長い日本での夏休みを終えて瀋陽に戻ることになった。航空券は瀋陽で往復を買っていた。瀋陽で貰ったe-ticketは一言でいうと手紙みたいな紙だった。
Reconfirmationが必要かどうか分からなかったけれど、 reconfirmすることにして、8月25日の朝になってこのe-ticketをカバンから取り出してみてみると、帰国の日付が8月26日になっている。何と出発まで丸一日残っていない。
びっくり仰天である。e-ticketを見せると妻も一瞬驚いたけれど、私のこんなドジは慣れっこになっているという顔で、「まだ一日あるから間に合って良かったじゃない。」とニコニコして励ましてくれる。
そりゃその通りだけど、私はどの時点からか、帰国は28日だと思いこんでいた。手帳にも28日と書き込んでいた。動転したまま考える。このままだと帰国まで一日もない、そんな急に出掛けられるもんかと、こちらが悪いのに人の所為みたいに決めつけて、航空会社に電話をした。
幸い、帰国日時に変更は可能で、しかも28日は空席があったので、28日帰国と言うことになった。それにしてもひどい間違いである。このような思いこみに よる間違いは老人になった証である。ぼやいても仕方ないけれど、このところこう言ったことが頻繁に起こるのだ。どうやって気をつけたらいいか分からないけれど、これからは気をつけよう。やれやれ。
元もと28日に瀋陽に戻ると思っていたので、それに合わせてぎりぎりまでやることがいっぱいあった。慶応大学を訪ねなくてはならないし、病院にも行く用事 が残っている。夏休みの始めに買い込んだ本はあらかた読んでしまった。本好きな私としてはいつもなら本を沢山買い込むところだけれど、もうその暇はない。
5ヶ月瀋陽にいる間私たちを支えてくれるはずの煎餅を主とする日本の菓子は、近くの成城石井で買ってあって、コーヒーも入れて重さが8kgあった。研究用 の試薬も買い込んであって、発泡スチロールの箱に保冷剤を入れてその重さが4kg。コンピュータのソフトのCDやDVD、コードなどが3kg、衣類が 3kg。これにカバンを入れると24.5kgとなって、リミットである。
出掛ける前の日の午後息子が来て嬉しいことにはベーグルを焼いてくれた。これが1.5kgあったので、その分菓子を減らすことになった。チェックインの荷 物の重量の25kgは守らないと、べらぼうな超過料金を取られる。この点JALは情け容赦もない。こちらの体重は他人様よりも軽いのに、そういうことには 全く斟酌がない。
うちの近くから成田行きのリムジンが出る。乗客は半分くらい。夏の終わりなのでビジネスなどの旅が必要な客しかいないわけだ。成田までの高速道もほとんど 渋滞がない。ガソリンなどの燃料費が上がって日本中が困っているが、これはプラスの効果である。クルマを買い、クルマを乗り回すのが当たり前になった生活 だったが、そのスタイルがこれからは根本的に見直しを迫られよう。今まで右肩上がりだけだった生活のスタイルのマイナスへの変化が、こんなにも早く来たことに驚いている。
成田に着くと、空港は静かで良い感じである。喧噪に追い立てられて動くよりも、私は静かな方が良い。それでも瀋陽行きは7-8割の乗客だった。
瀋陽に到着すると私たちは空港バスで移動してターミナルに運ばれた。ターミナルにはいると、体格の良い若い兵隊が1メートル置きに直立不動をしている。今 回の彼らは銃を持っていなかったけれど威圧感は十分である。民衆や外国からの客を威圧することが必要な国だが、世界の何処でも情勢が緊迫して今は何処の国 もそうなりつつあるみたいだ。
入国審査はいつものようにすらりと済んで、手荷物も待つほどのこともなく受けとったが、そのあとがいけなかった。今まではなかったが、オリンピックの始まる前から入国者の手荷物を再度X線検査器で調べるのである。何の問題もないと思って機器検査を通過したカバンに手を伸ばすと、係官からそれを台に乗せて開 けるように指示された。「どうして?」と聞くと「CDを持っているでしょ、それを見せて」という。しかし、係官は少しもいかめしい顔をしていない。オリン ピックのおかげで外に開かれた顔になったためだろうか。
今回は沢山のソフトウエアをもっていた。CDを入れたケースを出すと、それをぱらぱらと眺めていたが、やがて「もっと調べるからこの椅子に座って一寸待っ ていて」と、手荷物検査のモニター画面の前の自分が座っていた椅子を示していう。もう一人隣に女性の係官がいたが、断って椅子を引いて座った。待っている 間見ているとこっちの係官はろくにモニターを見ていない。すくなくとも私のあと誰一人として摘発されない。
約20分そこで待って一緒の飛行機で着いた客がほとんどいなくなったころ、先ほどの係官が笑顔で戻ってきて、「ありがとうね、これで大丈夫。行っていい よ」という。開けてあったカバンにCDケースを入れてカバンの蓋をしてから持ち上げようとすると、この係官は笑顔で手伝ってくれるではないか。そして再度 「協力してくれありがとう」と言うのだ。「いえいえ」とこちらもニコニコと答えてしまった。中国も変わった。今回のオリンピックで、開会式の口パクとか、 期間中のデモの抑圧とか中国の姿勢に批判はいっぱいあるかも知れないが、私の体験したここの係官は国際的感覚を明らかに身につけたと言っていい。
空港からラボに寄って数時間してからうちに着いて部屋の明かりを付けると、床の上に可愛いゴキブリが沢山歩いている。日本の大和ゴキブリと違ってここのゴ キブリは最大でも2cm位で小さい。子供は3mm位の大きさでごちゃごちゃ走り回っている。動くから見えてしまい、潰すことになる。寝る前にゴキブリホイ ホイを仕掛けたら翌朝、一つのゴキブリホイホイに数十匹が捕まっていた。ゴキブリも夏のオリンピックのフィールド競技をのびのびと楽しんでいたらしいが、 彼らにもオリンピックの閉幕という段取りが来たわけだ。
なお、この秋の新学期から博士課程に入る女子学生は張嵐さんというが、発音はZhang Lanである。このLanの発音は難しく、私たち日本人のほとんどはLangと区別できない。聞いても分からないし、もちろん口で区別できない。大体が Langの発音になってしまうのだ。しかし、Zhang Langになってしまうと、ゴキブリになる。可愛いお嬢さんの名前を呼ぶのに「ゴキブリ野郎!」と呼んでしまうことになりかねないのだ。どうしよう。
昨日は「今日から新学期が始まりましたよね」と言って夜の9時半に電話が掛かってきた。西安にいる私の若いガールフレンドのマンチッチである。1年前学会で ウルムチに妻と行った帰りに、私の友人の張敏老師に招かれて西安の大学に講演に立ち寄った。この友人とは元々は日本にいる中国人留学生として知り合った人で、このときは日本に十二年滞在して西安に戻っていた。昨年の秋は、彼女の娘の夢琪さんがちょうど西安の大学の1年生に入ったところだった。
その時に初めて会った夢琪さんだが、彼女は日本の高校で1年生まで通ったし、本を読むのが好きで色々と日本語の小説も読んでいた。それ以来、時々電話がうちに掛かって来る。私たちと日本語を話せるというのも嬉しいらしく、日本語の小説の話も話題にでる。今では彼女のことをマンチッチと私は勝手に名付けて呼んでいる。
電話はこの夏休みに何をしていたかということから始まった。もちろん、話は先ずオリンピックのことになった。夏休みには彼女もうちにいてやはりオリンピッ クを見ていたそうだが、中国では中国人選手の活躍するゲームを中心に見せるし、日本の私たちは日本選手が出なければゲームは放映されないから、私は体操男 子団体、シンクロナイズドスイミングくらいしか、日本と中国選手の競争はみていない。それに金メダル51個をとった国の人と、前回のアテネ大会に比べて9 個に減った日本人との話だから、彼女の方には気遣いで遠慮がある。「ほら今まで強かった柔道の女性が今回は3位になってしまいましたね。谷さんはずいぶん 長く頑張っていたのですね」と話にも色々と気を遣っている。
「オリンピックの開会式の放映を全部見たのは今度初めてだから、正確に言うと比べることは出来ないけれど、今度の開会式は空前絶後の規模と壮大さで世界中に中国はすごいって印象づけたんじゃないですか」と私。
「漢字の歴史の中で活字体がありましたよね」とマンチッチがいう。「ああ、そうそう。活版印刷に使う活字が活版になってその活字が音楽に合わせて出たり 入ったりするんでしょう?」と私。思い出した。活字の動きがうねりになって全体を縦横に動き回っていた。「最後に一つ一つの活字から人が顔を出してきて、 あれ、これコンピューターで動かされているんじゃないんだ、と分かったんですよね。どうしてあれが人が動かすだけで時間と共に動きを変えていくことが出来 たんでしょうね。」と二人で不思議がった。二次元に配置した素子を三次元方向に動かすのは人の力で難なくできるだろうけれど、その全体の動きを模様にする のは大変なことだ。べらぼうな練習をして可能にしたのかも知れないが、それが可能になると言うことが凄かった。
「人の動きというとね。初めの方で沢山の人が出てきて鳩の形を作ったのもあったでしょ。そのまえに電飾を付けた人が綺麗に線に並んでしかもその線が動いて 形を変えていくところが全く乱れず、まるでコンピューターアニメか思うほど見事でしたよね。マスゲームというと北朝鮮が一糸乱れず凄いけれど、動きを伴う マスゲームであれだけ見事なのは初めて観たような気がしますね。」
なんて言っているうちに話はだんだん変わって、いつの間にか私と妻の出会いの話になった。「私たちはね、小学校、中学校そして高校も同じ学年なんですよ。 だからといってその頃から仲が良かったわけではなく、ただ、小さい学校だったから、何しろ小学校は1学年120人で、中学で150人だから、お互い名前も 顔も知ってはいたけれど、それだけのことだったんですよ。」
それで高校を出たときの大学受験では彼女はストレートでお茶大に入り、私は一浪したでしょ。だから彼女が大学院の試験を受けに来た時、私は理学部化学科で まだ3年の学生だったのね。たまたま建物の外に出ていて化学教室に戻ってきたとき、化学教室の玄関を出てきた彼女を見つけて、丁度階段を下りかけてきた彼 女に「さえ!」と呼びかけてしまったんですね。
この「さえ」というのは彼女のニックネームで、小学校のときから彼女は仲間からそのように呼ばれていたんですよ。でも私は彼女をニックネームで呼ぶほど親 しかったことはないから、呼び名は知っていたけれど一度も呼んだことはなくてね。でも、このとき何故か「さえ」と呼んでしまったわけ。
それが運命の分かれ道だったんですね。彼女は大学院の化学の生物化学に入ったし、そして私も元もとそこが志望だったので、大学院では同じ研究室に入ったのだった。
今でもその時の情景が頭に蘇ってくる。階段を下りかけて、突然ニックネームを呼ばれてびっくりして目を見開いて立ち止まった彼女。胸元が一寸開くねずみ色のスウェターを着て、下はチェック柄のタイトスカートだったっけ。時期的には10月の初めだっただろうか。
「さえ。今日はどうしたの?どうしてここにいるの?」と何も知らない私は尋ねた。理学部化学教室に来れば学部に私がいることを知っていたのか知らなかった のか。ともかく事前に連絡がなかったから、私のいることなど知らなかったか、知らせる必要もないと思ったのだろう。彼女は私に訊かれて「大学院の試験を受けに来たのよ。」という。「へえ、何処の研究室なの?」「生物化学の江上不二夫先生のとこ。」
彼女と衝撃的な出会いをしたあと、この時この先はどうなったか記憶に残っていない。翌年の秋には卒業研究で私も江上研究室に入ったので、彼女との交流が深くなって、その時の続きの記憶は上書きされて消えてしまったのだろう。
「ロマンティックな出会いだったのですね。お二人の仲の良いのを見ているから、その時の様子がとてもすんなりと分かります。」とマンチッチが電話で言う。私たちはそれから2年経って私が修士課程を終え、名古屋大学に助手として就職したのを機会に結婚した。
その出会いから50年経ったことになる。10月1日と言うことにして、今年は記念日のお祝いをしようか知らん。
中国で日本の練り生和菓子に相当するするお菓子を初めて見た。中国のほかのところには前からあったかも知れないけれど、私は寡聞にして知らなかった。
9月の14日は旧暦8月15日で中秋節に当たる。中秋節には昔から月餅を食べる習慣がある。この日は満月で月は丸い。丸い形の月餅は、円満・完璧を表し、 家族が欠けずに揃っていることを象徴する。この日は遠くに出稼ぎに行っている人も家族の元に帰り、月餅を一家揃って食べるのが習慣だった。
でもその中国も忙しくなってきて、この大学の学生も「帰んなくても、いいんですよお。」なんて言ってここに留まっている。だんだん家族が揃ってと言う美しい習慣は消えていくようだが、この月餅は食べるだけではなく、月餅を人に贈る季節として定着しているようだ。
夏の半ばから月餅の売り場がどんどん大きくなる。中に入った餡がいろいろ違う月餅が選べるように売られているだけでなく、大きな箱に綺麗に詰められて飾られた月餅のギフトコーナーもどんどん巨大化している。
贈り物に使われるから純金製の月餅なんてのも登場している。賄賂に使うのが目的としか考えられないから、毎年政府がこれの禁止令を出しているはずだ。でも、今年も売り出されているようだ。
『「純金の月餅」も登場!中秋節は賄賂のシーズン—中国 8月30日、中国では毎年、中秋節は賄賂シーズンだ。政府が高価な月餅の販売を禁じても、規制ス レスレの商品が後を絶たない。あるメーカーは純金製の月餅を売り出した。 2008年8月30日、林檎日報によれば、あるメーカーが“金の月餅”を売り出した。月餅1個につき使われている金は10g。この月餅が1箱に4個詰めら れており、価格は1万元(約15万円)以上。(レコードチャイナ 2008年9月1日)』
私たちの研究室は、昨年から国際薬学研究センターという名前の組織に属することになった。そういう名前のセンターがいきなり出来たのだ。でも実質的に何か すると言うことはない。昨年の教師節には花束を貰ったし、新年には部屋に掲げる正月飾りを貰ったくらいである。そこの若い秘書役の女性が、ニコニコと大きい箱を持ってきたのが昨日のことだ。
「これお祝いです。食べ物なので冷蔵庫にしまってください、そして早く食べてくださいね。」
木製の20x30センチくらいの綺麗で立派な箱が二段重なっている。表には何か中秋節を祝う目出度い言葉が書いてある。そしてさらに「商貿飯店製」と書い てある。商貿飯店というのは瀋陽でも歴史と格式を誇るホテルで、今は四つ星だけれど、ここの製造なら立派なものと言っていい。つまり純金製には及ばないも のの、結構高価なもののはずである。
「中身はなんなんですか?」とこの王さんに訊くと「アイスクリームみたいなものだから、保存に気をつけて早く食べることです。」という。蓋を開けると直径5センチくらいの菓子が個別に包装されて、一箱に6個ずつ入っている。
この日は夕方遅かったので今朝学生が皆揃ったところで、「さあ集まってお菓子を食べよう」と蓋を開けた。一つ一つの袋には脱酸素剤が入っている。このような酸素吸収剤も中国では見た覚えがない。お菓子はねっとりと柔らかく、どう見ても日本の生の練り和菓子を思い出せる。
中国の菓子はすべてが干菓子である。水分の多いものは日持ちがしないから古来作られていない。ぱさぱさに乾いた菓子だけだ。この頃では洋風のクッキーも、 そして生菓子も作られるようになったけれど、和風の生菓子を見るのは今回初めてだったので、私は大いに興奮したのだった。
言ってみればモティーフは月餅である。外は緑色で中は抹茶味の餡。外はピンク色で中はイチゴ味の入った餡。外は黄色で中はカボチャ味の餡。外は白色で中はクルミの入った小豆餡。餡は私たちに馴染みの日本の餡と同じである。一つ全部ではなく私はそれを4つに切って、それを他の人とトレードしてほかの味も味わおうとしたら、結局全員が互いに一部を交換して大騒ぎしながらこの珍味を楽しんだ。
もちろん私は皆に、このような菓子を食べたことがあるかを訊くのを忘れなかった。誰もが月餅は知っているけれどこのように作られた、そしてこのような舌触りの菓子を食べたのは初めてだと返事した。届けてくれた王さんも、食べた経験がないからアイスクリームみたいなと表現するしかなかったのだ。
それを聞いて、私はますます満足してこの初めての和風の生菓子を楽しんだのである。脱酸素剤には中国語で食べてはいけないと書いてあるほか、日本語で「食べられません」と書いてあるし、さらに密閉されているときは赤い色なのに、袋が開いて効果を失うと紫色になる仕掛けもついている。つまり、このような酸素 吸収剤が中国でも流通して、もう立派に商売になっていることを物語っている。
だから、中国でもこのような生菓子はもう珍しくないのかも知れない。でも、今年の中秋節は、このおかげでとても記憶に刻み込まれるものとなったのだった。
中 国の結婚も法的には役所に届けることで成立する。二人で役所に届けると、二人の写真入りの結婚証明書が二通できあがり、それぞれ一つずつ所有する。ホテル に泊まるときなどはこれを受付で見せて公式の夫婦であることが納得して貰えると、初めて一緒の部屋が(建前では)取れる仕組みになっている 。
この法的な届け出以外に、彼らは結婚を神の前で、あるいは人の前で誓う必要はない。あとは写真館に行って一日を過ごし、衣装と背景を次々取り替えて様々の 写真を撮る。この二人の写真の載った大きくて重いアルバムから、手に載る小さいアルバムまで沢山のアルバムができあがる。
結婚披露宴は、今まで二回披露宴に招かれて出席したが、趣向は大体同じだった。ともかく賑やかで、沢山人がいて、賑々しくて、騒々しい。新婚の二人以外はだれもが普段着で席に着いている。
一昨日の日曜日は朝から爆竹の音が聞こえた。お祝いに爆竹はつきもので、実に景気よく爆竹が鳴り渡る。街のあちこちの披露宴で、爆竹を鳴らしてお祝いをしているのだ。
お祝いの日は朝が早い。7時頃から始まることもある。新郎の家(と言うか大抵はアパートだが)にリボンをミラーに結びつけたクルマが沢山並ぶ。クルマが集まると場所を取るので、大学関係者の時には大学の正門を入った並木通りにクルマが行列することがある。
二人が乗るのはロングホールの白いリムジンだが、もちろんこれは好みと金次第である。このリムジンはクルマ一面にリボンの花飾りが付いている。このとき一 緒にリボンをミラーに付けたクルマに乗せられて会場にいくのは招待客である。昨日の私たちは9時に大学正門に集まって大学のクルマで会場に運ばれた。披露 宴には三百人近い人が出席していたから、親類友人は別の手段で披露宴会場のホテルに集まったのだろう。
一昨日は薬科大学の国際交流処に二年前から勤め始めた若くて美しい徐寧さんの結婚披露宴だった。彼女は瀋陽出身で日本語を大連外国語学院で勉強し、日本語を話せると言うことでこの大学に採用されている。だから私たちは日頃彼女に大変お世話になっている。
新郎は同じく瀋陽の人で今は建築設計会社に勤めている。この薬科大学と日本を結ぶ役をしている人が世話をして、この秋から日本でポスドクとして給料を貰い ながら働くという。したがって徐寧さんは結婚して彼の実家に入り、彼の留守の間もそこに住む。中国では新郎が新居を用意するという習慣が出来ていて、その ために新郎の両親が涙ぐましい努力をするわけだが、彼らの場合、留学中はモラトリアムである。彼が戻ってから考えればいいわけだ。
さてホテルの一室での披露宴では一端にしつらえられたひな壇のすぐ前のテーブルに私たちは案内された。ほかには大学の学長よりも上位の党書記のほか副学長、学長助理などが同じテーブルに座ったから、私たちは特別の客だったわけだ。
9時過ぎにホテルに着いて、私たちはその席に座って1時間くらい待った。「天国と地獄」の、というよりもフレンチカンカンの音楽と言った方がわかりやすい「天国と地獄」の終曲の音楽と共に、彼らが入ってきたのは10時10分過ぎだった。
そして司会がなんとかラジオ局の男性アナウンサーで、立て板に水、横板に油で喋りまくる。ろうそくに二人で火を付けたり、シャンペングラスに二人で水を注 ぐ、二人で抱き合ってキスする、などの見せ場を挟みながら、ひたすら45分間、この二人を見せ物にした。そのあとは飲み物と食べ物がふんだんに出て饗宴と なった。
披露宴というのは、親が子供の結婚を親戚知人に披露するというので、日本では歴史的には親が大抵用意する。客は二人の結婚と新しい門出を祝うために来ているから、目出度さの華やぎと同時に厳粛な雰囲気を伴う。
私の経験が浅いにしても、中国ではひたすら賑やかで、猥雑である。二人は徹底的に見せものである。日本の披露宴でも、二人は見せものにされているには違い ないのだが、なんか違う。上手く言えないが、ここでは結婚という人生の大きな出来事を、日常的なものに矮小化してしまっている感じである。
だからこのような披露宴は自分の時は絶対嫌だという中国人もいるけれど、一方ではこのような形が定着しているので、これを繰り返さない訳にはいかないとい う事情もある。というのは、友人たちはお祝いに百元、二百元を赤い袋に入れて用意する。初めの見せ物が終わって新婦が赤いドレスに着替えて新郎と一緒に テーブル廻って挨拶に来るとき、お客はこの赤い祝儀袋を新婦に渡すのが慣習である。
