氏名とふりがな:山形 達也
氏名(ピンイン)(四声は無理ですね):Shanxing Daye
勤務先名:瀋陽薬科大学110016 瀋陽市瀋河区文化路103号29号信箱
宿舎住所:瀋陽市瀋河区五愛街55-10、802号室
電話:自宅024-2390-2575、勤務先024-8389-0074
FAX:勤務先024-8389-0024
携帯電話:13332468824
E-mailアドレス:tcyamagata@pop16.odn.ne.jp
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自己紹介:
東京工業大学を定年になって財団法人日本皮革研究所で5年間過ごしたあと、この夏から瀋陽に赴任しました。まだ中国語は分からないのですけれど、薬科大学学生の強烈な知的好奇心と熱心な向上心と向かい合って、楽しい緊張とともに毎日を暮らしています。
日本の出身地:
都道府県・都市・町名:生まれ育ちは東京都目黒区。今は横浜市青葉区
日本語教育・授業・学生についての感想:
日本と違って学生は師を心から敬っているように見えますが、一方で誰とでも対等に議論する(口論する)態度に彼らのたくましさを感じます。
着任地の印象は:
果物・野菜が新鮮で美味しく、しかも安くて大いに気に入っていますが、街をあまり綺麗にしようとはしていませんね。
そのほか自由にどうぞ:
ここに住む人たち皆が街を綺麗にする気になって欲しいと思います。
ここでは、交通ルールが守られているとはとても思えず、ことによると瀋陽が私の青山になるような気がしないでもありません。
シャーロック・ホームズを読んだことのない人はいないだろう。そのホームズが活躍した頃のロンドンというと、霧に包まれた冬のべーカー街が思い浮かぶ。この冬になると現れるロンドン名物の霧は、実は各家庭で炊く暖房の石炭の煤煙が原因だった。今のイギリスでは、霧のロンドンはホームズの話に出てくるものでしかない。
冬になるとこの瀋陽でその霧にどきどき出会うことがある。ひどい時には、霧で遮ぎられて夜の大通りの向こうの建物が見えない。ビルの窓の明かりのあたりがぼうと薄明るく滲んでいるだけで、街は白いベール一色に包まれる。詩的で美しい。ホームズの時代をここで偲ぶことが出来る。しかしこれは冬季の暖房のための大気汚染が原因である。
夜だけではなく朝も白いもやに包まれていることがあるし、昼間はほとんどが曇天だ、視界は広がらず、空気が濁っているのが目に見えるし、鼻には石炭の煤煙の匂いが忍び寄る。
私たちの住んでいる瀋陽の街では個人邸宅はまず見ることはなく、街はオフィス、商店、そしてアパートのビルで占められている。暖房は地域暖房と呼ばれていて、街区の中の単位ごとに建物全体が石炭で暖められたボイラーから運ばれる湯がパイプを駆けめぐって、暖房されている。
部屋には日本のスチーム暖房と同じ放熱器が置いてある。中国で感心したのは、中を流れるのがスチームではなくて湯であることだ。今まで経験した日本の職場では、暖房が入るとそれがスチームという高温蒸気が流れるからラジエーターはたちまち熱くて触れないほどになり、部屋の温度もあっという間に上昇して、窓を開けて温度を調節しなくてはならないほどになった。ここでは湯を流しているので、ラジエーターはほのかに暖かく、一日のうち朝と夕方しか湯が流れていないと思われるけれど、部屋の温度は大体20度前後にきちんと維持されている。
大学の構内の西の方に行くと、私たちの住んでいるアパートとはSARSの時に高い塀で区切られてしまったけれど、その境のあたりの建物が暖房をしているボイラーで、熱源は石炭だ。建物の周りには石炭が山となって積み上げてある。そこに行って石炭を手にとって調べると、黒い石炭の中に琥珀が埋まっているかけらも見つかる。
瀋陽には日本語教育をする高校・大学の他に日本語学校があって、そこで日本語を教える日本人が20人前後が瀋陽で互い助け合いができるように「瀋陽日本人教師の会」を作っている。日本語を教える人たちには中国人の先生もいるけれど「瀋陽日本語教師の会」ではない、入会資格は日本人だけである。
妻とぼくは日本語を教えているわけではないけれど、この会の名称からして入会できそうである。
2003年6月にこれを最後に瀋陽薬科大学を去る坂本先生に連れられて出かけて行って、2003年度最後の定例会に出席し、瀋陽日本人教師の会に貞子とともに「瀋陽日本人教師の会」に入れていただいた。会長は石井康男先生である。改めて新学期の9月からは日本人教師の会のホームページを担当することとなった。日本語教育からは一番遠いと思われる仕事である。相棒は河野美紀子先生。MacではなくWindowsを使わなくてはならず、慣れないホームページ作成に苦労を重ねて、年を越すうちに、ホームページ担当が今年1月限りで帰国する河野美紀子先生から八木万祐子先生に替わった。
やっと、2003年度の会員紹介を付け加えたうえに、前会員の欄を作成した。2003年4月に開かれた7回日本語弁論大会入選作品を載せた。4月に開かれる8回日本語弁論大会の案内を載せることができた。これらの変更に伴い、index pageが変わった。前任者が作成して以来、今回の更新までになんと1年以上が経過していた。
なお、貞子は「日本語クラブ」編集の係になった。
瀋陽日本人教師の会が不定期に刊行している雑誌「日本語クラブ」がある。この内容をホームページに載せることにして、「日本語クラブ16号」の記事から、特別企画の留学生の物語、および会員からの寄稿を載せた。 今後の「日本語クラブ」の記事は、これからはこのホームページの定番として公開していきたい。
「日本語クラブ15号」の記事から、日本語資料室の設立の経緯および資料を採録した。これは貴重な資料なのでこのホームページに恒久的に維持したら良いと思う。資料によると石井先生が苦労をかさねて会員が集まることのできる日本語資料室を瀋陽に設立した。
日本語資料室を新しく利用する人のための案内を載せ(これは「日本語クラブ」から取ったものである)、会員紹介の内容を更新した。新たに、今後の便宜を考えて、このホームページの更新記録を載せることにした。これに伴い、index pageが再度変わった。
2023年に追記
当時は(その後ずっとだが)、ホームページと呼んでいたネット上の自分のサイトは、英語圏では(そしてわたしたちも今は)Websiteーウエブサイトーと言う。この最初のページが英語圏ではホームページと呼ばれる。ここでindex pageと書いているのは、このWebsiteの最初の表紙となるホームページのことである。
紛らわしいが、ここでは当時使っていたまま、ホームページをWebsiteの意味で使い続ける。
「日本語クラブ16号」の中のモノクロの写真をカラーにしたいという要望があって,いくつかを取り替えた。見栄えに関心が高いのは大歓迎。
瀋陽薬科大学山形研究室の公式ホームページを初めて作成。まずは、日本語版だけで、しかも一部しかできていないけれど公開に踏み切った。このあと、漢語版、英語版も作成する予定である。
有 料のgeocitiesにスペースを確保して、ファイルのアップロードはできたにもかかわらず、なぜかweb上では準備中となって見ることができない。そ れで、急遽、「彼はクールな目で女性を殺す」と女性の間で密かに囁かれている修士課程1年の魯さんの手配で、go.nease.netでの公開となった。
2003年9月に研究室が発足したときから、研究生として研究室のset upのすべてに亘って力を注いで研究の発足と助けてくれた朱性宇さんが、今日瀋陽発の全日空機に乗って日本に向かった。
彼は中国に滞在したまま受験して慶応大学大学院の修士課程の入試に合格したのだった。彼は将来中国と日本の間の良い架け橋となる人材である。今後の朱性宇さんの健康と発展を願ってやまない。
昨日のApril foolの日は大いに楽しんだ。内容はいずれ山形のwebsiteで紹介するとしよう。
昨日苦労してgeocitiesにつなげようとして果たせなかったが、一日経ってやっとつながったので、こちらで公開する。ただし、どうしてか無料版である。
研究室の魯さんは、漢語、英語、日語の全体を統一したホームページを作成中。乞うご期待。
昔の日本には神風タクシーという言葉があった。第二次世界大戦の末期に、彼我の間の破壊兵器に歴然とした物量の差があって為す術のない日本の軍部が、片道燃料と爆弾を積んだ戦闘機を敵艦に体当たりさせるという戦術を編み出し、その最初の攻撃隊に付けられた名前が神風特別攻撃隊だった。
この戦術は日本敗戦の日まで続けられ、アメリカ海軍はこの自爆攻撃法を「カミカゼ」と呼んで恐れたという。
1960年代の高度成長期の頃の日本のタクシーの運転は乱暴だった。互いに道を譲るどころかホーンを音高くならし人や車を蹴散らして走り回っていた。誰が名付けたのか、神風運転とか神風タクシーとか呼ぶようになった。
我が物顔に走り回るタクシーに畏怖と恐怖の念で神風タクシーと名付けた気持ちは分からないでもないが、自分の身は国のためと信じて体当たりして果てた人たちを指す神風の名前を乱暴運転に使うのは良い気持ちがしない。20歳になるかならないかの若者が、自分の命と代えても祖国を救おうと念じた気持ちを傷つけるように思う。
それはともかくとして、今は日本でもカミカゼ運転という言葉は死語になっているけれど、瀋陽に来た途端に、それを思い出した。
日本ではタクシー或いは運転手付きの車に乗るときは運転手の後ろが上席、その隣が二番目、そして運転手の隣のいわゆる助手席が最下位となる。ところが場所が変わって中国では、この助手席が最上席である。タクシーを止めるために瀋陽の道端に立っていると、前に二人乗ったタクシーが結構多い。つまり、ほとんどの場合乗客は助手席に乗っているのである。
私も瀋陽では「入郷随俗」で、タクシーを止めたときに運転手が開けるままに助手席に座ったことがある。そのあとは、もう言うまでもなく察して頂けると思うけれど、本当に生きた心地がしなかった。
私だって日本では毎年2万キロメートルくらいの運転を何十年も続けてきたのだから、運転の腕には覚えがある。ところが「ここでブレーキを踏む」と思ってもタクシーはぐんぐん前の車に接近する。人が先の方の交差点を渡っていて「減速しなくちゃと思うのに」アクセルをグイと踏みこみ、ハンドルを大きく切る。慮外の動きにすっかり翻弄されて、アドレナリンだけ無駄に放出されていくので、目的地に着いたときは体中が疲れ果てて、立ち上がるのもやっとだった。
別の機会でタクシーに乗ったときに、連れの中国人の学生にこの話をしたことがある。「瀋陽のタクシーの運転は乱暴で、日本の昔のカミカゼ運転という言葉を思い出すけど。」
日本語ペラペラの学生だけれどカミカゼ運転は知らない。その説明をすると、学生は声をひそめて「そんなことを大きな声で言うと、殴られますよ」と囁く。よくよく聞いてみると、ここではどうやら、批判は悪口を言っていると取られるから気をつけなさいよと言うことらしい。
なに、驚くことはない。日本だって本音を言って通る社会など皆無といって良い。もちろん、私の属する科学者の世界では、相互批判は日常的なものである。研究は互いの厳しい批判にさらされているが、これは当然のことで、国民の税金を使って支えられているのだからtax payerになりかわって(あるいは神になりかわって)その研究の意味を批判・評価するわけである。けれども、「何をつまらないことやってんだよ。あんたバカじゃないの」なんて言う本音は決して口にはしてはいけないことぐらいは誰でも知っている。でも、「このタクシーの運転は乱暴だね」というと、殴られる危険を冒しているとは知らなかった。
私たち日本人は生活の道具に始まって、文字、漢語、儒教に発するものの考え方、つまり文明も文化も(幸い宦官と科挙は輸入しなかったけれど)、長年にわたり多くのものを中国から学んだ。私の高校の頃は漢文の授業があって、「鼓腹撃壌」、「陳勝呉広」、「連城の璧」、など多くの成句を学びその情景を心に描いてきたので中国の文物に対して違和感は全くないけれど、やはり文化的背景が異なるのだから、もの考え方も違うはずだ。まずは現代の中国の人々の行動の規範と原理を理解することに努力しよう。
<別の学生に「瀋陽の印象がどうですか」と聞かれて「瀋陽の交通事情は世界で最悪だ」と思わず本音を吐いたことがある。道を勝手に横断するのはこちらの責任だとしても、ここでは交差点を信号に従って渡っていても命がけなのだ。ところが、この学生からは「瀋陽の運転手は運転がうまいから速度が沢山出せるのです」という得意げな返事が返ってきた。
やれやれ。でも、これも文化の違いである。互いの考えの違いを受け入れるところからお互いの理解が始まる。交流はまだ始まったばかりだ。相互理解が真に可能になるまで、車に跳ねられることもなく、この瀋陽で生き抜きたいものだ。
4月1日に日本に向かった朱性宇さんからmailが届いた。了解を得て編集のうえで朱性宇さんのページを作った。日本における初めての生活が描かれている。
20230926記:残念ながら、今は見つからない。
検索エンジンにこの瀋陽日本人教師会のホームページが拾われるよう登録をしていたが、4月1日付けでYahoo! JAPANに掲載された旨の通知があった。ただし、6日現在でも「日本人教師の会」で検索に引っかかるのは以前のホームページだけである。ExciteにもGoogleにも登録手続きをしたはずなのに。
昨年2ヶ月間私たちの研究室にいたあと名古屋大学大学院受験に向かった薛蓮さんからmailが来たので薛蓮さんのページを作った。名古屋での生活は順調のようである。20230926記:残念ながら、今は見つからない。
こちらにいたときの彼女の写真をサムネイルで入れる試みに成功した。彼女はここから自分の写真をdownloadできるだろうか。
Yahooで「日本人教師の会」を検索すると(検索エンジンはGoogle)、登録サイトとして、中国>教育>団体=「瀋陽日本人教師の会」が出てくる。ページとの一致の項目でも瀋陽日本人教師の会が出ている。
しかしこれはhttp://www.geocities.co.jp/Outdoors-Mountain/2032/であって、www.となっていて、www02.と異なっている。
これをクリックすると、現在の教師の会のホームページがでることもあるが、読み込みに失敗というメッセージが出て、アクセスできないことの方が多い。日本と中国とで見え方が違うのだろうか。
会員紹介に手直しを入れた。
昨 日、薛蓮さんのページを作って彼女の写真を入れたところ、朱さんのページにも写真が欲しいと研究室の皆がいう。朱さんのページに写真を入れるついでに、研 究室の皆のページを、まず写真を入れて作ってしまった。こうすれば、皆否応なく自分のページを完成するだろう。朱さんから慶応大学における様子を書いた mailが届いた。元気のようで何よりだ。
Recruituit 用に作った「山形研究室希望者へ」のページに、毛沢東の言葉にくっつけて戯れ言を書いたが、これを魯さんがflashで動画にした。この動きだと日本人には読み にくいが、中国の人は一瞬で読み取れるらしい。なお、私の綽名は水滸伝にでも出てきそうな洞窟の山賊の頭目を指す「山大爺」となってしまったらしい。日本 ではヒグマのことである。
中国の床屋は大変安い。大学の近辺の「髪」と書いてある店が5元で、日本円にして65円位のものである。大学の食堂では一人3-5元で食べられるし、繁華街のキャフェテリアでも10元でOKだから、日本の標準の昼食代の半額である。
この店には理髪の椅子が4脚あって、若い男の職人が2人、あとは若い女性が数人いる小型の店である。まず最初に店の奥に導かれて髪を洗ってくれる。そこには理髪の椅子がその背中を思いっきり後ろに寝かせて置いてあり、椅子に仰向きに寝ると、首の後ろから首かせみたいなのが嵌まって来て、襟に水が伝わらない仕掛けである。トイレの便座みたいなものだと思えば正解である。
理髪の椅子に導かれた後は、何しろ漢語がまだ話せないので、手真似で髪の毛をこの辺まで切ってと意志を通じさせたつもりになった後は、若い職人任せである。 この若い床屋さんは二人とも長髪にしていて、しかもカットの具合が大変格好良い。二人ともお互い上手な技術を持っているに違いない。私は日本では髪を長めにしているけれど、中国の床屋では、同じようにという注文も出来ないので、職人任せになる。
<その後は運を天に任せて目をつぶる。先ず髪の毛を持ち上げ手先を切って短くし、それから全体を揃えていく手順は日本の美容院と同じである。そう、私は日本ではいつも美容院に行っていたのだった。そこのマスターと店の雰囲気がすっかり気に入っていてもう20年もの間、床屋も含めてほかの店に行ったことがない。このなじみのマスターに会えなくなったことだけが私の瀋陽生活のマイナス面である。
やがて刈り終わったというのは感じで分かるので目を開けると、鏡の中の私に向かって職人が「もう出来たよ。どうだい?」という顔をする。「ハオ、ハオ」とニコニコして(それしかやりようがないのだ)、又髪を洗って貰い、ブロウして撫でつけられてきわめて格好良く見える髪を頭頂に戴いてうちに帰る。うちに帰ってから再び髪を洗うと、そのあとは短い毛が突っ立って、どう見ても若い学生並みとなる。
私たちの研究室は8時から6時まではコアタイムとなっている。私たちは毎朝7時にはうちをでるので、その15分後にはオフィスに着いている。学生は夜遅くまで実験室にいるらしく、ほとんどは8時直前にやってくる。彼らは先ずオフィスに来て私たちに朝の挨拶をするしきたりだ。
「早上好」といいながら入ってきた魯くんは「おっ」といって自分の頭をさして笑い出す。次の王麗さんは挨拶するどころか、私の頭を指さして笑い転げる。次の沈さんも朱くんも同様である。謎解きは胡丹くんがしてくれた、「それじゃ若者ですよ」と。
この胡くんは私たちに漢語を教えている。先日は「今度の連休は○○と一緒に何処に旅行しますか?」「私は泳ぐのがうまい」のたぐいの表現を教えてくれた。何 時も表現をいろいろと変化させて教えてくれるが、このときは「山形老師は泳ぎがうまいけれど、女の子は誰も一緒には行かない、なぜなら老師は老人だから」という。「うそ、そんなことないよ」と心の中で叫んだが、すとんと腑に落ちたのは、中国では特に「○○らしくする」とか「歳を取ったらこうでなくてはいけない」という類型化が普遍的なのだ。
つまり私は老人の老師だから、ここでは若者らしい髪型をしていてはおかしいのだ。真冬に日本のユニクロで見つけた耳覆いをしていたら、これも「それは年寄りの女性がするものですよ」と言って散々笑われた。
老人らしく振る舞えだって?だけど、そんなことは私には無理である。見かけは如何ようであっても、心は希望に燃える青年なのだ。大体がそうじゃなければ、ここにいるわけないじゃないか。
日本人教師の会の4月の定例会で、後1週間後に迫った「第8回瀋陽日本語弁論大会」の詳細が決まったので、これを「お知らせ」に載せる。SARSのために昨年開催中止となってしまった「日本語文化祭」が5月20日に計画されているので、このお知らせも載せた。
日本人教師の会に新しく二名の先生が加わった。斉藤明子先生、および森林久枝先生である。
日本語クラブの編集後記をホームページに採録した。
日本人教師の会の昔のホームページがインターネットの検索で見つかった。
http://www30.tok2.com/home/sjdc/index.html
2000年~2002年3月のホームページで、当時の山口智子先生の制作によるものとのことだが、現在のところ、山口先生には連絡が取れない。山口先生の消息をご存じの方はないだろうか。
薛蓮さんからmailが届いた。いよいよ北島研究室での研究生活が始まったようだが、一方で生活も楽しんでいるみたいで、こちらまで嬉しくなる。
18日に第8回日本語弁論大会(最終審査)が新世界ホテルで開かれた。折からの温かな気候もあって、発表者と多くの参加者のために会場は文字通り熱気に包まれた一日がかりの発表会兼最終審査であった。結果は、お知らせのところに載っている。皆様、お疲れさまでした。
朱さんからmailが届いた。テーマを決めて研究を始めたようだ。誰も異国の生活では食生活の違いがホームシックに駆り立てるが、朱さんの場合にはその心配がないみたいだ。
「シンデレラ物語」はあまりにも有名だ。たとえ貧しい家の出身でも、美しければ女性ならば突然運が開けることがある。女性なら誰でも、シンデレラに我が身をな ぞらえて、私を探している素敵な王子様が居ないかな、白馬の騎士が私をここから救い出しに来ないかな、と夢想した幼い時代があったに違いない。
しかし、シンデレラ物語は今はあまり流行らないようだ。身の回りに「玉の輿に乗った」話もあまり聞かないし、昔ならそう思ってもおかしくない話でも今では 「玉の輿に乗った」などと言う表現は使わなくなった。実際、数年前にある国の有能な女性外交官が雲上人と結婚したとき、おおかたの反応は「羨ましい」では なく、「可哀想に」だった。
これは、何と言っても女性が力を付けてきたからに違いない。自分で仕事をする能力がある。経済的にも自立できる。それなら、男に選ばれるしかない「玉の輿」を待つなんて「関係ないわよ」ということだろう。
今、 私たちは中国に暮らしている。中国の街を歩いて最初に目に付くのは、女性が皆揃って背筋をしっかりと伸ばして歩いていることだ。歩幅も広いし、闊歩しているという表現がぴったりとくる。この大学の中でも、日本の薬大と同じく女子学生が多いためか、女性の方が伸びやかに見える。
日本の研究所にいる私の悪友が中国に遊びに来たとき、「中国の女性はみな背が高くて、すらっとした姿勢で歩くから、胸がぴょんと前に突き出ていて、ほんとに見事だね」と、文字通り垂涎の眼差しでセクハラ的なことを言った。私は女性の姿勢から形而上的問題を論じられるが、この悪友は形而下的にしかものが見られず、何時も私を下に引っ張っている。
胸を張って歩く女性の姿勢からは、中国の女性が古いしきたりから解放されていることが感じられる。女性の解放は共産党革命の時以来だし、日本では女性の大学教授が2〜3%しかいないのに比べて、この薬科大学には女性の教授がずらっといるので、日本よりはずいぶん女性の地位が高いと思っていた。
しかし、ジュネーブで4月初めに開かれた第60回国連人権委員会で、中国は女性の人権の全面的な推進に向けて努力していると代表が発言したという。これは、中国でまだ女性が完全に平等には扱われず、女性を差別する見方がまだあることを意味している。
実際、別のニュースでは、「中国で男児偏多が顕著、1.3倍も」というのがあった。昨年の全国の男女出生比率は女児100人に対し、男児約117人に上り、ある地域では130人になるという。世界何処でも自然の出産では妊娠時の男女比は1.10であり、出生時には1.05となる。男性の方が成長時期にある程度脱落するので、結婚年齢までにはちょうど良い比率となるのが今までの例であった。
したがって、人為的にこの高い男女比が生み出されているわけで、これは建前とは別に中国の大部分では男尊女卑が生きていることを意味していよう。しかし、女 性よりも男の数が多ければ男は結婚難に直面し、女性は売り手市場となる。このような土壌なら、シンデレラ物語を読んで夢馳せる女性もまだたくさんいるかも 知れない。
さて、シンデレラ物語とは逆の、男が玉の輿に乗るという話は聞いたことがないと思っていたが、日本の皇室でもいずれ女子が位を継ぐ時代になるだろう。そのとき玉の輿に乗る男子は大いに注目を集めるに違いなく、今から気の毒に思ってしまう。
<しかしこのように書くことは、私が実は男性優位の視点でものを見ているからに違いない。情けないことに、私もあの悪友と考えることは大して変っていないようだ。
第8回日本語弁論大会関係のお知らせ、作文提出についての注意、作文提出から大会までの時間表など、次回の参考になる項目を整理して、「日本語弁論大会」の後半にまとめた。大会当日の進行予定表は今までの「お知らせ」のところに残してある。次回の参考となると良い。
教師の会のwebsiteにアクセスした人との交流を図るために掲示板を設置した。会員同士の情報の交換、共有にも使えるので利用して欲しい。
会員の瀋陽生活情報をこのホームページに載せようという企画が進行中である。どこそこのレストランがおいしかったとか、あそこのお茶は安くておいしいとか、それぞれの持つ経験を共有して私たちの瀋陽の生活を豊かなものにしようという考えである。
第8回日本語文化祭が5月20日に開かれる。その詳細が石井先生から届いたので載せた。
旧会員の一人からこのサイトに名前を載せたくないという要望があった。名前が載ることで被害があるということだったので、日本人教師の会を営々と育んできた先輩の名前を消すことはとても残念なことだけれど、削らざるを得なかった
研究室のホームページを作って1ヶ月近く経ち、魯さんがとても芸術的な中国版を作り始めた。そうなると美しくなくても、英語版を公開する必要がある。それで週末を利用して制作を始めた。未完だけれど、公開しよう。内容も体裁もだんだんと磨けばよいのだ。
5月20日に予定されていた第8回日本語文化祭は諸般の事情により今年は中止となったことが、遼寧大学の石井先生から連絡があった。遼寧大学内の大学祭としては、予定通りの5月20日に開かれるとのことである。
研究室のホームページに学生一人一人の紹介ページを作ったが、誰も自分で書き入れないので淋しいままだ。それで、寸評を書き入れた。誰もが個性的で輝いている。
魯さんが中国版を作って公開した。まだ完全ではないけれど、研究室に来たい人たちの役に立つことを期待している。
写真
後列左から:趙Xi・そのBF・関・馬Bin(王麗のBF)・沈春莉
前列左から:沈慧蓮・山形貞子・王麗・胡丹・山形達也・魯Wei
瀋陽では日本語弁論大会が毎年4月に開かれている。今年がもう8回目だそうだ。瀋陽に進出している日本企業の人たちが中心となって作っている「瀋陽日本人会」が主催し、日本語を教えている日本人教師が作っている「瀋陽日本人教師の会」が協力という立場で、実質的な運営をしている。
私は日本語の教師ではないけれど、今期は生化学を日本語で教えているから無関係ではないということでこの会に入っている。会員には当日何かの役が割り振られて、私は発表会の日は午前の司会をすることになった。
3部門のうち日語専攻の大学生の出した作文から選ばれた18名が5分の持ち時間で発表をするのである。想像付くように、どの学生も十分な練習をしてきているので、誰もが落ち着いて、身振り手振りを使い、会話の入ってくる話では落語家みたいに声のトーンも首の位置も変えて、堂々たる熱演である。
これではどうやって順位をつけるのだろうと思わず心配する出来である。しかし、弁論大会も歴史を重ねているので、その心配にはちゃんと答えが用意してあっ た。即席スピーチと名付けられているその仕組みは、大会主催者が用意した質問ふたつがひと組となった紙が沢山箱に入っている。これを発表する学生が引いてそのうちから好きな方を選び、話をきっかり5分間で用意し、2分間の持ち時間で即席の話をするという仕組みだ。
2分を超えると直ちにストップが掛かる。発表者の交代時間を考慮して2分半ごとに一人が発表するという時間割になっているので、時計係は勿論、この時間は司会も時計とにらめっこで忙しい。しかし、密かに心の中で採点したものがほとんど審査員による最終成績発表と一致していたので、作文発表をする学生のうまさが付け焼き刃だと、ここでそれが剥がされて実力勝負となることがよく分かる。
ともかく、この午前の部の発表者18名は全員女子だった。司会をしてすべて心得ているはずなのに,この直ぐ後に男性の発表の部があるのではないかと思ってしまったくらい、鮮やかに女子だけだったのである。その後の発表者も含めても全部で39名の発表者中、男子は3名だけだった。最後の入賞者9名の中に男子は一人もいなかった。
聞くと第一次作文選考の時には、学校名、名前を伏せて(つまりは性別も伏せて)審査するそうである。したがって、作文を書いて出すのは圧倒的に女性が多いの か、文章の上手なのは男性よりも圧倒的に女性なのか、このどちらかか、両方なのだ。いずれにしても女性が優勢であることには変わりない。
男女平等の建前からすると、男女に生理的な違いがあることを唱えることは長い間禁物だったが、男と女とでは脳の出来が違って言語能力は圧倒的に女性で発達し ていることは、もう常識となっている。脳の作りが違うのだから、作文を書こうと思う数も女性が多く、上手な作文を書くのも女性に多く、したがって、成績順に選べばすべて女性ばかりという結果になるのは当然だろう。
このように中国の日本語弁論大会では女性が圧勝であるが、中国はまだ男尊女卑の傾向が根強いので、男性に将来生まれ変わるとしたらどちらの性が良いかと訊く と、圧倒的に男性が選ばれる。日本でもつい最近まで女性は生まれ変わるなら男に生まれたいと言っていた。しかし、日本の昨年の調査では、ついに女子の8割近くは次に生まれてくるなら、やはり女性がよいという答えを選んだそうだ。
今や日本ではやたら元気なのは女性だけだ。中国では今こそまだ男性優位だが、これだけ元気な女性を見ていると、女性にこそ生まれ変わりたいと願う男性の数がこの中国でもいずれ増えるかも知れない。
男の子の欲しい中国のご両親、女子を産むことが子供への最大の贈り物かも知れませんよ!
