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長い間ブログから遠ざかっていた。とても書けなかった。妻の病状が段々重くなり、暗澹とした気持ちでブログを書くことなんか出来なかった。
貞子は2009年度は、瀋陽には10-11月の2週間、2010年の6月の2週間、6-7月の3週間しか来られなかった。この6-7月の瀋陽訪問が彼女の身体には応えたのだろうか、夏から食欲がなくなり、身体はどんどん弱っていった。
そして、食欲不振を理由に11月26日に緊急入院したという知らせを受けて、わたしは翌27日に日本に戻り、それから二ヶ月貞子の枕元にいた。彼女の最後の二ヶ月を一緒に過ごしたのは、せめてもの慰めとも言える。
貞子は今年の1月26日に逝ってしまった。
それから一ヶ月、嘆き続けて何も出来ない日が続いたが、2月26日私は瀋陽に戻ってきた。気を取り直して、瀋陽でまた学生たちと研究に取り組む日常を再開する。可愛い学生たちがわたしを待っているのだ。わたしにはこれしかない。これしかできない。
今まで、ホームページをあちこちに作ったり、ブログをこれもあちこちに書いてきた。
あちこちというのは目的が違うためだけではなく、今暮らしているこの国で見ることが出来なくなったり、アクセスできなくなったりしたからである。
今、春節休みが終わって瀋陽に戻ってきて、なんと驚いたことにこのGooのサイト以外、すべてアクセスできない。Google、Yahoo, Amebloなど軒並み駄目。あと一つ生きているのは、楽天のブログだけである。
南の方の國で、○○花(これは日本では英語、あるいはカタカナで呼んでいるが、この国には漢字がある。でもそれを書くと発禁になってしまう)カクメイが次々と起きているので、当然この国も神経を尖らせている。そのために違いない。
私はこれとは関係ないことのためにこの国に滞在しているので、巻き込まれるとを恐れる。従って、それには触れないでいたい。
昨日、2月26日の夕方、久しぶりに瀋陽に戻ってきた。久しぶりにと言うのは、昨年11月26日に妻が入院したという知らせを受けて、急遽その翌日、瀋陽を離れて日本に向かって以来だからだ。
二ヶ月入院して、妻は1月26日に永遠の眠りについた。山形研究室は二つのエンジンの一つを失った。研究室の学生たちはひとりで戻ってきた私を、遠慮しながら、それでも歓迎してくれた。
昨日で貞子が世を去ってから1ヶ月経った。妻の死にまるまる1ヶ月何もしないで嘆いていられたのだから、いまどきそんなことが許されたわたしは恵まれている。
大丈夫。ここはわたしの、私達の、仕事の場所だ。仕事に没頭できれば、きっと立ち直れる。
カテゴリ:さえへの日記
さえ、おさえちゃん:
今日は瀋陽に戻って三日目。大学の2010年度後期の始まる日です。
朝、生化学主任の小張老師から電話があって10時頃訪ねたいとのこと。現れたのは、ほかに生化学の劉老師と知らない二人。王しゅうじいと、楊しゅうじい。「しゅうじい?」と言う顔をしたら、党のリーダーで、と言うので、分かりました。
王書記と、楊書記だ。党の書記と言うことは、学部長よりも上の地位ですね。
さえのことで弔問と慰めのためにいらしたのですよ。「大学にとって大きな損失でした。謹んで弔意を表します。先生、何か必要とかお困りのことはありませんか、何でも仰って下さい。幾らでも助けますから。」
その前には、部屋の向かいの国際薬学合作中心の王鴎副主任に、挨拶に行ってきました。さえのための集まりに、彼女は薬科大学を代表して参加してくれたのを、覚えていますか?
国際交流処の徐寧さんから参列したいからと言われたときに、最初はとんでもないと言ってて断りました。でも、二度も、しかもほかに用事もあるからと言われて断っちゃ悪いと思って受け入れたのです。あとで分かった王副主任の日程から見ると、参列することが日本に行く最大の目的だったと思います。
学士会館で開いたさえの集まりに出席して、薬科大学がさえに対して敬意ある弔意を表明してくれたことは、ぼくもとっても嬉しかったです。
さえは2009年度には瀋陽に三度しか来ることが出来なかったから、「大学に悪いわね、辞めなくっちゃ」と言っていましたよね。そして2010年度の始まる昨年夏には、「辞める」と言ってきちんと辞表を書いて、一人で瀋陽に戻るぼくに持たせましたね。
ぼくは呉校長にそれを渡して、もちろんさえの辞表は受理されたと思っていましたが、9月と10月のさえの給料はちゃんと代わりのぼくが受け取ったのですよ。
「あ、辞表を受理していないってことなのだ」
だから11月に日本で入院したさえに会ったとき、「辞表は受理されていないんだよ。給料は出ているから、まだ大学の先生のままみたい」と言ったら、さえはとっても嬉しそうにししましたね。さえが妹の弘ちゃんに、「わたし、まだ大学の身分のままよ」と言ったときの嬉しそうな顔と言ったら。。。
そうか、大学を辞めて淋しかったんだと、良く分かりましたた。薬科大学は命の最後を迎えようとしているさえに、とても嬉しい贈り物をしたと思います。
身体の痛みで苦しかったさえの心が弾んだことを思い出すと、大学がとても良い贈り物をしてくれたことに、心から感謝しています。
カテゴリ:薬科大学
さえ おさえちゃん:
2月26日土曜日の午後3時半に瀋陽空港に着いたとき、温度はマイナス2度って言っていたっけ。三日暮らしていて分かったのは、それは日中の最高気温で、最低はまだマイナス10度くらいになるってこと。
日曜日も大学に来たけれど、風が強くって、強くって、風が吹くと体感温度がぐっと下がるじゃない。家楽福にグロサリーに行きたかったけれど、外に出たらそれどころじゃないって感じで、やめました。
今日の午前は、研究室の院生と実験相談のウイークリーミーティング再開。張嵐と張笑と2時間。忘れていることが多いのでCatch Upするのが大変。次は陽暁艶。EP3のcDNAがまだうまく取れないという話。それとマイクロRNAは、お金が掛かるから止めようという合意に到達。ここじゃ無理。ま、仕方ないですよね。
午後は、王水老師が来て、先ずおさえちゃんに弔意。分子生物学の授業のこと。
4年生は、3年生の時に生化学を教えているので、分子生物学を(転写、タンパク質合成、遺伝子制御)18時間で教えます。ただしこのカリキュラムは今期でお終い。
今学期から薬学日語では生化学と分子生物学が一緒になって、3年生で教えることになり、彼女と分担しているぼくは分子生物学を受け持つことになりました。全部で28時間(全部では82時間だそうな)。メインとしてはDNA合成が加わるわけだから、これだけが増えると思えば、10時間増えれば大丈夫だけど。教科書をちゃんと見ておかなくちゃいけませんね。
今度4年生になる学生には3年生の時のぼくの生化学はとても評判が良かったので、生化学を教えるのを止めたくないけれど。だって、生化学が本職ですものね。学生のころは、分子生物学なんて言葉はなかったし。
でも分子生物学を教えるなら、彼女よりも、実際の経験を積んでいるぼくの方が良いでしょう。そう思うでしょう?
ご主人と半年ミシガン州で暮らして、ご主人は研究、彼女はhouse wifeで過ごして、米国の生活がすっかり気に入ったみたい。Omega-3のお土産をくれました。彼女はこれを飲んでいるんだって。健康によいって。
これはイヌイット(エスキモー)から西欧社会が学んだことで、ぼくが、脂質のところで何時も強調しているのを、さえは知っていますよね。
カテゴリ:薬科大学
さえ おさえちゃん:
大学院の入試結果が出る時期だ。お隣の池島先生が時々訪ねてきていろいろと話してくれます。彼のところには博士が5人入って、修士が3人入ったということです。
さて、こっちは?
最初ぼくたちのところの修士に入りたいと言っていた張微さんは、実は前から北京に行くのが夢だったといって、北京の協和医大を受けることにしました(それでも卒業実験はやらせて欲しいと言うから、心の広いぼくはOKしたんだけど)。
楊洋さんが卒研生をして修士に入りたいと言っています。試験結果は、直ぐに飛んでこないところを見ると思わしくないのでしょうね。修士進学はこちらの思惑なしに、試験成績だけで決まるから、さて、入っているかどうか。
お隣の池島さんは、「試験を受けた学生で7番という受験生が自分のところに来たいと連絡をして来たけれど、微生物学研究科で試験を受けているから、あそこは全体に点が低いですよ。調べたら7番と言っても313点ですね。とてもそんなんじゃ駄目だから断りました」と言っていたのと同じじゃないかと思う学生から電話が掛かってきて、「先生のところに来たい」とのこと。
ぼくだけではなく、この大学のあちこちの先生に電話をしてるのかも知れないけれど、面接することにしました。3月4日金曜日に黒竜江省から会いに来るんだけれど、どうでしょうね。
いい学生が来てくれないかなあ。せっかく、ぼくがいるのにね。。。
ぼくの脳裡では、ぼくが薬科大学の水準を背負っているくらいの気持ちなんだけれど。。。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ おさえちゃん:
姪の○○子ちゃんがね、「立ち直らなくても、いいと思います。たくさん思い出しても、さだこおばちゃん、許してくれると思います。」だって。
瀋陽に戻ってからメイルして「大丈夫。仕事に没頭できれば、きっと立ち直ります。」と書いたら、その返事。これ見てまた涙が止まりませんでした。
泣いても詮無いことは百も承知。「昔をいまになすよしもがな」と嘆いた静御前の気持ちをしみじみと味わっています。
「さえがいないなんて嘘でしょ、嘘だって言ってよ」と一生懸命思っても、さえのあの声は聞こえない、気配がない、さえはいない。聞こえるのはぼくの涙の音だけ。
こんなつらい思いをぼくに味あわせるなんて、本当にひどいと思う。
さえは、もうこのまま回復することはないと知りつつ、病院のベッドに寝ながら、ぼくに言っていましたね。「わたしはこうやって大事にして貰っているけれど、わたしがが先に死んじゃうと、ちゃいぼう可哀想ね。誰もこうやって、ちゃいぼうのことみてくれないものね」と。
誰がいないって、さえがいないってことが、ぼくの心を引き裂いている。
カテゴリ:薬科大学
さえ おさえ おさえちゃん:
今日、おかしなメイルが届いたんですよ。本気なのか、ふざけているのか、これだけじゃ分からないみたいな。ともかくおかしな日本語でしょ。うちの学生さんたちに、この人について調べるように、頼んできたところ。
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私はこの薬科大学の大学院生でございます。
専攻は生物と化学の薬学です。日本の薬学技術はとても進歩していると思いますから、新しい知識のために、私は貴方の学生になるつもりでございます。かつて、貴方のお名前を聞いたんでしたが、御有名な先生ですね。この理由で、貴方の生き物薬学の研究はあたりまえのように好いですよ。
今、私は試験がないで、博士になる資格を持っています。でも、先生にとって、私の日本語があまりよくないでございます。
しかし、私はゆっくり勉強できておるので、日本語についてのことを御安心ください。私の進んでいる知識の探求心、お願いします。
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ぼくの書く英語も、実はこのようなものかも知れないないかと思うと、笑えちゃうでしょ。
コメント:
男の子か、なるほど 金芳 さん
進んでいる知識の探求心-----強く持ってるらしいでございますね。 (2011.03.02 20:02:58)
カテゴリ:研究室風景
さえ おさえ:
さえがいなくなって、独りぼっちになってしまったので、みんながぼくのことを心配しています。案じてくれています。
でも、ぼくが中国語が分からないから、言葉だってどこまで掛けていいか分からないし、なんて言ったらいいか、もう言うことは出尽くしているし、それだから食べることを心配してくれるのです。
「ちゃんと食べていますか? きちんと食事をなさいね。」
それで、食事に誘ってくれるけど、でも、ぼくはもう何時もの生活に戻って、ちゃんとうちで夕食を作っているし、昼はパンを(昨日は学生の朱さんが買ってきてくれました)を食べているので、今は断っています。
それなので、おやつを持ってきてくれて、これ食べて元気を付けてねって、いうわけ。スウィーツであり、木の実であり、フルーツであり、何時も何かが手の届く傍にあることになります。
ぼくは、さえに置いていかれて独りになったとき食べられなくなって、2Kg痩せたけれど、そこからやけ食いをはじめて、愛知の買ってきてくれたアイスクリーム、ハンバーグ、カップ麺などを食べ続けて、4Kg盛り返しました。つまり何時もよりも、2Kg増えて66Kgになって瀋陽に戻ってきたのですよ。
だから、こんな太りすぎじゃいけないと思って、今は朝ご飯抜きでお腹の脂を抜こうと努めているのに、論文を書くのに疲れると、美味しいものが目の前にあって、つい手が伸びて食べちゃう。。。
どうしましょう、さえ。
修士に入りたいという学生が訪ねてきた。黒竜江省の牡丹江医学院の出身の男子学生だ。この学生を張さんとしておこう。
部屋に入ってくるといきなり英語で話し出す。これは珍しいことだ。たいていは中国語で話しかけてくるのに、英語で話しかけてくると言うことは、あらかじめこちらを十分調べていると言うことだろう。
薬科大学を外から受験して、選ぶ研究室は沢山あるだろう。しかも遠方から来ているのだから、ここで駄目と言われるときのためにあちこちの研究室を訪ねるという保険を掛けているだろう。
ところが、聞いてみると、この大学で連絡を取ったのは池島教授と私だけだという。
どうしてここを選んだの?がんの研究に興味がある、という。だってがんの研究をやっているのは、ここ以外にもあるでしょ?
生化学と分子生物学では今の中国は遅れている、外人教授のところの方が進んでいるに違いないから、その二つに志願したという。
この張さんは池島教授にも連絡したけれど、もう断られましたと悪びれずに言っている。どうして?と聞くと、成績が悪かったからだと思います、とはっきり言う。
実際、このことは池島さんから聞いている。池島さんが断った学生を私が引き受ける? 別に抵抗はないので、面接をすることにしたのだ。
今、面接をすると言っても、スタッフの貞子はいないし私だけしかいない。それで、異例だが研究室のシニアである博士課程の二人の学生に同席して貰った。
この張さんにとってこの二人は、面接を受ける試験官というわけだ。
面接はもちろん英語だが、英語が得意ではない受験生にしてみれば、目の前に中国人がいればどうしても中国語を使いたくなるはずだ。しかし、張さんは私の英語が分からなくても、それでも徹底して英語を使おうとして、中国語を使わなかった。私はこれに好印象を持った。
私達の発表した論文を声を出して読んで貰った。GD1a以外は殆ど聞いていても分からない。中国に翻訳してみて、と言ったが、まるで分からないという。英語の力がまだまだである。
と言うわけで、英語に不満はあるけれど、正直さに免じて、入試の二次試験に通るなら私達のところで受け入れることにした。
うちの博士課程の二人さん、ご苦労様でした。
カテゴリ:薬科大学
さえ おさえちゃん:
目覚ましは5時半に鳴るようにしているんだけれど、瀋陽に戻ってからちゃんと起きて、シャワーを浴びて大学の研究室に6時半までいったのはまだ二回。たいていは寝直して、起きるのは6時過ぎ。
ちなみに今朝の日の出は6時17分だって。日の出と共に目覚めるのが自然かも知れませんね。
目覚ましよりも寝坊していると言っても今日で瀋陽1週間だし、大学の後期が始まってまだ今日で5日だから、まあ半分近くはきちんと暮らしているってことでしょう。
ただ気にしているのは、歩いていないってこと。二度くらいは大学に着いたあとグランドの周りを歩いたから、ともかくとして、昼に1時間くらい歩きに出掛けようと思っているのに、昼のパンを食べたあとは面倒くさくって、そしておまけに眠いものだから止めました。
歩くことこそ健康の基本と言うことを認識しているのだから、実行しなくっちゃいけませんね。さえだって、このあいだの夏、身体がつらいのに一生懸命歩こうとしていましたよね。
今日は、修士に入りたいという学生の面接と、関さんの論文で彼女に会うことが大きなこと。
関さんは、昨年9月に10ヶ月振りにここで出合って(つまり、長い産休のあと大学にやっと出てきたというわけ)、論文のことで会いに来るようにと言ったのに、それをやっと今、会いに来るのですよ。
その次はぼくがさえのために日本に行った11月27日で、身支度をしたぼくがエレベーターから1階で降りたらそこにいて、「どうしているの?」と聞いたら、「今これから授業で。。」なんて、トンチキを言っていたっけ。
どういうつもりなんでしょうね。
カテゴリ:研究室風景
さえ おさえおさえ おさえちゃん:
関さんに久しぶりに会って話をしました。彼女は論文のdeadlineがこの6月なのに、しかもぼくに完全にdependして平気でいるのに、ぼくは殆どいらつかずに、彼女のために力を貸しました。こんな自分が、自分でも信じられない感じ。
さえの寛大さ、そして度量の広さがぼくに乗り移ったんだと思います。そう。さえは間違いなく、そして嬉しいことに、ぼくを成長させたのですよ。
さえの看病にぼくが日本に行ったのが昨年の11月。出掛ける前に、関さんのために、論文のResultsのところを書いていました。
そしてさえの枕元でそれ以上やりたかったけれど、結局それは無理でしたよね。張嵐の論文の方が緊急だったし。どうしてもそれを仕上げなくてはならなかったし。何よりもぼくが書かなくっちゃ、先に進まなかったし。
間さんが学位論文として書いていた内容は、今回の論文には使いたくありません。実験報告以外はコピーペーストから出来ているとしか思えないから、そんなところを使って論文として出したら大恥をかいてしまうでしょう。
と言うわけで、関さんに結果のところを渡して、これにIntroductionと、Discussionを先ず自分で書きなさいと言いました。もちろん、関さんはOK。
きっと一月もあれば、完全な形に出来ると思います。関さんは、考える力とまとめる力はあるんですものね。実際、ぼくだって彼女から沢山教わっています。
さえ。ついでながら、関さんの昨年3月生まれの男の子は、金冠旭というすごく立派な名前ですよ。写真を見せてくれたら、典型的な可愛い中国の赤ん坊。
カテゴリ:薬科大学
さえ おさえ おさえちゃん
一寸前に、この大学の修士の学生で、うちの研究室の博士に来たいと言ってきた学生がいるって書いたでしょ。仮に趙さんとしましょう。
この趙さんが、またメイルで大学院の成績を送ってきたので、本気で希望しているのかな、じゃ、会おうかと思って、今朝8時半に来るように時間を指定してメイルをだしました。
もちろん、それで都合が悪ければ、アポを取るために電話をするようにと、ぼくの携帯番号も書いておきました。すると Thank you って言ってきたじゃない。
誰だって、それじゃその時間にここに会いに来ると思いますよね。
と言うわけで、今朝、8時半に教授室で彼の来るのを待っていました。この間の修士受験生の面接と同じように、うちの博士課程の院生二人にも付き合ってくれるよう頼んで置いたので、三人で待っていたわけ。ぼくがこの二人の院生にお茶を煎れたりしてね。
ところが時間を5分過ぎても来ない。困ったことには、こちらの携帯は教えておいたけれど彼のを知らない。
すると、面接を頼んであったうちの院生の一人が(どうやったのか知らないけれど)、彼の電話を調べて電話をして、そして言うには「手違いで来られないそうです」「???」
それで、趙さんが電話に出ているというので、受話器を受け取りました。すると趙さんは「病気です」というじゃない。
それなら、どうして事前に連絡をしないのか?というのは当然の疑問ですよね。会う時間を決めてあって、それに来られないなら事前に連絡をして断るのが世界共通のルールじゃない。ぼくの電話番号だって教えてあるし。
そういったら、また連絡しますって言う。冗談じゃないよ。もう次はないよ。もう趙さんに関してはお終いってことだよ。
修士を終わろうかという男が、世の中のつきあいでは当たり前のこんなことが出来ないなんて、どういうことでしょうね。ひょっとして、中国ではこっちが常識なんだろうか。そうだとしたらねえ。さえ。考え込んじゃうね。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ:
今日は日曜日だから寝坊しようと思って目覚ましを止めておいたのに、5時前には目が覚めてしまって、やむなく浅田次郎の「中原の虹」を読んでいました。切りまで来たところで7時。
だから今日は朝日に照らされて歩いてきたんですよ。
さえが入院していて、ぼく8時過ぎに病室に着くと、部屋が南向きだったので陽がさえの顔に当たっていて、それでもさえは寝ていたっけね。カーテンを閉めて、顔に日があたらないようにして、さえの顔を眺めていました。
あの頃は、この体調の悪いのが治ればうちに戻れると、医師が言っていましたね。さえも、そう思っていたし、ぼくも、そう思っていた。夏に身体の弱ったさえを日本のうちに残して、ぼくが瀋陽に戻るとき、さえは「あと一年生きられないかも知れないわね」って言ったっけね。
「そんなことないよ。今の抗がん剤で身体が弱っているのを元に戻して、先ず元気にしなくっちゃね」とぼくは言ったような気がします。さえの余命に直面することが、ただ怖かったのです。
さえが2003年に手術をして以来、ぼくたちは何時もさえの肺がんの進み具合を正確に認識して、そのさきどうするかを話し合っていましたよね。でもあの頃から、嘘をつき始めたと思います。冷静な真実ではなく、心の欲するところに具合の良い言葉を言うようになっていたんじゃないかな。
さえが11月に入院して、でもぼくは、今の状態がきっと良くなると思っていたんですよ。本気だったと思うけれど、良くなって欲しいと本気で思っていたから、このまま駄目なのかもと思ったかも知れないけれどきっとそれは全身で否定したのでしょうね。何処かで嘘を言う自分と、科学者のぼくとない交ぜの自分だったというのが真実でしょう。
大学に着いて、グランドの周りを回って歩きながらも涙が出てきて、鼻をすすり上げながら歩いていました。人に見られちゃう。でも、まだ気温は零度以下だから鼻をすすりながらと言う状態は、寒ければ当たり前ってこと。。。
カテゴリ:薬科大学
さえ おさえちゃん:
ラボに来てメイルを開いたら、昨日来るはずなのに連絡なしに約束をすっぽかした趙さんから、メイルが入っていました。
「先生、何理解か間違いかもしれないですから、この事件がある。私は朝の事故にどうも申しわけありません。何日か、私は貴方の実験室に謝罪しに参ります。このことの前に、貴方に申せました。」
何だか、ちっとも自分は悪かったと思っていないみたい。
でも、昨日はね、ぼくが英語で話して、十分意を通じていないといけないと思って、その後暁艶に電話を渡して中国語で彼と話をして貰ったのです。
約束を守れないときに事前に断ることの出来ない人じゃ、一緒にやっていくことは出来ないから、これはお終い、と言うことにしたのです。
あとで彼女に、「会う約束をして、その時間に行けなくなったとき、そのまま知らん顔をしてすっぽかすって中国では当たり前なの?」
暁艶は「そんなことはありません、そんなことをしたら誰からも相手にされなくなってしまいます。だから、あり得ません」と言っていましたが、この趙さんのメイルを見ると、何とも思っていないみたい。ぼくを怒らせたから、それを謝れば済むと思っているみたい。。。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
毎年卒研生が来るでしょ。何時もはさえと十分検討して、彼らのテーマを考えるけれど今年は無理でしたね。
昨年秋の段階では3人来ることになり、一人は大学院を受験をするというので直ぐには来られないけれど、二人が実験室に来て実験を始めました。
ところが、そのうちの一人の呉桐は東邦大学大学院に推薦で入学をしたので3月の繰り上げ卒業ということになり、そのためにうちの研究室から去っていきました。
幸いちょうどその頃、卒研生をしたいと言ってきた学生がいて、ちょうど一人空いたのでOKしました。この学生は元々はうちの大学院に進みたいと言っていたのですが、成績がいいので北京の協和大学を受ける気になっていたのですよ。
最初から大学院はうちの研究室を受けると言っていた楊洋さんは、入試結果がでてみると基準点に及ばなくて、あえなく落第だそうです。気の毒だけれど仕方ないですね。それでも、もちろん卒研はここでやることになっています。
北京の協和大学に行きたいという張微さんは、滑り止めに故郷の病院で就職試験を受けているのでまだ薬科大学に戻ってきていませんが、この二人の卒研テーマを決めていませんでした。
博士3年生の張嵐、修士3年の黄澄澄と王月の三人は、今期は学位論文提出で忙しいので、修士二年生の張笑、朱Tongにそれぞれ指導をして貰うことにしました。
楊洋(張笑):NOS2発現制御にSrc family protein kinasesが関わっているか?
張微(朱Tong):Neu2で最初に影響を受ける分子は何か?
カテゴリ:生命科学
さえ おさえ:
アマゾンからメイルで時々広告が届きます。その中で興味を惹かれた本がありました。
Life, The Science of Biology, International Edition, pblished by Palgrave Macmillan; 9th edition. (2010/02)
David Sadava, David M. Hillis, H. Craig Heller, H. Craig Heller
価格: ¥ 7,712 このレビューを見ると:
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大学初年度向けの生物学の入門書。生物学のほぼ全分野を網羅しており、専門以外はもうこれ以上学ぶことはないだろうとしても、納得のゆくところまでできる。
高校生物の復習から専門分野への橋わたしに十分で、やさしい事柄から段階を追って懇切丁寧に解説されていてストレス無しに読み進められる。図は、カラーで美しく、見ていて楽しい。
さらにホームページが用意されていて、そこでインタラクティブに復習をすることができる。アニメーションやクイズもあり、楽しく学ぶことができる。
英語も平易で、読みやすく、生命科学分野を専攻するならば、早い段階から英語になじむために挑戦するのも良いだろう。
こちらの教科書が平均200ページほどなのに1200ページ弱あるので、日本では1年通年の講義でもやれないだろう。1セメスター用の教科書であるということには驚かされる。ホームページでノートの取り方など事細かに解説してるのもうなずける。
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こういう本は見なくっちゃと思って、Amazonに注文しました。ちょうど3月半ばに川西老師が日本から薬科大学に来られるので、お願いしたところ「本一冊なら」と言うことでしたので、注文しました。届くのがとても、楽しみです。
それにしても、今はこうやって画面を見ながらクリック一つで本が注文できるのですから、良い時代ですね。
惚けたときに、惚けても、ネットでどんどん注文するかも知れないと思うと、怖いけれど。。。
カテゴリ:研究室風景
さえ おさえ おさえちゃん:
何だか猛然と忙しくなりました。ただし、ぼくは学生が用事があってきたとき、「忙しい」と言って追い返したことは、自慢じゃないけれど一度もないはずと言って自慢しているのは、さえはよく知っていますよね。
日本の王毅楠と彼の研究を検討したとき、瀋陽のぼくたちの研究室でできることがあるんじゃないかと話して、彼の指導教授に了解を戴いて、じゃあこっちでもやろうかと合意に到達したのを前に話したっけ。
ところがそれから時間が経って、詳しいことを覚えていないので尋ねたのですよ。そしたら、今このような論文を書いているから見て欲しいと言って送って来たのがひとつ。
あと2月に論文を投稿していたのが、レフェリーの反対意見満載で戻ってきたのが一つ。こんなこと出来るわけないって感じ。
本質的には、Galの発現を増やしたらGM3が増えて細胞が良性になり、Galを減らしたらGM3が減って細胞の悪性度が増した。これを詳細に検討しているし、そのうしろのシグナルも十分調べていますよね。最終的には○○遺伝子が制御されたからであるという内容ですよね。
GM3を抑える実験もしていますが、GM3を増やす実験をしていないですね。これは簡単に出来ますよね。追加しましょうか。
それと、張嵐の論文をためつすがめつ眺めているうちに一週間経ってしまったので、もう待ったなし。
ま、忙しいのはいいことですよね。おさえちゃんにだけは、ぼやきながら、少しがんばりましょうか。
コメント:
無題 ookawa さん
偶然に楽天ブログを開いて驚いてます。昨年から更新されてませんでしたのでブログをお止めになったのかな?と思っておりました。たまに先生のご様子を覗いてました。新年早々の悲しいお別れにお悔やみ申し上げます。先生は気丈に現場復帰されてらっしゃるようですが、くれぐれもお体を大切にしてください。ブログからのメッセージで失礼の段、お許しください。 (2011.03.08 16:32:42)
瀋陽からこんにちは shanda さん
WOW。こうやって再会できるなんて嬉しいですね。
たった一人の世界に取り残されたと言う認識なのですが、あ、一人じゃないんだ、と明かりが灯った感じです。 (2011.03.08 17:18:35)
メイルアドレス? shanda さん
うさぎさんのメイルアドレスは変わったみたいですね。教えてくださいな。
わたしの以前のアドレスにメイルを下さると嬉しいです。 (2011.03.09 09:24:47)
カテゴリ:研究室風景
さえ おさえ:
この間の、趙さんという修士学生の指導教官は何建勇老師で、彼にはこの大学に赴任する前に一緒に会いましたよね。それで、何老師には前から連絡を取ろうとしていたのですが、やっと昨日連絡が付いて、今朝彼の研究室を訪ねました。
指導教官によると、趙さんはまだ博士課程でどこに進むか決まっていないそうですが、いろいろと訊いてみると彼の評判は余りとは言えないものでした。ですからこれできっぱり彼のことは放念しました。
ついでに、私達のところの博士課程に進みそうな候補はありませんかとちゃっかりと尋ねてみました。候補がいるなら自分を売り込まなくっちゃ、と言うところです。
今朝は、修士で私達のところに来たいという学生を一人面接しましたよ。今のところここに来ることが決まっている進学候補生は一人ですから、まだゆとりがあります。会って見ると湖北省出身の女子学生で、2009年9月に、瀋陽医学院からこの薬科大学の薬学部の3年生に編入で入ったそうです。
いろいろと話していると、面接に備えて十分の用意をしているし、応答に迷いがなく、すがすがしく答が返ってくるので第一印象はOKでした。英語もまあまあですしね。修士を終えたらさらに続けたいし、研究の道に進みたいと言っているので、気に入りました。
これでこの秋に入ってくる修士の学生の候補は、ひとまず二人になりました。良いテーマを用意したいですね。さえと一緒に考えましょう。
コメント:
Re:修士進学の候補生(03/09) 林音知 さん
I feel very honored and pleased to join in your team.
May you everything smoothly! (2011.03.12 14:11:59)
カテゴリ:研究室風景
さえ
ぼくたちの研究室の朝の始まりは朝8時って決めてあるでしょ。挨拶するように言っているから、皆8時までに教授室に来て「お早うございます」って言っていきますよね。
この頃、それよりも遅く来る学生が目立つようになったので、来週の月曜日から、8時までに来なかったら、罰金10元と宣言しました。
こんなこと大人げない、って気もしますが、「約束は守る」と言うことを徹底させようというのが狙いです。日本の社会では「約束を守る」というのが基本ですものね。
もちろんここで日本の規範を守るように強要していいかというのは悩みます。でえも、私達のラボでは老師は全く威張っていませんが、ほかの研究室を見ると、そのようなラボはここでは珍しいのですよ。たいてい権威主義、事大主義がまかり通っている見たいです。
そういうことが一切ないぼくたちのところなら、一つくらい守るものがあってもいいでしょ。
この罰金制度も、ま、一ヶ月位したら百元くらい集まるでしょうし、研究室のパーティの足しにはなるでしょうから、そのくらい続けてみますね。
カテゴリ:インターネット
さえ:
来週から朝は8時までに来ないと罰金!と言う掲示を出したら、今朝はみんなにこにこしながら8時までにやってきました。効果満点ですね。
やれば出来るんだ。でもいつまで続くでしょうね。年中こんな縛りを置いておきたくないので、何処かで引っ込めるタイミングが必要ですよね。百元くらい罰金が集まったらと言うことにしていますけどね。
二日前にこのブログに嬉しい訪問者があったのですよ。ずっと以前、ODNのマイページでブログを書いているころ、ブログの上の友だちのひとりが、たまたまこの薬科大学の日本語教師の加藤先生の教え子だったのです。
その頃、もう日本に帰任した加藤先生が(彼のホームページの開設を手伝ったのですが)分からないことがあるというので、ちょうど日本に用事があったときに神戸にある彼のうちを訪ねました。
そのとき瀋陽日本人教師の会として編纂した歌の本を持参して、彼女にも買って頂いているのですよ。そういうお付き合い。
さえがいなくなっちゃって、暗闇で途方に暮れているときに、向こうに明かりが灯ったみたいな気持ちです。
ODNの時にはネットのおともだちが沢山あったのですが、ODNが閉鎖されてCocologに引っ越したとき、そこにリンクを書きこんだのですけれどね、Cocologがここからはアクセス不能になってしまいました。と言うわけで、たどりようがありません。
これがネットの良いところでもあり、困ったとこでもあり、ということでしょうね。
カテゴリ:研究室風景
さえ おさえ おさえちゃん:
先ず今日はね、朝書いたように、ネットのお友だちと再会を果たしたでしょ。
そして朝のうちに、東工大で秘書だった志をりちゃんからメイルが来ました。あのとき以来、4回目くらいかな。ぼくが落ち込んで食べていないといけないからって、「私、ちゃんと監視しますね」と言ってメイルが来るんですよ。
中学の時の仲良しの○○からもメイルが来ました。「元気ですか、と訊くのも野暮だよね、と言う書き出しのメイルを送ってくれました。みんな暖かく、ぼくが立ち直るよう見守ってくれます。一人じゃないんだな、と思ってとっても嬉しいです。
でも夕方国際交流処の葛さんが給料を持ってきてくれて、「どうしています、今は」と言われたとき、とっさに何も言えなくて、代わりに涙が出ちゃいました。葛さんは、ぼくが瀋陽に戻ってきたとき、最初に空港で迎えてくれた薬科大学の人なんですよ。彼女も泣きながらぼくを優しくハグしてくれました。
しっかりしなきゃね。
実際、しっかりしなくっちゃいけないのですよ。今週の土曜日から今学期の研究室のセミナーを始めることにして、最初はぼくがやろうと思いました。ぼくたちの研究にも関連があって面白いと思った論文を選んで、PPTを作って全員に配ったら、今日の午後3時ころ、張嵐が「それ私が前に紹介しました」って言うのです。
え、まさか、張嵐の話を聴いていたのを選んだのかと大恐慌。実は、私が11月末から日本に行ったあとも研究室はセミナーを続けていて、12月11日に彼女がやったのですって。それを知らなかったわけで、ぼくが惚けた訳じゃなかった。。。
いや、もちろん彼女はぼくにセミナーで話した内容をメイルで書いてきているはずだから、それを見たのが頭に残っていて、山ほどある論文の中から知らずしらずに選んだのかも知れないですね。
土曜日のもう一人の演者は、クラシックシリーズをすることになっていて、今回は暁艶が当たっています。そのカルモジュリンとガングリオシドの話は一回では終わらないので、次の土曜日の黄澄澄にも分担して貰うことにしていました。
それで、やむなくぼくは黄澄澄の割り当てを貰って話すことにしました。だけど、それはこの土曜日ですよ。中身は難しくて直ぐには何のことか分からないし、やれやれです。頭の社会復帰は大変なこと。。。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ おさえちゃん:
昨日はね、スーパーマーケットの大福園に行ってきました。ちょっと北の方にあって、遠い方のスーパーですよ。前にさえも一緒だったとき、帰りはタクシーだったでしょ?
ぼくが何時も教授室に閉じこもっているのを暁艶が心配して、散歩に連れ出そうとしているので、じゃあ、買い物がてら、あそこまで出掛けない?と言ったのです。
気温は2-3度。でも、途中の公園には着ぶくれているけれど老人が沢山群れているし、犬を連れて散歩している人たちに会いました。うちのアパートでは小さな犬しか見かけないけれど、公園を歩くと、シェパードとか、シベリアンハスキーを連れている人たちがいます。
うちの近くの家楽福では質の良いベーコンを売っていないので、大福園に行ったのでしたが、ここでもありませんでした。仕方なく焼き豚400グラム21.5元を買いました。
日本円にすると100グラム当たり70円くらいですが、給料価値の換算では350円になるので、日本並みです。インフレが進んでいるというのを、ひしひしと感じます。
砂糖の入っていない食パンがまだ2.9元で売られているので嬉しくなって二個買いました。その隣にパウンドケーキふうのがあって、中でも一番高価なのを買いました。
でも、バターが入っていないだけじゃなく、入っていなくてもいいけれど、何かおかしな油が入っているのか、あとでお腹が不快で、気持ち悪くって、晩ご飯に差し支えてしまったくらい。
まだまだ、この国にはおかしな食べ物がありますね。せっかく良い食パンを売っているのに、何でこんなにせものを作るのでしょうね。
ともかく、40分くらい歩いたのは身体に良かった、と言うのが昨日の評価です。
コメント:
メールアドレスに! ookawa さん
メイル届きました。お返事書きました。少しづつお元気になられてるご様子に安堵します。(本当はそうではないと思いますが)現場に戻られますと、可愛い??学生さんが悩ませてくれるから先生が淋しく思う時間がなくなってしまってはいませんか?フレーフレーです。 (2011.03.11 13:27:55)
うさぎさん shanda さん
励ましをありがとうございます。ともかく、たちなおらないと、義務が果たせませんものね。
昨日の地震のためでしょうか、ずっと楽天のブログにアクセスできませんでした。これが復旧したように、日本の被害がひどくないといいのですが、ネットで見るとかなりの惨状で、とても悲しいです。 (2011.03.12 12:36:37)
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
昨日の午後、日本の仙台の沖合を震源地として、マグニチュード8.8という地震があったのですって。安政大地震以来と言いますから、空前絶後の大きさのようです。安政大地震というと藤田東湖が死んだ地震ですね。
時間が経つにつれて被害の大きさが段々分かってきています。東北の街はリアス式海岸にあるので、津波に襲われて壊滅的被害のあったところもあります。10メートルの大津波を、どう想像したらよいのか、全く分かりません。
惨状に胸が痛み、これ以上ニュースを見たくないという気持ちになりました。東京の家族にメイルをしたら、直ぐに大丈夫という返事が来たのですよ。それにはほっとしました。
カテゴリ:カテゴリ未分類
さえ おさえちゃん:
昨日の午後は、鼻水が無意識のうちに垂れてきました、風邪気味と思って、午後4時にはうちに帰って、野呂先生の薬を飲みました。野呂先生が勧めてくれたので私達はそう呼んでいますよね。
正式の名前は「京都念慈菴蜜煉川貝枇杷膏」ですが、覚えられませんね。暁艶には枇杷のピーパーというと通じます。五味子や、生姜などの漢方薬が20種類くらいハチミツに溶けていますね。
日本で言うと梅肉エキスみたいな位置になるのでしょうね。300グラムの瓶が今は40元になりました。どんどん上がっています。
スプーンに一杯飲むようにと言う処方ですけれど、私は瓶を口に付けて、5-6回で一瓶がなくなるくらいの分量を、豪快にゴクリと一口に飲み込むのですよ。これが、効くのです。
これを飲むたびに何時も、あの毅然とした野呂先生を思い出します。野呂先生の忠告のお陰で、野呂先生の悪罵されたお陰で、私はきっぱりと酒を飲むのを止めたのですよね。
今日の外はどんよりと空は濁っていますが、この薬を二回飲んで、私は調子を取り戻すことが出来ました。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ:
地震の安否を気にして、東日本に住んでいる友人・知人にメイルを出していたのですよ。仙台にいる一人を除いてみんなから無事だという返事が届きました。
仙台というと、お隣の池島さんが地震情報を携えて訪ねてきて、「昔仙台にいたんですよ。しかも東の荒浜地区に住んでいて、毎朝海岸でジョギングをしていたところが、今度の津波でやられてしまったと言うことで、ショックです」と顔を引きつらせていました。津波の犠牲に胸が痛みます。
東大の柏キャンパスに通っている留学生の○○くんからは、「怖かったあ。自分たちは無事だったけれど、研究室の中はめちゃくちゃになった」と言ってきました。5階にあるから、相当揺れたでしょうね。建物は無事でも、揺れれば部屋の中は大変なことになるにちがいありません。
日本のぼくたちのうちも、外見は無事に見えても、今度日本に戻ったら、中は足の踏み場もない状態かも知れませんね。さえがいない家に、ぼくは全然帰りたくないけれど、整理するためには、戻らないといないでしょうね。
それは置いておいて、私はここで出来る限りのことをしましょう。つまり、地震については具体的には募金に応じる以外に何も出来ないのですもの、ここにいて、研究に、論文書きに、没頭しましょう。さえ、応援してね。
先週、また一人修士に入りたいという女子学生があった。仮に林さんとしておこう。会って見ると林さんは、ちっちゃいけれど生気あふれている。
医学院にいたけれど物足りなくて、薬科大学の3年生に編入したのだという。薬学院と言っても、医学部ではなくて、医療科あるいは看護科という感じだろうか。科学をもっと身につけたくて薬科大学に移ってきて、今では修士を終えたら、きっともっと勉強を続けると思いますなんて言っている。
私が影響を与えたわけではなくても、科学に興味を持ち、生命現象を自分で解明したいと思っている学生は大歓迎である。
4月にある二次試験に通ったら是非いらっしゃい、と林さんに言って面接を終えた。ついでに、第二週の3月12日の度王日から研究室のセミナーを再開するので、よかったら、是非いらっしゃいと言っておいた。
研究室のセミナーは今年度の最初から、今まで通り最新の論文を読んできて紹介するシリーズと、もう一つ新人向けに、今までの糖鎖生物学で重要な研究が沢山出ているけれど、是非知っておいた方がよい論文を過去に遡って紹介するクラシックスシリーズとの二本立てにしている。
3ヶ月研究を離れていたので、私が少しでも早く社会復帰するためにはセミナーで話すのがよいと思って、通常シリーズの初日に立候補した。somite oscillationの論文がとっても面白かったけれどその背景を理解するのが簡単ではない。沢山読まなくてはならない論文があるけれど、多くはここからはアクセス不能である。
それで、ヘパラナーゼがHGFを誘導するという論文を選んで、PPTを作って事前に参加者に配ったところ、張嵐が私が以前紹介しましたという。話を聴いていた論文を選ぶなんて、なんとまあ惚けてしまったたかと慌てたけれど、私が日本に行って不在の間のセミナーだった。それで胸をなで下ろしたけれど、それを話すわけにはいかない。
用意する時間が一日しかない。それで、クラシックシリーズで次の週の演者に指定するはずの論文を話すことにした。昔の私達の論文で、カルモジュリンとカルモジュリン依存性酵素がガングリオシドで制御される機構を詳しく調べた論文である。
よくよく頭に入っていると思っていたけれど、説明するとなるととても難しい。昔から、この話をするとたいていは殆ど分かって貰えなかったっけ。
分かって貰えないのはこちらの説明の仕方が悪いのだ、と思って、カートンを作って色づけして、反応が理解しやすいよう工夫して見たところ、結構よかったみたい。
今のセミナーは公開で、この土曜日は今の4年生が5-6人が来ていたし、林さんも初めて来ていた。これからも、彼らが分かるように話すことを、皆が目指して欲しいと思う。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえちゃん:
日本の地震がここでも大きく報じられたらしく、そのため、沢山の人から見舞いの電話が来ました。「心配して下さってありがとう。日本の家族も、友だちも、ここから日本に行った学生もみんな無事だったそうですよ。」
劉さんからも、あの先生からも、この学生からも、尋ねられました。「ご無事ですか?」
65期の李さんからは、さえの死を悼んでメイルが来ました。覚えているでしょ?李さんは同期の張勇くんから青蛙って呼ばれていた女子学生ですよ。あんなに可愛いのにね。あのあと千葉大学に行っていたから、何度も会っていますね。
「2003年の6月の卒業のときに、大学の広場でみんなで一緒に輪を作って踊ったこと、みんなが楽しい笑顔だったこと、さえも笑顔で、さえを思い出すときは何時もさえの優しい笑顔が浮かぶこと、だから自分も笑顔になること」が書いてありました。
「だから先生も、泣かずに、どうか笑顔になってください」って。
64期の先さんのことは覚えていますよね。彼女たちには講義をしたことはないけれど、胡丹が遠心機を使いたいと言ったとき、世話になりましたよね。あのあと先さんは。シンセンに行きましたっけ。
先さんは(わたしに)「電話したいのですが、 でもきっと泣き出しますから、掛けられません。でも、先生は一人じゃないですよ,私たち学生がずっと先生のことを見守っていますから。ちゃんとしていてくださいね。そして学生の成長を見守って、あとで貞子先生に伝えてくださいね」って言ってきました。
こんなに優しい人たちに囲まれて、ね、さえ、ぼくたち中国に来て、本当によかったよね。
カテゴリ:カテゴリ未分類
さえ:
地震と津波による被害は想像を絶するものです。犠牲者の冥福を祈ることしか出来ません。でも、今後この教訓を是非生かして災害に強い日本に作り直して欲しいと切に思いますよね。
暗いニュースが続く中での救いは、「日本人の冷静さが世界に感慨を与えている」と言う報道があちこちで見られたことです。
インターネットがソースなので元を書くだけにしましょう。
「Chikirinの日記:大惨事とミラクル」
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110313
「ワンズワード代表松岡祐紀/アゴラ:我々は音を立てずに復興する」
http://news.livedoor.com/article/detail/5410397/
「米各紙、日本人の「がまん」「地震への備え」に注目」
http://www.asahi.com/international/update/0313/TKY201103130129.html
パニックになって暴動を起こしても不思議はないときに、お互いを思い、助け合える日本人を誇りに思います。
カテゴリ:インターネット
2月末に瀋陽に戻って以来、ネットの接続が遅いと感じ続けています。
これは、一つには南の國の○○カクメイが、ここに及ばないようにいろいろと規制しているためかと思っていました。ま、仕方ないか。
実際、日本のホームページの殆どは(と言う言い方は漠然としていますけれど)接続できません。これも、しょうがないか。
Gmailへの接続も、とても遅いです。でも、Googleがこのくにと余りうまくいっていないから、速度が遅いとも思えるし、例の規制がここに及んでいるからとも言えるし、理由は分かりませんが、待っているうちには繋がってメイルは出来るから、まあ良いとしましょう。
それはまあ、いいとして、米国にあるNCBIのDatabaseにアクセスできないのです。これが出来ないと私達の仕事は全くお手上げです。NCBIのDatabaseは商売道具そのものです。ここに遺伝子情報が集積されていますし、それらを使うためのソフトも完備しています。
アクセスできないと、遺伝子情報が分からない、Primerの設計が出来ない、ds siRNAの設計が出来ない。二つの遺伝子配列を比べられない。20個くらいのヌクレオチド配列が、どの遺伝子のどこと一致するのか分からないつまり実験計画が立てられないし、実験の評価が出来ない。全く仕事が出来ない。。。
ネットの接続の遅いのには、確か2004-2005年くらいはとても悩まされたと思います。これは全体が遅かったのでしょう。論文投稿はそ’の頃から世間ではネットを使って行うようになりましたが、ここからはあまりにも遅くて投稿できずに、日本に行ってネットを使って投稿したこともあります。
それが2006年くらいからは改善されて、ストレスを大して感じないで使ってきました。
2007年からはいろいろのHPへのACCESSが遮断されてきましたが、それでもアメリカのNCBIのDatabaseにはアクセスできました。
これが続くようですと、ここでは研究は続けられません。ここで今までの集積で講義をするだけなら出来ますが、研究室を持って、大学院生を育て、しかも一流の研究者に育てようと思っているのに、それが出来なくなります。
これが続くようなら、不本意ですが、ここでの研究を諦めなくてはなりません。
瀋陽に戻ってきてほぼ二週間ですが、今後のために記録として書いておきます。
カテゴリ:日本で生活
さえ おさえちゃん:
今朝、お隣の池島先生はぼくのところに入って来て、「今の日本は大変みたいですよ」。
そりゃそうでしょう。今の日本は、とんでもないことになっていますよね。
しかし、池島先生の真意は「東京にいても遭難ですよ」と言うことのようです。トイレットペーパーや、ガソリンどころか、食料品がどんどん売れてしまい、日中仕事で務めに出ているひとり者は帰り道にコンビニに寄っても、おにぎりも、弁当も、パンも、食べ物がすべて売りきれなんですって。
先生の娘の会社は社長が安全な関西に逃げてしまって休みだそうです。だから食べ物の手当には困っていないはずですが、「彼女の家族で東京から避難する人があったら、関西で三人までなら受け入れると言うことです」って。
福島の原発がチェルノブイリみたいになるかも知れないというので、それが可能な人は、東京脱出を計っているのですね。
ところが、もし行こうと思ったって、東京から出る新幹線、バス、皆満員なんですって。
フランス人も、中国人も、日本から脱出しているのだそうです。池島さんは家族に瀋陽に来たらと言ったそうですが、飛行機はずっと満席になっているんだそうです。
ぼくたち何時もこういうときは気が利かなくて、ぼやぼやしていますよね。全然、気が回らないんですよね。池島先生に言われて、そうか、なるほどねえ、と感心しました。
遅まきながら、息子の○○に「東京が危ないなら、脱出して、瀋陽に来ない?こっちの受け入れは全く問題ないから、何時でもいらっしゃい。飛行機の席を手に入れるのが大変みたいだけれど」と書いて送りました。
そしたら、「いろいろやらなくてはいけないことがあるから、東京を離れられません」だって。そう聞くと、急に心配がつのりますね。
懐中電灯や、食料品が売り切れて品薄なのは、買い占める人がいるからでしょう。せっかく、危機に臨んで日本人は気品にあふれて行動したと言う、外国の記事を読んで、嬉しかったのに。
カテゴリ:友だち
さえ:
朝、小呉から電話が掛かってきました。あのウーさんですよ。ここに来る前の研究所で、ぼくたちの研究室でポスドクをしていた小呉です。何時も、ぼくたち二人で冗談ばかり言い合っていた、仲好しの小呉。
さえが永眠したときも、直ぐに北京から電話をくれました。
今日は、北京と上海にいる自分の友だちが糖鎖生物学の勉強をしたいって言っているけれど、どう?、出掛けて話して貰える?4月に入って、出掛ける時間がある?と言う電話でした。
瀋陽で落ち込んでいるにちがいないぼくを引き出して、元気づけようと思って考えたに違いありません。優しい小呉ですね。
小呉と話しているうちに、ぼくは思わず涙声になってしまいました。
ぼくはさえに置いていかれたからと言って、一人ぼっちではないんだ。沢山の友だち、仲間、学生がいるんだ。。。
そう、生きていくために元気を出さなくっちゃ、ね。さえ。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
昨日はね、午後、なんだかジーパンが緩くなったみたいで、おかしいなと思ってお腹を触ると、ベルトが締まっていないんですよ。ベルトをしていないのではなく、バックルが外れちゃっていました。バックルをベルトに留めている革がすり切れてしまったのでした。
これは、ここに来る前にぼく達が世話になった研究所の購買部で、一番高価なのを買ったのですよ。だって、革の研究所なのですものね。十年、良く保ったと言っていいでしょう。
もちろん、ぼくのことだから、残った部分を直してバックルをちゃんと付けたのですが、前より10センチ短くなってしまって、最大にしても一寸きつい感じ。
それで、夕方、暁艶と徐帥に付き合って貰って、近くの家楽福に行きました。あの大きなスーパーの1階にいろいろの衣服を売っている店があるのですって。
最初の店では結構気に入ったのがありましたが、199元というので、安くしない?と訊いたら、問題外という顔で断られてしまいました。何だか気まずくて、格好悪くて、店を出ました。
次の店では、ま、いいか、と言うのが119元でした。その場でリサイズしてくれました。
道々、彼らに話したのは、今はズボンは、パンツで、その中に穿く下着は、男はショーツで、女はパンティだということ。
彼らの間では、日本の昔と同じで、パンツは下着のことなのだそうです。
昔と言っても、42年も前ですが、ぼくがシカゴにいた時、緑色のズボンを買って得意になって穿いてラボに行ったら、女性のテクニシャンが「Oh. nice pants」と叫んだので、ぼくは、下着が出ているのかと思わずドキッ。
それで、ズボンはパンツ、パンツはショーツと覚えたのでした。
卒研生の徐帥くんは、年男で、真っ赤なコート、真っ赤なジャージを着ています。年男だから?と訊くと、ジャージの下のTシャツも、靴下だって赤だと言って、ちらりと見せてくれました。
「そんなら、ショーツも真っ赤だよね?」
YESと彼は答えました。「見せてよ、写真に撮るからさ」と頼んだのですが、(そこに座っている女子学生の)「○○さんも年女ですよ」と話をそらされてしまいました。
「二人一緒に写真に撮る!!」と叫んだのですが、まだ本気にして貰えません。。。
コメント:
Re:ベルトにパンツにショーツ(03/17) とある年男 さん
今、日本中の若者たち、パンツ=ショーツと認識するほうが多数でしょう。中国の日本語の分かる若者たちもそう思いこんでしまうのは多分アニメのせいでしょう。
中国では、年男と年女たちは、赤色は幸運を呼び寄せるという民族的な伝統の故、赤い服を着るんでしょう。
誰だって、下着の色を聞かれたら当然恥ずかしくなるでしょう。人前で写真まで要求されたらなおさらだと思いまいませんか。 (2011.03.18 13:25:32)
あらら、済みませんね shanda さん
でも、もちろん、冗談で言っているのですよ。
「見せて」と言ったって見せて貰えるはずのないのは分かっているし、「写真撮らせて!」と言っても、そんなの本気じゃないのは、誰でも分かりそうなもの。
だから、読む人が、「にやり」としてくれたら、それでいいのですよ。 (2011.03.18 16:51:10)
Re:ベルトにパンツにショーツ(03/17) とある年男 さん
もちろん冗談だと思うんでしょうが、さすがに人前ですから。でも、多分そんなに気にしていないでしょう。別にshandaさんが謝らなくてもいいと思います。 (2011.03.19 16:29:37)
カテゴリ:研究室風景
さえ:
11月に入院したさえの枕元で、論文を書いていたでしょ?WiMAXを契約して、PCがどこでも使えるようにしたから、それが可能だったのです。いまは、良い時代ですね。
その時書いていた論文のうち。一つはもう投稿したので、審査結果を待っています。もう一つの論文は、さえの死に伴う混乱で2月いっぱい手が付かず、瀋陽に戻ってからやっと検討を開始しました。
論文のどこが一番大事かというと、もちろん実験内容が大事だから「Results」はしっかり書いていないといけません。研究に慣れない人は、ここをどう書いていいか分からない。新人は、人まえで発表する時、実験結果の図を皆に見せても、それを言葉で説明できません。ここをしっかり書くには、研究の慣れが必要ですよね。
「Introduction」はその研究の背景を説明して、この研究の意義を分かって貰って、そうか、こりゃ面白いことをやっているなと、研究の内容に誘導するところですもの、これも非常に大事ですね。
「Discussion」も、書いている人のすべてが出るところです。研究というものがどの位分かっているか、ほかの研究にも十分通暁しているか、そこで行われた研究の批判能力があるか、本当にすべてがそこに現れるので、書くときはいつも一番神経を使いますね。
今回は、博士論文を書こうかという学生だから、「results」を先ず書かせました。ぼくは全く気に入らず、これは全面的に書き直したのですよ、さえの枕元で。
瀋陽に戻る前に指令して、「Introduction」と「Discussion」を先ず書かせました。とても大変だったみたい。
読んでみて、もちろん気に入りません。そこで、ここはこういうふうに書くと言う具合の指導になりますが、英語で指導するのは大変。やはり日本人に日本語で説明する方が遙かに楽ですね。
と言っても仕方ないので、批判だけではなく、何故これでは駄目で、どうしたらいいのかと言うことを分かって貰うよう努めながら、書き直させ(これを何度も繰り返し)、そしてこちらが気の済むように直すのに約三週間。やっとそろそろ終わりにこぎ着けそうです。
そう、ほかにも書かないといけない論文があるし、これは早く完成させないといけませんね。
コメント:
論文と英語と日本語 とある年男 さん
なるほど、抜群な論文を書くには、やっぱりいろいろ研究し、そして研究に慣れなければなりませんね。適当な気持ちで研究や論文を書くなど、いい結果が出られませんね。また勉強になりました。
人前での発表などのことについて、研究に慣れることだけじゃあ、少々足りないと思います。如何なる場合にでも、人前で平然にしゃべられるには、時々自らチャンスを作り、チャレンジしてみるのがよいではありませんか?
この発想から始め、日本語だけではなく、英語や中国語も常に利用し、自分で鍛錬し、チャレンジすることによって精進できるでしょう。
(2011.03.18 17:04:35)
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
瀋陽では数日零度以下の気温が続いていましたが、昨日は10度近くまで気温が上がりました。そして夜は大雨。
研究室の学生さんたちは5時過ぎからいなくなって、どうしてかなと思ったら、皆で一緒に食事に行ったらしいです。卒業研究の学生三人も揃ったので、じゃあ一緒に食事をしようかと言うことになったのでしょう。
誘われなかったのは淋しいですが、言葉の壁が阻んでいるから無理ないですね。彼らにしてみると、ぼくがいたのでは、窮屈なだけでなく、不自由ですもの。
どちらにしても近いうちに、私が皆を誘って食事をすることにしています。
今朝は雨が上がって良い天気でした。6時15分にはうちの部屋を出て、エレベーターに乗ると顔見知りの年配の女性がいました。会えば何時も会釈をしている人です。
わたしはいい気分で、「雨が上がったし、暖かいし、いい気分ですね」とつい(英語で)話しかけたのですが、にこにこしているだけでした。
はっと気付いて「春天来了」と言ったら、彼女は嬉しそうにこちらを見て、「春天来了」と小声でつぶやいてくれました。
1階でエレベーターを降りて、玄関から外に出た時、彼女に「我先走了」と言ったら「好、好」と言ってくれました。そこで歩き出したら、彼女が堰を切ったようにいろいろと後ろから話しかけてきます。
わたしの中国語はもう種切れですし、聞いても理解出来ません。振り返ってにこにこしながら分からないと言う身振りをして、手を振って別れました。
今朝はいい気分で大学に着きました。
コメント:
言葉、交流 とある年男 さん
一人の日本人として、ご当地の隣人の方と交流できるのは、とても嬉しいことでしょう。ここの交流というのは、単なる言葉の交わすことでなく、ちゃんと気持ちをお互いに伝えられることこそ、肝心だと思います。「言葉」というものは、こういう「交流」のために、使われるのではないでしょうか?もっと気持ちを伝えられるには、もっと言葉を覚えるのも必要でしょうが、大変でしょうね、中国語ですもの。(^w^)
言葉の壁とは、心の壁より、固くないでしょう。努力すれば、もちろんshandaさんと学生のみんなと一緒に、きっとなんとかなるのでしょう。 (2011.03.19 17:49:37)
亀の歩みよりも遅くても shanda さん
中国語を覚えようと何度も思って挫折していますから、今、「ちゃんと覚えるぞ」って誓ったりはしませんが、ま、少しずつ、ほんの少しずつ。。。 (2011.03.21 10:10:10
カテゴリ:研究室風景
さえ
今ごろになって、「先生のところの修士になりたい」と言ってきた学生がいたのです。今頃というのは、1月に行われた全国一斉の大学院入試は3月はじめには結果が出て、それで基準点以上をとって合格した学生は、結果を見てから受け入れてくれそうな先生のところを回るのですよ。
あ、これは、外から受験した学生の場合です。この大学で卒研をしている学生ですと、一般的には院生になりたい研究室で卒研をしていますね。あらかじめ試験に通ったらここにとって下さい、いいですよ、と言う具合になります。
会って見ると、ここの大学の学生でした。今頃、やっと頼みに来るなんてどうして?というのは当然の疑問です。
そこのところを尋ねてみると、3月になって卒豪研究を始めたら、「学生が多くて先生に十分に指導して貰えない」というのです。
ま、そうかも知れないけれど、大学院への受け入れはどこでも決めていますよね。まだ決まっていないなんて不思議です。
そこが一番の疑問でしたが、そこの指導教官は志望者に対して、直ぐには返事をしないのだそうです。二次試験があるわけですが、それを通れば受け入れようというのが普通の返事だと思いますが、きっと、そこは志願者が多いのでよりどりみどりなのでしょうね。
この学生は会ってみると、モティベーションがあるし、その先も研究を続けたいと言っているので、先方の先生が認めてくれるなら受け入れようかと思っています。
コメント:
今更 とある年男 さん
「今頃」というより、「今更」な感じ?
でも、僕の立場から、こんなことあんまり評論を出さないほうがいいと思いますので... (2011.03.19 18:15:59)
Re:修士になりたいと言ってきた学生(03/19) shanda さん
誰でも、自分が一番良いと思う人生を選ぶ権利があるでしょう。人の人生は一回きりですものね。
その選択が人に迷惑を掛けて自分に跳ね返ってきて、人から憎まれたり、疎まれたりしたとしても、それも、自分で選んだ人生ですよね。 (2011.03.21 10:03:42)
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ
2011年3月17日のニュースによると、中国栄府は、放射能デマで食塩買い占め騒動、価格つり上げや売り惜しみを厳禁する通達を出しました。
日本の福島第1原発の事故が原因で、中国でも放射能に対する不安が広がり、「食塩を摂取すれば、微量に含まれるヨウ素のため放射線の害が防げる」とか、「海水が放射能で汚染され、今後は安全な食塩がなくなる」とのうわさで、16日ごろから各地のスーパーなどに市民が殺到し、食塩が売り場から姿を消したのだそうです。
ぼくは至って呑気でそんなことを知りませんでしたが、昨日土曜日、知り合いの先生が、「家楽福に行ったら、本当に食塩が売り切れですよ」と教えてくれました。
夕方、ぼくも河畔花園にバターを買いにいったのですが、塩が置いてあるはずのコーナーは綺麗にからっぽで、何もなし。
さえが知っているように、ぼくは料理に食塩を入れることはありませんから、なくても、困りません。このように風評で人が直ぐ動くのは、利にさといのか、どうなのか、いろいろと批判できるでしょう。
ともかく、人が何時もの買い置きを二倍にするだけで世の中の物流が大きく影響されて、それによる品薄がまた思惑買いや、投機を生むことを考えると、自分の利だけを考えるのがよいのか、全体の幸せを考えるゆとりを持つのが良いのか、難しいですね。
何時もしっかり頭を使って考えなくっちゃね。
3月20日(日)9時12分配信のRecord Chinaの続報によると、「ついつい買いすぎてしまった」人々は販売者に返品を求めているが、店も大量の塩を突き返されてはたまらないと返品を拒否。
政府の物価監視部門には、山のような塩を抱えた人々からの「店の不当な返品拒否」を訴える電話が殺到しているということです。
何とも自分勝手な、と思ってしまいますけれど。。。
コメント:
塩について とある年男 さん
塩の売れきりは中国の人々が未知の災害に対する恐怖心と誰かが伊豆的に流した噂の相互作用の結果でしょう。中国政府はもうその噂を反駁し打ち消していました。中国の食用塩は海水塩でなく、ほとんど内地の塩水湖と塩畑から生産された鉱物塩ですので、全く心配はいりません。
後の数日内に、塩の購入量は通常に戻るでしょう。そのうち、誰でもどこでも0.8元で350g/バッグの食用塩を買えます。
ちなみに、山ほどの塩を抱いてた人が返品を要求するなんて、僕もよほど自分勝手だと思います。その上、それを拒否した店を訴えるなんて、さらにばかばかしいです。そんなの、可笑しいとしか思っていません。 (2011.03.20 20:41:08)
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ おさえちゃん:
日本では男女の間で、今やぐずぐずと煮え切らない草食系男子に、肉食系女子が迫るという現象が一般的みたいですね。
ぼくの知人の誰彼を思い浮かべても、多くは草食系ですね。みんな、女性に優しいし。
おもしろ半分、冗談半分にしても、皆が結構この表現を煽るので、ますますその傾向を高めているような感じです。
中国でこのこと(言葉)は、少なくともこの科大学では、一般的には認識されていないようです。それで、説明をしました。
「なあるほど、そういうことなら、上海の男子は、皆、草食系男子ね」と言うのです。「だって、朝から晩まで働いて、デートをする時間もなくうちに帰ってきてバタンキューです」って。
ちょっと、違うように思うけれど、わりと微妙な話だから、ま、いっか。
うちの女子学生はどうなの?どうも、みんな、自分は肉食系と思っているみたい。実際、中国の女子はみんな、強いですものね。男を殴っている女性を、路上でよく見かけます。うちの女性学生も、皆気が強そうです。
思いついて、言ってみました。「日本じゃね、私などは、冗談めかして、こういうのですよ」「むかし肉食、やがて草食、そして今では無食」
「?」。無職と、無食と日本語では発音が同じだと言っても、きょとんとしています。
「じゃ、こういうのは、どう?」「むかし肉食、やがて草食、そして今は無色」と、白板に書いてみます。
直ぐに、なるほど、と言って分かってくれました。
「先生、いまはもう色気ないものね」というわけ。ほんとの老孔雀ってこと、か。
なーに、本当は肉食系なんだぞ、ぼくは、と心の中でつぶやきながら、ぼくはにこにこしていているだけです。
かれらは、日本語ではこの無色と無食と同じ発音だと言うことに感心していました。蛇足ながら中国語だと、ウーサーと、ウーシーです。
コメント:
草食?no、肉食だ とある年男 さん
中国の男たちは、たぶん日本の男たちと似ています。普段人畜無害な草食動物のように優しく女の子たちと接触しているかもしれませんが、いざとなると、例えば、告白や好きなこの前でかっこをつけるとき、ちゃんと男らしくて漢気を出して、肉食系の猛獣に変身するのでしょう。
僕は自分がこんな草食動物の皮を被ってる肉食猛獣だと自慢していますけど、shandayeさんはどうでしょう? (2011.03.21 21:35:15)返事を書く
トホホ。。。 shanda さん
いやね、肉食系だと思っていたけれど、今や人の見るところ人畜無害の無色系って感じかなあ。
日本じゃ、物足りないにしても優しい感じの草食系男子がもてるみたいだけれど、無色になっちゃねえ。もう相手にされるわけないよね。トホホ。。。 (2011.03.22 11:20:06)
カテゴリ:カテゴリ未分類
さえ:
とっても嬉しい話をニュースで見たので、見てね。
少年「先におばあちゃんを」?震災10日目救出?宮城・石巻市 時事通信 3月21日(月)10時41分配信
宮城県石巻市で20日、東日本大震災から10日目に倒壊家屋から阿部寿美さん(80)と孫の高校1年任さん(16)を救出した県警石巻署員の清野陽一巡査部長(43)ら4人が21日、同署で記者会見した。
2人を発見した場所は一面がれきで、ほとんどの家が押しつぶされていた。
任さんは体力が消耗しきっているのに、震えながら最初に発した言葉は「中に80歳のおばあちゃんがいるので先に助けて」。
署員が差し出したカイロや菓子をいったんは受け取らず、寿美さんの様子を気遣っていた。
がれきをかき分けた先に寿美さんはいた。
任さんを発見した際、署員らには寿美さんの所在が分からなかった。清野巡査部長は「おばあちゃんを気遣う言葉が最初に出た。とても謙虚な少年だ」と感心した。
本当に胸が打たれる話ですね。
コメント:
地震と津波のむこう、真情の場所 とある年男 さん
災害を超えるときこそ、家族の間のお互いへの真心を知る...
