松下先生・多田先生・土屋先生
夏休みをどのようにお過ごしでしたか?
そろそろ夏も終わりで瀋陽に戻ることを考えなくてはいけないのですが、小生に健康上の問題が発生し8月中には戻れないことになりました。おそらく9月半ばまで戻れないかもしれません。
誠に恐縮ですが、教師の会の新年度第一回の定例会の準備も出来ませんし、出席も出来ないと思います。今期は冒頭から図書の整理もありますし新年度は結構忙しいはずです。申し訳ありません。
1.2009年度の会員名簿の原簿を送ります。前から残っている人を書き入れてありますので、これに訂正と追加を書いて貰って下さい。私が戻るまでは松下先生に整理をお願いしますね。
航空学院の片山皚さんは7月初めに電話をしたところ、宇野さんを通じて会費を払う予定だそうですが、会友扱いを望んでおられます。このほかの会友の先生たちからも会費をいただいて下さい。
2.私の役割は、やはりHP を続けることだと思いますが、どうかメインで出来る人を探して下さい。
3.講談社サイエンティフィクから送られてきた本は薬科大学で2回分預かっています。図書館との話のときには、まだ毎年後続の本の受け入れがある旨を、是非伝えておいて下さい。
4.また、図書の整理が出来て図書館で公開された時には、日本人会にもそのことを知らせて利用の増加を図って下さい。
5.そして日本人会の人たちからの図書の寄付を教師の会で受け入れ、時々まとめてしに寄贈すると言う手続きをこれから行うこともどうか教師の会で図って決めて下さい。
日本人からの本の寄付は図書館にばらばらに行くよりも、教師の会でまとめた方が良いと思います。ただし、誰がどこでこれを受け入れるかが問題になりますね。これも是非議論して下さい。
日本人はだいたい河畔花苑に住んでいる人が多そうなので、薬科大学で預かるのが一番近いかもしれません。もってきて貰うのが一番ですが、取りに行くという のでないと本は手に入りにくいでしょう。ですから、ほかに寄贈本の面倒を見るという人がいなければ、私のところでやりましょう。学生さんと一緒に行って運 んできます。片道10分くらいの歩きです。
6.特別会計の扱いが懸案となって残っています。前に(5月に)特別会計を作ることは了承されましたが、これを使うことだけを考えていてこれを増やす方法を考えていませんでした。
前回(6月)、渡辺京子先生、瀬井先生からTシャツを作るなどの事業をしようかという提案がありました。私は自分でも歌集を作ってその収益を教師の会に積み立てましたから、この案に反対はしませんが、実際上この責任者となった人には、大変面倒なことだと思います。
それで、良い案を思いつくだけではなくそれを実行する気持ちの強い時のみやって見たらよいと思います。
そのような中で、特別会計を増やすとすると、一つの考えは、何も特別なことをしない。しかし、毎年の通常会計では、定期的な会費収入のほか、集まって食事 をした時の残り(たとえ10元でも残して)を会計に入れる。通常会計は赤字にはしないように運営する。そして、前年度でなく、前前年度の会計の余剰金を特 別会計に入れる。というのはどうでしょうか。こうすれば何も身構えなくても、特別会計という教師の会のいざというときのため(資料室を見つけて再開するな どの)基金を増やすことに役立ちます。そして特別会計は安易には使わない。
私は資料室再開を目指して積み立てる、と言うような高い、そして遠い目標を掲げると良いと思います。そうでないと、誰かへの謝礼とか、会にとっては非日常的と思われやすいことで消えてしまいます。
とりあえず思いついたことを書きました。
自分では出られないのに勝手ばかり述べてごめんなさい。
それでは新しい年度の会が元気に始まるよう祈っています。
7月に入った時に気づいたのだと思う。「瀋陽日本人教師の会」HP、「山形研究室」HP、「野呂先生の思い出」HPが中国から見られなくなった。どれも私が作っているので、時々更新しているし、アクセスもしている。
このときは新疆で民族の間の大きな衝突が起きていて、当局はその沈静化、非拡大化に非常に気を遣っていたと思う。最初の衝突の時には外国メディアを積極的に 歓迎したが、その後では断固拒み通したと言うから、同じ理由でやばそうな外国のインターネットは遮断したのだろうと思った。
実際、2008年の北京オリンピックの前には上のURLは時々遮断されたのだった。意外だったのは、特に何かあったとは思わないのに、オリンピックが終わった後の10月から翌年の2月まで上記のサイトにアクセスが出来なかったことである。
上記のサイトはYahoo.geocitiesのサーバーで作っている。このときはこのサーバー由来のものは全部遮断されていた。ある学生は「そりゃアダルトサイトのためですよ」と言って笑っていたが、真偽のほどは知らない。Infoseekは記憶にある限りここでは遮断されている。二度も長期でHPが遮断されると不便である。教師の会のHPは、瀋陽で私たちが活動している証というか、その状況を記録しているので、外部の人たちへの活動状況の発信ともなっている。しかしこのHPの内容にアクセスして私たちがいつも利用できる必要があるというのが本来の姿である。
HPを作るというのは面倒なものだ。特別なソフトがいる。ページからページに飛ぶ仕掛けにも、一字でも間違えたらどうにもならない。結構神経を使う。今年の初めの時点でも教師の会のHPを新たに別のURLで作ろうかと始めたけれど、無料のHPとなるといろいろの制約がある。大きさの制限、FTPが使えないとか、いろいろと不自由である。
それで、いくつかのプロバイダーで作り始めたが中途半端で終わってしまった。さてこの夏、教師の会のHPへアクセス不能という二度目の事態に、新たに作らなくてはという決意をついに燃え立たせた。学生の陳陽に、これこれしかじかの事情なのだが、中国で遮断されないような無料のサーバーはないだろうか、と聞いてみた。
すると彼の言うにはGoogleはどうでしょう、という。言語は何でもいいし、作るのがとても簡単そうですよ、という。すでに過去二年にわたってGmailを使っているので、Googleには親近感がある。
ブラウザにはFirefoxを使っているけれど、いつもアクセスしているのはGoogleなのだ。GoogleでHPを作るには、GmailのIDを持っていないという前提で書くと、GoogleのHP(http://www.google.co.jp/)にアクセスして「サイト」を選ぶ。上に「ウェブ 画像 動画 地図 ニュース グループ Gmailその他 ▼」というのが並んでいるので「その他▼」をクリックすると出てくる中に「サイト」というのがある。
ここでGoogle IDを登録する。IDがそのまま、HPのURLに使われる。同時にGmailの自分の宛名になる。
そしてmy siteを選ぶと出てくるサイトがあるのでそれをクリックすると、自分のHPの作成ページを始められるのだ。
この頃クラウドコンピュータという言葉を聞くことが多い。初めて聞いただけではイメージがわかないが、こういうことらしい。いまは個別のPCにソフトウエアをインストールして使っているが、今後はソフトをサーバーに置いて使おうと言うことのようだ。
サーバー側の性能はいくらでも高めることが出来るし、ネットの容量と速度も向上できるので、こうするとそれぞれのPCにソフトを入れる必要がないから負担が軽くなる。自分のデータまでサーバー側に置くことも考えられているようだ。
これにはプラーバシーの侵害という異論もあるみたいだが、今だって、ブラウザーメイルはこの仕組みである。最初はメイルを自分のPCに収容しないことにとても不安を覚えたが、どのPCからもアクセスできて、自分に来た、そして出したメイルのすべてが何時でも何処でも見られる便利さに、Eudoraは埃をかぶったままである。
Googleのサイトは簡単に言ってみれば「ホームページビルダー」みたいなものがサーバーにあり、HP作成モードにするとそのソフトが動くと言うことだ。HPの専用ソフトを使って原稿を作り、次はサーバーにアクセスしてFTPを送るという心理的面倒さがなくなるのである。
これはGoogleが Microsoftに仕掛けた戦争の一部らしいが、私たちはこの便利さが享受できるのはありがたい。というわけで夏の間に、まず自分のHPを作り、「瀋陽日本人教師の会」HP、「山形研究室」HPもGoogleで作った。まだ建設途上だが、皆に宣伝したいほどHP作成が楽になった。
私が教師の会のHPを担当することを自発的に申し出たのは、2003年の秋の新学期だった。
どのくらいPCやインターネットをを知っていたかというと、東京工業大学に構内にLANが張り巡らされ、インターネットのメイルアドレスが割り当てられたのが1994年だっただろうか。自前でメイルアドレスを持つためにプロバイダーに入ったのは東工大を辞める直前の1998年だったと思う。
あの頃はインターネットで性的な画像を血眼になって探してはいても、個人のホームページもほとんどなかった。研究室のホームページですら、作ろうなどとは思いもしない時代だった。
瀋陽に来て、瀋陽日本人教師の会に入ると何か役割をやらなくてはならないという規約がある。日本語の教師でもない私は戸惑いつつも、Macは1988年から使っているし、ちょうど良い、良い勉強が出来る、自分のHPが作れるようになるかもと思ってホームページ係を志願したのだった。
しかしそれまで使ったことのないWindowsを使う必要があり、ホームページビルダー7をまず手に入れた。Macのソフトに比べてのソフトはなんと使いにくいことかと、ぼやき続けた。
目の前には私が入る前に去られた瀋陽工業大学の森岡敏明先生がYahooのサーバーにHPを作ってあった。これを更新することから始めるわけだが、唯一の相棒であった河野先生は翌年の1月に帰国してしまうし、本当に泣きたい思いだった。
それから6年以上経った。その間ずっとこのHPを育ててきた。他人は知らず、私にとって瀋陽日本人教師の会のHPのコンテンツはどこよりも充実していると思えるくらい、かわいい我が子みたいなものだ。
この地ではインターネットの規制がある。ここからHPに短期間アクセスできないことはたびたびあった。昨2008年10月から今年の2月までの遮断は長期だった。
この間、何度か別のサイトに作らなくてはいけないと思いつつ、膨大な内容を移す手間に躊躇していた。そしてまた、今年の7月からアクセス不能になった。もう看過できない。
HP作成には特別なソフトがいるのが面倒な理由だが、ちょうど幸い、Googleが、ブログに書き込む感覚で自分のHPが作れるサイトを始めていた。これを学生の陳陽に薦められ、まず自分のHPをつくった。
容量は10 GBと巨大である。Yahoono 50MBの20倍だ。アカウントごとにGmailが使えてこの容量は25GBである。始まった頃1GBの容量にたまげたものだが、今はもっと大きくなっている。
このGoogle siteは、もちろん、大容量で無料だし、htmlは不要という最大の特徴があるが、実際に使ってみると、このサイトに自分の好みのファイルをftpで送り込めないのが不便である。もちろん、写真、絵、動画を自分のファイルに付けることは自由に、簡単に出来る(この容易さと多機能ぶりはブログの中ではcocologが敵うだけではないかと思う)。
いうまでもないが、別のウエブページにリンクを張るのは簡単である。私はサイトの中のファイルは、Googleのお仕着せで作られたものしか存在できないことに文句を言っているのだ。しかし、これも私の知識が足りないだけで、まだ大事なことに気づいていないか、あるいはうまい方法があるのかもしれない。
私は自分のHPのサイトでさらに山形研究室のHPを作り、教師の会のHPも作り始めた。そして気づいた。これらはすべて一つのIDを共有している。HPが私のもののなら良いが、教師の会のHPはいずれほかの人たちと一緒に更新するようになる。そのとき私のIDでは困る。
というわけで、Googleで新しいIDを作り、そのサイトで教師の会のHPを新しく作り直し始めた。必要ならこのIDでまたいくつでも別のHPを作れるのだ。Googleは凄く気前の良いことを始めたと思う。
それにしても広告のスポンサーがつくだけでこれだけのものを支えていけるのだろうか。あるいはメイルの内容情報などが、実はいくらでも密かに利用出来るようになっていて、だから十分ペイするのだろうか。
理由はともあれ、このようにGoogleが私たちのニーズを何処までも満たすようになると、インターネットの巨大なプロバイダーが、メディアを支配するようになり、新聞メディアはニュースの発信機能だけしか持てずに、そしてそれでは稼げないから、消滅するしかないという話も真実みを帯びてくる。
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/hp-85c0.html
旧暦の新年を祝う春節休暇を大学の規定通りの6週間の休みを取るけれど、夏休みは3-4週間にして研究に励もうというのが私たちの研究室だった。しかし今年は私の体調が悪く規定の6週間どころかそれよりも2週も長い夏休みを終えて瀋陽に戻ってきた。
9月12日の瀋陽の最高気温は23度で、見上げると思ったよりも青くてきれいな空である。懐かしい瀋陽だ。
この時期はもう大学は始まっている。研究室ではいつものように休み明けよりも前に学生が休暇から戻ってきて研究を始めている。博士課程の学生のひとりは、瀋陽在住と言うこともあって休みを取らずにがんがんと仕事をしていたようだ。
中国南方航空のCZ628便で瀋陽桃仙空港到着は午後3時半である。5月6月はインフルエンザの厳戒態勢を敷いていた。飛行機を空港の端に止めたまま非接触型の体温計で体温を測り、もしおかしいと、当人とその周辺の座席の乗客は強制入院という運びだったそうだ。
しかし今回はそんなこともなく、入国管理と荷物のピックアップが簡単にすんで外に出たのは4時前だった。
いつものように迎えに出ているはずの徐寧さんを探したがいない、どうしたものかと思っていると「山形先生?」と若いお嬢さんに声をかけられた。「?」 と見つめると、「薬科大学から私がお迎えです」と英語で言う。
そういえば国際交流処に9月から新人が入ると聞いていたっけ。それまではボスである処長(高名な教授で、もちろん自分の研究室と、学長補佐として大学の切り盛りで忙しい)のほかには徐寧さんという若い結婚したばかりの女性しかいなかったのだ。
「ああ、あなたが新人なのですね。山形です、どうかよろしく。あなたのお名前は何ですか?」「葛丹丹です」
「きれいな名前ですね。それにしてもどうして私のことが分かったのですか?」と訊くと、「先生のことは大学では誰でも知っていますよ」と言うことだった。 中国語が全く分からないトンチキな先生として皆が知っているということだろうか。どこかで具合の悪いことを誰かに見られていなかったかどうか、今までのやましいことが一瞬で脳裡を駈ける。 研究室のある建物の下に着くと、5人のお嬢さんたちが玄関までで迎えに出てくれた。嵐嵐、暁艶、澄澄、笑笑、朱瞳さんである。都合で来られなかったという王月さんを加えた六人が今期の私たちの研究室の院生だ。
6年前の研究室の発足当時に戻った感がある。 9月10日は教師節の祝日である。その日には友人の教授から二つの花束が届いたそうだ。もちろん、E-mailでそれを知らされてこちらも花束を送り返した。研究室について土産のお菓子を出すと、学生が、いえ、それよりもお菓子があるのです、という。何かと思うと、教師節の日に学生が不在だった私と妻のために、お菓子を買っておいてあるのだという。 日本のお菓子なのですよと学生は興奮気味である。冷蔵庫から彼女たちが出してきたものをみると、日本の生菓子なのだ。「えっ、日本のものが売っているの?」と思わず叫ぶと、「いえ、ここで作って売っているのですよ、太原街で見つけました」
「太原街には伊勢丹があるじゃない?」というと「いえ、別のところです、笑笑ちゃんが見つけたのですよ」と言うことだった。
大きさは日本の、桜餅、大福、うぐいす餅などと同程度で、私は桃山風のお菓子を戴いたが、美味しい。日本風である。昨年書いたことがあるが、この手の腐りやすい生菓子は中国に存在しなかったのだ。それが、今はこうして食べられる。 彼女たちに会い、研究室にいるとそれまでの長い休みですっかりだれた心がしゃんと引き締まった。
私は瀋陽が好きだ。薬科大学が好きだ。研究室が好きだ。学生が大好きだ。ここに戻って来られて良かった。
なお、二番目の写真の手前に写っているのは、クレヨンしんちゃんである。2004年の卒業研究の学生の瀋さんが卒業にあたって寄贈していった。頭にスリットがあり、貯金箱である。私用のコピー用紙代などをここに入れている。 作者の臼井義人さん(1958年4月21日 - 2009年9月11日)が山で遭難死されたとのことは中国でも大きく報道された。惜しい死である。故人の冥福を祈る。
嬉しいことには、近くの巨大なスーパーマーケットである家楽福(正確に言うとCarrefour-カルフール-というフランス系の、日本でも知られているスーパーで、瀋陽に3店ある)に行くと、皇后西斯汀餅店が開店しているではないか。
瀋陽に来て最大の問題点は、美味しいパンの店がないことだった。
そういっては悪いけれど、私たちが1962年に東京から名古屋に行ったときに感じたことと同じである。あの頃はふじパンしかなかった。やがて敷島パンが始まったが、これも美味しくなかった。山崎製パンが名古屋でパンを売り出したのは名古屋に行って10年くらい経っていたのではなかっただろうか。
中国のほとんどのパンは甘く味付けしてある。そしてふにゃふにゃである。堅くてしっかりとした味のあるパン。どれほど探し続けただろう。家楽福はフランス系だからいわゆるフランスパンはあるが、不味い。アメリカ系のウオルマートの方が美味しいが、遠すぎる。
瀋陽の街の中心に東北育才学校がある。昔、日本が中国に侵略を始めたときその先兵だったのが満鉄で、満鉄はその鉄道付属地を手がかりにその手を広げていった。
この瀋陽はそのころは奉天と呼ばれて、経済の中心だった。元々ここは清国の発祥の地で故宮と呼ばれる城街地だったが、満鉄はその故宮の西に満鉄の瀋陽駅を作り街 作りをした。駅から数百メートルのその新開地の中心地に「千代田小学校」と名付けられた日本人小学校が作られた。
戦後、この千代田小学校は東北育才学校となり、この学校は瀋陽一の名門中学となった。外国語として日本語も勉強することが出来るようになっていて、そのため日本人の日本語教師が数人いる。
その先生たちと仲良くなって東北育才学校に行ったときに教えられたのが学校のすぐ近くにある皇后西斯汀餅店だった。美味しい店ですよ、一つ買っていったらと言われて案内された。見ると結構な値段がついている。ためらっていると梅木先生がこれとこれを先生のお土産にしますねと、さっさと店員に包ませてしまった。
店の中のレイアウトが感じが良く、写真を撮りたくて店員に聞くと駄目だという。なんと言っても駄目と頑張る。それで写真はあきらめて、外側が堅そうに見える12元という値のついたパンを買った。
この店のパンが美味しいのだ。感激してしまった。私の生活レベルからするとこの店のパンは高価過ぎる。それでも、それ以来二度わざわざそこまで行ってパンを 沢山買ってきた。教師の集まりがあって梅木先生に会うことがあると、お願いしてこの店のパンを買ってきていただいた。もちろん余分のパンはフリーザーで凍らせておくのである。ただ冷蔵庫に入れるとパンは不味くなる。
このパン屋が近くに出来たのを見つけたのだ。早速中に入って一つパンを買った。毎日朝昼パンを食べるので、沢山フリーザーに買い置きがしてある。今ここで沢山買ったらきっと今までのを食べずに終わるだろう。そんなことは出来ない。
そして写真を撮っていいかと尋ねた。
店員は駄目だという。「なぜ駄目なの。この店が近くに出来て嬉しいということを私のブログに書くから、写真も載ればいい宣伝になるじゃない、いいから撮らせ てよ」と私は頼む。店員は駄目だめと言い続けていたけれど、写真を撮ってしまうと、最後には「ありがとう」と言ってくれた。
もちろん買い物に一緒につきあってくれた学生の暁艶さんが、店員を中国語で説得して呉れたのである。
というわけで、滅多にないはずのこの店の写真を添付するけれど、これって店の外の写真じゃない。上に載せた写真と同じだよね。
久しぶりに戻ってきた薬科大学では研究室の学生が私の到着を待ちわびていただけでなく、卒業研究の希望者も文字通り列をなしていた。最終学年の後期(つまり3月)から正式に配属されて実験を行うが、申し込みはずっと前である。正確にはどのような仕組みになっているのか未だに分からないないところがある。
たとえば、最終学年に進学する前に私たちの研究室の修士になりたいと希望してきた学生がいた。もちろん卒業研究生にもなりたいと言うことだ。修士に来たいという人は卒業研究で歓迎だから、一も二もなく受け入れをOKした。
その彼が今回来て言うには、彼の「今いる薬学院から(私たちのいる)生命科学院に来て卒業研究をするには単位が足りません。自分の学院ならば大丈夫です」という。だから卒業研究には来ないけれど、大学院はここを目指して受験したいということらしい。卒業までの単位が足りないのに、薬学院では大丈夫でここでは駄目らしい。学院の間に格差があるのだろうか。そんな。あるなんて考えにくいけれど。
卒業研究の申込期日も正確には分からないところがあるが、学生は次々来るし、選ぶ基準もあってないようなものだから端からOKを言っていた。大きな声では言えないが、基準は男性歓迎というものである。何しろ今男子は誰もいないのだ。「花より男子」状態なのだ。写真で見るとおり、私たちの研究室の学生は女性ばかりである。 だけど男性なら採るなんて言えないじゃないか。それは差別なのだ。私はどんなことでも人を差別することを、他人にも自分にも許していない。 ともかく私たちの研究室に10人受け入れることが出来るなんて思わないのに、申し込みが10人になってしまった。とうとう11人から先にはNoを言った。それでも多すぎる。それで申込者にメイルを出した。二日経っても返事の来ない二人には申し訳ないけれど遠慮してもらうことにした。 これで卒業研究希望者は8人となった。今まで卒業研究生はどんなに多い年でも4人しか採ったことがない。今度がどうして8人も受け入れが可能なのだろう? 自問してみても明確な答えは出てこない。妻の貞子が不在で、私の頭のねじがゆるんでしまったとしか思えない。唯一の理由付けは、今までは研究室の院生・研究生の数が最大15人いたことがあるけれど今期は6人と少ないので席にゆとりがある、ということだけである。
しかし院生が少ないと言うことは、指導層が手薄だと言うことだ。問題多発の可能性がある。それで最上級の院生二人に聞いてみた。
「とても大変だろうと思いますが、自分たちの能力への挑戦とも思っていますし、やってみようじゃないですか」と二人とも言ってくれた。
私たちが大学にいてやるべきことは何か。第一の使命は、そして最大の使命は、言うまでもなく良い学生を育てることだ。残った8人のうち6人は、海外の大学院に行きたいと言っている。日本、米国の大学院を目指している彼らを一生懸命教育をしても、私たちにはまずその成果は返ってこない。しかし学部にいる彼らに、私たちなら研究の面白さを学ばせることが出来るという自負がある。大学院に行きたいと言うことは将来研究をやっていきたいと言うことだ。
彼らが最初に関わる研究で、研究の意義を感じることの出来る研究に触れさせたいという思いがある。このような思いが学生に伝わって、学生のやる気が出てくるのではないか。どんな優秀な研究者でも、相手をするのは人間なのだから、相手に機械のように接していては良い教育が出来るはずがない。こっちは人数が多くたって一生懸命情熱を傾けて頑張るぞ、と一人気負っているところである。
彼らの一部は土曜日のジャーナルクラブに参加した。受験に関係ない6人は10月の国慶節の休暇明けから研究室に来て実験を始める予定となっている。10月後半からは私を含めて研究室の院生全員が講義する側に回って、彼ら新人に向け特別講義をすることになっている。つまりこちら側の勉強も兼ねているわけだ。
大学は刺激に充ち満ちていて、楽しいところである。
HP の政策を担当してきているが、実はHP係は大勢いるので、皆でHPの政策を分担したい。しかし、「ホームページビルダー」を使ったことのない人にとってはこのソフトを使ってHPを作るというのは大変大きな心理的バリアになる。わずかに日本語クラブの編集係が1年余頑張ってくれただけである。 これらの更新されない分は私がやるか、あるいは手つかずのまま残るしかない。
幸いというべきか、いまYahoo.geocitiesで作っていた教師の会のHPがここでアクセスできない。それで新しく作ろうとしているのがGoogle siteで、ここは特別なソフトなしにHPが作成できるすばらしいサイトなのだ。
つまりHP係の巽先生だけでなく、関係者すべてに、Google siteでのHPの作り方を一緒に伝授すれば良いわけである。さらには、新しく自分のHPを作りたい人たちにも一緒に教えられる。というわけで、巽先生が関係者、そして興味ある人たちを募って集まったのが9月26日土曜日午後のことだった。
9月12日に開かれた新学期最初の定例会に私は出席できなかったが、そこでHP係に若い巽先生が責任者になると申し出て下さったという。嬉しい話である。 22日には巽先生からメイルがあって、HP一番大きな目的は、教師の会のHPについて、現状のスタイル、内容、方向性がこれでよいのか、これからはどうしたらよいのかを相談することである。それと同時に目下作成中のHPに具体的にコンテンツをどうやって載せていくかの方法を具体的に伝授する必要がある。
このHPは数年前から私一人では手に負えなくなっていたので、弁論大会係、文化祭係、日本語クラブ編集係それぞれが、弁論大会あるいは文化祭の準備、進行状況、そして当日の結果や反省を書いてアップロードするような仕組みにした。しかしこれはほとんど成功しなかった。
私はそれが分かってから、新しい教師の会のHPの体裁を少しでも整えて使いやすくしようと努力した。HPの現在の姿を、今ここに写真で残しておくことにしたい、だってこの先、随分と変わるだろうから。 集まったのは、巽先生、多田先生、土屋先生、高澤先生、梅木先生、小池先生である。最初にHPの歴史と概況を話して、Google siteの説明をした。驚いたことには、なんと1時間半足らずで、Google siteでHPを作るやり方を全員が理解したのである。
