2週間の夏休みを終えて瀋陽に戻った翌日の25日の朝、瀋陽日本人会副会長の高木さんからmailが入っていた。
『皆様のご尽力の下、5月20日に新しい「日本語資料室」が立ち上がったばかりで、誠に心苦しく存じますが、「開元大夏」オーナーの赫さんからのお話を下記連絡させて頂きます。
経緯:
ご存知の如く「開元大夏」は多くのテナントが入居しておりますが上海の「錦江集団」が、4階〜12階までの1.1万M2を18年間契約で借り受けることになった。
本集団は中国各地で経済性飯店(東横INのようなスタイル)を経営しており、本スペースも全てホテルとして使用する。
11月1日より全面改装を行うため、既存テナント(自分の執務室も含め)には10月末迄に転出頂くよう正式通知を出した。
対応とお願い:
皆様の移転先については「和平区政府」と何度もお会いし、大所高所から本資料室の意義を説明し、下記(*)のビルの3階(100M2以上)を無償で貸して頂けることになった。
移転に伴う経費負担、移転後のエアコンの設定などは責任を持ってやらせて頂くことをお約束する。
皆様には移転早々大変なご心労とご迷惑をおかけすることになってしまうが事情ご賢察の上、何卒ご了解頂きたく宜しくお願いしたい。
つきましては、早急に移転先を視察頂きたい。先ず和平区政府を訪問、担当局長に挨拶の後、現地にお連れ頂くことを考えている。
*西塔近くの「和平区国際孵化器〜」中小企業支援センターの建物』
一 読してショックで言葉も出ない。今年の3月、それまでの資料室が大家の都合で移転せざるをえなくなり、資金の全くない私たちの行き先探しでは全く当てもな く大変な思いをした。幸い、状況を見た方々から温かい支援の言葉と戴いた。特に、在瀋陽日本領事館、瀋陽日本人会、朝日新聞社の方々から助けて戴き、親日 家の中国人青年実業家の赫さんから実際の建物提供申し出を受けて、5月に開元ビルの6階の一画に新しい資料室として引っ越すことが出来たのだった。
6月末には関係者を招いてお礼を籠めて新しい資料室の披露を行った。その後は教師会としては直ぐに夏休みだったので、広々と気持ちの良い資料室を十分利用する間もなく、再度の引っ越しの必要に見舞われたわけだ。
ショックから醒めてみると、オ−ナ−の赫さんは私たちに無料で資料室の場所を提供してくださったばかりか、自分の都合で私たちに引っ越しをさせなくてはならなくなったにせよ、夏休みの間で教師会の誰もいない間に次の移転の場所を見付ける努力まで自らやってくださっている。
これは凄いことだ。というのも、中国で日本人教師会という非公認の一任意団体が自分たちの活動のために拠点となる部屋を借りると言うことの難しさを、この春の引っ越しの時に十分私たちは学習しているのである。
そのような状況の私たちのために、すでに和平区の政府に頼んで私たちの資料室の受け入れ場所を確保したということは、信じられないほどの厚意と実行力、及び赫さんの実力である。何しろ私たちの資料室は、任意団体が運営しているというだけでなく、150平方米の広さのテナント料が払えないというのに、その組織のために場所を確保できたのだから。
写真は開元ビルの日本語資料室・図書閲覧室
今私たちの資料室の入っている開元ビルのオ−ナ−の赫さんにはじめに紹介して下さったのが日本人会副会長の高木さんだった。話が全部纏まるまで、全ての交渉に立ち会っていただいたほか、契約書の日本語訳まで綿密にやって下さって、全て高木さんにお世話になったのだった。
今回私たちの再度の移転の話では、連絡が高木さんからあっただけでなく、和平区政府の高官と会うのも、新しい場所を管理する責任者に会うのも、全て高木さんがお膳立てしてくださった。
8 月18日月曜日10時、開元ビルで出会って、私たちは和平区政府に出掛けた。在瀋陽領事館の森文化担当領事、高木さん、彼の部下の馮さん、赫さんの部下の 劉さん、教師の会の峰村副代表、鳴海副代表、そして私である(南本代表は受業があって来られなかった。私は何でもない立場である)。
大きな建物の和平区政府の4階の広々とした招致局の執務室に通された。紹介された局長は40歳そこそこの朱さんという美しい女性である。副局長も出席して総勢10名が部屋の隅のソファに座ってもまだゆとりのある執務室である。
朱局長は先ず今回の件で理解していること、つまり、
『日 本人教師の会が運営している日本語資料室がやむを得ない事情で引っ越しせざるを得なくなくなった。元々日本語資料室が開元ビルに入居したことも知っている し、和平区政府も影で支援してきたことである。今回の移転にあたり、政府の施設のひとつである基地の一角に、その移転の場所を和平区政府が提供出来ること は大変喜ばしいことである。』
日本語資料室を和平区政府も影で支援してきたこと というのは、一任意団体の、しかも日本人の使う施設の内容と存在を人民政府が全く知らないことはあり得ず、したがってオ−ナ−の赫さんを通じて、関知、あるいは承認していたと言う意味だろう。
ここで高木さんが隣にいた私を突っついて教師の会からご挨拶が必要ですという。隣の峰村副代表を省みても、やりなさいという身振りである。ここでごちゃごちゃしているわけにも行かず、私は教師の会の代表に成り代わって、とっさにお礼の言葉を述べることになった。
朱局長は、具体的に私たちが借りる予定の建物と部屋について述べ、今回の移転で、さらに和平区政府と資料室との結びつきが強まり、教師の会を通じて和平区のイメ−ジを日本に伝えたいということだった。
また話の最後に私がお礼ご挨拶を言うことになった。高木さんの部下の馮さんは阪大工学部出身で日本語が日本人と同じように巧みで、彼が通訳をした。
日 本語は中国語にすると、書いても話しても長さが3分の2くらいに短くなるのが普通である。それなのに、彼の通訳は私の言ったことより長い。きっと挨拶慣れ ない私が当然言わなくてはならない感謝の言葉を抜かしていて、それを補ってくれているのだろうと思って聞いていた。後で馮さんに確かめると、案の定だっ た。
その後、私たちは西塔の近くにある和平区の科学技術孵卵器の建物に現場を見に行った。乗り物は全て森領事の運転される車に便乗させていただいている。この施設は和平区政府の建物である、まずここの責任者の朱部長に引き合わされた。この部長さんも肢体の美しく引き締まった30代の女性である。
ここは中小企業のventure に政府が無償で場所を貸し与え、さあやってご覧と言うための建物のようである。電話代、internet代、そして夏季の空調運転費用は自分たち持ちだ が、部屋代、高熱水道費は無料だという。日系、韓国系のventureがすでに入っているという。NECの合弁も入っているとか。
聞いてみると貸し出し期間はひとまず2年で、延長もあるという。延長した例があるかと聞いてみたら、2005年から始まったので、まだ更新したことはないという返事だった。至れり尽くせりのventure育成に思えるが、どのような基準でventure企業を選ぶのだろうか。
2階の部屋を見せて貰った。一部屋30平方米くらいの広さで2部屋を貸しましょうという。二つでは狭い。3部屋欲しい。実際3部屋隣り合っている。
上の階には小部屋の会議室が3部屋と、5-60人はいるホ−ルがあり、ここも予約すれば使えるという。むしろ、それぞれの部屋に会議室を作ったりしないで、積極的に会議室やホ−ルを使うようにということだった。そういうことなら、日本語資料室も2部屋でやっていけるかも知れない。
ここで昼過ぎになった。このような施設全体の責任者に午後4時に会って細部を詰めると言うことになって、一旦ここで解散した。私たちは森領事に薬科大学まで送っていただくことになった。ありがとうございました。
さて、次は3時半に在瀋陽日本領事館に集まった。今度は教師の会の南本代表も一緒である。午前中時間を割いて交渉に当たってくださった高木さんは所用で来られなかったが、代わりに高木さんの部下の阪大卒で日本語ぺらぺらの馮さんが来てくれた。
4時に午前中訪れたビルに行くと、朱部長のほかに、科学技術局長の印さんが私たちと会って話を詰めようと待っていて下さって、約1時間余りの会談が始まった。状況の説明と橋渡しは今度は高木さんに代わって馮さんが務め、しかも彼は通訳も兼ねていた。
どのような目的でここを使うのか、日本人教師の会とは一体どのようなものか、という説明を南本代表がして、この説明を印さんは受け入れたようだ。しかし、最終的には政府の認可が必要なので、日本人教師の会の活動、日本語資料室の活動、の説明を2-3枚に書いて文書で提出しなさい。それで問題なければ受け入れましょう。
開元ビルとの契約書も見せなさい。それの内容で必要な修正を施して契約書が作れるでしょう。
ということになった。条件は朝聞いたとおり、部屋代無料、ユ−ティリティ無料、夏季はク−ラ−1台につき150元。電話、internet代金はこちら持ち。契約は2年。
2年経っても私たちはventureが育つみたいに育つ組織ではないので、心配なところがあるけれど、朝、和平区の招致局で聞かされたように熱烈歓迎なら、その先を心配することはないだろう。大事なことは、私たちの存在が役立つことであろう。
というわけで、後は私たちが教師の会と日本語資料室の活動について説明の書面を提出すれば(そして受け入れられれば)、何時でも引っ越しできると言うことのようである。
後は、全てがうまく行きますように。今回も多くの方々の好意に頼っている。ありがたいことである。日本語資料室の存在を出来ることならもっと意義のあるものにしたいものである。
藤原 英弥先生から、教師の会が何時の頃からあったのかという問いに返事があった。
ーーーーーー
山形先生:
メール有難うございます。夏休みに医科大学の渡辺先生と盛岡でお会いして教師会のことは伺っておりました。先生のことも。
さて、ご依頼の件:
私は1996年に鉄嶺の瀋陽中華国際学校に赴任、2年間いました。その後、中国医科大学へ。
手帳を見ますと1996年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があったという記録があります。私も出席、これは総会と歓迎会でした。総領事館の領事二人も出席していました。
1996年の写真を探せば出てくると思いますが、20名以上集っていました。遼寧大学の潮田先生・瀋陽大学の山下先生などすぐ思い出します。
遼寧大学の日本語教師を中心にこの年以前から日本語教師会があったようです。遼寧大学の日本語文化祭、瀋陽日本語弁論大会等を実施していました。会場は遼寧大学でした。
石井先生が遼寧大学に着任(1998年?)してから関西遼寧会等の援助で集会所等ができていった・・・・・・・・
私が鉄嶺にいた当時は春に花見の会も実施して親睦を深めておりました。
歓迎会・送別会には領事さんも招待?二次会は領事館持ち。
以上の状況報告でよろしいでしょうか。遂に今年も瀋陽訪問を果たせませんでした。
皆様によろしく、といっても両渡辺先生しか面識はありませんが。
今年の2月に岩手県の医師不足の解消策として、中国医科大学の産婦人科医師高嵩さんを招聘、現在岩手医科大学で修練医師として活躍中です。
以上簡略なご返信まで。
和平区政府の施設を借りるために日本語資料室と日本人教師の会の説明が必要と言うことになった。
南本代表が先ず原案を作り、鳴海、峰村、そして山形の三人が検討し、最終的な説明が出来上がった。
8月31日は南本、峰村、山形の三人が夜3時間集まって今後の方針を検討した。和平区政府の建物が借りられようなら、今の資料室を9月中に引っ越そう!