披露宴には沢山の友人が呼ばれるから、自分が結婚するまでには沢山の出費をしている。自分の結婚披露宴というのは、出来る限り多数の友人を呼んで出費を取り返すどころか、貰ったお金を山と積み上げる最大の機会なのだ。
というわけで、この賑やかな結婚披露宴のスタイルは繰り返し繰り返し続くのだろう。
私たちの研究に使う試薬は大体が西欧諸国で作られている。必要なものは日本に休暇で戻ったときに購入してくるけれど、時には中国の上海、北京にある外国試薬 輸入会社から買うこともある。末端使用の国の店に届いた試薬は使われないと経年して古くなる。それで、なるたけ日本から買ってくるわけである。
この6月、新しい試薬が必要になったが緊急だったので上海の会社から1 mgを1660元(約23,000円)で購入した。やがてもっと必要となったので日本に夏戻ったときに調べて、アメリカから日本の会社経由で買って研究室に持ってきた。
ところがそれを使おうとした学生が「先生、これ違いますよ」という。日本で買ったとき、20 mgで12,000円だったので、中国だと高いなあ、と日本で買ったことを喜んでいたけれど、安いはずだ。これは普通の試薬で、必要な修飾の官能基が付いていなかったのだ。
こういう間違いは困ったことだが、ともかく欲しい試薬を注文しなくてはならない。インターネットで調べるとドイツの会社が売っていて、2.5mgが 125€uro (約18,750円)である。上海の会社経由で買うと約64,000円と言う計算になるから、直接買うと大分安く買える。
ネットで調べると、口座を作ったり、カードによる払いは中国からは出来ないみたいなので、ドイツの会社にメイルを出したらインボイスを送ってきた。125€uroを、独のこれこれの銀行に送金してくれと言うものである。
それで中国で一番大きい中国銀行の支店に出掛けた。近くの家楽福にある支店に行くと外国送金を扱っていないというので、さらに歩いて、五つ星ホテルである シェラトン、マリオットホテルの一画にある中国銀行の支店に行った。窓口でドイツの銀行に送金したいというと、まず別の外国通貨扱い窓口で125€uro の現金を作ってきたら送ってやると言う。日本の銀行だと、しかるべき書類に記入すれば、円(現金あるいは円建て預金口座)から引かれてドル送金が簡単にで きる。ドルの現金は不要である。信じられなくて何度も通訳に来てくれた女子学生の暁艶さんに確認して貰ったが、返事は同じだった。
時間はほとんど12時近くで、外国通貨扱い窓口は11時半から1時まで昼休みだという。仕方ない。昼を食べて、それでも1時前だったので、マリオットの前 に二年前に出来た西友を覗く。この西友は超高級な店を集めていて、Gucci、Prada、Giorgio Armaniなどの店だけが並んでいる。Calvin Kleinもある。そこで思い出したのは私たちの唯一の男子学生である陳陽の穿いているショーツである。これを口に出して暁艶さんと私は笑い転げた。何故か陳陽のショーツのゴムのところが外に露出していて、彼が Calvin Klein のショーツを穿いているのを誰でも知っているのである。この西友にお客は少なく閑散としていたが、覗き込む私たちに眼をくれる店員は一人もいなかった。
やっと1時になって銀行に戻ったが、 外国通貨扱い窓口には係がいない。5分待ってフロアにいる係に聞くと、「ここの係は若いお母さんで、子供がいるのでそれで遅いんでしょう」という。驚いた、そんなことってあるの?と私が息巻いたので、一緒の暁艶がびっくりして「日本では母親を保護しないんですか?」
「そういう問題と違うでしょ。母親は権利として保護されるけれど、働く現場とそれは関係ないでしょ。その彼女は時間にきちっともどって来るか、ほかの誰かがちゃんと窓口でお客に対応しなくっちゃ。」と私は説明する。
さて1時10分くらいに係が戻ってきて、さらに10分経って順番が回ってきた。これこれしかじかと暁艶さんが説明して、125€uroを手に入れないとい けないんだと窓口の彼女に話した。すると窓口の係である師英楠さんは、125€uroに替えるだけでは駄目だ、もっと送らないと途中の銀行の手数料になる から、一体いくらユーロが欲しいのかという。こちらはその話でぽかんとしてしまってさらに説明が必要となった。
彼女が言うには、銀行送金には途中に銀行がいくつか入るので、それぞれが手数料を取るという。それなら一体いくら必要かと訊くと、それが幾つ銀行が絡んで くるか分からないというのだ。そんなこと言ったって、銀行間のビジネスだ。途中にどんな銀行が幾つ入るか、こっちには分かるわけがない。しかし彼らには分 かるはずだ。
それなのに上乗せして送るお金が分からないという。一体、どうしたらいいのだ?途方に暮れると、ドイツの相手の会社に聞いたら中国からの送金時にいくら上乗せしているか分かるかも知れないよと言う。そんなことなら中国の銀行だって、一寸調べりゃ分かるはずじゃないか。
日本ですんなりいくことがここでは全く進まない。みんなどうしているんだろう。実は日本から外国への送金でも実は同じことで、そこのところを何も言わずに 必要と思う以上の金を、手数料として送金時に私たちから取っているのかも知れない。こうやって余分に取る手数料が、損もあるだろうが、ならせば手数料としてでも儲かるようになっているのではないか。
と言う具合に、日本と違う非能率さを心で非難していたが、実は日本が曖昧な金を私たちから取っているんじゃないかと気付いて(正しいかどうかは知らない が)、係の師さんを責める気持ちもなくなって、じゃ、向こうの会社に聞いてみて、また来るからね、と言って中国銀行をあとにした。
もう帰りは歩く元気もなくタクシーで大学に戻ったが、ともかく疲れた。ドイツの会社には、これこれしかじかと今日の冒険談を書いて送り、何か良い方法はないかと聞いた。
返事が来て、今まで中国との取引でこんなことは一度もなかったという。いろいろと解決策を考えてくれて、送金経路を指定する方法などいろいろと書いてあっ たが、これをまた説明してもあの中国銀行で受け入れるとは思えない。うっかりするとユーロの紙幣を買わされただけで終わってしまうだろう。日本にいる家族に頼んで、日本の銀行から送金するしかないようである。
瀋陽薬科大学には4年前に環境学科というのが出来て、毎年30名の学生を採っている。環境学科の誕生は中国が、そしてこの薬科大学が、環境問題を大いに気にしていることを内外に示す快挙だけれど、カリキュラムが整わず未だに急造の感が否めない。
それもあって、この大学と深い関係のある日本人の西川先生が面倒を見る形になって、水質分析、汚水処理、音響、クリーンルームなどの日本の専門家を毎年2〜3回集中講義に連れてくる。
それはそれで結構なことだが、この間などは「今度連れて行く先生たちと貴方たちとこの先々交流を深めて欲しいから、滞在中に食事会を開いてください。」と言われてしまった。
この貴方たちというのは、この薬科大学で研究と教育に従事している池島先生や私たちのことである。日本語を教える先生たちは入っていない。
この大学は、日本から講義に来る先生たちを中国に到着した瞬間から招待客と見なして、滞在中の宿泊、食事、交通の面倒を見る。観光などにも気を配って、瀋 陽の故宮、北陵、東陵や、本渓水洞に連れて行く。日本の先生たちは中国との往復の費用は自分で(あるいは所属する機関が)持つことになるが、あとはここで 完全な招待客として過ごす。
その招待慣れの延長で、私たちに宴席を設けることが要求されたのだった。私たちはこの大学でそれなりの給料を貰っているが、日本と比べれば10分の1くら いである。おまけにその半分以上を研究費に使っている。日本から来られた接待呆けの先生たちを供応するなんて、とてもじゃないが、荷が重い。
一緒に連れてくる先生を紹介したいなら、そちらが宴席を設けて私たちを招待するのが筋ではないか、と言いたいところだが、この西川先生は私たちよりも年長者だし、大学と深い関係を持っているので逆らうわけにはいかない。
しかし、これが三度目だ。腹に据えかねる。とうとう私たちも知恵を出して大学側に話をつけた。つまり、その食事会の費用を出して貰うよう国際交流処に頼んだところ、うまくいった。うん。これからこの手で行こう。
裏ではこのようなことがあったが、ま、おかげで日本から西川先生と一緒に大学を講義で訪れた3人の先生と食事を一緒にして知り合いになった。その翌日、そのうちの一人が、私たちの研究室に訪ねてこられた。丁度一つの講義が終わったところだという。
「何の講義をされたのですか?」と私は訊いた。この先生は生命科学の研究者なのに、環境学科で講義があったというので興味を持ったのだ。
「さんせいでんかいすいです。」と言われた。私はまるで何のことか分からず、聞き返した。すると「酸性電解水」と言うことが分かった。が、それがいったい 何のことかまるで分からない。すると先生は講義に使ったPPTをプリントアウトして配布した残りを私に見せて、説明をしてくださった。
今、酸性電解水は食品工場、大規模食品調理室などで広く使われるようになったということなので、ご存じの方もあるだろう。しかし、科学者の端くれの私も知らなかったので、ここに簡単に紹介を書いてみたい。
水に通電できるよう微量の塩を入れて直流電気を流すと、陽極から酸素が、陰極からは水素が出てくることはよく知られている。ここで取り上げる電解水には大きく分けて2つあるが、強酸性水(超酸化水、強酸化水、あるいは強酸性イオン水と呼ばれるもの)は置いておいて、弱酸性水(酸化水、微酸性水、あるいは酸性電解水)について書こう。
水は純水でも、水道水でも良いが、これに陰陽2つの電極を入れ薄い塩酸を溶かして、これに5ボルトくらいの直流電流を流すと電気分解が始まる。
そして電気分解が終わるとこの水はpH 5-7の弱酸性で、強い殺菌力をもっている。この効果が見つかってから、日本で詳しい研究がなされた。これを議論する学会(bisan.fwf- aew.jp/)も出来たし、効率よく酸性電解水を作る装置も市販(www.morinagamilk.co.jp/menu/purester/)され て、今は実用化されている。この酸性電解水の有効成分は弱酸性における次亜塩素酸イオンであると言われている。
殺菌剤に使われる塩素系漂白剤(次亜塩素酸ナトリウム: 使用濃度200〜1,000ppm)に比べて次亜塩素酸イオン含量ははるかに低いけれど、酸性なのでこれが有効に働いて殺菌効果があるらしい。
この酸性電解水の一番凄いのは、これを使って殺菌をすると、そのあとはほとんど普通の水になるので下水に流しても何の問題もないと言うことである。普通の殺菌剤の入った消毒液は、殺菌剤の成分を含んでいるので下水に流せば環境に影響がある。
しかしこの酸性電解水に含まれている成分は有機物に出会うとそれを酸化し、自身は還元されてしまってほとんどただの水になる。何と言ってもそれが良い。だ から食品製造工場や食品調理室で、ラインや床の洗浄などに酸性電解水が大々的に使われるようになっていると言うことである。
使用後の酸性電解水はほとんどただの水になると言うことは、酸化力が不安定と言うことでもある。だから保存中や使用時に金属に触れれば金属を酸化して効果がなくなるので、そこのところを注意して使わないといけない。
この原理は日本で見つかったという。日本発の環境に優しい消毒・殺菌方法なのだ。手洗いだってこれで良いし、ミストにしてこれを吹き出せば、人の集まるところの空気も綺麗に出来る。
ただし、装置の高いのが欠点である。インターネットを見ると、これを市販の漂白剤などから作って庭の植物に掛けて病原菌から守る方法も考案されている (www7.plala.or.jp/organicrose/bleach.htm)。しかし、薄めないで塩素系漂白剤に酸を入れると猛毒の塩素ガスが 出る。風呂場などで使って時々死者が出ることが報道されている。塩素系漂白剤はくれぐれも十分注意して取り扱って下さい。
瀋瀋陽の目抜き通りにある中国医科大学は、昔は満州医科大学と呼ばれた。戦前、中国東北部に野心を持った日本の先兵として進出した満鉄が自己の病院を作り、そしてそれを発展させて医科大学を作ったのが中国医科大学の前身である。
この医科大学医学部には日本語コースがあり7年制である。昨今、この医科大学に日本から来る留学生が結構いる。昨年私のインターネットを見たと言って連絡 を呉れた森さんもそのひとりで、メイルでやりとりを交わしているうちに、日本からの留学生たちと何時か会おうと言うことになった。
いま「森さん」と書いたが男子学生である。紛らわしいから、ここでは男子学生は○○くん、女子学生は○○さんと書こう。もちろん呼ぶときはいずれも○○さんである。
それが昨年のことである。留学生の一人が繁華街の中街の一画でレストランを経営していたので、そこに集まった。日本人留学生のほか参加したのは、医科大学の日本語の先生である渡邊京子先生、この薬科大学に季節的に講義に来られる貴志先生、そして私である。 渡邊先生はこの医科大学の日本語コースの学生の日本語の先生で、日本人留学生は日本語コースに属している。留学生は渡邊先生に習うことはないが、同級生が習っている日本語の先生という関係である。
貴志先生は毎年新学期に薬科大学に講義に来ておられるが、昨年夏休みが終わって日本から森くんが乗った飛行機の座席の隣が貴志先生だった。病理学の本を拡げていた森くんに貴志先生が話しかけて、薬科大学に共通の知人である私がいることが分かって、こういうことになった。
この集まりの主唱者である森くんは3年前に大連医科大学に入ったけれど、環境のより良い中国医科大学に移って2年目だった。十数人集まって食べて飲んで気 炎を上げているうちに、この会を「瀋陽日本人医学会」と名付けよう、今回を「 瀋陽日本人医学会第一回総会」にしよう、と言うことになった。「そうだ、そうだ」と私も含めて皆が賛成してから1年が経つ。
この夏の終わり、森くんからメイルが来た。「第一回総会以来1年が経ちました。今年の新学期を迎えて日本から新人が増えました。ついては、第二回総会をや りましょう。」と言うことだった。 今年も丁度良い時期で、貴志先生も瀋陽に来ておられる。第二回総会と言って気負っているが、もちろん食事会である。
皇寺広場に面している新洪記と言う餃子が売り物の大きなレストランに土曜日の5時に集まったのは、私たち年長組3人に留学生8名である。昨年も参加した上 級生のほとんどは追試の準備に追われて参加できないという。昨年の第一回総会にでた人は2名いて、今年から2年に編入した新入生は6人だった。この中の女 性学生が2名。
お互いがほとんど初対面だけれど、目的を知って集まっているから、自己紹介なしでもたがいに話が始まる。やがて料理が来て、森さんの挨拶と乾杯で会が始まり、そして自己紹介になった。
それぞれの自己紹介を聞いているうちに、私はだんだん厳粛な気分になっていった。というのは、私のいる薬科大学にも日本人留学生がいた。私の知っている限り、一人の学生は優秀な成績で卒業したが、それ以外の人は、入試もないし、最初は中国語の要求が高くないので入っては見たものの、だんだん難しくなる中国 語に付いていけず、中途でポシャってしまい、いつの間にか消えてしまった人たちだった。つまり日本の薬科大学には入れないし、中国ならいいかなと、志もな いまま中国に来て挫折した人たちしか知らなかった。
だから、実は医科大学の留学生も似たようなものかと思っていた。ところが、それぞれの話を聞いてみると、そんなもんじゃなかった。
天知くんは某大学で脳の研究、腫瘍の研究に従事していたけれど健康を害して、西洋医学の限界のあと中医の治療を受けた。それが中国の医学に目を向けるきっ かっけとなり、思い立って日本での職を捨てて医科大学の学生になったという。経歴を訊くと結構な歳のはずだが、どう見ても22歳くらいにしか見えないのも 二重の驚きである。 宮本くんは日本では高校の数学の先生だった。結構なお歳なので「宮本くん」では申し訳ないのだが、ここは約束と言うことで宮本くんで行こう。彼はずっと教育の現場にいて、日本の学校の変調と学生の変化を見てきた。教職をあまり長く続けたくないな、そのうち定年になったら、もっと別の生き甲斐を感じることに再度挑戦してみたいと、思い続けていたそうだ。
やがて中国にいる知人から瀋陽の中国医科大学の留学生募集を聞き込んだ。よし、これに賭けようと言うわけで高校を退職して、3年前に59歳からの新たな青 春を始めたのだという。思わず「ご家族は?奥さんやお子さんは、そのまま日本に置いてこられたのですか?」と訊いてしまう。
「ええ、そうですよ。もう気ままな人生ですが、言ってみれば道楽ですね。」うむ、道楽と言えば、道楽かも知れないが、医大の初年度は解剖で骨の名前をすべて暗記しなくてはならない。日本の医学生も苦労するのに、ここではさらに中国語でも暗記する必要がある。「大変でしょう?」と訊く。 「数学をやっていたから、何時も理詰めで考えることばかりしていたんですよ。それが、ここでは、端から暗記、暗記だし、ともかく暗記しなくてはいけないのに、気がつくと、ここのところは何故だろうなんて考え込んでいるんですよ。」なるほど。大変な苦労をしている。
「59歳からの青春にカンパーーイ」と、皆で彼の前途を祝して杯を干した。
この瀋陽日本人医学会総会の第一回から参加している貴志先生は、中国撫順市の生まれである。だから毎年中国に来るのはとても楽しみにしていて、瀋陽に来る度に 撫順も欠かさず訪問しているという。「中学校は大連の中学で、敗戦でなくなりましたが、今でも毎年同窓会があるんですよ。日本人だけではなく優秀な中国人 も入っていたから、その頃の同級生と会うのが毎年楽しみです。」実際、貴志先生は中国各地に中国の友達が大勢いる。
「戦後日本に戻って大学を出て会社に入りました。ある時会社の各部門から人々が選ばれて、瀋陽の、その頃は瀋陽薬学院と呼ばれていた薬科大学に講義に来た んですよ。その頃は冷房はないし、スクリーンもないからシーツを壁に張ってスクリーンにしてスライドを映したら、窓から入ってくる風にシーツが揺れて映しても字がはっきりしなくてね。。。」
貴志先生は詳しくは語らなかったが、彼は武田薬品工業の研究所で多くの重要な(つまり会社の売り上げに貢献する)発明や発見をしたらしい。その後武田のいく つかある研究所の所長を歴任し、大阪のEXPOの時には武田館の館長も務めた。貴志先生は民間人だったのに1980年から瀋陽薬科大学に招待されて以来毎年 講義に来るようになり、今でもそれを続いている。貴志先生のお弟子さん、友人の教授、その教授の弟子たちが日本全国に散在しているので、その伝手を使って、 薬大卒で日本に進学したい学生を日本に送り込んでいる。
「その頃は瀋陽にタクシーがなくてね。あっても値段をふっかけるんですよ。雲助タクシーでしたね。」そういわれても今の繁栄する瀋陽しか知らないと想像も つかないが、いまだって瀋陽空港から出るタクシーの値段はいい加減で、少しでも高いことを言って儲けようとする。日本人会が何度もこれは市の恥だといて市 役所に申し入れているが、ちっとも改善されていない。
自己紹介の順番は、中でも一際背が高く筋骨隆々たる身体で、上半身につけているのはタンクトップだけと言う小森くんに廻ってきた。「ぼくは空手、柔道、ボクシングの有段で、サッカーではサンフレッチェに入って清水の川口は同僚だったし、野球ではジャイアンツのテストを受けたけれど肩を痛めて。。。」と言いだしたので、全員が目を丸くして小森くんを見つめた。「エーッ、そんな人がここにいるのー。」という感じである。 「高校のころ彼女が出来まして、その彼女を守るためにボクシングを始めたんですよ。そのころは結構なワルでね、しょっちゅう喧嘩をしていました。このボク シングが嵩じて、その後プロテストを受けてヘビー級のプロボクサーになり、実際に最初の試合であっさり勝ったんですよ。」
何とヘビー級なのだ。この小森くんはモハメッド・アリやマイク・タイソンなみのボクサーなのだ。いやいや、驚きだ。
瀋陽にある遼寧中医学院で2年過ごしてから、西洋医学の資格も必要だからと言うことで、医科大学に来たと言うことだ。留学生の同級生たちもこういう話は初めてらしく、固唾を呑んで聴き入っている。「その凄く逞しい身体は、昔鍛えたからなのですか、それとも今も何かやっているのですか?」と訊いてみる。する と「今はサッカーやバスケットをやっていますが、夏と冬の休暇に日本に帰ると、建物作りの現場で120 kgくらい担いで働いているんですよ。」
こっちは9月半ばなのに、すでに下着の丸首シャツの上に長袖のシャツも着ているのだ。「そのタンクトップだけで寒くないんですか?」と訊くと、
「11月ころまでこの格好でいますね、暑いんですよ。」と、返事が返ってきた。
皆が彼の秘められた凄い半生に驚嘆・感嘆しているものだから、小森くんは「何しろボクシングをやりすぎて脳みそがグスグスになっていて、勉強してもちっとも覚えられなくてね。」なんて嘆いてみせる。しかし、「その脳みそで」医学を勉強しているのだ。ますます凄い。