こんな嬉しいことは初めてである。今まで何度かHP係に集まって貰って「ホームページビルダー」を使ってHPを作る方法を伝授したが、未だかつて一度も成功しなかった。一部とはいえ日本語クラブのアップロードをした山田先生は元々システムエンジニアということで、PCはお手のものだった人である。
この先、日本語文化祭、日本語弁論大会、日本語クラブなど過去の教師の会の遺産をここに入れていく作業のほとんどは私が時間を掛けてやるにしても、2008年度分や、今年度分はこうやってやり方を身につけた先生がたの手に任せられそうである Google siteは偉大である。もちろんそれを可能にする回線とHDD容量と速度の拡大があってのことだが、クラウドコンピューティングの考えが広まったのと、MSの天下にGoogleが果敢に挑戦しているからこそ可能になった技術である。 GoogleがMSに打ち勝たないと、このsiteが続かないという悪い可能性もあるわけだが、このGoogle siteの簡便性に気づいて多くの利用者が増えればGoogle siteの安泰は続くわけだ。というわけでこうやって自発的に宣伝に荷担し、Google siteの利用者がどんどん増えるよう願っている。
何度も書いているけれど、瀋陽で日本語教師をしている日本人を中心とした集まりがある。規模は40人を超えたこともあったが今年は16人と少ない。瀋陽で日本語教育に携わっていても、「日本人教師の会」に入るのは面倒、人付き合いが厭などの理由で入らない人が出てきたようだ。
それぞれ自分の好きなように生きればいいけれど、瀋陽日本語弁論大会というのが瀋陽日本人会の主催で行われていて、教師の会はこの企画・運営の中心を担っている。さらには、学校で作文を書かせて、集めて、それを審査してと言う作業に、教師はどっぷりつかっている。教師の会に入っていなくても、その学校や学生はこの弁論大会に関わるのだから、お互いやり難いことになるのではないかと心配である。
弁論大会は日本人会がスポンサーである。実行委員会を教師の会の人たちが組織して、必要に応じてあちこちを飛び回っても交通費は自弁と言うことはない。日本人会が予算を持っていて、ちゃんと払ってくれる。
ところが、これ以外の活動は、教師の会がだいたい有志の集まりというか、ボランティアの会というか、互いに異境の地で助け合っていきましょうと言うことで出来た集まりなので、活動はすべて自前でやってきた。
一つには自発的な集まりだから活動は自前であるというのは自明だったし、交通費を教師の会から出すほどのゆとりもなかったのだった。従って何かの必要な交通費を会から出そうかとかいう議論すら行われず、すべて自前との認識でやってきたと思う。
この教師の会の良いところは、会員誰もが必ず役割を持つというところである。会の運営には全員から選ばれる代表のほか、代表が指名する幹事がいるが、彼らを 含めて全員が、書記・会計、研修・レクリエーション、ホームページ、日本語クラブ、弁論大会、文化祭などのどれかの係を一つはやる必要がある。このような会の存在を私はそれまで知らなかった。初めて接してすっかり惚れ込んだと言って良い。
どの係をやりたいか自由意志で決めるわけだが、最近、この係を志望するにあたって、あそこは損だとか、あそこは得するとか密かにささやかれているということ を聞いた。つまり、親方日の丸の弁論大会係は得だが、ホームページ係は大変なだけで良いことはちっともないとかささやかれて、係を志望しているらしい。
なるほど。
だからホームページ係の志望がほとんどいないのか。
このことを私に教えてくれた先生は、弁論大会係になっていれば交通費が全額出るのに、それ以外だと図書館に図書の受け入れ交渉に行くのも自弁だなんておかしいじゃないですか、会の活動のために動いているのだから、会が出すのは当然じゃないでしょうかという意見である。
なるほど。
資料室の移転が今まで3回 あった。移転のための交渉は代表はじめ幹事の私たちが駆け回った。実際の荷物の移動には会員は自弁で駆けつけて働いた。このとき、教師の会が負担した交通 費は、代表がそれぞれの機関と会見・交渉するときだけだった。すべての交通費を会が持てば赤字になるのは明らかだったし、皆が自分の分を出すのは(距離の 遠近はあるにしろ)、お互い同じだと考えたからだろう。
今年、図書館に書籍を寄贈したことでは、これらの書籍に目録を付けなければならないなど公的な交渉ごとがまだ沢山ある。この担当者が全部自費で交通費を出すのはおかしい。会は赤字になってもこの交通費を持つべきだろう。
今まで振り返ってみると、たとえば日本人会の幹事会には教師の会からオブザーバーが出ている。私は2006年から2年間この役をやった。幹事会は頻繁に幹事の移動がありそのたびに歓迎送別会がしかるべきレストランで開かれる。中国で日本企業が維持しているステータスのままなので会費は200元前後である。毎月4千元で妻と二人で暮らしている身にとって見ると高額だった。毎回の往復のタクシー代だって馬鹿にならない。
今年度は会の代表がこれに出席する。筋から行くと、会の公的活動を支えるための費用ならこれも会が持つべきであろう。しかし今年は会員16人で、入会費を入れても2千元ない。
この会が何処まで負担するかという原則をもういちど見直して、全員が賛同できる原則を確認する必要がありそうである。
カテゴリ:インターネット
Google mailを使ってビデオチャットが出来るというので、日本の妻との間で何度かメイルを交換して、これが出来るよう設定した。
今朝、オンラインでつながっているときに、「さ、やってみよう」とメイルして、ビデオチャットのオンにした。すると、妻も同じことをしたと見えてモニターの右下に彼女が写ったじゃないか。
「はい、つながった?」と妻。よく聞こえる。
ところが私がいくら叫んでも、先方には聞こえない。「駄目よ。聞こえないわ」と言い続けている。こちらの口パクが見えているからだが、こちらには聞こえていることを伝えられない。
「あれ、時々聞こえるわ」とも妻が言う。
ということはおそらくこちらも先方も設定はキチンで出来ているけれど、こちらの音声送信が妨げられていると言うことだろうか。
今日は建国60周年のお祝いの日だから、いろいろと規制をしている可能性がある。国慶節休暇が終わったら再度試してみよう。
中国では今年から祝日が整理された。5月の日本のゴールデンウイークに相当する労働節が短くなって、代わりに4月に清明節、6月終わりに端午節の休日(それぞれが連休)が正式に出来た。10月の国慶節は8日間の休暇である。
私は春節休暇が6週間もあるのは長すぎると思うが、学生が故郷に帰って家族が集まるのは邪魔できないために、これには手がつけられない。代わりに労働節、清明節、端午節の休暇を一切認めず、国慶節も休みなしという研究室の方針だった。
しかし今年は中国建国60周年というめでたく、かつ国中が大いに意気込んでいる年にあたる。それで、9月に私が瀋陽に戻った後のことだが、国慶節休暇はフルに認めようと宣言した。
実は下心もあった。というのは、8月25日には戻ると言っていたのに実際には9月12日に戻った私は、あまりに長い日本の休暇に心身ともに調子が狂ってしまっていたのだ。ここで休暇によって研究室の学生から解放されて、研究を落ち着いて考えてみたい、と密かに思ったためもある。
10月1日の瀋陽は朝から雨で、記念祝典と大軍事パレードが予定されていた北京の天気はどうだろうかと思いやられた。後でニュースを見ると雨雲を抑えるために432発の消雨ロケットを発射したそうだ。
ニュースには
『建国60周年を迎える中国、天安門で閲兵式やパレード』
『国慶節の軍事パレード、52の中国産新型装備を披露』
『天安門広場はマスゲームに参加する人々で色鮮やかに』
『国慶節の観閲式、天安門上空を飛行する中国空軍』
など国威昂揚に勉めた中国の精華が踊っている。2日には『<建国60年>厳戒態勢の国慶節が無事終了—北京市』という。
テロ対策など徹底的な安全確保の対策が行われたようで、周囲の店やホテルまで営業停止、閲兵式の部隊が通行する道路両脇の住民は窓を開けること、ベランダに出ることが禁止されていたという。
この60周年という節目には、60年の艱難辛苦で中国はこれだけの国力になったということを内外に訴え、国民の愛国心を高揚しているのだろう。60年でこれだけ繁栄したのはたいしたものだと言えよう。
しかし米紙ニューヨークタイムズによると、『繁栄は状態であって価値ではない。北京人民大学のジャン・ミン教授は「かつては革命と社会主義が資本主義にかぶれた金持ちたちへの戦いの旗印であり愛国の象徴だったが、いまは{改革・開放}による経済的享受が愛国の根拠となっている。」と批判している。(10月2日 Record China)報道によると、『同日の北京市内では「治安かく乱の要因は徹底排除する」との方針で、治安要員計140万人あまりを配置。公共の場所で市民が集合することは禁止され、行事を見ようと道路脇などに20人以上が集まると、ただちに解散させられた』という。(10月2日 Record China)
写真を観ると軍事パレードに何万もの人が参加したようだ。これだけの人たちが北京に集まって数週間は練習を繰り返したに違いない。宿舎はどうしたのか。支援体制はどうしたのか。治安要員計140万人あまりをどういうロジテックのもとに投じることが出来たのだろう。どうすればそれが可能なのか、凄いことだ。平和ぼけしている日本人には想像外のことである。私にとって、中国は驚きの国であり続ける。
なお、1日は澄澄、笑笑、午後から暁艶。2日は暁艶、笑笑が研究室に来ていた。
(写真はReutersの "60 years of Communist China" から使わせて貰った。感謝)
カテゴリ:インターネット
いまGoogle で自分のHPを作っているし、教師会のHPも作成中だ。
自分のサイトと教師の会のHPのサイトとはIDを分けてある。つまり自分のgmailから教師会のHP作成に移るには一度ログアウトをする必要がある。
自分のHP作成サイトからログアウトで移行することも出来るし、gmailからログアウトで移行することも出来る。
9月30日から、この前者の移行が出来なくなった。
それでも自分のgmailから、教師会のgmailに移って、そしてサイトを選んで教師会のHP作成に入れた。
10月1日からはともに駄目になった。教師の会のgmailまでは入れるが、HP作成のサイトには入れない。今日の2日も駄目である。つまり教師の会のHPをいじることができない。
自分のgmailのところにとどまっていて、自分のHP作成は可能なのは結構なことなのだが。。。
カテゴリ:瀋陽の生活
10月3日の満月は中秋節で中国では特別な日だ。円は完璧を意味し、家族が欠けることなく集まってこの日を祝い、その象徴が月餅である。
私たちにも国際交流処や、学生たちから沢山の月餅が贈られた。5年前の夏、お世話になった上海の沈さんのご両親からは毎年欠かさず月餅が送られてくる。
この特別な日に、私は何時ものように研究室にいたが、昼に暁艶に誘われた。「こんなに好天気なのだし外を歩きませんか?」
今朝は日課のウオーキングをしてなかったし、依然としてGoogleのサイトは移ることが出来ず、教師会のHPの編集は出来ない状態だ。
それで昼からは南に向かって歩いて市図書館に寄り、その後五里河公園に行った。家族連れが多い。「先生がおじいちゃんで孫を連れているんですよ」と暁艶。
もう一つ下流の橋まで歩いて、結局大学まで歩いて帰ってきた。何処でも休むことなしに4時間歩いたことになる。
江文が訪ねてきた。岡山大学から入学許可証がここに送られてくると言う。それを持って、瀋陽の領事館でヴィザの申請をするのだ。
彼はこの後ガールフレンドと会うとのことで、羊蠍子には黄澄澄、暁艶とでかけた。
カテゴリ:友だち
夏の間ふらふらと遊んでいたために、頭がすっかり科学から離れてしまった。
東京大学の教養の学生の頃、同級生の友人、岡徹夫さんが「人間って遊ぶとね、遊んだ時間の長さだけ、今度は元に戻るのに必要なんだよ」と私に言った。
岡徹夫さんは学生の時から大人だったし、その後農芸化学を出て日本の有数のバイオ会社である協和発酵に入って功成り名遂げたし、私はその学生の時以来いまだに頭が上がらない。
もちろんそのあと殆ど会ったことはないが、思い出の中で、私は何時もうなだれている。
先ほどの台詞は、秋休みを前にしたときだった。私はそれを真に受けて秋休みは旅行の計画を止めた。彼はそういいながらも四国に旅行に行ったが、彼の言葉がそのときから私の頭に染みついてしまい、その後の私は社会人になっても休暇を取ることに何時もおびえていて、そそくさと仕事に戻った。
ろくでもない頭がさらに駄目になって、戻るための苦労するのが怖かったからである。
この夏を漫然と日本で過ごして、彼の言うことは正しかったと改めて認識した。
瀋陽に戻ってから科学の環境に戻ったが、頭はちっとも働いていなかった。論文を書かなきゃと思いつつも、やる気が起きないのだ。
やっと、今日、懸案だったHGFの論文に取りかかった。
面倒なところにさしかかると直ぐに考えることを放り出して、改めて友人を懐かしく偲んでいる。インターネットによると、彼は今長浜で、フロンティアファーマ代表取締役社長をやっているそうだ。
カテゴリ:インターネット
昨日の夕方、Googleのサイトで試してみて、私のgmailから教師会のサイトに移行できるようになっていることが分かった。
Googleが混乱していたのか、この国で何かの理由でGoogleを乱していたのか分からないが、やっと教師会のHPもここから編集・更新出来ることになってほっとした。
しかし、私のサイトから教師会のサイトに移った後で移行の道が閉ざされたら、私は自分のGmailが使えなくなる。
それでSafariで教師会のサイト、Firefoxで私のサイトtcyamagataというように使い分けることにした。間違えないように気をつけなくっちゃ。
ところでGoogle Appsを読んでいると、うちの研究室でグループとしてドメインを獲得して便利に使えそうである。
それで申し込みをして、細かく先方の要求を書き入れて送ったが、その先に進まない。
よく見ると「Google Apps では、この国のドメインをサポートしていません。」という表示が出ていた。
やれやれと言うしかない国にいるわけである。
カテゴリ:瀋陽の生活
大学が朝8時から午後4時まで停電と言われていた。前日ドライアイスを5kg 240元で張嵐が買っておいた。
それならうちにいて勉強をしようと関の論文を読んでいたら8時になった途端にうちも停電。カーテンを開けて論文を読む。水も一緒に止まってしまったのには参った。Pdgfは論文にするにはまだ仕事が全然足りない。
昼前には大学に行き薬草苑で黄色オシロイバナの種を集める。{オシロイバナは春まき(4月中旬~6月中旬)。種子は冷蔵庫に保存のこと}ですって。
暁艶と一緒に過橋米餞(15元)の後は散歩。市図書館(カードの再発行を期待していったのに無駄足だった)、瀋陽音楽院、南湖公園。次いで家楽福でグロサリー。1週間分の買い物。
家楽福では、女の店員に突き飛ばされた。飛ばされた私は隣の人にぶつかって謝っているうちに、その女店員は影も形もない。ひどい店員の教育だが、中国ならこんなものだろう。あきらめるしかないみたいだ。
6時に朱Tong、暁艶と待ち合わせてピザの店。1枚だけが19元になると言う券を道で貰ったので、97元。
その後ラボに行きメイル。さえから3通も来て溜まっていた。
研究室の休暇が8日間というのはかなり豪華である。教師の人たちに聞くと皆それぞれあちこちに行くのに忙しいみたいだ。
私は研究室に来ることを選んだ。夏の間サボっていたので溜まった仕事が沢山あるからだ。それでも、休みなのだという爽快な解放感が気持ちを軽くしている。
10月6日は休みの直前に停電が予告された。朝8時から夕方の4時までという。8時間の停電というとマイナス80度のフリーザーの温度が上昇して凍らせてある細胞が死滅する恐れがある。張嵐さんが前の日にドライアイスを注文して、それをフリーザーの中に入れた。
研究棟の停電はたいていうちも一体に停電になるので、危ないと思ったがうちの建物には掲示が出ていなかった。大学の停電だって放送が一度あったきりである。何処にも掲示はない。聞き損ねるか、誰かが教えなければアウトである。停電で研究が困ることがあるはずだという考慮が一切ないのが不思議である。
ともかくこの日のラボは、電気はない、水も出ないはずだから出かけても仕方ない、と言うのでうちで本を読んでいた。ところが8時になった途端にうちも停電した。えっと、驚く為五郎。洗面所の水栓をひねったらものの見事に断水だ。
やられた、きょうはゆっくりトイレに行けばよいと思っていたのに、裏切られてしまった。頼みはトイレの水タンクにある水だけである。やれやれ。
と言うわけで落ち着かない一日が始まったが、窓のカーテンを開けてうちを明るくして落ち着いて本を読むことが出来た。
このところほとんど毎日ウオーキングをしている。この日もちょうど歩くのに都合が良い。学生の暁艶さんが一緒に付き合ってくれて、瀋陽市図書館にまず行った。
瀋陽市図書館で本を借りる為には金を払ってカードを入手する必要がある。100元で3冊、300元で6冊、500元で10冊を1ヶ月間借り出せる。半年前に教師の会の図書の寄贈のことで頻繁に図書館を訪れたときに、私もカードを作ったのだった。
先日、いざ借りようと思ったらカードが見つからない。うちに帰って探してもない。何処に行ったか、ないものは探しようがない。図書館に聞くと再発行してくれるという。それでパスポートを持って図書館に行ったのだった。
ところが係がコンピュータ検索をしても私の情報に行き着かないのだ。そして言うには、登録の時、名前が長いので、間違えたか、省略して入れたかたに違いない。そのときの係が今日はいないので、また来てほしいという。
無駄足となったが、コンピュータに登録されているのが見つからないから、お客さん嘘を言っていますね、と言って追い払われなかっただけ良いと思わなくっちゃ。実際悪い方に考えると、ここならありそうなことである。
市図書館まで15分くらい歩いただけなのに、がっかりして疲れてしまった。まだちっとも歩いていないのだ。暁艶さんに励まされて、瀋陽音楽院の校内を通り抜け、三好街の楽器店をのぞき、久しぶりに音楽を思い出した。
NO MUSIC NO LIFEとしきりに唱えていた教師会の竹林先生が思い出される。私も日本に帰ると、電子ピアノを弾いたりオペラのレコードやCDを聴いているけれど、瀋陽にいる間はもうすっかりあきらめて、音楽から全く離れた生活をしている。音楽院の中庭に建物のいくつかの窓から漏れてくるピアノ、バイオリン、木管の音が雑多な音の混じりなのに心地よかった。
足を伸ばし初めて南湖公園に行った。落ち着いた優雅な公園である。市内至る所にこのような公園がある。これは社会主義だからではない。西欧のどの都市もそうだ。ミイイズムの極致の日本人の考え方が貧困なだけだ。
と言うわけで4時間歩いた。夜はピザの店に暁艶さんと、朱彤さんを連れて出かけた。二
人の背の高い美女を従えて歩いている自分が、テレビで見るファッションショウの最後に、たいていは醜い老人のデザイナーがモデルを従えて挨拶に出てくるが、まさにそれみたいで、思わず胸を張りながら笑ってしまった。
カテゴリ:瀋陽の生活
この一二年、このあたりで「雲南米線」あるいは「過橋米線」と書かれたチェーン店を見かけるようになった。米のうどん店である。
日本では台湾料理の一つとしてビーフンがよく知られている。このビーフンは米の粉から出来ているが細い。「雲南米線」はゆでて太さが5mmくらいある。以前、醤油味のスープで牛肉を載せた米線の店があったが感心しなかった。
今は大変気に入っている。週に二回は行く。スープの味が絶妙なのだ。つまり醤油味は米のうどんに合わない。
Yahooのニュースで、日本は米あまりで、米粉を利用するための運動を強化していると言って、米粉倶楽部(http://syokuryo.jp/komeko/)を紹介していた。それで、私は「米線」は日本人に絶対受けるからこれを日本で始めたらと書いた。
すると、そんなことは承知だよという感じで「推進パートナーで、「雲南米線」を展開している企業がある。参考にして下さい」という返事が来た。
何となくピンぼけのやりとりだったが、これは四谷三丁目の雲南米線という店で、680-880円。ラーメンを考えると適当な値段だろう。
http://www.yunnanbeisen.com/
日本で、食べに行く楽しみが出来た。
カテゴリ:研究室風景
この夏に卒業した江文くんが訪ねて来て、この部屋で自分のUSBから卒業論文を印刷して、それをそのまま持ってきた。
「これで良いですか」なんて言うから、「だめだめ、でも製本するとなると金も掛かっちゃうだろうし」と私は言いつつ、A4のカバーを出してきれいな形にして、あらためて受け取った。
卒業研究生は当然のこと論文を書いて提出していくが、この夏は4人もいて、大学当局の形式の縛りが厳しくて彼らは何度もやり直して消耗しているのを見ているうちに、とうとううちの研究室にも論文を出させているのを忘れてしまった。
と言っても、4人のうち出さなかったのは江文くんだけである。
彼は岡山大学大学院にこの夏のはじめに試験を受けに行って無事合格した。その合格通知がここに送られてくるのを受け取りに、故郷から出てきたのだ。
休暇が終わるまで通知書は手に入らないが、その通知書を持ってビザの申請に領事館まで出かけるという段取りだ。岡山大学の今期の入学式は今日なのですと、情けない顔をしている。
日本の総領事館は、書類さえきちんとしていればビザの発行をぐずぐず延ばしたりはしないだろう。江文くんが早く日本に行けるよう願っている。
カテゴリ:インターネット
教師の会の若い仲間である高澤先生から9日朝メイルが来た。
「HPのアップロードを始めたが、どうもうまくいかない。グーグルにサインインして、My site→日本語弁論大会とすると、開くけれどそのページの右上に「新ページ作成」「このページの編集」が出てこない。」と言う内容だった。
私も国慶節の8日間の休暇の間、時々HPにアクセスして少しでもいじって良くしようとしていたが、アクセスがうまくいくことが少なかった。
私の使っているtcyamagataと、kyosikai09のサイトはIDが別で、当然別のサイトに属している。何時もtcymagataのGmailを使っているので、私はサイトを変えてkyosikai09、に入り直す必要がある。
これがうまくいかないことが多い。10月7日にはいったん成功したが、8日も、この日の朝も駄目だった。
「My site→benron」「→日本語弁論大会」がひらけば、経験上当然、右上に「新ページ作成」「このページの編集」がでる。
サイトから入らずgmailIDをkyosikai09にしただけで、日本語弁論大会や教師会を開いても、右上にこの「新ページ作成」「このページの編集」は出てこない。
と言うわけで高澤先生の問題は、私にとっては未経験で、「Googleがおかしくなって」いたのではないかとしか言いようがない。どうしてかは知らないが、夏の使いはじめの頃に比べると、スムースに画面が転換しないことが多いから、何かがおかしいのだ。何が原因なのか分からないが。
また時間をおいて試してみるしかないだろう。
10月の国慶節の休みに入ってしばらくした5日に、この夏の修士の卒業生の一人である陳陽くんが、今日これから日本に出発しますという電話が掛かってきた。彼は東京大学大学院の先端生命科学専攻博士課程に入る予定で、日本政府の奨学金が支給されている。
今回の日本行きの航空券から日本政府持ちなのだ。東大は直ぐに入学させることはなく半年間研究生と言う身分にとどめておいて、1-2月頃に博士課程の入学試験がある。この研究生の期間も奨学金が支給される。
合格すれば晴れて博士の学生だが、落ちることもあるらしい。当然入るものと期待されているから落ちたら悲惨を絵に描いたようになる。しっかりと合格してほしい。陳陽も「これから先生の期待に応えてしっかり勉強します」なんて言っている。
それで、思い出したのは卒業生の一人の江文くんである。卒業研究生は卒業時に研究成果の発表をしているが、大学が形のある論文を要求するようになったのは2年くらい前からである。私たちの研究室は、日本だと卒業研究生が論文を作成するのは当然というしきたりを持ち込んだので、彼らは当然書いていた。
2008年度の卒業研究生は4人いたが、そのうちの江文くんが、どうしたことか論文を大学の教務には出していったものの、私たちには出していかなかった。卒業時期の慌ただしい中で、彼らが卒業論文の作成印刷に追われているのを見ていながら、実際に私たちに出さなかったことに気付かなかった。
江文くんは夏の間日本に一度出かけて岡山大学大学院の入試を受けて合格した。そのときは1週間くらいで中国に戻ってきた。陳陽くんと話をしたので、その後の渡航はどうなっているかと思って、電話を掛けてみた。
「はい、先生、江文です。今大学に着きました」なんて言うからびっくり。よく聞くと、岡山大学から入学許可の書類がこの薬科大学宛に届くので、それを受け取りに故郷から出てきたところだという。大学生は大学に入ると戸籍が大学の所在地になるらしい。この許可書類を持って日本領事館に行き、日本のビザを申請するわけだ。「先生のところには明日訪ねていきます」と言う。
訪ねてきた江文くんはお土産を持ってきてくれたのだった。龍眼という果実の干したもので、殻を割ると龍の黒目にたとえられる実が出てくる。そのまま食べても好いし、スープにも入れるという。
彼に会って思いだしたのは、卒業論文がまだ出していないんじゃないの?ということだった。ここのプリンターで印刷して置いて行きなさいと言っておいた。
翌日の昼頃大学の外を歩いていたら、江文くんがいた。青いジャンパーを着ているから直ぐに分かる。彼と一緒にかわいい女性がいた。前にも会ったことのある1学年下の彼の女朋友だ。
「やあ、関東煮を食べているね」と言った後、カメラを持っているのを思い出してこの二人を撮ったのが掲載した写真である。後で卒業論文を印刷するために部屋に来た彼と話していると、女朋友に会えるのは嬉しいけれど、会うのは食事の時だけだという。
だって、いまは8日間もある国家休日の真っ最中じゃないか。どうして?
