瀋陽薬科大学
山形 貞子
瀋陽に来て良かったことはなんと言っても熱心な学生達と一緒に論文を読み、実験の計画を立て実験をし、その結果を検討できるということです。私たちの研究室の学生達はとても優秀ですので話し合っているととても楽しいのです。
私たちの研究は実験科学ですからいろいろな物が必要です。日本から持ってきた物、こちらで買った物などありますが、それでも足りないと学生達は“自己動手、豊衣足食”といって自分たちで何でも作ってしまいます。
暗室が欲しいと言いましたら五愛街で布を買ってきて部屋を仕切っている壁に掛け、どこからか持ってきた台とシンクを組み立てて小さな流しを作り、窓には黒い紙を貼って暗室をつくってくれました。しかし、実際に使ってみるとあちこち光が漏れフィルムは感光してしまいます。学生と私は器械の下にもぐりこんで漏れてくる光を自分たちの体で防いで現像をしたのですが、それを見ていて今度はカーテンの付け方を変えようと太いパイプを買ってきました。そしてカーテンの上部をパイプが通るように縫い直して壁にとりつけました。そして一つ一つ光の漏れをチェックして漏れている部分には黒い紙を貼って、完璧な暗室作り上げました。
また細胞を培養する器械が動かなくなったときがありました。細胞は生き物ですからそのままでは死んでしまうので業者に電話をかけて来て貰うつもりでしたが、直ぐに来てくれるかどうかはなはだ心細い気持ちでした。その時、女子学生達が行動を開始しました。彼女たちは自分たちの恋人達を呼んで、80キロもある器械を動かして器械をあけて直して(直させて)しまいました。その場にたまたまいなかった男子学生達は自分たちがやれなくて残念そうでした。
日本にいたら自分で買い物に行って大学の暗室を作ろうという学生はいないと思いますし、器械が壊れれば業者を呼ぶのが当たり前になっています。テイッシュペーパーも手袋も何でも研究室で必要なものは業者に配達してもらっていました。ここでは足りない物があれば自転車で街中走り回って自分たちで調達するのです。
全て分業して“自己動手”から離れた生活に慣れてきてしまった私にはこうやって自分たちで必要なものを手に入れていく態度はとても新鮮な驚きです。
これから中国でも物があふれ、分業が盛んになって自分の手を動かさない生活に変わっていくのでしょうか。それは便利さと引き替えに何かを失っていく過程かもかもしれません。そうならちょっと残念ですね。
瀋陽薬科大学
山形貞子
瀋陽の春はきれいだ。
去年の手帳をぱらぱらとめくっていると4月7日、8日のところに続けて“桜満開”とあり、12日には“桜、レンギョウ”と記されている。
薬科大学は正門脇に花園式学校というメタルプレートが貼ってあるだけあって、正門を入ると中国的なちょっとそりのある屋根をもったどっしりとした建物を正面に、左右に芝生に花壇、ベンチが配されていて小さな公園のような雰囲気を感じる。正面の建物のその向こうは400mトラックを持つグランドで、そこここの植え込みには大小様々な木々が植えられている。
木々の葉がおちて半年、春が来て木々の芽が吹き出すとこちらの気持ちも明るくなり、花が咲くと手袋につっこんでいた手を大きく振って歩き回りたくなる。
さて手帳の記録だが、私たちが桜だと思いこんでいたのは実は桃だった。ここは中国なのだから当然桃と思って然るべきだったのだけれど見事に咲いた桜色の花を見て、夫も私も桜だと思いこんでしまった。まず日本の桃の花に較べて色がうすく本当に桃色ではなく桜色だった。
大学の中のあちこちに大きな木があってみごとな花を咲かせているのを見てちょっと桜とは咲き方が違う、ぼってりと玉のようになって咲く日本のソメイヨシノに較べてちらちらしているなあとは思ったが、大学正門前の文化路の並木がまた見事で、日本の桜並木を思い出させた。それでも何か違和感を覚えてさらに木の幹を調べてみたがまるで桜の幹のように横縞が入っている。やっぱりさくらだと日本にいる親戚や友人に桜満開の報をメールで知らせまくった。しかしある日、外事処の李先生にあれ桜ですよねと確かめたら、とんでもないことを聞かれたと言う感じで“いいえ、あれは桃です。”と力強く宣言されてしまった。
そうだ、劉備たちが義兄弟の約束をしたのは桃園だったのだし、不老長寿のあの平たい桃、ハントウが食べられる所なのだ。ここは桃の国なのだ。
薬科大学には基地クラスという優秀な学生を集めて促成栽培するがごときクラスがある。ある日、基地クラスの学生が3週間私たちの研究室で実験をさせてほしいとやってきた。さすが基地クラスの4年生、英語はぺらぺらで元気な小柄な女子学生である。たった3週間では特別のテーマは与えられないし、それでは私の実験を手伝って貰おうということになった。目的を話し、実験方法を説明すると私の話すめちゃくちゃの英語でもカンよく理解してくれる。やれうれしやといろいろ話した後、彼女は指導通りに実験を始めた。
ところが、いつも研究室のみんながやって来た実験なのだが、その通りにいかない。なぜだろう?と考えて疑わしい操作を点検して再度挑戦。それでも前の結果と変わらない。みんなで共通に使っている試薬が多いので、使っている試薬全てをチェックすることにした。調製した学生にどうやってつくった?と一つずつたずねていく。
みんなノートを見て大丈夫、間違っていませんとこたえる。おかしいわねえ、何かが変なんだけれど。それなら何から何まで作り直しましょうと話していたら、とても優秀だけれどちょっとおっちょこちょいのDくんが“先生、ノートにはこう書いてあるけれど実は間違えた可能性があります”と言ってきた。それじゃあまずその試薬だけ調製し直しましょうということで、作り直したらめでたし、めでたし。基地クラスの優秀な彼女も初めての実験がやっとうまくいくようになってほっと一安心。
メンツを重んじてか、なかなか自分が間違えたと言ってこない事が多いので、私が“Dくん、間違えたのは困るけどよく思い切って言ってくれたわねえ、”と言ったら側で聞いていたLさん。“先生、Dくんは偉いです。ワシントンの桃です。”と言う。
“ええっ? 何それ?”
“正直に言うのはとても大事な事です。ワシントンは桃の木を折ってしまった時お父さんに正直に言いました。”
“桃じゃあないでしょ。桜でしょ?”
