瀋陽薬科大学
山形 達也
「XianShen de Shen(先生の生)」の読み方って日本語では音と訓があって、それぞれ沢山あるけれど、幾つくらい言える?」
「一生、生活、生きる、生まれる、生える、生まじめ、生あし。。。」と、たちまち次々と出てくる。「生あし」なんて言葉が出るのが現代的だ。私たちの年代だと日常聞き慣れていない言葉である。「ナマあし」と聞くと「生々しくて、生つば」がでてしまう。
そういえば日本のスーパーの「さかな、さかな、さかなを食べーると」という歌の流れているコーナーに置いてある「生ガキ」に「生食」という札が付いている。いまだに、「なましょく」、「いきじき」、「せいしょく」なのか「なまぐい」なのか、あるいは「いきぐい」であるのか判断が付かない。こういうのには日本語らしく「生で食べられます」と書いて欲しいものだ。
さて、「生」の読み方が学生の口から途切れずに生み出されてきて、それが一寸止まったところで「まだ、【ふ】という読み方もあるけれど」といった途端に「芝生」という返事が返ってきた。
これが日本人の学生なら驚かないけれど、相手は中国の、瀋陽の日本語弁論大会の区分でいうと、日本語「非専攻」の大学生II部に分類される学生である。
場所は瀋陽薬科大学の私たちの研究室で、彼は日語班の出身なので学部の3年生の時一年間を掛けて日本語を勉強し、その後専門の薬学を二年間日本語で勉強して、研究室にはいってきた修士の学生たちである。
私たちが2003年の秋にこの大学で研究室を持ったときに彼等が入ってきたわけで、日本語がこれだけ自由な学生に囲まれていると、私たちは中国語を話す必要が全くない。使う必要も機会もないから中国語がちっとも話せない。話せないから、未だにどこかに出かけるときには大いに困る。
タクシーに乗るのは目的地がはっきりしているから、行き先の名前と住所を大きく漢字で書いて置いてその紙を見せればよいのだけれど、帰りが困る。「そこ、そこ、そこよ。そこの十字路の信号を右に曲がって、直ぐにUターンして戻って左のあの16階の建物の前につけて」なんてとても言えない。
何時だったかは、言おうとしているうちに、何しろ瀋陽のタクシーだから、そのまま1 ブロック走ってしまい、「請停、請停」と叫んで止めて貰ってから、とぼとぼと500mを歩いて戻ったこともある。このときは、「請停」という言葉が通じたのではなく、「止めてくれ」と叫ぶ私の迫力が通じたに違いない。なぜなら「請進、請進」(ひとが訪ねてきたときに、【どうぞお入りになって】と呼びかける言葉である)と、運転手に向かって叫んでいたのだから。
この手の間違いは枚挙にいとまがない。学生がオフィスに訪ねてきたときに、話の途中で習い覚えた中国語を使ってみようと思い、意気揚々と「請問、請問」(ちょっとお尋ねしますが)を口にした。ところがなんと、ソファの上で女子学生二人は笑い転げている。
これ以上は中国語が話せない。仕方ない。日本語に切り替えて「どうしたの?」といっても、笑いが収めきれず直ぐには返事が返ってこない。やっと分かったのは、私の発音ではアクセントの位置が悪く「親吻(つまりkiss me!)」と私は叫んでいたのだった。
学生が一人だったら、本気にしたかも。二人いて良かった、ほんとに。
中国語の発音に声調があるのはよく知られている。アクセントの位置のことである。この声調のおかげで、私たち日本人にとって中国語は何とも覚えるのに難しい言語となっている。
瀋陽に赴任することは1年前から分かっていたので、私と妻の貞子はカルチャー教室の一つ「易しい中国語入門」講座を毎週土曜日1時間ずつ受けていた。教室で一緒になった仲間は、中国に進出している企業に勤めていて自分も出かけるからとか、自分は中国で商機を掴むつもりなので勉強したいとか、中国が大好きだからとか、だれにも強烈な目的意識があり、日本のふつうの大学のだらけたクラスの印象とは全く違う。
中には韓国と宝塚大好きという可憐な女子高生もいて、私は直ちに彼女のファンクラブを作って会長に納まってしまったのだが、その話は今ここには関係ない。
中国語の小陳老師は上海生まれで、結婚して日本に来てからもう10年になるという大柄の女性で、じつに達者な日本語で難しい中国語の初歩を親切、かつ熱心に教えてくれた。私たちふたりも一緒の仲間同様にしっかりした目的意識を持っていたけれど、新しい言葉をこの歳で覚えるのは大変つらいことだった。
「麒麟も老いては駑馬に如かず」と、ほざくのが精一杯だった。そう、今は駑馬になって駄目でも、せめて昔は麒麟だったと言って、ひそかに自分を慰めたいのさ。
日本人は名前に漢字を使う。日本人がどういう発音の名前であるかは問題外で、中国人はこれを漢語の発音で読む。これを知ったときにはびっくり仰天したが、周恩来も魯迅も中国人の名前を私たちは日本語読みで読んでいるのだから、考えてみれば同罪というか、おあいこである。
貞子と一緒にレッスンを受けていたので二人を区別するために、私は先生から「達也先生」と呼ばれていた。もちろん漢語の発音である。
ちなみに「先生」は英語のMr.にあたり、何も私を尊敬して言っているわけではない。彼女のことは、教室の先生なので、小陳「老師」と呼ぶ。陳は彼女の結婚前の固有の苗字である。小は「可愛い」と言う意味なので、大人になっても「陳老師」と呼ばれるより、「小陳老師」と呼ばれるのを好む。もちろん、彼女の夫が黄さんだからといって、「黄老師」と呼ぶことは決してない。
つまり私は自分の名前の漢語の発音を1年も聞いてしっかりと覚えていたわけだ。だから、瀋陽に来て自分のことを漢語の発音で「わたしは山形達也です」というのは何でもないことだった。ところが、である。ところがある会合で初めて、自信を持って漢語で自己紹介をしたはずなのに、満場がどよめいて爆笑したのだ。
えっ?どうしたの?
原因は声調だった。「達也」はダーイエで、最初のダーは二声でイエは三声にして発音すると「達也」になるが、最初のダーが四声となってダーイエとなると「大爺」になるのだった。これは文字通り「じいさん」という意味である。わたしがあまりにもぴったりに間違えたことで、皆が大いに喜んだのはいうまでもない。
この事件以後、わたしは研究室の中でも、わたしの生化学の講義を受けている学生たちからも「山大爺」と呼ばれている。
中国語の恩師であるあの小陳老師が、わたしを「達也先生」と呼んでいたのか、あるいはいたずらで(いや、実は本気かも)「じじい先生」と呼んでいたのか、一体どちらだったのか、考え出すと分からなくなってしまう。
瀋陽薬科大学
山形 達也
あなた達日本人は、中国に来てどうして私たちをパンダみたいに眺めて、ああだ、こうだ言っているのですか。お互い同じ人間じゃないですか。すること為すこと、大して違わないでしょ?
えっ、 『違う』ですって?『することが違うから面白いんです』って?違っているから、あれこれ観察してエッセイや本に書きまくり、「直ぐ隣の国ではこんなに人のやることが違う。違いは何に起因するか?」なんて本を出しているのですか?それが『比較文化人類学なんです』って?
冗談じゃないですよ。やめて下さいよ、そんなこと。私たちのやることがそんなに珍しいのですか。私たち、当たり前の生き方をしているに過ぎないのですよ。
『だから、それがどうして起こったのかが学問の対象と。。。』
それが、学問になるんですか? 単なる興味じゃないですか? あなたの隣のうちに真昼間ハンサムな男が訊ねて来たままシンとしていたら、「あら、お隣の家庭の平和が心配」とか何とか言いながら、一所懸命のぞき込んで、友達に尾ひれを付けて言いふらすんでしょ。それと同じ、下司根性丸出しで、私たちを見ている のですよ、口では尤もらしいことを言いながらね。
『だって、道につばを吐いたり、痰を吐いたり、挙げ句には器用に手鼻をかむけど、あんなこと日本では考えられないわ。大体不潔じゃない?』
そうかも知れないませんね。不潔と思ったことはないですけどね。中街の通りみたいに法律で禁止されれば、しないで済ませられるのですよ。だけど、ここは私たちの国の、私たちの道路でしょ。それをどう使ったって、よその国の人が文句言う筋合いのものじゃないでしょ?
大体ここは埃の多いところでね。埃が多けりゃどうしても痰が出ますよね。それを外にはき出すのはごく自然なことじゃないですか? それを我慢しろって言うのですか?
あなただったら、そういうときどうしますか?えっ、『飲み込む』?汚いねえ。痰は吸った空気の中の汚いものを気管の粘液にくっ付けて排泄しているんですよ。ご存じでしょう?どんな汚いものが含まれているか分かったもんじゃないのに、飲み込んで身体の中に入れるのですか?その方がよほど不潔じゃないですか。
あなたは『ティッシュペーパーに痰を取る』って?なるほど、そりゃ結構。だけどこの埃の中でそのたびにティッシュを使っていたら、どれだけ紙が要るか分かり ませんよ。私たちは手鼻をかむから汚いって言うけれど、ティッシュを使えば金がかかるし、第一、お偉いさんが言っていたけれど、私たち中国の国民全部が日 本並みにティッシュを使ったら、世界中の木が裸になるといいますよね。それを知ったうえで、批判しているのですか?
なんですって?『理由は分かった。』そうですか。『だけど、道がつばや痰だらけで汚い』って?『乾いたら埃になって、また鼻から入って来て、汚いからやめなさい』だって?
不衛生だって言うのですね。そうかも知れませんね。ですけどね。糞便を船に積んで太平洋の沖合に捨てている国が良く言いますね。私じゃありませんよ、船に乗ったことはないですからね。だけど私の遠い親戚が船に乗ったときにこれに出合ったことがあると言っていました。太平洋の黒い潮に乗って黄色の帯がずっと 続いているってことですよ。あなたたちは、自分の出したものをそのまま海に垂れ流しているってことですよ。これが汚くないって言うのですか? 道につばを吐くから非衛生的だって言うけれど、あなた達は他国の人の環境まで汚しているのですよ。中国では糞便の海洋投棄なんてひどいことはやっていませんからね。 日本のやっていることは、五十歩百歩どころか、もっと悪いじゃありませんか。
目くそ、鼻くそを笑うって、こういうことを言うんじゃないでしょうかね?人を批判するときは、自分が何をしているかも振り返って見て下さいよ。
なんですって?『中国ではバスに乗るとき並ばない』?『汽車の切符を買うとき並ばないで、我がちに窓口に押し寄せる』?『公共トイレには仕切りやドアがないから、恥ずかしくって中国ではトイレに行けない』?
ははア、敵わないと見て別の搦め手から来たのですね。いいでしょう、トイレの個室にドアがないかも知れないけれど、元々ないところで育ったのだから、私たちはそんなことを気にしていないですよ。
大体、トイレに入るのは排便のためでしょう?みんな誰でも同じ格好、することも同じですよ。どうして恥ずかしいことがあるのですか。男と女は完全に別々なのですから、構わないじゃありませんか。
トイレで金勘定をしたい? トイレで着替えて夜の遊びに行く?トイレは元々そんなことのために作られているんじゃありませんよ。そのためにドアを付けろというのは、無理ってもんですね。大体、境がないから、紙の足りないときには人から簡単に借りられると言う利点だってありますよ。日本じゃどうするのですか? 紙がないときはほんとに困るでしょ?
それに、仕切がないから用を足しながら隣とおしゃべりが出来ますよ。あなたたちはトイレで沈思黙考すると言っているけれど、隣りとカミさんの悪口を言いながらぐっと腹に力を入れてポッと出たときは、この上ない快感ですよ。こういう楽しみを知らないで、何で文句を垂れるのですか?
さらに、私たちが窓口で並ばないって非難していますね。確かに私たちは並んで順番を待つなんてことはしませんね。早い者勝ちです。でも、用のある人が殺到すれば、要求度の高い人、意志の強い人が自然に勝つに決まっていますよね。要求度の高い方から順に満たされるということは、自然の理に適っているでしょう? けれど、『体の弱い人はどうする』って?
確かにそれは問題ですね。私たちも何時までも若いわけではないってことに気付いてきたし、4年後には北京でオリンピックも開かれるから、この頃は窓口で並ぶ習慣もできて来ました。ま、悪いことではないですね。しかし、人と競り合って逞しく生きて来た中国人の伝統が、こういうところで傷つきそうで心配です。ね、この間のアテネオリンピックでは中国はアメリカに次いで二番目に金メダルの数が多かったでしょ。「弱者をいたわり、整然と並ぼう」なんて言うのは、私たちのバイタリティーを削いで、次のオリンピックで中国に金メダルを一番多く取らせないための、どこかの国の陰謀に違いないですよ。
それから、何が問題ですか?『どうして誰もが平気で道路にゴミを捨てるのか』って?『アパートだって、自分のうちの中のゴミを廊下や階段にバンバン捨てていて、これでオリンピックが出来るのか』という質問ですか。質問じゃなくて、これは詰問ですね。
でもね、中国で今は労働力が余っているのですよ。朝早く道路を見たことがありますか? 夏だと朝5時から黄色と赤の目立つジャケットを着た人が道に出て道を綺麗にしているでしょ?市が彼らを雇って道を綺麗にしているのですよ。アパートだって管理人がいるでしょ?道が綺麗になって彼らの仕事がなくなったら、彼らにどうやって生きていけというんですか?
それから何ですか?えっ、もう質問はないのですか?それならこっちからも言わせて貰いましょ。私たちから見ると、日本人にも結構おかしなことがあるんですよ。
日本には温泉があちこちに沢山あって、男女が裸で一緒に入る混浴があるのですって?
あなた達日本人は、このおかしな習慣を何とも思っていないのでしょうか?恥ずかしくないのですか?『風呂にはいるときゃ、みな裸だから恥ずかしくない』って?そんなこと言ってるんじゃないですよ。男女が一緒に裸になっているってことを言っているんですよ。中国では男女が混浴するなんて、とんでもない。この国じゃ、そんな非道徳的なことは全く考えられませんね。
いいですか。中国生まれの私たちには、混浴とは非常識であり得ない存在なのですよ。あなたたちには当たり前のことが、こっちには驚天動地の驚きなのですね。これで少しは分かるでしょう?中国で、あなたたちが驚き呆れて皆に触れ回っていることは、ただ自分たちの尺度から見ての話だってことが。
立場を変えれば、あなたたちも珍しいパンダと同じことですよ。そこまで分かったうえで、あれこれ私たちのことを言っているのですか?
どうです?一緒にそこの飯店で飲みながら、もう一寸お話ししませんか。お互いあら探しをするんじゃなくて、互いの違いを良く理解しましょうよ。
おっとっと。誘ったのは私なんですから、私に勘定は払わせて下さい。そんな、割り勘だなんて、私が払えないみたいなこと言って、私の面子を潰しちゃいけませんよ。だめだめ、断じて私が払います。
それでは、再見。
孫悟空になりたくないのに 日本語クラブ19号 (2005年4月号)
瀋陽薬科大学
山形 達也
「前の定例会で宿題を出してしていましたよね。来年の3月に発行することになる次の日本語クラブ19号のテーマを、今日までに考えてくるという宿題にしていました。でも、今度のテーマを『瀋陽に暮らして』ということにしましょう。前には宿題ということにしていましたけれど、ごめんなさい、編集委員でこの間集まったときに勝手に決めてしまいました。」
ここは、瀋陽日本人教師の会の12月の定例会。瀋陽市の中心より一寸北に寄ったところに日本語資料室というのが日本のNGOの基金でビルの3階に作られていて,教師の会はここを拠点に活動を続けている。いま、瀋陽で日本語を教えている日本人の教師が30人近く集まったところで話をしているのは、年3回発行というこの会のジャーナル・日本語クラブの編集長を務める中道恵津先生である。
「皆さん、瀋陽に来られて、いろいろのものを新鮮な気持ちで見て、様々な体験をされて、感じて来られたことが沢山あると思います。それをそれぞれが書いて、今度の日本語クラブにしましょう。どうでしょう。これでいいでしょうか。」
「主題を『瀋陽に暮らして』と決めたあと先週皆さんにメイルを出しましたら、山形先生からは、『同じ文化背景を持ち、日本人の大半が中流という同質の暮らしをしてきた私たちは、中国に来て同じようなことに驚き、同じことに感動するでしょう。同じことを書いて、似たようなものが並んでは面白くないのではないですか。』という反対意見が寄せられました。それでも、人それぞれ見る視点が違っていますから、独自のものが書けますわね。」とばっさり一刀両断。
彼女の言葉はメリハリがあって歯切れがよい。説得力がある。もう一度はとても反対できない。だけど、私に言わせると、皆同じテーマで書きましょうというのは、いつも生徒を相手にしている日本語教師の発想なのだ。書く人の自由な発想にまかせるのではなく、すでに方向が決められた中での発想である。これは統一テーマの下で生徒に作文を競わせて、教師が採点するのに都合がよい。もちろん、私たちが書いたものを誰も採点するわけではないけれど、読む方は見比べるじゃないか。発想が安易だよう。みんなと同じことを書きたくないよう。いやだ、いやだ、孫悟空みたいに恵津先生の掌の上を飛んでいるなんて厭だよ。
ぼやいてみたけれど、その場で反対意見を再び述べなかった以上、恵津先生に従わなくてはならない。大体、これは日本語教師の発想だなんて言って反対したら、この会の先生たち全部を敵に廻してしまうじゃないか。仕方ない、おとなしく、瀋陽に暮らしてどうだったのかを考えよう。それでは、もう1年半になろうとする瀋陽の暮らしを思い返してみよう。
未だに道を歩いていて、すれ違う人がガーッとたんを吐くためにのどを鳴らす音を耳にする度に、悪寒が背筋をはい登る惨めな自分がいる。一方歩道の端にはござを広げて手袋を並べているおばさんがいる。その隣には、カード売りますという看板を地べたに置いて、男が鞄をお腹の前に掛けて、寒空の中に一日中突っ立っている。彼らを見て、中国人は文字通り地面を足で踏みしめて生きているたくましい民衆なのだと感心する自分がいる。
さて、どっちの立場に立って日本語クラブに書くという宿題を果たしたらよいだろう。どちらも、いつも自分の「瀋陽だより」というホームページで書いている。いっそのこと、全く独自路線を進もうかと考えていると、「先生、乾杯の音頭をとって」と向かいに座っている学生の麦都と言うあだ名の王麗さんに催促されて、はっと我に返ったのだった。ちなみに、麦都は人気映画の主人公である豚のなまえで、王例は豚めづる姫君なのだ。
今日は2004年が過ぎるのを回顧し、2005年が始まるのを祝って集まった研究室のパーティだった。大学の近くのレストランの一室を借りて私たちの研究室のメンバーが集まっている。例によって私たちは、学生の恋人も一緒に呼ぶのを習慣にしているので、全員で8人の研究室なのに今は11人がテーブルを囲んでいる。
挨拶のときに思いついたことがある。2004年の日本は一字でこの年を表すと「災」が選ばれたという。沢山の台風、地震、少女誘拐殺人と厭なニュースが続いた日本でこの字が選ばれたのは仕方ないにしても、一方で次の年に懸ける期待も大きいだろう。今、ここにいる学生たちに、去る年を漢字で象徴させると、何になるだろう?そして次の来る年には何を選ぶだろう?
このように挨拶をして、まず自分の分として2004年は『萌』を書いた。これは私の気持ちとしては文字通りゼロから始まった研究室で、この1年間で妻と二人で毎日土を耕し、肥料を入れて、播いた種に水を注いで大事に育てて、やっと芽生えが出たかなという思いを表している。次の年の2005年は『華』である。もちろん、大きく育って大輪の花を咲かせて欲しいという希望である。研究で大きな成果を挙げて、研究を遂行した本人も注目の的となり、研究室にも研究費が沢山来るような華であって欲しい。
斜め向かいに座っている胡丹くんは今修士2年の学生で、1年目の恋の記念日を迎えたばかりの初々しい恋人も一緒にパーティに参加している。胡丹くんは今年は『転行』と書いた。えっ?と聞くと、元来彼は別の天然物有機化学の研究室に進学を決めていたのを、1年半前に私たちがここに来たとき、私たちの研究室に「移ってきたからです」という説明である。その研究室は6階にあり私たちは5階なので、階を移ったとも読み取ることが出来る。
さらに考えてみると、胡丹くんの彼女は4階の研究室にいる。それで、「あっ、そうか。彼女が別の階にいるから、毎日階段を行ったり来たりの1年だったから『転行』なの?」ということになってしまった。それとも、「花から花へ、チョウチョウが飛び移るようになってみたいという希望かなあ?」「いえ、」と隣に彼女を置いて、胡丹くんはニコニコしながらいう。「先生、それはまだですよ。まだ1年しか経っていないのですからね。この字は今年のことでしょ?」
「来年は『進歩』にします」という。胡丹くんと彼女との関係は安定しているから、これはもちろん自分の研究を指している違いない。胡丹くんの研究は今の最先端の領域であり、しかもそれを特別な機器も持たない貧乏所帯の私たちが、創意と工夫で挑戦しようというものである。ホント、進歩して欲しい。こちらも神でも仏でも念じる思いである。
胡丹くんの彼女は『充実』が今年の字だという。うーん、なるほど。胡丹くんという素敵な恋人も見つけたし、最高に充実した年だったに違いない。1年前に胡丹くんから恋人が出来ましたと言って可愛い彼女を紹介されたときには、「胡丹くんは目が高いね」と私たちは口々に言ったけれど、「彼女の目が高い」とは、貞子と私の二人とも言わなかった。しかし胡丹くんを見ていると、私たちには見る目がなかったことを思い知らされる一年だった。
彼が研究室に来た頃は英語にまだ慣れていなかったし、英語の文献の読みかたも知らなかった。研究するということは世界中の関連した最新の情報を読んで自分の知識とした上で、新しい領域を切り開いていくものだということが分かってきてからは、彼は自ら文献を探して、端から読んでどんどん自分の学問の幅を広げているのである。胡丹くんは論文を読んで、よく考えて、私たちに議論を挑む。中国の千年を超える歴史のある科挙によって未だに毒されている暗記万能の学問の世界の中で、彼の考える能力はひときわ光っている。このごろでは面白い論文に行き当たると私たちに教えてくれて、議論に引きずり込みさえするようにもなったのだ。この胡丹くんを選んだ彼女は、実に目が高い。その彼女の来年の字は「更充実」だった。彼女も研究で挙げた成果の収穫をねらっているのだろう。
胡丹くんとおなじく修士2年に、中国の西の彼方の新疆から来た麦都さんがいる。彼女は幼い時から祖父母に育てられたので老人の扱いに慣れていて、私たちに対する心遣いが格段によい。私たちの中国語の先生は胡丹くんだけれど、日常的に愛の鞭をふるって指導をしてくれるのもこの麦都さんである。
その麦都さんの選んだ今年の字は『幸福』だった。なるほど、なるほど。よく分かる。彼女の恋人の馬くんは、彼女と大学の同級生で、気は優しくて力持ちを絵に描いたような逞しい大男で、隣の研究室にいる。二人は始終行ったり来たりしているから、麦都さんがいつも馬さんに甘えているのが分かる。自由奔放に振る舞う麦都さんを馬くんが優しく受け止めているという感じがする。彼に甘えることのできる麦都さんは毎日が幸福に違いない、と納得する。ところがその馬くんがなんと『圧力』と書いたので、皆はどっと囃し立てた。甘やかしている彼女が実は馬くんには重荷なんだろうか?
