.マリーニのピアノ演奏を聴きたいと思った途端に新婚旅行を投げ出してパリに独り戻ってしまう。
大体今から30年前の小説だが、その時代とは結婚に対するものの見方はすっかり変わってしまった。大昔は自分の子どもに家と財産を継がせるために処女性が問題にされていたわけだから、今のように流動的で開放的な時代になると、すべてがめまぐるしく変わらざるを得ないだろう。
今は妊娠しても結婚届を出さなければ法律では夫婦とは認められない。つまり保護されない。しかし、届けを出さずに一緒に暮らしている事実婚を保護するために、同棲すれば法律的には婚姻と同じという扱いに法律を変えるというのはどうだろう。そうなると事実婚を保護するという美名だけではなく、同棲するということに責任を持たせることになって、却って良いことかも知れない。
1月13日昼には在瀋陽日本領事館で名刺交換会が開かれ、それに招かれた。
名刺交換会と言う名前の新年会で、領事館の守備範囲に私などが入ってるはずはないのだが、私の友人が前の中国大使だった関係で瀋陽に来たときに総領事に紹介されたのだった。小河内敏朗総領事とはそれ以来のお付き合いである。
1年前の名刺交換会は門のところで公安警官による厳重な取り調べがあったけれど、今回は、どうぞお入り下さいと言うことでパスポートのチェックもなく門を入れて貰えた。もちろん門の内側には顔見知りの領事が待ちかまえていて挨拶を交わしたから、一応チェックはしているわけだ。
定刻になると集 まった100人位の客を前に先ず君が代の演奏があり、次いで総領事の年頭の挨拶があった。「昨2005年の日中関係は波乱の年でした。」という切り出しで 始まった。そうだった。瀋陽でも瀋陽初めてといわれる反日デモがあった。その時期は、領事館からは始終安否を問う電話があったし、安全情報が私たちに何時 も送られてきた。「在瀋陽領事館は在留邦人の安全を守ることが大きな使命です。」と、最初に会ったとき総領事が私に話し、思わず総領事をとても頼もしく感 じたのを思い出した。その信頼は未だに裏切られた事がない。
領事館の仕事は在留邦人の保護だけではないに決まっているが、それが公言されるのを聞くことはとても嬉しいことである。アメリカという国には問題点が沢山あるが、米国公館は外国でアメリカ人の生命保護を第一にすると公言しその通り行動することだけは私には涙が出るほど感激する。国はこうでなくてはいけないのだ。大体それが国の有るべき姿だと思う、国民が国を作っているならば。
総領事の挨拶は「今年は互いの国の理解が歩み寄るような年になるように期待したい。戌年にあやかって安産と行きたいところです。」と締めくくられた。
そ のあとサロンに移って、瀋陽日本人会長も加えて鏡割りが行われたが、そのあと「総領事からお知らせです」というアナウンスで、総領事が「突然のことながら この2月に半ばに3年半の任期を終了して帰国することになりました。」と言う挨拶があった。公務員なので数年の任期で移るのは当然のことだろう。
知己となった好漢が私たちのいる地から去ってしまうのは寂しい。しかし、次には昇進が待ちかまえているだろう。彼のためには喜ばしいことだし、外交官として腹の据わった人物が別の地で日本のために活躍する事はとても嬉しいことだ。
小河内総領事の将来のご健勝とご発展を祈る。
瀋陽薬科大学の最終学年である学生からmailがあった。日語班なので普通科よりも1年余分に勉強をしているので今は5年生である。大学は今年の2月末か ら後期に入り、卒業研究をして6月末に卒業する予定になっている。彼女は中国の大学院を受験をしないので時間的にゆとりがあるからと言って、10月から私 たちの研究室に来て実験をしている。
日本に留学したいと言っていてあちこちとコンタクトをとっていたが、先日瀋陽まで出張して入学試験を実施した北陸大学薬学部を受験した。彼女からの mailによると入学が許され、今年の4月から入学が許されたので、私たちのところで卒業研究を始めるのは止めて別のところで論文を仕上げ、4月入学に間 に合わせたいという意向のようだ。
瀋陽薬科大学このような繰り上げ卒業を認めているのかどうか、私は知らないので以下はすべて私の憶測である。
北陸大学は薬科大学の卒業が6月であることは知っていいるはずだ。しかし薬科大学で入試をしたのだから薬科大学と意思は通じていたのかも知れない。「入試に通れば3月卒業にしますよ。そうすれば直ぐに、時間のロスなしに大学院には入れますからね。」