研究室ホームページの掲示板にガングリオシドをもっと知りたいという要望があった。様々な手段で調べられるが、とりあえず、昔私の書いた総説がすぐ見られるようにした。
慶応大学大学院の朱性宇さん、名古屋大学大学院の薛蓮さんからmailが来た。日本でもGolden weekに入ったところで、ほっとしながらも、勉強を続けているらしい。
5月1日から中国では労働節の休暇である。今年も北京でSARSの患者 が出ているので、この旅行シーズンで一気に広がらないように祈っている。
研究室では男子の学生だけ休暇を取って旅行に出かけている。ほかの女子学生と私た ちは毎日ラボで顔を合わせているが、やはり休暇なので気分はのんびりとしたものだ。
名古屋大学大学院の薛蓮さんからmailが来た。日本の連休明けに研究室での論文紹介が当たっていているそうだ。瀋陽薬科大学の学生は、たとえ日語専攻であっても英語力は大変しっかりしたもので、むしろ、日本の大学院生達こそしっかりがんばってもらいたい。
任期満了の在瀋陽日本総領事館・本保領事が5月6日帰国され、新任の森信幸領事が瀋陽日本人教師の会に参加されることになった。お二人の歓送会が5月1日、東北通訊市場・大明酒楼で開かれ、連休中にもかかわらず会員の半数以上が集まった。
瀋陽日本人教師会の活動もinternetのためにaccessし易くなって知られるようになったためか、問い合わせが教師の会宛にくるようになった。本会の活動を見て、中国で日本語教師になりたい気持ちに駆り立てられる人たちのために、日本語教師の資格をどうやって取るか、中国の職場をどうやって探すかなどの解説をホームページに載せるよう準備しているところである。
5月1日から9日までの黄金週も終わった。SARSが蔓延せずに収まっているみたいで大変結構なことである。卒業研究の発表会がいつあるのかまだわからないが、昨年の例だとあと1ヶ月しかない。学生と一緒にこちらもがんばる 時期となった。慶応大学大学院に留学している朱さんと一緒にがんばろう。
瀋陽日本人教師の会の定例会が開かれた。新しく、瀋陽外国語学校の宇野浩司先生、瀋陽航空工業学院の片山皚先生、本渓市衛生学校から金丸恵美先生が教師会に加わった。
この日が6月発行予定の日本語クラブ17号の原稿の締め切りだった。かなりの原稿が期日までに届けられたが、まだ4週間あるさと思っている人たちも結構あるみたいだ。
日本の皇太子はこの5 月13日にヨーロッパ諸国の訪問に出掛けたが、皇太子妃の雅子さんを同伴できなかった。新聞報道によると雅子さんは体調が良くなくて旅行を見合わせたとのことで、皇太子は出発に先立つ11日に記者会見をして、結婚後の皇室生活で雅子さんが精神的に痛めつけられてきて、それが今回の不調に結びついていることをはっきりと述べた。
誰のことにも批判めいたことを言わないという今までの皇室の有りようを見ると、この発言はずいぶんと思い切ったものである。結婚を渋る雅子さんに、皇太子が「君のことは私が必ず守るから」と固く約束したという昔の報道を思い出して、大いに微笑ましかった。
瀋陽にいるために、細々とつながるinternet を通じてしか日本のニュースに接することが出来ないので、日本における雰囲気は十分には分からないが、この記者会見は様々な反応を惹き起こしたらしい。宮内庁の役人は、皇太子の発言を全面的に認めれば自分たちの落ち度になるし、そうかといって皇太子の発言を否定することも出来ないので狼狽している様子が読みとれる。
5 月12日のニュースには、ロンドンの新聞はもっと明快に、皇太子妃は「男子出産まで外遊は禁止されている」と報道したと書いてあった。なるほど、実はそうなのか知れないと納得できる。皇室典範では、皇位継承権は男子にしかないと決めていると言う。周囲の関係者が、雅子さんが早く男子を産むように望み、昔の「子なきは去れ」と同じ気持ちで雅子さんに接していることも想像できないことはない。子供は女性にしか産めない。しかし、「私は子供を産む道具か」と思ったら今はどんな女性でも耐えられないであろう。
皇太子は、女子の皇嗣問題についての発言を避けたが、娘がまだ幼いうちに議論して将来を決めた方がよい。私たちには関係ないことだが、皇位継承権を男子に限っているというのでは、日本の男女同権はまだまだ偽ものである。
しかも現行の日本国憲法に立脚すれば、皇位継承権を男子のみに限る法律は、明らかに憲法違反である。本来は憲法の精神に沿って皇室典範が改定されなくてはならないであろう。これは難しいことだろうか。
おまけに、保守的な為政者は何時でもどこでも「前例がない」といって古来世の中の変化に抵抗をしてきたものだが、この問題に限っては、女帝が日本の古代に多 く出現しているのだ。女子の世継ぎを認めれば、皇太子夫妻への廻りの圧力がなくなる。しかも天皇家の可憐な娘がいずれ皇位に就くという期待が、今の日本を 覆う閉塞感を一挙に吹き払って日本に新生の息吹をもたらすのではないだろうか。
今は傷だらけの小泉さんだが、最後のスタンドプレーとして取り組んだらどうだろう。女性の熱狂的な支持を得て、再度小泉ブームがわき起こるに違いない。
20日に開催が予定されていた瀋陽日本語文化祭が諸般の事情でキャンセルされたが、キャンパスの移転のあとこの秋に学内規模で開催されるらしいとのことである。
講義をするために初めて瀋陽薬科大学を訪れたのは2000年の6月終わりだった。70人くらい入る教室だったが、その蒸し暑さといったらなかった。窓は二重にして冬の寒さに備えているだけあって窓が小さく、これを全開にしても暑さを追い出す風が入ってこない。
学生は片手にうちわを持って扇ぎながら聴いている。人によってはこの暑いのに隣の人にべったりと寄りかかり、相手の身体に片手を廻しているので、空いた手でうちわを持って互いに扇ぎっこをしている。つまり、講義を筆記する手が空いていないから、それはお預けである。
大 学に来てまず驚いたのは、この暑いのに教室に冷房のないことと、汗だくになりながらも熱心に勉学に励む学生がいることだった。しかしそれ以上にびっくりし たのは、この暑いのに、そして衆人環視の中で、しかも私という外国から来た「偉い」先生が「ありがたい」講義しているのに、それを無視して、教室の中でひ しとばかりにくっついている二人がいることであった。
大学構内を歩くと、手をつないでいる多くの男女二人連れにすれ違う。日本では、高校生かあるいは中学生にはこのように仲良く手をつないで歩いているところを見ることもあるけれど、まず普通にはあまり見かけない光景である。
大学の庭のあちこちの木陰にベンチが置いてあるが、ベンチはいつも二人連れで占領されている。感心したことには、このベンチが二人しか座れない仕組みになっているので、大学も粋な計らいをしているといって良いかも知れない。
学部の学生だけで5,000 人以上の若ものがこの薬科大学にいて、しかも学部のうちは全員が大学構内にある寮住まいである。昔の若かった頃の自分のことを振り返ってみると、異性のこ とが気になって仕方がない時期に数年間、朝から晩まで一緒の生活をするのだから、好きなもの同士が出来ても不思議ではない。当然の成り行きであろう。
しかも、寮では男女が厳しく別れているし、大学の外で公然と二人だけの時間を持つことも許されていないので、逆に大学の中では二人だけの世界をおおっぴらに 持つことになるのだろうと思う。大学の先生に聞くと「私たちの若い頃と全然違います。私たちはいつも離れて歩いて寮のところまで彼女を送って、お辞儀して別れていました」ということであったが、ま、世代が違う。
構内にはこの5,000人分をまかなう5階建ての大きな食堂がある。彼らは、ふつうは朝昼晩をこの食堂で食べている。その食堂で、恋人同士の二人が差し向かいに座って「アーン」と相手の口をあけさせて食べさせるという行為が、私たちの赴任する数年前に流行ったそうだ。
それを聞いて「えっ、その写真撮りたい」とわたしは張り切ったのだけれど、「いくら何でもそれは」ということで大学が禁止したそうだ。それを禁じた張り紙が食堂の壁に最近まで残っていたと聞いて「せめてその写真でも」と思ったのだが、見つける前にはがされてしまったらしい。
私たちの研究室の大学院生の胡丹くんは長い間「ひとりもの」だったが、やっと最近すてきな恋人が出来た。毎日が楽しくて仕方がないという顔をして研究室にやって来る。彼女は1階上の別の研究室にいる。胡くんは11時半になると「じゃ、先生、食べに行ってきます」と昼食にいそいそと出掛ける。5時半になると、「じゃ、先生」がまた始まる。この状態だと何を言ってからかっても、彼を喜ばせるだけなのだ。
「アーン、して食べさせているの?」と聞くと「ええ、彼女に食べさせて貰いました」と笑いが止まらない。うまくすると、食堂で禁断の「アーン?」をしている胡くんたちを見る機会があるかも知れない。見たからどうってことがある訳ではないけれど。
魯さんの名前のWeiという字が日本語にはない。画像として魯さんが字を作ったのでそれをuploadした。
5月に入ってから生化学の講義に追われている。と書くと、情けないやつだと思われ そうだが、講義の相手は薬科大学の日本語コースの学生なのだ。彼らは日本語の学習を始めてまだ8ヶ月、4年になってからは専門科目を日本語で勉強しようと いう特別のコースにいる学生達なのである。
週30時間の授業のうち24時間が日本語の勉強なので、急速に日本語が話せるようになってはいるが、専門科目を日本語で聴くのはこれが初めてなのである。
そう、つまり、私は本場物の日本語をしゃべる外人なのだ。本場物はよいけれど、生化学のエネルギー代謝のところは、どんな言葉で勉強しても難しいところである。それを、日本語勉強途上の学生にわかるように話すのだから、毎回、工夫と苦労の連続である。
最初にゆっくり話して80%わかったらしいというので喜んで、次の時にはまだ慣れていないのだということを忘れてしゃべりまくったら、シーン、結局、3時間目には前のことをそっくり、ゆっくりと繰り返す羽目になったりしている。
生化学の難しい反応も、アニメにしたらわかりやすいかと思って、一念発起してソフトを勉強して、2日間、朝から夜中まで掛かって5個作って教室に持って行ったら、教室WindowsではPowerPointXで作ったアニメは動かず、涙をのんで汗をかいたものだった。
やれやれ、私の苦労は6月に入ってもまだ続く。
教師の会は今年度から「日本語クラブ」を年間3回発行に切り替えた。今年度の3回目(通巻17号)は6月12日の今年度最後の定例会の日が発行予定日となっていて、原稿締め切りが5月15日だった。しかし、早い到着もあれば遅いものもあり、全部揃ったのは5月31日だった。
HP係の山形は「日本語クラブ」の編集にも関与している。その編集がひとまず終わってから取りかかったので、4月18日に開かれた第8回日本語弁論大会参加作品集をホームページに収録する作業は大きく遅れてしまった。
入選作品(これは第一次審査を通って、新世界ホテルでの発表に進んだ全作品)は、教師会の弁論大会実行委員により電子ファイル化された。間違えないようにと、神経を使う仕事だったに違いない。辛苦了。
日本語弁論大会は日本人教師の会の活動の大きな目玉である。これらの作品が多くの人たちの目に触れることによって、中国で日本語学習がますます盛んになり、相互の国の間の正常な理解が進むよう願ってやまない。
瀋陽薬科大学の私たちの研究室に入って大学院博士課程をやりたいという学生から連絡があった。入学試験を受けたいという。それは試験まで半年以上ある昨年の秋のことだった。その後何度もmailのやりとりをして、もし大学の筆記試験を通り、かつ面接で合格すれば研究室に入っても良いという返事を送った。
このやり方は本質的には日本でも全く同じである。博士課程によその大学から受験生がある時に、試験の日まで誰が自分の研究室を受けるか知らなかったと言うこ とはない。あらかじめ希望者が会いに来て、「いえ、結構です」、あるいは「試験に通ったならば研究室にどうぞ」と言うことになる。
その後も彼とは時々mail を交換していたが、3月終わりになって、4月半ばに入学試験があるので、その時私のところに寄ってもいいかと言ってきた。彼が受験するということを大学か らまだ何も聞いていなかったけれど、ここに来たらば寄ってくれと返事を出した。すると折り返し彼から、審査会はいついつ、審査に当たるのは私を含めて教授 3名だと書いてきた。へえー、こちらの知らないことを知ってるんだ。
彼が受験のため瀋陽に来るという1週間前になっても、まだ大学からは私のところに受験者があるという連絡がない。それで大学の教務課相当の部署に、私の研究室の受験者がいるのか、いるなら受験者の履歴や成績などの書類を廻して欲しい、さらに面接はどのような形式でするのか、と問い合わせた。
しかし、いくら催促しても返事が全然来ない。それでもやっと筆記試験の前日になって教務課から封書がとどき、受験者の名前の書き入れてある表が一枚入っていた。これは面接をしたあと、採点を書いて送り返す書類である。
書類を見ると、受験者が2人もいるのだ。面接予定日の3日前に、受験者のいることを知らされたわけで、これには大いに驚いた。しかし、ほかの書類は全然入っていない。名前以外は、履歴も、成績も、論文リストもない。資料なしでどんな面接をするのだろう?
