成田で乗った飛行機は北朝鮮の上を飛んで3時間掛けて瀋陽空港に到着した。北朝鮮の上を飛ぶときは何が見えるか興味津々で窓から下を見てみるが、実際は山の連なりだけしか見えない。
瀋陽空港に着いて飛行機のtaxiingが終わった途端に乗客のほとんどは立ち上がって通路を我先に急いで立ち並ぶ。実際にドアが開くまでの10分近く彼らは通路でぴったりと前を詰めて立っている。
これでもこの頃はまだましなほうで、以前はtaxiingの最中に立ち上がって荷物と取り出して歩き始める人がいて、さすがにその時は乗務員に怒られていた。ともかく中国人の乗客は先を急ぐ。人を押しのけても少しでも早く飛行機を降りたがる。
3年前に中国の国内線に乗って上海に着いたときは、着陸してtaxiingが始まったらもう皆立ち上がって通路を一杯に埋め尽くしていた。日常当たり前の光景なのだろう、乗務員はまったく制止する様子がなかった。
どうせ急いだところで、通関手続きをしたあと荷物の受け取りに時間が掛かる。瀋陽は大空港ではないけれど、あるいは大空港ではないからか、手荷物が出てくるのが遅い。慌てたところで意味ないはずだが、急ぐのはもう身に染みついた習性なのだろう。
通路に立った乗客が動き出し、後ろの人たちも減ってきたので席から立ち上がって後ろを見た妻が「あれっ」と言う。そちらを見ると先方も「やあ」と手を挙げている。薬科大学の日本語教師の多田先生だった。
多田先生は読売新聞社を定年退職したあと日本語教師を志し、中国の南の福健省で2年間日本語を教え、昨年秋からは薬科大学の日本語教師である。「もっと早く瀋陽に戻られると聞いていましたよね。今日一緒になったのでびっくりしましたよ。」と多田先生。
実際私たちは1週間前には瀋陽に戻って研究室を再開するはずだった。でも、私の病院の検査が入ってしまって予定通りにならず、春節休暇を1週間延ばしたの だ。研究室の学生にはその旨を連絡したが、もちろん故郷に帰っていた学生は大喜びである。彼らにとって家族が集まる春節休暇は大切な休みである。
瀋陽日本人教師の会で仲間だった小林先生に、日本にいるとき会った。「先生、日本に戻ってきて先ず食べたいと思ったものは何ですか。」と訊かれて「私は,そばです。真っ先に食べたいと思っているものは、日本そばなんですよ。」と答えた。
「小林先生は?」と尋ね返 すと「私もそばです。」という答えが返ってきてそのあとしばらくそば談義が続いたのだった。小林先生も私も関東人である。そばが好きなのは関東以北の人た ちである。多田先生に会ってふと思いついて「多田先生は日本に戻ったとき先ず食べたいと思ったものは何ですか?」と尋ねた。
「天ぷらです。」という答 えが返ってきた。「でもね」と多田先生。「帰って真っ先に天ぷらを食べたら、じんましんが出てしまってね、大変だったのですよ。」貝柱の掻き揚げがいけな かったらしい。私も魚を食べて、時にはじんましんが出ることがある。同じ種類の魚で何時も出るとは限らない。免疫機能は体調 によるように思う。物静かで品が良くって大人の風格がある先生なのに、中国にいる間中あこがれていて、やっと食べたらじんましんで苦しんだなんて、可哀相 に。。。
空港には、薬科大学の国際交流処に予め頼んでおいた迎えの車が来ていた。空港からは30分も掛からずに大学に着くことが出来る。まだ真冬の最中なのに、今日は気温が10度を超えているという。空はどんよりと暗く大分汚染されている感じである。日本の澄み切った青空が懐かしい。
大学に車が着くと構内にはもう結構な人影が溢れている。後期の始まりは3月3日だけれど、郷里から学生も大分戻ってきているらしい。私たちの学生もほとんど研究室に揃っているはずだ。見慣れた構内の風景で一つ変わっていることがあって、愕然とした。それは、大学の中の大木の並木であるドロノキが地上5メートルくらいのところで幹の下の 方だけ残して枝がすべて伐られていることだった。ドロノキ 「泥の木・白楊」は ドロヤナキ 「泥柳」、デロヤナギ、ワタドロとも呼ばれ、ヤナギ科の落葉広葉樹である。北海道及び本州中北部の寒地、樺太、千島、朝鮮、満州、シベリアに広く生育し、 北米のほぼ全域にも広く生育して大木になる。
薬科大学の風景と言えば、見事な大木に育つドロノキの並木なのだ。長年名前が分からないままに、中国暮らしの長い遼陽の渡辺先生が「満州ポプラと呼んでい ますよ」というのがぴったりに思えた。それ以来満州ポプラと私たちも呼んでいた、建物の5-6階にも届くという大木である。
それがすべて切られて太く短い幹だけになってしまった。どうしてだろう。薬科大学の見晴らしは一度に開けたが、この寒地で大木が育つ時間を考えるととても大事なものを失った気がする。情けないことに、薬科大学にはもう自慢できるものがなくなってしまった。
昨年の秋、三重県から産学官共同の視察団が瀋陽を訪れた。正確に言うと三重県にはメディカルヴァレーという構想が動き出していて、その将来の発展を図るため にその関係者が中国の各地の都市を訪れて、あちこちの大学、企業、政庁を視察見学した。その企画をした企業の人が知人だったので、私も呼ばれたのだった。
その日の午前中はその集まりに呼ばれて「中国人学生気質」という題で話をさせられたが、それについては既に書いた。中国の学生は元気に勉強に取り組んでいるが、どうしてそんなに勉強熱心なのかという分析をしたのだった。
午後には、視察団はいくつかのグループに分かれて行動し、そのうちの二つが薬科大学の生薬や天然物化学の研究室を訪問したあと私のところにも寄った。午前中会っているから表敬訪問をしてくれたと言うところだろう。
大学の先生たちは薬科大学を訪ねてきて、私たちの広い教授室に歓声を上げた。何しろ60平 方米あるのだ。東工大の応接室を含んだ学部長の部屋くらいある。前の中国大使は今では東芝の重役をやっているが、私と妻のクラスメイトである。それで中国 に来る前に東芝ビルのてっぺん近くにある彼の部屋を訪ねたことがある。豪華で広大な部屋だったが、今の教授室もそれに劣らない広さである。もちろん広さだ けの話だけど。
三重大学の先生たちと話していると、自然と朝の講演で触れた中国人学生気が話題となった。「中国ではそんなに学費は大変な額なのですか?」
いまの日本ではほとんどの 人たちが中流意識を持っている。以前の中流ほどは豊かではなくなったが、それでも大多数の日本人は子供を大学にやるのに苦労していないので、ここのところ は理解しにくい。中国の半分以上を占める農民にとっては、子供を大学に入れて次の世代からは別の暮らしをさせたいと思い、年収の13年分の費用を子供に投じるのだ。13年分というのは3年前の計算で、今では農民の収入は増えているという。しかしインフレも進んでいるから、構造的改革がない限り都市生活者と農民との差はなかなか埋まらないだろう。
先生たちといろいろ話をしているうちに「中国に暮らして今まで一番厭なことは何でしたか?」と訊かれた。「うーーーん」と私は絶句した。思い返してみて、何か厭なことがあったろうか。
そりゃもちろん、人が歩きながら痰を路上に吐くとか、郵便局で人の後ろに並んでいても皆が割り込んできていつまで経っても私の順番が来ないとか、好きになれないことはある。でも、一番厭なことというと思いつかない。
それで「私は妻と二人でこ こにいますから、お互いの間で、『今日もあの八百屋さんは道を汚していて厭だねえ。』とか『あの先生からまだ返事がないよね。何度催促しても返事を寄越さ ないことで、威張って見せているのかなあ。』とか言っていれば、それで済んじゃって、何も不満が溜まることはないですね。」と返事をした。
「実際、どの学生も老師思いで何時も親切に気を配ってくれているし、中国語が分からないで街を歩いていても、だれからも厭な思いは一つもしたことがないですね。これは日本と同じですよ。庶民はどこの国でも同じように誰に対しても親切ですよね。」
「それに、もし本当に厭で堪らないことがあったら、耐えることはないんですよ。厭なのを我慢して中国にいることはないのですもの。ここには自分の意志で好きで来ているのですもの。」
実際のところ、文句があれば何も好き好んで中国に暮らすことはないのだ。厭で堪らないことを耐えてまで暮らすことはないはずだ。私たちは中国にいることが楽しいのである。
私の隣の研究室には、もう十年以上中国に暮らしている日本人の薬理学教授がいる。彼は、毎年沢山の論文を出しているし、研究室に学生も30人近く面倒を見て大学のためにおおいに役立っている。彼は決して中国や中国人の悪口を言うことはない。しかし、自分は「日本で年金も積み立ててないから将来貰えないし、 日本の健康保険にも入っていない」と言う。
これは、私たちに比べて 「年金を貰うような定年後の気楽な人間とは違って、自分は苦労して中国で働いているんだ。中国で自分は真剣勝負をしているんだぞ。」と言っているように聞 こえる。でも、日本で暮らすことも出来ただろうに、それを捨てて中国暮らしを自分で選んだのだ。日本で出来なかったことをぼやくというのは筋違いというも のであろう。「将来日本で年金も貰えないし、健康保険にも入っていない」生活が厭なら、それの出来る生活を選択すれば良かったし、出来たはずだ。
私はこれを何度聞かされても、こちらに対する嫌みとは思わないことにしている。そして、彼にはぼやく相手が一緒にいないからだろうと受け止めている。「中 国で本当に良く頑張っていますね。」とこの先生を褒め称えている。実際、発表している論文の数はこの大学で一番なのだ。ろくに研究費を貰っていないことを考えると、実に凄いことである。
と同時に、何時も一緒にいて私のささやかなぼやきを聴いてくれる妻に、私は改めて感謝している。
iMac の24インチ画面、2.4GHz仕様は、15,900元(238,500円に相当)である。日本で買うのと同じ値段だ(MacStoreの税込みで 239,800円)。ということは、Macの値段は、中国ではWindowsPCに比べて、というか、ここでの暮らしの水準から見て大分高いことになる。
瀋陽薬科大学でいままで私は、3年前に日本で買ってきたMacMiniを使い、日本との往復に初めはMacMiniを持ち歩いていた。1年くらい経ったと きそれまで使っていた外付けのHDDが壊れたので(100Vでなくてはいけないのに、220Vに繋いで燃やしてしまった)、代わりのHDDを買ったら、こ れの回転数が7200 rpmで内蔵のHDDよりも回転速度が速い。外付けのHDDは本体にFire wireで繋いである。それでこの外付けのHDDから立ち上がるようにしたら、元のMacMiniよりも速くなって格段に使いやすくなった。いまでは日本 との往復に、HDDを持ち歩いてきた。
MacMiniを使い始めて3年経ち、そろそろMacMiniの処理速度の遅いのが気になり始めた。買い換えるなら、データを持ち運ぶ必要があるので、 MacBook Proにするか、iBookにするか考えた。MacBook Pro Airが最近出たけれど、これは二台目として持つならいい。最初の一台というのではパーフォーマンスが弱すぎる。
Note Book以外の選択肢では、持ち運べないけれどiMacである。このiMacは大変良くできている。持ち歩けないことを除けば、MacBook ProやiBookよりも、コストパーフォーマンスがいい。何よりも大画面というのが良い。日本に戻ると24インチのモニターを使っているので、大画面の 良さは身にしみて分かっている。しかもiMacのHDDは7,200 rpmで、MacBook Proは5,800 rpmである。HDDの回転数が速いほうが、その分優れているのもよく知っている
スペックを見比べているうちに、持ち運べなくてもよい、一番よく使う場所で、コストパーフォーマンスで最高に快適なMacを使いたい。と言うことで、上記のようにiMac MA878(CH/A)、24インチ、2.4GHzを選び、メモリーは2GBに増やすことにした。日本で買うと、MacStoreでBTOの注文でメモ リー2GBあるいは4GBに増やせるが、インターネットで調べた中国のMacStoreでは、そのようなことが出来ない。どうしたものかと思って、研究室 の学生でPCに強い陳陽くんに相談を持ちかけた。
すると今度は彼がいろいろと調べて来た。瀋陽にもMacの専門店があって、そこに注文すると、開封しないままMacを箱ごと運んできて、見ている前でメモ リーを増やしてくれるし、ソフトウエアもいろいろと入れてくれるという。メモリーを標準である1GBから2GBに替えると600元高くなる(日本円で約 9000円である。日本のMacStoreでメモリー2GBにすると、+117,600円である)。Apple care protectionに加入すると、+1,500元(約22,500円になる)である。と言うわけで、合計18,000元を払った。これは27万円に当た る。日本のMacStoreで買うと、273,610円だから、Mac製品はどこで買っても同じことになる。
実は実際に金を中国元で払ってみて愕然とした。このiMacを買うために日本から円を持ってきたので認識していなかったが、私の中国における4ヶ月分の月給を丸々注ぎ込んだことになる。
店からは二人の若い男女がiMacの箱を持って研究室に現れたのが朝10時頃だった。趙博さんという若い男性が箱を目の前で開封し、中からiMacを取り出した。「ワーーオ」見守るぼくたちの口から一斉に歓声が上がった。スマート。美しい。画面が大きい。趙博さんは先ずMacOSを立ち上げてから、一旦offにしてメモリーを取り替えた。次にHDDを二つに切って、一つのHDDにWindows Vistaを入れた。これは陳陽が交渉した店のサービスである。さらにBoot Campをいれると、Macからも、Windowsからもどちらにもrebootすることで移ることが出来るようになった。いや、これは凄い。それぞれ、 MacとWindowsPCを持って、その二台が一つにまとまっていることになる。店の人が2時間近く作業をして帰ったあと、陳陽がWindowsのソフトをいろいろと入れてくれた。Macは私がいままでに必要なソフトウエアは全部買い集めているのでそれを入れた。
さて、期待に満ちてスイッチを入れる。ゴアーーンといい音をしてMacOS10.5 Leopardが立ち上がる。これまでのデータはHDDに入っているので繋いでコピーしただけで簡単に移すことが出来た。3月5日以来私は至ってご機嫌に新しいiMacを使っている。新しいiMacはさくさく動く。高い買い物をしたのだから、精一杯このiMacを使いこなさなきゃ。今回の買い物にはiPod shuffle 1GBが一つおまけで付いてきた。谷村新司を入れて聴いている。 注文をしたら翌日iMacを持ってきた店の人に訊いたが、昨年1年でMacは300台売れたという。PCとは比べられないほど小規模にしても、それでも Macを買う人が中国にいるのだ。とても嬉しい。ちなみにiMacを購入した日は、インターネットに次の記事が載っていた。
【米誌フォーチュンが3日発表した「最も称賛される米企業ランキング」で、米コンピューター大手アップルが1位に選ばれた。記事は10日発売号に掲載され る。アップルは、デジタル音楽プレーヤー「iPod」やインターネット配信サービスの成功で若者らの音楽の聴き方を変革。同誌は「複数のアップル製品を購入するとより動作性が高まる」と各製品の連動性の高さを評価した。(2008年3月4日9時0分配信 時事通信)】
2007 年10月16日の人民日報サイト「人民網」によると、『科学技術分野における中国の人的資源は現在3500万人にのぼり、世界最大であると答えた。さらに 同分野における投資額も年々増加しており、2006年の研究開発費総額は3003億元(約4兆5000億円)に達し、国内生産総額の比重も2000年の 0.9%から2006年の1.42%への伸びを示した』(共産党第17回全国代表大会の記者会見における、李学勇中国科学技術部副部長の話)という。
中国でこの十年間に急増した大学はほとんどが理科系である。科学技術分野における中国の人的資源が多いのは分かるが、現在3500万人と言うのはべらぼう な人数である。こんなに沢山の科学技術者がいて、何をするのだろう。何をしているのだろう。薬科大学も毎年千人を超える薬学の卒業生を送り出している。
私の見るところでは、 彼らは教科書に書いてあることを丸暗記する能力は高いが、ものを考える訓練が殆どなされていない。学部を終わったら日本の大学院に入って研究をしたいとい う学生が結構いるが、こんな人たちが日本でやっていけるのだろうか、大丈夫なのかと思ってしまう。3500万人と言う科学技術の人的資源が、本当の意味で 中国の活力に貢献しているだろうか。
識者によれば日本の若者の評価もどんどん落ちているけれど、それでも理系の大学院に進学する学生はしっかりしている。教科書の丸暗記だけでそれなりの研究をやる人間になれるとは誰も思っていない。自分の頭を使って自分の研究を考えている。
最近、中国の大学の教授スタッフに対する痛烈な批判がインターネットに載っていた( Record China 20080303)。
『米コロンビア大学の化学博士で、中国科学院科学研究所の研究員でもある在米科学者の王鴻飛博士は1日、中国教育部と国務院学位委員会が9月に、博士課程の学位に関する調査を始めると発表したことを受け、自身のブログで「中国の博士と指導教員の90%がアメリカの三流大学でも不合格」と、学位のレベルの低さを批判した。』
『コロンビア大のレベルで言えば、中国で最もハイレベルな大学の博士と指導教員の99%が不合格であり、アメリカの三流大学でも中国国内の博士と指導教員の90%は学位に届かない』と 王鴻飛博士は痛烈に中国の教授連を批判している。
瀋陽薬科大学のレベルはどうだろう。全国100有名大学には含まれていないので、有名好きの中国人には無視されているが、薬科大学の科学研究のレベルでは中国上位の数校に含まれる。王鴻飛博士の基準によれば、中国のハイレベルな大学 でも99%の教員が不合格であるという。薬科大学には300人くらいの教授がいるとして、この見地で合格するのはわずかに3人、というよりも全員おしなべて落第である。
薬科大学では博士課程卒業のためには、発表論文2報が要求されるが、そのうち1報はSCI(Science Citation Index)で評価されているジャーナルに載ることが必要である。速報誌でもBBRCやFEBS Lettならこの要求を満たしている。と言うことは、もう一つはどこかの、つまり中国語でローカルな (厳密な意味でレフェリーがいない)雑誌に書くだけで良い。
こんな低い基準で博士の学位を出したら情けない。私たちの名折れである。それで私たちの研究室は別の基準が設けられていて、うちの学生には発表論文の2報 ともSCIで評価されているジャーナルに載ることを要求している。昨年夏博士課程を卒業した王璞くんはこの要求を満たした。BBRCとOncologyに 1報ずつ論文を書いた。現在あと2報の論文を書いている。
しかし今年博士課程を出る予定の学生は、2報以上書けるだけの材料がありながら、BBRCに1報書いて、あとは中国語の論文を何処かに投稿して博士号の請求をするつもりである。そんなレベルの低いことを言っては駄目と言ったが全く通じない。この大学で他の人がそれで博士号を貰っているのに、自分が何故駄目なのかというわけだ。
低い基準を認めれば、王鴻飛博士が『研究が不十分な段階での学位乱発により学位レベルが低下し、研究者も中途半端なままで学位の看板だけを背負うことにな る』と言う通りである。このようにして実力もないのに『学位を持つ者は虚勢を張り、謙虚に学び研究分野へ貢献する気風も失われる』と指摘している。よく分 かる。知識も足らず、自信もなければ、人の研究に何も発言が出来ない。ただ周りに威張っているだけの人間になる。
科学技術のレベルを高めるためには、先ずここでは薬科大学の教授も学生も考えを改めなくてはならない。しかしこの低い基準でよいと思っている人たちに、私一人で考えを変えさせることは無理である。自分のところの学生一人すら説得できないのだ。
何時になったら、この流れが変わるだろうか。私は中国の立場に立って憂えている。しかし一方で、この風潮が改まらない限り、日本が中国に負けるかも知れないと心配することもないわけだ。
今学期から水曜日は、研究室の学生の一人一人のインタビューの時間で、3月12日のこの時はちょうど私たち二人で暁艶さんの研究の進展具合を検討しているところだった。ドアにノックの音がして「請進」と言うと、入ってきたのは王璞くんだ。
にこにこと満面の笑みをたたえていて「先生」という。そうか、と直ぐに思い当たった。「出たの?」と訊くと、「今朝ビザを貰いました」と返事をする。やっと、米国行きのビザが降りたのだった。嬉しさ満面の笑みが止まらない。「とうとう出たのね。おめでとう」と妻が言う。
王くんは2004年秋から私たちの研究室の博士課程に進学した学生だった。修士課程を別の生化学の研究室で終えたあと私たちのところに来て、初めは先方の 研究テーマを共同でやる予定だった。しかしそのテーマに問題のあることが分かって、彼の博士課程のための新しいテーマに切り替えたのは、初年度も半分以上が過ぎた2005年5月初めのことだった。
修士課程と全く別のテーマで博士課程の研究を始めて3年間で終わるのは、一般的に言って大変困難である。けれども王くんは、新しく別の研究室に来て、しかも2年と一寸の時間で博士号の請求にふさわしい研究を仕上げたのだった。これは彼が寸暇を惜しんで実験に精を出したことと、自分が何をやっているのか自分の頭で何時もしっかり考えていたからである。
博士号の申請時期までに彼は二つ論文を書き、一つはジャーナルに直ぐに受理された。一つはレフェリーが追加実験を要求したので博士論文申請時期までには間に合わなかったが、受理は時間の問題であることは分かっていた。
薬科大学の学位要求の基準は、2報の論文を出版していて、そのうちの一つはSICで評価している雑誌に出ていればよい。この基準はあまりにも低いので私た ちの研究室では、最低2報がSICで評価している雑誌に出ていなくてはいけないと言う基準が設けてある。王くんの場合には、期限までには一つしか確かでな いので、大至急中国語の論文を書いて手近の雑誌に投稿した。そうこうしているうちに、もう一つの論文も受理されるという見通しだった。
学位審査は2007年6月に行われ、一方で私は7月に台北で開かれた国際学会に招かれた時に、王くんの業績を中心に研究報告をした。
私の講演の最後に研究室メンバー全員の写った写真をpptで 見せた。「いま話した仕事を主にやったのはこの王くんで、彼は学位をこの夏に取ったあと、中国以外の国でポスドクの仕事を探しています。どなたかポジショ ンの心当たりはありませんか?」と尋ねた。ここは糖質科学の研究シンポジウムで、世界中の匆匆 たる研究者が集まっていた。誰かからポジションのオファーがないかと期待したのだ。
私の講演が終わると直ぐに会場にいた一人が声を掛けて来た。彼が言うには「この秋には自分の研究室でポスドクのポジションが取れるので、これに来る気はあるだろうか?」と言うものだった。彼は米国東部にある名門大学であるThe Johns Hopkins Universityの若い教授で、リンパ系の細胞が身体の中でどのようにして認識されるかという研究の中でとりわけ良い業績を挙げている。
初めて個人的に彼と話した。彼はギリシャ出身で、19才の時に米国に渡って、それ以来アメリカで自分のキャリアを築いてきたという。まだ40歳台前半の若い人であること、品がよいこと、業績が良いこと、色々と言葉を交わすほどに彼のことが気に入った。良いでしょう。中国に戻ったら王くんに話してみますから、あとは二人の間で話を進めてくださいな。
就職の希望だから双方の考 えが一致することもあるし、しないこともある。学会のあと王くんにメイルを送り、詳しいことは会ってから伝えた。インターネットで分かることだけでなく、 彼の風貌、様子、印象も大事な要素である。「どうですか。王くんが良ければ、私はあなたが彼のところに行くことを薦めます。」
王くんはそれで先方にメイ ルを書いて自分がポスドクとして留学したいことを伝え、先方は色々と質問を書いてきて二人の間でメイルのやりとりがあった。最後に先方は、王くんに直接電 話を掛けてきてそしてその時のインタビューに基づいて、王くんをポスドクとして受け入れることを決定した。昨年9月のことである。
先方から王くんのところに招待状と手続きに必要なこちらの大学が発効する書類、ビザ取得のために王くんの 書き込みが必要な書類が送られてきた。中国からポスドクを呼ぶために先方の大学が出す許可(これで中国にある米国領事館でビザの申請が出来る)が出るのに 2ヶ月掛かった。12月終わりに在瀋陽米国領事館にこの書類を持って行ってビザの申請をした彼は、「2月1日が領事館の面接です」と言って報告に来た。
そうなると春節休みの間にビザが出て米国に行ってしまうと思われ、私が瀋陽を休暇で離れる前に会ったとき、「何時かまた何処かで会いましょう、どうか元気でね」と言って別れた。
ところが実際に許可が出たのは面接から6週 間もあとだったのだ。さんざん待たされたから慶びも一入に違いない。部屋に入ってきた王くんに、ビザがやっと取れて米国に向かうことになった彼に改めてお 祝いを述べた。彼は私たちの指導に心底から感謝しているようだが、私たちも王くんが私たちのところに来てくれて本当に嬉しいことだと感謝している。「米国 での研究が終わったら、きっと必ず中国に戻っていらっしゃい。」
「今は留学した中国人の15人のうち1人位しか中国に戻ってこないという話しですよね。そしてこの国の大学の教授のレベルの低さと言ったらひどいものだと言って世界中の話題になっています。」
「薬科大学を巣立っていく学生は、もうこんなところには戻る気はないと言って出ていきます。そうかもしれない。でも、質の高い研究者が中国に戻って来て自分の研究を始めて、そして本気で学生を育て、全体の研究のレベルアップを図らないと、中国の将来はないのですよ。」
「アメリカに行くとそちらの暮らしが遙かによいと思うようになるかも知れない。しかし、国を良くするために自分を役立てようと思って、中国に必ず戻ってくると約束して欲しい。」
私は彼に贈る最後の言葉として熱弁を奮った。王くんは、「必ず戻ってきます」と私に約束を返した。王くんのように優秀な人が米国のJohns Hopkins大学でさらに研究経験を積めば、確実に信頼できる研究者になる。彼が戻ってくれば、それがこの薬科大学かどうかはわからないが、きっと間違 いなく中国はよい方向に一歩を踏み出す。王くんが部屋に訪ねてきたときに私たちと話していた暁艶はそのまま私たちの横にいて、私たちの会話を聞いていた。 約束の生き証人である。
「私たちがまだここにいるうちに米国から戻ってきて欲しいものですね」と私は最後に王くんに言った。そんなことはあり得ないかも知れない。私たちが何時までここにいられるか誰にも分からない。
夕方の7時頃うちに帰ろうとして貞子と教授室の外に出て部屋の鍵を掛けているところへ、修士課程2年生の暁艶さんが来た。息を切らせている。この5階まで駆け上がって来た様子だ。
「先生たちに警告に来ました。はあ、はあ、はあ。」彼女は大柄で、つまり私よりも10センチくらい身長があり、普段からジョギングをして身体を鍛えている。印象としては女戦士である。伝説上のアマゾネスのように逞しい。それがこの息の荒さだ。よほど急いできたに違いない。
「1階でエレベータを待っ ていると2階から篭が下りてきて、乗っている人が言うには上に行くつもりだったのに下に来てしまったそうです。このエレベータは時々おかしいので、なるた け乗らない方がいいですよ。」彼女が英語で急いで話すものだから、私は2階からエレベータが落ちてきたのかと思ってしまった。日本でのエレベータの事故が 喧伝されたので、エレベータは 危ないものと言うことを認識している。扉が開いている間は絶対に動いてはならないはずなのに、それが動いて少年を殺してしまった。どんな思いでこの少年は 身動きできない自分に迫る死を見つめただろう。考えただけで身震いがする。
あの事故を起こしたシンド ラー社は世界に冠たるメーカーのようだ。しかしインターネットをみると、先日の事故のあと、香港で1件、アメリカで1件の死亡事 故が報告されていると書いてあった。その真偽のほどは分からないが、少年の事故のあとの様々の報道では、エレベータの事故は非常に多いらしい。コンピュー タ制御のエラーと、機械動作の誤差とが相まって、段差が狂うのは良くあることだし、扉が開かず別の階に行ってしまうことも時々あるみたいだ。
「エレベータがおかしい?日本でも大きな事故があってね。扉が開いているのに篭が動き出して、建物と篭に挟まれて16歳の少年が圧死したんだって。この大学でもよくこんなことがあるの?」と訊くと、「そういう話です。大事故はないけれど、操作の通りにならないことは始終あるようです。」と暁艶。
こう言われてみると、せっかく階段を駆け上がってきた暁艶の目の前で、エレベータに乗るわけにはいかないので、私たちは歩いて階段を下りた。5階分だが意識でこだわっていると長く感じられる。私はわずかながらも身体を鍛えるために何時も毎朝階段を上るし、帰る時も階段を使うが、妻は身体が弱いのでもっぱらエレベータである。普段は階段を下りることもないので、階段を下りて歩くのもたどたどしい。
最近読んだ本に、ジェフェリー・アーチャーの本「FALSE IMPRESSION(ゴッホは欺く)」があった。本のメインの筋書きには直接関係がないけれど、911のテロのあった当日、飛行機の突っ込んだあとのツ インビルの北タワーから階段を下りることになった主人公の描写があった。航空機の突っ込んだ90階くらいよりも下にいて非常階段でビルを下に降りた人たち は、この今私が歩いている階段の16倍の長さを下りなくてはならなかったのだ。想像を絶する緊張の時間だったに違いない。階段が空いているわけではない。各階から合流してくる沢山の人の間を押し流されるように階段を下りながら、下から駆け上がってくるNYFDの消防隊員たちとすれ違う。長い階段を下りた人 たちの何人かは助かった。このように下から階段を駆け上った消防隊員は、すべて建物の崩壊とともに犠牲者となった。読みながら当日の状況に思いを馳せて胸 が痛んだのを、階段を下りながらまた思い出す。
言う作業に直接向き合っている。生きるために自分のしていることがそのまま他の人の役に立つことは、文句なしに素晴らしい。
人は自分の意志で生まれてきたのではない。にもかかわらず、自分の生を生きなくてはならない。何故生きているのかを問わなくても時間は経つ。生きる目的を探しているうちに一生が終わることもある。
私はどうだろう。研究をすることの意味を考える間もなく、それで時間が経ってしまった気がする。自分のしたいことをしてきたとしか言いようがない。研究をすることで研究論文は書いてきたけれど、自分のやってきた研究が直接社会のために役立ったとも思えない。
それでも幸いなことに、い まは中国にいて、春秋に富む学生を相手にして彼らの成長を助けている。いままでやってきたこと、彼らと一緒に研究をすることが役に立っているという確かな 手応えを感じている。ありがたいことである。私一人なら、いまエレベータが墜落する事故に出合っても悔いることは全くない。
3 月18日の火曜日、私たちは日本で用事があって瀋陽から成田行きの飛行機に乗った。瀋陽飛行場では、手荷物のチェックインをする前に一般の見送り人と分か れて特別区画のゲートの中に入る。これが日本と違う。そして今までは、貴金属を持っているかとか、金(中国元や外国の紙幣)を沢山持っているか,5千元以 上のPCなどを持っているかなどの申告書を出す事になっていた。
今までのように特別の区画に入って一般と分かれるところは同じだが,今回は税関申告がなくなっていた。それで航空会社のチェックインカウンターに直行でき た。 東京行きのチェックインは 数カ所に並んでいたが、そこに近づくと若い男が「東京行きですか」と日本語で訊いてきて、あそこの列が空いていますよと手を挙げて指し示してくれた。無愛 想そのものだった空港が様変わりだ。
カウンターの女性もさっさと手続きをしてくれる。あっという間に搭乗券を渡してくれて「一寸待って」という。チェックインした手荷物をX線で透視して検査している間待てと言うことのようだ。それも直ぐに終わって,私たちは晴れ晴れと気持ちよく出国審査に向かった。オリンピックさまさまだ。
そこでベージュ色で袖に紅い線の入っている同じジャンパーとズボンを穿いた沢山の人たちが行列しているのに出合った。
二列になって出国審査に向かっているのに,審査台に立っている係官は一人なので最後には一列にならざるを得ない。絶対にお前を入れないという表情で前の人 にぴったりくっついている右の列のおばさんに,私は「一列ずつでしょ,交互に順番にね」と英語でにっこりしていったら、すんなりと私を入れて私の後ろに付いた。ともかく今日は異常に人が多い。
そしてこの人たちは東京行きの便に乗るらしく私たちが行ったゲートの近くが大勢の人たちで混み合っている。このベージュのジャンパー姿の人たちはたいていが坊主頭で若いが,皆が皆若いわけではない。女性も数人混じっていた。引率らしい人は恰幅の良いおじさんである。
登場時間が来て飛行機に乗り込むのは、私たちはいつものように最後である。乗ってみるとこの飛行機はいつもの真ん中に通路があって両側3人ずつのエアバス 321ではなく、広々としている。あとで分かったが,これはエアバス300で、窓側に2人、真ん中に4人、そして窓側に2人という大型航空機だった。 300人乗りかなあ?今日の乗客の増大に合わせて,飛行機を大きくしたようだ。
