2月9日に日本人会幹事会が開かれたが私は出席できなかったので、池本先生に代わりに出ていただくよう、池本先生と幹事会の双方から了解を取った。
2月11日には池本先生から幹事会の話しについて、教師会の役員にメイルで報告があった。
幹事会の前に世古会長は「幹事会は人数も多いし、もし、反対意見が出て混乱したら、教師会の代表で来ている方が、教師会と日本人会の板ばさみになるかもしれないから、教師の会の申し入れを今回は議題にはしない」と池本先生に言われたとのことである。大人としての暖かな思いやりが感じられる。
4月に始まる新年度の日本人会事業計画では、新規活動案の1つに「社会貢献事業・生活インフラ向上事業への支援(日本語資料室等)」という1文が入っていて、もちろん、まだ日本語資料室への支援が決まったわけでないけれど、次年度には資料室についても考える可能性が盛り込まれている。
さらに「3月に入って、日本人会幹事会の一部のメンバーと教師会の代表が集まって、話し合いの場を設ける」ということを世古会長は提案されて、それが承認されたと言うことである。
2月28日付けで世古会長から、3月10日の午後6時から日本人会幹事会三役会議をする予定なので、その前の4時に、教師会の代表メンバ-と日本語資料室で会って話しをしたいという申し入れがあった。
今年の春節が2月18日という遅い日だったので、2007年の新学期は薬科大学では3月5日に始まった。東北育才学校では1週間早かったらしいが、おおかた は今週が始業だったようだ。しかし3月4日に1951年以来という吹雪を伴う大雪が瀋陽に降って、月曜日は市内の学校は公式に閉鎖されてしまった。空港も 48時間閉鎖されて、日曜日に日本から戻るつもりの先生方は飛行機の欠航のために、早くて火曜日になってやっと瀋陽に到着した。同じように、月曜始業のつもりでぎりぎりに故郷から帰ってきた学生は汽車が途中で止まってしまい、早くて火曜日、遅くて木曜日に瀋陽に戻ってきた学生もあるという話しなので、今年 の新学期は学校によっては、全員が揃うのに時間が掛かっただろう。
ともかく、新学期の教師の会の定例会は3月 10日土曜日だった。この集智ビルの日本語資料室で定例会が開かれるのは今回が初めてである。秋は資料室がなくて、ずっと領事館の一室を借りて開かれてい た教師会である。やっと、12月に新しいところが見つかって12月9日に引っ越したので新しい場所で開催が出来た。昨年9月まで借りていた開元ビルの 150平方米はもちろん、昨年4月までいた小北関街の一室よりも狭い所である。
いつもは2時から始まるのだが、今回に限って1時開催だった。というのは、日本人会の幹事会の三役の方たちが、この日の4時に教師の会の役員と会談を持ちたいと申し入れてこられたので、教師の会の開催時間を繰り上げるより他なかったのだった。
1時からの繰り上げ開催ですよという知らせは木曜日の夜になって会長から届いたけれど、10日の1時には総出席者26人のうち何と24人が揃っていたのだった。瀋陽在住の教師の人たちにとって教師の会が大切な存在になっていることを意味していよう。
出席:森信幸、安部玲子、池本千恵、石原南盛、宇野浩司、岡沢成俊、片山皚、加藤正宏、加藤文子、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、中田知子、中野亜紀子、鳴海佳恵、野崎勉、藤平徳雄、松下宏、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山田高志郎、渡辺京子、渡辺文江
欠席:石井みどり、河面弥吉郎、南本みどり、若松章子
瀋陽に不在:坂本豊、林与志男、林八重子、山形貞子
4月22日に予定されている弁論大会の準備が一番大事な通達事項だったが、教師の会としては、日本人会との関係が最大の関心を持って討議された。
これは、日本語資料室が12月から集智ビルに部屋を借りたことに伴って、部屋の管理費約3100元と、光熱費900元をあわせて4000元という出費が増え たことによる。昨年4月までいた小北関街の一室は日本企業の借りていたビルの一部で、関西NPOのご好意により、部屋代、管理費、光熱費は全てその関西 NPOが負担してくれた。5月から移った開元ビルは、オ−ナ−の好意で提供されたもので、部屋代は無料だった。教師の会は、部屋を維持するのに当たってい ま初めて年間4千元の出費を工面するという問題に直面したのである。
私(山形達也)は教師の会と日本人会との 橋渡しをしているが、正確に言うと日本人会幹事会のオブザ−バとして幹事会に参加している連絡係という立場である。これは2005年秋にその時の代表だっ た多田先生が都合で出られないというので代わりに出席するように頼まれ、その後多田先生が南に移転されて2007年3月に南本先生が新たに代表になったと きに、教師の会の正式な決定で幹事会に派遣される連絡係となっている。私はそれ以来幹事会で教師の会の立場をのべ、要望やお願いを述べてきたが、12月の 日本人会幹事会の席上では、教師の会にとって予想外のこの出費の出所を日本人会に求める発言をしたのだった。
12月の教師の会では、教師の会として日本人会にお願いするという形で意見が纏まっていたけれど、会員一人一人が、この事態をどのように考えているかの充分な 話し合いはなかった。それで、午後4時からの日本人会との会談に先立って、会員が今後の4千元という出費にどのように対処したら良いと考えているかを話し 合った。
日 本人会に出費を負担して貰えばきっと見返りに何か要求されるだろうが、今以上に何が出来るだろう か。それくらいなら、自分たちで会費を値上げしてもやっていこう。と言う意見もあれば、この資料室を拠点に書籍を貸し出して、日本語の普及を図っているこ とこそ、日中友好の地域貢献の社会活動そのものだから、この意義を日本人会に理解して貰って堂々と支援を受けたらいいじゃないかと言う意見もある。日本人 会に支援を受けられるなら言うことはないが、受けられないなら、会費が上がっても自分はいいですよと言う意見もある。
ともかく会員の意見を聞いたことで会員諸氏の後押しを得て、私たちは日本人会の幹部諸氏との会談に臨むことになった。
今年の春節は例年より遅く2月18日だった。それで後期は3月5日の月曜日から始まった。3月1日に私が瀋 陽に戻ったところ、卒業研究の楊くん、博士の関くん、王麗さん、修士の大勇くん、王毅楠くん、暁艶さん、秦さんなどの学生は私に合わせて前日か、あるいは遅くてもこの日までに瀋陽に戻ってきて研究室に顔を出した。
黒竜江省の暁東さんは土曜日に戻ってきた。後残っているのは修士1年生の陳陽くんだけである。彼は河南省の出身である。学生の時から休暇になると真っ先に寮を去り、休暇の終わりには戻ってくる学生の一番最後になるとのことだ。皆が笑いながらいう、「陳陽はお母さん子なんです。」
何しろ、この年齢になるまでリンゴを自分で剥いたことがないくらい母親が面倒をみてきたようで、従って、必然的に今でもべったりと母親に甘えたいのだろう。
4 日の日曜日は明け方から雪が降り出した。昼間はまだ雪が舞っているだけだったが、午後は激しくなった。私はいつもの日曜日のようにラボに来て窓を背にしてMacに向かっていた。2時頃暁艶と暁東が部屋に入ってきて私の向かい合わせにおいてある2台のPCに向かって何かを始めた。
やがて3時 頃、二人が言うには「今日の雪はだいぶ積もりそうなので今日は早めにうちに帰った方がいいですよ。」窓から外を見ると、強い風で雪が白いベールとなって風と息を合わせて舞い踊っている。それでも、窓から見える下の道はすべてが白いわけではなくまだ黒くて雪の積もっていないところもある。
「ま だ、いいんじゃない」といって私は仕事を続けたけれど、二人は執拗に危ないから帰りなさいと言う。とうとう根負けして帰ることにしてMacの電源を切った。すると二人も言い合わせたようにPCの電源を落として帰り支度を始める。二人が帰るなら、うるさく言う二人がいなくなるわけだから、もっと仕事をしようと思ってMacを点けたら二人の様子がおかしい。顔を見合わせている。何しろ二人との会話は英語だから、もどかしいし、間違いも起きる。
結局わかったのは私の帰るのに合わせて、私を送っていこうと二人が考えていることだった。とんでもない、雪が積もったって、うちまでは800メートルくらいなものだ。大したことはない。「いいよ、いいよ」と言うのに二人はどうしても送ると言い張る。しかたない、まあ、いいか。
研究棟をでたところが階段で、まずここに積もった雪を気楽に踏んで歩けると思ったら大違いだった。脚は深くそして斜めに曲がって沈み込みたちまちよろけて、次の脚がとんでもないところに埋まって尻は雪の上だった。私は両側から二人に抱えられて雪だまりから引き上げられた。路面にでると、雪は強い風で深い吹きだまりを作っている、風の通り道には全く雪がないけれど、それだけをたどって歩いていけるわけではない。雪だまりに足を取られ両側からまた引き上げられてと言う具合に、この雪の中を歩くのは想像以上に難儀だった。日常的には5分くらいで歩いている路を、道路の真ん中に放置された車を何台も横目にみながら1時間近くかかって掛けてうちにたどり着いた。それも半分は両側から腕を抱えられながら。
さてうちに着いてみるとこのまま二人を大学の寮に帰すのは気の毒である。暁艶は176cmくらい背があっていつも買い物の荷運びを志願してくれるほどたくましい女性だが、もう一人の暁東は妻と同じくらい小柄な女性なのである。力仕事をさせてそのままでは申し訳ない。土曜日にgroceryに行っているし、スパゲッティならすぐに作れるからそれを作ってごちそうしよう。
と言うわけで、日本から運んできたスパゲッティで急遽夕食を作って二人に食べてもらった。聞くとスパゲッティを初めて食べたと言うことだ。本当に気に入ったかどうかわからないが、初めてのものをご馳走できたというのは嬉しいものだ。
こ の雪は50年ぶりの大雪だったという話で、月曜日の朝まで降り続き、瀋陽空港は火曜日午後まで閉鎖されたほか、瀋陽に来る汽車も途中で止まってしまった。陳陽からは日曜夜には「汽車が途中で動きません。」そして月曜日には「瀋陽駅に着きましたけれど、大学まで行けません」と言う電話がかかり、結局大学に彼がたどり着いたのは火曜日の夜だった。
その後しばらく経ってから陳陽が「先生、私はまだ先生のスパゲッティを食べていませんねェ。」と言う。
彼を誘った覚えはないのだ。暁東たちが食べたのを聞いたのだろう。全く困った甘えっ子である。
後列左から:峰村夫人・山田・峰村・山形達也・加藤夫人
前列左から:加藤・森領事・南本・山形貞子
昨年12月に書いた日本留学志望の李さんを巡る話の続きである。東工大の国際大学院国費留学生募集の Websiteには12月20日締め切りと書いてあった。李さんは東工大から入学者候補として11月22日までに必要書類を出すように言われた。送った書類に問題がなければ合格判定が全学会議で出る。
中国では戸籍の証明を取り寄せたりするのに思いもよらない時間が掛かることが多く、それが一番の心配だった。大学の書類もなかなか出ないことがある。それでも期限の1週間前には書類が揃い、李さんはそれを発送して三原先生から安着の知らせを貰って晴れ晴れとした顔をしていた。
ところが年も押し詰まった12月27日に東工大の三原先生からメイルがあった。『全学の会議で順次大学での合格案など決まって行きますが会議にかけていくに従い、国費奨学生候補は東京工業大学の協定大学からが望ましいという状況が分かってきました。それ以外の場合は、大学のレベルを説明しなくてはなりません。そちらで瀋陽薬科大学のレベルなどを説明する文章を作成していただけないでしょうか? ランキング、薬科大学の中でのレベルなど資料があれば添付していただければ幸甚です。協定大学は工学系しかなく、苦慮している次第です。』
李さんの行くのは生命理工学研究科で、東工大としては比較的新しい部門である。当然、東工大設立以来その中心だった工学系とは目に見えない争いがあるだろう。『生命理工学科では、瀋陽薬科大学なんて聞いたこともない大学から学生を採るんですか?名門の清華大学からの応募が少ないんですかねえ?』と工学系から皮肉混じりの嫌みを言われて、『そう言や、山形先生の話で学生の推薦を決めてしまったけれど、いったい瀋陽薬科大学って、どの程度の大学なんだ?』ということになったのだろう。
日本でも大学の格付けが盛んである。大学の格付けには、いろいろの要素が使えるから、従っていろいろの順位付けがある。ちなみに東工大は日本の大学の中で何位かというと、計算方法によって6位から9位に来る。The Times Higher Education Supplement World University Rankings International Comparison’s World’s Top 100 in Technology によれば、東工大は世界の工科大学の第18位にランクされている。日本の大学ランキングの上位にはいわゆる旧帝大が並ぶ。それに続いて6位から9位ということはかなりいい線を行っていることになるが、東工大は日本中に鳴り響いている名前ではないし、中国の名門と目される清華大学と共同の学生教育プログラムを立ち上げてはいるけれど、中国では先ずほとんど知られていない。かなり玄人好みの、あるいは通なら知っている大学といえるだろう。
さ て、瀋陽薬科大学はどうだろうか。中国でも毎年大学順位表が発表されてwebで見ることが出来る。普通は100位までが発表される。これに薬科大学は入っ ていない。人から聞いた話では140位のあたりらしい。しかし中国の大学の評価が、正確にはどのような基準に基づいてなされるのかよく分からない。少なくとも、学生数の多いところは評価が高い。中国では『大きいことはいいことだ』ということのようだ。この薬科大学だって、『瀋陽にある医科大学など三大学と合併すれば学生数は全国2位になります』と、皆が期待を込めて嬉しそうに言うのを何度も聞いたものだ。合併は話だけでなかなか実現しそうもないが。
東 工大の入試委員から、瀋陽薬科大学の評価についての資料を求められたので、私は学長と、学長補佐で国際交流処長でもある程先生に、この大学の評価を表す客観的資料を、これこれの理由で必要としていると言って、お願いした。ことはこの大学の学生の日本への留学に関することである。彼らにお願いするのが筋である。しかし、ひょっとして期日までに資料が貰えない場合にはそれでは困るので、一番困る李さんに資料を探すように言った。『何時までですか?』と李さん。『三原先生のメイルでは年明け早々に資料がいるみたいですね。頑張って集めて下さいな。』と私。
幸い彼女は故郷と家族から離れて瀋陽にいるので、年末年始だからといって特別な家庭の行事はない。それで、三ヶ日のうちに資料を探してきた。一つは『瀋陽薬科大学は1931年に江西省の瑞金で誕生して、中国では歴史が最も長い、優良な伝統に育まれた薬学の総合的な大学です』で始まる紹介である。名門と言ったって漠然としている。もっと具体的な、しかも他と比較できる資料が欲しい。
(この稿つづく)
『2004年には、発表論文860篇,131篇はSCIに収載されました。昨年2005年には、発表論文1,014篇,197篇はSCIに収載されて,中国国内では連続して中国薬科大学と北京大学薬学院などの薬学関係の学校の首位に立っています。』これで業績がかなり具体的になったが、他の研究機関のそれと比べる客観的な資料が必要である。
つまり漠然とした基準による大学順位ではなく、大学の発表する論文数の順位や、大学の獲得する競争的研究費の額などで大学の評価を行えば、大学の生産性の優劣などの資料として客観的に使える。
そ の意味で唯一手に入った資料は2001-2003年の3年間にMedlineに収載された論文の数のrankingだった。Medlineに載るjournalとScience Citation Indexの対象になるjournalと同じではないが、Medlineのjournalに載る論文で大学を評価するなら、私たちの評価の感覚に近い。
こ のwebに載っている論文数rankingの資料では、中国大陸の各大学/科研機構で比較すると、中国科学院を1位として、北京大学、復旦大学、清華大学、協和医科大学、浙江大学、南京大学、武漢大学、第四軍医大学、中山大学がこの順で10位まで並んでいた。瀋陽薬科大学は16位となっていた。
と ころで論文の数は研究に関わっている人の数に比例する。研究機関の規模が大きければ、発表論文の総数は多いに決まっている。教授、助教、大学院学生、ポスドクなどなどが研究に関わっている。従って研究者の数で割れば、一人あたりの生産性あるいは活動係数の優劣を出すことが出来る。これが直接的な大学・研究機関の構成員の能力比較となる。高けりゃ良い大学である。
教授の数は公表されていても、研究者の数は分からない。それで各大学で発表されている(昨年度の)教授の数で代表することにして、この数で上記の発表論文数を割って、一人あたりの数字の高い方から並べると、ダントツ1位は中国科学院。北京大学の2位、上海交通大学医学院の3位、協和医科大学の4位、南京大学の5位に続いて、何と瀋陽薬科大学は6位である。全学挙げての論文数では16位だったが、一人あたりの生産性では6位という立派なものである。論文総数では3位と4位だった復旦大学、清華大学よりも遙かに上に位置する。
一人あたりの生産性は、もちろん研究費の潤沢度に影響される。清華大学などの研究費は薬科大学より遙かに豊かに違いないから、清華大学の生産性よりも高いと言うことは薬科大学は結構優秀なんだなと言うことであろう。
学生数はおざっぱに言ってみれば大学の規模であろう。学生数で割れば研究の基本的性能ということになるだろうか。それで公表されている(昨年度の)学生数で割ると、瀋陽薬科大学は9位である。つまり総数で16位、生産性で6位、基本的性能で9位となった。
先ほど、東工大は日本の大学ランキングで計算方法次第で6位から9位に位置すると書いたが、いみじくも薬科大学の中国で占める位置も良く似ているではないか。
『薬科大学は日本では全くと言っていいほど知られていません。中国ではあまり知られていませんが、薬学では長い歴史のある名門です。業績もありますし、言ってみれば中国における日本の東工大みたいなものですよ。』と、上記の資料を付けて三原先生に送った。
この説明はとても良かったに違いない。彼はすんなりと納得してくれたようで、東工大全学会議の中で薬科大学の位置は無事に承認されたようだ。
『いやあ、知られていないですけれど、瀋陽薬科大学は中国の理系大学では6位から9位に位置して、この東工大の位置と同じなのです』と三原先生。
教授会全員『なるほど』と納得。
それから3ヶ月経った4月3日の昼頃、李さんが泣きながら私のオフィスにやってきた。彼女はとてもメリハリのしっかりした日本語を話す人である。それが涙混じりの声なので何言っているか良くわからない。泣きながら手の中の一枚の紙を私に見せようとする。
一 目見た途端にわかった。紙には日本語で入学許可証と書いてあって印鑑が押してある。東京工業大学の修士課程入学を志願していた李さんは、選抜の過程を経て最終採用候補に残され、日本政府奨学金の申請が大学から文科省に出されていた。この段階まで来ればきっと通るよと私がいくら言っても、不安が残っていたのだ。その彼女に最終的に大学の公文書として入学許可書が届いて、安心と嬉しさのあまり泣いてしまい、それでも私に入学許可書を見せに来たのだった。
ところで、学長と学長補佐に大学の地位を示す客観的資料をお願いしたが、結局期日までに返事が来なかったし、未だに来ていない。しかし私は泰然としている。こんなこと位でうろたえてはいけない。何故って、ここは中国なのだから。
高校の国語の教科書で読んだ「読書は経験を予想する」という言葉は高名な人の言葉のようだが、それが誰だったのかいまは覚えていない。たとえば小説を読んで、出てくるシーンに書かれていることは、読者にその経験があってこそよく理解できる、というものだろう。
これは読書に限らない。物事にぶつかったときにどのようにそれを受け止めるかは、その人の経験に懸かっている。今日の第11回瀋陽日本語弁論大会に出て学生の日本語のスピーチを聴いた人は、これを初めて聴いたか二度目なのか、聴いた人が中国の学生なのか日本人なのか、日本人でも、日本語の教師なのか、大会の 主催者の日本人会の側の人なのか、そうでないかなどの様々の立場に分けられるが、それぞれに受けた印象が違うだろう。
だから人によって評価は違うだろうが、あえて一言で総括すると、日本語のスピーチをする学生の日本語のレベル、話し方、内容は実に見事なものであり、大会運営も大成功だった。
第11回瀋陽日本語弁論大会は五つ星ホテルの一つである州際飯店で開かれた。日本語を専攻する大学生(大学一部15名)、それ以外の大学生(大学二部15名)、高校生の部(8名)の3部に分かれて日本語スピーチを競った。
審査はそれぞれ6名の審査員により行われ、大会の最後に入選、入賞の発表があって表彰が午後5時半から行われたが、それに先だって審査員を務めた日本人会会長・伊藤忠商事(株)瀋陽事務所の高木純夫所長から講評があった。
この講評の中で印象に残ったのは、今日の弁論大会でスピーチをした学生に、「それぞれ話し方も内容も素晴らしかった。君たちの努力と成果には感銘を受けたし、それを指導した先生方の努力にも大いに感服した。さらに言うならば、この先三つのことを念頭に置いて日本語と自分にもっと磨きをかけて、中国のため、 日中友好のため、そして自分自身のために研鑽に励んでほしい」という言葉だった。
その第一は、日本語には日本語の語調という特徴があるので、それを覚えてほしい。英語の強弱のアクセントおよびイントネーションの感じを取り入れたり、中国語の四声や抑揚を日本語の話し方に持ち込むと、それは日本語としては正当な話し方ではなくなる。アメリカ大統領ブッシュの英語を話してみせて「この語調で日本語を話すとやはり違うでしょう?」と言う実演もして見せた。「日本語の語調は英語とも中国語とも違うことを知って、少しでも日本語の語調をマスターするように努力すると、それは料理の最後の一振りの味の素みたいなもので日本語が格段によくなるのですよ。」
第二には、「言うまでもなく 言葉は最終的な目的ではなく手段なのだから、日本語が話せるようになったら、話すことがあるよう自分の教養を高めることが必要ですし、それを使って将来どうしようかという目標を高く持って欲しい。」自由に使えるようになった日本語を仲立ちにして日本人との付き合いに、そして国と国の理解に「どのように貢献 できるか、どのようにしたら役立つかをよく考えて自らを高めて欲しいのです。」
第三に、日本語には多くの外来 語、特に英語がグローバリゼイション、言語思考の共通化というボーダレスな波に乗って取り込まれている。これらの外来語は日本語的な発音のカタカナとなって使われているので、カタカナで外来語に出合っても英語を知らないと意味がまるきり分からない。「だから日本語だけではなく、英語もどうか一生懸命勉強し て覚えて下さい。これも日本語の上達には必要なことです。」
高木所長は演説ではなしに目の前の学生たちに平易 な言葉で語りかけ、日本語を学習している学生にさらにモチベーションを与えることに成功したと思う。彼らが習得した日本語をさらに向上させ、日本人と接して日本人と個人的にも友人となり、日本を理解し、そして両国の真の友好の礎となることを期待してやまない。
2007年04月22日付けのExiteニュースに、花粉対策でポプラの「性転換」という話が載っていた。
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花粉対策でポプラの「性転換」処理 [北京 20日 ロイター]
雌のポプラが発する花粉が原因で、都市部で生活する人々がアレルギー症状やぜんそくに悩まされているため、ポプラの木の性転換処理が行われることになったという。中国メディアが金曜日に報じた。
北京には30万本以上のポプラが植えられているが、樹木の専門家によって花粉を飛ばす雌のポプラの性転換処理が行われる。
CCTV(中国中央電視台)は、専門家が「ポプラの花粉は空気の質を悪化させるだけでなく、人々の健康に害を与える。市当局は何らかの対策を講じなければ ならない」と話していることを報じている。
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人の性転換は大ごとだが、 植物ならその木も周りも文句を言わないから問題は起きないだろうが、性転換手術は人よりも大ごとである。人の場合は性器そのものの形成手術が中心だから、 困難はあるだろうけれど一人あたり一つの手術でよい。しかし植物は花が性器だから、もし一つの木に沢山付く性器そのものを対象に手術をして性転換するとな ると、考えるだけで不可能であることがわかる。
マツ類は雌花と雄花が同じ 木に付く雌雄同株の植物で、雌雄の転換がごく日常的に起こるらしい。仕組みはわかっていないという。ある種の魚では雌雄の密度を感じて雌雄が変わり、年齢 で変わったりするから、雌雄の転換はごく容易に起こっている。マツには雌雄転換が環境の影響で簡単に起こる仕組みがあるのだろう。そしてそれを利用してポ プラにも、ということになっているのだろう。どうやって性転換をするのかの詳細を知りたいものだ。
薬科大学には見事な大木に 育つ木が並木を作っているが、長年名前がわからなかった。中国暮らしの長い遼陽の渡辺先生によると「わからないけれど、満州ポプラと呼んでいますよ」とい うことだった。名前がわからないままというのが気に掛かっていたので、改めて教師の会の先生方に伺うと、南本先生からドロノキでしょうという連絡があっ た。
Internetで調べると、ドロノキ 【泥の木・白楊】. その他の名称として ドロヤナキ 【泥柳】、デロヤナギ、ワタドロとも言う。 ヤナギ科の落葉広葉樹。北海道及び本州中北部の寒地に自生。また、樺太、千島、朝鮮、満州、シベリアに広く生育し、北米のほぼ全域にも広く生育する。北海道記念保護樹木として、以下のURLに写真が出てきて、同じものであることが確認できた。このURLに載っている木は満州開拓記念の木だそうである。
http://www.wood.co.jp/kyoju/hokaido/asahikawa-nagayamakinen.htm
学名がPopulus maximowicziiなので、渡辺先生による通称満州ポプラでもいい線行っていると思う。なお、中国名は楊樹である。
このドロヤナギは雌雄異株 で、雌の花穂の方が大きいと書いてある。薬科大学のドロヤナギは花穂の大きさからするとほとんどが雌の花である。えんじ色の花粉ようのものが落ちてくるの で、これは花粉かと思っていたが、よくよく考えると雌が花粉をつけるのはおかしい。花粉というのは雄の精子を運ぶ装置である。花粉が雌と言うことはあり得 ない。
北京の雌のポプラ(北京の ポプラが北大にあるようなポプラなのか、ここにあるドロヤナギのようなポプラなのかわからないが、いずれにせよ雌雄異株である)が花粉を振りまくから皆の 迷惑だというのもおかしい。雌の花粉と言っているのが、実は雌の小さな花なら説明は付くかもしれない。しかし、今年は花が終わってしまったからこれを証明 することは出来ない。