教務課に電話を掛けて貰ったら「先生は特別だから」ということで、受験生が大学に提出した書類がやっと面接に間に合うよう届けられた。筆記試験が土日の二日間あって、その翌日の月曜日に受験生一人が面接に来た。事前に連絡のなかったもう一人は、案の定、筆記にも面接にも来なかった。書類だけ何かの用心のため に出していたらしい。
さて、面接の成績表を教務課に提出して一件落着したあと、受験生は指導教官となる教授には必ず事前に連絡するのだから、大学当局が知らん顔をしていても、別 に問題は起こらないことに気付いた。できの悪い学生を採って困るのは教授自身である。全部任せておいても、大して問題は起こらないはずだ。
この一件の間、うちの研究室の学生たちは大学当局から全く連絡がなくて驚き呆れる私を見て、これが当たり前なのだと言って笑っていた。結局のところ、受験者からは連絡を受けていたから、大学から正式に聞いていなかっただけであって、私は受験生のあることは勿論知っていたわけだ。実害は全くなかったと言える。
そ れで今や私も、一寸やそっとのことでは驚かない人間になりつつある。そうでないと生きていくのにストレスが溜まる。ま、誰も困らなけりゃ、それで良いじゃないか。でもね、突然、学位審査がいま始まるからと言って呼び出されるときは、ここは本当にどうなっているんだろうとは思うけれど。
瀋陽薬科大学の学年歴は8月〜7月である。それで卒業研究の発表が6月半ばと聞いているけれど、正確には何時なのか、私たちはまだ誰も知らない。それでももちろんその頃かと思って、学生は準備を進めている。
私たちはまだこのあたりには詳しくないだろうというので、最近、別の研究室の先生から週末に郊外に遊びに一緒に行かないかと誘われた。研究室の学生三十数名 のためにバスをチャーターしているので、少し空きがあるからという親切な誘いである。誘われたのは大変嬉しいけれど、土曜日は研究室のセミナーがあるし、突然のことで変更もできないし、丁重にお断りした。
すると今度は、隣の研究室で来週はじめに郊外の植物園に遠足に行くと聞いた。瀋陽市から東に20kmくらい行った郊外に広大な植物園があり、これは遊園地も兼ねていて、本物の銃が撃てる射撃場まであるという。市民の物見遊山に何かと人気を集めている。数年前に市の中心から動物園がやはり郊外に移ったけれど、動物園は臭いという理由で植物園ほどは人気がない。
どこの研究室でも学生の卒業研究の発表前で忙しいのに、どうして今の時期に出掛けるのだろう?修士の発表や卒業研究発表が終わってからにしたらよいだろうに。日本の大学にいたときも、年度末は1月初頭が博士論文の発表、2月初めが修士論文発表、そして3月に入って卒業研究の発表があり、それが終わってやっとしばしの休息期間が訪れる。
日本の学年末はさらに1~2 月には研究班会議があるし、年度末の研究報告も目白押しで、3月半ばまでは息をつく暇がないくらいだ。いつだったか学科の先生の一人が外国に行ってしまい、帰国を待ってから3月21・22日に発表会が開かれた。やはり学生は発表直前まで実験でがんばるので、学生もこちらもへとへとになったものだ。
このように日本ではすべてが終わるまで研究室のメンバーがどこかに揃って出掛けるなんて考えられなかったが、薬科大学ではお別れ前の遠足も卒業研究発表前の時期にきちんと教室行事として組み込まれているみたいである。
私たちの研究室はどうしようかと皆に聞いてみた。一緒に何かすることに全員賛成だったけれど、出掛ける時期は卒業研究の発表の前ではなく後ということ になった。じゃ、どこに行こう?瀋陽は大きな街だけれど、出掛ける候補はあまりない。植物園以外は北陵くらいしかない。北陵は清朝のホンタイジの墓で瀋陽きっての広大な公園だけれど、皆飽きていて行きたがらない。
それで、候補の番外として「うちに来てうちで作ったカレーを食べる」というのを出したら、一斉に賛成の声が上がった。女子学生の沈慧蓮さんなどは「四つの足をあげて大賛成です」と飛び上がっている。「諸手を挙げて」以上の歓喜を表しているんだろうけれど、手が足であるところがおかしい。沈さんと一緒の研究チームの胡くんは「なるほど。沈さんはいつも足で実験をしているから、失敗ばかりしているのね」というので、またまた皆で大笑いをした。
カレーは瀋陽でも一般に好まれている料理だけれど、私たちの舌には味は薄いし、塩味は濃いし、どこの店で食べてもあまり感心しない。ひところ学生食堂でも日本の味と銘打ってカレーが出されたけれど、大学の外よりもさらにシャビシャビの薄味で、さすがに1ヶ月も持たずに姿を消した。
うちのカレーの評判は高いけれど秘密も何もない。牛肉を惜しまず使い、ジャガイモなしでニンジンとシイタケを入れて、日本から持ってきたカレールーを何種類か混ぜて入れるだけである。それでも先日は耐圧鍋一杯作って6人で食べきってしまった。今度は学生の恋人たちも来るとするとその倍の人数だ。
どうやって作ったらよいだろう?学生たちは一緒に手伝いますよと言ってくれるけれど、何しろ手でなく足では、何本あってもね。
「日本語クラブ」編集担当の中道先生がお二人で片道2時間をかけて瀋陽の南の方にある薬科大学に来て下さった。貞子も編集担当で、それでぼくもお手伝い。数時間かけて「日本語クラブ」通巻17号の印刷製本が完成した。今度の教師の会の定例会の時に配布される予定である。全員集合の今回の日本語クラブは36ページ18枚の大作である。12日に持って行くのが重そう。。。
中道先生が片道2時間をかけて瀋陽の南の方にある薬科大学に来て下さった。それで、「日本語クラブ」通巻17号の印刷製本が完成した。今度の教師の会の定例会の時に配布される予定である。全員集合の今回の日本語クラブは36ページ18枚の大作である。12日に持って行くのが重そう。。。
朱性宇さんから近況を知らせてきた。5月の末に貞子が日本に行ったときに慶応大学を訪ねて朱さんに会っている。二ヶ月ぶりに会った朱さんは輝くように元気だったという。そのときの写真もwebsiteに載せた。
今日から今日から生化学教室の小劉先生がここで本格的に実験を始めたいということで、早速細胞培養を王麗と胡丹が教えることになった。
朝8 時からある生化学の講義を終えて10時にオフィスに戻ってくると、生化学教室の小張先生から電話があって、なんと今週いっぱい薬学部の基地クラスの学生ひ とりの面倒を見ることになっているという。
この基地クラスというのはこの薬大の中の特別コースで、7年間で学部・修士・博士を終えるコースだ。あとでその学生に聞いてみると、3年生の時に希望の研究室に行って研究とは何かの雰囲気を味わうように用意されているとガイダンスに書いてあるという。
こちらはそんなプログラムは知らない。聞いたこともない。小張先生も今朝聞いたばかりだという。驚いていても学生はもう来ているのだから、受け入れざるを得ない。
というわけで唖然・呆然としたまま、1週間のインターンシップが受け入れ準備も何もしていないのに、始まった。
薛蓮さんからmailが来 た。彼女は研究室の掲示板に現在私の生化学を受講している日本語クラスの3年生のために、投書している。前の講義の時に、その話をして、彼女の投書を見て 親切な先輩の激励に答えるように学生に話したが、そのあと掲示板に訳のわからない投書があったから、優しい彼女の真意は学生には伝わらなかったみたいだ。
昨日から研究室に来た呉Yu(三国志に出てくる呉の国の名高い将軍・周Yuと同じ字。愉の「りっしんべん」が王である)は、研究室の時間は朝8時からだと言ったので、今朝は8時前からやってきた。好奇心ではち切れそうな、英語を話す元気いっぱいの女子だ。
大分前から計画していたのは、瀋陽の暮らしを助け合う生活情報の交換の場としてこのホームページを使うことだった。第8回の弁論大会の会の当日、児崎先生はじめ先生方のご賛同をいただき、黄金週の始まる前から児崎先生が中心になってこの計画を進めて下さった。
まだ会員のすべてから情報が集まっていないけれど、ともかく公開に踏み切って、このあと情報があり次第どんどん増やしていこうと思う。どうか活用できるような情報の場になるよう、会員皆様のご協力をお願いしたい。
私たちの新設研究室にも卒業研究の学生が3人いる。研究室に2月半ばの後期の初めから来て培養細胞を使って研究に取りくんでいる。日本でも卒業前には研究発表をして無事卒業できる仕組みなので、中国でもそうに違いない。初めてのことなので、どのようなやり方で、しかも何時発表をすることになるのか、とても気になる。
卒業研究発表の後にあるはずの今年度の卒業式が何時かも知りたいところだ。しかし、卒研発表が何日なのか、卒業式が何時かについての正確な情報がちっとも入らない。昨年の卒業式は6月末にあったので、発表は6月半ばくらいだろう。やっと、5月31日になって卒業研究の発表は12-14日らしいこと、そして研究室の学生は薬学院に所属しているが私たちは製薬工程学院所属なので、発表は製薬工程学院所属の先生たちの前で行うこと、発表は口頭でしかもポスターを使ってすることが分かった。
3人とも培養細胞を使った研究をしているので、細胞の顕微鏡写真を見せなくては話しにならない。ビラに手書きするわけにはいかない。ビラに書いて発表をするなんて聞くと、今から何十年も前の自分の卒業研究の発表を思い出す。
<大きな白い紙に、そのころ出回ってきたマジックインキで、一枚がその後のスライドの一枚になる感じの内容で字を手書きし、T字型の横のバーに重ねて止めて発表をしたものだ。話が進むごとに1枚ずつ引き落として下にある次のビラが現れる仕組みである。
今は国内外の口頭発表以外の学会ポスター発表は、1 x 1.5メートルくらいの紙に作製するが、ポスターに近寄ってみることが出来るので、字はさほど大きい必要がなく、コンピューターを使って綺麗に仕上げることが出来る。口頭発表では、PCから直接プロジェクターで映写する仕組みになっている。
今度のポスターは、演壇に立って口頭発表をするために使うから、大きな字で書かなくては遠くから読んでは貰えない。
私たちの研究室のセミナーは、このPCとプロジェクター方式を使って、何時も英語でやっているので、卒業研究発表も当然これでやりたいところだ。手書きビラで発表するというので、PCとプロジェクターでは出来ませんかと聞いたら、即座に断られた。おまけに私たちが中国語を理解できないことが分かっているので、発表会に出席することは苦痛でしょう、別の発表会をやっても良いのですよ、という。
聞いてみると,うちの研究室だけで卒研発表会を開き、そこに製薬学院の先生を二人呼べばよいと言う。これをすればほかの学生たちの発表を聞かずに済むわけだけれど、逆に言うと私たちの研究室の学生の発表をほかの教授や学生たちに聞いて貰う機会を失ってしまう。それは惜しい。
そこでさらに交渉した結果、PC とプロジェクターの備え付けてある講義用の教室を借りて製薬学院の卒業研究発表会が開かれることになった。内輪ではなく、学生は別の学院の先生たちの前で発表をすることになったわけだが、結構平気な顔をしている。こういうところは中国の学生は肝が据わっている。おまけに全員が優を貰って卒業できる気でいる。
さて、発表の日が12日であることが9日になって知らされた。彼女たち全員が優を貰える気でいるので呆れていたが、私たちは新設研究室なので全員が優を取って先生の顔を立ててあげなくっちゃというのが真相らしい。本気だとしたら、大変思いやりの深い孝行娘たちだ。
2回のリハーサルをしたが、熱意に応えてまだまだ繰り返ししごかなくては。。。
12日の歓送会の会場が変更になった。連絡を受けて、このホームページだけを見ている会員のために内容を更新したが、そんなことってあるかな。
「あと14 時間で新しい人生が始まります。今までのすべての苦痛が消えて輝く人生の始まりです。」後半は「椿姫−ラ・トラヴィアータ−」の最後のせりふに似ているが、これは、夕方一緒に食事に行こうと言って出掛けた一群の学生の中の沈さんの発言である。時は卒業研究発表の前の日の夕方。
<彼女たちが卒業することで、こちらも節目を迎えて1年のサイクルを終えて新しいサイクルに入ることになる。大学のいるおかげで、この毎年日々新らたという気持ちがもたらされる。
特に彼女たちはそうだろう。今までの生活から解放されて、未知の人生に乗り出すというわくわくとした気持ちに満たされているのは当然だけれど、もっと強い開放感を感じているに違いない。
特にこの大学の日語班の彼女たちにしてみると、この5年間(通常コースは4年間)、一部屋に4人という寮生活をしてきたのだ。寮生活の良い面もあるだろうが、プライバシーのない生活には多くの苦労が伴うだろう。
寮の部屋は下が机で上がベッドという組み立てセットが個人の城だけれど、火事をおそれて部屋ではスタンド照明と、ラジオくらいしか使用が許されていない。お茶くらい飲みたいと思って湯を沸かすヒーターをつなぐと、自分の部屋の電気容量が越えてブレーカーが飛ぶ仕組みになっているという。
それで各人が魔法瓶を持っている。大学の構内で魔法瓶を持って歩いている学生に良く出合う。時には両手に持っている人を見かける。これは恋人のために尽くしている男の子であることが多い。食堂の近くに湯を売るところがあって、彼らは昼か夜の食事の時に魔法瓶を持っていって、それに一杯の湯を買ってくる仕組みである。
寮の部屋には勿論、冷蔵庫もフリーザーもない。食べたい盛りなのに、自分の身の回りに自由に調理できる食べ物を置いておくことも出来ない生活を5年間してきたのだ。ああ、この卒業研究発表が終われば、今までのくびきから解放されると思うのも当然であろう。
「カベオリンって何種類あったっけ?」
突然、気付いて大恐慌である。彼女の話に出てくるのはカベオリン-1だから、聞いている方は、彼女の話が分からなくても、カベオリンには幾つかあることが分かる。だから、聞いている先生方には質問の餌をあげるようなものだ。
「カベオリンはどうしてガンの抑制物質なの?」
「カベオリンは細胞のどこにあるの?」
次々に模擬質問が飛ぶ。残り時間が短くなってきて、浮き足立ちながら、彼女たちは最後のおさらいをしている。
カベオリンがどうしてガンの抑制をしているか正確なところはまだ謎だが、ガンになるとカベオリンが減り、ガンを抑えるとカベオリンが増える。逆も真である。メカニズムが分からないから研究をやっているのだけれど、学生にはどこまでが分かっていて、どこからが分かっていないかが難しいところだ。
日本での卒業研究発表では、学生は先生たちの質問の十字砲火に曝されたものだ。究極の質問は「そんなことやって何になるの?」というのだった。指導教官は質 問に答えてはいけないと言う不文律があるために、指導教官は真っ青になって震え、それをほかの教官が楽しむという構図だった。
今日はどうなるだろう?彼女たちは十分用意をした。彼女たちの健闘を祈ってやまない。
2003年度最後の定例会が開かれ、そのあと5時から8時まで近くの洪記というレストランで歓送会が開かれた。
出席者:森信幸、石井康男、稲田登志子、宇野浩司、大久保千恵、太田美紀子、奥田実、金丸恵美、児崎静佳、斉藤明子、酒井和重、佐藤守、沢野千恵子、多田敬司、高山敬子、長澤裕美、中原麻実、中道恵津、呑山猛、峰村洋、持丸秀樹、森林久枝、八木万祐子、山形貞子、山形達也、山崎えり子、山中晋吾、渡辺京子、渡辺文江
歓送:稲田登志子、酒井和重、沢野千恵子、呑山猛、八木万祐子
歓迎:宇野浩司、奥田実、金丸恵美、斉藤明子、森林久枝
司会:渡辺文江
会費は全員割り勘で、32元。
会費は全員割り勘で、32元。会計係は太田美紀子、高山敬子
日本語クラブ17号は6月12日付の発行で、定例会の時に各会員に手渡された。すぐ載せても良いとのことだったので、その内容をホームページに収録した。カラー写真がそれぞれの文章に映えて美しい。カラー写真の大きさを、いまのものより大きくできると良いけれど、将来の容量を考えてサイズは抑えている。
第8回日本語弁論大会の時の出場者のカラー写真を、それぞれの作品のところに入れた。このサイズも思い切り小さいけれど、雰囲気は伝わるだろう。
12日の定例会のあと歓送会が、日本語資料室の近くの洪記で開かれた。今期限りで瀋陽を去られる稲田先生、酒井先生、沢野先生、呑山先生、八木先生の5人が歓送会の主人公だった。瀋陽を去られても、瀋陽の日本人教師会の活動を思い出して、残る私たちへの精神的な支援をお願いできればと思う。ホームページも時々のぞいてみて下さい。掲示板を使って時々消息をお聞かせ下さい。
今回、斉藤先生、森山先生、宇野先生、金丸先生が新規入会者として歓迎された。ただし、会費は32元だったけれど、全員均等割だった。会計係は太田、高山両先生。司会は渡辺文江先生だった。
皆様、お疲れさまでした。
研究室に三人いる卒業研究生・沈慧蓮、沈春莉、趙Xiの発表が昨12日だった。Powerpointで用意して10分間英語で講演を行った。発表に至るまでの様子は、山形達也のホームページに詳しく書いているので見て欲しい。
朱さんのmailを載せ、薛蓮さんの写真を載せたが、魯さんのたっての願いで魯さんの彼女と一緒の写真を二枚載せることにした。特ダネ公開中というところでしょうか。
「さあ、今日の発表で私たちのブルーカラーの生活は終わるでしょうか」などと先頭に立って歩いている沈さんはぶつぶつ言っている。「研究者は労働者だって先生言っていたけれど、今日はともかくハレの日ですよね。」
<三人娘の誰も、おしゃれをしているわけではないけれど、いつもよりはきちんとした服装をしているように見える卒業研究発表の日だ。
「そうだよ。卒業研究の発表をする日なんて人生に一回きりしかないんですよ。特別のことですからね」なんて言って、彼女たちの緊張をあおっているのは私。その横で「人生何でも初体験」と言っているのは私の妻だ。「初体験」という言葉は今では特定のことにしか使わないのかと思っているけれど、まあ、そんなことは口にしない方が安全だ。
今回の卒業研究発表会は、私たちの研究室と張先生の率いる生化学研究室との合同で行われた。私たちの研究室には3人、生化学研究室には15人の卒業生がいて、それぞれが10分発表、10分質疑応答という持ち時間で発表に臨んだ。
生化学研究室は教授一人、ティーチャー9 人の部屋で、計10人で全学の生化学の講義を行っている。今は私が入ったから11人という計算だけれど、薬学院には3年生になってから日本語を1年間勉強して、4年5年と日本語で専門科目を勉強する日語班という特別コースがある。私は日本語を半年学んだだけの学生に日本語で生化学を教えるという試みをしているので、数には入っていないかも知れない。
ティーチャーは大学を出て直ぐの学生が採用され、教室の中の今までいたところを変えて講義をする立場に立っている人たちである。生化学のティーチャー9人のうち博士号を持つものは2人だけだという。明治初めの日本を思えば、大学を出て直ぐ教授になった人たちが沢山いたはずだから驚くほどのことではない。
でも、大学の講義は、先生が教科書をただ声を出して読めばよいというものではないから、研究経験のある人とない人が教えるのでは学生の得るところが全く違うのではないかと思われる。しかし、先生の数が乏しいのだから仕方ないのだろう。
発表はコンピューターとLCDプロジェクターの用意してある視聴覚教室である。なお、2001年に来たときにはもうLCDプロジェクターが講義室に設置されていたから、教室でのLCDプロジェクターの導入は日本より中国の方が早かったように思う。
私たちの座っている向う側に生化学研究室の卒業生が控えているので、数えてみると3人が男子で残りの12名は女子である。気付いてみると何と女子の全部が眼鏡を掛けている。驚いて私の研究室を見ると、うちの3人の女子卒業生全部が眼鏡だった。長い間、眼鏡、金歯そしてカメラが日本人を描くカリカチュアに必ず付き物だったけれど、中国人では何だろう。眼鏡の次にはケータイが来るだろうか。三つ目は何が良いだろうと考えているうちに、張先生が話し始めた。
張先生はこれから発表会をやるという挨拶、それに続いて私の紹介があったらしい。私は全く分からず隣の麦都さんにつつかれて、あわてて立ち上がって、にこにこした。次に紹介された妻の貞子は、直ぐに分かって立ち上がって挨拶して、中国語が分かることを態度で静かに示したので、王麗さんが私に「貞子先生に1点」とささやいた。
研究室の学生が面白がって、ことごとに私たちの中国語の点数付けをしているのである。私は何時も、良く言うと二番。はっきり言うとビリ。紹介の順番が逆なら私だって分かったのに。
さて、うちの研究室の発表が始まる。
朱さんに山形の文章は真似したいくらいうまいと言われたので、それは「pai馬屁」だねと書いたら、早速返 事が来た。お世辞を言うという意味だけけれど、あまり品の良い言葉ではない。馬の尻をたたくという意味だから、ほめてお世辞を言ってますます盛んにさせる と言うことか。下品だから、使い方に気をつけないといけないと言われたが、今うちの研究室では流行っている。
わたしの中国語のたどたどしい発音が、とても良いと言って学生が一生懸命ほめてくれると、「それは実はpai馬屁なんだ」という具合である。
土曜日が卒業研究発表と知らされたときには、既に私たちは午後には外せない予定が入っていたから、私たちの研究室の発表は午前9時の一番最初ということになった。
その中での最初は沈慧蓮さんの発表である。沈さんはきちんと英語が話せるひとなのに、結構緊張していて言い間違えている。普段は全くあがることのないようなお嬢さんだと思っていたので、密かにおかしかった。初体験には沈さんでもやはり緊張するらしい。発表内容は勿論起承転結がはっきりしていて、3ヶ月半の研究にもかかわらず、とても面白いことを見つけている。
10 分間の講演のあと質問の時間になった。張先生の中国語の質問に英語で答え始めたので、急いで連絡して中国語で答えるよう伝えた。その途端にこちらはちんぶんかんぷんになったけれど、隣の王麗さんが要所要所は日本語にしてくれる。生化学研究室の教授はじめティーチャーの人たちから結構鋭い質問が飛ぶ。
「その化合物がカベオリンを増やすと言うけれど、証拠が足りないじゃないか?」といわれて、「独立した別の細胞培養を使って調べても同じように増加したので、増加することは確かです。けれどもっと別の条件も、これから試さなくてはいけません」と沈さんは元気に応えている。ごもっとも。その通りである。だけど、もう自分は実験をしなくて良いから、余計元気に答えられるのかも。
二番手は沈春莉さんで、細胞凝集の研究の発表だった。細胞が集まってくっつき合うときの原理にある因子が効いているかというまだ初期段階の研究で、単調だけれど集中力の要求される実験を繰り返さないと答えが出ない。彼女は根気よく実験を繰り返し明らかな傾向を掴んだ。発表ではリハーサルよりも格段によく、堂々たる話しぶりであった。
彼女は実験の後半では細胞を凝集させる因子を調べようとしていて、細胞からRNAを抽出しRTPCRを始めたが、そこで時間切れになってしまった。発表では抽出したRNAの量と純度も見せたのだが、何と質問はここに集中した。抽出したRNAの260/280nmの吸収の比が2.0というのは最高純度のRNAを意味するが、彼女の試料はどれも1.9-2.0なのだ。
みんなびっくり、しかも収量がとても良い。生化学研究室の人たちが純度の高いRNAの抽出に苦労しているのが良く分かる。瀋さんがやると簡単に取れてしまうのだから、どこがどうと言って教えることは出来ない。
最後は煩煩さんの登場で、腫瘍の抑制因子を見つけたという発表である。ある種の分子を腫瘍細胞に作らせると、腫瘍細胞の特色が消えることがわかったので。その分子を作るのを阻害してみると、期待通り腫瘍マーカーが消えない。これにその分子を加えるとマーカーが予期通り消えた。したがって腫瘍の抑制因子を見つけたという筋書きだ。
見事な発音の英語で滔々と話されたことに皆が威圧されたのか、内容に付いていけなかったのか、しばらくシーンという状態が続いてから、「PCRのゲル電気泳動をどうやって定量的に解析したか」とか、「タンパク質の発現をmRNAの発現で見ているけれど、どうして抗体染色をしないのか」と聞かれていた。
もっともな質問で、これは論文にするときには必須だけれど、何しろ4ヶ月という短い間に、初めての実験を始めて、論文を沢山読んで、そして研究の結果を出してまとめなくてはならないのだ。毎日朝から晩までブルーカラーとして働いても、四つ足をフルに使って実験しても、なお出来ないこともあるさ。
それにしても、先輩からの伝承も蓄積もなく、研究費も設備もない山大爺と山太太の研究室で、君たち本当に良くやったよ。
4ヶ月で、ふくよかだった沈春莉さんは5kg、普通の体型の沈慧蓮さんは2kg、元々ほっそりした体型の煩煩さんでも1kg痩せたという。短期間に減量したければ、どうぞ山形研の卒業研究を試してみて下さい!!!