伊藤忠の瀋陽事務所代表の高木さんが、今回の件でも仲介の労を執って下さっている。現在の場所を借りるときの契約書は高木さんが全部翻訳して下さったし、両国語に堪能なスタッフを抱えておられるので今度も翻訳をお願いした。快く引き受けて下さった。ありがたいことである。
私たちの作成した文書は、日本語では以下の通りである。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
『瀋陽日本語資料室』
開元ビル6階618号室
瀋陽市和平区南五馬路135号
電話:2324−2303
「瀋陽日本語資料室」は大阪のNPO「関西遼寧協会」(1985 年から遼寧省政府をはじめ多くの関係機関と友好交流している特定非営利活動法人)、「市岡国際教育協会」(在日外国人に対する日本語日常会話教室を開いて いる特定非営利活動法人)の支援と協力を得て2000年6月に小北辺門の日本企業の借りたビルの3階に設立されたものである(当時の住所は、大東区北関街 33号1門)。
「瀋陽日本語資料室」の設立経緯及び現状については教師の会のHPの中を参照いただきたい。http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/shiryoushitsu0.html
現在「瀋陽日本語資料室」には、「関西遼寧協会」及び支援団体から送られてきた書籍、日本政府の国際協力基金から寄贈された教材と書籍、個人からの寄贈図書、ビデオテープ、各種日本語を勉強するための辞書や参考書、小説、新聞、週刊誌、指導用教具・教材等を含め約5000冊(点)ある。
われわれ教師はこれらの資料を活用して日々研鑽に努めているところである。と同時に日本語を学習している学生を主体にこれらを貸し出している。借りる希望者は資料室で氏名等を登録して「利用証」を作り、それを提示して「貸し出しカード」に記入することで、もちろん無料で借りることができる。貸し出し期間は最長2ヶ月までとなっている。2006年8月現在資料室を活用する登録者は1300人を超えている。貸し出しは我々教師の学校勤務が休みの日に限られるので、原則として土・日曜日に限られる。
この貸し出しのための管理運営は教師の会の会員全員が協力して当たっている。
2006年5月には、このビルの借り主である日本企業の都合で、日本語資料室は移転せざるを得ない状況になった。幸い、和平区の開元ビルのオ−ナ−である赫子進氏より『以前自分が日本に留学したときに日本人に大変親切にされた、今度は自分の出来るお返しをしたい』という申し出を受け、開元ビルの6階に150平方米の場所を無償提供いただき、移転することが出来た。
2006年5月の移転までは、「瀋陽日本語資料室」は日本のNPO である「関西遼寧協会」の所有するものであり、「瀋陽日本人教師の会」はその運営を委任されているという形であった。しかし、この移転を機に、「関西遼寧協会」の所有の全ての書籍、機器、什器は、「瀋陽日本人教師の会」に所有権が移転された。つまり、「瀋陽日本語資料室」は、瀋陽で日本語教育に身を捧げる 日本人教師の集まりである「瀋陽日本人教師の会」の貴重な財産となったのである。
瀋陽で日本語学ぶ学生が利用するだけではなく、「瀋陽日本語資料室」がもっと広く中日友好に役立つようにするにはどうしたらよいかを、私たちは日夜考えている。
以下は和平区政府に提出する日本人教師の会の説明である。
『瀋陽日本人教師の会』
瀋陽日本人教師の会の発足の時期ははっきりしていないが、1996 年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があったという記録がある。このときは瀋陽及び近郊(鉄嶺)の日本人教師のほか、総領事館の領事二人も出席し ていた。したがって、この年以前から遼寧大学の日本人教師を中心に、教師会として定期的な会合が持たれていたと思われる。教師会としての活動が形をなして きたのは、日本語資料室が小北辺門に出来てからである。
2006年7月5日現在会員は42人である 。
1 瀋陽日本人教師の会の趣旨
この会は瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている日本人教師や研究者の集まりである。さまざまな経験や資格でここ瀋陽に来た私たちは、年齢や性別、経歴などを超えて、一人の人間、一人の日本人教師・研究者としてこの会に参加している。授業や研究を進める上で必要な情報・教材などをお互いに交換し合うこと、異国で生活する不自由さや面白さを話し合うこと、この二つが私たちのこの会に集う主たる目的である。したがって、この会の運営は会員全員で分担し合い、協力し合うことによって進めている。そして私たちの活動をささやかながらも日中友好の一助にしたいと考えている。
2 会員資格(瀋陽日本人教師の会会則より)
○ 日本国籍を有し、瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている人で、各教育機関から招聘状あるいは専家証を発給されている人およびその家族でこの会の趣旨に賛同される人で本会が認める人。
○ 年会費を納入した人
3 瀋陽日本人教師の会の主な活動内容
日本語を教える授業やその指導方法・研究を進めるために必要な教材を作成したり、教育に携わっている教師同士がお互いに情報交換したりする。そして、教師の資質を高めるための研修会も随時開催する。
毎年9月の年度始めの定例会(本年は9月16日)でこの会の趣旨を説明・確認し、役割分担と予定を話し合いで決める。その後は原則として長期休み期間を除き、毎月第2土曜日の午後、定期集会(「定例教師会」と言う)を開催する。
以上これらの会合は日本語資料室を拠点として開催している。
会員の親睦を図るための食事会(歓送迎会を含む)や、親睦旅行等も実施する。
3-1 各種行事への協力
○ 瀋陽日本人会が開催する瀋陽日本語弁論大会への協力
中国人の学生が参加する日本語弁論大会を協賛し、その企画、運営、審査には教師の会全員が当たる。参画については別途実行委員会を組織し、主催団体(主管 瀋陽日本人会、共催 瀋陽市人民政府外事弁公室、瀋陽市教育委員会)や機関との連絡を密にして、特に弁論大会設立の趣旨の継承に努力する。
○ 在瀋陽日本国総領事館が主催する日本語文化祭への協力
領事館が開催する「瀋陽ジャパンウイーク」の期間中に1日、日本語文化祭が開催される。これは日本語を学んでいる中国人の学生の日ごろの学習の成果を発表するまたとない機会であるので、各大学等へ奮って参加するように呼びかけている。
と同時に、この行事は領事館と密接な連携のもとに、主として教師の会が事前の立案・企画から当日の運営まで携わっている。
○ 領事館の施設や設備等を活用しての自主的な行事の開催
領事館には日本文化の紹介の学習に大変役立つ日本の伝統的な遊び道具、雛人形等も取り揃えておられるので、今後、われわれ教師は、領事館とも協力して、こういった文化面の体験学習も行っていきたいと考えている。
○ その他、各種行事等への参加協力
主として領事館が関係する行事等で、中国人の日本語学習の一助になると思われるものに対しては、これを各大学の学生たちに紹介し、参加を呼びかけている。もちろん、教師だけが関係する行事には教師の会会員が積極的に参加している。
○ 日本語クラブの発行 年3回発行
○ ホームページの維持 会の広報と活動の歴史の記録
3-2 日本語資料室を教師の会の有形の財産として持ち、これの有効利用に努めている。
現状の利用形態は「瀋陽日本語資料室」の項を参照いただきたい。
4 今後の「瀋陽日本語資料室」活用について
この資料室の利用は日本人教師や日本語を学ぶ学生などに限らず、将来、中国人日本語教師、瀋陽日本人会会員はもちろん日本語の資料や図書等を必要とする人なら誰でも利用できるようにしたいと思っている。
当面は瀋陽日本人会と連携を密にして会員の方々の積極的な利用を望んでいる。その場合中国の国情に反しないようにすることは当然である。
1989-1990年と、二度目は1999年-2000年に瀋陽で日本語教師をされた最上先生が色々と調べてくださった。そのおかげで、1994年-1995年に瀋陽工業大学におられた小林美恵子先生からmailがあって、その頃の様子を知らせてくださった。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
小林美恵子です。
さっそくにメールありがとうございました。
私の日本人教師の会の経験は、最上先生を通じてお知らせしたとおりです。これは自分の記録を確認してお返事しましたので、日にち、場所等は間違いないはずです。教師の会の「歴史の証言」(すごいですね、なんか!)としてHPに保存してくださってもちろん、かまいません。
さらに具体的にというお話ですが、うーん、場所は遼寧大学の中でしたがどの建物・部屋かまではわかりません。その日原土先生(講演者)は奥様とご一緒でした。会費は一人50元(ははは!これは確かです。息子と2人で100元とられぎょっとした。当時としてはけっこうな額だったんですよ)覚えているのはそんなところでしょうか。
私は東京都から派遣されて94 年9月から翌95年8月まで瀋陽工業大学におりました。当時小学校4年だった息子と2人で行き(何も知らずに連れていったんですが、向こうでは旅費その他 も2人分負担しなくてはならないということでだいぶ顰蹙ものだったようです。)、息子は現地(鉄西区)の景星二校という小学校に1年いました。私としては とっても楽しい1年間で、是非任期の延長をと申し出たのですが、東京都は許してくれず・・というわけです。
ただ、最初に日本人教師の会に出席したときはこれから最初の寒い冬に突入という時期で少々不安な時期だったこともあり、この会に参加していたのが瀋陽市内だけでなく少し郊外のかたも多かったようであること、その後特に親しくしていただいた中国医科大の鮫島先生一家は多分まだ赴任前だったことなどもありで、あまり個々人の先生方の印象が残っていません。
世話役は神奈川県の教員として遼寧大学に派遣されていた佐藤英二郎先生でしたが、このかたとは今はもう連絡がありません。そのほかに遼寧大学には伊豆蔵恵美子さんという方がいましたが、このかたは、私が行ってまもなくにお帰りになったように思います。前島正吾先生には多分このときお目にかかったような気もし ます。たしか山梨県出身のかたがいらっしゃいました。
私の赴任前、2 年間工業大学にいた藤井達也先生が熱心に世話役をされていたということは佐藤先生から伺いました。彼のメールアドレスは最上先生にお知らせしましたので、多分そちらに情報が行くと思います。彼は埼玉県から派遣された方で、今は埼玉の高校で中国語を教え、中国語の雑誌などに連載をもたれるなど活躍していらっ しゃいます。
そのほかに、私が当時知っていて、今も連絡先が分かる方を以下にお知らせします。ご連絡をされる場合は小林から紹介されたと書いてくだされば大丈夫だと思います。
この夏も大連から瀋陽経由で長春まででかけた知人に話をききましたが瀋陽も今は直行便もあるし、だいぶ変わったようですね。鉄西区については3 年ほど前に王兵という若い監督が9時間の長編ドキュメンタリー映画『鉄西区』を作り、日本でも山形映画祭その他で数回公開されました。懐かしい?場所も写されてちょっとジーンとしましたね。できれば一度再訪してみたいもの、などとも最近は思っています。30人規模の補習校ができている、というのには驚きますし、頼もしいかぎりです。
便利になったとはいえ、いろいろ大変なこともある生活かとお察ししますがどうぞお体に気をつけてますますご活躍ください。こんどゆっくりHPも見せていただきます。それでは取り急ぎお知らせまで。
最上先生あてに、1992-1994年に瀋陽工業大学におられた藤井達也先生が、最上先生に教師会の始まりのことについて書かれた文書を戴いた。藤井達也先生は何と、教師の会を初めて作った先生である。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
最上先生
ご無沙汰しております。藤井です。
「日本人教師の会」は誠に僭越ですが、私が作りました。
当時、日本人日本語教師が増えてきたのと私の瀋陽工業大学の授業が、調整が悪かったのかコマが少なくて、時間的に動けたからです。
各校訪問ということで、瀋陽工業大学や色々なところで持ち回りで食事会をしたりを1.2ヶ月ごとにしていました。食事だけではなく、部屋を見せていただいて、みんなそれぞれ不便なところで頑張っているんだなあと勇気づけられたり、生活の工夫などを学び合っていたように思います。初回の頃は社会科学院で教え ていた宮沢さんという方に「言い回しのニュアンスや語法の違いを例を挙げながら説明した」という報告?をして頂いたりしたのですが、このような授業実践報告を義務的にしてしまうと集まりが悪くなるということもあり、現場や授業で苦労していることなどを話し合ったり、悩みを話し合ったりするような感じが多かったように思います。シルバーボランティアでいらしていた割と年配の方達にはたまに日本人と話すだけでもストレス解消にはなっていたように思います。
最初は領事館の文化担当の梅沢さんというかたに来ていただいて協力して頂いたりしました。北海道開発庁(当時)の出向の方だったと思います。
アルバムを見れば、みんなで撮った写真などが出てくるし、名簿も出てくるかもしれません。名簿も最初の頃は私がワープロで作りました。
私がいた頃は遼寧大学には大平先生という方がいらして、その後、佐藤栄二郎先生がいらっしゃいました。大平先生がいた頃に始めたという記憶があるので、92年の末くらいかなと思います。日記を探せばもっとわかるかもしれません。
あと、ざっとホームページを見たのですが、遼寧大学は神奈川の県立高校の先生が派遣されていて前のメールに書いた佐藤さんの次が潮田先生だと思います。
潮田先生のように今中国語の授業を持っている方とはおつきあいがあるので連絡が取れます。
私は今、高等学校中国語教育研究会・略称「高中研」の代表理事をしており、そちらでも何かお役に立てるかもしれません。
1989年、1999年それぞれ1年間瀋陽で日本語教師をされた最上久美子先生から教師の会のことについて返事を戴いた。
小林美恵子先生、藤井達也先生から当時の様子を書いた手記が寄せられたのも、最上先生のおかげである。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
私のいた頃(1989年)は、「教師の会」というような形はできていませんでした。それ以前は連絡や活動があったかどうか、分かりません。
1989年という年は、その6月が天安門事件の年で、私の行った9月はまだ危険だという事で、外国人教師はかなり国に帰ってしまったままでした。私自身、瀋陽工業大学の3階建ての外事処の建物に、一人で住んでいました。
瀋陽市全体で外国人教師も少なかった事もあり、市や省から晩餐会(日本人だけではない)に招待されたり、正月には日本領事館から招待されおせち料理をいただいたり、2泊の旅行(丹東)に招待されたりしました。また、遼寧大学で、留学生たちも一緒に、在留婦人たちとの交流を持った事もありました。その中で、親しくなった人たちと個人的な連絡をしていました。領事の方とも親しくお付き合いできました。
渡辺文江先生は、その頃すでに遼寧大学滞在4年目だったかと思いますが、私とは個人的に親しくお付き合いさせていただき、授業の事など教えていただきましたが、あまり集まりにはおいでにならなかったように覚えています。でも、お聞きになってみてください。
一大学内でさえ、何の引継ぎも連絡もなく始めなければいけなかった経験から、次の先生方に引継ぎの連絡を持つように努力しました。幸いに続々と素晴らしい先生たちに恵まれ、工業大学においては、私の後少なくとも、平野先生、藤井先生(霜鳥先生と一緒)、小林先生、降籏先生まで確実に連絡がつながります。ま た、私は、1990年に帰国した後も、95年まで工業大学と関わりましたので、代々の先生方とも親しくさせていただけたと思いす。
平野先生から、日本人教師の名簿ができた、と頂いた記憶がありますので、会を作る気運ができつつあったかと思います。だから教師会としてまとめて出発できたのは、藤井先生のお働きでしょうね。(この名簿は捜しているところです。)
余談ですが、工業大学のあった鉄西区は工業地で、当時市内で最も空気が悪く、他の学校の先生たちは敬遠して来てくださらず、こちらから出かけなければお会いできませんでした。
また、当時の交通は、タクシーは危なくて一人では乗れず、今よりひどい状態のバス(汚いし混んでいるのはもちろん、自転車の方が早いし、すぐにえんこして降ろされるなど)、また、当時の公安による外国人管理の面からも、私的にはちょっと動きにくかったかもしれません。
とにかく現在の教師会につながったという事は嬉しいですね。
山形先生という方を得て、日本人教師会の歴史が記録される事になり、(私の立場からは、)神様はなんと時にかなって素晴らしい業をなさるのかと、感動しています。先生、ありがとうございます。
降旗郁司先生の最上先生宛のmailが転送されてきた。1995-198年の頃の教師会の様子である。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
最上久美子様
こんにちは!