来年の字として馬さんは『昇』を選び、麦都さんは『幸福無辺(無限)』を書いた。甘え放しで重たい麦都さんを抱えて、馬くんは高みに登る苦労をしようというのだろうか。しかし、二人に字解きをして貰うと、麦都さんは今研究が気持ちよく進んでいて、毎日が楽しくて幸せなのだという。じっさい、麦都さんは私たちの研究室の中で実験が特に上手である。次々と手際よく実験を進めて、信頼できるデータを毎日出してくれる。次の年はこの研究をもっと、もっと進めたいと願っているとのことだった。
隣の研究室にいる馬くんは、今はいつも外からの圧力を感じて研究をしているけれど、早く自分の力で学問の高みに昇りたいという願望だった。恋の記念日4周年を過ぎたこの二人が、手を取り合って研究の高みに昇っていくことを少しでも応援しよう。
この秋に博士課程の学生として入ってきた新人の王くんは『好』という字を選んだ。王くんに聞くと、研究室で論文を読んで紹介することなど、ここに来るまで一度も経験したことがなかったという。私たちの所に来て初めて毎週土曜日の新着論文の勉強会に出て、3週間に1回は自分の番が回ってきて、英語で論文を紹介するという経験をして、とっても好かったといって喜んでいる。なるほど、私たちはここで好いことをしているんだ。王くんの来年の字は『更好』である。
やっと、今日の会に初めて連れてきた王くんの彼女は背の高い佳人で、選んだ今年の字が『高興(面白い)』で、来年が『好好学習』だった。『好好学習』は『天天向上・好好学習』となる対句で、毛主席の言葉である。中国の人たちはこれを机の前に張って小学生のときから猛勉強をしてきたという。 まだ、このほかにも鄭くんの『長大了』と『中』、潭くんの『芽』と『出』、敢さんの『探索』と『収穫』、貞子の『健』と『楽』、それぞれに皆の思いの込められた字が選ばれている。
と書いていると、「それご覧なさい、ちゃんと『瀋陽に暮らして』というテーマで大丈夫書けるって言ったでしょ。」という中恵津先生の声が聞こえて来る。「そりゃ、書き連ねるだけなら、いくらだって書けるけれど。でも、面白くもないし。」と返事をすると、恵津先生は「いえいえ、そんなことありませんわよ。先生にしかできない経験がとても面白く書けていますよ。」と優しくおっしゃる。でもね、顔をくしゃくしゃにして一寸上にそらし気味の視線のときは、実は彼女の本心の言葉ではないのだ。
さあ、恵津先生に本当はなんて言われるだろうか。大いに気になる。やっぱり、作文を書いたあと先生の採点を待っている生徒の心境である。ぼやいた挙げ句に一人勝手に書くぞと飛びだしたけれど、結局のところ、彼女の掌の上を飛んでいただけの孫悟空に終わってしまったらしい。
瀋陽薬科大学
山形 達也
1.山大爺、ひょんなことから日本人教師の会に入るのこと
中国の東北地方はかつて日本が占拠して満州と名付けた植民地を作ったところで、日本の国策に沿ってその地に入植していた人たちが、日本の敗戦の後で出合った悲惨な運命はよく知られている。私たちが今暮らしている瀋陽は、当時の首都ではなかったもののその頃から経済・物流の中心地だった。瀋陽の歴史を考えるとこの地域の人々が日本と日本人に対して良い感情を持っているはずがないと思えるけれど、瀋陽に暮らして一年以上経っても、まだ嫌な思いを一度もしたことがない。
それどころか驚くのはこの東北地方では日本語熱が盛んなのだ。一般の大学に専門の日本語学科が設けられているのは当然としても、この薬科大学には4年間で卒業できるところを5年と、1年間学業を延ばして日本語を習得し、その上で日本語で専門を学ぶエリートコースもある。市内の高校や中学でも日本語を勉強するコースがある。そのために本場の日本語を話す日本人が日本語教師として必要とされていて、この瀋陽にも日本から結構な人数が来ているということだった。
私たちが2003年夏に瀋陽に来たとき、瀋陽薬科大学で日本語を教えていた二人の日本人教師のうちのひとりである坂本先生はちょうど1年の契約が終わって帰国する直前だったが、瀋陽の暮らしを私たちにいろいろと親切に伝授して下さった。バスの乗り方、近くの良いスーパーマーケット、日本の食品、あるいは日本のも のに近い食品を売っているところ、青空市場でのものの買い方など、沢山を短い時間で教えて頂いた。
坂本先生はさらに、瀋陽とその近くで日本語を教えている日本人教師の集まりがあって、その年度の最後の定例会が近々あるという。瀋陽に長く暮らす先生もいらっしゃるから紹介しましょうと言われて、教師の集まりである瀋陽日本人教師の会に初めて連れられて顔を出したのが2003年の6月の終わりだった。
悲しいくらい薄汚れた階段を3階まで上って入った部屋はぐるりと本棚に囲まれ、そこに入りきらない本が周囲に乱雑に積み上げてあった。中央には大きな机があって、その周りにはすでに二十人くらいの会員が集まっていた。大きく分けると若くて元気な、殆ど女性の先生たちと、明らかに私たちと同年代と見える先生たち の二つの年齢層から出来ていることが分かった。会の代表だとして紹介された石井康男先生は綺麗な白髪の温顔の先生で、「ここに長くいると言うだけで、何も知っているわけではないけれど、何か役に立つかも知れないから、そのときは何でも声を掛けて下さい」と優しい眼でおっしゃった。そのあとの会の進行は神妙に聞いていただけで、しかも日本語教育のことがもっぱら話し合われていたので、日本語の教師ではない私たちには無縁だなと思って、実は会の終わるのを心待ちに していたのだった。
夏休みが終わってその年の9月に、この教師の会のその年度の最初の会が開かれた。私たちの研究室がまだ出来上がっていないためもあって、なんと、参加しないつもりだったのに、出かけてしまったのだ。今度は坂本先生という頼りになるガイドもなしに。これが運の尽きか、運の付きかは分からないが、私たちの運命を変えてしまうことになったのは事実である。
その年 の初めての会だったので、集まった人たちのうち3分の1は私たちを含めて新人だった。初めての会員を迎えるので最初に石井先生からこの会の趣旨、日本語資料室の沿革の紹介があった。それを聞いて日本を離れた遠隔の地でこの会を続けていくために多くの先人の努力があったのだと認識した上に、この会は会員誰も が何らかの役を受け持っていると言われてさわやかな感動を覚えてしまった。というのは、これまでにも様々の集まりに参加してきたし、私自身でも集まりを幾つも企画し運営してきたけれど、会員一人一人が何らかの役目を持つというのは初めての経験だったからである。
殆ど会に入る必要もないという傍観者の立場で来たはずなのに、この規約に感動してしまって、それなら何かの役を受け持ってこの会をお手伝いしようと思ってしまった。何しろ、石井先生の最初の説明によれば、この会も日本語資料室もボランティアのかすかな善意の糸でいままで細々と支えられてきたのだし、自分も何か手伝わなきゃいけないと言う気になってしまったのだ。
いくつかの役目のうち、日本語の教師でなくても出来そうなのはホームページだった。昔自分の研究室のホームページを作り掛けで挫折したことがあるし、一方今度は薬科大学の自分の新しい研究室のホームページを作る気でいたから、ここで練習できれば一石二鳥だと思った。
妻の貞子も日本語教師とは一番関係のなさそうな役を探して、クリスマス係を志願した。ところが、その時の司会の中道恵津先生に「クリスマス係は12月半ばにやることが終わりますが、それまでは日本人会と緊密な連絡を持ちますし、先方は会社の方たちですし、若いそれなりの方を求めているみたいです」と即座に断られてしまった。貞子はすっかり傷ついてこの会に興味を失い、「何もやることがないから私はこの会に出るのは止めるわ」と彼女は私にささやく。
けれども私はこの会のやり方を面白いと思って会に参加する気になっていたので、私が全面的に助けるからという約束で日本語クラブの編集係をやってみないかと妻を説得した。それで日本語クラブの編集係は、中道夫妻と貞子、およびそのお手伝いの私という構成となった。
日本語クラブの編集は直ぐに始まったけれど、コンピュータを使い慣れているのは私だけで、編集の具体的な作業はすべて私がやることになった。恵津先生のにこやか な「今度の日本語クラブは新人も旧人も含めて全員の自己紹介にしましょう。どなたもこのくらいはちゃんと書いて下さいますわね」と言う元気な発言を受け て、原稿が電子ファイルの形で続々と私の元に集まってきた。この作業はMacintoshを使い始めて十数年の私には、そのための時間が取られる以外何も問題はなかった。
しかし、ホームページとなるとそれまでの使い慣れたMacintosh で作るわけにはいかず、なにかのためにと思って持ってきたWindows PCが必要だった。ところがWindowsにはずぶの素人である。ホームぺージの作成ソフトに慣れるよりも、この使いにくいPCに慣れるのに大いに時間が 掛かった。ホームページ係の同僚の河野美紀子先生も、この作業は得意ではなく、二人で手探りをしているうちに半年近く経ってしまった。
年度の半ばの2月には河野美紀子先生は帰国されてしまい、私一人が瀋陽に残されてしまった。半年経ってもまだ全く更新されていないホームページと一緒にである。 やむなく馬力を掛けてホームページをいじり回し、やっと3月になって河野先生と私の手がけた新しいホームページが初めて日の目を見たのであった。
2.山大爺、日本人教師の会の中道先生夫妻と仲良くなるのこと
一方私がお手伝いしていた日本語クラブは中道恵津先生という名編集長の下で、順調に1年の間に16、17、18号を出すことが出来た。その間に一緒に出会って相談したりするほか、メイルのやりとりも頻繁に行うので、中道先生夫妻とうち解けた間柄となっていくのは自然の成り行きだった。
おまけ に教師会の集まりは、中道夫妻の人柄に触れる良い機会だった。中道秀毅先生は芥川龍之介に私淑する文学青年と言って良い。お歳は私たちよりちょっと上だか ら青年も何もないのだが、気持ちは無垢な文学青年のままといって良い。率直で開けっぴろげで、その無邪気な気風は周囲を和ませずにはおかない。飄々としな がらもすべてに自分の感性と発想を大事にしてごく自然に自分の考えを口にされる。
瀋陽には瀋陽日本人会という団体がある。会員数300 名くらいの会である。教師の人たちは教師会会員という特別の資格を貰って会費半額で参加しているけれど、日本の水準で給料を貰い、企業活動のための資金も潤沢な企業人と比べて、現地の中国人と同じ給料を貰って働く我々とは経済力に天と地ほどの差がある。会社人間はテニス、ボーリング、ゴルフ大会、会食など を催して親善を積み重ねられるけれど、教師の給料ではとても参加出来ない相談である。中国で暮らす教師は日本人社会に、企業人と対等の立場で入っていけな いのだ。
この日本人会の幾つかの催し物のうちで、年末のクリスマス会は瀋陽日本語弁論大会と並んで最大のイベントとなっている。瀋陽日本人会の催し物のほとんどは教師には無縁なので、それだけにせめて年一回は一緒に集まろうと言うこともあって、瀋陽日本人会は教師の会も誘ってクリスマス会に力を入れている。クリスマス会 の実行委員会には教師の会からも数名が参加している。
教師会 の定例会のあるとき、実行委員会のメンバーから年末のクリスマス会への要望を問われて、中道秀毅先生は「クリスマス会で座る所ね。あれは私達はあちこちのテーブルにバラバラに座らされるでしょ。だから、テーブルに座っても周りは会社の人ばかりでね。会社の人たちは互いに知っているけれど、こっちは誰一人知らないから除けもんになっちゃって、ちっとも面白くないですよ。教師の会の会員でテーブルを囲むことは出来ないでしょうかね。今度は是非教師で纏まって坐れるようにして貰いましょうよ。きっと楽しいですよ。」とおっしゃる。
なるほど、なるほど、その通りだったと思う。昨年私達が割り当てられた席は貞子と二人のほかはすべて初対面という厳しさだった。どうも私を含めて日本人は、初対面同士がテーブルを囲んだときに全員の口がほぐれるような話題を出すのが苦手である。何とかしなくちゃと思いつつも、初対面の人に用事もなく話しかける勇気がなくて、ばつの悪い時間だけが流れる。おまけに、皆が同じように白紙 ならともかく、ほかの人たちは互いに知って話が動いているのに、こちらはその話に入っていけない。やむまく隣の会社の人と話そうとしたけれど、会話はぼそぼそとして全く弾まなかった。
教師だけでテーブルを占領したら、もう一年も経った仲間だから話は通じるし、楽しいに違いない。でも、教師だけで集まったら、会社人の中に孤独に放り込まれた教師の抱く悩みは救えるけれど、今度は別の問題が生じてしまうだろう。
でも秀毅先生はまず率直に問題提起をする無邪気さを持った先生だ。「福引きの景品だってね。」と話は続く。「去年は一つ当たるとその人がもっと当たって賞品をあらかた持って行ってしまって、こっちには何一つ来なくて詰まらなかったんですよ。こっちだってクリスマス会の時は一人前に会費を出しているのにね。景品は どんどんそっちに行ってしまってね。」ここで皆がどっと笑い転げても、隣で恵津先生が「ちょっと、あなた、もういいじゃない」と袖を引っ張っても、秀毅先生は動じることがない。
「いいじゃない。言わせてよ」と話を続ける。「だけど、折角クリスマス会に行ってカレンダーの一つだって貰えれば、誰だって楽しみなんだから。全員に何かの形で当たるようにして欲しいですよね。ね、そうでしょ?」クリスマス会担当の係の先生は「はい、そうですね。これを実行委員会に伝えておきますね。」と、ニコニコして受けた。
この発言は実行委員会に伝えられて効果があったらしく、その年の会は、福引きで上位十数名には豪華賞品も出たけれど、全員が最後に袋を貰って帰ることが出来た。沢山のお土産を持った秀毅先生は同じく土産の袋を下げた先生たちから「よかったですねえ」と言われていた。
人間社会は本音の剥き出しでは生きていけず、それを仮面というオブラートで包まないと生きて行き難いところがある。しかし秀毅先生は常に本音を述べて、しかも皆から好感をもって迎えられる、実に得難い、そして羨ましい性分である。
その中道夫妻に誘われて、2004 年の歳の暮れを、私達は瀋陽の五つ星ホテルで過ごすことになった。日本では年末年始はホテルで過ごすのが長年のファッションとなっていても、私たちは日本にいた頃は実験の都合があって年末年始も休むことがほとんどないので、ホテルに滞在する年末年始はただの夢物語だった。
しかし、瀋陽で暮らしていると毎日がアパートと大学の往復で、朝は早くて夜が遅い上に大学はすぐ近くである。日曜日の午前中はこれも近くのカルフールにグロサリーに出かけるけれど午後はまた大学に行くというような生活をしていて、私達の生活にはあまり変化がない。これは良くない。このような日常性の繰り返し に、時には非現実的な不連続性が入り込まないと頭がおかしくなるぞと頭の中のささやきが聞こえ始めたときに、瀋陽で親しくなった中道先生夫妻から誘いを受けたのだった。
何処の ホテルにするかについては、中道先生夫妻が週末を利用して瀋陽のホテル数カ所を見学して、それぞれの特色と宿泊料を調べて下さった。中山広場の瀋陽賓館は昔の大和ホテルで長い重厚な伝統があるけれど、それだけに施設は近代ホテルに比べて見劣りがする。直ぐ隣のホリデイインは明るく近代的。その隣のインター コンティネンタル(州際酒店)は五つ星で申し分なし。値段も最高。
瀋陽に 五つ星ホテルは二つある。どちらもこの五?六年の間に出来たという話で、それはその頃から瀋陽が発展し始めたことを意味しているのだろう。一つはホテルマリオット(万豪酒店)で、瀋陽日本人会が毎年クリスマス会を開いているところである。瀋陽の南にある桃仙機場(空港)から瀋陽の街に近づいて来ると、群れ をなす高層ビルの中で金色に輝いている建物がこれである。もう一つがこのインターコンチネンタルホテル(州際酒店)で中山広場に近い瀋陽の中心地に位置し ている。道を隔てて日中戦争前は満州医科大学だった中国医科大学が眺められる。
州際酒店は最高の値段だけれど、全日空のカードを持っていると割引になることが分かり、カードをお持ちの中道先生のおかげで思ったよりも安く泊まれることも分かった。大晦日の日には非日常的時間を送りたい私たちは迷うところなくインターコンティネンタルを選んだ。
3.山大爺、誘われて中道夫妻とホテルで年末年始を過ごすのこと
一緒に時間を過ごす友人がいるという嬉しい期待に胸を弾ませながら、2004 年の大晦日の午後3時半、私たちはタクシーに乗ってホテルに到着して、入り口で中道先生お二人の熱烈な出迎えを受けた。カウンターでチェックイン。このときにまず宿泊料の二倍の人民元をデポジットとしてホテルに預けなくてはならない。中国のこの仕組みを知らないでいると、ホテルの宿泊料金に相当する金は 持っていても、実際は泊まれないことになる。先日上海に行ったとき、瀋陽が大雪のために帰りの飛行機が飛ばないかも知れないと聞いてあおくなったのはこの ためである。前の晩の食事に見栄を張ったので、デポジット二人分の現金が残っていなかったのだ。
州際酒 店で案内された部屋は禁煙階にあって、広々と綺麗で、外の見晴らしも良い。バスルームも大きなバスタブのほかにシャワー室が独立していて清潔である。3階にも降りて行って探検すると温水プールがあり、隣りを見ると大きなフィットネスルームがあった。しかし、運動靴を履いていないので入れてくれない。持って いない人のために運動靴を売ればよいのに、中国にしては商売気がい。
この大晦日の夜は、「ホテルに泊まってNHK のBS放送で入る紅白歌合戦を一緒に見ましょう」というのが中道先生たちの誘いだった。紅白番組は中国の時間では7時半に始まってしまう。それで4時半にはともかく夜の食事をしよう、でもホテルの食堂は高いからと意見が一致して、寒さに備えて厳重に身拵えをして外に出た。互いに見栄を張らない付き合いの出 来る友人はありがたい。というか、見栄を張らないで付き合えるから、友人なのだ。
直ぐ隣にあるホリデイインを過ぎてから裏通りに廻ると、レストランがいくつもあって、その中の一つに「○○餃子館」というのを見つけた。「大晦日だから、餃子を 食べなくっちゃ。」と叫ぶ。中国の東北地方では、餃子が日本の大晦日の年越しそばに相当する。秀毅先生は「あの店は客がもう入っているから」と目敏く中を 見透かして、「きっとおいしいよ。こういうところが美味しいに違いないんだ。」ということで中に入った。途端に曇って全く用をなさない眼鏡を外して拭うと、ごく普通の、しかしこぎれいな店だった。この時間なのにもう数組の客が入っている。
「ご縁があって、今日は一晩ご一緒することになりました、どうかよろしく」とビールで乾杯して、普通の総菜4種類と餃子3種類を注文したけれど、どれも美味しかった。餃子はかの有名な、値段でいうことこの店より5?8倍も高い中街の老舗の老辺餃子館に負けない美味しさだった。
大いに満足して店を出る。空気は凍てきっていて肺が冷たい空気で満たされて新鮮な気分になる。すぐに身体中が冷えてくる中をホテルに戻ると、時間は丁度7時半となろうとしていた。
前の週 末に近くのスーパーの家楽福(カルフール)で買い求めた駄菓子を沢山持って中道先生の部屋に行く。まるで子供たちだけが集まって週末を過ごす時みたいな胸のときめきだ。部屋には丁度ラブソファがあり私たちはこれを占拠してしまった。中道夫妻はベッドに腰掛け、背もたれなしだったので結構つらい時間だったと 思う。
紅白歌合戦といっても、実はもう何十年もの間ほとんど見たことがない。私の知っている歌は「今日は赤ちゃん」や「恋の季節」の時代までで、そのあと米国に留学して歌番組との断絶があってからは興味を失ってしまった。しかし反紅白というほどのこともないから、一緒に見る気でいる。
もう紅白は始まっていたけれど、恐れたとおり私にはどの歌も、そしてどの歌手もほとんどなじみがなかった。NHKの会長が悪い事をして非難されていても、現場はしっかりと頑張っているらしく演出は綺麗である。
8時近くなると、秀毅先生が「秦の始皇帝の暗殺をしようとした荊軻を 知っているでしょ?これを今ドラマでやっていてとても面白いんですよ。これを見ましょうよ。」とおっしゃる。恵津先生は「あなた、そんなことを言って。今 日は紅白見ることになっていたでしょ?」と秀毅先生をたしなめているけれど、「だって、山形先生にこの面白い番組を紹介したいんだから、いいじゃない か?」と主張を変えない。
「ね、あの荊軻の話ですよ。全三十話のドラマになっているのを、いま毎日二話ずつ再放映しているんですよ。いま面白くって毎日見ていてね。今日は二十一話と二十二話なんだ。」私たちは紅白よりも、元来中道夫妻とおしゃべりをして過ごすのが主目的だし、中国の歴史の話は大好きだ。
それでチャンネルは荊軻伝奇に変わったが、私が陳舜臣の本で読んでいる荊軻の筋書きと違っている上に、中国語だから話を追うのは難しい。しかし、幸いなことに恵津先生が秀毅先生のために字幕を素早く読んで日本語にするのが聞こえるので、大体付いて行ける。
時々、 せりふが簡単で分かりそうだというので彼女が手を抜くと、場面が次に移っていても秀毅先生が「今なんって言った?」と、子供が駄々をこねるのとそっくり同 じなので、思わず笑ってしまう。しっかり者の恵津先生に、やんちゃな秀毅先生の組み合わせのやりとりは絶妙である。私たちは紅白を見るよりもよっぽど面白い夜を過ごしている。
ドラマの中では荊軻とは子どもの頃の友人ということになっている秦軍の将軍樊於期が、部下の見守る中で荊軻を見逃したというので罪を得て、牢に入れられた。この樊於期将軍を演じている俳優は目元がすっきりとしていて感じが良い。樊於期将軍が牢に繋がれ断罪を待っているところで、あとの話は明日になってしまった。
将軍を取り巻く情勢は深刻である。しかし秀毅先生によると「この俳優は主役の一人に違いないから、これで首を切られたらドラマが詰まらなくなっちゃう。だから大丈夫。死なない。」とのことだ。実際彼に惚れ込む女性も出てきたから、ここで首が刎ねられてはいけない。
後で調べてみると、樊於期将軍は燕の国に逃れ、燕の国の将軍となって今度は秦と戦っていたが、荊軻が燕王に頼まれていよいよ秦王の刺殺に行くとき、大きな土産がなければ秦王に会見してもらえないからといって、自刎して自分の首を土産に持たせている。
荊軻が秦王(始皇帝)の暗殺に成功しなかったことは誰もが知るとおりで、荊軻が秦の国に向かって出立するとき述べた言葉も「風蕭蕭として 易水寒し 壮士一ひとたび去って また還らず」と「史記」に記録されて以来二千有余年人口に膾炙している。
二千二百年前の話がずっと語り継がれて今も息づいている国、その始皇帝が統一して全国に制定した文字で書かれた書物が今でもそのまま楽に読める国、古代と現代、貧と富が共存している国、現代の最高設備のホテルに泊まってこのような中国に思いを馳せる贅沢を、瀋陽で出来た友人と楽しく共有できた一晩だった。
(第2・3話は山形達也のホームページに書いたものを転用しました)
瀋陽薬科大学
山形達也
1.瀋陽日本人教師の会の愉快な仲間たち
瀋陽に来てたまたま誘われて覗いた瀋陽日本人教師の会に、私たちが入ってしまった顛末は先の19号に書いた。私たちは日本語の教師ではないので厳密に言うと参加資格はなかったけれど、厭な顔一つされなかったので、日本語クラブとホームページという自分の居場所を勝手に見つけて、教師の会に居着いてしまった。
でも、この会に入ることが出来て、本当に良かった。有能多才、かつ多彩な人たちと知り合えたことが一番に挙げられる。何しろ同業者ではないから、今まで付き合ってきた研究者とは皆それぞれが違う。みんな違って、みんないい。みんな個性的で、みんな愉しい。
この会で知り合った先生たちの一人に、加藤先生がいる。加藤正宏先生は昨年秋から瀋陽に赴任したので、瀋陽では新顔だけど中国暮らしは長く、中国語も自在に操れる。加藤先生は大変魅力的である。自分の世界をしっかりと持っているのが魅力なのだ。
加藤先生は瀋陽薬科大学の 新任の日本語教師の一人で、定年のあと昨年秋ここに来るまでは関西の公立高校で世界史の先生だった。今回の赴任が初めての中国ではないという話である。現 役の四十代の教師のころ西安に二年間、そして定年前の二年間は長春で日本語教師をしたという。日本の教職を中断して中国に来て日本語教師をしながら暮らす など、よほどのことがなければ踏み切れないし、たとえそう思ってもよほどのことがなければ周囲の事情が許さないであろう。加藤先生は、それを可能にした 「よほどのことがある」先生なのだ。世界史、特に日中の現代史が専門で、調べれば調べるほど興味が募り、とうとう現場で納得するまで自分の眼で見たいと希求するほどのめり込んでしまったものと思われる。
