前回、『 2009年1月25日、 山寨(さんさい=パクリ)が中国の08年の流行語の1つに選ばれた。春節(旧正月)には国民的年越し番組「春節晩会」(春晩)の「山寨版」まで登場し、話題を集めた』と言う記事を載せた。その時に私の理解不足から誤解を生じているかも知れない。ここに再度書いておきたい。
というのは、培地の偽物のために迷惑を被った学生の陳陽が非常に憤っている。怒るのはもちろん当然だと思うけれど、つい「だって中国では山寨文化が花盛りで、皆にもてはやされているじゃないの。」と私は言った。
すると陳陽は憤然として「あれは山寨ではありません。偽物なのです。偽物を作って売るなんて非常に迷惑です。」と言う。
それでよくよく聞くと、山寨はそっくりさんのことを指していうのだそうだ。一方偽物は假货という。Pradaに対するParadiの、 iPhoneに対するHiPhoneは、そっくりだけど別のもので、消費者を瞞しているわけではない。消費者は別のものと知っていて、それを選ぶのだという。本家本元よりも消費者の人気を集めるところがもてはやされる山寨文化なのだ。なにしろ『米Apple社「iPhone」の山寨版「Hiphone」は1台1000元(約1万3000円)で売られて、世界で1億5000万台を売り上げる大ヒット商品に』なったという。
つまり山寨はヒーローであり、『権威や権力に真っ向から立ち向かう「知恵や勇敢さ」が国民から支持されている』のだ。私はこの山寨の精神と、偽物を平気で作る気質を一緒にしていたが、中国人にとっては別物というわけだ。
となりの部屋の池島老師にこの培地の偽物の話をした。池島老師は自分の研究室を調べて、今まで偽物は入っていなかったと言うことだったが、ついでに面白い話を聞いた。
昔はタンパク質というと実際にそれを含む材料から抽出するしかなかったが、今では遺伝子を大腸菌に入れて好みのタンパク質を作らせることができる。問題は大腸菌が持つ細胞壁の一部のリポ多糖の一部であるリピドAで、これが私たちの体内に取り込まれると致死性ショック、発熱を引き起こすので、内毒素と呼ばれている。
したがって生物製剤に内毒素が含まれていては危険なので、この内毒素の量をカブトガニの血液からなるリムルステストで 調べる。池島老師はある時内毒素を調べる必要があって、このアメリカ製品のテストキットを日本から買って持ってきたが、中国製品が安いのでそれも買って比べてみたという。すると、中国製品は感度が米国製に比べて10分の1だったそうだ。
つまり、内毒素があっても、中国製品では白という答えが出ることになる。注射薬は原則的にはすべてこの内毒素のチェックが行われる。内毒素によりエンドトキシンショックを起こすと大ごとだからである。中国製の試薬で調べて合格した注射薬でも、ことによると危険かも知れないわけだ。
注射薬のエンドトキシンのチェックをするということが義務づけられていても、それで大丈夫かどうかを問うことがないという姿勢は心配だが、これは日本でも同じようなものだ。耐震強度の偽装問題にしろ、ちょっと古いが雪印ミルクの集団中毒事件にしろ、検査態勢がいい加減でひどいことが頻発してきたから日本も中国に対して偉そうな顔はできない。
日本人よしっかりしてよ、と言いたいのだが、エコノミックアニマルに徹すると、 ミートホープ牛肉偽装事件をはじめとする牛肉産地偽装や、船場吉兆の刺身の使い回し、不二家の生菓子、石屋製菓の白い恋人、伊勢の赤福、比内鶏、 博多っ子本舗の明太子、最新では竹原田ファームの餅などの生産日付偽装、などがぞろぞろ出てくるわけだ。
儲けることが幸せの尺度である限り、人は嘘をついても儲けようとするだろう。数十年前の日本は貧しかったかも知れないが、人を瞞しても自分だけは儲けようと言う風潮はなかったと言っていい。幸せを金ではない別の尺度を計る社会を目指さないと、人に対する不信に溢れる情けない社会のまま、結局は自分の首を絞めることになるだろう。
ちょうど日曜日の朝である。日曜日の朝食にはホットケーキを作ることになっている。今までは日本からホットケーキミックスを運んでいたけれど、今は家楽福に森永のホットケーキミックスが置いてある。この数年の間に、とても暮らしやすくなったと言える。
今朝のホットケーキはミルクの味が強い。まるでミルクを沢山入れすぎたみたいだ。今のミルクにはメラミンの代りを入れているのだろうか。
まさかと思いたいけれど、何でもありなのがこの愛すべき中国なのだ。
ホットケーキに、メープルシロップは高価なのでもっぱら蜂蜜を掛ける。今日口を開けた蜂蜜はずっと信用して買っているメーカのものだが、水飴の味がするような気がする。蜂蜜よ、お前もか。
中国の大学院入学志願者は毎年1月半ばに中国全土で一斉に行われる入試を二日間に亘って受ける。全国統一試験である。ただし大学ごとに一定の人数が成績優秀と言うことで入試を免除される人もある。彼らは推薦で志望の大学院に入学希望を出すことが出来る。
薬科大学でも推薦を受けて私たちの所に進学した胡丹みたいな学生もいるが、大抵はこれぞ好機会とばかりにほかの有名大学あるいは国家の研究所に行くことが多いようだ。
入試の成績がよいと、推薦入学者を含めて上位40%に入いっていると学費免除である。おまけに毎月200元のお小遣いが大学から貰える。これで毎日二食分はまかなえる。修士課程の学費は1年間13,000元なので、為替レートで計算すると、日本円で181,000円となる。日本人の感覚なら年間学費がこれなら大した ことはない。日本の国立大学大学院の年間授業料は確か55万円くらいだから。
でも年間の一人あたりのGDPを見ると、日本では $34,312に対して、中国では$2,460と、日本の14分の1である。それで、同じ価値になるように先ほどの18,100円を14倍すると253万円になる。これは凄い額である。日本でも、子供の大学院の1年分にこの金額を快く出せる家庭がどのくらいあるだろう。わたしは今日本では無職だが、勤めていた頃だってとんでもない額だと思う。つまり学費はとても高い。
と言うわけで、学生が大学院を受けるにしてもただ合格すれば良いというのではなく、良い成績を取るために必死で勉強をする理由が分かっていただけると思う。
学部の最終学年に在学している張笑さんは、この秋に始まる修士課程で私たちの研究室に進学することを希望して入試を受けた。彼女のほかの同学年の学生で、日本の大学院に進学することを決めている二人の学生は、受験勉強をしなくて良いから昨年の10月から研究室に来て実験を始めていた。張笑は彼らを尻目に毎日必死で勉強したに違いない。2月27日になって入学試験の結果が発表されたが、それによると張笑は私たちの研究科では1位の成績だったという。入学試験の終わったあとの晴れ晴れとした彼女の顔は、それはもう輝いていて、「そうか、そんなに頑張ったのだね」という感じだった。
朱彤は大学院で薬理の研究室に行くので、私たちの所を受ける張笑とは専攻が違う。朱彤も彼女の専攻では入試一番の成績だった。
その彼女が私の所に来て言うには、「大学院は別の研究室に行くのにここで卒業研究をさせて欲しいと言うわがままを聞いて呉れてありがとう。
大学院の入試を終えて自分の将来をいろいろと考えてみたけれど、大学院は先生の研究室に進みたいと思う。受け入れて貰えるだろうか?」
今 年度の卒業研究生は私たちの研究室には4人いる。4人の顔ぶれの中で 最後になる朱彤さんは、大学院では呉老師の研究室に入って薬理学を勉強したいけれど、卒業研究は私たちの研究室でやりたいという。
他所の研究室に行ってしまう人に半年間の基礎研究の手ほどきをするのは労多くして効少なしだが、彼女は私の分子生物学の試験で考えないと答えられない問題を出したのに、抜群の成績を取った学生である。
試験で記憶だけに頼る問題は余り出したくない。記憶している三つ以上のことを有機的に結びつけて考えないと答えられない問題をこちらも考えた。すると90人いる学生の中で完全に答えられたのは彼女だけだった。半分の点を上げられたのが3人。あとは軒並み駄目で、中国の学生は記憶するのが勉強と思っているけれど、考える力は殆ど養われていないことが如実に示された。
生化学の講義で朱彤は私の間違いを指摘したことがあるし、分子生物学の講義では私には答えられない質問をした。こういう学生は私のお気に入りである。だからたとえ半年で逃げられようと卒業研究はここでOKと答えたのだった。
大学院の進学先の研究室を選ぶのは学生の権利である。彼らは好きに選んで良い。ここに来たいと思い、そしてこちらが良ければそれでよい。もちろん 呉老師が納得なら、朱彤を私たちの研究室に受け入れることはOKである。
事情を聞いてみると、彼女の家系は糖尿病を発症していて、そのために糖尿病の薬理を研究したいという大きな目的を抱いて来た。しかし彼女も糖尿病関連遺伝子疾患を持っている可能性は零ではないので、両親とその主治医は、 糖尿病の薬理を研究したいと思い詰めずに好きな研究を選んだらどうかと勧められたのが大きいという。呉老師も納得だと言うことだったが、もう一つ問題が出てきた。それは、この薬大では教授一人あたり7人の学生が採れるが、その中で学費免除の学生は4人までなのだという。朱彤がよそに出てしまうのにこの権利を使うと呉研究室では学生が一人はみ出てしまうことになるらしい。
それで彼女を形式的に受け入れる別の教授を捜して、その上で私たちの研究室に派遣される形にすることになった。と言っても私たちはこの大学の薬理の教授を殆ど知らないから、彼女が自分で見つけてきた。こう言うところは日本とは違う。学生は行動力がある。
所属の院生の数に応じて研究室には少額ながら人頭別研究費が配られる。これを別の研究室に派遣する学生に付けてやるかどうかは、そこの教授の考え次第である。名目の指導教官になっても配られた研究費は手元に入るし、悪いことではないのだろう。私たちもこのシステムを利用させて貰って、研究費はあっちに行ってしまうが、良い学生が確保出来るというわけだ。
1月27日に「 新年快楽 万事如意」と言う題で書いたように春節休暇中に資料室問題に展開があった。
それで休暇を終えて戻って来た私たちは3月7日に集まって今後の相談をした。集まったのは:石原、松下、土屋、伊藤、池本、有川、山形で、集まった場所は薬科大学の山形の部屋。
1月21日の会合は、すべては松本盛雄総領事が中国語を用いて初めから最後まで集まりの話を仕切って下さったと言うことである。教師の会の本を市図書館が受け入れることについて話がスムースに進んだのは松本総領事のおかげである。
休暇中に領事館の平柳領事から、この先は出来るだけ早く先方の瀋陽市図書館の周副館長と連絡して今後のことを教師の会の主導で進めて欲しいと言われていた。 つまりもう、領事館の手を離れた問題としてとらえられていると理解して良い。レールは敷いて上げたのだから、あとはちゃんとやりなさい。
それで私たちは集まって、今後の対応を相談した。もめる話でもないので1時間ちょっとでこの先図書館と会って話す内容の骨子が決まった。そのあと、夕方日本人会の中の九州人会に出席する池本、有川先生たちと別れて、残りの5人は市図書館を観に行った。
薬科大学から約1kmくらい南に向かって歩くと科普公園という広大な公園がある。この公園の中に市の図書館が建っている。幅70メートルくらい。奥行き200メートルくらい。階段状になっていて、一番高いところで6-7階の高さである。横から見ると三角形の積み木である。 この階段は東に向けて開けていて、つまり東側から階段を3階分くらい上がっていくと入り口に到達する。ここは2階と言うことになっていて、入ると広いホールがあり、受付を回り込むと建物の中央には天井までオープンの広い空間があり、その端をエスカレーターが、更に3階、4階、5階と上がっていくのが見える。 広場の北と南の両側にそれぞれ広い閲覧室が開けている。ともかくブッたまげるほど広い。
私たちは見学に来ただけで、ある意味で不審な行動を取っていたわけだが、誰も気にしない。2階にある社会科学の閲覧室に入って、外国語の本は何処かと聞くと3階の南の部屋だと言われた。
エレベーターで上がってその部屋にはいると、届け出なしに本を帯出すると ピーッとなる柱が立っていて、その中は開架式である。
係は一人が机に座っていたので、互いに会釈を交わした。部屋の広さは80平方米くらいだろうか。書庫は背の高さより低いくらいのスチールの本棚が10列くらい並んでいる。奥行きは4メートルくらいかな。
見ると日本の本は1列の両側に並べてあるだけで、新しい本はない。教師の会の本が加われば、それなりに日本の本の所蔵として瀋陽市図書館の株が上がるのは確かだと思う。
しかし、私たちの公称6千冊の本は段ボール70箱に入っているが、ここに並べたら書架幾つ分になるだろう?2-3列の書架で本がすべて収まってしまうなら、教師の会寄贈の本として特別の部屋を用意して貰えないかも知れない。
私たちの活動を支えるために日本の新しい本を含めて私たちは必要として来たが、本を手に入れるのはとても困難である。何度も日本から本を送って経験しているが、本は重くて、送料がかかる。日本の方々に本の寄贈をお願いしても、送料まで自分で持って送って下さいとなかなか言いにくい。
日本の出版業界も景気が悪くなっているという話だが、次々と出る新刊本は依然として早いサイクルで店頭から取り去られて断裁の憂き目を見ている。政府機関が予算を付けて一定の冊数の新刊本を買い上げ、中国を含めて諸外国の図書館に寄贈すると言うことにならないだろうか。日本の出版業界を救い、世界日本の文化を伝える立派な事業になる。
私たちの資料室の本を瀋陽市図書館に寄贈しても、ここに日本の本を置くことで、日中交流の種が蒔かれたと言うことだ。これからもどんどん本がここに増えるようにしたいし、それを願っている。
この時期に2兆円を納税者にばらまくという史上空前の愚行をするよりも、もっとましなことを考える首相が日本を率いて欲しいものだ。つくづく、情けない。
2009年2月7日京都の妙心寺花園会館で、瀋陽日本人教師の会の第2回目の同窓会が開かれた。これは2005年度の前期に会長を務めた多田さんが幹事役を引き受けて企画されたものである。
なお、第一回は2008年5月5日京都で開かれた。2005年度後期から2年半の間会長を務めた南本卓郎さんが提案して、京都在住の若松さんも手伝って開かれたと聞いている。
同窓会が2月に開かれたので春節休暇で日本に帰っていた私と妻も参加することが出来た。瀋陽現役組は私たちのほかに、遼寧大学(遼陽)の渡辺文江さんで、合計31人の参加という盛大な会となった。
7日12時半、花園会館で集合。私たちは新幹線京都で下りて山陽線を探した。
山陽線のホームに着いてしばらくすると、高山さんご夫妻(薬科大学03秋~06夏)が現れた。懐かしい二人に出会って、もう早速同窓会の開始である。お二人は昨年の6月に教え子の卒業に会わせて瀋陽を訪れているので、その時以来だ。電車がだんだん西の山並みに近付き、大文字焼きの大の字が見えたと喜んでいるうちに4つ目の「花園」駅に着いた。
駅を下りたところで、澤野千恵子さん(東北育才01秋~04夏)と一緒になった。生まれ故郷の瀋陽で日本語教師をしたあと北京の学校に移って中国語の勉強をされた先生だ。今は日本で英語、フランス語、中国語の勉強を続けておられると言うことだった。
花園駅から京都妙心寺までは指呼の間。その妙心寺の東隣にある花園会館は妙心寺と強い関係のあるところのようだ。フロントにいた人が、お坊さんの格好をしてその午後妙心寺見学を希望した私たちを案内してくれたのだから。
ロビーでは受付の多田夫人、稲田さん(医科大95-97年、遼寧教育学院02-03年)に会って「やあやあ暫く振りですね。」もうそれからは次々と懐かしい顔を見いだして、お互いに興奮気味。話が止まらない。
正式の同窓会は、3階の一部屋で5時から食事をしながら開かれた。参加者は:
石井康男(遼寧大学)、稲田登志子(遼寧教育学院)、大久保千恵(瀋陽朝鮮族第一中学)、岡田重美(遼寧大学)、加藤正宏(瀋陽薬科大学)、加藤文子(瀋陽薬科大学)、鉄本羽衣(瀋陽大学)、桐山吾朗(瀋陽師範大学)、桐山恒子(瀋陽師範大学)、河野美紀子(遼寧省実験中学)、斎藤明子(遼寧省実験中学校)、酒井和重(東北育才学校)、沢野千恵子(東北育才学校)、沢野美由紀(瀋陽薬科大学)、沢野瑠璃(瀋陽薬科大学)、高山正義(瀋陽薬科大学)、高山敬子(瀋陽薬科大学)、多田敬司(東北大学)、多田敏子(東北大学)、田中義一(瀋陽大学)、辻岡邦夫(東北育才外国語学校)、中道秀毅(瀋陽師範大学)、中道恵津(瀋陽師範大学)、南本卓郎(瀋陽薬科大学)、南本みどり(瀋陽薬科大学)、峰村洋(瀋陽薬科大学)、峰村尚代(瀋陽薬科大学)、山形達也(瀋陽薬科大学)、山形貞子(瀋陽薬科大学)、若松章子(東北育才外国語学校)、渡辺文江(遼寧大学)
企画・準備の多田さん、南本さんの挨拶のあと、今の瀋陽教師の会の状況を山形達也が報告。
必然的に2008年春から日本語資料室が閉鎖されていること、そして在瀋陽日本国総領事館の松本総領事の奔走で本を瀋陽市図書館に寄贈してある意味で存続する目処が立ってきたこと。
このあと司会を斉藤さん(遼寧省実験中学03春~05春)、峰村洋さん(薬大03秋~07年夏)がひきうけて、参加者それぞれが挨拶。人数が多いので一人の挨拶は30秒限定という注文だったけれど、誰もが瀋陽時代の話したい想い出が沢山あるし、瀋陽を去ってから今までの話したい事柄もいっぱいあるので、とても終わらない。終わるわけがない。
終了予定時間はどんどん伸びて、最後に峰村さんの作った替え歌「瀋陽教師の会」を歌い、これも峰村さんの替え歌「鬼のパンツ」を男どもが所作を付けて歌い、女性陣の爆笑を誘った。
最後に次回の同窓会幹事を中道さん(瀋陽師範大02秋~06夏)が引き受けて、記念写真を撮って9時過ぎ終了。
こうやって集まって懐かしい顔をみると、たちまちあの時代の教師の会の雰囲気に戻って、濃密な時間を過ごしたような気になった。しかし、それぞれの人たちと個別の話を十分にする時間はほとんどなく、終わってみるとそれが心残りだった。 同窓会の人たちとまた来年伊豆で出会う約束をして、私たちは翌朝10時に会館を出て、京都大学に留学している中国の学生二人に会うために京都に向かった。
同窓会のHPは: http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/dousoukai0.html
中国の私たちの研究室では、マウスなどの実験動物を使うことは考えたくないので、動物細胞を培養して実験材料として使ってきた。培養をするために培地が必要だが、これが偽物であるとはついぞ思わなかった。
培地は今はGIBCOが作ったRPMI-1640やD-MEMなどの粉末培地が世界標準で、それを買って来て純水に溶かして滅菌して、それに血清を加えて培養に使う。GIBCO社は今では買収されてInvitrogen社から発売されている。
昨年の秋から細胞の成育が具合悪くなった。血清を疑い培養ディッシュを疑い、いろいろと調べたけれど、Invitrogen社の培地を疑ってみることはなかった。私たちの使っている培地が偽物ではないかといわれて、こっちが本物だよと違う外観の包装の培地を見せられるまでは、細胞培養の具合の悪いのは最終的には培地の(しかも偽物の)ためだなんて思いもしなかった。
本物と言われる培地を使うと細胞の増殖が良くなった。昨年秋からおかしかった問題が解消した。日本にあるInvitrogen社に二つの培地の外装の写真を送ってお伺いを立てると、私たちの使っていたのは偽物だという。もう一つは外観からして本物だと言うことだった。
私たちはほかの種類の細胞も使っていて、このときの培地はRPMI-1640ではなくてGIBCOのD-MEMである。もしやこれは偽物ではないかと思ってじっと粉末の外装を見ると、ロット番号の桁数がRPMI-1640の偽物と同じで怪しい。バーコードの筋が汚くていかにもコピーを重ねたみたいだ。印刷してあるInvitrogen社の字体が綺麗に揃っていない。
それでこの写真を日本の Invitrogen社に送って聞いてみた。「これ、本物に見えますか?」すると返事は、これは偽物ですというものだった。やれやれ。(写真の左はにせもので、右は本物と言われたもの)
この代理店は北京にあるInvitrogen Chinaによると、正規の代理店ではないという。そう聞くと偽物を扱っていても不思議はないと思わせるところがある。
しかし不思議なことに、私たちが北京のInvitrogen China に電話して瀋陽にある代理店を教えられて、そこからRPMI-1640を持ってきて貰ったら、何と包装の外観は偽物と同じだったのだ。
これはその場で突き返したが、あとになると、証拠として手に入れておけば良かったと言うことになる。
日本のInvitrogen社で聞くと、この北京推薦の代理店は正規のものではないという。一方アメリカのInvitrogen経由で連絡が付いたInvitrogen Chinaのひとは、その代理店から買えという。
情報が混乱している。一体どこで買えば本物が買えるのだろうか。どれが本物なのだろう。それぞれ中身を分析してみたい。中国にはかなり大がかりな偽物造りの組織があるのだろう。中国で発表される論文数と比例しているはずだが、ここで本物のInvitrogen の培地はちゃんと売れているのだろうか?
私たちがここで過去5年半使っていた細胞が、本物ではなく、偽物育ちだったかも知れないと言う可能性に思い至っている。培地を買っていた店の言葉からすると、ずっと偽物だったのではないか。
この先は本物の培地を手に入れて細胞培養をしよう。それにしても今までのことを、どう考えたらよいのだろう。日本とは細胞の具合が違うと思いつつも、それを使って研究をして論文を書いてきたのだ。
2月の末に春節休暇を終えて戻ってきたら、瀋陽は一週間前に降った大雪が溶けやらず、まだ零下の世界だった。それでも、ドロヤナギの細い枝先では芽が膨らんでいる。
大学に行くために朝7時にうちを出て、凍り付いた道を気をつけながら歩いていると、大体朝の太陽の昇る位置が大分左に寄ったし、12月のこの時間にはまだ地平線の下にいた太陽はもう大分高く昇っている。光が明るく踊っている。気温は零下だけれども、もう春の気配だ。
私たちの住んでいる16階建ての教授楼の西側は片側4車線の大通りに面していて、バスは11系統が通っている。系統が違ってもあるところまでは共通の経路を通るから、乗れるバスは11本に一つと言うことはない。だから一つの停留所にバスが来る度に大勢の乗客で大混雑である。
昨年の北京のオリンピックを契機にバスには並んで乗ろうという運動があった。瀋陽でも一時言われたみたいだが、全く定着しなかった。だって、どのバスが自分のバスなのか分からないのだから、並んで待つなんて無意味である。バス停はバス乗り場という一つの入り口があるわけではなく、自分の乗りたいバスが来たら、ともかく我勝ちなのだ。礼儀をわきまえようなんてお題目は吹っ飛んで、ともかく自分が我先に乗ろうと思わないと、中国では生きていけない。
ところがこの春の瀋陽の驚きは、バス停に改革があったことだ。道路に沿って柵ができて4カ所の乗り場が作られていた。乗り場というのは柵が出来て、道に面して人一人分の通り道が空けてあるのだ。その高い柵の上にはそれぞれのバスの系統が書いてある。
大体11系統のうちバスの3系統くらいはこの近辺で共通の経路を通るから、一緒にして良いわけだ。これだけで、大混雑が少し解消した。あとはバスに乗るときは並んで一人ずつと言うことになって欲しいもので、見ているとちゃんと並んで順番に乗っているではないか。もちろん柵を回り込んで道に降りて横から割り込む人もいるので、やはりここは中国と一安心したのだが。
もう一つの発見はうちの面している両側8車線の道の、交差点ではない場所に昔からある横断歩道に起こったことだ。世界花博覧会が瀋陽で開かれたときには、この横断歩道では両車線の真ん中に、一時は段差が出来て歩行者保護が図られたことがあったが、今はない。
道の向こうのスーパーに買い物に行くとき、剥き出しの身で道を渡るときは恐怖にアドレナリンが奔出し、うちに帰ると近場に行ったのにかかわらずひどい疲れが出る。
瀋陽に戻って気付いたのは、この横断歩道の直前に、走ってくるクルマに対して大きく赤色で「停」とあってその下に「譲行人先行」と添えてある。クルマにここは「停まれ、歩行者優先」と言っている意味だと、私にも分かる。
これは凄いことだ。クルマを乗り回す人たちは特権階級であり、歩く人はアリみたいにしか思わない意識が変わろうとしているのだ。クルマに乗る人たちが増え、クルマに乗っている人たちもクルマを降りればただの人だと言う、ごく当たり前のことに気付いてきたと言うことだろうか。
ただし、人がこの横断歩道を渡っていても、あるいは渡る気配で歩道にいても、クルマは止まらないし減速もしない。それでも、横断歩道に「歩行者優先、クルマは止まれ」と書いて知らせるようになったのだから、これは凄い進歩だ。
それでも、歩行者が横断歩道を自分が歩いているとクルマが止まると信じるようになるのにあと何年かかるだろうか。
大学のキャンパスに入ると、大学の構内にはまだ掻いて積み上げた雪が沢山残っている。この時間はまだ人影がないのに、構内のあちこち(つまり庭と言っていいだろうか)で英語のリーダーを大声で読む学生がいる。
日本から来る先生たちが先ずびっくりして、中国の学生は勉強熱心だと思って感激する風景だ。私たちももちろん最初は驚き感激した。しかし分かってみれば、学部の学生は全寮制の生活が強いられている。4人一部屋の寮生活である。いくらなんでも、部屋の英語を大声で暗唱する訳にはいくまい。
あっちでは階段の上に一人が立って、それを一クラスとおぼしき25人くらいの学生が囲んでリーダーの言葉を繰り返して英語を暗唱している風だった。英語劇でもやるのだろうか。白けないで一生懸命に何か取り組むというのは、中国の大学生に見られる特徴である。日本では今の高校生でも無理かも知れない。私の青春と重ねてつい共感の好意を持って彼らを眺めてしまう。
動物細胞を培養するとき、培養している動物細胞の成育の悪い原因は第一に用いている血清にある。動物細胞の培養に、仔牛血清を使うのは百年くらいの歴史があるはずだ。この血清の中の有効成分は今では細胞の成育因子(成長因子)であることが分かっている。
正常の細胞は決して自然に増えていくものではなく、外から「増えなさい」というシグナルとしての成長因子が来て初めて細胞はそれに反応し、DNAを倍加して 細胞分裂に乗り出すのだ。ガン化した細胞では細胞自身が細胞増殖のシグナルを出すから、外の成長因子に依存していない。
この仔牛血清は生まれる前の仔牛を無菌的に取り出してその血清を搾り取る。もちろん仔牛は死んでしまう。だから、かなり高価である。日本にいた頃、500ml の一瓶が3万円くらいだった。これで5リットルの培養液が出来る。普通に細胞培養を研究に使っていて、一人が2ヶ月に血清を1本を使う程度だ。
ここの大学で貰っている年間研究費は5万元(約70万円)である。日本並みの血清を使っていたのではそれだけで研究費を使い切ってしまう。幸い、中国では値段が約10分の1の血清を売っているので、私たちはこれを使ってきた。最初は恐る恐るである。日本と同じ条件でなくなっても、細胞が私たちの目的にとって同じ性質を保持するならそれでよいと割り切ったのだ。もちろん割り切るしかなかったわけだが。
血清が替わると細胞の成育には影響がある。日本にいると、こう言うときは試薬会社から様々なロットの血清を試験用に手に入れて、細胞の増殖と性質を調べて、一番良いと思うロットを決める。それを少なくとも2-30本は買い入れて冷凍庫に保存する。
中国ではロットという概念がないから、その血清が良いか悪いか、当たるも八卦、当たらぬも八卦というか、神頼みである。細胞の成育が悪いときは大抵血清を替えると良くなると言うのが私たちの経験である。
細胞を培養するときのディッシュも細胞の成育に大きな影響を与える。プラスティックの皿の表面に加工がしてあって、そのおかげで本来はプラスティック表面には生えない細胞が育つ。しかしこの加工が時たま悪いことがある。これも経験で知ってきたことだ。
しかし培地そのものが偽物であるとはついぞ思わなかった。
そうなると今までここで買って使っていた粉末培地がすべて偽物だった可能性がある。日本と比べて細胞の成育が良くないと思っていたがその原因は血清のためだと思っていた。日本で使っていたような高価な血清は買えないのだから仕方ないと思っていた。そして昨年の秋になるまでは、偽物の培地かも知れないが、細胞は曲がりなりにも育って、研究に使われてきたわけだ。
私たちはこれらの培地を同じ代理店から買っている。この代理店は、私たちがRPMI-1640の偽物に気付いたときに、本物を持ってこいと言ったら本物を持ってきたところだ。そこで今度は、D-MEMの本物を持ってこいと言うことで学生の陳陽が電話をした。
すると先方が言うには、「確かに今まで売ってきたGIBCOの培地は偽物でした。しかし、Invitrogen社製の本物は高くて中国では売れません。出回っているのは殆どが偽物です。でも、これは安いのでどこでもこれを使っています。」
「・・・」未体験ゾーンに放り込まれてただ呆れるばかりである。
私たちはこの店からずっと偽物を買っていたらしい。先方の立場になってみると「私たちは安いのを買っているのだから、当然偽物と言うことを承知しているだろう」と思って偽物を売っていたのではないか。私たちはここが安いと認識したことはなかったし、培地が偽物かも知れないとは思いもしなかったのだが。
そして偽物製造が事故か何かで、ちょっとおかしな内容になった。その結果細胞がおかしくなり研究が出来ず私たちが原因を探り始めて、とうとう、中国で買う細胞培地は殆ど偽物らしいと言う壮大な出来事にぶつかったというわけだ。
動物細胞は贅沢で、培養には細部が生きていくために必要なものすべてを与えなくてはならない。おかしなもの(毒物と言ってもいい)の存在に細胞は敏感である。