それに、大体ポプラの「花粉」が北京の大気汚染に貢献しているといって騒ぐのはなんだかおかしい気がする。
実際、中国のニュースで誰でも知っていることだが、北京は大気汚染がひどい。2006年12月17日の発表によると、「アジア開発銀行はインドネシア環境会議で発表された報告に基づき、北京市の空気中の汚染物質は1立方メートルあたり142ミクログラムで、アジアの都市の中で大気汚染が最もひどいと指摘した」。2006年11月22日には北京市環境保護監測センターは、北京の大気汚染は5段階のうちの2番目にひどい「4級の中度汚染」と発表している。さらに北京市西部の石景山区古城という所では、最も悪い「5級の重度汚染」を観測したという。
日本の数倍から数十倍ひどい大気汚染の中で、人が作り出した物質による汚染ではなく、植物が毎年繰り返してきた性の営みをとがめてお金をかけて性転換を行うというのは、なんだか漫画的である。
第11回日本語弁論大会は主催者の日本人会が資金を出し、瀋陽市人民政府府の承認を取り付けて、会場と交渉した。協力の瀋陽日本人教師の会は実行委員会を作って半年前の前年の11月から計画を練り、12月には各学校に通知を出し、2月には弁論大会の詳細を知らせ、3月には応募作品を集め、3月終わりにはそ れらの審査をして4月22日に州際飯店で開かれる最終審査(壇上での発表)に臨む38作品を選んだ。日本人教師の会はさらに最終選考会当日の運行すべての 責任を負った。
私は今回は大学一部、高校生の部、表彰式の司会役だった。初めて弁論大会に臨んだ2004年の 第8回のときも司会、2005年は急遽中止となって、2006年の第10回の時も司会だった。司会というと目立つので大変な役だと思われるが、実際は原稿が実行委員会の手により作られているので、発表者の順番や読み違えたりしないよう気を遣うけれど、さほど大変ではないと思われる。弁論大会には当然審査員がいるわけで、司会としては審査に影響を与えてはいけないから、自分の思うことは一切述べられない。司会をやるなら「欣ドコ」の欣ちゃんみたいその場を仕 切って喋りまくりたいところだが、それは禁じられている。実行委員の作った原稿通り粛々と読み進めなくてはならない。
ところが人生が思ったように進まないのと同じように、弁論大会も台本通りには進まなかった。
司会者原稿では、9時に司会が開会を宣言すると最初に主催者を代表して瀋陽日本人会長の挨拶が予定されていた。主催者の挨拶なので、話しが終わっても司会は「ありがとうございました」とは言いませんよと、一番前に座っている高木会長に言うと、「え、最初に私の話があるんですか、終わりにもあるので初めのはないと聞いたけれど」というのである。あわてて実行委員に聞くと「当然挨拶が予定されている」という。話がどこでどうなったのか知らないが、後10分で大会 が始まるという時になって高木さんは挨拶をすることを知ったわけだ。
開会5分間になって、開会の時の来賓として挨拶が予定されていた在瀋陽日本国総領事が遅れるらしい。10分、いや20分遅れそうだという情報が入った。開始予定時刻の9時5分前のことである。急遽集まって、と言っても高木会長、森領事のほか誰がそこにいて一緒に相談したのか、今となっては思い出せないくらいだから、だいぶ私も慌てていたと思う。それでは会の開始を総領事の到着に合わせて延ばすか、いや、時間通り始めて、時間に未着ならそこは跳ばすしかない、それなら、森文化担当領事が代わりに挨拶をするかを急遽話し合った。森領事は総領事が後で来られるなら絶対代理で話すことは出来ないともっともなことを言われるので、二者択一の中で、大会は時間通り始めて、もし総領事が挨拶時に未着ならそこは跳ばすと決めた。開始1分前。総領事は来られないことになって、必然的に森領事が代わりの講演をすることが決まった。
9時の時間通りに、第11回瀋陽日本語弁論大会を司会の言葉で開会した。最初は主催者を代表して高木会長の挨拶である。「急に挨拶をすることになって、学生の即席スピーチ並みの5分間で話を用意することになりました。」と言って皆を笑わせての挨拶だった。引き続き来賓として森領事も、「総領事がやむなく急に来られないことになって、急遽私が挨拶をすることになり、私も5分の猶予しかもらえない即席スピーチです」と言って皆を笑わせた。
この後瀋陽市人民政府外事弁公室の郭副主任の挨拶があり、それは同じく外事弁公室の閻副主任によって見事な日本語に翻訳された。これを思うと、「即席スピーチ」では難しいけれど、この次は日本語の挨拶は中国語にも訳して話した方がよいのではないだろうか。
挨拶と来賓紹介が済んだ後、一部の来賓が退場し、会場の一番前の机が審査員席に模様替えになった。これに3分くらいの時間がかかり、おそらくこれは予定していないハプニングだったろう。
想定外のハプニングというと、午後の大学生二部の時だった。発表が15人いるので審査結果の集計を8名の後で行うために審査用紙の回収が行われる。そのためのちょっとの中断の後、また次の学生が壇上で話を始めた。小学校の時彼女の同級生が盗みの疑いを受けてとうとう自殺したという話だった。話は佳境だった。突然この部の司会が叫んだ。「突然のことで申し訳ありませんが、審査員が席に戻っていません。ここで止めて、また再度初めから始めて下さい。」なんと、ほんの一寸の間を利用して審査員二人が席を外していたのだった。
このほか、二部の審査員の所属大学を間違えていた、最後に入賞者の名前を読み違えた、アトラクションの時に下げた演台を講評のときに戻すのを忘れたなど、いくつかの小さな不備があったけれど、総合的にみれば満足のいく大会だった。
秦さんは私が瀋陽に戻った翌日の金曜日に別れの挨拶に来た。その翌日の3月3日に彼女は日本行きの飛行機に乗り、すでにこの春東大の博士課程に入った夫の胡丹と一緒になる。
胡 丹は日本国政府奨学生になっているから学費・生活費の心配はないけれど、二人になれば生活はぎりぎりだろう。日本でアルバイトでもすればやっていけますと胡丹はきわめて楽観的なことを言う。「とんでもない、就労できないビザで日本に行くのだから、働きたいと言って職を探すと悪いやつに搾取されるかもしれないし、強制送還もあり得るよ」と脅しておいた。
胡丹は薬学日語で5年制なので一つ若い秦さんと卒業は一緒だった。秦さんの友達が胡丹を男朋友の候補として紹介したのがなれそめだという。中国語でいう男朋友は、ただの友だちではなく将来を約束した恋人のことを指している。
後 で胡丹が私たちに言っていた。「彼女が私を男朋友に決めたのは、私が不細工で不器用だから、この男なら他の女が寄ってこなくて安心できそうだと言うんです。」女性はいつの世でも、世界の何処でも落ち着いているものだ。私も妻からは同じような理由で選ばれたに違いない。男が女を選んだつもりでも、実は女性が選んでいるのだ。そして女性はいつも正しい。
胡丹が不器用で不細工かどうかはさておき、彼はたちまち彼女に夢中になった。それまで4年間一緒に学生食堂に食事に行っていた寮で同室の魯くんも、朱くんもお呼びではなく、何も知らずに冬の休暇で日本に帰っていた私たちの所に彼らの嘆きのメイルが届いて、私たちもことの顛末を知ったほど急激に燃え上がった恋の炎だった。
やがて瀋陽に戻った私たちを胡丹は待ちかまえていて、彼女を紹介してくれた。私たちが驚いたのは、次の休みの機会にそれぞれの故郷に戻って両親に相手を紹介するというせっかちさだった。男と女は互いに恋に陥ちる。恋に陥ちれば夜昼なく相手を考え続け、相手を求め続けて、そして生涯一緒にやっていく相手と思えればそう決める。こんなに短い期間で、直ぐに決めていいものだろうか。恋に貴賤なし。恋に遅速なし(なんて言うかな?)。それはともかく、彼らを見ていると親に紹介してそれが公認となることで互いに「恋人同 士なんだ」と安心するらしい。
と言うわけで二人とも修士課程を終えた昨年7月、別の言い方をすれば灼熱の恋から2年半の月日を経て、彼ら は郷里で結婚した。胡丹はその前から日本の博士課程に進学したいと言い、私たちは彼を友人の山本先生に紹介した。彼は山本先生の骨折りで東大推薦の国費留学生に選ばれ、10月初めには渡日することになっていた。
修士課程を終えた二人は大学の宿舎から出て大学近くのアパートを借り、胡丹は東大に行くまで私たちのところで研究を続けた。やがて胡丹の日本行きの日が迫った。胡丹が来て言うには「彼女をこのまま瀋陽に一人置いておくのは心配だし、故郷に帰しても心配です。自分が東大の博士課程の入試に入ったら出来るだけ早く呼び寄せますので、それまでこの研究室に置いて貰えないでしょうか?」
私 たちも心配していた。研究室に来れば一日中彼女を見ていられるし、彼女がまだ知らない生化学、分子生物学の基礎的な技術も教えられるから、将来を考えると一挙両得だろう。それで、胡丹が出掛けたその日から泣きはらした眼のままで秦さんは研究室に来て働き始めた。ゼラチンザイモグラフィも、電気泳動も、イムノブロッティングも直ぐに覚えてたちまち1級の技術レベルに到達した。彼女は胡丹よりも実験センスがいい!
その間彼女は日本行きに備えて日本語の勉強を始めた。胡丹の日本語は見事と言える域に達していたが、一方秦さんはまだ全くの初心者である。教師の会の同僚の若い先生が、忙しい中から時間を割いて、そういう事情ならと言って破格の値段で日本語教授を引き受けてくれた。
秦さんが日本に出掛けるときの日本語はまだたどたどしいものだったが、メイルで書いてくる日本語はたちまち進歩した。
「こんばんは,お元気ですか?先生のEメールをありがとうございました。励ましてくださいましてありがとうございます、私は頑張ります。
今日は彼と一緒に学校の前に公園に行きました。公園に桜の花は多く、とてもきれいですね。私たちは桜の花の写真を撮りました。先生に写真を見ていただきます。」
最 近の頼りでは、胡丹のいる山本研究室で秦さんはいろいろな細胞の糖タンパク質の二次元電気泳動の後レクチン染色をするという仕事を頼まれたらしい。「まだ日本語で話されてもよく分からないけれど」と書いてきているが、私たちもアメリカに留学したときに覚えがある。ちゃんと話せなくても、仕事ではちゃんと結果を見せるぞ!と思ったものだ。秦さんのここで覚えた電気泳動の技術が彼女の生活の助けになっているなんて、とても嬉しいことである。
文字通り風薫る5月12日土曜日、好天に恵まれた5月の定例会は青年大街と文化路の交差点の南200mに29階建てで聳える新築のNorth Media Buildingの4階会議室で開かれた。これは5月末に開かれる予定の在瀋陽日本国総領事館主催のジャパンウィークがこのビルを借りて開かれることに なっていて、教師会ではこの日の定例会のあと会員の野崎氏が講演を行うことになっているので、それならばよい会場が必要だろうと言って、森領事が私たちの ために借りて下さったものである。
定 例会の始まる前にビルの見学会があり、4階の一部には約300人が入る平土間の会場があった。ステージも広い。これがジャパンウィークの時の『日本語文化 祭』会場になるもので、メディアビルの名に恥じず、ビデオ収録のための照明、音響施設が万全のように見受けられた。昨年度までの日本語文化祭は総領事館内 の施設で行われたので、出場者、参加者は事前登録と当日のチェックがあり、決してオープンな催しとは言えなかった。人々の出入りが自由なら、今年の日本語 文化祭はきっと賑やかなものになるだろう。
た だし、私が1時半頃このビルに来ると、外には身分証を付けた女性 二人がいて中に入る人をチェックしている。つまり用事がないと入れない。回転ドアの中に入っても屈強な男性3人がいて、同じように用向きをチェックしてい る。私はたまたま一寸先にビルに入った田中先生を見掛けていたので、彼の後ろ姿を指さして『一緒ですよ』といったら、それだけで中に入ることが出来た。 ジャパンウィークの時は、一般の入場者をどうするのだろうか。4階で開かれるジャパンウィークに出たいと言うだけで、入れて貰えるのだろうか。
4階の私たちの定例会の開かれる会議室は、120平 方米くらいの広さで会議でも、講演会でも使える。スクリーンと講演者の机を中心に放射状かつ階段状に机が 設けられていて、約40人の席があった。机には二人に一つのマイクロフォンが設置してある。マイクの下のスイッチを押すと赤いランプが付いてこのマイクが 生きる。となりにもう一つランプが付いていて、こちらには招請と書いてある。これは議長が『あなたに発言をお願い』とでも言って手元で操作してマイクをア ライブにするのだろうか。
ともかく教師の会の5月の定例会でこの豪華な会議室を使えるのは、森領事とNorth Media側のご好意のおかげである。
この日の出席:菊田悦二領事
安 部玲子、池本千恵、石井みどり、石原南盛、宇野浩司、岡沢成俊、片山 皚、加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、 中田知子、中野亜紀子、鳴海佳恵、野崎勉、林与志男、藤平徳雄、前田節子、松下宏、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山田高志郎、若松章子、渡辺京 子、渡辺文江、小柴裕子(新入会)、長谷川宗武(新入会)
合計33名の出席
このほか、読売新聞瀋陽支局長・末続氏が傍聴。
欠席:林八重子、南本みどり(在日本)山形貞子(この日3時半に瀋陽空港に戻ってきて、食事会にのみ参加)
1.南本会長から資料室係への要望
『先般の教師会で説明したように「瀋陽日本語文化センター」等へ名前を変えること等も含めて「日本語資料室の今後の展望」について資料室係と教師の会役員の間でご検討いただきたい。
そして、出来れば6月の定例教師会に「改訂版、日本語資料室の今後の展望」と「年間計画」的なものを出していただき、皆さんの了承が得られたら瀋陽日本人会へ提出したいと思うので、よろしく。』
2.日本語弁論大会の反省
すでに鳴海実行委員長のもとにそれぞれから今回の大会の反省が集まっていて、それが要約されて発表された。これは来年度の実行委員に渡されて再度検討される。
そのほかに、すでに日本人会側からの改革案として以下の提案が出されている。
○ 最後の御礼の挨拶は日本人会代表者が行うのが筋だろうし、講評は日本人会メンバーよりは教師の会の方が行うのが筋ではないだろうか?
○ 即席スピーチは与えられるテーマの運不運もあるので、例えば即席スピーチをやめ、舞台でパネルディスカッションを行わせるのはどうだろうか?あるいは、テーマを絞って、おなじテーマを話させると違いが出るだろう。
○ せっかく日本人会がスポンサーなのだからアトラクションをやめ、例えば約1時間ほどを法人企業の会社説明会にあてることもできるだろう。
○ 終了後にビユッフェスタイルで、たとえば上位入者の学生との交流会を行うのはどうだろう。
主催 瀋陽日本人教師の会
新緑の候、各位におかれましては、いよいよご健勝のことと拝察いたします。
さて、この度、下記により、今年度の「瀋陽歴史散歩」を計画いたしました。
どなたでもご参加いただけますので、皆様のお出でをお待ち申し上げます。
記
1 日時 6月17日(日)午前10時~13時 雨天中止
2 集合場所 三経路と中山路が交差する角
(大きな建てかけのビル、瀋陽日報社、遼寧日報社がそれぞれの角にある)
中山路を277、220、125、環、129、114路バスで来られる人はバス停「遼寧日報」下車。。三経街を265、280、221、258路バス利用の場合はバス停「遼寧日報」下車。三経街を265、221、220、280、114路バス利用の場合はバス停「八一公園」下車。
3 講師 加藤正宏先生(瀋陽薬科大学日語教師)
4 内容
北の市府大路から南の十一緯路までの間、東の青年大街から八経街及び和平大街の間に点在する、旧郵政管理局、旧領事館(現存は日本及びフランス、ロシア?)、旧新聞社跡、満州電信電話株式会社跡、公館、倶楽部(張学良関与、満州国時代には洋画の映画館)、旧張作霖の第五夫人宅、旧(満州国時代及び最近まで)博物館、旧満州航空株式会社、旧独立守備隊本部、最後にイギリスの匯豊銀行を見学。(十一緯路を挟んで、この銀行向かい側の「新南国美食」で、会食後解散予定)。
なお、これらの内容は以下のHPに紹介していますので、御覧ください。
http://www.geocities.jp/mmkato75/ の
「瀋陽史跡探訪」の『湯玉麟公館(奉天独立守備隊本部)』『旧遼寧省博物館と張作霖の五姨太太の別荘』『各国の旧領事館及び界隈の公館(5月末までにHPに登載予定)』
5 出欠
当日参加も歓迎しますが、おおよその人数を把握したいので、6月10日(日)までに下記宛ご連絡ください。
担当係り:瀋陽薬科大学 峰村洋 E-mail hirominemura@yahoo.co.jp
TEL 23986115 携帯 13840282177
◎交通上の危険も考えられますので、小さいお子様の参加はご遠慮ください。
3.日本語文化祭
日本語文化祭は元々が遼寧大学で毎年一度開かれていた日本語学習効果の発表会だった。10年前までさかのぼると聞いている。それが年々発展して瀋陽のほかの日本語学習校からも参加して、劇、踊り、歌などを発表するお祭りとなっていた。
しかし、反日デモの高まった2005年に遼寧大学の日本語文化祭は中止に追い込まれた。さらに弁論大会も中止され、その代わりに総領事館でジャパンウィークの中の一日として弁論大会最終選考会出場者が作文の口演をした。
そ の年の夏にそれまでの中心だった遼寧大学の石井康男先生が寧波へ転任されたこともあって、日本語文化祭はもう遼寧大学で行われることはなくなってしまっ た。そのかわり2006年5月には在瀋陽日本国総領事館主催のジャパンウィークの催し物の一つとして開かれた。瀋陽から8校、遼陽から1校の9校の参加 だった。このときの準備期間は10日間しかなく、それを仕切った岡沢先生と石井みどり先生の努力と貢献の活躍ぶりは、未だに皆の語りぐさになっている。
在瀋陽日本国総領事館主催の今年のジャパンウィークは長春で開かれると言うことである。じゃ、日本語文化祭は?ということになる。その日本語文化祭はやはり 在瀋陽日本国総領事館が主催して瀋陽で今年も開くという。5月26日土曜日にNorth Media Buildingが予約してある。つまり日本語文化祭は在瀋陽日本国総領事館主催の催し物として定着したのだ。実際には日本人教師のいる学校が動かないと 出来ないので、日本人教師の会は協賛というかたちになっているという。それで教師の会は手回し良く、すでに日本語文化祭担当委員を決めて用意をしてあっ た。今年度の委員長は9月から新着の田中先生である。
田中先生によれば、今年も昨年と同じく、東北育才学校、東北大学、遼寧大学、瀋陽薬科大学、瀋陽大学、瀋陽師範大学、中国医科大学、遼寧航空学院、遼寧大学 外国語学院、の9校の参加だそうである。午後1時から5時までの4時間なので、1校あたりの持ち時間は約25分。約300人が会場には入れるので1校あた りの出場者は40名、とアナウンスされた。
今回は昨年までの総領事館とは違って出入りが自由なので、各校からの参加者に40名という上限を設けなくてもいいのではないかという質問があった。田中先生の返事は『立ち見が出てもいいですから、大丈夫ですよ。薬科大学は90名ですね。』
『消防法で立ち見の数の制限があるのではないですか?』という質問に、田中先生は『大丈夫ですよ』。このメディアビルに誰でもどんどん入れるのですか。田中先生は、これにも『大丈夫ですよ』。。
4.旅行
昨年の初めての玉見学のバス旅行が楽しかったので、今年もまた行きましょうと言うことになって、行き先は朝陽の化石と決まった。峰村先生が係を務めて旅行社 と私たちの間に立って折衝を重ねておられる。6月9-10日の土日。今のところ参加希望者は26名という。昨年の旅行の立役者で、夏に帰国された中道先生 ご夫妻も、このためにわざわざいらっしゃるとのことである。
今年度初めての、そして最後の瀋陽フィールドワーク『瀋陽歴史探訪』が6月17日(日)午前10時-午後1時に計画されている。講師は何時もの薬科大学加藤先生。この催しは教師の会の主催だが、日本人会にも呼びかけることになっている。その場合は共催か、後援か、協賛か。
5.教師会主催第2回セミナー
題:「共生循環型社会を目指して」
演者:野崎勉氏(東北大学)
4時15分から1時間、同じ会議室で研究セミナーが開かれた。
教師の会の33名のほか、日本人会からの参加者、東北大学、メディアビルからの参加者約30名近くが集まって、合計約60名の聴衆で会場は一杯だった。
内容要約
『二十世紀は人類がかつて経験したことのない変革の世紀であり、科学技術が急速に発達し、それが人類に与えた恩恵は測り知れないものがある一方、これは科学技術とは無縁の人類以外の生物にとっては、最悪の受難の時代でもあります。
粗大ゴミで代表される大量消費時代の中で、地球温暖化、オゾン層の破壊、水質汚染、酸性雨など、環境問題は地球全体の問題として考えなければならないとき が来ています。科学技術はそれを享受する人々の総意によって発展してきました。地球環境に優しい技術も、また、人類の総意によって生み出されねばなりませ ん。先進国はこれまでは地球に厳しい国であり、発展途上国は今までは地球に優しかった国なのです。
私たちの生活の中でも、日々多くの資源とエネルギーを消費しています。この美しいかけがえのない地球を守るには、一人ひとりのこころがけが必要です。少しでも地球へのいたわりを考える一助となるよう、地球温暖化と沙漠化についてお話します。』
6.終了後近くの新洪記で食事、23名参加。一人30元。
日本語文化祭を見に行って帰ってきたところである。地元の情報誌コンシェルジェのために写真を撮るよう頼まれたので、今日は大きな顔をして一等席に陣取った。ステージに向かって第1列の、通路を挟んで右隣が菊田領事で私は左という最高のかぶりつきの席に座って4時間、歌と踊りと劇を楽しんだ。スピーカーも近いので音も大きく、今でも頭の中で、『夢のしずく』が、『未来』が、『世界の約束』が、リフレインしている。『太陽の一日』のダンスが、『ロックソーラン』の踊りが目に浮かぶ。奇想天外な仕掛けを作った『小林ピンポン』の黒子で動かされる舞台転換が脳裏によみがえる。『蛙の王子』の達者な台詞と凝った演出を思い出して改めて感心する。日本語を習ってよかったと喜び、心の底から楽しんでいる学生たちののびやかな声と笑顔にどっぷり浸かって、私も心から楽しんだ午後だった。
空の隅々まで晴れ渡った5月26日の土曜日の午後、第3回日本語文化祭が開かれた。遼寧大学で開かれていた時代の文化祭を数えると何回目になるのだろうか(遼寧大学の2005年に予定されていた日本語文化祭は反日デモのあおりで中止された後企画が消えた)。開催母体が日本国総領事館の主催となって開かれた2005年の文化祭を新生第1回と数えると、第3回となる。
会場は青年大街と文化路の交差点東南側に建っている新築29階建てのノースメディアビルの4階ホールだった。昨年までは総領事館の敷地内の別館で開催され、それはそれでとても立派なところだったが出入りが自由でなかったので、出演者も参加者も今回は遙かにのびのびと楽しんだようである。
最後に総括した南本会長によれば、
第1回の参加は7校で、演目が15。
第2回の参加は9校で、演目は17。
今回の参加は10校で、演目は31という具合に、飛躍的な発展と充実だった。
参加した教師会のメンバーは口々に今回の文化祭は大成功だったと言っていた。私は文化祭を初めて観に行ったが、出演する学生たちの輝きに目を奪われ、彼らの 習得した日本語を使って自分たちを演出している喜びに心を奪われた。日本語文化祭の試みは完全に成功したと言っていいだろう。
これは第一に、何よりも会場が圧倒的によかったことがある。約300のいすが用意してある会場の正面には大きなステージがありステージ環境がよいだけでなく、ノースメディアが受付も用意し、照明、音響、ビデオ、マイク係などのスタッフ(合計20名)が総出で演目の進行を助けて呉れたことが大きい。ノースメディア側の十全な協力が第一の成功要因である。
したがってこの会場を借りて文化祭を主催した総領事館の判断 は、称賛すべきもので、これが第二の成功要因である。実際に学生を出演させた日本語教師の作っている教師会は、共催者としてなくてはならぬ存在ではあるけれど、教師の会は総領事館とノースメディアに今回の成功のお膳立てに心から感謝の意を表明している(最後の南本会長の挨拶はこのように締めくくられてい た)。
第三に挙げたいのは準備に当たった文化祭実行委員(勿論教師会)の準備の良さである。出演者が10校 の、しかもクラスを考えればもっと多い単位になる出演者による31も の演目を何一つの滞りもなく進めることができたのは、事前の準備に当たった田中、渡辺 (京子)、藤平、石井先生の委員会の功績であろう。発表を劇や合唱などのジャンルごとで分けていた最初のプログラムにそれでは面白くないと文句が出て、組 み替えられた最終プログラムの送付が前日だったことを考えると、ますますその感を強くする。瀋陽に赴任して初めて文化祭の開催を担当した田中、藤平両先生 には特にお疲れ様でしたとその労に感謝したい。
勿論、歌、踊り、劇の発表に参加できる嬉しさで弾む心を通奏低 音として、真剣さ、ひたむきさと熱意をもって演じられた内容こそが、この文化祭の成功の最大原因であったことは言うまでもない。全体で、独唱が4曲、合唱 20曲,器楽3,エアロビックスなどのダンスが7曲、劇が5つあった。どれも楽しかった。どの出演者も輝いていて、4時間の熱演に堪能した。
遼 寧大学主催の時代の文化祭を知らないが、それが形を変えて総領事館主催の文化祭となって良かったに違いない。しかも、世の中の空気が変わってきた。昨年は 領事館の敷地内で開催され外部からのアクセスが自由ではないので外の会場を借りて出来ないかという意見が多かった。しかし日本人の団体が瀋陽市内に場所を 借りて、不特定多数が参加する集会を開くなんてとても考えられないのが一年前だったのだ。それが、今はこうやって街の中の普通の施設を借りて文化祭が開か れた。ご尽力頂いた森領事に改めて感謝する次第である。
来年も是非この熱気を再現させてほしいと心から願いつつ、初夏の瀋陽の街を家路についた。
瀋陽日本人会が3年毎に出している会員生活ハンドブックが丁度この春新版となって発行された。身近の薬科大学で印刷出来ないかと思って、大学の印刷所を利用している峰村先生に案内をお願いして印刷所の張主任に会ったのが昨年12月だった。
見積もりを取って編集委員会に報告すると、それまでの所よりも大分安く半額に近いという驚きでもって迎えられた。それで、薬科大学の印刷所に頼みに行ったが、実際は中国も堪能な全日空の高山さんの交渉を見ているだけだった。印刷所の張主任は、高山さんや同じく全日空の牛さんがすっかり気に
入ったみたいだった。高山さんが「この紙をもっとよくするといくらになるのですか」とか「カラー印刷ページが1枚増えるといくら高くなるのでしょう」などと言うと、「あなた達みたいな若い美しい女性は値段なんか気にしちゃいけないよ。大丈夫、心配しなくても、うーんと負けてあげるから」などと相好を崩している。