すると、ちょうど部屋にいた朱Tongと二人が口をそろえて言うには、大学院の試験に備えて勉強が忙しいんですよ。まだ3ヶ月半も先のことだが、良い研究室に行くためには良い成績を取らなきゃならないから必死なのだという。
今年私たちの研究室に合格した朱Tongと笑笑は別々の研究科で受験し、それぞれ1位だったそうだ。そのためか、1位でないと私たちの研究室には進学できないという認識が広がっているらしい。
だから、朱Tongと笑笑が良くできる学生なのは大変結構なことだが、彼らのおかげでうちの研究室への進学希望者が皆ためらってしまったのではないか。今度の卒研生は9人も来るが、悲しいことには大学院進学志望はたったの一人である。待望の男の子だから、ま、いいか。
カテゴリ:研究室風景
午後3時から6時半まで貴志先生に付き合った。
昨年の9月に貴志先生の新しいMacBookにMacOSとWindowsを入れたが、その後日本で使っているうちに、Windowsが消えてしまったという。ちなみに貴志豊和先生は9月から10月にかけて瀋陽に来て、大学で講義をする。
調べてみると代わりにTimeMachineが入っていて、やはり昨年の9月にTimeMachine用に買った外付けのHDDは、2月を最後に働いていない状態だった。孫がいじってこうなったという話だが、もっと意図的な改変だろう。
同じHDDに大事なものとTimeMachineが入っていてはデータを救うという意味がない。やはり元々の形に戻そう。
そのTimeMachineを消すのにだいぶ時間が掛かった。HDDの中はMac用と、Windows用に二つに切ってあるので、Windowsを消してTimeMachineがいれられたわけだ。
しかしWindows用の空間はきれいになったが、そのformatがFAT32にできない。つまり私の知識では、Windowsを再び入れられるようには、どうしても出来ない。そのためには全部をまっさらにしてやり直すしかない。
ここまで既に3時間以上掛かったので、そこまでやると私にあまりにも気の毒だから、貴志先生は大阪で店に持って行って頼むと言われるので、じゃ、そうすることにしましょう、となった。うっかり、すべてが壊されてしまうことを恐れたのかも知れないが。
その間、いろいろとおしゃべりをした。彼の紹介を研究室のホームページに載せることにした。
今度金曜日に、彼が大学院の講義のために用意して、しかしFluのために流れた「ノーベル賞を貰ったオワンクラゲのGFP物語」の話をここでやっていただくことにしている。
カテゴリ:友だち
日本から友人と家族が到着した。
30年前私のところでポスドクをしていた片桐洋子さんと、その夫君の千仭さん、そして三女の麻衣佳。
葛丹丹と一緒に空港に迎えにいった。この一年、空港に至る高速道路は閉鎖されていたが、片側4車線になって新しく開通していた。驚きの国である
高速で走って15分くらいの距離で、25KMくらいあるだろうか。片側2車線だったのを1年余で4車線にしたのだ。
大学の招待所に部屋を取って貰ってC403とC404。
その後2時40分から部屋でこちら側の研究の話を、学生の張嵐と暁艶が「ご進講」した。卒業研究の、方家、許、林、Jiangさんも参加。4時20分まで。
5時からは研究室皆が集まって下t切りさんたちを囲んで火鍋パーティ。7時40分まで。
明日の朝は7時半に朱Tongが部屋まで迎えに行って恵雅食府に朝ご飯を案内。
9時から国際交流処のガイドで本渓水洞いきの予定。お天気だとよいね。
カテゴリ:インターネット
7月初めから中国ではYahoo.geocities をサーバーとするHPが見られなくなった。教師の会、研究室のHPが軒並みアウトになった。
ちょうど私のブログがODNの都合で閉鎖されるので、試しにGoogle siteでHPを作り出したら簡単で、しかもきれいに作れるので、教師の会、研究室のHPもGoogle siteで新しく立ち上げ始めた。
国慶節の休みの間、Google のHP、あるいはGoogle siteへのアクセスが時々おかしくなって不安を感じていたら案の定、今朝からアクセス不能である。
Yahoo.geocitiesなどでは「ページの読み込み中にサーバへの接続がリセットされました。」という表示が出るが、Googleの時は全く先に進まない。
全く駄目。
理由は全く分からないが、こういうことが起こるかも知れないという不安は何時もここではつきまとっているのが怖い。
全く困ったことである。
カテゴリ:薬科大学
昨日のこと貴志老師と部屋で話をしていたら、突然二人の学生が入ってきた。一人はうちの女子学生で、見るところ紹介と通訳を兼ねている。
「この人は○○老師の学生で、先生のサインがほしいと言うことです」と彼女は言い、男の子はなにやら書類を机に広げる。
何が何だかさっぱり分からない。
「あなたは何ですか」「○○老師の学生です」
「あなたの名前は何ですか」「△△△です」
「それでいったい用事はなんですか」「この紙にサインして下さい」
書類を見ると何とか言う博士課程にいる学生の中間審査をしたので合格させるというものらしい。
この学生の名前を見たことも聞いたこともないし、審査会にももちろん関係ない。それなのに学生をよこしてサインをしろという。
「あなたの、○○老師からあらかじめ話を聞いていれば、場合によっては協力もしますが、私は何も聞いていません。突然書類にサインしろと言われても、自分の全く関係ないことに責任を負うわけにはいきません。戻って○○老師に、私に電話をして事情をまず説明するように伝えて下さい」
もちろん、私の処置はどこから見ても正しい。でもそれは日本人の感覚であって、ここでは100%正しいとは言い切れないかも知れない。
○○老師からその後連絡は全くない。
私の友人が瀋陽を訪ねてきた。30年前に私のところでポスドクをやった女性である。ポスドクというのは博士号を取ってさらにアカデミックなポジションを目指す人は、研究領域が自分の興味に一致する研究室に雇われて、そこで給料を貰って、さらに研究の修行を積むシステムだ。
ポスドクを雇う方は、研究を遂行するために科学研究費を申請し、その中に人件費を入れている。需要と供給の一致があってはじめて成り立つが、アメリカでこの制度が始まった。
このポスドクを2-3年して、独立した研究能力があることを証明してはじめてアカデミックな職に就ける。アメリカだと大学の職制はassisitant professorから始まってassociate professor、 full professor、となる。日本の場合は助手から始まったが、1年前から助教という名に変わった。
日本ではこの方式が良いと言われつつも、ポスドク制度を最初に実現したのは民間の研究所だった三菱化成生命科学研究所である。研究所の中でこちらはポスドク採用を申請して、それが認められて候補の人を採用する。
彼女はお茶大の生物学科を出て団ジーン博士の元で修士課程ではウニの受精の際の先体反応を研究し、博士課程は北大で星元紀博士の下で同じくウニの先体反応の研究をした。
縁があって私のところに来た片桐博士は北大の同期生と結婚していて、東京には一人で来たのだった。細胞培養におけるニワトリ杯抽出物の中の有効成分を私のところで見つけ、1年後にはロンドン大学のTen Feizi博士のところに留学した。
1年で戻ってきて出産、子育てしながらまた私のところで良い研究をしたけれど、これは残念ながら論文にはならなかった。その後の彼女は相方の勤務している北大に戻り、はじめは医学部、次いで免疫学研究所で仕事を続けた。
1998年には世田谷区大蔵にある小児病医療センターに移り(現在の名前は小児成育医療センター)、今では室長を務めている。
彼女は最近は、発生してくる胚の表面抗原の研究、精子の成熟に伴う細胞表面抗原の変化を調べている。
なぜ、表面抗原というかと言うと、表面にある分子の構造を知りたいけれど、微量にしかない精子が材料である。目的分子を沢山集めて構造を調べるというわけに はいかない。しかも、タンパク質ならともかく、糖脂質、プロテオグリカンなどだとタンパク質を捕まえて、その一部のアミノ酸配列を知って遺伝子に結びつけ るという芸当が出来ない。
それで、構造不明のままこれらを含む材料で動物(多くはマウス)を免疫して、生じてくる多種多様の免疫細胞を(免疫の個別の決定基ごとに免疫細胞はことなるのだ)無限に増える腫瘍細胞と合体させて、それぞれを増え続けるものクローン細胞として取るという技術が1975年に考案された。この方法を考え出したジョルジュ・J・F・ケーラーとセーサル・ミルスタインはその後10年も経たないうちにノーベル生理学・医学賞を受賞している。いかに優れた技術の発明だったかが分かる。
この方法こそ、微量で化学の手に負えない分子を追求する特効薬だった。この方法で発生してくる受精卵割球の表面分子が端から調べられた。細胞表面はいつから特殊に分化するのだろう?はじめは、モノクローナル抗体の名前で呼ばれていた分子は、別の材料を使ってその抗体が認識する分子(抗原決定基という)が捕まるようになり、分子の正体が明らかにされていった。
この方法は未だに有効で、洋子博士もこれを使って精子のある表面分子を調べている。実際の材料は人の赤血球を使いそれが糖脂質であると突き止めた。精子の場合には糖タンパク質がこの抗原決定基なので、そのタンパク質自身の性質も調べられなくてはならないはずだ。彼女の話を聞いていると、専門家には分かるが初心者の学生にも良く理解できるように話すという技術が足りない。かなり誘導してみたが、私が希望するようには思考経路が成り立たないみたいだ。
この瀋陽で私たちはいかにモノを知らない学生に物事を論理的にきちんと理解させるかに心を砕いているので、専門の言葉だけで話が通じる世界に住んでいる彼女たちは、ある意味ではうらやましい存在である。
写真の一番左は、貴志豊和客員教授で、毎年薬科大学を訪ねること、もう二十年になる。
左から二人目が片桐洋子博士。
カテゴリ:友だち
月曜日。朝の招待所の食事は先方に連絡が行っていないので、朱Tongが案内。
国際交流処の徐寧さんが案内して大学の車で本渓水洞へ。今は好悪側臥できているから片道1時間余で着くらしい。午後2時半には戻ってきた。世界一の地下水洞を堪能したとのこと。
夜は招待所に、学生の黄澄澄、朱Tongも一緒に食事。これは国際交流処のつけになった。
火曜日、朝の招待所の食事に、朱Tongが案内したあと、南塔とその近くの市場を見せる。11時には学生食堂の昼食に案内。暁艶、張嵐、笑笑も一緒。
午後2-4時過ぎ、片桐洋子博士の講演。
5時から又一順食荘に案内。学生の張嵐と笑笑も一緒。ここは回教徒の店なので、豚肉なし。羊と牛肉である。気に入ってもらえた。
水曜日。江文に頼んで朝の食事の案内。江文が9時から故宮にバスに乗って案内。昼は老辺餃子。張学良府に行く時間はなく、それでも3時に遅れて戻ってくる。
4時から洋子博士の講演第二弾。二宮老師出席。
5時半、唐萱閣茶廊に行く。ここは私が行く店では最高級の店。思った通り、店の感じも味も気に入ってもらえた。値段も最高。学生の暁艶と王月も連れて行った。
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片桐さんたちは瀋陽に来てまだ郊外の本渓水洞と故宮とに行っただけだ。今日の午前中は空いているけれど、日程をみると、後一カ所しか行くことが出来ない。
これもちょっと郊外になるけれど東陵はどうかと思い江文に案内を頼もうと思った。江文は、東陵はどこだか分からない。まだ行ったことがないので迷子になりますね、などと言っている。
交流処の徐寧に電話して車を出してほしいと頼んだら、いきなり朝になって言われてもと言って、渋っている。彼女は運転手に比べると遙かに新米で力がないが、私も頼みを聞いてもらわないと面子が立たないわけだ。
やっと交渉が成立したらしく9時半大学が車を出してくれて江文が3人を東陵に案内した。帰りは昼ご飯を食べてくること。それも雲南米線で米ラーメンをご馳走するように言っておいた。
後で聞くと大学まで戻って西門の過橋米線で食べてきたという。4人で22元と安い昼ご飯だった。
午後はちひろさんの講演を部屋で行った。寒いところにすむ昆虫は形質膜の脂肪酸組成を変えて寒さに抵抗しているという話だった。
私は生化学の講義のために中座。
夜は国際交流処がアレンジして天天大漁港で食事。先方は蔡、遊教授、徐寧。こちらは四宮老師も参加。
カテゴリ:友だち
今日の午前中はかねてから貴志豊和老師にセミナーをお願いしてあった。昨年オワンクラゲの発光物質であるGFPでノーベル賞に輝いた3人の話である。今年の大学院向けに用意してあったのに、院生向けの講義禁止で発表の機会がなくなったということので、特にお願いして、謝礼なしで話をしていただいた。
きれいなオワンクラゲの発光の写真とか、Friday Harbor臨海実験所でクラゲを集めているJohnson博士や下村博士の写真とか珍しい貴重な写真とデータが満載だった。
下村博士のお弟子さんが、貴志先生の部下でもあったので、その伝手でいろいろと貴重な写真がこうやってみられるらしい。
下村さんの名大時代の恩師である平田義正教授の写真も出てきて感激した。
私が1962年1月に名大を訪ねたとき、おしゃべりをしていた生化学の教授室に大男が現れ、厳つい顔をほころばせて、「山形くん、名古屋にいらっしゃいよ。いいとこですよ、ここは」と言ってくだっさたのがこの平田教授だった。
そしてそれ以降7年間、彼とは隣の研究室のお付き合いをしたのだ。
午後私は総領事館に用事があって12時範囲は直ぐ飛び出してしまったが、片桐さんたちは貴志先生と家楽福に行って、千伊ラーメンでまずい日本式ラーメンを食べたとのこと。
夜は片桐さんがこちらの歓待に応えて皆を食事に招待した言うことで、新洪記を予約してあった。ところが午後から大雨。領事館からの帰りはひどい目にあった。
ともかく予約を入れてあるし、研究室みんなで6時前に土砂降りの中を新洪記目指して歩き始めたが、途中で、「新洪記がキャンセルできるなら、あの交差点の角にあるでこの間教えた高級レストランに変えたいね」などとふざけていっているうちに、正門まで来て「新洪記がキャンセルできるなら、近くの招待所で良いじゃない」と私が言い出した。
片桐さんのご馳走なので、まずい恵雅食府でなく、まともな新洪記を選んだのだが、こんなにびしょ濡れになって行くことはないと思った。幸いキャンセルできたので、直ぐそばの招待所に入った。
と言うわけで、研究室フルメンバー6人プラス私、それと招待側の片桐一家3人の10人は、楽しく食事をした。8時過ぎまで。310元だった。
これは片桐さんは大学のお客扱いなので、国際交流処に付けにすることも出来たが、それでは片桐さんの顔が立たないと思って、現金で払って貰った。
ごちそうさま。
日本語文化祭に相当する集まりが最初に開かれたのは1996年で、遼寧大学日本語を学習する学生たちが日本語で歌、劇、踊りなどを大学内で発表して、互いに楽しみ、かつ学習意欲を刺激するために「遼寧大学日本語のゆうべ」と言う名前で開催されたと記録にある。
プログラムの一部の記録が残っている2001年は、第5回瀋陽日本語文化祭と銘打って、それ以降は<瀋陽地区で日本語を学習している学生の文化祭として行われたという。参加校の数が増え、「在瀋陽日本国総領事館」が後援となり、瀋陽在住の複数の企業からも寄付を頂いて規模を拡大することもでき< たと記録されている。
2001 年には、遼寧大学外国語学院〈遼陽〉、瀋陽外国語学校〈高校〉、瀋陽大学外国語学院、瀋陽師範学院日本語科、遼寧大学外国語学院日本語科、中国医科大学臨床医学日本語学科<、遼寧中医学院鍼灸学部、瀋陽薬科大学薬学部日本語班、が参加して遼寧大学で開催されている。
この後、東北大学も参加するようになったという。
2003年の第7回瀋陽日本語文化祭はSARSのために中止になった。
2004年の第8回瀋陽日本語文化祭は、その前に起こった西安の日本人留学生による不詳事件により中止となった。
2005 年は反日運動が盛んとなり、瀋陽日本語弁論大会が中止になった年である。そのとき、日本語文化祭が続けて2回開催されずに使われなかった基金があった。ちょうど「ジャパンウイーク」を開催中の在瀋陽日本総領事館小河内総領事と遼寧大学の石井康男氏の話し合いがあり、その結果として、「ジャパンウイーク」の企画の一部として「瀋陽日本語文化祭」が総領事館の新館で開催された。
なお、「ジャパンウイーク」の活動の一部として、弁論大会の入賞者によるスピーチもこのとき行われた(入賞者の全員は参加出来なかった)。
最初の挨拶と祝辞は、遼寧大学外国語学院副院長・于麗萍氏と、小河内敏朗総領事が行い、最後の挨拶は瀋陽日本語文化祭実行委員会代表・遼寧大学・石井康男氏が行った。
プログラムにはこの文化祭を誰が主催したかは書かれていない。このときの費用は、それまでの遼寧大学が用意していた基金でまかなわれたと聞いている。
在瀋陽日本国総領事館小河内総領事は、瀋陽日本語文化祭の開催に意欲的で、その後は総領事館主催で行うとのことで、実際、2006年も総領事館新館で総領事館主催で開かれた。教師の会は企画と運営に参加した。
この2006年の日本語文化祭は、遼寧大学遼陽、薬科大学、航空学院、遼寧大学、東北大学、師範大学、育才外語、医科大学、瀋陽大学が参加した。
2007 年 には総領事は阿部総領事に代わっていたが、ノースメディアの豪華ホールを借りて総領事館の主催として開催された。もちろん実質的な企画と、運営は教師の会 の先生たちによるものであった。このときは国際交流基金に当時の森領事の示唆で申請を出し、得られた予算が大会費用に充てられたと聞いている。
2007年は東北育才学校の参加があって10校、31<種目の演目に増えて盛況であった。
2008年 の開催は、直前まで危ぶまれた。総領事館の文化担当菊田領事が「教師会が計画立案し、それを受け領事館が、何ができるか、考えていく。一切の予算措置は 取っていないし、金銭的援助も一切しない」ということで、予算獲得に総領事館が動いてくれると思っていた教師の会は準備不足に陥った。
2008年は5月31日(土)に在瀋陽日本国総領事館新館を借りて開催されたが、主催は「瀋陽日本人教師の会」で講演と会場提供が「在瀋陽日本国領事館」となった。
2009年は、大学数校にわたる学生が日本語文化祭実行委員会を組織して企画の中心となり、教師の会の実行委員はその支援に回るという形で、日本語文化祭は航空学院の会場を借りて開かれた。
なお同じ日に、総領事館は同じ名前で全く別の瀋陽日本語文化祭を、瀋陽師範大学で開催した。
2000年度(2001年5月23日) 第5回瀋陽日本語文化祭 遼寧大学講堂
2003年度(2004年5月20日) 第8回瀋陽日本語文化祭 遼寧大学 中止
2004年度(2005年5月28日) 在瀋陽日本国総領事館
2005年度(2006年5月31日) 在瀋陽日本国総領事館
2006年度(2007年5月26日) North Media Building
2007年度(2008年5月31日) 瀋陽日本人教師の会主催 於在瀋陽日本国総領事館
2008年度 (2009年5月23日)瀋陽日本人教師の会主催 於瀋陽航空学院
以下のURLに詳しい情報が載っています
http://www.geocities.jp/kyosikai2004/index
http://sites.google.com/site/kyosikai09/
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-ad06.htm
カテゴリ:友だち
朝は午後開かれる教師会のために日本語文化祭の歴史を書き、ホームページのまとめを書いて、印刷してコピーを作り、そして9時過ぎになって、片桐さんたちが来て、案内役の暁艶も来て9時半にバスに乗って出かけた。
126のバスに乗ると奉天街の方に回ってから大西門に行くので、このバス停は遠くに離れていて、思いがけず庶民の街の裏通りを歩いてから路上市に行った。
懐かしい印章屋さんがいて、しかし以前は一字5元だったのが10元といって譲らない。ま、しかたないか。
洋子さんはそこで30元の石を見つけて頼み、何時ものおじさん(建物の入り口の階段をあがったところにいる人)のところに行って、久しぶりの再会で堅い握手を何度もした。
そこで、ちひろさんは萬仞という字の入っている詩の書いてある石が気にいって選び私も一つ選んだ。小さな印章用の石を3つ買ってどちらも30元。合わせてさらに負けて貰って、90元支払った。
麻衣佳は外で、何時もぼくたちが1-2元で石を買うところで一つ気に入っていくら?
すると、なんと3つ10元。それが良いというので4個10元にして貰って支払った。
印章屋にもどって、それぞれの篆刻を頼むと、2時間くらいした戻っておいで、と。
結局、字を彫って貰って合計110元を100元にして貰ってどちらも満足。その帰りに見たら、もう詩の石のおじさんは店じまいで空っぽ。90元売り上げたから今日はもういいやと言って引き上げたみたい。
昼は中街の初めての店で食事。意外に美味しく、インゲン豆、ジャガイモ、豚肉という東北地方の典型的な料理もあって、これも満足。212元。
その後は暁艶に頼んでタクシーで大学まで戻って、私は薬科大学で開かれた教師会に出席。5時から懇親会。
片桐一家は、午後3時に四宮先生にあってテレビ塔に行ったとのこと。
カテゴリ:友だち
朝11時20分に、研究棟の前で大学差し回しの車に乗る片桐さんたちを見送った。空港まで一緒に行って見送ると帰りがひしひしと寂しいので、ここで別れを告げた。
18日午後書いたメイル:
洋子様 千仭様 麻衣佳さま
ずっと待ち焦がれていて、そして楽しかった1週間が過ぎて、いまは寂しい思いを味わっています。
洋子さんが疲れないかとそればかり気になっていましたが、大丈夫ですか。明日から普段の日なので大して休養できないのが気の毒ですね。
せっかく用意をされたのに、学部学生と大学院学生に講義が出来なくてこれも気の毒なことでしたが、また折を見ていらして下さい。今度の経験で、どのように話を工夫すれば分かってもらえそうか(案外分からないのは私だけだったりして)、おわかりと思いますので、次回の話も楽しみにしています。
講義が出来ない代わりにうちの学生とは結構親密な交流が出来たようですが、これは良い方の効果でしたね。草の根レベルの交流でお互いにお互いが理解できることが、世界平和を保つ基本ですものね。
麻衣佳さんに会えたのはとても嬉しいことでした。私たちの娘の一番上の息子は千葉大医学部にいて今年で20歳になります(その次はこんど大学受験)。同じ年代と言っていいですね。しっかりした日本の若者をみることはとても元気づけられます。日本も捨てたものではない。
それでは、また、何時かいらっしゃいな。
どうかお大事に。
草々
山形 達也
GLPと言う言葉は製薬業界ではあたりまえの言葉なので、薬科大学を訪ねてくる日本の人たちから良く聞く言葉である。
Wikipediaによると、「Good Laboratory Practice(GLP じーえるぴー)は、1970年代にアメリカでデータの改竄・誤認事件が相次いだことへの対策として、1979年6月に世界で最初にアメリカで実施された試験検査の精度確保確認のため標準作業手順法である。1981年には経済協力開発機構(OECD)がGLP基準を策定し、これを元にしたGLPの導入を各国に求めた。これを契機として各国において各種のGLPが制定された。」簡単に言うと、何かを(操作)するときの、正しい方法のマニュアル化とその基準化といってよいであろう。私たちの研究室には「山形研究室憲章」というのがある。
研究室の理念と、研究室での心得が書いてある。しかし、日本語だけなので、うちの研究室では一般化できない。それに、ここには書いていないこともある。この秋卒業研究生が今までの4人を大幅に超えて7人(だと思う)も来ることになった。
「来ることになった」なんて他人ごとみたいに書いているが、私がOKしたから私の責任なのだ。この秋から院生が減って研究室が寂しくなったために、手の掛かる新人でもいいから研究室に入れて賑やかにしたいと言う密かな願望が、実ってしまったのだ。
こんなに沢山になるとman to manで根気良く教えることが難しくなってくる。きちんとしたGood Laboratory Practiceを作っておけば、ぶれることなく研究室の大事なことを教えることが出来る。
これを実際に卒業研究生が来たときに直接応対が任される博士課程の人たちが提案してきたのだ、「GLPをきちんと作っておく必要があります」と。
研究室はLaboratoryだから、要求される水準を書き表せば私たちの部屋のGLPと言って差し支えない。暁艶がこのGLPのためのdraftを作ってくれたので10月10日の土曜日のジャーナルクラブの後で、張嵐にこのGLP作成の必要性を説明してもらった。そして皆が手分けしてこれの作成に掛かるように話して貰った。
15日には手分けした個別のかきこみ作業が終わり16日には張嵐の元に集まり、私のところに送られてきた。
17日には朝は片桐さんたちを路上市に案内し、午後は教師の会の定例会で何も出来なかった。18日の午前中に片桐さんの帰国を見送り午後からこれに取りかかった。
私が付け加えた項目は以下の通りである。
The aim of the Yamagatas’Lab: Every member will be brought up to first class scientist in research…
Active involvement in discussion: Discussion is the most effective way to train you
brains…
Our treasures: Your experimental notebook will be kept in…
Please promise: On explanation by some others of the procedure…
Weekly meeting: Every one is to meet our professors once…
Progress Reports: Everybody is requested to give a talk on…
Annual Report: At the end of every semester, you have to…
Journal Club: We have a Journal Club once a week, where…
Our properties: Cells, vectors, siRNA, reagents, labwares, machines, books…In the lab: You are not basically allowed to cook to…
As for keys: Do not give assignment to the keys…
10月18日月曜日午後1時に部屋に集まった7人に、張嵐と暁艶がこのGLPを説明した。ただし中国語だったので、私には本当の反応は分からなかった。
学生は熱心に質問しながら聞いていたので、さあ、これからが楽しみである。
山形研究室の公式のホームページは、2004年からYahoo.geocitiesで作りはじめた(http://www.geocities.jp/shanda1962/)。
中国から時々アクセス不能になっていたが、たいていは数日で回復した。しかし2008年10月から続いた遮断は長く、2009年2月にやっと回復した。
2009年7月に入ってまた接続不能となり、それが続いたので夏には、別のサイトに新しく作ることを考えた。ちょうどGoogleがソフトをサーバー側から提供する方式を開始していたので、使ってみると、とても使いやすい。
夏からはじめて、教師の会のホームページ(http://sites.google.com/site/kyosikai09/)、自分自身のサイト (http://sites.google.com/site/tcyamagata/)を作るだけでなく研究室もここに作成した(http: //sites.google.com/site/yamagatalaboratory/)。全部を移すことはまだ出来ないから、移行途上である。
ところが、ところが、である。10月に入るとGoogleへの接続が困難になり、とうとう10月12日から全く遮断されてしまった。
つまり作成しているホームページが開けないだけでなく、作成するサイトにもたどり着けなくなったのだ。
IBMのホームページビルダーを使っていたときは、原稿がこちら側に残っていた。しかし、今は原稿は手元にない。
このGoogleのサイトに完全に移行するまで、このGooに日記ブログを書いていた。山形研究室日記 も、(http://sites.google.com/site/yamagatalaboratory/)に書き込むようにしたので、今は、何が書いてあったか思い出せない。
という現状では、今研究室関連のサイトというとこれだけがアクセス可能である。
これからはここに書いていくことにしよう。
http://blog.goo.ne.jp/tcyamagata/
そして日本に戻る休暇に時に、本来の研究室日記に移植しよう。
なお、掲示板は生きている(http://8529.teacup.com/tcyamagata/bbs)。
カテゴリ:インターネット
友人が訪ねてきて楽しかったが、同時に忙しい8日間だった。つまり彼らのスケジュールを調整し、出かける手配をし、食事を考え、その間に研究室の中での目配りも必要だし、4年生への生化学の講義もあった。
教師の会の定例会が17日にあり、このために土曜日の午後と夜は片桐さんたちの面倒を見られなかった。幸い四宮さんの都合が付いて、良かった。
18日に教師の会の会員に送ったメイルは以下の通りである。
教師の会のみなさま
昨日はお集まりありがとうございました。
改正された会則と会員名簿を添付します。
会員名簿では、黄色の部分が最初のversionに比べての変更・追加箇所です。菊田氏の名前は消してありますが、総領事館の連絡方法はそのままにしてあります。
なお、教師の会の新しいサイトのホームページですが、この遮断は長く続くのではないかと思います。
というのは、世界的な潮流であるそれぞれがinformerと言う考え方のサイト(トイッター、元の英語名にしません。検閲に引っかからないようにしています)に、ここからはアクセスできません。つまりこのくにの内部から発信することのないような規制が取られていることは明らかです。
今の教師会がでホオムペエジを作った新しいサイトは、誰でもが、特殊なソフトなしでホオムペエジが発信できる仕組みです。
そのことの重大性に気付いた何処かが、それを遮断したという可能性が高いです。同時に、できたホオムペエジにも全くアクセスが出来ません。これ以外にも私たちの元のでホオムペエジも、日本人会、補習学校もアクセス不能です。
と言うことはこのくには情報の流通を遮断することにとても積極的だと言うことで、これが短期間で終わるとは思えません。
でも、どうしようもありませんね。
この状況で、さらに新たにホオムペエジを立ち上げる元気はありません。
でも、教師の会の会員で互いに情報や、つぶやきを共有できるサイトは何処かに持ちたいですね。
昨日配布した「ホオムペエジの紹介」の中の教師会関連のサイトは、ここでみることが出来ます。
どうか訪ねてみてください。
教師の会日記
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/
レス付き教師会掲示板
http://geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=kyosikai2004
瀋陽お店紹介
http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=akotan552006活動の記録ブログ
http://blog.livedoor.jp/kyoshikai_shenyang/
瀋陽日本の文化祭ブログ
http://blog.livedoor.jp/kyosikai2009/
研修・レク係ブログ
http://blog.goo.ne.jp/kyosikai2009/
弁論大会係ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kyosikai2007
以上のうちで、
レス付き教師会掲示板
http://geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=kyosikai2004
瀋陽お店紹介
http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=akotan552006
は自由に書き込めます。
それ以外のものは係が書き込んでいます。
このほかに会員用の掲示板を作りましょうか。
ご意見をお聞かせください。
草々
カテゴリ:研究室風景
10月10日に貴志老師のMacをいじったが、不完全のまま終わった。
このままだと半分のHDDが使わないままなので、思い切って全部新しく作り直しましょう。わたしも、Macを一人で使っている関係上、結構いろいろと分かるから大丈夫ですよ。。。