いまの加藤先生の週末の土日の日課は、市内で開かれる古書、骨董市巡りなのだ。そこで現代史に繋がる様々 な本、教科書、写真、地図、紙幣、証書、書類などの資料を見つけている。 丁度、中国でも日本のゴー ルデンウイークと同じ時期に労働節一週間の休みがある。この時期に加藤先生の奥様は10日間の予定で日本から訪ねて来られたのだった。工藤夫人は文子さん と言う色白の美しい人で、以前は学校の先生だったけれど、加藤先生の長春赴任に合わせて学校を辞めて長春では一緒に暮らしたという。でも、今の加藤先生は ここでは単身赴任である。
文子さんは水曜日に瀋陽に着いて次の週の金曜日には日本に戻ってしまうと言う。土日もこちらで一緒に過ごしてから日本に戻ればよいだろうにと思う。彼女に言わせ ると、加藤先生は土日には彼女を放り出して自分は一人で骨董市巡りに行ってしまうから、週末前に帰っても同じことらしい。
2.皇寺の縁日で食べるシシカバブ
瀋陽市の市政府の西に清朝の菩提寺となっているラマ寺院が建てられている。連休で何をしようかと貞子と話しているときに、「清朝の菩提寺とその縁日を見に行きましょう」と言って加藤先生に誘われた。この寺の広場に新年、春秋に縁日が立ち、今年の連休の始まりの5月1日には十万人の人が訪れたと言う話だ。朝の8時半に大学傍のバス停で待ち合わせて265番のバスに乗った。バスは市の西側のルートを走り、領事館の横を北上して市政府の建物の近くを通った。五月の風と日射しがバスの中に染みて心地よい。
市政府の前で降りて建物に 沿って西の方に1ブロック歩いていくと、高い石の中国門がそびえていて北市場と書いてあった。その下に赤い大看板があって、瀋陽和平“五一”皇寺廟会、5 月1日?5月7日とある。ここまで来ると沢山の人たちが集まってきているのが見て取れる。子連れが多い。門をくぐって入ってみると、大きな広場に屋台が沢 山並んでいた。どれも食べ物屋で、よい匂いを発散させている。看板は中国全国から集まったとおぼしく、香港、四川、広東、杭州、云々である。
やや、こんなことなら朝ご飯を食べてくるのではなかった、と後悔が頭の隅をかすめる。加藤先生は「縁日が出ていてにぎやかですよ」とのことだったが、それが食べ物の屋台だとは聞い ていなかった。何しろ、加藤先生は食べることにあまり関心がないようなので、これを私に事前に言うことなど思いも寄らなかったのだと思う。
私は食べることが大好きで ある。「人は生きるために食べる」けれど、私は「食べるために生きている」ような気がすると何時もふざけて言っているが、加藤先生からは「いえ、そりゃあ 先生間違っていますよ、人は生きるために食べるのです」という至極真面目な返事が返ってくる。
「この人、美味しいものを作っても、美味しくなくても『うまい』だけで、まったく張り合いがないんやわ。うちの人、ちいとも味がわからへん。」というのは文子夫人の言である。文子夫人はどうもグルメ派のようだ。
「せっかく来たのだから何 か食べましょうよ」と私は連れを誘ってあちこち覗いてみる。「湖南紹興臭豆腐」には、くさやみたいな匂いの豆腐を置いているし、「椰島鮮椰」にはココナッ ツが沢山並んでいて、「天津一絶天津大麻花」はドーナッツのお化け。「杭州一絶香辣美容蟹」では、手のひらくらいの蟹が4匹串刺しになって天ぷらとなって いる。この美容蟹には大いに興味があったけれど、残念ながら天ぷらを食べるほどはお腹が空いていない。香港何とかと屋号に書いてある店ではせいろの中で小 龍包が湯気に包まれて良い匂いを放っていた。「美味しそう」と、思いは直ぐに学生の白さんが昨夏案内してくれた上海の豫園城隍廟の南翔饅頭店の小龍に飛ん で、思わず口中に唾がわき上がった。一人一つずつ買って食べたけれど南翔饅頭店と違ってちっともジューシィではなく、がっかりだった。
でも、こんなことでめげて はいけない。別の「西安羊肉泡謨(言偏の代わりに食偏)(ヤンロウパオモウ)」という店では加藤先生が「私は西安に二年暮らしましたがね。この汁にパンを 浸す食べ物は美味しいのですよ」と言うことで、加藤先生と私の二人分を注文した。レタス菜風の野菜と羊肉、パンのちぎったもの、透明なうどんが一人分の椀 に盛ってあって、それをかごに空けて沸騰した湯の中で暖めて、改めて汁を掛けて供された。加藤先生が「懐かしい」と言って食べ始める。食べてみたけれど味 が薄くて美味しいという感じではない。
加藤先生も申し訳なさそうに、「これ、一寸美味しくないですね。ホントはパンに沁みた汁の味が実に旨かったのですよ。」とのことだ。おそらく、加藤先生も本当は味は分かるけれど、周りへの思いやりのために口にしないだけなのだ。 その隣の店の角の軒先には皮を剥いた羊が二頭逆さにつるしてある。店の上には新疆羊肉と書いてあって、店頭では長い炉の中に赤々と炭火が熾り、上に渡した肉の串刺しが炙られて垂れる脂が燃えてもうもうと青い煙を揚げていた。薬科大学の前の通りには小さな食い物屋が並んでいて、何時も夕方になると競い合って、店先で盛大に煙を揚げているのを思い出す。
今は朝日の中の焼き肉で、揚がる煙が豪気でよい。「ここに新疆省のカシュガルと書いてあるでしょ。カシュガルに行ったことはないけれど、このシシカバブは美味しいですよ。ここで食べましょうよ」と云われて頬張る羊肉のシシカバブの美味さ。黄色い脂まで芳香を放っていて、その旨さは堪えられない。
3.清朝皇室の菩提寺である皇寺は瀋陽最大のラマ教寺院
四人ともシシカバブを二本ずつ平らげて「それではお寺を見に行きましょう」と人混みをかき分けてこの広場の隣の寺に行った。一人3元の入場料だった。境内に音楽が鳴り響いていて、加藤先生の説明では「これはお経です。」
単調な音律の繰り返しなので、直ぐに覚えてしまって、一緒に口ずさむことが出来た。最初の建物の前で長い二本の火のついた線香を捧げ持ち、通り過ぎる私たちの方を向いて深くお辞儀 をする人たちがいる。老人だけではなく若い人たちもいる。驚いてよく見ると、順番に東西南北に向かって深くお辞儀を繰り返している。
このお寺は清朝の二代目皇帝であるホンタイジが蒙古の一部族を攻め滅ぼしたとき、その部族長の林丹汗は、ラマ教の活仏と自分の母を帰順の印としてホンタイジに贈ることにした。
その 時伝国の宝である金で出来た大黒天、金字で書かれた教典、伝国の玉爾を白いラクダに乗せて清朝の都である奉天(瀋陽)に送った。ラクダは瀋陽の西3里(1.5 ㎞)のところまで来て力尽きて倒れて死んでしまった。ホンタイジはそのラクダを哀れんで、その地に大黒天を納めたラマ教の寺を1636年に建立し、実勝寺 と名付けたのがこの寺の起源だと寺の案内板に書いてあった。この寺がラマ教なのは蒙古のその部族がラマ教を信じていたからである。
清朝は二代目のホンタイジ のあとの三代目の順治帝の時に、長城を山海関で破って中原を制覇し都を北京に定めたが、その後の康煕帝、乾隆帝、嘉慶帝、道光帝などは瀋陽まで巡幸し、必ずこの実勝寺に詣でて仏を拝んだ。それで、この寺は清朝皇室の寺、略称して皇寺となったという。
本殿の中心には釈迦像、右には普賢菩薩があってどれも金色ご極彩色に輝いている。どこがラマ教なのか、本物の仏教を知らないから違いも分からないが、僧侶の付けている赤紫の衣服が ふわっとしていて、日本の僧侶のそれとは違っていることが珍しい。ラマ教はチベットと思っていたのに、「蒙古にも布教されていた」ことも新しい知識である。
4.若いときの姿に再会した老孔雀
この寺の横の広場には屋台の縁日が出ているが、それとは別の一画に清朝の12 人の皇帝の像が円形に並んでいる。右の端が初代皇帝ヌルハチ、次がホンタイジ、順に廻って左へ12番目の最後が溥儀の像だった。この溥儀は子供の頃退位したので、姿は子供である。西太后に操られて末期を迎えた清朝のことは、最近の浅田次郎の小説「蒼穹の昴」に詳しい。西太后を奥さんにした駄目皇帝は誰かと見て歩くと、どうも先入観のせいか全く覇気の感じられない容貌を持った像が、問題の9代咸豊帝だった。 この清朝皇帝の像の円形広場を取り囲んでいる屋台は食べ物ではなくて、玉、篆刻、書画、ひょうたんの彫刻、卵の彫刻、切絵を売っている店など、一つ一つ見ていくと愉しい。貞子たちは卵の彫刻の店によって店主が卵に躍動感のある馬を彫るのに興じて見入っている。卵の殻に彫っても壊れやすい卵では買うのも考えものだと思って、私は切り絵の店を覗いて歩いた。
卵彫刻のとなりの切り絵の売り子さんは愛くるしい小柄な女性で、ほとんど買いそうになったけれど、三軒先におじいさんが店番をしている切り絵の店があったことを思い出した。その店には額があって、彼の写真と説明がある。正確には読みこなせないけれど、この岳文義さんは1931 年生まれで、中国民間文芸家協会会員、中国剪紙学会副会長、遼寧省剪紙学会会長と書いてある。20歳代の時に独学で切り紙芸術に飛び込んで、今まで金賞、 銀賞、受賞は数知れずと云う。店先には関羽、孔雀などいろいろの切り絵が置いてあった。「これらは貴方が作ったのか」と訊くと、そうだという。この際、可愛い子ちゃんよりも老芸術家に敬意を表したい。
そう思って作品を見てみると、ここに飾ってある孔雀が一目で気に入ったのだった。濃い青い紙で作られていて、孔雀の広げた羽が全体として丸い絵となった切り絵である。孔雀にこだわったのには訳がある。 研究室で女子大学院生の麦 都さんに私は「老孔雀」呼ばわりされている。訪ねてくる若い女子学生を相手に丁寧に説明をしていると、あとで何時も「老孔雀開屏、自作多情」と言ってから かわれている。「雄の孔雀が歳を取ったことも忘れて、雌の前で尾羽根を広げているけれど、すり切れてみじめな尾羽根に、雌孔雀は目もくれない。」という意 味である。
先生にひどいことを言うものだが、この文義さんの作った孔雀は見事なものだ。値段を聞くと百二十元という。額がなければ30元だ。でも、額に 入っていないとただの紙切れで扱いに困るので、額入りを百元にしてくれたのを機に買ってしまった。立派な額に入っていて重い。
この後これをずっと持って歩く羽目になってしまったが、研究室に戻って包みを開けていると、なんとちょうど部屋に入ってきた院生の麦都さんが着ている赤いブラウスには、丸く孔雀の模様が刺繍されているではないか。
「やあ、雌の孔雀さん。」と彼女にこの孔雀の絵を突きつけて、孔雀に挨拶させた。「今日は。ほら、これは、ぼくの若いときの絵姿ですよ。」
びっくりした麦都さんは、それでも「へえ。老孔雀も昔はこんなにハンサムだったんだ。」と話を合わせる。
「これなら雌孔雀もついて行きますよ。先生、日本に行っているあいだ先生の椅子に飾っておいて下さいね。大事にしますから。」
何だか、やっぱり言うことが憎らしいね。
瀋陽薬科大学
山形 達也
私と妻の貞子が瀋陽の瀋陽薬科大学に来てから二年経った。この私たちの研究室について書きたい。理系大学の研究室と言っても、馴染みのない方もあるだろう。どんなものかを思い浮かべていただくために、まず少し一般的な描写をして見る。
1.理系の研究室とは?
教授、助教授などの理系の大学教官は学生に講義するだけではなく、自分たちそれぞれの実験室を持っていて、講義の時間以外は実験室にこもって研究をするのが当たり前と思われている。大学院大学では院生の研究教育も行われるが、これは不特定多数の院生を対象とするものではなく、研究室にはその教授を指導教官 として選んだ院生たちが所属して研究指導を受ける。そのための実験室でもある。理系の大学では教官が研究することなしに教育もあり得ないと考えられている。実際、研究業績のない教官はこの世界では存在できない。
私のいた頃の東京工業大学では助教授も独立して研究室を構えていたが、大学によっては教授・助教授1名ずつの組み合わせで○○講座として扱われることもある。私の学生の頃にはこれが普通の形だった。
このように理系の大学の教官であるということは、講義以外に自分の研究室に所属する院生を修士、あるいは博士にまで育てて送り出すという仕事を伴う。研究に掛かる費用は、大昔は国立大学ならば、国が全額負担してどの教官にも均等に配っていた。しかし研究には高額な費用の必要なものと、さほど金のかからない 研究もあるし、素晴らしい研究もあれば、無意味な研究もある。 世の中が進むにつれ、教官(あるいは講座)に均一に配分する研究費はどんどん減って、今では事務費程度の最低額がくるだけになってしまった。教官が研究室を維持するために必要な研究費は、自分たちの研究内容を申請して、それをある機関が審査してはじめて研究費が貰える仕組みに変わってきた。教官は黙っていては研究が出来ないのである。自分のそれまでの研究成果を述べて、こんなに自分は研究が出来るのだから、この新しい研究にも金を出して欲しいと言わないと研究する金が来ないのである。国立大学から独立法人に衣替えが進んでから、この傾向は強まる一方である。
教官は研究費を稼がないと(私たちは文字通り、この言葉を使っていた)たちまち研究室の院生もろとも研究が止まり、めしの食い上げである。金の出所は、当時の文部省、厚生省、農水省、科技庁など様々あるほか民間財団からも研究費を貰うことが出来る。大学の教官は研究費の申請を書き続け、研究費獲得のために は気の休まる暇もない状況に置かれる。研究の申請が認められるためには(つまり研究費を貰うためには)、日頃の研究成果が必要である。成果を挙げるには金が要る。
2.大学教授は水商売?
大学教授は「小なりといえども一国一城の主」といわれる。その通りで、研究室の中の教授は唯我独尊の状態で自分を脅かすものはないから、居心地は大変よく、威張っていられる。その代わり自分の世話はもちろん院生の奨学金の面倒まで、研究室の経費の工面は全部教授である自分の肩に掛かっている。つまり今時の研究室では、大学で研究者になるということは、小さな町工場の徒弟から身を興して信用を得ながらだんだん身上を大きくして中小企業の主になるのと何ら変わるところがなく、徒弟から工場主になっても毎日の金の工面に走り回るように、大学教授になっても毎日身を粉にして金稼ぎのために働かなくては、生きてい けない。
大学教授と聞くとなにやら偉そうなイメージが浮かぶものだ。その領域で専門を極めた偉い人らしい、というような。でも別の面から見ると、少なくとも理系の大学教授は水商売とさして変わらない。水商売でお客を迎えるためには、愛想と上手な客あしらい、そして信用を積み重ねることが必要である。店を開いていますよ。おいしいですよ。いらして下さい。と頭を下げ続け、お客に来て貰わないと、そもそも商売が成り立たない。お客が入ってくれても、一度でも嫌な思いをさせたらお客はもう二度と戻ってはこない。
大学の教官は、研究費というお客を相手にする商売人とさして変わるところがない。流行の兆しを鋭敏に感じ取って新しい研究の波を先取りし、何時も研究の最先端にいれば沢山の研究費を取り多数の院生を抱え、研究論文をつぎつぎと発表することが出来る。次の研究費申請も大抵文句なしに認められる。一方、自分の やりたい研究にこだわって世の中の動きを知らないとやがて研究も先細りになる。
このようにして教官の研究は、研究費が来るか来ないかという形で評価を受けている。この評価というのは研究費の出所である官庁・団体が選んだ評価委員、研究者側で選んだ評価委員、あるいはその混成ということもあるが、ともかく研究費を出すか出さないかという形で、研究者の能力を評価している。評価の基準は 世間の要求に基づくことが多く、必ずしも研究者の真の能力の評価には繋がらないが、これに代わるものは今のところないみたいだ。
企業が常に業界のトップを走ろうとしたら、常に人の飛びつく製品を発表し続けなくてはならない。大学の教官もそうだ。研究費が呼び込めるよう、常に最新の研究テーマを持ち続けることが大事である。しかし企業の製品開発には膨大な人数が張り付いている。一方、教官はすべてをひとりでこなしているのだ。講義、 院生の指導、研究費の申請。もちろん、研究費が入れば秘書を雇い、会計を任せられる。研究室の院生がよい研究を次々出せば学会報告、研究発表、雑誌に書く総説、講演は手分けが出来るから、研究が当たって研究費に恵まれるようになると、研究室も拡大再生産が可能なサイクルに入る。世をときめく一流の研究室に なるのだ。一流の大学教授は商売をやっても一流の企業人になれる。
3.瀋陽に来て新しい建物に研究室を貰った
私たち二人は薬科大学の招きを受けて2003 年に瀋陽に来た。4月から来る予定だったけれど、時あたかもSARSの暗雲が世界を覆っていて、私たちは6月末にやっと大学を訪問することが出来た。私たちの入る予定の新しい実験棟の完成もSARSのために遅れていて、秋には入れるようになるだろうと言うことだった。
秋に大学を再訪すると、施設課の李さんは鍵束をじゃらじゃらさせながら、新しい9階建ての研究棟に私たちを案内した。エレベーターで5階に上がると広い廊下があり、廊下に沿った部屋の中でその東側のドアを開けてくれた。 広い!後で計ったら6×10メートル、つまり60平方メートルもあった。部屋の遠くの窓の近くに、机と椅子が二組、右手のコーナーにはソファーセットに並んで、8脚の椅子に囲まれた会議机がある。これだけのものが入っても部屋は痛くもかゆくもないようにだだっ広い。
実験室はちょっと離れたところに二部屋あってそれぞれ基本的な実験机だけは入っていた。小さい方の部屋をさらに仕切って培養室を作るように頼んでおいたが、それも出来上がっていた。
実験のための部屋だけあっても研究は出来ない。様々な実験機器が必要である。私たちは日本にいた時の研究室から機器をある程度持ってくることが認められていて、薬科大学はその輸送費用と、研究室に必要な機器購入の初期費用に30万元を用意してくれていた。これは今ここに暮らしてみて、その目で見ると結構な額である。>
部屋の掃除は、それまで毎年薬科大学に来て講義をしていたから、顔見知りになっていた学生たちが集まってきて一挙にやってくれた。3月始めに日本から送った機器は9月半ばにコンピューター関係を除いて手に入った。コンピューター関係は大連の税関に人質になっていてあとから届いたが、だいぶ関税を取られたようだ。輸送費、関税でざっと18万元掛かった。
4.研究室を立ち上げる
私たちの研究には綺麗な水が必要である。水道水からイオンを除いて、微粒子を除いて化学的にも生物学的にも純粋な水を作るのは結構大変である。このための装置の一番小さいものを買うのに5万元、培養室の炭酸ガス培養器に5万元、培養細胞の保存のためのマイナス80度のフリーザーに5万元、という具合に準備金はあっという間に消えてしまった。
中国の大学院の仕組みは日本と違っていて修士課程は3年間あり、最初の1年間は講義がびっしりと詰まっている。研究室には所属していてもこの最初の1年間は講義を聴くだけで実際の研究はやらない。それで、私たちが来た秋には研究室に所属が決まっていた院生たち数人が、時間がどうせ空いているから、山形研究 室のセットアップを手伝いたいと言ってくれた。
薬科大学は天然物化学、薬物化学の伝統はあるけれど、動物細胞を使って薬の生理作用を調べるというような研究は全く行われていなかった。それで、私たちの出番があったわけだ。私たちも先ず細胞を培養してそれを使う研究を考えていた。それで、先ず細胞室のセットアップに取りかかった。培養室に流しを付けたり、ドアを付け替えたりするほか、培養に必要な器具をカタログで調べて注文する仕事がたくさんあった。大型の機器の輸入には時間が掛かり、日本から輸入した炭酸ガス培養器、マイナス>80度のフリーザーが揃ったのが12月はじめだった。
私たちの研究室に出入りして勉強したいという学生3人は彼らの指導教官から許可を貰って、1年ここで研究をやることが委託された。このほかに春になったら日本に留学することが決まっている学生2人が来た。彼ら5人とも日語班の出身で、おかげで私たちは日本語で研究室を運営することが出来た。しかし博士過程 の希望者が1人いて、彼女は日本語は理解できないので私たちの研究室は出だしから公用語は英語ということになった。ともかく、院生・学生合わせて6人のいる研究室として始まったのだった。
12月後半に細胞培養を練習したと思ったら春節休みになり、春節休みが終わると学年後期となって卒業実験の学生が3名配属されてきた。研究室にはないものだらけ、研究室の1年先輩は細胞培養を1回やっただけで研究とはなんたるものかを全く知らないという状態で、卒業研究の学生の指導である。私も妻も毎日息 つく間もない感じで、毎日を夢中で過ごしたのだった。
最初の1年が終わったところで、1名は韓国留学を決めて出て行った。2名のうち1名は仮預かりではなくなって正式に私たちの研究室に移籍し、1名はその指導教官から公式に教育が委託された。新しく修士1年生が外部から入ってきた。
この2年目に入ってやっと研究が軌道に乗り始めた。2年目の終わりには瀋陽に来てから始めた研究をまとめて最初の論文を書くことが出来た。もちろん、それ以前の私たちの研究成果に基づいて始めた研究だけれど、それにしても零から始まって良くもここまで漕ぎ着けたという感がある。
ところで最初に書いたたように研究には研究費がつきものである。研究費がなくては研究はやっていけない。研究室開設の初期費用はそれなりに大学が出してくれた。そのあとは?
驚いたことに、中国にも科学研究費助成金のような仕組みはあるけれど私たちは外国人教官であるのでこれに申請できない。更に申請するには年齢が定年を過ぎている、という二つの理由で外部研究費申請の道がなかったのだ。今までのように研究費獲得に憂き身をやつす必要は否応なしになくなったのは結構だけれど、 研究費なしには研究が出来ない。 大学では(仕方なく)毎年5万元の研究費を出してくれたが、とてもそれだけでは研究をすることが出来ない。幸いここでは妻の給料で十分暮らせるので、年額6万元になる私の給料は全額研究費に廻した。もちろんそれでも足りない。というわけで、私たちが日本で貰っている年金は毎年2回の日本との往復運賃と4週間 X 2回=8週間の日本滞在の生活費を除いてはすべて瀋陽での研究費に使うことになった。
健康だから出来ることである。ありがたいことだ。将来を考えると年金をこんなことに使ってしまっていいのかなと思わないでもないけれど、道楽としてはこれに勝るものはないに違いない。私たちの意志で可愛い学生に投資して優秀な人材に育てあげることが出来るのだから
5,私たちの研究室は何を目指すか?
研究室を始めた時に、私たちは研究室の規則を作った。最初に作った研究室規則には、研究室のコアタイムは午前8時から午後6時までとするなどに始まって、生まれて初めて研究室という運命共同体に入る人たちに守って貰わなくてはならない規則が書いてあった。この規則は学年始めと、後期の卒業研究の学生を迎え るたびに皆に集まって貰って周知させていた。
今年は思いついて、いわば憲章のように格調高い研究室のきまりを作ったらどうだろうかと考えた。この研究室が何のために存在するかということをまず高らかに宣言したい。その宣言を聞くと学生が奮い立つような高らかな存在理由とは何だ?
この瀋陽薬科大学は昔はレベルの高い大学だった。大学がすべて国立大学だった時代には、薬学専門の単科大学である薬科大学は全国に瀋陽と、南京と、二つしかなかった。二つの薬科大学の中では、中国一古い薬学専門学校がその前身である瀋陽薬科大学が自他共に認める最高の大学だった。
大学の試験は全国一斉に行われてその成績で選抜される。中国も日本同様有名校信仰だから、成績の良いと確信している人たちは精華大学、北京大学、交通大学などの有名校に殺到し、そして殆どははねられてしまい、第二志望以降の大学に廻されることになる。この瀋陽薬科大学に来る大半の学生はこのような人たちである。
「北京大学を希望しましたけれど落ちてここに廻されました」などと学生はあっけらかんとして言う。暗い陰は全くない。そのような人が周りに沢山いるので、一人だけうじうじしていても始まらないのだろう。そしてこのようにして瀋陽薬科大学に入った学生の中から成績で日本語専門コースの日語班が選ばれる。 いま、私の研究室の修士課程にいる日語出身の学生はとても優秀である。瀋陽薬科大学がまだ国立大学の頃に全国から選抜されて入ってきた人たちである。
なぜか知らないが、悲しいことに、この薬科大学は数年前に国立大学から省立大学に格下げされてしまった。日本で旧帝国大学と地方大学の間に序列があるのと同じように、省立大学になったということは明らかな格下げで、以前は全国から万遍なく入学者が集まったこの大学に、今年度入った学生の半分が遼寧省出身だった。この大学にかつての勢いは最早なく、もう立派な地方大学である。学生の口からも、ここはもう駄目ですという言葉が漏れることがある。
6.一流大学とは一体なんだ?