私たちは真ん中の席の、しかも真ん中で両側のどちらにも、ジャンパーくんが座っている。私の隣のジャンパーくんは、教科書らしきものを拡げて日本語らしきものを呟いている。
瀋陽日本人教師の会の盟友 だった南本先生や加藤先生が岐阜県の日本語研修所で日本語を教えたという話しが頭に浮かんだ。きっと日本語研修生なのだろう。飛行機が飛び立って水平飛行 に移ると直ぐに飲み物、そして食事となる。食事が済むと私の隣のジャンパーくんはまた教科書を拡げている。
私の左にいた妻が,私の右 側のジャンパーくんに突然話しかけた。「それ、日本語を勉強しているんですか?」ジャンパーくんは妻の質問が直ぐには分からず,どぎまぎしている。妻は 「日本語なんでしょ?」と聞き直す。それでも彼のどぎまぎは消えない。妻は彼の持っている教科書を指さして「日本語?」とゆっくり と言った。ジャンパーくんはやっとホッとした顔になって「ドイドイ」と返事した。これは日本語の「はいはい」のことである。
これを手始めに日本語中国のチャンポンの会話が飛び交って、ジャンパーくんたちは農業研修生であることが分かった。右隣のジャンパーくんは,その中の代表 で、先ほどからぶつぶつと呟いていたのは、研修所に到着したときに彼が全員を代表して挨拶をすることになっている挨拶文の練習だった。
その挨拶文を見せてくれ た。「私たちは農業研修生として、南牧村に七ヶ月滞在してお世話になります。お父さん、お母さん、そして関係者のみなさま方、私たちはいろいろのことがよ く分かりませんので、一生懸命勉強します。どうかよろしくお願いします。」というような挨拶文だった。どこで言葉を句切ったらよい かも書き込んであった。おかしなところは一寸だけ直してあげた。
「日本のどこに行くんです か? 南牧村はどこにあるのですか?」と、今では吉林省出身の馬英宇くんと分かっている彼に聞いてみた。彼は教科書を一所懸命探して長野県という字と読みの書い てあるページを見つけて指し示してくれた。そうか、長野県なのか。長野県も昔は満州と呼ばれた地域に、国策に沿って侵略のための片棒を担がされて満蒙開拓 団を送ったところだ。今はこのような形で中国の農業を助けているのか。いや待てよ、企業研修生みたいに、日本の人手不足を補うための研究生なのだろうか? でもこんな込み入った話をするにはジャンパーくんの日本語はつたないし、私たちの中国語はもっと幼い。
成田に着くと彼らは入国審査の前に大きな一団となって何か指示を受けていたのでもう会う機会はなかった。入国審査を通って手荷物を受けとり税関を通って外に出ると、A3位の紙に「チベットからの帰国者の方とお話ししたいです-NHK-」と書いた紙を掲げた記者風の人たち、それぞれにカメラ、ビデオカメラ (今でもデンスケと言うのだろうか)を抱えた10人くらいの人たちが日本入国者を待ち受けていた。
チベット情報が入りにくいためだろう。中国経由の帰国者に誰かいないかとこうやって張っているに違いない。私たちは接続バスを待ってこの近くにしばらくいたが、私たちの帰国便にこのような人たちはいなかったと見えて、やがてこの記者風の人たちは散っていった。
中国にいる間は全くチベットの話しに接しなかったので、いきなり世界の嵐の中心に触れた感じだった。
こ のたび日本を訪れたのは3月19日に名古屋で「高橋禮子先生を囲む会」が開かれ、それに呼ばれたからである。高橋禮子(のりこ)先生は今年で80歳にな り、研究の現役から引退すると表明されたので、彼女の功績を記念する会が名古屋市立大学薬学部・加藤晃一教授の主催で開かれたのだった。
高橋先生は昭和23年、今のお茶の水女子大学の前身に当たる女子高等師範学校を卒業した。折しも戦争に負けた日本は教育の機会均等を唱えて大学がそれまで女子に対して閉ざしていた門戸を開き始めたところだった。
高橋先生はそのあと名古屋大学工学部に入学し、昭和26年めでたく日本初の女性工学士として卒業した。どうして工学部を選んだのかと聞かれると、答えがふるっている。目立ちたかったからですよ、と。
女性に門戸を開いている学部としては東北大学などがあるが、どれも理学部あるいは医学部だった。名古屋にももちろん理学部と医学部はあったが、どちらを出 ても女性としてはもう珍しくない。工学部でなければ日本初というのが付かないので工学部を選んだという。まだその頃名古屋大学には経済学部も法学部も出来ていなかったということだ。
何故目立ちたかったか。高 橋先生は8人の女性の姉妹の中で育った。女の子ばかりのなかで親が始終娘の名前を呼び違えるので、高橋先生は親にちゃんと名前を覚えて貰うには特別なこと をして目立つしかないと思ったと言う。彼女の父親は、戦後の名古屋の復興都市計画を手がけ、今の百メートル道路に代表される近代 都市に名古屋を変貌させたことで名高い佐藤正俊市長である。
高橋先生は名古屋市立大学薬学部に就職し、名古屋大学理学部に移り、そして名古屋市立大学医学部で助教授の時に教授の村地孝志先生が京都に移って教授が短 期間だが空席になった。だから何の研究をしても良かった。彼女はアーモンドの抽出液で糖鎖を切断する酵素を調べていて、タンパク質と糖鎖の間を切断する アーモンドグリコペプチダーゼをたまたま発見して、単名でこれを発表した。1977年のことである。
それまで見つかっていた糖の分解酵素というと、糖鎖の端から一つ一つ切っていく酵素だった。もちろんこういう酵素も大事で糖鎖の構造を決めるための大事な道具となる。つまりこの時代はこのように道具になる酵素を探す研究が盛んに行われていた時代である。
高橋先生の使ったアーモンドにはこのような酵素も沢山入っていたが、切れてきた糖の分析をしてみて、糖鎖を根元から切ってタンパク質から切り離す酵素があることに気付いた。このような酵素はそれまで知られていなかった。
タンパク質に付いている糖鎖をそっくり根本から切ってしまう酵素は世界で初めての発見だった。アーモンドにとってこの酵素を持つことはどういう意味があるかは今までも分からないが、このような酵素があれば、糖鎖の構造解析に使える。
しかしどのように使うか?ここから先が高橋先生の凄いところである。
私たち哺乳動物が使っている糖の種類はグルコース、ガラクトースなど大体7種類しかない。アミノ酸の20種類に比べればはるかに限られている。しかし、結合の仕方が多様なのでこの7種類の糖鎖から出来てくる糖鎖には無数の種類がある。N型糖鎖に限っても現在分かっている構造は500種類を越えるが、もっと あるだろうと思われている。
タンパク質に付いている糖鎖の構造を調べるのは、それぞれを単一なものに精製した上で、どんな糖がどのような付き方をしているかを調べるのだが、大変な労力がいる。
高橋先生は、糖鎖を構造が違えばHPLCというクロマトグラフィー上での挙動が違うことを見つけた。言ってみれば指紋のようにその構造に特有の位置が違うので、一旦構造を調べておけば、今度は位置から構造が推定できる。 HPLCが1種類では十分に分離は出来ないので、2種類の原理の違うHPLCで分けて位置を記録すると、XYの座標軸に溶出位置を書き込むことが出来る。 それで高橋さんは糖鎖構造解析二次元マッピング法とこれを名付けた。
グリコシダーゼは彼女の50歳の時の発見である。その後定年になるまでの10年間、そして定年後の20年間、この酵素を使って糖タンパク質から切れてきた糖鎖の構造を調べる一方でこの二次元マッピング法にその位置を記録し続けた。
糖鎖の構造はグリコシダーゼで分解して構造を決めるだけではなく、東大の荒田洋治先生の協力を得てNMRを用いて構造を決めた。Johns Hopkins大学のYC Lee先生は糖鎖構造の違いがHPLCの分離に反映する理論的根拠を与えた。
今やこの二次元マッピング法は、シアル酸の付いた糖鎖の分析も出来るので三次元マッピング法といわれるし、硫酸の付いた糖鎖構造分析も加わったので、糖鎖構造解析多次元マッピングと呼ばれるようになった。
高橋先生が始めたこの方法で多くのお弟子さんが育つ一方で、 世界中で沢山の人たち使い始めた。研究の初期にはいろいろな妨害があったけれど、今やこの方法は糖鎖構造決定のデファクトスタンダードとなったのである。 この日は、お弟子さんたちが学術講演をし、高橋先生が研究回顧を行い、荒田先生、Lee先生、私がお祝いの言葉を述べた。名古屋地区だけではなく、京都、 東京からも糖の研究者が沢山集まって、高橋先生の偉業をたたえた一日だった。
昔10年近く暮らしたので名古屋は懐かしい街である。私たちが結婚をして名古屋に来たのは1962年で、名古屋最初の地下鉄が名古屋駅から池下まで動いていただけだった。私たちの住むことになった本山あたりは折しも地下鉄建設真っ最中だった。
何しろその頃の名古屋で「駅」と言ったら、名古屋駅のことを指していたのだ。東京の感覚から言うと戸惑いを覚えたものだったが、確かにほかには駅がなかっ たのだ。「駅」前には「大名古屋ビルヂング」や「毎日ビル」があって、休みの日はその地下街に行くのが楽しみだった。だってほかに何もなかったから。しかし私の記憶では、地下街が 発展したのは日本では名古屋が最初だったと思う。東京から名古屋に行って、「駅」前の地下街に驚いた覚えがある。
今の名古屋駅前周辺はすっかり変わった。どの建物も建て替えられて、高層ビルが林立している。しかしその中で、「大名古屋ビルヂング」だけが昔のままであ る。今回は地下街を歩く時間はない。タクシーで通り過ぎながら名古屋の変貌を眺めるだけである。ちょうど駅前から乗ったタクシーの運転手さんが私と同じような歳なので、つまり昔の名古屋の話しをしながら名古屋市立大学に着くまでの道中を楽しんだ。
名古屋の道は広すぎて道の 真ん中しか舗装されていなかった。本山から名古屋大学を貫通して八事に抜ける道もそうだった。舗装されていない道は名古屋の強い風で埃を舞い上げた。当時 の石原裕次郎の歌「白い街なごや」は、木が少なくて白い街であり、建物は道の埃をかぶって白い街だったのだ。
「高橋禮子先生を囲む会」のあとの宿泊はヒルトンホテルだった。名古屋の目抜きの大通りに面して建っていて、駅にも近い。このホテルの一室から名古屋を俯瞰できる楽しみがあったのに、3月19日は名古屋に着いたときから雨が降っていた。名古屋駅の高層ビルも何もかも雨模様の中に隠れてしまい、残念なこと だった。
名古屋に泊まった翌日、名古屋大学時代の友人に会った。宮崎正澄先生とその奥様のなほみさんで、私たちが名古屋に行って以来の長いお付き合いである。今は名古屋大学を退職して、岐阜で一駒の講義を持ちながら、本業のお寺の住職に忙しい。
私たちが東京に移ってからは、名古屋で育って結婚して根を生やした私たちの娘一家が、引き続きお付き合いというか、正確に言うと大変お世話になっている。 始終遊びに行ってご馳走になっているだけでなく、年末には必ずお寺の餅つきに行っているし、除夜の鐘も一緒に撞いているみたいだ。娘にとっては近くにいない私たちに代わる親代わりとなってくれている。今は娘の子供たちを相手におじいさん、おばあさん役を務めている。
つ いこの間も、一番上の男の子が大学入試に通ったとき、直ぐに本人が宮崎さんに電話を入れたそうだ。「へえ、あの子が、自分でもうそんなことが出来る歳に なったのか。」と、聞いて嬉しかったが、おじいさんに嬉しい電話をするのは当たり前といえばその通りである。二人に会ったのは久しぶりだった。なほみさん とは3年前に名古屋で会った。宮崎さんには中国に行ってから会っていないからかれこれ5年以上になる。ちっとも変わっていない。話しはどうしても中国はど うですかという話しになる。
折しもギョウザ事件があり、会う人はすべて中国の食べ物に関心が高い。前夜の集まりであった研究仲間 のほとんどは、口が悪い。「山形さん、元気そうじゃない。メタミドフォスをとり続けると、そんなに元気になるんだね。」なんて言う。温厚なお寺の住職である宮崎さんは、さすがにそんなひどいことは言わない。でも、食事なんかどうしているんですか、といろいろ聞いてくれる。
考 えてみると、別に食の安全を気にしているわけではないが、外で食べることが大分減ったような気がする。家楽福(カラフールというスーパー)で野菜を買って くると、食べる前に野菜はすべて中華鍋一杯の湯の中で沸騰させて熱湯に溶けるものを洗い流している。もし農薬漬けの野菜なら、長時間流水で洗ったって、特 別な洗剤を使ったって除けるものではない。特別な洗剤を使ったら、今度はそれを取り除く心配をしなくてはなるまい。熱湯による抽出が一番良いはずだ。この 時使う水が汚染している?そうなったらもうお手上げである。ま、その時はそれまでのこと。腹をくくって私たちは中国暮らしを選んだのだ。
こ のホームページに私は中国で暮らす喜びや、驚き、当惑を包み隠さず書いてきている。日本の大学にいた頃は、教授というのは大体が管理職である。研究の方向 をすべて握っているにしても、実際の研究は、学生が行い、助手か誰かが指導している。つまり研究の現場を遠く離れて過ごしている時間が教授職である。しか し今は、学生と直接研究の話しをしている。ひとりひとりの学生の実験の指導をし、実験結果を彼らと一緒に検討し、次に何をやるかを指示している。
つ まり自分の手は直接動かさないものの、自分の頭で考えて実験をやっているようなものだ。こんな思いは何年ぶりだろう。こんな楽しい思いはすっかり忘れてい たのだ。退職して研究から離れている宮崎さんにこんなことを言うのは済まないと思いつつ、それでも研究の現場にいて今どんなに幸せかと強調せずにはいられ なかった。宮崎さんも一緒に喜んでくれて嬉しかった。
集まりに出席したために名古屋で一泊して、午前中は名古屋にいた時の友人に会い、午後からは神戸を目指した。神戸というのは今まで学会で一度しか行ったことはないが、瀋陽薬科大学で日本語を3年間教えていた加藤正宏さんが、眉目麗しい文子夫人と住んでいる。
加藤さんは 瀋陽薬科大学で顔を合わせるだけではなく、瀋陽日本人教師の会でも一緒の仲間だった。加藤さんのことは折に触れて色々と書いてきているが、現役の頃は高校 の世界史の先生だった。世界史の中でも特に東洋史、東洋の近代史、中国の近現代史に造詣が深い。中国の東北三省は昔の満州なので歴史の沈黙の証言者である 建物があちこちに残っている瀋陽は、彼にとっては宝の山だったといって良い。
加藤さんは授業のある週日 以外は、 何時も土日は頭陀袋を肩に引っ掛けて街を歩いて建物を探して歩き、そして古書市をあさって、昔の教科書、紙幣、篆刻のための石、宝物を買い集めるのが日課 だった。私たちも彼のおかげで瀋陽の街を歩いた。上を見上げて建物のひさしに残る満鉄マークを眺め、下を見てマンホールの蓋を探し満鉄マークを見つけて歩 いたものだ。加藤さんが瀋陽に来て直ぐ、彼が今までに貨幣のことでエッセイをあちこちの雑誌に発表しているのを知り、文を書くのもお手のものだということ を知った。
それで、瀋陽教師の会のホームページに「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」というコーナーを設けて、ここに彼のうんちくを傾けた記事を書いて貰った。2004年の秋 からである。加藤さんが書いた原稿とさらに彼の撮った写真も、私が編集してホームページに載せた。これは評判が良かった。たちまち、教師の会のホームページの目玉と なった。 これを2年続けたが、やがて何時かは私もホームページから手を引くかも知れないし、加藤さんが瀋陽を去るかも知れない。その時加藤さんが自分でホームペー ジを運営できるようにしておかないと、誰が困ると言って加藤さんが一番困る。熱心な読者にも気の毒なことになる。
それで2006年秋からは彼のための 新しいホームページをYahooに登録して、 ここに今までの「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」を移し、その先はここに自分のホームページを作っていくように「懇切丁寧に」教えた。何度も彼の疑問に答えた。 巣立ちの助走期間が1年近くあって、加藤さんは昨2007年夏薬科大学の日本語教師を辞任して神戸に帰った。
彼が日本に行ってホームページ作成が独り立ちしてからも、ときどきメイルで質問が来た。やがてYahooの無料ホームページの限界の50MBが一杯になり、また別のドメインを取得して、そこに新しいファイルを置いて彼のホームページは充実していった。
それでも時々質問が来る。たいていは解決する。しかし、どうにも答えられない質問が来た。つまり何が問題なのか分からないのだ。加藤さんはPCに詳しくない。例えばファイルとかフォルダーという言葉の概念が分からない、ということも原因だったのだろう(これも今回分かったのだったが)、彼の本当に知りたいことが私には分からないのだった。私に伝わらないのだ。
それならちょうど良い。名古屋から東京に戻る前に神戸に寄って加藤さんに会っていこう。直接話せば何が疑問か分かるだろう。ただし日本で残された日は金曜日の一日だけになるので、木曜日中にはどうしても帰るけれど。
加藤さんからは連絡用に電話番号を一つ訊いておいただけで、私は神戸に向かった。着くまでの間、加藤先生のうち一帯の電話が故障して電話が不通になったと か、色々大変なことがあったらしいが、ともかく午後3時17分に新神戸に着いた。駅の出口には加藤さんの姿があった。懐かしい。早速車に乗せて貰って彼のうちに向かう。神戸大地震のあったところだ。説明を聞きながら胸が痛む。
やがて到着した彼の瀟洒な二階建てのうちは、須磨の高台にあり、お天気なら明石大橋も瀬戸内海も指呼の間だという。
加藤さんのうちに到着したとき、私がこれを機会に歌の本を渡したいと思っていた彼の教え子の「うさぎさん」が私を待っていた。彼女は恩師である加藤さんの 「瀋陽史跡探訪」を見ているうちに、たまたま私のホームページを覗いた。そこで掲示板に書き込みをしてくれたので、それ以来季節にはメイルのやりとりをしている。
瀋陽日本人教師の会では昨 年「歌の本」を作った。非売品だけれど、賛同してくださる方には原価以上の対価で分けている。余剰金は教師の会の活動基金にしようとしているのだ。ネット のお付き合いだったけれど、「うさぎさん」には是非お願いしますと、事前にお願いしておいたのだった。加藤さんのお宅に本を置い ていくつもりだったが、呼びつける形になってしまった。お彼岸の休みに本当は実家に行くはずだったのに、計画を変えてここに来てくれたという話しだ。休日 の予定を変えさせてしまって申し訳ない。
初対面の「うさぎさん」と挨拶以上の話をしたいけれど、加藤さんのうちには用事で来ていたのだった。無理である。2冊の歌の本を渡して二千円を戴き、挨拶を交わしただけで、加藤さんのうちを辞去する彼女を見送った。短時間の出会いだったが、「うさぎさん」が実体を持つことができた。笑顔の(会っている間 中、彼女の笑顔しか見なかったのだ)気持ちの良い女性だ。会えて良かった。
二 階の彼の仕事部屋に上がって、彼のPCを使いながら色々と話しているうちに、やっと問題点が分かった。サーバーに作るindexと名付けるページは、自分で作ってindexと名付けると言うことが分かっていなかったのだ。そういえば最初に彼のホームページを作ったとき、ともかくひな形を作って、それに私が indexと打ってしまったに違いない。どうすればこれが作れるかが彼の一番の悩みだったのだ。会って良かった。会って話し合わなければ、こんな簡単な問 題も、何が問題なのかが書き言葉のやりとりだけではなかなか分からないものだ。
ホッとしたところでPCと2時間を過ごしていた。下に降りて文子夫人の心づくしの料理をご馳走になる。瀋陽でご馳走になったときと変わらないおいしさであ る。心がこもっている。文子夫人は素直で、率直で、可愛くて、話しているととても心地良い。二人を相手に、半年会っていなかったことなんて、互いにどっかに置いて話が弾む。
新神戸の駅で加藤さんと顔 を合わせて以来、何度も「ね、ぜひ見ていって下さいよ、私の別宅を」と言われていた。しかし、もう大分遅いし今日中にうちに帰るのだからもう失礼しなく ちゃと思っているのに、加藤さんは「じゃ一寸だけ、見て下さいね」と行って私を連れ出した。「団地を真っ直ぐ突っ切れば5分もかか らないから」と加藤さんは文子さんに何度も言い訳をしている。
「もう、何時もこれなんだから。時間がないのに、言いだしたら聞かないんだから。おまけに5階まで上がるんですよ。」とは文子さんの弁である。わがまま亭主には、私の妻と同様に、すっかり諦めた感じが語調に出ている。
この加藤さんのうちの建っている台地は神戸ポートアイランドを埋め立てるための土を削ったあとの台地なのだそうだ。下が岩盤で、だから神戸大地震ではびくともしなかったとのことだ。
この台地の中心には住宅団地が整然と建てられていて、それを囲んで個人住宅が立ち並んでいる。加藤さんたちはこの周辺に土地を求めてうちを建てた。20年くらい前のことだそうだ。直ぐ隣が団地でこれを突っ切っていくと、5分もしないで彼の言う別宅に出た。5階建ての、二戸ずつ階段を挟んで東と西にフラットが分かれる集合住宅である。
階段を5階まで上がる。「先生。何時も大学で5階の階段を上り下りしているそうじゃないですか。鍛えているから何でもないですよね。」なんて加藤さんは言う。この間エレベータのことを書いた私のホームページをちゃんと見ているのだ。
この建物は綺麗である。塗り直しなどのメインテナンスがしっかりしていて、20年前に建てられたところとは思えない。最上階で右手のドアを開けて加藤さん は、「さあ、時間もないし、急いで」なんて言いつつ私をせき立てる。昨年日本に戻って直ぐに手に入れたという彼の別宅は、まだ片付いていないが広い。6畳間が3つ。リビングダイニングがあって台所、さらにもう一つ小部屋がある。120平方米くらいだろうか。
どの部屋にも壁という壁に は、棚が出来ている。「これみんな私が作ったんですよ。」加藤さんは嬉しそうに指し示してくれる。棚は綺麗に出来ていてとても素人細工とは思えない。自慢 して見せたくなる気持ちはよく分かる。その棚にぎっしりと本が、中国の教科書が、入っている。一部屋の棚の端にはライティングテーブルが置かれていた。
「ここは書道と篆刻をやる場所としてしつらえてあるんですよ。」ガラス越しに明石大橋の絶景が見える窓の隣にテーブルがある。毛筆が筆立てから覗いている。これから加藤さんは人生至福の時を過ごせるに違いない。
小部屋の押し入れには、こ れも彼が作ったワゴンが並んでいて、どれにもレコードが詰まっている。私自身の持っているレコードの数をはるかに超えている。膨大な数で、圧倒された。私 はオペラ好きだが、加藤さんはどんなジャンルが好きなんだろう。しかし、「ここに『こんにちは、赤ちゃん』もあるんですよ。」なんて可成りずっこけた科白 で、肩すかしを受けてしまった。「今に良いオーディオを置きたいんですが、」と呟いている。
「自宅の近くにこんな広いところが手に入って良かったですね」と、つくづく彼の生き方がうらやましく、心底からそう思って言った。たまたま近所の空いたフラットを借りたのだと思った。
「いや、買ったんですよ。」と言う。この団地も出来て20年 経ち、当時の人たちは子供が育って二人だけの家族になる。歳も取る。5階までの上り下りはつらい。というわけで団地を去る人たちが、だんだん増えてきて、 売りに出るようになった。上階に住む人ほど去っていくので、5階のフラットから売りに出る。加藤さんが買った値段を聞いてびっくりした。一桁違っているん じゃないだろうかと思うくらい安い。
でも、そうなのだ。『もう ここには住めない。子供が生まれて膨らんだ家族が楽しく過ごした時間は去って、もはや二人だけになった。いずれ一人になる時も来るだろう。』この団地に住 み子供を育て、そして去っていく人たちに自分を重ねてみた。思い出だけを胸に抱えてここを離れていく人たち。胸がじんとする。
加藤さんのうちにまた戻って、見事な色と大きさのイチゴの載った皿を置いたこたつを囲んだ。今の瀋陽でも、ちり取りで掬って計り売りをするイチゴはもう出回っているが、色も、そして何よりも味が及ばない。感激してご馳走になった。
加藤さんが運転して、文子 さんも一緒に乗って山の中の自動車道を通って新神戸を目指した。加藤さんは、今は携帯電話を持っているそうである。彼の言によると彼女に持たされているそ うだ。文子さんから「食事が出来たわよ」という連絡が入ると、仕事場からうちに戻るのだそうだ。「でも自分では掛けないですよ。 ほかの誰にも教えていないから掛かっては来ないし。文子に掛けてもなかなか通じないんですよ。携帯ってのも不便ですね。」
「だって色々と手の空かないときだってあるでしょう。周りがうるさきゃ聞こえないし」と文子さんは反撃している。加藤さんは瀋陽でも絶対に携帯は「も-た -な-い」主義だった。「だって、人からあれこれ掛かってきたら面倒じゃないですか。こっちが必要なら電話を探せばいいし。」というのが加藤さんの弁だ が、私に言わせると自己チュウそのものである。人が自分を必要とするときに困るだろうという発想がない。自分のことしか頭にない。ま、これが加藤さんの可愛いところだ。私も同じような自己チュウだから、きっと馬が合うのだろう。
そうこうするうちに車は新神戸駅に8時前に着いた。二人に別れを告げて20時2分発の「のぞみ98号」に乗ることが出来た。22時34分に新横浜着。電車の接続がどんぴしゃで夜の11時にはうちに着くことが出来た。懐かしい人、思いがけない人に会って幸せな余韻が深く残る一日だった。
私たちが瀋陽に来て直ぐのころ、博士課程に入りたいと希望して試験を受けにきた学生がいた。その朱さんという男子学生は故郷に近い大学の入試にも通ったので、博士課程は吉林大学に行くと言って、ここに合格したあとで断ってきた。もう4年前のことである。
もし彼が薬科大学に入っていれば、この3月にアメリカに渡った王璞くんと同期の学生ということになる。この朱さんから電話が掛かってきて、薬科大学に用事があって行くから、その時私に会いたいと言うことだった。
4月1日の約束の3時過ぎに研究室を訪ねてきた朱さんはもう一人の男性を伴っていた。30歳代半ばに見える櫂さんという人だった。初対面なので名刺を渡すと、履歴書を呉れた。
朱さんは昨年の夏、吉林大 学で博士を取って今は長春市にある製薬企業に就職して、自分の研究室のセットアップをしている、そのうちフランスに留学するつもりだという。ともかく良い 大学で学位をとったし、今は家庭も円満、自分の地位にも満足で、順風満帆の生活であると話している。
私としては、4年前にここを受けたいと言うからそれなりの努力をしたのに、それを振って他所に行ったのだ。別のところに行って良かったみたいなことを、わざわざ私に言いに来たのだろうか。
それで私は「吉林大学は東北三省では最大の規模を誇る大学だそうですね。博士号をその吉林大学で取れておめでとう。そして、学位を取った研究はどのジャーナルに何報を発表したのですか?」と訊いてみた。すると朱さんは「中国語の雑誌に1報出しました。」という。
「えっ、たった1報ですか?それで吉林大学では学位が取れるのですか。ここだと、2報が要求されますよ。しかもそのうちの1報はSCIに扱われているレベルのジャーナルに出さないといけないんですよ。」
「でもね、」と私は続けた。「この薬科大学のその基準も私の目から見ると低過ぎるので、私の研究室ではSCIレベルのジャーナルに最低2報出すことを博士の学位請求の内規にしています。あなたはここだったら3年間では学位が取れませんでしたね。吉林大学に行って良かったですよ。」
と私は一寸だけ意地の悪い顔をして嫌みを言ったのだが、彼はそれが分からないようで、吉林大学は有名大学だとしきりに自慢している。
それで、「あなたと同期になる学生は私たちの研究室に入って、卒業時期までにBBRCとOncologyのSCIレベルのジャーナルに2報論文を書いて、 今さらに2報を書いていますよ。彼は今、アメリカの名門であるThe Johns Hopkins大学にポスドクとして招かれて行きました。」と私はさらに追い打ちを掛けた。 王璞くんと比べて志と程度の低さを少しは恥じて欲しい。
中国語で、 世間からは論文をまともに審査をしているかどうか分からない雑誌に1報書いて、それで学位が取れる中国の現状を嘆きなさいよ。こんなことでは中国では、夜郎自大の人たちの数が増えるだけで、まともな科学が育つのに弊害となるのではないでしょうか。
ところが、「ええ、私はフランスのINSERMに行こうと思っているんですよ。」という返事が返ってくる。 INSERMといえば、日本の理化学研究所に当たるフランスの研究の最高機関である。まるで噛み合わない。やれやれである。
彼の連れとして現れた櫂さんは、名刺の代わりに履歴書を私に呉れた。おかしなことをすると思ったが、日本に行きたいらしい。日本の一大企業である宝酒造の系列であるタカラバイオが中国の大連に工場を持っているが、そこに3年前まで13年間働いていたという。そのためか日本語が結構しゃべれる。
日本では、企業で働くか大 学で研究をしたいようなことを言っている。知らない人を何処かに斡旋することは出来ないが、思いついたのは宝酒造が日本のある大学に寄付講座を持っている ことだ。 櫂さんに訊くとそのことを知らない。その寄付講座の教授に紹介するくらいなら良いだろう。そこから先はその教授が決めればよい。
朱さんは何の用で私を訪ねるのだろうと思っていたが、 結局、同僚の櫂さんの行き先を見つけたかったらしい。朱さんとはここを受けたという因縁があっただけでそれ以上の行き来はなかった。人は、用事がなければ来るわけがないという当たり前のことを再確認した一日だった。
中国でお土産を探して日本に持って行くのにこの頃は悩みが多い。日本でも昨年は偽装事件が世の中を騒がせたけれど、中国発の食品の安全には首を傾げる人が多くなった。
大学の近くで本物らしい蜂 蜜を見つけ、試してみて大丈夫と思って、この春はこれを日本に持っていった。「これ中国のおみやげですよ。」と言いつつ蜂蜜の瓶を取り出すと、「エッ」 と誰もが凍り付く。親しい人だと、「そんなもん、やばいじゃないですか。」とはっきりした言葉が続く。それほど親しくないと、さすが言葉にはしないけれ ど、疑念溢れる眼で見返されたままである。
私は言う。「蜂蜜は蜜蜂が花から集めてくるんですよ。農薬まみれなら蜂が死んじゃうでしょ。蜂蜜は、だから安全という証拠なんですよ。これは龍眼の花から 集めた蜂蜜だし、これは茘枝の花のだし、どちらも日本にはない貴重品ですよ。」場合によってはさらにしつこく付け加える。「インターネットで見ると、 龍眼の花の蜂蜜は日本で買うとこの大きさで5千円もしますよ。」
蜜蜂が農薬に対して感受性が高いか低いか知らないが、 蜂が死んでしまったら蜂蜜は集められない。だからおそらく蜂蜜は農薬まみれではないだろう。しかし蜂蜜は元来が綺麗なものではない。蜂蜜は免疫力の備わっ ていない幼児に食べさせてはいけないというのは常識である。一方ではこれを逆手にとって、便通を良く保つには蜂蜜が一番と言って愛用している人もある。
花の蜜は純粋に綺麗でも、花には塵も埃も、細菌も寄ってくるし、蜜を集める蜂も大気汚染の空気の中を飛ぶ。 おまけに蜂蜜はいったん蜂のお腹に入ってから巣に戻ったあとで吐出されるから、蜂の身体の中の様々な分泌物、細胞のかけらなどが混じっている。生物学的に も綺麗とは言い難い。
けれども蜜蜂の巣箱から集めたままの蜂蜜と、それに混ぜものをした偽物との間には大きな違いがある。混ぜものをしていなければ純粋の蜂蜜と言って良い。
近頃Yahooのニュースで見たが、世の中に売られている蜂蜜の40%近くは偽物なのだそうだ。これは採取してきた蜂蜜に様々な混ぜものをして人目を誤魔 化しているわけだ。混ぜものとしては麦芽糖、砂糖、水(場合によっては硫酸も)が多いという。中には蜂蜜が全く含まれない砂糖水もあったという話である。
とすると、どうやって偽装 品を見分けるか。一つは味である。最近買っている蜂蜜は、龍眼、茘枝、イラクサ、ムクゲの花の蜜などで、それぞれ味が違う。見た感じも違う。もう一つは、 蜂蜜が売られているときから中が固まっているか、あるいは蜂蜜を冷やしたときに内容が固まるか、である。蜂蜜が水で希釈されてい れば粘性が高そうでも固まらないし、内容が析出することもない。
この偽装蜂蜜では、実は「なるほど」と言うことを私は経験している。
瀋陽日本人教師の会が遼寧省特産の玉の産地にバスに乗って観に行ったことがある。6月 初めだった。丘陵地帯に入って目的地に近づくと、山には日本の山桜のように点々と見事なアカシアの花が咲き乱れていた。その道中で蜂蜜を採集している養蜂 業者を道ばたで見かけて、以前こうやって蜂蜜を買った先生の発案でバ スを止め、蜂蜜を買った。彼らは花とともに全国を旅しているが、このときはアカシアの花の蜂蜜を採集していたのだった。掘っ立て小屋の中のドラム缶から、 粘っこい蜂蜜を2リットル入りくらいの容器に移し替えて、私たちに販売してくれた。アカシアの花の蜂蜜にはさわやかな香りがあって美味しかった。
それから一年後、薬科大学に講義に訪れた北里大学の先生は鉱石にも詳しく、玉の産地に行きたいと言い出して薬科大学の国際交流処が案内の車を出してくれた。私は案内役である。前回に比べるとこのときの季節は一寸早くて、5月の終わりだった。道中同じように何度も蜜蜂業者を見かけた。帰り道で車を止めて貰って、国際交流処に係の人に蜂蜜の値段を交渉して貰い、それぞれが一瓶ずつ蜂蜜を買った。
この買ってきた蜂蜜をうち でパンケーキに掛けようと思った。それまでの蜂蜜のつもりで思いっきり瓶を傾けたら、瓶の口から蜂蜜がバサーッとまるで水みたいに飛び出した。確かに昨年 と同じ蜂蜜の香りはするし、蜂蜜の味はするけれど、まるでシャビシャビの水なのだ。 ほとんど水を買わされてしまったのだ。
うかつだったが、これで分かった。濃度の高い純粋の蜂蜜を水で薄めようと思うと時間が掛かる。水に少しずつ濃度の高い蜂蜜を入れていく方がはるかに簡単に均一の濃度に出来る。これは化学の常識である。