つぎは井口くんだ。鎌倉坂の下に御霊神社という神社があって、鎌倉権五郎影正という武士が祭神として祭られている。30歳代後半の井口くんはその子孫だという。鎌倉権五郎影正は後三年の役に出陣して敵の矢で右目を射抜かれ、その矢を抜こうと味方の三浦平太が土足を権五郎の顔に掛けたところ、「弓矢に当たっ て死ぬのは武士の本望。顔を土足で踏まれるのは武士の恥」と切りかかったという話が残っている。鎌倉権五郎影正という人の名前は忘れていたが、これを聞い て子供のころ読んだ話を思い出した。
井口くんは東京に出て会社を順調に発展させ、三つの会社を経営していたが、母親の病気をきっかけに会社を整理して故郷に帰り、母親の看病に従事した。それ で中医の勉強を志したと言う。家族もいないし、いまや天涯孤独の身だから、卒業したら辺境の地であるチベットに行って医療を提供したいと語っていた。
フランス語を専攻して大学を卒業しながら、母親の病気をきっかけに中医学を目指す前川さん。ゆったりと伯父のところに寄寓していたら、「のんびりしている な、勉強してこい」と言って中国まで蹴飛ばされた倉田くん。中国の北京生まれで、今は日本に帰化した紅さん。誰もがそれぞれここに来た必然を背負っている。この魅力的な面々のこと全部をここにはとても書ききれない。つぎの第三回瀋陽日本人医学会の時に、続きを書こう。
2008年度の新学期は9月1日から始まった。今期は普段よりも始まるのが1週間遅い。北京で開かれたオリンピックの一部の競技であるサッカーが瀋陽でも開かれたからだろう。
ここの薬科大学は全寮制である。いつもの夏だと、学部学生でも大学に残っている人がいる。しかし今年は、夏休みの間学部学生は強制的に帰省させられた。うちの研究室も私が帰国してしまったので半分閉鎖状態だったが、その間研究室に残って研究を続けていた院生の話では、オリンピックの警備のための武装警官が何百人も寮に泊まっていたという話である。
そのオリンピックのおかげかどうか、夏休みを終えて瀋陽に戻ってみると、瀋陽の街も一段と綺麗になっていた。なにはともあれ、交通信号が良く整備されていた。交差点の交通信号だけでなく、遠くから見える行き先案内看板で、真っ直ぐ行くと北駅、右は東陵、左は市政府と書いてあるような看板のことである。この レーンは直進、こっちは右折、と言うような看板も整備された。
うちのアパートが面している五愛街の道路は中央線のところに鉄の柵ができていた。尋ねてみると、瀋陽でオリンピックサッカー予選が開かれる二日前に、一挙にこの鉄柵が出来たという話だ。
これで、勝手に道を横断が出来なくなった。片側4車線で合計8車線の道路を、今までは誰でも気軽に、と言ってもクルマの間を縫ってのことだが、自由に横断していたのだ。道を好きなところで自由に横切るのに慣れてしまったのでこれからは不便になるけれど、事故防止を考えれば、結構な話だ。
もちろんこの五愛街の道路にも、丁度病院の東門の前には横断歩道が作ってある。横断歩道と分かるように全世界共通の白い縞々のペンキ模様が路上に書いてあるけれど 、ここを歩いていても車は人のことは全く無視である。瀋陽では横断歩道には人がいないという前提があるみたいに、誰もが車を飛ばしている。
2年前の世界花博覧会が瀋陽で開かれたときは、この横断歩道の中央線のところの左右に申し訳程度だけれど島を作るためのコンクリートが置かれて、あたかもここは安全ゾーン・分離帯と謳っているようだった。そして真ん中には、実際、安全ゾーンと書いてあった。
ところが、ところが、である。さすが中国。花博が終わった途端に、このコンクリートが取り去られて、安全ゾーンという標識も消えてしまったのだ。あのとき、写真を撮っておけば良かった。ほんと。
万里の長城みたいな鉄柵はこの横断歩道のところは開けてある。つまりここを使って道を渡りなさいと言うわけだ。だけど、鉄の柵のおかげで見通しが悪く、怖くてとてもここでは道が渡れない。回り道をしても交差点の横断標識を渡っている。
ともかく瀋陽の交通事情と言うか、マナーというか、少なくとも環境は確実に向上している。結構なことだ。
新学期の話から脱線してしまったけれど、私たちの研究室が恒例の新入生歓迎の宴を開いたのは9月半ばの18日のことだった。前年度の送別会を開いた陸軍病 院の中の金利賓館はべらぼうに高いところだった。スポンサーとなる私たちが音を上げてもっと安くて美味しい店を探し続けて、川菜食府という店を見つけた。
店に入った途端にこの店高そうだから止めると言いたくなる感じで、つまり、店の押し出しというか、見てくれがよい。しかし、料理は四川だから辛いけれど、 美味しい上にあまり高くなかった。12品の料理と餃子、ビールで500元ちょっとだった。最後に何と、二宮老師が全額を格好良く払ってくれた。
集まったのは、修士の1年生は黄澄澄さん、王さん(名前は王偏に月で、月と同じくユエ)さん、博士課程の1年生に別の研究室から入った張嵐さん。博士を出て今ポスドク扱いの王麗さん、博士課程の間さん、修士最終学年の陳陽くん、陽暁艶さん、徐蘇さん、曹(名前は女偏に亭でティン)さんで、学生は9人。こちら側は、貴志先生を招いたので、四宮老師と私の3人。
研究室の学生は女性の花盛りで、あと1年して陳陽が修士課程を卒業すると、男子が一人もいなくなってしまう。どうしよう。どうしてこうなのだろうか。
冗談を言うなら、私の人気が抜群で女子ばかり来るということになる。しかし、女子が殺到して男子を跳ね飛ばすほど志望するわけでもないから、これはない。 一番ありそうなのは、うちの研究室は製薬業界に直に結びついていないから、卒業しても金儲けに縁がないというので男子生徒に敬遠されていると言うことだろう。
中国の男の子は親への恩返し、親孝行を何のてらいもなく口にする。女子生徒もそう思っているかも知れないが、親の方は頼るのは男の子ばかりと、男を生みたがり、今の男女比のいびつな社会を生み出している。これに応えて男の子は給料の高い企業への就職を選び、企業側も男子から採用するので女子は就職難である。
逆にそのような圧力がないからこそ、女子学生はもっと素直な眼で自分のやりたいことを見つめ、生命科学の重要性を評価して、私たちの研究室に来るのだろう か。ということは私たちが腫瘍の転移の分子生物学という基礎をやっている限り、男子学生は来ないかも知れない。でも、人が作った薬のマネばかりしていて将来があるだろうか。生命現象の基礎を解明することこそ、有効な薬の開発につながるのにね。
教授室でいつものようにPCに向かっているとノックがあった。「請進」というと女子学生が入ってきた。私は部屋の奥に座っているけれど、PCに向かっている視線は、そのまま入り口にも向いている。彼女はつかつかと入ってきて、PCに向かって座っている私の直ぐ隣に来た。
日本だったら学生は決してここまでは来ないと言うくらい、学生は私の身近にやってくる。会うという約束もなく、初対面なのに、だ。座っている私は直ぐ隣に立つこの学生を見上げなくてはならない。
何時でもそうなので、日本と中国との人間の距離が違うことを認識する。ここでは日本より遙かに人同士の関係が近いと言うことだろう。キャンパス内で男女の学生はもちろん、女子学生が手を繋いでいるのは始終だ。この間なんか、男同士で手を繋いでいるのがあった。
私は「ともかく、ちょっと待って」と言って、PCでやっている仕事をセーブした。すると彼女は、「私は○○○で、薬学日語の4年の学生です。先生の研究室で勉強がしたいです。いいですか」と日本語で話しかけてきた。
「じゃ、そっちに座って話を聞きましょう」と言うことで、来客用のソファーセットに座って彼女の話を聞いた。彼女が言うには「先生の研究に興味があるので、今から研究室に出入りして実験を教えて欲しいし、勉強もしたいです。」
希望が分かったし、関心を持ってくれるのは結構なことだけれど、私たちの実験室は狭すぎる。余分の人を入れる場所がない。おまけに皆実験で忙しがっている。一生懸命に一廉の研究者になろうとして頑張っている彼らの邪魔をさせたくない。と言うわけで、卒業実験で来る学生以外のこのような依頼は、今まですべて断っている。
しかし毎週土曜日にやっているジャーナルクラブという勉強会にもし出たければ、来ても良い。これは 研究室メンバーの学生と私が、毎週二人、最新のジャーナルに載っている、面白い、あるいは読まなくてはいけない論文を英語で紹介する。私たちには必要な勉 強だけれど、生化学や分子生物学の教科書を読んだ程度の知識では付いていけない。実際に研究をやっているか、研究に興味があり、いずれ研究をするつもりで なければ、とてもじゃないが、ちんぷんかんぷんのまま時間を過ごすことになる。
実際、今までこのように言ってきた学生で、ジャーナルクラブに参加してもそれがずっと続いた学生はいなかった。そんじょそこらの決意では付いてこられない。と、彼女にも話して、それでも出たければいらっしゃいと言った。
すると彼女はさらに、自分は将来日本で薬学の勉強をしたいと思っているので助言が欲しいという。私は日本の何処が有名大学ですか、なんて話には付き合わないことにしているが、留学するつもりならいろいろと知っておいた方が良いことがある。
今までにも書いているけれど:
1.インターネット、書物、文献などで自分がその研究室に入って勉強したい先生を捜す。
2.その先生に、留学生として受け入れて貰えるよう希望を書き、さらには奨学金申請の手続きもお願いできるかを訊く。
この2.の段階でいくら留学したいと希望していても、自費留学可能かあるいは奨学金は自分で持ってくる人だけしか採らない、と言う教授が結構いる。そうなるとそこを断念して、面倒な手続きでもやってあげようという親切な教授を捜すことになる。
受け入れ先の教授が見つからない限り、東大大学院を受けようとか、京大大学院を受けようと言っても、日本のシステムがそうなっていないから、駄目なのだ。
こんな説明を彼女にしていたら30分は直ぐに経ってしまった。「ジャーナルクラブが難しいと思っても、参加したら辛抱して続けないと力は付きませんよ。 ジャーナルクラブは日本語が分かる学生は3分の1しかいないから英語を公用語にしていますが、普段は日本語の分かる学生とは日本語で気楽に話しているし、 そうやって学生の日本語の会話能力はどんどん上がるから、この部屋に時々顔を出すのでも良いですよ。」とも付け加えた。
彼女が帰ったあと、教授室の一隅で勉強していた陳陽くんが、「先生、女子学生だと親切ですね。30分も付き合っていましたよ。」と私を冷やかした。
確かに女子学生には特に親切かも知れないが、 私に言わせると、誰でもその人だけの掛けがえのない人生を真剣に生きていて、今彼女は自分の進路について私の意見を求めてやってきたのだ。私が忙しいとい う理由で追い返すためにいい加減な対応をしてしまうと、大げさかも知れないが、彼女の人生に水を差してしまうことになる。
わたしは誰に対しても求められれば出来る限りの誠意で対応しなければ、自分自身に対して恥ずかしいと思っているところがあるからだろう。つい、一生懸命に人と向き合ってしまうのだ。
東大の若い友人と共同研究をしていて、日本に行く度に会うことにしている。もちろん、友人でも、あるいは友人だから簡単ながらも手土産を持って行く。
中国からの土産にはいつも悩まされる。はじめの頃は私たち自身が中国の食べ物を珍しがったので、土産物を探すのに困らなかった。しかし、中国の食品汚染の状況がだんだん明らかになるにつれ、誰もが食べ物の土産にいい顔をして受け取らなくなった。
今年の初めには蜂蜜を持って行った。天洋食品の餃子事件の後である。蜂蜜も「大丈夫なの?」という目で見られた。蜂蜜も水で薄め、砂糖水飴を入れて誤魔化 すというのが常識の食品である。でも農薬汚染という観点で言うと、ミツバチが集めてくる花粉と蜜だから、もし農薬まみれなならミツバチ自身が生き残れるは ずがない。だから安全なんですよ、と私は言っている。
でも薄める水や水飴の品質保証があるわけではなく、薄められていたらとても危険である。この夏に日本に行ったときは趣向を変えて、黒いキクラゲ(木耳)を持って行った。
キクラゲは温帯各地に分布するきのこで雨季には広葉樹(クワ、ニレ、コウゾなど)の枯れ木に発生する。日本にも自生しているが、市場に出回っているのは中 国台湾産のキクラゲである。キクラゲは人の耳の形をしていて肉質はゼリー状で、クラゲに似たコリコリとした舌触りで、火を通しても食感が変わらず、中国料 理には欠かせない材料のひとつである。
日本で売っている輸入品は、中国で買うのに比べてべらぼうな値段が付いている。天然産のキクラゲなら農薬まみれと言うことはないだろうと思ったのだった。
ところが、である。朝日新聞のbe in Saturaday 10月4日版に載っている莫邦富さんのmo@chinaというコラムを読むと、「このキクラゲも危ない」のだ。
莫さんは1953年上海生まれで、上海外国語大学を卒業後、同大学講師をへて1985年来日、それ以来ジャーナリストとして、幅広い分野で執筆活動を行っ ている人である。1966年から10年間が文化大革命だから、彼の中学から大学を出る年齢まで、労働に従事して学問をすることができない嵐が中国では吹き まくっていた。
莫さんによると、そのために同世代人で科学者になった人は殆どいないと言うことだ。最近莫さんは中国の食品問題を風刺した諧謔詩を読んで吹き出したという。そこに書いてある部分を引用したい。
『中国人は食品によって化学についての無知を一掃した。米からはパラフィンを知り、ハムからはジクロロボスを知り、アヒルの塩漬け卵や唐辛子からスーダンレッドを知り、寄せ鍋からホルムアルデヒドを知り、白キクラゲやナツメの甘露煮からイオウを知り、黒キクラゲから硫酸銅を知り、そして今日また三鹿集団のミルクでメラミンを知ることになった』
薬品まみれの食に対する皮肉がよく効いている。
ハムにジクロロボスと書いてある。ジクロロボスは今年のはじめの中国産ギョーザがメタミドホス混入で大問題になったときに、同じ頃新聞で名が知れた農薬である。野菜、果樹などの害虫退治に用いられるので、ハムには積極的には混入することはないだろう。
しかし、ハムにはカビなどの繁殖を抑える保存料という名前でソルビン酸が入っているし、ハムの色合いをよくするために亜硝酸塩が入っている。ソルビン酸は 発がん性が証明されているし、亜硝酸塩からは体内でニトロソアミンという発がん物質ができる。ハムにはこのほか海藻(紅藻類)からとられたカラゲナン、ミ ルクのカゼイン、発色剤など、添加物のデパートみたいなものだ。これほど添加物が入っていても、普通は検出されないジクロロボスが中国のハムで見つかった ことがあると言うことだろう。ま、ありそうな話だ。
白キクラゲは銀耳と書く。動脈硬化、止血、咳止め、滋補強身の効能を持つと言われ、古来中国では高級食材である。それで黒キクラゲからイオウで脱色して白 キクラゲを偽装することがよくあるらしい。二年前には中国産キクラゲからメタミドホスが検出されて輸入禁止措置が執られている。
そして黒キクラゲだ。「黒キクラゲで硫酸銅」と書いてある。
キクラゲはキノコである。キノコの代表である椎茸では残留農薬が見つかっている(2年前にはフェンプロパトリンが検出されて椎茸が輸入禁止になったことが ある)。袋に書いてあるとおり天然産なら農薬を使っていないはずだが、天然という偽装もあり得る。しかし、硫酸銅は農薬ではない。
調べると、古くなって腐敗したキクラゲを再生して新品同様にして販売するために、硫酸銅、明礬などを使うみたいである。駄目になった食品に手を加えて、それを偽装して、価値をつけて売るなんてひどい話だが、金儲けのためには手段を選ばないということだろう。それで人の健康が損なわれ命を失っても知ったこと ではないということかと慨嘆したが、いまの日本にも、メタミドホス混入米、カビ汚染米を立派な高級米として流通させた人たちがいる。
牛乳を水で薄めて検査を誤魔化すためにメラミンを入れたのが中国だ。多くの嬰児が死んでいる。日本ではメタミドホス混入米、カビ汚染米を食品にしてはいけないという認識もない人たちが、食の流通に関わっている。
再発防止には、五日大臣の中山成彬の言うように「道徳教育がなっていなかったから」なんて言っていては間に合うまい。法律を変えて、厳罰を科すようにするしかないだろう。
10月6日付のYahooニュースによると、『プロ野球実行委:田沢投手問題受け人材流出歯止め策に合意』したという。その内容は:
『プロ野球の12球団の代表者などで構成される実行委員会は、新人選択会議(ドラフト会議)での指名を拒否して海外のプロ球団と契約したアマチュア選手に 対し、海外球団を退団後も、高校卒業選手は3年間、大学・社会人出身選手は2年間、日本のプロ野球界入りを認めないことで合意した。』
いま何故こんなことをするかというと、『今秋のドラフト会議で一番注目の田沢純一投手(22=新日本石油ENEOS)が米大リーグ挑戦を表明したので、日 本の球界からの米大リーグへの人材流出に歯止めを掛けるのが狙い』 なのだそうだ。『今月30日のドラフト会議以前に正式に制度化し、田沢投手にも適用』される。
田沢投手は新日本石油ENEOSのエースとして、今夏の都市対抗野球でチームを優勝に導き、橋戸賞(最優秀選手賞)を獲得した選手で、米大リーグ挑戦する 気だ。『日本の12球団には同社野球部長・監督の連名で、ドラフト会議で指名しないように求める文書を送って』いた。つまり、無駄なことをしないで下さいと要望していたのだ。
日本を飛び出してアメリカで活躍したいという若者に対して、日本のプロ野球を牛耳っている人たちのケツの穴が小さい感じがする 。ほとんどの人が、これにはあきれたのではないだろうか。誰でも好きなところに行きたいと希望する権利がある。これは基本的人権である。
もちろん、それを邪魔しているわけではないが、仕事先に米大リーグを最初に選んだりすると、希望が叶わなかったり、あるいは日本に戻りたくなっても、日本ではプロ野球に入れてやらないぞと言うわけだ。
みみっちいとしか言いようがない。 大リーグという相手が魅力的で、でかすぎて、とても敵わないから、こんな形で希望者に一矢報いた気になっている。大リーグと比べれば、日本のプロ野球はどう言葉を飾ったところでマイナーリーグ以下である。それを認めたっていいじゃないか。
それを認めた上で、「一寸の虫にも五分の魂」というわけで、日本のプロ野球は「黙っていられない」とばかりに、制裁措置を講じたのだろう。
いっそのこと、「大リーグ在籍者あるいは放出者は、その後数年は日本プロ野球界で働いてはいけない」とでもすれば、「俺たち日本のプロ野球を虚仮にすんなよ」ということで、格好いいことになるだろうに。
こんなケチなことを言わずに、いつでも帰ってこいと言って度量の大きいところを見せて欲しいものだが、その気もないほど当事者にはゆとりがないのだろうか。
と言うのも、何時も似たようなことに私たちは直面しているのである。大学の最終学期の卒業研究の時に来る学生は、自分の将来を考えて一番良いと思うところ を選ぶ。大学院に進学するから、卒業研究もその研究室でと言うのが多いが、大学院とは別の研究室で卒業研究をしたいと言う希望だってある。
私のところでは、大学院は日本、あるいはアメリカに行きたいので、「その前の卒業研究は先生のところでやらせて欲しい」というのが結構ある。人数が受け入れ可能なら認めている。
大学院は北京にある大学、あるいは上海の国立研究所に行くけれど、卒業研究はこの研究室でやらせて欲しいというのもある。これも私たちは厭な顔をしないで応じている。
今年は新しいケースとして、大学院は同じ薬科大学の別の研究室に進学したいけれど、卒業研究は是非ここでやらせてくれと言う希望が二人あった。
実を言えばこのような申し出を受けて、実は鼻白んだ。大学院でここに来たいなら良いのだが、別の研究室に行きたいと聞けば、それで無縁のはずだ。ところ が、卒業研究はここでしたいというのは、うちの研究室を評価していることだから、擽られるところがある。それなら大学院もうちに来りゃいいだろ、と言いたいところだ。しかし大学院は別の研究室を出たいわけだ。
つまりうちとしては面子が潰されているわけである。日本の野球なら、ケツを蹴飛ばして放り出すための規則を作るのではないか。
私は学生一人一人と話をしてみた。女子学生の朱さんは「自分は祖父を糖尿病で亡くした。父もいま糖尿病を患っているので、自分はどうしても現実の薬理学を 大学院で学びたい。しかし、先生のところの研究は(がん)細胞の(転移を抑える)分子がどうしたら機能するかを追求しているので、その研究の手法をどうしても自分で勉強したい。卒業研究の時にしか希望できなくて申し訳ないが、是非認めて欲しい」という。
もう一人の学生は、大学院では名を取り、卒研では実を取ろうという魂胆が丸見えだった。卒研だってかなりの研究費がかかる。こんな学生に注ぎ込んではいられない。と言うわけで、朱さんは受け入れることにして、後者は断った。
「一寸の虫にも五分の魂」というわけである。人に向かっては偉そうに言えるけれど、自分のことになると、結構みみっちいものである。
二三日前のこと、教授室の一画には修士課程最終学年になった陳陽くんがたまたま調べ物の本を読んでいた。私は部屋の奥でいつものようにMacで作業中だった。
教授室の入り口のドアは私のところからは本棚で隔てられている。人が入ってきても姿は見えず気配、物音や声で分かる仕組みになっている。