東京の小林美恵子先生からメールを頂きましたので、ご返事いたします。
私が沈陽工業大学にいましたのは、1995年8月から翌年1996年7月までと
1997年8月から1998年7月まで、です。そのとき、すでに沈陽日本語教師の
会が組織されており、ときどき会合がもたれました。最初は中国医科大学の
鮫島千春先生<九州・鹿児島県>が中心になって会をまとめてくださったと記憶しています。その後は遼寧大学の潮田(?)先生<神奈川県>がやってくださったと思います。
私 の2回目の赴任の折は、遼寧大学の広田真二先生(神奈川県)と吉川正国先生(大阪府)が会の責任者として努力してくださいました。海外青年協力隊派遣の若 い日本語の先生も数名おられて、皆一生懸命頑張っていました。その時、山形先生のメールの中に名前のある鉄嶺市の中華国際学校の藤原英弥先生(盛岡市)も おられました。
およそ10年前の事ですので、記憶が薄れていて詳細な部分については思い出しませんが、現在の沈陽日本語資料室のホームページを見て、日本語教師の会の組織や資料の整備・保管・管理など随分立派になったと感じました。
稲田登志子先生から連絡があった。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
山形先生
瀋陽ではお世話になりました。大変ご無沙汰しております。
HPの係りの記録の発足についての部分を読ませて頂きました。
山形先生を始め諸先生方が教師会のためにご尽力を尽くされていらっしゃるようで、とても感動致しました。
この度の資料室の度重なる移転につきましては、本当にご苦労なさって
いることと存じます。
山形先生と教師会でご一緒した会員の中では、渡辺文江先生の次に私が古くからの瀋陽を知る者だと思います。ご協力しなければと思いつつ、ご返事が遅くなってしまい申し訳ありまん。
HPの藤原先生のお手紙に「1996年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があった」と書いてありましたが、確かにその頃が日本人教師会の正式な発足です。
報告書によると、96 年11月3日の教師会で97年1月11日の遼寧大学での弁論大会開催が決定されたと書いてありました。それで、第一回の教師会はそれ以前に実施されていた と思います。実家にある手帳を見れば、教師会の日にちはわかるとは思いますが、家の者に手帳の確認を頼めないので、はっきりした日にちの確認は今回の申請 には待ちあわないかと思います。HPへの記載のために次に帰省したときに見てみようと思います。
私は96年5月に赴任し、中国医科大で鮫島先生とご一緒しました。
鮫島先生に教師会のことをお伺いしたところ、瀋陽市内を中心に数人の日本人教師が不定期に食事会をして、仕事や生活面での情報交換をしているが、市内の日本人教師全員に呼びかけて組織化しているわけではなく、勉強会や行事の開催は行っていないとのことでした。
市内で活動していた4名の協力隊員からは教師会があるという話は聞きませんでした。また私は当時、協力隊員として、赴任当初に領事館にご挨拶に伺いましたが、当時の広報文化担当の畔津領事からは日本人教師会の紹介はありませんでした。
本格的に教師会の活動が組織されたのは、96年の新学期が始まってからでした。神奈川県派遣の遼寧大学の潮田先生や工業大学の降旗先生や医科大の鮫島先生や私を含む市内の5名の協力隊員などが市内の日本人教師に広く声を掛け、教師会を組織化することになり、遼寧大学で集まることになりました。
その時の教師会で「瀋陽日本人教師の会」という名前をつけ、名簿も作り、畔津領事に顧問をお願いすることを検討し、その後、引き受けて頂きました。
教師会の機関紙発行はありませんでした。
『瀋 陽日本語クラブ』は私がいた当時は瀋陽大学の山下先生が大学内の教え子の文集として、自費で製作していて、それに時々、教師が投稿するという形で載せてもらっていました。これは私の推測ですが、山下先生の後任までで瀋陽大学に協力隊員の派遣が打ち切りになったので、その名前を教師会の雑誌に引き継いだもの だろうと思います。
教師会発足の直後に日本人会会長で住三塑料の松本さんという方が日本人会として、瀋陽に貢献したいという申し出があり、私達、教師も弁論大会を開きたいが、資金がないので、協力して欲しいという気持ちがあり、意気投合し、協力して弁論大会を行うことになりました。当時は交流基金の弁論大会助成の申請は行って おらず、
費用はすべて会長が日本企業を回り、寄付を募って、行っていました。
瀋陽日本人会や教師会は中国政府に公認されていない任意団体のため、日本人だけで、行事を開催されることはできず、中国の団体を主催にしなければならないとのことで、日本へ留学した中国人の中日同学会という団体を主催にしました。
その事務局が遼寧大学にあり、会計などの事務処理は中国側に任せることになり、遼寧大学で弁論大会を行うことになり、教師会も1度、医科大で行った以外は主に遼寧大学で行っていました。
これをきっかけに日本人教師会が活発に始めました。
ですから、資料室ができる前の私が赴任した2年間も、教師会では瀋陽大学で弁論大会の開催をしたり、会員のうち、数人が遼寧大学の「日本語の夕べ」
したり、歓迎会、送別会をするなどして活発に活動していました。
全体では、主に瀋陽大学で月に1度は集まっていましたし、弁論大会開催直前は弁論大会担当の数人の会員を中心に頻繁に集まっていました。
当時、資料室はなかった代わりに領事館の一室に日本人が寄付した本を保管している図書室があり、教師達や日本人が利用していました。教師達が領事館を訪れたときに文化担当領事とお会いしてお話することもありました。
教師会の組織としての発足についてはこのような経緯です。
日本語資料室の移転の契約のために、和平区政府へ日本人教師の会と日本語資料室の説明が必要で、それを日本語で作成してから中文への翻訳を、伊藤忠瀋陽営業所高木所長の部下の馮さんやってくださった。
8日金曜日朝、和平区の孵化器ビルに、南本、鳴海両先生と馮さんが出掛けて先方の責任者である朱部長に出会って渡した。
これを上に上げてそして契約書の交換という手続きになるらしい。南本先生は、この夏まで瀋陽におられた小林豊朗先生入魂の教師の会の印鑑を大事に握りしめて出掛けたのだったが。
教師の会が使う週末はこのビルは本質的には休みなので、出入りが問題なくできるよう警備会社に見せるために教師の会の写真入り身分証が必要となるらしい。訪ねてくる学生や一般の利用者をどうするかという問題も協議しなくてはならない。
なお、一部屋につき1500元、二部屋で3000元のdeposit保証金が必要という話を今日聞いて、特に財産のない教師の会は動揺した。教師の会も財産を持たなくてはいけないのだ。
和平区政府からまだ契約書が来ない。鳴海先生が何度も孵化器ビルの朱部長に電話しているけれど、まだ、なのだそうだ。
一方、資料室担当の峰村先生は業者と連絡を取って引っ越しは19日の火曜日と決めた。今度は前回とは違って、荷物の搬出から運び込みまで全て業者に任せる方針である。
ところが、契約書が交わせていないので、引っ越しの日取りも怪しくなってきた。ことによるともっと先になるかも知れない。
ところで今の開元ビルの資料室には、沈陽三洋空調公司の蔵本総経理(当時)のご好意で2台の空調が寄贈さている。西向きの部屋なので、空調の寄贈はとてもありがたいことだった。
日本人会幹事会で、引っ越すけれど教師の会では空調が買えないしという話をしたら、直ぐに蔵本さんがモニタ−になってくださいな、とおっしゃって、つまり実質的には寄贈して下さったのだ。
今度の引っ越し先の西塔近くの和平区政府所有の孵化器ビルを下見したら、空調が入っている。それで、この寄贈された空調機は不要となってしまった。沈陽三洋空調公司の蔵本総経理のご好意が、無になるわけでとても残念である。
この空調は元来、沈陽三洋空調公司のものなので、これをどうしたらよいかを蔵本さんに代わった新しい野崎総経理に伺っているところである。
先 刻、南本先生から伺った話だと、私たちの引っ越し先に予定されている和平区政府の孵化器ビルで水漏れがあり、その修理と改修があるので私たちの引っ越しは 当初予定していた19日(来週火曜日)ではなく、10月初旬の国慶節の連休明けにして欲しいと、ビルの責任者の朱部長から連絡があったそうだ。
契約書はどうなっているのでしょう? こちらは所定の書類をとっくの昔に渡したのに。
最初の話の時には、契約書は直ぐに交換できてもう次に日には引っ越しできますよと言われて、皆ほっとして笑ったのに。
何か持って行かなくてはならないのだろうか?
ともかく、10月末までは今のところにいられることになっているので、10月の引っ越しでもいいけれど、物事を計画的に進めるのが大変なところであることを、再認識したところである。
第1回の9月16日の定例会の後は、新年度の全員の懇親会。
歓迎会だけれど、新会員も同じように会費を払うので、懇親会と呼んだ方が良さそう。
5時過ぎに3軒東の香味堂(6月の24日に日本人会の幹事さんたちを招いて謝恩会をしたところである)に移って、懇親会。
司会は薬科大学の峰村先生。お見事。
テ−ブルは大二個、中一個。参加者30名。
挨拶:
南本会長
森領事
余興として、各学校別に唄の演し物があり、薬科大学からは加山雄三の「君といつまでも」 池本さんもここに参加
「ぼかあ、しわせだなあ。。。」の台詞は加藤正宏さんが文子さんに向かって述べて満場の拍手と大爆笑。
森さんは、10月に結婚する鳴海さんに僕の妹が結婚するみたいと言って、「かぐや姫」の「妹」を歌った。今日はかつらなしの熱演だった。
このほか、「上を向いて歩こう」「朧月夜」「おいらはみんな生きている」「瀬戸の花嫁」「世界にひとつだけの花」などなど。
食事はテ−ブルののセットメニュ−を注文した。森領事から寄付があって会費一人40元。会員でない人たちは60元。
なお、定例会の時に、南本会長から、会員の懇親を深めるためにこれからは定例会の終了後には、都合のつく人たちで何時も一緒に食事をしましょうという提案があり、好感を持って迎えられた。
日本語資料室が開元ビルに越したのが今年の5月で、定例会をここで開いたのは、いままでに6月24日、そして9月16日の二回だけである。
10月中にここから越さなくてはならない。和平区政府が私たちの面倒を見てくれることになっていて、契約書の交換の前段階まで漕ぎ着けたけれど、まだ契約に到っていないため、何時引っ越せるかが分からない。
私 たちの最初の心積もりは9月19日には引っ越しというものだったが、それは延期となった。しかし、一旦決めたことのすべてはご破算には出来ないので、今日 の日曜日17日は、引っ越しの準備である。資料室の中の本をダンボ−ルに詰め、そのほかのものもパックしてしまい、何時でも専門の引っ越し業者が来れば運 べるようにしようというものである。
資料室に今まで心を砕いてこられた峰村先生の指揮のもとで、
片山(航空学院)学生2名
山田、中田、松下(東北育才学校)
宇野、中野、若松、池本、鳴海、
峰村、峰村夫人、南本、加藤文子、山形達也
薬科大学学生10の名
が集まって9時から10時半まで働いたら、全てのものはすっかりダンボ−ルにパックされてしまった。
後は、何時の日になるか分からないけれど、ここから業者が運び出して新しい資料室に入れて整理するだけとなった。みな様 大変お疲れさまでした。
昼を山形達也は薬科大学の峰村、峰村夫人、南本、加藤文子さんたちと近くの呉師伝餃子で一緒に食べた。
今の資料室の近くには食べ物屋が沢山あり、あちこちで食べたけれど、ここがしずかで一番落ち着ける。ここに来るのもきっと今日が最後だ。ビ−ルは別で一人あたり15元。
大した労働でもなかったと思ったけれど、この後うちに帰って2時間昼寝をしてしまった。食べ過ぎだったからかも知れない。
教師の会に新しい会員が加わったし、今年度の新しい名簿が必要である。というわけで、朝一番に係の名前も書き込んだ名簿を、先ず作成した。
この新しい会員名簿をホ−ムペ−ジにも載せなくてはならない。今までの会員名簿も直して、この1年に去った人たちを旧会員ペ−ジに移さなくてはならない。
教師の会の歴史をたどるうちで明らかになった10年くらい前の会員の名前も、3名を旧会員のペ−ジに書き入れた。
などなど以上の仕事を始めたら、とうとう丸一日これに掛かりきりだった。ほかの先生の講義にも出ようと思ったのもパス。研究に関係あることというと、暁艶に彼女 の研究の手ほどきの話しをしたのと、大勇の蛍光染色試料のために蛍光顕微鏡の調整をして、検鏡を一緒にやったことくらいである。その蛍光顕微鏡の調整で は、眼を痛めたみたい。
なお、新しくした会則があるのでHPを更新。そして今回やっと気付いて、前回の会則を 別の場所に残した。今まで更新だけをしてきたから、昔の会則は消えてしまって、たどりようがない。大した会ではないから、いいとして貰うより仕方ないけれ ど、これからは更新する度にその前のもsaveして、残すことにしよう。
会員には新しい会員名簿を校正のために発送した。追加情報と変更が今日のうちに3件寄せられた。
2003 年度には日本語クラブの編集をしたし、日本語クラブをHPに載せる作業も私がもう3年もやってきた。最近、日本語クラブを編集した原稿からHPを作るのが 何故かとても面倒なことになっている。編集していない原稿と写真からなら簡単なことが、やけに面倒になっている
この春から日本語クラブをHPに載せる作業を私は2006年度からはもうやらないと言い続けていたが、幸い有望な新人が日本語クラブ編集係に加入したので、私はこの作業からは抜けられそうである。
3年前に瀋陽に来て瀋陽日本人教師の会に入ったが、この会になじむには半年以上掛かった。つまり、はじめから顔見知りとか親しい人がいるわけではなく、会に出て互いに顔を見ているうちに、そして発言を聞いているうちに話のきっかけが出来てくるわけだけれど、1ヶ月に1回集まるだけだと互いに親しみを覚えるのに半年は掛かるというわけだ。
今年の第1回の定例会に集まった東北育才学校の先生は3人とも新人で、遼寧大学の2人も新人である。つまり彼らには同じ学校に身近な先輩がいない。きっと瀋陽と言う異国の地に来て心細いに違いない。
それで路上市のツア−を思いついた。路上市は昨年の5月に薬科大学の加藤先生に案内されていったのが最初で、それから何度も相変わらず加藤先生にくっついて出掛けている。加藤先生の好きな古本に私は興味ないけれど、篆刻の練習用の石や、本物用の石、あるいはすでに店のおじさんが自分で彫り込んだ唐詩が側面に刻まれている石など、見ていて楽しいし、買うのも楽しい。硯も、筆もあるし、勿論画や書も売られている。このようなところを一緒に歩くと瀋陽に親しみを感じるだろうし、何よりも私たちと親しくなるだろう。