うまく言えないけど、何となくそう気がします。
ニュースから日本人が災害地域の中国人を助け、中国人がいろんな方法で日本を応援し、援助してると知る時も、やっぱり中国人と日本人も家族ではないかなと、時々思ってます。 (2011.03.21 21:59:52)
災害を越えて shanda さん
今回の恐ろしい災害が、日本と中国との間の連帯を強める方向に作用したようですね。悲しい中にも、嬉しいことです。 (2011.03.22 11:27:25)
カテゴリ:薬科大学
さえ おさえちゃん:
言葉が分からないから、もちろんこの国のいろいろな仕組みも分からないのですが、今日は大学院進学希望者についての注意を受けてびっくりしました。
この国の大学院試験はどうなっているかというと、進学希望者は、どこに行きたいか志望を出した上で、1月半ばの全国統一の一斉試験を受けます。
成績が2月末には発表されます。大学院の研究科では、志願者の成績を上から並べて、合格を決めます。その後で大学独自の二次試験があって、この成績順で学費免除になるかどうかが決まります。
進学希望者にしてみると、自分の成績が十分高ければ問題はありませんが、合格点に達していないとき、ほかの研究科を探します。
たとえばこの大学では、薬剤学研究科の合格点は、私のいる生化学科の最低点よりも高いので、薬剤学には入れなかった連中が、私の研究室の扉をたたいて、先生のところに入りたいなんてことになります。
大学全体の合格者の人数は決まっていますから、専攻が変わっても他の人の合否には影響しません。
さて、たとえば一流の北京大学大学院を志願して、そこの合格点に達しなかった人はどうなるか。入試は全国レベルで行われますから、第一志望には入れなくても、第二志望の大学院の合格点よりも高い点を取って入れば、そこに入れそうなものですね。
これは大学の入試では、当たり前に行われています。大学入試も全国統一試験ですから、成績に応じて(しかし自分の希望を出した)大学に振り分けられることになりますが、ある意味では当然ですよね。
この薬科大学には、一次志望で北京を志望したけれど、(落ちて)ここに回されたなんて人が沢山いるみたいです。
ところが、大学院入試では、志望している大学院の合格点に達しないとき、ほかの大学院に行けるかということですが。
(薬科大学大学院の合格点よりも高い成績をもっている)そのような人が、この薬科大学に来て入学を希望することを「調剤」と言うそうですが、大学間の協定がないときは駄目なのですって。
受験科目は研究科で違うので、それが条件を満たしていないといけませんが、それを満たしていても、よそを落ちてきた人は駄目と言う話です。日本みたいに大学院ごとに独自の試験があるならいいでしょうが、全国試験というのは資格試験みたいなものでしょ。何だか、気の毒な話ですね。
コメント:
中国の大学院入試=>「考研」 とある年男 さん
shandayeさんの書いてたとおりです。中国では、大学院入試は大学入試と似て、全国統一の試験なんです。一次志望は「第一志願」と呼ぶらしい。「第一志願」が不合格の場合、「第二志願」の大学院にも行けそうです。「調剤」というそうです。
但し、合格点は希望する人数によって決められます。例えば、とある大学院に希望する人数は100人と仮定すると、第一位の希望者の点数やそのほかの希望者の点数に関係なく、ただ第100位の希望者の点数によって決められます。その第100位の希望者の点数こそ、今年のこの大学院の「合格点」ということです。
ということで、中国の大学入試は資格試験というより、トーナメントの方が適切だと思っていますけど。 (2011.03.23 19:50:21)
なるほどね でもね shanda さん
「第一志願」が不合格の場合、「第二志願」の大学院にいけるのですね。その場合、第二志望の大学院の最低点は、どの段階で決まるのですか。
第二志望としている人が、実際に来るか来ないか分からないでしょう?第一志望に入ってしまうかも知れないし。複雑な要素が入っていて、間単に、最初から最低点を決められないような気がしますけれど。 (2011.03.24 19:00:08)
カテゴリ:生命科学
さえ:
ぼくはどんなに忙しくても、研究室の学生に向かって「忙しい」とは口にしないことを自分に課しているのは知っていますね。
先生が「忙しい」と言ったら、用事があってやってくる学生を入り口で拒絶することになるからです。
でも、いま、めっちゃんこ忙しいです。やることが山のようにあって、どんどん増えていきます。一つには、皆の実験です。11月から日本に行っている間、何時もメイルをやりとりしていましたが、やはり、さえのことに心奪われていて本気で取り組んでいなかったのですね。進み具合を理解して、的確に次の方向性を打ち出すために、相当のエネルギーが要ります。
2月初めに投稿した論文が、Reviewersの意見てんこ盛りで戻ってきました。一人の意見は、殆ど御説ごもっともなので、要求される実験を追加して、要求に応じて書き直せばいいのですが、問題はもう一人。
私たちはガングリオシドが腫瘍細胞の転移性を抑えることを見つけて、そのメカニズムを探っていますよね。そのためには具体的にどの分子が、正、あるいは負の方向の制御されるかを見つけて、それがどのような機構で制御されるかを調べることになります。
腫瘍の転移に関連するどのような分子がガングリオシドで制御されるかを見つけて、それが、実際にガングリオシドで制御されていることを文句のないところまで証明すると言うのは、結構大変なことですよね。これだけで、何年もかかります。
Reviewerの#2は、その分子の発現がガングリオシドで制御されているメカニズムが調べられていないじゃないか、って言うのです。メカニズムが簡単にわかりゃ、世話ないよ。これはAsking too muchです。
GM3がEGFRのリン酸化を抑制することが見つかったのが1984年。それで、ガングリオシドの生物機能に研究者の目が向いたと言っていいでしょう。
でも、その抑制が、RGFRにリガンドが付くことで起こるコンフォメーション変化を、GM3と、EGFRについている糖タンパク質のGlcNc残基が結合することで、抑制することが分かったのは2009年ですよ。
それでも、1984年にGM3がEGFRのリン酸化抑制を起こすことが発見されたので、研究者は困難な道に挑戦し続けてきたわけですね。
蛋白質なら遺伝子をいじるだけでどんどん論文は書けるでしょう。糖鎖は遺伝子の直接の制御を受けないで合成されるから簡単じゃないのです。このように、報われない分野で研究を続けている人の努力に一顧も与えないReviewerで、いいのでしょうかねえ。
コメント:
ほんとにお疲れ様 とある年男 さん
shandayeさんはほんとに教え子たちに優しいですね。文書から彼らへの思いが溢れています。きっといつでも彼らのことを見守っていますよね。とても立派な先生だと思っています。
その論文について、発表するまで、まだ前途多難のようですね。ほんとにお疲れ様でした。くれぐれも体の方もご大事にしてください。 (2011.03.23 20:12:01)
ありがとうございます shanda さん
ブログにぼやきを書いて、それが賞賛されるなんて、なんとまあ、気楽なことでしょう。
でも、現実に「ぼやく」というのは、私などが精神の平衡を保つために必要みたいな気がします。
真面目に対応してくれて、ありがとうね。 (2011.03.24 19:06:46)
カテゴリ:カテゴリ未分類
さえ おさえちゃん:
2月26日に瀋陽に戻って以来、G-mailの遅いのに悩まされ続けていました。前にも書きましたっけ。
なかなか繋がらないのです。日本のニュース各社へのつながりも遅くなっていますが、それ以上なのです。
Googleとこの国は仲が悪いから、また何かあるのかと思っっていたのですが、今日のニュースによると、やはりそういうことみたいですよ。
『中国当局、Gメールを攻撃か 「○○革命」の呼び掛けの妨害狙う』
2011.3.22 13:42
22日付の香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポストは、米インターネット検索大手グーグルの電子メールサービス「Gメール」が中国当局の攻撃を受け、中国本土での利用に支障が出ていると報じた。
Gメールの利用を完全に遮断するのではなく、部分的に使えなくして、「Gメールに問題があるように装った中国当局の妨害だ」とのグーグル広報担当者のコメントを伝えた。
同紙によると、Gメールへの攻撃は今月初めごろから始まった。グーグルは支障の詳細を明らかにしていないという。(共同)
別のメイルプロバイダーに変えないといけないかなあと、3月初めから感じていました。実際に、別のアドレスも手に入れました。いよいよ実行するときかも知れませんね。
コメント:
G-mailについて とある年男 さん
Google.cnはもう存在していません...中国でgoogelを検索すれば、直接にgoogle.hk(香港)に接続します。これが政治の問題だよね、としか考えられません。仕方がないが、別のメールアドレスにしましょう。ちなみに、僕がいつも使ってるYahoo Japanのメールアドレスも、最近の震災の後、調子がおかしくて、時々登録できない状態になりそうです。
とにかく、どっちにせよ、不便なのはいつも我々一般民衆ですね。 (2011.03.23 20:22:27)
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ
3月11日に東日本を襲った未曾有の大地震のあと、地震の後の日本人のとった行動に全世界から驚異の賞賛が寄せられています。信じ難いほど略奪等の被害が少ないと驚ろかれています。
日経ビジネス(51年前の「チリ地震津波」の記憶~当時の日本人はどうした?2011年3月23日)では、これを以下のように受け止めています。
『日本人は「個人」の自由や幸せを追求するのではなく、「個人」と「外」(他人、自然界)との区別をしない民族。生きているものすべての幸せを願う民族なのです。』
『哲学者西田幾多郎さんの言う「主客合一」でもおわかりのように、私という存在は孤立しているのではなく外とつながっている。「私は花を見ている」と同時に「花は私を見ている」のです。』
もし自分がその場に居合わせ、津波に生き残って避難所にいて、食べ物の給付を待つ身だとしましょう。自分が飢えているからと言って、乏しい食料を人を押しのけて奪おうとはしない自分が目に浮かびます。
極限状態に実際にいないから、格好を付けているだけかも知れませんが、恐らく、自分のことだけを考えて行動する自分を恥じるでしょう。
この、恥ずかしい行動をしない、と言うのが自分の行動原理にすり込まれているのだと思います。むかし、ルース・ベネディクトがその著書で「日本人は恥の文化」だと言いました。その「菊と刀」は、その後さまざまの議論を呼び起こしているようです。
恥ずかしい行動をしないというのが、他人の思惑を気にして、人に対して恥ずかしくないことを基準にしているのか、あるいは、自分の価値観に対してなのかというと、自分ですね。
自分が恥ずかしいと思うようなことは決してしない。じゃ、その自分の価値観の基準は?と言うと、考え込んでしまいます。自分が哲学的人間ではないことが、ありありとしています。自然科学は哲学そのものなのですけれどね。
コメント:
日本人の哲学 とある年男 さん
先日の災害の後、日本人の取った行動は、ぼくも想像つけませんでした。shandayeさんのような日本人がこうやって説明してくれなかったら、まだ日本人の生きる哲学を全然理解できないでしょう。
だからと言って、今はもう全部理解できたというなら、絶対嘘です。どっちかというと、ただ、「あっ、そういうことか」という程度に過ぎません。 (2011.03.23 20:36:20)
武士道精神? shanda さん
ほかの日本人がどういう行動原理を持っているかは、推測しかないのですが、自分自身を分析対象にすると、日本人は武士道精神を持っていると言うのが当たっているように思います。これを24日のブログに書いてみました。 (2011.03.24 19:03:00)
カテゴリ:薬科大学
さえ おさえちゃん:
昨日、私たちの研究室のある建物の一階に、講義の予告ポスターが出ていて「林利彦教授」とありました。
びっくり。東大大学院で僕より数年歳若の林先生です。あの頃は東大の先生でしたね。掲示によると今は帝京平成大学とのことです。
今日の午後図書館の5階で講演がありました。講演の始まる前に、お互いやあやあと挨拶をして、聞いたところでは、卒業研究が野田研究室で、しかもあのぼくたちが大好きな吉田先生に指導されたのですって。吉田先生は、さえのあの集まりにいらしてて下さいましたよ。
その時から今まで一度も対象を変えずにコラーゲンを研究してこられただけあって、講演はとても面白く、時間の経つのを忘れました。
ただし、話はある程度バックグランドのあるぼくには滅法面白かったけれど、コラーゲンを知らない学生には、取っつきにくかったでしょう、話が多岐に亘ったから。
さえも、V型コラーゲンを研究の対象にしたことがありましたね。一緒に論文を書きました。林先生は、さえが短期間だけれどV型コラーゲンを研究したことを覚えておいででしたよ。
野田先生は、ついこの間89歳のお祝いがあったそうです。お元気ですって。私たちのいたころの生化学科の教授の中で一回り若く、一番年下の先生でしたね。
今堀さんも同じく高齢で、お元気なのだそうです。話の時一緒におられた川西さんに、思わず「憎まれっ子世にはばかるですね」と、憎まれ口を叩いてしまいました。。。
川西さんは、ぼくにそう言われて大喜び。ますます人を食って、長生きしてくださいな。
コメント:
人間関係 とある年男 さん
人間関係というものはほんとにおもしろいですね。僕も時々悪友らと憎まれ口を叩い合って、楽しんでいます。
shandayeさんは、本当に川西さんと仲がいいですね。shandayeさんも、ますますoo、長生きしてくださいね。(~w~) (2011.03.24 19:04:07)
笑いは長寿の友 shanda さん
笑うと健康になると言うのは、実際にNatural Killer cellsの数が増えることで証明されているのを知っていますか?
仲の良い友人の数が多いほど、あなたは健康に恵まれるのですよ。 (2011.03.24 19:12:11)
カテゴリ:生命科学
さえ おさえちゃん:
忙しいなんて言いたくないけれど、忙しいという三つ目は、DNA arrayで発現していることの分かった遺伝子を、いま調べているのですよ。遺伝子の名前から、これはいったいどんな働きなのだろうかとNCBIにアクセスして調べています。
DNA arrayで、いまでは細胞の変化を遺伝子変化として総ざらいで調べることが出来ますよね。共同研究ということで分析をお願いしてその結果が出てきたのです。
今まで転移性の殆どないがん細胞と、それから分離した転移性の高い細胞とを比べていろいろと調べていましたよね。その遺伝子発現解析をしたのは8年も前で、その頃の遺伝子解析はせいぜい500遺伝子くらいしかできませんでしたね。それで、一試料が50万円くらいでした。ですからそれぞれ一回の分析の依頼をするのが精一杯。
今回は一試料につき二回の分析をお願いできたので、二回とも同じ傾向を示している遺伝子に目を付ければいいわけですよね。でも、遺伝子○○を導入した細胞で二倍以上発現が増えた遺伝子が500個くらい、半分以下に発現が減った減った遺伝子が450個くらいあるのですよ。
今まで数百の遺伝子になじみになっていますが、まるきり聞いたこともない遺伝子ばかりが並んでいて、ぼう然としています。
今までぼく達の研究は、転移に関係していそうな遺伝子発現が、転移性の低い細胞に比べて、高い細胞では変わっていないか、それが、ガングリオシドで制御されていないかを調べてきました。
そしてそれらの発現を制御しそうなシグナル分子も、沢山調べてきたつもり。
でも、この新しい950個の遺伝子を、NCBIのデータベースで遺伝子の内容をしらべながら、Primerを設計し、SiRNAも設計しています。ですから時間は掛かりますが、なかなか進みません。機能の分かっていない遺伝子も沢山入っています。
むかし、DNA arrayさえ使えれば、転移性に関係する分子はあっという間に網羅的に調べられるのに、分析するお金のないぼくたちは一つ一つ当たりを付けて、まるで仕事を長引かせているみたい、まるで「貧乏人の飯の種」と自嘲していたこともありましたっけ。
950個の遺伝子が、転移性にどのように関係しているのか、どうやって調べたらよいのでしょうね。一つ一つ、ターゲットにして調べるしかないかなあ。
さてもう一つは、昨年の秋に本を書こうという話に乗ったのです。それで、ガングリオシドの関与を主題にして一つChapterを書かないといけません。ちょうどさえの最後の時期にあたったので、とても出来ないと思ったのですが、思いついて、断らずに○○くんに話を振ったところ彼が喜んで乗ってくれました。彼が頑張ってChapterを書いたので、それをぼくの責任で見ないといけません。どう見ても3月いっぱいが期限です。
4月初めには、北京と上海で引き受けた講演があるのでその準備もあるし。。。5月からは新しい形式の分子生物学の講義が始まるし。。。
コメント:
DNA発現について とある年男 さん
DNA発現についての研究はほんとに難しいと思います。僕も先輩と一緒にとあるGeneの発現量の制御とその影響を研究しています。正直に言うと、始めるときは習うべき知識や対応するソフトウェアが先輩と僕の前に積み込んでいて、すごく難航したのです。でもまあ、「なにごとによらず初手は難しい」というべきでしょうか、だんだん順調に進められるようになっています。これからもいろんな問題が僕らを待ってるかもしれませんが、一所懸命努力して、先輩と一緒に乗り越えるまでです。
(2011.03.25 20:48:33)
カテゴリ:カテゴリ未分類
さえ おさえ:
サーチナ 3月22日(火)に次の記事が載っていました。
『乗客が拾って届けた1万元に、「私が落とした」と21人が届け出=中国河南省鄭州市』
『現地新聞が「バス乗客が1万元(約12万3500円)を拾い、車掌に届けた」と報じたところ、路線バスを運行する鄭州交交三公司に、「あの金は自分のものだ」と主張する電話が、次々と、合計21人から掛かった』とのこと。
『「だめでもともと、うまくいけば濡れ手に粟」と考える人もいる中国社会の縮図となった』と報じています。その通りですね。笑っちゃいました。
『バス会社職員は、落とした時の状況や落し物の特徴をたずね、1件、1件と間違った主張を排除して、最終的に、落とし主を72歳の男性と突き止めた。現金を拾った乗客の名は伝えられていない』という。
めでたし、めでたしで一件落着ですね。
落とし主として21人も名乗りでたことは、この国なら不思議ではないでしょう。濡れでに粟でもうけられるものなら遠慮しない、というのは、ここでは生きていくためには当然の倫理なのですから。
感心して良いのは、1万元を拾ってバス会社に届けた人です。『乗客のひとりが20日、バス前部のステップに札束が落ちていたと乗務していた車掌に届けた』そうです。
拾った人も、車掌も、会社も、その金を私しようとしなかったということが、素晴らしい朗報ですね。
この話がニュースになったと言うのは、逆に、滅多にないと言うことでしょうけれど、でも、素晴らしい明るい未来を予感させますね。
「衣食足って礼節を知る」時代が到来しつつあるのでしょう。そう、衣食足ることが最低限必要なのですね、人間らしく生きるためには。
コメント:
ほんとにめでたし、一件落着ですか? とある年男 さん
もしほんとに、拾ったものをちゃんと落とし主に返すということがだんだん習慣になって、やがて中国の人々の習慣になれるといいなぁ。まあ、何事にも時がいるってことかな。 (2011.03.25 21:00:34)返事を書く
私の素晴らしい体験 shanda さん
中国に来て二年目の春、千伊拉麺の店で食事をしたあとうちに帰って気付いて見るとカバンがないのです。
まさか見つかるとは思えませんでしたが、店に行って尋ねるとカバンをちゃんとしまって置いてくれたではありませんか。
中国では置き忘れたら二度と見つからないと聞いていたので、もう、それは感激ものでした。その係りの人が決していらないというのに、無理に百元押しつけて別れました。 (2011.03.27 08:54:25)
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえちゃん:
大地震を契機に明確になった日本人の行動原理が、他の国の人たちと違うというので、いろいろと言われています。
最近見たブログを引用しますね。『原子炉を守るためなら命も惜しまず、これが日本人の「武士道精神」』Record China 3月24日(木)
『未曽有の大震災に見舞われながら、「自分より他人」を貫く日本人の姿に感動したという香港文化交流基金会の江素惠主席が、「日本人の精神」と題した記事を中国のブログサイトに掲載した』
『福島第1原発を救うため、50人の決死隊が集められた。最悪の場合は命を落とすかもしれない。彼らはそれでも日本、そして太平洋地域全体を放射能の脅威から守るため、危険な作業に立ち向かった。正義のためなら命を投げ出すことも惜しまない、その武士道精神の素晴らしさに世界中が尊敬の念を抱いている』
『日本人は我慢強い。そこに武士道精神が加わり、独特の個性を作り出している。日本人はこうして、どんな困難にも涙を見せず黙々と立ち向かってきた。今回も彼ら大和民族はきっと力強く立ち上がるに違いない』
すごく褒めすぎとも思いますが、西洋人ならあのような自らの危険をも顧みず放水をすることはないそうです。つまり、日本人だから出来る行動を突き詰めると、武士道に行き着くという分析ですね。
武士道は、時代によっていろいろ変わってきています。集大成すると、「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」となるようです(出典:Wikipedia)。
最初の「君に忠」は今では怪しいですね。「君」は今では上司ですが、上司の人間次第だと思っていますから、初期のころの武士と同じでしょう。源平時代、彼らは契約で動いていました。
「親に孝」は、私の心に生きていますが、今の日本ではだいぶ怪しくなってきているでしょうね。子供たちに要求してはいけないと思っていますよ。
「自らを節すること厳しく」というのは、言うに易く、行うに難いことですが、自分には厳しくと、心の底に通奏低音として流れています。
「下位の者に仁慈を以てし」は、「稔るほどに頭をたれる稲穂かな」と同じで、(自分が成功者となっても)決して人に威張るな、誇るなと言う戒めですね。今の私は教授をしていますが、教授だからといって学生に威張ったことはありません。「後生恐るべし」です。将来有為の人材を、毎日相手にしているのです。
「敵には憐みをかけ」と言っても、命をやりとりをする敵がいたことはないので、これは何も言えません。
「私欲を忌み」というのは、私たちの心の中の大きな道徳律ですね。他の人のことも考えよう、という精神はここに根ざしていると言えるでしょう。
「公正を尊び」というのは、「嘘をつくな」と同じように親から叩き込まれていますよね。
「富貴よりも名誉を以て貴しとなす」は、武士が武士らしく清貧に甘んじる生活を送るためには都合の良いスローガンですが、日本の近代社会(武士道の爛熟した江戸時代を考えています)の特徴というか特殊性は、支配階級が武士で、しかも経済的に潤うっていなかったと言うことでしょう。
支配階級の武士が清貧に甘んじ、自分を律する生活をしたから、300年のあいだ、革命も起こらずに徳川幕府が続いたのだと思います。
そしてその精神を一般庶民が受け継いだのだと思います。「富貴よりも名誉を以て貴しとなす」は、私の骨身に染み込んでいますもの。つまり自分を鏡にして日本人を概観すると、この江素惠主席の短いブログは日本人の本質を突いていると言って良いと思います。
日本人の良心は、武士道で裏打ちされている、と言えるでしょう。
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武士道精神 とある年男 さん
僕はちょっとだけ日本語がわかるけど、武士道精神みたいな抽象的なことに、あんまり実感がないというか、現代の日本人にもほとんど使わないからというか。shandayeさんのブログから、また勉強になりました。 (2011.03.25 21:32:47)
本当な何故なのでしょうね shanda さん
キリスト教では「唯一の神が、あなたをしっかりと見張っているのですよ」と人が信じることで、人が自分の行動を律していると言っていいと思います。
日本人でキリスト教を信じている人はとても少ないのに、高い道徳水準が保たれていると言われています。
この答の一つが、日本で培われた武士道精神なのだと私は思います。でも、これは第二次大戦後の日本では公の道徳規準とはなっていませんから、日本人の精神は脆弱な危ういものになってきたと思われています。
でも、今回の大震災の時の日本人の行動を見ると、いや日本人って、大したものですね。 (2011.03.26 19:27:34)
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エリザベス・テイラーが23日に79歳で亡くなったと報じられていました。
世紀の美女と言って騒がれた有名女優ですので、皆、それぞれに彼女の出演した映画を思い出しておられると思います。私の場合は、「緑園の天使」です。
女性は騎手になれないのに、事情でどうしても彼女が出なくてはならず、男装して馬に乗り、そして勝ってしまいました。
その時の彼女は12歳でした。あまりにも可憐で、この映画を観た日は一日中、夜中になっても彼女の面影が脳裡にちらついて悶々としているうちに夜が明けたのを思い出します。
戦後の、まだ中学生にはなっていなくて、小学生の時だったと思います。自由が丘にあった南風座、ロマンス座、あるいは武蔵野館が、戦後の生活の中で私たちに夢を与えた場所でした。
映画の内容はこれ以上詳しく覚えていないのに、未だにこの時のエリザベス・テイラーが私の中に生きています。その後の「若草物語」では、ジューン・アリソンとマーガレット・オブライエンの方が遙かに印象的でした。
この映画はその時しか観ていませんが、調べてみると、ミッキー・ルーニーが大人の主役だったのですね。彼も有名人ですが、この映画でどうだったのか、全く覚えていません。
でも同じく昨日、ミッキー・ルーニーの名前をたまたまCNNニュースの中に見ました。『常態化する高齢者虐待、被害者の米俳優が実態を証言』という2011.03.04のCNNニュースです。
内容は自らの体験を語ることで、『数々のハリウッド映画に出演した米俳優のミッキー・ルーニーさん(90)が米上院の高齢者問題に関する特別委員会で、虐待防止のための対策の必要性を訴えた』
『公聴会の後、同委員会のコール議長は、司法省内に高齢者司法局を設けて高齢者虐待事件の立件を支援する法案を提出した』
『専門家によれば、米国の高齢者虐待は常態化しているという』ことですが、それなら、日本でも同じようなことが起きているかも知れません。
私の母は91歳で自宅を出たあと昨年までの15年間のうち、初めの2年間は老人保険施設で、あとの12年はワタミの老人ホームで、そして最後の1年弱は病院で過ごしました。
家族として虐待をしたとは思いませんし、施設も老人に対して虐待があったとは思いません。でも、ものの言えない高齢者にとっては虐待に当たることをしていなかったかどうか、これを注意深く見守る第三者の存在が必要かも知れません。私たちもやがて、ものの言えない高齢者になりますので、気になりますね。
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後半はちょっと深刻かも とある年男 さん
前半を読むと、「ああ、これは男のロマンだ!」という言葉が、つい頭の中に浮かんできましたけど。後半に進むと、なかなか深刻な話になりますね。でもまあ、誰も年と共に年が増えるのでしょう。とても考える価値があると思うけど、今の僕には、最善の処理法を考え付きません。 (2011.03.25 21:20:36)
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ おさえ:
遼寧省政府の専家局から二人の女性が、お隣の池島先生と私を訪ねてこられました。3月11日の日本の東北大地震のお見舞いだと言うことです。
先ずは「遼寧省政府を代表して、瀋陽で学生教育に尽くして下さっていることを感謝します」と言う言葉から始まりました。池島さんは中国語に不自由がないので、話が中国語で仕切られてしまいます。それで、私は、学生の徐帥くんに一緒に来て貰いました。
私の発言を中国語にしますと言ってきてくれましたが、中国語で行われている全体の話が何なのかを私に翻訳して欲しいと頼みました。徐帥くんは日本語がとても達者で、双方の通訳をして、信頼に立派に応えてくれました。
専家局は外国籍の先生たちを対象にしていると紹介されたので、「私たちを管理している?」と聞きましたら、「いえ、サービスをしています」と言う返事でした。
「そうですか、8年、ここにいて初めてお会いしますねえ」と言ってしまいました。
「中国の生活に不自由はないですか?」「研究生活はどうですか?」「研究室の院生は何人いますか?」などなどいろいろと聞かれました。
「中国の生活は大いに気に入っていますよ。学生は優秀ですし、おまけにとても優しいです。日常の買い物にも付き合ってくれて、老師を大事にしてくれるし、ここでの暮らしに少しも困ることはありません」
「でも、困ることと言ったら、研究費が足りないことです」と言っておきました。言ったところで、少ししかない研究費が増えるわけではないにしても、これで満足していると思われたら困るからです。
「うちの研究室を出た学士、修士、博士で、今まで25人が日本、アメリカ、イタリア、カナダの大学院に行き、あるいはそこで研究や仕事をしています」と話しておきました。ちょっぴり、自慢ですね。
「昨年、先生は省政府から表彰されて、、、」というので、びっくり。「そんなことは知りませんよ。前にメダルを貰った2005年のことではありませんか?」
「いえいえ。昨年ですよ」というので、何処かで連絡違いが起きているのでしょう。でも、表彰なんて言う名誉は、早く、しかも間違いなく伝達しなくっちゃね。
メダルを貰って喜ぶなんて人間だけだそうですが、自分は他人とは違うんだぞと言うのが支えになる生き物なのでしょうか。
コメント:
受賞おめでとう(w) とある年男 さん
まあ、メダルを貰えることだけでいいことというべきでしょう。一先ず、受賞おめでとうってことかな(w)。
確かに研究室から出た教え子たちが各国優秀な大学院に行ったのは、自慢してもいいことだと、僕も賛同します。
僕も卒研の完成するあと、どこのどの優秀な大学院に行けるでしょうか?こういうことも、やはり自分の努力次第ですね。 (2011.03.25 21:11:37)
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ:
あの病院のベッドの上で息を止めたさえに取りすがって、「さえ、息をしてよ。息をしないと死んじゃうよ」と、身体を揺すぶり続けた時を忘れることが出来ません。
肺がんの症状が進み、胸と背中が痛くて、麻薬なしには耐えられないようになっていましたし、全く食べられなくなっていたし、呼びかけに反応しない時間も長くなっていたし、あの緩和ケア専門の病院に移ったときには、もう長くは保たないと覚悟はしていました。
看護婦も、医者も、呼んだらばきてくれたけれど、痰の吸引をしたあとは、枕元に立ってみているだけ。「どうして、何もしないで見ているんですか、何とかすることはないんですか?」ぼくは泣き叫んで、さえを揺すっていました。
彼らは何も言わずに、まわりに突っ立っていました。
今から思えば、「延命治療をしない」というさえの考えをぼく達も納得して、入院の際に医師に伝えましたから、『何もしないで見ている』ということなのでしょう。
でも、さえが死ぬに違いないことを理解していても、それを少しでも現実のこととして認めたくないのも事実ですから、あの瞬間には、それがさえの死であるとは思わなかったのです。
彼らは黙ってぼく達を囲んでただ見ているだけでなく、「ご臨終です」とでも言ってくれても良かったのではないかと思います。
覚悟はしていても(そんなことは受け入れがたいことですから)、さえが今ここで死んじゃうなんて、全く考えていなかったのですよ。
「死ぬときは寂しいからちゃんと手を握っていてね」とさえはぼくに言っていました。「もちろん」と、さえに約束をしましたよね。
二ヶ月ベッドにいたさえとは何度も手を握りあっておしゃべりをしたけれど、しかし、その時が来たときは、ぼくはさえの手を握っていませんでした。ごめんね。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
北京にいる小呉がおさえちゃんに死なれて傷心のぼくを慰めようと、4月に入ったらぼくを連れ出そうとしているというのを書きましたね。
三日前、電話で連絡があったので、北京での講演を増やして貰いました。一つは協和医科大学の陳老師のところです。陳老師はね、私が三菱化学生命科学研究所から東京工業大学に移ったあと、私の研究室の研究員だった○○さんが独立して、そこにポスドクとしてきたのです。
○○さんも私と同じ糖脂質の研究をつづけたので、陳老師も同じ研究仲間というわけで、顔見知りでした。
2007年の秋にウルムチの学会に行ったとき、久しぶりに陳老師に会いましたよね。この薬科大学の私のところから、大学院で陳老師のところに行った学生に寧娜さんがいますね。
もう一つは、中国科学院の李老師のところです。3年前に小呉と一緒に瀋陽のぼくたちに会いに来たので、覚えているでしょう?彼のところでもGlycoscienceの研究をしているので、是非彼のところでも私たちの研究を話したいと思っています。
日程の調整は小呉に任せました。
そうしたら、北京で京劇を観たいかですって。2002年に小呉を連れて北京を通ったとき、観に行きたいと言ったのに、言を左右にして連れて行ってくれませんでしたね。あのとき実は、彼は毎晩、婚約者とデートに忙しかったのでした。その後、小呉を何時もからかっていましたっけね
その罪滅ぼしのつもりなのでしょうね。京劇にはもう興味ないと言っても、まだ他にいろいろな劇があるから、と言って誘ってくれるのですよ。。。
北京の陳老師と李老師の二人から講演歓迎と言う返事が、すぐに届きました。楽しみです。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ おさえ:
今日は瀋陽日本人会の総会の日でした。何時もの通り州際酒店で、3年前の商貿飯店よりも感じの良いところです。今日の総会は昨年と違って会場から全く発言がなく、さっさと終わりました。
今日は間際まで出掛けるのをためらっていまいしたが、教師の会の渡辺先生からのメイルに誘われて出掛ける気になりました。
人に会うのが面倒くさい、集まりに顔を出すのが気が重いなど、出掛けないためにはいくらでも理由が付きますが、思い切って出掛けて良かったと思います。
さえのことで何か慰められるときっと泣いてしまうし、それも人に会うのをためらわせる原因です。でも、こうやって、精神的にますます落ち込むところを、今日は出掛けることで辛うじて踏みとどまったと、評価できます。
誘ってくれて渡辺先生や、今日会場で付き合って下さった石田、杉島、土屋、松下、石井先生たちに心から感謝です。
総会のあとの食事の時は、在瀋陽日本国領事館松本盛雄総領事が、態々さえのお悔やみの挨拶にいらして下さいました。お高くとまることなくこのように振る舞える松本総領事は本当にすごい人です。二重に、涙が出てしまいました。
東北大震災の義援金を瀋陽日本人会で集めようと言うことになって、日本でも寄付手続きを進めていますが、給料の十分の一を寄付しました。
帰りには買い物で伊勢丹に寄ってから、薬科大学に戻る石田、杉島先生と三人でタクシーに乗りました。運転手が童顔の若者で、私たちが日本人と分かっていろいろ話しかけてくるのです。
幸い杉島先生が中国語が分かるので、彼に失礼なことになりませんでした。「日本のお寿司は、美味しいね。美味しいって日本語では何というの?」
「中華料理は種類は沢山あるけれど、日本料理の方が美味しいね」とか、日本人は清潔好きだね。窓からたばこを放り出さないし。。。」
杉島先生はここに来る前に二年ずつ二カ所で教えた経験があるのですが、「瀋陽は二年目」
それに比べて「私は瀋陽八年目」と言ったら、「あれま。八年住んでいてねえ」と呆れていました。そしてもっぱら杉島先生と話していて、彼女はそれを日本語にもしないといけないので、彼女にとっては結構忙しい道中でした。
この若い運転手は、別れるときには「今こうやって三人が話している日本語を聴いていると、気持ちが好いね」なんてまで言ってくれました。
そう、ぼくも気持ち良く、大学に戻ってきましたよ、さえ。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ おさえ:
昨日の日本人会総会の帰り、薬科大学の日本語の先生たちが伊勢丹に行くと言われたので、くっついて行きました。伊勢丹のある太原街は瀋陽の中心だというのに、道路が未だに工事中で、ほこりっぽくて、ひどいところです。
伊勢丹は、二年前に東北育才学校の梅木先生に講演に呼ばれたあと、誘われて初めて行ったでしょ。ありっきりなので二度目でした。
いまどき、瀋陽に暮らして伊勢丹に行くのが二度目なんて言うのは稀少人種に属するでしょうね。日曜日ですが、そんなに人は多くありません。それでも、この太原街で店を構えて3年やっているのですから、瀋陽にはリッチな人が相当な数いると言うことですね。
今更ここに書くまでもなく、ぼくたちは伊勢丹の常連であるには貧しい階級に属しています。
地下の食品売り場に直行です。伊藤ハムのベーコンとハムがあったので、喜んで買いました。二週間前、うちの近くの河畔花園で同じものを買いましたが、そちらの方が1-2割り高価でした。
そうそう。伊勢丹でも塩の売り場は空っぽでしたよ。
まだ、みなが買い続けているのか、供給が途切れたきりなのか、どちらなのでしょうね。ぼくがお隣の先生から貰った醤油は、日本語の先生に上げる約束をしました。どうせ、使う予定はないのですもの、使って頂けるなら、喜んで。。。
お菓子類に食指が動きましたが、買えば食べちゃうし。
ここで、みんながちゃんと食べなきゃ駄目と世話を焼くので、少しは体重を減らさないといけないのに、ぼくは未だに脂ののった大きなお腹に悩んでいます。
カテゴリ:研究室風景
さえ おさえちゃん:
先週、○大勇が訪ねてきました。2004年からうちの修士の学生で、2007年修士を出たあと北京で就職して、3年前に職を変えて瀋陽に戻ってきたのまで知っていますよね、
いまでは、また別の薬の会社に就職して、その営業部長だそうです。とても忙しいらしく、訪ねてきた前の晩は上海からの電話で、これから瀋陽に戻ると言うことでした。
用件はぼくたちのPCプロジェクターをお客に会社の話をするために半日貸して欲しいと言うのです。もちろん貸しますけれど、彼からの電話を受けた学生が私に聞きもしないでOKしていたのですよ。
私たちの関係なら、承認を得るまでもない、当然だというふうに考えたのでしょうね。このあたり、とても中国的です。
彼が困っているならただでも貸しますが、これは会社の公用だから三百元を払うというのです。ちょうど学生の歓迎会をするためにお金が掛かりますから、このような援助は大歓迎です。
と言うわけで、朝7時にオフィスに来た大勇は三百元を呉れましたが、後で考えてみて、営業部長の彼が全国を飛び回っている位の(繁栄している、忙しい、儲かっている会社)なのに、どうしてプロジェクターの一つを持っていないのだろうか?です。
きっと持っているのでしょう。でも、山形研は研究費もないし、いろいろとお金が掛かるだろうと言うので態々プロジェクターを借りると言うことを理由に、寄付をしたのでしょうね。これも、真意を表に出さない中国的な善意の表し方の一つでしょうか。
久しぶりに会った大勇は、颯爽として、ますますハンサムになっていました。
ここにいたころは、出来る学生に囲まれて余り元気がなかったけれど、実社会に出て、のびのびと実力を発揮するようになったからでしょう。嬉しいことですね。
夜になってプロジェクターを返しに来た彼と、だいぶおしゃべりをしました。教師であることの醍醐味を味わいました。
2011-03-30 17:12:43 | 日記
修士の時にうちの研究室に入りたいといってきた二人のあと、またもう一人の学生から希望があった。
何で今頃と思いつつも会って聴いてみると、もちろん、山形老師のところで研究をしたいからという。
でも、志望していた研究室では、指導教授が直ぐには結論を出さないのだそうだ。志望者は二十人を超えると言う話で、長く決まらないことに不安を感じ、そこを諦めてここを志願したというのが真相のようだ。
会って見ると明るい性格だし、将来も研究を続けていきたいということなので、それなら見込みがあると、良い印象を受けた。もちろん、その指導教授がうんと言わないと話は進められない。
メイルを送ると、この話では二日もしないで返事があった。「彼の決断を尊重したい。好いですよ」ということだった。
それからは、毎週土曜日のうちのセミナーに参加して、2回くらい来ただろうか。とてもいきなりは分からないので、うちの研究室の修士の朱さんなどが、付ききりで解説していたし、その指導を今後も楽しみにしていた。
ところが、今日やってきて、悪い知らせですという。
二日前に大学院入試の国家基準が発表されて、彼はそれに1点足りないことになった。従って志望するこの薬科大学の大学院には、二次試験の受験資格がないのだという。
そんなことなら前から分かりそうなものと思ったが、例年に比べて発表された今年の基準点は思ったよりも高かったので、蓋が開いたら駄目だったということらしい。
気の毒な話だが、これが現実だ。聞くと、今から良い就職を探すということだった。中国の就職は年年厳しい状況が続いているというので案じている。
今年は志願者がこれで二人試験に落ちたことになる。以前は、無試験の推薦組や、試験で一番という人たちばかり来たけれど、今はだいぶ様変わりだ。やれやれ。。。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
瀋陽の三月も終わりに近づいてきました。気温は零度を挟んで上下していますので、朝はまだ路上で氷が張っていることが多いです。
11月から3月31日までは、建物に暖房が入っているので、室温は20度-21度に保たれていて、快適な冬が過ごせますよね。いつも、問題は4月に入ってからです。暖房が切れてしまうのに外気温が10度以下なので、室内温度は毎日下がっていきます。外気温が追いついて、うちの中も大丈夫となるのに4月いっぱいかかるように思います。
それですから、明後日からは寒い毎日になります。でも、瀋陽の春は急速にやってくるので、植え込みの下で、小さなスミレが花を付けるのを見つけるのを、毎年さえは楽しみにしていましたね。
私の取りかかっていることでは、今年二つ目の論文がやっと終わりに近づきました。王くんとのBook Chapter執筆も進行中です。どちらも早く終わりにして、上海と北京の講義の用意を始めないといけません。
おさえちゃんを偲んで、嘆いてばかりはいられないですね。
未だにさえがいなくなってしまったことを受け入れられないのに、さえのいない現実も目の前にあるし、心の整理が付かずにまごついています。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえちゃん:
さえは何時もうちで歌っていましたね。殆どは、日本語のシャンソン。それも、越路吹雪が好きで、岩谷時子の詩も大好きで、しょっちゅう歌っていたよね。
さえのための集まりの時には、さえの(「い座」で歌ったときの)アダモの「雪が降る」の録音を聴いて戴いたのですよ。
そのためにさえの残した録音を一通り聴いたので、さえの歌った歌がまた耳に付いています。今、越路吹雪の歌った「家へ帰るのが 私は怖い」が、始終口に出てきます。
「家へ帰るのが 私は怖いの
あなたのにおいの する夜が怖い」
「家へ帰るのが 私は怖いの
ふたりの楽しい 想い出の家へ 帰るのが怖い」
本当につらい。さえがいなくて一人きりだと想うことが、こんなに寂しいことだなんて、想像もつかなかった。社会とのつながりも断ちきられてしまったような気がする。
ぼくを、本当にのびのびと生かしてくれたのだよね。おさえ。
コメント:
泣かせた。。。 とある年男 さん
つい先、今回shandayeさんの書いた内容をoo先輩に通訳したら、先輩はすぐに泣いていました。僕はそういうつもりじゃあなかったのに、どう見ても、先輩はほんとにshandayeさんと奥さんのことが大好きです。 (2011.03.31 09:50:02)
カテゴリ:研究室風景
さえ おさえ:
ZLがsenior authorである論文を、昨日インターネットで投稿しました。本質的には昨年のうちに出来ていたのですが、さえのことで大きな混乱があって、とうとう昨日まで掛かりました。
論文の文献のところは、ぼくたちはEndnoteを使っていないために、手で直さなければならず、どうしても間違いが起きます。
たとえば:
Biochemical Biophysical Research Communications は
Biochem Biophys Res Commun でなくてはなりません。
ページは:230ー235 ではいけなくて(半角にしていても、時々おかしくなるのですよ)、230-235でないと正しくありません。
X. Le Bourhis, X. Q. Wang, P. Delannoy P, とあるときは、
Bourhis, L. X., Wang, X. Q., Delannoy, P.では間違いで、
Le Bourhis, X., Wang, X. Q., and Delannoy, P.が正しいわけです。
投稿の時、Referencesを改めて調べる場所があって、そこで間違いはすべて間違いとして排除されるのですよ。正しい場合には、ネットで引用できるマークが出てきます、出てこないときは、こちらの間違いというわけです。
はじめは、どこが悪いか見当も付かず、大いに慌てました。
文献を二重に引いていてもそこで分かります(投稿時に分かるなんて大いなる恥ですね)。
と言うわけで、昨日の午後は、冷や汗を流しながら投稿の作業をしました。それで疲れたのか、けさは5時半に目覚ましが鳴っても起きられませんでした。
担当のEditorはHascallですって。むかし、プロテオグリカンをやっていたことの研究仲間ですよね。その頃知っていたからって、別に便宜を図ってくれるわけはないですが、懐かしい名前をみつけて、気分が和んだことは事実です。
投稿したという知らせは共著者にも届くらしく、王麗がメイルを呉れて、共著者の名前が間違っているよと教えてくれました。
大慌てですが、直しようが分かりません。Hascallに間違いを知らせて、何とかして欲しいと書きました。
通って欲しいですね。一緒に祈っていて。。。
コメント:
Re:論文を投稿して(03/31) Google さん
Mendeleyというフリーソフトを薦めますよ。ぜひ試してください。 (2011.04.01 20:13:55)
WOW shanda さん
実はとうとう EndNoteを購入したのですが、使いこなしていないのです。Mendeleyを調べてみると、MacでもOKと書いてあるので感激です。これを詳しく調べて、つかってみましょう。
素敵な情報をありがとうございます。 (2011.04.02 08:38:04)
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
大学の招待所は、外部向けの食堂を持っていますよね。不味いので、どうしようもないときには行くけれど、切羽詰まらない限り、余り行きたくないところ。もちろん、みんな知っていて、何時もがんらがらでしたね。
大学の学生食堂で食べるのに飽きて、しかも前の晩の食事が油が多くて気分が悪くなったので、昨夜は外に行こうと思いました。
「又一順食府並みに(つまり、そんなに高価でなくて)美味しいところ何処かにない?」と暁艶に聞いたのですが、「近くにはないですよ。でも、大学の招待所はどうですか?」
「あそこねえ。何時行っても美味しくないし」と返事すると、「でも、『陶朱公館』の賄い方の一部だという話ですよ」というのです。
『陶朱公館』はいうまでもなく、この近くの最高級レストランで、高級な○○族御用達専用のレストランで、ぼくたち一度だけ、おそるおそる探検に行ったことがありましたよね。その後、貴志先生の友人(ぼくにとっては大学の同級生の青柳くんが招待主の中に一人いました)に招かれたので、正確には二度行っています。
「本当かなあ、作った料理を運んでいれば嫌でも目について、噂になって、続けられないだろうに」片や超高級レストラン、片やしがない街のレストランですものね。お隣に立地しているならともかく、100メートル離れて、そんなことが可能とは思えません。
ともかく、大学の招待所の食堂に行くと、一組の客がいてぼくが生化学を教えた顔見知りの学生でした。覗くと、白菜と豆腐の入った鍋を食べています。「美味しい?」と聞くと「美味しい」という返事でした。
その料理と、あと野呂先生のお薦め以来、ぼくたちの好物の、苦瓜卵焼きを注文しました。
ところで、料理は思いの外美味しいのです。経営陣が変わったのでしょうか。『陶朱公館』で出されて法外な値段を要求されても、それが頷けるくらい、いい味なのですよ。
噂は本当かなあ、是非確認したいと思って暁艶に店の人に尋ねて欲しいと頼んだのですが、どうも直接聞きにくいと見えて、ためらっているので諦めました。
噂の真偽はともかく、美味しくて、reasonableな値段であることが大事なのですものね。これからは時々出掛けてみましょう、何しろ近いし、そして値段はほどほどですし。
コメント:
「喜来多」もおいしいと思います 小馬SOD さん
学校の辺りに、一つの店、「喜来多」もおいしいと思います。「雲南米線」の側で、バスストップへちょっと歩いて、見えます。黒椒牛柳チャーハンと臘味きのこチャーハンもおいしいと思います(チャーハンはあまり栄養がないですかな)。先生はその店で召し上がたことがありますか。
私は一人の日本語クラスの三年生です。先生の研究室のページで、このブログをりんくします。先生の分子生物学授業を楽しみにしています。
(2011.04.01 01:51:55)
2010年10月から2011年3月初めまで、日本に戻って妻を看取った。
つまりその間、日本人教師の会の活動から遠ざかっていた。教師の会の代表は期待していた多田先生の着任が遅れたため他の人を選ばざるを得ず、9月末には会員の中から自分がなりたいといった宇野先生が代表となった。宇野さんの過去は知らないが、わたしが瀋陽に行く前から瀋陽の日本語学校の日本語教師だった人である。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
黄さんが書類を書いて、「先生これでいいですか」と言って見せに来ました。
彼女は、まださえには話していなかったけれど、この夏に修士を卒業したあと、日本の博士課程に進もうとしているのです。
見ると先方に提出するもので、修士の間にここでやったことが箇条書きになっています。黄さんの質問は、この箇条書きで良いかと言うことでしたが、その先を見ると自分のことについて書いています。
断って見せて貰うと、大意は
「私は中学生の時に生命科学に興味を持った。瀋陽薬科大学に入ったが、それが中薬学部だったので、近代的な科学を学べなかった。そのため生命科学の勉強では、同学年の薬学部の学生に大きく差が付いてしまったが、大学院ではそれなりに、新しい技術を学ぶことが出来たので、今後研究者としてやっていけそうだという自信が持てた。修士課程での研究ではたいしたことは出来なかったが、大事なことは、対象に興味を持つということだと言うことを身を持って体験した」
ここでは日本語にしていますが、元は英文です。
読んでみて私の意見は、「これではNegativeなことしか書いてないでしょ。Negativeではなく、Positiveに書いてみましょうよ」と、書き直しました。
大意は
「私は中学生の時に、すでに生命科学に興味を持った。それで薬科大学では、この大学では生命科学の分野では最高という評判の山形研究室を選んだ。そのため、修士課程では多くの分子生物学的技術を身につけることが出来たし、今後、研究者としてやっていけそうだという自信も付いた。」
「修士の時の研究で、○○はがん抑制遺伝子であるという証拠を出すことが出来た。この○○は、元々がん抑制遺伝子といわれたものだが、近年多くの異論にさらされていたのだ。修士課程の3年間での研究を通じて学んだ最高のことは、研究者にとって一番大事なことは研究対象に興味を持てば、相手は必ず応えてくれるということである」(元は英文)
黄さんは何時も物静かで、控えめですよね。声高に自己主張することはまずないけれど、実験にはとても良いセンスを持っていますね。いつの間にかひとりでも見事に研究を進めることが出来るように育った学生の一人と言えます。
中国人のステレオタイプではなく、日本人的な感じといったほうがわかりやすいと、さえも賛成してくれるでしょう。
このような彼女の性格はとても好ましいですね。でも、自分の売り込みに遠慮しすぎると、相手に分かって貰えないことになりますから、私の出番でした。
きっとこれで上手くいくでしょう。
カテゴリ:カテゴリ未分類
さえ:
今日は4月1日のエプリルフールの日でした。
学生の時でしたから、恐らく1960年のこと、さえの友だちの野口さん(今は谷夫人でノーチャンと呼んでいますよおね)から電話で「今井先生が北海道から出ていらっしゃっているから、集まったらどうかしら。さえにも連絡してみてね」と、中根町のうちに電話が掛かってきました。
ノーチャンと特に親しいわけではないけれど、連絡が掛かってくるのなら不思議じゃないですものね。
あとから思えば、こういうことなら、ノーチャンがさえに電話をするのが自然なのに、それが、気付かなかったのですねえ。
さえと話が出来ると、喜び勇んで電話をしていると、何だか様子がおかしい、あれ、さては、と気付くと、ノーチャンに見事に担がれていて、しかも、大元はさえの陰謀だったのでしたっけ。
ふたりが集まって、これがいいわよ、きっと間違いなく引っかかるわ、と相談して、ノーチャンが電話をして、さえはぼくから電話が掛かるのを待っていたんですよね。
ぼくが単純・単細胞そのものだと言うことをさえはもう見抜いていて、しかもノーチャンを経由するという手の込んだことをして、人をひっかけたのだから、ひどいものです。
その後三十何年のすべての復讐の機会は、すべて空振り。
やっと1996年になって、クリーンヒットでお返しをしましたっけ。
1996年にうちの修士を出て北大の博士課程に行った男子学生がいました。高津くんです。95年に卒研生として北里大学から来た女子学生が、彼のことを好きになりましたが、96年の春には横浜国大の修士課程に入って、このままだと別れ別れの悲劇だと、皆で案じていました。
そこで、その4月1日。この二人とも、もちろん卒業していますから研究室には来ていません。その朝、ぼくはさえと一緒に東工大に行っていますが、部屋は別々です。
部屋でちょっと待ってから、さえのところに行って、「あの女子学生がいま来てね、横浜国大の先生が話を付けて呉れて、四月から直ぐに北大の大学院に行けることになったって、今日はそれを報告に彼女が来たよ。よかったねえ」
さえは大喜びで、「本当に良かったわねえ」と、そわそわして彼女を待っています。ぼくは段々具合が悪くなってにやにやしたものだから、ばれてしまいましたが、ともかく三十五年にして、お返しをしました。
さえの人の良さにつけ込んだのですが、さえだって、さえに惚れこんでいるぼくのナイーブな心につけ込んだのだから、ま、お互いさま。
実は某大学の先生から、私を客員教授に推薦する件が委員会を通って、今日辞令が出たので送ります、というメイルが来たのですよ。
単細胞の私はぱっと喜んだけれど、それでも学習しますからね、待てよ、と思ううちに、さえと悪の手先のノーチャンを懐かしく思い出したわけ。
こんなにのびのびと、さえのことを思いながら(しかも泣いたりしないで)文章を書いたのは久し振り。
カテゴリ:生命科学
さえ:
昨年から中国では清明節として国家休日になって、今年は4月3-5日が休日になりました。月火と休みになるので、大学ではそのためにつぶれる月火の授業を振り替えて今日の土曜日に持ってきました。
國の規定に反していると言うことになるのではないかと思いますが、ともかく、それで土曜日のうちの研究室のセミナーに参加している4年生たちは、今日は来られませんでした。
うちは細胞の培養が仕事の中心ですから、休みが続くと研究に差し支えます。ですから、普段の休みをそのまま認めると仕事にならないので、私たちの研究室は原則として国家休日無視が原則です。そのかわり、春休みは大学の規定通り6週間フルに認めています。
というわけで今朝は私も入れて11人のセミナーでした。クラシックセクションでは、SandhoffのガングリオシドとしてGM3だけしか発現させないと、生まれてくるマウスは一見正常ですが、耳元で鍵束をガチャガチャさせると硬直して頓死するという、歴史的な論文を朱さんが紹介しました。
遺伝子をいじって糖脂質の発現を完全に抑えると、細胞のレベルでは何の傷害もありませんが、マウスの新生児で糖脂質の発現を阻害すると、妊娠(あるいは発生といってもいい)7.5日で発生が止まって皆死んでしまうという、これもSandhoffの論文も紹介しました。
糖脂質って、生きるために必須なんだ、ということを、皆飲み込んでくれたみたいです。
ここの糖脂質はガングリオシドと置き換えてもいわけです。私たちのやっている研究はすごく大事なんだということを、まだ研究室に来ていない学生たちに染み渡らせたかったのですが、それが出来なくて残念ですね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ
今日は日曜日の上に、清明節の休日なので、大学は深閑としています。
午後は、買い置きのパンがとうとうなくなったので、夕方スーパーマーケットの大福園に暁艶と一緒に出掛けました。
外に出ると気温は12度を超えていて、街を歩く人たちはもうすっかり軽装です。七分袖のジャケットの若者もいます。ぼくは、下着は薄めになりましたが、まだ冬と同じ格好です。だって、室温は真冬のときよりも低いのですものね。
グロサリーの帰りに思いついて、足のマッサージに寄りました。以前、峯村先生に教わって以来、さえと良く行ったところではありません。向かいの金属科学院の先に、多田先生が開拓したところです。
ここは盲人按摩を売りにしていて、しっかりと揉んでくれます。
前のところは、若い女の子が売りだったのですね。薄着でむちむちした若い女の子が揉んでくれるので、実は色気にごまかされていてたと言うことを、この盲人按摩のところに来て気付きました。
ここでは押してくれるところがすべて、痛くて、つまりよく効くのです。やがてぼくの脚の方を揉みながら、なにやら言っていて、隣の暁艶が大笑いをしているので聞いてみると、「この人は直ぐにかーっとなる人だ」と言っているのだそうです。
暁艶は「老師は決してカッとして怒らない」と返事をしたみたいですけれど、ぼくは直ぐにカッとする人ですよね。
短気は損気であることを長い間に学習して、やっと今や滅多に怒らなくなりましたが、その代わり、脚の何処かにそれが凝集して、筋肉が凝り固まっているのでしょうね。なるほど、なるほどと、ぼくも笑ってしました。
こんなに凝っているんじゃ、週に二回は来なくちゃいけないよ、とのことです。ま、それほど、ストレスに曝されているってことでしょうか。
カテゴリ:薬科大学
今年の1月18日、ネットに『国の教育改革の威力はステルス戦闘機以上の脅威―米紙』という記事が載っていた。
『PISAは65カ国・地域の15歳約47万人が参加。実施した科学的応用力、数学的応用力、読解力の3分野で、初参加だった中国・上海の生徒がいずれも上位3位に入る健闘を見せた。一方、米国は読解15位、科学23位、数学31位という惨澹たる結果だった』
『中国人は自分たちの教育制度について、子どもの考える力を奪う、創造力が育たないなどの不満を口にし、米国の個性を尊重する教育が羨ましいと嘆くが、中国の教育の最大の強みは教育に対する尊敬だとニューヨークタイムズは指摘』しているという。
8年間に中国に来たとき、私も『中国の教育制度は、子どもの考える力を奪う、創造力が育たない』のという意見に賛成だった。
大学ですら教育は教科書を先生が読み上げて、学生はひたすらそれを覚えるだけである。従って研究の経験は必要ないので、大学を出たばかりの人が先生となって教科書を読み上げる。彼らは研究に興味を示さない。昇進のためには必要ないからである。
私は「教科書には必要なことは書いてある。自分で読めばよいのだ。私は教科書に書いてなくて、大事なことを理解するのに役立つことを教える」と学生に言って、独自の講義をしている。講義の中でも皆に質問をする。
原核生物と真核生物のメッセンジャーRNAの違いを話したあと、私たちの細胞からRNAを取って、その中からその1%もないメッセンジャーRNAを精製するにはどうしたらよいかを質問してみる。半分くらいの学生に訊いているうちにやっと答えが出る。
試験では、丸暗記するだけでは答のでない、つまり考えないと答えられない問題も、出している。こういう問題だけにして試験結果が悪いと、今度は先生の責任が問われるので、問題の一部だけだ。
5%位は十分に考えて。こちらの求める答を出す。あと15%くらいは考えたが力及ばず、あと少しだがなあ、というところまで行く。だから教育方式が良くないと、以前は思っていた。しかし、今の日本でも似たようなものではないか。
研究室に入って来てもしばらくは彼らはこちらが指導しない限り何も出来ない。実験計画も立てられないし、実験結果の解釈も出来ない。何時も受け身である。でも(日本よりは時間が掛かるが)2-3年のうちには自分でちゃんと考えられるようになる。
思考能力では、うちで博士をとった学生の一人に私はもう及ばない。中国式教育が特に悪いとも思えなくなった。人口は日本の十倍だから、優れた能力を持つ人の数でも日本は敵わないわけだ。
コメント:
常に頭を使えなくちゃ とある年男 さん
中国には、「頭を使えないと、錆が生じる」という言葉がありそうです。多分頭も一種の機械ということでしょう。
教育について、15歳くらいは中学生の段階で、いくら優秀であっても、大人になったら、ノベル賞をもらった中国人は外国籍の数人しかいません。これから見ると、中国の教育はほんとにまだまだ道が遠いですね。 (2011.04.05 10:28:37)
カテゴリ:中国の将来
さえ:
中国の一人っ子政策は有名ですね。1979年から実施されていて、1978年生まれの楊さんは次女だから、危ないところだったわと笑っていましたっけ。
これで人口急増を見事に抑えることが出来たようですが、一方、将来の老年層の急増、労働人口の減少など多くの問題を抱えています。
一番大きな問題は、一人っ子を集めた軍隊では、本気で戦争はできませんよね。大事な一人っ子を戦争で殺してしまったら、きっとこの国では親が黙ってはいないでしょう。そうなると、國がひっくり返ってしまうかもしれませんもの。
一人っ子同士が結婚すると、この一組の夫婦は二組の老両親を抱えます。國による老後の保障がこの國ではまだ十分ではないようですから、この夫婦が四人を支えなくてはなりません。
結婚するために男は住宅を用意しなくてはならないし、今では車も要求されます。それに高収入でなければ、女に相手にされません。「男はつらいよ」の時代ですね。
この一人っ子同士の結婚では、子供は二人まで認められているそうです。人口数を保つには、女子の平均出生率が2を越さないといけません。これではまだ不足ですね。
今まで二人目を産むと、夫婦二人を合わせた収入の20%の罰金を払わせることで一人っ子政策を保ってきましたが、噂では、これが見直されると言うことです。12-13億で落ち着きそうな人口がまた増えることになりますね。
いまでも大学卒の人たちの就職難の時代ですが、それを解決するためにはこの国はどのようにするのでしょうね。興味が尽きません。
コメント:
確かに、男はつらいよ とある年男 さん
4人の双方の両親、2人の子供、住宅、車、就職難、給料はいくらでも足りなさそう。この時代の中国の一人っ子である年男は、いつもつらい現実を直面して、前向きで、一人前のオトコになるために、懸命に努力してきました。そして、これからも。 (2011.04.05 10:36:52)
がんばれ 頑張れ shanda さん
そう。どこの世界でも、どの時代でも「男はつらいよ」です。
でも、今の中国は女性の比率が特に低くなっているから、相手を見つけられない年頃の男性が三千万人もいるという話だし、受難の時代ですね。 (2011.04.06 08:32:39)
Re:一人っ子政策の行方(04/05) とある年男 さん
うちの大学では、女子の人数は男子の二倍くらいいるのに、彼女がいる男子はそう多くはないです。こう見ると、ただの人数関係じゃあないみたいですね。まあ、いろいろの方面で頑張らなくちゃ。 (2011.04.06 16:14:56)
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ:
今日はぼくたちの49回目の結婚記念日。とうとう、二人揃って迎えることは出来なかった49回目。でも、ぼくが生きている限り、これからも毎年巡ってくる日。
三年前だったかな、王麗が結婚記念日に花束を贈ってくれましたね。ぼくたち、びっくりしながらもとっても嬉しかったよね。二年前はその後膵臓がんで急逝された渡邊京子先生が、胡蝶蘭を持って訪ねてきてくださいました。
昨年はさえが治療で日本にいたので、ぼくが五日間の休みを取って日本に行ったっけ。
さえとがんセンターに行くたびにあのあたりの寿司屋で食べていましたね。あの日もがんセンターに行って、終わったあとはそれまでに一番良く寄った「寿司三昧 奥の院」に行きました。
築地近辺の寿司屋は、本当を言うと好きじゃないんだ。だって、1983年には父上の玄一さんががんセンターに入院しましたよね。1989年にはぼくの親友のとねさんが入院しました。がんセンターに見舞いに行くと、帰りに寄るのは寿司屋でした。
築地の寿司屋はお見舞いと、そして悲しい別れと結びついているのです。
そうは言っても、がんセンターに行けば寿司でしたよね。この八年、さえとがんセンターに一緒に行っては、あのあたりの寿司屋を食べ歩きました。
結局近くて、手頃で、ぼくたちが一番多く寄ったのが「寿司三昧 奥の院」でした。Kasiaと食べたのもそこでしたっけ。セツさんとも一緒に行きましたよね。
今はもう悲しい思い出です。やっぱり築地近辺の寿司屋は、親しい人との悲しい別れと、そしてとうとう一番大事なさえとのつらい別れと、結びついてしまいました。あのお寿司屋さんに、また行くことがあるでしょうか。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ
今では、東日本大震災という名前が付いた大地震の後、遼寧政府から二人の係官が私たちの見舞いに来られたのは、3月25日でした。
その時、秋に私が表彰されてメダルを貰ったと言うことを初めて係官から聞いたので、その後、国際交流処の葛さんに、尋ねました。それって、本当?
そのまま返事がなく忘れていたのですが、今度の出張のことで連絡を入れて、思い出して、ついでにどうなったか尋ねました。
そうしたら、秋以来のFAXを、そういう知らせが来たかどうか、調べているんですって。絶句してしまいました。
あれから二週間ですよ。まだ調べているなんて、あり?
先方に、つまり遼寧省政府に問い合わせて、真偽を確かめれば済むことでしょ。だって、あの係官の思い違いかも知れないし。
8年中国にいても、まだ、いろいろなことが、いろいろな仕組みが、分かりません。ぼくたちの考え方と、違うことは確かみたいですが。。。
カテゴリ:中国の将来
4月6日のASAHIネットに北京の古谷浩一さんが書いていました。『「贅沢三昧で中国歴代王朝衰退」 温首相が腐敗に危機感』
『中国共産党機関紙、人民日報などは6日、3月下旬の腐敗撲滅に向けた幹部会議での温家宝首相の演説内容を明らかにした。首相は「中国の歴代封建王朝の衰退はその贅沢三昧によるものだ」と、幹部腐敗への強い危機感を表明。「我々のお金はすべて人民の汗水だ。無駄遣いは決して許さない」と訴えた』
もっともです。今の状態に危機感を持たなければどうかしているといって良いでしょう。それほど腐敗は良く報道されています。
『首相はまた、昨年1年間に規律違反で処分された党員が14万人に上るとしながら、「人民の期待とはまだ大きな差がある」とした。中東での政権崩壊を招いた民主化の動きが、幹部腐敗への不満などで生じたとの分析も意識した発言とみられる。』
なるほど。そうでしょう。でも、ここで書きたいのは、内容ではなくて新聞独特の面白い言葉遣いです。
この古谷さんは中国から良い記事を始終発信しているので、内心沢山の声援を送っているのですけれど、文句を言いたい文章です。
『首相はまた、昨年1年間に規律違反で処分された党員が14万人に上るとしながら、』
のところですが、普通の文章なら、
『首相はまた、昨年1年間に規律違反で処分された党員が14万人に上ると指摘し、』が普通でしょう。『・・・としながら』では全く意味不明です。
『・・・としながら』があるなら、その先が反対の叙述になるなら、まだ我慢できますよね。たとえば『・・・としながら(も)、まだまだ、違反が足りない』とか。
その先の、『「人民の期待とはまだ大きな差がある」とした。』も、変ですね。
これは首相が述べた言葉ですから、
『「人民の期待とはまだ大きな差がある」と述べた。』で良いはずです。
『・・・とした。』のような表現は新聞でよく見かけます。引用の時に、引用だと分からせるために、使っているみたいです。
引用であることは文頭で明らかです。上記のようにきちんと書いて意味が通じるのに、文章としては意味不明の悪文にするのが新聞みたいですね。中国で日本の新聞を日本語教育の教材に使っているところもあると聞いていますが、心配です。
カテゴリ:カテゴリ未分類
さえ:
「大学の近くで、(安くて)美味しいところない?」といって、大学の招待所食堂に行ったことを書いたら、書き込みがあって「喜来多」のチャーハンが美味しいですよということでした。
昨晩、暁艶に誘われて行って見ました。確かに大学の直ぐ傍で、以前はうちから大学に行く通り道だったのですが、近道を歩くようになってからは見かけたことがなかったのです。
行って見て、大昔、開店の時に綺麗そうだし行ってみたいなと思ったことを思い出しました。うどん、チャーハン、あんかけなど、具の種類が沢山あって、6-9元です。鍋になると22元。
中国のレストランは文字通り中華料理で、数人以上で行かないと食事が楽しめない仕組みです。ひとり者はどうするのかという疑問に対する答えがこれですね。店に来る人も大体一人、たまに二人連れ。注文してテイクアウトする人が結構いました。
黒椒牛肉炒飯は、推薦通り良い味でした。ご飯の代わりにうどんを使った皿も注文しましたが、スパゲッティと違ってうどんには腰がないので、味は良かったけれど、歯ごたえが物足りない感じでした。
食べていると大きな(30x60センチくらいの)金属のトレイに入ったご飯を二つ、厨房に配達しているのを見ました。厨房は大きそうにも見えないので、自分のところでご飯を炊くよりは、このような食堂相手にご飯の一括注文を届ける商売が成り立つのでしょうね。
ただ、衛生的に安全な状態で届いているかどうかが気になります。
食べている最中に残飯回収の人も来ていました。店には裏口がないらしく、客の入り口を通って、高さ80センチくらいの樽を出し入れするのです。ちょっと興ざめです。
大きな店ならお客の目に触れないだけで、残飯回収の仕組みは絶対必要ですよね。体面を飾らずにたくましく生きる中国人の暮らしを垣間見た感じでした。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
上海と北京の講演のためのPPTは作り終えました。空いている時間で、DNA arrayの分析結果を眺めながら、どの遺伝子をターゲットするかを決めるために遺伝子を調べ続けています。
遺伝子の名前を見ても、直ぐには何が何だか分からないでしょ。内容を理解するのにいろいろと調べないといけません。朱さんや黄さんと調べまくっています。
サイトカインのような細胞の産物、転写因子、増殖系と細胞周期関係のシグナル伝達分子を対象にしようと思います。
調べた中から、これと思い定めた遺伝子のPrimerの配列を選び、SiRNAのターゲット配列を決める、などが簡単に決められるときもありますが、Transcription Variantsが4個もあるなんていうと、Blastをして調べなくてはなりません。
ここ数日で30個くらい選び出したら、とうとう今朝は頭が重く、目が痛んで、何もする気力が起きなくなってしまいました。
オフィスでぐったりしていたら、心配した暁艶が揉んであげるといって肩を揉んでくれて、こういうときにこそ按摩さんに行ったらというのです。
え、まだ昼間じゃない?と思ったのですが、確かに何も出来ないでここにいても意味がないわけで、思い立って出掛けました。
金属研究所を抜けて歩いているとき、レンギョウが咲いているのが見えました。中国語では迎春花です。今年の春、初めてここで見た花ですよ。本当に、迎春花ですね。ドロノキの芽も芽吹いて、花心が伸びています。もう、いつの間にか、春ですね。
例の盲人按摩の店は、大盛況でした。私が寄るのは日曜日の夜で、何時も閑散としていたので、お客がいないと要らぬ心配をしていたのですね。
一時間、肩と頭を揉んで貰って、頭の重しが取れた気分となって、大学に戻ってきました。
じゃ、ばりばり仕事に取りかかったかと言うと、そうじゃないんですね。眠いんですよ。
眠気覚ましにPCで遊んでいるうちに、学生の徐くんと、いまオフィスにあるWindows PCは何しろ2003年につくったものだから、故障だらけだし、いまは大した金を掛けずに新しいPCに出来ると言う話になりました。
PC管理者の朱さんもOKを出してくれたので、新調にGo。徐くんは、どういう内容にしようかと張り切って調べ始めました。
こういう新しい機器が増えるって話は、気分を明るくさせますね。おさえちゃんがいなくても、研究室に春が来る、ということでしょう。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ
昨日レンギョウが咲いているのを見たと書いたでしょ。みどりの何もないところに鮮やかな黄色でした。
今朝、マンションの狭間の小道の桃の木が咲いているのを見ました。大通りに出ると並木の桃が一斉に花を付けています。ぱっと春が来ました。春天到了。
ぼくたちは瀋陽に来たころ、この花が桃か桜か、どちらなのか分かりませんでしたね。
さえが学生に訊いてみると、ワシントンが子供のころ桜の木を切って父親にとがめられて正直に自分だと名乗りでたという話、それが桃の木を切ったことになっていました。
さらに調べると、Cherryが桜だけではなく、桃も意味するのでしたね。それで、納得したような、納得できないような、気持ちだったことを思い出しています。
コメント:
年々歳々花相似 Zhuzhu さん
今週研究所の桜も満開して、木の下で歩いて、04年春貞子先生と桜か桃かを議論したことを思い出した、もう七年前のことですよね、なつかしい~~ (2011.04.09 19:24:23)
歳歳年年人不同 shanda さん
ほんと。懐かしい思い出ですね。
そのひとときは、二度と戻って来ない。だからこそ、一瞬一瞬を大事に生きていきましょうね。 (2011.04.09 19:58:09)
今日は教師の会の定例会があって、もう直ぐ弁論大会だし、と思って出掛けた。
弁論大会の時の役割り表や、進行表などが配られ、係りの説明があったけれど、その中にぼくの名前がない。
無視されたかと憮然としたが、ま、役割なしだっていいかと、発言をためらっていた。
その日は、北京の丹羽大使も来られるので、夜は総領事官主催の食事会があるという。「でも、人数の関係でそれに出る人は、ここに名前のある人たちだけです」と宇野さんがいった。
それで、「弁論大会で私のやることはないのですか?」と尋ねた。
代表の宇野さんはじめ役員たちの気まずい沈黙。。。
役員の不手際というか、さらにもう一つの不愉快な行為をいうと、集まりの終了したあと、渡辺先生が「今日の食事会はどこでするのですか?」と質問した時だ。
ぼくたちが本格的に教師の会に踏み込んでいったのは、定例会が終わったあと中道先生と食事をするようになった2004年からだった。そうなるまでに教師会に入れもらってから一年近い日が経っていた。
この食事に加わる人が段々増え、とうとう南本先生が代表の時に、定例会のあとは何時も皆で食事会をすることが習慣となっていた。もちろん強制ではなく有志の参加だが、何時も殆どの人これを楽しみに集まった。
それに対して、役員は「考えていません」という返事。
考えていなくたって、今日初めて集まりに参加した新人が二人いるのだけでよ。その場で、「(考えていませんでしたが)、一緒に行ける人たちで行きましょう」と言ったっていい。
渡辺先生が、そう思って確認したのに対して、「いえ、やりません」という返事だ。
おっちょこちょいの私は、声を挙げて、「行ける人たちで、近くの店に行って食事をしましょう」と誘いました。
結局、その新人二人を入れて七人が近くの北京ダックの店に行って、楽しく食事をしました。今日出席した18人から見ると少なかったけれどね。
文句のついでに:
集まりの議事予定表に、他の係りは全部入っているのに。「資料室係から」という発言予定の項目が抜けている。資料室係は私なのだ。平気で人の存在を無視するなんて、全く、今の役員と来たら、本当にふざけた人たちだ。
やっとのこと、教師の会で資料室を作って その中核となる本を集めるために殆ど私一人で努力してきた。
日本に帰る人が本を置いていったらいいとか、寄付を呼び掛けたらよいとか、日本で余っている本を送ったらよいとか、皆さん言ってくれますが、それじゃ実行するのは?ということになる。みんな、言葉だけだ。
今まで教師の会は機会があるごとに活動の基金になるようにと、会員は教師の会にお金を寄付してきた。
森領事に会食代を出し戴くことが度重なって、じゃ私たちも出して積み立てようということになったし、私も歌集を出版して教師の会に余剰金を寄付して積み立てた。
それがかなりの額になったが、経緯を知らない人たちが、それなら日常的に使ったらいいじゃないかと言うようになってきたので、一般会計と特別会計に分けることを提案した。
この特別会計も、それをなにかに使わなきゃと考える人たちが出てきたので、資料室の整備に使おうと今回の集まりの時、提案を出した。
資料室に用意したい本を皆で考えてみて、「それを特別会計からお金を出して買う」。「日本で買ったときの送料も、負担する」。
候補の本をだれが買うかは問題だが、もちろん、私もやるつもりでいる。今までは、本も、本の送料も、私個人で負担してきたが、この先は特別会計でまかなってもらおうと思う。
この提案は、本質的に了承された。来月までにそれぞれが本の希望を出すことになっている。そしてそれ以降は資料室係に一任と言うことにもなった。
あとは資料室をどのような形で開放するかを、考えよう。月に一度くらいなら、週末に自分が当番をしてもいいと思っている。
カテゴリ:友だち
さえ:
明日から一週間メイルできないかも知れません。
小呉がぼくを元気づけるために、講演旅行を計画してくれたということを書いたでしょ。明日の朝、上海に向けて出発します。
旅行先でインターネットにアクセスできるかどうか分かりません。ぼくのはモデムのないPCだから、昔の接続方式だと駄目ですね。上海と北京だから最高に進んでいるでしょうけれど、そうなると。使いこなせるかどうか。
上海の午後は獣医研究所で、Introduction to Glycobiologyの講演。翌日はとくに予定が入っていませんが、夜には趙鶴さんと会うことになっています。水曜日は北京行き。
翌日木曜の午前は首都大学で同じく、Introduction to Glycobiology。午後は薬理学研究所(協和医科大学)の陳老師のところで、Gangliosides regulating tumor metastasisの講演。
ちょっときつい一日ですね。金曜日午後は、微生物学研究所の李老師のところで、おなじく、Gangliosides regulating tumor metastasisの講演。
つまり前半二つは初心者向け。後半の二つは専門家向けの講演です。
土曜日に戻ってくるつもり。今度の旅行は小呉が全部持って招待してくれるのですよ。すごい豪気な話です。感激です。あの小呉がね、事業に成功したのでしょうね。とっても嬉しいことです。
カテゴリ:中国の旅
さえ おさえ:
11日から16日まで上海と北京に行ってきました。
最初の小呉の計画では、まず北京に来るようにということでしたが、それでは時間の無駄になるから上海で会おうよ、といって上海空港で待ち合わせました。
上海空港も広いですね。空港のbaggage claimを過ぎて外に出てぼんやりと小呉を探していたら、ぼくの名前を書いたカードを持った男性が、もの問いたげにぼくを見つめているのですよ。え、え、え。It's me.と近づくと、その午後講演することになっている中国農業科学院獣医研究所から迎えに来た人でした。
あとで分かったのですが、その人は、その研究所の主任の薜教授で、つまり上海滞在のスポンサーだったのです。びっくり。
ターミナルが二つあって、北京から着いた小呉は別のターミナルに到着していると言うことでした。そちらに行って待っていると、はちきれそうに元気な小呉が向こうから句やって来るのが見えましたが、一緒ににこにこしとくっついているのが小李。
小呉の奥さんですよ。全く予期していなかったので、驚き。小呉によると、「もう日本語忘れちまったんで、彼女に来て貰ったんですよ」だって。「ちょうど休みを取る機会にもなったし。。。」
小李には結婚した小呉のうちに招かれて、日本で会っていますね。ますます美人になって、どぎまぎしてしまいました。今、日本の会社で働いているのですって。本当に綺麗な日本語を話すのですよ。しかも、とても上手いのです。日本人と区別が付きません。
余りに綺麗な日本語なので、そういったら、小呉が、「ぼくのは綺麗の反対、汚い日本語だね」といってむくれました。笑っちゃったけれど、六日間一緒にいたら、小呉の日本語もそれなりに、それなりのレベルで、戻ってきましたよ。
上海の浦東空港からクルマで30分くらい高速道を走りました。周りは田園風景ですが、建物を見ると田舎の農家じゃなくて別荘みたい。豊かなのでしょうね。
案内されたところは上海市の南になる開発区で、高層の建物がなく、IBMとか日本のオムロンとかの研究所が、広々としたところに点在している、日本で例えるとつくばみたいな綺麗な佇まいのところでした。
このあたりは街がなく、つまり、食事をする店が並んでいる街がなく、そのあたりの中心になる6階建ての大きな建物(ベンチャー企業などの入るところみたい)の地下に大きな食堂がありました。この辺り一帯の会社員、研究員が昼になると一斉に食べに来るための場所なので、ともかく食堂が広いのです。
そこで昼をご馳走になってから、近くにある獣医研究所に案内されました。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
中国では、中国農業科学研究院のもとに、全国各所に沢山の研究所があるそうです。もちろん全部国営ですね。
2002年に蘭州に学会があって訪れたとき、それよりも十年くらい昔、小呉がいたという研究所を訪ねたでしょ。あれもその研究所の一つです。小呉は今もそこの研究所に研究室を持っているそうです。
本業で研究をしているわけではないから、恥ずかしくて人には余り言わないとのことでしたが、実際に学生も指導しているのですよ。そのような学生が一人、彼の会社に入っていて、あとで北京で会社を訪ねたとき紹介されました。
獣医研は6階建ての大きな建物でした。薜老師は瀋陽薬科大学の出身で、薬科大学の呉校長の同級生なのだそうです。研究室に案内されましたが、ここでは古参の主任教授で、大きな面積を占めていました。
この部屋にはLS-MS、こちらにはTOF-MS、こちらにはFACS、こちらにはConfocal Microscope、こちらにはHPLC、こちらには、、、。といった具合に豪華な研究機器が十二分に揃っていました。使っていない別の玄関ホールにはまだ開けていない機器の木箱もいくつかあるみたいでしたよ。
PCRの機器一つしかなくても研究を続けている私たちから見ると、こんなに機器があれば良い論文が沢山書けるでしょう、なんて思います。
岡山大学で学位を取った李老師、山口大で学位を取った馬老師など、日本語を話す先生たちにも会いました。
講演はGlycobiologyについて話して欲しいと言うことでしたので、Introduction to Glycobiology。三十人くらいの若い人たちが集まっていました。Glycobiologyの面白さを話したのですが、研究法の一つの例としてあげた中の、Saccharide primersを使う研究に興味を持った人たちがいました。
これは糖脂質の機能研究にいろいろの方法が工夫されてきた、という話の一つとしてぼくたちの研究にちょっと触れたので、詳しいことを話さなかったのですが、知らないところで話をすると思いがけな反応があるものですね。
夜は、研究所の所長も出てきて盛大な宴会でした。薜老師の奥さんは同じく薬科大学の出身で、党書記。つまり、旦那さんより偉いのですよ。うちでも職場でも山の神というわけですね。実際、王麗みたいに元気でしたよ。
小呉の友人の苗さんとも、食事のときに会いました。日本女性と結婚しているそうで、関西弁で話すのですよ。関西弁はざっくばらんな感じですから距離がなく、直ぐ親しい気持ちになりますね。宴会のあと夜のしじまの中を一緒に散歩もしました。
?華大酒店というホテルは、並木が二重に植わった広い道沿いにあり、辺り一帯は静かで、しかも安全な環境のようです。途中で道の一画に自転車が何台も置いてあるところがありました。
苗さんの説明によると、この地域の人たちが自由に乗って良い自転車だそうです。へエー、とそのシステムに驚きです。エコシステムですよね。事前に登録をしたカードを持つ人たちしか乗れないそうですが、それでも相互の信頼で成り立っているわけですものね。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
上海の二日目も好天で、気温は三十度を超えると予測されていました。何も予定がないので、じゃどうする?どこでも良いよ、と行くところはお任せ。
9時にホテルの前で、小呉、小李とタクシーに乗ったら、小呉は運転手となにやら言い合っています。ここは上海の郊外で、このタクシーは市内にHA乗り入れできないとのこと。地下鉄の5号線があるから、そこまで行って地下鉄に乗ることになりました。
地下鉄と言ってもここは上海郊外で高架線。上海は地下鉄が十本以上あって運賃は距離制なのだそうです。だから切符を買うのはマシンなのですが、行き先が一つのモニター画面に収まっていないので、結構面倒みたいです。小呉は北京で何時もマイカーなので、地下鉄の切符の買い方が分からないとか、あちこちをうろうろしました。
5号線を全部乗って、次は上海に最初に出来て東西に走っている1号線に乗り、人民広場で乗り換え。地下鉄の駅は切符を持ってはいるとき荷物検査があります。身体検査はないですけれど、空港の登場チェックと同じ仕組みです。
人民広場で地下鉄7号線に乗り換えて、耀華路で外にでると、ここが上海Expoの跡でした。跡といっても、中国館はそのまま残してあって今でも見られるので、まだ行ったことのない呉夫妻と出掛けたのです。
地下鉄の駅を出て道を渡ると入場券売り場。「3時間待ち」と掲示がでています。切符売り場の窓口は22カ所開いていますが、どこも長蛇の列。すごい人波。
げんなりして、これじゃ無理そう。
でも、ダフ屋があちこちにいて、小呉は一枚20元の切符を三枚100元で買いました。そこから入り口目指して二百メートルくらいダッシュ。でも、そびえ立つ中国館から遙か遠くで並んでいる大人数の後ろに追いついて、そこで歩みを止めました。そこにでている掲示が「2時間半待ち」。
切符を買う行列に並ばないことで30分待ち時間が短くなったというわけです。
大体6人ぐらいの巾の行列なのですが、後ろから人が押して来てぎっしり。強い日射しに照らされて、それでも少しずつ進みながら待ちました。後ろから人を掻き分けて何か叫びながら前に行く人が時々います。小呉に訊くと「人を探しているといっていますよ」とのことでしたが、あやしいものですね。
とうとう何人目かのとき、三列くらい前の人が怒って阻止して、大げんかが始まりました。顔を付き合わせて怒鳴りあうのです。やがて公安らしい人がこれまた人を掻き分けてやってきて、この人たちを連れて、また人々を、今度は横に掻き分けてでていきました。
1時間越えたところで、とうとう私が音を上げました。もう駄目。。。
75歳以上ですと優先入場があるそうです。75歳になったときに是非また来ようね、ということにしました。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
中国館に入るための行列から解放されて駅の方に戻ると、切符売り場は閑散としています。えっ、先刻の大混雑は、いったい何よ。
ちょうど団体が沢山来た時間だったのでしょうね。時間がずれていれば、恐らく大して並ばずには入れたかも知れません。
今度は地下鉄8号線に乗って老西門に行き、10号線に乗って一駅先の豫園に行きました。昔の庭園がそのまま高層ビルに囲まれて、昔の上海の面影を残して人気を集めています。2004年に、学生の沈さんに案内されてここに来ましたね。
小呉がどこで食べる?と訊くので、答はもちろん、小龍包の南翔饅頭店ですよね。
豫園の中の池に掛かっているつづら折れの橋を沢山の人たちと渡って、店の前に着くと小李がいません。小呉と探しているうちに小呉が店の階段を上がっていって、彼女が既に3階で並んでいるのを見つけました。しっかり者の小李ですね。もう並んで入るのを待っている人たちの真ん中くらいです。
南翔饅頭店では、豚肉の小龍包、かに肉入りの小龍包、大型の饅頭に入った蟹卵スープを味わう言ってみれば大龍包かな、米の入った焼売などなど、おいしいご馳走に満腹しました。
これで中国館に一時間並んでから諦めたフラストレーションと疲労が解消。
10号線で南京東路に行ってから2号園で静安寺駅に着くと、小呉の友だちの曹さん、そして昨日も会った苗さんが笑顔で迎えてくれました。
皆それぞれ専門は違うけれど、日本の鳥取大学に同じ頃留学した仲間で、その時以来ずっと仲好しの友だちなのです。駅ビルが大きな日系のスーパーでした。そこの8階のコーヒー店でくつろいでお喋り。みんな日本語が達者なので、ひとしきり中国語でしゃべって笑い合ってから、日本語にしてくれます。
夜は近くの屋企湯館という、しゃぶしゃぶというか鍋の店で美味しくご馳走になりました。ここには、うちの研究室を出た趙鶴さんが、一日の仕事を終えてから、駆けつけてくれましたよ。
彼女は東大薬学の修士に行きましたよね。この3月に学位を取って戻ってきて上海の日立系の会社に就職したそうです。務め始めてまだ二週間目。
彼女はうちの研究室にいるとき、とても優秀な学生でしたよね。日本語は前と殆ど同じ正当派の日本語。つまりゆっくりと正確に話すのですよ。「日本では研究に追われて、日本語を磨くひまが余りなかったのです」とにっこり笑っていました。
給料は1万元とのこと。うひゃー。ぼくより遙かに高給ですね。でも、自分でアパートを借りていて家賃が毎月2千5百元ですって。うちの家賃はただだから、それを考えると同じ額と言えますね。それでも凄い。上海で教授をしなくっちゃ。
その後地下鉄で南京東路に行って、外灘(ワイタン)の夜景を楽しんできました。10時になって照明が落とされる瞬間に居合わせました。
こうやって小呉と小李が学生時代の友だちに会っているのに長く付き合っていると、友だちの友だちは友だち、つまり、「小呉の友だちは、ぼくの友だち」という気になりました。小呉と小李がよい人たちなので、彼の友だちも心の優しい人たちばかりなのです。
コメント:
完璧な旅 butazhuzhu さん
うわ~~~~~~~~三階の南翔饅頭は最高だ!二階一階のより味も最高うまい、値段ももちろん違いますよ~~~~~~~~ (2011.04.18 16:53:39)
カテゴリ:中国の旅
さえ:
三日目は北京への移動日です。朝9時に獣医研でお世話になった薜教授が迎えに来たあと空港まで送るといわれるのを固辞して、それでも研究所のクルマで空港まで送って戴きました。
短い時間でしかも一部だけですが、上海はとても豊かな街だと思います。路も綺麗ですし、もちろん公園も至る所にあって緑はふんだん。
上海の地下鉄に乗った7年前は、人民広場に着いて、降りるよりも先に人がなだれ込んできて、こちらも人を突き飛ばしてやっとの思いで降りたのを思い出しました。今回は、ドアが開いた途端に入って来た人も少数いましたが、殆どは降りるのが優先という、当たり前の常識が通用するようになっていました。経済的に豊かになって気持ちも成熟して来たのは間違いありません。
街では、柱に張られた電線は殆ど見かけませんでした。これこそ経済的に豊かな証拠です。日本では東京の中心のごく一部だけですよね、電線が張り巡らされていないのは。これこそ街が豊かな確実な証拠ではないですか。
それでも、ホテルのあった上海郊外は穏やかな地区でしたが、5-6階建ての住宅街(日本ではマンションと言っていますね)の1階はもちろん、2階の窓も例外なく、ところによっては3階の住宅の窓も金網で覆われていました。防犯のためですね。論より証拠で、街が豊かに見えても、犯罪が多いと言うことでしょうか。
約2時間で北京国際空港第3ターミナルに到着。広くて驚きの空港ですが、今は更にまた南の方に国際空港を作っているそうです。空港には小呉の会社の若い閻さんが迎えに来てくれました。運転しているのは小呉のBuick.
