日本人教師の会は7月と8月は夏休みである。この間ホームページを更新していなかったが、掲示板とe-mail addressに外部から連絡が入っていた。掲示板にかかれた中医学院見学についての質問照会は関係者に回答をお願いした。e-mailによる質問は、会員が夏期休暇から戻ってこないと答えられない性質のものだ。
それにしても、internetは距離を超えて連絡が取れて、しかも必要な情報が瞬時に手に入る便利な道具である。私たちは外部からの照会に善意をもって答えているので、このサイトが将来悪用されることがないよう願っている。
8月21日の飛行機で私たちは成田から瀋陽に戻った。「瀋陽に戻った」という言葉がぴったりのように、今は瀋陽が私たちの生活の場である。昨年の夏はSARSの影響が残っていて旅行客が少なく、出国手続きのホールは私たちしかいないという前代未聞の状況だったし、飛行機には1割も乗客が乗っていなかった。今年は、夏の最盛期を過ぎているにもかかわらず、飛行機は満席だった。
日本の2週間余の忙しかった夏期休暇の疲れが出て、乗っている2時間半の間は半分眠っていた。飛行機のドアを出て瀋陽の空気に触れる。飛行機の中よりは暑いが、成田で飛行機に乗ったときとはだいぶ違う。瀋陽空港は28度ということだった。
入国審査に並んでいると「先生!」という声がして振り向くと、瀋陽日本人教師の会で一緒に雑誌の編集に携わっていた中道先生夫妻だった。1年間「日本語クラブ」という雑誌の編集をやってきたので、同じ教師の会でも、ほかの先生方よりはずっと付き合いが深い。中道秀毅先生はこの正月はお孫さんの面倒を見るために日本に残られたので、半年ぶりに会う懐かしい秀毅先生である。「日本語クラブ」の前号は秀毅先生を欠いたまま編集したけれど、彼も原稿を書いたし、編集後記に至っては、編集後記のために雑誌を出しているとも言える位私たちは書きまくったので別々の列に並んだまま、お互いにお喋りは尽きない。
「中国人は声が大きいね」とは良く言うことだけれど、このときの私たちは、同じ位大声だったに違いない。気持ちが出ると会話はこうなる。きっと気取り屋の日本人と違って、中国の人は感情をもろにぶつけてお互いが話し合っているのだろう。
空港には薬科大学から迎えの車が来ていてくれて私たちは4時半には大学に着くことが出来た。教授室はきちんと片づいていて、懐かしい王麗さんと胡くんが私たちを迎えてくれた。妻の机にはカーネーションの花が沢山生けて飾ってある。今は故郷に帰っているという魯くんからの贈り物の「中国語笑い話」が私の机に載っていて、妻のところには「中国語の別の言い回し比較」という本が置いてある。王麗さんによると、「中国語の別の言い回しの本はある程度のレベルがないと分からないから、先生には無理よ」ということだ。こういうことを言う時の王麗さんは、とても嬉しそうだ。
私たちは持ってきたスーツケースを開けて日本で買い求めた実験用の小物を出していく。スーツケースの中身はほとんどがこのようなもので占められていて、お土産としてはスーパーで買った煎餅しかない。妻はこの後直ぐに細胞培養を始めて月曜日からの実験に備えている。私は郵便物やmailの整理をして、6時半にうちに帰った。
<うちのアパートのある五愛街通りは自転車道を削って自動車道路を広げる工事の真っ最中だった。車道と自転車道を分ける分離帯には電柱が立っていてかなり高圧の電線を通しているので、電柱・電線を撤去し地下配線に変えるのはかなりの大工事である。歩道も掘り返されていて、スーツケースを引きずって歩くのも結構大変だった。
翌日は日曜日で、私たちが何よりもしたかったのは、近くに開店したCarrefour(中国語だと家楽福)というスーパーに行くことだった。今までスーパーというと北駅、中街、太源街のCarrefourかWalmartなどの店にタクシーで出掛ける以外ないという不便を強いられてきたのである。このCarrefour第二店は、建物が出来てから半年以上オープンが延びに延びて、私たちは期待を胸に抱いたままじらされ続けたのだった。
この家楽福の新店はうちのアパートからは、工事中の五愛街大通りを越えなくてはならないけれど1ブロック歩けばよい近さである。巨大な建物は5階建てで全体の半分のうちで3階分がスーパーの売り場となっている。目当ての生鮮食料品売り場は3階にあった。
野菜は新鮮で、決して高くない。トマト、ほうれん草、椎茸、青菜、リンゴ、豚肉のブロック次々とカートに入れる。菓子売り場では、この夏上海旅行したときに沈さんに教わった、上海だけに売っていて「瀋陽では見たことはありません」という菓子もあって、喜んでカートに放り込んだ。旅行中に沈さんから分けて貰って味わっているけれど、上海で買ったものはお土産にして日本で人に上げてしまって、ちゃんと食べていないのである。
<妻と二人で歩いて運ぶのだから慎重に買おうねと言ったのに、5つの袋となって持つのもやっとの買い物になってしまった。自分で選んだのだから仕方ないと諦めて歩く。途中五愛街の工事の最中の交差点を渡る必要がある。信号はあるのに、混んでいて待たされる車はいらついて四方八方から交差点に突っ込んでくる。車は信号を無視する位だから歩行者も気にしない。こちらも待っていても誰も助けてはくれない。交差点の横断歩道を渡ろうとする自転車・荷車を盾にして一緒に車の間をすり抜ける。やっと大通りを渡って、妻が言うには「これじゃ強くなるわね。」
信号を守れば安全は保証される国と、信号を守っても身の安全は保証されず、自分の安全は自分の判断で守るしかない国と、どちらがよいかを問題にしているのではない。どちらが人を強くするかでは、明らかにこの国に軍配が上がる。
日本での夏休みを終えて8月21日に瀋陽に戻ってきた。夏休みの間、研究室では、胡さん、王さん、Kanさん達は休みなく実験をしていて私たちに絶え間なく連絡をくれたから、私たちも実験の進み具合から全く離れることはなかった。
研究室は23日から始まって、修士1年の鄭大勇君が私たちに加わった。4年生の譚玄くんも是非来たいというので特別に参加を認めた。4年生の呉さんは10月半ばに3週間ここで実習をする。博士1年の王くんの参加は事情があって数週間遅れる。
私たちの研究室の大学院学生(ここでは研究生と呼ばれる)の王麗さんは西の新疆ウイグル自治区(1955年までは新疆省と呼ばれていた)出身で、目が大きく色白の美人である。地図を見ると新疆省は、モンゴル人民共和国、ロシア連邦、カザフスタン共和国、クルグズ共和国、タジキスタン共和国、アフガニスタン、パキスタン及びインドと国境を接している。省都のウルムチと今私のいる瀋陽との距離も、東京−福岡の距離の約4倍もある。新疆省だけでその大きさは中国の国土の約6分の1を占めていて、日本の4.5倍の大きさだという。
瀋陽と北京は夜行列車で一晩の距離だが、北京からウルムチまでは3日掛かり、ウルムチから国境近くの彼女のうちまではバスで14時間掛かるという。つまり、彼女の故郷と瀋陽まで5日間掛かるので、休みでもうちに帰るとい うのは大仕事である。大学では春節休みと夏休みの二回の長い休みがあるけれど、彼女はそのどちらかに帰るか、あるいは全く帰らないか、のいずれかになってしまう。
滅多に帰らないのは故郷が遠いというほかに、もう一つ、彼女の恋人の馬さんが瀋陽出身だからという理由もあるのだろう。馬さんは、私たちの研究室の胡くんや王くんとは同級生で同じ寝室でもある仲良しだし、隣の研究室にいるので、始終顔を会わせている。逞しくて優しくパソコンにめっぽう強い人である。 一緒に食事をしようと誘うことがあるけれど、2回に1度は実験の都合でどうしても参加できないと言って断ってくる。「馬さんは食事に誘っても実験で都合のつかないことが多いけれど、うちの研究室は、どんな時でも全員の都合がつくんだね」と、私は時には嫌みを言ったりする。
私たちの研究室は「三度の飯よりも実験が好きな人たちは集まれー」と言うキャッチフレーズを持っている。王麗さんに言わせると「馬さんは、三度の食事よりも実験が好きです。でも、実験よりも私のことが好きなのです」と手放しでのろけている。
中国では日本で一時流行ったみたいに血液型がどうのと言う話は出ないみたいだが、彼女はAB型だそうだ。ABは勿論中国でも少ない血液型に入る。ちなみに私の妻はAB型であり、日本の血液型の本によると、AB型は人の間の潤滑油となり、人に対する心遣い抜群云々とかと、耳あたりの良いことが書いてあったが、最後に「嫌みのAB」と言うのがあるのを見つけた。「これだ、これだ、妻の貞子は嫌みのABなんだ」と私ひとり喜んだものだ。王麗さんが「お互いにABだ」と言って貞子と握手しているとき、もちろん「その血液型は『嫌みのAB』っていうんだよ」と教えておいた。
人に対する気遣い抜群のAB型のせいかどうか知らないが、王麗さんはとても良く気がつく人で、研究室の細々した雑用を進んで引き受けてくれるので研究室の諸事が円滑に動いている。彼女は子供の頃両親が忙しく、おじいさん、おばあさんに育てられたという。そのためか、王麗さんは年寄りとの付き合い方を良く心得ている。それに彼らと私たちとの歳のころとイメージが重なるためか、私たちにとても優しく親切にしてくれる。
私に文字通り叱咤激励して中国語を喋らせるのも、彼女である。当方としては一所懸命に頑張ろうと思うけれど、苦労して覚えたはずの単語を直ぐに忘れてしまうのでなかなか期待に応えられない。たまに出来ると嬉しくて、つい自慢してしまう。「言えた、言えた,僕はすごいんだ」というものだから、王麗さんには「面の皮が厚い」と言ってからかわれる。
「いえ、私の面の皮は薄い(バオ)。厚い(ホウ)のは王麗さんの方だ」と言い返す。「私は謙虚なんだから」と私。「謙虚な人が自慢しますか?ほんとに面の皮が厚いんだから」と王麗さん。
こんな応酬をしていると、5階の部屋まで上がってきた蚊が飛んできて煩くまつわりついてきた。向いの机にはワンピース姿の王麗さんがいる。「こっちに来ないで、あっちの『ブタ』に飛んでいけ。あっちの方がウーマイぞ」。と呪文を唱える。彼女のニックネームの由来は、以前書いたように掌中の珠(Zhu)と呼ばれていたのを自分で転じて 同音の猪(ブタ、Zhu)にしてしまって、麦都なのだ。
すると「そんなことを言ったって、私は大丈夫ですよ。寮の寝室にほかに3人いても、私だけ食われませんからね」と王麗さんが言う。
「なるほど。面の皮だけでなく身体中の皮膚が厚いから、蚊には歯が立たないんだ」と私は喜んで言い返す。
「アハハ。だけど、そうじゃなくてね」と王麗さんが続ける。「血が毒だから蚊がよけているのかも?」
<「え?何?血が毒だって? そうか、妻と同じ厭味のABなんだ。アハハ、王麗さんもなかなか言うねえ。」
昨年度の卒業研究生の一人である沈慧蓮さんは留学のため今日の飛行機で上海から日本に向かった。彼女の前途が明るい希望に満ちたものであるよう祈っている。
慶応大学にいる朱さんから連絡があった。いよいよ質量分析機を使って研究を始める模様である。
薬科大学に毎年数ヶ月滞在して講義をされる貴志先生が到着された。今年は3ヶ月滞在の予定だそうだ。講義の相手は日語の4、5年生。
薬 科大学には日本語を教える先生が今まで3人おられたが、今年から合計6人に増えた。これまでは3年生から教え始めていたのを、1年生から学習するようにし たので、二年間は6人の先生が必要となったという。日本語を1年生の時に習ったら、それっきりというのではなく、続けて勉強できるようなカリキュラムにな ると、こちらの講義にも助かるに違いない。
八木万祐子先生のご努力により、日本語教師になるにはどのようなルートがあるのかが、会員に対するアンケートで調べられた。結果がまとめられて、今は日本に戻られた八木先生から届いたので、特別企画として公開する。実に多くの道があることがわかった。このページが日本語教師になりたい人への刺激となることを期待する。
すでに「瀋陽暮らしの智慧」と名付けられた企画が公開されているが、これに初めて瀋陽で中国の暮らしを始める人達へのガイドが加わった。バスの乗り方、タクシーの乗り方などが「ケータイはどこのが良いか」などに付け加わった。実際に暮らし始めると何でもないことが、事前にはあれこれ不安に思えるものである。その不安解消に役立ちたい。
瀋陽日本語弁論大会の文集が7月に出されている。その中に載っている八木万祐子先生による「講評」を収録した。すでに、大会報告、原稿の募集要項、入選作品も収録されているので、弁論大会のページは、結果を見るだけでなく、今後応募する人たちにとっても大きな参考となるだろう。役だって欲しい。
9月の瀋陽はとても陽気が良い。空は青く澄み渡り、風は爽やかである。このような気候を「秋高気爽」というと王麗さんが教えてくれた。この字面から気持ちの良い天候の一日が伝わって来る。
8月23日から瀋陽薬科大学の新学期が始まった。1,200人いる新入生のプログラムは一週遅れて始まるので、彼らの到着がよく観察できた。ここは全寮制だから、彼らは単に入学するのではなく、この大学に住み着くためにやってくる。新入生は大きな荷物を持って大学に到着する。ひとりでここまで来る人はまれで、大抵は親、それも両親が一緒である。親がスーツケースを引いて、子供は身の丈位あるテディベアの縫いぐるみを抱えているなんて図はざらである。
以前の瀋陽薬科大学は全国各地からまんべんなく学生が来ていた。大学が2年前に遼寧省に移管されて省立に変わって以来、学生の半分近くは遼寧省から来るようになったが、遼寧省と言ってもざっと日本の半分あるから、結構広い。中には瀋陽が初めての人もいるだろう。それに大体が大事な一人っ子だから、親としてどんな街なのか、どんな大学に自分の子供を預けるのか自分の目で見なくては心配に違いない。親がここまで付いてくる気持ちは良く分かる。
私が生化学・分子生物学を教えている日語班というのは薬科大学の新入生の上位5パーセントの成績を取って入った学生が入れられるグループで、あらかじめ希望してめでたく日語班に入った学生もいるが、そのような数は大変少なく、大半は日本語など考えもしなかったという学生で占められている。30人で一クラス(班と呼ばれいる)の編成で、そのうち男子の数は年度やクラスで違うにしてもせいぜい数人である。つまり圧倒的に女性が多い。
日本でも薬科大学は女性が多い。薬剤師の資格が取れるので女性が職業として選ぶ割合が多いためだろう。ここも同じように女性の方が多いが、全体で数えると、多いと言っても6割位である。これから引き出される結論は、中国でも入試成績の上位は女性が占めるということである。
新入生はまず最初の3週間は軍事訓練を受ける。昨年はどこか別の場所で訓練を受けたが、今年は前半の訓練を大学の校庭で受けることになったらしく、連日にぎやかである。訓練は朝6時から夜の7時まで続く。勿論この中には1時間ずつの食事時間がこの中に含まれているけれど、60-70人ずつのグループに分かれてまずきちんと5列に並ぶ練習から始まる。不動の姿勢で2時間、解放軍の緑の服を着て、いわゆる戦闘帽をかぶったまま、秋の陽差しに照らされている。次は行進の訓練だ。彼らの間に男女の区別は全くない。背の順で男女入り交じって並んでいるようだ。勿論軍服姿なのでなかなか見分けられない。
教官約30人は職業軍人で、みな若い。訓練生とほとんど同じ年頃だけど、伸ばした手先から足のつま先まで自信がみなぎっている。教官は半袖のシャツを着て、きちんとした軍帽をかぶっている。教官の笛に合わせて、訓練生の歩く練習が続く。
2時間ごとくらいに休憩がある。第1日目は、休憩になると訓練生は校庭を囲む柵の外で訓練を見ている親のところに駆け寄って、水を飲んでいたが、二日目には親の見学が禁止されたのか、校庭を囲む親の姿がなくなった。代わりに、飲料水のボトルが大量に小型トラックの荷台に積まれていて、訓練生はそれから小分けしたビンで水を飲んでいる。
教授室の窓からときどき校庭を眺めていると、みなが揃ってきちんと歩くというのは非常に難しいことみたいだ。それでも訓練が二日位続くと団体行進がさまに なってくる。すると今度は、儀仗兵の行進で見られるように膝を曲げずに延ばしたまま歩く歩行訓練となる。足を上げる角度を揃えるためか、片足を前に上げたままで姿勢を止めて教官になにやら直されている。見ながら5階の部屋で自分でも真似てみるけれど結構難しい。
>中国に来てまず感歎したことは、女性がぴんと背筋を伸ばし颯爽と歩いている姿だった。大学の中でも同様に、女性の背筋がすっきり伸びて見ていて気持ちがよい。構内で歩いていると、教練が始まる前の新入生は姿勢が悪いので一目で見分けられる。この教練は女性の姿勢の美しさに貢献しているに違いない。
歩行訓練は毎日続く。5日経っても、手を揃えて脚を高く上げる訓練がまだ続いている。3週間に亘る訓練の後半は、射撃練習のように実際の軍事訓練となって、別の場所に移動して行うという。彼らがいずれ戻ってきて大学の1年生となったときには、美しい姿勢で構内を闊歩するようになっているだろう。
中国で9月10日は「教師節」と呼ばれる祭日である。祭日が休日というのは、中国ではたった三つしかないけれど、ユニークな祭日は結構あって、「教師の日」というのもそのひとつだ。
教師節は祭日だけれど休日ではない。朝大学にやってくると、門を入ったところから続く広い道の突き当たりに、ここでは主館と呼ばれている建物がある。その建物の前にある開校70周年記念で作られた円形のモニュメントを囲んで、沢山のポスターが並べてあった。
ポスターは各学年のそれぞれのクラスが書いたもので、日語クラスのを見ると女性が描いてあって「先生、ありがとうございます」と平仮名で字が書いてある。隣には中文で「我門愛老師」と書かれていて、これは「私たちは先生のことが大好きですよ」ということだろう。細々と沢山の字の書いてあるのもあり、絵も様々である。先生を描こうと頑張っているのもあるし、自分たちに焦点を当てて、日本の少女アニメにあるような長脚、大きな目に星が入っている美少女が中心のもある。アニメは結構というか相当な腕前で描かれている。
昨年のこの日は教授室に入るとピンクの多くのバラが私たちのそれぞれの机に飾ってあって、胡、魯、朱の日語班出身の三人の男子学生のサインのあるカードが付いていた。私たちはその前月終わりの新学期に来て新しい研究室を貰ったが、その部屋の掃除を手伝ってくれて、その後私たちの研究室に来た人たちだ。隣の研究室のこちらが講演の時に世話になった学生さんからも花束が届く。
大感激である。先生の日に、先生だからと言って花を貰う照れくささと、嬉しさが心の中で交錯した。いまの日本では小学生でも先生をセンコーと呼んだりしてちっとも尊敬していないのに、一衣帯水、隣の中国では大学生でも先生に感謝の念を持つのだ。 ひねくれて考えると、「今日は教師の日ですよ、先生に感謝しましょう」と、改めて音頭を取ってそう言わないといけないほど、いつもは尊敬されていないのかも知れない。「先生が少しも尊敬されないのは憂うべき事態である。先生に敬意を表して感謝する日を作ろう」ということで教師節が出来たのか。先生は尊敬されているのか、あるいはそれとも、生徒から軽んじられている存在か?どうだろうか。詳しい事情は分からなかったが、推測してみると、給料が安いからといって給料は手軽に上げられないので、まずは先生に対する敬意を安直に表そうと言うことで「教師の日」が出来たのかも知れない。少なくとも、先生が軽んじられていたから、強制的に「尊敬しなさい」ということではなかった。