誰かが入ってきたらしい。入り口の方で「陳陽!」と呼ぶ声がした。聞き慣れない声なので私も目を上げると、外から部屋に若者が3人入ってきた。陳陽はびっくりして立ち上がって目を丸くしている。
入ってきたうちの男の一人に見覚えがある。陳陽はたちまち相好をくずして、彼とじゃれ合っている。見つめているうちにだんだん記憶の焦点が合って来た。あ、これはこの春まで1階下にある畢老師の研究室に留学していた戸田くんだ 。
戸田くんは昨年四月、高知大学の修士課程に入ったところで、研究交流のある薬科大学の研究室に留学で来たのだった。 研究交流があっても留学期間の単位は数えられず、休学扱いになってしまう。それでも、中国で勉強をしたいと言って留学した戸田くんは、私たちの研究室の修 士課程に在学中の陳陽といつの間にか友人になっていた。彼を一緒の食事に誘ったことも何度かあり、私たちとも顔なじみである。
「前はご挨拶もしないで帰国しちゃって。」と戸田くんがニコニコしながら私たちに挨拶をする。3月はこちらの春学期が始まったばかりで卒研生に追いまくられていてこちらも忙しかった。そんなこんなで、知らないうちに帰国したことを彼も気にしていたのだ。
私たちのところで修士をやっている陳陽くんは背が頭抜けて高いことも相まって、この大学で彼を知らない人がないほどお洒落だ。戸田くんも昨年会ってみると 左耳にピアスをしているし、髪も染めているし、何やらぶら下げているし、つまりこの頃の日本の若者代表と言っていい。しゃれものの戸田くんと、日本語の上手くてお洒落な陳陽とは気が合うわけである。
一緒に入ってきた人たちは高知大学の同じく大学院生で、助教授と一緒に研究交流と言うことで薬科大学を3日間の予定で訪ねてきた。いま関空から瀋陽の桃仙空港に着いたばかりのその足でここに来たという。戸田くんも陳陽に先ず会いたかったわけだ。
戸田くんは陳陽におみやげだよと言ってカルビンクラインのコロンを渡していた。「瀋陽で買うと高いけど、日本だとそんなにしないんだよ。」と言うことである。陳陽は、ショーツ(これはパンツのこと)もカルビンクラインのマーク入りで、これが外から見えるようにパンツ(これはズボンのことだが)はずっこけて 穿いている。だし、この間は同じくカルビンクラインのマークの付いたタンクトップを着ていた。戸田くんは良いところに目を付けたものだ。陳陽は大喜びである。
さてその翌日、戸田くんたちも交流先の畢研究室で自分たちの研究発表をしたりして結構忙しがっているようだ。陳陽も実験予定が詰まっていてなかなか会えないみたいだが、陳陽は戸田くんに貰ったカルビンクラインの香りを付けて研究室にやってきた。
もちろん悪い香りではないし、良い香りと言っていいのだが、香りそのものにはどうも落ち着かなくさせられる。女性の化粧の香りで心が騒がされるという長い 時間の刷り込みがあるので、男性化粧品にも抵抗があるのかも知れない。それで陳陽には、「香りは付けている本人はいいけれど、周りは否応なく嗅がされるわ けだから、あまり沢山付けない方がいいよ。」と柔らかく注意した。
でも、そんなことぐらいでめげる陳陽ではない。しかも大事な友人の戸田くんからの贈り物である。香料を付けてくるのを止めないのだ。
それで私が言ったのは、「いいかい、陳陽。男が香りを付けるでしょ。すると一緒に寝た女に香りが移って、その女が誰と寝たかが直ぐ分かってしまうんだよ。 女は周りには何もなかった振りをしたいのに、男から移り香をもらったら、ばれちゃって拙いんだよね。だから遊び慣れた男は女性があとで困らないように、自分で香料を使わないのさ。つまり、香りを強く匂わせている男は、実はもてない男と言うことを宣伝しているようなものだね。」
陳陽はびっくりして、そして理解したと見えて、うっすらと赤くなった。私は彼がどのような○生活をしているか知らないし、興味もない。彼に何かを言わせないために付け加えた。
「女性だってそうなのさ。香水をぷんぷん付けている女と寝たら男は香りが移って、うちに帰って大騒動なんてことがあるわけだよね。だから浮気に慣れた女は決して強い香水を付けたりしないのさ。香水を強く匂わせている女は今日はあなたとは寝ないわよ、と言っているのと同じようなものだからね。」
「。。。」
こんなに露骨な言葉を使ったのは初めてだったが、陳陽にはよく分かったみたいだった。実際翌日からほとんど香りを付けてこなくなった。匂いに敏感な私がホッとしたことは言うまでもない。
なお、ちなみに今の私は香料を全く付けずに何時もひたすらその時を待っているけれど、全然機会がない。ノネナールによるおじん臭がしているのかなあ。戸田くんのコロンが必要なのは私かも知れないね。
隣 の教授室にいる池島教授が部屋に入ってきてコピー機を使わせて欲しいという。もちろん返事は、「どうぞ、どうぞ」である。池島さんはコピーしながら、「う ちにもコピー機はあるんだけれど、学生の部屋にあるのでコピーを頼むと見られてしまうんですよ。でも、これは彼らにする試験ですからね」という。
私たちの部屋でコピーをしても、池島さんが自分でコピーしているんだから、こちらとしては何をコピーしているか見る気もないし、覗き込むこともしない。だ から内容は知りようがない。池島さんが自分でコピーすれば、学生のいる部屋でコピーしようが秘密は守れるはずだ。ということは、ここに来た理由があるのだ ろう。
案の定、コピーが終わったところで、池島さんは、これが試験なんですよと言って妻に一枚を渡して見せていた。池島さんのところでは毎週一度、例えば Scienceの科学記事を2ページくらいコピーしたものを学生に配って、一斉に読ませる。このとき学生は辞書を使って読むのは自由である。
30分くらい時間を与えて読ませたところで、壇上にいる池島さんが学生を次々指名して、ここのところはどういう意味なのかを中国語で質問する。学生は中国語で答える。
ここのところは、日本で英語で書かれた科学論文のプリントを配って、学生にその場で読ませて次々と先生が日本語で質問を発するのと同じである。実際に大学 院でそのような英語教育、あるいは科学教育をやっているところを私は知らないが、大学前期の教育課程でこのような科学英語教育があっても良いわけである。
50年くらい前に学生だった私の経験した科学英語教育は、大学のゼミという名前で、化学の本を「原書」で読むものだった。これは英語で書かれた文章を当てられた学生が日本語訳にしていくものである。こうやって英語を読む力を付けたわけだが、あくまで英語で書かれた内容を日本語に置き換えて理解していたこと になる。
プリントを見せられた妻は「あれえ、難しい単語ですね。これをどうするのですか?」と池島さんに訊いている。池島さんは、その英単語の意味を中国語で書かせるのですよ、という。池島さんは、妻のつぎは私のところにプリントを持ってきた。
紙を眺めると、見たこともない単語が並んでいる。私にはお手上げである。英語で言うとGREの試験問題みたいなものである。GREは英語国民が大学を出て 大学院教育を受けるには必須の英語力を試す試験だから、当然難しい。私みたいな当たり前の非英語国民にとっては、出題される英単語の意味は3-4割くらい を知っていれば御の字である。もちろんGREの成績が資格として必要な留学希望者はそんなことをいってはいられないから、必死で勉強して上位の点数獲得を 目指す。
私たちの研究室では毎週1回ジャーナルクラブという名前で、毎週当番になった人が新しい論文を紹介している。毎月1回は順番が廻ってくるようにしている。私もこれに入っていて毎月1度は話す番がくる。
私たちの研究室にいる人たちが使える言葉として中国語、日本語、英語、ドイツ語がある。二宮老師は英国に行く前にはドイツに留学していたこともあるので、ドイツ語も使えるのだ。私も昔はドイツ語の翻訳をアルバイトにしていたことがあるけれど、今はすっかり忘れてしまった。
誰もがすべてを使えるわけではないので、私たちの研究室で唯一共通語の資格のあるのが英語である。習ったことのある言語で共通なのが英語なのである。もち ろん、英語が巧みであるか初心者かは問わないわけだ。英語で書かれた論文を読んで理解して、それを英語で皆に紹介する、これが私たちのジャーナルクラブで ある。
つまりうちの研究室では英語を使うことが日常的なことだが、特にあらためては英語の教育をしていない。しかし、隣の池島さんのところの教育を見ると英語教育に熱心で、こちらも何かしないといけないかなと言う気にさせられる。
このことを二宮老師と話してみた。「英語力の向上には、池島さんのところのように読解力を鍛えるという方法を採らないといけないでしょうねえ。でも、英語の解釈を日本語でやるわけにはいかないし、どうしても今みたいなやり方になってしまいますよね。」
すると、二宮老師が言うには、「中国語が出来るなら英語を中国語で解剖して勉強するという方式が可能ですよね。今に中国語を使ってやってみますから待っていてください。」
凄い。中国語をマスターすれば、お隣みたいに学生の英語を徹底的に鍛えることが可能になるのだ。中国に来て半年。二宮老師は中国語がものに出来るという希望に燃えているのだ。
もっとも二宮老師は「中国には遊びに来たんだから、自分で遊べるくらい中国語が出来なくっちゃいけないしね。」と言って笑っている。
目標があることは良いことだ。遊ぶためだって立派な目標だ。頑張れ頑張れ、ニノミヤ!!!
昨 年の秋、三重県の県庁、企業、大学の三者合同の約30人からなる視察団が中国を訪れて瀋陽にも寄っていった。この視察団の日程、行程を調整したのが天津盛 本医薬という日本企業だった。この会社の盛本社長と前に会ったことがあったので、瀋陽に一行が来たときは何か話をして欲しいと頼まれて、「中国人学生気質」という題で話をした。
この話は、結構好評だったらしい。というのは、今年もこの三重県視察団の一行が中国を訪ねる予定で、瀋陽薬科大学も是非訪れたいのでよろしくというメイルが夏の終わりに入ったからである。
薬科大学を訪ねて下さるのなら、三重大学の先生たちにご自分たちの仕事の話をして欲しいとお願いしたところ、快諾された。そしてそれだけではなく、大学院学生3人を連れて行くので、学生同士の交流が出来ないかという提案があった。
この日まで、瀋陽の10月には珍しく最高気温が20度を超える温暖な気候が続いていた。しかし、三重県の一行の来訪の日は、寒波襲来で温度が摂氏9度と急激に気温が下がり、おまけに雨も降った厳しい日だった。
午後1時半にバスでご一行が到着し、図書館に案内して大学の要職者に先ず会ってもらったあと、第二セミナー室で講演会が開かれた。最初の講演は医学系研究科の西村教授で、ゼブラフィッシュを使ってクスリのスクリーニングをするという目新しい話だった。
クスリの開発には効能、副作用を調べるために動物実験が必須である。このためには類人猿が一番いいけれど実際上使用不可能なので、系統のしっかりしたマウ スを使う。マウスを使ってもクスリの評価を完全に行うためには多数のマウスが必要で当然多額の費用が掛かる。これに代わるものはないかと言うことで、アメ リカでゼブラフィッシュが開発されたという。
ゼブラフィッシュは観賞用の熱帯魚で簡単に言えば大きさも生態もメダカと似ている。稚魚の時は体色がなく身体の内部の隅々まで顕微鏡の下であらわに観察できる。そしてヒトと遺伝子の相同性が高く、ヒトの疾患をゼブラフィッシュに起こさせてこれを使ってクスリの評価が出来ないかと言うことで、先ず純系が作ら れ、飼育方法がいろいろと調べられた。この開発研究にアメリカではNIH(日本の厚生省に当たり、アメリカの多くの科学研究の資金と方向を握っている)が大きく関わったという。
西村教授は元はといえば企業で働いている研究者だったがスカウトされて三重大学の教授になった。三重大学もそれまでの国立から独立法人と切り離されて生き 残りを図らないといけなくなった丁度その時期に、彼は教授になったのだった。10年間という長い任期制を生かして、三重大学の特徴となるものを持とうと考 えてゼブラフィッシュに目を付けてこれをアメリカから導入した。
このゼブラフィッシュを使って、ゼブラフィッシュにヒトと同じ疾患が作れること、それをクスリで治せることを一つ一つの病態ではじめたところのようだ。日 本で唯一のセンターとして機能するようになったし、実際ゼブラフィッシュがモデル動物としての信頼できそうだという状況になってきたようである。
西村教授の話とPPT(パワーポイント)を使ってのプレゼンターションが巧みなのは企業で鍛えられたからだろう。皆このまだ終わっていない新しい冒険ものがたりにはとても惹きつけられたみたいだった。
二人目は生物資源学科の荒木教授で、海の微生物細菌を人に有用な反応に使うというものだった。養殖の二枚貝は生き餌しか食べないので飼育に莫大な費用がかかるが、海藻の外側の細胞壁を外してしまえば(プロトプラストになる)これを餌に出来る。その細胞壁を分解する酵素を微生物から取って、生き餌なしに二枚 貝の養殖が可能になったとか、地中海で異常増殖するイチイヅタを材料にしてバイオエタノールに成功したとか、玄人好みの面白い話だった。玄人好みと書いた のは、内容は面白いのに西村教授と比べると話が真面目すぎたからだ。
学生の交流では、三重大学は、宇野くん「南伊勢で冬場の農家収入を補うためにキャベツを作る指導をした」、宮城さん「ゼブラフィッシュで脂肪蓄積モデルを 作った」、上田くん「日本の昔からある伝統薬の再評価のためにゼブラフィッシュをつかう」と言う話があった。どの学生さん(どの院生さん、とは言いにくい)の話も、日本語の発表で中国語への翻訳付きだったが、態度はフレッシュでとても面白かった。
三重大学はそれまでの国立大学という立場から離れてしまうと、今後は三重県186万人の人たちの要望と希望に応えなくては生きる道がない。三重大学は地域 に密接にとけ込んだ形で大学の再生と今後の方向を目指そうと考えているという。したがって医学系研究科にはバイオ人材育成のプログラムを用意し、全学には 地域イノベーション学研究科というトランスレーショナルな革新的な部門を作っている。一昔前までの大学しか知らない身としては、オロオロしてしまう感じで ある。大学改革もそこまで来たかと言う感じである。
大学は好きな研究と上から用意した教育だけをしていれば済む場ではなく、自らの研究を保証するためには自ら知恵を絞ってその場を確保しなくてはならなく なった訳だ。そのためには斬新なアイデアが次々とあふれ出てくる西村教授のような企業的な才覚を持つ人たちがこれからもどんどん必要となるだろう。
と同時に、荒木教授のように自分の興味だけという原動力に突き動かされて、海には人の役に立つ微生物、酵素が無限にあるに違いないと思って調べまくる人たちの基礎的研究が大事である。このような研究は人目を惹きにくいし、最初は一般受けをしないけれど、これこそがイノベーションにつながる道でもある。
三重大学の先生、院生たちと触れあえる場を用意して、互いの研究の話で接触することが出来て楽しい半日だった。次回はもっとじっくりと交流の時間が持てるよう、先方にもお願いしたいと思っている。
10月の最後の日、生化学科の主任の小張老師から電話があった。「今39歳の人で、職を探している人がいるのですよ。細胞の移動の論文を書いていて、ここには先生のほかこの分野の専門家がいないけど、先生のところで助手に欲しいですか?」
ここに来たときの契約に、早急に誰か私たちの研究室を助けることの出来る人を(助手か助教授か)用意するというのがあったが、そのような話は一度もないまま5年経った。こちらが警戒しそうな、何処かの有力研究室が誰かを送り込みたいという話もなかった。だからこのことはすっかり忘れていた。
もっと詳しく話を聞くと、彼は上海の大学を出た中国人で、大学を出たあと中国で数年働いたあと、30歳を越えたところでドイツの大学の博士課程に入って学位を取り、ドイツの国籍も取り、しかし今中国にもどって職を探しているのだという。
この話を聞いて、以前日本にいたこと私のところでポスドクを2年間した呉さんを思い出した。呉さんは北京農業大学を出て、何処にでも行ける成績優秀な俊才 だったのに「人民の中で働こう」と言うスローガンに乗って遙か彼方の蘭州の獣医研究所に行ったのだった。10年そこで働きこのままでは自分に将来はないと 見極めて日本に留学して学位を取り、学位を取ったところでポスドクとして働く人を探している私のところに来たのだった。
日本に留学し、博士の学位も取り、日本の大学で職にも就き、と言うことで当然のこと、中国の大学、研究所から三顧の礼で迎えられるかと思っていたみたい だ。呉さんの嘗ての学友はそれぞれ何処かの教授や部長になっていたので、同じような地位を望んだのだったが、実際はそんなに甘いものではなかった。 やむなく自分で会社を起業し、今では北京で頑張っている呉さんは私の親友である。
中国では、海外に留学する人のほとんどが中国に戻らないという状態が長く続いていた。しかし、90年代後半から状況が変わり海外留学組がかなり中国に戻るようになった。そしてここ数年、海外留学組も望むような良い職にありつけないという状況になりつつあるみたいだ。
今年2008年春の記事によると、『<海亀>海外留学組の専門、経済など人気分野に集中しすぎ他は人材不足—上海市(2月29日 Record China)』
『 2008年2月28日、新聞晩報によれば、「海亀派」と呼ばれる海外留学組の専門分野が人気のある2分野で過半数を占めており、他分野の人材が不足していることが、教育部による留学展の記者会見で初めて明らかにされた。解放網が伝えた。』
『上海海外人材サービスセンターによれば、現在、帰国した留学生数が全国で最も多いのは上海で、留学先はイギリス、日本、オーストラリア、フランス、ドイツ、アメリカの順。』
『同センターの2006〜07年調べによれば、帰国した留学生の専門分野は、経済が30.2%、システム管理が26.9%と、2つの人気分野が全体の過半 数を占めている。人材が不足している交通物流専門は帰国留学生全体の1.61%、生物医学は1.42%、環境科学はわずか1.39%で、最も少ないのは農 林水産で0.29%でしかない。』
これによれば、生物医学分野は需要に比べて人材が足りないが、呉さんは望む職が取れなかった。だから今の中国では海外留学組だからと言っておいそれと職がある状況ではなくなってきたのではないか。
小張老師にさらに状況を聞くと、今生化学系で教員の職は空いていない。しかし私が彼を是非欲しいと思うなら、その希望を受けてこの系で検討して大学に採用を申請することは出来る、というのだ。つまり採用と彼の将来に、突然責任を負わされると言う話になったわけだ。
そこで彼の履歴と論文リストを送ってもらって、発表論文もすべて眼を通してみた。細胞の移動を解析することの出来る方法を開発した論文一つだけが彼の主論文である。細胞を扱う細胞生物学という観点から見ると、この手の研究はこの大学に全くないし、もしこの大学が生き残りを懸けて生命科学を薬学の基礎として 位置づけて強化するなら(実際そうしないと、将来中国の教育・研究の強力なリーダーになれないと思うけれど)、このような研究をする人がこの大学にいても良い。
しかし私が自分の研究仲間に欲しいかと言われると、二の足を踏まざるをえない。2001年にドイツに行って、2005年のこの一報だけが彼の論文なのだ。 あと3報あるのは同じ研究室の出している論文の後ろの方に名前が載っているだけだ。博士課程に入って8年経って、細胞の移動を追跡する方法を開発した論文 1報だけでは、将来研究を共にするには物足りない。
彼に会うことも可能だったが、会えばきっと情が移る。おまけにドイツ語でまくし立てられたら敵わないと言うこともあって、会う必要もない、私たちは彼の業績には興味ないと言って小腸老師にお断りした。
人の運命に、しかもネガティブな面で関わると後味が悪い。生きるということは恥と、後悔と人の運命を背負っていくことだと改めて認識したのだった。
11 月4日、私たちの研究室は日本の理化学研究所から来客として鈴木匡博士を迎えた。彼は私の亡き畏友である井上康男博士の愛弟子の一人で、東大の井上研究室 で卒業研究を始めたころから彼のことを知っている。あの頃の井上研究室は東大理学部の生化学科の中でも、俊才中の俊才がひしめき合って集まる研究室だっ た。
糖タンパク質についている糖鎖のうちで、アスパラギン残基についているN型糖鎖(N-glycan)を切る酵素は名古屋市立大学の高橋禮子教授が30年前 にアーモンドから発見して、糖鎖の構造研究に革命をもたらした。その後同様の酵素が哺乳動物にもあるのではないかと探索され、井上研究室で当時大学院の学 生だった鈴木博士がこれを見つけたのだった。
この酵素はPeptide:N-glycanase(PNGase)と言う名前が付いている。タンパク質からN型糖鎖を切り離す役目を持っているけれど、 この酵素は、細胞質に局在することが分かった。これは意外な発見である。細胞の作る糖タンパク質は細胞膜の上(つまり細胞の外に面している)に発現する か、細胞の外に細胞間物質(Extracellular Matrix)として分泌される。細胞質に糖タンパク質は存在しないことになっている。基質がないのにどうして糖鎖を切る酵素があるのか?