北京の空はどんよりと、Hazyです。瀋陽と似た曇り空ですが、空気がより汚染されている感じ。これは北京にはクルマが多くて交通渋滞ばかりと聞いているからでしょう。2003年に瀋陽に来たとき、空港から市内に行くハイウエイの周囲が厚い樹林帯で囲まれているのに驚きましたが、もちろん北京もそう。連翹(これは中国の字と同じです)、桃の花、辛夷が満開。柳、楊、ポプラ、どれも若い葉を伸ばしています。
1時間弱で北三環路にある長城ホテルSheraton Hotelに着きました。小呉はBush大統領も泊まった言う最高級ホテルを、私のために用意してくれました。
荷物を置いて直ぐにホテルを出て、天安門に向かいます。天安門の上を公開しているというのです。
三環路を走っていて、二年前にテレビ局のビルが春節の花火で焼けたままなのを見ました。おかしな格好のビルで、パンツビルと言われたり、女性の○○の形と言われたりしているビルです。
花火というと今年の春節の花火では、瀋陽の超高級ホテル、Hotel Marvericが焼けました。うちから見える夜景が美しかったのに、この春戻ってくると、無残な姿です。大きなビルを花火で丸ごと焼いちまうなんて、中国はやることが半端じゃないですね。
やがて渋滞に引っかかってしまい、國貿という駅で地下鉄1号線に乗り換えて天安門東門に行きました。駅を出ると、北には巨大な天安門がそびえ立っています。あの上に立って手を振っても、下から殆ど見えない感じです。一人20元、老人5元。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
天安門の楼上に上って天安門広場を見下ろしました。中国共産党の熱烈な信者なら感激で胸を熱くするでしょう。1949年10月1日に毛沢東がここで建国宣言をしたのですから。
毛沢東が、万里の長城に登らないと男ではない、と言うか登った人は好漢だ、といっています。私は2002年に私は小呉に案内されて八達嶺の長城に登っています。これで、天安門に登ると、もっと好漢ということはないかなあ。
広場には数万人の人が入るでしょう。広場を埋める人波を想像してみて、三万人近いといわれている今回の東日本大震災の犠牲者の数に思い至り、粛然とした気持ちになりました。多くの人たちを失い経済的にも大損害を受けた日本ですが、是非立ち直って欲しい。及ばずながら、日本を離れた遠くから祈ります。
天安門の楼上の端には若い人たちが沢山立ってこちらを見て監視しています。私服姿ですが武装警察の人たちだという話です。天安門から飛び降りたり、垂れ幕などを垂らしたりしないよう監視しているのでしょう。
建物の中には天安門、広場の歴史の説明がありました。89年の事件は全く触れられていません。ここの説明によると、現代中国の四大偉人は、毛沢東、とう小平、江沢民、胡錦涛の四人らしいです。
広場の正面に毛沢東記念館。行ってみたい?いいえ。左手には歴史博物館。行ってみる?いいえ。右手は人民大会堂。ここは中に入って高い天井を見上げてみたいですが、今は入れません。
天安門広場に行き、南北の中心線の上に立ち、次には腰を下ろして見ました。日本ではこのように南北の線を感じる場所って、どこにもないのですね。広い国土に暮らす人たちと、箱庭に暮らす私たちとの感覚の違いでしょう。
夜は、小呉が何を食べたと聞くので、毎日のご馳走責めに多少疲れている私は、小呉と2002年に訪れた蘭州の蘭州拉麺を思い出して、それがないかなあ?と尋ねました。瀋陽では蘇氏拉麺(太原街にある蘇氏拉麺に最初に白さんに連れて行かれましたっけ)に行って、羊肉串と一緒に拉麺を食べるのが私の好きなことですから。
それなら良いところがあると言って夜用意してくれたところは、燕蘭楼という回教徒の豪勢な料理店でした。羊肉や美味しい料理の最後にだされた拉麺は、ほんのちょっと食べることが出来ただけで、もう満腹。
小呉と小李の鳥取時代の仲間たちで北京いる人たちが今日は集まって、袁文業さん、李学兵さんたちも一緒に食事をしました。それと閻さん。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
14日木曜日は朝9時に小呉が迎えに来てくれました。北京の南の方に首都医科大学があります。
日本の由緒ある都立大学がいつの間にやら首都大学になったし、北京にある首都大学のことは知らなかったので、今はどこでも首都大学って名前が流行っているのかなあと、何となく新興の大学のように思っていたのです。
向こうについて、迎えの薜明教授に伺うと、1959年の創立とのことでした。浅薄な思い違いに申し訳ないことでした。
薜明教授は小呉と同じ時期に蘭州の獣医学研究所に赴任し10年一緒にいたあと、医学部に入って勉強をし、さらに薬学の勉強をして今は薬物代謝学の研究に取り組んでいるそうです。外国に留学をしたことは全くないけれど、学生に薬物代謝を英語で講義しているという勉強家でした。とても真面目な先生と見受けられ、もっと時間を掛けて互いの研究の話をしたい感じでした。
ここのセミナーではやはり初心者向けの糖鎖生物学の話をしました。彼らは初めて耳にしたはずのガングリオシドについても、いろいろと質問をしてくれました。さすが礼儀の國ですね。
一人の思慮深げで可愛い顔をした女子学生が、「研究を続けて行くには、何が一番大事だと先生は思いますか、聞かせて下さい」というのですよ。
「それはなんと言っても興味でしょう。興味が持てなかったら、さっさと研究を止めてしまいなさい。興味こそが研究へのDriving forceです」
「だって、今は先生から言われたテーマで研究をしているでしょ?ということはあなたがそのことについて一番よく知っているのですよ。あなたが先生に実験結果を報告しなけりゃ、それは存在しなかったことと同じことになります」
「報告できるくらいあなたが研究を愛していないと、それはないも同然。あなたが研究を自分のことのように愛していれば、実験は答を呉れます。自分の研究を愛しなさいね。だってその研究を愛せるのはあなたしかいないのだから」
「それから実験結果が自分の期待と違っても、結果を無視したらいけません。自分のあらかじめ考える智慧なんて自然の妙に比べたらたいしたことはありませんよ。実験の失敗の原因をしっかり考えると、気付いていなかった大事な原理が、ちらりと見えるものですよ」
なんて偉そうに返事をしました。
四川料理で昼をご馳走になったあと、二十年くらい前に、紅楼夢をドラマにしたときのセットがそのまま公園になっているのが近くにあるというので案内されました。
紅楼夢は日本では余り知られていないみたいで、私は本の名前しか知りません。それでも主人公の悲恋物語を薜教授は一生懸命説明して下さいました。一家族がこのような豪邸に住むというのは、信じられないくらい金持ちだと言うことですよね。きっと役人になって悪いことをしたのだろうと思いながら、説明を聞いていました。いずれ、本を読んでみましょう。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
今日の午後はもう一つ、中国科学院薬理学研究所・協和医科大学を訪ねました。
ここには、三菱生命研で東さんのところでポスドクをしたことのある陳乃宏老師が研究室を持っています。陳老師にはむかし日本で紹介されたことがありましたが、その後、2007年ウルムチの学会に出たときに陳老師から声を掛けられて再会を果たしましたね。
楊方偉の友だちで、うちの研究室にも良く来ていた、寧娜さんが今この研究室の博士の二年生。
陳老師は1992年に埼玉大学に行って学位を取り、生命研でポスドクをやって、私と同じ糖脂質の領域の研究をしました。200年にこの研究所に職を得てから、改めて日本に2年間出掛け、北里大学で高橋さんに神経薬理学の手法をいろいろと教わってそれを基礎にして、ここで神経薬理学を中心に研究を始めたそうです。
神経薬理の工藤さん、北里大学の篠原さん、高垣さんなどの懐かしい名前が出てきました。もちろん糖鎖生物学の領域では、永井克孝先生はじめ大体の人がお互いの共通の知人です。
ここでの研究は、最初は大変だったみたいですが、その前の薬理学研究所の所長だった張老師にも助けられて、2006年からは順調に研究成果が出始め、今では中国の薬理学会の中心人物になっているみたいです。研究所では3階のフロアの半分のスペースを占めて、博士が15人(?!)、修士が12人いるのですよ。寧娜が研究室を紹介してくれました。
セミナーは、「Regulation of tumor metastasis by ganglioside GD1a in mouse osteosarcoma FBJ cells」とういうタイトルで話しました。
研究の話を学生を含めて専門家集団にするのは2007年にウルムチの学会で一度あっただけです。薬科大学では同じ領域の研究者がいないので、一度も研究の話をした経験がありません。今回の機会がどんなに嬉しいことだったか、さえには分かりますね。
研究の細部の詳細になるとフォローしにくいので、ある程度簡略化して話をしました。もっと丁寧に細部も話して分かって貰いたかったけれど、1時間の話しなので、それは無理。
話し終わったあと、寧娜が司会役でした。こういうところ、陳老師は巧みですね。今年79歳になる張老師を含めていろいろと質問が出ました。とても、いい感じでしたよ。薬科大学と違ってここでは講演する人が多いでしょうから、講演者の気分を良くさせるという、接待慣れしているとも言えるかも知れません。
寧娜はいつもは使うことの少ない日本語を一生懸命に私に使っていましたが、彼女に比べると陳老師の日本語は達人の域に達していますね。
なお、「達人」という言葉は中国語にはなかったそうですが、「上海地下鉄利用達人」というような形で今はすんなりと受け入れ得られているそうです。そんな使い方はなかったけれども、字を見れば意味が分かるわけで、日本語のまま受け入れられて通用するようになったと言うことです。
他にも「直撃」もそのまま使われるようになったのですって。まっすぐ行くことを「一直去」とい言いますから、確かに字面でそのまま分かるはずですね。このようなことを、苗さんが教えてくれました。
終わって湖南料理の店でご馳走になりました。そのうちの一皿、獅子頭料理は、ずっと中華料理の名物くらいに思っていました。握り拳くらいの大きさの、言ってみればハンバーグの煮込み料理です。
命名の由来は周恩来がこの店の本店でこれを初めて食べて美味しさに名前を聞いて、まだ名前がないというので獅子頭と名付けたという話でした。
脂3と肉7で、しかも脂濃くならない味に仕立てるのがこの店の秘密なのだそうです。実際、見事な味でしたよ。
陳老師とまだ現役で学生の指導をしておられるという張老師のお二人は、明日、飛行機で上海の三日間の会議に出掛けるそうです。
カテゴリ:中国の旅
さえ:
北京最後の夜は、小呉のうちで夕食をご馳走になりました。小呉が晩ご飯はどうする?どこで何を食べたい?と訊くので、小呉の餃子を作ってよ、ぜひご馳走になりたいと言ったら、いいよ、ということになったのです。
ニッピにいたころは、良く彼のアパートに押しかけて餃子をご馳走になりましたね。初めは、餃子の作り方を教えて貰うという名目で出掛けました。日本で開かれたサッカーのワールドカップの試合のあるときは、必ず皆で彼のアパートに早めに行って、餃子を作って、食べながらテレビで観戦しましたね。
餃子を作って、なんて言うと自分たちがいかにも作ったみたいですが、最終的には全部小呉が仕上げましたから、正確な表現ではないですね。
粉を練るのは、まあ良いのですが、そこから先の皮を作ることが出来ません。小呉が鼻歌を歌いながら、左手と右手を別々に動かして、さっさと皮を作ってくれました。これも小呉が作った餡を中に入れて閉じるのも結構難しく、水餃子にするとぼくの作ったのは、たいていどれも中身が破れて出てしまいましたね。
今回、小李に教わったのですが、餃子の中身が出ること、つまり「破れる」というのは縁起でもない言葉なので、ここでは口にするのを嫌います。餃子がはじけたときは 破れると同じ音で Zheng Qian(お金を儲ける)と言うそうです。
この午後、実際には小呉はぼくに付き合って、オリンピックスタジアムの鳥の巣と、水立方見学に連れて行ってくれたので、彼は餃子を作る時間はなかったのです。その代わり、彼のお姉さんが作ってくれた餃子と、おかずでご馳走になりました。
小呉たちは今、子供の教育のためによい小学校に入れなくてはならないのでその近くのマンションを借りて住んでいます。中関村の直ぐ隣の立地の良いこところでした。アパートの中も広く、日本式に言うと、3LDKで、120平方メートルくらいかな。家賃はぼくの給料よりも高いのですよ。
前住んでいたところには吉林から呼び寄せたお母さんと、二番目のお姉さんが住んでいて、つまり小呉が面倒を見ています。
二人の間の子供は6歳で、とても可愛い。モンヤ。奥さんの小李は美しい人だから納得できますが、小呉の子供だなんて信じられないくらい可愛いのですよ。でも、モンヤの写真を貰って瀋陽の大学で見せたら、小呉を知っている学生が直ちに彼の子供であることを見抜きました。目がよく似ているそうです。
そういわれて、改めて考えると、小呉は女にしたら美人かも。
モンヤは食べているとき以外は、身体を動かすのが大好きでうちの中を踊りながら跳ね回っていました。ピアノ、お琴、バレー、英語を習っているのですよ。親も子供も大変ですね。
ちなみに、出会ったとき彼女に英語で「How do you do. I am Shan DaYe」といったら「Ting Bu Dong」(わかんないわ)と言われてしまいました。。。
7時から9時まで、私は心の温かい小呉、小李とその家族に囲まれて、幸せに食べ続け、この家族の幸せを心にとどめて、別れを告げてホテルに送ってもらいました。
カテゴリ:中国の旅
さえ
6日間の旅から戻ってきました。小呉がぼくのために忙しい時間を割いて計画してくれた旅行です。そして小呉がこの旅に全部付き合ってくれたのですよ。中国の友人って、することが半端じゃないですね。ありがたいことです。
上海のところは彼の奥さんの小李も来てくれて、もちろん休暇を楽しむためと言う口実でしたけれど、二人がぼくのために大切な時間を費ってくれたのです。
日本にいたとき彼らが結婚したので、小李にはその時会っていますが、その時のとても美しい人だという印象しか残っていませんでした。でも、今回数日旅を共にしてみて、とても心の豊かな優しい、そして友人に対してとても誠実で行き届いた心遣いをする人であることを知りました。
なんと言ってもこの二人のお陰で今回の旅行が出来ただけでなく、楽しい旅行になりました。それに彼らの鳥取時代の友人に沢山出会って、仲良くなりました。仲の良い友人たちに会うことでこちらも心豊かになりました。卒業生の鶴さんにも上海で出会えましたよ。
初めは彼の上海と北京の友人のところで二つ講演が用意されていました。中国に来て以来、北京に入ったことがなかったので、これを好機に中国人の友人の研究室を訪ねて研究の話を聴いて貰いました。一人は、実は小呉たちの鳥取時代の仲間の李老師で、もう一人は、薬理学研究所の陳老師です。
今回の旅行で他の老師たちにも出会いましたし、今回をきっかけにまた研究の話をする機会があるでしょう。そしていろいろと議論をしてぼくの考えを磨く機会が与えられるでしょう。
北京は、15日の朝の半日を除いては、遠くがよく見えず Hazy で、どんよりと霞が掛かったような天気でした。
北京も地下鉄が10路線以上あって暮らしやすくなっているようですが、本質的にはハイウエイに頼っているみたいですね。クルマが多いし、空気が汚染されていて健康に悪そうです。それでも、オリンピック前に比べるとずっと空気が良いのですって。
街として整備されている具合は、上海以上です。日本では皇居、丸の内一帯以外には北京の街と比べる土俵には上れない感じですね。
北京が暮らしやすいかどうかは、超高級ホテルの長城飯店に滞在して、小呉のクルマで何時も送り迎えですから、実際のところどんな具合かは分かりませんね。
瀋陽に着いて、ここも今や大都会だけれど、ごちゃごちゃした通りを通ってうちのアパートに着いて、ある意味でほっとしたのは事実です。もう、瀋陽にになじんで、瀋陽っ子になっているのでしょうね。
さあ、仕事の始まり、はじまり。。。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
上海と北京に比べて、瀋陽はまだ寒いです。不在の一週間の間に桃は咲いたけれど、今日の気温は7度。おまけに雨です。学生の徐帥くんと、今日は新しいPCを組み立てるために三好街に出かけるはずでしたが、止めました。
隣の池島先生によると、理科基地クラスの2年生が2週間の研究室配属実習で、二人来たそうです。先生のところは来ましたか?いいえ。
今年この大学の80周年で、研究室で修士と博士を終えた学生の追跡調査が来ていますが、先生のところは来ましたか?いいえ。
基地クラスの配属は学生の希望ですから、来なくてもよいのですが、80周年の記念事業のための学生の追跡調査は、大学の研究生処からの公式の通知なのだそうです。こういうのが来なくても、何時も池島先生のところから聞いているだけでは、学生にとって不利なことが起こるかも知れません。
どこに訴えたらよいのでしょうね。生化学の小張老師でしょうか。
このあといろいろと調べて、研究生処から私に送るメイルアドレスが違っていたことが分かりました。もう契約していないアドレスなので、届いていないということは瞬時に分かるはずです。
今まで全く何の知らせがなかったわけが分かりましたが、別のルートで確認してくれればいいのにね。
ともかく、これで大学の研究生処からの通知は届くことになると思います。
カテゴリ:中国の旅
さえ
13日朝上海のホテルをでるとき、カメラのバッテリーの充電器をコンセントに差したまま忘れて部屋を出て来ちゃったのですよ。本当に、もう、しょうがないですよねえ。
大体、瀋陽の研究室を出掛けるときに、見送った暁艶が「カメラのバッテリー充電器も持ちましたか?」なんて「親切にも」言ってくれたので、忘れずに旅行に持っていったのですよね。
上海のホテルに置き忘れてきたのはぼくの責任なのに、持って行かなきゃ、忘れることもなかったなあ、なんて逆恨みして、、、というのは冗談きつすぎますが。
充電器を持っていなければ、北京ではカメラが使えなかったのは間違いないですものね。
ともかく今朝、このことを暁艶に言うと、電話したらいいじゃないですか、というのです。ホテルの電話を教えると、さっさと電話をして、ありましたよ。二三日で送ってくれます、って。
ぼくは暫くきょとんとしていましたが、Is it free of charge? と訊きました。すると送料到着払いで送ってくれるのだそうです。なるほどね。この國でも良い仕組みが働いていますね。
置き忘れて6日目ですから、危なく捨てられるところだったようです。暁艶に、こういうことは早く言ってくださいねと、釘を差されてしまいました。やれやれ。
{このバッテリーはその翌朝、瀋陽の大学に届けられました。20元でした。この素早さは、感激ものですね}
カテゴリ:薬科大学
さえ:
今まで人と話していても、ここの研究費のことは余り話さないようにしていましたね。
中国に来て研究室を持っても、研究費は外国人だから申請できない、定年を過ぎているから申請できない、それで、大学から5万元を毎年貰っていますよね。
ここに来たころ、中国の物価は日本と(世界と)比較して100分の一から20分の一くらいでしたね。いまでは、30分の一から5分の一というところでしょうか。
生命科学の分野の試薬は世界中殆ど同じものを使いますから、値段も同じです。つまり、5万元は貨幣レートで70万円くらいですが、東工大のときでも2-3千万円研究費が必要だったことを考えると、年間70万円では殆ど何も出来ませんね。
ですから、ぼくの給料を全部研究費に投じ、ぼくの日本の年金も使い、何とか研究を続けていますよね。中国元にすると、この5万元の他に20万元くらい使っているでしょう。合計25万元ですから、日本円に換算すると、約300万円の研究費です。
これでも少ないけれど、今のレベルの研究をするためにはぎりぎりの線ですね。
今度旅をして、訊かれるときは正直に研究費の状態を話しました。
以前は、研究費が少ないことは、研究が評価されていないことだから、つまり好い成果が出ていないから、恥ずかしいことだと、私は考えていました。でも、今は、良い成果を出しても研究費が貰えるわけではないのですから、遠慮することはないですね。
正直に現状を話すことにしています。すると、訊いた中の一人は、5万元ならうちの学生一人が使っている額ですよ、と笑っていました。そうでしょう。それだって足りないくらいでしょう。
でも、どうしようもありません。
今年から給料が3割上がりましたが、一方で、今年からさえの給料がなくなりました。ぼく一人分になったので全体では減額です。研究費が以前ほど捻出できなくなりました。
今度日本に行ったら、また宝くじを買おうか知らん。
宝くじを買うのは貧乏人と決まっていますね。金持ちは買いません。宝くじで当たることなんてないのを、知っているからです。でも、宝くじくらいしか当てに出来るものがない。。。
明日が瀋陽日本語弁論大会の日となった。商貿飯店(名前が変わって、盛貿飯店)で開催される。
4月の定例会では、弁論大会当日の役割分担表が配られて担当者から説明がありました。でも、私の名前は入っていなかった。
ショックだった。20人もいない会で名前が忘れられてしまうなんて。
文句を言ったら、集計係りに入って欲しいと言うメッセージが届いた。でも、いてもいなくて良い役だし、行く気がなくなった。
実はもっと重大なことがある。
弁論大会は教師の会が総力を挙げて「お手つだい」している。主催は日本人会だが、教師の会に丸投げだ。
当日の大会が終わると日本人会の主催で慰労の晩餐会が開かれるのは当然のことだろう。
今回は北京から丹羽大使が瀋陽に来て弁論大会も覗くと言うことだ。そのためか、総領事館で晩餐会があるので、日本人会主催の慰労会はないが、代わりに総領事館で開くということだった。
それが先週、「教師の会からの参加者は二名にしてくれという連絡が総領事館からあったので、宇野代表と、弁論大会係の責任者の神山先生の二人が出る」という通知が、今期の代表をやっている宇野さんから届いた。
二人しか出られないと言うことなので、この二人が総領事館の晩餐会に出ますが良いですか?と、あらかじめ、皆に了承をとったわけではない。
何かおかしい。
教師の会の一大事業なのた。終わったら、全員でご苦労様という会があるのが自然だろう。毎回、その慰労会をやってきている。
当日、教師の会のその慰労会をするのが邪魔されるわけだから、断るのが筋だと思う。「主要な」二人抜きにして慰労会を開くというわけにはいかないし。
二人が代表となるのが嬉しいのか、丹羽大使に会うのが嬉しいのか、どういう神経なのか、疑ってしまう。
せめて、出られない代わりに当日の慰労会は「これこれしかじか、こんなぐあいにやりましょう」と考えるべきだろう。それでもおかしいと思うけれど。
よせばよいのに、この意見を宇野さんに送った。考え直して欲しいと思ったのだ。
これだけのことを言ってなおかつ平静な顔をして参加出来ないので、明日の会のぼくが出席を遠慮することにした。
後記:結局、宇野さんへの私のメイルは全く、無視されて、返事はなかった。弁論大会のあと、それぞれの人たちは勝手に家路に就いたという。私は教師の会の現執行部の人たちに、激しい怒りを覚える。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
嬉しい話ですよ。論文が二つ通りました。一つはLy-GDIの論文で、Cancer Scienceに通りました。
この論文は前に投稿してReviewersにいろいろと言われて、怒り狂っていたのを覚えているでしょ?全く無茶苦茶にひどく厳しいことを言うのですもの。きっとReviewerの一人は、同じ研究仲間で(だって詳しいのですものね。本当の専門家でないと分からないことが書いてありましたから)、しかもぼくに悪意を持っているとしか思えませんでした。
ただし、Reviewer2の指摘する、タンパクの量をWestern blotsで測っていないじゃないかというのはその通りなので、その時は諦めて、Western blotsを改めてやろうとしましたよね。
抗体で上手く染色できず、別の所から手に入れた抗体でも染まらず、難航していました。余りに時間が経つのでWangさんが、自分でJournalに挑戦するというので投稿を任せました。
今度は別のことでいろいろと文句が付きました。ぼくにはとても乗り越えられないと思ったのですが、Wangさんは見事にReviewersの要求に応えて、Acceptされました。WangさんのResponse to Reviewersを見せて貰いました。勉強になりましたよ。
もう一つ、HGFの論文がBBAにAcceptされたことも、今朝のとっても嬉しい話です。
上記とは別のWangさんがHGFの研究で結果が出て、それを3年前に簡単な論文に書いて投稿して拒絶されましたね。それ以来、いろいろと結果を出して付け加えて、論文を書き換えて投稿を試みてきました。これで三回目の投稿ですよ。前とはすっかり内容が変わりましたし、First authorもWangさんが二番目に移って、Zhangさんが最初のAuthorとなりました。
最近では、こんな嬉しいことはないですね。さえだって、本当に喜んでくれますよね。長い間さんざん、ああしようか、こうしようかと、一緒に苦労してきたのだから。
これはWangさんの修士論文だったのですが、今の彼は慶応大学で博士論文を書こうかという段階になっています。彼の喜びも大きいでしょう。
さあ、もう一つ現在投稿している論文も、通って欲しいものですね。十分なレベルだと思っていますが、reviewersから見ると違うかも知れません。
コメント:
めでたし、めでたし とある年男 さん
Congratulations! おめでとうございます!
今朝のshandayeさんはとても嬉しそうに、いつもより元気百倍に見えます。もはや、10歳くらい若くなりそうです。
論文の件は本当にめでたし、めでたし。 (2011.04.21 17:19:14)
あはは、ありがとう shanda さん
本当に、論文が通るって嬉しいですね。
特に苦労した論文ですと、余計嬉しいです。 (2011.04.21 18:19:38)
カテゴリ:研究室風景
さえ:
博士課程三年生の張嵐が上海にPDFの採用面接を受けに行っていましたが、昨日の
午後帰ってきました。
「どうだった?」「通りました!」と、にこにこ。
「わお、すごーい。素晴らしい。おめでとう」
上海交通大学医学院(旧第二医科大学)生物化学・分子生物学教室です。上海交通大学(旧第二医科大学)は中国の名門ですから、そこでPDFに採用されたと言うことは名誉なことです。
瀋陽薬科大学で博士の学位を取って、何のコネもなしに上海交通大学のPDFに採用されたと言うことは、彼女の業績が評価されたという以外に理由は考えられませんよね。本当に良かったです。上海交通大学も、コネではなしに、ちゃんと業績を見ることで人を見分ける目があると言うことですね。
合肥の大学の准教授に王Puが応募して、(コネがないために)落とされたと聞いているので、なおさら嬉しいです。
彼女のためにはこの上ない職場ですね。がんの転移の研究をやっている若い教授だそうですよ。張嵐は研究のセンスがとてもいですから、きっと立派な研究者になると思います。
上海にある会社の研究所でも採用試験を受けたそうですが、ここでも通ったそうです。凄いね。
張嵐のためにこうやって喜ぶ一方で、気分はお通夜みたいに沈みがちです。以前、彼女がとても優秀だからこの大学に残したいと思って、ここの教員に採用するよう推薦したのに。。。
全く無視されました。
この先、この大学はどうなることやら。優秀な研究者を集めることが大学の発展につながるのにね。
カテゴリ:日本人教師の会
さえ:
明日が瀋陽日本語弁論大会の日です。商貿飯店(名前が変わって、盛貿飯店になりました)。
4月の定例会では、弁論大会当日の役割分担表が配られて担当者から説明がありました。でも、ぼくの名前は入っていなかったのですよ。
ショックですね。20人もいない会で名前が忘れられてしまうなんて。
文句を言いましたら、集計が係りに入って欲しいと言うメッセージが届きました。でも、いてもいなくて良い役です。行く気がなくなりました。
実はもっと重大なことがあるのですよ。
弁論大会は教師の会が総力を挙げて「お手つだい」していますね。主催は日本人会ですけれど、丸投げです。
当日の大会が終わると日本人会の主催で慰労の晩餐会が開かれます。当然のことでしょうね。
今回は北京から丹羽大使が瀋陽に来て弁論大会も覗くと言うことでした。そのためか、総領事館で晩餐会があるので、日本人会主催の慰労会はないが、代わりに総領事館で開くとのことでした。
それが先週、「教師の会からの参加者は二名にしてくれという連絡が総領事館からあったので、宇野代表と、弁論大会係の責任者の神山先生の二人が出る」という通知が宇野さんから届きました。
二人しか出られないと言うことなので、この二人が総領事館の晩餐会に出ますが良いですか?と皆に了承をとっているのでもないのですよ。
何かおかしいですね。
教師の会の一大事業なのですよ。終わったら、ご苦労様という会があるのが自然ですね。
当日、教師の会のその慰労会をするのが邪魔されるわけですから断るのが筋ではないでしょうか。「主要な」二人抜きにして慰労会を開くというわけにはいきませんものね。
二人が代表となるのが嬉しいのか、丹羽大使に会うのが嬉しいのか、どういう神経なのか、疑ってしまいます。
せめて、出られない代わりに当日の慰労会はこれこれと考えるべきでしょう。それでもおかしいと思いますけれど。
よせばよいのに、この意見を宇野さんに送りました。考え直して欲しいと思うのです。
これだけのことを言ってなおかつ平静な顔をして参加出来ないので、明日の会のぼくが出席を遠慮するのはもちろんですね。
カテゴリ:カテゴリ未分類
さえ:
HGFの論文が通って、上海から戻ってきた張嵐もとても喜んでいたのですが、あとでやってきて、あの論文に呉英良老師の名前がない、と言うのです。
待てよ、彼の名前も入れたと思うけれど、もう一つの方だったかなと考えると、たしかにHGFの方に入れていませんでした。でも、彼の名前が必要でも、もう遅いのです、論文がAcceptされたらもう変更は利きません。
「どうしてなの?」
「学位を申請するのにあれが使えると思ったのに」と彼女は言います。学位論文の使う論文には指導教官の名前がないといけないそうです。呉英良老師との共同指導なのですよ。
だって、あれは元々王くんの論文で、それが不十分であなたに手伝って貰ったのでしょ。あなたの研究じゃないですね。王くんの論文だけど、雑誌に受理されるレベルになっていなかったから、あとの人が加わって論文を仕上げたのですよね。
あとの人が、つまりあなたが頑張ったからこの研究が論文になったわけで、あなたが論文のSenior author(論文で最初に名前が載る人)になったいるでしょ。
でも、最初からこの研究を一貫して進めてきた訳じゃないでしょ。それで、この論文は最初の三人の名前を挙げて、この三人が同じ程度に貢献したと書いたのですよ。つまり名前はトップに載っているけれど、あなたの貢献は3分の1。
この大学の規定で、論文一つ出して学位取れるというならそれでも良いけれど(うちの研究の内規は二つ、あるいはそれに準じる)、実際は、よく見ると3分の1です。これじゃ詐欺でしょ。
それよりも、あなたはちゃんとした研究をして、もう一つの論文を良いジャーナルに投稿しているじゃないですか、これが通れば、何の文句もなく学位請求が出来るじゃない。うちの研究室の内規だって、正規のSCIクラスの論文が一つと3分の一あることになって、しかも次の研究も進んでいるし、二報という内規を(ちょっと甘く見れば)クリアしているでしょ。
あと返事の来るのをちょっと待てばいいじゃない。
でも、彼女はとうとう泣き出してしまいました。もう今にも学位請求が出せると思っていたのに、って。。。
HGFの論文は、それを学位請求に使うと思いもしなかったので彼女のもう一人の指導教官の名前を載せることが必要なんて思いませんでしたし、張嵐だって、論文を最後まで見ているのですから、何か言っても良いのに言わなかったのです。
つまり、呉老師の名前が載っていないのは二人の責任ですね。二人が悪い。。。
この大学では論文一つがSCIレベルの雑誌に載れば、受理された段階で学位請求が出来ます。もう一つ追い論文を投稿しているのですから、いま彼女のすることは、学位論文を書き始めることです。これに結構時間が掛かります。これを始めていて、時間はちょうどよいくらいに進むでしょう。
でも、二つ目が受理されなかったら?
そうかも知れないけれど、ここで最高という研究をして論文に書いて投稿したのだから、自信を持って待ちましょうよ。それ以外にないでしょ。
人生塞翁が馬なのだから、良いこともあれば、悪いこともある。上海でポスドクに採用された、はい、プラス1点。上海で研究所でも採用された、これで2点。HGFの論文が通った。はい、これで3点。
博士論文も書けそうだ。これはまだ実現していないから、点にならないかも。
もうひとつ論文を良いジャーナルに投稿している、これもまだ返事がないからプラスではない?
そう。少しは不確定だけれど、彼女の人生、良い方向に進んでいるじゃないですか。論文が通ると思って(このジャーナルでもし駄目でも、必ず何処かに通りますよ)自信を持って学位論文を書き始めたらいいじゃないですか。
カテゴリ:薬科大学
さえ
HGFの論文で学位を取りたいというのは張嵐の執念となったみたいで、いったんはぼくの意見を聞いた振りでしたが、翌日私にメイルを寄越しました。
メイルでは、私と対で話し合うと説得されてしまって自分の意見が言えないからと書いています。
内容は同じ繰り返しで、HGFの論文を自分の学位論文として薬科大学に学位の申請をしたい、ついては論文に入っていなかった彼女の指導教官の名前を追加してくれというものです。指導教官の名前さえ入っていれば、これで学位の請求をすることについての私の意見は要らないみたいです。
これに対する私の意見は、当然のこと、前と変わらないわけですよね。
もちろん、出来るだけ早く彼女が学位を取って、世の中に飛び出すことは大いに結構ですし、そのための研究指導をしてきたわけですよね。
でも、自分の研究でないものを主体にして学位の請求をするなんて、しかも貢献度が3分の1なのにそれを学位論文にするなんて。この大学では可能らしいですけどね。
学位を取って研究者になろうという人間としては志が低いとしか言えず、そんな人間であって欲しくないと思って私は賛成しないわけです。
さえなら、きっと言うでしょう。「いいじゃないの、こんな論文で学位を取るのは。結局、彼女の問題でしょ」「こんなことで、恨まれてもつまらないわよ」って。
こうやって泣きの涙で訴えられて私が応じなければ、次は怒りと恨みに変わるわけですよね。
そうまでして守るものは何か?と思うと、もう、いいか、早く学位を取らせて出ていって貰おうと言う気になってきました。
実はBBAの事務局には、この問題が起こったとき直ぐに、著者の名前を追加できるかと問い合わせたのですよ。
直ぐに返事が来て、校正のときに直したらいいでしょうと言うことでした。
ぼくは、もう、校正のときに変更する気になっているのですよ。
泣いて訴えたからじゃなく、こんなことに付き合っていることが下らないからです。
まだEditorから返事の来ないもう一つの投稿論文に、彼女の指導教官の名前を入れて投稿していますが、こうなると、不要ですから削りましょうね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
昨日は日本語弁論大会の日でしたがこれに欠席することにしたので、夕方、研究室の新人歓迎会を開きました。
昨年の9月に入った崔さんは、ぼくがその頃日本に何度も出掛けて忙しくしていましたので今まで歓迎をしていませんでした。
それで、修士1年生に入っている崔さん。卒研生の、徐帥くん、楊洋さん、張微さん、今年の九月に博士課程に入る王一任くん、修士課程に入る林音知さん、張雪城くん、の合計7人が歓迎される人。
一方迎える方は、張嵐、陽暁艶、黄澄澄、王月、朱Tong、張笑とぼくの7人。
新人からはよろしくという挨拶、迎える側からは歓迎の挨拶。
英語ですので、新人からは「私の英語は最低ですが、、、」なんて言うと、最後の新人が「いえ、私の英語の方が最悪で、、、」なんて言うのですよ。でも何の問題もなく分かるので、謙遜しているだけです。あとは、ぼくのおかしな英語に慣れて貰う時間が必要なだけでしょうね。
回教徒の店の又一順食荘で2時間、羊肉と牛肉の料理を楽しみました。548元。
支払のあと、正規の領収を書が欲しいか、もし要らなければ、清涼飲料水のボトル二個を呉れるということでした。領収書の使い道がないので清涼飲料水を学生が貰ってきましたが、お店の脱税に協力したわけです。これが中国です。
カテゴリ:生命科学
さえ:
あの日から三ヶ月。
こうやって毎月その日を思い返すのでしょうか。お互いとても辛いですね。毎月ここに書くのはもう止めましょうね。
おさえちゃんに死なれて一人ぼっちになって、一番応えているのは心置きなく話せる人がいないことです。
殆ど何時も研究の話をしていましたから、おたがい、話すことで批判をし合っていたわけです。それがないと言うことは、独りよがりになる危険性が大いにありますね。
決断だって、最終的にはさえに「これやるよね」という承認を貰っていたと思います。思いつく考えの最初からも、筋道の組み立ての過程はもちろん、最終チェックポイントすらなくなってしまったのですよ。
恐ろしいことです。ですから以前にも増して、ぼくは慎重に考えるようになりました。でも、自分以外の考えがないというのは、実に良くないですね。
この冬に、さえの枕元で関さんの論文を書き始めていたでしょ?実験結果のところだけを図に基づいて書いて、3月始め関さんに会ったときに渡しました。それ以外の部分を彼女が書いて、そのドラフトを持ってきたので、見ています。いろいろと手を加えなくてはいけないですが、本質的にはこの論文は投稿しようと思っています。
今年のうちに、もうちょっと論文を書きましょうね。
今日から4年生の分子生物学の講義。毎週1回のペース。
明日からは3年生の新・分子生物学の講義で、毎週2回のペース。カリキュラムが変わって、生物化学と分子生物学が一緒にミックスされました。
というわけで毎週3つの講義ですよ。
そうそう。ねめチャンが5月半ばに瀋陽に遊びに来るって言うことです。嬉しいですね。
カテゴリ:友だち
さえ:
六日間の一緒の旅の間、小呉と小李はぼくの健康をいろいろと気遣ってくれました。
「大丈夫だって。Royal Jellyを毎日すこしずつ摂っているから」と返事しました。このRoyal Jellyは中国語で蜂王漿といいますよね。
中国に来て以来、いろいろとハチミツに触れる機会があって、にせものでないハチミツを探しているうちに、この蜂王漿に行き当たったのですね。そう、ハチミツはハチミツを採取している人たちのレベルでもう混ぜものをしていることもあることを、ぼくたち、見つけましたっけね。
渡邊京子先生にこの大学の近くで信頼できるハチミツを売っている店を紹介して貰って行くと、そこにこの蜂王漿もありました。武田製薬の研究所の所長だった貴志先生もこれは本物だと仰っていましたね。
ぼくがこれを試す気になったわけは、八十歳になって元気に講義を続けておられるあの若々しい貴志先生がこれを毎日飲んでいると言われたからです。
そして、今これを信じて飲んでいるのは、これを服用し出してからは、それまでとんとご無沙汰だった朝○○が、再現するようになったからですよ。何だか、恥ずかしくて、さえには言わなかったけれど。
絶対、効いているんだ、他のところにも、きっと効いているに違いない、と密かな信念となりました。
今度旅行で小呉に会って、蜂王漿を飲んでいるよと言ったら、にせものかも知れないというので、効くんだよと力説したのですが、信じないのですよ。それで容器とラベルの写真を撮って彼に送リました。
小呉が中国科学院の友人に見せたところ、それは大丈夫、本物だ(つまり少なくともラベルは本物だと)という返事を貰ったそうです。
ほーら、安心してこれ飲んでご覧よと、小呉に勧めましたが、彼はまだ必要ないんですって。。。でも、小李がこれを知ったら、彼に密かに飲ませるかも。。。
カテゴリ:薬科大学
さえ
80周年記念事業で大学から学位取得者の調査が来ました。調べて返事した結果は以下の通りです。ここには卒業研究生は含まれていません。
入学年 姓名 性別 現在所属
2003修 胡丹 男 日本産業技術総合研究所 研究員
2004修 鄭大勇 男 瀋陽志鷹製薬 産品部 経理
2005博 王麗 女 日本理化学研究所 研究員
2005修 王毅楠 男 日本慶應義塾大学 博士生
2005修 王暁東 女 第一三共製薬(北京)有限公司 副経理
2006博 王璞 男 ジョンズホプキンス大学 研究員
2006修 陽暁艶 女 瀋陽薬科大学博士生
2006修 陳陽 男 東京大学大学院博士生
2007博 張嵐 女 瀋陽薬科大学博士生
2007修 徐蘇 女 アラバマ大学博士生
2007修 曹Ting 女 ミラノ大学 博士生
2008修 黄澄澄 女 瀋陽薬科大学修士生
2008修 王月 女 瀋陽薬科大学修士生
2009博 陽暁艶 女 瀋陽薬科大学博士生
2009修 張笑 女 瀋陽薬科大学修士生
2009修 朱Tong 女 瀋陽薬科大学修士生
この表には、大学院のいまの在学生も含まれていますから、学位所得者というと10人ですね。彼らは大変優秀で研究の内容は良いけれど、薬科大学が感激して喜ぶような数字ではないなあ。
中国はともかく目に見えて大きいこと、でかいことが尊ばれるところですから、数も多くないと認めてもらえないでしょうね。
この10名のうち、いま日本で就職しているのが、胡丹と王麗。それぞれ、産総研と理化研で研究員をしています。
博士課程在学中が王毅楠と陳陽。
アメリカにいて研究員をしているのが王璞。イタリア・ミラノとアメリカ・アラバマで博士課程在学中が、それぞれ曹Tingと徐蘇。
就職したのが二人。二人とも経理、副経理で偉そう。
修士号をとった陽暁艶は今ここの博士課程にいます。これで10人。
私が辞めるまでに学位所得者が20名くらいにはなるかなあ。どうかなあ。
中国で大学卒業生は毎年630万人だそうですから、本当に九牛の一毛です。わずかな人数で少ないけれど、ま、それでも科学と中国への貢献ですよね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
4年生の分子生物学の講義が火曜日から、毎週1回のペースで始まりました。今年の4年生のこの講義が終わると、この分子生物学の講義は終わりです。
今年からカリキュラムの変更で、3年生に生物化学と分子生物学をミックスして教えることになりました。そちらの方は水曜日から始まって毎週2回のペースです。結構しんどいですね。
教える側が新しいカリキュラムに対応できないので、今まで通り、生物化学と分子生物学を分けて教えのです。ですから本質は、ちっとも変わらないのですよ。
ただし、今まで私はこの生物化学と分子生物学のそれぞれ半分を受け持っていたのですが、新しい制度では分子生物学に専念することになりました。
生物化学を教えることにも大いに自信があるのですよ。実際その証拠に、ぼくの講義を聴いた学生はみな生物化学が好きになりますもの。ね、生物が化学は覚えることが沢山あると言うので、普通は敬遠するでしょ。
新しいカリキュラムでは、講義の相棒の若い先生は分子生物学の方を私に押しつけてしまいました。ぼくはもう、生物化学を話すことがないでしょう。ちょっぴり悲しいですね。
火曜日の講義は、3年生の時に生物化学を教えた学生です。久しぶりなのでまず最初は漫談です。
遺伝子があるという考えがどうやって出来てきたか、遺伝子の本体がDNAであることがどうやって突き止められたか、そして、AとT、GとCの塩基が互いに水素結合で塩基対合をしてDNAが逆平行の2本鎖の二重らせんを作っていることを発見したWatsonとCrickのすごさ。
「DNAとRNAの構造はどう違いますか」と、この二つの構造の違いを説明した後に問題を出します。
そしてさらに「どちらの方が安定ですか」と聞くと、学生はDNAだと自信を持って答えます。
それでは「どうして安定なのですか」とさらに訊くと、もうだめ。
化学構造の違いから安定性を考えることが出来ないのですよ。
教わっていないと、そして覚えていないと答を導き出せる学生が多数派です。ちゃんと考えられる学生は、極めて少ないのです、ここでは。
「ね、ちゃんと頭を使って考えましょうね」というと、みな、「うん」と一斉に頷いてくれます。とても素直な学生たちで、ついこちらも一生懸命になってしまいます。
コメント:
コメント 日本語クラス3年生 さん
山形先生、こんばんは。
きのは先生の授業を初めて聞きました、とても嬉しいです。長い間は日本語をよく聞くことがないので、先生の言葉は全部理解できませんが、以前の分子生物学の知識と結合して、大体わかりました。
先生の授業方法はほんとうに好きです。私はこれからぜったい一生懸命頑張ります。よろしくお願いします^w^ (2011.04.28 22:18:25)
¥
ありがとう shanda さん
一生懸命私の話を聴いてくれてありがとう。
私の狙いは、私の話で「分子生物学」が大好きになって欲しいことなのですよ。受けている講義が好きにならなかったら、おたがい、時間が無駄になってしまいますものね。 (2011.04.29 08:00:05)
期末試験 また 三年生 さん
山形先生:
こんにちは。
今は第18週だったら、もうすぐ期末試験ですが、私達は復習を始めました。
先週先生にメールを送りましたが、返信がありませんので、もう一回ここでコメントします。 邪魔しまして、本当に申し訳ございません
私は、先生の授業した分子生物学部分は、期末試験で、どんな形式で質問を出すことは知りたいです。
選択肢がアルの問題か、あるいは授業中のような自分の言葉で答える問題ですか?
ご返信をお待ちしております。
薬学日本語クラス三年生 (2011.06.27 14:17:14)
カテゴリ:生命科学
さえ:
JBCに投稿した論文が断られました。三人のReviewersはもう好き放題にこれをけなしています。
前の論文でNOSがこの細胞の転移性、浸潤性を昂進していることを書いていて、しかもこれがガングリオシドで抑えられることを発表しています。この論文の最初にもきちんとそのことを書いています。だって、研究の背景ですものね。
それなのに「NOS2とガングリオシド?、え、それなに、一体どんな関係があるの?」なんて書きまくっているのですよ。許せませんね。こんなReviewerは失格ですよ。
JBCが気に入っているのは、Reviewerがしっかりしているからです。例え論文が拒絶されても、こちらが思いもしない欠陥を鋭く指摘してくれるからです。
こんな間抜けなReviewerが私たちの論文を読んでけなしたなんて、本当にJBCのために、がっかりです。
おまけに、この研究は、RT-PCRと、タンパクと、リン酸化タンパクのウエスタンブロットだけでできているなんて書いているのですよ。
その通りだけれど、それ以上ここでは何も出来ないのだもの。
それしかないところで、これだけの研究をやっているのだと言うのはこちらの立場で、先方にしてみりゃ関係ないってことかなあ。ま、当然でしょうか。
と言うわけで、今は怒り散らしていますが、論文を出せばReviewersに散々いたぶられるのは当たり前のこと。
ずけずけと欠陥を指摘するから不愉快だけれど、Reviewerは最高の読者ですね。細部に亘って読んで批評してくれるのですものね。こんなありがたいことはありません。
さて、次のステップは、Reviewersの批判に応えて、冷静になって問題点を解決するすことですね。さあ、がんばろうっと。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
今日の土曜日は研究室セミナーで、全員の勉強の日です。
演者となる当番が、論文を読んできてそれを紹介します。論文を選ぶのは本人に任されていますので何を読んでも良いのですが、どんな論文を紹介したかで、その人の興味、能力、学力が分かってしまうので、誰もが慎重に選んで読んできます。
その演者以外は、論文の内容を聞くのがたいてい初めてのことですから、研究の背景、そして何を理解するために研究を始めたのかを、そこで聴くだけで、十分理解出来るよう、演者は必要かつ丁寧な説明が必要です。
日本でもセミナーは英語でやることが多かったので、日本とこの瀋陽のセミナーに大した違いはないのですが、一つ気になるのは、演者が十分分かっていなくても、論文に書いてある説明をそのまま話して、済ませてしまう傾向があることです。
こちらはプロですから、そのようなときは聴いていて分かります。演者が分かっているのに説明が下手なのか、分かっていないのを何とかその場しのぎでごまかしているのか、が。
中国では、少なくともここでは、演者が聴衆よりも年長ですと、その年長の演者がいい加減な説明をしても、若い聴衆はそれをうったえたり、注意できないのですよ。
演者が分かっていないと、もちろん聴いている方に、理解出来るわけがありません。たいてい、ぼくが出ていって、説明をします。
「説明をごまかすな」と言いたいところです。英語で何というのでしょうか。長年英語を使っていてやっと調べる気になりました。というのは、人前ではっきりと注意すると、その人の面子丸つぶれにしてしまうから、叱ったことがないのです。
辞書を見ると、「ごまかす」は cheat、lie、などがありますがこれは明らかに「だます」ときの言葉ですね。
evade a questionと言う表現があります。質問をごまかして逃げる、と言うときの表現ですね。日本の国会の政府答弁は、たいていは、そうです。
「いい加減な説明」となると
He was scolded for slacking on the job. 彼は仕事を怠けてしかられた。
He's slack in [at] his duties. 彼は勤務がいいかげんだ。なんてのがありますから、
Do not be slack in your explanation! 「いい加減な説明をするなよ」ということになるでしょうか。
「手抜き」で辞書を見ると、corner‐cutting というのがあります。
「手抜きの実験をやるなよ」というとき、Do not cut the corner in your experiments.と言いますよね。
unconscientious と言う難しい言い方もあります。「誠実でない」時につかいます。Do not give us the unconscientious elucidation!!! といえそうですね。
「もっと丁寧に説明しろよ」と、日本語なら言いますが、丁寧は、礼儀・礼節の丁寧さですから、「もっと詳しく」ということですね。
すると、explain this relationship in detail.
と言う勉強をしたので、来週から、いろいろと注意が出来そうです。十分調べてきて説明すると言うよりは、いい加減なことを言ってごまかす人も中にはいるので、これでは本物の研究者になれないよ、と厳しく指導しましょう。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
日本では4月29日からゴールデンウイークが始まっていますね。
ここでは4月30日土曜日から三日間の国家休日です。以前は一週間の休みだったのが昨年から三日間に変わりました。
それでもうちの研究室では、昨日の土曜日のセミナーは休みではありません。細胞培養が基本的なうちの研究室では、毎週日曜日以外の休みを認めていると、研究が進まないからです。国家休日は一切無視、です。さえと一緒に始めた、もうこれはうちの伝統ですね。
昨日は、院生の一人は友人の結婚式で、それに出るため休み。卒研生は3人中2人休み。大学生として最後の学年の休みに友人と旅に出るというのです。もちろんOKです。来年度からここに来る学生の3人のうち、2人も休み。
でも、驚いたのは学部学生でセミナーに参加している人たちは、みんな休むと思っていたら二人出席でした。荊さんと李さん。荊広会さんは秦の始皇帝の暗殺を試みた「壮士一たび去りて復た還らず」の荊苛とおなじ名前ですね。
二人に、午後はどうするの?と訊くと遼寧省博物館にいくと言うことでした。とても気に入っているのですって。
そのうち根目チャンが遊びに来るでしょ。彼女を半日は博物館に案内して貰おうかと思いついてお願いしました。
私は、ジャケットのボタンが壊れてしまったのでそれを探しに五愛市場に暁艶に案内されていきました。瀋陽では、ボタンは滅多なところでは売っていないのです。
4個2.8元で買い求めました。それだけだったのですが人混みに出て、本当に疲れました。五愛市場は数年前に立て替えられて綺麗になりましたが、大きなビル数戸の集合体で。各フロアには巾2-4メートルの個人営業の小売店がぎっしりと入っているのですよ。
さえは、組紐を探してセツさんと行ったことがありましたね。ぼくは初めてでした。
同業者が集まっているので探すだけでも大変です。一方、ボタンを売る店はこれだけ店があって、たった二つの店だけだそうです。
一つには、五愛市場ではスリに気をつけるよう、多くの人たちから言われているので、その緊張もありました。ともかく、がっくり疲れて、この日はそれでお終い。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
最近の「Searchina」に以下の記事が出ていました。中国が世界最大の留学生輸出国で、127万人超になっているそうです。(サーチナ 4月30日(土)15時54分配信)
『中国教育部と人力資源・社会保障部によると、2010年末までに、留学生として出国した者の数は127万人を超え、そのうち95万人が現在も外国の学校に在学している。』
『2010年に中国は世界で「最大規模の留学生輸出国」となった。うち私費留学生が留学生全体の93%を占め、アメリカ、オーストラリア、日本、イギリス、韓国、カナダ、シンガポール、フランス、ドイツ、ロシアの10カ国に留学する人が、全体の90%を占める。』
この中で注目したいのは私費留学生が留学生全体の93%を占めるということです。
私たちがここに来た頃、薬科大学から日本の大学院に入りたい学生は、日本の大学院の教授にメイルを書いて、自分がその研究室で学生として採用して貰えるか、そして奨学金が貰えるだろうかと書いていましたね。奨学金が貰えなければ、日本に留学できませんでした。
ところがこの数年、すっかり様変わりです。私たちは研究室で半年しか面倒を見ない卒業研究生のために保証書や推薦書を書かないことにしていますね。そんなことは無理に決まっているからですよね。だから、学部学生は、自分で日本の大学院の留学先を探していました。
もちろん今でも、そのような学生はいますが、殆どは、留学斡旋の会社に依頼して留学先を探し、そして先方から受け入れOKの返事を貰って私費で留学するようになったようです。
留学斡旋の会社は二年前に聞いたところでは、依頼するだけで1万元。相手と話が付くと成功報酬として1万元払うのですって。大金だと思うが、彼らの親はこれを出して、しかもさらに日本の留学費用を出しています。
中国から留学する学生の親はとても豊かになったのですね。
そして印象で言うと、農村出身者では親がこれだけの金が払える訳がないはずで、そのような農村出身者の大学入学者の割合が今では減ってきたとしか思われません。大学への進学者はこの十年で非常に増えましたが、中国に於ける教育の機会均等は逆に減ってきたような気がします。
留学の仲介者はこのように大金を要求するけれど、日本の受け入れ先の大学院の先生は、謝金を貰っているのでしょうか。
貰ってはいけないという法律は恐らくないでしょうが、謝金を貰って学生を入学させている大学教授があるとしたら、随分せこいことですね。
今までうちの研究室の修士を終えて、日本やアメリカ、イタリアで博士課程の勉強を続けたい学生や、博士を終えて日本やアメリカでポスドクをしたい学生は、私たちが行き先を見つけていましたね。もちろん無報酬です。
このような事情を知った中国人が言うには、先生、金を貰ったらどうです?そうすると先生が研究費のないことに悩む必要もなくなるでしょう?
なるほど、裏ビジネスで海外留学斡旋業をはじめれば、結構儲かるかも知れません。ぼくたちがこんなことを始めるとは、とても思えませんけれど。
海外の友人・知人は多いですから、留学先を見つけるのにしばらくは困らないでしょう。でも、留学する人を選んで送らないと、たちまち信用失墜と言うことになりかねないのが、最大の問題点でしょうね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
昨日は日曜日で、しかも前後は国家休日の休みの中日なのですが、それでも研究室に出てきて実験をしている人たちがいました。
それで4時半くらいになって、訊きました。「このあと特に予定がない人たちは食事に誘いたいけれど、どう?」
瀋陽は近辺に自宅のある人は来ていませんから、今ここに来ている人たちは実験の時間が空きさえすれば、一緒に来られるひとたちです。それで6時前に、暁艶さん、黄澄澄さん、朱さん、崔さん、そして新人の張雪城くんとで、近くの羊蝎子に行きました。
この店は、羊の肉をとった後の骨を煮込んで、それを鍋に山盛りにして出します。骨にはまだ肉が残っていてこれをたべるのです。
肉屋が骨から肉を全部は剥がすなんて作業は大変なことですが、こうやって煮込んでお客が自分の手で食べるというのは、日本で、魚のアラをお客が自分で手間暇掛けて食べるのと同じで合理的ですね。
骨をしゃぶった後はそのスープを使って、肉や野菜のしゃぶしゃぶ料理になるわけ。
1年に1度くらい来ていますね。以前、ここにきたとき、今は岡山大学に留学している江文くんが隣に座っていて、次々と、かなりのスピードで食べるものだから、こちらも釣られて負けじと食べたのを思い出しました。それに比べると今回は大人の食事でした。
ところで新人の張くんと近くで話すとにおいがします。たばこを吸うかと聞くと「吸う」というのですね。この1年くらい吸っていると言います。
たばこを吸うのは個人の勝手ですが、においが迷惑なので、出来たら止めたら?そして自分と将来の奥さんのためにもたばこを吸うのは止めた方が良いよ、と言いました。
禁煙を誓ったりするとなかなか成功しないことをぼくは知っています。ぼくが成功したのは、「絶対禁煙」を自分に誓ったのではなく、「ちょっと吸うのを止めておこう」というのを続けることで、結果的にはたばこから離れることが出来たという話をしました。
もう吸わなくなって29年ですね。それでもCTスキャンなどで調べるとたばこを吸った跡が明瞭なのだそうです。
彼は、ともかくたばこは止めますと言っていました。吸い続けるなら、別の研究室に移って貰うとも、言っておきました。これはかなり強い強制力になるでしょうね。こんな、自分の持っている力を表すようなことを学生に言うことは滅多にないのですけれどね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
富山県砺波市と福井市でユッケの生肉を食べて、病原性大腸菌O-157に感染して二人の子供が死亡したと言う記事がありました。納入業者は、加熱しないと危なくて食べられない肉を「ユッケ用(生肉)」と書いて卸して、「まさか、そのまま生で食べるとは思わなかった」と言っているそうです。
納入業者も、焼肉店も、責任感と想像力が全く欠如していますね。何だか、中国の日常みたいです。
最近のネットによると、『「痩肉精」入りの飼料をブタに与えていた河南省の養豚業者から、大半は食肉加工大手「双匯」に納入されていた』と書いてあります。
この「双匯」は数年前に峰村夫人が「美味しいソーセージがあるわ」と教えて下さったトウモロコシ粒の入ったソーセージのメーカーです。一つが1元もしないので、いくら何でも安すぎると警戒したためか、ぼくたちは二三回買っただけで、殆ど食べませんでしたね。
一年に中国で消費される二千三百万トンの食用油のうち、三百万トンは下水からの回収油だと報じられたのも凄いショックでしたね。
2gを100gの豚肉に添加すると牛肉に化けるという信じがたい薬品も流通しているそうです。がんになるかもというコメント付きの、4月初めのネットの記事でした。
以前はメラミン入りミルク・粉ミルクが出回って、大手の牛乳も軒並み汚染されましたね。多くの乳児が死に、大人は腎臓結石に悩まされました。
この件で、ますます呆れたのは、メラミン入りというので廃棄処分を命じられた粉ミルクがそのまま保存されて、二年くらいしたらまた市場に出回ったと言うことです。
自分が儲けるためなら、他人のことは一切関知しないという一部の中国人の考えの躍如たるものです。
食の安全に関わることなのでこのような中国人のモラルを私たちはとやかくあげつらって、批判します。もちろん、それは大いに必要なことですが、同時に日本人だって、自分が生きていくためには何をしても良いと思う人たちが、現にいるわけです。
直接には、前記の焼き肉業者が責められて良いでしょうが、原子力発電所で千年に一度の津波など起こるわけないと決めつけて、対策を講じなかった人たちも、自分たちの責任を考えないと言う点では似たり寄ったりです。
古くは、1950-60年代に四万人を超える日本人がブラジルャドミニカに移民・入植と言う形で捨てられました。肥えた土地が待っているという言う偽の宣伝をして平然と日本人を送り出した外務省の役人たちだって同じ根っこです。中国の下水回収業者を批判できるとは思えません。
同じようなことを、今のぼくたちはやっていないかどうか、何時も自問していないといけないでしょう。
自分の職業に誇りと責任を持つという、古き良き日本人の伝統を保っていきたいですね。いまどき流行らないでしょうけれど、ぼくにはこれしかできません。
コメント:
志 こころざし みのもんだ さん
山形先生、
ご無沙汰しております。
ブログがぴたっと止まって、久しぶりに再開されたのは、奥様が亡くなられたためですね。お悔しみ申し上げます。
そして、中国で若い研究者を育て続けられるとの志に、心より敬意を表します。
>自分の職業に誇りと責任を持つ
志そのものですね。考えさせられます。
東京は、今日、黄砂に覆われています。 (2011.05.03 14:52:04)
みのもんださん shanda さん
久しぶり。ご無沙汰しました。
実はすっかりめげているのですが、空元気でも良いから、何とかししようと、と心がけています。それで、ブログも書き始めました。
何をやっても虚しいけれど、それを口にしたらお終いだ、と心がけています。
黄砂は、ここより、ホンのご挨拶代わり。時々覗いて下さいな。 (2011.05.03 17:08:38)
カテゴリ:薬科大学
さえ:
ぼくたちの研究棟の管理人さん、覚えているでしょう。ふとった白髪のおじさん。何だか訛りの強い言葉を話す人で、お互いなかなか言っていることが分からないけど、それでも、会えば時々お喋りしました。
たいてい、あのおじさんは、1階のホールでピンポンをしていましたね。夏の夕方は外に椅子を出して、殆ど半裸で夕涼みをしていました。
3月にここに戻ってきて、彼に会って「奥さんどうしている?」と聞かれたら、なんと答えようかと、いろいろと考えていました。
ところが、全く彼の姿を見かけませんでした。それまで夜勤でいた人が、昼間もいるようになりました。
今朝、大学に着くと彼が正面の並木に横断膜を張っています。「全然会わなかったじゃない?」というと、「図書館に移った」という返事でした。その後は、もごもごと、言葉に詰まって、お終い。おさえちゃんのことは訊かれずに済みました。
あとでうちの学生に尋ねてみると、じつはあんまり勤務状態が良くないと評判の人だったらしいですよ。
この研究棟は、夜の10時半になると追い出されますよね。休日が続くと、朝7時前に来ては駄目、鍵を開けないからね、などと言われたりしていましたが、すべては彼が勝手に決めて言っていたんですって。
ここにそんな門限はなくて、彼がこちらの都合に合わせなくてはいけない立場なのに、そうじゃなかったので、とうとうお咎めを受けたみたい。へーえ。ここは面白いところですね。
研究棟から追いだされたのかも知れないけれど、ぼくにとっては、「あれ、日本に帰るのかい?」とか、「やっと戻ってきたね」と言われて、「ええ、はいはい」と挨拶を交わす職場の仲間です。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
風邪を引いちゃってね。今、苦しんでいるところです。
ちょうど5月に入るころ、瀋陽も暖かくなるでしょ。それで下着をHeatTechから薄い木綿にして足首が出てしまったのですね。靴下も五本指で足首の短いのにしたし。
それで、冷える足首が痛い感じで一日を通したら、夕方から、こりゃおかしいと感じました。
この間の上海・北京旅行で会ったとき、小呉がいろいろ持たせてくれた薬の中に、○香正気軟○嚢というのがあって、これを飲み始めました。
昨日も飲んで、それでも頭がぼおっとして何も出来ないので、昼にはうちに帰りました。寝ていても頭が痛いし(本も読めない)、鼻水が出続けるのでよく寝られません。今朝になってやっとうつらうつら。今日の昼過ぎ、お腹が空いているし、ラボに来ました。でも、頭がらふらしています。
熱がでなかったから、この薬は効いたのじゃないかな。風邪の特効薬なんてないんだし、ひどくならずに済んだのではないかと、小呉のお陰、小呉のお陰。感謝、感謝。
食べたら、うちに帰りますね。横になっているしかないけれど。。。
カテゴリ:薬科大学
さえ
昨日は昼にラボにちょっと来ただけでした。うちに帰って寝ているところに、電話が掛かってきました。3年生の代表で、
「先生は風邪だという話ですが、明日の授業はありますか?」
「今風邪で休んでいるけれど、明日はやりたいと思っています。明日の昼前には分かります」と返事すると、5月3日の授業が休みになりましたが、先生はその代わりをいつかやらなくてはなりません。何時にしますか?」
寝ているのを起こされて、頭が痛いのに返事をしているというのに、何を又。
大体5月3日の休みは、こっちの都合ではなく、大学が一方的に休みだと宣言したのです。知ったことか。都合で休みにして、代わりをやれだって?