実際、ここにいると、この大学の学生は教師に対して大いに礼儀正しいこと、教師を、勿論全ての教師というわけではないだろうが、本気で尊敬していることが分かってきた。その中には、この安い給料でよく先生をやっているという感嘆が転じて敬意となったものもあるだろうが、中国の歴史をひもとけば直ぐ分かるように、中国は学問を尊んできたし、それを教える師を敬ってきた。その伝統が、まだ中国で、そしてこの大学でも生き生きと息づいているのである。
今年は「教師の日」より前からお祝いが始まっていて、前日には胡くんの彼女の研究室のボスから大きなバラの花束が届いた。あれ?彼女のことをよろしくかな? 胡くんの彼女からは福貴竹という海南島に育つ竹の葉の束が贈られた。夜は他の学科の王老師が私たちや、いま日本からちょうど講演に来られている先生たちを食事に招いて下さった。そして「教師の日」当日になると私の教授室は、さらに沢山の花束で溢れかえったのである。
隣の研究室の池島先生は日本人で、毎月2報以上の研究論文を出版するというこの大学随一の研究で活発な教授である。多くの学生を抱え意欲的に研究を進めるためにいつも研究費が足りない。それで、自分の給料も食費以外はすべて研究に投じているとのことで、自分の身なりまでは手が回らない。おまけに、池島先生は研究熱心で何かに熱中すると、「卵を茹でるつもりで懐中時計を湯に入れてしまうような人」だから、大体身なりを構わないし、衣服が汚れていても気にしない。
大学の南に河畔花園という高級住宅団地があって、そこに日本企業の人たちが多く住んでいるために、その中にあるスーパーには日本食品が売られている。池島先生はそれを買いに行ったが、門のところのガードマンに身なりを咎められて入れて貰えなかったという、嘘か本当か知らないが、秘かな伝説があるくらいである。
<そして昨年の「教師の日」の翌日聞いたことだけれど、その日に研究室の学生が、池島先生にズボンとシャツを贈ったということだった。「今のは見苦しいです。老師、どうか代わりに身につけて下さい」というわけだ。これは池島先生が学生に如何に愛され、敬われているかという証しである。
昨日は今年の「教師節」だった。「教師節」が池島先生にとって今年はどうであったか、隣のドアを叩いて見てこよう。
2004年度の新学期開始に合わせて瀋陽日本人教師の会の定例会が開かれた。出席は新しい会員も含めて33名。
あたらしく日本語資料室係が会員の役の中にもうけられた。日本語クラブの発行はこれまでの「隔月発行予定」を削って、「年3回発行を目指す」に変更された。
新しい役割分担も決まった。この会は会員一人一人が必ず何らかの役を受け持つことになっていると言う、ぼくにとっては初めての集まりだ。
連絡係代表:石井
副連絡係:多田、鳴海
会計:渡辺(京)、南本(み)、沢野
ミーティング係:渡辺(文)、高山、金丸、南本(卓)
書記:長澤、大久保、山形(貞)、太田
日本語クラブ:中道(恵)、中道(秀)、加藤、丸山
ホームページ:児崎、山形(達)、鳴海
弁論大会:中原、児崎、山崎、宇野、竹林、市原
資料室:峰村、斉藤、片山、小林(豊)、田中、谷口
研修:森林、小林(久)、緑川
5時からは、特別参加の森信幸領事、佳能有限公司金光総経理、住三塑料有限公司鹿島総経理を加えて、本年度の歓迎会が近くの改装なった大明酒楼で開かれた。この歓迎会は在瀋陽日本領事館による招待であった。
2004年度の役割分担で、ホームページ係は、児崎、鳴海、山形の三人が担当することになった。
昨日が、新年度の日本人教師の会の最初の定例会だった。歓迎会の写真をいずれ載せようかと思って、昨日撮った写真を整理していると、なんと、昨日の役割分担で決まった書記係の長澤先生から昨日の議事録が送られてきた。
今日は久しぶりの日曜日なのに。。。
議事録をきちんと送って下さったのだからぼやいてはいけない。というわけで、活動記録が、このウエブサイトにきちんと載ることになった。ただし、2004年6月までの議事録が手元にありません。
山形研究室の新学期の行事が9月11日から始まった。
土曜日はJournal Clubで、月曜日Progress Reportの日である。
メンバーは今までの博士2年のKanさん、修士2年の胡くん、王さん、に加えて、博士1年の王くん、修士1年鄭くん、4年生潭くんが加わった。魯くんは修士1年を終わったところで韓国に留学する。15日の水曜日に出発する予定。それまではここに所属しているが、Progress Reportに出席するのも今日限りである。
薛蓮さんからmailがあった。夏休みが終わって、地震におびえながらも元気に研究を始めたようだ。沈慧蓮さんから来た私信によると、京都大学薬学部のの赤池・杉本研究室で親切な待遇を受けていて、「うち、メッチャ、楽しゅうおます」と、もう京都弁なのだ。
新年度の会員役割分担が決まり、書記の長澤先生から11日の定例会の議事録が送られてきたのを機に、昨年度の議事録もホームページに収録した。このウェブサイトに、教師の会の活動記録がすべて残るようにしたい。
教師の会の活動の記録も残したいと思う。手始めに2004年6月12日の2003年度最後の会のあとに開かれた送別会の写真を収録した。
新しいメンバーとなった先生も含めて、教師の会の会員紹介欄の手直しを始めた。いずれ旧会員欄に移すときに、その作業が簡単であるようにしておかなくてはならない。
日本語教材を作るのに役立つホームページ(国際交流基金日本語国際センターの「みんなの教材サイト」)を載せた。
会員のページができあがったが、自己紹介文については、「日本語クラブ18号」がまず載せるので、ホームページに載るのは今から2ヶ月後のことになる。それまでは、会員それぞれの写真だけ見て楽しんでいて下さい。
新会員のページを公開したが写真だけで淋しいと思っていたら、HPで相棒の鳴海先生が、2ヶ月後には新しく書き直さなくてはいけないのを承知で、自己紹介を載せるよう書いてくれた。会員欄が少しにぎやかになったに違いない。なお、このほかに小林久夫先生の自己紹介も載っている。
私の小学校・中学・高校を通じてずっと一緒だった友人が二十人近くいる。妻の貞子も一緒だし、前中国大使だった谷野作太郎もそうである。彼はその前は韓国大使、インド大使だった。大使といえばポーランド大使、ベルギー大使を歴任した兵藤長雄も中学・高校と一緒である。大学で彼らは文系、私は理系と別れてその後の道が違ったので、大学を出てから会うのは同期会くらいになっていた。
先々週、在瀋陽総領事館の小河内総領事から電話があって、谷野が瀋陽を訪ねてくることが知らされた。昨年の夏私たちが瀋陽に来るとき、中国関係では大先輩の谷野に敬意を表して訪ねたら、それじゃ瀋陽の総領事に紹介状を書こうと言うことになって、そのお陰で在瀋陽・小河内総領事の知遇を得ることになったのだった。
小河内総領事の話は、谷野が「総領事館を訪ねたあと山形たちと会えるかな」と言っていたので、「夕方会う時間があるでしょうか?」というもので、間に立って会う時間と場所をアレンジして下さった。
貞子と、晩ご飯は何処にしようか、総領事に勧められた老辺餃子館もいいけれどちょっと遠いしなどと話しながらタクシーで出掛けたのだった。指定の時間にホテルに着いてロビーでいざ会ってみると、谷野が顧問をしている会社の人たちが私たちも食事に招いて下さると言う話になっていた。それで、日本にいたら私たちの生活と交差することのないような企業の方達と会って、親しくお喋りをした一晩となった。
中国に進出している会社のトップとなると、私たちみたいに研究の世界しか知らない朴念仁を相手にしても、さすがに話をそらさない巧みさと心遣いを兼ね備えておられる。経済の話ではまるきり付いていけないが、私たちも教育の話となると関心が持てる。社長は技術畑出身だそうで「高校の時に物理が面白くて好きになったし、おまけに試験で100点取るのはわけないじゃない? 英語はいくら出来たって、満点取るのは至難の技でしょ?」と口火を切った。
これに大いに頷いたのは、中では貞子だけだった。彼女は数学と物理が得意で、東京大学大学院の入試に通ったのは、生物化学も英語も出来なかったけれど、この数学と物理が満点だったからという伝説の持ち主である。副社長は「いやア、高校の水球部の合宿があって授業には出られない、期末試験も受けられないというのが重なって、物理の成績はすれすれだったし、それで、理数科と無縁の学部に進もうと国際基督教大学を選んだんですよ。中学・高校で学科が好きになるか、嫌いになるかで、将来が決まってしまうんですよね」と受ける。
谷野は、「中学の時の英語の先生がとても良くて、それで英語が好きになって、結局、こんな(外交官の)道を選んだんだよ」なんて言っている。「おやっ、中学では同じ先生に英語を習ったんじゃない?どうして、僕たち、違っちゃったのだろう?」
私たちの中学の英語の先生は川島晶子といって、東京女子大を出たばかりの新任の先生だった。私たちが中学に入って英語の勉強をはじめたのは、戦後まだ4年も過ぎていない1949年4月のことである。彼女の話す英語は、そしてその発音は、実に見事なものだったと谷野は言う。
「川島先生は、その時も、その後もアメリカに行ったことはないんだけれど、あの時期にあの先生に習うことが出来て、本当に良かった」と谷野は続ける。そのお陰で彼は英語が好きになって、課外でも特に英語の勉強を始め、その積み重ねが外交官という道に彼を導いたというわけだ。一方、小松喬生という数学の、これも大学を出たばかりの新進気鋭の先生は、数学班というものを作ったりして、私たちに教科書をはるかに越えた高度な数学を教えていた。だから数学が大好きになったという貞子みたいな人もいれば、逆に谷野みたいに「あれで数学が大嫌いになっちゃったんだよ」ということにもなる。
私は自分のことをMiss Kawashimaと呼ばせた若い川島先生の輝く美貌が眩しかったし、あまりにも日本人離れした綺麗な発音は、真似するとなぜか恥ずかしかった。それで、ほかの悪童どもと一緒になってMissKawashimaを野次り、加藤茶のジス イズ ア ペン的な発音に終始してしまい、したがって、その他大勢組の一人として、決して英語が好きになることはなかった。
私はクラスの担任だった大湾政仁という先生から理科を教わった。内容はお粗末なものだったけれど、逆に疑問が次々沸いてきて、現象がどうして起こるかについて疑問を発してそれを実験と理論的な検証で解いていくという理科的な考えかたが好きになった。このあと東京大学教養学部の磯谷遥助教授の生物の講義に惚れ込んで、生物化学という道を選ぶことが決定づけられたが、英語は特に好きになることもなく、試験があるから勉強をするという程度のままだった。
私たちの進学した日比谷高校は、東大に合格する数がその当時は全国トップの高校だった。しかし、受験のための補習授業があるわけでもなく、通常の講義を聴く以外の学習は個人の自主性にまかされていた。
<日比谷高校には意欲的な先生が多かったはずだが、英語の先生は「この名詞は冠詞としてaをとり、こっちの単語はtheという定冠詞をとる」というような本を出して得意になっていたくらいだから、そのお粗末さが分かろうというものである。おまけにもう歳で、発音はまさにジャパニーズイングリッシュそのものだった。
高校3年の時のクラスのホームルームでは、毎日誰かが何でも良いから、何かの話か芸をすることになっていた。大体は、考えてきた話だった。がて谷野の日が来た。彼が壇上に出て言うには、「英語をしゃべる人が砂漠に行きました。水しかなくて食べ物がなかったのに、飢え死にしませんでした。なぜでしょう?」という謎々だった。
誰も答えられなかった。谷野は黒板にさらさらと答えを書いた。「Sand, which was there. (Sandwich was there.)」 同じ教室で私たちと同じ英語を教わっていた谷野は、その頃には教室の英語を相手にせず、「英語青年」を読み、ひとり遙かに進んだ「英語世界」にいたのだった。
私の専門は生物化学の研究、もっと細かく言うと糖質科学あるいは糖鎖生物学、さらに言うと細胞表面分子の分子生物学である。この世界は、専門のジャーナルに載る論文を読む、自分の研究を書いて発表する、学会で講演する、ことなしには成り立たないので、英語は日常的に必須な道具である。英語の能力無しにこの専門領域はやっていけない。しかし英語の能力だけでもやっていけない。若い頃は英語を書くのと読むだけで良かったけれど、ある年頃になると国際学会もあるし、留学もある。海外の同業者との議論も広がる。英語を話すこと、英語で議論することなしには済まされない。
私は32歳になったときにアメリカに留学した。しゃべれないことは自覚していたけれど、毎日が実験に明け暮れる生活で、英語で話すための勉強の時間がない。出発の前日にやっと休暇を取ってリンガフォンの78回転のレコードを丸一日聴いて、ともかくこれで良しとして出掛けたのだった。当時の国際空港は羽田だったが、羽田で飛行機に乗って座席に案内してくれた大柄なステュアデスが何か私に話しかけている。だけど、何のことか分からない。3回聞き直して、私の名前を聞いているのがやっと分かった位の英語力だった。
こんな具合だからシカゴ大学小児科のResearch Associateとはなったものの、ひとの話は聞いていて分からない、人と議論は出来ない、まるで小児か知恵遅れである。従って自分が馬鹿ではないということを示すには、研究で相手の納得する成果を挙げるしかないと言うことになる。というわけで、「日本人ポスドクはよく働く」という伝説通りに、週末の休みもなく、研究に従事することになった。
しかし、英語の能力を身に付けるためには英語を使うのが一番である。最初はシカゴ大学の外国人用の宿舎である国際会館に入ったけれど、それでは同じ宿舎にいる日本人と付き合うことになる。自分に英語力を付けるには日本語を話す環境に置いてはいけない、そう思って、直ぐに長期滞在用のホテルに移って、自分をいっさい日本語を話す事から遠ざけた。
このようにシカゴに2年一寸いた間、日本人コミュニティには全く近づかなかったけれど、逆に日本人と全く付き合わないおかしな奴として、私は日本人コミュニティの中で有名人になっていたそうだ。
シカゴ大学の研究室では毎日が緊張の連続だったけれど、それでも大学院の学生のEd、Joy、Fred達が面倒を見てくれて仲良くなり、3ヶ月位経つと先方の言っていることも分かるし話が通じるようになって、英語が上達したような気がしたものだ。しかし、街に行くと話が通じない。つまり、研究室の皆が私の言うことに慣れて、先方が分かるようになっただけだった。
シカゴ大学の研究室で過ごした2年間の間に、それでも、もちろん英語で話す力がかなり身に付いた。電話で議論を始めると行き詰まるが、対面しての議論ならば負けないという位にである。といっても、あと1年いればさらに二倍上手くなり、2年いればさらに四倍向上すること間違いなしという程度の発展途上だった。
私たちの職業では一連の研究がまとまると英文で論文を書くことになる。それをサーキュレーションのよい一流の国際誌に投稿する。どのジャーナルにも厳しいレフェリーがいる。この審査の目を通らなくてはならない。いくら内容が良くても、日本人の英語というだけで色眼鏡をもって審査されるという話を、そのころは特によく聞いたものだ。内容に自信があっても、英語がまずくて撥ねられたら口惜しい。だからたいていはネイティブの校閲(English editing)を受けて論文を出してきた。
時にはアメリカ人の友人に見て貰ったこともあるけれど、大体はプロの校閲者に頼ることが多かった。よく校閲を頼んだのは大学で化学を専攻したアメリカ人だった。彼は英文の校閲はしてくれるけれど、なぜそこを直すのか、こちらの表現を使うとどうなるかなどと言う質問は、初めはいっさい受け付けない人だった。しかし何度も校閲を頼むうちに親しくなって、英文校閲を受けるときに、言葉の使い方の微妙な違いまで教えてくれるようになった。だから、私は英語で論文を書くことについては、やがて少しは自信を持つようになる。
良い研究として認められるようになると、国際学会で招かれて講演をすることにもなる。海外の同業者と研究上のやりとりや議論も日常的なことになってくる。話す内容があれば英語はいくらでも話せるものだ。逆に言うと、話したい内容がなくては、いくら会話法を勉強してもあまり役立たないのではないかと私は思う。幸い文法は大学受験のために高校でしっかり勉強していたから、英語の文章を作って話すことはあまり問題でなかったけれど、問題は発音だった。
英語の発音には多くの日本人が泣かされ、挫折を味わってきているはずだ。これについての私見を次回に述べよう。
1931年満州事変(中国では単に九一八と呼ばれる)を引き起こして中国への侵略戦争を始めた日本は、やがて英米を敵国として戦うことになった。アメリカでは敵国の日本を知るために日本語教育を重点化し、日本語の分かる兵隊を増強したが、一方の日本は、鬼畜米英の敵性語として英語の勉強、使用を禁じた。こんな狭量な態度では、初めから負けが決まっていたようなものだ。
第二次大戦で日本が負けて、1946年以降は英語が必要な学科として再登場した。しかし英語が敵性語として排斥されている中で教育を受けて先生になった人たちに、英語の正しい発音が教えられるわけがない。
テープレコーダーが実用的になったのは昭和三十年代の後半からなので、私たちの学校時代は、英語に触れるのは先生の生の発音しかなかった。谷野作太郎に言われて思い返してみれば、中学の時の川島晶子先生は、おそらく唯一の例外だったのだろう。彼女に比べて、その後の高校、大学の先生は、まったく英語の発音がインチキだったが、私はそのインチキ発音を身につけてアメリカに留学したのだった。
したがって、シカゴ時代に私はそれまでの英語を全てご破算にして新しく勉強することになった。アメリカ人と結婚していたMasakoという日本人が大学のスタッフにいて、とても良く面倒を見てくれたけれど、それでも息抜き以外は英語で話をしていた。ボスがスエーデン人なので彼のスエーデン訛りの英語、ポスドクのスコッティシュ訛りの強い英語、シカゴが本場の中西部の英語、ラボの試験管洗いの黒人英語、など様々の英語に毎日さらされた。
2年経って日本に帰る前、私は自分の英語はスエーデン訛りの入った中西部の英語だと得意になっていて、人にどうだねと訊くと、いや、オマエの英語はJapanese-flavored Englishそのものだと言われてしょげていたのだから、とんだ自惚れというか、ご愛敬である。
帰国して以降は英語で講演する機会も増えてきた。アメリカで暮らしたのだからという気負いもあって、自分の英語の発音を特に気にするようになった。そうかといって、まったく自分の領域に関係のない英会話のテープは聴く気がしない。一番実質的だったのは、国際学会の時に英米の同業者の講演を聴きながら、自分で使っている発音とは違って発音される言葉があるとそれをメモすることだった。それを後で調べることで、自分の間違いに気付き、自分で自分の発音を直していった。
こうやって発音を気にして英語の講演を聴いているうちに、それまで何処でも教えてくれなかった発音の秘密というか、自分の発音が決定的に劣っている原因を見つけた。
例を挙げよう。たとえば、investigate(調査する)でも、或いはillustrate(イラストを付ける)でもよいが、アクセントのある音節を括弧で囲むとin(ves)tigateであり、(il)lustrateである。