朝9時頃出会って中街の路上市を巡って、11時半頃馬家焼麦(1796年開業の由緒ある店である)で食事をしよう。
そう思って、先ず加藤先生にお伺いを立てた。今度の日曜日の午前中は大丈夫、付き合いましょうと言う返事だったので、東北育才学校の先生は3人と遼寧大学の 2人にmailで誘った。遼寧大学の2人からはすぐに参加するという返事があった。こちらの好意に直ぐ即応して返事があるのは嬉しいことである。私たちも今度の日曜日を楽しみにしている。
大学の運動会。うちの学生は無関係で、どうも研究室の先生たちがはしゃいでいるみたいだ。何時も通り7時にラボに来たら、もう始まるところだった。こう言うときは誰もが早く来られるみたいだ。
つい2週間前から参加した学生の楊方偉が月曜日に研究室の鍵を落としたらしい。火曜日に拾われて広場につるしてあったので、取り戻したようだ。私たちはそれを水曜日に建物の管理人から聞いた。あさ、楊方偉に鍵はどうなったの?と聞くと、いえ、鍵はあります。という。落としたのではないのと聞くと、いえ、もう戻りました、という。
研究室の鍵を落とすと言うことは重大事件であること。研究室の有形無形の財産が危殆に瀕するわけだから直ちに、私と他の室員に知らせなくはいけないこと。懇々と言って聞かせた。見せて貰った鍵は貧弱な金具に付いているので、手持ちの上等なキイチェインを上げた。
楊方偉はあとで、反省文を英語と日本語で書いてきた。鍵を落としたことを黙っていたことを痛切に反省していると言うことだ。
Mac のカ−ソル動きがぎくしゃくして、始終止まってしまって動かない。TechToolProによるとボリュ−ムが壊れているそうなので、そのためかと思う。もうデ−タを全部コピ−して、前面入れ替えをしなくてはならないと思い詰めたとき、ふと、マウスが悪いのでは、と思いついた。1年前から使っているMac 純正の光学式マウスである。一昔前のUSB式のまん丸いiMac用のマウスを取りだして付けてみると、何とすいすいと動くではないか。病気になったマウスだったのだ。
教師会に増えた新人の先生たちで,同じ学校に先輩のいない人たちは瀋陽に来て心細いのではないかと思う。私たちも3年前は心細かった。それで、少しでも先輩の私たちが互いに親しめる環境を用意できないだろうか。
思いついて、今度の日曜日に中街の近くの路上市巡りのツア−を計画した。勿論案内人は薬科大学の加藤先生なので、最初に話をして同意を得た上で、東北育才学校の3人、遼寧大学の2人を誘ったところ、早速賛同という返事が来た。今度の日曜日の9時に出会って2時間くらい路上市を冷やかして、昼を一緒に食べようという計画である。日曜日がお天気であるよう祈ろう。
19日に薬学部の3年生の唐佳文さんが私たちの研究室で実験を見習いたいと言ってきた。この大学には私たちの知らない制度があることを知っているので、それは大学の決まりかと聞いたら、いえ、でも今友だちはそれぞれどこかの研究室に出入りさせて貰っています、という。
つまり、学部3年のうちに研究室に出入りさせて貰うのは、恰好良くて、今や学生の間で流行らしいのだ。でも、と考えてしまう。最終学年の卒業研究だってここでやる実験と彼らの知識と技術との間にはギャップがありすぎるのだ。
したがって、返事は、ノ−。但し、セミナ−で勉強したいなら毎週土曜日の朝やっているからいらっしゃい。ついて行けるかどうか分からないけれど。
21日には卒研希望の学生が一人来たが、聞くと千葉大学に留学を希望しているとのこと。それで、卒研受け入れには修士進学者を優先するから決定まで暫く待って貰うことにした。
今日22日には、基地クラスの学生が修士をここでやらせて欲しいと言ってきた。生化学や分子生物学、に興味があるけれどそれをやるには先生の研究室が一番だと嬉しいことを言ってくれる。このような冗談はともかく、この大学と吉林大学とが提携している特別クラスの学生で、学部に入ってから修士卒業まで6年というコ−スである。つまり大学院の入試なく、修士課程に入ることが保証されている。いいでしょう。来年いらっしゃい。そして今も土曜日に午前中が空いているなら、セミナ−にいらっしゃい。
10月には2週間特別プログラムで研究室に配属されて実習をすることになっているという。そういえば2年前に基地クラスの呉瑜さんが来たっけ。彼女は飲み込みがとても早くて大変優秀な学生だった。
9 月24日のツア−で新人の参加者は、遼寧大学の藤平、石原両先生と東北育才学校の松下、中田両先生、それに薬科大学の坂本先生の5人。旧人は案内役の加藤 先生、その文子夫人、私たち山形貞子・山形達也の4人の合計9人だった。故宮のバス停で待ち合わせて、先ず故宮の前にある土産物屋を覗く。篆刻用の寿山石,巴林石を置 いている店は定価販売で絶対に負けないという話なので、石を眺めて眼を養うだけ。
土産物屋の裏に日本が満州国を作る前の時代の張作霖時代に東北三省を統括した役所の二階建て建物が残っている。使われなくなって久しく、大分痛んでいて接近禁止と壁に書かれている。市役所はこの建物を歴史建物として保存したいけれど修復の金がないように見受けられた。
直ぐ近くに公共厠所があって、瀋陽初めての先生ひとりが社会見学と言って中に飛び込んだ。使用料を集めるらしい人が建物の前にいなかったから無料トイレだろう。外まで匂いが来ていないから結構綺麗にしているのではないだろうか、ここは観光地のまっただ中だし。
故 宮の横を通って中心廟にいく。14世紀に作られたもので、この故宮のある瀋陽城の中心に建てられたお寺である。前に加藤先生に案内されて初めて来たときは まだ閉鎖されていて中に入れなかった。最近公開されたと言うことだ。小さな、小さな本堂だが、次々と参詣の人が来て太い線香に火を点け祭壇に捧げてぬかづ いていた。ひと組の参詣人には黄色の衣装を付けた坊さんと思われる人が小声で教典らしいものを唱えていた。
次に中街の目抜き通りにある1928年建設の瀋陽春天デパ−トに行った。店に中は昔の御徒町のアメヤ横町的に細々と仕切られて個人商店の競演になっていたけれど、ここは中国人資本で建てられたもので、床のモザイクタイルが美しい。
10時になってやっと中街の一画の古玩城を中心に出来ている路上市にたどり着いた。壊れたカメラ、時計、置物、玉の飾り、壺などの古物を売っているござを覗き、篆刻の練習用の石を買い、篆刻の実際を目の前でみてその見事な術に驚き、買おうとした彫刻刀が、2本が3本になっても絶対に負けようとしないおばさんのしたたかさと、交渉を引きと取って3元負けさせた加藤さんの見事な駆け引きに感心したりした路上市の二時間だった。
DVD が1元で売っている?あっ、これ日本のだ。欲しいし、安いけど心配だなあ、と中田先生。プレイヤ−が壊れちゃうかも、と松下先生。その一刻は二度とないこと、欲しいと思ったときはためらわずに買うこと、人生一期一会だよ、などと人生哲学を口を出して、新人の中田先生をけしかけた私。
昼には中街西北にある馬家焼麦という瀋陽のどのガイドブックにも載っている超有名レストランに行った。この店と並んで老辺餃子館が載っているが、後者は高くて美味しくない。馬家焼麦は気取りがなく、安くて美味しいのだ。
餃子5種類(一篭250g)おかず4種類、ス−プ1種類を頼んで、9人で飽食した。これで一人あたり21元。
どのくらい飽食したかというと、私はうちに帰ってひたすら眠く、夕方目覚めた後もお腹がまだ一杯で夜食をスキップしたくらい。
食事の後でバス停まで行く間に人混みの中で互いにはぐれてしまい別れの挨拶は出来なかったが、このツア−の試みは成功したと思っている。
うちの学生から聞いた話である。裏を取っていないので真偽、及び正確なところは分からない。
こ の大学の博士課程の院生が論文ねつ造で大学から追放されたそうだ。話によると、この学生はこの大学の院生が書いた論文を丸写しにして別の雑誌に投稿し、受 理されて、出版された。就職するためにある別の大学に申請を出したところ、internetでその大学が申請者の書いた論文を調べたら同じものが二つでき てきたので、ばれたという。
もとの論文のクスリの名前を別のものにした以外はもとの論文の殆どを使って、デ−タを改ざんした全くのねつ造論文らしい。
分からないのは、論文を投稿したときに教授が知らなかったのだろうか。教室の長が関与しない論文なんてあり得ないことだから、教授が知らなかったと言うことは、考えられない。
教授が見ていて、ねつ造に気付かなかった?日常自分の研究室の研究の進行具合を見ていれば論文のねつ造には気付きそうなものだと思う。
と言うことは、この学生は常日頃から教授にねつ造したデ−タを見せていたか、教授が自分の研究室の論文草稿に全く目を通さずに(つまり全く手を加えないで)投稿したか、あるいは学生が教授に知らせないで投稿したかである。
状況が分からないからどれも推測の域を出ないが、人間せっぱ詰まれば、何でもありなんだなと思わざるを得ない。心しよう。
研究室新年の集まりと、胡丹の送別会を兼ねての食事会。大学から東に1ブロックの新洪記に出掛けた。手ごろな価格で美味しいので、3階建ての店は何時でも満員である。今日は個室を予約しておいた。6時から310号室。
王Pu、関(王さんの恋人)、王麗、馬敏(王麗の夫)、王毅楠、王暁東、鄭大勇、陳陽、陽暁艶、胡丹、秦盛蛍(胡丹夫人)、山形達也、山形貞子、楊方偉、宋明の15人。Kanさんは欠席。
勧君更尽一杯酒 西去陽関無故人 を口にしながら、胡丹にビ−ルを勧めた。これはこの店の地ビ−ルで大きなデキャンタ−に入っている。
勧君更尽一杯酒 西去陽関無故人 の4聯目を変えて
勧君更尽一杯酒 東去瀋陽只有彼 にした。意味はこの瀋陽を東に去れば、知っている人は(頼りになるのは)只彼女だけである、ということになる。
胡 丹は10月3日に瀋陽を飛び立って日本に行く。彼女は一緒には行かれない。胡丹は彼女が出来るだけ早く日本に行けるようにしたいと思っているし、先方の東 大の山本先生も同じように二人が早く一緒になれるように心を砕いてくださると思うけれけれど、博士課程の入試が終わるまでは無理だろう。というわけで、胡 丹が留学で去ったあと半年近く彼女をうちの研究室で預かることにしよう。
彼女はこの夏、教師の会の仲間の池本千恵先生から毎週2回の日本 語の個人教授を受けた。忙しい池本先生にしては特例なことで、しかも授業料は若い収入のない二人の状況を考えて破格なものだった。そのお金で日本語の勉強 の本を買いなさい、と言われたそうだ。池本先生、ありがとう。
この日の食事は12皿、餃子4皿、飲み物5杯(190元)を入れて、608元。
なお、あとで分かったことだがKanさんは胡丹の送別会を知らなかったそうだ。日曜日から研究室の掲示板に書いて置いたし、知らなかったとは思わなかった。学生の間のコミュニケ−ションの悪さを知らされてショックである。
6月にJBCに送って断られた胡丹の論文の最終仕上げに一日中取り掛かっていた。あと実験がひとつ終わっていない。現在これは王麗が引き受けている。胡丹が出掛けるまでには論文を投稿することは出来ないが、形は出来たことになる。
このあとは大勇の論文を仕上げよう。apoptosisを証明する実験が残っているだけだ。
薬科大学の先生から聞いた話だが、ある日本人が彼のところに話を持ってきたという、「博士を取りたい人がいるので、その人の名前を一番最初にした論文を書いてくれないか」。
こ の先生は毎年20報くらいの論文を書いているという日本でも信じられないくらい活動的な先生である。きっとこんなに沢山の論文を出しているのだから、ひと つくらい論文のトップに名前を入れることくらいやって出来るだろうというので目をつけられたのだろう。「この話は取引である。論文に名前を入れてくれたら 300万円だそう。そして毎年百万ずつだそう。」と言う提案だったそうだ。
研究費がないのはこの先生も私と同じで、研究費の工面には大変 苦労している。研究費は幾らでも欲しい。しかし、ここの学生に研究すると言うことはどういうことであるかを身を張って教えているのに、「お前の論文をほか の人の名前で発表する」なんて言えるわけ無いじゃないかと言って、断ったという。昔ドイツで論文作成を代行して博士が取れるという話があったが、それと同 じである。
先週、生命科学基地クラスの4年生の徐蘇さんが大学院で私たちの研究室の修士に来たいといってきてOKした。今週は、曹亭(女 偏)さんが同じく修士を希望してきた。彼等は選抜試験なしで2年間の修士課程にはいることが出来る。他の人は3年間だけれど最初の1年は講義に明け暮れ る。基地クラスにはこれがない。卒業研究をしないのが問題だけれど、2009年夏に卒業というはこちらの予定とぴったりなので、歓迎である。
二人とも女子学生で、妻は男子の方が良いのに、と言う。男女で差別しちゃいけないんじゃないと私。しかし、妻に言わせると私は女子学生にはたちまちニコニコして歓迎してしまうと言う。ヤレヤレ。
日本語資料室は移転が迫られている。オ−ナ−が新しい移転先を見付けてくれていて、私たちはそれに乗って移転するつもりになっていたが、移転先の和平区政府は契約書をとりかわすというところまできて、その先が進まない。
資料室の内容は、今は瀋陽日本人教師の会のものであり、瀋陽日本人教師の会がこの契約を結ぶ主体である。中国政府はこの会を公認していない。聞いた話では中国政府が公認しているのは北京の日本人会だけで、じつは瀋陽日本人会も公認されていないという。
こ の公認されていない団体に部屋を貸すのはいかがなものかと、和平区政府の役人が考え込んでしまった可能性がある。ただでさえ始終両国の間ではきしみがある のに、地方政府が非公認団体に部屋を貸してしまうと、その責任者がいつか足を掬われることになるかも知れないと考えてしまう可能性は大である。
政府が公認しない団体と付き合うことが問題になる社会、じゃ、公認とは何なのか、色々と考えてしまう。
日本領事館に出張って貰う必要がありそうだ。日本政府も中国政府と対話を復活して両国の友好に努めて欲しいものだ。
朝早くラボには胡丹が来た。今日の全日空の飛行機で成田に向かう。東大の柏キャンパスにある創成科学研究科の山本一夫先生の研究室で博士課程に入る予定である。