ざけんじゃねえよ。と言いたいところですがが、相手はそんなことには関係のない学生です。
「分かったけれど、今風邪で気分が悪くて寝ている最中だから、難しい話はまたあとにしませんか?」と、引き取って貰いました。
電話で邪魔されたけれど、夕方まで熟睡して、その後は、一晩うつらうつらと寝ました。鼻水の出るのが止まったのが嬉しいです。それでも身体のあちこちに脱力感があります。
そういうわけで講義があるし、HGF論文のゲラも来るはずで、今日は出てきました。この三日間で、食事はお昼を食べるだけでしたが、今日はその昼も食欲なしで、桃の瓶詰めを三切れ食べました。
思った通り、HGF論文のゲラが来ていて、著者名を変更しました。これで張嵐は学位請求が出来るというわけ。
ところで、研究生処から、学生宛に自分たちの研究をまとめて発表するコンテスト競技会が企画されています。中国語の案内は学生の徐帥くんに翻訳して貰いました。
学生にとっては、ここで発表できて賞を貰えると良い励みになるので、張嵐に勧めました。以前、王麗が貰って、王Puも最優秀論文賞を貰っていますね。
すると。発表していない研究に限るし、その後も発表できないといわれているというのですよ。
とんでもない、そんな馬鹿なこととがありますか。
要項を見てみると「論文は未公開発表で、オリジナルなものを要求します。」と書いてあります。そりゃそうでしょう、この国お得意の使い回しばかり集まったら、大学は恥さらしになりますものね。
その後の発表の禁止なんて書いてはありません。当たり前ですよね。大学が、研究論文を発表させないなんてことがありますか。
ともかく、これに出させましょう。張嵐は、ここで博士を取ったら上海交通大学のPDFになることが決まっています。賞を取れたら、良い土産になるでしょうね。
コメント:
ほどほどで笑い飛ばしましょう みのもんだ さん
先生、とことんつき合わされますね、色んな変なことに。
大学も大学、学生も学生。。。
それよりも、早く風邪が治ったらいいですね。
このままだと、先生がもたないでしょうね。
一応、厚労省の基準では、「後期高齢者」ですから。。。
心配です。 (2011.05.06 22:04:32)
ありがとうございます shanda さん
刺激的で楽しい毎日を送っていますが、風邪を引くというのは体力の低下ですね。身体が弱って常在菌が暴れ出すというのは、とてもまずいことです。
今度の風邪が治ったら、体力アップに努めないといけません。
自称アラコー。
でもまだ一般化していないから解説がいるでしょうか。おわかりと思いますが。 (2011.05.07 09:25:36)
先生、お大事に! 棉花糖 さん
やっと、大爺のブログを見つけました。ミハチンです。
先生が風邪を引かれて、とても心配しています。早く治ったらいいですね。ちなみに、最近砂嵐も大変ですか。
また、論文が受理されて、おめでとうございます! (2011.05.07 14:44:45)
ミハチン shanda さん
ワオ、再会できましたね。
このブログに、あなたが「白さん」として再登場したのに気付いたかなあ。
論文と言えば貴女のも通ったでしょ。PDFを送って下さいね。 (2011.05.07 18:49:02)
カテゴリ:中国の将来
さえ
昨日の三年生の分子生物学の講義は、風邪で元気が出ないし、どうしても小さな声になりました。でも、そうなると、良くしたもので、学生はさらに静かになって、注意深くぼくの言葉を聞いてくれます。
なるほどね。大声を出すばかりが能ではないですね。
昨日から修士2年生の朱さんが講義に出てきて、ぼくの説明で学生が分からないと、中国語で補足して助けてくれました。でも、実を言うと、正しいことを言っているかどうか、ぼくには分からない。。。
昨日の夜はまた寝まくって、今日の土曜日です。研究室セミナーの日ですが、朝来ると、突然、院生の体育祭の日だから、研究室で何も行事をやらないようにと言うお達しがあったと隣の池島老師に言われました。
ぼくは調子が良くないし、今日の演者の一人で初舞台を踏むはずの徐帥くんが準備不足で一週間延ばして欲しいと言うし、えい、そんなら、止めちまえ、悲しむ人は一人もいないのだし、と思って朝7時半に中止を連絡しました。
そしたら、嬉々としてそのまま全くラボに来ない人もいるのですよ。土曜日のセミナーは拷問に等しいと思っている人たちでしょうね。時間が出来たから実験しようという人たちは、普段見ていても真面目な人たちです。
かくのごとく、他人に厳しいぼくは、からだと頭がだるくてぼけっとしていたら加藤さんからメイルが来ました。今は加藤夫人が日本語講師になって、中国に再度赴任しています。
むかし話題にしたことのあるインチキ論文の作成が、今中国で堂々と商売になっていることをブログに書いたと言う知らせでした。「論文代作(替え玉)業 」というタイトルです。
http://blog.livedoor.jp/mmkatofu75/archives/3127431.html
好奇心を道連れに、中国のあちこちで話題を引き出してくる加藤先生の元気さを分けて貰いたいですね。
コメント:
Re:論文代作(替え玉)業(05/07) 加藤正宏 さん
徐帥くん頑張っていますか。
身体の大きなユニークな徐帥くんのことは今でも覚えています。卓球も上手でしたね。 (2011.05.07 22:04:31)
卓球の上手い大男 shanda さん
ばらしてはいけないかも知れませんが、コメントを寄せてくれる「とある年男」とは彼のこと。
日本語が見事。おまけに心はすっかり大人です。 (2011.05.08 08:13:59)
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ おさえちゃん:
5月8日。今日は母の日。ママの本当の誕生日。昨年9月29日に106歳で他界。
その頃は、さえの体調だけが気に掛かって心を占めていたので、ママの死は当たり前の出来事ととして受け止め、日本に戻って喪主のつとめを果たしました。
父に死なれたときの悲しみと衝撃と喪失感に比べると、全く何にもなし、何も感じませんでした、その時は。
今は、さえの死をただ嘆き悲しんでいた自分を少しは客観的に見られるようになりましたし、ママの思い出も少しづつ心の中に忍び込んできます。
でも思うと、決定的だったのはママの晩年の十数年、人格としての脳が全く機能しなくなって、ぼくの会う母は、ママの抜け殻だったからでしょう。ぼくを識別できない、あるいは全く目に入らない母に、ぼくのママは失われてしまったと言う意識を持って来たからだと思います。
その長い年月の間に母を喪うと言う心の準備が出来ていたのでしょう。
ぼくたちの子供たちにとって、掛け替えのない存在だったさえ。ぼくたちの大事な二人の子供たちは、母のいない初めての母の日をどんな気持ちで過ごしているかと、遠く離れて思いやっています。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ おさえちゃん:
ぼくたちが子育てに忙しいころに流行った「天使の誘惑」という黛ジュンのうたがありましたね(1968年)。ちょと舌っ足らずな歌い方で、黛ジュンは庇護しないといけない女の子のような、そして隣にいる女の子みたいな感じがしました。
だから、人気だったのでしょうね。
「天使の誘惑 黛ジュン」で検索すると7万8千件も出てくるのですよ。
好きなのに あの人はいない
話相手は 涙だけなの
幸せは オレンジ色の
雲の流れに 流れて消えた
私の唇に ひとさし指で
くちづけをして あきらめた人
ごめんなさいね あの日のことは
こいの意味さえ 知らずにいたの
砂浜で 泣きまねすると
やさしい声が 流れてくるの
想い出は オレンジ色の
雲の彼方に 浮かんでいるの
私の唇に ひとさし指で
くちづけをして あきらめた人
今ここに あの人がいたら
陽にやけた胸に 飛び込むでしょう
飛び込むでしょう
そうか、そんな初恋もあるのか、って感じです。胸キュンですね。
年上の男と、まだうぶなの女の子の組み合わせ。今はもちろん、その頃だって、滅多にない組み合わせだから、こうやって見事な歌になったのでしょう。
この娘は、この男にもう会えるとは思っていないけれど、また会いたい、会えるかも知れないと思って、泣いています。希望のある涙は、まだ幸せなのだと、あの頃思っても見なかったことが、今や身にしみて分かりました。
人にメイルを出すとき、最後に、じゃお元気でとか、どうかお大事になんて書きますが、さえへのメイルにはこのような結びの言葉が使えません。どうしましょうね。
4月の弁論大会の二週間前の定例会では、大会の終了後の懇親会は今回は総領事館で開かれるという話だった
大会の5日くらい前、代表の宇野さんから「総領事館への招待は教師の会から二名、とあります。」
「このようなことですので、教師会から参加するのは私、宇野と弁論責任者である神山先生と言うことになります。」
と言うメイルが全員に届いた。
これに対して、私は以下のように異議を書いて、彼と全員に送った。
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宇野先生
私はこの通知に異議があります。
教師会が「総力を挙げて」お手伝いしている日本語弁論大会は教師の会の行事の中でも主要なものと位置づけられます。
その大会の終了後、何もしないで解散と言うことは私の知る限り過去一回もありませんでした(日本人会の主催で晩餐会が開かれました)。
今回丹羽大使が北京から来られて総領事館で会食があるところに教師の会の弁論大会関係者が招かれています。
人数限定で二名だけという招待です。宇野代表としては、これを断るか、あるいは全員を招待させるべきでした。
この弁論大会のために全力で働いたのはこの二人だけではありません。この二人はどういうつもりで総領事館の会食に顔を出すのですか?
自分たちが選ばれた代表だとでも?
この二人が丹羽大使に会うことが大事なのですか?
自分たちが教師の会で今回の弁論大会の責任者だと考えているなら、大会のために寝食も忘れて努力した先生たちの当日の慰労を真っ先に考えるべきでした。
この通知を見て、とても残念です。
なお、私はまことに申し訳ないことですが、当日の弁論大会に参加いたしません。
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この楊に異議を書けば、恐らく宇野さんは、
「総領事館に全員を招かせるのは、時間的にも、物理的にも、不可能でしょう。招待を断るのも穏当を欠きます。
自分たち二人だけが出席することを皆様から了承を得るべきところでしたが、失念して申し訳ありません。
又弁論大会のあとの懇親会の用意をすることを忘れていましたが、副代表にお願いしますので、今回の措置はどうかお許し下さい」
と言ってくるかと思った。そうしたら、OKする積もりだった。
ところが、今日まで何の返事もない。
そして次の今週末の、つまり5月の定例会の開催通知が、とどいている。つまり、私の異議に対して黙殺を持って応じたのだ。
人は、人という社会的動物は、存在を黙殺されると腹を立てる。私も例外ではない。
これは、教師会を束ねる存在である代表としては、やってはならないことだろう。
腹を立てると、この宇野さんの欠点ばかり次々と思い浮かぶ。こんな、リーダーシップに欠けるこの人に教師の会をの運営を任せられなという気に、ますますなってくる。
さえ、どうしよう。クーデターを起こそうか。
こころを鎮めて考えよう。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
日曜日に近くのヘアカットに行きました。
瀋陽に来た頃、最初はきちんとヘアカットに行っていましたね。でも、言葉が自由でないので髪型がこちらの思うようには刈って貰えず、そのうちに出掛けなくなりましたね。
代わりに日本からヘアカット用のハサミを持ってきて、さえに刈って貰うことが多くなりました。さえが治療で日本にいる時が多くなって、ぼくは鏡を眺めながら自分ひとりで刈っていました。
だから、この数年、瀋陽で床屋に行ってないでしょ。瀋陽に来た頃は5元でしたが、10元という時代を通り越して、今は15元になっていました。
2月26日に瀋陽に戻ってきたとき、ハサミを日本に置いたままで、戻ってきてしまいました。具合が悪くて寝たままのさえの髪を切るために、ぼくが日本に持っていったのでした。
3月終わりに、暁艶に誘われてヘアカットに出掛けました。髪の刈り方は彼女に説明をして貰いました。それから1ヶ月半して、少し鬱陶しくなって、又出掛けたのです。
相変わらずぼくは中国語が分からないので、前と同じように暁艶に「こんな具合に」と、若い職人さんに説明をして貰います。
一通り刈り終わると暁艶が、「それで良くなった、いいじゃない」なんて言うので、終わりです。ちょっと、違うんだけれど、彼女に英語で十分説明できないし、それが中国語になるとまた少し違ってしまう。つまり、ぼくの髪型は、ぼくの思う通りにはならず、どうも、ことによると、暁艶好みになっていくのではないかなあ。
いつか、上海にいる彼女のボーイフレンドと会うことがあったら、二人とも同じ髪型をしているなんてことになるかも。あれっ。。。
むかし奥村チヨが歌っていた「恋の奴隷」という歌がありました。
「あなた好みの あなた好みの おんなに なりたいわ」
と言うような歌詞だったけれど、
「あなた好みの あなた好みの おとこに なりそうね」
とひとり口ずさんで、日曜日の午後はにやにやしていましたよ。
なおこの頃、楽天のこのブログにアクセするのに、時間が掛かるようになりました。書き込むサイトへのアクセスもすごく時間が掛かります。書き込んだものがすんなりブログにアップロードされずに、そのまま掻き消えたりすることが増えてきました。
ココログとかアメブロなど、ここからアクセス不能になったサイトが沢山ありますが、これもそうなるかもと言う暗い予感におびえています。
カテゴリ:生命科学
さえ:
1968年ピンキーとキラーズの「恋の季節」は、実に新鮮な歌でしたね。今から思うと、作詞の岩谷時子がすごいけれど、今陽子ののびのびとした肢体がみごとでした。
ところで、昨日の瀋陽の最低温度が10度で、予報では今日の最低温度は11度となっています。やっと最低温度が10度を越えて、これでだいぶ暖かく、楽になりました。
うちの室温は一時は18度になりましたが、今は20度です。実は、真冬と同じですね。
それで不思議に思うのは、真冬は、厚い下着を着て、Yシャツの上に厚いセーターを着ているでしょ、うちの中で。室温は20度。それでも薄ら寒い。
今は、薄い下着にYシャツと、その上に着てもチョッキくらいで、同じく室温20度で、平気なのですよね。
脚だって、真冬は厚い下着を着ているのが、今は膝まで薄いズボン下で脛は丸出しですね(ま、ズボンは穿いていますが)。
それで平気なのですもの。不思議です。脳が今は春だと言うことを感知して、同じ温度でも身体の適応性を変えているのでしょうね。
実際、下着は薄くなっても今でもぼくは長いYシャツを着けていますけれど、若者はもう一週間も前から、半袖で歩いている人たちが多いです。
若い人たちの脳内ホルモンの分泌はぼくたちに比べて多いでしょうから、「春だ、薄着だ、ボディコンだ(ちょっと表現が古いかな)」 ってわけで、薄着でボディラインを強調して闊歩しているのですね。
と言うわけで、若者の脳が「さあ、春だ、薄着だ、恋の季節だ」と身体に囁きかけるのと同じように、ぼくの脳も、無駄とは知らずに、同じことをぼくの身体に告げているわけですね。
そんなことを考えながら朝歩いていると、大学の前で、お隣の池島さんが歩いているのに追いつきました。
もこもこと厚着だった池島さんも、今は薄着で、顔もつるっと綺麗になって、さあ恋の季節だ!って言う感じに見えましたよ。
いきものを司るホルモンの働きってすごいですね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
このごろ、バスタブを探しに行って買おうという話で、学生の徐くんと暁艶さんとで盛り上がっています。
元はと言うと、瀋陽にきてから半分の期間は本当に出の悪いシャワーに悩まされつつも、水事情の悪い瀋陽なら仕方ないと思ってあきらめていましたよね。
そんな具合ですから、バスタブのないのは当たり前と思っていました。
水圧については、住んでいるマンションの16階建ての中の水の配管が二系統あり、8階に住んでいる私たちのところは8階が配管のトップになっているため、マンションの8階以下の住人が炊事に水をが使うと、水圧が低下してシャワーが(水が)出ないことが分かったのでしたね。
大学に苦情を述べたら、実に速やかに工事が手配されて、うちには16階に送っている送水管に穴を開けて給水されることになり、悩みからやっと解放されました。4年前でしたっけ。
そんなわけで、長い間、出の悪いシャワーに悩まされていたのが改善されたりしたので大して不満も持たずにいたのですが、急に風呂に入りたいと思い始めたのですね。
直ぐ近くにもビジネスホテルが出来たので、バスタブがあるなら行こうと思って調べたら、シャワーしかないのです。
それで瀋陽のホテルの何処かに泊まりに行こうかとまで思ったのですが、一泊900元じゃね、とぼくがぼやいた言葉を聞きつけて、学生たちが、バスタブを買ったらいいじゃないですか、と乗り気になりました。
彼らはお手の物のネットで調べて、木の風呂桶なら300元くらいで買えますよ。ホテルに行く費用で3つも買えてしまいます、と喜んでいます。
木じゃ表面を清潔に保つのが大変だし、日本に1ヶ月行って不在の間に乾いてしまうと水漏れをするようになるし、考えものです。
日本のネットを見ると、猫足バスタブは結構高価ですが、中国製を売っているところを見ると6万円くらいです。中国元ですと4500元くらい。もしそれが中国で買えるなら2000元くらいでしょう。
それで彼らの探しに熱が入り、ネットでいろいろと候補を見つけてくれました。そして、ネットで買うのも良いけれど、瀋陽にもバスタブを売る一大センターがあるので、そこに行って調べようかという話になりました。
一人暮らしでも、いろいろと楽しみが出来てきました。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
今日の昼すぎ、根目チャンが瀋陽に着いたのですよ。
彼女が卒業して以来、ずっと会っていなかったけれど、この間のさえのための集まりの問に久しぶりに会って、「やあやあ、いつかぼくのいるうちに瀋陽に遊びに来ない?」と誘ったのですよ。
こちらに戻ってきてから連絡があって、週末遊びに来るということでした。彼女結婚しているから、二人一緒かな、あるいは会社勤めなので会社の友だちと一緒かなと思ったら、なんと、一人で来るそうです。
宿は、Holiday Innに取ったそうです。空港には、黄澄澄と朱さんが迎えに行きました。
ホテルに送って、それから、ここに訪ねてきます。ぼくは4時まで講義です。夜はこの部屋で歓迎の会食。と言うか、みんなが用意して、しゃぶしゃぶ。
あしたは、通常のセミナーを変更して、一人目はこちら側を代表して張嵐が研究の話。どうせ博士の発表をするのですからその第一回のリハーサル。
それに、張嵐のMAPKの研究の最初には根目ちゃんも絡んでいますもの。
二人目が根目ちゃんで、企業のリスクコントロールについて講演をしてくれます。彼女の専門みたいです。大震災で企業のインフラが全部駄目になって何も出来ないでは、企業はそれまでの信用をすべて失うわけですね。そうならないように、リスクに備えなくてはいけないというような話でしょうか。
根目ちゃんはうちにいるときから同級生を牛耳っていたというか、みなから一目も二目も置かれている大人でしたし、頭脳がシャープで卒業研究も抜群でした。その後、東大の山本先生のところの修士に行きましたね。
修士を出てから畑違いのSystem Engineerになったと思ったのですが、さすが、見事にやっているみたいです。会って話を聴くのがとっても、楽しみです。月曜まで盛りだくさんの歓迎行事も待っています。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
空港に迎えに行った二人には根目ちゃんの写真を見せて、ぼくより背が高いからねと言っておきました。根目ちゃんには、ぼくより背の高い二人の美女が迎えに行くからと連絡を入れておきました。
二人が空港に着いたときには既に到着していて、しかもずっと早く着いたために到着便の案内掲示がもう出ていなくて、「今日、東京から着く全日空の便なんてないですよ」と、空港の二人から電話が掛かってきて、慌てました。
根目ちゃんの携帯電話の番号を調べようと思っても、Gmailは例によってちょうど邪魔されていて、彼女から見たメイルはみられないし。
結局、背の高い人たち同士で出合うと書いておいたので、根目ちゃんが二人を見つけてくれたそうです。
根目ちゃんはホテルに寄ったあと大学に来て、ぼくの講義の終わるのを待っていてくれました。
態々休みを取って、東京から会いに来てくれたのですよ。感激です。10年前の卒業生で、1年間、卒研をぼくたちのところでやっただけなのに。相変わらずぼくより背が高くて、大人の落ち着きを持った若い女性でした。
コンピューターののプログラマーをしていたのは数年で、そのあとRisk Managementの世界的企業に移ったのだそうです。
東日本大震災が起こって、責任ある企業としてはRisk controlを日常的に考えておかないといけないことが分かったわけですから、いま彼女の話を聴くのはぼくたちにとっても実に良い時期ですね。
6時からは教授室でしゃぶしゃぶ。4年生のJiangさん、李さん、それに日本語の石田先生にも参加して頂いて、たっぷり食べました。
8時半には徐帥くんと一緒に根目チャンをホテルまで送りました。Crowne Hotelです。このホテルは、3月末の日本人会総会の時には、Intercontinnental Hotel (州際酒店)だったのですよ。栄枯盛衰、激しいものがありますね。
研究室の記録として残しておきたいと思いつつ、なかなか書き続けるのは難しい。
2010年度の学期末に近づいて、今の陣容は:博士4年生張嵐(うちに来てからは3年未満である、呉英良研究史から送られてきた)、博士2年生陽暁艶。
修士3年生は王月、黄澄澄。修士2年生は張笑、朱Tong。修士1年生は崔玉Ting。
2011年入学予定は、博士課程に王一任。修士課程は林音知と張雪城のふたり。
今の卒研生は、徐帥(貴重な男子学生、薬学日語5年生)。楊洋と張微(共に薬学日語5年生)。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
今朝、ぼくたちの定例のセミナーの時、根目ちゃんはRisk managementの話をしました。
The principle of Risk and Business Continuity Management (BCM) and what we should do before/after such severe events happen
- on the occasion of the March 11 earthquake in Japan ?
結構難しい話でしたが、たとえば、こういう例を考えてみるとわかりやすいのじゃないかな。
大震災で傘下の工場が被害を受けて機能しなくなった、それでも企業は、企業の信用と社会的生命のために、とどこおりなく世界に製品を供給しなくてはいけないと考えます。実際に、ある企業では震災時に深刻な災害を受けたにもかかわらず、複数のバックアップ体制が用意されていて、その企業は数日後には製品を送り出すことが出来たと言う話を聞いています。
一方で、大量の冷却水が必要な原子力発電所が海岸間際に建設されています。もし津波が来たらひとたまりもありません。実際、貞観地震では大規模な津波がこの後を襲ったことが記録されているということです。
じゃ、補助用の電源とモーターは地下に置いたら危ない、と思うか、千年に一度のことなど、高だか五十年の寿命の原子力発電所が考える必要はないと思って、対策を講じないか。その結果、メルトダウンの危機が発生し、しかもその時どう対処するかの青写真もない企業が、現実にあるのですね。
個人的にRiskを考えてみます。どんなRiskがあるか。
結婚年齢と思っている女性には、よい相手が見つからないというRiskが深刻かも知れません。しかし、見ようによっては、結婚というとんでもない危険なRiskを冒そうと思っている人たちもいるわけです。実際、結婚とは人生最大の、そして避けうるRiskかも知れませんよね。
人によっては、思わしい研究の結果が出ていなくて卒業出来るかどうか分からないというRiskにさらされています。卒業できないと、前々からの青写真が吹っ飛んでしまいますもの。
人それぞれに、さまざまな形の違うRiskがあるのでしょうね。
個人的にこれらのRiskにどう対応するかというのは、Riskによってみな違いますね。でも、企業や自治体体が地震みたいな災害に備えるというのは、災害を予防することを考え、実際の災害をいかに最小にとどめるかを考え、人々の生活を少しでも早く日常に戻せるようにすることでしょうね。
となると、危機対策を講じられるかどうかはその企業や、自治体のトップの器量次第と言うことでしょう。自分の名声だけ考えている政治家なんて論外ですね。
それにしても、彼女の属している企業にとっては、今回の災害は絶好の商機到来でしょうか。
カテゴリ:研究室風景
さえ
昨夜の晩会に、日本語の石田薫先生を初めて招いたでしょ。
石田先生は遠慮しつつも、日本語の学生何人かと顔見知りで、少しづつ打ち解けてみなとおしゃべりをしながら楽しんでおられたと思います。
明日の土曜日に、根目ちゃんの講演があって、そして土曜日はみなの定例のセミナーの日であると聞いて、「あれ、土曜日は休みじゃないの?」
「せみなーって勉強会ですか?」「ええ。講義ではなくて、みなで一緒に勉強するのですよ。」と、学生が返事をします。
「たいへんですねえ。休みの日に」と石田先生に言われて学生は我が意を得たりと、「そうですよ、休みなのにね。8時までに来なきゃ10元の罰金ですし。」
「あらそう。でも、先生なしの勉強会なのですか?」
「いいえ。山形先生も一緒です」という返事を聞いた石田先生は、
「休みの日なのに出てきてみなの勉強に尽くしていらっしゃるんだから。先生に感謝しなくっちゃね」
と、とても嬉しいことを言って下さいました。学生たち、仕方なく「ええ、そうです。先生はありがたいです」だって。。。
ぼくは隣でにやにや。。。
セミナーは人の研究を聴くという以上に、研究に対する自分の批判能力を磨く絶好の機会なのですけどね。そこまで行き着く前にたいてい卒業してしまいますね。
昨日の土曜日はセミナーのあとは、学生食堂に学生が根目ちゃんを連れて行って昼食。その後、彼らが遼寧省の博物館に案内しました。Jiangさん、李さん、そして林さん。
5時には大学に戻ってきて、唐宣閣で食事。
今日の日曜日はお天気です。ぼくが案内して、中街の近くの骨董の路上市に出掛けます。元はと言うと薬科大学の日本語の講師だった加藤先生に教わったのでしたね。彼はいろいろと案内して教えてくれましたね。
瀋陽日本語文化祭というのがある。むかし石井先生が遼寧大学で始めて、西安の日本人不品行問題で一度中止になって、今度は反日デモで中止の憂き目と言うときに、当時の小河内総領事が瀋陽総領事館で開催してくださって続いてきた。
当時、総領事館の担当は森信幸領事だったが、その後を引き継いだ菊田領事がまるで不熱心で(民間に対してふんぞり返っている官僚の見本だろう、実に不快な人だった)、総領事館が開催を見送ろうとしたので、教師の会が全面的に引き受けて今に至っている。
瀋陽日本語文化祭開催の詳細はGoogleの瀋陽日本人教師の会のHPに載せているが、二年以上ここからはアクセスできないので、どうなっているだろう?
私は教師の会の、3月、5月と定例会の出席を休んだので、そろそろ文化祭かなと思って気にしていても、通知は来ていないし、やっと見つけたのが教師の会の議事録の3月のところだった。
「日本語文化祭は、5月22日に開かれる予定。場所は何処かまだ決まっていない」と書いてある。
議事録は、書記会計係の先生がきちんと書いて下さっているが、その後は記載がない。
日本語文化祭は瀋陽日本人教師の会が主体的に実施している日本語を学ぶ学生のお祭りだというのに、そして、もう開催まで一週間ないと言うのに、会員に知らせが来ていない。
定例会に都合で出ていない会員も数名あるし、会友の数人も定例会にはおい休みのことが多いから、日本語文化祭の日時、場所、プログラムの連絡を、全員宛に出してくれると良いのに。
スポンサーの日本人会には、きちんと日本語文化祭の知らせは出しているのだろうか、心配なことだ。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
昨日の日曜日は好天でした。温度は20度くらい。暑くもなく、寒くもなく。
9時半にホテルに根目ちゃんを迎えに行って、10時に大西門でほかの人たちと待ち合わせをしました。根目ちゃんと私のほか、暁艶、笑笑、玉Ting、学生のJiang、李、林の総勢八人。
中街の西にある路上市が久しぶりでした。
相変わらず、自分のうちの物置から持ってきたものをそのまま並べているような茣蓙もあるし、手のひらでくるくる回して手を鍛えるクルミなどを綺麗に売っているところもありました。
むかし、彫刻刀を買った店の人はぼくを覚えていて、横を通ったら追いかけてきて親しそうにいろいろと話しかけてくれました。そういう人たちは他にもいましたよ。冷やかしで歩いているのに、しかも、今までだって数えるほどしか(一年に、せいぜい一度くらいでしょうね)来ていないのに、良く覚えているものですね。
古物会館の入り口に陣取っている曽さんは前よりもでっぷりとした感じになっていました。彼のところで、印材がいろいろと並んでいるなかから、李白の詩が刻んであるのを選んで、根目ちゃんのための篆刻を頼みました。
早発白帝城
朝辞白帝彩雲間
千里江陵一日還
両岸猿声啼不住
軽舟已過万重山
早に白帝城を発す
朝に辞す白帝彩雲の間
千里の江陵一日にして還る
両岸の猿声啼いて住(や)まざるに
軽舟已に過ぐ万重の山
曽さんは百元というので、だって友だちじゃない、と言ったら八十元になりましたが、さらに学生が声を合わせて、そりゃないでしょ、ほんとに友だちなら誠意を見せなさいとでも言ったのでしょうか、最後は六十元になりました。すごい。
出来上がるのを待っている間に、老辺餃子にいきました。予約をしていないので、大広間の追い込みの席。餃子八種類におかずを取って、満腹。
1時半に故宮の前で待ち合わせて、中に入りました。故宮は大きすぎず、見学には実に手頃ですね。ガイドを雇って歩く人たちが多く、その説明がゆっくりと歩くこちらにも聞こえてきます。学生たちは、それを英語や日本語でぼくたちに説明してくれますので、由来も当時の様子もいろいろと伝わってきて、楽しめました。
ホンタイジの皇后の他の妃の3人分は大きな住居があるのですが、15人も妃がいたそうです。この四人以外は、寄宿舎に入っていたとか。本当かな。今の女子学生たちは大学で四人部屋なので、じゃもっときつかったねなんて言いながら笑っていました。
大奥には男性は宦官しか入れなかったのですが、女官と仲良くなって結婚して家庭を持ったりしたそうです。浅田次郎の小説にも、そんな場面がありましたっけ。
ホンタイジのころの大奥は物理的にも面積が狭くて、ここで暮らすのは精神的も相当きついことだったでしょうね。
夜は、新洪記が取れなかったので、また唐宣閣に行きました。ラボにちょうどいた黄澄澄も一緒に食事に来ました。
食事をしながら学生は根目ちゃんに、またどうか訪ねてきてください、そうすると、私たちまたここで美味しいご馳走が食べられますから、だって。あはは、全くその通りですね。
カテゴリ:友だち
さえ:
月曜日は、修士二年生の笑笑と、朱さんに根目ちゃんを街に案内して貰いました。昼前には北陵の見学に行き、午後は太原街に行ってお土産などの買い物をしたと思います。
夜は新洪記に十四人入る部屋を予約して、根目ちゃんの招待で食事をしました。
食事をしながらそれぞれみな根目ちゃんに対して何か述べました。わずか四日間という短い期間だったけれど、それぞれに強い印象を残したようです。
根目ちゃんが修士を終えて就職しても、システムエンジニアという仕事に満足で
きず仕事を変えて自分の可能性を追求しようとしている姿勢に、自分の将来を重ねて、女性として共感を持ったみたいです。
結婚しているのに今回一人で瀋陽を訪ねたという彼女の決断にも、彼女の心の強さを感じたのでしょう。根目ちゃんはそのようにしっかりとした女性なのに、実に美しく、何時も優しい笑顔を浮かべていて、そして学生の示す親切には同じような視線で応え、しかも物静かで、落ち着いていて、学生たちからすっかり好かれたようでした。
ぼくたちは学生の外見で美しいとか、美しくないとか言う評価をしないことにしているので、根目ちゃんが美しいと思ったことは一度もありませんでしたが、今回みんなが口にするので、なるほどね。根目ちゃんは美人です。
根目ちゃんの優しい笑顔は、日本で言うと、仏像のアルカイックスマイルですね。人に対する慈悲の心を示す笑顔で、心の内からから吹き出る積極的なものではありません。
根目ちゃんが自分の感情を出して、心からの笑顔を浮かべられるようになったら、つまり自分の心を人に対して解き放つようになったら、積極的に人との交流の輪を広げていけるでしょう。
つまり仕事なら、クライアントとの誠実な関係がより早く築けるわけだし、他人からの強い支持も得られて、会社のエキュゼクティブにあっという間になっちゃうかも知れません。
有能な人だから、この次来てくれるときは、会社の一部署を代表する立場になっているんじゃないかな。
根目ちゃんはリスクマネージメントという、私たちにとっては初めての概念を持ち込んで説明してくれました。私たちは彼女のたおやかな人柄と一緒に、新鮮な空気に触れた感じです。
根目ちゃん、態々東京から貴重な時間を使って訪ねてきてくれてありがとう。私たち、とても貴重な時間を共有することが出来ました。また来てください。一緒に美味しい料理を食べましょう。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
国際交流処の徐寧さんから電話があって、今週の木・金曜日は運動会が開かれるので、講義はお休みなのだそうです。
それで外国人教師を鞍山の近くの千山に案内したいと考えているけれど、一緒に行くか?と言うことでした。
今まで国際交流処のこの手の催しは、3年前にコン河の汽船による遊覧というのがあって、参加しました。その時瀋陽の南の河の両岸に、未来都市みたいな背の高いマンションが林立しているのが見えました。
それ以外は、2003年に植物園に行くのに連れて行って貰ったくらい。そのとき、ドジなぼくは針金に足を取られて、池に落ちてずぶ濡れになったことがありましたっけ。
と言うわけで9年の間に、今回で誘われたのが3度目ですね。ぼくは喜んで行くと返事しました。鞍山の千山はむかしから名前を聞いていますので、何時か行ってみたいと想っていました。
その後直ぐに隣の池島さんが入って来て、旅行に誘われましたかと何故か興奮気味でした。きっと、彼も誘われることが滅多にないからでしょう。
彼はもう何度も千山に登ったそうです。
千メートルくらい登るのですって。でも、老人の多い外国人教師を連れて千メートル登るなんて考えられないから、きっともっと楽なルートがあるんでしょうね。
池島さんによると、麓にはむかし日本人の兵士が見つけた温泉などがあるそうです。今回は、そこを目指して出掛けるとは思えないと言うことでした。
それでも、どこに行っても山が目に入る日本から来て、どちらを向いても平原が広がっている瀋陽に住んでいると、山に行くと考えるだけで嬉しくなりますね。
ここはむかしの満州平野。夕日が開けた地平線の向こうに、すとんと落ちるのです。
今週の金曜日は、運動会のあることが前から決まっていたらしく、講義が予定されていません。心晴れ晴れと遠足に行けるというものですね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
昨日帰りがけの薄暗闇の中、うちの近くで、邱老師に会いました。前の学長の姚老師のお弟子さんで薬物分析の教授をやっている方です。
ここでTeacherをやっている彼の奥さんをうちの学生に寄越したいという話のあった人ですから、覚えていますね。でも、ぼくたちはTeacherをうちの学生として採ることに懲りていたので、彼女は池島さんの研究室に行って博士を取りました。
Cancer Lettに載る論文を出したそうですから、結構良い研究をしたのですね。
「久しぶりですね」と邱老師。「お元気ですか「と二人で同時に口にしました。
そしてその後、邱老師は「お一人ですか。奥さんは如何ですか」と聞かれてしまいました。はっ。とうとう、きかれてしまったか。
心鎮めて、心の端を閉ざして、「いえ、妻はこの一月に死にました。肺がんがとうとう治らなかったのです。いろいろとお世話になりました」と言いました。
けれど、そのあとはもう言葉が続きませんでした。邱老師も深刻な顔になって「それは、どうもお悔やみ申し上げます」と言うことで、もうそれ以上二人の間に話は弾みませんでした。
また何時か会いましょう。その時は、もう、こだわることなくいろいろとお話しできるでしょう。
ぼくは痛む心を抱え、涙を流しながらうちに帰りました。もう、暗いし、それに、こういう時こそ、周りを気にしない中国人になりきって。
カテゴリ:生命科学
さえ おさえ:
講義では、ぼくはとても良い講義をしていると何時も密かに思っていたけれど、今日は半ば絶望的な気分ですよ。
昨日の分子生物学の講義の中の説明で、ある種類の組織」が優先的に(特異的に)発現している遺伝子を調べるために、放射性リン酸(32P)を含む培養液に細胞を短時間浸して、調べたい遺伝子のcDNAとハイブリッドを作る放射能の量を調べる例を出しました。
できてくるmRNAは放射性リン酸(32P)で標識されています。
ただの教科書の記載を追うだけでなく、実際の実験を考えて見て、どうやってこのようなことが言えるようになったかを考えることが大事だと思うからです。
そのときに、ふと、ついでに、培養液に放射性リン酸(32P)を入れると、どうして、そこに浸した細胞のmRNAが標識されるのか、学生に尋ねてみました。
学生はうろうろと視線を彷徨わせています。学生の反応は、全然芳しくありません。
いろいろと考える材料を与えて、「ATPが放射性リン酸(32P)で標識されるんでしょ?」と、考えを導きます。
「じゃ、どうしてATPが放射性リン酸(32P)で標識されるのですか?」と言うことになりますね。
相変わらず、学生たちの視線は、うろうろ。
「一年前に、生化学で習ったでしょ?」「細胞はどうやって生きているの?細胞は生きていくために何をしているの?」
「細胞は周りから栄養を取っていますね。普通はグルコースでしょ。グルコースから、細胞はどうやってエネルギーを生み出しているんですか?」
「エネルギー代謝のために細胞はグルコースからATPを作りだしているでしょ?」
「解糖系でグルコースから2モルのATPが出来る?」と、尋ねると、全員で一斉に、「ハーイ」
「グルコースが完全に酸化されると?」「ハーイ、38モルです」と、全員が元気よく答えます。
こういうことは良く覚えているんだなあ。だけど、細かなことは良いとして、大筋でも理解しておかなくっちゃ勉強した意味がないでしょ?
「グルコースからATPを作る時、無機リン酸を使うでしょ?」
「グリセルアルデヒド3-リン酸から、1,3ビスホスホグリセリン酸を作る時、無機リン酸が取り込まれて、これが、ATPになるでしょ?」
「?」「シーーーーン」
「ATPができれば、それからGTP、 UTP、CTPが出来ますね。デオキシヌクレオシド三リン酸も出来ますよね」「だから、mRNAに放射能が取り込まれますね」
あーあ、疲れた。。。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
日曜日には根目ちゃんを路上市に案内しましたね。そして彼女のために曹さんの店で印鑑を刻む石を見つけて、曹さんに篆刻を頼んだでしょ。
行く途中で、篆刻のための彫刻刀の店の人がぼくを見つけて懐かしそうに挨拶をしてくれました。それで、一緒にいた学生が、「先生、自分でも篆刻をするのですか?」
もちろん、ぼくは「ええ」って返事をしました。篆刻の石を買って実際に彫ったことがありますもの。篆刻が上手か下手かは、篆刻をするという行為そのものに、関係ないですものね。結果を訊かれているのでもないですしね。
もちろんこのような時、ぼくに見事な字体で篆刻をしてくださった小林豊明先生を思い出します。彼はすごい。プロ以上のプロ級です。
路上市の一部に、絵や字を並べている一画があります。生き生きとした虎の絵、見事な筆遣いの行書、草書、隷書などを見るのは楽しみです。
ここでも、学生に「先生、自分でも筆を持って書けますか?」と訊かれました。「もちろん」とぼくは答えます。
だって、ここで書いてみなさいと言うわけではなし、遠慮することはありません。「どんなのを書くのですか。楷書?」と訊かれて、目に付いた見事な行書体を指さして、こんな感じかな」と言ってしまいました。
そしたら笑笑が、「先生、私の卒業の時に、記念となる言葉を書いて下さいね」って言うのですよ。
大変なことになりました。もちろん、可愛い笑笑のために何か書きたいし、先生の記念と思ってくれるなら、こんな嬉しいことはありません。
でも、こうやって頼まれるほどの字が書けるわけではないのにね。どうしましょう。あまり、いい加減な自慢はしてはいけませんね。
ここで一念発起して、練習を重ねて一流の書家になるなんて言うことにったら、いいんだけど。
出来るわけありません。一年先のことだから、彼女が、忘れるよう願っていましょうか。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
今日と明日は大学の運動会。
今朝はどうしてか、何時ものように起きられず、一時間寝過ごしました。それで、7時ちょうどくらいに研究室の建物の入り口に着きました。
入り口には何人もの見た顔、見たことのない顔の老師たちが、新調の黒いジャージをおそろいで着て、みんな楽しげな顔で集まっていました。
殆どの老師にとっては、こんなに早く大学に来るのは大変でしょう。グランドは色とりどりの旗を飾って、元気のよい音楽を流しています。
7時半ころになって、教授室の窓からグランドを眺めると、入場行進をやっていました。黒い一団のあとには赤のグループ、後ろには白と黄色の一団がつづき、そしてあちらには、。。。
グランドの周りは数々のテントが取り囲んでいます。
運動会って、日本では普通は学生・生徒のものでしょ。どうも、ここでは先生たちのためのものみたいです。学生からは運動会だ!って興奮した声をきいたことはありませんよね。
以前、Teacherの関さんがいたころ、ジャージだけでなく靴までおそろいでしたね。終わったら油やら、お菓子やら、いっぱい抱えていていましたっけ。
全国でも一二を争う高い授業料を取っていて、こんなことをしているから、学生の目が老師たちに対して厳しいのでしょうね。
ある組織や団体の構成員が集まってお祭りをするのは、それはそれで結構なことですが、その費用を誰が出しているか気にならないと、いけませんね。
先生たちのお祭りなのに、外国籍教師にはお呼びが掛からないので、明日は鞍山の千山に連れて行ってくれるのでしょう。昼には家楽福に出掛けて、お菓子のたぐいをすこし買ってきました。
費用は大学持ちです。当然のこと、と思っていましたが、これも元はと言うと可愛い学生たちの高い授業料でしょう。大学がぼくたちに尽くすのは当然と思う神経では、この手の批判は、目くそ、鼻くそを笑うのたぐいですね。
こうやって、「目くそ、鼻くそを笑うのたぐい」というと、何時もさえは眉をひそめて、「汚いわねえ。汚い表現が好きなのねえ」って言っていましたね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
むかし戦後すぐのころ、家の庭には鶏小屋を造ってニワトリを飼っていました。自給自足の必要なころでしたね。
ニワトリは、何かと興奮しやすい鳥だったと思います。何かの原因で一斉に頭を持ち上げて、啼きながらせかせかと歩き回っていました。
この間食堂で食事をしていました。今、イタリアに留学している曹さんのことを話しながら、ミニトマトを噛んだら、中身がプチーっと飛び出しました。
それを見ていた学生が教えてくれたのですが、以前中国で国民党軍が元気なころ、共産党軍の兵士が、どうしてそんなに元気なのかと、尋ねました。
国民党の兵士は、「そりゃ俺たちは、ニワトリの血を飲んでいるからさ」、と言ったそうです。
それ以来、この国では人が興奮すると、「打鶏血」と言うそうです。
「興奮するなよ、鎮まれよ」くらいの意味でしょうか。
ミラノに行って研究者になれなかったらモデルになったよいよと、からかっていた曹さんの話をしながら、興奮しているように見えたのでしょうね。
曹さんはぼくと違って頭の中がきちんと整理されていて、とても見事な学生です。実際、毎週学生と会って研究の指導相談をするとき、曹さんと話すことをぼくは何時も楽しみにしていました。修士の学生なのに話をしていて、いつもちゃんと手応えがあるのですよ。よく勉強しているからこそなのです。
自分のことしか見ていないので、仲間の中では評判がよいとは言えませんでしたね。もちろんそんなこと歯牙にも掛けていない人で、昔のぼくにそっくりですね。
だからかな、曹さんは人付きあいは下手かも知れないけれど、優秀な人ですよと弁護したくなるのでしょう。
なお、印材では昌化鶏血石という鶏の血のように鮮烈な紅い色石があります。目の飛び出るほど高価です。こんな石にぼくが彫ったら、手が震えてしまうでしょう。
中薬で鶏血藤という子宮収縮作用、鎮静、催眠作用のある生薬があります。中国南部、台湾のムラサキナツフジなどのつる茎で、切ると赤い汁が出るそうです。
さすがニワトリの血は生薬にはなっていません。でも、ニワトリの足は中国人の大好きな食材ですね。ぼくはまだ遠慮していますけれど、実は日本人の大好きなコラーゲンですね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
今日の金曜日は遠足で、鞍山の千山に初めて行きました。国際交流処のマイクロバスで、英語教師が3人、日本語教師が3人、研究室を持っている池島さんと私。案内はあの細身の運転手さんの他に、今度国際交流処に入るという今修士3年生の路さん。
クルマに乗って約2時間で鞍山に着きました。鉄鋼の街です。むかし八幡製鉄が昭和精工所をここに作って、彼らの仕事の中心だったところです。街に着いてから千山まで30分。
北陵の入り口が大きな門で仕切られているように、ここも「千山」と大きく書かれた巨大な門を、一人80元払って入ります。
全山至る所に、仏寺、仏閣、仏舎利があります。ここが開かれたのは1100年代と言うことでした。お寺は古いのもあるし、2001年に建立されたのもあります。新しいのはどういう人が建てるのでしょうね。
篤志家が寄贈した大きな布袋様もありました。その横で坊主がお布施を集めています。坊主丸儲けでの図ですね。仏教と道教が混在しています。
巨大な線香は二百元、三百元と、瀋陽よりもだいぶ割高です。
鐘搗き堂で1元払って三回鐘を鳴らしてきました。良い響きです。おさえちゃんのために願いを込めようかと思いましたが、仏教に頼ることはないので止めました。
ケーブルカーで一山を上って、向かいの岩山を布袋様に見立てたお堂に行きました。何だか、一緒の池島さんも横たわれば、布袋様そっくりで、思わず、一人笑ってしまいました。
この中での移動は電動車です。すごく楽をしています。でも次にケーブルカーで上った「天上天」では、大いに運動をしました。全山広がる山並みの中にひときわそびえ立つ山の頂上です。眺めのすばらしさは、大変結構なものです。
でも、岩山を降りるのがスリル満点でした。さえにも見せたかったけれど、さえには無理だったかも知れません。実際、その間に英語講師の一人(まだ62歳と若いのですが)は上るのを棄権して、下で待っていました。
岩山を下るのに足の短いのは不利ですね。とても疲れますもの。もちろん、良い運動になりました。帰りのクルマでは、ぼくだけでなく全員ぐったりとして、お喋りは殆どなし。
5時過ぎに大学に帰着。今夜はよく寝られそう。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
中国の人たちはすごく実利的なものをもとめますね。
千山に沢山お寺がある中の一つ道教の寺院に入りました。三国志の関羽が信仰されていて彼の像がまつってありますが、戦いの神ではなくて発財、つまり金儲けの祈願を受けています。
日本の中華街の関帝廟もそうですね。商売繁盛を願う神になっています。
その後ろの廟には財持天というのが祭ってありました。もちろん発財の守護神のようですが、そこには求財、求学、求官、と書いてありました。
つまり、金儲けの祈願だけでなく、勉強が出来るように祈りなさい、それも引き受けますよ、と言うことですね。
学問の祈願は誰でもすがりたい気持ちを持っているから分かりますが、この「求官」というのは官職に就きたい人が沢山いると言うことでしょう。
官職に就くことこそ金儲けになると言う今の中国の状況を如実に表していますね。国家主席が、こんなに汚職があっては國が危ないと恐らく本気で心配して奔走しているのに、国民はどこ吹く風とばかり政府に入って金儲けの伝手をつかむことに一生懸命のようです。
日本だって悪いことをする人はいますが、組織ぐるみと言うことはないですね。
以前、加藤文子さんが中国の日本語教科書に書いてある次の内容が、これはかなりバイアスが掛かっていると仰っていました。
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日本社会の特徴
日本社会は、どちらかと言えば、明らかに「きつい」タイプの社会であると言える。日本の学校や、官庁、企業においては、部下や生徒をきつく締め上げるほど、よい成果を出す、よい仕事をすると考える風潮がある。日本社会では厳しい規律が支配する組織が幅を利かせている。こうした「軍隊型」の社会は、軍隊以外の学校、企業、官庁で普通に見られる。
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これは、こういう見方が出来ませんか。会社や組織を食い物にする人たちは仲間を巻き込んですることが多いのでしょうね。日本では、それを許さない雰囲気があります。それが、この著者には厳しくてたまらない「きつい社会」と映ったのではないかな。
こんなことを、きらびやかな廟の中の財持天を眺めながら考えました。
カテゴリ:生命科学
さえ:
Natureに、滅法面白い論文が載っていました。ロイヤルジェリーの秘密が解き明かされたのですよ(Royalactin induces queen differentiation in honeybees
Masaki Kamakura
doi:10.1038/nature10093, 2011)。
研究をしたのは、富山医科大学の若い鎌倉昌樹さんという30歳代の講師の人です。もう10年以上ロイヤルジェリーの秘密を追求してきました。
ロイヤルジェリーだけを与えられた蜂の幼虫は女王蜂になり、4年以上生きますし、女王蜂は毎日自分の体重以上の卵を産み続けます。遺伝子の背景がまったくおなじなのに、ロイヤルジェリーをあたえられないと、働き蜂となって寿命は1ヶ月です。働き蜂は不妊です。
ロイヤルジェリーを毎日(それだけを)食べることが、女王蜂にするのですね。
ロイヤルジェリーを40度で置くと(30日40度に置くと殆ど有効性がなくなりました)、段々有効成分が減っていくことが分かりました。これは有効成分がタンパクであることを示唆しています。著者はこのタンパクを精製して、Royalactinと名付け、このアミノ酸配列を調べて、その遺伝子を取りました。これを大腸菌に発現させて、組み替えのRoyalactinを作ったところ、これが全く同じ性質を示しました。
つまり、このRoyalactinが女王蜂を育てる成分だったのです。
蜜蜂では遺伝的系統が作られていないのでショウジョウバエで調べると、このRoyalactinはショウジョウバエにも効いて、雌が卵を生む数が二倍になり、寿命も延ばしました。
ショウジョウバエのいろいろの変異種をつかい、RNAiを用いて、このRoyalactinが効くのは、EGFR(上皮成長因子受容体)であることを突き止めました。培養したラットの細胞にも有効なので、このRoyalactinは細胞増殖因子であることが分かります。それでも、特に卵巣に有効に効きますから、特別な理由がもう一つあるのでしょうね。
Royalactinが効くのは蜂の幼虫が食べるからです。食べ物は消化管の中で、抗原性がなくなる程度まで(アミノ酸あるいはジペプチドまで)分解されてから体内に吸収されるのは私たちの場合には常識です。
食べているのに、Royalactinと言うタンパクが分解されずに幼虫の体内に入って、卵巣に効くというのは、つまり、蜂では食べ物が完全に分解されないと言うことですね。
実際、いろいろと文献を調べてみると、この数年、昆虫の消化器官がある種のタンパクを分解しないで素通りさせて、体内に放出することが知られてきたようです。殺虫剤の展開にこのことも使えるでしょうね。
人間はロイヤルジェリーをありがたがって食べていますが、まさか、royalactinがそのまま、私たちの体内に入って、成長因子として効くはずはないと思います。ロイヤルジェリーに含まれている豊富なビタミンや、脂肪酸などが栄養素として効いているからでしょうね。
ロイヤルジェリーの蜜蜂に於ける効き方が分かっても、ローヤルジェリーを健康維持の頼みにする人はいるでしょう。ぼくも、royalactinがぼくたちに有効とは思いませんが、それ以外の栄養素が役立っていると思いますもの。
昨日の土曜日の朝は研究室のセミナーでした。当たっていた徐帥が準備不足と言ってもじもじしているので(二週間前もそれで彼を免除したのですよ)、私がピンチヒッターで、これを話しました。みんな、とても楽しんだみたいです。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
研究室のPCは、2003年に来た時に三好街に行って作りましたね。あのときは魯偉くんがやってくれました。今回、三好街から帰ってから調べたのですが、1台は1万400元、2台目は9千600元でした。
当時の最高に近いものを手に入れたので8年使えたのでしょうね。研究室で使っているMacはもう3代目です。Macの方が直ぐに古くなるのでしょうか。
そのWindows PCも、何となく寄る年波という感じになってきましたし、幸いコンピューターに強い徐帥くんが卒研生として入ってきたので、彼のいるうちに新しいのを手に入れようと思い立ち、土曜日の午後、徐帥くんと出かけました。
三好街に行くのは、一年前にHDDを手に入れるために、同じく卒研生だった張心健くんと行って以来です。2003年にはまだいろいろと汚い街でしたが、今は颯爽としたコンピューターの街になっています。
大きなビルに個人商店が入って小間を広げているのは、コンピューターでも同じですね。3階にいって直ぐの店の立ちん坊の一人の可愛い女の子に捕まって(ぼくではなく、徐帥くんですよ)、その店の、その子と商談一時間、3570元と言うことになりました。
徐帥くんは、別の店でまた訊きましょうと言って立ち上がったのですが、入ったのは細い通路を隔てて、直ぐ真向かいの店でした。ずっと同じ店かと思っていたくらい。ただ、女の子の着ているTシャツの色が違うなと思ってみていたくらいです。
今度は若い18歳くらいの男の子、坊やという感じです。そこでまた1時間の商談。ぼくは座って辺りを見回しているだけです。通路を隔てて2メートルくらいのところに、さっきの女この子がまた立ちん坊をしています。
今度は3360元と言うことになりました。徐帥くんの常識では、まだ他の店を回って安くて良いところを見つけるのだそうですが、もう、たくさん。
それで、ここで組み立てて貰うことにしました。ケースは、その前にそれだけを売っている店に行って決めてきました。正面にUSBが4個付いているものにしたですよ。値段も240元から700元くらい、巾がありました。
組み立てが1時間、そしてソフトウエアを入れるのが1時間。これでもう午後の5時。
前のCPUが2.4GBでした。今回は3.0GBでQuadra coreです。能力は4x2倍くらいにはなっているのではないかな。安くなっているのは驚きですね。
帰りは、念願のマックの店に寄って、ビッグマックセットを食べてきました。中国では一年ぶりでした。一寸風邪気味。金曜日の山下りがきつかったのでしょう。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
中国って本屋がないでしょ。ここに来て本当に驚きましたよね。やっと瀋陽に大きな本屋が三つあるのは見つけましたが、日本だったら、私鉄沿線の駅ごとにある街にはたいていある本屋さんみたいな規模の本屋さんを、一度も見たことがありません。
レコードチャイナ4月9日の記事によると、
『』2011年4月8日、中国広播網は、中国人の一人当たり読書量は日韓の9分の1だと伝えた』
『ある統計によると、1990年時点での一人当たり読書量は5.2冊。2009年は5.6冊とほとんど変化がない。日韓の9分の1という低水準が続いている。ネットの流行、農村における図書販売網の未整備などの問題が影響しているとみられる。』
(http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=50510&type=1 )
この記事を見て、なるほどねと思いました。実際、本を読んでいるらしい学生を見たことがありません。きっと、教科書を覚えるのに必死で、他の本を読む時間がないのでしょうね。
それが、驚いたことに薬科大学の近くに本屋が出来たのですよ。北に五愛街を一寸行ったところに瀋陽二中(高等学校のこと)と言う名門中の名門高校があるでしょ。その直ぐ北にある高層マンションの下にあたらしく本屋が開いたというので、暁艶に連れられて出かけました。
日本の本が二階にあるらしいとい言うので二階に行くと、エスカレータを上がったところに、文具を売るコーナーがありました。筆、墨などを売っているのですよ。
もう長い間、筆に触っていないなあと思ってショーケースを覗いてみました。書家の持つような筆ばかり並んでいましたが、訊いてみると一筆100元もしないのが分かって、中と大の筆を買い求めました。
墨汁も買うことにしたとき、暁艶があそこで書いてみたらと言うので、見ると水に筆を浸して書くと黒々と字が出てくるプレートが置いてあります。初めて見たので興味を持って筆を持って書いてみると、書き心地は紙に書くのと変わりません。
気に入って書いていると、歩いている人が立ち止まって覗き込んで、取り囲む人が増えたのに気付いて筆を置きましたが、驚いたことに、結構書ける気がするのですよ。
大昔、いわゆる書道を習ったけれど、手本となる人の字を真似して書くことを強いられて、とうとう飽きてしまいました。
人まねを続ける空しさに早くから気付いたのですね、なんて言うと、格好良いけれど、つまりは真似して書くと言う才能もなくて絶望してしまったのです。
それから何十年。三つ子の魂百までってこういうことを言うのかな。いや、三つの時に上手かったのが、今になっても上手だと言う時に使うんじゃないかな、などと自問自答しています。昔取った杵柄というのもありますが、これも、今でも上手いという意味ですね。何だろうな、昔の初恋を忘れられないというのと同じかな。。。
ともかく、これで練習を始める態勢は整いました。元はと言うと、笑笑が何か書いてって言ったからです。これで、練習を始めて字が上手くなれば、彼女のお陰ですね。さあ、あと、一年。。。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
この日曜日は風邪の前期症状でした。鼻と喉が痛くて、何にも集中できずにいたら、こういう時にマッサージに行ったらどうですかと暁艶が電話で予約をしてくれて、11時に出掛けました。
例の盲人按摩の店です。店を取り仕切っているのは、鄙にはまれな目元がぱっちりした愛くるしい女性ですが、働いているのは全部盲人です。時計がみえないのに施療時間をどうやって計るかというと、それぞれ音声で時間を知らせるタイマーを持っているのですね。
この間も揉んでくれたおじさんが、今日も担当で、着くとまるで目が見えるみたいにこちらを見て笑って歓迎してくれました。そしてぼくの後ろに回って、腰から前に手を回してぼくを抱き上げようとして、「あれ、重いな」、なんて言うのですよ。
今度はぼくが彼の後ろに回って、手をお腹に回して彼を抱き上げて二三回揺すりました。そして、「軽いじゃない?」
あっ、と思ったのは、こういうことを直ぐやってみせるのは、ぼくがママの子供だからですね。ママはお茶目で、人にいつも気を遣って、人を喜ばせることが好きでしたね。
ぼくはそんなに人に気を遣う方ではないですが、少なくとも、とっさにお茶目なことをやってみせるのは、ママの遺伝子をぼくが持っているからでしょう。気がつくと、何かとんでもないことをやっているのですよ。
教師の会の渡邊京子先生にも、良く言われていましたね。「可笑しな先生ですね」って。ぼくのやっているごくごく小さなことを、観察されていたのでしょう。京子先生も亡くなってしまいました。
お茶目ってのは小さな女の子の時に使う言葉でしょうね。でも、それ以外の表現を思いつかない。おっちょこちょい、と言うところかも知れません。その通りでしょう。
これこそ、三つ子の魂百までと言うやつかも知れませんね。
カテゴリ:インターネット
さえ:
うちのAkikoは今でもそうだけれど、子供のころから明るい性格で何時も私たちとしゃべっていましたね。
Akikoが小学校の6年生になったころ、「チクショー」なんて言葉を覚えて家で連発するようになりました。そんな言葉を使ってはいけない、と言っても止まらないので、「チクショー」と言いたくなったら、代わりに『「フンギャー」って言いなさい』と言いました。
彼女は、「チクショー」って言ってしまって、慌てて「フンギャー」って言い直しているうちに、あまりの阿呆らしさ、ばかばかしさに、結局、「チクショー」も「フンギャー」も言わなくなりましたね。あれは、Akikoが結構真面目な性格だから成功したのでしょう。
汚い言葉を言ってはいけないという親の気持ちも尊重しなくてはいけない。自分だって汚い言葉を口にしたくない。それで「フンギャー」って、言ってみたのでしょう。でも、「フンギャー」では、話が締まらないことおびただしい。あのときの暁子を思い出すと、とっても可愛くて、あのころが懐かしくて、涙がひとりでに出てきます。
さて、と。今は。実はここで「フンギャー」状態なのですよ。
2月末に戻って以来インターネットは始終規制が掛かっています。それまでだって、ぼくたちの作ったホームページは軒並みアクセス不能となっていましたが、それが増えました。今、ここからアクセス可能なのは、楽天、Livedoor、Gooくらいです。
日本のニュースにだってアクセスしたいのに、それが極端に時間が掛かるようになりました。ASAHIネットは余り遅いと思いませんが、タカ派のサンケイはずっと遅くなったみたいに感じます。
1月にチュニジアで、2月にエジプトでいわゆるじゃすみんかくめいが起こってから、その影響が出てくるのを排除するために、然るべき機関が締め付けを強めたのでしょう。それはこのくにの事情ですから、良いとしましょう。
Gmailは繋がらない時間の方が長くなりました。時々すっと繋がるので、その時、一挙に使います。このくにのせいふと、仲が悪いから、Googleをいじめるのも分からないではありません。ま、大人のすることではないでしょうけれどね。
でも、NCBIのデータベースなどへの日常的なアクセスは、生命科学の研究者のぼくたちには必須なことですが、それも繋がらないか、極端に遅くなりました。
もう、こういう商売を、やってられないくらい。「フンギャー」、「フンギャー」、「フンギャー」。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ おさえちゃん:
さえが消えて、ぼくが残って、もう4ヶ月です。まだ4ヶ月しか経っていないとも言えます。長くて、短い月日が過ぎていきます。
毎日さえを思わぬ時はありません。嬉しいにつけ、悲しいにつけ、ぼくはさえに語りかけています。うちに帰ると、おさえちゃんを相手に話しています。
本当は、日記にも、もう書かない方が良いかも知れませんね。でも、今回だけ。
今年の正月ぼくは日本にいて、さえの病室に毎日通っていました。暮れも正月もない毎日でしたが、それでも息子が暮れから泊まりに来てくれて、おせち料理を作ってくれました。
ぼくにとっては八年ぶりの日本の正月でしたが、さえのいない味の抜けた元旦でした。10時頃には、息子の作ったおせちを少しづつ弁当箱に詰めて病院に行って、そうしたら、さえはちょっとちょっとずつ食べましたね。ぼくから口に入れて貰って。
1月3日の朝は5時過ぎに、ぼくのベッドの横に置いてあった携帯電話が鳴りました。「何時でも連絡出来るからね」と、さえの枕元には、彼女の何時も使っていた携帯電話を置いておきました。毎日、朝9時頃には病院に行っていましたし、夜は7時頃まで病院で出るさえの夕食を済ませてから帰っていたので、夜中に電話があることはありませんでした。
それが、夜明けの突然の電話。「もう朝じゃないの。早く会いに来て」と、さえ。
「だって、まだ夜中じゃない。朝じゃないよ。起きたら直ぐに出掛けるから、待っていて」と返事をしたのに、その後何度も電話が掛かりました。「どうしたのよ。早くうちをでて、駈けていらっしゃいよ。」
この日は8時に家を出て病院に着くと、何時も通りのさえでしたよね。
朝の電話は、この日を入れて三日間かかりました。三日目に、ぼくに掛かるなら、ほかの人たちにも電話を掛けて驚かせてしまうかも知れないと気付いて、さえの携帯電話のアドレス帳から、ぼくと家族以外の番号を消しました。
でも、この恐怖の三日間のあとは、さえから早朝の電話が掛かることはなくなりましたね。今思うと、さえはその時から三週間の命でした。
一人で病床にいたさえが、どんなに、ぼくに会いたかったかと、いま思い返すと、涙が流れて止まりません。病院に出掛けてさえに会っても、ぼくに会うのを待ち続けたさえの気持ちに応えられたでしょうか。もっと、きつく抱きしめれば良かった。もっと、お喋りをすれば良かった。
今のぼくは、こんなにもさえに会いたいし、さえと話したいのに、為すすべのなさに身もだえしています。
コメント:
Re:さえから掛かった電話(05/26) Hu dan さん
悲しまないでと先生に言っても仕方がないかもしれないですが、貞子先生がきっと天国で先生が楽しく過ごせるように祈っているでしょう。 (2011.07.14 17:52:50)
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
瀋陽には冬と夏しかないと言いますよね。今日の最高気温は29度。
二週間前には長袖の下着をTシャツの下着に替えたのですが、もう室温が28度を超えることが多くなったので、クーラーを時々入れています。
そのクーラーが昨日冷風を出さなくなりました。あ、まただな、と言う感じです。
このクーラーは2003年に買って以来数年でコンデンサーを取り替えましたが、ガスが毎年漏れて、新しく入れ直しています。
日本に暮らしていた時は、クーラーが故障したという経験はありませんよね。引越の度に電気屋さんにきて貰って一緒に動かして二回目の引越となると置いていって、と言う感じでしたが、修理を頼んだことは一度もありませんでした。今のうちだって15年は経っていますよね。
それが、ここでは毎年冷媒のレフィルです。
毎年ガスが漏れるのに、パイプを換えるわけでもなく、ガスを入れれば使えるのはどういうことかと思っていました。
今回、気にしていて分かったのは、冷媒を封じこめておくキャップねじに亀裂が入っていてそこからガスが漏れたらしいと言うことでした。
ナットの部分に三カ所も亀裂が入っていました。これではガスが漏れるのも当然ですが、毎年換えているのですよ。1年も持たない粗悪品というわけです。
冬はマイナス30度になるから金属に亀裂が入るのだそうですが、中国の飛ばしている宇宙ロケットの部品はロケットの千度を超える高温と、真空空間の絶対零度近い温度変化に曝されるのですよね。
そういう技術を持ちながら、ここの民生品の粗悪さには驚きます。お陰で毎年、会社に電話をして人に来て貰い、ガスを入れて、240元払っているわけです。
ぼくがぼやいたら、学生は、だって、これでこの人たちも生活できるじゃありませんか、っていうのですよ。なるほどね。壊れない品物を作ったら商売あがったりですものね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
今年も5月に入って、ちょうど根目ちゃんの来訪のころ、瀋陽の花粉症が始まりました。
日本にいると聖バレンタインの終わったころから怪しくなって、大体2月の終わりに瀋陽に来てしまうと、花粉症の症状は治まるのです。それが、瀋陽に来て二年目からこちらの花粉症に掛かるようになりました。原因は不明ですが、ちょうどアカシアの花の咲くころです。
明け方には眼がうずいて寝ながら目頭を揉んでいますし、起きると眼がかゆくて、涙が出ますし、そして鼻から喉が痛みます。日本にいたときは仕方なく薬の飲んでいましたが、あの薬はおしっこの出が極端に悪くなるのですね、もともと出がよくないのに、薬を飲むとひどくなるので飲みたくない薬です。
とうとう、今回はお手上げで、北京の小呉にメイルを書いて何か薬を教えてと頼みました。彼は獣医さんなので、豚や牛の花粉症があればいいけれど、ないと彼も知らないかも知れないなと危ぶみながら。
そしたら直ぐに、「?雷他定」という薬がありますよ。どうですかと書いてきてくれました。学生の暁艶に頼むと直ぐに買ってきてくれました。19元(約250円かな)で10日分。
毎日一錠を飲み始めました。その日、薬を買ってきてくれた暁艶に「効いている?」ときかれて、「まだ治らないけれど、薬は効いているみたい。眠くて、眠くて。。。」と返事しました。
でも翌日の午後、彼女に花粉症の症状が出ていないじゃありませんか、と言われてはっと気付くと、確かに目鼻、喉がすっきりしているのです。すごいですね。
薬を飲み始めて4日目です。随分すっきりした気分です。殆ど連日講義をしていますが、へいっちゃら、ですよ。
小呉、ありがとう。ぼくの大事な主治医です。ワンワン。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
今年から3年生に生化学と分子生物学を一緒にして教えるカリキュラムが始まったと書いたでしょ。ただしまだ内容が渾然一体とならずに、二つの科目をくっつけただけで、ぼくは分子生物学を担当しています。
朝の講義ですと、壇上から最初に「みなさん。お早うございます」とぼくが言うと、全員がこちらを向いて声を揃えて「せんせい、お早うございます」と返事が返ってきます。かわいいでしょ。つい、にこにこしてしまいますね。
ここでは、教科書を読み上げるだけが講義だと思われているみたいです。
でも、教科書を見れば(必要と思われることは)全部書いてあるでしょ。ぼくの講義は、大事なところを選んで丁寧に説明します。理解出来るように教えるには、自分で研究をやっている経験がとても大事だと思いますし、学生に覚えるのではなく、考えることが大事だよと分からせるのも、何時も考え続けてきた研究者だから出来るのでしょうね。
大腸菌などの(前核生物と言われますね)遺伝子の転写のところですが、転写の始まるDNAには、プロモーターのPribnow boxや、-35コンセンサス配列などがあるでしょ。そのDNA部分とタンパク質との結合を丁寧に説明しています。
そこで、次には視点を変えて、「ある未知の生物からゲノムDNAの配列を全部解読したとします。早い話、その生物の遺伝情報の書かれたDNAの塩基配列を知ったわけですね。10の6乗くらいのサイズです。」
「AGTCの4つの文字だけがずっと並んでいるわけですね。さあ、これを眺めて、遺伝子がどこにあるかを知るにはどうしたらよいですか。実験は一切しないとします」
と学生に訊きます。すると、みんな茫然自失で、どうして良いか分からないのですよ。