それぞれが名詞になって音節が増えると、アクセントは後ろに移ることはよく知られている。前者はinvesti(ga)tionであり、後者はillust(ra)tionである。どうか発音してみて下さい。
動詞が変化してingのついた進行形になったり、edのついた過去形になると、音節が増える。発音はどうだろうか。investigating、とinvestigatedや、あるいはillustratingとillustratedを先ず発音してみて下さい。
どうでしょう、アクセントを後ろに持ってきて発音していませんか?名詞になって音節が増えるとアクセントが後ろに移行するように、このときもアクセントを後ろに引きずる人が多い。
正しくは、in(ves)tigateの時は、in(ves)tigated、 in(ves)tigatingであり、(il)lustrateの時は、(i)llustrated、(i)llustratingであって、動詞の形が変化しても、動詞の原形の時のアクセントの位置が決して変わることはない。
お分かりでしょうか。正しいアクセントの位置で発音できた人は、この先を読まなくて結構ですが、これを私は、自分で発見したのです。今まで見たどの本にも書いてないし、誰からも教わっていないし、誰からも聞いたこともない。
恐らく英語国民には当たり前すぎて、言うまでもないことなのだろう。正しい発音のテープ(今ならCD)を聞いて勉強したのなら、日本人でも自然に身に付いているだろう。ところが、日本の英語の教師はこの法則(というほどのことはないかも知れないが、私にとっては「発音の原則」といいたいほどの大発見である)を知らないし、教えないものだから、私が講演を聴いた日本人のほとんどは、アクセントを前に持つ多音節動詞では、それが進行形や過去形となるとアクセント を後ろに持っていく。
嘘だと思ったら国際会議で日本人の英語を聞いてご覧なさい。ジャパニーズの発音に加えて、ここが違っていることが多いので、日本人の英語は決定的に聞き苦しい。ちなみにドイツ人はドイツ訛りの英語だし、フランス人は鼻に掛かったフランス訛りの英語だけれど、この動詞の変化形のアクセントの位置は英米語が母国語である人と決して変わらない。
アメリカ人のように複雑な母音の発音ができないから、私の英語は依然として日本人の英語である。しかし、それにもかかわらず私の英語は日本人離れしていると英米人からよく言われる。おそらく、単語のアクセントの位置と文章のイントネーションが間違っていないので、言ってみればドイツ人のドイツ訛りの英語のように、「立派な日本訛り」の英語として受け入れられているのだと思う。
谷野作太郎大使や、兵藤長雄大使は当然のこと英語が得意で、私など足元にも及ばない。しかし、学生時代に彼らに比べて英語が決して得意ではなかった私も、必要となると独学でここまで英語ができるようになる。谷野の例で分かるように「好きならば身に付く」のも真だが、「必要があれば身に付く」というのも真であろう。
動詞がingのついた進行形やedのついた過去形(過去分詞)に変わっても、動詞の元々のアクセントの位置は決して動かないという前回述べた原則を、もう少し例を挙げて述べよう。多音節動詞で、アクセントが最初、あるいは二番目にあるときが間違えやすい。
動詞が一音節では間違えようがない。
(judge)(vt. 判断する)、名詞は(judg)mentで、同じところにアクセントがある。動詞が変化したときも、同しだ。(judg)ing、(judg)edで、間違えることはない。
二音節でも後ろの音節にアクセントがあるときは、問題ない。
con(fuse)(vt.混乱する)、名詞も同じところにアクセントがある。con(fu)sion。動詞が変化したときも、アクセントは同じところにある。con(fus)ing、con(fus)ed
二音節の動詞でも、最初にアクセントがあるものは、要注意である。
(des)tine(vt. 運命づける)、動詞が変化しても、アクセントは決して動かないが、後ろに持っていきたくなるのが日本人(中国人でも同じ)である。過去・過去分詞は(des)tined。destiningという現在形は見たことがないけれど、同じく位置は変わらないはずだ。
問題は三音節以上である。特に三音節でアクセントが最初にあるときは危ない。
(reg)ulate(vt. 支配する)が名詞になると、regu(la)tion (n.規則)のようにアクセントが後ろに動く。最初にアクセントのある動詞は、名詞になると必ずアクセントが一つ後ろに行く。これがくせ者なのだ。これが頭に入っているので、形容詞や「動作する人」も、アクセントが後ろに行くと思いがちだが、(re)gulatory(adj. 調整する)や、(re)gulator (n.取締官、調整器)で見るように、動詞のアクセントの位置のままである。動詞の変化した形である(reg)ulating、(reg)ulatedも、動詞の原形と同じところにアクセントがあって、決して変わることはない。
最初の音節にアクセントがある三音節の動詞の同じ例を挙げよう。
(in)cubate、(es)timateなど。
ただし、illustrate (vt. イラストを付ける)は形容詞のところで、ちょっと変則的である。(il)lustrateの名詞は、illus(tra)tionとなるが、動詞が変化しても、(il)lustrating、(il)lustrated、のようにアクセントの位置は原型と変わらない。ただし、「動作をする人」である(il)lustrator(n. イラストレーター)は、動詞のアクセントと変わらないが、形容詞のillustrative (adj. 説明的な)になると、英語米語とも(il)lustrative、il(lus)trativeの二つの発音のどちらでも良く、むしろ後者が多い。
三音節でも二つ目にアクセントのあるものは間違いようがない。たとえば、de(ter)mine (n. 定量する)。名詞はdetermi(na)tionで三音節目に移る。しかし、形容詞de(ter)minativeや「動作をするもの」 de(ter)miner は動詞の時とアクセントは変わらないし、動詞の変化した形でも決して変わらない。de(ter)mining、de(ter)mined。
四音節のとき、最初にアクセントがある動詞と、二つ目にアクセントがある動詞は、先ほどの例と同じで、アクセントを後ろに移してしまって間違える人が多い。
(char)acterize(vt. 性質を記述する)。名詞は(cha)racter (n. 特徴)もあるが、characteri(za)tion (n. 定性)と形容詞character(is)tic(adj. 特徴的な)ではアクセントは後ろに移る。だから、動詞が変化すると危ない。よく間違える人がいる。正しくは、(char)acterizing、(char)acterized。
別の例題。
(li)teralize、 liter(al)ity、 (li)terally、 (li)teralizing、 (li)teralized。
二番目の音節にアクセントのある例として、acc(cel)erate (vt. 速度を速める)、が名詞になると、アクセントは後ろに移行する。acceler(a)tion (n. 加速、加速度)。しかし、形容詞と、「動作をするもの」のアクセントは動詞と変わらない。acc(cel)erative(adj. 促進的な)、acc(cel)erator (n. 自動車のアクセル)。動詞の変化した形は、もちろん動詞の原形のアクセントのままである。acc(cel)erating、acc(cel)erated。
ほかの例題。
in(ves)tigate(vt. 詳しく調査する、研究する)、investi(ga)tion (n. 調査、研究)、in(ves)tigative (adj. 調査の、研究の)、in(ves)tigator (n. 調査官)。in(ves)tigatingとin(ves)tigated。
con(grat)ulate、congratu(la)tion、con(grat)ulator、con(grat)ulatory、con(grat)ulating、con(grat)ulated。
as(so)ciate (vt.関係づける)、asso(ci)ation (n. 連合、提携、関連)、as(so)ciative (adj. 連合的な)、as(so)ciating、as(so)ciated。
五音節も四音節の動詞と同じで前にアクセントがあるときは間違えやすい。
de(te)riorate(vt. 質を低下させる)、deterio(rat)ion (n. 悪化、堕落)、de(te)riorative (adj. 堕落的な)、de(te)riorating、de(te)riorated。
五音節も後ろにアクセントがあれば間違えない。
compart(men)talize(vt. 区画を分ける)
以上、幾つかの例を挙げたが、動詞が現在形、過去形(過去分詞)となったときに動詞の原形の持つアクセントの位置が動くことは、私の知る限り、一切ない。
つまり動詞の現在形の発音を、しかもアクセントの位置を、しっかり覚えることだ。つまり私の見つけた法則は「動詞が現在形、過去形(過去分詞)となったときに動詞の原形の持つアクセントの位置は決して動かない。」
この原則を知っていると、あなたの英語の発音は格段に聴き好くなるのですよ。
新会員の丸山先生の自己紹介も加わりました。
多田先生から掲示板に「コーヒー豆もコーヒー器具も瀋陽で買えますよ」という投稿があった。全文は、「瀋陽暮らしの智慧 スーパー・買い物情報」に載っている。このホームページに載っている情報を皆さん利用して下さい。
9月に開かれた歓迎会の時の写真をYahooのアルバムに公開してリンクした。支障がなければ今後の写真は、この方式で公開するようにしたい。今回のアルバム名は「歓迎会20040911」である。
2004年度の新学期が始まったと思うと、10月1日の国慶節の休暇が始まる。
28日は中秋節で、中国で派家族が全員集まってお祝いをする日となっている。薛蓮さんからmailがあった。可哀想に、日本にいて、中秋節を忘れていたという。
日本では昔から中秋の名月を愛でるけれど、今ではたいていその翌日の新聞に満月の写真が載ることで前の日が名月の日だと知る位だと思う。もう決して確固たる習慣ではなくなったと思われる。私の子供の時でも、里芋の衣かつぎを満月の日に食べたこと位で、月見団子とすすきというのは新聞の写真で見る世界であった。それが、中国では大違いである。
中秋の名月は旧暦8月15日で、今年は9月28日だった。その夜の9時頃が月が一番丸くなって綺麗に見えることを、ここの学生皆が知っているくらい関心が高い。この日は中秋節という特別な日で、月が満ちて丸くなった日に家族が一人も欠けずに集まり、その「団円」を象徴する月餅を食べる日なのである。団円とは「丸いこと、円満であること、また、そのさま」だと辞書に書いてある。家族が欠けずに集まることが満ち欠けのある月の満月に象徴されているのだろう。
ついでながら、昔の小説の最終章は「大団円」というタイトルであることが多かったような気がする。改めて大団円を調べてみると「演劇や小説などの最後の場面。すべてがめでたく収まる結末についていう」と辞書に書いてあって、「大団円を迎える」という言葉の由来が、中秋の名月、丸い満月、さらには月餅の由来と一であることを知った。
新宿中村屋の月餅は子供の時からなじんでいて、餡に油が入っているところが和菓子と違っていたけれど、それでも何時でも買えたから月餅は特別な存在ではなかった。横浜の中華街に出掛けると様々な中華菓子が売られている。時には中華街に出掛けて食事をし、満腹したあとしばらくぶらついて菓子を売る店で一際大きくて高価な月餅を買って帰るのが何時も楽しみだった。つまり、日本では月餅は何時でも買えるので、中秋の名月に結びついた特別なものとは思いもしなかった。
中国に来て初めて月餅が中秋節に家族団円を祝って食べられるものと知ったけれど、もう一つ驚いたのは、当然のことかも知れないけれど月餅はこの時期に限って売られていて、普段は何処にもないことである。逆に、夏になると街には「どこどこの月餅」というポスターが至る所に張り出される。好利来という菓子屋のチェーン店もこの時期には店の売り場の半分を月餅が占めるようになる。カラフールのように大きなスーパーでも月餅売り場が特別な場所を占めて作られる。中秋節間近になると、この売り場面積が更に広がり、大量の月餅を前にして中国服を着た綺麗なおねえさんたちが大勢並んで愛嬌を振りまいている。うちで中秋節の日に月餅を食べるだけなのに、どうしてこんなに沢山の月餅を大々的に売り出しているのだろう?
もちろん贈答用である。ちょうど半月前に「教師節」があり、その頃から贈り物に月餅が盛んに使われていることを今年知った。この頃では中国の菓子もしっかり個別に包装されて中には脱酸素剤が入っているので長持ちする。つまり早くから作ってその時期に大量に店頭に出せるようになったわけだ。
ちょうどこの中秋節の日の夜は研究室のProgress Reportの予定があって、学生は食事を済ませてから6時半に全員が集まった。関さんが発表者だ。いつものようにPCプロジェクターと皆に配ったまとめを使って英語で発表が進む。
彼女は転移性の高いがん細胞と、転移性の低いがん細胞を使って研究をすすめている。細胞内のシグナル伝達のある特定の分子に注目すると、転移性の低い細胞ではその量が二倍に増えていることを見つけたという内容だった。敢さんは身体は小さいけれどエネルギーのかたまりで,ばりばりとまるで音をてるように元気よく動き回る人である。話しの進め方も元気がよい。これは関さんが博士課程の学生ながら、同時にこの大学で薬理学を教えるteacherのひとりであることも関係していると思う。
Progress Reportが済んでから、中秋節のお祝いとなった。学生は遠く家族の下を離れているから、この研究室でみな一緒に集まって疑似家族の集まりのお祝いということになる。
私たちも頂き物の月餅と、この日の夜は餃子を食べるからと言うことでこれも戴いた沢山の餃子、それに買い求めたおかずや、ハミ瓜をこの日のために用意しておいた。ハミ瓜はラグビーボールを大きくしたようなメロンで、米国で食べるHoney dewと同じく大変美味である。
王麗さんは、早速その中にあった酸甘とろ味で味付けした豚の薄切り揚げ肉をひとり抱え込んで食べている。彼女はブタを愛でて、服にもブタの刺繍をして自分のことをブタだと言っているけれど、豚肉を食べるのも大好きらしい。
私たちの研究室の掲示板は、日本語版、英語版、中国語版と三つ作っている。中国語版の研究室の掲示板に、「今期から新しく加わった学生と、来期卒業研究で加わる学生に分子生物学の特別講義を開講する。毎週一回、時間は追って通知する」旨の掲示を王麗さんの助けを借りて、このパーティの直前に中国語で書いて掲示板に載せたところだった。となりに座っている王麗さんが私の膝をつついて、ここで皆にそれを中国語で言えという。書くのと話すとの間にはまだ落差がある。書く方がまだ簡単なのに、と思いつつ、ともかく皆にアナウンスした。何しろ教授が話すのだから、みな一生懸命に理解しようと耳を傾ける。気の毒なことだ。
私たちに中国語を教えている胡くんが「すごい、老師の中国語が進歩した」というと、「また、お世辞を言って」と皆が水を差す。中国語でお世辞を言うとは「拍馬尻」で、文字通りには「馬の尻を叩く」である。お世辞を言われるたびに、「私は馬か」と私は尻をなでる癖が付いている。
ここで王麗さんは胡くんに「あれは、ほとんど私が教えたのよ」と、誉められている老師を立てるところなく、内情をばらしてしまった。彼女はぜんぜん遠慮がない。胡くんは「なんだ、私は馬じゃなくてブタの尻を叩いてしまいましたね」といったので、皆で大笑いとなった。
食べながら中国語、英語、日本語がチャンポンに飛び交う。窓の外に視線を移すと、丁度真円になった月が私たちの団欒を祝福するように輝いていた。
9月30日雨の夕方、西塔近くの韓国料理屋でホームページ係の初顔合わせがあった。係の児崎、鳴海、山形の三人の他にオブザーバーが二人。
そこで討議された企画の一つが、日本語教育関係の書籍リストを、ホームページに載せようというものだった。1日に資料室で児崎先生が書籍リストと、インターネットで調べられる日本語教育関係サイトを作成して下さったので、それをこのホームページに新しく「日本語教育関連資料」としてアップロードした。
高野悦子さんの書いた「黒竜江の旅」という本は、戦前中国の東北地方(満州)進出の尖兵だった満鉄の鉄道敷設の技術者であった亡き父親の跡をたどる本である。その中に、戦前中国東北部の各地で女学校までを過ごした著者が、瀋陽に敷設された水道を「瀋陽ビール」と言いつつ飲んでそのおいしさを愛でた描写があった。
これを読んだ瞬間、瀋陽市の真ん中にそびえているテレビ塔に大きく書かれている「雪花ビール」が思い浮かんだ。これは戦前キリンビールが作った工場施設が「雪花ビール」になったものだと聞いている。中国は青島ビール位しか全国ビールというものはなく、他には各地にご当地ビールがあって旅行者に楽しみを提供している。「雪花ビール」は瀋陽一の美味しいビールであるが、このあたりでは冷やしていないのが普通で、特に言わない限り冷たいビール持って来てくれない。
瀋陽のおいしい水が高野悦子さんの思い出となってから幾星霜を経た今では、ここ瀋陽の水道は全く信用されていない。水圧は低く、断水は始終。汲むと真水とはとても思えない。もちろん、誰もこの水を飲んでいない。したがって、飲み水は大きな20リットル入りのプラスチックの容器に入れて売られている。このごろ、東京でも見かけるようになったあれである。
<水の入ったボトルは重いから、水を売って運ぶのは専門の業者である。電話で注文を受けると、荷台の両側に一つずつ水のボトルを積めるようにした自転車に乗って運んでくる。これは、アパートで注文しても、大学の研究室で注文しても同じである。部屋まで持って入ってきて、下方に温水、冷水の蛇口が突き出ている専用台にボトルを逆さにして置いてくれる。
アパートの方に水を注文するのは妻が早くから挑戦して、もちろん中国語で注文している。大学ではいつも研究室の学生に頼んで注文して貰っていたけれど、叱咤激励、愛の厳しい鞭を持った王麗さんが、とうとう私に注文するよう追い込んだ。ボトルの中の水がもうほとんどないと見ると、ともかくさっさと電話を掛けて、先方の出る前に私の手に受話器を押しつけるのである。さすが最初は白板に相手に言うべきことを即座に書いてくれたが、その時それで旨くいったので、それ以来そのような指導なしで、私に電話を掛けさせる。
「水がないよ。電話して」と王麗さん。「はい」とおとなしく受話器をとる私。
「もしもし。私、山形。山形研究室。。。水、水、水がいる。。。新実験棟、5階、517号室。。。わかった?」
日本語に直して書くと、上記のような具合である。すると、「明白了(わかった)」という返事が返ってきて、受話器を置きながらどっと汗が噴き出す。王麗さんは「すごい、すごい」といって誉めてくれるけれど、「これで分かった相手が凄い」と思う。王麗さんも「本当は相手が偉いよ」という。ことによると、あらかじめ王麗さんが水屋さんに「後でおかしな注文の電話が行くからね」と電話しているんじゃないだろうか?