<「花子さんの時間がはじまりますよ」と王麗さんか、沈慧蓮さんがオフィスにいる私を呼びに来る。ちょうど妻の貞子が所用で2週間日本に行っているときのことで、普段私たちは二人で食事を作って食べているから学生と一緒に食事をすることはあまりないけれど、今は私が一人で居るので、皆で私の食事に気を配ってくれる。
実験室に行くと窓際に置いてある電磁ヒーターの上の鍋から湯気が出て、良い匂いをまき散らしている。魯くんがインスタントラーメンのカップくらいの深皿を渡してくれて「お皿を持って並ばないと花子さんではありませんよ」と言う。それにしたがって、皿を持って研究室の胡くん、煩煩さん、沈さんたちの後ろに並んで列を作り、順番を待つ花子さんのひとりになる。ご飯を盛ってくれるのは魯くん、その上に鍋からカレーをよそって呉れるのは王麗さんだ。
「花子」は中国では乞食を意味する。大抵の中日会話の本には、「花子さん」という名を持つ人は中国で名乗るときは気をつけなさいと書いてある。名前だから変えようがないが、せめて別の字を使えということだろう。ただし、英語のJohn Doe、Jane Doeに当たる日本の太郎、花子は、太郎は結構あるけれど、実際には花子という名前の日本人はまだ見たことがない。
私の研究室の学生たちは、自分たちに「花子さん」という名前を付けて楽しんでいるのだ。仲間の間に序列を作らず何でも分け合って食べる仲間という意味だろう。おまけに私が山大爺で、山にこもった山賊の頭目が呼ばれる名前だから、花子さんの頭目としてもぴったりなわけだ。こうやって、わいわいがやがや言いつつ、分け合って一緒に食べると、また一際おいしい。
卒業研究の彼女たちは、2月半ばに研究室に来て以来、寮には寝に帰る以外はほとんど実験室で時間を過ごしている。寮に戻れば4人部屋で、部屋には冷蔵庫もなく、お湯すら沸かせな い。一方で、実験室には冷凍庫も冷蔵庫もあるし、冷暖房もある。電磁波のヒーターもあるし、電磁炉(マイクロウエーブオーブン)もある。実験器具を洗うた めに、流しにはお湯だって豊富に出るようになっている。
勿論すべては実験用だけれど、教授の目を盗んで食事を作ることなんて実に簡単なことだ。だから彼女たちにとって、研究室は夢のような生活の出来る場所となる。電磁波のヒーターを使って広州名物煮込み料理を作ったり、日本式カレーを作って皆で分け合って食べ、今までの単調で窮屈な寮生活とは違う新たな気分で卒業実験に励んでいたに違いない。
カレーを作ると鍋にカレーがどうしても残る。魯くんたちはこれを洗って捨てたりせず、カレーを作ったあとの鍋には羅宋湯(ボルシチ)の元と水を入れてカレー味の残るスープにしてしまう。余すところなく利用するとはまさに花子さんの生活である。
青年時代に4 人部屋の生活をすることの好悪は人によって分かれるだろうけれど、他人に対する思いやり、寛容の精神は培われるに違いない。互いに協調して生きていくすべも学ぶはずだ。もし寮生活で他人との関係を築くことに失敗したら生き地獄となろう。彼らの優しさの一部は寮生活のおかげかも知れない。
今日もそろそろ「花子さんの時間」が始まる頃だ。山大爺は手下の花子さんたちの上がりをかすめて生きているみたいで気が引けるけれど、頭目なんだから、堂々と構えなくっちゃ。
オフィスの入り口でノックがあった。部屋の入り口の上には「山形達也教授弁公室」と書いてあるので、このオフィス(弁公室)は日本で言えば教授室である。この部屋はなんと、60平方米の広さだ。何時か訪れた日本の某大企業の社長室くらいある。昨年夏に初めてここに案内されたときは、まだ中に何も入っていなかったから、その茫漠たる広さに絶句して、ただ呆然としていたものだ。
部屋は東に面して大きな窓があり二重ガラスが入っている。5階にあるので見下ろすと大学の広い校庭が見下ろせ、眼下の構内の主要道路は、何時も学生たちの往き来でにぎわっている。
そのオフィスの設計をするように言われて、私と妻の机セット二組、ソファーセット、会議机セット、コンピューター類を置くコーナー、入り口の所の本棚のコーナーで、部屋には大体6箇所の区分があることになった。入り口のコーナーの6個の本棚を含めて、90cm幅の本棚が全部で11個あるけれど、部屋の広さにはみじんも影響しない。60平方米というのは恐るべき広さである。
ここは私たち二人だけで使うには広すぎるし、逆に実験室は狭くて学生の机を入れるゆとりがない。したがって、このオフィスの中で私たちの二つの机の占める面積以外は、学生のために解放している。三好街というコンピューターの店が集まったところに行って買った最新で最高速度のWindowsコンピューター2台はここに置いてある。勿論、実験書、学術書,JBC、Natureなどのジャーナルもこの部屋に置いてある。したがって学生は、実験する以外はこの部屋に来て、コンピューターの前に座るか、会議机の前に陣取って勉強をしている。
私もコンピューターに向かっていることが多いが、このコンピューターは日本から運んできたiMacである。丸い本体から出ている腕の先にディスプレイがあり、発売当時このデザインには世界中が息をのんだiMac800である。中国でMacはほとんど使われていないけれどAppleの名前は知られていて、人によってはオフィスに入ってきて私の使っているMacに目をとめて、その美しさに「おお」と息をのむ人もいる。私の至福の瞬間である。
さて、ノックに答えて私も、私に向かい合ってPCを使っていた沈さんも同時に「請進」と叫んだ。沈さんは入って来た客が中国人であり、しかも見かけない人であることを一目で見て取って直ぐ立ち上がり、客人を迎えて何か言葉を交わした。
話しは直ぐに済んで客人はつかつかと私の横にまで来てなにやら言い始めた。が、しかし、互いにちんぶんかんぷんである様子が分かった沈さんは客人に話しかけ、互いに会話を交わしたあと客人は帰っていった。狐につままれた感のある私と、笑っている沈さんを残して。
沈さんによると客人は「山教授はいますか」といって入ってきたという。沈さんによると、「先生のことを山教授というなんて、互いによく知っている人と思いました」とのこと。それで客人が私の近くに行くに任せたという。
ところが、見ていると互いに初対面で話は全く通じない。沈さんが割り込んでみると、モニターのプロテクターのセールスに来た人だった。私たちは液晶モニターを使っているのでこの手のものは不要である。それで彼は帰っていたのだが、「山教授」と私を呼んだのは「山大爺」という名前が、この薬科大学でもう一般に広く通用しているからに他ならない。
大学のどこかで、それならあの「山大爺」のところに行ったらと言われてここに来たけれど、本人に向かってはそうは言えないので「山教授?」となったのだろう。
沈さんは「山大爺は有名人ですよ」といって喜んでいるが、山形達也としてはチョッピリだけれど、複雑な気持ちである。。。
オフィスの入り口でノックがあった。部屋の入り口の上には「山形達也教授弁公室」と書いてあるので、このオフィス(弁公室)は日本で言えば教授室である。この部屋はなんと、60平方米の広さだ。何時か訪れた日本の某大企業の社長室くらいある。昨年夏に初めてここに案内されたときは、まだ中に何も入っていなかったから、その茫漠たる広さに絶句して、ただ呆然としていたものだ。
部屋は東に面して大きな窓があり二重ガラスが入っている。5階にあるので見下ろすと大学の広い校庭が見下ろせ、眼下の構内の主要道路は、何時も学生たちの往き来でにぎわっている。
そのオフィスの設計をするように言われて、私とwifeの机セット二組、ソファーセット、会議机セット、コンピューター類を置くコーナー、入り口の所の本棚のコーナーで、部屋には大体6箇所の区分があることになった。入り口のコーナーの6個の本棚を含めて、90cm幅の本棚が全部で11個あるけれど、部屋の広さにはみじんも影響しない。60平方米というのは恐るべき広さである。
ここは私たち二人だけで使うには広すぎるし、逆に実験室は狭くて学生の机を入れるゆとりがない。したがって、このオフィスの中で私たちの二つの机の占める面積以外は、学生のために解放している。三好街というコンピューターの店が集まったところに行って買った最新で最高速度のWindowsコンピューター2台はここに置いてある。勿論、実験書、学術書,JBC、Natureなどのジャーナルもこの部屋に置いてある。したがって学生は、実験する以外はこの部屋に来て、コンピューターの前に座るか、会議机の前に陣取って勉強をしている。
私もコンピューターに向かっていることが多いが、このコンピューターは日本から運んできたiMacである。丸い本体から出ている腕の先にディスプレイがあり、発売当時このデザインには世界中が息をのんだiMac800である。中国でMacはほとんど使われていないけれどAppleの名前は知られていて、人によってはオフィスに入ってきて私の使っているMacに目をとめて、その美しさに「おお」と息をのむ人もいる。私の至福の瞬間である。
さて、ノックに答えて私も、私に向かい合ってPCを使っていた沈さんも同時に「請進」と叫んだ。沈さんは入って来た客が中国人であり、しかも見かけない人であることを一目で見て取って直ぐ立ち上がり、客人を迎えて何か言葉を交わした。
話しは直ぐに済んで客人はつかつかと私の横にまで来てなにやら言い始めた。が、しかし、互いにちんぶんかんぷんである様子が分かった沈さんは客人に話しかけ、互いに会話を交わしたあと客人は帰っていった。狐につままれた感のある私と、笑っている沈さんを残して。
沈さんによると客人は「山教授はいますか」といって入ってきたという。沈さんによると、「先生のことを山教授というなんて、互いによく知っている人と思いました」とのこと。それで客人が私の近くに行くに任せたという。
ところが、見ていると互いに初対面で話は全く通じない。沈さんが割り込んでみると、モニターのプロテクターのセールスに来た人だった。私たちは液晶モニターを使っているのでこの手のものは不要である。それで彼は帰っていたのだが、「山教授」と私を呼んだのは「山大爺」という名前が、この薬科大学でもう一般に広く通用しているからに他ならない。
大学のどこかで、それならあの「山大爺」のところに行ったらと言われてここに来たけれど、本人に向かってはそうは言えないので「山教授?」となったのだろう。
沈さんは「山大爺は有名人ですよ」といって喜んでいるが、山形達也としてはチョッピリだけれど、複雑な気持ちである。。。
朝起きてコンピュータを立ち上げると、山ほど来ているjunk mailsの中に、メッセージカードが一つ入っていた。
「To: 山大爺
大爺の魅力が、ものすごく、好きですよ。メッチャ楽しい「花子さん」の生活をずっと胸に大事にする。
ありがとうございます。
孝行娘タチ」
<きっと送り手は研究室の女子学生たちだ。
<今日の6月20日は父の日だった。うちの子供たちが小さい頃には祝ってもらったことがあるけれど、彼らが長じてからは全く相手にしてもらえない。でも、その心境を察してか研究室の女性が優しいメッセージを呉れることがあった。そのたびに胸がジーンとして、そして今もまた。
カードはYahooのものでナンバークイズが付いている。貞子はナンバークイズが大好きで今は超上級2の難易度でも物足りないほどの上級者である。後は自分で作るしかないとぶつぶつ言いながら、それでも飽きずに次々とナンプレという本を買ってきてやっている。
わたしは頭が雑に出来ているので、頭の中で足したり引いたりかけ算をしたりして論理的に計算を進めるのが苦手である。いつだったか全日空の読み物の中にこの手のものが付いていて、「何だ、こんなの。原理が分かれば簡単じゃん」といって始めたら直ぐに行き詰まって、それ以来敬遠している。
美人の誰かさんが「あの人は馬鹿なのに良くお喋りするわね」なんて言われるのは、お喋りするから雑な頭がばれちゃうのであって、黙っていれば美人チャンで通るのだ。これと同じである。出来ないことには手を出さず、単に好きでないという顔をしていればよい。でもナンプレで頭を使うことはきっと彼女の頭の訓練に役立ち、口惜しいけれど、老化がわたしより遅いに違いない。
ナンバークイズが苦手とは言っても可愛い娘達からのメッセージなので、16個のマスの中の1から15までの数字をきちんと並べるクイズをやらないわけにもいかない。というわけでやることしばし、やがて最後の数字がきちんと収まってめでたく出来上がった。バラバラの数字がきちんと並ぶと、メッセージが浮かび上がり、横にはFather's Dayと書いてある。
いつも照れるから「ありがとう」って言えないんだ。
<でも本当はたくさんたくさん感謝しているよ。
何時までも元気でいてね。
うまいねえ。きっとこれを父親に送る子供の気持ちはこの通りなのだろうけれど、こうやって出来上がったメッセージが手軽に使えると、日本の子供達は自分の気持ちを自分の言葉で表せなくなるだろうね。
その点、中国で日本語を勉強している彼女たちは、熱心に教えている日本人教師からまじめに日本語を勉強するから、言葉はきれいだし、語彙がとても豊である。わたしが貞子と瀋陽の街の印象を話していると、隣から「差し出がましいことですが、一つ言わせて頂くと」なんて、口を挟むことも出来る。
おまけに「メッチャ」なんて言葉も正しく使えるのだ。こちらも一つ言わせて貰うと、君たちがいてメッチャ楽しかったよ。君たちも、これからの人生、メッチャ楽しく生きようぜ。
教師の会の会の折々の写真もたまってきたので、それも含めて教師の会の活動記録を残そうと思う。6月12日の定例会のあとの歓送会で最後にグループ写真を撮った(正確には隣のテーブルのお客が親切に撮ってくれた)のが、二枚ともぶれていて使えない。出席の方々に伺ったところ、石井先生から1枚送られてきた。
歓送会でたくさん写真を撮った。それぞれは真実の瞬間なのだけれど、目を閉じた瞬間とか、目をむいた瞬間とか、写った本人に喜んでもらえそうもないものを除いていくと使える写真がどんどん減っていく。3枚に1枚位しか使いものにならない。数人写っていると1/3の人数乗となって満足できる写真が殆どなくなる。というわけで、載せた写真の数が少ないけれど悪しからず。カメラマンも、モデルも、両方に問題があるのですよ。
今日6月22日は旧暦五月五日にあたり、中国では端午節である。日本の5月5日の端午の節句は子供の日となっていて、第二次大戦前までは男の子のたくましい成長を願う日になっていた。端午の節句は中国から入って来た風習に違いないけれど、元の意味とは変わってきている。
戦国時代に生きた屈原は大変有能な人だった。当時は人の才能は政治の世界で生かすしかない時代だったので、当然のこと彼も楚の朝廷に使えたが、余りにも潔癖すぎた。政治の世界は今も昔もどろどろとした権力闘争の場である。彼の言うことはまさに正しいが、融通が利かず楚王の寵臣からは嫉まれ、愚かな楚王からは疎まれ、とうとう朝廷から追い出されて、世に入れられない恨みを抱いて、汨羅(べきら)に身を投じたという。
詩経は孔子がまとめたといわれるが、屈原はその後楚の地方の歌をまとめて楚辞文学を集大成した人である。その後二千数百年にも亘って人々から慕われていて、彼を記念してこの日には 粽(ちまき)が作られる。日本の端午の節句にもこの習慣が残っているけれど、粽の中身は今では「ういろう」になっていて、中国の とは大分違っている。
中国の粽は餅米を使い、笹の葉で正四面体に包んで蒸したものである。中にはナツメ、パイナップル、、などがそれぞれ別々だけれど入っている。餅米に黄米(粟だと思う)を入れて作るときもある。いずれにせよ、この粽を作るのは、水に身を投じた屈原が魚に食べられないように、水中に投げ入れて「屈原さんの代わりにこれを食べて下さい」と魚に願って作ったのが始まりだという。
その端午節の日のことである、暦には今日の22 日は初五と赤で書いてあるけれど、勿論休みではない。ついでながら、中国の休日は日本より遙かに少ない。晴れて休めるのは、労働節と国慶節だけである。い つものように7時頃大学に着いて仕事をしていると、普段より早く出てきた沈さんと陳さんが「おめでとう」といいながら持ってきた皿を差し出した。
見ると大きな粽が数個、湯気を出して皿に載っている。「今日は端午節で、粽を食べる日です」という。ワーオ、美味しそう。というわけでご馳走になる。ザラメ 砂糖も一緒に皿に置いてあって、甘い方が美味しいので砂糖をつけて食べるという。ナツメも、パイナップルも甘いし、砂糖は不要と思うけれど、端午節の粽は 主食ではなく、すでにお菓子の扱いになっているためだろう。その点は日本並みである。
手に付いた餅米を歯ではぎ取って呑み込みながら、端午節と粽の由来を聞く。彼女たちに聞いて書いたものがこの文の冒頭に来ているものである。
路漫漫其修遠兮
吾将上下而求索
というのは彼の長編の詩「離騒」の一部で、この部分は誰もが暗唱できる。「自分のたどる道はまだ遠い、まだやることが沢山ある。やりたいことを沢山探そう」という意味だそうで、人を送る言葉としても使われるという。
こんなことを教わっているうちに、今度は煩煩さんと彼女の恋人の葛くんが鍋を捧げて「おめでとう」といいながら部屋にやってきた。葛くんがいうには「中国の風習に従って、先生たちも端午の日には粽を食べて下さい。これは私のおばあさんのうちで一緒に造ったものです。」そういえば、二人とも瀋陽育ちで瀋陽にうちがある。
「良いムコどのがいて先生たち幸せですね」と沈さんがニコニコしている。うちの女子学生たちはうちの娘みたいなものなので、彼女たちの恋人は必然的にうちの婿となる。本当にいい婿どのを持ったものだ。これも娘たちがよいからに違いないし、良い娘が育ったのは私たち親がよいからに違いない?!?こちらはジジとババなんだけれど、この家族ごっこは結構楽しめる。
ワーオ、今度は王麗さんがムコどのとやってきた。今日の山大爺のお腹は餅米づくめになっちゃうね。
卒業研究を終えた学生達は、毎日級友との別れを惜しんでいろいろな会合に出ていて忙しい。そのおかげで研究室は静けさを取り戻した。
うちのアパートのトイレはタンクと便器が一体になった陶器製である。中国にもTOTOが進出しているけれど、うちのは馬桶印だ。言われてみると確かに飼い葉桶の格好だよね。そのトイレが使えなくなった。
アパートの中の水流が弱いために、トイレのタンクが水で一杯になった時に水流を止める装置が働かないことがある。そのたびにタンクの上の陶器製の重いふたを動かさして手動で止水しなくてはならない。4月のある朝、この蓋の動かし方が悪くてふたをタンクの横にぶつけてしまった。ドバンという音とともにタンク内の水が床一面に流れた。陶器製のタンクの側面が大きく割れて外れてしまったのだ。
トイレが使えないというのは大変なことである。国際交流処の係に連絡したら、この日は土曜日だったけれど、直ぐに修理の手配をしてくれた。便器ごと全部取り替えるには、新品を手に入れなくてはならないから早くて1週間掛かるらしい。それで、外れた部分をのり付けすれば応急に使えるのはないかと提案したところ、職人を呼んで、とりあえず外れたタンクのかけらをのり付けしようということになった。
その結果午後3時には職人が来てくれた。生活の必要性の緊急度が高いと、ここでもそういうときは素早く人が動いて呉れるみたいだ。職人は丁寧にのり付けをして、「タンクに水を貯めて使うのは、のりがしっかりと付くように48時間経ってからにして欲しい」という。
こういう話が私たちに分かるはずがないから、このときは学生の沈さんにうちに来て助けて呉れている。のり付けがはずれたら困るので、私たちは4日間タンクに水を入れずに我慢した。我慢したのは水を入れないことであって、洗面所に置いてある洗濯機の洗濯槽に水を入れて、その水を水洗に使っていたのだ。
洗濯機に水をためるというアイデアは、苦い経験からである。ある日、瀋陽で暮らし始めて1ヶ月経ったくらいの頃、夜八時半に帰るとうちの水がでない。あっ断水だ。手が洗えない。夜の食事が作れない。シャワーが使えない。何よりも困ったのはトイレが使えないことだった。その日はやむなくそのまま寝て、朝4時頃必要に迫られて目を覚ましてトイレに行くと水が出たので、文字通り生き返った気分だった。 それ以来、洗濯したあと最後のゆすぎの水を捨てずに残している。
緊急にトイレの修理を頼んだ国際交流処をその後訪ねると、便器の具合はどうかと聞かれる。彼らは交換用のトイレを手配していたので新品と交換したいらしい。でも、接着したものでも使える限り問題ないので、大丈夫と言い続けていたが、交流処では使う当てのない新品トイレを自分のところに置いておくわけにも行かないためだろう、とうとう6月に入って、トイレを交換するという通知が突然来て工事が始まった。
<それでうちのトイレは新品と交換されたのだが、問題はその後である。修理業者が、新しい便器を入れていた段ボール、外した便器をうちから出して、8階のエレベータホールまで持っていったのはよいのだけれど、そこにずっと置いたままなのだ。工事の翌日、3日後、そして1週間後、どうにかしてよと連絡したけれど、いまだに片づかない。2週間たった今でもエレベータを下りると便器が面前に鎮座している。
「うちのトイレが使えなくなっても、外にあるからいいね」何てふざけているうちはよいけれど、もし本当に誰かが使ってしまったら?と思うと、これは本当は怖い話しだね。
卒業式の数日前から、薬科大学の主館の前の広場はガウンを着た卒業生でにぎやかになる。この広場には3年前の薬科大学創立70周年の記念として卒業生有志が無限と名付けた金属オブジェを寄付したので、ちょっとした趣のある空間となっている、したがって卒業生がそれをバックにして写真に収まるには絶好の場所だ。
ガウン姿の学生が卒業式前の数日間、午後になるとこのあたりに群れているので今まで不思議に思っていたけれど、今年その理由がやっと分かった。ガウンは借り着で、写真を撮るためにクラス単位で1時間だけ借りてくるのだという。
学部卒業生は黒のガウンと黒の帽子で、彼らはカラスと呼んでいるけれど、修士学生の全身青のガウンよりも格好良い。博士になると、黒色のガウンの上に袖と身ごろに赤がついて荘重かつ華やかになる。
25日の卒業式の朝、沈さんから電話が掛かってきて「卒業式が始まりますが、先生見たいですか?」と誘われて卒業式見物に行ってきた。建物はクラブと呼ばれているが、私たちには講堂と言えば直ぐにイメージが浮かぶ造りで、全部で1000人くらい入ると思われる。
壇上には二列に机が並んでいて、それぞれ12人分の名札が書いてある。講堂の席が普段着の学生で大体埋まった8時30分に、校長をはじめ見知った先生たちが一斉に壇上に入ってきて着席した。まずこの先生たちの紹介があり、次に司会者が何か言うと皆立ち上がって、国歌の演奏を聴く。
次は教務係が卒業生全員約800人の名前を読み上げた。20分掛かる。その間講堂の上の方に座っている私たちのところには監督とおぼしき先生が廻ってきて、下を向いて何かしている学生に注意をしている。結構規律がやかましいみたいだ。
卒業免状授与はクラスの代表12人に渡される。日本の大学の何処でもやるように、校長が免状の内容を読み上げて、代表ひとりひとりに渡していく方式である。免状を渡されるときに代表はそれぞれ校長に向かって深々とお辞儀をした。中国でも今はあまり見かけない風景である。
次は例のカラスのガウンを着た12 名が壇の下で呼ばれるのを待っている。何のことかと聞くと沈さんは「さっきのは在学証明書で、今度のは学位証明書です。800人のうち学位を貰うのは83パーゼントです」という。日本では学位と卒業証書は同じだから、学位が取れないけれど卒業したという人は聞いたことがない。しかし、卒業生が入学者より20パーセントも少ないということも聞かないから、日本の方が卒業について甘いのだろうか。
カラスのガウン姿の代表は,やはり黒と赤のガウン姿に着替えた校長から学位記を貰うことになった。今度はそれを読み上げた校長に一礼して学位記を受け取ると、まず校長に学生の帽子の中心から顔の右側に垂れている房を左側に移して貰ってから、握手をしている。房が顔の左にあるのが卒業したしるしらしい。そういえば、二日前の卒業生のガウン姿の写真を撮ったとき、誰もが帽子の房が顔の左に来るように気にしていたっけ。
その後は、遼寧省優秀学生や瀋陽薬科大学優秀学生が記念品を貰ったあと、壇上の先生たちの中から女の先生が学生に贈る言葉を述べ、ついで学生を代表してこれも女生徒が感謝の言葉を述べた。内容はまるで分からないが、そんな雰囲気だ。最後が副校長の挨拶だった。力強い言葉で話していたから、卒業生にこれからもしっかり頑張れよという励ましの言葉だろう。一路平安というのが結びの言葉で、これは私にも聴き取れたし、卒業式はこれでお終いというのも分かった。時間は1時間ちょうどだった。
卒業生のほとんどがTシャツという普段着姿のためか、荘厳な雰囲気はなかったけれど、それでも卒業生の胸にはそれぞれ感懐を呼び起こしたに違いない。沈さんでも「5年前ここに来たときはほんの少女だったけれど、もう23歳になりました。これから先生がたの期待に応えて立派な人間になろうと思います」なんて殊勝なことを言っていたくらいだから。
卒業実験が済んだらお祝いにうちでカレーを作って皆を招こうと約束をしたけれど、その三日前にうちの洗面所で換気扇が故障してしまった。洗面所というのは分かり易いからそう書いているけれど、風呂場である。といってもバスタブはなくて、その代わりにシャワーだけがある。
湯は壁に取り付けた150Lの電気温水器から供給される。この部屋は床も壁も特に仕切っているわけではなく、タイル張りの部屋に、洗面台、トイレ、それにシャワーの水栓があり、空き地に洗濯機が置いてあるだけの部屋である。
シャワーを浴びると部屋中びしょびしょになる。幸い床に切ってある排水口のところが一番くぼんでいるので、外に水があふれることはなく、いつかは乾くという寸法だ。
外に面している部屋ではないので、窓がない。したがって使うときは明かりと換気扇が必要である。換気扇は洗面所を使っていなくても、湿気をのぞくために常時つけている。数日前から換気扇の音が耳につくようになっていたけれど、三日前にその換気扇の音が急に大きくなってきたかと思うと、突然静かになった。「な んだか音がしなくなっておかしいわよ」と貞子が洗面所で叫んでいるうちに、うち中の明かりが消えた。