養蜂業者の知恵なのか、中間業者の知恵なのか、ドラム缶に予め一定量の水を入れておいて、ここに採集した蜂蜜を毎回注ぎ足して毎晩毎晩良く混ぜて、水増しした蜂蜜を作るのだろう。
私たちはその蜂蜜を製造途上で買ってしまったわけである、製法の秘密と一緒に。悧巧になった今では、 内容が固まっている( 析出している)蜂蜜しか買わない、製造元をしっかり確認して中国科学院蜂蜜研究所のものしか買わない、などで自衛している。
水に蜂蜜を注ぎ足して文字 通りの水増し蜂蜜を作るように、何かの化学物質を混ぜて内容を固まらせる手法も実は発明されているかも知れない。ここは中国だ、何でもありの国だ。そうい う蜂蜜をお前さんは本物だと思って買っているのかも知れないよ。うーん。そんなことは絶対にないとは言い切れないのが愛すべきこの国である。
『砂糖水でごまかした蜂蜜偽装品! 検査で4割不合格』
『広州日報などの報道によると、広東省深セン市で蜂蜜関連製品の品質検査が行われた。このうち蜂蜜の検査で最も多くの問題が見つかり、合格したのは80銘柄中48銘柄にとどまった。15銘柄はただの砂糖水だった。一部製品から規定量を超える鉄分が発見されたほか、砂糖の分解に硫酸が使われているケースも見つかった。 中国食品の安全性に再び懸念が持たれるのは必至だ。(2008年3月4日配信 Record China)』
3 月の半ばに用事があって3日間日本に行っている間に研究室の王麗さんからメイルが入った。『研究室に日本人らしいだれかから電話が掛かってきました。3月 30日に瀋陽のシェラトンホテルに到着する10人ぐらいの旅行客が、先生に会いたがっているようです。』王麗は日本語班の出身なので、日本語の電話に応対 できる。正しい言葉遣いは身についていないが、それなりの日本語を使える。もっとも、いまここに書いてきているのは英語である。
『この先生のe-mailを聞いておきましたが、あとでメイルを出したら間違ってました。このアドレスに心当たりはないでしょうか。名前は良く聞き取れなかったので、申し訳ないですが、彼の電話番号を聞いておいたから○○○○に連絡してみてください。 』というものである。
日本から瀋陽に電話が掛かったらしい。番号にもアドレスにも心当たりはなかったが、日本から電話が入ったというのを放ってはおけない。○○○○という電話に電話を入れた。
すると、全く知らない人だったけれど、先方は『あと三日したら○○フォーラムの一行が中国に研修旅行に出掛けます。3月30日に瀋陽のシェラトンホテルに着くのですが、その折りに瀋陽に関する事で何かお話を伺えないでしょうか』という。研修旅行のグループの名前にも心当たりはなかったが、よほど困って中国 に電話をしたのだろうと思って、「良いですよ」と引き受けてしまった。その時には瀋陽で日本人教師会の資料室が3月末という期限で追い立てを食って大変な ことになっている、あるいは大変なことになる、ことを知らなかったし。
その時にメイルアドレスを教えておいたら、二日後に、「日曜日の夕方、老辺餃子店で夕食をしますので、その時そこにおいで下さい。」というメイルがあった。10人のご一行さんがどんな人たちかは知らないが、未知の間柄で、いきなり食事の場所に呼び出して話しをして欲しいと言われるとは驚きである。
そこでやんわりと「Powerpointをプロジェクタに繋いで話す設備があるでしょうか」と返事をした。つまり『座興で話しをするのではなく、こちらは ちゃんと用意をして話しをするつもりですよ』と分かってもらおうと思ったのだ。その意が通じてか、シェラトンホテルで場所を取っておきますと言うことになった。
瀋陽のことといわれても、大学で研究をしているだけだから何も知らないと行って良い。それで自分の土俵の中で「中国人の学生気質」を話すことにした。昨年三重県の団体に話した内容の焦点をすこし変えることで、十分に話が出来る。
当日シェラトンホテルに行くと、結構広い会場にゆったりと一つの丸テーブルが置かれて宴席がしつらえられていた。そして一方の壁にスクリーンがプロジェクタと向かい合って置かれていて、あとは持って行ったPCを繋げば良いようになっていた。
連絡を取っていた山崎さんに初めて会った。ご一行10人は、大会社の元会長、某電機会社の元専務、大蔵省等々、こちらが一介のサラリーマンなら名前を聞いただけで卒倒するかも知れない雲の上の人たちのようだ。あとで分かったことだが、この○○フォーラムに入っていて今回は不参加の東京工業大学の副学長が瀋 陽にいると言って私の名前を挙げて、瀋陽に行くなら瀋陽の話をして貰ったらと言うことだったらしい。勿論わたしは副学長なんていう偉い人と面識はない。
話は中国における瀋陽の位 置づけから始め、瀋陽では日本語学習熱が盛んなことを基底にした。薬科大学の学生は、日本の学生に比べて実に勉強熱心であること、老師思い、親孝行である こと、上昇志向であること等々、日頃感じていることをした。勿論、日本にだってできの良い学生も悪い学生もいるし、親殺しもい れば子供殺しもある。一つの言葉で人々をくくれないことは分かっているが、話題の提供になる。
「研究室でなかなか議論が わき上がらないことから、手を変え品を替えて学生が質問を発するように指導している。今は『要想成功 要問問題。不提問題 不能成功』という四字熟語で鼓 舞し続けているのですよ。」と話の中で触れたら、「中国人が会社にいますが、ほとんど意見を言わない人と、強く自己主張をする人 と二種類の中国人を見かけます。これはどういうことでしょうね。」と早速質問が出た。
「それは、中国は人口が多いですから、何と言っても競争社会ですよね。自己主張しないと人の間に埋もれてしまって、自分の場所がなくなってしまうからでしょうね。」
「それに、日本と違って子 供の時から市場で買い物をしますね。買い物をするときは売り手との駆け引きですから、市場で買い物をすることで子供の時から交渉ごとに鍛えられますよね。 騙されてはいけないし、交渉には勝つと言う訓練を子供の時からしています。上品な買い物をしてきているだけの日本人とは、人の芯 の強さで大きな差が付いてしまいます。」と私が答えたことから日本の若者と中国の若者を比べる話になった。
この頃の日本の若者はとて も心根が優しいけれど、どんどん世界に伸びている中国の若者と比べてひどく心許ない。こんな具合だと日本が中国の後塵を拝するのも間近ではないか。「い や、もう負けていますよ。」という意見も出た。どちらかというとご年配のご一行だが、それだけに日本の行く末をいまの日本の若者に 託して大丈夫だろうかという心配が絶えないみたいだ。
「戦前日本が満州国を作ったとき、首都は新京と言って今の長春に置かれましたが、瀋陽はその頃は奉天と呼ばれて満州の経済の中心でしたよね。今その瀋陽に暮ら して、一般の中国の人たちから受ける印象はどうですか。当時のことは今の人たちにどう思われているのでしょうか」と言う質問が出た。
この研修旅行の人たちには、私よりも年配と見受ける方たちも混じっているが、それでも終戦時はせいぜい中学生だったと見受けられる。当時大人として日本の政治に関わっていたとは思えないから、昔の歴史として中国の東北部を見ての質問だろう。
「私は中国語がわからないので、 この国のことを中国語で理解していないことを先ず分かっていただいた上で、私の印象を述べましょう。」
私たちはもう5年近く瀋陽に暮らしている。私たちの顔を言うまでもなく中国人とは区別が付かない。しかし、私たちは中国語が話せないので、日本人であることが分かる場面は幾つもある。店でものを買うとき、タクシーに乗るとき、道を聞かれたとき。。。
私たちの見聞は狭いけれど、一度も、ただの一度も、日本人だからと言って厭な思いをしたことはない。親切にされることもあるし、場合によってはじろじろ見られるけれど、悪罵を投げつけられたことはない。2005年の反日デモが荒れ狂ったときですら、瀋陽で個人的に厭な思いをしたことはなかった。
教師の会の加藤さんに案内されて、昔日本人が住んでいたという住宅を見て歩いたことがある。70年くらい前の当時日本人が住んでいたという建物が瀋陽にはまだあちこちに残っていたのだ。ただし、今の瀋陽は経済成長に湧いていて、昔の建物を壊してブロックを丸ごと商業施設に建て替えているから、昔の奉天で日本人街だった建物はどんどんなくなっている。
当時は満州医科大学という 名前で、今では中国医科大学と呼ばれる大学の近くを歩いているとき、それまで加藤さんに案内されてなじんでいた昔の日本人が住んでいた住宅らしい建物が眼 に留まった。早速そこに行って、路に立っている人たちに加藤さんが話しかけた。「そうだよ。昔病院つとめの日本人の博士が住んでいたところだ」と60年前のことが、つ い昨日のことのように話に出た。人々が次々寄ってくる。そしてとうとう、その住宅に住んでいる女性のお年寄りがやってきて、日本語で明晰に話掛けてくるではないか。
結局彼女のうちに行って、彼女の連れ合いにもあって日本語でおしゃべりをした。60年ぶりに使うという日本語だった。その後も何度か訪ねておしゃべりをした。二人とも80歳を超えているが、昔の記憶は大変鮮明で、昔の日本の統治時代の話しも沢山聞いた。
加藤さんの総括によると、 年配の人たちは自分たちの青春が日本統治時代に重なっている、自分たちの一番輝いた時期がその時代なのだ。しかも文革の時には、現政府の成立前の時代に日 本語を話し、日本のために働いたといって三角帽をかぶらされ、ざんげを強いられるという過酷な思いをしたようだ。自分たちの一番 いい時代と重なっているのだから、その時代が一番懐かしく思うのも不思議ではない、ということである。
満州国は五族共栄の楽土建 設と謳いつつ、実は現地の人たちから土地を収奪してそこに日本からの拓殖者が入ったわけだから、この土地の人たちに強く恨まれたのも当然である。日本の敗 戦を機に一気に吹き出した恨みが、満州からの帰国者に襲いかかった訳だ。満州国建設にしろ、戦後のブラジルや、グアテマラへの移民施策にしろ、国は嘘八百 で民衆を欺いた。国の政策は決して一般の国民のためのものではないことを肝に銘じておかなくてはならない。
ともかく百万人近い拓殖者は敗戦で一挙に吹き出した日本の責任を一身に受けて財産を失い、あるいは命を失った。幼子を切り捨てざるを得ない過酷な逃避行だった。今は残留孤児と呼ばれている人たちはこの国の人たちに拾われ、養父母を得て成長した。
親から見捨てられた幼子た ちを引き受けて育てた人たちは決して豊かだからではなかった。日本人の子供を育てるに当たっては、将来恩返しを期待するとか、様々な考えがあったと思う。 決して無償の好意だけではなかっただろう。しかし、この子供たちを育てた人たちは、日本と日本人への風当たりの強い中で、これをやってのけたのだ。
一口には語りきれないのが 中国人である。中国と中国人を語ると、群盲象を撫でる類いのはなしになってしまう。観察の一面で切れば中国人はしたたかで、街では親類知人以外は存在しな いも同然に押しのけて歩き、道にはつばを吐いて汚し放題である。しかし、残留孤児を救った人々に見るように、日本人には思いもよらないこのような中国人の 心の広さ、しかも一般民衆の懐の深さを見せてくれる。彼らの行動には、感動と言う言葉だけでは言い表せないものがある。頭が下がる。研修旅行の人たちは日 本の戦前の政策、戦後の処理、そして残留孤児問題にも知識が豊富で、話は自然とそこに落ち着いたのだった。ここには一部を書いたに過ぎないが、約2時間あ ちこちの話題に飛びながら、楽しい時間を過ごすことが出来た。ご一行も楽しかったなら言うことはない。最後 に「記念品贈呈です」と、日本から運んできたと言う虎屋の羊羹をいただいた。重い。この重さは半端ではない。長旅の間これを運んだ事務局長さんの気持ちと 一緒に戴いた。
「私たちの研究室では所属の学生を第一級の研究者に育てることを、私たちの研究室憲章で約束しています。その代わり学生も一生懸命に研究することを要求し、学生はそれを約束しています。」
「私たちのあなた方への要求は決して大きくありません。毎日朝8時には研究室に来ること。全員が研究室にいるコアタイムは、朝8時から11時まで。午後は2時から5時までの、合わせて6時間です。土曜日は午前中だけです。」
「それも、ほかに用事があるならば来なくても良いと言っています。ただしその時は、事前に私たちに届け出ることという条件になっています。もちろん実験室 を10分くらい離れる度に了解を得る必要はありません。でも、午後全部何処かに行くときには事前に私たちに言っていく約束です。」
約束を守るということで、人は他人から信頼を得ることが出来る。信頼出来るかどうかが人としての評価の基礎となる、と私たちは思っているので、約束を守ることを学生に要求しているのだ。
昨日の朝、8時5分過ぎ、 私たちは研究室の全員に集まってもらった。全員に話したいことがあった。というのは、前日、就職のことで修士3年生の暁東に伝えたいことがあって昼過ぎか ら探していたのだ。午後2時になっても研究室に来ないし、3時に実験室に見に行ってもいない。実験室のほかの学生に聞いても、どこにいるか知らないとい う。とうとう午後7時近くなっても戻ってこない。ほかの学生は直ぐ彼女に電話をしたらしいが、携帯が切られていて連絡が付きませんという。
中国の学生は仲間思いなの か、結束が固いのか、決して仲間の不利になることを言わない。例えば、誰かを捜して実験室を覗いて見て、見あたらないとき、どこにいるの?と訊くと、たい てい図書室に行っていますと言う返事が返ってくる。実は図書室に行く用事はほとんどないのだ。図書館には私たちが使うような本は揃っていない。
実際は大学の中にある宿舎で昼寝をしているか、浴場でシャワーを浴びているかなのだが、彼らは決してことの真相を私たちに伝えない。彼らは決して仲間を売らない。しかしもちろん、この程度のことで私は目くじらを立てない。
私たちにも誰にも伝えない で、暁東が午後ずっと研究室にいないというのは異様である。きっと外で用事があって、しかし、それを言いたくなかったのだろう。でも、それはよくない。何 処かで事故を起こしているのではないかと心配にもなるし、黙って外出しないという約束にも反している。
暁東はハルピン大学から来 た学生で、薬大の学生に比べると、正直言って生命科学の基礎がもの足りなかった。彼女はそれでも私たちの研究室に来て一生懸命勉強をして研究にも付いてき た。日本語は全く知らなかったのに、「先生たちと日本語で話をしたい」と言って独学で日本語の勉強を始め、日本語能力国際4級の試験にも通ったし、いまで は研究の進み具合の討論の時も英語と日本語が半々くらいである。見かけは可愛いお嬢さんそのものだけれど、中身はとてもしっかりした女性なのだ。
今まで約束が完全に守られ てきたわけではないけれど、こんなに酷いことはなかった。これは良くないことだ。一罰百戒と言う言葉が頭をかすめた。可愛い暁東に責任を取らせるのは気の 毒だけれど、私たちとの約束が守られないときには研究室を辞めて貰うという一項も研究室憲章に入っている。と言うわけで、その翌 朝全員を集めて、暁東に研究室をやめて貰う理由を述べたのだった。
「彼女が約束を無視したの は、彼女の先輩たちが今まで色々と約束を破っているのを見て、自分も良いだろうと思ったのかも知れません。でもこの間、3月初めに憲章を一緒に読んで確認 したばかりではありませんか。約束を守り、信頼できる人に育って欲しいと思ってこちらは努力しているのに、このように無視するの なら私は彼女の教育に責任は持てません。出ていって貰います。」一同寂として声なく、暁東の泣き声だけが聞こえる。「誰も何も言わないのですか?」「私が 言ったことを皆は認めて、暁東が研究室を出て行くのを認めるので すか?」と私はとうとう堪らず言ってしまった。ここで、誰かが彼女を救う発言をしなくてはいけない。このまま終わってしまってはいけないのだ。
すると博士課程3年生の王 麗さんが「私は悪い先輩です。悪い見本を彼女に一杯見せました。彼女のやったことは私の責任です。私も深く反省してもう悪いことはしませんから、暁東のこ とはどうか許してあげてください。」と私の望む発言をした。 王麗はとてもしっかりした人だけれど、自分の間違いは認めて潔く謝ることの出来る人だ。
3月に研究室に来たばかりの于琳くんは「暁東先輩も間違いを認めて謝っていますから許してあげたらどうでしょうか?」という。暁艶さんも同じような発言をした。
于琳くんと同期で卒業研究 生として参加している趙鶴さんは「誰にでも間違いはあるものです。一回だけの間違いを咎めて、人の将来に及ぶような処分をしてはいけないと思います。 暁東先輩も反省していますし、約束を守ることの大事さを今回のことで私たちはしっかりと学びましたから、その発端になった暁艶先輩をどうか許してあげてく ださい。」
本当は学生の一人一人にそ れぞれの考えを言って欲しかったが、それを待っていると、よい感じの流れがだれてしまう。最後に私が締めくくった。「 暁東が約束を破ったことと、それで研究室を辞めて貰うと初めに述べましたが、約束を守ることはそれほど重大なことであることを全員が認識したと思われるの で、先の話は撤回しましょう。みんな、良い研究をして第一級の研究者になるのだと言う覚悟を新たにして、これからも一緒に研究の道を進みましょう。」
隣の教授室にいる池島先生は中国生活10年選手で、中国語は自由自在。講義も中国語を駆使して免疫薬理学を教えている。この大学には日本語を学んで専門科目 を日本語で勉強する日語班というのがあるので、薬学院、中薬学院合わせて毎学年90人は日本語遣いが誕生している。この日語班の学生が日本語で池島先生に話しかけると無視される。つまり日本語を使う、日本語が使えると言うことで「すり寄ってくる」これらの学生の相手をするのは、依怙贔屓につながると言うのが、彼の考えである。
中国語の出来ない私として は「ふーん、そんなものか」と言うしかない。日本語を使って「すり寄ってくる」学生でも、英語を使って話しかけてくる学生でも、先生を選ぶのはまず先方の 学生側だから、私に近づいてきて「先生の研究室に入りたい」という学生を相手にするのは正道だと、私は思っている。
先日、池島先生がやってきて、「驚きましたよ、とんでもないことがあって。先生のところの卒業研究の学生で就職したのは何人ですか?」と訊かれた。
どんな話になるのか分からないが、訊かれたことに返事をした。「最初の年に、一人協和発酵が広州に持っている工場に就職しました。今年の5人の卒業研究生のうち一人は天津にある日系企業に就職が決まっています。」
池島先生が言うには「今年7人の卒業研究の学生がいて就職するのはそのうちの3人ですが、そのうちの一人の就職する先の会社が、4月から会社に研修に来るようにと言ってきたのですよ。」
「何時までの研修なのかと 聞いたら6月の卒業研究の発表の時期に一寸は帰すけれど、研修は6月終わりまでだと言うんです。それじゃここでやる卒業研究はどうなるのか、やらないこと になってしまうけど、と尋ねたら、大学の就職担当の先生はそれでも良いと言っていると会社の人は言うので、びっくり仰天です。」
卒業研究の期間は最終学年 の後期の半年間と決められている。今年みたいに3月3日に後期が始まると、6月半ばに発表会をして6月末には卒業だから、3ヶ月半しか研究の期間がない。 大学院に進学する人たちは4月前半に二次試験が済んでから実験を始めるので、うちの研究室では実質2ヶ月の期間しかない。
研究室で卒業研究をすることで大学教育の締めくくりとなるが、それまでの教科書詰め込み教育とは違い、結果がどう出るか分からないテーマを相手に実験を行うわけだ。答えのある学生時代の実験とは大違いと言うことを身を以て体験する機会なのだ。
だから池島研究室では卒業研究をしたい学生は前年度の9月から研究室に来させて、研究室のセミナで勉強させるという。年が明けて1月からは実験を始めて、 5ヶ月半を卒業研究の期間としている。それが4月には会社に呼び寄せて研修を受けさせるだって?大学はそれで良いと言っているんだって?
それないでしょう。大学の 使命は学生を育てることだ。学部でカリキュラムに沿って講義をし、卒業研究では研究の醍醐味の一端を実際に体験することで大学での勉強が完全なものとな る。卒業式を終えた学生を7月から集めて研修をするのが当然なのに、4月から始めるというのは、学生を選別したいという意図もあり そうだ。何よりも怪しからんのは、大学側がそれでも良いと言っていることだ。
この話を聞いてから1週間くらい経ってから聞いた話では、池島先生はこのような正論をひっさげて大学の就職の先生と話したという。池島先生に詰め寄られて、それは指導教官が良いと言えば、と 就職掛かりは言ったそうだが、それだっておかしいわけだ。
こんな要求は大学が毅然として断るべきことだ。そうでないと言うことは、実際はこのようなことが罷り通っていたということだろう。ともかく、池島先生は大学としての筋を通して、4月から会社に研究に来るようにという話を引っ込めさせたと言うことだ。めでたし、めでたし。
3年前のこと、 卒業研究で私たちの研究室を希望していた学生が、実際には後期が始まる前に「日本の某大学の大学院に受かったので、3月末で繰り上げ卒業をすることになり ました。先生のところでは卒業研究が出来なくなったので、ほかのところで簡単に(つまり1ヶ月で)卒業研究を仕上げることになりました。と言うわけで研究 室には来られませんが、色々とありがとうございました。」と挨拶に来た。
研究室配属が決まっていたのに、学生が一方的に来ないと宣言しにきたわけだが、私たちはそんなものかと思っただけだった。
夏に卒業して日本の大学院 を希望して日本に行くと、入試に通ったとしてもたいていは翌年の4月入学である。この学生は繰り上げ卒業することで、即大学院入学だから仲間の学生に比べ て1年早く先に進める。その日本の大学院は中国からの学生を確保できる。この薬科大学は学生が3ヶ月早く卒業しても、授業料の返還をすることなんてないか ら、痛くも痒くもない。
というわけで、日本の大学、薬科大学、学生、三者とも大満足という安易な シナリオが出来ているわけで、私はそれに「へエー」と驚いて、そして感心しただけだった。大学の使命に悖るなどとは思いもしなかった。
池島先生の「大学としての筋を通す」毅然とした態度を見て、わずか数年ここにいるだけで私は日本人ではなくなってしまったのかと、自分の頭を叩いているところである。
瀋陽日本語文化祭というのは日本語を勉強する学生の祭典である。ほぼ毎年一回、瀋陽のどこかで開かれてきた。それが今年は開催が危ぶまれている。と言うか開催の目処がたたない。責任は在瀋陽日本総領事館にあるのではないかと思う。
最初の瀋陽日本語文化祭は、日本語を学ぶ学生のいる遼寧大学で始まったらしい。2004 年春の文化祭が第8回となるはずだったから、毎年開催したとすると1997 年から始まってことになる。その頃の記録を集めているけれど、まだ資料が集まらず、当時のことは神話時代である。
話によると、その頃遼寧大 学の日本語教師だった石井康男先生が瀋陽に進出している企業を廻って寄付を仰ぎ、それを資金にして日本語文化祭を開催していた。終日の午後いっぱい、大学 の講堂を借りて、日本語の歌、演劇、踊りなどが、日本語を学んでいる各大学・高校の学生により演じられた。
大学のキャンパスに他処から教師、学生が入ることに大学は神経をとがらせるので、会場が大学というのは結構大変なことである。2004年は会場を予定していた遼寧大学で話がこじれて春の開催を秋に延ばし、しかしそれも話し合いが不調に終わって、開かれなかった。2003 年の春がSARSのために大学が閉鎖されて日本語文化祭も開催できず、2年続けて日本語文化祭は開かれなかった。
2005 年は反日デモに荒れた春である。日本人教師が日本語を学ぶ多数の学生と一緒に集まって祭典を開くなんて、とてもではないが出来ることではなかった。しかし開催のための資金は2年前から使われずに用意されている。
そのころ日本人教師の会の会長でもあった石井先生が、当時の在瀋陽日本総領事館の小河内総領事と話したところ「ちょうど良い。領事館に文化活動用の会館が新築された折りでもあり、5月にジャパンウイークを計画している。その日程の一環としてやりませんか。」と言うことになった。4月の日本語弁論大会も反日 の空気を読んで中止に追い込まれたので、最終大会の出場者もコンテストとは離れて口演をするという日程もこのジャパンウイークに組み込まれた。
こうやって 2005年5月27日に在瀋陽総領事館で開かれた日本語文化祭は、第9回とも、第1回とも書いていないし、主催が教師の会とも、総領事館とも書かれていない。祭典に必要な経費は教師会側ですでに集めてあった基金から支出されたはずである。
このようにしてそれまで大学を拠点にして開かれていた日本語文化祭が、初めて別の場所、しかも総領事館に移り、領事館のジャパンウイークの一環として開かれたので、私たちはその次の 2006 年の日本語文化祭がどのようにして開かれるのかに関心があった。
「日本語を学ぶ学生の祭典を開くことは、邦人保護と日中友好を旗印にする領事館の目的にぴたり合致します。大丈夫、来年もやります。」と小河内総領事は心強く引き受けてくれた。2006 年春には小河内総領事は転出したが、後任の阿部総領事によりこの事業はつつがなく引き継がれ、やはり5月に総領事館の新館で日本語文化祭が開かれた。
総領事館の文化担当の森領事に聞いたところでは、必要経費は国際交流基金に予算を申請するし、もしそれが駄目でも本省予算で申請できるから、経費の心配はいらないということだった。素晴らしいことだ。これなら文化祭事業が総領事館主催で続いても良いと私たちは思った。
2007 年春は、初めて民間のビルに会場を借りて日本語文化祭が開かれた。総領事館の新館は立派な施設だが日本国総領事館の敷地の中なので出入りが自由ではない。参加者 は事前に名前を登録し、当日パスポートなどの ID を持って指定の時間に門のまえに並んでいなくてはならない。このような制約から解放されて、2007年の文化祭は、日本語を学ぶうれしさ一杯の、観客だれ もが感動する歌、演劇、踊りの祭典だった。主催は総領事館と教師会である。総領事館が会場を抑え、経費を負担し、教師会が企画、運営、実施を引き受けた。
今年は、文化祭の担当である先生が4月初めに総領事館に聞いたところ、教師会が計画立案したなら、それを受けて総領事館が何ができるか考えていくと言うこと だった。さらに予算を聞くと、総領事館としては一切の予算措置は取っていない。また、これに関して金銭的援助も一切しないという返事が文化担当の菊田領事から返ってきた。彼は前任の森領事が文化祭の開催に骨を折りながらも、2007年5月に離任した後の後任者である。
菊田領事は、メディアへの依頼や、場所として総領事館の会場の使用は可能だが、昨年までの総領事館のコミットは本来あるべき姿ではなかったといったという。
昨年の文化祭は総領事館が主催したのだ。それが3回目だったのだから、続けないならば早めに日本人教師の会に言うのが筋だろう。あと2ヶ月という時期に文化祭の資金集めが急に出来るとは思えない。私たちは大船に乗って太平洋に船出をし、はっと気づいたら、船長も舵取りも逃げて誰もいないという心境である。
総領事館の仕事のうちで邦人保護を除けば、日中友好は一番大事なテーマではないのだろうか。日本語を教える教師の一人一人は日本を代表する親善大使といって良い。誰もがそう思って中国で仕事をしている。教師の会の活動を一体となって支えて初めて、在瀋陽日本国総領事館のやる仕事にも魂が入るのではないかと思うのだが。
知人が昇進して教授などの 管理職になったりすると、私は「おめでとうございます。」とお祝いの言葉を言う。そして親しい人には、時には付け加える。「これからは特に忙しくなるで しょうけれど、どんなに忙しくても自分の部下や学生に決して『忙しい』といってはいけませんよ。」
「ほかのところでどんなに『忙しい』と口にしても良いけれど、学生に言うと彼らを遠ざけてしまいます。学生が用事があると言ってきたら、何をやっていても、そのために原稿書きが徹夜になったとしても、直ぐに学生の用事に付き合うようになさい。」
「あなたが忙しがっても、 学生はあなたを忙しい人だと言って尊敬するよりも、あなたに距離を置くようになってしまいます。学生が離れていって、結局損をするのはあなたです。誰でも 直ぐに『忙しい、忙しい』と口にして自分を偉そうに見せかけますが、そして実際忙しいとは思いますが、これは決してしてはならないことです。」
私は、長年ずっとこのようにしてきた。それがプラスに働いたか、マイナスに働いたかは実際のところは分からない。しかし、これは私の経験から来ている。
若い頃、問題があれば上の人、つまりそれは教授だったり、室長だったりするが、当然上司に相談を持ちかける。彼が「忙しい」というと、相談して解決したいと いう意欲が萎える、「そうか、こっちの問題は大したことではないのだ。つまらない問題なんだ。」
上司にとっては大したことではない、それよりももっと大事なことで忙しいから後にしてくれと言うことなのだろう。でも、上司の「忙しい」の一言でこちらはやる気を失う。この経験があるから、私は管理職になってからはそれだけは気をつけてきたつもりである。
ところが、今べらぼうに忙 しい。4月半ばから 毎週1回だった講義が3回に増えた。学生には事前に講義のプリントを渡さなくてはならない。先週土曜日には従弟夫妻が瀋陽を訪ねてきた。その二日前から研 究室には日本の友人が来て滞在している。投稿した論文のひとつがレフェリーの文句満載で戻ってきた。一方新しい論文も書いている。
私は「瀋陽だより」を毎週 土曜日に書くと公言してきた。実際はこのほか、火曜日にも書いてきた。今週の火曜日にはどうしても書けなかった。書くために考える時間がなかった。ここで 「忙しい」というのを書けなかった理由にしても、許していただけるだろうか。やっぱり忙しければ、忙しいという皺寄せは何処かに行くのだ。学生を一番大事 にしたい、と言う気持ちを酌んで許して戴きたい。
昨年まで中国の大型連休は、新年の春節休暇(公式には年末年始前後の計2週間だが、大学では長い)、春の労働節と秋の国慶節だった。労働節と国慶節は共に1週間の休みで、特に春の休みは5月1日から始まり、日本のちょうどゴールデンウイークに当たる。どうしてか知らないけれど春の労働節と秋の国慶節の期間が変わって、今年からそれぞれ3日間の連休と短くなった。その代わり4月初めに晴明節、6月に端午節、9月に中秋節の休みが作られた。
このような暦の改訂を受けて、今年の大学は新年の春節休暇が6週 間、夏の休暇が6週間である。長すぎるというのが日本から来た働き蜂である私たちの感想である。休暇をもっと短くしたい。しかし、家族が故郷に集う国家的 休日である春節休暇には手を付けられない。その代わり、夏休みは3週間、そして普段の休日は一切なしと言うことにした。
というのは私たちは生きた細胞を使って実験をしているので、 細胞培養を一旦止めて細胞を凍結してしまうと、また実験を始めるのに数日のロスがある。つまり一旦研究を始めると、細切れの休みは全体の生産性を低下させ てしまう。「もう学生ではないんだから、違う生活スタイルを始めよう!」と言うわけで、私たち研究室独自の暦年カレンダーが出来た。学生に見せても文句も でないので、皆が納得していると思った。
特に5月初めの連休は、新 学期が始まったばかりで実験が始まってリズムに乗りかけたばかりの卒業研究生にとっては、リズムを乱すという意味で歓迎できない。卒業研究生の中でも、大 学院の進学生は入試を受ける関係で研究室に来て実験を始めるのは4月半ばからである。5月に入って休んでいたら全く実験が進まない。6月半ばには卒業研究 発表会があるのだ。
この大学でも研究室によっては論文を一つ二つ読んで、その梗概を書いて卒業とか、外の企業に行ってそこの業務の手伝いをしてそれが卒業研究になるとか、信じられない形で数ヶ月の卒業研究が行われているところもあると聞いている。
しかし、大学生活の最後を 締めくくる卒業研究である。ここで研究というものの一端に触れることこそ学生生活の掉尾を飾るにふさわしいというのが私たちの考えなので、したがって、卒 業研究はどんなに小さくても新しいテーマを学生に与えている。つまり世界で唯一の、しかも最先端の実験をするのだ。
4月から2ヶ月半の研究期間で何かを仕上げる ためには、もちろん5月初めに休んではいられない。と言うわけで、卒業研究生には5月の連休は休みではない。しかし、卒業研究生だけに強いているのではな い。彼らの先輩である大学院学生もこれに付き合って休みにはしないし、もちろん私たちも休まない。
さて、その今年の5月1日のことである。大学は朝から静かで構内はもちろん、建物の中でも人影をほとんど見かけない。私たちだけである。大学構内のLANによるインターネット接続が、通じない。調べてみると、お金が切れたという。ここは利用者負担でサーバーに繋げるためにはユーザーごとに半年200元の金 を払っている。私たちは3本の契約している。どうしたことか5月からの料金を大学に払っていなかったのだ。大学は休みだから、どうしようもない。
と言うわけでインターネットに接続は出来ないが、それだけに静かな落ちついた環境である。国際誌に投稿した論文に一杯いちゃもんが付いて返ってきたのを、心を静めて一つ一つ検討して時間が過ぎた。実験は丁寧にやってあったけれど、書くところで丁寧ではなかったのだ。
夕方になったとき、卒業研 究生の鶴さんと黄さんが二人で私のそばにやって来た。「先生。相談があるのですが、明日休みを貰えるでしょうか?」という。驚いたけれど「どうして?」と 訊く。「世間ではお休みです。だから私たちもお休みできないかと思って、聞いたのです。」とにこやかに言う。