私たちはこの大学の学生教育のために、そして研究興隆のために呼ばれてここに来ている。学部学生に講義をするほか、研究室に所属する学生を育てている。その学生に高い目標を持たせ、優れた技術と深く考える能力を持つ研究者の卵に育てるためには、まず学生から、この大学が一流ではないという劣等感を除くこと が必要だろう。そのためには格調高い目標を持たせることが必要だ。
どうやったら一流ではない大学にいて、学生から劣等感が取り除けるか。
その前に、一流の大学とは何だろう。考えてみる必要がある。日本では誰でも一流の大学というと同一の大学を思い浮かべる。中国では、精華大学とか北京大学の名前が直ぐに挙がる。そして学生はこのような一流大学に行きたがる。
今の日本では大学や研究所の評価は厳しく行われていて、大学の先生が発表した論文の数だけではなく引用される頻度(これはほかの研究者からの注目度に当たり、引用数の高い論文は重要度を表すと一般的に考えられている。しかし、その領域の研究者の数が少なければ引用数は少なくなるので、引用度だけではその重 要性は示せない)、研究費の総額、その研究費をどのような競争で取ったかという研究費の出所、研究費で割った論文の数、そして最近では出願した特許の数も重視されているし、大学の財務状態も評価の大事な指標である。
したがって大学には外部からの(したがって、一応公正な、と思われている)評価がなされ、大学には序列が付いてしまう。それでは名声を頼りに一流大学に入れば一流の研究者に育ててもらえるかというと、そうは問屋が卸さないことはいうまでもない。単に有名大学を出ただけということで終わる人が沢山いる。<
優れた研究者になるには、本人の持つ資質が一番重要で、それと同時に学生時代にどのような訓練を受けたかも大事である。研究室に入って、いつも一流の研究に接し、優れた指導者と研究者によるアイデアと研究の進め方を見ていれば、自分の判断や評価の基準も一流になる。周囲が三流の人物を見て育てば、世の中そ んなものかと思って三流の研究者で終わってしまう。つまり一流の研究室で鍛えられることが必要なのだ。大学が一流と言われていても、それぞれの研究室が一流かどうかは別である。そこで、研究室の学生と、一流の研究室とは何だろうと一緒に話し合ってみた。
幾つか私が挙げておいて、学生に順番にそれぞれどう思うかを述べさせた。複数以上の項目を一流と考える基準に挙げても良く、新たに追加しても良いことにしたが、学生が新しく追加する項目はなかった。その結果、学生が一流と考える順位で以下は並んでいる。
1.世間に役立つ研究を行っていること。
学生の支持はこれが一番多かった。実際、中国では応用研究にしか研究費が来ないと聞いている。研究費を出している側から見れば、役立つ研究をして欲しいのは分かり切ったことだ。しかし、役に立つと言うことだけで評価すると、しばしば目先の需要を満たすのみで、もっと先に花開く重要な研究の芽を摘むことになるかも知れない。
2.重要な研究を行っていること。
重要な研究を行っているというと何となく納得した気になるが、重要というものの中身は言う人によって違うし、世の中の移り変わりでも変わる。いってみれば、自他共に良く誉め言葉として使うけれど、一流の研究とか、第一線の研究などと同じ、景気づけの言葉かも知れない。つまりこの表現は曖昧な定義であって実体 を伴わないことが多い。
3.独創的な研究を行っていること。
実は私の知っている限り研究者の世界では、独創性は研究者個人の評価においては最も重要視される。その人だけが生み出せるという独創性が最高に尊ばれるが、誰もやっていないからと言ってノミの金玉の重さを計っても笑われる。独創性とはその人独自のものだから、始まったばかりの時にはもちろん流行には乗っていない。ことによると芽生えの時期には理解されずに押しつぶされる可能性がある。誰もが無視した研究が将来重要な研究の芽となる場合が往々にしてある。島津の田中さんによるノーベル賞の対象となった研究が良い例である。従って独創性は研究者評価の重要なキーワードだが、どこを視点にして評価するかですっかり変わってしまうものなのだ。しかし、独創性こそ研究者個人の生存理由であり、評価の基準であることは疑う余地がない。
4.世界の一流誌に論文を沢山出していること。
これは研究者の評価の原点となっているが、一流誌とは、引用度の高い論文が沢山載っているジャーナルと言うことになっている。世間がよく知っているジャーナルにNature とかScienceがある。私たちの専門領域ではJournal of Biological Chemistryがある。同じ領域の研究者の数が多ければ引用度は必然的に高くなるので、引用度で評価することに問題があることは、先ほど指摘したとおりである。単に流行に乗っていることを意味しているに過ぎないことがある。
5.研究費が潤沢なこと。
これはよい研究成果が出れば次の研究費の申請に断然有利に働くので、それ以降は研究費に恵まれることになる。研究の実績があるから、この申請もきっと成果を出すだろうと思われるわけだ。潤沢な研究費はその研究室で良い研究が続いて出ていたことを示す一つの目安である。しかし研究費が多ければ、良い研究が出る と言うことにはならないことも確かである。
6.施設・機器は世界最高のものを必要なだけ揃えていること。
これも上と同じで、良い研究が出ているからこそ、手厚い待遇が研究室に還元される。そして今や、程度の高い、かつ特別の(別の言葉で言うと、高額な)機器がなければ研究を進めにくい時代になっていることも事実である。
7. このように、いろいろの側面から一流の研究室を定義することが出来るが、一方でその研究室に来る学生から見れば、上記のどれかの条件に加えてもう一つ大事 なのは、「研究室の指導者がその領域で最高水準の知識と経験を持っていて、なおかつ大学の使命は学生の教育にあることを認識していること」が望ましい。な ぜなら世間には良くあることだが、自分の欲を達成するために学生を自分の使い捨ての手足にして働かせるような先生の研究室に入ったら、悲劇だからである。 この項目は、学生の考えでは5番目に選ばれていたが、これは恐らく貧乏な研究室の私たちに、せめて花だけでも、といって付けてくれたのかも知れない。
こうやって、大学はともかく一流の研究室とはこういうものだと定義してみた。私たちも研究室を構えているわけだから、上記の定義で見て私たちの研究室はどうなんだろうと考えないわけにはいかなくなる。研究室のボスつまり私と妻の貞子だが、この大学で一番年長だという特徴以外に何かあるだろうか。
7.私たちの研究室は一流ですか?
中国に出来た私たちの研究室は、果たして重要な研究をしているだろうか?そして研究費が潤沢にあるだろうか?役に立つ研究をしているだろうか?
中国では応用研究が最優先で、基礎研究には研究費が出ないから、私たちの研究室には研究費が来ない。潤沢な機器もない。つまり研究費で判断すると、私たちの研究室は重要な研究をしているとは思われていない。
私たちは腫瘍の転移機構を研究している。悪性腫瘍は転移を止めることが出来れば制圧することが出来るはずだ。そのための機構の研究である。だからいずれ役に立つにちがいないが、転移を止める薬そのものの開発でないとこの国では評価されない。
私たちは一流の論文を発表しているだろうか。これはここに来てからまだ1報しか書いていないから、一流とは言えない。研究は独創的だが、レベルが一流ではない。つまり細胞内の機構の考察まで研究が及んでいないのである。
研究室には研究費がない。研究室にはこれという目覚ましい機器もない。今までに出した論文は独創的だが小粒である。これらの尺度では、私たちの研究室はま るっきりの落第である。どう、ひいき目に見ても私たちは三流の研究室にも数えられない。小さな声で、「むかしは独創的な研究をやってきて、一流誌に論文を出して来た。今は違うけど。」とつぶやくだけである。
ただし、たった一つの視点では合格である。私と妻の貞子はこの領域で最高水準の知識と経験を持っていると自負している。もちろん学生の指導者としても経験を十分積んでいる。おまけに、自分の研究のために学生を手足として使っていないし、大学の使命は次代を背負う学生を育てることだと認識しているので、この点だけ は、つまり指導者だけは誰にも負けない立派な研究室だよと胸を張ることが出来る。しかし、それだけである。研究費もなければ設備もない。おまけにこの基準はお手盛りで私が考えたものだから、ある意味ではとても恣意的で、あまり威張れたものではないかも知れない。
ただし、たった一つの視点では合格である。私と妻の貞子はこの領域で最高水準の知識と経験を持っていると自負している。もちろん学生の指導者としても経験を十分積んでいる。おまけに、自分の研究のために学生を手足として使っていないし、大学の使命は次代を背負う学生を育てることだと認識しているので、この点だけ は、つまり指導者だけは誰にも負けない立派な研究室だよと胸を張ることが出来る。しかし、それだけである。研究費もなければ設備もない。おまけにこの基準はお手盛りで私が考えたものだから、ある意味ではとても恣意的で、あまり威張れたものではないかも知れない。
8.一流の研究者になるためには?
それでは今度は、研究室に属している院生を対象にして、彼らが一流の研究者となる教育を受けているかどうかと言う視点で見てみよう。実際学生とちょっとでも話せば、その人が優秀か、そして将来優れた研究者になるかどうか直ぐに分かるのである。
1.学生が実験について広く知識を持ち、実験手技が良く訓練されているか。
2.学生それぞれが研究とは何かをよく理解しているか。研究目標を十分理解していれば、決められた目標を達成するだけではなく、常に向上を目指すことが出来る。
3.手を惜しまずに実験をして、結果を出すことに努力しているか。手を動かさなくては、自分の成果をつかみ取ることは出来ない。いくら天才でもこの世界では実験をしなくては、役立たずである。
4.誰かの研究を見て、あらゆる角度から検討でき、それを正当に評価できる能力を持っているか。しかし評価できるだけでは、もちろん研究者とはいえず、単なる批評家で終わってしまう。
5.研究にあたって問題を提起し、その解決方法を考え、それを実証する能力が磨かれているか。従って、知識欲があり、好奇心に充ち満ちていることが大事で、何よりも自分の頭を使って考える訓練がなされていることである。
6.自ら学び、いつも良く考えているか。これが自分の持つ能力を鍛えて、自分に無限の可能性を与え、自分を高みに導くことになる。
このように書いてみると、以上のことは研究費の潤沢ないわゆる一流研究室にいなくても、身につけることが出来るのがわかる。以上の実現は決して難しいことではない。心構え一つで学生は一流を目指せるのだ。そうなると、彼らを訓練し、指導してこの心構えを身につけさせるのは私たちの役目である。学生がこれを 受け入れるという心の準備さえしていればよい。
9.「襤褸は着てても心は錦」の意気で行こう
というわけで、私たちの研究室の憲章は以下のように始まることになった。
山形達也・貞子研究室憲章(基本法)
1.私たちの研究室は、研究室に所属する学生・院生を一流の研究者に育てることを目指している。
2.研究室の学生・院生は、一流の研究者になることを目指してここにいる。
3.したがって、学生・院生はそのために、別項に述べる規則を守り、実験を生活のすべてに優先させなくてはならない。
4.・・・
これは私たちと学生たちとの間の基本契約と言えよう。お互いこう思っているんだから、一流を目指して頑張ろうよと言うことになる。
そうなのだ。せめて学生には一流なのだという意識を持って貰わないといけない。「襤褸は着てても心は錦」である。このような研究室の憲章を皆で議論してからは、院生が一段と研究に身を入れるようになったような気がする。
瀋陽薬科大学
山形 達也
(一)
春節休み明けの今年の新学期は2月20 日の月曜日から始まった。長い休暇の間、殆どの学生は故郷に帰省していて、休みの終わる1-2日前になってやっと大学に続々と戻ってきた。黒竜江省に帰っていた王くんは故郷のお土産ですと言って、30センチくらいの長いソーセージの6本入った袋を二つくれた。同じく黒竜江省の暁東さんはキクラゲと沢山の松 の実がお土産だった。湖北省十堰出身の陳陽くんは湖北省で産する「毛尖」という美味しいお茶のお土産だった。天津市が故郷の満さんは天津名物の十八街(硬いドーナツのようなもの)だったし、雲南から戻ってきた馬さんは雲南省名物のお茶だった。中国の西の果てにある新疆の麦都さんは馬肉のソーセージ、薫製の馬肉、干し葡萄を持ってきた。
同じく新疆の陽暁艶さんは故郷で採れる香梨と呼ばれる果物を研究室の一人一人に行き渡るように、片道4日間の行程を掛けてはるばると新疆名物の梨を研究室の人の数だけ運んできた。梨の「リ」と言う音は離別の「リ」に通じるので、梨は決して二人で分けてはいけないと中国では言われているということだ。従って分けず に済むよう数が必要だったのだ。湖北省の毛毛くんは故郷の街の名物の胡麻入りクッキーを持ってきた。
最初の年に私たちの研究室にいて2年目に韓国の大学院に行った魯くんは、修士を終わって博士課程に入ったこの冬、中国の貴州にある故郷に帰った。休暇を終えて再び韓国に戻るとき、瀋陽経由にしてこの地を訪ねてくれた。残念ながら私たちは日本で用事があって出発間際に中国に戻るのを二日遅らせたので、一日違いで魯くんに会うことが出来なかったけれど、魯くんは私たちに貴州のお茶と、自分のうちでお母さんが自ら作ったソーセージを沢山お土産に置いていった。燻製の香りの高い、たいへん味の良いソーセージで、研究室の人たちに勧めた上に、あまりにも美味しいのでまわりの人たちにもお裾分けをしてしまった。
瀋陽にある日本人会の集まり等で企業の人たちの話を聞いていると、工場の原料購入などしている担当者には年末などになると出入りの業者からの謝礼が届いて、それは凄いという話だ。以前は出入りの中国人が事務所に来て、懐中から無造作に現金を何万元と掴み出して受け取れと言うらしい。「えーっ?それを貰うんで すか?」
訊く方は、きっとこの金を貰わないという話になるんだろうと思いつつも、唾を飲み込んで訊ねる。「いえいえ、そんなものを貰ったらあきまへん。その次から粗悪品を入れられても文句が云えなくなってしまいまっさかい。そのための賄賂ですねん。」
「そうやって何時も断っているうちに、あそこは現金を受け取らないと言うことになって、うちに今度は品物を持って来よるんですわ。」
「そしたら来るわ、来るわ。もらい物は社員で分けることにしてますが、冷凍のエビとか蟹を貰ったりするんで事務所にそれ専用の冷凍庫を買いましたよ。こないだなんか、箱から出て事務所の床をワタリガニが仰山歩いとりましたわ。」
中秋の名月の頃になると瀋陽の街中のお菓子屋やデパートの食品売り場は、月餅売り場で占められ、売り場に山ほど積み上げられた月餅が売られるようになる。そして、その時期には金(gold) で出来た月餅を人に贈ってはいけないとか、そのための金の月餅を売ってはいけないとか言う通告が政府の名前で出たりする。お菓子売り場で金の月餅を売っているはずがないし、貰うはずもないので見たことはないが、これはつまり、中国は贈り物天国、もっとはっきり言うと賄賂天国ということのようだ。旨い汁を吸おうという人たちが金づるに集まって、人は持ちつ、持たれつという甘い関係を作って社会が動いているようだ。
そのような社会だから、大学の中でも成績を良くしてもらったり、何かの賞や候補に選んで貰ったりするためには、ある場所ではそのような礼物や付け届けが幅を 利かせているかも知れない。あるかも知れないなあと思うだけで身の回りで見たことも聞いたこともないが、学生たちのお土産が賄賂と言うことはあるまい。研究室の学生が故郷から持ってくるこの程度のお土産ならば、まさか贔屓してくれと言う鼻薬のつもりでもないだろう。私たちの研究室で季節の節目ごとに開く食事の会はすべて私たちがその費用を持っているのだから、そのお礼のつもりかも知れないなと思って、ありがたく戴くことにしている。
(二)
そうこうするうちに新学期前の二三日は瞬く間に過ぎて、2月20日の月曜日になった。この後学期の始まる日から卒業研究生を迎えるので、最初の日は新人を含めて皆に集まって貰って研究室の決まりなどを話すことから一日が始まる。
私たちの研究室では、前の日本語クラブ21 号に書いたように、研究室憲章を作っている。これは、「山形研究室は学生を第一級の研究者に育てることを目指し、学生も一流の研究者になることを目標とする。そのためには学生は研究することを生活のすべてに優先させなくてはならない。」という、日本だったら言うのも聞くのもどちらもびっくりという、恐らく前代未聞の大原則から始まっている。
何故こんなドンキホーテみたいなことをしているかと言うことは以前書いたけれど、「こちらが熱い思いで学生を育てるのだから、学生もそれに応えろよ。」ということを文章にしているわけである。
子どもは親の背を見て育つという。学生が私たちの子どもたちなら、こんな照れくさいことを口にしなくても分かって欲しいけれど、しかし妻と私が朝早くから夜まで研究室にいるだけではなく、土日も大学に来て研究と学生のために時間を使っていることを、中国の学生は何故そんなことをするのか、どうしてそんなこと が出来るのか理解できないのだ。日本の先生は工作狂(仕事中毒)というわけだ。しかし私たちのことを「工作狂ですね」というだけで片付けて欲しくない。それで「自分たちの時間、健康、財産をつぎ込んでいるのは、あなた達のためですよ」と、はっきりこちらの立場を宣言しているわけだ。
その朝、教授室の一隅に集まった院生、学生11 名は卒業研究学生の4名のうち日本語班出身が3人いるので、全体として日本語の分かる人が6名、分からない人が5名となって、今期からは日本語が逆転して優勢になってしまった。研究室憲章・規則は日本語で書いてあるので、私が日本語で話してそれを院生の一人の毛毛くんが中国語に通訳してくれた。私には研究の話は英語で何とか出来ても、研究そのものを離れると英語で話す力はないし、聞く方の中国の学生だって理解できる力はないからである。
「研究室は研究費もないし、設備もないし、実績もなく、とても一流ではないけれど、指導する私たちの力と意欲は一流なのだ。あなた達が私たちの意欲に応えて努力すれば、必ず第一級の研究者の卵に育て上げよう」という私たちの約束は静かに彼の頭にしみ込んだようである。この後には続けて研究室のいろいろの決まり も皆に話し、一応理解されたようだった。最後には研究室の一員になった証拠に、教授室、実験室二つ、ロッカーの鍵をそれぞれの新人に渡して儀式が終わった。
今まで7名の院生のいるところに4名の学生が増えて一遍に研究室が賑やかになった。割合からすると5人の院生のいるところに3人の新人が来た昨年と状況は大して変わらないが、今年の方が断然新人が優勢である。院生のひそひそ声を訊くと「今年の学生は、新人類ですよ。」ということだった。3年上で彼らの大先輩 に当たる胡丹くんは「どうも私たちのことを先輩と思っていないみたいです。」とぼやいている。
実際、日本語の上手い新人の陳陽くんは私たちのいる前では学生同士でも日本語を使って話しているが、胡丹くんに「だけど、きみはそういうけれどね。」と言っているのを目撃した。私たちは慌てて「同年の友達同士なら【きみ】と呼んでもいいけれど、日本で年上の人に【きみ】なんて言ったら大変なことになるよ。」と教えることになった。それにしても、世代の断絶感は、何処の国でも、どの世代でも味わうものらしい。
(三)
研究室では院生も育ってきて研究が進むようになっているので、彼ら一人に卒業研究の学生一人を付けて教育・研究指導を行って貰うようにした。昔と違って今時の生化学反応は、細い先端を持つチップを付けたピペットで、1マイクロリットル(1 mlの千分の一)の試薬や試料溶液を取って0.2 ml用の小さなミクロチューブにいれ、ほかのものも同じように入れて全量25マイクロリットルで反応するなんていうのが始終である。
学生実験ではこういうことをやっていないので、彼らは先ずマイクロピペットの使い方に習熟しなくてはならない。それも、手先に付いているRNA分解酵素が混ざるのを防ぐためにラテックス製の手袋をして、唾に混じるRNA分解酵素が飛び散って入り込むのを防ぐためにマスクをして、おしゃべり厳禁で実験をしなくてはならない。このように、一人前に実験が始められるようになるまでに学ぶことが沢山ある。
卒業研究の学生たちが来てから1週間経った月曜日、私たちが朝7時過ぎに教授室に来るとドアの鍵が完全には掛かっていなかった。ドアが閉まっていただけだった。一般に、ホテルの個室のドアを閉めると外からは開かない。同様に中国のドアも閉めるとノッチが出て簡便に閉まるようになっているので、一応閉まっているのである。しかしロックは、キイを差して二度廻さないとドアは完全には錠が掛からない。
この新しい建物も容易に外の人が内部に入れるので、隣の女性教授の室では短時間のうちにノートブックコンピュータが盗まれたし、上の階ではバッグから財布が盗まれている。大事な資料や実験器具の盗難に遭いたくないので、私たちの部屋はたとえトイレに行くときでも部屋が無人になるときはドアを閉めて(つまり鍵 が掛かった状態にして)出るように、そして最後に帰るときには、電気、水、エアコンなどの点検をしたあと、鍵を二度廻して完全に施錠するようにしつこく伝えて徹底させている。
【今年の新人類と一緒に私たち】
前の晩に帰るとき、最後になった人がドアを閉めてもキイを使ってロックをしなかったことが明らかである。このようなことは放っておくと良くない。 というわけでその日は朝研究室に出てくる学生に次々と、昨日の日曜日は何時来たか、何時に帰ったのかと訊いていった。すると、新しい学生の陳陽くんが前の晩は最後までいたらしい。やがて陳陽くんが来たので訊いてみると、訊かれた状況の分かった陳陽くんは、「それは私です。」と直ちに名乗り出たが、それで解決したのではなかった。
訊いてみると、もちろん彼は最初の日に支給された鍵を持っていたけれど、その鍵を使ってドアを閉めるということを知らなかったのだ。「えっ。どうして?」こちらは文字通り絶句してしまった。
学生に訊いたり、記憶をたぐると、最初の日の話の時に、部屋が無人になるときドアを開けたままにしてはいけないとは話したけれど、ドアの鍵の掛け方を話していないということが明らかとなった。
これは私の手落ちである。しかし、釈然としない。鍵を渡すときには、これは教授室の鍵、これは実験室の鍵といいながら、それぞれに手渡しているのである。鍵を貰って身につけて持っていながら、鍵を使うということが頭に浮かばなかったとはいったい何なんだろう。訊ねてみると、鍵は部屋を開けるためのものだと思っていたという。
鍵の掛け方まで徹底的に言わなかったこちらにも手落ちがあるかも知れないが、何だかおかしい。それで思ったのだが、中国の学生は今では皆が1978年以降の 産まれなので、一人っ子政策が浸透して数年してからの子どもたちである。つまり兄弟がなく、彼らの世代はひっくるめて小皇帝と呼ばれるように、一人っ子として親や祖父母から大事にされ、甘やかされて育っている。この陳陽くんのように80年代以降の生まれは『八零后』と呼ばれてひとくくりにされる世代である。私たちが誰でもごく当たり前に簡単に出来ることが、出来ないのだ。