会員生活ハンドブックは700部印刷。134ページで3,808元。カラー6ページで400元。表紙350元。糊など製本代72元。合計4830元で、1冊あたり6.9元と言う計算である。
このやりとりに同道して、本の印刷は意外に安くできることを知って、日本人教師の会の歌の本の第2版はここで頼もうと思い決めていた。
教師の会の歌の本というのはこう言うことである。2006年の春に教師の会初めてという1泊バス旅行を計画して、瀋陽から車で3時間離れた岫岩市に出掛けた。中国は玉を産し、玉は高貴な印として古代より尊ばれている。中国の玉の約8割はこの岫岩近辺で産出される岫岩玉であることを知って、その産地を訪ねることにした。会員に声を掛けてみると合計27名の参加希望があった。
それで最終的には中道先生経由で旅行社に頼んで、岫岩市に出掛ける計画が出来た。その片道3時間のバス旅行を退屈しないで過ごすには、歌が欲しい。しかし中国のバスには日本の歌のカラオケは用意されていない。各自が歌の本を持っていくと言ってもそれぞれてんでバラバラだと、一緒に歌うというのに難がある。どうしたらよいかと考えているうちに、歌の本を編集してしまおうと思いついた。
思いついた歌をインターネットで集めたが、私だけの選曲では限られてしまうので、中道秀毅先生、小林豊朗先生にも歌を推薦して貰って追加した。戦後の歌と、それ以外の歌でそれぞれ二百曲を集めてコピー製本して、旅行に間に合わせたところ結構楽しめた。旅行に参加できなかった会員にもその後で配って、集まりの時には全員が同じ本で一緒に歌えるようになった。
ところがこの歌の本は教師の会の歳の若い会員には評判が良くない。「何ですか、これ。歌の本って言ったって、知っている歌は『仰げば尊し』だけですよ」という具合である。今の人気の歌を知らない私たちが作ったのだから当然だけれど、若いお嬢さんたちにそっぽを向かれたくない。
それで教師の会の全員が知っている歌を入れて第二版を作ろうと私は皆に約束をして、若い人向けの歌集めを若い中村直子先生や、池本千恵先生にお願いした。槇原敬之「どんな時も」や、井上陽水・奥田民生「ありがとう」などがあったので、私も新しいジャンルの集曲に力を入れた。そうこうするうちに2000曲近く集まったが、もちろん最大公約数の歌を選んで曲を減らさないと多すぎる。
2000曲近く集めた候補の歌の中から最終的な1254曲を選びだすのに、林先生、安部先生、南本先生、そして昔は長髪のフォークシンガーだった森領事も協力してくれた。池本先生は曲を演歌、フォーク、ニューミュージックなどの種類に分類する作業を引き受けてくれた。峰村先生は漏れている童謡を集めてくれた。学生の王毅楠くんには中国語の歌を集めてもらった。
ここまでは年末に出来上がったけれど、その先が進まない。そうこうする中に年度末も間近になり、今年度のバス旅行も6月9-10日と決まった。歌の本はそれに間に合わせるしかない。最後には池本先生と手分けして、印刷のための編集作業に当たった。印刷所に届ける日の前の10日間は、池本先生は忙しい中を2回も午後いっぱいを薬科大学で過ごし、二人で文字通り眼を腫らして頑張った。
苦労はあったけれど、多くの方々の協力を得てこうやって出来上がった歌集が役に立てばとても嬉しいことである。
印刷原版を作るための最終打ち出し原稿を印刷所に運んだ昨日、張主任は厚い名刺の束をめくって、高山さんの名刺を嬉しげに見せて「とても綺麗な人だね」と眼を細める。私は「彼女は有名な美人で、しかも私の朋友さ」と自慢した。すると張主任はあっさりと、「高山さんは昨日もここに来たよ」という。張主任は『昨日彼女に会ってもいないお前が朋友のはずはない。』とは言わずにニコニコしていたけれど、嘘をついた私はすごすごと退散するしかなかった。
5月31日の木曜日、教師の会の田中先生からメイルが入った。『明日、6月1日(金)午後5時、新洪記で、ノースメディアの趙さんのご苦労さん会を、文化祭係りの先生方で、行う事になりました。その後、ノースメディア側から、さらに、御三方参加したいとの連絡が有りました。これは、この会が、歓迎されている事の証拠です。ですから、私の経験から言っても、中国人は日本人以上に酒宴を大切にする事を体験しておりますので、来年も友好的に事が進むように、有志の先生方に御参加いただければ幸いです。』
5月26日に開かれた日本語文化祭は、その日の係の日記に書いたよう に大成功だったと思う。それを受けて慰労会を持とうというのは大変結構なことである。教師の会はこの文化祭の主催者ではなくあくまで協力者のはずだが、世 話になったノースメディアの方達を招いて食事をするという案はなかなか良い。
私は5月27日から6月3日までの1週間、日本から友人の教授が薬科大学を講演と研究交流のために訪ねていて、6月1日の夜には彼の講義が予定されていた。それで、残念だったけれど出席出来なかった。
この慰労の会の翌日の土曜日には田中先生からメイルが入っていた。内容は以下の通りである。
『目的:ノースメディアの趙さんの教師会に対する親身の御協力への感謝の気持ちと今後の友好増進のため
参加者:菊田領事、趙さん、ノースメディアの美女軍団御二方。教師会からは南本会長など9名
出費:瀋陽日本人教師の会から(470元)
6月1日、5時半より、新洪記にて、文化祭担当係り主催の、趙さんのご苦労さん会を開催。菊田領事をはじめとして、有志の先生方の御出席もいただく。会は、極めて友好的に進み、趙さんの方から、お願いもしないのに返礼のお言葉をいただきました。そして、来年は、今年以上に良いものにしましょう、と言う事でした。その後、会員は、南本先生の宿舎にお寄りし、同宿舎の峰村先生と共に、宵の宴を通じ、家族的雰囲気の中、先生方相互の親睦を深めた。』
このメイルを貰って、ご苦労さん会で集まった人々が互いに親睦を深めたと言うことはとても結構なことだが、『出費:瀋陽日本人教師の会から(470元)』と言うのが気になる。
新洪記の料理は美味しいが決して高い店ではないので、470元というのは13人全員の分だろう。教師の会を代表して世話になったノースメディアの人たちと歓談したのだから、教師の会が持つというのは恐らく世間的常識だろうと思う。
しかし、しかしだ。教師の会は親睦のための集まりで、親睦のための経費しか集めていない小さな会である。教師の会では誰かが教師の会の活動を代表してどこかに出掛けたり、折衝したり、場合によっては相手と食事をしている。しかし、交通費は会から出すことがあっても、会員の食費までは出したことはないはずであ る。理由は簡単で、教師の会にそのようなゆとりがないからである。
私の場合を書くと、私は日本人会幹事会に教師の会を代表して2ヶ月に一度開かれる幹事会に出席している。毎回往復のタクシー代が掛かっているし、時によっては1回200元位の食費も出すけれど、今まですべて自分で払っている。
せっかくの楽しくそして実り多かった集まりに文句を付けて済まないと思ったが、私たちは小さな会にはそれを払うゆとりがない。招いたノースメディア側の3人の 分は教師の会が持ち、会員は一人一人自分の分を自分で払うというのが現状では筋ではないか、と田中先生に書き送った。
日曜日になって田中先生から電話が掛かってきた。考え直して、慰労会に出た会員9人はそれぞれ自分の分の勘定を持ち、菊田領事とノースメディアの合計4人分は教師会から出したいと言うことだった。ま、こんなところが落としどころだろう。
薬科大学のドロノキの葉は枝先から芽を出した花穂が落ちた4月上旬から、ぐんぐんと伸びて、うっそうとした見事な樹冠を作った。ドロヤナギは6階建てのアパ一トの屋根よりも高く伸びている位だから、大学のドロヤナギ並木は見事である。
このドロノキの葉は毛虫の 好物で春先には毛虫がどんどん増え、やがて下の道が毛虫の緑色の糞で緑色の絨毯のようになる。毛虫は葉を食べるだけではなく、バカだから自分がいる方の葉 を食いちぎってしまい、葉のかけらと一緒に道に無数に落ちている。こういうわけで、いっとき昼なお暗きと言うほど生い茂ったドロノキの並木道では、葉がす かすかになって空への見通しが良くなってきた。今朝もこの並木道を歩きながら妻が言う。「もうすっかり裸になったわね。」
丁度その時私の視線は私た ちの数メ一トル先を歩いている女性の二人連れの後ろ姿に釘付けだった。二人とも半袖どころか肩から先の腕を出していて、一人は膝までの薄いパンツ。一人は フリルの付いた短いスカ一トを穿いている。「ほんと、もうすっかり裸に近いね。」と私は後ろ姿に見とれたまま生返事をした。
私が何処を見ていたか妻には直ぐにばれてしまい、慌てた私は
「ドロヤナギ はだかを女性と 競いつつ」
などと急造の腰折れ口ずさ んで誤魔化そうとしたが成功しない。
仕方ない。「今の中国の女性の着ている服は日本以上に開放的だよね。これでは、『大学の寮の建物が男性と女性と区別されて いなかったら、とってもやっていけません、特に夏はそうです』と陳陽が言っていたけれど、よく分かるって言う感じだね。」と別の方に話を持っていった。
陳陽くんは私たちの研究室 の学生で、背が高く、おしゃれで、いつも人の目を惹きつけて暮らしている。前に学生諸君の何人かとだべっていたとき、大学の中の学生寮が男女別に別れてい ることに対して皆が意見を言っていた。陳陽くんはユニ一クな人なので、学生寮が男女別よりは一緒の方がいいというのではないかと思ったが、開放的な服装の 女性に挑発されたくないと言ったのだった。
「女性の着ているものは日 本よりは遙かに開放的ね。見ていて恥ずかしいと思うようなものでも平気で着ているわね。」と妻が受けたことから私たちの話は『恥ずかしい』と言う言葉の内 容の話になった。お互い思いつくまま話してみると、日本にも中国に『恥』はある。恥は同じように恥と思う。しかし恥ずかしいという観念は中国にはないよう だ。
汚職をして捕まり新聞に載 ればこれはどちらの国の人でも恥と感じる。汚職をしたことを『恥』と思うか、『恥ずかしい』ことをしたと思うかどうか分からない。昔の日本人ならともかく、今の人たちは汚職をして捕まったことを『恥ずかしい』と思っても、汚職したことを『恥ずかしい』とは思わないだろう。
人前で立ち上がって自分の 意見を述べると言う行為は、人目に立つと言う意味で勇気がいる。昼日中大学の構内で二人で抱き合ってキスしている二人連れを見ることがよくあるが、人の見 ている前で抱き合っているのも勇気のいる行為だと思う。人前で意見を述べて人目を惹くのはもちろん、ましてやキスをするなんてそんな恥ずかしいこと出来な いというのは妻の意見だが、次々と例を挙げて考えてみると、日本人にとっては恥ずかしいと思われることでも彼らにとっては恥ずかしいとは受け止められてい ないようだ。つまり『恥ずかしい』と言う言葉は中国語にないのではないか。
私たちの研究室のセミナ一では二人の演者がそれぞれその時の最新のJournalに 載っている興味深い論文を紹介する。新しい知識を紹介してくれるのだから、聴いている方はよい勉強になる。一生懸命話をフォロ一して話されている内容を理 解しないと、セミナ一に出ている時間が勿体ない。人の話を理解しようと思って聞けば必ず疑問質問が湧き出てくる。私はいつもそうやって人の話を聴いてい る。逆に疑問質問が出ないのは、人の話が理解できていない証拠である。
そう思うと、研究室の学生 の態度は生ぬるい。先生が怒るからセミナ一で聴いている振りをしているだけとしか思えない。「何か質問、疑問、意見はありませんか?」と私が穏やかに言っ てるうちに王麗などのシニアが何か訊けばいいが、そうでないと、私のト一ンは段々高まってくる。
”Show your presence at the meeting, please. That you do not speak at all means you are not present here. You are not existing. Is this no-man land? You should be ashamed of not participating in the seminar.”
黙って座っているだけなんて、恥ずかしくないのか?と問いつめても、恥ずかしいという概念がなければ通じるわけがない。私はまた別の言い方で、ぐずの学生達に迫る方法を考えなくてはなるまい。
6月2日の土曜日に、山田先生から会員にE-mailで連絡が届いた。金曜日の夜の日本語文化祭慰労会の席上で、ノースメディアの趙さんから以下の二つの提案があったという。記録のために日記に残すことを山田先生に了承して貰った。
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日本人教師の会、会員のみなさま
6/1(金)の晩、5月の定例会と日本語文化祭でお世話になりましたノースメディアの趙さんを始め、ご協力いただいたスタッフの皆さんへの慰労会へ出席いたしました。その場で、趙さんから教師会の皆さんがご希望されればと、下の二件の申し出がございました。
少しでも早く日程をご検討いただきたいこともあり、趙さんと同い年で、隣席にいて会長とともに直接お申し出を伺った山田が、本件の連絡係を買って出ることとなりました。レク係の皆さんを差し置いた対応で誠に申し訳ございません。
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【航空博覧会 + オリンピックスタジアム観覧1day ツアー企画】
北陵公園北で開かれる航空博覧会と、オリンピックスタジアムの事前観覧を取り計らっていただけるとの申し出を受けました。移動のためのバスも North Media から出していただけるとのことです。
うろ覚えで恐縮です。誤りがございましたらご訂正ください。瀋陽は中国で初めて航空(戦闘!?)機を造ったり、ボーイング社の工場があったりと航空機技術が盛んな街でもあるそうです。
そこで南本会長とお話した上でお伝えいたします。予定が立て込んでいることを考慮し、6/30(土)か7/1(日)に昼食を挟んで1day ツアーとして二箇所を周ろうと企画してます。尽きましては、当方では6/16(土)の定例会の場で日程をいずれかに決定し、翌17(日)に趙さんへ日時と人数をご報告する運びで考えております。
尚、定例会をご欠席される方は、どなたかにご伝言をしていただくか、6/16(土)午前10:00までに山田宛でご連絡ください。
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【プレオリンピック観戦】
プレオリンピックとして7/4-7/11に開かれ
国際女子サッカー大会観戦についても、ご希望が揃えば、話をつけていただけるとのことです。本件は後日、もう少し日時や料金等を調整し、上記1day ツアーとは別件として詳細を流したいと思います。
試合は複数ございます。が、分散してお願いするのは、趙さんや先方の皆さんにご迷惑をお掛けいたします。また、会員の皆さんで揃って観戦した方が楽しいでしょうし、記憶にも残ると考え、団体行動をしたいと思います。ご理解とご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
夏の二弾企画係 山田 高志郎
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ノースメディアの人たちは日本語文化祭の時、椅子や机を並べるという会場設定や受付から、本職の照明、音響、ビデオ撮影まで20人というスタッフを動員して文化祭成功に大きな力を与えてくれた。
さらにこのように日本人教師会に積極的に接近して、私たちとの友好関係を築こうとしている。
どうしてだろう。いろいろと聞いてみるとノースメディアは日本の電通のような広告作成会社でもあり、TV作 品の製作会社でもあるようだ。将来は日本語の情報 発信も視野に入っていて私たちとの連携を重視しているのかも知れない。教師の会は教師一人一人が自分の考えで日本語教育に従事していることだけが共通項 で、教師の会としての高邁な理想や目標はないが、会員の親睦と日中友好も旗印になっている。ノースメディアの人たちと仲良くすることは、会員の親睦と日中 友好の促進に役立ちそうである。
瀋陽には日本語を教えている日本人による瀋陽日本人教師の会というのがある。私は日本語を教えているわけではないが、日本語での講義をしているから、日本語には一寸引っかかりがある。それで2003年秋から教師の会の隅っこに身体を縮めて入れて貰った。それからは東北大学の冶金の先生も増えたので2年経った2005年秋には、会員資格がこの地区で『日本語を教えている日本人』から、『日本語教師および日本人研究者で、専家証あるいはこちらの教育研究機関からの招聘状を持っている人』という会員資格に変わった。今では私たちは晴れて会員である。
昨2006年6月に教師の会始まって以来というバス旅行を計画して瀋陽から3時 間離れた岫岩に玉を見に行った。
中国の歴史の古くから玉が珍重されてきたが、その古代からこの岫岩が玉の産地で、今でも玉の約8割を産出しているというと ころである。
玉が珍重されている中国にいて、その主要産地の近くにいるのだから是非現場を見学に行こうと思い立って、教師の会の人たちに働きかけた。会員 その家族会わせて26人がバスを使った1泊旅行に参加した。
この旅行は楽しかった。お まけに蜂蜜やロイヤルゼリーを道々買うというおまけもあった。岫岩市はアカシアが日本の桜みたいに野に里に咲いている丘陵地帯で、ちょうど満開で白い花を 沢山まとった樹が私たちを出迎えてくれた。全国の養蜂家は花に合わせて全国を移動する。この蜂蜜採集の人たちがミツバチの箱を道路脇の空き地に置いて蜂蜜 を集めているのをあちこちで見かけた。このような養蜂家から直接蜂蜜を買ったことがあるという先生が一行の中にいて、そのおかげで採れたばかりの蜂蜜を買 うという初めての冒険にも巡り会った。
思いがけず出会った蜂蜜は ともかく、この旅行の時に片道3時間を退屈しないで過ごすためにはどうしようかと考えて、歌の本を作った。誰でも知っている懐メロの歌詞を集めてコピーし て製本したのである。歌詞はインターネットで手にはいるのをダウンロードした。販売すれば著作権に触れるだろうけれど、私的目的なので構わないだろう。
バスの中でだれかが『ハ イ、何頁の何々です』と言って歌うと、皆一緒に本をめくってその歌を見ることが出来るので一体感が共有できた。もちろん歌を歌いたくない人には強制はしな かった。バス旅行に参加しなかった会員には、その後同じ歌の本を配ったので、教師の会は集まりの度に、一緒の本を取り出して歌を歌うことが出来た。
戦後の歌で約二百曲、それ 以外の歌で約二百曲集めて作った歌集だが、教師の会の若い人たちには評判が悪かった。今の若い人たちが知っている歌はほとんど入っていなかったからだ。そ れで、歌集の第二版を作ることを考えた。今度の選曲には若い先生達にも参加して貰うのである。こうやって選ばれてきた歌を見ていると、フォークソングの他 にJ-POPという分野もあることが分かったので、私もインターネットでいろいろと歌詞をダウンロードした。
歌詞が全部で二千曲を超えてしまったので。今度こそ本気で選んで第二版に載せる歌を厳選しなくてはならない。若い先生、若くない先生、様々の先生がたにお願いして、歌集に載せたい歌に印を付けて貰った。こうやって選ばれた曲が1254曲あって、若い池本先生に歌の分類をして貰った。この分類ごとに歌をアイウエオ順に並べて、そして目次を作ってという作業を池本先生と手分けして行った。もし彼女の手助けがなかったら途中で放り出したに違いない膨大なそして神経のいる根気作業だった。B5判で目次30ページ、本文480ページと言う大作である。
印刷はそれまでに日本人会の「会員生活ハンドブック」の印刷を頼んだことのある薬科大学の印刷所に頼むことにした。7センチ位の厚さになるプリントアウトを印刷に持っていった。なるたけ薄い紙で印刷すれば3センチ位で出来上がるようだ。200部の印刷をお願いして、期限は1週間。
金曜日に頼んで次の週の火 曜日に印刷所から連絡があった。先方の言うには、印刷してみると、字が薄いし掠れているところもあるという。じゃ、どうするんだ?最初のプリントアウトか らやり直しか?印刷所はどうする気なのか訊くと、今から原版を新しく作って変えることもできるけれど、もう200部分を刷ってしまったので、やり直すなら200部 掛ける 514ページの無駄になる分の紙の値段を払ってくれと言う。
プロなのだから、貰った原 稿を見れば字の濃さが大丈夫か、薄くて心配かは分かるはずだ。それから版下を作れば、先ずは試し刷りをしてそれでいいかどうかをチェックするはずだ。そし てその段階で不満足なら、こちらに連絡してきて原版を新しく作り直すか、このままか訊くのが当然だろう。少なくとも、私たちの常識ならば。
版下を作った後の試し刷りで確認もしないで、200部 を刷ってしまって「これでは駄目です、また作り直しましょう、無駄な分の紙のお金を余分に払ってくれるなら」、なんて呆れて言葉も出ない。日本の職人なら こんなことは言わない。黙々と最高の仕上げをするのが職人の誇りである。字の濃さなどの確認もなく刷してしまったらそちらの責任だ。
200部 掛ける 514ページ分の紙の無駄をするわけにはいかないので、字が薄いけれど我慢をすることにした。せっかくの歌集が読みにくいものになってしまって残念である。試し刷りの段階で、原版が薄いと言ってくれたらよかったのに。
私たちは本が厚くならない ように裏の字が透けて見えるほど薄い紙を選んでいた。薄い粗悪な紙を使うというのが頼んだときの心残りだったけれど、少なくともその見難いということはな くなったわけだ。物事には何でも良い面と悪い面があるわけで、この際プラス面を見て自らを慰めるしかない。ま、この次には用心深く交渉しよう。
今年度の卒業実験の学生は 最終的には2人だった。一人は宋明さんで、半年前から私たちの研究室に来たいと言っていた。彼女は、2年生の時にすでに研究室に出入りしていた学生で、当 時は理科基地クラスという特別の8年のコースの学生だった。理科基地クラスは学部4年修士2年博士3年の合計して9年かかるところを、学部を終えたらば大 学院修士課程入学試験なし、博士課程入学試験なしで8年で終わるコースである。言ってみればエリート養成コースである。大学院の入学試験が免除される代わ りに、日常的に始終ある試験が厳しく、一つでも落としたら即理科基地クラスから追放されるという。
宋明は理科基地クラスの学 生は2年生から自分の好きな研究室に出入りできることになっていると言って、私たちのところに来た。そのような仕組みを知らない私たちはさっさと断ったの だが、彼女が泣き出して、とうとう根負けして引き受けることにした顛末は以前書いたとおりである。
このようにして宋明は私た ちの研究室のセミナーに出るようになったが3年生になった頃から来なくなり、どうしたのだろう。断りもなく来ないなんて、追放しちゃうぞと思っていたら年 末に会いにやって来た。もう先生の部屋のセミナーに出られません。でも、長い間お世話になりましたと言って手編みのマフラーを私にプレゼントして去って いった。
後で事情がわかったが、彼女は理科基地の厳しい選抜の中で振るい落とされて、3年生の時に一般の学生になってしまったのだった。一般の学生は卒業研究の時期になるまで研究室に入ることはない。それで研究室から去っていったらしい。
その彼女が4年生になる前 の夏に、たまたま大学構内で出会った。どうしているの?と訊くと、元気にやっています、4年生になったら卒業研究で先生のところに行きたいけれど良いです か?と言う。まだだいぶ先の話で誰からも申し込みはないし、尋ねると大学院も先生のところに進学したいという。それなら前の因縁もあるというのでOKした。
彼女は理科基地クラスから追放されたから、大学院入試なしという特権がなくなった。1月半ばの全国統一試験を受けなくてはならない。従って、研究室に来たのは今年の3月5日である。
卒業研究の発表会は6月半ばにあるから、研究期間は実質3ヶ月しか残されていない。テーマを与えて、王毅楠く んの指導の下で実験の練習を始めた。2週間くらい経つてから言うには、大学院の二次試験の用意をしなくてはならないので勉強に集中させてくださいという。 1月の全国一斉大学院入試は言ってみればセンター試験みたいなもので、自分の点を貰って自分の進学したい大学に志願する。そうすると上から順に切られて いって、やがて落ち着くところに落ち着くというのは日本と同じである。そしてその上で大学独自の二次試験が待っている。
二次試験も選抜試験だから、勉強しないと心配だというのは仕方ない。良いだろうと言ったと思ったら、すぐに来て言うには自分の成績はとても悪くて、先生の研究室に志願できません。済みませんという。来たいと言っていた学生が駄目になったわけだが、仕方あるまい。
次にまた来て、先生の研究室には二つの研究科から進学できることになっています。今度は別の研究科から志願すると(最低点が低いと言うことなので)通ります、という。こちらは、そうですかとしか言いようがない。
すると二三日してまた来 て、別の研究科が要求する試験科目を取っていないので先生の研究室には入る資格がないと大学に言われました。残念です、という。そう言われても、大学の実 力者ならこういうときに横車が押せるのかもしれないけれど、私としてはそうですか、としか言いようがない。
ともかく宋明は自分の取った成績で進学できる大学を探して山西医科大学に志願した。受験志願が通って、今度は二次試験を受けるために早くから現地入りして勉強したいと言う。本人の将来が懸かっている話なので、認めないわけに行かない。と言うわけで彼女は4月10日から26日まで研究室を空けた。その後は連休なので、彼女が卒業研究に本格的に取りかかったのは5月8日からだった。残された期間は約6週間である。
教え込む時間もなく、先の 期待も出来ないので酵素のザイモグラフィを使うテーマに変え、指導する学生も王暁東さんに変えた。王暁東のやっている研究の一部を担当する形にしたのであ る。黒竜江省出身のとてもかわいい暁東さんは、それまではそれなりにボチボチやっていたけれど、卒業研究の学生を指導するという重責に目覚めてとても良い 指導者に変わった。
そのおかげで宋明の仕事も ともかく少し結果が出てきた。もう一寸やれば何か一つ言えることが予想されたので、新しいプロトコルを与えてこれをやるようにと言って別れた週末明けの月 曜日、宋明は朝来たけれど何も言わない。眼はそっぽを向いて白目がでている。そしてなんだかうー、うーと唸って向こうに行ってしまった。そばにいた暁艶が 驚いて追いかけて訊くと紙に書いて、ともかく話せない、寮に帰って良いか、と言っているという。一も二もない。OKである。
翌日気にした暁東が会いに 行った結果、ストレスに負けて精神が壊れたと言っていると言うことだった。それでも、ともかく午後になって会いに来た。もう大丈夫だという。どうしたの か?と訊くと、暁東から聞いていたとおり、肩の重荷で自分は潰れたのだという。元に戻ったかと訊くと、もう大丈夫だけれど後3日間休みたいという。私は、 「もう実験は良いから、暁東に手伝って貰って、今出来ていることで論文を書きなさい」と言うしかなかった。