私立大学は少子化による経営難に直面していると言う。少子化に伴う国内学生の減少に伴い中国まで募集に来ているのだから、大学を卒業していなくても大学院に入学させてしまうという奥の手を思いついた可能性がある。
薬科大学は、そういうことならと言って便宜を図り、繰り上げ卒業を認めることにした可能性もある。学生の授業料は1年分まるまる貰っているのだから、早く卒業させても少しも損ではない。
卒業生は通常なら大学を6月に卒業して、日本で欧米式制度を持っている大学院に運良く行き当たると、10月入学と言うことになるが、普通の日本の大学院だ と翌年の4月入学である。ここで半年の空白が出来てしまう。彼女のmail通りなら、彼女は同期の学生よりも逆に、半年、あるいは1年早く大学院に入れる ことになる。
三方一両得である。文句を言ってはいけないだろうが、何かおかしい気がする。
少なくも今後は日本の大学院に送り出すためには、学生の繰り上げ卒業を必ず認めると言うことを、薬科大学から公式に聞きたい気がする。でも、卒業研究を全 くやっていない学生が日本の大学院で歓迎されるとはとても思えないから、私はこれが可能でもこうやって学生を日本に送り出したくはない。
右は2006年春学期の私たち研究室のJournal Club(JC)、Progress Report(PR)の順番表である。
TCYとあるのは私、山形達也で、薬科大学にいた期間の間わたしはLotationに入って興味深い論文を皆に紹介し、話し続けた。もちろん、Journalの読み方、発表の仕方などを学生に指導するためでもある。
しかし日本の研究室の主宰者で、学生の中に入ってJCで話をする人がいるとは聞いたことがない。
カテゴリ:日本で生活
日本に着いた日は激しい雨だったけれど、そのあとずっと横浜地方はお天気だ。
家の窓から西を見ると大山連峰が見えその上に富士山が顔を出している。その山の稜線の際まで空は青色なのだ。地球を覆おう大気層は、真上に見上げるより水平に近くなるほど厚くなる。つまり汚れが増えて空の色は青から薄い色になり、空土地と交わるあたりでは白色になることが多い。
それが、日本の空は中天から山の際まで、青いのだ。
今の時期、瀋陽では空の半分は汚れた白色だ。暖房のために石炭を炊くのでなおさらである。日本の空を見て、綺麗な空気を吸って生きている喜びをしみじみと味わう。
コメント:
こんにちは 3303corocoro さん
いつごろまで日本滞在でしょうか☆ 2月上旬までかな?
美味しいものを沢山食べていって下さいね!
(まず鰻は食べなくては、ですね(^o^) )
(2006.01.18 10:32:27)
綺麗な空気 うさぎ さん
「今の時期の瀋陽の空」を読んで、昔の映画で「キュウポラのある街」を思い出しました。先生のお家は高台にあるのでしょうか?見晴らしが良さそうですね。私の住む街からは「六甲山系」が見えます。1000メートル級の高さですが、六甲山から見下ろす夜景は100万ドル(今は1000万ドルだそうです)と言われてます。横浜の夜景も同じだそうですが。美味しい空気もご馳走のうちですね。お金の要らないご馳走をたっぷり召し上がってください。 (2006.01.18 13:37:09)
横浜の一隅から今晩は shanda さん
>corocoroさま
瀋陽よりも近くなって二胡の音が聞こえてきそうですね。
日本に戻ってきても食事は私の担当です。スーパーに出掛けて野菜があまりにも高いので目玉が飛びだしました。
中国からの留学生が可哀想です。
>うさぎさま
テレビを見ていたら日本は活断層が走っていて、西宮にも大きいのが市内を通っていると言うことでした。
新しいところに街を開発するならともかく、すでに人が密集して暮らしているところの活断層なので、住んでいる人と不動産屋は隠したいでしょう。
今こそ行政、政治が大局的に国民の安全な暮らしを守るために動き出すべき時でしょうね。 (2006.01.18 21:20:02)
活断層といえば 男性教師B さん
阪神大震災の後、父が職場のある市をいろいろと車でまわっていると、全壊した家が明らかに直線状に並んでいたそうです。ほんの数メートルほどの距離がヒビ程度と全壊との境目になるのは恐ろしいものです。 (2006.01.21 02:30:14)