山 本先生のご尽力で日本政府の奨学生となることが出来たので、日本の学業生活は安泰に保証されている。日本政府の奨学生ははじめの半年は研究生として過ごし 博士課程の入学試験を受けなくてはならない。これにパスしなければ博士課程には入れず奨学金も取り消されてしまう。彼は薬科大学の成績も良いし、英語も出 来るし、そして何よりも修士課程の時にそれなりの業績を挙げている(論文2報、投稿中1報)ので大丈夫だと確信している。
勿論それでも胡丹にしてみれば遠い異国の地に向かうわけで、この数日は緊張で何をしても上の空だった。9月28日の木曜日には研究室のプログレスリポ−トで最後の仕事のまとめを話したが、いつもの迫力がなかった。もう関心がないといってもいいのかも知れない。
明日からは、胡丹の奥さんである秦さんは一人瀋陽に残されてしまう。それで、私たちのラボで彼女の面倒を見る約束になっているので、胡丹の持っている研究室の鍵は彼女に渡すように言ってある。
しかし、忘れっぽい胡丹のことだ。聞くと鍵はズボンにキイチェインで付けている。今日空港に一緒に彼女と行っても別れ際に鍵を渡すのを忘れてしまうに違いな い。今置いて行きなさいよ、と言って鍵を受け取って、彼を送り出した。この次胡丹に会うのは日本でだろう。楽しみである。
ところで、10月1日の日曜日から中国は国慶節の1週間の休暇である。時期は良く、暑くも寒くもない。国中挙げて旅行シ−ズンである。大学の日本語の先生たちも皆それぞれに旅行である。私たちは何時も通り仕事で研究室に来ている。
こ の休暇に故郷に帰ったのは院生のうち二人だけである。昨日は昼時にラボにいた学生3人を連れて大学の招待所に出掛けた。ここは特に美味しいレストランでは ないが、大学の学生食堂よりはずっとましな味である。しかも高くない。5人で食べて何とたった40元だった。余り沢山食べ過ぎて午後は半分居眠り。ホント は休暇だからと心で言い訳をしていたけれど、こんな具合では、何もしないでこの1週間が過ぎてしまいそうである。
1日から始まった休暇の間私たちは毎日ラボに来て、何をすると言うこともなく時間だけが経って中秋節の6日 となった。この日は伝統的に家族が全部集まって誰も欠けていないという意味でそれを丸い満月を重ねて祝いをする日である。国慶節の休暇と重なるから中国中 で家族の元に集まる人たちが合計で4億人旅行したという。
その休暇の間に、うちが遠くても帰った人もいるけれど、遠くて帰れずに宿舎にい て毎日ラボに来ている「家なき子」が私たちのラボに数人いる。ここに残っていても恋人とデ−トしたり食事をしたりして楽しんでいる学生もいるので、恋人の いない「恋なき子」と「家なき子」を4人誘って、この日は食事に出掛けた。
この秋修士に入った陳陽、陽暁艶、修士2年になった王毅楠、そ して胡丹の新妻の秦さんの4人が、上記の「恋なき子」と「家なき子」に該当する。胡丹は10月3日に博士課程入学のために東京に向けて旅立ってしまって、 ひとり残されたのは新婚早々の秦さんである。この秦さんのことはこれから半年間は私たちの研究室で面倒を見ることにしているので、翌日から私たちのラボに 来たけれど、何かをするに付け胡丹を思い出すらしく、翌日は殆ど半泣き状態だった。一方で東京に行った胡丹は好奇心に充ち満ちて、かつ極楽トンボぶりを発 揮して新妻のことなど忘れてはしゃいでいるに違いないけれど。
大学正門から東に行って直ぐのレストラン老婆湯の食卓は丸テ−ブルなので、 この日にふさわしい。疑似家族が集まってひとつの火鍋(しゃぶしゃぶ)を一緒につついて、和気藹々と楽しんだことになる。日本語の分からない学生が二人、 分かる学生が二人(陳陽と王毅楠)。それで、日本語、英語、中国語チャンポンに飛び交った。
恥ずかしい話だが、私の中国語はもう絶望的である。今日この頃では、おぼえる端から忘れてしまう。昨日は王麗に「先生の中国語は皆3声だよ」と言われてしまった。「月餅を一緒に食べましょう」と一生懸命誘っているのに。それで、益々落ち込むという次第。
8日の日曜日はまだ国慶節休暇の続きだが、陽暁艶がコンピュ−タを使って遺伝子のSiRNAを設計するには どうしたらよいかを教えて欲しいというので、ラボに出掛けた。今まで研究室の人たちに私はやり方を何時でも教えると言っていたけれど、実際に教わりたいと 言ってきたのは彼女が最初である。ここではSiRNAの配列を決めたり、PCRの時のprimer配列を選ぶのは全部私の仕事となっている。
先 ず目的のタンパク質と遺伝子を調べて、それが単一タンパク質なのか、あるいはサブユニット(別の遺伝子から作られる)から出来ているのかを知らなくてはい けない。遺伝子の配列も、主として使うのはNCBIデ−タベ−スだが、ここの配列が正しいという保証もないので別のデ−タベ−スEnsemblも使う。両 者の一致した配列を使うと言うことになる。
両方でmRNA(cDNA)の配列を調べて、これらをBlastのtoolで一致しているかどうかを調べる。両者で一致している配列なら信頼して良いだろう。
mRNA はintron部分が除かれてexonが繋がっているが、別の exonを繋いで構造の違ったmRNAが出来る機構がある。alternative splicingと呼ばれるこの機構で同一の遺伝子から数多くのタンパク質が作られる。と言うことは、alternative splicingでcDNA のvariantsが出来ていると言う記載があるかどうかを注意深く確認しなくてはならない。
そのためにはUniProtと言うタンパク質デ−タベ−ス盛りようする。同時に、タンパク質の性質が詳しく記載されていて大いに役立つ。
Variantsがあるときにはvariants全部で共通の配列を選んで、全てが一度に検出できるようにするか、あるいは別々に調べたければ互いに入りこまないような配列のprimerを設計する。
Ensembl が役立つのは、exonとintron配列が載っていることである。Primerを選ぶとき、left primerとright primerは別々のexonに乗っていて間にintronをはさむ必要がある。これは試料にDNAが混入しているときに、混入DNAから増幅している場 合には、mNRA由来のcDNAから増幅した場合に比べてずっと大きなDNAが出来るから、調べたいmRNAから増幅したかどうかが直ぐに分かるからであ る。
さらに、SiRNAのタ-ゲット配列がこのleft primerとright primerの間に入っている必要がある。そうでないと、SiRNAが効いて発現を抑えたかどうかが分からない。
と 言うようにあちこちをあたりながら調べるので、primerを設計したりSiRNAの配列を選んだりするのに2-3時間掛かるのは普通である。ここは internetの接続が遅いから半日かかって一つがやっと言うときもある。今日はPDGFbを対象に調べて3時間で終わった。暁艶の宿題は、このさき PDGFaを自分で調べてみて、習ったやりかたを確実に覚えることである。だから自分でやった上でそれを今度は陳陽に教えるように言っておいた。
9日の月曜日は、朝6時から夜の7時まで停電と予告されていた。大学のほか直ぐ隣りにあるのでうちのアパ− トも停電の対象に含まれている。1週間の休暇中怠け癖が付いて朝起きるのが遅くなっていたのを頑張って朝の5時半に起きた。シャワ−を浴びて支度したとこ ろで6時。「まだ消えないね。まだ工事の人が揃っていないのかも。みんな集まるときはいい加減なんだから」などと妻と話していたら明かりが消えた。言わな きゃ良かったとぼやきながら時計を見ると、6時3分過ぎだった。こう言うところは時間が正確である。
停電の困るのは同時に断水になることである。断水になるとトイレが使えなくなる。トイレの使えない建物にいたら悲惨である。それで、私たちは教師の会の日本語資料室のある開元ビルに行くつもりでいた。7月の停電の時にも、開元ビルに一日避難していたのだった。
こ の日は朝が早いのでうちにぐずぐずしていたら、何とまだ水が出る。水が出るならうちにいるよりもラボにいる方が何か仕事になる。と言うので、二人でラボに 出掛けた、5階までエレベ−タなしで階段をのぼる。でも、実は毎日私は階段を上がって運動しているのだ。そして誰もいない5階で教授室にたどり着いて窓の スクリ−ンをあげたら、結構明るい、そしてとても静かな快適な環境となって、半分昼寝をしながら月曜日を過ごしたのだった。
10日の火曜日。土曜日に休暇から戻ってきた王PUくんが私に「関さんと結婚しました」と言うので、私は大いにびっくりした。あとで同じく休暇の間休んでいた鄭大勇くんに「休みの間に、結婚した?」と訊いておどけて見せたくらいである。
な るほど、彼は休暇を取りたかったわけだ。と言うので、昨日買っておいた紅い(紅包と呼ばれている)封筒に千元を包んで結婚のお祝いに上げた。いえいえ、と 遠慮して手を出さないので、本当に結婚したの?と疑うように言ってひっこめる仕草をしたら、彼も慌てて手を出したのでめでたく手渡した次第である。
生 命科学基地クラスの女子学生が今日から2週間研究室実習だという。そんなこと言ったって2週間で何も出来るものではない。2週間彼等に恰好よく奉仕するの は犠牲が大きすぎる、と言うので、朝王麗に電話して、2週間のあいだ彼女の実験を見せて説明し、そして実際に細胞培養とRNAの抽出、そのPCRをやらせ られないだろうかと頼んだ。この二人の女子学生、徐蘇さんと曹亭(女偏)さんの二人は来年5月にはこの研究室の修士課程にはいるので、2週間の間の見学と いえどもちゃんとした実験の手技の基本を身につけさせたい。それには王麗から教わるのが一番である。彼女は器用で、気がよいのでつい私たちは彼女に色々と 頼み事をしてしまうが、王麗は本当に頼みになる。
彼女たちが実習に来るというのは土曜日の夕方、陽暁艶とまだ研究室で仕事をしている時 に、徐さんが訪ねてきて知った次第である。どうしようかと思い悩んで、そうだ、王麗に頼もうと言うことにしたのだ。それでも、急に話を聞かされた王麗には 悪いので、朝一番には彼女たちの面倒を私が見た。つまりPCで遺伝子情報を検索して、それに基づいてどうやってSiRNAやPCRのprimerを設計す るかを私が教えた。土曜日に暁艶に教えていたので、楽に教えることが出来たのである。
1時半には寧娜さんが来た。彼女は成績優秀で推薦さ れて北京の中国医科科学院薬物研究所の大学院に入ることが決まり、3月からの卒業研究もそこに行くので、それまで分子生物学の勉強をしたいので私たちの研 究室で実験を指導して欲しいというのである。ちなみに胡丹は推薦入学者である。
普通ならすぐに断るところだが、彼女はここの日本語の峰村 先生の愛弟子であり、私とも顔見知りである。おまけに4月の弁論大会で彼女はとても優れた印象を残した。そして決定的なのは、彼女が行く先の研究所の陳乃 宏老師は、かつて三菱生命科学研究所の東秀好さんのところのポスドクで、私と顔見知りである。東さんは私が研究所をやめるまでは私の研究室の研究員だった ので、陳乃宏老師とは浅からぬ縁がある。これは断るわけにはいかない。無理でも何とかしよう。と言ってもあと2週間は二人の女子学生の実習があるので、私 たちの研究室はスペ−スからいっても無理である。ちょっと待って貰おう。
10月11日水曜日
水曜日6時半からの研究室Progress Reportの出席者は:Kan、曹、陽方偉、暁東、秦盛宝、徐蘇、陳陽、王毅楠、王麗、暁艶、王Pu、鄭大勇、山形貞子、山形達也。
10 月中に王麗の博士課程の学生の中間審査会があるという突然の連絡通知が王麗宛にあったそうだ。昨年は8月に知らされて9月にあったのが、今年は一体あるの かな、そういえば、修士課程の中間審査は昨年胡丹の時には(学科始まって以来始めて)4月に行われたが、今年はなかった。
王麗は書類を作 成しなくてはならず。聞かれて何でも良いと返事をしておいた、タイトルは実際の時は変わっても良いから今は何でもいい。内容は、今得られていることを書い ておけばよい。但し、全て盛りだくさんに話をしないように、注意をしておいた。そんなことをしたら誰も分からないからである。
10月12日木曜日
貞子が日本に出掛けた。健康のcheckをしていてその結果を聴くためである。予定としては10月24日火曜日にもどるつもり。
暁艶の実験で、友人から分けて貰ったoHAという物質が細胞のapoptosisを引き起こした。勿論現段階ではapoptosisかどうかは分からない が、この細胞を血清入りで飼うときには何の効果もなく、無血清培地にしたときに濃度依存的に細胞が死んだので、これは何かあるということになる。暁艶は、 始めたばかりでこのような現象にぶつかり、大変なlucky girlだ。
10月13日金曜日
貴志先生の明日ある講義のためのpptが講義室のPCで見られないという事態に、私たち総動員でお付き合いさせられてしまった。Macで作成したときに写真をQuick timeで入れてあり、PCがこれでは動かないのだ。PCにQuick timeを入れてもだめ。
そ れでPPTの中の写真を一度取り出してjpegに変えようとしたが、時間が掛かって大変。同じものがスライドで出来て持っているというので、駄目ならスラ イドプロジェクタでやればいいということになっていた。すると楊方偉が、写真のformat転換がそんなに大変なら、スライドプロジェクタで壁に映してデ ジカメで写してそれを改めて取り込んだら速いのではないかと言いだした。確かに早いけれど写真の質が落ちるに違いないと言ってみたけれど、ともかく確実に 作れる方法である。Format転換は時間が掛かってやりきれない。それで、暗室にスライドを持ち込んでデジカメでぱちぱち。何とこの方法でpptを作り 直すことが出来たのだ。楊方偉のお手柄である。
楊方偉といえば、彼はもうセミナーを1ヶ月聞いていると言い出したので、分からないからやめ たいと言うの かと思ったら、自分も入れて欲しい、自分も話したいと言うのです。びっくり 仰天。初めての申し出だ。2年前にNick Tanにも空きにJournalを紹介させたが自分からやりたいと言い出したのではなかった。凄い男だ。
10 月14日土曜日、定例会が開元ビルの日本語資料室で開かれた。この場所ではこれが最後。9月17日に9月中の引っ越しに備えて荷造りをしてしまったから、広い閲覧室はダンボ−ルだけ。会議室は新しいところには持って行けないために解体されずに残っている大きな机と、椅子があるだけである。
出席:池本、安部、中野、若松、森林、中田(知)、宇野、峰村、渡辺(京)、坂本、南本(卓)、南本(み)、松下、中田(時 新人)、加藤(正)、加藤(文)、河面、中村、野崎、藤平、田中、佐藤、金丸、岡沢、山形(達)