来週末が論文発表と論文提出である。誰でもプレッシャーとストレスの中で生きているが、こういう学生を見たのは初めてである。一人っ子として大事に育てられた学生は挫折に弱く、大学生の自殺が増えているというYahooで読んだ記事が、頭の中でちかちかと昨日から明滅している。
今年の教師の会の1泊2日バス旅行は、遼寧省西部にある朝陽市近辺の化石を見るのが目的だった。なぜ化石か?この一帯は恐竜と鳥をつなぐ孔子鳥と呼ばれる化 石の出土で世界中から注目されている地域なのだ。ドイツで昔出土した始祖鳥なんか眼じゃないのだ。遼寧省は恐竜のほかにも、哺乳動物のプロトタイプなど沢山の出土がある。
参加者は28名:
1加藤正宏・文子、2林与志男・八重子、3山形達也・貞子、4中道 秀毅・恵津、5佐藤るみ子、渡辺京子、6安部玲子、石井みどり、7中田知子、森林久枝、8池本千恵、鳴海佳恵、9前田節子、若松章子、10藤平徳雄、田中 義一、11辻岡邦夫、長谷川宗武、12松下宏、石原南盛、13南本卓郎、14峰村洋・尚代、15渡辺文江
計画を立てて旅行社と交渉に当たったのは、レク係の峰村先生を中心として石原、渡辺(文江)両先生。旅行社は昨年と同じ、「世紀国旅」(遼寧世紀国際旅行社有限公司)で、添乗のガイドさんはこれも昨年と同じく陳瑞濤さんをこちらから指名してお願いした。
今年の旅行でもう一つ特記すべきことは、昨年4年間の瀋陽滞在を終えて帰国された中道恵津・秀毅ご夫妻がわざわざこのために中国に来て参加されたことである。恵津先生は昨年の、教師の会の歴史で初めてという岫岩市への玉見学旅行を企画したとき、旅行の間中皆の気持ちを盛り上げた立役者だった。
6 月9日土曜日の朝7時に中山広場の遼寧賓館(昔の大和ホテル)前に集まり、40人乗りのデラックスバスに乗った。一人あたりの費用は560元。昼ご飯の朝陽市まで二本の高速道路(沈京高速および錦朝高速)で約3時間だった。その間、私と池本先生の用意した歌の本を配った。思った通り一番最初に「僕は歌いたいよ」と言ってマイクを握ったのは秀毅先生だった。秀毅先生が話し出すと皆がほんわかと楽しくなる。以前とちっとも変わらない雰囲気だ。その後指名を受けてそれぞれ好きな歌を歌って楽しんだ。
朝陽市はのどかな地方都市といった感じだが人口は340万人とのこと。行政区としては日本の四国よりも広い(2万平方キロメートル)と言うことで、広すぎて私の掴みうる感覚を越えている。昼ご飯の後はまたバスで北票市に向かった。約1時間半掛かって「四合?化石基地」に到着。台状の起伏が見渡す限り広がっている。バスを降りた場所の足下から二百メートルくらい帯状の低地があり、向かいには掘られた形跡のある10メートルくらいの高さに層状の岩盤が露出していた。それと向かい合った手前にある建物は化石の展示場だ。
層状岩盤の足下には破片が散らばり積み上がっている。ガイドさんの話では、中国の化石は国法で勝手に掘ることも、国外持ち出しも止されているが、ここで落ちている岩石の破片を拾って持って帰ることはここの許可を得ているので自由だという。皆の声にならない声がさざ波のように間を走り、それぞれが下を向いて歩 きながら岩石の破片を拾い始める。
表面に貝の化石が出ているものもあり、割ると出てくるときもある。頁岩と 言って、薄く堆積が積もって出来た岩の地層である。道具もないので、ほかの石にぶつけるしかない。思ったところの頁岩を剥がして割るのは難しい。横に割れ てしまうことが多い。それでも、貝のほかに、ゴカイのような虫、シダの葉のような跡の化石など出てきて、皆それぞれに夢中だった。広場の一角には木の化石 が集められていた。
40分くらいそこで化石探しをしただろうか、ガイドさんにせかされて展示館に向かった。左手の大きな空間では、奥は堆積岩をそのまま利用した10メートルくらいの壁が露出している。部屋の内部には、始祖鳥と今の鳥類を結ぶという孔子鳥の化石が数体置いてあった。右手の展示場は、草食の恐竜化石の骨格標本が組んであって70%は本物の化石だという。この展示場専門のガイドさんの説明を陳さんが日本語で繰り返してくれた。今改修中で本来は見せないというこの化石展覧館の入場料は50元。この建物は綺麗で、展示もよく、期待以上だった。アメリカのDinosaur Museumに行ったことがあって、恐竜の骨の発掘現場そのものが博物館になっている。実際に人々がそこで骨の発掘作業をしているように見えるのが楽しかった。毎日掘っては、毎日埋めているのだろうけれど。
この化石基地には1時間半滞在してから朝陽に戻った。朝陽市も北票市も5-6階建ての住宅団地の屋上に、太陽熱温水器が沢山置いてあったのが珍しいものとして記憶に残った。
北票市の化石基地から朝陽市に戻って、「三燕古生物化石展覧館」にバスが着いた。団体一人10元である。綺麗な額に入れた化石を壁に掛けて展示しているが、聞くと展示品を売るという。試しに訊いてみると10センチくらいの魚の化石が400元だという。「高いよ」と言うと額に入っていない、そして少し見劣りするのを持ってきて150元だという。二つを100元にしたら買っても良いというと、大いに軽蔑した顔をしてさっさと手から引ったくって行ってしまった。
ガイドさんはここは自由市場じゃないのだから値段の交渉は出来ませんよと私をたしなめる。しかし化石を商売をする店が展覧館という看板を掲げて入場料を取るなんて、私たちの感覚では信じられないことだ。教師の仲間は皆同じ思いを抱いたようで、それぞれ憮然としていた。
そのあとは10分くらいバスは走って郊外に近い緑色生態苑に着いた。体育館よりも広い建物は内部には背の高い植物が生い茂り、中のそれぞれの部屋のしきりは全部植物である。瀋陽にあるこの手の店は独自の畑を持っていて、無農薬野菜の供給が売りである。私たち一同は3つのテーブルが入っている一隅に案内され て、食事を楽しんだ。美味しかった。仲間とのおしゃべりも楽しかった。
泊まりは朝陽駅からまっすぐの目抜き通 りにある聖都酒店だった。二人一部屋200元。バスタブはなく、電気湯沸かしによるシャワーが付いていた。ベッドは硬かったけれど、すぐに寝てしまった。 翌朝聞くと、南本先生の部屋は相方がいなかったこともあって、私たち一行の半数に当たる14-5名が集まって酒を飲みながら遅くまで楽しんだという。
翌日8時に宿を出たバスは市内を北東に向けて少し走り、止まったところは北塔博物館の駐車場だった。建物を回り込むと北塔が見えた。13層の仏舎利塔であ る。まず博物館の中に誘い込まれて、前燕か後燕時代のこの街の模型を見た。瀋陽よりも遼陽が古いとは知っていたが、その遼陽よりもこの朝陽は古い街なのだ そうだ。その時代には今の北塔の場所に木造の塔があったという。
大修理をしたときに12層目の中にあった大き な石の箱(天宮と言うそうだ)の中の宝物も取り出したようだ。一緒に出てきた舎利の入れ物の一つは天宮に残し、あとはこのあと案内された博物館の地下階に展示してあった。その舎利の入っていた瑪瑙の壺が納めてあった箱の外側に描かれていた釈迦の涅槃像が、この博物館の1階に巨大な仏像として安置してあっ た。絵は10センチくらいの小さなものだったが、仏像は5メートルくらいの大きなものである。
こ の地下室には 多くの宝物が展示してあった。イラン渡来のギヤマンの壺もあった。係員が5人くらいいて、私たちの挙動を見張っている。誰かがフラッシュをつけて写真を撮ったら早速撮影禁止が申し渡された。地下室の奥には特別室があって、そこには本物の舎利が展示してあるという。靴を脱いでまるで法事みたいに畏まって中には拝礼できるような座布団敷きになっていて、正面のガラスの小さな入れ物が中の照明で光っていた。これが舎利らしいが、きちんと見えるわけではないし、ちかちかと明るいのはどうも戴けない。
外に出て正面に北塔に臨む。ゆったりとした塔はそれだけで落ち着いた存 在感を持っていた。100元払った地下宮殿に入るという。入ってみると何のことはない。礎石の周りを巡るだけであった。礎石の間に、北遼の時代の煉瓦、とか、前燕時代の礎石とかの説明が書いてあった。裏に回ると細い通路が塔の中心に伸びていて、これは盗掘者が掘ったあとを固めたものだという。やれやれ。
そのあと階段を上ると北塔の二階に出た。北塔の南側には昔の建物の結構が作られている。さらに目を上げて南を臨むと遠くに南塔がみえる。昔を復元して今後の観光に資するという考えのようだ。実際のこの博物館の作りと展示は大変凝った金のかかったものである。中央政府、遼寧省政府、朝陽市政府が金を出したと言 うが、半端なものではないだろう。
このあとすぐ近くの「関帝廟」を見学した。あとでわかったことだが最初は もっと遠くの「鳳凰山」山麓にある「関帝廟」に行くはずだった。どこかでごまかされたらしい。近くだったため時間が節約できて、これも市内の住宅団地の中 の普通のアパートにある化石の卸商のもとに行った。ちっちゃな化石が一つ70元にまで下がったので二つ買った。「この箱から出して持って行けば大丈夫かも」なんてガイドさんが言っている。
食事を済ませて瀋陽に向かったのが1時で瀋陽の遼寧賓館についたのが5時過ぎ。ずっと高速道路だったので蜂蜜は買えなかった。
皆さんお疲れさまでした。特に、旅行計画を立て旅行社と交渉し、皆に知らせて準備万端整えた峰村先生、そして道中皆を楽しませようと努力して下さった石原、渡辺先生、本当にありがとうございました。
生化学科の主任である小張老師から電話があった。「いま先生のところは卒業研究の学生が何人いますか?」「2人です。」
「も う研究がまとまって発表できる状況ですか?」という。あわてて「いえ、いえ、まだ終わっていませんよ。」と言ったのだが、それ以上面倒な話しになるらしく先方は私を避けて、「誰か大学院博士課程の学生を呼んで下さいな。」と言われてしまった。互いの共通言語は英語しかないから、面倒な話になると、と言うか微妙な話になると、彼女は英語をやめてさっさと中国語の出来る(当たり前のことだが)うちの学生の誰かを掴まえて話を進める。
こういう訳で実験室まで行って呼んできた王くんは、しばらく小張老師と話していたが、やがて電話を置いて「卒業研究の発表は、来週の月曜日になりました。午後1時からでここからは二人続けて話します。発表時間は一人7分だそうです。」と話を伝えてくれた。卒業論文の提出も、同じく月曜日だという。
思わず絶句する。すでに卒業実験の学生が聞いてきて私たちたちが理解していたところでは、発表は次の週の週末だった。
電話を受けたのが木曜日の午後で、発表の日まで後3日しかない。まだ学生は論文発表の準備に取りかかっていない。学生は今年は2人しかいないが、一人は良いとして、もうひとりの宋さんが心配だ。
彼 女は数日前の月曜日の朝、ほかの学生と同じように私たちの部屋に朝の挨拶に顔を出した。しかし、全然一言もしゃべれずにうーうー言いながら頭を挨拶するように二度上げ下げして出て行ってしまった。そのとき部屋にいた暁艶さんが驚いて追いかけて彼女を掴まえて訊いてわかったことは、プレッシャーで自分の精神が壊れてしまった、数日間休ませてくれと言うことだった。これを宋さんは「口が利けない」ので紙に書いて、暁艶に見せたのだ。
こういうことは扱った経験がないので戸惑ったけれど、「良いでしょう、休みなさい」と指示して、一方では宋さんの先輩に当たる大学院修士の暁東さんに「彼女と連絡を取って、彼女の卒業研究をまとめる手伝いをするよう」に頼んだ。
こ のときは卒業研究の発表は次の週の終わりと思っていたので、今週いっぱい休んでも良いと考えたが、こうやって電話で来週の月曜日が発表とすると、このままではいけない。暁東に話して、宋さんの様子を見て欲しいと頼んだ。暁東は宋さんと連絡を毎日取っていたようで、「もう大丈夫みたいですよ、明日の金曜日には出てきます」ということだった。
金曜日の朝7時半頃から学生がぽつぽつ私たちの部屋にやってきて朝の挨拶をする。この朝の挨拶は毎日朝来たらするようにと言ってあるので、彼らの習慣になっている。ふつう彼らは朝会っても挨拶の習慣を持っていないのだ。この日最後にやってきたのが宋さんで、元気な声で「お早うございます」と叫んだ。大体彼女は何時も元気で大きな声を出して挨拶をする。聞き慣れた何時も通りのしっかりした声なので、何の抵抗もなく受け入れた後、彼女は数日間休んでいて今戻ってきたことを認識した。
訊くと「大丈夫」だという。眼もそらさないでこちらを見ているし、大丈夫だろう。暁東の話では、実験をやっていては論文を書く時間がないと思うあまりにどうして良いかわからなくなったみたいである。休んだことでやっている実験も投げ出してしまったのだから、それまでのことを書くだけのことだ。きっとできるだろう。
卒業研究の発表練習は土曜日の午 前中に設定した。発表練習も教育のうちと考えているので、いつもは数回の練習をしてパワーポイントの中の内容、書き方、話の構成、話し方すべてを直してい くのだけれど、今回は時間がない。明日1回だけで終わりである。卒業論文でも、いつもは提出前に原稿を読んで直していることを思い出した。今年はこんなこ とで良いのだろうか。
これは中国に来て4回目の期末を迎えて、私たちはもう大抵のことには驚かなくなったということだし、もう一つは、自分たちのやり方、つまり研究と教育における信念と流儀を忘れかけていると言うことでもあるだろう。心しなくてはいけないことである。
山田先生によると、ノースメディアからの提案による【航空博覧会+ オリンピックスタジアム観覧ツアー企画】が次のように進んでいる。
ノー スメディア社の親切な申し出は、会員からは過剰とも感じられて戸惑いが隠せないが、ノースメディア社(国際事務部)としては自社のメセナ活動の一貫として 日本人との交流を深めていきたいという考えがあるらしい。すぐに成果を求める接近ではなく長期戦略にもとづくものだろう。お互いが個人的に知り合い仲良く なることは、企業の間でも国家の間でもそれが商売・友好の基本だから、こちらもそれに乗ろう。
今回は【プレオリンピック 女子国際サッカー大会の観戦】は別にして、今回は【航空博覧会+ オリンピックスタジアム観覧1day ツアー企画】のみの企画を立てることにした。先方は全額ノースメディア社負担との申し出だったが、すこしでも対等であるために、こちらが博覧会のチケット代とバス代を持つことで話がまとまったという。
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[五輪競技場見学]
五輪競技場の見学は、人脈を通じて行われるものなので、「経費はゼロ」とのこと。
[車について]
希望者が14名以下であれば、ノースメディア社のワゴン車を二台、無料で出してくれるので、チケット料金30元程度が参加者の負担。
[スケジュール]
10:30 North Media 出発
航空博覧会 見学
昼食 (見学後/ノースメディア社・ドライバー分負担)
五輪競技場 観覧
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6月16日の定例会で調査したところ、教師の会の参加者の数はワゴン車で十分間に合い、7月1日の日曜日にこのツアーが実施されることになった。
私は7月1日の日本語資料室の当番なので、ツアーには参加しない。
「ひとりさびしく 資料室
あなたのおいでを まってます」
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なお6月17日には瀋陽歴史探訪ツアーが計画されている。
主催 瀋陽日本人教師の会
「2007年度 瀋陽歴史散歩」について
1 日時 6月17日(日)午前10時?13時 雨天中止
2 集合場所 三経路と中山路が交差する角
(大きな建てかけのビル、瀋陽日報社、遼寧日報社がそれぞれの角にある)
中 山路を277、220、125、環、129、114路バスで来られる人はバス停「遼寧日報」下車。。三経街を265、280、221、258路バス利用の 場合はバス停「遼寧日報」下車。三経街を265、221、220、280、114路バス利用の場合はバス停「八一公園」下車。
3 講師 加藤正宏先生(瀋陽薬科大学日語教師)
4 内容
北 の市府大路から南の十一緯路までの間、東の青年大街から八経街及び和平大街の間に点在する、旧郵政管理局、旧領事館(現存は日本及びフランス、ロシ ア?)、旧新聞社跡、満州電信電話株式会社跡、公館、倶楽部(張学良関与、満州国時代には洋画の映画館)、旧張作霖の第五夫人宅、旧(満州国時代及び最近 まで)博物館、旧満州航空株式会社、旧独立守備隊本部、最後にイギリスの匯豊銀行を見学。(十一緯路を挟んで、この銀行向かい側の「新南国美食」で、会食 後解散予定)。
なお、これらの内容は以下のHPに紹介していますので、御覧ください。
http://www.geocities.jp/mmkato75/ の「瀋陽史跡探訪」の『湯玉麟公館(奉天独立守備隊本部)』『旧遼寧省博物館と張作霖の五姨太太の別荘』『各国の旧領事館及び界隈の公館』
5 出欠
当日参加も歓迎しますが、おおよその人数を把握したいので、6月10日(日)までに下記宛ご連絡ください。
担当係り:瀋陽薬科大学 峰村洋 E-mail TEL 携帯
◎交通上の危険も考えられますので、小さいお子様の参加はご遠慮ください。
今の時期の大学は年度末なので、学部生の卒業論文発表、修士学生の論文審査、博士の学位審査会が目白押しである。わたしは、17日日曜日には私たちの修士学生の学位審査会が開かれることがその数日前に決まり、ツアー参加を断念するしかなかった。
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6月18日月曜日、山田先生経由で、ノースメディアから「2007年日本語文化祭DVD」および「写真集」が教師会に届いた。DVD制作には5千元掛かって いるけれど無償で私たちに下さるという。先方でコピーすると高いので、教師会の方で必要なだけ自分たちでコピーして皆に配布して良いという大変ありがたい メッセージが添えられていた。非常感謝。
6月16日は今期最後の定例会だった。 2時に会議が始まる前、コンシェルジェの田中さんが6月号の雑誌を持って現れた。3月に第二子を日本で出産して、今小学生と赤ちゃんの子育て真最中の母親である。
さらに先日の日本語弁論大会の会場だったインターコンチネンタルホテルのマネージャーが南本さんの紹介で訪ねてきて、ホテルの宣伝。五つ星のホテルなので 7-800元くらいするところだけれど、「日本人会の先生方とその紹介者は朝食、サービス料込みで500元にします。私に直接電話してね」と激安の売り込 みである。「400元にしたら?遼寧賓館は今290元くらいじゃない?」と言ってみたけれど、「五つ星ですからね。」とかわされてしまった。でも、「隣の 四つ星のホリデイインは350元でいいね。これも直接連絡を呉れればいいですよ。」ということだった。
今日は 鳴海さんが初めての司会だった。いつもは弁論大会の連絡があるの、弁論大会のやり方の討議があるの、など言って司会を逃げていたが、とうとう回ってきたわ けだ。もっとも彼女が司会をしたら、今日は沢山討議することがあったはずなのに、休憩を入れても2時間足らず。何と4時前に終わってしまった。
出席者(33名):安部玲子、池本千恵、石原南盛、宇野浩司、岡沢成俊、片山皚、加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、小柴裕子、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄 、中田知子、中野亜紀子、鳴海 佳恵、野崎勉、長谷川宗武、林与志男、林八重子、藤平徳雄、前田節子、松下宏、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山形貞子、山田高志郎、若松章子、渡辺京子、渡辺文江
このうち新参加者:小柴裕子(東北育才外国語学校)、長谷川宗武(東北育才外国語学校)
特別参加:峰村夫人、加藤さんの妹さん
欠席:南本みどり(在日本)、石井みどり、菊田悦二
日本語文化祭の反省: まとめ役は田中先生だった。今回の文化祭がいろいろな面で評判が良かったので、皆から褒めそやされて嬉しそうだった。実行委員会の石 井、藤平、渡辺先生はもちろんほかの先生たちも文化祭演目に大いに協力したけれど、それにしても新人の田中先生はよくやったと全員が思っている。
弁論大会会計報告:会場費などを除いて、教師の会で引き受けた分だけで約3万元の支出明細の報告があった。ただしこの中には、賞金171,000元も含まれている。文集作成費が300部で3600元。このような明細が教師会で報告されたのは今回が初めてのような気がする。
日本語資料室の今後の取り組みについて:6月8日に日本人会幹事会が開かれたので、それに合わせて資料室係、セミナー係が集まって今後の方向を打ち出して幹 事会に出した資料が皆に回された。文化発信を年2回、さらに2ヶ月に2回程度のビデオ鑑賞会をして日本文化を紹介したり、折り紙、茶道、華道などの紹介を すると書いてあって、皆鼻白んだみたいで、はかばかしい意見も出ない。
この資料室の目玉というか中心は日本語図書だから、皆で知恵を出し合ってどのようにして図書を増やすか有効な方法を練ることがまず必要ではないかという気がする。
次期執行部:この7月に現会長が帰国するので、現会長から9月に正式に決めることだが次期会長を決めたいと言う発言があり、石原先生(遼寧大学)が推薦された。会長予定者の意向で、次期副会長として、安部玲子、池本千恵、松下宏、山形達也の4人が仮に承認された。
このあと、歓送会が5時から8時半まで、資料室近くの川韻蜀香3階で開かれた。歓迎は菊田領事、小柴、長谷川両先生。
すでに、中村、金丸の両先生、森領事が今期半ばで帰国したが、この夏、あと15名が帰国する。今までにない大量の入れ替わりを迎えることになった。今まで一 緒に資料室の苦難を乗り越え友情を培ってきた仲間の別れに、去るものも、送るものも、心引き裂かれる思いでこの会に臨んだ。会費ひとり60元。
日本語クラブの印刷で大変お世話になったキャノンの秋山さんをこの会に招待したところ、快く出席されただけでなく、彼の至芸が披露された上に、この送別会の時に彼が撮った写真のアルバムがあとで皆に送られるという嬉しい出来事があった。
今期でこの瀋陽を去る人たち:
加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、鳴海佳恵、林与志男、林八重子、南本卓郎、南本みどり、峰村洋、森林久枝、若松章子
みなさま、大変お世話になりました。どうか、どうかお元気で。ごきげんよう。
このあと、歓送会が5時から8時半まで、資料室近くの川韻蜀香3階で開かれた。歓迎は菊田領事、小柴、長谷川両先生。
すでに、中村、金丸の両先生、森領事が今期半ばで帰国したが、この夏、あと15名が帰国する。今までにない大量の入れ替わりを迎えることになった。今まで一 緒に資料室の苦難を乗り越え友情を培ってきた仲間の別れに、去るものも、送るものも、心引き裂かれる思いでこの会に臨んだ。会費ひとり60元。
日本語クラブの印刷で大変お世話になったキャノンの秋山さんをこの会に招待したところ、快く出席されただけでなく、彼の至芸が披露された上に、この送別会の時に彼が撮った写真のアルバムがあとで皆に送られるという嬉しい出来事があった。
今期でこの瀋陽を去る人たち:
加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、鳴海佳恵、林与志男、林八重子、南本卓郎、南本みどり、峰村洋、森林久枝、若松章子
みなさま、大変お世話になりました。どうか、どうかお元気で。ごきげんよう。
卒業研究生の論文提出は次 の週末だと思っていたら、何と月曜日だという連絡があった。月曜日の4日前である。こりゃ大変だ、宋明さんはまだ休んだままである。宋明が休んだままでは 卒業し損なってしまう。精神的に不安定だからと言ってそれを大きく教務掛に訴えては、彼女にも、そしてこちらにも将来に亘る傷が残ってしまう。
大学院修士課程の暁東さん に頼んで様子を見てくること、そして発表と論文提出が早まったことを伝えて貰い、場合によっては論文作成を大学院の学生に手伝って貰うよう手配をしたとこ ろ、翌日に宋明がやってきて「元気です。もう大丈夫です。」と言うことだった。見たところ元気そうだし結構な話だけれど、彼女のけろりとした顔を見ていて も一抹の不安が残る。これが金曜日の朝。
そして次の日の土曜日には卒業研究発表のリハーサルの日だ。私たちがここに来て最初の年には数回、昨年だって2回のリハーサルをしているけれど、今年は1回しか出来そうにもない。その1回も1回だけで絶対大丈夫という実験内容ではなく、実に頼りない内容なのだ。
宋明は私たちの研究室の伝 統に従って英語でパワーポイントのスライドが用意してあり、英語で話をして、6分で終わった。最初の年は私たちの研究室の卒業研究生は英語で口演をした が、聞いている先生方によくわかってもらえなかったので、次の年から中国語で話をすることにした。つまり私たちの研究室のリハーサルは英語で行って私たち の修正を受けて、それから中国語にして話す練習を改めて行うのである「あなたの話は中国語でするのでしょう?スライドも中国語にするのだよね?」と聞いたのは、口演もスライドも中国語に直すなら、今ここで英語を訂正する必要はないからである。すると宋明は「英語と中国語のどちらにするか、今迷っています。」という。
とんでもない、やめて下さ いよ。こんな英語を聞かせられたら、自分自身がひどい英語遣いでめちゃくちゃな英語に慣れた私でもよくわからない。「中国語で話しなさい。スライド中国語 にして発表に使うように。」と言って、スライドを一つ一つ見ながら発表内容を検討し、直していった。細胞をいくつか変えて、方法はザイモグラフィという手 法だけでMMP-9という分解酵素の挙動を見ているので、内容は決して難しくなく、誰でも容易にフォローできる。
というわけで、土曜日に一 度練習をした発表を、月曜日の朝、本番の前に再度中国語の発表練習をさせた。「どう?用意は?」と聞くと、「何時も英語で考えているので、中国語のスライ ド見てもすぐには(中国語で)旨く話せないのです。」という。発音も構文も何時もひどい英語を喋っているのに、こんなことを言うなんて、かわいくないね。 言ってみれば宋明は、何時も強気の中国人の代表である。
その月曜日午後1時から発 表会というので歩いて2〜3分離れている本館に行った。今は年度末で学部学生、修士、博士の発表があちこちで行われているので場所がとれず、何と学生実験 室の一隅で発表をするのだという。年度末の定例行事なのだからあらかじめ日時を決めて場所を確保しておけばいいのに、これが今の中国式である。決して手回 しの良いことがなく、何でも突然の決定と通告である。
午後1時の15分間くらい前に行くと学生がPCを点けていろいろといじっていたがやがて人々が集まってきた。すると学生たちが追い出されて、残ったのは12人くらいのteacherと呼ばれる人だった。Teacherとは教授、助教授、講師の下の位で、学生に講義をする人たちである。以前は大学を出てすぐにteacherに採用されたが、今では修士号を取っていないと採用されない狭い門である。