おやおや、どうして私たち の研究室では休みにしていないか分かっていないね。まさか、この二人の後ろに、ほかの院生の意見が隠れていることはないだろうね。「ね、私たちが言いに行 くわけにいかないけれど、あなたたちなら新人だし、山形老師は若い女の子にはめっぽう甘チャンだから、ウンというかも知れない よ。聞いてみてご覧よ」と焚きつけられてきたのかも知れない。
彼らの策略はともかく、この二人にはどうして休みにしていないかを私は静かに語って聞かせた。優等生の鶴さんは、「分かりました。ほかの人たちも、先生 も、私たちのために休めないのですね。先生の気持ちは分かりました。私たちも休んだりしないで、頑張ります」と、大変ものわかりが良い。答えが用意して あったみたいで、断られても全く失望していない。黄さんは隣で同じようににこにこしている。
日語クラス出身の鶴さんは昨年の9月から研究室に来て実験をしているから、日本語も磨きが掛かっている。大学院は日本に行くようだ。黄さんは、4月半ばに入試が終わってから研究室に来たばかりなので、まだ日本語が心許ない。夏からは私たちの院生になる。
この夏で私たちが瀋陽に来てから5年経つことになる。しかしここで院生を始める黄さんにとってはすべてが新しい経験だ。彼女たちの一からの歩みを見守ることになる。私も心を新たにして 彼女たちと一緒に歩むことにしよう。
従弟の牛尾真志が夫妻で瀋陽を訪ねてきた。私たちの家族は親戚との交流が疎遠で、思い返してみると彼らに最後に会ったのは娘の結婚披露宴の時だった。
それから20年。私よりもずっと若いと思っていた従弟も定年を迎え、自由になる時間が出来たと言うことだ。従弟の妻と仲良しの夫人の旦那さんがちょうど瀋陽にある大学に短期赴任しているので、良い機会だから訪ねたいという連絡が入ったのは3月初めのことだった。
もちろん結構。この従弟の 父親は母の弟の中では一番年が若いので、この叔父は私に一番年が近い。それで「小さい叔父さん」と私は呼んで親しんでいた。子供の頃の私の家は目黒区で、 東横線の府立高校駅(これは戦前の名前で、その後は都立大学)の近くにあった。子供の足でも半時間も歩くと着く柿の木坂にある祖父母のうちに遊びに行く と、そこの4人の男の子供用に建てた二階建ての離れにまだ一人残って住んでいた叔父だった。祖父母のうちに行くたびによく遊んで貰った。叔父の部屋でいた ずらをするのが楽しみで良く訪れたように思う。
世の中は自分たち子供と、大人と、おじいさんおばあさんのお年寄りの3種類の人たちから出来ていて、これは未来永劫変わらないものだと信じていた頃のことである。毎日の時間がべらぼうに長かった。
模型飛行機作りを指導してくれたのもこの叔父だった。写真に凝っていた叔父を知っていたために、その後長じた私も写真とカメラには凝りまくったのかもしれない。高校になって初めてスキーに行ったとき持っていった板は、この叔父が学生の頃使っていたお下がりだった。
ほかの3人の叔父の結婚は記憶にないが、この小さい叔父さんが結婚した時は良く覚えている。まだ小学校に入る前だった。もちろん戦前のことである。
叔父の結婚後、二人はしばらく祖父母のうちの離れに暮らしていた。新妻である善子さんは、私にとっても珍しい存在だった。明るく元気で美しい叔母につきま とって、相手をして貰ったように思う。彼女が慣れない家で使う井戸の手押し棒が跳ね返ってあごに当たり大変なことになったのも、昨日のことのように思い出せる。まだ戦前のあの頃は、目黒区でも内井戸を使うのが普通だったのだ。
戦後は日本製粉久留米工場に勤務していた叔父が小山に転勤したのは昭和30年初頭だったろうか。3人の男の子が通過地点としてわが家に一晩滞在したとき、3人の子供たちを相手に相撲をして遊んだ記憶がある。3人一緒に掛かってきてもいいよと言いながら。
その後の従弟たちには私の小学校のランドセルも、高校の制服や鞄も、大学時代の制服と鞄も、お下がりで廻して使って貰った。今回訪ねてきたのは3人の中の長男である。
20年ぶりに会う従弟は「小さい叔父さん」を彷彿とさせる体つき、柔和な顔つき、穏やかな物腰で、叔父の記憶が形を得て、時空を越えて飛んでいまに蘇った感があった。訊くと「小さい叔父さん」は心を虚空に遊ばせて健在だという。痛ましいが、 5月8日で104歳になった私の母と同じである。私たちもやがてそうなる。
この従弟の妻の房恵さんが、何とも豪快な女性なのだ。前からすごく元気な人だなとは見ていたけれど、今度は実に感じ入った。土曜日に假日酒店 (Holiday Inn)に到着したので会いに行った。瀋陽の東北大学に来ている梅田夫妻にも会った。夜の食事には直ぐ隣の遼寧賓館に出掛けた。これは満州国時代には大和 ホテルという名で登場する満鉄経営のホテルだった。歴史に登場する人たちの栄枯盛衰の移り変わりを静かに見てきた建物だ。ロビーには大和ホテルの歴史と、 どんな著名人がここの宿泊したのかが書いてある。
食堂に行くと翌日朝から結婚式の披露宴の飾り付けがされていて、私たちの落ちつくところがない。さて、こんな時に尋ねる中国語を知らないし、どうしようと 思ったときには、房恵さんは、ホテルの人を掴まえてどこで食事が出来るか尋ねている。何と、日本語で訊いているのだ。それでも答えが返ってきて隣の小ホールの食卓に案内された。
さて食事の注文だ。どうしよう。するとすかさず、房恵さんはほぼ同時に入ってきた中国人のお客を掴まえて、何か見繕ってよと始めたのだ。後で分かったことだが彼は北京からここを訪ねてきた弁護士で、驚いたことに彼は20年前に東京に留学したことがあるそうで日本語を話すのだ。彼が私たちを日本人と見て日本 語を口にしたのだろう。それを逃さず、直ぐにお願いした彼女はすごい。
食事の時に聞いた話だが、 房恵さんは友人と二人でニューヨークに行って、セントラルパークの奥の方にあるジョンレノンの記念碑を訪ねようと探し回ったという。やっと大体の場所が分 かったときにはもう暗く、危険と言われる時間帯に差し掛かっていた。もう遅いからと戻ろうとすると、どうしても通らなくてはならない小道にざまざまの肌の 色のパンクの大男どもがとぐろを巻いている。やばい、と友人はすっかりおびえてしまったそうだ。しかし房恵さんは、どうせ通るならと彼らに近づいていっ て、ジョンレノンの記念碑を見に行きたいと言いつつ、日本のたばこを差し出しながら一緒に座り込んでお喋りを始めたそうだ。結局、見るからに危険に見える 男たちが、もう時間が遅いから危ないよと言いつつも、房恵さんたちを記念碑に案内して、そして最後は公園の出口まで送って呉れたと言う。
「だって旅行していたら時 間がないんだから、遠慮していたら何も出来ないで終わっちゃうでしょ。」何ともバイタリティに溢れる房恵さんで、私は会っている間中、驚き、感激、敬意が ない混じった気持ちで、この従弟の奥さんと、そして従弟を改めて見つめ直したのだった。善子叔母さんも元気な人だったけれど、それ以 上だ。従弟は彼女の中に母親を見ているのかも知れない。
房恵さんは元気いっぱいなだけではない。私たちのおみやげは、甘いものが欲しいと言った私たちのために、両口屋の様々のお菓子、虎屋の羊羹、洋菓子のほか、日本情緒溢れる小さな財布、袋、箸置き、ぬいぐるみを山ほど持ってきてくれた。繊細な気配りの可愛い女性である。
足掛け6日、実質4日半の滞在の間に彼らと梅田夫妻は、瀋陽定番の故宮、北陵、博物館、九一八博物館のほか、撫順まで出掛けて世界に名高い露天掘りの炭坑、平頂山記念館をみて、しかも私たちの大学までも見に来てくれたのだった。
楊方偉にメイルを書いた。いま彼は北大の大学院にいる。昨年の秋から札幌に行ったけれど修士課程が始まったのはこの4月からである。メイルには直ぐに彼から返事が来た。そのメイルの両方を載せる。
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楊方偉さん (2008年5月12日)
札幌の名物のお菓子が昨日送られてきました。ありがとう。札幌を訪れたとき、この店の本店まで行って買ったのを思い出しました。有名な店ですね。16個入っているのでちょうど全員で分けられます。
今学期に入ってからべらぼうに忙しい思いをしています。皆の結果がどんどん出てきて、そのためにこちらが勉強に追われているためでしょう。次々と新しい発見があり、毎日が興奮です。
王麗の論文がBBRCに出ました。今つぎの論文を書いています。これも速報誌に出す予定でいます。色々と材料があるので、RT-PCRをするだけで新しい発見につながります。
鶴さんの実験は貴兄の実験を完全なものにするつもりでやっています。 antisenseの昔の手法に変えて、いまではsiRNAを使いますが、そのsiRNAも昨年のうちに作っておきました。ところが作ったことをすっかり 忘れていました。作らなくちゃと思って調べて、初めて思い出しました。
忙しいからなのか、歳を取ったからなのか、どちらとも決めかねています。ま、忙しいからと言うことにしましょう。
私のブログにも書いていますが、私は学生諸君には忙しいとは決して言わないことにしています。 大して忙しくない人に限って、偉そうに「忙しい、忙しい」というものなのですよね。貴兄もいずれ地位に就いたら部下や学生に「忙しい」と言わないようにし ましょうね。彼らを遠ざけてしまいますから。
ともかくいまはブログを書いている時間すらなくなりました。忙しいという時は心を亡くすという意味ですよね。嫌なことです。心を大事にしないといけません。
お大事に。
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山形先生 (2008年5月12日)
メールをありがとうございました。お土産は賞味期限が短いことを心配しましたが、無事についてほっとしました。このお菓子は最初北海道で知り合った八幡というお婆さんから戴きました。すごく美味しいので、いつか先生と研究室の皆に送ろうと思っていました。
5月の頭の北海道は暖かく、風が強かったですが、僕はアレルギーで悩んでいます。病院に行っても、先生は何にアレルギーなのか確認できないと言われました。鼻水とくしゃみが止まらず、涙が流れて、目も腫れて、すごく苦しかったです。
今、薬を飲んでいるから、大丈夫になりました。北海道では花粉症にかかるヒトが少ないですけれども、中国人である僕は逆にかかったのは災厄だと思います。でも、北海道はこの2,3日間急に寒くなってしまいました。すごく寒いですね。
Golden Weekには四日間の休みを取りました。石狩の海と小樽へ行ってきました。石狩の海は日本海側に位置し、灰色っぽいですが、なんとなく大連の風景と似てま す。見ていると、瀋陽へ帰りたくhomesickになりました。5月3日に今住んでる会館の管理員さんが僕をいれて5人の中国人留学生を車で小樽へ連れて 行って呉れました。すばらしい町ですね。
夜家に帰った後、研究室の名古屋人である加藤さんを家に呼んで来て、中華料理に招待しました。僕はじゃがいもとトリを茹で、さば、麻辛い豆腐及び酸辛スープを作りました。多分美味しくて、彼は全部食べました。 大食いだと言えます。とても楽しい一日でした。
こっちの研究室に来てから は、山形研よりなんだか忙しくないです。日本の祭日が多いから、研究室の休みも多い気がします(冬と夏休みはない)。一年間の一番忙しい時期は多分学会前 と卒業前だ思います。ここの学生たちは教授との交流も少なく、挨拶もあまりしません。休みたかったら、休んでもいいです。ところ が、助教授とかは学生と平等の地位に立って真面目にそして十分に実験を指導してくれます。これは日本人に一番感心することです。
この間、授業を受け始めた きっかけで、日本の大学の雰囲気を体験できました。先生のブログに書いたとおりに、日本の大学の若者は確かに心が優しいです。いつも丁寧に優しく知らない ヒトと話します。マナーもいいです。しかし、授業を聞かないで、寝てる学生は中国より遥かに多いです。なぜ彼らはそんなに眠くな るかと疑問を持っていますね。もう一つは皆の英語力がちょっと。多分shy過ぎますね。研究室では皆はやはりやる気いっぱいで実験をやっています。真面目さに心から感心します。
先生のブログには中国人は 子供時代から市場に行って値段を交渉するをやっていることが書かれていました。中国人は確かにお金が好きです(笑)。中国人はど こへ行っても、生存できるし、商売できるし、お金を稼げます。こういうことは我々民族もともとの性質だと思います。ずるいか、頭がいいか、正しいか、悪い か、はっきりしていません。先生が中国に対して好きなところもあるし、嫌なところもあるという気持ちは分かりますが、できるだけ現実と協和した方がいい じゃないかと思います。
私も、研究室の学生らを上 海と北京など案内してあげたいですが、にぎやかな道とルールを守らない市民と汚いトイレトにあったら、とても恥ずかしいと思いま す。しかし、僕はいつも皆の前で中国の経済成果を褒めています。実際は日本にいる中国の各大学からの研究員と教授と話した時、私を含んで、皆は中国の現状 にたくさんの不満を抱いていますが、歴史の発展は誰でも変えられません。考え過ぎたり、心配しすぎると、逆に気分を悪くします。
日本にいても、僕はやはりヒトを助けていますね。バイトをしてるコンビニから廃棄の弁当を持って帰って会館の仲間に分けてあげます。他には、日本語ができない中国人研究員のために、大家さんとの通訳もやっています。ヒトに頼まれたら、できる限りに忙しいとはいいません!!
いつもたくさんのことを先生とshareしたいと思っています。
では、お大事に
楊方偉
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瀋陽薬科大学の学年歴は6月で終わるので、春節休みを終えて後期が始まると最終学年の学生は大変あわただしくなる。学部学生は大学院の入試もあるし、学部も 修士も博士も最終年は論文を出さなくてはならない。こちらも様々なことに付き合って、落ち着かない心のうちに時間が過ぎていく。
卒業研究の学生も,日本の大学院に行くと決めた学生はここでの受験勉強は必要ないので、就職すると言っている学生と一緒に、昨年の10月から研究室に来て 実験をしている。それが3人。一方で、中国の大学院を受験する学生は、1月半ばの全国一斉統一試験を受け、4月に各大学の二次試験があるので、それが済むまで何も出来ない。
と言う訳で、卒業研究生5人の歓迎会は大分遅くなってしまい、今年は4月30日の夜近くのレストランで出掛けて食事をした。このとき日本から2年の予定で 滞在する私の友人である二宮先生もちょうど瀋陽に到着したばかりだったので、一緒に歓迎した。全部で16人が円卓を囲んだ。
私は中国に来て強い白酒が気に入って、飲み続けたために身体を悪くしてダウンしてしまい、2003年12月からいっさい酒を口にしていない。酒を口にしないこのような私は学生にとっては扱いにくいらしく、今回は二宮先生が人並みにビールを飲むので、学生は大喜びだった。
日本式の乾杯は一気に飲まなくても良いが、中国式乾杯はコップのビールや酒を一気に飲み干す。公式の宴席では、それぞれが勝手にちびちびと飲むと言うこと はない。必ずだれか一人が立ち上がって、誰々先生に乾杯と声を掛けて一緒に杯を干すのである。主賓となるとそれぞれ一人一人を相手に乾杯をしなくてはならない。乾杯と声を掛けられたら返杯をするから、人数の二倍ちかい杯を干すという勘定になる。
『二宮老師』と呼ぶのでは何ともつまらない当たり前の呼び名だから、「老二老師」と呼ぶことにしようと言うと、皆大笑いである。「老二、ラオアール」というのは次男坊という意味で、 家で次男はこうやって親しみを込めて 呼ばれるのである。
二宮老師は貴志という名前 だから、じゃ「老貴老師」にしようと提案したら、学生はますます大喜びである。というのはものを買うとき、値段が高いと「太貴了 (タイグイラ)」と言って値段を負けさせるときの第一声にする。「老貴了」はこの地方では「太貴了」の方言だという。皆が喜ぶあだ名なんて最高だと思うけ れど、学生としては失礼だということのようだ。まあ、焦ることはない。私が言っているうちに定着するものは定着するだろう。
「老貴老師」は学生と初めは喜んで歓迎の乾杯を受けていたが、やがてこの人数に付き合ったら大変だと気づいたらしい。「あなた達は(つまり相手は女子学生 である)中国式で良いけれど、私は日本人なんだから日本式でも良いでしょう?」と言い出した。学生は、「だって、『老貴老師』、これから中国で暮らすのに日本式ってことはないでしょう」と言い返している。
「そうですよ。大爺(これは私のこと。ダーイエと読んで、おじいちゃんという意味だ)と違って、中国語も覚えるって『老貴老師』は宣言したんだから、中国 式乾杯じゃなきゃ駄目です。」なんて言われて、女子学生に真正面で寄り切られている。こんなに飲んじゃ駄目なんだがなァ、と呟きながら『老貴老師』はまんざらでもない顔つきだ。何しろ、ここに集まった16人の中で、男は私たちを入れても4人だけで、あとは全部女性なのだ。
卒業研究の新人が5人い る。新人に挨拶をして貰おうということで、女子学生の関寧さんにまず振った。彼女は雄クジャク以上におしゃれ好きの男の陳陽くんに 十分対抗できる女性のファッションリーダーである。いつも見事なネイルアートをしているが、実験の時には取る約束をしている。彼女はすっくと立ち上がっ て、「私は関寧です。山形研究室で勉強と実験に一所懸命頑張りたいと思います。」と言った。本気だろうと思う。肝っ玉お母さんみたいな迫力を彼女に感じる からだ。
これを受けて隣の、暁笠さんは「私も二所懸命に頑張ります。」と言ったので、そのあと笑い声と一緒に「三所」、「四所」、「五所」と挨拶が続いた。今年は5人とも日本語班の出身だったのだ。日本語が通じない学生のために陳陽が中国語にしている。
と言う訳で、中国語、英語、日本語が飛び交い、しかも乾杯のかけ声が絶え間なく続く久しぶりににぎやかな宴会だった。次男坊になってしまった『老貴老師』は、戸惑いながらも中国式の宴会が気に入ったみたいである。これから一緒の生活が楽しみになった。
前回書いたように、春の薬科大学は学生たちの巣立ちの準備で沸き立っている。大学生活そのものが世間への巣立ちの用意と言っても良いけれど、卒業前には論文を出して審査があるから、その論文を仕上げるのに卒業間際の春は、必死で頑張る期間となる。
日本にいた頃の経験では、 博士は立派な内容の博士論文を仕上げたいので良い研究をしようと思って学位をとるまでの数年間は日夜頑張る。博士の学位は、その 期間になにか研究をしたと言うことに意味があるのではなく、どんな新しいことを見つけて学問に進展に貢献したか、そしてその博士論文によって研究能力のあ ることが疑問の余地なく示されたかどうかが問われる。したがってテーマを出すこちらも、研究を遂行する学生も真剣そのものである。
日本の修士の場合は、もち ろん修士卒業論文を書くことになっているが、修士の場合にはその期間に何か研究をしたことが最低問われるだけで、何かの成果がでなくてもいい。勿論テーマ を出すほうのこちらとしては、立派な成果ねらいの研究をして貰うけれど、それが外れても無事に卒業できる。修士のテーマはしたがって指導する側が冒険をす るテーマであることが多い。東工大では優秀は学生が次々来てくれたけれど、実際そのうちの何人かはまともな修士論文を書き上げることは出来なかった。今思 うと大変申し訳ないことをした。
修士で成果を要求されない くらいだから、学部の学生の卒業論文はその期間に何かしたと言うことが分かればいいわけだ。しかし本人にとっては一生に一度のことだし、指導するこちら だって何かいい研究をやったという思い出を持って卒業して欲しいから、短期間で成果の出るテーマを考える。うまくいくこともあれば、狙いが外れてしまうこ ともある。学生には運不運と思って貰うしかないが、この頃は当たる割合が上がってきた。こちらも伊達にこの商売をしているのではないのだ。
「この頃は」なんて書いてしまって、日本のことから書き始めたのに、いつの間にか今の中国のことになってしまった。以下はその中国の、この大学の、今年の話である。
今私たちの研究室には修士課程最終年度の学生が二人いる。王毅楠くんと王暁東さんで、このふたりとも修士で出るつもりでいたので3年間の修士課程に在学している。日本の2年と違って中国では3年間である。博士に進学すると2年で済むがその代わり修士号は貰えない。
さて例年のように時期が来たので二人とも修士論文を書き始めた。と言うか、書くようにこちらで発破を掛け始めた。王毅楠くんは二番目に著者として名前が 載った論文が一つ出ていて、 王暁東さんの場合には5番目に名前が付いている論文がある。どちらもまともな国際誌である。でもどちらも彼らの研究そのものではないので、彼らに自分たち の仕事の論文を書くように要求したというわけだ。
国際誌に論文を書いてそれを投稿するのは私の仕事である。彼らが書くというのは、論文を中国語で書いて中国国内の雑誌に投稿するためである。
王暁東さんは素直に中国語で書き始めたけれど、王毅楠くんがなかなか書こうとしない。これは一方で彼の主な研究の一部に王麗やほかの人たちの仕事を合わせ て、私が英語の論文を書き始めたためかも知れない。論文を私が書くと言っても、実際に手を動かした学生の名前をトップに置く。だからこれは王毅楠の論文がもうすぐ出ると言うことだ。
「それでも良いけれど、あなたの仕事がまとまって出ていないと忘れてしまうから中国語で良いから書いておいて欲しい」と言ったけれど、その後中国語の論文を書いているようにも見えない。
どうしてなのか不思議で聞いてみると、「研究室で30%の学生が論文を書いていれば残りは書かなくても良いことになりました。」と言ってきた。教室主任の小張老師に訊いてみても、そうだという。
つまり私たちの研究室は二 人だから、もし王暁東さんが書けば、王毅楠くんは書かなくても良いということらしい。しかも、論文の二番目に名前があればその人の論文と見なすことになっ ていて、めでたく二番目に名前が載っている王毅楠くんはもう国際誌に論文が出ていることになる。既に大手を振って卒業資格ありと いうわけだ。と言うことは、王毅楠くんが論文を出しているなら、王暁東さんも良いということになる。5番目の名前の論文では認められないそうだが、ともか く、5番目の名前にしても彼女の名前の載った論文だってあるし。
どうしてこんな生ぬるいことになっているのだろうと不思議に思って訊いて廻った。分かったことは、卒業への要求は年々厳しくなっていると言う。つ まり今までは論文を何も書かなくて良かったのだという。全く知らなかったので、私たちの研究室では毎年の修士卒業生には雑誌に論文を出すことを義務づけて いたのだった。
この薬科大学でも全く論文なしというのはどうかというので、今年は3割の学生が書けばよいと言うことになったという。来年は5割だろうか?再来年になれば全員に論文を書くように要求するのだろうか?
一方で話によると、修士論 文は書かなくても良いことにしていたので、今までは修士の学生を企業の研究の下請けに使って来たところがあるのだという。企業が自分のところではやりたく ない研究を大学に廻してきて、勿論それには対価を払っているだろうが、その金の一部は先生のクルマやマンションに形を変えていたらしい。
ということは、引き続き修 士の学生に下請け仕事をやらせたい旧勢力と、薬科大学の研究をレベルアップするために修士の学生にはまともな研究論文提出を求める新勢力とのせめぎ合いが 始まったと言うことだろう。もちろん、私は後者を応援しているが、心の中の野次馬根性としては、今までまともな研究をしてこな かった先生たちはどうするんだろうと大いに気になるところだ。
用事があって日本に帰っていた妻の貞子が2週間不在のあと戻ってきた。日本に向けて出発する前の日に四川大地震が発生したのだった。戻ってきた彼女と話すと地震に 関する話は日本にいた妻の方がよく知っている。日本では今でも何よりも先に四川大地震に関するニュースを報道していると言う。中国でもしっかりと報道されているが、私にはテレビの映像しか理解できないから、日本帰りの彼女の方が地震についてよく知っているわけだ。
オリンピック直前の中国を襲った悲劇に、日本政府も日本企業も続々義捐金を拠出しているし、民間でも募金が盛んに行われているそうだ。中国では義捐金振り 込みを騙る偽サイトがいち早くできたことがニュースになっていた。振り込め詐欺が発祥した日本でも同じことをやっているのだろうか。人の不幸につけ込むこ のような行為は卑劣そのもので、許し難いことである。
中国では見舞い救援物資の横流しが実際に見られると言うニュースを見た。『四川大地震、救援物資巡りトラブル相次ぐ 被災者、警官と衝突(2008年5月26日Nikkei Net) 』
『中国・四川大地震の被災者の間で、当局による救援物資の不透明な取り扱いを巡って不満が高まっている。被災各地で当局と住民のトラブルが相次ぎ、警官隊との衝突に発展するケースも出た。中国共産党は事態を重視、物資の盗難などの取り締まり強化に乗り出した。』
『香港メディアによると、四川省徳陽市で21日、救援物資の横領を疑った数千人の被災者が、抗議デモを行い警官隊と衝突。地元公安局幹部が負傷したほか、警察車両1台が壊された。被災者らはナンバープレートのない軍用車両が、トラックで運ばれてきた食料や飲料水を積んで走り去ろうとしたのをみて、反発した という。』
『被災地で不足しているテ ントや食料の配給などに絡むトラブルは、中国メディアでもしばしば報じられている。インターネット上では「物資は(政府の)腐敗幹部や不法な商人が私腹を 肥やす材料になっている」「公安当局は厳しく摘発すべきだ」といった批判の声が相次いでいる。』
悲しいことには、世界から集まった義捐金の一部もこれらの人たちの私腹を肥やすことに使われているのだろう。このようなことが報じられても、またかと思うだけで、この国ではこのような不正が起きても不思議ではないという評価が定着している。
しかし日本だってこの役人 天国、腐敗の蔓延を批判できる国ではない。年金資源として国が人々の給料から天引きして金を集めておきながら、年金受領資格の通知されない人が五千万人も いますよ、その金は何処かに消えてしまっていてもう何処にもありませんよ、と言うだけで誰も責任を取ろうとしない国が日本なのだ。
そして日本政府は、今度は医療費の受給者負担を言いだした。後期高齢者なる区分を作りそのグループの中で医療費をまかなおうとしている。75才 以上の「後期高齢者」(何という嫌みな言葉だろう!)がほかの人たちより多くの医療費が掛かるのは疑問の余地がない。彼らを切り離せばほかの世代では医療 費の負担が 減るのは確かである。しかし、社会のために働いてきた人たちが老齢化したときに、さあ、これからは安心して暮らしてくださいというのが健全な社会ではない か。それなのに、自分で費用が賄えなければあなたは死ぬっきゃないですよ、と言っているのだ。「姥捨て山」物語を、物語の世界のものにするために、私たち は働いてきたのだと思う。
ローマ時代にはすでに、民衆に食と職を与えるのが国の責任であると、塩野七生の本に書いてある。食と職を与えて人々の安寧な暮らしを保証するからこその国 家なのだ。心穏やかな老年を迎えられない国を作るために私たちは汗水垂らして築いてきたのだろうか。老人を邪魔扱いする若いひとたちよ、君たちもいずれ見捨てられる社会を作っているのだよ。
中国で政治的に一党独裁であることが歪みを生み出していることは、今は誰でも知っている。政権にはうまみがある。それにすがり、それを担ぎ続ける人たちがその延命を図るのは当然のことで、それがまた社会の歪みを生み出している。
日本がおかしくなったのは 長年に亘って自民党が政権を独占してきたからである。政権にすがってうまみを吸う人たちが、数の上では多かったから選挙でもなかなか覆らなかった。しか し、もういい。自分たちの利益だけを図り、国民の幸せを考えない政権には見切りを付けよう。 福田首相は幼なじみだから個人の心情としては助けてやりたいけれど、自民党政権と役人天国を終わらせなくてはこの国はますます悪くなる。
強制されなくても愛することの出来る国を作るために、まず、日本の政治を変えようじゃないか。
新しく研究室に所属することになった学生には、教授室の鍵、二つの実験室の鍵、合計3個の鍵を渡す。つまり全員がすべての部屋の鍵を持っている。「決してな くしてはいけないよ。それでも、もし落としたことが分かったら直ちに知らせなさい。鍵と錠を取り替えなくてはならないから。」
それなのに、 学生の一人が渡してある研究室の鍵をなくしてしまった。
薬科大学の正門には今はき ちんとした警備員がいるので、泥棒は入りにくくなったと思う。ここではこれまで何度も盗難の被害には気をつけるよう言われている。私たちは5階にいるが、 隣の先生のノートパソコンがわずか5分くらいの隙になくなったし、1階上の先生は財布ごとハンドバッグが盗まれた。
と言うように危険が一杯のところなので、研究室の鍵は,部屋を離れるときは何時も閉めるよう、したがって鍵もなくしたら直ぐに知らせるようやかましく言っている。
今まで五年間、鍵の紛失事故はなかった。事故がなかったわけではない。2年前は鍵を落とした学生が私たちに連絡しなかっただけだ。この学生は鍵を落とし て、密かに鍵を探しながら悩んでいたら、この建物の1階に住んでいる守衛が拾って、「この鍵は誰のですか」と掲示してあったので手元に戻ったのだった。
今年の3月から研究室に来 た卒業研究生の関さんが、火曜日の夕方私のところにやってきて、日曜日に鍵をなくしたらしいという。何処で何時、どのようにして、 なくなったの?と訊いてみたけれど,なくしたものは現にないのであって,何処でなくなったか正確には分かるものではない。ともかく、ないのだ。あちこち心 当たりを探し回ったあげく、やっと鍵をなくしたらしいと言ってきたわけだ。
ほかの学生にはまだ言っていないというので,皆にも知らせて翌朝まで一緒に探した。しかし朝になっても鍵は見つからなかった。それで、教授室と実験室のすべての錠前3個と鍵を取り替えることにした。
錠前と鍵の管理はもちろん 大学である。大学のしかるべきところに届けたところ,午後になって錠前の交換に係のおじさんがやってきた。シリンダー鍵の入る部分を取り替えるだけで,錠 前の機構そのものはいじらない。作業は簡単に済んで,新しい鍵をもらった。そのコピー作成はこちらのやることである。学生の王くんが引き受けて学内の合い 鍵作成のところに行った。夕方までに私たちは、新しい鍵を手にしたのだった。
さて、6時半に仕事終えて帰ることにした。鍵はキーホルダーの金属の輪に入れてあるので、輪から鍵を外して新しいのと入れ替えるには少々時間が掛かる。それで、古い鍵を残したまま、新しい鍵を鍵束に付けておいた。
部屋を出た。ドアを閉めた,そして鍵を探した。ドアを閉める前に新しい鍵で動くかどうかのチェックをした方が良かったかなと、頭の中でちらっと考えながらドアを閉めた。そして鍵束を出して鍵を探した。いつもは鍵の位置で分かるようになっているけれど、今は違うのだ。
最初に528と書いた鍵が見えた。これはちがう。つぎに527と言う番号が見えた。教授室は517なのに、最後の数字の7が眼に入っただけで考える間もなく、鍵穴に鍵を差し入れて廻した。固い。だけど新しい鍵だ、前よりも薄くて頼りない鍵だ、固いかも知れない。廻した。90度くらい廻って動かなくなった。
そういうこともあるかと思いつつ、逆に廻したら差し入れた位置に戻った。
このあと、もうどちらにも廻らない。抜こうとしたけれど鍵は中で引っかかっていて抜けない。なんちゅう鍵だ。と腹立たしく思った途端に、最初に鍵に書いてあった527と言う数字を見たことが、やっと脳の認識機構にたどり着いた。あ、鍵を間違えた。
でも、錠前は私の間違いを許さず、鍵は抜けない。扉は閉まったまま開かない。と言ってこのまま鍵をさしたまま帰るわけには行かない。こう言うときに頼りに なる王毅楠くんを電話で呼ぶと、食事時なので食堂にいたが直ぐに来てくれるという。 妻が実験室に行ったら、曹さん、暁艶の二人がいて直ぐに駆けつけて、大学の係に電話をしてくれた。係ももう帰る時間帯だったけれど、直ぐに来てくれるらしいと聞いてホッとした。
係のおじさんが来たが、鍵を抜くには引っ張るしかないのだ。しかし、ペンチでつまんで引っ張っても抜けない。鍵の頭の穴に紐を入れ、つぎには針金を入れてガンガン引っ張って、ついに抜けた。つぎに正しい鍵をいれて、扉が開いたところで、中に妻と王くんが入った。
扉を閉めて鍵を廻したら、錠は掛かったが、今度はそのまま鍵が動かず、抜けなくなってしまった。扉は閉まったままである。最初の鍵が抜けないのを引っ張って、錠の中の可動部分を壊してしまったに違いない。
やがて部屋の中に閉め込まれた王くんが、中から錠前部分をドライバーで外したので、扉が開いた。もし、中に人がいて錠前をとり外せなければどうなったろう。
この時間ではもう遅いので、新しい交換用の錠前部分は手に入らない。それでもともとの錠前を暫定的に付けることになって、ドアは無事に閉めることが出来た。ここまで1時間かかった。私が鍵を間違えたために、1時間のとんだ大騒ぎとなったのである。
鍵に書いてある番号をちゃ んと見ていたのに正しい判断をしなかった、と言うのが怖い。いよいよ来たか、呆けが来たか、と言うのが私の正直な感想である。「歳を取って大いに疲れてい るとこうなるんだね、」と口にしたら、暁艶は「私だってこんな間違いはしょっちゅうですよ」と言ってくれた。優しい。しかし曹 さんは冷たく私の言葉にうなずき、妻は「そろそろ、危ないわね。」と嬉しそうである。ヤレヤレ。
気をつけよう。でも、どう気を付ければ良いんだろう???