書き出すときりがないが中国で手に入れられる普通の試薬は純度という点で不安がある。
たとえばタンパク質の銀染色がどうしてもうまくいかない。炭酸ナトリウムが不純でタンパク質の銀染色が出来ない原因となっていることを見つけたこともある。
これは銀染色に必要な試薬をすべて日本から持ってきて一つ一つを取り替えて見つけたのだった。
中国の偽物の培地で5年以上ここでやってきたと言うことは、偽物培地は私たちと、私たちの細胞を長年に亘って欺けるほど、本物そっくりだったわけだ。
そのくらいなら別のブランド名を付けて売ったらいいのにと思う。前にも書いたが、Pradaのブランドに対してParadi、Panasonicに対してPenesamiG、iPhoneに対してHiPhoneを作って、堂々と本物に対抗して山寨文化を築いているのが中国なのだ。本物に対して明らかに偽物だが、ここまでいくと喝采を叫んで応援する一般庶民の気持ちも分かってくる。
Invitrogen社の偽物のGIBCOの培地が、Invitrogene社という名前で出ると、これは山寨文化になるはずだ。そしたら買うかって?いや、買うわけはない。だから、全くの偽物を出して私たちを瞞してきたわけだ。
ともかく今回の件では、 『怒ると言うより笑っちゃうくらい、ただただ呆れている』ってところだ。中国人のしたたかさに、私たちは明らかに負けている。
教師の会のHP、研究室のHP、さらには野呂先生のHPが中国から見られなくなったと前に書いたが、2月末に休暇を終えて瀋陽に戻ってくると、驚いたことに、そして嬉しいことには瀋陽から見られるではないか。
中国でYahoo.geocitiesのサイトが軒並み見られなくなったのは昨2008年10月初めからだった。遮断される経験は何度もあったがそれまでは数日で元に戻ったので楽観しているうちに、一月二月と経った。
HPをネットで見られないまま内容を更新していくのもやり難い。しかも中国にいるのに見られないHPでは教師の会のHPとしては失格である。それで別のサイトを探して新たにHPを立ち上げることを試みた。
ところが無料のHPのサーバーでは、容量に限りがあったり、使い方の規制があったり、Yahooに慣れていたので使いにくい。それで12月の教師の会の集まりで状況を訴え有料でも良いだろうかと尋ねてみた。
すると月千円を上限として探して良いと言うことになった。
さて、1月末からは休暇で日本に行ったが、このHP立ち上げも宿題の一つだった。実際上は新しく立ち上げる以前に、現状のHPにまだ載せなくてはいけないことが山積みになっていた。日本に行けば、今まで通りYahooに作ったHPを見ることが出来る。それで、先ず未完のところに注力しようと思って、休暇の終わりはYahooでHPの内容をちゃんとしたものにすることに頑張った。
だから、別の有料サイトを試すゆとりもなかった。もちろん日本で有料サイトを始めても中国でそれが見られなかったら全く意味がないので、日本で始めることに躊躇したのも事実である。
それが2月の末に中国に戻って、ここからでも見られることを見いだし、おおいに喜んだ。YahooのHPに力を入れたのでコンテンツが充実したのだから。と同時に、5ヶ月近く中国ではアクセスが遮断されたので この先、この平安が続くという保証はないと言う不安がある。
『中国のインターネット規制システムは世界でもっとも洗練された、完成度の高いものであると言われている。』「中華的雑記帳」による(http://chenyu.seesaa.net/article/12582250.html#comment)
『アメリカ国務省の調査によれば、中国にはインターネット規制のために少なくとも3万人以上の専門家が政府職員として雇われており、政府の意図に反するインターネット利用者(政府・共産党への批判など)を取り締まっている。更に当局にとって好ましくないネット使用者を取り締まるために、全国に警察要員が配置されており、ホームページや個人メールを検閲して、政府・共産党にとって有害な情報を探し、その当事者を取り締まっているという。』
『国外サイトについては、直接的な閉鎖命令は不可能なので、途中でアクセスを遮断する方法がとられている。中国国内からインターネット経由で国外のサイトに接 続する場合、政府が管理する6つの仲介コネクションを経由しなければ中国から外にでることができないようになっている。
そこで、このゲートウェイと大防火壁(グレート・ファイアーウォール)といわれるシステムを利用して、特定のサイトへの接続を遮断したり、電子メールに政府の好まない特定用語があった場合にそれを自動削除したりしているとのことである。』
中国のインターネット利用者は2008年6月末現在で2億5300万人に達し世界一なのだそうだ。しかし総人口13億人としても、人口比で行くと一部国民しか利用していないと言える。日本では2007年、ブロードバンド世帯普及率は50.9%と全世帯の半数を超え、全人口の6割以上がインターネットを利用している。
経済力が上がるにつれて利用者は増加し、その人たちの要求も増えていくだろう。政治的な抑圧の中で爆発を防ぐための落としどころを探す当局の試みの中で、インターネットの規制はいろいろと揺れていくにちがいない
腹の底には、この平和が何時まで続くかというどうしようもない不安があるが、実際どうなるか誰にも分からない。不時に備えて別のところにも作っておけばいいけれど、教師の会のHPくらいのサイズになると、もう実に面倒である。
インターネットの規制は気に入らないが、中国の政策である以上、「入郷随俗」である。中国に滞在して仕事をしているお客の身としてはそれに従わざるを得ない。
教師の会のHPは中国当局が問題にするようなことには全く触れていないから、規制する必要はないはずだ。希望としては当局の技術が上がって規制がますます巧緻になり、いっぱひと絡げにgeocitiesを規制するのではなく、問題のサイトごとに遮断するようになって欲しいものである。
温かい人柄と知性がにじみ出たような笑顔を持った若い女性が私たちの部屋を訪ねてきた。中国語で何か言い出したが、通じないと分かると即座に綺麗な英語に切り替えた。彼女は郭さんと名乗った。学長の研究室で講師をしているそうだ。
「6月にこの大学と中国薬大、それに香港と台湾の薬学研究者が香港に集まって会議を開くのですが、学長が、山形先生にも出てご自分の研究を発表して欲しいと仰っています。どうでしょうか?」
「ええと、6月の何時なのですか。一つには、6月は日本から薬科大学に講義に訪れることになっている先生が二人いるんですよ。6月9日から16日の予定です。 それとぶつかるとまずいですね。それに6月は卒業月だから、私たちのところでも修士4名、卒業研究生4名の発表があるときでしょ。とっても難しいんじゃないかなあ。香港は行ったことがないから、行っても良いとは思うけれど。」と、会議参加の要請を断るつもりなのに、美女を前にニコニコする私。
彼女は「時期は6月12日-15日です。向こうの宿泊はフリーです。」という。
「何しろちょうど、訪問時期と重なりますね。日本から講義に訪ねてくる先生は都合を付けて、やっと9日から16日までなら瀋陽に来ることが出来ると言うことになったのですよ。時期をずらせるかどうかわからないけれど、聞いてみるしかありませんね。」と言った上で、更に聞いた「旅費は大学から出るのですか」。
彼女は「いえ、自分の研究費から出してくださいとのことです。」という。それなら答えは簡単だ。私たちの研究室には外国に出掛ける余分の金はない。「それなら無理ですよ。研究費は研究に手一杯ですもの。」と、私はこの段階で参加要請を断ったつもりだった。
美しい彼女は眉をひそめて「とても残念です。」と言って帰っていったが、すぐに戻ってきた。そして「学長は大学から旅費を出すから是非参加して欲しいといっています。」
断る理由の一つが潰されたわけだ。旅費が出ることになったのだから、その時期に訪ねてくる友人の先生たちが時期を変更してくれれば,生まれて初めて香港を訪ねることが出来る。「それでは、メイルを書いて先方に聞いておきますね。」
ところが、6月に訪問予定の先生にメイルで時期を変えられるか尋ねたところ、直ぐに「とんでもない、やっとその時期に瀋陽にいけるよう遣り繰りを付けたのだ」という返事が返ってきた。うむ。仕方ない。香港行きは断るしかない。
一方でとなりの部屋の池島先生が私たちの部屋を尋ねてきて、「6月に香港で学術会議があるので参加するよう大学から頼まれました」と話し始めた。先ほど女性が尋ねてきたとき、池島先生はほかの用事で私たちの部屋に来たので、彼女とのやりとりを耳にしていたのだ。
池島先生は続ける。「私は何時でもべらぼうに忙しいけれど,ちょうどその時は、毎週3日間やっているセミナーにぶつからないし、中国語で40時間も持っている免疫薬理学講義も終わるところだし、時間を空けて出掛けることが出来るんですよ。」
「昔の香港は面白いところが一杯あって、今まで3回行ったことがありますね。でも返還後はすっかり綺麗になってしまって、つまらないただの大都市になってしまったから、遊びに行って面白いところではないですけどね。」
「台湾や香港の先生たちは、いい研究はしているかも知れないけれど、自分たちはアメリカと提携してやっているんだと言うことを自慢げに話すんですよ。よそと組んでいることが自慢なんですね。こっちはそんなものなしでやっているのにね。」と池島先生。
ここのところは彼の意見に私も全面的に賛成だ。「この大学でも何処かよそと組んでいることが自慢になりますね。自分たちに力がないことを告白しているようなものです。池島先生がほかのところと組んだりしないで自分の力だけでこれだけの成果を出していることこそ、この大学が先生の存在を自慢して良いことですよね。どうか先生も会議で十分に研究成果をショウオフしてください。ついでに、先生、会議で香港を楽しんできてくださいな。」
池島先生はもう中国に来て11年経つが、60才になったばかりである。まだまだ中国でよい仕事をして、中国に根を張って中国の薬学界に大きな力を持つことが出来るだろう。小柄だが体中にエネルギーが満ちあふれている。こちらは何時も彼のことを精神的にだが、心から応援しているのだ。
瀋陽で日本語を教えている日本人の先生たちが作っている集まりに私も入れて貰っている。この会の特徴は会員それぞれが何かしらの役に参加することだ。
毎年4月に開かれる弁論大会の係り、5月に開かれる日本語文化祭の係り、12月に開かれる日本人会主催のクリスマス会の準備委員、書記・会計の係り、研修・レクリエーション係、日本語クラブ編集係、資料室係り、ホームページ係など。
私は日本語を教えているわけではないので、会の中では弁論大会とか文化祭とか、日本語教育と大きな接点のある役は遠慮してずっとホームページ係を引き受けてきた。PCには詳しくないし、ずっとMacを使ってきたからWindowsなどこの仕事以外触ることもないので、適任とは思えない。しかし、この中国で日本語の教育に献身している先生たちの少しでも役に立ちたいという思いが強かったので、これなら出来るだろうと志願したのが2003年9月だった。
実際には初めてWindowsを触ったので最初のハードルはとても高かった。翌年の2月に相棒だった河野先生が日本に戻ってしまい、否応なしに自立して教師の会のHPを作らなくてはならなかった。
引き受けたときには前年度までのHPは出来ていたので、そのあとの更新が出来れば良かった。弁論大会の更新や、会員情報の更新が出来るようになるにつれ、日 本語クラブも載せたくなったし、瀋陽で暮らしていくためのノウハウも載せたいしと、だんだん欲が出て、 教師の会のHPのコンテンツはどんどん膨らんだ。
2000年6月に瀋陽に開設されて教師の会が活動の拠点にしてきた日本語資料室が、2006年春には閉鎖されてしまった。それで新しい場所探しや、引っ越しを一緒に経験することで、教師の会の会員は互いにとても仲良くなった。
これには2004年からは私のいる薬科大学の日本人教師の数が一挙に6人に拡がったことも大きい。そのまま翌年、翌々年も同じキャンパスで一緒に過ごす先生たちが増えたので、薬科大学の中でも親しい仲間が増えた。
この仲の良かった人たちが2007年の夏にはごっそりと抜けてしまった。2007年にはその年度初めにいた先生たちのうち18人が瀋陽を去ったのだ。教師の会の集まりに行っても,親しい人たちがいない。まるで初めてこの会に出たときのようだ。それで私にとって教師の会の活動は大して身が入らないものとなってしまった。
うちの事情もあって、弁論大会、文化祭、バス旅行にでなかった。従ってそれらの記録もすべて更新の作業を怠っ た。係りの日記も、 教師の会の活動の一部として発信しているだけではなく,講師の会の記録ともなることが分かっていたにもかかわらず、2007年暮れを最後に更新しなかった。
そうこうするうちに2008年10月からは教師の会のHPが瀋陽で見られないという異常事態になった。これはとてもまずいことだ。代わりを立ち上げなくてはならなくなって,この春、休みで日本に戻ったときは怠っていたコンテンツの更新を始めた。
こうやって久しぶりに教師の会のHPに身を入れて作業をしているうちに、定例会議事録もブログを利用すれば、係りが直接打ち込めることに気がついた。
何も記録係りがメモからPCに打ち込んで電子ファイルを作り、それをHP係りがホームページビルダーをつかってhtml文書を作るという手間を掛けるまでもなく、係りが直ぐにブログに書き入れて完成という段取りになる。記録係の思いを書くことも可能である。
同じように、HP係りの日記も,今まではホームページビルダーを使っていたので面倒だった。係に勧めても私以外には面倒がって誰も書こうとしなかった。これもブログを利用すればいい。写真を載せるのも至極簡単にできる。
というわけで、教師の会のHPの中で,今は「活動記録」と、「HP係りの日記」がブログとなった。この考えを推し進めれば、文化祭係も,弁論大会係も、レクリエーション係りもそれぞれのブログを持って、それぞれの活動を自由に書き入れることが可能になるではないか。日常的な活動を発信すると同時に、それがそのまま教師の会の活動の歴史となって残る。
良いことを思いついたと言って、自分のことを褒めてやりたい。ブログを作れば、あとはそれぞれの人たちが,それに抵抗を感じることなく日常的に書き入れることが出来るようになるだろう。瀋陽の日本人教師の会の活動はますます華麗になる。
このことを妻に話したら「そうは言うけれどねえ。。。」と難を示す。
「たいていの人にとっては書くと言うことは大変なことなのよ。しかも、いろいろな思いが自分の内にいくらあっても書きたくない人だっているだろうし、プライバシーの問題だってあるし。何でもかんでも直ぐに書きまくってしまう人(私のこと)なんて珍しいのよ。」と言う反応が返ってきた。
さて。どうしたものだろう。ともかく、ブログを用意して勧めてみることにしよう。
3月14日土曜日午後2時から薬科大学食堂で、2008年度第5回定例会が開かれた。1年前の3月に日本語資料室が閉鎖されてからは、教師の会は毎月の定例会の場所を探してさまよっている。
2008年9月は遼寧大学。10月は遼寧師範大学。11月は文化セミナー開催という大義名分があったので、領事館を貸していただくことが出来た。 12月は航空学院。そして2009年の3月は瀋陽大学の予定で、借りられることになっていたのが、直前になって瀋陽大学は瀋陽市の管理下にあり、「市が何というか分からない、正式の申請書を出すと何時返事が来るか分からない」と言うことになった。つまり体の良い断りを食ってしまったのだ。
やむなく5月の会場に考えていた薬科大学を当たって、OKが取れて開催となった。以前、薬科大学は係りの伊藤先生と一緒に当たったけれど会議室に使える場所なんて思いつかない。図書館内には立派な会議室があるが、ここを借りられそうなんてとても思えなかった。それで食堂に小部屋が幾つかあるのに目をつけて、伊藤先生が食堂の係りに中国語で、これを借りられないかと頼んだ。「その食事の前に一寸した会合をするけれど良いですか?」
そう。大学当局は全く絡まずに会合のための場所が取れたのだった。8-10人が囲むことの出来る丸テーブルが大小3つ入った部屋である。30人足らずの教師の会の集まりにちょうど良い。
最初に学生が作っている2008年度日本語文化祭実行委員会の学生の面々の4人が、係りの高澤先生に率いられて挨拶をした。
日本語文化祭は1997年から2003年(第7回)までは遼寧大学で開かれていた。2004年は西安の日本人の不祥事を受けて中止された。2005年は領事館の新館ホールで遼寧大学の石井先生が第8回のために集めた金を使って開かれたので、どちらが主催とも謳っていなかった。
中日両国の交流と親善を目的とする。
2006年と2007年は領事館の主催で開かれた。総領事は領事館の主導で続けますと言ってくれたというが、総領事と文化担当領事が変わって考え方も変わったらしく、2008年は領事館は財政的支援は一切考えないと言うことだった。それで2008年の日本語文化祭は、急遽、教師の会主催として開くことになり、それでも場所だけは総領事館ホールを借りて開催された。
いよいよ2008年度、2009年5月予定の日本語文化祭である。今回の日本語文化祭は教師の会が全面的に主催しないと成り立たないということを全員が認識していた。一方で係りの高澤先生の発案で、先生たちが言い出したのでは真の意味での学生の祭典とはならない。学生の自主性にまかせようではないか、と言う新機軸が打ち出された。それで2008年度から「瀋陽日本語文化祭」は:
高校、大学で日本語を学ぶ学生が、日頃の学習の成果を発表し、日本語学習の更なる習熟をめざす。
日本語を学ぶ学生が一同に会し、他校、個人と互いに親交を深める。
学生が日本語文化祭を計画・立案しその活動を通して、協力し合い互いの親睦を深め行動力、協調性を高める。
と言う目標を掲げ、 遼寧大学(学生2名・藤平)、瀋陽薬科大学(学生4名・田中)、瀋陽航空工業学院(学生3名・中野)、瀋陽大学(学生2名・高澤)が実行委員会を作って12月から動き出したのである。
私たち全員の前に学生の4人がやってきて、初々しい挨拶だった。今後の実際の日本語文化祭の準備が進む状況はブログで見ることが出来る。(http://blog.livedoor.jp/kyosikai2009/)
瀋陽では毎日朝は5時半頃起きる。早起きはもう10年続いている習慣だ。東工大を定年で辞めたあと友人の入江伸吉さんが所長をしている研究所に拾って貰って仕事を続けたが、この研究所が千住にあったためである。
家から電車を乗り継いで京成電車の千住大橋にある研究所に行くのに2時間一寸掛かる。普通に行くと道中ずっと朝のラッシュで混んでいる。家を出て朝一番のバスに乗ると、5時57分市が尾駅発車の電車に乗ることができて、これなら座って行かれる。と言うわけで、毎朝5時45分発のバスに乗るために早起きの習慣が身についた。
ところで妻と二人の交通費は毎日3500円掛かる。これならクルマで往復した方が安い。私の持っていたクルマは赤いトヨタハイラックスサーフで、その時もう10年近く乗っていたから、高速代金を入れても交通費だけ考えれば電車に乗るよりも安く付く。
横浜から都心を抜けて千住に行くので、往復86kmもある。普通に家を出たのではまともにラッシュにぶつかってしまう。それでクルマの時にも5時40分には家を出た。高速を走り抜けるので、だいたい1時間もあれば研究所に着く。うまくすると6時半には研究所に着いた。
そんなわけでその頃は毎年2万キロメートル以上走っていた。このディーゼルのサーフは、クルマを買うときにカタログに赤いサーフが海岸に止めてあって、その周りにビキニ姿の若い女性が群がっている写真が載っているのを見たので、その色にしたのだ。しかし、結局私と16年も付き合ったがこのサーフは可哀想に、いっこうに良い思いをさせて貰えなかった。
朝の研究所はまだ空気が綺麗で気持ちがよい。この朝の時間はもっぱら書道のために使った。早起きは三文の得というのはこういうことかなと思いながら書の腕を磨いた。
先生はバツイチのたおやかな女性で、 和やかな集まりである。試しに私が手本を見ながら書いていたら「こうやって筆を動かすのよ」と言って私の後ろから手を伸ばして私の肩越しに私の上から手を掴み、すらすらと字をなぞって書き直してくれた。
私は手先よりも、もっぱら背中に感じる柔らかい感触に注意が行っていたことを白状するが、書道部が気に入って直ぐに入会したのは言うまでもない。ただし、この体験がその後繰り返されなかったのは残念なことだ。これが新人獲得の手法であることを、この美人の辻先生はとっくにご存じだったのかも。
書道部に入ったからには練習をしなくてはならない。幸い、こうやって朝早く研究室に着くので、この朝の時間は、もっぱら字の練習に使った。最初は楷書で歐陽詢の書いた「九成宮醴泉銘」がお手本である。6級から始まって、三年がかりで1級まで行ったところで、飽きてやめてしまった。
私は昔から飽きっぽい。この性格はどんなことをしても直らない。何を始めてもものにならず、三年経つと放り出して中途半端のままで終わる。
そう言う意味では瀋陽に来て「瀋陽日本人教師の会」に入ってHPを担当し続けているのは希有のことと言って良い。飽きっぽい私の性格に反して飽きさせない「教師の会」って、ある意味では凄い存在だと言える。
春休みだけでなく、瀋陽に戻ってからも資料室の今後の問題にかかわっているし、HPのブログを思いついたりして教師の会のために最近は結構時間を使っている。ただ、以前に比べて決断に時間が掛かるというか、あれこれ考えて時間を消費することが増えて、時間の割には進みが遅い。時間ばかり掛かっている。
このことをぼやいていたら、妻の貞子が言う。「それって、でも、前よりずっと慎重になったってことじゃない?いままでは何時も、思いつくと直ぐに目隠しした馬車馬みたいに猛然と走り出すでしょ。いまでは少しは考えるようになって、進化したんだわ。いいことよ。
「それって、褒めているみたいで、実は馬鹿にしてんだね。」と私。いつも私はこうやってからかわれているのだ。
「何時だって私は良いところを見つけて、良い方に励ましてるんだから。」と妻はにやにやしている。
からかわれているのが見え見えだ。
瀋陽にもう6年近くいる。でも、ちっとも飽きないのだ。瀋陽の暮らしは魅力が一杯である。
川崎の医師が講演会で「たばこをどんどん吸って早く死んで」と言って問題になったという(2009年3月12日 毎日新聞)。
崎市立井田病院の男性医師(55)が、7日に富山市で開かれた講演会の質疑応答で「禁煙が進むと医療費がかさむことは明らか。どんどん吸って早く死んでも らった方がいい」と発言していたことが分かった。禁煙推進団体は「人の命と健康を守る医師の発言とは思えない暴論」と抗議した。市民団体「たばこ問題情報センター」は10日、関田院長と医師に発言の真意などについての公開質問状を提出した。』
『医師は取材に対し「真意が伝わらず誤解を生んだ」、「自分もたばこを吸うので、喫煙は自己責任だと言ったつもりだったが、誤解されてしまった」と説明。さらに「禁煙よりも、医療や介護を受けられない人たちへの対応に力を入れるべきだという思いがあった」と釈明している。』
この記事を読んでみると、一言でまとめれば「たばこを吸って早く死ね」と言ったということになるかも知れない。しかし、それを本気で言ったのではあるまい。まともな講演の時に、そして誰が聴いているかも知れない講演の場で、本気で「たばこを吸って早く死ね」と言うなんて信じられないからである。
この医師は、たばこを吸えばたばこの害で寿命が短くなることを言いたかったのだと思う。「でも、皆が禁煙すると寿命が延びて、結果的には医療費が嵩んじまいますけれどね。」と言えば冗談めかして真実を述べられたのに。
つまり禁煙推進団体が言いたいことと同じことを、別の言い方で言おうとしたのだと私には思える。言葉尻をとらえて激しく抗議するのではなく、「そのように言ってしまうと{たばこを吸って早く死ね}と言っているみたいに聞こえてしまいますよ。もっと違う言い方をした方が、先生の真意が伝わるでしょうね」とやんわりと話し方を指導したってよいのだ。
禁煙推進団体がきつく抗議したと言うけれど、言葉の遊びがない世界は、表面的な言葉のやりとりだけはぎすぎすした対立関係を産みだし、味気ない世の中にしてしまう。
しかし、冗談は同じ立場に立っている人たちの間でないと通じないことは良く経験することだ。これも、そういうことだったのだろう。
ところで幸いなことに私たちの研究室にはたばこを吸う学生はいないが、中国は「喫煙人口3億人超、世界最大の喫煙大国」である(サーチナ2009-03-13)。
『2009 年3月10日、フランス通信社は中国とインドの喫煙人口が世界最多であることが判明したとの記事を掲載した。米国がん協会(ACS)と世界肺財団による「タバコアトラス」第3版の統計データによれば、中国には約3億1100万人、インドには約2億9900万人の喫煙男性がおり、また喫煙女性は中国が1400万人、インドが1200万人と、世界でも喫煙人口がきわめて多い国になっている。』
『2010年には600万人が喫煙により死亡すると見られており、2030年には800万人が死亡すると予測されている。また、発展途上国では教育水準が低いほど喫煙者が増える傾向にあり、とくに女性の健康被害が深刻化しているという。(翻訳・編集/岡田)』
中国のレストランで禁煙を明示しているのは、私の知っている限りだが、Pizza Hut、Kentucky、McDonald以外では見たことはない。だれもが喫煙には鷹揚である。喫煙により人々の健康が損なわれていることに関心がないみたいである。
中国のGDPはドイツを追い抜いて今や世界3位につけている。日本が追い越されるのも間近らしい。しかしこのGDPをひとりあたりに換算すると、中国は日本のまだ十分の一以下である。
このGDPが日本並みになったら、そりゃ凄いことだけれど、「中国人全部がティッシュぺーパーを使うようになれば世界中の木が丸裸になる」という密かに囁かれている冗談が現実化するかも知れないのだ。
日本が抱えている問題の多くは人口が多すぎることにある。中国においても同じことだ。人口が多すぎるのが多くの問題を生み出していると言っていいだろう。
中国は世界に冠たる喫煙大国だが、中国の人たち自身が「たばこをどんどん吸って早く死んでもらった方がいい」と思っているわけじゃないだろう。たばこ、排煙、黄砂などの空気の汚染源を減らす方向で、生活の質の向上、GDPのアップを目指して貰いたい。
王麗が理化研のポスドクに採用されて、3月29日朝日本に向けて発った。ご主人の馬さんも一緒である。二人で80キログラムの荷物を持って。
王麗は私たちが瀋陽に来て研究室を持ったときの最初の修士1年生である。
彼女は修士2年、博士3年を私たちのところでやって、学位論文を昨年6月に提出して無事に理学博士になった。博士になったあと、日本でポスドクとして働くところを捜していたのである。
私たちの瀋陽に於ける歴史と重なるから、私たちの研究室を考えるとき、王麗抜きの山形研究室は存在しない。彼女が去った研究室を見て、瀋陽の研究室の第一世代が終わったことを感じる。あとは残った人たちが頑張って欲しいものだ。
私たちの来た2003年夏はこの新実験棟と呼ばれる建物が出来たばかりで、夏休みの間に多くの研究室は移転作業を終えていた。私たちが本格的に瀋陽に来たのは8月の終わりで、研究室のセットアップは先ず研究室の掃除から始まった。
それまでに3年間毎年講義に来ていたので、顔見知りになった学生たちが掃除に駆けつけてくれた。小張老師は教えている学生の一連隊を寄越してくれた。私たちの貰った三つの部屋は直ぐに綺麗になった。
綺麗になった実験台に実験機器を並べようにも、まだ日本から送った機器は着いていなかった。瀋陽で買える機器をカタログで選んでは大学の管理室と交渉する時間が続いた。
掃除を手伝ってくれた主に65期の学生たちは修士課程1年生に入ったところだった。この大学では修士の1年生は主に講義だけで1年間を過ごすので時間をもてあましている。その彼らから要望されて毎日一寸した講義を始めることにした。
その時、それまで中心になって働いていた65期の学生の胡丹が、同期生で講義に参加したい人がいますと言って連れてきた一人が、王麗だった。今でも覚えている。応接の椅子にちょこんと、取り澄まして座っていた王麗を。
あまりにも取り澄ましていたので、そのあとこんなに賑やかに、そして元気に、ある意味ではワイルドに研究室の皆を引っ張っていく中心になるとは思いもしなかった。
理化研の新しい研究室に行って、鈴木先生の前でまたちょこんと静かに澄まし込んで座っている彼女を想像して思わず笑ってしまう。
ま、そうだとしても、きっと、そうしている のは最初の数時間だけだろう。王麗は、長い間おとなしい殻を被っていられる人ではないのだ。彼女はエネルギーとカオスの塊である。
ちょうどその頃から私はODNのホームページに「瀋陽だより」を書き始めたので、その後のことはもう何度も書いている。王麗のことも書きまくっている。日本に行った王麗が私たちのところよりも(比べて書くのも烏滸がましいくらい)遙かに進んでいる研究に触れて、謙虚な気持ちで、そしてどん欲に新しい学問を学んで欲しい。
王麗にはきっとそれが出来る。彼女は一寸した新知識で直ぐにのぼせ上がって天狗になるような人ではない。向上心と他人に優しい心を持つ可愛い女なのだ(実際、彼女が人の悪口を言うのを一度も聞いたことがない)。
新しい土地と環境で、新しい生活を始めるに当たって心配なのは健康だが、幸い「恋女房」ならぬ「愛しい亭主」である馬さんも一緒だ(「恋女房」に相当する言葉がないね)。たとえ一寸くらい厭なことがあっても、二人の間でぼやいているだけで心配事は吹っ飛んでしまうだろう。
それでは、王麗、元気でね。何時の日にか瀋陽で再見!!!