ともかく相変わらずの片言も良いところで、どうして分かるのか不思議だが、水屋さんにしてみれば訳の分からないおかしな電話はあそこから掛かるのだと思い当たりさえすれば「明白了」と言えるわけだ。本当に通じているのかどうか、今度、大学の水を妻が注文し、うちの水を私が注文して試したらいいのではないかと思っている。しかし、大学で電話して水がうちに運ばれても困るし、うちにいて水が大学に配達されも困るので、これはまだ見合わせている。
人口に対する中国の水の量は日本に比べて決定的に足りない。足りない水を各地で農業用水、生活用水、工業用水に奪い合うことになるから、黄河を流れる水が途中でなくなるということが1年365 日のうち3分の1以上の150日も記録されたことがあるという。とうぜん水質も悪い。うちに来る水はどこかの泉から汲んできていると謳っているけれど、煮沸すれば白い沈殿が出来るし、お茶を煎れて飲み残しを一晩おいておくと、色は濃い褐色に変わり、表面には膜が浮いている。
化学的には綺麗な水(純水)とは言い難いけれど、生物学的に綺麗な水ならまあいいさ、我慢するかと思っている。ただし、化学的にどのようなものが含まれているか実のところは心配である。体内に蓄積されて細胞や中枢神経系に毒性を示すものがあるかも知れない。アルツハイマー病を促進したらもっと困る。せめて水屋さんを定期的に変えて水の産地を変えることで危険を分散したいけれど、大学にも出入りしているので、それも適わない。寿命の残りと、起こるかも知れない危険とのバランスを計り、今のところ「まあいいか」と高をくくることにしている。
今では日本でも飲み水がペットボトルで売られているが、もちろん中国でも同じである。500mlでブランドにより1元から5元の開きがある。高いものは通常3元の雪花ビールよりも高い。フランスでワインより水が高いというのと同じである。ビールを造る方が手間なのに、どうしてなのだろうといつも不思議に思いつつ、水を飲むなら水より安くて美味しい瀋陽の雪花ビールをと思ってしまう。
英語でともかく話が出来るようになるには、日常的な訓練しかない。英語を話す場面では、英語を日本語から作っていては間に合わない。頭が英語に切り替わっていないといけない。自分の経験からそれが身に沁みて分かっていたので、自分の研究室の人たちに英語で困らないように、英語で考えて日常的に話す訓練が必要だと思うようになっていた。
その頃私は三菱化学生命科学研究所(当時は三菱化成といったが)という民間研究所にいた。まだ古き良き時代で,民間の研究所と言っても大学の研究室の雰囲気と殆ど変わらない時代だった。したがって私が言い出せばまったく新しいことでも自分たちのやり方で研究室が運営出来たのである。それで20年前にフィンランドから客員研究員を招聘して、彼女が私の研究室に2年滞在したのを機会に、私の研究室では毎週のセミナーを英語で行うようになった。
研究室の研究員は全員が博士号を持っていたし、二人(一人は伊東信氏で、いまは九大教授。もう一人は東秀好氏で、いまは東北薬科大学教授となっている)はアメリカの留学経験もあったので、研究室のセミナーを英語でやることには誰もが異論なかった。セミナーで取り上げる対象は英語の論文だし、英語が研究生活に必要なのは私と同じ立場だったから当然である。研究員以外の研究補助員の人たちが問題だったけれど、あらかじめ日本語でセミナーの内容を要約して渡しておくなどの工夫がなされた。
研究員は英語の論文を日常読んでいるし、単語も、そして文法も知っているので英文で論文は曲がりなりにも書けるが、話すとなると全く話は別で、留学する頃の私と同じだった。だから、ともかく汗をかき、へどもどしながらセミナーで自分の言いたいことを英語で話すのは、最初は大変な苦労だったと思う。
それでも彼らの英語を直すことは、私は一切しなかった。英語という大きな丸い世界の中で、私の知っていて、そして使える英語はその中の小さな円に過ぎないことを知っていたからである。誰もが、英語で言えないところを自分で気付いて、自分で勉強するしかなかったが、やがて、それぞれが間違いも含めて癖のある英語にせよ、段々と英語で話せるようになったのである。
研究所で合計3回の公開シンポジウムを開いたときも英語を公用語にした。大抵は外国からの訪問教授を迎えたときに、首都圏の大学や研究所に呼びかけて英語のシンポジウムを開いていたけれど、ある時は外国人研究者がたった一人というときもあった。それでも、私の仲間の研究者たちは英語で話すことに何のてらいもためらいもなく、協力してくれたのであった。
その頃の私の研究室にいた研究員は誰もが今では世界一流の研究者となっている。国際学会で招待されて立派な英語で講演し、堂々と質問者と渡り合っているのを見るのは、私の至福の時である。
その後、東京工業大学に移った時は、海外から研究者が滞在しているときだけは英語でセミナーをやったけれど、大学院の学生の英語力があまりにも頼りなくて、日常的に英語を使って研究室のセミナーをやろうとは思わなかった。つまり、研究室で英語のセミナーをやると言っても、私が英語を教えるわけではないから、各自がそれなりの基礎的な英語力を持っていなくてはできるわけがない。
ところが二年目の秋にポーランドから女子留学生が来て研究室に修士1年生として加わった。その一年前に東工大に国際大学院というのが出来て、ここに入る学生は日本語能力不要、英語が出来ればよいと言うものだったから、Kasiaと呼ばれた彼女は日本語を全く知らずに日本に来たのである。英語しか通じない学生が一人増えても、私は他のほとんどの学生が英語の出来ないことを知っていたので、私は研究室のセミナーを英語にしようとは全く思っていなかった。後でKasiaひとりに説明すれば良い位に思っていた。
ところが、卒業研究生として私の研究室に来ていた武田くんが、何と自分の番の時に突然英語で話し出したのである。皆、唖然として声をのんだ。武田くんは、ポツリポツリと単語を並べている。発音も、構文も紛れもない日本人の英語だ。だけど、それまでの2週間、言葉のカーテンによって情報から疎外されていたKasiaにとっては、干天の慈雨の響きだったに違いない。
それがきっかけとなって、私たちの研究室のセミナーとプログレスレポート(業績報告)では英語が使われるようになった。私が学生に気兼ねして言い出せなかった障害を、彼らは自分でいとも軽々と越えて、ともかく曲がりなりにも自発的に英語を使い出したのだ。こころ優しい学生達だった。
それは今から10年前のことだった。そのあともずっと、そして今ここ中国の薬科大学に籍を移しても、私の研究室のセミナーとプログレスレポート(業績報告)は公式に英語を使ってやっている。もっとも今年度の研究室は日本語が話せる学生は二人だけで、後の五人は話せない。1年経っても私の中国語はチーパッパの程度から抜けていないので、研究室全員の共通公用語として英語を使わざるを得ない状況でもあるわけだ。
相変わらず私には英語は教えられないけれど、お互い英語で話そうとしてその時に上手く英語で表現できなければ、だれでも、あとで言えるように自分で勉強をする。英語で考えるから英語の力が付くし、日常的な訓練の場になるわけである。この薬科大学の学生は日本の学生よりも基礎的な英語の力がある上に修士課程の1年生の時に英語の授業があるので、学生の英語力の進歩には特に目を見張るものがある。
日本の大学院でも、英語が身に付くようカリキュラムを変えたらどうだろう?英語の授業というわけにはいかないだろうから、院生の所属している研究室で私のところみたいに、定期的なセミナーを英語でするのが実際的だと思う。今のままでは、日本の研究者の英語による発表能力は中国の人たちに大きく差を拡げられてしまうに違いない。
この数日間、ホームページにアクセスできなかった。
10月5日からYahooのgeocitiesが新しくなって、サーバーとアドレスを変更する必要が出来て、移行の手続きをしたところ、全く反応がなくなってしまった。それで新しいサイトに、手直しをしたホームページを新たにアップロードした。瀋陽情報のレストラン情報を、児崎先生が地区別に編集して下さったので、これを機に、瀋陽の地図を作成して、地図から情報が取れるようにした。
ただし最初に甘く見たのが失敗で、、この地図を作るのに、失敗も含めて12時間以上の時間をかけてしまった。
この先、教師会のホームページではコーナーがまだまだ増えるので、弁論大会の作品コーナーは、一つ下げて、弁論大会の項目から入るように手直しした。ともかく、大変な国慶節の連休だった。
9月30日に石井先生、多田先生が遼寧省政府から表彰されたと人づてに聞いて、それをご本人に確かめて「お知らせ」のニュースとして載せた。中国における長年の日本語教育への貢献が認められたものである。
中国共産党が全国の統一を果たして中華人民共和国建国宣言をしたのが1949年10月1日で、それ以来その日は国慶節という国家記念日になっている。この日から1週間はゴールデンウイークと呼ばれる国民総休暇の日である。
私たちはいつも通り大学に出掛ける生活をしていたけれど、大学の門のところで、毎朝外から大学に通ってくる多数の学生の群れに出合った。薬科大学の学生は構内の寮に全員住んでいるから、彼らは明らかに目的があってこの大学を訪ねてきている。訊くと、「大学院受験のための補習の授業のため」だという。この大学を会場にして、この大学の先生か誰かが、来年1月の大学院の院試の受験徹底対策をほどこしているらしい。
中国では大学だけでなく、大学院の入試も、全国一斉に統一問題で施行される。日本でも大学入試の一部は共通のセンター試験を使っているので、中国の大学入試が全国一律と聞いてもあまり驚かないが、さらに大学院の入試も全国一律の統一試験と聞くとびっくりする。
大学院の入試が全国一律の問題なので、大学で教わる教科の基準が全国的にしっかりと決まっていて、大学で教える内容はそれ以下ではいけないし、またそれ以上である必要はないということになる。学生も、その基準範囲の内容をしっかりと頭に詰め込みさえすれば大学院進学は大丈夫だし、それ以上のことに興味を持つ必要はない。
先学期から中国の薬科大学で講義をすることになって、参考のためにほかの人の講義を聞いてみて先ず驚いたのは、先生が教科書を棒読みしていることであった。教科書の内容を理解させるための工夫を特にしているようにも見えないし、教科書を越えて学問の面白さを話しているようには見えない。
私は生化学を教えていて、もちろん日本では教科書を使っていた。教科書は学生が背景として頼りにするものであって、私の講義はあくまでも生化学の面白さを学生に伝えることだと思って日本では講義をしてきた。私は中国でも、講義は私流を貫こうと考えた。
私たちの細胞の生命活動を支えている一番大切な分子であるタンパク質はアミノ酸から出来ている。知られているアミノ酸の種類は20種類よりも多いけれど、20種類が標準になっている。これは人が勝手に20種を標準として選んだのではなくて、遺伝子であるDNA分子にこの20種のアミノ酸に対応する暗号があるからである。言い換えると、遺伝子は他のアミノ酸をタンパク質に組み込むことを指令する暗号を持っていない。
しかし過去数十年の間に、もう一つ新たなアミノ酸をタンパク質に取り込ませる暗号がDNAに書かれていることが分かってきた。このアミノ酸は金属原子であるセレンを含むアミノ酸で、セレノシステインと呼ばれている。セレノシステインを含み、生体に必須の酵素があることも今では分かっている。
太平洋戦争の前、日本が中国の東北地方を占拠して満州国を作っていた頃、この地の克山地方を中心に心臓が弱って死ぬという奇妙な病気があり風土病として恐れられていた。その頃の満州医科大学の先生たちは鋭意その研究に努めたが原因も対策も分からなかった。
解放後の中国でも、その病因の解明に多くの努力が払われ、その地方で取れるトウモロコシを中心に食べ続けるとこの克山病に掛かり、別の地方で取れる大豆を食べることでこの病気が治ることが、やがてやっと分かってきた。
研究はさらに進められ、トウモロコシはセレンを殆ど含まないが、大豆はセレンを多く含む食品で、それが身体に必須の成分となることが分かった。一方、別の研究でセレンを分子の一部として含むセレノシステインというアミノ酸があることも、その後分かってきた。このセレノシステインを含む酵素は、セレンがないと機能できない。したがって、セレン欠乏により、酵素が働かず、細胞がおかしくなり、人体が機能できなくなって死に至るという図式が解明された。
この克山病の病態と病因解明に中心なって働いたのは于維漢(YuWeiHan)博士だった。まだ若い新進気鋭の学徒なのに下放政策で地方に飛ばされ、多いにくさったに違いないけれど、気を取り直して長年風土病として恐れられた病気にとりくみ、その原因を見つけ、多数の人命を救うことが出来た。
この話は新生中国の英雄物語だと思う。その克山にほど近い瀋陽の薬科大学で、生物化学を勉強している学生にこの話をすることほどふさわしいことはないと思って、話しをした。そして学生は大変興じて聞いてくれた。期末には試験があったので殆どは教科書に沿った問題を出したが、二つは私の話から問題を出した。
<一、尿素を作るときに必要なシトルリンというアミノ酸があるけれど、これが標準20種のアミノ酸に数えられていない理由を書きなさい
二、セレノアミノ酸について知っていることを書きなさい
最初の問題は60人中答えられた人はゼロ。シトルリンの構造は知っていても答えは皆的はずれであった。あとの問題はたった一人だけだった。その学生はセレノアミノ酸だけではなく、それを含む酵素のこと、克山病のことも、きちんと書いていた。
これで分かったことは、学生は教科書に書いてあることは丸暗記して頭に詰め込む。しかしそれ以外は全部切り捨てる。講義をする方も、だから余計な教授法を考えたりはしない、大学を出たばかりの若いteacherを多数擁立して教科書をひたすら読み聞かせる。これがここの大学の教育なのだ。若い大事な時期をひたすら教科書の暗記で過ごし、ものを考える訓練をしない学生が、将来どのような能力を発揮できるだろうか。
しかし一方で、アメリカの学会や、大学を訪ねたときに出合う、とても私など敵わない優秀な中国人ポスドクたちが多数いるのも事実だ。このギャップに悩んでしまう。この暗記教育でこれだけ優秀な研究者が育つのだろうか。人口から見れば中国には日本よりも10倍多い優秀な研究者がいて良い計算だから、大学の暗記教育で阻害されても一部がなおかつ結構な数の研究者となるのか、或いはこの教育でまったく影響を受けないのか、おおいに興味のあるところである。
なお于維漢(YuWeiHan)博士は現在80歳を超えてハルピン医科大学にご健在である。
10月16日の定例会で、ホームページ係から出した新しい企画ふたつが承認された。一つは「会員交流のページ」とでも名付ける欄で、会員、および旧会員が自分の意見、主張、相談、体験、旅行記、随筆、作品を公開できる場と位置づけている。
もうひとつは、日本語を学ぶ学生の書いた作文の投稿欄である。「日本語を学ぶ学生のコーナー」という名前になる予定である。
「会員交流のページ」の欄に先ずは、薬科大学の加藤正宏先生から瀋陽の歴史に埋もれた史跡探訪の記事が寄せられた。しばらく続きそうなのでこれは「加藤正宏の瀋陽の史跡探訪」と名付けて、後でジャンル別の分類をどうするかで悩む必要がないようにした。
定例会で、今期から加わったばかりの谷口真美先生が10月10日に突然帰国されたと報告された。全く思いがけない帰国命令だったのだと思う。谷口先生お疲れ様でした。
今期新人の岡沢成俊先生が10月の定例会からHP係に加わった。PCに強い先生のようである。
昨夜、書記係の長澤先生から16日の定例会の議事録が届いた。これを収録した。
フィンランドの北にあるラップランド地方にはトナカイを飼う人たちがいる。北に旅行するときには、彼らと親しくなっても「一体トナカイを何頭飼っているのですか」と訊くのは禁句であると教えられる。聞きたくなるのは当然のような気がするけれど、それは、日本では「あなたは銀行預金が一体いくらありますか」と訊くのと同じ位失礼なことだと言われると、私たちもなるほどと納得する。
中国では全く事情が違うということは、来る前から聞かされていた。ちょっと親しくなると、「家族は何人いる?」から始まって「給料をいくら貰っている?」と訊かれるそうだ。
こちらも同じ質問をしないと「水くさい、お高くとまっている」ということになって、親しくなれないから、同じように根ほり葉ほり相手のことを訊かなくてはいけないという。ついには、それこそ互いのへそのゴミの数まで知り合う中になって、はじめて老朋友(親友のこと)となるのだということだった。
日本の社会ではよほど親しくない限り家族のことだって他人に話すことはない。だから日本から来ると、この手のことは苦手である。「家族は何人?」くらいなら良いけれど、「給料はいくら?」と聞かれたらどうしよう。答えなければ失礼だろうし、答えても、予想されているよりも給料が高ければ申し訳ないし、低ければ愚かだと思われるかも知れないし、どうしたらよいだろう。
貰う給料まで知られてしまう社会では、まるで自分のプライバシーがないではないか。このように思って、中国で来る前は大いに悩んだものだけれど、いざ暮らしてみると、中国人の誰からも「給料はいくらですか?」と聞かれたことがない。つまり中国にもプライバシーはある。案ずるより「住む」が易しというわけだ。意外なことに、その質問を私にしたのは瀋陽に来て日本語教師をしている日本人だった。
しかし、やがてこのプライバシーについては、日本と中国ではどうも感じ方が違うらしいということが段々分かってきた。たとえば、大学院博士課程の試験を受けた人のことを以前ここに書いたことがある。彼は瀋陽にやってきて大学の用意した筆記試験を3科目受けてから、私の面接を受けたのだった。「試験の結果はいずれ分かりますから、いずれまた」と彼は面接のあとで言うし、こちらも、当然そうだろうと思って、同じことを言って別れたのだった。
【写真は薬科大学キャンパスの銀杏並木 2004/10/24】
約1ヶ月の後、研究室の学生が「この間の博士の受験者の成績が出ていますよ」といって、大学のinternetを立ち上げて見せてくれた。そこには、受験者の名前と各自の成績が、つまり科目ごとの点数がはっきりと書かれている。驚いて「これは非公開の大学の中だけの閉鎖回路なのですか?」と訊いたら、「いえ、これは全国どこからもaccess出来ます」と言うことだった。
その数週間あと、また学生が「この間の受験者は合格していました」といって、大学のinternetの画面を見せてくれた。そこには専攻科ごとに、合格者が上位から成績順に、しかも成績の詳細とともに書いてある。彼はちゃんと合格していたのだった。私は「面接で彼は合格点です」という採点票を当局に送っただけの関与で、最終結果は知らされていない。
大学受験者の成績が本人だけではなく、知りたければ全国(と言うことは世界中)の誰でも見ることが出来る仕組みになっていたのだった。これは驚きである。日本人の感覚からすると、合格しているなら自分の成績を公開されても反対はないかも知れない。しかし、今では日本でも望めば本人には成績を知らせるところも出てきたけれど、合格しなかった場合には本質的には非公開である。不特定多数の人が成績を知ることはないし、そこの試験を受けて落ちたことも公開されない。
プライバシーを守るというのは、自分の失敗・挫折・恥辱を他人には曝さずに生きていけることである。入試を受けたことも入学試験の点数も合否も公開されてしまうなら、日本で聞いていたように中国には日本式のプライバシーはないといえよう。ただし、このやりかたならば、日本で始終見られる議員の学歴詐称問題は起こらないだろう。
それなら、どうして誰でも興味を持ちそうな私の給料が聞かれたことがないのか?ひょっとするとそれは秘密でも何でもなく、実はどこかに公開されていてすべてのひとが知っているからではないだろうか?
