夏の3週間日本に行っていた間のこと、電車に乗ると自然と壁の広告に目がいく。つり広告の週刊誌のタイトルを見ているだけで、世の中の動きについて行けそうな錯覚がもてる。
広告の中では「オープンキャンパス」というのが目立った。いまの時期が夏休みなので、受験生に自分の大学に目を向けて貰う絶好の時期である。大学の宣伝と 言っても、○○薬科大学とか、○○大学薬学部のオープンキャンパスばかりである。この一二年で薬学部が増えたので、生き残りをかけての激しい競争の表れの 一端だろう。
このオープンキャンパスを私たちの所でもやろうという話が出てきた。正確に言うと研究室の公開なので、オープンラボである。私たちのところで1年近く過ごした学生の楊方偉くんが言い出したことである。彼によると、「ここに来てみて初めて分かったけれど、この研究室は素晴らしいところです。」でも学生の間でこの研究室はよく知られていないという。「宣伝して学生に分かって貰わないと、学生が来ませんよ。」
「今までだって特に宣伝をしなくても、学生が、しかもより抜きの優秀な学生が集まっているのだから、いいんじゃない。」と私。「だって、先生、日本語を話すことのできる学生に、しかも男の子に来て欲しいのでしょう。」と楊方偉くん。
こ れは図星である。うちの研究室には(学業成績の)最優秀の学生が集まっている。初期の頃は日本語を勉強してきた学生が多かったが、だんだん減って、あと1年すると、大学院学生の中で日本語を話せるのは陳陽くんただ一人になる。男女の比も初めは半々くらいで、女性が7-8割である薬科大学の中では男子が多かった。でもこの夏の終わりが新学期となる今年度は女子学生2人が入るし、来年度も女子学生2人に来ても良いと既に言ってある。そして1年後には男子学生も陳陽くんだけとなり、2年後にはゼロとなってしまう。
東工大の時の同僚に、女子学生は絶対取らないと公言する教授がいた。国家予算を使って教育をするのだから、歩留まりが高い方がよい。いくら教育に力を入れても、女子だと結婚、出産でやめてしまうこともあるのでこれでは投資効率が悪い、と言うのが表向きの理由だ。女性が研究を続けていくとしても世間は狭いし、昇進では絶対的に不利なのが現状だ。従って自分の弟子が男子なら自分の勢力範囲はどんどん広がって行くけれど、女子だとそうはいかない。だから男の学生しか欲しくない。と言うのが本音である。
今では女性を全ポジションの○%にしようという動きを見せる大学もあるけれど、このようなお仕着せのやり方にはどちらの側も反発しているようだ。私の娘は名古屋大学の助教授だったが、この動きが始まった途端に、大学を辞めて研究所に移ってしまった。
私 は男女の違いについてよく知っているつもりだし、出身が男女平等を実践していた江上不二夫教授の所だったので、女子だからと言って何ら偏見はないが、研究室は男女の比が半々というのが健全だと思っている。力仕事は女子向きではないし、機器が故障しても女子では面倒を見きれない。女子だけになったら困る。
研 究室の公用語は英語にしていて、ふだん英語を喋っていて違和感は全然ないけれど、日本語を話す学生に用があれば日本語を使うし、大体妻と話すときは例外なく日本語である。日本語を使うのは楽でいい。研究室で日本語が通じる学生が一人もいなくなったとき、どうだろう。やっていけるだろうか。
アメリカにいたときには日本語を使う機会は滅多になかったけれど、それでもやってきたわけだ。しかしあとの2年して研究室中見渡して日本語が全く通事ないというのは悲しいことだろう。
と言うわけで、楊方偉くんの提案に乗って、オープンラボを計画し、日本語の話せる(できれば男子)学生をリクルートしようと言うことになったのである。
第一のターゲットはこの秋に最終学年になる日語班の学生である。ついで第二のターゲットは英語班で、そして最後のターゲットは一般の学生ということになる。
瀋陽に来てから休みに日本との間を往復するだけで、私たちはほとんど中国のどこにも旅行に行っていない。2004年には日本に戻るときに、誘われたのをいいことにして帰省する沈慧蓮さんにくっついて上海に寄った。沈さんは文字通り一家を挙げて歓待してくれた。何とご両親は、夜になると自分たちのアパートを空けて 自分たちの寝室に僕たちを泊めてくれたのだ。
2005年にはアパートのお隣の姚老師が広州、深センの旅行に誘って案内してくれた。この旅 行に一緒に行ってみると、彼女の現地にいるお弟子さんを呼び出して案内と接待をして貰うのだった。中国の老師と弟子の関係なら当然らしいけれど、こちらは全 然おちつかない。なんだか犯罪に荷担しているような気分だ。そのあとも温州の旅行に誘われているけれど、まだお断りしつづけている
つまり中国滞在4年間に2カ所に旅をしたというのは中国にいる日本人としては極端に少ないらしく、大学の呉学長が心配してあちこちで開催される学会に出かけるよう良く勧められる。今年の9月に「ウルムチで学会が開かれるのには是非行きなさい。9月半ばのウルムチは最高の季節だから」と言って、熱心に勧められてとうとう断り切れず、 学会に参加することにした。
6月20日の締め切り日に間に合うよう講演要旨を書いて送ったが、そのあと何も連絡がない。事務局に着かなかったのか、受け付けられなかったのかのどちらかだと思って、1ヶ月後の学会登録費の支払期限が来ても、放っておいた。
すると数日前に、事務局から連絡があって、宿舎の申し込みだという。宿舎の申し込みをしなさいということは、講演要旨は届いているのだろう。同時に学会登録費もまだ払っていない人は払うようにと書いてあって、費用は1ヶ月前に締めきりのあった事前登録に比べて高くなっている。
ともかく要旨が受け付けられたなら学会に行くしかない。というので学生の暁艶に北京の学会事務局に電話をして貰った。「講演要旨を送ったのに受け取り確認が来ないから学会登録費を払っていないのですよ。それが値上がりしているなんてひどい」と言って貰ったら、「そう言うことなら事前登録費でいい」ということになった。
学会登録費は私が700元。妻は子供並みの同行者扱いと言うことにして400元。そして私たちだけでは不自由なので研究室の学生一人と一緒に行くことにして、学生参加費が500元。
さて一緒に行く学生をどうやって選ぶかが頭の痛い問題となった。ウルムチは中国の西にある新疆ウイグル自治区の首都で、日本の面積の数倍大きい。この新疆省から来ている学生は、実は王麗と暁艶の二人がいる。どちらも一緒に行けたら大喜びだろう。でも、王麗が私たちと一緒に研究室を抜けたら研究室の運営で大きな障害となってしまう。暁艶を選ぶと依怙贔屓になる。
それで大学院修士課程の上級生4人に聞いてみた。「9月のウルムチ旅行に誰か一人に一緒に来て欲しいけれど、来る気はある?」すると誰もが目を輝かせて行きたがる。「一人でも一緒に行って、ちゃんと先生たちの面倒を見ます」という。
こちらが決めると角が立つ。抽選と言うことにして博士課程の王麗がくじを作った。王麗は自分が行けないのでクスンクスンと大いに泣き真似をしている。「くじを引く前に、誰が行くことになっても、王麗におみやげにブドウを買って来ると約束する?」と訊くとみな大きく頷く。王麗が「ぶどう一箱だよ」と言いつつ手で大きな囲いを作る。みな頷く。王麗が「ハミグワもだよ!」と叫ぶ。みなうんと言って頷く。
さあ、くじを引いたら陳陽(この秋で修士課程2年生になる)があたった。4人と王麗は大騒ぎである。陳陽は飛び跳ねている。よほど嬉しいらしい。旅行経費は全部こちら持ちだし、何しろ1週間近く研究室を休めるというのだから、嬉しいに決まっている。
くじを引いて陳陽が一緒に行くことになったので、登録費の払い込みや宿舎の申し込みは彼にやって貰うことにした。その午後、陳陽が部屋に来てため息をつく。「昼は、ウルムチに行けることになった私の運がいいというので、みなに焼き肉をご馳走させられました。」「えっ」と驚いて聞き返す私。
「さっきの4人に馬さん(王麗の夫でとなりの研究室にいる)も入れて6人と出かけて160元ですよ、たっかーい。」確かに、学生にしてみれば高いというのは分かる。
そのあと陳陽は、先ほどの抽選にはずれた暁東に「いいね。運がいいね。うらやましい。」と言われて、陳陽は「いいんですよ。わたしは行かなくったって。」とふて腐れて見せた。でも直ぐに気づいて、「あ、そうか。さっきおごって金を使ったから、やっぱり行かなくっちゃ。これで人に替わったら、バカみたい」と言 いつつ、幸せを噛みしめていた。
教師会のメンバーの森林好江先生から、観劇のチケットを3枚貰った。彼女がもうすぐ帰国という時だった。「こんな券があるんですけれど、先生観に行きます?」と言って見せられたのは、天幻秀宮という劇場で行われているショウの「ドリンクショウ38元」と書いてあるものだった。
天幻秀宮は元々南湖劇場という名前の貸し劇場で、時々奇術をやったり、映画を見せたり、学校の音楽発表会などが行われていた。1年前に改装して天幻秀宮と言う名の、キャバレーシアターというのか、レストランシアターに切り替わった。私たちはこれを観に行こうと計画していた昨年の8月のその日に妻が急病となって盛京病院に緊急入院した。その8階の病室の窓から見下ろすとこの劇場が眼下にあった。
劇場の壁に大きくラインダンスを踊る踊り子の絵が描いてあり、「パリの夜の再現」などとキャプションが付いている。この劇場は日本語資料室に行き来する通りに沿っているので、少なくとも毎月1度はこれが目に入る。
1年前に調べたときは確か300-400元くらいしたはずだ。それが38元なんて何かカラクリがありそうだ。それでもここのショウを観に行けるのは、大いに魅力的だ。おまけに森林先生が、「この間出演の踊り子とレストランで一緒になったけれど、そりゃプロポーションが良くて、きっと踊りは凄いですよ。」と煽るから、さっと3枚のチケットを彼女の手から受けとった。
3枚というと誰を誘うか。妻の貞子はまだ瀋陽に戻ってきていない。教師の会で仲の良かった男の先生たちはこの夏でみな離任して瀋陽に不在である。教師の会で残っているのは若い女性の先生たちだけだ。そうなると誘えるのはうちの研究室の学生しかいない。
結婚している王くん、ガールフレンドのいるもう一人の王毅楠くんを除くと、独り者の男の学生がちょうど二人いる。卒業したばかりの楊方偉にチケットを見せて訊いてみた。彼は二つ返事で、「ええ、行きます」と嬉しそうだった。もう一人の修士2年生になる陳陽は、「ええ、行ってもいいです」と言ってから「先生、これ、危なくないでしょうね。」という。
「何、それ?」
「だって女の人が脱ぐんでしょ?」とチケットを指す。チケットには少なめのコスチュームを付けた踊り子の写真がバックに印刷してある。それで、気づいた。中国ではいわゆるストリップは公式には禁止である。それでも観たいのが人の常で、それをもぐりで見せて儲ける人もいる。公安に挙げられると新聞種になる。その手のことを心配しているのだった。
脱ぐから観たいのが普通なのに、脱ぐなら観たくないという反応は、こういうことだったのだ。瀋陽にその手のものがあるのかどうかは知らないが、このショウは違う。この劇場のうたい文句は「中国版ムーランルージュ」である。「大丈夫。これ以上脱がないで綺麗な踊りを見せるんだよ。」と言ったら、やっと彼は安心して「じゃ、 行きます。」という。なんだかこちらが誘っているのに、恩を着せられたみたいな感じだ。
1994年にパリで学会があったとき、夜の空き時間を見つけてもちろんムーランルージュに悪い仲間と観に行った。つまり東大、東工大、名大、北大の研究仲間の教授たちである。ダンスの合間に入るトークショウはまったく理解出来ないけど、美しい姿態のダンサーによる踊りが観られれば十分である。席が舞台から遠くだったが私たちはみな堪能した。
次の夜には「クレイジーホース」に同じメンバーで出掛けた。ここはもっと過激で知られているところである。ダンサーは厳選されていて、ここの舞台に立つと言うことはその後の経歴の勲章になると聞いたことがある。ここで踊れるのは若い子だけだ。その日の夕方は劇場の近くのレストランに行き、私たちは3時間くらい時間を掛けてワインを飲みつつ食事をして、クレイジーホースに乗り込んだ。チケットを買ってから案内してくれるベルボーイに確か5000円くらいのチップをはずんだのが効いたのかどうか、舞台から2列目の真ん前の席に案内された。
舞台が始まると背丈のそろった12人の美しいダンサーがいる。直ぐに暗くなった。ムーランルージュと違ってほとんど真っ暗な舞台は、ダンサーが何か身につけているかどうかも判然としない暗さである。美しいボディラインに想像力が刺激されておおいに楽しんだ。
さて、中国の天幻秀宮だ。やはり38元というのは誘い水で、座る席の場所により更にお金を払う仕組みになっている。私たちはかぶりつきの次の次のブロックに座って、一人あたり100元で合計315元の食べ物と飲み物を買った。エビアンの小瓶が20元だから市価の10倍だ。陳陽はしきりに、「高すぎます、もっ たいない」と言うが、こういうところでショウを観ようとすればこんなものだろう。
さて、目玉のダンスはロシア人をメインとする目も覚めるような綺麗な肢体の女性10人、鍛えられた筋肉の男性5人のダンスだった。もちろん開幕はオフェンバッハの天国と地獄の例の曲に合わせて踊るフレンチカンカンである。脚は十分上がるし、前後開脚もぴたりと決まる。誰も美しいプロポーションと動きだ。彼らは本当のプロである。ここでこれが観られるなら十分出費に見合う。
2時間のショウは奇術、歌、トークショウが入っていて、彼らの踊りの出番は合計5回、合わせて30分もなかったようだ。トークショウは大変下品だったと陳楊たちは怒っていた。こういうとき中国語が全く分からないというのもいいものである。天国と地獄を口ずさみながら、私たちは 12時近くの路上を家路についたのだった。そうか、森林先生は明日が帰国の日だ。私は元気いっぱいの彼女の隠れたファンである。彼女の道中無事と何時の日かの再会を祈ろう。
瀋陽からウルムチまで飛行機で直接飛べるそうだが、何と6時間掛かるという。これは驚きで、中国って本当に広いんだなあ。6時間と言うと、長い。きっと飽き飽きする。しかし一緒に連れて行くことになった陳陽くんは「飛行機では景色が見えなくて面白くないから、汽車にしましょうよ。」と言う。
瀋陽から600 Km離れた北京までは、汽車の種類によって違うが数時間から一晩掛かり、特急だと3時間で行けるとのこと。しかしその先の、北京からウルムチまでは41時間の汽車の旅だそうだ。二日間も汽車に乗っているなんて、私たちせっかち人間には考えられないことだ。ということは、退屈しようが疲れようが、飛行機以外の選択肢はない。
ウルムチの周辺は観光の宝庫だそうだ。北に行くと天池と呼ばれる美しい山の湖があるし、東に行くとオアシス都市であるトルファンがあって、砂漠に水路を引くカレーズと言う地下水路のおかげで、町中の道路はブドウのアーケードで覆われているという。
このトルファンの街から東に車で40分行くと孫悟空に出てきた火焔山がある。ゴビ砂漠の中で強い光に照らされて陽炎の沸き立つさまが火焔のようだという山に興味がある。三蔵法師と時は離れても空(ところ)を共有できるなんて素晴らしい。けれど、見に行くのも暑いのだろうな。
学会は3日間あっ て、私の発表がある日には会場に行かなくてはならない。しかし、「幸いなことに」中国語の分からない身としては自分の講演以外に会場に座っていても意味がないから、もちろん出席を遠慮する気でいる。つまり学会期間中にウルムチおよび周辺の行くべき所は見尽くせる。
帰りにも何処か寄り道して帰ってこよう。せっかくウルムチまで行くのだから、とんぼ返りでは能がない。思いつくのは西安である。西安というと秦の始皇帝の兵馬俑の発掘で有名になっ たところで、昔の名前の長安は前漢から始まって、隋、唐の時代の首都として名高いところだ。今この西安には私の中国人の友人がいて、教授をしている。
私が瀋陽に来る前の研究所にいた頃、研究費でポスドクを雇うことが出来ることになって公募したら、応募した中に中国人の張敏さんがいた。ちょうど名古屋大学 工学部で大学院を終えるところで、化学系という意味では私の研究に一部近かった。けれどもその時は遺伝子に力を入れるつもりだったので、彼女にはお断りをした。しかし、それ以来文通が続いていまでは友人である。
張敏老師は2年前に日本での研究を終えて、西安師範大学の教授となって故郷に錦を飾った。昨年私に電話を掛けてきて、何時か西安に講義に来て下さいと言うことだった。そのあとメイルも来たから本気で招待しているのだ。それで今回彼女 にメイルを書いて、行きか帰りか、そのどちらかに西安に寄って約束の講義をしましょう、ついてはこういうタイトルのどれがいいでしょうと4つばかり講演内 容を書いて送った。彼女の都合を聞いてからこちらは旅行日程を立てるつもりだった。
ところが彼女からは返事が来ない。ウルムチの9月というと最高の旅行シーズンだそうだ。「学会ぎりぎりの12日に瀋陽を出るとしても、あと3週間しかありませんよ。早く航空券を買わないといけません。」と陳陽が私をせっつきだした。確かにそうだ。と言うことなので張敏老師にメイルを書いてから1週間のうちに「お返事がないので今回は西安に寄るのを断念して旅行計画を立てます。」とまたメイルを書いた。通常なら今はまだ夏休みだから、メイルの見られないところで休暇を過ごしているのだろう。
西安が駄目なら洛陽はどうだろうか。インターネットで検索すると春秋戦国時代の東周から始まって後漢、魏、西晋、北魏、隋、唐、後梁、後唐の歴代9王朝、 70人の帝王が都を置いたことから「九朝古都」とも呼ばれるという。子供の頃読んだ芥川龍之介の作品で、洛陽の城門から始まる文章が強い印象として残っている。杜子春だったか。仙人を目指して仙人になれなかった話だ。「洛陽の紙価を高める」という故事もあって洛陽という名前はなじみである。
洛陽を調べてみたら、世界三大石窟の竜門石窟は洛陽の西12 Kmにあり、これは北魏が洛陽を首都としたときに皇帝が仏教を篤く信仰して作らせたものだという。陳陽は北魏なんて漢民族ではないとうそぶくが、北魏の王室の血筋が隋、唐の王室に入っているのは、今では紛れもない事実と言うことになっている。
と言うわけで、ウルムチの帰りに西安あるいは洛陽に寄って観光をして来ようと今は考えている。帰りに寄り道をすると、王麗のためにお土産として生のブドウの大きい一箱を運んでこられない。謝るしかな い。「ごめんね。」と王麗に言ったら「いいよ。帰りに遊んで来ていいよ。」と笑って許してくれた。ホーッ。
楊方偉くんは大学院で北大に進学することになっていることもあって、薬学系の大学の動きに詳しく、中国にい てもインターネットでオープンキャンパスの状況を見ているらしい。「やっぱりやらなきゃ駄目ですよ。」と言って私をプッシュする。学生を集めてどのような話をしたらよいかまだ考えがまとまるよりも早く、楊方偉くんはポスターを作って持ってきた。
「がんの転移機構を解明するあなたを待っている」と最初に横に大きく惹句が書いてある。引き続いて「山形研は貴方の加入を待ってるよ!」「日本語ができる学生は大歓迎!」「ここでは貴方を鍛える絶好のチャンス!」と縦に赤い字でキャプションが続いている。そのあとに続く説明は私たちの研究室のホームページに載せた広報スライドから取ったものだが、たいしたものだ。宣伝として簡潔でしかもそのものズバリだ。
楊方偉はこれをA4サイズに印刷して日語班の学生に配るという。やがてもう申し込みが12人を越えましたと言ってきた。学生の都合を聞いて決めたオープンラボをする日が迫ってきて、私は一日をつぶしてその時の話の準備に追われた。
やがて8月31日のオープンラボの日が来て、午後2時学生が教授室にやってきた。どんな学生がいるだろう?
入ってきた顔を見ると半分以上顔を知っている。私が生化学と分子生物学を教えた薬学日語が9名。一度も教えたことのない中薬日語が5名の合計14名だった。その中で男子学生は2名で、薬学と中薬からそれぞれ1名ずつだった。さあ、何人が私たちの部屋に来たがるだろう。
パワーポイントで作った紹介は、「研究が大好きな学生だけを受け入れます。将来金儲けしたい学生はお断りです。」で始まるものだった。
「研 究ほどいい商売はない」というのが私の持論である。研究というのは好きでなければ出来ない。嫌々では一時は良くても一生続かない。研究者というのは自分の好きなことをやって、そして給料が貰えるのである。これは人生最高の仕事の一つではないだろうか。もちろん稼がなくても生きていけるだけの富を手に入れる のは、昔から人々の理想だったし、いまでもそうかも知れない。でも普通の身分に生まれてしまえば有産階級であることは望みようもないのが現実だから、働いて生きるとすると、研究者は最高だという話になるのである。
研究をするには好奇心が旺盛でなくてはならない。研究者はひらめきがなくてはならない。研究者は考えを人に頼ってはいけない。研究者は自分の頭を使わなくてはいけない。研究者は根気(根性)が必要である。研究者はすべからく楽天的でなくてはならない・・・・・。
好きなことが出来て生活が出来るにしても金儲けには縁がない。少なくとも基礎研究は、金儲けと考えた途端におかしくなってしまう。金儲けをしたい学生はほかにたくさんある研究室に行ってくれればよい。
続 いて「山形達也・山形貞子研究室は所属の学生を世界一流の研究者に育てることを目標にしている。」で始まる研究室の憲章を紹介した。憲章は国の憲法にあたるもので、私たちと学生との約束である。これは私たちの学生への約束である。これは「したがって研究者を目指す学生・院生は、これに応えて研究を生活のすべてに優先しなくてはならない。」という学生側の約束に続くわけである。
研究内容を紹介した。急ぎすぎないようにして、時間を掛けるために私が日本語で話をして、それを楊方偉くんが中国語にして話した。時間を掛けた方がよく分かって貰えると踏んだのだったが、やはり難しすぎて付いて来られそうもないので、大分はしょってしまった。それでも1時間掛かった。
そのあとかれら14人は7人ずつ2つの班に分かれて、一つは楊方偉、もう一つは陳陽に率いられて、実験室で先輩たちの実験を見学しに行った。楊方偉は薬学日語の彼らの1年先輩であり、陳陽は中薬日語出身の学生たちの2年先輩である。ザイモグラフィの十実験の様子と、電気泳動のあとのゲルをイメージアナライザーで分析する所を見せたのである。
終わってからまた教授室に戻ってきた彼らにお茶とお菓子を振る舞った。楊方偉と陳陽が中心になって彼らの質問に答えている。やがて「先生、一緒に写真に写って下さい。」と要望されて全員の写真を撮って終わりになった。
学 生が「先生のメイルアドレスを教えて下さい」というので名刺を渡して、「ほかにも誰かまだ欲しい人はいる?」と私はほかの学生に名刺をかざして訊いた。すると陳陽はそれを見ながら言うには、「先生は自分で名刺を配っているけれど、私は沢山の学生から私の電話番号を訊かれて教えましたよ。すごく違いますねえ。先生の人気を取ってしまってごめんなさいね。」と言いつつ、にやにやしている。老クジャクが若いクジャクに勝てるわけがない。分かっていても、忌々しい。嫌みなやつだ、ほんとに。
楊方偉くんという男子学生はこの春私たちの研究室で卒業研究をした。彼は北大大学院進学を希望していて、留学話は進行しているようだがまだ最終的に何時行くことになるか決まらない。それでこの薬科大学を卒業したけれど、まだこの研究室にいる。
その彼がオープンラボをしようと言い出した。これはもちろん、私たちの研究室に学生をリクルートするためである。
研究室が狭いので、学生が50-60人いるという学長や副学長の研究室の真似はとても出来ず、私たちは毎年修士学生を2名くらいしか採用していない。卒業研究の学生も5名採ったこともあったけれど、部屋のスペースからすると2-3名が限度である。
薬科大学では日本と同じで女子学生の比率が高い。全体で7割くらいだろうか。日本語班となるとまず成績で選ばれるから、女子が8割から9割である。試験成績で選ぶと男子は全く形無しである。世界共通のことだ。この時期の男はやましい雑念が多すぎて勉強に集中できないのだ。
瀋陽に私たちの研究室が出来た時の比率は男女半々だったが、だんだん女子が増えてきて、今年度は正規には男子2名。あと1年経つと男子学生が一人になってし まう。また、日本語を話す学生も最初は半分近くいたけれど、あと1年経つとこの男子学生である陳陽くん一人だけになってしまう。
と言うわけで、差別をするみたいで大きな声では言えないけれど、今度のオープンラボの主目的は、日本語の出来る、しかも男子学生のリクルートである。リクルートで も 日本の大学院に行きたいという学生では意味がない。大学院は私たちの研究室に進むという「日本語の出来るしかも男子学生」が欲しいというわけである。来年の秋に私たちの所に進学する学生は、既に基地クラスから来る女子学生が二人決まってしまったが(私がイエスと言ったからだけれど)、男子の希望があれば 是非採りたい。
このための「オープンラボをやりましょうよ」と楊方偉が言い出した。なるほど、いい考えだ。私も直ぐにやる気になって相談をした数日あとには、楊方偉は学生に配るチラシを用意した。みると、「がんの転移機構を解明するあなたを待っている」と最初に横に大きく惹句が書いてあ り、そのあとには
「山形研は貴方の加入を待ってるよ!」
「日本語ができる学生は大歓迎!」
「ここでは貴方を鍛える絶好のチャンス!」
と縦に続いている。大したものだ、日本語だって合っているし、宣伝としても簡にして要を得ている。
さて昨日のオープンラボの当日になった。午後2時前に教授室に続々と学生がやってきた。彼のポスターでは定員6名と書いてあったはずだが、たちまち10人・・・13人、14人。もう一杯だ。楊方偉に聞くと12人で申し込みを締め切ったという。
顔ぶれを見ると半分くらい知った顔だ。薬学日語が2クラスで私は生化学、分子生物学を教えた。残りの中薬院の1クラスは教えていない。日語だから全員日本語が話せる。この14人の中に男子が2名いる。比率からするとこんなものだろう。せめて一人くらいは私たちの研究室を志望する気にしてやろう。
「山形研究室は研究することが好きな人を歓迎します。
好奇心の旺盛な人 好
根気のある人(忍耐強い人) 好
頭を使うことが出来る人 好
学業成績優秀な人 不要? 要?
金儲けをしたい人 不要
従順な人 不要」
と脅かして彼らの不安を煽ったりしながら、私たちの研究テーマについて説明して全部で1時間費った。そのあとかれらは7人ずつ2つの班に分かれて、実験室で先輩たちの実験を見学した。
さて、このあと何人が研究 室に来ることを希望するだろうか。学生に対する私の本音を言ったから、みな恐れて私たちの研究室には来ないかも知れない。せっかく時間を使ったのだから、 ここに来たくなるように、もう一寸甘いことを言っても良かったかかなあとちょっぴり反省が頭をかすめる。
学生が来ても来なくてもともかく楊方偉は、オープンラボをやって研究室に学生をリクルートしようと発想して、さらにそれを実行まで持って行ったのだ。楊方偉は大した男である。彼は数年にやっと一人出会うかどうかの傑物ではないかと思う。
2007/09/02 森領事の歓迎会? 教師会日記
3年間教師の会の顧問だった森領事が仕事で瀋陽に1週間来られるという連絡があった。森領事は5月に3年の任期を終えて帰国している。それじゃ是非お会いしましょう、いつがいいですかというやりとりをして、9月2日日曜日の午後5時日本語資料室で出会って一緒に食事をしましょうとメイルを送った。彼の出国直前の8月31日のことだった。
一方新学期の会長に予定されている石原先生に了解を得て、会長の名前で森領事を囲む会をするのでご都合の付く方は5時までに資料室においで下さいと全会員にメイルを送った。
9月の新学期が始まったばかりだから、ちょうど集まりにくい時期だ。それでも、資料室には14名が集まった。このうちの5名は今期初めて教師会に顔を出した新人である。
新学期からの会長と副会長は、すでに6月の集まりで会員の承認を受けている。正式の規約では新学期に役員選出と言うことになっているので正式の役員ではないけれど、私たちはその日午後3時に集まって新年度の最初の定例会に向けて準備をした。2時間もあれば打ち合わせが出来ると踏んでいたけれど、あっという間に4時半になり、5時からの集まりに参加する人たちが集まりだした。
森領事はこの日なら大丈夫というので、歓迎会をすることになったのだが、5時を過ぎても現れない。こちらからは森領事の昔の携帯の番号しか知らない。掛けてみても音楽が流れるだけだ。
こちらは森領事の連絡方法を知りたい。私の携帯に領事館の川端領事の電話番号があるのを見つけて電話を入れたら、「いま会議中です」と言われてしまい、謝りつつ電話を切った。
次には領事館の緊急電話を見つけて電話をした。「今日本から瀋陽を訪問中の、5月まで領事館におられた森領事と会う約束になっているのに、現れません。森領事の連絡方法が分からないので、もしも総領事館で分かったら、教えて下さいませんか?」と言うのがこちらの主旨だ。しかし、相手にしてみると私が誰だか分からないわけで、いろいろなことを言わされた。電話で話しているだけだからある意味では不審者なわけで、当然だろう。先方は「それではこちらで調べて此方から電話を入れるようにします。」と言ってくれたが、「そちらのお名前は?」と訊いたら、「規則で言えないことになっています。」とぴしゃりやられてしまった。ま、そうかもしれ ない。
安部、池本先生は9月8日の集まりのための会場予約をするからと言って先に資料室を出ていった。したがって、森領事が現れないけれどこのまま皆で今日の会場に行くという連絡を入れようと思って、私のケータイで番号を探した。
すると一番最初にAbeと言うのがあったのでボタンを押した。すると男の声で「アベです。」と返事があるではないか。私は思わずのけぞってしまった。これは総領事なのだ。同じアベでも間違えて阿部総領事に電話をしてしまった。「ごめんなさい」と見えない阿部総領事に頭を下げつつ、平謝りするほかなかった。
イケモトを探して、森領事の到着をあきらめてこれから会場に向かうと電話を入れて、私たちは30分遅れでレストランに行った。ここは池本先生が新しく選んだ四川料理の店で、店は綺麗で明るい。私たち一行14人が丸いテーブルを囲んで席に着き、料理を選んでいる時に、森領事から電話が掛かった。
「今どこですか?」と訊くことから話が始まったが、どうも話がちぐはぐだ。それで分かったのは、8月31日に此方から出した「9月2日に日本語資料室で落ち合って食事をしましょう」というメイルが届いていなかったのだった。そして今は人に会っているところで、とても此方に来られる状態ではない。と言うことで二三日あとに改めて会うことにして、今日は残念ながら森領事不在の晩餐会となった。
と言うわけで森領事歓迎会が思いがけず内輪の新任教師歓迎会になったが、それはそれで楽しかった。
伊藤、多田、田中、土屋、西岡(以上は新人)、石原、松下、池本、安部、中田、藤平、渡辺(京)、山田、山形(達)の14人。
場所:酔桃源 一人あたり30元
私たちの住んでいるアパートは大学の敷地の中に建っている16階建てのビルで、築8年になる。元々中国では職住接近どころか、職住一体だった。大学でも敷地には 大学の施設のほか、職員の住宅は勿論のこと、製薬工場、食堂、共同浴場、薬局、宿泊施設(招待所)があった。これはどこの地域の職場でも同じだったはずだ けれど、経済発展とともにだんだん変わってきている。経済発展の一つの極にある上海では、今では勤めに出るのに2時間以上かかるというのも珍しくないとい う。
でも、ここは大学なので経済活動とあまり関係ない。おそらく昔からの形態を保っているだろう。教授の住宅は大学の西側に5階建ての建物が数棟建っていて、先生たちは当然この建物に無料か、安い家賃ではいることができた。大学を定年で辞めても給料は基本給だけとなるがそのまま保証される。さらにそれまでの住宅に住んでいられる。それで、だんだん教授の住居が足りなくなってその建物のすぐ北側に16階建てを建てたに違いない。
私たちは8階にいて、大きさは3LDKである。内法で測って約100平方米ある。私たち二人にとっては十分快適な空間である。電気、ガス、水道、そしてケーブルテレビ代金は個人持ちだが、家賃は取られない。
アパートのセキュリティに関しては、ビルの入り口には鍵の掛かるドアがあって、インターフォンがついている。作りは日本の昔の公団住宅並のエントランスだけれど、それよりもセキュリティはよほど進んでいる。
入り口を入るとエレベーターがあり、それに乗って8階に着くと、エレベーターホールから各戸への廊下につながる入り口にはまたドアがある。つまりここにも鍵が掛かっている。
そして我が家のアパートだけれど、ドアには鍵が二つある。一つは日本の場合と同じようなふつうの場所に付いているドアの鍵で、もう一つはドアの真ん中に鍵穴 が付いていて、これはドアの板を上下の框に二本の鉄棒で棒止めするものである。これで完璧にドアを固定している。はじめの普通のタイプの鍵を壊しても、あるいは蝶番を壊してもドアは絶対に開かない。完璧である。このような防犯のしっかりしたドアは日本から来ると初めての経験で感心するけれど、同時にそれは 中国は治安が良くないと言うことの裏返しだろう。
私が子供の時育ったのは東京都目黒区の都立大学駅(当時は府立高校前)のすぐ近くの平屋建てだったが、入り口の鍵なんて形式的なものだった。掛けてないと同様だった。伝統的な日本の生活スタイルでは、ふすまや障子で部屋を仕切り、これが閉まっていれば中で人の気配がしても、閉ざされた空間としてプライバシーは守られた。同じように、簡単な鍵でもこれで閉まっていますよと言う約束事だったわけだ。その頃はごく悪いやつが鍵を壊して忍び込んで泥棒をしただけだったし、悪いやつは多くなかった。
それが今はどうだろう。今の日本では昔よりも遙かに進んだシリンダー錠をつけていても普通の鍵ではピッキングで開ける泥棒が横行している。グローバル化のつけで、日本の文化が変わったのだ。
さて、中国の話である。その複雑なドアに二つある鍵だが、鍵は日本だと平たくて片側に(あるいは両側に)シリンダー錠を動かすための刻みがある。ここの鍵は 四稜体とでもいうといいのだろうか。断面が十字である。二本の鍵を直角に組み合わせみたいで、しかもその四辺の刻みが全部違う。厳重この上ない。
部屋の内側からは取っ手を回すことによりこれらの鍵が掛かる。一度私の具合が悪くて、妻が朝先に出たことがある。彼女が出るとき私はまだ寝ていたので勿論外から施錠した。日本なら当然内側から開くはずだ。
ところがそのあと起き出した私が外に出ようとしたらその取っ手が回らない、つまりドアが開かない。電話を掛けて妻がわざわざ大学から戻ってきて開けてくれるまで、閉じこめられていたわけだ。
これは逆も真だった。つまり、うちの中にいて鍵を掛けておくと、外からは鍵でドアが開かないことも経験した。私たちはどちらかが先にうちに帰ったときは内側から鍵を掛けてしまってはいけないことを覚えたわけだ。
というわけでドアの二つの 鍵は頑丈だが、内外は連動ぜず独立である。おそらく連動する鍵もあるだろう。まだ発展途上の鍵がうちのドアに付いているのだと思われる。なおこのドアには外側にドアハンドルがない。外から鍵を差し込んで解錠してその鍵をつかんでドアを開ける仕組みである。防犯にはよくよく気を遣っているといっていい。
アパートの入り口には鍵が付いていると書いたが、今まで暮らしていてその半分の期間は錠前が壊れている。これはドアク ローザーの性能が良くなくてドアが思いっきり強く閉まるのだ。ドッシャーン。この錠は各戸のインターフォンにつながっていて解錠できるようになっている。 つまり電子機器製品なのだ。べらぼうな衝撃に耐えて働いても大抵2ヶ月すると駄目になる。直るまでまた数ヶ月。直ると、この次は何時壊れるのかと期待に満 ちてドアを開け閉めすることになる。今はちょうど直ったところだ。さて何時まで持つだろうか。
大学は新学期を迎えた。9月1日は新入生の入学式で、その二日前くらいから若い、本当に子供みたいに見える新入生が、両親、兄弟、あるいはお祖父さん、お祖母さんたちと一緒に沢山の荷物と一緒に薬科大学の門をくぐった。大人は大きな荷物を引き、子供は大抵ぬいぐるみ一つだけを抱えている。一人っ子政策なのだなあと思う。
9月2日の日曜日からは校庭で新入生の軍事訓練が始まった。30-50人くらいの20のグループに分かれて、これも若い兵士から命令を受けて分列行進の練習をしている。
私たちは夏休みを早々に終えて8月8日から新学期を始めた。大学もいまは新学期になったことだし、4日の夜研究室全員を招いて近くのレストランで食事をした。湘香餐庁という湖南省の料理の店で、辛みの効いた料理だが美味しいし、手頃な値段なので割合よく利用している。湖南料理で特に気に入っているのは、酸菜焼というもので、漬け物にして酸っぱくなったインゲン豆と唐辛子を細かく刻んで豚の挽肉と炒めたものである。ここに来ると必ず注文をする。
今日は全部で15人。研究室の学生8人とセミナーに参加している学部最終学年3人のほかに、博士課程を終えたがまだ行き先のない王くんと学部を卒業した楊方偉くんが参加している。
7月に台北で開かれた学会に行って講演をした時に、「この研究をした王くんは今中国以外のところでポスドクの仕事を探しているけれど、どなたか心当たりあり ませんか?」と会場で聞いた。するとThe Johns Hopkins 大学の教授が声を掛けてくれた。初対面だったけれどこの若い教授と意気投合した。
炎症が起こると血流中の白血球が炎症部位にリクルートさ れる機構は20年 近く前に解明された。細胞表面にある特殊な構造の糖鎖が、相手の細胞の表面に発現するそれを見分けるタンパク質と特異的に反応するというものである。この ように認識の分子機構は分かったが、その先どうやって白血球が内皮細胞の間をすり抜けて炎症部位に到達するか、詳しいことは分かっていな い。まだまだやることがある。そしてこのような機構はガン細胞の転移の機構とも共通の所があり、研究のホットターゲットの一つなのだ。
先日彼の推薦書を書いて先 方に送ったところ、直ぐに受け入れたいという返事が来た。それで王くんも先方の教授にメイルを書いたら、電話で一寸話したいと書いてきたという、「何時電 話をするのが都合いいですか?」と。電話インタビューである。直接話すことで、本人の英語の実力の程度もわかり、人柄も分かる。大事なことだ。
一方で電話が掛かってくる ことになる王くんにしてみれば、大恐慌みたいである。それで私は直ぐに彼と話をして、鼓舞しつつ落ち着かせた。「貴方の英語なら大丈夫だよ。顔が見えない のだから、黙って居ると印象が悪くなるだけだから、自信を持ってともかく話すことが大事だよ。大丈夫,何時もやっているように話せばいいんだから。」と。
新年会の席上で、現在までの進行状況を皆に披露して「良かったね。」と彼にビール を注いだ。王くんは嬉しそうに、「これも先生たちの指導と今まで沢山助けて頂いたおかげです。」とニコニコしながらお礼を言っている。「おめでとう、カン パーイ。」「でもね、今度電話が掛かってきた時には助けられないから、ともかく平常心で頑張ってね。」とビールをまた注ぎ足した。
もう一人の卒業生の楊方偉くんは北大大学院の先生から受け入れOKという連絡があった。大学院の試験を受けていないのだが、先方は受け入れを決めたようだ。入学の基準がいろいろあるのは、国立大学が独立法人化した効果だろうか。無試験で入れるのは驚きだけれど、判定してそれでいいというのなら結構な話だ。先方か らは日本のビザを申請するために必要な書類に書き込むように言ってきている。
1時間半の食事のあと、私たちは近くのカラオケハウスに行った。日本のカラオケを知らないので比較できないが、綺麗なところだ。12平方米くらいの壁の三方に長いすがあって私たちは思い思いに座った。楊方偉が早速歌い出す。次いで皆それぞれが歌う。新人の趙鶴さんは「時の流れに身をまかせ」を歌い出し、私も途中から「だから お願い そばに置いてね いまは あな たしか 愛せない」「だから お願い そばに置いてね いまは あなたしか 見えないの」と二人で熱く見つめ合いながら唱和した。
陳陽は 蔡 依林の歌をスクリーンに出してそれに合わせて歌いつつ踊り出した。画面でもワンサカガールが踊り狂っている。すごーい。本格的だ。彼の長身が踊りに大変効 果的だ。左隣には楊方偉も飛び込んできて踊っている。ちっちゃくて丸っこい楊方偉の踊りは茶目っ気があって、これまた見ていてはちゃめちゃ面白い。私まで 飛び出して一緒に踊り出し、気づいたら何時かこの3人で見に出掛けたフレンチカンカンになって、脚を上げながら踊っていた。
1年の瀋陽滞在のあと8月に帰国された若松先生からメイルが届いた。私一人で独占するのは惜しいの内容なので、許しを得て一部を改変してこの教師会日記に収録することにした。
若松先生は1年という短い期間のおつきあいだったが、彼女の二胡のレッスンに誘われて一時は一緒の二胡仲間だった。好奇心旺盛で、しかし穏やかで、しかも強靱な性格の若松先生は、短い時間だったけれど得難い友人の一人になった。
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教師の会のみなさま。お変わりありませんか?日本に戻ってもう2週間が経ちました。
送別会の時にも披露しましたが、私が瀋陽で二胡をやっていたのを、みなさまご存じですね。今はもう私のものではなくなった、その二胡の顛末を聞いてください。
本当は8月22日帰国予定で空港まで行ったのですが、しばらくして大事な大事な二胡を部屋に忘れてきたことに気がつきました。森林先生に電話して申し訳ないけれどまだ間に合うと思うから飛行場までタクシーで届けて欲しいとお願いしました。しかし私の時間の計算が甘くせっかく持ってきてくれたのになんとチェックイン に間に合わなかったのでした。
飛行機に乗り遅れるなんてありえないと思っても、もう駄目といわれれば仕方がありません。この一個の二胡のために2500元のチケットがパーかと思いつつ、明日の飛行機のチケットがあるかどうか確かめに、カウンターに行くと(中国語が達者な森林先生が聞いてくれた)、「そうですか」(中国語で)といって、チケットの22日の所を いとも簡単に23日に書き換えてくれたのでした。日本的常識では考えられないことではじめは信じられない思いでした。でもなんてラッキーとうれしくなり、寮に逆戻りする恥ずかしさ(今生のお別れをした管理人の楊おじさんもいるあの寮に!)も半減でした。
おかげで、その日は出られない筈だった神奈川県と遼寧省共催のスピーチ大会に出席しました。私たちの学校の女子がひとり2位に入賞する喜びの現場に立ち会う喜びのおまけもついて。
その翌日、今日こそ忘れてはならじと二胡は持っていったのですが、今度はチェックインの手前で二胡は国外に持って出られないと税関で止められてしまいました。
同じく二胡を習っていた前田先生は日本入国のときは止められる可能性があるけれど瀋陽では止められないといっていたけれど、瀋陽もいい加減なことではいけないということで厳しく変わったのでしょうね。日本の税関でも厳しい係官と厳しくない係官がいる、名前などが書いてあって、練習して使い込んであって、売り物にしよ うということじゃないとわかればいいようだと聞いていたので、一か八かやってみようと思ったものでしたが世の中の趨勢が読めていませんでした。
昨日からの大騒ぎはなんだったんだろう、ここでただ捨てていくのはなんとしても業腹。保管できるのかときくと3ヶ月までできるとのこと。保管してどうするんだと思いつつ書類を書いて、片腕をもがれたがごとき気持ちで帰路に着きました。
結局日本に戻っていた中野先生とお会いする約束があったのでそのときにその書付を渡して、帰るとき瀋陽の空港からあの子を引き取ってください、(彼女は二胡を始めるといって私のレッスンを見学しに来ていたので)と頼んだのです。
その後、何も知らせがないので、もしかすると手続きがうまくいかなかった可能性がありますが、もう私の手を離れたのですからどうなっても仕方ないとあきらめています。
というわけで、今後二胡を持ち帰りたい人のために、教師会の私の「二胡のお稽古」の記事に文章を追加しました。どうか参考にして手続き万全にして帰国に臨んで下さい。
では、先生がたのご健康と更なるご活躍に遠くから乾杯!!!