“ええっ?!桃ですよー、わたしは幼稚園のとき読んだ絵本にそう書いてありました。”
“だって日本では桜っていうことになっているのよ。”
“ワシントンに桜がありますか?”と疑っている。
“勿論。ワシントン市のポトマック河畔の桜は有名よ(でもあれは日米友好の証として明治の終わり頃に東京市長尾崎行雄が送ったんだっけ!これではワシントンが桜を折ったという証拠にはならないか)。”
こんな会話をLさんとして翌日、彼女は電子辞書をもって意気揚々とあらわれた。先生見て!と言って見せてくれたのは “Cherry : 桜桃 ”。
“cherryはさくらでもももでもいいんですよ。”
“ふーん、なるほど!そうなの?”
でも直ぐ後で気が付いた。あれ“さくらんぼ”とも読むんじゃなかったっけ?
* * * * * * * *
広辞苑で調べてみると次のようであった。
さくらんぼう:桜ん坊、桜桃
桜桃:バラ科サクラ属の落葉高木。花はサクラに似るが白い。果実はさくらんぼうと称して食用。西アジア原産で冷地を好む。セイヨウミザクラ(西洋実桜)。桜桃の名は、本来、中国原産の別種シナミザクラの漢名。
ああ、やっぱり日本人である私は何でも桜と思いたがり、そして一方中国人は桃が大好きなのだ。
瀋陽薬科大学
山形貞子
加藤先生に案内して頂いて三好街の骨とう市に行った。先生が本を買っていらっしゃるのをみて私も何か1冊買いたいと思った。難しい物は読めないし何がいいかしらとためらっていたのだが、加藤先生が歌の本を買っていらっしゃるのを見てそれなら私にも分かるかなと“外国歌集第2集、人民音楽出版社1979年出版、0.56元”というのを2元で買ってみた。そしてもう1冊、最近漢詩を覚えようと思っているので“唐詩三百首、湖北人民出版社1993 年出版、4.8元”。これも2元だった。
歌集の方は大分汚れているけれど 唐詩の方は割にきれいで、唐時代の詩人についての説明や言葉の注釈、詩の解説がついている。勿論全部中国語だけれど眺めていればそれなりに分かってくるような気がしている。唐詩は何種類かに分類されていて、私たちが知っているものは大体が五言絶句か七言絶句だが、他に五言、七言の古詩、楽府、律詩などがあるらしい。
何故最近、漢詩かといえば、先日私たちの研究室の一学生が朝いつもより遅く来て、先生寝坊をしてしまいました。と言ったことからなのだ。ああ春眠暁を覚えずね、から始まって次はなんでしたっけ? 処処、啼鳥を聞く、その次は?と言っているうちに日本にいるとき、NHK ラジオの中国語講座でお琴の音をバックにこの五言絶句のすばらしい朗読を聞いたことを思い出した。その時にちゃんと覚えたはずなのにすらすらとは出てこない。よしそれなら覚え直そう、何度も繰り返せばなんとか覚えられるだろう、頭の訓練にもなるし、とごく最近勉強を(と言うほどのことではないけれど)始めたところなのだ。
敦煌では“葡萄美酒夜光杯”とうたわれた夜光杯を買ったし、蘇州ではかの有名な寒山寺にも行った。寒山寺はタクシーの運転手さんになぜ日本人は寒山寺が好きなんだろう?除夜の鐘をつきに日本人が列をなす、普段5元の鐘突き代がその時は800元にもなるなどと笑われ、お寺も予想していたのとは全然違っていたけれど、それでも知っていると思えば美しい詩にますます愛着がます。というわけで中国人ならばみんな小学校で習って知っているに違いない詩を覚えたいと思っているところなのだ。
一方、歌の本。これがまた大変興味深い。まず、五線譜ではない。数字で音階が表されている。このような楽譜は私が子供の頃, 叔母のものだったろうか、古い流行歌の本で見た記憶がある。去年教師節の時に薬科大学では、先生達のコーラスのコンクールがあった。どのように分けられているのか判らないけれど薬学院、中国薬学院、教務部などなど沢山のグループが参加した。私たちの研究室のドクターコースの学生は薬学院のティーチャーなのでその一員として参加した。その時に楽譜を見せて貰ったので数字で書かれている楽譜が、今も使われているのは知っていた。コーラスもその楽譜でやるらしい。
先生方のコンクールは楽しいものだった。私たちの所に実験にきていた先生は練習があるから来られないと言ってしばらく休んでいたし、ドクターコースのティーチャーも夕方になると練習に行っていた。どのグループも相当力を入れて練習していたように思う。コンクールの当日、私たちの学生が出る時間の少し前から聞きに行った。会場はクラブと呼ばれている講堂だった。大体20人から50人位の混声グループで、服装もみんなそろえていた。ジャケットやブラウスをそろえているグループが多かったが、お金持ちの学部は洋服から靴までそろえたとのこと、これもみんな各学院がお金を出したそうだ。すごい! そういえば、運動会の時も先生達は毎年学部ごとに新しく帽子や着るものをそろえている。歌は堂に入った指揮の下、元気に声をあわせるマーチ風のものが多かったが、中国風発声のソロの入ったもの、しっとりと歌いあげるものなどあって気持ちよく聞かせて貰った。
さて楽譜は1がド、2がレ、3がミである。これでは私のような絶対音感のない者ならいいけれど音が分かる人だと気持ちが悪いだろうなと思ってよく見ると、一番左上に“1 = B 4/4” のようにちゃんと音の高さが記されていた。数字の上に点がついていたら1オクターブ上、下に付いていたら1オクターブ下、下に線が引いてあったら長さは半分、右に点がついていたら長さは1.5 倍。ーは一拍のばすのだ。これらのことは眺めているうちにほぼ理解できた。学生に尋ねたら学校ではずっとこの数字の楽譜を使っていて五線譜は習わなかったと言っていた。
韓国、英国、法国、徳国、美国、?格?,???などいろいろの国の民謡やいわゆる名曲が載っている。勿論日本の歌もある。なにしろ全て漢字で書いてあるので日本の歌以外はなんの歌か分からないけれど、ふんふんと音をたどっていくとああこの歌かと分かってくる。丁度パズルを解くような楽しさだ。さらに歌だけでなく作曲家の名前などが分かると嬉しくなって声を上げてしまう。貝多芬、舒柏特、門徳尓松、肖邦、古諾、比捷,徳沃扎克など。分かりますか?モーツアルト、ヨハン・シュトラウス、チャイコフスキー、ヴェルディ、リムスキーコルサコフなどもあるし、オペラの題名がまた楽しい。“茶花娘”、“?門”、勿論“椿姫”と“カルメン”だ。そんなことを喜んでいるうちに、例えば日本語を習ったドイツ人がカタカナでベートーベンと書いてあるのを読んで、ええ?これ何? クイズを解くようだと言って喜んでいるかもしれない、ということに気が付いた。
加藤先生が中国語訳の日本の歌の本を貸して下さった。その中にとっても気に入ったものがあった。日本語の歌は勿論いい歌だけれど中国語もとてもやさしくてかわいい。どうぞ歌ってみて下さい。
七只小烏?