一言誰かに訊けば確かめられることだけれど、返事を聞くのが怖くてまだ訊く勇気がでてこない。
10月の定例会で、ホームページ係から出した新しい企画である「日本語を学ぶ学生のコーナー」に、遼寧大学の渡辺文江先生から早速投稿があった。これは日本語を学ぶ学生の書いた作文の投稿欄で、指導する先生のコメント付きで載せることになっている。今回の学生は日本語勉強し始めてわずか1年の学生だった。
しゃぶしゃぶの華府肥牛(和平北大街と十緯路の交差点 馬路湾の北側)、火鍋屋さんの陳火鍋(北行長江街の碧塘公園正門)、フランス料理の伯爵西餐 Count Restaurant and Bar(一部:和平区南大街21号、二部:和平区13緯路15号(領事館近く)がレストラン紹介に加わりました。
旧暦は日本では過去のものとなっているけれど、ここ中国では現実の生活に息づいている。旧暦は農暦と言われているみたいで、中国の最大の祝いは農暦にしたがう一年の始まりの元旦である。元旦は春節と呼ばれて、その時期には休日が1週間ある。実際にはその前後を挟んで数週間の休暇となって、遠くに遊学している学生は故郷に帰り、出稼ぎの人も仕事をやめて家庭を目指す。
日本では旧暦の祝日は新暦に読み替えて祝うけれど、中国ではそんなことをしないから、日本の1月1日は中国では至極そっけなく扱われる。つまり何ごともない。そのぐらいだから個人の誕生日も、新暦ではなく旧暦で祝われている。研究室の男子学生は自分の誕生日だからといって大騒ぎしないけれど、研究室の王麗さんは日本の女子学生並みの賑やかさで騒ぎまくる。
そのために彼女の誕生日の祝いが3回あることを知った。誕生日を聞くと自分の誕生日を旧暦で答える。王麗さんの場合には旧暦9月1日生まれだそうである。生まれた年の旧暦9月1日は新暦で言うと10月21日だったそうで、従って彼女の誕生日は新暦では10月21日として届けられていると聞いた。一方で今年の旧暦の9月1日は新暦の10月14日になるから彼女の今年の誕生日は10月14日である。彼女にとって本命の誕生日はこの日で、恋人の馬さんに祝ってもらうのはこの日である。
王麗さんの履歴書の上の誕生日になる21日は恋人の馬さんが実験に忙しく、相手にされない王麗さんをたまたま食事に誘うことになった。研究室の胡丹くんも一緒に食事に誘った。研究室にいる学生の中で特定の学生だけを食事に連れて行くなどとんでもない話で、日本でも、中国でもしたことがないが、今回はわけが あった。
9月から薬科大学を訪問して有機化学の講義をしていた日本人の貴志先生が講演に使うプレゼンテーションをMacで作って持ってきたところ、教室にあるWindowsのPCと相性が悪くて字化けしてしまう。それを私のオフィスで、王麗さんが何度か直してあげた。胡くんは貴志先生の講義のときに使うプリントの不完全なところを、半日かかって中国語で打ち込んであげた。貴志先生が日本に帰るという前夜、別れの宴を先生と張り、彼を助けたうちの学生たちにも私が感謝するために一緒に食事に誘い、それがたまたま王麗さんの誕生日というわけだった。
薬科大学の周りにはたくさん飲食店があるけれど、お世辞にもきれいとはいい難い。この手の店に入ると、まずは汚れたコップがでてくる。それをどう扱うかということは、今まで一緒に行った学生さんたちから教わった。まず少量のお茶を入れてコップをくるくる回しながら器壁をよく洗って、それを捨ててからお茶を入れるのである。その洗い方で落ちないくらいの汚れなら、汚れが目に見えて残っていても、その後のお茶でも溶けないはずだから気にしなくてよいというわけである。
同じアパートに住んでいる中国人の教授の先生たちに「このあたりの店ではどこがおいしいですかねえ」と聞くと、たいていは「知らない」という素っ気ない返事が返ってくる。こんな店のことを聞くなんて失礼だということらしい。まさかそのような店に貴志先生を連れて行くわけにはいかない。
3ヶ月前にフランスのスーパーであるカルフールが大学から1ブロック離れたところに大きな店を作ったが、道を隔ててその向かいに「新洪記」というレストランがその数ヶ月前に開店している。このあたりが一帯の中心になると見越したのだろう。このあたりでは、一番おいしい店なので、そこを目指して広い歩道を歩く。 薬科大学の隣には大きな陸軍病院がある。いうまでもなく中国は中国共産党の軍隊が国民党に勝つことでできた国である。したがって共産党と陸軍は中国の中心であり、この病院を知っている人は、大変設備のよい病院であるといっている。私たちが大学から帰るときは陸軍病院を見ながら歩くけれど、この歩道には「住宿単間」と書いたプラカードを持って人が沢山立っている。入院する患者の家族のための宿を貸す客引きのようだ。
この「住宿単間」の宣伝をしている人たちが、病院よりもどちらかというと大学に近いところに立っていることが気になっていたし、夕方だけではなく午前中から客引きをしているのが不思議である。それで「住宿単間」を持って立っているおばさんの横を歩きながら胡くんにきくと、照れくさそうに「あは恋人たち二人のためですよ」という。そして「薬科大学の近くにあのようなものがたくさんあるので、テレビが一度取材に来たということです。とても恥ずかしいことです」と続ける。
なるほど。おおっぴらに手を組んで歩いている恋人達は何もプラトニックな関係ではないわけだ。7元だというから、日本円にして100円に当たる。学生食堂の二人の昼ご飯並みだから、大して高くないわけで、切実な需要を当て込んで昼間自分のうちの部屋を貸す商売が流行るのだろう。
うちの研究室の恋人達はどうしているのかとは思うけれど、他人のプライバシーだ、訊くこともあるまいと思って、これで頭に浮かんだ「アパートの鍵貸します」 というジャック・レモンとシャーリー・マックレーンが出演したビリー・ワイルダー監督の名画を懐かしく思い出しながら、彼らに語るうちに新洪記に着いた。
この店は客席の間隔が狭く、したがって店の面積の割に客が多いからうるさい店である。一般に中国人は声が大きいし、廻りが大声になれば誰でも余計に声を張り上げるので、店の中は騒音の渦である。丸いテーブルの向かいに座った妻の貞子の声も聞き取りにくい位だが、それでもここに来てしまうほどこの店の料理は美味しい。 5人でじゅん菜のスープも含め6品を堪能して時間を過ごし、満腹して家路に就いたが、帰り道で花屋の横を通った途端に「あっ、バラがある」と叫んで、妻が王麗さんに誕生日の花をプレゼントしようと言い出した。濃いピンクのバラが妻の目を惹いたらしい。「いくら?」と店の人に訊くと、1本2元だというが、青空市場で野菜を買うときの癖が出て「それは高い」と口に出てしまった。
すると店の人が1.5元にするという。こんなに直ぐに値下げするとは、1.5元でもまだ高いのだろうと思って「それでも高いよ」というと「そんなら、いくら?」と向こうが訊く。「5本買うから全部で5元にしない?」と言ったら、その通りになって、結局王麗さんにあげる誕生日祝いの花が半額で買えてしまった。しかし、本人の目の前である。いいんだろうか。こんなことは生まれて初めての経験だ。目の前で半額に値切って買ったバラの花を王麗さんに上げるのを見て、妻は非難の眼差しである。だけど見栄を張ったら儲かるのは店のおばさんだけじゃないか。「いいじゃん、今年三度目のお誕生日なんだから」と、思わず言ってしまう。
すると王麗さんは「私は馬さんからいつも誕生日に花を貰っているけれど、誕生日を三回も祝って貰ったのは初めてですから嬉しいですよ。おまけに、先生の交渉で花が二倍に増えたのだから嬉しい」と言いながら、5本のバラのかぼそい花束をニッコリと抱き締めた。
会員紹介欄で個人情報を公開しているが、その内容は個人の意思に従うことを確認し、会員のページを手直しした。
5月のことだった。「先生、今日こそ日本人のすばらしさをつくづく感じました。日本の会社はどこも対応が真面目で速くて、使う人の身になって誠意で処理するのですね」沈慧蓮さんがつくづくと言う。
講義が終わって実験室に戻ると、培養室で使っている機器を点検するため、北京から誰か人が来ていた。
実はその前の週、培養室の一番大事な機器である炭酸ガス培養器という動物細胞の培養に使う機器の具合が悪くなって、部品を交換したいと思い、日本の会社にmailを出したのだった。この機器は半年前に研究室を作るとき真っ先に注文を出して、日本から輸入・購入した機器である。
細胞培養のためにはこれに炭酸ガスボンベをつないで使うが、このボンベのバルブの先には減圧のためのレギュレーターが要る。炭酸ガスは減圧の時に冷えてレギュレーターが凍り付くのを防ぐために、日本で使うレギュレーターにはヒーターが入っている。念のために日本から一つ持ってきてきたけれど、ゲージが微妙に合わなくて使えず、瀋陽で中国のボンベに合うレギュレーターを探したが、とうとうヒーター付きのものは手に入らなかった。
<レギュレーターはつまみを右に回していくとバルブが開いてガスが流れる仕組みだが、このレギュレーターはねじが固くて、廻す加減がどうにも難しい。そのためかどうか、胡くんがボンベを取り替えるときに限って、圧力が高くなりすぎて培養器の中でガスのパイプが外れてしまう。
狭い培養室に沢山の機器が入れ子で入っているので、機器を動かさないと横のふたが開けられない。そのたびに力持ちを捜して右往左往するのである。私ひとりでも出来るけれど、何しろ大爺老師だから、彼らは私にやらせたがらない。大体は研究室の女子学生が彼女たちの恋人を呼び集めてくれる。張本人の胡くんは、培養器を引っ張り出して中のパイプをはめ直すときには、なぜか何時も不在だ。
このところ、この事故が相次いだので、機器の中のパイプの外れるところの先にあるフィルターが、ことによると詰まってしまったのではないか?ボンベの中の微細なゴミが入ったかも知れない。それで、そのフィルターを手に入れるために、日本の会社に連絡しよう。大学のオフィスからは電話をするのもFAXを打つのも面倒な手続きがいるので、e-mailが一番良い。
Internet で日本の会社のホームページを調べて、そこから修理受付のページを探して連絡を打ち込んだけれど、どうしてか機種名が画面から消えてしまい、送ることが出来ない。それで今度はカタログ請求のページに依頼を書いて、やっと送ったのがその前の週の土曜日だった。
この方法で果たして連絡が行ったかどうか心配して週末を過ごしたあとの月曜日、中国語の電話が掛かってきて、ちょうど傍にいた魯くんが電話を受けたら、北京にある日本の会社の代理店の人からだった。そして言うには「おそらくフィルターではなくレギュレーターのためだろう。ヒーターの付いたレギュレーターは、これこれしかじかのところで買えるから」というものだった。
この対応の早さに誰もが感心していたら、今度は水曜日には北京から実際に人がやってきて機器の点検をしたのだった。日本の会社から連絡が行ったのかと聞くと、そうだといって、耳に手を当てて電話で話す格好をする。そして機器には全く問題はなく、ボンベのレギュレーターを早く手に入れろと言って帰っていったあとが、沈さんの冒頭のせりふである。
画像解析装置のPCをformatし直したら訳が分からなくなって連絡したときも、分光光度計の使い方で問題が出来て連絡したときも、日本のそれぞれの会社の対応はどれも即刻といって良い。一方、中国の顕微鏡を買いたいと思って上海に問い合わせても、返事は1ヶ月経っても来なかった。
日本人は今は確かにすばらしい。けれど60年前はどうだったろう?中国東北部を強引に手に入れて、将官が、兵隊が、そしてふつうの民衆までが中国に来てふんぞり返っていたのだ。
大事なことは、人は変わることができるということなのだ。どちらの方向にも人は変われる。中国のサービスも今にきっと良くなる。
11月の定例会が13日土曜日に開かれ、そこで日本語クラブ18号が配布された。編集委員の中道恵津、秀毅両先生、加藤先生、丸山先生、本当にお疲れ様でした。
定例会では、個人情報の開示が様々な角度から議論された。開示の程度は個人の自由意思であることが確認された。
今年の7月まで瀋陽日本人教師の会の会員で、今北京で学生として中国語の勉強中の澤野千恵子先生から、便りが届いた。「会員交流のページ」に「沢野千恵子の北京通信」として収録している。
11月13日に発行された日本語クラブ18号の内容を、ホームページに収録した。
自己紹介は会員のそれぞれのページに、学生の書いた文章は「日本語を学ぶ学生のページ」に載っている。
定例会の議事録が大久保先生から届いたので、ホームページに載せた。
澤野千恵子先生から送られてきた北京の写真二枚を「沢野千恵子の北京通信」に載せた。
瀋陽日本人会からクリスマス会の知らせがあった。12月12日:マリオットホテルで12時から。
2002年度の会員だった安藤知恵先生が2004年の夏瀋陽を訪ね、薬科大学の教え子達と五台山へ2週間の旅をされたときの話が本会に送られた来たので、「会員交流のページ」に収録した。
「先生、おはようございます。」基地クラスから私達の研究室に来ている学生の呉瑜さんの日本語の挨拶が、朝8時前の教授室で元気に響いた。彼女は私たちの研究室に来る以上、朝の挨拶は日本語ですると決めて、ここに来る前に一生懸命覚えたのだ。
私たちの研究室のコアタイムは朝8時から夕方の6時までで、この時間は研究室にいて実験をしているか、あるいは授業にでているか、何をしていても良いけれど、何処にいるかを明らかにしておかないといけない規則がある。だから、皆8時前に教授室に来ては、私たちに朝の挨拶をして実験室に散っていく。私たち以外には、いまは新人で緊張している彼女が一番乗りである。勿論私たちは朝の7時過ぎには大学に来ている。
この呉瑜さんは10月後半から私たちの研究室に3週間の予定で参加している学生で、大学の中の基地クラスという特別のコースに属している。基地クラスの学生は4年生の前半に自分で選んだ好きな研究室に3週間所属して研究実習訓練を受けるという特別プログラムがあるという。後半2月からはいずれかの研究室に属して卒業研究をするというのは、ほかのコースの学生と同じである。この特別プログラムがあるという話は、呉瑜さんが突然やってきて私の研究室でこの訓練を受けたいと言ってきた時に、そのようなプログラムがあることを彼女の口から聞いたのが初めてだった。
例によってこの大学では、私たちがものごとを事前に知らされることはない。文句を言いたいところだけれど、言ったところでここでは事態がどう変わるというわけでもない。結局彼女を受け入れるか、受け入れないかを私が決めればよいわけで、彼女に受け入れOKを出したのだった。
基地クラスはこの大学の中のエリートコースで、彼女の話によると、基地クラスは名声の高い精華大学、北京大学、復旦大学などに1991年に設けられたのが最初で、それ以来この基地クラスのあることが一流大学かどうかの目印となったそうだ。瀋陽薬科大学では1997年に基地クラスが出来て2001年からは毎年30人ずつの学生を送り出している。
現在では78ある国立大学のうち43校に基地クラスが設置されているし、同じくらいの数の地方大学に基地クラスがあるという。正確な実数は分からないが、それぞれの基地クラスは30-60人の学生をとって良いことになっているので、毎年概算3〜4千人くらいの学生が基地クラスに入るらしい。270万人と言われる毎年の大学卒業生の数からすると、わずか0.2%にしか当たらないので、基地クラス出はエリート中のエリートと言うことになろう。
基地クラスでは英語の教育がきちんと行われているらしく、彼女はまともな英語をきちんと話すことが出来る。ちょっとお喋りしすぎるくらいで、時にはうるさい。私たちの研究室の公用語は英語なので、セミナー、研究報告の時は話す方も、聴く方も英語を使うのが決まりである。彼女も私達の一員になって3週間過ごしたけれど、英語に苦労していないだけあって結構セミナーの内容を楽しんだようだ。
先週はRNA関係の仕事で世界をリードする東京大学の多比良先生の論文を当番に当たった学生に勧めて、研究室のセミナーで紹介させた。これは「リボザイムにランダムな配列を持たせてプラスミドに組み込み、これを非転移性の腫瘍細胞に植えてマウスに注射し、数週間後に肺に転移巣を作った細胞を調べれば、どの遺伝子を破壊されると細胞は転移しやすくなるかが分かる」という素晴らしいアイデアの論文で、実際にこの転移の引き金をする遺伝子の候補として、未同定の遺伝子のいくつかが見つかった。一つでもこの遺伝子の働きが阻害されると腫瘍が転移してしまうと言うのだから、癌が出来たときに踏み越えて欲しくない最後の一線になるわけである。リボザイムとはRNAから出来ていながら、ある配列のRNAを認識してそれを切断する酵素活性をもつRNAのことである。多比良先生はこの方面の研究でも第一人者だ。
ヒトや、マウスのゲノムがすでに解読されたのに、未同定の遺伝子があるというと奇異に響くかもしれないけれど、たかだか2万種類の遺伝子でも、すべてがまだ確認同定されたわけではない。
リボザイムの中でRNAを認識する配列をランダムにするという意味が、この論文を紹介する学生には理解できなくて説明が混乱したが、そういうときは私の出番である。皆で共有している時間を勉強のために有効に使わないと勿体ない。ちょっとだけ出しゃばって、聴いている人たちが理解できるように説明を加える。
学生による論文紹介が終わり、質問も出終わった後で「このようなすばらしいアイデアの研究に接して、このアイデアをほかのことに応用できるかどうか考えてみよう」と学生に言ったところ、呉瑜さんはシグナル伝達に関わる分子の同定に、こうやって使えばよいのではないかという発言をした。
そう。その態度はとてもよい。そしてそのように使ってみようと考えることは良い。ただし、遺伝子発現の抑えられた細胞をどうやって選びだすか(スクリーニング)が問題で、この場合にはまず不可能であることを除けばの話である。 そう思うと、ランダムリボザイムが入ることである特定の遺伝子機能が壊された細胞の集合から、転移出来る細胞をマウスの身体の中でスクリーニングしようというところに目をつけたところも、この論文の凄いところである。学生にこういうところも分かってほしい。分かった上で、このような素晴らしい研究のアイデアを出して欲しいけれど、きっとそれはこっちの仕事なんだろうなあ。
基地クラスが1997年に瀋陽薬科大学に設けられたときはこの薬科大学は国立大学だったけれど、その後何らかのいきさつがあって、瀋陽市のある遼寧省に移管されて省立大学となってしまった。国立が最上と見なされ省立がその下という構図はここでも同じだから、この基地クラスを持っているのは、今や省立となったの大学にとって大事な看板であり財産となっている。
国立大学である頃この大学に作られた基地クラスはそのまま設置が続くのではなく、中国の教育局が時々それを調べてその認可を続けるか取り消すかを決めるのだ という。その評価に当たる、著名大学の教授が主体になった視察団が翌週大学に来ると言うことが分かったときは、全学で緊急に関係者を集めてその通知があった。視察の入る日はこれこれしかじか、特に掃除に念を入れるようにとのことだったようだ。
そう言われて気づいてみると、つい数日前にこの新実験棟と呼ばれている9階建ての新しい建物の床が綺麗に磨かれたのだった。この建物が出来たのが昨年夏で、それ以来二回めの床掃除になる。
これは床磨きの一隊によってなされる掃除で、床に石けん水をまいてポリッシャーで磨き、その水を真空掃除機のお化けで吸い取り、その後、床ワックスを塗って、それが完全に乾いてから床磨きのポリッシャーで磨いて光らせる工程である。若い人たちがきびきびと働くので気持ちよく眺められるけれど、教授室だと戸棚以外はほとんどすべての机を外の廊下に出さなくてはならず、結構な労働となる。
このようにして床も綺麗になって気づいてみると、廊下に真新しい金属プレートが貼ってあって、「瀋陽薬科大学・大学生創新中心・薬学創薬新基地4」と読める。呉学長の研究室のある1階上に行ってみると、同じく「・・薬学創薬新基地5」と書いてある。こんなものがあるのはどうしてだろう、視察団がここに来るのかと思って訊いてみたら、案の定、視察団はこの建物の上から見て回り、この5階では、「山形先生のところを見ていくのですよ」と言うことだった。
基地クラスの学生に対する教育カリキュラムや彼らの成績、その後の進路は視察団が現地に来なくても分かる情報だから、視察団は基地クラスの学生が実際どのような研究室で実験の指導を受けているのかを重点的に見て回るらしい。
私達の同じ階には薬物分析で名高い先生がいる。名高いと言うことは研究費が沢山あって、研究室が物理的に大きくて、学生が沢山いて、高価な分析装置が部屋に充満していることだけれど、基礎研究ではないという理由で、彼ではなく貧乏な私達が選ばれたらしい。
と言っても私に大学当局から知らせがあったわけではない。私も妻の貞子も中国語が話せないから視察に立ち会う意味も必要もないし、従って知らせることもないと言うことだろうと思う。
当日の朝大学に来ると、楊柳並木を横断して二枚の幕が張ってあった。それぞれ「歓迎国家理科基地評価専家組光臨我校検査指導工作」、「深化教学改革 掲高理科基地人才培養質量」と読める。最初の横断幕は、「本校の視察にやってくる理科基地の評価委員歓迎!」だし、後のスローガンは「教育改革を進めよう、理科基地クラスの人材教育の内容をもっと高めよう」というもので、気持ちは分かるけれど、「現状の教育では良くない」と言っているようなものだ。
本館の正面では百人くらいの学生がそろいのジャンパーを着て群れている。何事かとそばに寄ってみると、視察団の歓迎をする基地クラスの学生たちらしく、看板を持ち、風船を持ち、さらにはチアガールが手に持って振り回す花みたいなものまで持っていたから、実際にはどのようにして歓迎したのか知らないけれど、視察団は相当派手な歓迎で迎えられたと思う。
5階に視察団が来たのは午後2時を過ぎてからだった。そのころ学生は実験室に行って実験をしていたけれど、私達は教授室に閉じこもっていた。やがて彼らの帰った頃胡丹くんがやってきて「やっと済みました」と言うかと思ったら、「先生の給料はいくらですか?」と突然訊くので驚いた。
以前「不思議の国の山大爺-4」にこの国で給料の額を訊かれたらどうしようと書いたけれど、学生にまともに訊かれるとびっくりする。「何で、訊きたいの?」というと、「さっき、副学長が視察の人たちに説明していて、先生の給料のこと言っていたので、その額が本当かどうか知りたいのですよ。先生沢山貰っているみたいだし」と言う。
きっと、視察団が私達の実験室に来て説明をしたとき、ここは大学が招いた日本人の教授の研究室だと言うべきところを、「基地クラスの教育のために」日本から専門家を招聘して研究室も持たせていると言う話になったのだろう。
「それじゃ、彼らの住むところはどうしていますか?」「ええ、私達と同じアパートに同じようにして住まわせています」「で、給料はいくら払っているのですか」「もちろん、うーんと高給を払っていますよ。月○○元ですよ」と言うことになったようだ。
胡くんが、そこで聞いた給料の額の方が今教えた私たちの実際に貰っている額よりも高いというので、私も驚いてしまった。うそじゃーん、そんなに貰っていないよ。「我が校は高給を払ってまで人を招いて基地クラスの人材養成に尽くしている」と言いたいのだろうけれど、実際と違うよ。
しかし、基地クラスがこのまま存続するかどうかはこの大学にとっての死活問題に違いないから、私たちの給料について言い間違いがちょっとあっても大目に見よう。「私達が高給を貰ってここにいる」ことが、基地クラス存続の決め手になるかもしれないと思えば、許す気になる。でも、もし、基地クラスが否認された ら、副学長先生、先生がそのとき言った給料をきちんと払って貰いますよ。
2003年度の卒業生だった沈慧蓮さんはこの9月から京都大学大学院の研究生になっていたが、大学院の入試を受けて合格したという知らせがあった。大変嬉しいことである。沈慧蓮さんが澄ました顔をして京都のお寺で写っている写真を一枚載せた。
名古屋大学大学院で勉強している薛蓮さんからmailが届いた。ホームシックに耐えてがんばっているという。
瀋陽日本人会のクリスマス案内を掲示板に載せたら、20日には留学生からの意見が載り、22日には教師と見られる意見が載った。つまり、掲示板も思ったより活用されているらしく、嬉しいことだ。
加藤先生から「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」の新しい原稿が届いた。中街の歴史的な写真も含まれていて、これは中街の歴史案内であると同時に、現在の中街の観光案内でもある。このような史跡案内を片手に中街を訪れれば、中街の楽しみも増すに違いない。加藤先生の力作に感謝します。
先週の土曜日の朝大学に来たら、教授室の前に女性が人待ち顔で立っていた。年格好からすると学生だ。この頃はこの建物でも結構ものがなくなるということで、見知らぬ人には注意しなさいという伝言が始終回ってきているけれど、まだどの部屋も閉まっている朝早い時間だからきっと私に用事のある学生だろう。
そう思って声をかけてみたけれど、相手は緊張しきった顔つきで言葉が出åてこないみたいだ。でも、私に用があるという顔をしていて、ドアを開けたら部屋に入ってきた。英語と中国語チャンポンで話しかけてみてもなかなか言葉が出てこない彼女に、名前を白板に書いて貰ったりして何とか落ち着かせようと試みた。中国の学生は先生が生殺与奪の権力を握っている為か先生を恐れていて、先生は学生が普通は簡単に口のきける存在ではないのだ。
ともかく話を聞いてみると彼女は基地クラスの学生で、私達の研究室に来て研究がしたいと言う。つい二週間前まで基地クラスの4年生が3週間うちの研究室で練習実験をしたばかりなので、今また何で?とびっくりしてしまう。
何年生?と聞くと、2年生だという。今は11月だから2年生になって3ヶ月経っただけの学生だった。大学の公印を押した書類を持っていて、彼女の英語による説明では、科学訓練プログラムというのが基地クラスの学生には約束されているという。この訓練プログラムの前期では研究室に通って、研究室の教師の指導の下に研究というものを見て学び、後期には実際に研究をやってみて創新にまで至るべしと書かれている。
また、研究というものがどういうものか、つまりどうやって研究テーマが選ばれて、それを解決するためにどのような思考の下にどのような方法で研究が進められるかを理解することがå要求されている。
さらには研究室の分析天秤、pHメーターにはじまり、紫外分光光度計、HPLC(高速液体クロマトグラフィー)、ガスクロマトグラフィー、赤外分光光度計等の分析機器に触れて原理を理解することも項目に挙がっている。
これだけのことをやるために研究室に何時くるのかと聞くと、彼女は「毎週土曜日と日曜日にここに来ます」という。えっ、私達は土曜日の午前中は研究室のセミナーをしているけれど、土日は本質的には公式に休みの日じゃないの?