リンゴを剥くには、ナイフを持った右手の人差し指と、リンゴを回す右手の親指、リンゴを持った左手の連動が上手くかみ合わないといけないが、この頃の学生はリンゴを左手でしっかり持って、ナイフを持った右手を動かして皮を削ぐのである。剥くのではない。指が使えない。見ていてはらはらする。彼らは子どもの時から、何でも人がやってくれるのである。
訊くと、陳陽くんは何時もお母さんがやってくれたそうで、リンゴの皮を剥いたこともないという。先日は研究室の小さな器具の修理に、先輩の胡丹くんが精出しているときに、陳陽くんはドライバーなるものを手にしたことがないということが分かった。鍵も使ったことがないと考えるべきか。
この陳陽くんは日本語はとても上手いし、つい最近公表されたことだが大学院の入試に1番の成績で通ったくらいだから勉強は良くできる。2003年度の麦都さん も入試成績一番で、胡丹くんは推薦入学だった。昨年の毛毛くんもダントツの1番だったそうで、私たちの研究室に毎年入試一番の学生が来ることは結構なことだが、将来はプロフェッサーになりたいと平然と口にする陳陽くんという新人類の出現で、研究室の常識も頭を切り換えて見直さなくていけないことになったようだ。
瀋陽薬科大学
山形 達也
日本語にすると「悪い男じゃないと女は惚れない」という意味の成語が中国にはあるが、これに相当する成句は日本にはないように思う。言うまでもなくこの意味は、世間の信用を得て生きていく上には男は真面目、正直、誠実であることが大事な要素かもしれないが、悪心を遠ざけて一度も持たないような男では、女は二の足を踏み、本当には惚れないものだ、ということだろう。
1.ポスドクの募集
中国語では「男人不壊、女人不愛」というこの成句は、まだ日本にいるころ、私達の研究室にいたポスドクの呉さんから教わった。呉培星さんは2001年4月正式に雇用したポスドクで、彼はその年の春日本の大学院を出て博士号を取ったばかりだった。ポスドクとは博士号を得たばかりの人たちが2〜3年の研究の修行をする期間で、アメリカではごく当たり前の制度である。米国では博士の学位を取った後、別の分野、別の研究室でポスドクの修行をして、それから大学教官に採用される。日本で言うとアカデミックキャリアの最初は助手になるが、米国だと、Assistant professorという名前になる。将来、学者・研究者・教授になる道の第一歩である。
今日本の研究期間にはこのポスドク制度を導入しているところが多い。しかし一方で、大学の採用人事はこのポスドクと無関係に行われることも多いので、ポスドクの期間を終えても大学で採用される保証は全くないというのが今の日本の実情である。産官学を含める大型プロジェクトは今日本では花盛りで、その研究遂行の実際上の研究を担当するのがこのポスドクたちである。但しこの華のポスドクにはその先の職が用意されていない。ポスドクという形で、博士号を取った人たちが独り立ちして研究能力があるかとどうかを見るのはとても良い制度だが、その先に何もないというのでは、研究労働力の使い捨てである。大学の教官人事・助手の選考はポスドク経験をした人だけを対象とするようにすれば一夜にして解決することだが、制度をいじる人たちは自らの痛みではないので何もしないのが実情のようだ。
そのポスドクの募集の時3人が私のところに応募した。それまでポスドクだったフィリピン出身のマリアさんが東大の助手になって去ることになってしまったので、緊急にその後のポジションを埋めなくてはならなくなった。3月半ばの東大の教授会で人事決定があるまでは、マリアさんが正式に移ることが決まったわけではないので、そのポジションで声高に人を探すことは出来ない。従って3月になって、このプロジェクトを一緒にやっている大学の先生たちに秘かにポスドク1名分のポジションが空くこと、誰かを推薦して欲しいことをお願いすることが出来ただけである。
3人の中から鳥取大学で博士を取った呉さんを採用することになった。彼の名前は「培星」で、なかなか良い名前である。「星を育てる」なんて名付けた親の雄壮な気持とこの子に懸けた期待が伝わってきて嬉しくなる。培養という言葉は日本では、細胞培養、組織培養というように使っている。「育てる」という意味だけれど、日本語では限られた局面にのみ使い、人材培養とはいわない。しかし中国では、広く使われる言葉で、培養人材というのはよく聞く言葉である。
【写真:2002年日本皮革研究所の山形研究室】
私の前に現れた呉さんはすらりとした長身の白面の30代後半の青年で、初対面でも邪気のない笑顔がとても魅力的だった。瀋陽のある遼寧省の北に隣接している吉林省の出身だという。その後私も中国に来て知ったことだが、中国の東北地方の人たちは平均的に背が高い。それまで脂質の生化学をやっていて、私の求めているポスドクとはバックグラウンドが違うが、遺伝子工学を手段として使ってきたので、やる気さえあればまあいいだろう。
2.ポスドク生活
研究費のもとの出所は日本の農水省でポスドク1ヶ月50万円の予算が付いている。この金が研究所に入って研究所からは経理と人事の手を経て社員と同じ扱いで給料を貰うことになったわけだ。保険・年金とか、なんやかんやで引かれるから50万円は手に入らないが、それまで奨学金で苦学していた学生生活から見ると夢のような大金が貰える。研究所の入り口からわずか50メートルのアパートの一室を見付けた呉さんは、毎日研究で忙しくて運動する暇もない、通勤が近くて歩くことが運動にならない、幾らビールを飲んでも沢山貰っている給料にはゴミみたいなものだから毎日晩酌を欠かさない、というような理由で、たちまちお腹に脂が乗ってきた。背が高くてお腹の出てきた呉さんは、栄養も良くつやつやと福顔になって貫禄が出て来たとしか言いようがない。
私たちの研究室にはポスドクがもう一人いた。当時は独立した官庁だったがその後文科省に吸収された科技庁のポスドクである。「科技庁のポスドク」というのは説明が必要である。科技庁がポスドクの予算を持っていて、ポスドクの希望者がここに申請して審査を通ると、毎月35万円くらいの給料と年間百万円くらいの研究費を付けて大学・研究機関に送り出すのである。行き先はどこでも良いというわけにはいかず、科技庁のポスドク派遣先機関のリストに載っていなくてはならない。私のいた研究所は、私が行ってから科技庁に申請して派遣先機関としても認めて貰っていたのだった。髙久静香さんという、玉川大学の大学院で学位を取った誠実に研究を行う女性研究者だった。上の写真では後列の左に写っている美しい女性である。
このほかに東邦大学の理学部の研究室から卒業研究の学生が毎年何名か来ていたし、修士の学生も受け入れていた。中央大学からも卒業研究生を受け入れたことがある。それで、妻も入れて何時も6・7名いた私たちの研究室は小さな研究室だったけれど、それだけに何時も寄り集まってひとつの家族のような研究室だった。私たちはその頃毎年中国の大学に来て2週間くらいの間に集中講義をするという生活をしていたし、いずれ中国の大学に行こうという気持になっていたので、中国出身の呉さんはたちまち家族の大事な要員となった。
【写真:「 チョイ悪」の呉さん】 呉さんは鳥取大学にいたころは、中国の留学生が多いためか日本の学生とあまり話す機会がなかったという。大学の先生も学生と親しく話すことはほとんどなかったと言うことで、会ったときにはすでに5年間日本に暮らしたにしては日本語がたどたどしかった。それが、私たちの研究室に来て、何時も一緒に仕事しながら話す機会も増えて、彼のお腹がビールのおかげで迫り出してくるのと歩調を合わせて日本語も上達してきた。
3.好青年は曠野を目指した
付き合ってみると初対面で呉さんから受けた明るい印象は呉さんの人間性から発した本質的なものであることが分かった。呉さんは根っから明るい人間なのだ。呉さんが共産党員だと聞いて、何しろアカは悪だと戦前どころか戦後も声高に語られた日本に育ってきた人間としては身構えるところもあったけれど、実は段々分かってみると中国では優秀な人材は皆共産党員なのだ。考えるまでもなく、共産党が政権を保つためには優秀な人材を根こそぎ共産党員にする必要がある。どういう見返りで勧誘するのかは知らないが、共産党員と言うことには成績優秀の裏付けがある。
呉さんは成績優秀のほかに、しごく真面目な共産党員だったらしく、北京農業大学を卒業するとき「共産党員はすべからく人民の模範とならなくてはならない。蘭州の畜産研究所で求人がある。卒業後は地方に行って地域農民に奉仕する人はいないか?」と聞かれたときに、真っ先に「はーい、志願します」と手を挙げたそうだ。真面目な面だけではなく、至っておっちょこちょいなところがあるので、その時には手を挙げて地方を志願する自分の姿にしびれていたに違いない。
そして西安(昔の長安)よりもさらに西にある蘭州の研究所に行って十数年、ひたすら地域のために働き、気付いてみると彼の大学時代の気の利いた友人たちは北京で誰もが出世している。地方の研究所で牛のお産を手伝って暮らしているのは彼だけである。こりゃいかん、と彼は思ったけれど牛相手の毎日の生活でこれという論文を書いていない彼は良い生活に移りようがない。残る手段は思い切って外国に留学してキャリアを得て別の暮らしを始める資格を得ることである。というわけで、日本の大学院に入って勉強をして博士号を取ったのだった。
「じゃ、どうなの。今ここでポスドクをしているけれどいずれ中国に帰るんでしょ?どこか良いところにポジションは見つかりそうなの?」と訊くと、呉さんの明るい顔が暗くなる。「それが、留学するのがちょっと遅すぎたみたいで、私の年代は今ではたいてい組織の上の方か教授になっていて、留学しただけで格段の業績もまだ持たない私がどこか同じような地位で入れるところはないみたいです。」
そうだろう。日本に留学しただけで箔が付く時代ではなくなっているのだ。呉さんは蘭州に行って数年した段階で日本に留学するべきだった。そうしたら今では北京大学の教授になっていたかも知れない。しかし、時流は十年遅れた彼を追い越してしまってもう彼はお呼びではなくなってしまったのだ。「ここで良い研究をして中国で認めて貰うしかないよ。」と言うしかない。
4.男はちょっとくらい悪くなきゃ女は惚れないよ
つまり、呉さんは真面目な共産党員だったけれど、同時におっちょこちょいでお人好しなのである。同じような性格の私と馬が合わないわけがない。たちまち意気投合して何時も冗談を飛ばすような間柄となり、中国式に言うと「忘年朋友」という関係となった。こうやって教わった中国のことわざもの中に「男人不壊、女人不愛」というのもあったのである。
男と女の脳は全く違うから男に女の心理は分からない。私に分からないだけではなくて、誰にも分からない。その証拠に古今東西、評論の対象、小説の題材になり続けている。分からないけれど、女性が自分に対して誠実な男を求めると同時に、一方でただのつまらない男には満足しないことも分かる。ほかの女をも惹きつける魅力を持った男、男からも一目置かれる男、心の底の一隅に蔭があって自分のためには多少の悪いことをすることも辞さない男、そういう男でなければ女は本当には惚れないのだ。
その呉さんは詳しく話すと私がからかうものだから、頑として口を割らないが、断片を組み合わせると鳥取の大学院にいたころ中国の北京から留学してきた女性の李さんと知り合ったらしい。どこでどのように口説いたのかも話してくれない。しかし、私と妻が呉さんも誘って2002年夏に中国で開かれた学会に参加したとき、ついでに北京に寄って観光することにしようと、私たちが言い出したのか、呉さんが言い出したのか、今は思い出せないけれど、ともかく蘭州に行く途中に北京に3日間寄って観光をしようということになった。呉さんは何しろ北京で大学生活を送っているので北京はよく知っている。喜んで案内しましょうということだった。
その夏の北京は暑く、暑さで次々と人が死んだと言うくらい暑い夏で、故宮も、西太后の庭園も暑さで目が眩んで歩くのがやっとというくらいだった。私たちはそんな暑いところよりも、劇場で京劇を見てみたいと切望したけれど、呉さんは何のかんの言って連れて行ってくれない。後で調べてみると、京劇を夏にやっていないわけでもなく、中国語の分からない観客でも見て楽しめる京劇もやっているのである。そう、答えは北京生まれの彼女も同じ時に(私たちには秘かに)北京に来ていて、呉さんは私たちを出汁にして時間を沢山作って北京でデートをしていたのである。
呉さんは成績優秀で、真面目な共産党員だったが、おっちょこちょいでお人好しで、そして悪いところもある人なのである。その彼に惚れた李さんは、李香蘭のような美人で清楚で慎ましくしかも明るい素敵な女性である。私たちの研究室で2年間のポスドクを終えた後、慶応大学の助手となった彼はめでたく彼女と結婚し私たちを新居に呼んでくれた。呉さんが彼女に首っ丈なのは当然だが、彼女も彼に心底惚れているのが分かる。何しろ呉さんは私たちを出汁にして北京に出掛けてまで彼女とデートの時間を作った「悪い呉さん」だからだ。
5.その後の話
私たちの研究室を離れて2年間呉さんは日本の慶応大学にいたけれど、1年前に北京に戻ってきて会社を創設した。つい先日私たちを訪ねてきてくれたけれど、益々太って社長の貫禄十分だった。この一年、動いた金が百万元、入ったのが半分で残りは赤字だから商売は大変とぼやきつつも、それでも「先生のところは基礎研究だから研究費が大変でしょう。今に沢山儲けて助けてあげるからね。」と言ってくれる。私たちがここにまだいるうちに、早くそうなって欲しいものである。
瀋陽薬科大学
山形 達也
こんな題をつけると、教師の会の男性諸氏の視線を釘付けにするだろうなあ。レースのパンティだって?いったい何だ。何の話だ?誰が穿いているんだ?レースの色は白か?いや、パンティは黒がいいなんて、内心が思わず口に出る人がいたりして。
ともかく、一瞬にして人によってそれぞれ違う内容を頭の中に思い浮べるはずだ。そして、この先を大いに期待しながらも、話がこの先どう展開するか分からないから、まだ堅い顔のままでその先を読むだろう。
男ものならパンツと言うから、パンティというと女ものを指すだろう。いや、女ものならスキャンティか。英語でものの量がとても少ないとき、 a scanty of という表現がある。小さな、小さなパンティに鴨井洋子さんがスキャンティと命名したと聞いたことがある。なかなかうまい命名だね。
一方、パンツは英語圏では日本でいうズボンのことを指している。昔シカゴ大学に留学していた頃、カタログ販売で有名だったが今はもう閉店してしまたシアーズで緑色のズボンを買ったことがある。翌日それを穿いていったところ、ラボのテクニシャンの女性が、Oh, nice pants!と叫んだので、思わず私はパンツのまま出てきてズボンを穿いていなかったかと下を見てしまったものだ。
男物の下着は今ならショーツというのだろうか。私の子どもの頃は一様にパンツと呼んでいた。形は今はやりのボクサータイプの原型である。戦後まもなくの子ども時代はものの乏しい時代で、電気洗濯機に放り込んでスイッチぽんと言うこともなかった。もっぱら母親の労働に依っていたから、親孝行にもパンツも毎日洗濯することなく、平気で二日三日と穿いていた。
どうしてこんなことを覚えているかというと、戦後初期の映画界を風靡した石原裕次郎がインタビューで、私はパンツは毎日替えているというのを読んだ時、大ショックだったからだ。つまりその頃、私は毎日替えていなかった。しかし、やがて色気づいてからは実際は毎日替えるようになったのだから、これは子どもの時だったからというべきだろうか。
さて、私は先ず読み手の期待に応えなくてはいけない。「私はレースのパンティのコレクターです。」ハハハ。言ってしまった。男性はきっとここでニヤッとするだろうな。エッ、あんな真面目そうな顔して、むかし掴まったことがあるんだろうか?なんて思ったりして。
一方で、教師の会の華やかな麗しの女性の先生たちは「私たち女性の前でレースのパンティなどという言葉を口にするなんて」と一斉に顔をしかめるかもしれない。「パンティのコレクターだって?あの先生が?」というわけで、総スカンを食ってしまいそうである。「エッ?やっぱりね」なんて、遠慮会釈なく憎まれ口をたたきそうな女性も、思い当たらないでもない。
中国のヴァレンタインは世界共通の2月14日で、情人節なんていう名前が付いている。私は小学校時代から円本と呼ばれた現代文学全集を乱読して大きくなった。この文学全集は大正15年末に改造社が『現代日本文学全集』を1冊1円で予約販売する企画を発表し、翌年の昭和2年に購読希望者を募ったところ、25 万を超える予約申込者があり、最終的には50万部以上出たという話なので、その頃たいていの家の本棚を飾っていたのだろう。全63巻というもので、伏せ字の存在はものともせず端から読みまくった。まだ、子どもだから大人の世界の言葉は良く理解できないながらも「情人」という言葉に胸躍らせ、早く大人になりたいと思ったものだった。その頃は「愛人」という言葉よりももっと秘めやかな世間をはばかる意味で使われていたように思う。
その時に情人なんて言葉を聞くとどきっとする刷り込みを受けているから、今でも「情人」なんて耳にすると落ち着かないが、今では中国の学生諸君とは、情人節が日本のヴァレンタインと何処が違うか話すことが多い。この国では女性が男性にチョコレートを贈って、男性は女性にバラの花を贈っているらしい。義理チョコなんてものがなく、皆大まじめなのだ。
始めて中国に来て研究室を構えた時のヴァレンタインでは、研究室の男の学生はその日に間に合うようバラを小包にして遠くにいる恋人に送ると言って、大騒ぎだったのを覚えている。間に合いそうもなくなったある男子学生は、何とバラの花を持って夜汽車に乗って、立ち通しで四十数時間掛かる広州まで出掛けていった。五日間の休みを取らせてほしいと言った彼の必死の顔がいまでも思い浮かぶ。ちなみにこの学生はその後奨学金を得て日本に留学し、やがて彼女も後から合流して、今は一人の奨学金で二人が頑張って博士号取得を目指している。
このようにヴァレンタインの時には相互に贈り合うので、日本のようにホワイトデイなんて習慣はない。そこのところは十分説明しないと分かってもらえない。だいたいが中国では、義理チョコも説明を要する言葉なのだ。「ヴァレンタインの1ヶ月後の3月14日にね。ホワイトデイといって、ほら、白いミルクチョコレート、マシュマロなんかを、男の方が女性に上げるのよ」などと妻が学生に説明している。放っておくと「彼のために、私がいつも沢山ホワイトチョコを買いに行ったものだわ」なんて言い出しかねないから、「だけど今は、白いパンティなんか贈るみたいだよ」と話を私が引き取ることがある。男の学生はさしてたじろがないけれど、あとで妻に、「若い学生の、しかも女性の前で気軽にパンティなんて言葉を口に出すなんていけないわ。人前でどう反応して良いか困ることを口にしてはいけないの。」とたしなめられる。つまり、女性の前での禁句を口にしてはいけないという禁断の垣根を、私はいま越えようとしているのかも知れない。
ところで、人種をからかいの対象にした世間で行き渡っているジョークがある。
そのひとつが、「人生で最高の生活とは?」という質問に対して「アメリカで給料を貰い、イギリスの住宅に住み、中国人のコックを雇い、日本人を妻にすることさ。」と答えるのがある。このよく知られたジョークは、本当なんだから面白いのだ。四つの条件のうち、イギリスの邸宅は知らないが何しろ世界に冠たる日本のウサギ小屋には長年なじんでいるし、コックこそ雇ったことはないけれど中国料理の秀逸なのはよく知っているから、このジョークには「大統領!その通り!」ということになる。
このジョークの裏返しの、「それでは最低の生活とは?」「中国で給料を貰い、日本の住宅に住み、イギリス人のコックを雇い、アメリカ人を妻にすることさ。」というのも、もっともだと頷ける。
今、私たち男性は「中国で給料を貰い、中国の住宅に住み、中国人のコックを雇い、日本人を妻にしている」のだ。「中国で給料を貰う」のでマイナス1。「中国の住宅に住む」のはプラスマイナス0。「中国人のコックを雇って」プラス1。「日本人を妻にしている」ことでは、胸を張ってプラス1。つまり、プラス2とマイナス1で総計評点はプラス1となって、ここで幸せな生活をしていることが、客観的には評価できる。
このジョークの中の日本人の妻という表現には、「男を立てる」とか「しとやか」というイメージで使われている。今やそのイメージは中高年の女性の一部のみに見られるか、あるいはもはや、男女間の戦いに負けた悲しい男の秘やかな思い出という郷愁の中にしか存在しないと言われて久しい。
それでも、瀋陽日本人教師の会の若い女性の先生たちは、誰をとってみても個性的で、魅力的で、有能で、息子の嫁に誰方も是非ほしい女性である。彼女たちの誰か一人とでも結婚できれば、息子は最高に幸せに違いない。だけど、「レースのパンティ」なんて題を見て、眉を上品にひそめた女性の先生方に「違います、そんなつもりではないですよ。」と幾ら言い訳をしても、もう女性の前での禁句を口にしてしまったのだ。おまけにコレクターであることも激白してしまった。蔑まれた私の不幸だけでなく、哀れ、私の息子にも幸せのバラ色に輝く将来はなくなってしまった。それだけでない、これを読んだ女性の先生方のきつい視線を考える度に心が萎えてくる。もう勘弁して欲しい。洗いざらいぶちまけるから。
レースのパンティが手元にあるのも本当。それを私が使っているのも本当。但し一般名で言うとパンティではなくパンツ、つまりショーツあるいはブリーフである。どうしてそうなったかと言うと、元凶はうちの二層式洗濯機である。アパートに入ったときには新品として供与されたのだから文句の言いようはない。40年前の私たちの結婚した頃は二層式洗濯機が普通だったから、昔を懐かしんで大抵は私が洗濯している。
全自動洗濯機と違って洗濯物を移し替えることに手が掛かる。それをやりながら思い出すのは、大分前のことだけれど男親は汚いというイメージキャンペーンがあって、「うちでは洗濯のとき父さんのパンツは箸でつまむのよ」という話が堂々まかり通っていた。そのもじりで言うと、私は「妻のパンティを箸でつまんでね、私が洗濯してますよ」というジョークになる。ほんとかも?
この二層式は水流が二段調節になっているが、強いと強すぎるし、弱いと弱すぎる。洗濯槽で洗濯物が動かないことにはきれいに洗えないから、どうしても普段から「強」しか使わない。というわけで洗濯機が余り強く洗うから私のパンツはどんどん薄くなって、ある時洗濯を干しているとき、向こうが透けて見えるという興奮の大発見に繋がったのだ。
凄い。私のパンツは薄い。まるでレースのパンティだ。ということで、わたしはレースのパンティを穿いているのである。このレースのパンティを量産してくれる洗濯機は、蓋が外れ、水流切り替えノブが壊れて何時もそのたびにペンチを使って廻しているが、それでも使い始めて3年間、毎週3回の使用に耐えている。研究室の冷蔵庫はもう2台壊れて捨てたというのに、それに比べて随分働き者である。おまけにレースのパンティという余剰価値を生み出すとは。
レースのパンティと云ったって、実はへたったショーツじゃないかって?