今パーティション二つなのを一つにして、Mac側からWindowsの場所を確保して、そこにWindowsを installする。貴志老師のMacBookで、MacとWindowsの両方が使えるようにするのが目的。
データ、その他のすべてはタイムマシンで保存されている。
それでパーティションを一つにして(ここで内容が完全に消える)、MacOS10.5を私のファミリーパックからインストールした。
その後は指示に従いタイムマシンからすべてを回復すると、完全に以前の状態に戻るではないか。快適である。時間も早い。
Boot Camp Assistanceでもう一つ32GBのパーティションを切って、そこにWindowsXPをいれた。
ところが、これが立ち上がらない。MacOSから何かを足さなくてはならないのだが、それをやる時間がない。
10月18日の日曜日朝8時から始めて12時までが持ち時間。その間片桐さんたちを見送った。
狙いが完全には果たせなくて心残りの時間だった。
カテゴリ:瀋陽の生活
今日は貞子が日本から来る予定だったが、体調が思わしくないと言うことで直前になって延期した。
今日搭乗の予定を延期するだけでキャンセル料25,000円が取られるそうだ。利用するのを止めたわけではなくて延期しただけなのに、キャンセル料を取るなんて、世知辛い世の中だ。
今朝は水たまりに氷が張っていたくらい寒い一日の始まりだったが、午後は大雨も降って、元気のでない一日だ。彼女の渡航を木曜日に延ばして正解だった。
木曜日には三重大学の人たちが公式に大学を訪問するとのこと。この大学との提携が実現するのだろうか。
三重大学ご一行様の訪問のために国際交流処は人が出せず、午後3時半に空港に迎えに行くのは私一人。それで生化学の講義もキャンセルを王老師に通知した。
午後5時前には、王麗と馬さんから貞子宛の花束が届いた。花が保つように包み紙から出して、花瓶に生けておいた。
カテゴリ:生命科学
Transcription Factor(TF)に興味がある。TFとは遺伝子の発現を直接制御する因子だ。
TFが結合するのは遺伝子の転写されるDNA配列の上流で、この部分をプロモータと呼ぶ。このDNA配列を知りたいが通常の遺伝子データベース(DB)では大変面倒だ。
1)これを簡単に調べられないものだろうか。
2)この配列が分かったとして、ここにどのようなTFが結合できるかを、調べる方法はないだろうか。
3)実際に、ある遺伝子のプロモータに結合していることが知られているTFの種類を知る方法はないか。
4)それぞれのTFの構造、化学的性質、結合するDNA配列などのDBはないか。
ずっと気になっていたのを、とうとう本気で調べ始めた。
最初はインターネットで、キイワードをいれることからDBをピックアップした。
そしてほぼ一日掛けて、いくつかのDBを使うことによって、上記の答えが得られることが分かって大いに満足した。しかし、必要な情報を取得するのはいよいよこれからである。
10月17日の定例会で会則の改正が承認された。
主なことは、会長・副会長という言葉に代えて、代表・副代表という表現にしたこと。
資料室がなくなったので資料室係の代わりに図書係。
弁論大会、日本語文化祭、クリスマス会の係を一つにまとめてイベント係にしたこと。
教師の会のホームページにアクセスできないので、ここに掲載する。
瀋陽日本人教師の会 会則
1 この会の趣旨
この会は、瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている日本人教師や研究者の集まりです。さまざまな経験や資格でここ瀋陽に来た私たちは、年齢や性別、経歴などを超えて、一人の人間、一人の日本人教師・研究者としてこの会に参加します。
私たちの職業と生活のために必要な情報・教材などをお互いに交換し、中国における私たちの滞在を有意義なものにするための会として、この会の運営はみんなで分担し合い、協力し合うことによって進め、私たちの活動を日中友好の一助にしましょう。
2 会員資格
○ 日本国籍を有し、瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている人で、各教育機関から招聘状あるいは専家証を発給されている人およびその家族でこの会の趣旨に賛同される人で本会が認める人。
○ 年会費を納入した人
3 会費
100人民元(半年未満の場合は50元)。その他必要に応じて適宜徴収する。新加入会員は入会時に入会金50元を徴収する。年度最初の定例会で前年度の会計報告を行う。
4 この会ですること
○ 毎年9月の年度始めの定例会でこの会の趣旨を確認し、分担と予定を話し合う。
○ 瀋陽日本語弁論大会の企画、運営に協力し教師の会全体で参加する。参画については別途実行委員会を組織し、主催団体や機関との連絡を密にして、特に弁論大会設立の趣旨の継承に努力する。
○ 情報の交換、授業や教材の研究及び親睦などは適宜に計画して行う。
5 この会の組織と役割分担
① 代表(1名):本会を主宰する。他の機関や団体との連絡に責任を持ち、本会の代表として行動する。原則として瀋陽市在任期間の長い人を選出する。
② 副代表(3名前後):代表が若干名の副代表を指名する。副代表は代表を補佐して会の連絡と調整を行い、代表に事故のあるときは、いずれかが代表の任に当 たる。副代表は、渉外、広報、日本人会等との諸連絡を担当するほか、定例会の司会をかねる。代表と副代表は幹事会を構成する。
③ 研修・リクリェーション係(3名前後):会員に役立つ研修を企画するほか、会員外にも向けた日本語文化セミナーを企画・発信する。会員の親睦のためのリクリェーションを企画し実行する。
④ 書記・会計係(3名前後):定例会の記録をホームページで公開する。年会費と必要経費を徴収し、会計を記録して金銭を管理する。会計は一般会計と特別会計とに分ける。
⑤ ホームページ係(3名前後):瀋陽日本人教師の会のホームページの企画・編集・更新作業に当たる。
⑥ 図書係(2名前後):瀋陽日本人教師の会が瀋陽市図書館に寄贈した図書に関して図書館と交渉に当たる。今後も瀋陽日本人教師の会経由で瀋陽市図書館に寄贈する書籍の窓口となる。
⑦ 日本語クラブ編集係(3名前後):定期的(季刊)に機関誌「瀋陽日本語クラブ」の企画・編集・発行に当たる。
⑧ イベント係(10名前後):瀋陽日本語弁論大会では弁論大会主催団体や各機関との連絡調整を行い、瀋陽日本語弁論大会を実行する任に当たる。
日本語文化祭では幹事校を定め、その学校の学生を中心として実行委員会を組織し、文化祭の立案・計画・各学校との連絡・調整を行い、当日の運営等を担当する。
瀋陽日本人会の企画するクリスマス会ではその準備と運営に協力し、その連絡と調整を行う。
それぞれの主担当者をあらかじめ決める。
⑨ 各係から1名はホームページ担当となり、ホームページ係と共に日本人教師の会の広報に努める。
6 会則の改正
この会の会則の改正は、会員の多数が不都合と認めた項目について協議の上、改正することができる。会の性格上多数決はなじまないが、同意・調整がつかないときは「この会の趣旨」は会員数の三分の二、他の項目は会員数の二分の一以上の賛意をもって改正することができる。
細則
① 上記のそれぞれの係は任期2年くらいが望ましい。
② 研修・リクリェーション係はホームページの「活動記録」の中にある「リクリェーション記録」を更新する。
③ 書記・会計係はホームページの中の「活動記録」の中にある「議事録」更新と「年度会計報告」を担当する。
④ 図書係はホームページの中の「教師の会関係の図書」の更新を担当する。
⑤ 日本語クラブ編集係はホームページの中の「瀋陽日本語クラブ」の更新を担当する。
⑥ イベント係の弁論大会実行委員、文化祭実行委員はホームページの中のそれぞれ「日本語弁論大会」、「日本語文化祭」、「クリスマス会」の更新を担当する。
2009年10月17日改正
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-6269.html
カテゴリ:薬科大学
午後、三重大学の人たちが薬科大学を公式訪問したついでに私たちの部屋に訪ねてきた。沢山の先生たちから名刺を戴いて、一緒に写真を撮りましょう、そうでないと分からなくなっちゃうと本音を漏らして、グループ写真に皆で収まった。
ご一行の中でかねてより知り合っている西村先生に伺うと、いよいよ今回大学間協定を結ぶ方向に進んだとのこと。3回目にしてこのような公式のルートが動き出して大変結構なことである。
来年度卒業する学部学生から大学院修士課程に数名受け入れ可能という線なのだそうだ。それについては、この大学は北陸大学大学院との間に、大学院入試に通ったら繰り上げ卒業というのをやっている。つまり1月頃入試をして、3月で繰り上げ卒業をさせて、4月には大学院に入学なのだ。
これだと、日本に留学する同期の学生に比べて半年から1年早く進級できるので、学生には大きなメリットがある。
この大学は最後の3ヶ月の教育負担なしに卒業させられるわけだし、先方の大学院は学生が確保できるわけだし、三方すべて得である。そういうと、既にこの大学からこの提案が出されていると言うことだった。と言うことはこの大学も本気で乗り気なのだろう。結構なことだ。
おそらく教師会始まって以来はじめてのこと。10月16日午後2時に、在瀋陽総領事館の松本盛雄総領事に、教師の会の幹事の人たちで挨拶に伺った。
これは、9月に教師の会の幹事が代わったのでご挨拶と言うわけだが、6月には教師の会主催の瀋陽日本語文化セミナーに松本総領事を招いてご講演頂いたし、昨年末には教師の会のメンバーが領事公邸に招かれてご馳走になったこともある。
この1月には行き詰まっていた日本語資料質の蔵書の行方について建設的な意見を頂いて、瀋陽市図書館に書籍を寄付する手続きが進行中である。
つまり、以前の総領事よりは身近な存在と言って良い。
実際、領事館のHPで毎月更新される松本総領事メッセージは、通り一遍の、役人の挨拶だけでない心打つ文面である。
1.市図書館とのその後のやりとりの報告
2.総領事館の菊田領事と教師の会との関係がぎくしゃくしているので、その問題の検討
3.夏に交代した文化担当平柳領事の後任の足立領事にご挨拶
当日伺った当方の幹事は、多田(代表)、土屋、高澤、瀬井、山形の5人。
帰りは猛烈な土砂降りの雨で、誰もがずぶ濡れになった。
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-dddb.html
カテゴリ:瀋陽の生活
10月22日午後3時半、国際交流処に車を出して貰って朱Tongと一緒に空港に日本から着いた妻を迎えに行った。3時55分に空港に着いて到着機の掲示を見ると飛行機は3時34分に到着している。もう外に出てきて良い。
ところがそれから15分近く待った。やっと出てきた妻によると、乗客数は3割くらいだったのに荷物が出てくるのに、延々と待たされた、何時もはその後X線検査があるのに、さすがここでも係員が申し訳ないと思ったのか、皆そのまま通関OKで通過させてくれたという。
1年間閉鎖している間に、片側2車線が4車線に拡幅された高速道路を気持ちよく走る。西の大地の端をめがけて太陽が落ちる寸前、でもなかったが、昔満州で西の大地にストンと沈む夕日に日本人が感激した風景が広がる。
やはり空の旅で疲れたので妻をそのままうちに運ぶ。私はそのままうちに帰る支度をしてきたのに、朱Tongは、この後プログレスリポート(PR)ですよ、と私が忘れていたのを思い出させてくれたので、その後また大学へ。
6時から始まるPRには、卒研生の胡くん、張くん、王さん、林さん、許さんが出席していた。四宮老師は欠席。発表は、朱Tong、黄澄澄、張嵐の3人。
カテゴリ:瀋陽の生活
午前中は研究室のセミナーで、今日からは新人向けの講義が始まった。
第一回目は私で、Gangliosidesについての講義。4ページにわたるPPT32枚のAbstractのうち、今日は2ページ半ばまで行った。前回の講義では1ページ目で終わったのに比べるとだいぶ進歩した。
午後は、教師の会の代表である多田先生と一緒に劉凱さんを訪ねた。日本に8年滞在して日本語教師の資格も持つ劉さんから、10月20日に私に手紙が届いた。
瀋陽に戻って2年、翻訳や日本語教育をやってきたが、日本人と付き合う機会が少ないので、自分の日本語能力に自信を失いそうだ。この水準を保つために、日本人と話をする機会を作りたい、その代わり日本人教師の会の集まりに自分の店を使ってほしい。
以上のような提案を貰ったので、二人で劉さんと家族の経営する店を訪れて、2時間くらい話をした。
とても良い感触を得たので、来週中に幹事会を開いてこのことを皆で相談してみたいということになった。
カテゴリ:研究室風景
何時もよりはすべてを少し遅くして、大学に行ったのが8時。貞子も11時前にはラボに来たので一緒に食事。
まず、昨日の劉凱さんを訪ねたときのまとめを作成。店の付近の地図も作成。
学生の研究報告を読みながら、どうしたらその研究がまとまるかを考える。これで一日過ごしたと言いたいところだが、午後2時には疲れて終い、どうせ日曜日だと言いつつうちに帰った。ラボには朱Tong、黄澄澄が来ていた。
Image scannerの蛍光ランプがつかない。調べるとランプが切れたというのではなくglow lampがいかれてきたみたい。100V仕様だから、ここで手に入るだろうか。それにランプもいずれ買わなくてはならない。312nmと360nmと、別々の蛍光管でおそらくメーカー制作の特殊品だろう。6本ずつ手に入れなくてはならない。
瀋陽は最高15度、最低0度の予報。空はどんよりとスモッグ。暖房は温水暖房で今日は冷水の通水テスト。水漏れがあったら報告することになっている。ぴちゃぴちゃと水の流れる音がする。
久しぶりに会った大勇は一回り大きくなって、訊くと10 kgくらい増えたようだ。落ち着いた雰囲気を身にまとい、いってみれば大人の風格を帯びたと言って良い。
卒業して北京の製薬会社に就職し、季節の折々にメイルを貰った。昨年は王暁東が北京に就職したので、研究室の人たちが北京を通るたびに二人に会って、彼らの消息を伝えてくれた。この夏のはじめの話では、大勇が北京を去って瀋陽に来たらしいと言う話だった。
夏休みには研究室を訪ねてくれたらしいがそのとき私は日本に行っていた。そして9月になり何時か訪ねてくるらしいと聞いていたが、10月24日土曜日、セミナーが終わったとき突然、暁艶が「これから大勇がここに来ます」という。
久しぶりに会った大勇は一回り大きくなって、訊くと10 kgくらい増えたようだ。落ち着いた雰囲気を身にまとい、いってみれば大人の風格を帯びたと言って良い。
瀋陽のあちこちで見かける何氏眼科を経営している人の持つ生命科学研究所に勤めて、長寿遺伝子の研究に携わっているという。そういえば、C.eleganceで、体内時計に関わる遺伝子Clotoが寿命に関わるといって一時話題になったのを思い出した。
彼は結婚適齢期と言って良い。どうした?見つかった?私たちの質問はそこに集中する。事情を知っている様子の暁艶は、毎週末忙しいんでしょう?とにこにこしている。
瀋陽に中心地である中街に70平方米の広さのマンションを、彼の結婚のために彼親が用意したそうだ。そして毎週末、「相親」という、日本で言えばお見合いをしているそうだ。見つかったの?いえ、まだまだ、と言う返事である。
週日は毎朝6時半には会社のバスに乗り、棋盤山という遠い郊外にある研究所に火曜だけで終わってしまい、週末はお見合いで結構忙しいらしい。
私はその後約束があって外出することになっていたので、この次は相手を見つけて紹介につれていらっしゃい、と約束をして分かれた。お土産に、リンゴ、オレンジ、金瓜などを沢山貰った。
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関さんの研究の一つには大変手こずっているが、これはLY294002と言う薬がCav1の発現を抑えるルートを解明しようというものである。
LY294002はPI3Kの名高い阻害剤だが、ほかのシグナル分子も抑えることがだんだん知られてきた。Casein Kinase2、Estrogen Recptor、Ca channelなどを抑えることが知られている。つまりこれらを端から調べて、何処を抑えたためにCav1の発現を抑えるかを明らかにしなくてはならない。結構大変な消耗戦である。
次々と調べてきて、Ca channelの阻害剤といNifedipineを入れるとCav1が抑えられた。となると、Ca channelをLY2004002が抑えるかどうかを徹底的に調べなくてはならない。
だいたいイオンチャンネルなんて神経科学の人たちの専売特許みたいなもので、私たちの研究領域とは関係なかった。だから詳しいことは何も知らない。
調べてみると、面白いというか、実際に扱うとなると大変なことになりそうだという感じがする。5つのサブユニットで出来ているが、アルファ1サブユニットには10の異性体があるし、アルファ2サブユニットには4つ、ベータに3つ、ガンマに8つの異性体の遺伝子が知られている。
異性体のどれが発現しているかを調べるだけでも一仕事だ、そしてそれをRNAiでつぶさないと仕事は進まない。
と言うことを夢中で調べていて、ふと気付いたら10時4分過ぎ。講義が始まるのは10時10分。何時もなら、10時5分前には部屋を出るというのに。
慌てて教室の学生の一人(班長)に電話を入れながら階段を駆け下りた。
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火曜日は8時半から1時間ごとに学生の研究指導面談の時間が取ってある。最初は博士2年の張嵐、続いて修士1年の王月、博士1年の暁艶。
今まで私が一人で仕切っているわけだから、当然見落としも、偏りもある。貞子が久しぶりに参加して、議論が活発になった。彼女の存在は大きい。
午後3時には遊松教授が部屋まで来てくれた。とても気性のさっぱりした気持ちの良い先生だ。
今までの研究でCalcineurin/NFATシグナルがCox2の制御に関係していることが分かってきたが、ここを攻めるための手段をいろいろと検討して時間が経った。Googleが遮断されているにせよ、今は幸いNCBIのデータベースにアクセス出来るので仕事が出来る。ありがたいことだ。
4時からは、教師の会の幹事会で、多田、土屋、瀬井、高澤そして私の5人がここで集まった。
一番の眼目は先日の劉凱さんとの会見報告と、11月14日の定例会を千品軒で開くことの承認を求めることだった。彼女に会ったのは多田、山形の二人だけだから、それで良いのかという気持ちがあるのは当然である。ともかく一度そこを使わせて貰って、彼女とも知り合うことがすべての始まりだと、皆は納得してくれた。
図書館で本の目録作成について、総領事からは既に本の整理のボランティアの申し出があったのと言う。こちらの対応はまだ進んでいないのに。
私たちの研究室と、瀋陽日本人教師の会のホームページはYahooで作っていたが、ここからは見られなくなったので、やむをえずGoogleのサイトに作ったのがこの夏だった。クラウドコンピューターの発想のおかげと、MSとGoogleの対決のおかげで、IBMホームページビルダーのような特別のソフトなしに誰でも簡単にホームページを作ることができるようになった。
教師の会のコンテンツはホームページ係だけではとても手が回らないない位に成長しているから、誰でも気軽に作成が出来る方式を提供したGoogleには大いに感謝しながら使い始めた。
ところがこの10月に入ってからGoogle siteへのアクセスがだんだん難しくなった。つまり、Googleで作っているホームページの更新がやりにくくなった。そして10月12日からは完全に Google siteへのアクセスが遮断され、そしてGoogleの上のホームページは一切ここからは見られなくなった。
これがいつまで続くだろうか。
昨年、Yahooの私たちの研究室と、瀋陽日本人教師の会のホームページがアクセス不能になったのは10月で、北京オリンピックが終わったあとだった。始まる前ならともかく、終わってからの遮断だから、何時ものように数日で終わると思っていたら、再びアクセス可能になったのは年が明けた2月だった。
それが今年の7月からまた遮断されて、それがまだ続いている。
建国60周年を祝う国威発揚の国慶節は10月の初めだった。Googleの始めたホームページ作成のためのGoogle siteはそのときまでは使えたのに、国慶節後に遮断された。と言うことは、これがこの先の国の政策だとしか思えない。
YouTubeがここからはアクセスできない(見ることも投稿することも出来ない)ことは広く世界に知られている。今回の状況を見て私はTwitterにアクセスして発信しようとしたが、アクセス不能だった。つまり、読むことも、投稿も出来ない。最近聞いたが、今世界でどんどん広がっているFaceBookもアクセスが遮断されているという。
私のうちはケーブルテレビと契約して40チャンネルくらいが見られるようになっていた。私の見ているのは、Cinemax、BBC、Axen、National Geographics、FashionTV、など英語でみられるものだけだったが、それが突然映画Titanicの一場面のみを流すようになった。 学生に頼んで局に聞いて貰ったら、これは故障ではなく外国の番組が見られなくなったのだと言う。何故も、へちまも、ヘッタクレもない。見られないなら、ここでは見られないのだ。
それならこれらを見るという契約は意味がないので最低数のチャンネルの契約に切り替えて半年経ち、やがて契約期間が終わった。その機会にこの10月再度、上記の英語番組を見たいと申し出たが、やはり見られないという。
それで、うちで見られる外国の風景はテニス・ゴルフ(ただし国内放送だから解説は中国語)だけである。もちろん国営TVのニュースでは世界の場面を見ることが出来るはずだが、見る気も起こらない。
つまり建国60周年を機に、ここでは国外との情報のやりとり、情報の発信と受信を極度に制限する道に進み出したと思える。何故なのかは言うまでもないが、しかし私には疑問がある。そこまでのことが必要なのかと。私はここの政治形態はきわめてうまくいっているように思える。
治める側の腐敗は絶えず、人々の怒りを買っているが、100年前には貧困にあえぎ、諸外国の収奪の対象となっていた国をここまで持ってきた革命の成功とその後の政策は大いに誇って良いし、人々もそれを認めている。
たとえ自由選挙をしたとしても、この国の政治体制がひっくり返るとは思えない。人々の思想が自由と言う考えと、人権思想の普及で体制が覆ることを恐れられて いるのかも知れないが、このように情報を遮断しなくても、ここの人々が別の政治形態を選択するとは思えない。やり過ぎや、締め付けすぎが一番まずいことな のではないだろうか。
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水曜日の面談は笑笑、黄澄澄、朱Tong。
午前中に張景海教授、午後には呉英良教授に会う。
午後は2時間かけて張嵐が妻に仕事の話。だいぶ面白くなってきた。
4時半からは、暁艶に手伝って貰って家楽福にグロサリー。
5時半に戻ってきてそのまま家へ。
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日本で婚活中の男性が交際相手の女に殺されたそうだ。調べると既に数人の男がこの女に殺されていることが発覚したという。
男は女に甘い。本質的にガードはあってなきがごとしだ。だいたいが欲望が自分を突き動かすものだから、相手を疑うということはしない。この女にとっては男をだますことはいとも簡単なことで、つぎつぎと金を手に入れてきたのだろう。
ただし、同じ手口で男を殺したのは浅はかだったと言うしかない。
教師の会に前おられた田中義一先生は婚活中だった。みっっの夢のうち二つは叶った。あとは、結婚したいと言うのが口癖だった。心配になってメイルを書いた。
前に薬科大学の日本語教師だった峰村先生は、今山東省におられる。私はいま中薬の学生に生化学を教えていて、誰に日本語を教わったのかを訊くと先生は峰村先生だというので、教室で学生の写真を撮って峰村先生に送った。
峰村先生から折り返しクラスの全員宛のメイルがあり、今の暮らしの写真もあった。PPTにして全員にスクリーンに映して見せた。誰もが目を輝かせて手紙に見入っていた。
カテゴリ:薬科大学
29日の木曜日、午後の講義から戻ってくると妻が言う。
留守中に徐寧さんが来て月曜日に妻のために送別の食事会をすると伝えてきた。
とんでもない、そんなことをしないで下さいといったけれど、会を用意しますから出て下さいねと言う。
そんな大袈裟な、晴れがましいことをして欲しくないのにと妻は思っている。何とかして断りたい、と考えている。
また戻ってくるつもりなのにそんなことをされたら戻ってこられないじゃないですかと言ったら?
それも、本気で戻ってくる気にならないといけない口先だけでなく、本気でそう思っているなら、だからそのような会は止めて下さいな、また来にくいじゃないと言えるでしょ、とぼく。
それで、とうとう妻は来月またくくるつもりになって、徐寧さんの上司の蔡さんと話をした。
蔡さんは、どうぞまた歓迎ですよ。これでおしまいってわけじゃないでしょ。と、にこっり。
と言うわけで、11月2日の月曜日夕方は大学側が食事会を用意するらしい。
多田先生と二人で10月24日の午後2時、劉凱さんと家族の経営する店を訪れて、2時間くらい話をした。日本に長年滞在した劉さんから、私に手紙が届いたからである。
劉凱さんの手紙の概要:
陳さんは2000年から仕事のために日本に行ったが、行く前に覚えた日本語ではまるで役に立たず、アルクの日本語教師養成講座(通信教育)で勉強した。
2003年からはアルクアカデミー教室で勉強して、正しく日本語が書ける、話せる能力を磨いた。周囲が日本人の中で『日本語教育能力試験』と『日本語教師検定試験』にも通った。
日本語の教育、勉強になる本を沢山集めたし、日本語を理解するためには日本の文化を知る必要があり、その本も集めた。
瀋陽に戻って自宅で本を公開して、翻訳をしながら日本語を勉強したい人に教えてきたが、自分のうちの店と日本語教育の拠点を一緒にして、この春、ここに店を 開いた。日本語を教えているのは数人。週に二三日。日本語の勉強では遠回りをしたので、効率的な日本語の習得方法を教えたい。
中国語への翻訳は、日本神話に興味があるし、白川静の著作を紹介したい。自分自身の著作はまだないが、ブログを持っている。
劉凱さんの提案:
瀋陽に戻ってから翻訳や日本語教育をやってきたが、日本人と付き合う機会が少ないので、自分の日本語能力に自信を失いそうだ。この水準を保つために、日本人と話をする機会を作りたい。その代わり日本人教師の会の集まりに自分の店を無料で使ってほしい。
それで、以下のことを話し合った。
1. 教師の会の集まりに使わせて頂けるだろうか。
これは先方からの熱心な申し出があり、店そのものを使って(3m x 7m くらいか)良いと言うことだった。20人くらいの会議が可能である。定例会の時は、毎月第2土曜日午後2時から3時間くらい、私たちも少し早めに出かけてセッティングを手伝う。
2. いつかは資料室を作りたい。
現状の、資料室がなく資料室の書籍もない現状で、以前の機能を持つ資料室を考えても意味ないことだが、昨年春までの書籍のある資料室が教師の間でも、教師と 学生あるいは市民との間でも交流に大きな役割があったことを思うと、何時かふたたび教師の会の資料室を持ちたいという夢を忘れられない。
劉さんは、まだ使っていない部屋が一つあり(3m x 4mくらいだろうか)これを資料室のために使って良いと言うことだった。壁二面に本棚を置けば2-3千冊の本を入れられる。
これはすばらしい提案で、小さな部屋ながらも(開元ビルは120平方米。集智ビルは82平方米)これからここを新しく資料室の夢を育てる場所とすることは考えられないだろうか。
この先、教師の手元に集まる本は、図書館には寄付をしないでここに集めていって、たとえば劉凱図書館にする。教師も学生もここを憩いの場として日中交流のために利用させて貰う。
3. 日中草の根交流の提案。
瀋陽には日本人と中国人との積極的な交流の場、あるいは機会がほとんどない。ここを拠点にして、両者の交流のための集まりを考えるというのはどうでしょう。中国人の日本語能力を磨く機会になるのではないでしょうか。陳丹さんからこれについて少なくとも反対意見はなかった。
さしあたり劉凱さんにお願いしたこと:
11月14日(土)午後2-5時、定例会に使わせて下さい。
その後一人30-40元で会食できる店(一部屋に円形テーブが二つ入っていて、全員が一部屋で会食できること)を見つけて下さい。そのとき、劉凱さんもご出席下さい。
以上OKでした。
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-9304.html
引き続き通常のジャーナルクラブでは、暁艶が、PGE2リセプターとPGF2リセプターとのクロストークの最新の論文を紹介した。とても要領よく紹介をした。こちらもとても良い勉強が出来た。
全員のグループ写真を撮ってから、この寒い中を天潤川菜食府にいく。今日の温度は最高が零度で、最低がマイナス12度と予報されている。
黄色の銀杏の葉が昨夜の冷雨と雪でほとんど落ちてしまった。
今短期間ながら瀋陽に来ている妻の歓迎会である。もちろん研究室に新しく参加した新人たちにとっても初めての会である。
参加は、私たち二人と旧人学生:張嵐、陽暁艶、黄澄澄、王月、朱Tong、張笑、それに関さん。
新人学生:女子学生が、方家、林玉家、許雪静、王新桃、姜嘉慧さん。男子が胡忠双、張心建くん。全部で16名の宴。
心身ともに暖まって、帰りは余り気にならず研究室に戻ってこられた。
カテゴリ:研究室風景
土曜日の朝のジャーナルクラブに、新人教育のための講義を入れてから、これで今日は二回目。私の「Gangliosides and events on the cell surface」についての話はこれで完了。
引き続き通常のジャーナルクラブでは、暁艶が、PGE2リセプターとPGF2リセプターとのクロストークの最新の論文を紹介した。とても要領よく紹介をした。scientistになれそうだ。こちらもとても良い勉強が出来た。
全員のグループ写真を撮って、外に出た。今日の温度は最高が零度で、最低がマイナス12度と予報されている。
黄色の銀杏の葉が昨夜の冷雨と雪でほとんど落ちてしまった。
この寒い中を天潤川菜食府にいく。今短期間ながら瀋陽に来ている妻の歓迎会である。もちろん研究室に新しく参加した新人たちにとっても初めての会である。来週火曜日には帰国するあら、送別会も兼ねている。
参加者は、私たち二人と旧人学生:張嵐、陽暁艶、黄澄澄、王月、朱Tong、張笑、それに関さん。
新人学生:女子学生が、方家、林玉家、許雪静、王新桃、姜嘉慧さん。男子が胡忠双、張心建くんの7名で、全部で16名の宴。
心身ともに暖まって、帰りは余り気にならず研究室に戻ってこられたが、PCの前で30分ばかり爆睡してしまった。
カテゴリ:薬科大学
昨日となりの池島先生から、大学のスタッフは3日にインフルエンザのワクチンを接種するという通知を受け取ったかと言われた。
私たちは何も聞いていない。大学の通知は、建前としてはここの学生だったスタッフの一人である関さん経由でここに入る仕組みらしいが、今まで入ってきたためしがない。
いったいどうしたものだろうか。
私たちは生化学の教室に属しているはずなので、そちらの系統に、これから大学からの通知をきっと知らせてくれるように念を押しておこう。
カテゴリ:カテゴリ未分類
73期中薬日語班に生化学の講義を始めて5回目。今日はグリコーゲン生合成と分解の話。このクラスは32人で、話すときの大きさにちょうど良い。それぞれの目を見ながら話をすることが出来る。
このクラスには73期中薬の(日語班ではない)4年生も一人出ていて私の講義を聴いている。日本語は独学らしい。大学院では日本に留学したいといっている学生だ。
訊くと、3年の時に中国語で生化学を習っているという。私の講義との違いを訊いてみた。彼女が言うには、中薬の生化学では、教科書に沿って端から覚えることを教えられた。
今は生命との関わり合いやほかの事象と関連づけられながら話が進むので、聴いていることがとても面白く感じられて内容が良く理解できるという。良いことをいってくれる。それが私の狙いだからだ。
大学を出ただけで教科書を学生の前で読んでいるだけの先生と同じはずがないのだ。
人には何が大事かといって健康ほど大事なものはないという。そして健康を保つには運動をすることだ、と何時も聞いているけれど、日常的に運動をすることをしないまま歳を重ねた。
そしてとうとうこの夏、身体が大いに弱っていることを発見した。
トイレで何を済ませたあとは、足下まで降ろしたズボンとパンツを引っ張り上げる必要がある。このとき身体をかがめるが、この動作がしんどいのだ。やっこらさ という感じで腰を曲げるのだと意識して思わないと、腰を曲げられない。つまり腰に掛かる負荷が大いに負担に感じられたのだ。
そんなことはこれまでなかったことだ。しかし運動をろくにしないで、机に座ってコンピューターで作業しているか、論文を読んでいるかが仕事だから、足腰の筋力がすっかり落ちてしまったにちがいない。