転写されるDNAこそ遺伝子です。その転写される遺伝子は、その上流にプロモーターとよばれる部分があり、そこには特別のDNA(Pribnow box)配列があると、教えたばかりなのですよね。その配列を目印に探せば、その下流は恐らく100%遺伝子です。Pribnow boxのDNA配列を書けなんて言えば、きっと誰もが自信を持って正しく答えるでしょう、それでも、このような聞き方をすると、話がなかなか繋がらないのです。
こんな風な質問をされたことがないのかも知れません。
学んだことを頭に何処かに覚えるためにしまい込んだきり。使えません。使うと言う習慣がないからですね。
このPribnow boxと、-35コンセンサス配列は20ヌクレオチド離れています。DNAの二重らせんは一巻きで10.5塩基ですから、ちょうど二回転分離れてDNA二重らせんの同じ側に、この配列が顔を出しています。と言うことは、これを認識するタンパク質はDNA二重らせんの一方向から近づくと言うことですね。
これも、ここまで説明しないと、まるで理解して貰えません。
でもね。こうやって問題をだして、「だから、教わったことを使って考えることをやりましょうね。考えられない人よりも、頭を使って、創造的な、クリエイティブなことの出来る人の方が良いというのは分かるでしょ」
「そのためには、頭を何時も使って考えましょうね」、って言うと、皆いっせいに「ハーイ」。
可愛い学生たちです。今週は2時間の講義を4回こなしました。
カテゴリ:中国の将来
さえ;
飛行機に乗るときはパスポートが要るし、チケットには名前が入っていますね。
5月22日から中国では、高速鉄道に乗るときも、身分証明書が必要で、切符には名前が記入されることになったそうです。
もちろん、乗車時には、切符と身分証明書を提示しなければなりませんし、乗車中も検札の度に身分証も見せるのでしょうね。
乗車券を買い占めて、高値で転売する悪質な行為の締め出しが狙いということです。
実際、CCTVで「鉄道乗車券をどのように入手するか」との質問に対して、窓口など正規のルートで」と回答した人は全体の15.4%しかいなかったそうです。
「知り合いなどを頼って」は、47.3%、「黄牛(ダフ屋のこと)」は37%で、いわゆる「裏口」で入手すると回答した人は84%以上でした。
休みごとに数億人の人たちが中国の中で移動するとき、鉄道の切符は買えないものと諦めて、何時も別ルートから買う習慣があるのでしょう。
それも、窓口を諦めて、鉄道に関係ある人に頼む、その人の友だちに頼む、その友だちに頼む、と言う具合に、友だちの友だちの友だちの友だちの、、、という連鎖があって、裏口の横流しから手に入れることが多かったのでしょう。
その裏口の大元は不正に切符を購入して、不正に儲けているのでしょうね。
これを撲滅するために、『鉄道部は乗車券販売担当者に対する「4つの不許可」として、1.勤務時に他人の代理で乗車券を購入、2.故意に乗車券を買い占める、3.個人の現金や携帯電話を所持しての勤務、4.勤務するデスクに個人の持ち物を置く――ことを禁止した。(2009/01/13)』そうです。いやこれは二年前の通知ですから、こんなことでは誰も気にしないで横流しでせっせと儲けていたのでしょう。
効果が出ると良いですね。人々は、『旅客監視』の不安と、プライバシーを犠牲にしているのですものね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
昨日の土曜日のセミナーは卒研生のデビューでした。二人とも、数年前の古典と言って良い研究論文を読んで紹介するように指定しました。楊洋は英語の原稿を作ってきて、もっぱら読み上げました。
目の前にプロジェクターで見せられている英語を読み上げているのですが、彼女は全体のイントネーションも、一つずつの語句のアクセントも聞いていて殆ど違和感がなく、聴いていてまったく問題なしにメッセージが伝わりました。
これで、この原稿なしに同じように綺麗に英語で話せたら、こりゃもう百点満点ですが、それが、大変なことなんですね。
もちろん、こちらがいろいろと質問をすると、内容がよく理解できないうえに、彼女の原稿を離れるともう理解を超えてしまって、どうにも返事が返って来ませんが、ま、これは仕方ないことでしょう。
一方、もう一人の張微は、ぺらぺらと早口でしゃべりまくるのですが、イントネーションが違う、変な箇所で文章を切る、語句のアクセントがおかしい、ということで、聴いていて理解するのにほとほと疲れました。
おまけに、内容を十分に勉強してこないで、そこに書かれていることで彼女の分かったことだけを言うので、何をやっているのか、何のためにやっているのか良く分かりません。
本文には一つずつの実験で分かったことを書いていきますから、そこだけを取り上げると、何の問題もなく著者の言いたいことは分かります。でも、どういう根拠でそれが言えるか、この実験でこれが十分言えるかを考えないと、論文を読んだことになりません。
彼女は卒研生だけで、うちの部屋をでていくので、今何を言っても彼女の役に立たないでしょうけれど、このような状態で送り出すことが残念です。つい、きつく注意しましたが、きっと彼女の卒研の時代を暗いものにしてしまったでしょうね。
論文を紹介する人は、良く論文を読んできて、実験技術も目的も実験結果も十分に理解し、論文を聴いている人たちに著者の意向の通り伝えることが、先ず求められます。
その上で聴いている人は分からないところを質問して、研究の内容の理解に努め、実験結果を納得できるかどうか検討し、著者の主張が科学的に矛盾のない実験で十分に裏付けられているか、この論文の審査員になったつもりで、つぶさに批判的に検討する、これで初めてこの論文を読むことが、科学者としてプラスになります。もちろん新しい内容が、自分の知識に加わったことも大いにプラスですね。
今日のように初めて論文を人前で紹介した若い人もそうですが、ぼくたちも、終わりのない修行を続けていますね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
大学の学年末は6月で、もう目前ですから、修士の学生は修士論文を書いています。大学に提出すれば、こちらは審査側が建前ですが、提出する前の論文原稿に目を通して直します。
自分の時はそんなことはありませんでした。一発書いて出してお終い。誰にも見て貰いませんでした。
博士論文の時も、一発書いて提出。それが当然の時代でした。
ワープロもコンピュータもない時代でしたが、コピー機はありました。ですから鉛筆で書いて、コピーしてそれを製本して仕上がりでした。指導教官にあらかじめ見せるなんてことはなかったなあ。
時代が変わったのでしょうね、東工大の時は、学士の卒論、修士の修論、博士の学位論文、あらかじめ原稿を学生が持ってくるので、見て直していました。でも、これは大変な労力を要しますね。
というわけで、今、修士二人の論文原稿を一度見て、又二度目を見ています。もちろん大きな間違いだけです。
INTRODUCTIONは、使い回しのコピーペーストですが、気にしません。それを直したってこちらが苦労するだけで、学生は、どちらにしてもそのまま出すのですから、学生のためにもなりません。
英語も、文法がおかしくて意味不明のところだけ直します。ですから、このまま普通のジャーナルに投稿したら、おかしな英語を掻いている連帯責任で、赤面の至りとなりそうですね。
今年の生命科学科の修士の規定では、トップネームで何処かに論文を出していないといけないことになって、この大学紀要に黄さんは慌てて一報を書いて出しました。王さんの属する研究科では要求されていないと言うことでした。
二人とも本筋の研究はまだまとまっていない段階で終了です。でもそれぞれの研究の一部は、関さんが今書こうとしている論文の主要な部分となります。
というわけで、関さんの論文を書くのにも付き合っています。関さんの場合には論文をどうやって書くのかという根本から教えようと試みていますので、いま、結構忙しく暮らしています。一応、彼女の博士の指導教官ですからね。
週に3-4回講義をして、研究室の学生ともウイークリーリポートを何時ものように行い、空いている時間はこうやって埋まっていますから、朝6時から夜の8時になって帰り支度をするまでびっしりです。
さえにこうやって日記を書くのが唯一の息抜きです。
あと二週間もすると三人の卒研生の卒業論文の時期が来ます。東工大の時は1月から3月半ばが悪夢の季節でした。急性膵炎で死にかけたのもその時期でした。今、ぼくは生き残って、まだこうやってぼやいていますね。
そうそう、昨日、セミナーで新人にプレゼンのやり方をいろいろと指導したでしょ。もちろん公開の席ですから、面子をつぶしたかもと思っていました。今朝実験室に行ったら、彼女もいて、こちらが「お早うございます」と挨拶して皆にこにこと挨拶を返してくれましたが、彼女は知らん顔をしていました。
やれやれですね。
じゃあね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
細胞を培養していると、時々培養皿に白いカビが見つかったり、顕微鏡で見ると、眼を凝らしても見えないほどの小さな点がうじゃうじゃ増えてきたりしますね。いわゆる培養のコンタミ(コンタミネーション 細菌などが混入して細胞培養が汚染されること)ですね。
日本では梅雨時など湿度の高いときはこの確率が増えますが、たいていは培養をする操作の不注意です。
毎週、学生と会って実験結果を聞いて、その先どうするかの話をしていますね。この間、培養していたらコンタミしてしまって、細胞がないので実験が進みませんでしたというう学生がいました。その時は、仕方ないねえ、気をつけようね、で済ませましたが、この「コンタミ」が引き続いたので、話を良く聞いてみると、白カビを見たわけではない、何かが培地の中にあるのでコンタミと思ったというのです。
じゃ、この次はぼくが一緒に見るから、おかしな時は必ず呼んでねと頼みました。
二日後の朝、深刻な顔をして学生が呼びに来ました。「コンタミしています」というのです。「何時培地を換えたの?」と聞くと、昨夜だと言います。夕べの今朝でやけに早いなと思いました。
昨夜から細胞培養を始めて、今朝これにsiRNAを入れるところだという話です。培養皿の上で、そのコンタミの正体を探して貰いました。やっと見つけてくれたのは、細胞の固まりでした。自然に出来るはずがありません。そこでその培養皿の中の細胞を丁寧に見ていくと、細胞一カ所に集中していて、火山みたいに集まって噴火口に当たるところに細胞が盛り上がって、離れかけているのが見つかりました。
これが、「コンタミ」の正体でした。
「細胞が離れたものだから、コンタミじゃないよ。大丈夫。これをよく見ておいて、又明日見てご覧よ。」
というわけでこの「コンタミ」は落着しましたが、まだ別の「コンタミ」があるかも知れません。今までも、「コンタミして細胞を捨てました」というのは、間違いだったこともあると思います。
細胞を培養して研究するのは、時間とお金を掛けていますから、無駄なことをしたくないですね。何時でも要望に応じられるように、教授室と実験室との心理的距離を近づけましょう。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
サイトフルオロメーターがやっと二年前に薬科大学に入って、それ以来それを使いたい人たちが測定室に門前列を為す状態ですよね。
前にいた研究所もそうだったけれど、この機器は使いたい人が操作を覚えて、自分で機器を操作していました。日本ではどこも使う人が操作します。
しかしここでは大学に一台しかない機器で、だからでしょうか、操作するのは校長研究室の、いわゆるTeacherです。
そのTeacherも自分の博士論文のための仕事も忙しいので、週に二回の午後だけ機器を使う測定に応じてくれます。
あらかじめ予定表に書き込んで、使いたい学生はそれに合わせて実験をして細胞を持っていくと、測ってくれるわけです。
以前の担当のTeacherはとても良い人でしたが、今度若い男の人に代わったら、どうもデータがおかしいみたいだと言う声が出ているみたいです。
抗体などで細胞を処理するのはこちら側で、Teacherは機器の操作だけですから、ゲートの掛け方などの操作が何処かおかしいのかも知れません。でも、こう言うのは、こちらは機器の専門家ではないし、どう対処したらよいか分かりませんね。
どうしたらよいか分からないことに、もう一つあります。
何時もはその測定室のドアに紙が貼ってあって、1週間前から測定の希望を学生が書き入れるようなっています。うちの学生の朱さんが書き込んで、その測定できる日に細胞を処理して、試料を持って行って見たら、部屋が締まっていました。
あちこちに尋ねてみると、その担当の若い人は、直前にこの日は測定できないと言い出して、周りの人に言って測定をキャンセルしたそうですが、朱さんには伝わっていませんでした。
それでその後、朱さんはその先生に「測定をキャンセルするなら、申し込んでいた人たち全員に伝え、さらにドアに掲示を出しておいて欲しい」と言ったら、その人は、猛然と怒り出したそうです。
前にも、測定予定時間に前の人の試料の分析が終わらずに1時間も待たされて、細胞の状態が良いかどうか怪しい実験になってしまったので、そんなことのないように申し入れたら、それも、「そんなこと言ったってこっちは働きづめなんだ」と、言って怒られたそうです。
このことを彼女から一方的に聞いただけですし、相手に、あるいは他の人に確かめたわけではないですが、直ぐに怒り出す人って、扱いに困りますね。
一般化してはいけないでしょうが、自分が偉いと思う人は自分が偉いことを人に見せつけたがって、威張り散らす人が、この中国にはいるみたいです。怒るのも自分が相手よりも上だと思っているから出来ることですね。
今のところ、この問題にどう対処して良いか、具体的な解決策を思いつきません。
やれやれですね。この大学にある唯一の文明の利器なのにね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
培養室で使っているニコン倒立顕微鏡は、ぼくが三菱化成生命科学研究所にいて新しい研究室を作った時に買って貰ったものです。
三菱を退職して東工大に移るときに研究所から寄贈されて(リッチな研究所でしたから、誰かの使った顕微鏡を誰も欲しがらなかったのですね、きっと)、そのあと引っ越したニッピにも持っていって、そして瀋陽に持ってきたものです。
カメラはニッピにいたときからディジタル式に換えていて、Coolpix 4500をずっと使ってきました。
それが土曜日に、電源スイッチを入れてもとうとう反応しなくなりました。これも、もう10年近く使っていますね。デジカメでこんなに長く使った機種は初めてです。Nikonが信頼できると言うことでしょうか。
日本にいれば機器の故障は然るべきところに直ぐに連絡を入れれば、これも直ぐに直ります。でも、ここではどうしたらよいか、途方に暮れますね。ニコンのHPをネットで見ても、どのように相談を持ちかけたらよいのか、良く分かりません。
それで、以前、ニコンの蛍光の電源のことでニコンの横浜研究所に相談したら快く応じてくれて、新しい電源への切り替えを提案して下さった研究?にメイルを入れました。
問い合わせたのが週末だったので月曜になったら返事が来ました。
残念ながら、その後発売されたデジカメであの型の倒立顕微鏡に合うものはないとのこと。まだ使えるCoolpix 4500の中古を市場から探すしかないのではないかと言うことでした。
倒立顕微鏡の日付を見たら1982年の購入でした。もう29年間も、働いているのですよ。うちの学生はみなこの顕微鏡よりも歳が若いです。
ぼくが教育を受けたころの、まだ貧しくて機器の乏しかった大学のころを考えても、ぼくが生まれる前の機器なんて使っていなかったのではないかと思いますね。
言ってみれば、戦後に博物館入りしたT-型フォードみたいな、珍奇な骨董なのでしょうね。それに使えるようにカメラを開発する必要は誰も感じていないほど古い機器を使って、そしてそれに頼らないといけないほど、うちの研究室は貧しいって訳です。
幸い、6階の研究室の新しいオリンパスの倒立顕微鏡があって、共通機器としてそれが使えることが分かりました。ただし、培養細胞の細胞移動度を調べていましたから、生きている細胞を持ち運びしないといけないので、大変ですね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
何だか、毎日忙しいので、朝から晩まで、殆ど何時も座ったままMacに向かい合っています。時々、飽きて立ち上がって部屋の中を歩き回るくらいが運動です。ま、いまは講義がありますけれど。
とうとう、この頃は往き帰りに歩いていて、足の腿の筋肉がだいぶ落ちたなと自覚するくらい、脚力が頼りなくなりました。
歩いて鍛えなきゃと思っても、面倒だし、仕事は際限なく山積みだし、待っていては時間が出来ません。今日の昼、何時ものようにパンを食べて、一寸してから、よし、と、思い立って、向かいの金属研究所を抜けて運河を歩く40分コースを歩きに行きました、
研究所には、紅いアカシアが咲いていますし、春、あるいは初夏たけなわと言うところです。今日は、空気も綺麗で、歩いても肺の中が綺麗になりそうです。温度はTシャツ一枚で、十分です。
1年前は、普通に歩いていたコースなのに。今日はやはり「歩くぞ「と言う決然とした決意なしには直ぐペースが落ちる感じでした。以前40分だったところに、45分掛かりました。いままでのように、時速6 Km/hourで歩いているつもりでしたが、筋肉の落ちた分速度がどうしても落ちたのですね。
これから出来るだけ続けましょう。
9月に理化学研究所を訪ねることにしました。
いま、王麗がいるでしょ。王麗が、時々所内のソフトボール大会がとても愉しいと書いてくるので、もしソフトボールのゲームに行き合ったら、是非私にも打たせて欲しいと書いたのですよ。もしバッターボックスに立ってヒットを打ったら、王麗が直ぐに代走で走るくらいのことをしてくださいね、とも。
そしたら、いまから身体を鍛えなきゃ駄目ですよという返事が届きました。打つことだけを、やらせて貰えないみたいです。
もう15年、テニスもやっていないし、走ったことは一度もないし、本当は、出来るかどうか全く分かりませんが、一応努力目標に据えたわけです。千里も一歩から。。。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
うちのニコン倒立顕微鏡のカメラが壊れて記録できなくなったことを書きましたよね。調べたら6階にオリンパスの上等な蛍光倒立顕微鏡が共通機器で入っていました。
じゃあ、といって細胞の移動を調べている崔さんが細胞を持っていったので、一緒に行ったら、細胞が全く見えないのですよ。顕微鏡の設定が悪かったみたですが、オリンパスの上等の機器なので、直ぐには使い方が分かりませんでした。
崔さんは、培養した細胞の入った入れ物を持って5階から6階に移動するのは、細胞によくないと思ったらしく、うちの部屋の顕微鏡で、自分が持っている普通のデジカメを顕微鏡の接眼レンズにくっつけて写真を撮ってみました。すると、顕微鏡のカメラで撮ったみたいに綺麗に写ったので、もうそれでよいと言っています。
でも、生きている細胞を使って写真を撮る必要が何時出るか分からないので、顕微鏡のマニュアルを読んで、昨日の午後6階に行きました。6階で使っていないことは明瞭なので、こちらが自分で調整できるようになっていないといけません。さいわい、中国語ではなく英語で書かれていました。
6階の係りは焦さんで、そちらの交渉は暁艶に頼んで顕微鏡の調整をしてきました。
うちの部屋で学生に顕微鏡の使い方、調整法を幾ら指導しても、顕微鏡の調整の仕方を誰も覚えてくれません。ぼくは昔、三菱生命科学研究所にいたころ指導されて身についているのですね。
というわけで、センタリング、二カ所の絞りの最適化、コンデンサーの最適位置調整、位相差リングの調整、どれもぴたりと出来るよう、実物でやってきました。あとは、何時でも使う前、直ぐに調整できます。
さえ、ぼくにも、自慢できることがあるのですよ。
カテゴリ:日本人教師の会
さえ:
昨夜、久しぶりにこの薬科大学で日本語教師だった多田先生に会って食事をしながらお喋りをしました。彼は昨年夏、この薬科大学を去って日本に戻ったのですが、秋に東北大学の日本語教師となって又瀋陽に戻ってきました。
昨年度の教師会の代表だったのですが、昨年夏に帰国したという事情で今年度はそれが続けられず、その結果、代表になる人は、いまのおかしな人しかいなかったのですね。
薬科大学では全くの初歩の日本語を教えるしかないですが、東北大学では日本語科で日本語を使う専門講師になって、卒論の指導までやっているそうです。東北育才学校(高校)にいて遼寧大学に移った松下先生も、日本語学科の担当になってすごく忙しくなったということでしたが、同じみたいです。
「卒論も良いけれど、コピーペーストで悩まされないのですか?」「その対策はどうするのですか?」
やっぱり、学生はコピーペーストをするそうです、でも余りに稚拙なので直ぐ見破って、書き直させるのですが、それもコピーペーストなんですって。
いたちごっこですが、でも、元の材料をこっち見つけるのも大変な手間ですね。労多くして功少なし、というか、学生は卒論を書いても、コピペばかりで何も身に付かないで出ていくのでしょうね。
卒論の予聴会では先生たちが学生に結構厳しい質問をしたそうです。でも、内容が何処かのコピーであるとか言うことは問題にしないんですって。
そうでしょうね。他の先生の学生のコピペを指摘して問題視すると自分のところに、そのまま返ってきてしまいますものね。
幸い、うちの研究室では卒業論文コピペに悩まされることはありません。大学に出す論文の序文に関しては、幾らコピペしても、私は気にしません。
ジャーナルに投稿する論文を学生が先ず書いてくるときは、うるさく、コピペをするな、決してするな、と言っています。
ジャーナルに既に載っている英語の論文の、これはという文章一つでも、そのままコピペされると、英語にも、内容にも問題はないので、そのままこちらは使ってしまうことになります、気付かぬうちに人の文章の丸取りと言うことになります。英語人で、分かる人は、あ、これは人まねの文章だな、ということになって恥さらしです。
最初からすべての研究論文をこちらが書けば問題は起きませんが、学生に先ず書かせるのも教育ですからね。全く意味不明の英語を見て苦吟しつつ、共同で論文を書き上げ、同時に書き方を教えるというのが理想的ですね。
というわけで、関さんの論文はその方式で進めているので、未だに苦労しています。自分で書いてしまった方がよほど速いですけどね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
昨日の朝、隣の池島さんがやってきて「今日と明日は北京の○○大学で講演を頼まれたので出張です。何かあったらよろしく」と言うことでした。彼は中国語が自由自在だし有能な研究者なので、あるときはこの大学を代表してあちこちに講演に出掛けています。
そして、「あ、そうそう」と続けて、「来週になると川西老師が、また大勢の人たちを連れて薬科大学に8日間滞在する」のですって。春に訪問者だった大川、林さんも含めて、千葉大学小林さん、北里大学伊藤さんたち、前にも会ったことのある人たちも入っています。
この頃、川西老師からはこの手の連絡は私には入りません。あまり信用されていないのでしょうね。
大勢の先生たちを連れてくるというのは、彼らがセミナーや講義をすると言うことでしょう。でも、ここでは6月が卒業月ですよ。修士の発表は今週末から始まります。黄澄澄さんは11日。王月さんは18日が出番です。
博士の学位審査会は5月に入ってからは、始終行われています。うちの研究室の張嵐さんの学位審査会本番は17日午後に決まりました。それで、修士の二人と博士の一人のリハーサルを今週末から始めます。
学部学生は月末の卒業式の前には報告会があるので、それを目指して研究を進めるのに余念はありません。
研究室の学生はこうやってみんな忙しくしていますから、外部の人たちの講演に付き合っていられないでしょうね。
「研究室でもセミナーに招きたければ、どうぞ好きなようにアレンジして下さい」とも池島さんに言われました。でも、研究室の半分近くの人が出ていくので、彼らの発表とまとめの時期に、研究室のセミナーに招くなってことは出来ませんね。つまり、6月は外部の人が講演に来るのに、最悪の時期です。
日本の2月から3月初めの大学に、よそから人が来て講演するようなものです。こちらの6月は同様に多忙を極めるときなのに、彼らは一番暇なときだから来るのでしょうね。
5月末からは、中国国内の鉄道の旅も、身分証明書がないと旅が出来ません。絶対忘れないようにしなきゃと、池島さんは改めてパスポートを握り締めていました。
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さえ:
二年前の夏には、自民党に代わって民主党が躍進して大喜びでしたね。それが失望に代わっても、まだ政権に慣れていないんだ、まあ、もう一寸やらせてみたら、なんて思っているうちに日本の政治は大分ひどいことになってきました。
マスコミの報道しか判断材料がないので、菅さんが本当に報道されているようにおかしいのかどうか、尻馬に乗っているような気もしますが、何だか、みっともないことをしていますねえ。
『菅直人首相は3日午後の参院予算委員会で、2日の民主党代議士会で行った自らの退陣をめぐる発言について「東日本大震災の復旧・復興と原発事故の収束に一定の役割を果たした段階で若い世代に引き継ぐ、一定のめどがつくまでは責任を果たさせてほしい』といったそうです。
鳩山さんとの話の時には辞任するといったらしいのに、文書になっていないから鳩山さんが嘘をつくなと怒り狂っても、「辞任するなんて言っていない」、(何時のことか誰も分からないけれど)めどが付くまでやる、ということですね。
日本人は潔いことが好きだから、菅さんに呆れていますが、人をだましても自分が良い思いをするのが常識の世界なら、当たり前のことでしょうね。
ぼくだって、普通ならとっくに辞めて悠々自適の生活のはずなのに、地位に恋々としていることになるかなあ。
ぼくの場合は、やりたいことがあるから、なのですけれどね。それに、余分なポジションだから、誰かを邪魔している訳じゃない。
菅さんだってやりたいことがあるのかなあ。昔から総理になりたいと思っていたみたいだから、一旦なってしまうと、それを手放したくないだけじゃないかな。
でも、もう、辞めなよ、みっともない、他に代わりがないじゃなし。。。
そういえば、めどがつくまでの、「めど」は、目途あるいは目処と書きますが、むかし「もくと」と読み上げた人(偉い?三菱の課長さん)がいて、愕然としたことがありました。調べてみると「もくと」でも良いみたいでした。世の中、歳を取っても、知らないことだらけです。
カテゴリ:朝鮮半島
さえ:
朝、PCでネットを見ていたら、「北朝鮮が軍事的報復宣言」という物騒な見出しがありました。読んでみると、{金総書記写真で射撃訓練}をしたからというのです。
聯合ニュース 6月3日(金)20時32分配信【ソウル3日聯合ニュース】
『北朝鮮軍は3日、韓国の一部予備軍訓練場で金正日総書記と後継者の三男・正恩氏の写真を射撃の標的に使用したことに対し、「全面的な軍事的報復を加える」と強調した。』
『人民軍総参謀部の報道官声明によると、「この時間以降、朝鮮人民軍は逆賊どもを一撃で倒すため、実際的かつ全面的な軍事的報復行動に突入する』
ただし、『韓国側に正式謝罪と再発防止を求め、首謀者の処刑と謝罪措置があるまで軍事的報復対応を段階的に高めていく』ということです。
いま日本の自衛隊が米国の大統領の写真をを標的に練習したら、大問題となるでしょう。
でも、たしか、北朝鮮と韓国はまだ戦闘状態なのですよね。休戦しているだけですよね。
と言うことは、戦意昂揚のために、敵国の指導者を標的にして射撃練習しても、当たり前みたいなものじゃないですか。
北朝鮮も、韓国の大統領を標的に射撃練習すればお相子ですね。
それにしても、北朝鮮を見ていると、戦前の日本を見ているみたいです。日本もああだったのだなあ、とよくわかります。宣伝と教育、その対象にされている普通の人々は堪ったものじゃないでしょう。
その人たちはどのように考えているでしょうね。
日本の経てきたことを思うと、北朝鮮もきっと変わります。そうじゃなければ国民が可哀想です。生きていて、その変化を見届けたいですね。
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さえ
さえのための集まりに、江上研究室の大先輩である千谷晃一先生は体調が悪くていらっしゃれませんでしたが、その前後、何度もメイルを交換しました。
藤谷学園大学に最後の勤務をされたあとずっと愛知にお住まいかと思っていましたら、先日、奥様の実家のある札幌に移ったと言う挨拶状を戴きました。
千谷先生は卒業後暫くしてアメリカで職について、そこで長かったと思います。1980年代の終わり頃日本に戻ってこられたころ、三菱生命研で再会しました。と言っても、研究対象がお互い離れているので、そのあと深いお付き合いもしないで、そのまま時間が経ってしまいました。
でも、千谷先生は学生時代の思い出が深く心に刻み込まれています。
私が理学部化学科の学生でしたが、卒業研究は生化学の江上不二夫先生の研究室を選びましたよね。10月から卒研をはじめたのに、直接の指導に当たってくれた浅野仁子先生はお産で直ぐお休みになってしまいました、ぼくはそれを良いことに、研究を怠けて東大オーケストラの活動に熱中していました。
2月になって浅野先生が戻ってこられてからは、さあ大変。毎日朝から晩まで実験しないと追いつかないことになりました。
たった一人で、あの化学教室に残ることになると言う毎日。ぼくがこっちの部屋に一人残っている時は何時も大部屋に博士課程3年生の千谷さんが残っていてくれるのです。例外なしに、でした。それに気付いてお礼を言うと、「いえ、ぼくは自分の実験をしているのです」ときちんと挨拶を返されました。それが、毎回。
そしてぼくが大学4年生の時に心に刻み込んだのは、「この先長じて、千谷さんのような人間になろう」ということでした。自分の心に、しかと誓ったのですよ。
修士を終えて、名古屋大学に赴任して、後輩の学生に接する生活が始まって以来、結局、ぼくはこの誓いを果たせませんでした。そのあとも、ずっと。何時も考えているのは自分のことばかり。本当に駄目人間でした。
それなのに、まだこうやって研究を続けています。いまこそ、研究が大好きです。ぼくに、このように研究を続けさせてくれるすべての人たちに、感謝、感謝です。
昨日の日曜日午前中、資料室に行ってきた。教師の会のひとたち全員に「午前中は資料室が開いているので、本を借りられますよ」と連絡を入れておいて、10時から12時まで資料室に行った。
わたし自身の主目的は、未整理の本の情報の入力だった。ネットでアマゾンに結んで、50冊近くの本の情報入力は出来ましたが、そのあとPCの中では整理が出来ない。音を上げて、未完のままPCを大学まで持って帰った。
午前中に資料室に来られたのは、石田先生、石井先生、吉田先生の3人だった。いずれも学生の帯同なしだが、今は試験シーズン直前だからかも知れない。
吉田登美子先生に会ったのは、ほぼ一年ぶり。今年度は土日が特に忙しくなって、定例会には出席できないと言うことでずっとお休みだった。わたしだって昨年の11月から今日まで定例会に出られたのはただの一回だった。
半年ぶりに会った茶房オーナーの劉凱さんは、昨年末からついこの間まで、四川省に三回も資料の調査に出掛けてきたとのこと。三星堆遺跡という七千年前の発掘された人形の顔は極端に眼が大きく印象的だ。その石などに文字が刻まれていて、この研究が始まったそうだ。中原文化の甲骨文字とは又趣の異なった文字である。
これが解読できると楽しいだろう。でも、ロゼッタストーンなどであったように、一つは分かっている文字と並列でないと早急の解読は望み薄だ。
資料室にはまだ九百冊足らずの本しかない。しかも、自然科学とぼく好みの小説に偏っています。これからは本を増やすことが絶対必要なのでその努力もしますが、一方で、資料室をこのように休日に開けて置くと言うことを時々やってみたいと思う。
全くの徒労の連続かも知れない。
それでも、2000年に資料室を作った石井康男先生は、私たちが瀋陽に来た2003年のころ会の代表だったが、一人黙々と資料室のために尽くしておられた姿が目に浮かぶ。そう、彼は私の手本なのだ。
カテゴリ:韓国のこと
さえ:
今日は農歴5月5日の端午節です。
この日は万物の活力が一番盛んなときで、もちろん悪の力も最高に盛り上がっています。それを鎮めるためのお祭りが端午節の始まりだそうです。ですから、韮や蓬を家の軒につるすのですね。
楚の國の政治家として余りに潔癖すぎたために嫌われてしまい、恨みを呑んで汨羅河に身を投じた屈原をしのぶお祭りといっしょになったのですね。屈原の身体が魚に食べられないよう、代わりにこれを食べて言ってと水に投じたのがこの粽の起源だそうです。
毎年、屈原の古里である湖北省屈原鎮屈原村では、家の門に対聯を貼って、蓬を飾り、粽を作って、詩を詠じ、屈原を記念する端午節を祝っているのだそうです。秦の始皇帝による中国統一の前の話ですから、二千数百年前に起こったことですよ。綿々とそれが受け継がれている國です。すごい國ですね、中国は。
日本でも端午節が祝われていますが、今は子供の祭日です。韓国でも、中国の朝貢国としての歴史が長いので、同じように端午節が祝われて来ました。
それが2005年に、韓国の世界無形文化遺産として登録してしまったそうですね。端午節は韓国が発祥の地であると言っているのですって。中国は驚いて2009年に端午節は中国で2500年も祝われてきたのだとして登録申請しているそうです。どうなったのか、わかりません。
孔子は朝鮮人だと主張し、はたまた、李白も朝鮮人だと言ったり、韓国人というのは面白い人たちですね。
他にもあるかと思ってネットを見てみると:
『韓国ソウル大学の朴正秀教授が「漢字は朝鮮民族が発明した」との学説を出したと朝鮮日報が報じた』そうです。『半島で生まれた漢字が大陸に持ち込まれ、現在の中国文化を形成したと主張し、韓国政府に漢字の復興と世界遺産申請とを求めている』と書いてありました。
『孔子だけでなく、古代の四大美女のひとり・西施、中国医学の名著「本草綱目」の著者・李自珍はみな朝鮮人』ですって。
『「東洋の文化」として西洋人を騙しやすいこともあり、日本文化が其の標的にされています。サムライ、寿司、柔道、剣道、日本刀、折り紙、テコンドー…。これらはいずれもルーツが日本であるにもかかわらず、韓国人が「韓国起源である」と主張している』とまで、書いておありました。本当かなあ。ここまでやるかなあ。
これが本当なら、面白い人たちだと言って笑って済ませられない感じですね。
瀋陽日本人教師の会が劉凱さんの茶房の一画を使わせて頂いて日本語資料室を再開したのは一年前の2010年の5月だった。
教師の会の持っていた図書は、資料室が2008年春に閉鎖された一年後に、瀋陽市図書館に寄付した。本が一冊もない資料室では様にならないない。
瀋陽滞在のあと帰国する日本人から図書を置いていって貰うとか、自分たちの寄付できる本を出そうとか、いろいろの案が出た。
先ず隗より始めよ、と言うわけで、わたしがここに持っている本、それに日本からもいっぱい本を送って資料室に寄贈した。多田先生も2010年夏に帰国されたとき約40冊の本を寄贈して下さった。それでいま、本は約800冊を越えた。ちなみに、市図書館に寄贈した本は5千3百冊余だ。
本の整理はISDNを利用して、本の情報を取り込み、これを使って図書目録を作った。でも昨年11月以来、わたしが資料室に行けなかったので、その後の整理がはかどっていなかった。
以前、資料室は教師の会の活動の中心だった。定例会を開くだけでなく、毎週週末の土日は当番で、先生の誰かが交代で常駐していた。
それで、資料室に行けば、本が借りられるばかりではなく、誰かに会える訳で、先生たちは日本語を学ぶ学生をよく連れて来た。学生は、自分たちの先生以外の日本人の先生ともいろいろと話が出来たわけだ。
資料室にはコンピューターもコピー機もあったので、コピー機を自分のところで利用しにくい先生たちはここを利用していた。
ビデオとその装置があったので、ビデオを広い資料室の一画で見ている学生もいた。瀋陽の日本人社会の人たちも、日本語に関心のある中国人も、この資料室を中心に交流の輪が出来ていた。
集智ビルのころの日本語資料室では、池本先生による日本映画上映会、わたしの身近な科学の解説を月に1-2回開催していた。
これは会員だけではなく、学生、瀋陽在住日本人、関心のある中国人すべてに開放していた。資料室を単に教師の活動中心としてではなく、日中交流の中心にしようという方向を私たちは見据えていたからだった。
その資料室が2008年春に消滅し、当時の状況を知っている人たちは今やほんの数人です。その頃の資料室にくらべると、今の資料室は、まだ会員の間に全く根付いていないといってよい。
問題点はいつくか挙げられよう。
「狭くて、本が少ない」
狭いのは、どうにもならない。狭くても自分たちの資料室があるというように、ポジティブに考えるしかない。本は、特別会計から本の購入費と送料を出すことになったので、これから増やしていこう。
「資料室の意味がわからない」
今の会員の殆どは以前の資料室を知らない。ここを活動の拠点に出来るよう、休みの日には資料室を開けて、誰でも来られるようにしてみたいと思っている。なじみになれば愛着が湧いて、自分たちの活動の場所という気になってくるかも知れない。
と言うわけで、将来方針は本を増やすことに尽きるが、今すぐ、出来ることとして、出来れば毎週日曜日に、せめて月一回でもこの資料室に誰でも来られるようにすることをやってみたいと、思ったりしている。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
日曜日には千谷先生のことを書きましたね。千谷さんがアメリカの仕事にけりを付けて帰国されたとき、三菱化成生命科学研究所で講演がありました。大先輩の講演を聴いてその内容のすばらしさに圧倒され、一方でこちらはこれと言うほどのことをしていなくて恥ずかしく思ったことを覚えています。
そんなことなどを千谷先生宛のメイルに書き綴ったら、「あなたは大器晩成ですね」なんて言われてしまいました。大器晩成なら、立派なものです。晩成するまもなく、人生を終わってしまうんじゃないかと、この頃は思っています。
こんなことを話しながら、暁艶と晩ご飯を食べていたら、「活到老、学到老」って言う中国の言葉を知っていますか?と言って、説明してくれました。
「老人老いても、学び続ける」という意味だそうですが、どうもピンと来ません。対句の間はand ではなくて but で続くのだろうと思います。後半は学が老に到るということですから、「人は歳を取るけれど 学び続ければ 学問は深くなる」と言う意味だろうか、そうなら納得できるなと思いました。
気になってネットで調べてみると、いろいろと解釈が出てきます。
「年齢を重ねても、何かを目指して学ぶのが喜び」http://www21.tok2.com/home/studyc/page055.html
「活きて老いに到り、学びて老いに到る 、学び終えることなし」
blog.goo.ne.jp/t_otake81/e/c483ecf93581603bd5b6de396e8e9
「人間誰しも?をとるもの、草木も年年朽ちるもの,でも人は老いても限りなく学ぶぺきだ、つまり、人生を終える迄勉強することだ」
http://lang-8.com/120197/journals/480206/
「歳をとっても活発に生きよ 老練になるまで学べ 」
http://www.edita.jp/shanghainews/one/shanghainews14286.html
面白いのは、この対句の解説を書いて人は文脈から見て、皆、古希を過ぎた人たちみたいです。誰も人生残りの時間を気にするようになると、この言葉に惹かれて学問を続ける励みにするのですね。
横山春光氏は、以下のように書いていました。
「若い頃は自分自身の理想の為に学ぶ、中年になれば自らの人生を充実させる為に学ぶ、そして老いた後は、『学び』は一種の境地となり、しみじみと生命の奥深さを味わう。」
「光陰矢の如し、人生の時間というのは飛び去る矢のように瞬く間に過ぎてゆきます。『いついつ』がきたらやろう!と先延ばしせずに、今やりたい事を“今”やる」
http://mbp-tokyo.com/taikyokuken/column/3924
こういわれると、同意!賛成です。「やりたいことは今やろう!」ぼくは何時もこの境地で生きてきたような気がします。今も、やりたい研究をやっているのですよ。
暁艶も、この対句の解説で横山氏が述べているくらいまで内容をかみ砕いてくれたように思います。中国語は表現が奥深いですね。何時も感服します。
なお、この言葉は原典が見つからないので誰が言ったか分からないそうですが、周恩来の名言だと書いている人もいました。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
5月の終わりにドイツを中心に大腸菌感染による出血性大腸炎で死者が相次ぎました。
最初はスペイン製のキュウリによるなんて言われていて、中国では「へえ、中国から輸出したキュウリじゃないんだ」なんて自虐的なブラックジョークが聞かれました。
でもどうしてキュウリで感染するのだろう。洗いやすい食材なのに。
もしキュウリが真に感染源だとしたら、大腸菌は洗浄に耐えたわけですから、キュウリの内部にいたと考えるのが自然です。でも、そうすると、大腸菌がキュウリの内部に住み着いたことなりますが、キュウリの内部みたいに清潔なところを好むはずはありません。
それで、キュウリが犯人というのは間違いじゃないかと思っていました。
そのうち、もやし説が出て、そのうち、もやしでもないと言うことになってきました。いつかの日本のカイワレ犯人説と同じで、一度名指しされると業界には致命的です。ですから、ドイツでも、最初はキュウリかとなったのが、あとは至極慎重になってしまったのでしょうね。
その風評被害の補償が「農家に176億円補償」と出ていました。
「5月中旬からの大腸菌感染により、これまでに23人が死亡、2400人以上が体調不良を訴えている」そうですが、一応終焉に向かったみたいです。
それにしても、清潔の権化みたいに思われていたドイツ人のレストランの厨房が、意外にいい加減だったわけですね。実際信じられなかったと言って良いくらいです。
これからは「ドイツ人はきれい好き」なんて思わないようにしましょう。
今は中国でも、食事に冷菜がでますし、生野菜が出ます。刺身も出てきます。危ないなと、心中では思っていますが、このごろは手を出しています。
中国の衛生思想はまだまだです。折しも夏場ですし、これを機に、警戒心を高めましょう。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
今学期で卒業する修士学生は黄澄澄と王月の二人です。
黄澄澄の修士論文発表会は今度の土曜日にあるのですが、彼女の出番はトップの朝8時からです。口頭発表15分、質疑10分。
何時ものように、ぼくはそこで出席を免除されますから、うちの部屋のジャーナルクラブは、何時も通り8時半から始められますね。そういったら、みんな、情けない顔をしていたけれど。
黄澄澄の練習は月曜日、そして水曜日に行いました。ぼくの前なので英語で発表練習です。もちろん研究室の人たちは全員参加の建前です。
最初に全体的に見てあれこれ発表の内容に助言をして、二度目はスライドの細かいところを直して、もういちどできると良いのですが、それは彼女を信頼しましょう。
あとは中国語で発表練習をしなさいね。
何時も思うのですが、自分の発表は審査されるという気持ちが強いためか、初めて聞く人に、自分の研究を明確に伝えて理解して貰うという姿勢がないのですね。
発表に慣れていないからまだ仕方ないのですが、聞いている人は殆どドしろうとで、初めての言葉と内容に接して、うろうろするのですよ。
ですから、図の書き方が統一されていて、使っている文字も見やすく、統一されていると、それだけでも内容が生きて輝きます。
声もゆっくりとしゃべって、堂々として聞こえるようにしましょう。
遠慮して遠回しに結論を述べたりすると、インパクトが減少します。そう、遠慮しないで、自分が目付けた新しいことと、その意味を強調しましょう。
自分に、そして自分の発表している内容に、すべての注目を集める最初の晴れ舞台ですよ。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
瀋陽薬科大学は今年創立80周年なのだそうです。本館の前に無限という名前のオブジェが立っていますね。あれは2001年、70周年を記念して建立されたものでした。
薬科大学は今の敷地を売って、北の方に移るという話を前から聞いています。実は8年前に瀋陽に来たときから引越の話を何度も聞いているので、おおかみ少年ではありませんが、またか、と言う感じでしたが、今度は本物みたいです。
狼少年と同じパターンの話は中国の古代史の中で有名ですね。
紀元前 771年、西周の最後の王幽王は驪山の麓で外敵の犬戎に殺され、西周王朝は途絶えました。驪山は西安の北にあって、2001年に訪ねましたね。楊貴妃の玉の肌を温泉水が洗った華清池のあるところですよ。
幽王の妃であった褒似は、どんなことがあっても笑うことのない女だったそうです。それで、幽王は彼女の笑顔を見たくて、いろいろと試みたけれど、決して笑顔をを見せませんでした。
ある日、何かの手違いで狼煙が上げられてしまい、これは緊急の連絡なので、諸候は直ちに王宮に集まってきました。
ところが駆けつけた諸候が、それは虚報だと分かってぼう然としたとき、その様子を見て褒似は笑ったのですね。
幽王は彼女の笑顔が見たくて、そのあと何事もないのに狼煙を上げさせたので、とうとう諸候は、もう来なくなってしまいました。
とうとう実際の反乱が起きたとき、誰も救援に駆けつけず、幽王は殺害されたと言うことです。 傾国の美女、褒似の烽火として知られていますね。
全く笑わない美女を幽王が、それでも気に入っていたというのは、幽王もおかしなところがあったのでしょう。だって、笑いがないと座はどんどん暗くなるじゃないですか。
じゃ、あっちの方が良いのかも知れないけれど、笑いもしないというのは反応もないってことじゃないかな。ただ横になっていて、無反応。興ざめそのものですね。
ま、それはともかく、この大学が本当に引っ越すらしいと言うのを、一昨日日本から6人の先生たちを引き連れて、瀋陽薬科大学に到着した川西老師から聞きました。彼はこの大学の中枢と密接に接触しているから、情報の確度は私たちよりも遙かに高いのですよ。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
瀋陽薬科大学が今年創立80周年になって、と昨日書き始めて、途中で話がそれてしました。70周年の時も賑々しい記念式典があったそうなので、今回もきっとそれなりのお祝いが9月頃にあるのでしょう。
引越の話があるというのに、大学の庭園は綺麗に整備されています。教室だって、最初に来たときに講義をした部屋では、ぼくたちぶったまげましたね。昔の幼稚園みたいな椅子と机で、しかも殆ど壊れていました。それも今次々と新しくしています。直したって、あと1年半で建物ごと壊してしまうのに。
この間は、正門の建物と言っていいくらい、立派な門の塗りなおしそやっていました。門の上の横木には、瀋陽薬科大学と書いてありました。もちろん横木なんて言う貧弱なものではなく立派なものですが、それを外してしまいました。
代わりに付けたのは金色の瀋陽薬科大学の文字。その文字がひとつひとつ空中に躍り出ました。
夜になると、それが紅く輝いているのです。おまけに門の形でネオン管が付いて、夜は薬科大学正門のイルミネーションが、あたりに燦然と輝いています。引越よりも大事な80周年の記念式典に合わせて、化粧直しをしているのでしょう。
でも、隣の招待所の紅いネオンサインが一部消えています。こんなに早く取り付けたりして、大丈夫? 三ヶ月保つかなあと、少しばかり心配しています。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
人に何か言うとき、長所と欠点とを両方とも相手に告げるときは、悪い方から言いますね。あなたは「他人を見る目は厳しいけれど、でも人には心底優しくしてあげるわねえ」とか。
逆に言うと、「人には優しいけれど、実は厳しい」という、あとの方が強く強調されて残ってしまいます。
研究の話でもそうですね、何かの刺激が、それまでと違って新しい経路を通ることを見つけたとき、先ずそれを話して、その後、何処がそれまでと違うかを説明するとしますね。
それに対して、今までの経路を話して相手が分かった上で、今度の刺激が通る経路はこれまでと、ここが違うんですよ、と言った方が遙かにインパクトが大きいですよね。
今日、張嵐が博士の発表会の初めての練習をしました。
先ず、彼女が見つけたガングリオシドGD1aの刺激が通る新しい経路を実験で説明します。
ああ、そうかと言うだけです。重要性は、この時点では全く分かりません。
その次に、刺激しない細胞でのシグナル経路を話しました。最初の分子が違うだけであとは同じです。ですから、まだ、彼女の発見の重要性は分かりません。
そして、三つ目のセクションで、やっとガングリオシドのシグナルは、何もしない細胞でのシグナル経路の最初の分子を通っていないことが分かります。
これでは、あまり興奮しませんね。
聴いている方のインパクトを考えて話をしないと、眠くなるだけの話で終わってしまいます。
だから、並べ方を変えたら、と言っても、張嵐の反応は鈍いのですよ。
ま、発表するのは彼女だし、学位請求をするのも彼女だから、彼女の問題であって、ぼくの問題じゃないんですよね。ぼくは、学位審査の審査員でもありません。つまり、どうでも、いっか。
研究室の皆が出席しているのですが、ぼくがこのように意見を述べても、誰も、誰一人何も、言いません。驚きですね。きっと、誰も彼女の話を理解して聴いていなかったのでしょう。ちゃんと理解して聴いていればぼくの意見にも、賛成か、反対か、どちらでもないか、ちゃんと言えたはずですものね。
こういう時、空しい気分になります。たった一人を研究者に育てる役にも立っていないじゃないか、って。
「以前の資料室」
日本語資料室の歴史は2000年6月に遡ります。
日本語教育をするための資料が欲しい、日本語を学ぶ学生たちに日本語の本を読ませたい、という多くの日本語教師の願いが結集されて、石井康男先生の主導で大阪に作られたNPOが大量の図書を教師会に寄贈しました。ある企業のビルの一室を無料で借りて、小北関街に日本語資料室が出来ました(第一次資料室)。
その後ビルの持ち主の事情により、2006年にそこが閉鎖されて振興街の開元ビルに移りました、120平方メートルの広さでした(第二次資料室)。その年の秋、さらに引越をして、新華広場の集智ビルに移りました(第三次資料室)。ところが2008年の集智ビルの閉鎖時には引っ越し先が見つからず、資料室は閉鎖されました。行き先のない図書は一年間何氏眼科の好意で保管して頂きましたが、結局行き先が見つからなかったので、2009年春に瀋陽市図書館に寄贈されました(正式引き渡し調印式—日本国総領事館、市図書館、教師会の参加-は2010年11月頃だったと思いますが、公式報告・記録がありません)。
引越先は二回とも、日本と日本人に好意を示して下さった中国人の無償の申し出により、提供されたものです。詳細は瀋陽日本人教師の会と日本語資料室の詳細は以下のURL(日本からは見られるはずです)に、載っています。しかし今は中国からアクセスできないため、更新が止まっています。
http://www.geocities.jp/kyosikai2004 (2009年春には中国からアクセスできなくなりました)
https://sites.google.com/site/kyosikai09/ (上記の代わりに作りました。しかし、2009年末には中国からアクセスできなくなりました)
「2010年5月 品和軒資料室の開設」
資料室のない私たちは2008年春からは毎月の定例会の場所もなく、毎月あちこちの大学を渡り歩いて、うろうろとしていました。2009年春からは図書を寄付しましたので、その時の付帯条件として、市図書館の会議室が使えることになりました(あくまでもそのたびに借りたい旨を申し出る必要があります)。
ところで中国人に劉凱さんという方があって、仕事と勉強のために日本に8年間滞在して故郷の瀋陽に戻る時に、瀋陽の日本語環境を調べたところ、瀋陽日本人教師の会があることが分かりました。しかし、それまで活動の中心だった日本語資料室が閉鎖されたまま、消滅してしまったことを知りました。そしてそれを惜しんで、自分の茶房の一室を日本語資料室に使わないかと、教師の会に提案がなされました。
私たちは、教師の会における資料室の存在意義を検討し、劉凱さんの提案を受けて、改めて日本語資料室を開きたいと思い、2009年秋には小委員会を設けてこの問題を討議し、2010年春の教師の会の定例会で、公式に承認されました。
劉凱さんから借り受けた一室に、くつろげる椅子と机を入れ、本棚を入れました。発足は2010年5月です。1年分の部屋代、暖房代、電気、水などのユーティリティ使用料として、毎年5月に1200元を普通会計から劉凱さんに払っています。
ところで、資料室の中核になるはずの本は、すべて瀋陽市図書館に寄付してしまい、一冊もありません。瀋陽滞在のあと帰国する日本人から図書を置いていって貰うとか、自分たちの寄付できる本を出そうとか、いろいろの案が出ました。先ず隗より始めよ、と言うわけで、山形がここに持っている本、それに日本からも送って本を資料室に寄贈しました。多田先生も2010年夏に帰国されたとき約40冊の本を寄贈して下さいました。それでいま、本は約900冊近くになりました。ちなみに、市図書館に寄贈した本は5千3百冊余です。
2009年度まで会員だった巽先生からノート型のPCが寄付されていて、これで図書管理をしています。
「資料室の今までの活動」
以前、資料室は教師の会の活動の中心でした。定例会を開くだけでなく、毎週週末の土日は当番で先生の誰かが常駐していました。それで、資料室に行けば、本が借りられるばかりではなく、誰かに会える訳で、先生たちは日本語を学ぶ学生をよく連れて来ました。学生は、自分たちの先生以外の日本人の先生ともいろいろと話が出来たわけです。
資料室にはコンピューターもコピー機もありましたので、コピー機を自分のところで利用しにくい先生たちはここを利用していました。ビデオとその装置があったので、ビデオを広い資料室の一画で見ている学生もありました。瀋陽の日本人社会の人たちも、日本語に関心のある中国人も、この資料室を中心に交流の輪が出来ていました。
集智ビルのころの日本語資料室では、日本映画上映会(池本先生による)、身近な科学の解説(山形による)を月に1-2回開催していました。これは会員だけではなく、学生、瀋陽在住日本人、関心のある中国人すべてに開放していました。資料室を単に教師の活動中心としてではなく、日中交流の中心にしようという方向を私たちは見据えていたからでした。
その資料室が2008年春に消滅し、当時の状況を知っている人たちはほんの二三人です。これからの資料室を、いまの教師の会の中にどう位置づけていくかを、皆で十分に話し合う必要がありますが、いまの私たちの視点で問題点を整理して述べたいと思います。
「資料室の問題点と今後の方針」
1. 狭い
狭いのは、どうにもなりません、狭くても自分たちには資料室があるのだというように、ポジティブに考えましょう。
資料室を持たないことを思うと、資料室のあることの利点は無限大に大きいと思います。
この茶房が提供されるまで私たちがどれだけの努力を払ったかを言っても仕方ないと思いますけれど、大変な思いをしてここまで来たのですよ。
2. 本が少ない、利用価値がない
零からの出発です。本はまだ少ないです。今ある本には何の特徴もないし、ここに来たら日本語の勉強の役に立つというものでもない状態です。でも、これから増やしていけばよいのです。
特別会計から本の購入費と送料を出すことになりましたので、これから増やしていきましょう。
どのような本を収集するかについて4月から先生たちから希望を受けることにしました。現在改めて希望図書を募っています。場合によってはご希望に添えないこともあるかも知れませんが、希望図書の推薦にご協力下さるようお願い申し上げます。
会員の方は資料室の本が増えるよう、どうかあらゆる方法でご協力下さい。ご帰国の折は、どうか本を寄付していって下さい。
3. 資料室の意味がわからない
今の会員の殆どは以前の資料室を知りません。ここを活動の拠点に出来るよう、休みの日には資料室を開けて、誰でも来られるようにしてみたいと思っています。なじみになれば愛着が湧いて、自分たちの活動の場所という気になってくるかも知れません。
「6月5日の日曜日午前10-12時資料室を開けているのでどうぞ」と、会員に呼びかけました。会友の吉田登美子先生が訪ねてこられました。
4. 将来、本の貸し出しをどのようするかですね。いまは会員の先生に限って貸し出しを受け付けていますが、それを将来どのように広げていくか考えないといけません。本の少ないうちは、学生に貸し出す本もありませんし、検討するまでもないですが、いずれ、これをどうするか考える必要があります。つまり資料室を会員の活動の拠点にしたい、ここを日中友好の拠点にしたい、日本語を学ぶ学生のために役立てたい、と言うような方向性があると思いますので、本の貸し出し方法を真剣に話し合う時期も来るでしょう。そのくらい早く、本の数を増やしたいものです。
(資料室係:石田薫、石井仁、山形達也)
カテゴリ:研究室風景
さえ:
昨日はぼやいていたでしょう? 張嵐の博士論文の発表練習会で、それじゃ発表にインパクトないよと指摘して、内容の順序を変えるように提案しても、なしのつぶて。聴いている連中も無言の行。
これじゃ空しいよね。ここで自分の残りの時間と財産を投じてまで頑張っているのは、一人でも優れた研究者を育てるため。それなのに、この無反応振りじゃあ、今までの努力は水泡といっていいですよね。
と落ち込んでいましたが。その落ち込みも一瞬。もう立ち直っています。
立ち直りが早いのは、くよくよ思い悩んであとに引きずっていたら、次の意志決定に差し仕えてしまいますものね。そのくらい、何かしら、何時も何かがあり、何かしていると言うことでしょう。
これは経験で身に付いた智慧ですね。昔からこうだったら、よかったのに。
若い頃は失恋をしては、失恋は始終ですから、何時も落ち込んでいました。もうこの世の終わりが来たみたいに、暗い人生でした、さえに会うまで。
ま、失恋も回を重ねるごとに、びくともしなくなりましたけれどね。
でも今でも、素敵な女性の素敵な振る舞いを見たりすると背骨がズキンとします。セックス中枢が刺激されたのです。よく言えば、恋に落ちた瞬間ですね。それだって、人生生きていると始終起こることだから、ぼく自身まともに相手にしなくなりました。
だって、そっちに進んだら波瀾万丈の人生になっちゃうかも知れないでしょう。
と言うわけで、回復の早いのは人生の英知。でも、怖いのは、行き着くところ、無感動人生になってしまうんじゃないかってこと。
ぼくのことだから、そんなことは大分先のことだと思うけれど、背骨のズキンも大事にしなくっちゃいけないかも知れませんね。
瀋陽教師の会は今は会員がだいぶ少なくなって、今期は19人くらいのこぢんまりとした集まりだ。今期に代表をやっている宇野さんのやり方がおかしいって、この頃ここに私は書いている。
彼の不信任案を出したいところだが、小さな集まりを割ることになってはいけないと思って、昨日の、今期最後の定例会では、じっと我慢していた。
ところが、議題に「来期の教師会について「と言う項目があって、宇野さんが、「来期もし代表をやろうという方がなければ、私が続けてやりたいです」と、突然宣言をした。来期のことは来期の会員が初めて集まった時に決めることなので、この時期に自分が続けてやりたいと発現するのは異例も良いところだ。
直ちに「反対」という手が二つ挙がりました、渡辺先生と私だった。私は、いま、ここでこのような話をするのは適当な場ではない、もしも、この話を進めるなら私は反対の理由を述べると言いました。でも、これは来期のことだから、「今の宇野さんの発言は撤回して、なかったことにするのが適当ではないですか」とも言いました。
すると、副代表をやっている松下さんが立ち上がって、「私は大賛成です。昨年、代表が決まらなくて困っているときに、11月になって引き受けてくれて、ここまでやってきた宇野さんを今後支えていこうじゃないですか」と応援演説をした。
さらに「反対する人は自分でやったらいじゃないか」とまで言いだした。これは反対意見を持つ人に対する恫喝だ。自分でやる気がないのなら反対するな、とも言って、これは反対意見つぶしのファッショとしかいいようがない。
松下さんは、誠実な人だと思って信頼していたので、おどろいた。
中国の歴史を読むと、沢山の王、皇帝が、無能で、きちんとした意見を述べる大臣は排除して、代わりにおべんちゃらを言う取り巻きだけを残して最後はもろとも自滅する(と言うか殺されて排除される)という例が無数にある。
人々の言葉に謙虚に耳を傾けずに、自分の快楽しか考えていない王の目を覚まさせる役をするのかと思っていたので、松下さんにはがっかりした。
さて、わたしは彼は代表として不適当だと思うので、来期の続投は反対する。しかし、代わりにやってやろうという先生がいないとか、宇野さんでも良いじゃないという意見が多ければ、もちろん、それも仕方ない。
教師の会の定例会は、その時の議題を幹事があらかじめ書き出して、会員に事前に知らせて来た上に、さらにプリントにして当日配布する。
教師の会にはいろいろな係りがある。わたしは資料室の再興に関わった関係で資料室係をしている。定例会では毎回活動報告をする。
今年度は代表に宇野さんがなって以来、わたしは妻の病気のことで忙しくて殆ど定例会に出ていなかったが、やっと今年の4月に出席して、議題に「資料室係報告」がないことに気付いて、宇野さんと松下さんに、「ちゃんと『資料室係』も書いておいてくださいね」と頼んだ
その時は、資料室係の石井仁先生から報告がなされた。
5月の定例会議事予定表に、『資料室係』は入っていなかったので、幹事のひとりの松下さんに「また抜けていますよ」と言っておいた。
ところが、6月の定例会の前の議題予定表の中に、またもや『資料室係』が入っていない。それで、全員通知の予定表配布を利用して、宇野さんも含めて全員宛に「宇野さん、そりゃないでしょ。また抜けていますよ」と書いて送った
直ぐに宇野さんから、単純うっかりミスだと詫びながら新しく『資料室係』の入った議事予定表が送られてきた。
さて、昨日の定例会当日、配布された議事予定表に、また『資料室係』が入っていないではないか。
うっかりミスも、手違いも、平気で何度もすると言うのは、人のことをいい加減に扱っているからとしか思えない。
松下さんは、「笑って許してやんなさいよ」と言っているが、松下さんも責任者の一人なのだ。人ごとみたいなことを言ってはいけない。松下さんにも、『資料室科係』が抜けていることは再度言っているのだ。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
11日の土曜日は黄澄澄の修士論文発表の日でした。朝8時から図書館脇の教室、図5。
でも、老張など偉い先生が定刻に来ないので始まりは20分遅れました。90人入る教室に半分くらい人が入ったかな。彼女の審査は、宋永波、康寧、劉岩峰の三人で、生化学の若い先生たち。
生化学の大勢の教師の中で、担当を決めているのですね。担当というのは、あらかじめ提出された論文を読んで、発表の時には質問を担当する人。
Stim1はがん抑制因子だなんて話は初めてでしょうし、カルシウム濃度によるStim1のホメオスタシスなんて聴いたこともないわけですね。Stim1だって初めて聞く名前でしょう?
彼女の20分の講演のあと、ぼくの隣に座っている朱さんから質問内容を説明してもらいましたが、質問は一寸ずれている感じでした。
黄澄澄は何て答えた?と聞くと、ご指摘ありがとう、と言ったんですって。ぼくが言葉が分かれば、そのままにしておかなかったのにね。
もちろん、黄澄澄の研究は完成までたどり着けなかったので、いろいろと言われても仕方ありません。でも、分かったところだけでも、それも新しいことが沢山あったのだから、それを評価して欲しかったなあ。
黄澄澄の発表が終わったところで。ぼくも、うちの研究室の人たちも全部抜け出してしまいました。部屋に戻ると、直ぐ定例のジャーナルクラブが始まるのです。
何時もの通り学部の学生が三人来て待っていました。以前はもっといたけれど一人減り、二人減り、最後に残った人たちです。最新の研究論文を読んでいるのですから、付いていくだけでさぞ大変だろうと思います。
紹介する方だって、実験内容が初心者にもわかるように説明できると良いけれど、自分たちだってやったことのない実験が殆どだから、それも大変な話。
要は、ここの実験環境は、PCRを使っている以外は、日本の40年前と同じくらいなのですね。
何時も、こんな環境の中で世界に負けずに研究を続けなくてはならない学生を気の毒に思っています。それで、こちらが出来ることは身を入れることだけですから、つい、一生懸命になります。この夏も一緒に、実験をしましょうね。
カテゴリ:生命科学
さえ:
始まったときには14回も話をするなんて大変だと思ったのですが、三年生相手に始まった分子生物学も、もう11回目でした。DNAの複製から始まって、次にmRNAの転写を話してきて、そして今回は遺伝暗号とtRNAでした。あとはタンパク質合成・翻訳の話だけです。
遺伝暗号がどうやって解読されたかという話をしました。遺伝子がDNAで、DNAの上にタンパク質のアミノ酸配列が「暗号」で書かれていることはもう分かってきた時代に、じゃあ、その暗号は何なのかという解読はどうやって行われたかの話をしました。
DNAの情報を転写したmRNAの配列と、それから出来てきたタンパクのアミノ酸配列を対応させれば、その暗号が解読出来ますね。タンパク質のアミノ酸配列は、もうその頃は次々と解析されていました。
でも、当時は「mRNAの配列を読む手段がなかった」のです。教科書にはそう書かれています。NierenbergとMatthaeiが最初に遺伝暗号の解読に成功したのが、1961年でした。
これだけを読むと、それならば、いまなら、mRNAの配列を解析できるのだな、ということになります。ここを勉強している学生たちが、ここのところを明確に理解出来るよう解説をしました。
「mRNAの配列を読む手段がなかった」のには、二つのことがありますね。ひとつは、mRNAは一つの細胞が含む数千の遺伝子DNAから転写されているので、さまざまな配列を持った混ざりものです。混ざりものの配列の分析は出来ません。一種類の配列だけ持ったmRNAだけを分けて取らないといけません。不可能な話です。
一つの分子だけ取ったとしても、その数が少ないと分析できませんよね。今だって、1 femto mole必要だとすると、6億個の分子の存在が必要と言うことです。 1 atto mole まで分析の精度が上がったとしても、60万個の分子が必要です。気が遠くなる数ですね。
カテゴリ:生命科学
さえ:
昨日のつづきを、ね。
mRNAを対象としているだけでは、その配列を分析しようがありません。混ざりもの種類を綺麗に分けないといけないし、一種類の数を増やさないといけません。
いまでは、mRNAを逆転写してそのcDNAをベクターに組み込んで、大腸菌で増やして、それぞれの配列を別々に増幅させますが、いまでは誰にでも出来る実験です。
RNAから逆転写でcDNAを合成する酵素が見つかったのは1970年です。ベクターにDNAを組み込むために必要な制限酵素が見つかったのは1970年代です。この二つの技術で、遺伝子工学が花盛りになったのですね。1960年当時はまだ、とても出来ない実験でした。
1964年にはHolleyたちがアミノ酸Alanineに特異的なtRNAを精製してその構造を発表しました。アミノ酸が遺伝子で使っているアミノ酸の種類が20種ですから、tRNAは最低20種類ではなくて、遺伝暗号の縮重のために、最低32種類あります。その中から、大変な苦労をして一種類だけ綺麗にした(精製した)のですね。出発材料だけだって大変なものだったでしょう。
そして構造解析は、アルカリ分解で大きな断片にして、あとはリボヌクレアーゼによる分解です。断片の中の塩基配列分析をして、あとでそれらを継ぎ合わせて全体像が得られたわけですね。
分析しているとき、試料が消えてしまうということが始終あって、実は人の汗にも、つばにもリボヌクレアーゼがあって、ですから、指先が触った試験管に試料が触れるだけで分解してしまったのですね。実は実験台の上がリボヌクレアーゼだらけだったのですね。
今の分子生物学的実験に必要な基本姿勢は、この時の教訓から得られたたものが大きいのです。なんていう話をしているので、ちっとも進みません。
日本人教師の会の中の「研修係」というのがあるけれど、年に一度「文化セミナーを企画したり、何処かにバス旅行をしようかという提案をしたり、慰労会の時の何時も司会役だったり、そんなことしかこの数年やっていない。
それで、この間の土曜日の定例会で、『教師の会は日本語教師の集まりだから、教える方法・技術を磨くために、だれかが前に出て実際の教え方を示して、その効果を皆が感じ取るような、本当の「研修」をやりませんか』とぼくは提案した。昔は、集まりの度にこれをやっていて、定例会の活動の中心だった感じでしたよ、って。
昔の、池本千恵先生のさわやかな教え方がまだ眼と耳にに残っている。
殆どの人は昔のできごとを知らないが、皆が賛成して、じゃ9月からやりましょうと係りの渡邊文枝先生は言った。
そしたら、早々と二日後に、9月の研修のお知らせという知らせがメイルで届いた。
『先生方へ 次年度9月より、例会時に適宜、研修を行うことになりました。教師会の場所も品和軒に落ち着きつつあるし、ささやかながら再スタートしたいと思います』
『第一番バッターとして青年協力隊、朝鮮二中の粟野先生が快諾してくださいました。9月10日(土)3時半頃より約一時間 テーマ「作文教育」 尚、中等教育での日本語教育の報告も併せておこないます』
嬉しい知らせだ。
私は日本語教育の門外漢だが、先生がたによる研修は何時も勉強になったし、先生がたの新しい魅力を見つけるのも楽しみだった。教師は教えているときが一番輝いているしね。
カテゴリ:日本人教師の会
さえ:
昨日の夕方、日本か南本夫妻が来られました。
2007年なるに瀋陽を去られてから、2009年6月に一度、今度で二度目ですね。教え子の卒業の時期に合わせた訪問です。
お二人ともは2004年9月から2007年月に去られるまで瀋陽薬科大学の日本語教師でしたので、教え子が多いです。
2005年春学期からは瀋陽日本人教師の会の会長(当時は会長という名前でした)を務め、その間二回の日本語資料室の引越を経験されました。当時は30人を越える会員がいましたが、艱難辛苦を乗り越えて、教師の会の人たちの心が一つになった時期でしたね。
山口県から博多空港まで高速バスの乗ったんですって。博多空港はよく知っているので、空港に着いたらあの店でパンを買い、隣ではケーキを買って、あそこではおにぎりを買ってなどと、瀋陽で喜ぶぼくたちの顔を思い浮かべていたら、バスが渋滞に巻き込まれてしまい、最後は空港の手前から走ったのだそうです。
と言うわけで、お二人のお志だけかと思ったら、朝日新聞、菓子パンに、博多ラーメン、九十九島せんぺいなど、沢山のお土産でした。
18日土曜日には、南本先生を歓迎する集まりを開こうと思って、教師の会に呼びかけています。
いまのところ、石井、石田、春日、杉島、多田、松下、渡辺先生がいらっしゃるとのことです。
参加出来ないという方々からもお返事を頂きました。粟野、大山、神山、小池、中谷(友)、中谷(豊)、任、池本先生たちです。
こういう時、興味がないと知らん顔をする人たちが結構多い中で、不参加でも返事をきちんと頂けると、とても嬉しいものですね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
この間の教師会定例会あとの慰労会で隣り合って座っていた石井先生とお喋りしていたら、「大学でどんな教育をされているか、一度見学したいですねえ」と言われました。
うちの大学の教育? 学生たちの前で教科書を読むだけの大学教育?