このプログラムが「何時から始まって何時まで続くの?」と聞くと、何と今日からだという。今日からこのプログラムが始まって、1年間続くのだという。
これを聞いた私はただもう唖然。一緒に私と大学に来て、すでに仕事を自分の机でやり始めていた貞子も、こちらのやりとりを小耳に挟んで凍り付いている。
冗談じゃない。こんな話はどこからも聞いていない。休みの土日を使って、なぜ基地クラスの学生一人にサービスしなくてはならないんだ?機器を見るだけで研究が分かるわけもない。相当に指導しなくてはネンネのままである。
日本の大学なら、少なくとも、「これこれしかじかの科学訓練プログラムがあって、今年は11月半ばから始まります」と教務と学科からプログラムのあることを事前に聞くだろうし、学科主任からは「それで、基地クラスの○○という学生が行きますからよろしく」と知らされているだろうと思う。学生がポッとやって来て、この大学には訓練コースがあるのだから、今から自分のことを見てくれなんてことは金輪際ない。
「あらかじめ聞いていて受け入れの用意をしてあるならともかく、いきなり来て今日から面倒を見てくれと言ったって、それは無理な相談です。とてもそのゆとりがないから駄目。だめ。N0ですよ。」と言って私は英語で丁重に断ったつもりだった。ところが、それを聞いた彼女はにっこりとして「わかりました。明日は何時ここに来ましょうか?」というのだ。
うわっ。こちらの言うことは全く分かっていない。仕方なく、うちの学生に電話をした。朝の7時半。王麗さんは電話を切っているらしく、「通じません」とテープが無機的な音声で返事をする。胡丹くんはケータイを持っていないので、やむなく「胡くんの彼女」に電話をして、「緊急に胡くんが必要だから彼を起こして教授室に大至急で来るよう伝えて欲しい」と頼んだ。
待つこと10分で飛んできた胡くんに事情を説明し、彼女からも再度話を聞いて、胡くんに「とても無理な話だから受け入れられない」と言って貰った。胡くんが中国語で彼女にそれを話したので、それで終わりと思って、「それじゃ、さよなら」と言おうと思ったら、彼女の目から涙が溢れ出て来た。涙はドバーッと両眼から湧き出してきて、あごからぽたぽた伝い落ちる。彼女が手放しで泣き出したのだ。
<日本で女性と二人だけの時には泣かれた経験は何度もあるけれど、こういう公的な場面での経験は全くない。中国の女性はおおっぴらに涙を流す。彼女たちは涙が出るに任せて、一方では喋り続けるのである。胡くんがおろおろしながら何か言っている。
女性に泣かれるとこちらとしては負けである。彼女の申し出を拒否すれば泣かせた上に追い返したという負い目が残ってしまう。泣くということは交渉ごとでのルール違反の気がするけれど、仕方ない、受け入れることにするか。
後でうちの学生たちに言わせると「先生は真面目すぎますよ。そんなに学生一人一人の指導で悩むことはありません。こんな学生は来ても放っておいて、実験を見学させておけば良いんです」とのことだった。だけどね、何もしない人にそばでブラブラされたら研究室の邪魔になるだけですよ。
じゃ月曜日にもう一度来なさいと胡くんから伝えて、そのときは帰って貰った。改めて月曜に日に訪ねてきた彼女にそれじゃ引き受けようと言うと、彼女は椅子から立ち上がりにっこりと笑って最敬礼。
11月28日の日曜日に、その前日ケニアで野呂先生がなくなったという電話を受けて思わず耳を疑った。野呂先生は97年からこの7月まで足かけ7年間この薬科大学で日本語教育に携わってこられた。
私たちの研究室の修士二年である、胡丹、王麗の二人、それに、慶応大学に行った朱性宇さん、韓国に留学した魯さんは日語65期生で野呂先生の教え子である。野呂先生を母とも慕う彼らの嘆きは見ていてつらい。
野呂先生はケニアで悲惨な生活を強いられる貧しい子供達を救おうとしている「一人NPO」の活動に共感して、8月にケニアに行き、9月には資金集めのためにいったん帰国して10月半ばに再度ケニアに向かわれたのだった。
朱性宇さんから、野呂先生の訃報を悲しむmailが届いた。
12月に入って日本にいたならば年賀状をしたためる季節になった。インターネットが身近になり、手紙を書かずにPCのキーを叩いてE-mailを出すのが当たり前の時代となっても、日本の年賀はがきの発行数は減らないという。プリンターを使って、自分の好みのままの年賀状を自由に印刷できるようになったことも大きいに違いない。ところで、中国でも日本のように年賀状の交換が盛んだろうか。
朝日新聞に毎週「ハルピン発なんのこっちゃ」というコラムを持っている岩城元氏が、今年の6月17日付で「礼状はご無用 」というのを書いている。内容を簡単に要約すると<中国では一般に礼状を書く習慣はない、年賀状も、子供たちが面白がって交換するもので、大人は出さないが普通であって、大体が貰ったら迷惑するだけだ>という。
ところが次の週には早速読者のSさんの反論が載っていた。そのまま引用すると「(中国には)年賀状をだす習慣はないなんて勘違いも甚だしい。仕事上で毎年海外に年賀状を出しているが、中 国だけ立派な年賀状、写真いりの年賀状は沢山帰ってくる。1、2年滞在しただけでもって五千年の歴史を持つ国民性をすべてわかったような失礼な書き方を慎んでください」という鼻息の荒いものだ。
<思わず笑ってしまった。私はまだ1年かそこらの滞在期間だけれど、ここで自分の知ったこと、見たこと、納得したことを書きまくっている。きっと、この読者のSさんのような人から見るととんでもない独断を書いているのかも知れない。
年賀状のことだけれど、私も日本にいた頃は研究上のつきあいで始まった海外の多くの友人と、年末にカードを交換していた。このカードは、サンタクロースやツリーの出てくるクリスマスカードではなく、Season’s Greetingsと書いてあるものである。キリスト教の信者ではない私にはクリスマスカードは気恥ずかしくてとても使えない。
数年前からは中国にも知人が出来たので、勢い、その年末にはカードを送ることになった。すると、読者のSさんが書いているように中国からは実に立派なカードが送られてきた。例外なしにである。中国で親しくなった学生には、何時も日本で出している日本の年賀はがきの出番である。すると学生たちからも、どう考えても身分不相応としか思えないとても凝ったカードが送られてきた。
次の年にはこちらが送る前にも先方からぼつぼつ立派なカードが届き始めた。カードの立派さは群を抜いている。「中国からだけ」立派な年賀状が届くのだ。文面も凝った言葉が印刷されていて、送り手の気持ちが華麗な文章として目の前で踊っていて、とても楽しめる。
したがって私は、読者のS さんのように「中国にも年賀状を交換する習慣がある」と思う立場にいたわけだけれど、それもこの冬までだった。2003年の年末もいつものようにカードを中国の知人に送った。それも日本から送っているから例年通りである。しかし、一通も中国からはカードを貰わなかった。事前にも、事後にもである。中国の住所にも、日本の住所にも一通も来なかった。
瀋陽で暮らし始めて、特に嫌われたとも思えない。したがって「中国では年賀状を交換するしきたりはないらしい」と自分に言い聞かせることになる。そこへ、岩城元氏のコラムを読んで「そうか、中国では一般に年賀状を書く習慣はないのか」と納得できたのだった。
一昨年までは、私は中国の友人には異国の特別な友人として扱われて、「外国人とのお付き合いとして」立派なカードが送られてきたに違いない。そして今年は同じ国の友人として扱われ、「今お前はこの国にいるんだから、まだこの国の習慣に慣れていないけれど、早く覚えろよ」という無言の挨拶となったのだろう。こうなると中国五千年の歴史的背景を知らずにものを言うなという読者のSさんの方が、狭い見聞でものを言っているように思える。
「入郷随俗」、私はここに暮らす限りはもうここの友人にはカードを書かないけれど、何時か中国を去って日本に戻り、また「外国に」暮らすようになったら中国の友人に年末のカードを送るだろう。
その時には、外国にいる外国人からの挨拶への返事として、カードが送られてくるだろうか。それとも「相変わらず馬鹿じゃないの」とばかり、返事が来ないだろうか。あるいは遠くに離れた老朋友扱いとなって、あの見事なカードが送られてくるだろうか、きっと私は楽しみと不安のない交ぜた気持ちで返事を待つに違いない。
鳴海先生から遼寧教育院にある日本語図書目録が届いた。
10月の教師会で調べられたお土産ランキングが公開された。写真付きです。春節休暇の時に利用して下さい。
12月3日午後から6日の昼まで、教師会のURLがアクセス不能になった。日本ではこの間全く問題なくアクセスできたとのことである。
鳴海先生から「芸術写真のお誘い」が届いた。これは会員交流のページに新たに出来る「鳴海佳恵マダムのあなた知ってる?」の第一号作品である。ともかく傑作。これを読んで芸術写真に挑戦して下さい。
実行委員会から発表された第9回瀋陽日本語弁論大会の案内をお知らせのところに収録した。
山崎 えり子先生の長い歴史のあるHP、岡沢先生が最近始めたブログにリンクを張った。
鳴海マダムの「あなた知ってる?」コーナーに掲示板で早速反応があった。HPを運営している身としては大変嬉しいことである。鳴海先生、次回も期待していますよ!
定例会が開かれ、その後大久保先生の送別会が開かれた。大久保先生、長い間お疲れ様でした。
送別会は今年の忘年会と兼用で、近くの大明王府(以前の大明飯店)で開かれた。中道先生の友人の鈴木先生がハルビンから特別参加。
2000年夏~2001年夏まで薬科大学におられた最上久美子先生が所用でこの日の午後瀋陽に来られ、着いたその足で忘年会に参加して下さった。
11月最後の日曜日の昼まえ、うちの電話が鳴った。電話は研究室の学生の胡くんだった。なにか声がおかしい。「どうしたの?」「野呂先生がケニアでなくなりました」と、もう嗚咽混じりになった声でとぎれとぎれに言う。「えっ?いつ、どうして?どこから聞いたの?」
「野呂先生のお姉さんから、アモイの呉くんに電話があって、昨日病気でなくなったと言うことです。ケニアに行って三ヶ月たたないのに。」終わりはもう声になっていない。これ以上の詳しい事情はよくわからないが、たちまち暗然と気持ちが沈み込んだ。野呂先生にはケニアの生活は無理だったに違いない。
連絡を受けたのが日曜日で、私達は野呂先生のご家族のことを知らないし、この日は野呂先生が亡くなったと言うことだけでそれ以上何もわからないし、何もできないことが分かっただけだった。
野呂先生はこの7月までは薬科大学の日本語教師だった。この大学には日本語コースがあり、学生は最初から希望するか成績がトップクラスだと選ばれて入学時に日語班に入れられる。1〜2年は通常の中国語による授業があるけれど英語の勉強にも重点が置かれていて、英語4級に通らないと日語3年生に進学できない。また一科目でも75点以下をとると、これも日語班から放り出されてしまう。こうやって無事に日語班の3年生になると初めて日本語の勉強が始まる。
3年生になると週30時間のうち24時間が日本語の授業で、このうちの半分の12時間が日本語会話の勉強に当てられ、1クラスの日本語会話すべては日本人の日本語教師が一人で担当する。胡くん、王麗さんにとっての日本語の先生は野呂先生だった。
野呂先生は足掛け7年間に亘り薬科大学の日本語教師を勤めた。最初二年のつもりで来たのに大学から懇望されてこの大学の日本語教師の職を毎年延長し続けて来た。4年目に入るときは、きっぱりやめて中国語と中国文学を勉強することにして大連の大学に入学を申請して許可されていたのに、大学の懇請もだし難く、大連で学生になる夢をあきらめて日本語を教え続けた。
<5年経った2002年の夏、教師を辞めて日本に戻ったけれど、なにか物淋しいということで大学から再度要請されたのを機に、1年の休養をおいた昨年秋に再度薬科大学に戻って来られた。
このときは私たちが薬科大学に正式に招聘を受けて赴任した時期と重なる。私達はそれまでも毎年瀋陽にきていたから野呂先生とは顔見知りだった。「久しぶりですね、いよいよ本気でここに来ましたからどうかよろしく」と挨拶すると野呂先生は、「一年だけご一緒ですね。日本にいると落ち着かないからきたけれど、今度が最後ですよ。」とおっしゃる。
「どうしてです?大学でこんなに評判がよいのに?野呂先生が教えないと、薬科大学の日本語の学生の学力が落ちたと聞いていますよ。」「でもね、今度は一年したらケニアに行くんです。ここの大学で日本語を教えられる人は他にいるけれど、ケニアに行けるのは私しかいませんもの。」
「ケニア?」唖然として、以前テレビで見た「赤道直下で上総堀りの井戸を掘る」という情景を思い浮かべた。赤茶けて枯れた茫漠と広がる大地。水瓶を頭に乗せて一日がかりで水汲みに行く痩せて骨と皮の少年少女たち。
「ケニアで日本語を教えるのですか?」「いえいえ。この間日本にいるとき、イラク戦争反対の座り込みデモに行ったときにね。ケニアの貧しくて学校にも行けない子供たちがいるところに出かけている人と出会ったんですよ。それでそこにお手伝いにいくんです。」
これを聞いて「うーん、そこまでしなくても」と私は思った。何よりも野呂先生は身体が弱い。中国にいる間中、始終病気をしていた。一度は胆石で学生に病院に担ぎ込まれたという。私がここでお腹を壊したときも、そういうときはこれが効くといって持薬の「梅肉エキス」を勧めてくださった。これは昔の「赤本・家庭の医学」に載っていた家庭の万能常備薬である。
私が膵臓を悪くしたときは、「バナナをチンして黒くなったのを食べるとよいですよ。私は1週間食べ続けました」ということだし、風邪の引きはじめには香港の何とかいう甘い漢方薬が絶対よいといって勧められた。野呂先生は瀋陽で針灸にも通っていて「山形先生は西洋薬学をここで教えるために来ておられるけれど、私は中国五千年の中医を本気で勉強して日本に持って帰ってみたいですよ。すごく効きますもの。」というほど、始終足腰に痛みがあったようだ。
小柄でこのように身体の弱い野呂先生はおまけにご老体である。彼女のケニア行きには誰もが賛成していなかったけれど、野呂先生の決意は固かった。この飽食の時代にアフリカでは1日3万人の子供が飢えと貧困が原因で死ぬという。「私には放って置けません」と静かにおっしゃった。
後で聞くところによると野呂章子先生は1938年まれで、関西で28年間国語の先生をしていたけれど、思うところあって定年前に職を辞して中国の旅をしたところ中国が大変気に入って1993年からは瀋陽の建築学院で、1997年からは瀋陽薬科大学で日本語教師をやって来られたのだった。
私達が最初に薬科大学を訪れたのは2000年の夏で、そのとき会った野呂先生は甚平姿で「えっ、これが先生?」というほど小さく頼りなかった。しかし、胡くんは彼女の4番目の学年の教え子だけれど「野呂先生のおかげでクラスが一つにまとまったのです」と言うほど、日本語教師として学生から絶大な信頼を受けて慕われて来た先生だった。
学生に配る日本語の教材のコピー代を教務に言うと教務は学生から徴収するからといって、黙って自分の給料をすべてコピー代に投じていた野呂先生。それでも足りなくて、午前8時から始まる授業なのに7時過ぎには教室に行ってその日に使う教材を黒板にびっしりと書き込んでいた野呂先生。
次々と甦る彼女の想い出で胸が塞がれそうだ。しかしいくら望んでも野呂先生の姿を二度と目にすることはできない。出来ることは、中国の学生を育てるために自分たちの時間を更に有効に使いたいと、改めて決意することだけである。
このホームページが11月中旬、数日間に亘ってアクセスできないことがあった。これではいざ情報が必要なときに困るので、ミラーサイトを作るためにinfoseek(かの有名な楽天)に申し込み、16日にサイトにアップロードしたのだが。 見えない!アクセスできない!