老烏鴉 在山?上 ?什?叫呱呱?
因??里有了 七个可愛的小烏?
小烏? 多可愛? 老烏鴉不停地叫呱呱
小烏? 多可愛? 愉快地叫呱呱
請上山 看一看 烏??里有什?
?着圓圓的小眼晴 可愛的小烏?
中国ではからすは、“gua,gua”と鳴くくらしい。蛙の鳴き声もやはり“gua,gua”だとか。
瀋陽薬科大学
山形 貞子
学生の一人が日本人の先生は“工作狂”だと言われていますという。意味は仕事中毒、Workaholic ということらしい。Workaholicは日本人には良く知られているが、調べてみるとwork(仕事)とalcoholic(アルコール中毒)との合成語として、1970年代にアメリカの作家オーツによって作られた語だそうで、そんなに古いものではない。
確かにこの歳になっても、私たちは毎朝7時にはラボに来て、夜は7時過ぎまでいる。土曜日の午後と日曜日は休むことにしているけれど、それでもうっかりするとラボに来ている。働き過ぎと言われればその通りだ。“工作狂”といわれても、悪いことだと思っていないところが問題かも知れない。
私たちの仕事の場は1つの教授室兼用のオフィスと2つの実験室だ。研究室には3人のドクターコース、4人のマスターコースの学生が配属されている。後期になるとこれに卒業研究の学生が3?4人加わることになる。彼らはドクターコースの学生は博士号を、マスターコースの学生は修士号を、あるいはドクターコース進学を、そして卒業研究で配属された学生は大学卒の資格を一刻もはやく取りたいと懸命に実験をしている。【写真は教師節の日に7人の院生たちと】
私たちの研究室では土曜日の午前中は世界的に認められている専門誌から最新の論文を、二人がそれぞれ選んで報告するセミナー、また水曜日の夜には自分の実験の進捗状況を報告する会を持っている。私たちが中国語を話せないために使われる言葉は英語である。彼らはその当日の1週間くらい前には、インターネットを使って論文を選び読んで報告してくれる。配属された最初こそ読み方が分からずおたおたしているが、回を重ねるごとにその論文についておよその意味をとって堂々と話しまくる。英語についても然り、ちょっと発音がおかしいなと思う学生でもそんなことお構いなしで実に堂々としゃべって上達していく。
実験報告の際には仕事の背景、実験方法、結果、考察、そして今後の方針を話すようにいってあるので、みんな約1ヶ月分の実験結果をまとめてプリントし、それに基づいて報告している。彼らはきれいなグラフを作って沢山の実験結果を見せてくれる。
私たちの研究には細胞培養やRNA を細胞から取り出すことが必要で、そのためには隔離された清浄な空間がなければならない。2室ある実験室の1室は間を仕切って培養室とDNA,RNA を扱う特別の部屋にしてある。そうなると他の仕事は全てもう一つの部屋で行うことになる。勿論学生達の居室を含めてである。彼らはそういう環境のなかでもうまく折り合って怠けることなく実験を進めている。
一つには私たちが週に1回は一人一人の学生と仕事について検討することにしていることもあるだろう。私は時に結果が出ないときもあるのではないかと思うのだが、彼らは何らかの結果を一つは出さないとメンツがつぶれると考えているのだろうか、何とか結果を出そうと、前日あるいは前前日にはがんばって実験をしてこんな結果がでましたと持ってくる。
彼らは日本の学生達と同様にあるいはそれ以上にhard workerだ。
但し、どれだけ面白がって仕事をしているのだろうかという点になると疑問を感じてしまう。良い仕事をしたいというのでなく、なんとか早く論文を書いて学位を取りたいという気持ちがとても強いことをひしひしと感じてしまう。
毎朝挨拶に来るとその際、細胞の数はどれだけにしたらよいか、反応時間は?濃度は?などなど細かい実験条件を聞きに来る。誰かがやったことをそのままやるならそれは学生実験、細胞数も反応時間も反応濃度も最適条件は自分で決めなくてはならないということが分かっていないのだ。一つ一つ積み重ねていくということをやりたくない。出来れば一気に結果を出したいのだ。
私はまずそれでやってみればとなるべく良さそうな条件を言うけれど、そして先生は絶対ではないんだと何度も言うけれど、多分これまで先生は絶対だったのだろう。私の示した条件で期待された 結果がでないと非常に不満げだ。条件をいろいろ変えても期待通りでなければ、新しい発見につながるかもしれないのだ。こういうときこそ喜び勇んで挑戦して欲しいのに。小さな実験でも自分の発想で進めなくてはいつまでもただ追いかけるだけの仕事になってしまう。先生の言うとおりのことをしていたら先生を超えることは決してないのだ。
瀋陽薬科大学
山形 貞子
今度の日本語クラブは1.心温まる話、または、2.何故瀋陽に来て教師をしているのか、そのきっかけは?というのがテーマだそうな。2については二人とも顔を見合わせて、何故ここにいるのだろう?と不思議がっているくらいだから、本当のきっかけなど分からない。二人ともまだ元気だし、研究はできれば続けたいし、役に立てるなら良かろうというところか。日本で65 才以上でも喜んで迎えてくれるところがあったら行ったかもしれないので、日本にそういう職場がなかったと言うことも大きな理由だろう。
ただ、日本で今のような幸せな仕事ができたかというとできなかったと思う。試薬、機器など手に入れるのに苦労をしているけれど、学生達が熱心で私達が少しでも役に立っていると思える職場は日本にはなかったに違いない。私達はとてもありがたい境遇にいると感謝している。
さて心温まる話を書こうと思っているのだが、どんな話があるかと考えてしまった。最近はそう感じることがないなあと。もしこちらに来て直ぐだったら沢山あったのに・・・
それではあの頃の心温まる話はどんなことだったのだろう?学生が親切で階段の上り下りに手をとってくれたっけ。広い道路を渡る時、必ず危ない側を歩いてくれて、しかも身体を抱くようにして守ってくれた。買い物も「先生必要な物はありませんか」と聞いて買い物に行ってくれたし、一緒に行けば荷物を持ってくれた。みんな先生をとても大事にしてくれた。そして私は、なんて中国の学生はやさしいのだろうかと感激したものだった。学生だけではない。バスに乗れば、一番後ろの席に座っている人が、前から乗った私を手招きして席を譲ってくれた。
ところで、今はどうだろうと考えた時、前と今と全然変わっていないのに気付いた。今も先生必要な買い物ありませんかと聞いてくれる。道を渡るときには必ず車側へすっと位置を変えて守ってくれる。夜道を歩くときは腕を組んで転ばないように気を付けてくれる、本当になにも変わっていない。ということは私がこういう親切さに慣れてしまったということなのだ。日本ではそういうことがなかったから、全て心温まることと感激した。そして今その環境の中で当たり前のこととなってしまったのだ。
先日も雪の降った翌日だったろうか、研究室の学生と話しながら道を歩いていた。道の雪は通る人の靴で踏み固められ凍っていた。話に夢中になっていたせいか、はっと思ったら滑って転んでいた。
どこも打ったわけでもなく大したことはなかったのだけれど、一緒に歩いていた彼女は「先生ごめんなさい。私が一緒に歩いていたのに転ばせてしまって」と言う。私が勝手に転んでいるのに謝られてこちらが恐縮してしまった。そしてそのあとは絶対に転ばないように私と手を組んで歩き出した。若い人たちは一緒に歩いている老人に対して責任を感じているのだ。