換気扇の軸受けが汚れて回らなくなって、過電流が流れたためにヒューズが飛んだに違いない、と素人ながらも判断をして、暗闇で洗面所のスイッチを切った。アパートの階段室まで行ってヒューズボックスを探すと、案の定うちの配電盤のスイッチが落ちている。これを入れるとうち中の明かりが回復したので、判断は正しかったに違いない。
洗面所のスイッチは明かりと換気扇が連動しているので、そのまま明かりをつけるのは厳禁である。それでスイッチには触らずに、大学の国際交流処の人に修理を依頼した。直ぐにどこかに修理を手配してくれたらしいが、まだ修理はそのままになっている。この手の修理には時間がかかり、数週間はこのままと覚悟した方 がよい。
そのようなわけで、今では仕方なしに、換気扇なしで洗面所を使っている。驚いたことには、シャワーを使った後で換気扇をつけていても、あるいは今度で明らかになったように換気扇が回っていなくても、夜のうちに洗面所はすっかり乾いてしまう。それだけ瀋陽では、湿度が低いということだろう。今は夏だから悩むこ とはないが、冬の間は皮膚が乾いて困ったものだ。今度の冬は、シャワーを使ったあと換気扇を使わないようにして、うちの湿度を高めてみよう。それでも洗面所は乾くだろうから。
さて、洗面所は明かりが点かなくても薄明かりで使えるけれど、トイレに関しては換気扇なしではお手上げである。十人を超える来客をうちに呼ぶ訳にはいかない。うちのアパートは8階にあって、前に書いたように、そのエレベータホールにはまだトイレの便器が置いてある。いざとなったらそれが使えるねと冗談が口から出るけれど、まさかね。仕方ないからカレーはうちで作って、パーティは大学の教授室で開くことにしよう。
卒業実験が終わった祝いとしてカレーを作ることになった前の日には、街なかの大きなスーパーマーケットまでタクシーに乗って買い物に出掛けた。
今では瀋陽にも、カルフールがあり、ウオルマートがある。どれも巨大な店構えで売り場が3フロアに広がり、そのうちのワンフロア全部が食料品売り場になっている。瀋陽北駅近くにある一番の老舗のカルフールは何時も人が多くて混雑しているので、私たちは中街の新マートがお気に入りである。冬は近くの青空市場に出掛けられないので、どうしても街中の巨大なスーパーマーケットに野菜を買いに出掛けることが多い。今では何処に行けば何があるなどということが大体分かってきている。今は牛肉を買うなら新マートと思っている。
<荷物が多くなりそうなので、王麗さん、胡丹くんも一緒についてきてくれた。肉売り場でショーケースに入っている肉のかたまりを指さして係員に重さを量って貰う。10人を越えるので、肉を3kg買って約60元だった。ざっと800円くらいに当たる。肩肉よりもすねの方が3割方高い。圧力釜を使って煮込むので、すね肉の方がよい味になる。このほかにタマネギ、ニンジン、ニンニク、椎茸、そのほかうちで必要な食料品などを沢山買い込んだ。「
「えっ、何だって?タマネギが嫌いなんだって?」驚いたことに王麗さんはタマネギがだめなのだそうだ。
「タマネギの入ったカレーは食べられない?」「形が残っていなければいいんでしょ?煮込んでしまうから大丈夫」いろいろ言ってみても、王麗さんはダメの一点張りだ。困ったもんだ。一人っ子政策のおかげでここにも小皇帝が出来てしまった。いや、小女帝か。仕方ない、タマネギ抜きのも作ることにするか。ほんとのことを言うと、私もずっとタマネギが苦手だったのだ。
新マートでの全部で支払いは145元、つまり日本円にして2000円もしなかった。日本にいてこれだけ買ったら2万円を軽く超えていると思う。食料品に関してはともかく安くて中国は暮らしやすい。
帰りもタクシーに乗ったけれど、このタクシーはうちの近くの交差点で左折してくれなかった。大抵のタクシーは平然と交通規則違反を犯すけれど、先日から道路交通法が改正されて罰金の増えた法律が施行されたためか、交差点の手前で下ろされてしまった。仕方なく重い荷物を皆で手分けして提げて歩いたけれど、胡くんは特に重いのを持ってがんばっている。
うちに着くまでの100メートルを歩いていると、何と、前の方から来る人は天然薬物化学の権威である姚先生ではないか。「姚先生!」
姚先生は胡くんの指導教授で、今は遠いシンセンに研究室を構えておられる。胡くんが今私たちの研究室で研究をしているので、瀋陽に来るたびに私たちのところを訪ねていらっしゃる。
二日前にも研究室に来られて「日本から瀋陽に来られた先生たちを、何時も心して助けなさい、特に買い物には不便がないように助けてあげなさい」と見事な日本語で、胡くんに説教しておられた。胡くんは神妙に「ハイ、ハイ」と返事をして聞いている。
私たちに向かっては「ウン」という返事しか出来ない胡くんなので、如何に姚先生を尊敬しているかが分かろうというものだ。この1年間胡くんは僕たちを沢山助けてくれたけれど、買い物に付いてきて荷物を持ってくれたことは一度もなかった。
それが何と、初めて買い物を持ってくれた胡くんが、助けてあげなさいと言った先生にその姿を見て貰えたのだ。胡くんは感激のあまりか、荷物の重さのためかボーッとして、その後うちに入る門を通りすぎてしまうところだった。
善行をすれば神様はきっと見ていらっしゃるというのは、本当のことだったんだ。
卒業式が25日にあり、卒業生全員は寮から26日には出なくてならないということで彼らは大忙しだったみたいだ。一方、こちらは久しぶりに静かになった研究室で、実を言うとほっとしたところだ。
カレーパーティの翌日は流石にまだお腹が一杯の感じで、残っていたカレーとご飯をどうしようかと言い出した人は誰もいなかった。それでその次の日の昼は、残ったカレーを電磁炉で暖めてカレーご飯を食べることになった。私たちを含めて研究室の人たちが数名集まった。「うーん、美味しい」と魯くんは3人前くらい入れた大皿を真っ先に抱え込んで、食べ始める。
沈慧蓮さんは、「今日はキンショクです」なんて、はじめは訳の分からないことをいっていたが、「結局食べることにしました」と言っているので、「そのキンショクは禁食のつもりでしょう?」「ええ」「でも、それを言うならダンジキ、断食っていうのですよ」と教えてあげる。
ついでに「キンショクなら、禁色となって、君なら男断ち、男だと女断ちという意味になるんだけど」と教えた。「つまり君なら男に手を出さないこと。男と付き合っていても、付き合わないということ」と念を押す。
すると沈さんはにこっと笑って「私にはやっぱり断食も出来ないし、禁色も無理です、どっちもできません」と言うので、私たちは笑い転げて、口いっぱいのカレーを危うく吹き出すところだった。
王麗さんも「私も禁色はダメ」と言ってひとり赤くなっている。今日は用事があって彼女の恋人はここに来ていない。彼女の恋人は同級生の優しい力持ちの馬さんで、隣の研究室にいる。私たちの研究室は人手が少ないないものだから、何かというと真っ先に駆けつけて手伝ってくれる。遠方の南の広州に恋人のいる魯くんは、にやにやしながらひとりカレーを食べ続けている。
お腹が一杯になったところで、「過ちを犯してしまいました、お腹がふくれるような過ちは二度と繰り返しません」と煩煩さんが言って、それで皆が笑い転げている。これは危ない行為に引っかけた言葉の遊びだ。みんな若いんだなあ。それにしても、日本語の達者なのには驚くほどだ。
ついで胡くんが「日本語で笑い話をしましょうか?」というので「是非聞かせてよ」と頼んだ。
<「ある精神病院で、各階の入院患者の中で班長さんを選ぼうと言うことになり、何か物を見せて名前がきちんと言えた人に班長さんになってもらうことになりました。1階の患者を集めて、看護婦さんがラジオを見せました。すると、ひとりの患者が<ラジオ>と言ったので、<よくできました、あなたに班長さんをお願いしますね>」
「2階に行って同じように患者を集め、本をポケットから出したら、患者のひとりが直ぐに<いつもの本だ>と叫んだので、<よくできました、あなたに班長さんをお願いしますね>」
3階に行って患者を集めて、ポケットから」と言いかけて、胡くんはちょっと言い淀んでしまった。「ほら、あの、歯を磨くものですよ。エーと」そこで私と妻が異口同音に「歯ブラシ?!」と叫んだ。すると胡くんは、ニヤリと笑って、「じゃ、お二人に班長をやっていただきましょうか。」
私たちの研究室は、英語と日本語を公用語にしている。日本語の分からない学生もいるのに、日本語が公用語というのは私たちのわがまま以外の何ものでもないので、毎週2回のセミナーは英語でやっている。研究室の学生の英語能力は、日本の学生よりも遙かに高い。日語班出身の学生は英語も十分出来るのだ。
英語も使えるけれど彼らの日本語能力は抜群なので、日常の話はもちろん日本語でやっている。したがって私たちは日本語の通じない外国にいるという疎外感が全くない。しかも外との交渉は彼らがしてくれるから、とても助かる一方で、使わないので私たちには中国語の能力が身に付かない。
薬科大学と私たちの交わした契約には、中国語が話せなくてはいけないという項目はないけれど、この国で暮らす以上、中国語を話すのは礼儀であるし、当然のことだろう。ここに来る前の1年間カルチャー教室に通って,毎週1回1時間ずつ中国語の基礎の基礎を学んだだけなので、昨年の秋以来、研究室の胡くんに毎週1回の割合で中国語を教わっている。
中国語がちっとも上達しないけれど、使わないからいけないというので、研究室の学生たちは私たちが中国語を使わなくては食事もできないよう仕向けて始めた。昼になると「食事に行きましょう。学生食堂に一緒に行きますか?」と私たちに中国語で尋ねる。「どうしようか、いつものように大学の外に行ってパンを買ってこようかな」と考えていても、もしそう言おうものなら「どうしてですか?どこで買うのですか?何を幾つ買うのですか?」と立て続けに聞かれて、立ち往生してしまう。
行きつけのパン屋では、店の中に置いてあるパンを、路に面している窓越しに指さして、何個欲しいと言えばよいのだから実に簡単で、しかも美味しいので気に入っている。
しかし、なぜパン屋に行くかを中国語で説明するくらいなら、この際「一緒に行く」と言って出掛ける方がよほど楽だ。と言うわけで炎天下の外に出て建物の陰をぬいながら食堂を目指す。巨大な学生食堂は5階建てでそれぞれの階で特徴ある料理を出している。エスカレーターに乗って「何階がいい?」と聞かれる。「どこでもよい」と答える。「何を食べたいですか?」と聞かれても、答えられないでいるうちにエスカレーターは5階まで行ってしまう。おかげで「(食べるものは)何でもよい」という万能の言い方をしっかりと覚えることが出来るという次第である。
送別会などの時は、ここは中国なのだから中国語で何か気の利いたことを言いたくなる。先日研究室の卒業生の送別会のときに使ったのは「有志者事竟成」という言葉だった。これは文字通り、何かやる意志が有れば必ず何か成し遂げると言う意味で、以前教科書で覚えた言葉である。
これから人生に踏み出す若者に向かって教訓を偉そうに垂れて、ついでに、日本では「為せば成る 為さねば成らぬ なにごとも 成らぬは人の 為さぬなりけり」という古歌がありますと、これもはなむけの言葉に添えた。
次の日の朝王麗さんがやってきて、あの日本の歌をもう一度言って下さいと言う。あの和歌を覚えたいらしい。こちらも喜んで、再度口にしたところ彼女は直ぐに覚えて「為せば成る・・・。」と言っている。まったく大したものだ。
中国語の授業では、最近胡丹くんはやり方を変えて、教科書を使って本文を暗唱することを要求し始めた。結構大変どころか、おおいに苦労している。
疲れ果てて「もうダメだ、こんなの覚えられるわけがない。今日の授業は延期しようよ」と呻くと、それを聞きつけた王麗さんはニヤッとして「為せば成る 成らぬは山大(シャンダー)の 為さぬなりけり」と唱え出すのだ。ヤレヤレ、とんだことを教えてしまったもんだ。
石井先生達に誘われて、「瀋陽情報」に載っているサウナ「喜開船」に行ってきた。記事に書いてあるとおり、綺麗で熱いサウナに満足。マッサージも気持ちよく、途中でうたた寝をしてしまった。
レストラン情報に、文化路と青年大街のジャンクション東北角にある新洪記を載せた。自家製の生ビールが飲めますよ。
卒業研究の学生も卒業し、生化学の講義をした学生への試験も終わった。大学構内は夏休みモードである。人影が極端に少なくなった。研究室の学生によると、学生食堂は殆どが閉めていて、あいているところは、値段を上げてしかも美味しくないという。
瀋陽は梅雨がないはずなのに6月後半から天気が愚図ついていて、まるで日本の梅雨みたいだ。ただし、こちらの雨は豪快に降るという違いがある。
違いといえば、台風もこない。薛蓮さんから日本ではじめて台風に出会って、自室の窓を開けたままにしてために部屋中を洪水にしてしまったというmailがきた。
朱さんからmailが来たが、なんとタイトルは「焼き豚になりそう」だったので大笑いしてしまった。朱の音は豚に通じるシャレなのだ。今、日本は連日三十何度の猛暑が続いているという。
卒業研究の学生達のやったテーマを収録した。研究室としてはまだ論文がないので、これを見て何をやっているか推測してもらう他はない。
瀋陽ではじめて中国の生活を始める人があるとする。自分達が最初にここに来た時を思うと、いろいろなことがわからず、不安に包まれていたし、何かと困ったものだった。
そのときに、あると助かる情報は何だろう。このような情報が日本にいるときから手に入れば、きっと安心して瀋陽に来ることができるだろう。
このように考えて、「瀋陽生活の智慧」で次に取り上げることは、「瀋陽で初めて中国の生活を始める人へのアドバイス」だということになった。すべてをそろえるには時間が掛かりそうなので、とりあえず、ケータイ事情と、ADSL事情から載せることになった。薬科大学の卒業生である沈慧蓮さんの調べに基づいている。
瀋陽から上海の知人を訪ねてていくのにお土産が要ると思ったけれど、研究室の瀋陽出身の学生の趙さんは、瀋陽に名物はありませんという。ないからといって済ますわけにも行かず、石井先生に伺ったら、いろいろと良い知恵を授けて下さった。
この貴重な情報をそのままにするのはもったいないと思って、石井先生に伺ったところ積極的に賛同して下さったので、「瀋陽情報」に写真入りの「お土産情報」を作った。是非見て下さい。
このようなお土産のヒントをどんどん寄せて下さるとお互いに助かると思う。そのときは、このホームページを会員以外は見ておられないよう願うしかないですね。
第20回参議院議員選挙の投票日が近づいてきたけれど、今回は棄権することになってしまった。今までの何十年間の自分の歴史のなかで、アメリカ留学の時以外は地方選挙ですら棄権したことがないのだから、私の普段の言動からはとても信じられないほど、実は真面目な小市民であることが分かる。
たった一票かも知れないけれど、ひとりひとりが全体の意見を作るのだという意識は昔から変わらない。この民主主義の原点は、私たちが1945年の敗戦を小学校の3年生で迎えたところにあると思う。私たちは物事の善悪の判断が付く年齢の時に、すべての価値観がひっくり返るのを目の前にした世代である。
敗戦後の混乱のなかに、クラスの自治会はかなり早く導入されたように記憶している。学校側が決めた級長はなくなり、その代わりクラス全員の投票で選ぶ級長のリードする中で、小さなことでも自分たちで討議して物事を決めるという経験することになった。
小学校が教育の実験校だったためか、敗戦の直ぐ次の年には四十数人いたクラスが6人単位の班に分けられて、そこが勉強の単位であり、意見を言う単位ともなっていた。私の班の班長は、落ち着いて面倒見の良い、そしてしっかりと自分の意見を持って人を導くことの出来る、いってみれば兄貴みたいな田宮務という男だった。
その後何年も経ってお互いが青年となって再開したとき、彼の方が背が低いことに大変驚いた。私たちの信頼と尊敬を集めていた田宮は、それほど記憶の中では際だった大きさだったのだ。人の偉大さは身体まで大きく見せるというのは本当のことだと思う。
クラスの自治会では身の回りに関わることは皆で議論して決めていたけれど、クラスの担任の加藤先生はよくトピックスを持ち出して、私たちの発想と議論の訓練をした。あるとき「戦勝国が負けた国の指導者を戦争犯罪人として裁いて良いか」という題が示された。この時はクラス全員が班とは関係なく、YESかNOの自分の意見に従って実際に教室の右と左に分かれて、意見を戦わせたのである。
私は「日本が負けたのは軍部が独走したからだ」というその時の時流の意見を信じていたからYESの方に座った。しかしNOの方には兄貴とも頼む田宮も、その後大蔵官僚になった図抜けて頭の良い大須敏生もいて、戦犯裁判を是認する側は言い負かされてしまい、結局クラスの総意は、戦勝国が敗戦国を裁くのは間違っているという意見となった。これは戦犯を裁く東京裁判の行われているその頃でも、表だっては言われなかった意見だと思う。
私は理路整然と裁判是認側を論破する二人に聞き惚れて、ついぞ彼らへの反対意見が心中に浮かばなかったことを覚えている。「大国の横暴」という言葉も「アメリカ帝国主義」という言葉もまだ使われていない時代だったが、軍部が悪いという単純な図式だけで世の中は動いていないことをこの二人は理解していた。一方で人の世の複雑さが分かるには私は幼すぎたということが、今振り返ってみると良く分かる。
東京裁判の判決よりも平和憲法公布の方が先だった。憲法の内容をクラスで討議したかどうかの記憶はないけれど、自我の形成期をこのように自由に意見の言える雰囲気で過ごしたので、個人個人が自分の意見を持つと同時に、集団全体のために知恵を出し合うことが全体の利益であり、したがって個人が選挙権を行使するのは当然の義務であるという考え方が、しっかりと身に染みついたに違いない。長じては、ほとんど無駄に思える一票ですら、棄権出来なかったのだ。
私たちの持つ憲法の宣言に反して、日本の国は軍隊を持ち、アメリカの意向に沿ってその軍隊を外国に派兵し、アメリカの敵と戦わせようとしている。小泉首相を頂く日本の政党は、この状態では最早どう言い繕っても憲法違反なので、憲法を変えようとしている。この憲法を持つことこそ、資源も金も知恵もない日本の唯一の誇りなのに、である。
国民を戦いの場に駆り出せるように今の憲法を変えたい政府の意図を阻止できなかった、ということが今回私の棄権で起こらないよう、ひたすら祈って已まない。
瀋陽土産についての貴重な情報を石井先生からいただいたのを良いことに、石井先生にねだって中街を案内していただいた。私たちはすでに瀋陽に一年間暮らしているが、groceryのために時々大きなスーパーに出かけるくらいで、街を探検したことがない。
新マートの前にある東行市場は巨大な市場だけど、教わらないと入るところがわからないところだ。中街側の入り口から入って(朝陽街に沿う方向で)北にいくと、北方茶城という看板が通路の上につってある。そこを左に曲がると、石井先生ご推奨の店がある。
朝陽街を挟んで東行市場と反対側には「小商品大世界」という面白い名前の付いた市場があった。文房具などの卸売市場だそうだ。
中街で柘植の櫛を売っている店も教わった。児崎先生から天福茶についてのコメントも寄せられたので、ともに「土産情報」に載せた。写真付きですよ。見て下さい。今日の締めくくりは老辺餃子館だった。
大学院修士1年生の英語の試験が終わったのが7月7日で、それ以来魯さんは中国語のホームページ作成に取りかかっていた。
なお、中国の大学院生は最初の1年は講義を聴講するので、大半の人達は研究室に所属していても研究室には出てこない。つまり実験をしない。しかし、私たちの研究室の魯、胡、王の3人は講義の合間にきちんと研究をしてきた。大学院生にしては例外に属する優秀な人たちである。
その魯さんが試験が終わってすべてから解放されて、中国語版のホームページを作成した。とても綺麗にできている。これを見ると、日本語版、英語版もこのように綺麗にホームページらしくしなくてはという気になってくる。危険なことだ。
夏至を挟んで1ヶ月位の瀋陽は夕方の8時でもまだ明るい。一日の仕事を終わりにしてうちで食事にしようと二人で大学を出て、広い通り沿いにうちまで10分くらいの道のりを歩いていると、隣にいる妻がすれ違った誰かに会釈をしている。「えっ、誰だったの?」
「となりの研究室の先生よ。」
ここは職住近接なので、昼も夜もうちに戻って食事をする先生が多い。私たちは二人で帰って食事を作って食べてまた出てくるのは時間の無駄みたいに思えるので、昼は近くでパンを買ってきて済ませている。夜は大概8時頃まで研究室にいて、うちに帰ってから食事を作る。
いま出合ったのは夜の食事を自宅で済ませて、また出てきた先生だったのだ。勿論私が気付いて振り返ったときには、その先生は人混みに紛れて後ろ姿だけである。夕方の散歩を日課にしている人たちも多く、日本と違って夕方路上に出歩いている人々が結構いる。飲食店が立ち並んでいるせいか夜10時になっても、繁華街でも何でもないのに大学近辺の路はにぎやかだ。
つぎにまた隣で妻がにこやかに誰かに頷いている気配がする。はっと思って振り返ると、私の講義に出ていた人たちの一団で、中には熱心な質問で私の注意を惹いていたあでやかな女性がいたことが後ろ姿で確認できた。
私は道を歩いている時は、前方に人がいることは認識するけれど、それが誰であるかにはほとんど注意を払っていないみたいだ。歩きながら考え事をしてみぞに落ちたギリシャの哲人を気取るつもりはないけれど、いつも何かが頭の中を占めていて、周囲をほとんど観察していない。
妻とは小学校から高校までずっと同じ学校の同期生なので、昔の学校の同期会には一緒に出ることがある。うちに戻る道すがら、今出会ってきた友達の話を自然とすることになるけれど、誰かがこういっていたよという時、私は要点しか言えないけれど、妻は相手が話したとおりの言葉を繰り返して話すことが出来る。「一から十まで喋らないで、言いたいことを早く言ってよ?!」といらいらするけれど、逆にこちらは逐一細かく述べる能力はないのである。
このような違いを言い出すときりがないくらい、互いに違っているけれど、数年前のベストセラーの「話を聞かない男、地図が読めない女」を読んで、目から鱗が落ちた思いだった。
大 脳生理学が専門ではない私たちでも生命科学の研究者の端くれとして、男女の脳のできが違うことは二十年くらい前から常識として知っていた。しかしこの本に書かれているように生活の実際の場に即して、どのように男女の振るまいが違うか書かれているのを読むと、「初めてそうだったのか、私は男だから妻とは全然違うんだ」といちいち納得できたのだから、さすがに偉大なベストセラーである。
何よりも嬉しかったのは、私に生きる自信をもたらしたことである。何しろ妻の言っていることはほとんど聞かず、自分のやりたいことだけをやって今まで生きてきた私だ。定年に近づくにつれ、背筋を冷たく這い登ってくる恐怖とともに頭に浮かぶのは「定年離婚」あるいは相手にされないまましがみつく「濡れ落ち葉人生」という言葉である。
「こんな自分本位な人にはもう付き合えない、私はもう自由にするわ」と言われても仕方ないほど自分勝手にやってきた人生をもうやり直すわけにも行かず、絶望的なお先真っ暗状態のときに、この本に出合ったのだった。
この本に依れば、世の中の男性の90パーセントは私と同じGoing-my-way人間なのだった。これなら、私一人、気が引けて悩む必要はない。隣の柿が赤く見えたって、実はうちの柿と変わらないのだ。取り替えたって、同じ味がするに違いない。自分一人が欠陥亭主だと思って悩んでいたけれど、女性から見れば男は誰もが理解不能の異星人なの だ。もう遠慮することはない。
この本は天下御免の免罪符を私に与え、私は生きる自信を取り戻した。人生を幸せに送るためには己を知り敵を理解することが肝要だ。それ以後私は、これから結婚しようかという二人には見境なく「この本もう読んだ?」と勧めて廻っている。
いつものように大学に行くために朝7時にアパートの外に出たら、中庭に多数のアキアカネが飛んでいた。もう秋なのかと思わず空を見上げた。曇天である。日本では梅雨明け以来、連日記録更新の猛暑が続いているというけれど、瀋陽にはまだ夏が来ない。
そうは言っても瀋陽では5月半ばからはT-シャツ1枚で過ごせる暖かさなので、真夏が間近まで近づきながら足踏みしていると言える。瀋陽は6月半ばからまるで日本の梅雨みたいにはっきりしない天候が続いている。ほとんど曇りか、曇りのち雨という毎日である。
薬科大学では7月に入ってから試験週間があり、第2週が終わったところで夏休みに入った。今は構内の人通りも少なくなり、研究棟でも人影が減ってとても静かである。私たちの研究室の陣容は今では私たちを入れても5人だけとなった。夏休みだけれど、皆いつもの通り出てきて実験をしている。なかでも麦都さんこと王麗は特に実験をよくする人である。
昨日は実験結果をPC に入れて、結果が予想通りではないといって悩んでいる。訊くと結果が予想とは違っているという。大体実験というのは、業仮説を立てて、それを実証する過程である。誰が見ても納得できるような実験を組み立てて、それぞれの実験結果が論理の積み重ねとなって、自分の主張したい結論を導くということになる。
思っていた結果が出ないと言うのは、どこかに操作上の間違いがあって実験が成功しなかったか、あるいは作業仮説が間違っていて、実は実験の失敗したことが真実を告げているかのどちらかである。40年前私たちが大学院にいた頃、「実験が失敗したときは喜びなさい、なぜなら、新しいことを見つけたかも知れないのだから」と指導教官の江上不二夫先生に何時も言われたものだ。
実験の作業仮説はその時の叡智を尽くした最上のものかも知れないけれど、人の考えることだから限りがある。実験の失敗は其の前提が間違っていて、自然がちらりと真実を告げたのかも知れないのだ。その失敗を単なる失敗と片づけるか、そこから真実を見抜くことが出来るかが研究者の運の分かれ目である。