日曜日は日本人会総会があった。瀋陽日本人会は法人会員が88社、個人会員が212名、教師会・学生会員20名くらいの会で、大連の日本人会と比べると規模に雲泥の差がある。しかし、大きさから言うとちょうど良いくらいではないだろうか。全員集合のクリスマス会だって一つのホテルの会場で出来るのだ。
私たちのこの日の目当ては総会ではなくて、総会のあとの懇親会である。日本人会総会は例年州際酒店(Interconntinental Hotel)で開かれてきた。ここの懇親会は、ホテルのバイキングで、普通にこのバイキングで食事をすると確か110元である。
日本人会の会費は年200元なので、家族会員となる妻と一緒にこの総会に参加して懇親会に出ると、会費の元が取れてしまう計算である。教師の会の会員として日本人会に入ると年会費は100元だから、ひとりでもこの食事に来る価値がある。
こんなことを冗談めかして言いながら、私は教師の会で会員に日本人会にも入るよう誘ってきた。会員の一人の渡辺文江先生は、瀋陽の南に約100km離れた遼陽キャンパスで仕事をしているので、日本人会には入っても、日本人会総会には出たことがなかった。毎月の日本人教師の集まりに出るだけでも結構な旅行だからだ。
その渡辺先生が今年に限ってこの日本人会総会に参加したのは、在瀋陽総領事館の松本盛雄総領事に、遼寧大学・遼陽キャンパスでの講演をお願いしていたので、その打ち合わせのために実際に会う必要があると言って、この会に出てきたのだった。
商貿酒店で開かれた今年の総会では、教師の会の石原会長が出席しなかったので、会の最後の発言の機会に、私が代わりに資料室のその後の経緯を報告した。というのは、昨年3月に教師の会は資料室を失ったので、総会の時に石原さんは教師の会の苦境を訴えて日本人会の会員に資料室探し手伝いをお願いしたのだった。
「皆さまからいろいろと 情報を頂きましたが、無料で教師の会に部屋を貸すと言うところは見つからず、私たちは6千冊の本を抱えて途方に暮れたままでした。年末に、教師の会が総領事公邸に招かれた時、苦境を知った松本総領事が瀋陽市図書館に話を持っていこうというアイデアを出されて、それを実行してくださいました。それで今図書館側と話し合いが進んでいます。ありがとうございました」と私
総会には約100名の会員が出席していて、そのあとはとなりの珈琲庁に移って食事となり、そこで渡辺先生と一緒になった。昨年まで州際酒店の広々としたレストランとは違って、この会場はとても狭い。私たちがやっと見つけた4人掛けのテーブルは、角を曲がり込んだところにあって、司会者やマイク、メインテーブルからは見えず、切り離されている。
テーブルではもう一人の渡邊京子先生ともいっしょで、妻も入れて瀋陽6年組の私たちは互いに良く知り合っているので、くつろいで食事をした。遼陽の渡邊先生は、総領事を招いて開く講演会のことを話題にして、一区切りついたら総領事を彼の席で掴まえて詳細のお願いをすると言っていた。
ところがそうこうするうちに松本総領事がこちらの席に現れたのだ。総領事は「渡辺先生」と真っ直ぐ彼女に声を掛けた。渡辺先生が、総領事を招く行事の詳細を書いた紙を慌ててカバンから出して立ち上がったのは言うまでもない。そしてこんどの遼陽行きの話が二人の間で始まった。私は二人の話が終わってから、総領事に妻を紹介したのだった。
渡辺先生はそのあとずっと興奮気味である。「11月に公邸に招かれたときに一度会っただけですよ。それなのに、名前と顔まで覚えておられて。しかも先方から挨拶に来られて。。。」
総領事としての公務を考えればべらぼうな人数に毎日出合っているはずだ。重要な人もあり、一見で終わる人もあるだろう。私たち教師の会の会員なんてVIPか ら遙か遠くに位置しているはずだ。それなのに、名前も顔も覚えて、しかも自分ひとりでわざわざ会いに来られたのだ。確かに遼陽に講演に行くという約束はしてあったかも知れない。でも、待っていれば渡辺先生の方から挨拶がいくのは分かり切ったことである。
この腰の低さ、ざっくばらんさ、気取りのなさ、もっと言うと全く威張っていないところが、日本を代表する総領事が私たち庶民に見せている顔である。感激と言っていい。
ところで先日、杉山信行氏の「大地の咆吼」という本を読んだ。上海総領事を務めた筆者の中国に対する思いの丈を込めた本である。惜しくもこれが絶筆となってしまったが、日中関係のあるべき姿を真摯に追い求めた杉本信行氏の情熱と姿勢は、外交官の鏡と言って良い。
松本総領事は昨年春の着任以来、講演に、会談に、寧日ない忙しい毎日を送っておられる。その中で、教師の会の資料室問題の解決のために市図書館との会談をアレンジして、総領事のほか領事館から3名、市文化局副局長、市図書館長、副館長、教師の会から2名が集まった実際の会合の時に、中国語で自ら会合を仕切ったのだ。松本総領事を知るにつけ、杉山氏に抱いたイメージは松本総領事と重なるものがある。
彼のような総領事がおられる瀋陽の私たち日本人と日本の国、瀋陽を中心とする東北三省、そして中国は幸せなのだと喜びを噛みしめている。
日本人総会が日曜日にあって、そのときの 話をここの「瀋陽だより」に書いたのが火曜日の朝だった。このODNのmypageは閉鎖システムらしく、いくら書いていてもインターネットの検索に殆ど引っかからない。つまり会員内部の仲良しクラブみたいな感じである。それはそれで良いのだが、私は教師の会の「HP係りの日記」にも、さらには「山形研究室日記」にも書いていて、これらすべての自分の書いたもの何時か一カ所にまとめてみたいと思っていた。
ちょうど、教師の会のHPに元気になって欲しいと思っていて、活性化するためにいろいろな係りに直接ブログを書いて貰おうと思いついて、それを始めたところだった。それでついでに適当なサイトのブログを見つけて、この三つを統合して載せることにした。
ODN のmypageでも写真をふんだんに使ってきれいな画面にできる人たちもあるけれど(たとえば、http://mypage.odn.ne.jp /home/tossyroom)、私にはうまく載せられなかった。さいわい、今のブログは写真が簡単に載せられるようになっているのが嬉しい。というわけで、ODNの載せたと全く同じものを、ただし写真を入れてこのブログにも載せたのだった。教師の会の日記もこの頃は書いているので、それも一緒に載せる。
総会のあとのエピソードとして松本総領事を取り上げて書いたのが火曜日だった。その翌日の水曜日の午後、医科大学の渡邊京子先生が私たちの研究室に訪ねてこられた。主な用件はもちろん別なことなのだが、渡邊先生は「驚きましたよ。杉本信行と大地の咆吼をインターネットの検索に入れたら、山形先生のブログが出てきたんですよ。松本総領事の写真付きですよ。渡辺文江先生と高木さんも載っているし。」と仰るので、こちらもびっくり。
京子先生は、日曜日に同じ日本人総会で一緒になって、そのあと一緒に食事をした。だから松本総領事が渡辺文江先生に会いに来られたときには、もちろん私たちと一緒のテーブルで、その場に立ち会ったのだ。その場のことが書かれていて、それが昨日のことなのにたまたま調べた検索でヒットして、思いも掛けず出て きたというのが興奮を呼んでいる。
前の朝書いて載せたブログの内容が、その夕方の検索に引っかかったという訳で、これには私もたまげた。悪いことは出来ないもんだ、いや、悪事千里を走る、と言うところかなあ。
こんなに早く、検索エンジンが拾うと言うことは、非常に頻繁に、そしてほぼ完璧にインターネットの世界が調べられていることになる。昔聞いた話ではYahooの検索エンジンは半年に一回が良いところだったと思う。隔世の感がある。
インターネットの世界の反応の早さが信じられなかったので、自分でも検索をしてみた。「杉本信行・大地の咆吼」では私の書いたものは出てこなかった。しかし「杉本信行・松本総領事」として入れてみると、1件がヒットして、まさにこの前日書いたのが出てきた。ともかく半日で検索エンジンに拾われているのだ。
試みに「松本総領事」を入れたら沢山出て来て、その中の初めの20件の中には私が書いたものがずらりと列挙されて出てきた。
私のHPだったり、教師の会の日記だったり、議事録だったりで、教師の会の資料室のことでいろいろとお世話になっているから、折に触れて書いている。それで、それぞれ別々の9件がヒットしていた。これはGoogle検索エンジンで調べた結果である。
Yahoo を使って調べてみると、沢山のヒットの内の最初の20件では、一つだけが拾われていたが、これはGoogleでは無視されていたODNの日記だった。昨年11月に薬科大学で松本総領事が講演されたときの話である。つまり検索エンジンにはそれぞれ得意があると言うことだろう。労を惜しまず調べまくっているという点を汲んで、私はGoogleを贔屓したい感じである。
なお少し拡げて調べてみた。ExciteではYahooと同じ検索エンジンのようだし、LivedoorとNiftyはGoogleと同じ検索エンジンを使っているようである。
試しにGoogleで「自分の名前」を入れた。驚いたことに沢山出てきたので、最初の60件を数えてみると60のうちそれぞれ違う自分の出てくる記事を55件ヒットしていた。
一方同じことをYahooを使ってみると、60件中自分をヒットしたのは41件と少なかった。同じ名前で見ているので、ヒットの違いは 検索エンジンの好みというか偏向によるとしか言いようがないと思う。
自分を沢山ヒットするのが良いということにはなるまいが、やはりGoogleをこれからは贔屓にしよう。
それにしても、インターネットに載せると言うことは、自分から発信すると言うことだから、確実に検索されて探す人の手元に届くのが良いことのはずだ。
載せて直ぐに検索エンジンに拾われていると言って驚いているのは、なんだか筋違いだと自分では思う。それにしても、だ。あんまり早くて、まるで監視されているみたいな気になってしまったというのが実感である。
王麗と馬さんは3月29日に瀋陽を発って成田に着いた。その日の内に彼女からメイルが入った。
We have arrived at Narita safely and enjoyed the delicious Japanese food. Do not worry about us; we love you all!
そ して4月1日になった。この日から王麗は理化学研究所に正式に勤務するはずである。大丈夫かな。きっと王麗のことだから朝早くから理研に行っているだろうな。そして私たちのところに来たときと同じように、背筋を伸ばして畏まって鈴木匡先生に会い、そのあと皆に会うよう引き回されて、そのたびに上品に挨拶をしているのだろうな、などと思っていた。
朝10時過ぎにメイルを見ると、その鈴木先生からメイルが入っている。
何と、 「王さんの連絡先は分かりませんか。まだここに来ていないのです。彼女のe-mailは知っていますが応答がありません。こちらの電話は教えているのですが、何かが起こったかと思うと心配で溜まりません。途中何処かで落ち合うようにしておけば良かったのですが。。。」
妻も私もびっくり仰天 である。王麗が最初の日にそこに行かないはずがない。確かに彼女ものんびりしているところがあるし、約束は守るものとは必ずしも思っていない中国人のひとりだが、私たちと5年半付き合ったのだ。何か悪いことが起きたのかとたちまち心配になる。ともかく鈴木先生には「これから調べます」と、とりあえずメイル を入れる。
王麗たちが理研の宿舎が空くまで夫の馬さんの友達のところに暫く泊まると聞いただけで、連絡先を知らない。しかし、私たちのところの卒業生で東大に行っている胡丹、慶大にいる王毅楠たちが迎えに来るようなことを行っていたから、彼らに電話をすると分かるかも知れない。
さあ、日本に電話しようと思って出したカード(たとえば100元の国際通話料の入ったカードを25元で売っている)は期限切れだという。陳陽に大学の正門の外に立っているカード売りの男からカードを買うようお金を預けた。
戻ってきた陳陽は慶応大学にいる王毅楠と電話で話したという。
王毅楠が馬さんの友人に電話をしたら、もう二人は出掛けています。そしてその友人のケータイを持って出掛けた馬さんに電話をしたら、彼らはもうとっくに理研に着いたけれど鈴木先生に会えていない。そのうち新人の説明会があると言われたので王麗はその講習に出ているという。そして馬さんはその講習会の外にいて、いまは一緒ではない。
なるほど、王麗は理研に行ったけれど、鈴木先生に会えないうちにどうしてかは知らないが、新人講習会に出てしまったらしい。ともかく理研には無事に行っているわけだ。
そ れで鈴木先生に私が直接電話をしようと思って、陳陽に買ってきたカードは?と聞いた。すると陳陽は自分のケータイにこのカードの全額を入れたという。なに、それ。そんなの、ありかよ。人の金なのに、何で自分のケータイに入れてしまうんだい。どうしてそんなことが出来るのかね?
と言うわけで、陳陽のケータイを使って(なに、わたしの金なのだ)日本の鈴木先生に電話をした。陳陽は、基本料金は自分のだとぶつぶつ言っている。一体どういう神経なんだ、陳陽は?
電 話が鈴木先生に無事に通じて、今までに分かったことを報告する。状況は分からないが、先ず謝る。嫁に行った娘の不始末を詫びる親の気持ちである。鈴木先生は「出る必要はないのですが、そういえば、新人の説明講習会があるはずですね。そっちに出ているのなら、行って調べてみましょう」と言うことだった。
あ とで、鈴木先生と王麗から聞いた話では、王麗は言われていたとおりに9時前には理研に行った。ところがそこで別の建物にあるGlycobiologyの研究室を紹介されてしまって、別のところに行ったのだった。そこはまだ誰も来ていなくて、通りがかりの人に聞いたら、鈴木先生の名前は知っていてもどこが研究室か分からない。建物の守衛にも分からない。
そうこうするうちに鈴木梅太郎ホールで新人の説明会があるというアナウンスがあって、これに出ないわけにも行くまいと思って出たのだという。結局のところ、「大丈夫よ、自分で探して会いに行けるわ」という王麗の自信過剰が一寸あったかも知れないが、理研が広すぎたことが原因らしい。
ともかく12時過ぎに二人が無事に会えたことが分かってホーーッ。
そのあと毎日王麗からメイルを貰っている。翌日にはここでやった研究を皆の前で日本語を使って話したこと。今まで日本語を使った発表の経験が一度もないので「うまくいかなかった」と落ち込んでいるらしいが、皆に「良かったよ」と励まされてもいるらしい。
王麗にすれば出だしは悪かったと言うことらしいが、禍福は糾える縄のごとし。悪いこともあればいいこともある。彼女は皆から好かれる人柄だ。人生これからが勝負なのだ。
なお、最後の写真は、4月12日横浜のシーバスの中でで撮った王麗と馬さん。この二人に王毅楠が加わっていて、横浜チャイタウン関帝廟の前である。
先週の土曜日、私は院生の陽暁艶さんを伴って瀋陽市図書館に出掛けた。
写真でごらんのようにすらりとした長身のお嬢さんである。心も同じように伸びやかに育っていて、私たちを相手に気持ち良く気を遣ってくれる。
1月27日にここに書いたように、一年前集智ビルの貸し主の都合で日本語資料室の閉鎖という憂き目に会い、大量の日本語図書を抱えたまま行き場を失った教師の会の資料室問題に、松本総領事が解決の道を与えて下さって、市図書館との間に下記の合意が出来た。
1.資料室の図書は、市図書館に寄贈し、保管・管理の一切を図書館に任せる。
2.資料室からの寄贈ということが分かるようにする。一室に瀋陽日本人教師の会寄贈と看板を書いてそこに本を置く。
3.教師会の定例会の集まりのために会議室を使うことができる。
4.2月下旬、瀋陽に教師の会の会員がそろった時点で、図書館の担当者・周さんに連絡して、資料室の蔵書リストを作成する。
実際に教師の会の関係者が瀋陽に揃ったのが3月で、先ず私たちはこのことで打ち合わせをしてから市図書館の副館長と3月13日に面談の約束をした。 1月21日の総領事主導の下で瀋陽市文化局、図書館、領事館、教師の会が集まったときは、春休みで教師の会の責任者がいなかったのである。
約束をしてあったのに副館長は会議を理由に現れず、李主任が私たちの対応をした。いろいろと話し合ったが、副館長に伝えると言うだけで、手応えなは なかったけれど、「日本語の本を図書館のコンピューターに登録するソフトがない。手書きで記録を保存するというわけにはいかないので、そのソフトを発注し て手に入れるまで、本の搬入は待って欲しい。」ということだったので、姿勢は前向きなのだという感触を得ることが出来た。
早速4月の定例会から会議室を使わせて欲しいと私たちは申し入れた。しかし先ず、中国語の分かる中国人(と言うのもおかしい表現だが、教師会の日本人のほ かに誰か中国人ということ)が会議にいてくれないと困る、という。たとえば地震があったら困るというのだ。そりゃ、困る。このような人がいてもいなくて も、申し訳みたいな数の鉄筋を入れただけの建物に地震が襲いかかったらひとたまりもないのだ。
4月11日に会議室を貸してくださるようお願いしますと頼んだ。もぞもぞ言っている。やっと一応良いだろうと言うことになった。しかし、また連絡してくれと言うことだった。
会談が終わって外に見送られた私たちは、互いに不得要領な顔を見合わせた。話は総領事の仕切った方向に進んでいるみたいだが、大丈夫なのかなあ。あとで話を聞いた副館長が、何も反対を言わずにそのままOKを言ってくれるのだろうか。
と言って、私たちの出来ることは、総領事に話の進行を報告することだけである。3月27日に平柳領事と会って会談事項を報告し、4月に入ったところで係り の先生が、中国人の学生を介して図書館の李主任に電話をした。その結果4月11日は会議室を使って良いと言われたが、また前の日に確認をして欲しいとい う。
大丈夫かなあ。前の日に電話をしたら、「あ、もうほかのことで使うことになりました」なんて言われるのではないかなあ。どうしてか考えは悪い方に行ってしまう。
余計なことだが、中国で「大丈夫」は「我が家の主」という意味である。家の主は大丈夫でなくてはならないということから、日本で今使う意味になったのだろう。
ともかく、市の図書館を使って会合を開くなら、そのあとの懇親会もそのあたりで開かなくてはならない。瀋陽市図書館は青年大街と言う市の目抜き通り に面して建っている。向かいはシェラトンホテル、ホテルマーベロットが建ち並び、横には瀋陽の企業勤めの日本人が好んで住む河畔花園という住宅団地があ る。つまりこのあたりは超一等の最高級地なのだ。
このあたりで私たちが行ける場所をあらかじめ探しておかないと、時間の無駄になる。というわけで、土曜日の午後を使って、食事の場所探しをしようと思ったのだ。
図書館を出て西に真っ直ぐ文体路を進むと40階建てくらいのビルが壁みたいに並んでいる。その下には豪華なレストランがある。何時か日揮の陳さんが 連れてきてくれた福健省の「竹林」何とかもここにある。でもそのならびの店に、覗いてみるとまあ入っても良いくらいの値をつけた料理が並んでいるのが見え た。暁艶と入ってメニューを見せて貰う。一人あたり40元くらいで何とかなるかも知れない。でも教師の会の人たちに勧めてここに来るなら味も見ておかない といけない。
と 言うわけで、まだ午後3時にならないのに、つまりまだ食べたばかりの昼ご飯が消化していないのに食事をすることになった。二人だけでは足りないので、図書 館で出合った薬大の学生二人にも電話をしてきて貰った。二人は盛んに照れているけれど、こちらは食事をする人口を増やすことに関心がある。
味はまあまあ。値段もまあまあ。店はきれいと言うことでこの店を定例会のあとの食事の店として推薦しよう。
(最後の写真は、江文くんとそのお友だち。江文はこの春から私達のところで卒業研究をやって、秋には日本の岡山大学の修士課程に入るため日本に行った)
私たちのアパートには入ったときから大型テレビが備えてあった。テレビの普通の番組はCCTVと言う国営放送だけで約12チャンネルがある。それ以外はケーブルテレビを契約すれば見られるという。それでケーブルテレビに毎月100元を払っている。
そのお蔭でBBCが見られるほか、National Geographicsがあるし、外国映画をHBOや、Cinemaxが(中国語字幕付きで)放映しているのを見ている。あとはゴルフ、テニス専門局がある。夜うちに帰って食事をしたあとはこの局が私たちのお気に入りである。
テニスを見ては、ずっと長い間スイスのFedererの強さに挑戦し続けるNadalを応援してきた。昨年、Federerが5年続けていた世界No.1の座から降りてしまうと、可哀想でこんどは彼を心から応援している。
NHKを見るには毎月500元を払わなくてはならないので、これは遠慮している。中国語が不自由な身としては、テレビを見るのにも不便が強いられてしまう。
さて、4月1日になって気が付いた。HBOがTitanicを放映している。CinemaxがトムハンクスのPrivate Ryanをやっている。HBOでTitanicが終わると、Private Ryanに変わる。一方のCinemaxでは Private Ryanが終わるとTitaniになる。
それが数日経ってもそのままである。HBOとCinemaxは、TitanicとPrivate Ryanを交互に延々と繰り返している。チャンネルを廻してみた。Axon、National Graphics、Fashion TV(法国時装)、BBCなど、洋物をやっているところはすべて状況が同じである。TitanicとPrivate Ryanが出てくるだけだ。
どうしてだろう。何処か機械がおかしくなったのか、あるいはひょっとしてテレビのお金が切れてしまったのかも知れない。それで学生の陳陽に来てみて貰った。 あれこれケーブルテレビの操作ユニットをいじって陳陽は、テレビのお金かも知れませんね。払いに行って貰いましょうか。と言うことだった。
今まで王麗や陳陽など日本語の巧みな学生によって私たちの瀋陽の生活が支えられてきたが、王麗は3月末に日本に行ってしまったし、陳陽も夏にはここを去る。
代わりになる誰かを育てなくてはと言うことで、今日は黄澄澄がその役を買って出てくれた。
彼女は日本語班の出身で今修士課程の1年生である。笑顔がそれはそれは素敵な、可愛い女性である。
ケーブルテレビで膨大な数の局を見る必要もないので、幾つかを選んで、これらが見られるようにして呉れればよいと言ってお金を預けた。やがて街に出 掛けた黄澄澄から電話があったと言って陳陽がやってきた。彼が言うには「いまは3月28日から、外国の局が見られなくなりました。」
私は唖然として返事も出来ない。突然すぎて理解できない。一体どういうこと?情報の制限など最近聞いたことがない。北朝鮮ならまだしも、だ。いや、 北朝鮮ならはじめから外国の放映は見られないだろうから、「急に当局の方針で見られなくなった」と言って驚くはずもないか。
中国がBBCに払うお金を渋ったので放映が中止になったのか。いや、今や世界一の外貨持ちになった中国では起こりそうにもないことだ。
HBOやCinemaxの映画は無許可の海賊版だったので、当局の取り締まり強化により、放映中止になったと言う可能性があるだろうか。これには仮定が二つ入っている。外国映画の無許可の海賊版放映をしてきたなんて思えないが、それもありかもしれないし、わからない。
インターネットで「中国 遮断 外国放送 (あるいはテレビ 放映)」を入れてみた。昨年のオリンピック前の国境なき記者団の抗議を当局が取り上げず放送遮断したことに関する記事が多い。でも、その先はインターネットでつながらない。規制が掛かっているようだ。
「日本からのアクセスを遮断して国大手動画サイトで日本のTV番組見放題」など言うのもでてくるが、今、瀋陽のケーブルテレビで外国映画あるいはニュース(BBC)放映を遮断しているという話は出てこなかった。
だから、まだ何かの間違いで一時的にうちのテレビでBBCや、外国映画番組が見られないのかと思っているのだが。。。
米経済誌「フォーブス」の中国版が3月17日に発表した「2009年中国有名人ランキング」で女優の章子怡(チャン・ツィイー)が2位にランクインしたと いう。チャン・ツィイーは「初恋のきた道 (我的父親母親 ・1999)でデビューしその可憐さには目を惹きつけられた。グリーン・デスティニー (臥虎藏龍 ・2000)では、これはただ者ではない、凄いぞと思わせた。
インターネットによると、今年の初め米娯楽サ イトに「ハリウッド女優チャン・ツィイーの全裸写真が多数流出した」という。でも、幸か不幸か、沢山出ているサイトをここでいくらクリックしても、「接続が中断されました」と言う掲示と同時に接続が切断されてしまう。
中国で大きな物議を醸したと書いてあるから、いっときは中国でも見られたのだ。いまではこれらのサイトが中国からアクセスできないように中国当局により切られてれているのか、この大学内からアクセス不能になっているのかは、分からない。
書きたいのは彼女を巡る騒ぎではなく、中国服姿の似合うツィイーのことである。彼女を思い浮かべると、細身の彼女にはチャイナドレスがぴたり似合う。このチャイナドレスは旗袍(チーパオ)のことである。
調べると、『中華民国時代に旧来の旗袍のデコレーションを洋服に適用したもので、いわゆる伝統的な民族衣装とは言いがたい。また、深いスリットやボ ディラインを強調した一部のデザインは実際の中国または華僑社会の女性の日常服に採用されたことはない。高襟、スリット、装飾用ボタンの3つの特徴を備え たものをチャイナドレスと呼ぶ( Wikipedia)』と書いてある。
どうして旗袍と言うかというと、 『清の時代、満州民族・蒙古民族の武士階級は旗人と呼ばれた。元々彼らが身につける服であった為、「旗人の着る長い上着」から旗袍(チーパオ)と呼ばれる ようになった』そうだ。清朝を支配した満州族固有の服装を今ではチャイナドレスと呼んで、中国人特有の衣服として認識しているわけだ。
しかしこの旗袍は誰でも着ているわけではない。私たちが中国でチャイナドレスを目にするのは、レストランのウエイトレスが着ているからである。高級なレストランに行くと、すらりとした肢体の彼女らが旗袍を実に優雅に着こなしているのに出合う。
この旗袍はスリットが深い。彼女らがお辞儀をするのを見るときは、はらはらどきどきしながら目を走らせることになる。これは、満族の女性がこの服で馬に乗ったためである。スリットが深い理由が分かる。
妻がこの旗袍を作ると言い出した。教師の会の先生方がこの旗袍をうまく着こなしておられるのを見たからだろう。旗袍でも長いロングドレスでなく、短いジャケット風のものである。
瀋陽の街の中心に奉天街という通りがある。裕福な日本人目当てのナイトクラブなどが多いところだ。教師の会の仲の良い渡邊京子先生に案内されて出掛けたのは、この奉天街にある旗袍の店だった。
入るとずらりとマネキンが素敵な旗袍を纏っている。衣服かけにも彩り華やかに沢山の旗鵬がぶら下がっている。妻と渡邊先生は早速手にとって拡げてみてい る。奥の方の衣服かけには男物がある。渡邊先生のおかげで服の制作費が割引になると言う。それなら妻だけでなく私も作らなきゃ損だ。
女性の旗袍と似た感じの男物もあるが、もっとなじみに感じる服があった。それを試着してみて直ぐに思い出したのは周恩来だった。つまり人民服だった のだ。折角の一つなら人民風ではどうもねと思って、もう少し静かで穏やかな感じの衣服を着てみた。なかなか感じがよい。
しかし試着したうぐいす色が無くて 黒色になってしまうと言う。それでも、私だって作らなきゃ損だと言う気持ちだから、ホイホイと決めてしまった。
1 週間で仮縫いである。こんどは通訳として院生の陽暁艶に来て貰って店に行った。みごろを合わせ、袖をつけてみて、更に襟も合わせてみるというやり方で丁寧で ある。
元々の鶯色の服の胸のポケットにはコウモリが刺繍してある。蝙蝠の蝠は福に通じるので縁起がよいとされている。薬科大学も夕方になると暗を縫って蝙 蝠が飛び交うのでなじみの動物となった。瀋陽のぴったりした想い出になるだろう。
このお針子さんは最初に服を選ぶところからここにいて、私たちが作ると決めたら採寸をした人である。つまり裁縫はよそに出さずにこの店でやると言う ことなのだろう。それで480元で(6500円くらい)で出来てしまう。こういう時の計算は日本円に換算して、安いよねと思ってしまうのだ。
それでも、このフォーマルな上等な絹織物のチャイナドレスが出来たら、どこでどうやって着たら良いのかまだ思いつかない。
大学で講義をするときに着る? チョークの粉が付いて悲しくなるだろう。。。
領事館のパーティで着てみる? 一人だけ注目を集めてしまい顔が火を噴くだろう。。。
教師の会の集まりに着ていく? 皆から無視されて、泣きたくなるだろう。。。
さあ、どうしよう。
4月14日火曜日の朝8時過ぎ、遼陽の渡辺文江先生から電話が掛かってきた。「大丈夫ですか、今時間あります?」
火曜日の朝はPCに向かっていただけなので、もちろん大丈夫。渡邊先生の声は興奮してトーンが高い。「昨日の月曜日、遼陽に松本総領事が平柳さんと一緒に見えて講演されたのですよ。」
遼陽は瀋陽の南約100kmにある街で、歴史的には瀋陽よりも古い。日露戦争にも遼陽会戦として名前が残っている。遼陽には、瀋陽にある遼寧大学の一部としての外国語学院が置かれていて、彼女はここにもう8年滞在して日本語を教えている。渡辺先生が松本総領事の講演をお願いしていたのは、知っていたけれど、それが昨日のことだったわけだ。
「遼陽まで丸一日掛けて出掛けていただくのをとても申し訳ないと思っていたけれど、大学はそれこそ大学挙げての歓迎でしたし、総領事は見事な中国語でプロジェクターを使って講演されたしね。中国人の先生が外国人であれほど見事な中国語は聞いたことがないと言っていたけど、学生にこの中国語で講演するというのがいいんですよね。さすが外交官ですね。」
「講演のあと質問を受け付けたら学生から質問が矢継ぎ早でしたけれど、どれにも丁寧に答えられて、、。総領事は本当に謙虚な方ですね。ちっとも偉ぶったところを見せないし、、。」
「講演だけでなく授業も見に来られましたよ。実は五十嵐先生と大分慌てたけれど。熱心に見て下さって感激でした。」
「大学も教員が百何十人も総出で歓迎したし、お帰りの時は日中双方の旗が掲げられていただけでなく皆が小旗を打ち振ったのですよ。」
大学挙げての歓迎と講演に対する熱心な反応で、仲を取り持った渡辺先生としては大いに面目を施したと言っていいだろう。一日経っても興奮が冷めないのも無理はない。わたしは聴き役である。
「昨日ことはまとめて総領事に広告しようと思っているんですよ。」と渡邊先生が続けたので、思いついた。「もちろん、それも大事でしょうけれど、研修・レク係りのブログを作ったでしょ、教師の会のHPに。ここにも写真入りでばっちり書いて載せて下さいな。」と私はお願いをした。
きっと近いうちに、渡辺先生の記事がブログに載るだろう。それをどうかお楽しみに。
迂闊なことに、私の今属している生命科学与生物薬学院には博士の学位授与をする権限がなかったことを知らな かった。迂闊と言っても、知らなかったからどうだったというわけではない。研究室から博士を今までに二人送り出しているけれど、別の研究科から送り出したらしいと、分かっただけである。
日本では名刺には書かないがこちらの中国の名刺だと、自分の肩書きの一つとして「博士導師」というのが麗 々しく付くのである。なんだか気恥ずかしいけれど、書かないと博士導師でないと言って軽く見られることは間違いないから、名刺に賑々しく刷り込んでいる。おまけに博士の学生もいることだし、自分のところに博士課程がないとはついぞ思わなかった。
さて、今まで博士課程を持たなかった私たちの学科がこれを申請することになったので、ついては添付の資料にそれぞれ書き込んで月曜までに送り返せと、金曜日の夕方になって生化学科の主任から連絡があった。冗談じゃないよと言いたいところだが、ここでは何時もこの調子である。もし、私が日本の大学にいるみたいに、あれこれ用事を抱え飛び回っているとしたらどうするの?と言いたいところだが、実際上、飛び回っていないから、はいはい、というわけである。もちろん教師の会の集まりで土曜日の午後は塞がっているなんて、言い訳にはならない。
それで、日曜日には翌日の講義の準備をしながら片手間にこの申請書の自分の研究室の状況を書いていった。
1.論文(2004.1〜2008.12) 学術刊行物(SCI、EI、ISTP収録)、学術会議
ここのところは、SCI収録原著論文8編、非収録誌に4編、総説1編がある。SCI非収録誌の発表論文の中には、この薬科大学報に3編出したものがある。これは学生が修士を取るための要求でやむなく書いているものだ。もちろん編集委員会の審査があっていい加減には書いていないが、ここに出しているのはひそかに肩身が狭いのだ。
学術会議は2007年夏に台湾で開かれた国際会議で話したし、日本の糖質学会でも話しているけれど、講演したことが業績になるようでは情けないというのが私の考えなので入れなかった。以前何処かの学会では座長をした回数が実績とされるところがあったっけ。
2. 著作(2004.1〜2008.12)には、書き入れる著作はない。
3.表彰(2004.1〜2008.12)には2005年9月に 遼寧外国専家栄誉賞と言うのを貰っているので、それを書き入れた。
4. 科研項目というのは、科学研究費や研究助成金である。未だ中国では一度も貰っていないが、昨年度、日本の水谷糖質科学研究財団に申請して、嬉しいことに400万円の助成金を頂いたので、これを書き入れた。このときの人力配置を書けと言うので、教職員2名、博士2名、修士7名と書き入れた。
5. 教学と言うところには今までの修士、博士を年度別に書くようになっている。まとめると修士入学者9名。学位授与4名。差の5名のうち1名は修士から博士にジャンプした王麗である。王麗は修士号を持っていないのだ。あとの4名はこの夏に卒業する。博士の入学者は3名で学位授与が2名(王璞と王麗)。差の1名は昨年入学して在学中の張嵐である。
教材出版は、2006年に王淼が生化学実験を日本語で書いて、その日本語を頼まれて直したので、恥ずかしながら私の名前も入って出版されたこの大学専用の実験指導書がある。