いいえ、決して。こうやって鬼の二代目編集長の苛斂誅求に応えてちゃんと「迷文」を生み出す材料になったのだから、褒めてやらなくっちゃ。
(ジョークの出典は、早坂隆、世界の日本人ジョーク集、中公新書2006年)
瀋陽薬科大学
山形 達也
この秋に私は短い恋をした。この短い恋は、一方的な片思いだった。秋風が急に強くなり、満州ポプラの葉を吹き飛ばして梢を裸にし初雪がちらつくまでの本当にあっという短い間に、この恋は終わってしまった。私の心に我が身の不甲斐なさを責める未練と、胸の奥に疼く痛みを残しながら。
恋は突然にやってくる。ある時はテニスコ一トで爽やかな汗をかいたあと、うなじにへばりついた後れ毛を見た途端に背筋を電流が走り抜け、恋に落ちたことを知る。ある時は春めいた昼下がりの日本語資料室で、秘やかな衣擦れの音に続く爽やかな日本語を耳にして、恋が目覚める。しかし恋したことを知るよしもなく、恋を失ったあとから恋だったのかと思うこともある。今回の恋もそうだった。
今回の物語の伏線は、戦前というはるか大昔にさかのぼる。私の父は昭和の初めに東京駅の近くで国際特許事務所を開いていて、ドイツ、オ−ストリア、スイスが得意先だった。それで、1939年ドイツがポ−ランドに侵攻して以降、ヨ−ロッパ戦線が拡大するにしたがって仕事がなくなった。第二次世界大戦が終わったあとも、もちろん仕事がなかった。丸の内の仲三号館に三菱地所から借りていた事務所は、戦後にはとうとう東亜興業という映画の配給会社に又貸しして、同居させていた。と言うか、父の場所としては机が置いてあるだけで、そこに父はいなかった。
その部屋代だけでは育ち盛りの子ども二人を含めた家族を養うには足りない。やむなく自宅に旋盤を手に入れ、昔専攻した機械工学の腕を生かして父は歯車刻みをやった。食糧不足を補うために、庭の真ん中に山羊小屋を作って山羊を飼い、そのミルクを子どもたちの栄養源にした。目黒区の東横線沿線の都立大学の近くで、山羊を飼うために刈る新鮮な草がまだそのころは幾らでも手に入ったのである。
戦争の間は、黒い布で笠をおおった薄暗い電球の灯りの下で真空管ラジオを囲んで、空襲警報の発令のサイレンにおびえながら大本営発表の赫かくたる戦果を聴いた。戦後になってから、爆風で飛び散るのを防ぐために十文字に紙が貼られたままのガラス窓越しに平和な日射しを浴びながら、「りんごの歌 1946年」や、「鐘の鳴る丘 1947年」を聴いたのもこのラジオだった。これは戦争のために貧乏生活に見舞われたうちの唯一の娯楽だった。その後日本は1951年に平和条約を結び、その結果父の専門の特許でやっと仕事らしい仕事が始まってほっとしたのは、その翌年からだったように思う。
一方で1950-53年の朝鮮戦争は日本に景気をもたらし、戦後の荒廃から立ち上がるきっかけとなって、戦後の復興は急速に進んだ。世の中には様々な物品が溢れるように出回り始め、音楽では78回転のレコ−ドに代わってハイファイのLPが出るようになった。我が家でも貧窮洗うがごとき生活をしながらも、1952年にはハイファイステレオ電蓄を父が買って来た。当時でも2000円を超えるLPはなかなか買えなかったが、音楽放送を聴くのがうちの日常生活となり、私は今でいうクラシック音楽にたちまち夢中となった。うちの間貸しの部屋に入っていた門司から来ていた大学生が置いていったラジオを高校3年の時にもらい受けて、受験のための勉強で夜更かしをしながら毎晩日本放送の音楽深夜放送を聴いていた。高校の同じクラスに音楽好きの友人がいて、彼とは毎日、昨晩の放送の曲が良かったとか、演奏が悪かったとか時間を忘れて話し合ったものだ。
したがって、大学に入ったとき大学オ−ケストラに入るのはごく自然の成り行きだった。とは言ってもピアノ以外には触ったことがなかったし、弦楽器の練習をしているのでは間に合わない。丁度東大オケにはクラリネットが欠員だった。それで急遽クラリネットを始めることにしてNHK交響楽団のクラリネット奏者の西村初夫氏に紹介されて弟子となった。練習を始めて半年後には、ベ−ト−ヴェンの第三交響曲「英雄」が東大オケの演し物だった。クラリネットが弱体だったからこれしかできなかったのだ。聴いてみると分かるがクラリネットのソロは第2楽章に1フレ−ズがあるだけである。
大学を出て大学院に進学しても大学オケにいて演奏をしていた。上野の森に東京文化会館が出来て、NHK交響楽団の定期会員になったのもその頃である。その後も音楽はずっと好きで、シカゴ大学に留学したときには研究室の生活の外にAmerican Conservatory of Musicという音楽学校に毎週通って、Mrs. Hirschからフレンチホ−ンを習ったくらいである。
やがて歳と生活を重ねるにつれ音楽を聴く興味も交響曲、協奏曲、室内楽からオペラに移っていった。人の声が心を揺さぶり、人の生き様を描くオペラが私の心を捉えたのだった。オペラに聴き惚れたその挙げ句、とうとう東京音大の先生をやっていた井崎彰子先生の門を叩いて歌うことを学び始めたのは40歳台半ばのことだった。誘われて、先生の門下生の発表会に出て頭の中が真っ白になった。それでも舞台に立って文字通り脚光を浴びながら歌ってみると、こんなに楽しいことはないことに気付いた。
それで直ぐに私の作ったのは「い座」という名のオペラアリアを歌う素人と半玄人の同好会だった。その頃遠藤周作の「き座」という演劇素人集団があったので、それを意識した命名である。「いざ、歌おう」という意味の「い座」はとても良い名前だったと思う。おまけに「い座」は、私の声楽の先生の名前にも通じる。グル−プを作れば、発表会場が借りられる。伴奏のピアニストとも契約できる。さらには声楽の先生とも契約して私たちの練習と発表を見て貰える。つまり、「い座」を自分たちが作ったと言うことは、声楽の先生の門下生として受け身で発表会に臨むのではなく、自分たちの歌いたい歌を、好きなように歌うというまるでプロの歌手並みの状況を作ったということである。
とは言ってもプロの歌手ではないから、ガラコンサ−トと言うご大層な名前を付けた演奏会を毎年2回繰り返しているうちに、私の研究室の助手の女性に「もう先生の歌は9回も聴きました」といわれて愕然とした。自発的に観客が来てくれるわけもなく、拝み倒して聴いて貰っているという観客難を直視せざるを得なくなった。それで、「い座」公演は足掛け6年、11回を最後として打ち止めにしてしまった。今から思うと「い座」を始めた時期がちょっと早すぎたように思える。Internetが使える今なら、「い座」は歌いたい仲間を増やすことが出来て、もっと自由に羽ばたいて発展できただろう。まだカラオケも世の中にない頃だった。
このように音楽好きの私が瀋陽に来て一番のフラストレイションは瀋陽には音楽がないことだった。ケ−ブルTVにCCTV音楽というのがあるけれど、曲の途中でも突然中断してコマ−シャルに代わり、その後は脈絡もなく別の音楽が始まる。声楽は放送の音が大きく、幾ら絞っても音が割れてしまう。その頃南湖劇場という名前だった劇場に音楽学校の発表会を聴きに行ったら、マイクロホンで採った音をスピ−カ−の限度一杯に鳴らすので、たちまち辟易して退散こともあった。薬科大学の講堂で聴いた合唱祭も、スピ−カ−による音量合戦の感があってとても音楽といえたものではなかった。
2006年秋に教師の会の林与志男先生のお世話で聴きに行くことの出来た松井菜穂子さんのソプラノリサイタルは、じつに当地では初めてのまともな音楽を聴く機会だった。松井菜穂子さんは東京音大出だそうで、私の声楽の師匠は東京音大の先生である。それが親しみを感じるに役だったかも知れないが、美しい音を聴くことが出来てこんなに嬉しいことはなかったと言って良い。
11月の教師の会の定例会のあと、領事館から懇親会が開かれる水上漁港に向かっている途中、たまたま9月から東北育才学校に新任の若松章子先生と並んで歩いていた。日本語資料室の引っ越し準備の時に、彼女は二胡のケ−スと一緒だったのが記憶に残っていた。
「先生。先生の教師の会の日記に、資料室の引っ越しのパッキングのあと、私が二胡の練習のために三好街に向かって歩いていったと書いていらっしゃるでしょう。あれは学校に帰るためで、違うんですよ。」と若松先生。
「?」と私。教師会の日記に、引っ越しの準備は結構きつくて、終わったあと私はうちに帰って爆睡したのに、資料室の作業が終わったあと二胡のケ−スを提げて二胡の練習のために颯爽と歩み去った先生は若いなあと書いた覚えがある。「二胡の練習に行った帰りに資料室に廻って引っ越し準備を手伝ったのですよ。二胡の練習は遼寧大学のそば。」
「二胡の練習は難しいんですか?二胡が弾けるのはいいですねえ。十二楽坊では立ったまま弾いていて、見ていて楽しいですね。立ったまま弾けますか?」「まだ、そんなこと分からないですよ。始めたばかりですもの。」「だって、あの二胡を資料室で見たのは、引っ越しの時だったから、もう大分やっていらっしゃるのでしょう?」「いえいえ。まだ1回だけで、明日が2回目なんです。」
私の胸の中で何かがことりと動いた。「No ○○, no life.つまり、○○がなければ、私の人生は無意味だ。」というフレ−ズで、○○にmusicが入るという1年前まで教師会のメンバ-だった竹林先生に、「山形先生も、No music, no lifeですね」と言われた言葉が耳に甦った。
しかしそのあと、私が一緒に二胡を習いに行きたいと言いだしたのが先だったのか、一緒に習って見ませんかと彼女が誘ったのが先だったのか、今はどちらだったか思い出せない。ともかく懇親会が開かれる水上漁港に着くまでの短い間に、その翌日の朝一緒にレッスンを受け行く話が決まっていた。
翌日の日曜日の朝、指定通りに遼寧大劇院の前で待っていると、タクシ−に乗った若松先生にそのまま拾われて北に向かい、遼寧大学の近くに着いた。その一帯の近くに住む育才学校の生徒が一人来ていて、彼女がずっと通訳をしてくれるという。この建物の一画に入ってみると、何という名前か分からないけれど音楽院があるところらしい。演奏家のほかにも、演劇人も住んでいるところだという。
先日の松井菜穂子さんのポスタ−も何枚かまだ張ってあった。学校らしい建物のある道をずっと北に向けて歩いていくとやがてアパ−トの一群について、その一つが今日習う目当ての場所だった。しかし先生個人がアルバイトで教えているのではなく、他の偉そうな人が出てきて1回のレッスン代(1回1時間50元)を集めて、私たちはそこに現れた若い男の先生に連れられて、またちょっと離れたアパ−トの2階に案内された。普通のアパ−トの中をレッスン場にしているのだった。
今日が2回目という若松先生がまず先生の前に腰掛けて、練習してきた曲を弾いてみせる。先生が何かを言い、女子生徒が日本語にして指示が伝わる。若松先生は指示されるとおりにいろいろと弾いてみせる。やがて新しい曲に入って指導をした上で、それは今度の宿題だという。50分くらいしたところで、若松先生はもう充分と言って、私に代わった。
今日初めての私は若松先生の二胡を使って、初めて触った二胡の練習を、先生の前で始めるのである。左腿の上に置いた二胡の位置が悪い。右手が硬い。弓を持つ指の位置が違う。弦のあたる場所がずれた。左手のポジションが違う。先生の指示が飛び、あっという間に50分が過ぎた。頭の中が飽和している。
宿題は、さっき若松先生の演奏で聴いた教科書の最初の部分だった。先生にこれから二胡の練習を始めたいこと、自分の二胡を手に入れたいことを通訳に伝えて貰うと、先生は新しい二胡を持ってきてくれた。ケ−スから二胡を取りだした先生は二胡の調整をして、それを抱えて二胡らしい曲をさっと弾いてくれた。二胡らしい嫋々たる響きがする。先生はこれならいいと頷くと、二胡のしまい方を私に教えて渡してくれた。帰りには受付に寄って新しい二胡のために280元、教科書に25元を払った。
うちに帰って二胡を取りだした私は、練習する場所のことを全く考えていなかったことに気付いた。何処で練習をするかという難問に直面したのである。うちのアパ−トはこのあたりでは立派に目立つ16階建てだが、上からも下からも、台所の音、テレビの音、怒鳴り合い・罵り合いの音が筒抜けで聞こえてくる。 隣からは朝晩、某教授のいびきの音も聞こえる。そのようなところで妙なる二胡との音ならともかく、のこぎりの目立てをやったらどうなるだろう。夜のうちでまだ早ければ一寸くらいはいいかもしれない。大学の研究室でも練習出来るかも知れない。と言うわけで、その日から、朝は大学に7時に着いて研究室の一隅にある培養室で学生の来る前の30分くらい、夜はうちに帰って食事をしてから9時までの30分から1時間足らずの間、周りを気にしながら練習をすることになった。
1週間経った次の日曜日は雪で、このときは若松先生のバス停で待ち合わせて一緒にレッスンの場所に行った。習い始めて1週間の二胡の練習の進展は、自分ではこのようなものだろうと思っていたけれど、先生の要求ははるかに厳しく、もっともっと練習をしなくてはならない。
2回目にレッスンを終わってうちに戻り二胡を弾きながら、防音仕様にした日本のうちとは違う場所で、二胡の練習の場所と時間を見付けることに神経をすり減らして、とても疲れていることを自覚した。音楽の練習が簡単ではないことは、私はよく知っている。練習は嫌ではない。まだ良い音は出ないけれど、それでも希望がある。しかし、今の環境で練習を続けるのは無理だ。これを続けていたら、神経が参ってしまい自分の本業に差し支えてしまう。もっと続けて止めるより、早い方が良い。止めることを決意するなら今だ。
3回目の日曜日が来る前の水曜日、私は若松先生にメイルを書いた。
「二胡のことですが、せっかく誘っていただいたのですが、断念しようと思います。
つまり毎日1時間の練習時間を生み出すのが、とても難しいというのが現実なのです。そのくらいの時間は生み出せると思っていたのですが、練習するには、昼間は研究室にも隣の部屋にも人がいない時を選ばないと始められませんし、夜うちでは9時を過ぎると周りに気兼ねして練習できません。
こうやって言い訳を考えて、続けることの出来ない自分に情けない思いですが、お許し下さい。先生に声を掛けていただいたことは、とても楽しい夢だったと思います。」
わずか十日で私の新しい夢は終わったのだった。恋だったのかどうか、その時には分からなかった。でも、思い出すと今でも胸が疼く。甘酸っぱいツンとしたものが鼻梁を駆け抜ける。そう。これは私の短く、儚い最後の恋だったのだ。
瀋陽薬科大学
山形 達也
今年4月3日の昼頃、女子学生の李さんが泣きながら私のオフィスにやってきた。彼女は薬学部日語の最終学年で、日頃はとてもメリハリのしっかりした日本語を話す人である。それが涙混じりの声なので何言っているか良くわからない。泣いているけれど深刻な顔ではない。そして手に一枚の紙を握っていて私に見せようとする。
紙には日本語で入学許可証と書いてあって印鑑が押してある。それで一目見た途端にわかった。東京工業大学の修士課程入学を志願していた李さんは、選抜の過程を経て最終採用候補に残され、日本政府奨学金の申請が大学から文科省に出されていた。この段階まで来ればきっと通るよと私がいくら言っても、不安が残っていたのだ。その彼女に最終的に大学の公文書として入学許可書が届いて、安心と嬉しさのあまり泣いてしまい、それでも私に入学許可書を見せに来たのだった。
1.東工大で国際大学院志願者募集
昨年秋の10月半ばのこと、東京工業大学に私がいたとき生命理工学研究科で同僚だった三原先生からmailが届いた。
『東京工業大学大学院生命理工学研究科の国際大学院(全国全体の制度)が新しくなり、新規に来年2007年10月入学者から 生命理工学研究科だけで国費留学生を7名取れるようになります。募集はすでに始まっており、11月10日までにノミネーション(GPAとTOEFL)12月に正式申請です。』
『もしいい学生がいましたら、ご推薦ください。GPA>3.2、TOEFLE >200が理想として要求されます。修士・博士一貫コースです。修士持っている学生も入学できますが、米国などと同様、もう一度修士からです。
この国費留学生に採用されれば、毎月17万円なにがしの奨学金が出る上に学費免除である。おまけに往復飛行機代も日本政府が出してくれる。留学のために実際にその国に行く前に奨学金が出るかどうかは学生にとってとても大事なことである。アメリカでは普通のやり方だが、日本では留学して初めて奨学金申請の出来ることが多い。
東工大には以前から国際大学院が開設されている。この国際大学院は留学生に日本語能力を要求せず、英語が公用語だった。じゃ、留学生のために英語環境が十分用意されているかというと、学生課にも、国際留学生宿舎にも英語を話す職員が誰一人いないという状況だった。講義も修士課程で最低3つの科目の履修が要求されているのに、急遽用意した英語で開講した科目が3つだけなので、国際大学院の留学生は否応なしにこの3つを取らざるを得ず、評判が悪かった。
生体分子工学科の教授たちで連合して作ったbiotechnologyの講義で私も数回英語で講義をしたことがある。15人くらいの学生がいて何人かは顔見知りの日本人学生である。おやおや留学生じゃなくて日本の学生が聴いているのかと思いつつ外国人らしい顔を探して、「Hello. Where are you from?」と訊いたら、「I'm a Japanese.」という答えが返ってきた。彼の研究室とは仕事のつながりがあって、やがて彼の修士論文の審査をしたくらい密接な付き合いになったのだが、今でも彼のその時の憮然とした顔を思い出す。それ以来、私は人の顔を見て『日本人らしくないね』なんてことを言わなくなった。
東工大で国際大学院が開設されたのは1993年のことだった。しかしその開設は大学で力のある先生だけが知っていて、彼らだけが秘かに希望学生を集めたのだった。しかし、そんなことが続いていいものかと思い、私自身は1993年にポ−ランドの古都であるクラコフで開かれた国際糖質学会の時にウロツヴァ大学の友人(もちろん研究仲間である)に頼んで、良い学生を推薦してもらった。
二人の学生が推薦されてきたが二人とも私のところで採ることは出来ないので、一人は大学の友人である他の研究科の教官にお願いした。彼とじゃんけんをしたら、後にKasiaと呼ぶようになった女子学生を私が引き受けることになった。最終的な学生の採用は同じ研究科の先生の間での競争になったが、幸い私が年長だったので(つまり残る年数が少ないから)私が学生をその年度に獲得する権利を獲得した。
翌1994年こうやってリクル−トした学生が文部省の国費留学生として私の研究室に来た。Kasiaというこの女子学生はその後私の研究室で博士の学位を取り、その後東京医科歯科大学の職員となった。ヨ−ロッパにあって列強に翻弄され続け、しかし独立不羈の心を失わなかったポ−ランド人のねばり強い根性を持つ一方で、大和撫子の美しい心情を併せ持ったKasiaはやがて日本人と恋に落ちた。そして私たちが日本の両親となって結婚をした。今でも半年に一度私たちは日本に帰る度に、娘同様のKasiaとそのハズにあっている。このように国際大学院は私たちに深く関わっている。【写真中央がKasia】
三原先生の文面によると、あの頃の国際大学院は東工大だけに設置されたものだったが、今では全国規模になったようだ。しかも日本政府の奨学金でサポ−トする留学生の数も大幅に増えたらしい。インタ−ネットでこの募集を調べてみると、留学生の応募できるところはアジア諸国である。日本は国策としてアジア重視に本気で転換したように見える。
三原先生と何度もmailをやりとしながら、「東京工業大学国際大学院コ−スの募集」という掲示を大学研究棟の1階ホ-ルに英語、そして学生に手伝って貰って中文で張り出した。二日のうちに色々な質問を抱えた10人位の学生が私のところにやってきた。
日本留学の必要経費のほぼ全額が政府奨学金でまかなえる留学生の募集である。殺到しない方がおかしい、と思ったが、人数が思いの外少なかったのにはわけがあった。一つにはTOEFL>650点以上の成績を持っていること、一つには成績が上位10%に入る学生であること、という条件が付いていたのだった。薬学部には日本語クラスがあるが、最初の2年間は英語を勉強して(中国の)英語6級試験に合格しないと日本語クラスの3年生に進学できない。したがって日語班の学生は英語も良くできるけれど、日本語が専門になっているのでTOEFLやGREなどの英語の資格を持っていない学生が多いのだった。
進学希望の学部学生は3年までの成績で上位数人は大学院入試免除となり、中国のどこでも行きたい大学院に進学できる。こうやって推薦を受けた学生は最終学年の始まる早々に志望校に登録する。するとそれは(中国では大学院も研究所も国立が殆どである)国と契約したことになって、それを取り消すことなど、学生という弱い立場としてはとても考えられないことである。ということは、10月後半という時期では、来年度の学生を募集するには遅すぎる。
それでも私のところに聞きに来た学生には、私は単に仲介人であること、したがってTOEFLと大学の成績を証明する公的書類を持って来て資格が確認できたなら、東工大の試験委員会に取り次ぐと話したところ、東工大の設定した期日の11月10日までに書類を持ってきたのは3人だけだった。薬学日語の李さん、薬学英語の呉さん、同じく薬学英語の楊さんである。
もちろん3人分の書類を私は東工大に送った。こうやって集まった書類から東工大の入試委員会は書類選考をして、選ばれた候補者に面接を行うと言うことだった。
2.東工大試験委員による面接
11月10日が東工大入試委員会での応募締め切りで、それまでに必要な応募書類を送ったところ、13日には三原先生からmailがあった。東工大入試委員会で応募者の審査をしたところ、薬科大学から応募した3人とも第一次選考に通って、次は面接だという嬉しい知らせだった。しかし、この面接というのが急で忙しい。入試委員会委員の一人である大倉先生が丁度北京で学会があって北京に出張するのにあわせて、中国の応募者と面接をしたいということである。面接の出来る日は何と数日後の17-19日の3日間だ。
忙しい話だ。私は急遽この3人の候補者に第一次審査の合格を告げ、面接日に会わせて北京に面接に行けますか、出来るだけ行くように、と伝えたのだった。中国の北京で面接をすれば中国中の応募者全部が面接に来られるのだろうか。瀋陽から北京の距離は、東京から広島くらいである。近いというか遠いというか、人の置かれた状況によって違うだろう。しかも、旅行の費用がかかる。面接に行かなければ権利放棄になると分かっていても、果たしてわざわざ時間と金を掛けて北京まで出掛けていっても無駄かも知れないという疑いが、志願者にはつきまとう。
最初に連絡が付いたのは薬学日語の李さんだった。彼女はTOEFLの成績は持っていなかったが、IELTS(International English Language Testing System)という主として英国語圏で普遍的に通用する資格を持っていた。9点満点で7点という実用上全く問題ないという素晴らしいレベルである。実際、彼女と話してみても日本語から英語へ、英語から日本語へと継ぎ目なくスム−スに言葉が変えられ、自分の考えをよどみなく述べることが出来る学生である。北京で面接という話も彼女は、ええ、出掛けます、頑張ってみます、と健気な感じで決意を述べていた。
もちろん初めは私が全てを仲介していたけれど、この時点では李さんは入試の三原先生、大倉先生と面接時間、場所の打ち合わせを直接mailで行うようになり、両者の間に行き違いがないようになっていた。
残りの候補者である薬学英語の二人に北京で面接という話を伝えると、一人はこの週末はとても忙しくていけないという。もう一人もアメリカの大学に出す書類の締め切り期限が週末でそれにかかり切りだからとても北京には行けないという。
時間が作れないなら仕方ない。しかし、一人が気になることを言っていた。北京にわざわざ行っても必ず受かる保証がないから行くのは無駄だ。なぜなら李さんは薬学日語で、先生の教え子だから彼女の順位が良いに決まっている、だから私が行っても意味がないのだという。
これには私は唖然とした。しかし一方で、中国を深く覆うもやもやとした情実社会という噂を確認した思いであった。私は今回は単なる資格確認の仲介者である。一定の水準以上の学生に応募させているだけで、あくまでも選ぶのは東工大の入試委員会である。現に順位が付かずにここの3人全部に面接の通知が来たのだ。素直に面接に行けば、誰が通るか分からないし、あるいは全員が通るかも知れない。面接に行かなければ、理由が何であれ、ハイそれまでよ、さようなら、である。国費留学生に選ばれるわけがない。
ともかく、薬学英語の呉さん、楊さんの二人はせっかくの機会だったのに見送ってしまった。もちろん、それで良かったのかも知れないし、大変惜しいことをしたのかも知れない。ここのところは、面接をしていないのだから東工大の関係者も分からないことであろう。
17日の前日から北京に行った李さんは、面接の翌日瀋陽に戻ってくると直ぐに私に会いに来た。面接はどうだったのかを訊くと、自分としては質問に対して言いたいことを言えたので、結果はどうであっても全力を尽くしたという気持だと、嬉しそうだった。
面接の大倉先生は、東工大の頃の同僚でよく知っている先生だが、李さんが北京に出掛ける前には、私が大倉先生を知っていると彼女に言うことは良くないと思って何も言わなかった。ところが李さんは大倉先生から暖かい伝言を持って帰ってくれた、「山形先生、瀋陽で元気にやっている?」
李さんは面接の時に訊かれて、東工大で採用されたら勿論迷うことなく喜んで進学すると行ったそうである。彼女は成績も優秀だし、目配り気配りが行き届いていて、人柄もいい。かならず有為の人材として育ち、日中橋渡しの掛け替えのない人物の一人になるに違いない。
11月21日には彼女が東工大には入れたらぜひ行きたいと言って志望した研究室の石川先生から彼女に電話インタビュ−があった。石川先生の審査もパスして、彼女は22日に東工大から国際大学院国費留学生推薦の内定受けた。あとは12月20日までに必要書類を東工大に出せば、間違いなく日本政府の国費留学生が決定することになった。
【写真は李杉珊さん】
3.瀋陽薬科大学って?