欠席:山形(貞)、辻岡、片山、林(輿)、林(八)、石原、渡辺(文)、鳴海
一番大きな関心は資料室が、何処に引っ越せるかである。引っ越しの期限は10月末までと切られている。引っ越し先予定地の和平区政府の孵化器延町と局長宛に、10月9日休暇明けの在瀋陽日本総領事館からの公文書が届けられている。これは伊藤忠商事の高木さんと馮さん、日本総領事館の森領事のご尽力によるも のである。
この書簡を先方に届けるのに立ち会った南本会長によると、先方はこのような総領事館によるお墨付きを手に入れたがっていて、これで安心だと思ったようだという。しかし、ともかく先方から受け入れOKという返事があるまで、何も決まったことにはならない。
もし10月中にOK の返事がなかったらどうしよう。考えたくもないことだし、実は考えてもどうしようもないのである。その時は領事館に泣きつこう。
前回の定例会の時会員のうち8名が瀋陽日本人会に加入申請をした。今日の定例会では更に6名の加入希望者があったので会費を預かった。今月の瀋陽日本人会の幹事会に持っていって手続きをお願いしよう。これで殆どの先生は日本人会に加入したことになるのではないだろうか。
東北育才学校に中田時雄さんという新人が到着。とてもおしゃべりな先生である。
3時には話が終わって各係の会合に移り、4時には東北大学の近くの羅香魚館に行った。18名が入れる部屋がなく、二つに分かれて宴会。メニュ−から料理を選んだのは、森林、池本の両先生。とても良い選定だった。一人43元。終わったのが7時。
次回は11月11日土曜日、勿論和平区孵化器ビルの予定なのだが。
10月14日土曜日
Journal Clubは、山形と王毅楠。私が紹介用に選んだPallerの今年のJ.Investigative Dermatologyに載った論文は、ここにいる人なら誰でも直ぐ理解できる内容で、しかもtechniques とtechnical termsは今の新人が皆馴染みにならなくてはならないものなので、今の時期にやって良かったと思う。王毅楠はCaveolin-1のalphaと betaをRPAで検出して、それぞれにmRNAがあることを示した論文。
セミナの終わったあと、前の国際交流所長である李募春の姪ごさ んの李翠芳さんが来た。彼女は成績優秀で推薦で崔先生の研究室に入ったそうだが、生物薬学も勉強したいので、ここの土曜日のセミナに出席したいと言うこと だ。方偉から色々の情報を得ているみたい。頑張ってやる気ならいらっしゃいという返事になった。
寧娜さん(彼女も推薦)も10月から2月までここに出入りしたいと言っているので人数が急に増えることになった。ま、役立つならいいことだ。
貴志老師が来て今日の4時間の講義はうまく行ったと言うことだった。18人出ていたそうなので、結構評判がいいということだ。それにしても何しろ昨日は準備で大騒ぎだったので、まあ良かった。
朝、陳陽に彼等は夕食を貴志老師にご馳走になったということで良かったと思っていた。彼等を食事に連れて行くための算段を貴志老師に話さなくてはと思っていたが、彼等はいつの間にか消えてしまっていたのだった。
今日貴志老師に聞くと、学生食堂に連れて行って彼等の夕食を払ったと言うことだ。何だ、学生食堂でご馳走しただけか。学生に夕食をご馳走してくださってとお礼を言って損しちゃった。ま、関西人と東京人の違いかも知れない。
午後は日本人教師会の定例会に参加。
10月15日日曜日
朝 7時からいつものようにラボにきた。8時頃貴志先生が方偉の連絡したけれど電話が通じないという。講義にいる試料を彼に運ばせたいのだという。調べてみ て、彼は瀋陽に自宅に何時のを見付けて、来て貰った。それにしても貴志老師は人使いが荒い。方偉は自分で北大に留学したいと直接に連絡をして、途中、貴志 老師に少し助けて貰ったのだが、それ以来、老師は自分の昔からの忠実な弟子扱いでこき使っているのだ。
教師会の日本語クラブという雑誌の24号が今日締め切りである。来月の定例会の時の発行されるから、この時期に締め切りがある。中道編集長を継いで、今は加藤編集長が鬼の二代目編集長だ。というわけで、今日原稿を書いている。題してレ−スのパンティ。
昼 は陳陽、陽暁艶と一緒にテレビ局の先にある(バスで一駅先)蘇氏拉麺に行った。涙が出るほど美味しかった。3人前でシシカバブ、大餅も入れて24元。それ にしても私の食べる速度に比べて彼等学生の何と遅いこと。あれではきっとまずくなってしまうと思うけれど、それでも暁艶は故郷の味だといって嬉しそうに食 べている。
貴志先生は最初に瀋陽薬科大学を訪れたのが1980年というから、もう伝説上の人物だ。武田薬品の研究所長 を退職してからは、毎年秋には薬科大学を訪れて約2ヶ月滞在して、学部学生には『有機化合物命名法』とか『薬学分子生物学日中英用語解説』などの基礎的に 大事な授業をして、それ以外に毎年新しい話題を用意して大学院向けの講演をしておられる。一昨年は『腫瘍』、昨年は『AIDS』、今年は『心臓疾患と治療 法』だった。
貴志先生は敬虔なクリスチャンで日本の長老教会の文字通り長老だそうだ。クリスチャンのくせに魚釣りという殺生が趣味で、そ のことをからかうと、キリスト教は漁師で始まったのだという。キリスト教では自分たちの教徒以外は人ではないし、まして魚などの殺生は気になることでもな いのだろう。
貴志先生の魚釣りは、海釣り、池釣りを問わず大好きで、ここに滞在中も始終授業の合間に釣り堀に行ったり、大連の海釣りに出 掛ける。昨日も釣り堀で5.5kgの釣果があったそうで、それを今日はこの大学の日本人の先生たちにご馳走するという。どういうことかというと、大学の招 待所の食堂にその魚を持っていって料理を頼み、他にも料理を頼んで一緒に食べようという仕掛けだ。今日の昼にその食事会をするというので、他のメニュ−を 選びに朝電話で呼ばれて出掛けた。私一人ではメニュ−選びが心許ないので、丁度8時前に現れた暁艶を連れて一緒に行った。
私はここに来て 東北地方名物のすいとん料理が気に入ったが、その名前がちっとも暁艶に通じない。顔のニキビのことだと言っても分かって貰えない。すいとんが細かくて人の ニキビみたいな大きさだからか、ニキビ湯という名前が付いている。中国語でニキビと言って貰っても、私の聞き覚えでうろ覚えの名前はない。彼女が東北と遠 く離れた新疆の出身だからだろうか。
メニュ−を見ると、三鮮ガ−ダ−湯というのが見つかった。そうだ、これだ。というと、暁艶もああガ− ダ−という。これはこの東北地方の家庭料理で、ス−プに小麦粉を溶いたものを入れていくところはすいとんだが、恐らく少しずつ、大きな塊にならないように 丁寧に入れていくのだろう。うちの父さんがこれを作ります、と何時か一緒に食事をした学生が言っていたっけ。
あとで訊いたら、ニキビは青春豆というそうだ。ガ−ダ−というのはかなり特殊な言い方らしい。さ、今日の昼は、魚3皿と、他の肉や野菜の7皿の他に、主食のニキビのすいとんが待っている。
18日の昼は、貴志先生のつり上げた魚料理がメインで、集まった日本語教師の面々は驚いたことに今日はビ− ルなしの昼食である。へえ、ビ−ルなしでも食事が出来るんだと新しい発見をしたくらい、何時もこの先生たちは飲んでいる。といっても、瀋陽産の普通の雪花 ビ−ルはアルコ−ル度4%だから、水みたいなものだし、水よりも安いとも云える。
3kgある草魚は、四川省名物の水煮魚で調理されてい た。水煮という名前だけれど、使うのは水ではなく油である。洗面器の大きさの洗面気風うつわに真っ赤な唐辛子と切り身にした魚の肉が油の中に入っている。 といって、油で揚げた風でもない。一度蒸してから油の中に入れるのだろうか。唐辛子は水よりも油でその辛みが抽出されるから、理に適っている。従業員が 持ってきて中身を見せると、その後横の机においてこの唐辛子を先にすくい取ってくれる。大きな更に山盛りの唐辛子で、日本で買ったら高いだろうなとつい 思ってしまうくらいの量だ。いつもの水煮魚と違って、魚が大きくしかも全部入っていたのか、今日のは豪華版だった。下の方にもやしが入っているのが普通だ けれど、そしてそのもやしが美味しくて私の大好物なのだが、あまりに沢山の魚に邪魔(?)されて、今日はもやしまで行き着かなかった。
松 笠魚と呼ばれている魚は、魚の身を巧みに切ってあとで毟りやすくした上で油で揚げ、甘いトマト味で絡めてある。川魚なのに骨が巧みに除いてあって、邪魔に ならず食べやすく、しかも何よりも味が良くて最高だった。もう一匹の魚は清蒸紅醤風に料理してあった。蒸して醤油味の汁に入っている。ちょっと泥臭くっ て、これはショウガをもっときかせて作った方が良かっただろう。
このほかの料理7点、先ず安くて美味しくて取り合わせが良いという観点か ら暁艶の助けを借りて私が選んだのだが、結構評判が良かった。貴志先生がこのレストランに魚の料理代として払ったお金(と、魚の釣り堀に払った分)は除い て、74元、貴志老師とその学生別にして一人10元ずつ集めた。美味しかった昼食で、午後はひたすら眠く、睡魔と戦いならが大勇の論文を書いていた。
夜は研究室のプログレスなので何時もはたいていここで軽く夕食を食べる。しかし夕方になっても未だお腹が空かないので、食堂煮出掛ける暁艶にりんごを買ってきてと頼んだ。彼女は3つ買っててきてくれた。
一つを洗って皮をむいていると、陳楊が部屋に入ってきて、『先生、おいしそう。半分分けてください。』という。私は晩ご飯のつもりだったので1個を食べるつもりだ。『冷蔵庫に入っているから出しなさいよ。一つあげるから。』
ハイと言った陳陽はりんごを洗ってからまた私のところに来て、先生、これ剥いてという。こっちは自分のを剥いている最中だ。『あとでナイフを貸すから、自分で剥きなさい。』『イエ、駄目です、剥けません。剥いてください。』冗談じゃない。
駄目、だめ、ダメ!!!
とうとう仕方なく。陳陽は自分でりんごを剥き始めた。一度もりんごを剥いたことのない男である。左手でりんごを握って、右手のナイフで皮を削いでいる。ゴボウを削ぐみたいなやり方である。危なくて、見ていられない、でも、この際やらせなくてはいけない。
やっと剥いたらりんごを陳陽は半分にして『先生、もっと食べない?ぼくは半分でいいんです。』『???』『食事をしてきたし、これデザ−トです。』『???』
というわけで彼の半分を貰って食べ始めたら、陳陽は、『それ、置いとかなくっちゃ。私が初めて剥いたりんごです。食べてしまうと証拠が残らない。。。』
10月10日火曜日から、生物科学基地クラスの女子学生二人を私たちの研究室で、実習と言うことで受け入れ ている。彼女たち大学院入試がなく6年間の一貫教育で修士卒業までが一セットになっている。もうひとつある理科基地クラスは8年の一貫教育で、これは博士 卒までが一セットになっている。入試がないだけに中での選別がきびしく、でるときには半分近くに減っているという。
彼らの教育の中で、2週間の研究室実習があるというのも一つの売りであるらしいが、此方の方はそんなことを聞いたことも通知されたこともない。
ともかく、彼らは先週から2週間の実習と言うことで来ている。歩日の月曜日はこの建物が一日停電だったから、貴重な一日がフイになっている。2週間という短い期間で実験を教えることは出来ないから、誰かの傍で付いてみていることになる。この誰かを王麗に頼んだ。
今 週の火曜日、17日になって、大学から『学生を送るからよろしく頼む。このプログラムの内容はこれこれ、こうこう。19日には報告書を書かせてそれに評価 を書き入れて出しなさい』という書類が来た。書類の日付は10月9日になっている。何と8日経って、もう役に立たない頃、しかし間に合って届いたわけだ。 ま、あと3日あるから、学生をきちんと見て評価に何と書くか考えればよい。
水曜日18日の夜、研究室のセミナが終わった夜8時になって、この学生二人が私に話があるという。訊くと、何をいっているのかよく訳が分からない、急に試験をするのだって?
落ち着かせて、というか此方が落ち着いて再度訊くと、何と翌日の19日にこの二人に面接試験をしろと言うことなのだ。この二人は修士課程で私の部屋に来ることを希望している。基地クラスだから試験はないということだった。此方が良いと言えばそれでいいという話だった。
と ころが、公式の試験をするのだという。話では面接に立ち会うのは教授3名。貞子が今日本に行っているから他に二人の教授を至急捜さなくてはならない。しか も今日の明日である。大学がこの試験の詳細を書いた書類を見せて貰った。発行の日付は10月18日だ。今日だ。そして、その中に明日試験をしろと書いてあ る。なんということだ。一緒に、二人分の解答用紙もすでに届いている。つまり、この先この解答用紙は保存すると言うことだ。真面目な試験なのだ。
試験は、先ず1.彼らが明快に漢文を読み話すことが出来るか。
2.専門知識を面接で訊け。一人20分。配点40
3.専門英語。500語くらいの英文の翻訳(中文への)と、そのabstract作成。配点40
4.実験操作について英語で口頭試問。実験操作が5点、口語英語が5点で、配点20
以上、100点満点のうち60点以上が合格で大学院に進学出来ると書いてある。学生もびっくりだが、此方もびっくり。19日は忙しい日になる。
前 から世話になっている生化学教室の老張こと張景海教授(区別するために私は老張老師と呼んでいる)のところの小張老師は、この大学で修士課程を終えて、韓国に 行って2年間博士課程で虫の免疫を研究し、ここに戻ってから今年博士を取った。そして直ぐに助教授になった。だから彼女には資格がある。生化学教室の老張 老師のところでも志望者2名の試験をしなくてはいけない。小張老師と話したところ、こういうことが分かったので、じゃ、一緒にやろうということになった。 此方の試験官は老張老師、小張老師と私の3名。そして志望者は4名である。英語の問題は小張が作ってくれることになった。此方は面接で聞くことを考えて おけばいい。
このようなことを水曜日夜から、木曜日の午前中まで、電話で、そして実際に会って綿密に打ち合わせた。
木曜 日2時には私の教授室で試験ということで、私たちのほかに、4人の学生が集まった。面接口頭試問と、英語の中訳だが、時間の節約のために英語の中訳を出し ておいて、学生を順番に面接しようということになった。うちの学生は私が英語で、そして老張老師の学生は彼が中国語で面接するということにしていた。
(続く)
面接の最初の学生がうちの徐さんだったので、私が英語で審査を始めるという運びとなった。
今年のノ−ベル医学部門受賞者は誰だか知っている?どんな内容だった?