鍵事件の翌日、教授室の錠前を再度新しいものに交換した。前の日に新しく取り替えたばかりだったのに、鍵もまた新しくコピーした鍵になった。錠前4つ分と、4種類の鍵の14枚のコピー代で170元掛かった。このうち4分の一は私の責任である。
その後は鍵を開ける時も閉 める時も、鍵の番号を確かめ、ゆっくりと鍵穴に差し込み、確実に入ったことを確認してから鍵を廻している。今度の鍵は5年間使った鍵に比べて薄く頼りな い。何か不適合があればたちまち曲がってしまいそうである。中でポキンなんて折れたらどうしよう。
さて、 鍵の取り替えで 大騒ぎしてから4日後のことである。昼食を済ませてから、 妻と薬草園を見に出かけた。もちろん教授室のドアを閉めて、鍵は二重に廻して錠を掛けている。ここは薬科大学だから、大学の狭い敷地の中にもそれなりの立 派な薬草園がある。冬の間は何もないが、春になると賑やかになる。薬草の名前はちっとも覚えられないけれど、花を見るのは楽しい。
ちょうど芍薬の花盛りが終わったところで、芍薬ほど目立つ花は咲いていないけれど、蒙古の何とかとか、烏の頭とか、面白い名前の付いた草花があって、見飽きない。
2月に大学正面のドロノキ が軒並み5メートルくらいの幹を残して枝という枝は皆切られてしまって、随分情けない姿になったことを以前書いた。その後、何時もなら4月に入るとドロノ キの花芽が伸びて、葉が伸び出す前にそれが落ちて、道路一面紅い絨毯を敷いたようになるのに、今年はそれがない。
昨年秋に早々と切られた寮の近くのドロノキからは芽が出始めた時期になっても、今年の2月に伐採された正門や運動場のドロノキは、芽を吹かない。もう枯れちゃったんじゃないか、と長く心配しているうちに、何本かは幹の断面の端から新芽が伸び出した。
それだけではなく、幹から何メートルも離れて地面から、場合によってはアスファルトの舗装を割って新芽が吹き出してきた。運動場の切られたドロノキから10メートルは離れているのに、薬草園の土が良い具合なのか、沢山のドロノキの新芽が地面から出ている。「あった、あった。」つい嬉しくて、次々と眼で 追ってしまう。土から顔を出している木の新芽は、ドロノキの木株から放射状に出ている。
ここは林ではなく、管理された敷地だし、あるいは薬草園の中だから、これらの新芽の運命は儚いものだろうが、戻ってきた生命力はこちらを元気づけてくれる。
外に1時間くらいいて部屋に戻ってくると、教授室の入り口の前に二宮さんがしょんぼりと腰を落として座っているではないか。 二宮さんは2年間の滞在予定で4月の終わりから薬科大学に来ている。1ヶ月一寸経って瀋陽の暮らしにも大分慣れた頃だ。「どうしたの?」
「いえ、鍵が引っかかってしまって。」と言う返事だ。見ると、鍵が入って半分廻ったところで、スタックしている。でも、鍵は全長ではなく半分しか刺さって いない。二宮さんは鍵を半分差し込んだだけで廻してしまったのだ。ドジな話だ。数日前に自分のやったことを、つい、棚に上げて、批判めいた眼差しで二宮さんを見つめてしまった。
やがて昼休みを終えた学生が次々とやって来て鍵を引っ張るが、動かない。やがて大学の、先日来た鍵のおじさんが来て、引っ張った。何処が違うのか、彼が引っ張ると鍵が取れた。しかしドアにはまだ鍵が掛かった状態だ。
次ぎに鍵のおじさんが、この部屋の別の鍵を差し入れたが、入らない。中の錠前の作動部分がおかしくなっているのだろう。おじさんは、金槌でガンガン叩くが 鍵が入らない。もちろん鍵は廻らない。ドアは錠が降りた状態だから、部屋の中に人が入って、先日みたいに中から錠前を外さない限り、開けようがない。ドア は閉まったまま。鍵は抜き差しならぬ状態で動かない。
このドアの上には一枚ガラスがはまっている。 中から取り付けてあって、廊下からは外せない。でも、もちろん割れば中に人が入れるくらいの大きさがある。
おじさんと学生の話を日本語にして貰うと、このガラスを割って、中に入るしかないみたいなことになって来た。このおじさんはガラスの修理も担当だそうで、もうガラスの取り替えの値踏みをしているみたいだ。
曹さんが白衣と踏み台を持ってきた。 誰が入るの?と訊くと、王くんが上から入ります、なんて言っている。「でも、本当の鍵の専門家を呼べれば直るかも知れません。50元掛かるそうですが。」という。ガラスを割るのは最後のことにして専門の鍵職人を呼んで貰った。
1時間以上も部屋に入ることが出来ないで待ちくたびれた私たちは、図書館の下の食品売り場に飲み水を買いに出掛けた。戻ってくると、 専門の人が呼ばれてきていて、ちょうど鍵が開いたところだった。どうやったのか訊くと、「穴に細い棒みたいなものを差し込んで廻したら鍵がするっと開いた んですよ」、ということだ。万能の合い鍵みたいなものらしい。
この鍵やさんのおかげで開いたのだから、そんな失礼なことをいってはいけないが、なるほど、鍵屋は泥棒にもなれるよなあ、とむかし誰かが言っていたのを思いだした。
二宮さんはこの間ずっと しょんぼりしていたが、ドアが開いて、しかも鍵がそのまま使えると分かって、やっと元気を取り戻した。「鍵はちゃんと差し込まないといけないんですね え。」なんて言っている。 二宮さんは私たちより朝は遅いし夜は早いから、自分でこの教授室の鍵を廻した経験がほとんどないのだ。
鍵職人に50元払ったが、さらに今回傷ついた錠前をまた交換しなくてはならないかも知れない。お金が掛かったけれどドジな仲間が出来て、私もこれから大い に心強い思いである。二宮さんは瀋陽に来て1ヶ月半にもならないが、ケータイを落として、銀行カードをなくして、そして鍵でドジをした。トッポイ仲間が増えて、こんな嬉しいことはない。
今年の6月8日の日曜日は旧暦5月5日に当たり、端午の節句として今年から公式の国家の休日に取り入れられた。日曜日とぶつかるので、日本と同じように翌日の月曜日が休日になっている。それで大学では土曜日から三連休である。
でも私たちの研究室は、休んで良い日は日曜日だけと言うことになっているので、今日の土曜日も朝から学生は研究室に来て研究をしている。いつもならセミ ナーの日だけれど、祝日休暇だし、二宮先生は内蒙古の砂漠に遊びに行ったし、学生二人は英語の資格試験GREを受けにハルピンや大連に行ったので、セミナーは休みにした。
5月5日は端午の節句だな んて、日本と同じなんて言いそうになるけれど、もちろんこの節句の起源は中国にある。「中国まるごと百科事典」によると、『端午の節句の起源は文字通り で、端はことの始まりを意味し、午は陰の反義語で、太陽を表し夏の始まりを意味します。香りの強い菖蒲(しょうぶ)や、よもぎの葉を家の前に飾るのも、こ れらの病や邪悪なものを避ける為のお払いのようなものです。』と書いてある。
ここまで読んで、子供の頃 はうちの風呂でも端午の節句にはうちの庭から採ってきた菖蒲の葉が浮いていい香りをしていたのを思い出した。うちでは五右衛門風 呂だった。毎日だったのか数日おきだったのか覚えていないが、薪で風呂を焚いていて、この風呂焚きをするのは結構大変だった。大抵は父が火を付ける用意を して風呂焚きを始める。薪割りをしたり、火付けの小枝を用意したり、何時も何かと子供なりに手伝っていたような気がするけれど、実際は何時もうろちょろし ていただけで、ほとんどは父がやっていたのだろうと思う。
それでも時には火を焚いていた証拠がある。学童疎開の間に書きためた日記を自分で風呂の焚き口で燃やしてしまったのだ。そのころの日記には毎日の労働とつ らい気持ちが書き連ねてあったが、戦後それを読んだ母がお客に何かと話題にするのが嫌で、風呂焚きの時に日記を自分でノートを裂いて燃やしてしまったのを覚えている。今残っていれば貴重な資料だったろうにと思うけれど、人のやることなんてそんなものだろう。
私たちは学校ごと信州に学童疎開をしている。クラスの半分位の学童は縁故疎開だった。戦後再開されたクラスに戻ってきた人たちはその半分もいなかったように思う。
ちなみに「エンコ」という意味の分からない言葉を覚えたのはこのときで『「エンコ」とは何かいいことらしい、うちとは無縁のことだ』と思ったのも覚えてい る。その後もう少し長じて、縁故と言う言葉の意味を正確に知ったけれど、縁故による就職も、縁故による昇進も一切無縁の人生を送ってきたから、子供ながら事態を正確に理解していたらしい。
縁故疎開の出来なかった残りの私たちは学校ごとひとかたまりになって動く学童疎開に参加した。第一陣は昭和19年の冬休みの間に動いたように思う。第二陣は昭和20年になってからで、私たちが松本市浅間温泉に着いたのは4月29日だった。
やがて甲府などの地方都市も焼夷弾攻撃を受けて次々と炎上していたから、松本も危ないと言うことになって、もっと山奥に疎開したのは 6月3日だった。 私たち3年生は飯田線飯田の駅から歩いて3-4里も山を登ったところにある下伊那郡上久堅村のお寺に移った。
親から離れたと言うだけで 悲しかったし、子供だけの集団生活も初めてだった。物や食べ物ものもない極限生活に近いなかだったから、その頃の生活は場面ごとに明確に覚えている。しか し、インターネットを見ても、これに関する記述は見あたらない。私たちが受け入れられた学校「飯田市立上久堅小学校」の「沿革・ 昭和20年」のところに、『大都市強制疎開開始。疎開児童の出迎え式・入学式実施(6月5日)。11月引き上げ。』という至極簡単な記述があった。6月3 日に上久堅村に移ったのことが裏付けられている。
それまでは私たち学童は朝礼でここの校長から「お前らは、、、」と一把一からげにされていた。いよいよこの学校を去る日になると、校長が、「お前ら、いや、君たちは、、、」と言い直したのを鮮明に思い出す。
疎開の時の思い出に浸っていると、何事も停滞してしまって先に進まない。思い出はまた何時かのことにして、先に進もう。
「中国まるごと百科事典」によると、『また、この日は戦国時代の偉大な愛国の詩人屈原の命日です。屈原は楚の国の大臣でしたが、ある時、楚の国の王の前で秦の国の主張に抵抗し団結するよう述べた為、口の上手な家来の誹謗と迫害に遭い、追放されてしまいました。』
『屈原が追放されている間 に、秦に攻められ楚の国が滅びてしまい、これを聞いた屈原は嘆き悲しみ、汨羅江(現在の湖北省にある河)に投身自殺してしまいました。これを知った農民た ちはもち米を竹筒に入れ、あの世でも空腹にならないようにと河につぎつぎに投げ入れたそうで、これが「粽」の始まりです。』
中国ではこの節句には粽を 食べる。国際交流処の程所長と蔡さんが数日前に粽を持って、お祝いですと挨拶に来てくれた。この5年間ではじめてのことだった。 今朝は、大学のまえに並んでいる小さな食べ物屋の前を歩いていると、小粽米と書かれた新しい看板が眼に付いた。店の前には粽が並べてある。珍しいので写真 を撮りだしたら中にいた若い女性が出てきて、「写真を撮りますか」という。咎められるのかなと思いつつも、はっと気付くと、彼女の言葉は日本語なのだ。 「えっ、日本語じゃない、日本語がずいぶん上手じゃない?」と返事をしたことがきっかけとなって、間で二言三言の言葉をやりとりした。「じゃ粽を少し買っ ていこうかと」妻と話をしていると、彼女は粽を2個さっさと包んでくれて、これを上げるという。
「そんな。それは嬉しいけれど、申し訳ないから、別に少し買うわよ。粽を2つちょうだいな。」と妻が言うと、彼女は「いえ、いえ」と言いつつ、さらに茶色く茹でた卵を2個呉れるではないか。
とうとう断れずに有り難く戴いてしまった。そういうわけで、旧暦5月5日は端午の節句で、ここでは本気で粽を食べるという話を書きました。
教授室の一隅で妻と昼ご飯を食べているところに、卒研生の女子学生の一人がやって来た。昼ご飯と言っても、買い置いて冷凍保存してある食パンを炙ってバター を塗ってチーズを挟んで食べるだけである。ただし副食として、1 Kgで5-6元(70-80円)のミニトマトを沢山食べている。今の時期は黄色のミニトマトが甘くて美味しい。
女子学生が脇に立って言 う。「先生。今日の午後の発表を延ばしてください。」これはどういうことかというと、薬科大学では6月末に卒業式がある。卒業研究の学生の研究発表は大体 中旬に行われる。したがって、それに合わせて、今までやってきたことをまとめて話をして貰おうというので、1週間前から知らせておいた。
私たちは研究の一人一人と 毎週1回は会って、仕事の進展状況を聞いて、やるべきことを指示している。卒業研究生5人に同じことをしているので、彼らの研究の進捗状況はよく知ってい る。卒業研究発表の前に自分のやってきた研究をまずは自分でまとめさせるために、プログレスレポートの機会を設けたのだった。
当日の朝、同じく卒研生の女子学生である黄さんが来たとき、「風邪を引いて今日は声が良く出ません。今日の発表をほかの日にしてくださいませんか。」と私 たちに言った。彼女の研究は順調に進んでいる。今日話が出来ない理由は、彼女の健康状態が今日は具合が悪いという以外に思いつかない。「良いでしょう、 治ったらやりましょうね。」と言った。
5人のうち一人に話を延ばしても良いというのが伝わったのか、午後から卒業研究生のレポートをしようという直前になって、また一人から今日は出来ないと言ってきたのだ。
「どうしてなの?」と当然の質問をした。すると顔つきが急にゴワゴワに変わって泣き出しそうになるではないか。え、え、え?
「具合が悪いのです。」という。それで「「何が具合悪いの?」と訊くことになった。しばらく絶句して「私のボーイフレンドが遠くに行って、2年会えなくなりました。」という。
(そりゃ気の毒に。でも、だから、どうした?)という気持ちで、続きを待つと、また半泣きの顔になって「だから気持ち悪くて話が出来ません。」という。「いいですか?」
冗談じゃないよ。こんな理由で、決めたことが簡単に覆るかも知れないなんて、ずいぶん世の中か、あるいは私たちを甘く見ているね。1週間以上前から今日は発表をすることを決めてあったのだ。恋人との関係を持ちだして、それを変えられるなんて、どうして思うんだろう。
「だって用意してあるんでしょう。これからだって人生いろいろのことがあるかも知れないけれど、自分の個人的な関係を持ちだして、人との約束を破ったら、生きていけなくなるわよ。今は甘えて言っているんでしょうけれど、世の中は、そんなことでは通らないわ。」と妻が言う。
「どんなにつらくても、決めたことは守らなくちゃならないのよ。やってきたことを話すだけなんだから、おやりなさいよ。」と妻が言うが、「用意してありません。気持ちが悪くて出来ません。」と言いつのる。
私が話を引き取った。「前 から今日やることが決まっていたのに、用意をしていなくて、それをボーイフレンドが遠くに行ったから話が出来ないなんて言い訳は通らないですよ。今日決め られたとおりに、話をするか。あるいは話をしたくないなら、しなくても良いから、研究室にもう来なくて結構です。」
しかし、彼女な目の前できょとんとしている。話が分かった風でもない。きっと「結構です」というのが分からなかったのだろう。それで、もういちど言い直し て、「話をしないなら、研究室から出ていってください。卒業できなくなるけれど、それはあなたの問題ですよ。」と締めくくった。
妻は隣りで「毎週話をしているんだから、それを纏めれば直ぐに発表できるでしょう。ね、ちゃんと話をしなさいね。できるわよ。」と励ましている。
目の前の彼女も、思い直したのか、コクンとうなずいて「じゃ、話をします。」と言って引き揚げていった。
卒業研究の学生のうちの一人の出した結果を既に彼の名前も入れて、速報誌に投稿したくらいとんとん拍子に仕事が出たのを横目に見ているので、焦る気持ちは 分かる。でも、卒業研究の発表は、何かをしたと言うので十分。何かの成果が出ていなくてもよい。格好を付ける必要はないのだ。
と言っても、昔の自分を考えれば分かるが、誰でも格好は付けたいものだ。人が自分より良ければ、焦ってしまう。急に焦ったって突然良い結果に恵まれるというものでもない。人間、何時もありのままの自分と付き合って、それをさらけ出して生きて行かなくてはならないのだ。
結局この学生は、午後予定通り発表をした。めざましい成果は含まれていないものの、何ら恥じる必要のない立派な内容だったし、パワーポイントだってとても良くできていた。私たちも密かにホッと胸をなで下ろした。でも中国の女子学生の胸中はまだまだわからない。
いままで何度もこういうことを書いてきたような気がする。また私たちは怒っている。私たちの研究室のやっていることは実験科学だから、大なり小なりの機器を 使う。高価な機器はもちろん、そうでない日常的な機器でも、使うときには何時も気を配るのが当然だ。危険防止はもちろん、気持ちよく実験して、再現性の良いデータを出すために、機器の保守に気を配ることは研究室が研究室として機能する根幹である。
機器が高価であってもなくても、私たちが現役のころは機器の保守には気を遣ってきた。使ったあとは機器を綺麗にして、次ぎに使うときには支障のないようにした。異常が見つかれば直ぐに故障箇所を自分で見つけるか、修理の手配をした。これは研究室の常識である。
瀋陽薬科大学の私たちの研究室ではRT-PCRが実験手技の主流となっている。細胞からRNAを抽出して、目的の遺伝子がどのくらい発現しているかを、 mRNAを増幅して調べる。これに掛かる費用だって安いものではないけれど、これ以外のことをやったのでは研究にどのくらい金がかかるか想定できないの で、RT-PCRが研究の中心に来るようにしているわけだ。
RT-PCRは細胞からRNAを抽出し、そのRNAからRTでcDNAを合成させ、そのあとPCRでcDNAを増幅する。試験管内で反応をしたあと、反応液を電気泳動ゲルで分離する。このとき、専用の小さな電気泳動装置を使う。
元々は日本から電気泳動装置を持って行っていたが、やがて壊れて中国で作られているそれの相当品を買って使っている。値段は日本で買う値段の3分の1から半分くらいである。何時も2台が動いていたが、5月初めに泳動装置が壊れたと言ってきた。テスターで見たけれど故障箇所が分からない。瀋陽にある販売代理店に連絡して直すように手配してもらった。
すると今日、残った1台も 同じように動きませんと言ってきた。機械が壊れるのには原因がある。乱暴な取り扱いで断線したか、泳動の緩衝液の濃度を間違えて過電流が流れたか、スイッ チに水か緩衝液を垂らしたか、必ず何か理由がある。同じ原因で機器を壊したりしないようにするには原因を調べてそれを繰り返さないようにしたい。
だから、どうして壊れたのか、誰が壊したのか、私たちは知りたい。しかし、機器が壊れる度に「どうして壊れたのか、誰が壊したのか」と繰り返し質問を発しているが、5年間まだ一度もそれの答えには出くわさない。
「ブーチーダオ(不知道 分かりません)」だけが異口同音に返ってくる。「私が使おうとしたら動きませんでした。」という返事は時々ある。それじゃその前に使ったのは誰なの?」と 聞くと「ブーチーダオ 不知道」なのだ。誰一人として、自分が使っているときに壊れたことを認めない。壊れた原因は分からない。誰が壊したかも分からな い。
したがって機器が壊れて も、壊れないよう対策は講じられない。こちらは責任を追及していないし、罰則を負わせることもないのに、誰も壊したと言わない。つまり誰も責任を取ろうと しない。誰にも説明できないから原因は何時も分からない。誰が壊したか分からない限り、次ぎのを買わないと言いたいところである。壊した人が分かっている らしくても、それを絶対に私たちには言わない。彼らは告げ口は絶対にしない。見上げた仲間意識であり、たいした道徳である。研究者の端くれのくせに、機器 が壊れることの再発防止に協力しようなんて言う意識はさらさらなく、共同戦線を張っている。
2台持っている泳動装置の2台目が壊れたのだ。5月 初めに修理に出した1台はどうなったのか?係の学生に聞くと「不知道」だ。業者に電話をさせると、「まだ直っていないそうです。白金線が切れてるらしく て、あと1週間は掛かるそうです」という。そんなに時間が掛かるはずがない。何もやっていないし、やる気 もないのだ。むかつくが学生にむかついた声を出しても、筋違いである。反省をする。
それでも、この怒りのやり場がない。何で、こんな思いをしてまで、ここでこんなに頑固な学生を育てなくてはならないんだ?
初めは頑固でも、何時かはこちらの言うことが分かってくれるなら良い。だけど、5年経っても彼らは彼らの考えをがんとして変えず、研究室の機器は壊れないようにする手を打つことが出来ず、いつでも彼らが壊すのをつほかない。
機器が壊れるのは神様の思し召しか。その次ぎも手の打ちようがないのか。機器を壊した原因を教訓にして、つぎは壊れないように操作しようというのは、日本人だけが考えることなのか。つい話が飛躍して、中国と日本の物の考え方の違い、価値観の違い、を考えることになる。
しかし、いつもは文化の違いを見つけては楽しんでいるのだ。怒ってはいけないのだ。こんなことぐらいで怒っていたら、この先、身が持たなくなる。こんなこ とくらいで血圧を上昇させて命を縮めたら引き合わない、学問に真面目に取り組む学生たちとまだまだここで付き合うつもりだから。
それにしても、ええい、くそ。
薬科大学の修士課程の学生の論文発表が日曜日の朝8時半から始まった。私たちは最初だけしかその場にいなかったが、終わったのは6時半だったという。
昨年初めに新しく編成された私たちの学部は、薬理学科と生化学科などが一緒になって生命科学部となった。この新しい学部は弱小弱体と言われている。これらの学科は外部企業との結びつきが少なく、つまりは先生たちが儲からない学部で力がないと位置づけられているらしい。
そのためか、修士論文発表会の場所が生化学実験室なのだ。大学には会議室もあるし、外部講師のセミナーが開かれる講義室もある。学生の授業に使われる講義 室だって沢山ある。でも、今の時期は博士論文発表会やあちこちの修士論文発表会も目白押しなので、それらの部屋の予約が取れなかったわけだ。
私たちの研究室の修士論文の発表会は生化学科の老張老師の研究室と一緒である。老張老師の研究室は張景海教授のほかに、副教授や講師が11名いる大教室である。修士課程の卒業生も9名いて私たちの2名と合わせて11名になる。幸い私たちは中国語が分からないので、私たちのところの王毅楠と王暁東は最初の2つの発表に当てられた。発表20分、質疑10分という予定である。二人の発表が終われば私たちも解放される。
王毅楠の修士論文の題目は「カベオリンによる腫瘍細胞の転移性の抑制とガングリオシドと反応する分子の探索」で、王暁東の題目は「ガングリオシドによるMMP-9発現制御の違い」である。
私たちはFBJ-S1という転移性のほとんどない細胞と、FBJ-LL細胞という転移性の高い細胞を使っている。転移性の低いFBJ-S1細胞はカベオリン含量が高い。
王毅楠はFBJ-S1細胞のカベオリンの発現をsiRNAで 抑えたモノクローン細胞を取った。細胞の移動性を調べたところ、もとの細胞に比べて細胞の移動性が数倍増加していた。細胞の悪性度と、細胞の移動性は比例 するのが普通である。細胞の移動性が高いということは、カベオリンが減ると細胞の悪性度が高くなることを意味している。
カベオリンが減るとどうして細胞の悪性度が高くなるかを知るために、カベオリンの発現をsiRNAで抑えたモノクローン細胞を使って、発現が増強されたか、抑制された遺伝子を調べた。このためには数千という遺伝子を対象にしてその発現を調べるDNAマイクロアレイという方法があるが、私たちにはとても高 価で使えない。私たちは遺伝子一つ一つを対象にして、PT-PCRという技術を使う。簡単で正確といって良いけれど、調べたいものしか調べられない。意外 なものが見つかることはない。
幸い、カベオリンの発現をsiRNAで抑えたモノクローン細胞のどれでも、ある種の増殖因子が数倍に増えていた。この増殖因子は腫瘍細胞でも作っていて、細胞の悪性度や転移性に比例している。調べてみると転移性の低いFBJ-S1細胞ではこの増殖因子の発現は低く、転移性の高いFBJ-LL細胞では高かっ た。なるほど、なるほど、である。カベオリンの発現をsiRNAで抑えてこの増殖因子が増加したモノクローン細胞に今度はカベオリン遺伝子を入れてカベオ リンを入れると、その発現は顕著に下がる。何故変わるのか分からないけれど、この増殖因子の発現はカベオリンによって逆に制御されていることが明らかである。
このカベオリンは細胞表面にあるガングリオシドの1種類であるGD1aによって正に制御されている。GD1aを増やせばカベオリンの発現が増えて、 GD1aを減らせばカベオリンの発現が減るという相関関係を私たちは以前見つけている。つまり、ガングリオシドのGD1aが増えれば、ガン細胞の増殖に役 立つこの増殖因子の発現が減るのである。
ガングリオシドがどうして このようなことをやっているのかが私たちの研究の眼目である。これを調べる一つの方法として、ガングリオシド抗体と反応する分子を総まくりして調べること もやっている。王毅楠はガングリオシド抗体と反応して共沈殿したタンパク質を二次元電気泳動法で分離して約30の互いに異なるタンパク質のスポットに分けた。これらが何であるかは日本の研究者にお願いして質量分析機で分析して貰った。まだ全部の分析が終わらないけれど、いくつか面 白い分子が GD1aと結合していることが分かってきた。
全部の分析が終われば、これらがGD1aと特異的に結合すること、そのような順序で結合するのか、そしてその意味は何であるのかを調べることになる。王毅楠が始めた研究は、まだまだ始まったばかりということだ。
以上の話を王毅楠は20分でパワーポイントのスライド35枚位を使って説明した。聴く人たちは初めてなのだから、データを見せてもそれらが直ぐに飲み込めるようマンガやアニメを多用するように示唆しておいたところ、とても上手くこれらの図が出来ていて、生化学の先生たちに良く理解して貰えたようだ。だから質問時間10分の予定なのに、次々と質問が出て30分も質疑応答が交わされたのだった。
抗体と共沈殿するタンパク 質を調べる方法以外にも、ガングリオシドと反応する分子を調べる方法はないのかと聞かれた王毅楠は、ガングリオシドカラムを使っ ても良いし、ガングリオシドに蛍光を付けて、電気泳動で分けたタンパク質と反応させる方法もあるし、などとそつなく答えていた。私たちが昔実際にやった方 法である。ガングリオシドと反応するタンパク質が分かればそれとの詳しい相互作用を調べる方法も今ではあるし、細胞の中で共存することを調べる方法もあ る。
細胞内で二種類の分子が相互作用を持っている(共存する)ことを調べるのに今この分野ではコンフォーカルレーザー顕微鏡を使う。高価な機器なので(2-3 千万円)中国のこの大学では夢物語のことだと思っていたが、老張老師が今年の終わり頃にはこの大学に1台入るから、使ったらいいじゃないかと言う。驚きである。このようなときに中国がめざましく発展していることを感じるのである。
アメリカで博士論文の発表はdoctoral dissertation defenseというらしい。博士論文を書いて、それを審査員が読んだ上に徹底的に試問する。
defendという言葉の意味は、 1[ [名]([副])] …を(敵・危害などから)守る, 防御する(⇔attack)(against, from ...)というのが一番よく使われるが、2 [[名]([副])/doing] (証拠などをあげて)…を擁護する, の正当性を主張する;〈議論・学説などを〉(批判に答えて)支持する;(審査会の質問に答えて)〈論文などの〉正しさを立証する (プログレッシブ英和中辞典)という意味でも使われる。博士論文ではこれに相当する。
博士論文を書いて審査の請 求をすると、その実験の正しさ、結論の正当性、背景と引用の正当性が調べられる上に、請求者が当然知っていなくてはならない科学的常識があるか、柔軟な思 考が可能か、今後新しい科学の世界を創造する能力があるか、すべてが問われて試験される。つまりこれに通れば研究社会の一員とし ても認められるわけだから、その資格があるかどうか審査員からは徹底的に質問攻めに合う。つまり博士候補者はこの攻撃を防御することになるわけだ。
私たちがここで研究室を作って5年経ち、王麗さんが博士論文を提出して博士の学位を請求することとなった。1年 まえに王くんが博士の学位を取ったが、形の上では老張老師との共同指導だったので、私は学位論文の下書きは直したがその後の動きがよく分からなかった。今 回の王麗さんの場合は私一人が指導教官なので、この大学における博士論文のあり方が分かってきた。やはり日本とは違うのである。
私のいたころの東工大では 博士論文の主査は論文の指導教官が務めた。つまり私が指導した学生の審査は、私が主査となってほかに4人の教授に副査を頼んで審査に加わって貰った。自分 で花火を打ち上げて、自分がこれは良いと言って点数を付けるわけである。何かおかしいが、全学がそうなので、何か変だと思っているうちに定年になった。そ の頃、東大では指導教官は主査とはならず、審査に加わらないと聞いてなるほどと思った。東大にも良いところがある。
この薬科大学は、こと博士 の審査に関しては、東大式なのである。指導教官は蚊帳の外に置かれる。といっても、中国語の分からない私としてはどの程度蚊帳の外にいて良いのか分からな い。それで、王麗の修士の時の指導教官である呉英良老師に王麗と一緒に会いに行って、王麗が学位の申請を出しますので、私に代わってどうか審査員の手配な どをやって審査会を主宰していただけませんかとお願いした。呉英良老師は日本に5年留学したという話で、日本語を使うと私たちと全く変わらない。おまけに 呉英良老師の怒った声を聞いたことがありません、とても良い先生で、大学でも学生からも深く信頼されています。」と王麗が言う。私など始終怒っているか ら、こんなことを言われるとなんだか当てつけられているみたいで、後ろめたい気分となる。
呉英良老師は現在薬理学の 主任を務めている。快く願いを引き受けてくれて「副査にはどなたをお願いしましょうか?」と私に訊く。「いえ、いえ、どなたでも結構です。呉老師にすべて をお願いしますから適任と思う方を探してお願いしてください。」と私。結局私が生化学科にいるので、そちらの関係で老張老師、分子生物学の遊松老師、そし て日本人教授で隣の部屋の池島教授にお願いしたらという提案だった。池島教授は同じ日本人だし、仕事も近いみたいだから、この際 お願いした方が良いのではないですか、と呉老師はまるで日本人みたいな心遣いである。
池島教授はお隣なので私からお願いすることになって、ほかの先生がたに依頼するのはすべて呉老師にお願いした。博士論文の審査員はこの大学の内部から4名、外部で3名が選ばれて当たるのだそうだ。合計7名が審査員となる。
王麗は2003年夏に瀋陽薬科大学薬学部(日語班:5年制)を卒業し、大学院では薬学研究科の呉英良先生の研究室に入った。
私が妻と共に日本から招聘されて瀋陽薬科大学製薬工程学部に「腫瘍生物学並びに糖鎖生物学」の研究室を開設したのが2003年 夏だったが、大学は私たちの研究室に大学院学生の配属の手配をしていなかった。それまで毎年3年間、薬科大学に短期間ながら講義に来ていたので、顔見知り の学生が研究室のセットアップを手伝いに来た。数ヶ月掃除をしたり、ものを買ったり、並べたりするのを手伝ってくれて研究室の体裁が出来た時、ここで実験 をしたいと希望を述べた学生の数人の中に、王麗がいた。
ここの大学院修士課程の最初の1年間は講義が頻繁に行われる関係上、研究室に所属しながらも,研 究室で実験をしないのが通例である。王麗たちはそれで空いている時間を私たちのところで過ごしたいと言ってきたわけである。もちろんそれぞれの指導教官の 許可を得て私たちのところに来た。王麗たちは、生まれて初めて動物細胞の培養を経験した。恐る恐るマイクロピペットも使った。それまで聞いたこともないRT-PCRを実際自分の手でやり始めた。
1年経ったとき所属の研究室に戻るか、私たちのところに移籍するかの選択があったが、指導教官である呉老師との話し合いで、王麗の所属は呉老師のところの ままで、私たちのところで研究をすることになった。それで、マウスの骨肉腫細胞を使って、ガングリオシドGD1aが細胞の転移性をどのようにして抑えるか を調べる研究を一緒に始めた。つまり王麗さんは胡丹くんと並んで、私たちのここにおける最初の学生である。
薬科大学の修士課程は3年間だが、博士課程に進むときに限って、2年間のあとで博士課程を始めることが出来るが、修士号は貰えない。つまり王麗さんは2005年春に博士課程進学の申請をし、審査を受けて博士課程に進み、このとき正式に私たちの研究室所属に替わった。
王麗は働き者で労を惜しまない。実験がたちまち上手くなって2005年夏までに、ガングリオシドGD1aが細胞のCaveolin-1とStim1を(機 構は分からないものの)正に制御していることを確証するデータを出したので、論文にした(Glycoconjugate Journal (2006) 23, 303–315)。そのあとはガングリオシドGD1aがどのようにして細胞内のシグナルを制御して細胞の転移性を抑えるかに研究の焦点が移った。
博士課程に入ってからの研究の一部では、 マウスの骨肉腫細胞の生産するTnf-alphaがガングリオシドGD1aで負に制御されること、このときのガングリオシドのシグナルはPKN1という Serine/Threonine Protein Kinaseを経由することを明らかにした(Biochem. Biophy. Res. Commun. (2008) 371, 230–235)。
間葉系細胞が分泌する増殖因子が、腫瘍細胞の増殖や転移にも役立っていることが分かっている。王麗は、この増殖因子の合成もガングリオシドGD1aで負に 制御されること、しかもシグナルは PKN1からCaveolin-1を経て増殖因子合成につながることを証明した(投稿中)。修士課程だけで卒業して東大の博士課程に行った胡丹と共著の論文も出しているし(Connect Tissue Res. (2007) 48, 198-205)、中国語でも雑誌に論文を出している。
王麗はガングリオシドGD1aがどのようにして細胞内のシグナルを制御しているかを調べている中で、細胞表面の受容体TNFR1あるいはTNFR2に Tnf-alphaが結合するとき、GD1aがTNFR2に結合してTnf-alphaの作用を弱めていることを見いだした。放射性アイソトープがここで は使えないので、これ以上踏み込むことが出来ず、定性的な実験しかできないのが残念である。
アイソトープが使えないだけではなく、もっぱら研究費の制約という実際的な理由で私たちの研究対象や、方法が大きく制限されている。私たちはガングリオシ ドGD1aで正や負に制御される遺伝子発現はRT-PCRでもっぱら調べ、どうしてもタンパク質の増減を調べる必要が出ると(最後に論文にするときには)、抗体を買って来てwestern blotを行う。
遺伝子操作を行うことが今の生命科学の研究には必須なので、私たちは発現の抑制はsiRNAで行っている(門外漢でも出来る良い時代になったものだ)。大連のTakaraBioに依頼してsiRNAの発現のためのベクターを作成している。遺伝子の強制発現も必要な技術で、研究室のほかの一部の学生はベクターの作成が出来るが、王麗は習っている最中である。
つまり、王麗は大変有能な実験科学者だが、彼女の使える手技は限られている。動物細胞培養、RNA抽出、RT-PCR、電気泳動、ウエスタンブロット、ベ クター制作、暗室操作、等々ができるが、生化学の常識的な実験はほとんど知らない。私も妻も元々は生化学の研究者なのに、ここでは生化学的手法を全く使っていないからだ。
このように今の王麗の出来 る実験手技は限られているが、研究意欲が高く、理解力が大変優れているので、最先端の研究環境で必要な新しい実験手技を学べば、次々とそれらをマスターし て優れた研究者になるだろう。卒業後は王麗を良いところに行かせたい。そう思って現在、彼女のための職探しをしている。
王麗は日語班出身で国際日本語能力検定1級の資格を持っている。実際、私たちとは日本語で問題なく話をして意志の疎通が出来る。それだけではない。私たち の研究室の学生の半数は英語班、あるいは普通のコースの出身なので、研究室では英語を公用語にしているために、英語も話せる。
研究室の公式通達はもちろん、毎週行っているジャーナルクラブ(学生は1ヶ月に一度は廻ってくる)、研究報告会(学生にとっては毎月1回廻ってくる)、ウイークリーリポート(どの学生も毎週1回1時 間私たちと研究の進展で面談をする)は英語を使って行っている。日本ではジャーナルクラブは英語の論文を日本 語で読むが、私たちの研究室では英語で英語の論文を紹介し、議論している。私を含めて私たちの中で正当な英語を話せる人はいないが、誰もが英語で話す力を 養っているわけだ。
王麗の英語は、正当な英語とは言い難いところがあるが、それでも日本人の英語に比べたら段違いに優れていると言えよう。英語が必要な環境に置かれても、王麗はその瞬間から何の戸惑いもなく、平常心でやっていけるはずだ。