この発見は、細胞質の中に思いも掛けず基質となる糖タンパク質があるのだろうかと言う興奮を呼び起こした。あるとすると何をしているのだろう。PNGaseの発見に引き続き、この酵素が何をしているのかが鈴木博士によって調べられた。
この酵素は細胞質で確かに働いている。基質があるのだ。しかしこの基質は正常に機能すると予測されるというタンパク質ではなく、役に立たないから壊されなくてはならないタンパク質だった。
細胞はタンパク質を営々として作り続ける。タンパク質の寿命は、種類に寄ってまちまちだけれど短いのは数分しか持たない。大体平均数時間の寿命である。と言うことは細胞の中で何時も何時もタンパク質が作り続けられている。
タンパク質が機能を持つには、一次配列が正しいだけではなく、タンパク質が二次元的にも、三次元の空間的にも正しく折りたたまれないといけない。 N型糖鎖の一つの役割は、この折りたたみが正常になされたかどうかを監視することである。 折りたたみが正常でないとそのタンパク質は分解系に行けと指令する。N型糖鎖には、そのタンパク質の行き先表示とか、タンパク質の三次元構造の維持とか大 事な機能が沢山あるけれど、ERではタンパク質の品質保証(Quality control)と言う凄いことをやっているのだ。
この分解されるタンパク質はタンパク質を加工している場所である小胞体(Endoplasmic Reticulum、ER)から追い出される。特別の出口から細胞質に捨てられてそこでProteasomeの中に入って分解されてしまう。このとき、 ERからの出口で待ちかまえていて、このタンパク質はProteasome行きだよという目印を付けるタンパク質もある。PNGaseもここにいてタンパ ク質から余分のN型糖鎖を先ず切り離していることが分かった。
何でこんなことをしなけりゃいけないの、と言う疑問が湧くだろうけれど、 PNGaseの発現を阻害すると、この細胞はたちまちおかしくなることが分かっている。廃品の正常な分別、処理、リサイクルがうまくいかないと社会が正常 に働かないというきわめて健全な手本が細胞にあるわけである。
日本から全日空で午後1時頃瀋陽に到着した鈴木博士を空港で出迎えて、先ず大学に連れてきた。ホテルに行くのは後回しである。大学では図書館の報告庁で彼 の講義があるのだ。3時前に講義室に行くと学生がもう大分集まっていた。演台でPCを調整して話の用意をしている鈴木博士を見て、学生がひそひそささやき 交わしているうちに私を掴まえて訊いた。「あの人が鈴木先生?」
そうだというと彼らは鈴木博士のあまりの若さにびっくりしている。改めて彼の歳を計算して見ると、知り合ってから20年も経っていないような気がする。 「多分30代の後半か、せいぜい40歳代の初めだと思うよ。」と返事すると、これを聞きつけた鈴木博士は「38ですよ」という。学生はこんな若さで講演の 出来る鈴木先生を畏敬の眼差しで見つめている。
講義が始まった。PNGaseが見つかったところまでの話は彼の話のごくごく一部分だった。PNGaseが切り離したオリゴ糖は、細胞質でどうなるかと言 う話が続くのだ。細胞質で出来たオリゴ糖はそのままではいけない。細かく分解してしまわないと、それが細胞の代謝の邪魔になって細胞は生きていけなくな る。これは分解産物を同定し、分解する酵素を見つけ、と言う細かくて気の遠くなるような、そして膨大なエネルギーを集中した研究で見つかってきたことだ。
そして言えることは細胞にとって大事でない反応なんて一つもないということだ。そして、それまでの常識はすべて疑え、疑うことで新しい発見がある。
実際、鈴木博士が見つけたPNGaseは The Molecular Biology of the Cellと言う教科書の新版に、もう記載されているのだ。
鈴木博士の膨大な研究成果に圧倒される一方で、研究をいかに楽しんでやっているか、楽しく研究をすることでいかに新しい発見があるかという彼の生き方もひしひしと伝わってくる名講義だった。こんなに素晴らしい研究が出来て、そして気分転換にトロンボーンを吹く楽しい青年が友人であるという幸せを味わえるというのも、人生生きる楽しみの一つである。
翌 日の5日の午前中は、はじめて中国を訪れた鈴木博士を陳陽が故宮に案内した。瀋陽は新王朝の基を築いたヌルハチが宮殿として定めた地で、今北京にある故宮 をうーんと小型にした感じの可愛い宮殿が今の瀋陽の中心地にある。1625年に着工、1636年に完成したという。瀋陽の観光名所である。ちなみに中国に 残っている宮殿は、北京の故宮とこの瀋陽の故宮だけである。
ヌルハチが満州に住む女真族の統一をして後金という名の国家を建てたのは1616年だという。宮殿の建設をはじめて1年後にヌルハチは死去し、第二代皇帝のホンタイジがあとを継いでこの王宮を完成させている。
北京に今残る故宮は明時代に建設された宮殿がそのまま清王朝に使われたものである。長城の外の遙か東北(山海関の外の化外の地なので関外とも言うし、関東ともいう)に興った清朝を作ったヌルハチは、中華の明の宮殿を真似て、出来る範囲で自分たちの宮殿を造ったと考えていいように思う。
陳陽は朝9時に新世界ホテルに泊まっている鈴木博士を迎えに行って故宮を案内し、昼ご飯を老辺餃子店というガイドブックに常連の有名レストランで済ませて、1時半には大学に二人で戻ってきた。
研究室では、午後2時から始まる研究発表会で話す内容を最後まで推敲しながらうちの学生たちが彼を出迎えた。この研究発表会というのは、うちの学生たちが自分の研究をPPTを使って15分の持ち時間で鈴木博士の前で話し、鈴木博士から指導を受けようというものである。こちらの話が初めての鈴木博士に研究の話をするので、私はふざけてご進講と言っている。しかし発表に対して厳しい質問、批判、助言を期待しているから、実際はご進講というような生ぬるいものではない。
このとき発表に関わった学生の名前とタイトルを、私たちの後日の参考のために書き残しておきたい。ただし、詳細はXXYみたいにして隠してある。どれもまだ未発表の研究なので、世間にこのまま漏れて真似されてしまうことを避けたいからである。
Glycolipid regulates metastasis of murine osteosarcoma FBJ cells via suppression of XXX (Wang Li 王麗)
XXY suppresses caveolin1 expression through ZZZ receptor by ZZZ-independent pathway in FBJ cell line (Kan QiMing 闞啟明)
XYY expression is inversely regulated by glycolipid at the transcriptional level in murine FBJ cells (Cao Ting 曹婷)
Expression of YYY is up-regulated through XYZ and down-regulated via calcium signals in FBJ cells (Yang XiaoYan 陽暁艶)
Mechanism of glycolipid regulation of YXY expression in murine osteosarcoma FBJ cells (Zhang Lan 張嵐)
Cytosolic sialidase suppresses the FBJ cell growth possibly by down- regulation of YYX1 and YYX2 (Chen Yang 陳陽)
Glycolipid positively regulates XYX, a Rho GTPase-associated molecule, to suppress anchorage-independent growth via YXX pathway in melanoma cells (Xu Su 徐蘇)
どの研究もglycolipidの機能の研究と言うことでは一つにくくれるが、実際に研究で調べる対照は多岐に亘り、重なっている研究は一つもない。した がってそれぞれ独立の話だけれど、それぞれの学生が一方的に話すのを一回聴いたきりで、鈴木博士は次々と的確な質問を発し、適切な助言をしていく。
どれもがぴたりと理解した上での発言である。中には一番これらの研究を知っているはずの私にも予想外の質問もあって、鈴木博士の見方の鋭さには感銘を受け た。これだからこそ、研究は領域外の研究者も含めた多くの人たちに聴いて貰って批判を受けるのが必要なのだ。しかし、ここにいてはそれは全く望むべくもな いのが口惜しいことである。
一日前には鈴木博士の研究の話を聴き、今日は自分たちが話をして学生たちは鈴木博士と親しく言葉を交わすことになった。はじめて鈴木博士の話を聴き、難しすぎて十分には理解できなかったようだけれど、鈴木博士の研究する態度は学生に伝わって大きな感動を呼び起こした。
自分の研究が、ここのところがうまくいかなくて悩んでいるという学生には、「研究で悩むのは当たり前だ。だけどそれから逃げだすな。大いに考えて悩みなさい。そしてそれを越える方法を試行錯誤し続けることで、必ずそれを乗り越えられるのだ。気分が落ち込んだら仕事はさらりと忘れて、好きな音楽を聴いても良い。踊っても良い。落ち込んだら、そうやって気分転換を図ってまたそれに挑戦する勇気を持とうじゃないか。」
「論文を読んでもいい方向が見つからない。論文を読むのは時間の無駄だ。適切な方向をどうやって見つけたらいいか」と訊く学生には、「論文を読んで無駄と 言うことは決してないのですよ。この論文はジャンクペーパーかも知れない。だけど、そう判断することは自分がある研究に一定の基準と価値観を持っている訳 で、研究を重ねることはその基準を積み上げていくことでしょう。どうして無駄と言うことがあるんですか。自分の研究に直接関係があろうとなかろうと、論文を読むことを怠ったら進歩はないですよ。」
発表会のあと、卒業研究予定の学生も含めて16人で一緒に出掛けて食事をして話を続けた。宴会の最後、鈴木博士に感謝と送別の言葉を述べる前に学生が言うには、「鈴木博士はうちの先生と同じですねえ。」「エエッ。どうして?」
「第一にハンサムだし。。。」これには絶句。
「第二には、研究が大好きな上に、とても楽天的だし。。」
そう。その通り。研究が続けられるのは、第一に研究が好きで人生すべてをそれに捧げても悔いはないと思えるかどうか、そしてうまくいかなくても決して落ち込まない性格が必要である。だって、 多くの場合、研究は失敗の連続だし、障害ばかりがうんざりするほど現れるのだから。
恐怖の川西康博先生についてここに書いたことがある。いろいろと世話になってきた大先輩なのにどうして恐怖かというと、日本から彼に連れて来られたお客(つまりこの大学に講義に来られた先生たち)の供応をいつも命じられるからである。
ケチなことを言いたくないし、私たちはそれなりの給料をここで貰っていると思うけれど、その給料の半分以上を研究費に使っているので、誰かが来たという度にご馳走するのは結構つらいのものがある。
この秋は9月に引き続いて10月にも川西先生は薬科大学を訪問した。今回もこの大学に昨年新設された食品薬学科の学生のために海洋大学の八島先生を帯同し ていた。私は前回のときに供応の仕方が悪いと言って頭ごなしに叱られたので、今回は川西先生が到着しても会うのを避けていた。
ところが、私の部屋の隣にいる池島教授が川西先生に日本で手に入る試薬を頼んでいたので、川西先生の到着時に合わせて会いに行った。そして、「今回は八島 先生を連れてきて会わせたいから、用意をしなさい。自分たちの何時が都合が良いかは(大学が滞在中の供応をしているので)自分たちは知らない。大学の国際 交流処の人に聞いて空いている時間を見つけなさい。」と言われたと言う。「こんなことになったのですが、仕方ないですね。何時がいいでしょうねえ。」
「そんなことを言ったって。」というのが私の真っ先の反応である。前回は交流処に話を付けて、初めて宴会の費用は大学に出して貰ったのだった。もし今回新しい先生のもてなしをするなら、費用を出して貰う交渉をするのは池島先生だろう。
私は池島先生にそう言ったと思ったけれど、そのあとまた私のところに来た池島先生は、「国際交流処のひとから、空いているのは今日の夜だという連絡が入りました。そして向こうに関係なく勝手にやってくれと言っています。」という。つまり歓迎の宴を張りたいとそちらが言い出したのだから、自分たちで費用を持てと言うことらしい。
というわけで、何で自分たちの費用で歓迎しなくてはならないか、実際上全く理解できないまま、この夜の私たちは川西先生と八島先生と一緒に食事することになったのである。
言われるままに夕方の5時半国際交流処の前に行って、先方二人、そしてこちらは池島、二宮、私と貞子の合計六人が一緒になって、大学の近くのレストランに 出掛けた。大学の周りには安い店、中級、高級のレストランが並ぶが、私たちの行ったのはごく庶民的な、学生がよく利用する店だった。
八島先生は聞いてみると、この頃日本でも多くの人たちが馴染みになっているDHAやEPAの研究者だった。「頭の栄養にEPA, DHA」というあれである。私にとってもDHAやEPAはとても身近な存在である。学生向けの生化学の講義で、「脂肪酸にも『須脂肪酸』というものがあっ てね、これはとても大事なんだよ」と言って教えているのが、不飽和脂肪酸であるリノール酸である。
このリノール酸は私たちの身体でさらに酸化されてアラキドン酸になり、細胞膜の成分であるリン脂質に取り込まれる。刺激を受けると細胞はこのアラキドン酸 を切り離して、アラキドン酸からプロスタグランジンという物質を作る。プロスタグランジンは細胞が周りに「私はちょっと怪我をした」とか、 「私は不調なんだよ」とかを知らせるシグナル分子なのだ。
例えば小さな傷から感染を起こして腕が腫れるとする。この腫れの痛みを抑えるために、あるいは熱を下げるためにアスピリンを飲む。アスピリンを飲むと効く が、これはプロスタグランジンの合成を抑えるからである。ただし、プロスタグランジンの合成を抑えるために熱は下がるし痛みは感じなくなるけれど、もとの 炎症そのものは治らない。
このように身体の中のシグナル分子を作るためのアラキドン酸は、もとのリノール酸を食物から摂取しないと作ることが出来ない。必須脂肪酸と言われる所以で ある。EHAはエイコサペンタエン酸(C20:5)で、プロスタグランジン合成でアラキドン酸(C20:4)と構造が似ているのでプロスタグランジン合成 で競争することになり、プロスタグランジンの合成を抑える効き目がある。DHAはC22:6で、 血中の中性脂肪を減らしガン細胞の増殖を抑えるのでこの頃注目されている。
このEPAもDHAもヒトは作ることが出来ないが魚油に豊富にある。ところが実は魚もこれを合成することが出来ず、海の微生物がこれを作り、プランクトン がこれを食べ、これを小魚が食べ、大きな魚に最後に濃縮されるので魚油に多いことが今では分かっている。八島先生は何万株もの海中細菌と魚の腸内細菌を数 年に亘ってクリーニングし、これらを一番良く生産する細菌を選ぶことに成功した人なのだった。凄い。料理を食べながらも、話を聴いて興奮する。話を聴けば さらに疑問が湧く。質問をぶつける。話が尽きない。八島先生も最後に「久しぶりに熱くなって仕事の話をした」ということだった。
楽しく充実した時間だった。ところが、池島先生が「会計を」と言って席を立ったので、「じゃあ割り勘にしましょうか」と八島先生が言いかけた途端に、川西先生が「いえ、いいんですよ。ここはこの連中におごらせましょう。」と八島先生を止めたのである。
私も、貞子も、二宮先生も数秒間凍り付いて、全く一言も言葉が出なかった。
気まずく続く沈黙を破って「いいんですか」と八島先生。これに被せるように、「いいんですよ。今度は日本でそばでも食わせればいいんですから」と川西先生。
「くそー。そばをこの先二度と一緒に食うものか。でも今は初対面の先生を前に争うことも出来ないし」と思って、にっこり笑って「いいんですよ」と薬大の出席者の間で費用を割り勘にして、遠来の客をもてなしたのだった。
日 本語の中国旅行ガイドブックは色々あるけれど、瀋陽のレストラン案内に必ず載っているのが老辺餃子店で、大抵は載っているのが馬家焼麦である。中街に店を 構えた老辺餃子店は新宿にも店を出しているから、日本でもよく知られた有名店だ。店構えもそれなりにきちんとしているし、料理もそれなりに美味しい。瀋陽を訪ねた観光客はたいてい老辺餃子店に出掛けるし、私たちもお客を案内する。
しかし値段が高い。あの味ならもっと当たり前の値段の店はいっぱいある。一口で言うと老辺餃子店は名前が通っているために儲けられるレストランである。そ れを知っているから瀋陽の人たちは行かないし、私たちも来て直ぐのころは良く出掛けたけれど、今は自分たちだけのときには食べに行かない。
馬家焼売は中街の中心をちょっと外れたところにある。1796年創業なのだそうだ。回族の店で、馬という名字の8割方は回族だという。回族は豚を食べず、 羊と牛を食べる。私たちは日本で羊肉は臭いものと思っていたので、長い間中国の羊肉を食べようと思わなかった。しかし実際に食べてみるとここの羊肉は日本 で感じた臭みがない。臭くないから美味しい。
日本では横浜 崎陽軒のシュウマイがあまりにも有名である。シュウマイというとあのような形、スタイル、味しか思い浮かばないくらいだ。 崎陽軒のシュウマイは冷めても美味しく食べられるように、豚肉に帆立を入れたのが大きな工夫だと聞いたことがある。
そういえば、シュウマイの内容表示で量的には帆立よりも豚肉が多いのに、帆立、豚肉、、、と書いてあったから不当表示だと言って騒がれたのは昨年のことだったか。
不当表示というときは、製造年月日の偽りとか、メラミンが入っているのに入っていると書かなかったとか、そのような重大な影響を及ぼすときに、大いに騒いで欲しい。たかが量的な順番表示で、帆立を先に書いたと言って目くじらを立てるのは、小児病的、潔癖癇性と言うべきものではないだろうか。 崎陽軒のシュウマイにあまりにも馴染んでいるから贔屓するわけではないが、もっと重大なことはいっぱいあるはずだ。
日本ではシュウマイというと焼売と書く。同じものを指しているはずだが、ここではシャオメイといって焼麦と書いている。東北地方は餃子の本場なのでどの店 に行っても餃子は主食の座を占めているけれど、シュウマイは飲茶の店(私はまだ一軒しか知らない)は別として、先ずお目に掛かったことがない。シュウマイ を食べるためには馬家焼麦に行かなくてはならない。
焼麦は餡と呼ばれる中身を薄い皮で包んでいる。日本の市販されている餃子の皮くらいの薄さである。日本のシュウマイは、中身をぴっちりと円筒形に包み込んでいるが、馬家焼麦は四角い皮の真ん中に中身を置いて、そのまま中身を皮で絞り上げた形になっている。つまり上の方は完全には閉ざされていない。これをせ いろに並べて蒸して仕上げる。
中身の餡の種類で名前が付いている。海珍焼麦(500gで90元)、海鮮焼麦(60元)、双珍貝丁焼麦(30元)など海産物の入った高めのものもあるけれど、大体が500gで16-22元くらいである。
この500g(1斤)というのは粉の目方だから、そばやスパゲッティを作る時を考えると分かるように、一人100gが目安である。500g(1斤)と言うと4-5人前だ。
メニューには、蟹肉豆腐焼麦(16元)、西紅柿焼麦(16元)、羊肉焼麦(22元)、羊肉南瓜焼麦(22元)、羊肉紅参焼麦(22元)、牛肉南瓜焼麦 (18元)、牛肉紅参焼麦(18元)、白菜焼麦(18元)、青椒焼麦(18元)、茄子焼麦(18元)、香菜焼麦(18元)などなどあって、全部で34種類 が載っている。私の一番のお気に入りは西紅柿焼麦である。西紅柿はトマトのことで、中身はトマトと卵だ。この焼麦を黒酢に漬けて食べる。至福のときであ る。
中街にあるこの馬家焼売を見つけてからは、何かと機会がある度にこのレストランに行った。教師の会の人たちを連れて歴史に詳しい加藤先生を解説者にして歴 史的建物を巡り歩くとか、中街近くの路上市を案内するとか言う度に、この店に寄った。しかし2006年春には市街再開発計画に組み込まれて建物が壊されて しまった。
それから2年が経った。もうそろそろ、新しい店が出来たか、そうでなくても何処かに店を移してやっているに違いない。あの味を思い出すと我慢できなくなり、学生の暁艶さんに頼んで調べて貰った。すると、元の店は出来ていないけれど、別の店がありますという。その店の場所を調べて貰って、土曜日のセミナーのあと研究室の新人たちを連れてタクシーに分乗して出掛けた。