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天幻秀宮というレストランシアターでショウを観る券を3枚貰ったので、研究室の学生の楊方偉くんと陳陽くんを誘って出掛けた話はすでに書いた。この天幻秀宮 のショウは調べてみると二部に分かれている。夕方の5時から8時の第一部はディナーがセットされているDinner Showと書いてあった。森林先生から貰ったチケットは午後9時から12時までの第二部でDrink showとある。チケットには38元Drink showとあるので、ともかく食事は含まれていない。
ともかく9時に間に合うよう、この日は普段より遅めの夕食を途中で摂って行くことにした。普段は5時に学生食堂で夕食を食べる二人を7時過ぎまで待たせた上で、歩いて出掛けた。大体2ブロック 1.5 Kmくらい歩けばよい。途中に二つから三つ星のホテルがあり1階にはいろいろのレストランが入っている。手前のホテルの1階の窓には、ピザ、コーヒー、ス テー キと大きく書いてある。高そうで私はいままでの4年間は見て歩いているだけだった。薬科大学の日本語の先生たちと以前このあたりを歩いたときも、「高そう だね」というので見送ったところだ。でも、今日はパリに行ったも同然のショウを楽しめるのだから、豪遊してもいいだろう。
と言うわけで、大通りの向かいに私のひいきの蘇氏拉麺(一杯7元の牛肉細麺うどん。日本円にして約100円である)があるけれど、それを後ろに見てこのホテルの1階に入った。7時半というのが遅いのか早いのか知らないが、閑散としている。
内部は日本の普通の喫茶店のような造りで、いすはソファである。座るとおしりは沈み込み、おまけに照明は薄暗い。レストランと言うより、ムードを楽しむための場所のようだ。
メニューを見ると、コーヒー30元以上(500円にあたる)、ステーキメニューは180元(2500円になる)、ピザ9インチで50元(800円になる)だから、決して庶民の店ではない。メニューを繰っているうちに幕の内弁当的なところを見つけた。小さなランプステーキにご飯、サラダ、スープを付けて60元 (約1000円 にあたる)というのがあった。これだ。このくらいの大盤振る舞いは今日は仕方あるまい。連れの二人はベーコンステーキセットにした。陳陽はしきりに「高い ですねえ。でもステーキを食べるなんて初めてです。」という。楊方偉は「ぼくも西洋料理は初めてです。先生は日本では西洋料理を食べていますか。」と、答 えに困るようなことを訊いてくる。西洋料理ねえ。生まれたときから、和食と洋食とチャンポンだったし、自分が瀋陽のうちで作るのも、中華、 和食、洋食のどれと限定することなしに美味しい料理を作って食べている。
「アメリカの食事はどうでしたか」と訊かれて、シカゴ大学にいた とき夕食は大学病院のカフェテリアに行くと、ナイトシフトの医者(ドクター)はダブルオーダーで食べることを思い出した。つまり同じ値段でメインディッ シュは2倍貰えるのである。私も博士(ドクター)だから白衣を着てダブルオーダーでマッシュポテトと肉を他人の二倍食べていた。
やがて スープ、サラダが来て、ご飯も来た。そして私の小さなステーキが載った皿も来た。しばらく待ったけれどあとの二人の分が来ない。冷めちゃうので「お先に」 と二人に断って食べ始めた。話は続いていて「先生、アメリカでナンパしましたか?」と陳陽がきく。とんでもない、英語が話せず、胴長短足のぼくにそんなことが出来るわけがない。「じゃ、ナンパもされなかった?」
「陳陽が日本に行くときっとナンパされるよ。おばさんからモテモテなんじゃないかな。」と私。「おばさんじゃあ。」と陳陽は口をとんがらかす。陳陽は背が高くファッションセンス抜群だし、いわゆるイケメンである。いや、今で言う流行 のオトメンの方がぴったりかも知れない。きわめてマンガチックな端正な顔をしている。きっと金持ちのおばさんたちにもてるに違いない。
やがて楊方偉にステーキの皿が来たのは、私が食べ始めて15分くらいあとだった。同じものを頼んだのだから陳陽にも直ぐ来るだろう、と楊方偉も食べ始めた。でも陳陽のところにはまだ来ない。こちらはゆっくり食べているのにまだまだ来ない。こちらが食べ終わってしまうどころか、ショウの開演にも遅れてしまう。
ウエイトレスに催促しても、もう直ぐですと言うだけだ。やっと陳陽にステーキが来たのは私がもう全部食べ終えて、9時まであと20分あるかどうかと言うときだった。私はその皿を持ってきたウエイトレスに、「どうして遅かったのか。こんなに遅れて持ってくると、私たち三人が一緒に食事を楽しむことが出来なかったじゃないか。ご免なさいと謝って済むことではないですよ。店の責任はどうするつもりですか?謝まる気持ちがあるなら彼の分の勘定をせめて半分に負けなさい。」と言った。陳陽が中国語にして話している。
ウエイトレスではらちが明 かず、しっかりした顔つきの女性服務員が出てきた。どうして遅かったのかを訊くと、「今コックが一人きりしかいないので順番に作っていたからです。」とい う。呆れてしまう。私一人だって三人分のステーキを一度に作る面倒は見られる。理由にならない。ともかく私たちの楽しい気分はおかげで吹っ飛んでしまった のだから、料理の勘定を負けなさいと要求した。「わかりまし た。でも15パーセント引きで勘弁して下さい」という。こちらの要求は値切られたけれど、この女性は神妙な顔をして、しかも頭を下げて謝っているのだ。
中国で非を認めて謝るとい うのは私の経験では珍しい。しかも値引きをしたのだ。おまけに陳陽によれば「中国ではこういうときお客は黙って我慢するもの」なのだそうだ。これ以上言っ てはいけない。こちらは要求が一部入れられたことで感謝し、先方はまた申し訳ないことをしたといった風に頭を下げた。
陳陽がゆっくり食べている とショウの開演時間に間に合わない。うんとせかして店をでた。陳陽はサラダを半分食べ残してしまった。「とても美味しかったので心残りですよ。残してしま うのは。」とぼやいている。ステーキを待っている間に食べていれば良かったのに、自分が「イケメン、オトメン」で、日本で「もてるかな」なんてことに心が 奪われて、食べなかったのが悪いのだ。
5月に任期を終えて帰国した森領事が大学の私たちの研究室に訪ねてこられた。彼は大きな身体なので形容がぴったりこないかも知れないが、彼が小一時間部屋にいて帰ったあとは、さわやかな風が吹き抜けていったといった感じである。
私たちは教師の会で3年間お世話になる間に彼の人となりをよく知って、彼に惚れ込んだ。森領事は教師の会も総領事館の文化交流事業の一環と言うことで、領事館を代表して教師の会の毎月の定例会に参加してくれた。
昨年春、日本語資料室が家 主の都合で閉鎖されてしまい、行き先を探した時には率先して心当たりを探し、先方との交渉に当たって下さった。何しろバックが日本国総領事館である。森領 事が交渉に出てくれることは大きな強みである。このように毎月会うだけではなく、昨年のうちに日本語資料室の移転が何と二度もあった ので、私たち教師の会の面々は皆が森領事ととても親しくなった。
彼は総領事館で昨年開かれた日本語文化祭の時の写真を撮影していた。それをホームページに載せたいとお願いしておいたのを、ちょうど瀋陽に用事があるので届けようと言うことだった。森領事から事前に連絡を受けて教師の会では歓 迎会をしようとお膳立てをした。しかし、出発直前のためか連絡が届いていなくて、待ち合わせの時間に彼は現れず、私たち14名は主賓抜きで食事をしたのだったが、この顛末は「瀋陽だより」に既に書いた。
「これが昨年の文化祭の写真です」といってCDを受けとってから、今年の文化祭の話になった。森領事はノーズメディアのビルを借りるところから始まって、帰国直前までその開催準備に関わっていた。
5月16日に開かれた今年の文化祭は大成功だった。準備に奔走した教師会の先生たちの準備、参加した学生たちの熱意、ノースメディアビルの裏方たちの努力、熱心な観客など、沢山の成功の原因があるだろうが、私はまずこのノーズメディアのビルを借りたことが成功の一番の大きな要因だろうと思う。元々日本語学ぶ学生のお祭りとして遼寧大学で企画されたものだったが、ここは管理社会なので学内外の交流が自由ではない。2005年 に領事館で開催されたときも、領事館の敷地の中に入るわけだから、参加の学生は(勿論教師も)事前に総領事館に名前を届けておいて、入るときは身分証を 持って(教師はパスポートを持って)領事館の外で一旦待ち合わせてから一斉に入場するといった具合なので、出入りの自由がない。
だからノースメディアで開 かれた日本語文化祭は、会場は広いし、施設はいいし、裏方の手助けは万全だし、出入りが自由だし、学生にも、教師にも、観客にも大好評だった。会場を借り たのはこの行事の主催者の総領事館だった。あれだけの会場を借りたら大金がかかるだろうけれど、ノースメディアビルができたお披露目と言うこともあり、森 領事の功績かどうかは知らないが、どうもただ同然だったようだ。
今回の瀋陽旅行は夏休みと有給休暇を合わせて「純然たる私用の遊びのつもりだった」そうだ が、いよいよ来るとなると「いろいろ仕事ができてしまいましてね」といって、「これおみやげ代わりなのですが」と言って、「鮭とば」を手提げから取り出し た。というのは、いま港湾局にいて、港湾局は港の設計、管理、船の運航を管理しているだけではなく、今は港湾の利用にも関わっていて、つまり日本から中国 への輸出振興にも大いに関心があるのだという。それで、船が中国との間を行き来する際に、函館港から送り出せるものがあるどうかと言うことで、どんな食品が輸出できるかを調べるのを今回は引き受けたらしい。
一つが今の「鮭とば」で、後二つは「イカの薫製」と「鱈の薫製」だそうだ。見本を実際に中国人に食べて貰って評判を聞くのだという。
鮭とばを食べて、5段階評価で、最高にうまい、おいしい、まあまあ、それほどでもない、まずい、のどれかに印を付け、さらに、この「鮭とば」200グラム入りのパックに、いくら出せますかという質問がある。ちょうど部屋に入ってきた陳陽に、鮭とばをナイフで切って食べさせてみた。
彼は内陸育ちなので鮭になじみがない。だから「特に美味しいとは思わない」が、いくら出すかというと70元くらいしても良いでしょうという。これはかなり高い。私が中国人の身になってみると35〜40元が精々である。それ以上だと出せない。森領事によると評判の良かったのはイカの薫製だったそうだが、これは実際大連では土産物として沢山売り出されているので、あの一帯を中心になじみの味なのだ。
以前牛肉の干物と唐辛子の 炒め物を食べたことがある、めちゃくちゃ辛くて美味しかったが、同じように、鮭とばと唐辛子で新しい料理が作れないものだろうか。鮭の生臭みが消えて絶対 美味しいと思うが、陳陽に言わせると、牛肉の干物と唐辛子の炒め物はビーフジャーキーを使うのではなく、生肉から調理するのだという。そんな面倒なことと は思いもしなかったが、中国料理ならありかも知れない。
とすると干した鮭の「鮭とば」から出発しては駄目なことになるが、せっかく思いついたのだからその内やってみよう、次回の森領事の歓迎の時に是非メニューに加えようなどと考えたりしているうちに時間が来てしまい、再会を約して森領事を見送った。
第十回全国生化及分子薬理学術会議というのが、新疆ウイグル自治区の首都であるウルムチで開かれ、私たちは中国に来て初めて学会に出席した。
中国に職を得て働き始めてから4年経ったが、はじめの頃は研究室を立ち上げて研究室の学生たちに研究はこうやってやるんだよと教えるだけで手一杯だったし、 勿論発表するような研究成果もなかった。2年経ってやっと研究が軌道に乗り始め、今では数報の論文も出版することができた。つまり研究成果の蓄積もできたし、新しい成果も出てきたので、学会に出かけて発表するのに適当な時期となった。
おまけに今まで中国のどこ にも旅行に出かけていないと思われている私たちを気に掛けて学長が、「どこそこの学会に行ったらどうですか」と昨年くらいから時々声を掛けてくれる。いろ いろと理由があって断っていたけれど、もうそろそろ断るのも限界だろうと言うことで、この秋のウルムチ行きとなったわけである。
瀋陽からウルムチまで飛行機で6時間かかると聞いていたが、途中フフホトという内蒙古の街に降りて1時間近く待った時間も入っていた。もし直行すればおそらく4時間半で着くだろう。それにしても長い距離である。
ウルムチ空港に着いて外に出たときに感じたのは、空の明るさだった。ともかく周り中が光り輝いている。太陽がまぶしい。暑いと言えば暑いけれど、空気が乾いていてさして暑さは感じない。この空の明るさは、きっと空が汚れていないからだろう。
議は空港とウルムチの街の中心とのちょうど間くらいに位置している三つ星のホテルで開かれた。私たちもそのホテルに泊まった。ウルムチに着いた翌日が学会の初日で、8階の会議場に行ってみるとさほど広くない場所に机と椅子がぎっしり入っている。あとで数えてみたら、ざっと120人くらいの参加者だったと思われる。東工大で糖質科学のローカルな研究会を開いてもそのくらいの人たちは集まったから、中国は広いとはいえまだ研究者そのものが少ないのだろう。
初日は9時半から開会式があった。正面の壇上にはこちらを向いて6人の偉そうな人が座っていた。やがて挨拶に立った人が学会の主催者の北京の王暁良老師で、 話の終わりの方になって突然私を見て私の名前が出てきたのでびっくりした。日本人という珍客だと言うことで紹介したと思ったが、実際珍客だったことはこの 学会に出ているうちにじわりと分かってきた。
開会式と引き続く参加者全員の写真撮影のあと、10時半から全員参加の大会が始まった。一人 25分、質問10分。PPT(パーポイント)によるスライドに英語が使われている講演以外は皆目分からない。英語で書いてあってもスライドが理解できるだけ で講演者の真意は「不明白」である。
午後1時になって私の番が 回ってきた。午前中の5番目である。「大家好」と言ったあとは英語になってしまったが、中国語が話せない不躾を詫びてから私たちの研究の話をした。途中の スライドで図が表示されなかったことが数枚あったけれど、話そのものはよく理解されたようである。話のあと、腫瘍とTnfの関係を鋭く突く質問や、「GM3でMMP-9が制御されると言うが、MMP-9の活性抑制タンパク質であるTIMP-1やTIMP-2も制御されているかどうか調べたか」という質問も出たからである。
大会初日の最初に発表する 機会を与えられたと言うことは、参加者全員にお披露目をしたことになって、そのあと大会中いろいろの人たちに話しかけられるきっかけが与えられたわけであ りがたいことだった。こちらは誰も認識できなくても先方は私と私の研究が分かるというわけである。
大会3日目の午前中は優秀青年論文発表だった。博士論文をここで発表させるというものらしい。全部で14題あったなかの11題は北京大学あるいは北京の中国医科科学研究所・薬物研究所からのものだった。あとは、武漢、重慶、合肥からで、北京地域の圧倒的な力量を見せつけられた。内容も、質量分析機を駆使し、FACSを使い、タンパク質のいろいろの部分を欠失させた遺伝子を作成し、と言う具合に現代科学の粋を集めた研究を進めていて、世界の研究レベルと変わらない。
この学会は生化学的分子生物学的薬学という狭い分野だが、世界的レベルの研究が北京に集中して行われていることは、研究費が一極に集中していることの現れであろう。このレベルの研 究は瀋陽では全く見られないと言っていい。だから北京から来た人たちから見れば、瀋陽から来てそれなりの発表をした私たちはパンダを見るみたいに珍しい存在に見えたのではなかったかという気がする。
なお、青年発表者の14人のうち11人が女性だった。私たちの薬科大学の女性の比率とほぼ同じである。薬学の若い女性優位はここでも目立った。若い彼らとも知り合いになった。また来年会おうねと約束して3日間の会議が終わった。
このウルムチは、シルク ロードの通り道で歴史は古い。トルファンから北回りにタクラマカン砂漠を迂回する天山北路をとるとき、天山山脈を北に超えてすぐのところに位置する街であ る。それでウルムチはシルクロードの街と思っていたが、街の中心には高層ビルが建ち並び、普通の近代都市だった。
街は南北に細長く、空港は北にあり私たちの滞在したホテルは空港から町に中心のちょうど半ばくらいに位置している。それで街まで出かけるのはタクシーに10 km以上乗ることになる。
学会初日の午後、私たちの目指したのは街の中心のやや南にある国際大バザールだった。研究室の新疆ウイグル自治区から来ている王麗が「先生たち、ぜひ行きなさい。きっと先生たち大好きになる小っちゃなものをいっぱい売っているから。」と勧めてくれた。
ウルムチは漢族に次いでウ イグル族が多く、このほかにカザフ族、モンゴル族、ロシア族、タタール族、満族、回族などの少数民族が多数住んでいる。元々は漢族よりもウイグル族が多 く、その彼らの街の中心が「二道橋」で、木製の太鼓橋が以前は解放路と天池路が交差するところにあった。すでに清代にこの付近が新疆を経由する貿易の一大 市場となっていたという。
この保存された「二道橋」 と道を挟んで建つのが国際大バザールで、小売商の大規模店舗である。イスラム調の丸い頭の尖塔数本で建物が飾られている。中に入る前からこの一帯は、様々 な顔の人たち、様々な衣装の人たちであふれていて、近寄るのもこわい感じだった。中にはいると上野のアメヤ横町と同じ感じで小さな店が両側にぎっしり続 く。1号店の一角は装飾品、小さなバッグ、スカーフ、毛皮など店の内外におびただしい商品を並べ、頭をスカーフで包み、目が青く鼻の高い女性がそれぞれ店 の入り口に陣取っている。はじめはこちらも落ち着かなく見て見ぬふりして歩いているので彼らも声を掛けてこないが、いったんこちらが商品に興味を示したと 見るや寄ってきて姦しく売りつけ始める。
試しに小さなバッグの値段を聞く。60元。高いよ。たちまち40元になるけれど、断って歩き始める。すると、同業者であり競争者でもある道の先の店の女の子たちが 次々と私たちを呼び込み、何とか買わせようとする。このバッグはキラキラした布にピーズで刺繍のあるちゃちと言えばちゃちだけれど、ともかくバッグであ る。次の店の売り子は35元から初めて、30元にするから買えとしつこい。これも目の茶色い色白の、日本なら白人で通る若い女性である。
とうとうその数軒先の店で、妻はバッグを25元にして貰って買っていた。このときはお供の陳陽くんが間に入っていろいろと交渉をしたわけである。彼は私たちが決してだまされてはいけないと思い決めていて、必死に私たちを守るつもりでいる。
これには理由があって、この国際大バザールに来る前に寄った新疆ウイグル自治区博物館で私は大きな買い物をしてしまったのだ。しかも陳陽の許しを得ないで。
新疆ウイグル自治区博物館 はその二階に楼蘭美女のミイラが置かれているので名高いところだ。私たちはボランティアの日本語を話すガイドに案内をして貰ったが、最後にこのガイドは壺 などの工芸品を置いてある部屋に私たちを連れて行って、これは国の大事な財宝だが気に入ればおわけしますという。「冗談じゃない、こんな国宝級の什器を私 が買えるはずがない」と断ったが、瑪瑙製の急須を見せて「これなど6000元の値を付けているのですがお客様、お土産にどうですか」という。
「とんでもない、6000元なんてこちらの給料以上のことができるわけないよ」、と言うと、「気に入ったのならいくらの値を付けますか」という。「こちらの値を聞くとそちらが怒り出すから言わないよ」と言っても「いえ、いくらなら買えますか。決して怒ったりしませんから、 言ってみて下さい。できるかどうかは上司と相談して返事しますから。」という。
それで、私はここで止めておけば良かったのだが、以前岫岩玉の産地の加工所の売り場で、妻の貞子が瑪瑙製の急須を1600元という値段を1200元で買ったのを見ている。その時よりも玉の感じが遙かにいい。じゃ1000元と言ってみよう、とつい口にしてしまった。
つまり私はその博物館で玉を1000元で買ってしまったのである。その時陳陽はそばにいなかった。私が1000元の買い物をしたと聞いて陳陽は血相を変えて玉を包んでいる相手の係員に詰め寄って、そして私をも相手にしてこの話をこわそうとした。陳陽にしてみれば,老師がむざむざとだまされて1000元も騙し取られるのが我慢できるはずもない。
陳陽の顔を立ててこの話を いっさい破棄することもできたと思うが、私の決断は、「買う」だった。そういうものだ。最初は買う気がなくて、話に乗せられたにしても、買う気になったの なら、私にとっては買うのが正しいことなのだ。しかしこれ以来陳陽はすべて自分で交渉をしようと決めて、私たちの先頭に立って歩くことになったわけだ。
中秋節、日本で言う仲秋の名月の日は農歴8月15日で、今年は9月25日だった。この日は満月が欠けていないように、中国では家族が全員そろってお祝いの宴を囲む。この日のための月餅を食べる。
この中国の習慣を知った中国滞在2年目は、うちを離れて瀋陽の大学の私たちの研究室で過ごしている学生を家族と見立てて、私たちの部屋に皆が集まって仲秋の宴を開いた。
と ころが、瀋陽に家族のある学生もいるし、恋人のある人たちもいる。それで、翌年からは、このようにうちのある人や二人連れは除いて、正真正銘、この日には誰とも約束のない行き場のない人たちを招いて一緒に食事をしてきた。昨年は10月6日で、近くの老婆湯という火鍋(しゃぶしゃぶの店というと一番近いと思う)に行った。その時は、その数日前に夫の胡丹が日本に留学してしまって一人残された秦さんのほか、王毅楠、陳陽、暁艶がいた。
今年は暁 東、陳陽、暁艶、徐蘇と私たちの二人を加えて6人が、老誠一鍋という店に行った。この店には以前来たことがあったけれど中がすっかり変わっていて、つまり私たちにとっては新しい店だった。何の店か私には分からなかったが、テーブルには電磁コンロがおいてある。火鍋の店だ。個室を聞いたらすでに一杯であいていないという。それで大きな平土間の奥のテーブルに案内された。8人がけで中央に穴が切ってあって中にコンロがある。
メニューを見て陳陽と暁東が選び始めた。私の右に座った妻はその右側の暁艶と徐蘇と英語で話している。暁東が片言ながら日本語を話すようになったので、陳陽を加えた三人のこのテーブルの左側は日本語だ。
す でに食べ始めている人たちを見るとディスポの手袋をはめて左手で骨の固まりとおぼしきものを握り、右手の箸で肉を骨からほじって食べている。「あれ、何?」と訊いたけれど、分かって見れば馬鹿なことを聞いたものだ。これは羊の骨のぶつ切りを煮たもので、これがこの店の看板料理の「羊蝎子」なのだった。羊をいう字が蝎に見立てられている。北京以北で見られる特別の料理なのだそうだ。新疆ウイグル自治区から来ている暁艶によると新疆は羊肉の本場だが、この「羊蝎子」料理はないという。
やがて洗面器に山盛りの羊の骨が運ばれてきた。これが「羊蝎子」だった。この骨を煮たスープがそのあとの火 鍋のスープになる。このあとそれで羊肉、野菜、キノコ、豆腐、昆布、粉皮などを煮ながらたべるわけだ。粉皮は日本の春雨の親分みたいなもので、太いので春 雨みたいな頼りなさがなく、出汁を吸ってとても美味しい。これを知って以来日本にはこれを持って帰って鍋に必ず入れている。
「羊蝎子」と は羊の背骨のぶつ切りで、肉を取ったあとの肉が残っているのをそのまま煮たものだ。日本料理の魚のあら煮と同じで、肉を取ったあとの面倒なところは煮て、客に好きに食べて呉れよというものだ。手間がはぶけて、店にも客の双方にも良い訳だ。日本料理の魚の頭は決して安くないけれど、この「羊蝎子」は安くて、そしてこのスープで味が付いて美味しい。背骨の中心を箸で突き刺すと白い脊髄神経が出てくる。
「羊っていえば、狂牛病の本家本元だよ。スクレイピーになった羊の死体もそのまま粉々にして牛の食べ物の中に入れたからイギリスで牛が狂牛病になったのさ。スクレイピーは中枢神経と脊髄にもあって、こうやって煮たって変性しないから感染力は落ちないそうだよ。」と知っていることを学生たちに教えつつ、羊の骨を手に掴み取って肉をむしり取り口に運ぶ。うまい。
学生はスクレイピーの名前は知っていても、私の言うようなことは全く知らない。私はこの歳になれば狂牛病が怖いどころか、スクレーピープリオンに感染すれば短期間で死ねるから、ぼけて人に世話になりならが生き続けるよりいいかも知れないと思っている。勿論若い人は別だ。幸い中国で発病したということは聞いたことがない。勿論、それを聞いたことがないだけだという人もいる。
私の左側では日本語、右では英語、時に全体で中国語や英語が飛び交いながら、楽しい食事が終わった。ちょっと早目に来て良かった。店はもう満員である。どのテーブルにも「羊蝎子」が来ている。これが当然のメイン料理なのだ。瀋陽に4年にいて知らなかったが、火鍋料理としては最高に美味しかった。火鍋では初めて満足したという感じである。
帰 りは東の空にあがった月を眺め、多くの人たちが、そして私たちの多くの友人や知己も今夜のこの月を眺めているのだなあとしみじみと思いつつ帰途についた。「満ち足りて 比翼の鳥の 月見かな」これは四十五年前、仲良しの友人に当てつけみたいに書いて送った私の腰折れである。瀋陽生まれの彼は、元気に今宵の この月を見ているだろうか。
学会の初日に訪ねた国際大 バザールでアーモンドを買った。この一部は西安で訪ねる予定の張敏老師へのおみやげである。彼女の日本育ちのお嬢さんに日本のものを持って行こうと思って うちを出る前に探したが、カレールーや煎餅以外にめぼしい土産になるものがない。せめてウルムチで土地の名産を仕入れようと思ったのである。
バザールのビルとビルの間 はアーケードとなっていて、そこに果物売りが沢山店を出していた。生の果物では大きな黄色のザクロが目を引いた。王麗が黄色い皮のは美味しいから是非食べ てきなさいと言っていたっけ。赤い皮のザクロはあまり甘くないと言うことだった。ラグビーボールの二 倍 くらいありそうなハミグワは、それを切ってその場で客に立ち食いで売っていた。きっと美味しいだろうけれど、旅先で腹をこわしたら困る。羊肉も店の外にコ ンロを出して盛大に煙を上げつつ焼いて串に刺したシシカバブを売っている。瀋陽と同じ1串1元だけれど刺さっている肉のかたまりが大分大きい。これも魅力 あるけれど、ホテルに帰れば歓迎の晩餐会だと思って遠慮してしまった。
羊の肉は中国に来て初めの頃は一切食べるのを敬遠していた。私の記憶には羊肉、マトンは臭いものというイメージが定着していた。若い頃は札幌に行けばサッポロビール園に出掛けてジンギスカンをむさぼり食ったものだが、 ほかの機会に羊肉を食べたいと思ったことはない。たれに漬けて焼いて、しかもビールで酔わないとあの臭みは食べられない。
しかし中国に来て、日本語 教師の加藤さんに誘われて皇寺廟に出掛けた時、強引に誘われた。この加藤さんは蚕蛹の煮たのが実に美味しいという人だから私はあまり彼の味覚を信用してい ないが、おそるおそる食べたシシカバブは美味しかった。その後、蘇氏拉麺でサイドオーダーできるシシカバブが気に入った。この頃は蘇氏拉麺に出掛けるたび に注文している。
毎年秋の2か月間、薬学の 講義に来ている貴志先生に日本の羊肉は臭いのにどうして中国の羊肉は臭くないのでしょう?と訊いた。日本の羊はオーストラリアから来るし、中国のは西域か ら来るので食べ物による脂肪酸の組成の違いでしょうということだった。食物の中の植物油の違いが動物の脂肪酸の組成に反映することはあり得るし、羊の遺伝 子が二つの国で異なっていて脂肪酸の代謝酵素の能力の違いもあるかもしれない。
この質問を聞いていた陳陽 はこのウルムチで地元の人に訊いてきた。それによると、この地方では羊を殺して肉を取る前に3日間塩水を飲ませるのだという。羊が自発的に塩水を飲むの か、無理矢理飲ませるのか、あるいは塩水を飲まされれば殺されるという言い伝えが羊社会に広まっていないのか興味あるところだが、真偽のほどは分からな い。
臭みの原因は脂肪酸組成だ ろうという第一の説を支持するのは、人は加齢により脂肪酸が分解して出来たノネナールが増えるため老人臭を出すようになるためだと言う説である。ある種の 脂肪酸が臭みの原因で、日本で食べる羊には中国の羊よりもそれが多いという説明ならば、ありそうな気がする。しかし後者の、この脂肪酸の組成が塩水を飲む ことで短期間に変わるというのは,理解しにくい。
さて、この干し果実売りの店ではブドウ、トマト、様々な乾燥果実を売っている。ブドウに至っては10種類くらいある。値段が1 kgあたり10元から80元くらいに亘っている。あとで分かったが、安いのは緑色に染めたもの、昨年のもの、あるいは干しぶどうを作る時にブドウそのものが痛みかけのもの、なのだそうだ。良いのになるとブドウの質が揃っていて傷みが少ない。さらに味が良くなると最上の値段になっていくらしい。
私たちはここでは干しぶどうを買わなかったが、あとでトルファンに出掛けた時、ぶどう園で干しぶどうを買った。1 kgで言い値が25元という下から3番目(高いのは80元だった)のを研究室への土産として買った。これを研究室に帰って来て皆に出したら、王麗が「なにい、これ。1 kg10元だよね。」という。こちらは25元で買ってきたのにずいぶん低く見積もられたものだ。もう一人のやはり新疆出身の暁艶に「いくらだと思う?」と訊くとやはり彼女も「これなら1 kg10元ですね」という。つまりトルファンでは高く売りつけられたということなのだろう。このとき一緒に45元で買った干しぶどうは500gを西安の友人へのお土産にした。
私たちはアーモンドというと、いわゆるナッツで、熱を加えたアーモンドしか知らないが、プラムくらいの大きさの果実の種で、アーモンドは薄い種子の殻の中に収まっている。この周りの果実を取って煎って、あとは殻を壊せば中のアーモンドが直ぐに食べられるようになって売 られている。昨年春節のとき故郷に帰った暁艶の土産として初めて知った味である。そのあと瀋陽のスーパーでも見つけたので買ったけれど、味が全然違って美味しくなかった。だからもちろん私たちはこれを見つけて喜んだ。1 kgあたり80元と言っていたのが陳陽の交渉で60元になり、1.5 kgを90元で買った。500gを 西安の友人に上げて、残りは瀋陽に戻ってから3等分して、一部は、暁艶に上げた。故郷の味の本物のアーモンドを貰って暁艶が飛び上がって喜んだのは言うま でもない。彼女は私たちのパンや果物が絶えないように何時も気を配って補給してくれる女子学生なので、これは私たちのささやかな感謝の印である。
8月のオープンラボ計画は、私たちの研究室の1年後には男子学生が1名だけ、日本語を話す学生が1名だけに なってしまうと言う私の危機感を知った楊くんが言い出して、計画されたものである。その時点で、来年秋にこの研究室に進学したいという基地クラスの女子学生が2名いたけれど、英語遣いの彼女たちが来ても事態は変わらないからである。
オープンラボの時14名の日本語班の学生が来た。そのあとぽつりぽつり、会いに来る学生があって「先生のところで専題生になりたいです」と言ってくる。専題生とは卒業研究のことで、最終年度の3月から6月まで研究室に来る。ただし専題生でもそのあと修士課程に進学する学生でないと意味はない。
現在まで修士課程で私たちの研究室に入りたいと言ってきたのは2名の女子学生、これ以外に専題生として来たいと行ってきたのが女子2名、男子1名だった。女子2名は日本の大学院進学志望で、男子学生は日系企業に就職希望である。私たちはこれらの学生にすべてOKを出した。今まで卒業研究の学生は4名を採ったのが最高で5名を採ったことはないが、一度は経験してみよう。修士希望の学生は、来年1月に大学院の試験を受けなくてはならないから、通るかどうか分からない。昨年の宋明さんが入試に落ちて以来、ここに来る修士学生は成績抜群で入試突破という神話が崩れた。
実はもう1名推薦入学で修士課程に入りたいという中薬の女子学生がいた。大歓迎だったけれど、そのあと、推薦枠で別の学科に進学できるのは2名までで、私は3位なので先生のところに進学できないと言って断ってきた。残念だし、進学の仕組みがよく分からないが、仕方ない。
既にこの春までに私たちのところに来て、来年秋には修士課程に入れてほしいと言ってきた基地クラスの女子学生が2名いた。彼らは6年コースで、学部から修士に推薦で進学できる。免除されているのはそれだけに何時も厳しい試験があるからで、生き残ったものだけが推薦で大学院に進めるのだ。彼女たちも春からは研究室のセミナーに参加していて、7月には来年の進学についてOKを出した。
私たちがウルムチの旅から戻ってきた翌日の9月20日、この二人が陳陽と一緒に至極神妙な顔をしてやってきた。陳陽が日本語にして言うには、「お疲れのところ済みません。でも、複雑な、しかも急ぎの話なのです。」
話を聞くと、彼らのいる基地クラスは正確には「国家生命科学与技術人材培養基地」で、修士の進学に当たり通達があったという。大学院の1)指導教官は企業と連携して研究教育をしていなければならない。2)企業と2項目以上の共同研究を掲げていなくてはならない。3)指導教官は過去2年間に10万元以上の研究費を得ていなくてはならない。4)指導教官は、、、。そして、もしこれを無視して大学が認めない研究室に進学したら2年後に修士論文の発表は無視すると大学側が説明したそうだ。脅迫して、大学側の意向を押しつけている。
びっくり仰天である。今でも、というか現に今修士1年にいる二人の女子学生は彼らの1年先輩に当たるけれど、進学について何の条件もなかった。私たちは企業とは何の関係もない。この条件は今年、まるで私たちのところに来るのを妨害するために作ったみたいじゃないか。
どうしたら良いのだ。彼女たちに聞くとこの研究室に来たいという。でも来年度の進学研究室希望の提出は今日中なのだそうだ。この通知は1週間前に出されている。私たちが旅行で不在の間だ。だから何も知らずに何もできないうちに期限が来てしまっている。
学長に電話したが不在だった。国際交流処の処長もいない。生命科学院の主任の小張に電話を掛けたら捕まったので事情を話した。だけど、彼女はこれは大学が決めたことだから仕方ないと思う、けれどこの件に関わっている楊教授に聞いてみようと請け合ってくれた。
あとで電話が掛かってきて説明を聞いた。それによると、この基地クラスは元来企業側に役立つ学生を育てるのが目的で作られたものだという。基礎科学ではなく応用研究のトレーニングを積んで企業に送り出すのが目的なのだそうだ。「今年度中に国家教育局の査察が入るからこの制度を厳格に運用していないと、この基地クラスがここにあるという特権が取り消されてしまうので、今年は特に厳格に適用することになった。先生、この件はあきらめてくれ、」と言う。大学側の事情も分かった。それに楯突いても誰の得にもならない。女子学生の王夏路、胡楠さんの二人には短い縁だったけれど、この先彼らの上に良い将来があるよう願って別れたのだった。
幸い、楊方偉の先見の明でオープンラボが企画されたので、ともかく人材を確保することが出来たのである。この楊くんは北大大学院から入学許可を貰い、今ビザの申請をして10月初旬に日本出掛ける日を待っている。
学会二日目は石河子大学で 開かれた。私の理解したところでは、この石河子はウルムチから3時間離れた砂漠の中の街で、兵士が多数動員されて砂漠の中の街造りに貢献し、石河子大学も 彼らが建設した感動物語なのだという。私の目から見ると漢族の少ない新疆ウイグル自治区に漢族を送り込み、漢族支配を作り上げるための拠点作りをしたとし か映らないから、行くのは遠慮してこの日はトルファン見物に宛てた。
トルファン(吐魯蕃)は、蘭州から発したシルクロードが嘉裕関、敦煌を経てトルファンにたどり着き、ここで天山北路と天山南路に分かれる起点となる街である。私たちは旅行会社に申し込んで一人240元を払い込んだ。
出掛ける朝は8時半出発で朝食は8時からだった。広い中国がすべて北京統一時間を使っているので、ウルムチでは北京のだいたい2時間遅れくらいになる。ウルムチの昼食は午後2時から、夕食は午後8時からと言う具合である。
やがてホテルの前に来たバスは31人乗りの小さなバスで、すでに顔見知りになった先生たちが結構いる。同じツアーに参加した学会参加者は私たち3人を入れて13人だった。ウルムチを出る前に別の場所に立ち寄ると、どやどやと人々が乗ってきてバスは満席となった。
このあとトルファンに向けてひたすら東南に走ったが、大型バスで1泊旅行に出掛けた教師会の時とは、全く乗り心地が違っていた。つまり、私は中国の旅行では 教 師会の旅行のバスしか経験がない。こんなにひどいバスが走っているとは想像もしていなかった。ショックアブソーバーがへたっていて、下からごつごつ突き上 げが来る。そういえば、タクシーもウルムチにいる間8回乗ったが、乗り心地がまともな車だったのはただの1回だったっけ。
南に向かってウルムチの街を出るとたちまち周囲は砂礫の砂漠である。遠くの山は緑のない土か岩の山の連続だ。その山を超えてはるか東の遠くには雪を抱いた高山が聳えている。やはり天山山脈だろうか。
1時間も走ると前面に山が迫り、車は山を登ることもなく畳畳と重なる岩山の間を縫って走るうちに、やがて道は下りとなった。天山山脈を降りて南の平坦な砂礫の砂漠に出たわけで、これを走り続けてトルファンに着いた。これが12時でウルムチの街を出て2時間半である。
車はさらに東に向かって走 り、火焔山に向かった。西の方の砂漠には放棄された日干し煉瓦作りの平屋が立ち並んでいる。三峡ダム工事ですみかを追われた何百万という人たちが広い中国 のあちこちに新しいすみかを得たが、これもその一つだったらしい。しかしあまりに過酷な環境で、次々と離れる人が出て、今はほとんどすべて空き家になって しまったという。三峡ダムは数多い難民を生み出してしまったようだ。
やがて左側の山の壁が迫っ てきてこれが火焔山だという。山に刻まれた浸食のあとが深く、これが日中の高温で陽炎となって揺れれば火焔の燃えるような感じになるのだろう。バスは道を 左手に折れて火焔山観察所に着いた。入り口から続く地下道の両側には、壁画が描かれている。行く手をさえぎる火焔に孫悟空は、牛魔王に化けて女仙人・鉄扇 公主から芭蕉扇を騙し取ろうとしたがばれてしまい、その夫牛魔王と激しく戦うことになった。孫悟空はやっと彼らを退治して得た芭蕉扇で火焔を消したと言わ れている西遊記が壁画になっている。観察所の広場には如意棒を形取った土の温度が表示される世界最大の温度計というのが建っていた。地中温度は55度。気温は33度だった。
火焔山はこうやって離れて20分くらい眺めるだけだった。自分の自由になる車で来て火焔山を一周したり、851 メートルという高さまで登ったらまた別の印象が出て楽しいだろう。
この広大な砂漠の中でトルファンが栄えているのは元々地下水のわき出るオアシスだからで、天然にできていたオアシスを、天山山脈の水を地下に引き込み地下に 掘った地下導水路(カレーズ)によりトルファンに豊富な水を導くことで、さらに豊かな街にしたらしい。実際にカレーズの一部が観光用に加工されて公開されているのを見学した。
豊かな水を利用した産業がブドウ園で、葡萄溝という名で知られたブドウ園の一つに連れて行かれた。そこで私たちは客引き用の踊りを見せられ、スイカを振る舞われ、干しぶどうを買わされた。この干しぶどうを私たちは自発的に買ったけれど、買わない客はこの店で踊りを見た だけで一人10元払うよう強要されて、やむなくそれぞれに干しぶどうを買っていた。
3時過ぎにはこれほどまず いうどんは食べたことがないと言うほどひどい拉麺を食べ、4時にカレーズを見たあともう高昌古城跡を見に行く時間がないとガイドが言った。これに対して客 がそれぞれ「おかしな買い物店に連れて行ったじゃないか、それなのに時間がないとは何だ、」「朝ウルムチを出るのにぐずぐずして時間を1時間は損した。そ れなのになにをいうか。」 とそれぞれが口やかましく怒鳴っていた。しかし、風が強くなってきたから帰りの道が閉鎖されるかも知れないとガイドに言われて、客は負けた。確か昨年の春、強風で列車が転覆したのはこの一帯だ。それじゃ仕方ない。
帰り道には700基は並んでいるという風力発電の風車が沈む夕日の中で豪快に回っているのを眺めることができた。
大会三日目の午前中は青年 論文の発表で、結構私たちは楽しんだ。午後はその審査会が行われると言うから失礼して、妻と私は再度国際大バザールに行くことにした。陳陽は朝からこの近 くの天地・天山観光旅行に私たちを置いて出掛けている。陳陽は私たちにバザールなどには決して行かないようにしつこく念を押した。しかし昼食後私たちは二 人で顔を見合わせて 「じゃ、行こう」と、特に話し合いをするまでもなく、バザールに出掛けた。
タクシーに乗ると、南に向 かわなくてはならないのに西に向かって走る。一度行っているから方向は頭に入っている。「違うじゃないか、南の方角だよ。」というと何やら言いながら(こ こでは南に曲がれないとか)今度は北に曲がる。冗談じゃないよ。「あんたの車に乗りたくないよ。こんなインチキな車には決して金を払わないよ。」とわめき 続けたら今度は東に向いた。つまりホテルが面している道の、しかもホテルよりもずっと北に近付いたわけだ。「この車止めろよ。私たちは降りるからね。」と 叫んで車を道ばたに着けさせ、私たちは車から降りた。走り去った車を見ながら、良くも無事に降りられたものだと、その時になって危なさを切り抜けた安堵感 がこみ上げてきた。
次のタクシーは問題なく私 たちを南の国際バザールに運んでくれた。二度目の今回は、沢山の見慣れない顔の人たちが蝟集する建物の周りに近づくと、何やら嬉しく、前回感じた怖さなど 全く感じない。小さな四角いウルムチ帽を頭に乗せた男たち。白い丸い帽子を頭に貼り付けた回教徒の人たち。頭をスカーフで包んだ女性。顔まですっぽりと隠 した女たち。見慣れない姿の誰を見ても、またここに来たと言う嬉しさが湧き出てくる。
バザールの建物に入って、金属のかご細工の宝石入れ、オルゴール、中が容れ物になった駱駝や亀の置物など、様々なものを見て、値段を聞いたりしながら歩いた。売り物も面白いし、売っている人も珍しい。
ウルムチ地方特有の小刀を 売っている店が沢山ある。以前、故郷に戻った暁艶のウルムチ土産に一つ貰っているので覗くだけで買わない。先が湾曲して飾りの多い小刀を今でもウイグル人 は身につけているようだ。彼らは喧嘩っ早いだけでなく、メンツが潰されたら直ぐに刀にものを言わせると聞いている。店でものの値段の交渉をするのはいい。 売る方が高いことを言うのは普通のことだから値切るのもいい。だが客がこの値段なら買うと言って売り子がその値で良いといった時、 もし買わなければ売り子のメンツを潰したことになり、その場でぐさりやられても仕方ないと脅かされている。
日本にいた頃は玉石という 玉がいったいどんなものか想像も付かなかったが、中国に4年も暮らした今は少しは見当が付くようになっている。名高い岫岩玉の産地だって見学に行ったし、 そこで道に落ちている玉の破片を山ほど拾って持ってきて毎日見ているのだ。ついここの玉にも興味がでて売り場を覗いて見た。
玉の売り場は充実してい る。タクラマカン砂漠の南に和田というところがあって、和田玉の産地として名高い。この和田玉は白玉で、その白く半透明の感触から羊脂玉とも呼ばれていて 大変高価である。一方、私が見たのでは区別の付かない白い玉も和田玉と呼ばれて、ピンから切りまでの様々な値段で売られている。訊くと安いのはパキ スタン産だというが見分けられない。
赤い色の混じった白の半透明の小判型の石が沢山あって、何にするのか訊くと、これで顔をなで ると皮膚のつやが良くなるといってやってみせる。確かにおじさんの顔は脂ぎっていて、玉もテカテカしているが、石の方が栄養を貰っている感じである。
ウルムチまで来た記念に手に入れようと思って、訊くと1つ10元だという。「高いよ。止めた。」といって店を離れると、私を呼び止めて8元にするという。「二 つ10元にしろよ。そしたら買うから。」というと、「とんでもない、15元だね。」と手を振る。じゃ、ということで去り掛けると「じゃ、しょうがない12 元にする。」というので、ま、良いかと思って石を二つ買った。するとさらに呼び止めて、店のなかからいろいろと出してくる。玉のブレスレットだ。おじさんも手首にはめている猫目石みたいな木の化石のブレスレットが気に入ったので、3ついくら?と訊いた。100元と言うのを60元なら買うよと言って、交渉が成立した。
別の売り場では、女性のペンダントを85元で売るという。首を振っていると別のデザインのペンダントを次々見せてくる。不要、 不用、ガールフレンドがいるわけではなし、要らないよ。でも何とか売りたいらしく、いくらなら買う?と訊いてくる。面倒くさい、並んでいる4つまとめて 85元なら買っても良いよというと、一瞬ためらって、次にはまとめてこちらに押して寄越した。「これだ。これで買わなきゃ、男が廃る。ここで買わなきゃ、 この女に腹を刺される」というわけで、どの娘への土産にしようかと思いつつ、買ってしまった。
こんな具合にこの混沌、雑然とした国際バザールで、玉のほかにピューター製のアラジンのランプ、羊の皮のチョッキなども買って200元一寸の消費を楽しんだ。実に楽しかった。楽しかったわけは、 小物を買ったからではなく、ここで買うという行為、つまり売り子との交渉が楽しかったのだ。鬼の居ぬ間の命の洗濯。陳陽がいないからこその楽しみだった。 ヘッヘッヘ。ご免ね、陳楊。
学会に出席するためにウルムチのホテルに着いた翌朝、いつものように5時半に目覚めるとカーテンの開けっ放しの窓から見える外はまだ真っ暗である。そうだ、 ウルムチは時間が遅れているのだ。朝ご飯は8時 半だしと思って寝直したが寝られず、テレビを点けると、前の日12日の日本の安倍首相の電撃的辞任劇を解説しているようだった。安部さんが何か話して、あ とはSPに囲まれて固い顔のまま足早に歩き去っていく姿が映り、そのあとは麻生、谷垣、町村、福田さんなどの顔が映った。後継者候補という解説なのだろ う。それにしても最悪の時に辞めたものだ。信じられない独りよがりな行動である。参院選挙のあとが辞め時であることが判断出来ずに、今になって辞めるとは 「バカとちゃうか」としか言いようがない。
さて、8時半になって食堂に行った。バイキングスタイルの朝食から、キャベツの炒めものや、おかゆと、おかゆに入れる総菜数種類を選んで、席について陳陽、および妻と食べていると、通りかかった男性が立ち止まってしげしげと私の顔を見た。
「失礼ですが」と紛れもない日本語で私に話しかけてきた。彼は優しい顔をした長身の30代後半の男性だが、しかし日本人には見えない。「山形先生ではありませ んか?」と彼の言葉は続いた。「はい。山形ですが。」と私は見覚えのない人に声を掛けられ、記憶を急いで探ってみるけれど、中国のこの学会で会いそうな知り合いはいない。
私の不審げな顔にもめげず 彼は続けた。「山形先生。私は三菱生命研にいた、、、」。あ、これで思い出した。かれは三菱生命研で以前私の研究室の研究員だった東博士(現在は東北薬科 大学の教授)がその後で独立したときにポスドクとなった陳さんである。日本の学会で会った時にもちろん紹介されているけれど、私の方が顔を覚えていなかっ たわけだ。
私たちは学会に出ると沢山の若い人たちに出会う。名刺を交換しても、時間が経つと顔の印象が薄れてきて、それが互いに入り交じって、もう誰に会ったのか覚えていない状態になる。若い人は年長の人の顔を簡単に覚えるが、逆は難しい。
今から10年以上前、北大の新進気鋭の西村先生の研究室に行った時、その研究室の若い女子学生が交換に呉れた名刺にどれも顔写真が印刷してあった。その時「これだ」と思った。若い人はすべからく自分の名刺に自分の顔写真を入れるべきだ。写真が入っていれば、忘れることはない。強い印象がそのまま定着する。特に学会では若い人は自分を売り込む必要がある。講演会場では質問をする。そのあとは講演者を掴まえて個人的に質問をする。その時、相手に渡すのに顔写真入りの名刺があれば言うことはない。