王麗を間近で5年近く見ている。王麗は研究能力が高いだけではなく、心の広い、そして温かな人である。私たちのところに来て半年後には卒業研究生を迎え、それ以降彼女は常に先輩として研究室の学生に臨んできた。彼女に指導を依頼した学生は今まで10人を越えている。誰に対しても基礎から厳しく、かつ懇切に指導をし、まともな研究者に育てるという点で何時も王麗は期待を裏切らなかった。そして後輩からは「シージエ(師姉)」と呼ばれて深く信頼されている。
王 麗は5月半ばには博士論文を英語で書いて私のところに持ってきた。彼女が論文を書いて、彼女が審査を受けるわけだから、私が手を入れ過ぎるのは問題だ。直すのは目に余る英語の間違いだけにした。それでも5日間かかった位長い。300ページ近い論文なのだ。私がこれを見ている間に彼女は中国語で論文を書いた。薬科大学では学位論文を中国語で書くのが正式である。
5月の後半に王麗は仮製本した博士論文を持って、大学の内外の審査員を訪ねて論文を渡しに行った、というかお願いに行った。これを見て、東工大にいたころを思い出した。冬休みになる12月28日ころ、博士課程の卒業予定者は論文を持って私たちを訪ねてくるのだ。ドサッと溜まった論文を毎日読むのが東工大にいたころの正月の過ごし方である。正月休暇あけの5日から、連日の博士論文の審査会が始まる。
お隣の池島教授はちょうど尿管結石の手術を受けに日本に戻っている時期だった。池島教授は手術をした日から数えて10日目の6月3日に瀋陽に戻ってきたのだ。まだ出血が止まっていないという。手術後の先生に負担を掛けるのは申し訳ないので別の先生に審査員をお願いしようかと真剣に考えたが、池島先生はこれに間に合うように戻ってきたという。やはりお願いすることにして、王麗も私もさんざん恐縮したのは言うまでもない。
さて眼のあたりで学位論文の審査のやり方が進むのでここのやり方が分かってきた。先ず候補者は学位論文を書いて大学内外の7名の審査員に持っていく。審査 員はそれを読んで総体的な意見を述べ、かつ論文の細部で特に意見のあるところ、あるいは間違いを指摘する。これは書面にして本人に渡す。受けとった王麗はこれらをすべてコピーして審査員全員に送付すると同時に、これらの意見に基づいて自分の博士論文を書き直す。
発表の練習は私たちの前で英語を使って2回行なった。約1時間かかったが、本番での発表時間は40分である。中国語で話せば45分で出来るだろうと思われた。
そうこうするうちに、公開の博士論文発表会が近づいてきた。幸い王麗の場合には手回し良く図書館にある小講堂を抑えることが出来た。発表は6月18日午後3時半から5時半まで。
さて当日。審査会は、内部から4名の老師のほか中国医科大学の魏老師を加えて、5名の審査員で行われることになった。少し早めに会場に行く。図書館の第1小講堂は300人 くらい入ることが出来る会場だ。既にうちの研究室の学生たちが審査員の老師たちのために飲み水、お茶のペットボトル、温かいお茶も用意し、さらにバナナ、 茘枝、サクランボ、楊梅などの果物を盛った皿をそれぞれに用意して第一列の机の上においてある。審査員たちは別室に集まっているみたいだ。
私は王麗の関係者として控え室に行き、中国医科大学の魏老師に会ってお礼を言ってきた。40歳代前半くらいの知的な女性の教授である。
3時半に審査員の先生たちが入ってきた。5名の中の遊老師が王麗の博士論文審査会を開くことを宣言し、審査員を紹介した。審査員のうちで池島老師が審査委員長を務めることになったという。池島老師があとを引き取り、挨拶をしたあと薬理学教室の秘書である左さんに話を振った。秘書といってもここでは公式の職務で、今日の審査会の発言の記録を公式に残す役目である(日本にはないシステムだ)。左さんは王麗の略歴を紹介した。「さ、それでは、発表は40分。」と 池島老師が発言して王麗の博士論文の発表が始まった。観客はうちの研究室の学生たちのほかにも結構いて、40人近くいるように見えた。どこから来た人たち だろう。
王麗が次々とスクリーンに 用意した内容を映写しながら話を進める。落ちついた声で、いつもの早口の声と違ってしっとりとしている。彼女の中国語がとても綺麗に聞こえる。魅力的な トーンなのだ。何を言っているか分からないものの、改めて王麗の声も魅力的であることに気がついた。
この講演では全く何も知らない人たちを聴衆としていない。審査員が予め内容を飲み込んでいるからいいものの、内容はぎっしりなので次から次へと話が移っていく。私も彼女の研究を知っているからついて行けるけれど、初めてならお手上げのスピードである。
40分ちょうどで彼女の話は終わった。そこで王麗は立ち上がった。スクリーンにはAcknowledgementsと題された英語の文章が並んでいる。それまで中国語で話をしていた王麗はここで英語に切り替えた。
彼女の指導に当たった私と 妻に述べる感謝の言葉を、この場で私たちに分かって貰いたくて、謝辞を英語で述べたいといって、王麗は英語で感謝の言葉を読んだ。だんだん王麗の声はうわ ずってきて、感動を飲み込んでいるのが分かった。私にも彼女の気持ちが伝わり、思わず目頭が熱くなった。私たちがここで過ごした5年の成果がまさに王麗な のだ。良くやったよ、王麗。良い研究をしてくれてありがとう、王麗。
王麗の発表のあと、審査員による質問が始まった。まず最初は医科大の魏老師で、研究の中で遺伝子発現を抑えるために使ったsiRNAについて、その効率、設計方法などが訊かれた。
mRNAの発現を抑えるsiRNAは今やなくてはならない方法だが、そのターゲットをどうやって選ぶかには色々と問題がある。 mRNAが 自分自身で二本鎖を作りうるので、配列全般に亘り二本鎖を作りうる可能性をコンピュータで調べて、二本鎖を作らないところ(ループ)をターゲッ ト配列に選ぶ。このときどのような情報や制限を入れてソフトを動かすかで結果が違ってくる。つまり絶対に確かなターゲット配列というものはなく、もし今ま で人がやったことがあって成功していれば、それが一番良いターゲット配列なのだ。私たちの研究室ではもちろん私が責任を持ってターゲット配列を選んでい る。今まで設計したsiRNAの中でうま区mRNAの発現を抑えたのは3つに2つくらいである。
siRNAには大きく分けて二種類あって、RNAの二本鎖(dsRNA)で作って細胞に与える場合と、RNAの二本鎖を細胞の中で作ることの出来るDNA 鎖を設計してベクターに組み込んで細胞にtransfectする場合とがある。dsRNAの方が直ぐに答えが出るし、抑制効果も高い。80-90%も発現 を抑えることが出来ることが多いが、抑制できるのは細胞の中に入ったdsRNAが分解するまでの短い時間(普通は二三日)である。
siRNAベクターでは取り込み効率があまり良くないのが困るが、薬剤耐性の組み込みでsiRNAベクターが入った細胞だけをクローニングすれば、発現が十分抑制され、しかもずっとその性質を保つ細胞が取れるので、私たちはこちらの方が好きである。dsRNAだと掛けたお金が直ぐになくなったような気がし てしまう。
質問は隣に座ってくれた王毅楠が日本語にしてくれるが、いまいちよく分からないところがある。HGFが癌の転移にどのように効いているのか。GD1aの処理をしているが、どのようにして効くのか。GD1aがTNF-alphaやMMP-9をどのように制御しているのか。Caveolaeの中のTNF受容体 とGD1aの関係はどのようになっているのか。使っているFBJ細胞はosteosarcoma由来の細胞だが、ほかの細胞への影響はあるのか。TNF- alphaは糖タンパク質のはずで、recombinantのTNF-alphaを使うときと天然のTNF-alphaを使うときと、(GD1aが糖鎖に 結合するから)GD1aの反応が違うのではないか。などなど。どうも質問がピンと来ないから恐らく聞き間違っているだろうけれど。
質問は50分間。聴衆の学生二人からも質問があって、このあり方は感じが良かった。審査員の老師たちは別室に引き揚げて20分間協議。その間私たちは講堂でそのまま待っていた。
やがて彼らが再度入場して来て池島委員長が「審査員が審査結果を討議した結果、私たちは結論に到達した」と宣言した。これを受けて秘書の左さんが文書を読み上げた。
「本日発表された王麗の学位請求論文は、その題目は新しく、内容は論理的に記述され、実験は整然と行われて重要な結論が得られている。 王麗には研究の背景及び実験に関する知識も十分あることが分かった。論文および王麗の知的水準は高く、発表も優れたものだった。よって王麗のこの学位論文 は審査の基準を通ったことを認める。」
拍手。審査に通るに決まっ ていると思っていても嬉しい。心からの喜びの拍手。それが静まったところで審査員の一人である遊教授が、私たちの方を向いて英語で話し出した。「昨年山形 研究室から一人の博士が誕生した。その時の王璞の発表の内容は斬新で、研究内容は高く、この大学のレベルを上げる素晴らしいもの であった。今日の王麗の学位論文も同じように高いレベルの画期的な新しさをこの大学にもたらした。 この大学に対して行われた山形老師と貞子老師の貢献を心の底から深く感謝したい。」
感激である。お世辞にしてもこれだけ言われると、ジーンとくる。池島教授に促されて、私も何の用意もなしに、今日の審査をやって下さった老師たちにお礼の言葉を述べた。5時45分、発表会は終了した。
博士の発表会のあとの会食は慣例みたいに開かれる。王麗は一生に一度のことだから自分でこの会食のスポンサーになるという。私たちはありがたくそれを受けることにした。会場は隣にある陸軍病院の中の金利賓館である。
中国では(社会)資本主義の発展した今では知らないが、少なくとも今までは中国で最高レベルの施設を誇っていたのは陸軍である。陸軍病院の中の賓館はしたがって最高のレストランである。今の大学は忙しい時期なので、張景海、遊松、池島教授は参加できず、呉、魏老師と左秘書以外は私たちだけだった。初めて出会った 医科大の魏老師は、慶応大学薬理学教室で1年過ごしたことがあり日本語が結構話せるのだ。慶応大学には、今この席にも出ている王毅楠がこの秋には留学する。魏老師はおまけにシカゴ大学医学部に4年間留学していて、5年まえに中国に戻ったという。驚きだ。私たちも何十年前にシカゴにいたのだ。魏老師は留学 先に中国人が沢山いて英語を話す機会がないので、別の研究室に移ったという。さらに驚きである。私もシカゴで日本人社会に入ると英語の勉強が出来ないの で、一切付き合いを断って英語漬けの生活を送ったのだった。
やがて宴も闌けて、私は立 ち上がった。私は乾杯の代わりにお茶の入った茶碗を掲げた。呉老師、魏老師、左秘書にお礼の言葉を述べ、さらに付け加えた。「こ のように素晴らしい王麗が研究室で育ったことはとても嬉しいことですが、私たちはもうこの歳です。この先王麗を長く見守っていけるとも思えません。それで 皆さまにお願いです。王麗は今日は良い発表をしたかも知れませんがまだまだ未熟者です。この先の王麗を見守って、王麗の成長を助けてくださるよう、私たち 二人の心からのお願いです。」
5月半ばに卒業研究生の歓迎会をしたと思ったら、もう学期末となって歓送会の時期である。今期で王麗さんが博士課程を修了し、王毅楠くんと王暁東さんが修士 課程を終える。3人とも論文発表が済んだ。あとは5人の卒業研究生の発表だがこれは27日に予定されている。
卒業式は28日だという。ということは寮から の退去がせかされるはずで、27日の発表が終わってから歓送会をやろうかなんて言っていられない。それで前倒しで歓送会を開くことにした。何処にしよう。昨年の歓送会は陸軍病院の金利賓館で開いた。普通のところよりは高いと思っていつもの二倍の800元を用意していたが、メニューを見たら皆震え上がってしまった。それで、値段の安い野菜の皿だけを注文して静かに食べて引き揚げてきた。それでも確か650元くらい払った覚えがある。
この1年の物価の上昇はすごいものだが、二宮さんというスポンサーが一人増えたし、昨年の屈辱戦をしよ う。数日前、王麗が金利賓館に私たちを招いてくれたが、出席した人は限られている。今年はこの近くのレストランをいくつか当たったけれど、17人が一つの円卓を囲むことが出来るのは金利賓館しかなかった。2つのテーブルに分かれるのでは興ざめだし、金利賓館に決めた。
6月20日、当日の午後になって、敢さんが妊娠6ヶ 月の同僚が急に具合が悪くなって、緊急入院するのに付き合わなくてはならないと言ってきた。陳陽は昼に食事したあと腹具合が悪くなってしまった。夕方に なっても治らず、やむなく欠席したいという連絡があった。この二人が来られないのは仕方がない。曹さんは本人からは何の連絡もなくて、宴会に来なかった。 曹と仲良く付き合っている王毅楠に聞いたが、理由がはっきりしない。王毅楠の送別会だから悲しくて来られないのかも知れないが、自分で欠席の知らせが出来 ないとは、あきれた話だ。まるで子供である。このような自分勝手な振る舞いを直さないと人の信頼を失う。
というわけで、14名が大きな円卓を囲んで歓送会となった。今まで慣例として私たちの宴会には学生のボーイフレンド、ガールフレンドも呼んでいた。というのは2003年 に研究室が出来て宴会を開いても研究室の学生の数が少なかったから、賑やかにするために関係者も呼ぶようにしたのだ。それ以来何時も出席しているのは、王 麗の今は夫である馬さんである。馬さん以外にも、胡丹の妻となった秦さん、王璞くんの妻となった関さんが彼らの卒業するまで参加していた。今カナダに留学 している譚玄くんは素敵な彼女を連れてきた。今はどうしているだろう。
王 麗は博士課程を終えるが、まだ先の予定が決まっていない。日本で秋以降のポスドクの職を探しているが、まだ決まらない。王麗のことはここに沢山書いてきた が、私たちは王麗と一緒に研究室を作って来たと言える。研究室の上級生として中心的な役割を果たして来た王麗が出ていくと、この研究室はどうなるだろ う。彼女の卒業で山形研究室は時代的に一つの区切りを迎えることになる。
王 暁東は目下瀋陽で一生懸命職を探している。男は職を見つけやすいが、女性に対しては雇う方が男から採るという露骨な差別があるという。男女平等に見える 中国でもこれである。王暁東はハルピン大学から来た学生で、彼女がいたことでどんなに研究室の雰囲気が良かったか、彼女の明るく可愛い性質がどんなに貴重 だったか、と改めて思う。勉強不足でセミナーをしたり、約束を守らなかったりしたのでその度に叱ったが、研究をすることに関しては凄く頑張り屋である。暁 東、はるばると私たちのところに来てくれてありがとう。
王 毅楠は慶応大学理工学部の博士課程に出願して、採用された。幸い日本政府奨学金も貰えるという。とても恵まれている。王毅楠は学業でも性格的にも優等生 で、穏やかな性質と皆への細かい気配りで、学生の誰からも絶大な信頼が寄せられている。研究面でも分子生物学の分野では研究室の要の一人として若い学生た ちを指導してくれた。
5 人の卒業研究生のうち、黄澄澄、関寧は私たちの研究室に入り大学院に進学する。于琳は天津の盛本医薬に就職。趙鶴は東大大学院、趙暁笠は京大大学院に進学 するという。彼らの就職も大学院も私たちが世話したわけではなく、自分たちで決めている。今までの私たちの宴会は食べるだけだったが、酒の飲める二宮老師 が増えたので乾杯風景があちこちで見られるようになった。賑やかになって結構なことだ。
この金利賓館には質の良いカラオケも備えてあって、一通り食べたあとは、カラオケ大会になった。于琳は天性の歌い手でエンターテイナーとしてもこの先やっていけそうである。就職先の盛本医薬で可愛がられるに違いない。
3 年前、王暁東と王毅楠が研究室に入ったときの歓迎会は孔府酒家で開いた。栄枯盛衰、有為転変。勝者必滅、万物流転。孔府酒家はもう潰れてしまった。孔府酒 家ではカラオケで歌い出した王暁東の音程がおかしくなってはらはらしていたら、王毅楠がデュエットに加わった。王毅楠がまたさらに音程を狂わせたから、王 毅楠も音痴に違いないという説と、王暁東の音痴に自分も合わせた心の優しい人だという説と2つがあったのだ。
今日の二人の歌を聴くと、二人とも音痴ではないようだ。つまり、王毅楠の心はとても優しいというわけだ。王毅楠はいつもは優等生だが、今日はアルコールが入ってのびのびと振る舞い、こんなに楽しい先輩を見たのは初めてだと、彼の指導を受けている学生がとても喜んでいる。
金利賓館の料理は品の良い味付けで美味しく、学生はもちろん私たちも大満足だった。支払いは1100元。14人で、日本円にして1万7千円くらいだが、給料の感覚からすると、日本で11万円払った感じである。大満足でなければ泣けてくる値段である。
パスポートの更新と中国の 滞在ビザの申請に行ってきた。ビザが切れたわけではないが、パスポートの更新期限が来てしまった。最初は日本に滞在していた今年の2月のうちに、パスポー トの更新に横浜の産業貿易館まで出掛けた。私たちは横浜と言っても遙か郊外の田舎に住んでいる。
申請書を書いてそして窓口 で「パスポートの更新をすると今有効の中国ビザはどうなるのでしょうか」と尋ねた。今持っているビザは数次旅券なので、出入り自由で行ったり来たり出来 る。窓口の人は、パスポートが更新されれば当然今のパスポートは無効になるので、そこに載っているビザも無効になりますという。そ れじゃ、中国に戻れなくなってしまう。どうしたらいいの?と訊いても(自分たちは中国を代表しているわけではないし、そんなことは知らない)ということら しい、「分かりません、中国領事館に訊いて下さい。」という返事しか返ってこない。
それでパスポート更新は諦めて、中国領事館のビザ係に電話をした。誰も出てこない。それで代表番号に電話をした。テープが言うには、「いまは春節休みなので閉鎖されています。またおいで下さい。」
横浜の産業貿易館までわざ わざ出てきてこの始末だ。やむなく同じ階のレストランで早めの昼食を食べながら、妻と話し合った。「パスポートの更新は瀋陽でも出来るらしいわよ。今ビザ はあるのだからまず瀋陽に戻って、それから瀋陽でパスポートを更新すれば、向こうにいるうちにビザの更新も出来るでしょう。」と 妻が言う。じゃ、そうするしかないね、ということになった。
5月の終わりの火曜日に時 間を取って領事館に出掛けた。領事館のホームページで見るとパスポートの切れる人はここで申請できますと書いてあるが、領事館にどうやって入ったらいいの か書いてない。領事館は中国の武装警官によって二重三重に、厳重に警備されているのだ。この領事館は脱北者で数年前に一躍有名になったところである。
日本の領事館は、米国大使 館と並んで領事館区画の南側にある。領事館の塀を囲んでその外側にもう一つ塀があって、武装警官が二重に守っていることは知っていた。今度行ってみると驚 いたことに、正門が面している南側の道路も鉄条網で完全閉鎖されている。道路を挟んで反対側に人の住む建物があるので、反対側の 歩道だけは人が歩くことが出来るようになっているが、テープで仕切られていて路には出られない。
日本の領事館の入り口の右 側には、正門と並んで武装警官の詰め所がある。その外側を約5メートル離れて鉄条網の高い塀が張り巡らせてある。この地域に数人の武装警官が立ちならんで 哨戒している。外側の網の塀には扉が作ってあり、ここに立っている武装警官に路を隔ててパスポートをかざしてパスポートに相当する中国語「フージャオ」と 叫んだ。
その武装警官が来いと手招きするのでテープを乗り越え10メー トルくらいの路を渡った。パスポートを手渡す。彼は門を閉めてから中に入って何か書いている。やがて招き入れられて、付き添われたまま領事館の正門ゲート 横の通用門にたどり着き、そこで再度別の武装警官からチェックを受けて、入構証を貰って首に掛けて、やっと中に入れた。
パスポートの申請は新館の 1階だった。ほかに数人待っているだけで直ぐに受け付けて貰えた。あとで分かったが書類に問題がなければ即刻パスポートが貰えるのだった。この日は「機械 がおかしくなって、領事さんが一生懸命直しているのですが、まだ直りません。申し訳ありません。」と受付の女性に言われた。翌日電話を貰って、受け取りに 出直した。
パスポートが新しくなったので、それからしばらくしてビザの申請のために、国際交流処の徐寧さんに連れられて出入境管理公安局に行った。この役所は遼寧省政府の近くの大きなビルに移っていた。北陵の正門が直ぐ目の前である。
彼女の言うには、つい最近二宮先生のビザの申請に行ったとき、朝10時に着いたのに夕方4時半まで掛かったという。ビザの申請は空いている朝早くに行くべ きだと学習したらしい。それで今日は大学を朝8時に出た。順番札を貰うと嬉しいことに5番と6番 である。ともかく座って待つことにして、広々とした待合室で綺麗な椅子に腰掛けた。すると女性が横から近寄ってくる。はっと身構えると「先生じゃないです か。」と明るい声が降ってきて、顔を上げると中国医科大学の渡邊京子先生だった。ビザ更新だという。同じく付き添いの男性が一緒に来ている。
渡邊先生と話をする間もな く、たちまち順番が来て別室のカウンターに行った。カウンターの向こうには肩章を載せた女性の係官がいて、書類を見て付き添いの徐寧さんと話している。理 解できないものの、威張った様子ではない。徐寧さんと談笑しながら仕事を進めている感じだ。中国の役所もどんどん変わってきているようだ。5分くらいで面 接は終わった。つぎは3階の銀行に行って一人800元の支払いをした。同じところに郵便局がありEMSによる郵送依頼をした。一件30元。
というわけで大学に戻ってくるまで1時間半くらいですべてが済んだ。役所の仕事が早くなったこと、役人が威張りかえっていないこと、これが5年間の顕著な変化である。もう一つの大きな変化は、北陵まで昔はタクシーで20分 もあれば行けたのに、今はその二倍掛かるくらいクルマが増えたこと。そして青年大街をタクシーに乗って走りながら、この目抜き通りの両側の建物の変わりよ うにすっかり目が奪われた。新しくて建て替えられたビルが眼に付く。路も綺麗になった。歩道の車道側には花壇が出来ていて、サルビア、マリーゴールドなど の花が咲き誇っている。ここでは鮮やかな黄色と赤色の花の組み合わせが好まれている。いや、瀋陽も綺麗になったものだ。驚きだ。
中国語には「男人不壊、女人不愛」という成句がある。私たちがまだ日本にいるころ、研究室にいたポスドクの呉さんが教えてくれた。「男はチョイワルくらい じゃないと、女性にもてないぞ」という意味だ。ふむふむ、よく分かる。とても良い言葉だ。それ以来、二人ともチョイワルを気取っている。呉さんは「長幼序 あり」の国である中国人なので、自分は謙遜して、山形老師がチョイワル1号で、自分は2号なのだそうだ。
呉さんは2001年の春日本の大学院を出て博士号を取ったばかりだった。鳥取大学で博士課程を終え、もう一寸日本で研究したいという彼の希望と、研究費を獲得してポスドク1名を探していた私たちの希望が一致したのだった。
呉さんは呉培星という綺麗 な名前なので、履歴書を見た最初は女性かと思った。この頃の履歴書には写真欄がないからだ。この呉さんを女性と思って、会うまえから採用する気になってい たと、今でも私は妻の貞子からからかわれている。呉さんに会ってみると背のすらりと高い温顔の男性だった。穏やかな性質であることは一 寸話しただけで分かった。研究も分子生物学を少しかじっていて、私たちの探すポスドクの研究内容にぴったりだった。
2001年 のポスドク採用の時、ほかにも李学兵さんという同じように日本の大学院で博士号を取ったばかりの候補がいた。実際に李さんにも会ってみたが、丁度同じ頃ポ スドクを捜していた北海道の大学の西村紳一郎研究室の方が彼の将来の研究方向に合いそうで、そちらに行くように薦めた。
李さんは目出度く北大のポスドクになり、それから5年間そこで研究に従事したあと、北京の微生物学研究所にポジションを得て2006年末に中国に戻ってきた。
呉さんは私たちが研究室を閉じて中国に来たあとは慶応大学の助手に採用されて、そこで2年間働いた。日本にいる間に結婚もした。2005年に慶応大学を辞めて北京に戻ってきて会社を興した。今は総経理(社長)である。1年経ったとき瀋陽に私たちを訪ねてくれたので、会社はどうなっている?儲かっている?と きくと、年間で百万元くらいの金は動いているのだけれど、ちっとも儲からないのだと言う。儲かったら先生たちに研究費を沢山出すからねといって大笑いして いた。
その呉さんから電話があっ て瀋陽の研究室を訪ねてきたいという。李さんも一緒に来るという。そんなこと言ったって、今は卒業研究の学生の発表の時期で猛然忙しい。でも、話を聞くと 呉さんは仕事で今ハルピンに来ているので、瀋陽に寄るのは都合が良いらしい。でも李さんは北京からわざわざ来ることになる。それでも訪ねたいという。
というわけで卒業論文の発表練習の二回目をやった水曜日の午後、二人が訪ねてくることになった。午前中に3人が練習。午後1人が練習をして休憩を取ったところに、呉さんと李さんの二人が研究室に到着した。
呉さんは私たちのところでポスドクをしたと言っても気持ちの上では友達なのである。なにしろチョイワル二人組なのだ。李さんには7年間会っていないが、初 めて会って以来、お互い季節の挨拶を交わしている仲である。すぐに昔の気分に帰って話が弾んだ。たちまち夕方になって、研究室の学生も誘って一緒に食事に出掛けた。
会うと何時も話に出るのが呉さんのチョイワルぶりである。2002年の夏、呉さんも誘って一緒に中国の蘭州で開かれた学会に出たとき、妻と私は初めて訪問 する北京に寄り、呉さんに案内を頼んだ。呉さんは北京農業大学出身である。呉さんは就職などの用事があると言って私たちよりも先に北京に行っていた。
そして実際、べらぼうに暑い北京で呉さんは私たちをあちこちに案内してくれた。八達嶺の万里の長城にも、頥和園にも案内してくれた。北京農業大学でも私の講義を設定してくれた。しかし、夕方からある京劇を観たいと言っても、夕方になると言を左右にして居なくなってしまう。
あとで分かったことだが彼 には北京に婚約者が居て、彼女に会うためにこの蘭州の学会参加を決めたのだった、おまけに北京経由で学会に行くことにして。もち ろん今回は、北京の彼女の家族に会うという重要な用事もあったわけだ。学会に出るのを口実にして旅費を貰って(実際に学会には出たけれど)、ちゃっかりと 彼女と秘密に逢瀬を重ねて、おまけに貞子には「わざわざ北京まで来て戴いて案内して下さって悪いわねえ」と言わせるなんて、チョイワルの典型ではないか。
「呉さんは京劇を観たいといくら言っても、全然取り合おうとしないで夕方になると消えてしまったんですよ。」と李さんにいうと、それを引き取って呉さん は、「あのときは結婚する前だったからね、彼女が大事だったけど。今度はいいですよ、もう結婚しちゃったからね。もう大丈夫だよ。いくらでも先生たちに付き合うから、北京に是非いらっしゃいね。アハハ。」なんて言っている。
呉さんがまえに来たときに は彼がご馳走してくれたので、今度は私がと思って陸軍病院の金利賓館に案内した。しかし、結局呉さんが全部払ってくれた。これは 李さんによると、中国式なのだという。「呉さんは山形老師の学生なのだから当たり前なんですよ」と李さんが横で言う。このようなことを「桃李満天下」と形 容するそうだ。老師は学生が育つと何処に行っても桃や梨があって楽しめるというわけだ。いよいよそれが私たちにとっても現実味を帯びてきたみたいだ。
小さな会社を抱えて利益を 出すために呉さんは一生懸命働いている。その忙しい中で私たちに会いに来てくれた。北京で研究室を持っている李さんはわざわざ二日間を休んで私たちに会い に来てくれた。自分たち自身を考えるとよく分かるけれど、とっても出来ることではない。胸がきゅんとする。このような付き合いの出来る人たちが出来てきた のだ。私たちの中国の暮らしはまさに佳境に入ろうとしている。
この秋の大学院の進学者は二人いて、薬学の関寧さんと中薬の黄澄澄さんの二人である。どちらも日語班の出身で、大学院の入試を受けて合格した。大学院では私たちのところを希望していたから当然ここに入るものと思って扱ってきた。
卒業研究発表の前の日に、関寧さんが来て言うには、日本の大学院に進学できそうなのですという。どういうことかと訊くと、日本の○○大学薬学部というとこ ろが瀋陽薬科大学と提携して、大学院の学生二名をここから学費無料、奨学金付きで受け入れようと言ってきた。大学から推薦されて居るのです。先生はどう思いますか?という。
どうもこうも、薬科大学の私たちのところよりも本人が日本のそこに行きたければ、行けばいい。本人が決めることである。だから、日本に留学したいと思って いたなら、学費はただだし奨学金も出るなら生活の心配も要らないし、それはプラスとして考えられるでしょ。と返事をすると、○○大学薬学部はどうですか?という。
どうですかと聞かれても、この大学に薬学部があったっけと迷ってしまう。隣で話を聞いていた二宮老師が直ぐにインターネットで調べてみて、「この私立大学はまえからあるみたいだけれど、薬学部は新しいみたいですね」と話を引き取った。
この大学は理工学部、人文学部を設置して1987年に創立。2007年に薬学部を設置したと言うから薬学部は新しい。生命系の大学院は前に出来ているにせ よ、薬学系大学院はもう出来ているのだろうか。教授陣には、昔の知人がひとり入っている。そうは言ってもこの○○大学薬学部が良いかどうか、わからない。
ご両親はどうなの?と訊くと、日本留学は今まで考えていなかったのでただびっくりしています。という。そうだろう。たった一人の娘が故郷を離れて遠くの瀋陽にいるだけではなくて、突然日本に行くなんて言い出して仰天しているのではないか。
関寧の口調では9割方は日本留学を決めている模様だった。私たちとしては学生が一人だけになってしまうので痛いが、本人が行くと決めたなら、これはやむないことである。もう彼女はここには来ないものと考えよう。ただ一寸引っかかるのは、○○大学から修士の学生二名を取っても良いといってきたのは大学宛てに言って来て、この薬科大学が候補者を選ぶと言うことと、その候補を入試の成績で決めていることだ。関寧は確か入試の成績が4番だと言っていた。
いまの日本の大学でこういうことがあったら、知らせを広く掲示して、行きたい人は手を挙げて!みたいなことになるだろう。行きたい人が申し込んで、それを ○○大学が選定すればいいという形になるのが普通だろう。しかし、私の高校のころを考えてみれば、もしその頃アメリカの高校から誰か一人1年留学できます よと言ってきたとしたら、恐らく高校挙げての大騒ぎになり、高校で最高の人を選んで送り出そう言うことになっただろう。大学間協定があるということは、この大学が候補者を選ぶと言うことなんだな、と納得するしかない。
こちらの大学が候補を選ぶ基準は、自分のところの大学院入試を受けた成績上位者から候補として打診していると思われる。つまり、自分のところに成績の良い 学生を残したいと言うよりも、頼んできた○○大学に一番よい学生を送ろうとしているわけだ。この気持ちが、何ともいじらしい。最上の学生を送ることに誇り を持っているみたいだ。大変結構な話だが、○○大学はそんなにこちらが卑下してまでも付き合う相手とも思えない。
私たちとしては、修士課程に入ってくる学生が一人減ってたった一人になるわけだから何ともやるせない思いである。
その翌日国際交流処の係の蔡さんから電話があった。「山形老師のところの学生が日本に留学することになって、学生が一人減ってしまってお気の毒です。ついては、××大学で博士課程の留学者を探しているのですが、山形老師のところに候補はありませんか?」
そうか、関寧は昨日は私に会いに来てあのように言ったが、先方にはもう行くと返事していたのだろう。国際交流処としては山形老師に修士の入学者のことで損害を与えたから、博士の留学者の話を真っ先に流して、チャラにしようと言うことだろう。
蔡さんに先方の条件を聞くと今年ではなく、来年秋の進学者を探しているのだという。来年私たちのところの修士課程を卒業する学生は4人いる。
来年修士課程を出る彼ら4人がそれぞれどういう将来を描いているかまだ掴んでいないので、ともかくこの話を知らせた。日本に行きたい学生もいるらしいが、 ××大学ではどうも不満らしい。そういうことなら、××大学に私たちの学生を留学させる義理もへちまもない。それでこの話はお断りすることにした。
日本では薬学部が沢山出来 て過当競争だと聞いている。現実問題として入学者が少ないと、文科省は補助金を減らすと言ってくるし、認可を取り消すとも言って くる。何よりも先ず、経営が立ちゆかなくてつぶれるしかない。大学の経営者は学校法人以外の収入源を持つことによって、大学の支出増を賄うのだろう。だか ら、日本で学生が集まらないなら、今は奨学金を出しても学生を中国から集めようということになる。でも、これらの大学がもしかして十年後には存在しないか もしれないと思うと、学生に進学するようには薦められないではないか。
7月7日は七夕だ。七夕というと天の川を挟んで、織女と牽牛が一年一度の遭う瀬を楽しむという伝説で親しまれている。でも、私は何と成人するまでこの話を信 じていたのだ。驚くべき無邪気さである。それが今は、科学をやっているというのだから、自分でも一寸あきれてしまう。 本当の科学者ではないのだろう。
実は中国に来てから、お祭りはすべて旧暦で行われることが分かってきたので、今の暦の7月7日が七夕だと言われても、もう一つピンと来なくなってしまった。しかし実は今日の7月7日は「たなばた空襲」の日なのだ。
私は昭和20年に学童疎開はしたものの、戦災には遭っていない。目黒区のうちは周りも含めて焼けなかった。兵隊に行った叔父もいたし、一人の叔父は抑留で帰還が遅れたけれどみな無事だった。
何もない戦後の窮乏生活は子供心にもつらかった記憶が残り、実はその後の私の心のトラウマになっていると思うが、妻のそれに比べると、そんなことぐらい何でもないといえる。
妻は、小学校の時には目黒区の富士見台に住んでいた。今の東急目蒲線の洗足から歩いてすぐのところだ。父親は医者で、4歳上の兄、2歳上の姉、2歳年下の 妹の4人の兄弟姉妹である。戦局が厳しくなり、昭和19年の11月には武蔵野市の中嶋飛行機がはじめて徹底的な空襲を受けて壊滅した。その後の東京が大々 的な空襲を受けることが予想されて、その頃から東京から疎開が始まった。
昭和19年の冬が来る前に、妻たち三人娘は甲府の祖父母のうちに、いわゆる縁故疎開をした。紅梅町2番地という市役所の近くの甲府の中心地だった。春日国民学校に通った妻は三人娘の真ん中で、その時3年生だった。東京には中学2年の兄と両親が残った。
しかし東京では、昭和20年5月の東京空襲を受けて富士見台の家を焼け出された。当時の東京では、空襲に備える防空演習は何度もしていた。焼夷弾に水を掛けると火が拡がるというので濡れた布団をかぶせて叩き消すのだ。東京に住む人たちは空襲慣れをしていたと言っていい。
それで実際に真夜中に焼夷弾が落ちてきても、防空演習でやったとおり、 屋根を突き抜けて落ちてくる焼夷弾を一つ一つ先ず叩き消してから水を掛けて火を消した。私も燃えがらの焼夷弾を見ているが、直径10センチ足らずの六角形 の筒だった。彼女の父たちは、すべての焼夷弾を消したのを確認してから、家族揃って決められていた避難場所に避難したという。
一緒に火を消していた兄の背中が燃え上がって、父親が水を掛けて消したという話も伝わっている。ところが 避難場所から戻ったときにはB29が通ったとおりに数軒の幅で、燃えてしまっていたのだった。あれだけ火を消して避難したのにと言って、家族中呆然としたそうである。
彼女の家と台所を接してとなりだった野崎宏のうちも、その隣の中村忠晴のうちも、このとき一緒に焼けてしまった。この野崎宏、中村忠晴は私の小学校の時の級友である。
ともかく焼け出されてしまって、3人は同じ洗足を挟んで反対側に住んでいた母親の姉家族を頼って行った。一方、甲府では疎開している幼い姉妹3人がお互いを頼りにして、心細い人生を生きていた。そして7月7日七夕空襲を迎えたのだった。
記録によると、7月7日午後11時50分頃、焼夷弾を用いた絨毯爆撃が甲府市全域において開始された。真夜中に空襲警報を聴いてから起き出して防空ずきん を着け、互いに手を取り合いながら祖父母に連れられて避難場所に急いだようだ。道ばたの防空壕で、入りたくても先住者から拒否されて、また真っ赤に燃える 街を逃げまどい、何時か広いグランドにたどり着いてコンクリートの観客席の下に潜り込んで夜を明かしたという。
この日の甲府の(あとで名付けられた)「たなばた空襲」で、 死者1,127名、重軽傷者1,239名という大惨事となり、市街地の74%が灰燼と帰したと記録されている。
7月7日 の朝、小さな鞄の中にしっかりと入れてあった「炒り米」を口に入れてホッとしたことを覚えているという。そのあと、隣町の千塚というところの祖父の妹の嫁 ぎ先に行くことにした。そしてうちが焼けてしまったことを確認に行き、引っ越し先を書き残してきた祖父が戻ってきてから、揃って歩きだした途中で、何もな くなった甲府が一望の下に見えたことを妻は記憶している。