大学から大して遠くない大南門の近くにある店に着いて、テーブルに案内されてメニューを見た。メニューのスタイルは馬家焼売と同じだったが、シュウマイの ところには何と2種類しか載っていない。えっ、これ違うんじゃないの。店の人によくよく聞くと、ここは馬家焼売だけれどまだ別の店がある。そこならシュウ マイが色々あるという。よし、そこに行こうと 、またタクシーに乗ってその店を目指した。私は食べ物に関しては、大いに執着するのだ。
瀋陽の東の方に向けてタクシーは走る。まだ行ったこともない見慣れない街を大分走って、ここだよと言ってタクシーの止まった正面の店には馬家焼売と書いて あるではないか。ワオ。私たち6人は二階の部屋に案内されて、メニューを見た。ある、ある。最初のページに沢山の種類のシュウマイの名前が並んでいる。これだ、これだ。
新人学生のだれも、この店の名前を知らないという。学生の一人は瀋陽生まれ、瀋陽育ちなのに馬家焼売を聞いたこともないという。一方で老辺餃子は高い店と して聞いて知っている。つまり、瀋陽でシュウマイが何処にもないと言うことと、この馬家焼売が知られていないことと一致しているわけだ。
久しぶりの西紅柿焼麦など4種類の焼麦(合計700gだった)とおかず4皿を前にして私たち6人が堪能したのは言うまでもない。はじめて焼麦を食べた新人 の学生たちも、大いに気に入ったらしい。スポンサーがこっちなのだから、どっちにしても気に入ったという顔をするだろうけれど、沢山の連れと一緒に焼売が 一杯食べられて幸せな土曜日だった。
今年の5月に瀋陽に着任した松本盛雄総領事が11月26日薬科大学を訪れて、「日中関係の現状と展望」という題のもと、中国語で大学側の出席者、学生を前に講演をされた。
11月の瀋陽日本人教師の会の定例会と、さらに第4回文化セミナーも、在瀋陽日本国総領事館の文化ホールを借りて開かれた。教師の会のメンバーはそのあ と、総領事館公邸に招かれて松本総領事と親しく話をする機会に恵まれた。その時私は、何時か薬科大学で学生向けに講演をして欲しいとお願いをした。
日本にいると私たちは通常は外務省の高官に会う機会はない。そのようなお付き合いは先ずないのが普通だ。それが中国にいると、日本人だからという理由で総 領事に会う機会があり、さらに領事館主催の催し物に招かれることがある。仕事の範囲でしか付き合っていなかった輪が一気に拡がるという文化ショックを味わう。
私と妻の同級生には大使になった友人が二人いる。だけど彼らは同級の友達であって仕事の上のお付き合いではない。瀋陽で領事や、総領事に会ったらどういう 話題で話をしたらいいのか、2003年に瀋陽に来て総領事館に小河内総領事を訪ねたときはすっかり身構えてしまったことを思い出す。
会ってみれば相手は外交官だから、人見知りで人付き合いの悪い私が相手でも、話を引き出すのはお手のものだといって良いだろう。見識豊かな小河内総領事とは直ぐにすっかり親しくなって、いちどなど研究室の学生ごと公邸に招かれたこともある。
2006年春に小河内総領事は阿部総領事に替わり、そしてこの春には松本総領事に替わった。松本総領事は中国語を自由に操り、中国の任地も長いようである。
今の総領事館のシェフは中国人だが、日本料理を仕込んだのは松本総領事だそうだ。松本総領事が彼に初めて会った時、このコックが日本料理を作れるというの で先ず味噌汁を作るように言った。彼が作った味噌汁は、味噌をお湯に溶いただけのものだった。こんなものじゃないよ、出汁を取るんだよと、日本で鰹節けずり器を手に入れ鰹節を買ってきて、鰹節のけずり方を教えた。小豆から餡を作ることを教えたので彼はお汁粉も作れるようになり、「さらにはそれを固めて羊羹 も作れるようになったのですよ。今日お皿に載って出ていたのがそうですよ、」と言うことだった。私は料理に出ていた筑前煮が気に入ってそればかりお代わり をしては食べていたので、残念なことに、松本総領事のこの話の時には教師の面々によって羊羹はすっかり食べ尽くされたあとだった。
国際交流処の徐寧さんから二日前の月曜日に電話があって、総領事は先ず薬科大学で大学の資料館、次に生薬標本館を見てから、私のところを2時40分に訪れると言うことだった。私たちが使わせて貰っている新館5階の教授室は60平方米の広さがあり、窓からの眺めもよく、こういう来客の訪問は大歓迎と言うつくりである。
それでも大分散らかっていて、総領事の訪問を知ったうちの研究室の学生たちがその朝総出で片付けてくれた。総領事はちらっとここに寄るだけだからそこまで しなくても、と思わず口にすると学生は「だって、日本の一番偉い人じゃないですか。」という。その通りに違いない。ここでは日本を代表しているのが総領事だ。もちろん私たちも、一人一人が日本そのものだと思って振る舞っている積もりだけれど。
さて、総領事は私たちの部屋と実験室を見学したあと図書館に案内されて、呉学長と公式に会見した。小部屋ながら、正面右に学長が、左側に総領事が座り、その間の小机には双方の方が交叉して飾ってある。胡国家主席と日本の首相との会談の写真と全く一緒である。
3時半になって移った第一報告庁は300人くらい入って満員で、空けてあった最初の列に座った私は無理を言って通訳として陳陽に隣に座ってもらった。総領 事の話は、日中間の交流の歴史的展望で、陳陽によると非常に見事な中国語で、内容も格調高い中国語だという。実際総領事の話に出てきたが、経済の専門家で あるほかに、日本の首脳の講演の翻訳や双方の国の公式文書の翻訳にも関わったということだった。講演によると、高校のころ聞いた中国語が音楽のように美し く聞こえて魅了されたので、独学で中国語の勉強を始めたのが、今ある姿の元になっているという。
1時間に亘る講演は今までの両国の交流の歴史から説き起こし、今後の展望を見るものだった。相互理解と信頼はまだまだ足りない、双方の関係は双方の歴史認 識に懸かっている、日本だけでなく中国側の勉強も足りないとはっきり指摘していたようだった。長い間の政冷経熱から、安倍首相訪中の破氷之旅、温家宝首相 の溶氷之旅、福田首相の迎春之旅、そして胡主席による暖春之旅へとつながるなかで、だんだん思っていることを率直に言える時代になってきたのだろうと思 う。
講演の後には学生からの質問を受け付けた。「日本のアニメは中国でもとても好まれているが、暴力的な内容のものも多い。どうしてか?」、「日本の天皇制を どう思うか?」、「今年5月の四川省の大地震、8月の北京オリンピックは世界や日本にどのような新しい考え方をもたらしたか」、「今年の経済危機は日中関 係にどのような影響を及ぼしているか?」、「日本人は保守的だが一方で外国のものをどんどん取り入れている、どうやって折り合いを付けているのか?」など など。総領事はいちいち丁寧に答えていた。
総領事の講演は大成功だったと思う。そのあとの学長主催の食事会も実に和やかなものだった。学長が活発に話題をリードし誰もが生き生きと話と食事を楽しんでいた。私は隣の総領事から時々日本語で説明を受けていたが、皆がこの顔合わせを楽しんでいるのがよく伝わってきた。
一衣帯水の両国がそれぞれ国益を追求すれば衝突することはこれからも始終あるだろう。しかし地政学的な関係は変わりようがない。いがみ合うより互いに友好関係を保つことが、最終的にはそれぞれの国益になることが理解される時代になったのだと思いたい。
「"コラーゲンめし"がコンビニで人気を呼んでいる」という(Yahoo News, 11.27.2008)。「寒さや空気の乾燥するこの時期、皮膚の乾燥はピークに、そんな寒さ本番にコンビニの“コラーゲンめし”が人気」なのだそうだ。
コラーゲンは皮膚、筋、軟骨、骨に含まれていて、煮ると熱分解してゼラチンになる。温めると溶けて冷やすと固まるゼリーの素のゼラチンである。ゼラチンは タンパク質そのものだから、食べれば当然栄養になる。煮こごりが美味しいから食べる、果物グミが美味しいから食べる、結構なことだ。
しかし、このコラーゲンを食べさせようという惹句が気に入らない。
「この“コラーゲンめし”には2000mlのコラーゲンが含まれている。この“コラーゲン”でお肌がツヤツヤに!?」というのである。コラーゲンというの はタンパク質で常温では固体と言っていい。液体ではないし、液体にはならない。2000mlというmlは容量を表しているが、液体でない以上、意味のない 数字である。
もちろんコラーゲンをある液体に溶かすことは出来る。でも、濃度を指定していない以上、コラーゲンがどれだけ入っているか分からないではないか。不当表示 もいいところである。コラーゲンが2000ml(ビール大瓶3本分)も入っているから良い、と思わせる、こんな言葉で人が簡単に騙されるとしたら情けな い。
日本でも冬になると空気が乾燥して皮膚が荒れる。人は海から出てきた生きものである証拠に、湿度が高い方が皮膚が綺麗である。乾燥すると皮膚が荒れて、どんな美人も傍に寄ると形無しである。
皮膚の主要成分はコラーゲン、プロテオグリカン、エラスチンなどである。皮膚が荒れる時期には皮膚の主要生分であるコラーゲンを補給するのがいい、と思わ せる惹き句である。コラーゲンを売っている会社の惹き句には、「コラーゲンとエラスチンが劣化すると、酸素や栄養を補給したり老廃物を排泄したりする道が 狭くなり、皮膚はみずみずしさを失ってしまいます。だから劣化したものに置き換わるだけのコラーゲンやエラスチンが必要です。皮膚には皮膚のコラーゲンが よいといわれています。」
と言葉巧みに、皮膚を美しく保つためには皮膚から採られたコラーゲンを食べなくてはならない、コラーゲンを食べればよい、と思わせる。
コラーゲンは身体の大事なタンパク質だ。これは正しい。その通りだ。しかしその先が問題なのだ。
もし「だから、これを維持するためにはコラーゲンを食べなくてはいけない、」とは書いてあったらそれは真っ赤な嘘である。だから、そうは書いてない。 実際コラーゲンを売っている会社の惹句では、「 いつまでも若々しくハリのあるお肌を保ちたいなら、コラーゲンを常に補給し続ける必要がある」とささやくのである。これを読むとコラーゲンを食べなくっ ちゃと思ってしまう。
コラーゲンが皮膚の弾力を作る力になっているのは、コラーゲン分子が繊維形成が出来るからで、この繊維形成の能力はコラーゲンを作るアミノ酸の一つであるプロリンの一部が水酸化されてヒドロキシプロリンになっているためだ。
このヒドロキシプロリンを含むコラーゲンを食べても、ヒドロキシプロリンは栄養にはなるけれど、コラーゲンの合成には使われない。コラーゲンの合成には、プロリンが使われるのだ。コラーゲンを身体が合成するために、コラーゲンを食べる必要は全くない。
じゃ、プロリンが必要か?私たちの身体の中でプロリンはグルタミン酸から作られるので、特に摂取する必要はない。グルタミン酸も2-オキソグルタール酸から作られるので、必須ではない。
ムードに乗せられてコラーゲンを食べなくっちゃと、“コラーゲンめし”を食べたり、コラーゲン錠を毎日サプリメントで飲み込む必要は全くないのである。む しろ大事なのは、ビタミンCだ。コラーゲンを身体がちゃんと作るためにはビタミンCが必要だと言うことを知っている方が大事である。先ほど書いたコラーゲ ン分子に入ったプロリンからヒドロキシプロリンが出来るためには、ビタミンCが必須なのだ。
大航海時代に船乗りたちがビタミンCが足りなくて壊血病に悩まされことは今ではよく知られている。これは、ヒドロキシプロリンが作られないために完全なコ ラーゲンが出来ず、血管壁がグスグスになって出血して死んでしまう病気である。ビタミンCが必要だとほとんどの人は知っているけれど、これが必要なのは皮 膚、骨、血管壁を守るコラーゲンを作るためなのである。なお、ビタミンCはアドレナリンを作るためにも必須である。
コラーゲンの補給とは無関係な話として、美味しいから、鶏の唐揚げを食べる、豚足を食べる、魚の煮こごりを食べるのは結構なことだ。私は果物グミが好き だ。時々スーパーで買い物ついでに買ってきたグミを楽しんでいる、豚の皮からコラーゲンを抽出する工場の内部を、なるたけ思い出さないようにしながらだけ ど。
昨年9月、生化学科主任の小張老師からの電話で「優秀博士論文賞というのが出来たので、先生のところでは応募しますか。応募するなら今日の午後が閉めきりです」と言われた。
さあ、そんなことを急に言われても困る。うちに候補が居ないわけではない。王Puくんが立派な研究をしてその夏学位を取った。そしてそのあとアメリカの The Johns Hopkins University に留学したけれど、このときはアメリカの私の知人とメイルのやりとりをして留学の決まるのを待っているときだった。
この論文賞は丁度始まったばかりだという。ただし、隣の池島教授によると、3週間前に通知があったということなので、私たちは故意にか、怠慢かどちらかは知らないけれど、通知なしに放っておかれたわけで、知らせを貰って数時間で出すというわけにはいかないから見送った。
池島教授のところはどうしたかというと「私のところは今年数人が博士をでていましてね。学生がこれに応募したいといってきたので、7つやそこらの論文でこの優秀論文賞に応募したいなんて、身の程知らずにもほどがある。大体が論文の程度が低いんだから数で増やそうといって沢山書かせたのに、それが7つもある といって威張っているなんて、ちゃんちゃんらおかしい。やめろ。」と言ってやりました、と言うことである。
池島教授はともかく元気がいい。 飲むのが大好きで酒にも強く、白酒の瓶を半分飲んでも酔ったのを見たことはないがそれでも口がなめらかになって、「学生にいくら厳しくしても彼らを鍛えるためである」から、彼らから反発を食らっても「ちっとも怖くない」と語り出す。
だから「たかが7つくらい論文を出したくらいで舞い上がって、論文賞の応募したいなんて、ホントに自分たちのレベルを分かっていないんですよ。自分の力を 分からせなきゃ。」というが、一方では、こちらの僻みかも知れないけれど、「そちらの学生は7つも論文を書いていないだろう。」と私たちに向けて言っているようにも聞こえる。
うちで昨夏学位を取った王くんは博士課程の3年間に筆頭論文者となって書いた論文が3報ある。今の話から見ると大分少ないが、共著になったのを入れると6 報になる。一つを除いて一流の国際誌に載っている。私はうちの学生なら優秀博士論文賞の立派な候補になると思っていたが、実際昨年の話の時には応募できな かったわけだから、とやかく言っても始まらなかった。
それが今年の9月になって、また申請を受け付ける、昨年学位を取った王くんも申請できるという。そうなると、この夏学位を取った王麗はどうするんだろうと思ったが、彼女はけろりとしたもので「今年は王くんを出しましょ、私は来年申請しますわ」と言うことだった。
王くんの学位論文、発表論文のコピーを小張老師に提出してそのまま忘れて2ヶ月経ったとき、実験室に行くと王麗が「先生、見て見て。」と自分の実験台の上 のPCに招き寄せる。覗き込むと、大学のHPが開いていて、そこには優秀博士論文賞と銘打って9人の名前と学位論文が書いてあり、ここに王くんの名前もちゃんと入っていた。
へえ、凄いじゃん。どうするの、王くんに知らせるのはどうしようか、と言うと、王麗はもう知らせましたという。アメリカにいようと何処にいようと、e- mail を書けば一瞬のうちに相手に話が通じる。これで何かいいことがあるの?と聞くと王麗は、優秀博士論文賞を貰ったことを履歴に書くんですよ。他の人と違うことが分かります、という。
誰かを採用するときにはその人の書いた論文を読んでいいか悪いかを評価するけれど、学位論文を何処かが審査してこれは優秀と言っているとその参考になるか も知れない。全体の中での評価はともかく、薬科大学では今年の優秀論文ですよと言っているわけだ。何かの評価の助けになるかも知れない。
私はこのことで大学当局から何か知らせがあるかとひそかに下司根性を出して待っていたけれど、何の通知もなかった。「王くんが優秀博士論文賞を貰ってよかったねえ。先生の指導がいいからですね。」と誰かが言ってくれるのを待っていたのに、私の下司根性は報われなかった。
それでもこれは、私たちの研究室に密かに張り付けた眼に見えないけれど勲章である。勲章の欲しがるのは人だけだ、という。実際そうらしい。他人より優れていると言われたいのではなく、よくやっているねと言われたいだけなのだけど。
前回王璞くんの優秀論文賞のことを書いた。手元に届いた書類を見ると彼の受賞が公式に発表されたのは11月6日なので、私がインターネットで王くんの優秀論 文賞の受賞を知ったのもこの前後だと思う。そのあと4週間経っても大学から何も知らせがないので、あのように書いたのだった。
ところが先刻電話があって、ちょうど研究のことで話をしていたうちの学生の曹さんが電話を受けた。それまで深刻な話をしていたので泣きの涙だったけれど、 電話を受けた曹さんは半泣きのニコニコ顔になって、「とてもハピーな知らせです。小張老師から『王璞くんが今年度の優秀論文賞に輝いた。その賞金を渡したいから、誰か取りに来て欲しい』ということですよ」。
結局話はここで打ち切って、彼女に取りに行って貰った。直ぐ隣の本館に行くのにもオーバーを着てブーツを履き、マフラーで頭をぐるぐる巻きにして 厳重に寒さに備える。身支度に時間が掛かって大変である。陽が差していても今の気温はマイナス15度くらいだ。
しばらくして一団の寒気をまとって戻ってきた彼女は、二つ折りで15X20センチ位の大きさの赤い表紙の賞状を渡してくれた。中には『王璞:貴殿の論文 ○○○は2008年薬科大学優秀博士論文に選ばれた』と書いてある。そしてこれが賞金というのがむき出しの百元札10枚だった。賞金1000元というわけだ。
賞金はそのまま王くんに送るのが筋だが、銀行は送金に驚くほどの手数料を取る。王くんはアメリカで3万2千ドルの年俸を貰っているので、お金が今すぐ欲しいとは思わないだろう。しかし、このまま手元に置いておくのも邪魔くさい。どうしたらいいか彼に書いた。直ちに返事があって、感謝の言葉と共に、僅かな金だけれど研究費に使って欲しいと書いてあった。彼の気持ちがとても嬉しい。
思い返してみると、数年前王毅楠くんが卒業論文で優秀論文賞を貰ったとき賞金が500元付いてきた。彼は良いですよと言うし、廻りは先生の研究室が貰ったものですよと言うので、その賞金で研究室全員と薬科大学の日本語の先生たち6人を食事に招待したのだった。近くのハリウッドというちょっと高めのレストランだった。
日本語の先生たちには、「私が歌を歌うからそれを聴いて貰うお礼の意味で食事に招待しますね、」と言ったのだった。実際食事のあとで、「大きな海、私の故 郷」という中国語の歌を、受賞した王毅楠くんの指導で一緒に練習した。ところが、食事が終わって会計をすると800元を超えていて、招待したはずの薬科大 学の先生たちからはそれぞれ50元ずつ出して貰った。『ぼくってなんていい加減なんだろ、』という、今でもほろ苦い思い出の笑い話である。
お金のことではもう一つここに書いておくことがある。夏前の6月頃のこと、講義をすることで特別の給料が加算されるなら、それを貰いたいと大学に二回目の申請をした、という話をここに書いた。
ここの大学の給料の仕組みは、まず最低料金があって、あとは講義をするごとに1時間いくらという計算で給料に加算される。ただし私の場合には全部込みと言うことで最初に給料が決まっていた。だから講義をしてもそれは給料に含まれていることで、加給金はないと思っていた。
しかし、講義をしているなら給料が増えるはずだと数年前に小張老師が言い出して、半信半疑ながらも申請を書いた。これが第一回目である。この話はそのままで立ち消えになってしまった。しかし、私も貰わなくて当然だと思っていた。
ところがこの春、隣の池島教授が来て、彼の免疫学の講義は中国語でやっていて、480人相手の講義では試験も詳しく記述させるので採点をするのが3日掛か りで大変ですよと自慢も半分でぼやくので、ついでに尋ねてみた。その講義の分の金は給料とは別に貰っていますか?すると彼がいうには、講義をした分は昔か ら給料とは別に金を貰っていますと言う。給料は私と同じだけ貰っていることは知っている。
彼は免疫学の講義を中国語で行っている。だから中国人教授並みの扱いとなって講義の為の金が加算されるかと思ったが、念のため小張老師に訊いてみたのだった。同じように講義をしていて、池島先生はその手当を別枠で貰っていて、私には付かないというのはおかしいのではないですか?