こちらだって、つまり学会の年寄りだって若い人に注目しているのだ。折々に若い人の発言に注目し、若い才能に目を付けている。若い人たちもこれに応えて、自分の名刺に自分の顔写真を載せると良いのではないか。
その北大の女子学生の名刺 以来、私は自分の名刺に自分の顔を載せ始めた。そして名刺を若い人に渡すたびに、「自分の顔が見好いわけじゃなくて、若い人に顔写真を付けるよう見本とし て載せている」と説明してきた。この頃では、「顔写真入りを作りましたよ」なんて言いつつ新しい名刺を呉れる若い人もいるが、こういう人は大抵もう知己と なって久しい人たちだ。
この陳さんとはかつてポスドクの陳さんという因縁だけではなかった。昨年度私たちの研究室 に短期だけれど滞在した最終学年の寧娜さんが今年の2月から卒業実験に行き、さらに引き続いて大学院に進学したのが、この北京の、中国科学院・協和医学院・薬物研究所の陳教授のところなのである。
北京の中国科学院・協和医学院には薬科大学の学生が結構進学している。上海あたりに行くと、 田舎の瀋陽から来た学生は大して期待もされずに、あてがわれた機械でひたすらデータ取りをやらされるだけだなんて言う悲しい話を聞いたことがある。しかし 寧 娜は、協和医学院の「陳老師の研究室では先ずきちんとガングリオシドの分析から始めるんです」とこの間夏休み前に会った時に言っていた。修士の学生として まともに扱われているらしい。陳教授だって日本の教育・研究を経験しているから学生の尊厳を尊重しながら教育するだろう。
寧娜は「協和 研 究所にいると、先生たちに申し訳なくて一杯です。」という。「どうして?」「だって、あっちには沢山の新しい研究機器が沢山あって最先端の実験が楽々出来 るのに、山形先生たちのところは何もなくって、だけど先生もみんなも頑張ってやっていて、申し訳ないです。」という。ま、そうかも知れないが、仕方のない 話だ。人をうらやんでいても仕方がない。人は人。私たちは現状で出来る限りの良い研究をするしかないのだ。北京で良い機器が揃っているなら、その分良い研 究をして下さいね、と願うだけである。
この陳教授に会ったのが きっかけで昼休みにはこの学会主催者の王暁良教授に紹介されたし、ほかの幹事らしい人たちにも会うことが出来た。北京が中心のこの学会に瀋陽からやってき た私たちはパンダみたいに珍しい存在らしいが、陳教授と少しはつながりがあることで存在が許されそうだ。彼は同じ領域の研究者だし、再会したことは学会参 加の大きな収穫だった。
9 月 16日は日曜日でその朝、ウルムチに別れを告げて西安に向かった。飛行機が飛び立って東南に向けて高度を上げていくと、私たちの座っていた右側の窓からは 遠くに雪を抱いた山、近くには岩山が見え、そして下にはトルファンに向かった時に通った砂礫の砂漠が拡がっている。見渡す限り茫漠たる灼熱の砂漠という 感じである。しかし左を見ると飛行機とほぼ同じ高さに鋭い稜線に氷雪を載せた高山が窓越しに見える。これはボゴダ山脈らしい。ウルムチに来る時はこの山脈 の北側を飛び、私たちからは反対側の窓越しにしか見えなかった山脈である。今度は山脈の南側を飛び、私たちの窓からは反対なのでよく見ることが出来ない。 反対側の席に移りたくても飛行機は満席だった。
ウルムチから西安まで飛行機で約1時間半の旅だった。西安に近づくにつれ砂漠は山々に変わったが、この山々も雪をかぶっていて人々が暮らしているようには見えなかった。広大な中国といえども人々が暮らせる土地は限られているみたいだ。
西安咸陽国際空港は新しい 空港で、陝西科技大学の友人張敏老師が出迎えてくれた。西安は昔の長安都の東のごく一部にあたる。咸陽は秦の始皇帝が都を築こうとしたところで、西安の西 北に位置する。空港は、この咸陽と西安の間にあって、いずれこの両都市を経済的に結びつけ一つの経済圏として発展することを予感さ せる。
西安および咸陽では現在地下鉄が3本建設中なのだそうだ。しかし、掘るたびに何かしら遺跡が出てきて、そのたびに工事は中断されて 調査が行われるので、ちっとも進まないと言うことだ。何しろ、長安は西周、前漢、新、晋、前趙、前秦、後秦、西魏、北周、隋、唐の諸王朝の都となったのだから、遺跡だらけというのはもっともなことだ。
日本が中国と初めて公式に国交を結んだのは聖徳太子の時で、その時は長安を都とした隋王朝 が中国の統一政権だった。初の遣隋使として小野妹子が持って行った国書に「日出るところの天子、書を日没するところの天子にいたす、つつがなきや。」と書 いてあったのはよく知られている。随の皇帝はさぞ激怒しただろう。東夷として歯牙にも掛けなかった国から朝貢に来て、中華の自分たちに向かって対等の立場 で国書が書かれていたのだから。日本の天子への返書にはかなり過激な怒りが書いてあったのではないか。小野妹子は皇帝の返書を無くしたと言って日本の朝廷 に届けなかったと読んだ覚えがある。届けられるものではなかったに違いない。朝廷もそのことは分かっていたみたいで、国書を失った小野妹子はお咎めなしで 二度目の遣隋使になっている。なお、平安時代の三筆の一人として名高い小野道風は小野妹子の孫だという。
この隋は中国の東北地方を占めて い た高句麗を三度も攻めて成功せず、敗退してしまった。このころの高句麗は広大な勢力を誇っていて、瀋陽を含む今の東北地方は高句麗の勢力下だった。しか し、今の中国はそれを認めず、この一帯は元来漢族が支配していたような歴史を教えていると韓国の先生から聞いたことがある。
ともかく隋王 朝支配下の中国では戦費と租税の高騰にたまりかねた農民一揆が始まり、やがて第二代皇帝の煬帝は江都に逃げた。隋の衛尉少卿を勤めていた李淵は自分が育て 上げた政府軍に「義兵を挙げて、帝室を匡(ただ)す」という檄文を発して長安を無血占領した。そして、隋の煬帝の孫の楊侑を傀儡皇帝にしたが、煬帝が 618年江都で望郷の念に駆られた部下に殺されると、李淵は皇帝となり国号を唐とした。
煬帝の「煬」は、「天に逆らい、民を虐げる」の意味の諡(おくりな)で、いかにひどい皇帝であったかと思わせるが、律令制を完備したり大運河を掘ったり、気宇壮大な人物だったと思える。歴史は勝者によっ て 書かれるから、煬帝は実際以上に悪者に描かれているだろう。李淵のあとを継いだ太宗李世民は李淵の次男で、元々は太子に長男が指定されていた。歴史による と、長男より評判の良い李世民に太子が嫉妬してこれを除こうとしたので、李世民は玄武門で待ち伏せしてこれを殺し、太子となってやがて第二代皇帝になっ たという。この長男の評判だって李世民の一派があとで書いたわけだから、皇帝になりたい李世民が兄を殺してあとで理由付けをしたのかも知れない。
西安は今や商業、交易、観光、科学技術と教育で近代的大都市へと発展しているという。西安には約50の大学、500の研究機関があり、大学の数では全国で2 番目を誇るのだそうだ。明代の城壁で囲まれた西安の中では発展しようもないので、ほとんどの大学は城壁の南に発展して造られたが、今では大学は西安城の北 側地区に続々と建てられているという。空港から西安城壁まで車で約1時間掛かるが、陝西科技大学はその中間にあった。
大学は広大な空間に 大 きな敷地面積を占めている。隣に陝西工業大学、陝西医科大学があって将来一大学園都市を形作るのだろう。陝西科技大学は学生数2万人。張敏老師は化学与工 業学院の副院長で、日本から中国に戻ったのが3年前で、任命された2年前からともかくべらぼうに忙しいらしい。彼女の研究室にはいわゆるteacher と呼ばれる大学院生ながらも講義を担当するスタッフが1名いるだけで、助教授も助手もいないそうである。西安城の南側にある自宅に戻ると1時間以上掛かるので、大学の中に一部屋を借りて自宅に帰らないことも多いという。副院長を務めながら講義もあるわけで、今まで講義をしながら3回ぶっ倒れたことがあると いう話だった。その忙しい中に私たちが割り込んできたわけだ。
私たちは陝西科技大学のキャンパスの中の招待所(訪問者のための宿泊施設)に案内された。薬科大学の招待所よりも遙かに綺麗なのは新しく建ったためだろう。 私たちの入った部屋はウルムチで泊まった三つ星ホテル並の部屋の広さで綺麗である。陳陽は廊下を挟んで反対側に同じ広さの部屋を貰った。張敏老師は、「疲 れたでしょうから1時間くらい休んでから、西安に出掛けましょ。」と私たちを休ませてくれた。
南の窓からは広い校庭が見渡せる。テニス コートが手前に7面、バスケットコートが15面、バドミントンコート8面も取ってある。その向こうには6階建ての円形の建物があって図書館だそうだ。この あと西安に行く時にキャンパスを案内して貰ったが、この運動場の東には大きな観客席を備えたアンツーカの400メートルトラックとサッカー場があった。十 数階建てのビルが後方に数棟建築中で、教授棟だそうだ。瀋陽薬科大学よりも大分お金があるように見える。
案内で乗せて貰った車は大学の車 で、若い運転手の賀俊平さんは大学の職員である。つまり私たちはこの大学に講義の招かれた賓客として扱われている。日本語が自由になる教授は張敏老師しか いないので、日本人が来る度に彼女が駆り出されるという話だった。ただし私たちは彼女に講義に呼ばれたのだし、忙しいにもかかわらず案内して呉れるのは私 の友人だからに違いない。
車はこの大学地区を過ぎて 西安を取り巻く環状線のうち環二の南向き路線に入った。一路ただ真っ直ぐ道は南に向かう。普通の道なのに、途中に信号はない。まだ出来たばかりだからだろ うか。あっと思うと、片側3車線の道の分離帯寄りの正面から逆走してくる車がある。肝が縮み上がった。
やがて背の高いビルが林立して、右側に西安城の城壁が見えてきた。このあたりは城外の商業地域として発展している場所なのだろう。車は城壁に沿って今度は西に向かい、南門から場内に入って直ぐ、西安碑林博物館と書いてある閑静な一帯に到着した。
張敏老師は「私の日本語では中国の昔の歴史が説明できないから案内人を雇いましょ。」と言って入り口を入って直ぐの事務所に入っていった。私たちは入ってきた門、反対側の門、そして南側の塀には門のあるべき位置に巨大な石壁があるのを眺めて待っていた。
やがて張敏老師は小柄な女性を連れて来て「日本語を話せる案内人が出払っていて中国語になってしまいましたよ。うまく日本語に出来ないかも知れないけど許し て下さいね。私の娘なら出来るんだけれどね。」と言うことだった。歴史の用語は中国語で知っていても対応する日本語を知らなければなかなか難しい。孔子 だって中国語ならコンズだから、コウシという日本語読みを知らなければ、全く話は通じないことになる。案内人の説明に依れば、あるべきはずの南側の開かず の門は、孔子のために造られた門で、孔子は既にいないから開ける必要はなく、従って門はないのだという。私たちの入った門は礼門。そして対面にある門は儀門という名前なのだそうだ。
いよいよ奥に向かう前にまた門があって、正面の門は「先生みたいな学問が大成した人。両側の脇門は私たちみた いな途上の人の門。」と張敏老師は笑いながら妻と一緒に左側の門に向かった。私は「まあいいだろう、また来ることもないし」と思って真ん中の門を入った。 すると陳陽が左に方に行ったのに戻ってきて真ん中をくぐった。「罰が当たるよ。」と言いたいところだが冗談では済まなくなると面倒なので言うのは控えた。 すくなくとも、これで彼の学問が終わりなら、彼の将来は悲惨である。
ここは元々は孔子廟で唐代には翰林院という大学だったという。つい、 孔子がここに来たことがあるのでしょうかと訊いてしまった。答えは没有。孔子が尊ばれるようになってから造られた学問所である。その孔子廟に北宋の時代 (1087年)に、唐の開成年間に彫られた「十三経」という石碑を保存したのが始まりで、それ以降石碑、石刻が次々と蓄えられてきて、石を林に見立てて碑 林博物館と呼ぶようになったそうだ。今でも石碑は増え続けている。中国全土にはほかにも碑林博物館があと三つあるということだ。
書を石に刻むという発想が凄い。石に刻むことでほぼ永久に保存できる。さらに拓本を採ってそれを配布することが出来る。印刷技術のない時にはもっとも確実なコピー 機の性能を持っていたわけで、これを思いついたのも凄いことだ。私もこの頃では篆刻のまねごともするので、石に字を刻むことがいかに大変な労力と技術を要 求するかを理解している。あとで美しい書を見ながら、その字の通りにこうやって石に刻んだ人も凄いと思う。でも石工については全く伝わっていない。
突き当たりの碑亭には唐の玄宗皇帝直筆の書が大きな石碑となっている。あの楊貴妃を寵姫とし、あの白居易の長恨歌に歌われた玄宗皇帝である。凄く馴染みな気がする。高校の頃には日本語の書き下し文を暗記して、今でも「
眸を迴らして一笑すれば 百媚生じ 六宮の粉黛 顔色無し 温泉の水滑らかにして 凝脂を洗う」
というところは覚えている。そうか、女性の肌は凝脂なのかと、それからは女性の肌を見る機会に恵まれると、凝脂かどうか鑑定をする眼になったものだ。その先の
「春宵短きを苦しみ 日高くして起く 此れより君主 早朝せず」
うーむ、なるほど、なるほど。私も覚えがある。
この玄宗皇帝の書いた内容は解説を聞いたがよく分からなかった。あとで調べると孝経に関する解説で、「身体髪膚これを父母に受く」という私たちがよく知って いる語句もあるそうだ。字は一寸気取った筆遣いの端麗な隷書で、友人が実は達筆なのを知ったような感じで、わけもなく嬉しかった。
碑林博物館の4つの展示室と室外に納められた石碑の総数は二千点以上だと言うことだ。第1室には春秋左氏伝、孝経、詩経、易経などがずらりと並んでいた。四 書五経を暗記することが学問だった時代にオリジナルの必須の教科書として、この石碑が原典となって拓本が広く使われたに違いない。すくなくともこれらを暗 記していなければ科挙に合格しなかったわけだ。思わず背筋が寒くなる。今の日本に生まれて良かった。
第2室には顔真卿の楷書で書かれた顔 氏家廟があった。顔真卿の楷書は馴染みである。集字聖教序碑の碑文は唐の太宗皇帝の序文で、玄奘三蔵法師の功績を賞賛したものだ。太宗皇帝が勅命を出して 碑文の文字は民間に散在する王義之の原拓を収集し、その原拓から文章に必要な文字を24年掛けて一字一字選んで集めたという。だから集王羲之書と書いて あった。凄い熱意である。楷書だと言うが一寸行書的な字である。
唐広智三蔵碑は唐代の徐浩の筆により楷書で書かれている。インド僧である 不空三蔵が長安の大興善寺で真言密教を伝授し、サンスクリット経典127巻を唐語に訳し、中国の宗恵果は不空三蔵について密教を学び、これを日本の空海に 伝授したと書いてあるそうだ。三国三大法師の関係が書かれているわけだ。
第3室には同じく顔真卿の楷書で書かれた郭氏家廟碑があった。入 り口には篆書千字文碑があった。篆刻を時々することがあるので篆書も少しは馴染みになったが、この文は全く読めない。これが篆書の原典らしい。さらに部屋 の真ん中には漢の185 年に作られ、1600年頃、陜西省の村より出土した曹全碑があった。これは隷書だった。これは曹全という管理の功績・功労を後の人が書いた顕彰碑というものだという。大した事をした人らしい、私なんか書いてくれたとしてもホンの二三行であろう。
ちなみに今は碑の右側の卑には田の上にノがあ る、これは帽子を表しているそうである。碑の右側の卑は男の象形文字から来ていて奴隷を表している。奴隷だから帽子をかぶることは好くないと言うことで、 昔はノのない碑を使ったそうである。この碑林は軒並みノなしの碑という字を使っている。
孔子廟堂碑は唐時代の虞世南の楷書で端麗な筆遣いである。顔勤礼碑は顔真卿による楷書で唐・大暦14年(779)に書かれた。出土したのは1922年、西安社会路だという。このような石碑はまだまだ中国全土から見つかるだろう。
第4室の集字魁星点斗図というのは鬼と斗(頭)という字を一筆で書いたもので、字の中に「克己復礼 正心修身」という文章が隠されていると説明された。清時代の馬徳昭という人の筆になるという。一筆で書くために字が掠れてくるので飛白体と呼ばれているそうだ。
第4室には宋の東坡の帰去来辞詩もあった。達筆な草書でほとんど読めない。私たちにも馴染みの深い文人の蘇東坡は、いまは東坡肉として食卓に出てくる料理として身近である。
関帝詩竹図というのがあった。隷書だそうだが、字は竹の葉の形をしている。関羽が曹操のもとにいるとき、劉備に自分の忠誠心を伝えるため書いた漢詩を清代(康煕55年)に石に刻んだものと言うことだった。
「不謝東君意 青独立名 莫嫌孤葉淡 終久不凋零」
「東君(曹操)の好意に感謝はしないが 歴史に名を残したい 自分の力は一枚の葉っぱのように弱いが 永遠に枯れることはない」という大意だそうだ。(この関 帝詩竹図の説明はhttp://homepage1.nifty.com/flat-brat/trv_xian.htm による)
「寧 静致遠」 という字があった。康煕帝36年(1697年)玄華(火編である)の大きく端麗な楷書で、静かに心を落ち着かせれば、遠く、つまり未来が見えるという意味 だそうだ。張敏老師によると「一番好きな言葉です」ということだった。なるほど、良い言葉である。私も気に入った。この筆致は雄渾でいい。
1909 年ハルピン駅で朝鮮総督府初代長官・伊藤博文が韓国の安重根に暗殺された。この安重根が暗殺決行1ヶ月前に「澹泊明志 寧静致遠」と書いたそうだ。安重根 は日本にとっては伊藤博文の暗殺者だが、韓国人にとっては“救国烈士”として韓国人が熱狂して賛美する偉大な人物である。「寧静致遠」と書いて未来を見越 した安重根による伊藤博文暗殺は朝鮮併合の流れを変えなかったが、人々の魂に火を点けた。
石刻展示室には陜西省に散在した数多くの石刻が 集められていた。唐の太宗皇帝が乗用した軍馬をモデルとして彫刻した昭陵六駿がここに置かれていた。六駿は太宗・李世民が唐王朝を樹立するため、実際に隋 の軍隊と戦った時の乗馬だ。この六駿のうち「挙毛駿」と「颯露紫」という馬の石刻はアメリカに持って行かれてしまい、その写真を元にして復刻したという石 刻が置いてあった。一枚岩で復刻しているから見事な馬である。
なお2004年10月西安市内から日本人遣唐留学生の墓誌が発見されたとい う。姓は井、字は真成で、あとで分かったところによると阿倍仲麻呂と一緒に遣唐使に付随しては派遣された留学生で、長安に着いた19才の時から死去する 36才まで勉学に明け暮れた生活だったらしい。阿倍仲麻呂みたいに公職には就いていなかったと思われている。716年死去し、葬儀に際し皇帝がこれを惜し んで「尚衣奉御」という官職を贈ったという。中国で発見された最初の日本人の墓誌ということだった。しかし日本ではこの井真成は誰であるか同定されていな いと言う。何となく落ち着かない気分にさせられた。
西安碑林博物館を2時間掛けて観たら夕方だった。私たちは静かで落ち着いた瀟洒なレストランに案内されて張敏老師から晩ご飯のご馳走になった。食事のあと私 たちは連れだって西安城の南の城外にある大雁塔を見に行った。時間的には塔の見学は終わっていたけれど、大雁塔の北側に大きな公園が整備されていて、張敏 老師がその夜景が一見の価値があると言って勧めたのだった。
大雁塔は通称で、お寺の名前は大慈恩寺である。説明によると唐代の皇帝高 宗が亡くなった母親を偲んで西暦648年に建立した寺である。629 年に長安を出発し、16年後の 645 年にインドから多くの経典・仏像を持ち帰った玄奘(三蔵法師)は、この大慈恩寺で仏教の経典600部余りを翻訳した。慈恩寺境内に建つ大雁塔はこの翻訳し た仏教経典を、納めるために西暦652年に建立されたという。この時の翻訳が今も日本で使われている仏教経典の大元となった訳だ。
大雁塔は最初5層の塔として建立され、則天武后(中国では武則天と呼ばれる)の時代に10層に積み重ね上げられたが、その後戦火に遭って7層となったという。
大雁塔がライトを浴びて美しく輝いているのが、遠くからも広大な公園の植木越しによく見える。北側の公園のメインは噴水の池で、定時になると音楽に合わせて 噴水が噴き出して踊るのだという。私たちは右側の公園通路を歩いていった。照明はぼんぼり風で、一つ一つに様々な人の大慈恩寺大雁塔に詣でた時の詩、文章 が書いてある。
さらに歩いていくと、道の敷石の上に水を使って書を書いている人がいる。瀋陽の公園でも時々見かけるが、この人の場合 には長い柄の筆の先がタンポンみたいになっていて、そこに水を含ませ敷石に書を書いている。水だからすぐに乾いて消えてしまうが、またいくらでも書くこと ができる。
この人が書いているのは篆書だった。のぞき込むと、「何処から来た?」と聞く。「日本人だよ。」と答えると「日本人なら書 を書いたらどうだい。」と言って私に筆を差し出した。こんな長い柄の筆は持ったことがないし、もちろん人前で書を披露する腕前ではない。だけど、ここでう じうじ言って引っ込みたくない。それに今は夜である。恥をかいても目立たない。じゃ日本を代表して書いてみようじゃないか。
長い柄の筆を受け取り、持ち方を聞いて三本の指で言われたようにつまんだ。さあ、何を書こうか。短い句が良い。そこで思いついて張敏老師に聞いた。「碑林博物館で見た字で、老師の好きだと言っておられた四文字は何でしたっけ?」
「遼 寧の寧、静か、致すの致、そして遠いの遠。」と教えて貰ってから「楷書ですよ。」とおじさんには断って、書き始めた。縦書きである。驚いた、意外にうまく 書ける。自分でも初めて道に字を書いているとは思えない気がする、私の前の人生は中国でこうやって大道に書を書いて遊んでいたのではないだろうか。
終わると書のおじさんを始め拍手があって、筆を返すとおじさんは私の書いた字の横に、「今度は篆書ね。」と言いつつ、笑顔ですいすいと「寧静致遠」と私には 読めない篆書で書いた。少なくともそうだろうと推察できた。綺麗な整った書体である。教科書を見ないで何の字でも書けるのだ。感心しつつ、かつ書かせて 貰ったことに感謝を込めて握手をして、妻の撮る写真に一緒に収まった。
陳陽が、「先生、字がうまいですね。」なんてお世辞を言っている。 実際たいていの中国人学生よりも私の方がまだ字が綺麗だと思う。これには訳がある。中国人はなにかを書いて記録しようと思うとともかく漢字を書かないとな らない訳で、私たちが大急ぎで字を書くと本人にしか分からない字を書くように、彼らの字はのたくっていて乱れている。書かせてみるとこのミミズの字を書く のだ。
今や大雁塔は左手にあり、見上げると一番近い距離にある。やがて塔の南側まで廻るうちに小雨が降り始めた。一緒に来ていた運転手の賀俊平さんが車から傘を取ってきて呉れた。私たちは傘を差しながら池を取り巻く人垣に近づいて、あと10分で始まる噴水ダンスを待った。
9時になった。広場に「青きドナウ」の音楽が流れると同時に噴水が曲に合わせて高く、低く、噴き出した。大きな浅いプールを私たちは囲んでこの水の踊りに見 入った。雨の中、この噴水の池の中に走り込んでいく若者が何人もいる。ノズルから噴水が飛び出すたびに曲に合わせて踊りながらそのノズルを踏むのだ。ずぶ ぬれになるのが楽しい若者たち。昔はこういうことが私にもあったっけ。次の曲の「郭公ワルツ」が続いたが、私たちは帰る時間になった。
このあと車 は西安城壁に沿って城壁のライトアップを眺めながら走って、約50分掛かって大学に戻った。大雁塔の近くに自宅があると聞いていたけれど、今夜の張敏老師 は大学に泊まるからと言うことで一緒だった。せっかくの日曜日も私たちのために使ってしまい、ますます仕事が溜まってしまったのだろう。翌朝7時に会う約 束をして別れた。
翌朝7時に出会った張敏老師の眼は腫れていた。昨夜私たちを遅く大学に連れ帰ったあと、昼間出来なかった仕事をしたに違いない。学生食堂に案内された私たち は朝のおかゆを食べたあと、張敏老師と同じ学部の女性に紹介された。張敏老師の代わりにこの王老師が私たちを法門寺に案内してくれるという。車は昨日と同 じ賀俊平さんの運転である。
目的地の法門寺は西安の西方にある。乾陵(唐の3代目の高宗と、その妻でのちに女帝になった武則天の墓)にも 行けると良いけれど、4時までに戻って来る必要があり、それは私の講義は7時に予定されているからということだった。糖質科学・糖鎖生物学の入門から始め て、私たちの研究であるがんの転移の機構・シグナル伝達までを話すことになっている。
なぜ法門寺に行くかというと、そこの本物の仏陀の指の骨があると昔の文献に書いてあったのが、20年前の発掘でその舎利が出てきて本当だったことが確認されたという劇的な物語があるからである。
西安から高速道路で咸陽・宝鳩に向かう。西安から約100 kmで、その間平らな漢中平原の風景が拡がった。途中に数個の小山が直線上に並んでいるのが見えた。これがおそらく漢の諸帝の陵墓だろう。高速道路の周りの作物はほとんどがトウモロコシだ。
2時間近く走って法門寺に着いた。入り口から遠くに見える十三層の塔まで門前市となっていて、歩いて通り抜ける間に、おもちゃ、アクセサリー、そして線香売 りにつきまとわれた。お寺の境内に入ったところで、それまで我慢していたがどうにも便意が耐えられなくなってしまった。皆に少し待って貰って、外回りの廊 下の壁にある説明に聞き入る。この法門寺は後漢時代(2世紀半ば)に建てられた。それはインドの阿育王が仏舎利(釈迦の骨)を8万4千個に分けて世界中に 贈り、中国にはそのうち19個来たらしい。そのうちの一つの受け取り先がこの法門寺で、仏舎利を納めて塔が建てられた。はじめ阿育王寺と呼ばれたが唐の高 祖が法門寺と名付け、唐の皇帝のお寺(皇寺)として位置づけられて大いに栄えたという。非常に古い寺だが、当時代の末期にはすっかり寂れてしまったらし い。
この塔は明代の1519年に再建された。1953年に塔の写真が撮られてそれが残っているが、1981年に塔の半分が崩壊した。それ ですべてを壊して発掘してみると、塔の建てられていた地下から1113年唐代に建設された地下宮が出てきた。この中に八重宝函に納められた舎利が出てき て、史実が裏付けられた。それで1988年に十三層の塔と寺が唐代風の装いで再建された。
再建された塔の基礎部分が地下宮になっていて、 見つかった磁器、宝物があった。一部は元のままにしてあるという基礎には地下宮から発掘時に見つかった2万7千枚の「開元通宝」の一部が置いてあった。こ れは日本でも最初の通貨として使われた貨幣であり、貴重な通貨がこれだけ大量に塔の基礎に置いてあったということは、この仏舎利を納めたこの塔がいかに尊 ばれていたかを如実に示していよう。
舎利は4つ見つかったが2本は玉で造ったもの、3本目が本物で約4センチの指の骨で、4本目は唐時代の高僧の指の骨だということだった。仏舎利は金の社殿に納められていた。
地下宮で説明を聞いているうちに、線香の匂いがやけに鼻に滲みてまたお腹がおかしくなった。これはやばい、という感じである。トイレに駆け込み、それからは お腹と背の痛みを耐えるだけだった。それで申し訳ないけれどすべての予定を変更して、昼食も抜きで西安の大学に戻った。
大学の診療所に連れて行かれたけれど、そこの所長は点滴と痛み止めはできるが、それ以上のことになると責任は負えぬと言うことになったらしい。ずっと付きっきりの張敏老師と王老師は相談の上、西安城に近い大きな病院に私は移された。
あとで分かったけれど、西安を目指して20分くらい車で走ったところにある長安病院の救急だった。熱があり、血圧が上がり、ちょうど胃の後ろが痛い。典型的な急性膵炎という診断だった。急性膵炎は前にも患っている。疲労と、油分の多い外食が影響したらしい。張敏老師は「先生の今夜の講義は取り消しましょうね。」と言ってくれた。残念だし、申し訳ないけれど、取り消すしかなかった。
月曜日から火曜日に掛けてが最悪だったけれど、的確な治療と 看護で回復に向かい、木曜日には退院して西安から飛行機に乗り瀋陽に戻った。というわけで今回の9日間旅のうち半分は西安にいて張敏老師のお世話になっ た。特に後半の4日間私たちは病院にいて、彼女の的確な判断と行き届いた配慮の下に私は十全の看護を受けたのだった。
前に書いたように、 張敏老師とはお互いその前から知っていたけれど、会ったのは2002年の蘭州の学会の時だけである。つまり一度会ったことがあるだけなのに、行き届いたも てなしと十分な看護を受けたのだった。全く感謝の言葉もない。張敏老師には「私たち日本で沢山の人たちから一杯親切にして貰っているから、これはほんの一 寸の恩返しなんですよ。気になさらないで下さい。」と言われてしまった。「それに先生たちお二人は、私の両親くらいですよね。私は日本にずっといて両親の 面倒を見ていなかったし、中国に戻ってきて実家から西安に来て貰っても、ここでは居心地が悪いみたいで故郷に帰ってしまったんですよ。だから、先生たち見 ていると私の親みたいにも思えるし。」
実際、私たちには老師と同じ年頃の娘がいるけれど、こういう時こんな具合にここまではしてくれま い。妻と二人でそう思う。張敏老師は実の娘以上に面倒を見てくれた。彼女は副院長としての激務があるにもかかわらず5日間私たちのために多くの時間を割い て始終見に来て看護に心を配ってくれた。老師には、ただただ感謝あるのみである。
瀋陽では地下鉄の2路線が昨年から同時着工で工事されている。来年の北京オリンピックのときに、瀋陽ではサッカーの予選が行われることになっていて、渾河の 南に立派な競技場がオープンしている。このサッカー場の横を地下鉄が通るけれど、来年夏には間に合わず、2010年の開通だという話だ。
それで、もちろん市内の主要交通機関はバスである。700万人の大都会だが主要な部分は東京で言うと山手線の内側の面積くらいではないだろうか。1元出してバスに乗れば、遠くても行きたいところに大体30-40分もあれば行き着く。そしてこのバスは市民によく利用されていて、どの路線も空いていると言うこと はない。
バスに乗ると大抵は座席が塞がっているが、それでも妻には直ぐ座っている人から声が掛かって、席が譲られる。おおむねそのような 人たちは学生で、女子が多いか男子が多いかどちらとも言えないが、多くは学生から席が譲られる。もちろん学生ではなく立派なおじさんやおばさんからも席が 譲られる。私が席を譲られることは少ないけれど、これは妻の頭が白髪なので目立つのに対し、わたしは努めて良い姿勢をしているためだろう。
日本で電車に乗る時は住んでいるところが郊外だからたいていは優先席に座ることが多い。それ以外は立っていても当然と思っていたので、日本初の次のニュースを読むまで問題に気づかなかった。
2007年10月18日0時0分配信 産経新聞による『阪急が「優先座席」を復活 “譲り合いの精神”挫折』という見出しである。この見出しを見ても最初は何のことか分からなかった。
内容は『「全席が優先座席」という考え方で電車内から優先座席を撤廃していた阪急電鉄(本社・大阪)は17日、8年半ぶりに全車両で復活させると発表した。 どの席でも譲り合う思いやりの精神が定着しなかったためという。“性善説”に期待した同社の理想は、車内モラルの低下という現実を前に挫折した形となっ た。
29日の始発電車から、関連会社の能勢電鉄と神戸電鉄を含めて実施。各車両8〜10人分を優先席として、ステッカーや車内放送で知らせる。
阪急は11年4月、全席を優先座席と考えるべきだという理想を掲げ、優先席撤廃に踏み切った。だが、現実には席を譲らない雰囲気が広まり、同社には高齢者を 中心に復活を求める意見が毎年10件余り寄せられた。今年6月の株主総会で同様の要望があったことを機に、復活を決めたという。』
つまり、優先席と決められた席では、年寄り病弱者が座れるようそこにはやむなく近づかないが、書かれていなければ席を譲る気もないというのが実情なのだろう。弱いものへのいたわりのない社会は、悲しい。
電車に乗るたびに思っていたことがある。私が子供の頃、母は決して私たちを席に座らせなかった。「子供は元気なんだから立っていて当然。」といって自分は座 り、周りから非難がましい目で見られると「うちの子供たちは若くて元気なのだから座らずに立っているように言って育てています。」と凛として言っていた。 だから私は電車の席には私よりも年取った人、疲れた人が座るものだと思って育った。私は幾つになっても、今でも、該当する人が電車に乗ってくれば、席から 立って譲っている。
しかし、一般には子供連れのお母さんは電車の席が空いていると先ず子供を座らせる。行楽帰りでいかにも疲れた風情のお 母さんが赤ん坊を抱いて立ったまま、幼稚園くらいの子供を座らせている。こうやって育てば、子供は席を見れば自分が座るものだと思うようになる。成長した からと言って考えは変わらないだろう。先ず自分が座るのは物心付いて以来の特権なのだから。
日本の人は中国人を公共心がないといって非難する。確かに電車の改札口、乗り場では列を作らず、早い者勝ちに押しかけて争う。並ぶことに慣らされている日本人はこれを見て眉をひそめる、「あれだから、やーね。」
しかし、中国では年寄りにバスの席を譲るのが当たり前の風景である。物質的には遙かに豊かな日本では見られないことだ。
「教えられているからよ。」と日本人は言いそうである。教えられて出来るなら、日本でも「年寄りと弱者には席を譲ろう。」と教育しよう。いや、長年言ってきて いるはずだ。それが定着していないのだ。中国では教えられなくても、年寄りをいたわろうという気持ちを持っているのではないかと思うが、百歩譲って教育の 効果としよう。人から言われても、年寄り、弱者をいたわろうとしない日本の国民性は、どのように言いつくろってみても恥ずかしいことである。
細胞の表面を蛍光で染色してこの蛍光強度を記録することの出来る機器がある。原理はflow cytometry (FACScan)と呼ばれて、生命科学の分野では広く使われている。細胞にどんなタンパク質が発現しているかを知りたい時に、このタンパク質に対する抗体を使い、この抗体が蛍光を出すようにすれば、簡単にそれが調べられる。機器は色の違う蛍光に同時に対応できるので、細胞が発現している2種類以上のタンパク質についての情報が同時に得られる。薬科大学にもこの手の機器が今年の初めにやっと入った。
私たちはこの機器を使って、細胞のアポトーシスを調べ始めた。細胞は自分の遺伝子の中にいずれ細胞が死ぬというプログラムを組み込んでいる。例えば遺伝子の複製がうまくいかなくなると、細胞は異常な細胞を増やす代わりに自分の死を選ぶ。栄養が足りなくなると、細胞は自殺する。細胞は自分の異常を感知して、自殺装置にスイッチを入れて死んでしまう。これをアポトーシスと言って、細胞が外から殺されるネクローシス(壊死)と区別している。
アポトーシスの時には自分の遺伝子であるDNAを分解する酵素を活性化して、DNAを断片化するので、断片化したDNAを調べることでもアポトーシスが分かる。細胞の中の特別なタンパク質分解酵素も活性化されるので、これを調べてもアポトーシスが起こることが言える。最近では、アポトーシスの進行に先駆けて、細胞膜に変化が起こり、これを認識する分子を使ってアポトーシスが進行し始めたことがわかる。つまり、先ほどのflow cytometryを調べることの出来る機器、flow cytometerの出番である。
薬科大学に入った機器はB&D製の普及機で、一寸した講習をすれば使用希望者が誰でも使える機器である。すくなくとも日本では、学生でも使い方を習って使用者が自分で機器を使っていた。その方が能率がいい。使いたい時に機器を使って測定できることが研究の能率向上につながる。
ところがここでは、teacherという大学のスタッフの管理下にあり、彼女が測定をしてくれる。いつでも測定に応じてくれるなら、簡単で良いシステムだが、彼女は大学院の学生でもあり自分の研究も持っている。ということは、週に1回の決まった曜日にしか測定をしてくれない。
こちらは調べるものが細胞なので、細胞の増殖が思ったよりも速いこともあったりして、何しろ生き物だから予め予想した日に実験できないこともある。となると次の週まで結果が出ない。この測定を能率的にするにはどうしたらいいだろう?
機器が週いちでしか使えないとこちらの実験が全く進まない。せめて測定の回数を増やして欲しいと何度か申し入れたが、全く反応がない。それで、私たちの学生にメーカーの研究所に出掛けていって講習を受けて、言ってみれば機器使用のライセンスを貰って、この学生が自分の実験で使いたい時に使えるようにしたらいいのではないかと思いついた。
flow cytometryを必要としている学生に訊くと、講習を受けに行ってもそのあと機器が自分で使えるようになるら、1週間やそこらなら出掛けて習って来るという。技術が身に付けばいずれこれが身を助けるかも知れない。既に書いたように、日本でこの手の機器を使う人たちは自分たちで操作している。
このことを機器を管理する先生に申し入れようと思って、はたと思った。ここは日本ではなく中国だ。機器を使用者に使わせないというポリシーを、私たちが申し入れたくらいで変えるだろうか。
生 化学実験になくてはならない超遠心機は25年前の古い機器1台に加えて、別の学部に新しい日立の遠心機が1台ある。これを使わせてもらうと、1万回転1時間で100元の使用料を取られる。6万回転16時間という遠心をすると9600元の費用がかかる。ということは年間5万元の研究費しか貰っていない私たちとしては実際上使えない。なお、flow cytometry (FACScan)の機器は嬉しいことに1回5元という大衆料金である。
機 器はあると言うことを自慢するためではなく使うためにある。機器を使って良い研究をして優れた論文を書くことが大学の使命だろう。しかし、機器が壊れた時にどうするのだと言うことだろうが、機器を使い難くして研究を結果的には阻害するポリシーがこの大学にある。私が言ったくらいで変わるとは思えない。
そ れで、この機器のオペレーターに、共同研究を申し込もうかと思う。つまりこちらの試料の分析を喜んでやってくれれば、それが論文になる時に彼女の業績にもなると言う取引である。もちろん彼女の背後の管理の教授も仲間にするしかないだろうが、どうだろう。これがうまくいくだろうか。
病院暮らし3日目の夕方、張敏老師のお嬢さんが病室を老師と一緒に訪ねてきた。この9月工業大学に入ったばかりの夢祺さんだ。色白で夢見るような瞳を持つ小 柄な可愛い女性である。彼女は5歳の時日本に行き、12年間日本に暮らした。日本で日本人と一緒に幼稚園に行き、そのあと日本人の小・中学校を出て高校1 年生の夏まで通ってから、母親と一緒に中国に戻って高校1年生に入った。
12年間日本にいて日本語で勉強していたので中国語を知らず、西 安の高校に入った最初の1年の前半はほとんど何も分からないため、涙を流しながら、それでも必死に教科書を読んで勉強をした。だから「その頃のことは勉強 ばかりしていたこと、泣いてばかりいたというつらい記憶しかないです」と、今ではにこりと微笑みながら言っていた。
お母さんの張敏老師に よると、それでも1年生の後半には何とか先生の話にも付いていけるようになった。それでも中国の学業は半端ではない。両国の教育を経験した人は誰でも知っ ているが、中国の方が勉強の程度は高いし、進度は速い。彼女にとって見れば、中国語も歴史も勉強も知らないことだらけで、「ともかく教科書と本を読みま くって勉強した」そうである。「勿論家庭教師について、中国語の勉強もさせたんですよ。でも、私が勉強しなさいという必要は全然なかったですよ。元々勉強 するのが好きだし、第一本を読むのが好きなんです。」と張敏老師が端から続ける。
「日本から中国に戻ってくるときも、衣服なんていらないけれど本だけは持って帰る
とこの娘は言って、段ボールにこの娘の読む本を、そりゃもう沢山送ったのですよ。確かにね、着るものはどこだって買えるけれど、好きな本は手元に置いとかなきゃね。」
「そしてこの娘はね、本があれば満足しているんですよ。学校の勉強が追いつくようになるとまた日本の本や、そして中国の本を読みふけって、だからうちの家事な んか全くできないんですよ。私もさせようとしなかったし。だから、今も食事も家事も何もできないんですよ。」と本好きの、そして勉強好きの娘のことを、半分自慢しながら、半分けなしている。
その夢祺さんも、今やうちを出て親の手を離れて、大学の寮生活を始めているのだ。大学まで荷物を持っていって別れるときは夢祺さんは大いに泣いたという。老師も泣いたろう。日本で、そして中国でともに苦労を重ね励まし合ってきた娘が独り立ちするのだ。
話を聞いて、昔の私を思い出した。小学校の3年の時、私たち小学生は太平洋戦争の戦禍を避けるために学童の集団疎開で松本温泉に行ったのだった。半月ぐらい 経ってから、私に会いに東京から汽車に乗って来た母がいよいよ帰ると言う時間が来たとき、泣けば母がこのまま居てくれると信じて母の膝にすがりついて声の 限りに泣いた。私はこの大学で別れるときに夢祺さんが泣いたと聞いて、この何十年も前の悲しみをまざまざと思い出した。
「沢山のお土産を ありがとうございました。日本で育ったので日本のものが懐かしくて、とっても嬉しいんですよ。」と夢祺さんはにっこりして言ってくれた。煎餅、カレールー とクラッカーに、あとはウルムチで買ったものしか土産がなかった。「カレーは大好きだし、ご飯のふりかけなんかがあれば、それだけでご飯を食べちゃうんですよ。」と張敏老師。瀋陽に戻ったら探して賞味期限が迫ったものでも良いから、カレールーを送ろうかな。
「割合よく読む日本の本では、吉 本ばなな、川上弘美、梨木香歩さんなんかの感覚が私には合うので好きです。」私たちは「?」である。そのような近頃の作家は知らない。彼女は「書評で読ん だだけなんですけれど、ノーベル文学賞を貰ったウイリアム・ゴールディングの『蠅の王』をご存じですか?」私たち二人は顔を見合わせて「いえ。」「これは 無人島に漂着する子供たちの物語で『十五少年漂流記』みたいですけれど、無人島という極限状態におかれて、秩序から無秩序になっていく悲劇で、人の持つ内面の恐ろしさが描かれているという話です。」
『蠅の王』は知らなかったけれど、私たちは二人とも本の虫みたいに読書が大好きである。それ で 大抵のジャンルの本に目を通している。今まで読んだ本で、あるいは手元にある本で、このお嬢さんに合いそうな本は何だろう。翻訳ものだけれどケン・フォ レットの「大聖堂」は大河小説だ。気に入って何度も読み返していて、瀋陽にも持ってきている。日本のうちにも置いてあるから、瀋陽に戻ったら送ってあげよ う。
十代の時に読んで感銘を受けた本は、外国ものではアナトール・フランス、ジイド、ヘッセ、トーマス・マン、レールモントフ、ロマン・ ロラン、古い作家ではリルケ、ハイネ、ゲーテ、ゾラ、フロベール、モーパッサン、スタンダール、バルザック、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフス キー、など挙げていけば切りがない。私が育ち盛りに読んだ日本の作家では島崎藤村、夏目漱石、芥川龍之介、いろいろあるが古いだろう。現代の作家では、村 上龍や村上春樹はどうだろう。対照的な二人だが、現代の日本を代表しているらしい。でもこの頃の私は、ストーリーが面白くなくては読まなくなったから、私の小説感動度は、若い彼女の感受性とは大分かけ離れてしまっているかも知れない。
西安で言葉に表しつくせないほどお世話になった張敏老師 に、それと見合う恩返しはとてもできそうにないが、せめてお嬢さんに彼女の喜ぶ本を送り、そしてそれが彼女の精神的成長に役立つならもう言うことはない感 じである。二つの国をよく知っている彼女は、両国の将来の関係にかけがえのない人に育つだろうと信じている。キャンセルしてしまった講義の約束を果たしに又何時か西安に戻ってこよう。この夢祺さんに再開するという楽しみも出来たことだし。
中国に来てからの知人の中に天津に進出した盛本さんがいる。以前の彼は武田製薬研究所の研究員だったという話である。いま薬科大学の客員教授で年に2か月瀋陽に来て講義をされる貴志先生はもともと武田薬品の大物で、その関係で2年前に一度瀋陽で紹介されたことがある。
盛本さんは天津で医薬事業の展開をしていて、去る8月初め私に電話があった。「10月半ばに、三重県の県庁、製薬企業、大学から『瀋陽三重県交流会』という名前で30人くらいの視察団体が瀋陽を訪れます。その時、大学で教えている立場から『中国の学生の特徴と日本向け人材の現状、および期待と課題/日本人が心すべき中国人材との応対など』などを話して貰えませんか。」という内容だった。
話す人として一番ぴったりなのは、薬科大学の学生に日本 語を教えている日本人の先生方である。ところが間の悪いことに、4年滞在した峰村さん、3年滞在した南本さん、および加藤さんという3人の日本人の日本語 の先生たちが揃ってこの7月に辞めて日本に帰ってしまったところだった。
3人の誰かが残っていれば彼らに振った話だけれど、9月に到着した3人の新任日本語教師ではこの話は持って行けない。これは私がやるしかないか、と思った。でも、何が話せるだろう。
私は専門の研究の話をするのに慣れているけれど、そのときは精緻な自分の実験データに基づいて専門家相手にする話である。専門外の人たちに一般的な話をした ことがない。そのためには特殊な能力が必要で、私たち研究だけやってきた人間にはその持ち合わせがない。すくなくとも、私にはない。
もちろん4年間、中国の瀋陽で、しかも中国人の学生相手に暮らしてきたのだ。彼らについて話すことはいくらでもある。今までにここの生活で感じたことを書いてきたホームページの中から二三個の挿話を拾い集めるだけで、話の材料はいくらでもある。
でも、研究者の悲しさでデータに基づかない話は自信を持って話せない。科学の世界で引用する話は厳密な検証を経て客観的に正しいと認めたものだけを使ってい る。別の言い方をすれば、人から聞いた話、本や教科書で読んだだけの話をそのまま自分の話に入れて話すことは出来ないのだ。
ついでに書くと、この大学には学生に対して教官の数が足りないので、教科書を読んで教えるだけのTeacherというポジションがある。ここは研究経験の全くない大学 出たての人が「ヴォートの生化学」を学生の前で読むだけで学生の教育が出来ると思っている大学なのだ。信じられないことである。
教授は自分の研究を背景に、そしてその研究の過程で自分で勉強した知識を元に講義をするから教授なのだろう。だから講義は一人一人が違っているし、その教授しか話せない話なので意味があり、面白いのだ。そのような常識は日本のものであり、ここでは通用しない。
大学院の入試が国家統一基準で行われるので、受験者は教科書を覚えることが必要とされている。学生に教科書の内容をどうやって覚えさせるかが大事で、教授が 個性を出すことはここでは要求されていない。それにしてもだ、教科書なんて学生が自分で読めばいいのだ。そのための教科書ではないか。教科書には載ってい ない話をして、学問の理解を助け、あるいは自分のこの学問への興味を話して彼らの興味をかき立てるのが教授の役目ではないか。
ともかく三重県からの訪問団を相手に私が話すなら資料が必要なので、データ調べを始めた。そして話は
1.中国のクスリ事業に目を付けるのはとても良いことです
2.中でも瀋陽に目を付けたのは慧眼ですね
3.特に中国人学生を人材と考えると素晴らしいですよ
というように構成することにした。
幸い、つい数日前の10月12日にYahooを見ていて良いニュースが眼に止まった。
「10月の国家統計局の発表によると、瀋陽市は地域経済の中核として大きな発展を遂げ、都市別GDPランキングで、2005年は18位だったが、2006年は 11位と大きなジャンプアップを果たした。」というのだ。2003年「東北地区振興計画」の制定が大いに効いたわけだ。このように躍進した時期に瀋陽を訪 れるなんて何とタイミングが良いことだろう!