学生はすべて追い出されたけれど、私たちの研究室の学生の一人は許されてここに残った。私たちに翻訳して説明するためである。teacherに向かって助教授の一人、小張老師が説明を始めた。今年から制度が変わって、teacherが卒業研究生の発表を聞いて審査するのだという。そしてteacherに向かって一人あたり3つくらいは質問をしないといけないと言っている。つまりこれはteacherの審査でもあるらしい。話は延々となんと20分もつづいた。同じ教室のteacherなのだからあらかじめ話しておけば良いはずだ。ここで私たちまで含めて20分を空費することはあるまい。
ともかく時間となって、最初の演者は宋明だった。落ち着いて話をこなして、ザイモグラフィの手法についての質問にも、Tnfの 効果についての質問にもそつなく応えてほっとした。そのあとは同じく私たちの研究室の楊方偉くんだった。彼は昨年の満さんと同じように実験大好きで凄い ハードワーカーである。修士の業績にも匹敵する内容の成果を挙げている。昨年の満さんは京都大学大学院の進学し、楊くんはこの秋には北大大学院に進学す る。
残って欲しい優秀な学生が外に行ってしまうことは残念なことだが、今年博士を終えた王くんに始まって優秀な人材がうちには沢山いるから、ま、よしとす るか。発表会が終わったあと聞い たことだが、生化学の教授の張老師は学生4人の発表を聞いて「何だ、この内容は。大体おまえの卒業研究の間の態度が悪い、怠け者だ」といって叱ったとい う。彼の所の卒業研究の学生は19人いるから「約20%が怒られたのですね」と小張老師に言うと。「ううん。張老師は忙しくて出たり入ったりして、たまた ま聞いた学生すべてを叱ったのよ。だからほとん全部の学生に不満を持っているわ。」ということだった。
私たちは(本当に恥ずかし いことだけれど)中国語を理解できないので、うちの学生の発表のあとすぐ出てしまった。だから今の学生がどのようなレベルなのか判断できないが、これを聞 いて、宋明は平均的なレベルよりも上かもしれないと思い直した。実際、この薬科大学の大学院に入れなかった彼女は山西医科大学に行って、入試の成績優秀で 学費免除扱いになったのだ。
鶏頭となるも牛後となるなかれ。彼女のために私たちは大いに喜んでいる。
6月17日(日曜)、鄭大勇くんの修士論文発表。
6月18日(月曜)、宋明、楊方偉くんの卒業論文発表。
6月19日(火曜)、王Pu(僕という時の人偏が王偏)の博士論文審査会。
6 月19日夜は王Puくんと、彼と同じ日に博士論文を発表した招さんの二人を祝う晩餐会があった。今までこのような博士号を取った人を祝う会には、この大学の教授から何度か呼ばれたことがあった。博士論文審査会の時のレフェリーを務めた教授たち数名(だいたい半分は中国医科大学、中国科学院、遼寧大学などの外部から請われて来ている)、博士論文を発表した本人たち、研究室の人たち、私たちみたいな関係者何名かが呼ばれていて、割合と豪勢な食事会である。私たちのところにも博士がいるので、このような宴会の出資者は誰か大いに気になる。
日本に私たちがいたときは、もちろん私たちが博士号取得者にお祝いの会を催していた。ある時ドイツに行って友人の教授を訪ねたとき、ちょうど彼の研究室の博士の発表の日だった。そして夕方は皆が集まるお祝いの会が延々と続いた。訊くと、博士を取った人がお礼と感謝の気持ちを込めてこのような盛大な感謝の会をもつのだという。「いい風習だなあ」と思った。私が博士号を取った時は、そのあと指導教官に感謝する会も開かなかったし、お祝いもされなかったが、今思うととても気が咎めることである。
王Pu くんに今日は誰が費用を払うのと聞くと、もう一人の指導教官(王くんは老張老師の研究室の学生で、私たちは預かって彼を育てただけである)である老張老師かもしれないし、自分かもしれないといって暗い顔をする。そんな大事なことが決まっていないのは不思議な気がするが、夜の食事会があるというのも公式にはその日の審査会の時に聞かされたのが初めてなのだ。審査会の秘書役の小張老師から「このあと、食事会があるけれど、先生たち時間がありますか?」
今までにほかのお祝いの会に出たことがあるから、当然、王くんの時にも食事会があるのは予期していた。私が主催するのだろうか?気になる。でも正式の指導教官は老張老師なのだ。私の出る幕ではない。
こ の日の食事会はかなり豪華なレストランで開かれた。王くんと奥さん、招さんと旦那さんの二組、妻と私のほかに通訳として私たちの学生の王毅楠くん、老張老師と、審査員を務めた大学の同僚教授1名、老張老師の研究室の副教授二人の合計11名だった。審査をつとめたほかの大学の先生方は(どうしてなのか)来ていなかったので内輪の会合だった。あとで王くんにこっそり聞くと、スポンサーは老張老師だったという。博士号を取得した人がそれまでの指導に感謝を込めて会を催すというのはドイツだけの麗しい風習のようだ。
三日つづいて発表会があって私たちの研究室の卒業生は最後の試練を終えたわけで、私たちの研究室もお祝いと送別会をすることにした。卒業を控えて皆それぞれ忙しく、6月22日金曜日の夜だけが卒業式までの間に全員が集まれる日だった。
18 名という大人数になることが予想されたけれど、二つのテーブルに別れて座りたくなかった。それで、18名が一緒に座れる大きなテーブルのあるところを探して、大学のそばの陸軍病院の中の金利賓館を予約した。中国で陸軍というのは特別な位置にある。駅の窓口で切符を買い求める人たちの長蛇の列があっても、兵隊や軍の関係者はいつでも先頭に割り込んでいいし、汽車には何時軍の人が来てもいいように座席の余分があると聞いたことがある。つまり、この施設の中のレストランは超豪華仕様で、行ってびっくり。
今年卒業で祝うのは博士の王Puくん、修士を終える鄭大勇くん、学部を終える宋明さん、楊方偉くんの4名。この日はさらに寧娜さん、李杉珊さんも加えて卒業のお祝いをした。この6名はこの卒業で瀋陽を去ることになっている。お祝いと同時に送別の会である。
卒業生一人一人に向かって私が思い出を述べ、彼らは感謝を述べ、乾杯を繰り返し、気が付くと宴を始めてから3時間が経って終わりの時間が近づいていた。
超豪華なレストランで私たちはすっかりびびってしまい、料理を注文した王毅楠くんと楊方偉くんが節約に努めたので、支払いは予想の半分の691元だった。
教師会2006年度送別会に当たって送る側の替え歌を作るように、レク係の渡辺文江先生に頼まれた。軽い気持ちで引き受けて作っているうちに、妻も参加して以下の30曲からなる替え歌ができあがった。6月16日の送別会の最後に送る側全員が皆の知っている「オタマジャクシは蛙の子」の節で一緒に歌った。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
曲は「幼なじみの思い出は」を頭に置いて作りましたが、「鉄道唱歌」の方が良いかもしれません。「オタマジャクシは蛙の子」でも元気があります。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
1.
瀋陽てみて おどろいた
日本語教える 日本人
北関街(ベイグアンジエ)の一部屋(ヒトヘヤ)で
仲むつまじく 教師会
2.
月に一度の 定例会
みんなまじめな 顔をして
弁論大会 文化祭
命をかけて 話し合い
3.(女声のみ)
こんな真面目な 会合に
私はついて いけないわ
わたしがほんとに 欲しいのは
みんなと気楽な おしゃべりよ
4.
そうこうするうち 突然の
資料室の 立ち退きで
途方に暮れる 私たち
路頭に迷って すべ知らず
5.
それまで何も 知らないで
皆で集まる 一部屋(ヒトヘヤ)も
歴史を開くと 大勢の
好意が支える 資料室
6.
日本人会の 総会(アツマリ)で
寄る辺のない身を 訴えて
それまで知らない 中国の
人たちが寄せる 好意の輪
7.
多くの人に 助けられ
振興街(ジェンシンジエ)の 六階の
以前の倍の スペースに
のびのびくつろぐ 私たち
8.
好事魔多し 半年で
再び悲しい 家なき子
日本人会 領事館
総出で 会の 場所探し
9.
一緒に集まる 場所もなく
月に一度の 領事館
二階で開く 定例会
忘れてならない パスポート
10.
総領事からの 手紙にも
受け入れ渋る お役人
良いと言っては 駄目と言い
手玉に取られた 私たち
11.
困ったときは お互いね
助け合うのが 朋友(ポンヨウ)さ
中国人も 日本人も
区別はないよと 親切に
12.
言ってくれたの 思いだし
半年ぶりに 電話して
頼んでみると あっさりと
どうぞ 使って 無料(タダ)でよい
13.
新華(シンホア)広場の 八階に
安住の地を 与えられ
放浪生活 幕引いて
みんなで協力 引っ越した
14.
艱難(カンナン)汝を 玉(タマ)にする
苦労は 仲間の 潤滑油
定例会の 最後には
いつも一緒の 食事会
15.
毎年(まいとし)巡る 四月には
こころを合わせて 日本語の
弁論大会 運営は
表に陰に 教師会
16.
日本語学ぶ 学生が
演じる劇や 歌 踊り
市内で開いた 文化祭
楽しく笑って 大成功
17.(女声のみ)
半期に二回の お当番
来る当てのない 学生を
待って一日 資料室
アシ アゴ 全部 自弁です
18.(女声のみ)
初めは嫌々 教師会
何時の間にやら みな仲間
今では二胡に 中国語
書道に 篆刻 食べ歩き
19.(女声のみ)
老辺(ラオビエン)餃子は 一押し(イチオシ)で
馬家(マアジア)シュウマイお値打ちで
緑色(リュウサア)生態 自然食
雪花(シュエホア)ピイジュウ 欠かせない
20.
老いも若きも 勢揃い
心ときめく バス旅行
行くは岫岩(シュウイエン) 玉(ギョク)産地
アカシアの里の 別世界
21.
道々拾うは 玉石(ギョクセキ)か
宝を集めて 帰り道
蜂蜜売りの 兄さんに
急に感じる 恋ごころ
22.
一億五千 万年の
太古の恐竜 思い馳せ
貝やゴカイや 木の化石
夢中で拾う 一時間
23.
小学唱歌に J-ポップ
民謡 童謡 賛美歌も
英語の歌に 中国語
千曲越える うたの本
24.
緑の表紙の 厚い本
歌が好きでも 嫌いでも
思いの丈を 歌に載せ
みんなそろって チイパッパ
25.(男声のみ)
歴史好きの 先生が
率いて歩く 瀋陽市
60年の 時を経て
歴史の静かな 証言者
26.(男声のみ)
頭(コウベ)を挙げれば 丸い屋根
満鉄マークが くっきりと
足下見れば マンホール
蓋には 右書き 「電信」と
27,(男声のみ)
土曜日曜 路上市
一元二元の 石を買い
喜び勇んで 彫る判子(はんこ)
世界に一つの 芸術品
28.
鬼の厳しい 催促に
渋々書いた 原稿も
一年三度の本となり
気づけばわたしの 滞在記
29.(送る人たちのみ)
いよいよ別れの 日が迫り
一緒に支えた 教師会
皆さん ほんとに ありがとう
どうか どうか お元気で
30.(帰国する人たちは)
二年契約 月満ちて
帰国に思う 教師会
私の第二の ふるさとよ
皆さん ほんとに ありがとう
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
教師会を知らなければ意味のない歌ですが、一緒だった仲間はこれで楽しかった一緒の時を思い出してくれるでしょう。。。
今年度の私たちの研究室の卒業生は、博士の王Pu(僕の人偏が王偏)くん、修士を終える鄭大勇くん、学部を終える宋明さん、楊方偉くんである。昨日の6月22日には上記の4名に寧娜さん、李杉珊さんも加えて卒業のお祝いをした。いつものように、ガールフレンド、ボーイフレンドを招いたが、前回の王Puくんのガールフレンドの関さんは5月に結婚して王くんの奥さんとなっている。王麗の旦那の馬敏くんはこういう時のレギュラーメンバーである。今年の送別会は18名 という大人数になることが予想された。二つのテーブルに別れたくないので、大テーブルのあるところを探して大学のそばの陸軍病院の中の金利賓館を予約し た。5時半に皆で集まって案内されると超豪華な部屋で、みなひそひそと「ここは高そう」と半ば本気でおびえている。私は、特にこのためにお金を用意してく るのを忘れてしまったので、青くなって妻に耳打ちした。彼女も「少しっきゃないわ」と言って三百元を私に渡した。私の財布はこれで合わせて九百元となっ た。
4月に日本から来られた川西教授など4人を招待し、こちらも入れて7人というときに510元払ったことがある。日本円にすると8000円くらいだからたいしたことないようだが、私の月給の1割であると言えば、結構な額であることが分かるだろう。ともかく900元という手持ちの金は、18人ではとても足りないだろう。ま、足りそうもないけれど、これだけあれば手持ちすべてを払って残りはあとでも払うことを許してくれるだろう、と思うことにした。
料理は王毅楠くんが楊方偉くんと一緒に選んでいる。あとで並ぶ皿を見ると、安いものから順番に8皿選んだみたいである。孝行息子たちだ。それでもビールだけはふんだんに注文した。ビールの飲めない私と妻はヨーグルト?と聞かれて頭を振る。節約のためにお茶だけである。18人 という私たちとしては前代未聞の大人数の集まりで、私が密かに決意していたことは、それぞれが隣の人と散漫な話をするだけのものに終わらせないことだっ た。と言うことは、誰かが話題を提供すると言うことである。今日は卒業祝い、となると、座を取り持つのは私である。私が卒業する一人一人にお祝いの言葉を 述べて乾杯をして、そして送られる人が演説をして乾杯をし、送る側が一人一人に贈る言葉を述べれば、とても印象的な集まりになるのではないだろうか。
やがて料理が5皿運ばれて 来てテーブルに置かれた。ここは料理を載せる中央の台は電動テーブルである。5皿では広い円形のテーブルはとても埋まらないが、料理が5皿テーブルに乗っ たと言うことは、中国の習慣では宴会を始めていいと言うことである。まず開会の挨拶をして全員で乾杯をして少し経ってから、私が口火を切った。
最初は何と言っても王Puくんである。博士を送り出すのは今回が初めてで、私たちにとっては特に感慨が深い。王Puくんは2004年秋に生化学の老張老師の研究室から共同研究をしようと言うことで送り込まれてきた博士課程に進学したばかりの学生だった。テーマは老張研究室で研究しているサソリのペプチドの抗ガン作用を、こちらでこちらのやり方で調べようということになった。
ところが、始めて見るとこのペプチドがガン細胞の細胞死を引き起こすのはいいが、どの細胞も同じように殺し、しかもガン細胞でなくても殺してしまう。このペプチドは大腸菌で発現されたタンパク質なので、大腸菌由来のペプチドAと呼ばれるトキシンを含んでいる可能性がある。そう思って、ペプチドから脂質を抽出して調べると、もとのペプチド試料を使ったのと同じように細胞が死ぬ。さらに調べると定性的には確かにトキシンが検出できた。と言うわけで、このような汚いペプチドで研究を進めるわけにはいかない。聞くと綺麗なペプチドは作れないという。彼は博士課程に入ってもう半年経っている。どうしましょうと彼の指導教官の老張先生にいうと、「そちらで好きなようにして下さい。」
(この稿つづく)
老張老師に何かほかのテーマがあるかと訊くとないという。テーマがないのに彼をそこに戻すのは可哀想だ。こちらのテーマで研究をやらせていいかと聞いて見たところ、構わないという返事だった。それで、私たちは数年前にガングリオシドGM3がB16がん細胞の転移抑制をすることを明らかにしているので、その機構を調べることにした。この時までに分かっていたのは、GM3が転移抑制作用機構に結びついていることだけで、その機構は全く不明だった。
だから、王くんがこの研究を始めるにしても、どのように研究が展開するのかこちらにも皆目見当が付かなかった。
そのころ研究室には様々の遺伝子の発現を追いかけるために約100種のプライマーが出来ていた。王くんは5月の連休を返上して、私たちの作った遺伝子操作細胞すべてを動員して、遺伝子Tnfなどが、GM3で制御されている可能性が大変高いことを示した。この可能性を必然にするには、GM3合成遺伝子の発現を増やしたり抑制したりして、そのときにこれらの遺伝子が動くことを見る必要がある。
GM3合成遺伝子を抑えるにはガングリオシド生合成系の二カ所の遺伝子をSiRNAで抑えた。GM3合成酵素の阻害剤も使った。こうして始めてわずか2ヶ月でTnfなどがガングリオシドGM3で制御されていることが明確になった。
このあとは、ガングリオシドGM3のシグナルが細胞内でどのように伝えられているかの解析に入るわけで、ガングリオシドGM3とくっついていて、ガングリオシドGM3に対する抗体を使って一緒に落ちてくるタンパク質を追跡するのが一つの方法、もう一つの方法は想定されるシグナル経路を阻害剤を使って、経路を一つ一つ調べていくことである。
王くんは実質2年間の間に様々な手法を使って、B16細胞の転移に関係した細胞の運動性、増殖性などの性質がガングリオシドGM3により抑制されていること、その機構を分子的に言うと、サイトカインの一緒であるTnf、タンパク質分解酵素のMMP-9、Gタンパク質のある制御因子がGM3で制御されていることを、新しい細胞内シグナル伝達経路を見いだして明らかにしたのだった。
「こういうわけで、当時は 入り口と出口しか分からない迷路に王くんは挑戦したのです。まだ入り口の仕組みは未解決ですが、それ以降をほとんど明らかにしたのは王くんの努力の結果で す。これが出来たと言うことはとりもなおさず彼が有能であることを示していますが、特に大きなことは、王くんは手を惜しまず、手抜きせず、休む間も惜しん で実験にいそしんだことです。」
「さらに、王くんは自分が 得た実験結果をよく考え、その先どのような実験を組めばその知見が強化されるかを考えて実験を行ったからです。何よりも言いたいのは、王くんは実験を一生 懸命やっただけではなく、自分の頭を使って自分の実験を深く考えながら実験を進めたと言うことです。」と私の話は続いた。今日の私は英語をやめて、すべて 日本語にした。どうしても日本語の方が自由にものがいえる。そして翻訳は修士2年の王毅楠くんが引き受けた。
博士号を取るための資格として、自ら問題を考えそれを解決する能力を持つことが要求されるが、彼は見事にその要求に応えたのだった。
博士の審査では博士論文を読んで意見を述べる教授が6人、審査会当日に発表を聞いて審査に当たる教授が別に6人いた。主査は中国科学院・生態学研究所の老師である。私は審査会当日の審査員の一人だった。
45分の中国語の発表を終えた王くんに寄せられた審査員からの質問は、PCRで遺伝子の発現を追いかけたが、タンパク質の発現をどうしてほかの方法で見ていないのか、RT-PCRをもっと信頼性の高いReal time PCRでなぜやらないのか、などで、本質的な質問は全くと言って良いほどなかった。ある審査員は、論文の書き方が悪い。この中国語ではだいぶ問題があるから書き直せ、さらには引用文献の数が多すぎると言っただけだった。
あとで分かったことだが、 このような研究は基礎科学分野始まって以来最高の内容だったと評価されていたようだ。お世辞半分にしても、認められたことは確かなようだ。この大学での多 くの研究は応用薬学と言うべきものだから、ひょっとして基礎科学分野ではまだ王くん一人しかいないのかもしれないね。一人だけなら、その人が最高の一番に 決まっている。アハハ。ま、一人だけと言うことはないだろうけどね。
(この稿つづく)
王くんは卒業を目前にした5月に結婚式を挙げた。 彼の奥さんの関さんは何時も私たちの研究室のパーティに招いているので、私たちとはもう2年 越しの顔なじみである。彼女はここで修士を終わって、中国では上位の3位にランク付けされる上海の復旦大学の博士課程に合格したので彼女はこの秋から上海 に行く。背もすらりと高く、何時も笑顔を絶やさない関さんは何時会っても気持ちがよい。今日はやっとくつろいで穏やかな顔つきになった王くんの隣で、特に 笑顔が輝いている。
王くんは今アメリカにポスドクのポジションを探しているが、まだ返事がこない。ポスドクのポジションが見つかったとしても渡米するまでおそらく時間が掛かるだろうから、その間、復旦大学の医学部の私の友人(の友人)の先生に彼の面倒を見るように頼んでもいい。
王くんは私の挨拶を受けて 「3年前ここに来たときは、研究室の中の話が全く分かりませんでした。今となれば当たり前の細胞生物学や分子生物学の用語が、それが初歩的なものであって も、その時はまるでちんぷんかんぷんでした。言葉が分かっても現実それがここで出来るとは信じられませんでした。研究室の中で英語を使って最新の世界の論 文を紹介するという経験も生まれて初めてで、最初は緊張で声も脚も震えました。ここで三年間貴重な勉強をさせていただいて本当に心から感謝しています。先 生がたの科学に対する真摯な態度と熱意には打たれ続けました。これからも先生たちを目標にして生きていきたいと思います。」と挨拶した。
研究を何も知らないのは私たちの所に来る学生すべて同じだが、「いや、ここまでよくやったよ。これは王くんだからやったんだと思う。」というのが私たちの偽らざる感想である。王くんの能力と努力はそれほどに素晴らしい。
論文は大きく分けて3つの内容を含んでいた。それぞれがfull paperになる内容だった。この大学は博士課程に二つの論文が出版されていることを要求している。そのうちの一つはSCIに載っているジャーナルに論文が出ていなくてはいけない。もう一つは、どこでも良い。
私たちはどれもfull paperにしようと思ったけれどそれでは論文の審査を経て受理されるまでに時間が掛かる。それで、そのうちの一つを二つに分けて、それぞれを速報誌に投稿しようとした。これで博士の要求は満たせるはずである。
一つはBiochemical and Biophysical Research Communicationsにすんなりと通った。もう一つはOncologyに 送ったが、全く返事がない。6週間経ってどうなったか訊くと編集長がまだ投稿論文を処理していない、もう少し待って欲しいという。こんなことでは、博士論 文提出までに投稿論文がどうなっているか分からない。それで急遽、手持ちの実験結果ですぐに中国語で書けることを探してここの大学の紀要に投稿した。別の 英語のジャーナルに同じ内容を投稿することは道義上出来ないので、別の内容にした。幸い同じ大学で、事情が分かっているので、すぐに投稿論文を審査して受 理してくれたので、王くんは論文提出の期日までに、2報の出版論文があるという規定を満たすことが出来た。
Oncologyからは論文を送って3ヶ月以上経ってからレフェリーのコメントが付いた返事が来た。一人のレフェリーはB16細 胞で新しいことを見つけたと言うが、ほかの細胞ではどうなのかやっていないじゃないか、と無茶を言っている。別の細胞を使えば2倍、マウスだけでなくヒト の細胞も使えば3〜4倍の金がかかる。私たちの発見が普遍的なものであることを主張しているのではなく、それまでのマクロファージと違って、このB16細胞ではガングリオシドGM3がTnfの活性を促進していることを見つけたと言っているのだ。
二人のレフェリーから無数の指摘があった。ある指摘はこちらのうっかりしてそれに触れて書いていないことをちゃんと書いたらと言う好意に満ちたものだった。博士の発表も終わったので、あと1ヶ月も実験をすれば論文を書き直して送ることが出来るだろう。そして私の夏休みは、彼のあと二つの論文を仕上げることである。
この送別会の日の朝、王く んは巻物になった大きな絵を私たちに呉れた。拡げると大きく一面に紅梅が描いてあって二羽の鳥が枝にとまっている。「この鳥は先生たちです。」と言う。背 景に大きく丸い月が描かれている。喜上眉梢と書きこんである。めでたい言葉なのだそうだ。早速教授室に飾った。とたんに部屋が賑やかになった。
「先生、あつーーいです」と言いながら、6月にこの薬科大学を卒業する李杉珊さん、寧娜さんが私たちの部屋 に入ってきた。つづいて楊方偉くん。三人とも、黒い卒業ガウンを着ている。今日の最高気温は予報では34度だ。東京に比べて湿度が低くてしのぎやすいとはいえ、真夏の太陽に照らされていたらこの格好では苦しかろう。
卒業生がガウンを着るのは毎年の6月末の大学風景で、私たちもすっかりなじみになった。学部卒業生は黒一色。修士は黒と青、博士は黒と赤、の色の違うガウンであることも覚えた。
1回見に行った卒様式では、正式のガウンに身を固めた学長が、卒業生(代表の頭の帽子の房を左から右に垂れるように移したのもみた。つまり卒業生の帽子の房は右側に垂らすのだ。房の色は資格によって違う。
昨 年は胡丹と彼の愛妻が修士課程を出て、そのとき私たちのためにもガウンを借りてきてくれたので一緒に写真を撮った。そのときに聞いたけれど、ガウンは1時間5元で借りるのだそうだ。学生はクラスごとにまとめて同時にガウンを借りて来て、クラス一緒の卒業写真を撮り、さらには仲間同士の写真を撮り合う。そして時によっては、時間を気にしながらも私たちの部屋まで来て「先生、一緒に写真を撮りましょう。」と言うことになる。
昨日の夕方は別のクラスの曹さんがガウン姿を見せに来たけれど、「これ5時までに返さなくてはならないのです。」と言うので時計を見ると、5時1分前だった。
そ のあとで昨年卒業した暁艶さんに聞くと、ガウンは大学が持っていて貸し出すのだという。夏の日に学生が何度も着るために汗で汚れがだんだんひどくなってきて、今年は新品のガウンに換えたという。「去年の私たちは汚いガウンだったんですよ。臭くて損しちゃった。」と言うことだった。ちなみに私たちが昨年着たガウンは、「これは新品です。」と胡丹が保証していたっけ。
ともかく教授室を訪ねてきた卒業生と、私たちは並んで撮ったり、組み合わせを替えたりして、急いで写真を撮った。私たちがここに来た4年前は、私の持っているデジカメが唯一のカメラだったが、今は学生は誰でも持っている。カメラがなくても、誰でも持っている携帯に付いたカメラがある。カメラの台数だけ写真を撮るから、時間が掛かる。
一緒に並ぶと、彼らは重ね着をしている上に、暑い日射しの中を急いでここまで来たのだから、若い彼らの身体からは熱が放散している。たちまちこちらまで熱で炙られて暑くなり、のどが渇く始末。この三人組もガウンを返すまであと3分しかありませんというので、忙しかった。
今 年の卒業式は6月27日に講堂で挙行される。卒様式には3年前にその時の卒業生の沈慧蓮さんに誘われて一緒の講堂に行ったことがある。ガウン姿の学長以下の教授が居並ぶ壇上に、しきたり通りのガウンを着た学生代表が出て行って、証書を受けとるのだった。席に座ってこれを見下ろしている大講堂の中の卒業生は、ほとんどがTシャツ姿だった。
薬学部を出ると、理学士の学位が授与される。この学位を授与されるには、日語では日本語4級試験に合格 していることが必要条件である。この試験に通っていないと、単に瀋陽薬科大学の卒業証書を授与されるだけである。と言うことは、卒業証書と学位記と二本立てであり、それぞれはパスポートくらいの大きさの二つ折りである。卒業証書や学位記を示す必要があるときには、彼らは手持ちのこれらを見せるか、コピーを提出すればいい。