infoseek事務局に調べてもらったら日本では問題なく見られるとのこと。つまり、このサイトも遮断されているのだった。
URLは:http://kyoshikai-shenyang.hp.infoseek.co.jp
いつかは見られることを期待しよう。
12月の定例会の議事録が係の長澤先生から届いて活動欄に載せた。ホームページの掲示板(18日)には定例会の後の忘年会に立ち寄られた最上先生の挨拶が載っている。
17日に気づいて消したのだけれど、掲示板に不快な書き込みがあった。こんなことがあると、こまめに掲示板を見ておく必要がある。
野呂章子先生を偲ぶためのホームページを作成した。教え子や友人達の協力を得て充実させていきたい。
http://www.geocities.jp/noroayako2004/
野呂先生がケニアで亡くなったと聞いてからもう2週間経った。野呂先生はこの間に、ケニアでチルドレンズホームページを運営している人の手で現地で荼毘に付されたという。
研究室でコンピュータを使っていた胡丹くんが、ふと手を休めて近くにいた私達に涙声で語りかけてきた。「野呂先生が死んでしまって、僕たち、どうしたらよいか分からない。野呂先生は日本語をわたしたちに教えただけでなく、あらたに異質のものを学ぶというのはどういうことなのかを教えて下さったんです。日本という国や日本人を、言葉を学んだ上で知ることの面白さを先生から教わったのだと思います。私達は寮の4人で先を争って何時も日本語を勉強していました。」
私達の研究室に半年いて4月から慶応大学大学院に留学した朱性宇くん、ここに1年いてこの秋からは韓国に留学した魯くん、アモイで就職した呉福楷くん、そして胡丹くん、寮で一緒だった彼らの誰一人をとっても見事な日本語遣いである。私達が中国語を知らずにここで暮らし始めても、何一つ不自由ないどころか、ホームシックにかからないのは、彼らに加えて王麗さんたちが研究室にいて日常的な日本語環境を作り出しているおかげである。
「野呂先生の想い出がまるで昨日のように新鮮に心に積み重なってきて、ゆうべは寝られませんでした。僕たちのクラスの心を一つにまとめて日本語の学習に立ち向かわせた野呂先生に、もう会えないなんて信じられない。8月にケニアに行ってから9月にいちど日本に戻って1ヶ月日本にいた間、先生とメイルのやりとりをしてこの次には会おうと約束したのに。」胡くんが涙を流しながらもしっかりと僕たちに話をする。
同じクラスの出身である王麗さんは傍のソファで目を真っ赤に泣きはらしていて、聞こえるのは泣き声だけだ。涙混じりの声ながらも話を続けるのは胡くんだった。「僕たち野呂先生に育てて貰って、ちっとも恩返しをすることが出来ませんでした。まさか、こんなに早く死んでしまうなんて、ちっとも思いませんでした。もっとして上げたいことがあったのに。」
「でも死んだ人には後からは何もしてあげることは出来ません。」胡くんはしっかりと話を続けた。「死んだ野呂先生をいくら今から思っても、気持ちはもう野呂先生には届きません。お互い誰もが生きているときだけです。だから、僕たちは先生たちの恩にきちんと報いなくてはいけません。」
話が急にこちらに振られたので面食らったけれど、これは親しい人に突然先立たれたときの整理のつかない気持ち、やり場のない怒りと嘆きを経て誰もが到達する真理なのだ。胡くんは野呂先生に恩返しできなかった分、今から心がけて先に逝くはずの私達に尽くしたいと言っている。
私も野呂先生には世話になった。その分私が先生に何か報いることが出来たかというと何もないような気がする。私は野呂先生に隣人としてにこやかに付き合っていただけだった。
「そりゃあ、バカですよ。大バカですよ。山形先生は本当にバカですねえ。」ニコニコして野呂先生はおっしゃった。「こんな偉い先生にバカなんて言ったらとても 失礼ですけれどね。でもバカですよねえ。ちっとも懲りないんだから」という野呂先生の言葉が私の耳にはまだ焼き付いている。
大バカ呼ばわりのことの顛末はこうである。昨年秋に中国に来て、白酒という米と高梁から作った蒸留酒の存在を知った私は、そのおいしさに白酒を飲むのが止められなくなっていた。
私は実はむかし一年の間をおいて二度も急性膵炎という病気をしたことがあり、酒を飲んではいけないと医者にきつく言われていた。膵炎にかかる主要な原因はストレスとアルコールだという。大学にいた頃は研究費獲得のために何時もストレスにさらされていて、この説はもっとも至極と頷けるものだった。中国に来てからは、だいたい研究費が申請することができないのだから、そのことでストレスが溜まることはない。
膵炎を起こす主要原因が一つ減ったのだから、ほどほどに酒を飲むのなら大丈夫だろう。というわけで、酒を飲む雰囲気の誘惑に何時しか負けて、つい自分においしい酒を飲むことを許してしまったのだ。
飲み始めても一回目、二回目は大丈夫だ。それで安心して毎日飲むようになると、何時か突然前触れもなく膵臓が暴れ出すことになる。まずひどい腹下しをするのである。中国ではそうでなくてもよくお腹を壊すことが多いから、久しぶりだと膵臓が原因だとはわからないけれど、中国で白酒を飲み出してからついに続けて二回ひどい下痢をして、自分の診断ではどうひいき目に見ても膵臓炎だった。
そのようなわけで、自分の症状を白状してその週末に一緒にと約束した食事を断りに野呂先生に会いに行った。日本の掛かり付けの病院から遠く離れた瀋陽では、こういうときはひたすら絶食することが最良の方法なのだ。
このとき野呂先生から「バカですねえ」と頭から浴びせられたのだった。そして「こういうときは黒焼きバナナですよ」といって作り方を教わったし、2月の春節の休み明けには「肝臓と膵臓にいいから」との口上で、シジミの佃煮をおみやげに戴いた。
野呂先生から言われた叱責が身に応えて、その昨年の12月1日以来、私は1年の間、酒の一滴も口にしていない。中国のパーティーでは酒を飲まないことほど不粋で失礼なことはないのだけれど、ことは命に関わることなので何時も鄭重にお断りをしている。私にはこの大学と交わした契約があるのだ。契約の5年間を全う出来なかったら、大学にも学生にも申し訳ないことになる。
野呂先生は道を歩きながらスミレがひっそりと咲いているのに目をとめて、ちょっと恥ずかしげにこちらの注意を引くことがあった。すべてのいのちを慈しんだ野呂先生は、ケニアの短い滞在でも、きっと皆が見落とす小さな花を見つけて愛でておられたに違いない。生き残ったことで、私は野呂先生にもう恩返しをしたことになるだろうか。
胡くんの恋の記念日は1年前の12月24日だそうだ。記念日を迎えた二人は未だに初々しく、まるでままごとをしている子供たちのようにかわいらしい。胡くんが教授室の共通のパソコンを使っていると、胡くんの彼女が「小胡」と彼の名を呼びながら入ってくることがある。部屋の奥には私がいて、私が自分のiMacから目を上げるとちょうど部屋に入ってくる彼女に目を合わせる位置関係になる。彼女は私にも恥ずかしげに顔を綻ばせて「先生、こんにちは」という。
初々しい彼女を見てつい微笑ましく、思わずニコニコしてこちらも「今日は」とにこやかに挨拶をしてしまう。ところが、これが王麗さんの気に入らない。
「馬さんが入ってきても、先生は『やあ』というだけなのに、胡丹の彼女の時はニコニコして大歓迎するなんて、偏心ですよ」と口をとんがらかす。「偏心」とはえこひいきという意味だ。馬さんは彼女の恋人で、隣の研究室にいるから二人はしょっちゅう往き来している。
「だってね、馬さんが入ってきても、こちらをちらっと見て『こんにちは』というだけで、王麗さんのことだけをひしと見つめているんだから、そりゃあそんなもんでしょ。相互偏心といっていいんじゃない。これ、四字熟語で中国好みじゃないの?」「そんなもん成句と言わないよ」といいながらも、彼女は大好きな馬さんを頭に思い浮かべてニコニコしている。
恋人同士になると、それを確認しあうみたいに、衆人環視の学生食堂の中でも食事の時には相手の口に食事を運ぶという。胡くんが恋人の彼女と向き合って、そうやっているところはまだ見る機会に恵まれないが、彼らに研究室の外で出合うと二人は汗の吹き出る暑さでも、手先のしびれる寒中でも、手をしっかり握りあっている。
手を堅く握り合うこの手の恋人たちが大学には沢山いる。彼らが大学の小道を歩いてくると、こちらはやむなく敷石を敷いてある小道からいったん芝生に逃れて彼らをやり過ごすことになる。
老人を尊敬するこの国で、しかも老体の老師に道を踏み外させても、勿論若い二人の眼中に入らず、彼らは気にもせずしっかりと手を握ったまま行き過ぎる。昔はこちらも他人の思惑など気にしない熱い時期があったに違いないから、現代の恋人たちを鷹揚に受け入れるしかない。
この1週間の瀋陽は冷え込んで、温度はマイナス13度からマイナス27度の間を上下している。先週末所用で上海に行ってきたけれど、日中15度くらいの上海では街路樹のプラタナスの葉はまだ全部落ちることなく、秋の初めの感じだった。一方、飛行機で2時間の瀋陽に戻ってくると瀋陽空港はマイナス17度の雪の中で凍り付いていた。
昨年は10月12日が瀋陽の初雪だった。瀋陽はそのくらい寒い北国である。それでも瀋陽はいわゆる雪国ではないから、雪が積もったときにそれを掻き取るべしという街の条例はないのではないかと思う。昔住んでいたシカゴの街では、塩化カルシウムを市のトラックが大通りにまいて凍らないようにしているし、歩道では、自分の家や店の前で人が雪のために滑って転んだら、その責任が取らされるので、歩道はすぐに雪が取り除かれる。
しかし瀋陽では、誰も雪を掻かないので瀋陽の歩道の雪はたちまち靴に踏みつけられて固く凍ってしまう。雪はありとあらゆる汚れを白く包み込んで隠すので歓迎だけれど、その後がやっかいである。下を見て滑らないよう用心しながら歩くけれど、それでもときどき滑って足を痛めて思わず「うっ」と口から声が漏れてしまう。
冬になり気温が低下するにつれてコートは分厚くなる。冬の初めに着たコートは、日本の冬の間中着ていたユニクロ製のコートだった。一年前、瀋陽の冬はそれではとても越せないと言われて、この街のデパートで羽毛のたっぷり入ったコートを買った。もちろんフード付きである。冬の瀋陽では、頭に被る帽子とその上から被るフードは欠かせない。
しかもフードを頭にただ載せるだけでなく、瀋陽の街では強く冷たい風が吹き付けるので出来るだけ深く被ることになる。フードを被るとでてくる問題は、自分の前しか見えないことである。真横ですら視界が効かない。首ごと頭を巡らさないと横が見えないと言うのは恐怖ですらある。毛糸の帽子を被った上にフードのおかげで、音も聞こえない。
妻と一緒に歩いているつもりでも、ふと気付くと妻がすべって転んでいて20 mも後ろに遅れていたことなんてざらだ。逆にこちらが転んで呼んでいるのに妻は遙か先に行ってしまっているとなると、おわかりだろう。転ばぬために、そして隣にいるという互いの安全の確認のために、手をつなぐことが必要となる。滑って転ぶのを防ぐため、そして何時も隣にいるのを確認するには、手をつないでいるのが一番確かな方法だ。
<歳を取ってもこうやって手を握り合う必要が出てくるのだから、若者においておやだ。誰にも遠慮なすることなく手を握る習慣が、四季を通じて出来てしまうに違いない。
じゃ、私たちも手を熱く握り合っている夏の若者同士と同じじゃないかって?
いえいえ、こっちは厚い二重の手袋をしているんです。手袋をはめる時期だからこそ手を繋ぐのですよ。
無料のカウンターを表紙に取り付けた。すごいカウンターというものだが、うまく作動するのかどうか、指示通りの作業をしたけれど、今のところ不明。
昨日、薬科大学の加藤先生から「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」第4番目の記事が届いた。最高マイナス10度、最低マイナス27度という瀋陽の街を連日歩き回って取材をして、休み返上で書き上げた作品である。写真が豊富に付いているので、話しについて行くことが出来て大変面白い。写真を綺麗に並べてホームページに仕上げるまでに4時間かかったけれど、やりがいのある満足感を加藤先生からこちらも貰った感じである。
12月29日のほぼ同じ時刻に朱さん、薛蓮さんからmailが届いた。二人とも元気なようで嬉しいことだ。30日から浦和の最上先生のところに、薬科大学から留学している同期の友人達と集まって年越しをするらしい。最上先生、辛苦了。
上海に住んでおられる姉上の手により野呂先生の追悼の会が開かれた。そこには、ケニアの現地でチルドレンズホームを主宰している浅田嘉一(現地名カマウ)さんも来ていて、彼から野呂先生の現地での生活と最後の様子を聞くことが出来た。
野呂先生は1960年代の安保闘争のころ大学の学生だった。当時の学生は純真であればあるほど、政治の腐敗とアメリカ一辺倒の政治に憤りを抱き、次々と左翼の運動に身を投じていった時代である。私は安保反対のデモには参加したけれど、機動隊と対決してまで反対を叫ぶなどは思いも寄らないノンポリ日和見の学生だったし、興味は科学の研究にあったから政治活動もそこまでだった。
でも、野呂先生はそのあと部落問題にも関わったとのことだから、その気持ちが脈々と生き続けていたのだと思う。野呂先生と話をすると、決して言葉は激しくなかったけれど、今の日本の政治だけでなく、力を持つものがすべてを自由に出来る今の世界のあり方に強い批判を持っておられたことが明らかであった。
野呂先生は2002年夏に薬科大学を一旦辞して日本に戻った時、2003年のイラク戦争の時期に大阪のアメリカ領事館の前で「イラクの子供たちを殺すな」と訴えて3月20日(米軍によるイラク侵攻の日)から48日間ハンストを続けていたカマウさんを見てその運動に共感し、3日間同じテントに泊まってハンストに参加したとのことである。
カマウさんは1980年以来アフリカに暮らし、ケニアと西隣のウガンダでチルドレンズホームや職業訓練所を作って、現地の飢餓や貧困に苦しむ子供たちを助けてきた人だという。
野呂先生はアメリカ領事館前のハンストに参加しただけでなく、カマウさんの生き方に全面的に共感を覚えたに違いない。中国の学生をあれだけ愛していたにもかかわらず、彼らに日本語を教えるためにあと一回、一年だけ瀋陽に戻って、そのあとはケニアに行って子供たちを自らの手で支援すると決意したのだから。
野呂先生は今年の6月30日に瀋陽の私たちに別れを告げ、8月10日には日本を発ってケニアに向かった。300万人のナイロビ市民のうち半数が市を取り巻くスラムに暮らしているがそのスラムにも段階があって、市から離れるほど程度が低くなると言う。野呂先生の目指したホームはナイロビから12 km離れたマイリサバというスラムだったが、彼女はそこから歩いて20分の一応電気も水も来る宿舎にほかの日本人ボランティアと一緒に住むことになった。
チルドレンズホームでは野呂先生は3〜4才の子供を受け持って、工夫を凝らしながら絵や工作などを教え、さらに5という概念をどうしたら子供に教えられるかと算数の領域に踏み込んで教え方に考えを巡らしていたと言うことだった。子供たちがすぐ野呂先生に懐いて、「のろシューシュー(おばあさん)」と言いながら子供たちが彼女のあとをついて廻ったという。
野呂先生は最初の滞在を45日で切り上げて一度日本に戻ったけれど、それは現地の子供たちが貧しいために医療を受けられずに死ななくてはならないことに心を痛め、日本で寄付を募って「ケニア子供治療基金」を立ち上げるためだった。3週間日本にいて募金に駆け回り、再度ケニアに戻った野呂先生はカマウさんと一緒に11月4日にナイロビを発って、ウガンダのカマウさんが以前作った職業訓練所で今は小学校になっている施設を4日間の予定で訪ねた。そこではケニアと違って、学校は緑豊かな広い敷地に建っていて、人情も気候も良く、何時も忙しかった野呂先生はとても心が和んだという話である。
さらにタンザニアに用事のあるカマウさんと別れて、11月10日に野呂先生はナイロビに一人で戻って来た。旅の疲れを休めたあと、「ケニア子供治療基金」へのレポートを書き、ナイロビの美術館も見に行き、大使館でNGOの活動データを調べたりしていたという。
11月18日には日本人ボランティアの一人であるタクロウの誕生日で、その為の料理は野呂先生が作ったという。翌日の19日は野呂先生の具合が良くなくて、もう一人の日本人ボランティアのエミが粥を作ったけれど、野呂先生は手を付けなかったという。
ずっと部屋に引きこもっていた野呂先生は、21日にはエミの用意した果物を食べたということだが、そのあと分かっているのは11月26日朝、鍵の掛かっている扉を外から破ってタクロウが中に入り、野呂先生がベッドの中で亡くなっているのが見つかったことだけだ。カマウさんはこの間現地に不在で、その翌日知らせを受けて旅先から戻ってきたということだ。
野呂先生がどのような事情で身体が不調だったのか、医者の手当てを受けなかったから、今となっては分からない。死後の検案で死因は肺炎と報告されているが、大体人の死の8割は最後は肺炎である。肺炎が本質的な死因ではなかろう。
19日以降、食事をした形跡のない野呂先生を同じ宿舎に住む日本人ボランティアがどのように世話したのか、カマウさんの説明は不十分かつ不明瞭である。突っ込んで聞いても、カマウさんはずっと不在でその場にいなかったというから、返事は曖昧である。それ以上は、こちらには問いただす資格がないから、野呂先生の死に至る経過は不得要領のままである。野呂先生は誰からも十分看取られることなく、数日間放置されたままで亡くなったことだけは、確かなことだ。
刑法が専門だという野呂先生の姉上は、しかし、これを司直に訴えて刑事問題にする気はないとのことだった。第一に飢えと貧困で死んでいく子供たちを少しでも救おうとしているホームは、言ってみれば戦場みたいなところで、若く頑丈な兵士が必要なところに、身体の弱い老人が参加したのが間違いであった。第二にボランティアをしている日本人二人に手落ちがあったと思われるが、彼らを訴えて二人の将来を傷つけたくない。第三に彼らの責任を問うことを妹は望まないであろう。
中国の仕事を捨ててまでもケニアのチルドレンズホームに身を置いて子供たちを救うために自分を懸けた野呂先生。さらには募金に情熱を以て日本を駈け回った野呂先生。その報いがあまりにも非情だったことが悲しい。それでも、野呂先生だったら「それでも良いじゃないですか」とおっしゃるだろう。そう思うこともまた悲しい。
急な用事が出来て上海に行くことになった。野呂先生の追悼会を上海で開くことを彼女の実姉が計画したのだ。上海訪問は夏以来二度目になる。そのとき以来上海に行く機会を待ち望んでいたけれど、これには大きな、あまり芳しくない理由があった。
この夏日本に戻る途上、卒業生の沈慧蓮さんを頼って上海に遊びに寄って、沈さんに毎日案内して貰っただけでなく、沈さんのうちに4晩も泊めて頂いてご両親に大変世話になった。そのあと日本に戻ったとき、山中塗の文箱をご両親へのお礼として買い求め、そのデパートから送ってもらおうとしたけれど、郵送すると関税を取られることが分かった。それでは迷惑を掛けることになるので、どうせ中国に行くのだから、自分で持って行って瀋陽から送ることにした。
ところが中国で小包を送るとなると、自分で作った包みを郵便局に持っていって発送するというわけにはいかないことが明らかとなった。郵便局に行くと郵便を出す窓口のあるのは日本と同じだけれど、その窓口と直角にもう一つカウンターがあって、そこで送ろうとする荷物の中身を全部出して調べて貰うことになる。係員は二人いて、一つ一つ中身を手に取ってみて詳細に調べる。そして窓口においてある箱に手際よく入れて、テープで封をして返してくれる。
その箱を持って、あらたに小包の発送を依頼する係の所に行ってやっと小包が送り出せる仕組みになっている。ということは、贈り物の文箱が傷むことのないように、買ったところで厳重に包装してくれたけれど、それをすべて一度は取り外さなくてはならない。おまけに彼らの手でいじり回されたら美しい表面がべたべたと汚れてしまうだろう。それを彼らの前で綺麗にぬぐうことが出来るだろうか。そしてまたクッションで厳重に包んで、郵便局の小包用の箱に入れることが出来るだろうか。
このように中国の郵便局で荷物の中身をすべて検査するというのは、送り手を、つまり一般大衆を信用していないためだろう。炭疽菌テロ事件を思い出してみると、この方式なら、あのような危険な物質を送ることは起こりにくいことに違いない。日本や米国みたいに自分で包装して何でも送ってもらえる仕組みは利用者に便利だが、それは利用者の善意を前提にしたシステムであり、一旦悪意ある送り手が登場すると非情にもろいことが理解される。
郵便局に贈り物を持っていって送り出す予行練習を、頭の中で何度もしたけれど、どうも難しそうだ。となって、どうすればよいかの方策のないまま、そのまま放置していたのだった、礼状も書かずに。
何時か上海に行きたいと思っているうちに上海に行く機会が出来て、まず連絡を取ったのは今京都に留学している沈慧蓮さんだった。
「今週末に突然の用事が出来て上海に行くことになりました。それで、夏に日本で求めた礼物を持って上海のあなたのご両親に会いたいのです。 ずっとお礼の手紙を書かないまま数ヶ月経ち、きっとご両親は怒っていらっしゃると思いますが、もし許して頂けるなら、是非、土曜日の夜お会いして一緒の食事に誘いたいと思います。予定がtightなのでこちらの都合を押しつけることになりますが、許して下さい。
土曜日は瀋陽を午後3時10分発の飛行機CZ6501で発ちます。上海空港浦東飛行場には5時過ぎにつくでしょう。モノレールに乗り地下鉄に乗り、お宅のある駅で出会いたいと思います。6時半頃でしょうか?