10月22日に話す内容は以下のようにしようと考えた。
「1.中国のクスリ事業に目を付けるのはとても良いことです」
現 在世界の製薬事業は6,430億ドルの売り上げがあり、アメリカがこの45%、日本が9.9%を占めている。中国は現在わずか2%である。しかし、もし中 国の経済が順調に発展すれば、人口比を考えるといずれ日本の10倍の金をクスリに使うことになる。単純計算で6400億ドルとなり、これは現在の世界の製 薬事業に匹敵する。中国を相手に製薬事業を考えるのは、金鉱の上にいるようなものである。もちろん誰でも掘れるわけではないけれど。
「2.中でも瀋陽に目を付けたのは慧眼ですね」
瀋 陽を中心とする東北三省は日本語人材供給の宝庫である。東北三省で毎年5750人の日本語を勉強する大学生が育っている。瀋陽には東北育才外国語学校のように高校のレベルで十全な日本語教育を施して日本の大学に送り出すシステムもある。このほかに日本語学校が無数にある。日本語を話せて、しかも英語も使える専門教育を受けた優秀な学生がここには沢山いるのだ。
瀋陽薬科大学という名前は日本では聞いたことがないかも知れない。実際に中国100大学選には入っていない。しかし、MedlineあるいはPubMedに引用される研究論文数で比較すると、香港と台湾を除いて16位である。この 論文数は大学の規模によるわけだから、一人一人の活動度を計算して比較してみると(教授の数や学生数などの、分母の取り方で多少の変動はあるが)、中国全 土で6-9位という順位になる。日本で言えば東京工業大学の順位と同じである。素晴らしい地位といってよい。
「3.特に中国人学生を人材と考えると素晴らしいですよ」
こ の大学で見ていると学生はよく勉強する。日本の普通の大学の学生で、何をしに大学に来たのか分からない学生たちを見ていると、ここは教授の天国である。どうしてここの学生はよく勉強をするのだろう。これは、一つには学費が高くて農村出身では13年分の所得を使わないと一人の子供を大学にやれないと統計にも でていることから、当然頷ける。親兄弟の苦労と犠牲を無駄にしてはいけないから、彼らは一生懸命勉強して在学中は奨学金を取ることを目指し、大学院には推 薦(学費免除)で入ることを目指し、良い会社に入って良い給料を取ることで、親兄弟・親戚への恩返しをするわけだ。
中国は人が多くて、おとなしく黙っていては下積みになる競争社会である。ひとかどの人になるには勉強しかない。子供の時から親にせかされて、彼らは勉強の習慣が身に付いている。日本で親が子供に勉強するように叱ると金属バットで殴り殺されるのと大違いである。
こうやって勉強に明け暮れた彼らを待っているのは、洋々たる明るい未来の中国なのだ。実は、有限の資源と環境に置かれた地球丸に私たちは乗っている。今のま まだと世の中の資源は枯渇し、炭酸ガスが増えて地球人類の将来は危なくなるが、彼らはそんなことは思っても見ない。その意味でいうと視野は狭いけれど、希 望に燃えて勉学に励む学生と、「ぼくの将来知れたもの」と怠けている日本の学生と比べたら、どちらの将来性が高いだろう。
瀋陽はこのよう に良いことづくめの人材の宝庫なのだ。というような話を31枚のスライドにまとめて10月22日黎明ホテルに集った視察団を前に講演した。評判は良かった と思う。一緒に食事をしたあとも視察団の一部は薬科大学にも視察に来られたのでさらに歓談できたし、三重大学、製薬企業、県庁から来られた多くの方々と知 り合うことが出来たことは大きな収穫だった。
その日の夜になって、インターネットを見ると「中国の教育制度は科挙のまま?」という記事が あった(2007年10月22日サーチナ・中国情報局)。http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007& amp;d=1022&f=column_1022_008.shtml
『中国では教育が唯一の出口として、全ての人々が懸命に なる。西洋人の進学がまるで広い道路の上にあるなら、中国人の進学はまるで丸太橋のようである。私はいくつかの原因があると思う。(一部省略)現代社会で は、都市と農村の格差が拡がり過ぎている。農村人が一度、大学に入れば、生活の質は数倍向上し、農村人から都市人に変身でき、社会の低層から中層に上がる ことが出来る。ゆえに、わずかにでも知能が高く、また理想を持つ農村の子供は、背水の陣の心情で試験を受ける。彼らの心中は、合格すれば天国で、不合格な ら地獄だ。』
この記事を補えば、こうやって大学に合格した学生は一生懸命に勉強して卒業し、農民から都市人へと変身を果たすのだ。この必死さが学生の勉強熱心の大きな原動力だろう。
ひるがえって今の日本はどうか。製造業が日本を出て行った。人材育成も日本を離れて中国で行われている。日本人は大学で遊んで暮らして何も身に付いていない。英語もしゃべれず、そして給料だけは高く要求する。アメリカの企業が人を雇おうと思えば、英語、中国語、日本語も出来て、日本人よりも安く雇える中国人を雇うに決まっている。人が市場競争力を失った日本の将来はどうなるのだろう。
旅行中の西安の病院で私が 少し良くなった頃、病院で言葉が困るでしょうと言って張敏老師が付けてくれた付き添いの曹峰岩くんは、陝西科技大学応用化学科4年生で、就職希望である。 希望の会社は高分子合成の会社だが、英語による面接試験があるという。それで張敏老師からは、英語の練習になるように英語でいろい ろと話をしてみてくれと頼まれた。どちらにしろお互い共通語は英語しかないから、英語を使うしかないわけだけれど。
でも話してみると、英語で話して磨きを掛けると言うのは無理で、まだ基礎的な力がないことが分かる。ということは英語でいろいろと話しても役には立たない。急遽方針を変えて、 面 接対策に話を絞った。面接試験では、「大学でどんなことをやってきたのか、どんな科目が好きだったか、学科以外にどのような活動をしてきたか。大学の専門 はどういう理由で選んだのか。」などが先ず訊かれるだろう。話しているうちにその人の性格が出てくるから、それで試験官は彼を志願者の中で見比べるわけ だ。
実際に「大学でどんなことを勉強したのか、何の科目が好きだったか。」訊いてみた。すると彼が言うには、「本当は高分子化学は好きではありません」「どうして?」「だって、実験は下手だし、やっていても面白くありません。」という。
「それじゃ、何が好きなの?」というと「本を読むのが好きです。歴史も文学も大好きです。科学的な空想小説を読むのも好きですし。化学の実験は好きではないで すが、科学の一般的な話、発見物語や、科学者の伝記を読むのも大好きです。音楽を聴くのも大好きです。」という。実験が下手なことを除けば、まるで私みたいだ。
「化学の実験が好きではないのに、どうして高分子化学を選んだの?」と訊くと、「父がこの領域は将来性があると言って勧めたのです。」と言う。「お父さんは何をやっているのですか?」と聞くと公務員だという。
ともかく面接では、高分子化学の会社を受けるのだから、「化学が得意ではないとか実験が下手だとか、negativeなことを言っては駄目だよ。」「嘘をつ いてはいけないけれど、何もすべてに亘って真実を言うことはないのだから。」そして、「応募者は誰も似たようなことを答えるのだから、貴君が他の人とどう 違っているかを売り込んでそれを印象づけなくてはいけない。」と教えた。「つまり、こんなふうにしたらどうだろう。」
「私は公務員をやっている父が、この高分子化学の将来性を見越して私に熱心にこの道に進むように勧めました。実際に経験してみて、私は実験がそんなにうまくありません。高分 子化学が一番好きというわけでもありません。しかし、私が自信を持って言えることは、私は高分子化学だけを知っている訳ではないと言うことです。私は化学 以外にも数学が好きですし、いろいろの分野の本を読むのが好きです。歴史も文学も大好きです。生命科学の本を読むのも好きです。科学の一般的な話、発見物 語や、科学者の伝記を読むのも大好きです。音楽を聴くのも大好きです。
つまり私の頭脳は柔軟で、いろいろの角度からものを考えることが出 来るようになっています。これからいろいろと研究をする時に、多方面の知識を基礎として柔軟な思考、飛躍した思考が出来ることは、とても大事ではないで しょうか。硬直した思考では、突発的な危機を乗り越えられないでしょう。でも私はそれが出来ると確信しています。」と言えば、自分に正直に、しかも自分の特徴を長所として売り込める。
「次に面接試験では『どういう理由で貴君はこの会社を選んだか?』と聞くでしょう、何と答える?」と訊くと 宋くんの口からはごく当たり前の会社讃美が返ってきた。「いい業績を上げている良い会社だから」なんて言われても、応募者からのお世辞は当たり前すぎて何の役にも立つまい。人が言わないことを言わなきゃ、自分を選んで貰えない。
「会社が成長したのには何か理由があるはずでしょ。会社の広告、パンフレット、資料を調べてご覧なさい。会社の業績が伸びた理由が何処かに隠されているはずです。たとえば、ポリエチレンペレットの生産で業界一位だ としましょう。この領域に真っ先に目を付けたからとか、研究開発部門が頑張って優れた生産技術を開発したからとか、何かあるはずです。」
「優れた生産技術を開発したというなら、『貴社の開発した優れた生産技術で会社はここまで伸びてきています。この先も業界のトップでいるためにはさらに新しい技術を開発が必要で、私はそこのところに貢献したいし、出来ると思います。』というのはどうでしょう。」
「この領域に真っ先に目を付けたというなら、『先見性のおかげで会社は見事に発展してきました。さらに会社を大きくするのにいずれ次の手を打つ必要があるで しょう。私はそこのところで会社の新しい方向性に貢献したいと心から思っています。私の今までの幅広い興味はきっと役に立ちます。』と言えるのではないでしょうか。」
「以上の質問は応募者の誰にも訊く質問でしょう。だから英語で何度も考えて、すらすらと話せるように練習しておきなさい。質問にも変異がつけられるでしょうから、別の質問も想定して考えなさい。
さらに、このほかにも例え ば「中国の工業生産が伸びるに従って環境汚染が問題になってきているが、貴君はこの経済成長と環境問題をどう考えるか?」とか、「生まれる子供の男女比に 差があって、十年後には結婚適齢期の男性の数は女性に比べて3千万人余分になると言われている。貴君はこの問題をどう思うか。」 というような時事問題を訊かれる可能性があると思った方がいいですね。
すくなくとも日本なら必ず訊かれるから、世界の、そして中国の時事問題、社会問題をいろいろと考えて英語で議論できるようにして置きなさいね。」と言う具合に、私たちは2時間余、彼の就職試験対策をしたのだった。
瀋陽日本人教師の会の若い女性の先生の一人が「夢みるアキコさん」と呼ばれていることを最近知った。先日、教師の会の定例会のあといつものように食事会をしている時に、一寸離れたところで交わされている会話が耳に入った。
「そんなこと言ったって、アコちゃんの言うことなんか信じられないんだから。この間だってキュウリのビールがあるなんて平気で言っている人なんだもの。」と遠方の女性の先生にこき下ろされている。
「キュウリのビールだって?」と思わず声が出てしまった。キュウリのビール漬けなら聞いたことがあるけれど、キュウリのビールは聞いたことがない。するとアキコ さんが言うには、「この間ね、北行に行った時にね、キュウリのビールを飲んだんですよ。」北行というのは瀋陽の中心から北西の方角にある繁華街だが、私た ちのいるところからは一寸あるので滅多に行くことはない。
「店の地ビールに二種類あって黄色と緑があるって言うから、黄色はともかく緑なんて珍しいでしょ。それで緑って何なの?と訊いたらキュウリで出来ているんですって。だから飲んでみたんですよ。」
キュウリの水っぽい香りが鼻の奥にかすめた、ビールとは合いそうもない気がするが、「それでどうだったの?」「いえ、キュウリの味はしなかったんですけどね。緑色のビールだったんですよ。」
「そんなものがあるはずがない。」というのが彼女の友達の意見である。アコちゃんは夢と現実がごっちゃになっていることがあるから、「きっと夢に見た話なのよ。」
話の真偽は分からないが、ビールを造るには穀物の澱粉を糖化した上で発酵させるから、澱粉というほどのものも殆どなさそうなキュウリを材料にするのではビー ルを造るのは大変な手間と金がかかるだろう。緑色だって、ほうれん草ならジュースにすれば青々と色濃く仕上がるが、キュウリでは薄緑色がせいぜいではない だろうか。キュウリで緑色にするには、キュウリを大分使って相当青臭くなるだろう。
「あんまりみんなに言われるものだから、私もひょっとして夢に見たのかと思ってしまうんですよ。」と「夢みるアキコさん」は私の斜め前でにっこり笑って言い出した。「こういうことが始まったのは、私がまだ子供だった時なんです。」
「私には姉が二人いたので、何時もおやつは3人で分けるという習慣が付いていたんですよ。」よく分かる、私には姉がいて子供の頃は、何時もおやつは二等分だった。戦後のひどい時期の話だから、おやつがあったとしての話だが。
「ある時、母が上の二人を連れて出掛ける用事があって、私はまだ小っちゃかったから私にキャラメルを一箱おいて、『アコちゃん今日はこれを全部食べて良いわ。』と言って出掛けたんです。」一人になって、キャラメルを全部食べようとしたんですけど、それでもやはりいつものように姉たちに残しておこうと思って、二粒だけ残しておいたんですよ。」
ところが、帰ってきた姉たちにキャラメルを残して置いたと言ったら凄く怒ったそうだ。「キャラメル一粒をどうやって二人で分けるの!」「つまり二つ残したはずなのに一つしか残っていないんです。おかしい、ちゃんと残しておいたはずなのに。」
姉たちにキャラメルを好意で残しておいたのにさんざん怒られたアコちゃんは、その夜よく寝られなかったらしい。うつらうつらしていたアコちゃんの見たものは、真っ暗闇に上から一条のライトが照らされて、そこに浮かび上がったのは二足走行のネズミたちだった。手と足を揃えて歩くやっこ歩きで進んでいる。列の最後のネズミが両手で頭の上にかざしていたのはキャラメルだった。ディズニーの「白雪姫と七人のこびと」のマーチに合わせてネズミたちが嬉しそうに向こうに歩いていくのを、手を出しちゃいけないと思ってじっと我慢して見送ったという。
「これが私の覚えている「妄想」の最初なんですよ。それからも始終こういうことがあって、何時もそれは現実ではないと言われたからきっと私の夢想だったんでしょうね。」
そりゃ凄い、と言うのが私の反応である。「妄想」であり、「夢想」かも知れないけれど、こういう荒唐無稽なことが頭の中にすらすら生まれると言うことは実は 小説家の才能ではないだろうか。小説家は空想の大家なのだ。作られた物語の細部までつじつまが合わなければいけないけれど、普通の人が思いも寄らない話を でっち上げる能力のある人が小説家になれるのであり、私はそれを何時も羨ましく思っているのだ。
子供の頃は本が大好きで、小学校の教科書 に出てきたスイミーという魚の話を繰り返し読んでいるうちに覚えてしまった。授業開始に遅れた罰として立たされた時に教科書なしで暗唱をして、驚いた先生 が最後まで続けさせたというアキコさんである。夢想の中に実は小説家の原型ができあがって来ていることに、周りも本人も気づいていないのだろうか。「夢み るアキコさん」が嶽本野ばらの「下妻物語」をしのぐ作品で何時かデビューする日を私は夢みている。
「先生。あの先生の名前を教えて下さいな。」そういって私に嘆願しているのは陳陽くんである。「駄目、駄目、そんなに簡単に教えられないね。今度、食事くらいおごったら教えてあげるよ」と私。場所は学生食堂で、夜の食事をしながらおしゃべりをしている。
こ のところ夕方うちに帰っても断水にぶつかることが多い。夜の7時半から8時頃にならないと水がでない。断水の間は夜の食事を作ることが出来ないから、冷凍庫に入れておいたご飯を暖めて缶詰のおかずで食べるか、あるいは水が出るまで待つかしかない。そういうわけであまり好きではない食堂にこの頃は夕方になって時々来るようになった。
「先生。いいじゃないですか。意地悪しないで、あの先生の名前を教えて下さいよお。」と陳陽はラーメンを食べながら悲鳴混じりの声を出している。「先生は私のライバルじゃないんですから、教えたっていいでしょう。」とごく理性的な線で私に迫ってくるが、こういう時に陳陽をからかうのは快感である。簡単に教えてしまったら、楽しみは終わってしまう。
何しろ陳陽は言ってみれば「孔雀男」である。と言っても分かり難いかも知れない。私はここでは「老孔雀 開屏」と酷いことを言われている。これは年老いたオスの孔雀が、昔の夢を忘れかねてメス孔雀の前で尾羽根を広げるがメスからは一顧もされないと言う、悲しくも、残酷な比喩である。
それに比べて若い陳陽は際だっておしゃれな男で、背の高い東北人の中でも飛び抜けて背の高いことも相まって薬科大学中名前がとどろいている。本人も整った自分の顔がだいぶ気に入っているようである。
と言うわけで私たちの研究室には老孔雀と年の若い綺麗な孔雀がいることになって、したがって事ごとに角突き合わせているという構図が面白くて私は気に入っている。もちろん、相手を気にしているのは老孔雀の私だけであって、年の若い孔雀の方は私のことなど気にも留めていない。
先の土曜日は私たちの研究室でPC講習会と映画上映を行い、終わってから食事に出掛けた。もちろんPCの講習対象は日本人教師の会の先生たちだが、私ひとりだけでは手が足りず、PCに強くて日本語が話せる陳陽にも助けてもらった。
ホームページ作成には私もWindowsを使っているけれど、Windowsマシンは本職ではないので、機器のメンテなどは陳陽に頼むことが多い。陳陽も以前から何度も会ってすっかり気に入っている池本先生も現れることになっているので、喜んで引き受けてくれた。
教師の会のこういう活動に興味を示してくれるのは若い先生が多いので、集まった先生たちは女性ばかりだった。だからと言うわけではないが、日本語が上手な陳陽はこういう時に役立つのだ。実際、一人では手が回らないからPC講習の時に手伝って貰ったのは正解だった。
3 時からは研究室の日本語専攻の学生も含めて「下妻物語」を観た。この映画は世の中の、と言うか私の常識からはぶっ飛んでいる女子高生が二人出てきて奇想天外な物語を展開するのだ。終わってみれば映画にすっかり引き込まれてこの二人の間に紡ぎ出された友情に納得していたのだった。
そのあと陳 陽も誘い、皆で揃って医科大学の日本人留学生が開いている故宮近くのレストランに行った。火鍋がこのレストランの売りで、このように寒くなると火鍋はぴったりである。ただしこの日は氷雨が降って零度に温度が下がって、タクシーも止まってくれないから行き着くのに難渋した。
食事だけ参加する 人たちもいて全部で9人が卓を囲んで火鍋を楽しんだ。その中でも一番人気のあったのは陳陽である。9人の中の新顔だし、全体の中で唯一の中国人で、日本語が話せて、しかも甘いマスクをして、女性に甘えるのがうまい。皆から「陳くん」とか、「陳さん」とか呼ばれて喋るのに忙しく、終わってみると「あれ、陳くんはあまり食べなかったわね。ってことは、私たちが一杯食べたのね。」と言われるくらいおしゃべりに引っ張りだこだった。
さて、そのあと のこと。「先生、あのときの先生たちは私のことは陳陽って知っているのに、私は池本先生しか知らないんですよ、ほかの先生の名前を教えて下さいな。」と私に迫るのである。「だって、先生たちの名前を知らないのは失礼でしょ?」と当然のことを言ってくる。教えない私には理がない。だけどすんなりと教えたら面白くない。と言うわけで、しばらく攻防戦が続いたが、それも食事が終わって部屋に戻るまでだった。
部屋に入ると陳陽は直ぐにPCのところに行き、「先生の顔写真をみれば分かるんだから」と言って、インターネットの「瀋陽日本人教師の会」に接続した。
と言うわけで、陳陽から食事をせしめることには失敗したが、代わりにこうやって「研究室日記」の一つができあがったのだ。ま、悪くない取引である。
薬科大学の構内にある学生食堂は5階建てで、7千人からの学生を毎日朝昼晩と食べさせなくてはならないから当然のことだけれど、大きくて広い。
この食堂は大学内の学生相手の商売をしているだけではなく、外から稼いでいる。ひとつは饅頭で、饅頭を箱に一杯詰め込んだ自転車が3台は毎朝大学を出て行く。行き先は近くの朝市で、野菜、肉、魚、乾物、端切れなどをござに並べた行商の集まる通りに、この饅頭売りも出掛けて行って売ってくる。この饅頭は小麦粉で作った蒸かしパンで、中には何も入っていないし味も付いていないが、でっかい。直径10センチはあって、3個で1元。
このほか豆腐も食堂で作って同じように外に売りに行っている。6センチの厚さで10x10センチ角くらいの日本の豆腐よりも少し堅めの豆腐が1元だった。この夏の初めまでは。
薬科大学の正門の外の一寸した空き地にリヤカー(荷台が前に付いているので本当はフロントカー)を止めて豆腐を売っているが、外で昼間売っているのはどうも危なそうで、長い間買ったことがなかった。
薬科大学の日本語教師の峰村先生のお宅で、長野名物の日本でも滅多に食べられない美味しいそばを何度もご馳走になったある時、鍋料理で中に豆腐が入っていた。熱々の豆腐を、日本から持ってきたというポン酢に付けて食べると美味しい。「この豆腐は?」と聞くと正門前で買ったものだという。なるほど、あそこで買えばいいのか、と合点して、買うようになったのは1年前くらいのことである。
この豆腐の売り子がとても可愛い。えくぼが初々しく可愛いこの子はまだ18歳くらいに見えて、実際に「18歳だよね」と訊いてみたら本当に18歳だった。ある時カメラを持っていたので近づきながら写真を撮った。フラッシュに気づいてしまい、もっと撮ろうとするとリヤカーの陰に笑いながら隠れてしまう。
「まだ豆腐ある?1個ちょうだい」と言うのが私にはやっとのことなので彼女と会話が弾むわけではないが、彼女の店をたたむ夕方6時前に帰ることが出来ると、豆腐を買う習慣が出来た。
夏の間は豆腐が持たないのだろう、休んでいて9月になったら豆腐売りの少女がいつもの場所に、いつものように出てきた。「やあ、久しぶり。元気?また1つちょうだい。」彼女はにっこりと挨拶を返したが、済まなそうに「一個1.5元です」といった。
50%の値上げである。このところ瀋陽でも食べ物の値が上がっている。とても気に入っていて時々2ブロックを歩いて食べに出掛ける蘇氏拉麺も、以前は5元だったのが、この夏には6元になった。
レストランに行って食べる料理の皿に載っている料理の量が、以前から見ると大分減った。一般的に、中華料理は人数分の皿数を注文すれば腹一杯になると考えて 良い。つまり一皿の分量はかなり多い。それがこの頃は皿に料理が品良く座っている感じになってきた。値を上げない実質的な値上げである。良く出掛ける湘香 餐庁でも行くたびに皿に載る料理が減っている感じがする。
実際、中国国家統計局(National Bureau of Statistics、NBS)が発表した7月の消費者物価指数(CPI)は「前年同月比で5.6%増(2007-08-12)」という。8月の消費者物 価は、「去年同期より6.5%上昇(2007-09-12)」で、「9月は河南省では7%(2007-10-13)」だった。
消費者物価指数CPIは、2007年通年の政府目標値として3.0%を挙げているから実際の上昇率は目標のほぼ2倍であり、インフレが過去10年見られないほど高い水準で進んでいることが明らかである。
「インフレ率が急上昇した背景には、食料品価格が前年同月比(7月)で15.4%も急騰したことがある。精肉に限ると45.2%も上昇しており、温家宝首相 は、中国国民の主要なたんぱく源となっている豚肉について、安価な供給を確保するよう生産者らに要望した。(中国情報局2007年08月13日)」という。
豆腐の50%値上げは0.5元なので応えないが、特に豚肉の値上がりはひどく、食べ物の上がったことは皆がぼやいている。
人々が言っている原因は、トウモロコシを燃料アルコール調製に使うことになったからだという。食料とのバランスを考える前に燃料アルコール調達計画を発表し てしまったのではないかと思う。オリンピック特需もあるし、中国も市場経済に傾斜した以上、思惑で値が上がるのは避けられなくなったわけだ。
ところで豆腐の値段は1か月くらいで元の1元に戻った。「だけど大きさが小さくなったんじゃない?結局値上げだよね。」というと、売り子は「ええ」と答えて、自分が悪いみたいに肩をすぼめて済まなそうに小さく笑った。
中国銀行によると10月の物価上昇は6.4%(10月31日中国情報局)だという。これが続くと豚肉どころか豆腐も買えない生活になりそうである。
研究に水はつきもので、しかも綺麗な水が必要だ。私たちが学生の頃は綺麗な水というのは水道水を蒸留して作った蒸留水が化学実験で使われていた。水の蒸留が 水の浄化には一番簡単だが、沸点が100度以下の有機溶媒は一緒に入ってくるし、沸騰の際に一緒に細かなイオンや粒子も飛び込んで入ってくる。
それで、細胞の培養のためには蒸留しただけの水では駄目で、さらにイオン交換水、逆浸透水が使われるようになった。逆浸透水を作るには汚い水を原料にしては装置がたちまち傷むから、蒸留水をこの装置に等して純粋を得ることになる。
昔私がいた三菱化成生命科学研究所では最初から全研究室に、通常の水道の冷水と温水のほかにイオン交換水が配管されていた。細胞培養のためにはこのイオン交換水をさらにミリポアの純粋製造装置に通して超純水にして使っていた。
さて、瀋陽に来て最初に直面したのは水をどうするかである。水道水は綺麗ではない。沸騰すると白い沈殿が沢山出来る。つまり化学的に見てかなり汚い。生物学的に見ても、瀋陽では誰も水道水を飲まないのだから汚染されていると思われる。
あちこちの実験室で聞いてみると、蒸留水を買っているという。どうやって買うの?と言うと、蒸留水を毎週1回売りに来るのだという。それで研究室では石油を 入れるようなポリタンクを10個くらい用意して、「蒸留水が来たよ」と放送されると、そのポリタンクをカートに乗せてわらわらと我勝ちに建物の外に行く。
建物の外には蒸留水を積んだ小型トラックが来ている。トラックの荷台には6個のドラム缶が乗っていて、太いホースを使ってサイフォンの原理を利用してそれぞ れのポリタンクに水を移す。水をポリタンクに入れる時は水がこぼれて辺り一帯水浸しになる。夏ならいい。冬だと水を移している端からこぼれた水が凍ってい く。下の道路はつるつるで危険この上ない。ズボンが濡れれば、身体が文字通り凍り付く。
だから、この売りに来る蒸留水は利用するのは問題外である。おまけにあまり綺麗ではない。
計り売り蒸留水をつかわないで、水道水を一番安いコストで純度を少しでも高めるとすると、蒸留か脱イオンである。脱イオンカラムを用いると水道水があまりに も汚いのでイオン交換カラムが直ぐ駄目になる。蒸留機だと、水道に含まれている不純物が沈殿して何時か蒸留機のヒーターの周りに堆積し蒸留機を駄目にして しまう。それでも蒸留機の方が安い。蒸留機は7千元くらいするけれども壊れるまで2年持つなら、研究室で蒸留機を買って自前で蒸留水を作る方が水質が確か である。これを研究室の第一次精製水にしている。
学生が交代で蒸留水製造装置を運転して蒸留水を作ってガラス器具の洗浄のあとの濯ぎにこれをつかうし、ミリポアの純水製造装置に通す水の原料にもしている。
2003年に研究室を始めてから予想通り蒸留機は2年近く働いたあと壊れた。底には沈殿が堆積して金属も腐食して直すことは出来ない。買い換えである。瀋陽に来て4年が過ぎて、この夏とうとう3台目を買うことになった。
今までと同じものを買った。買ったはずだった。ところが手に入れて運転を始めると、電気のコードが異様に熱いといって学生が呼びに来た。触ろうとすると、触 ることも出来ないくらい熱い。蒸留機の横に張ってある板に書いてある定格電流を見ると30アンペアとある。これはすごい。廊下に出しておいた駄目になった 前の機器を見ると15アンペアである。ヒーター容量が2倍になっているのだ。2倍になっているのに電気コードの太さは以前と同じである。電流が2倍流れれ ば発熱量は2倍になる。以前のヒーターなら良くてもこれではこのコードは持たない。
試運転をすればメーカーでも直ぐに分かることなのに、 呆れたお粗末だ。対策は電気コードの導線の直径を太くして抵抗を減らすか、またはヒーターの容量を半分にするかである。このままなら火事になるかもしれな い。建物が燃えたらこれは蒸留機を作ったメーカーの責任だ。直ぐに直すようにメーカーに言うよう学生に指示をした。
もしぐずぐず言うならこんな欠陥製品は受け取れない。火事になった時の責任を取るように言えと学生に指示した。学生はこのようにきついことことを誰かに言うことに慣れていないらしく、びっくり呆然として、まじまじと私を見ている。
メー カーがコード交換のために蒸留機を引き取りに来て数日後、電気コードを取り替えたという蒸留機が届いて、これを使い始めたところ、容量が大きすぎて電気の フューズが飛んだ。一難去ってまた一難。今度は研究室に来ている電線を、私たちが金を払って容量を増やす工事をして貰った。それでも日本の時と違ってこの 大学のいいことは、電気の使用量を自前の研究費から払わないでいいことである。
最近、薬科大学の建物の中で女子学生がレイプされそうになったと言う話を学生から聞いた。何人かから聞いたのでこういうことがあったのは確かなようだが、大学当局に確かめたわけではない。
夕方4時頃、大学の正門から近いところにある研究棟に男がきて、廊下で不用意に応対した女子学生を部屋に連れ込み、中から鍵を掛けて乱暴をしようとした。抵抗する物音と助けを求める声で研究室の仲間の学生が駆けつけ、ドアを椅子で打ち破って中に入って女子学生を救出した。
この男を掴まえたところ、精神障害者であるという病院の証明書を出して自分の責任ではないと言い張ったと言う。それでも、もちろんその研究室の教授は大学の守衛を呼んで引き渡した。警察に連行するためである。しかし、この男は外に出た時に隙を見て逃走したという。
その翌日、またこの男が同じようにこの建物にやってきて女子学生を物色しているのを見つけた。直ちに男子学生が集まってきてこの男を殴りつけ掴まえた。今度 は警察を呼んで直接警察官にこの男を引き渡した。ところが、この男は精神障害者ということで免責されて翌日には警察から釈放されたのだという。
精神病者が一般社会の中に野放しにされているというのは恐ろしいことだ。精神病でも普通は身体の方はまともに育っている。それを制御する脳神経に異常がある のだから大変危ない。普通の、しかも社会的地位もある男でも何かの時には痴漢をやってしまうのだから、もともと抑制機構が働かない人はとても危険である。
その男が拘束されることもなく釈放されたことから、この大学の女子学生たちは改めてこのキャンパスの中での生活を怖がっている。大学の門にも、建物の出入り口にもそれぞれ守衛がいる建前になってはいるけれど、機能しているとは言えない。
私たちの研究室の憲章には、研究室の生活の中での注意事項もいくつか書いてある。建物の中でも性犯罪が起こりうるので、女子学生が一人で遅くまで研究室に居 残って実験をしないように注意を喚起している。実際のところ建物あるいは大学キャンパス内で、外部の不審者を見分ける有効な組織もないし手段もないから、 未然に防ぐしかないわけだ。外部ではなく大学の中の人が性犯罪を犯す可能性だって当然あるわけだが、それだって防ぐ有効な手段は一つもないのが現状であ る。
インターネットには韓国における大学の性犯罪多発に関する記事が載っていた。
「大学のキャンパスは性犯罪の死角と なっている。通常は警察の監視の対象外となっている学校の構内で、性犯罪が増え続けている。警察庁の調査によると、学校の構内での性犯罪発生件数は、 2004年の110件から、05年には126件、昨年には143件となっている。このうち、小・中・高校での発生件数は1年間で10件前後に過ぎず、ほと んどが大学のキャンパス内で発生している。
キャンパス内での性犯罪の多くは深夜、大学の建物の内部や、ひと気の少ない路上で発生してい る。同じ大学の男子学生が女子学生に性的暴行を加えるケースが多いが、一方で外部の変質者がキャンパス内外で女子学生を襲う事件も発生している。(朝鮮日報2007年10月29日パク・シヨン記者ビョン・ヒウォン記者)」
「キャンパス内で犯罪が起きやすい場所に監視カメラが設置されていな いということも、犯罪増加の原因として挙げられている。また、一部の大学ではトイレなどに非常電話や非常ベルが設置されているが、この程度ではキャンパス 内での犯罪を防ぐには物足りない、という指摘も出ている。
「一方、専門家たちは、米国やオーストラリア、ニュージーランドのような「キャ ンパス・ポリス」制度を導入すべきだ、と指摘している。この制度は、大学が雇用した警備員が、深夜に帰宅する女子学生たちを寮や自宅まで無事に帰れるよう 護衛するものだ。(朝鮮日報2007年10月29日パク・シヨン記者ビョン・ヒウォン記者)」
この問題の対策に大学が何かするとも思えな いので、せめて自前で出来ることをやってみよう。思いつくことの一つは研究室に非常ベルを設置して、リモコンスイッチを各人が携帯することである。非常ベ ルは研究室に3つある部屋のそれぞれに設置して一斉に鳴るようにすれば、犯人はベルを止めようとするよりまず逃げ出す方を選ぶだろう。
もう一つは抑止効果を狙って、研究室の中に付けるか外にするかはまだ考えるとして、部屋の入り口に監視カメラを設置することである。この建物の中では盗みだって時々あるのだ。人の動きを関知して監視カメラを起動するようにするか、映像を1秒おきに記録する装置を導入しよう。
その上で「防犯カメラで監視中」と書いて張っておけば通常の犯罪、性犯罪の抑止にはなるに違いない。精神異常者には通用しないだろうが、非常ベルの轟音が追い払ってくれることを期待しよう。瀋陽における秋葉原である三好街に探しに行くように学生に頼んだところである。
毎週土曜日の午前中私たちの研究室のセミナーはJournal Clubをしている。Journal Clubはそれぞれが順番に、自分が面白いという論文を最新のジャーナルから見つけてきてそれを紹介する。私たちの研究室で全員の共通語は英語しかないから、英語で紹介することになる。英語の論文を英語で理解すると言うのが私たちのやり方である。日本語にも中国語にもしない。
今の科学の世界では重要な論文はすべて英語で出版される。日本には日本語で論文が載る雑誌もあるし、中国には中国語の論文だけの雑誌もあるが、あくまでもローカルの情報誌に過ぎない。
日 本のどこの研究室でも同じように勉強のためにJournal Clubをやっていると思うが、殆どは日本語を使っているだろう。そうなると英語の論文を頭の中で日本語に翻訳していることになる。これでは英語論文の意味はくみ取ることは出来ても、英語が上達することはないと言うのが私の長年の経験である。
隣の研究室の大島先生は中国語が達者で、学生が中国語で書いてくる論文を自分が直していると言う。彼のところのセミナーは、英語の論文の一部をコピーして学生に渡して30分くらい読む時間をやる。そのあと大島先生が中国語で学生にポンポンと質問をして、学生は中国語で質問に答える。そのやりとりで先生は学生がこの英語の論文を理解したかどうかを判断するという。
私たちのやり方とは全く違う。大島先生は、学生に英語の論文の速読をトレーニングしている。しかし、一方ではその内容の中国語への翻訳も要求しているのである。学生は英語で考えることをしない。
私 たちのやり方では学生にとって英語論文を速読する訓練にはならないが、英語で考える、つまり英語で話す訓練にはなっている。私も含めてうちの学生は未だに文法で間違いだらけの英語を話すけれど、それでも意味は通じるし、相手の話す言葉も翻訳という経路に流さなくても、そのまま理解できるという訓練となっている。
どちらがよいとは言わないが、両方を足せばもっと良い訓練となるかも知れない。私たちは学生にさらに速読という教科を課せばいいし、大島先生のところでは中国語を使う代わりに問答のやりとりを英語にすればいいのだろう。とは言ってもスタイルはなかなか変えられるものではない。私は自分で英語の速読が出来ないのだから(と言っても大分速いつもりだが)、大島方式で教えようがない。
もう一つ私たちのセミナーで口を酸っぱくするほど言い続けているのは、「話しを聞いたら途中でも良いから質問をしなさい。話しを聴きながら完全に理解していれば必ず疑問がでるものですよ。」その瞬間に分からないことを訊いて軌道修正すれば、理解できなくなって眠くなることもない。「自分が人の話しを聞いて理解するためには分からないことはいつでも質問することです。」と教えているし、私は実践している。
質問をすることは「あなたが存在していることを相手に示すことですよ。あなたが存在もしていないとことは、話しをしている相手の存在を無視したことにもなります。あなたがものを考えられる人であることを、質問という形で示しなさい。」とも私は学生に教えている。
さ らに、「人の話を聞き終わって何も質問をしないのは失礼なことです。話しを聞いて面白かったら必ず質問と言う形で反応して、相手の話を盛り立てましょう。質問をするのは、相手に対する尊敬を表す礼儀でもあるのですよ。」とも言い聞かせている。「だって、話し終わってもシレーッとして誰も何の反応もなかった ら話した人は悲しいでしょ?」
11月10日は日本人教師の会が主催する日本語文化センター発信の第3回セミナーで、在瀋陽日本総領事館のホールを借りて私が講演をした。「男はつらいよ」という題にして、男は実は女から作られるのだという生物学的事実を、社会的観点を絡めながら解説したのだった。
男が形作られる時、ホルモンとその受容体という精妙な相互作用が必要で、これに失敗するか、邪魔が入れば完全な男は出来ないし、邪魔するものとして環境ホルモンが大きく取り上げられているという話に繋げた。
合計72名という聴衆の反応は、この講演は成功したことを意味する暖かいものだった。聴き手は男か女のどちらかなのだから、誰もが興味の持てる問題だったからだろう。
それと同時に嬉しかったのは会場から出た5つの質問のうち3つは私たちの研究室の学生からでたことだった。分からないことは質問しなさい、質問することは演者への礼儀でもあるんですよ、と言い続けた効果が出たのであろう。
彼らは人前で質問をすることを恐れなくなった。あとで私の講演に対して良かったと言ってくれた人たちの反応も嬉しかったが、研究室の学生がこのように怖じずに会場で発言したこともとても嬉しかった。
11 月10日土曜日は日本語文化センター発信の第3回文化セミナーで、私が1時間の講演をした。日本語文化セミナーというのは、瀋陽の日本人教師の会の活動場所となっている日本語資料室を拠点にして、私たちの持っているものを日本人社会と中国人市民に広く開放して互いの交流を深めようとして、昨年末、日本語資料室が集智ビルに移ったのを機会に計画された。
初回は当時の文化担当領事だった森信幸領事による「寒い国の資源である雪と氷を利用した積 極的な省エネ対策」だった。二度目は東北大学野崎教授による「人が地球と共生することを目指して砂漠の緑化運動をとりあげる」と言うものだった。どちらも 良い話で、私たちに大きな感動を与えた。
教師の会には日本語を教える教師以外の専門家も入っているから、その人たちに先ず話をして貰おうと言うことで3回目に私の番が来た。私は職業的には癌の生物学、および動物細胞表面の糖鎖の機能生物学を専門としている。どれも専門家向けの話は出来るけ れど、科学が日常的ではない人たちを対象に話をするのは私には困難である。
それで男と女の話にしようと思った。何故かというと男と女の違いはもちろん性染色体の違いだが、性徴は性ホルモンにより保たれている。性ホルモンの男のアンドロゲン、女のエストロゲンはともにコレステロールから作られる。
コレステロールは、ご存じの通り高血圧の原因として目の敵にされているが、実は私たちの細胞にとって必須の成分なので、「生化学」ではコレステロールの生合成、役割をきちんと教えている。
私の講義ではコレステロールから性ホルモンを含むステロイドホルモンが作られることを教える。さらに、遺伝子が男女で違っていても発生の最初では、どちらも 全く同じ男女双方の生殖原基が備わっている。男ではY染色体のSRY遺伝子が働くと生殖原基から精巣が出来て、これが男性ホルモンのテストステロンを分泌するので、男の原基のみが発達して男性器が作られる。
一方、女性にはY染色体がないから男を作るというスイッチが入らない。すると生殖原 基から卵巣が形成され、男の原基が退化して女の原基から女性器が出来る。つまりホルモンの働きに違いで男女の違いが出来ること、しかしこれに失敗すると間 性になることもあることを話している。
このように生殖器がホルモンと受容体との精妙な相互作用の結果で作られるのに応じて、脳も女から男に作られる。元もと脳は女性型であることが動物で詳しく調べられている。男の胎児の生殖器が作られる時にアンドロゲンの濃度が胎児の中で増加するのに応じ て、脳もアンドロゲンに対応して男の脳に作り替えられる。これに失敗すると、身体は男でも脳は女性と言うことになる。成長しても女性には目がいかず男ばか りを追いかけてしまう。
このように男が出来るためにはホルモンと受容体との微妙な相互作用が必要で、性ホルモンと似た物質が受容体に働い てホルモンと同じ作用を表わしたり、あるいは受容体に結合して性ホルモンが機能できないようにするのがいわゆる環境ホルモンである。これをDDTや DES(diethylstilbestrol)を例にして講義では話している。
普通は男女の違いは身体的に違うことだけが強調されていて、どのようにして違って作られるのかは殆ど知られていない。まして脳が男女で違って作られることも知られていない。
今回の一般向けの文化セミナーではここの焦点を当てることにして、私の講演はフーテンの寅さんの「男はつらいよ」をそっくり借りてきてタイトルにした。
「男はつらいよ。男として作られるのも、男としてやっていくのも、大変なんだよ。」という話である。
出だしは「話しを聞かない男、地図が読めない女」という数年前のベストセラーを借りてきた。いかに男と女が違うか、違いは性染色体、その結果の性器や性徴の違いだけでなく脳が違うことを、この本に書いていない生物学的な裏付けのデータで示していったのである。
そのためには生殖器の発生、ホルモンと受容体の相互作用のアニメーションが、この話の理解にとても役に立つので、是非講演でも見せたいと思い、アニメが動くような設定を研究室の陳陽にやってもらった。
講演の日のある土曜日も、午前中は私たちの研究室はセミナーをやっている。演者の一人が急に欠席したが、そのままにするのでは学生の勉強の機会が減る訳だか ら前日に私が思い立ってその代わりをすることにした。そんなわけで結構忙しかったけれど、前の晩に講演に使うパワーポイントをWindowsでやってみると、アニメが動かない。自分ではどうにもならないのでPCに詳しい学生の助けが必要だ。
しかし陳陽は腹痛で早退してしまった。もう一人の王毅楠に来て貰って頼んだところ、このようなことはやったことがありませんと言いながらも1時間くらい掛けてアニメを動くようにしてくれた。これが良かった。
「これが良かった」というのは、こういうことである。一晩明けて翌日の午後、私は講演の教師会の集まりから抜け出して30分前に3階の会場に行った。用意され たPCにUSBでデータを送り込んで試写したところアニメーションが動かないではないか。もう一つ持ってきたUSBを付けても、データをPC本体にコピー しても、アニメはびくともしない。大変だ。
私たちの研究室の学生は、日本語が分かると分からないとにかかわらず、ほぼ全員が聴きに来てく れることになっている。つまり応援団である。この会場は在瀋陽日本領事館の新館で、このような催しに使うために作られたけれど、日本国政府の主権がおよぶ 敷地内には簡単に立ち入ることが出来ない。予め届けを出して、パスポートなり身分証明書なり身元の確認が入り口で武装警官による2回の照合作業を経てやっ と中に入れる難しさである。
私たちは教師の会の定例会で1時半には領事館の外に集まった。講演会は4時からが予定されていてこれに参加する人たちは3時半に領事館の門に集まっている。
私が講演会場でチェックを始めたのは3時半を過ぎていたので、聴きに来るはずの陳陽に携帯で電話した。すると「まだですよ。まだ門の外にいます」という。パワーポイントの状況を説明して「早く来て直してよ」と伝えた。
やがて会場に人々が入ってきたが、私はPCを急いで直して欲しいので陳陽と王毅楠の姿を眼で捜し続けていた。やっと彼らが入って来た。直ぐにPCのところに来た王毅楠は、「これは昨日の晩と同じことです。ここで調整をすれば使えるようになります。」と言って、20分くらい掛けてまたアニメを動くようにしてくれた。
助かった。王毅楠のおかげでアニメが動く。アニメがなくても説明は出来るようにしてあったが、アニメがあるのとないのとでは理解に 大きな違いが出来る。アニメがあれば一目で分かることを言葉では面倒くさく説明しなくてはならない。聴いている方は、理解する前に厭になってしまう。
この第3回セミナーの参加者は、教師会22名、日本人会6名、日本人留学生3名、中国人学生39名、領事館2名で合計72名だった。新館の3階の広いホール に場所が設営してあって、菊田領事によると「私一人で会場の用意をするので定員60名にして下さい」と予め言われていたらしい。しかし、申し込みが定員を 超えてしまったのに、菊田領事は快く定員オーバーを呑んで椅子を増やして下さったそうである。
寅さんの写真で始まった私のパワーポイントは51枚のスライドが用意してあって、そのうちの4つがアニメーションだった。そのどのアニメーションも無事に動いて、講演は約45分で終わることが出来た。
終了後「どんな質問でも歓迎します」といったところ、うちの女子学生の王麗が立ちあがった。「同性愛の男がどうして出来るかは分かったけれど、女にも同性愛がいるでしょう。女の場合にはどうして出来るのですか?」
答えは「男性ホルモンと女性ホルモンとその役割を分けて話しましたけれど、男も女性ホルモンを生産しますし、女も男性ホルモンを生産するのです。何らかの原 因で男性ホルモンの生産が高くなる女性は女を愛する同性愛になると言われていますし、犯罪を犯す女性も男性ホルモンが高いと言われています。」
「同性愛の男は、どうやって調べたら分かりますか?」という質問もあった。うちの女子学生の暁東である。リトマス試験紙みたいに男に突きつけて「同性愛かどう か直ぐに答えの出る良い方法がないかな」と、どうして思いつくのだろう。わたしの答えは「外から見てすぐに分かる方法はありませんよ。だって外見は立派な 男の身体をしているのですから。」