東工大の国際大学院国費留学生募集のWebsiteに12月20日締め切りと書いてあって、11月22日に李さんは入学者候補だから書類を出すように言われたので、書類に問題がなければ合格判定が全学会議で出る。中国では戸籍の証明を取り寄せたりするのに思いもよらない時間が掛かることが多く、それが一番の心配だった。大学の書類もなかなか出ないことがある。それでも期限の1週間前には書類が揃い、李さんはそれを発送して三原先生から安着の知らせを貰って晴れ晴れとした顔をしていた。
ところが年も押し詰まった12月27日に東工大の三原先生からメイルがあった。『全学の会議で順次大学での合格案など決まって行きますが会議にかけていくに従い、国費奨学生候補は東京工業大学の協定大学からが望ましいという状況が分かってきました。それ以外の場合は、大学のレベルを説明しなくてはなりません。そちらで瀋陽薬科大学のレベルなどを説明する文章を作成していただけないでしょうか? ランキング、薬科大学の中でのレベルなど資料があれば添付していただければ幸甚です。協定大学は工学系しかなく、苦慮している次第です。』
李さんの行くのは生命理工学研究科で、東工大としては比較的新しい部門である。当然、東工大設立以来その中心だった工学系とは目に見えない争いがある。『生命理工学科では、瀋陽薬科大学なんて聞いたこともない大学から学生を採るんですか?精華大学からの応募が少ないんですかねえ?』と工学系から皮肉混じりの嫌みを言われて、『そういえば、山形先生の話で学生の推薦を決めてしまったけれど、いったい瀋陽薬科大学って、どの程度の大学なんだ?』ということだろう。
日本でも大学の格付けが盛んである。大学の格付けには、いろいろの要素が使えるから、従っていろいろの順位付けがある。ちなみに東工大は日本の大学の中で何位かというと、計算方法によって6位から9位に来る。上位にはいわゆる旧帝大が並ぶ。それに続いて6位から9位ということはかなりいい線を行っていることになるが、東工大は日本中に鳴り響いている名前ではないし、中国の名門と目される精華大学と共同の学生教育プログラムを立ち上げてはいるけれど、中国では先ずほとんど知られていない。かなり玄人好みの、あるいは通なら知っている大学といえるだろう。
さて、瀋陽薬科大学はどうだろうか。中国でも毎年大学順位表が発表されてwebで見ることが出来る。普通は100位までが発表される。これに薬科大学は入っていない。人から聞いた話では140位のあたりらしい。しかし中国の大学の評価が、正確にはどのような基準に基づいてなされるのかよく分からない。少なくとも、学生数の多いところは評価が高い。中国では『大きいことはいいことだ』ということのようだ。この薬科大学だって、『瀋陽にある医科大学など三大学と合併すれば学生数は全国2位になります』と、皆が期待を込めて嬉しそうに言うのを何度も聞いたものだ。合併は話だけでなかなか実現しそうもないが。
東工大の入試委員から、瀋陽薬科大学の評価についての資料を求められたので、私は学長と、学長補佐で国際交流処長でもある程先生に、この大学の評価を表す客観的資料を、これこれの理由で必要としていると言って、お願いした。ことはこの大学の学生の日本への留学に関することである。彼らにお願いするのが筋である。しかし、ひょっとして期日までに資料が貰えない場合にはそれでは困るので、一番困る李さんに資料を探すように言った。『何時までですか?』と李さん。『三原先生のメイルでは年明け早々に資料がいるみたいですね。頑張って集めて下さいな。』と私。
幸い彼女は故郷と家族から離れて瀋陽にいるので、年末年始だからといって特別な行事はない。それで、三ヶ日のうちに資料を探してきた。一つは『瀋陽薬科大学は1931年に江西省の瑞金で誕生して、中国では歴史が最も長い、優良な伝統に育まれた薬学の総合的な大学です。中国の東北に位置し、全国にたった二つしかない国立薬科大学の一つとしてかねてより著名であり、「北国薬苑」と誉められています(他の一つは南京薬科大学で、今は中国薬科大学と呼ばれています)。』で始まる紹介である。名門と言ったって漠然としている。
『2004年には、発表論文860篇,131篇はSCIに収載されました。昨年2005年には、発表論文1,014篇,197篇はSCIに収載されて,中国国内では連続して中国薬科大学と北京大学薬学院などの薬学関係の学校の首位に立っています。過去5年間に、国家、省、市級各類科学研究項目(科学研究補助金に当たるものです)を280項受けて、52の成果賞を受賞しました(中国には表彰制度があるのです)。』これで業績がかなり具体的になったが、他と比べる客観的な資料が必要である。
つまり漠然とした基準による大学順位ではなく、大学の発表する論文数の順位や、大学の獲得する競争的研究費の額などで大学の評価を行えば、大学の生産性の優劣などの資料として客観的に使える。
その意味で唯一手に入った資料は2001-2003年の3年間にMedline に収載された論文の数のrankingだった。Medlineに載るjournalとScience Citation Indexの対象になるjournalと同じではないが、Medlineのjournalに載る論文で大学を評価するなら、私たちの評価の感覚に近い。
このwebに載っている論文数rankingの資料では、中国大陸の各大学/科研機構で比較すると、中国科学院を1位として、北京大学、復旦大学、精華大学、協和医科大学、浙江大学、南京大学、武漢大学、第四軍医大学、中山大学がこの順で10位まで並んでいた。瀋陽薬科大学は16位となっていた。
ところで論文の数は研究に関わっている人の数に比例する。研究機関の規模が大きければ、発表論文の総数は多いに決まっている。教授、助教、大学院学生、ポスドクなどなどが研究に関わっている。従って研究者の数で割れば、一人あたりの生産性あるいは活動係数の優劣を出すことが出来る。これが直接的な大学・研究機関の構成員の能力比較となる。高けりゃ良い大学である。
教授の数は公表されていても、研究者の数は分からない。それで各大学で発表されている(昨年度の)教授の数で代表することにして、この数で上記の発表論文数を割って、一人あたりの数字の高い方から並べると、ダントツ1位は中国科学院。北京大学の2位、上海交通大学医学院の3位、協和医科大学の4位、南京大学の5位に続いて、何と瀋陽薬科大学は6位である。全学挙げての論文数では16位だったが、一人あたりの生産性では6位という立派なものである。論文総数では3位と4位だった復旦大学、精華大学よりも遙かに上に位置する。 一人あたりの生産性は、もちろん研究費の潤沢度に影響される。精華大学などの研究費は薬科大学より遙かに豊かに違いないから、精華大学の生産性よりも高いと言うことは薬科大学は結構優秀なんだなと言うことであろう。
学生数はおざっぱに言ってみれば大学の規模であろう。学生数で割れば研究の基本的性能ということになるだろうか。それで公表されている(昨年度の)学生数で割ると、瀋陽薬科大学は9位となった。つまり総数で16位、生産性で6位、基本的性能で9位となったわけである。
先ほど、東工大は日本の大学ランキングで計算方法次第で6位から9位に位置すると書いたが、いみじくも薬科大学の中国で占める位置も良く似ているではないか。『薬科大学は日本では全くと言っていいほど知られていません。中国ではあまり知られていませんが、薬学では長い歴史のある名門です。業績も上げていますし、言ってみれば中国における日本の東工大みたいなものですよ。』と、上記の資料を付けて三原先生に書き送ったら、彼は納得してくれたようで、東工大全学会議の中で薬科大学の位置は無事に承認されたようだ。
そしてこのやりとりのあった時から3ヶ月経って、李さんの冒頭の入学許可書に話が移るのである。李さんは別の研究室で卒業研究に従事しているが、私たちの研究室のセミナにも出てきて一緒に勉強をしている。成績が良いだけでなく、話してみると頭も良いし、可愛いし、良いことづくめである。日本語も良くできるし、日本に行っても困ることは全くないだろう。将来が楽しみである。
ところで、学長と学長補佐に大学の地位を示す客観的資料をお願いしたが、結局二人からは期日までに返事が来なかったし、未だに来ていない。しかし私は泰然としている。何故って、ここは中国なのだから。
瀋陽薬科大学
山形 達也
1.わたしの趣味は何?
中国に来てからはいろいろな人たちに出会う。日本にいる頃と違って、同業の研究者仲間に会うのはきわめてまれである。会うのは中国人のこともあるし、日本語の先生たちのこともあるし、何処でどうなっているのか説明もし難い人たちに会うこともある。そのような時、「先生は何が趣味なんですか。暇な時は何をしているんですか。」と訊かれることがある。
日本にいる時は訊かれても困らない。仕事場を離れてうちにいる時は休養と決めているから、音楽を聴くか、ビデオで映画を見るか、本を読んでいる。私の育ち盛りの頃はテレビがなくいわゆる活字世代として育っているので、どんなジャンルの本でも読むことが好きである。映画は大好きだけどマンガは苦手で、読むのは文字である。
さて、中国にいると仕事以外に何をしているか。音楽はない。聴くことも演奏することも、歌うことも出来ない。DVDは何枚か持ってきたけれど、コンピュータのDVD-ROMが壊れていて、観ることも出来ない。本は日本に帰るたびに物色して面白そうな小説を買ってくるけれど、長持ちしない。あっという間に読み切ってしまう。あとは教師会の日本語資料室の本だけが頼りである。
本は、資料室から何時も借りて来られるわけではない。それじゃ、どうするか。夜うちに帰って食事をすませたあとの時間が問題である。殊勝にも中国語の勉強をしようと思ったのは、ごく初めの時だけだ。覚える端から忘れる中国語にとても付き合いきれなくて、投げ出すのに時間は掛からなかった。
2.師父加藤さんに導かれて知った篆刻
そして何時のことだったか、薬科大学の日本語教師の加藤正宏さんに篆刻を勧められたのだった。石も買った、篆刻刀も買った。それでもなかなか始めなかった。やがて加藤さんの彫った石を見て、そして妻の彫った石を見て、やっとそれなら、私もやってみるかという気になったのだ。それ以来時々彫ってみる。加藤さんが中街の路上市で見つけて買ってくれた「篆刻書」を見ながら、篆書を彫るのである。 【写真は師夫・加藤正宏さんと文子夫人】
大昔から印章は人々の生活に使われてきたことは想像に難くない。実際、博物館に行くと有史の頃の印章の発掘品が出土している。交易の時に品質保証というか、中身はちゃんとしていますよ、すり替えていませんよと保証するために物品に封印をした時に使われた封泥が、印章の起源だとあるものの本に書いてあった。容れ物を縛ってそのひもの結び目に泥を付けて印鑑を押す。泥は乾いて紐の結び目にくっついている。これを壊さないと紐は開けられない。つまりこの紐を開けていないという印に、封泥は使われ、その目的で印鑑が出来たという。このとき押された印章は、名前であるのも残っているし、模様もある。
ものの本によると中国の漢代に封泥がよく発達したけれど、紙が発明されて以来、封泥の必要性が薄れてしまったという。それまでの木簡・竹簡は、表面をけずれば容易に字を書き換えることができたので内容保証の封印が必要だった。しかし紙になると文書が簡単に改ざんできなくなるので、封泥による封印の必要は薄れ、印鑑が発達するようになったようだ。
でも、この封泥は最近までも使われていた。私の父は弁理士で、戦前から欧州相手の国際特許事務所を経営していた。例えばドイツから日本で特許を取りたい時に先方から書類も来るし、発明品の実物も送られてくる。これがボール紙の円い筒に納められ、紐が掛けられて結び目に赤いベークライト様の固まりがついてこれに印章が押してあった。開ける時にはこの印章は壊れるので、壊れていなければ中身は入れた時のままの本物の保証になるわけだ。この仕組みが今も世界で使われているだろうか、私は寡聞にして知らないが。
印章は自然発生的に必要に迫られて始まったものに違いないが、篆刻という言葉となると、芸術品を意味するらしい。調べてみると「古璽を研究対象とした宋の金石学を出発点に、元の趙孟頫らが刻印をこころみて印学を再興したのが篆刻のはじまりとされます。じっさいには明の文彭・何震に実作が存在して篆刻の専家としての始祖とされ、篆刻芸術の第一頁がひらかれることになります。」(遠藤昌弘著作選)
別の引用をすると「明時代になると,多くの文人が盛んにこの印章を私印として制作するようになり,これが徐々に芸術性を帯びてきて“篆刻”と呼ばれるようになりました。その後,この篆刻の印影は,書画の落款の一部として使用されるようになって,次第に書道や絵画と並んで,一つの独立した芸術となりました。そしてこの“篆刻”を含んだ“書道,絵画,落款”の芸術は,三位一体となって古代中国の伝統的な芸術の一つとなりました。」(古代文化研究所 古代の印章篆刻)
つまり、印章というと実用で、篆刻というと芸術作品になるのだという。同じ字を書いても、板に書いて店先に掲げれば「看板」で、紙に書いて部屋に飾れば「書道」というようなものらしい。
3.師父加藤さんに連れられて石漁り
篆刻に使われる石は巴林石(内モンゴル巴林右旗の山麓より産出)、寿山石(福建省寿山郷より産出)とか青田石(浙江省青田県産出)などよく知られた石がいろいろとある。むかし子供の頃、道の舗装や敷石に書く時に使った蝋石よりも少し堅いが、玉ほどには堅くない。なお蝋石は岡山県の東部から今でも産出されていて、今では落書き用としてよりも、タイル、耐火物、建材用の素材として使われているようだ。
中街の路上市に行くと、そのような篆刻用の石と並んで練習用の石が山積みで置いてあり、一つ1元で売られている。道ばたのござに商品を拡げたおじさんに訊くと通常は2元という言い値で売っている。
でも、ひとつ1元と言ってはいけない。加藤さんは元来高校の世界史の教師で、特に中国の近現代史に興味があって、中国に滞在して古物商を巡って、今は特に民国の頃の教科書を探している。雨が降る時以外の毎週土日には必ずこの辺りを徘徊して、ここに店を出している人たちの誰彼となく知り合いになっている加藤さんが「そんなことを言わないでよ。私はあなたの朋友でしょ。だから連れも朋友なんだから1元にしなさいよ。」と言ってくれるので、一つ1元になるのだ。この石を13個選んで「これで10元にしてよ。」と勇を鼓して頼むと10元になったりするわけだ。加藤さんは宿舎で暇な時には篆刻をしているそうで、加藤さんから篆刻の手ほどきを受けたのだった。
加藤さんにここで篆刻用の石を選んで買うのだと言われて石の山から選り分けるが、初めの頃は石の綺麗さにだけ目を惹かれて選んでいた。やがて石に彫るようになってから、石の肌理に注意し、いろいろの色が混じっている時は、彫る時の障害にならないかなどに気を配って選ぶようになった。
石を彫っていて失敗しても、紙ヤスリで底面をごしごしと擦って平らにしてまた彫り直すことが出来る。と言うことは、失敗してもやり直しが利くけれど、そのたびに石の高さが減っていく。だから背の低い石は買ったらあとで困るとか、だんだん知恵がついてきたものだ。石の質を見て篆刻用の石として細長く整形してあるものも買うようにもなった。2元くらいのはまだまだ練習用の石だけれど、道ばたではなく古玩城の中に入ってちゃんと店を構えたところに行くと、30元くらいから始まってあとは天井知らずである。【写真:薬科大学ともお別れの加藤夫妻と並んで】
篆刻を始めてから、素人として一番気を遣うと言うか、一番大事だと思ったところは、石の上に裏返しの字を書き込むところである。道ばたで注文に応じて篆刻をしている人たちがいる。彼らは注文されると細い筆を使って篆字をいきなり初めから裏返しに石の上にさっさと書く。さっと書いたらできあがりでたちまち彫り始める。こう言うのはプロだから出来ることだ。
この最初をいい加減にすると、いい作品にはならない。もちろん、私にとって裏返しの字を石の上に書き込むというのは大変な作業である。正字を篆字で調べて納得するまで何度も紙に書く。次はこれを左右裏返しにして書く練習である。これが書けるようになったら石の上に書いてみる。私は水性インクの細いフェルトペンで薄い色から書いていって、気に入らないと濃い色を重ねて字を修正してから、彫り出す。つまり彫り出すまで一晩や二晩を遣ってしまう。一旦彫り出すと、2-3時間の集中作業である。
4. 師父小林さんは博覧強記
「山形先生お二人を見ていると、とってもいいですね。お二人の仲が良くって、何ともほんわかとした気分になるんですよ。それで先生たちに印章を掘って差し上げたいのですが、どちらがお好みですか。」と教師会の仲間から言われたのは2006年の春の頃だろうか。
私たちに印章を彫ってあげようと言われたのは、遼寧大学に2004年秋神奈川県から派遣されて来た日本語の教師の小林豊朗さんである。
1年の滞在では満足できずさらに県教育委員会に申し出て2年目の延長を申請し、めでたく聞き入れられてその時は二年目の滞在後半に差し掛かっていた。
小林さんは現役の高校の国語の先生で、国語だけでなく漢文にもめっぽう強い先生である。このような先生に教わる学生は幸せだし、ご本人も中国で生活できて幸せに違いない。小林さんはさらに書も良くすることは側聞していたが、それだけではなく篆刻の大家でもあったのだ。
それだから、中国の生活がますます気に入っているわけだ。 【篆刻を手にした師夫・小林豊朗さん】
教師の会で毎月出会うだけの付き合いでは、そこまでは知るよしもない。小林さんが博学で、話し好きで、というのは大勢と一緒でも食事をすれば分かるから、いや、大した物知りの先生だと思っていた。ちょうど食べながらの雑談の時、誰かが言い出して高校野球の話になったことがある。2004年第86回大会、2005年第87回大会の夏の甲子園を連覇した駒大苫小牧高校が、また2006年の第88回大会にも出るかなあという話となった。
まだその時はやがてその2006年の夏が来て、田中将大投手率いる駒大苫小牧高校が3連覇を掛けて、決勝で早稲田実業の斉藤佑樹投手と真っ向からぶつかり、史上二度目の1-1で決勝戦引き分けを演じたあげく、早実が4-3で勝利をもぎ取り、駒大苫小牧高校が涙をのんだことはまだ誰も知るよしもない。もちろんハンカチ王子なんて言葉はまだなかった。
話し好きの人の特徴で、話がとぎれた一瞬、それまでの話に何の関連が無くても自分の話で皆の注意を引く。小林さんが言い出した。「高校野球って言うとね。世界不思議発見の板東英二ってタレントがいるでしょ。」「ええ。」と大抵の人は板東英二を知っている。私でも知っている。「いえ、あの板東英二はね、徳島商業から高校野球に出て、1958年には夏の83奪三振は高校野球選手権の大会記録になっているんですよ。準々決勝では魚津高校と延長18回の息詰まる投手戦をしてね、語り草でしたよ。」
みな「ほーっ」といってびっくりしている。だれも知らないらしい。しかし私の妻の貞子は、もともと野球大好きである。「だけど、小林先生。板東さんが活躍した時は知らないでしょ。私はちゃんと放送を聴いて覚えているわ。板東さんはあと中日にいましたよね。」と発言した。年が大分若くてまだその頃は生まれていなかったに違いない小林さんは、これに動ぜずに続けた。「選抜大会では作新学院の江川卓が1973年に三振を60奪ってね、大会記録になっているけれど。板東が83奪三振をした年は、1試合で25三振を奪ったんですよ。その年の1958年以来野球の延長は15回までと変えられたので、板東の記録は参考記録にされちゃいました。だけど板東の83個の奪三振というのは今も輝く大記録なんですよ。」
私たちはテレビで剽軽な語り口を見せる板東英二おじさんが、高校野球の颯爽たるエースで今も残る大記録を持つなんて信じられない気持ちでいる。「その後の野球人生は短かったけれど、タレントとして板東さんは凄い勘の冴えを発揮していますね。」
「一緒に出ている黒柳さんや野々村くんに憎まれ口を利いているけれど、関西弁の強みか、ちっとも嫌みじゃないですね。おまけに博識だし。」という小林さんは、板東さんに負けない博覧強記の人である。野球選手だけでなく、芸能界の人たちの動静にも詳しい。私は芸能界の誰のことも知らないから全く話について行けない。もちろん専門の国語の話になる小林さんの話は止め処がないけれど、ここは日本語教師の集まりなので、お互い優劣を競うことになってはいけないのだろうか、意外にあまり国語の問題は話に出ないものだ。
この小林さんが、篆刻もしていてその道の専門家なんてことはついぞ知らなかった。そういえば数ヶ月前に私が生まれて初めて彫った印章の印刻を教師の集まりに持っていったことがある。それを見て、私が篆刻を始めるきっかけを与えた加藤さんは「何だ、先生。うまいじゃない。」と口惜しそうに言っていた。すくなくとも私は、初作品で加藤さんを凌駕しようと精魂傾けて彫ったのだった。妻のために「貞子」と彫ったのである。まず最初に妻の字を彫っておけば、あとは誰のを彫ろうと文句は出ないだろうと、私にしては知恵を働かせたのだ。我ながら良くできた作品だった。加藤さんが悔しがるのも無理はない。
小林さんは印章を眺めて「やや。初めてにしては意外にいいですね。ここのところはどう彫っています?一寸印鑑を見せてみて」と言って私の初めての作品をとって眼に近づけて見ていた。「あ、このどぶさらいをもう一寸丁寧にやるといいですよ。」と言った。「どぶさらいって言っているのは、字の盛り上がりのないところですよ。そのための道具もあるんです。」と言ってくれたので、小林さんはこの道の先達くらいには思っていた。まさか専門家はだしとは思わなかった。
5.師父小林さんが彫ってくれた「山大爺」
その小林さんが私たちのために印鑑を彫ってくれるという。「どちらがお好みですか。」というのは印章には陽刻(朱文)と陰刻(白文)があって、陽刻は押した時に字が赤く浮き出る印刻、陰刻は字が白く抜ける彫り方である。印鑑というと直ぐに自分の実印を思い浮かべるくらいだから、陽刻が印鑑だと思っていた。しかし小林さんは「男は陰刻がいいんですよ。奥さんは陽刻にしましょう。」とあっさり決めてくれた。字体は「篆書でいいですね。」と言う具合にこれもあっさり決まった。 次の教師の会の集まりのあと、小林さんから別れ際に印鑑を渡された。
底面には陰刻で「山形達也」と彫られている。側面の四面と頭には彫刻が入っている立派な印章用の石である。側面には「為山形達也先生 長寿 豊朗謹刻 二○○六年卯月」と刻んである。印鑑を押してみても、印刻そのものを見てもプロとしか思えない立派なものである。おまけにこの印章は、石欠け防止に「はかま」を穿いている。この袴も小林さんのお手製なのだという。おひな様の衣装みたいに立派なものである。小林さんという年若の友人に対する私の友情はたちまち尊敬の念に変わった。
小林さんに教わって篆刻刀も新しく買い直した。何よりも印肉には凝りなさいと言って私の無知蒙昧を啓いてくれた。それまで私は大学の生協で買った5元という印肉を使っていたのだった。印肉(朱泥)にいろいろの程度・階級があるなんて全く知らなかった。印鑑専門の店に行くと、ここでは小林さんが篆刻でいろいろと教わっているという人が出てきて、印泥170元というのを小林さんの口添えであっさり100元にしてくれた。大観印泥という印肉である。
この日、一緒に歩いていた小林さんに「もし先生の気に入った篆刻の石があったら、それにも彫ってもいいですよ。」と言われて、別の石専門の店に入った時に、私は気に入った石を見つけてしまった。濃い紫というか濃い茶色で、白い紋が入っている。感じとしては乾燥させた高価な腸詰めの色に近い。高さは7センチ、底面の長径は4.5センチ、短径は3センチくらいで、彫ればかなり大型の印鑑となるだろう。
店のお姉さんに訊くと150元だという。ここは一切値段の交渉に応じない店だと聞いている。小林さんを呼んで「この石だけど、これに彫れそうですか?」と確認した。小林さんは石に眼を近づけて指でさすりながら丹念に眺めて、「いけると思いますよ。」と言ってくれた。私はこんな高価な石を買うのは初めてで、どきどきしながらも150元を払って石を手に入れ、直ぐに小林さんに手渡してお願いした。「『山大爺』という字で彫って下さい。字体は先生にまかせますから、好きに彫って下さいな。」
お願いした石への篆刻はなかなか出来てこない。小林さんは「あの石は一寸堅いんですよ。」ということだった。大きな石だから、堅ければそれだけに大変な手間だろう。
やがて出来てきた「山大爺」は字体も彫りも素晴らしいとしか言いようがない。気宇壮大な字で、それぞれの字がのびのびと自分を主張している感じで、わたしにぴったりである。私は眺めながら身体が震える喜びを噛みしめた。おまけに側面にも字が彫ってある。信じられないほど細かな大変な作業である。 「山大爺之記」「山形達也先生嘗向学生而自告其名曰吾山形達也学生聞之以大笑先生問曰何笑学生対曰先生謂非達也而大爺也先生大喜以後自称山大爺是大爺由来也 豊朗謹告 二〇〇六早月」