若い頃、身体距離について日本に来たアメリカ人が書いたものを読んだことがある。彼は日本に来て混み合った電車に乗って辟易したのだろう。アメリカ人は親しい人との身体距離は大変近いけれど見知らぬ人との間は50−- 60センチ以上ある。しかし、日本人は親しい人との身体距離は遠いのに、見知らぬ人との間の身体距離は非常に近く0センチでも平気だというようなものだった。要するに、アメリカ人は夫婦の間、友人の間で会えば抱き合って挨拶をするけれど、日本人は夫婦の間でもそのような親しそうな挨拶はしない。それなのに混み合った電車の中では身体をぴったりと付け合った状態で平気でいる、そんなことはアメリカ人には到底我慢のできることではないというようなことだった。日本人だってちっとも平気ではなかったのだけれど仕方なかっただけのこと、でも彼にはそのように見えたのだろう。
私は中国に来て中国人は親しい人に対しても、見知らぬ人に対しても身体距離が非常に近いと思って見て来た。若い男女は言うに及ばず女子学生同士が腕を組んでいるのは常のこと、父親と大学生の息子が手をつないでいるのを見たことがあるし、母親と娘、中年の女性同士、言ってみればあらゆる組み合わせで手をつなぎ腕を組んで歩いている。また切符売り場など人が押し合いへしあい、バスに乗るとき降りるとき身体距離はほとんど零と言っていい。
何故こんなにくっついて歩かなくてはならないのだと実は冷たい目で見ていたのだけれど、しかし、転ばないように腕を組んで守って歩いて貰って以来、おばあさんと孫が、あるいはおかあさんと娘が腕を組んでいるのはそういうわけかと思うようになった。「私はこんな暖かい気持ちの國、心温まる國で暮らしているのだと。」
瀋陽薬科大学
山形 貞子
今年は卒業研究を山形研で行う学生は4人だ。5人が申請してきたけれど一人はこの4月から日本の大学に行くことになった。
残りの4人のうち2人も日本留学希望で、もう行く先の教授と話がついているらしい。あとは入学試験に通ればよいという状況だ。
新学期が始まって4人は仕事をはじめた。上級生達が新人類だと言っている彼らは元気で積極的だ。4人いるという心強さもあるのだろうし、もともと明るい外向的な性質の学生達なのだろう。
さて彼らと話をしていて、“そうです”について私は書きたくなった。
彼らは分からないことがあると遠慮なく私のところに聞きに来る。例えば細胞を別の培養皿に移す時にトリプシンを使ったのにうまく細胞がばらばらになりませんという。先輩と同じようにやったのに何故でしょうかと聞きに来る。
細胞は血清を含む培養液の中で培養しているので、“トリプシンで処理する前は細胞を洗ったの?”と聞くと洗ってないとの返事。“トリプシンはタンパク質を分解する酵素だけれど阻害物質が血清の中に含まれているから洗わないと効きにくいのよ”というと“そうです。効きにくいです”と言う。効きにくいと知っているなら私に訊くなと思いながらも、“それに細胞間の接着に働く分子はカルシュウムを必要とするから、カルシュウムを除けば、細胞はもっとばらばらになりやすい、だからEDTAの液で洗いなさい”というと“そうです。EDTAを使うといいです”という。
知っているなら頭を使え!知らなかったなら“分かりました”と言えと私は心の中で怒っている。
もっといらいらさせられるのは、試薬などの計算が分からずに聞きに来たときだ。こうやって計算すればいいでしょうと私が計算してみせるのを横で見ていて“そうそう”と言いながらうなずいているのだ。まるで生徒が計算しているのを眺めている先生のように。
こういう会話を私は何度も経験している。分からないからと聞きに来た学生に一生懸命説明すると“そうです。何何です。”とか“そうそう”などという言葉が返ってくるのだ。その返事を聞くと私は不機嫌になる。
今思えば最初にこの研究室を開いた当時も私はよくぼやいていた。中国の学生は知らないことを知らないと言わない。私が説明したあとに“そうです。私もそう思っていました”というような返事をする。それなら自分が先に考えを述べればいいのに全て説明を聞いてから知っていたみたいなことをいうのは何事だと。
私は日本語の大変上手な学生に囲まれて生活をしている。 単語もよく知っているし、日本語独特の言い回しもできる。だから彼らを日本人同様に日本語ができるとつい思ってしまっていた。しかし多分彼らは“そうです”の使い方を知らないのではないかと今回卒研生と話していて考えるようになった。
“そうです”というのはもう知っていることを確認するときに使う言葉なのだ。“これは机ですか?”“そうです、机です。”この人は机を知っているから“そうです”と返事をするのだ。“あの方はお父様ですか?”“そうです。父です。”自分の父親だから“そうです”と返事ができるのだ。だから知らないことを聞きに来て説明を聞いて“そうです”と返事をするのはおかしい。最近度々経験するので多分“はい”とか“そうだったのですか”と同じ気持ちで使っているのではないだろうかと思うようになった。【写真は吹雪の中の薬科大学】
日本人にすれば“そうです”と返事をされればもう知っていたのかという感じを持つのだけれど、そのニュアンスが分からず、“はい、分かりました。EDTAを使えばいいのですね”とか“そうやって計算すればいいのですね”と言うつもりが“そうです。EDTAを使えばいいです”とか“そうそう”と言う返事になっているのではないかと推測するようになったのだ。
彼らが日本に留学したときに先生を不愉快に感じさせないように私は返事の仕方を注意しようと思っている。多分日本語の先生方に、“そうです”のニュアンスを学生達に教えてくださいとお願いするのは行き過ぎかもしれない。なぜって日本語が下手な学生がどう使ってもこちらはそのつもりで聞いているので問題ないのだ。ただ日本人と同じように話せる学生から“そうです。EDTAを使うといいです”とか“そうそう”などと言われるともう教えてなんてあげない!という気になってしまうだけなのだから。
瀋陽薬科大学
山形 貞子
私たちは今、瀋陽薬科大学で研究室をもって学生達11 人と癌の転移についての研究を進めている。大体毎日午前7時から午後7時まで研究室で過ごしている。12時間もの間何をして過ごしているかといえば、学生達との実験計画作成、結果の検討、文献検索、そして自分達なりの仮説をたて次のステップの実験計画。最近は研究が少しずつでも進んできて11人がそれぞれ新しい結果をもってくるので私たちの勉強は大変だ。インターネットを使って関連論文を読み学生の指導に備えなくてはならない。今私たちの分野では1日に 100以上の新しい論文が出る。その中で私たちに直接関係する物は1%もないけれど、それを選び出し読む。11人を相手にしていると休む暇はない。一人で 20人、30人を相手にしている先生はすごい!と思ってしまう。しかし、分からないことが分かってくるということは本当に面白いし、学生達は熱心に意欲的に研究を進めてくれている。おかげで瀋陽にいる間は大変充実した生活ができるだろう。
しかし最近考える。帰国したら私にどんな生活があるのだろうかと。急に時間の余裕ができて何をしていいか分からずにきっとぼけるに違いないと思う。日本にいる友人達を見ると年をとって自由に使える時間を如何に使うかを、もうちょっと若いときから考え備えて来ているようだ。趣味が趣味を越えて生き甲斐になっている人、今までできなかった旅行をしその土地のことを調べて本を出版する人、地域の為に働いている人など様々だ。私はできるなら、人の役に立つようなことをやっていきたいけれどそんなものあるかしら?