「でも、あなたが誰か男の人が好きになるとするでしょう?あなたみたいに若くて魅力的な女性に好意を示 されたら、普通はどんな男もめろめろになって恋心が燃え上がりますよね。もしも男が反応しなかったら、その男はあなたに全く興味がないか、同性愛の男かの どちらかですよ。そうやってみるしか方法はないんじゃないでしょうか。」
陳陽が立って質問した。「先生、もし先生が生まれ変わるとした ら、男と女とどちらが良いですか?」「ウーーム。とっさに答えるとしたら男でしょうね。いまの世の中でも90%の男が生まれ変わる時にはやはり男になりたいと答えていますね。男の生活は波乱と冒険に満ちていますが楽しいですよね。でも、行ったり来たりすることが出来るなら、一度は女も経験してみたいと言う のが本音です。でももちろん、いまの私の歳の女性ではなく、やってみるなら若い女性になってみたいですね。」
こんなことが出来るわけもな いことはよく知っている。でも、50年前には生まれ変わるなら女がよいと言った女性は20%しか居なかったが、今や女性の75%が生まれ変わるなら女が良いという。楽しみは女の方が多いと思うのは男も女も過半数を超えている。世の中は変わって来たのだ。
環境汚染のために20世紀前半に比べ て精子の数は半分以下に減ってきているし、男らしさも損なわれるようになった。男にとってはつらい時代になってきた。実はそれどころか環境汚染が進むと男 が居なくなって人類が絶えてしまう可能性だってあるのだ。どうしたらいいのか。世の中は住みやすく便利に「進歩して」欲しい。しかしその代償としてそれぞ れの人々に重い問題が突きつけられている。
リ サ・ランドールという四十代の美しい女性が今話題なのだそうだ。Newsweekの2006年のKeypersonに選ばれて表紙を飾った物理学者で、 Warped Passagesという本を出している。最近 NHK出版部から「異次元は存在する」という本が出て、妻の友人から妻に読むようにとこの本が贈られた。
この妻の友人は大学では数学を専攻した。妻と私は同じ小中、さらには高校に通ったので、正確に言うと彼女と妻は小中の同級生で、私にとっては小中の同期生である。彼女はノーチャンと言う愛称で呼ばれていて、小中で同じクラスだった私の友人と結婚している。
数学という私にはとてもその学問の本質が理解できないが、それを専攻したノーチャンは、難解な数学を勉強したとは思えない穏やかな優しい人柄で、人々に対す る目配りがよい。それで忙しさに紛れてともすれば昔の同期生の集まりに行きそびれる私たちも、帰国する度にこの友人であるノーチャンたち二人には会ってい る。
ノーチャンに贈られて妻はリサ・ランドールの「異次元は存在する」を読んだあと、なんだか分かった気がするという。私たちは3次元に時間軸を加えた4次元の世界に住んでいる。私たちに5次元が理解できるだろうか。
良く出される例が、2元世界の住人が3次元に出会った時にどのように理解できるだろうかと言うものがある。これは中学の時、その頃学校を出たてで私たちの中学に赴任し、新進気鋭の意気に燃える小松喬生先生から教わったことだ。鮮明にこれを思い出せる。
2次元世界を丸い球体が通過したとしよう。2次元に接触した球体は丸い円として理解される。2次元世界に時間があるなら、この丸い円は小さなものから大きくなり、やがてその最大面積を越えてだんだん小さくなり消えていく円盤として認識されるというのである。
つまり、2次元世界の住人には3次元そのものが理解できず、あくまでも2次元としてしか理解できない。それと同じように私たちには高次元は理解できない。し かしリサ・ランドールの説明によると、高次元世界では3次元の世界はバスルームのシャワーカーテンみたいなもので私たちはカーテンに付いた水滴みたいなも のだという。別の言い方をすると、パンをスライスして見て、その一つのスライスが私たちの3次元世界と例えることが出来る。そうすると別のスライスは別の 3次元世界なのだ。そしてこのときパンを取り巻く空間を高次元世界と考えることが出来る。
高次元は分かったようで依然として分からないが、陽子を互いにぶつけた時に壊れて出来るクォークの一部が消えてしまうのは5次元世界に行ってしまうためと説明されると、確かに異次元はあるように思えてくる。
このリサ・ランドールの本を読んでいて一番気に入ったのは、彼女が大学院に入った時に言われたことだった、彼女に向かって指導教授は「成功したければ質問しなさい」と教えたという。
これは簡にして妙。中国人の心の一番擽られるところを衝いている。中国の学生はみな「成功」したがっている。その上昇志向の強さは私たち日本人には想像も付かないほどだ。
うちの学生を育てるのに私は今まで回りくどいことしか言ってこなかった。「人の話を理解しようと思えば、必ず質問があるはずでしょ。質問しなさい。」「自分の存在を示すために質問しなさい。」「黙っていたら話す人に失礼でしょ。話す人への礼儀と思って質問しなさい。」
これを「成功したければ質問しなさい。」と言えば、これ以上言う必要はない。元々は英語のはずだが翻訳本を読んでいるので、英語にしなくては学生に通じない。英語にするとどうなるだろう。
“In order to get succeeded in science, ask questions in all occasions.”これでは長すぎる。
“You must question for your success.”あるいは“If you wish to succeed, ask questions.”というところだろうか。
友人のイギリス人に質問に関する中国人学生と私との葛藤を書いて、さらにLisa Randallの本のことを話して、どの英語が良いか訊いたところ、自分なら“You must question to succeed.”と言うと書いてきた。
学生の王暁東さんや曹さんと話しながら、中国語では次の語句にした。
「要想成功、要問問題」「不提問題 不能成功」
中国の学生はみんな将来成功したい。成功して金持ちになりたい、人より偉くなって楽な生活がしたい、と思っているから、これからは先を争ってセミナーの時に質問をするようになるだろう。
ノーチャン、戴いた本が思いもよらないところで役に立ちましたよ。ありがとう。何時か私たちの「活発な」セミナーを見に来て下さいな。
理系の学部では卒業する前に卒業実験が課せられる。大学によってこの期間は様々で、最終学年の1年まるまるという東京工業大学もあるし、薬剤師の国家試験も控えているから卒業実験は3か月だけという東京薬科大学のようなところもある。
薬科大学では春節休みのあとの後期が卒業実験である。6月の終わりには卒業式があるので卒業研究発表は6月半ばで、実験の期間は3月-5月の実質的には3か月しかない。
卒 業実験をどこの研究室に入ってやるかは学生の希望で決める。気の早い学生は一年も前から訪ねてきて、卒業実験をやらせて欲しいと言いに来る。昔は学生の希望を聞いた上でこちらでも選ぼうかと思った時もあったけれど、結局いまでは申し込み順で希望を受け入れている。修士課程でこの研究室に入ることを臨んでいる学生なら、卒業研究は優先というのが唯一のこちらが付けた条件だ。
昨年度は基地クラスから二人が大学院進学を希望して早めに決めてしまったので、あとは二人しか取らなかった。卒業実験が4人というのも前年度に引き続いて最多の受け入れ学生数である。
し かし大学の規則では7人まで採ることが出来ると言うことになっているそうである。今年は春先から既にここで卒業研究をやらせて欲しいと鶴さんは言いにきた。でも聞くと彼女は日本の大学院に留学を希望しているので、私たちの研究室に大学院で進学希望する人たちのあとの第一位の志願者にするからねと返事をしてあった。
進学希望者を男子で、しかも日本語遣いからリクルートしないと危ないと言うことになって、オープンラボを実施したのは前に書いたとおりである。その結果大学院に進学したいという学生が2名、日本かあるいはほかのところに進学するけれど卒業研究に来たいという学生が、昨日までに6名いた。
受け入れを決めるのにもタイミングがあり、断られた学生がほかの研究室に無事に行けるためには、遅くまで引き延ばしてから断ったら気の毒である。だから、私たちは10月の労働節の休みの間にすべてを決めた。私たちの研究室に進学したい学生が2名、ほかに行く予定の学生3名である。こうして5名を限度にしてそのあと申し込みに来る人たちは断った。
10月から11月にかけて生化学科の主任の小張老師から何度か電話があった。彼女は私たちがここに来た時に英語を遣って大学と私たちの間の連絡係になってくれた若くて有能な女性である。韓国の大学院に行って博士号を取り、昨年準教授に昇進している。
彼 女の電話は学生から口伝えに聞いたのだが、「教授は7人の卒業研究の学生を採って良い」という内容である。初めは聞き流していたけれど、3回目になった昨日は気になって電話をした。つまり私たちは5人の学生で打ち切ったが、7人採らなくてはいけないと言われているとすると「まずいな」と思ったのだ。
な にしろ二日前にも一人断ったところなので「私たちは5人という初めて沢山の学生を採ったけれど実験室が狭いからこれ以上無理なのですよ。7人採りなさいという要請なのですか?」と小張老師に聞いた。「いえいえ。そういう意味ではありませんが、先生のところは薬学部からだけ進学しているでしょう?製薬学部にも160人学生がいるので、ここから学生を採る気がないかと思って聞いているんですよ。」
そういえばこの夏までは私は製薬学部に属していた、今は生命科学部である。いままで製薬学部から学生を採ったことがない。実は言われるまで、製薬学部から学生が来ていないことも意識していなかった。
「もしも製薬学部で、大学院では私のところの研究室に入りたいという学生がいたら、もちろん卒業実験に採りますよ。」と返事した。優秀な人材の確保は研究を続ける上での第一条件である。
も し製薬学部から希望者があっても、既に卒業研究の受け入れをした学生を断るわけにはいかない。というのは、彼らは中国の大学院に進学しないので、試験勉強に明け暮れする必要はない。従って、早い時期から研究室に出入りして実験を始められるという利点がある。そうやって力を付けても外に出て行ってしまうので私たちの役には立たないけれど、彼らにしてみると意味がある。通常の3か月の卒業研究ではとうてい学べないようなことを身につけることが出来る。こちらも 研究室の学生では手の回らない実験結果を出して貰える。
と言うわけで私たちのところには既に3人の最終学年の学生が出入りして実験を学び始めている。趙鶴さん、趙暁笠さん、于琳くんの3人だ。3月になればあと2名増える。製薬学部からもし実際に大学院に進学したいという学生が来ても、既に受け入れを決めた学生は断れないだろう。
実験室が物理的に狭いので、本当に来たら大変なことになってしまう。これ以上来ないように祈り続けている。
一 昨日の木曜日の朝だった。8時過ぎて研究室に来た王麗が「今朝は大変なんですよ。門のところで証明書が要るって言うんで、持ってなかったから入れなかった んです。」と言う。彼女は博士課程最終学年に在学しているが、同級生の馬くんと2年前に結婚して大学の外に部屋を借りて住んでいる。学生は大学院生も学内 の寮に住む規則だが、結婚すれば外に住んでよい。
もっともこれは規則だから、独り者の院生でも年間1200元という安い寮費を大学に払っていれば外に部屋を借りて住むのは黙認されているらしい。何しろ中国は「上有政策、下有対策」の国だから、何でも融通無碍なところがある。
王麗はそういうわけで毎日外から通ってくるので門を通らなくてはならない。この大学はSARSの騒ぎまでは東西南北4カ所に門があったけれど、その時以来門も北側の正門と、西側の通用門だけになったし、塀はかさ上げして乗り越え難くなった。
私たちが来る7時頃には何の問題もなかった。いつものように守衛所の中に守衛がいるなあという程度で、正門は自転車が通れるくらい開いていたし、横の歩行者用の門は開いていて誰もいなかった。
歩行者用の門のところに時たま守衛がいても、何か言うことはない。守衛同士で喋っているだけで、守衛の役目は車が来た時に門の柵を開けて車を通すことである。
この車も、門までやって来 ればすぐに門を開けるのだ。いちいちチェックしない。つまり顔パスなのだろう。しかし、私たちがタクシーで乗り付けると守衛は決して中に入れては呉れな い。荷物のある時はタクシーから降りて荷物を出して、リヤカーを曳いて門の外にたむろしている運び屋に頼むのである。「大学の守衛は 何のためにいるんだろうね」と私と妻は時々話し合っている。
それが王麗によると、「守衛は今朝は全部代わっているんですよ。」そして「証 明書がないと入れてくれないから、うちまで取りに行って時間が掛かっちゃいました。」と言うことだった。朝私たちが来る時はそんなことがなかったと言うと、「先生たち身分証明書を持っていますか?これがないと明日から中に入れませんよ。」
「へえ、どうしたんだろう?」と言いつつも思いつくのは、先日の「性犯罪」事件である。守衛がいても自由に性犯罪者が入ってくることに対して大学が立てた対策かもしれない。大学は何もしないだろうと書いたが、早速出入りの規制を始めたのだろうか。
大変結構なことだが、この日は外部の業者も中に入れなかった。リコーのコピー機のトナーがなくなって私たちは会社に電話をしたが、いつもなら直ぐにサービスマンが来てトナー交換をしてくれる。
それなのにそのあとで、王麗が「先生280元払ってよ」と藪から棒にいうので私は驚いて「何で?」と訊いた。王麗は、リコーのサービスマンがトナーを持ってきたけれど中に入れないから、自分たちは正門まで行って金を払って交換用トナーを受けとってくるという。
「それじゃ、誰が機械に取り付けるの?」と訊くと、隣にいた今年の秋に修士に進学したばかりの徐蘇さんをあごで指して「この子がきちんとやるわよ」と言う。「じゃ、二人に頼むか」、と言うことで280元を渡した。
そしてトナーの交換は私たちの見ている前で徐蘇がやった。こうやって機器の保守が自分たちでも出来るようになることは悪いことではないが、外部の人を一切入れないというのは行き過ぎだろう。どこでも直ぐに困るに決まっている。
帰りに正門を通ると、歩行者のための通路の両側に、公安と見間違えるばかりの記章を付けた凛々しい制服姿が数人立っていて、外から入る人たちをいちいち検問 していた。通路が狭いので外に出るのも邪魔されたくらいだった。いつもの見慣れた顔の守衛は誰一人そばにいなかった。本当に入れ替えてしまったのだろう か。
昨日も今朝も朝7時には何時ものように門には誰もいなかったし、私たちも用意した証明書を見せることなく通れた。色つきガラス越しに 建物の中を覗き込むと制服姿の二人が中にいたので、守衛が替わったのは本当のことだろう。これで性犯罪が防げるなら大歓迎だが、これが何時まで続くだろう か。
そして、車が通るたびに門を開け閉めしていただけの十人ちかい守衛だって生活が掛かっていただろうに、その後の運命はどうなっただろう。
しかし昨夜学生から聞いた話では、実は学長事務室に泥棒が入り、激怒した学長が警備体制の強化を命じたのだという。なるほど、なるほど。それなら分かる。ついでにこれで性犯罪も閉め出されるだろうから、結構なことである。
楊方偉くんは2006年度に私たちのところで卒業研究をした学生である。北大大学院にこの秋から入学することが認められて、10月13日に札幌に向かった。 9月中に合格通知が来たけれど、中国では10月初めの1週間の国慶節休暇があって、日本の領事館からvisaが取れたのが休暇明けになった。
昨年まであった瀋陽-札幌の直行便がなくなって、楊方偉は大連まで行ってから札幌に向かった。両親が大連まで送ってくると別れがさらにつらいことになるから と言うことで、瀋陽で見送りの両親と別れたそうである。楊方偉は、札幌に着いた日にもうメイルが来て無事の安着を知らせてきた。とても筆まめである。
『今日の日本時間12時に札幌に着きました。研究室の人が迎えてくれました。こちらの先生が北大のポプラ会館を予約してくれて今日と明日そこで泊まります。今は研究室にいています。皆は親切ですね。ではまた連絡します。(10月13日)』
1週間後には、私たちが「財団法人日中医学協会」に研究費の申請をしたら良いのではないかと親切に言ってきてくれた。ここで貧しい研究費にあえいでいるのをよく知っているからだろう。
この日中医学協会には日中の共同研究が申請できるが、私たちの研究は中国でなくては出来ない研究をしているわけではないので、日本の研究室と組んで研究費の申請を出すことは出来ない。でも、この楊方偉の気の利きようは大したものだ。
10月23日に来たメイルによると、授業を受けるのに登録が必要と言われて、今学期は西村先生の糖鎖生物学を選んだ。西村紳一郎先生は33才で北大の教授に選ばれた人で、私と同じ研究領域だからもちろん昔から知っている。教授になってからの活躍も期待を裏切らず、研究領域を次々と拡げていまや日本の中で最大勢力を誇っている人だ。
11月4日には 『北大にもう3週間ぐらい滞在して、ここの生活に大体慣れました。毎日朝10時に研究室に行って、夜は10時ぐらい帰ります。食事は主に自炊で、朝早く起 きて作ってお弁当を学校に持って行きます。まだ実験はあまりやっていません。私のテーマはまだ決まっていないので、毎日は研究室で論文と教科書をしか読みません。12月に横浜での分子生物学会が迫って、皆は発表予定の内容を頑張って用意しています。
西村先生の糖鎖研究室を見物させてもらい ましたが、最新の設備が揃っているのにびっくりしました。講義に西村の先生の糖鎖生物学を選択しましたが、私は10月中旬に来日したので授業は半分終わっ ています。この科目の試験はとても厳しくて、半分を受けないと単位が取れないみたいで、今回は授業を受けることを取り消すよう薦められました 。だから、今学期に私は授業を受けない状態となります。(11月4日)』
以上のメイルは楊方偉くんから許しを貰って一部を転載している。
今朝の研究室では暁東さんが「楊方偉くんはとっても可哀相。」と言う。「どうして?」と訊くと彼からメイルが来て、「奨学金を貰っていないので、アルバイト をしようと思っても外国人お断りでお金が稼げない。中国から持って行ったお金を節約するために、研究室のほかの学生がお茶を飲んでいても、『自分は水道水 の水を飲んでいる』んですって。」ということだった。
日本の奨学金が取れるまでの辛抱である。統計では日本にいる全中国人学生の3分1しか奨学金が貰えないそうだ。両国の将来の関係を考えたら、日本で学びたい中国人学生に必要な奨学金を手厚く用意する必要があると思う
昨年度から中国政府は大学院学生5千名を海外の有名大学に送り込んでいる。
『中国の「国家建設ハイレベル公費派遣大学院生留学プロジェクト」が順調に進展し、来年5000人の大学院生が選出され、海外留学に派遣される予定だ。このプロジェクトは、今年始動したもの。専門学科は、エネルギー、資源、環境、農業、製造、情報、生命、空間、海洋、ナノおよび新素材、人文および応用社会科学の分野にわたる。(「人民網日本語版」2007年10月9日)』
前年度の場合、学費免除、そして事前の入学許可を中国側が日本の大学に要求したので、日本の大学院は軒並み冷たくNOの返事をした。生活費は中国側が持つけれど、これから大学院生を送り込むから、学費免除で入学させてくれといきなり言われたら、どこも断るだろう。
今年もこのプログラムが動いているが、日本の大学が依然として同じ態度をとり続けるとどうなるか。選りすぐりの中国の大学院学生は皆欧米諸国の有名大学に留 学し、その国の人々、特に若者と密接な人間関係を構築して帰国したのち、中国の要職について階段を登って、中国の重要人物になるに違いない。これがまだま だ続くとしたら?
そして、その頃の日本は経済的にも、ことによると知的水準でも中国に遅れを取っているかも知れず、それだけではなく中国との人的関係が希薄になれば、あるいは日本の大きな危機を迎える可能性がある。
本当に冗談ごとではない。日本の将来の戦略構造の中に中国人留学生招致を視野に入れないと、国の将来が危ぶまれる。
先週の土曜日の午後も大学で仕事をしていると廊下でアナウンスが響いた。早速実験室に行って残って実験をしていた学生の一人に訊くと「明日の朝8時から12 時までこの新実験楼は断水だそうです。」というので、「うちは?」と尋ねたが何も言っていないという。でもここが水道工事の時は、隣に建っている私たちのアパートのある16階建てのビルも断水となるのが普通だ。
工事がなくても、このところうちに帰ると夕方には断水になることが多く、「そのうえ工事で朝から断水なんて、全くひどいよね。」と妻の貞子と話していた。
瀋陽に来て以来工事のための水道工事は別として、時たま夕方になると断水することがあった。でもそんなに頻繁と言うのではなかったが、今年の春になってそれが週に1-2回に増え、夏からは週に2-3回くらい、秋になってからは週に4-5回くらい夕方には断水だった。
私たちは大体夜の7時頃うちに帰ってから食事を作るので、8時頃まで断水していると夜の食事が邪魔される。毎朝何時も私は5時半に起きることにしているが、11月に入ってからは時々朝4時半に起きてご飯を炊いたり、夜のおかずを作ったりしてから出掛けるようになった。
それでも、この断水は瀋陽の水事情が極度に悪化してきて、夕方になって一斉に皆が食事を作り、風呂に入るので水が足りなくなるのだろう。仕方ないことだと思っていた。
最近のRecord China(11月11日配信)によると「中国の北方を中心に膨大な量の水不足。需要の増加などが原因」だというから、今ここでは水が足りないのだろうと納得していた。
「2007年11月、水利部の陳雷部長は、地球温暖化の影響を受け、大規模な干ばつ・洪水が頻繁に発生するなど中国の水環境が激変していることを明らかにした。地下水の過剰採取防止を前提とすると、年に400億立方米もの水資源が不足しているという。
水利部の統計によると、近年、中国北方地区の水資源は急速に減少しているという。特に黄河・淮河・海河および遼河地区の資源量は12%もの減少が記録されている。毎年、全国669都市のうち400以上で水不足となっている。特に人口 100万人以上の32の大都市のうち、30か所で長期に渡る水不足となっている。」
中国の水不足はよく知られているし、中国に来て暮らし ている私が文句を言う筋合いのものではない。黙って耐えるだけだ。と言うわけで明日も断水かと思って帰ったうちの建物の入り口に「8時から12時まで断 水」と書いてあるのは当然だったが、8階のうちのブロックの入り口のドアに、同じように書いてあるほか、「工事をするからうちにいるように。」と書いて あったから驚いた。
「うちの工事をするの?」と二人で叫んで顔を見合わせ、同時に納得した。
2週間くらい前の断水工事の 時、近所の人と半ば日常的な夕方の断水の話しをしてみたら、夕方断水で困っているのは8階のうちと、隣に住む張景海老師-王思鈴老師夫妻のところだけだっ た。この16階建ての建物は、9階から16階までの配管と、下から8階までの配管と別になっているという。水不足となると2系統のうちで一番上の8階の私 たちがもろに影響を受けるわけだった。
瀋陽の水不足の結果だから仕方ないとは思いつつ、それでも朝4時半に起きて晩ご飯の支度をしているなんて、なんだか笑える話しじゃないかと思って研究室で学生に話したら、学生の王毅楠が大学の部署に状況を伝えてくれたらしい。
私たちのお隣の張景海老師は生命科学院の院長(学部長)だし、夫人は美人で名高い王思鈴老師は薬剤の主任教授である。つまり大学の要職の二人が水で困ってい ると訴えても全く直らなかったわけだから、今更私たちが言っても断水が直るはずはないと学生は口々に「諦めなさいよ」と言う。私たちもそんなものだと思っ ていた。
それが急転直下、日曜日朝から工事が始まって11時前には工事が終わった。彼らが台所で何をしたかというと、8階の床まで来てい るうちの水の配管を切って塞いでしまい、下から16階まで水を運んでいるパイプが壁に沿って床から天井まで貫通しているが、それに穴を開けてパイプを我が 家の水道管に繋いだのだった。
2系統に別れているこの建物の排水の仕組みが分かってから、「やる気になれば簡単さ、9階から16階までの配管からうちに水を取ればよいのだから、」と私は妻に言っていた。何と、それが現実になったのだ。
これでうちの水不足は完全に解消だ。これからは水が足りなくなって最初に苦しむのは16階、次に15階、、、と来てうちが最後になるわけだ。大変結構なことだが、これは実は根本的な解決ではなくとりあえずの、目先の解決である。
「全国での水需要の増大とともに水不足は年々厳しさを増している」状況の中で、中国的な問題解決の方法で断水から免れた私たちは、「水が出るようになったからと言って水の無駄遣いをしないようにしようね。」と互いに言っている。
それでも、これで夕方の断水に備えて朝早起きして晩ご飯の準備をする必要も、トイレが使えないからうちに帰る前に大学で必ずトイレに寄る必要もなくなったわけだ。朝晩、機関銃のように迸り出るシャワーに「ただもう幸せいっぱい」の一週間を過ごしている。
日本語資料室発信の「文化セミナー」3回目を私が担当して、11月10日に「男はつらいよ」という話しをした。講演会のあと教師会の人たちのほか会場に来ていた人たちを誘った会食があった。そこで「昔は妾を持つのが男の甲斐性だと言われていたくらいだから、男一人で数人の女性を相手にしたらいい」と、一人の先生が怪気炎を上げていた。
この先生は私の講演のあとの質疑で、「中国の杭州の男性の精子が一億2千万から4千万?に減った人が多く、不妊 症も増えているとあるスライドにありましたね。日本でも以前から、若年男性の精子が減っているといわれていますが、これは世界全体のことですね。大変な問題ですよね。どうしたらいいんでしょうね。」と発言したのだった。
「男はつらいよ」の話しの最後の方に私は1992年に発表された Skakkebaek博士らの衝撃的な報告「Evidence for decreasing quality of semen during past 50 years. (BMJ 305, 609-613, 1992)」を取り上げた。これは当時世界的な反響を呼んだ研究報告で、50年間の男子の精子数が1mlあたり1億2千万あったのが、約6千万までに減っ てきたというものだった。
多くの人たちが追試をしたし、かつ昔のデータを調べなおし、Skakkebaek博士の報告は調べ方が良くなかった、あるいは信頼できるデータに基づいているとかいう多くの議論を呼んだ。
同じ男子でも精子の数は調べ方で変動すると思われる。いつ試料を採取するかで変わってくることは容易に考えられるので、一定条件を付けて要件を満たす男性か ら精子の試料を採って調べているはずだ。あらゆる変動要素を考慮に入れてそれを排除した結果として、Skakkebaek博士の研究報告はなされていると 思う。
その後も、精子の数を調べると増えている、いや、やはり減っているなどと、言うデータが出てくる。最近の中国でも「2007年4月 7日、浙江省杭州市で開かれた中華医学会生殖医学協会と中国動物学会生殖生物学分会の第1回連合年会で、精液1mlに含まれる精子の数は、40年前の1億 個から2000万〜4000万個にまで減少していると報告された。(2007年4月8日 Record China)」という。
精液 1ml中の精子の数が2000万になったら不妊症すれすれである。冗談ごとじゃない。人類の危機は目前である。さらに「広東省性学会会長の張楓介氏によると、年々男性の健康、特に生殖機能に関する健康状況は悪化している。広東省人の14.7%が男性不妊症で悩んでいるが、その中にはかなりの無精子症患者が 含まれているという。成人男性の40%がEDに悩んでいるという調査もある。この数値は40歳以上に限れば53%にまで跳ね上がる。(2007年10月 29日 Record China)」などの記事が目に付くようになった。
精子の数の調べ方は試料採取の条件で変わるし、人によっても違うので、正確な数の比較が難しいことは考えるまでもなく直ぐに分かる。しかし、世界的な環境の悪化に伴い精子の数が減っていそうな感じである。
精子は成熟した男子の精巣の中で絶えず作られている。細精管の中のセルトリの中で精原細胞が減数分裂をして、染色体の数を半分にしてさらに24日掛かってだんだん形を変えて、泳ぎに徹した完成した精子の形に作られていく。この間このセルトリ細胞はテストステロンという男性ホルモンを必要としていて、これは細精管の周りのライディッヒ細胞から供給されている。
o,p’-DDTや農薬のビンクロゾリンは男性ホルモン受容体に結合して、受容体の働 きを妨げてしまう。つまりこれが受容体に結合すると男性ホルモンはもはや受容体に結合できない。その結果、男性ホルモンがあってもその効果が出ない。農薬 のビンクロゾリンに曝された男性は、成熟した精子の数が極端に少なくなる。
これと同じような働きをする化合物が、ほかにもあるのではない かと疑われている。産業革命以来人類が生み出してきた化合物は数百万を超えると言われている。そのうちのかなりの数のものが私たちの食品添加物、肥料、農 薬、家畜の餌、薬に使われているし、産業用生産物となったらそれこそ無数である。私たちの身体に入っても無害ということが調べられていても、様々な化合物 が単独で身体に入るわけではないし、化合物が身体の中で代謝されて別の化合物となった時に別の顔を持つかも知れない。中国では環境にまだ日本ほど注意を 払っていないから、人造の化学物質がより深刻な問題を引き起こしている可能性は日本より高いだろう。
さて、健康な授精能力のある男性が現 実に減ってきたとすると、どうしたらいいだろう。講演会のあとの質問で、「どうしたらいいんでしょう。」と聞かれたが、私には膨大な数と量の化学物質の使 用を止めて、環境汚染を減らそうと皆が考えることを期待して話をしたのだった。でも、質問した先生は性能力のある男が現実に減った時のことを心配していた のだ。
「昔は妾を持つのが男の甲斐性だと言われていたくらいだから、男一人で数人の女性を相手にしたらいい」と言われれば、それは現実的 解決策だ。でも、そりゃ原理的には可能だけれど、男が軒並み駄目になるってことは、その最後の男にだってそんな元気は残っていないんじゃないだろうか。い まの男の夢みたいな事が実現したとしても、きっと駄目なんじゃないかな。今ここでそれを心配しても始まらないことだけれど。
「11月16日」
返信が遅れて申し訳ありません。私のメールの内容を遠慮なくご自由にブログに載せてください。
先週から実験のtrainingが始まって、ちょっと忙しかったです。今週はプラスミドの構築を続けています。今日の札幌は雪が降っています。大雪とはいえません。
先 週の日曜日に教会に行って、たくさんの人を知り合いました。ここの研究室に私とほぼ同時に来た北京大学の交換留学生が一人います。彼の先生は北大に6年間ぐらい留学したことがあります。北京大学の先生は、札幌で知り合った友達に届けるよう彼に土産を預けたので、私はそのとき通訳をしました。そしてこのお友達の先生とも知り合いになりました。
この先生はクリスチャンなので、教会に連れて行ってくれました。瀋陽にいた時貴志先生と一緒に教会に通ったことがあるので、教会に行くことは楽しいことだと思っています。
教 会では歌を歌ったり、聖書の説教を受けたりして日本語の練習もできます。自分はクリスチャンではないですが、クリスチャンと接するのが大好きです。教会の人々はとても親切です。何か必要ものがあったら、教会の人と言っておいて、集めてくれます。上記の先生は一台のストーブを贈ってくれました。クリスチャン は聖書の主旨に沿って誠意を持って人と接していると思います。教会では悩んでる心が静まるみたいです。
今学期は一単位の授業しかないので、私はほとんど研究室にいます。ここの研究室には私を含んで26人ほどいますが、博士は2人だけです。
私がいる薬学部ビルには中国人が一人しかいません。つまり、私です。しかし、奨学金の種類は少なくて取るのはとても難しいみたいです。
実験を指導して呉れる先生はとても親切です。もちろん日本に来て慣れないことは一杯あります。多分だんだん慣れて来ると思います。安心していてください。
「11月29日」
札 幌はだんだん寒くなって来ましたが、瀋陽よりやはり少し暖かいと思います。教会の人からもらったストーブは確かに助かります。最近、ずっとプラスミドを作っていますが、insertはなかなか入らないんですね。悩んでいます。low melting agarose回収は結構難しくて、回収率も低いですが、繰り返し練習して、たくさんの知識を学べると思います。
実は先週一つのアルバイトをやり始めました。学校の時間を取られないために、朝7時から9時半までオフィスの清掃っていう内容ですが、あんまり大変ではありません。ただ掃除機で床を掃除したり、ゴミを集めたりするのです。
普通は10時までの仕事ですが、速くやったら、9時15分まで終わります。すると9時半ぐらいには研究室に着き、逆にほかの誰よりも早めに研究室に来る人になります。
バ イトをするのは事前に実験を指導してもらう米田先生と相談しました。米田先生には、もし、来年奨学をもらわないで、お金がなくなって帰国することになると、日本にいる半年または一年はもったいないことになるから、少しバイトをやったほうがいいって言われたので、バイトを探しました。
土日、祝日は休みですので、あんまり勉強を邪魔しないと思います。これから、一ヶ月3,4万円を稼げます。しかし、家賃を払うと、すぐ飛んじゃいますね。生活はやっぱり大変です。
12月に授業料を払う必要があります。今は毎日6時起きて、6時半出発して、バイトが終わってから、研究室には10時までについて、夜は10時から11時に帰宅して、翌日のご飯を支度して12時に寝ます。生活は規律になりました。
生協から紹介した住まいは結構高い、敷金も払ったので、退居したら、もったいないです。北大周辺の住まいはほとんど3万円以上です、私の部屋は家具付きですので、3万円は割合安いです。
来 年は2月に学校の寮を申請するつもりですが、できるかどうかわかりません。今日、来年1月に入居できる会館の募集が始まったっていうことを聞いたのですが、実は11月15日は締め切りでした。すごいショックです。留学生の私は誰にも知らせてくれません。がっかりしますね。後は2月に他の会館を申請しま す。
先週、先生のホームページを読みました。結構感動しました。日本での私費中国人留学生は皆最初、基本的にきついですね。我々の理科系の学生は文科系よりもっと大変です。生活と実験を両立しなければなりません。
いままで、私は知る限りの留学生の中で一番実験で忙しい人です。ある人から、あなたのような留学生は日本に来る意味はないって言われました。仕方ありませんなぁ。頑張り続けるしかありません。自分の人生を自分でしか操れません。
札幌の水道水は結構綺麗なので、水を買うのはもったいないと思って飲んでいます。今は300円以上の食べ物を見ると高くて、買うのはやっぱりだめです。値段を見ると頭痛がしますね。
ではお大事に。
研 究室の女子学生の暁艶さんが、薬科大学の近くに『中国農業科学院蜂蜜研究所』という店があって、「ロイヤルジェリーを売っています」と教えてくれた。彼女 は修士2年生で英語班出身なので私たちの間は英語だけである。私たちのことを何時も気遣って昼のパンがなくなっていないかとか、果物もまだありますかとか いろいろ気にして買い整えておいてくれる。
あるとき暁艶と老化防止の話などをして、昨年の玉旅行のときに買ったロイヤルジェリーのことに も触れたのだった。このロイヤルジェリーは道中の道端の養蜂家から直接買ったもので、初めて食べたロイヤルジェリーは生臭いものだった。これが身体に良 かったかどうかは、実際上何ともわからない。でもまた手に入れて試してみたい品の一つだった。
大学の正門を出て200mくらい東に行った ところにある『中国農業科学院蜂蜜研究所』という店は、暁艶の案内がなければそのまま行き過ぎるくらい小さな店だった。壁の一面には蜂蜜の瓶、ロイヤル ジェリーの箱などが置いてあり奥には素っ気ないカウンターがあるだけの本当に小さな店だ。小柄の品の良いおじさん一人だけが店番で、いかにも研究所の出店 の感じである。
50gずつ小さな瓶に入ったロイヤルジェリーが5個入り、つまり250gで95元(約1520円)だった。棚を見ると様々 な蜂蜜が置いてあって、それぞれにムクゲの花の蜂蜜とかナツメの花の蜂蜜とか書いてある。花が違うと蜂蜜の色も違うし、とろっとした形状も違う。ムクゲの 花(1kgが32元)や龍眼の花(450gで20元)の蜂蜜は白く結晶化している。
昨年玉旅行のときに買った蜂蜜はアカシアの花の蜂蜜で、優雅な香りがして舌触りも滑らかでとても美味しかった。3kgを70元(約1,120円)で買ったように覚えている。ロイヤルジェリーは500gで60元(約960円)だった。
道端の養蜂家という生産者価格に比べるとここの店は数倍高いが、インターネットで見る日本のロイヤルジェリーや、蜂蜜に比べると日本円で比較して約10分の 1である(日本の通信販売では龍眼蜂蜜 650g6400円、あるいは250g 2700円。ロイヤルゼリーは200gで28,000円というのを見た)。
『中国農業科学院蜂蜜研究所』の名前も本物らしく見える。蜂蜜は大体水で薄め、水飴を混ぜ、という具合に本物とはほど遠い混ぜものというのが常識だが、ここのは本物か、あるいは本物に近いのではないだろうか。
こうやって買ったロイヤルジェリーは凍っていて、昨年知った味と比較して生臭さが少なく、しかし紛れもない本物の味がしている。
ロイヤルジェリーには良いことづくめの効能が謳われている。若い働き蜂が分泌したロイヤルジェリーは女王蜂を育てる為だけに使われる。人が食べれば「制がん 作用がある、糖尿病にいい、動脈硬化を抑える、自律神経失調症に効果がある、美容によい、不老長寿に効く」、などなど。しかし、分析によればビタミンが含 まれるにしてもその含量はわずかなものだし、水を含んだ1gやそこらを舐めたくらいで大の大人の病気が治り、健康を維持する成分が補えるなんて信じられな い。
ほんの少量を舐めたって効くわけはないと思っているのに、ロイヤルジェリーを試したいのは、私は「信じることで人は救われる」という のを信じているからである。私も、ひょっとしたらこれらの成分の総合作用で、少量でも身体にいいことがあるかも知れない位には思っているのである。
「病は気から」と言われるが、これは真実を衝いている。笑って楽しく物事に対処するのと、くよくよと思い悩むのと、気分の違いは生理的な身体の反応にも出てし まう。Natural Killer (NK)細胞と呼ばれるT免疫細胞は原始的な免疫機能を持って身体の防衛のために働いている。良く笑う人と悩む人との間には大きく数の差があることが調べ られている。もちろんNK細胞の多い方が病気に掛かりにくい。
悩みは身体のストレスとして表れ、神経終末のノルアドレナリン(ノルエピネ フリン)の分泌を増やす。最近、ノルアドレナリンがあると腫瘍細胞の増殖が盛んになると言う研究論文があった。誰でも癌が見つかったと宣告されるだけで人 生は暗いものになり、悩みが増える。この悩みがさらに癌細胞の増殖を助けるなんて、酷すぎると思う。癌は人の心の弱みにもつけ込むのだ。
癌は遺伝子の病気だ。人が生きていると言うことは細胞が分裂を繰り返していると言うことで、細胞分裂の機会が増えればDNAの配列に間違い(変異という)が増える。この間違いが修復不能だと細胞は癌化する。長生きすることは癌の発病しやすいことと同義語である。
と言うことは人生くよくよすることなく、死ぬまでの自分の一生を精一杯生きることが大事ではないか。笑いが健康を助け、人生を豊にすると思えば、笑って人生 を送るのも人生の選択である。ロイヤルジェリーは身体に良いと思って舐めている脳天気の極楽とんぼの門には災いは来ないのだ。
「先生。王毅楠が遺伝子をプラスミドに組み込むところを二人の学生に教えるそうです。私もそれを見て勉強して良いでしょうか?」と曹Tingさんが部屋にやってきて私 たちに訊いた。妻はこちらをちらりと見ながら、「いいんじゃないかなあ。」と呟いたけれど、私は「だめ。」と退けた。
たちまち美人と評判 の高い曹さんは顔をゆがめて泣き出して、部屋の外に出て行こうとする。私は「曹さん。まだ話しが終わっていない。戻ってきなさい」と呼び止めて私の前に 戻ってきた彼女と向かい合った。彼女は私よりもずっと背が高く、姿勢もいい。近寄りすぎると見下ろされてしまう。
「一つには、あなたと王毅楠は恋人同士だから、教わる仲間にあなたが入ってくると下級生はどうしても遠慮してしまうでしょう。これは好ましくないことだから、あなたの参加は遠慮して貰いたい。」
まだ涙の中から私を恨めしげに見ている。「二つ目として、遺伝子操作を人がやるのを見ていても、実際の操作は自分でやらなくては身に付かない。原理は誰だって知っているのだから、見ているだけだと、ほとんど時間の無駄使いに終わるから意味がない。」
「でも、必ず近いうちにあなたが実際に遺伝子をベクターに組み込む研究を考えるから、それまで待ちなさい。そんなに先ではないから。」
こう説明しているうちに、手放しで涙を流していた曹さんに笑顔が戻ってきて、涙を流しっぱなしの顔ながらも、最後には嬉しそうにうなずいて去っていった。
彼女は基地クラスから進学した学生の二人の学生のうちの一人で、三国志の名高い曹操と同じ名字である。詩作に巧みだった曹操の血を引いていると本人は言っていて、この研究室に来たころ実際に私の名前を巧みに読み込んだ玄妙な五言絶句を作ってくれた。
基地クラスなので、通常の学生だと6月卒業、9月に大学院進学というところを、5月に大学の課程修了、直ちに修士課程の研究を始めるというように設定されている。
彼女は同級生の徐蘇さんと一緒に昨年秋から研究室に、授業時間の空いている時に出入りし始めた。5月末の切り替え時を前にして、労働節の連休も明けて院生と して与えるテーマを考えようかと言う時期に、何とうちの院生の王毅楠と恋仲になっていたことが誰の目にも明らかになった。
つまり私たちの研究室の学生の一人として私が認識するより前に、研究室の中でカップルを作っていたのだった。所属している学生が20人を越すという隣の大島先生の研究室ではカップルを作る学生は始終いるらしいが、私たちの研究室では初めてのことである。
食事時になると二人だけでさっさと食堂に行ってしまうのは一向構わないが、全員一体だった研究室の活動は何かと阻害されて落ち着かなくなった。実験室に行っ てみると二人のベンチは離れているはずなのに、たいてい二人で何かやっている。学生が10人を一寸越える程度の私たちの研究室のセミナーで集まると、二人 は隣にくっついて互いにささやき合っている。皆のいるところで二人だけの世界を作られると、何かと皆の邪魔になる。
王毅楠はもう既に研究 室に2年半いて、その終始変わらぬ落ち着いた態度から学生全員の信頼を集めて来た人である。だから王毅楠に今までと同様にいろいろと聞きたいことがあるけ れど、特に女子学生は曹さんに遠慮して言わなくなった。曹さんには男子学生がものを言えなくなった。曹さんもほかの誰とも口を利かず、ひたすら王毅楠を見つめている。
これではあんまりである。世界は二人のためだけにあるのではない。それで春の終わりころ妻が王毅楠を掴まえて「二人が仲良く なるのは個人的なことだから勝手にしていいわ。でも、ほかの人たちが邪魔されるから、皆がいるところで二人だけの世界を持たないようにしなさい。」と言った。私は「セミナーで二人が並ばないように。必ず二人離れて座りなさい。」と命じた。
このように意見したところと言うか、それから時間が経ってこの恋人たちも狂騒の時が過ぎたのか、研究室は少し落ち着きを取り戻してきた。
若い男女が一緒に狭い空間の中で四六時中暮らしているわけだから、互いに惹かれ合う男女が誕生するのも無理はない。しかし、日本に比べて中国のこの大学の中 の社会はかなり特殊で、二人ができると何時も二人だけで行動するようになり、ほかの人たちとの付き合いが極端に減ってしまうようである。人生の一番大事な 成長時期にこのように二人だけが遊離して、それ以外の交友関係を絞ってしまうのはとても愚かなことのように思える。
でもこれは周囲との調和を考える日本人の見方であって、他人のことは一切気にしないという中国人の一つの特徴の表れといってよいだろう。異文化に囲まれて暮らしているのだから、私としてはそれを認めて受け入れなくてはなるまい。
理科離れが日本で深刻に取りざたされている。そんなにひどいのかと驚いている。資源も何もないので、人の知恵によって付加価値を高める生産を頼りに生きて行 かなくてはならない日本なのに、若者がサービス業や金融関係ばかりに走ったら、日本の将来はお先真っ暗ではないかと心配になる。
妻は私と全く同じ畑の生化学者である。私たちの娘は医者で某大学の助教授だし、その夫も同じく医者で別の大学で助教授をやっている。息子は今はフーテンだが元々は 物理の専攻だった。妻の妹は工業化学だし、姉は数学である。彼女の兄は冶金だった。日本で休暇中に会う友達の一人であるノーチャンは数学だし、私のクラス メイトでもある彼女の夫は建築で、つまり私たちの周りには理系人間ばかりがいるので、あまり深刻には感じてはいないかもしれない。
Yahooニュースで見たのは「『理科に関心』国際学力調査で最下位」(毎日新聞12月4日)というものだった。内容をかいつまむと、
「経済協力開発機構(OECD)は57カ国・地域で約40万人の15歳男女(日本では高1)が参加した国際学力テスト「学習到達度調査」(PISA)の06年 実施結果を発表した。学力テストで、日本は数学的活用力が前回(03年)の6位から70位となり、2位から6位に下げた科学的活用力と併せ大幅に低下し た。」
「関心などのアンケートでは、理科を学ぶ「動機」や「楽しさ」などについて尋ねた。このうち「動機」について尋ねた5項目では、 「そうだと思う」など肯定的に答えた割合がOECD平均より14〜25ポイント低かった。これらを統計処理し、平均値からどれだけ離れているかを「指標」 にして順位を出したところ、日本は参加国中最下位だった。」
「また、科学に関する雑誌や新聞などの利用度を尋ねた「活動」の指標でも最下位。科学を学ぶ「楽しさ」を聞いた指標も2番目に低かった。渡海紀三朗文部科学相は次期の学習指導要領改定で理数教育の授業時間を増やしていく必要性を指摘した。」
日本で理科離れが進んだのは、ゆとり教育の所為だといわれている。ゆとり教育を見直し、数学や理科の授業時間を減らしたのが原因だから、授業時間を大幅に増 やすことになったという。授業時間を増やすことに別に文句はないが、それで問題は解決するのだろうかと考えてしまう。理科離れというのは理科に興味が持て ないだけでなく、嫌いと言うことである。
文科省のお偉方は、子供たちの嫌いな授業時間が増えて、そしてそれが好きになると思っているんだろうか?