もちろん、ダンベルは時々振り回すし、腕立て伏せをすることもある。こうやって腕力は大丈夫だと思っていたけれど、足腰がすっかり弱ってしまっていたらしい。
長い夏休みが始まったところだったから、楽をして体力を付けようと思って、歩くことにした。運動靴を履いて、半ズボンにTシャツ、それにタオルを首に巻いて真夏の炎天下を歩いたのだ。もちろんお茶の瓶を買える小銭を持って。
歩いた距離が分からないと、運動をしていると言うことが実感できない。息子がインターネットで距離を測定できる地図があると教えてくれた。このソフトは優れものである。うちの近くには港北ニュータウンの緑地、緑道があるが、そこを歩いてもちゃんと距離を計算してくれる。
ストップウオッチで計ることで、へらへら歩いて時速4km だと言うことが分かった。前足に体重を載せて歩くと時速6kmだと言うことが分かってきた。時速6kmで歩くと汗が出るし、脈拍を測ると普段は70-80位なのが、1分間120位に上がっている。ちょっと激しい運動しているという感じである。
と言うわけで、この夏は日本にいて毎日30分から、時には2時間歩き続けた。3週間もすると、身体を前に曲げるときに、つらいという抵抗がなくなった。足腰に筋力が戻ってきた証拠である。
日本にいる間の5週間このウオーキングを続け、瀋陽に来てからも、毎朝30分から時には60分、この時速6kmという速歩で歩いた。それでもラボには6時半から7時の間には来ることが出来る。
でもだんだん秋が深まって、明るくなるのが遅くなる。何時も起きる5時半は今ではもう真っ暗だ。
ちょうど、妻が日本から来たので、毎日歩くのを中断することになった。朝歩かないでラボに来るのが7時ちょっと前という日課が10日続いた。そしてとうとう瀋陽に寒波が来た。最高温度が零度、最低がマイナス5度からマイナス13度というのが三日間続いた。
この寒波が去るのと一緒に妻は日本に帰った。明日からは私一人の生活がまた始まる。
朝真っ暗で凍えるほど寒いのに歩くというのは、ちょっと冒険過ぎる。明日からは昼を食べてから歩くという日課を始めてみよう。大学の前の道を渡ると、国立金属研究所と生態研究所があり、そのキャンパスを歩いて抜けると、瀋陽市内をゆったり流れる運河がある。
清の初代皇帝のヌルハチが造った運河が元だという。運河の周囲が緑道になって歩くのにとても良い環境である。所々が公園として整備されていて、特に老人用遊具がある。朝6時前から多くの老人が集まって、これらの遊具で運動をしているのが見られる。中国の老人は日本よりも遙かに健康志向が強く、そして実際に意欲的に身体を動かしているという印象を持っている。私もこれからはひたすら歩くだけではなく、時にはその仲間に溶け込もう。
コメント
2005年に書かれたタミフルの記事を拝読させていただきました。今は新型・季節性のインフルエンザ、そして風邪まで流行っているようです。
タミフルの記事は、今まで報道などマスコミなどで説明されていたどの記事よりも分かりやすく、異常行動の理論的なご説明は、目からうろこが落ちるように『漠然とした不安』が剥がれ落ちました(笑!)。
新型も軽症ですむことが多いようですが、油断大敵ですね。気をつけていますが、もし自分が罹ってもワクチンがすごく不足しているようなので、病院には行かず自宅で静養するつもりです(苦笑;)。副作用についての記述も非常に分かりやすく、『無知なるがゆえの恐れ』からは開放されたような気がします。有難うございました。
投稿: studioK2 | 2009年11月 6日 (金) 03時44分
カテゴリ:研究室風景
うちのアパートの下で朝6時50分に国際交流処の車に乗って、桃仙空港に貞子を見送った。三日間の厳しい冷え込みが今朝は少し緩和されていたように思う。気温は零度以上だったようだ。
足掛け13日間の短い瀋陽滞在だったが、彼女が来てくれて私も嬉しかったし、学生も喜んだ。本当を言うと、私は嬉しかったなんてもんじゃなく、仕事の上で実際大いに助かった。
何しろ一人でぼやぼや考えていてもらちがあかないことが多い。妻は短い期間しか一緒にいられないから、何時もよりも即断即決の議論を仕掛けてくる。従って、この学生にはこのテーマはどうかななんて、どんどん決めることが出来た。
私一人だったらまだ一人二人しか決まっていないところである。
カテゴリ:瀋陽の生活
水曜日も、学生一人一人と研究の討議をするのが午前中の日課である。
三人目の朱Tongとは机の上のPCを囲んで話をしていると突然ドアを開けて女性が入ってきた。見ると、64期の卒業生の先さんではないか。見た途端に彼女だと分かった。
「先生、お久しぶりです。」となめらかな日本語が先さんの口から出て、手をさしのべる。握手をして話が弾みそうになるのをこらえて、今学生と話しているからこれが終わってからね、あとでね、ということになった。
彼女は日本語を野呂先生に習った。私たちがここに来て研究室の最初の修士1年生になった65期の学生は皆が野呂先生の学生だった。
私たちが2003年にここに来てその1年間は、野呂先生もここで最後の日本語教師を務めていた。そして2004年アフリカの貧しい子供たちを相手に仕事をしようとしてケニアに赴き病を得て11月末なくなった。
だから私たちを結びつけているのは野呂先生である。敬愛する野呂先生が亡くなって、もう5年近い。
64期の先さんがしんせんで就職して、ここを去って4年。こうやって訪ねてきてくれて、涙のでるほど嬉しかった。
うちの研究室の学生の暁艶は、先さんの仕事を手伝ったりして昔から良く知っているという。夕方は、暁艶と私の二人は先さんのおごりで又一順でご馳走になった。
カテゴリ:研究室風景
上海の薛蓮さんから今度の日曜日に瀋陽に私を訪ねてくるという連絡があった。
彼女が東京から上海に行って2年経ったが、その間会っていない。わざわざ来てくれるとは申し訳ないと思う一方、とても嬉しい。今から、会えることを楽しみにしている。
生化学の講義は7回目となり、今日は脂質代謝。私は脂質の生化学も好きで、ここを話すのは何時も楽しんでいる。
今日は最高温度15度まで上がった。まるで先週末の寒波が嘘みたい。
カテゴリ:研究室風景
あさ会ったときに、修士1年生の朱Tongさんに、Neu2とNeu3のds siRNAが作ってあるから、時間があったら細胞に与えてNeu2とNeu3の発現を抑える実験をするようにと話した。
しばらくして彼女が来て何処にあるのですか?という。私が彼女に言ったのは私の手元にあるds siRNAを設計した一覧表を見ていて、あれ、作ってあるのに使っていないな、と思ったからだ。
ds siRNAを発注して出来てくると、これは別のノートにそれを収納した場所も書き込んで分かるようになっている。ノートを見るとそこには書き込まれていない。
おかしいな、注文をしたはずなのに。
私が設計すると、そのあと注文するのは担当する学生の役目である。4月のE-mailを調べてみると、確かに頼んである。しかし、よくよくメイルを見ると、宛先が間違っていて、担当の学生ではなく妻になっていた。
それで改めて頼み直したのだが、先日は、既に注文したprimerを再度合成するように頼んだりしている。
もちろん合成する会社に実際の注文をしている学生の黄澄澄さんが気付いて、これ先生同じものですよ、必要なのですかと注意していくれたので、無駄をしないで助かった。
このようなうっかりミスが増えてきたみたいだ。自分はこのような間違いが全然ない人だったと思うが、寄る年波に勝てず、ということだろう。
こういうことを気にするとうつ人間になってしまいそうだから、気にししないでおおらかに生きていこう。はた迷惑かも知れないけれど。。。
カテゴリ:研究室風景
土曜日の午前中は研究室のセミナーの日。今日の講義の講師は暁艶で、「Glycoproteins and Proteoglycans」がトピックだった。さらさらさらとPPTを20枚たらず使って40分経ったところで、「これでおしまい」。
そりゃないでしょう。
タンパク質の半数ぐらいが糖タンパク質なのだ。糖鎖が付くことによって、タンパク質はどのような新しい機能を獲得するか。付かなかったらどうなるのか。糖鎖の付き方がどのようにコントロールされるか。それが失敗するとどのような症状の病気になるか。糖鎖の意味を理解した上で、そのような糖鎖工学が打ち立てられるかを考えられるような講義をして欲しい。
もちろんこのトピックが私の専門の一つなので、何を話されても不満に思うだろう。それにしてもお粗末な内容だった。こんな話をするのでよいと思っているようでは、博士の学生として大丈夫だろうかと疑いたくなってしまう。
終わったあと、魏くんが日本の某大学大学院に志願したいということで相談に来た。この大学院ではGREの英語の成績が重視されるが、彼の成績は余り良くなかった。
GREはアメリカの大学院が、学生が学部できちんと学んだかを知るための試験である。外国で勉強した外国人のできがよいわけがない。だいたい某大学の先生たちだってGREで良い成績がとれるわけではない。
それなのにGREを重視するのは、米国の優れた学生が来るのを求めているというポーズにしか過ぎないと思われる。ナンセンスである。
しかし、日本以外の各国から申し込みをする学生をどういう基準で選ぶかというと、受験者を日本で一堂に集めて入試をするわけにもいかないから、GREなどの資格試験しかないというのも事実である。
カテゴリ:瀋陽の生活
薛蓮さんが瀋陽着9時40分の飛行機で訪ねてきた。北京に出張の用事があり、その途中に回り道をして寄ってくれたのだった。
彼女は65期の卒業生で日本の大学院に留学を決めていたのに先方の教授が心変わりをして突然音信不通になった。その留学の世話をした貴志先生から頼まれて私が日本の名古屋大学大学院に行く面倒を見たのだった。
それで日本に行く前の数ヶ月は、出来たばかりの私たちの研究室に来ていたし、大学院の入試を受けるというので私が生化学と分子生物学のポイントを教えたりしたから、私の教え子と言って良い。日本でも機会のあるごとに会っていた上に、名古屋大学の修士を出たあとの日本での就職も私たちが世話をしたから、私たちの娘みたいに付き合って来た。
昨年4月に化学会社に就職して上海勤務である。仕事の内容は良くわからないが、たとえば日本で化学材料や薬の中間体が必要ようなときに、その物質を中国の会社の製品として買うか、造らせる役をやっているらしい。化学の、特に化学合成の、しかも工場規模の製造の知識の必要な仕事で、聞いてるだけで大変そうである。
昼はちょうど黄澄澄、と朱Tongがいたので一緒に唐宣閣まで食事に出かけた。薛蓮がご馳走すると言って頑張ったけれど、うちの学生込みなので私も頑張った。実を言うと日本にいた頃始終彼女がご馳走してくれたのだ。今度は私の番である。
6時頃かと思っていたら、北京に行く前に石家荘に寄るという列車が4時22分発だった。それであっという間に時間が来て彼女に別れを告げた。来年の上海Expoで会おうねと言うことにして。訪ねてきてくれてとても嬉しかった。それなのに別れたあと涙が出てきた。
カテゴリ:研究室風景
曹Tingから論文の催促が来ている。夏以来、ともかく自分で書いてみるようにと言い続けて、やっと彼女が草稿を書いて送ってきたのが10月半ばだった。そのころ日本から片桐さんが来て一週間、妻が来て12日間、今やっと自分の時間が取れると思ったら、曹Tingから矢の催促だ。
彼女が最初に書いた論文草稿を読んでみると、論文の最初のイントロは実に立派である。どう見ても自分で書いたと思えない。何処かの論文をそっくり持ってきたみたいだ。これを発表するときは曹Tingの論文だが、私の論文でもある。発表する論文に他人の文章をそのまま使うなんて恥である。
それで、彼女にここはどうしたのかと聞いてみた。
すると、曹Tingは、沢山論文を読んで修士論文を書いて、それを元にしてこれを作成した。そのとき、読んだ論文をコピーをしたかも知れないが、どこから持ってきたかは覚えていないという。コピーしたかどうかはPubMedで同じ文章を探したらいいじゃないか、ともかくこれで厭なら、書き直せ、ときたもんだ。
いいじゃないか、書き直してやろうじゃないか。
それにしても、呆れた学生である。先生に対する言葉遣いを知らないにもほどがある。
英語だから良いってもんじゃないんだよ。
瀋陽は寒冷地にある都市なので、冬期の暖房は地域暖房である。毎月11月1日から建物の中は温水が通って、室温を20度に保ち、これが春の3月いっぱい続く。
厳寒期に建物を保温するから外壁は厚い。私たちのいる新実験棟の外壁の厚さは50-60 cmある。東京あたりの10-20 cmとは大違いだ。
瀋陽では暖房の入る前の10月の終わりが一番つらい時期である。10月初めの気温の20度がぐんぐん下がって、10度、5度、時には零度にもなる。しかし厚い外壁のおかげで、この時期は暖房がなくても室温は下がってせいぜい18度くらいである。
そういうわけで、瀋陽の暮らしには日本にいるときに比べて不便なところもあるけれど、不便は慣れてしまえばどうと言うことはない。それよりも冬の室内の暖か さは快適そのものである。日本でも札幌なら良いかもしれないが、東京あたりの冬と比べると、瀋陽の方が遙かに住みやすい。
今の瀋陽は見渡す限り高い建物が沢山あるし、建築ラッシュも凄い。研究室の窓から東を見るだけで、クレーンをたちまち10基以上数えることが出来る。
ところで、私のお気に入りの散歩コースは、大学の正門付近から歩道橋(中国では天橋という)を渡って北にある国立金属研究所を通り抜けたところにある運河の 周辺公園と緑道である。このあたりは瀋陽一の陸軍病院があるし、二中と呼ばれる瀋陽最高の公立高校があるし、瀋陽の中心からわずか数キロだし、公園も豊か に整備されていて高層住宅マンションが立ち並んでいる。
このあたりの高層住宅マンションは床面積1平方メートルが2万元近いらしい。日本円で40万円だから日本と比べて余り違わない。それでも売れに売れているのだから今の中国の庶民の実力はたいしたものである。
金属研究所の敷地に接して直ぐのところに、この手のマンションがありこれは数年前に建てられたものなので10-20階くらいしかないが、しゃれた作りになっている。
そこを通っているとき、屋上から人が壁につり下がって作業をしているのが見えた。ちょうどその下を通り抜けるところだったから、「上で作業をしているから立ち入り禁止」くらいの標識は作れよな、と思って上を眺めた。
立ち止まって眺めていると彼らは大きな白いパネルを壁に貼ろうとしている。大きいパネルなのに太い綱にくくられた作業員は軽々と作業をしている。このパネルを壁に貼っている。
翌日見ると、白い板の上に塗料が掛かって、既存の壁と同じ色になっていた。
結局理解したのは、しゃれた建物に住んでは見たが、経費節減か、手抜きかは知らないが、建物の壁が薄くて寒い。それで建物の外側に(厚さ4-5 cmの)発泡スチロールの板をおそらく自前で人を雇って貼り付け、これに金属ではなく合成樹脂の粗い網をかぶせてからセメント混じりの塗料を上から塗るのだ。
建物の壁を一斉にやるところもあるが、必要なフラットが自分のところの壁だけこうやって貼り付けるようだ。
なるほど、なるほど。中国ならではの現実的、実質的なやり方である。そしていってみれば、この頃日本でもはやりの外断熱である。
でも、いくら何でも日本ではこのようなことは思いつくまい。建物の外に発泡スチロールを張って、その上は薄いセメントを塗っただけでは、建築基準法を通るまい。
発泡スチロールは可燃物である。こんな工法をするとコンクリート造りの高層ビルが真っ黒なすすを上げる炎で包まれることになる。
このような工法を考え出す人たちの思考は柔軟だが、深い思慮がない。日本人とは文化が違うのである。
コメント:
tcyamagataさん こんばんは
随分とご無沙汰しています
お元気そうですね
発泡スチロールで覆ってしまうなんて とっても面白いですね
ロープ1本で作業をしていますね
このあいだTVで 中国の高層ビルの窓ガラス拭きをレポートしていました
日本ではゴンドラを使いますが 中国ではロープ一本で恐ろしく高いところでも作業をしているのを見てびっくりしました
投稿: TOSSY | 2009年12月16日 (水) 00時17分
カテゴリ:瀋陽の生活
今日、火曜日の天気予報。瀋陽は零度以下の世界に入ったと言っていい。
ところにより晴れ 0° | -7°
水 曇り 1° | -6°
木 雪の可能性 0° | -3°
金 雪の可能性 1° | -11°
今朝からはマフラーを首に巻いてきた。膝には膝当てを付けている(ゆるい膝のサポーターで膝頭側に毛皮が入っている)。風が強くて正解。埃とゴミも一緒に飛んでくるから、マスクも必要だ。何時もだと眼鏡が息で曇るが、それを浮き飛ばす勢いで風が吹く。
今日は院生と研究の相談する一方で、曹の論文を少しづつ手直し。
4時からは教師の会の幹事会をここで開く。この寒空に外出しないですむ私は、幸せである。ほかの4人の先生たちは大いに気の毒だ。申し訳ない気持ちを表そうと、冷たいミカンを沢山買って待ち受けた。
4時少し前に土屋さんが最初に部屋に入ってきた。彼を取り巻いて冷気がどっと押し寄せて、たちまち私は凍えた。続いて入ってきた3人もあまりの寒さに呆然という感じ。校門で来客を出迎えた多田先生。ありがとうございました。
図書の登録についての打ち合わせ、その他。6時半にひとまず終えて、又一順荘に行って食事。一人35元。
日本人会会長と事務局長に会う日は、11月17日火曜日にした。
11月10日は午後4時から教師の会の幹事が集まった。多田、土屋、高澤、瀬井、山形の5人。
一番大きな議題は、市図書館に寄贈した図書目録をPCで作成する方法である。
土屋先生と高澤先生がいろいろと調べて、しかも、市図書館に何度も足を運んで、教師側の目録作成作業が図書館で出来るよう、いろいろと手順、方法を考えたのだ。
本にはISBNコードが付いている。これを利用すれば、書籍名、著者、発行所、年月日など市図書館が要求する項目のほとんどが入れられるはずである。
高澤先生はネットでいろいろと調べて「私本管理」フリーソフトを手に入れた。
このソフトは、ISBN番号を手入力すると、ネットの上でAmazonとつながり(Amazonが持っているデータなら)だいたい必要なデータが手に入る。
これをExcelに移して、その上で並べ替え、さらに手入力の必要な項目を入れると、市図書館が要求する図書目録が出来上がる。
バーコードスキャナーでISBN番号番号を読み取るとたちまち上記のデータがPC上に並ぶようなソフトが欲しいと思ったが、それにはお金が要るみたいで、教師の会の手に余る。
市の図書館で持ち込んだPCからネットにアクセスするためにはLANがなくてはならないが、それは近いうちに市側が図書室に工事をするという。
それがそろえば、PCを持参して市図書館の図書室で、本を見ながらを一つ一つPCに入力をしていけばいい。どのくらい掛かるか知らないが、本は6千冊足らずだから、何時かは出来上がる。
そこで疑問がある。
本の目録(資料)ができあがってそれがPCに入ったとき、本にはどのようにして印を付けておいたらいいのだろうか。本には同時に何か書き込まないと(ラベルを貼る)、一対一の対応が付かない。
しかし、土屋先生によると、図書館側は、いいぇ、そこまでで良いんです、そこまで出来ていればあとはこちらがやりますよ、ということなのだそうだ。
私たちは大いに心配しているが、どうして没問題なのか、全く理解できない。
ともかく、4時からの集まりを私の研究室で開いたので、マイナス5度の寒空に外出しないですむ私は楽をした。ほかの4人の先生たちは大いに気の毒だ。申し訳ない気持ちを表そうと、冷たいミカンを沢山買って待ち受けた。
4時少し前に土屋さんが最初に部屋に入ってきた。彼を取り巻いて冷気がどっと押し寄せて、たちまち私は凍えた。続いて入ってきた3人もあまりの寒さに呆然という感じ。校門で来客を出迎えた多田先生も、遠くから来られた先生も、ありがとうございました。
図書の登録についての打ち合わせ、その他を6時半にひとまず終えて、近くの又一順荘に行ってあたたかな食事を楽しんだ。一人35元。
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3e3d.html
カテゴリ:研究室風景
私たちは、がんの抑制タンパク質と言われるCav1とStim1の二つの分子が、GD1aによって正に制御されていることを2006年に見つけている。
王月さんは、最近Cav1制御の機構の研究に取りかかった。黄澄澄さんはStim1の制御機構の研究を始めている。
王月さんはいま、cAMP/Epac1経路がCav1を制御しているのではないかという仮説で研究を進めている。黄澄澄さんはCalcium channelsがStim1の制御をしているかも知れないと思っている。この経路はCav1の制御に関係しているらしい。
この二人は独立にそれぞれのtargetを決めて研究をするが、たとえば王月さんはcAMP/Epac1経路を抑えて、その結果として発現が増えるか減るかをCav1で見るだけでなく、Stim1の変化も調べたらよい。
黄澄澄さんはCalcium channelsを抑制したときに、Stim1がどう変わるか見るだけでなくCav1の変化も調べると良い。
二人が独立に研究を進めながら、このように助け合えば、研究効率は二倍になる。いってみれば、同じエネルギーで論文が二つできるわけだ。
この二人は修士2年になったばかりの同学年で、しかも仲がよい。きっと上手く協調してやっていけるだろう。
コメント:
O(∩_∩)O~ butazhuzhu さん
Do you know a famous chinese 成語:事半功倍?
(2009.11.11 19:33:31)
butazhuzhuさん shanda さん
>Do you know a famous chinese 成語:事半功倍?
楽をして功績を倍にしよう? なるほど、なるほど。
思い当たることが沢山ありますよ。私も早く中国人になりたい!!!
(2009.11.12 08:18:15)
カテゴリ:研究室風景
朝研究室で論文を読んでいたら、四宮老師が二人のうちの院生を連れて賑やかに入ってきた。「写真を撮って下さいな」「???」
「国際交流処の徐寧さんが、学生と一緒にいるところの写真が欲しいというのですよ。先生と一緒のはあるけれど、それでは駄目だって言うんです」と言ってカメラを渡してくれる。
「一つ押すと三連射できるから、どれかで良いのが写りますよ」とのこと。
会議用の机の上を片付けて、教科書を二つ出してそれを三人で囲んでのぞき込むポーズ。「じゃ、それで行きましょう」と、こっちはかしゃ、かしゃ、かしゃ。
「それじゃ真面目すぎる」とか、「こっちを向いて」なんて言って撮っていると、四宮老師が、「あれ、この教科書逆さじゃない」というので、まるでこういうときにありがちな、嘘みたいな本当。
大笑いに包まれながら、また、かしゃ、かしゃ、かしゃ。
カテゴリ:瀋陽の生活
昨12日の3時半の講義に自分の研究室を出て講義室まで300メートルくらい歩いているときにはまだ降っていなかった。講義が終わって5時半に建物の外に出ると、もう外は5センチくらい雪がつもっていて、まだ盛んに降ってくる。
空気は余り冷たくない。朝よりも暖かいと言って良い。と言っても零度以下なのだろう。
これで7回目を迎える瀋陽の冬だが、10月半ばに初雪のあったのが確か二回あった。11月半ばの降雪なら当たり前と言っていいだろう。
うちのアパートの窓から覗くと、下に五愛街という片道4車線の大通りが見える。夜中に覗くと、大通りが白くなくて濡れていたから融雪剤をまいたのだろう。それでも朝になると車道も雪に覆われていて、朝の6時前というのに除雪車が走っていた。
歩道も雪かきをする人がでていた。瀋陽でも、だんだん雪が降ったあとの整備が手回し良く進むようになった気がする。
教授室から見下ろせる今日の校庭では、学生たちが雪合戦などにはしゃいで興じていて、その歓声が5階の窓まで一日中賑やかに届いていた。
明日の土曜日には劉凱さんのお店を教師の会の定例会に使わせて貰うことになっているが、店が泥だらけになってしまうだろう。会の始まる前に私たち幹事が早めに行くことになっているので、劉凱さんには新聞紙を用意しておいて貰って床に新聞紙を敷くようにしよう。
教師の会のホームページは現在中国からアクセス不能です。
教師の会のHPは、以下の二つです。
http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/ (2009年7月はじめまでアクセスできた)
http://sites.google.com/site/kyosikai09/ (2009年10月はじめまでアクセスできた)
教師の会だけではなく、瀋陽日本人会(fc2)、日本人補習学校(geocities)のHPも中国からはアクセスできません。
Youtubeが中国ではアクセスできないことはよく知られています。閲覧も、投稿も禁止されています。
世界的な共有Webである、Twitterも、FaceBookも今は中国からアクセスできません。つまり書き込みも、閲覧も出来ません。
Google site(GoogleがHP作成ソフトを提供して誰でもHPが出来るようにしたもの)は10月初めまで中国でも使用可能でした。教師の会の第二のHPはこれで作り始めたのです。しかし、今は全くアクセスできません。つまり当局はGoogle siteを利用して個人が情報を発信することを禁じました。
私はアパートでケーブルテレビと契約しています。この3月突然外国の放送、つまりHBOやCinemaxの外国映画の放送、FashionTV、BBC、National Geogpraphicなどがすべてここではみられなくなりました。10月の再契約の時に、相変わらず見られないことを確認しました。つまり、外国の映像は国営テレビのニュースを通じてしか見られません。
以上のことから、中国当局は自国の人々が外に向けて発信すること、情報を受信することの両者を、強い意志を持って阻止する気でいると思われます。
教師の会の活動を狙って、HPを阻害しているとは思えません。ここを間違わないようにして下さい。不安におびえる必要は全くありません。
しかし私たちが余計な情報を持ち込もうとしたり、好ましくない情報を発信したりすることを始めると問題になると思います。私たちはこの国に滞在しているお客です。いろいろな意味で自重して欲しいと思います。
以下のURLはHP以外のサイトで、アクセス可能です。どうか訪ねてみてください。
誰でも書き込み可能:
レス付き教師会掲示板:http://geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=kyosikai2004
瀋陽お店紹介:http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=akotan552006
資料室の掲示板:http://2nd.geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=kyosikai2007
以下のURLでは係が書き込んでいます(limited):
教師の会日記(HP係):http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/
活動の記録ブログ (書記係):http://blog.livedoor.jp/kyoshikai_shenyang/
瀋陽日本の文化祭ブログ(文化祭係):http://blog.livedoor.jp/kyosikai2009/
研修・レク係ブログ(研修・レク係):http://blog.goo.ne.jp/kyosikai2009/
弁論大会係ブログ(弁論大会係):http://blogs.yahoo.co.jp/kyosikai2007
以上
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-caea.html
カテゴリ:研究室風景
ジャーナルクラブの前半は特別講義の時間で、今朝のスピーカーは張嵐。タイトルは「Growth factors and receptors」だった。
結局こういうときに何時もいらいらさせられるのは、聴衆に対する語りかけではなく、書いてあるものを読むことに終始することである。
PPTに字で書いたものが映っている。これをその通り、そのまま読み上げる。
もちろん資料としてあとで使えるものだから、きちんと書いてあるものを見せるのも必要だが、ここでは、人に話して聞かせて理解させると言う努力を払う学生をほとんど見たことがない。
これはつまり、大学の講義のスタイルによるのだろう。講義は、教科書を使い、教科書に書いてある通りを先生が読みあげる。学生はひたすらそれを追って、理解するのではなく、端から覚えることに全エネルギーを使う。
英語がかなり使えるようになった学生には、それを読むな、皆に話しかけなさい、と言い続けているが、このように出来る学生はほとんどいない。
私はいつも範を示しているつもりである。だからこそ、セミナーは学生がやるものであって教授のすることではないと言う意見にも抗して、私はセミナーのスピーカーに今でも名を連ねているのだ。
それでも、皆はなかなか真似しない。あるいは真似しようとしない。皆に話しかける講義・講演なんて彼らの理解の範囲にないのだろう。読み上げればいいと思っているのだろう。
だから、刺激が来て受容体に結合するから刺激が細胞に伝わると書いてあって、それを目の前で誰かがそのまま読み上げてくれれば、その通りを頭の中にしまい込んでも、それでは刺激が入りっぱなしでは困るじゃないか、その刺激をどうやって減衰させるのか、という疑問がわかないのだ。
いくら無駄でも、皆に「セミナーでは、書いてあるものを見せて読み上げるな、あるいは書いてある原稿を読むな。自分の言葉にして語りかけなさい。しゃべりなさい」と言い続けよう。
カテゴリ:日本人教師の会
昨14日の土曜日の午後は教師の会の定例会だった。初めて劉凱さんのお店を使わせて貰って開いた会である。街の中心にあると言っていい便利な場所なので、会員が集まるのは楽になったはずだ。
私たちは1時過ぎに着いて、机を並べたり床に新聞を敷いたりしようと思ったのだが、既に机は並べてあって、20人くらいの会議は出来るようになっていた。
きれいな床も劉凱さんはどうせお店は汚れるのだから良いですよ、と言うことだった。そのまま使わせて頂くことにした。
2時から始まった会議には、多田、瀬井、高澤、土屋、山形、小池、渡辺、梅木、巽、松下、石脇、有川、春日、石田、杉島、それに新しく参加の任絵美さん(東北育才外国語学校)。16人。
はじめは、会議の場所が狭い、寒い、などと言う声も出たが、店は入り口のシャッターを閉めて営業中止。会議のために座っている会員同士の間隔が近くて、より親密な気持ちで話をすることが出来たのではないだろうか。全員から、もし可能ならこの次もお願いしたいという声が出ていた。
会議の最後に劉凱さんとそのご家族の紹介。
5時の会議が終わって、劉凱さんも一緒に出かけたのはこれも劉凱さんに教わった原味齊という北京ダックの店。人数に比べて狭い部屋だったが、それだけにこの時も人と人の間隔が近く、親密な雰囲気で食事会が出来た。会員も劉凱さんの真摯な人柄に触れて、彼女のことをすんなりと友人として受け入れたように思う。
8時散会。一人40元。
カテゴリ:生命科学
今日は生化学の講義の9回目である。2時間の講義だが途中に10分近い休憩を入れる。
脂質の中の細胞膜のリン脂質と糖脂質の話を1時間の駆け足で終えたが、最後のところはインフルエンザウイルスが細胞に感染するときに糖脂質の末端のシアル酸を足がかりにすることを述べた。
この時のウイルス側の手がH1N1で言うとHemagglutininのHなのだ。こうやってHemagglutininを使って細胞に結合してウイルスは遺伝子を細胞に注入する。すると細胞の中で子供のウイルスが沢山作られる。子供のウィルスが成熟して細胞から外に出るとき、細胞膜の延長であるvesicleに包まれているが、細胞膜の糖鎖の末端のシアル酸に同じようにHemagglutininでくっついている。
この結合を切るためにNで表されているNeuraminidase(シアル酸を切る酵素)が役に立つ。ね。これでH1N1の意味が分かったでしょう?
タミフルはこのNeuraminidaseにしっかりくっついて、酵素が働けなくなる薬ですよ。つまり新しく増えたウイルス粒子が外に出られないから、体内のそれ以上の感染が抑えられてひどい症状にならずに済む。
タミフルはBBBのおかげで脳には入らないことになっているけれど、もしも脳の中に入ルことがあると(患者の体調や症状で可能性はある)、脳の中のシアル酸を持つ物質とシアル酸を認識するシグレックの反応を阻害してしまうから、怖い副作用がでることがあるのだよ、と見てきたような話をすると、全員一生懸命聞いている。
でも、休憩の時にそろってやってきた3人組は、「先生の試験はどんな問題が出るんですか」と訊きにやってきたのだ。こちらはちょっといたずら心を出して、「こんな問題を出して欲しいというのを貴方たちが作ってきたら、似たような問題を出しても良いね」なんて返事をしたが、さてどうなるだろう。
コメント:
Re:タミフルの副作用?(11/16) Xue さん
先生、質問したいですが、
タミフルは細胞に取り込まれず、血液中でNと結合し、Nを働けなくするんでしょうね?