それを見たいわけじゃないですよね。
でもぼくがぼくのスタイルで一生懸命話している講義は今週で終わってしまうし、毎日研究室で学生の研究を指導しているといっても、それを見学のしようもないですよね。
そうなると研究室セミナーが、教育らしい場でしょうね。
そういえば、以前東北大学で日本語教師だった先生が、うちのセミナーを是非見学したいと言うことでしたが、それが実現する前に突然の移動で瀋陽を去ってしまわれました。
研究室セミナーは演者が新しい、そして自分たちの勉強になる論文を読んできて紹介するのですが、演者にとっては、論文を理解する、それを人に分かるように、必要かつ十分な言葉で紹介する勉強の場ですよね。
聴く方にとっては、初めての話を聞いて理解するという場ですし、聞いて理解した証拠に質問をし、その場を活性化する必要もあります。だって、話した人に反応がなかったら、聞き手としては大変な失礼をしていることになるでしょ。
そして話し手、聞き手の両者共に、その論文を理解して、内容を批難する能力を磨きます。だって、自分も研究をして、批判に耐える論文を書くためには人の論文からも学ぶことが多いですよね。
うちの研究室は、この8月で卒業する人が多くて、残ったのは、4人、ぼくを入れて5人、9月から来る王くんも参加すると6人と言うのが今のうちの陣容です。
どのようなセミナーにしましょうか。順番を変えて、ぼくが話したたほうが良いかもしれないと今は思っています。
ちょうど目にとまっていて面白い論文は、PNASに載った、「iPSを作る細胞はMuseと言う元々万能の細胞なのだ」というものです。前にiPS細胞の話はしていますがもう2年も前のことで、人はすっかり変わっています。一から話すと、研究者でない、今度の見学の先生には煩わしいかも知れません。
二つ目の候補は、がんを分析していると共通に見つかるタンパク質があるという論文です。がんは時分の中から出来てきて、がん特異的と言うものを研究者は探し続けて来ました。しかし、今のところ成功していません。
でも、人の三分の一ががんに掛かりますから、内容は科学ですが、話の対象としては良いかも知れませんね。
三つ目の候補は、集中して頭に詰め込む一夜漬けよりも、休みながら勉強する方が記憶に残るという経験は誰も持っていますね。
休んでいる間にプルキンエ細胞から小脳の細胞に記憶が移され、その時にタンパク合成が必要だと言うことが分かりました。まだ、どんなタンパクか分かっていませんが、これが分かったら、記憶増強、老人呆けに強力な助けになりますね。
普段は二人の講演ですが一人にして、見学の先生も何かお話しをしていただく。出来れば、さらに皆で討論をする、なんていうのはどうでしょう。
終わって食事会が楽しみですね。
そうそう、その日は卒研生の発表会の日のようです。こちらは定例行事があるからうちの発表は午後遅くにお願いと、頼んでおきました。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
今は3年生に新カリキュラムで分子生物学、4年生に旧カリキュラムで分子生物学を教えているでしょ。この間の4年生の授業で、今度は卒業祝いの会の演しものの練習があるから、今度の授業は振り替えにしてくださいと何人も来て訴えるのです。
彼らは日語班なので5年制ですが、一緒に入った人たちはこの6月が卒業式です。一緒に卒業するかどうかは知りませんが、卒業を祝うのですね。
というわけで、良く訳が分からないまま、じゃ振り替えの授業のことは教務に連絡しておいてねと4年生のKEIさんに頼みました。彼女は、この授業の世話役なのです。
その後KEIさんが、その卒業の会に出たいですか、そしたら招待します、と言うのです。これで瀋陽8年目ですが、卒業祝いの会に出たことはありません。えっ、でられるのですか?じゃ、行きましょう、と約束しました。
昨日の午後、KEIさんが招待状を持ってきてくれました。ちゃんとぼくの名前が入っていて招待主は「薬学院」です。
早めに夕食を済ませて待っていると6時20分にKEIさんが迎えに来てくれました。「畢生栄葯」と描かれたTシャツを着ています。おそろいなのだそうです。
薬学クラブという名の講堂に来てみると、入り口には毛氈を敷いて両側にはチャイドレスの美女たちが立っているではないですか。入来する老師たちを迎えるためだそうですが、その中に、ぼくのクラスの美人女子学生がいるのを見つけて、一緒に写真を撮ってもらいました。
入り口では蛍光色で光るマジック棒をくれました。既に講堂の中には学生が溢れていて、スポーツの応援に使う空気入りの棒を打ち鳴らしています。ぼくたちは前の方の特別席に案内されました。
6時半に、舞台の袖の両側の壁の上の方に、プロジェクターで学生の作成した映像が流れ、司会の男女学生が出て来て学生生活の回顧から始まりました。大学のこのキャンパスの中で24時間勉強し、実験し、生活し、恋愛をする学生のコミカルな映像に、みんな大熱狂。
その後、モダンダンス。これはもう凄いものでしたよ。蔡依林の唄とダンスみたいの群舞です。10人くらいの中に2人くらい特に達者なのがいて、このままテレビアイドルになれそうなくらいです。
13の演し物のうち五つもダンスがありました。フラダンスもあったし、男女ペアのダンスもありました。どれも見応えのあるものばかりです。ただただ驚きです。みんな映像時代の申し子たちなのですね。
数人による寸劇。これも学生生活を風刺しているらしく、爆笑が絶えませんでした。
日語班の人たち二十人くらいは、Cosplayというタイトルで、ドラえもんに扮したり、探偵の工藤くんになったり、ぼくにはなじみのない漫画やアニメのキャラクターに扮して舞台狭しと駆け回っていました。見知っている子たちがいて楽しいでした。
こんな具合に引き込まれて観ているうちに8時半となって、最後は「我会想念Ni」の大合唱で終わりとなりました。みんな、若いんだなあ。
天下興亡 匹夫有責。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
ちょっと前に、張嵐が博士論文発表の練習をしたとき。彼女の発表内容の並べ方ではインパクトが弱いと、ぼくはそれを変えるように要求したと書いたでしょ。
「みんな、鳩ぽっぽの集団か」2010年6月10日
http://plaza.rakuten.co.jp/tcyamagata/diary/201106100001/
『彼女が見つけたガングリオシドGD1aの刺激が通る新しい細胞内の経路を、実験で説明します。ああ、そうかと言うだけです。重要性は、この時点では全く分かりません』
『その次に、刺激しない細胞でのシグナル経路を話しました。最初の分子が違うだけであとは同じです。ですから、まだ、彼女の発見の重要性は分かりません』
『そして、三つ目のセクションで、やっとガングリオシドのシグナルは、何もしない細胞でのシグナル経路の最初の分子を通っていないことが分かります。凄い発見なのですが、この話し方では、あまり興奮しませんね』
それで、話す順番を変えたらと言ったのですが、張嵐の反応は鈍いのですよ。その後も、ああだ、こうだと言っていて、とうとう今日、博士論文発表の本番の朝、練習の通りに話します、と言ってきました。
ぼくは、「ああ、そう」と返事しました。張嵐にはぼくの意見を聞く気がないことが明瞭だからです。ここで、もう何を言っても意味がない。つまり彼女には絶望しました。
博士論文を書いて審査員にすでに見て貰っていますが、内容が同じなら、話す順番を変えても全く問題はないことを知っています。
つまり、張嵐はぼくの意見を聞く耳が全くなかったと言うことですね。当日の朝になって言いに来たと言うことは、この間、全く内容を良くしようと努力していなかったことを意味しています。
張嵐は、「いいわよ、このままで。どうせ博士は取れるんだから、面倒なことをすることないめ」と高をくくったのでしょう。ぼくたち日本人の心情では考えられないことです。
互いに使っている言葉が英語なので、彼女の本心は分からないといえるでしょう。張嵐は中国人として、そう考えるのでしょうか。
そうかも知れません。だからといって中国人一般の行動として切り捨ててしまうのも、いけないでしょうね。少なくとも張嵐は、自分を高めよう、人の意見も聞いて自分を少しでも良くしよう、と考える人ではなかったというだけです。
審査員の一人の池島老師には張嵐の研究の真の意味を分かって欲しかったので、出掛けていって説明しました。博士論文ではわかり難かったでしょうが、そして発表でもその順番で話すそうですが、彼女の研究の真の意味はこういうことですよ、と。
なるほど、なるほど。と。
池島老師には理解して頂けたので、心が軽くなりました。一人でも、優れた研究者にこの内容をちゃんと分かって貰えれば、良いことにしましょう。ここではそれ以上望むのは無理かも知れませんものね。
張嵐の博士論文審査を取り仕切っているのは、呉英良老師です。張嵐はそこの博士課程1年を終えてから、うちにやって来て、新しい研究に取りかかったのです。ま、人さまざま、ということですね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
昨日張嵐の博士の発表会がありました。昨日の午後1時から、女性博士候補が三人発表をして、彼女はその三人目でしたので、その時間に会場に行きました。
話す時間は30分で終わって、5人の審査員による質問が45分。黄澄澄がぼくの横に来て説明してくれるけれど、込み入った話になると彼女が理解出来ないみたいで、あとで他の人からも聞きました。
女性教授の楊静玉老師からは、膨大な研究結果だが、何がポイントか良く分からなかった、と言う総括が出ました。これは、彼女の論文の書き方が、GD1aのシグナルを先に書いているので、話すときも順序を換えた方がよいと練習の時に言ったのに、それを無視したからのようです。
SiRNAによる遺伝子発現の抑制は何処まで出れば信じられるのか、とか、SiRNAの違う配列で、全く同じ効果が出ないときどのように評価するのか、などの質問が出ました。
張嵐がなんと答えたか分かりませんでしたが、SiRNAの対象である遺伝子発現が少しでも抑えられて、別の遺伝子の発現に影響が出て、配列二つとも同じ結果が出て、しかも別々の細胞実験で3回確認できれば、その結果を信頼するのがぼくたちの研究の進め方です。
二つの別の配列が違う効果を示したときは、他の遺伝子に対する影響も考えられるので、さらに別の配列を設計して実験を重ねます。
中国医科大学から儀老師が審査員としてきておられました。もう3回会っているそうです。うちの博士候補はこれで4人目ですから、何時も審査をお願いしているみたいですね。颯爽として、厳しくて、頼りになりそうな女性教授です。
転移に関係した分子としてNOS2やHGFの制御を調べているが、実際に転移の実験をやったのかと聞かれたみたいです。つまりGD1aが抑えるのがNOS2であり、HGFであるというなら、それが細胞の挙動、つまり、移動度とか、増殖とかIndexに反映していないと、話が分かりにくいということのようでした。
以前の人は詳しく調べていますが、張嵐はやってません。自分はやっていないというだけでなく、前の結果はこうだったと話して欲しいところですが、余り知らないみたいです。不勉強ですね。
もう一人女性教授がいて、彼女は日本語も話す雛老師です。ガングリオシドにはいろいろ種類があるけれどが、他のものではどうなのか、と質問が出たみたいです。ぼくたちはいろいろなケースで調べてきていますが、張嵐が何処まで知っているか、わかりませんでした。
ガングリオシドを他のものと一緒に与えたらどうなるかという質問もあった見たいです。なるほどね、薬理の人の見方なのですね、と感心しました。ガングリオシドがどのような機構で効くかに興味があるので、ガングリオシドの合成阻害をするとき以外は、そんなことを考えたことはありません。別の分野の人の発想って、実に眼を見開かせますね。
ぼくたちが東工大の工学部系の先生たちの中に入ったときみたいです。
池島老師は、まず、PPTで他人が作成した図を自分が使っているとき、その作成者(引用元)を示さないのはフェアでないと張嵐をたしなめていました。その通りですね。
その後さまざまな角度から質問があって、彼が一番内容を理解している風でした。このような良心的な、優れた研究者が隣の部屋にいて、嬉しいことです。でも、うちの学生は彼の中国語は良く分からないと、一様に言います。中国語で講義もしていると自慢している先生なのに、申し訳ないことです。
終わって、発表者三人による感謝の晩餐会が、新洪記で開かれました。
昨日の夜は教師の会の人たちが集まって、南本ご夫妻と食事をした。集まったのは10人。
石井、石田、石橋、宇野、春日、杉島、多田、松下、渡辺、山形。
薬科大学の西側にある、さえもお気に入りだった唐萱閣の元帥府で6時に集まった。
南本先生たちが2007年に瀋陽を去られた時にも瀋陽にいたのは、松下(2006-)、宇野(2005-)、山形(2003-)、渡辺(2001-)の4人だけだ。
円卓を囲むにはちょうど良い人数だ。まとまって一つの話題を皆で話し合えるのが良い。
今の教師会は、来年以降も政権維持をもくろむ人たちと、彼らには任せられないと思う反対派があって、決してまとまってはいないが、温厚な南本先生を囲んで、和やかな話題は尽きず、久しぶりに心温まる集まりだった。
南本先生の教え子の卒業は今年で最後のようだ。それでは、今度日本の、瀋陽同窓会でお会いしましょう。
昨日の日曜日、南本卓郎・みどりご夫妻を資料室に案内した。南本先生が2006年3月に会長に推されて、その月の終わりには、第一次資料室が閉鎖されて引っ越し先を探すという事態になったのだった。
全く大変な時期に南本先生は会長だった。
伊藤忠の高木純夫所長の紹介で開元ビルが見つかって、5月に越してほっとした夏を越したのもつかの間、9月には又移転先を探して、本当にあとの時は大変な時期だった。高木さんが責任を感じて何時も一緒に探しにいってくれて、領事館の森領事も何時も同行して、瀋陽市政府との交渉をやって下さった。
人々の善意がしみじみと身に沁みたあの頃だった。
朝日新聞の古谷さんの書いてくれた記事がきっかけで、日本在住の中国人の大学の先生が日本人に世話になったからといって、友人のビルのオーナに一部屋貸すように話を付けて呉れて、その集智ビルの8階に越したが2006年の12月だった。南本ご夫妻が離任されたのが2007年夏だったので、その後の資料室の運命を直接経験していない。
というわけで、資料室が2008年に閉鎖されたままだったのを大変気にしておられたので、千品軒の一室に出来た資料室と、オーナーの劉凱さんを紹介するために、昨日お連れした。
劉凱さんはお茶屋さんを経営しながら、かつ、古代文字の研究者で、日本の古代、特に神話時代にも詳しく、南本さんと一緒の話にも、また聞き惚れてしまった。
南本さんは、資料室に7冊の本を日本から持て来て下さった。
君について行こう―女房は宇宙をめざした 向井 万起男
号泣する準備はできていた 江國 香織
ホームレス中学生 麒麟・田村裕
デッドエンドの思い出 よしもと ばなな
ネコババのいる町で 瀧澤美恵子
ダンス・ダンス・ダンス 上・下 村上 春樹
私がこの日は資料室に行っているということを、会員、会友に連絡したが、皆さんは期末で忙しいらしく、どなたも現れなかった。
ま、それでもよい。時々これからも、皆が来やすいように公開していることを連絡してから、資料室に出掛けよう。何だか、昔の石井康男先生になったみたい。。。ははは。。。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
瀋陽の六月は卒業月で、何時も忙しいですね。
修士の二人の発表が済んで、博士も終わって、今週末は卒研生の卒研発表なのです。それで今日の月曜日の午後2時から第一回の発表練習をすることを、先週半ばには全員に伝えました。第二回は水曜日、第三回は木曜日の同時刻から。
さて、2時になっても誰も部屋に来ないので、実験室に行ってみると、楊洋だけが先輩の笑笑に指導されて発表の用意をしていて、「一寸待って下さい」というのです。
あとの二人はいません。二人は朝も来ていませんでした。それで、ぼくは罪のない先輩たちに、「約束の時間に練習を始める用意が出来ていないなら、私は卒研生の面倒を一切見ませんよ」と宣言して部屋に戻ってきました。
すると、楊洋が先輩たちとやってきました。楊洋は発表の用意をしていたのですし、許すことにしました。
じゃ練習を始めようという時に、徐帥がやってきて、まだ用意が出来ていませんから延ばして下さいと言うので、彼には、もう遅い。私は約束を守らない学生の面倒は見ない、と突き放しました。すると、話せるというのです。でも、遅いですよね。
ともかく、楊洋一人が、このあとも研究室に残る四人の先輩たちが見守る中で発表練習をしました。実験は一度ずつしかやっていませんが、それを信用するなら面白い結果となっています。
以前は細かく指導していましたけれど、先輩たちに任せることにしました。楊洋の場合には笑笑です。彼女はちゃんと指導してくれるでしょう。
ぼくの機嫌の悪い一つの理由は、エアコンが壊れて12日の日曜日に中街まで買いにいって、もちろん私費で7千元を払ってきたのですが、それがまだ取り付けに来ないのですよ。もう気温が30度を超えているっていうのに。
エアコンを買いに一緒に行ってくれた暁艶が、その時の領収書が要りますというけれど、そんなもの何処にあるか覚えていません。
それで暁艶と、崔さんがぼくの机の上の山積みの堆積物の中を探し始めて、ついでに整理しようとしてくれました。二人で1時間掛かって、山積みの書類が綺麗に分類されて、ぼくの机じゃなくなったみたい。ありがとね。
領収書は無事に見つかりましたので、エアコンも近いうちに入るでしょう。
でも、学生にこのようなことでも怒ると、とても後味が悪いですね。気分が晴れません。でも、何時も何があってもにこにこして、「良いよ、良いよ」という訳にもいきませんよね。「約束は守る」ことは、ここで学生に教えるべきことですもの。
カテゴリ:インターネット
さえ:
今朝のインターネットを見て目を疑いました。
『サムスンのパクリ病はもはや中毒、特許侵害で訴えられるのは日常茶飯事―中国メディア (Record China 6月21日(火)5時58分配信)』
『2011年6月20日、韓国・サムスン電子のギャラクシーシリーズが米アップルのiPhoneやiPadを「そのまま」模倣したとして提訴されたことに絡み、中国のIT専門ポータルサイト・賽迪網は、「サムスンのパクリ病はもはや中毒性のものだ」と指摘した』というのですよ。
サムソンがパクったというのが本当だとしても、それを中国のメディアが叩くなんて時代が来たのでしょうか。我が身を省みても、自信を持って韓国を非難できるようになったのでしょうか。
何だか、目くそ鼻くそを笑うという感じですね。
ごめんね、さえ。さえの大嫌いな品のない言葉を持ち出して。でも、ぴたりだと思うなあ。
『中国の携帯電話メーカー、華立通信も2007年4月、同社が開発した「GSM/CDMAデュアルモバイル通信方法と通信設備」の特許を侵害したとして、損害賠償5000万元(約6億1000万円)を求めた訴えを起こしている。2008年末には杭州市中級人民法院(地裁)がサムスンに5000万元の支払いを求める判決を下した』
つまり、中国のメーカーの製品をサムソンが真似したくらい、中国製品は優れたものとなった、と言うことに力点があるのかも知れません。
批判や評価は自分と比べたら成り立ちません。自分は別においいておいて、中立の立場から、そして大所高所から、人を攻撃するのですよね。だから、立派なことを言ってももよいのでしょうが、おいおい、待ってよ、他人事じゃないよ。
この頃は何でも強引に牽強付会をすることが目立つようになりましたから、日本の新幹線の速度がもしもう一寸上がるようになると、日本は中国の技術を盗用しているなんて言い出すかも知れませんね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
大むかし、ぼくたちの若かった頃、バイオリズムと言うのが流行っていましたね。生物は月の満ち干に影響されますから、日ごとに変わるリズムがあっても良いかなと思ったけれど、その場の話題以外のなにものでもなかったですね。
ぼくの頭にこれがふと頭をかすめたのは、この二三日集中力が落ちていて、こういうのがバイオリズムの乱れなのかなあ、と思ったのです。
あの頃は、算出するための小道具を売っていましたね。
今はネットで見ると、あなたのバイオリズムと言うのがありましたので、生年月日を打ち込んで、今月を表示させました。
そうしたら、昨日が、『知的活動期、カン・注意力・記憶力・判断力と知的作業に必要なエネルギーが全て働いている。大いに頭を使おう。』だったのだそうです。あれ、ま。
大体、自分の力以外を信じない人間ですから、バイオリズムというひとの計算で決めて貰わなくてもよいのですが、それでも生き物としては何かのリズムはあるのかも知れません。
一つは六月という卒業月を抱えて、いろいろと人間関係が面倒なことがあって、疲れます。
それと、もう一つ思いつくことは、一昨日家楽福でサッカーボールを買ってきたのですよ。
どうしてって、遊んでみたいからです。サッカー選手が足先でちょんちょんと蹴鞠みたいに蹴り上げ続けるのを見て、中学でサッカーをやっている孫の一人に聞いてみたのです。あれ、君でも出来るの?
そんな。幾らだって出来るよ。と言う返事でした。
じゃ、ぼくでも、今からでもやれば出来る?
おじいちゃんでも、きっと出来るよ。
と言う返事でした。この会話は、さえの葬儀で集まった1月の終わりのことでした。それから5ヶ月経ってボールを買ってきたのです。
昨日の朝、オフィスで、一人で遊びました。ちょんと蹴ると、一回限りで何処かに行ってしまうから、続けて足先で蹴り続けるなんてとんでもないことでしたが、それでもボールとじゃれて遊んで5分経ったら、汗を掻いていました。
あんな風に身体を動かしたことはなかったから、それで昨日一日は疲れが出ていたのかも知れませんね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
中国の東北地方には梅雨がないことになっていますが、瀋陽では、まるで日本の梅雨見たいという言葉が出るほど、六月は雨が降りますね。今年も、そんな感じです。でも、昨日は雨が降らずに、薄曇りで暑い日でした。
午前中は分子生物学の試験問題を作るために、全部の講義を見直していました。昼は何時ものようにパンを食べてから、エキソサイズに出掛けました。このところ数日置きに歩きに出掛けています。少なくとも4Kmを40分の速歩で歩いてきます。
金属研究所の先の川に行って、川沿いに公園を歩くと老人用遊具のある一画に出ます。たいてい老人たちで込んでいるのですがたまたま空いていたので、腕を鍛える遊具を使いました。
椅子に座ってバーを両手で持ち上げると、座っている椅子が持ち上がり、上腕の外側(上腕三頭筋)が鍛えられるという仕組みです。
もう一つ並んでいるのは、同じように座ってバーを両手でそれぞれ持って下げると椅子が持ち上がります。上腕の内側(上腕二頭筋)が鍛えられますね。
どちらも自分の体重を負荷に使っているのが、よいですね。簡単だし、腕を鍛えるのに十分な仕組みを備えています。日本もこのような遊具が公園にあっても良いのじゃないかな。
日本では老人は外をあまりで歩きませんね。中国では老人がこんなにいるのかというほど公園に集まっています。
それぞれ30回ずつ動かして、歩く方は4Kmを40分で歩いて帰ってきました。戻ってから、2時から4時までは卒研生三人の発表練習。研究室は全員参加ですが、博士、修士の発表を終えた人たちは出てこないので、先輩4人とぼくだけ。
彼らは自分の発表はテストされていると思っているので、とても怖がっていますが、聴く方が何も分かっていないドシロウトだと言うことに気付いていません。そこに意を使うと、とてもわかりやすい発表になるのですよね。
終わってから、何しろ、エアコンは壊れていて暑いし、今度は暁艶を誘って又歩きに出掛けました。公園まで行って、再度腕の器械で遊んで、その後また歩いて、昔は大福源で、今は大潤発と名前が変わったスーパーに行きました。ここの焼き豚が気に入っているのです。チーズだって、家楽福よりも良いのが置いてあります。甘くない食パンも三斤買ってきました。
戻ってきて大学の近くで米餞。米の粉で出来たうどんですよ。これが美味しいのですね。日本で流行らないのが不思議です。
ところで昨日はこのように運動をしすぎたみたいで、今朝は起きても何となくからだが重い感じで、雨の中をとぼとぼ歩いてきました。ま、毎日、少しづつ。少しづつ。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
卒業研究で、楊洋はNOS2を抑えるGD1aのシグナルが、Src kinase familiyの一つであるFynを通ることを示しました。一回しかやっていない実験なので、確認が必要ですが、発表会で話すだけならまあ良いことにしましょう
すでに、GD1aのシグナルがGRB2を通ってNOS2を抑えることをぼくたちは発表していますね。一方、世間ではSrcがNOS2を活性化することになっています。
ですから、楊洋はGD1aのシグナルとSrcの関係を調べようとしたのです。
Srcの阻害剤のPP2を使うとNOS2が抑えられました。つまり、世間で言うように、Srcはこの細胞でもNOS2を活性化しています。
Srcの阻害剤のPP2を使って、同時にGD1aを加えてみます。GD1aはNOS2を抑えます。この阻害が、PP2があっても減らないのですよ。ということは、GD1aのシグナルはSrcを通っていないみたいですね。
それで、Srcの仲間には9種類のKinaseがあるので、端から調べはじめました。
FynをSiRNAで抑えると、NOS2の発現が高くなります。驚いたことに、Srcの仲間のFynはNOS2を抑制していたのですね。
これは新しい発見です。PP2がFynを抑えるとすると、NOS2は上がっても良い訳ですね。それが下がっているのだから、PP2で阻害されるkinaseがいくつか絡んで複雑なシグナルが錯綜しているのでしょうね。
FynをSiRNAで抑えた細胞にGD1aを加えると、GD1aによる阻害効果が消えてしまいます。これはGD1aのシグナルがFynを通っていることを意味しています。これも新しい発見ですよね。
同じことをLynについてやってみると、LynのSiRNAでNOS2は全く変わりませんでした。Lynは無関係というわけです。GD1aを加えると、いずれの細胞でもNOS2は抑えられました。GD1aシグナルにLynha無関係というわけです。
じゃ、Yesではどうかとか、気になりますがそこまでは、手を付けていません。
Fynを通るGD1aのシグナルが、すでにぼくたちが明らかにしたGRB2を通るシグナルとどういう関係にあるかは、まだ手を付けていません。実験に慣れた人ならあっという間の実験ですが、楊洋にしてみると、そこまでなかなか手が回らないうちに時間切れとなったと言うことです。
練習を三度やって、大分良くなりました。本人は研究の成果を本当には分かっていないみたいなのが、心配ですね。
この先の研究は、楊洋を指導してきたこの夏に修士3年生になる笑笑が続けてくれるでしょう。とても楽しみです。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
卒研生三人のうちのもう一人の女子学生は張微さんで、彼女は北京の協和医科大学の大学院を志望して受験して失敗しました。故郷に戻って就職するそうです。
大学院の入試は1月にあるでしょ。そして二次試験が4月にあるものですから、3月になって研究室に来たけれど、二次試験が心配で実験には手が付かず、実際に実験を始めたのは4月に入ってからでした。
修士2年の朱さんが、細胞質シアリダーゼNeu2を強制発現させると細胞増殖が阻害されることを見つけています。Neu2の発現で、糖タンパク質の糖鎖の末端にあるシアル酸が外れるはずです。細胞質の中に完全な形の糖タンパク質があるとは考えにくいのですが、その糖タンパク質のどれかのシアル酸が外れた結果として細胞増殖阻害が起こると考えられますね。
もちろんもう一つの可能性は、Neu2が酵素としてではなく、タンパク質として何か新しい働きをして、その結果細胞増殖が阻害されたという可能性もあります。
前者の考えに沿って張微さんは、細胞質の糖タンパク質がNeu2発現の前後でどのように変わっているかを、レクチンブロットで調べる研究をしました。
超遠心機がないので、細胞質だけを分けて取ると言うことが出来ません。細胞から核を除いて、材料にするだけです。Lipid raftの部分を普通の遠心機で取り分けることは出来ますが、残りは膜成分と細胞質の混ざりものになります。
これを電気泳動して、膜に転写して、いろいろのレクチンで染めました。短い時間の実験で、張微さんは沢山の結果を出したのですよ。彼女の用意した発表では、このレクチン染色の写真が次々と出てくるものですから、聞いている方は訳が分からなくなります。
だって、聞いている方は素人ですものね。前のスライドの話を忘れても理解出来るような話でないと、分かって貰えません。
それで、材料は細胞から核を除いただけのものに限り、分析の対象は特定の移動度を持った糖タンパク質に絞ります。そして、これがNeu2の強制発現で、シアル酸を失い、新たにGal末端が露出したという証拠を写真として見せることにしました。
それ以外の糖タンパク質の分析はまとめて表にしよう、と言うことで、大分わかりやすくなりました。もちろんどの糖タンパク質がシアル酸を失ったために、細胞増殖阻害が起こったかは、この実験からでは分かりませんが、候補は出るかも知れません。
結果を沢山出していると言うのが、卒研生としては先ず最高に評価される良いことですね。実験結果がなければ、まとめようもありません。彼女を指導した朱さんがきちんとした人なので、厳しく実験指導をしたのでしょう。
卒論発表の一日前に論文を出すことになっていましたが、その正に直前に教務処から、卒業論文の全体のページの10-20%はDiscussionを書くことという通知が回ってきました。直前にですよ。信じられない話ですね。
きっと大学を越えたレベルの決定なのでしょうね。それが大学に来たから、大学は各教授に厳命を下す、と言う仕組みでしょう。やれやれ。突然のことで、学生がかわいそう。。。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
今日の午後2時半から本館の会議室に行きました。朝から生化学系の学生の発表が行われていますが、うちの学生の発表は午後に回して貰ったのです。
最初は楊洋。NOS2の制御機構が対象です。うちの研究室で明らかにしたガングリオシドGD1aによる抑制の経路は、GRB2からMAPKを通って抑えています。
一方で、一般にはSrcがNOS2を活性化することになっているので、この細胞に於けるSrcの役割と、GD1aとSrcの関係を知りたくて研究を始めたのです。楊洋は最初にこれを話したはずですが、話し終わって最後に先生たちから受けた質問では、ここのところが良く理解されていなかったみたいでした。
それに最後のまとめの時に、スライドをたぐって前の実験のところを見せたりしていて、これも印象が悪かった見たいです。どうしてでしょうね、練習ではきちんとしていたのですけれど。
張微は、植物レクチンを使って、糖鎖の構造を調べるという混み入った話を要領よくまとめて話して、膨大な研究結果の全体像と要点が、皆からすっと理解されたみたいです。
徐帥の話は、手数の少ない実験の中から都合の良いことを繋げて話を作っていて、それが先生たちに見抜かれたような印象でした。私たちのやっていることは、実験科学、実証科学ですから、実験に手を惜しんでいてはいけませんね。能力のある学生なのに惜しいことです。
卒業成績のために、毎年これらの学生の中から最高順位の学生を選ぶことが要求されていて、毎年困るのですが、今年は迷いなく張微さんにしました。うちの研究室の学生たちにも意見を求めましたが、全員賛成でした。
というわけで、張微さんにかんぱーーーい。卒研生のみんなと、指導にあたった先輩たち、みんな、辛苦了。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
昨日は土曜日でセミナーの日でしょ。そのセミナーにお客があったのですよ。若い女性で、しかも二人も。凄いことでしょ。
教師会の定例会の翌日のブログに書いたように、お客は東北育才学校の石井仁先生と、実験中学の石橋さやか先生で、二人とも日本語の先生です。
大学に於ける教育を見たいと言うことでしたので、セミナーでは、ぼくが話をしてそれに参加して貰いました。
こちら側は、卒業生がいなくなって、陽暁艶、張笑、朱Tong,崔玉Tingの4人だけかと思っていたのですが、博士が終わった張嵐、修士課程が終わった黄澄澄、卒研生では、張微、楊洋の二人、そして来期から博士に入る予定の王一任、修士に入る林音知が来たほか、学部4年生の、荊広会、陳佳卉、李淵茹、3年生の馬碩さんたちが参加して、結構賑やかになりました。
演者はぼくで、iPSが出来るのは普通の分化した細胞ではなく、皮膚にわずかに含まれている未分化の万能細胞からなのだという東北大学の出澤さんのPNASの論文を紹介しました。iPSの確立に成功した山中教授は今にノーベル賞を貰うかも知れないと言ってマスコミが煽っています。今の生命科学の一つの焦点ですよね。
その山中教授の業績に対してこの論文は真っ向からの挑戦です。
話の途中でもいろいろと質問が出て、みんなぼくの話を良くフォローできた上に、面白く聴いたようです。
その後はお二人の話です。石橋先生が前に出て英語と日本語を使って、皆に日本についてどんなことを知っていますかと尋ねて、富士山、お寿司、電子製品、にんじゃなどの答を引き出して、それらを種にして双方向の話を広げました。全員参加の笑いが絶えませんでした。
石井先生はPPTを用意してきて、中国語での話でした。話の焦点は何と、日本の書法の話でした。初めて知りましたが、彼女は富山市にある高校の現役の国語教師なのですが、両親の姿を幼いときから見て育った、現役の前衛書家なのでした。
たとえば、創という字を篆書で書いて、それを自由に筆で描くと言う、一目見て読める字ではなく、言ってみれば絵ですよね。絵と違うところは、それを奔放な筆遣いで、字を書くと同じように一気に描き上げるのですって。
終わって学生食堂に部屋を取って、希望者12人で出掛けたのですが、料理の注文を終えた段階で停電。
大分待っていたのですが、見通しが付かない、しかも料理が出来ないと言う話になって、部屋での料理は諦め、5階のカフェテリアに並んで各自料理を取ってきて、丸テーブルでを囲んで食べました。ですから、全員にご馳走する予定も停電と一緒に吹き飛んでしまったのですよ。
食事を終えたところで、今日の午後は卒研生の発表もあることですし、これでお開き。
これを機会に又訪ねてきてくださいな。とても楽しい交流でした。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
あのときから、もう5ヶ月経ちました。さえの息が止まってしまって、びっくりして胸を抱き抱えて「さえ。息をしてよ、息をしないと死んじゃうよ」と叫びながら揺すり続けたあのとき。
「死ぬときはきっと寂しいから手を握っていてね」と頼まれて、「うん、必ずね」と約束したのに。
さえの死を予期していなかった訳じゃないのに、それを否定する気持ちが強かったから、あのときがさえの死だなんて思いもしなかったのですね。ただ、うろたえて、手を握ることを忘れて、さえを揺さぶっていました。
長くて辛い肉体の苦痛から解放されたさえ。その時を喜んであげなくてはいけないのかも知れないけれど、ぼくは今でも悲しくて泣いてしまいます。
あのあと何度も、そのうち悲しみは薄れていくだろう、そして何時か立ち直れるだろうと思ったのに、さえを喪った痛みと悲しみは大きいです。掛け替えのない存在だったと気付かせてくれたさえ。
前から分かっていても、どうしようもないことですね。本当に、どのように前から予測しても、それに対する心構えを作っていたとしても、大津波に平穏な心が掠われてしまいました。3月の大津波のあとの荒廃に心象が重なります。
それでも生きていかなくてはいけません。生き残ったぼくが、さえの心を受け継いで背負わなくては、人の世は意味がなくなってしまいますもの。
この世に、去った人の心が残るなんてあり得ないし、死後の世界もあるはずがない。いずれ、さえに会える訳ではありません。さえに心が通じる訳じゃない。それでも、一人の時は、「さえ!」って呼んでしまうのです。自分の声だけが聞こえて、はっとします。さえを喪ったあとも、ただ何事も一切構わずに時だけが過ぎていく現実の冷厳さに、おののいています。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
大学で何かを決めたら、それを職員に何らかの方法で趣致徹底させる必要がありますね。大学の然るべき機関が先生宛に通知を書く。各研究科の事務室にそれを配布する。それぞれの先生は決められた手順で、それを取りに言って通知を知る、と言うのが昔いた東工大のころの方法でした。
今ではメイルを送るというのが、一番簡単で確実な方法でしょうね。研究科で決めたことだって、メイルで送れば一発です。
うちの研究室は生化学科の端にぶら下がっていて、生化学科の主任は小張老師です。彼女は何時も親切にいろいろと案じてくれますが、時々大事な知らせが届きません。
6月15日に生化学科から届いたメイルには、20日までに卒論研究題目を、3日までに論文を提出するように書いてあったほか、25日土曜日に卒研発表をするという知らせがプログラムと一緒に書いてありました。
この時は珍しく、このような大事な通知が、かなり前に届いたのでした。ちなみに、今年の修士二人の二回の発表会、博士の発表会はいずれも、学生から何時行われるのかを聞かされただけです。
うちの研究室の全員に、直ちにこのメイルを転送しました。
25日の土曜日の午前中はうちの部屋のセミナーに来客がある予定でしたので、動かすことが出来ません。小張老師には、うちの発表を午後にしてくださいと、直ぐにメイルでお願いしました。
分かったと直ぐに返事がありましたが、どのように変更したのかの知らせは、とうとう届きませんでした。
そして23日が卒論提出の期限だったのですが、その日の夜、論文の中のDiscussionは全体のページ数の10-20%書くことという教務からの通知が来ていることを、隣の先生から聞いて知りました。
おどろいて、うちの学生に言うと、知っていますというのです。
いろいろと聞いてみると、うちの卒研生の中の男子学生が小張老師に卒論のことで直接連絡を取ったということです。そして小張老師は、教務から各教授に知らせるはずのこの通知を彼に伝えたそうです。しかしこの学生は、ぼくにはもちろん、あと二人の学生にもこの情報を直ぐには伝えていなかったと言うことも、分かりました。
日本のシステムに慣れたぼくとしては唖然としてしまいます。
主任が学生から聞かれて、公式に伝えるべき相手の私にまだ言っていないことを、学生に伝えています。おかしな話ですが、まあいいとしましょう。
それでも、ぼくには伝えるべき内容ですね、あとになったとしても。
発表会の順番はぼくのリクエストで、ぼくたちに都合の良いように変更になりましたが、その知らせもぼくには来ませんでした、土曜日の朝学生に「何時になったの?」と聞いたら午後3時ですと言うことでした。
この変更通知も、学生に伝えたのでしょう。
伝えるべきことを、伝えない。学生に流して、そのまま平気でいられるというのは、ぼくを無視しているか、あるいは、それが可能なのがここの文化だと言うことですね。
もちろん大学の公式の知らせは、例え他にバイパスしたとしても、必ず私宛に送るよう、根気よく主任にこれからもお願いしますが、どうも、各人の都合が優先する社会みたいですし、力のあるところからの要求は直ぐ通るところみたいですね。
ぼくが何か言っても、中国語も分からずに何を言っているのか、お情けで置いてやっているのに、と言うことになりかねませんね。こちらに出来るのは、研究の実力で勝負しようぜ、ということだけです。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
ところ変われば、品変わる。郷に入りては郷に従え。入郷随俗。って言うけれど、今回エアコンを買い換えて、いや参った参った。交渉の間に立った暁艶の努力と言ったら、もう並大抵なものではありませんでした。
中国語が話せるようになったとしても、こんな交渉は外国人には出来そうにもありません。
もう8年というか、まだ8年しか使っていないというか、教授室のエアコンの具合が今年使い始めるとおかしいので修理に来て貰いまっした。先方はガス漏れだというのでガスを入れて貰いました。200元を支払い。
その時パイプを締めて止めるナットにひびが無数に入っているのを見て、たった一年でひびだらけになるなんておかしいね、と、前にブログに書きました。
二日後にはエアコンが冷えなくなって、又来て貰うと、今度はパイプが駄目だというので交換して貰いました。ガスの補充は保証期間内ですが、パイプ交換で170元。
そして二日後に、駄目になって、そして言うのはコンデンサーがもう駄目です。やれやれ。
8年しか使っていないけれど、コンデンサーは3年前に交換しています。それでもう駄目だというなら、全部取り替えましょうと、買い換えを決意して探しに行ったのが6月12日。今度は、Haierのものにしました。
6999元。日本円にすると約9万円ですが、給料で言うとぼくの丸々一月分の給料ですね。ダイキンや三菱重工製だとこの倍近くになります。費用は、もちろんぼく持ち。
その三日後の15日には、新しいのを取り付けに来る約束でしたが、全然来ないのです。暁艶が電話を毎日何度もかけ続けて、やっと21日の火曜日に、前のエアコンを引き取りに来ました。予定より一週間遅れですよ。こちらから電話を掛け続けない限り、先方からは一切の断りなしです。
そして新しい機器が届いたのが22日水曜日で、直ぐ取り付けるかと思ったら、室外機の架台がないというのです。これ、前あったのは前の室外機を外すときに、一緒に外して持って行ってしまったのです。あとから思うと、これは、ぼくたちが買ったもののはずで、こちらの財産だったのですけどね。
室外機を取り付けるのに架台は必需品ですから、当然エアコン取り付けの工事の一部だと思っていたのですが、先方は、架台はこちらが用意しろの一点張り。
とうとう、暁艶が三好街まで買いに行きました。75元。日本では全く考えられませんね。暁艶は、一方で取り付けるための催促をし続けていて、それで、とうとう、23日の午後、エアコンを買った店のマークのTシャツを着た会社の人が二人やってきました。
梱包をほどいて、なにやら内部をいじっていましたが、エアコンの電源をコンセントから取るためのプラグが要るというのです。
要るに決まっているよねえ。それが機器には付いていない。そして自分はプラグを持っているけれど、15元だと。
いいけどね、そんなのエアコンを買うときに出ていい話じゃないかな。ともかく、プラグが要るから、出掛けて買ってこいとぼくたちに言わないだけましだと思わなくちゃね。持ってきてくれて、ありがとうね。
いろいろな手配や手順については、その杜撰さにあきれかえっていますが、この作業員の仕事量、仕事ぶりは、そりゃもう、てきぱきと的確で、正に感服するだけです。1時間一寸で、5階の窓から身を乗り出して壁に穴を開けて架台を取り付け、その上に室外機を取り付け、室内機との配管を完了して、運転まで漕ぎ着けました。
真面目に働く普通の人たちも、この國に沢山いるわけですね。当たり前のことですよね。こんな当たり前なことに驚くなんてね。
梅雨の合間に思い立って、瀋陽市図書館に行ってきた。昨年の春までは、瀋陽日本人教師の会から市図書館に寄付した書籍の情報をPCに入力するなどの仕事があったが、もう1年以上出掛けていない。
わたしの心の中の印象では、瀋陽市図書館は何時も冬景色の公園の中だったが、いまは緑で静かに包まれていて、なかなか良い感じだった。
3階の外国図書閲覧室に行くと閉まっている。この部屋でPCの入力をしたし、この部屋の図書のラックも新しく増えて、寄付した図書は「瀋陽日本人教師の会寄贈」と書かれたプレート共に展示されて利用されているはずだった。
おかしいと思って訊くと2階に移ったと言うことだ。一つ下に降りると図書館の裏手に当たる一画に児童図書コーナーがあり、その隣の狭いコーナーが外国図書だった。
入り口のドアの隣がお手洗いですし、以前に比べて天井も低く、大分狭くて、倉庫を改造したみたいな感じだ。教師会の寄付した本だけでなく、日本語の図書は全部がここに移されているみたいだ。英語などの図書が少なくなっているようでした。入りきらなかったのかもしれない。
係りの人に聞いてみた。これは一時的なものなのか、このままここに置くのか。3階の閲覧室では「瀋陽日本人教師の会寄贈」と言うプレートがあったが、それはどうしたのか。
係りの人は、自分には分からないけれど、多分ここは一時的なものではないだろうとのことだった。プレートについては自分は全く知らないと言う。
責任者に聞くことだろうが、代表でもない私のすることでもないと思って、係員に丁重に挨拶をして、そのまま帰った。
2009年初めに在瀋陽日本国総領事館の斡旋で、教師の会の図書が市図書館に寄贈された。図書の情報入力のあと、昨2010年11月頃、在瀋陽日本国総領事館の領事、瀋陽市図書館、瀋陽日本人教師の会の三者が集まって寄贈の調印式が行われたそうだ。
これに参加した教師会の側は、2010年度の代表になった宇野さんだけだという。その前の代表だった多田さんは日程を知らされたけれど参加しなかったそうだが、図書入力で働いた会員たちには、わたしも含めて全くなんの知らせもなかった。
あとでこのことを知らされて、ひどい話だと思った。
当時の会員は、資料室の図書の移管に散々心を砕いて、さらに半年を越えるコンピュータへの入力作業に参加したのだ。毎週そのための手配をしたうえに、遠くから図書館に通った瀋陽師範大学の土屋さんも知らされていなかったらしい。
PCの入力のある日は土曜日の午前中なので、わたしはセミナーのため一度しか参加出来なかったが、それでも、この調印式のことは事前に知らせて欲しかった。
PC入力をした会員を含めて前年度の会員全員に、このことを知らせて、改めて労をねぎらうべきことだったと思う。
上に立つ人はこのようなことにこそ、心を砕く必要がある。自分の利益のために、代表という立場を利用するようではいけない。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
昨日の6月28日の夜、天潤川菜食府で研究室の送別会をしました。送られる人は、博士の張嵐、修士の黄澄澄と王月、卒研生の張微、楊洋、徐帥の六人。送る側は、博士課程の陽暁艶、修士課程の張笑、朱Tong、崔玉Ting、来期修士課程に入る林音知、それとぼくの六人。
料理を食べながらそれぞれが歌を歌ったり、挨拶をしたりしました。中、日、英と三つ使える言葉があるけれど、英語は自由自在というわけではないし、日、中どれかでは分からない人がいるし、と言うので食卓はついお喋りしないで食べるだけになりがちです。それで、食事をしながら、何かするようにしたわけです。
「更けゆく 秋の夜 旅の空に」の中国語の歌を歌ったのは崔さんです。聞いているうちに、あ、知っている歌だ、と日本語の歌詞が出てきました。子供の頃覚えた歌は忘れないものですね。彼らもこの歌は子供の頃歌ったそうです。
在学時代のエピソード:
黄澄澄と王月がある晩ふたりで大学の外に出て、栗子(勝ち栗のこと)をそれぞれ買って、袋を握って栗子を食べながら歩いていました。すると突然、王月の姿が消えました。何と、マンホールの蓋が開いていて、その中に落ちたのです。
その瞬間、がしっと両肘を張ったので、胸まで落ちたので済みましたが、黄澄澄ひとりでは引っ張り上げられません。通りがかりのおばさんに助けられて、無事に地上に戻ったそうです。パニックの間も、王月は栗子の袋を握りしめていて離さず、また歩きながら食べ続けたそうです。さすが。。。
張嵐は呉英良教授のところで博士課程を1年終えてから、2008年秋にぼくたちのところに来ました。その時の歓迎会が、この天潤だったそうです。呉英良教授のところも、何時もこの天潤だったので、もういい加減飽きていたのに、それから3年間また何時も研究室の集まりは大抵ここだったと言うことでした。
それまで研究室の人たちと何処で集まるか、ぼくたちは何時も悩んで探し続けていましたね。
個室があって人から邪魔されずにいられるというのは最大の要素です。大部屋では、中国人は声が大きいでしょ。それに負けないよう誰もが大声を出すので、大部屋では絶対落ち着きません。新洪記は美味しいレストランですが、新洪記の個室は少ないから、予約し難いという難点があります。
陸軍病院の金利飯店も何度か無理をして、行きましたよね。高価なところで注文を抑えたものだから、王くんの送別会の時なんか、皆食べたりなくて欲求不満でしたっけ。今はつぶれた孔府餃子店とか、陸軍病院の前の大餅の店はお気に入りでした。
そのうち暁艶が薬科大の研究室でよく使う店として天潤川菜食府を聞きつけてきました。一度食べに行ってみて、良しというので初めて研究室の集まりに使ったのが張嵐の歓迎会でしたね。さまざまな人数に対応する個室が多いので、それ以降何度も出掛けていますね。
それでも、2008年の9月には12人で365元だったのが、今度は同じく12人で508元でした。40%の値上がりです。おまけにひと皿の中身も少し減ったような気がしますね。段々と、ここも世知辛くなってきます。
大学はこうやって、毎年人を見送っていきます。別れは寂しいものですが、優秀な人材を育てて送り出していると言う気持ちが淋しさを償いますよね。そのうちにまた、もっと成長した彼らに会えるに違いないという確信が支えになるし、彼らの前途を祝して送り出す気持ちにさせますね。
ぼくは大盤振る舞いのサービスで、「オーソレミオ」を歌ったし、おまけに詩吟で「少年老い易く」を唸りました。この「少年老い易く」は以前学生の前で吟じたら、王麗なんか、「こんなの、もう、聴きたくないよお。沢山だよおお」と叫んだのを、さえは覚えているでしょ。だから、学生の世代交代に合わせて、一度吟じると3年は封印しているのですよ。
でも黄澄澄は前にも一度聴いたことがあると言いながらも、それでも、にっこりして、また聴きたいと言ってくれました。可愛いなあ。王麗もこういうところ、見習うといいのに。。。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
てえへんだあ、てえへんだあ。ビデオを撮るんだってよ。
瀋陽薬科大学は今年創立80周年の節目なのだそうです。そのために、引越を控えているのにあちこちお化粧直しをしていますが、昨日の午後、生化学科の主任の小張老師から電話があって、また新しい企画を知りました。
もちろん、彼女の電話は中国語を話す学生を呼んで欲しいと言うことで、ちょうど笑笑に電話に出て貰いました。
そしたら、ビデオを撮るのですって。
初めはぼくが学生に実験を指導しているところを撮るらしいと聞いたのですが、そうすると学生も出てくるわけですね。
じゃ君たち、お化粧して来なきゃいけないとか、着るものはミニスカートかなとかふざけているうちに、撮る対象は学生じゃないよと言うことになりました。
小張老師に、Why me? と尋ねたら、本大学の大事なリーダーだしなんて上手いことをいっていましたが、ちょろっと、Oldだし、と言っていました。そりゃ、今撮っておかないと90周年にはいそうもない人の一人ですものね。
つまりビデオに撮る対象はぼくらしいと分かってきました。30分くらい収録して1-2分のものに編集するみたいです。80周年を記念してその時の教授陣を写しておこうと言うことでしょうね。
部屋も掃除して綺麗にしておくようにとも言われたみたいです。写真じゃないから何かしているところを写すのでしょうね。実験指導なんて、毎週個別に指導しているところを写すのかなあ、あるいは、土曜日にセミナーをしていますが、ぼくが登場して話をしているところが良いかも知れませんね。
これから考えましょう。撮りに来るのは、明日7月1日の午前中ですって。
この頃神経が太くなって、どんなところを撮るのかなんて悩みは一切ありません。ビデオに映るんなら部屋を綺麗にしておかないといけないなあ、大分散らかっているから片付けが大変そう、と言うのが悩みです。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
来ましたよ、今朝、ビデオを撮りに。
9時40分頃、実験室から、朱さんと笑笑が駆けつけてきて「あと5分で来ますって」。
一方、ぼくは教授室で、暁艶とどんなシーンがよいかを考えていました。
1.研究室のセミナーでぼくが話しているところ
2.研究室のWeekly reportで、院生と実験の結果を検討しているところ
3.ぼくが書を描いているところ
4.実験室で院生と話をしているところ
これらのことを英語で話して、中国語で書き出して貰いました。
女性のDirector、カメラマン、そして助手の男女のスタッフが3人やってきました。この女性のDirectorが、どういうところを撮ろうかというので、暁艶が、こちらのシーンの候補を説明しますと、即座に、セミナーがよいと言うことになりました。
でも、問題は聴衆が3人しかいないのですよ。
うちの部屋は今4人しか残っていない上に、崔さんが楊静玉教授の講義を聞きに行ったで3人しかいません。そしたら、先方の若いスタッフ、男性一名、女性二名も一緒に参加してくれて、合計6人になりました。
ぼくの用意したセミナーは、5月に話したミツバチのロイヤルジェリーの論文です。もう、PPTにしてあります。皆、ロイヤルジェリーは知っているし、口にしたことだってあるし、話題としては一般的なので、実に好適ですね。
と言うことで、気楽に話を始めました。遺伝子が全く同じなのに、ロイヤルジェリーを食べて育った女王蜂の寿命は4-6年です。そして毎日自分の体重よりも重い卵を産み続けるのです。
女王蜂の大きさは働き蜂の2-3倍です、一方、働き蜂の寿命は30日で、恋も知らずに働き続けて死んでしまいます、昔からこのロイヤルジェリーのすばらしさを知っていたのですね。アレキサンダー大王の書にも出てくるし、マルコポーロも本に書いているのですって。中世には、死にかけたローマ法王がロイヤルジェリーで生き返ったという話しが残っています。
なんてことを話しているうちに、「はい、もう十分」と声が掛かりました。10分も話していないのに、ぼくのビデオとしては十分なのですね。院生の朱さんと笑笑も、クローズアップで撮っていたみたい。崔さんはいなくて、本当に残念でした。
ぼくは字を書いているところを、撮って欲しかったなあ。話をしないで良いから、きっといい絵になっただろうに。
昨日は午前中教授室の大掃除で、ぼくは窓まで拭いてしまいましたよ。8年ぶりに綺麗な窓ガラスになりました。院生たちは午後は実験室。綺麗にするのに午後全部掛かったみたいです。人数が少ないから、本当に大変だったと思います。それなのに、ビデオに撮ったのは教授室のセミナーをする一区画だけでした。
でも、こうやって座っていて、部屋が綺麗でとても気持ちが好いですね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
送別会で食事をしながらお喋りをしていていて、みんなで一緒に歌える歌がないねえという話になりました。
日語班出身人たちは、日本語を勉強する過程で日本の歌をいくつか習っていますし、日本語を勉強してアニメや映画も観ているので、結構ぼくの知らない今の歌を知っています。でも、日本語を話せる人は研究室の半分にもなりません。
ちょうど「北国の春」を日本語を勉強した学生たちと一緒に歌ったところだったので、出だしの「シラカバー」のところをぼくたちの研究で一番よく使う「PCR (Polymerase Chain Reaction)」にして、「ピーシーアアーール」なんて出だしの歌を作ったら楽しいね、なんて話になりました。
一緒に歌うとなると英語か中国語ですね。
それで、その翌日昼ご飯を食べながら考えました。
メロディは「北国の春」
シ ラ カ バー アオゾーラ ミナミーカーゼ
ピーシーアール是 我的生命 最愛的大事
(ピーシーアアーール だいすき わたしのいのち)
コブシサク アノオカ キタグニノ アア キタグニノーハール
忘了睡覚 忘了去 食堂 シェンマ 時候我 去熱沐浴
(寝ることも たべることもわすれ シャワーは何時だったかしら)
キセツガ トカイデーハ ワカラナイ ダロウト
我夢想 将来的博士 真帥的 愛人
(いつかは はかせになって すてきな あなたと)
トドイターオフクロノ チイサナツーツーミ アア
我住広大公 寓 里 只有一个孩子 ああ
(ひろいマンションに住むんだわ こどもはひとりだけ さあ)
アノフールサトヘ カエロカナ カエロカナ
開始実験 開始PCR 我経常夢想
(はじめるわ ピーシーアールよ わたしのゆめ)
朱Tongに見せたら、ここ何?と次々に訊かれました。中国語としては意味不明なのですね。でも全体としては、可愛い、面白い、と評判です。
皆で、なおしてくれるんですって。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
中国では共産党が設立90年を迎えて、7月1日には壮大なお祝いがあったようです。うちにはテレビもないので、その熱狂振りは知りませんが、インターネットによると、『胡総書記は、「中国を良くするカギは党にある」と党変革に取り組む決意を示した』ということです。(辞意通信)
『現在の共産党には「精神のたるみ」、「能力不足」、「大衆からの離脱」、「消極と腐敗」など、4つの危機に直面していると指摘。特に、腐敗問題については、「党の存亡の問題になる」、「腐敗を有効に弾圧せねば、党は人民の信任と支持を失う」と強調した。』そうです。(毎日新聞)
ところで、7月4日がもう直ぐです。1776年7月4日、トマス・ジェファーソンによりアメリカの独立宣言が発表されました。格調高い英語ですね。
“We hold these Truths to be self-evident, that all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the Pursuit of Happiness.”
翻訳:福澤諭吉(初出:『西洋事情』)があります。
天の人を生ずるは億兆皆同一轍にて、之に附与するに動かす可からざるの通義を以てす。即ち其通義とは人の自から生命を保し自由を求め幸福を祈るの類にて、他より之を如何ともす可らざるものなり。
http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/america/declar.htmによると:
我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.
実に格調高いですね。
ところで、おおむかしの中国の歴史を見ると、人権宣言は中国が初めてではないかと想わせます。
苛斂誅求の強大な法事国家が秦帝国です。農民が土木作業に遠くまでかり出されて、期限までに到着しないと斬罪という刑罰が待っている。その地に行っても遅刻で死、逃げても死なら、立ち上がって反抗しようじゃないか。
と仲間に説いても、周りの仲間は皆農民です、秦帝国に対しても、監視をしている兵隊に対しても反抗する勇気はありません。
そのとき陳勝は、「王侯将相いずくんぞ貴種有らんや」と叫びました。人は生まれながらにして、同じはずじゃないか?奴らだけが威張っているのはおかしいんじゃないか?
俺たち同じ人間だろ、元は同じなんだ、奴らにおびえる必要はないんだぞ。
それで同じ農民仲間600人が彼に付きました。秦帝国に対する最初の反乱軍の結成です。
陳勝は中国語では『王侯将相寧有?乎』と叫んだのです。史記によるとこの人は、「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と言う言葉でも有名な人物ですね。
『王侯将相寧有?乎』は、人は生まれながらにして、同じはずじゃないか?と言う強烈な言葉です。これは、世界最初の人権宣言じゃないですか。
こんな素晴らしい言葉を、既に二千数百年前に発していたのに、どうして中国人はそれを世界中に宣伝しないのでしょうね。世界無形遺産登録をしたらいいのに。
反乱軍が育っていく途中で彼は部下に殺されました。最後は劉邦が政権を手に入れたのでしたね。『王侯将相寧有?乎』と言う素晴らしい言葉を叫んだ陳勝は生き残らなかったから、そしてこの言葉が実行に移されなかったから、価値がないのでしょうか。でも、歴史に残された最古の人権宣言ですよね。
コメント:
泣きたくても涙がない みのもんだ さん
山形先生
2000年前、農民たちは刀を持つ軍隊に立ち向かいました。そして、政権を倒した。
今から20年前、学生たちが情熱だけで、装甲車、機関銃で武装した軍隊に立ち向かいました。見事に散った。
科学技術は何のために役に立つものなのか。私は恨みます。 (2011.07.04 13:01:15)
諂い坊主にはなりたくないけれど shanda さん
私はこの国のお客なので、禁断の場所に踏み込むことはできません。随分生ぬるいことを言っていると言う批判を甘んじで受けましょう。ここでしか研究を続けられないのですもの。ぼくは自分の身が可愛いのです。 (2011.07.04 19:37:55)
カテゴリ:生命科学
さえ:
七月に入って薬科大学は夏休みまであと二週間となりました。学部は試験週間に入ったと言うことです。それで、7月2日土曜日のセミナーに学部学生は全員来なくて、試験勉強に励んでいるようです。
セミナーで、朱Tongは大分前の論文だけれど新しい技術だし、是非話したいと言うことで2003年のJBCから、Target of EGR1(TOE1)を見つける話をしました。クロマチンIPを使ってEGR1抗体で落として、というのはクロマチンIPの常道ですが、そこからが違うのですね。EGR1抗体で落としたクロマチンDNAの断片の中に、狙っている遺伝子があるのだという証明に使うものだと想っていたのですが、これは違いました。
クロマチンIPで落ちてきたDNAフラグメントがどんな遺伝子であるかを同定するのです。その構造も内容もわかっていないのに、しかもDNAの断片なのに、どうやってそれを探すかということになりますね。
これをPCRのプライマーにして、そしてヒトの胚のcDNAライブラリーから、この遺伝子を釣ってこようというのです。
凄い、ぼくは全くこの技術を知りませんでした。良い勉強をさせて貰いました。
でも、朱Tongの説明が良くなくて、ぼくたちはじめは大いに混乱しました。他人に初めてのことを分からせるのは、本人がきちんと理解していないと大変難しいですよね。
このEGR1がプロモーターに付く遺伝子はTOE1と名付けられて、調べると、細胞核の中に局在する転写因子らしいことが分かりました。こういう、全く考えていなかったことが行われていて、新しい遺伝子が捕まったことにすっかり感心しました。
暁艶の話は九大のがんの研究でした。Natureのウエブ版です。大勢の研究者が何十年も、がんに特異的な物質を探していますね。それが見つかれば、診断に使えるし、それを狙ってやっつければ他の細胞がやられることなくがんに打ち勝てますね。でも未だにがん特異的なものは見つかっていません。
彼女の紹介した話は、がんはアポトーシスを起こさないようにそれに抵抗する機構を発達させますが、その物質を見つけたのでした。それにFEATと名付けて、その役割を調べたものでした。
FEATは正常な組織ではTestis以外には発現していません。調べた限り殆どのがんで発現していました。このFEAT遺伝子を発現させたマウスはやがて血液がんになります。
このFEATが発現しているかどうか、たとえば血清を調べることでヒトががんになりかけたかどうか分かると良いのですが、まだその研究はありませんでした。一寸がっかりですが、がんは自己そのものですから、がんを征圧するのは本当に難しいことなのだと思います。
だからというわけではないですが、ぼくたちは、がんの転移の機構を調べて転移を食い止められないか、と言う見方で研究をしています。転移さえなければがんは手術で取ってしまえばいいわけですよね。
と言いつつも、本流ではなく、傍流の研究です。研究費がない、設備がない、色々と言い訳がありますが、本当はその能力がないと言うことかも知れません。ま、そうかも知れないけれど、最善を尽くそうと思います。
セミナーは、陽暁艶、張笑、朱、崔、それに黄澄澄、王一任、林音知とぼくの8人でした。Professionalだけだったためか、論文に集中できて、終わったのが殆ど昼の12時でした。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
昨日、お隣の池島さんが手に紙をひらひらさせながらやってきて「これ知っていますか?」
見ると、本薬科大学、韓国の釜山大学、日本の金沢大学の「新薬開発」の合同シンポジウムのプログラムです。日程は7月4-6日。「えっ?今日からじゃないですか」と言う返事をするってことは、これが初耳(あるいは、初見ーと言うと違う意味になっちゃうねー)だと言うことです。
もういちど見るとレセプションが夕方からなので実際は5日、つまり今日なのですが、こんなことは聞いていません。
池島さんは、「いえ、ね。私のところには数日前に連絡があって、誰か講演をする学生を出して欲しいと言うのですよ」
「講演って言ったってねえ、今学生は休みに入っちゃったし、英語で話すと言ったって、誰でも話せるってものじゃなし、ともかく一人学生を推薦したんですよ。だけど、このシンポジウムのこと、先生聞いているかと思って来たのですよ」と池島さん。
と言われても、この頃は、何かしろと「急に言われても」驚かないし、何を「言われていなくても」驚かなくなってきましたよね。どちらもここでは当たり前すぎて、いちいち気にしていたら身が持たない國ですものね。
それにしても、国をまたいで三大学が合同でシンポジウムをするなら、その計画はかなり前から練っているはずで、まして主宰校が数日前になって誰か話せる人はいませんかなんて言ってくるなんて、信じられないことですね。
そんないい加減に合同シンポジウムを用意するとしたら、お客の他の大学の人たちに失礼なことですよね。
このシンポジウムが今日ここで開かれるとして、その掲示は今までに見たことはないですから、ここからは誰が出席するのでしょう。
ちゃんと会議の開催を周知徹底して、それなりの人たちが集まって、格好が付くようになっているのでしょうか。これもお客さまに対してそれなりの形がないと失礼ですものね。
ぼくなんか新薬開発に関係ないからお声が掛からなくて当然ですが、池島さんみたいな豪腕教授に声を掛けなくて、誰が出席して会議を盛り上げるのでしょうか。
ひとごとみたいだけれど、この大学のことだし、やはり、とても気になってしまいます。
カテゴリ:友だち
さえ:
夏至が過ぎて十日も経つと、もう秋の気配、なんて言うと大袈裟でしょうか。
今日は薄曇りです。昨日は時々小雨。梅雨の瀋陽なんて言うと、日本の気象台に、中国に梅雨はないと言って怒られるかも知れませんが、ここはまだ梅雨明けではないみたいです。
朝6時頃大学について、構内を一周してから研究室に行くのですけれど、湿っぽい冷たい空気です。
もう秋を感じるのは、朝のこの時間に殆ど人影がないからかなあ。と言っても、卒業生が大学を去っただけですけれどね。
歩きながら、頬をなでる風がもう涼しいし、見上げる銀杏の葉も、もう初夏の頃の水水しさを失っています。日本の銀杏に比べて葉が大きくありません、きっと寒いから、大きくならないまま、終末を迎えるのでしょう。この土地の銀杏は気の毒ですですね。木だって大きくなるのに凄く時間が掛かるのですよ。
人だってさまざまの人生ですが、ぼくなんか、とても良い、この上なく良い環境に育ったのに、ふらふらと過ごして来ましたね、やっと今、やることを見つけた感じです。この地の銀杏並みの人生ってところかなあ。
昨日、小陳老師に連絡が付きました。あの、ここに来る前の一年間、カルチャー教室で中国語を教わった先生です。やっと思い立ってメイルを書いたら、さえのことを悼む心のこもったメイルを頂いて、またMacの27インチのおおきなモニターに隠れて泣いてしまいました。
小陳老師を思う度に、ぼくは中国語が出来なくてと言うか、中国を勉強する能力がないことを恥ずかしく思います。
でも、中国語と中国人が大好きです。少しずつだけれど中国文明の真髄を吸収していきましょうね。
「敬業」という言葉はCasioの電子辞書にはないですが、自分の仕事、職業に責任、そして誇りを持ってそれに全力投球することですって。日本人は「敬業」だと思われているそうです。それを裏切ってはいけませんね。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
今は七月に入って学部生は試験シーズンでしょ。うちに帰るといっても寮で四人部屋だから、試験勉強には向いていないですよね。そのために、図書館は開館前から並んで場所を取っています。
このほかにもあちこちの教室が勉強用に夜遅くまで開放されているみたいです。
それ以外にも、校庭のあちこちの木陰の気に入りの場所にベンチを置いて勉強しています。
教授室から見えるのは400メートル一周のグランドを中心とした校庭で、周りがドロノキの並木に囲まれて、とても良い感じに日陰を作っています。そこで勉強に熱中する学生たち。
これだけなら美しい風景なのですが、問題はその後。
彼らがいた場所の周りは紙くず、食べかすで大いに散らかっています。監視しているわけではないので正確なことは分かりませんが、殆どの学生は座っていたあとを思いっきり散らかしていきます。
綺麗にしようという気持ちが、全くないのですね。ぼくたちにはどうしても理解出来ませんけれど、そのようにして育っていれば、逆にどうして綺麗にしなきゃいけないの?ということになるのでしょうか。
こういうのを見て日本人は、中国人の民度が低いと言って切り捨ててしまいますが、単に習慣の違いと言ってはいけないでしょうか。育つときの教育が違うからですよ。
日本人は蕎麦を食べるとき、あるいはうどんを食べるとき音をたてて啜りますね。西洋人は露骨に嫌な顔をしますから、日本人は経験で学んで、彼らの前では、蕎麦を噛んで食べるようになります。この蕎麦を啜る音は、中国人も、たてないのですよ。日本人の蕎麦を啜る音は彼らには奇異に映ります。野蛮と映っているかどうかは知りませんけれど。
鼻をかむ音を日本人は気にしますね。同じようにトイレの音も気にしているみたいだけれど。西欧人は人前でも、鼻を思いっきり音をたててかみますね。彼らの文明では忌諱されていないのです。
同じように、中国文明でも、自分の回りを散らかすことは忌諱されていないのでしょう。それが美しくないと映じるようになったら、きっと中国の風景も変わるでしょう。
日本と中国の間の互いの穏やかでない感情と言い、教育や、育ったときの環境(これを文明と呼ぶのでしょう)は人間に決定的な影響を及ぼしますね。
だから教育は恐いです。教育の効果を真に認識した上で、どこの國でも子供には立派な人間に育つような教育をして欲しいですね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
関さんの論文は6月までに何とかしなくちゃと思って、Resultsのところを書いたのは昨年の秋だった思います。そのあと、さえのことで日本に行きましたし、何も出来ませんでしたが、出来上がったResultsを渡して、IntroductionとDiscussionを書くように言ったのはこの春だったと思います。
Introductionを書いてきたのを、関さんを前にして根本的に書き直し始めたのは4月だったのじゃないかなあ。
結局、目の前で一緒に直していく作業が出来ないほどだったので、Caveolin-1のところはちゃんと書きなさい、あとはぼくが書くからと言いました。図を描き直して、その説明も書いてきたのが5月かな。
論文をどうやって書くかを伝えなくてはならないので、じゃ一緒に作業しようと言ったのに、ちっとも音沙汰なしで7月に入ってしまいました。
6月の終わりにキャンパスの中で出合ったら「忙しい、忙しい」と言うことでした。関さんの問題だから、まあいいか、と思ったのですが、Introductionと abstractを書いて、さらに図の変更も細かく指摘して、Figure legendも書いたら、昨日の夕方やってきました。
ここまで延びたら、延びついでに、あと二つ大いに意味のある実験を加えようと提案しました。
SiRNAを注文して手に入れば、出来る実験ですが、もちろんやるのは関さんではなく、彼女も、端から他人がやるものと思っているんですよ。こちらも関さんでは信用できないから、誰か研究室の信用できる人の手を借りてやろうと思っています。
もちろん、その時はその人も論文の著者として連名になりますね。
研究の中の一つとして、L-type Calcium channelのIsoformを調べたら、4種類のうちIsoform cしか発現していなかったので、この研究ではその先、それだけを調べています。この細胞で調べたらIsoform cしか発現していないという結果をSupplementary Figureとして載せる必要があるとぼくが言うと、4種類のうち一つしか発現していなかったのだから、言葉だけで良い、と言うのです。
言葉だけで済むなら、苦労して実験をする必要はないでしょ。嘘を書き綴ったってよい訳ですね。
実験した結果を確かな証拠として、皆に見せて信用して貰らえる証拠を出すから、結果が受け入れられるわけです。そこのところが、関さんは分からないみたいです。
そこまで言うなら、あなたの研究は、すべて実験結果の図なしで、言葉だけで言いたいことを主張できるということですよ。あなたは無茶なことを言っているのですよ。それでこの世界に通用するのですか。それで、誰が信用するのですか?
あなたの言いたいことを裏付ける確かな結果を見せられるから、見た人が主張を受け入れてくれるのでしょ。
ぼくの説明で、関さんは面倒になったみたいで、「分かった」と言っていましたが、本当でしょうか。
学位を取ってこの大学の助教授になろうかという時に、こんなことを平気で言うようでは、実際、ぼくは彼女のすべてを疑ってしまいますね。
それでも、関さんを助けているぼく。一体、ぼくはどうなっているのだろう。もう仏さまの心を通り越してしまったのではないだろうか。。。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
瀋陽では六月に入ると殆ど何時も上に着るのはTシャツですよね。瀋陽はまだ、例の梅雨が明けないらしく、始終小雨が降りますし、このところ最高気温が24度くらいと言うこともありますが、それでもTシャツです。
それで夏にはTシャツ姿になることを見越して、春頃から身体を鍛えて腕が余りに細くてみっともないように務めているんですよ。大胸筋に筋肉を付けるのは大変なことで、とてもそんなところまで出来ませんが、上腕二頭筋(力こぶ)や外側の上腕三頭筋は、割りに簡単に鍛えられますよね。
おまけに、これも身体を鍛える目的で週に2-3回は1時間くらい歩き回るので、よく食べるようになりました。もともと、さえの一件のあと、62Kgまで体重が落ちてしまい、皆が心配して食べるようにしきりに案じるものだから、今ではまた丸々と脂がのっているのですよ。
お腹がはち切れそうなのが気になって、とうとう一昨日、朝からミニトマトだけに切り替えました。
ところが二日目は、同じく何も食べないぞと決めたのに、朝から考えるのは食べもののことだけ。
昼からは分子生物の採点を始めて、頭を使うのに、こんなんじゃやっていられないやという感じでした。
夕方には、もう一つの試験の採点も持ち込まれて、その時、相棒の王老師が、学生の採点のことでなにか案配するようなことを口にしたので、私はきっぱりと、撥ね付けました。彼女も私に同意しました。もっと上のレベルからの依頼のようでした。ぼくたちは、生化学科では一番の下っ端です。
話には聞いたことがありますが、大学側が不正に手を貸しているなんてことが実際にあるのですね。大部分の学生は真面目に勉強しているのに、親の偉い風を背負った学生、あるいは大学の同僚の子弟のためにこういうことが行われているのでしょうか。
それで、この世の中の不条理にむかむかと腹を立てた挙げ句、夜のご飯はリバウンドも良いところ、もうむちゃくちゃにお腹に詰め込みました。
スマートなぼくのお腹は、しばらく見られそうもありません。。。
カテゴリ:友だち
さえ:
中川さんを覚えているでしょ?高橋さんにくっついていた?