理科離れにはもっと根本的な理由があるような気がする。理科を教える先生たちが本当に理科が好きで教えているんだろうか。理科が本当に好きな先生たちが現場で生徒たちを相手に教えているんでしょうか?
学校が勉強をする場であった私の子供のころと今は違って、行かなくてはならないので嫌々出掛けるところが学校なのかも知れない。だから、昔のことを書いても 参考にはならないかも知れないが、私は言いたい。私が学校に行っているころは、教える先生の熱意が感じられる学科は、私たちも先生の話に聴き入って身をい れて勉強をした。先生だからと言って義務的に、ただ教科書に沿って教えているだけの先生を私たちは鋭敏に見分けて、それなりの対応をした。つまり先生の熱 意が在れば私たちはそれに応えて勉強したし、熱意のない授業をする先生の教科にはなおざりな勉強しかしなかった。
これは誰でもそうではないだろうか。誰でも今の自分があるのは、振り返ってみると小学校や中学、あるいは高校の先生の誰かの授業が気に入って身を入れた、あるいは大好きになったと言う記憶を持っているのではないだろうか。
このような今の自分の専門あるいは自分の形成に関わりのあった昔の授業、あるいは先生との関係を調査してみたらどうだろう。何かの本で影響されたかも知れない。こうやって調べてみることで教育のあるべき姿が出てくるのではないだろうか。
何しろ教育には時間が掛かる、効果が出るには時間が掛かる。授業時間が多すぎてものを考える時間がないと言って授業時間を減らし「ゆとり教育」と謳ったあげく、それじゃ駄目だというのでは堪ったものではない。
私たちの孫の世代は「ゆとり教育の犠牲者」にされてしまっている。彼らには全く責任はないのに、皆が「ゆとり教育の犠牲者」と言って指さすことになる。「そ んなこと言ったって、俺たち『ゆとり教育』を受けた駄目人間みたいなこと言ってさあ、ほんと、どうして呉れるんだよ。」と来年の大学受験を迎えた孫息子は ぼやいている。「今更、俺たち変わりようないんだよなあ。」
愛国心を植え付ける教育に血眼になるよりも、身の回りの自然に興味が刺激され 疑問を持つ教育、自分でものを考える教育をして欲しい。これとても教育をする先生たちの在りようにすべてが懸かっているのだが、もう大人になって自分の身 の将来ばかりが気になる人たちに、今さら理科が好きになる教育が出来るわけもない。教育をいじり続けて駄目にしてしまった日本は、どうやって再生の道、将 来の道を探るのだろうか。
大分前のこと、何かの本で読んだことがある。あまりに昔で何の本だったかは思い出せないので正確に引用できないが、それによると、「科学ばなれ」あるいは「科学をする心」などと言うと、科学はとても難しいと思われ勝ちだが、科学は誰もが日常的に実践しているのだと説いていた。
例えば、とその本は例を挙げる。「ある時自分の家にいる時部屋の電球が切れたとしてご覧なさい。あなたはどうしますか。『電気が消えた』と言って騒ぎ立てるだけでしょうか。」
電球が切れたのかな、あるいは停電なのかな、と先ずは誰でも疑う。部屋の外に出て見てほかの部屋の電灯が点いているなら、部屋のスイッチを二三度ぱちぱちしてみる。電灯がつかなければ、それは電球の故障だろうから取り替えようと思う。
買い置きの電球に取り替えてみて、点けば良し、点かなければ、この新しい電球も悪いのか、部屋の配線が切れたのかと思って調べることになる。
自分のうちの台所の明かりも消えてテレビも消えていれば、自分のうちのフューズが飛んだのかも知れないし、この一帯が突然の停電なのかも知れない。今なにか 使ったのだろうか。電気器具に新しくスイッチを入れた覚えはないけれどと思いつつフューズボックスを覗く。ここに異常がなければ、全体の停電に違いない。 直ぐに点くか、やがて何処からか何かの知らせがあるだろうとおもって、「一寸早めだけれど寝ることにするか。」で一件落着である。
誰でも これだけのことは人に言われなくてもやると思う。これが科学である。科学的思考そのものである。原因を考えるというのは仮説を立てることだ。そして、対 策、つまりそれを解決する方法を考え、実行してみる。これがまさに科学的実証を行うことである。つまり、理科嫌いとか、理科離れとか言うけれど、誰もが必 要なときには科学的思考をしているのである。科学はごく日常的なものであり、怖がるほどのものではない。
子供の頃にものの仕組み、自然の不思議に心を奪われれば科学的思考を日常的なものとして理科系の研究者や技術者になるだろう。それに出合わなければそうならないだけの話だ。
中国の政治的指導者のほとんどは理系大学の出身者である。胡錦涛主席しかり、温家宝首相しかり。これは中国の大学がほとんど理科系なので、選択の余地がなく理系を出て政治家になるのかも知れないが、日本の政治家にほとんど理系出身者がいないことと対照的である。
日本ではわずかに民主党の菅さんがいるくらいなものである。理系の思考が政治とは相容れないのだろうか。理系出身者が日本の政治に関わるようになれば、日本の政治も少しは変わるのではないかと思うが、どうだろう。
中国は理系の大学を増やし理系教育を受けた人材を大量に養成している。その結果人々は科学的思考を身につけることに成功しただろうか。
ウエスタン・ブロットという実験に使う方法があって、これはほんのわずかなタンパク質を特異的な抗体を使って染める方法である。感度を高くするために何段階 もの手順がある。ちょっと前のこと、目的のタンパク質が突然染まらなくなったという。研究室のほとんどの学生のウエスタン・ブロットがうまくいかなくなっ た。
すると一斉に「先生、うまくいきませーん」と言って来るではないか。学部学生の練習実験とは違うのだ。研究者になろうかと言って大学院で研究生活をしているのに、「どうしてだか、わかりませーん」はないだろう。
手順の中の過程で、電気泳動がうまくいったかどうか、電気泳動のゲルからメンブレンにタンパク質が無事に移行したかどうか、染色に使う抗体が大丈夫かどうか、最後の染色剤が大丈夫かどうか、それのX線フィルムの現像が大丈夫だったかどうか、それぞれを確かめていけばいい訳なのに、それを考えようともしないみたいだ。
理系の教育を受けても、科学的思考を身につけているとは限らないのだ。手順を追うだけではなくいつも考えるように彼らには言っているつもりだけれど、空回りをしているみたいだ。妻と顔を見合わせて二人でため息をついた。私たちのここでの4年間はいったい何だったんだろう。
私の見ている範囲は中国の東北の瀋陽というごく一部で、しかも薬科大学の中で私の研究室を選んだ人たちであり、理系教育を受けた中国人という母数集団を代表 しているかどうかは分からない。理系大学で教育を受けた中国の指導者は科学的思考を身につけた上で政治家をやっているのだろうか。理系教育が政治家になることとどのように関わり合えるか、大いに興味がある。
王麗さんは私たちの研究室が瀋陽にできた時から参加した学生の一人である。もちろんその時は大学院進学が決まったあとだったから、別の研究室に所属の大学院一年生だった。大学院の最初の2年間は呉英良先生の研究室所属の学生のまま私たちのところで研究を始めて、博士課程に進学したときに公式にこちらに所属を 鞍替えした。
この9月から始まった今年度の院生向けの奨学金に彼女は応募して、そこでトップの順位となって2,000元の奨学金を貰ったと言って嬉しそうに報告に来た。そしてお世話になったから「ほんの気持ちのお礼です」と言って足温器を妻に持ってきた。
大分昔の中国の大学はすべて授業料が無料だったらしいが、中国が経済成長に目覚めてからはそんなことはなくなった。瀋陽薬科大学の学部は今では全国一という 授業料を取り(一年の学費が5,200元)、誰に関しても学費免除はない。学費の用意できない親は銀行から学費ローンで金を借りて学費を払い込む。親はさらに学費だけではなく、大学の寮で暮らすための生活費用も出さなくてはならない。
学生は日本と比べて信じられないほど良く勉強するのは、 このように親の大きな負担に対して恩を感じていて、成績が良ければよい就職口があって良い給料を貰って恩返しが出来るからであり、目前の目的としては大学が用意した様々な年度ごとの奨学金を獲得して生活費にするために、よい成績を得ようと奮励努力するからである。
薬科大学の大学院は、入学時の成績で順位がついて上位の40%は学費免除になる。一年間の学費は修士で13,000元、博士で16,000元と言うべらぼうな額であるが、この人たちには学費免除と言う特典に加えて毎月200元が支給される。
したがって大学院に進学する学生は入試突破だけでなくこの成績上位に入るためにこれも死にものぐるいの勉強をする。大学院に入っても親に負担をかけ続けるか、学費免除で入って親孝行できるかと言う分かれ目だから、そりゃもう必死である。
私が瀋陽に来た頃は毎月200元の生活費を大学から貰うと、もちろん食べるだけでなくなってしまうけれど、それで生活することもできたという。今の学生に訊くと、毎月700元は欲しいですねえという返事も返ってくるが、500元あれば暮らせるそうである。ちなみに遼寧省の一ヶ月の法定最低賃金は590元であ る。
王麗の応募した奨学金は院生相手のもので、論文賞だった。学術論文を書くとそれをジャーナルに発表することになるが、ジャーナルには ピンからキリまでのランクがある。今世界的に通用するジャーナルの格付けはインパクトファクターと言って、その論文がその後何回引用されたかを示す数値で ある。もちろん毎年変わる。ジャーナルの評価だから、個別の論文ではなく、そのジャーナルの載った論文すべてを含めてその年度にどれだけ引用されているかが測られる。
生化学の専門誌で1-5くらいのインパクトファクターである。10を超すと破格と言って良い。NatureやScienceは15くらいで、Cellは40位だと思う。
王麗の論文は私たちがここに来て始めた仕事をまとめた最初の論文だった。尊敬する友人の井上康男博士が亡くって彼の業績を記念するための特集が組まれたとき、私たちも投稿したのだった。王麗を最初の著者にして、あと研究室の数人の学生も著者に含まれている。この時期のこのジャーナルのインパクトファクターは1.6位で、論文を投稿する時に、もっと高いと良いのにと密かに思ったのを覚えている。
追悼という急に決まった特集号なので質の良い論文が集まるには時間が掛かったみたいで、投稿して1年半経った昨年の2006年にやっと出版された。
この夏台北で開かれた国際学会に久しぶりに出掛けたが、台北の空港で会ったのが旧知のBasu博士だった。空港に迎えが来て居らず、私たちは一緒にタクシーをチャーターして会場の研究所に行った。その間約1時間にいろいろおしゃべりをした。彼はGlycoconjugate Journalと言うこの井上博士の追悼特集号に私たちも投稿したジャーナルのEditorial Boardになってからインパクトファクターが急上昇して、ほかのジャーナルを追い越したと言って自慢をしていた。
実際、今年になって発 表されたこの雑誌の2006年のインパクトファクターは7.446と言う驚異的な数値だった。王麗は昨年論文が出た時はインパクトファクターが低いから論 文奨学金に応募できないと言ってぼやいていたが、今年になってみると論文の出た2006年のインパクトファクターが十分高いので,ホクホクして1年遅れで 応募したらしい。
そしたらダントツの1位で最高の奨学金が貰えたのだ。「良いのかね、そんなことで。」と思わないでもないが、間違ったことをしているわけではないから、ま、結構な話である。
妻が用事で早く帰った日に、足温器を借りてきて教授室の机の下で足を温めた。この冬の寒さの到来と共に早々と左足の指が霜焼けになっていたけれど、足温器を 使ってひとまず治すことが出来た。私も論文の高いインパクトファクターのお陰で得をしたわけである。井上先生の追悼と言うことがなかったら、別のジャーナ ルに論文を送っていただろう。私の親友だった、やんちゃな井上康男先生にあらためて合掌。
12月15日は2007年度前期最後の定例会が集智ビル8階の日本語資料室で開かれた。
集まったのは:石原、安部、多田、中野、熊倉、斉藤、伊藤、田中、渡辺(文)、宇野、藤平、野崎、池本、松下、土屋、西岡、中田、瀬井、巽、山田、山形(達)、そして新入会員の嘉部(東北大学)の22名。
12月9日 には日本人会のクリスマス会がホテルマリオットで開かれた。今では殆どの教師が日本人会に加入しているので、このクリスマス会で顔を合わせている。クリス マス会の実行委員会には山田、熊倉先生が参加したし、当日の受付には請われて、中田、安部、瀬井、斉藤先生が参加してお手伝いをした。
熊倉先生は余興の時の司会役で3時間殆ど出ずっぱり、喋りっぱなしの大役だった。さらに余興では教師会からの初めての演しものとして「線路は続くよ」があった。
と言うわけで集まったときからそれぞれ「とても良かったですね」など声を掛け合って、良い雰囲気だった。
この「線路は続くよ」は、 宇野浩司先生がとんでもない芸を持っていることから始まった。彼はいわゆる鉄ちゃんという鉄道マニアである。誰かが駅の名前を言うと、その鉄道の急行の名 前はもちろんその沿線の駅の名前、名物、駅弁、街の表情まで克明に記憶していて、それがたちどころに蘇り、鮮やかに口から吐き出されるのである。
これは前年度最後の6月の送別会の時に披露された。あまりにも凄い芸だし、これなら誰もクリスマス会に向けて練習する必要はないので、クリスマス会の演しものとして申し込んだのだった。
クリスマス会当日のステージのバックコーラスは、菊田領事、石原、巽、池本、安部、中田の6人。宇野さんは学生が50元 で本物そっくりに作ってくれたという金色の二重帯に輝く車掌の帽子をかぶり、白手袋をして「本日はご乗車ありがとうございます」と言う挨拶から始まった。 会場でサンタ姿の藤平さんが会員の誰かに「あなたの出身の駅は?」と訊いてまわり、宇野さんがその駅についてのうんちくを次々と述べたのだった。
司会の熊倉先生もステージの上で素敵に輝き、このクリスマス会の大きな会場で私と妻の貞子は一番遠いテーブルが指定されていたのでステージが良く見えないとぼやきつつも、教師会に入っていることを誇らしく思ったものだ。
定例会のあとは、「異香風味灌湯色酒店」というレストランで忘年会が開かれた。多田さんが欠席で、キャノンの葉さんが参加して22名。司会は渡辺文江、西岡豊先生。
ここでも宇野さんの芸が披露されたが、もう一つ皆の関心を集めたのは任期満了で来年2月には帰国する安部先生だった。安部先生は瀋陽で知り合った人と12月 3日に日本で入籍したというニュースでみなを驚かせた。葉さんが、「その相手は日本人ですか中国人ですか」と訊いたけれど、答えは不是。ナイジェリア人だそうで、皆ますますびっくり。
司会役が余興で用意した○×クイズがあり、○で勝ち残った人は、今年で記憶にのこる一番幸せなことを話す。×で最低になった人は、今年一番困ったことを話すということになった。
クイズで勝ち残った土屋さんは、日本で定年になったあと瀋陽に来て先生をやって本当に良かったと実感を込めて話した。×ではじゃんけんでビリを決めたけれど、池本さんが「話したいです」と志願して、つい最近ビザの申請で大変な目にあったことを話した。
司会役の西岡先生の好意で貰ったその時の問題を載せましょう。
1.来年の12月15日は月曜日である。
2.宮崎県串間市市来海岸に浮かぶ「幸島」は野生猿の研究で有名になりました。この研究は京都大学が中心になって行っている。
3.ここの研究員は、猿一頭一頭ごとに名前を付け、正確に認識できる。
4.ここの猿は芋を海水で洗い、味を付けて食べることで有名になったが、最初にこれを始めたのは群を支配するボス猿である。(×)→子どもの猿がこれをはじめた。
5.「幸島」の猿は海を泳ぐことができる。
6.この島の猿は潮が引いたとき潮だまりの魚やタコなどを採って食べる。
7.中国の都市部の人口は総人口の50%を占める。×→40%
8.中国の都市の中で一番人口が多いのは「上海」、2番目が「北京」である。×→一番人口が多いのは「重慶」で3000万人である。
9.沈陽の人口は740万人である。
10.日本での瞬間最大風速は、秒速84,5メートルで、1961年9月16日に高知県室戸岬で観測された。 ×→85.3m(宮古島) 1966.9.5
11.日本で一番大きな渓谷は黒部渓谷で、次が奥入瀬渓谷である。×→その逆。
12.日本最大の砂丘は「鳥取大砂丘」である。 ×→「九十九里浜」
13.日本で最も潮の流れが急なのは、来島海峡である。 ×→①鳴門海峡 ②早鞆の瀬戸 ③長崎 ④来島海峡
胡丹の奥さんの秦さんからメイルが来た。
胡丹は私たちの研究室で修士課程の3年間の修行を終え、昨2006年秋に東京大学大学院新領域創成科学研究科の博士課程に進学して山本一夫先生の研究室で指導を受けている。私たちのところでやった研究で、彼は論文はBBRCとConnective Tissue Resにそれぞれ1報を書いているから、もちろん立派なものである。
奥さ んの秦さんは天然薬物を専攻して修士課程を胡丹と同時に出ている。二人は修士課程を終えて結婚し、胡丹はそのあと直ぐに日本に行った。秦さんは半年後に日本に行くまで私たちの研究室で預かった。将来役に立つよう二次元ゲル電気泳動とブロッティング、そしてタンパク質を感度良く検出する銀染色の技術を教えた。
彼女は日本語専攻ではないので日本に行くにあたって日本語を一生懸命勉強した。彼女の日本語の勉強のために、教師の会の池本先生にも3か月くらいの個人指導をお願いした。
池本先生は、日本で夫と共に暮らしていこうと決意して一人で日本語の勉強に頑張っている彼女、そしてお金がない彼女に同情して、ほんの形だけの教授料しか取らずに教えてくれた。
秦 さんが日本に行ってから約9か月経った。秦さんはその後胡丹の研究室の山本先生に電気泳動の技術が認められて、正規のアルバイトとして研究の一部に組み込まれた。彼女は手先が器用で、人の言うことも良く聞くので、彼女の技術はますます素直に伸びるだろう。今に彼女の技術で研究室に欠くことの出来ない人材になるのではないかと思う。
私たちのところではガングリオシドと結合するタンパク質を探している。ガングリオシドのあることが細胞の行動に 明らかに影響するので、ガングリオシドがあるという情報が何かの形で細胞に伝わるに違いない。と言うわけで抗ガングリオシド抗体を使って、ガングリオシドと一緒に抗体と落ちてくるタンパク質を調べている。
この抗ガングリオシド抗体で共沈するタンパク質を二次元ゲル電気泳動で分離し、銀染色で染色して共沈する分子が、明らかに抗ガングリオシド抗体と特異的に反応したことを確認した。
こ れらの分子が何であるかは、予想を付けたうえで抗体を用意して抗体染色をすることが出来るが、それでは効率が悪い。今の時代はタンパク質のスポットを切り抜いて、質量分析機を用いて分子量だけでなくタンパク質のアミノ酸配列まで知ることが出来る。アミノ酸の並びが7個分かれば原理的にはそのタンパク質がなんであるか分かる時代なのだ。
と言ってもここには質量分析機もなければ技術もない。と言うわけで、山本研究室にお願いしてこれらの分子の同定をやって頂くことにした。山本先生と話して、彼がOKすればあとは、秦さん、胡丹の出番となる。
このようなことがあって、山本先生や胡丹とメイルのやりとりが頻繁になったとき、秦さんからメイルが来たのだ。その一部に曰く:
「私 たちは、先生のおかげで、とても元気です。先生は心配しないでください。彼は毎日忙しいです。彼はいつも言います、今の研究室で一日中にやった仕事は、山形先生の研究室で一週間に仕事よりおおいです,以前、山形先生の研究室で、一生懸命研究しなかったと、後悔しています。」
胡丹が私たちの研究室にいるときには「もっと実験しなさい。研究は身体を動かさなくては駄目なんだ。」と何度言って聞かせたか分からない。胡丹に私たちの言葉は馬耳東風で、実験は「これで十分」と思っていたようだ。私たちの目から見ると、彼は実験では怠け者だった。
彼がここでは一番上だったので私たちの研究室には見習うべき先輩はいなかった。いくら言っても、研究は実験を一生懸命やらなければ進まないことを実感できず、手抜きをして安易な実験しかやりたがらなかったのだ。
その胡丹も研究をするためにはどうすべきか自分で分かってきたようだ。山本先生のところにお願いした甲斐があったというものだ。山本先生の研究室は二十数人と言う妥当な大きさで先進的なテーマで世界をリードしている良い研究室である。
胡丹はここでは怠け者だったとしても、自分でしっかりと考えることが出来る珍しい学生のひとりだった。あとは怠けずに研究をする習慣が身に付けば、周りの人たちと議論をすることで彼も立派な研究者になるだろう。
と もかく、今研究室では王毅楠くんが山本研究室に送る試料の調製に忙しい。試料の分析がうまくいき、タンパク質同定に成功すれば、私たちとしてはこのようにねらいを付けたタンパク質や糖脂質と反応する分子を二次元ゲル電気泳動で分けて、それをMSで同定して仕事を先に進めるというスタイルができあがることになる。私たちにとっては涙の出るほど嬉しい方法が確立できるわけだ。
最近読んだニュースで傑作なのがあった。「衝撃!男性の半数程度が『座りション』と判明」(2007年12月13日Google)というものである。
「松下電工が女性と男性からそれぞれ男が座ってしているかどうかを訊いたところ、女性が自分の夫は座っていると思うのは59%で、男自身は49%が座っていると申告した。「座りション」男性が増えたのは、妻に言われて、便器をよごさないためだという。」
ずっと以前のこと、妻と話していてどうして「男が決断力に富んでいるのに、女性は優柔不断が多いのか」と議論したことがあった。妻が言い出して今でも私たちの 間でお気に入りの理由は、「男はどちらか決めてからトイレに行くのに、女はともかくトイレに行くことが大事で、そのあとはどちらになっても良いわけよ。そ れを物心が付いたときから続けているでしょう。毎日5−6回は決断をする機会が男より少ないから、大っきくなるまでには差が付いちゃうのよ。」というもの である。
8年前に出版された「話を聞かない男 地図が読めない女」というベストセラーを読むと、男と女の違いは原始時代の人々の生活にす でに起源がある。男は狩りに出るので方向感覚が必要だし、いつも危険に対して身構えていていなくてはならない。方向を間違えればうちに帰れず、狩りの獲物 も捕れない。決断力がなければ危険に対応できず生き残れない。駄目な男は否応なしに淘汰されて、「地図の読める」決断力のある男の遺伝子が支配的になる。
一方で、女は家に残りほかの女たちと仲良く暮らして行かなくてはならないので、互いのこと気を遣い調和を測ることが生き残るのに必要だった。だからまず調和 を考えるという遺伝子が女性に多く行き渡っている、と言うことになる。おまけに女性は脳梁が発達しているので両方の脳を使って考えることができるし、話が できる。話で決着を付けるとしたら男は女に勝ち目はない。
20世紀の初めまで男性優性の社会が続いた。それに対して女性側から「それは ないでしょ」と言い始めたのが、サルトルの女友達としても有名なボーボワールである。「第二の性」で彼女は「女は女として生まれるのではなく、女に作られ るのだ。」と主張した。女の有り様を男社会が決めて、女らしい女、女はこういうものだというのを作ったのであって、女の能力は男と同一のもののはずだとい うのが彼女の主張である。
いまでは、人は元来男女双方になりうる用意をして生まれ、男の遺伝子がきちんと発現し、生殖原基から精巣ができ てそれが男性ホルモンを分泌すれば、脳は男の脳として発達することが分かっている。ストレスによるホルモン異常や、環境ホルモンによる干渉などでこの過程 に失敗すると、脳が男になり損ねた男になる。ともかく男と女の脳は別のもの、つまり考え方、感受性などを心として括ると、心の動きは同じではないことが分 かっている。社会が違いを作るのではなく、男と女は元来違う生物と言っても良いほど違うのだ。
男と女は脳が違い、考え方が違っているだけ でなく、成長しても分泌されるホルモンが違うから、男と女の考え方や行動が同じではない。決断力はテストステロンの量とも関係があることも分かっている。 決断力に富む男はリーダーとして歓迎されるが、テストステロンに突き動かされていて実は周りが見えないこととほとんど同じである。リーダーの周りには熟考 熟慮、洞察力のある参謀がいればこのグループの率いる集団はうまくいく。決断力と深慮遠謀との能力を一人の人間が兼ね備えるのは、生物学的に考えると、と ても困難なことが分かる。
この頃の女は、結婚相手に「強くて頼りがいがあり、しかも優しい人」を求めるが、これは元来が無理というものであろう。男は本質的には粗野で、野蛮で、自分勝手で、ともかく安全で長続きのするセックスの相手が欲しいだけなのだ。
「トイレに行くたびに決断する機会のあるなしが男と女の違いを生む」という妻の意見は、実にユーモラスで面白く、私たちの間のお気に入りの小話である。トイレ に行くとき「一寸決断してくるね」と私が言えば妻には何のことか直ぐに分かる。締まらない話を延々とする女の話に「トイレが違うしね」と妻に言えば妻には 話が通じる。妻の意見はどちらかというと、ボーボワールの路線に沿っている。
さて、私はどちら派かって?私は仕事の関係で単身赴任が長かった。20年近く一人で自分の住処の食事、洗濯、掃除をしてきた。トイレで立ってするとどうしても汚れる。汚さないためには座るしかない。と言う訳で私は早くから座りションである。
失敗する危険性も顧みず、男は進化の過程で苦労してせっかく違う脳を獲得したのに、座りションをするようになったということは、本当を言うと男の脳機能にとっては好ましくないことである。
私の身の周りでは、結婚したい男は多いが、なかなか結婚できないというのは女から相手にされていないと言うことだ。経済力のある女性は「結婚したいよう」と迫られても、男に縛られて自分の生活を失うことと比べて、得るものが少なく夢が描けないためだろう。
それでも結婚に踏み切る女性もいるが「優しい人が良いわ」と言われて男は身を縮めてやっとの思いで結婚し、結婚したあとはトイレを汚さないよう「座ってやっ てよ」とお願いされているわけだ。男が男らしくなくなっていく現状では無理ないことかも知れないが、環境ホルモンが男を蝕んで行くのと呼応して女性が強く なっていくのは,男にとっては両面の敵というべき受難の時代である。
研究室の女子学生の暁艶さんはいつも親切に私たちのことを気遣ってくれる。今年になって疲れやすくなった私を見るに見かねて、何時だったかは朝鮮人参を持っ てきて「これを薄片にして熱湯で成分を抽出して飲むといいですよ」と言ってくれた。薬科大学のある研究室では生薬の朝鮮人参を研究に使っていて、したがっ て簡単に品質検定ができる。つまりこの朝鮮人参は薬科大学のお墨付きである。
「元もと人は『気』を持っているんですよ。その『気』は日の出と共に上昇し夜になると低下しますね。その『気』の上昇を助けるのが朝鮮人参の有効成分」だそうで、だから「沢山摂ってはいけないし、夜になって飲んではいけない」とも言われた。
しかし、好奇心旺盛な私は最初にひとかけらを試したその夕方、また薄片を削って飲んでみた。すると効果覿面、その夜よく寝られなかった。寝られないながらに、こうやって夜寝られないと言うことは、この朝鮮人参のひとかけらは『気』を助けるのに効くというのは本当だろうなあ、と考えた。朝鮮人参はきっと効くのだ。
というわけで、毎朝大学に着くと朝鮮人参を薄く削って熱湯を注いで私も妻もそれを飲んでいる。朝鮮人参は10本が200元くらいで、決して高いものではない。4年前にその頃学生だった沈さんと薬屋で買った朝鮮人参は乾いて白かったが、今度のはねっとりしている。ボラの卵の名物「からすみ」みたいな感じである。
最近では朝鮮人参のほかに、ロイヤルジェリーや純粋と思われる蜂蜜を暁艶さんが見つけてきてくれて、私たちの楽しみも増えた。
昨年の玉旅行のときに道端 の養蜂家から蜂蜜とロイヤルジェリーを買い求めたが、その時一緒だった中国医科大学の渡邊京子先生とはその後蜂蜜の情報を交換するようになった。今度もロ イヤルジェリーが買えますよと彼女に教えた。それを買い求めに来たついでに薬科大学に立ち寄った渡邊先生に、つい最近うちの水の工 事があって、それまでのちょろちょろ水がとうとう直って機関銃のような流れのシャワーを浴びてとっても幸せだという話しをしたところ、「そんなぁ。4年間も水の出が悪いのを我慢していたんですかぁ?」と、京子先生は、びっくりしている。
シャワーはちょろちょろ、洗濯をすると水槽に水を溜め るのに30分もかかると、つい洗濯していることに心が十分行き届かずに洗濯は二日がかりだったとか、水を洗濯機に溜めておくのを忘れているうちに断水を食 らってトイレのことで慌てたとか、水に関してぼやくことなら事欠かないほど頭の中にエピソードが詰まっている。
実際4年間良くも我慢した ものだと言えるけれど、実際はこの瀋陽では水の出方はこのようなものだと思っていたからである。ここに来た時から水の出は悪かったし、水が中国には豊富に はないと言われていたので、水の出が悪くても当たり前だと思ったのだった。それがときどき断水するようになっても、そうか、前よりはもっと水が足りなく なって、ここは上階だから水不足をもろに食らっているんだな、と納得していたのだ。
「広東省広州市で、2007年「中国・持続可能な発展 フォーラム」が開催され、広州地理研究所の張虹鴎所長は人口増加・経済発展に伴い、2010年には省全体で総需要の3分の1に相当する17億8000万立 方メートルもの水資源が不足する見込み。この数値は値で、今後広東省は深刻な水不足に陥るとの予測を発表した。(11月26日Record China)」という具合に、中国に来て以来水不足のニュースは絶えず眼にしている。
うちの水の出が悪くても何処かに文句を言おうなんて 思いもしなかった。当然と思っているのだから、当たり前である。その背景には「中国の水事情は悪い」と言う思いこみがあった。これは「思いこみ」ではなく 事実だと思うが、私はそれを信じていたから、水の出が悪くても、文句を言おうとは全く思わなかった。
「思いこみ」が怖いというのはこうい うことを言うのであろう。水の出の悪いのがうちだけだとは思っても見なかった。こういう「思いこみ」、これを別の言葉で言えば、検証もしないで信じ込むような、人から見れば愚かしいことをまだほかにもやっているのではないか、とこれを機会に自分を反省してみる。
ロイヤルジェリーが身体によ いとか、朝鮮人参で元気になるとかと言うのも自分一人の勝手な「思いこみ」である。人の場合、自分でロイヤルジェリーを摂らないときのコントロールと、 摂ったときの二つを比べる実験はできない。しかし、ロイヤルジェリーを試し始めて3週間、快眠快食快便が続いている。となると、人に迷惑を掛けない「思い こみ」ならば、ま、いいのではないかと思うことにしよう。
中国の大型連休は春節、労働節、国慶節でそれぞれ、1週間の休暇がある(来年から大分変わることになっている)。大学では春節の時に前期と後期を分ける冬休みがあり、夏には学年度を分ける夏休みがそれぞれ4-5週間ある。これに従って研究室も休むと、私たち研究をやってきた日本人の感覚からすると、休みすぎである。
それで瀋陽に来て以来いろいろやってみたけれど、春節休みはそのまま素直に休むしかないのが分かってきた。というのは遠い故郷か ら瀋陽に来ている学生にとっては、交通費を考えると年1回の休みしか取れない。休みを取るとすると、夏休みではなく家族も集まる春節休みに故郷に帰りたい。と言うわけで春節休みにも研究をしようという私たちの提案はあっさりターゲットを失った。
その代わり、夏休みは2-3週間に絞っている。労働節、国慶節は私たちは休まない。学生が来なくても文句は言わないが、研究室は日常通り動かしている。
労働節、国慶節のほか、名月の中秋節、クリスマスなどは、瀋陽に実家のある学生はうちに帰る。このような休日は、勿論恋人同士は二人の時間を過ごしている。
昔の戦後のころの日本のクリスマスイブは、クリスチャンでもないのにこの日を特別視して、街で飲んで食べて浮かれて大騒ぎをしていた。今はすっかり落ち着いたが、この日を一緒に過ごすことが恋人の証みたいになっているようだ。今の瀋陽は以前の日本に近いみたいで、ある程度大騒ぎしているらしいが、一方では少 なくも恋人たちにとっては特別意味のある日らしい。
恋人のいる学生は恋人と過ごすために研究室から早々といなくなる。夕方は、瀋陽に実家のない学生と、恋人のいない学生だけが研究室に残って実験をしていることになるので、何時のころからか、このような家なき子、愛なき子を誘って一緒に食事に行く習慣が出来た。
昨年のクリスマスは、結婚している女子学生の王麗さんが夫と馬敏さんが実験で遅くなるから私は独り者だと言って、私たちの中に入ってきて一緒に回教のレストランに行った。その時は、陳陽くん、暁艶さんのほかに、王毅楠くんもいた。
さて今年のクリスマスイブは24日だった。今年は研究室の白板に「24日に独りの人を誘います、一緒に楽しくクリスマスイブを祝いましょう。一緒に行く人は下にサインを。」と書いておいた。サインをしたのは、陳陽、暁艶、のほか今年の新人の徐蘇さん。それに妻が日本に用事があって行ってしまった可哀相な私だけである。
昨年仲間だった王毅楠は今年は恋人を見つけて、初の恋人たちの時間を過ごすらしい。
昨年のクリスマスイブは私 を入れて5人だったが、今年は4人である。この人数なら街のレストランに出掛けるよりも3人をうちに招いて私が食事を作ってご馳走するのも良いのではない か、と思いついた。幸い料理は毎晩作っているので、面倒ではない。ただ人数が増えると、うちの狭い台所で用意するのが大変になる。ぜんぶで4人なら何とか なるだろう。
うちに招いて食事をすると言ったら、皆大いに喜んでくれた。うちにホストの私しかいなくても、家庭でクリスマスイブを過ごすと言う感じになるに違いない。
ご飯を炊いておかずを作るとなると、彼らは沢山のおかずが出てくる中華料理に慣れているので、狭い台所では大変である。それでスパゲッティを出すことにした。今では瀋陽でもイタリア製スパゲッティが買えるが、日本からイタリアもののスパゲッティを持って来ている。
ソースは二種類を作った。二回に分けるのは一度に沢山の麺をゆでるのが難しい為でもある。ソースの一つはトマトソースで、これは前の晩からトマトを煮込んで用意し始めた。あとは椎茸とベーコンを入れればいい。
も う一つはホワイトソースで、これは一寸早く帰ってタマネギを刻んで作り始めた。鮭缶の鮭を使って良い感じにできあがった。このほか、雲豆(インゲン)、豚 肉、湯葉を日本風の味付けで煮たおかずも用意した。スパゲッティはそれぞれ1回300グラムずつゆでた。一人あたりにすると2回合わせて150グラムにな る。
さて、5時から3人が来て、もう湯を沸かしてあったのでスパゲッティをゆでて最初はトマトソースから。陳陽も、暁艶も普段は実にゆっ くり食べる人たちだが、スパゲッティは温かいうちに食べるのが美味しい。だから、たまたまTVでやっていた「Sue」を眺めながらも、出来るだけ急いで食 べるのがマナーだと教えた。
TV映画が終わるともう7時近くなっていた。そこで第二陣のホワイトソースのスパゲッティを作った。ソースが煮詰まって堅くなっていて、麺が絡んでしまったのは私の失敗だったが、味は思った通りとても良かった。
こ のあと「Pink Panther」をDVDで見て、最後に紅茶でチョコレートを食べて9時半にお開きにした。このイブは独り者を対象にしたが、私の手料理を味わった人たちは決して可哀相な人たちではなく、幸せだったに違いない。でもこれだけでは不満が出るので、今週末には研究室の全部の人たちと一緒に研究室で火鍋をする計 画を立てている。
12月15日 (土曜日)の私たちのジャーナルクラブの時、二人の演者の間の休憩時を見計らったかのように電話が鳴った。たまたまその時私は「もしもし」と日本語で言っ て電話に出たら、「もしもし、こちらは南本ですがね。お久しぶりですねえ。」と懐かしい南本さんの声が聞こえるではないか。
南本さんはこの7月に帰国するまで1年半に亘り瀋陽日本人教師の会の会長だった。私はその間彼と一緒に引っ越しその他のいろいろの仕事をした。とても懐かしい相棒である。
私の頭の中では、とっさに「日本からだろうか、中国からだろうか。日本だったら悪い報せだろうか、いやこの声音ならそんなはずがない。」とめまぐるしく分析をしている。「ワーーーオ?どこからなのですか?」
「今度、研修所に頼まれましてね。二ヶ月泰山の麓の泰安という街にきたのですよ。」泰山というと山東省だ。孔子の生まれた街で名高い曲阜も近い。
南本さんは元もと日中技能者交流センターから中国に派遣されたから、帰国したあと、中国からの企業研究生に日本語を教える研究所の日本語教師を2か月務めたと聞いていた。
企業に研修のため派遣され てくる中国人は、先ず中国各地にある日本語の研究所で2か月日本語を学び、そのあと日本の岐阜と愛知の二カ所にある日本語研修所で日本語の講習を受けるの だという。南本さんは日本で中国人に教えているうちに、日本語をもっと教えようという気持ちにとりつかれて、中国行きを志願したに違いない。
電話でひとしきりおしゃべりをしてから3日経って、インターネットが繋がったと言うことでメイルが届いた。次の便で尋ねたところ「公開して良い」という返事が届いたので紹介する。
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『やっとメールが通じるようになりました。返事が遅くなって申し訳ありません。
私は12月14日午後4時ごろ青島空港へ着きました。会社差し回しの自動車で高速道路を120 Kmか時には130 Kmくらいのスピードで約4時間かかって泰安市(泰山のある町)にやって来ました。ここには日中技能者交流センターから派遣され、2月15日まで企業研修生に日本語を教えます。
今住んでいるところはやた らに広いところで、寝室(Wベッド付き)兼書斎、居間(食卓)兼客間(とにかく広く大きなソファーと大きなテレビがあります)、台所、それに使用しない部 屋が2部屋、ベランダ(洗濯機および物干し場)があります。エアコンは寝室兼書斎と居間兼客間しかありませんが、とにかく居間兼客間が広すぎるものですか ら、事務所用の大きなエアコンが設置してあります。したがって夕方料理を始めるためにIH電磁炉、電気釜等のスイッチを入れると、この棟(?)が時々停電 します。
そのうえ、大変待遇がよく、自炊道具(中国にしては立派な電子レンジがあります。)、調味料各種はもちろん揃えてありますが、驚いたのはこれまた大きな冷蔵庫に各種野菜、牛肉の丸太(約3-4 Kgはあろうかと思います)でぎっしり詰まっていました。中には中国野菜でどのように料理したらよいか分からないものもありますが・・・・。一人で自炊するのでどのように食べたらいいか戸惑っています。
他にも、牛乳が24パック(1パック 250 ml入り 中国では常温で賞味期限は8ヶ月です。)、缶ビール1ダース、駄菓子、インスタントラーメン5袋、各種麺類等が所狭しと台所においてありました。
私は当然、自炊の食材等は自分もちだと思っていましたのでびっくりしたしだいです。
また、1週間に1回は掃除をしてくれるそうです。自転車も新しいものを提供されました。
15日には給料先払いでお金を貰いました。その時に、まだ必要でしたら言ってください。もう少しあげますよといわれたのには、またまたびっくりしました。
私の授業は月曜日から土曜日まで毎日8時に始まり、午前中で終わります。昨日、午後、私の宿舎から歩いて泰安の繁華街まで行ってきました。途中寄り道しましたので2時間かかりましたが、まっすぐ行けば1時間半ぐらいの距離です。もちろんバスはありますが・・・・。
寒い時期(と言っても今のところ気温は私の故郷山口県とほとんど変わりません。)ではありますが泰山に登ってみようと思われればどうぞいらっしゃってください。
藤平先生から早速こちらへ来たいというメールをいただきました。
加藤先生も私の同じように、今長春へ行っておられるようです。
では向寒の折柄どうぞ御自愛ください。』
日本の教育不在と言われる ような荒れた学校で教えるのは大変なことだろうが、日本語を学ぶ意欲に燃えている若者に日本語を教えることほど、教え甲斐のある仕事はないに違いない。日 本語を学びたい人たちが全世界で増えている。意欲と能力のある若い人たちも、ぜひ南本さんたちに続いて欲しいものだ。
暁艶さんという修士2年の薬学英語班出身の女子学生の故郷は新疆ウイグル自治区である。私たちがこの9月に訪ねたウルムチからさらに西に向かって汽車で数時 間行ったところだという。ウルムチまで瀋陽からは飛行機でも5時間半掛かり、汽車だと4日近く掛かる。春夏2回の休みにも出費が嵩むので、春節休みにしか 故郷に帰らない。
もちろん一人っ子だから、瀋陽出身の学生が毎週末うちに帰るのを横目で見ながら、親に会いたいのをじっと宿舎で我慢している。そのためかどうか、私たちは彼女のお祖父さん、お祖母さん、にあたると言うわけで大事にして呉れる。週末の食料のまとめ買いは殆ど毎回彼女の手を患わ せている。とても有り難いことだが、だからといって研究室では彼女のことをひいきもせず、特別待遇をするようなことをしていない。
暁艶はとても行き届いて落ち着いた性格の子である。私たちの間の共通語は英語だからそんなに難しいことには踏み込めないので、いつも互いに脳天気なことばかりを話している。
ある日の午後、教授室から 実験室に行くと、途中の廊下の角の窓に向かって暁艶が一人立っていて、何か異様な雰囲気だ。どうしたの?と言いつつ近寄ると、泣いている。「えっ、泣いて いるの?」とは言ったもののどうしようもなく、私は用事のあるままに実験室に急いだ。用事を済ませて部屋に戻るとき、もう暁艶はそこにはいなかった。
今まで泣いている暁艶を見たことはなかったし、彼女が泣くことすら考えられないほどいつも元気で明るい学生なので、心配になった。実験室に戻って王麗に聞くと、「彼女泣いているでしょ。」という。「だけど訳は知らないよ。宿舎に帰ったよ。」と教えてくれた。
学生が泣いているのを知っ て放っておく訳にはいかない。それで、暁艶の携帯に電話を入れた。携帯は切ってはいなくて、直ぐに出てきた。どうしたのかと聞くと、「済みません。宿舎に 帰ってきてしまいました。」と普通の声音でいう。「どうしたのか?」と重ねて聞くと、「今夜の報告会で話すことがないんです。」 と言って泣き声になってしまった。
ちょうどその夜は毎週1回の研究進展報告がある日で、発表の順番が彼女に当たっていたのだった。皆の前 で話すことがなくて泣きたい気持ちは分かるが、泣いたまま終わらせるわけにはいかない。ともかく「泣くな。そして私のところに話しに来なさい。それも直ぐに来なさい、待っているから。」と言って、彼女がそうするというので電話を切った。
その日の朝、私たちは毎週の定期的な話しを彼女ともしていた。仕事は真面目に進めているのである。結果が出ていないことなんて、ごく一時的なことに過ぎないのだ。
やがて私のところに現れた 彼女に話した。「研究が進まなくて泣きたい気持ちはよく分かるけれど、研究成果を話すことがないくらいで泣くことはないよ。だって、泣いたって何も解決し ないでしょ?泣くのは人が死んだ時だけにしようよ。どんなことをしても、もうその人は決して帰ってこないのだから。その時は運命を感じて無力な自分を泣き なさい。」
「私だって今まで研究で生きてきて、報告会の日に話すことが何もなくてどうして良いか分からないこと な んて、始終あったよ。恥ずかしいよ、そりゃ。研究をさぼっていたわけではない。だけど成果が出ないのは、まるで自分が無能みたいなものだし、そうかといっ て無能に思われるのもしゃくだし、本当にどうして良いか分からないくらいだったよ。でも、泣くと言うことは逃避だよね、泣いて逃避しても状況は全く変わら ない。だから泣いてごまかさずに、その状態に自分で向かい合わなきゃ、何も解決しないんだよ。」
「研究がうまく進まないときには、実験計画に無理があるか、実験の何処かで知らずに失敗しているか、あるいは作業仮説そのものが間違っているかも知れないわけさ。実験の手順を検討し、それで も間違っていないなら、仮説を検証し直して新しい実験計画を立てなくちゃ。泣かずに考えようよ。私が死んだら泣いて良いけどね。」
私の長広舌を聞いていた暁艶は「分かりました。でも話す事がないのです。今夜は話しを免除して貰えますか?」と彼女は言うので、これには「うん。いいよ。」と言うほかなかった。
夜の報告会は三人が話すこ とになっていた。二人が終わって彼女の番が来たので、彼女が話さないことを私が皆に言わなきゃと思ったが、暁艶は前に出て行って「実験がうまく進まなかっ たので話すことは一つしかないのですが」と話し始めた。ガングリオシドの存在下で細胞接着が変わるので、接着分子を調べようと 思ってその予備実験をしたと、毅然とした態度で報告を行った。2時間前に泣いていたことは全く窺えない。
これなら大丈夫だ。泣いたことで彼女は一段と成長したに違いない。挫折は人を育てる。さらに言えば、一ヶ月の間全く実験をしないでいて「実験結果がないから自分は話さない」と私に宣言しに来た学生に比べれば、はるかに好感が持てるというものだ。
陳陽くんは今修士課程2年生で大変ユニークな人である。薬科大学で彼のことを知らない人はない位の有名人だ。
背が高くて、しかも痩せているのでそれだけでもひときわ目立つ。おまけに顔が日本のアニメの主人公みたいで、無機質な、しかし美少女風の造形である。さら に髪型や衣装に大いに凝っている。日本の若者の風俗としては当たり前みたいな格好でも、この大学の中では際だつ。高知大学から交換学生として来ている戸田 さんが同じようにお洒落で、キイチェインを掛けていると思ったら、陳陽も早速同じようなキイチェインを首に掛けていた。戸田さんはピアスを片耳にしている が、陳陽はまだそこには追いついていない。
「先生、何を書いているんですか。また私の悪口でしょう?良いですよ、いくら書いても。私は世界中に名前の知られた有名人になってしまいますね。」と、彼が教授室に入ってきて私がPCに向かっていると、時には声を掛けてくる。
私は四六時中PCに向かっていると言っていいくらいだが、論文を書いているときや、読んでいるときは近づきがたい雰囲気だそうだ。遊んでいるのではないか ら当然だろう。しかし、PCでメイルを書いたりするときは相手のことを思い浮かべながら書くので、相手が女性だとどうしても優しい顔になると、妻が指摘し ている。実に柔和で穏やかな良い顔になると言うのだ。エッセイを書くときも、例えば陳陽のことを書いているときなどは顔がゆるんで優しい表情になっている らしい。