甲府の空襲で甲府のうちのあった一帯は跡形もなく燃えてしまったと知って、東京に残っていた母親は、娘3人を失ったかと思い悲嘆に暮れたと言うことだ。そ の状況を想像するだけでも涙が出てくる。その後、妻の家族は千塚から小淵沢の親戚のうちに避難して、終戦を迎えたと言う。
妻は7月7日になると、決まってこの日の空襲を思い出す。決して激しい言葉を使うことはない。日本もアメリカも声高に非難することはないが、戦争をやってはいけないわねと言う。
妻の家族は東京で焼け出され、甲府でも焼けて、妻は子供時代の写真など一切を持っていない。それでも命が無事だったことを、私はありがたいことだと思って いる。過酷な運命にもてあそばれたかも知れないが、それでも彼女が無事で、やがて私が会うことが出来たという運命に感謝している。
7月10日の午前中、小張老師から電話があった。小張老師は生化学科の主任である。韓国に留学したことがあって英語が話せるので、私とのもっぱらの連絡役となっている30歳代半ばの準教授である。「この夏の夏休みのことですけれど。」と話し出した。
こちらは、ああそうか、いよいよ夏休みのことで大学が何か決めたのだなと、すぐに思って聴く心の準備をした。彼女は言う。「先生のところの院生でこの夏休みの間大学に出てきて実験をする学生は何人いますか?」
前回書いたように、この夏休みは大学の管理が大分面倒になるらしいという噂があったので、私は7月19日に日本に行く予定にした。したがって研究室も実質 上休みにして院生はほとんど休んでよいと言うことにしたけれど、一つ困った問題が持ち上がった。それは保存容器に入った細胞である。
研究室で使っている動物細胞は、凍らせたときに氷の大きな結晶が出来ないようにした液を細胞に入れることで凍らせて保存することが出来る。保存するときの 温度は低い方がよく、私たちはマイナス80度というフリーザーと、液体窒素中の保存の両方を使っている。マイナス80度のフリーザーは電気が切れなけれ ば、液体窒素の補充という面倒がないが、細胞は1年以上保存すると解凍したときの生存率が落ちる。
液体窒素入りの容器で保存すれば半永久的に保存できるが、液体窒素を定期的に補充しなくてはならない。東工大にいたときにはキャンパス内に液体窒素のタン クが置いてあるので、必要なときにはいつでも補充できた。ここではそうはいかない。瀋陽にいると、実はドライアイスだって簡単には手に入らないのである。
今のところ液体窒素は毎月1回大学に配達されて、それを補充している。調べると毎月28日に配送されるという。私たちの研究室の細胞保存容器の係となった 徐蘇さんは、「7月28日というと大学が夏休みになって閉鎖されて、外から液体窒素が持ち込めないかも知れません。そうなると休みの間に液体窒素が蒸発し て足りなくなってしまいますから、大学が閉まる夏休みの前の18日に配達して貰うようにします。」と言っただけでなく、「今度は最終学年になりますから、 この夏休みは故郷の天津に戻らずに、実験を続けます。そして8月18日頃再度液体窒素を配達して貰って、8月20日頃1週間夏休みにしたいです。」と言 う。
彼女の責任感の強さに感動した。細胞の液体窒素のためにここに残る決心をしたのだ。そうしてくれるとありがたい。私は瀋陽を離れてしまうが、「誰か責任者が必要なら夏休みに出てくる教授に頼んで置くから。」と言うことになった。
小張に訊かれて、夏休みの間出てくる予定の学生を数えると、徐蘇と暁艶である。暁艶はモノクローン細胞を培養しているので、まだ切りが付かない。それで 「今のところ二人の学生が出てきたいと言っています。」と返事すると、「学部の学生は全部大学の宿舎から外に出して帰省させます。しかし院生は、指導教授 が大学に出てきているならば、予め届けを出してあれば、研究室にきて実験をしてもいいです。」という。
その指導教授の私は、既に瀋陽を離れる手配をしてしまったのだ。その場合、ほかの教授でも替わって貰えるかと尋ねると、「面倒なことになって済みません ね。でも、オリンピックだから今年だけの特別なことです。」という。私がいなくてはいけないかどうかは、大学の意向を聞いてから返事をしようという。
午後になって小張老師に電話で確認すると、ほかの教授が引き受けてくれればよい、と言う。それで、隣の袁老師のところに頼みに出掛けた。隣の実験室には私 たちの博士課程をこの夏卒業した王麗の夫の馬さんがいる。王麗からは馬さんのいる実験室は夏中実験をすると聞いている。袁老師は日本の大学院を出た美しい評判の女性教授である。
袁老師を訪ねてお願いしたところ、「7月一杯は研究室を開いていますから、良いですよ、私が責任を取ると言うことにして学生二人の出入りが出来るようにし て良いです。」さらには「それにうちが近いので8月以降でも、必要なら出てこられますから、学生が来ても良いですよ。」とまで言ってくださったが、そこま でお願いをしては申し訳ないので、学生の実験は7月中と言うことでお願いした。
いつもの夏ならば、隣の池島先生は夏休みでも決して休まないのでお願いできるところだった。実はこちらも彼に煽られて、「負けるもんか、だけどこっちは一 廻り年上だしなぁ、」と言うわけで、一寸だけ日和って、私たちの研究室の夏休みは3週間と言うことに早くから決めておいたのだった。
ところが、池島先生は5月末に尿管結石の手術を日本で受けたが、そのあとあまり調子がよくないので、急遽すべての予定を変えて7月10日に日本に向け出発 した。手術のあとの休養が十分ではなかったらしい。すくなくとも4週間は日本にいる必要があるだろうと言うことだった。池島先生はこの春還暦を迎えたとこ ろだが、中国に10年以上いて、傍で見ていると朝は7時前から大学に来ているし、夜は9時頃まで仕事をしている。研究室には30人近い学生がいるし、何時 も働きづめである。おまけに酒もたばこも大好きである。臓器の一つや二つがおかしくなっても不思議ではない生活だと思っていたので、この際徹底的に調べて 休養するために日本に戻ったことは、本当に結構なことである。
7月11日 のYahooを見ていると、「北京五輪でテロ計画、容疑者82人拘束…ウルムチ市(12時55分配信 毎日新聞)」というのが出ていた。『中国新疆ウイグル自治区ウルムチ市の公安当局は9日、北京五輪でのテロを計画していたとして、五つのテロ組織を摘発 し、容疑者82人を拘束したと明らかにした。41カ所の訓練施設も破壊したという。新華社通信が10日報じた。当局は五輪開幕を前に同自治区で分離・独立の動きに警戒を強めている。』
この報道の内容が事実かどうか分からないが、中国がオリンピック期間中のテロを警戒してピリピリしていることは確かなようである。とばっちりで、大学は強制的に夏休みに入り、心残りではあるものの私は日本で長い夏を過ごすことになった。
瀋陽に来て、なんだか右も左もよく分からないうちに瀋陽日本人教師の会に入ってから5年経ち、最古参となった。この日本人教師の会は瀋陽で日本語を教える日 本人の教師たちが集まって、お互い教材を融通したり、教え方を研修したり、そして何よりもお互い異境の地で生きていくのを助け合おうと言うことで、もう十 年以上前からこの地で自然発生的にでききにできあがった会である。
薬科大学にいた日本語教師の坂本先生がとても親切な人で、こういう会に入った方が良いだろうと誘ってくれたのだった。誘われてきたときに、会員一人一人が 役を持って、誰もただ入っているだけと言うことはない会だと聞いて感激したのと、この異国の地でこの会を続けていくことがどんなに大変なことであるかが分 かって、じゃ私も出来ることはしようと思ったのとで、入ってしまったのだ。
このところ本業が忙しく定例会に顔を出すのが精一杯となってしまった。それでも、長くいても2年くらいで変わっていく先生たちを繋いでこの会を楽しいものにするために、出来ることは何でもしようと言う初心は忘れていない。
定例会は毎年9月に始まって12月までと、3月から6月まで開かれる。1月に入ると長い春節休みが始まるし、7月になると各学校は夏休みになる。多くの日 本語の先生たちは、7月に入るとすぐに帰国する。私たちはまだそのあとも瀋陽にいる。それで2年前から、定例会を開くことのない1月と、7月には瀋陽残留組に声を掛けて番外の臨時定例会という集まりをやってきた。
会員の一人の友達がレストランを開いているので、そこに集まるのがお気に入りだった。友達のおかげで一寸割安で美味しい料理を食べる。この店長は日本で修 業した人なので、そば作りは習ったことはないそうだが、手打ちそばまで作ってくれる。汁だって日本的に出汁を取っての特製なのだ。と言うわけでこのレストランでご馳走になって大満足という集まりをずっとやってきた。
集まるのが五六人から十人くらいだから、定例会のあとの食事会とはまた違った顔ぶれがテーブルを囲むので、また意外な親しみが増すというものだ。
今年もその時期が巡ってきたが、その友達は今店を閉めて別のところを物色中である。集まる場所がない。それで、私の仕事部屋で土曜日の午後、一緒に映画を 観ませんかと言うことにした。もう一つの手は路上市巡りだが、もう夏になったし、路上市を冷やかすには暑くなりすぎて時期が悪い。
私は本業以外には本を読むのが好きで、大抵何か活字を読んでいるけれど、映画を観るのも好きである。それでここにも、日本で持っているテープからDVDに移して何枚も持ってきている。
大学の部屋だと、プロジェクターを使って1m x 1.5mくらいに白版に大きく映して観ることが出来る。コンピュータ画面を覗くのと迫力が違う。手持ちの映画にいくつか候補があったので、会員にリストにして廻した。どれが見たいですか?
すると「椿三十郎」に丸が付いた。これは2007年のリメイク版ではなく1962年の黒澤明監督の極めつきの作品である。私が名古屋に行ったころの作品だ から、今池あたりの劇場で友人と観たのではないか。それっきり観たことがないが、四十数年経った今も、そのリアルさ、その面白さが脳裏に焼き付いている。
当日集まったのは教師の会の5人。そして学生の陳陽くん。彼は自分のノートブックを使って、それで映写できるよう取り計らってくれた。高音、低音のスピー カーも付けて、臨場感を高める工夫もした。お茶のために紙コップを買いに行ってくれた曹さんは、映画を観に人が集まると聞いて「ポップコーンを買ってきましょうね。」と言って、バター味とチョコレート味と二種類用意してくれた。
映画が始まった。神社の本 堂(というのかな)に謀議で若者が集まっている。謀議の中心は加山雄三だ。とても今の加山雄三には似ていないけれど、いわれてみると面影はある。でも下手 くそだ。集まった中の石原さんの解説によると、演技が下手で黒沢監督から特訓を受けたそうだ。わお、田中邦衛がいるじゃないか。 まだ口がさほどとんがっていないけれど、既に「北の国から」の持ち味が十分に出ている。
神社の奥で謀議をたまたま聞いていた三船敏郎が登場する。「人は見かけによらねえよ。アブねえ。アブねえ。」いいね。懐かしい。これは三船敏郎の映画なの だ。このあと三船が懐手をして歩きながら肩をぐいとねじる仕草が何度か出てきたが、気付くと私もポップコーンを食べながら、一緒に肩を動かしていたのだっ た。
入江たか子がおっとりとした城代夫人を見事に演じている。三船に向かって、「あなた様は言ってみれば抜き身の刀。でもね。いい刀は鞘に収まっていますよ。」という。石原さんの解説によると、入江たか子はそれはもう美人で、評判の人だったそうだ。
敵方の落ちこぼれが小林桂樹だ。若いときから上手くなる役者は大したものだと思ったが、これも解説によると、それまでに毎日映画コンクール主演男優賞などの各映画賞を総なめにして、当時すでに押しも押されもしない俳優だったそうである。もちろん今でも人気の高い俳優だ。
陳陽は一緒に観ていたけれど、やがて科白について行けなくなってしまった。三船の科白は、「七人の侍」にしても「用心棒」にしても、私たちが聴いても聞き 取りにくいのだ。8割くらいしか聞き取れないのではないだろうか。日本語が達者でも、三船の科白ではお手上げだろう。いずれ中国版をダウンロードして観てみますねと言うことだった。
95分の映画が終わって、私たち思わず拍手。昔の映画館でもこうだったね。「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」思わず、水野晴郎さんの科白が異口同音に口を衝いて出た。6月10日に76歳で亡くなった水野晴郎さんに合掌。
研究室の主要手技はRT-PCRだが、もう一つの柱は免疫染色法である。これはタンパク質に特異的な抗体を使って、ある目的のタンパク質が、発現しているか どうか、発現しているとするとどのくらいなのか、多いか、少ないかを調べることが出来る。結果を眼で見て、それを定量して、値の大小を比べるが、適切なコ ントロールを取ってあれば立派に説得力のあるデータになる。
RT-PCRは目的の遺伝子が発現しているかどうか、つまり、RNAに転写されているかどうかを、そしてどのくらい転写されているかの量を調べることが出 来ると言う大事な実験技術である。しかし、mRNAが発現していてもその細胞でタンパク質として作られているかどうかは保証の限りではないので、免疫染色 法、別名ウエスタンブロットをする。
抗体は特異的な染色が出来るので素晴らしい方法だが、高価である。100 ulで5-8万円の値が付いている。これがどのくらい使えるかというと、もっとも鋭敏な検出方法と最小の反応液量と組み合わせたとして、500-1000回分である。
この値段は、妻の給料の1ヶ月分である。だから、私たちとしては、抗体は最高にケチケチと使いたいのだ。最小の反応液量が1 mlだから、もとの抗体を1万倍に希釈して使うとして、0.1 ulをとることになる。しかし、マイクロピペットで0.1 ulを正確に取ることは現実できではない。それで、20倍の一次希釈溶液を作って、これを、使用者で共有して使おうというルールが作ってある。つまり5 ulをピペットで取り、PBS-Tween20-BSA溶液95 ulに希釈すれば、20倍溶液が出来る。
これを冷蔵庫にとって置いて、必要に応じて最終1万倍希釈液を作って使うことにする。これは2ヶ月くらいのうちには使い切ると言うのが好ましい。保存は冷蔵庫で、決して凍らせてはいけない。タンパク質溶液は、解凍を繰り返すと活性を失うというのは私たちには常識なのだ。
研究室の抗体の使用者がそれぞれ自分たち一人一人で抗体の希釈液を持つのでは、経済的に堪ったものではないから、こうやって共有して使おうと研究室の全員と話し合って決めてもう2年くらいになるだろうか。
先日学生の一人が、抗体で染まりません、と言ってきた。うまく行かないと言うときには 、どのようにして染色したのかを、溶液の作成から操作の一つ一つにいたるまで詳しく訊くことにしている。何処かに間違いがあるものだからだ。
話を聞いているうちに、抗体の一次希釈液を作って皆で共有するという取り決めを守っていないことが分かった。どうやって希釈するのかと聞くと、抗体をし まってあるフリーザーから、チューブを取り出して、溶かして、そこから0.1 ulを取って PBS-Tween20-BSA溶液の1 mlに希釈しているという。
誰も0.1 ulを正確に分取することなんていうことなど自信を持ってできないことだ。しかもそのたびごとに、元の抗体溶液は解凍を繰り返すことになる。 こんなことをやっていると抗体の活性が使い切るまえに失われてしまう。これを避けたいから、一次抗体希釈液を作るという約束をしたのだ。
「いつからやっているのですか。私たちの注意を聞いているでしょう。取り決めを覚えているのですか」と聞くとウンという。「何故言うことを守らないのですか」と訊いても答えない。頑固に黙り込んで返事をしない。「じゃ、皆がやっていることですか」というと、ウンという。
つまり、 一次抗体希釈液を作って共有しようと言う全員で集まっての約束は、恐らく端から無視されてきたらしい。怒るよりも、呆れて力が抜けた。何でこのような学生たちのために、文字通り身銭を切って、苦労を重ねなくてはならないのか。
推測するに、他の人と一次抗体希釈液を作って共有しようというのが、我慢できないようだ。つまり、仲間を告発することは絶対しないくせに、彼らは 仲間のことを信用していない。他人のことを信用できないから、試料を共有したくないのだ。そのために、もとの抗体が解凍を繰り返して抗体価が落ちようと、 そんなことは知ったことではないのだ。
「上有政策 下有対策」というのは庶民の心髄にしみこんだ生き方である。私たちの立てた政策に対して彼らは対策を立てて骨抜きにした。ならば、私たちもこれに対して対策を立てようではないか。
もとの抗体溶液には誰も近づけないようにする。もとの抗体溶液を20倍にした一次抗体希釈液をこちらで作って冷蔵庫に入れる。これには番号を振って、仕様 記録を書かせる。誰がどれだけ、何時使ったかをトレースできるようにする。使い切ったところで、つぎの希釈を作って渡す。
実はこの方法は、今までのラボでは何時も行ってきたことなのだ。抗体を買う。100 ulの抗体を買うと、先ずミクロ試験管を用意して5 ulずつ分注する。必要になる度にフリーザーから取り出して95 ulのPBS-Tween20-BSA溶液を加えて、20倍の一次抗体希釈液を作る。これは冷蔵庫に入れて使っていく。
今まで自分で実験をしているときにはやってきたことを、これからはやることにしよう。記録もきちんと付けよう。面倒だからと思って手を抜いたのはこちらなのだ。どんな面倒でもやるべきことはあるのだと言うことを、身を以て分からせるにはこれしかあるまい。
大分県で教員採用に手心が加えられて、採用試験の採点通りなら落ちる人たちが教員に採用されてきたというニュースが報じられている。この教員採用の口利きや要請はもう30年にも及ぶという。さらに、教員の昇進や校長昇格にも金品の授与が常習となっていたらしい。驚き、呆れ、悲しい。まさかこんなことが行われているなんて。日本でこんなことがまかり通っていたのを、私は知らなかった。
点数の低い人を通すという不正のつじつまを合わせるために、通っている点を取っていた人の点数を削って平均点が動かないようにもしたという。不正がなければ採用試験に通っていたはずの被害者は、本当の原因を知らず、その数は不正合格者の数だけいるはずだ。
さて、これは大分県だけのことだろうか。大分県であったなら他の県の教員採用や、昇任でもあるのではないかと思うのが常識だろう。瀋陽の日本人教師の会のメンバーの顔が浮かぶ。校長の経験者もいれば、絶対に校長にはならないと言って生涯一教師を貫いた人たちもいる。
さらに言うと、このような不正は教員採用だけのことだろうか。他のことでもこのようなことがあるのではないか。病気になって病院に世話になったとき医者や 看護婦に謝礼を持って行くのは、日本ではついこの間まで社会常識だった。医学博士号を取れば主任教授に金を持っていくのも、ごく当たり前のことだったらし い。焦点を当てられている横浜国大にしてみれば、何で俺たちだけが騒がれるのだという反応らしい。
このように世話になったからお礼をするという社会儀礼のある国だから、それが一つ嵩じればお金で本来起こらない結果を買おうと言うことにもなるのだろう。 自分はこんなことをしないというのが唯一の根拠で、それ以外の根拠はないけれど、日本ではここまでひどいとは思っていなかったから、がっかりである。
結局、人は本来正しいものではなく、人は見張られなければ不正をするのだろう。そのためには、権限を一人に集中させない、結果はダブルチェックをする、決 して人を信用して任せたりはしない、ということしか人の悪事は防げないのだろう。この点中国は先進国である。私の知っているのは大学の期末試験だけである が、これは人への不信から成り立っている。
私の講義している科目では、試験問題をA,Bの二通り作成して、解答も書いて教務に提出する。A,Bのどちらが出題されるか、出題者には分からない仕組みになっている。
採点の時は、先ず私のところに廻って来た厳封してある答案用紙を開封する。問題ごとに配点がある。たとえば8点としよう。答を調べてみて、答が間違っているときは -8 と朱で書き込む。そして問題の冒頭に、0 と書く。答が不十分であるときは、解答例にしたがって、-2、-4、-6などを答のところに書いて、問題の冒頭には6、4、2と書き込むことになる。答案用紙にこれ以外こちらがよけいなことを書いてはいけない。書き入れて良いのは点だけである。
問題はいくつかあるから、最後には得点を集計する。得点集計欄は試験答案用紙の最初に印刷されている。点数を書き込み、私のシャチハタの判を押す。
採点をしていて点数を書き間違えることがある。それは二本線で消してやはり私の判を押して正しい点数を書き入れる。この書き間違いは、一人の答案に付き三箇所以内と念を押されている。この数が増えるとどうなるのかは知らないが、誰かの勤務評定に影響するに違いない。
私の採点は、同じ科目を担当している中国人教師の王三水老師でチェックされる。そして最後に、生化学の主任である老張老師がチェックする。と言うことは、 書き間違いは別として、私たちがグルでない限り不正は入り込めない。もちろん最終の老張老師以降の段階で点数の水増しをすれば可能だろうが、試験問題答案 用紙は3年間は保存されるので、もし疑惑があればその不正は発見できることになる。
日本の教員採用試験は法律で10年保存となっていた採用試験の答案、集計用紙などの試料を、大分県では一年で破棄していたというが、それは証拠隠滅のため である。大分県以外で調査をして、たとえば10年保存となっているのにもし答案やその他の試料をその期間保存していなかったら、不正が行われていた強い可 能性と考えて詳しい調査をすると良い。この調査は直ぐに出来ることだ。やってみたらいい。
不正で合格していた教員に教わってきた生徒にもし真相が分かったときの生徒の心中を思うと、これを荒立てたくないという世論もあるのは理解できる。しか し、不正で得した人の数だけ理不尽に権利を奪われた人がいるのだ。頼まれて便宜を図っただけですなんて簡単にすまされるものではなく、これは落とされた人 の一生をねじ曲げた極悪な犯罪と言えよう。
日本に戻ってくると矢張りいろいろとやらなきゃいけないことがある。おまけに今は母が入院していて、病院にもこの炎天下を一日おきに通うことになった。幸い1時間もあればいける距離である。
水曜日は、柏にある東大キャンパスを訪れた。ここの先生と一緒の研究を進めている。いつもはメイルでやりとりをしているけれど、日本に来たときには直接会っていろいろと情報交換をする必要がある。
戦後ずっと首都圏の交通が便利になっていく中で、だいぶ長い間、千葉県の流山とか柏といえば陸の孤島という響きだった。しかし3年前に筑波エキスプレスが 開通した。秋葉原から来るスマートな電車に乗って外を見ていると田園風景にただ見とれてしまう。四角いコンクリートが立ち並んだだけの都会から離れて、自然と一緒になったような風景に心が和む。
途中に「流山おおたかの森」なんていうすてきな名前の駅がある。駅の周辺には森がたくさん散見されるので、おおたかがいるのかと思ってしまう。 Wikipediaをみると、『駅の西方にあるおよそ50haの森林・通称「市野谷の森」に、絶滅危惧種であるオオタカが生息することから、駅名の一部に 採用された。』と書いてある。わお、すごい。
『しかし』と続く。『名前を付けておきながら、バブル前後のスプロール的開発や「一体化法」に基づくTX線の沿線開発により、森は半分以上が伐採され、 2005年3月現在20ha強にまで減少している。その影響のためか、プラットホームや線路内にオオタカが迷い込んでくることがあったりもする』と憤慨が 続いている。
便利になった分、自然は失われてしまう。自然との共生というやさしいことばは耳あたりがいいけれど、実は自然、そしてそこに住む生物の生態を私たち人間が破壊しているのだ。
うちの駅からちょうど2時間かかって「柏の葉キャンパス」に着くと、これから訪ねる山本先生が車で待っていた。交通が不便なので迎えに行きましょうという 言葉に今回は甘えてしまった。千葉大学の敷地を迂回し、科学警察研究所の前を通る。人を全く見かけないきれいな通りが続く、東大の施設である柏キャンパスまで約2 kmとのことだった。
未来都市みたいな外観のビルが建ち並ぶキャンパスは開放型である。高い塀で囲まれている中国の大学を見慣れると、これは異質である。日本人は外から襲われるという恐れを本質的に持たなかった民族らしい。
山本先生の部屋で1時間余、今ここに留学している胡丹くんと秦さんも交えて一緒に研究の討議をする。秦さんの日本語の進歩には目を見張る。彼女は日本に来 て、1年と4ヶ月にしかならない。はじめは山本先生の仕事をするときは日本語通訳となる胡丹がいないといけなかったが、今では胡丹抜きでも仕事の上の意思疎通は十分できるのだという。
キャンパスの中央にある食堂で昼ご飯を食べた。定食などのほかに、キャフェテリアで色々選んで、すべての重さでいくらという計算がでる。おもしろい。建物が新しいためかもしれないが、きれいである。
食事の時、秦さんが出席しているという日本語クラスの渡辺先生にたまたま出合って紹介された。約60人がここで日本語を勉強しているという。秦さんはクラ ス2から始まって今クラス6まできたという。つい数日前キャンパスの中で日本語を学ぶ留学生による日本語スピーチ大会があった。食事の後研究室に戻って、 それに参加したという秦さんのPPTをみせてもらった。
話はもろに私たちふたりに ついてである。秦さんがここに公開しては恥ずかしいというし、私もこのように話の対象となるのは大いに照れくさい。それでここに は載せないが、「ふたりは夫の修士時代の指導教官です。約四年前、夫を通じて彼らと知り合いました。」から始まって、最後の「先生たちは私たちのおじいさ んとおばあさんのようです。私は貞子先生のような女性になりたいです。」に至るまで、話の展開に沿って私たちの写真、瀋陽薬科大学のキャンパスの写真、研 究室メンバーの写真、がPPTで展開していた。
秦さんの日本語がここまで進歩したということが嬉しい。それと同時に、私たちが5年間中国でやってきたことは、わずかな数の学生が対象で、しかも彼らに とっては一時期のことに過ぎないが、それでもこうやって感謝されるようなことをやったのは生まれて初めてのことではないかと考えこんでしまった。
駅まで送ってくれた胡丹と秦さんと駅前にできたららぽーとに寄った。胡丹がアイスクリームのごちそうをしてくれた。「これ、『桃梨満天下』ですよ」と胡丹が笑いながらいう。
ついこの間、瀋陽に私たち の友人の呉培星さんがご馳走してくれた時に覚えた言葉だ。教え子が桃梨のように沢山いて、彼らがごちそうしてくれるということかと思っていた。「でもね、 先生、違っていますよ。」と胡丹は笑いながらいう。「沢山の教え子がいてそれぞれが桃梨のように立派に成長したという意味であって、彼らがご馳走するとい うことではないのですよ。」
危ない、危ない。教え子が増えれば、この先ほいほいと世の中を生きていけると思うところだった。
日曜日の夕方、今日本にいる留学生の一人がうちに訪ねてきてくれた。昨年の春私たちのところで卒業研究をした楊方偉くんである。今は北大の大学院生で、今回 初めて大塚製薬の奨学金を授与されてその式典に出席するために徳島に空路飛び、羽田経由なので、その帰りにうちに寄ったという次第である。
初めての東京見物を一緒に案内したいけれど、この炎天を出歩く元気もない。それで、それはほかの留学生たちに任せて、夕方おいでよ、そしてうちに泊まっていきなさいよ、ということにした。楊方偉は卒業研究生なので滞在期間は長くはないが、それでも前年の10月から研究室に来て実験を始め、6月に卒業しても札幌に行くまで研究室に来ていたか ら、なじみが深い。一口で形容すると、彼は人が大好きで、従って情報通で、どのくらい情報通かというと新聞記者というあだ名があるくらいである。他人に優 しくて親切で、皆が警戒するはずもなく気を許すから情報がつぎつぎと集まるのだろう。おまけにアイデアマンで、昨年の夏、私たちの研究室のオープンラボを 初めてやったのも彼が言い出して企画したからだった。
中国の留学生は多くは米国を目指す。欧州がこれに次ぎ、日本志望は3位 である。中国から近いので欧米諸国に行くのに比べて旅費も比較的安い。言葉は違うけ れど、日本も漢字を使っているので、言語的には欧米に行くよりも有利である。これは利点。しかし、物価は高いし、過去の侵略と歴史認識問題を巡って中国と 日本の間にはいろいろの摩擦がある。従って、日本に来るにはそれなりの覚悟がいる上に、日本では奨学金制度が充実していない。
欧米諸国では留学生に対して入学前に奨学金がもらえるかどうかわかる。入学して奨学金が出ることがわかれば、安心して渡航できる。奨学金なしだと、中国と 他の国の間には為替の差があるから、親は大変である。為替の違いはざっと十倍といってよい。彼らが日本での半年の生活のために百万円を用意すると言うことは、日本人が日本で一千万円用意するのとほぼ同じである。
私費でくる留学生は中国の家族から送られる金を頼りにしなくてはならず、不安がいっぱいである。しかし、日本で事前に奨学金が出る場合は極端に少ない。
楊方偉の場合は、北大の受け入れ側で事前の奨学金申請ができなかった。それでも指導教授は楊方偉が昨年10月札幌にきて以来、機会があるごとに奨学金の申 請を書いて呉れたそうだ。楊方偉は、北大の清掃員をやり、今ではコンビニで働き、現代の苦学生をやってきた。コンビニで働くと言っても彼は理系なので実験 に使う時間が必要だから、週に二回のバイトというぎりぎりの選択で生きてきた。今回大塚製薬の募集する奨学生に採用されて百万円を一回戴けることになった。
夕方うちに着いた楊方偉は、一日炎天下の東京見物をしてきたのに元気いっぱいだった。まずシャワーを浴びて貰うのがご馳走で、私のシャツ、短パン、そして これはまだ新品のショーツを出して着替えてもらった。9ヶ月ぶりで見る楊方偉はふっくらとしている。日本での過酷な生活に負けていない。
朝は薬科大学の同級生で今東工大にいる李杉珊さんたちと渋谷で出会い、池袋で昼ご飯を食べて、浅草、銀座を訪ねたのだそうだ。聞くだけでも忙しくて、暑さ がにじみ出てくる東京見物である。楊方偉の印象では、札幌の方が遙かにきれいで、静かで、涼しくて、東京よりも札幌の方がずっとよいそうである。ただし、 札幌の冬は毎日雪が降って寒く、このまま北大にいるのは考えものと言うことだ。
彼は瀋陽出身だから、冬の気温は札幌よりは寒いのに慣れているはずだ。外は寒くてもうちの中は暖かいという造りは同じだ。違いはおそらく瀋陽では雪が少ないと言うことだろうか。
彼の札幌での暮らしぶり、アルバイト、研究室の様子、研究の進み具合、大塚製薬の奨学金授与式の話、大塚国際美術館など、話は尽きない。大塚国際美術館には40分いる間に、駆け足で4つの展示に案内されたのだそうだ。
中曽根内閣の頃、それに伴う宿舎計画、奨学金制度もなしで、留学生十万人計画というのを打ち出した。それから二十年経ち、数だけはつじつまがあったと思ったら、今年になって福田首相は三十万人計画を打ち出した。
日本人と個人的に交流し、将来日本に対して暖かい友情を持つことのできる外国の若者を育成するために、この計画を打ち上げたのは大変結構なことだ。十分予算をつけて、日本が好きになる三十万人の外国の若者を作ってほしい。
外国人留学生のごく一部に対して日本政府は政府奨学金を出している。これは無償交付だが、日本の学生を支援する育英会奨学金は貸与である。楊方偉が博士課 程に進むときに政府奨学金を貰えればいいねという話に、彼は「でも日本の学生への奨学金は貸与だから、その後ずっと借金を返すのに苦労します、私たち外国 人だけが無償で奨学金を貰うのも良いけれど、日本は日本の国の若者のことを考える必要がありますね、」という。
実際その通りで、今の日本の若者は将来に明るい展望もなく、希望もなく、しかし大学院生活を続けると将来は大きな借金を背負ってのスタートになる。食と職 を用意することだけではなく、若者に夢を与えることこそ国の大事な役目である。この先もう一度の人生がおくれるなら、政治家になってみたいというのが私の この頃の夢である。
8月4日のRecord Chinaに、朝倉浩之氏による記事が載っていた。朝倉浩之氏は中国スポーツの取材、執筆を行いつつ、北京の「今」をレポートしていると紹介されている。
朝倉浩之氏の記事は『「うまい!」北島発言を伝えるメディアへの疑問』というタイトルで載っている。
内容をかいつまんで紹介すると、
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080804-00000036-rcdc-cn)
競泳男子平泳ぎの北島康介選手が北京入りして、選手村での食事について「今まで(の選手村)で一番うまい」と発言した。これについては、日本でも大いに話題になったそうだし、中国でも、現地メディアが取り上げ、大きく報道された。
日本のメディアは一様に「意外に好評」「不安があったが…」などなど、「思いもかけず」“うまかった”という取り上げ方がほとんどで、概して、中国側のサービスに対して、「否定的」なイメージが先行した伝え方ばかりだった。
ここ最近、中国食品に対する安全問題が取りざたされており、もともと持っている「中国食品への不安」が今回の報道の視点が生み出したのだろうが、私は非常に視野の狭い見方だと感じた。
実は、中国では米飯は食べ るが、どちらかというと南方地域(上海以南)が主で、特に北京や河北省、山東省などでは、あまり一般的な主食とはいえない。もちろんのこと、味噌汁など全 く食べられない。にもかかわらず、世界各国から数多くの国々がやってくる北京五輪で、たった一国の選手団が食するに過ぎない「味噌汁」を選手村では心を込 めて用意した。
中国の「もてなし」の結果である味噌汁を“上から目線”で「“意外に”うまい」と講評することが妥当なのだろうか。それを日本の大メディアが軒並み、おな じ視点で語っているところに、今の日本のオリンピック報道、そして中国報道のいびつさを感じる。記事のうち、一つとして、中国側が「おいしい味噌汁」を用意したホスピタリティに敬意を表する視点から書かれた記事がなかったことが私にとっては意外であり、残念に思うのだ。
念のために言っておくが、北島選手は自ら「“意外に”うまい」などという不遜なことはいわない。一流のアスリートが主催側の用意した食事をそんな失礼な表 現で形容するはずがない。それを伝え手の側で歪めたニュアンスで伝えることは、外国報道の本質を損なうのだが、なぜか中国報道では、「それがよし」とされているように思えてならない。
一連の中国報道にかかって いる得体の知れないフィルターは今すぐにでも取り外すべきだ。近視眼的に先入観を持って見るのではなく、もう少し広い目で見てはどうか。国内報道なら当然 の、この視点が、こと中国報道になると、一辺倒の「上から目線」になるのはどうしてだろう…。以上は朝倉浩之氏の記事を半分に縮めたものだ。私にはこの朝 倉浩之氏の記事は、良い指摘だなと賛成できる。日本で中国に関する報道を見ると、中国のあら探しに軸足を置いて、しかも大げさではないかと思われるものが 多い。
私自身も中国に暮らして日本と違う文化、慣行、風俗におどろき、目を見張り、そしてそれを書いてきた。好きになれないことも勿論ある。でも今は、それが民 族の文化の違いなのだということが実感としてわかる。もしこちらが相手の文化を否定したら、相手がこちらの存在を否定することも許さなくてはならない。つまり両立できず、後は対立しかない。
しかし、それが今の世の中に可能だろうか。縄文時代の生活なら孤立して生きることもできたかもしれない。しかし、今互いの存在なしには私たちは地上で生きていけないのだ。相手を少しでも理解し一緒にこの地球号の上で共存しなくてはならないのだ。
そのためには、相手をはじめから色眼鏡で見て、違いをこと立てて対立をあおるのは良いことではない。日本のマスコミは大人とは思えない。勿論、逆に中国では日本への反感をあおるような報道があるわけだ。
お互いマスコミに踊らされず、良識をしっかりと持つことが必要だろう。これこそが教育なのだが、朝倉氏の記事への「みんなの感想」を見ると、
「日本メディアのいびつな中国報道といいながら、記事の内容はいびつな中国賛美だ。」
「このブログの筆者自体が、上から目線な気が。そりゃ中国人も面子がかかってるんだ、必死になるさ。」
「この記事は、中国国際放送のスポークスマンが書いたんでしょ。中国で生き延びるためには仕方がないかも。」
というような意見が並ぶ。触発的な反応だけで意見を述べている。人は考えるものだと教育を受けたはずなのに、ちっとも考えていないようなのが気になる。
意見の中に、「とても感動されました。日中の間になぜ理解しがたいだろうか不思議でならないです。お互いは先入観を捨て、もっと理解しあうならいいの に...。中国人は作った味噌汁はうまいかうまくないかをさっておき、少なくても、日本代表団のために、味噌汁を用意すること自体は評価すべきではないで しょうか。先入観を捨てたほうが日本にもプラスなるではないでしょうか。」
という共感を多く集めた意見があったのが救いである。言葉遣いからすると、中国人が書いたように思える。言葉を覚えて、日本で一生懸命生きている息吹が伝わる。誰だか知らないけれど、がんばれよ!!!