6. 博士号取得者は個別に詳しく記載する事になっていて、2007年卒業の王璞は、学術論文5報(SCIが4報、それ以外が1報)学会発表が2件ある。王璞には今のところ投稿して文句の付いた論文が一つある。2008年の王麗は、学術論文4報(SCIが2報、それ以外が2報)、学会発表はない。王麗には今投稿中の論文が1報と、あと準備中のが1報ある。
7.実験室の広さは、 新実験楼527、528号室二つ合わせて、広さが78平方米、機器があわせて42個。新品購入価格は120万元。
8. 過去5年間に機器購入に投資した額は?と言う質問には正確に書くと合計15万元である。ついでにこの6年間に使った研究費は、大学から支給分が55万元。それに水谷財団から400万円(28万元になった)いただいている。私の給料に加えて中国に自分たちの日本円を持ってきて研究費に使ったのは60万元だし、日本で物品を買ってこちらに運んできた金はどこにも出していないが、概算すると1千万円くらいである。
機器の代金として書いた120 万元は殆ど減価償却が終わっているから、今までの6年間の研究に(55 + 60万元は約1600万円になる)3000万円くらい掛けていることになるだろう。それで論文13編だ。3千万円は日本の研究室を考えると大体1年分の研究費 である。その意味ではいま中国での研究効率は良いというべきだろう。
お金が足りなければ無いなりに知恵を絞ることが出来るという良い見本となると思いたい。どうだろう。実は、悔し紛れの言葉かも知れないとは思うのだが。
一週間前のこと、日本の伊藤俊洋博士の大学院向けの講演があった。伊藤氏は現在北里環境科学センターの理事長を勤めている。古細菌(Archeae)の脂質分析で油化学の世界ではたいそう著名な人だが、もう30年近く付き合っている友人である。
講演の題目は『「脂質ワールド」と古細菌の脂質』というものだった。この「脂質ワールド」というのは一般には見慣れぬ言葉だが、「RNAワールド」という のが昔あった。
今の世の中はDNAが遺伝子の本体として威張っているけれど、30年くらい前、リボソームのRNAに酵素と同じ機能が見つかったとき、実は RNAがすべての生命の世界の始まりだったと言う説が出たのだ。その後の進化でRNAの持つ酵素の機能はもっと優れたタンパク質が登場してその座を奪い、 RNAよりもより安定なDNAがRNAの遺伝子としての座を奪ったという説である。
これは、今は恐らくその通りだったろうと認められている。生命の始まりの「RNAワールド」はその後ひとときの騒ぎは静まったけれど、1990年代 の終わりにタンパク質の配列をコードしないRNA (もちろんその時までに沢山の種類があることが知られていた)が、遺伝子発現の制御をすることが知られるに及び、またこの言葉に火が付いて、今や研究の ホットワールドである。2006年にMicroRNAの発見で Andrew Z. FireとCraig C. Mellの二人がノーベル賞を貰っている。
「脂質ワールド」は、だから「RNAワールド」を下敷きにしている。聞いた途端にその位置づけが分かるわけだ。伊藤氏は、実証が困難な世界だから無理のない説と思わせれば占めたもの、先に言ったもの勝ちですね、と言ってにっこり笑っている。
生命の起源には化学進化説というのがあってその先駆はオパーリンである。
Wikipedia によると、「原始地球内部で炭素と金属からカーバイドが生じ、それが噴出して大気中の過熱水蒸気と反応、最初の簡単な、しかし反応性に富む有機物である炭 化水素が大量に生成された。その相互間の、また過熱水蒸気やアンモニアとの反応により一連の低次の有機物質群が生成された。これが地球の冷却に伴い水蒸気 が凝結した熱湯の雨に溶かされて地表に降り注ぎ、低次有機物質を含む海となり、この海洋中でタンパク質を含む複雑な高分子の有機物へと化合が進み、それら が集まってコロイド粒子ができ、周囲の媒質から独立し、原始的な物質代謝と生長を行うコアセルベート液滴ができた。このコアセルベートの進化と自然淘汰と によってやがて原始的有機栄養生物が発生し、ついで原始的無機栄養生物が発生した」というものである。
オパーリンの時代にはまだ細胞の形質膜の組成と意味は理解されていなかったが、物質をその他から囲い込むコアセルベートという考えは新鮮で、その後しばらく一世を風靡した。
今では一方の端に親水性の基を持ち他方に親油性(疎水性)の基をもつ分子を水に混ぜると、親油性の基どうしは水から排除されて集まり、外側に親水性の基を並べたミセルを作ることが知られている。細胞の形質膜 はこの原理で出来ている。
このような分子はリン脂質、糖脂質などで、親油性(疎水性)の基は脂質である。従って脂質が先ずコアセルベートの臨界膜を作って生命を誕生させたに違いない。生命の誕生の最初は脂質ワールドというわけだ。
伊藤先生の講演は、先ず学生に向けて直径25センチくらいの地球儀を手に持って実際に見せることから始まった。
「これが地球です。地球儀には各国の 境界が沢山書いてあるけれど宇宙から見た地球は陸と海だけしか見えません。海の深さは0.1mmくらいですし、この大きさだと大気の厚さは僅か表面を覆う 厚さ1mmの層です。私たちが人類の発展と取り替えっこに、この大気と海の環境をどんどん汚染して取り返しが付かないほど痛めつけて来たことに、今やっと 気付いたのです。この汚染を減らしてもとの環境にするのはあなたたち若い力なのですよ。しっかり勉強して将来の大事な問題に取り組んでくださいね。」さらに、同じ大きさで半分に割れる殻の球が用意してあり、殻の内外は青色(親水性)で、そして切断面の中間は黄色(疎水性)で塗ってある。細胞膜のイメージである。
そしてこのようなリン脂質を実際に水面に垂らして拡げて単分子膜になることを実験で示したLangmuirの実験を皆のまえでやったのだ。単分子膜 の拡がるのは目で見えないから、水面に浮かべたカーボンの微粒子(水に混ざらず水面に浮いて拡がる)がリン脂質が拡がって排除されるところを見せたのだ。 教壇を囲んで集まった学生たちから思わず拍手が出る。
伊藤氏はこれらをすべて日本で用意して運んできた。講義に懸ける熱情が分かる、教える方もこうでなくてはいけないという見本だ。
学説としてやっと受け入れられるようになってせいぜい15年くらいのことだが、生物には大腸菌のような細菌、私たちのような真核生物のほかに古細菌 (Archeae)という大分類があることが分かってきた。この古細菌は、細菌よりも私たちに近い存在だが、見かけは細菌そのものなのだ。
病原性がないためにその研究が遅れていた新参者なのだが、100度の温泉の中でも生きている耐熱菌などからは、耐熱性の酵素が取られて今は工業的な用途がどんどん開けている。伊藤氏はこれらの古細菌の細胞膜の分析が専門で、最後にこの話になった。
古細菌でも耐熱性のものでは細胞膜が二重膜ではなく一重膜なのだ。二重膜のリン脂質が膜の中で脂質同士が結合している姿を考えるとよい。そうやって耐熱性 を増しているらしい。おまけにグリセロールと脂質の結合がエステルではなくエーテル結合となって安定性を増している。でも、このような特殊なリン脂質では ない普通の膜を持った細菌にも耐熱性のものがあると言うから面白い。どうやって耐性を持ちうるのだろうか。学問は果てがない。伊藤氏は聴いていた人たちに 興奮を残して翌日瀋陽を発って帰国した。
中国の学生は良くできる、と思われている。少なくとも彼らは良く学習する。朝は薬科大学の校庭の隅で教科書片手に暗唱に励んでいる彼らの姿を見ることは日常的である。彼らは試験でよい成績を取ることに目の色を変える。
ここは試験の成績がよいと奨学金が貰える仕組みの強烈な競争社会である。学校で頭角を現すには、成績が良くないと話にならないのだ。
そうやって勉強するのは結構だ。でも知識は使うためのものではないか。頭に詰め込んでも使えなくては意味がないのだ。
しかし、こうやって詰め込んだ頭の中の知識を使えなくては意味がないというのは、中国以外の国の考えらしい。ここでは試験に通るためには丸暗記が必要と思われ、事実、教科書丸暗記で良い成績を取って一流の大学にはいるのだ。
実際、分からないまま教科書を丸暗記しようとすると、試験はこなせても直ぐ忘れてしまう。もしも内容がしっかり理解できたなら、そのあと覚えておこうと思わなくても、ちゃんと頭の中に残るものだ。
私たちは毎週土曜日に交代で新しいジャーナルから面白い論文を選んで皆のまえで紹介する。この日の学生の紹介した論文は、脳腫瘍が作る物質が脳の清 掃・正常化に精出しているミクログリア細胞をおかしくしてしまうという内容だった。その腫瘍が作る物質はなんだろうというわけで、予想されるファイブロネ クチン、ラミニン、コラーゲンを使って実験をしていた。
これらの物質は間葉系の細胞が作って細胞の外に出すもので細胞外物質(ECM)と呼ばれている。細胞はこれらを細胞の外に出してそれらを足場に接着し、成育することが出来る。
うちの研究室にもこういう一番、二番の学生ばかりが来ている。でも、ここでは成績が良いというのは、暗記が得意と言うだけのことだ 研究者、科学者になるには、頭に詰め込んだ知識を互いに有機的に連関させて使う必要がある。それで私の生化学あるいは分子生物学の講義では、大事なのは暗記することではない、「考えることが大事」なんだよという教育をしているつもりだ。
実験ではこれらのほかにPDLを使っていた。PDLはなんですか?と私がきいた。私は論文を読むときにこのような略号をそのままにはしておかない。正式の名称は何か、その化学的性質は何かが分からないと、機構を理解しないでそのまま鵜呑みにすることになる。気に入らない。
学生はそれを知っているからちゃんと調べている。Poly-D-lysineですと返事がある。じゃ、それは何ですか?と私は訊く。
すると、ECMの一つでしょう、と言う返事が返ってきた。「とんでもない、違うでしょう?」でも、皆しんとしている。
じゃ Poly-L-lysine だから、リジン(lysine)が沢山重合したものでしょ? それじゃ、リジン(lysine)てなに?
するとアミノ酸ですという返事があった。じゃ、そのアミノ酸のcharge(電荷)はなに?プラスなの、マイナスなの?と訊くと、皆自信を持って答えるのだ。マイナスです。アミノ「酸」だからマイナスと思っている。ブーーッ。
冗談じゃないよ。3年の生化学で、そして4年の分子生物学で繰り返してアミノ酸のことを教えているのだ。塩基性アミノ酸ってあるでしょ?それはなに?電荷はどっちなの? 学部でしつこいまでに教わり、そして修士に入って研究に従事してきて沢山論文を読んでいて、リジンが塩基性アミノ酸で、プラスに荷電していることも答えられないのだ。良し、じゃあ、プラスに荷電した物質だね。じゃあ、何故これをここで使うの?と訊くとまた誰も寂として声なし、だ。
じゃ、細胞の電荷はなに。細胞を一つの球と見立てて、これはプラスなの、マイナスなの?と訊くと、またこれにも皆クチナシである。
さっきの、ひとり前の学生が紹介した論文は何だったの?細胞表面の受容体が糖タンパクで、その糖タンパクをシアリダーゼで処理したら、受容体の活性が下がったという論文だったでしょ?糖タンパクをシアリダーゼで切ったら、どうなるの?
シアル酸が外れるんでしょ?シアル酸はどっちなの?そう、酸でしょう?これが外れなければ細胞表面の受容体は、どっちなの、プラスなの、マイナスなの?
そうマイナスに荷電している訳だよね。それに、ガングリオシド(これこそ私たちの研究室のメインテーマである)はシアル酸があるからマイナス電荷を 持っているでしょ?細胞膜にはガングリオシドが沢山あるでしょ。このシアル酸を外側に持つ糖タンパク質とガングリオシドのために細胞表面はマイナスに荷電 している訳だよね。
みんな知っていることでしょ?どうしてそれらを結びつけて考えようとはしないの?
頭の中にいい加減な知識を詰め込んで寝かせておくだけでは、君たち、まともな科学者になれないよ。しっかりして呉れよ、本当に。
テレビや映画のおかげで、手術室の医者のイメージは誰にでも直ぐ浮かべることができる。緑色の手術着と帽子 をつけ衣服や髪に付いた雑菌を患者に移したり手術室に落とすのを防ぐ。同じ色の大きなマスクをして自分の吐く息の中の雑菌が手術室に満ちるのを防ぐ。
もちろん手術着をつける前に、両手は肩から下を三度も滅菌用石けんで洗ったうえに自然に乾かし、薄いゴム手袋をつける。この手袋は同じように身支度をした手術の助手につけて貰う。
これは雑菌その他の異物を手術する相手の患者の体内に入れないための処置である。と、同時に、患者の病原菌や異物で自分が汚染されるのも防いでいる。
私たちは実験の時に日常とは違って汚染に気をつけることがあって、一つは細胞培養である。 もう一つは、RNAを扱うときである。1965年にHolleyのグループが78ヌクレオチドくらいの長さのtRNAの構造を決めた。RNAを分解する酵素としては当時膵臓由来のRNA分解酵素が知られていて、RNAの構造を調べるために道具としてよく使われていた。
しかし、私たちの汗、唾、体液の中にも同じように安定で強力なRNA分解酵素があることはその頃は知られていなかった。それで、酵母から抽出して大量に精製してその構造を調べているtRNAが、配列を調べているうちに消えてしまったりすることがあって、そのミステリーに彼らはさんざん悩まされた。 そしてとうとう、実験室の環境は人の汗や唾に由来するRNA分解酵素で満ち満ちていて、それを考慮に入れない限り、RNAの構造研究など思いもよらないことが分かった。
このRNA分解酵素は安定で強力だが、120度で加熱すると分解する。この頃よく知られている狂牛病の原因と思われているプリオンタンパクは、120度で加熱しても分解しないことで有名である。それで、器具はすべてオートクレーブで加熱滅菌をしておく。試薬を作るための蒸留水は、RNA分解酵素の阻害剤を入れてオートクレーブに掛けておく。 RNAを扱う実験室は実験の前に机の上を綺麗に拭き、アルコールで拭く。実験をする人は綺麗なゴム手袋を装着する。話をすれば唾が飛び散るから、お喋り厳禁。でも話す可能性はあるので必ずマスクをする。 だから、RNAを扱う実験区域によその人は立ち入り厳禁である。手術室ほどの綺麗さはないけれど、気分的には手術室と似た雰囲気となる。
手術の術者は自分の汚染しているかも知れない手が患部に触れないよう手袋をする。私たちは、RNA分解酵素で汚染している手で器具を汚さないように、手袋をして実験をする。
ところが一般の生活では手袋は自分の手を汚さないためにつけることが多い。そのため実験室で手袋をつけていても、そのまま実験室の外に出てきてドアのノブに触ったり、自分の髪の毛に触ったり、ベルトに手を掛けてズボンを持ち上げたりすることを平気でしてしまう。
もちろん、これは厳禁である。仕事を始める新人には何時もやかましく言っている。手袋をつける前の手は良く洗ってRNA分解酵素洗い流せ。手袋をしたまま、実験室の実験器具以外に決して触るな。自分の身体に触るのは、もってのほか。
部屋の外に出るときは手袋を外せ。
このように実験室にはゴム手袋の十分な量が常備してある。となると、手を汚さないためにゴム手袋をつけるという行為は日常生活でも割合普通のことなので、電気泳動をするときにも、ゲルの染色をするときも手袋をつける学生が増えてきた。 そのためもあるのだろう、RNA区域の手袋の使い方がたるんできているらしい。現に細胞から抽出したRNAが最初はあったのに、そのあと分解することがあったりする 。
一番大事なのはRNA実験区域にRNA分解酵素をまき散らさないことである。その場所以外の手袋の使用禁止も一つの選択肢だが、こういうことは厳命しても目を盗んで使うようになるだろう。そうやっているうちにRNA実験区域で手袋を使う意味を忘れてしまうことになる。
それで私たちが踏み切った処置は、RNA実験区域の手袋と、そしてほかの実験室で必要なときに使う手袋の色を分けて両者を決して混同して使わないようにすると言うものだった。 昨晩の研究室の集まりで皆と相談して決めた。
そして修士最高学年の陳陽くんに新しい別の色をしたゴム手袋を買ってきて、使う場所を分けておくように頼んだところだ。さあて、これでうまくいくだろうか。
私は研究者の端くれである。人によっては学者と言う分類に入れてくれるし、自分でも学者だと思いたいけれど、本物の学者とは言い難いことを自分でよく知っている。
学者とは、あることについて深く学究し、従ってそのことなら何でも頭の中に詰め込んでいて、何でも知っている人である。専門のことなら何を訊かれてもたち どころに答えられる。その領域の研究の全貌を知っているわけだから、こういう研究がありますが、と訊かれれば、それが新しい研究かどうか、そして意味があ るかどうかについて評価を下すことが出来る。
もちろん誰でも、頭に納めた記憶が劣化してくるのを避けられない。だから学者は文献を読めば、それをきちんと整理してしまっておいて、必要なときに 何時でもそれを参照できるようにしている。整理してしまってもそれを必要なときに呼び出すためには、適切なキーワードをつけて何時でも探しだせるようにし ている。これがちゃんと出来て初めて一人前の学者・研究者になれるわけだ。
自分がそうなので生命科学の研究者としての視点として書いているけれど、同じように正確な記憶を頭の中に溜め込んでおかなければならないのは、法律家をはじめほかのどの職業でも同じだろう。
私が生化学の大学院に入って研究の論文を読み出した時、文献カードを書くものだと教わった。初めて500枚が束になっている市販の文献カードを買っ たときは嬉しくてわくわくしたものだ。この文献カードに書き込んで適切なキーワードを入れること、そしてコピーした文献(半世紀前にはピーをするというこ と自体が大変なことだった)にも、あとで見つけられるよう印を入れておく。これがあっという間に何百と溜まっていく。
研究を続ける内に興味も変わり、必要なキーワードも変わっていく。全部を間違いなく、遅滞なく、管理することは至難の業である。そうなのだ。私は研究者を やっている途上の何時しか、文献整理を諦めてしまっていた。頭の中にある資料だけが頼りというわけだ。もちろんコピーを取って読み散らした文献は机の上や 本棚に文字通り山積みになっている。
私の定義では、本物の学者は自分の頭の中に読んだ文献を整理して仕舞っておけるだけでなく(もちろん有機的なつながりで取り出せなくてはならない が)、その文献そのものに何時でもアクセスできるようなきちんとしたシステムを自分の傍に作っておける人である。つまり本物の一流の学者は、自分の頭のほ かにきちんと情報が整理されて何時でも使える大容量のコンピューター、あるいは外付けのHDDを持つことに成功した人と言って良い。几帳面でないと学者に なれないのだ。怠けものの私は、外付けのHDDの構築に失敗して自分の頭だけが頼りの二流学者になってしまった。
文献整理を諦めて、しかしそれでも研究者の端くれとしてあがいている頃、嬉しいことには、PCが普及し始めた。このPCこそ、この文献管理にぴったりだと思って私はこれに飛びついた、1980年代の終わりから90年代の初めである。File Makerを使って文献のキーワード、抄録を入れて、検索できるようにした。しかし、探そうと思っても最初に用意したキーワード以外は受け付けてくれないのだ。これではアバウトな人間にとっては、いくら自分で作ったものでもとても使いにくい。
しかも、キーワード検索をするソフトだけが別で、文献はほかのところに仕舞ってあるわけだから、これらを探すとなるとまた面倒である。文献を画像にして PCに取り込むことが出来て、キーワード検索と一緒に見つけられるともっと良い。それで、これにも挑戦した。しかし、この頃のイメージスキャナーは高価だ し、ハードディスクの容量は小さくて私の思うようにはいかなかった。つまりここでも挫折したのだ。実際は、何とかして自分のデータベースを構築しようと、 何時でも空しい努力はしていたのだが。
MacではEndnoteと言うソフトウェアが出ていた。自分の読んだ論文を整理して、自分が書く論文に適切に文献を選んで納めることの出来る優れたソフ トウエアである。これは後述のPubMedのデータと連動して使いやすくなったが、一方で、論文に不必要に(自分で読んでもいないと思われる)引用文献を 増やすという悪弊も生んでいる。
コンピューターとインターネットの世界で、世界的なレベルで学術文献がコンピューター管理下に入ったのは20世紀の終わり頃だろうか。生命科学・医学関係 の研究論文はPubMed・Medlineで簡単に検索できるようになった。このことが、自分で読んだ文献をきちんと整理・管理できない私みたいな似非学 者にどんなにありがたい恩恵をもたらしたか、ここまで読んだ方々には分かっていただけるだろう。
頭の中の容量が小さくてぐちゃぐちゃでも、誰でもアクセスできるPubMedは適切な検索を行えば瞬時に私を助けてくれるのだ。PubMedで調べて必要 としている文献にたどり着いてその文献を読む。読んだあとその文献を整理して置いておく必要もない。また必要ならすぐに探せるのだ。
つまり今まで、自分で探して手に入れて読んできた文献を、どうやって整理したらそのあとも直ぐに探し出せて使えるかという、長年に亘って私を悩ませ、ついに答えのでなかった難問に向き合う必要が無くなったのだ。
電源の入ったPCにPubMedのURLを呼び出して、必要なキーワードを入れる。
更に検索絞り込み、そして文献のAbstractを見て必要なら全文に目を通す。文献の必要事項をコピーペースとして保存する。あるいは文献そのものをPDFで自分のPCに保存する。
おまけにMacが凄い進化を遂げたのだ。MacのOSが10.4(Tiger)になった2005年から、自分のコンピューターに入っているものは瞬時に検索 で引っかかるようになった。
文献のタイトルだけでなくその文章の中の一語でも検索出来る。PCの中に整理していないで取り込んであるPDFの文献が必要に応じてキーワードで探し出せるのである。
これはもう、べらぼうな進化である。月の上に人類が降り立ったよりも大きな進歩である。自分の持っている文献をどうやって整理して、使えるようにしようか と悩み続けてきたのに、今ではすっかり解決してしまい、全く悩む必要がなくなった。頭の中の情報をいかに有効に用いて、新しいアイデアを生み出すかに力を 注ぐことが出来る。
さあ、こうなると、鬼に金棒だ。似非学者でも本物の学者に対抗できるようになるのだ。自分の頭の容量が引き比べると一寸小さいのが引け目だが、討論で直接対決するのではなく、時間を掛けて論文を書くのなら、違いは殆ど消えてしまう。
長年の間苦労はしたものの、本物の学者でいられるためのシステム作りには成功しなかった。しかし今はインターネットが助けてくれるのだ。インター ネットが使える限り私の世界はバラ色である。衰えては来たけれど自分の頭をインターネットの情報で補強して、まだまだ科学の世界で頑張っていけるのではな いか。この素晴らしい科学の進化の恩恵をもう一寸だけでも味わっていきたいものだ。
2009年4月26日は日本語弁論大会の日。この日までの1週間は途中の一日を除いて連日の雨。そして気温はどんどん下がって前日は最高7度で最低 3度だった。それが当日はからりと晴れて、最高13度、最低5度と言う予報だった。街中まで出掛けるのだから、お天気になって良かった。
会場は四つ星ホテルの商貿飯店で、300人くらい入る広くて雰囲気の良い会場がある。会場ロビーを挟んで役員や出場者が集まることの出来る小部屋も沢山ある。
主催者として日本人会のほか、瀋陽教育局などが名前を連ねている。在瀋陽日本国総領事館は後援で、瀋陽日本人教師の会は協力となっている。お手伝いしていますよという感じだが、実質の運営は教師の会のメンバーである。
今ではみんなが、特に教師の人たちは中国に来ているのだから当然のことデジカメを持っている。だから大して期待していないけれど、カメラ掛りにでもしておくか、位のところで割り当てられたと思っていた。
私も昔の銀塩カメラの頃はNikonのいろいろの一眼レフカメラを持っていたが、時代がデジカメになるに及び、私もデジカメに変わってしまった。ソニー、カシオ、ミノルタ、そしてリコーと変遷している。デジカメのお蔭で写真を撮るのが実に手軽になったのが嬉しい。
昨年買ったリコーR6は半年もしないうちにレンズ鏡筒を出したまま首からぶら下げていたときにガラス戸に激突して、カメラを壊してしまった。修理に 出して価格を聞いたらほぼ3万円かかる。それならばその後継機を買った方がずっと安い。それで、今持っているのはリコーR10である。個人のスナップ用 だ。このような大きな大会の記録用に責任を負って使うものではないと思うが、期待されているわけではないし、ま、いいか。
教師の会の実行委員会では藤平先生がもう3年越しでこの弁論大会に関わっているうえに昨年から実行委員の代表をしているから、運営体制は盤石と言って良 い。あらかじめ詳しい担当表、仕事の内容、時間刻みのスケジュールが用意されている。開会は9時だが私たちは8時前には会場に集まった。 私の今年の係りはカメラである。一昨年前までは毎年司会をやっていたが、そろそろ他の人がやっても良いかなと思って司会役を辞退した。実行委員としては私にも何かの役割をあてがわなくてはならない。
会の始まる前に、忙しい藤平先生の手の空くのを待って訊いた。カメラでどのような記録がいるのですか?すると彼が言うには、発表者一人一人の写真が欲しいという。 これは大変なことである。一般のデジカメでフラッシュを焚いて鮮明に写せるのは3-4メートルくらいまでである。壇上の発表者とフロアの最前列とは5トル くらい離れている。個人の顔をアップにするにはズームを使えるけれどフラッシュが届かない。どうしても、のこのこと前に出て行ってカメラを構えなくてはな らない。
やれやれである。最前列の正面脇に椅子を貰って、そこから写してみるとやはり暗すぎる。どうしても前まで出て行かなくてはなるまい。こんな撮影者は人々にとって目障りそのものだが仕方ない。
二回くらいこうやって写真を撮りに出て行くと、実行委員の中の高澤さんが気付いたらしく、「スタッフ」と書かれたカードを首に掛けてくれた。これで公式というお墨付きになったわけだ。
後ろの邪魔になるから前に出て行ってはひざまずいてカメラを構える。一人一人ちゃんと写すためには数枚は撮らなくてはならない。大学一部15名、高 校生14名、大学二部15名。合計34名。それに祝辞、講評、表彰式すべてを撮ったので、その度にしゃがんだり立ったりで、私の膝はがくがくになった。こ ちらは古希をとっくに越えている。撮るのが大変そうだから替わろうと考える力が、今の若い人たちには全くなかったようだ。
と、不満を書いたら、やっと少し気分が良くなった。
私個人のことはともかく、弁論大会の発表の内容は、以前の大半を占めた「私を大事に育てるために苦労したお母さんありがとう」、「友達はありがた い」みたいな日常的な題材が少なくなって、「中国と一緒に生きる」というような、天下国家を論じる気配が出てきたことが喜ばしい。会場にいて聞き応えが出 てきたのだ。
日本語は高校生の部が断然上手である。とくに東北育才学校からの参加者は中1から始めてもう5年間日本語を勉強しているし、朝鮮族学校の人たちは伝統的に日本語を小さいときから学んでいるという。どちらも日本人と区別が付かないくらい巧みである。
日本語と言う点で一番見劣りするのは、薬科大学も入っている大学二部になる。ここは日本語を勉強した上でほかの専門科目に取り組んでいる日本語非専 攻の人たちだ。日本語専攻の大学一部に比べて劣るけれども、日本語を始めてまだ丸2年にもならない人たちも参加してこれだけ話せることを考えると、これま た凄いことである。内容だって、さすが専門分野があると思わせるだけの、ステレオタイプでない視野の下に作文を書いている。
とても疲れた一日だった。参加者、そして会の運営に与ったすべての人たち。皆さま、お疲れさまでした。
高 等部は市内と言っても中心から外れて南の方の新興地域に作られている。中高それぞれに日本語クラスというのがあって、ここでは日本から来た先生たちが日本 語を教えている。現時点で、3人の先生が高等部と中等部のそれぞれの学年を受け持っている。国際部と言うところでは2人の先生が日本語を学びたい帰国子女 や日本人子女のために日本語教育に当たっている。
東北育才学校の卒業生は、中国では精華大学や北京大学の一流大学を目指し、アメリカではハーバード、プリンストン、日本では東大、京大に入って世界 中に散っていくと言うことである
今年の春学期が始まったとき日本語クラスを受け持っている梅木愛先生から、何でも良いから人生の先輩として彼ら学生に何 か話して欲しいと頼まれた。梅木先生は富山県の高校の国語の先生で、富山県派遣の現役教師である。
数えてみると私は今まで招待学術講演を110回こなしてきたけれど、この数年はそのようなことは絶えてなく、「中国人学生気質」みたいな話しをする よう招かれることが多い。中国の日本語学ぶ高校生に「日本の大学に行く意義」を話すのも面白そうだと思って、しかも大分先のことだしと思って引き受けてし まった。
「何時がいいですか」と梅木先生に訊かれて、「4月の後半が良いですねえ」と私は答えた。4月のはじめの瀋陽はまだ寒い。5月が一番良い季節だが、こちらとしては講義の最盛期となるし、6月には卒業を迎える修士4人と卒研生4人を抱える身としては4月のうちに済ませたい。
梅木愛先生に尋ねてみると、クラスには約30人いるそうだが、昨年は東大に7人、京大2人、阪大1人、北大1人、その他を入れて13人が日本の大学 に入ったそうだ。と言うことは東大指向だから、大学としては東大に焦点を合わせることにした。東大に入るとどういう利点があるかという話をすることにして 資料を集めよう。
大学に入ると、いずれ出ることになりそれから社会人としての長い人生が始まるわけだ。つまりどのような人生を目指すかを自分の経験を交えて話そう。
話しの後半は、中国から日本に留学するわけだから、二つの国の違いを述べよう。このためには、「日本を訪れた高校生のブログ」や「ブログ:中国と日本の違い」などが参考になる。と、だんだん思いつく度にインターネットで資料を集めて話の筋を作った。
大学受験生の数とか、大学を出るといくら給料を貰えるかとか、今ではインターネットのお蔭で即座に資料が手に入る時代である。しかも中国の瀋陽にい て、である。感心しながら講演のPPTを作っていく。今までの自分の中に蓄積したものとしては、自分はこうやって生きてきたという記憶があるだけで、 見せるための資料は全部インターネット由来である。
さて、当日は妻と一緒にタクシーで南の浑南新区にある南校舎を目指した。瀋陽は瀋河(別名が浑河)という大河の北にあるので瀋陽という名前で呼ばれ ている。つまり市の南にこの大河があり、浑河を渡るとオリンピックのための巨大なサッカー場のある地域に入り、林立する高層マンションの数に思わず驚きの 声が出てしまう。半端な数ではない。これだけの立派なマンションに住むことの出来る沢山の人たちが瀋陽にはいるわけだ。
東北育才南校に着くと、薬科大学よりも広い敷地に美しい校舎が綺麗に配置されているのに目を見張る。迎えの梅木先生と高等部のビルに入ると、見事な石造りだ。同じ公立と言っても薬科大学の建物は比べものにもならない。
瀋陽市に東北育才学校という英才教育を行っている学校がある。公立校だが中国東北三省で断トツ一番の進学校だ。その昔日本が満州を侵略して瀋陽が奉天と言 われた頃、瀋陽駅に近い場所に作った千代田小学校の建物の一部がそのまま残っていて、それが東北育才学校中等部になっている。場所は瀋陽市内の一等地にあ る。
残っている建物には、「元は奉天千代田小学校」というプレートが付けてある。「瀋陽市不可移動文物」というのは「保存建物」ということか。
直ぐ横には時計塔が建っていて、ここで学び教えた日本人が東北育才学校創立45周年の1994年に寄付したと書いてあった。国家誕生と同じ年だから、東北育才学校は今年60周年記念を祝うことになる。
壁には中国の大学が成績順で1から50まで張り出されている。学生は毎日これを見て、自分は精華大学に入るんだという決意を新たにするのだろう。最後までも見ても瀋陽薬科大学は載っていない。
ちょうど午後の授業が始まる前で多くの高校生を廊下階段で見受けたが、各階の階段のところには斜めに襷を掛けた男子学生がきちんと立っていた。お目付役の学生委員なのだろうか。
梅木先生に連れられて教室にはいると、広くてこれも薬科大学と比べて綺麗だ。梅木先生が私たちを紹介し、学生がかけ声を掛けて「起立」そして「礼」である。薬科大学で見掛ける大学1年生よりも皆大人びて見える。
(つづく)
コメント:
私はベトナムのKIETと申します。私は日本語が大好きなので、日本語を勉強しています。これから頑張ります。
投稿: KIET | 2009年5月21日 (木) 22時21分
梅木先生は毎週二回この高校3年生のクラスで午後2時間半ずつの日本語の授業をしているという。毎回まず最初に生徒二人が日本語の5分間スピーチをするという。題材は自由なのだそうだ。
最初の男子学生の話しは一緒に罪を犯して捕まった囚人がふたりいる。それぞれが取り調べを受けるが、最初に自白すると証人扱いとなって減刑されて10年の服役。相棒は15年の刑になる。もしも否定を続けている間に相棒が白状すると罪に問われて15年の刑になる。 さあ、あなたがその囚人の一人だったら白状しますか、しませんか?と言う問いだった。生徒がそれぞれ訊かれて、絶対仲間を売らないという人もいたが、大半が最初に白状すると言っていた。心理ゲームの質問だ。
次の女子学生の話しは、若い二人連れが田舎にやってきて、村の人たちにお墓の前で私たちが祈祷すると死者が蘇りますと言って祈り始めた。するとどの家から も、死んだあの人をもう蘇らせないでくれと言ってお金を持ってきて祈祷を止めさせたという。この二人はそれで大儲けして田舎をあとにしました、と言うもの だった。死者をどんなに悼み、偲び、懐かしんでいても、死者にはもう戻る席がないという現実を考えさせる話しだった。
二人とも結構難しい内容の話をいとも楽々と日本語を操って話すのだ。驚きである。