王麗さんの実験結果を検討して見ると、予想も付かない実験上の間違いか、あるいは今までの常識を覆す新しい発見のどちらかである。このどちらであるかはこれから実験条件をいろいろと変えることで分かるだろう。今、大事なことは、王麗さんが手数を惜しまず実験をするから、このような、ことによると新しい発見に結びつく実験結果を手にしたのである。実験が面倒で、出来るだけ手も身体も動かさないようにしていると、このような運には恵まれない。
私たちが大学院の学生だった頃、指導教授の江上先生が貴重な警句(いまでは江上語録として知られている)を残されたのを真似するわけではないけれど、今私たちが全力を挙げて取り組んでいる中国の学生の指導のために、何か記憶しやすい言葉を作りたい。
王麗さんは彼女を「掌中の珠」として可愛がって育ててくれたお祖母さんから「珠」というニックネームで呼ばれていたという。珠は猪(日本の豚のこと)と発音が同じZhuである。麦都さんは「珠」と呼ばれているうちに、何時しか豚が大好きになってしまった。だから自分のことを「麦都」と名乗っている。ちなみに「麦都」は中国でポピュラーなアニメ映画に出てくる豚の名前である。
日本の「犬も歩けば棒に当たる」というのを下敷きにして、彼女に敬意を表して「猪走探食」という言葉が、王麗さんの助けを借りて出来上がった。「豚も歩かなくては餌にありつけない、歩きさえすれば餌が見つかるのだよ」という意味だ。「手数を惜しまず実験をすれば、新しいことが見つかるよ」という寓意である。
中国では対聯が普通である。対聯には作り方に難しい約束があるそうだが、この際それを無視すると、「胡臥待果」というのがまず頭に浮かんだ。「胡丹くんは寝ころんで結果を待っているけれど、それでは新しいことは見つからないよ」ということになる。しかし、いくら何でもこれはひどい。胡くんだって実験を一生懸命やっているのだ。恋愛の初期だから彼女のことが気になって王麗さんほどは実験に身が入らないだけである。
すると王麗さんが助け船を出して、「誰臥待果」という形になった。「豚が一生懸命働いているのに、一体誰が寝たままで良い結果が出ると思っているんですか。ちゃんと実験しなさいよ」という意味である。しかしもう一つの意味は、「研究室で学生を働かせて自分ひとり寝転がってぶつぶつ言っているのは誰だ?」という、私に対する強烈な当てこすりにもなる。
と言うわけで、「猪走探食 誰臥待果」という研究室の対聯ができあがった。私も自分で実験を始めようかしらん。
私たちの研究室で卒業研究をした女子学生3人は、残念なことには卒業した後私たちの研究室の大学院に進学しない。ふくよかだけど泣き虫の沈春莉さんは、広州にある日本有数のバイオ企業に就職した。泣き虫というのは、彼女のセミナーの時にせっかちな私が話しの先回りをして彼女は頭が混乱してしまい、泣きだしたことが何度かあるからだ。
聞いた話によると、彼女の初任給はこの大学の先生の給料よりも大分良い。ここの大学の先生の給料は、講師の基本給が800元らしい。講義をすると1時間何元という計算でこれに加算される。講義代も講師、助教授、教授と地位が上がっていくと単価が高くなる仕組みだ。大学を出て直ぐの講師でも、3000元くらい貰っている様子である。これは日本円に直すと4万円くらいにあたる。
中国国務院の今年4月の発表によると、企業で働く従業員の7割以上の人口が平均給与800〜2500元に収まるという。だから大学の先生の給与は決して低い水準ではない。それでも、就職する学生はそれよりも格段によい給料を貰うことになる。自分の所の卒業生がよい企業に就職できて高給を取ることは喜ばしいことだが、大学の先生よりも高いというのが気に入らない。学生の間に拝金主義がはびこってしまい、誰も安い給料の大学に残って研究を続け、教育に当たろうとしなくなる。
このように給与の逆転はあるけれど、私たちは大学の給料で十分に生活できる。実際上妻の給料で毎月暮らせるので、私の給料は研究費の足しにしている。研究には金がかかる。研究費を申請して獲得するためには論文を書かなくてはならない。論文を書くには研究をしなくてはならず、そのためには研究費が要る。足りないところは自分の月給を投じ、さらに日本で貰う年金も使うしかない。
それはともかくとして、すべてに亘ってスマートな学生の煩煩さんは上海にある国立研究所に行って併設されている大学院に入り、給料(奨学金?)を貰いながら研究をして学位を取るという。日本の国立研究所と大学院大学の関係と同じようなものらしい。この瀋陽薬科大学からこのような国立研究所に進むのは、言うまでもなくエリートコースに乗ると見なされている。
瀋陽だよりに良く登場する沈慧蓮さんは日本の一流大学の大学院に進学を希望している。既に先方の教授と話が決まっていて、大学院の入学試験を受けてそれに通れば、めでたく日本の大学院に進学することになっている。
私の研究室には3人の華やか娘がいたけれど、6月限りでそれぞれが巣立っていった。研究室に来てから3ヶ月半実験をして、6月に入ってからはPCに向かって発表のためにPowerpointでスライドを作り、そのあとは卒業論文の作成にいそしんだ。
煩煩さんには上海の研究所に一緒に進学する同級生の恋人の葛くんがいる。彼は2月からそこで卒業研究をやっていたけれど、ここよりは2週間くらい早く片が付いたらしく6月には瀋陽に戻って来て、毎日私たちの研究室に顔を出し、煩煩さんの実験を手伝っていた。
沈春莉さんにも同級生の恋人がいて彼は北京の医科大学に進学するという。彼はこの瀋陽薬科大学で卒業研究をやっていて彼女を手伝えなかった。その代わり同じ頃に終わったので、あとは晴れて二人そろって毎日どこかに遊びに行ったらしく、6月後半は姿を見かけなかった。二人はすぐに南北別れ別れの生活が始まるから、無理もないか。
というわけで、研究室は9名のメンバーだけど、私たちの歓送会はメンバーの恋人たちも呼ぶので十数名にふくれあがる。中国では割り勘という習慣はないから、こういうときは全部わたしたち持ちである。もっと給料があってもいいなあと思うのは、こういう時である。
ちょうど春節休みに私たちが東京に帰っている間に、胡丹くんは灼熱の恋をした。二月はじめに瀋陽に戻ってきたら、待ちかねたように真っ先に訪ねてきて紹介してくれたのが彼女だった。彼女は同期の学生で、私たちの同じ建物の1階上の研究室にいる。その頃は毎日、時間になると彼女と待ち合わせて昼と夜のご飯を学生食堂に食べに行っていた。
恋人同士の男の方は、「護花使者」を呼ばれているそうだ。女性を花に見立てて、その恋人のことを「花を守る人」というのは、綺麗な言葉でさすがに文字の国だと思う。ただし煩いことを言うと、女性を男と対等の立場に置いていない表現かも知れない。
胡くんたちの激しい恋もこの頃は少し落ち着いてきて、それぞれの実験の都合を優先するようになったみたいだ。昼夜いつも一緒に食事に行くことはなくなったけれど、彼が幸せであることには変わりない。
彼が実験で忙しく昼食に一緒に出掛けられないときは、彼女が食堂でお弁当を買って届けてくれる。午後の一時頃にやっと実験が一区切りついて、教授室に来てひとりで食べることになっても、胡くんは愉しそうである。
今日も昨日に引き続いてひとりで弁当を食べている。「いいねえ。仲が良くて羨ましいねえ。彼女は胡くんの女神ですね。」と水を向けると、胡くんはニコニコと無邪気な笑顔をする。心の底から幸せが溢れ出る笑顔だ。こちらも思わずつり込まれて頬がゆるんでしまう素敵な笑顔だ。こんな豊かな笑顔を向けられれば、彼女の心は彼の虜になったまま未来永劫彼から離れることはできないだろう。
「でも、喧嘩をするんです」とご飯を食べながら胡くんが言う。「まさか。どうしてなの?」と話の聞き上手な妻の貞子が言う。「喧嘩する位じゃなければ、長続きしないさ」と分かったようなことを言うのが私。
「この頃、朝寝坊して起きられないものだから、彼女が昨夜ケータイを貸してくれて、そして今朝電話を呉れたんですよ」と胡くんは話を続ける。そういえば胡くんは自分のケータイを持っていない。ちなみに、研究室のメンバーはそれぞれの連絡先を私のところに登録してあるけれど、彼の連絡先は以前から彼女のケータイとなっている。
緊急の用があってもまさか彼女のところに電話するのも気の毒なので、つい彼のところには電話をしない。だから、培養に必須な機器が壊れて直そうというときも、教授室の床磨きが始まりそうで急いで部屋の中の机を廊下に出さなくてはいけないというときでも、うちの研究室の彼女たちの恋人はたちまち集まるけれど、胡くんだけはいないのだ。
彼の寝室は寮の4人部屋である。中国で「寝室」というと寮生活の部屋を指し、普通の住宅の寝室のことは「臥室」と呼ぶそうである。その彼の寝室には、同じ研究室の魯くんもいるし、王麗さんの恋人の馬さんもいる。朝起きるときに友達に起こすよう頼まないで、わざわざ恋人に電話を掛けて貰うところが可愛い。この心理は、自分の大昔を思い起こしてみれば、よく分かる。
「ところが今朝電話があって起こされたんですけれど、起きてから歯を磨いたり、着替えたりしてぐずぐずしているうちに、寮の廊下で放送があって、彼女が待っているとことがわかりました。あわてて出てみると、彼女はずっと外で私を待っていたのです。直ぐに出て行かなかったので、怒っていました。」
「彼女が怒っているのが分かったのですぐに『ごめんね』と言ったけれど、彼女は、『別に何でもない』と言うのです。でも、あの固い顔を見ると、本当に怒っているのですよ。」
「わかるう」と思わず貞子が目の前にいるのも忘れて、私は口を挟んでしまった。「女性が、その頬を白く引きつらせ、視線を彼方にそらして『別に。何でもないわよ』と口にした時の怖さは今までに何度も経験しているよ。本当にやばいんだよ」と思わず言ってしまって、妻の固まった白い顔に気付いたところで危うく思いとどまったが、もう遅い。
口は災いの元。男はつらいねえ。
3月の終わりの頃だった。昼食のためのパンを買いに出掛けようとすると、学生の沈慧蓮さんが「先生、ケーブルテレビのお金を払いに行くのですか。一年分まとめて払いますね」という。藪から棒で面食らったが、よくよく聞くと、以下のようなことだった。
今私たちは大学の敷地に隣接して建てられた教授楼という名の高層16階のビルの8階に住んでいて、部屋には巨大な35インチのテレビがある。この新しいテレビは、冷蔵庫、台所用品一式、家具、などと一緒に、新しく入る私たちのために大学が用意してくれたものだ。チャンネルを回すと合計40チャンネルくらい見られるが、一つを除いて全部が中国語である。初めは珍しかったけれど、今は英語によるCCTV9というCNNの中国版しか見ていない。結局、猫に小判、豚に真珠、山形に中国語テレビなのだ。
今聞いた話によると、どうもこれは有料のいわゆるケーブルテレビらしい。半年以上もお金を払わずに使っていたわけだ。ほかの立派な家具と同じように大学が費用を払ってくれたかと思っていたけれど、それは甘いというもの。なるほど。それなら払わなくてはいけない。だけど、うちの住宅番号が分からないのにどうやって払ったらよいのだろう?
半年も住んでいて自分の住宅番号が分からないと言うのは妙な話だが、本当なのだ。ガス代はうちに固有の番号が付いてその番号で請求されているし、固定電話にはもちろん電話番号がある。だから銀行に行って、日本の銀行のcash dispenserみたいな機械に銀行カードを通すと、ガス代とか固定電話代などの名前が並んで画面に出てくる。どれかを選んでその番号を入れた上で自分の口座の暗証番号を入れると、銀行通帳からその金額が引かれるという半自動の仕組みになっている。
この番号がないと払いようがないわけだ。私たちのアパートは最初入居するときに208号だと聞いていたが8階にある。1階の入り口にある私たちの郵便受けには2-8-2と書いてある。そして日本式に数えれば、部屋は8階の端から二番目なので802号室だ。しかし、入って間もない暑い夜にクーラーを全開にしてフューズを飛ばしたときに対面したうち専用のフューズボックスには806と書いてあった。したがって何番がうちの正しい番号か知らないし、さらに同じアパートの住人に聞いても分からないのだ。
誰が払えといってきたのか分からないが、ともかくテレビ代を払う場所を沈さんに調べて貰って、私たちの住所が大学になっている居住者証を持って払いに行こうとした。するとそれまでの様子を見ていた魯くんが「支払いにはカードが要るはずだ」と言って、大学の管財課みたいなところに電話を掛けてくれた。それによると、テレビ代を払うためには私専用のカードを持っていないと、どうやらテレビ代を払えない仕組みのようだ。
しかしそれならば、どうして最初から「これこれこういうわけだから、これを持って何処そこにテレビ代を払いに行きなさい」と言ってそのカードが私の所に送られてこないのかだろうか。さらに言えば、テレビ代を払えということが、どうして当の本人に直接ではなく、学生を介して何となく伝わってくるのか、ここは不思議なところである。
さて電話した結果、そのカードが貰えることになったというので「それじゃ、そのカードはいつ来るの?」と、当然の疑問を発したのだが、「不知道(わからない)」という返事が返ってきた。そして私はテレビ代を払いに行くためのカードの到着を、ただじっと待っている。有料であることが分かってからは、見なきゃ損するテレビを文字通り目一杯眺めながら、もう四ヶ月も。
昨秋中国に来て以来瀋陽を離れたのは、一度用事で大連に行っただけで、それ以外中国のどこにも旅行に出かけていない。
せっかく歴史と魅力に溢れる国にいながら、どこにも行かないのは残念だ、と思っていたので、上海出身の沈慧蓮さんにこの夏休みに「上海に寄ったら案内してくれる?」と頼んでみた。
沈さんはにこにこして「大歓迎です。喜んで案内します」と言ってくれた。
瀋陽から上海に行く航空券、さらに上海から日本に帰る航空券をあちこちの旅行会社にこまめに当たって調べて購入の手配した上に、上海では自分の実家に泊まるようにと勧めてくれた。
彼女だけならともかく、彼女の家族にまでは迷惑は掛けられないと固辞したけれど、彼女は「ふつうの中国人の生活を体験する良い機会ですよ」と言うので、それもそうだと思ってしまった。
沈さんは今年の卒業生なので7月に入ったところで瀋陽を去った。
私たちは静かになった研究室で仕事を続け、上海に行ったのはそれから1ヶ月後のことだった。瀋陽から上海までは60人乗りくらいの飛行機で、席は進行方向の左側である。窓側にはいつものようにwifeが座った。
「もうすぐ上海浦東飛行場に到着します」という案内があった後、窓から下を眺めていたwifeが「えっ、砂漠を車が走っている」と叫ぶのだ。窓に代わって顔を近づけてよく見ると、下は砂漠ではなく泥水で、その上を二本の筋を後ろに引きながら双胴の船が走っていたのだった。
泥水は延々と続き、これが揚子江に違いないと聞きしに勝る広大さに二人とも呆然としているうちに飛行機は浦東飛行場に着いた。
5年前にできたという飛行場のターミナルは斬新な設計で機能美をまず感じる美しい建物である。
荷物を受け取って外に出ると、出迎えの人たちの中でぴょんぴょんと跳びはねているのは懐かしい沈慧蓮さんだった。
彼女は物怖じしない積極的な性格なので私たちは彼女のことをミーハーの模範とからかっているうちに、何時しか彼女は研究室の皆からミーハと呼ばれるようになった。
自分でも自分のことをミーハと言っている。だから、挨拶の「ニーハオ」の代わりに彼女に「ミーハオ」と言うのを楽しみにしていた再会だった。
空港からは1年前にできたばかりの磁気浮上モノレールに乗った。ドイツの技術で作られて今年の初めから営業運転をしている。最初に設定した片道75元の料金が高くて利用者が少ないため、5月のゴールデンウイークの時に50元に値下げしたということだ。飛行機利用者は40元でよい。
乗ると新幹線みたいに速度の表示板が目に着くところにあり、動き出すとあっという間に200km、300kmに上がっていく。加速度も、横揺れも感じさせない。
いつ軌道から浮上するのか、あるいは浮上したのか分からない。速度計はどんどん上がっている。
窓の外は田園風景だけれど、新幹線の二倍の速さという感じはしない。沈さんによると窓ガラスが特殊で、風景が一緒に張り付いて見えるようになっているという。
そんなことってあるだろうか?どうすればそんなことが可能なのか、不思議だ。
1. モノレールは実際には速くはなくて速度計を加工している。
2. 窓はすべて液晶モニターで、窓外の風景をゆっくりと映している。このぐらいしか思いつかない。
私のいい加減な推理は、自分の考える限界を超えることができない。しかし、彼女はそれ以上の秘密は知らないらしい。
4分ぐらい経って430kmになったところで速度計の上昇が止まったように見えたので「写真、写真」と叫んで、沈さんが速度計と写るような構図で写真を撮った。ほかに座っている人たちがにこにこして私たちを見ている。「じゃ先生、代わりましょ」と沈さんが私と速度表示の写真を撮ったところで列車は今度ははっきりと身体に感じる減速を始めた。
最高速度が続いたのは40秒もなかったと思う。列車はみるみるうちに速度を落として、終点に着いた。そこからは上海の中心に向けて音の静かな地下鉄に乗った。地下鉄の反対方向の終点は、科学技術パークだという。つまり、上海のバイオやナノテクノロジーの研究所、そして企業の研究所、工場が集まっているところで、沈さんは将来はそのようなところで格好よく仕事をすることを夢見ている模様である。
研究室の卒業生の趙Xiさんがこの秋から進学する研究所もそこにある。
やがて目的の駅に着くと、地下の通路には「SARSと戦い勝利しよう」「衛生に注意しよう」という様々な呼びかけのポスターが沢山貼ってあった。幸い今年はSARSが広がらなかったことを思い出し、改めて胸をなで下ろした。 駅には沈さんの父上が迎えに来て下さった。初対面で彼女のお兄さんかと思うほどの若さでびっくり。
歩いていくと、駅の付近は巨大なスーパーや店が並んでいるけれど、このあたりは住宅地区であり、二十数階建ての高層ビルが林立していてそのどれもが一般の人の住宅なのだという
駅から歩いて5分のところにあるビルの18階に沈さんのアパートがあった。外から見ると1フロアに4軒入っているかなと見当をつけたのだが、実際は8軒だった。日本の戦後建てられた住宅公団の最初の48平方メートルの3LDKに私は住んでいたことがあるけれど、上海の90年代の住宅事情はそれに近かったらしい。
今のアパートはこの倍の広さが標準になっているという。台所、バスルームは独立で、瀋陽の私たちの5年前に建てられたアパートのそれよりも広いが、食堂は狭くリビングとしても使える広さはない。このほかには、ご両親の寝室と沈さんの寝室があるだけである。私たちはご両親の寝室に通されて、ここを自由に使ってと言われたのだった。
沈さんに似た背の高い美しい母上に会って、またその若さにびっくりである。というのは衣服工場で働いていたのを今年で定年になると聞いていたから、もっと年長かと思っていたのだ。
会ったばかりで、wifeは中国語でもう話しかけている。静かな口調で落ち着いた返事が返ってくるけれど、茶目っ気のあるのは彼女から沈さんに遺伝した形質だろう。 暑くて喉が渇いただろうと西瓜を勧められて、そのおいしさに一人で殆ど食べてしまった。あの甘さは、トマトを切って砂糖をまぶして冷やしておくと甘さが染み込むが、それと同じ手法だろうか。
この浦東地区は上海の新開地で、十数年間に彼女たちが越してきたときは、周りは殆ど畑だったという。今は、見渡す限り6階建てのアパートがあり、所々に空を切り裂いて高層のビルが林立している。
それでも、瀋陽よりはビルが密集している感じはなく、空き地率が高くて木々の緑が目立つ印象を受ける。高層ビルが沢山ある分、空き地を増やしているのと、道路が新開地にふさわしく広いためだろうか。 夜は沈さん一家の招待で近くのホテルにある美林上海料理店に案内された。メニューは料理の写真付きである。
中国料理のメニューは調理の言葉を覚えるとある程度は見当がつくというけれど、実際にはいつも瀋陽では心に描いている料理と出てきた料理の違いに驚かされていたから、ありがたいことである。
しかしここでは、上海の沈さん一家の選択と推薦に任せて本場の上海料理をごちそうになった。ここの店の料理を一言で言うと、これまで中国料理をおいしいと思って食べてきたけれど、今回の上海料理が最高であった。
両親と話している沈さんを見ると、大学の研究室で見ていた沈さんと全く違う。研究室ではとてもしっかりと自立した学生だったが、家では全く違う甘えた口調で話している。一人っ子だし、両親からとてもかわいがられて大事に育てられたに違いないことが、よく分かる。 食事から帰ると沈さんのご両親は同じ建物の親戚の家が空いているのでそこに泊まると言って出て行かれて、私たちはクーラーのある寝室を占拠させていただいた。
至れり尽くせりの歓待で、私たちはこのようなもてなしを今まで他人にしたこともないし、他人から受けたことはないような気がする。
沈慧蓮さん一家の心から厚意を喜んで受け入れよう。私たちも沈さん一家に心からの誠意で接しよう。こうやって、日本が仕掛けた侵略戦争で崩された日中の絆を草の根レベルから再構築しよう。
今回の旅行は沈慧蓮さんに案内役を頼んで上海を観光しようというものだったけれど、上海の近郊には、蘇州、杭州がある。中国の人なら誰でも知っている言葉に「上有天堂、下有蘇杭」というのがある。
蘇州、杭州の風光明媚をたたえた言葉だ。蘇州、杭州は中国中の人があこがれ、昔から旅するならぜひ蘇州、杭州と願った場所だという。
研究室の王麗さんは中国の西部の出身で、まだ蘇州、杭州に行ったことがない。勿論蘇州、杭州観光がお勧めである。そして、蘇州、杭州は美人の産地で名高く、中国古来の四大美女の一人である西施は杭州付近の出身であるという。なにしろ、古来詩人・文人に愛されてきた杭州の西湖は西施の名にちなんでつけられたというのだ。詩人文人は詞や詩を残しているから、多くの人たちに愛されてきた土地であることがよく分かる。 この「蘇杭有多美人」というのが決め手になった。今度の上海訪問は美女探求の旅となる。沈さんとwifeの手前、私はそんな顔をしていないけれど、心の中では美女鑑賞に心に誓っていたのだった。おまけに、上海は猛暑だが、蘇州、杭州は運河が縦横に走っている水郷地帯だという。きっと涼しいに違いない。
朝早く、再び家に戻ってこられた沈さんのお母さんから蓮の実入りのおかゆをごちそうになって家を出る。上海駅に向かう地下鉄には、朝の新聞を手に持ったおばさんが駅から乗り込んで来て車両の中を売り歩く。上海からは6時50分発の汽車に乗って蘇州に向かった。
汽車の席は通常の硬座だが座席指定だった。硬座は板張りかと恐れていたけれど、ビニールの張ったクッション性のある椅子で、その上に白いカバーが掛かっていて、清潔である。中国は広いから、場所によって汽車の席の規格が違うのかもしれない。
上海を離れると、見渡す限り平坦な田園地帯となり、小川や運河がだんだん増えていく。むかし読んだ日中戦争に関わる戦記ものでは、日本軍が手を焼いたcreekと呼ばれたものだと思う。
日本の「汽車」という歌では「今は山中、今は浜。今は鉄橋渡るぞと、思う間もなくトンネルの闇を通って広野原。廻り灯籠の絵のように、変わる景色のおもしろさ。。。」というのがあるけれど、この歌はあくまで日本の風景のことで、中国は悠然と広大、かつ雄大である。景色はこせこせと変わっていくことはない。このような自然の違いも、それぞれの国民性の違いに影響しているに違いないと考えているうちに、1時間の旅は終わって、蘇州の駅に汽車は到着した。南京まで行く汽車なのに、ここで半分以上の人が降りる。やはり観光地なのだ。
駅を出ると沢山の客引きが何のかんのと言って寄ってくる。「不用、不要」と言いつつ客引きをかき分けて10分ぐらい歩いて北駅バスターミナルに行き、夕方の杭州行きのバス券を沈さんが買う。「今買っておいて良かったみたい。もう一杯ですって」と沈さんが言っていたが、実際夕方になってバスに乗ったときに分かったけれど25人乗りのバスは満席で、私たちの番号は最後のほうだった。 タクシーで拙政園に行く。ちょうど8時で、無料の解説案内のグループにはいることができた。沈さんはこの説明を聞いて、私たちに日本語で説明してくれる。
拙政園は蘇州の四大名園の一つで、中国の四大名園の一つにも入っていて超有名な庭園である。ここはさらにユネスコの世界遺産に登録されているという。拙政園は、明王朝の1509年に官僚だった王献臣が追放され、故郷の蘇州に戻ったときに自分の屋敷として造営した。拙政園は蘇州の庭園の中でもっとも広く、8年の年月を費やして造られたとのことである。
中国の庭ではまず入り口から入ったところの築山が邪魔をして、全景が見えないようになっている。
それを過ぎると池があり、蓮が見事なピンクの花を咲かせていた。
沈慧蓮さんは「蓮は私の名前です。汚れた泥の中から汚れに染まらずに、綺麗な花を咲かす蓮は尊さを意味し、皆から愛されます」と幸せそうに解説してくれる。
拙政園は、東園、中園、西園の三つの部分に分けられているが、大小の蓮池が園内の中心となっている。蓮の花の咲く時期に訪ねた私たちは運がよい。
蓮池の周りに東屋、橋や回廊が水面に映って落ち着いた静けさを漂わしている。西の方に塔が見える。あの塔は、この庭園を借景としていますと言うことだったが、落ち着いて考えると、この拙政園があの塔を借景としているのではないか。私の聞き違いかもしれない。その塔のおかげで、この庭園の奥行きが深まる。
ただし、まだ朝だというのに暑い。客の応接間に使われたという遠香堂という建物の陰ですわりこんでしまう。
そして考える。これは個人が造った。莫大な金がかかったに違いない。その金は官吏として明朝廷に遣えている間にため込んだものに違いない。この途方もない金が正当な給料で貯まったはずがない。この出所は、結局民衆から搾取したものだろう。当時はそうすることが当然のことだったので、当時の官僚の王献臣は自分が搾取しているなどとは夢思わずに、金を貯めたのだろう。
時代が移り、現代となったいま、人の意識はどの程度変わっただろうか?