の役に立つ仕事とは関係ないけれど年取ってもできる旅行の話を聞いたので紹介しょう。
わたくしの妹は去年の12月から今年の3月までの3ヶ月、南半球を船にのって旅行をしてきた。その計画を聞いたとき元気ねえ、3ヶ月も?と言ったものだが、帰ってきた後の話では90 才以上の人も乗船していたという。船はピースボート。若い人が半分年寄りが半分。
約90日のうち上陸したのは34日だったそうだが、アフリカ、南米を回って来る旅は、滅多に行かれない所だけに楽しかったらしい。【写真:ピースボート・トパーズ号】
船上では乗客が自分のできることで教室を開き、参加したい人がそれに参加したという。妹は英語教室に参加して英語を勉強、自分では百人一首の教室を開いてお年寄りに(自分もそうだけれど)喜ばれたそうな。
奥田前経団連会長がやめたら船で世界一周をしたいと言ったとYahoo Newsにあったけれど彼ならクイーンエリザベス号とか日本の豪華客船あすかとかでの世界一周だろうが、働きながらなら50〜60万、ただ観光なら150 万くらいで世界半周というのはどうだろう?とても高いような気もするがヨーロッパに10日も旅行すれば直ぐに60万円位はかかってしまうことを思うと悪くないかもしれない。
80才になっても90才になっても健康ならば行けるというところが気に入った。皆さん、こんな旅はいかが?
以下は妹から聞いた概要。
船はパナマ船籍のトパーズ号、31000t、元英国船、50年の古い船(でも中はきれいだったそうです)。12月26日横浜出航。
3月30日横浜に帰港。 総日数96日、
寄港日数21日、船上日数75日。
寄港地:横浜港、神戸港、ダナン港(ベトナム)、シンガポール、インド洋(8日間)、ポートビクトリア港(セイシェル)、モンバサ港(ケニア)、ケープタウン(南ア)、ウォルビスベイ港(ナミビア)、大西洋(8日間)、リオデジャネイオロ港(ブラジル)、ブエノスアイレス港(アルゼンチン)、ウシュアイア港(アルゼンチン)、パタゴニアフィヨルド遊覧(3日間)、バルパライソ港(チリ)、太平洋(5日間)、イースター島(チリ)、パペーテ港(タヒチ)、ツバ港(フィジー)、ラウトカ港(フィジー)、ラバウル港(パプアニューギニア)、横浜港、神戸港
今回は南半球周りだったが、通常はスエズ運河、ヨーロッパ、パナマ運河を通過して北半球の米国、カナダの港を回るコースが多い。
またオーバーランドツアー(ある寄港地で船から離れて飛行機、車で観光し、次の寄港地で船に戻る)をすることができる。例えばタンザニアでサファリ、ブラジルでイグアスの滝、アルゼンチンでパタゴニアに行くなど。
船客:約850 人:10〜20歳代40%、30〜40歳代14%、50〜60歳代33%、70〜90歳代13%(女性57%、男性43%)、最高齢者:93歳、日本人が圧倒的に多いが、語学の先生、その他各寄港地でピースボートと関わりのある人が乗ってきた。その他クルー(主にギリシャ人)と従業員(インドネシア人、フィリピン人、ブルガリア人、中国人、ウクライナ人等)が300人以上。
費用;3〜4人部屋(ヤング、カジュアル)で早期割引の場合128万円。ペア用の一番安い部屋は早期割引で一人145万円。ペアの一番高い部屋は300万円(この部屋は空いていたみたい)(ちなみに豪華客船飛鳥の最低料金は一人350万円) 一人部屋で一番高い部屋は一人380万円。 いずれも96日間の食事代、部屋代を含む。
但し、寄港地での観光にツアーを利用するとその費用は別。若者は自分たちで観光をすることが多い。でも年配者の多くは言葉が通じなかったりでツアーを利用することが多い。
若い人は日本にいる時ピースボートで働いていることが多い。時給800〜1000円とか。働いた分だけ船賃が安くなるらしい。船の上でアルバイトをしていた女性もいる。ピースボートで働くのは若者に限らず、年配者(実際に80歳の老人から聞いた話)も船に乗る前にピースボートの事務局で働いて資金を貯めたと言っていた。
今回の旅で特に印象深かったのは:
1. タンザニアのサファリでライオン、象、バッファロー等を多数見たこと、
2. イースター島(さびしげなモアイ像)、
3. アフリカ、南米どこに行っても見られたスラム街。
もう一度行きたい所:タヒチ(海がきれい、バリハイ山)
最高年齢は93歳、80台後半の女性が2人(この二人はピースボートのリピーター。その一人は7回目)、老人ホームに入所している男性もいて、写真を撮ってホームの仲間に見せるのだといっていた。
船旅というのは、荷物を運ぶ心配がないし、食事は用意され、毎日部屋の掃除も洗濯もしてくれ、にぎやかで淋しくないという点からも、年配者にとっては良いかも知れない。若者も年寄りに対してとても親切。でも医者がいるとはいえ、大きな病気の時は問題だろう。
パーキンソン病の年配男性、筋ジストロフィの男性(50 代)とその奥さん、脳梗塞で体が不自由な男性、車いすで一人で乗船している男性、耳が全く聞こえない若い可愛い女性、自閉症だと(人のうわさ)いう若い男性(いつも寒そうな格好で甲板で海を眺めていた)登校拒否かなと思われる中学生のような女の子とそのお母さん(いつも喧嘩をしていた)等々。
夫婦者もいるけれど、それは少数派。夫をおいてきたという女性。妻をおいてきたという男性。夫(妻)に先立たれて一人で来たという人多数。
若者がいたので船上運動会、のど自慢、ダンス大会などいろいろあった。毎日、新聞が若者の手によって発行される。とんでもない若者もいたけれど、献身的な若者も多数。