この文章は小林さんの自作で、あえて日本語の平文にすると「山形達也先生が嘗て学生に向けて自分の名前は山形達也だと言ったところ、学生が大笑いした。いったい何で笑うんだと訊いたら、学生は先生の発音では達也でなく大爺ですよと答えた。先生は大いに喜んで、それ以降は山大爺と自称している。これが山大爺の由来である。」というところだ。驚きの文章力と、それに並ぶ刀捌きだ。天は二物を与えずと言うが二物を与えた例がこの師父であろう。
「是非、印鑑をいつも使って下さいよ。使って貰って始めて意味が出るんですからね。」と小林先生に言われて、わたしは飾ってあった印章を取り出して、研究室にある本を端から取り出してこの「山大爺」を押した。妻の本にも押した。あとで教師会に寄付するつもりの本にも押しまくった。
この持ち重りのする「山大爺」の印鑑は私にしか意味がない。私が生きているうちが使い時なのである。大学内で発送する公文書にも小林さん作成の印鑑を押して使うようになった。しかし、本や文書に押すだけでは物足りない。どうしたらいいだろう。いっそ、書道でも始めて落款として使おうか。今や私の趣味は、篆刻から書道へと向かわないと収まらないかも知れない。
6. ひと迷惑な私の趣味
小林さんの篆刻は本人は「いえ、素人ですよ」と謙遜されるが、これで金を稼いでいないだけで腕前はプロ級である。中街の路上で時に彫って貰うプロよりも遙かに腕前は上だ。小林さん自身も、「何時か篆刻作品展をする時には、この『山大爺』も貸して下さいね」ということなので、本人も自負があるに違いない。
このような小林さんの「私の趣味は篆刻だ」というのに比べて、あまりにもお粗末だけれど私も篆刻が趣味だと言うことにしている。ただしこの趣味には問題がある。というのは、以前妻が陶芸に励んでいたことがあった。毎週陶芸教室に通って皿を焼いていた。皿を土からこねて釉薬を掛けて焼いて次々とできあがると、どうなるか。
妻の作品ができあがるたびに、我が家の食器棚は次々と彼女の作品に浸食されて、それまでの食器が片隅に追いやられていった。好きで買いそろえた皿が使えなくなり、彼女の作品が食卓を飾るようになった。最初は違和感があった。でも、十何年を経るともちろん彼女の作品に愛着が出て来て、今では何の文句もない。妻の皿を使うのが嬉しいのだ。妻が趣味で造った作品が実用品として立派に活躍して生活の中に居場所を得たわけだ。
さて、篆刻である。石を握って字を彫る。この字はもちろん名前である。自分の名前は小林さんが先に彫ってくれたから、自分では彫らなかった。妻の名前を最初に彫ったあとは、学生の名前を彫ってみて、上げた。知人の名前で彫って、それを上げた。
そうなのだ、篆刻は印章を彫るとその人に上げることになる。小林さんみたいに上手ならいい。貰えば誰でも大喜びだし、実印にすることだって出来る。でも、私の印鑑では、上げた人はきっと迷惑に違いない。芋に彫った印なら上げてもご愛敬で済むけれど、石に彫った印は貰った方だって始末に困るに違いない。
というわけで、彫り上げたらその印鑑を上げたいけれど、きっと困るに違いない。練習するにしても元気が出ない。そうかといって彫らなければ腕が磨けない。というわけで、上達するまではこの趣味はもてあましものである。
この頃は篆字を彫るだけでなく、新境地開拓を考えて、相撲文字あるいは寄席文字に似た江戸文字の篆刻の練習を始めた。下手くそでもいい、名前が何本あってもいい、山形の篆刻の上達に力を貸したいという奇特な方があったら、どうか申し出て下さいな。
瀋陽薬科大学
山形 達也
私と妻の貞子は日本で定年を迎えたあと、幸いにも中国の大学で職を得ることが出来た。5年目に入った瀋陽薬科大学の研究室には現在、博士課程2人、修士課程6人、卒業研究生5人の13名がいる。セミナーの時にはよそから来る学生が増えて、私たちも入れると15名を越える。
1.中国で世界的な研究をしよう
薬学では特色のある瀋陽薬科大学だが、悲しいことにその地位は北京大学、清華大学に遙か及ばないようだ。中国の大学番付では100番にも入らない。だからここのいる学生は、「自分は北京に行きたかったのに試験に落ちてここに来た」と言うようなコンプレックスがある。瀋陽薬科大学の名前も中国ではほとんど知られていないので、彼らは自嘲気味である、「俺たちどうせ三流なのさ」。
北京大学の学生と薬科大学の学生は、入学試験に通ったか落ちたかというだけの、ときには運命のいたずらだが、学生個人にとって見るとこのような意識の差になる。だけど、人間の能力にはさしたる違いはない。人の一生はどれだけ努力するかが違いを生むし、人の評価もそこで分かれるのだ。
と言っても就職試験で人を見分ける時には、一人一人をじっくり見て評価するのは簡単ではないから、「ああ、あなたは北京大学卒だから(優秀ですね)」とこっちに入れられ、薬科大学卒なら「ああそうですか」というだけで終わってしまうことになるわけだ。実際中国は非常に激しい学歴社会で、有名大学を出ていないと婿さんとしても鼻も引っかけて貰えないらしい。自分たちは三流大学にいるのだと思って心が萎えている薬科大学の学生たちに元気を与え、やる気を出させるのは、自分たちがここで仕上げた研究が一流誌に載ることである。そのために私はここでの存在意義があると思っている。
私たちは彼らに一流の仕事をさせたい。一流の研究をして、良い論文を発表していれば、それは個人の業績として評価される。北京大学の出身者よりも質の高い論文を発表していれば、いくら薬科大学出だと言って無視されることはない。それを無視したとしたら、それは愚かなことであることを誰でも客観的に指摘できることだからだ。
2.一流のジャーナルに論文を載せると言うことは
私たちが研究をして成果がまとまると、論文という形で発表する事になる。論文を書いて発表するのに適切なジャーナルを選んで、その編集部に送る。論文の原稿が到着すると、雑誌の編集長が同業の研究者に送ってその査読を求める。
研究内容が二番煎じだったら即座に却下である。研究は最先端であること、つまり新しくなければジャーナルに載せてもらえない。研究が新しい成果を含んでいても、論文の主張を裏付けるに足る十分かつ適切な実験がなされているか、その研究に意味があるかを、同じ分野の研究者(レフェリーという)が匿名で厳しく評価する。このような審査を経て受理されれば、それはその研究に新規性があり、その成果に耳を傾けるに十分に意味のあるものであることを保証している。
つまり、一流のジャーナルに論文を投稿して発表することが出来れば、良い研究であるというお墨付きを貰うと同じである。だからここの学生に、良い研究をすれば将来は明るいと言うことを示すには、一流のジャーナルに載る研究が出来るよう指導すればいい。
と言うわけで学生には良い研究をやらせたいが、超一流の研究をしようと思えば優れたアイデアが要るし、金も掛かるのが普通だ。私たちには優れたアイデアはもうないし、潤沢な研究費もない。あるのは人並みのアイデアと長年の経験だけである。
私たちが長年携わってきて得意とするところは生化学的な研究だが、それには設備や細々とした、そして膨大なノウハウがいる。この薬科大学でそのような機材を揃えたり、研究室の学生の間に実験のノウハウを蓄積していくのは至難の業である。それでここでは、分子生物学の初歩的技術を、そしてそれだけを使うことに徹することにした。
3.ここでは分子生物学の技術を使おう
分子生物学の進展により、それまでブラックボックスだった生命の働きを、分子の働きとしてとらえることが出来るようになった。実験もマニュアル化されて、原理も意味も知らなくても、マニュアル通りに手を動かせば、場合によっては重要なデータを出すことが出来る時代になっている。
今世紀の始めにはヒトのゲノム解読が終わった。いまでは、ほかにも何十という種類の生物のゲノムが解読されている。解読したと言うことは遺伝子の設計図を手に入れたと言うことである。でも、遺伝子の設計図はわかっても、その遺伝子が指令して作るタンパク質の役割はまだまだわからないことが多い。さまざまなタンパク質の協調的な働きがあってこそ、生命がつつがなく動いているのだ。この働きを知るにはタンパク質の機能を知らなくてはならない。
どうやって機能を知るかというと、タンパク質の発現を変えてやるのである。そのタンパク質を発現させなくしたらどうなるか、あるいは沢山発現させたらどうなるか、と言うやり方でその役割を知るわけだ。
口で言うのは簡単だが、昔は簡単なことではなかった。しかしいまでは、その抑制はRNAサイレンシング(siRNA)でごく簡単に行うことが出来る。このRNAサイレンシングの原理は2005年のノーベル医学生理学賞に輝いている。1996年の研究なのにそれが10年しないうちにノーベル賞受賞となったことは、この原理がいかに大事な発見であったかを意味している。今ではこの技術なしには生命科学の研究・発展・応用は考えられない。
細胞のそれぞれのタンパク質の発現の消長(発現したかどうかとか、どのくらい作られているか)を見るのは抗体を使うのが一番確実だけれど、1種類の抗体が平均5万円するので容易には買えない。それで私たちはタンパク質の発現の消長を、タンパク質を指令するメッセンジャーRNAの発現に置き換えて、RT-PCRという分子生物学的手法を使って調べている。もちろん、mRNAの増減とタンパク質の量の増減は同じではないので、どうしても必要という抗体は買って、ウエスタンブロッティングという手法で調べている。
あるタンパク質がどこかの経路の途中に位置して大事であることを証明するのに、いくつかの別々の方法がある。しかし、この頃の研究では、その方法の全部を使わないとなかなか論文が受理されない。
そのタンパク質の働きを抑える阻害剤を使う、そのタンパク質の発現をRNAサイレンシングで抑える、機能を破壊したそっくりなタンパク質を入れてそのタンパク質の働きを無効にする、さらには刺激がなくても機能し続けるように改変したタンパク質を作るcDNAを細胞に入れる、などの方法をすべて用いて、つまり文句が全くでない方法でそのタンパク質の関与を証明する必要がある。
一つのことを言うためには、様々なアプローチをして、そこに疑問の余地のないまでに実験をしないといけない。大金がかかるわけである。私たちは阻害剤であたりをつけて、そしてRNAサイレンシング(SiRNA)を行ってそのタンパク質の関与を調べているけれど、目的の mRNA がいつも100%抑えられないこともある。siRNAのターゲットの選び方が悪かったのだろう。それに、発現を抑える実験だけではなく、目的のタンパク質のmRNAを大量に増やして、その結果を示す必要もある。
4.すべてはよい学生を育てるため
と言うわけで目的とする遺伝子を細胞に発現させるという技術も私たちは使っている。大腸菌の中で自律的に増えるプラスミドというDNAの中に、目的の遺伝子(正確に言うとcDNA)を入れる。このときにDNAを切ったり、張ったり、繋いだりするわけである。これは分子生物学的技術の基本中の基本と言って良い。これを大腸菌の中で増やして目的の遺伝子を入れたプラスミドを取り出す。この中には哺乳動物細胞の中でこの遺伝子を発現できるベクター(運び屋)が入っている。
こうやって細胞に目的の遺伝子を発現させ、RNA silencingで抑えたときの効果と逆のことが起こるのを確認するのである。遺伝子の発現を抑えたり、あるいは強制的に発現させたりすると、予想もしていない分子の発現が急増したり、抑制されたりする。細胞の中のまだ知られていない制御機構に触れた瞬間である。こういう事で私たちの研究のまた新しいページが開かれる。
私たちは生命科学の世界で、誰にもよく知られた技術を使っているだけである。それでもそれなりの仕事をするためには、それなりの研究費が掛かるわけだ。大学が用意してくれる年間5万元(約75万円)では足りない。それで私の給料のすべてを研究に注ぎ込んでいる。しかしそれでも足りない。私どもの年金の出番である。幸い日本の発展時期に働いていたから、それなりの年金が貰える。二人の年金を合わせた半分は中国での研究費に使っている。
ここで私たちが使っている技術はこの世界では常識の、しかも初歩的なものだがそれを使ってやっている研究は、それこそ世界に二つとない、言ってみれば最先端の研究である。だから研究の結果は論文となり一流の雑誌に投稿論文が掲載される。 瀋陽に来て4年半で私たちは6編の論文を発表した。いま次の3編を書いている。
私たちの研究室で修士課程を終えた胡丹くんは、一昨年日本政府奨学金を得て東京大学の博士課程に留学した。昨年博士課程を終えた王璞くんは、アメリカの名門中の名門であるThe Johns Hopkins Universityのポスドクに採用されて、もうすぐ渡米するところである。今年修士課程をでる王毅楠くんは、日本政府奨学金を得て慶応大学の博士課程に入ることが決まった。こうして研究室の学生たちは良い論文を書いたという勲章を胸に付けて、私たちの研究室を巣立っていく。
5.中国の学位乱発に在米科学者が苦言
最近読んだRecord China(20080303)によると、『在米科学者の王鴻飛博士は 、9月に中国教育部と国務院学位委員会が博士課程の学位に関する調査を始めると発表したことを受け、自身のブログで「中国の博士と指導教員の90%がアメリカの三流大学でも不合格」と、学位のレベルの低さを批判した』という。
『王鴻飛博士は米コロンビア大学の化学博士で、中国科学院科学研究所の研究員でもある。「コロンビア大のレベルで言えば、中国で最もハイレベルな大学の博士と指導教員の99%が不合格」だ、「アメリカの三流大学でも中国国内の博士と指導教員の90%は学位に届かない」と痛烈に』批判している。
薬科大学では博士課程卒業のためには、発表論文2報が要求されるが、そのうち1報はSCI(Science Citation Index)で評価されているジャーナルに載ることが必要である。速報誌でもBBRCやFEBS Lettならこの要求を満たしている。と言うことは、もう一つはどこかの、つまり中国語でローカルな雑誌に書くだけで良い。
これでは情けない。それで私たちは別の基準が設けていて、うちの学生には発表論文の2報ともSCIで評価されているジャーナルに載ることを要求している。しかしこれを今までに果たしたのは先ほど書いた王璞くんだけである。
今年博士課程を出る予定の学生は、2報以上書けるだけの材料がありながら、BBRCに1報書けば、あとは中国語の論文を何処かに投稿して博士号の請求をするつもりである。そんなレベルの低いことでは駄目と言っても通じない。他の人がそれで博士号を貰っているのに、自分が何故駄目なのかということだろう。
これを認めれば、王鴻飛博士が『研究が不十分な段階での学位乱発で学位レベルが低下し、研究者も中途半端なままで学位の看板だけを背負うことになる』と言う通りである。王鴻飛博士は『看板を背負った者は虚勢を張り、謙虚に学び研究分野へ貢献する気風も失われる。同じ分野の研究者同士が互いに評価し高め合う土壌が必要』と言っている。そのためには大学の教授も学生も考えを改めなくてはならないが、その人たちのレベルが低いと言われているわけだ。何時になったら、この流れが変えられるだろうか。
瀋陽薬科大学
山形 達也
1.日本語の卒論指導
日本人教師の会では月に一度の定例会がある。瀋陽日本語弁論大会、日本語文化祭などの活動のための準備、報告など、会としての活動を話し合うことが多いが、日本語弁論大会の分類と同じように分かれて、そのグループの中で日本語教育の悩みなどをお互いに話しあっている。
分類というのは、日本語学科などが置かれている大学I部、日本語を勉強しながらも別の専門を学ぶ大学II部、高校の部などの分類である。弁論大会では、高校生の部の日本語が一番上手いと言うことになっている。ついで、日本語専攻科のある大学I部からの参加者。薬科大学などの大学II部からの参加者は、内容はバラエティに富んでいて面白いものの、日本語力は一番下にランクされる。しかしもちろん、これは先生たちの実力とは全く関係がない。
私は日本語教育に携わっていないので、この集まりの時にはあちこちに顔を出して皆の話を聞いているだけである。前回の集まりの時には、大学I部の先生たちの集まりに顔を出した。
日本語教育の苦労や苦心など、それぞれに話が出ていたが、卒論指導をしているんですよという話になった。大学I部の先生たちは日本語学科で日本語を教えているから、卒業の学生が日本語で卒論を書くときのテーマ選び、卒論の指導、判定に関与しているのだ。日本語の話し方、書き方を教えるだけではなく、言ってみれば日本文化の様々な局面を扱うことになるわけだから、並大抵の苦労ではないと思う。
卒論のテーマは「若者の敬語の使い方」とか「マンガの中の言葉遣いと実際」など色々あって楽しそうだ。しかし、卒論指導の際の一番の悩みは、テーマ選定ではなく、書かれてきた卒論がオリジナルなものか、コピーペーストで出来たものなのかを見分けることだそうだ。
ほとんどの学生はコピペで卒論を仕上げてくるし、内容の95%以上がコピペという学生はざらにいると言う。先ず、どうやって見分けるかというと、元の文章をコピーするとき、「われわれは、これこれこうした。」というのを、そのまま写してしまうのだそうだ。読んでみれば、ここでこんな主語が出てくるはずはないと言うことでたちまち分かる。文章の書き方は人によって違うから、文章のトーンが変わることで、ここからは別の文章のコピペだと言うことも分かる。
今はインターネット時代で、大抵の欲しい情報は手に入り、コピペのし放題である。「そんな状況になったのだから卒論を止めたらいい」という意見と、「それでも卒論に向き合うという時間を持つことが大事なのだ」という意見が分かれて対立しているという話だった。おそらく日本の文系の卒論でも 状況は同じだろう。
最近のYahooでコピペを発見するソフトを金沢工大教授が開発 したという記事を読んだ。 [5月26日15時45分、J-CASTニュース 20080526]
『インターネット上の情報を「コピー・アンド・ペースト」(コピペしたものかどうかをチェックするソフトを、金沢工大知的財産科学研究センター長の杉光一成教授が開発中だ。2008年2月に特許申請を終え、来年早々にも産学連携の形で発売するという。杉光教授によれば、ネット上の情報をコピペしてレポート(宿題)を提出する学生が急増。中学生でも、ネット上にある「自由に使用できる」と謳った読書感想文をそのままコピペして提出するなど教職員を悩ませている。杉光教授が開発中のソフトは、学生などが提出した文章を翻訳ソフトに使われている「形態素解析」という技術で分解し、インターネットで検索。類似したものが検出されればURLを表示するというもの。』
これはすごいことだ。コピペがじゃんじゃん摘発できるわけだ。日本の大学の卒論では、こうやってコピペを見つければ、「あかんぜよ」と言って落第にすればいいかも知れない。自分の力で文章を書かなくては卒業できないとなると、卒論の本来の意味に戻ることが出来るだろう。
しかし、中国でコピペを見つけて、「これでは駄目だ」なんて言ったら、卒論の通る学生はいなくなってしまうのではないか。集まりの時に大学I部の先生に、「卒論が提出されて、実際にコピペを見つけたらどうするんですか。」ときくと、「コピペと分かっても、論旨が通っているかどうかを重視してみます。破綻なく自分の主張を論理的にしていれば良いことにしています。」と言う返事が多かった。
「コピペをしても良いけどね。自分の意見をちゃんと書きなさい」と、指導しているという先生もあった。「論文の40%は自分の主張を自分で書きなさい。そしたら残りはコピペでいいよ」と、もっと具体的な指導もあった。
コピペを根絶することはもはや不可能になってきたようだ。それに中国では元来が自分と他とをきびしく峻別しない文化のようである。自分と同じ意見なら、それをそのまま持ってきて何故いけないんですかと、コピペが悪いという考えが根本的にないらしいのだ。卒論指導の日本人の先生たちのフラストレーションはまだまだ続くことだろう。
2.英語の論文の場合
いままでに何度も書いているけれど、私たちの勝負は英語で発表する研究論文である。 様々な分野とグレードの国際誌があるので、論文を書き上げると内容にあわせて、一番通りやすい、あるいは一番適したところに送る。
この世界でも盗作、剽窃、捏造がある。一説によると1%くらいの論文はこのようなインチキなのだという。今ここで取り上げたいのは、このような盗作、剽窃、捏造におけるコピペではない。悪いに決まっているコピペを云々するのではない。ここで問題にしたいのは、盗作、剽窃、捏造ではない正常な論文で、起こる可能性のある日常的なコピペのことである。
コンピュータが発達して、論文、データその他が正確に記録保存できるようになったことは科学の世界では大変結構なことである。手で書き写すと間違える可能性もあったのだから、ディジタルコピーほどありがたいことはない。以前は何かの記述を読めば、要点を手でメモ書きにして残すしかなかった。今は、そのままコピペして自分のPCに取り込んで、寸分の間違いもなく、その時のままの文章を読んで、記憶を確認することが出来る。
自分の発表する科学論文では、いきなり自分の研究の話をはじめても、誰も付いてこられない。最初に研究の背景から書き始める。このジャーナルを読む人なら、読めば理解できるレベルから書き始めるわけだ。と言うことはその世界では常識になっていることから説き起こすことになる。言ってみればコピペで足りるわけだ。
論文を書くのに例を出してみよう。たとえば、カレーに黄色を与えているターメリックの主成分クルクミンが癌の転移を抑えるという論文を書いているとしよう。前文をまず「カレーに黄色を与えているターメリックの主成分クルクミンは」と書き出すわけである。このクルクミンの構造、そして今までにどんな薬効が知られているか、誰がどんな実験をしたかを書いて、自分が何故これに興味を持ったか、何を解決しようとしてどんな実験をしたかを書いていく。背景を説明して理解して貰い、自分の実験にどんな意義があるかに話を持っていく。
クルクミンの説明はコピペで十分どころか正確を期するならコピペ以上のものはない。しかし、自分の書く論文でコピペをしたのでは恥ずかしい。外国のあれこれの友人の顔が思い浮かぶ。彼らに見られてコピペじゃない?なんて言われたくない。それで、投稿論文を書くときには何時も自分の言葉で書き始める。
しかし学生が卒業論文、修士論文、博士論文を書くときは、このような前文を書くときにはコピペを暗黙に認めている。前文(と言って全5章のうちの第1章である)はどうせ飾りで、論文の本質には関係がないことがひとつ。コピペをするなと言っても、論文を膨らませて飾るためにコピペをするからと言うのが一つ。そして一番大きな理由は、その部分の英語を私が直さなくて良いと言うことである。それに、こう言うところは人の研究を引用しているので、元がたどれるように文献を引用している。
学生の論文が全部彼らの書いたものであるとき、これを直すのは一苦労どころか、何を言いたいか考えあぐねて、すっかり消耗してしまう。単数・複数形や定冠詞・不定冠詞などの問題だけではない。例えば、書かれている通りなら、学生は人の実験を述べていることになるはずなのに、読んでいると彼の実験でなくては意味が通じない。この英語なら、そうなっちゃうんだよ、と思いながら、読んでいて一応は意味が通じるように直していく。
人の英語を直すと、私の英語を人が直すときも苦労するのだろうなと言うのがよく分かる。長年英語を使ってきて、未だに正しい英語表現だけで文章が書けない。日本語で言うなら、現代文を主な階調として、その中に女子高生の表現が飛び込み、さらには関西弁、江戸弁だけではなく、古文や漢文がちらちら混じっているおかしな英語を書いているんだろうと思う。思い当たるのは高校の頃の怠慢である。日比谷高校1-2年生の英作文の宿題はきつかった。一つ違いの姉がいたので、1年前の彼女の英作文をそのまま写して出していたのだ。つまり大事なときに怠けたおかげで英語力が身につかなかった。
だから、学生には、前文に当たる第1章以外は決してコピペをするな、どんな下手な英語でも、どんなに苦労をしても自分の力で英語を書けと言っている。自分の苦い経験で言っているのだから迫力がありそうなものだが、どうだろうか。
ところで、言葉というのは模倣から始まる。中国に来て中国語の勉強をはじめて、語学の勉強では暗記、つまりコピペが先ず基本の基と言うことを理解した。暗記、つまりコピーがきちんと出来ていないと、ペーストはもちろん、応用が出来ないのだ。コピペこそ語学上達の早道であるが、学問に王道なし、最終的には自分の言葉を自分の力で語るしかないのだ。
なお、カレー粉の黄色の成分クルクミンが健康によいことは様々の研究によって示されています。このクルクミンは辛みとは何の関係もありません。激辛カレーを食べることが健康によいなどと思わないでくださいね。