朝廷から追放された恨みを込めて、愚かなものが政をつかさどるという意味で「拙政園」と名をつけたという話だ。命名した王献臣の気持ちは分かるし、当時なら官吏がこのように蓄財をしても当然のことだろう。
しかし、今なら彼の行為は間違ったことで、こんなことはあってはならないということを、この機会に一般大衆に教えたらよいだろうに。
これこそ歴史から学ぶことではないだろうか?
拙政園を見終わって獅子林に向かおうと道しるべに従い橋を渡ろうとしたとき、左手の川岸の切れ目から水が見えて、そこには屋形船がつないであるではないか。船頭らしい人も見える。
「乗ろう、乗ろうよ」と二人を誘って、沈さんが値段の交渉をしてくれた。このあたりを30分漕いで30元だと教えてくれる。30元なら結構、ということで、私たち3人は長さ5mくらいの、中程に小屋掛けを持つ船の客になった。 年配の船頭は後ろに立って櫓を漕いでいる。
水は薄緑色で、透明ではないけれど臭いもなく綺麗である。両側は1メートルくらいの高さの川岸で、漕ぎ進んでいくと、片側には川面から立ち上がって川面からの入り口を持つ家が並ぶようになる。船はゆらゆらと進む。蝉の声が上から降ってくる。風はわずかなものだけれど、道を歩いていたときよりも遙かに涼しい。
丸い石造りの橋の下をくぐり抜ける。上から女性が二人橋桁にもたれて私たちを見ている。蘇州美人かなと思ったけれど、ただの観光客らしい。
橋桁には竜の頭が付いている。蘇州の沢山ある橋にはどれにも竜の頭が付いていたけれど、この橋以外は文革で壊されてしまったとの説明を受ける。文革とはいったい何だったのだろう。
確かめたわけではないけれど、毛沢東の業績に傷が付くので学校では文革については教えていないと聞いたことがある。
私たちが船溜まりで船に乗り込もうとしているときに、私たちの進む方向に先に進んでいった船に、やがて追いついてしまった。この船が遅いのも道理で、一人は櫓を漕ぎ、舳先に立つ一人は長い柄のたもを使って水に浮いた木の葉やゴミを船に拾い上げているのだった。運河の三叉路で私たちは右に曲がる。
運河の左手には道が走り、右手は白い塀が続いている。運河側に入り口があって水上から出入りできる家がまた数軒並ぶ。見ると外の流しは勿論のこと、排水管はすべてそのまま運河の流れを指している。排水はこの運河に垂れ流しなのだ。
沈さんは船頭さんに頼んで櫓にさわらせて貰っている。船頭さんは手を離さずに後ろの方で一緒に櫓を持っているので、実は彼が漕いでいるのだが、沈さんは満足げだ。↗️
「そんなら僕も」と私も立ち上がった。今から数十年前のこと、油壺の東大臨海実験所の和船を漕いで海水を汲みに海に出ていたことのある自慢の腕だ。
しかしあるとき海が嵐でひどく荒れていて、とても戻れそうもないと観念したときに、もう一艘の和船を漕いで助けに来てくれた人があった。
早川さんという水産大学の人だった。それきり会ったことがないが、私が今健在なのは彼のおかげである。
さて、櫓を持たせて貰ったけれど、今回は全く駄目だった。船はどんどん左方向に進む。川岸の家にぶつかる寸前に、船頭さんが櫓を取り直して回避してくれた。それでも、私は久しぶりの櫓の感触が嬉しかった。 ↙️
やがて川幅が広くなり、また三叉路がある。向こうからこれもまた清掃のための船が来ている。その地点で、私たちの船は引き返し、船頭さんが蘇州の舟歌を歌い始めた。
「一月になると、花が美しく咲き、懐かしい人が蘇州に訪ねてきてくれる」という意味の歌だと沈さんが教えてくれる。渋いいい声だ。「二月になると『梅』が咲き、、、」、というように、毎月の花の名前が入ってくる。 ゆらりゆらりと進む船にこの舟歌はぴったり合って、気分をのどかに和ませる。きっと、昔はこのようにして川船に蘇州の遊伎や想い人と乗って、船で遊んだのだろう。それが、昔の蘇州の風情だったと聞いている。
紀元前770年から秦の始皇帝による統一までの約550年間は、春秋戦国時代と呼ばれている。秦、斉、燕、魯、晋、楚、呉、越諸国が争う戦乱の時代だった。この蘇州の城は呉の国の都だったという。
呉の大臣であった伍子胥が、紀元前514年、呉王の名で蘇州を築城した際に作った水門のひとつが盤門であると書いてあった。 伍子胥は悲劇の人として歴史に名高い。呉王から疎まれて殺されるとき、「呉の滅亡も近い。私の目をくりぬいて城門に置き、呉国の滅びるのを見さしめよ」と言ったと伝えられる。実際に予言通りに呉は滅びたのだ。↗️
現存の盤門は1351年に再建されたものだと言うことだが、私は勝手にこの城壁の上のことだと信じることにして、盤門の目の前にある「呉門橋」に座ってしばし歴史を回想した。
城門と城壁「盤門」と「呉門橋」、北宋の時代に作られた「瑞光塔」とに囲まれた空間は落ち着いた綺麗な庭園となっている。
あまりの暑さに人は少なく、静かな雰囲気の中でこの美しい庭園を眺めていると、周囲と全く違和感が全くない。青い空の下、どこまでもこの美しい庭園が広がっているように見えるのだ。↗️
不思議に思ってよくよく目をこらすと、この蘇州古城一帯を取り囲む建物は、昔の建築風の白壁と黒の窓枠、黒の屋根以外を造ってはならないという規制があるとしか思えない。
けばけばしい色の装飾はここから一切見えないように排除して、景観を守っているのだ。 評判の蘇州の美しさをこうやって守られている。
蘇州美人にはまだひとりも出会っていないけれど、この発見で私はとても嬉しくなった。↙️
暑さでぐったりしているけれど、これで観光を終わりにしては蘇州を見たことにはならない。炎天下の歩道の縁に座り込むことしばし、沈さんがやっと呼び止めたタクシーで蘇州郊外の寒山寺に行く。 寒山と拾得が住職をつとめたという寒山寺は蘇州を訪れた人は必ず訪れる名所だそうで、私たちも来てしまった。
城外を巡る水路が続いて、あちこちにアーチ型の石橋が散見される。唐時代の詩人の張継の詩「楓橋夜泊」が日本人の間では特に有名である。
この寒山寺の鐘の音が客船に届いたという船溜まりのある運河は、寺の境内のすぐ隣で、寺の入り口に面している。寺の色は鮮やかな黄色に染め上げられていて、境内は観光客で充ち満ちていた。 普段の日は入場料が10元。鐘を鳴らすと5元だそうだ。鐘堂の前で大勢の大人や子供達が鐘を鳴らす順番待ちをしている。
何時の頃からか、日本人が年末に集まって除夜の鐘を鳴らすようになり、この鐘衝き料が今ではひと衝き800元だとタクシーの運転手が言っていた。
中に入ると池と岩である。この獅子林の石には多数の空洞があり、石に刻まれた路を歩くと築山の頂上に至り、次には地の底に潜り、直ぐ隣りと思えどもそちらに行くには大廻りしないと路が見つけられず、興に惹かれて、暑さに疲れた身体ながら大いに歩いて遊んでしまった。↗️
沈さんに至っては、幼子のようにひとりで飛び跳ね、走り回っている。獅子林にいるときには遊ぶのに忙しくて、庭園が名園であるかどうか思いもしなかった。タクシーでバスターミナルに戻る時に蘇州の街を見ていると、ほかの街との顕著な違いに気づいた。蘇州の街は開放的な作りである。↙️
中国では一階の窓にはすべて格子を付け、店先には鎧戸を下ろし、2階(どうかかすると3階までも)の窓にも格子をはめている街が多く、実は当局のことばとは裏腹に中国は治安が良くないというメッセージが伝わってくる。
しかし蘇州では1階の窓にも格子のない作りが多い。つまり、蘇州は観光のために開放的な作りなのだろうが、治安も良いに違いない。
さらに、緑が多く、とても豊かな街に見える。後で聞いたが今年6月28日からユネスコ世界遺産委員会が蘇州で開かれたために街を綺麗にしたという。特に綺麗なのは会議のためだろうけれど、治安がよく見えるのは本当によいからに違いない。
蘇州北駅バスターミナルから5時45分にバスは出発し、全区間の殆どで高速道路をひた走って8時には杭州のバスターミナルに着いた。汽車だと4時間かかる蘇州-杭州が、バスでは2時間ちょっとである。中国の高速道の整備は急ピッチで進んでいるようだ。
着いたところに、駅やバスターミナルの例に漏れず客引きがわらわらと寄ってくる。旅行案内に載っているホテルにケータイで電話をしてもちっともつながらない。
「その番号では古いよ、今はそこの頭に8をつけなくちゃ」と、見かねたのか若い兄さんが口を挟む。見るとさっきは雲助客引きタクシーと思って邪険に振り切った若い兄さんである。
その番号を付け加えて電話をして見るが、なかなかホテルが見つからない。一方、沈さんは彼と話をはじめて、どうも彼の提案に乗っているみたいである。ついに沈さんが「あの運転手がホテルの4ツ星でも3ツ星でも案内してくれると言っています、信用できそうですよ」という。
遅くはなるし、疲れているし、まア、イッか。「沈さんはとても人が良くて、すぐ他人を信用しがちなのが心配だ。何時か注意しなくちゃ。だけど彼女は頑固だから、何を言っても人の意見を聞こうとしないだろうな」と思いながら、彼の案内するタクシーに乗り込む。
このバスターミナルは市の中心から大分離れていて、30分くらい乗ってやがて街の中心街に到着した。ホテルは選り取り見取りである。運転手と沈さんがフロントに行って交渉をしてくる。戻ってきて「部屋はあるし、高くありませんよ」ということで、チェックインした。九州ホテルと言うところだった。
ホテルの食堂はもう終わっていたので外に食事に出た。一日蘇州観光をしてから二時間かけて杭州に来た疲れで、三人とも大して食欲がなかった。水分だけやたらに欲しい。
今日は蘇州美人に会えなかった。明日は杭州美人に会えるだろうか。
今日は中国四大美人のひとり、呉を滅ぼした傾国の美女・西施にちなんで名付けられたという杭州の西湖見物だ。しかし昨日の暑さがたたったのか身体がだるい。
西湖を巡る十カ所の名所に故事由来を訪ねて西湖を一周する計画だったけれど、元気が出ない。
沈慧蓮さんに話すと、「それでは、まず雷峰塔に行きましょう。そこで西湖が眺められますから、その先はそこでまた考えましょ」という。若い彼女は大いに元気で、言葉も身体も弾んでいる。↗️
ホテルに荷物を預けてからタクシーに乗ると直ぐに湖岸道路に出る。道の両側には大木が陰を作っている。店もほとんどなく公園のように整備されて美しい林の中をクルマは走り続ける。
西湖の南岸の小山に、つい最近再建された雷峰塔がある。西湖十景のひとつに数えられている。
伝説と一体になっていて話がわかりにくかったけれど、雷峰塔の史実を書くとこうなる。↗️
907年に唐が滅びてその後は五代十国と呼ばれる時代が続くが、その国の一つが銭鏐の建てた呉越という名の国で、杭州を都とした。
銭鏐は仏教を信仰し、呉越国が存在していた80年の間に、西湖周辺には300もの寺院が建てられたということである。 そのひとつである雷峰塔はこの時代の975年に、そのときの呉越王・銭弘俶の黄妃が男の子を産んだのを記念して建てられた。
そのため「黄妃塔」と名付けられたが、当時の西関外にあったことから「西関磚塔」とも呼ばれたと記録されている。今では「雷峰塔」の方が通りがよい。↙️
時代が移って明朝の治世になると、中国では倭寇の侵攻が記録されるようになる。そしてこの雷峰塔は明の嘉靖年間の1550年に倭寇の侵攻を受けて焼かれてしまった。それ以来、骨格である煉瓦造りの塔の形を残したままこの雷峰山に立っていた。
「雷峰夕照」というのは、雷峰山に立つ幽鬼のような雷峰塔の背後に夕日が落ちる絶景を描写している。
この有名な雷峰塔は1924年9月25日に崩壊した。白蛇がこの塔の下に埋められているという伝説があり「雷峰塔」が焼けて以来、人々が白蛇伝にまつわる妖怪を鎮めた煉瓦である「鎮妖磚」を少しずつ持ち去ってしまったためだといわれている。
その煉瓦のかけらを家に置くことで、家内安全、商売繁昌間違いなしと、どうしてか信じられていたらしい。
今は崩れた雷峰塔を残したまま、その上に覆うようにして新しい雷峰塔が作られている。再建なった雷峰塔の6層目に、白蛇伝が美しい木彫りの彫刻で示されていた。
1. 盛会思風:白蛇の精である白素貞が許仙を見初める。白素貞の妹分は同じく蛇の精である小青といって、白素貞に何時もくっ付いていて彼女を助けているが、この小青は気性が荒い。
2. 雨中借傘:白素貞が許仙と会った時に、一計を案じて雨を降らせて傘を借りることがなれそめとなって、二人は夫婦となる
3. 端午顕形:やがて白素貞は妊娠した。一方、金山寺の僧・法海が許仙に「白素貞は峨嵋山の白蛇の精で、このままではお前は殺される。私の言葉が信じられないなら、端午の節句に魔除けの薬・雄黄酒を飲ませてみよ」という。許仙に勧められた酒を飲んで正体を現してしまった白素貞を見て、驚きのあまり許仙は卒倒して重病となる
4. 崑崙盗草:夫の許仙を治すための薬草を白素貞は崑崙山に取りにいく
5. 水漫金山:許仙は生き返ったが、法海が白蛇の呪縛を逃れるには出家するしかないと許仙を金山寺へ拉致してしまうので、夫を取り返すために白素貞と小青は水族を率いて攻め寄せるが破れる
6. 断橋相会:臨月の白素貞と小青が思い出の地である西湖の断橋にやってくると、そこへ許仙が現れる。小青は許仙の不実を責めて殺そうとするが、白素貞はどんなに愛しているかを許仙に切々と訴え、ふたりはよりを戻す
7. 囚人塔内:そこへ再び法海が現れ、白素貞を大きな鉢にとじこめ地中深く埋めてしまった。許仙は寄進を募って、その上に七層の宝塔を建てた。これが雷峰塔の由来であると伝説ではいう
8. 破塔団円:やがて小青が雷峰塔を守る塔神を打ち破り、塔は倒れる。白素貞は再び子供と共によみがえる
法海がどうして、仲の良い夫婦のところに何度も現れて、その間を引き裂かなくてはならないか不思議で理解しがたいが、伝説だからまあいいいか。
白蛇の精をとじこめた鉢を深く埋め、その上に雷峰塔を建てたとき、法海はつぎの四句の偈をつくったという。
西湖の水乾き 銭塘江の潮おこらず 雷峰塔倒れなば 白蛇世に出でん
実際に1924年に雷峰塔が倒壊したのである。まさに伝説通りであり、時折しも、1911年の辛亥革命に続いて旧封建勢力、軍閥を倒して統一中国を作ろうとしていた時だ。中国の改革に燃える人たちが、どんなに喜んだか想像できる。
雷峰塔からは西湖が眼下に眺められる。湖岸は緑が豊で、この盆地を囲む山並みは柔らかで心が落ち着く。この雷峰塔は西湖十景のひとつでしかないが、西湖をもう十分堪能した気がして、このあと私たちは杭州駅から汽車で上海に戻った。
沈さんの家に戻り彼女の母親から「旅行はどうでした?美女に会えましたか?」と聞かれた。
「美人を捜して旅をしていたら、とうとう上海に戻ってきてしまい、まさにここに美女がいることを見つけましたよ」とまるで嘘みたいなせりふが口からすらすらと出てきた。
メーテルリンクの「青い鳥」を真似ているみたいだけれど、これは、実感である。
沈さんと、沈さんの母親が、そして私のwifeも改めて見ると燦然と輝いて、眼に眩しい。
瀋陽の王麗さんにもこのことを話すと、中国でも同じようなことが言われていますと言って、その詩を教えてくれた。字化けするのでここには載せられない。
夜は、沈さん母上お手製の心づくしのご馳走だった。
「上海の人たちが朝ご飯を食べるところに行きましょう」と沈さんが翌朝は7時に私たちを地下鉄の駅近くにある店に連れて行ってくれた。チェーン店だそうで、中は混んでいるけれど、食べ終わった後の片づけ、清掃には十分人手が配置されていて、綺麗な店だ。
店の入り口にはメニューがあって、おかゆのたぐい、豆乳、油条、饅頭その他考えられる限りの沢山の種類が書いてある。「先生、どれがよいですか」と沈さんに言われて、「豆腐脳と油条」と反射的に口から出てきた。
豆腐脳は一度しか食べたことがないけれど、選ぶとなれば朝食の中ではこれが一番の好物である。豆腐脳は柔らかい豆腐が暖められていて、それに薄い醤油味の汁がかかっている。日本の一般的な豆腐よりも柔らかく、そしてどんぶり一杯を豆腐が占拠している。私たち日本人にはなじめる味である。
油条は小麦粉を練って油で揚げたもので、卵やバターが入っていないからドーナッツとは違って噛むとシコシコと歯ごたえがあっておいしい。
油が悪いと食べられたものではないだろうけれど、まだおかしな味には出会ったことはない。 となりの席ではご飯の棒の丸かじりをしている。沈さんに聞くと、「あれは油条をご飯で包んだものですよ。上海では、それと、油条、豆乳、大餅の4種が朝の代表的な食べ物で、四大金剛と言われています」とのことだった。ご飯を、言ってみれば揚げパンと一緒に食べるなんてと一瞬呆れたのだけれど、昔東京から名古屋に赴任して、ラーメンライスの存在を知ったときの衝撃を思い出し、ラーメンライスもあるんだからと納得した。
「先生、あれ食べてみたい?」と沈さんに聞かれて「いえ、いえ」とあわてて首を振る。店には、これから出勤途上と思われる身なりの人、市場で野菜の買い物帰りの年配の婦人、若い学生風など、沢山の人でにぎわっている。沈さんによると、上海では朝食はこのような店で食べる人たちが多いと言うことだった。日本よりも外で朝食を取る人の割合が高いような気がする。
朝の冒険を終えていったん家に戻って身支度をしてから地下鉄に乗った。地下鉄のプラットフォームの、車両のドアが開くあたりの床には、「降りるのが先、乗るのは後」と書いてある。当然なことで、これが守られているなら大変結構なことだけれど、実際は全く守られていないからこのように書いてあるのだ。
人の数が多いから、他人のことには構っていられない。
血の繋がっているひと以外は人の数には入らない。自分がどうしたいかだけが関心事というのが群衆の中の大多数の中国人の生き方のように思える。汽車の切符売り場の前で列は作らない、バスに乗るときに並ばない、列があったら割り込む、などは当たり前のことで、この不作法にめげていてはこの国では生きて行かれない。
河南中路駅に着いたときは、降りるためにドアの直ぐ前にいたけれど、ドアが開くと我がちにホームから車両に乗り込んでくる。私は彼らに思い切り体当たりして人混みをかき分け、ホームに降り立つことができた。ここからはバンドが近い。
バンドとは何の意味か分からないので辞書を調べると、Bund:中国、日本などの港の海岸通りと書いてある。
さらに調べると、語源はヒンズー語で、最初はインドで使われた。何故、インド、中国と日本の海岸通りだけを指す言葉なのかが問題ではないかと思う。英語では、海岸通りは、Water frontという言葉がある。
インド各地をイギリスはじめ西欧諸国が植民地化した時に、海岸通りが現地語ではBundと呼ばれていて、英国人はそこではそれをそのまま用いたに違いない。次に19世紀半ばに英国がアヘン戦争に勝って上海を手に入れて租界としたときに、その名前を持ち込んだのだろう。
日本も同じ頃横浜が開港させられたが、その海岸通りは、日本から獲得した自分たちの通りという意味でBundと呼んだのだろうか。Water frontと呼ばずに、Bundと呼んだところに、東洋における自分たちの植民地という気持ちを感じる。
日本はその当時の中国のように屈辱的に租借地を取られたわけではないが、不平等条約を押しつけられてその後条約改正のために長く苦しむことになる。
欧米人に虐げられた経験を日本人は持つのに、やがて立場を変えて同じアジアの中国人にその屈辱を強いたのだから、嘗ての日本人は罪深い。
沈さんは無邪気にバンドと呼んでいるが、私はバンドという言葉は口にしたくはない。せめて外灘(ワイタン)という言葉を使いたい。外灘は、外国人の海岸通りという意味になる。
指している。租界とは、上海に英国が作ったのが始まりで、そしてフランス、ドイツ、ロシア、アメリカが加わり、ついには日本が全部を手に入れて治外法権化した地域のことである。
この外灘の北の方には黄浦公園があるが、ここには「狗と中国人は入ることを禁ず」と書かれてあったという。沈さんは淡々と話しているが、胸が痛む。「八紘一宇」、「五族和平」など口ではきれい事を唱えながら、当時の日本の行ったことは隣の国の人たちへの差別、蔑視の上の大陸侵略だったことが明瞭である。
ところで、上海の母なる河といわれる黄浦江沿いの通りに1900年代初頭の重厚な建物が並んでいて、上海に落ち着いた雰囲気を与えている。目を転じて、川向こうの浦東地区を眺めると、現代の上海風景として知られているアジア一高いテレビ塔である東方明珠塔を始め、近代的な林立するビルが眺められる。上海風景としてポスターで見慣れた東方明珠塔を含む摩天楼の一画は、実は旧市街ではなくて上海の新開地だったのだ。
人民広場は、上海が租界だった頃の競馬場を公園にしたという市内の中心地にある。その中でひときわ目立つ建物が人民政府で、その向かいには上海博物館がある。1952年に創立された上海博物館は故宮博物院、南京博物院とならぶ中国三大博物館のひとつだという。外から見ると上部は青銅器の形の円形、建物の下の部分は方形で、青銅の鼎がイメージされている均整のとれた美しい建物である。
の建物は1996年に建てられた。中国古来の「天円地方」のイメージを現代と古典の融合した形に表しているとのことで、館の中央部の吹き抜けも感動的に見事な配置である。 吹き抜けのエスカレーターに乗って4階に上がり、沈さんが「私は少数民族の工芸品が好きです」というので、まずそこから展示品を見た。中国の少数民族は約50あるとのことで、彼らの民族衣装、生活用具が展示されている。衣装の模様は多くは染色、刺繍によるものだが、満族の衣装の模様は織られていて、しかも満族にだけ許された竜の模様が鮮やかに際だっていた。
次に古代玉器のコーナーに行く。この展示を見て気づいたのは、展示に近づくと薄暗いライトが明るくなり、人の近づく距離によって自動的に明るさの調節がなされていることだ。特に書法、絵画のところでは展示品保護に役に立っているに違いないが、自分の見るところ以外が暗いというのは、その展示品に集中できる効果がある。
中国の古代の話には「玉」が頻繁に出てくる。しかし今までは、「玉」とか、連城の「璧」といわれても今ひとつピンと来なかった。その「玉」をこの博物館で目の前に見て大いに満足した。解説によると、玉はきめ細かく色柔らかく、美しい石で、完璧、高貴、節操、不朽などの象徴とされていた。
古代中国の人々は、天は丸く地は四角いものと思っていたので、丸い形の玉璧(平円形の中央に穴のある玉器)を作り天の神に祈りを捧げ、四角い玉(平面八角形の中央に穴の開いた玉器)は地の神に捧げた。玉に竜と鳳凰を彫り、装身具として身につけ、君子の高貴な生まれの象徴としたという。 そうか。昔の人はこれを装飾として衣服にぶら下げていたのかと心の中に思い描いて納得する。玉璧の円周に一部切れ込みのあるものもある。ケツ(訣の言偏が王)と呼ばれる。このケツをなでて、早く劉邦を殺せと項羽に密かにサインを送った鴻門の会の場面を思い出し一人で密かに喜んだ。
次は3階に降りて絵画および書法館を見に行く。沈さんは子供の時から花鳥山水画を勉強している。彼女の父方のお祖父さんは自ら画を描き、画を集めたとのことである。彼女にはその文人の血が流れているに違いなく、素晴らしい画を描く。わたし達の瀋陽のアパートには彼女が描いた花鳥画が贈られて、部屋の唯一の装飾として飾られている。
彼女の案内で踏み込んだ絵画館には唐宋時代の山水画、花鳥画から始まって、明朝時代に浙派と呼ばれた戴進や、文徴明、董其昌などの絵画がずらりと並んでいる。山水画に描かれている家というか小屋には、たいてい人が一人描かれている。wifeとこれは自画像に違いないと意見が一致してからは、そればかり探して館内を歩いてしまった。文徴明と董其昌は書も流暢である。画に添える字も大事だから、沈さんはさらに上を目指さなくてはなるまい。清時代の呉昌碩は乱暴に画を描いているように見えるけれど、巧みである。西洋で言うと、印象派にあたるだろう。
書法のところは、まず入り口の金文から始まる。亀甲文字である。秦の時代には隷書ができ、やがて漢代には王義之を代表とする草書、行書ができて、唐時代には楷書が完成したらしい 。楷書の手本として私も習ったことのある欧陽詢の書もあった。3人でどの書が好きか、品定めをしながら書法コーナーを歩く。3人とも気に入ったのは近代の康有為であった。
2階では陶磁器を見て堪能したあと、1階の中国古代青銅器に行く。入り口からこれでもかというように様々の鼎がずらりと並んでいる。それぞれ用途や形で違う名前が付いている。圧倒される思いで見て回った極めつけは、上海博物館の収集品として誇る最大の鼎だった。ともかく大きい。しかし精巧な細工がしてある。
このように大きいものは実用であったはずがない。「鼎の軽重を問う」という故事があるから、各王朝に伝わった宝器そのものかも知れない。しかし何故、これが宝だったのだろうという疑問は、分からずじまいだった。
青銅器の終わりの方には大小様々な大きさの青銅製の鐘が綱に結びつけてあった。古代の楽器として使われたもので、テープでその音が流れていた。形と大きさからは想像も付かない軽やかな音だった。
最後に、特別展示の古代ローマ展も見て歩いて、10年前、炎天下をあえぎながら歩いたイタリア・ローマ市内に保存されている遺跡フィロ・ロマーノを想いだした。そのときは、当時私たちのいた東京工業大学の学生で、息子同様のNEKOちゃんと一緒の旅だった。
彼はその後米国ワシントン大学に留学し、今は日本に戻って理化学研究所の研究員となっている。今回は娘同様の沈さんが一緒である。10年後、この沈さんはどうなっているだろうか?