自主企画あり。英会話、百人一首、太極拳、詩吟、クラシックを聞く会、フラダンスの会、絵手紙の会、ダンス、折り紙等等、書き切れない。
NGOのピースボート、旅行社のジャパングレース、旅行社と契約した船会社のトパーズ号の三者が一緒になって船を動かしている。
ピースボートはもともと政治的な団体として始まったようだが、現在はほとんどその傾向はなく、私たちのような純粋な観光目的の人を乗せている。そうしないと採算が取れないのだろう。ピースボートらしく主に環境問題のレクチャーも用意されていたが、聞いている人は多くて30%くらいか。私も他のことが忙しくてほとんど聞けなかったが聞いた中で特にインパクトを受けたのはツバル(南太平洋の小島。海抜2メートルで、地球温暖化のために水没しそうという)の話と写真だった。
瀋陽薬科大学
山形 貞子
[1. お疲れさま、ご苦労さま]
Yahoo newsを見ていたら何かの調査で“上司と仕事をした後、部下が上司にかける言葉として“ご苦労様”が15%ある。今や、ご苦労様がお疲れ様を浸食している”と書いてあった。
ということは、これまでは部下は上司にお疲れさまというのが普通だということだったのだ。しかし、その記事の中で、本来はご苦労さまもお疲れさまも相手を慰労するときにかける言葉で、目上のものが下のものにかける言葉だったと書かれていた。【写真:加藤文子さん手作りのご馳走を囲んで 】
先日meeting のあと学生の一人が私たちにお疲れさまでしたと言った。別に失礼だと思ったわけではないけれど、違和感が残った。彼は非常に礼儀正しい学生だ。彼は多分日本では目上の人にはご苦労様はいけない、お疲れさまと言うべきだと思って使ったに違いない。
昔、娘が大学に入って直ぐの頃、20年以上前だと思うけれど、友人達と仕事をし終わって友人に“ご苦労さまでした”と言ったら友人に“僕は山形さんに使われている訳ではないからご苦労さまなどと言われる筋合いはない、お疲れさまと言うべきだ”とひどく怒られてしょげて帰宅したのを思い出す。
実は母親の私もそれまでそんな区別が有ると言うことは知らなかった。大体、お疲れさまという言葉は使ったことはなかったし、いや知らなかったと思う。多分、疲れたでしょう?などといたわり合っていたのだろう。そしてご苦労さまは子供やもしかしたら友人にも使っていたかもしれない。多分そのころから“お疲れさま”は一般に使われ始めたのではないかと思う。
何かの雑誌で芸能人は、その日最初に会うときは、それが何時であろうとも“おはようございます。”別れるときは“おつかれさま”と挨拶する。それが一般に広まりつつあるという記事を読んだ記憶がある。だからお疲れさまは仲間内の挨拶から広まってきて、それが何故か“ご苦労さま”は目上の人が部下に言う言葉だけれど“お疲れさま”なら誰に使っても良いとなったのではないだろうか。
でもご苦労さま、お疲れさまのように慰労する言葉は学生が先生に言う言葉でなくて、学生は先生に向かっては感謝の言葉を言うのが普通ではないかと思うのだが、日本語の先生方はどのように教えてらっしゃいますか?
[2. “ちゃ”、“きゃ”]
最近研究室に来るようになった学生に訊かれた。“ちゃ”という言葉は遺憾の気持ちが入っていますね。“きゃ”という言葉はどういうとき使いますか?
“ちゃ”については直ぐに分かった。“笑っちゃった”とか“やっちゃあ駄目”などのことだろう。私が名古屋に行ったとき勤務先の友人達に“ちゃった、ちゃった”と言うと笑われたから、これは多分東京弁だ。完了を表していて必ずしも遺憾の気持ちが入るとは限らないと思うけれど“失敗しちゃった”とか“間違えちゃった”など遺憾の気持ちが入っていることが多いかもしれない。
ところが“きゃ”については直ぐには思いつかなかった。そんな言葉あるかなあ、分からないと返事をしたのだけれど、家に帰ってから私がよく使っていることに気がついた。“やらなきゃ駄目”“もう行かなきゃあ”など。正式には“ければ”だけれど、これも東京方言だろうか?
そう気付くと“それじゃ”とか“こんなことじゃあ”など“では”を“じゃ”にしてよく使っているし、完了ではない“ちゃ“もよく使っている。”やらなくちゃ“とか”泣いちゃだめでしょ“とか。
それにしても耳のいい学生だ。私たちの研究室に来て1ヶ月、授業もありいつも研究室にいるわけでもないのに。私は日本語の先生のようにきちんとした日本語を話すわけではない。東京方言を使っているだろうし、ゆっくり話すわけでもない。その言葉の中で分からない言葉“きゃ”はどういうときに使うのかと訊いてくるとはすごい!!
[3. “わたし”と“わたくし”:]
日本にご主人について行くのだけれど日本語が話せないという女性に少しだけ日本語を教えた。私は最初に第一人称として“わたくし”を教えた。会話の本に “わたし”とあったけれど、“わたくし”は何処ででも誰に対してでも使って恥ずかしくない言葉で品の良い言葉だと教えた。ところが、ご主人である日本語クラス出身の彼が私におかしいと言う。彼女は“わたくし”というけれど、“わたし”の方がいいと言って笑うのだ。
私は入社試験や入学試験で相手が社長でも教授でももっと偉い人でも“わたくし”なら通用すると思うけれど、“わたし”では通用しないと思っている。もし私が面接するなら、“わたし”と言う人より“わたくし”と言う人を採用すると思う。勿論、他の結果が全て同じならということだけれど。
日本人ならどんな人でも第一人称の一番丁寧な言葉は“わたくし”であると知っていると思う。だから必要な場面で“わたし”でなくて“わたくし”を使えると思うけれど、中国の学生には“わたくし”という言葉は教えないのだろうか?