ミツカンにいた頃は、本当に可愛い青年でしたね。
中川さんは高橋禮子さんのN-グリカンの分析法に魅せられてしまい、その道にどっぷりとはまり込んで、ミツカンを辞めて、それからしばらくしてラホヤのBuhrnam Instituteに行きました。そのあと、北大の西村さんのところに紹介したら、そこに8年いて、西村研究室の発展に大いに貢献しました。二年前、寄付講座の解消に伴い、誘われてHitachi High Technologiesに移って、いまはグローバウアプリケーションセンターという名前の組織にいてマネジメントをしています。
彼が北大を去るときに調べたのですが、北大にいた8年の間に30報以上の(今回、訊いたら35-36報だろうと言っていました)論文を出したのですよ。糖の合成屋で畑違いの西村さんにとっては、幸福の女神が、鴨ネギと一緒に舞い降りたようなものでしたね。
高橋さんの分析法で、彼が一歩進めたところは、オリゴ糖鎖の構造分析だけではなく、オリゴ糖がペプチドに付いたままの糖ペプチド(の糖鎖そしてペプチド配列も)を分析することを可能にしたことでしょうね。これは凄い情報量の増加を意味します。
これからどんどん糖鎖を持つ糖タンパク質の分析が為されると良いのですよね。時代はそれを待っていますけれど、やりたがる人が少ないのが難点ですね。
ですから、ぼくは彼がHitachiでマネージメントに精を出すのは、もちろんそれはそれでよいけれど、同時に、この薬科大学に講座を持って学生を育てながら、そこで生薬の糖ペプチド分析をしたら、世の中に素晴らしい貢献をすることになるんじゃないかと思いますね。
だって、中川さんはどちらかというと外連味のない真っ正直な性格の人なので、研究者には向いているけれど、ちょっと風呂敷を広げて夢をも正夢と思わせる仕事には向いていないんじゃないかと思うのですよ。
これは彼をけなしているのではありませんし、ビジネスを軽んじているわけではありません。あくまで、言葉の綾です。真意を間違えないでね。
その中川さんが、Hitachiが大連にこの6月からApplication Centerを作ったそうですが、そこを監督かたがた瀋陽まで足を伸ばして訪ねてくれたのでした。この薬科大学出身の素敵な女性が、仕事のパートナーとして採用されていて、彼と一緒に訪ねてきました。
今、彼女はもちろん大連に住んでいるそうです。陳陽の同級生ですって。と言うか、ぼくが分子生物学を教えたのですって。中薬を教えたときの最初の学生だったのですね。
昨日の土曜日の、ちょうど僕たちのセミナーが終わる頃でしたので、学生共々、唐萱閣の食事に誘いました。楽しく食べて、談笑して、さて支払と言うとき、結局、ご馳走になってしまいました。
そのあと部屋に戻ってから二時間半、彼の以前の研究の話、今の仕事の話、人生経験、色々と聞かせて貰って、ぼくも学生も感心することしきりでした。
こういう、多彩な人生を送っている人の話を聴くのはとても良いことですね。もっと付き合ってお喋りをしたかったのですが、例の採点、3年生60人、4年生90人の答案を抱えていて、明日昼までに採点を終えなくてはならず、6時に送り出しました。
そのあと試験の採点をしていてうちには9時半に帰ったのですが、ずっと朝の3時まで全く寝られませんでした。つまり、久しぶりに日本語を話したのと、糖の構造の話を聞くことが出来たこと、それと信頼できる友人と久しぶりに心を開いて話が出来て、かなり興奮したのですね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ おさえ:
疲れちゃった。もうれつ、もう死にそうなくらい。
金曜日に試験の答案を受け取って3時間、土曜日に中川さんたちが帰ってから、3時間。そして昨日は一日中働いて、実質11時間。合計17時間を150人分の答案にあてました。
割り算をすると一人あたり6.8分。長短あるから一つ見るのに、5分から8分掛けたってことでしょうね。
読みにくい日本語ばかりですが、皆一生懸命書こうとしているのですよ。言いたいことを探って上げないといけません。
と言うわけで疲れまくりの昨夜7時頃、もう何もする元気のない私を暁艶が誘ってくれました。スーパーの大福源に買い物に行こう。途中で何か食べましょう。
でも、歩いている途中でもう厭になりました。身体中が歩くことに反抗しています。
「じゃ、ここからだとちょっと遠回りになるけれど、新しくできたモールに行きませんか?」と、暁艶。
二週間前に、「萬象城」というモールが展覧館の北側に出来て、開店の時に行ったのですって。
日本の青山にしゃれたモール「表参道ヒルズ」があるでしょ。 鴨居に「ららぽーと横浜」があるでしょ。
行ってみると、「表参道ヒルズ」よりももっとしゃれた作りで、「ららぽーと横浜」よりももっと大きくて、ただ唖然、ぼう然。未だに、昨夜のあのときは夢の中にいたみたい。
6階に行くと食通天美食広場があって、広い開放空間を囲んで広州○○とかこぎれいな店が並んでいます。真ん中の空間を見下ろすと、下の階のスケートリンクで滑っている人たちが見られます。半袖のTシャツで滑っているのですよ。
食べ物を買うのは、その場の現金払いでなく、お客は別の場所でカードにお金をデポジットして、このカードで会計する仕組みなのですね。ここを離れるときにカードの残金は清算できます。綺麗にやっていくための見事なシステムですね。
こういう美食広場は、瀋陽の繁華街の中街でも結局ごちゃごちゃと薄汚くなってしまうのですが、いま、この広場のテーブルで食べている人たちもきちんと綺麗ですし、申し訳ない表現だけれど、中国にいるとは信じられない光景でした。
きっと、お金持ちという特別の人たちが集まっているのでしょうね。
「ラーメン」という日本語の広告が眼に入ったので、ぼくはそこに行こうと暁艶を誘いました。大勝軒というもとは池袋のラーメン屋さんが中國にチェーン店を作って成功しているんですって。
メーニューを見て、豆腐、納豆、サンマをラーメン二つの他に注文しました。納豆は泣きたいくらい美味しかったなあ。サンマは失敗。良いサンマが手に入らないからでしょうね。ラーメンは日本の味でした。つい、嬉しくて汁まで、殆ど残さず食べてしまいました。これで73元。
そのあと、ウインドショッピング。2プロック歩いてうちに帰ったら、もう殆ど10時でした。
こんな素敵なモールが直ぐ傍に出来たのに、ぼくたちあと1-2年で、遙か北の片田舎に引っ越すんですよ。やれやれ。
カテゴリ:さえへの日記
さえ
たとえば、7月11日付きのRecord Chinaには、『中国の高速鉄道は「巨人」、日本は「チビ」』なんて言う、刺激的な記事が載っています。(Record China 7月11日(月)19時59分配信)
中国の高速鉄道が5年前に誕生して以来、路線の総延長でも、最高時速でも日本を遙かに抜き去ったというのは事実ですが、すべては国産技術だと主張して海外に特許申請し、世界標準を狙っている事態になって、とうとう日本でも、「そりゃないだろう」と言うことになってきました。
日本のマスコミは「日本の新幹線の海賊版だ」と批難し、中国の鉄道部は『日本は「ぬけぬけと大きなことを言っている」と一蹴。中国高速鉄道の技術指標のほとんどが日本の新幹線を大きく超えており、「海賊版」報道には何の根拠もない』と言っています。
お互いに相手を不快にしようとおとしめ合っています。『宋暁軍特約解説員は「数字の上では、中国の高速鉄道は『巨人』で日本の高速鉄道は『チビ』」と指摘。日本の新幹線は時速200kmが基準で総延長は2000kmだが、中国はすでに総延長8300kmに達し、今年新たに4715kmが開通する計画だと胸を張った』
「高速鉄道のもとの技術は日本、ドイツ、フランスから供与されたものだ」と謙虚に認めた上で、しかし、「中国はさらに改革を加えて、日本よりも早い最高速度と達成できるに至った。その改良部分について特許を申請する」というならば、恐らく、日本の人たちは忌々しくても、納得できるのではないでしょうか。
もちろん、一説には、今までの技術のままで速度だけ目一杯上げた(から危険で乗れない)という報道もあるので、真に新技術が加わったかどうか分かりませんが、もとの技術を供与されてそれを利用したことを「謙虚に」認める態度がないことが、日本人の気持ちを逆なでしているのでしょう。
一般的に言って、中国人は「謙虚では」ありません。遠慮して自分の主張しなかったら、ひとの陰に隠れて自分の存在が消えてしまうからです。これは比喩的表現ではなく、文字通りです。べらぼうな人口なのですよ。彼らは子供の時から、クラスで、そして学校で一番になるよう勉強し続けます。クラスの仲間は友だちではなく蹴落とすべき敵なのですよ。
人に弱みを見せたら負けです。ですから、何かあっても、決して謝りません。実験室で大事な器具を過ちで壊しても、彼らは決して「壊してしまいました」とは言ってきません。「壊れています」あるいは「壊れました」です。こちらは、再度壊れるのを防ぐために、どういう状況でどうして壊れたかを知りたいのに、それは決して分かりません。
「自分の非を認める」とか、「謙虚であれ」とかは日本の中だけで通用する規範ですよね。地球人が火星人と初めて相まみえて戦うとしたら、戦いで自分たちの通念が彼らに通じないと言ったって、滑稽なだけでしょ。
上記の問題では、新幹線技術を中国側に供与するとき、日本側がどのような契約を結んだか、これがすべてでしょうね。記録されていない紳士協定なんかを守るのは、馬鹿と日本人くらいに思われているんだと思いますよ。
コメント:
哀れな現実 みのもんだ さん
先生のおっしゃるとおりですね。いくらなんでもやり過ぎです。
「技術供与の時はどのような契約をした」って、入札競争のため、かなりの犠牲をしたのではと想像できます。
残念ながら、日本もいろんな意味で、ガラパゴス状態から脱却し、「世界のスタンダード」に近づけています。日本原発の利権構造、政府、政党、独占企業、自治体の首長(知事、町長等)、みんな怪しいですよ。福島産の牛乳を西日本に輸送して、現地の牛乳と混ぜ合わせて放射能の値を低くして市場に流出して子供たちに飲ませていますよ。科学者として、良心的なものとして、それは理解できますか。おかしいですよ。正直者は馬鹿をみる、その傾向ますます加速しています。
人間社会はそんなもんでしょうね、きっと。所詮生き物です。 (2011.07.12 12:57:49)
Re:馬鹿と日本人だけが守るもの(07/12) shanda さん
貴兄もいらいらしておられる口ですね。
私が言いたいのは、生まれも育ちも違う、つまり文化的背景の違う中国人を私たちの感覚で考えるから齟齬をきたし、誤解を招く、ということですよ。
全くものの考え方が違うのですから、新幹線問題でこの國に人たちがあのように反応するのは、ある意味で当然なのだろうと思います。 (2011.07.12 17:43:13)
カテゴリ:生命科学
さえ:
試験の採点をしたと書いたでしょ。
3年生は100点のうち35点。4年生は5点がぼくの持ち点でした。これは講義の時間で按分されています。
相棒は、日本に数年留学した若さ溢れる王老師。
ぼくが採点して終わ端から彼女に渡して、それで全体の成績が出てきました。
3年生のA班(31人)は60点以上が89.7%
3年生のB班(32人)は60点以上が90.0%
4年生のA班(31人)は60点以上が64.5%
4年生のB班(30人)は60点以上が90.3%
4年生のC班(32人)は60点以上が67.6%
ちなみに3年生は二組が同じ試験問題。4年生は三組が同じ試験問題で、どちらも等質に作っています。
4年生のA班と4年生のC班のできが悪くて、頭を抱えてしまいました。
試験の成績が悪いと、ここでは、教師も追求されるそうです。ちゃんと教えたか。適切な試験問題を出したか。
同じように教えていて、4年生のB班は60点以上が90.3%で、3年生の二組と同じ数値ですね。と言うことは、ちゃんと出来る学生はB班にいるのだから、他のB班とC班のクラスの学生が不勉強だったと言うことになるでしょうね。
講義は一緒にしているのですよ。それなのにどうして、違いが出てしまうのでしょうね。彼らにモティベーションを保たせるよう、毎回、ちょっと考えると解ける問題を出したりうんと工夫をしているつもりですが、まだ足りないか、見当違いなのかも知れません。
3年生には、「 あるバクテリア(原核生物です)の全ゲノム分析が初めて行われました。2.0 x 109の塩基対が並んでいました。この中にある遺伝子を予測するためにはどうしたらよいですか。(配点4)」という問題をだしました。
答案を見ると、端から出来ていないのですね。みんなが出来ないなら、問題が悪いと言うことにして、これを削って、只で4点を上げてしまう)ことにしようかと思っていたら、
ひとりは「原核生物の遺伝子はPribnow boxからmRNAの転写が始まる。このコンセンサス配列は-10位前後の6塩基である。上流の-35付近には、コンセンサス配列がある。つまりこれらの配列を探せば、構造遺伝子を見つけられる。」と書いていました。
もう一人は「原核生物でmRNAの翻訳に必要なShine-Dalgno配列がある。16S rRNAと相補的な配列なので、翻訳開始位置が決まる。これに目を付ければこれは遺伝子の翻訳位置を示している。」
と書いていました。それぞれ転写と翻訳のところで学ぶことですが、ちょっと頭を使えばこれが遺伝子の特徴的な部分だと分かるはずだと踏んで、問題を出したのですね。
この二人のお陰で残りの人たちは只で貰えたかも知れない4点をふいにしましたが、それでも3年生の90%が合格点だったわけですね。
でも、来年度からは試験問題を工夫して、採点が楽になるようにしましょう。今度は、殆どが答をじっくり読んで、それで良いかどうか、こちらが考えることになったので、とても疲れたからです。それから二日経っても、まだ疲れているなあと思うのですよ。一人あたり2-3分の採点で済むような試験問題を考えましょう。
コメント:
Re:分子生物学の採点を終えて(07/13) hu dan さん
先生のBlogを読んで勉強になりました。“この中にある遺伝子を予測するためにはどうしたらよいですか”と質問を読んだとき "ある遺伝子”はほかの生物にすでに配列をわかった遺伝子と理解してしまってそれをHomology検索でしらべればわかるではないかと思い込んでしまいました。この中に存在する遺伝子を予測するためにはどうしたらよいですか”との質問ですね。 (2011.07.14 17:39:42)
Hu Danさん shanda さん
鋭い指摘ですね。その通りです。言葉が足りないですね。
(2011.07.14 21:12:58)
カテゴリ:薬科大学
さえ:
お隣の池島先生が彼の免疫薬理学の採点をした結果を持って話しに来られました。
細かなことは差し支えがありそうなので書きませんが、一致したのは学生がだんだん出来なくなってきた、それがとても顕著だ、と言うことでした。
学生が出来なくなったというのは実はどこでも、毎年言われることなのですよね。
でもね。採点をする先生たちは毎年少しずつでも成長し、向上しているわけですから、学生は同じレベルだとしても、差が開くわけですものね。
毎年、先生たちからみると差が開くばかりですから、「学生のレベルが低くなっていって、ものたりない」わけです。
でも、意欲的な学生の割合が減ってきたのではないかと思います。
日語班は成績で選ぶので女性が圧倒的に多く8割は女子学生です。ぼくの講義でも、女子学生は元気で前の席に陣取っていますが、男子学生は後ろに固まっていて、そばまで行って質問をしても、うつろな視線でぼやっとした返事が返ってくることが多いですね。
それで二人でお互い、このことでぼやくこと頻りでしたが、一つ良いことを聞きました。今、薬理の研究室では、どこもアポトーシスか、ネクローシスか、オートファジーをやるようになったのですって。
10年前に池島さんが瀋陽薬科大学の薬理に来たころは、他の研究室ではどこもやっていなかったのに、今はあちこちでやっていると言うことのようです。同じようなことをやるようになって、なおも差を付ける為に、大変なんですよと言うことでした。
生薬から新しい物質が精製できたとき、それがどんな薬理作用を持っているかを、培養動物細胞を使って調べるようになってきたわけですね。細胞培養に薬物を加えて細胞増殖が増えるか、減るか、を見るのは基本ですが、さらに細胞のアポトーシスを誘導するか調べて、そうなるとするとどのような経路でアポトーシスを誘導するかを調べる方法は、今ではうちの学生でも知っている常識です。
いままでここの薬理学研究室で、こういったことをやっていなかった方がおかしいのですよね。真似で始めたとしても、それで薬物の評価法として育っているなら、池島さんのここでの10年は大いに意味があったということじゃないですか。
それに引き替え、ぼくたちの研究は、博士の発表の時には審査員から口を極めて褒められますが、どこも真似しようとはしていません、裾野が広がりません。これじゃ、ぼくたちここで種をまいたことにはならないですね。ぼくたちがやっているように、未知な現象にチャレンジして、初めて生命科学らしい研究が始まるのに。
9月に、むかし東大にいてその後は帝京平成大学にうつり、そこでも定年になった林利彦先生がここの教授になるという話を聞きました。もうひとり大川先生という人も来るそうです。
この人たちが池島さんのようにこの大学の発展のために役立つように、祈っていましょう。
コメント:
生化学 HU DAN さん
今振り返ると私が大学のごろもちゃんと生化学を勉強していなかったですね。そのとき出た質問がPCRのFullnameが何ですかぐらい?先生たちもたんぱく質、糖、脂肪酸の代謝以外ほかに教えなかったようです。これから本当に系統的に勉強しなくちゃ (2011.07.14 18:00:37)
Hu Dan さん shanda さん
私は今でこそ何でも知っているように見えるでしょうけれど、学生の頃は不勉強で、解糖系の意味もちゃんと分かってはいませんでした。それを自覚しているから、今はちゃんと理解出来るように教えられるかなあ、と自分を慰めていますよ。 (2011.07.14 18:26:20)
Re:Hu Dan さん(07/14) hu dan さん
確かにおっしゃるとおりですね。やっぱり今までの経験があるから教科書に書いていることを理解しやすくなるでしょう。当時先生が教えても理解できないかもしれませんね。 (2011.07.14 18:55:51)
大学を出たばかりで shanda さん
この薬科大学は大学を出たばかりの人たちが、今度は教壇に立って教科書を読み上げて授業をしています。
これでは、本当に学生が気の毒です。 (2011.07.14 21:17:00)
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
昨日は寝坊しちゃったのですよ。暗い夜空の中で、何か音がしていてそれが黄色の線になって、それが切れてはまた続いて、8回繰り返しているのを、あ、2回、3回と数えていて、8回でそれが終わって、やっとそれは携帯電話が鳴っていたに違いない、と認識しました。それで、携帯が鳴っていたという言うことは、と頭が働き出しました。
目を開けて枕元の目覚まし時計をみると、8時40分です。あれ、ま。
起き上がって居間に行って携帯をみると、暁艶からでした。直ぐ電話をします。8時までにラボに来ていないのだから、すごく心配しているに決まっています。「ゴメンごめん、今、この電話で起きたところ、直ぐに出掛けるから」
ラボについて真っ先に実験室に顔を出して、皆に挨拶をしました。黄澄澄、暁艶、張嵐、崔、林。皆、にこにこしています。暁艶が言うには3度電話したのですって。電話をしても反応がないので、3度目は大いに心配だったそうです。ぼくは、その3回目でしか気付かなかったのですね。
じつは昨夜、崔さんに誘われて、あのゴージャスな萬象城に行ってデザートをたべましょうと誘われたのです。暁艶も誘われていて、7時に出掛けるというので、もっと早く出掛けて食事はぼくがご馳走しようということになりました。美女二人とデートです。胸躍りますね。
しかもここを6時に出て、萬象城の6階の美食広場について、豪壮なMallの中のエスカレーターを6階まで登り詰めて「Teppanyaki」に行きました。日本だって行ったことのない日本式のレストランに行って、豪華に食べたのですよ。
目の前の鉄板で料理をするコックさんは、あごのところに何かを付けています。これ、何か口を利いてもつばが目の下の調理中の料理に飛ばないための工夫なのですね。てきぱきと、動きはバレーのダンサーみたいに優雅で見とれてしまいます。実際、身体が綺麗に引き締まっていましたよ。
普通の週日の日なのに、子供連れが二組。どの人たちも着ているものは金が掛かっていそうです。一組のまだ2才くらいの可愛い女の子を連れた女性は、座っても帽子をかぶっています。帽子がアクセサリーという西洋式スタイルはここではまだとても珍しいですから、それを押し通せる生活レベルの人たちなのでしょうね。
かれらを眺めていると、ぼくたちが場違いな存在に思えてきてしまう、そのような雰囲気の場所でした。
終わって満記甜品という、日本で言うと「すみや(おおむかし、名古屋にありました。まだあるでしょうか)」みたいな店で、マンゴープリン、ココナッツタピオカ、のようなデザートをたっぷりご馳走になりました。
美女たちとデート、豪華なところで食事、興奮するのも当然ですよね。ずっと寝られなかったので、本を読んで朝の4時になったのが、昨日の朝寝坊の原因顛末記です。7月に入ってからは研究室の遅刻の罰金は終わっていますが、50元を箱に入れました。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
今日が7月16日土曜日で、大学は夏休みに入ります。うちの研究室は公式に夏休みにします。つまり休みたい人はどうぞ、研究をしたい人はどうぞ、と言うことです。
ちょうど一年前の今日が、さえが瀋陽の、この大学にいる最後の日となってしまいました。
2009年度は11月に三週間瀋陽に来て新しい卒研生の指導に一緒にあたってくれましたね。体調が良くなくないためにそのままずっと日本にいて、6月に入ってから9日間だけ瀋陽に来ましたね。病院の定期検診を受けに日本に戻ってから7月1日に再度瀋陽に来ました。
瀋陽では、毎日学生と実験の指導をしたほか、いろいろな人たちと集まって食事をしましたよね。
卒研生やうちの学生を連れて、4日の日曜日には大清花に一緒に食事に行きました。大清花は、教師の会の資料室が出来て、劉凱さんに教えられて出掛けたユニークな店なので、さえを連れて行きたいとずっと言っていましたっけ。
その時の写真もMacのスクリーンのバックグランドとして、時々目の前に出てきます。牛の骨の髄をストロ-で吸っているところが写っています。
近くの唐萱閣にも良く行きましたね。6月14日にはYao老師を招きましたし、16日には劉凱さんを引き合わせました。7月6日は、読売新聞の比嘉さん、8日には瀬井さんとAdamさんと食事をしました。
13日にはぼくが生化学を教えている3年生の学生10人くらいと又一順で食事をしましたし、14日には中街の専門店に絹のブラウスを買いに行きました。さえは派手だと言ったけれどぼくの選んだブラウスを着たさえが、にっこりと、あの素敵な笑顔のままMacのモニターに出てきます。
今思うと夢のような毎日でしたが、さえのノートを見ると毎日辛かったのですね。あの我慢強いさえが、痛みを書き残しています。
さえは本当に疲れてしまったらしく、15、16日には何の記載もないですね。ぼくのノートを見ても、15日夜うちでうどん、16日うちでスパゲッティと書いてあるだけでした。書いておけば良かったのにね。思い出せないですもの。
さてと、さえ。この夏は日本に戻りません。さえと一緒に15年暮らした日本のうちに戻って、さえがいないという現実に毎日直面することになると思うだけで、ぼくの気持ちはくじけます。
もちろん瀋陽だって一緒に暮らし、そして一緒に仕事をしてきた場所です。でも、ここは仕事場です、今でもさえと一緒に考えて研究を続けています。ぼくたちの研究に、ぼくは全力を注ぐことが出来ます。日本に戻って、うちで休息をするのが怖いのです。弱虫ですね。自分でも笑っちゃいますが、実際、これを書くだけでも泣いているのですよ。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
実験室527のエアコンが故障しました。もちろんメーカーに連絡したのですが、壊れた電子基盤を探して、もう見つからないという返事が来たので諦めました。
これで2003年に買ったエアコンは、培養室のエアコンを除いて、3台がアウトですね。
瀋陽はまだ薄曇り、時に雨模様の梅雨空で30度を超していますが、本格的な「梅雨明け」の前に新しいエアコンを入れなくっちゃと気がせいていました。やっと昨日の土曜日、ぼくと暁艶の都合が付いて午後遅く中街の蘇寧電器に行きました。
迷わずHaierのコーナーに行って、この前にも担当してくれた、シャーリー・マックレーンにちょっと似た女性が相手をしてくれて、あっという間に購入を決めました。3450元でした。
シャーリー・マックレーンと言っても、晩年ではなく、ビリー・ワイルダー監督のジャック・レモンと共演した「アパートの鍵貸します」に出ていた頃の彼女ですよ。つまり、ちょっと、可愛い。
目的の買い物が終わって5時。場所は中街。「じゃ、何をしようか、せっかっくなのに」と暁艶と相談しました。瀋陽の中心的商業地域の中街に、ぼくが来るのは8年間でも両手の指で数えられるくらいです。
「前から探していたあれを探しましょ」と暁艶はスポーツ用品の店を物色し始めました。
近くの家楽福で、野球の、あるいはソフトボールのバットを探したことがあるのですが、売っているのは、バレーボール、サッカーボール、バドミントンのセットくらいで、テニスのラケットがあったのには、ちょっと驚きでした。
スポーツ用品という店があっても、置いているのは壁いっぱいのシューズ、運動するためのアパレル、リュックサック、くらいで、専門的な用具はどこにもなかったのです。
中街の大通りを歩きながら店を二つ覗いてどこでも頭を振られましたが、Sporting何とかという店の6階まで行くと、金属バットを置いているのを見つけました。長いのが1種類あるだけで、重さが割と軽いのですが、他に選択の余地はありません。123元で買いました。
本当は、何故ぼくが野球のバットを買うのか自分でもはっきりしないのですよ。9月に理研を訪ねる予定ですが、Glyco研究の人たちが集まって時々ソフトボールをやっているというのを聞いているので、もし日程が合ったらやりたいですね、と希望を述べたのです。
でも、訪ねる日に試合があったとしても、これまでずっと身体を動かしたことがないし、大体走ったことなんてこの15年全くないですし、ソフトボールが出来るなって思ってもいませんが、やりたいという気持ちが、じゃバットを振ってみたいと言うことになったのでしょうね。
その気持ちが、実際に買うことに繋がるのですから、自分でも自分の考えをもてあましているところがありますね。
それでも、今朝6時半にラボに来て、広い廊下で、誰もいないのを確かめて、王貞治を思いながら素振りをしました。20回バット振ったら、息が上がってしまいましたけれど。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
2010年度の学年が終わって、この8月末から2011年度がスタートします。それで、ぼくの関心は、卒研生が何人来るか、そして来年度(2012年度)の修士入学希望者が何人くらいあるかってことです。
卒研生の希望者は毎年大勢いて、2009年度には7人も採ってしまい、それに懲りて昨年は3人に絞りました。でもこの二年間、薬学部からの修士入学希望者はいないのですね。
これは、学生がぼくの年齢を見てこれじゃやばそうと思って寄りつかないのだと思います。学生なら当然、まずそう言うところを見るでしょう。
こちらとしては、この大学で生命科学を学ぶなら最高のラボだと宣伝するしかないですね。他の人に失礼なので、これを口にしたことはないですが、内心はそう自負していますよ。
木曜日、一人の2年生が訪ねて来ました。ぼくたちは卒業研究で研究室に入ってくる学生以外のひとたちが、研究室にいるのを好みません。彼らは実験に触れたいと言うか、実験をやっている環境に身を置いて、研究室の雰囲気を味わいたいみたいですが、ぼくから見るとそれぞれの研究の邪魔になるとしか思えません。
うちの学生の時間は取られるし、実験室が生物的に汚染されます。
金曜日も一人の2年生が訪ねてきました。同じように、実験室で学びたいし、院生の研究を手伝いたい、といいます。気持ちは分かるけれど、本気で研究を手伝うまでになるのに、結構な手間とお金、そして貴重な時間が掛かります。
つまり、断りたいのにこの2年生がとても熱心なのですよ。しかも、話していて、良い感じなのですね。ちょっと話をするだけで、人柄に好感が持てる人っているでしょ。それなのですね。
この夏実験室にいるのは、暁艶と笑笑の二人ですが、色々とお喋りを続けているうちに、彼らが良いというならと譲歩しました。そのあと彼は暁艶に連れられて実験室を見に行ったのですが、1時間くらいして実験室にぼくが行ってみると、彼はまだそこにいました。
実験室の二人に聞くと、どうやら夏の間、実験室に出入りして先輩の実験を先ずは眺めるという交渉に成功したみたいです。
英語が滅法上手く、訊くと、英語でsoap operaを何時もみているからだと言うことでした。ぼくの知らないアメリカ口語が沢山出てきますが、意思の疎通は出来るでしょう。
大学院ではアメリカに行きたいみたいです。このような人を助けるのもぼくの仕事ですものね。そういえば昨年、Long Island Univ.に行った王新桃は、Yale Univ.に移ったそうです。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ おさえちゃん:
ビッグニュースですよ。「なでしこジャパン」が女子ワールドカップでアメリカを破って優勝したのですって。
もちろん、おさえちゃんがいたら、未明のテレビをしっかり見て観戦したでしょうね。ぼくも一緒に観たでしょう。興奮し続けて、今頃は疲れぐったりしているかも知れない。
朝6時にラボに来てMacをOnにしたらナデシコ優勝」のニュースが眼に飛び込んで、サッカーの記事を探し続けてむさぼるように読みました。どうしてか、涙が出ちゃいました。
以下は毎日新聞のネット記事です。記録として残しておきましょうね。
<サッカー女子W杯>日本、初優勝 PK戦の末
【フランクフルト(ドイツ)江連能弘】サッカーの女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会は17日(日本時間18日)、当地で決勝を行い、日本(なでしこジャパン)がPK戦の末、世界ランキング1位の米国を降し、初優勝した。年齢制限がないフル代表の国際大会で日本が優勝するのは男女を通じて初めて。澤(INAC)が通算5得点で大会得点王になり、大会の最優秀選手にも選ばれた。
日本は前半、米国の縦への速い攻めに再三ゴールを脅かされたが、無失点でしのいだ。後半半ば、速攻からモーガンに先制を許したが、35分過ぎ、右クロスのクリアボールを、ゴール前に詰めていた宮間(岡山湯郷)が押し込み同点とした。
延長前半の終了直前、ワンバックに頭で決められ、勝ち越されたが、延長後半、左CKから澤が押し込み再び追い付き、PK戦で決着がついた。
世界ランキング4位の日本は、1次リーグを2勝1敗で突破。準々決勝で3連覇を狙ったドイツを倒し、準決勝でスウェーデンに逆転勝ち。初の決勝進出で一気に頂点に立った。米国は3大会ぶり3度目の優勝を逃した。日本はW杯で95年大会のベスト8、五輪は08年北京大会の4位が過去最高だった。
カテゴリ:生命科学
さえ:
お休みっていいですね。
17日から研究室を夏休みにしていますが、何時ものようにぼくは大学に出てきています。それでも、なんと言っても、気分が違いますね。リラックスして、普段では考えないようなことも、考えられます。
ずっとぼくたちはガングリオシドGD1aの腫瘍の転移に於ける役割を調べているでしょ。大きく分けて三つの焦点を持っていますよね。
一つは、ガングリオシドGD1aが腫瘍の転移を抑えるときの、このガングリオシドGD1aのシグナルの最後の出口を調べて来ましたね。いままでに、Cav1、Stim1の発現が活性化され、MMP-9、TNFa、HGF、NOS2などの発現が抑えられることを見つけてきました。
一つは、シグナルの途中の経路です。ガングリオシドGD1aがNOS2を抑えるとき、MAPKを通ることを見つけましたし、その上流もかなり調べました。
シグナルの上流を探っているので、ガングリオシドが一番最初にどの分子を活性化するかと言う質問にも、近づいているはずですが、もう直ぐなのか、まだ遠いのか、じつはわかりません。
このシグナル伝達経路を調べる調べ方は、どうも、場当たり的というか、山勘的というか、この経路を想定して、当たればシグナルはその経路を通るし、外れれば何も分からないと言う実験の積み重ねです。
今、ぼくたちはこのシグナル伝達経路にどっぷりとはまり込んでいますが、このような実験のやり方はぼくたちの好みじゃないですね。
三つ目が、まさにこのガングリオシドGD1aのシグナルの最初の入り口ですね。GD1aに対する抗体を使って、一緒に沈殿してくるものの中に、シグナルが最初に伝わる分子があるという信念で実験を進めましたが、一年経って、この方法で絶対確実にその分子が拾えるわけではないらしいと言う結果に終わりました。
抗体が良くないのかも知れないし、方法、技術が良くなかったのかも知れません。こういうのは自分たちで成功の歴史がないと、ちょっと苦しいですね。
今から15年くらいまえに、ぼくが大きな研究班を持っていた頃仲間の○○先生に、GD1aのフォトアフィニティ標識を合成して戴きました。実験としては成功で、電気泳動でフォトアフィニティGD1aと結合した明瞭な二つのバンドが検出されました。
しかし合成されたフォトアフィニティGD1aの量が少なくて、その誘導体が正常のGD1aと同じ挙動をするかどうかの実験が出来なかったことがその価値を下げてしまいました。おまけに、当時は電気泳動のゲルの上の分子の同定はまだ出来ない時代でした。
今では、ゲル上のタンパク質の同定は原理的には可能なのです。と言うことは、この実験を繰り返せば答えに近づくはずです。
でも前回を上回る量のフォトアフィニティGD1aを作るとなるとGD1aが買えません。ウシの脳から、昔は自分たちでガングリオシドを抽出し精製しましたが、今ここではとても出来ません。
それで、生化学の実験が出来ない、しかも貧乏世帯のここでも出来る実験を色々と考えています。一つ思いついたのはレクチンを使う実験です。生きている細胞の上で、シアル酸特異的レクチンがGD1aに結合してくれて、しかも、GD1aの出しているシグナルを邪魔しないことが確認できれば、この実験が可能かも知れません。
この夏の間、もっと考えを練って、実験を少しでも始めてみましょうね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
2年前だったかな、ここで使っている細胞の培地が偽物だったことが分かって大騒ぎしたのは。
あれは世界中で信用して使っているInvitrogen社製のGibco印の培地で、インチキなのがうちに入っているのが分かったのですね。Invitrogen社に連絡すると、袋の表の印刷の字体がよく見ると違っていると教えてくれました。うちにこの培地を持ってきている業者を問い詰めると、数年前からこれにしている、どこにもこれを入れている、とのことでした。
おまけにどこの研究室も本物が高くて偽物が安いから、偽物と知っていて買っている。だからうちの知った上で使っていると思っていたのに、うちの研究室が激怒したので、先方も大いに驚いたとのことでした。
この業者はInvitrogenの正規の代理店ではなく、瀋陽には別に代理店があることは分かりました。調べてみると、そこでは正規の品物が高いのです。うちに来ている業者は、これからは正規の品を、そこよりも安く入れるからと言うので、そのまま取引を続けました。
業者との折衝をするのはうちではスタッフがいないので最高学年の学生が担当しています。この夏の卒業に伴い、係りが張嵐から陽暁艶に代わりました。彼女は業者に、偽物、おかしなものを持ってくるな、と厳しく言っています。
その業者が、今までInvitrogenの代理店でなかったのが、今年から正規の代理店になったというのだそうです。それで、陽暁艶は証拠を持ってきなさいと業者に言いました。
昨日、Invivogenの発行した「代理店証明書」が二通届きました。丸い印鑑が押してあります。中国では丸い印鑑は公印なのだそうです。ぼくが瀋陽にきたとき、研究室の印鑑を丸形で作ったら学生が「これじゃ公印ですよ」と言って心配しました。
うちの研究室だって、公印を押せるでしょ、と言ったのですが。ね、公的な存在でしょ。
陽暁艶が流石なのは、北京のInvitrogenに電話を掛けて、この証書が本物かどうかを確認したことです。偽物を作ることだってあり得ますものね。
「先生、大丈夫。本物でした」との報告を受けましたが、これだけしっかりしているから、この頃はものの納入も早いし、業者が来るたびに「陽老師」と言いつつ、緊張して尋ねてくるのも無理ないみたいですね。
カテゴリ:生命科学
さえ:
ぼくたちの研究には、どうしても結構高いガングリオシドGD1aを細胞に加える実験が必要ですよね。つい最近では、北京の和光代理店に注文して、5 mgで5900元を2本買いました。
円に換算しなくても2本10 mgでは、ぼくの給料から半分を研究費に入れているお金の3ヶ月分ですから、高価なものですよね。それがもう、なくなりそうになったというので、昨日暁艶が北京に電話をしました。
するともう日本から手に入らないと言うことです。ウシの脳の製品だからと言うことですが、ウシの狂牛病の話は大分前のことですよね。それでも税関が絡んでいるとなると、輸入は可能ではありません。
それでネットで色々調べて、Alexisと言う会社の製品にGD1aがあることを見つけました。ネットで調べると値段はInquire(問い合わせろ)と言うことです。こちらの情報を入れると、5分くらいして、北京の中国の「北京?特博生物技?有限?任公司」という名前の会社からメイルが来ました。
確かに、ぼくの名前と連絡先をE-mailと電話で入れて、國はChinaですから、中国の第零店から直ちに返事が来てよい訳ですね。単に値段だけが分かるだけでなく、こうやって代理店から連絡があると、買うという行為が背中を押されて進みますよね。
暁艶が電話をして内容を確認しました。個人の送金は受け付けないが、大学から支払うという契約書を交わせれば、直ちに送るというのです。
よし、それではそれで行こうと、一瓶を注文して、先方からは契約書が送られてきました。こちらがサインすれば良いように出来ています。ぼくがサインをすると暁艶がそれを送りかえそうとして「あれ、今は大学は休みですね」と叫びました。夏休みはこの大学の事務は全く、完全に停止です。つまり大学から送金できません。
それで暁艶が又先方に電話をしました。そうすると、銀行送金でぼくが自分の金を振り込めば、正規の領収書を発行してくれて、あとで大学から還付を受けられるようにしてくれることが分かりました。
しかも中国でのこういう取引は、先に金を払わないと送ってきませんが、このGD1aが輸入できるかどうか分からないから、先ず注文を受けて手に入ることが分かってから送金してくれと言うことでした。
ともかく感じ入ったのは、てきぱきしていて、どんどん話が進められると言うことです。実はこのようなことは、中国では今まで殆どなかったことでした。変化を感じます。
GDPが世界第二位になった中国らしく、物事を処理する能率も上がったと言うことでしょうか。大変結構で、嬉しい話ですね。
Alexisと言う会社は米国にある会社だと思いますが、米国では狂牛病は出なかったのでしたっけ。それとも日本製が輸入できないのは、1年前に日本の、特に宮崎県で騒ぎになった口蹄疫ウイルスを避けるためでしょうか。
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さえ
「野球のバットを買いました」と書いた7月17日の前の日に、中街の電気屋に出掛けていって527号室用のエアコンを買いました。故障の買い換えですから、前のを取り外さなくてはいけませんが、それも買うときに交渉して取り外しの費用込みのはずでした。
やっと21日の朝早く、7時前に業者が来たのですが、まだ前の器械が外していないのをみて、それじゃ帰ると言い出しました。
「自分たちが外すなんて聞いていないし、道具だってない、人数だって足りない」
それだけ聞けばまともなのですが、実は前日、外すための業者から私たちに連絡があって、「自分たちはいけないけれど、新しいエアコンを取り付ける人たちが外す操作もやる」と、私たちは聞いていたからです。
だから、その時間に呼び集められたうちの院生は激怒しました。「本来夏休みなのに、そして朝の7時だというのに、何でこんなことになるの?」と思っているのです。「お化粧もしないで、朝ご飯も食べないで来ているのに、それが無駄になるの? 話が違うじゃない。許せない。」
527号室では、エアコンのある窓側に業者は立っているので、部屋の入り口に仁王立ちになったうちの美女軍団四人の怒りの眼差しに射すくめられて、とうとう彼らが前のエアコンを外すことになり、ようやく取り付けも完了しました。
それでも取り外しの費用として60元取られました。
そのあとで、元々取り外す予定の人が来て、今度は150元をぼくのところに置いていきました。すっかり訳が分からなくなって、暁艶から説明を聞きました。
エアコンの取り替えで古いエアコンが外されると、それは國が300元で引き取ってくれるそうです。今回、古い機器を外すのは、新しくエアコンを買った蘇寧電器傘下の業者で、取り付けももちろん蘇寧電器の従業員か、同じく傘下の業者です。
結局ごちゃごちゃしたのは、この蘇寧電器の中での連絡が悪かったから、と断じて良いようです。中国的には、さもありそうなことです。でも、うちの学生たちが、それを譲らずがん張って、取り付けに来た人に予定外の外す作業を強いたのも、これも中国的ですね。日本だったら、元々来るはずの人に連絡して責任を取らせるでしょう。
予定と違った人が外したので、彼らにぼくたちは取り外し費用を60元払ったのですが、もちろん釈然としませんでした。さらに、元々外す人が来て150元をこちらに払っていったので、何が何だか分からなかったのです。結局納得したのは、國が引き取る300元というのは安すぎて、実際はもっと高値で捌けるのだそうです。だから150 ? 60 = 90元を私たちに払っても、十分儲かるから良いのだと言うことのようでした。
リサイクルの機器を300元で政府が引き取る制度があっても、実はもっと価値があるから、それを300元以上で(今回は390元で)引き取る業者がいても不思議はないわけですね。
それでも面白いのは、買ったときの、私たちが、古い機器と交換するという証明を見せることで300元を政府から受け取ってこられることです。この古い機器は政府に行かないかも知れないのにね。
この300元のために時間を使って取りに行かなくてはならないので、これも能率良く、買うときに、払う費用から差し引くとか、簡便化できないのかなと思ってしまいました。
ともかく、中国で生きていくためには、抜け目なく生きないといけません。そしてタフでないといけません。優しかったら生きていられません。他人に言い負けていたら、自分は生きていけないのですよ、ここでは。
ひ弱な日本人のビジネスマンは、これからは中国で研修を受けることにしたらどうでしょう。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
「タフでないと生きていけない」と書いたあとですと、「やさしくなければ生きていく資格がない」と続けたいところですね。フィリップ・マーロウの言ったこの科白は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」なのだそうです。
英語で覚えていて使いましょう。格好いいですものね。
この中国で生きていくためには、人はタフでなくては生き抜くことは出来ません。これは男だけでなく女もそうですね。実際、中国で女性のタフネスにはびっくりしました。市場でみると、売り手であれ、買い手であれ、女性は非常にタフです。そういう意味では、大和なでしこでイメージされる日本女性なんて、絶滅目前貴重品種ですよね。
もっとも、実際の女子サッカーのなでしこ軍団の選手たちは、当然のこと非常に身体も心もタフで、サッカーの試合ではもちろんのこと、他のことでも中国の女性に負けないでしょう。
ここは中国ですから、中国の男も「タフでないと生きていけない」のは当然ですが、かれらに、「やさしくなければ生きていく資格がない」と要求してよいでしょうか。
これを要求すると言うことは、彼らは上記の意味では「やさしくない」とぼくが思っていると言うことですね。
というのは、中国でニュースを見ていると、中国では権力組織に頼って、その権威で生きていくこと、それで人の上に立ち、人よりも良い思いをすることが、人生の生きる意義だと思っているみたいに感じます。つまり、人に対して思いやりとか、優しさに欠けている人たちが多いのではないでしょうか。
『民衆の怒りは「爆発スタンバイ中」、共産党を吹き飛ばすかも―独紙(サーチナ2011年 6月21日)』というのがありました。
『福建省、甘粛省、内モンゴル自治区、広東省など、中国国内各地で民衆の怒りが爆発している。これらの事件は見たところ関連性がなく、抗議のやり方もバラバラだ。しかし、これらの騒ぎには明確な共通点がある。騒乱を起こしたのは、繰り返し不公平な待遇を受け、窮地に陥り、解決に至る合法的な方法が見つからない人々だ。』
『共産党指導層は、このような情勢に対し、狼狽の色を隠せない。同時に、ただ警棒を振り回し、高圧的に住民を抑え込もうとする以外の解決方法もない。政府指導層は、大きな社会問題に直面していることを熟知しており、中国社会は現在、岐路に立っている。』
つまり体制側の人たちは、他人に対する目配りは自分の利益になるかどうかだけが主体で、一般の人たちは眼に全く映じていないみたいです。ですから、自分を客観的にみて、自分の行いが優しいかどうかを省みるなんてことは全くなく生きているようです。
つまり、優しくなければ生きる資格がないという価値観は、全くここではお呼びではないといえるでしょう。でも、それが変わらなくてはいけないのだと思うのは、ぼくだけでしょうか。
このチャンドラーの小説が、今の中国でも読まれているか、受け入れられているか、そして将来、タフで孤独なフィリップ・マーロウが中国でも人気を博するようになるか、ぼくにはとても興味がありますね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
休みになって一週間が過ぎました。何時ものように、毎朝6時過ぎにはラボに来てますが、休みだという気分は心晴れ晴れとしてとてもいい気分ですね。
でもこの一週間、何をしたか、どんな進歩をしたかと反省すると、毎日色々と考えながら文献を読んでいるはずなのに、これはというものはないですね。簡単に言うと無為に過ごした一週間。
それでも、面白そうな文献を読んでいるうちに、これなら、皆に紹介しようかというのが一つ目にとまりました、自分の領域だからもう既に読んでいなくてはいけない論文ですが、見過ごしていました。
Ledeenの2009年の論文です。Ledeenは昔から神経細胞の分化にガングリオシドが必要なのはどうしてかを調べている人ですね。日本の武藤多津郎さんという研究者が、神経細胞の分化に必要なNGFがその受容体NGFRにくっついて刺激を伝えるとき、ガングリオシドGM1がそれを助けると言うことを1995年に見つけて、もうその領域はそれで決着が着いたかと思っていました。
Ledeenは、神経細胞の分化にガングリオシド、特にGM1が必要と言うことを前から言っています。Ledeenは、GM1で細胞が神経細胞に分化することは、ナトリウム-カルシウムチャンネルが活性化されて、カルシウムが細胞内に入ることと連動していること、GM1がナトリウム-カルシウムチャンネルに結合すること、GM1に結合するコレラ毒素Bをあたえるとこのナトリウム-カルシウムチャンネルの活性が阻害されるので、GM1がナトリウム-カルシウムチャンネルに結合してその働きを活性化すると言っています。
Ledeenは、ナトリウム-カルシウムチャンネルが細胞の核を包む核膜の内側にあり(核膜は袋で核を包み込んだ構造になっています)、この内側にはガングリオシドGD1aがあって、同じく内側に存在するシアリダーゼNEU3で分解されてGM1になり、これがナトリウム-カルシウムチャンネルに結合するから、カルシウム濃度が高まるのだと言う論文を書いています。
私たちにとって目新しいことは、核膜の内側にGD1aがあること、核膜の内側にNEU3があることです。GD1aとNEU3があるなら、GD1aをNEU3が切断してGM1にしてナトリウム-カルシウムチャンネルに結合する、と言うことは納得できます。
内側にナトリウム-カルシウムチャンネルが、細胞膜と同じトポロジーで存在するのは、それ以外は考えようがないので、もしそこにGM1が来るなら反応しても良いのですが、ガングリオシドが核膜の内側に、核の内部に糖脂質の糖鎖を向けて存在しているというのは、今まで知られている糖脂質の生合成の方式と矛盾します。
生合成からすると、核膜の(内側でも、外側のどちらでもいいのですが、核膜のルーメン側に糖脂質が顔を出している以外はありえないのですよ。核の存在する側に糖脂質が顔を出すことになっていません、
つまりLedeenは糖脂質の全く新しい存在様式を提案していることになります。ここのところの説明がLedeenの論文では足りない気がします。
核膜の外側と内側に分けるという生化学的分離方法の厳密な検証が必要でしょう。Ledeenがその核膜のルーメン側に糖脂質がないことをきちんと言っているかどうかですが、普通に考えて、それが明確に証明できる方法があるとは思えません。
あるいはぼくたちが中国にいる間に、すっかり世界の進歩から取り残されてしまったのか。。。
昨日の朝の特別セミナーには、対象の林、宋、のほか、暁艶、笑笑、朱、黄澄澄、王月、が来て、議論に加わり、ぼくの思い違いも指摘してくれました。
コメント:
核膜 hu dan さん
核膜は外膜と内膜からなってERみたいなLumen構造を持っている。GD1αは内膜にあるのかそれとも膜の内側にあるのかちょっとまぎれやすそうですね (2011.07.25 16:25:36)
カテゴリ:研究室風景
さえ:
日曜日の今日、中山公園の南にある体育公園に院生、学生それぞれ一人と一緒にタクシーで行きました。ソフトボールのグローブを買うために行ったのですよ。
研究室で、太原街にソフトボールのグローブを暁艶と探しに行くと言っていたら、この一週間、ずっと真面目に研究室に勉強に来ている2年生の宋くんが、素人が行くとだまされるかも知れないからと言って一緒に来てくれました。
この体育公園そのものはどういう作りになっているのか知りませんが、周りにスポーツ用品の店が建ち並び、公園の地下は大きな商店街となっていて、どこでもスポーツ用品を売っています。
スポーツ用品店と言っても、どこも運動のためのAsicsやMizuno、Nikeのスポーツウエア、シューズを置いていますが、それ以上の用具となると、バドミントンのラケット、ピンポンのラケット、そしてテニスのラケットの店は特化していましたが、あとはどこも同じ感じでした。野球について言うと、グローブを一つ二つ置いているおもちゃ屋みたいな店がやっと2軒だけ。
カタログが置いてあってそれで注文すればいいという店が1軒。でも、ソフトボール用なのか、ふつう野球用なのか書いていないし、外野用か内野用かも分かりません。
この薬科大学の体育の時間に、この頃はソフトボールをしているそうで、大学には用具があるわけですね。その保管場所から、実はどうしたらよいか分からないけれど、借りられないだろうかという話になり、宋くんが訊いてみてくれるそうです。
この大学は、このあたりでいち早くソフトボールを体育の授業に取り入れて評判になっているみたいです。ソフトボールのチームもそれぞれの学院にあるみたいです。どうやったらそこに道が付けられるか分かりませんが、誘ってもらいたいと宋くんに話しておきました。
公園の地下のスポーツ用品売り場は、御徒町のアメ横と同じようなところです。つまり間口1-2間の個人商店が、同じように並んでいて、どこも同じようなスポーツ用品を扱っているというくくりで、沢山入っているわけです。案内図もなく、どこの店がどのような特徴があるのか、自分で丹念に探さない限り分からないという、おかしなところです。
その一つの、さっきおもちゃ屋みたいと書いた店でフリスビーを売っているのを見つけて一つ買ってきました。15元と20元とあって、安い方を買ってきました。
というわけで、大学に戻ってから、外は暑いので廊下で、フリスビーで少し遊びました。結構、安定して飛ばすのが難しく、これは相手も同じなので、飛んだり跳ねたり、いい運動になりました。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
ぼくたちって、若い頃特に何も運動をしていませんでしたね。時々テニスをしたり、体育館に行ってバドミントンやピンポンをしたりしていましたが、名古屋でやすみの日に遊びたいから出掛けたのですよね。
身体を動かすことが必要だと思って、やっていたわけではありませんでした。
おまけに長女の○○が生まれて以来、何時もクルマでした。あのときは、可愛いスバル360でしたよね。それ以来、いすずベレット、スバル1300、トヨタタウンエース、ハイエース、ハイラックスサーフなど乗り継いで、何時もクルマのある生活だったから、歩くことは、滅多になかったですね。瀋陽に来るまでは。
この頃自覚するようになってきたのですが、若い頃は、というか中高年になるまでは特に身体を動かさなくても筋肉はなかなか減りません。積極的に身体を鍛えてきた人のことは知りませんが、クルマ生活をして筋肉を甘やかして四十年経っても、特に困ったことはなかったのでした。
60歳を過ぎてからは、歩いていて床の微妙な高低で靴底をぶつけるので、足の上げ方が減ったのだなと自覚しました。歩く時って、無意識の省エネを心がけて、大丈夫な程度以上足を挙げていないのですね。
なるほどそうかと気付いてからは、歩き方に気を配るようになり、靴底をぶつけることが減りました。
70歳を過ぎてからは、腰の筋肉が弱ってきたことを感じました。大体ぼくたちの生活って、研究室の普通の椅子に座ってPCを操作していますよね。この椅子に座っている時間が長いと、立ち上がるのが辛くなりました。つまり腰の周りの筋肉が固まって、立ち上がるという操作に応じて直ぐには伸びてくれないのですね。
瀋陽で暮らしているとクルマなしなのですが、それでも歩く距離は知れています。大学とうちの往復で1.5 km くらいで、あとはラボの中をうろうろするくらいですから、余り足の筋肉を使っていません。腿がすっかりやせ細ってしまっています。それでも体重は昔並みの65 kgくらいなのですから、筋肉を失った分脂肪がついたのですね。それで、意識して歩くことを始めました。二年前くらいからです。
3 kmを30分くらい急いで歩いて、あとは2 kmを30分くらい掛けてゆっくり歩くのです。
これで脚の筋肉もしっかりしてきましたし、足裏の痛いのも減ってきました。腰痛も減りました。ところが、ところがですよ、この頃では、歩くのが週に2回くらいだと足りないのですよ。
つまり、若い頃と違って、老年の今は、今日歩いた分でやっと明日の体力が保てます。しかし、食べ溜め、寝溜めのようには、歩き溜め(!)は効かないのですよ。
若い頃は、何もしなくても何十年と体力は保ったのに、今は、ノートパソコンと同じように、充電しておかないと働いてくれない、充電した分しか働かないのと同じような状態なのですね。しかもやくざな電池で、使わないときの目減りがひどいわけです。
このようなことを感じるようになったとき、インターネットで見つけたことがあります。「いきいき健康」です。
(http://health.nikkei.co.jp/hsn/index.aspx?id=MMHEb1001019072011)
『高齢者が筋肉サイズを維持するにはより多くの運動が必要』というタイトルで、『高齢者が筋肉サイズ(size)を維持するためには、若年者よりも多く運動しなければならないことが、新しい研究で明らかにされた。』
『研究の結果、若年者では、トレーニングを減らした両群とも筋肉サイズが維持されていたが、高齢者では週1回1~3セットの運動を行っても筋肉サイズが減少していた。ただし、強度の維持(少なくとも強度が維持される期間を延長する)には、若年者、高齢者とも週1回の抵抗トレーニングで十分であった。』
『今回のデータは、高齢者が抵抗トレーニングによる筋肉量の増加を維持するには1週間に行う維持運動が若齢者より多くなければならないことを初めて示したものである』と述べている。』
ぼくの驚いたことには、経験で何となく漠然と感じていたことが、実は研究者によって示されているのですね。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
おさえちゃんが消えてしまって、六ヶ月経ちました。さえがいなくなっちゃって困ることが沢山ありますが、そのひとつが、さえに何かと「さえ、あれなんだっけ」と訊いていたのに、それが出来なくなったことですね。
ぼくたち小学校から一緒だから共通の想い出も多いし、文化・教育背景も共有しているから、思い出せなくてもさえに聞けば大抵答が返ってきましたね。
「ほら、小学校のとき学校のみんなで出掛けて観に行った、あの赤い靴の・・・」「あ、モイラ・シェエラーね。映画はあれしか観ていないけれど、素晴らしい踊りだったわ」「確か最後は靴だけが線路の上で写っていたっけ」「そうよね」
「あのローマの休日に出ていた人誰だった? オードリー・ヘップバーンの相手だった新聞記者。ケーリー・グランドじゃなくて」「ええ、ナバロンの要塞にも出ていた人ね、グレゴリー・ペックでしょ」「そう。グレゴリー・ペックだった。大いなる西部に出てきたとき、チャールトン・ヘストンと殴り合いに出掛ける朝、ジーンズを履くところがカッコ良かったねえ」「まだ、日本にはジーンズがなかった頃よねえ」
何時も映画の話ばかりしていたわけではないですよね。何時も研究の話ばかりでしたね。はっきりしないことでも、お互い相手に訊けば助けられて正確に思い出すことが出来て、記憶を増強させることが出来ました。
どんなに助かっていたか今更のように思い知っています。つまり、何時もエキストラに、ウオーキングディクショナリどころか、スペアの自分の脳を一緒に連れて歩いているようなものでした。
先日、インターネットを見ていると、『人間の脳は、友人や家族、同僚などに尋ねれば答えが分かることについては記憶しようとしないものであり、このように他者の記憶に頼る方法を心理学では「交換記憶(Transactive Memory)」と呼ぶ』のだそうです。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1107/15/news062.html
つまり、さえに訊けば分かると思っていると、自分ではきちんと覚えていないわけですね。なるほどと思うのは、さえの親戚のことです。
さえの両親ともに6-8人兄弟なので従兄弟も何十人といますが、とても覚えられないのですね。でも、覚えなくても困らなかったのですけれど、早速困ったのが、2月のさえの追悼会の時でした。顔は知っていても、どこの誰に当たるかがぴたっと来ません。それまでは、さえに、ちょこっと訊けば良かったのにね。
上記の記事によると、『人間の脳は、友人や家族、同僚などに尋ねれば答えが分かることについては記憶しようとしないものだが、インターネットに対しても同じように頼るようになっているという。情報そのものではなく、“どこで”情報を得られるかを記憶するようになっている』そうです。
それを実験で確かめて、「Google Effects on Memory: Cognitive Consequences of Having Information at Our Fingertips(Googleが記憶に及ぼす影響:指先に情報を保持することの認知的所産)」と題する論文を米Science誌で発表したそうです。
実際、ぼくたちが論文を読んで新しい知識を得ると、内容だけでなく、これにどうやって到達したかも覚えていようとしていますね。必要なときに、もとの論文にたどり着けないと、記憶を確かめようがないからです。
でも、コンピュータは革命を起こしました。記憶のソースを覚えていなくても、インターネットで(あるいはぼくたちの専門ではデータベース上で)、キーワードを入れて検索する場出てきたヒットの中に捜し物がある確率が高いです。
おまけに、今では自分のPCの中もキーワードを使って一瞬で検索できるようになりました。記憶の衰えた老人でも現役で研究が続けられる大革命ですね。ま、それが良いか、悪いかは別として。
でもね、キーワードが出てこなくなったら、この検索は出来ません。そこに行くと、さえは良かったですね。さえに「新聞記者が、スクーターで走り回って、、、」といいだして、つぎに「ボートの上の酒場で乱闘して、」と言ってくると、「ああ、ローマの休日でしょ」と言ってくれるのです。
「その記者は誰だっけ?」と、やっと気になっていることを訊いて、グレゴリー・ペックと言う名前が引き出せたのでした。Google検索でもここまでは出来ませんね。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
7月23日夜、温州の近くで、トラブルのために停車した高速列車に、次の列車が追突して大惨事が発生しました。日本、ドイツ、フランスから技術供与を受けて高速列車を作って走らせているあれで、この7月から開業した最高時速300 kmで走る北京・上海の京滬高速鉄道ではありません。これは最高時速250 kmで走っている「和諧号」のようです。
先行する列車は落雷のために停車したと発表されています。原因が何であれ、走っている列車はトラブルが起これば、停車しますね。後続の列車が追突しては堪ったものじゃないですから、全列車を即座に停止させるシステムが必要です。
その停止信号が発せられなかったか、後続の列車が受信できなかったか、受信できても機器が作動しなかったか、一番大事な知りたいところですね。それでこそ、このような惨事を二度と起こさない対策が講じられます。つまり、徹底した原因究明が必要ですよね。
追突したあとの列車に、さらにその後ろが突っ込んでこなかったので、それが無事に止まったか、ダイヤの上で後続列車がもうなかったかのどちらかでしょうが、これは発表されていません。後続列車があったとしたら、それがどうやって止まったのかも知りたいところです。
ところが『現場では事故翌日の24日朝、落下した追突車両の最前部を油圧ショベルで破壊。』と言う記事で、追突車両は重機で砕かれて地面にそのまま埋められたそうです、目を疑ってしまいますね。これで事故の原因解明が出来るのでしょうか。
どこの國からもこれについての声明がありませんが、この頃は直ぐに居丈高になるこの國に遠慮しているのでしょうか。
『上海鉄道局の技術部門の責任者は「事故原因は、回収したブラックボックスや、鉄道施設に残されているデータで解明できる」と説明。「事故車両は、原因解明の助けにならない。もはや、くず鉄だ。整理するのは、事故処理では普通のことだ」という。』
『中国浙江省温州市で起きた高速鉄道の列車追突事故で、中国当局は25日までに高架橋から落下した追突車両の最前部を破壊し現場付近に埋めた。同日午前、落下した別の車両の解体作業も始めた。』
『新華社電によると、中国鉄道当局は25日午前、事故で不通となっていた同省寧波-温州間の営業運転を早くも再開した。』
『24日夜、鉄道省は事故原因について「分析中」とだけ答え、「中国の高速鉄道技術は信頼できる」と強調した。』そうです。『各メディアに対して、事故の報道は新華社の配信記事を使用し、独自取材に基づく報道をしないよう要求している。事故に対する当局の責任を問う声を封じ込める狙いがあるとみられる。』
事故原因の真相の解明よりも、まるで事故をなかったことのようにしてしまおうと言う感じです。何とも背筋が薄ら寒く感じられますね。國も政治も、その國の人々があってこそですし、国民一人一人のためのものでしょうに。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
日曜日に街まで出掛けてグローブを探したのに、それが全くの無駄だったので、どうしたものかと思いつつも、ラボのPCでネットに接続してグラブを売っている店を探しました。中国のネットの「百度」に、初めてWindows で入って見たのです。
「瀋陽 棒球 手套」を入れると、沢山の店の名前が出てきましたが、どれも実際、日曜日に訪れた店です。野球のグラブを置いていないのに、置いていることになっているのですね。
ぼくがWindowsの中国語にぶつぶつ言ってるのを横目でみた暁艶が連絡したらしく、宋くんが助けに来ました。彼がネットで検索してあちこちのサイトを開くと、グラブがどんどん出てくるのですよ。
「淘宝網」と言うサイトは、日本のAmazonやドットコムで「ソフトボール グラブ」を入れたよりも、遙かに大量の情報が出てきました。瀋陽では野球もソフトボールもマイナーすぎて売っている店はないけれど、中国全体でみると、外国人もいるし、結構需要があると言うことでしょう。価格を安い方から並べると、ボールやバッターの手袋やら出てきて、なかなか探すところに行き着かないので、今度は価格を高い方から並べてみました。
日本円に換算しても数万円という、プロ用みたいな、Amazonでは売っていない高価なものばかりが次々と出てきます。日本のAmazonで売っている安いのが2500円くらいですから、ここで買うなら200元くらいならいいのではないかと思い決めて探しました。条件は、牛皮製あるいはブタ皮で中国製造。ソフトボール専用のグラブであること。中国製というのは、この国の製造業に金を落として、働く人たちを少しでも助けなくっちゃと言う考えです。
この価格帯よりも、ちょっと上が一番多かったみたいですが、牛皮製のグラブで12.0-13インチ、ソフトボール専用に作られていて、内野手用と外野手用のそれぞれ200元というのを、一つずつを買うことにしました。どうして二つも?と訊かれましたが、ここでぼくが遊んで貰うには二つなくっちゃ遊べないでしょ。
ボールは外周12インチでと言っても色々あるのですね。8元では安すぎて心配なので、30元で各種一つずつ3個を注文しました。すごく高い気がしますね。
支払は、暁艶のカードで払って貰って、ぼくは現金で490元を彼女に渡しました。この広い中国で1日で配達されるのですって。届くのが楽しみですが、問題はぼくの身体。
というのは、やっと空が晴れて午後グランドが乾いてきたので、暁艶と宋に誘われて大気の下でフリスビーをしました。まだ誰もフリスビーに慣れていないからまっすぐに飛んできません。どうしてもフリスビーを追って、走ってしまいます。
この十数年、走ると言うことを殆どやったことのないぼくは、一晩寝たあと、腰が痛くて、痛くて。。。
腰は身体の要と書くだけあって、とても大事にところだと認識しましたし、これから心がけて鍛えようと思いましたが、当面、椅子から立ち上がるのが難です。やれやれ。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
昨日の28日は大学一帯が朝8時から一日停電・断水と通告されていました。大学一帯ということは、うちのアパートも停電・断水なのでうちにいるわけにもいきませんし、もちろん大学の寄宿舎も同様で、暁艶もどうしましょう?ということでした。
停電が一日に及ぶので、マイナス80度とマイナス40度の低温槽にはドライアイスを手配しました。笑笑が責任者に変わってからは初めてのことなので、上手くいくかどうかちょっと心配です。
28日の朝は何時ものようにラボに来ましたが、インターネットが遮断されていて「瀋陽通信」にはアクセス不能でした。このところ、鉄道事故についての記事ばかり見ているのを見つかって、遮断されたのかもと、ちょっとひりゃり。
品和軒の劉凱さんに連絡して、一日そちらに避難して良いか伺って、暁艶と出掛けました。普段の日なので8時には店を開けているそうです。
資料室では図書を作家のアイウエオ順で並べました。前々から整理したいと思っていたのでちょうど良い機会でした。
作家順にならべたのと別にしたのは、中国関係図書、日本語関係図書、科学図書、日本の女流作家図書(何で女流なんて言うのでしょうね、何となく颯爽としたイメージが浮かびますけれど)。そして外国の翻訳図書。それ以外は、エッセイも評論も、小説も何もかも作家の順番に並べました。
こうしておけば、図書リストから本を探すのが容易になりますね。それにしても殆どの小説はぼくたちの買ったものですから、改めて、まあ、こんなものを良くも読んだものだ、と内心呆れてうんざりしたことも事実です、もっとほかのことにも時間は使えたのにね。
資料室では、ほかには印鑑を二つ彫って、朱さん、許さん、暁艶たちとお喋りしていたら、楊方偉から電話が掛かってきました。いま瀋陽に、しかも大学にいるんですって。
薬科大学に、先生に会いに来たのに大学は真っ暗、誰もいないよお。。。
だってねえ、そんなこと言ったって、日本から連絡もなしに会いに来るなんて無茶ですよね。だいたい、ぼくがいま瀋陽にいることだって王麗以外は知らないんだから。と言ったら、ぼくのブログを読んでいますよと言うことでした。
なお、王麗が知っていれば、それはすべての人が知っていることなのだそうです。
それで3時に大学に戻って建物の外にぼう然としていた楊方偉に会い、暗い階段を5階まで上がって部屋でお喋りをしました。楊方偉は2年間にも訪ねてきてくれましたが、その時はまるで中年太りのおじさんみたいな風格でした。
それが、今度はとても可愛いのですよ。この3ヶ月夜中にジョギングをして10 kg 痩せたそうです。引き締まって、キュートで、暁艶より一つどころか十歳も若く見えると言ってしまって、暁艶がこんどはお冠でした。暁艶はいま最高学年で研究室のすべてに気を配る責任を感じていて、だからとてもしっかりと頼もしい顔をしているのですよ。
4時半になってもまだ通電がなかったのですが、笑笑が代わりに通電後の面倒をみてくれるというので、例の、万象城モールに出掛けて、一緒に食事をしました。
このモールに初めて行ってぼくはその豪華さにびっくりしましたが、楊方偉も同じで、「奈良から来たから、ほんと、ぼく田舎モンですよ。キョロキョロしちゃいます。このあたりには、すごい金持ちが住んでいるんですねえ」と叫んでいました。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
昨年秋、大学当局に対して、ぼくたちの建物に防犯カメラを設置して欲しいと頼みました。
薬科大学には正門と西門の二つがあって、通る車を守衛が一つ一つチェックしています。しかし、歩行者はデモなどの恐れなどの特別の時を除いて、フリーパスだから、もちろん泥棒も入ってきますよね。
私たちのいる実験棟にも守衛がいますがど、時々実験室からPCが消えるさわぎがあります、ハンドバッグが盗まれた教授もいます。うちの研究室では、たとえトイレに行くときでも、無人になるときは部屋をロックすることを、厳しく徹底させていますよね。
この数年の間に、大学でも監視カメラをあちこちに設置するようになりました。しかし、この夏に起きた空き巣狙いの時は、カメラの記録を念入りに調べたけれど怪しい人影は見つかりません。というのも、この建物の入り口のカメラは外を向いていて、死角が多すぎる上に玄関を通る人をちゃんと記録していないそうです。
この5階でも何度も被害が出ているので、被害を抑えるにはカメラを設置し、それを周知させて「監視カメラが設置してあって、あなたの行為は記録されていますよ」という抑止効果を狙うのが良いと思いつきました。
それで5階の住人の教授数人と相談して、「空き巣の被害が絶えないので、少なくとも5階のフロアに監視カメラを(死角のないように)設置して欲しい、もし大学の予算が無理で出来ないときは、私たちで費用を拠出してでも設置したい」という要望を大学当局に出しました。
昨年の秋でのことです。未だに返事がありません。
今年になってからは別のことで、大学首脳部に相談を持ちかけました。これも返事がありません。
昨年遼寧省から叙勲されたらしいので、その窓口になっていると思われるところに問い合わせたが、これにも返事がないのです。
よく言えば、たいしたことじゃないと思っているうちに忘れてしまう、しかし、これが中国的な対応なのでしょう。
恐らくは、自分の職位を相手に比べて、相手が偉ければ直ぐに対応する、そうでなければ「待たせておけ」「どちらが偉いか思い知らせてやる」という権力の見せつけ。中国的対応といって良いでしょうね。専制的政府が支配した形態が、未だに尾を引いているように思えます。
大学の学生が、在籍証明書を必要としたとしますね。教務課に出掛けて発行するよう手続きをしても、何時発行して貰えるかどうかは、教務課の人の気分一つに掛かっています。
教務課は書類を発行するという行為で、学生の死命を握ったわけです。相手を待たせることは自分の持つ力を見せることです。相手が困るほど、自分の持つ力を思い知らすことが出来ます。こういうとき、他の職員が代わってくれることは決してありません。
先日、日本の大学を訪れたとき、学生の集まるロビーの隅に機器が置いてあるのを見ました。学生は身分証をかざして、成績証明書でも何でも欲しいものを選んでボタンを押せば、たちどころに機器が証明書を発行するのですね。
中国の大学にこのような機器が置かれることがあるでしょうか。置くとしたら教務課の中に置いて、操作できるのは職員だけと言うことになるのでしょうね。しかもその職員がいないと、ボタンさえ押して貰えないという機器として。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
23日の夜の温州での高速鉄道の事故は大きな悲劇でした。乗客名簿は発表されていませんので、死傷者の数も正確なところは不明です。鉄道当局の発表はありますが、正直な死傷者の数なのか疑わしいみたいです。
24日にもう生体反応は出ないからと負傷者救助を打ち切ったとき、それでもと探したときに、動かない身体の間から小さな手が動いたので二歳の女子が見つかって救助されたと、大々的に報道されていました。
そのあと車両を埋めてしまったみたいですから、つまり死者を完全に収容していなかったという印象を受けます。当局には乗客名簿があるから、あとから死者を確認出来るから良いではなく、その場で手を尽くして収容するのが常識ではないかと思います。それなのに、事故の翌朝から壊して埋め始めたのですよ。
負傷者の収容手当よりも、事故の原因解明よりも、運行再開を重要視するのかという犠牲者の遺族の怒りや世論に押されて、一旦埋めた車両を掘り出して温州駅に持っていったと報道されていました。
ネットでニュースを見ると、『中国鉄道事故、ソフトに重大欠陥…当局者認める【北京=加藤隆則・読売新聞】 7月30日(土)11時54分』ということで、やはり運行システムに重大な欠陥があったのですね。
『30日の新華社電によると、中国鉄道省の当局者は浙江省温州の高速鉄道事故について、運行管理センターのデータ収集ソフトに「設計上の重大な欠陥」があったことを認めた。』
『追突された先行列車が搭載していた信号受信ソフトにも不備があり、落雷による信号故障が加わって起きた複合的な人災だったことが明らかになった。同当局者によると、落雷によって温州南駅の信号設備が故障した後、先行列車はソフトの不備から一時停車後、徐行を開始した。このとき運行管理センターではデータ収集ソフトの欠陥でコントロールシステムが機能せず、後続の列車に対し、進行を許す青信号を誤って表示した。』
高速鉄道に責任のあるのが鉄道局で、警察、検察、司法も揃えた210万人の大家族なのだそうです。この事故が起きたあと、徹底的検証をせずに事故車両を埋め、早期の幕引きを計ったとみられますが、今回の事故を教訓にして今後このようなことを起こさないように徹底的な原因解明に乗り出すという姿勢を早期に見せていたら、中国の高速鉄道はここまで評価を落とさなくても済んだのではないかと思います。
早期幕引きを計って、人々の怒りが予想を超えていたので態度を変えたのは、補償金交渉でもそうですね。最初に人々の反応を見くびっていたので、奨励金(なんとまあ!)付きで50万元だったのを91.6万元にしたのでした。
それにしても補償金の相談が早いですね。事故原因もはっきりせず、責任の所在も明らかになっていない段階で、補償金を渡して遺族をこの事故から切り離すという動きを見ると、人々を舐めきっているか、早く皆にこのことから離れて忘れて欲しいと言う感じがします。
と言うわけで、今回の事故の扱いは、鉄道当局あるいは政府の、大失敗だったと思います。ただし、対応を誤りさえしなければ、というのは結果論ですから、あとになってみれば誰にでも言えることです。
大事なことは、それを先ず明確に見切って、間違いない対応を指導することの出来る人こそ真の指導者だと思いますが、いまの中国にはいないのでしょうか。
カテゴリ:生命科学
さえ:
長く中国にいるので全く知りませんでしたが、東北大学の総長が論文ねつ造、二重投稿の疑いがかけられているのだそうです。
東北大学は元々磁石や金属工学で世界をリードしてきたところですね。この問題の『東北大学総長の井上明久氏は、新素材「バルク金属ガラス」の世界的権威と言われ、日本学士院賞、米国物理学会マックグラディ新材料賞など複数の賞を受賞した人物』だそうです。
そのような人がどうして、ねつ造や二重投稿をするのでしょうか。
『2011年6月25日、米国物理協会速報紙『Applied Physics Letters』に投稿した論文が、同紙発行母体である米国物理学協会(American Institute of Physics: 略称AIP)により、二重投稿を理由に取り下げられた。』
東北大のHPにアクセスすると、井上明久氏インタビューがあり、これを読むと科学者として好感が持てる人です。
『井上明久氏は2011年までに合計2784本の論文を書いたとされている(6月24日現在)。同総長は05年までの登録数ですでに1900本の論文実績があることから、総長就任以後06~11年の5年間で書いた本数は800本に上ることがわかる。年平均にして約160本、1週間に換算すれば約3本以上を書き上げる、超人的大量生産ぶりである。』
これは、白髪三千丈のたぐいなら分かりますが、実際の論文となると、信じがたい数字ですね。総長という激務を果たしながら、なお年に160の論文を書くなんて人間業ではありません。
その中にねつ造は二重投稿があったのかどうか指摘されていません。普通の人間なら、これだけ大量の論文を出すとすると、当然、ねつ造、二重投稿がなければやっていけないでしょう。
二重投稿が明らかになり、その一つの掲載誌(粉体粉末冶金協会の学術誌)で論文が取り消されても、『編集委員長の吉村一良・京都大理学研究科教授は「二重投稿は言語道断だが、著者が謝罪し、論文が取り消しになったことで、処罰を受けたと判断している」』そうです。
当の井上氏は『井上総長は朝日新聞に対し「調査委員会の調査手続き以外で私的な見解を表明することは差し控える」とのコメントを寄せた。』
この井上氏の疑惑については、東北大学の教授らが「井上総長の研究不正疑惑の解消を要望する会」を作って追求しているそうです。まだ決着がつかないそうですが、何とも驚きですね。
論文を全く新しくねつ造するなんて、大変な作業だと思いますが、論文を書いて証拠として載せる実験の証拠の写真があまり明瞭でない場合、全く別の実験で得られた写真を代わりに載せたくなることもあるでしょう。しかし、これは立派な犯罪です。人を欺くことは、つまりこれも論文のねつ造なのですよね。
一つのことを言うために、独立に実験を三回繰り返して、それがすべて同じ傾向を示しているときのみ、それを正しい結果としてぼくたちは実験を先に進めます。データとしては、この三回分の数値を平均しますが、実験の証拠写真としてはそのうちの一つを論文に載せます。
実験1の写真の半分を、実験2と実験3の後半の写真に取り替えると美しく見えるのに、なんていう誘惑には、誰にも駆られるところです。でも、それは論文ねつ造なのですね。それを許せば、次は、関係ないけれど、同じように見える綺麗な写真を載せる。その次には、ストーリーに合わせて写真を選んで、はい一丁できあがり、と言う論文ねつ造街道の真っ直中です。
そのような安易な道におちいらずに、みんな、青春の時間を朝から晩まで投じて、時間を惜しんで実験をしているのがうちの研究室です。
研究者は論文を発表してその業績で評価されるしかないので、論文の発表なくしては生きていけません。研究者は一生懸命に生きています。
フェアな競争をしているのに、試験でカンニングをした、マラソンの途中をクルマで走った、実は論文はねつ造だった、なんてのは許せることではありません。その分野で最高の業績を挙げ、ノーベル賞の候補にもなもなろうかという人が、どうして論文ねつ造までするのか、理解出来ません。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
夏休み真っ盛りのこの数日、ラボに来るのが8時過ぎになりました。寝不足で、やっと起きると、8時前という状態が続いているのです。
原因は、蚊です。毎晩2-3匹の蚊が次々と襲ってきます。いままでこんなことはありませんでした。窓もしまっているし、ドアの開閉は朝晩の二回だけです。それなのに、これだけの蚊が、外から入ってくるなんて考えられませんね。
一番可能性のあるのは下水口です。さえも知っての通り、中国の排水管は、シンクとU時管を通じて密閉されているはなく、基本的にはオープンになった開口部に、排水管を突っ込んでいるだけです。
もしも、5階の排水管の中に蚊が住んでいたら(ボウフラかも知れませんね)それは大手をふるってうちの中に入ってくることが出来ますね。
毎夏、夜中に蚊に悩まされて、大捕物を展開したことはあったけれど、一夏にせいぜい2-3回でした。なんで、今年だけこんなにひどいのでしょう。
蚊の羽音を聞いて目が覚めて明かりを付けて探しても、眼の動体視力が落ちているからでしょうか、直ぐに蚊を見失ってしまうのです。それで、夜中にずっと目を覚ましていて、明かりを付けたまま蚊を見張っているうちに寝て、寝不足の毎日が続きました。
学生の宋くんが、化学物質を電気で炊いて蚊を退治する薬があるけれど、と言って買ってきてくれました。「槍手」という名で、日本のベープマットみたいなものです。
「槍手」の槍は、いまでは鉄砲のことで、「槍手」は射撃手のことだそうです。72片の蚊香片が入って22.5元(日本円に換算して270円)でした。
それで夕べ、初めて「槍手」をベッドルームで使ったのですが、密閉性の高い部屋なので、寝る前の9時に点けて、11時に寝るときに機器をコンセントからはずしました。蚊を殺す成分を余り吸い込みたくないでしょ。もう十分と思って。
ところが夜中の2時に、蚊に襲われて目が覚めました、頬のあたりがかゆいです。明かりを点けて、恒例の蚊退治開始。やはり、蚊の影が見えてもなかなか捕まらず、やっとつぶすのに1時間以上掛かりました。
と言うわけで、折角の新兵器にもかかわらず、使い方が悪かったのか、やはり寝不足の今日です。今朝、出掛けるまでにうちの中で3匹の蚊を見つけましたが、どれも叩き損ねました。今夜も、新兵器の出番です。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
「射撃手」を昨日はずっとONにしていて、そのため蚊の襲撃を受けず、久しぶりによく寝られました。そして元気を取り戻しました。
昨日は、その前の日のネットのニュース『妻と同居していない男性は自殺リスク上昇-国立がん研究センター 医療介護CBニュース 8月1日(月)配信』がちらついていたのですよ。
『調査結果によると、妻なし「一人暮らし」であるか、「同居者が親」「同居者が子ども」「同居者が親と子」という男性は、同居者に妻がいる男性に比べ、自殺リスクが2倍前後も高かった。このため、男性の場合、「妻との同居」が自殺に対して予防的に働いているとみられる。』
これ、よくわかります。
自殺じゃなくても、妻に先立たれた男の平均余命は2年くらいだと聞いたことがあります。一方で、夫に先立たれた妻の平均余命は、そうでない妻の余命と全く変わらなかった(いや、もっと長生きするんじゃなかったかな)と言う話で、これは座談にぴったりの笑える話ですね。
いや、女は強い。それに比べて男のなんと弱いこと。
さえには、悪いことをしました。ぼくが先に死んでいたら、さえはきっと長生きできたのに。
この数日、寝不足で気が弱っていたのか、ぼくも長くないなあと思っていました。座っていて立ち上がろうとすると腰が痛いし、背中がまっすぐ伸びないし、直ぐに歩き出せない。典型的な老人症候群ですね。
論文をみていても意欲が湧かない。じゃ研究のことを考えようとすると、いつの間にか考えが朧に霞んでしまっている。だめですよね、これじゃあ。
でも、今朝は元気を取り戻しました。寝不足だったのですよ。これは。
元気になって蚊がよく見えるようになったのか、今朝はうちで蚊を二匹叩いてきました。蚊に悩まされるのが寝不足の最大原因で、不足は気力喪失の一番の要因です。
この「射撃手」が効果ないなら、ベッドを覆う「蚊帳」が400元くらいで売っていますから、それを買ってきましょうね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
「女性は、露出度の高い服に気をつけて!」と言う知らせが大阪で出されたそうです。これは特に今年は電力不足でエアコン節電で、クールビズが奨励されていますが、それに応じての薄着が痴漢を惹きつけているみたいです。
『大阪府警曽根崎署署は「過度の肌の露出は標的になりやすい」と注意を呼びかけて』います。
いまは中国にいて、昼は大学に閉じこもっていますけれど、朝晩外を歩くと、中國の若い人だって負けていませんね。ホットパンツは当たり前ですし、これ以上ないほど肌を出しています。
でも、あるいは歳を取って感受性が落ちて何とも思わなくなっているのかも知れませんが、ぼくは夏のことだし、これが当たり前だと思っていました。改めて「どうかなあ」と自問すると、中国も日本に露出度では、勝るとも劣らず、結構なことです。
それで中国の痴漢はどんな活動をしているのか、実は寡聞にして知りません、でも、危険を避けるために、うちの研究室では夜一人だけになって実験をしないように言っていますし、大音量の出るブザーを一人一人に渡しています。
あともう一つ、研究室の負担で監視カメラを設置して、「防犯カメラ設置」と大きく書いて痴漢予備軍を撃退したいと思っていますが、これはまだ実行できていません。
瀋陽の街角風景は、女性の薄着よりも、男の裸がどうかと思います。上半身裸になっている人が歩いていますし、上に着た色物のランニングシャツを下から上の方にクルクルと巻き上げて、まるでブラジャー姿で歩いているみたいな人たちもいます。
女だってブラ姿だと驚くでしょうけれど、男なのですよ。ま、本物のブラではなくブラ似姿ですけれど。最初にみたときは、女と思ったので悶絶するほど驚きました。
朝は、女性がパジャマ姿で外を歩いているのは良くあることです。2010年の上海万国博覧会の前に、パジャマで歩くのは厳禁と当局が通達を出したら、これは上海市民の間に定着したスタイルだと市民から一斉ブーイングが起きたそうそうですね。
これは思うに、それまではパジャマを着たこともない生活をしていて、パジャマ着るようになった、そのパジャマを買って使っているところを人に見せびらかしたい。となると、外に着て出るしかない。と言うことで、いまはパジャマ族になったんだぞと言う具合で外を歩いているうちに、それが当たり前になったのではないでしょうか。ま、賑やかな瀋陽の夏です。
これを投稿したら「わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています」
と、出てきてびっくり。
『大阪駅周辺では、痴漢・とうさつ(盗撮という漢字を使わなかったらOK)4割増したという話です。』を消したらOKでした。
コメント:
Re:女性は、露出度の高い服に気をつけて(08/04) m.kato さん
『』内の漢字で書かれてないところを漢字で書いて、受け付けられなかったのですか。中国のチェックではなく、日本でのチェック、このブログでのチェックですか。考えられないことですね。
パジャマの件は、今回の任地でも見かけました。私たちにはパジャマに見えるけれど、パジャマとしては使用していないのではないでしょうか。パジャマとして作られたかも知れませんが・・・・。 (2011.08.04 23:51:50)
m.katoさま shanda さん
ええ、漢字で書いた「とうさつ」が含まれていたから、駄目だったみたい。不思議な話ですね。
「わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された」というので、わくわくしたのですけれどね。 (2011.08.05 08:30:49)
カテゴリ:中国の将来
さえ:
7月1日から鳴り物入りで開通した北京―上海間を結ぶ京滬高速鉄道(北京・上海高速鉄道)は、開業早々色々と故障があったし、温州の23日の事故の影響も受けて、乗車率が低迷しているといわれています。
しかし、『中国鉄道省は1日、北京―上海間を結ぶ京滬高速鉄道(北京・上海高速鉄道)が6月30日に開業して以来、1カ月の乗車率は1日平均107%だったと発表した。一方、現在では、2等席を中心に乗車券の「売れ残り」が確認されており、当局との発表に“ずれ”が生じている。四川新聞網などが報じた。』
どうやってこの乗車率を計算するのかと思っていましたら、サーチナに解説が出ていました。
『鉄道部は「発表した乗車率は、該当する列車の乗車券販売数を座席数で割り、百分率に換算したもの」と説明。同説明によると乗車区間は考慮されておらず、例えば、列車が始発駅の北京南を満員状態で出発し、次の廊坊(駅)で全員が下車し、そのまま「乗客ゼロ」で終点の上海紅橋駅まで運行しても、乗車率は100%になる。途中で乗る人がいれば、乗車率は100%以上だ。列車に乗っている人が少なくとも、途中駅で乗降する人がいれば、乗車率は必然的に膨らむ算出方式だ。』
驚きの計算方式ですね。『有効乗車率ならば「全区間を満席状態で運行」した場合のみ100%に達することになる。列車の「稼働率」を知るために有効な数字だ』。
先ほどの乗車率は、つまり、『鉄道部が発表したのは、ほとんど意味がない数字』ということになるわけです。
國を発展させる過程では、景気の良い数字を並べ立てて皆を元気づけることも大事でしょう。それが続くうちに習い性になってしまって、『数字さえ発表すれば、国民を言いくるめることができるだろう』と、未だに、それ行け、どんどんと大躍進を夢見ているのではないかと、人ごとながら案じてしまいます。
もともと、白髪三千丈の國ですから、余り数字にはこだわらない国民性もあるのかも知れません。初対面では自分を大きく見せる、遠慮や謙遜はあり得ない國です。自分のことを大きく見せるのも当たり前の文化で皆育ってきているわけですね。
たとえば、薬科大学が雑誌に発表している研究論文の数は公開されていませんが、たまに耳にすると、かなりの数です。これなら立派なものだと胸を張りたくなりますが、SCI indexに載っていない雑誌に論文を載せても1報と数えるならば可能かも知れません。
でも、こうやって世の中がインターネットで狭くなると、中国人の一挙一投足も世界の注目を集める時代になってきたわけですから、世界の標準の考え方を使う必要があるでしょう。中国の人たちの考え方も変わってきているみたいですし、中国は自分たちはこれで良いんだと構えていられない時代になってきたのでしょうね。
カテゴリ:生命科学
さえ:
さえは毎朝、ネットに接続すると新しく発表された文献を調べていましたね。ぼくはさえのように勤勉じゃなくて、毎日は見ていません。でも、昨日はPuMedで、検索に「Ganglioside」をいれてみていたら、二十数番目に「GM3」で始まる新しい文献があって、あれと思って目で追うと、MMP-9がでてくるし、それがPI3K, Akt, Rictor, RhoGDI2, and TNFを通って制御されると言うことなので、うちと同じ仕事やっているじゃん、と思ってよくよく見るとぼくたちの論文でした。
でも、これは全く予想外だったのですよ。
この論文は2007年前半に書いて投稿したら、然るべきジャーナルから文句を付けられて、大分手直ししないと載せないぞと、ほとんど拒絶されたのでした。
ちょうどその夏、台湾の国際学会に出掛けて、王くんの研究を中心に講演をしましたよね。そのMeetingで発表した論文をまとめてジャーナルに掲載したいと主催者のAlbertが言ってきました。それぞれ論文にしているものをまとめて講演したので、それらをまとめてレビューにすることもできましたが、講演の一部であるMMP-9の研究論文がちょうど出来ていたことだし、これを載せようと決めました。
安易でしたが、ちっとも間違ったことはしていませんよね。その論文を送ったのが2007年の後半でした。でも、それからが、ちっとも進まないのですね。Albert Wuさん一人でやっていてとても手が回らないらしく、やっと2010年に編集が出来たからといって、ゲラが送られてきました。
王くんが2010年の暮れから在米のままJob探しを始めたので、少しは役立つだろうと思って、雑誌の名前などを問い合わせたところ、いまは2011年なのに2007年の出版だというのですよ。
International Symposium on Molecular Immunology of Complex Carbonhydrate-3 (MICC-3). 369-386 (2007).