マスコミがいい加減なら、草の根交流しかないのだ。
痴呆の状態が続いている私の母は十年以上前から老人ホームでお世話になっている。私が帰国する数日前、母は喀血して老人ホームから病院に運ばれ、そのまま入院した。
それで私は帰国してから彼女の退院まで二三日おきに病院に通った。この病院は横浜線沿線にあるので、もしまだ車を持っていれば15分もあれば行き着く距離である。
しかし、東京都の排気ガス規制が厳しくなり二年前にとうとう15年乗っていたハイラックスサーフを手放して以来、車を持たない生活になった。はじめは戸惑ったけれど、どこに行くにもまず家から歩くという生活は新鮮である。
この病院に行くためには私たちはバスの中山行きに乗る。ありがたいことに今は横浜市から優待乗車証を貰っているので、バスと地下鉄には無料で乗れる。この 春から横浜市グリーンラインが開通したと聞いているので、バスでそのまま中山に行かずに途中で降りて、川和町駅から地下鉄に乗ってみた。
地上3階建ての新しい駅舎には地上からエレベーターを乗り継いでも到達できる設計になっている。今は建前は少なくとも「弱者に優しい」ことが売りの社会で ある。地上3階から眺めるこの地域の姿は緑が多く、のどかで美しい。暑い日差しは駅舎の屋根に遮られて、吹き込む風が涼を運んでくれる。
グリーンラインは4両編成で、車両の幅は大江戸線なみに狭いようだ。地下を掘るとなると、10センチ細くするか、広く掘るかでたちまち何十億という金の差となるのだろう。席には「全席優待席です」と書いてある。日本憲法の第九条に負けず劣らず、立派である。
勿論ウイークデイの昼間なので同じ車両に乗っているのは数人という少なさである。電車は3階建てからあっという間に地下に吸い込まれて、地下3階くらいにある中山駅に着いた。
ホームにはこの電車を、大して多くの人たちが待ってはいなかった。一つのドアあたりで数えると十人以下だったのではないか。でもドアが開いたとたんに、私たちともう一人が降りるよりも先に私たちを突き飛ばして、人々が入ってきた。絶対に、皆が楽々座れる数なのに。
なんということだ。「全席優待席」と車両の座席には書いてある立派な電車で、乗るときは整列乗車、降りるのが先、乗るのは後という当たり前のことが全く無視されている
すぐに瀋陽のバスを思い出した。乗るときは一人しか通れない乗車口に、ともかく早い者勝ちで殺到する。瀋陽には電車はまだないのでどうなるかわからないが、上海の地下鉄には、ホームの乗り口のところに「降りるのが先、乗るのは後」と書いてあったのを思い出した。
書いてあるのはそれが守られていない証拠である。実際、上海の地下鉄では、いつも降りるのに苦労した。つまり人間は日本でも中国でも性善ではなく、本質的には性悪なのだ。教化しなくては動物以上の行動をとれないのが人間なのではないか。
などと考えているうちに、横浜線を経て、病院に到着する。
母は個室に入って天下太平である。目覚めているときは低い声を出し続けていることが多い。何かを話しているとしか思えないけれど、音声全く不明瞭でわから ない。目の向いている方に行って話しかけても、手を振っても、ほほを撫でても、手を擦っても、彼女の目の焦点は私には結ばない。それでも痩せた手を伸ばして語り続けている。
私の娘よりも若い女性の医師が担当医である。鮮血の出血だと結核、がんなどが疑われるが、結核菌は検出されず、CTスキャンで調べてみても肺がんの疑いはない。後は気道検査鏡を入れて調べるのだそうだが、これが健康人でも結構つらいという。
私だって気道につばの飛沫 が入っただけで大きく咳き込むこの頃だ。気道鏡など考えただけで恐ろしい。医師は、「出血の原因がまだわかりませんが、気道粘膜が弱って特に理由もなく出 血するのかもしれません。そうなると気道検査ということになりますが、これは苦しいだけではなく、かえって気道を傷つける可能性もありますから、どうで しょうか?」
気道検査反対という答えを期待する誘導尋問みたいである。こちらは彼女の話しか判断の基準はないのだ。「出血を抑えるための薬を点滴薬の中に入れてありま す。」という。つまり血液凝固を促進するわけだ。「しかし一方、これは血栓を作りやすいので、心筋梗塞、脳梗塞も起こす可能性もあります。」
出血があっても、その原因がわからず出血を押さえられない以上、対症療法としては二つに一つというリスクを覚悟しなくてはならないようである。医師は私と 妻を前にして、メモをとりながらきちんと話しをしていく。「じゃ、このまま経過を見て、あと数日で退院と言うことにして大丈夫だと思います。」ということになった。
最後に私のサインが求められて、状況を話したという記録が両者に残った。私の叔父は医者だったが、病状について何か訊くと、いつもフンという感じで、「それだけ分かっていりゃ、医者いらずでしょ。」という返事しか返ってこなかった。病院も医師もどんどん変わっていく。
数ヶ月ぶりで中国から日本のうちに帰って、今までと違うと思ったのは、階段を上ろうと思ったときだった。うちは狭い敷地いっぱいに家を建てているので、2階どころか3階建てである。階段を上り下りしないと日常生活が成り立たない。
いままでは何ともなかった階段の昇りが、急にこたえる。膝がもろに痛い。脚の踏み込み方が悪いと左膝に激痛が走る。左足を一段上にかけたまま力を加えずに屈伸をして、さてという具合に力をかけて階段を上り始める。
今まで、階段を上ることなんて何でもなかったことだった。意識したこともなかった。しかし、今回は階段を上るためには脚の筋肉に力が入らなくてはいけないことを強く意識する。つまり、脚の筋肉がやせ細ってしまったのだ。
還暦になったところでテニスをやめて以来運動らしい運動をしたことがない。時には思いついて大学構内や外を早足で歩くことをやったけれど、1時間くらい時 間をかけるのがもったいなくて長続きしなかった。大学の階段を上るのも日課にしていたけれど、何時しかやらなくなってしまった。
運動不足が筋力低下をもたらしたのだ。瀋陽の研究室では毎朝7時から夕方の7時まで、ほとんどコンピューターの前に座って仕事をしているつけが来たのだ。
若いときは運動らしい運動をしなくても大して筋肉が衰えることはないが、歳をとると致命的らしい。年寄りこそ日常的に筋肉を鍛錬しないといけないのだ。歳をとってから一週間入院すると筋力が20%落ちると、妻が聞き込んできた。どうも私もその年齢になったようだ。
日本の今年の夏休みは、うちで特にしようと思っている仕事はない。それならせめて毎日運動をして身体を鍛えよう、と決意をするのは簡単だった。でも階段を上るごとにへろへろになるし、外を歩いてみようと思ってもあまりにも暑すぎる。うちの中だって35度くらいある。腕立て伏せと、スクワットをするのが関の山である。
ともかく、日本に戻って十日ほどすると階段を目の前にして、階段を上るのだという意識が頭に浮かばなくなった。つまり脚の筋肉が少し付いてきて、階段のぼ りを負担に感じなくなってきたと言うことだ。腕立て伏せは40回、腕を横に開くのと縦に開くのとそれぞれ1セットずつ、スクワットは30回を2セット、を 目標にして、1回もやらないこともあるけれど、今からオリンピック選手を目指すわけでもないし、まあ、いいか。
春に日本でメタボ、メタボと企業でメタボリックシンドローム追放が盛り上がっているとき、日本から戻ってきた妻が「そのお腹、日本だったらメタボかも」と いって、巻き尺を取り出した。「男性だと85センチを超えるとメタボなんですって。」というので、「まさか。いつも31インチのジーンズだし、そんなはず はないよ。」と返事をして計ったところ、なんとへそ周りは88センチもあった。
体重は最盛期よりも少ないが64 kgはあるので、まさかと思っていたけれど、脚の筋肉が落ちた代わりにお腹に柔らかく脂肪が乗ってきたのだろう。だから瀋陽にいるうちに腹囲の脂は気になっていたけれど、脚の筋肉がここまで落ちているとは思わなかった。
筋肉細胞は分化した後は増殖しない。修復用にほんのわずかな数のステム細胞があるらしいが、本質的には筋肉細胞は再生しない。神経細胞と同じように、筋肉 細胞の数も20歳代はじめにピークになった後は減っていくだけである。細胞が死んでいくのは、遺伝子の中に自殺プログラム(アポトーシス)が組み込まれて いて、様々な要因でこのプログラムが起動して細胞が自殺することが、今では分かっている。
しかし実験では、ほとんどの筋肉細胞がアポトーシスを起こす要因はたくさんあるけれど、実際には筋肉細胞は年齢とともに徐々に死んで減っていくわけで、実際には何がこのアポトーシスを制御しているのかは分かっていないようである。
鍛えると筋肉がたくましくなるのは、一つ一つの筋肉細胞の中の筋繊維の数が増えて細胞を太くなるからである。細胞の数が少なくても筋繊維の数が多ければ筋 力は同じになるわけだから、刺激を与えて筋肉を太くすることは意味がある。筋力が落ちたことを嘆くだけではなく、今から筋トレを始めても遅くない。
加齢を重ねると膝が弱って くるが、これは膝関節の中にある半月板という軟骨がすり減ってしまうためらしい。勿論、生きている間は消耗を補う再生をやっているわけだが、歳をとるとこ の能力が落ちてしまうために、半月板が減って、脚の骨頭が直接ぶつかって、痛むために歩けなくなる。誰でもこうなるかと思っていたら、半月板の能力に関係 する遺伝子が見つかったという。
理研の研究によると、DVWA(Double von Willebrand factor A domains)にSNPで変異を持つ人と関節症とに関連がある。DVWAタンパク質はチュブリンという軟骨細胞の細胞骨格を構成するタンパク質と結合す る。変異SNP によってできたDVWAタンパク質とチュブリンとの結合力は低下している。つまり、DVWAは軟骨細胞の細胞骨格の制御を通じて、OAの病態に関与している。
http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2008/080712_2/detail.html
これで関節症が治るなら良いけれど、病態のメカニズムが分かっても、必ずしも治療が可能ではない病気が多い。人のゲノム解析、SNP解析などが進んでデー タベースが完備し、自分のゲノムが分かる時代になったら、自分の健康管理が可能になる一方、「自分の将来こんなもの」と夢も希望もない時代になってしまう かもしれない。
「学会に行ったら全然知らない人から、『沈さんですね』 と声をかけられたんですよ。そして私のことをよく知っているんです。」
と言って話し始めたのは沈さんである。京都大学の修士課程を終えて今は某化粧品の研究所に勤めている。瀋陽薬科大学の昔の教え子が数人集まって桜木町のレストランで食事をしたときのことだ。
「先生はブログに何でも書いちゃうから、その人に『沈さんはミハチンと呼ばれているんですね。沈さんは何か事件があるとすぐに飛んできて、興味津々と首を 突っ込むミーハーなんだって。ミーハーの沈さんだからミハチンなんですってね。』なんて、言われちゃったんですよ。」と沈さんはくちびるを突き出したが、 不満の抗議ではないと見た。
ミーハーというのは私の母の学生時代からあった言葉だと思う。今でも使われている言葉かどうかは知らないが、少なくとも褒め言葉では使わない。でもミーハーのミハチンなんて聞くと、どんな人なのか知りたくてウズウズするのではないか。
私のホームページの「瀋陽便り」には、瀋陽に暮らして見聞するいろいろの事がらを書いてきた。当然のこと、人物も登場する。勿論書いては差し障りがありそうと私が判断することは書かないでいる。大丈夫と思うことしか書かない。
しかし妻に言わせると、「その判断が正しいなんて保証はないでしょ。自分の思い込みで勝手に決めているだけなんだから、危ないわよ。」と言うことになるが、自分の判断以外信じられるものがあるのかというのが、私の考えである。
自分の判断を信じて、言いたいことは言う、やりたいことはやる、書きたいことは書く、のでなければいったい何のための人生だろうか。自分の人生を生きていることにならないではないか。
というわけだが勿論私だってプライバシーには配慮をして、最初の頃の登場人物は仮名にして書いてきた。沈さんは、その頃は白さんだった。彼女は最初の卒業 研究の学生だったし、とても個性的な学生である上に、生き方が積極的だったから、私のブログに何かと登場し続けたのだった。彼女を通じてまず中国の心を学び始めたと言っても過言ではない。
「昨晩の開会式を観た?」 と訊くと、誰からも異口同音に「観ましたよ」と返事が返ってきた。「すごかったじゃない。ハイテクのトップを行くすばらしく豪華 絢爛な開会式だったね。」というと、留学生の一人は言った、「中国ってきっともたもたと、おかしな演出をするんじゃないかなと心配していたけれど、すっご くって感激しました。」彼女の声は感激のために声がくぐもっていた。よく分かる。密かに心配していたら、その心配を裏切った見事な演出で、世界のひとびと に、特に中国人に、大きな感動と感銘を与えたのだから。
さすが張芸謀監督である。皆の予想を遙かに上回る演出の冴えを見せた。孔子の言葉を唱えながら、楽器を打つ2008人の若者たち、楽器は音とともに色彩の 広がりと形を変えていく。書が出る。竹簡を持つ多数の人たち。紙の上に人の踊りに沿って絵が現れる。絵の描かれた巨大な紙はグランドの上につり上げられ る。拡げると150メートル近いという絵巻物の上の絵が、次々に替わっていく。昔の墨絵、いつの間にか動画、絵巻物の上がまるでコンピュータのスクリーン みたいだ。紙を発明した中国。どうしてこんなことができるのだろう。この絵巻物の次にはグランドが開いて、地面の中から現れた沢山の活字がしなやかに踊る。活版印刷を発明した中国。羅針盤を発明した中国。火薬を発明した中国の鮮やかな花火。
地面が割れて直径10メー トルくらいの球が現れた。これが地球儀になった。この上を人々が走り回る。南半球では人々は逆さにつるされて走っている。競技場の地面の下にも上にも、大 がかりな仕掛けがあるのだ。先ほど絵の描かれた巨大な紙は、入場式で数千人の選手に踏まれて鮮やかな色彩に染め上げられたあと、 開会式の演壇ステージの表面となった。どうやってこれを可能にするのだろう。
桜木町ドックヤードの地下にあるイタリア料理の店に集まって、私たち7人は2人用、3人用セットをひとつずつ注文した。この店を紹介した沈さんが、「ここ はおいしい上にたくさんあるから、5人分で十分です」というのだ。私たちはオリンピックから始まって、大学の研究のこと、職場のこと、ありとあらゆること をしゃべり続けた。会話は勿論日本語。
今は京都大学にいてほぼ2年ぶりで会う満さん、東工大に行って1年近くなる李さん、就職して1年を超える沈さん、そして慶応の博士課程にいる朱さんと日本企業に勤めて1年の郭さん。
別れるときには彼らから沢山の土産を貰った、「日本にいる間は、のんびりとテレビでオリンピックを見ながら食べて、太って下さい」、と言う口上で。でも彼らの元気な姿を見て、確実に成長していることを知ることが、何よりも大きな土産である。
母の入院につきあって何度か病院を訪れるために、JR横浜線の駅を何度も利用した。プラットホームで電車を待つ位置の向こうの壁にはJR東日本の広告が貼ってあるのを見つけて馴染みになった。
吉永小百合さんがにっこりと笑っている。吉永さんは私よりも数年若く、私が大学の修士課程を終えて名古屋大学に就職したとき、その頃の学生の間に大人気 だった。サユリストという言葉は当時すでにできていたと思う。彼女の年齢を考えると、吉永小百合さんにはいまだに若さが凝縮している。
このJR東日本の広告は大人の休日倶楽部の広告で、「吉永さんがおすすめする理由」というヘッドラインだった。50歳以上であれば入会すると運賃の5%が安くなるというものである。このヘッドラインを見ていると、何か微妙に引っかかる。「何かおかしくない?」と妻に言うと、妻も「なんだかおかしいわね」という。
この広告はJRが私たちを広告対象にして、よく知られた吉永小百合さんを使って、私たちに訴えている。
吉永小百合さんがJRからそれなりの謝金を貰っているにせよ、私は彼女がJR一家に属しているとは思っていない。JR東日本が著名人を使って広告対象の私 たちに訴えているわけだから「吉永さんがおすすめする理由」ではなく、「吉永さんがおすすめになる理由」でなければ、ここの文脈ではおかしいと思う。
つまり広告はJRが打ち、吉永さんも気に入っていることを一般に訴えたい。だが、「吉永さんがおすすめする理由」になるか、「吉永さんがおすすめになる理 由」の違いは、丁寧語か尊敬語かである。JRは「おすすめ」という言葉を丁寧語と思い、丁寧語感覚でつかったのだろう。しかし私は尊敬語でなくてはおかし いと思うのだ。
つまり問題は、「吉永さんがおすすめする理由」になるか、「吉永さんがおすすめになる理由」になるかは、広告主のJRと吉永小百合さんとの関係によるわけだ。
JRが吉永さんをJR一家のものと思っているなら、「吉永さんがおすすめする理由」でもいいが、JR一家のものと思って良い訳ないから、「吉永さんがおすすめになる理由」でないとおかしいのではないかと言うのが私たち二人の意見である。
もし、「おすすめ」を丁寧語として使っているなら、吉永小百合さんはJR一家のものという気持ちが裏にあることになる。この場合は「吉永がおすすめする理由」と書いてくれるのが良い。それなら納得できる。
つまり吉永小百合さんとJRとの関係が曖昧模糊とした形のまま、この広告が私たちに押しつけられているから、私も妻も何だが釈然としないものを感じるのだ。
この広告の横にJR東日本による別の広告が並んでいる。「いまどき、きっぷのいい話です」というものだ。私はこの「きっぷのいい話」に引っかかる。
じつは今あまり使わなくなった言葉ではないかと思うけれど、「きっぷのいい」の「きっぷ」は気風のことで、人の性格を指して言う。あの女は「きっぷのいい人だ」と使うのが正しい。「きっぷのいい話」なんて言う用法はないはずだ。
勿論言葉は変化するから、「きっぷのいい人だ」が何時も使われているうちに「きっぷのいい話」として転用される場合はあるだろう。しかし、おそらく今は使 われていない言葉である。それを引きずり出してきて全く別の用法を当てはめるのは、「明らかに誤用である」というべきだろう。
「気っぷの良い人」というなら、ネットの上の知人のmokanakoさんがある。
彼女のさばさばとした「気っぷの良い行動」や胸のすく書きっぷりには惚れ込んでしまう。ネットの人格と本物が同じ保証はないけれど、きっと、実際の mokanakoさんもちょっと斜に構えて、自分を笑いのめすことのできる確りした自分というものを持つ素敵な女性だろうと思う。
最近のmokanakoさんの8月10日のブログに「日本語がおかしい」というのがあった。「みなさま、お忘れ物をいたさないよう、よくご確認ください。」というのが例として挙がっていた。
確かにこれはおかしい。こういうおかしな日本語に出会ったときの気持ちは「いづい」のだそうだ。初めて聞いた言葉だけど、mokanakoさんによると 「いづい」とは『居心地悪いというか、違和感を感じるというか、気持ち悪いというか、かゆいでも痛いでもないし…すっきりしないというか、ちゃんとしてな いというか、そういう感じを表す言葉』だそうである。
(http://mypage.odn.ne.jp/home/mokanako)
四十年くらい前、就職して名古屋に行ったとき、研究室の私宛に学生から電話がかかってきた。「○○先生、おりますか?」
いまだにあのときの衝撃が忘れられない。あの気分。あれが「いづい」だったのだ。そして日本語のおかしいのは今に始まったことではないのだ。
(mokanakoさま、勝手に引用してごめんなさい)
母が病院から解放されて老人施設に戻ったあと、施設から医者を交えて話をしたいので来てほしいという連絡があった。週日のある日の12時という約束で施設に妻と出かけた。連日暑い。電車を3本乗り換えたが、電車の中だけが救いの冷房である。
施設に着くとちょうど食事時間で、母は車いすに座って食堂で食事をしていた。今は介護がないと食べられないが、ほとんどすべてを食べ尽くす健啖家である。
一室に招き入れられて、医師とその付き添いの看護婦2人、施設の看護士、ケアマネージャー、副ホーム長と話をした。
若い医師が言うには、「山形さんの今回 の出血は気道出血らしいと病院で言われていますね。これは老化により粘膜が脆弱したためと考えられます。出血を抑える薬が使われてきましたが、私はこれを 処方しません。というのは血栓ができやすくなるからです。しかし、出血原因が治っていない以上、また出血する事態が考えられます。そのときにどのような治療をするかについてご相談をしたいのです。」
「というのは、出血が起こるとご家族に連絡する一方で、待ったなしで緊急に病院に搬送と言うことになる可能性があります。このときこちらの意思表示がないと、病院ではすべての手段を使って生命を救おうという処置をとります。」
「しかし山形さんはもう十分にご高齢で、意識もありませんし、いたずらに延命を図ることが良いかどうか分かりません。勿論これは私個人の意見ですが、ご家 族はどのように考えておられるでしょうか。このことについてご家族のご意見を伺っておいて、病院側にしっかりと伝える必要があるのではないかと思います。 ここに同意書なるものを作りましたので、ご家族のご意見を書き込んでもらえないでしょうか。」
以上は正確ではないが医師の言葉である。命ある限り徹底的に治療しようというのではなく、意味のない命なら長らえる必要はないという見方なのだ。
しかし命に意味があるかど うかは本人の決める問題である。他人が云々することではない。本人に判断力がなく(医師は意思がないといったが、私は判断力がなくなっているのだと思う) 決定できないときには、家族が代わって決めることになる。私はつらい判断を任されることになった。
私の気持ちは、彼女はもう社会 復帰はできない、人として意思決定もできない、判断もできない。したがってこの先、母の健康が損なわれたときには無理に延命処置を執らずに、苦しませずに 最後を迎えさせたい。
同意書には質問が書いてある。
質問1 病状が悪化したときにはどこで治療を受けたいか。
1. 入院治療を希望
2. 施設の可能な範囲での治療を希望
これは1.である。
質問2 最後を迎えたいところはどこか。
1. 今入居している施設
2. 病院
3. その他
入院して最後を迎えるかもしれないし、老衰のために施設で看取られるかもしれない。決められないのではないか。
質問3 口から食事がとれないときはどうするか。
1. 気持ちに任せて無理な治療はしない
2. 経管栄養をとらせる
3. 点滴による水分補給を受けたい
この中の1.はよく分からないがほかの文脈から見ると、そのまま栄養・水分補給をしないで放って置くということになる。2.では延命処置と言うことだ。3.に丸をつけることになろう。
質問4 病状が悪化したときに行う処置で希望するものを選べ。
1. 痰の吸引 2. 酸素吸入 3. 輸血 4. 強心剤の点滴 5. 人工透析 6. 人工呼吸器をつける 7. 気管切開 8. 心臓マッサージ
2. 人工呼吸器を一旦つけて延命を図ると、これを外すのは殺人になる。つまり一度装着すると外せないことになるので、医者は人工呼吸器をつけるなと事前に示唆している。これこそ事前に決めておかなくてはならない大きな一項目であるという説明である。
3. 私は妻とよく相談して、やってほしいこととして、痰の吸引と酸素吸入を選び、人工呼吸器をつけるのを選ばないことにした。私の一つ違いの姉も同じ意見だった。
4. この同意書は私たちの意見として医師が預かるだけで、何らの法的拘束力はないという説明を聞いた。しかし彼女に替わって私たちは決断したのだ。そして私自身の将来も同じようにすると決断したわけである。
5. これから先は、母自身の生きていこうという自然の力がなくなったときが最後になる。
今の私たちは中国の大学で5ヶ月間の研究生活を送り、夏冬には大学の休みに合わせて1ヶ月の休暇をとって日本に戻ってくる。日本に戻ってきて久しぶりに友人や知己、親戚、ご近所さん、昔の学生たちに会うと、「中国はどうですか」と聞かれる。
そのたびに中国で道を渡るときのスリル満点の冒険とか、食べ物はすべてが中華料理でおいしいけれど、その中華料理にも味と値段はピンからキリまであるとか、中国のラーメンは日本ラーメンではなくうどんであるとか、話すことには事欠かない。
いつもそのようなことをここに書いているので、中国で珍しく思う体験ではなく今日は観点を変えて、日本に戻ってきて何を新鮮に感じるかを書いてみたい。つまり日本にいる限りは気付いていない日本の特徴というか、日本独特のものは何かである。
日本は水が豊富である。「湯水のごとく使う」という表現があるくらい豊かな水に恵まれていることを、実際私たちは身をもって中国で再認識した。でもこれは外国の生活を経験した人は誰でもが言うことだ。
日本に帰ってくると食べ物では蕎麦、ウナギ、天ぷらが懐かしいし、温泉や道の清潔さ、などなども嬉しいことである。
でも、誰もこういうときに取り上げていないだろうけれど、私の気に入っているのはコンビニのおにぎりである。海苔のおにぎりである。「おにぎり」は「おむ すび」とも言うので、どちらだろうかと思ってインターネットで調べてみた。すると、「Orbium -そらのたま」で見つけたのは、『関西では「おにぎり」、関東では「おむすび」と呼ぶ傾向がある』ということだ
(この文の原典はhttp://sasapanda.net/archives/1526)。
ただし、『日本の大部分で「おにぎり」(または「にぎり」)と呼んでいて、関東から東海道にかけて「おむすび」(または「むすび」)と呼んでいるが、東京と神奈川では「おにぎり」と呼んでいる』そうである(同上)。
子供の頃何と言っていたか思い出せないけれど、私にとってはおにぎりと呼ぶのがぴったりくるので、『東京と神奈川では「おにぎり」と呼んでいる』という通りだろう。
「Orbium -そらのたま」に載っている解釈が面白い。古事記に出てくる天の高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、地の神産巣日神(かみむすびのかみ)と名付けられた 神の力を授かるために、古代人は米を山型(つまり神の形)をかたどって食べて、これを「むすび(産巣日)」と呼んだという。
つまり「おむすび」は三角形でなくてはならないことになる。今の呼び名は「おむすび」でも「おにぎり」でも良いのだが、私が特記したいのはコンビニのおにぎりの中でも、海苔を巻く三角形のおにぎりである。
おにぎりは昔からのりで巻くのが主流だった。遠足のお弁当に入った海苔で巻いたおにぎりの海苔は、包みのタケノコの皮を開くと、表面はべちゃべちゃになっていて、手にくっついてしまう。海苔の味がするにしても、いつも情けない思いだった。
それが今はどうだ。ポリエステルの外装の上の突起をすっと引くと外装が二つに割れ、これを両側に引くと真新しい海苔がおにぎりを包むという仕掛けがすばら しい。食べる直前に海苔はおにぎりを包んで、ぱりぱりの海苔なのだ。手触りが良い。香りがよい。昔は一度もこうやって食べたことのない海苔を巻いたおにぎりの感触だ。
それがわずか百円強で手に入るのだ。これはコンビニの偉大な発明である。ノーベル賞よりも遙かに身近な、生活の質の向上に貢献している。大げさかもしれないけれど、国民栄誉賞を与えても良いくらいの発明だと思う。
中身は鮭でも、たらこでも、明太子でも、マヨチキンでも何でも良い。このぱりっとした海苔の手触りと舌触りは、中身が何でも至福の時をもたらしてくれる。至福の時を味わいたくてゆっくりと食べたいけれど、ゆっくりしていると手に触る海苔が湿ってくる。急がなくっちゃ。
これも日本が湿度が高いからである。湿度の高さは日本にいると嘆きの種だけれど、私たち生き物は海から上がってきた生物なので、乾燥に弱い。中国内陸部は乾燥しているので、洗濯物は一晩で乾くありがたさはあるものの、冬は乾燥しすぎて皮膚がかゆくて、かゆくてたまらない。
そうだ。思いついた。成田空港で手続きをする前にコンビニの海苔おにぎりを買って、瀋陽に持って行って食べたらどうだろう。最後の一口までぱりぱりの海苔の感触が味わえるかもしれない。これは、すごく贅沢なご馳走だと言っていい。もうすぐ瀋陽に戻るのが楽しみである。