RNAi(RNA interferrence)だったけれど、誰が受賞したか覚えていない。という答え。
いいよ受賞者の名前は。じゃ内容は? う−ん、mRNAの制御だけれど、といって徐さんは説明を始めたが、それはRNAiではなかった。うちの研究室ではsiRNAを日常的に使っているから、彼女が来て以来二回あった水曜日のセミナ-で当然耳にしているはずなのだが。
ま、いい。それじゃそうやって出来てくるタンパク質を見付けたり、量が多いか少ないかをしらべるにはどうするの?
RT-PCRでmRNAの量が分かりますし、タンパク質はWestern blottingで調べます。いいね、じゃ、Western blottingとはどういう内容なのか説明しなさいな。
というので、彼女はやったこともないことを一生懸命説明した。言葉につまるので始終此方は助け船を出して、言いたいことを言わせた。電気泳動をして、膜に移して、それをblockしてから一次抗体、二次抗体で反応させます。反応したことをどうやって検出する?
こ このあたりはかなり専門的になってくる。やったことのもないので、細かな内容を知らない。二次抗体にその存在を微量でも検出できる増幅装置が付いているの だ。それよりも、どうして一次抗体にこの装置を付けずに、二次抗体まで反応させるのかを答えさせたかった。これは知識と言うより考える力である。聞けば直 ぐに暗記してしうだろうけれど、こういう機会になぜだろうと考えて欲しい。
でも案の定、答えが出なかったので理由を教えた。何時までこういうことを覚えているだろうか?
Westernがでたので、それじゃ、Southern、Northernは?ということなる。Easternは、未だ使われていない。
このように色々のことを聞いているうちに30分が経った。
次 の隋さんは老張老師のところの学生で、彼が質問をするのかと思ったら、このまま私に続けてやれと言う、やれやれ。老張老師のところではサソリのタンパク質 で腫瘍を抑えるという仕事をしているから、じゃ、腫瘍がどうして発生するかという質問から始めよう。遺伝子の傷、変異から始まって、最後はそれを治すため の方法まで、彼女とは広い話をした。
三人目はうちの曹さん。RNAiが効いたかどうかを、試料のRNAを抽出してRT-PCRで調べるの が普通のやり方である。ここのところを質問して説明させた。primerをつかう。それじゃ、primerの大きさは?20nt。どうして20ntなの? それより短いといけないの?
短いとtarget以外のところ反応するようになります。長いと?長くても精度が下がります。いえ、違うよ、 それは。長い方が良いけれど、経済的な問題だし、必要ではないからさ。という具合に始まって、RT-PCRの操作の各ステップの意味を説明するのが彼女の 試験となった。
最後の韓さんは老長老師の学生で、ある遺伝子を狙ってその発現を抑える方法について質問した。三つ挙げてくれたが、どれも 思いつきとしてはいいけれど実際には使えない方法だった。でも、質問されてともかくこうしたらと考えたのだから立派である。それぞれなぜ使えないかを説明 しながら、正しい方向を思いつくよう誘導した。そしてその間に、彼女がどのくらい理解しているか分かるような質問を挟んで、30分を過ごした。
面接の間、全ての学生が英語が聞き取れるわけでもなく、英語を使って十分に話せるわけでもないので、書記を務めている小張老師がその時には中国語で説明役を買って出た。
これで、口頭試問で2時間余を過ごした。この間学生一人あたり1時間半を掛けて英語の翻訳と要約を作った。成績は小張がつける。
このあと、うちの学生一人づつ実験操作についての口頭試問である。王麗に書記になってもらい、一人20分づつ。
最後の全部のまとめは小張老師にお願いしたが、結果は全員合格点。
ともあれ、3時間近くこちらは英語で面接官を務めたので、学生も疲れただろうけれど、此方も大いに疲れたという次第。考えようによっては此方も英語の能力が試されたわけだ。
この大学の環境学科を育てるために北里大学から川西先生が徳田先生や窪田先生を率いてこの1週間来ておられ るし、貴志先生、坂本先生の滞在ももう終わりである。それでこの際、薬科大学の日本人の先生たちで一緒に集まって食事をしようと加藤先生が中心になって企 画された。しかし、彼らご一行様は大学の方の接待にでることになったし、池島先生も環境の先生たちと付き合うというので欠席。
それで夕食 会は、水曜日の貴志先生の魚を囲む会と変わらない顔触れだった。貴志、坂本、南本、みどり夫人、加藤、文子夫人、峰村、尚代夫人、そして私の9人。場所は 近くに出来たイスラム教のレストラン。例によってメニュ−選びをやることになって、その間に皆はさっさと飲み始めて、面倒くさくて端から沢山注文して、そ れでも結構美味しかった。一人42元。
お互い気心のよく知れた仲間なので話は弾んで、8時過ぎ、用事がある貴志先生の退席を機にお開きと なったが、南本先生が薬学部の日本語を学んでいる学生が1年生から3年生まで集まって、今夜は学生食堂の5階で歌と踊りの会を開いているという。遅いけれ どこれから行くけれど一緒にどうですか、と誘われて、一緒について行った。他に加藤先生夫妻も一緒。
食堂を半分片付けて広くしてホ−ルに してその周りを学生の椅子が沢山囲んでいる。上ではミラ−ボ−ルが周り、ストロボが発光していいム−ドである。そして180人という人数は結構圧巻であ る。これだけの学生がここで日本語勉強中で、南本、加藤、峰村先生峰村先生たちの学生なのだ。
私たちが学生の拍手で熱烈歓迎されたあと、 合唱があった。日本語の歌だ。ポップ調である。次いで女子学生6人による踊りがあった。ハンガリ−ラプソディからとったメロディに乗って強烈に踊りまく る。迫力満点。なにしろ二十歳くらいの充実した身体だ。まるでプロのようだ。私たちはホ−ルの一番前の席を譲って貰ったので、ほんと、かぶりつきで、ど迫 力。慌ててカメラを取り出して撮りだした。
こんな凄いのを見せて貰うだけで終わってはいけない。こちらも応えなくっちゃ。と言うので南本 先生に、答礼に『君といつまでも』を加藤さんにやって貰おう、と言っているうちに次の合唱の演し物が終わって、三人の司会が終わりだというので、慌ててこ れから先生たちが歌うから、と伝えて貰った。
そして私たち5人が加山雄三の『君といつまでも』を皆の前で歌ったのだ。最初に、私は山大爺ですと言って自己紹介した。
この歌の中の、ぼかあしあわせだなあ、と言うところは加藤夫妻と、次いで南本夫妻がやった。加藤さんは悪のりして、ぼくはふしあわせだなあ、君といると自由がないんだ、と付け加えて、学生の拍手を貰っていた。この学生たちはこのくらいのことはいとも容易に理解できるのだ。
あとで聞いたところでは、自称音痴で学生の前で日本語の歌を歌ったことのないという加藤先生に、学生が『せんせい、歌がとってもうまくなりましたね』と言ったそうで、加藤先生ご満悦である。この演し物をやってよかった。
あ の『君といつまでも』の唄、やはり難しく途中のさがるところで音程が分からなくなってしまったけれど、それでも『ぼかあ、気持ちよく』歌ってきた。これ で、こっちは知らないけれどこれからはこの大学の180人がぼくを見ると分かるということになってしまったに違いない。アハハ。
昨日の入試の疲れが尾を引いて今日は朝から元気がなかったが、夜になって疲れが吹っ飛んだ感じである。南本先生、誘ってくださってありがとう。
21日夜には松井菜穂子さんのソプラノリサイタルが遼寧大劇院で開かれた。
松 井菜穂子さんは東京音大出身のソプラノ歌手で、中国語の美しさに魅せられて中国が好きになったいう。昨年上海でコンサ−トを開いたそうだし、今度が中国2 回目のリサイタルだという。
中国語の勉強も本格的に始めて3年だそうで、舞台では中国語で挨拶、うたの解説、おしゃべりが展開した。隣りに座っていた中国 語に不自由しない峰村先生が大いに関しておられたから、結構なものだったらしい。
歌は、日本のサクラに始ま り、ロシア民謡、新疆民歌、モツアルトのモデット、ハレルヤ、そして最後はテノ−ルも加えてヴェルディの椿姫から二重唱、乾杯の歌、巴里を離れて、ああそ は彼の人か、で豪華絢爛に終わった。柔らかな叙情味のある良い声の人だった。瀋陽で初めて聞く本格的な音楽で、こちらは大いに感激だった。
300 人入るという小ホ−ルには、教師の会からも沢山の会員の姿が目立った。日本語を教わっている学生たちも詰めかけて満員のはずだったが、真ん中の良いところ に結構空きが目立った。市の文化局の主催なので、お偉方には券が渡され、しかし当日になって当たり前みたいに欠席したのだろう。勿体ない話だけれど、招待 席がある以上防げないかもしれない。薬科大学の学生でも180人の希望者に対して30枚の券しか回ってこなかったという。この次には大ホ−ルでやって欲し いものだ。
会場で在瀋陽日本国・阿部総領事の姿を見かけて、資料室の引っ越しに際して先方に公文書を書いて下さったお礼を申し述べることが出来た。しかし、移転については先方から色よい返事がなく、10月末には開元ビルの改修工事が全面的に始まるというのに、全く先が見えない。
3年前に研究室の開設と同時に買った複写機はリコ−製で、自動給紙が付いていない、速度が遅いなど言いたいことはあるけれど、こちらの払った値段でそれなりの機能を果たしているから文句を言ってはいけないと思っている。
9 月から10月に掛けて薬科大学に集中講義に来ておられる先生たちのコピ−も引き受けることがあり、その時にはA4四枚で一元という世間並みの値段を頂いて いる。外よりも安いと、外部の人がここを利用するために殺到するかも知れないので、それを防ぐために安くしていない。頂いた金は紙代よりもずっと多いけれ ど、研究室の研究費用に還元している。
このような事情で大量にコピ−があって、トナ−がなくなってしまったので、リコ−の代理店に電話を した。リコ−の代理店は何時電話をしても、30分以内に来てくれるという中国では信じられないサ−ビスの良さである。修理・調整の時はトナ−をまき散らさ ないように十分注意しているし、態度も良い。
今回来た人はいつもの人と違う人だった。それでも、何時も通りトナ−を新しく詰めるまでは良 かったけれど、コピ−をした紙の端の方に帯状の汚れが出るので、これを直すように頼んだら、ああだ、こうだと言いながら、パネルにある数字を色々と叩い て、そしてコピ−をしている。どうだ、これでいいだろう、と言ってみせるのを見ると、確かに汚れはないが全体にト−ンが薄くなっている。濃度を下げれば汚 れが出なくなるという道理である。
これでは誤魔化しである。こんなことで、こちらは誤魔化されないぞ。
そんな姑息なことではなく、ちゃんと汚れが出ないように直せよ、と私は言う。学生が端から中国語で言ってくれる。しかし、彼の態度は変わらない。また数字をあれこれいじってコピ−するだけである。
そしてとうとう、もう三年も経っている機械だ。これこれの部品を交換しなくては良くならないという。本当かどうか怪しいものだけれど、部品の名前を聞いて、280元を払って、なお、この人の名前も聞いておいた。
彼 が帰ったあと、学生に、そういうことなら会社に訊いて部品を交換してみようかと言った。しかし、学生は、先ずはいつもの人に来て貰いましょう。今日の様子 を電話しますという。だって、同じ人が来たら困るじゃない。と言うと、聞いておいた名前を言いますから大丈夫です、という。
実際に学生は同じリコ−の代理店に電話を入れてくれて、あとで訊くと、○さん(この日来た人の名字だけ)じゃないいつもの人を寄越して下さい、と言ったそうである。
翌 朝研究室に来たのは、何時も来る人だった。20分くらい機械をチェックして、そして汚れがもう出ない状態にしてくれた。いずれ部品交換が必要になるけれ ど、まだもう少しは持つでしょうと言うことだった。そして幾ら?と訊くと、トナ−交換に伴う通常のメンテナンスです、不要です、と言うことだった。
昨日来た人は、このいつもの人の先輩社員なのだそうである。だから私たちにも態度が横柄だったのだろう。こちらの要求にもごまかしで対応するという、言ってみれば中国的なものだった。
この二日間に、同じリコ−の社員の、一人はこのようないい加減な誤魔化しと無責任さ、一方で同じ社員のもう一人はしっかりとした責任ある技術と対応を見ただけでなく、学生のじつに強かな対応を見て、いや彼ら持たしたもんだと感心した次第である。。
日本語資料室の移転は、和平区政府所有の孵化器ビルへの移転の話が出ていて、8月28日に会いに行った和平区政府の朱招商局長は大歓迎といってくれた。しかし、ビルを管理する別の部門の局長に合って、先方の要求する書類も提出したが、水が漏れたとか何かの理由を言われて、なかなかOK がもらえない。
その局長が『日本人教師の会という非合法団体を入れて、自分は責任を取れない』ということらしく、認可してくれない。
教師の会の顧問役である森領事及び伊藤忠の高木さんの奔走で、『日本人教師の会というのは中国の瀋陽地区で日本語教育研究に携わる日本人の先生の任意の集まりで、特定の思想に染まらず、地域の発展と友好のために活動している団体である』という在瀋陽日本国・阿部総領事による公文書が10月9日に先方に届けら れたにもかかわらず事態は進展しない。
開元ビルの改装は11月から始まるので店子は10月末までにでなくてはならない。開元ビルのオ−ナ−はそれで私たちの引っ越し先を早めに手配して見付けておいてくださったのだが。
行く先の見通しが立たないので、ビルのオ−ナ−は2階の改装中のビルに倉庫を用意した。28日土曜日に日本語資料室の荷物を動かすようにという手配もしてく れた。南本先生が26日木曜日に現地を見に行ったところ、その倉庫も工事中で、やっている工事の人も、事務の人も30日までは終わらないという。工事中に 運び込むことは危険だし、工事中に運び込んだら、運んだ荷物がなくなることだってある。しかし30日にはもう事務の人たちはビルから撤収しているし、こち らだって授業がある。