(2009.11.18 00:28:23)
私たちの研究室のセミナーはジャーナルクラブと名付けている。私が学生として入ったときの東大の江上研究室でやっていたし、就職した名古屋大学の鈴木研究室でもやっていたから、研究室のセミナーの一つの形はこういうものだと思って、疑ったことがない。
ジャーナルクラブでは、スピーカーとなった人がしかるべき一流のジャーナルに載った最新の論文を読んできて、仲間に紹介する。今の国際語は英語だから、英語で書かれた興味深い論文を読んできて、それを日本語で紹介する。
アメリカのシカゴ大学に留学していたときも、Rodenの研究室だけでなくグリコサミノグリカンを研究している研究室全部が集まって一緒にジャーナルクラブをやっていた。この時は英語の論文を英語で紹介するわけだ。
私が自分の研究室を持ったのは1982年だったが、それ以来同じようにジャーナルクラブをやってきた。フィンランドのRasilo博士が参加してからはそれが英語になった。東工大でも、ポーランドからKasiaが参加して以来、ジャーナルクラブで使う言葉は英語になった。中国でははじめから英語である。
私もジャーナルクラブでは学生同様にスピーカーの一員として順番で参加している。研究室によっては、ジャーナルクラブは学生教育一つだから教授は参加しないと言うところもある。昨年5月から私たちの研究室に来た二宮教授は、自分は教授だから参加しないと言った。この秋からはジャーナルクラブそのものにも参加しなくなった。
しかし、ジャーナルクラブで私が話して率先して模範を示さなくては誰がするのかと思う。さらに生命科学の分野で、新しいブレークスルーがあったり、新しい分野に焦点が当たったりしたら、それを学生に話して聴かせるのは私しかいないという自負もある。
私たちも、中国人も、英語国民ではない。英語を使わせると、私の経験している限り、大学生、院生レベルのどちらでも中国人の方が英語能力は高い。
とは言っても、ジャーナルクラブでは他人の研究の話をするわけだから、自由自在に英語を操って、聴いている人に説明をすることは難しいのだろう。どうしても、プロジェクターに論文のintroduction部分を映し出して、スピーカーはそれを棒読みしてしまいがちである。
聴いている方にしてみると、初めて聴く話を、文章に書いてあるとおりの文章を、そのままのスピードで読み上げられたら、言っていることにとてもつ いて行けない。
耳にしたことのない名前の分子が登場して、なじみのない現象を実験で証明していくという、全く聴いたことも読んだこともない新しい話の背景 を論文のintroductionとして、書かれた文章を一通り読み上げられたって、分かるものではない。
私たちに分からなければ、経験が少ない学生に分かる道理はない。それなのに、聴いている学生は、ああでもなく、すうでもなく、ただ黙って、じっとしている。
妻がセミナーに出ていると、必ずここで彼女は質問をして、間を作る。「良く分からなかったけれど、これって何?」と新しい名前の分子について訊く。「ふーーーん、そうするとこの分子はこの現象では、どう言うことが分かっているの?」と質問を重ねる。
わたしは、スピーカーがintroductionを読み上げ終わると、「そうすると、いったい何が言いたいわけ?」とスピーカーに訊いたりする。
二人とも訊く目的は、スピーカーにこの研究の詳しい内容に入る前に、自分自身が研究の背景を十分理解したいためだし、聴いている学生にも、そこを十分に分かってから先に進んで欲しいからである。
私自身今でもジャーナルクラブでは、学生と同じようにスピーカーを順番で勉めている。研究室によっては、セミナーは学生の勉強と言うことにして教授は参加し ない。昨年から私たちの研究室に来た二宮教授は自分は教授だからと言ってスピーカーになることを拒否した。この秋からは、ジャーナルクラブそのものに出て こなくなった。
しかし、特にここでは私が率先して範を示さなくては、いったい誰が示せるかと思う。さらに生命科学の世界で、新しい考えが出てきたり、衝撃的な発見があったり、学生が新しい知見として知らなくてはいけない分野があったり、そういうことを紹介するためにも私の存在は必要だと思って、私は今でもスピーカーとして参加している。
私が話すときは、資料として論文のintroductionも見せるけれど(パワーポイントの原稿はコピーして参加している人たちに配布する決まりである)、決してそれを読みあげない。研究をした人に成り代わって、研究の背景目的を説き起こし、解説する。つまり、文章を読まずに、聴いている人に語りかける。
ここに集まる人たちは時間を共有している。もしジャーナルクラブのトピックスが理解されずに終わるなら、それはその人にとって時間の無駄使いになる。人に理 解されない講演をしたら、集まった人の数を掛けただけの時間が壮大に無駄になる。集まった人には、話を理解して貰わなくては意味がないのだ。
だから私は聴衆には語りかける。書いてある文章を読み上げても、人は退屈するだけで、理解しない。何の感動も呼ばない。
読み上げるだけの話ではほとんど理解されないと言うことは、終わった後で質問が出るかどうかで分かる。質問が出ると言うことは話が理解されたと言うことだ。活発な質問が出ることは、話した人にとっては勲章だし、聴いた人も理解できた証拠になる。
セミナーを有効な時間にするために、私たちは聴いている人に、質問をしなさいと言い続けてきた。質問することは、あなたがそこに存在した証拠ですよ。真剣に人の話を聴くことは、あなたの将来の成功の元ですよ、そうすると必ず質問が出るはずです。
スピーカーには、聴いている一人一人に話すつもりで話しなさい。そうすると一人一人の心に話が染み込んで分かってもらえるから、と言ってきた。
そしてとうとう、今度は、「DO not READ, but SPEAK to us」と書いたメイルを出して、皆にスピーカーとしての態度を改善するよう要請した。
妻は、研究のintroductionでは著者の書いた文章を出さないで、代わりにイラストを描いてそれを使って説明することで言いたいことを伝えることが出来るのじゃない?と提案してくれた。
聴いている人すべての人が理解できて、集まる時間が無駄にならないようにするための努力はまだまだ続く。
カテゴリ:薬科大学
先週の金曜日のこと、国際交流処の徐寧さんから電話で、先生が日本と中国を往復した航空券の半券とその領収書を出して欲しいという。
理由を聞くと、先生が中国にちゃんと来ていることを証明するためだという。
昨年も同じことを言われて、そんな馬鹿な、ここにきちんと来ているかどうかを役所が知りたければパスポートを見れば一目で分かるじゃないか、航空券の半券がどうしているのですか?と反論したのだった。
そしたらそれきり言ってこなくなった。
そしてその後、となりの池島先生から、欲しいと言われたので、何度も日本との往復をしているから、言うとおり旅行の証拠を渡したと聞いた。
もし私がここにいる公的な証明が本当に要るなら、そのまま何もなしと言うことはないはずである。しかし、それきりだった。
今年も私は文句を言った。だって、どうしたって理由に納得が出来ない。
そして月曜日に、持ってこいと言った書類は用意したかという電話があった。私はまだ用意していないと言った。じゃ、明日火曜日に持ってこいと言うことだった。
だけど、もう電話は掛かってこない。念のため、となりの池島先生に訊いてみた。今年は国際交流処から全くこの手に連絡がないという。
となると、何処かの役所が私がここにいることを確認するために、日本から渡航したことを示す航空券の半券と領収書が要るから出せというのはいったい何だったのだろう。
コメント:
理由はない。強いて言えば、 ホノルル さん
中国共産党は吉本以上に面白い、ですがね。
(2009.11.18 23:25:09)
Re:また不思議なこと(11/17) shanda さん
ま、何でもありというか、ともかく驚きに充ち満ちていて楽しいところです。 (2009.11.20 11:28:39)
カテゴリ:日本人教師の会
教師の会の幹事がこの秋に変わったので、日本人会の幹事の人たちに会うことを思いついた。今まで高木さんが日本人会会長だったときに一度実行したことがあるが、そのまま2年経ってしまった。
日本人会の事務所があるわけではないので、こういうとき何処で、どの人たちに会うかが問題である。問題を難しくしたくないので、会う相手は会長と事務局長の二人だけにして、こちらが食事に招待することにした。
日本人会の人たちは日本の企業を代表する人たちだから、瀋陽でも日本並みの生活のレベルを保っている。食事をするところもそうである。
私たちが普段出入りするところでは、相手に失礼なので、選定には気を遣った。
この大学のそばに実は私のお気に入りの、とっておきのレストランがあるのだ。全部が個室で、室内も清潔で綺麗である。ウエイトレスがとても洗練されていて、しかも綺麗だし、さらに料理は上を言うときりがないが、まあほどほどのものがある。地衣類を使った料理は、ほかでは見たことがないし、しかもとても美味しい。お茶は80元から上の値段である。
ここを使うことにして、私たち教師の会の幹事が日本人会の二人を食事に招待したのが昨日のことである。
6時半から1時間半、食事をしながら歓談をして、両者のぎこちなさがこれでとれて、これからは意思疎通がしやすくなっただろうなと言うところで、お開きになった。
5人で100元ずつ払うことで間に合った。ほっ。
教師の会の人たちは、皆この店が気に入ってくれた。秘境でなくなったのは残念な気がするが、繁盛してくれればこの店も長く保つだろう。でも、あの鼻がしゃくれて可愛いウエイトレスを独り占めできなくて残念。。。
11月14日の土曜日の午後は教師の会の定例会だった。10月の薬科大学で開かれた定例会のとき次回は図書館で開催の心積もりだった。
しかし10月半ばに劉凱さんから彼女の店を教師の会の集まりに使って欲しいというメイルを戴いて24日に多田先生と山形が彼女を訪ね、今回初めて劉凱さんのお店で開いた会である。市政府の近くで瀋陽の中心にあると言っていいくらい便利な場所だ。
私たちは1時過ぎに着いて、机を並べたり床に新聞を敷いたりしようと思ったのだが、既に机は並べられていて20人くらいの会議は出来るようになっていた。
私たちは何しろ雪道を歩いてくるのでどうしても綺麗な床が汚れる。でも劉凱さんはどうせお店だから汚れるのですよ、そのままで良いのですよと言われてしまい、そのまま使わせて頂くことにした。
会員一人一人が劉凱さんに自己紹介をした。彼女の話も伺った。全員が劉凱さんの真摯な人柄に触れて、彼女のことをすんなりと友人として受け入れたように見受けられた。次回の12月12日土曜日の集まりも彼女の店を使わせて頂くことになった。8時散会。一人40元。
2時から始まった会議には、多田、瀬井、高澤、土屋、山形、小池、渡辺、梅木、巽、松下、石脇、有川、春日、石田、杉島、それに新しく参加の東北育才外国語学校の任絵美さんで、合計16人。休みは宇野、中野の二人。
はじめは、会議の場所が狭い、寒い、などと言う声も出たが、店は入り口のシャッターを閉めて営業中止で、店は私たちの会議のためだけに存在した。
狭いだけに、会議のために座っている会員同士の間隔がこんなに近かったことは未だかつてない。そのためにより親密な気持ちで話をすることが出来たのではないだろうか。全員から、もし劉凱さんの方でOKなら、この次もお願いしたいという声が出ていた。
会議の最後に劉凱さんとそのご家族(従兄弟だという)お二人の紹介。
5時の会議が終わって、劉凱さんも一緒に出かけたのはこれも劉凱さんに教わった原味齊という北京ダックの店(十一緯路店)。人数に比べて狭い部屋でテーブルは一つだったが、これを17人で囲んだ。それだけにこの時も人と人の間隔が近く、親密な雰囲気で食事会が出来た。
20091119 山形 達也
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/11-8167.html
カテゴリ:薬科大学
一週間前の11日の夜の9時頃、うちで私の携帯電話が鳴った。でると、中薬の学生で○○ですという。名前に心当たりはないが、中薬なら今生化学を教えている。
何でしょうかと言うと、「コルチゾンて何ですか?」という。藪から棒でこちらはびっくり。さらに「コルチコステロンの化学式は何ですか?教えて下さい」という。
自慢じゃないがそんな化学式なんて知るもんか。コルチゾンがステロイドホルモンとして軟膏に入っていて皮膚疾患に使うくらいは知っている。
コレステロールの代謝を教えているから、コルチコステロンがアンドステロン(鉱質コルチコイド)の前駆体だと言うことくらいは知っている。
でもこれの化学式なんてね、宙で知っていたら、それは歩くエンサイクロペディア、奇人変人のたぐいか、その軟膏を作っている会社の人だよ。
翌日研究室に来るように言って電話を切った。指定した時間に現れた彼女は顔見知りの学生だった。化学式をそらで知ってはいないが、調べることは出来る。研究室においてあるMerck Indexを調べたらたちまち答えは出てきた。
するとさらに、1-デヒドロ-17-ヒドロキシ-コルチコステロンを調べて、これが載っていないという。
だってさ、コルチコステロンの構造式がわかっているんだから、そのものも直ぐ分かるでしょ、と、こんなステロイドの構造を書いたこともなかったが、足し算と引き算で、直ぐに答えは出た。
ありがとうございますとにっこりして帰って行ったが、こちらは何となく釈然としない。
化合物の化学式を知りたいと言って、夜中に先生のうちに電話を掛けるなんて日本では考えられないことだからである。
そういえばこれも顔見知りの学生に、いくつかの何かの合成中間体、原料など、分からないからと言ってメイルで訊かれたことがある。調べても分からないからと言うことだったので、私の専門とは全く関係なかったけれど詳しく調べて教えてあげた。そしたらそれきり、ありがとうの一言もない。
ま、文化が違うのだ。こんなことで驚いていては、ここでは生きていけない。
コメント:
別の意味で、ネバーランドの国 ホノルル さん
大人が子供以上に子供の国だ。
自己中にもほどがある。13億人全員日本の幼稚園からやり直せば。 (2009.11.21 00:32:30)
カテゴリ:薬科大学
毎日が零度以下の世界が続く。いつからだったか正確には覚えていないが、2週間近く続いているはずだ。
1週間前には雪が降って、大学のグランドのトラックの内側に土塁を築いて冬のスケートリンクの用意が出来ているが、それを埋め尽くした。
それでも火曜日からは土塁の内側に水を播きだした。うろ覚えだが毎年12月に入ってから水を播いて氷を作って、スケートリンクの出来上がるのが1週間くらい先である。今年は、11月の半ばの今から始めていると言うことは、この先、零度以下の寒さが続くという見通しなのだろう。
こうやって毎年研究室の窓からスケートに興じる学生たちを見ているが、自分は参加したことがない。
大昔シカゴ大学にいたころ、道路の上下線の間の広い敷地にこれも同じように水を張ってスケートリンクが出来ていた。そこでスケートを覚えて毎冬楽しんだ。
その後日本に帰国してからも稲田登戸のスケートリンクに通ったが、あるとき頭を打って、しばらく前後不覚の症状が続いてからやきっぱり止めてしまった。
生きると言うことは何かを失った想い出に浸ることでもある。
カテゴリ:瀋陽の生活
午後久しぶりに時間が出来た。グロサリーもあるが、それだけではなく少し歩きたい。雪と氷と寒さで10日間ぐらい歩いていない。
それで暁艶と出かけて、まず大学の近くの過橋米線で腹ごしらえ。米線は大好きなのだがしばらく食べていなかった。いつ食べても美味しい。米あまりの日本で米粉を作って米うどん、あるいは米ラーメンと呼んでも良いが、中国で言う米線にであうと、きっと日本人に熱狂的に受け入れられるだろう。
その後、南の方に歩いて市図書館に行く。11月9日に前に借りた本を返し、新たに今東光の太平記を借りてくる。
図書館の本の借り出しのシステムが少し分かってきた。本の表紙には本の分類とその本特有の番号の書いたラベルが貼ってある。本にはもちろんPCに入った目録原簿があるはずだ。
この資料だけで本を貸すのではなく、貸すとき(私の借りた本が初めての貸し出しだった)バーコードを本の内表紙に貼り付けた。そしてそれをバーコードスキャナーで読み取ってPCに何か打ち込んでいる。
私はここで本を受け取った。これで、この本の実物と、本の目録が一致して貸し出し簿に記録された。
なるほど。貸したことのない本に何も図書館の番号を付ける必要はない。貸すときに、図書館固有の一連の番号を付ければいいわけだ。
冷たい空気を吸いながら今度は家楽福に歩く。家楽福は土曜の午後というので混んでいた。ここで火災が起きたら大勢のパニックの人混みで大事故になりそうだ。
週末は止めて、普通の日に時間を見つけてグロサリーに来ることにしよう。
カテゴリ:研究室風景
「セミナー(ジャーナルクラブ)では文章を読み上げるな。プロジェクターで映した文章を読み上げるな。そこから目を離して、こちらの聴衆の目を見ながら、自分の言葉を使って語りかけなさい。
そのためには、話しの内容をイラストにして示してそれを使いながら説明しなさい。」
と言うようなことを学生に要求してから、その初めてのセミナーが昨日あった。特別講義編では、黄澄澄さんがCalcium signalingの話をした。
Calcium signalingは、この数年でだいぶ新しい知見が加わった。
私たちの血液の中のCaイオンの濃度は1.6-2.0 mMの濃度であるが、細胞質の中は10-100 nMの濃度である。その差は1万倍以上もある。細胞は、特にEndoplasmic Reticulumの中にCaを蓄えておいて、外からの刺激に応じてこれを放出し、Ca濃度の上昇を、カルモジュリンタンパク質の活性化に変え、カルモジュリン依存性の酵素活性という形に変えて細胞内の情報を制御している。
最近がん関連遺伝子の一つであるStim1が、このEndoplasmic Reticulumの中のCa濃度のセンサーであることがわかり、Endoplasmic ReticulumのCa濃度が減ると、Stim1が細胞膜に近づいてOrai1に働きかけて外からCaを取り込むことが分かってきた。
これ以外のことも結構難しい話であることを考えると、黄澄澄は良くやったと思う。拍手ものである。
それにしても、私たちが既に分かっていることをすべて理解しているかというと、きっとそのごく一部しか知らないのだ。しかも、Calcium signalingの全貌がすべて分かっているわけではなく、まだまだ研究するべきことが沢山ある。ここの違いを明確にして理解しないと、目標がぼやけてしまう。
勉強することが、まだまだ沢山ある。ありすぎる、という感じである。
カテゴリ:研究室風景
11月9日の日記に「論文を書くこと」と題して、この夏卒業したCTから送られてきた論文原稿のことで苦情を書いた。
それにしても、12月にはイタリアに留学する予定なので出かける前に片付けないといけない。
それで、私もその論文書きに取りかかった。論文となると英語を直すだけではない。論旨が論理的記述で筋が通っていて、必要で最小の表現で間違いなく意味を伝える記述が大事だ。と言うわけで、10日くらい掛かって私の第一草稿が出来上がった。
その草稿を送って、必要なデータを埋めるよう指示を書き、図については第二回目の訂正指示を書き、彼女の意見を書いてくるように書いた。
すると、図の訂正と、原稿を投稿論文のフォーマットにソフトで自動変換したものを送ってきて、
「図と(あなたの)必要な論文のversionを送る」
と書いてあった。ありがとうの一言もないし、直した草稿に意見一つも書いていない。要求したデータは手を付けていない。
やれやれ。
こちらは「おまえは不注意な上に礼儀知らずの生意気な女だ」と書いておくった。
教師の会の来年の弁論大会担当のイベント係が、瀋陽日本人会の弁論大会係の人たちと初めての会合を1週間前に開いた。教師の会の弁論大会係は中の希望者がやっているのに対して、日本人会ではイベントを幹事会社に割り当てるので、日本人会からの実行委員は、やれと言うから出てきたと言う違いがある。
この会合に私は出ていないのであくまで伝聞に過ぎないが、日本人会の実行委員からはおやと思う反応があった。
教師の会側から、今までの弁論大会では受付、司会、カメラマンなど教師の会でやってきたが、今年は会員数が激減したことで手が回らないから日本人会の方で手 配して欲しいとお願いをした。ところが実行委員からは、大会の成功のために、今一度教師の会でも目的意識を明確にして取り組んで欲しい、教師の会で弁論大 会をやりたくなければ、考え直しても良いのだ、とまで言われたそうだ。
あれれ、あれま、という感じである。瀋陽日本語弁論大会は、だいたいが瀋陽日本人会がこの地区で日本語の普及のために始めたのだ。教師の会は実際に学校で学 生の指導にあたっている先生たちの組織なので、実行部隊として必要であり、日本人会の依頼を受けて動いてきたのだった。
それなのに、教師の会がやりたいから日本人会が助けてやっているんだぞみたいな言い方はおかしい。これはつまり日本人会でも、それこそ初期の目的意識が会員 から消えていて、ただ毎年何時ものようにやっています、その世話係になったけれど面倒なことだ、みたいなことになっているのだろう。
実際、商貿飯店と言う一流のホテルで開く日本語弁論大会にはのべ600人を超える聴衆が集まるが、日本人会からは、数年前高木会長の時に「せめて幹事は日曜日なんだし、せめて覗きに行きましょう」という運動の結果、数人が参加しているだけである。
日本人会こそ、大金をこの弁論大会のために使っていることだし、目的意識をはっきり持って欲しい。
それとは直接関係ないことだがちょうど同じ頃、教師の会の組織がこの秋から変わったので、新しい幹事を日本人会の幹部に紹介する儀式が必要になった。
このようなことは、数年前に会長が高木さんの時に教師の会会員を食事に全員招待して下さったことが初めてあって、その後、私たち教師の会の幹事が会長と事務局長を招待したのだった。
それも二年前のことで、それ以来私もそこには気が回らなかったが、今年はこの秋幹事の顔ぶれが変わったのを機会に、在瀋陽日本国総領事館に松本総領事を訪ねたし、今週の火曜日は日本人会の会長と事務局長を私たちが食事に招いたのだ。
もちろん顔合わせが大きな目的で、一緒に食事をして歓談するのが大事なのだ。まずは、ホームページをどうしたらいいだろうという情報交換から始まった。
教師の会は自分たちのホームページにアクセスできないことで困り抜いているが、日本人会も状況は同じなのである。調べてみると中国各地に日本人会(商工会)や教師の会があるが、無事に動いているのはサーバーを中国側においているもの、中国に日本から情報を伝えたい会社の代理を請け負っている日本のサーバー、あるいは日本政府のサーバーだけみたいである。
どうしたらいいのだろう。今までみたいに無料でなく有料になっても良いけれど、それがアクセス不能になったら全く意味はない。日本人会が良いサーバーを見つけたら教師の会も相乗りさせて欲しいものだ。
もう一つは、日本語文化祭と言う、今まで日本人会には関係のない催しがあるが、この後援に日本人会が乗り気になって欲しいというお願いである。
日本語文化祭は、元々は遼寧大学で始まった日本語を学ぶ学生たちの一年に一度の日本のお祭りだった。だんだん参加校が増えて教師の会もお手伝いをするようになり、一時は領事館も主催だったこともあった。
私はその頃の日本語文化祭に一度だけ参加したことがあるが、日本語を学ぶ学生たちのあふれるような喜びが歌、劇、踊りを通じて伝わってきて、見ているだけでもわくわくしたものだった。
弁 論大会では応援の学生も駆けつけるが、本質的には個人の勝負である。それに比べると文化祭は日本語を学ぶ学生たちのはじけるような喜びがそのまま聴衆に伝 わり、聴衆もそれに乗る感じで、日本語の普及にはこちらの効果の方が大きいのではないかと思えてくる。もちろんスポンサーが顔を出したってよい。
文化祭の運営に領事館が乗り気でなくなってからは、会の運営に必要な基金をどうするかという問題に直面した。昨年度は教師の会がぎりぎりの700元くらいを支援して会を開くことが出来たが、本当を言うとこの10倍欲しいところだ。
教師の会は瀋陽に進出している日本企業に日本語文化祭の意義を説いて支援をお願いしようかと考えた。ただし打診してみると、この不況で写真を減らしている記号が軒並みで、とても各企業が募金に応じられるような状況ではないだろうという。
そうなると日本人会が頼みである。日本語文化祭は日中友好親善、地域貢献事業での観点からみても、有用性だって大きいし、日本人会の事業にうってつけではないだろうか。
せっかくこうやって日本人会の幹部の方たちと顔を合わせたのだから、そのことも非公式にお願いした。正式には、幹事会でオブザーバーとして参加している教師の会の代表から申し入れることになる。
20091121山形 達也
http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-2846.html
カテゴリ:瀋陽の生活
昨日は教師の会の若い幹事二人と、北駅の近くにある方円ビルに事務所のある伊藤忠瀋陽事務所を訪ねた。
一つにはここの所長である高木純夫さんが日本人会の幹事なので、この二人を紹介するためだった。高木さんとは瀋陽に来て知り合って以来、尊敬する若い友人としてお付き合いが続いている。
商社マンだから人当たりの良いのは当然としても、博識な上に、私たちみたいな無骨な世間知らずでもちゃんと対等に付き合ってくれるのだ。
今回の個人的な用事は、長く借りていた「人間の条件」を返すことと、彼に貸していた春江一也の「ベルリンの秋」を受け取るためである。
春江一也の第一作「プラハの春」は当時のプラハ領事館に勤務した領事の視点で、1968年のチェコスロバキアで起きた自由化運動「プラハの春」が、ソ連軍に押しつぶされる過程を描いている。東ドイツ生まれのすてきな女性も出てくる恋愛小説でもある。この時代に生きたものとしては心の底から揺さぶられる本である(春江一也は私と同時代人で、本名・江口領事として世界各地で働き、フィリピンのダバオを最後の任地として引退し、作家生活を送っている)。
第二作の「ベルリンの秋」はフィクションと何処まで本当か分からないリアリティーあふれる話の展開が続く。
第一級のエンターテイメントであり、政治小説であり歴史小説、そして恋愛小説である。これだけを全部一つにつぎ込める作者は並みの人ではない、と言いたいが、このあとの「「ウイーンの冬」、「カリナン」は駄作の見本みたいなものである。読まない方がよい。
高木さんは「プラハの春」よりも、「ベルリンの秋」には東欧の国の動きがより細かく出てきて、しかももっと官能的描写があって、こちらの方が上だそうだ。
『目の前にシルビアが立っています!妖艶な姿態と愛くるしい笑顔。。。
(このマッタリとした余韻はまだ数ヶ月続きそうです)
東欧諸国の自由を勝ち取るまでのすさまじい戦い。ベルリンの壁が崩壊した
年とわが第二の祖国のロクヨンとが同じ年だったのですね。。
「ベルリンの秋」は前作「プラハの春」より歴史教科書としても大官能小説としても魂が奮い立たされる名著。。大地の子、ワイルドスワンにつぐ思い出深い
小説となりました。』
このような本を読んで熱い思いを語れる高木さんはとてもすてきである。
高木さんに会って私たち三人は公的な用事を済ませてタクシーを拾い、途中で陳丹さんを乗せて新南国美食に向かった。美味しい飲茶も久しぶりに味わいたいし、陳丹さんと教師の会の人たちとの交流も深まるようにしたいし、と言う私の考えである。
若い日本語教師二人がいたので、陳丹さんはいろいろと日本語で質問を浴びせていた。瀋陽に戻って二年間、日本語を使う機会がほとんどなくていらいらしたというのが良く分かった。
「東京で土地を買う」と、「東京に土地を買う」の微妙なニュアンスを、あなたは使い分けていますか?
「東京で土地を買う」というのは「買った土地が東京とは限らない」というトンチクイズみたいなことを意味していると教えるみたいだ。だけど、普通はそんな意味では使わない。
「東京で」というのは土地を買ったのは東京でだよ、と言う単なる叙述で、「東京に」というと、(あの土地の高い東京で)やっとのことで」土地を買ったよ、と言う密かな自慢が込められているのではないだろうか。
カテゴリ:日本人教師の会
午後、教師の会の幹事をしている私たちが瀋陽市人民政府外事局の人たちに招かれて、一緒に食事をした。インターコンチネンタルホテルの横のビルにあるレストラン街のなかの店だった。
幹事の一人の高澤先生が、来年度の日本語文化祭の開催に、瀋陽市の後援をお願いしたところ、それを快く引き受けてくれた上に、一緒に歓談しようと招かれたのだった。
市の人たちが4人来て、こちらは5人。5時半から8時半まで、初めて会ったのに、じっくりと落ち着いた、そして友好的な食事会だった。
終わって外に出ると吹雪。下は雪がないと思うとつるつるに凍り付いていて、とっても危険。多田さんと二人でタクシーは捕まらないし、いても行く先を聞いて乗車拒否だし、バスを待っていたら、もう終バスは7時半に出た後だと分かるし、さんざんだった。
とうとう見つけたタクシーに100元の札を振りかざそうかと思ったけれど、財布を捜しているうちに、薬大なら30元で行こうというので、交渉成立。
タクシーはさらに相乗り客を探してメーターを倒さずゆっくり流して、さらに二人の家楽福に行く客を見つけて、やっと走り出した。
大学からうちまでちょっとの道だが、道は相変わらず凍り付いていて雪を選んで踏みしめて歩いた。
楊方偉くんから便りがあった。彼は、2007年秋には北大大学院の修士課程に入った。今年の秋、奈良先端科学技術大学院大学に移った。ポスドクを十何人も抱える大きな研究室らしい。そこでまず半年は研究生をやるという。
楊方偉くんから便りを公開する許しを貰った
この大学の名前はちょっと長いですが、おしゃれな呼び方があり、西洋人によくNAIST「nei:s」日本人にナイストと呼ばれています。私はNAISTに来て、わずか2か月弱、ここの新たな研究雰囲気を体験しただけですが、すごく気に入っています。
NAISTには三つの研究科しか置かれないので、大学の敷地と学生の人数は旧帝大と比べて、全然少ないと思います。しかし、この大学の研究実力は日本の各 大学の中で上位に位置しています。充実した研究費は良い結果を上げることに直接に関係しますが、学校の効率的な管理及び学生に良い研究環境を作ってもらう ことも不可欠だと思います。NAISTは本当に学生と教員を大切して、よくやっています。
また、ここでは、日本の最初の全学共同利用分散コンピュータネットワークである「曼陀羅(Mandara)」が運用されています。いつでも、学校のどこで もインタネットを無料で使って、自分のファイルにアクセスできます。学生の専用部屋とパソコンを貸与してもらっています。図書館は24時間に利用でき、無 線ランにも接続できます。
そして、NAISTは大学院をしか持たないので、学生はすべて修士以上の者です。ポストドクと優秀な若手教員を積極的に採用しています。これは博士の学生にとっては非常に恵まれる研究環境です。いずれも長年の研究経験を積んでいますので、よく指導していただけるわけです。
良い研究環境だけでなく、より国際的な教育、特に充実した英語教育はNAISTのもう一つの特色だと思います。毎年、大学側はアメリカと中国からの学生及先生を誘って、国際シンポジウムを行っています。
すべての講演は英語で発表され、英語に関連するイベントも多いです。そして、たくさんの英語セミナーが行われて、単位として、博士の学生でも取らなければ なりません。私は現在研究生をしても、週に一つの英文論文レポートと一回の英語のジャーナルディスカション及び2週間一回の外国人留学生向けのジャーナル クラブをやっています。ちょっと忙しいですが、勉強できた知識も増えています。さらに、日本においても、英語の重要性を痛感するようになりました。
北海道から関西に来ても、生活の不安は全くありませんが、外国人の私にとって、言葉遣い及び関西弁はすごく面白いと思います。
基本は日本語ですけれども、奈良の町で聞こえた日本語と札幌に聞こえたのとで若干の違いに気づいています。奈良での生活はまだ短いですので、今後いろいろな面白さを発見するのを楽しみにしています。
楊方偉 20091124 奈良にて
カテゴリ:生命科学
今日は最高気温がマイナス4度で、最低温度がマイナス12度の予報である。空は曇天だけれど、一面の雪のおかげで外は暗くないのが救いである。
教授室の温度も19度までさがって、とうとう妻の机の下から、足温器を持ってきた。数年前の王麗から妻への贈り物である。王麗は「先生には上げないわよ」と例によって憎まれ口を利いていたが、去年の今の寒くなった時期、羊毛布団を私に呉れた。おかげで厳冬期の夜が助かった。
先週、王麗から論文の原稿が届いた。実は彼女のデータを彼女が日本に出かける前にまとめてくれたのが見あたらなくなって、データを送って欲しいと頼んだら、論文の原稿として送られてきたのだ。感激して、早速読んだ。
ことによると、これで論文に出来るかも知れない。王麗からこの春データを見せられたときには、私たちの研究室では設備がなくて、とても出来ない実験が必要かも知れないと思って、直ぐには論文にはならないかも知れないと思っていた。
しかし、このまとめ方なら特別難しく余計なことを要求しないレフェリーなら通るかも知れない。そう思って、彼女の論文に二日間丁寧に目を通し、直して送り返した。その間、Cao Tingの論文は置いたままだったが、どちらが好きかという問題ではなく、気分転換をしたかったこともある。
王麗が喜んだのは言うまでもない。
私が彼女に直した論文と一緒に送った手紙は、以下の通りである。
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親愛なる王麗さん:
あなたの論文原稿を感心して読みました。
前半部分を、私ならこう書くな、と言う気持ちで直しました。王麗がこれで気に入るかどうか分かりませんので読んでみてください。
私が王麗の実験、あるいは言いたいことを誤解している可能性もありますので、私(先生)が直したから絶対正しいなどと思わずに、きちんと読んでみてください。
王麗の意見を待ってから、Discussionを見直したいと思います。
王麗の原稿をDiscussionまで読んで、ともかく王麗は論文を書くことを覚えた、ちゃんと書けるようになったと言うことに、とても感銘を受けました。
Resultsで私が直したところを読んで気付いたでしょうが、読む人は何しろ初めて王麗の研究を見るのですから、一回見ただけで直ぐ分かるように、わかりやすく親切に、丁寧に、論理的に、筋道を立てて説明する必要があるのですよ。
そこのところが、王麗はまだ親切でないだけで、本筋はよく分かっているのが原稿を読んで分かりました。とても嬉しいです。
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彼女の論文を直ぐに直そうかという気になったのは、王麗が、かなり論文を書くという技術を身につけたことが見て取れたからでもある。彼女の成長がとても嬉しかった。
コメント:
真の教育者 ホノルル さん
本日の先生の「つぶやき」を読んで、率直の感想として、先生は真の教育者です、と改めて思いました。
これほど真心で、親切で、学生の成長を心の底から喜んでいる先生のお人柄、尊敬しますよ。
あ、褒め言葉だけだと、気持ち悪い、と思われるかもしれない。何かあえて言わせていただければ、
「親愛」という言葉は、中国語では家族以外、とても親しい男女の間でしか使わないものです。
奥様からの愛の鞭を受けないためにも、気をつけていただきましょう。 (2009.11.25 23:21:10)
一文字忘れました ホノルル さん
先ほどの書き込みの最後に、
(笑)
が忘れました(笑) (2009.11.25 23:25:03)
ホノルルさんへ shanda さん
凄いほめ言葉で、照れまくっています。でも、学生の成長くらい嬉しいものはありません、ほんとうに、もうほかには何もないのですよ。
「親愛なる王麗」と書いて送ったら、彼女からは「至愛なる大爺」と書いてありました。
初めて違いが分かりました。ありがとうございました。この先も使い続けたら確信犯ですね。 (2009.11.26 11:20:11)
Re: ホノルル さん
>学生の成長くらい嬉しいものはありません、ほんとうに、もうほかには何もないのですよ。
↑なんだか、悲愴感を感じますね。(涙目)
>「親愛なる王麗」と書いて送ったら、彼女からは「至愛なる大爺」と書いてありました。
↑どっちもどっち、ですね。おめでとう。 (2009.11.26 23:00:30)
ホノルルさん shanda さん
至愛なる・・・も深い意味なのですか。そう言えば、幸福と言わずに、至福と言う言葉をここでは使いますね。 (2009.11.27 07:57:50)
Re: ホノルル さん
>至愛なる・・・も深い意味なのですか。そう言えば、幸福と言わずに、至福と言う言葉をここでは使いますね。
いえいえ、冗談です(笑)
実は、敢えての一言は余計だったな、と反省しています。
色んな意味で、寒~い瀋陽では、学生さんから先生を敬愛する気持ちだけは、先生の大きな糧になっているのでは、と察しております。
いえいえ、それだけではない。先生も信念の方です、と存じ上げております。
当地政府の役人と会食の帰りも、研究室のカギが途中で回らなくなったことも、土地(国)柄で色々ストレスたまることがよく分かります。このグロブで日記を綴るのもその解消法の一つとよく理解しています。書き込みで先生のことをからかって、言い過ぎのところを、ぜひ、お許しいただきたいと思います。
これからも色んなお話を聞かせてください。
先生のグロブを拝見するのは日課になっています。いつも楽しみにしております!ね、せんせい~
(2009.11.27 12:51:39)
親愛なるホノルルさんへ shanda さん
ブログって、確かにガス抜きの役目がありますね。関係者の目に触れると、ひょっとするとまずいことになるかもいう問題点はありますけれど。
そうそう、王麗とのメイルは、英語だったり、日本語だったりします。「親愛なる」は、英語そのままを持ってくると、日本語ではこうなりますね。 (2009.11.27 18:54:59)
親愛なるyamagata先生へ ホノルル さん
先生の返事を見て、前の書き込みでブログをグロブにと、2箇所のミスがあったことを気づかされました。すみませんでした。
>そうそう、王麗とのメイルは、英語だったり、日本語だったりします。「親愛なる」は、英語そのままを持ってくると、日本語ではこうなりますね。
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そうですね、言葉って、文化そのものと思いますね。外国語の「dear」がためらうことなく口にすることができても、「親愛なる」の日本語も中国語も口にしにくい単語です。その意味で、私は、どの種類の言語も、完璧に外国語に訳すことができない、との持論を持っています。まあ、どうでもいい持論ですが。。。
でも、先生に「親愛なるホノルルさん」と呼ばれて、先生の優しさが伝わり、とてもうれしい気分になりました。ありがとうございました。
実は先生のブログを読んで、先生との一つの共通項を発見しました。私の血液型も。。。
そうです、「yamagata」です(笑)
(2009.11.27 23:14:29)
至愛なるホノルルさんへ shanda さん
何ですって?共通項がyamagataですって?