そのあと改めて梅木先生から紹介された私は、先ず私の履歴から話し始めた。小、中、高、大学、大学院。そのあとのスライドでは妻の履歴を見せる。 小、中、高と順にスクリーンに出てくる度に生徒のどよめきの声が大きくなる。二人とも小学校から一緒だからだ。どよめきで楽をして先制点を稼いだ気分であ る。
今ここにいる育才の学生たちは、来年は日本の大学を目指しているから、今の目的は大学に入ることだ。しかし、大学は目的ではなく通過地点である。その先どのような人生を送るかが問題だ
今までの、そして今の中国でも、人は金持ちになることを目指し、金をどれだけ儲けたかが人の価値になっている。成功した人生とは金を儲けた人生というわかり やすい基準が幅をきかせているし、今の日本でもその風潮がある。しかし、私の若い頃はそのような考え方はなかったと思う。自分のやりたいことをやるというのが職業の選択の基準だった。
どのような職業を選び、どんな人生を送るのがその人にとって一番良い選択であるかどうか、誰にも分からない。私は自分が何故研究者になったか、そして研究者になる、あるいは研究者をしていると言うことはどういう人生かと言う話しなら出来る。
私が若い頃はとても生意気だった。人から使われる自分の姿は想像できなかった。つまり会社員にはなれなかった。一方で研究すると言うことはとても面白そうだった。刺激的な毎日を送ることが出来そうだった。それで、迷うことなくその道を選んだ訳だ。
今では好きだから研究者を選んだと言うだけでなく、もう一つ違った言い方をすることが出来る。
昔誰かの文章で読んだのが頭に残っていて、つまりこれは誰かの受け売りなのだが、研究者になるというのは、芸術で身を立てるのと違ってとても楽なのだ。た とえば瀋陽の出身で郎朗と言う有名なピアニストがいる。彼は毎日7-8時間の練習をしてここまで来た。同じように、あるいはもっともっと練習をしなら、コ ンサートピアニストになれなかった人は山ほどいるはずだ。個人個人は零から始めて必死にトレーニングを重ねないと、芸術家として身を立てられない。
一方、科学の成果は様々な研究者が出して、その成果は毎日積み上がっていく。今日何か研究をしようと思えば昨日までの成果は万人の前に等しくアクセス可能 なものとして置かれているのである。つまり科学の成果の前では誰でも対等なのだ。今日この世界に入った若者であろうと、50年研究を続けて来た老学者であ ろうと、学問の成果は同じように門戸を開いている。
新人と老学者の間の違いは、老学者に経験があるだけで、目の前の利用できる学問成果は同じなのだから、あとはその成果に立って新しいことを開発する (あるいは新しい方向に気付く)能力が研究者を振るい分けていくだけである。つまり芸術家になることから見ると研究者になることは遙かに簡単なことなの だ。
そして、研究が好きならば、好きなことをやっていて給料が貰えるわけだから、こんなに素敵な商売はなかなかないのではないと思う。多くの人は職業を生きる 手段として選ぶ。毎日の職業生活を、生きるための糧を得るためと思って耐えなくてはならない。研究者にとっては毎日が楽しい生活なのだ。
と言うわけで「学問のすすめ」でなく、「研究のすすめ」が私の話の一つの中心だった。お金は儲からないかも知れない。でも、苦心を重ねて、知恵を絞って研究をしてその結果の出る喜び、これほど胸躍るものはない。と言ってもほかのことを知らないからかなり主観的なものだが。
コメント:
「瀋陽だより」を愛読する者です
教壇に立ってらっしゃるのは山形先生でしょうか。
表情が美しくて。しばらく写真から目を離せずにいました。
やはり生き方は顔に表れるものなのだ、とつよく実感しました。
「瀋陽だより」だけにかぎらず、どなたかの掲示板上でも、先生のお名前を見つけたときは、マウスをもつ手をやすめ、そこにある字句を貪欲に目に納めています。
先生は私の「こうありたい」と望む理想の方です。ぜひ、これからもお話をきかせてください。
投稿: 愛読者 | 2009年5月14日 (木) 09時08分
5月4日月曜日の夜アパートに戻って食事をしているところに、お隣の池島老師から電話が掛かってきた。今私たちのいる実験棟にラット出血熱がはやっていて、今週末の木曜か金曜から三日間は建物を封鎖して滅菌するという連絡が入ったところだという。
先週半ばには1階のエレベーター乗り場に張り紙が出ていた。ここで使う実験動物、実験動物の試料、ダスト、の運搬にエレベーターの使用を厳禁するというも のだった。エレベーターで動物飼育のダストと一緒に乗り合わせると臭くて堪らないが、臭いからと言って禁止するとは思えない。
うちの学生に訊くと、今この建物でラット出血熱が見つかったためらしいですよ、と言う。今から3年前にも、これがここで流行って大騒ぎだった覚えがある。 ラット出血熱に罹った学生が出たので、実験動物屠殺の命令が出た。ところが実験をやっている人たちにしてみると、動物を一挙に殺してしまったら実験が中断どころか破棄になってしまう。それで、殆どの学生がネズミをこっそりと何処かに避難させたのだ、建物消毒の前の日に。
つまり、ラット出血熱のウイルス駆除に手抜かりが出た。それを知った瀋陽市衛生局は激怒して、飼育動物を即時に殺すよう厳命が出た。そして建物に立ち入り禁止二日間の措置をして建物の消毒が行われた。
私が昔いた民間の三菱化学生命科学研究所では研究棟の半分の面積に匹敵する動物飼育施設を建てている。建物の実験動物区域に入るには、手術をするみたいに 手を良く洗って、専用の実験着を着てエアシャワーを浴びる。そして実験動物を扱うと、あとは一方通行で建物を出て行く。動線は決して交叉しない。
このような設計で実験動物を決して汚染しないようになっている。
実験動物も、世界的には The Jackson Laboratories、日本では日本チャールズリバーから信頼できる実験動物が入手できる。中国でもこれに相当する信用できる機関があるらしいが、そ こから買うと高価なので、ご多分に漏れず山塞コピー、インチキ動物の出番である。その頃は大学の近くで粗末な飼育施設の中でマウスのいろいろの系統を飼っ て実験室の要望に応じて売っていたらしい。この動物が汚染していたにちがいない。3年前にはそこからは決して買ってはいけないという通達がでていたが、何 時まで守られただろうか。
ラット出血熱は、昔は韓国型出血熱と言っていたけれど、特定の国名を使うのは良くないと言うことで、いまは流行性出血熱、腎症候性出血熱、流行性腎 症:nephropathia epidemica (NE)、 出血性腎症腎炎:hemorrhagic nephroso-nephritis (HNN)などと呼ばれている。『ハンタウイルスを原因とし、不顕性に持続感染したげっ歯類が糞尿中に排泄するウイルスを感染源とする人獣共通感染症であ る。』
『本症はユーラシア大陸全域で現在なお年間10万人以上の患者発生が報告されている。旧日本陸軍(関東軍)が旧満州(現中国東北地方)において致死率 15%の奇病の流行に遭遇したものは、濾過性病原体による流行性出血熱であるとされ、後に韓国型出血熱と同一のものであることが判明した。』
『1950年代の朝鮮戦争の際に、朝鮮半島に駐留した国連軍兵士2,000人あまりの間で不明熱患者が発生し、症状と剖検所見から旧満州・旧日本軍の間で流行した流行性出血熱と同一疾患であることが判明したことによる。』
日本では『1970~80年代に医学生物などの生物系研究室で、実験目的で購入したラットがウイルスで汚染されていて、22機関で126名のハンタウイル ス感染患者が発生し、1981年にはラット飼育者が死亡した。現在では、施設の改善と飼育販売業者によるウイルスの事前チェックと感染排除策により、感染 者は出ていない』そうだが、今ここで騒ぎになっているわけだ。幸い人から人への感染は報告されていないが、不潔な環境がその一因である。
大学ではその後口から口へと何度か混乱した情報が伝えられたが、結局木曜日朝、建物を封鎖して消毒滅菌する。その影響を受けないよう、金曜、土曜も建物を封鎖するという。日曜日には来ても良いけれど窓を開け放して風を良く通すようにと言うことだ。
ただ、毎度のことで驚くことはないが、今回の建物閉鎖と消毒の通知も、私たちは特に知らされることはなく、それでどうしてこれを知ったかというと、 隣の池島老師が聞き込む度に親切にも教えてくれたからである。このルートなしには私たちはつんぼ桟敷だった。大事なのは隣の友人であることを痛感した。
この三日間は大学に行けない。PCが使えない。アパートからはインターネットにアクセスできない。つまり何も出来ない。弁論大会の写真撮影で痛めた足腰を休めるのに、天の情けの休日と言うところである。
どんな人生を送るかは、それぞれの人たちの自由である。しかし、目の前にいる東北育才学校3年生の彼らは、今は宝の山を前にしているけれど、実際に 選ぶことの出来るのはただ一つだけの自分の人生だ。私は研究者になると言う視点から一つの人生を述べることが出来るが、もっと何か言えないかと思ってイン ターネットを見たところ、『ますい志保が明かす「偉くなる男、ダメになる男」』と言うのを見つけ た。
(写真:http://president.jp.reuters.com/article/2009/02/15/62645C56-F0ED- 11DD-92EA-EAF13E99CD51.php)
彼女は1992年明治大学仏文科卒の若さで、いまは銀座クラブ「ふたご屋」のママをしている。『いい男の条件』と言う本を書いて、30万部を超えるベストセラーになったという。今、世をときめいている人である。
銀座のクラブなど私にはまるで縁がないけれど、人生の成功者が好んで出掛けるところと言う位は知っている。
実際、ある年の忘年会の帰りだったか、研究所の職員の何人かと一緒に私も連れられて社長がご贔屓のクラブに一度行ったことがある。
大学を定年で辞めたあと世話になった研究所は、某企業のものだった。昭和の初めには財団法人の研究所を作るくらい景気が良かったらしいが、その後急 速に変化する世間について行けず、業績は下降線だった。その中で私を拾ってくれたのだから、研究所の所長をやっていた友人に感謝し続けている。
今思い出しても夢の出来事くらいにしか思えないが、その社長がここの常連で、しかもほぼ毎 日ここに現れていると聞いた。豪華な広間で美女に囲まれて私は声がうわずってしまった。オーナー社長だから当然なのかも知れないが、朝11時頃やっと会社に現れて、夜は夜でこんなところで遊んでいるのだから、言 いたくないけれど、会社が左前になるのも無理ないことだろう。
人もうらやむ人生の成功者というと、銀座のクラブに現れるのが当たり前というのが世間に認知されているようだ。しかし一方で、だいたい人生の成功者 とは何だろうと思ってしまう。私は人生の大半を終え、今さらどう考えたって別の人生を歩むことは出来ない状況だから強くそう思うのだろうが、ステレオタイ プの人生の成功者の成功物語なんて、あまり聞きたくはない。
ともかく、彼女によると、『これまでは「俺についてこい」というような強力なリーダーシップを発揮する人が成功者でした。しかし今は、周囲の共感を得ながら進むタイプのほうが成功を収めるようです。』
『成功する人は、必ずいいブレーンを持っています。つまり人こそが財産です。義理人情に厚く、謙虚で誠実だからこそ、ますますいい人が寄ってくるのでしょう。』
『伸びる男は、謙虚です。むやみに敵をつくりませんし、敵だった人たちでさえ味方につけてしまうものです。いい意味で妥協することも必要でしょう。ビジネスを成功させるには、ときには意見の違う相手にも歩み寄れる部分は歩み寄ることで、力が倍になります。』
なるほどなあと思う。耳が痛い。
私たちの世界では自分の研究に懸けている個性的な人が多いが、研究班のまとめ役になったり、学会の会長に選ばれたりする人は 敵の少ない人である。学問は真実であることを検証するために相互の厳しい批判に曝されるはずだが、人の研究を批判する人は大抵敬遠されている。私の友人にはこのような人が多い。と言うことは、つまり私も敬遠される口というわけだ。
インターネットを調べているときに、『会社で部下からの信頼が篤い上司とは』というのもあった。皆から支持されればそれはその人の「成功」につなが ると言えるだろう。これによると、「責任感が強く、 判断が的確で頼りがいがある」、「 仕事に精通し部下の力になる」、「誠実・公正に部下に対応する」、「オープンで率直である」人たちが上司として部下から信頼され、支持を受けている。もっ と細かく言うと、「自分に不利になっても部下をかばう」、「部下の言葉に真剣に耳を傾ける」、「約束を守ってくれる」、「分け隔てなく誰に対しても公正で ある」、「部下の評価に偏見を持たない」、など沢山出てくる。(引用は『嫌われる上司の共通点「事なかれ主義、陰険、保身」プレジデント 2007年12.3号』)
『部下から嫌われる上司とは』では、「事なかれ主義で頼りない」、「仕事にやる気がない」、「部 下の尊厳を傷つける」、「権力を笠に着ている」、「下には威張り上にはペコペコする」、「自分の保身と出世しか考えていない」、「部下の手柄を自分の手柄にする」、「自分の失敗を絶対に認めない」、「有能な人を陥れようとする」、というのが書かれている。
経営者になるための資質とは別にしても、「部下から嫌われる上司とは」と見比べると、上に立つ人に必要な資質が分かる。「責任感が強く、判断が的確」、「公平である」、「オープンで率直である」。
これは日本の社会の話であって中国には通じないかも知れない。それに今この若さでは「成功するための」条件などまだ考えたことはないだろう。それで も、こんな話も、これから人生に取りかかろうとしている目の前の中国の高校生がものを考えるのに役立つのではないかと思って取り入れた。
日本には国際交流基金と言う組織があって、もちろん金の出所は私たちの税金だが、国際親善に役立ちそうなことを色々やっているようだ。毎年、瀋陽日 本人会が主催して、教師の会が総出でお手伝いをしている瀋陽日本語弁論大会にも、会からの申請に基づいて費用の一部を援助している。
2006 年からこの国際交流基金は中国の高校生を日本に招待を持っている。長期招待のプログラムでは、日本の家に11ヶ月間ホームステイし、日本の高校に通って日 本語で勉強する。第1期生の37名の中国人高校生は2006年9月から、第2期生の37名は2007年9月に日本での生活を開始し、全員無事にプログラム を終了して中国に帰国した。そして第3期生は26名が2008年9月からいま現在、日本各地で高校生活を送っている(井出敬二外務省大臣官房参事官のブロ グによる)。
今このクラスルームに30人くらいの高校3年生が座っている。梅木先生に伺ってみると、この中の数人はこの国際交流基金のプログラムにより日本の高校に留学の経験があるという。訊いてみると4人が手を挙げた。
インターネットで調べてみると、前出の井出氏がまとめた記事として「日本人と中国人との習慣のちがい-日本留学した高校生の感想-」というのがあっ た。これが面白い。日本を訪れた中国人も感想をいろいろとブログに載せているけれど、これまでの教育のためか、日本の良いところを素直に良いと書くのには 大変なプレッシャーを先ずはね除けないといけないように見受けられる。それに比べると高校生の感想はまことに率直である。
『クラスメートは、とても友好的で、陽気で活発で柔和でかつ包容力があった。さびしい時、困った時にも、日本人の友達が親切に助けてくれた。学校の クラスメートの他に、近所の友達もできた。困ったとき、日本の先生は一生懸命話してくれ、一緒に泣いてくれた。日本人の優しさに強く心を打たれた。』
『四川大地震の時、みんなが助けてくれた。学校で集めた寄付金を赤十字社に渡した。日本人の暖かさに本当に感謝した。』
『勉強については中国の高校生の方ががんばっている(中国の数学教育は遙かに進んでいる)。しかし課題に取り組む時のチームワーク、家庭科での実技勉強では、日本の学生は本当にすばらしい。』
『日本の高校は、授業の雰囲気が自由で、おしゃれも自由、男女交際も自由。 日本の学校と中国の学校は大きく違う。日本の教育理念は総合的な資質養成なので、知識教育と素質教育とを同時に進める。』
『日本では子供の生活や将来は子供が自分で選ぶ。勉強だけではなく、部活をやって、楽しく学生時代を過ごす。子供の特技を伸ばして、自分が理想とする人に なるように育っている。中国ではみんな勉強して、大学へ行かないと良い仕事が見つからないと考えている。でも勉強だけがその人の特技ではない。』
『日本人のマナーのすばらしさ、清潔さに感心した。きれいな青空にびっくりし、ごみがひとつも落ちていないことに気づいた。』
『町の人は環境を守り、お祭りを皆で楽しみ、文化遺産を受け継ぎ、人との関係も益々親しくしている。こうした意識はとても貴重だ。 日本人の精神生活、日常生活はとても多彩である。』
『日本人が付き合うルールの中で一番大事なのは、周りの人に迷惑をかけないこと、そして、相手の立場で考えることだと分かった。正しい立ち振る舞いをし、誰に対しても誠実に接することで、発展し、大国になれたのだろう。』
こうやって日本に留学した高校生の感想を読んでいると、中国を離れて異文化の体験をすることは、自分自身を知る上でもとても良い経験となることを知らされる。是非機会を捉えて、曇らない目で日本を見ていらっしゃい。それは今後のあなたの心の成長の大きな糧になりますよ。
『日本という外国に来て、ますます中国を愛する心、祖国愛が強くなった。母国中国を冷静に客観的に見る事もできるようになった。』『中日両国の文化、生活習慣の違いを体験した。この世界は他国との接触がだんだん盛んになっていくとともに、異文化の影響も受けている。私たちは自分の国の文化に基づいて、その良い部分を吸収すべきと思う。』
『日本に来て気づいたことは、文化の違いを認めること。自分の国の文化を紹介する時は、他の人に無理に受け入れさせるのではなく、尊重を求めることだ。他の文化に対しても、完全に受け入れる必要はないが、客観的に理解し、尊重することは交流の前提条件だ。』
『中国人とは違う日本人の世界観にふれて、この世界で、ただ一つの絶対正しい考え方があるわけではなく、さまざまな人のそれぞれの考え方が共存して いることがわかってきた。自分の意見とは違う意見を尊重すべきだ。社会は人々の違う考え方のいいところを結合して進歩していく。』
5月17日教師の会の元会員だった田中義一氏が瀋陽を訪ねてきた。田中さんは2006年9月から一年間、瀋陽大学でたった一人の日本語の教師だった。
昭和の初めに世界の金融恐慌を受けて辞任した若槻内閣に替わって組閣したのは田中義一で、かれとは同姓同名であるが関係ない。この時の田中義一は従来の穏 健な中国政策と国際協調を破棄して、軍事力によって満州への権益を確立しようとした。これが張作霖事件につながり、泥沼の侵略戦争に引き継がれる。
4月中旬今の田中義一さんから連絡があった。彼は瀋陽で1年間日本語教師をしたあと日本に戻って金沢で仕事をしている。以前の金沢大学時代に知り 合った内モンゴル出身の友人が故郷で結婚するので、その結婚披露宴に招かれているという。それに出席がてら、ついでに瀋陽にも寄りたいという連絡だった。 来瀋日が分かったら一緒に集まりましょうと返事を出しておいた。
『いよいよ、5日に成田から瀋陽に飛び、到着後、直ぐに通遼に高速バスで行きます。瀋陽にはいつ戻るかまだ決まっていません。モンゴルの友人の結婚式後の 予定がまだ決まっていませんが、せっかく中国に来るならのんびり遊んで行け、との事ですので、気長に過ごし瀋陽に戻る前日に先生方にお電話したいと思いま す。日本人のように、事前に計画を立てず、気ままに過ごすのは、モンゴルの広大な平原が、その人間性の形成に影響を与えているせいか。何はともあれ、今か ら、異国情緒に、恋焦がれております。』
やがて、内モンゴルの三カ所の結婚披露宴に出たあと瀋陽に来るけれど、私たちに会えるのは日曜日17日の夜だけだという連絡が入った。彼が教師の会 にいたのは2年前のことで、その時の会員で今もいる人は6人くらいしかいない。このうちの何人かに連絡すると日曜日の夜の集まりに出られるという返事だっ たので、教師の会全員に集まりを連絡して誘った。
田中さんはまだ来ない。
日曜日朝の6時半に私の携帯電話が鳴った。朝早くの電話は不幸な内容のことが多い。恐る恐る電話をとると、田中さんだった。「通遼に戻ってきてい る。夕方そちらの集まりに出るので、周りが心配してくれて、、、」と言うから、午後5時着ではなくもっと早いバスに乗るのかと思ったら、「午後2時発のバ スに乗り、そちらには午後6時半に着くことになったので、皆さん6時半から始めてくれませんか」という内容だった。
なんだか日本語がおかしいんじゃないか。「心配してくれて」遅いバスに乗るなんて、使い方が間違っている。始める時間を遅らせろと彼が言ったって、店は予 約してあるし(おまけに、店の方は梅木先生が予約した日に私たちが来ると思って席が取ってあったそうだ。今ここで時間を変えると印象がますます悪くな る)、出席者全員に連絡するのは手間が掛かる。
と言うことで予定は変えずに、6時に店に行った。集まった顔ぶれの中で、梅木、山本、中田さんたちは田中さんを知らない。藤平、宇野、松下さんたち は当時からの会員だ。まだ渡邊(京)、宇野さんが現れていないけれど、田中さんが7時に来るならともかく始めようと言うことになった。この店は豆腐料理と 鍋の店でそれらは美味しいけれど、私が選ぶのは牡蠣の天ぷらである。28元で皿に山盛りになっていて、とても美味しい。
6時半になって渡邊さんが現れた、あれ、6時半ではないのですか?という。田中さんから始めるのは6時半から始めようというメイルが来たという。田中さん がアレンジしたのでもないのに、勝手な連絡をしたりして困ったものだ。と私たちはぶつぶつ言いながら、皆は青島ビールをがぶがぶ飲み、私はこの店サービス の豆乳をごくごく飲みながら、お喋りの合間にひたすら食べ続けた。
場所は、先日東北育才学校の先生たちと食事をした砂鍋居という店が気に入っている。田中さんは午後5時に瀋陽北駅近くにバスで着くと言うから、集まりは6 時からにしよう。そこで8人分の席を予約するよう育才学校の梅木先生にお願いした。彼女は田中さんを知らないけれど、きっとこの集まりに出てくれるに違い ないと私は信じていたのだ。 結局田中さんを知っている会員が私を入れて5人、田中さんを知らない会員が3人、田中さん込みで合計9人が日曜日の夜集まることになった。
数日前、薬科大学の西門から校内に入った時、入口に立て看と言うにはあまりにも小さいが、外部のものは入ってはいけないという掲示に気付いた。食堂の前で見ると、外部の人はインフルエンザ対策のために中で食事をしてはいけないと書いてあった。
そして5月19日の火曜日からは、大学の正門には大きく「身分証明書提示」と書いて大学に入ってくる人を警備員が改めるようになった。 流行性出血熱で建物が閉鎖されたときは、詳細を知ったのは隣の池島教授からだった。私たちには何の通知もなかった。今回も全く同じで、大学からインフルエンザについての注意書きが回ってきたと知ったのは、池島教授が私たちにも親切に見せてくれたからである。 そのコピーをとらせて貰ったあと、 うちの学生の黄澄澄さんに日本語に翻訳して貰った。 『Influenza A virus subtype H1N1の予防についてのお知らせ』 以下は大学が H1N1の予防について、我が学院に提出した要求である。 一、インフレンザの流行している地域から来た人との接触を抑えてください。 1,インフレンザの流行している地域から、或いはその地域に寄って来た学者との交流、或いはインフレンザの流行している地域に学術会議を参加する場合は慎重にやってください。 2,インフレンザの流行している地域からの先生及び学生の訪問は慎重にしてください。インフレンザを防ぐとコントロールする間、もし北米で留学する教師と学生が学校に戻ったら、速めに学校に報告してください。 3,世間の外国語サロンに参加するのを慎重にしてください。近頃インフレンザの流行している地域からの人とは接触しないこと。 二、科学的に仕事或いは勉強、健康的な生活習慣を支配・育成して、伝染経路を弱めて、自身免疫能力を高めること。 1,仕事と生活の場所の清潔及び空気の流通を保ってください。教室、勤務室、実験室、宿舎、住宅も空気を流通するよう注意してください。公用の仕事用及び生活用の部屋は通風責任者を指定して、ドアと窓の通風及び通風の間の財産安全を提示する責任をとる。 2,この学校以外の人を一切泊めることができないことを再びに強調する。学部内は見廻るのを厳しくして、一旦発見したら、かならず厳格に処置すること。教師の家庭はインフレンザの流行している地域からのお客さんと慎重に接してください。 3、 健康的な生活習慣を育成し、仕事と休憩の時間を合理的に配置して、適度に早起き早寝、適度に身体を鍛えてください。今、卒業生は卒業論文を準備して、卒業発表を迎え、そして在校生は期末試験勉強しているところで、つまりみんなが忙しいときですが、適切な休みをとるようにしなさい。 4、個人的な衛生に気を遣うこと、人の集まる場所、空気の悪い場所を避けること、真剣によく手を洗うこと。2003年SARSの時の「五つの手洗い法」を実行するように。 5.実験用の白衣を着て、宿舎、食堂などの場所には行かないこと。 6,インフレンザ以外のほかの伝染病を防ぐことにも気を遣ってください、今年の春、学校には、肺結核、出血熱などの呼吸気管の伝染病が出たが、夏になって、肝炎、赤痢、腸炎など消化管或いは血液伝染病が、流行しやすい季節になるので、皆さんはこれに気をつけてください。
三、各責任者は、人の流れを含めて、状況を把握すること。
1,学院は、インフレンザ予防委員会を成立し、連絡できる責任者を決めた。何か急用があったら、直ちにその責任者と連絡すること。それ以外は毎日午後4時までに報告すること。
2,報告する内容は:職員が接触した北アメリカからのお客さんのこと、インフレンザの流行している地域に住んでいた同僚が学校に戻ったとき、職員と学生が休んでいる状況及びその原因、職員と学生が普通でも風邪を引いたり、熱を出したとき。
状況を報告する順序 大学生 クラスー補導員—副書記 研究室に入てない院生 クラスー補導員— 副書記 研究室に入てる院生 課題組— 教研室—学院 教師 教研室—学院前記のことある場合は毎日4時前に学院に報告してください。 急用があるときは 直ちに責任者と連絡してください。 四、二つの要求 1.学生と先生は慌てずに、油断せずに仕事を進んでください。 2.各責任者は、学校の知らせを、確実に学生と教師に伝えてください。 生化学院 2009年5月14日 5 月21日には国際交流処から連絡があって、6月に訪ねてくる予定の西川先生ご一行は訪問を中止したと言う。私の友人である片桐先生ご一行二人が同じく6月半ばに講義をするために訪ねてくるが、中止にした方が良いという電話だった。大学に来れば泊めてあげるし、食事も出して接待するけれど、学生を集めての講義はしてはいけないという。仕方ない。先方に連絡して今回の瀋陽訪問は見合わせて貰うことにした。
田中さんは何と8時過ぎになってやっと到着した。バスが1時間遅れて7時半に瀋陽に着いたのだという。やれやれ。それでも久しぶりに会う田中さんは モンゴルの日焼けを顔に留めて、つやつやと顔を輝かせて元気である。教師の会の集まりで 一年という時間を共有しただけだが、輝く顔の仲間に会えて嬉しい。
モンゴルの経験を聞いていると、田中さんはすでに現地で二回お見合いをしたという。話しを聞いてみると、友人の結婚披露宴に出席するだけではなくその両親の用意したお見合いをするのも中国再訪の大きな目的だったようである。 彼は青森県の出身で、周りの農家では嫁の来手がなくて中国人と結婚している人もあるという。
それを聞いて篠原節子の「ゴサインタン」と言う本を思い出した。代々つづく庄屋の次男坊だったのに、長男はアメリカに行ってしまい、やむなく跡取りとなっ て農業を営んできたが、嫁の来手がなく、業者のアレンジに乗って 集団見合いしたのがネパールから来た娘だった。結婚して淑子と言う日本名を付けたこの嫁の異様な行動で財産、土地家屋すべてを手放すことになってしまっ た。そのあと、ふらりと消えてしまったこの妻を追ってネパールまで訪ねた男は、多くの困難を乗り越えて妻を捜し求める。やがて妻のいるゴサインタンと言う 白い神の宿る山の麓で妻の自然な笑顔をみて、人生で大事なものを見失っていたことに気づく、と言う壮大な小説である。
本に書いてあるような日本で開かれたお見合いではなく、田中さんは現地入りして、本気でお見合いをしたみたいだ。私たちは戸惑い半分、興味半分で、田中さ んにいろいろと訊く。何しろ2時間待っている間にだれもが体内には十分アルコールを行きわたらせている。「お見合いしてどっちかに決めたのか?」
「いやまだまだ」でも、別れる前に彼女には耳輪を上げてきたという。耳輪というのはイヤリングだが、酔っぱらいたちの耳にはイヤリングは耳輪に聞こ えてしまう。牛や羊の放牧をしているモンゴルの人たちにとっては財産である羊に所有の印として耳輪を付けるというのは当たり前のことに違いない。つまり、 「俺のものだと表明したことにはなるんじゃないの?」
一方で田中さんは、私を挟んで隣に座っている東北育才学校の梅木さんが同じ青森県出身だと知って話し始める。いろいろと情報を交換しているうちに、お見合いをしてきたばかりだというのに、「ぼくはやっぱり日本人の方が良いかも」なんて言い出した。
「だめ、だめ、駄目なんですよ。彼女はもう決まった人がいるんだから。」と同じ育才学校の山本さんがすかさず返事をした。田中さんは諦めきれずに 「だって、まだ結婚していないんなら良いじゃない。」なんて呟いている。梅木さんも「固い絆で結ばれているんですもの」とにっこり笑って断っている。
「モンゴルで占いに見て貰ったのですがね。今年の7月から11月の間に結婚すると言われましたよ。」と田中さんがいう。「物理学で博士の学位を持っている 人が占いに頼ってよいのですかねえ」と誰かが混ぜっ返すけれど、「もし駄目なら二年後の5月には必ず結婚できるって言うんですよ。そして、もう一人別の、 良く当たるという占いも同じことを言うんです」と田中さんは言いつのって嬉しそうである。
2年前田中さんは教師会に現れたとき、「私には夢が二つあります。一つは外国で働くことで、これは今回中国に来たことで叶いました。もう一つは結婚することです。まだ結婚できませんが是非良い相手を見つけて結婚したいです。」と最初の自己紹介で話した。
そのあとも何かにつけて「結婚したい」というので、教師の会の若い女性の先生たちはどん引きしてしまった。私たちも最初はびっくりしたけれど、多少変わっ ているかも知れないが、中国に来るような人は皆それぞれが一風も二風も変わり者である。そしてやがて田中さんは、とても率直な人で体面とかあれこれ上辺を 飾る計算をしない人なのだと言うことが分かってきた。現代ではとても貴重な人物である。と言うわけでそれ以来、お互い飾り気と混じり気のないお付き合いを して来ている。
田中さんがよい人を見つけるよう皆で願いつつ、9時過ぎに私たちの集まりはお開きになった。翌日勤め先だった瀋陽大学で歓迎会があり、火曜日には2週間の滞在を終えて日本に戻ると言うことだった。彼の幸せと無事を祈りつつ、さわやかな夜風の吹く中山公園の前で別れた。
毎年6月は卒業期なので私たちにとって瀋陽の春は一番忙しい時期となる。学部の卒業研究生は、3ヶ月で結果を出さなくてはならない。その間に発表時に人前で格好の付く研究データを出させるために、こちらは大奮闘である。
そして修士の院生も同じく発表である。でも、修士の院生は準備期間に2-3年あるわけだから、最後の春に頑張るというものでもない。コンスタントな努力が必要である。
この修士の人たちは今までの慣例から、大体5月半ばには大学に修士論文を出すという見当が付いている。博士過程に在学している学生が博士論文を書いて、審査 員の前で発表して試験を通って学位が授与されるためには、国際誌に論文を投稿して受け付けられているのが条件であるように、修士にも条件がある
昨年は、修士を卒業する学生の半分が論文を発表していれば良いというものだった。今年はどうなのだろう。と私たち、つまり妻と私はずっと気にして来 たけれど学生は大して気にする様子もない。まるで今年はそのような条件がないみたいだ。そのまま4月が来て5月が来て、とうとう大学での修士論文提出締め 切りという時期になった。
はじめは5月15日が締め切りと言うことだった。その前の週末から私は次々と4人の修士候補生の論文を見ては直し続けた。論文は論文題目と抄録が中国語で二重になっているが、すべては英語で書く。
直す必要もない流麗な箇所は、大抵は序論で、研究の背景や今までの知見が書いてある。見たような内容だねと思うと、私が書いてきた論文そのままであ る。そうでなくても、これまで発表された論文からコピーペーストして持ってきたに違いない。コピペをするな、それでは自分に英語の力が付かないぞと言い続 けているが、楽ができるという誘惑に勝てる学生はまずいない。
序論も大事だが、実験内容ではないから、まあいいことにする。こちらも楽が出来る。そして実験内容の記述になると、さあ大変。こちらは日本人の書く 英語の流れや間違いはよく分かっている。しかし中国人の書く英語は思考法がまた違うためか、書いている学生の思考を辿るのに大分苦労する。書いた学生も苦 労したろうが、こちらも四苦八苦といってよい。
私が二回は見直して、学生は印刷製本してそれを大学に届ける。期限が15日だと思ったら18日でも良いことになった。そして最終的には19日中でもOKだった。決まりはあってもないがごとし、と言う中国流である。
ともかく、それが済んでから曹婷が、論文を出さないといけませんと言ってきた。この論文とはジャーナルに投稿して受け付けられた学術論文のことである。 「だから、前から卒業資格で必要かどうか訊いていたでしょ?今頃言い出したって間に合うはずがないじゃない。」と妻はお冠である。
曹婷によくよく話しを聞くと、どうもほかの学友は投稿論文があるのに自分はまだない、口惜しいと言うことらしい。そんなことよりも卒業資格で論文が必要なら、何が何でも投稿論文を仕上げなくてはならない。それで生化学院に訊いた。論文発表が条件なのですか?