実際、私のホームページや、研究室日記にときどき陳陽が出てくる。人のことを悪く書くつもりはないから、ここに登場するというのは私のからかいの、そして好意の対象と言うわけだ。陳陽はあまり本を読まない人だ。試験のために仕方なく教科書を読むくらいで、時間が空いていればコンピュータゲームをやっているか、映画をインターネット からダウンロードしてもっぱらそれを観ているという。それなのに将来は「教授になりたいから先生のところに来た」という。「研究はどうやってやるものかの心構えは教えるけれど、研究者になるかどうかは本人の能力と心がけ次第だしね。それに大体うちの研究室に来たら金儲けの出来る研究者にはなれないよ。」と研究室に来た時最初に言ってある。
「でも、お金を早く儲けたいですね。だって親にまだ世話になっているから沢山給料を呉れる会社に就職して親に恩返ししなくっちゃ。」と陳陽はいう。これは 彼に限らず学生一般に通じる考え方で、勿論親からの圧力もある。親は食うものも食わずに子供の教育に投資したのだから、大学を出た子供の就職先に口を挟 む。つまり少しでも給料の高いところに就職させたいのだ。就職先の将来性などは考慮の対象ともならない。初任給の高いことが第一条件である。だって、会社 なんて何時潰れるか分からないのだから、初任給で少しでも元を取らなくてはならないというのが、社会常識のようである。
一方で将来何時かは教授にもなりたいし、そのためには博士課程に進学しなくてはならないと考えているわけだ。進学は日本にしようかアメリカにしようかと 迷っている。ひと頃日本の大学院に行こうかと口にしたので、「日本に行ったら陳陽みたいな格好をした学生は沢山いるし、陳陽は今こそ目立っていても、日本 では全く目立たない存在になってしまうよ。」とからかったら、そりゃまずいと本気で考え直しているみたいである。つまり陳陽にとってはファッションの最先 端に位置していることこそ生き甲斐らしい。
日本をやめてアメリカに行っても、アメリカは厳しい競争社会だからポスドクも1年契約で2年目には首になることもあると言ったら、アメリカに行くのもびびっているようだ。
そのためまた思い直したのか、この頃は「でも日本の女性は皆優しくて、親切で、素敵ですよねえ。」と陳陽は一生懸命自分に言い聞かせている。「中国の女性 は誰もが野蛮で強くって、この国じゃ男はつらいよねえ。」とまで言っている。中国の女性が人前では男の負けないくらい喧嘩っ早くって、実際手を出すのは何 度も目撃しているが、日本の女性の方がしとやかだというのは、本当だろうか。
この認識は、瀋陽日本人教師の会の女性の先生たちがときどき私の研究室を訪れるからだろう。陳陽は日本語が自由に話せるから何時もこう言うときには顔を出して私を手伝ってくれる。日本人の先生にしてみると日本語が鮮やかな陳陽は話すのに楽しい相手である。
陳陽にしてみれば日本人の先生たちはみな若くて美しいし、ちゃんと相手をしてくれて、綺麗な日本語で話し相手になってくれるから、こんな幸せなときはないのだ。そのあとも、ときどき夢のような眼をして、「○○先生は今度は何時訪ねて来るのですか。会いたいなあ。」なんて言っている。
「今度の日曜は、わたしと○○先生が日本語資料室の当番だから一日中会えるのさ。」と言って彼の羨望と嫉妬の眼差しを受けるのは、わたしにとって値千金の楽しみである。もちろん当番で○○先生に会えることは私にとっても嬉しいことだが。
暮れの31日、朝の挨拶に来た学生の暁笠さんが今日は家族がみんな集まるので早くうちに帰って良いですかと訊いた。彼女は瀋陽に実家がある。寮に住んでいて も週末はうちに帰る。今日は大晦日だから家族が集うのは当然のことだ。それからしばらくして現れて、彼女が言うには「先生。今夜は予定がありますか?」何 のことか分からないので不安だが、ともかく正直に「いえ、何も予定はないけれど。」と返事をした。
すると「今夜の大劇院の音楽会の券があるのですが、2枚あるのでお友達でも誘って出掛けませんか?」という。どうしたの?と言うと母が呉れたのです。とい う。余ったから思いついて呉れるのか、意図的に私に呉れるのか、そのあたりのことは分からないが、問いつめることでもない。有り難く戴くことにした。
妻は先に日本に帰っているので、薬科大学の日本語の先生のひとりに声を掛けたが、今日の大晦日は州際酒店に宿泊を取ってあります、今夜はうまいものを食べ て、たっぷりと風呂に浸かってと断られてしまった。それでほかの先生に声を掛ける元気がなくなって、研究室の学生の暁艶さんを誘って出掛けた。
大劇院は1年前に中にある小劇場に入って、松井菜穂子さんのソプラノコンサートを聴いたことがある。本格的な音楽は瀋陽に来て以来2度目である。外はマイ ナス20度の凍てつく寒さだ。劇場は外から3階くらいの高さまで大階段を登る。この階段は紅い絨毯が敷き詰めてあって夜も鮮やかで美しい。綺麗なだけでは なく、靴の雪や氷と泥の汚れを取り除く意味もあるのだろう。
演奏は遼寧交響楽団で、オーケストラの演奏は戦後の日本では馴染みのグリンカのリュスランとリュドミラ序曲ではじまり、ビゼーのカルメン組曲、ブラームス のハンガリー舞曲、シュトラウスの狩りのポルカ。そして所々に男性4人あるいは女性3人のグループによる歌が入ってきた。最後に「乾杯の歌」が美しい発声 のテノールとソプラノで歌われ、締めくくりがラデッキー行進曲だった。
演奏の初めは木管がばらばらなのが気になったけれど、そのうち久しぶりに音楽を聴く興奮に包まれて忘れてしまった。女性3人のグループの歌の一つが単純なメロディの繰り返しなのにそれをうまくアレンジしてあって、歌う感じもとても良く直ぐにメロディを覚えてしまった。
暁艶にこの曲のCDを探して欲しいと頼んだら、彼女は翌日にはダウンロードした曲を私に渡してくれた。CDを金を出して買うという気はここの国民にはな く、何でも無料でダウンロードするらしい。陳陽に訊くと映画も何でも無料でダウンロードして観ているという。それでもこの国の音楽産業は大いに栄えてい る。
この曲は「青春舞曲」という名前で、大意は:
太陽は山の端に沈むけれど、明日は何時ものように昇ってくるだろう、
花は散っても来年も同じように咲くだろう、
美しい小鳥が飛び去ればそのあとには影もない、
私の青春も小鳥も去ったら同じように戻っては来ないのだ、
だから青春を大事に楽しもう、
私の青春も小鳥も去ったら同じように戻っては来ないのだ。
これは青春の終わった人が歌う歌ではなく、青春賛歌である。青春まっただ中の人が、今こそ青春だよ、真っ盛りの青春をいまこそ楽しもうよ、短い青春が去ったらもう二度と戻ってこないのだから、と歌うのだろう。
私は身体のあちこちが若いときとは違うなあと嘆く歳になったから、今の私が歌えば、「若いときは二度と来ないよ、若いときはとても短いんだよ」と言うことになるだろう。実際しみじみ考えると、涙が滲み出してくる感じである。
でも、青春とは肉体的にごく短い時間だけを指すとすると、今や人生80年となった時代には悲しすぎる。青春はあくまでも心次第であるというのがいい。マッ カーサー元師が座右の銘にしていた詩『原詩:サミエル・ウルマン(Samuel Ullman) 邦訳:岡田 義夫』が私も好きである。
『青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こ う言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦 悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろう と、その胸中に抱き得るものは何か。曰く「驚異への愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の 如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く
人は自信と共に若く
希望ある限り若く
疑惑と共に老ゆる
恐怖と共に老ゆる
失望と共に老い朽ちる
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。』
原詩:サミエル・ウルマン(Samuel Ullman) 邦訳:岡田 義夫
ちょ うど一年前、2006年12月の終わりに薬科大学の中の組織変更があって、新しい学部『生命科学及生物製薬学院』が出来た。瀋陽薬科大学は中国の大学名鑑 100校にこそ顔を出さないが、教授一名あたりの発表論文数で評価すると理系大学のトップテンの中に入っていて、知る人ぞ知る中国薬学界における実力校で ある。
この大学は天然薬物化学で名を売ってきた。簡単に言えば漢方薬で知られる生薬の成分を抽出し、分析、構造を決めることである。しかし、今までのように天然物の薬の有効成分を精製して効くかどうかを調べているだけでは、世界の生命科学を基盤とした薬学研究の波に乗り遅れる。
私たちが2003年に来たときには細胞培養をやっている研究室はほとんどなかった。つまりその頃の薬科大学では、薬が生きものに効くと言う視点、あるいは 薬がどのようにして薬理作用を表すかに興味を持つ研究者がいなかったと言っていいと思う。もちろんそういう状況だからこそ、私たちでもこの大学に招かれた 訳だが。
私たちは来たときからこの大学に生命科学研究中心を作ったらどうかと学長に言い続けてきた。名前だけでも良い、あとで心が従いてくるのでも良い、この名前 があれば、「ああ、この大学は生命科学を基盤にしている斬新な大学だ」と言うメッセージが周囲に伝わる。これは大事なことだ。スローガンが人の心を変える のと同じだ。言葉があれば目標となり、そして使命感へとつながる。
生命科学を目指すのは21世紀の大学として当然のことで、世界的にみれば今頃名前を付けるのは遅いかも知れないが、それでも遅すぎると言うことはない。新 しい名前はこの大学に新しい息吹を吹き込み、それを周囲に燦然と示して輝くことが出来る。私たちの意見が通ったといっているのではなく、ともかくこの大学 も世の中のトレンドに乗って21世紀に通用する戦闘旗を掲げたわけだ。
この変更でいままで『薬学部』に属していた「薬理学」と『製薬行程学部』に属していた「生化学」とが一緒になった。私たちはこの「生化学」に属している。 この大学では製薬会社と常にタイアップして金になる製剤学系と薬化学系が幅を利かせているという。そのような金儲けとは縁のない「薬理学」も「生化学」も 貧乏学科である。ここは金回りの良さが評価される社会だから、この新しい学部が発足しても大学の中では一段と低くみられていると聞いた。
このように学部が改変になってこの1年の間に変わったことと言ったら、ただ一つ、忘年会の会場が豪華なレストランから、大学が持つ招待所の美味しくないレ ストランに変わったことくらいである。貧しい学部になったことを象徴している。新しい先生が招聘されて来て研究室を開いたという話しも聞かないし、研究費 が増えたという話しも聞かない。
一年前に学部の改変があった時と同じくして、『国際薬学研究合作センター』というのが出来たことが学内新聞に載った。この新聞によると私たちの研究室がセ ンターに入っている。隣の池島教授も載っている。大分前に北海道薬科大学先生が兼任教授となって作った研究室があって、その教授が退官したあとこちらの助 教授が昇格して教授になった研究室の名前もある。これ以外にも、アメリカに拠点を置く中国人の先生の名前も載っている。全部で9研究室の名前があった。
それから2か月くらいのうちに私たちの教授室の斜め向かいの部屋が改造されて立派な事務室が出来て、人が出入りし始めた。金色の『国際薬学研究合作センター』というネームプレートがその入り口には燦然と輝いている。
このセンターが出来たことで研究費も増えるのかと期待したけれど、この1年、そんなことはなかった。研究費の申請を一度書かされたきりで、それもあとで隣の池島さんに聞いたところでは、こんなに研究申請が出ていますよと言うための当て馬だったらしい。
9月の教師節の祝日には花束が届いた。12月には今年度の研究業績を書いて届けるようお達しが来た。年末には新年の飾り付けに使うきらきらとした紙の提灯が贈り物として届いた。
それだけである。国際薬学共同研究センターとしてはこの1年何をしているのだろうと不思議である。所長秘書は花束を届けてくれたりするので馴染みになった けれど、当然任命されているはずの所長は、トイレで出会うようになった人がそうかなと思うようになっただけで、きちんと挨拶をしたことがない。
私たちがこのセンターに属していることは新聞を読んで知っただけで、私たちは公式には知らされていない。先方の所長は私たちがその中に属していることを公式に当然知っているはずである。それでも、こちらから挨拶をするべきだろうか。中国は不思議なところである。
本当ならば、今日の土曜日はハルピン(哈爾浜)に行っているはずだった。昨日からハルピンの氷祭りを観に出掛けているはずだった。
ハルピンは、ロシアが満州経営のために1898年に東清鉄道建設をしたときの拠点としてロシアが造った街として知られている。鉄道は満洲里からハルビン経 由ウラジオストックまでの東清鉄道本線と、 ハルビンから大連・旅順までの東清鉄道支線である。その後の日露戦争、満州国を経て、いまは中国黒龍江省の省都である。
ハルピンはあまりにも寒いところだが寒さを逆手にとって、何年か前から市内の松花江の凍った川の水を切り出して氷の建物を造り、ハルピンの氷祭り・氷灯・雪祭りとして観光を売り出した。夜間は氷の内側からライトアップして、それはそれは見事だという。
瀋陽から600km離れていて、列車で3-4時間。瀋陽に暮らしてハルピンの氷祭りを「観に行かない手はない」と、教師の会で集まったときに誰かが言い出 して、「それじゃ、教師の会で計画を建ててさ、行ける人たちみんなで一緒に行こうよ」と言ったのは、私だったか、誰だったか。
教師の会の催しものの担当は、2年前から「レクリエーション・研修担当係り」となった。レクリエーションと教育研究が一緒になっているから、遊びに行く計 画でもあまりやましいことなく、おおっぴらに教師の会で検討できる。係りの先生たちも、じゃ、計画を立てましょうということになって、関心のある人たちで 手分けをして飛行機の便、汽車の発着時刻表、交通費、ホテルを調べ、あるいは現地事情のききとり調査をしたり、旅行社にあたった。
その結果分かったのは、ハルピンの寒さは半端じゃないと言うことである。瀋陽の今頃は最高でマイナス10度くらい、最低でマイナス20度くらいの気候だ が、ハルピンの最低は軽くマイナス30度になるという。どんなに厳重に装備をしていても外に出ていられるのは1時間が限度だという。
氷祭りの会場は市内にあちこち散在していて、もちろん会場は吹きっ晒しの屋外である。移動にはタクシーが要るが、このタクシーが直ぐに見つかるとは限らな い。一行が1台に乗りきれない人数の時は、タクシーを必要な数だけ見つけるまでマイナス30度の外気に曝されることになる。これは高年組の多い教師の人た ちの旅行としては危険である。
というわけで、自由なスケジュールではなく、旅行会社に頼んで現地で小型バスをチャーターしよう、旅行社に頼むのは割高になるが、安全のための投資であ る、ということになった。氷祭りは夜がメインなので、瀋陽を11日金曜日の午後1時に発って夕方ハルピンに到着。直ちにチャーターしたバスに乗り市内の会 場を巡って、ライトアップされた氷の殿堂を満喫。そのあとロシア料理を食べてホテルに行く。翌日の土曜日は現地の教会、博物館、雪祭り会場などをみて午後 3時発の汽車に乗り、瀋陽には夕方7時に戻る、という計画が立った。
レク掛かりの一人である女性の渡辺文江先生は計画を立てる中心にいたのに「瀋陽まで出て来るのに時間が掛かる」だの、「試験の最中だし」とか、「中国に10年おるけれど、まだ行ったことはないんし」なんてぐずぐず言っている。
試験期間かも知れないけれど、自分の時間は融通付けられるはずだし、まだ一度も行く気にならなかったなんて理由にはならない。良い相棒に恵まれなかっただ けだ。「これは一生に一度のことですよ。もうこれっきりのチャンスなんだから、一緒に行きましょうよ」と強引に誘ったのは私である。それで、参加者は男性 6名、女性2名となって、老若男女のバランスも良い。
日本では穿いたこともない、内側にモヘアが張ってある暖かい冬用の靴を瀋陽では穿いている。それでも足指に霜焼けが出来るので、もっと厳重な防寒靴を買っ てハルピン行きに備えた。靴の中に入れるホカロンも、身体に付けるホカロンも必要なだけ用意した。いつものズボンの上に穿くオーバーパンツも用意した。
それなのにその私が、一週前の週末に体調を崩して二日間寝てしまった。おまけにどうしてか痔が急に悪くなってひどい下血があった。というわけで、残念ながら本当に泣く泣くハルピン旅行を断念したのだった。
楽しみにいたハルピンの氷祭りが見られないのは残念だし、一緒に行こうと言っていた仲間には申し訳ないし、今はとても情けない気持ちでいる。「救い は、、、」と書きたいところだけれど、救いは何もない。何時もの土曜日の朝の研究室のセミナーは予め中止にしてしまったし、それで学生は喜んでいるかも知 れない。でも、私は窓からハルピンの方角を悲しく眺めつつ、大昔失恋したときもこんな気分だったことを思い出している。
今日(1月12日土曜日)はすでに書いたように私はハルピンに遊びに行くことになっていて、いつもの研究室のセミナーは中止ということは早くから皆に知らせてあった。
その二日前になって私はハルピン行きを止めたけれど、セミナーの中止はそのままだった。それでも、ハルピン行きを止めたからと言って、わたしが研究室に来ないと学生が思うなんて思いもしなかった。
ところが、ところがである、朝わたしはラボに来てホームページの原稿(参加できなかった「ハルピンの氷祭り」)を書いていたが、8時前にラボに来たのは修士1年生の徐蘇さんだけだった。
8時になってホームページに原稿を載せても(日本時間で記載されるから、1時間の時差がある)、いつものセミナーの始まる8時半になっても、彼女以外誰も来ていない。9時になっても誰も現れない。
一体どうしたんだろう?今日は休みではないのだ、休みだと思っているのだろうか?ということで学生に電話を掛けても、どの電話を空しく鳴っている。4人目 に出てきた暁艶は、のんきに「お早うございます」なんて返事して出てきた。「どうして今日は来ないんだ?今日はセミナーはないけれど、休みじゃないだろ う?休むつもりなんですか?」と畳みかけたら、「I am sorry, but I have no data to tell you.」なんて、まだ寝ぼけたことを言っている。「Today is not a holiday. If you do not show up to the lab, you should be ashamed of your absence.」と私は言って電話を切った。
先刻電話して応答のなかった学生たちから電話が掛かってきたが、私は直ぐに切って返事をしない。やがて修士3年生の暁東がやってきた。
既に状況を察してか、暁艶から聞いたか、「遅くなって済みません、」とのっけから言う。「今日は休みじゃないでしょう。どうしたんですか?」というと、 「済みませんでした。でも先生が電話をくれたから、何か先生が困っているのではないかと思って電話したけれど、電話に出てこないのでラボに飛んできたんで すよ」などと、可愛いことを言う。「先生、怒っているんですか?」「いえ、失望したのですよ。」と私。
やがて陳陽と王毅楠が連れ立ってきて、陳陽「すみません」。王毅楠「・・・」二人ともうなだれている。私は「口では何と言ったって言えるけれど、行動で人は判断されるんだよ」と偉そうなことを言った。
やがて、暁艶、そして風邪で来ないと言っていた王麗も、曹、鶴さんたちと揃ってやってきた。皆お通夜に来たみたいな顔をしていた。
その後わたしは全員にメイルを出した。
To Everybody:
Because of me, the Journal Club scheduled to be held this Sat morning has been cancelled. But, does it mean that today is a holiday?
Think why you thought this was a free day. If you feel that you are forced to work in the lab, you feel reluctant to work, and you do not like to work, you do not necessarily stay in our lab.
YOU may quit.
I would like to spend my time only with those who are really interested in science.
Yours,
わたしは今日の出来事を一足先に日本に行っている妻の貞子に書き送った。彼女が言うには:『みんな自分のしごとを自分の仕事だと身にしみて思っていないんです よ、きっと。先生の要求には応えなくてはとそれだけは考えているけれど何をすればいいのか分かっていないし、出来るだけさぼっていたい。研究というのを全く理解できないのではないでしょうか?』
『この間、テレビで「小皇帝の涙」というテレビを観ました。小学生の時から山のような宿題、少しでも成績が上がるように親がつきっきりで勉強させている姿を撮していました。考えるのではなくともかく与えられたものを全てやり上げていく、そして友人に負けないように席次が上がるように、親は子供の尻を叩き詰め、という姿が有りました。』
『』先生は親子の話し合う会を開いたのですが、子供達はそれこそ涙を流しながら男の子も女の子も子供達はもう疲れた、子供が一生懸命やっているのだから親は他人と較べないで、と言っていました。何故そんなに親は子供達を信じられないのか一生懸命やっているのだからと。』
『ところが親たちは、親だって成績でリストラにあうんだ、今頑張らなくては君たちは振り落とされてしまうんだ、私たちはあなた方を愛しているから少しでも良い成績をとるように強制するのだと一歩もゆずりまぜんでした。』
『きっと大学に入って学生たちは皆ほっとしているんだろうなということ、誰も強制されて覚えることはできても自発的に考えることはできないのだろうという こと、そしてただ人より上に行くことだけを求められて来たので、成績があがること以外の喜びは何なんだろう、などなどと考えました。』
『老師に怒られれば失敗ったと思うでしょう。先生に悪く思われると言うことは大変なことかもしれません。でも、知りたい、やりたいということとは全然違うのですよね。』
『これを変えるのは大変なことですね。今、山形研にいる人たちに、研究の面白さを知らせる以外に私たちに出来ることはないかもしれませんね。』
妻はやんわりと「研究の面白さを理解させる努力が足りないのだ」と私をたしなめている。私たちはそのために努力を続けてきた。まだ、それが実らない。賽の河原のようだ、空しさを感じてしまう。
研究の成果が出て、そして論文が出て、ここでやって良かったと思えば、すこしは身が入るようになるのだろう。だから私にも大いに責任がある。彼らを責めて いるだけではいけない。努力の足りないのは私の方だと思って頑張るしかないのだろう。そう、これが今年の目標なのだ。「あきらめない、ぼやかない。くじけ ない。」
2007年12月の定例会で会則文言の変更が討議された機会に、山田さんからHP係と編集係の二つを一緒にしたらどうかという提案があった。これは5月の日本語文化祭の記録が両方に寄せられ、その結果としてHP係が、日本語クラブの記事を盗用した、剽窃したと山田さんに非難されたことに端を発しているものと思われる。
すべての事情が明らかになった今でも山田さんは山形(達)を非難することを止めないので、ここに状況を明確に書き残しておきたい。
日本語文化祭の記録をHPに残すために、2007年の文化祭実行委員長だった田中義一氏にまとめを書いてくれるようにHP係から頼んであった。一方日本語クラブでも日本語文化祭特集を組もうということで、原稿提出を呼びかけていた。
田中さんからまとめが届いたので、それと、プログラムおよび当日の写真を「2007年度日本語文化祭の記録」として私はHPに載せた。
田中さんは実は日本語クラブにも同一原稿を送っていた(ことがあとで分かった)。HPの「2007年度日本語文化祭の記録」は日本語クラブ26号よりも(たまたま)前に公開された。日本語クラブ編集係の山田さんはこれを見て、HP係の山形が日本語クラブの原稿を盗ったと言い出した。山形(達)宛どころか、会員、さらには日本人会幹事会のメンバーにまで公開のメイルを送って「山形達也は日本語クラブの原稿を盗んだ」といって非難したのである。
HP係の私は山田さんから言われて、HPに載せた田中さんの原稿が日本語クラブに送った原稿と同一らしいと分かったが、私は事前には知らされていなかったし、事前には気づかなかった。最初から知っていたのは田中さんだけである。
HPに田中さんが書いて送ってきた原稿を私が載せたからと言って、私が「盗用した、剽窃した」と言って非難される理由は全くない。根拠のない言いがかりである。当たり前の常識を持っている人なら直ぐに分かることである。
またたとえ、日本語クラブと教師の会のHPの「日本語文化祭の記録」に同じ記事が載ったとしても、目的が違うのだから、大して不都合はあるまいと、わたしは思う。
でも、あまりに山田さんの攻撃が激しいし、こちらの説明を何度言っても全く受け付けようとしないので、HP編集係としての私は田中さんに断ってこの田中さんの原稿を載せるのを止めた。代わりに日本語文化祭の最後に挨拶をした南本会長にその時の挨拶を貰って、それを載せた。
これで一件落着かと思ったが、そうではなかった。山田さんのもう一つ、2007年度の執行部への言いがかりを付けていた。7月はじめ緊急に会員が集まって協議し、「新執行部役員はそれまでどれほど教師の会に貢献してきたかが大事である」という山田さんの意見を退け、山田さんもそれを受け容れた。
一方、山形に対する彼の非難は根拠が間違っていることは何度も山田さんに言った。しかし、山田さんが誤っていることをこれ以上本人に明確に分からせるのは、彼が物事を正常に判断する理性を持たないことを理解させるのと同じであり、なんど試みても無駄だった。
だれにでも、身体の病気と同じように心の病気が起こりうる。しかし心の病気は本人は自覚しにくいし、他人もあからさまには言いにくい。とても難しい問題で私の手に余る。
と言うわけで、山田さんとは口をきかない関係が続いている。この先どうして良いか分からないと言うのが正直なところである。
12 月28日は研究室全員でパーティをする約束をした。一緒に食事をするにしても外のレストランでは気分が窮屈だし、食事をするだけで終わってしまってくつろいで楽しめない。それで教授室の一隅のセミナーのコーナーで、研究室の全員で火鍋をしようと提案した。日本で言うと忘年会だが、中国ではこれを新年会とよぶ。
食材を買ってきて洗って刻むだけの用意なら簡単なことだと思ったが、学生にすべてをまかせたら、どうせなら美味しいものを食べたいと考えたらしく、専門の レストランから羊蝎子を買ってきた。これは羊の背骨の部分にまだ肉が残っているのを煮込んだ料理である。煮込んだスープの味が良く、これがそのあとの鍋にそのまま使えるわけだ。
学生が手分けしてそれ以外の食材は昼頃近くのスーパーマーケットの家楽福(Carrefour)で買いに行ったが、店の中で使う大きなカートを押して戻ってきたのには驚いた。買い物は沢山あるし、しかも雪が降っているので大変だからと言って店に頼んで、カートを外に持ち出して押してきたのだという。店も気 前の良いことだ。中国ではカートを外に持ち出すなんてことを絶対に認めたりはしないはずなのに。
午後過ぎるとみなで用意を始めて5時からスタート。全員参加のはずだったが、曹さんが急病となり、その恋人の王毅楠くんも彼女の看病とパーティとどちらが大事かと迫られて、彼女を選んで欠席。全部で11人の宴会だった。
火鍋は二つ用意したが、私から遠い方の鍋は、元気な王Pu、暁東、王麗、陳陽が鍋を囲んでハシを鍋に突っ込んだままつっ立っていて、鍋の中が煮えた途端に 先を争って食べるという大騒ぎが繰り返された。おとなしい暁笠さんなどははじき飛ばされている始末。それでも7時前にはひとまずお腹の虫も収まり、さあ、 ゲームをしようと言うことになった。
まずは、おかしなゲームから始まった「フック!」と誰かを指して叫ぶと、指された人は「キャプタ」と言って誰かを指さなくてはならない。「キャプタ」とい われた人は直ちに、「ヘイチュウ」と言いつつ両手の上に上げて、これを繰り返す。この両側の人は同じように「ヘイチュウ」と言いつつ両手を動かさなくては ならない。真ん中の人は直ちにフックを誰かに繰り返す。反応が遅かったり、手の動かし方が悪いと、直ちに皆から棒で叩かれる。棒と言っても空気でふくらま せた風船である。
この手の遊びに慣れている卒研生の鶴さん、笠さん、そして于琳くんは全くへまをやらないが、はじめての私や、動作の遅い暁艶はとっさのことでうまくいかずたちまち行き詰まり、みなから棒で叩かれた。棒と言っても空気でふくらませた風船である。
このドジを何度かやると、なかでも暁艶が一番沢山叩かれたことになり、罰とを受けることになった。王麗が自分の化粧品を持ってきていて、暁艶の頬にその紅で丸印が赤々と描かれた。
次は目隠しをされた人が、人の手に触って誰かを当てる競技である。おおっぴらに男女が触りあえるという競技なのだ。戦前の日本は百人一首のカルタ競技で手と手が触れあうしか、公には触る機会がなかったと言うことを思い出した。
いきなり手を触って誰か分かるなんて私には想像できないが、みな結構いい線行っている。半分以上の正答率である。とうとう私にもやるようにと順番が回ってきた。
それで注文を付けた。手じゃなくて、「顔に触っていい?」「いいよ」という返事である。みなは10秒の猶予だが「私は20秒欲しいけど、いい?」こ れも良いと言う。「触るのは女性だけだよ?」と、私は手を洗いながら、ここぞぞとばかり叫ぶ。これにも良いよ、と言う返事が返ってきて、私はにんまりした が、考えてみると男性は私以外には3人しかいない。失敗した。男性を指定した方が当たる確率が遙かに高かった。
さて目隠しをされて、期待に満ちて女性の顔を両方の手を使って撫でたけれど、とても分からない。考えてみれば、若い女性の顔に触って撫でたことなんて、このウン十年絶えてなかったことだ。分かるわけもない。
と言うわけで、罰として鼻の頭が真っ赤に塗られた。鏡を見ると、あまり可愛くないピエロが誕生した。私に紅を塗った王麗は、「これで私は卒業できなくなったね。」とぼやいている。彼女は順当なら来年6月に博士課程修了である。
このあと陳陽が踊った。陳陽の踊りは今では研究室の名物になっている。もしも大学で研究室対抗の競技があったら是非出場させたい特技だ。彼は「中国の浜崎あゆみ」と言われる蔡依林のダンスを照れもせず、見事に真似るのである。
蔡依林は新体操の振り付けも舞台でやる位だから身体はしなやかで、彼女のダンスは見事なものである。彼女の歌に合わせて、陳楊は全員の前で踊り狂った。 「練習なんかしていませんよ。見ていれば踊れますよ」と陳陽は言う。実際、この狭い大学の中で密かに練習する場所があるとは思われない。
陳陽は新人類である。今の学生たちは私の目から見ればすべて新人類だけれど、その彼らからも新人類と言われているのが陳陽である。何を考えているのか分からない新人類だが、好むと好まざるとに関わらず、中国の、そして世界の将来は新人類が握っているのだ。
薬科大学の日語班の学生は、薬学部に60人、中薬学部に30人いる。彼らは大学に入るときに志願するか、あるいは成績上位から選ばれて日語班に入る。希望者はさして多くないから、入試成績の上位者が日語班に入るので、彼らは学生の中ではエリートと見なされている。
3年前から制度が変わって、日語班の学生は大学1年から日本語の勉強を始めることになった。週24時間授業のうち20時間が日本語の勉強に充てられる。 10時間は中国人の先生が日本語の文法を教え、10時間は日本人の先生が日本語会話を教える。9月から勉強を始めて翌年の6月には日本語能力試験4級を受 け、12月には1級試験に挑戦する。日本語の授業はこのとき(2年生の前期)までで、あとは一般教養、専門科目に移り、専門科目の一部は日本語で勉強する。最初の1年を日本語の勉強に使うので、彼らは卒業するのに5年掛かる。
瀋陽には日本語を専門として、あるいは第二外語として教える大学がいくつかあるが、専門科目を日本語で勉強するところは、この薬科大学と医科大学しかない。
今の中国では毎年五百万人を越える大学卒業生が出る。多すぎてその3割は就職先が見つからないという。しかしこの薬科大学は薬学という専門教育を受けているために就職に困るという話しは聞いたことがない。その中でも特にこうやって日本語を学んで、しかも専門まで日本語を使って学ぶことでどれだけ学生は有利になるのだろうか。
一番わかりやすい、海外の特に日本への大学院進学数はどうかというと、毎年10人にならない。90人いる日語班のうちの10人だから大した数ではない。日本語で専門教育を受けたのだから、日本の大学院を目指しても良いと思うし、実際多くの学生が望んでいるけれど、留学費用の点でほとんどの学生が断念する。
中国と日本との間の為替格差が大きいからである。親は一人息子あるいは一人娘にこれまで莫大な教育投資をしてきた。さらにひとよりも頭角を現すことが出来 るなら、さらに教育のために投資することを惜しまない。親は、親戚中から金を借り集めても子供を日本に送り出したい。食うものを削っても、子供がひとかど の人物になる日を夢みて頑張るから行ってこいと言う。
日本の大学院の受け入れは、何時も書くように受け入れ側の教授が決まっていないと進学は難しい。つまり日本留学を希望する学生の作業は、日本で受け入れてくれそうな教授を探すことから始まる。
その学生の一人である鶴さんは、毎年9-10月に薬科大学に特別講義に来る貴志先生に日本に行きたいと話して受け入れ先を捜して貰った。鶴さんの両親はそ れぞれ働いていてそれなりの収入があり、娘のために留学費用の全額を出すと言ったけれど、さして裕福というわけではない。
鶴さんは貴志先生から、一年前に北大に移った某教授を紹介されて留学希望を送ったところ、その教授は「留学の費用が自分で負担できるというのなら」と言っ て受け入れに前向きの姿勢を示した。そして予め自分の研究を良く理解させるために読む論文などを送ってきて、鶴さんにそのまとめを書かせたり、質問を書かせたりして両者はメイルのやりとりを重ねていった。
さて年が改まって1月になった。国立大学では海外の学生の国費留学生の推薦の手続きを始める時期である。鶴さんは先輩の留学生からこういう制度のあること を知っていて、北大の某教授に「修士の期間の費用は親が全部出すと言っていますが、やはり莫大な費用なので、もし国費留学生に推薦して下さるととても助かります」と書いて送った。
ところが鶴さんの受けとった返事は「自分で留学費用を出すと言ったのに、それが出来なければ、この話はなしにしよう。」という冷たいものだった。
最初に聞いた話しと違うから、といって断る某教授の気持ちも分からないではない。奨学金を絶対に必要とする中国の学生のために書類書きに追われては敵わない。それがなければ受け入れて良いと思ったに違いない。
しかし、その面倒のない学生なら何人来ても、どんな教授だって受け入れは当然OKだろう。誰にだって出来ることだ。このような教授と、面倒な書類書きをしても留学生を受け入れてその学生を育てようか、と思う気持ちとの間には当然大きな開きがある。
すべての教授に、苦労を背負っても異国の学生を育てようという暖かな気持ちを持って欲しいと期待するのは無理なことだろう。でも、私はこの教授をよく知っているだけにがっかりである。
一方で、近畿地方にある大学の教授は、「最近、瀋陽薬科大学の女子学生が、私費でも是非留学したいと言ってきました。彼女は大学院に推薦されて試験免除で 入学するくらい優秀な成績です。私費でも留学したいという熱意にうたれて、彼女の奨学金が取れるように努力して受け入れたいと思います」と書いてきた。こ の先生も、この学生も異質な文化がぶつかることで生じる軋みを乗り越えて、困難に立ち向かい、将来を築こうとしている。
ひとの信念、行動、生き方は、ひと様々である。自分の人生を自分のためだけではなく、他の人のためにも使える人を私は尊敬する。
2008 年が明けて、中国では北京オリンピックへの関心が高まっているようだ。明るい期待は前回のアメリカに続いて2位の金メダル数が、今回で逆転することだろ う。一方で、暗い話題としては、外国メディアに対する報道規制、大気汚染、食の不安、などいろいろとあるみたいだ。
報道規制を情報規制と読み替えれば、国民が見ると不都合な情報を遮断するのは経験上当然ありと思われる。瀋陽に住んでいて4年間、infoseekの一部 のHPをみることができない。ODNのメイルがしばらく見られないことも時々あった。今年の初めからは、teacupで作っていた掲示板にここからアクセ スできなくなった。私が運営している瀋陽日本人教師の会、研究室、野呂先生の掲示板すべてがこの国からはアクセスできない(野呂先生の掲示板は17日朝か らアクセス可能となった)。
Teacup.comにメイルをして、「どうなっているのでしょう?無料掲示板を使わせて頂いているので、突然使えなくなっても文句は言えませんが。」と問い合わせた。返事が直ぐに来なかったので、このプロバイダーが倒産したのかと思っていた頃、返事があった。
『該当掲示板
http://9022.teacup.com/kyosikai2004/bbs
http://9026.teacup.com/shada1962/bbs
http://6629.teacup.com/noroayako2004/bbs
の正常稼動を確認致しました。先ごろ、中国・上海からのアクセスの際に掲示板にアクセスできない、「ページが表示されません」となると言うご連絡を多数のご報告を頂いております。』
『しかし弊社の掲示板は、海外からのアクセスを拒否してはおりませんので、現在、原因を特定できずにおります。また、弊社にてサーバ設定を変更したということもございません。』
これは、日本では見られる掲示板がここからはアクセスできなくなったということで、infoseekに次ぐ情報遮断の実例が出来たことになる。もちろん何か純粋に通信技術的な問題で、teacupの掲示板がここからはアクセスできなくなっただけという可能性もあるけれど。
食についてはYahooニュースをみると、『台湾の通信社によると、北京五輪で食、環境に不安があるので、イギリス、ドイツなど欧米20数か国の代表チー ムが、中国での事前合宿を避け、日本を最終調整地とする方針とみられる。日本では各地方自治体が、各国代表チーム受け入れの準備を進めているという。(1 月15日18時8分配信 Record China)』
この背景には、北京の環境汚染のほか、中国の食の安全性に対する不安があるらしい。そして、これを受けて、
『2008年1月14日、中国の「食の安全」を管理・監督する国家品質監督検験検疫総局(質検総局)の蒲長城局長は国務院新聞弁公室の記者会見で、北京五 輪組織委員会は五輪中の「食の安全」を確保するため、選手やメディア向けに提供される食品のほとんどを一元供給する厳しい管理制度を設けたと述べた。(1 月16日8時16分配信 Record China)』
『五輪前から期間中にかけて、五輪用に供給される全ての食品に対して質検総局による厳しい検査が行われる。生産段階から北京到着後まで何重にもわたる徹底したチェック体制が敷かれるという。』
北京オリンピックに参加する選手と関係者にとっては大変結構なことだが、これを裏返せば一般国民の食べている食品がいかに危ないかと言うことを示唆していよう。『語るに落ちる』とはこういうことを指して言う良い例である。
日本に輸出されている中国野菜が残留農薬などで新聞記事になったとき、日本の知人から中国ではどうなのかと聞かれたことがある。中国の国内消費の野菜で も、農薬をふんだんに使っているだろう。しかし、中国での農薬の使用状況、危険度、事故などは一切私たちの目には触れることはない。
私たちは五輪用の特別品質の食品などには縁がないから、普通に買ってきた野菜はともかくすべて茹でてから、調理することにしている。化学で言うと、熱湯抽 出である。水に溶ける化合物はもちろんのこと、それ以外の脂溶性の化合物でも熱湯にある程度は溶け出してくるはずである。野菜の栄養分の一部も一緒に溶けて流れてしまうが、これは仕方あるまい。
中華鍋に水を一杯入れて野菜を茹でたあと、水の蒸発と共に水が減っていくが、ちょうどその部分の鍋の表面は真っ白くなっている。洗剤を付けてかなり力を入れて擦らないと落ちない。つまり、野菜から何か出ていると言うことだろう。
これが、効果があるかどうかは分からないが、一般庶民としてのせめての自衛策である。中国では、果物の種類が豊富で、安くて美味しく、私たちの給料でも果 物を毎食ふんだんに食べるという日本で暮らしていると真似の出来ない贅沢な生活が出来る。この果物が農薬で汚染されていないかと気になるところだが、果物 の熱湯抽出など出来る話ではないので、これは気にするのは止めよう。水だって、瓶に入ったどこのものか分からない水を食事の調理に使っているのだし。
薬 科大学には国際交流処と言う部署があって外国籍の私たちはここの管理下にある。私たちは外教と呼ばれていて、学部に籍のある私たちも、日本語教える短期赴 任の先生たちも同じくここで管理されている。給料を届けてくれるのはここの係の若い女性だし、年に1回日本人の日本語教師、欧米人の英語教師などを招いて 食事会を開いてくれる時は、私たちも誘われる。
日本人の日本語教師を採用するのもここだし、1年ごとの任期更新にあたっては、この国際交流処はきわめて強い決定権を持っている。昨年夏、日本人教師2名 が契約延長を拒否され、これは当事者により正当な理由ではないという強い抗議により撤回されたけれど、こことは対立しない方がよいことを私たちは学んでいる。
処長は学長補佐をしている教授で、2年前に前の処長が定年になってそのあとを引き継いだ。研究面でも華々しく活躍していることもあって、国際交流処にはあまり力が入らない。それで以前からこの部署にいる若い男性が実質的にここを取り仕切っているらしい。以前は彼と処長の二人だけだったけれど、日本語の話せる前処長が退職したので、大連外国語学院の日本語学科を出た若い女性の徐寧さんが増えて三人になった。
ある日、この徐寧さんが、「今まで使った先生たちの航空券の領収証を貰えませんか」と言いに来た。使ってしまった航空券なら残っているから、「上げてもいいけれど、でもね、どうしてなの?」と訊いた。
すると「居留証を発行している辺境局が、先生たちが実際瀋陽に来て、何時までいて日本に帰ったかを知りたいと言うことです。」
「へえ?」とぼくたちは首を傾げる。実際に中国に何時来て、何時日本に帰ったかは、「パスポートを調べれば一目で分かるじゃない?辺境局は居留証を発行しているからパスポートを調べる権利もあるし。」
妻は2か月ごとに日本と中国を往復しているから、航空券の控えで中国滞在を確認しようとしたらそのすべてが必要になる。確認が目的ならパスポートを見るのが簡単である。しかし、徐寧さんは航空券の領収証が要る、しかも今日それが欲しいと言い張るのだ。
「だけどね。」と私は言葉を返す。「ここに来て2004年の初めに、航空運賃を払い戻すから使った航空券を出してくれと言われて国際交流処に出したけれ ど、それっきりだったんだよ。催促しても、航空券も戻ってこなければもちろんお金も呉れなかったよ。あれはどうなってしまったんでしょうね。今度も同じ目 的に使うかも知れないじゃないですか。」「???」
「徐寧さんの来る前のことだけれど、交流処に戻ったら、昔こういうことがあったと処長にちゃんと訊いて、どうなったのか、まずはこの返事が欲しいですね。」と私は徐寧さんに言った。
ともかくこの日は週末だったので、来週初めに航空券を探しておくから返事次第で渡すよと言ったら、徐寧さんはひとまず納得した風で、帰っていった。
そのあと隣の大島先生に会うことがあったので、「徐寧さんから航空券が欲しいと言ってきたけれど、なんだか訳の分からない理由を言うし、ともかく渡してい ませんが。」といったら、「いや、私のところにも来たけれど、そんな理由は言っていませんでしたよ。使った航空券はないかというので、とりあえずこの間日 本に往復した分があったのでそれを上げようか言ったら大喜びで、それを持って行きましたよ。」と言うことだった。
つまり滞在期間を調べるためというのは理由ではなく、ともかく航空券が欲しかったのだ。大学あるいは外部と私たちの間に立って、経理も管理しているところが使用済みの私たちの航空券が欲しい理由は、ここにははっきりとは書かないが、一つしか考えられない。
「そういうことなんだね。」「そういうことなのよ。」隣の状況を訊いたあと、私と妻の間に交わされた会話である。
そういうことなら翌週の月曜日に、数年前使用済みの航空券を持って行ったままになった状況を説明に来るはずもないし、その説明が出来ない以上、滞在を確認 するとか言う理由で今年の使用済み航空券が欲しいと言って再度来るはずはない。と思っていたら案の定、月曜日には来なかったし、その次の日も、その次の日 も。。。
やがて何かの時に顔を合わせる機会があったが、彼女は前の用事には全く触れないでいる。こちらも、その話題には触れたら彼女は困るんだろうなあと思って、忘れたふりをしている。
これで無事に済んで、何のしっぺ返しも来ないといいのだけれど。
1 月31日の朝刊の第一面に「中国製ギョーザで10人中毒」と言う大きなhead lineがあった。簡単に要約すると、製造時にメタミドホスという農薬が混入したらしい。ギョーザそのものだけではなくギョーザのパッケージも汚染しているので、製造工程で混入したようだという。