するとて彼女は教務と話をするからと言う。今まで講義を、何をいつ、何回やったかを書いて提出した。つまりこれが第二回目の申請である。春にそれを書いて彼女に渡したきり音沙汰がなかったので、また同じように話はうやむやになって消えてしまったかと思っていた。
それが2週間前に、つまり話が出て5ヶ月後と言うことだが、小張老師から連絡があって、電話を受けた曹さんが経理に金を取りに行ってくれた。計算書は付いてこなかったけれど、総額26,180元という気が遠くなるほど多額の金が今までの私の講義の分として支払われたのである。5年で60ヶ月として計算する と月割り440元増えたと言うことだ。
すごーい。これでもうひとつMacを買おうか。いやいや、研究費が足りないんだからそのまま直ぐ研究費に注ぎ込もうか。それともこの際思い切って、年末は五つ星ホテルで過ごそうか。にやにやしながら何に使おうかと考えているところである。
数週間前私の部屋に男の先生が訪ねてきて劉老師と名乗った。12月8日に千葉大学の先生がこの大学を訪ねてきます、という。誰ですか、と私は訊いた。石橋教授ですよ、という。千葉大学には何人かの知人がいるけれど、でも私の友人で千葉大学の石橋教授という人は知らない。
私があまり怪訝な顔をしたので、劉老師は、先生は三菱化成生命科学研究所にいたことがあるでしょ?そこで一緒だったと言うことです、という。確かに15年前まで私はそこにいた。でも生命研で石橋さんっていたっけ?必死で考えるうちに、そう言えば有機化学研究室に石橋さんというポスドクの人がいたような気が してきた。
三菱化成生命科学研究所はその役目を終えて2009年3月に解散されることが発表されている。設立は1971年、三菱化成の創業30周年記念に、当時の社 長だった篠原社長が高校で同期だった東大教授の江上不二夫教授を初代所長に迎えて開所した。企業が全面的にスポンサーでありながら、生命科学を自由に研究 しようと言う画期的なものだった。最初からポスドク(博士号を持つ流動研究員)を重要な研究員として位置づけ、彼らが回転することにより研究所の固定の所 員がそのまま老化することを防ぐという制度を導入していた。
金は出すけれど口は出さないというこの立派な方針は、やがて競争社会の厳しさを反映して親会社の考えが変わることにより崩れていく。15年後には外部の競 争的研究費の導入(例えば科研費)も図られるようになり、20年後には研究員を次々と削減し、30年後にはテーマは公開公募してプロジェクト制を敷くというように研究所の性格は変わっていった。そしてついに迎える終焉の日は来たる2009年3月25日と決まったのだった。
ほぼ38年の間、この研究所に採用されて働いたポスドクや研究員の数は相当な数に上る。その後の彼らは大部分が研究職をたどるので、生命研が送り出した大学教授の数は恐らく百人を超えているだろう。石橋さんも今は千葉大学教授と言うからその一人である。
劉老師には私の名刺を渡したので、そのあと石橋さんからメイルが入った。そこには1986年から2年間生命研の有機化学研究室でポスドクをしたと書いてあった。それで、スーウッと彼の顔が思い浮かんできた。
それで返事に書いた。「劉老師から三菱化成生命科学研究所のときの石橋さんと聞いて、もちろんある顔が浮かびましたが、正しいかどうか実はあまり自信がありません。背格好は私くらい、つまり大きくなくてどちらかというと痩せ形の方だったと思います。大げさに言うとカッパのイメージがうかびます。違っていたら、またそうであって も、平にご容赦ください。」
これに対して石橋さんから返事が来なかったので私は間違っていたかな、あるいは傷つけたかなと大分気にしていた。そして12月8日の10時半頃、彼が部屋に訪ねてきたのだ。「こんにちは、お邪魔します。」と言うので入り口近くまで行くと、頭の中に描いていた通りの顔が、しかしちょっと老けてと言うか貫禄を 帯びた顔で、ニコニコしているではないか。私とほとんど同じ背丈である。可愛いカッパの顔として思い出していた通りの人だった。「思った通り。久しぶり」 と言ってしっかりと握手をしたのだった。
一緒に来た劉老師のほかにもう一人、若い美人がにっこりしている。彼女は李暁帆さんで、私が瀋陽に来た時から、65期の学生として知っている学生だ。この 65期の学生が私たちの研究室の最初の学生として修士1年生になった。この夏博士を卒業した王麗さん、2年前に修士課程を終えて東大博士課程に進学した胡 丹くん、私が日本に行く度に会う慶応大学博士課程3年の朱性宇くんなど皆が日本語の巧みな同級生である。
私がここに赴任したとき、李暁帆さんはちょうど卒業を迎えたときだった。国費留学生として千葉大学に入って、直ぐに日本に行ってしまったけれど、それまで は同級生たちと一緒にうちに遊びに来たし、何しろ65期という最初の学生たちなので特に印象の深い人たちの一人だった。修士を出たときに結婚したと人づて に聞いていた。それにしても李暁帆さんの留学先がこの石橋さんだと言うことは、今回会うまで全く知らなかった。
石橋さんとは生命研で親しく話した覚えはない。天然物有機化学という分野で仕事をしてきた人だから私とは研究の上で接点がない。しかし彼の顔を親しみを もって覚えていたと言うことは何か縁があったのだろう。私は理学部化学の出身だが有機化学には弱くて、それで必要がある度に生命研の中で有機化学研究室の 小林さん、中村さんたちに教えを請いに訪ねていたから、それで石橋さんとも顔見知りになったのだと思う。
石橋教授は学内で講演をして夜は国際交流処主催の宴会が開かれ、私もそれに招かれた。その食事が終わったとき、李暁帆さんが私の親たちが今こちらに来ているので二次会をやりましょう、先生も出てください、と言うことになって、李暁帆と石橋先生にくっついて新洪記と言うレストランに付いていった。中国を訪れ ても北京と瀋陽だけで直ぐに日本に戻ってしまう李暁帆さんに会うために、母親は大連から、そして彼女の夫の両親は深圳から瀋陽まで駆けつけたのだ。
李暁帆さんの夫の父親である王老師は3年前に私が広州にある暨南大学を訪ねたときに会ったことのある人だった。いろいろとお世話になった姚新生老師の片腕 の先生である。王老師もその隣の夫人も、息子がいてこの李暁帆さんと結婚しているなんて思えないほど若い。李暁帆さんの母親も彼女に似て綺麗で若い。おまけにこの人たちは話すときに大声を出さないので、聞いていて疲れず声が耳に心地よい。
李暁帆さんは一人っ子で、彼女の夫も一人っ子なのだ。親3人を前にして彼女はとても幸せそうである。もちろん親の方がもっと嬉しそうに見える。こちらも人 の親だからよく分かる。交わされる会話から集まっている家族同士の強い絆が感じられる。石橋先生は瀋陽の地酒である老龍口という白酒(バイチュウと言って コウリャンから作った焼酎)をカポカポ飲んで気持ちよさそうである。
李暁帆さんが石橋教授のところに留学したのも縁。石橋さんと私が20年離れた先輩後輩の関係で、しかも生命研を介して知っていたという縁がある。私が李暁 帆さんを知ったのも縁。二人の若者が知り合ったのも縁。王さんと私が会ったことがあるのも縁。また再びこうやって会うのも縁。人の縁の不思議さを私たちは 日本語と中国語で語り合いながら、一緒に熱い時間を過ごした。
12月12日、瀋陽市内の五つ星ホテルであるマルベロットホテルで天皇誕生日を祝う祝賀会が、在瀋陽総領事館主催で開かれた。正確には「天皇陛下ご生誕の祝賀レセプション」である。松本総領事の名前で招待状が届いたのが2週間くらい前だった。桐の花が付いた招待状である。
ホテルの最大の部屋に場所がしつらえられてあった。壇上には十数脚の椅子が、松本総領事、遼寧省政府副省長、遼寧市政府副市長などの中国側の行政の要人、 ロシア、アメリカ、韓国、ドイツ、フランスの総領事、そして瀋陽日本人会の望月会長の為に並んでいた。壁には左側に中国国旗、右に日本国旗が掲げてある。 12時になって壇上に人が揃い、領事館の人が司会して会が始まった。広い会場にはざっと500人くらいの人たちが集まっている。
最初は国歌演奏で、まず中国の国歌で、続いて日本国歌だった。なるほど。主催が総領事館でも、何処でセレモニーを開くかによってこのような配慮をするのか、なるほど、なるほど、である。
松本総領事の挨拶は天皇の健康を祝うことから始まり、続いて今年が日中友好条約締結30周年を迎える年だったので、日中双方の交流が詳しく述べられた。こ の「今年は日中友好条約締結30周年という節目なので」を、総領事は節目をセツモクと発音したので私はびくっとした。知らなかった。帰り道に一緒になっ た、定年になって中国に来て日本語教師を志すまで読売新聞の新聞記者だった方に聞いてみたが、いままで聞いたことはないという。
例えばこの春を目処にして、と言う目処は通常メドと言うがモクトというのも間違いではない。今までモクトと言う人が一人だけいた。帰って辞書を調べて見 た。と言ってもYahooでセツモクと引いてみた。漢字は「節目」と出てくる。大辞泉では1.草木などのふしめ、2.物事のすじめ、また、規則の箇条や細 目。大辞林では1.草木の節(ふし)と木目(もくめ) ふしめ 2.小分けにした一つ一つの箇条。細目。
となるとちょっと違う感じである。しかし松本総領事は中国語の専門家である。あるいは漢語ではこれで良いのかも知れない。訊きにくいが今度尋ねてみよう。
総領事の話のあと遼寧省副省長、日本人会長の挨拶が続いて、壇上の人たちの乾杯、そして会場の人たちの乾杯があって、立食になった。今日は総領事館総出で セレモニーの接待に当たっているが、この春の移動でこれまで知っている人たちはほとんどいなくなった。領事館のご夫人たちは和服に身を包んで華やかだが、 知っている人たちはいない。
日本語教師で今東北育才学校というエリート高校で日本語を教えている梅木愛先生と出合ってしばらくお喋りをした。彼女は青森の生まれで金沢大学時代に射撃部にいたのが縁となって国体で富山県に引っ張られ、そしていまはそこで現職の教師をやっていて、文部省から中国に派遣されてきている。
射撃をする人とは初めて会ったので訊いてみた。どうして射撃を始めたのですか?もちろん、この夏北京オリンピックで子供にメダルを約束して頑張ったクレー射撃の女子選手が頭に思い浮かんだ。さらに冬期オリンピックで雪原をスキーを穿いて激しく白い息を吐きながら滑ってきて、そしてたちまち射撃体勢に入る勇 猛果敢な女性選手が頭にある。
誰か自衛隊に知り合いがいたとか?ときくと、いえ、大学に入ったとき激しく勧誘されたのですよ。良いように持ち上げられちゃって、その気になって、入っちゃったんです。
あ、そうか、入学式の日には正門のところにクラブが机を置いて激しく新入生を誘うなあ。何十年も前には大学新入生だった私の時はボート部が激しく攻勢を掛 けてきた。その広い肩幅ならばっちりですよ。是非仲間になって下さい。としつこく言われたっけ。言葉巧みに誘われて、自分は(当時はまだいなかったが) シュバルツネッガーなみの立派な身体かと思うところだった。
射撃というと金がかかると思う。訊いてみると親から来る仕送り、そして激しいアルバイトのお金は全部弾代と競技参加の遠征費に化けたそうだ。思いついて尋ねてみた。オリンピックを目指さなかったのですか。ええ。目指したんですよ。でも、いま一寸本気じゃなかったんですね。
でも私の身の回りで、オリンピックに行った人はもちろん、オリンピックを目指したという人もいない。初めて身近にそのような人を持ったわけだ。何となく嬉しくなった。梅木先生は一週間前の日本人会のクリスマス会で司会をした人である。彼女のことは今日来た日本人は皆が知っていてファンが多い。私が独占していては悪い。
パーティは約1時間続いた。その間、いろいろの人たちと会うことが出来た。教師の人たちにあって分かったことだが、今回は教師の会の人たち全員に招待状が届いたようだ。これまでは古手の人たちだけだったのである。恐らく総領事が春に交代したことで方針が変わったのだろう。
このレセプションに初めて招かれた人たちは、誰もが喜んでいた。日本にいたら全く関係ない人たちの中に入ったのだ。招待の輪をちょっと拡げただけでこんなに喜んで貰えたことを領事館に知って欲しい。
瀋陽地区で日本語を教えている教師たちの作る瀋陽日本人教師の会はこの春まではとても恵まれていた。つまり、自分たちの活動拠点として日本語資料室という場所があったのだ。それが今はない。
教師の人たちの集まりである教師の会は、1992年頃日本語を教える人たちの数が瀋陽に増え始めたころに自然発生的に出来てきたらしい。互いに助け合い、 そして情報を交換するためにそれぞれの勤め先あるいは近辺で回り持ちの会合を開くようになったようだ。会の先輩たちから寄せられた当時の思い出からそれが 分かる。これは教師の会のHPの中に「歴史の証言」として載せてある。
日本語を教える人たちの悩みは、日本語の教材が十分にないことだった。そして生徒たちが自由に読むことの出来る日本語の本も、自分たちでそれぞれが日本から持って来るしかなかった。
日本語の教材が欲しい、日本語の図書が欲しいという声がだんだん高まり、当時瀋陽教師の会の中心だった石井康男先生が中心となって日本に呼びかけ、それに 応えた大阪地区のNPOの「関西遼寧協会」(1985年から遼寧省政府をはじめ、多くの関係機関と友好交流の実績を持っていて、1999年6月法人化した 団体)と「市岡国際教育協会」(1996年から大阪市内の高校で日本語日常会話教室を開設している)が「瀋陽日本語資料室」の設立を企画した。「市岡国際 教育協会」が「中国に図書を送る会」を組織して作って本を集めた。1999年1月にはNPO 「日中ボランティア活動センター」が設立された。瀋陽代表理事には石井康男氏が就任した。
その動きの中で、関西遼寧協会の会員が事務所を無償で提供することを申し出た。大東区小北関街にある建物は1994年から北大阪食品が飲食店(1階ラーメ ン店、2階カラオケ店)を経営していたが、2000年に閉鎖した。その時、社長は退いたが、会社は残って、1階がカレー店となり、上の階を日本語資料室と した。その後、経営難で会社も無くなったが、北大阪食品公司として、カレー店の経営を続けていた。瀋陽日本語資料室は、このビルの3階の一室を借りて 2006年6月に開所式が開かれ、ここに正式に発足した。
2004年には日中ボランティア活動センターが解散して関西遼寧協会に管理が移ったが、石井先生がそちらの代表を続け、日本人教師の会はその場所を使わせ て貰うという関係が続いた。つまり運営資金だけでなく細かな管理も石井先生任せで、教師の会は掃除と整頓くらいしかやってこなかった。しかし2004年9 月から教師の会は資料室を担当する係を用意して、資料室の運営を積極的に手伝い始めた。
これは良いタイミングだった。瀋陽に永遠におられると思った石井先生が2005年7月急に別の場所寧波に移られることになる。資料室の運営は教師会が全面的に担当することになった。
2006年3月、北大阪食品公司が資料室の建物の1階にあるカレー店の閉店を決め、資料室も存続できないことになった。資料室は新しい場所を探さなくては ならなくなった。3月26日に開催された「瀋陽日本人総会」で窮状をうったえたところ、3月28日に朝日新聞東京版に資料室の記事(「草の根交流がピン チ」と言うタイトルだった)が載り、当時の川口外務大臣をはじめ多くの反響が寄せられた。当時の森領事の紹介により「新幹線外語学校」を見に行き、伊藤忠 商事・高木所長の紹介により「開元大厦」、中央大学・李廷江先生の紹介により「集智大厦」を見せていただいた。その中の開元大厦の一室を借りて移転するこ とを決めた。
2006年5月には関西遼寧協会から日本語資料室の書籍等すべてを教師会に譲渡するという書き付けを頂いた。これで資料室の財産すべてが教師会の管理するものとなった。
2006年5月20日に会員および関係する大学の学生たちも手伝ってくれて、和平区振興街にある開元大厦6階の約118平米ある大きな部屋に資料室が移転 した。ここのオーナーの赫子進さんは高木純夫伊藤忠商事瀋陽所長の友人である。日本留学時代日本で世話になったので日本人に恩返ししたいという好意だった。この広々とした部屋を起点にして、日本語資料室を日本語文化センターにして日中友好の拠点にしようという構想が育ち始めた。
ところが、2006年8月末、開元大厦がホテルとして全面改装するため資料室が立ち退かなくてはならなくなった。移転先は開元大厦の赫オーナーが探して下 さって、移転の候補先の「和平区国際科技孵化器」ビルとの交渉が開始された。この間、資料室の荷物は開元大厦の地下倉庫に預け入れた。
8月末から11月一杯、和平区国際科技孵化器の局長の許可を得るため、当時の阿部総領事、瀋陽市人民政府・宋副市長からの働きかけなど多くの方々に助けていただいて多大な努力が注ぎ込まれたが契約にはいたらず、11月についに交渉を諦めた。
それでその春見せていただいていた「集智大厦」のオーナーの李暁東さんに連絡すると、ビルの使用料だけでよい、貸賃料金なしで貸すと快諾。それで2006年12月9日、約80平米の集智大厦8階に資料室移転、再開することが出来た。
しかし安寧の日は短く、1年4ヶ月しか続かなかった。2008年3月には集智大厦8階フロアの売却・改装ということになって資料室の移転することになっ た。会員一同はもちろんあちこちにお願いして場所探しをしたが、賃貸料無料で探すのでオリンピック景気に湧く瀋陽で何処も見つからない。ついに2008年 4月16日資料室は閉鎖となり、荷物はまとめて何氏眼鏡・滂江店(8月20日には何氏眼鏡・砂山店に荷物を移動した)に荷物を移動・保管(何氏眼鏡の富島 和美さんのご好意による)していただき今に至っている。
教師の会はその後も資料室の場所探しをしている。資料室の候補地の情報はいくつも寄せられているが、条件が合わず、再開の目途は立っていない。その中でこの春着任された松本総領事が、公共の場所に頼んで置いて貰えるのではないかと提案された。私たちが公共図書館に直接行っても相手にはされないので、総領事 にお願いをすることにした。
そのためには資料室の資料が必要である。資料室の経緯、図書の内容、今までの活動などをまとめて資料を用意した。総領事館には今週金曜日教師の会の数人でお願いに上がる予定となっている。
瀋陽日本人教師の会は毎月定例会を開いている。この春以来、それまで会場に使うことの出来た日本語資料室が閉鎖されたので、毎月一回の定例会の場所探しに苦労している。
私たちは在瀋陽総領事館の新館の会議室を当てにしたけれど、文化担当の、つまりこの地における私たちの活動に関わる在瀋陽日本国総領事館の担当領事は、私たちに貸すことは出来ないと冷たく言い放った。
定例会は教師の人たちの多くが休みが取れる土曜日の午後開いている。しかし土曜日は総領事館は休みである、休みなのに特別出勤するわけにはいかない、という。
だけど、領事館は日中友好の文化活動の支援をするのが大きな目的の一つでしょう?日本語を教える教師の会がどれだけ日中友好に貢献しているか考えてくださいな。これ以上の貢献はないほどではないですか、と日本人教師の会の会長が彼に向けてやんわりと言った。
しかし、この領事が言うには、 教師の会の行事に貸すのは目的外使用である、まして特定の団体に使わせるわけにはいかない、という。どんな目的なら貸すのか、貸さないのか知らないが、不 特定の集まりに貸すわけでもないだろうに。日中友好の最前線にいる教師の会を助けなくて、どこを助けるというのだろう。しかも会長に向けて、これは総領事 の意向だと言ったのだ。ここまで言われたら、もうどうしようもない。
というわけで、会の主催する文化セミナーで会場として新館ホールを借りるときは、そのついでに隣の小部屋で定例会を開いてよろしい、しかしそれ以外はそれぞれの大学なり何処かでやるのが筋でしょう、と突き放された。そういわれれば、2000年6月に日本語資料室が先人たちの多くの努力のおかげで出来るまで は、集まる場所に何時も苦労していたわけだ。
瀋陽に来たときから資料室があって恵まれすぎていたのだ。毎月集まる場所探しに追われることになったなんて、一足飛びに猿の惑星の時代にワープした感じだが、領事館に頼むのが筋違いといって断られれば、この際仕方ない。お互いの学校内で探すしかない。
日本人日本語教師というのは大学で日本語学科があってそこで日本語を教えていても、正式なスタッフとしては認識されてはいないみたいだ。つまり日本人教師が大学に場所を貸して欲しいと言いに行っても、公的には相手にされないのが普通である。
大学は他所の人たちが出入りすることに、恐らく日本の感覚では分からない位神経質である。それでも、人脈で親しい人が相手側の要衝にいれば、外部の人の出 入りする定例会に使ってよろしいと言うことになる。それで、今までに9月は遼寧大学の国際交流処の会議室、10月は瀋陽師範大学日本語学科の会議室、今回 の12月は航空学院国際学部の会議室を使わせて貰った。
瀋陽市の主な市街地の面積は日本の環状線の中くらいだろうか。それが今や外に向けて急速に拡がっている。瀋陽市には大学などの教育機関が沢山ある。今では 市街地の中にあった大学は次々と外に追いやられ、まだ残っているのは、瀋陽薬科大学、中国医科大学、東北大学の古い大学3校だけになってしまった。