ことによると私の親戚かなあ。実は、私の父は養子に入ったのですが、詳しいことを聞かないうちにすべての情報が絶えてしまって、誰のことをも知らないのですよ。
ですから、ヒロヤマガタとか、山形由美とか、山形屋とか、ふざけて私の親戚なんですとか言っていますが。 (2009.11.28 08:04:17)
カテゴリ:研究室風景
昨日の6時頃、帰りがけに教授室のドアをロックするとき、間違えて違う鍵を入れて回してしまった。半分回ったところでがちっと食い込んで、それ以上鍵は回らないし、戻らない。
道は凍っているし、いつもより早く帰ろうと思って、しかし、心の中でみんなよりうんと早く帰るのは悪いな、と内心忸怩たるものがあった。後ろめたい心が鍵の束を取り出すのを急がせて、鍵を確かめもせずに入れさせたに違いない。
確実に扉がロックされたわけではないが、鍵がスタックしているから誰にも開けられない。後は明日のことだと思って、うちに帰った。
これで、瀋陽に来て2回目の出来事である。
だいたい、違う鍵がするりと入って、そして半分くらい回るのが悪いのだ。日本にいるときは、こんなことは起こさなかったし、誰も起こさなかった。鍵のシステムが悪いのだ、と人の所為にしていたが。。。
今朝は8時になってから、大学の鍵の工事人を呼んで直して貰った。となりの池島教授は、それを見て、「そういえば去年も、こんなことがありましたっけね」なんて余計なことを思い出している。
去年は、私が失敗し、そして1週間後には二宮老師が同じ失敗をしたのだ。うちの部屋でそのときいたのは一人だけなのに、覚えている池島教授がとなりにいた。
見ていると電動ドリルで外から、シリンダー錠の入る部分を全部を削ってしまうのだ。ずいぶん荒っぽい。これならどんなドアでも外から開けられる。
40分掛かってドアが開いた。ともかく、ほっ。新しいシリンダー錠が数分で取り付けられた。
支払いは30元。鍵の取り替えで新しい鍵14本のコピーをつくるのに21元。
これで元に戻ったが、午前中は何か心に引きずって、何にも集中できなかった。私も壊れやすい繊細な心を持っているらしい。
それで気分転換に、昼のパンを食べた後は公園まで行って、雪の上を50分歩いてきた。
今日はThanks Giving Dayなのだそうだ。
夜のプログレスリポートであつまったとき、好利来のちっちゃなクッキーを一つづつ配って、「さあ今日は収穫に感謝する日です」
You have to thank those who have created you, raised you up, nourished and cherished you. These include your parents, relatives, the great nature, foods and environments, and your teachers as well...
カテゴリ:研究室風景
今日の予報は最高温度がマイナス7度、最低温度がマイナス14度とのこと。晴れ。
Cao Tingからメイルが来た。あの後所用があって出かけていたのだという。私が怒っているが、どうしてなのか?
私が要求した細部の数字も書き入れたし、私がこれで良いかと彼女の確認のために赤字にしたところにも、良いとか違うとか、ちゃんと書きこんだという。
驚いて添付されていたJBCのフォーマットの原稿を見た。もちろんそのときにも見たのだが、JBC用に形式が訂正されているから訂正マークが随所にある。それに幻惑されて、CTによる訂正を見落としていたのだ。あれ、まあ、なんとしたことか。
早速彼女に返事を書いた。
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Dear Cao Ting:
I was glad to know that you were not careless, but it was me who was so.
But you should have first sent me your corrections, followed by two formats for the journals, because the manuscript in the journal format naturally included many corrections.
Sorry for my misunderstanding caused by my carelessness.
Okay, that's all about the misunderstanding. Do you forgive me?
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そして、さらに論文に関する質問を書いた。
それに返事があった。許してくれるらしい。さらにミラノには来年の1月5日に出かけると書いてあった。2週間前にミラノ大学の友人から、選考委員会で彼女はきっと通るはずだと言うメイルが来ていたが、これで正式に合格判定が出たと言うことだろう。嬉しいことだ。
彼女とは始終衝突しているが、彼女は私たちの研究室の最優秀学生の一人である。彼女のaggressivenessをもってすれば、彼女の科学の世界における成功は間違いと思う。
午後、一人で教授室の中を歩き回っているとき、ちょうどおならをぼんとしたとたんに、女子学生の朱Tongが入ってきた。本当に慌てた。
朱Tongは持ってきた紙にホッチキス止めをして、こっちに近寄りながら、「このにおいは」って言うものだから、汗がどっと出てきた。
朱Tongはにっこりして「このにおいは、茉莉花の香りですね、お茶に入れると茉莉花茶だし」
ほっ。ちょうど茉莉花茶を飲んでいるところだった。家楽福の3階で宣伝している天福茶店でサンプルのお茶を飲んだので、断れずに250グラム20元で買った。
うちにお茶がいっぱいあるので、ともかく飲まなくっちゃと思って、コーヒーの代わりに、入れたのだった。ほっ。
ジャーナルクラブをより良いものにするために、いろいろと言い続けてきた。集まった人たちが、何もわからずにそこにいるだけだったら意味がない。理解できなければ時間がもったいない。
ジャーナルクラブの論文紹介の最初の説明の導入部で、著者が書いた英文を読み上げるのではなく、こっちを向いて話して欲しいと要望した。
だって、読み上げられただけで、全く知らない、しかも最新の研究が分かるはずがない。
しかし、聴衆に向けて(読み上げるのではなく)説明すると言うことは、実際問題としてとてつもなく難しいことのようだ。英語で話が出来ないときにはあらかじめ覚えてくるようだが、こっちを向いた途端に忘れてしまうみたいだ。
従って、どうしても説明が不十分で、初めて聞いた人には何が何だか、何が大事なのか、良く分からないことになってしまう。
今日の話は、シグナル伝達だった。外から来た刺激が細胞の中でどのようにして伝わるかという研究のまとめである。分かってきたことは沢山あるが、分からないこともまだまだ沢山ある。私たちも今はこの領域の研究に関わっている。
この研究で、何時も気になることがある。
細胞の大きさを、後楽園の東京ドームにたとえると、いろいろな分子は野球のボールくらいの大きさだと思う(分子によっては人の大きさくらいだろう)。
細胞の中では数万種類の違う分子があり、それぞれの分子の数は種類によって大きく違うが、たとえばATPでは数千万個ある。早い話、水の分子を考えなくても、ドームの中は色の違うボール(つまり種類の違う分子)でぎっしり埋まっていると思ってよい
この中で分子がきちんと情報を伝えるためには、決まった相手に出会わなくてはならない。これは大変なことである。
人なら相手をみて見分けることが出来るが、分子の場合には接触してさわってみないと求める相手かどうか分からないからだ。つまり相手が何処にいるのか分からず、闇雲に探さなくてはならない
この出会いの確率を高めるための細胞の仕掛けは、一つは分子を膜上に並べることでローカルな濃度を高め、反応が起こりやすくする。
一つは刺激を受けたら、それでその分子は活性型の酵素になり、反応の結果を増幅する。つまりその先の分子の数を多くして、刺激を拡大すると同時に、その先の分子に出会う機会を増やす。
野球で言うと、バッターがヒットを打つと一塁に走る。野球のバッターは一塁めがけて走ることを知っている。
しかし、細胞の中で分子が刺激されると言うことは、ヒットを打って分子が走りだすだけで、一塁をめざしたいけれど、一塁が何処だかを知らないのだ。
しかたない。バッターボックスのとなりに一塁を置いて、ヒットを打ったバッターは直ぐとなりの一塁に動くようにすればいい。
実際、一連の刺激の伝達に関連する分子は一つにまとまっていることが段々わかってきている。
刺激を伝わる道が、秦帝国の昔の伝令使の乗る馬車の走る道みたいに整備されているのかも知れない。こうだと、分子の拡散で情報を伝えるという当てにならない情報伝達よりもましな方法である。
でも細胞が様々な刺激に多様に反応することを考えると、きっちりと決まったルートを整備しているだけでは説明が付かない。
悩みがつきない。
カテゴリ:研究室風景
ジャーナルクラブの時に、英文を読み上げるのではなく、こっちを向いて話して欲しいと要望した。
実際、学生にとってこれはとてつもなく難しいことのようだ。
英語で話が出来ないときにはあらかじめ覚えてくることになるが、こっちを向いた途端に忘れてしまうわけだ。
従って、どうしても説明が不十分で、初めて聞いた人には何が何だか、何が大事なのか、良く分からないことになってしまう。
こちらも時々助け船を出すけれど、演者の顔をつぶしてはいけないから、それも中途半端になる。
どうしたらいいだろうか。
前みたいに書かれた英文を演者がただ読み上げるだけのセミナーにはしたくない。日本のジャーナルクラブみたいに、英文の論文を日本語で説明するみたいに、中国語ですればいいのだろうか。でも、私の中国語がその域に達するのを待っていたら、百年河清を待つ、みたいなものだし。
コメント:
O(∩_∩)O~ butazhuzhu さん
The GreatWall is not built in one day, がんばって andごゆっくり(*^__^*) …… (2009.11.29 18:23:02)
”親愛なる”Zhuzhuさん shanda さん
良い言葉をありがとうございます。ほんと。焦ってはいけません。千里の道も一歩から。
日本の1里は4 kmです。中国の十倍くらいですね。
でもね、「日暮れて、なお道遠し」の心境ですよ。
(2009.11.30 08:49:58)
カテゴリ:薬科大学
生化学の試験問題を作る。
3年以上同じ問題を使ってはいけないという注意がある。学生の成績が80点に集中するように問題を作るようにとも言われている。
A、Bの二通り作ることが要求される。答えを付けて試験の2週間前に送る。試験にどちらが使われるか誰も知らない。試験監督にかり出される私の相棒の中国人の先生も知らない。
成績が悪いと追試が行われるが、その時は最初の試験に使われない問題が使われる。
採点は、赤字で書き、間違えてはいけない。答えの内容のところに、出来具合で何点引くというのを書き、問題の頭にはこの設問で与えた点を書く。ここを足していくとその学生の合計点になる。
私が見た後、相棒の先生がさらにチェックする。その上を学科の主任がチェックする。こうやって不正採点が行われないように、強く監視の目が光っている。
でも最後の先生を誰がチェックしているのだろう。
このほか今日は、中国でホームページを作るための中国のサーバーがないか探したり、教師の会の資料室再興の夢を暖めたりした。
CTの論文は英文校閲のためにアメリカに送った。ざっと7万円掛かるが私費で出すしかない出費である。
カテゴリ:研究室風景
論文を書いているときは集中しているので、直ぐに疲れる。気分転換を図るには、20メートルくらい離れたところにある実験室に行く。今は大学院生が6人、卒業研究の学部学生が6人いる。
暇そうにしているといろいろと話しかけたり出来るけれど、こういうときに限って全員忙しく実験をしている。邪魔をしてはいけない。又出直そう。
椅子から立ち上がって歩いてきただけでも、ちょっとした運動と気分転換になっているはずだ。
午後遅くになって、母の具合が悪いという知らせが妻から届いた。夜中に緊急の連絡があったときには、その次の朝の早い便で日本に向かえるように、航空券の紙切れ、パスポート、財布、日本の金、うちの鍵などを探して一つにまとめて何時も持ち歩くカバンに入れた。
航空券は持っているけれど、航空会社に電話を入れて事前に席を取らないといけない。航空会社に電話をするのは、普段から暁艶に頼んでいる。
いざというとき夜中に電話をしても大丈夫かどうか確認した。大丈夫。先生からの電話は24時間受け付けると、私の守り神は言う。でも、電話が掛からなかったらどうしよう。彼女のボーイフレンドの電話番号を教えてよ。そちらに電話をしてホットラインに通じるよう頼むからさ、
いえいえ、ボーイフレンドとの間にホットラインはないわ。これがホットラインなんだから、と彼女はいう。
いざと言うことが起こらないよう、祈りつづけている。
カテゴリ:薬科大学
6月末に修士課程を終えた徐蘇さんが訪ねてきた。2010年度の米国の大学院博士課程の入学を申請するために、私の推薦書がいるためだ。何処の大学かと思うと、なんと20校に出すのだそうだ。
推薦の手紙に彼女の能力、性格のことを詳しく書いたが、それ以外に、大学の書式による推薦書には、知的能力、忍耐心、分析力、まとめる力、協調性、指導力、創造力、など様々な項目について、5あるいは10段階評価をするようになっている。
本人のいる前で書き入れるのだ。本人の自分自身に対す評価を無視して勝手に書き入れるのもためらわれる。ここはどう思う?と聞きながら、それに私の考えも入れて評価を書き入れた。
思ったより良い評価のような気がするが、受け取る先方はそれを割り引いて考えるだろう。
推薦の手紙は20枚印刷して、それに私はサインをしてさらに印鑑を押した。印鑑を押すと、このあと封筒に入れて封印したとき、サインではなく印鑑で済むから楽である。それにずっしりと重みがあって、良い感じだ。印鑑を押すという習慣を中国は今は余り重んじていないが、もったいない話である。
午後遅く、生化学科主任の小張老師から電話があった。いつもなら「中国語の分かる学生に代わってくれ」ということになるのだが、今日は私に用事があった。
金曜日の昼に生化学科で何かの相談で集まりがある、私も講義をしているから出て欲しいという。あるいは出なさい、かも知れないが。
こんなことは7年ここにいて初めてのことである。じゃ、出るからと言ったら彼女のニュアンスが少し変わって、出ても分からないとか、後で十分説明するからとか言っている。しかし、私は出ると主張した。英語を話す小張老師もいるし、日本語を話す王水老師もいるから助けてくれるだろう。
どのような会議が開かれるのか、とても楽しみである。
11月24日午後、教師の会の幹事をしている私たちは瀋陽市人民政府の人たちに招かれて、一緒に食事をした。インターコンチネンタルホテルの横のビルにあるレストラン街のなかの店だった。
10月21日に、教師の会の幹事の一人の高澤先生が、来年度の日本語文化祭の開催に、瀋陽市の後援をお願いするために市政府まで一人で出かけた。瀋陽大学の教え子の一人が瀋陽市当局の幹部の息子という伝手をたどって訪ねたそうである。
幹部に会っていろいろと説明をしたところ、そのような催し物はとても意義がある、是非後援しようと快く引き受けてくれた上に、教師会の幹事のメンバーと一緒に歓談しようと席を設けて誘われたのだった。
市当局の人たちが4人来て、こちらは5人。5時半から8時半まで、初めて会ったのに、じっくりと落ち着いた、そして友好的な食事会だった。高澤先生はこれで会うのは二度目だが、既に先方からは朋友扱いである。私以外飲める人たちが揃っていたのも、良かったようだ。1949年以来新しい中国だが、それでも男は飲めないと英雄にはなれないみたいだ。
来年は札幌市と友好都市締結以来30周年の節目だという。このほかには川崎市と友好都市を結んでいる。どうして札幌と友好都市になったのですか?
地理的環境が似ているが、それだけではなく、これには加藤亨さん(ずっと以前は北海道道議会議員だろうか?)の貢献が大きかったという。彼は中国生まれで、瀋陽の前身である奉天に育ち、戦後は両都市交流の架け橋として活躍したという。4年前の25周年の記念式典には、92歳の加藤さんも参加して、瀋陽市の名誉市民の名誉を送られた。
この加藤亨さんについては、その後でネットで調べたが、おそらく加藤亨さんの後継者と思われる「ちば英守北海道議会議員」のサイトで、25周年の記念式典の記事を見つけたのと、加藤亨さんの名前で「瀋陽会」という日中友好促進団体があることが分かっただけだった。
(http://jp.jnocnews.jp/news/show.aspx?id=12123)
営々として築いていく人々の営みは、歴史の中にどんどん飲み込まれて、失われていく。
瀋 陽市のお偉方と一緒に話していると、日本語文化祭のイメージは、学生が舞台で歌、劇、踊りを披露するだけではなく、催し物には豪華に賞品を出し、舞台では 日本美術の紹介も行い、客席を外に出れば金魚すくいもあり、たこ焼きも売っている盛大なお祭りのイメージが段々ふくらんできた。こうなると必要な費用を何 とかして集めなくてはならないことになる。
その翌日になって、ご馳走になった礼状を書いたときに、今中国からホームページがアクセスできない不便について書き加えた。
遮断されたので別に作ったホームページにもアクセスできないし、更新も出来ない。私たちのホームページが問題になっているのではなく、日本その他の各国からの情報流入とここからの発信が止められているのだと思う、とも書いた。
中国のサーバーを利用すれば良いと思うけれど、日本語で使えるのか、無償サーバーを利用してきた私たちとしてはいくら掛かるのか気になるし、何しろ中国語が不自由なのでなかなか踏み出せないので、適当なサーバーが会ったら紹介して欲しいとお願いした。
すると24日に会ったうちの一人から返事のメイルが届いた。
私が希望しているサーバーは、単なる日本語が使えるコンピューターなのか、もっと詳しい状況を聞いた上で、できる範囲でお手伝いしようという返事だった。
それでこちらは喜んで、長文の事情説明のメイルを書き送って、先方の反応を待っているところである。
カテゴリ:瀋陽の生活
今日のYahoo ニュースに載っていたが、「濃霧、10日以上にわたり中・東部地区を覆う=空路、高速道路に影響―中国」(12月2日Record China)なのだそうだ。
『2009年12月1日、中国新聞網は中国の中・東部地区が10日以上にわたって覆う濃霧について報じた。航空便、高速道路などに大きな影響が出ている。』
『11月21日以来、中国の中・東部地区を濃霧が覆っている。1日も新疆ウイグル自治区、寧夏回族自治区、黒竜江省、遼寧省、北京市、天津市、河北省、山西省、河南省、山東省、江蘇省、四川省、安徽省、江西省、浙江省など各地で観測された。中国中央気象台は大霧オレンジ警報を発令している。』
『遼寧省では一部地域の視界が50メートル以下にまで低下したため、省内の全高速道路が封鎖されたほか、瀋陽空港の航空便100便が遅延、または取消となった。』
30日の夕方、大学の食堂に学生数人と一緒に出かけたが、真っ白で、しかも暗くて、「うっかりすると、人同士が正面衝突で大けがなんてことになりかねないね」と言って笑ったものだ。
月曜の朝からこれで三日間の濃霧。何がこの濃霧の原因か知らないが、大気汚染もあるかも知れない。部屋の中の空気も同じようなものだろう。そのためか、この二三日、時に思わぬ咳が出たりする。
こちらに出来る自衛策は、うがいを時々するくらいしかない。
カテゴリ:瀋陽の生活
12月3日Record Chinaによると『<調査>どうせ無駄!7割以上が、犯罪に遭っても警察に「通報しない」―広東省広州市』のだそうだ。
『何らかの犯罪の被害者となった場合、「警察に通報する」と答えた人は25.6%に止まり、前年の31.3%から5.7ポイント減少した。』
『警察に通報しない理由で最も多かったのは、「どうせ犯人が捕まらないから」で50.0%。「大した被害ではなかったから」が41.7%、「面倒なことになったら嫌だから」が38.3%、「犯人が捕まっても盗られたものは戻らないから」が23.3%だった。』
警察不信のようだ。
住民が犯罪防止に積極的なのは、住宅アパートの1階はもちろん、2階、場合によっては3階までも、ガラス窓の外に格子がはまっていることで分かる。最上階の住宅にも格子がはまっていることが多い。
これは、それだけ泥棒、押し込み強盗が起こることを暗示している。
6年前に杭州に行ったとき、街がすっきりしているという好印象を持った。一つには観光都市のため街が綺麗に整備されていることもあったが、後で考えると、一つには格子が2階まではまった建物が少なかったためでもあった。
カテゴリ:薬科大学
12時半に指定された会議室に行った。このような会合に出るように言われたのは初めてのことだから、出かけた先も初めてのところである。本館の4階の端の見晴らしの良いところだった。
生命科学部の学部長ほかのお偉方がメインのテーブルに座り、ほかには全部で50人くらいだろうか、見知った教授の顔もあれば、若い先生たちもいる。
お隣の池島老師もいて、何時もは彼は薬学部だといっているのに、今はこの生命科学系の集まりに参加している。何しろ初めてのことなので、どのような区分けがなされているのか全くわからない。
生化学の講義を私と分担して担当している日本留学帰りの若い女性の王老師の隣に座って、説明を受けた。話は、近いうちに国家レベルの査察団による薬学系の査察が入るというと言うことだった。
13日から数日にわたり10人の専門家が滞在して、大学の学部講義、研究状況、学生の試験問題、解答、採点、学生の卒業論文、などを調べるという。
さらには教官を選んで、講義の意義、達成目標、この大学の学生教育の目標などをインタビューするという。皆の反応を見ていると、どうして、どうして、とても大変なことのようである。
下手をするとこの学部が消えてしまう。あるいは首になると言って、首をすくめている。
私が7年いて初めてこの手の集まりの呼ばれたと言うことは、ことによると、私がこの査察の対象になるかも知れないと思ったものだ。
中国の先生が答えられるような立派な教育理念が言えるかどうか分からないが、首になるなら、若い先生でなく私がよい。白羽の矢が立ったら、私は喜んで査問に応じる気でいる。
コメント:
ホノルルから改名しました みのもんた さん
私事で誠に申し訳ございませんが、本日よりホノルルからみのもんたに改名いたします。特段の理由はありません。ただ滑稽のことをしたい、それだけです。
いや、専門家たちがやろうとしていることははるかに滑稽だ。彼らの足元にも及ばないでしょう。数日後からの「イベント」でしょうが、先生、あの「専門家」集団のおなかを観察してみてください。おなかが出ているなら、彼らは本業より、「アルコール常習者」専門集団のはずだ。
あ、以前の書き込みを思い出した。「中国共産党は吉本以上に面白い」って。。。
(2009.12.08 22:40:46)
みのもんたさん shanda さん
ひょろりと改名できるなんて素敵ですね。ブログをいったん始めてしまうと、そうは行かないですよね。
「何とかは吉本以上に面白い」についてはコメントを遠慮します。だって明確に肯定したら証拠が残るもの。。。hahaha (2009.12.09 07:51:14)
カテゴリ:瀋陽の生活
このところ段々帰りが遅くなる。目標は7時なのだが、外は4時半頃から真っ暗になっている。
研究室のコアタイムは午後は2時から5時までにしているので、学生たちは5時を過ぎると夕食に出かける。従ってこちらも6時頃にはお腹がすいたなという気分になる。
そういうときに学生が電話で出前を注文しようとして「先生も何か食べますか?」なんて聞かれて、じゃ一緒に、と言うことになった。
大学には7千人の学生を相手にする学生食堂があるが、それ以外に大学招待所(宿泊施設)を持っていて、そこには恵雅食府という名前の招待所食堂がある。
ここは一般向けのレストランで誰でも入れると同時に、大学の中には出前を配達してくれる。研究室にもメニューが置いてある。
56種類の弁当が載っている。このほかにも餃子、包子が20種類ある。
弁当の中に、炒めうどん、チャーハンもあるが、一番多いメニューは蓋飯だ。蓋は、覆うという意味だから、回鍋肉蓋飯だと、回鍋肉がご飯の上に乗っていて、早い話がどんぶりだ。回鍋肉丼というわけである。
この蓋飯だけで沢山のメニューがある。中華丼、天津丼、麻婆豆腐丼などが日本の中華飯店ではなじみだが、ここではそんな名前はない。あって良さそうな麻婆豆腐蓋飯もない。紅焼肉蓋飯とか、焼茄子蓋飯とか、ともかく35種類ある。
日本人がどんぶりが好きなように、、中国でも米を食べる以上、同じように蓋飯どんぶりが大好きと言うことが分かった。
中身によるけれど、6元、8元、10元である。
これを食べてもうちょっと頑張ろうと言うわけだ。
カテゴリ:瀋陽の生活
今日はホテルマリオットで、瀋陽日本人会の主催する一年に一度の豪華パーティであるクリスマス会が開かれた。瀋陽日本人会の幹事会社が全責任を負って、この日を楽しい集まりにしようと趣向を凝らすのである。
今までは会費が150元だったが、今年は100元だった。以前だってホテルの食事代と会場費をカバー出来たはずはなく、日本人会の費用で一部を負担していたようだが、今年はもっと負担することに踏み切ったという。早い話が日本人会の財政が豊かなのだ。
毎年タクシーで出かけていたが、歩くのになんでもない距離である。せいぜい2 km位である。雪道だけれど、歩いて往復して日頃の運動不足を解消しよう。
ところが、雪が踏みしめられた道をマリオットに向けて歩いているとき、唇が濡れてくる。舐めてみると塩辛い。舌を突き出してなめ上げると、なんと鼻まで濡れている。これは鼻水なんだ。
鼻水が寒冷刺激でどんどん出てくるわけだ。手袋を外して良いところまで歩く間、なめ続けていた。
会場ではテーブルが指定されていて6番テーブルだったが座るところは自由である。隣になった中国人のご夫人は今日はマイナス23度だって言っていたけれど、歩いていたとき、ほんとに寒かった。
ホテルの食事は日本人会が補充して100元に値下げしたけれど全体も値下げ交渉をしたに違いなく、これまでの豪華とはちょっと遠い感じだった。
催し物の時間には、松本盛雄総領事のチェロ演奏があった。
彼の作曲だという夏の夜という曲の演奏は演技も絶品で、見ている皆の笑いの渦を引き起こした。続いて総領事夫人のピアノと一緒に「千の風になって」が演奏された。思わず涙が出た。
このあと、山本さんの二胡演奏も聴いた。4年弾いてきたと紹介されたが、これは大変な楽器だと言うことが分かった。このほか雑伎団、ピエロなどの本職もあったし、ビンゴゲームもあって終わりの3時に向けて会場全体が盛り上がった。
食事が豪華とは遠かったと言いつつも、お腹がすいているわけではないので、ラボにもどって原稿書きを始めた。明日までという厳命の付いた原稿を引き受けてしまったのだ。
コメント:
よくあるパターン? みのもんた さん
>明日までという厳命の付いた原稿を引き受けてしまったのだ
厳命の付いた原稿って、笑えないですよね。
まあ、違う視点から考えると、学生たちも一生懸命に実験をしてくれている、ということでしょうか。
今のことは学生たちが必ず覚えていて、そのうちやっと分かってくれて、先生を感謝するときが来るでしょう。
先生、頑張って。 (2009.12.08 23:19:39)
みのもんたさん shanda さん
言葉が足りませんでしたね。
これは瀋陽日本人教師の会が季刊で出している雑誌があるのですが、締め切りが過ぎているのに原稿が集まらなくて、そして私も書いていなかったものだから、どうしても書けと編集長に言われて「ははーっ」。
これは別として、大学では全く突然、直ぐに研究計画や業績を書いてまとめて提出しなさいみたいな命令が届きます。
ここは上意下達のシステムが太く通っているからですね。そして何事もきちんとした文書にして書き残します。
ですから各研究科で卒業研究論文発表会を開けという命令が出たら、開いたという書類さえ残せばいいわけです。わかるでしょ、どうしたか。 (2009.12.09 08:00:41)
分かったつもりです みのもんた さん
先生、ご丁寧にありがとうございます。
>ですから各研究科で卒業研究論文発表会を開けという命令が出たら、開いたという書類さえ残せばいいわけです。わかるでしょ、どうしたか。
-----
分かったつもりです。書類を残した、ですね。うひ。。。 (2009.12.09 12:46:00)
カテゴリ:瀋陽の生活
中国には豊富に蜂蜜が出回っているが、調査報道によると半数近くがインチキだそうだ。本物は自分で確かめるしかないのだ。
曹Tingが蜂蜜を探して苦労している私を見て、故郷の蜂蜜を持ってきてくれた。それが美味しいのだ。味はどう見ても本物である。それで1年前には彼女に頼んで6個を購入した積もりだったが、彼女は頑として代金を受け取らない、両親からの贈り物だという。そのときはとうとう言い負けてしまった。
又蜂蜜が必要になったが、彼女は今故郷に帰っている。メイルで頼んだところ、直ぐに送ってきてくれた。代金と支払い方法を書いてくるように頼んであったが、何もない。それでメイルに書いた。
しかし今度も、この蜂蜜を上げるという。それじゃ困る。そんなことをしてくれたら、もう二度と頼めないじゃないか。
しかしそう書いても、必要なら又頼んで下さい、と言う返事が返ってくるだけだ。大丈夫、頼まれたら断らないから、という。
頼めばただで貰うことになると分かっていて、誰が又頼めるだろうか?日本人の文化なら考えられないことだ。それで、考え方が違うのだからときつく書いたところ、やっと、それなら払って下さいと言ってきた。
やっとだ、これでほっとしたわけだが。
先方の好意をきつく断って、どうしても支払うと言ったことで、中国だと親しい関係の成立を拒絶したことになる。でも、ぼくたち日本人の関係なら、いくら親しくても当然のことなのだ。
コメント;
気づいたこと みのもんた さん
先生のブログで曹さんは何回も登場していましたが、今日で分かったことは、論文作成にしろ、蜂蜜にしろ、曹さんはただ、頑として中国人のやり方、考え方を貫いただけ、ということです。
先生の周りに日本文化に興味を持つ学生が大勢いるでしょうから、みんな少しずつ日本人の考え方、やり方に近づけようとしていることが想像できる。しかし、曹さんは違う。留学先が比較的に実現しやすい日本ではなく、イタリアを選んだこともそう。自分に自信があるタイプだ。
それなりに優秀とのことで、なんらかの理由で日本に親近感を持ってくれないことは残念だが、個性そのもので、いいじゃないかと思う。憎めないやつと思い始めました。 (2009.12.08 23:08:40)
みのもんたさん shanda さん
彼女はね、簡単に言うと自己チューで自分勝手だから、この社会の中でも周りから敬遠されています。中国に人たちから見ても異分子なのですよ。
でもね、見ていると若い頃の自分によく似ているんですよ。彼女の考えていることも、そして周りと上手くいかなくて悩んでいるつらさも、良く分かるんですね。
彼女なりに一生懸命やっているのに、周りから浮き上がってしまうと言うちぐはぐさに、ホント、若い頃の自分を見ています。だからと贔屓にしているというわけではありませんが、彼女の将来の成長を楽しみにしています。 (2009.12.09 08:10:43)
三人衆 みのもんた さん
そうですか。そういえば、自分もそのような一人の気がします。いや、気がするではなく、間違いないです。
先生がおっしゃったように、辛い、悩むことは、決して悪いことではないことです。色々考えて、成長するきっかけでもあります。つまり加速度は周りの環境に適応している人より大きいから、そのうち、周りの人以上に色んな事を分かってて、人間性が豊かになる可能性は十分大きい、と思います。
先生にあやかりたいですね。頑張れ、三人衆!! (2009.12.09 12:59:29)
頑張れ 三人衆! shanda さん
いくら頑張っても、「ぼくの将来知れたもの」なのですが、人生悩んで、それを糧にして変わっていくしかないですよね。私もお付き合いしましょう。 (2009.12.10 09:28:22)
今日は64年前に日本が対米英戦争を始めた日だ。
開戦が知らされた朝は、真珠湾への攻撃とその戦果で日本中が舞い上がったらしいが、幼かった私の記憶には残っていない。子供の頃、提灯行列や花電車を見たおぼろな記憶にあるけれど、太平洋戦争と関係があったのかどうかは覚えていない。
確か敗戦の日までは、この日を開戦記念日と名付けていたはずだ。この日に実際に生きていた人たちは今では日本の人口の20%くらいになったらしい。
12月8日(アメリカでは12月7日)を日本と米国の間の戦争の始まった日だと言うことを知っている日本人は、今どのくらいいるだろう。半分もいないのではないか。そして若い人の多くは、戦争があったことすら知らないのではないか。話の中で先の戦争というと、湾岸戦争だと思うという笑い話があったのももう15年前のことになる。
戦後は、つまり1945年以降、この戦争が日本の起こした卑劣なだまし討ちだという米国による主張を長く聞かされてきた。そのだまし討ちのキャンペーンが米国の大きな戦意昂揚の手段だった。Remember Pearl Harbor!!!