日本の場合にはA3よりも大きな紙で、これをコピーして提出するなんて思いもよらない。私の場合には長い間筒に入れてしまってあったけれど、どうせ私が死んだら捨てられるんだと思ったら気の毒に思えて、筒から出して額に入れ、居間に飾った。いずれにしても証明が必要なら、大学の教務課から証明書を取り寄せる必要がある。自分で手持ちの出来る卒業証明書や学位記があってこのようにコピーして使うと言う発想があるなんて、実際にぶつかるまで思いもよらなかった。
ちなみに結婚証明書もパスポート見開きの大きさに二人の写真と一緒に結婚証明が印刷してある。2冊発行されて二人が何かの時のために持っている。必要なら、これを見せる。たとえばホテルの泊まるときに、一緒の部屋を取るならこれを見せなくてはならない。もっとも中国にもあるラブホテルでは、結婚証明書を見せることを要求しないという話を人から聞いた記憶がある。ま、当たり前だね。
鄭大勇くんは錦州医科大学からここの大学院に入って、修士課程の3年間私たちの所にいた。彼もいよいよ卒業だ。2004年春、私たちの所に来たいと言うので面接したときも、そして秋からいよいよ研究室に来たあとも、彼が英語で話すと何を言っているかほとんど分からず、正直なところこの先大丈夫かと思われた。
隣の池島先生はこの大学のレベルはたいしたことないですよと何時も言っているが、ほかの大学からここの修士課程に入る学生を見ていると、大きな開きがあるというのが私の実感である。瀋陽薬科大学の学生の方が程度が高い。
1年先輩になった胡丹に、鄭大勇くんが「とてもやっていけそうにない。別の研究室に移りたい」と相談を持ちかけたという話をあとで聞いた。胡丹は、その学年には大勇が一人だけしかいないので、彼が抜けたら山形研究室は瓦解する。それで一生懸命彼を励まし続けたようだ。
この大学では、と言うかお そらく中国では修士だけで終わる学生は、日本と違って修士課程の年限は3年間である。この薬科大学では修士課程の最初の1年間は講義が沢山あるので、その 1年間学生はほとんど研究をしないのが普通である。私たちも薬科大学の薬学から進学した学生以外は、実験するよう要求しなかった。だいたい鄭大勇くんにで きるわけはないと思っていた。だから彼は毎週2回のセミナーで顔を合わせるだけだった。
修士課程に入って大体1年経った頃、彼に勧めてJ Biol Chem.に 載った論文をセミナーで紹介させた。この論文は東大の多比良教授の研究室から出されたものであった。多比良教授の名前はよく知られているだろう。その後多 比良教授は、これより前に研究室から出された論文がねつ造と言われ、東大から論文ねつ造として告発され渦中の人となった。
ここでついでに書いておく と、多比良教授の助手が論文をねつ造したと言われていつ。彼の論文の実験の再現性がない上に実験記録が残っていないので、ねつ造と言われても仕方あるま い。しかし、多比良教授のそれまでの際だった業績と彼の聡明さを知る私には、多比良教授がねつ造に関わっていた可能性は全くないと思う。管理責任を問われ て罷免されたが、これは東大始まって以来初めてのことであるらしい。ここまで厳しい措置が取られると言うことは、彼がよほど憎まれていたのだろうか。多比 良教授が悪いのか、多比良教授が有能過ぎて妬みを買ったか、私には分からないが、東大を罷免された彼に半年経っても外部から救いの手がさしのべられないの は、とてももどかしいことである。
ともかく、ねつ造とは関係ないこの論文の内容は程度が高くて難しいと思われたが、大勇はこれを読みこなしてセミナーで紹介した。RNAリ ボザイムの話だった。これが彼に大きな自信をつけたのだと思う。人は適切な時期にちょうど良いきっかけがあればぐーんと成長するものなのだ。また、彼が2 年になった時に与えた研究テーマが良かったのだと思う。彼が自分で選んでジャーナルクラブで紹介した論文からヒントを得た研究テーマだった。
私たちにとって全く新しい分野の仕事だったが、それだけに嬉しかったのだろう。私と大勇はこの先の展開をどうしようと一緒になって考え、大勇は積極的に実験を行った。私たちは早い時期から論文をどのように書こうかと何時も頭の中で描きながら実験を進めた。
この春書いた論文は、Biochemical and Biophysical Research Communicationsに 送ったところ、レフェリーに実験内容が不備と言われて却下されてしまった。これは大勇が悪いのではなく、この新しい領域の研究に不慣れだった私の責任であ る。そのあと気を取り直して実験をして、私たちの発見した現象を別の角度から見直した形で論文を書き直している。薬科大学の修士課程の要求するレベルは、 どのようなジャーナルでもいいから論文を1報出すことが条件である。私たちは国際誌に投稿する一方で、別の内容で中国語の論文を書いて、まずは彼が修士の 学位を取る条件を満たしたのだった。書き直した論文はもうすぐ投稿できるだろう。
大勇は北京の製薬会社の研究所に入りたいといって就職活動をしているがまだ見つかっていない。ここの制度では私たちが学生の就職先を世話することはない。もし就職先を見つける責任が私にあったら、どこの就職先も知らない私たちの研究室には誰も来ないに違いない。
今年の瀋陽日本語文化祭は民間の施設である北方伝媒ビルの4階ホールを使って開かれた。席が出場する学生の総数320名にあわせて設営されていたので、ほか の誰でもが座れるわけではなかったが、原理的には市民の解放されていた。このようなことは画期的と言って良い。その開放感も手伝って日本語文化祭は日本語 学ぶ学生ののびのびとした楽しい心が会場いっぱいに発散して、大成功だったと評価されている。
このように日本 語文化祭は歴史を重ねているし、今では教師の会も関係しているので、これを教師の会のホームページに記録として残したい。昨年は日本語クラブの中道編集長 の音頭の下に、文化祭関係者の間に交わされたメイルが日本語クラブに収録された。今年からはもう少しきちんとした形で記録を残したらどうだろう。昔の記録 を出来るだけ集めて残しておきたい。
というわけで、文化祭の前に今回の実行委員長の田中先生にお願いして、今回の文化祭の記録すべてを残しておいて、先生が最後にまとめを書いてそれらと一緒に送って欲しいと頼んでおいた。
文化祭のあと田中先生から文化祭の反省も含めて資料が届いた。そして幸いなことに北方伝媒が総力を挙げて作成した写真CD(とDVD)もたまたま私の所に来ていた。山田先生が北方伝媒の作成した映像記録を受けとって南本会長に届けようと言うとき、彼が不在だったので私が受けとるという偶然があった。そのため これらのコピーを作成する責任も負ってしまったが、それは別の話だ。
ともかく文化祭の資料と、写真があったの で、ホームページ用の原稿を編集した。写真は私が撮った中からも選んで使った。今年の文化祭の記録の中心は、田中先生の書いた「日本語文化祭を終えて」という一文が生き生きと躍動感があり、これが目玉となった。このほかにプログラム、議事録、反省などを加え、写真を鏤めて出来上がった。そしてもちろん、 ホームページの記録なので、今年の分が載れば、昨年、そしてその前と記録を加えていくことが出来る。
日本語文化祭のホームページが出来たことを27日水曜日に会員に知らせたら、すぐに山田先生からメイルがあった。「せめて田中先生の文章の出典を示して欲しい」と 書かれていた。私の手元に「日本語クラブ26号」はなかったが、6月16日発行の「日本語クラブ26号」が日本語文化祭の感想を集めて載せているので、同じものが載ったのだろうかと心配になった。
加藤編集長に確認すると、全く同じだという。「日本語クラブ」も4 年前からは紙の出版物だけではなくwebにも載せている。と言うことは、同じ教師会のホームページに、片や「日本語文化祭」の今年の分の記録として、そして片や「日本語クラブ26号」の一部として、田中先生の書いた全く同じ文章が載ることになる。
私は、それぞれ目的が違うし、読む人の目的も違うだろうから(実際、「日本語クラブ26号」を私は見たはずだが、同じものであるとは思いもしなかった)、同じものだとしても良いと思った。
聞いてみると会員の中には同じでも良いという意見もあった。しかし、ケチが付いてしまったので田中先生の名文を載せるのをあきらめて、ほかの実行委員からそれに相当する今回のまとめ的な文章が欲しいと思ってお願いしたけれども誰からも返事がない。
仕方なくたまたま会った南本会長に状況を話して、彼が文化祭の最後にした挨拶を原稿にして書いて欲しい、それを載せたいとお願いした。この挨拶は短く、かつ要を得た名演説だったことを覚えていたのだ。北方伝媒に対するお礼の気持ちが見事に込められていた。
幸い快諾されて、帰国を控えて忙しいのに南本先生がすぐに原稿を届けて下さった。それで、日本語文化祭の今年の記録の中のまとめの目玉を取り替えることが出来たわけだ。忙しい数日間だったけれど、ほっとしたところである。
と同時に、ホームページをほとんど一人で切り回している私がいろいろと弊害も生んでいるのかもしれない。「確かによくやっているけれど」と思われていることにしたいが、それだけに「誰も何も言えなくなってしまう」という状態となっているのではないか?それが爆発すると今回のようなとんでもない言いがかりにな る?
ただし、私の言い訳は、この瀋陽日本人教師の会は日本語弁論大会とか、日本語文化祭とかいろいろな行事に責任を負っているけれど、本質的は親睦の団体である。日本から中国の瀋陽地区に来た人たちが互いに異境の地の生活を助け合おうというものである。そのような会が成り立つためには、会長にしろ、ホームページにしろ何にしろ、何も代償を求めずに一生懸命に働く人も大事なのではないだろうか。
とまた自己陶酔に浸っている。バカに付ける薬はないと世で言う通りだ。
大勇くんへの私の挨拶が終わり、彼がお返しに挨拶をして、また一寸の間をおいて私は立ち上がった。学部の今年の卒業生は宋明さんと楊方偉くんである。このほかセミナーに来ていた寧娜さん、李杉珊さんも今日の送別会には招いている。
まず宋明さんである。薬科 大学の特別エリートコースである理科基地クラスの学生だった宋明さんは、2年生の時から私たちの研究室の活動に参加していた。理科基地クラスの学生の特権 で、そのように研究室に出入りが許されると言うことを知らなかった私は、「山形先生の研究室に明日から来たい」という彼女の要求を理解できず、その場で断 固拒否したのだった。
とうとう、彼女が顔を挙げたまま大粒の涙を流して号泣し始めるにおよび、とうとう根負けして来て良いと言ったのだった。彼女のおかげで私はここにすでに2回エッセイを書いた覚えがある。
私は席で立ったまま「今ま で私は日本にいたときには、何度も女性を泣かせてきましたが」と続けたら、隣で妻が「あんなことを言って、嘘よ。」なんて言い出した。「泣かせる」は「女 性を鳴かせる」という具合にも意味深に使われる言葉なので、これは学生の前で話題にするのにふさわしいことではないだろう。追求されたら困る。私は努めて さりげなく「でも、中国で女性に泣かれたのは初めてです。」
中国の女性をどっちの意味 でも泣かせたことはないけれど、彼らは激してくるといとも簡単に涙を流す。以前、大学院に進みたかったけれど、入試に失敗してやむ泣く就職を選ぶことに なったと言ってきた学生も、言っているうちに大粒の涙がポロポロと大きく見開いた眼からから沸き出てきたものだった。ある博士課程の学生は、自分の研究を 卒業研究の学生に手伝わせないと私をなじりながら,「だから私の研究はちっとも進まない。先生はひどい。中国人の先生ならこんなことはない。」といって、 これまた大粒の涙を流した。涙をがんがん流しながら、大声で私を非難し続けたのだ。
乏しい経験とはいえ、日本 の女性のように彼らがよよとして泣く、あるいは楚々と身をよじりながら涙を流すという場に居合わせたことがない。おおっぴらに泣くのに付き合った経験があ るだけである。この派手な号泣も、これまた乏しい経験だけれど、日本の女性では見たことがない。これこそ文化の違いである。「なかせる」もう一つの意味も 経験してみたいけれど、それはもう無理だろう。
脱線してしまったが、脱線 したのはここだけの話である。こんなことは学生の前では話さない。さて、このような経緯で宋明は研究室のセミナーに出入りするようになったが、3年に進学 した秋頃からセミナーに来なくなった。追及するまでもなく、ついて行くのが難しいからドロップアウトしたのだろうと思っていた。
その年の12月 の終わり頃、研究室に宋明がやってきた。彼女が最初に来て泣いたときその場にいた胡丹が一緒に付いていて、彼女の中国語を日本語にしてくれた。「ずっと研 究室のセミナーに出たかったのですが、制度が変わったので出られなくなりました。山形研究室に出入りさせて貰って勉強になりました。ありがとうございまし た。ついてはこれから冬になりますが、私の編んだマフラーです。どうか使って下さい。」
わたしは、「何さ、今まで ちっとも来ないで。」と思っていたものだから、白と青の毛糸で編まれた暖かそうなマフラーを受けとってもろくに返事をすることが出来ないでいるうちに、彼 女は去っていった。どうして来られなくなったのかを胡丹に訊くと、「理科基地から落第して薬学の普通コースに変わったようです」と言うことだった。気の毒 な話だが、受け入れるよりほかない。
その後ずっと気になってい た宋明が、やがてそのあとの卒業実験で私の所を選び大学院も来たいと言ってくれたのは嬉しいことだった。しかし大学院の入試では成績が悪くて、ここに来る ことは叶わなかったが、山西医科大学の特待生になったことは彼女にとって素晴らしいことである。プレッシャーをはね除けて逞しく生きることが出来るよう、 彼女のために願っている。「卒業おめでとう。この先も元気でね。カンパーイ。」中国の乾杯は文字通り乾杯である。宋明さんは一気にビールを飲み干した。私 はここに来てこの白酒の乾杯続きで体を壊してしまい(というのは嘘、自分でも大好きで飲み過ぎたのだった)、今は一滴の酒も飲まない。乾杯続きのお茶で腹 がだぼだぼしている。
この送別会のあとの卒業式 の日、宋明さんは私の所に別れの挨拶に来た。そして私の書(描)いたものをプレゼントしますと言って、表装された蓮の絵と詩を拡げた。絵は習ったことがあ りませんと言うけれど、墨が主体の絵は力強く幻想的で引き込む力強さを持っている。横に書かれている詩は彼女の作品で、しかももちろん自分で筆を執って書 いたものだ。大意は、「今私たちは蓮の蕾のように清浄な大気の中で露を花びらの上に載せながら開こうとしている、恩師は世界にあまねく名を知られた輝く先 生で(これは白髪三千丈のたぐいだ、気にすることはない)、私たちも花を咲かせて、いつかはその足下に近づきたい」ということらしい。彼女の中国文を日本 語にしていた陳陽くんは途中で投げ脱してしまった。「私には、とても分かりません、すごーーい詩です。」
楊方偉くんは大学を出たら日本に行きたいと言って卒業の1年前半前くらいに私たちを訪ねてきた。そのときには瀋陽薬科大学と提携している日本の某私立大学の試験を受けたいけれど、という話だった。この私立大学は、大学院の入試をこの瀋陽薬科大学まで来て実施している。
薬科大学の卒業は6月末だ から、日本の大学院には早くてもその年の10月入学、普通なら翌年の4月入学と言うことになる。しかし大学間提携と言うことで、入試に通ったらこの薬科大 学はその学生の3月末の繰り上げ卒業を認めるし、その私立大学には4月入学という道が開かれている。薬科大学は授業料を先取りしているから数ヶ月早く卒業 させても痛くも痒くもないし、学生は同級生よりも日本留学の場合で1年、中国の大学院に入る同級生よりも半年早く大学院に進学でき、大学は学生に喜んでも らえるから人気を得て学生募集難のこの時勢に笑いが止まらないという、三方得という落語みたいな頭の良い話である。
しかし、その私立大学の先 生たちが前にここに来たときに直接聞いたことだが、こうやって入る学生の学費は半額にするが奨学金は皆には出ない。だから、アルバイトして学資稼ぎが出来 るように、そのための(授業あるいは実験のない)日が一日空けて設けてありますと言うことだった。
日本の高い物価の中で大学 院の学生が安心して勉学、研究に打ち込めるためには奨学金が絶対に必要である。大学は学生を教育するために存在しているのだから、学生が奨学金を得られる ように大学は最大限の努力を重ねなくてはならないと思う。それなのに、アルバイト出来る日が作ってあるから、安心してこの大学に来てアルバイトして学資を 稼ぎなさいとは何事か、と私は大いに憤慨した。
だから私はこの大学に対し て厳しい見方をしている。薬学部が6年制に変わったのを機に、日本では続々新顔の薬学部が出来た。教授を揃えなくてはならないから、日本の製薬会社の研究 所から研究員がごっそり減ったという話だ。大学学部全入時代を迎えて、このように林立した薬学部すべてが生き残れるはずがない。今はほいほい薬学系大学院 に入れて貰っても、10年もしないうちに母校がなくなっているかもしれないのだ。従って楊方偉くんに聞かれたときも、大学での成績が悪くて、それでも日本 に行きたいなら別だけれど、日本の大学院の入試に通る自信があるなら、別のきちんとした大学にしたら?と返事をした。
すると楊方偉くんは国立大 学でいいところを紹介して下さいという。このような言い方はまだいい方で、私たちの部屋にいきなり入ってきた見ず知らずの学生が、「日本に留学したいので 日本の有名大学を紹介して下さい」と言うことがある。こういう学生には、「ここは有名大学の紹介所ではない。自分がどこに行きたいかを自分で調べて考えな さい」と言って追い返す。彼ら学生は、大体が放っておけば日本の有名大学に行きたいとしか言わない。有名大学に行くのが目的であって、何の研究をしたいか は問題ではない。有名大学だとあとで人に言うとき、名前の通りがいいからだ。
楊くんにも、まず日本の研 究室を自分で調べて、どこに行きたいかを自分で考えて見つけてご覧なさいと言った。行きたいところが決まったら、その先生に楊くんの気持ちをメイルで書い て、受け入れをお願いしなさい。その先生が楊くんを受け入れて良い、そのためには面倒な奨学金申請の手続きをしても良い、と思ってくれたら、日本留学の大 きな関門の一つは超えたことになる。
楊くんは私の示唆に従って、北大大学院の先生にメイルを書いた。ところがいつまで経っても返事がない。「達也先生。まだ返事が来ません。」と時々報告する楊くんの顔がだんだん泣き顔になる。
立場を変えて日本の先生の気持ちになってみると、これは容易に分かることなのだ。日本の大学にいた頃、私の所には年間20-30の メイルが来た。中国、フィリッピン、タイ、インド、インドネシア、パキスタンなどから、日本(の先生の所)に行って勉強したいのでどうかよろしくの言う趣 旨だった。東工大を去って大分経った今でもこのようなメイルが来る。日本の大学院の先生にしてみれば、日本国内から大学院希望者が十分ある状況下で、海外 の留学生まで取らなきゃならない義務はない。たとえ留学生を取ろうかと思っても、国外からの申し込みだから、ここに集めて試験や面接をするわけにはいかな い。つまり、数十ある申し込みの中からどれか一人をどうやって選んだらよいか分からない。来たいと言うだけで、本当の学力も、人柄も、性格も全く分からな い中から人を選ぶことは出来ないことだ。従って、返事を全く出さない先生もいるけれど、私は何時も丁重に断り状を書いていた。「日本の学術振興会など、ど こかの奨学金を取った上ならいらっしゃい」と。
(この稿つづく)
教師の会にはいろいろの役がある。年度は学校のカレンダーに合わせて9月から始まるのでその最初の会合の時にいろいろの役を選ぶ。しかし今年度は南本先生が7月のうちに帰国することが分かっていたので、次期会長を決めて置いた方がよいねということになった。
次期会長が今の副会長から出れば良かったのだろうけれど、私も、もう一人もそれぞれ理由があって現会長から頼まれても固辞した。それでこれを根回しというのだろうが、現会長が努力して日本人補習校の校長をしている石原先生が引き受けてくれることになった。
6月16日の今期最後の定例会で、石原先生が推薦を受けて新会長に選ばれ、彼が副会長を指名してこれも承認された。ところが、ところが、である。6月末に山 田先生からメイルが来た。公開質問状と題して「今度の会長は会にどのような貢献があったのか、どんな実績があって選ばれたのか説明をしてくれ。」つまり現 および新執行部に対する不信任案がぶつけられた。
今の会長の先生にしてみれば会長職のあいだ公私をなげうって 会のために奉仕をし、次の会長のなり手を探すのに苦労してやっと引き受け手を見つけたのだ。次期会長は人物識見十分と見てお願いしたのに、彼の判断も、新 会長そのものも、あるいは今の会員全体の信頼感もすべて根底から否定する反対意見である。
次の日曜日、私は資 料室の当番で、その時の相棒がこの山田先生だったが、彼は午後用事があって朝のうちだけ出てきた。それで現会長が資料室にやってきて、私もあとで加わって 3人で話をした。話してみれば彼は納得したふうで、話のあとで私たち二人はこれで問題は済んだと思っていた。
ところがまたメイルが来た。話では駄目だ、文字がいる、密室政治は見たくない、という。まだ納得していない。一方で現および新役員は不信任を言いつのる山田 先生にどのように対処するかを考え、メイルのやりとりでは話はこじれるだけだから早急に集まれる人たちだけでも集まって臨時会議を開こうと言うことになっ た。石原先生はすっかり嫌気がさして、もう会長をやる気がなくしている。
それで7月5日木曜日夕方6時、山田先生も含めて19人が集まった。彼がいないと話にならないのだから彼の出席を確認してから開いたわけである。
会議では現会長の南本先生が状況を説明し、どのように対処しようか皆さんの意見を伺いたいということで始まった。山田先生が主張を述べ、ほかの人たちがいろ いろな意見を言った。1時間半の話で、結局山田先生は自分の主張が間違っていたことを全面的に認め、関係者に謝り公開質問状を撤回した。したがって、先日 選ばれた新役員は改めて全員一致で認められたのである。
今の規則では9月に新年度に新しいメンバーで決めることになっているが、来たばかりで会長を選べと言われたって難しい。これからは、会長は前年度最後の定例会で決めるとした方が良いのかもしれない。
こ の教師の会は利益団体というわけでもなし、根回しがあっても何の差し障りもないだろう。もし問題があれば後からメールなどでなく、その場で発言するべき だっただろう。こういうことの発言はし難いのかも知れないが、顔が見えないから言うことが出来るとしたら、メールは怖い。このメールは日本人会長事務局長 にまで飛んでいったのだ。
通常2,3年で入れ替わるメンバーなので、1年もここにいれば会長の資格は十分である。何を功績というのか分からないが実績も功績もあるはずがなく、会長になって本当に苦労を背負うことになるわけだ。会長を引き受けて下さった方には本当に感謝、感謝、感謝なのである。
教 師会は初めて瀋陽に来て困っている時に、生活の面でも授業の面でも助け合うことが目的である。その為に月1回、集まって知り合いになることは大事なことで ある。集まるための資料室も必要である。部屋を借りるとなると資料室を管理したり会計が必要だ、人数が30人もいれば会長も必要になってくる。
皆が、集まってそれぞれが出来ることをして会を成り立たせている。ここは会社の営業所ではない。一番働いて功績を挙げた人が会長にふさわしいなんて考えられないことだ。人物がこの会の会長にふさわしいかどうかの判断基準だ。
互いに助け合おうと集まっている人たちの気持ちが連綿と続いて、この会には20年近くの歴史がある。それを壊すのは一瞬でいい。大昔のことは知らないがここ 十年の間、石井康男先生が根気よく育て、そして多田先生、南本先生がそれを引き継いで発展させた教師会がこれからも”気持ちの良い出席したい会”として維 持されるよう、願ってやまない。
7月7日から台湾の台北で開かれた第3回国際糖類分子免疫学学術会議に参加して、14日夜には台風4号を避けながら成田に戻ってきた。
この学会は台北にある長庚大学の呉明道先生がTexasで開いた第1回から数えて20年経って第3回が開かれたことになる。第2回は1999年に台北に戻った呉明道先生により開かれている。あとで分かったことだが、この3回の会議全部に出席した人が一人だけいた。
昨年夏に私が以前いた研究所宛に送られていた呉明道先生からの招待状を受け取った。国際学会にはここ数年全く出席していない。日本の学会にも行っていない。
瀋 陽に来て研究を始めて3年経ってそれなりの成果が出始めたのでそれを発表したい。薬科大学の国際交流処の程処長に聞いたら行っていいという。学長にも聞いたら、良いから是非行きなさいと言ってくれた。台湾と台湾の間に直行便はないので、中国から台湾に出かけることが問題になるかと思って尋ねたのだ。
1 月にabstractを送り、6月には台北の予定を書き送り、一方で瀋陽ム成田の往復を瀋陽で買い、日本で成田ム台北の往復便を買った。7月7日には瀋陽を朝8時半に飛び立ち、昼過ぎに成田に着いて貞子に迎えられた。彼女は検診があったので私よりも1週間早く帰国していた。彼女は私のために小さなトランクをうちから持ってきていた。台北旅行用なのだ。大きなトランクは成田で1週間後にうちに届けて貰うよう宅配便に頼んだ。
台北に夜の9時頃着いたが迎えに来ているはずの事務局の人が来ていない。そこで出会った旧知のBasu博士と一緒になり、かも探しに来ている白タク運転手に声を掛けられ、中央研究所まで1600元で手を打って運んで貰った。
約 1時間で台北市の南東にある南港地区の中央研究所に着いた。これは英語名ではAcademia Sinicaで、同名のものはもちろん今の中国にもあるが、漢字名は科学研究所である。台湾でのAcademia Sinicaは生物化学、分子生物学、ゲノミックス、数学、物理、などの研究所の集合体で、台湾のアカデミックな研究の大きな中心の一つである。 activitiy center と言う名前の宿泊施設、講堂、体育施設も備えている。
台北には1998年シアル酸関連糖鎖生物学会が 開かれてきたことがある、同じ会場だった。さらに2002年にはAcademia Sinicaの生物化学研究所の教授である井上康男・貞子夫妻に招かれた。井上先生は東大の定年の後Academia Sinicaに招かれて2002年末まで研究室を持って台湾に糖鎖生物学を定着させようと努力をしておられた。
と言うわけで今回を入れて 3回の台北訪問だった。何時行っても台北の印象は良い。人々はやたら元気で街は喧噪に満ちているけれど、表情が明るく屈託がない。瀋陽との大きな違いは。瀋陽の街を歩くとだいたい若い女性は背が高くおしゃれをしていて「私は美人よ」という感じでつんとして歩いているけれど、台北ではそのような美人は先ずいない。日本と同じで皆親しみやすい可愛い顔をしている。着飾ってもいない。これも日本と同じである。それで寛ぎを感じるのだろうか。
中国 語は依然として分からないけれど、それでも時折口にする中国語の発音と英語で、私は「お前は日本人ではないね、中国人だろ」と言われることが多かった。中国人なまりのある英語を話すようになってしまったのか、と思わないでもないが、私は元来楽観的な人間なので、これは誉め言葉だと受け取っている。日本人離れした英語なんだよ!!!