上海の「豫園」というのは、明の時代、四川の役人を務めた人が親のために19年掛けて造営したという庭園だそうだ。上海に今この庭園が残るのも、賄賂、収奪に励んで懐を潤した役人のおかげである。その後その建物の一部は商店街になり、庭園の一部は「豫園」として保存された。商店街も「豫園」と呼ばれていて、東京の浅草に当たる庶民的な歓楽街として知られている。沈さんによると蘇州の拙政園を見た後では、庭園の豫園に行くことはない(ただしこれも中国四大名園の一つである)というので、歓楽街の「豫園」見物に行く。
上海の人はここを「城隍廟」と呼んで親しんでいる。
「豫園旅游商城」と大きく額に書かれた門があり、豫園商場の始まりを告げている。門から向こうは整然とした建物が並んでいる。中国の昔をよく知っているわけではないけれど、その建物は昔風の建物だ。おかしな表現かもしれないが、横浜のチャイナタウンだと思わず口から出てしまった。つまり、中国のどこでもあまり見たことのない、言ってみれば、時代村の感じである。
中にはいると、石畳の路に沿って店先に、食べ物、磁器、骨董、宝石、土産を並べた店がずらりと並んでいる。↗️
「もう2時過ぎたから中は空いているでしょう。ここの小籠はわたし大好きで、瀋陽から戻ってくるたびにここで並んで、うちに買って帰るのですよ」と沈さんが言う南翔饅頭店は、この城隍廟の中心にある緑波池のほとりに建っている。店の外を人が取り巻いている。沈さんによるとこれはこの店で小籠を買っていく人たちだそうだ。
私たちは彼らを尻目に二階に上がり、椅子に座ってちょっと待った。レストランの中には、西洋人とおぼしき人たちもいるし、観光の日本人と分かる人たちも見かけられる。↗️
やがて大きなテーブルにと案内された。先客が二人いる。彼らは二人だけの世界に浸っている様子なのでお互い邪魔をしない。
私たちは南翔小籠を三皿(一つに6個入り)とスープを注文した。店の奥を見ると、ガラス越しに中でコックさんが6人ぐらい集まって休む間もなく小籠を作っているのが見える仕掛けになっている。そのうちに同じテーブルにガイドらしい人と一緒に日本人と一目で分かる女性3人が入ってきた。
動作ががさつで周囲の人への配慮や動きに繊細さがなく、同じ日本人として不愉快である。↙️
なお、南翔小籠はもちろん小籠包のことだけれど、どうしてかここでは小籠包とはいわずに小籠と呼ぶ。沈さんに教わった小籠の食べ方は、「中の汁が絶妙なのです。まず端を噛んでそこから中の汁を吸いとります。そして、その後酢をつけて食べます」ということだった。やがて、注文の品が届く、蟹肉入り小籠と豚肉小籠である。教わったようにして端を噛みとってチューチューと中身を吸い出す。うま味が口中に広がる。蟹肉入りの方が、味が微妙に複雑でおいしい。生姜を入れた酢につけて食べると、これがまた旨い。
となりの日本人にも同じく南翔小籠の皿が運ばれてきた。見ているとガイドらしい人は、沈さんのいうような食べ方をしているが、他の人は、がぶりとかじりついて、中の汁をぼたぼた下に落としている。一回は横にプチーとはじけ飛んできた。
ガイドが教えればよいのに。わたしが習ったばかりの小籠の食べ方を教えてあげようか。だけど、先ほどからの彼らの無神経な動きが許せなくて知らん顔をしてしまった。彼らが汁をはね散らかしている間、私は心の中で快哉を叫んで「いじわる爺さん」に徹していた。
食べ終わって南翔饅頭店をでると目の前が緑波廊酒楼といって、イギリスのエリザベス女王やアメリカのクリントン大統領などが食事をしたところだという。クリントンが食べたのと同じ食事が250元で食べられるという話だ。セックススキャンダルが明るみに出て苦境のクリントンが中国訪問をして、学生と自由な討論をして中国では大いに人気をあげたことを思いだした。
向かいの店では城隍廟の特産として名高い「五香豆」がある。空豆を中国ではその形から蚕豆と呼ぶが、この蚕豆を塩ゆでにして乾かしたものである。堅い。しかし噛んでいると、適度な塩気と豆のうま味が出てきてなかなか止められなくなる。趙さんの同級生の恋人が卒業実験で上海の研究に来ていたとき、その土産としてこれを持ってきてくれたので、すでに馴染みである。
この「城隍廟」の中心の直ぐ横に、上海城隍廟がある。浅草で言うと仲見世の奥に浅草寺があるという感じである。入ると小さな線香の束をくれた。これに火をつけて、お金を払って買った長い線香の束に火をつけた人たちと並んで、旅行安全、沈さん一家の繁栄を願ってから大きな炉にいれた。そこから上がる煙りを手に受けて頭や身体中につける動作を繰り返す人もいる。これは日本人である。中国人はこのようなことをしない。
堂の中にはいると大きな立像が3体並んでいる。その前で沈さんは跪いて3回跪拝を行っていた。立ち像はこの街の保護神で、明朝を始めた朱元璋が任命した秦氏が祭られているらしい。 ここをでると雨が降り出した。雨を避けて近くのデパートに飛び込む。デパートといっても観光客相手の大きな3階建ての商店である。1階には扇、小物、絹織物、上に行くと絵画、置物など凝ったものが置いてある。
見て回っているうちに、珊瑚のすてきなブレスレットがあって、沈さんに買ってあげようということになったのだが、彼女はしきりにいらないという。遠慮しているのだと思ったけれど、とうとう「それは嫌いです」といわれてしまったので諦めた。 中国に行って覚えたことに、相手の遠慮は礼儀としての遠慮であって、本心ではないというのがある。何かの手伝ってくれたときのお礼も、誰もが直ぐには受け取ってくれない。初めは日本的に、二回くらい「とんでもない」と言われると、勧めるのを止めてしまったが、そのうちどうもそれではいけない。3回断られたら4回、4回断られたら5回勧めなくてはならないことを覚えた。今回もあとでわかったのだけれど、彼女の断りは遠慮によるもので、本気ではなかったようだ。しかし「嫌い」といわれたので、それ以上は押せなかった。
よく言われることだが、女性のNOはNOではなく、YESかも知れない。男はそのサインを見抜かなくてはいけない。女性のNOを見抜く修行は積んだはずだけれど、残念ながら鈍ったらしい。
沈慧蓮さん達は現在の上海の商業中心地になってしまった場所にむかしは住んでいて、上海再開発のために1991年に今の浦東地区にアパートを買って引っ越した。それまでは石庫門と呼ばれる上海独特の、いってみれば二階建て長屋に住んでいたそうだ。
豫園の近くにも上海の人たちがそれまでの生活を守っている場所があるというので、沈さんに付いて歩き回った。「あっ、こういうところです。この門を入ると石庫門が沢山あるのですよ」といって懐かしそうに門を見上げている。ふたつのアパートの間に門を付けたという趣だ。このような門は弄堂と呼ばれるという。
背景として上海の近代的なビルが見えるけれど、このあたりは今の近代的な上海のイメージは全くなく、庶民の生活がもろに現れている場所である。
2-3階建ての小さな店がびっしりと並んでいて、店先には人々がたむろしている。歩道に簡単な椅子を持ち出して、店中の人たちが近隣の人たちとおしゃべりをしながら風に吹かれて涼を取っている。そのような中を歩いていくうちに「ここで曲がりましょ」言って白い塀のところでひょいと曲がる。
幅が1.5メートル位の細い路で両側には二階建ての長屋が続いている。「ここが典型的な石庫門ですよ。ほら二階の屋根から勾配と逆の方に突き出ている窓があるでしょ?あれが鳥口窓といって、良くあそこからでて、屋根の上で遊びました」という。↗️
見上げているとぷんと日本でも昔なじんだ臭いが鼻に届く。
厠と書いた白い小屋が路の脇にある。沈さんに聞くと「石庫門の長屋にはそれぞれにトイレがなくて、共同でした」とのことだ。
北京では胡同が崩され、上海では石庫門が取り壊されて昔からなじんだ庶民の暮らしの場所が消えていく。
暮らしは明らかに便利になっても、それとは引き替えに人々が失うものは多いに違いない。↙️
夕食は白さんの家で上海蟹のごちそうになる。10月頃が食べ頃だとのことだけれど、それでも卵を持っていて生姜と酢を付けて食べた上海蟹は大変美味だった。ただし殻を剥くのは手間である。殻ごと食べられる蟹があるといいなあと思いながらも沢山の蟹を食べてしまった。
上海最後の夜は、上海雑伎団を見に出かけた。中国の雑伎は数年前に日本にも来ているし、テレビでも良く紹介するようになったので、今は広く知られている。一口で言うとサーカスである。中国には各地に雑伎専門の学校があり、子供の時から厳しい訓練を積んでいる。それに耐えて技術を身に付けて、さらに選ばれたものだけがこの雑伎団の演技に出られる。今回の旅行に出る前に、上海で雑伎団を見るんだと言って張り切っていたら、研究室の王麗さんは「瀋陽にも雑伎団はありますよ。上海で評判の人はみな瀋陽出身です」という。そうかも知れないけれど、瀋陽では見に行ったことがない。何時か瀋陽で見に行こうねと王麗さんとは約束がしてある。
90分の間、様々な演技が展開された。男性・女性数人による跳板は、シーソーの反動を付けて飛び上がって人の上に人を積んでいく演技で、これを見たくて上海雑伎団に出かけたのだった。立っている一人の男の肩の上に男が2人がすでに立っている。シーソーの板に慎重に載った男が、シーソー板の反対側にやぐらの上からふたり組が飛び降りると、跳び上がりうしろむきにくるくる廻りながら、見事に立っている男の上の3人目となる。さらに今度は女性が跳び上がって、4人目に収まった。飛び上がって見事に後方の高いところの肩に収まるバランス感覚も、新しい衝撃に備える4人のバランス感覚もその見事さは信じられないものがある。見せ物だから当たり前といってしまえばそれまでだけれど、人の持つ能力はすごい。オリンピックの体操で、もしこのような種目があったら、中国がメダル全部をさらってしまうだろう。
おきまりの女性の身体のしなやかさを見せつける演技もあった。ここで演技する女性はあくまでもしなやかに身体が柔らかい。後ろにのけぞって、足の間から頭を出した二人が動いているのを見ていると右か左か上か下か、こちらの意識感覚もおかしくなってくる。
一番最後の演技では、まず場内が暗くなり円形舞台後方で幕が静かに上がっていく。幕が上がりきって照明がつくと、そこには球がある。直径8メートルくらいだろうか。この球は金網でできている。この球はずっとここにあったのだけれど、幕で覆ってあってそれまでは気づかないようになっていたのだった。やがて舞台の後ろから腹に響く排気音と共にバイクが1台飛び出してきた。
西部劇ショウで見るような赤色を基調に派手な衣装を身につけた男だ。彼のバイクは球の下腹に付けられた扉から球の中に導かれて、扉が外から閉められた後、球の中を回り始めた。だんだん速度が上がって球の赤道の内側を回り始める。これができれば、次は球の上下を通る軌道を描くだろうと誰でも思う。そしてその通りだった。次は青色の同じく派手な衣装を付けた男のバイクが登場して、2台で球の中に軌跡を描き始めた。やがて2台のバイクは直交する軌跡を描き始めて、こちらははらはらしながらも、このくらいは当然できるに違いないと思ってしまう。でも、さらに白色の衣装の男のバイク、黄色の衣装の男のバイクが加わって4台が球の内部を駆けめぐり始めた。
4台はまず同一円周上を駆ける。バイクの間にはバイク1台分の間隔もない。その軌跡は赤道上からだんだんずれて天と地を通過するように変わっていく。と思うと、2台ずつに分かれて直交する軌道を描いて交差する。私は緊張で、手のひらに汗を握るというのが嘘でないことを実感した。
「もうこれで十分、もう止めて」と思っていたのに、なんと、あと2台のバイクと女性のバイク1台が加わって、合計7台が球の中に入って轟々と疾駆する。場内は暗くなり、バイクはライトに点灯してただ光の軌跡が球を描いて駆けめぐる。とても人間のできることとは思えない。もういい、事故の起こる前に早く止めて、とただ祈る数分間だった。
これで私たちの上海旅行は終わり、翌朝、沈慧蓮さんたちに上海浦東飛行場で別れを告げた。一家をあげて歓待して下さった沈慧蓮さんや彼女のご両親に、この次会えるのは何時だろうか。そのときまでには中国語でちゃんと話ができるようにしておこう。
上海・蘇州・杭州を快く案内してくれた沈慧蓮さん、および歓待して下さったそのご両親の助けなしにはこれが書かれることはなかった。
ここに記して衷心より感謝する。
うちの料理はいつもは私が作るので、材料も自分の管理下に置きたい。ということは材料を探しに自分で買い物に出掛けることになる。時期の良い今頃は、朝早く近くの青空市場に野菜、果物を買いに出る。ここは朝だけ出ているので文字通り朝市だけれど、土佐市みたいな観光用のではなく、市民生活の必需の場所である。
瀋陽薬科大学のアパートから200メートルくらい離れたところにある普通の路の両側に、リヤカー(荷台が前に着いているので、日本式に言えばフロントカーになる)、オート三輪車の荷台、地面に拡げたござなどの店がぎっしり並んで、食材が売られている。ほとんどの店は地面の上のござだ。このような店が両側に1ブロックに亘って並んでいる。朝7時頃になると買い物客で混んできて、道を歩くのもままならない位になるが、8時頃には綺麗に片づけられてしまう。
自分の畑から持って来るのか、卸から買ってくるのか分からないけれど、それぞれの店に置いてある種類は大して多くない。野菜を置いている店は、今だとトマト、インゲン豆、なす、椎茸を置いているところや、ニンニク、ショウガ、ジャガイモ、ブロッコリ、ピーマン、唐辛子など、大体似通ったものを数点ずつを置いている。店番はひとりないし数人いる。 スパイスだけ置いている店もあるし、魚を売る店、肉を売る店もそれぞれ固まっている。肉に朝日が当たろうが、埃が付こうがお構いなしにむき出しだ。こういうところでは大体肉の由来も大丈夫かどうか分からないので、買うのは敬遠している。
あちこちのござの店の上のトマトを見比べてから、しゃがみ込んで「いくら」と声を掛ける。「1 元1斤(1Kgが2元、つまり約27円になる)」と返事を貰ってOKなら、売り子さんの呉れる薄いビニール袋に一つずつ自分で入れてそれを秤量して貰い、金を払う。この自分で選ぶというのが、この青空市場の良いところだ。納得して金が払える。椎茸だって1個1個気に入ったものを自分で選べるのである。桃はさすがに自分で選んでも良いところもあるけれど、触って怒鳴られたこともあった。仕方なく触った分は全部買ってしまった。と言っても1Kgで1.5元(20円)くらいのものである。
こういうところでは値段は交渉次第の自由経済である。私たち日本人は駆け引きがとても苦手だけれど、ものを見て交渉の挙げ句、双方が納得して取引するというのは商売の大原則に違いない。
中国の研究室で学生相手に生活していると、日本の学生と彼らの違いが沢山あることに気付かされる。その一つに、普段の行動で彼らは何かと自信を持っているように感じることがある。生きる逞しさといってよいだろうか。
中国の大学の講義は「教師が教え、学生は覚える」というパターンになっているから、学生はものはよく知っている。しかし研究上の発想では彼らは日本の学生には及ばない。ある研究結果を別のものに応用して考える、自由に発想する、発想を飛躍させる、こういったことは苦手である。しかしそれ以外の日常的なことだと、学生といえども教師と全く対等に話をしている。これは日本の学生には見受けられないことだ。彼らに比べると日本の学生は、自分自身の考えに自信がない。 この違いはまさに文化の違いに起因しよう。様々な要因が考えられるだろうけれど、日本の学生と中国の学生の違いを、物の値段は買い手と売り手双方の交渉で決まるという中国伝統文化の中で彼らが育つ、というところに求めるのは無理だろうか。
物を買うときに売り手のいいなりに高値で買えば、家族の金に迷惑を掛けるし、自分の評価にも傷が付く。したがって彼らは小さいときから物と人をしっかりと見る訓練して自分を磨いて きたはずだ。やがては物と人を見て下す自分の評価に自信を持つようになる。自分の判断力に対する自信があるから、若い学生も日常生 活では大人と対等に渡り合えるのではないかと思う。
日本の教育も、小さいときから(せめて)一芸を磨かせてそれに自信を持たせることがすごく大事だと言っている。しかし一芸に秀でてもそれは他人に対する優越感になりはこそすれ、自分の判断力に自信を持つことにはつながらないのではないだろうか。
青空市場で野菜を買うことで、この歳で私もやっと自分の判断力涵養を始めたところだ。私の説が正しいかどうかを試すには、ちょっと遅すぎる気もしないでもないが。
私たちは7月一杯で夏休みに入ることにして、8月1日から上海に行って沈慧蓮さんの案内で上海、蘇州、杭州の観光を楽しみ、5日に帰国した。沈慧蓮さんと彼女のご両親に大変お世話になった。メッチャ暑かったけれど、メッチャ楽しい旅行だった。旅行の印象記はいずれ私のホームページに載せる予定である。
旅行中に薛蓮さんからmailがあった。一緒の写真は載せていない。9日から名古屋に行って、彼女と、大阪大学の王静さんに会う予定。
研究室の胡丹くん、王麗さんからは毎日のようにmailがくる。彼らは研究室で夏休みなしに毎日実験を続けていて、その結果の報告なのだ。こちらが夏休みでのんびりしていては全く申し訳ない。