瀋陽薬科大学
山形 貞子
朝7時から夕方の6時半まで大学で過ごす私の行動範囲はとても狭い。殆どの行動は大学と大学の直ぐ隣にある住居との間に限られている。しかし、4年近く此処瀋陽で過ごすとそれなりの経験をする。それらの経験のうち心に残る店、もしかして瀋陽で暮らす方に参考になるかもしれない経験などを書いてみた。
1.ホテルの美容院
日本にいるとき、研究室にいた中国人のポスドクに中国に行ったらその辺の美容院に入らない方がいいと言われた。彼が言うには彼がまだ中国にいたころ、床屋に行ったら子供が髪を切って貰っていた。あまり床屋さんが下手なので代わりに自分が切ってあげたことがある。そういう店があるかもしれないし、使っている洗剤やヘアダイが良くないことがあるから、ちゃんとした店に行きなさいということだった。ちゃんとした店ってどこ?と聞くと、ちょっと考えてホテルの美容院とかそういうところだとの返事。
私はパーマはかけていないけれど、髪を染めているので日本を出る直前に染めてもらっても1ヶ月もすると髪が伸びて白い部分が目立ってくる。ヘアダイは日本から持ってきているけれど、自分で染めるのは結構厄介なのだ。そこである時きれいに染めて貰おうと思い立った。ホテルというと家に近い所ではマリオットかシェラトンか。日本人会が数年前に作ったハンドブックを見ると、領事館のそばの日本語も分かるし割にきれいな美容院は280 元で染めてくれると書いてあった。4,5年前のことだし場所も違うしと思って400元をお財布に入れてでかけた。
とことこ歩いて河畔花園の中を通り抜けてマリオットに行った。3階だったか5階だったかフィットネスクラブのあるところに近く、奥まったところだった。 10時半頃だったと思う。綺麗なお嬢さんが受付にいて、私の変な中国語に答えてくれて11時からだという。それならばと今度は隣のシェラトンを覗いた。こちらも同じような静かな雰囲気の所だった。やはり、11時からだという。それならもうここでいいからと思って待たせて貰うことにした。待っている間にお茶が出た。そこで髪を染めるのはいくらかと聞いてみた。なんと420 元だと言う。えっ、それじゃあ足りないじゃあないの。やめたやめた!というよりやめざるをえないということでカットだけならいくらかと聞くと70元。お茶もごちそうになってしまったし、今更出ていけないのでカットだけしてもらうことにする。
11時になったらこちらへと間接照明のうすくらい奥へ。一つだけ大きな椅子があって座るとぎーっと背中が倒されて洗髪のできるようになる。若いお嬢さんがきれいに丁寧に洗ってくれた。洗い終わるとまた立ち上がってもとの鏡の前のいすに。なかなか本物の美容師が来ないらしくてお嬢さんは何度も電話をかけている。ずっと私しかお客はいないということはここはよっぽど酔狂な人しか来ない所らしい。12時近くなってやっとかっこいいお兄さんが現れた。背も高く足も長く毛も長くあか抜けした感じの、この人に切って貰うなら大丈夫、へんてこな頭にならないでしょうと安心感を持たせてくれるような若者だった。しかしあちらはこんなおばあさんの髪の毛切るのはこんなもんでいいんじゃないのと言う感じで、私が言うとおりにさっさっさっと切っていく。待ち時間が長い割にはカットの時間は大変短く感じられた。
街では20元30元でカットしてくれるという話をきくから、ホテルの美容院は高いと思うが、とてもきれいな店で感じは悪くない。もし行くなら11時半過ぎに行くことを勧めたい。
2.小さなきたない,だけど懐かしい店
大学の正門前の通りは大変綺麗になった。
店の前で、おじさんと息子さんと 私たちが4年前に瀋陽に来たときは大学の並びは小さな食べ物屋ばかりだった。大学に一番近い店は名前は忘れたけれど回族の一家がやっている店だった。
最初に隣の研究室の池島先生がきたないけれど安くて結構おいしいんですよと連れて行って下さった。本当に汚い店で、先生に連れて行って頂かなければ決して入らないような店だった。入り口右側は饅頭の粉を練る台、左側に饅頭をふかす鍋があった。もっと奥に進むと部屋は2つに分かれていてどちらの部屋にも4人掛けのテーブルが2つ、2人がけのテーブルが2つ。
薄暗くてテーブルはべとべとしている感じだし、ビールを飲もうとコップを見ると、えっこれで飲むの?とすくんでしまうほどの汚れが見える。
しかし、中国に長く暮らして慣れている池島先生は、ビールを少量コップに入れて洗って床に捨てて、これで大丈夫ですよとおっしゃる。私も勇気をだしてそのコップで乾杯をした。大きな饅頭が5個で1元、あるいは6個で1元だったかもしれない。値段は安かったということは覚えているが、正確なことは忘れてしまった。しかし、ほかほかの饅頭は大変おいしかった。その他何を注文したのだっけ?何でもみんな安くておいしかったことは覚えているけれど。それ以来私たちの行きつけの店になった。
毎朝前を通ると一家の家長のおじさんが入り口で粉を練っている。私より7,8才上だろうか。がっちりした体格で白い、でも薄汚れた上っ張りを着て。少し遅い時間になると、練り終わって外の椅子に座って一服している。ニーハオというと彼は日本語でおはようと答えてくれる。
そのうちに“私は日本の軍隊にいました。田中さんと鈴木さんがいました”などと話をするようになった。時に“紀元は2600年、ああ一億の胸は鳴る”とか“雲にそびゆる高千穂の”とか今の若い日本人が絶対知らないような歌を歌い出し、私も声を合わせていっしょに店の前で歌ったりした。私はこんな歌、ここで歌っていいのかなあとびくびくしながら。
そして、私たちが食事に行くと、いつもおじさんの友達だからと言って何かサービスしてくれた。おじさんが家族、娘夫婦と孫達にとても大事にされていることが感じられた。しかし、そのうちにその家長のおじさんの粉を練る姿が見られない日があることに気が付くようになった。家の人にきくと身体が良くないのだという。そして全くおじさんの姿が見られなくなって直ぐ、店をたたんで家族中がいなくなってしまった。
店は2回、3回と入れ替わり、そのうち2軒が1軒の店になって今はきれいな眼鏡やさんに変わった。でも、日本語は忘れましたといいながら、日本語で話しかけてくれたあのおじさんを懐かしく思い出す。
3.盛京病院
窓から見える南湖劇場は丁度リニューアルオープンの時だった 去年の夏、私は盛京病院に入院した。盛京病院はこの間まで中国医科大学第二病院と呼ばれていた病院だ。文化路に面していて南湖劇場の向かいにある。今までの中国医科大学第二病院の建物の向かって右に新しく高いビルが建った。そこに盛京病院と名前が書いてある。