何処に食事をお誘いしたらよいでしょう? 夏にご馳走になった美林閣ホテルの上海料理はとても美味しかったので、できればそこに行きたいと思います。ご両親に予約しておいて戴きたいと頼んで下さいな。
大事なことは、今度は決してご両親に払わせてはいけないと言うことです。そんなことをしたら、私は恥ずかしさのあまり死んでしまいます。」
これに対して京都に行ってまだ3ヶ月の沈さんからは、「とんでもおまへん、うちで蟹を食べて欲しいとうちの親がゆうてはります」という京都弁の返事が来たけれど、「いえ、それでは私の面子 が丸つぶれです。面子を潰されたら中国で生きていけません」と凄んで見せて、こちらが招待する約束で土曜日の夜会うことになった。場所は空港バスが運んで くれる美林閣ホテルのすぐ近くのバス停である。
上海行きの同行者は今度は妻ではなくて、通訳として私が同行を求めた学生の胡丹くんだった。瀋陽から2時間で飛行機は上海空港に到着し、空港バスは思ったより早く、東方路のバス停に着いた。そこには懐かしい沈さんのご両親が暖かい笑顔を浮かべて私たちを出迎えて下さった。固い握手に感謝と謝罪の言葉の連続で友情回復。
すぐ近くの美林閣レストランの入り口には蟹が皿の上に置かれて私たちを迎えている。今が上海蟹のシーズンなのだ。今日の料理を父上に選んで戴きながらこちらは胡くんを通訳としておしゃべりを続けていたら、母上が「蟹はここで食べると高いですよ。一つが80元します。うちで食べると一つ10元だったのに。それで、いくつ注文しましょう?」頭の中で素早く暗算をした。ひとり一つで320元、二つにすると蟹だけで640元となる!予算が足りない!それで招待側の面子をさっさと投げ捨てて「一つずつにしましょう」と決めてしまった。これに は、ここで見栄を張って蟹を沢山注文しても、「うちでなら一つ10元なのに勿体ない」と思われるに違いないという計算も入っている。
初めて旬の時期に食べた上海蟹は、さすが評判通りのもので、これに夢中になる人の気持ちがよく分かった。蟹の甲羅を目玉が上に来るようにして立てたとき尻に当たる白い肉の部分が白蝋みたいに堅くなっていて、これに芳香があってそして絶妙な舌触りで美味しい。
いい加減な面子はいとも簡単に潰れてしまった。お金を貯めて、来年また上海に来て面子を取り戻す?それとも面子を捨てたまま、来年は真っ直ぐ沈さんの家を目指す?武士の末裔としては悩んでしまう。
2004年 の歳の暮れを、瀋陽に来てから出来た友人夫妻に誘われて、私達は瀋陽の五つ星ホテルで過ごした。年末年始はホテルで過ごすのが日本ではファッションとなっていても、私たちは実験の都合があって年末年始も休むことがほとんどないので、私達はホテルに滞在したことは一度もなかった。
しかし、今瀋陽で暮らしていると毎日がアパートと大学の往復で、朝は早くて夜が遅い上に大学はすぐ近くである。日曜日の午前中はこれも近くのカルフールにグロサリーに出かけるけれど午後はまた大学に行くというような生活をしていて、私達の生活にはあまり変化がない。これは良くない。このような日常性の繰り返しに、時には非現実的な不連続性が入り込まないと頭がおかしくなるぞと頭の中のささやきが聞こえ始めたときに、友人から誘いを受けたのだった。
誘ってくれた友人は瀋陽日本人教師の会の中道先生夫妻だった。私たちは日本語の教師ではないけれども、全くひょんなことでというか、世話好きの先生に連れられて瀋陽で日本語を教えている日本人教師の集まりに顔を出したのが運の尽きか、運の付きか、今はこの会のホームページを作ったりしてどっぷりと嵌ってしまっている。特にこの夏までの一年間は教師の会の「日本語クラブ」の編集・発行をお手伝いする中で、同じ編集仲間の中道先生と親愛の度を深めていったのである。
中道秀毅先生は芥川龍之介に私淑する文学青年と言って良いだろう。お歳は私たちよりちょっと上だから青年も何もないのだが、気持ちは無垢な文学青年のままといって良い。飄々としながらもすべてに自分の感性と発想を大事にしてごく無邪気に自分の考えを口にされる。
瀋陽には瀋陽日本人会という団体がある。会員数300名くらいの会である。教師の人たちは教師会会員という特別の資格を貰って会費半額で参加しているけれど、日本の水準で給料を貰い、企業活動のための資金も潤沢な企業人と、一方現地の中国人と同じ給料を貰って働く我々とは経済力に天と地ほどの差がある。会社人間はテニス、ボーリング、ゴルフ大会などを催して親善を積み重ねられるけれど、教師の給料ではとても参加出来ない相談である。教師は日本人社会に、企業人と対等の立場で入っていけないのだ。
この日本人会の幾つかの催し物のうち年末のクリスマス会が最大イベントとなっている。瀋陽日本人会の催し物のほとんどは教師には無縁なので、それだけにせめて年一回は一緒に集まろうと言うこともあって、日本人会はクリスマス会に力を入れている。クリスマス会の実行委員会には教師の会からも参加している。
以前、教師会の定例会のときに実行委員会のメンバーから今年のクリスマス会への要望を問われて、中道秀毅先生は「クリスマス会で座る所ね。あれは私達はバラバラのテーブルに座らされるでしょ。だから、テーブルに座っても周りは会社の人ばかりでね。会社の人たちは互いに知っているけれど、こっちは誰一人知らないから除けもんになっちゃって、ちっとも面白くないですよ。教師の会の会員でテーブルを囲むことは出来ないでしょうかね。今度は是非教師で纏まって坐れるようにして貰いましょうよ。きっと楽しいですよ。」とおっしゃる
なるほど、なるほど、その通りだったと思う。昨年私達が割り当てられた席は妻と二人のほかはすべて初対面という孤独だった。どうも私を含めて日本人は、初対面同士がテーブルを囲んだときに全員の口がほぐれるような話題を出すのが苦手である。おまけに、皆が同じように白紙ならともかく、ほかの人たちは互いに知っているのだ。私は努めて隣の会社の人と話したけれど会話はぼそぼそとして弾まなかった。
教師だけでテーブルを占領したら話は通じるし楽しいだろう。でも、教師だけで集まったら問題があるなあ、と思う。会社人の中に孤独に放り込まれた教師の抱く悩みは救えるけれど、今度は別の問題が生じてしまうだろう。
でも秀毅先生はまず問題提起をする無邪気さを持った先生だ。「福引きの景品だってね。」と話は続く。「去年は一つ当たるとその人がもっと当たって賞品をあらかた持って行ってしまって、こっちには何一つ来なくて詰まらなかったんですよ。景品はどんどんそっちに行ってしまってね。」ここで皆がどっと笑い転げても、隣で中道夫人の恵津先生が「ちょっと、あなた、もういいじゃない」と袖を引っ張っても、秀毅先生は動じることなく話を続ける。「だけど、折角クリスマス会に行ってカレンダーの一つだって貰えれば、誰だって楽しみなんだから、全員に何かの形で当たるようにして欲しいですよね。ね、そうでしょ?」クリスマス会担当の係は「はい、そうですね。これを実行委員会に伝えておきますね。」と、ニコニコして受けた。
この発言は実行委員会に伝えられて効果があったらしく、その年の会は、福引きで上位十数名には豪華賞品も出たけれど、最後に全員が何かしら貰って帰ることが出来た。沢山のお土産を持った秀毅先生は「よかったですねえ」と皆から言われていた。
人間社会は本音の剥き出しでは生きていけず、それを仮面というオブラートで包まないと生きて行き難いところがあるけれど、秀毅先生は常に本音を述べて、しかも皆から好感をもって迎えられる得な性分である。
中道夫妻は週末を利用して、瀋陽のホテル数カ所を見学してそれぞれの特色、宿泊料を調べて下さった。中山広場の瀋陽賓館は昔の大和ホテルで長い重厚な伝統があるけれど、それだけに施設は近代ホテルに比べて見劣りがする。隣のホリデイインは明るく近代的。その隣のインターコンティネンタル(州際酒店)は五つ星で申し分なし、値段も 最高。
州際酒店は最高の値段だけれど、全日空のカードを持っていると割引になることが分かり、カードをお持ちの中道先生のおかげで思ったよりも安く泊まれることも分かった。大晦日の日には非日常的時間を送りたい私たちは迷うところなくインターコンティネンタルを選んだ。
一緒に時間を過ごす友人がいるという喜びと、年末年始を初めてホテルで過ごすという嬉しい期待に胸を弾ませながら、2004年の大晦日の午後3時半、私たちはタクシーに乗ってホテルに到着した。
瀋陽に五つ星ホテルは二つある。どちらもこの五〜六年の間に出来たという話で、それはその頃から瀋陽が発展し始めたことを意味しているのだろう。一つはホテルマリオット(万豪酒店)といい、瀋陽日本人会が毎年クリスマス会を開いているホテルで、南にある桃仙機場(空港)から瀋陽市に近づいて来ると、群れをなす高層ビルの中で金色に輝いている建物がこれである。もう一つがこのインターコンチネンタルホテル(州際酒店)で中山広場に近い瀋陽の中心地に位置している。道を隔てて日中戦争前は満州医科大学だった中国医科大学が眺められる。
午後3時半にホテルに着くと入り口で中道先生お二人の熱烈な出迎えを受けた。カウンターでチェックイン。このときにまず宿泊料の二倍の人民元をデポジットとしてホテルに預けなくてはならない。中国のこの仕組みを知らないでいると、ホテルの宿泊料金に相当する金は持っていても、実際は泊まれないことになる。先日上海に行ったとき、瀋陽が大雪のために帰りの飛行機が飛ばないかも知れないと聞いて青くなったのはこのためである。前の晩に見栄を張ったので、デポジット二人分の現金が残っていなかったのだ。
この大晦日の夜は、「ホテルに泊まってNHKのBS放送で入る紅白歌合戦を一緒に見ましょう」というのが中道先生の誘いだった。紅白番組は中国の時間では7時半に始まってしまう。それで4時半にはともかく夜の食事をしよう、でもホテルの食堂は高いからと意見が一致して、厳重に身拵えをして外に出た。互いに見栄を張らない付き合いの出来る友人はありがたい。というか、見栄を張らないで付き合えるから、友人なのだ。
直ぐ隣にあるホリデイインを過ぎてから裏通りに廻ると、レストランがいくつもあって、その中の一つに「○○餃子館」というのを見つけた。「大晦日だから、餃子を食べなくっちゃ。」と叫ぶ。中国の東北地方では、餃子が大晦日の年越しそばに相当する。秀毅先生は「あの店は客がもう入っているから」と目敏く中を見透かして、「きっとおいしいよ。こういうところが美味しいんだ。」ということで中に入った。直ぐに曇って全く用をなさない眼鏡を外して拭うと、ごく普通の、しかしこぎれいな店だった。この時間なのにもう数組の客が入っている。
「ご縁があって、今日は一晩ご一緒することになりました、どうかよろしく」とビールで乾杯して、普通の総菜4種類と餃子3種類を注文したけれど、どれも美味しかった。餃子はかの有名な、値段でいうことこの店より5〜8倍も高い中街の老舗の老辺餃子館に負けない美味しさだった。
大いに満足して店を出る。空気は凍てきっていて肺が冷たい空気で満たされて新鮮な気分になる。でもすぐに身体中が冷えてくる中をホテルに戻ると、時間は丁度7時半となろうとしていた。
紅白歌合戦といっても、実はもう何十年もの間ほとんど見たことがない。私の知っている歌は「今日は赤ちゃん」や「恋の季節」の時代までだ。そのあと留学して歌番組との断絶があってからは興味を失ってしまったが、反紅白というほどのこともないから、一緒に見る気でいる。
もう紅白は始まっていたけれど、恐れたとおり私にはどの歌も、そしてどの歌手もほとんどなじみがなかった。NHKの会長が悪い事をして非難されていても、現場はしっかりと頑張っているらしく演出は綺麗である。
8時近くなると、秀毅先生が「秦の始皇帝の暗殺をしようとした荊軻を知っているでしょ?これを今ドラマでやっていてとても面白いんですよ。」とおっしゃる。恵津先生は「あなた、そんなことを言って。今日は紅白見ることになっていたでしょ?」と秀毅先生をたしなめているけれど、「だって、山形先生にこの面白い番組を紹介したいんだ から、いいじゃないか?」と主張を変えない。
「ね、あの荊軻の話ですよ。全三十話のドラマになっているのを、いま毎日二話ずつ再放映しているんですよ。いま面白くって毎日見ていてね。今日は二十一話と二十二話なんだ。」私たちは紅白よりも、元来中道夫妻とおしゃべりをして過ごすのが主目的だし、中国の歴史の話は大好きだ。
それでチャンネルは荊軻伝奇に変わったが、私が陳舜臣の本で読んでいる荊軻の筋書きと違っている上に、中国語だから話を追うのは難しい。しかし、幸いなことに恵津先生が秀毅先生のために字幕を素早く読んで日本語にしているのが聞こえるので、大体付いて行ける。
時々、せりふが簡単で分かりそうだというので彼女が手を抜くと、場面が次に移っていても秀毅先生が「今なんって言った?」と、子供が駄々をこねるのとそっくり同じなので、思わず笑ってしまう。しっかり者の恵津先生に、やんちゃな秀毅先生の組み合わせは絶妙である。私たちは紅白を見るよりもよっぽど面白い夜を過ごしている。
ドラマの中では荊軻とは子どもの頃の友人ということになっている秦軍の将軍樊於期が、部下の見守る中で荊軻を見逃したというので罪を得て、牢に入れられた。この樊於期将軍を演じている俳優は目元がすっきりとしていて感じが良い。樊於期将軍が牢に繋がれ断罪を待っているところで、あとの話は明日になってしまった。
将軍を取り巻く情勢は深刻である。しかし秀毅先生によると「この俳優は主役の一人に違いないから、これで首を切られたらドラマが詰まらなくなっちゃう。だから大丈夫。死なない。」とのことだ。実際彼に惚れ込む女性も出てきたから、ここで首が刎ねられてはいけない。
後で調べてみると、樊於期将軍は燕の国に逃れ、燕の国の将軍となって今度は秦と戦っていたが、荊軻が燕王に頼まれていよいよ胡丹王の刺殺に行くとき、大きな土産がなければ秦王に会見してもらえないからといって、自刎して自分の首を土産に持たせている。
荊軻が秦王(始皇帝)の暗殺に成功しなかったことは誰もが知るとおりで、荊軻が秦の国に向かって出立するとき述べた言葉も「風蕭蕭として 易水寒し 壮士一ひとたび去って また還らず」と「史記」に記録されて以来二千有余年人口に膾炙している。
二千二百年前の話がずっと語り継がれて今も息づいている国、その始皇帝が統一した文字で書かれた書物が今でもそのまま読める国、古代と現代、貧と富が共存している国、現代の最高設備のホテルに泊まってこのような中国に思いを馳せる贅沢を味わった一晩だった。
研究室は元日から休みなし。私たちは午後から参加。夜は私の誕生日の祝いをかねて皆で一緒に外に食事に出かけた。
二日は日曜日だったけれど昼前からラボに出かけた。午後は日本語教師の加藤先生の一緒の作業。傑作なのは、午後教授室に入ってきた胡丹に加藤先生が「おめでとう」と新年の挨拶をしたら、胡丹はびっくりして「何が?」
元日に顔を合わせた私たちは口々に「新年快楽、万事如意」と言い合ったけれど、中国の人たちにとっての新年は旧暦の春節なのである。二日目には今が新年であることをもう忘れていたのだ。三賀日というのは日本人だけ。
私たちと研究室の学生は暮れのある日の午後、在瀋陽日本国総領事に招かれて公邸にお邪魔した。隣の研究室の池島先生とその学生も一緒で、総勢28名が伺った。これは12月初めに小河内総領事の講演が瀋陽薬科大学で行われ、その翌日池島先生の招きで総領事が池島研究室を訪れて親交を深めたことに端を発している。
池島研究室のセミナー室を使って開かれたその宴の半ば、総領事の国際政治談義と白酒の酔いがとどまるところなく深まっていく中で、「今度、皆さん公邸にいらっしゃい。あなた達学生さんを公邸を挙げて招きますから、日中の友好を深めようではありませんか。先生たちも是非どうぞ」という発言が総領事の口から飛び出した。話はどんどん進んで「28日なら昼からは御用納めだから大丈夫。」ということになった。
驚いたのは総領事と一緒に来ていた秘書の谷さんで、「だって料理方も休みになるのにそんなことして大丈夫ですか?」とおろおろする中、「いや、大丈夫、やりましょう」ということで決まった招待だった。気の毒に、御用納めの日の夜も解放されないことになってしまった秘書の谷さんは、日本人以上に見事な日本語を操る美しい中国人女性で ある。
28日は午後5時という約束で、私たち総勢28名はタクシーに分乗して領事館に向かった。この領事館は二年半前に脱北者が駆け込んで、その人たちが中に入ってきた武装警察に引きずり出されるという事件のあったところである。当時と今とどのように違うか分からないが、通常の塀を取り囲んでさらに3m位外側にもう一つ金網の高い塀があるし、門の両側に詰め所を置いて中国の武装警官が10人くらい門を警備している。日本国総領事館は米国総領事館と並んでいて、この二つの建物が面している道は両端が封鎖されていて車では入れない。
門の手前でパスポートを出して、あらかじめ送ってあった私たちの名簿と照合を受けて一人一人門の内側に入ることを許され、そこで文化担当森領事に握手で迎えられた。外はマイナス26度の寒気である。「さあさ、中に入って」といわれて右手の建物に入り、広々としたポーチでコートを脱ぐまもなく、総領事と総領事夫人に暖かい言葉で歓迎を受けた。
まずは升酒で乾杯。そして場所を移してビールで乾杯。学生たちは、広々とした部屋の豪華でシックな飾り付けと落ち着いた調度に感銘を受けている。ここは中国の人々と接触する日本を代表する公的な場所なのだ。
小河内総領事は、「瀋陽は中国の重要な都市です。これから10年のうちに中国経済の牽引力となって大きな発展をするでしょう。ま、見ていてご覧なさい。たとえば、渾河に掛かる橋は2020年までに何本になると思いますか?」
瀋陽は渾河(別名瀋水)の北に出来た都市なので、瀋陽という名を持っている。中国は古来このような命名が行われていて、洛陽は洛水の北の街だし、淮陰は淮水の南に出来た街である。いま瀋陽の街は渾河を越えて南に発展し続けているが、この河は利根川くらい広い河だから、今はまだ3本しか橋が架かっていない。「先のことだから何本と言ったって大丈夫なんだけれど、10本の橋は確実ですよ。」と総領事は請け合っている。学生たちは谷さんの通訳を聞きながら、ホント?と互いに顔を見合わせている。
「ことによると20本かな。」と総領事の話はでかい。「今まで中国は南の上海を中心として経済的に発展してきたけれど、土地だって限界があるでしょ。今上海に250棟の高層ビルがあるけれど、後5年のうちにそれを500棟にする計画がある。だけど、それをやってもね。人的資源も、電気、水の資源も飽和しようとしてますよ。おまけに南の方の開発はね、工場は織物や家電中心だったのですよ。」
「でも、本気で中国の工業を発展させようとすると機械を作る機械を自前で作るようにしなくてはならない。遼寧省はそれを考えています。それを可能にする教育レベルも、土地も、動力の資源も、水にもここは恵まれているのです。その中心となるのが瀋陽なんだなあ。今瀋陽で勉強してる君たちはとても恵まれているのですよ。」
私達は先ほどとは違う広い部屋の中に三カ所に分かれて座り、総領事夫人、森領事、および通訳を含むスタッフ3人が手分けしてそれぞれホスト役を努めている。端から見たらとても偉い総領事だけれど、夫人から見ればただのうちの人だからだろうか、喋る総領事の隣で総領事の袖を引いている。小声で「あなた、いい加減になさいよ、すぐ話が 大きくなって、長くなるんだから。」
総領事夫人には全く気取りがなく、私達に十分な気配りをして私達は心からもてなされているという気になっている。外交官夫人なのに権高くないところが庶民的なのか、逆にそれこそが外交の神髄なのか分からないけれど、私達を含めて学生すべては彼女のことも大好きになってしまった。
広いダイニングには、寿司、天ぷら、唐揚げ、焼き鳥、煮しめ、焼き魚、などの料理がずらりと並んでいて、私達はそれを取ってきて食べながら、総領事、夫人、スタッフの方々と歓談を続けたのだった。
「世界平和は、最終的には日本と中国が安定した関係が築けるかどうかに掛かっているのです。」総領事はこの話で講演をするために12月初めに薬科大学に招かれた。今日もその主題の話が続く。総領事の考えは、私達のように普通の人が世界は平和であって欲しいというような単なる祈願ではな く、自国の利益を追求する国と国がぶつかりながらも存在して世界を作っている中で、どのような世界戦略を持てば世界に平和がもたらさるかというところに 発している。
従って話は世界情勢の分析に始まり、各国政策の解析に至り大変面白い。いい加減な思いつきでものを言っているような政治家ではなく、このような発想の人が日本を主導したら日本も少しはましな国になるのではないだろうか。
確実に時間は流れ、やがて若人は大人になっていく。今ここにいる優秀な若者は誰もが中国各界の有為の人材となるだろう。彼らが個人のレベルで友好を積み上げて日中親善を築くことで、双方の国が世界の安定に貢献するようになるその第一歩がこの夜確実に踏み出されたに違いないと思いつつ、零下26度に凍える瀋陽の街を温かな心を抱いてうちに帰ったのだった。
マダム鳴海の芸術写真の続編をずっと預かっていて気になっていたのを、やっと休みを利用して電子ファイルにして、サーバーにアップロードすることが出来た。
みなさま、怒濤のごとく迫るマダムの写真を堪能して下さいな。
書記係の長澤先生から名簿の改訂版が送られてきた。12月で大久保先生が帰国、代わりに中村直子先生が着任された。