しかし、長年英語の存在しないところで英語を使っていると「鳥なき里のこうもり」という具合で、だんだんおかし な英語を話すようになっているに違いない。このことわざに相当する表現は中国にも英語にはないと、長年の友人であるJohns Hopkins大学のYC Lee教授が教えてくれた。もし英語で言うなら、「In a bird-less land, bats rule the sky.」というのはどうでしょうと言うことだった。つまり、私はA Batmanなのだ。今度映画があったら、どんなものなのか見てやろう。
7月7日に瀋陽を出て、その日のうちに成田経由で台北に飛んで、台北で開かれた国際学会に参加した。数えてみると2002年にHamburgで開かれた学会に参加して以来海外で開かれた学会に参加したことがない。日本で開かれる学会に出たのも2003年の夏が最後である。理由は簡単で、参加する旅費が捻出できない、おまけに仕事が進んでいないから話す内容もなかったのだ。
この学会は第3回国際糖類分子免疫学学術会議と銘打った物々しいものだが、内情は長庚大学の呉明道先生が1988年 にアメリカのテキサスにいたときに開催した会合が回を重ねたものである。集まった人数は多くはなかったが、それでもアメリカ、カナダ、イギリス、オラン ダ、ドイツ、イタリー、フランス、ベルギー、イスラエル、オーストラリア、インド、日本、台湾から人々が集まっていた。このあとオーストラリアのケアンズ で開かれる第19回国際複合糖質会議のプレシンポジウムの形だったが、意外なことにオーストラリアに行く寄り道ではなく、この台北の学会にだけで来た人たちも多かった。
地理的には近いにもかかわらず、中国本土から参加したのは私と妻だけだった。この領域の研究者が中国にはいないと言うことなのだろうか。
学会の開かれたのは台北市の南東にある南港地区の中央研究所の中の施設だった。中央研究所は英語名ではAcademia Sinicaで、同名のものはもちろん今の中国にもあるが、漢字名は中国では科学研究所である。台湾でのAcademia Sinicaは生物化学、分子生物学、ゲノミックス、数学、物理、などの研究所の集合体で、台湾のアカデミックな研究の大きな中心の一つである。
activitiy centerと言う名前の宿泊施設、講堂、体育施設も備えていて、私たち全員は会期中はこのactivitiy centerに泊まり、生物化学研究所内の講堂で開かれる学会に出た。泊まっているところから熱帯樹が植わっている庭を眺めながら歩いて数分のところに生物化学研究所がある。綺麗なたたずまいの施設だがゆっくりと見物できないほど常に暑かったし、おまけに蒸し暑かった。建物の中は常に25度の冷房が効いている。
こ れで台北は3回目の訪問となった。何時も学会に参加するために来ているので街を十分に見学する時間はないけれど、街の喧噪、人々の元気さ、街の底抜けの明 るさ、どれを取ってみても好きである。食事も美味しい。値段は屋台からウエイターの侍る高級レストランまでピンからキリまであるけれど、値段が安いからま ずいと言うことはない。安くても、どれもこれも美味しいのだ。
おまけに台北は足揉みの発祥の地のようだ。足の裏マッサージは1998年に台北を訪れたときにすでに足揉みで名高く、ホテルで紹介して貰っていったところがあまりにも良く効いて気に入ったので、6日間滞在のうち5日間、講演が終わると食事もそこそこに毎晩通い詰めた記憶がある。
最 初の治療の最中は悲鳴を上げ続けた。ここは三叉神経、ここは眼、ここは肝臓、ここは生殖器、などと私が悲鳴を上げる度に治療師は日本語でのたまう。足の痛 みが五臓六腑の不全に繋がるかどうかはともかく、その夜はホテルに帰っても足が腫れ上がった感じで歩行もままならなかった。しかし次の日にも行ってみる と、足を指で押されて受ける痛さが減って快感に替わりかけている。3日目はもっと良い。明日揉まれてどんどん良くなっていると言うことが実感できた。
更に4日目に足揉みに誘った大阪大学タンパク質研究所の先輩の老先生が、初めての治療なのに足の裏を押されて気持ちいいだけで、少しも痛くないという。毎日6kmの道を歩いて研究所に通っていることと彼の75と いう歳には見えない元気さと関係がありそうだ。ここで足の裏は押されても痛くないのが本当なのだ、痛いのは不健康なのだと言うことが実感できたのだった。 実際に足を揉んで五臓六腑の疲れがとれるかどうかは確信がないが、その後自分で足の裏を揉んで足の痛みがなくなるととても気持ちが良い。
2002年 の台北訪問は中央研究院の井上先生による招待で、5日間は講演2回を含めてびっちりと歓迎プログラムが組まれていて足揉みに行けなかった。それで、今回は 何とか足揉みに行きたいと願い続け、日曜日に2回出かけたのを含めて4回治療を受けに通うことが出来た。タクシーで往復600元、30分の治療に400元。日本円にして4千円くらいだろうか。
学 会で久しぶりに出会った日本の友人は日本でも足揉みに行くけれど、日本でこのような良く効く揉み方はないという。今回はこれが主目的で来たのだといって 笑っている。瀋陽にも足療と言う看板のマッサージが沢山ある。しかし1回の経験だが不満が残っただけだったので、その後二度と行っていない。
男として一番の幸せは、アメリカの家に住み、日本人を妻にして、中国人のコックを雇うことだ、と言うが、私はこれに、台湾の足揉み師を雇って毎日揉んで貰って眠ること、と付け加えたい。
つまり大学にと言うか大学 にいる自分宛に海外から沢山の留学の申し込みがあっても、そのうちの誰か一人の留学生を選びようがないのである。誰かを候補にして留学生を採っていいかな と思うのは、自分の知っている人から強力な推薦がある場合である。知人からの学力保証、人物保証、身元保証があれば初めてその留学生を採ってもいいかなと 思うわけだ。
楊くんの行きたい北大大学 院のその先生に私がメイルを書けばいいと思われるかもしれない。でも、以前に大阪大学大学院の某教授が、ここの薬科大学のある学生の留学を受け入れると 行って手続きを始めたまま途中で音信不通になったと学生が訴えてきた。話を聞くと放っておけないので、メイルを書いた。返事がない。二度書いた、でも返事 がない。全く無視されたのだ。それに懲りて私はこのようなときには薬学界に隠然たる力を持っている某製薬会社の研究所長だった岸先生にお願いしている。彼 は顔が広いので伝手をたぐると、たとえば昔の彼の部下が出た大学の指導教授の今は二代目だとか言う具合に、何らかの経路でその先生にたどり着くのだ。
その岸先生が例年通り9月 に薬科大学に短期集中講義に来られたので、楊くんを紹介し事情を説明してお願いした。「いいでしょう」と彼はメイルを書いてくれた。そしてすぐに北大の先 生から、楊くん宛にも「メイルを見たけれど忙しくて今は何の行動も起こせません。」という返事が来た。
楊くんはそれから何度もメイルを書いて自分のこと、自分のやりたい勉強のこと、将来手がけたい研究をその北大の先生に訴えた。やがて北大の先生は彼の熱意に打たれて、とうとう楊くんを大学院学生として受け入れる気になった。「入試に通れば私の所に来てよいです。」
その半年あとには、その先 生は日本政府国費留学生申請手続きも行ってくれたという。これは大学から、「これこれこのような優れた留学希望者がいますので、是非奨学金を日本政府から 出して下さい」といって文科省に申請し、留学生が日本に来る前に政府奨学生を採用する制度である。これこそ留学生に不安を与えずに日本に留学させることの できる方法であろう。規模が千人くらいで、ずっと長いあいだ国立大学しかこれに応募できなかったが、1年前から門戸が広がって私立大学でもこの申請が出来 るようになった。といっても日本の大学のすべてが奨学金を巡って競争するのではなく、各校何名という推薦枠が設けられている。つまり、その大学から推薦さ れる候補の中に入れれば、まず文科省の承認が出て、政府奨学生となることが出来る。
「楊くんは私たちが朝7時に大学に来るともう実験室に来ていました。研究はArhgdigの 遺伝子を取ってそれをベクターに入れて細胞に強制発現させようというもので、王毅楠を指導者として毎日人一倍実験をしていました。卒業実験に限って言え ば、彼は昨年実験熱心で大いに感心した満さんに匹敵する学生です。満さんも朝7時前から夜は11時まで毎日実験をしていました。実験室に誰がいなくても彼 女はいました。今年の楊くんもそうです。」
「でも満さんと違うのは、 楊くんは人付き合いがとても良いと言うことです。誰とでも付き合い、誰とでもおしゃべりをし、そして次の瞬間にはもう実験に打ち込んでいるのです。楊くん はクラスメイトから新聞記者というあだ名で呼ばれるくらい、身の回りの出来事に精通しています。クラスの誰が何をしたと言うことはもちろん、阿部さんが靖 国を訪問したかどうかを知っていますし、浜崎あゆみの新作も知っています。というわけで楊くんの時間の使い方の能率の良さは驚嘆すべきものがあり、楊くん はご覧のように人畜無害な顔をしていますけれど、この勤勉さで将来きっと大人物になるでしょう。それでは、カンパーイ。」再びがお腹がお茶でぼがぼ。
この送別会の数日あと、楊 くんは学科からの最優秀論文学生に推薦されたと言う話を聞いた。電話連絡は小張老師から私にあったけれど、例によって誰か学生と話したいというので、部屋 にいた敢さんに電話を渡した。どのような電話なのか私には報告なしに話は楊くんに伝わり、彼の行動を見て彼に聞いて彼が推薦されたことが分かったのだっ た。
2年前には同じように私たちの研究室に進学した王毅楠くんが最優秀論文賞に輝き、その指導教官と言うことで私は500元の賞金を手にしたのだった。その時の500元で研究室の学生のほか薬科大学の日本人の先生たちを全部レストラン招待したのは良かったけれど、その金では足りなくて、結局先生たちは自分たちの分は自分で出さなくてはならなかった。未だに思い出すと汗顔の至りである。
台北の中央研究院を会場にして開かれた学会は7月12日の昼過ぎまでだったので、大半の人はその日のうちに会場、つまり宿泊所を去った。私たちは急ぐのが厭だったのであと1日の滞在を予定していた。ところが中央研究院では次の集会が開かれるので、宿泊は12日でお終いにして13日は別のところに移ってくれと言う。このような人が私たちを含めて10人いた。学会事務局では私たちのために台北市の飛行場よりのホテルを見つけてくれるという。もちろんお願いした。
13日の朝、事務局が用意してくれたクルマ2台に分譲して私たちは中央研究院をあとにした。直ぐに市内の高速道路に乗る。もう馴染みの風景が車窓に拡がる。左には台北101と言う高さ508メートルで現在世界一を誇るビルが見える。そういえば、この101を見に行かなかったっけ。それより西には台北駅前の46階建てのビルが見える。ここの餐庁では晩餐会があった。
クルマはやがて台北駅を越えて北に向かって走ってから高速を降りた。そしてMRTと呼ばれる電車の芝山駅の近くの瀟洒な建物に着いた。麗敦旅店と書いてある。玄関を入って直ぐのところにフロントがあってロビーはないに等しく、いわゆるホテルとは作りが違う。10人のスーツケースを置くことでたちまち空間が一杯になる。
事務局の人がフロントと話していて、「はい、それじゃ荷物を預けてどこにでも遊びに行ってください、チェックインは夕方の6時です。」と言う。一日遊び歩く 予定なら良いけれど、こっちは台北博物館と足揉みだけの予定である。「それはないでしょう、もっと早くしてくださいな。せめて、4時にしてください。」と 言ったところ事務局から来た人はまたフロントと交渉して「yamagata先生は4時にチェックインできることになりました。」という。
なんだかおかしい。フロントに置いてあるティッシュペーパーにはホテルの広告が書いてあって「休憩680元」と書いてある。成田で買った台北情報誌に、ホテルを選ぶとき、台北にもラブホテルがあるのでそれと間違えないように、と書いてあったのを思いだした。そうだ、それに違いない。じゃなきゃ、チェックイン6時なんて言うわけない。それまでフルに稼ぐつもりなんだ。
妻と私は先ず台北博物館に行って少数民族展を観た。昼は台北名物という牛肉麺を食べてから、繁華街の西門に足揉みの店に今回の4回目の訪問をした。そのあと龍山寺に行こうとしたところ反対方向に歩いてしまった。気づいてから方向転換したけれど強い西日に照らされてばててしまい、龍山寺を諦めてホテルに戻ってきたのが4時前。それでも鍵を渡してくれた。前金である。1880元はたぶん日本円で7-8千円くらいである。
5階の505号室に行くと普通のホテルと同じ作りだけれど全体的に作りが豪華で、濃い天鵞絨色と金色という印象だった。窓が小さく、厚いどっしりとした色合いのカーテンだった。ベッドサイドの机にはコンドームの包みが乗っていたので、私は妻の気づく前に机の引き出しに入れた。
ベッドの横のバスルーム側は巨大な鏡張りになっているが透かして見えるようにはなっていない。バスルームのバスタブはどちらが頭の側か分からない作りというか どちらから入っても良いように、つまり二人が向かい合わせで入れるように作ってあった。なるほど、と感心しつつシャワーを浴びたあと、途中買ってきたパンを食べた。もうご馳走には飽食していた。
丁度台風4号が沖縄に来ていて私たちの帰路と重なる可能性がある。さっさと寝る気になってベッドに入り、ベッドの足下の方にある大きな薄型テレビを付けると、120チャンネルもある。チャンネルをだんだん下げてきて105まで来るとNHKテレビで大相撲をやっていて、やがて7時の天気情報に変わった。今沖縄が台風の勢力範囲で、明日が九州上陸だという。成田に影響が出る前には日本に戻ることができそうだ。
台 風情報を見たあとチャンネルを動かしていくと突然例の、普通では見られない映像が出てきた。びっくりだ。隣では妻も見ている。あれれと言いつつも、あわて ず騒がずそのままチャンネルを変えていくと3つ別の放映があることが分かった。大いに興味があるが今ここで見るわけにも行かないし、ともかく眠い。
寝たのが7時過ぎで直ぐに寝ついてしまったが、夜11時 には目が覚めてしまった。心の中で例の映像が残っていたからに違いない。隣の妻は静かに寝ている。起こさないように音を絞って例の映像のチャンネルを呼び 出すと、中国(台湾?)もの、洋もの、日本ものの3つが選べることが分かった。このようなものを見るのは久しぶりである。東工大にいた頃、若い同僚の助教授が「先生はこのようなものは自分では買わないでしょう。もう自分は見たからあとは好きにしてください。」と言ってアメリカで買ったというビデオを貰って観て以来である。もう15年前になるだろうか。3つのチャンネルを行ったり来たりしてしばらくは興奮して見ていた。他人のセックスを見て興奮するのは人間だけなんだよなあ。でも、やがて飽きてしまった。所詮他人ごとの、絵空ごとである。
と言うわけで夜中にちょっと起きていたけれどまた朝までよく寝た。部屋を出る前には引き出しに入れた包みをまた机の上に置いて、朝6時半には呼んでおいたタクシーで空港に向かった。今回の台北は学会のあと想定外の経験もあって、久しぶりの学会出席はもちろんのこと、楽しい旅だった。
台北で開かれた学会は世界各国から研究者が集まっていたけれど、参加者は50名足らずで小さなものと言って良い。昔からの知己とも久しぶりで会えたし、研究を通じて名前を知っていても初めて会って話を交わすことで親しくなった人もいた。
イ タリアのSandro Sonninoはイタリアのミラノから来た。古い友人のTettamanti の跡を継いだ教授で、糖脂質研究の大きなグループを率いている。今回はそのグループにいるAlessandro Prinettiがあらたに知人に加わった。糖脂質の世界的研究のメッカであるシアトルの箱守研究室でポスドクをやっていて、そのときの彼の論文で彼の名 前も知っていたのだった。今40歳になったかならないかの年齢で、テノール歌手のパバロッティを若くしたような身体に貫禄がある。細胞表層の糖脂質、細胞 の外から与えた糖脂質の効果について私たちと同じような疑問を持っているようで、互いに腹を探り合いながら、それでもいろいろと議論をした。
Sonnino は彼らのところにPhDプログラムというのがあって、枠は11人。そのうち1名は非ヨーロッパ系の学生のための枠だという。 「と言うことは」、と私は彼に確認した。今私のところにいる修士課程の学生が修了したときにこのプログラムに応募できるのか。修士号を持っていることが絶 対条件で、選ばれれば次の年の1月から博士課程が始まるという。イタリア語は必須ではないとのことだ。今修士2年に在学している王毅楠くんは後1年でよい 研究を仕上げれば、これの候補だ。
学会の二日目に私の順番が回ってきて20分の講演をしたが、この内容は最初のabstractで用意し たものではなく、王Puがやった別の研究に基づいて講演をした。というのは、最初用意した話は投稿した論文がまだ受理されていないので、話すわけにはいか なくなった。王Puの研究はすでに1報公表されていて、一つは受理されている。あとの1報もレフェリーの要求に沿った修正を行えば無事に通ることが期待で きる。
今までマクロファージは刺激されるとTnfと言う細胞が出すシグナルを合成・分泌するが、この生産はガングリオシドが抑えると言わ れている。ところが私たちの使っている細胞では、ガングリオシドがTnfの生産を亢進させることが見つかっている。この時のガングリオシドGM3のシグナ ルの通り道を私たちは解明して、これが全く新しい経路であることを見つけたのだった。
この話をしたこの学会は糖鎖関連の学会だったが、シ グナルの話は私の講演以外にはほとんど出てこなかった。つまりシグナルの分かる人たちはまだ少数派だ。「糖鎖生物学をやっています」と言えば、研究室では 糖の検出、分析、同定が日常的な基礎技術としてありそうだが、私たちのところではまるで出来ない。分析のための機器を全く持っていないのだ。せいぜい、 HPTLCをするくらいである。私だって道具がなければ、ある試料がどんな糖を含んでいるかと訊かれても全く分からない。
と言うわけで私 たちは糖の検出、分析、同定の方には踏み込まないで済むようにしながら、糖鎖生物学の最新のテーマとして、糖脂質が細胞のいろいろの機能にどのように働き かけているかを調べている。このようなテーマでは細胞の中でのシグナル伝達が対象となる。糖鎖のことが全く分からなくても、現代生物学の最新のトピックス を対象として研究できるのだ。
と言うわけで私たちの研究の報告は、ガングリオシドGM3のシグナルがどこを通ってTnfの発現を上昇させるかという内容だったが、恐らく今の糖科学研究のレベルからはぶっ飛びすぎていて、参加者に直ぐには理解されない内容だった。
それでもこの研究を遂行した王Puが博士課程を終えて、いまは中国以外のところでポスドクのポジションを探していることを付け加えると、講演を聴いていたアメリカのジョンズ・ホプキンス大学の教授から早速ポジションのofferがあった。
こ の若い教授は細胞がある特定の構造の糖鎖を認識したら次にどうなるかという研究をやっている。当然この先はシグナル伝達に行くだろう。この修練を積んだ研 究者が欲しいに違いない。王Puも今までとは毛色の違う研究をすることで視野が広くなるだろう。ジョンズ・ホプキンス大学は一流中の一流大学である。一流 好みの中国人もこの点でも満足だろう。この話がまとまるといい。
寧娜さんは楊方偉くんと同級生で今年の卒業生である。彼女は成績優秀で推薦されて大学院は北京の協和医学院に進学することになり、最終学年の卒業研究も北京 に行って行うことになっていた。しかし寧娜さんは1月に北京に行くまでの数ヶ月、時間のある限り私たちの研究室に来て勉強したいと言ってきた。
彼女が行くことになっているこの協和医学院の教授というのが、一寸した関係で私の知人だったのである。関係というのはこういうことだ。私が東工大に移る前 までは三菱化学(当時は三菱化成)生命科学研究所にいたが、そのときの私の研究室の研究員だった東秀好博士が私の去ったあと独立して採用したポスドクが中 国からの留学生で、それが彼だったのだ。学会で紹介されて顔を合わせた記憶がある。
そのような関係があるので、寧娜をたとえ数ヶ月でも研究室に出入りを許して彼女の勉学を助けて上げなくてはいけないだろう。それに彼女は3年生の時に私の生物化学、続けて4年生で分子生物学の講義を受けているけれど、それ以上に彼女の思い出が深い。
というのは、瀋陽では瀋陽日本人会の主催で毎年4月に瀋陽日本語弁論大会が開かれている。その実際の運営は教師の会が行っている。私は日本語の教師ではな いので日本人教師の会の主要なしごとからは逃れているので、当日司会役に駆り出されただけだが、彼女が作文に応募して審査に通り最終弁論大会に出場した昨 年の会場に私もいたのだった。
作文を書いてその作文審査を通ったとしてもその作文は誰かが手を入れてなおしたものかも知れない、と言うので、最終選考会は即席スピーチというもう一つの 試練が課せられる。これは、大会実行委員会が作成した即席スピーチの題目を目隠しで二つ選ぶ。たとえば、「中国の環境汚染が深刻になっています。あなたは どのようにしたらよいかと思いますか」とか、「あなたは異性の間で本当の友情が育つと思いますか」というようなものである。この二つのうちから好みを一つ 選んで5分という与えられた時間で話す内容を考え、壇上に連れ出されて、そこで制限2分間というスピーチを行うのである。2分を超えたらそこで打ち切られ る。日本語学習で得た実力のすべてがここに出てしまう。最初の作文のスピーチをいかに上手くこなしても、ここで出るのが実力であると思われている
寧娜が選んだのは「もしあなたがノーベル賞を受賞したら賞金は何に使いますか」というものだった。
「もしノーベル賞を受賞して一千万元の賞金を手にしたら、私は基礎的な研究が出来る研究所を作ります。今中国は一生懸命頑張っていますが、まだ生命科学の 研究では世界に大きく遅れています。この生命科学の研究で得られる成果はそのまま私たち全世界の人たちの健康や福祉に役立つのです。大学の先生達は給料も 安く、それでも実験器具も十分ない劣悪な環境の中で研究を一生懸命続けている真面目な先生がたがいます。私は良い研究室を作ってこのような先生たちの研究 も助けたいと思います。」
寧娜の述べた内容はおおむね以上のようなものだった。中国のレベルをそのまま素直に捉えた率直な発言であり、あまりに立派な内容だったので胸にぐっと来て 今でも覚えている。これを聞いていた日本人会長から、あれが一番好かった、感激を言いたかったけれどその後会えなかったから、彼女に伝えておいて欲しいと 後になって頼まれたくらいである。
2005年の弁論大会は反日デモが荒れ狂って直前に中止になったが、審査会の余興として学生が歌を歌うための練習をしていた。私たちも物好きに参加した が、そのとき学生の歌の指揮をしていたのが彼女だった。そんな関係で一番先にその学年の中で彼女を覚えたのだったが、翌年の弁論大会での彼女の即席スピー チでは、研究費の乏しさに泣いている我が身につまされ、彼女が特に印象深かったのである。
彼女は10月から1月の間は授業の合間に研究室に来て鄭大勇の実験を見学し、最後には彼女も自分で同じように細胞を培養して実験をやってみるくらいのこと しかできなかった。寧娜はとても気だてのよい子だ。頭が良いしとても真面目なのでこの先北京に行って優れた設備のある大学院で、良い研究者に育つだろう。 私も彼女がノーベル賞を貰う日が来るのを見届けたい。
李杉珊さんは楊方偉くんや寧娜さんの同級生で、昨年秋に東京工業大学が国際大学院の入学志願者をアジア各地で募集したときに応募して、みごと生命理工学研究科の7人の国費留学生の一人に選ばれた。
彼女を巡る話は研究室日記に何度も書いた。瀋陽日本人教師の会のジャーナル「瀋陽日本語クラブ」26号にも同じ材料で長々と書いている。
先日の日曜日、私たちは東京のレストランでKasiaと彼女の夫の二人に会った。Kasiaは1994年秋にポーランドから来て東工大の国際大学院に入 り、私たちの研究室で博士課程を修了した女子留学生である。私たちは日本に戻る度にこうやって出会って食事をしながらお喋りをしている。
東京工業大学の国際大学院は、私の記憶では始まったのが1993年だった。国際大学院と言う以上、英語が公式言語となっていて日本語能力は問わないという ものである。英語しか分からない学生が来るなら、大学側も英語環境を整えて受け入れなくてはならないのに、決してそうではなかった。
国際留学生の受け入れの寮の管理人は英語が分からなかった。Kasiaは日本に到着した夜から東工大国際留学生会館という寮に入った。そのときは私の妻が 成田に出迎えていて宿舎まで案内したけれど、大変だったらしい。Kasiaはそれ以来毎日研究室の時間が終わって寮に帰る度に話が通じないので苦労の連続 だった。