実は入院する3ヶ月ほど前にも救急車でこの病院の外来に運ばれたことがある。この時には渡辺京子先生の日本語の上手なお弟子さんのお医者さんに大変お世話になった。私はその時はただただ痛みがひどくて、あまりよく覚えていないのだけれど、運ばれた外来では患者が大勢いた記憶がある。この時は入院せず痛み止めの点滴をしてもらって帰った。
8月の帰国の数日前に同様の痛みがあり、消化器内科の部長を紹介され、この時はタクシーで病院に行った。この部長は日本で勉強してきたという方で日本語が非常に上手。私は痛みさえ止めてくれればいいと思うのに原因を確かめなくてはいけないから入院して検査をしましょうとおっしゃる。反対も出来ないので入院して検査を受けることになった。
入った部屋は個室。新しく出来たビルの5階。その階は個室がずらっと並んでいる。私は知らなかったけれど入るときに保証金2000元を払ったのだそうだ。部屋の広さは日本の病院の一般的な個室より広かった。ドアを入ってすぐ右側にある洗面所には洗面台、トイレ、シャワー、左側には天井までの戸棚、その奥は病室でテレビ、ソファ、ベッドサイドの引き出し、窓の外は南湖劇場が真っ正面。もともと二人部屋として作られているのを個室として使っているのかなと思ったのは酸素、吸引、ナースステーションへの連絡のベルなど壁に2セット付いていたし、ベッドも二つ入っていた。部屋はきれいでびっくりした。付いてきた学生も驚いたみたいで、一度帰ってからご主人を連れてきて、すごいでしょうと説明していた。学生の話ではこの病院は外国人が使いやすいように考えられていて、スタッフは外国語のできる人が多いとか。
確かに部長は日本語を中国語と同じように話す方だったし、その後、私の担当医になった若い医師も日本語が上手だった。看護婦は日本語は話せなかったが、よく訓練されていて、担当の看護婦は私だと自己紹介にきたし、にこやかだった。ナースを呼ぶボタンも押せばすぐに飛んできてくれるし、点滴の際には点滴スタンドについたカードに一滴何秒と記入していくので看護婦が代わっても大体の事は分かるようになっていた。
時々看護婦がのぞきに来てくれるので完全看護のシステムにしようとしているのだろうと思ったけれど、それにはまだ問題があるようだ。というのは入院中食事が出なかった。廊下で何やら大声がする、付き添っていてくれた学生にきくと食事を売りに来ているのだという。えっ?ここは消化器の病棟じゃあないの?? ただただびっくり。私は少し食べられるようになってから学生に外でおかゆを買ってきてもらって食べたけれど、買いに行ってくれる人がいないと食事ができないのだ。幸いベッドがもう一つ入っていたので、学生が夜も泊まってくれたから、私は不自由なく過ごせたけれど、ベッドがなければ泊まれない。大学の前の通りで住宿単間と書いた札を持った人たちをよく見かけるけれど、陸軍病院に入院している人の家族にとってあの貸間はありがたいものなのかもしれない。
検査はエコーと採血、そして治療は点滴による痛み止め、水分の補給、抗生剤投与だった。
金曜日の午前中は部屋を掃除してくれた。また、朝、看護婦さんが何か言いながらぬれたタオルをベッドの上に置いていった。何だろうと考えてこれは顔や手を拭くためだろうと結論づけた。しかし土日には何もこなかったので、土日は人手が足りないのかもしれない。【窓から見える南湖劇場は丁度リニューアルオープンの時だった】
木曜日に入院して土曜日にはもう元気になっていた。毎晩、学生が心配して泊まってくれるので申し訳ないし、帰国の日も迫っているしと思って、日曜日に退院したいと申し出た。しかし日曜日には医師は研修医しかいないし担当医や部長には連絡がつかない、その上日曜日分の点滴薬も用意しているので日曜日は病院で過ごすように、月曜日朝には医師が集まってミーテイングを開くから、必ず先生方は必ず出勤する、その時に医師と相談するようにと言われた。
月曜日の朝になって部長のところに退院したいと申し出た。実はその翌日帰国することにしていたのだ。部長はここでも検査したけれど時間切れだから日本でも精密な検査を受けるようにと言って退院を許可してくれた。担当医が検査結果を説明に行くからということだったので部屋で待っていると、足音高く中年の女性が2,3人を従えて入ってきて、ソファに座っている学生を見て、あなた達日本人じゃないじゃあないのと訳の分からないことを言う。
なにしろどかどかとノックもなしに入ってきたので、思わずこちらもきっとなって、何事?と言う態度になった。しかしここで怒ってはいけないと、そこは年の功、まあまあということで話を聞くと、上手な日本語で自分は今、町田で商売をしている、父親が病気なので帰ってきた、父親は向こうの部屋に入院しているのだけれど、同室の患者が大きな声を出すので眠ることも出来ない。そこで日本人がもうすぐ退院するというこの部屋に移ることになったから早く出て欲しいということだった。付いてきたのは彼女の娘夫婦らしい。
事情は分かったけれど私たちは担当医を待っているのだからもうちょっと待って欲しいというとあちらも分かったということで雰囲気は穏やかなものとなった。そこに担当医が来て血液検査の結果やエコーの写真を渡して説明してくれた。学生達は私に渡す前に全部見て、なんのかんのと言っている。そしてそこにいた町田の人も見て何やら意見を言っている。何故最初に私に渡さないんだ!何故私に断らずに見るんだ!と頭に来たけれど、ここはプライバシーのない中国なんだと思って黙っていた。担当医と話を終えて立ち上がり、さて部屋を出ようとしたら、彼女達はお父さんを抱きかかえるようにして部屋に入ってきた。そして私の寝ていたベッドに寝かせようとしている。そのまま出てきてしまったけれど、ひょっとして前の人の寝ていたベッドにそのまま寝るのだろうか?私は病室に入ったとき検査を終えてベッドで運ばれてきたので覚えていないけれど、もしかして前の人の寝ていたままのベッドに寝かされたのかしら?
費用は最初に預けた2000元に200元足した位だった。
部屋はきれい、言葉は通じる、看護婦も親切。いろいろ問題がないわけではないけれど良い病院だと感じた。前回の外来でもそうだったけれど、すべての検査、治療は前払い。だからお金を持っていかなければ何もしてもらえない。