二日後に主任から知らせがあった。昨年と同じ規定が適用されるという。つまり私たちのところには修士学生が4人いるので、50%に当たる2人が論文 を出していればよい。この論文は、名前がトップにあることが必要で、まだ出版されていなくても受理されていて、2年以内に公刊されることが条件だ。論文が SCI収録の国際誌に載っているなら、名前がトップでなくて2番目でもいい。ただし、最初の著者が薬科大学の人でなくてはいけない。
陽暁艶は、今はJohns Hopkins 大学のポスドクをやっている王璞がOncologyに2007年に出した論文の二番目の著者になっている。陳陽は今年の初め、中国語で薬科大学雑誌に彼がトップネームの論文を送って受理されている。
曹婷は昨年投稿した論文の中に名前が載っているけれど、これはいちゃもんが付いてまだ受理されていない。ともかくこの二人のお蔭で、要求の最低限は満たしているわけだ。となると、慌てて論文を書くことよりも、しっかりした内容の論文を書くことが大事である。
大学に修士論文を書くことと、国際誌に論文を書くこととは全く別のことである。修士課程はその期間努力をしたことで成果として報いられれば良し、成果が出なくても良しなのだ。しかし学術論文にそんな斟酌が一切あるわけがない。論文の国際基準は厳しい。 彼 女の研究の最後の方は1回しか実験をしていない。つまり確実にそうだと言うには証拠が足りない。更にほかの方法も使って調べないと、言いたい結論を導くわ けにはいかない。このままでは論文にならない。あと1-2ヶ月は一生懸命研究をして、そして互いに矛盾しない結果が出たら、超一流とは行かずとも立派な国 際誌に投稿できるだろう。 もう一寸頑張れよ。できあがれば、秋から予定している彼女のイタリア行きによい餞(はなむけ)となるだろう。もちろん彼女自身が頑張っての話だけれど。
5月28日は旧暦の5月5日で、中国は端午節のお祝いの日。今年から三連休の国家休日になった。大学ではこの日は休暇であるという掲示が出ているけれど、私たちの研究室は休暇にしていない。
3月になってから卒業研究を始めた卒業研究生がいると言うのに、この時期悠長に休むなんて考えられないからである。あと3週間で卒業研究の発表なのだ。
日本の端午の節句は、鯉のぼりを掲げ、柏餅と粽を食べて、菖蒲の湯に入る。
子供の頃からわが家には鯉のぼりを掲げる広い場所なんてなかった。結婚して名古屋に住んでいた頃は郊外を車で走って大きな農家の庭に泳ぐ鯉のぼりを見るのがこの時期の楽しみの一つだった。ポールに鯉のぼりをくっつけるのではなく、大きな庭の農家では高く横に張り渡した紐に鯉のぼりを付けて豪快に泳がせている。
その後私の研究室に滞在していたフィンランドの女性教授は、国に帰るときこの大きな緋鯉、真鯉を買い求めていった。夏に彼女のうちを訪れたとき、3階建ての屋根と、30メートルは届きそうな白樺の木の間に紐を張って、鯉を付けた時を思い出す。真に青い北欧の空に巨大な鯉が舞った。フィンランドの田舎は隣のうちがたいそう離れているものだが、それでも評判となってあちこちから人が見に来ていた。人々が来てもお互いお喋りをするわけでもなかった。フィンランド人は日本人と違って群れ集まらず、人から少しでも離れていようとする傾向がある人種である。
私たちが名古屋に行った60年代の初めの頃は柏餅では味噌餡がなくて、ずいぶん悲しかったものだが、それもやがて名古屋でも味噌餡出回るように変わっていっ たのを覚えている。粽の中身のういろうは名古屋が本場と言っても良いくらいだというのは、名古屋で厭と言うくらい知った。名古屋弁で言えば「お値打ちだなあも」なのだが、名古屋土産にういろうは良いけれど、値段の割には重いのが欠点である。
菖蒲の湯に入ると、きつい菖蒲の香りが心地よい。由来は中国に来るまで知らなかったが、この香りによる悪魔よけが元のようである。ヨモギも香りが強く、この日は建物の入口にヨモギの草を掲げる。
街を歩くと数日前から商人が道端にござを拡げて縁起物を売っている。手首に巻く紐だ。色とりどりで、一つでも美しい。
大学の、外国人を管理する部署である国際交流処からは、粽の入った美しい箱が届いた。粽10個。塩卵8個入り。
粽は笹の葉で蒸した餅米をくるんでいる。餅米の中は餡として様々な具が入っている、豚肉、棗、日本で言う餡、鶏肉、卵、ベーコン。。。大きさは大振りのご飯一膳くらいにあたるだろう。二つずつパックに入っている。多分、パックに入れて蒸してまだ熱いうちにシールをしたのだ。製造日は4月とか3月。
願い事をして手首に付ける。そして端午節の終わったあとの最初の雨の日に、河にこれを流すのだという。一つ1元だ。私たちのお隣に住んでいるYao老師と一緒に歩いているとき、彼女が私たちに買ってくれた。 そ れで私も大事な願い事をして手首に巻いている。困ったことには、水に放り込むまでは外せないというのだ。手首に付けていて、ひらひらと気持ちも良いし、見た目も楽しいけれど、手を洗うと、ひらひらが濡れてしまう。シャワーを浴びるときも外さないと言うけれど、ま、それは無理というものだ。ちゃんと願いを込めたから、決まりは守りたいのだが。
塩漬け卵は中国に6年もいながら初めて食べた。からを剥ぐときの手応えがゆで卵とは違う。白身の感じも違う。黄身も違う。そして口に含むと、あっ、塩辛い。 生卵を濃い塩水につけて、塩分でタンパク質を塩析したものに違いない。これは私たちの(生化学)言葉で、タンパク質が塩濃度を高めると溶液から沈殿してくることを言う。あとで学生に確かめたら、そうです、元は生卵です、と言うことだった。実を言うと塩辛すぎて食べられない。
しかし、粽は美味しい。数日前から、お隣の池島先生から貰いすぎてとても食べられないからと言って粽の差し入れがあったし、中国の友人からもこの日は粽が届いたし、私たちは幸せに、粽漬けの時間を送っている。
端午節は、楚の国の政治家にして詩人である屈原を偲ぶ故事から来ているが、今の若い人たちにとっては、単に粽を食べる日として認識されているようで、これは長い中国の伝統文化の中で嘆かわしいと言われている。
端午節の由来など詳しいことは以下のサイトをご覧下さい。
「レコードチャイナ、 中華民族は詩がお好き、端午の節句は詩人屈原の供養が由来 」
5月の初めのこと、薬科大学の同じ学部で同僚になる游松老師から、その週末の土曜日に一緒に郊外まで遊びに行かないかという誘いがあった。游松老師は家族連れで友人の家族とクルマで瀋陽から1時間くらいのところにある四つ星ホテルクラスの施設に行く予定だという。直ぐそこのことで近いし、一晩泊まるだけだから是非一緒に行かないかと言う誘いだった。
游松老師は数年前に東大に留学している若手の教授である。英語を使うお付き合いだが気持ちのさっぱりした好漢で、妻もこうやって誘われるのは嬉しいわねと言うことで、誘いを受けることにした。
約束の時間にアパートの下に降りていくと彼は自分の車で待っていた。ご家族はと訊くと友人と会う場所に先に置いてきているという。じゃあと言うので乗ると、車は走り出して1ブロック先の巨大なスーパの家楽福の近くに来る。游松老師は家楽福の後ろに建つ30階くらいの建物を指して、あれを知っているかという。
それはNorth Mediaと言う会社の建てたビルである。ここは2年前、瀋陽日本語文化祭が初めて市内で開かれた記念すべき場所で、もちろん知っている。建物が出来たばかりと言うこともあって総領事館の打診に応じて300人が入る広い講堂を会場として無料で貸してくれたのだ。運営のためのスタッフ10人くらいも込みで。
「このオーナーが友達でね」なんて游松老師があとを続けるものだから絶句した。そして思い出した。オーナー夫人は薬科大学の同じ学部の準教授だと聞いたことがある。美人で名高いそうだが会ったことはない。「えっ?そういうこと?」
何も慌てることはないのだが、こんな大きなビルを建てて会社を運営している人なんて、今まで会ったことはない。気後れがしてしまうではないか。そのセレブが友人で、彼らと一緒に出掛ける?
車はビルの入口について、 游松老師の夫人と中1の可愛い游劲鸽さん、そしてもう一人女子学生の陈佳卉さんがいた。彼女は薬科大学の2年生で、先日の弁論大会で大学2部の3位に入賞した関係で私とはすでに顔見知りである。ここで会うは意外だったが、訊いてみると、 游劲鸽の日本語の家庭教師をしているという。
ビルのドアに近付くと一人の男性がドアを開けてくれた。游松老師は彼が友人でビルのオーナーだという。若く見える上に気さくな感じで、嘘でしょうといいたくなる。
先ず彼のオフィスに案内され、主要な施設を案内された。2年前に日本語文化祭で使わせて貰った講堂も案内された。その部屋の隣で、あのときは出番を待つ学生が溜まっていたところはVIP接待用の豪華なラウンジになっていた。 ビルの最上階には中国のアンティーク家具が納められたくつろぎの部屋があり、隣にはオーナーの趣味で集めた絵画、仏像、彫刻を展示するための美術館が建設中だった。屋上に出ると、野外ガーデンが工事中で、一番上の屋上にはヘリポートが建設中だった。ここから眺めると高層ビルの林立している瀋陽もさすが平たく広く見える。何時も見上げている私たちの十六階の教授楼は、東の方、遥か下にうずくまっていた。
そのあと紹介されたオーナー夫人は評判通り大型の美女だった。この日の予定は、彼らの小の学友5人とその母親も誘って私たち三家族が彼の会社の持つ別荘に行くという。オーナーが運転するベンツのSUVに私たちは乗せて貰い、あと1台のマイクロバスにほかの人たちが分乗した。目指すは南。
市街の地理には詳しくないが広福時という寺がある方角らしい。普通の道を1時間走りやがて丘陵地帯に入ってから着いたところは、「傾城」という大きな旗が掲げてある小さなお城みたいなところだった。
食事は1階の食堂の丸い大テーブルだった。オーナーの家族、游松老師たち、私たち、オーナーの息子の学友たちと付き添いの親。そしてプロのカメラマンのカップルで、テーブルを囲んだのは20人を超えていたのではないか。
メニューが置いてあって「この一刻は、あなたのため」と書いてある。この山荘で栽培した野菜、敷地内外に飼っている豚、鶏、鶏卵、米が料理に使われているという。池で飼っているスッポンもご馳走になって出てきて、豪華で豊かな食事だった。
食事のあと館内を案内して貰った。客室は実際に客が入っているので詳しくは見られなかったが、私たちの楊貴妃のように、それぞれ趣向を凝らして飾り付けられていた。ロビー、会議室を案内されたあと地下に行くと、遊戯室があってピンポン、ビリヤード、シューティングゲーム、ドライビングマシーンなどのほか、大きなワインと酒の貯蔵庫があった。
食事のあと館内を案内して貰った。客室は実際に客が入っているので詳しくは見られなかったが、私たちの楊貴妃のように、それぞれ趣向を凝らして飾り付けられていた。ロビー、会議室を案内されたあと地下に行くと、遊戯室があってピンポン、ビリヤード、シューティングゲーム、ドライビングマシーンなどのほか、大きなワインと酒の貯蔵庫があった。
私たちの寝室は楊 貴妃の間。
部屋は二階の西南角に張り出したところで、部屋と言っても、入ったところの12畳くらいの居間、その奥に同じ広さの寝室、そして右隣には8畳くらい の書斎、そして居間の隣には前室付きバスルームが一緒になっているのだ。そして壁のあちこちには書画が飾られ、棚には古代の陶器、置物が所狭しとばかりに 並べてある。
うーーーむ。
翌朝いつものように目覚めて外を見ると、オーナーは乗ってきた車に荷物を運び入れているところだった。朝食に彼はいなかった。聞いたところでは、朝の食事前に彼は前日マイクロバスを運転してきた男に空港にまで送らせて、飛行機に乗って仕事に出掛けたという。
朝の食事では小5の男の子たちは眠げである。聞いてみるとここは遊ぶことに事欠かないので一晩寝ないで遊ぶという目標の挑戦しているのだという。学校の勉強 が大変で親も子供もストレスにさらされているという話しが昨晩から持ちきりだったが、この日ばかりは公認で遊びほうけられて幸せのようだ。
食事のあと敷地を見て歩くと、入口の近くには犬小屋があって、3頭のシベリアンハスキー、そして初めて見る2頭のチベッタンマスティーフがいた。以前写真で見ただけだがともかく大きい。威風堂々。しかしこれが咆えるものだから、金網があってもこちとらは尻がつぼんでしまうのを実感する。
20年前くらいのオリンピックで中国から参加した女子陸上選手が次々と記録を塗り替えて世界中が驚いたことがある。この女子選手を率いていたのが馬コーチで彼らは馬軍団と呼ばれていた。この馬さんはその後消息を聞かないが、いまではこのチベッタンマスティーフの飼育家としてひそかに名をなし巨大な蓄財をしたという話しを聞いたことがある。
やがて皆で近くの山に登って山菜採りである。ワラビ、ゼンマイ摘みだ。山裾に広い畑、その上 に傾斜を利用した段々田がありそれを捲いて山に上がっていった。先に山に登った男の子の一軍団が摘んだワラビを山ほど見せびらかして降りていったから、もう大して残っていない。それでもこうやって山を歩いてワラビ取りなんて何年ぶりのことだろうか。
昼はここで取れた小麦粉で打ったうどんにソースを掛けて食べるもので、このソースが二種類。陳さんの故郷の江西省ではこのような食べ方はないという。日本に もないと言って良いけれど、うどんではなくスパゲッティなら大ありである。この美味しいソースを自分でも作ってみようと思って味わっているうちに食べ過ぎ てしまった。
午後1時15分、車の前に集合。オーナーの車は、帰ってしまったオーナーの代わりに游松老師の運転で一路瀋陽へ。2時半頃無事にNorth Mediaビルの前に到着。楽しい旅だった。オーナーとその家族、游松老師とその家族、陳さん、荘園のひとたち。皆さんありがとう。
これで翌月曜日の二つの講義がなければ最高なのに。
コメント
こんにちは、いつも教えていただいてありがとうございます。
マイページのおかげでこうしてお付き合いをさせていただいていますので、マイページには感謝です!
GOOブログにも、足跡をつけられそうなので挑戦(パソコンにうといのでチョウセンです)、写真も貼れるようなのですけど、まだまだ・・・(笑い)
新しく入居してこられた方、文系だと思いますが、東大のご出身です。
アルツハイマーだった奥様の介護を15年もなさったそうです。頭が下がります。
これからも宜しくお願いいたします。
投稿: mammamia | 2009年6月 3日 (水) 11時43分
ここの薬学日語班の学生に、私は本場の日本語で分子生物学の講義をしている。3クラスで合計90人。 日本語遣いの中国人の先生と半々で受け持ち、私の担当するのは遺伝子であるDNAを鋳型とするRNAの転写とタンパク質生合成である。毎年講義を少し詰めて早く終わらせて最後に2時間の空き時間を作り、複雑なタンパク質の生合成の仕組み、細胞内のシグナル伝達や、がんの生物学などトピックスを選んで話している。
今年は教えている4年生の数人に希望を訊いたら、がんの話しを聞きたいという。がんと言っても、私は網羅的ながんの特徴の話しではなく、20世紀の百年を掛けてがんの研究者ががんの原因をどうやって追い詰めてきたかと言うところに焦点を当てることにした。
私が研究者になった頃は分子生物学の黎明期だったが、がんの原因はまだ皆目分かっていなかった。多くのがん研究者ががんの原因と治療法を探して血眼になっていたのを、私自身は別の分野にいながらつぶさに見てきたのだ。
もちろん話しには種本があって、一番世話になっているのは、黒木登志夫の「がん遺伝子の発見」である。ほかにも掛札堅「がん遺伝子を追い詰める」とか、沢山の本が書かれているけれど、黒木登志夫の本は素人向けによくぞここまで書いたという本である。
今ではがんは遺伝子の病気であることははっきり分かっている。細胞が増える度に細胞の中のDNAも増やさなくてはならない。そのDNAの複製の時に、二本鎖のDNAはほどけてそれぞれが鋳型になって、塩基対相補性の原則に従い鋳型にAがあればTを、TがあればAを、GがあればCを、CがあればGを選んで新たにDNAを合成していく。
難しそうに見えるけれど、A:Tと、G:Cの塩基対の相補性が分子生物学の根本で、これさえ理解していれば分子生物学は、すい、すい、すーい、なのだ。
大腸菌では1秒間に1000塩基を付けるほど合成速度は速いので、DNA合成をするときは1万回に1回くらいは間違えた塩基を入れてしまう。間違えると正常な塩基対ができないから、この間違いは直ぐに直すか、あとで直すかして間違いは1千万回に1回くらいに減らしている。この割合は、細胞が1回分裂する度にその細胞のDNAの何処か数カ所に間違えるという感じである。
したがって、年齢を重ねると言うことは細胞分裂を繰り返すと言うことだから、若いときに比べてがんになる確率は対数的に増していく。20歳くらいの学生に比べて、私は百倍もがんを発病する確率が高い。
遺伝暗号は塩基が変わっても簡単には指令するアミノ酸の性質が変わらないようにできているが、それでも塩基の変異はいつかはアミノ酸の変異を生み出すことになる。タンパク質の一部のアミノ酸が変わっても大丈夫なことが多いが、そのタンパク質の大事な機能を担うアミノ酸が変化してしまうと致命的である。
私たちの細胞には、外からシグナルが来るとシグナルを増幅して次の分子に伝える仕組みがある。この分子に変異が起きて、シグナルが来ないのにシグナルを送り続けたらどうなるか。絶え間なしの指令の連続で現場はたちまち混乱してしまう。これがんの一つの原因である。
このように細胞にとって大事な役割を持つ遺伝子が変化して(新たな機能を獲得して)、積極的に悪さをするようになるのが発がんの一つの原因である。
もう一つは同じように大事な働きをしている遺伝子が、DNAの変異によって、機能を失ってしまう場合がある。遺伝子の機能喪失による発がんで、これが発がん のもう一つの要因である。いずれにしても遺伝子に変化が起き、それがタンパク質の機能に致命的な変異であると、文字通り致命的なのだ。
このがんの講義の最後には、がんの発病は歳をとると避けられないものだけれど、少しでもがんに掛かるリスクを減らすために:過度の日光を浴びない、たばこを吸わない、放射線を浴びない、偏食をしない、などなど、今は常識的な線を述べた。
さらに、がんを発病しないために:ストレスを溜めこまない(ストレスホルモンは免疫細胞の働きを抑えてしまう)、笑いに包まれた健康的な生活を送る(笑いは NKC(Natural Killer Cell)を増やす)ことを心がけよう、と言って締めくくった。がんにストレスは大敵で、くよくよ心配ばかりしているとがんを発病しやすい。
私はこんな歳になったけど、「何時も楽天的で、脳天気で極楽トンボなのでがんに掛かりにくいのさ」と私が言うと学生が大笑いして喜んだので、帰ってそれを妻に話した。
すると彼女は「がんに掛かるリスクを減らすためには【ストレスをため込まない脳天気な人とは結婚しない】のが一番って書かなきゃ。だって、そのお蔭でこっちはストレスをため込んじゃうもの。がんになっちゃうわよ」と言うので、二人とも大笑いになった。
『笑う門には福来る』というのを実践している我が家であると思っていた。でも、脳天気人間がこんな弊害を生み出しているとはちっとも知らなかった。これから少しは気をつけなくっちゃ。
修士論文の最終提出日が5月19日に設定されて、うちの4人の学生が期限に間に合わせたということは前に書いた。論文一つが提出されると、それを審査する数人の委員が指定されてそれを読む。だからこの時期の教授は、審査をする沢山の論文を抱える。
私は中国語がまだできないから論文審査会のメンバーになることはない。以前、論文審査委員に指定されたとき、論文は中国語で書かれていてSummary以外分からなかった。
それでその論文の指導教授に内容を説明して欲しいと頼んだら、当の論文を書いた本人がやってきたので内容を英語で説明して貰った。当然分からないところを聞き直したりするから4時間くらい掛かったように思う。二人が対象だったので二日掛りだったように記憶している。
実際の審査会の時には、候補者が中国語で論文発表を行う。それに対して、審査委員が次々と質問をしていく中で私にも質問の順番が振られた。英語で訊いて、答えは満足できるものではなかったのでまた訊く。しかしこちらの訊き方がまずいのか、相手の英語理解力がないのか、段々話しが変な方に行ってしまい、最後は 不得要領のまま諦めた質問もあった。
それ以来、私は論文審査委員に呼ばれることはない。あいつを入れると、面倒が増すばかりというコンセンサスが行き渡っているのだと思う。淋しいけれど、中国語ができない以上仕方あるまい。それにそのお蔭で余分な仕事も増えないと思えば、良い。
ともかくそのような具合なので、私は審査がどのように行われるかを正確には知らない。学生が修士論文を書いて、公式に提出する前に私のところに見て直すように持ってくるのは当然のことである。内容と、英語を直してまともな体裁になるようにしていた。ここの修士論文は、中国語で書いても英語で書いても良いことになっている。
締め切りまでに提出した論文はどうなるかというと、学生が指定した審査委員の下に送られる。これは私が 以前所属していた東工大でも同じである。そして、やがて論文の審査会がある。審査委員、その他大勢の前で学生が論文の口頭発表をする。その場で1時間に亘って厳しい試問を受ける。そのあと審査委員が合議してOKなら論文が受領されて、目出度く卒業となる。
薬科大学も、東工大と同じと思っていた。ところが、論文を提出したあと、論文の口頭発表の前に、審査した教授から論文に意見が付けられて戻ってくるのだという。学生は、その意見を入れたうえで口頭発表をして、そして修正した最終論文を提出して受理されるのがこの大学のやり方だということだった。
東工大方式だと、指導教官としてある程度恥ずかしくない論文となるように、学生の書いた論文原稿を読んで色々と手直しをする。もちろんこれが論文作成の指導という教授に課せられた仕事である。そしてそのあとは、それがそのまま審査の対象となる。
薬科大学方式だと、指導教授が論文作成の指導をするところまでは同じだが、さらにそのあと、3人の教授が論文を読んで学生に、ここはこうしたら良いじゃないの?と意見を述べるわけだ。審査会の前にである。とても親切なことだ。その上で行われる公開の審査会は、どういう意味を持つのだろう。
論文内容が学位に適切かどうか、この人物が学位にふさわしい学識を持っているかを審査すると言う厳しい雰囲気になるはずがない。
ところで前に、修士の学生の一人である曹婷が修士論文を書き終わったけれど、結論を導き出すには実験が1回では足りないし、まだクリティカルな実験が残っているとここで書いた。彼女は論文を書いて提出したあと発表の用意をしながら実験をした。そしてその結果、結論が変わったから論文を書き直すという。このやりとりで、前述の修士論文審査のカラクリが理解できたのだった。
彼女の実験結果を見ると、第一回目と違っている。彼女はこちらの結果が本当だという。これが正しいという理由はないが、そうだとしてもそうなると結論が違ってくる。それだけでなく、この実験をやる前に行った別の実験の結果と導き出される結論が全く違ってしまうのだ。相互に矛盾する結論になる。
それを指摘したけれど、彼女はがんとして主張を変えない。2回実験をして全く違う結果となったときはどうするかというと、さらにそれを繰り返すしかない。そしてその実験で得られた結論が、それを行う前の実験と矛盾するなら、そちらの実験を繰り返してみる。どちらも実験として正しく、得られる結論が相互に矛盾しているなら、矛盾しているという考え方が間違っていることになる。両方の結果を同時に説明できる考え方に行き着かなくてはならないのだ。
私たちは同じ実験は 独立に3回繰り返して同じ傾向ならばそれを受け入れることにしている。大体、最後の実験が1回しかしていなかったのがいけないのだ。しかし今は3回目の実 験を繰り返している時間はない。と言うことなら、最初の実験結果を使って矛盾なしに分子の動きを説明しよう。新しい2回目の実験結果を使うと相互に矛盾してしまって結論が出せないのである。
しかし彼女は、頑迷な私が教授だから学生の意見を聞こうとしないという恨みの籠もった目で私を見つめている。この話が分からないなんて、お前さんは頑固以上に馬鹿なんじゃないか、と言ったら返事がない。
馬鹿なのはそちらだという目をして私を見ている。
私はこちらが教授だからと言って、自分の意見を押し通す横暴人間ではないと思っているが、人はそうは思っていないようである。これから心しよう。でも、それにしても、これは譲れないところなのだ。
昼前の11時半頃、大学の研究生係のボスである程剛さんから電話があった。「お宅に王毅楠という学生がいましたか?」
「ええ、昨年修士を出ました。」
「今どこにいるのですか?」「日本の慶応大学の博士課程に入りましたが、どうかしましたか?」
「いや、国際交流所の○○所長から連絡があったのですが、王毅楠が何かものを持ったままいなくなったので、彼に連絡が取れるかどうか聞いてくれと言うことです」
びっくり仰天である。聞き返すが、お互い不自由な英語がコミュニケーションの手段なので詳しいことが分からない。ちょうど女子学生の添翼さんが教授室に入ってきたので、彼女に替わって電話を聞いて貰った。
話しを聞いた彼女によると、どこからこの元になる知らせが入ったか分からないそうだが、内容は同じである。王毅楠が行方不明?