戦後アメリカに行くようになっても騙し討ちの日本人と言う中傷がついて回った。それが何時の頃か、実はアメリカの首脳部は知っていたのだ、と言うことが分かってきた。
ホワイトハウスは知っていながら、先に日本に攻撃された方がその後日本を悪ものに出来ると踏んで、在ハワイ太平洋艦隊司令部にも知らせなかった。自国の若者の命と財産をむざむざと散らしたのだ、政治とはむごいものである。
日本とアメリカの間が険悪になっていく中で、厳しいハルノートを突きつけられながら、日本はまだおめでたいことに米国との関係は上手く収められると思ってい た。戦後明らかになったように、米国は日本と戦って打ち負かす意志を固めていて、しかし日本を挑発して日本からの開戦に踏み切らせようとしていた。日本政 府と米国のワシントンにある日本大使館との間の暗号電報もアメリカにすべて解読されていたという。
日本を追い詰める西欧諸国に対して何の生き延びる有効策を打てずに追い込まれて戦いに踏み切った日本は、今から振り返って見ると哀れにも可愛そうな存在である。
しかし日本を神の国と信じ、ほかの諸民族に比べて優秀だとうぬぼれていた日本人は、多くの犠牲者を出し莫大な犠牲を払ったが、それでも総括すると戦いに負けて良かったと思う。もし勝っていたら、軍人や国粋主義者がどれだけはびこったか、考えるだけでも恐ろしい。
全体的に見ればそうは言えても、微視的に見ると、開戦の最後通牒を真珠湾への攻撃開始の前に手渡せなかった在ワシントン日本大使館の不手際は責められてしかるべきだ。
決められた時刻前にアメリカ外務省にそれを手交できなかったのは、長文の暗号解読とタイプに手間取ったからだと言われている。ちょうど週末にあたっていたの で、外務省出身の高官は休みを取って、重要な外交文書の手交の責任を感じていなかったのだろう。だから、暗号解読、そして文書へのタイピングはノンキャリア組にやらせて自分たちは休暇を楽しんでいたのだろう。
でも、いくら長文でも、最初から、開戦をほのめかす緊張感があったろう。おしまいを見れば宣戦布告だと分かったはずだ。ノンキャリア組も暗号解読とタイプをしながらこれに気付いただろう。その長文の真ん中を切り飛ばしても良いから、早く文書を仕上げなくてはいけないとどうして思わなかったか。
おそらく外務省という官僚組織の中ではそれは許されなかったのだろう。力を持っていて、それを振るえるのはキャリア組で、ノンキャリア組の裁量で文書を縮めても時刻に間に合わせる才覚は振るいようのない組織だったのだろう。
負ける戦争を始めたこともそうだし、この宣戦布告の手交の失敗もそうだし、この開戦の日になると、どうしても考え込んでしまう。
日本の官僚は優秀だという話だが、組織を守ることだけに長けているのではないか。自分自身の昇進と、それぞれの省益しか見ていないと、今でも言われている。
私たちは歴史から学んで、少しは賢くなっているだろうか。
カテゴリ:瀋陽の生活
貞子から「今日は日本が米英を相手に戦争を始めた日ですね」と書いて来たので、その開戦のことをテーマに「瀋陽だより」に一文を書いた。
このところ、この楽天ブログに毎日書いているのでエッセイを書くつもりが10日置きくらいになったりする。
でも、エッセイを書くと言うことは頭を使うから、是非続けて行かなきゃと思う。頭を使わないと生きている意味がない、というか、頭を使うことが生きているしるしだと思っているからだ。
こんなことを考えると言うことは、頭を使っていないという自覚があるからに違いない。
だんだんと昆明の闇に遊弋するときが近づいている。
コメント:
負けてよかったこと みのもんた さん
先生のエッセイを拝読いたしました。とても勉強になりました。
歴史が繰り返す、との言葉がありますが、人間は少なからず、歴史から教訓を得ているから、成長している、と信じたいです。特に勉強熱心な日本人。たとえば、宗教戦争は日本人にとってとても理解できなくて、考えられないことのようです。それは織田信長のお陰だ、と聞いたことがあります。
人間は歴史の教訓で成長する。特に負けて、苦い経験をしたとき。先生がおっしゃったように、負けて総じて良かった。そういう意味で、負けて勝ったということですね。
その逆でも成立すると思います。
そうです、勝って負けた。特に訳分からないまま勝ってしまったこと。本当に不幸です。誰にとっても。
(2009.12.09 22:59:14)
みのもんたさん shanda さん
戦うと言うことは勝っても負けても、誰かが、そして沢山の人たちが文字通り掛け替えのない命を失うことですから、こんなに残酷なことはありません。相手を殺すまで戦うのは、動物ではヒトだけだそうですね。
せめて、生き残った人たちは戦いから何か教訓を得ないといけませんね。たいてい忘れちゃうんだけれど。
歴史から教訓を得ないのは不幸どころか怠慢です。怠惰の罪を問われてしかるべきでしょうね、特に政治家は。
政治家がただの野心家の職業となっている今、私たちは知恵を付けて自衛しないといけません。
でもね、小泉さんが格好良いと言うだけで自民党が大勝したりしたのですから、日本人はまだまだ幼稚園をやっと出たくらいですね。 (2009.12.10 08:38:39)
どこまで自衛できる みのもんた さん
>政治家がただの野心家の職業となっている今、私たちは知恵を付けて自衛しないといけません。
「野心家の職業」か、非常に鋭いご指摘ですね。
私もかねてから思うのですが、自分がもっと賢くて、強くならないと、自分と自分の家族を守ることが難しいです。
でもね、自分を守るのに、公民権、つまり選挙権はまず一つの大きな武器と思われます。残りは自分の見識と頭脳のことです。
選挙権すらない、これからもなかなか望めない国では、満足できるレベルの自衛が可能なのか。庶民にとって途方が暮れます。
民主主義はまず、人類が進歩した一つの大きな里程標でしょう。
まだ実現していないところは、まだ幼稚園ところじゃない、おギャーの程度か。 (2009.12.10 13:00:51)
日本の民主主義も戦後のものですが shanda さん
日本の民主主義も戦後のものですが、もうずっと昔からあるような気がしますね。
皆が命の危険におびえることなく好きなことを言い合って、多数意見で進むところを決めるというのは一つの歴史の一こまですが、これは決して世界の趨勢ではないのですね。
こんな、今の私たちにとって自明のことが、どうしてほかのところでも行われないのだろうと、もう理解を超えてしまう感じです。 (2009.12.10 20:12:46)
カテゴリ:生命科学
曹Tingの論文をとうとう投稿した。Impact factorの高いJournalに送ったので、はなから軽くあしらわれるかも知れない。
でも、自信のある論文となったので、Impact factorの高いところに送った。
このJournalはEditorも選ぶようになっている。専門を明記した10人くらいのEditorから順位を付けて選ぶようになっている。その順番の一番に(彼が都合悪ければその次に)この論文が送られて、そのEditorがreviewer(論文審査員)を指名するわけだ。
Editorになっているくらいだからそれなりに研究をしてきた人だろうけれど、全然知らない人たちである。仕事の内容が書いてあるから、それで選ぶしかない。
さらには、論文審査員を数名指名してもよい。このJournalがこちらの示唆通りにこの論文を審査のために送るかどうかは別として、知り合い、あるいは知っている人たちの中で、fairと思われる人を選んで書く。
是非避けたい審査員の名前を書きいれる欄もある。論争相手だからあいつだけは避けたいとか、内容が分かったら先に小細工をして論文を出しそうな人だとか、そういう人を書く。
先の論文で実に攻撃的な意見を書いてきたreviewerがいた。もちろん匿名なので誰か分からない。こういう、おかしな人は避けたいが、方法がない。
reviewerを匿名ではなく、名前を公開して欲しいと思うときがある。あまりにも理不尽なことを、居丈高に言ってくるときなど、そう思う。もちろん、おかしなコメントには反論を書くが、こちらは名前が出ていて、相手が匿名というのはやりきれない気分になることが多い。
しかしreviewerの本名を明かす方が実害があるのだろう。これ以上の方法はないのだろう。
ともかく、こちらは実験でも、論文を書くところでも人為を尽くした。後は批判を待つしかない。
コメント:
おめでとうございます みのもんた さん
先生が投稿した雑誌の名前は、今までのブログで出ていたと覚えています。
先生の意気込と希望が伺えます。通ったらいいですね。本当におめでとうございます。
先生がご出身のT大学を侮るつもりは毛頭ないですが、あの大学ですら、JBCに論文を載せたことがない研究室は沢山あるじゃないですか。
三人衆の一人ですが、お二人に大きな声援を送りたいです。 (2009.12.10 12:47:11)
声援をありがとうございます shanda さん
今回送ったのはJBCではないのですよ。
前回、意気込んでJBCに論文を送ったのですが、確かにタンパク質の発現をWBで調べていなかったのは欠点でしたが、それ以外にもさんざんいちゃもんが付いて、泣き寝入りした屈辱がまだ尾を引いています。
こんなことをここまで言いつのるレフェリー(reviewer)はきっとあいつだろうな、などと逆恨みをしてしまった後遺症から、まだ抜け出られないのです。
ともかく研究はジャーナルに発表してやっとひとつ完了ですから、論文がacceptされるまで気が抜けません。
まだまだ頑張りますね。 (2009.12.10 20:05:21)
朗報を期待します みのもんた さん
先生、嫌な思いを起こさせてしまって、本当にすみません。
自分を守ることは、相手が「野心家の職業」の政治家からだけではありませんね。先生はある文章で「差別を許しません」と書いてあったので、正義感の強い男だな、と感じました。実は、ここも先生と私の共通項です(自認)。
いや、そこまでは。。。と思われるのは分かります。ちょっと脱線してしまいましたが、私はいつも思うのが、「正義感のある人はもっと強くなれ!」ということです。そうじゃないと、邪悪が横行して、器の小さい人間が跳梁跋扈しては、人間社会はやはり良い方向に進みません。
朗報を期待します。成果が正当に評価されることを信じたいと思います。 (2009.12.11 13:43:04)
正義感の代償 みのもんたさんへ: shanda さん
大昔、大学生の頃夜行の汽車でスキーに良く出かけたものです。帰りは昼間で大混雑の車内を、いまの車内販売とは違う正規ではない人が無理矢理乗客を押しのけ、踏んづけて行くので、つい注意したのですよ。
そのあと、上野に近くなって、別の男を連れてきて戻ってきて私は皆の面前で殴られました。誰も、関係ない人は良いとして、一緒に行った研究室の先輩も知らん顔でした。
それで世間を少しは勉強しました。情けないことに身体がマッチョではないので、正義は相手の素性が知れていて安全なときだけ振りかざすことにしています。
たいていの人が同じなのだと思いますね。みのもんたさんはどうですか。
(2009.12.11 19:00:02)
正義を求めて みのもんた さん
先生の大学生時代の体験を教えてくださって、ありがとうございます。
先生は正義感の強い男との私の推測は間違っていないですね。それに対して、なんという情けない先輩だ。せめて、せめてその場しのぎでも。。。
先生の大学時代の出来事だから、今から40年以上前のことでしょうか。そのときに比べて、今の日本はかなりよくなったじゃないでしょうか。乗客を無理やり押しのけての車内販売はまずありえないし、逆切れの暴行も間違いなく逮捕されることでしょう。
職業差別ではないが、そのときの相手がその後どのような人生を歩んだのも知る由もないが、多分、お小遣い稼ぐ程度の仕事から大きく脱皮できなかったのでしょう。これはいわゆる社会的制裁、ということでしょう。先生の戦いも決して無意味なものではありません。
私も高校、大学時代で苦い経験があって、勉強させられたことがあります。周りの人間に対する失望感、社会に対する絶望感がありました。というのは、日本社会ではなく、先生がご推測とおりの先生が今住んでいる社会に対して。
色々悩んだ末、まず自分と自分の家族を何とかにして、知恵と力を一生懸命に蓄えて、いざというときが来たら、自分の理想に向けて役を立てたいと思います。
比較的に健全な社会では、要するに風邪を治す程度のことでは、先生のやり方は十分適切と思います。しかし、まさにしにたいのところでは、一か八かの超でかい手術が必要かもしれません。
そう思います。 (2009.12.12 01:16:18)
正義を通すには力がいる shanda さん
力が伴わないと正義は通りませんよね。力は物理的な力でもあり、仮想的なものでも良いのですが、ともかく力の裏付けなしに正論はむなしいものです。
もっとも、正義、正しいこと、正論だって立場が違えば違ってくるわけですから、世の中出来て以来、皆がどう生きるべきか悩み続けるわけですよね。
いずれにせよ、気に入らなきゃ殺しちゃえと言うのが人の社会ですから、怖いですね。動物は殺し合いませんからね。人しかできない能力をこんなことに使って欲しくありません。 (2009.12.13 11:01:16)
ありがとうございました みのもんた さん
先生、ご返信ありがとうございます。
ほぼ毎日ブログを更新し、書き込みに対して返信したほうが良いと先生がお考えの場合、次の日に必ず返信してきた先生が今回珍しくすぐ返信されなかったのは、ご多忙のことももちろんあるが、さぞ驚かれて、重く受け止めたのでしょう。
それでも日曜日にお時間を割いてのご返信、お礼を申し上げます。
先生のお言葉は十分に納得できるものです。その意味で、福沢諭吉は本当に偉大だなと、改めて思いました。5千円、1千円の紙幣の人物が変わっても、一番価値のある万券に彼が居続けるのも、納得できます。
多分、人間は想像力と向上心によって、変わるか変わらないかが左右されると思います。哀れの存在から脱皮できるのは、自分が自分を救うしかないといつの間にか思い始めました。
どうか、ご自愛ください。の言葉の深みを感じた今日この頃です。 (2009.12.14 12:53:39)
君子豹変、小人革面 shanda さん
人は変わることが出来る動物です。
君子豹変というと、おとなしい人が急に怖い人になるみたいにこの頃は思われていますが、『君子は時に応じて、豹の毛が生え変わるように、鮮やかに変化する。 (これに反して、小人は上の人に従う顔つきだけはする)』
つまり(考えることの出来る)人は変わることができるのだと昔から思われていますね。
人は変わろうと思ったときから、それまでとは違う人になれるのです。これは考えることの出来る、人としての特権ですよね。
ですから、何か決意した人に私はブラボーと応援を送り続けることにしています。もちろん決意を続けるのは(特に自分では)至難の業だと言うことは、もう今では百も承知ですけれど。 (2009.12.15 08:48:34)
カテゴリ:瀋陽の生活
在瀋陽日本国総領事館が主催する天皇生誕祝典がホテルマーベロットで開かれた。日本にいたら無縁のこの手の催しに、瀋陽にいるおかげで毎年招待される。昨年は350人くらいいて、今年は550人くらいだろうか。不景気なのに、結構人が多かった。
昨年は教師の会の人たちが全部は呼ばれていないと言って騒いでいる人たちがいたけれど、今年は教師の会の人たちは二人しか見かけなかった。皆呼ばれていたのだろうか。そしてその上で平日の昼間だし、お断りしたのだろうか。
それで知人が少ないかと思ったが、それでも、先日食事に呼ばれた瀋陽市人民政府外事弁公室のお偉方に会えたし、全く新しい人たちとも知り合うことが出来た。
始まる前に笑顔で近づいて来た馬さんという中国人は、お互い初対面だと直ぐに分かったが、日本語で話しかけられておしゃべりをした。日本に行ったことがないと言うことだったが、見事に日本語で感心した。こちらが瀋陽7年目であることは隠さないといけない。
音楽院で声楽教授をしている日本女性にも会った。同じく音楽院で教授をしているトランペット演奏家と結婚していて中国に来ているという。声楽家は一般的に外向的だからおしゃべりしていて気持ちが良い。先方はプロ、こちらはただのアマチュアだが、こちらだってオペラを歌っている、と力むこともないか。。。
松本盛雄総領事の挨拶、遼寧省政府の副省長の挨拶に続いて、日本人会の浅井会長が乾杯の音頭。松本総領事は珍しく紋切り型の挨拶で、記憶に残らなかった。
昼に食べ過ぎると眠くなるので用心していたのに、豪華に見える食事に目がそそられて、つい食べ過ぎてしまった。お隣の池島さんが出かける前に「ご馳走をちゃんと食べて来なきゃね」なんて言っていたのが頭に残っていたのだ。
帰りは、薬科大学の国際交流処の程所長、徐寧さんと一緒になったので車に乗せて貰った。1時半に研究室に戻ってきて、眠気が去ったのは3時過ぎだった。
やれやれである。
眠気を抑えて、土曜日のジャーナルクラブで当たっているので、その用意。今週のトピックはIntegrins and Extracellular Matrixなので、Anoikisに関わる分子の研究を取り上げることにした。
カテゴリ:研究室風景
研究室の院生は修士の時からそれぞれ独立のテーマで研究をしている。そんなの当たり前でしょ、と言われそうだが、それは日本の話で、このあたりではかなり特殊である。
つまり大学の先生が会社から仕事を請け負って院生にそれをやらせて、従って論文一つもなしに修士課程を出るというのがここではまかり通ってきていたらしい。今でも二人ああたり一つの論文、それもどこの雑誌にでも出していればいい、と言う要求水準である。
それはともかく、それぞれが別々のテーマをしていて、研究というのは新しいことをやっているわけだから、もくろみが上手く当たれば結構だが、外れたら何もなしに終わってしまう。
こちらとしては、全く何もなしという事態だけは何とか避けたいから、出来るだけ早く、事前に手を打たなくてはならない。
と言うことは、普段の勉強が欠かせない。いったい毎日何時間もPCの前に座って、論文を読んでいるのだろう。
全く暇な時間がない。読む速度も能率も、そして意欲も昔に比べて落ちてきていると思うけれど、状況は言い訳を許さない。ありとあらゆる時間を投じるしかないというわけだ。
と言うわけで、まだ夕方の6時だというのに疲れ切って、もう投了したい感じである。
ま、明日があるさ。良い言葉だ。何時までも、明日があるさ、と思って生きていこう。
コメント:
教授がアルバイト みのもんた さん
>つまり大学の先生が会社から仕事を請け負って院生にそれをやらせて、従って論文一つもなしに修士課程を出るというのがここではまかり通ってきていたらしい
そのとおりですね。プライド、根性のかけらも感じられませんね。まさにしにたい。 (2009.12.12 01:27:59)
つぶやき shanda さん
これについては言いたいことが山のようにありますが、今はお客なのですから周りを不快にさせてはいけません。 (2009.12.15 08:35:58)
カテゴリ:日本人教師の会
何時ものように午前中はJournal Clubで、笑笑と私が当番。笑笑(本名は張笑、小張と呼ぶのが一般的だが、私は同じ発音で笑笑と呼んでいる)普通だがが試験のために10時までこられないので私が先にやった。
昼には終わって、卒業研究生の姜嘉慧さんの21回目の誕生日なので一緒に食事に行こうと誘われた。彼女は朝、誕生日だと言って自分でお祝いのチョコレートなどを呉れた。行きたかったが午後は教師会の定例会である。
定例会は、劉凱さんのお店を借りて開かれた。今日は全員参加18名。それに新入の吉田登美子さん。私が今日は司会役の当番。
議題の一つとして「資料室再興ワーキンググループ」立ち上げを提案していて私が趣旨を述べた。昨年春まであった資料室を知っている会員は既に半分となった。今ここで行動を起こさなければ、このまま資料室という記憶のないことが定着してしまう。
資料室を知らない会員からは、そんなことを言われてもと言う戸惑いの反応があった。一方、以前のような機能を持った資料室が出来ない心配はあるけれど、資料室があって良かったことを思い出して、行動に移そうという意見が多かった。
数人の先生たちがワーキンググループに名乗り出てくれた。
5時半からは会場を新南国美食に移して、懇親会・忘年会・送別会。領事館からは松本盛雄総領事が所用があって出席できず、代わりに加藤主席領事、羽田領事が出席した。劉凱さんの唄を聴いた。
高級な店で安く上げようとするから、食事は美味しい料理を食べたと言うよりも、飲茶の主食系でいっぱいになったと言う感じだった。
セミナーで何十年と人前で話してきたが、今日は初めて上手く説明できなかった。定例会では司会をしながら、「専家証」と言う言葉が出てこなかったり、言い違えをつづけて指摘されたり、これは、やばい。。。
カテゴリ:生命科学
生化学の試験の採点をした。
問題のうちの次の問2は、インターネットに「良く分かりません」というコメントと一緒に載っていたもので、日語班の学生でもこれを見ていることはないだろうと思ってこれを借りて出題した。
問2.ヒトの脳には平均3mMのATPが存在する。これは他の物質に比較して高濃度である。脳や心臓は、ATP合成が停止すると約20秒で消費される量でしかない。生理学的条件下では脳のATP濃度は一定に保たれている。
1)成人の脳の体積を1.5リットルとして、1日に脳内で合成されるATPの総量を計算しなさい。ATP の分子量は 507とする。8点
2)このATPは全て、グルコースの完全酸化で合成されている。1日に脳で消費されるグルコースの総量を計算しなさい。
ただし、グルコース(C6H12O6)の分子量:180とする。
グルコース1分子から38モルのATPが生成されるものとする。8点
1)の答:
3mMの濃度なので1.5リットルには4.5ミリモルある。
20秒でなくなるから、1分ではその3倍の13.5ミリモルが合成される。
1日は24時間。1440分だから、13.5x1440=19440ミリモル作られる。
つまり、19.44モル。
507x19.44=9860グラム 9.86 kg
2)の答:
1モルのグルコースから38モルのATPができるから、
19440ミリモルを38で割ると、0.551モルのグルコースになる。
グルコースの分子量は180だから、
180x0.341=92グラム
それぞれが8点の配点で
1)の答の平均が5.8点
2)の答の平均が5.6点
だった。
70%前後だから悪くないみたいだが、このような計算は論理的な考え方の基礎なので、もっと出来るかと思った。
カテゴリ:薬科大学
実験室が隣り合っている袁丹老師の中日成薬分析研究室が創立10周年の節目を迎えて18日に記念祝典が催されるという。
袁丹老師は北海道薬科大学の鹿野教授のところに留学して学位を得て、薬科大学に戻って教授になり、はじめは鹿野教授も客員に迎えて研究室を開始したらしい。
18日午後からは日中漢方研究者を集めてシンポジウムを開催し、夜には感謝晩餐が開かれる。プログラムを見ると、私の名前も入っている。私は漢方とは無縁だが、ご近所でもあるので招かれたら出かけなくてはならない。
招かれたままでは申し訳ないのでどうしたらよいか考えて、花を贈ろうと思いついた。うちの学生の張嵐さんに頼んで近くのお花屋さんに注文し、今朝花束を持ってきてもらった。
なかなか豪華である。あさ、袁丹教授の部屋に届けたときは、ほかにはなかったのに、帰るときにはもう数個の花束が並んでいた。きっと明日の会場を飾ることになるに違いない。
実は風邪気味で、体中がだるくて、午後2時は早退し、うちで休養を取った。
カテゴリ:薬科大学
袁丹老師は、1985年薬科大学の中薬学院を卒業、1990年に修士と言うことはおそらく卒業して大学のTeacherになったのだろう。
1996年から98年北海道薬科大学の鹿野研究室に留学して1999年博士を取得。
北海道薬科大学がこの薬科大学と学術提携したのが1987年。そのときの北海道薬科大学の国際交流委員長が鹿野教授だった。薬科大学から留学生を受け入れても数が知れている。いっそのこと、自分の研究室の半分の機能を中国の薬科大学に移してそこで学生を育てようということになった。
それで、鹿野教授は兼任で、袁丹老師がこの共同研究室の副教授となって1999年研究室が発足したと言うことである。
それ以来発表論文58編(そのうちSCI収録誌は25編)。
博士4人、修士25人を送り出しているそうだ。