昨年の12月末に千葉県千葉市の母子がこれを食べて中毒症状を呈した。そして1月はじめには兵庫県高砂市では親子3人が、1月末には千葉県市川市で家族5 人が中国製ギョーザを食べて中毒症状を示した。この報告を受けて兵庫県の担当者は中国製ギョーザの輸入元のJTフーズの本社のある東京都に連絡した。東京 都では、製品自体のためだとは分からない、誰かが毒物を入れたのかも知れない、と言うことで公表しなかった。兵庫県警と千葉県警が農薬であるメタミドホス が検出されたことから、この化学的特性を同じ化学工場に問い合わせたので、両方の事件が繋がって、その危険性から急遽公表されたという。メタミドホスなどの農薬は野菜への残留農薬として厚生労働省、農林水産省、環境省それぞれが監視している。両県警からのこの問い合わせが農薬の監督省庁に 行って、もしも、たまたま同じ化学工場に行かなければ、両方の事件は繋がらなかっただろう。日本の縦割り行政、省庁の縄張り争いがあるために、下手をする ともっと酷いことにまでなったかも知れない。「公表遅れで被害拡大」と新聞には書いてある。このギョーザを食べて中毒した方々には心から同情するけれど、 これ以上被害が拡大しなかったのは同じ化学工場に問い合わせたという奇跡があったためである。農薬の混入がどのように起きたのか実態はまだ分かっていないが、いろいろの推測は可能である。2002年には野菜32検体からメタミドホスが検出されたの を手始めに、カリフラワー(02.10.10)、ライチ(04.04.30) 、ソバ(05.12.27)、からメタミドホスが検出されたことが報告されている。しかし、野菜を自分の手で育てた人は知っていると思うが、農薬なしに虫 の付かない野菜を育てるのは不可能と言っていい。1坪の農園でも、虫を手で取るなんて追いつかない。農家は農薬を使わざるを得ず、収穫した野菜に農薬が残 留するのもやむを得ない。私たちはそれと健康への被害とのバランスの上に暮らしているのである。今回の事件で中国産ギョーザの輸入元のJTフーズはいったい何をしているのかと責められるかも知れない。輸入元のJTフーズの親会社は日本たばこの JTだという。健康に害のあることが周知のたばこを儲かるからと言って、でかい顔をして売り続けている会社なので私は大嫌いである。しかし「国民の健康被 害を起こす食品を作らせた」責任を取らせようという声が上がるとしたら、それは行き過ぎあろう。というのは食品製造に間違いがあってはならないけれど、どんなことにも間違いは起こるものなのだ。日本だって森永のヒ素ミルク事件(被害者は12,344 人で、うち死亡者130名と言われている)、カネミの米ぬか油へのPCB混入事件(被害者14,000人、死者18名と言われる)など、ひどいことが起 こっている。当事者は食品製造に十全の注意をしていただろうが、想定外のことが起こってしまった。製品検査を十分に行っていれば事前に健康被害を防げたか も知れないが、全製品を調べることは事実上不可能である以上、間違いは起こりうることを受け入れなくてはならない。大事なことは間違いが起きたときの素早い対応しかない。
今回は汚染された加工食品が何十種類も自主回収された。家庭で買い込んであるこれらのものを決して食べないように、テレビは何度も注意を喚起している。したがってこれ以上の被害は起きずに食い止められたわけだ。中国の製造工場も当然責められるだろう。
今年は特に中国はオリンピック開催の年なので、当局は食の安全に非常に気を尖らせている。中国の食品には危険があると言われて、「そんなことはない、オリンピック選手用に野菜も肉類も全く一般市場とは別にして手間を掛けて作り、さらに二重三重にも検査を行って絶対安 全だ」と言っている。これはつまり一般の食品がいかに危ないかを認めていることになるが、ともかく今は国の威信に掛けても食の安全維持に努めるだろう。こ の工場の責任者が見せしめに厳罰を受けることがないように願うのみである。
もちろん今回の中毒事件の原因は詳しく調べられなくてはならない。しかし、私がこの事件を機に言いたいのは、この事件をきっかけにして日本が食を隣の中国 に大きく依存していることを認識し、自国での供給率を上げるための国家戦略を始めるべきことを訴えたい。今日本の必要とする食べ物のうち自給できるのは 40%にも満たないと指摘されている。
食料の一大輸入国である日本は、外交で問題が起きてたちまち食料が戦略物質と化したときには、生きていけなくなる訳だ。外国が文字通り日本の死命を制して いるのである。しかも、衛生、環境、健康問題に日常的に疑問を感じる国に日本が全面的に食を頼っているのも問題であろう。
中国の国土は日本の26倍という途方もない大きさである。人口は日本の約11倍だから、単純計算では、中国は穀物、野菜を栽培してそれを輸出する余力がある。
しかし中国の国土の5分の1は砂漠化している。3分の1は耕作に適していない。となると、単純計算で耕作に使える面積は日本の国土の16倍と言うことになる。人口は10倍だから余力がある。日本人全部を足したって今の人口の1.1倍になるだけだから、大丈夫みたいだ。
でも、今の中国の8割の人口は貧しい暮らしを強いられている。中国の経済力がもっと向上して彼らが今の日本人並みになったら、そのときは日本への輸出の余 力は全くないはずだ。そのときが来てからでは遅い。日本の人々の生き残りを懸けて、食料の自給率を引き上げることを真剣に考えなくてはならない。マスコミ は「中国製ギョーザの危険」騒ぎを煽りたてているけれど、これを機会に日本の将来の国家存続の一番弱点である食料問題に取り組む気はないのだろうか。
2月2日は府中グリーンプラザのファンタジックコンサートに行ってきた。インターネットODNのmy pageで知己になったmammamiaさんが7人の中の一人として出演する歌の会だった。
彼女のホームページを覗けばmammamiaさんが老人介護にどれだけ尽くしているかが分かる。もちろんケアマネージャーとしての仕事は彼女が生きるすべ としての職業だが、mammamiaさんが老人介護に本気で取り組んでいるのが分かる。
それだけでも凄い人だなあと思っていたら、オペラも歌うという。以 前は本格的に舞台に立っていた模様だが今は忙しくて、年に一度くらいステージに立つのが精一杯らしい。私も以前は歌を、それもオペラを歌っていたから、ほ かに職業を持ちながら歌を歌うことの困難さ、そして歌ったときの楽しさと解放感がよく分かる。私は続けられなかったが、彼女はそれを続けている。
と言うわけで2年前の夏、私の帰国の間に催されたコンサートに出掛けて、初めて個人的に言葉を交わし、彼女の歌を聴いた。そのときは私の音楽仲間に声を掛けて、一緒に彼女の歌声を聴くと同時に、再会も果たしたのだった。今回も前と同じように友人にこれを機会に会いましょうと声を掛けた。
一人はmammamiaさんと同じように歌が好きで、仕事の傍らあちこちで歌っている 小川博さんである。彼とは元々は仕事の関係で知り合った。もう一人は大貫洋二さんで、私の友人の学生だったが、大むかしのこと私が彼の修士論文を指導したので、 私は彼の師匠みたいな顔をして付き合っている。彼は管楽器を吹いていたので、私は中国に行くとき私のフレンチホルンを譲った。彼はシベリウスにぞっこんで、毎年フィ ンランドに出掛けている。
二人ともただの知り合いでない証拠に、二年前に二人は金を工面して瀋陽に数日間訪ねてくれたことがある。府中は2年前のコンサートに一度行ったきり馴染みのない場所なので、小川さんに会う場所を決めて貰った。「伴茶夢」という喫茶店で会おうと小川さんからメイルがあった。
大貫さんはこれに応えて、「伴茶夢」はハンサムて読むんですかねと書いてきた。なるほどねえ、と私は大いに感心した。私は、中国で漢字が中国語で読めないことに慣れっこになっていたので、なんと読むかなんて思いもしなかったからである。小川さんは、これに対して、『店名には「バンチャム」とふり仮名が振ってあり、その由来は?というと、「コーヒーの別名」という理解になりそうです。』
『エチオピアのアビシニア高原 (現エチオピア高原) には太古の時代から野生のコーヒーの木が茂り、高原の土壌と気候に恵まれて人知れず自然の営みを続けていたと考えられる。このコーヒーが初めて文献上記載 したのはアラビア医学の権威ラーゼス (本名ムハンマド・イブン・ザカリーヤー、865〜923) だった。コーヒーの種子を煮出したビール色の液体 (Bunchum) を初めて医療に用いた。』 (http://sugar.lin.go.jp/japan/view/jv_0107a.htm)つまりコーヒーの古名なのだった。小川さんのお陰で、そしてもとはと言えばmammamiaさんのお陰で一つ勉強したことになる。
12時に3人で出合って食事をしながら久しぶりにお喋りをした。そしてコンサートは駅ビル地下二階で、2時からだった。
ソプラノ3人、テノール3人。バリトン1人という中での組合わせで、第1部はドニゼッティの愛の妙薬からソロ、デュエット、三重唱、四重唱が7曲。 mammamiaさんは『戦でも、恋でも、攻めるのは疲れるのだ』と言う三重唱と、アリア『受け取って、あなたはもう自由の身』。第二部ではそれぞれが好 きな歌を歌った。mammamiaさんは「夕鶴」の『与ひょう、あんたはどうしたの』。引き続いて7人が4部に別れてモーツアルトの『主よ、憐れみたま え』を歌った。
知人が歌うのを聴くのは疲れることが分かった。mammamiaさんは情感を込めて歌っていて、しっとりとしてとても良かった。でも聴いていると、「頑張 れ」と言う突き放した感覚ではなく、こちらはPTAの感覚で、はらはらどきどきである。音が延びきれずにいるとこちらの腹に力が入る。音がずり下がりそう になると、やはり腹にぐっと力が入ってしまう。音楽会の終わったときには自分が歌ったみたいにぐったりと疲れた。
実際、私も歌ったのだ。つまり最後には全員で歌おうという試みがあった。「林あずさ」という人が作ったという「ハッピーバースデイ」という歌で、
『ハッピーバースデイ 生まれてきてよかったね
ハッピーバースデイ 君に会えてよかったよ』
という繰り返しが出てくる歌で、とてもいい感じの曲である。いい試みである。
一人で帰る1時間半の帰り道、この繰り返し部分がついハミングで出てきた。うちに帰ってからも、歌いたい気分が続いていたけれど、難しいオペラアリアはみ な忘れてしまった。それで「オーソレミオ」とか「カタリカタリ」、「愛の賛歌」や「思い出のソレンツアーラ」など、歌いまくって今日の一日幸せな気分を締 めくくった。
今日は長い付き合いの友人と会えた。インターネットで知り合ったmammamiaさんの佳い歌が聴けた。歌だけでなく、歌い終わってほっと力の抜けた彼女の笑顔も実に良かった。思うとおり歌い終えて最高の気分だったろう。
mammamiaさんを聴きに来た、同じくインターネットの上のIDだけで付き合っていたkunitoraさんにも会えた。一期一会としみじみと思いつつ、今日の充実した一日を思い返している。
日本に戻ると何となくテレビを見るという昔の悪い癖に簡単に戻ってしまう。先日はNHKテレビで「キレる」というのをやっていた。このごろの子供達はわけもなくキレるそうだが、一方でこの頃はいとも簡単にキレる老人も増えているらしい。
テレビではこのキレる状態を作り出したときの頭の中の脳波を調べて、側頭葉が活動しているだけでなく前頭前野が活発に活動していれば怒りを抑えているなとか、前頭前野が全く活動していないと怒りを抑えることを放棄して、まさにキレる寸前であるとかが説明できるという。
この番組には定年退職した男性が実名で出てきた。何かとキレてしまう人なのだそうだ。チビと名付けた犬を連れて散歩していると、入り口に「犬の立ち入り禁 止」と書いてあって何時も閉まっているグランドの門がある時開いていた。つい連れていた犬を中に放したら管理人が出てきて怒り出したので、「(だって入れ るようになっていたじゃないか)何を、この野郎」と怒鳴ってしまったとか言う話から始まった。この男性は定年まではある会社の営業にいて、現役時代は本気 で笑ったたことも、本気で悲しんだことも、本気で怒ったこともなかったという。常に中庸を心がけて、自分の感情を抑えて暮らしてきた。
定年になってうちにいる暮らしが始まった。妻はそれまでの地域に密着した暮らしがあるけれど、彼には全くそのようなつながりがないので人と話すこともなく 毎日の時間を過ごしている。チビだけが友達である。チビを連れて街に出ると、通りすがりの自転車がチビの引き綱に絡んだ。かがみ込んで「ごめんなさい」と 謝ってひもを外しているのに、うえから「バカ野郎、気をつけろ。」と言われた途端に「なんじゃあ、わりゃあ」と飛びかかって投げ飛ばしてしまったという。
この男性は二三日に一度くらいは頭に来て怒っている。彼に言わせると「正義に外れたことに対して、自分の命を懸けてもと思って本気で怒る」ということだ。サラリーマン生活で自重していた正確を、今こそ自分に正直に生きなくては生きた証がないと思っている。
この男性はキレて怒りまくるとき、自分は正義を代弁しているという気持ちが高揚している。しかし終わると反省するという。「こんなことで直ぐ怒ってしまっ て良かったのだろうか。もっと相手のやっていることが何故悪いと思えたのかを、落ち着いて説明すべきではなかったか。落ち着いて話せば相手は自分が悪かっ たと思うかも知れない。」でも、こうやってこちらが闇雲に怒鳴りつけてしまえば反発が残るだけである。「何を、このクソじじいが。今度出会ったらただでは おかないぞ。」と思わせて終わっているだけかも知れない。でもこうやって反省しても直ぐ忘れてしまい、また外で不快なことがあると直ちにキレてしまうの だ。
ところで最近面白い論文があった。脳の神経細胞は神経突起を延ばして無数の、別の細胞に連絡して神経回路を作っている。このとき神経細胞と、別の細胞から 来た神経突起は直接繋がっているわけではなく、GABA、セロトニン、ドーパミンなどの低分子の化学物質がシシナプシスと呼ばれる神経突起末端から分泌さ れる。次の細胞はこれらの化学物質を受け入れる受容体を細胞膜表面に持っていて、これらの化学物質が受容体に結合するとこの細胞の中に信号が伝わる。この ように神経細胞同士の連絡は、神経化学物質(ニューロトランスミッターと呼ばれている)が仲介している。
目で見た刺激が脳の考えるという中枢で処理されて、行動という筋肉の動きに伝わるまで零点何秒という短時間しか掛からないが、考えてみるとこれは凄いこと である。ニューロトランスミッターの一つであるドーパミンはそれが不足するとパーキンソン病が発症することで有名になった。その後、ドーパミンをニューロ トランスミッターとする中脳皮質系ドーパミン神経は、「とくに前頭葉に分布するものが報酬系などに関与し、意欲、動機、学習などに重要な役割を担っている と言われている(Wikipediaによる)」。
人は学習することで学ぶ。何かをするとうまくいったという成功から学習するし、失敗することからも学習する。このときに中枢のドーパミン作動性の神経が働いている。
最近見た面白い論文というのは、ヒトでは5種類が知られているドーパミン受容体の一つであるD2受容体の発現が少ないと、その人は失敗(間違い)から学習することが出来ないというものだった。
脳細胞における受容体の数は遺伝子で、つまり遺伝的に決まっているので、失敗から学習出来るか出来ないかは、遺伝子により先天的に決まっていることにな る。このテレビに出演した男性が「あとでは反省するんですけれど、おかしなことに出会うと直ぐにかっとしてしまいます。」というのは、D2受容体の発現が 少ないためかとも思える。しかし現役の時には隠忍自重していたのだから、D2受容体の発現量はほとんどの人と同じと考えて良い。
と言うことは彼はごく普通の人なのに、老人になったからキレやすくなったと言うことだろう。今の世では、人は長生きし過ぎている。以前は老人が人の智慧の 伝達者だった。老人はその智慧を頭に蓄積したが故に世間から必要とされ、したがって尊敬を受けた。しかし今の世は簡単に手に入る情報があふれていて、誰も 老人の頭の中を、したがって老人を必要とせず、誰も老人を尊敬しない。
周囲から尊敬されて自分の存在意義を自分で感じることが出来れば、老人は周囲の人たちや、ものごとに腹を立てる理由はないだろう。しかし必要とされないどころか、老人は文字通り老人臭いと言われたり、わがままで、頑固で、若い世代の言葉が通じないとか、邪魔者扱いである。
誰も自ら好んで老人になるのではないのに、と思う。そしていま老人を邪魔者としている人たちもやがて老いるのに、若い人が老人を邪魔にするのは実に心ないことだと思う
ドー パミン受容体の数の違いが学習効果に関係していることを前に書いた。D2受容体の発現が少ない人は失敗から学ぶという負の学習が出来ないことが分かったと いうものである。受容体の数は遺伝子で支配されるから、人の性格は遺伝子で規定されることになる。このように、人の性格が遺伝子で遺伝的に決まると言うことが最初に報告されたのは、1996年のことだった。
これはドーパミンのD4受容体の中にある16個のアミノ酸の繰り返し(多型)が新奇性探求的な性格と結びついているというものである。新奇性探求的な性格 というのは、常に好奇心に満ちていて新しもの好きである、人目を惹くのが好きで、衝動的に振る舞い、派手好きで気が変わりやすい性格だという。余り褒めたものではない。
だがこれを見たとき妻は私のことを「これだ」という。「あなたのドーパミンD4受容体は私と違って長いんだわ。」とあっさりと決めつけられてしまった。
私のやることが変わっているのは枚挙にいとまがない。何時だったかスイスのチューリッヒで国際会議が開かれたときエクスカーションでルツェルンに行ったことがあった。湖を巡航する船に乗って懇親会をやると言うので波止場に集まった。まだ時間が早くて桟橋を歩いていると、桟橋と船の間に渡す板が、船のいないままに、波止場から突き出ていた。
私はその板に乗って湖の方に歩き始めた。どこまでバランスが保てるかに興味があった。板の全長のどれだけが波止場に乗っていて、どれだけが空中に突き出ているかが問題なのだ。私はともかく湖に突き出た板に乗ってどこまで水の上に行けるかを試したかった。
二歩、三歩、四歩。すると板がぐーっと沈み始めたではないか。板がズズッと水に向けてずり落ち始めなかを、私はあわてて振り返って板を駆け上った。その時間の長かったこと。今でもその瞬間を思い出せる。あの板の重量がかなりあったから助かったに違いない。
これを見ていた妻は呆れはてていた。「板に乗って歩いていけば落ちるに決まっているじゃないの。」それ以上の言葉が続かないほど、驚き呆れかえっている。「そりゃそうだけど、どこまで行けるか試したかったんだ。」と私。
やがて船に乗って学会の参加者の懇親会が始まった。食事を思い思いの場所に別れて食べたあと、お茶の水女子大の佐藤さんという若い女性が持参のバイオリンを弾いて彼女に似合った清冽な音を聴かせた。「ほかにも誰か何かやる人はいませんか?」と主催者が言った。
「じゃ、私が歌う。」と私は名乗り出た。私は、下手くそでもヴェルディの椿姫の中のジェルモンのアリア「プロバンスの海と陸」でも歌えば、日本人が歌うと 言うことで皆驚いて、そして喜んでくれるかなと思ったのだった。ところが妻はびっくり仰天。「だめ。駄目。ダメよ。私は死んでも止めてみせるわ。」と厳しい顔で私にいう。妻にこれだけ言われるのは、よほど私の歌はひどいに違いない、と暗然と私は悟った。そして私は涙を飲んで「歌うと言ったけれど、歌詞を忘れちゃったから。」と申し出て断った。
実際には歌わなかったけれど、皆の前で平気で歌おうなどと言い出せるのも、この新奇性探求的な性格である。新しいものに平気で飛びつく。先の先まで考えない。平気で冒険をする。この性格は私のそれにぴったりと重なっている。
神経の伝達ではGABA、セロトニン、ドーパミンなどの低分子のニューロトランスミッターが神経細胞のシグナルとして使われている。これらの物質がシナプ スで多く出るか、少ししか分泌されないかで神経の伝達、興奮が違って来る。このニューロトランスミッターの量の多少も遺伝子で制御されている。
つまり学習効率や、頭がよいか悪いか、そして性格もすべては遺伝子で決まってしまうみたいである。しかし、遺伝子はその限度を決めていると言うことであり、私たちは通常遺伝子の決めた限度一杯までは頭を働かせるようになっていないみたいだ。
つまり、神経回路の形成は学習次第である。勉強、あるいは訓練して頭を使い、鍛えることでヒトは脳の中にあらたに神経回路を構築することができる。神経回路とは神経細胞同士の連絡のことで、これの多いほど、記憶素子が増え、並行処理が可能になる。
この神経回路の設計図は遺伝子が決めているわけではない。それぞれの人は努力すれば、頭の回路はどんどん構築されて、神経細胞間の連絡が良くなる。つまり 頭が良くなる。これは歳を取っても可能だそうだ。私は中国語の発音が覚えられず、中国語の学習を諦めているので、私はこの一般論に実はかすかな疑念を持っているけれど。
なお、私のドーパミンのD4受容体が人並みかあるいは変異体かは、自分でも簡単に調べることが出来る。血が固まらないようにヘパリンを入れて血液を採り、 沈降してくる赤血球の上に乗ってくる白血球から遺伝子DNAを取ることが出来る。これを材料にしてPCRを使ってドーパミンD4受容体(D4DR)の構造 を調べることが出来る。
その分析をやらないのは、私のドーパミンD4受容体が妻と違って変異体だとしても、そしてそれが分かったとしても、妻を喜ばせるだけだ。今さら私にとっての世の中は変わらないからである。
日本に戻ると友人に会うことに時間を使う。私たちには様々な友人がいる。嬉しことである。
先日は昨年秋にリサ・ランドールの本を妻に貸してくれた友人に会った。前にも書いたが小学校、中学校で一緒の友人である。私たちもそうだけれど彼らも同じ級友同士が結婚しているので、会えば話すことに事欠かない。
「時々はあなたの『瀋陽だより』を読んでいるわよ。昔はただ真面目一方だと思っていたのよ。結構ユーモアがあって、こんな楽しい方とは思わなかったけれど、とても面白いわ。」と嬉しいことを言ってくれるのは谷夫人であるノーチャンである。「ちっとも同期会に出ていらっしゃらないけれど、皆で話題にしているわよ。是非、今度出ていらっしゃいな。」
同期会が開かれるのはだいたいが春か秋という陽気の良い季節である。私が日本に骨休めに戻ってくるのは厳寒の2月と酷暑の8月だ。私は大使や首相ではないから、私の都合に合わせて会合を開こうという話にはならない。しかしノーチャンに掛かると、私たちの都合に合わせて集まりを開こうと言うことになりかねない。だけど、私も妻もはにかみ屋である。専門家相手に自分たちの研究の話をするならともかく、自分の勝手で中国で仕事をしているというだけのことで、皆の注目を浴びるなんてことには耐えられない。
そういったら、「じゃ、大学でやっていらっしゃることを聴かせてよ。」と言われてしまった。でもね、お高くとまっているわけではないけれど、わたしたちの研究の話をわかりやすく皆に話すなんて、とても出来ないことである。
世界に通じる最先端の研究をやっていることは確かだけれど、iPS(皮膚から作る多分化能細胞)みたいにインパクトの高い仕事でもないし、分かって貰ったところで、だからどうなのさ、と言うことになってしまう。
と言うように考えると、簡単な説明で誰にでもなるほど意味のある研究だなと納得できる研究が、実は大事なのかも知れないと思う。
日本の大学にいた頃の研究費申請では、自分がやりたい研究の内容とその意義を書けば良かった。その申請を専門家集団である研究者が審査をして、研究費を出すか、出さないかを決めるのである。つまり科学的見地で評価された。しかし今では、その研究の社会的意義や、研究が成功したときの社会の受ける成果、さらには産業上の貢献までも書くようになった。そしてここで、評価されないと研究費が通らなくなった。
つまり、社会のニーズという一つの大きな尺度が研究を規制するようになってきた。研究費が通らないことには研究が進められない。「誰かが方針を決めた」社会的ニーズに沿った研究しか出来なくなっている。
研究費は人々の税金から出ている。したがって社会のニーズに沿うというのは正しいことのように思える。社会が必要としない研究などやって貰っては、困ると言うのも正しいだろう。
しかし、研究は個人の興味から発するものである。個人の興味こそ研究の原動力である。その研究の大半は世間にとって役には立たず、税金の無駄使いに終わるかも知れない。でも、研究とはそんなものである。無意味に見えても、そのうちのいくつかは、やがて世の中に役立つことがある。
時勢に乗った、あるいは時勢の先を見越して大型の研究費を投じ、そのような研究を奨励するのもいいだろう。でも、普通では思いつかないところに新しい芽があるかも知れない。
大型研究費を出すと言うことは、ほとんどの人たちに研究費が行き渡らないと言うことである。一部の研究者に使い道にも困る何億円という金が渡され、一方ほとんどの人たちは研究費がない状況は、科学立国の芽を潰している。何億という研究費でなくっても、年間数百万円あれば研究のアイデアをはぐくめる。大学の先生の誰だって、有意義な研究をしたいのだ。少額でも研究費を無駄にすることは恥と思って頑張るだろう。今はこの少額の研究費だって出なくなってきている。
いまは理系離れが案じられている。研究者になっても、厳しい競争と評価にさらされ、生き残るための過酷な戦いに追われてほとんど報われないというのも、理科離れに拍車を掛けているだろう。研究者は、自分のやりたい研究に打ち込めるだけで幸せなのだ。その研究が社会のニーズに合っていれば、それで結構。そうでなくても、やりたいことがやれれば満足なのだ。
私たちはノーチャンたちに簡単に説明するのが難しい研究をしているけれど、この研究の中で「考える」という一番大事な研究能力のある学生も育てているし、成果は廻りまわって社会の役に立つと思っている。今の社会の現状から見ると夢みたいなことかも知れないが、研究者には好きなように研究のアイデアを育てることが出来る最低の研究費を保証したらどうだろう。社会的ニーズから見て、その研究アイデアがいけると思われるときにもっと研究費を出すというようには行かないものだろうか。
テレビで開局○○年記念番組と銘打って「女たちの中国」というのをやっていた。黒柳徹子や中国で活躍している谷村新司も出ていて内容は高いのに、それ以外の若い人たちのふざけた感じが残念だった。
最初に上海の公園の一画に毎週日曜日に親が集まって「子供たちの結婚相手探し」をしているというのが出てきた。子供たちが結婚相手を見つけないので、母親 たちが集まって情報交換をして見合の相手を探すというのである。中国で結婚相手が見つからなければ親が眼の色を変えるというのはよく分かる。家、家族、親 族を大事にする習慣が強いから、子供に伴侶が決まらないのは親として居ても立ってもいられないのだろう。何にでも親が出てきたがるという中国の状況が良く出ている話だった。
私たちは笑って見ているけれど、日本だって未だに見合い結婚が幅をきかせている。親同士が寄り集まって直接の情報交換をしないだけで、間には世話好きの女 性が入る。直接の取引をしない日本は中国に比べて、格好を付けていると言うところだろうか。実際、私の知っている中国の人たちは、日本の女性に比べて気取っているところがない。
上海で結婚適齢期の女性の望みは高く、相手は背が高くなくてはいけないし、月収は1万元、さらには新婚で住めるマンションを持っていること、を求めてい る。男の方は、なんとか最初の二つの条件を満たせたとしても、マンションを持つというのは親が用意しなくてはなるまい。大変なことだ。親がかりでないと、 新居を用意しているうちに男の適齢期を過ぎてしまうだろう。
テレビには「愛情があるなら、私に豊かな生活を呉れるのが当たり前でしょ。」とけろりと言ってのける女性が登場する。二人の新しい生活を一緒に築いていこ うなどという殊勝な女性は出てこなかった。私などは甲斐性なしだから、中国に生まれなくて良かったなあとつくづく思いながら観ていた。
男性の声として「上海の女性はがめつくて、どうもね。」なんて言っていて、上海の元気で逞しい女性の特徴が際だっている。
私たちの瀋陽薬科大学における最初の卒業研究生の沈さんは上海姑娘である。沈さんは京都大学大学院の修士課程を終えたところで、博士課程まで行きなさいよ と勧める指導教授や外野の私たちの願望に反して、某化粧品研究所に就職した。親元からの送金に頼った学究生活はもう沢山で、少しでも稼いで故郷の親に恩返しをしたいという一念のようだ。
彼女からは2月14日のSt. Valentineユs dayにはチョコレートが送られてきた。私の愛娘の一人である。近いうちに会うことになっているので、いろいろとこの話を出して訊いてみよう。
戦後のめざましい経済の発展と共にアメリカの後を追い、日本では親を大事にする風習が廃れてしまった。経済的には中国は日本の後を急上昇で追っている。一 部の中国では日本を追い抜こうとしている。そうなると、やがて今の日本みたいに、「夫の親とは住みたくないわ。」とか、「長男はお断りよ。」なんて言うことにもなりそうだ。
しかし、今私たちの研究室にいる学生でも誰もが一人っ子である。これからの中国は一人っ子同士が結婚するしかないわけだから、経済と生活が発展しても日本のようにはならないだろう。
中国では元々「養幼防老」という言葉があるくらいだ。これは子供を育てれば、子供が老後の面倒を見てくれる、と言うことだ。保険のつもりの子供にちゃんと相手を見つけて、自分の老後の備えに怠りないのが中国の母親なのだろう。
男尊女卑が名強く残る中国では若い男性が女性に比べて断然多い。自然には、受精したときの男女比は、1.1:1で、男子が10%多い。生まれるまでに男の 死ぬ率が高く、誕生したときの男女比は1.05:1である。生まれたときに男子は女子より5%多いが、男は死にやすく適齢期までに男女比は1:1になる。 つまり自然は上手くできている。
しかし今の中国では、子供は男子が欲しいので何らかの操作がおこなわれた結果、男女比が男に大きく偏っている。今は生まれる子供の男女比は1.2:1で、 中国では数年後には結婚適齢期の男子は女子に数に比べて2,000万人多くなると言われている。結婚したくても相手が見つけられない男性が2,000万人 にもなるのだ。これは大変なことだ。
『2008年1月、中国人民大学人口発展研究センターは男性人口が女性人口を3700万人上回っていることを発表した。中国新聞社が伝える同報告書による と、2007年時点で男性人口は女性人口を3700万人上回っている。0歳から15歳の世代だけでも男性は1800万人以上も多くなっている。そのため今 後結婚相手を見つけられない男性が激増することは必至で、90年代生まれの男性のうち約10%は結婚出来ないことになる。(2007年1月7日 Record China)』
このように上海では親が子供の結婚相手を見つけようと一生懸命なのに、一方で、私たちの薬科大学では学生同士で相手を見つけるのがあたりまえである。日語 班では男子学生の割合は2割くらい、そして大学全体の男子学生は4割未満である。日本の薬科大学と同じで女性が多い。だから男子学生は相手を見つけるのに 苦労しないようだ。うちの研究室で恋人同士が誕生したことを前に書いたが、この王毅楠くんは薬科大学にいるという利点を大いに生かしたと言っていい。恋と 同じように研究でも成果を挙げて貰いたいものだ。
瀋 陽薬科大学から日本に沢山の学生が日本に留学している。その中で瀋陽の私たちの研究室を出たか、あるいは関わった学生は10人を越えている。その中で私た ちの近くに住んでいる人たちとは、春節休みで日本にいる間に会おうねと前からメイルで話していた。どこで会おうかといろいろと考えた挙げ句、結局うちに来 て貰った。うちに来て貰えば時間の制限がない。くつろげる。「土曜日の夕方5時半にいらっしゃい、晩ご飯を一緒に食べましょう。」
朱くんは瀋陽の私たちのところで6ヶ月研究生をして、大学院は日本に来た。今は慶応大学大学院の博士課程に在学している。薬科大学で同級だった郭さんと結 婚した。朱くんは大学院に入るときに、5年間保証された奨学金を貰うことが出来たので安心して学業に励み、かつ結婚することも出来た。郭さんは朱くんより 1年遅れで日本に来て、東京工業大学大学院に入り、いまは修士課程を終えて日本の企業の知的財産部に就職している。
朱くんのクラスは30人の日語班で、その中から4組のカップルが誕生している。かなり高率である。そのうちの二組が今日本にいる。
薜蓮さんは私たちのところで3ヶ月研究生をしたあと、名古屋大学大学院で修士を終えた。その後慶応大学の先生が作ったベンチャーで研究員として雇用されて、2年の社会生活を送っている。
もう一人の沈さんが前に書いた上海出身の女子学生で、私たちにとっては最初の卒業研究の学生の一人なので、特に印象が深い。朱くん、薜蓮さんの1期下の学 生で、私の「瀋陽だより」の初めの頃にはほとんど何時も主人公として登場した。京都大学大学院の修士課程を終えて、今は化粧品の研究所に入って小田原に住んでいる。うちに夕方訪ねてくるとその日のうちには帰れないから、薜蓮さんのところに泊まるという。
若者の旺盛な食欲を満足させられる料理は用意できないので、メインはピザの出前を取ることにした。あとは私が3時半から台所に立ってグラタン作りを始め、妻は直前にサラダを用意した。
5時半に「バス停に着きましたよ!」と朱さんから電話が掛かってきた。彼は学部の5年間クラスの班長を務めていただけあって、何時でもどこでも先に立って 人の面倒を見ている。慶応大学でも大学院に入って1年経った頃セミナーがあって会ったときにも、朱さんはすでに率先して会場作りを行い、そのあと出席者の 席のあんばいに目を配っていて「なるほど、なるほど。」と思ったものだ。
うちの前の道に出て迎えに行くと、道の向こうから人の壁が近づいてくる。4人だけれど、道は狭いし、彼らは皆私よりも背が高い。こちらで手を挙げたら、向こうの壁でも一斉に手が挙がって、夕闇の中で顔中に笑みが拡がるのが見えた。夏に朱さんが企画した「瀋陽薬科大学2007年同窓会」が横浜で開かれたときに、会って以来半年ぶりの再会である。
うちに着いてリビングダイニングに入ったら、ただでも狭い部屋がたちまち窮屈になった。誰もがのびのびと大きい。若さがたちまち伝染して、こちらまで活気 づく。四人すべてが日本語で、しかも話題の絶える間がない。達者な日本語である。
そういえば京都にいた頃の沈さんは京都弁を喋っていたけれど、いまはもう 完全な標準語になっている。言葉にとても敏感で、言語能力抜群と言うことだろう。彼らの何の不自由もない日本語に感嘆すると、「それでも先生のブログのような日本語はとても書けません。書こうと思うと小学生のような作文になってしまうんですよ。」と沈さん。
「だって、メイルの日本語は全然おかしいところがないし、とても達者な日本語だと思うわよ。」と妻が言う。薜さんは、「でも上手く表現できないことは書か ないし、別の言い方にしているのですよ。」と言う。なるほど、そうかも知れない。私も英語でそうだからよく分かる。と言っても、英語で発音はともかく、私の書く内容がnativeみたいと欧米人が言って呉れたことはないから、彼らの日本語は私の英語よりも数段上を行っていることは確かである。
薜さんは大学院に入って奨学金が貰えないときに、喫茶店のアルバイトに応募した。働き始めて一日で彼女はクビになった。お客の注文を聞いても直ぐに分から なかったためだという。日本語は上手く話せても、一人一人違う日本語を問題なく聞き取るのは時間が掛かる。「初めはよく分からなかった天気予報が、やがて ある日突然すんなりと分かるようになって感激した」そうで、薜さんがそういうと、沈さんも「同じでしたよ。ニュースが急に聞き取れるようになって、その日 から世の中が広くなりました。」という。薜さんは「いろいろと苦労しましたけれど、今となってはどれも楽しい思い出です。苦労をしてきて良かったと思いま すよ。」とニコニコしている。
薜さんは慶応大学で2年間働いたところで、この春には中国に戻って就職することにしたという。薬学の基礎があり、日本の大学院の修士課程を修了し、専門の研究経験があり、日本語も自由というのが評価されて、上海だか北京だかに高給で就職が内定しているという。
日本でもうちょっと勉強すればいいのにと思うけれど、彼女なりの事情があるに違いない。一人娘が日本に行ったきりでは親が心配で堪らないと言うこともあるし、しかも中国の標準から見れば婚期が遅れていて、親としては黙っては居られないのだろう。
私 はホームページには学生の名前に「さん」とか、「くん」を付けて書いている。それは、学生の性別が分かるように、男子には「くん」、女子には「さん」を付 けているのだ。実際に私が直接名前を呼ぶときは呼び捨てである。何も付けない。これは中国の実情に合わせてのことで、「さん」とか「くん」を付けると、水 くさいことになる。親しいと思っているなら呼び捨てでなくてはならないのだ。
それでも彼らにメイルを書くときには、少数の例外を除き、男女の学生の区別なく○○さん:あるいは○○様:と書いている。これには理由がある。
おおむかし私が大学の学生だった頃、同級生は○○くんだった。先輩は○○さんと呼んでいた。大学院で下級生が出来ると○○くんだった。2年間の修士課程を 終わって名古屋大学に助手として就職したとき、そこの鈴木教授は私を「山形くん」と「くん」付けで呼んだ。私はもちろん研究室の学生を○○くんと呼んだ。 ヒエラルキーの秩序が年少者、部下を呼ぶときに○○くんとなる。
名古屋大学に行って直ぐ、講義で訪ねて来られた大学時代の恩師である江上不二夫教授は、私のことをもう「山形くん」とは言わずに、「山形さん」と呼んだ。新鮮な感覚だった。修士の時の先輩だった千谷さんも、学会で出会ったらまだ駆け出しの私を「山形さん」と呼んだ。
つまり大学にいる時は教育される学生だったけれど、卒業したらもう同じ研究者の仲間として対等に扱われたのだ。それまで学生であっても卒業したらこのよう に自分たちと同じように扱うと言う平等の精神に驚き、感激した。けれど、この精神に直ぐに感化されるには、私はあまりにも鈍かった。
その後時間が経ち某研究所で持つようになった自分の研究室で、私は無神経にもずっと自分のスタッフを「○○くん」と呼んでいた。東工大に行ってから初め て、研究室のスタッフを「○○さん」と呼ぶようになった。学生は研究室では○○くんと呼んだけれど、卒業した彼らに会うと「○○さん」と呼ぶように務め た。一時は縁あって教えたかも知れないが、その後は人として平等なのだ。対等な人間関係として「さん」付けで呼ぶのが正しい。
中国の学生を名前だけで呼んでいる関係は、親しみが入っているので、これからも変えられそうにない。でも、人としては対等の立場なのだよという気持ちは、メイルを書くときに「○○さん」「○○様」と書くことで表していることになる。
でもこれは大原則で、たとえば沈さんにメイルを書くときは「ミハチン」、良くて「ミハチンさん」である。彼女は好奇心旺盛で、研究室で何かがあるとたいて い現場に来ている。「まるでミーハーじゃない」と言う思いから「ミーハーの沈」と呼ぶことにして「ミハチン」になったのだ。彼女もこのあだ名がお気に入り であるらしい。何と言っても、私たちによる彼女だけの呼び名なのだ。
このような意欲旺盛の沈さんにとって今いる研究所はもの足らないみたいである。彼女の言によると会社の体質が古くて、「私を採用したのだって、中国人を 採っておけば今に役立つかも知れないという程度の認識で、それ以上の企業戦略はないみたい」だそうである。彼女のやる気は事ごとに摘まれてしまって、だん だん厭になってきたという。就職先は化粧品の会社だから彼女もその製品の恩恵にあずかり、元々目鼻立ちのはっきりとした顔が大型の蘭が咲いているように美 しくなっているが、その眉をひそめている。
社員一人一人にやる気を出させなければ企業は生き延びていけないだろうから、彼女の言い分だけでは判断は出来ない。食い違いは双方にとってもったいないことだと思うが、いずれにしても私の関与できることではない。
ピザと私の作ったグラタンを食べながら、私たち六人の間で話は自由に羽ばたいている。やがて、朱くんが私に向かって「先生の中国語はまったく進歩しません ね。」という。春節(つまり旧暦の元旦)にあたって、私は一念発起して中国語で新年の挨拶文を書いて学生や卒業生に送ったのだ。それが「てんで駄目だ ね。」ということらしい。
じっさい中国語はまったく駄目だが、駄目だと言うことは私にとって実は一番触れられたくない話題だ。私が無能だから中国語が覚えられないのだ。覚える努力を重ねても、端から忘れてしまう。だからもう努力することを諦めてしまった。
朱くんは慰め顔に「先生。いまの中国語は話せなくても、漢文を読んだらいいですよ。」という。中国人の口から漢文という言葉が出てくるなんて面白い。つま り、中国の現代文ではなくて、「史記」などの古文のことを言いたいらしい。漢文はさんざん読んできたし、今でもその頃のことを題材にした宮城谷昌光や陳舜 臣、北方健三の本などを乱読しているけれど、残念ながら日本語で読んでいる。だから中国人の彼らと中国の史実や、歴史に出てくる人物を共有することが出来 ない。
朱くんは「ことばの『意境』が分かると面白いんですよ。」という。この「意境」というのは日本語では使わないが、辞書によれば、「作者が作品に表現する境 地、情緒、ムード」と書いてある。ことばの含蓄ということも意味するのだろう。実際、短いことばで言い切ってしまい、いろいろの意味に解釈できることばが 中国語である。これからはことばや故事の背景に注意しながら本を読み、そして肝心なところは中国で発音できるようにしておこう。
四人の薬科大学の卒業生は夜10時ころまでうちでおしゃべりをして帰って行った。あとに沸き立つような華やいだ空気を残して。
昨 年の秋、関西地区の私鉄である阪急電鉄で、それまで全席優先席と言ってきたけれど効果がないので、全席優先を廃止するというニュースを読んだ。止める替わ りに、昔のように各車両の端に優先席を置こうというものだった。全席優先を謳っているのに若者が身障者、妊婦、老人に席を譲ろうとしない情けない状況を読 んで、私は「瀋陽だより」に中国では若いひとたちが率先して老人にバスの席を譲っていることを書いた。
1月の後半から春節休みで日本に5週間も滞在した。2年前までは日本でクルマを持っていたけれど、ディーゼルエンジン車のために、首都圏では最早使ってはいけないという期限が来てしまい手放したので、今クルマはない。
しかし幸い、横浜市全域に亘ってバス、地下鉄が無料になる優待乗車証が貰えた。大変ありがたいことである。最寄りの私鉄の駅に出るのにバスに乗るから、毎回420円掛かっていたのが無料なのだ。老人になっても出掛けるのを億劫がることはない。
東急田園都市線のあざみ野から、藤沢市湘南台駅まで横浜市営地下鉄1号線と3号線が走っている。この3月30日には4号線となる日吉駅 - 中山駅が開通するという。あざみ野と湘南台を結ぶ線はブルーライン、日吉-中山間の4号線はグリーンラインと呼ぶことになったそうだ。市の案内によると、 ブルーラインの総延長距離である40.4kmは、地下鉄路線としては東京都営地下鉄・大江戸線の40.7kmに次いで日本第2位の長さだそうだ。3月から グリーンラインの13.1kmが加わると、日本一の市営地下鉄の営業路線になると言うことらしい。
先日横浜に行くのに、ちょっと回り道だけれどあざみ野からブルーラインに乗った。驚いたのは、全車両の座席が優先席なのだ。2003年から行われているという。
この3月にグリーンラインが開通するに当たって昨年11月に市交通局が市民に意向をアンケート調査した。その結果反対が賛成を上回ったが、「一定の理解は 得られている」と全国で唯一の全席優先席を続けることになったという(kqtrain.netから、YOMIURI ONLINE)。
アンケートは11月10〜30日に行われ、881人から回答があった。全席優先席について反対が475人(54%)で、賛成が406人(46%)だった。 反対では「席を限定した方が譲りやすい」「全席優先席が現在では『全席自由席』になっている」など効果を疑問視する意見が目立ったそうだ。
しかし、「知ってもらう方法を改善すれば続けてほしい」と賛成に近い声も多く、市交通局は「理念として良いことだと利用者に理解してもらえるよう、PRを強化して継続していく」ことにした。
中田宏市長は「シルバーシートが他の国にどれだけあるか、日本人は恥ずかしく振り返るべきだ。全席優先席が生きるよう、市民の協力をお願いしたい」と話し ているという。欧米諸国に行くと路面電車に乗るとたしかにシルバーシートはないけれど、老人や弱者には率先して席が譲られている。それは市民として当然の 行為なのだ。
ところが日本では「優先席」ですよと明示しないと老人・弱者に席を譲らない。「優先席」と窓に書いてあっても席を譲っていない。「全席優先席」だと明言しても、実際に横浜市営地下鉄に乗って見ても、乗る人すべてがそのように務めているとは思われない。
他人への優しい思いやりの心が日本人から失われてしまったとしか思えない。経済成長を追い、人の幸せを金で計り、人との競争に勝つことだけが評価される社会となって、他人への優しい思いやりが心に入り込む隙間がなくなった。
そこで提案である。「『全席優先』ですよ。席を老人・弱者に譲りましょうね。」なんて言うだけで駄目である。学校で「愛国教育」なんかを始めるより前に、 小中高の学校は、『生徒は電車で座ってはいけない』と言う教育をしたらどうだろう。出来れば幼稚園児のときから立たせたい。
今の親は子供を電車の席に座らせる。席に座って育った子供は、長じてもそのまま自分が電車の席に座るのが当たり前だと思うわけだ。そのようにして育った人たちに「老人・弱者に席を譲ろう」と言っても本当の意味は理解できないに違いない。
私は前にも書いたが、幼稚園の頃から私の親は決して私たち子供を電車で席に座らせなかった。その頃私たちは東横線沿線に住んでいて、もちろん電車に乗るの は普段の生活だった。小学校以来電車に乗る通学だったが、学校に行くときに限らず、幼稚園の時から座席には私たち子供は座らないものと思って育った。今の 歳になって優先席が空いていれば遠慮なく座るけれど、お年寄りを見かけるとつい席を譲ってしまう。「三つ子の魂百まで」なのだ。
どうだろう。こういう教育をしようと公約して実現する政治家が現れないものだろうか。教育委員会も、国歌斉唱の時に歌っているかどうかと教員の口をのぞき 込むという愚かなことをやめて、『児童生徒は電車では立ちなさい』という新たな運動を始めて欲しい。日本は「美しい国」になる。