まさか。彼と、そして彼の指導教官とは、学会発表のことで先週の金曜日に連絡を取りあったばかりである。大体、日本でhappyに研究を始めた彼には、研究室のものを持って姿を隠す理由がない。きっと間違いだ。
しかし、正体不明の数人に拉致されてしまったのかも知れないし、ともかく確認しなくっちゃ。と言うわけで自分の携帯を使って、日本の彼の指導教官の携帯に電話をした。
しかし、先方で電話が鳴っていても出てこない。ちょうど日本では12時半で、食事時かも知れない。直ぐにe-mailでこれこれしかじかなので、王毅楠は無事にそこにいますか?と書いて送った
その時添翼の実験の面倒を見ている曹さんが入ってきた。添翼は早速今の出来事を曹に話そうとした。「駄目!」と鋭い声が妻から飛ぶ。真相が明らかになるまで 話したら駄目よ」私が引き取って、「人の名誉に関わることだから、本当のことを調べてはっきりするまで完全に秘密を守りなさい。一言でも漏らしたら君は首だよ。今調べている間は、そのままここにいなさい。」
そしてこんどは王毅楠に電話をした。電話は直ぐに通じた。「もしもし、先生、王毅楠です」と普通の声が電話に出た。
私はどうやって話を切り出すか心の準備のないまま電話をしたことに気付いた。「王毅楠?今どこにいるの?」すると王毅楠は「今は、実験室です。大学の実験室にいます」という。私は「元気なの?」と何とも間抜けな質問をした。王毅楠は「ええ、元気にしていますよ。」
こちらは何かまともなことを言わなくてはと、焦るばかりである。「この間の学会発表が無事に出せて良かったね。学会発表のポスター賞も狙えるんじゃないの」などと言っているうちに、妻の姿が見に入ったので、彼女を目顔で招いて替わって貰った。
ちょうどその時、部屋の固定電話が鳴った。添翼が電話を受けてから言うには「学生係の程老師からです。さっきの電話は間違いだったと言っています。」つまり似た名前と間違えて、王毅楠と思い、私たちに電話を入れたらしい。
これが分かって直ぐ、彼の指導教官には事情を書いて送った。すべては間違いだったと。そして添翼には、王毅楠が無関係と分かったから、あとはもし話したければ何を言っても良い、と言って解放した。ちょうど昼食時だから、あっという間に話しは広まっただろう。
間違いでホッとしたが、一方、この大学は卒業生の不祥事にはこのように対応しているらしいと言うことを知った。一寸した驚きである。
日本の大学だったらどうだろう?何かするだろうか。今在籍していない学生のことについては責任を持てませんというのではないだろうか。
話は違うが、日本では何か若者が事件を起こすと親がマスコミによって追いかけられて、何かを言わされる。大抵は良くない事件だから、親が謝らないとマスコミは収まらない。
そのような対応を見て、私たちは密かに、うちの子供が何か社会的事件を引き起こしたらどうするかについて考えを決めている。「うちの子供が事件を起こしたか らと言っても、もう立派な成人です。私たちは彼らの考えと行動に責任はありません。本人のそれなりの見解があって行動したわけで、私たちがマスコミ相手に 謝る必要はありません」、と言ってのけようと決意していたことを、今回の事件ではしなくも思い出した。
もし事件が起こって、こんなことを言ったら日本では村八分であろう。日本では生きては行かれまい。でも中国ならこう言っても誰も不思議に思わず、それがそのまま受け入れられるのではないかと思う。その中国で、自校の卒業生の不祥事を気にしているのだ。
南本卓郎・みどり先生は2年前に瀋陽を去られるまでは3年間薬科大学の日本語教師だった。卓郎先生は後半の2年間は日本人教師の会の会長でもあった。
5月後半に日本語文化祭のことでメイルのやりとりがあったとき、 世界的なインフルエンザ流行について瀋陽薬科大学の対策が出たばかりだったので、それを彼に伝えた。
すると6月9日 にメイルが来て、「6月16日に瀋陽へ行きます」というものだった。 今は彼が薬科大学で教えた学生が、3年、4年、5年生にいる(日本語学科は5年制)。6月の卒業に合わせて瀋陽を訪れたいと言うことだ。
「先日、先生から薬科大学の新型インフルエンザ対策を知って、今回は瀋陽行きを断念しようと思いましたが、これを逃すと夫婦揃って瀋陽へ行くことが難しくなると思い、ダメモトで国際交流処に打診したら、次のような返事が来ました。」
『拝啓 初夏の候、先生にはますますご盛栄のこととお喜び申し上げます。返事がおそくになりましたら、申し訳ございません。
先生がまえ教えた子が卒業する、彼達に会いたがる気持ちをよく了解した。しかし、いま、新型インフルエンザの流行のせいで、外国からの訪問は大体延期するとか、停止することにする。先生達健康のために、慎重に考えて、決めたほうがいいだと思う。
中 国政府は国民健康のために、国際空港便を厳しい検査をします。飛行機が中国に到着したら、まず、飛行機のなかで、お客様の体温を測定する。もし、誰か体温 が高いから、全体のお客様を指定するホテルで隔離されることにする。もちろん、先生たちのご来訪を歓迎いたします。もし、決めましたら、早く限りに教えて ください。
敬具 瀋陽薬科大学 国際交流処』
「迷惑だが来たいなら来てもいいよ、と解釈して決行することにしました。返事はまだですが、もし学内の宿泊を拒否された場合は近くのホテルをとるつもりです。
もちろん、いらっしゃるのは大歓迎と直ぐに返事を出した。そして一緒に食事をするのは何時がいいかと折り返し聞いたところ、ともかく瀋陽に着く16日の夜は空いていると言うことだった。
6月13日の土曜日が教師の会の今期最後の定例会だった。「2年前の会員の南本先生ご夫妻が瀋陽に来られるので、16日の夜には歓迎の集まりを考えているので、その詳細を見て参加希望者はあとでお知らせ下さい」と私は発言した。
初め、場所は薬科大学の近くの素敵なレストランを考えた。人数が増えたので田中先生の時の会場にしようかと思ったが、前と同じなら行かないという人もいたので、文化路と青年大街交差点に近い新洪記を予約した。
その日、南本さんご夫妻は空港に到着したあと、非接触型体温測定器で体温を測られて、幸い誰も危険体温を超える人がいなかったので無事にゲートを出ることができて、そこで教え子に迎えられたのだった。
宿舎は学内の宿を断られて大学の招待所の中にとったそうで、ここは正門の外から出入りする。私たちは5時半に大学の正門前で待ち合わせた。正門に近付くと ちょうど門の両方から双方が近付き、互いを認め合って共に駆け寄った。2月に京都で会っているけれど、瀋陽で会うのは2年ぶりである。
南本さんが教師の会の会長だったとき、私は補佐役としてお手伝いしたので、特に付き合いが深かった。しかもその時期は資料室の最初の移転、二度目の移転と重なったので、苦楽をともにしたわけだ。ともかく会うだけでも嬉しい仲間である。
新洪記は自家製の地ビールを売り物にしているだけでなく、料理も美味しい。この日集まったのは、南本ご夫妻、藤原、池本、多田、瀬井、有川、梅木、山本、山形貞子・達也の11人で、丸テーブルを囲むのにちょうど良い人数だった。
この夏に帰国する藤平さんがパスポートの更新に領事館に行ったら、新しいパスポートを1時間くらいで貰えたのは良いけれど、Visaは無効として穴を開けら れたパスポートにあるわけで、これはどうなるのと聞いたら、領事館側はこれはもう無効になったが、どうしたらいいかの分かりませんという返事だったと言っ て、もう滅茶むくれである。
「今日から不法滞在になっちゃったよ。何でこういう大事なことをvisaを無効にする前に教えてくれないんだろうね。捕まって監獄行きになったらどうしよう」
聞いている私たちは 、監獄城(そういう名前の場所が瀋陽にあるそうだ)に藤平さんが入れられたらきっと見に行くね、と大喜びである。私たちは日本でパスポートの更新をしよう としてこの不都合に気付きパスポート掛りに聞くと、visaは無効になるのであとは中国大使館にきいてくれというだけなので、更新を断念し危なく難を逃れ たことがある。瀋陽に戻ってから領事館でパスポートを更新し、そのあと外事処の人に連れられてvisaの更新をした。藤平さんの場合には、今は帰国する前 なので大学側がvisaの更新を助けてくれる可能性が低いのが気になる。
南本夫妻以外の9人の中で、お二人を知っているのが4人、初めて会うのが5人だったが、藤平さんが皆の笑いを誘ってたちまち座は盛り上がった。
南本夫妻の山口では、生きている鱧を買ってきて南本さんが自分で捌いてしゃぶしゃぶにするのが一番という話しを受けて、みどりさんが「鮎の一番美味しい食べ 方は?」と皆に訊き、「残念でした。一番はあいのささやきです。」なんて得意のみどり節も出てきたりして、お互い話しとビールと(ピッチャーで9杯?!) 食事を思いっきり楽しんだ。
最後に会計は11人で割って一人50元。まだ10日間あります。また会いましょう。
博士の学位は、独自の新しい発見を伴う研究論文を自分の名前で発表して、独立の研究者になる能力を他の人に文句なく認めさせた人に与えられる。つまり、その能力を認められないと博士になれない。
今の世の中は博士になったからと言って直ぐに教授になれるわけでもないし。それどころか職がなくて四苦八苦の生活が待っているが、それでも博士課程にいる人は少しでも早く博士の学位を取ろうと思っている。
指導する立場は、英語だとmentorとかthesis sponsor、あるいはadvisorというけれど、日本では指導教授といかめしい。中国だと博士導師という。
卒業実験生や修士の学生だと導師の私たちが研究テーマを決めて、実験の具体的なやり方だけではなく実験する内容や研究方向を詳しく指導する。
博士となると、独立した研究能力が持てるひとになるように助言して育てる。卒業実験生や修士の学生のように、手取り足取り指導しなくては研究ができない学生だと、将来博士になれる見込みはない。
博士になろうという学生だとテーマ選びから、違ってくる。こちらが最初から用意して与えることは先ずない。学生の希望が優先である。そのテーマがここで出来 れば良し、できなければ他の可能なところに行って貰わなくてはならない。こうやって学生と相談しながら博士の研究テーマを選ぶ。もちろん新しいもの、チャ レンジングなもの、と同時にこの学生がここに3年いる間にできそうなテーマと言うことになる。
今仮に関敏という仮名を使うが、私たちがここに来た秋、この関敏が別の研究科の教授から私たちのところに博士課程の学生として送り込まれてきた。
私たちは新学期に赴任したので、来たばかりの私たちのところに来たいという修士1年生が3人いたけれど、博士課程はいなかった。しかも彼女は大学の teacherだった。1998年以降の大学生急増計画で、教授陣が足りず、大学さえ出ていれば、博士は勿論、修士号なしでも採用して学生相手に教科書を 読ませ、一方で彼らに大学院に入るよう勧めたのである。
関敏は修士を終えたところだった。どんな仕事をしたのか訊いても訳の分からないことを言うだけだったが、他の教授が私たちの新しい研究室の発足の際してどうぞというからには大丈夫だろうと思って採用した。
その後は苦労の連続である。向こうはともかく、こちらが、である。博士に入るということは修士を出ている。それで、日本の修士卒の学生のつもりでいたら、卒 業研究生ほどの知識もないし、意欲もない。しかし、気位だけは高い。ほかに研究室にいた修士1年生に比べて自分は博士の1年生だし、教授陣の一人なのだ。 教壇に立って教える身分だからというわけで知識がないのに威張りかえっているために、学生は寄り付かない。私たちからも謙虚に教わろうとしない。
細胞培養だって修士の学生には一から教えたけれど、彼女は知っているといって教わろうとしなかった。だから、3年経った後、彼女の使っている細胞が単一なものではなく、別の細胞が混ざっていることが卒業実験の学生の勇気ある訴えでわかったのだった。
動物細胞を培養するときはディッシュに細胞と培養液をいれて37度の炭酸ガス培養基で培養する。2日おきくらいに培養液をポンプ付きのピペットで吸い出し て、新しい培養液と交換する。このとき細胞の種類が違えばピペットの先端を換えるのは常識なのに、彼女は換えていなかったために、細胞が相互に混入したの である。当然それまでの結果は疑わしいものとなる。
生きている細胞を使う実験は、物理常数の測定と違って、何かを与えて調べているものが増えたとしても、同じ実験をやっても全く同じ値は出てこない。時には細胞が具合悪くてとんでもない値が出たりする。
従って実験するときはいつも細胞が元気かどうか細胞の顔をみながら、しかも実験を繰り返して同じ傾向が出ることを確かめる。3度繰り返して同じ傾向が出たらこの傾向を真実として受け入れる。
関 敏は細胞が具合悪かろうと、よかろう大して気にせず、阻害剤を使うなら阻害効果が出る必要があると思って濃度を高めて実験を進めるので、ある経路の阻害剤 の影響ではなく、死に瀕した細胞の反応を見ていたりする。毎週仕事の話を聞いているはずなのに、3回同じ実験をやってから結果を持ってきたりするので、 やったことすべてが無駄になる。
おまけに彼女は不思議な性格を持っている。研究というのは新しいことを見つけることなのに、それまでの文献に書いてあるのと違う結果が出ると、自分の実験が間違っていると思って不安に駆られ、どうしていいかわからなくなるのだ。
教育の1つとして行う学生実験なら教科書に書いている通りの結果が出てくる。違えば自分のどこかが悪い。しかし研究をやっていて、それまでの常識を覆すことが見つかれば喜ぶべきことなのに、鷹に狙われたウサギみたいにおびえてしまう。
一つには大学を出てすぐに教授陣の一員であるteacherとして採用されて、学生の一員から今度は場所を変えて教壇にあがって教科書を読んで教える立場に なった人の悲劇でもあろう。教科書をともかく覚えて、ひたすら教科書が正しいものとして学生に教えることをやっているうちに、書いてあることを不思議に 思ったり、どうしてこれが言えるのかなどと疑ったりすることを忘れてしまったのだ。
日本の学生にこのような人はいなかったし、中国の私たちの研究室でも今までいなかった。初めてぶつかった訳だ。となるとその態度を打ち壊すことこそ大学院の教育なのだろうが、何よりもまずこのような人は博士を狙うべきではあるまい。
この稿つづく
卒業シーズンが今年もやってきた。6月半ばをすぎても卒業式がいつ開かれるのか誰も知らないが、学生を含めて私たちの関心はその日程よりは卒業研究の発表がいつ行われるかにある。
今 年度は6月初めには6月25-26日に発表会があるという文書が生命科学院から届いた。こんなことはこの6年間に初めてのことだ。こちらは毎年のことだか ら6月中旬を目指していつ発表会があってもよいように、学生に用意させるが、毎年発表の日取りは数日前に突然知らされる。
今年は早めに知らされていたが、発表日はやがて24日に変更になり、23日には発表日は25日だという知らせがあった。やっといつものような具合だ。
今年は早めに発表日の通知があっていつもと違うと思ったが、卒業論文の書き方という数行の連絡文書も生命科学院から届いた。卒業論文の体裁に関する指令書らしい。勿論学生に渡した。
卒業実験の期間は人によってまちまちである。年明けの1月に行われる大学院受験をしない人は研究室に早くから来て実験が出来る。
昨年の10月から研究室に来た張添翼さんは、一つのまとまった結果を出すことが出来た。細胞に遺伝子発現を押さえるsiRNAを導入しその結果細胞の形質が どう変わったかを徹底的に調べた。曹さんの熱心な指導と相まって、私たちの狙い通りの実験結果となって、こちらにも大いに役立つ結果となった。彼女は東大の柏キャンパスにある大学院に進学予定である。
江文くんも同じ頃から研究室に出入りして実験を始めたが、クラスの班長をやって忙しいのが一つ、もう一つは 張添翼さんと同じような狙いである遺伝子のsiRNAを導入することで、この遺伝子の作用を調べようと思ったけれど、このsiRNAが遺伝子発現を抑えな かったのだ。結果が出るのに最低2ヶ月掛かって、駄目とわかってから、急遽別の遺伝子のsiRNAを導入した。その結果の解析を一通りするだけで終わって しまった。彼は岡山大学大学院に進学予定である。
受験をする学生は3月から研究室に来るけれど、4月初めに大学院入学の二次試験があるので卒業研究はそれが終わってからである。
張笑さんは3月に細胞にsiRNAをいれて細胞のクローニングをする期間を二次試験のための勉強に充てた。4月半ばから研究室に戻ってきて、遺伝子発現を変えた細胞の性質を調べ始めたが、一通りの分析をするだけで終わってしまった。
朱さんも張笑さんと全く同じように大学院の受験をして、4月半ばから遺伝子発現を変えた細胞の性質を調べ始めたが、私たちの予想が外れた結果となった。と いっても私の立てた仮説があわなかったというだけで、彼女の責任ではない。この二人はこの秋から私たちの大学院に進学する。
4人の卒業研究の学生の面倒をみた人たちは、同じようにこの6月の卒業する修士課程の4人の学生だった。彼らの指導がしっかりしていたのだろう、論文発表日の前日までに出すようにと文書に書かれていた卒業論文をしっかりと書いて生命科学院に提出した。
ところが論文の書式に合わないと言って3度も直されていた。25日の発表の日の発表の後もさらに論文を2回も訂正して出し直していた。学院側がすごく神経質 である。驚いたことに、学科主任は、卒業論文をちゃんとやったかどうか、結果が出たかどうかそんな内容は誰も気にしない、卒業論文が書式通りに整えられて いるかどうかが重大なのだと説明したという。
今までと何かが違う。
卒業研究生の 20%が優秀論文に選ばれる。私たちのところは毎年3-5人くるから、いつもそのうちの一人が選ばれる。最初の年に誰を選ぶかと聞かれた。3人とも優秀で きちんと卒業研究を行い、しかもきちんとした結果を出したから、3人とも優秀論文に選ばれるべきで、その中の一人だけを選べないと学院の主任にたてついて 以来、先方で勝手に一人を選んでくる。
ところが今年は、私に4人の中から選べと執拗に言ってくる。今までそっちで勝手に決めていたじゃないか。何故勝手に決めたのかを私に説明して欲しい、私がそれに納得したら、今年の一人を私が選ぼうと返事したら、間に通訳に立っている学生はもう泣きそうである。
うちの学生を困らせても仕方ないので、とうとう私は折れて4人の中から一人を選んだ。張添翼さんである。彼女はおとなしいが頭が冴えている。きちんと実験をした上に、信頼できる良い結果を出した。
それにしても今年はどうして形式、手続き、体裁にここまで異様にこだわるのだろう。上部機関から査察が入るので、教育、学生指導をきちんとやっているという 万全の証拠を残しておくことが必要な事態に直面しているのだろうか。そういえば博士課程の設置に向けて運動を始めたようだったが、その関係だろうか。
6月25日の夜、研究室の卒業祝賀会兼送別会を天潤川菜食府で開いた。
出席は総勢15名。院生:阚启明 张岚 阳晓艳 陈阳 曹婷 徐苏 黄澄澄 王月
卒業研究生:江文 朱彤 张添翼 张笑
スタッフ:二宮、山形貞子と山形達也
12名いる学生のうち9名が卒業する。6名が研究室を出て行き、3人がここで進学する。この秋から私たちの研究室は学生6名、スタッフ3名になる。開会の言葉の後食事が始まってしばらくしてから私は一人一人の卒業生に餞別の挨拶をした。修士を卒業する徐蘇には「私たちの研究室に来てくれてあり がとう。あなたが私たちの研究室に来たいと言って訪ねてきたことを良く覚えています。とてもかわいいお嬢さんが来たという感じでした。こんなにかわいくて 研究が出来るのかなと心配をしました。」
「でも、研究を始めると時間と努力を惜しむことなく、倦まず弛まず実験に打ち込む姿に驚きました。研究に特別のガッツを持っているかわいい女の子でした。 研究の上では、細胞に導入したタンパク質の発現効率が悪い上に、抗体が良くなくて、研究の所期の目的が果たせなかったのがとても気の毒ですし残念です。でも、この先どのような研究をやっても、あなたは真っ向から挑戦してそれをやり抜くに違いありません。遠くない将来のあなたの成功を期待しています。」
徐蘇は、もう泣き出しそうな顔をしながらもすぐに立ち上がって話しだした。「研究の成功には運、不運がつきものです。思いがけないことが起こりま す。抗体が悪いことがなかなか分からなくて時間を使ってしまいましたが、仕方ないことです。研究は成功しませんでしたが、この研究室に来て先生がたが真摯に研究に向かう態度から研究者とはどうあるべきかを学ぶことが出来て本当に幸せでした。私のやった研究の続きをこの先誰かが引き受けてくれると嬉しいです。私はこれからも研究をすることで生きていくつもりです。先生方、どうかお元気で。」
修士を出る曹に私は「私たちの研究室に来てくれてありがとう」と始めたけれど、すぐに「しかし、」と続けてしまった。「しかし、初めの一年の貴女はとても暗くて、朝会ってもニコリともしない人でした。機嫌の悪い貴女に私たちはおろおろするばかりで何も出来ませんでした。」そう。最初の1年は問題児だったのだ、自己中で。
曹婷は非常に優秀な素質を持っているが、おそらく先生に気にいられることが生き甲斐で、いつも勉強と行いで頑張ってほめられ続けて来たのだと思う。
だから先生に認められている限り研究はがんがん進むというタイプである。結果の解釈が私と一致しているならいいけれど、違うと、こんなに自分は頑張ったのにと一挙に恨みがましい目に変わる。本当に自分の研究を愛するようになる日がいつ来るかが、曹婷の成長の分岐点である。
「でもやがて、星霜移り人は去り、貴女は研究が面白くなり、毎朝ニコニコと私たちの前に現れて手をかわいく振って挨拶をしていきます。そして研究も すばらしい勢いで進み出しました。そして貴女は自分のしている研究をしっかりと見つめて、得られた結果から自分で考えて実験を組み立てられるようになりました。すばらしい進歩です。実験結果の考察ではまだ浅いところがありましたし、議論ではただ頑固なだけみたいなところが目立ちましたが、それでも私の言い分が正しければ正しいと分かる力も育てていきました。この心の豊かさは研究者として貴女が育っていく上でとても大事なものです。貴女はこの秋イタリアのミラノに留学します。研究者が駄目でもモデルがあるさという選択肢もありますが、私は貴女の将来の大成を楽しみにしています。」
と書いたほど良いことを言った訳ではなかったが、それは「意余って言葉足らず」というところだと思ってほしい。
「陳陽は私が2004年春、4年生に分子生物学の講義をしたときの最初の学生の一人でした。講義が終わってPCを片付けているとそばにやってきて『先生、ちゃんと出来る?』なんて話しかけてきましたが、薬科大学の日本語の先生たちから陳陽のことはよく聞いていました。背が高くて、おしゃれで、そして甘った れで。。。」
「その陳陽が私たちの研究室に来て最初の半年間、ハラハラしました。とても研究が続けられなくて、すぐにやめてしまうのではないかと心配し続けました。」「これは中国の先輩後輩の関係が日本で言うと体育会系に近い感じがあるからだと思います。新しい学生のテーマは私たちが与えて先輩のそれとは全く独 立のものですが、私たちのところでは、研究室の実験の手引き、面倒は誰か一人の先輩が見ることにしています。この先輩に公私ともに服従しないと、先輩はこ の後輩の面倒を十分見ない訳です。」
「陳陽は甘ったれのくせに自立心が強く、先輩の指示に従わずに反抗を続けていたので、この関係が最初はうまく行かなかったのですね。危なくドロップアウトになる前に卒業となり、修士に進学して独り立ちして研究を始めることが出来ました。」
「この陳陽をみていると、この3年間に本当に良くまあ成長したものだと思います。あの頃の陳陽とは今昔の感があります。先刻話した研究に対する態度がそうです。それに陳陽は、例えばリンゴの皮すら剥いたことがなかったのです、ねじ回し(ドライバー)の使い方すら知りませんでした。それが今では、電気泳動装置が断線しても自分で故障原因を探って直してしまいます。研究はやり始めこそ何時も、アーダ、コーダと御託を並べていますが、実際に始めると手際よくそして信頼のおける手順を踏んで結果を積み重ねていきます。3年間に頼りない男の子から信頼できる男になりました。安心してこの夏は東大の博士課程に送り出せます。」
この稿続く
私 が座ると陈阳が立ち上がった。そして言うには、「わたしが山形研究室に来たのは、山形先生と話してみて、先生の日本語がちゃんとしていたからです。」これには私はびっくりしてのけぞる。陈阳は言う。「だって自分の日本語は、日本語を習った先生そっくりと言われていたのです。まるで先生みたいな話し方をするって。」
こ れを聞いて思い出した。陈阳が私たちをたずねてきたとき彼が話をすると、まるで彼に日本語を教えた高山敬子先生が目の前で話しているみたいだった。部屋に入ってきた陈阳に「さあ、先生、この椅子に座ってお話ししましょうね」なんて言われると、尻がむずむずしてしまう。陈阳は先生が話した通りの口調で、話をするのだ。でも目の前の学生が先生口調というのでは、どうにもこちらは落ち着かない。「ですから、私はここに来て先生の日本語を聴いて、そのように話せるよう一生懸命覚えました。」へえー、そうかねえ。これはどうも嘘っぽい。陈阳は元々、とても丁寧な日本語を話す。私の乱暴な日本語を真似していたとは思えない。
「ここに来た初めのころは研究が自分に出来るのだろうかととても悩みました。でも、だんだん研究というものが分かってきて、研究には当たり外れもあること、研究が好きになれば研究は裏切らないということも分かってきました。文献を調べて勉強すればした分だけ、実りのあることも分かりました。私はお金を沢山稼ぎたいですけれど、研究も面白いので博士課程でも研究を続けて、将来は教授になりたいと思います。」
陈阳は甘ったれで、音楽とおしゃれが大好で、PCにめっぽう強く、しかし研究では、始める前はいつもぶつくさ言っている。「えっ、こんなことまでやるの?」でも、実際はきちんと計画を立てて整然と結果を出す能力があるのだ。不思議に魅力的な男である。本を読むことが嫌いな陈阳が将来中国を背負う学者になれるかどうか難しいような気もするが、今は出立のときだ。今は大いに祝ってあげよう。この集まりの後、7月3日に東京大学大学院新領域創成科学研究科から彼の博士課程の奨学金が認められたという知らせがあった。
次はmagnificent four の最後になる暁艶だ。「阳晓艳は 先輩に連れられて私たちの研究室にやってきました。そしてドアのところで言うには、『この研究室にぜひ入りたいです。だって、いつかの講演会で聴いたら先生はとてもよい英語を話すから』というのです。私は驚きました。学生が先生に面と向かって、あなたの英語はよい、というのです。日本では普通このようなことは言いません。先生に向かって直接何かが優れているとか言うのは失礼と考えられています。」「それでもそれで私は気を良くして、来てよいと言ったのか、どうか明確ではありせんが、最初のところは、このように覚えているくらいですから、印象は強かったのですね。」
「阳晓艳は英語班の出身で英語の発音はかなりよかったですけれど、英語の文法や語法をほとんど知りませんでした。おそらく、日本語班では日本から多くの人たちが来て講義をするのを聞く機会が沢山あるのに、英語圏から講師が来て講演することはほとんどないので、英語に触れる機会があまりなかったからでしょう。3年間私たちの研究室にいて、彼女の英語は長足の進歩を遂げました。この意味で、彼女がここを選択したのは正しかったと言っていいでしょう。」
「研究は卒業研究のときの成果が博士課程にいた王くんの研究を論文にするときに役立ちました。2007年にOncologyに論文が出て、このおかげで奨学金も貰いました。彼女はとても穏やかな性格の上に、私たちのことを始終気遣ってくれるので、私たちが瀋陽で暮らすのにとても助かっています。今期で多くの人たちが私たちの研究室から巣立っていきますが、彼女は幸いこの先博士課程を続けるというので、今までの研究室を保っていくのに大いに貢献してくれるでしょう。」 修士課程を今年出る4人は、四人組と呼んではまずいので、Magnificent SevenにちなんでMagnificent Fourと時々呼んでいた。そのくらいそれぞれが際立った個性的な人物だった。今までのどの学生だって誰もが個性的なのだが、この四人の個性は燦然としていた。徐苏はものごとの判断基準がとても厳格なのが際立っていた。従って自分にも厳しく、うまく行かない研究も最後まで手抜きをすることなどいっさいなく頑張った。頭がいいだけでなくすばらしい資質の持ち主である。
阳晓艳はほかの3人の自己主張が強く、そのために研究室に刺々しい雰囲気が醸し出されると、彼女はそれを柳に風と受け流して波風を鎮めてしまう。穏やかな性格だけれど、自分は決して人に影響されない頑固さを持っている。
というわけで陈阳と阳晓艳は卒業研究を入れて3年半、徐苏と曹婷は2年間私たちのところにいて、とても充実した日々を私たちに齎した。輝く資質を持った4人の輝かしい将来を願わずにはいられない。
この稿続く
卒業研究生は今期は4人だった。そのうちの二人は大学院に進学する。
江文くんと朱彤さんは同じクラスで1年生のときに日本語を加藤先生に教わっている。江文くんはずっと班長を務めてきたので私は3年生のときから彼を知っている。おまけに3年生の終了時期に日本語を教わっていた加藤先生が帰国されるとき、彼のクラスは加藤先生ご夫妻のほかに私も食事に呼ばれた。お返しに10月には私が、といってもほかに坂本、貴志両先生を仲間にしてスポンサーとなったのだが、食事に呼んだ関係で二人ともここに来る以前から知っている。
江文くんは実験室でみていると、とても綿密で慎重な性格である。初めて行う実験に付いての情報をあらかじめ十分調べ、吟味してからやっと納得して実験を始める。それでも時々実験室にいないことがある。
薬学部の日語班は二つあるが、もう一つの班の班長は3月 末に日本に行ってしまったので彼がそちらの分も面倒を見ているという。
どういうことかというと、日本のある薬学の大学院が学生を確保するために瀋陽薬科大学と提携して、本来なら6月卒業の学生を3月に繰り上げ卒業させて、4月から大学院に受け入れるのである。勿論試験をするけれど、学生にとっては同期の学生よりも半年、あるいは一年先を進むことが出来るありがたい制度である。知名度がいまいちの大学だが、博士課程でそれなりの大学に進めば良いわけで、結構人気がある。
このようにして彼は抜けてしまった班長の分の働きを引き受けているのだ。ここでは、いろいろな集金は大学が行わずに班長に全部集めさせるし、何かの資料の配布も班長が全部行うのだ。だから班長の雑務はあきれるくらい多い。江文はそれが二倍に増えたのに、文句も言わずに級友のために誠心誠意働いている。大した男である。
张笑さんと张添翼さんは1年のときは沢野先生で2年生になって南本卓郎先生から日本語を習ったクラスである。「张笑さんについては何を話したらよいか分かりません。张笑さんとは数えるほどしか話したことがないのです。」と私は言う。
皆が笑い転げて、「そうだ、そうだ」と言っている。学生同士の中で見ていても彼女は無口で、いつも静かである。
おまけに大学院の入試を受けたので、江文くんと添翼さんは10月から研究室に来たが、彼女の場合には二次試験が終わった4月半ばから顔を見たようなもので、期間が至って短いが、それでもそれなりの実験結果を出した。面倒を見た徐苏の指導のおかげである。
张笑さんは「日本語があまりしゃべれなくて」というけれど、しゃべらなきゃいつまでたっても上達しないよ。うちの部屋は公式には英語だけれど、後はププライベートには日本語でおしゃべりをしましょうよ、これからは。