学生課の職員にも英語が理解できる人がいなかった。留学生への知らせは全部日本語で、それをKasiaに伝えるため何時も私が呼びだされるか、あるいは研 究 室の秘書である志をりちゃんの仕事になった。大岡山キャンパスの事務とも連絡を取る必要があり、そこに行くのに一人ではたどり着けないので、志をりちゃん がたいてい付き合った。留学生は日本語が分からなくても英語が出来ればよいと言う以上、大学側がそれなりの対策を講じて置いて良かっただろうと思う。
対策と言えば講義も間に合わせだった。大学院修士課程に進学した留学生が受講する講義として3科目が用意されていたが、彼らはほかに選択の余地なくこの3科目だけを取って合格しなくてはならなかった。沢山の講義を用意できなかったのは教官側の事情による。
英語で自由に講義できる人は米国の大学院を出た猪飼さんと、海外との共同研究歴の長い星元紀さんがいるだけだった。彼らはそれぞれが独立に講義を受け持った。それ以外の教官は英語についていえばせいぜい1-2年の留学経験がある程度である。自由に講義できるわけがない。私のいた生体分子工学研究科では、バイオテクノロジーという名の講義を全教官で分担して担当した。一人4時間の出番なので英語の方も何とかなる。こういうわけで、生命理工学研究科は博士課程なので講義を聴く必要はなかったが、星さんの発生生物学の講義は楽しんでいた。星さんの講義は、日本語だけれど、今では放送大学で受講できる。
と言うように大学側の受け入れ態勢はお粗末だったけれど、私の研究室の学生・職員は地球を半周してきた女子学生に対してみな親切だった。博士過程が終わる頃にはKasiaは片言の日本語を喋っていた。博士を取ったあと、東京医科歯科大学の助手に採用されて今では9年。先頃の学制改革で、彼女の職名は助教となった。英語で言えば、assistant professorである。
Kasiaは、日本語を読 むのはスラスラではないのでメイルだけは今でも英語だが、今では英語を使わずに日本語で話している。「教授選挙に立候補できるじゃない。教授になるのを楽 しみにしているよ。」というと、「いえ、いえ、私は教授なんか目指していないです。今やっているようなことが楽しいですし。」とKasiaからは返事が返ってくる。
助教と名前が変わっても学 生実習は彼女の受け持ちだし、この春は「日本語で」講義をやらされたそうだ。これまでは英語で講義していたのに、専門用語を日本語では話すのは「とても大 変ですよ。」と肩をすくめていた。でも、このごろでは私たちは互いの研究の話も日本語でするようになっているので、彼女が日本語で専門用語も自由に駆使で きるのを知っている。
この間は銀座のレストランで出会って、彼女にご馳走になってしまった。「学生の頃は何時もおごっていただいたし、いま私はちゃんと給料貰っていますし」と彼女は言う。そうかも知れないけれど、これでは中国の老師と同じ感覚になってしまう。この次はこちら持ち、である。
7月28日土曜日、横浜で「2007瀋陽薬科大学同窓会」が開かれた。幹事役は薬科大学65期の二人で、慶応大学大学院博士課程2年の朱くんと、同じ研究室の糖鎖研究プロジェクト部門で働いている薛さんだった。
朱くんと薛さんの二人の呼びかけとお膳立てで集まったのは、64期の婁さん(カネボウあらためクラシエ)、65期の胡丹くん(東大大学院)、李さん(千葉 大学大学院)、郭さん(朱性宇くんのガールフレンドで東工大大学院)、66期の秦さん(胡丹くんの奥さん)、沈さん(花王化粧品研究所)、 2000-2001年の日本語教師だった最上先生、それに私たち二人の合計11人。
瀋陽薬科大学から来ている留学生たちは年末年始に最上先生の教会に集まっていたらしいけれど、私たちも参加して開かれたのは初めてのことだった。横浜港クルーズ乗り場の近くのレストランの一画を仕切って貰って11人がぎっしり座った。
この集まりのすごいのは、中国語が分からない私たちがいるので、彼らが互いに話していて私たちが加わっていないときも日本語で話していたことだ。
私たち日本人だとこんなことは出来ない。外国人が一緒のテーブルだともちろん英語を使うけれど、隣の日本人の間の話はどうしても日本語になってしまうのが普通だ。
ここにいる留学生たちは中国にいた頃から日本語が巧みだった。その中で朱性宇くんは65期の同室の四人の中では日本語会話能力がちょっと下だったけれど、日本に来てから磨きが掛かって、今では日本人並みのイントネーションとアクセントでがんがん話が出来る。今では胡丹を抜いている。朱くんの日本語からは彼が日本人でないことは分からない。
語彙も豊富になって、昨年学会に行ったとき「ちょっと気まずいことがありました。」と話し出した。「気まずいこと」なんて言う言葉が普通に使えるのだ。
「仙台で学会があって、先生から、学生3人も研究室から行くので一緒に宿を取って置いてと言われて、私たちの分は宿を予約しておいたのです。仙台に着いて直ぐに学会会場に行って、ずっと講演を聴いていました。初日の集まりが終わってから食事に行くことになって、街を歩く前に宿に寄って荷物を置いていこうと言うことになりました。」
「それで先生に『先生の宿はどこですか?』と訊いたら、先生は『えっ』と言ったきりなので」、ここまで聴いて話の落ちを察した二三人がけらけらと笑い始めた。朱くんは続ける。「初めて私が先生の分も宿を取る必要があったことが分かったんです。この瞬間は、とっても気まずい思いでした。」
悪いけれど私たちは笑い転げてしまった。宿を取るように朱くんに頼んだので当然取ってあると思った先生。一方では先生が自分たちと同じ宿に泊まるはずがないと思い込み、頼まれたとも思わなかった朱くん。ありそうな行き違いだ。
さあ、宿無しの先生はどうなったか。実際にはその宿にちょうど空きがあって先生はここに泊まることが出来たそうだが、このようなエピソードを楽々と話せる朱くんの日本語の上達ぶりに改めて感心した。
それに比べて、同期生の中で随一の日本語遣いだった胡丹くんの日本語は、10ヶ月経って進歩どころか退歩しているみたいだった。この3月に中国から呼び寄せた奥さんの秦さんは日本語がまだまだなので、「何時も彼女と中国語で話しているから下手になったのね」と言って私の妻にからかわれると、胡丹は「いえ、違いますよ。研究室で朝から晩まで一生懸命に実験をしていて、研究室でも日本語を話す機会がないんです。」と必死に弁明していた。どちらも、きっと本当なのだろう。
集まった瀋陽薬科大学から来ている留学生は誰もが陽気で、元気がいい。物事にも対人関係にも積極的であることが、異国での成功の第一の要因かも知れない。
新聞で、「銀行システム障害、すべての業務が止まる」とか、「全日空でシステム障害 130便欠航、7万人に影響」など見ると、大変だなあと思う。すべてコンピュータに頼る社会になると、コンピュータが動かないと何も出来ないことになる。紙と鉛筆があって記録することが出来ても、その記録だけでは全く意味を持たない社会になってしまったのだ。
でも、これまでは他人ごとだった。今までコンピュータ障害で直接迷惑を受けたことはない。新聞で読んで「気の毒に、たいへんだなあ」といっていれば良かった。それが、昨日8月7日に中国南方航空で瀋陽に到着したときに、そのシステム障害にぶつかったのだった。
外国人として中国に到着すると、入国カード、税関申告カード、健康申告カードの三つをあらかじめ書いておいて入国の時に渡さなくてはならない。飛行機の中で私に渡されたのは税関申告カードだけで、従って私は健康申告カードを書いてなかった。それで、まず最初に検疫所で引っかかった。つまりカードを書いてい なければ通さないというわけである。
仕方ない。カードを貰って書き込んでまた検疫所の列に並んだ。書き込んだカードを渡すだけだが、次の入国審査の所では列の後ろの方に並ぶことになった。
列に並んで見回してみると入国審査は8列くらいになって並んでいるが、ちっとも進まない。改めて入国審査のブースを見ると、ブースの中にはちゃんと係官がそれぞれ座っている。審査を受ける人はその前に立っている。が、ブースの中の係官が何かをしている様子がない。
「この線でお待ち下さい」という線引きは、もちろんここでもある。見ると、そこにはベルトで境が置かれてしまって、次の人が入れないようになっている。
その境とブースの間には係官とは別の、肩に二個の星を付けた10人くらい(警官風のひとたち)が出てきてこちらがなかに入らないように見張っている。何だろう。こういう時言葉が分からないのは困ったものである。数人前の日本人が3人で互いに何か喋っているが、何も情報はない。並んでいる人たちはごくおとなしく待っている。この場所は入国審査の際に通り抜けるだけの所なのでさして広くはなく、人いきれでだんだん暑くなって汗がにじみ出てくる。
15分くらい経った頃、私たちの列の前に立っていた警備員の一人が何か叫びだした。その中に「日本人はこれを聞いても分からないから。」などの言葉が聞き取れた。何だろう?
私のすぐ後ろの背の高い青年が日本語で言い出した。「コンピュータの故障です。そのまま並んで待っていて下さい。水が欲しい人は申し出てくれれば水が貰えるそうです。」つまり、日本人にはアナウンスが分からないから誰か説明しろとも言ったのだろう。私は後ろの中国人の青年に「ありがとう」といって前を向い た。
「銀行システム障害、すべての業務が22時間止まる」みたいなことが頭に浮かぶ。直るまでどのくらい掛かるのだろう。このまま立ちん坊で一晩明かすのか。それからしばらくして、また警備員が何か叫んだ。後ろの青年に尋ねると「外の迎えの人たちにこのことを伝えたから安心して欲しい」と言ったという。そういえば、大学の国際交流所の徐さんが迎えに来ているはずだ。思い出して電話をする。中国のケータイを取り出して電源を入れる、電池マークが3本点いて良いところが1本しか点かない。
幸い電話が徐さんに通じたが、徐さんは「今どこにいるのですか?」と言ってここで何が起きたか知らない様子だった。何時直るか知らないけれど、彼女に去られたら大変なことになる。「もう一寸直るまで待っていて」と頼むしかなかった。
結局入国審査の列が動き出したのは並んで35分経ってからだった。良かった、ここで一晩明かさずに済んだ。私の番が来て、入国カードを書いていないことを 見とがめられたが、貰わなかったと言ったら、それで通してくれた。すべて杓子定規の国でこんなことがあって良いのだろうか。初めての経験である。私たちを 立ったまま35分待たせたからせめての罪滅ぼしなのだろうか。
振り返ってみると、入国審査で列が動かず、コンピュータシステムに異常があって何時直るか分からないと言う状況で、乗客が一人も騒がなかったことが驚きである。ただ、ただ黙って並んでいたのである。説明が十分なされたのだろうか、直るまでの時間もあと20分くらいとか言われていたのだろうか。
あの暑さの中では耐える限度だったような気がするけれど、もしあれが長引いたらどうなっただろうと、それも経験してみたかったのも事実である。「好奇心のある仔猫は長生きしない」という言葉を肝に銘じて私は生きているけれど、私の好奇心、想像力は幾つになってもなかなか衰えないのである。
4 年ぶりに日本糖質学会の年会に顔を出した。今年は福岡の九州大学で伊東信教授を年会の会長として開かれた。伊東さんは私が昔いた三菱化学生命科学研究所の 研究室で、私のところのポスドクから始めて研究員になった人である。手短に言うと私の昔の部下だけれど、今では彼は私などよりも遙かに立派な業績を上げて いて、かつては私の部下だったなどというのは大いに恥ずかしい。
しばらく学会に出ていなかったけれどそれが学会に出かけたのは、もちろん伊東先生から今度自分が責任者として年会を開くので是非来て欲しいと言われたからである。発表する人が一人でも増えればというわけだ。文字通り「枯れ木も山の賑わい」になるだろうと思ったのである。
それに幸い中国での研究も何とかなりつつあるので、発表するのに良いタイミングである。久しぶりに多くの人たちに出会うのだから、やはりこちらも格好が気になる。手ぶらでは出かけられないと思って、今までで学会に顔を出さなかったというわけだ。
8月1日から3日まで開かれた学会は集まったのが600人を越えていたという。一般講演が60くらい。ポスター発表が200を超えていたから、思いの外、というのは記憶にある以前の年会と比べての話だが、盛況だった。若い人が増えていて、知っている顔はぽつりぽつり位しか見あたらない。
昔は学会に出てくる女性の顔を全部知っていたのに、今はほとんど知らない若い人ばかりだ。浦島太郎の心境である。たまに知っている女性の顔を見つけると、皆おばあさん顔になっている。ヤレヤレ、ま、こっちも同じということか。
瀋 陽は情報の過疎地である。過疎地というのは、学術論文にアクセするのが不自由と言うことである。図書館に私の必要とする学術雑誌はほとんどない。つまり読 むことが出来ない。このことを日本でぼやくと、たいていの人は「今では論文はインターネットで読めるから、大丈夫でしょう。」という。
と んでもない。大学や研究所の自分の机の上でインターネットにアクセスして論文が読めるのは、その大学なり研究所がそのジャーナルを購読しているからであ る。図書館でそのジャーナルを購読していなければ、そのジャーナルに載った論文にはアクセスできない仕組みになっている。たいていの研究者はそれなりの大 学にいるから、読みたい論文を読むのに不自由はないわけだ。
こちらは不自由そのものだ。やむなくアメリカのFASEB
だから最新の知識には付いて行っているつもりだったけれど、実際に学会でシンポジウムを聴き、特別講演を聴くと、どの講演も凄いのだ。どの演者も輝いて見える。学問上でも本当に浦島太郎になったような心境だった。
糖質学会のカバーする範囲は多岐に亘っているが、ジャンルは私が長年やってきたような、糖鎖の構造や機能の研究、糖鎖を大量に供給するにはどうするかという研究に加えて、GlycomicsとかGlycoinformaticsと名付けられるような網羅的な研究が増えていた。私たちが中国で始めたような糖鎖シグナル伝達に関する研究はほとんどない。果たして受け入れられるだろうか。
それだから、瀋陽薬科大学における私たちの研究を話し終えたとき会場からさざ波のように初めは静かに(そして万雷の如くとはいかなかったけれど)拍手がわき起こったのは感激だった。シンポジウムや特別講演で演者に拍手するのは当然だが、一般講演では空前絶後のことである。未だかつて聞いたことがない。
「数年のブランクにもかかわらず、よくやっているね」と言う糖の研究者の仲間としての暖かな歓迎の気持ちの表れだったのだろう。嬉しいことである。こうやって励まされて、今浦島もまたやる気になって中国に戻ってきた次第である。
日本糖質学会の年会に4年ぶりで出席すればいろいろの事情がすっかり変わっているのは当然だが、驚いたことがあった。それは、学会の台所事情により学会の機 関誌の発行を止めたと言うことだ。しかし、お金がないから機関誌の発行を見合わせて支出を抑えましょうという簡単なことではないのだ。
日本糖質学会は70年代に有志が集まって出来た学会である。学会というのは必要を感じた気鋭の人たちが声をあげて作るものだが、80年代の終わりにはかなり形式化して会員の意向を反映していなかった。学会を作った人たちが「偉くなって」会員の意向を無視していた。つまり、話はそのころ,1980年代の終わりにさかのぼる。
その頃、タンパク質、核酸の時代に続いて「糖の時代」が花開こうとしていた。世の中が激動しているのに、学会はその動きに敏感でない。それで私たち学会の主流派でない人間が集まって、日本糖質学会とは全く別の組織を作った。FCCA (Forum: Carbohyadrates Coming of Age) 「糖鎖の時代がやってきた」という名前の組織だ。世の中に糖鎖研究の面白さと成果を還元し、糖の研究をする私たちの間で、そして世界の研究者との間で研究成果の交流を図ろうというものである。
だから会員のためと世の中一般向けにセミナーを頻繁に企画したし、FCCAの機関誌を発行した。機関誌は、Trends in Glycoscience and Glycotechnology (TIGG) という名前のもので、今ではどこでも当たり前の言葉として使われている糖鎖工学(Glycotechnology)は私たちの造語である。TIGGは2ヶ月1回の発行で、初代のTIGG編集長、そして初代のFCCA幹事長には私が就任した。
そのころのFCCAとTIGGの様子がどんなに活気に満ちたものだったかは別に書いているので繰り返さないが、発足して7年以上経ったとき、日本糖質学会から申し入れがあった。「日本糖質学会はかねてより英文の機関誌を持ちたいと思っている。FCCAが同じような目的で機関誌を出しているので、それを日本糖質学会の機関誌として譲り受けたい」というものであった。
冗談ではない。いきなりやってきて私たちの発行している機関誌を「おまえの持ち物が欲しいからそれを寄こせ」、なんて、ふざけた話である。私はそのころは幹事長を降りていたがTIGGの編集長は続けていたので、FCCAの二代目の渋谷幹事長(現在明大教授)、そのほかの幹事と諮って断った。
しかし、一方で私たちは考えた。「世の中の必要性を感じ私たちも必要と思い、糖質科学の発展のためにFCCAという組織を作りTIGGを発行してきたが、これを始めた私たちはいずれ表舞台から引退し、次々と人が変わっていく。二代目三代目に人たちがさらにその先になると、この団体を立ち上げた時の気持ちは続かずそれまでの惰性で活動を続けるだけになるかも知れない。望まれた時期にTIGGをしかるべき学会組織に渡すことは、良いことかも知れない、日本糖質学会もこれで格が上がるわけだし。」
幹事の間で何度も議論を重ねたあげく、私たちは日本糖質学会に、「FCCAと日本糖質学会とはお互い対等の組織である。日本糖質学会の必要に迫られた強い希望に鑑みてこれからはTIGGを両者の共同の機関誌ということにしませんか」と申し入れた。両者は相談して細かく話を詰めて、TIGGの発行の費用を共同で出して、両者の機関誌とすることが決まった。1997年7月発行の第48号が共同の機関誌となった最初のTIGGである。
それから約10年近く、両者から編集委員を出して共同運行は問題なくやってきたはずだ。しかし日本糖質学会は資金がなくなったので「ない袖は振れない」といって共同機関誌の打ち切りを決めたと言う。
FCCAでは、時移り人は去り、立ち上げたときの初期の幹事はいなくなった。最初の頃の熱い情熱は変わってきている。そして共同運行を始めて以来、資金の一部は日本糖質学会に頼る体質になってしまった。
言ってみれば、経済的に自立している有能で魅力的な美女に目を付けて、「一緒になろうよ。良いことがいっぱいあるよ」と口説き、やっと説得して一緒になって10年経ち、美女がいつの間にか男に頼る体質になった頃、「もう金がないから一緒にやっていけないよ、あとは勝手にやれよ」と言って放り出すようなものである。
手を換え品を替えてTIGGを 日本糖質学会に寄こせと言って迫って来た当時の川嵜理事(今は京都大学を退官して別の大学の教授である)の言動を思い出すと、「こんなことでよいのだろう か。先輩たちが学会を良くするために重ねてきた努力をこんな風に簡単に踏みにじって良いのだろうか、君たち、」と言いたくなる。
世代の交代で、糖質学会の理事も昔の人たちがいなくなったので昔のことが分からない。しかし同時に救いは、FCCA幹事やTIGGの編集委員を経験した人たちが糖質学会の理事になりつつあることである。糖質学会が財政を立て直し、機関誌廃止という決断を見直す時期が早く来るように願っている。
日本糖質学会の機関誌が財政上の理由で発行を断念したという。一方、もともTIGGを機関誌として発行している本家本元のFCCA(Forum: Carbohydrates Coming of Age 糖鎖の時代がやってきた)という団体は、TIGGの表紙から「日本糖質学会機関誌」という名前をしばらく削らず、様子を見ようと言う。
いじましい話である。無理矢理言い寄られて結婚して、挙げ句の果て貧乏になったからもう一緒にやっていけない、邪魔だからと言って追い出されたのに、結婚した姓を名乗り続けるようなものである。
さて、私が創設したとはいえFCCAにもういま私は何の関係もない。ジャーナルのTIGGの編集顧問として名前が載っているだけである。もう関係はないけれど、彼らの運命も、日本糖質学会の将来も気に掛かる。
別れ話の発端は機関誌発行に関わる経費である。この経費が安くなれば、少なくとも目先の障害は解決する。日本糖質学会は機関誌発行を断念したことを考え直すだろう。そこで思いついたのは、中国は給料も安いが、物価も安い。従って印刷費も安い、ということである。
印刷については、この大学で2回の経験がある。同じものを印刷したわけではないので日本だと正確にはいくらになるか分からないが、日本の印刷費の数分の一と考えて良い。
機関誌TIGGの印刷原稿をここに持ってきて印刷をして、それをここから発送すれば、郵送費は世界どこでも同じ(つまり感覚としては中国から出す郵送費は高い)だが、かなり経費が節約できるだろう。
日本では100ページのTIGGの1回の編集費が20万円、印刷費が70万円くらい掛かっているらしい。中国で印刷すれば、この70万円のコストが節減できることになる。うんと安ければ、私たちが手数料を取ったとしても、機関誌の発行が可能になるくらい経費が安くなるはずだ。この手数料を上乗せするというのも魅力的だ。何しろ研究費がなくて私たちは貧乏しているから、研究室の学生が手伝うことで何か金稼ぎが出来るなら大歓迎である。
福岡の学会の時に見本となるTIGGを貰ってきたので、これを持ってうちの学生の王くんに隣の図書館の下にある印刷所に訊きに行って貰った。「1000部印刷して、1冊8元だそうです。」というのが答えだった。印刷費が8千元。日本円にして約14万円である。いまは元が上がっているから、これからどんどん高くなるにしても、今は日本での印刷費の5分の1である。私たちが手数料を上乗せして印刷経費を35万円としても、印刷費が半分になり、年間 35x6=210万円安くなる。私たちの方には28x6=168万円(約10万元)という金が研究費に使える。大学から貰う研究費は年間5万元しかないので、いつも本当に苦労しているのだ。こりゃ凄いビジネスになる。
私たちが研究費として印刷費をピンハネしても、こんなに安くできるなら日本側がこの話に乗らないはずはない。しかし、待てよ。中国で印刷するにしても、大量に日本の雑誌を2ヶ月に1回定期的に印刷し、海外の個別の受取人に発送するなら、何処かの段階で「当局」の許可がいるのではないか。
ここの印刷所にはその経験がないそうなので、学生の王くんは東北大学の印刷所、およびそのほかの印刷所に訊きに回ってくれた。その結果、中国で定期的に印刷したものを外国に発送するとき、当局の許可が必要ということだった。この当局というのは遼寧省政府である。ジャーナルの印刷原稿を持って行って審査つまり検閲をして貰う。内容に政治的なことは一切入っていないから何も問題は生じないと思うけれど、文句というものは付けようと思えばいくらでも付けられる。審査期間もどのくらいかかるか先方としても予め返事のしようがないわけだ。1ヶ月か2ヶ月か分からないという。ジャーナルの発行で2ヶ月も遅れたら意味がなくなってしまう。
おまけに発送するときは郵便局ではなく税関を通すのだという。税関というのは厄介な所だ。いくらでも理由を付けて発送の延引が可能だ。いい思い出は一つもない。どちらの機関もこちらと友好的な関係になれば問題は起こらないと思えるけれど、友好的な関係になるためにどれだけの費用と時間が掛かるか、今誰にも分からない。
というわけで、日本糖質学会の窮状を救いながらこちらも研究費稼ぎが出来るという素晴らしい思いつきは、これ以上コミットするといろいろと面倒が起きそうなので、残念ながらここで断念しようと思う。
ただし、どなたか、自分の本を印刷出版(いわゆる自費出版のこと)したいと思っていないだろうか。日本の出版社に頼むと安くて100万円以上の金がかかる。ここで印刷するとペーパーバックの表装しか出来ないが、それでもともかく安い。原稿を受けとって、原稿一部を審査に出して(もちろん通る内容でないと困るけれど)審査結果を待って印刷して、それを日本に税関経由で発送して時間が掛かっても、問題あるまい。そしてなおかつ私たちも金稼ぎが出来る。
もちろん研究費にするために実費の2-3倍をいただくつもりです。それでも日本の半分以下ですよ。希望の方があったら連絡して下さい。