航空学院は、南の方にある私たちの薬科大学からタクシーで15分くらい走ると街の中心に出るが、そこから更にタクシーで北に約35分くらい走らないと到着 しなかった。今までの瀋陽の地図には載っていない新開地にある。着いてみると青空が頭上に拡がっているではないか。振り返って南を見ると南方の空は白く、 実際、薬科大学は今日はどんよりとした曇り空だったのだ。迎えに出てくれた可愛い学生さんに訊いてみると、「今日だけじゃないですよ。ここのところずっと お天気です」という。薬科大学では毎日が曇り空だというのに。
航空学院は新開地に転居しただけあって、広々とした敷地に綺麗な建物が点在している。空気が綺麗だが、正門から会議の場所にたどり着くのに10分もかかってしまう広さである。
定例会の終了したあとは忘年会が企画されていた。瀋陽の中心にある皇寺広場にある新洪記と呼ばれる中級以上のレストランである。今回は前月の文化セミナー に講師としてお願いした高木さん、日本語クラブの印刷で多大の援助を戴いているキャノンの秋山さん(実際は代わりの楊さん)、菊田領事、奥領事を招いてい たのでいつもより奮発したのだった
定例会でこの発表があったとき、会費が70元なんて高すぎると会員の一人から文句が出て関係した私たちは鼻白んだが、大学の近くのレストランなら1本3元のビールが8元もするのだ。今回に限っては仕方あるまい。
食事のあとの余興として、今年度参加の会員が歌を歌いますと言って、イタリア歌曲のカロミオベンを歌った。すると、「次はそこのオペラ歌手!」と私に声が 掛かった。私はこの会合でオペラを歌ったことはいちどもないけれど、HPに昔オペラアリアを歌う「い座」を作ったなんて書いているから、それを見た人から こうやってからかい半分に声が掛かるのだ。
夏の夏風邪以来未だにのどはガラガラしている。老人性ののどになってしまったのだと思う。でも、ここで断ってはいけない。何しろ、「歌うのを死んでも止め るわ」と何時も言う妻がここにはいない。音痴の私が臆面もなく人前で平気で歌おうとすると、シャンソン歌いの彼女としては面子に懸けても私の歌に反対する のだ。今までは何時も彼女の面子を立ててきた。
というわけで、私は「オーソレミオ」を歌ってしまった。こうやって人前で歌うのは何年ぶりだろう。驚いたことに後半に掛けて声が滑らかに出るようになるのがよく分かった。発声練習をしてから歌えば、今でもレオ・ヌッチに負けるとも劣らない声?なんてはずはないよね。
20 日土曜日の午後、学生の陳陽くんに付き合って貰い一緒に三好街に出かけた。この街は東京の秋葉原といわれる電気街で、PCに関するありとあらゆる店が集 まっている。大学からはバスで二停留所先だが、何しろこの寒さだ。息をする度に鼻の穴が凍り付いて、正確に言うと鼻毛が凍り付いて、バリバリという。それ で、1元ずつ用意してバスに乗った。市内はどこに行くのも1元(日本円で15円にあたる)だ。
バスは5年前に比べると格段に綺麗になった。それでも暖房が入っていない。だから真冬のバスの窓は、乗客の吐く息の水蒸気でガラスの内側に厚い氷が張り付いてしまい、中から外が見えない。
停留所のアナウンスが聞き取れない当方としては、どこを走っているかを知るには外の景色を頼りにするしかないのに、それが見えないのは致命的である。だか ら冬はバスに乗らない。今日は陳陽が一緒で安心だった。幸いなことに乗客が少なくて、したがって窓ガラスも凍り付いてはいなかったけれど。
バスが三好街に近づくにつれて、 渋滞が激しくバスはちっとも進まない。これはクルマの数が多くなっていることと、駐車しているクルマが多いからだ。二重に駐車する、交差点の中だって勝手にクルマを置いていく、勝手に曲がる、などはここでは日常茶飯事なのだ。
5年前にPCを組み立て貰うために三好街に来たことがある。そのあと用事のある度にうちの学生に頼んで私はいちども来たことがなかった。ここでも街の再開 発が進んで、幾つかの建物が建て替えられている。電気街のデパートも新しい建物になっていて、大手のデパートみたいな内装に変わっていた。
見かけは三越の1階の化粧品売り場と同じようなのだが、よく見ると売り場は細かく仕切られていて、一つの店の持ち分の幅は3メートルくらいだろうか。露天商がそのままビルに入り、相互の境界を取り払った感じを想像して欲しい。
携帯できるHDDを買おうと言って出掛けてきたのだ。あらかじめインターネットで調べて、HP製のHDDが160GBだと490元くらい、250GBで 780元くらい、320GBで980元くらいと調べてある。偽物が多く、だまされてはいけないという。陳陽は見ると直ぐに偽物かどうか分かるみたいだが、 私が見ても全く分からない。
一カ所に寄って訊いてみた。HPの160GBのHDDで780元だという。ほかのものもいろいろ訊いたが高すぎる。次の寄ったところでは500元だとい う。まあ、いい線を行っている。だけどほかの店も当たってみることにして断った。三つ目の店では320GBが990元だという。ちょっと負けて970元 だ。陳陽によると、この感触ならもっと安く買える店が見つかるという。
そこも出てショーウインドウに並べられた品を物色して歩いていたら、二番目に寄った店の女の人が私の肩を叩くではないか。HPの160GBのHDDを 450元にするから買わないかという。それでその店に戻って、250GBか、あるいは320GBが手にはいるのかを訊いた。すると彼女がケータイを掛けて いる。陳陽によると、店がHDDを扱っているならその商品がその場になくても、たちどころにほかの規格のHDDが集まるというのだ。場合によっては隣の店 からその品を持ってくる。ともかく彼らは自分で売ることが一番なのだ。
しばらくすると誰かが品物を持ってきた。320GBのHDDが850元だという。HPでちゃんとパッケージに入っていて、Thailand製と書いてあ る。陳陽によると本物なのだそうだ。陳陽が粘り強く交渉を続けて、とうとう最初の850元が800元になった。インターネット上では980元で売られている。電源はPCから採る仕組みで、小さくて軽い。HPの320GBのHDDが800元で手に入るなら十分安く買えたと思って、手を打った。
このあとは別のPCデパートに行き、外付けのHVD/CDドライブを探した。今はどのノートブックにも内蔵品があるので、品揃えが少ないという。それでも いくつか廻って聞いているうちに、例によって、別のところからソニーの品を直ぐに取り寄せることの出来る店に行き当たった。陳陽の交渉で、最初の850元 が830元になり、そしてとうとう820元まで下がった。そこで止まってしまったが納得できる値段だ。ソニーのDRX-S70U-Rで中国製品である。あとでインターネットを見るとアメリカで120-130ドルで売られているという。
PCデパートはもちろん、寒いのに道も若い人たちであふれかえっている。PCのお客の9割以上は、もちろん秋葉原と同じで、ここでも男性である。しかし店 の売り子は若い男性に混じって女性も大勢いる。HDDを買ったのも外付けのHVDを買ったのも、どちらも女性からだった。売り子の半分は女性のようだが、 これらの女性を選んだのは陳陽の好みだろうか。
二つの品を一時間半掛けて買っただけだが、刺激が多くて疲れた。それでマクドナルドの店に寄った。人出が多いからかここには二つのマクドナルドが店を並べ ている。昼は食べて出てきてまだ3時なのに、ビッグマックセットを注文した。さらにピーチパイも注文した。陳陽は激辛マックセットにして、コーヒーではなくチョコレートとパイナップルパイを選んだ。ふたり分を合わせて51元だ。私たちのここで貰う給料では、マックを食べるのは贅沢そのもので、滅多に食べない。でも今日は贅沢にマックを食べたい気分だ。
つまり中国にいる間はマックは私たちにとっては高嶺の花だが、そうかと言って日本にいる間にマックを食べるかというと、そんなことはない。日本にいるなら 蕎麦を食いたいし、寿司を食いたい。マックより美味しいものが沢山ある。というわけで、中国で思い立つと数年にいちどのマックでご馳走と言うことになる。マックが中華料理より順位が上と言っているわけではない。マックが私にとっては高価なだけである。
この日はラボに戻って、 お腹が一杯のまま、夜の9時まで仕事をしてしまった。
今年も年末になってクリスマスの時期を迎えた。クリスマスイブの24日は中国ではもっぱら恋人たちのお祝いの日になっている。それで、研究室で毎週水曜日の夜に開く研究報告会は前日の火曜日に済ませて、この日はフリーにしておいた。
この日に独りものは惨めなので、毎年この日は研究室のひとりものと瀋陽にうちのない人を集めて、一緒に食事をしてきた。外に食べに行くこともあったけれど、この日は混むので、昨年はうちに招いて食事を作ってご馳走した。昨年うちに来たのは4人だった。
今年はどんな具合か様子を眺めてみると、院生9人のうち結婚している2人を除いて全員がひとりもののようだ。うちに7人も来たら、食事を作るには多すぎ る。それで、教授室の一画で集まって食事をしようかと提案をした。私の腹案では、一緒に餃子を作るところから楽しくやろうかというものだった。日本にいた とき、中国から来た留学生を中心に大騒ぎしながら作った餃子が、作るのも食べるのも幸せ一杯の記憶として蘇ってくる。
24日の夜は暇のある人は研究室で集まりをしませんかと提案をした。皆嬉しそうにニコニコしているのに,じゃ集まる人?といったら,私を含めて5人しか手が上がらない。昨年のひとりものだった陳陽くんはいったいどうしたんだ?昨年うちにきた徐蘇さんは今年は来ないって?
ともかく人数は昨年と同じ4人に収まったけれど、やはり教授室で開くことにして、メニューを相談した。私は餃子作りを提案したけれど、そんなの面倒くさいとあっさり片付けられてしまった。中華式ではなく、西洋式が良いと皆が言う。訊いてみるとピザやスパゲッティを食べたいというのだ。
スパゲッティを主張する曹さんに訊くと、自分ではまだ作ったことがない。だけど私がきっと作るからこれも食べましょうと、熱心である。そんなこと言ったってラボで美味しく作るは大変だと思うけれど、彼女にまかせることにした。
ピザは日本なら冷凍品もある。瀋陽では見たことがないけれど、1 kmくらい南にある特別のスーパーなら冷凍ピザがあるかも知れない。
曹さん、暁艶さんと私の3人は午後2時、厳重に身支度をして大学の外に出た。寒さは厳しいけれど風が弱いので大丈夫だ。アメリカのクリスマス、イタリアのクリスマスの話などしながら、河畔花園に着いた。久しぶりのスーパーに入った。冷凍品売り場を覗いたがピザはない。ここの住人とおぼしき西洋人を見掛けて尋ねたが、「置いていないみたいね」という、瀋陽の何処かに売っているか知らないかと訊いたけれど、「そんなこと思ったこともないわ」と肩をすくめられてしまった。
家楽福の南側に富貝楽というレストランがあって、ピザもどきが食べられることを思い出した。ピザハットもあるけれど高い。それに比べると富貝楽のピザはお 値打ちである。富貝楽に行ってテイクアウトをしようと思いついた。注文している間、家楽福でほかの買い物をすればよい。というわけで、これだけ歩けば、夜は豪華に食べても大丈夫と思えるくらい歩いたのだった。
5時半から始まったパーティの参加者は、曹さん、暁艶さん、黄澄澄さん、王月さんと私の5人である。食べ物はピザ2枚、スパゲッティ、フルーツサラダ、赤 ワイン、スナック(干し肉、カシューナッツ、水晶棗)、などの豪華版だった。68元の赤ワインは女子学生のためで、私は紅茶専門だ。
曹さんはスパゲッティを茹でて、一緒に買ってきたスパゲッティーソースを絡めて出来上がり。オイルを使っていないから、麺が皆くっついてしまう。でも、本 格的に調理すると部屋の火災煙感知機が鳴って、あとで大学から大目玉を食らうというのは、隣の池島さんから聞いているので仕方ないのだ。
あれこれお喋りしながら食べて1時間もすると飽食して、それじゃこれからショータイムということになった。暁艶は英語の「Season in the sun」、二巡目は 「SHE」というgroove coverageの歌だった。低く心に沁みこむ声だ。彼女は英語班出身である。 王月は中国語の歌で「花仙子」と「握不自○他」だった。後者は自分を支配する男から逃れてホッとする歌なのだそうだ。可憐な歌い手だ。黄澄澄は日本語で 「翼を下さい」と「うさぎうさぎ何見て跳ねる」を可愛く歌った。
曹は最初に日本語で「風の記憶」を歌い、蘇軾(蘇東波)の「水調歌頭」を歌った。曲は現代のものだそうだ。次に自作の詩「踏沙行」を披露した。2年前の St.Valentine Dayに、いまの自分は一人で淋しいが、どんな激しい恋にもいつかは厳しい終わりがあるものさと、中国の故事をふんだんに鏤めて作った詩だ。この背景の歴 史故事の説明に半時間もかかるほど盛りだくさんの詩想を込めた詩だった。驚くべき特技である。
私は求めに応じてイタリア語でオーソレミオを歌った。二巡目には私は詩吟をした。これは大昔、中学生のとき学校で余興を求められたら座興にやってみたら良いと言って、速攻で仕込まれた芸である。「少年老いやすく、学成り難し」という詩の詩吟である。何十年もの間いちども人前で唸ったことはないが、日本の昔の伝統を披露しておきたいと言う気になって、一席演じたのだ。詩吟を知っている可能性のある日本人がもしここにいたら決して披露できない芸である。
いや、でもこれは受けた。そりゃそうだろう。中国で作られた詩が異国に渡って別の読み方で吟じられるのだから。ちなみに日本の詩吟は、中国では吟詩という。同じように昔は節を付けて詩を吟じたのだ。
という具合に夜の10時まで楽しく時間を過ごした。何しろ女子学生4人に囲まれて、しかもこちらは老師だからすべての中心で、おまけにスポンサーだから大事にされて、楽しくないはずがない。。。
年末を前にして隣の部屋の池島老師が一時帰国をした。その前の日、忙しい忙しいと言いながら、お土産を買いに走り回っている。何をお土産にしているんですかと訊くと、お茶、あめ玉、干し果物、チョコレート、干し肉、酒、など次々に挙げている。
ふーん。でも、中国の食品事情が次々明らかになるにつれ、日本では中国からの食べ物のお土産は歓迎されなくなってきた。この前の夏は北京オリンピックがあったので、その記念メダルなどが孫たちへのお土産になった。でも、この次はそうはいかない。
12月初めに一時帰国する前のこと妻の貞子は苦吟の挙げ句、「靴下をお土産にしたらどうかしら」と言い出した。どんな靴下かというと、足の指が独立してい て5本の指がそれぞれ収まるやつである。3年前の冬、学生の暁艶さんから贈られて、妻と私は可愛い柄の付いた珍しい靴下を穿いて楽しんだ。色鮮やかな模様 がある上に、Great Paなんて字まで描かれている。
この贈り物はそのシーズンのうちに破れてしまった。そのまま忘れていたけれど、この冬その履き心地を思い出して、暁艶に買ってきて貰った。今度のは普通の通勤ソックス的なスタイルで、ただし、足の5本指付きである。
これが、穿き具合が良い。足の指を独立して扱ったことなんてないから、それぞれの指が布に包まれた感触が新鮮である。まるで初めてあそこになにを付けたみ たいな感覚である。何とも嬉しい。今はそんなこともないからすっかり忘れていたけれど、このおかげで初体験を思い出した。
こんな訳で私が5本指付き靴下を結構気に入って穿いているので、貞子がじゃあこれをお土産にしたらと、思いついたわけである。
暁艶が家楽福で買ってくれたときは一足が15元だった。5本指で製造に手が掛かっているからこのくらいするのだろうと思っていたけれど、彼女が言うには本気で沢山買うなら、家楽福では高いです、ほかの店に行きましょうと言う。
家楽福よりちょっと先の北側に「展覧館」という名の立派な建物がある。外観は東京の国立博物館みたいな造りで、ひょっとするとこの建物は満州国時代の建物ではないかと思わせるものがある。
しかし畏友の加藤正宏さんにお伺いを立てたところ、 『1960年に完成したもので、正式には「遼寧工業展覧館」といい、遼寧における、大躍進のシンボル』とのことだった。その頃は大躍進政策の破綻で中国全 体が苦しんだ時期でもある。このような立派な建物を建てていたなんて驚きである。
これに対する加藤さんの返事は大要以下の通りである。『1949年の建国から続いたソ連による援助は、1960年に中国がソ連のフルシチョフの新しい路線を批判したことで終わった。ソ連は技術者1300人をいっせいに引き揚げた。』
『ソ連の技術者の援助の下に武漢長江大橋は1957年に完成しているけれど、中国でも技術が育っていた。実際、1960年から開始され1968年に完成した南京の長江大橋は中国人のみの設計技術で完成させている。』
『1958年から始まる大躍進の時期に 鞍山、包頭、武漢、重慶に鋼鉄コンビナートができ、鞍山に世界最大の平炉ができたし、旅客機、大型バス、電気機関車などの生産も始まっている。なお、天安 門広場の周囲の建物、中国歴史博物館、中国革命博物館、人民大会堂などはどれも1959年に建てられている。』
『つまり、この建物は大躍進のシンボルとして計画され、瓦やセメントなどの材料も最高のものが使われた』らしい。堂々としてあたりを圧する威容も納得できる。
展覧館は現在半分くらいが常設の衣料店となり一部は美術作品の展覧場所になっているほか、特別展の催しもの会場につかわれているようだ。二階に行ってみる と衣類を売っている店の集まりだった。どこも3メートル四方くらいの大きさである。帽子だけ売っている店。ショールだけを飾っている店。内衣だけの店、な どなど。
内衣というのはズボン下などの厚い下着のことで、この地方では必需品である。ここの人たちは、うちの中ではズボンを脱いで下着だけになっているのが普通だ そうだ。外に出るときにズボンを穿いて出掛けるわけだ。私たちは○○という世界最高峰の山の名前が付いた下着を日本で手に入れて、それで間に合っている。
貞子は子供の名前、孫の名前を数え上げながら5本指靴下を選んでいた。私は色鮮やかで、IT’S MEと 刺繍がある靴下を2足選んでこれを息子とその彼女に上げることにした。
12月の初めに日本に戻った貞子が土産を渡してすぐ、息子の彼女からメイルがあった。「お父様。お土産をありがとうございます。添付したのはその写真です」と言って、贈った靴下を穿いた彼女の二つの足が可愛く写った写真が添付してあった。
それに私は返事を書いた。「写真をありがとう。気に入ってくれて嬉しかったです。この次には、可愛いズボン下を贈りますね。」下着を贈れば、それを身につけた写真を送ってくれるかなというわけだけれど、今のところこのメイルに対して返事はない。
2007 年6月に瀋陽日本人教師の会は2回目のバス旅行として化石を見に行った。これに合わせて、私は瀋陽日本人教師の会編集「愛唱曲集」を用意しただけでなくこ れを利用して教師の会の基金集めを始めた。それから1年半経って私はこの歌集から解放された。以下はその顛末記である。
この歌集の後記に私が書いた後記を引用する。
----------
瀋 陽は中国東北三省の中心的な街で遼寧省の省都である。以前の名前は奉天と言った。この地域では日本語学習熱が盛んである。瀋陽には瀋陽およびその周辺地域 で日本語を教えるために日本から赴任している日本人教師の集まりがある。瀋陽日本人教師の会と言って、十数年の歴史がある。
2006年の 春に教師の会始まって初めてという1泊バス旅行を計画して、瀋陽から車で3時間離れた岫岩市に行った。中国は玉を産し、玉は高貴な印として古代より尊ばれ ている。日本人の私たちにはあまり馴染みのない玉だが、中国の玉の約8割はこの岫岩で算出される岫岩玉であることを知って、その産地を訪ねることにした。
片道3時間のバス旅行を退屈しないで過ごすには、歌が欲しい。中国のバスには日本の歌のカラオケは用意されていない。各自が歌の本を持っていくと言ってもそれぞれてんでバラバラだと、一緒に歌うというのに難がある。
どうしたらよいかと考えているうちに、歌の本を編集してしまおうと思いついた。私だけでは限られているので、中道秀毅先生、小林豊朗先生にも歌を推薦して貰った。戦後の歌と、それ以外の歌でそれぞれ二百曲を集めてコピー製本して、旅行に間に合わせたところ結構楽しめた。
旅行に参加できなかった会員にもその後で配って、集まりの時には全員が同じ本で一緒に歌えるようになった。ところがこの歌の本は教師の会の若い会員には評判が良くない。「何ですか、これ。歌の本って言ったって、知っている歌は『仰げば尊し』だけですよ」。
それで教師の会の全員が歌える歌集にするために、次の版の編集を計画した。若い中村直子先生も、池本千恵先生も協力してくれた。古賀メロディを集めるためには林与志男先生の協力があった。昔は長髪のフォークシンガーだった森領事も選曲に協力してくれた。
最後には池本先生と手分けして、編集作業に当たった。印刷を控えた最後の1週間は千曲を越える歌集の編集に二人とも文字通り眼を腫らして頑張った。出来上がった歌集を楽しんで頂けたらとても嬉しいことである。
(2007年6月)
----------