张添翼さんは10月から来てまとまった一仕事をした。しかし、彼女ともあまり話した記憶がない。これは彼女の面倒を見た曹婷がいつも彼女を家来のごとくというか、カルガモの子供を扱うがごとく、囲い込んでいたからである。毎週の研究の討議のときも曹婷が話をする。途中から添翼さんに独立して話をさせるようにしてわかったが、添翼さんはことによると曹婷よりも頭が良いかもしれない。なんて書くと曹婷にこの先しつこく恨まれそうだ。曹婷くらい頭が良さそうだと書けば、無事かも。添翼さんは東京大学大学院新領域創成科学研究科の修士課程に入るはずだ。柏にあるキャンパスで陳陽と同じ建物ということになる。
朱彤さんのおしゃれ度は陈阳に匹敵する。背もすらりと高く、この二人が歩くと、キャンパス中の注目が集まる。女は陈阳を仰ぎ見て、男は朱彤をまじまじと見つめて。いま夜空を見上げると土星が15年ぶりに輪がなくなったと言われている。土星の輪がなくなるわけではなく、地球から見る角度が真横になるので輪がないように見えるというわけだ。しかし、私に言わせると、土星の輪を彼女がとってきて陳陽の首にぶら下げたのだ。
アヴァンギャルドなデザイナーVivienne Westwoodの名前は私は今まで知らなかったが、朱彤さんのおかげで覚えた。Vivienne Westwoodの作るペンダントには土星が付いている。実際、いまでは大きな土星が陈阳の首飾りの先に揺れている。彼女の面倒を見たお礼だという話だ。もちろん彼女の首にもぶら下がっている。
朱彤さんは、すっげえ早口で話す。アニメの読み過ぎだと思うくらい、危ない言葉がぽんぽん飛び出す。このまま江戸っ子にしても良いくらいである。私が、生まれは東京の私が、話をしていて圧倒されそうになるのだ。。。
来期には無口の张笑さんと早口の朱彤さんが進学する。二人とも日語班出身なので、うちの研究室の大学院生は日本語遣いが3人、英語遣いが3人という構成になる。
私たちの研究室をVIP二 人が訪れた。どういうことかというと、瀋陽在住日本人会の先の会長で伊藤忠商事瀋陽事務所の代表である高木純夫氏の依頼である。高木氏の以前の上司が政治 学者であった高坂正堯教授の弟の高坂節三氏で、伊藤忠を退社後は経済同友会幹事や栗田工業会長などを歴任し、いまは東京都教育委員でもあるという。今回の 瀋陽の訪問ではいくつかの学校を回って学生と懇談したいということだ。
日本では新型インフルエンザが想定していたほどひどいものではないと分かって、国を挙げての対策はかなり沈静化した。しかし、中国では未だに警戒を緩めていない。大学は依然として日本からの来訪者を認めていない。
それで大学当局にお二人の履歴書を添えてお伺いを立てた。日本のVIP二人が大学訪問を希望している。ついては、入構を認めて貰えるか。私たちの研究室を訪ねて、そこで学生と自由な討議をしてよいか。大学当局への表敬訪問は可能か。
1週間くらいして返事があった。入構してよい。研究室で学生と懇談してよろしい。しかし学期末なので大学の要人が二人と会談することは難しい。
というわけで、6月29日朝10時に、高坂節三氏、高木純夫氏、そして通訳のJiaさんの3人を大学の正門で出迎えた。あらかじめ大学から正門警備の人に連絡が行っていて、車はそのまま構内に入った。研究室の人たちには、学生と話したいという日本の教師界の偉い人が来るので、そのとき部屋に集まってほしいと言ってあった。
部屋に入って来られたお二人は「部屋が広いですね。あっ、あれ。伊藤忠美人が並んでますね。」高木氏から毎年頂く伊藤忠のいわゆる美人カレンダーを壁に貼っている。壁が広いからまだ何年も貼れそうである。
学生は学部の卒業生も含めて10人が集まってくれた。最初に高木さんが中国語で伊藤忠とご自分と、そして高坂氏を紹介した。そして私はpptを使って、まず瀋陽薬科大学の中国における地位について述べてから、研究室の紹介をした。
「研究室には『山形研究室は世界一流の研究者を育てることを目的とする』で始まる研究室憲章があるのですよ。」こういう話には誰でも笑う。こういうところで、 こういう大真面目であることはピエロみたいなもので、ひとの失笑を誘う。今日も例外ではなかったが、もちろん外交上の好意的なものだろう。
「ここの学生はとても優秀ですけれど、小さいときからの教育でしょうか、覚えることは得意ですが、考えることをあまりしないみたいです。自分の頭を使って考え るという教育があまりされていないみたいですね。ですから研究室のセミナーでは、『要想成功 要問問題 不提問題 不能成功』という標語を作って、学生が 活発に質問して議論をするようにいつも励ましているのです。」
この後高坂氏と学生のあいだで、1時間ばかり質問と回答が飛び交った。高坂氏が求めたものがここで得られたかどうか私には分からない。私は、つい、ここの学生たちと日本の学生を比べてしまう。中国では60年前の私たちのような希望に燃えた目で将来を期する学生たちでいっぱいである。それに引き換え、今の日本の学生の覇気のなさ。彼らを見比べて、日本の学生を元気にする処方薬をぜひ見つけてほしい。
高坂氏からは事前に著書「経済人からみた日本国憲法」を贈られていた。経済同友会で憲法問題調査委員会委員長を務めて、タカ派として音に名高い石原慎太郎知 事の東京都の教育委員である。憲法改正を声高に唱える本かと思ったら、とても穏やかに歴史の解説がしてある。引用が豊富で、最後にこのような世界の中で、 丸腰のまま平和が欲しいと唱えているだけで今の世界で生来ていけるのでしょうかという問いかけで締めくくっている。憲法を変えて軍隊を持たなきゃ駄目じゃ ないかと喚いているわけではない。知らず知らずなるほどと引き込まれそうになってしまう。高坂氏と話すと分かる彼の外連味のない真面目さが文体に反映して いる。
しかしこの引用はくせ者といっていい。自分の主張に必要な論拠だけを使い、不都合なものは使わなくても、ものを知らない身ではそれとは気付かずに乗せられてしまうわけだ。
高坂氏の論拠になるほどと感服するけれど、戦前の、国のため、天皇のため、すべてが犠牲にされようとした世界を知っているし、それも財閥や一部の人たちを守 るまやかしに満ちたものだったことも今は分かっている。私は戦前の日本軍を思い出させるすべてのことに対する拒否反応が身体にしみ込んでいる。
もちろん私は、自分たちの国は自分たちで守るというのはごく当然のことだと思っている。生きている以上、生きていることに伴う責任だと思う。でも守るべき国は誰のためなの?と、つい疑り深く考えてしまう私である。
教 育の恐ろしさは身にしみている。戦前の軍国少年も教育の成果だった。戦後の価値観が一転した時代に小中の教育を受けた結果が今の私である。教育ほど人の考 えを変えるものはない。つまり教育ほど大事なものはない。高坂氏には国家百年の計を誤らないように、日本の普通の人たちとこれから進む方向を論じて欲しいと思う。
コメント:
初次見面
我的出生地是寧省丹東市。所以我去遼寧省毎年了。我旅行瀋陽2回。我回国了人人長春至日本62年前。
伊藤忠は私が長年勤務したF製油の親会社です。現在私はそのF社のOB会の会長を務めています。
高坂氏は直接存じ上げていませんが当時は丹羽氏が伊藤忠の社長でした。高坂氏の論説にコメントは出来ませんが久しぶりに伊藤忠の名前を見て思わずコメントしてしまいました。そういうことなので伊藤忠の人は何人も知っているので懐かしく思いました。
瀋陽には恐らく今後とも行く機会はあると思っています。失礼しました。
投稿: 丹東鴨緑江 | 2009年7月13日 (月) 14時05分
2009年07月14日(火)
中国の西の方がきな臭い。夏休みになるので西の方に是非行きたいと計画していた教師の会の先生たちが予定変更を余儀なくされている。この騒ぎの余波で(としか思えないが)、7月8日からyahoo geocitiesをサーバーにしているHPがすべてここでは遮断されている。
昨年10月から今年2月まで原因不明の原因でyahoo geocitiesをサーバーにしている「瀋陽日本人教師の会」「山形研究室」「野呂先生の思い出」「山形達也の瀋陽通信」が中国からアクセスできなくなったが、その悪夢の繰り返しである。中国では国民を、漢族と55の「少数民族」とに区分し、民族区域自治という少数民族政策を取っているという。最大人口は漢族で、中華人民共和国の全人口の 94 パーセント以上という圧倒的多数を占める(Wikipedia)。
私たちの研究室は東北地方の瀋陽にあり、元々清朝の発生した地域であるので、満族の学生が結構いる。研究室で見ている限り、彼らの間に対立も差別もないようだ。しかし戸籍に相当する書類には出身が明記されている。
私たちの大学には論文を発表するための機関誌がある。世間並みに編集主幹も編集員もそろえて論文の審査をしているけれど、基準は甘い。ここに出せばたいてい通る。しかし今までたびたび書いているSCI (Science Citation Index) の対象雑誌にはなっていないのが、投稿する人には泣き所であろう。
私たちはSCIに収録されている雑誌に論文を投稿しているが、そこには載せきれないデータでまとまって論文にできるものは、この瀋陽薬科大学学報に投稿している。
出版されるとその雑誌が送られてくるので開くと、修士で卒業した鄭くんの論文の第1ページの脚注には:
作者紹介:鄭大勇(1981-)、男(満族)、遼寧瀋陽人;山形達也(1937-)、男(日本人)、東京都目黒区人、教授、博士、主要研究方向腫瘍転移制御研究。
と書いてある。
つまり著者の出身民族が明記され、しかも男か女かも明記するのだ。
この大勇の論文の載った雑誌には18編の論文が載っていたが、大勇以外は全部漢族だった。教授では一人が、朝鮮族、女だった。ほかの号をみると、蒙古族、女と書かれた論文筆頭者もいたが、漢族の中の少数民族といわれるだけあって、ほとんどの著者は漢族である。
このように戸籍に出身が書かれるだけでなく、論文でも(あるいは必要のあるごとに)出身を書くということは民族の誇りを守る一方で、民族の間の対立を増す要因ともなるのではないだろうか。
畏友加藤正宏さんから昔の中華民国時代の小学生のいわゆる通信簿を見せたもらったことがある。出身に貧民だったか賤民と書いてあったように思う。江戸時代の日本でも穢多という士農工商よりも下のランク付けがあったし、戦前は華族・士族・平民の身分差別があった。
その区分で言うと私は平民出身だが、この出身区分に人々が敏感であるということを身にしみて知っている。というのは、うちの父方の家系は代々田舎の宮司だっ たのが、明治に入って身分制度が改められたときに「平民」になったと子供の頃聞かされたからである。たかが宮司でも、人と違うというのが、人を支える誇り となっていたのだ。
そんなこんなで、普通なら3年で学位論文が仕上がるが、関敏の場合には3年どころか4年経っても5年経ってもその気配はない。
といっても学位に無関心ではない。何度も論文を出したいと言ってくる。実験は沢山やっているかもしれないが、結果の信頼性に問題があり、それを正しいと認め たにしても互いに有機的に、そして論理的につながっていないのだ。このような内容でいったい何の論文を書くのかというのが私たちの反応である。
関敏は私の指導が悪いという。私は十分指導してきたつもりである。実際ここでもう二人が立派な論文を書いて博士になっている。彼女には論理的な科学的思考が出来ないからまともな実験が進まないのである。結果と想像、願望とがいつも渾然一体となっている。
彼女は私の前で泣きわめく。「なんで中国人の指導教官の所に自分は行かなかったのか。評価の基準が高いこんなところに来た自分は愚かだった」という。「別のところに行っていれば修士、卒業研究生みんなが助けてくれて2年もあれば学位が取れた」
「お前の指導は間違っている、ほかの大学の先生に訴える」と息巻く。「いいでしょう。どうぞ誰にでも言ってください。公開して討論してもいいですよ。私も自分の言い分を言いましょう」。
前にも書いているが、ここの大学の博士論文提出の資格は、論文2報が出ていること。そのうちの1報はSCI(国際誌と言っても山ほどあるが、Thomsonという会社が出しているScience Citation Indexという雑誌のこと。この中に収録されてもピンからキリまで順位がある)収録の雑誌に出版されていることが必要である。もう1つはどこでもよい。この大学の紀要誌でよい。
いくら実験をやったって、筋道のある結果が出て、論理的に他人を説得する内容がなければ論文とはならない。3年掛かろうが5年であろうが、それが10年となっても、論理的に他人を説得できる結果が出なければ、年月だけでは論文は通らないのだ。この大学の博士課程は3年間で、延びても5年までと明記されている。5年目に彼女はともかく中国語でレフェリーのいない雑誌でもいいから論文を書きたいとい う。もし論文として書ける内容があるなら試しに書いて持ってきてご覧と私は言った。しかし持ってこない。その後も言い続けて今日に至っている。
やがて2008年秋になり、関敏が来てから5年経った。その後は大学の規定により、彼女は自動的に退学・除籍になると思っていた。在籍者が博士を取れずに去るというのは、大声で言いたくはないが仕方ない。当人の素質の問題なのだ。人は自分を知らないと、愚かな行為で時間を無駄遣いする。
という訳で6年目に突入した今年度は、いったい関敏の身分はどうなっているのだろうと不思議に思いながらも、一方では彼女の研究に助言を続けていた。少しで もまともに研究を進めさせるのはこちらの義務であるし、彼女のために何万元という金を投じてきているのだ。それを無駄には出来ない。
2009年に入ると、彼女の研究は3つくらいに大きく分けることができ、そのうち二つは明確な結論を出すにはまだ実験が足りないが、後1年もすれば論文2報くらい書けるかもしれないと言えるようになった。
そのときである。関敏は、博士論文を提出するためには出版された学術論文2報が必要という学内規定に係わらず、博士課程在学5年を超えている人で論文がなくても、その後2年以内に出版可能なら学位が請求できる規則があると言い出した。
びっくりである。まさかと思うが、そのような規則があると言ってやまない彼女を放っておくわけには行かない。この情報のもとは学長だというので学長に会いにいった。
「そうですか。そんな人がいるなんて困ったことですね」と学長は言うが、これで彼女が救われるとは決して言わない。「そう言うことなら学位論文を書いて審査請求を出してくれればその段階で考えることになるでしょう」という。まあ、至極ごもっともである。
状況を彼女に話した。すると元の指導教官はもう退職していたが、その後任である呉英良老師に彼女が話を持っていったら、論文を書いたら審査委員会の方は引き受けるといってくれたという。
というわけで、関敏は学位論文の原稿を書いてきた。論文を今まで書いたことがないから、論理は通っていない、説明不足である、英語は何を言っているのかわからない。それでも百ページの論文を二回直した。3度目は断った。
そして関敏は6月最後の日曜日の発表会を待っている。形の上では正常な学位審査会と同じだから、これに通れば論文が出版されてから書く学位論文を書いたのと同じということになる。外部に論文を発表できる内容ではないのに、それと同じということになる訳で、自己矛盾を抱えた審査会である。
何故、こんなことをするのか。当日ほかにも同じように発表する人がいると聞いてなぞが解けた。何と、正教授なのに学位がなく、しかも論文を発表していないの に同じように学位請求をする人があるという。この措置はその人を救うためだったのだ。その教授のおかげで彼女も一緒に救われることになったということらし い。なるほどねえ。
コメント:
こちらには初めての書き込みと思います
こんばんは、tcyamagata様。
この国の博士論文制度って、面白いですね。
いや、指導する側にしたら、面白がっているばあいではないのでしょうが。
「郷に入りては郷に従え」なんでしょうか。
ボクだったら、神経症になりそうです(笑)。
投稿: zx900 | 2009年7月29日 (水) 20時44分
zx900さま
新しいサイトに熱烈歓迎です。
中国で暮らすのはとても楽しいですが、今回「瀋陽だより」をまとめるに当たってぱらぱらと読み返してみると、一つは新鮮な驚き、もう一つはあきれた話の二種類に集約できますね。
博士について書いたものが一つありました。読んで下されば幸いです。
瀋陽薬科大学で働く私たち (日本語クラブ28号 2008年4月号)
http://sites.google.com/site/tcyamagata/home/nihongo-kurabu#28
それでは、また。お大事に。
今書かないと間に合わない、と言うことがある。これもその一つである。
朝日新聞に意見広告として最高裁裁判官に対する「国民審査権」を行使しようと言うのが載っていた。目にした方も多いと思う。
ほかの新聞は見ていないので知らない。産経新聞なんかはこのような意見広告の掲載を拒否しそうである。
意見広告は、今度の8月30日に行われる衆議院選挙で私たちは一人一票の権利を行使するけれど、高知3区を基準にすると東京3区では0.5票分の力しかないことを訴えている。ちなみに参議院選挙では、鳥取県の選挙権を1票にすると、神奈川では0.2票にしかならない。
このような一人一人の権利である票が地域によって不平等であるという訴えは最高裁で何度か争われているが、そのたびに合憲という判決が出ている。最高裁判事の定年は70歳で、審査は10年ごとである。今回国民審査を受ける判事9人の中で、2007年の合憲判決に関わったのは3人しかいない。
那須弘平裁判官と、涌井紀夫裁判官は、地域によって一票の不平等があっても合憲だと判断した。田原裁判官は、それは憲法の主旨に沿わないという少数意見だった。
国民は誰もが性別、信条、出身、地域で差別されてはならないと憲法できわめて明快に述べられている(第十四条の一)。投票する権利は国民の誰にも保証されている。しかし一票の価値が、投票する場所で異なっても良いというのが、現在ではまかり通っている。
裁判官はときの内閣が任命する。日本は長い間自民党が権力を握っていた。彼らの地盤は農村だったから、都市住民の意見を軽く農村の意見を重くするのは自分たちの政権維持に必要だった。そして最高裁裁判官の判断はこれを支持してきたと言って良い。
国民審査権は一人一票が保証されている。私たちは、自分の一票が日本のほかの地域と同じ価値があることを求めよう。
那須弘平裁判官と、涌井紀夫裁判官にはバツをつけよう。
この意見広告は、那須判事と、涌井判事が一票の価値の不平等を合憲であると判断したことを公表しているが、これは二人に対する誹謗中傷でないことを明確に述べている。私たち国民はここの裁判官が「一票の不平等」をどうか扱ったか知る権利があるのだ。
8月27日木曜日、投票日の三日前にうちに選挙公報が配られた。それぞれの判事の略歴と自分が関与した主要な裁判心構えが書いてある。自分で記載したものだと考えて良い。
涌井判事は、2007年大法廷の一票の重みについての裁判で違憲ではないと判断したと書いてある。田原判事は違憲であるという少数意見だったと書いている。
しかし驚いたことに、那須判事は「最高裁判所において関与した主要な裁判」の中にこの問題の裁判を全く挙げていない。なぜだろう。
最高裁に上がってくるような裁判ではどの判断も重要である。国民の投票の重みが不平等であると訴えた裁判で、それが違憲でないと判断したことに自信があるなら書かないのがおかしいほど重要な判断が求められた裁判だと思う。
つまり、那須判事は国民の前にしらを切っていることになる。この意見広告がなければ、那須判事の合憲判断を私たちは知らないで終わったことになる(同じ日に朝日新聞の記事に同じようなことが小さく書いてあった)。
私はこの意見広告を出した「一人一票実現国民会議」を畏敬の念とともに支持する。数十人の発起人はそれぞれの分野で名の知れた人たちである。自分の信念を何 ものも恐れず述べる勇気を持つ人たち。私が同じことを言っても何の力もないかもしれないが、国民審査権は一人一票の重みは同じなのだ。
那須弘平裁判官と、涌井紀夫裁判官には×をつけよう。
今日の昼には期日前投票に行ってきた。昔は不在者投票と呼んでいたような覚えがある。そのときは区役所の物置みたいな狭い部屋に投票所がしつらえてあった。
投票日が学会と重なったので投票日には不在が確実になった。そのときは区役所で不在者投票をする理由をしつこく問われたように記憶している。だって投票日にはいないんだから、と言っているのに、投票の権利を邪魔したい口ぶりだった。
不在者投票をしたのは十何年前の一回きりだが、そのときは不在者投票が出来ることを嬉しく思って出かけたのだから、それよりずっと以前にはない制度だったのだろうか。
今回は区役所に出かけると、「期日前投票はこちらです」と立て看が1階のロビーに出ていた。
名称が変わったのかなと思ってインターネットで調べてみると、不在者投票と期日前投票とは違うものだった。
「不在者投票」は、本質的には選挙人名簿(在外選挙人名簿)に登録されている市区町村の選挙管理委員会以外での投票で、投票日前日までの投票になる。
私は殆ど中国にいるから、中国に住んでいるという登録をあらかじめしておけば、不在者投票ができるわけだ。
実際は住所を移していないので日本で税金を払い続けているけれど、幸い、今回は日本にいたので、政治のシステムが変わることが期待される今回の選挙に投票することが可能になった
ただし8月30日という投票日は都合が付かない。それで、期日前投票に出かけたのだった。
「期日前投票」とは2003年から新設されたもので、投票日に投票できない有権者が、公示日または告示日の翌日から投票日の前日までの期間に、選挙人名簿に登録されている市区町村と同じ市区町村において投票することができる制度をいうそうだ。
2003年以前でも、投票日に不在の場合は期日前投票が認められていたが、要件が厳しく、不在者投票になる理由をしつこく尋ねてプライバシーの侵害ということで対応が緩くなり、そして期日前投票が制度として認められることになったらしい。
新設された期日前投票制度は事前投票の方法として浸透しつつあるが、これは本制度の代替制度ではなく、廃止されたわけでもないということだ。
私が国政選挙で投票をしたのは2002年以前のことだが、うちの近くの小学校が投票所だった。そのときに比べて、区役所の期日前投票所は空間が少し狭いだけで殆ど同じと言って良い。
市長選挙、市議会議員補欠選挙、衆議院小選挙区、衆議院比例代表投票、最高裁判事の国民審査と五つが私たちの意思表示の対象である。投票記載台がたがいに近く、勿論順を間違えないようにちゃんと誘導されるけれど、投票箱がくっついている.
何よりも印象的だったのは、投票する人が引きも切らず、正規の投票日のときよりも多かったような気がしたことだ。今までの投票日は日曜日だから、そのときに は見かける働き盛りに見える男の姿は少ないといってよい。しかしベビーカーを押した若い母親も、私たちみたいな年寄りも、列を作って投票に来ているのだ。
今回の国政選挙は政治が変わる可能性に自分が立ち会うという興奮を伴っているので関心が高いのかもしれないが、この期日前投票というのはなかなか良い制度である。
規の投票日と同じ体制と陣容で臨まなくてはならない選挙管理委員会にとっては大変な負担と物いりかもしれないが、投票日が一日だけと限定されずに、それま でなら何時出かけても良ければ、不慮の理由で棄権をすることがなくなる。投票日を一日として告示するのではなく、投票日はいつからいつまでの1週間としてしまうのはどうだろう。
日曜日の結果が楽しみである。
この夏は自分の健康の検査を受けたら異常が見つかり、その精密検査などがつぎつぎとあって、これと言うこともしないうちに夏は終わってしまった。おまけに、その関係で戻る予定の新学期の期日に瀋陽には戻れないでいる。
以前書いたことがあるが、私は大分前のことだが急性膵炎に苦しんだことがある。1995年2月にアメリカで学会があり、日本に戻って研究仲間の会合で出会った友人の西川先生に「顔色がどす黒い。それはどこか消化器がおかしいんだから見て貰いなさい」と言って彼の友人の医師を紹介された。
そう言われても自分自身では自覚症状は全くない。いつもの通り元気だ。妻も別におかしいことないわよと言う。
それでも友人の顔を立てて、紹介された病院を訪ねた。院長先生の出身は東工大出身のエンジニアで流体力学の専門家なのに、医師を志して転身した先生だった。 私をうつぶせにして背中のあちこちをを軽く叩いた。ある一点で私は飛び上がった。先生はこれは膵炎を起こしていますねとおっしゃる。
その時はそんなことあるんですかと思ったのに、そのあと二日して私は痛みに七転八倒する羽目になった。院長先生の見立て通り急性膵炎だったのだ。
大学の2月と3月は一番忙しい時期なので、絶食し、病院に通って点滴をうけながら大学の仕事を続けた。膵炎にいけないのはアルコールとストレスだと教わった。そのあと1年間はアルコールを断ったけれど、次の年の卒業時期に祝い酒を飲んで膵炎を再発させた。これは私が悪い。
この夏、院長先生の内視鏡検査を受けて、私に消化器の異常が見つかった。観察したところがんと言えるけれど生体染色をするともっとはっきり分かるから、専門の先生を紹介しましょう、と言うことになった。
自分にがんがあると言われてもごく素直に受け入れることが出来た。科学をやっているからか、自分をごく客観的に観察することが出来る。
紹介されて診ていただいた医師は食道がんの世界的権威として知られている専門医である。初対面でしかもこちらは患者だが、私もがんを研究する専門家と言うことでお互いいろいろと話が弾んだ。その時聞いた話にショックを受けた。
この先生によると今は外科医を志す医学生の数が激減しているという。がんを手術で切除できるのも後数年ですよ、ということだ。
数時間立ちっぱなしで指先一つに命を預かる外科医も、機器の診断だけを診て患者を扱うだけの医者も同じ報酬だそうだ。難しいことに挑戦しようという気概を持つ若者が減ってきたという。
おまけに、もし医療事故があると訴訟を受けて大変なことになる。苦労して我が身を削ってまで人の命を救おうという気持ちがなくなってきたのだろう。
「21世紀の終わりまでにがんは薬で治るようになると思いますか」と私は訊かれた。「勿論私たちはそれを目指しているけれど、ともかく現状では早期発見による外科切除しかないですよね」としか言いようがない。
がんの研究がこれだけ盛んに行われていても、絶対確実なのはそれの切除しかない。それが出来る医者の数が激減している。
救急のたらい回し、産科医・小児科医の激減、地方都市病院における診療科科目のカット、と言う医療の荒廃が叫ばれて久しいが、これらの根本的問題に加えて、私たちは外科医の不足にもうすぐ直面するのだ。
一方である医療機関はもうけを増やすために、外国人富裕層の受け入れを始めたという。当然国民の医療を受けるべき人たちへの対応はおろそかになるに違いない。
これが文明国なのだろうか。国民が不安なく暮らせるようにするのが国ではないか。その国を好きなように食い物にしてきた政治家には退場して貰おう。
新しい風が政治を変えても、それが私たちを真に幸せにするかどうか分からない。しかし、自分の投票権を行使することによって、私たちは声を出して要求するこ とが出来ることに気付いてきたのだ。これからも求め続けよう。日本の国は私たち国民のものだ。日本を私たちの幸せな暮らしを実現できる国に変えようではないか。
第45回総選挙で日本の歴史が動いた。長く続いた自民党の独占政治が終わり、日本の政治の風通しが良くなることが確実だ。
新聞、テレビ、雑誌で、これは民主党が政策論争で勝ったのではない、自民党へのお灸であり罰だという。実際、民主党に政治担当能力があるかどうか誰も分からないのだから。
こうやって、自民党はもううんざりだという声がやっと大きくり、その民意が結集して自民党の政治が終わったのだが、ここに来るまでが本当に長かった。自民党政権に反対しても全く効果なく、それでも反対し続ける自分にうんざりするくらい長かった。
ところで、私の学生のころ、親しかった友人から言われたことを覚えている。「NHKがニュースで言うでしょ、『政府自民党は、これこれしかじかで、、。』これって、政府と自民党と一体のもので政府は自民党であり、自民党が政府であるという無意識下の植え付けを図っていると思わない?」
確かに、『政府と自民党』と言えばいいのに、『政府自民党』というのは意図的に、政府は自民党のものですよ、自民党が日本の政府なのですよと言っていると言って良い。
私はこのようなNHKの姿が気に入らなかった。結婚して自分の家庭を持ったときに訪ねてきたNHK放送の聴取料を取りに来た集金人に、おかしいじゃないかと抗議をした。なぜこのように言うのですか?この言い方を変えたら払っても良いけれど、そうでなければ偏向した「公共放送」には払わない。
しかしNHK から返事はなく、「政府自民党は」の言い方も変わらず、私はそれ以来50年近く支払いを拒み続けてきた。
政権が変わってNHKは「政府民主党は」という言い方をするのだろうか。NHKが意図的か、無意識で無邪気にこのような「政府自民党は」の表現を使っていたのかは知らないが、もし、「政府民主党は」と言うようになったら、やはり権力迎合と思う。NHKは公共放送の名に値しない。
もしも「政府と民主党」と言うようになったら、以前「政府自民党」と言ったのは自民党に肩入れした意図的なものだと言うことになり、やはりお灸を据えなくてはならない。どちらにしても私は聴取料を払うきっかけがつかめないことになる。
鳩山さんが首相に任命されるのは9月16日という。その日からNHKが「政府民主党」というのか、「政府と民主党」というのか、どうなるのかを楽しみにしている。
追記:
NHKが今放送でどう言っているかは日本にいないので分からないが、インターネットで『政府・与党の政策決定システム「各省政策会議」新設 小沢氏通達』(9月19日7時56分配信 産経新聞)と書いてあるのを見つけた。
この自民党よりの新聞はいままでの「政府自民党」という言い方に慣れていて、「政府民主党」などとは違和感があってとても言えないのだろう。それで、無難なところ「政府与党」という言い方にしたのだろう。
「政府民主党」といわないということは、意図的に「政府自民党」と50年近く言い続けてきたということになるだろう。これはNHKではなくて産経新聞だから、少しは事情が違うだろうけれど。
学生に民族のことをどう思っているか聞いてみたいが、漢族からは優等生の答えしか返ってこないだろうし、少数民族からは「全く気にしていませんよ、それよりも一人っ子政策で縛られていないこと評価します」というような答えが返ってきそうである。いずれにしても少数民族から本音を聞かされたときに、私に何ができるかの覚悟がなければ聞いてはいけないような気がする。二番目の写真は2009年7月13日のRecord China:
人は人と違うことに生きる価値を見いだす生物なのだ。背が高ければ嬉しいし、美人ならもういうことはない。それだけで人と違うのだ。まして身分が違うというのは、差別の心を生み育てる。人は自分より劣る存在があれば、どんなに苦しくても、生きていける生き物である。
それからみれば、出身部族を書いているだけであって実際中国人の94%の人口を占めている側に言わせれば差別ではないともいえるかもしれない。しかし富と権力を握るのがほとんど漢族だから、残りの少数民族からみると、差別をされていることになるかもしれない。戦前の父は「平民」と書くたびに差別されていると思っていただろうと思う。