驚きですが、先方がそういうなら仕方ない、研究者にとって大事なインパクトファクターもない雑誌に出ることになってしまって、王くんには悪いことをしたなあと、心の底では少し気にしていました。
ところが、それなのですよ、このPubMedで見つけた論文というのは。でも、雑誌が違うのですよね。出版年も違って、今年なのです。
Adv Exp Med Biol, 705, 335-348 (2011).
タイトルを見ると同じみたいだし。それで、この雑誌のHPを探して行って見ると、正にこの論文でした。Springer Verlagで出版していて、しかもIFが書いてあって、2009年で2.02なんですって。
これは、儲けものをした感じです。その気でなかったのに、IFのある雑誌に載っていたなんてね。おまけに、2007年には3報論文を出しているので、今年に論文が回ってくれた方がいいですよね。おかげで、もう今年は3報を出版したことになりました。
こんな良いことと言うか、楽をして儲けちゃったみたいなことがあっていいのかなあ。今度は何か悪いことがあるんじゃないかなあ。でも、さえが死んじゃうなんて、ぼくにとっては最大、最悪の不幸な出来事が今年あったんだから、この位いいことがあっても、いいよね、さえ。
コメント:
おめでとう hu dan さん
おめでとうございます。研究室がどんどん発展するようになるといいですね (2011.08.08 10:37:31)
hudanさん shanda さん
ありがとうございます。うちの学生が頑張ってくれるから、研究室が発展するのですよね。こっちも彼らに負けないように、がんばりましょう。 (2011.08.08 12:15:33)
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ おさえちゃん:
8月5日に前田武彦が82歳で亡くなったそうです。
フジテレビ「夜のヒットスタジオ」が放送を開始した1968年から1973年まで芳村真理と司会をしていました。
あの頃ぼくたち名古屋にいて、子供が二人出来て、そしてとても貧しい生活をしていましたね。モノクロのテレビ放送のテレビを買うゆとりもなく暮らしていました。
でも、ちっとも貧しいとも、不幸とも思うことなく、ぼくたちの若い生活を忙しく楽しんでいた時代でしたね。さえのお父様から携帯テレビを頂いてからテレビを見るようになりました。
ぼくがシカゴに行ったのは1969年夏から1971年秋まででしたから、その時期を除いてあの時代の日本のテレビで一番覚えているのが「夜のヒットスタジオ」ですよ。
ピンキーとキラーズの「恋の季節」が発表されたのは、調べてみると1968年だそうですから、これもきっと「夜のヒットスタジオ」で観たのだと思います。
でも何よりも気にいっていたのは、タレントを前にしての前田武彦の鋭い切り口でした。人気者タレントであろうとおかまいなしに、皮肉を浴びせていましたね。生意気なしゃべり方の芳村真理と妙に息があっていて、ぼくたち彼のこととても気に入っていました。
アメリカから帰ってからはぼくたち前よりも忙しくなっていましたし、2年間の断絶のあとのテレビは妙にしらけてしまうところがあって、もう殆ど興味を惹かれなくなってしまいました。73年に前田武彦が番組から降ろされたと聞いて、惜しんだ記憶がありますが、それ以後「夜のヒットスタジオ」は観ていません。
前田武彦死去のニュースで、ネットを見てみると、1973年、日本共産党の候補者が参院補選で当選したことを受けて、番組中で万歳をしたことが問題視され、「夜のヒットスタジオ」から降ろされたそうです。
へえ、いいじゃないかと、ぼくは思いますが、日本ではあの頃も、そして今も、こういうことは許されないのでしょうね。テレビは、そんなはずないのに、公器と見なされていますものね。
彼の写真を探しました。色々と出てきますが、芳村真理と二人の写真はなかなかないのですね。芳村真理も、前田武彦以降の司会者との写真はふんだんにありますが、前田武彦と一緒の写真、つまりぼくが覚えている頃の二人の顔の出ている写真は散々探して、やっと見つけることが出来ました。
http://matome.naver.jp/odai/2127018331428089001/2127018523728140603
懐かしい二人の映像を見て、いまは帰らぬぼくたちの若い頃の暮らしを重ねて、懐かしく、そして涙を流しながら思い出しています。さえ、ほんとうに、いろいろとありがとう、ね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
このところずっと、晩ご飯は大学で暁艶が面倒を見てくれます。つまり、彼女が食堂に晩ご飯を買いに行って、それを二人前買ってきてくれて、一緒に食べるのです。
暁艶は実験に追われていて、5時になると食堂に出掛けられる身分ではない、食べるのが人に比べて極端に遅い、と言う理由で研究室の人たちと一緒に行くことは殆どないそうです。
食べに出るのが遅くなるときは食堂に出掛ける人に頼んで買ってきて貰うし、自分で食堂に行けるときも食事を買ってきて、ラボで食べることが多いので、ぼくの食事を買ってくるのは何でもないというのですよ。
と言うわけで、5月頃から大学で、しかも暁艶の用意してくれる学生食堂の食事を食べています。でも、油が多いし、香りがきついので、週に1-2回はぼくが暁艶を誘って外のレストランで食べます。
ぼくにとって良いことは、うちに帰って食事の支度をしなくて済むことですが、もう一つ良いことは、超ゆっくりの暁艶に合わせて食事をするのでぼくも良く噛んでゆっくり食べるようになったこと、従って前よりも食べ量が減ったのではないかと思います。
もちろん暁艶だって夕方誰かとデイトがあるので、そういうときはぼく一人でうちに帰ってうどんを茹でて食べています。この間スーパーに行ったとき、一人で何時もうどんじゃねえと思って、インスタントラーメンを買ってきました。瀋陽では韓国製が大勢を占めていて、お勧めは「五谷道場」製でした。
数日して暁艶が、インスタントでいいですか?と言うのです。7時を過ぎていたから、夏休みの食堂は閉まってしまったみたいです。ぼくは「暁艶がつくるなら」と、賛成しました。「トマトも買ってあるから使って良いよ」。
暁艶は先ずIHで湯を湧かして乾麺を茹でるのですよ。どうなることやらと思ってみていると1分くらいで、つまり水分で乾麺がもどったところで取り出したので、ホッ。
彼女はそれからトマトを切り出したのです。これからスープを作るんだって。ま、いいけど、火が一つしかないこういう時は、スープを作るのが先でしょ。
その時、はっと思うと、ラーメンはお皿の上にうずたか盛られていて湯気が出ています。あれれ、これじゃ中の麺が茹だっちゃうでしょ。と言いつつ、水に浸せる大きな入れ物がないので、箸で混ぜながら扇風機にあてて冷やしました。
と言う具合に、はらはらしながら観ていたのですがともかく出来て、皿に入れられて、「さあ、どう?美味しいですか?」と暁艶。
もちろん、美味しいって。麺は伸び加減だけれど、美味しい、美味しい。
暁艶は食べながら言うには「うちで母が食事を作るでしょ。父と私が、何か味について文句を言うと、母は怒るのですよ。『食事を作りもしないで食べているだけの人が、文句を言うなんて』って。」
「今は母の気持ちが分かるんですね。先ず、作った人には感謝の気持ちを持たなくっちゃ」って。
先ず、褒めて、良かった。
ぼくも、さえに昔はひどいことを言っていたのを思いだして、恥じ入るばかりです。ぼくがさえのために食事を作るようになって17年。さえはぼくのどんな失敗作、冒険作にも、美味しいわ、と言って、食べてくれましたね。
「励まさないと、作ってくれなくなっちゃうもの」と笑いながらね。
コメント:
こんな素敵なブログ、知りませんでした。 東京・お茶大・ゴン さん
Shanda先生
最後の行、奥様への愛情があふれていて、イケマセン、目にジンときてしまいました。
お元気で。
(2011.08.08 15:46:08)
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
今年は昨日の8月8日が立秋でした。それで、2月のさえの集まりにいらして下さった方々に、まだ「暑中見舞い」が出せるうちに「暑中見舞い」を書こうと、ずっと前から心に決めていたのですよ。
だって、先方としては、たとえぼくの安否が気に掛かっていても、妻を失った人にメイルは書きにくいものでしょう。ですから、こちらから近況をお知らせしようと思ったのです。あれから半年ですものね。
でも、例によってなかなかこういうことは出来なくて、やっとぎりぎりの8月6日から書き始めて、7日は一日中、ご出席下さった約240名のうちでメイルアドレスの分かっている方たち約150名の方々に、暑中見舞いをメイルで書きました。一部は8日になってしまい、とうとう「残暑見舞い」に、書き出しを変えて出しました。
6日のうちから、返事が届き始めました。嬉しいですね。
さえの兄上からは、「ブログ、覗かせていただきました。『さえ、おさえ、さえちゃん」がいっぱい出てくるので、びっくりしながら感激しております』と書かれていました。
近況代わりにブログのURLを載せて、どうか見て下さいなと書いたのですよ。さえなら、なんて厚かましい人なの、と言いそうですね。確かに、さえから見ると、ぼくはずっと厚かましいみたい。
さえは人に目立つことを何時も厭がっていましたね。ぼくは目立ちたがり屋ではないのですけれど、人とすることが違っていても平気なので、さえは何時もはらはらしていました。
それでさえは命をすり減らしてしまったのかなあ。脳天気なぼくは、今やっとその可能性に気付いています。ぼくは凄い駄目人間なのに、ずっとさえに守られ、支えられて、ぼくは何とかここまで生きてこられたのだと、実感しています。
この先どうなっちゃうのでしょうね。
ま、それはともかく、今は返事を下さった方々に、何か一言でもいいから、またこちらからの反応を書きましょう。
カテゴリ:インターネット
さえ:
暑中見舞いをメイルで送ったと書いたでしょ。Hotmailを最初は使いました。
Gmailを、2007年から気に入って使っていますが、今年になってから中国では依然として繋がらない時間が長いのですよ。1時間に数回、それも数分間だけ通じて、あとは不通です。
Gmailはここでは嫌われているのですね。でも、当局によるとそれはGoogle側の技術的問題なのだそうです。
それで、春からいずれバックアップが要ると思って、ウエブメイルを色々使いながら探していましたが、Hotmailを最終的に選びました。
それで今回もHotmailを中心に使い始めたのですが、メイルの機能としてはGmailに遙かに及ばないですね。
だって、同じような文面でしょ。それぞれ送る相手に合わせて変えていますが、タイトルは同じで良いですね。そうすると、同じタイトルの元にすべてのメイルが継時的に並びます。これはGmailでも、もちろん同じです。
あとでみたとき、同じタイトルを持つフォルダーの中に入っているそれぞれのメイルは、誰が出したか、どこから来たか、が一瞥して分かるようになっています。どちらでも、同じです。並び順が違いますけれど。
違うのは、Hotmailでは、メイルを送ったのは当然ぼくですから、ぼくの名前が出てきますが、誰に送ったのかがさらに調べないと分かりません。これはもう一手間が要りますし、しかも一斉に分かるわけでないので、誰にどのメイルを送ったのか、ひとつひとつ調べないといけません。下手をするとリストの最後かも知れません。
もちろんGmailは同じタイトルで送ったメイルは同じフォルダーに入っていますが、誰に送ったのかが一目でわかります。同じタイトルで受けた返信も、そこのところが色が変わっていて、これも一目で分かります。
誰にメイルを書いたっけ、と言うときに必要な検索機能は、Gmailは直ぐに働いて見つけ出せます。Hotmailではこれがあるのかどうか、未だにわかりません。
Hotmailを使って、同じタイトルの元に数十通のメイルを出したのですよ。妙は反応に気付いてGmailに変更するまで。
多くの場合、同じタイトルで返信が来ます。それに対して返事を書くと、
『警告 迷惑メール防止のために、メッセージを送信する前に文字を入力してください。』と出てきて、送ってくれないのですよ。ちゃんと書いているのに。
それでタイトルを別に新しくして、メイルを出そうとしても、同じ警告が出てきて送ってくれません。
つまりぼくはHotmailではもう排除されてしまったのでしょうか。スパムメイル送付の犯人として。
Gmailはどの意味でも素晴らしく、機能に文句の点けようがありません。この國では、どうしてか、意地悪されていて、使いにくくなっていますが、それでもこれを使い続けるしかないでしょうね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
瀋陽に8年暮らして初めて夏を瀋陽で過ごしています。
6月頃、雨が日本の梅雨みたいに降る時期が続いて、「日本の梅雨みたい」と言った年が何度かありましたね。生真面目な人に言うと、「いや、瀋陽に梅雨はありません」なんて返事が返ってきましたっけ。
でも、今年の6月は日本の梅雨を思わせる天候でしたし、7月もそうでした。空は何時もどんよりと曇っていて、時に薄晴れでも雨がよく降りました。8月に入っても、同じです。それで学生に聞いてみると、「そうです、瀋陽の夏は何時もこんな天気で、数日おきに雨が降って、暑くても31度くらいですよ」とのことでした。
8月に入って数日して気付いたことは、本館の軒下に巣を作って住んでいた沢山の大型の燕(ぼくたちは勝手にイワツバメと呼んでいますね)がいなくなったことです。立秋を前に、ちゃんと季節の変化を感じて、南に去ったのですね。
朝、大学の窓から外を見ていても、燕の勇壮な飛翔がみられなくてなって寂しいです。
代わりに、白い鳩が数羽一緒に飛んでいます。中に一羽だけ少し色づいているのが入ってますが、ほかの色の鳩は仲間ではありません。
不思議なのは、自分は白色だとどうやって認識しているのでしょうね。自分は白色だから仲間に入れてくれ、って。あるいはほかの色の付いた鳩が、白色の鳩を排除して、排斥された白い鳩が一緒に群れを作っているのかも知れませんね。
二日間雨が降っていましたが、今日はもやが掛かって遠くの見晴らしが利きません。それでも、洗濯ものがよく乾くでしょう。
洗濯は、干して直ぐにからっと乾かさないと、時には匂いが出るようになりますね。何となく不潔な生乾きの匂いが残って、そのまま再度洗ってもこの匂いはなかなか落ちません。
インターネットでみていたら、「洗濯物の乾きが悪いと雑巾みたいな匂いを発します。これは雑菌のためです。この雑菌もよく洗い落とせる洗剤○○をどうぞ」と言う宣伝をたまたま見つけて、やっと気付きました。
「この匂いは細菌のせいなのか!」
そうと分かれば、そんな洗剤がなくたって対処できます。教授室には今は調理用にIHヒーターが置いてありますから、なべにこのTシャツを入れて水を張って煮ればいいのです。
と言うわけで、問題のTシャツの匂いは完全に除くことが出来ました。ぼくは何となく、得意になっています。細菌のためと気付かなかったのは恥ずかしいですけどね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
誘われてMcDonaldに行きました。暁艶が「晩ご飯の気分を変えません?みんなと麦当労(メイダウロウ、マクドナルドのこと)に行きましょう。それぞれが自分の食べるものを払うという条件で」と言いに来たので、直ぐに賛成しました。
ぼくたち中国にいると滅多にMcDonaldには行きませんよね。ぼくたちの給料では高すぎますものね。たまに行きたくなっても、暁艶はジャンクフードは食べませんと言うので、今まで行ったのは三好街の電気屋に誰かと行くと、そこでご馳走するくらい。過去数回という勘定でしょうか。
6時にラボを出ました。暁艶のほかは、修士二年の笑笑と学部学生の宋くんです。
朝までずっと雨だったためか、涼しいのですよ。確かに立秋が過ぎたって気分です。McDonaldは、展覧館の傍にあるのに行っても、文翠路の聯華マートの中に出来たのに行っても1.5 Kmの距離ですからちょうどよいですね。
まだ明るいので青年大街交差点の高架下は店が出ていませんでしたが、もう少しすると歩道には屋台が立ち並び、もうもうと焼き鳥の煙が上がります。つまり車道を歩くしかないのですよね。
展覧館の先のMcDonaldに着くと意外に空いていて直ぐに注文できました、ぼくは例によって、ビッグマックセットです。但しフレンチフライは大、そしてホットコーヒーです。これで26元。コーヒーは空港で飲むと70元でしたよね。
暁艶は全員にデザートのパイを買ってくれました。笑笑はハンバーガーなしで鶏肉のフライでした。ハンバーガーのパンが好きでないんですって。そういえば中国のパンは何かもちもちしていてぼくも違和感を感じます。今まで世界中を食べ歩いたわけではないですが、日本のが美味しいですね。
隣がケンタッキーフライドチキンなので、自然と食べながら話題になりました。ぼくはKFCはあまり好きではありません。下手をすると出来たてでない鶏肉が出てきたりして、不愉快なことが多いからです。それに、フレンチフライポテトが、粉を練って、それをいかにもジャガイモを切ったみたいに整形してから油で揚げてフレンチフライにしているのを、昔見たことがあるので、どうもインチキ臭いと思っているのです。
今、KFCでは豆乳を出しているそうですが、この豆乳は中国の正規の作り方でなく。粉から作っているのですってね。但し、違法ではないそうですが、インチキだという学生は言っていました。もちろん、ぼくの知っているKFCのフレンチフライのインチキ製法も、みんなに教えましたよ。
お喋りしながらぼくは好物のビッグマックを食べて、隣を見ると、暁艶がビッグマックを不味そうに食べています。どうしたの、と聞くと、先に二つもデザートのパイを食べちゃったからお腹がいいし、と言うのですよ。
日本の旅館はお客が着くと、直ぐに甘いお菓子を出しますね。あれは、脳の満腹中枢を甘いものが刺激することを経験で学んで、お客に使っているのですよね。食事をするとき甘いパイを先に食べてしまうなんて、暁艶は二十何年生きてきたのに、言ってみれば食事の素人ですね。
なんてことを言いながら、四人で賑やかに食事を楽しみました。夏の暮れです。
コメント:
Re:ビッグマックを食べに行く(08/12) 天行健 さん
夏休みになると、みんながゆったりとした気分になるね。いい感じですね。 (2011.08.12 22:06:03)
天行健さん shanda さん
あなたとも三好街に行ったとき食べたっけ。マックが好きでないというのに、私が食べたくて付き合わせてしまいましたね。 (2011.08.13 09:14:48)
Re[1]:ビッグマックを食べに行く(08/12) 天行健 さん
はは、私はマックがすきでないのに、先輩暁艶さんのように嫌いこともない。ご馳走されたから、美味しかったと思いました、ははは
(2011.08.19 23:46:52)
天行健さん shanda さん
日本のビッグマックを食べてみましたか。私は日本のパンの方が美味しいと思っています。
今度名古屋に行ったら会いましょう。厭じゃなかったら、ご馳走しますね。 (2011.08.20 20:35:33)
カテゴリ:研究室風景
さえ:
暁艶が今は休みでちょうど時間も取れるから、研究室の規則の中で、たとえば培養室の使い方、SDS-PAGEのやり方などを、ビデオに撮って一目で分かるようにしませんか、と言ってきました。
そりゃいいアイデアです。大賛成です。じゃ、先ずシナリオを作ってご覧なさいな、と言ったのですが、このシナリオが分かって貰えません。散々説明したけれど、
1. 教授室の中で図書の貸し出しのこと
2. 先輩たちのノートや、論文の参照の仕方
3. PCの使い方と、保存してある内容
4. 培養室のメインテナンス
などと、撮りたい項目を書いてくるだけなのです。はじめはぼくがカメラを回して、なんて言っていたのですがもう面倒になって、カメラを預けるから自分たちで撮って、と任せました。例のXACTIです。解像力のよいビデオが簡単に撮れますよね。
夕方にはカメラを返しに来て、見ると沢山のシーンがありました。これを編集するんでしょ、と言うと、大丈夫、ちゃんと編集しますと言う返事でした。どうやってやるのか分かっているのかなあと案じていたら、翌日、編集したから観て下さい、とUSBに入れたファイルをPCにコピーして、見せてくれました。MP4になっています。
最初の場所は培養室です。笑笑が手袋をはめた手で、何か薬を入れた洗面器に布を浸して、床を拭いています。暁艶のナレーションは中国語なので分かりませんが、きっと床を滅菌しているのですね。
次のシーンは顕微鏡が置いてある机を綺麗にしていて、次は恒温槽の乗っている台を拭いているところでした。
いいけどね、これじゃ床を拭いた布で顕微鏡の机の上を拭いているみたいでしょ。順番を変えなくはいけないんじゃない。
と思わずいうと、拭く布はもちろん換えています。それを、ナレーションでいれましょう、と言うことでした。
でも、誤解を与えやすいですね。こういう誤解を与えやすいことを見せてはいけませんよ。
次は恒温槽を洗って綺麗にしているシーンがありました。恒温槽は、放って置くと、温度が適度なので細菌が増えて、自然に汚くなりますよね。
そして、今度は手と腕を石けんで綺麗に洗うシーンが出てきて、それをティシューで拭いたあとアルコールを吹き付けました。おいおい、そんなに沢山ティッシューを使うなよ。。。
そして、場所はクリーンベンチに移って、中の滅菌清浄です。使う前に綺麗するやり方を示しているのですね。
笑笑がすべてに出てくるので、彼女、まるで俳優じゃない、とからかってしまいました。一方で、恒温槽も洗ってみせますから、奴隷みたいに酷使されていますね。
だって、笑笑は美人だし、他に人もいないし、と言うことでした。
どうしてか、ぼくには声が掛かりません。。。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
アメリカでも、いずれ離婚と言うことになったら、全財産を半分にするというのが法律ですね。
でも、お金持ちが結婚するときは、あらかじめ契約書を交わすみたいですね。この婚前合意では、金持ちの男の財産のこれこれしかじかは離婚の時に渡すけれど、決して財産の半分は上げないよ、と結婚前に契約をするのです。これで金持ちの男は財産が目減りするのを防げますね。
中国でもこれと似た法律が出来ました。
http://msn.ynet.com/3.1/1108/13/6091321.html
「19条婚姻法司法解釈発布 妻子堕胎不侵丈夫生育権」
http://msn.ynet.com/3.1/1108/13/6091418.html
「婚姻法司法解釈正式実施 房子成最熱詞」
日本にはこのようなことはないと思いますから(あるいは金持ちでないから、ぼくたちは知らないのかも)、中国もたいそう進んだ國になりました。
どうしてか、中国では、結婚するとき男が住宅を用意することになっています。都市伝説じゃなくて、本当の本当みたいです。
法律じゃないですが、そういう慣習になっています。ですから女性は、お金持ちの男を捜すのに具体的です。大都市では、家がない男は誰からも相手にされないのが中国です。
中国の男は必死に働いて金を貯めて家を買おうとしますし、金持ちの親は自分の息子が結婚相手を見つけるために、ぽんとお金を出して豪勢なマンションを買います。親が金を出せないときは親戚中、そして友だちまでがお金を出して(借金をして)家の頭金を払って、銀行ローンを組んで、結婚してくれる女性を捜します。
めでたく結婚できるとしますね。今までの法律だと結婚後7年経って離婚すると、家も含めて財産は等分すると言うことになっていました。
ところが、それではうちを買った男が可哀想だ、あるいは資産家の親が息子のために買ったうちをみすみす女に取られるのでは気の毒だ、と言うことになったらしく、結婚前に買ったうちはその名義人の名前の元に保護されることになったそうです。
銀行ローンで買って二人で働いて返しているときは、もちろん女性の払った分は考慮されます。
この法律は、子供が出来た場合DNAテストをして夫が生物的父親でないことが証明されたときは、妻への財産分与を拒否できるとも言っているみたいです。一方で、妻が妊娠をしたくないなら、それを拒否できる権利を守ると言うことです。これはとても進んでいますね。
政府高官の愛人たちは、以前は法律で保護されていたみたいですが、今回の法律施行に伴い、以前の保護例は取り消されたとも言う話です。以前の保護のための法律が分からないので、何とも言えませんが、面白いですね。
ともかく、中国は男女同権が強く謳われていますが、決してそうではないのですね。女性の大学教授は日本のわずか3%に比べて、その十倍以上いますけれど、実は男社会です。
じゃなければ、うちは男が買うものだ、うちの買えない男は相手にされない、なんて風潮が出来るはずはありません。
「学的好不如嫁得好」ということばがあります。女は「学問をして、仕事について高給を稼ぐよりは、金持ちの嫁になった方がよい」というのは、中国でとてもありふれたフレーズです。ぼくたちの頃の日本の健全な常識は、いまでは大分堕落していますが、中国はもっと先を行っていますね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
うちの研究室で研究室の使い方を示すビデオをを作り始めたと書いたでしょ。その最初の作品を見せてもらって、ぼくは幾つか文句を言いました。
希釈した消毒液で床を拭くシーンから始まって、そのあと机を拭くけれど、同じ布で拭いているみたいでしょ。幾らナレーションで布は取り替えて、と言ってもねえ。
消毒液を作る容器が汚いですね。撮すときは、ただの水を入れてもいいから、綺麗な三角フラスコを使いなさいよ。
クリーンベンチを使うとき、手を洗って拭くときのティッシューペーパーの使い方が凄すぎるよ、もっと倹約しなくっちゃ。研究費を浪費しているんだよ。
クリーンペンチの壁を拭くときアルコール綿で拭いているけれど、アルコールを噴霧してティッシューペーパーで拭えばいいじゃない。簡単だし。
このようなことを言って、編集で入れ換えればいいところもあるしと言ったのですが、学生の宋くんは取り直しを決めたみたいです。
そして、今度は編集したあと音楽を入れますと言うことでした。次の日、教授室に宋くんはUSBを持って意気揚々とやってきました。直ぐあとに笑笑が現れて、「I have made my debut in the film.」というのですよ。
「Have you appeared as an actress in the video? If we put the video into the internet, someone will come to scout you as an actress to be.」
と返事をしてビデオを見ました。こんどのversionでは笑笑が画面に現れて、彼女自身が解説をして、しかも動いています。
綺麗な容れもので、消毒液を希釈し、これをバットに入れて机を拭くところから始まりました。ちゃんと改良されています。床を拭くところはロック調の音楽が入っています。
手を念入りに洗うところの音楽はカントリー調。あ、手を洗ったあと手を拭く
ティッシューは6枚でなく、今度は1枚ですよ。2枚使ってもいいのに。両方の手の二の腕まで拭うんだから。
クリーンベンチの壁はアルコールを噴霧して能率よく綺麗にしています。恒温槽も今回また綺麗にしていますね。こりゃ、お陰で培養室はぴかぴかになったに違いない。。。
二回目だからビデオの構図も慣れているし、演じる笑笑もゆとりがあるし、音楽はピタリだし、上出来です。これで予定の一部が出来たわけですね。
あとも同じように作っていって、一番最初にクレジットも入れて、いずれ完了ですね。とてもよい感じです。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
びっくりです。『中国公務員の日本留学に、日本政府が今年度は約4億円を提供=35人が来日へ―北京市(Record China 8月15日(月))』ですって。
全く知りませんでした。この4億円の金で35人を1年間日本に呼んで研修させるのだそうです。『このプロジェクトは今回で10回目。2002年よりすでに9回を実施し、396人の公務員を日本へ派遣している。』そうです。
これは親中の民主党が始めたのではありません。自民党政権時代からですね。隣国との友好を計り、お互い役に立って意味のあることなら大いにやって下さい。
でも、この公務員というのが引っかかります。これが大学生、院生ならわかります。日本で勉強してそれがそのまま将来、本人の役に立つわけですから。
でも、公務員でしょ。中国の公務員は、国民の奉仕者である清廉潔白な、日本の公務員とは違います。中国人は子供の時から公務員になることを願います。安定している職業だと言うことはもちろん大きな理由ですが、もう一つ、権力があること、そして副収入が大きな魅力です。
『百万長者になるためにはどうすれば良いか?それは役人になることだ。もちろん、役人でなくても百万長者になった人は大勢いる。彼らに共通しているのは、社会資源(権力)を占有していること。そして、したい放題で利己的であるということだ。みな、短い時間であっという間に百万長者になっている。』
『貧乏な役人など聞いたことがない。もしいたら、それは我々の社会最大の奇跡だ。では、役人たちはどのように金持ちになるのか?まず、我々の政策がそういう仕組みになっている。それに役得を生かして私腹を肥やせば、「灰色収入」(違法かどうかグレーゾーンの収入)だけで十分に百万長者になれるのだ。賄賂を受け取るまでもない。』
これは、8月14日のRecord China『中国式百万長者、その成功モデルとは?―中国』の中の一部です。大袈裟みたいですが、誰もが公務員になりたがるのは本当です。こんな楽に儲かる職業はないのですもの。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=53523
その公務員を日本に招いて、何を教えるのですか、何を見て貰うのですか、何を学んで貰うのでしょうか。
2002年からやっているなら、日本に今まで招かれた396人の公務員の追跡調査をやって公表して欲しいですね。
私たちの税金を使っている以上、それが真に意味のあることであることを示す責任が、もちろん、今の民主党政府にもありますね。
カテゴリ:さえへの日記
さえ:
8月15日が66回目の終戦記念日だったのですって。
ぼくはどうしてこの日を、敗戦記念日と言わないかと、それ以来ずっと思っています。日本が負けたから戦争は終わったけれど、それを記念するならば、敗戦として記憶するべきでしょう。
日本人はこのように言葉を言い換えます。戦闘で負けて追い散らされて逃げた時も、敗走と言わずに、戦略的転進と言っていました。島を守って全滅したときも、玉砕です。
言葉を置き換えて意味を曖昧にするのが日本人の特徴なのだと思います。
もし敗戦記念日として記憶しているのだったら、戦後のアメリカの援助を受けて再興した後も、未だに独立国とは言いながらアメリカのハワイに続く属州の地位に甘んじることはなかったでしょう。
言葉を換えて自分をごまかすのが上手いのではないかなあと思っています。背景を知らずに言葉に接すると、額面通りに受け取りますから、若い人たちが「えっ、日本ってアメリカと戦争したの。えっ、戦争して日本が負けたんだって?」なんてことが起こるわけですね。
だから若い人たちは、もちろん戦争の背景も知らない。中国人が、日本は歴史をごまかすと言って日本人を責めると、歴史を歪曲しているのは中国じゃないか、と殆どの日本人は思いますが、日本人を歴史に無知にしているのは、一つにはこのいい加減な、と言うかまことに巧妙な言葉の使い方のためでしょう。
決していいことではありません。言葉一つが国民のミスリードしてしまいます。
戦いに敗れれば、人は復讐を誓います。復讐の戦いはまた災いを呼び込みます。歴史的には近隣諸国は血で血を洗った仲なのですから、これをくりかえしていては人類に平和は決して訪れません。
この連鎖を断ち切るためには、人は何処かで許し、恨みを忘れないと自分の将来も不幸になりますよね。隣の國は、侵略・併呑のないかぎり、地政学的には永遠に隣の國なのですし。
その意味で近隣諸国の人々の平和を愛する心を信じ切って戦争放棄を謳った日本のいわゆる平和憲法は、世界の認識に先駆けた素晴らしいものと思いますが、アメリカの核の下にいない限り、日本は存在できなかったのも確かなことでしょう。自国の領海に面する諸問題は自国の核心的利益であると広言する人たちがお隣にいるのですから。
アメリカの核の傘に自然に入ることを選択させた言葉が、敗戦でなく終戦記念日だったのではないか、と言うのがぼくの感想です。言葉遊びでごまかされないで、日本の存立基盤を真摯に考えていくことが必要でしょうね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
夏休みの一日、廊下で騒がしい音がしているのでドアを開けて見ると、床を器械のブラシでこすって綺麗にしていました。器械ブラシを操作する男性一人とコードを持って支援する女性一人。床を磨いた洗剤液を吸収する機械操作の女性二人。合計4人のチームです。
ちょうど教授室で共通のPCを使っていた暁艶が、「この部屋の中もやって貰うといいですね」と言うのです。
ぼくたちが新築のこの建物に入ったのが2003年の夏。半年後に、建物全部で一斉の大掃除があって、部屋の机、椅子など全部外に出して器械で掃除をしてくれました。床もワックスを掛けて再度磨いていきました。それから1年後にもう一度ありましたね。
部屋の中の机などを外に出すのが結構重労働でしたっけ。
でも、それ以来、つまり2005年春からは、とんと音沙汰なし。幾ら綺麗にしているつもりでも床は黒ずんで来ていました。「そりゃいい。金を払ってもいいからやって貰おうよ」とぼく。
暁艶が廊下で作業をやっている人に話しに行って、どう話を付けたのか、特別にやってくれる、費用は要らないと言うことになりました。これは凄いことです。暁艶の顔が利いたとしか思えません。暁艶はここに長いし、見るからに親切で公平な人に見えますから、人々から好かれているのでしょう。
廊下の清掃が進んでいる間にうちの研究室の学生たちが手伝ってくれて、部屋の真ん中のスペースをオープンにしました。そこに入ってきたプロ四人。約20分で部屋の床をすっかり綺麗にしていきました。でもワックス掛けがないので、それは残念なことでした。
何かお礼をしなきゃと探したら、この間訪ねてくれた楊方偉くんが呉れたロッテのチョコボウル一箱と飴一袋がありました。でも、「お礼に持って行って」と言ってそのまま渡そうとすると、決して受け取ってくれないのですよ。
それで別れ際に飴をひとつかみずつ、それぞれのポケットに無理矢理入れて受け取ってもらったのですが、そんなことより、今度何処かで会ったら挨拶できるように顔を覚えなくっちゃと思いました。
でもみんなお揃いのユニフォームを着ているし、とても覚えられたと思いません。ちゃんと覚えていないことこそ失礼ですよね。それなのに、どうも覚えていられそうもありません、どうしましょう。
カテゴリ:瀋陽の生活
「さえ:
瀋陽でぼく一人になってからは、朝ご飯を食べるのが面倒な上に、食べなくても平気なので、殆ど朝ご飯抜きでした。朝6時過ぎにラボに来て仕事を始めると、静かで集中でき、快調に捗ります。
みんながラボに来る8時までには、大抵プライベートな用事は片付いています。午前中のゆったり流れる時間の間、色々とものを考え、論文を書いたり、読んだり、データを整理をしたり出来ます。その間、10時頃にハチミツを入れた紅茶を飲んで、あとは昼は何時ものようにパンを食べます。
でも、これがこの夏に変わりました。劉凱さんに7月末に会ったとき、朝ご飯はちゃんと食べなくては駄目ですよ、中国は医食同原の國だから色々と良い食事が考えられていますよ。たとえば、これこれを配合したものはどうでしょう、と言って、それを一緒にいた暁艶に教えてくれました。「あのスーパーの大福源で買えると思いますよ」
暁艶もこのような食事をよく知っているし、実際に食べているのですね、ですから符丁のようなやりとりで、たちまち分かってしまいました。数日後、大福源の中の「五谷磨房」というコーナーに寄りました。
そこで彼女の注文したのは、黒ごま250グラム、紅豆(以下それぞれ150グラムずつ)、黒豆、黄豆、緑豆、鳩麦、乾燥山芋で、これを全部混ぜで挽いて貰うのです。
これをコップに一杯取って、温水で練ってから食べます。滅菌はしませんけれど、黄粉(きなこ)を食べるのと同じと思えばいいでしょうね。基本的には、黄粉に通じる味に、ごまの香りが加わり、山芋のとろみが付加されています。香りも良いし、美味しいです。これにハチミツを加えることもあります。
「五谷磨房」をインターネットで調べるとそのホームページに、いろいろの配合の健康食品が載っていました。
http://wgmf.tmall.com/shop/viewShop.htm?prc=1
【消渇降糖配方】 高血圧と、糖尿病用ですね
【通便排毒配方】 便秘用です
【益寿延年方】 高齢者向けで、これで元気になって下さい
【益智膏老年配方】脳を活性化するのだそうです
【腎虚益腎配方】 もちろん精力増強を謳っています
ネットで見た週刊ポスト2011年8月19・26日号の記事によると、「100歳超の人に共通 納豆・オクラなどネバネバを食べて」いるそうです。
『元気な百寿者は、インスリンの血中濃度が驚くほど低く、インスリンの効きが良いことが分かった』そりゃ、すべてが上手くいっているから、長生きなんでしょう。
『更に、元気な百寿者の朝食を調査すると、納豆やオクラなどのネバネバ成分や玄米、食物繊維の多い野菜などインスリンの効きを良くする食材を豊富に摂取していた』
ネバネバ成分や食物繊維の多い野菜などが、インスリンの効きを良くするのかどうか、知りませんが、ここにはそう書いてあります。科学的常識なのでしょうかねえ。
これをそのまま真に受ければ、8月に入ってから、ぼくはネバネバの山芋の入った健康食を毎朝食べているのですよ。今から100歳超の仲間入りかなあ。愉しみですね
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
大学の西門を南に行って直ぐの足療(足裏揉み治療)には、さえとも時々行きましたね。あそこは峯村先生が紹介して下さったところでした。施療してくれる若い女子たちは、あまり上手ではなかったですよね。
一度凄く上手い男の子がいましたが、直ぐに何処かにスカウトされて行ってしまいました。上手いというのは良く効くと言うことで、足を揉まれる度に、悲鳴を上げ続け、こんなに痛いところがあるものかと、正に痛感したものです。
彼に比べるとほかの女の子は、聞いてみると、ここに来てから見よう見真似で始めたなんて子もいるし、大体が若い女の子のお色気で売っている店ですね。
実際、足療に行っているというとニヤッとする学生がいるくらい、足療とセックス産業と結びついている地域や、時代があったみたいです。
今、金属研究所の先に、盲人按摩と言うところを見つけて、時々出掛けています。
大学の近くの女の子たちが全くの素人だと言うことがはっきり認識できるプロが集まっていますが、それでも施療する人によってそれぞれ違います。
四人目になる人かな、若い男の人ですが、彼が足を揉むと、初めて台湾に行った時みたいに、ちゃんとツボを押していることが良く分かります、痛くて、痛くて、足がけいれんして、身もだえして、思わず叫び続けてしまいます。
「Ah,,, ahhhhhhh,,, auuuuuh,. ouch, ouch,,,」
「Oh, No,,,. Oh, No,,,.」
「Oh, that's it. Ooooooooooh yeeeeees,,, that's it,,,. Oh, so good,,,.」
まるで、洋ものポルノですね。観たことないけど。
うちに帰って自分でも足裏を揉んでみました。彼が押した線に沿って何カ所か、錐で刺したみたいな、電気が広がるみたいな痛みが出るところがあります。これがツボでしょう。日本の施療時にはこれがリンパ節だと聞きました。リンパ球がここで溜まって動かなくなっているから痛むのですって。
筋肉の凝りは、揉んで、風呂で暖めて、血液、リンパの流動を促す。痛みを取るのはこれしかないそうです。
足のツボをネットで調べてみると、足裏の真ん中から踵に掛けて痛いところには、副腎、腎臓、大腸、小腸、胃が出ていました。親指の側面が押されると激痛です。鼻や側頭、頭と書いてあります。
本当かなあ。ぼくはこんなことを全く信じていません。
台湾に行ったとき、足裏治療所に一緒に行った蛋白質研究奨励会の芝哲夫先生は同じように足裏を押されても全く痛くなくて、気持ちよいだけでした。毎日8 km位歩いておられたようです。それを知って以来、押されても痛くないのが足の健康な状態で、痛いのは良く揉んで治さなくっちゃと信じています。
翌日も足寮に出掛けました、同じ人に施療をして貰い、同じように痛んで叫び続けました。一回や二回では治らないのですね。
中国の皇帝になったとしたら、後宮三千人の美姫はともかくとして、足もみの達人に毎晩寝る前に揉んで貰ったら至福の人生だろうなと、叶わぬ夢を見ています。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
昨日、ミラノで博士課程にいる曹Tingさんが、ぼくを訪ねてきました。二年前の修士卒業生ですね。彼女は、とっても元気でした。
ワインと美味しいイタリア料理で丸くころころと太ったかと思いましたが、ワインは身体に合わないそうですし、イタリア料理よりも中華料理の方がずっと美味しいそうです。敢えて言えばちょっと太ったかなあ、という程度です。
へえ、もったいない、イタリアまで出掛けてワインもイタリア料理も厭だなんて、と思いますが、西安のモンチッチもオーストリアに一年近く留学して、ウイーン料理にはうんざりした、チーズなんかもう見たくないそうですから、中国人には中華料理しか合わないのでしょうか。
ミラノに留学していてから、現地でボーイフレンドを見付けて、この夏一緒に中国に戻ってきて、彼の故郷の重慶で結婚式を挙げたそうです。
彼は中国の会社のミラノ支部に勤めているビジネスマンで、曹さんの大学の近くの中華レストランで出合ったがきっかけだそうです。今回の帰国を機に、いま彼はまた会社で講習を受けていて、それで曹さんの故郷の長春には彼女一人で戻ってきて、そして、態々瀋陽までぼくを訪ねてくれました。
メイルのやりとりは続けていましたが、一番気になっているのは、彼女がイタリアで幸せに仕事をしているか、ということです。色々と話してみると、Prinetti教授も、Sonnino教授も親切にしてくれていると言うことでした。彼らに気に入られたというのは、滞在を実り多くするためには必須なことですね。
ぼくの場合シカゴでボスと喧嘩ばかりしていましたから、英語は上手くなったけれど、学問的にはマイナスが多かったですね。曹さんが気に入られたのは、(良い論文を書いているし)優秀な頭脳と、彼女の几帳面な性格と、真面目な仕事ぶりによるのでしょう。
宿舎は無料で使わせて貰っているし、博士を出たらポスドクのポジションの面倒も見てくれる約束も貰ったみたいです。
でも、比べてみると、ぼくたちのところにいたときの方が遙かに真剣に実験をしていたそうです。何時も実験に追いかけられていて、それに比べると、今は休暇みたいなものみたい、ということでした。
有能な人は忙しくて当然、忙しくしているのが当たり前、と言うのがぼくたちの方針ですよね。
おまけにサイエンスに対する姿勢は、私たちの方が遙かに厳しく、イタリア人は全然甘いんだそうです。データが出れば、ぼくたちがやるような検証に時間を掛けないで、すぐに論文にしてしまうそうです。
しかし、ぼくたちのところで鍛えられたから、そのお陰で今の私があると言って、曹さんは私たちに感謝していました。嬉しい言葉ですね。本心だと受け取ってきましょう。
さらに、イタリアに留学して、彼女生活は毎日が楽しいと聞くことほど、嬉しいことはないですね。
昨年の1月から1年余の研究で、この夏論文を投稿したと言うことでした。ミラノでは、誰が研究をしても教授が著者の一番前に名前を載せるのですって。実験をした人は、二番目。このあたりはうちと大違いですね。うちでは、実験をした人が一番前。論文を書いているぼくが一番最後。
もう一つ、聞いた違いを書くと、博士をあと1年半で卒業するのですが、論文を然るべき国際誌に出したかどうか、博士号の請求で問われないそうです。これは、驚きですね。こんな楽なところは聞いたことがありません。
昼には、この夏もずっと研究室にいた、王月、笑笑、それに秋からぼくたちに加わる王一任、林音知も加えて6人で、例の唐萱閣に行って食事をしました。とても楽しい時間でした。
この次は、彼女がいるうちにミラノを訪ねていきたいものですね。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
昨夜は大雨。瀋陽に来て初めてのスリリングな日でした。
昨日の日曜日の午後は三好街に行きました。電気街で用事を済ませたあと、暁艶と宋くんはこのあとフィットネスクラブに行くというのです。「隣にはマックがあるので、夕食はそこにしましょう」なんて言いながら。
マックに一緒に行きたかったので、じゃ、見物をすると言って付いていきました。星河なんとかというフィットネスクラブで、日本のと同じ感じです。マシーンが沢山あるのと、ダンベル、バーベルコーナーが充実しているのが眼に付きました。2階、3階には広いホールがあって定期的にエアロビックス、ヨガをやっているのも日本と同じです。惜しいことに、プールがありませんでした。
インストラクターがぼくにマシーンを色々と説明してくれるので、ちょっと試してみたりしました。終わって7時過ぎ。その足で同じ建物の中のマックに行って、注文したビッグマックをかじりながら外を見ると、大雨です。
宋くんがケイタイを出して調べて言うには、今から30分前には雹(ここでは氷包というそうです)が降ったそうですよと言って喜んでいます。雨は激しく、店のガラス越しに見える大通りは水で満杯。クルマは派手にしぶきを上げています。
ま、そのうち止むでしょうと言って1時間近く待って、雨が少し小降りになったところで、帰ることにしました。ビルを出るところに人々が大勢たたずんでいますが、数は少なく、この雨がずっと降り続いていることを示しています。
ジーンズの裾を脛の半ばまででまくり上げて、うちまで2ブッロク歩きました。雨が降っていると言うより、どこも水浸しで、マンホールに落ちないように注意しながらの歩きです。宋くんはタクシーを見付けなきゃと言っていますが、こんな時からのタクシーがあるわけありません。クルマは激しく水しぶきを上げて走り去ります。
瀋陽は一帯に平らなところですが、道路が低くなっているところでは車が通る度に、歩道に波が押し寄せてきて膝まで濡らします。雹が降ったというだけあって、水は冷たいです。こりゃスリルだねえなんて宋くんは大声を上げて喜んでいますが、ぼくはひたすらマンホールに落ちないようにと、激しく流れる深い水流に目をこらし続けて歩きました。
スリルに満ちた歩きと、そしてマシーンで少し遊んだためでしょうか、筋肉というより頭が興奮していて寝られず、昨日は佐藤賢一の「双頭の鷲」を読んで、2時過ぎまで起きていました。
朝、ラボに来て隣の池島さんに会ったら、昨日はうちの窓を開けたままだったそうです、風が東西に吹いたのでベッドから何からびしょびしょになったとぼやいていました。
ぼくの方は寝不足で、今日は、頭がさえない一日になりそう。
カテゴリ:薬科大学
さえ:
前にここに書いていますね。防犯カメラを5階に設置して欲しいと大学に申請したのですが、綺麗に無視されたままだって。
大学が設置してくれないなら、自分たちのことは自分で守ろうと思います。
防犯カメラは実際に人々の流れを記録するのが一番の目的ではなく、ここに防犯カメラがあるから悪い気を起こすなと、潜在的犯罪者を威嚇し、犯罪を抑制する効果を狙っています。
ビルに侵入して先ず監視カメラを銃撃して壊して、盲目にするなんていうシーンが良く映画にあるように、その気になれば、明確な目的のある侵入者は防犯カメラを壊しますよね。
でも、ぼくたちの不在時に、それほどの強い意志を持って鍵を破ってまで部屋に入ってくるなんて考えられません。何もないんですものね。抑止効果があれば十分と思っています。さらに、必要なときは巻き戻して映像がチェックできれば十分でしょう。
暁艶と宋くんは既にこの手のカメラを扱っている店にあたっていたので、そこで実物を見ました。日本のネットで見ると、防犯カメラは2,000種類以上あるそうです。中国ではもっとあるでしょう。
その中からこれというのをどうやって選び出すかは大問題ですが、カメラにセンサーがあって、監視場面で動きのあるときだけ記録すること、暗くても十分記録できること、3-5mくらい離れた人物があとで十分認識できること、記録装置は、1週間で一回り位でよいこと、記録時刻を画像に自動的に保存していること、を条件に、その店にある中から探しました。
この店のカメラにセンサーは付いていないそうですが、レコーダーの方で動きを感知して、記録するのだそうです。
へえ、知りませんでした。カメラ側のセンサーよりも進んだ気がします。ソフトウエアで対応できますから、この方が資源を節約になります。記録は4チャンネル出来れば十分です。
カメラは赤外線照射付きで1台300元くらい。500GBのHDD付きでレコーダーが650元。コードが1 mにつき3元。工事費200-400元。
ぼくたちだけですとカメラ2台ですから約1500元。
この仕様で、あと2台増設すれば5階の人の動きを全部カバーできます。5階のあと3人の教授に声を掛けましたが、どこも興味を示しませんでした。しかし、ぼくたちがカメラを設置することに、反対はありませんでした。
暁艶が武装保衛処に電話して話をしたら、OKですというのです。でも電話のやりとりだけでは、心配でしょ。
さらに、そこが承認するだけで問題ないことを確認したので、申請書を書きました。承認の証拠を貰う必要があると思うので、同じ内容で2通作成しました。監視区域に「防犯カメラ作動中」と書いて掲示することの許可も、申請しました。
そしたらね、電話ではいいよ、いいよ、設置に全く問題ないよ、と言っていたのに、書類に印鑑を押すとなると責任が残るからでしょうね。先方から午後2時に会いに来るといってきたまま、来ないし、こちらが電話をしても不在です。まだ、夏休みだからでしょうか。
カテゴリ:瀋陽の生活
さえ:
昨日は北大にいる方家が訪ねてきました。おしゃれな重ね着で。
この頃の中国の若い女性はおしゃれですが、彼女は垢抜けていましたよ。
夏休みが二週間貰えたのだそうです。北大の先生のことをケチって言っていましたが、院生に二週間も夏休みをくれたなんて、立派なものですよね。
先ず、神戸の加藤先生のうちを訪ねて、泊めて貰ったそうです。ぼくたちとも仲好しの加藤先生だから、これを聞くだけで嬉しいですね。
方家が夏休みで戻ってくると知って、暁艶経由で「来るとき日本のお煎餅を買ってきて、こっちで払うから」なんて言ったのですが、方家は「これはお土産です」というので、沢山貰ってしまいました。2月に来るとき持ってきたお煎餅が切れて久しいので、嬉しいことです。
北大の研究室では外国人は彼女一人で、そのためかどうか学生数が三十人を超す研究室で、教授やスタッフと、とても上手く行っているみたいです。
夏にはパリで開かれた学会にも、連れて行って貰ったと言うことです。もちろん学会でポスターの発表をしたそうですよ。
来年夏に修士課程が終わったら、そのままその研究室で博士課程に進もうと決めたのですって。
中国から学生が日本に行ったとき、その研究室で幸せにやっているかどうかが一番気になるところです。方家については、安心して良いみたいです。この秋からは奨学金も貰えるような話です。良かったですね。
日本のカップラーメンが美味しいとのことでした。昼は大抵これを食べているのですって。近くのコンビニに売っているすべての種類のカップラーメンは試していると言うことでした。
日本は、というか札幌は美しい街で、街は綺麗で、人々は親切で、安全で、すっかり気に入っているみたいです。新疆から来た留学生と二人でアパートをシェアして住んでいると言うことでした。
北大の研究室も。札幌の街も、すべて気に入って、方家はすべて上手く行っているみたいで、こちらはうんうんと頷くだけです。良かった、良かった。
コメント:
Re:方家さんが訪ねてきて(08/24) mmk さん
奈良の鹿煎餅が土産でしたか。冗談です。
HPやはり、更新できません。ホルダー(ホルダー名の記憶なし)がなくなっているので、新たにHPを作ることができても、過去のHPの目次に入っていけません。
残念なことです。 (2011.08.25 22:45:03)
mmkさま shanda さん
いまの奈良の鹿は上等な煎餅を食べているのですねえ。アハハ。 mmkさんが案内されたのですね。
HPについては別にメイルをします。 (2011.08.26 08:44:21)
カテゴリ:中国の将来
さえ:
今の中国では、食の安全に対する関心が高まっています。実際、いろいろのニュースを読むと、外食では何を食べさせられるか分かりません。
豚肉、鶏肉など安いは加工して、牛肉そっくりにしていることが摘発されています。『中国の飲食店に“魔法の薬”…90分で豚肉が牛肉に、発がん性も(サーチナ 4月14日)』
『安徽省合肥市では、食肉加工業者や飲食店が「牛肉膏」と呼ばれる違法添加物を使っていることが問題になっている。豚肉を「牛肉」に変える“魔法の薬”だ。関係業者が広く使っていることは「公然の秘密」という。』
『法律はあっても守られない、管理監督が徹底されていない、管理監督をすべき立場の者から製造者に至るまで最低限の責任感すら持ち合わせていない―この3点が食の安全を崩壊させる主因だろう。』と記事では論じていますが、安全な食材なんて、ここにはないのじゃないかと思われます。
油が話題になったのは、去年のことです。『「リサイクル食用油」その原材料は下水道の汚水!年間300万トンが国民の胃袋へ(Record China 2010年3月19日)』
『中国人は下水道の汚水から製造された「リサイクル食用油」を年間300万トンも食べているという衝撃的なニュースが中国国内で報道され大騒動になっている。』
中国で使われる食用油は年間2300万トンだそうで、そのうち300万トンが下水、あるいは食べ物ゴミから回収された300万トンだそうです。
殆どは正規の流通ルートに乗らないのですが、街角の屋台、安い料理屋などではこれを使っている危険が高いと考えられ、一方で、市民がスーパーで買う油は安全だと思われていました。
でも、その後のニュースではこの下水再生油は安全性の試験にも通って、当局のお墨付きで販売されているのだそうです。何とも恐ろしいことで、身を守りようがありません。
もちろん、中国にも食の安全に関する法律はあります。さらに、これでは国民の健康が危ないと心配したのか、2010年2月11日には李克強副総理を主任とする「超弩級」の食品安全委が発足したそうですが、国民に人としてのモラルがないと骨抜き同然ですね。
それですから、外食するときレストランに自分で油を持ち込む人もいます。『外食に「マイ油」持参は官僚の特権、我々はどうすればいいのか Record China 2011年8月24日』』
『広東省珠海市食品薬品監督局の局長は外食の際、店に「キープしてあるマイ油」で料理させている』のだそうです。
『しかし彼らが持ち込めるのは、「身分の高い」特権階級だからだ。一般市民の我々には不可能な話である』とRecord Chinaが引用しているブログはつづっています。
昔、毛沢東主席の頃、彼ら政府高官の食事の原料を特別念入りに作る特別の農園があったという話を聞いたことがあります。今も同じような仕組みがあるかどうか分かりませんが、もしあったら、あることが分かったら、一般国民はそれでも黙っているでしょうか。
カテゴリ:さえへの日記
さえ おさえ おさえちゃん:
さえのための2月20日の集まりからも半年経ちますが、実は記憶が朧に霞んでいます。その時の写真がPCのスクリーンセーバーとして出てくるので、そうか、あの先生も、あの人も出席してくれたんだな、と写真で分かるだけです。
さえに死なれちゃったという事実と同様に、心の中で認めたくないから、記憶を薄めているのでしょうね。
あれから一人で一生懸命生きています。さえに日記を書くと言うことで、辛うじて心の平衡を保っている気がします。
けれど、「さえ」といくら呼んでも返事はないし、「ちゃいぼう」とぼくを呼ぶさえの聞き慣れた優しい声はしないし。時々、どうでもいいや、なんでぼく生きていなくちゃならないんだろう、もう終わりにしよう、なんて思います。
人には望み、希望が必要ですね、生きるためには。
うちの研究室にいる学生をちゃんと育てるのだ、と自分に一生懸命聞かせているのですが、だからどうなんだ、と問いかけると、これが生きる喜びになるにはまだ遠そうです。まだ勉強が足りないからでしょうね。
この、勉強が足りないというのは恥ずかしいことなので、もうちょっと頑張ろうかという気になります。もうちょっと何か仕上げて死なないと恥ずかしいかなと。何時も、何でも話が出来て、お互い理解し合えた相棒のいないのが、何とも悲しいですけれど。
さえは「私は立派な人間になろうとずっと思っていたけれど、とうとう成れなかったわ。でも、立派な人間になるように努めてね」とぼくに言い残しました。
立派な人間にほど遠いぼくは、こんな目標を貰ったらあと何年も生きていなくてはならないことになります。おさえちゃんに言われたことを、少しでも果たすために、もっと生きて、頑張らなくっちゃいけないんでしょうか。
頑張ったって、とても空しい感じです。だって、それを見てくれるおさえが傍にいないんだもの。「だれに見しょとて、べにかね付ける」と同じで、見せる相手がいないんだもの、元気が出るわけないじゃない。
カテゴリ:中国の将来
さえ:
今、日本脱出を計っている日本人がどんどん増えているんですって。
たとえば、ダイアモンドオンラインによると、『3月11日に日本を襲った東日本大震災。その際起きた原発事故は、いまだ収拾のメドが立っていないばかりか、放射能汚染の影響はいまや日本中に拡大している。さらに、財政悪化による増税、経済停滞とリストラ、日本社会の閉塞感など』が日本人を不安にさせ、海外居住を考える人たちが増えているようです。
(安田修 http://diamond.jp/articles/-/13297)
実際に、トラベルニュース7月26日によると、「震災後の日本人海外脱出は7万人と推測」されているそうです。
万事に慎重な日本人という一般的なイメージからすると、これは結構大きな数ですね。大震災以降、日本人の意識が大きく変化したということでしょう。日本の経済、政治、大自然災害など、日本の先行きの不安でしょう。
ぼくたちも、言ってみれば、海外脱出組みなのですね。全く思っても見ませんでしたが。
定年を過ぎて日本研究を続けたいのにその場所もなく、先輩の川西教授の好意のお陰で瀋陽薬科大学に職を得ることが出来て、海外移住なんていうほどの覚悟も何もなく、ホイホイと移ってきました。8年間、瀋陽に暮らして、全くストレスなし、大いに幸せです。
幸い日本のうちの面倒を見て貰えるバックアップがあるので、可能なのですけれど。この夏だって日本に戻らないというわがままも通して貰えました。
記事に目を通していると、『海外生活に向く人、向かない人』のなかで、『「日本のほうが……」と愚痴る人は海外生活には向かない』というのがありました。
今までいろいろな日本人を見ていますが、日本と引き比べて中国の悪口ばかりを言っている人を見ると、そんなら来るな、と言いたくなります。こういう人は、結局中国になじまず、暗い印象を残して日本に早々に引き上げていきました。
瀋陽日本人教師の会の会員は、中国で日本語教師をしようという明確な意志を持ってやって来る人たちです。20歳代の若い人たちと、定年後の高齢者組の二つに分かれますが、どちらもしっかりしていますね。良く言えば、それぞれが個性的で輝いていて、悪く言うと、一癖も二癖もある人たちです。ま、そうじゃないと中国までこないでしょう。ぼくはこんな人たちが好きで、教師の会に入っています。
ところで、中国でも『第3次移民ブーム…十年でグリーンカード取得二百万人 Yahoo ニュース 2011/05/25(水) 』だそうです。日本のこの半年間の7万人なんて、屁の河童みたいなものですね。
『今回の移民ブームは、社会のエリート層や、新富裕層などによる投資目的で、資本移転の意味合いが強い』そうです。経済力を付けた中国人が増えて、その人たちが海外移住を計っているという印象です。
『2011年の中国人の個人財産報告では、中国では約50万人が1000万元以上の投資資産を所有しており、子どもの教育やビジネス環境、生活環境などでより多くの利点を獲得できるので、海外への移住希望者が増えている』そうです。自国の将来像を描きにくいところは、共通しているようですね。
カテゴリ:研究室風景
さえ:
六週間とい長い夏休みも今日が最後。何でも、過ぎてしまえばあっという間ですねえ。
この夏は、学部二年生の宋くんが研究室に来ました。夏の間研究室で色々と研究の雰囲気に触れたいというのです。何時もは、こういう希望は迷惑なので断っているのですが、私も夏休みはずっといるつもりだし、博士二年生の暁艶が彼のことを気に入ったみたいなので、彼女をはじめ他の人たちが良いというならと言うことで、OKを出しました。
宋くんは180センチ近い大柄な体格で、大学に入ったとき修士の学生と間違えられたそうです。つまり、見かけも落ち着いた感じの学生です。うちの一番上の孫よりも若くて、91年生まれ。つまりジュウリンホウ(九十后)の代表選手ですね。中国の新しい新興世代です。
実際に付き合ってみると、ジュウリンホウという特別なこともなく、とても落ち着いたところもあるけれど、一方、することはとても可愛いし、それで研究室の皆から可愛がられて、直ぐに仲間に溶け込みました。
毎朝欠かさずに、終末の土日もですよ、朝8時前には来て、夜は暁艶の実験に付き合ってボディーガードの役を果たしていました。
ぼくのキャッチボールの相手も務めたし、一緒にバットも振ったし、フリスビーをしたし、買い物にも行ったし、楽しい相手でした。
胡丹と同じ湖南省の出身ですが故郷の訛りが全くなく、アメリカ英語を巻き舌でぺらぺらと話すのですよ。時々言っていることに付いていけませんでしたが、時に毎朝、朝の挨拶のあとお喋りを愉しみました。
一昨日の金曜日には、ご馳走をしたいといって譲らず、イタリアレストランでごちそうになってしまいました。
「先生に上げます、友だちが書いたものです」といって、「漫使風霜浮白髪」という見事な書を呉れました。ほれぼれするほど自然に、しかしバランスよく書かれています。このあとの句は「莫将流水送華年」とつづくそうです。
仏教の言葉のようですね。宋くんによると、髪は白いけれど若者の心意気で生きているぼくにぴったりの言葉なのだそうです。仮表装だったので、昨日暁艶と中街に行って、彫刻の友人である曾さんに紹介して貰って、表装を頼んで来ました。
朝はたまたま大学の構内で、向こうで高々と手を挙げる宋くんと会いましたが、「これから教室に行って勉強です」と、大きな肩をゆっさゆっさ、揺すりながら歩いていきました。
お陰で楽しい夏休みでした。