南本先生、工事の人、事務の人、伊藤忠の高木さん、ビルの尚総経理の間に電話が飛び交い、ともかく29日の日曜日に荷物を動かすしかないと言うことになった。
一応28日という連絡が教師の会に廻ったが、29日という会場が大至急廻っている。29日に倉庫が落ち着いていて荷物が運び込めるといいのだが。
11月11日に予定されている教師の会の定例会は、森領事から総領事館を使って良いという申し出を頂いている。
10月29日の日曜日午後1時引っ越しというか荷物の移動開始ということで、私は峰村先生と一緒に12時半頃開元ビルに6階の資料室に着いた。日曜日の昼と言うことでバスは結構混んでいる。何と、私は席を譲られてしまった。今日は暑くも寒くもなく、働くには手頃な日である。
私たちが着いて5分後には南本卓郎・みどり先生に率いられた薬科大学の1年生、屈強なと言っていいほど大きな男の学生が9人。そしてかわいらしい3年生の女子学生が1名到着。
今の時期は、2年・4年生は12月3日の日語国際1級試験に備えて勉強中なのを邪魔できないから、1年生を連れてきたというのが南本先生の弁。だけど、日本語の学習を始めたばかりで、日本語が心許ないから通訳として3年生1人も連れてきたとのこと。
みどり先生によると、「『行きます』は教えたから分かります。でも『行きましょう』とか、『行って下さい』といってもまだ分からないんですよ」ということだった。実際、その通りだったけれど、働き出すと荷物を運ぶという明確な方針は伝わるから、彼らはじつによく働いた。
「学 生さんが頼もしいし、60才以上は遠慮しましょうか」と、私は言ってみたけれど、実際は6階から荷物を地階の倉庫に運ぶというのは若者9人くらいでは出来るわけない。最初に荷物を出してエレベ−タで下に運んだあとの彼らは、二つに分かれてエレベ−タで6階から地階まで運ぶ作業と、峰村先生に率いられて地階の倉庫に運び込む作業に従事し、私たち(つまりの応援の教師たち)は6階にいて資料室から荷物をエレベ−タまで運び出すという作業に没頭した。
私たちというのは加藤先生も含めて薬科大学の5人、医科大学の渡辺京子先生、東北育才の若松先生、ワ−ク語学学校の池本先生などである。少しして、東北大学の石井みどり先生、岡沢先生も参加。瀋陽師範大学の金丸先生も終わる前には間に合った。
地階の倉庫は1室を借りることが出来て、峰村先生は最初は全部の荷物は入りきらないと思ったらしいが、そこは差配よろしく、全部が収まって感激だった。終わったのが2時45分。この1年生の実力は全く大したものだ。本当にありがとう。そして、今日資料室に駆けつけてくれた先生たち、本当にありがとうお疲 れさまでした。
若松先生はこのあと元気に二胡を下げて、三好街近くのレッスン場目指して歩いて行った。大したものだ。私はうちに帰ってうとうとしてしまったのに。
王麗はいま博士課程の2年生である。瀋陽薬科大学の修士課程は3年間だが、博士課程に進学するときに限り修士2年を終わったところで博士課程に入れる。但し修士号は持っていないままだ。
王麗は胡丹と同級生だが、博士課程進学を選び、胡丹は修士号取得を選んで3年を終えて、修士号を持ってこの秋日本の博士課程にはいるために日本に向かった。
昨 年博士課程の2年だった王Puは9月に博士課程の中間審査があった。審査員の前で15分の報告を行い、このあと2年で卒業できるか、研究期間を延ばせば卒 業できるか、あるいは望みがないかが判断される。この中間審査は初めて行われたものだった。その4月には胡丹も修士課程2年で中間審査を受けた。この修士 課程2年の中間審査も初めての試みであった。
今年は大勇が修士課程の中間審査の予定だったけれど中間審査会がなかった。何の連絡もなかった。朝令暮改の現代版だろう。だから、博士課程の中間審査も新年度になっても全く連絡がなかったので、去年あっただけでなくなったのだろうか、と私たちは話していた。
ところが目出度くも畏くも、10月11日になって、彼女に10月中に博士の中間審査会がありますよという連絡があったそうだ。当然の話だし、結構な話だ。
昨 年で見当が付いているから、王麗は王Puに確かめて、こんな具合かなと言いつつPowerPointを使って発表の用意を始めた。発表の用意が出来て、そ して一方では審査書式が廻ってきて、色々と書き込むところがある。指導教官の私も、この研究の将来性という項目で結構な量を書かされた。王麗は本研究の背 景、やったこと、この先の見通しなど書きまくっている。
月末が近づいても何時が発表かなかなか分からない。26日(木曜日)になってやっと発表は金曜か土曜日だという。
金曜日はとうとう何の連絡もなく、土曜日になって発表は月曜日です。だけど、口頭発表が良いですか、それとも小論文が良いですか、という質問と一緒だった。
一 体何のためにPowerPointを使って発表の用意をしたんだ。口頭発表ですよ、と返事をした。すると先生は出席しますか、という質問が来た。驚いたけ れど、そうか、昨年のつもりで私は出席するのが当然と思っていたけれど、別の審査員の構成もあるのかと思って、訊いたら、審査員は私がでるつもりなら私を 入れて他に二人で、その場合には老張老師と小張老師が審査員になるでしょうということだ。生化学の最小の単位であり、よく知っている内輪の面子といって良 い。こんな面子で審査をやって良いのだろうか。
ともかく、10月30日の月曜日、会場に集まったのは発表する当人の王麗、そして私、老張と小張。
王麗にはあらかじめ言っておいたから、彼女は中国語で早口で発表している。15分。質問は老張から一つ。SiRNAでシアル酸転移酵素を抑えてGD1aが下がったのは分かるが、GM1aがどうして上がったのか、という質問だけ。
小張はせっせと書類に審査結果を書き込み、私たちがサインをして、これで審査は良いのか、彼女が来年博士課程3年をやっても大丈夫だということになったのかと訊いたら、OKという返事だった。
はたと気付いたのだが、私が小論文で良いという返事をしたら,きっとそのまま審査したことになって、そしてそれでもやはりこのような立派な書式の審査結果報告が出来たのではないだろうか。私が気付かないために、老張老師の忙しい時間を潰させてしまったのではないか?
だって、このコ−スで博士課程2年生は王麗だけではないのだ。他にももっといたはずだ。しかし審査会は王麗一人だけ。とうことは、他の人たちは書類ですませてしまったに違いない。頭が回らなくて、なんだか老張老師に悪いことをしたみたいだ。
科学研究には金がかかる。大昔のよき時代の大学では講座あたりの研究費が国から提供されていた。大学運営の ためにお事務経費が潤沢でなければ、この研究費から廻すしかない。私が東工大に行った頃は、この中央経費や電気代などのユ−ティリティでこの講座研究費は 消えてしまって、手元に来る金はほとんどなかった。
研究費は科研費などの競争的研究費に頼るしかない。競争的というのは、それぞれが自分 の研究の目的、意義や予想される成果を書いて申請し、誰かがそれを審査して研究費を与える制度である。研究費を審査して与える期間が多数あると、良いと認 められる研究には膨大な研究費がつくし、下手をすると全く研究費が貰えない。競争的研究資金とは良く言ったものである。他人はいつでも競争相手なのだ。限 られた資金で研究を進めるとなると、勢い研究の経済効率に目が向く。無駄を省き、同じ研究費で効率的な研究を進めようとする。良いことである。
但し良いことばかりではない。研究室のボスは何時も研究費獲得という使命を忘れることはないから、何時もストレスにさらされていることになる。私が東工大に在職中に急性膵炎になったのも、それ以外の原因は考えられない。
さて、瀋陽薬科大学に来て直面したのは研究費の問題である。大学は研究室開設に伴う初期費用をまかなうための研究費を用意してくれた。大いに助かったけれど、ミリポア純水製造装置、炭酸ガス細胞培養装置、クリ−ンベンチなど必要なものを買っているうちになくなった。
毎年の研究費も、一つは定年を過ぎているという理由で、二つめは外国人教官という理由で中国では申請できない。唯一の方法はこの大学の教授と組んで研究費を 申請することだが、二年続けて申請が通らず、とうとう3年目からは申請に外されてしまった。とうわけで、何もないので大学は毎年5万元(今のレ−トで約 70万円)の研究費を渡してくれるが、これ以外は自分で研究費を算段するしかない。
薬科大学で貰う私の給料は、そういうわけで研究費に直 行である。さらに、私と妻の日本の年金は、中国で暮らしているので日本-中国の航空運賃を払う以外には本質的には手を付けなくて良いので、それも使う。こ の3年はそれでやってきたけれど、4年目が始まって業者に払う金が今までに比べて格段増えたので、計算してみる。この具合で研究経費が増え続けると、1年 後に私たちは破産してしまう。
というわけで、皆にコストパ−フォマンスに目覚めて貰う必要が生じた。東工大のころは院生一人一人に自分の 研究テ−マと必要経費を書かせて皆でそれを審議、討議し承認すると言うことを毎年はじめにやっていた。これは自分の研究に責任を持つという意味で必要な社 会教育である。大学院の初学年で始めても早すぎないというのが私の考えだった。
ここではそのような社会環境が整っていないので、学生には 研究計画も予算も自分でたてることはやらせていなかった。しかし、このように研究費が膨らむと、自分たちがどのくらい金を使っているか、そしてそれが有効 かを何時も考えさせなくてはならない。無意味な実験や、失敗の実験、後始末をすることなく放置してしまった実験がいかに無駄使いになっているかを認識させ よう。
ということで、11月1日の夜には皆に集まって貰って、コストパ−フォマンスを意識することの必要性を説いた。そしてそれを日常的 に感じさせるために、自分たちの実験を毎日振り返って、細胞用に10センチディッシュを何枚使ったから幾ら、培地何cc使ったから幾ら、電気泳動1枚した から1元、それを膜にブロットしたので10元、抗体染色を、しかもECLを使ったので1回30元というように、ノ−トに付けさせることにした。こうすれば 自分の実験が最終的に論文になるまでに幾ら掛かるか、そして如何に少ない費用で研究を進められるかを考えるようになるだろう。
実験を減ら せというのではなく、実験の無駄を減らすのが目的だと言って話したが、何処まで分かって貰えただろうか。実際今まで色々の実験をやりながら、まだ何の答え も道筋を見付けられない人もいる。ある試薬を細胞に与えれば、それがある反応を促進するか、抑えるか、あるいは全く関係ないかである。何度やっても、その どれであるかが分からないというのでは、幾ら研究費があっても足りるわけがない。
来週から妻が治療を受けるために日本に行って入院するこ とになっている。1-2ヶ月か、あるいは3ヶ月か、始めてみないと分からない。今の段階では少なくとも今学期一杯は休むと思われると皆に話した。誰もが深 刻な表情で聞いていたから、このようなコストパ−フォマンスを意識しなさいと言うある意味では危機感を植え付けるのは、時宜に適っていると言えよう。
瀋陽日本人会という瀋陽在住の日本人が作っている組織がある。法人で約70社、個人会員300名くらいが登録されているという。領事館に登録している日本人だけで3万人、短期出張を入れれば5万人を超えるだろうと言われている大連には遠く及ばないが、人数が少ないだけにまとまりが良いかもしれない。
この日本人会の大きな行事は瀋陽日本語弁論大会で、最終選考会は毎年4月にホテルの大きな会場を借りて開かれる。今年で10回を数えた。日本人会のもう一つの大きな行事が12月に開かれるクリスマス会である。これは会員、その家族も含めて集まって食事をしながら楽しむという会だから、会員にとっては弁論大会よりも恐らく大きな意味のある会だろう。
11月はじめには日本人会の幹事会で幹事会社から1名ずつ出てクリスマス会実行委員会を作って準備を始める。日本人教師の会にも毎年3名くらい出てくださいと言われている。
2003 年9月に私たちが教師の会の集まりに初めて出たとき、色々の役を決める時に私の妻がクリスマス会の委員に手を挙げたら、中道恵津先生から「実行委員には若い女性になって欲しいと言われていますので、それなりの方でないと」といって断られてしまった。妻はそれでひどく落ち込んだし、わたしもそれ以来、このこ とを「根に持って」いる、というと大袈裟すぎるが、誰が教師会の実行委員になるか関心がある。
結局その時は誰もなり手がなく、11月になって会の代表があれこれと相談して、その時70歳代の女の先生と60代前半の男の先生を選んでいたっけ。
昨年は事前に実行委員を決めていなかったので11月始めに直ぐ委員を出すように言われて、その時の副代表の南本先生がやむなく実行委員になった。相変わらず、若い女性からはほど遠かった。
今年は9月の定例会の時に、この委員も決めて置こうと私は主張したけれど、正直いって誰が希望するか皆目見当が付かなかった。私は「実行委員には若い女性になって欲しいと言われていますけど、」なんて余計なことは言わなかった。
幸い直ぐに手が上がって、森林先生が私がやりましょう。同じく東北育才学校の若松先生も、じゃ、私もと続いて志願してくださった。男の石原先生も(あとで東北育才学校の若い山田先生に代わった)手を挙げて、これで3人。若い女性を中心に、実行委員が決まったのだ。
10 月末に日本人会事務局から教師の会に実行委員を3人出して欲しいという依頼があった。私は直ぐに3人の名前と連絡先を書いて送った。入れ替わりに実行委員 会で中心になる幹事会社の人から、「それぞれの会社から出てくる実行委員は男ばかりなので、教師会は是非妙齢の女性を3人選んで欲しい」というmailが あった。
何だか、セクハラ気味の発言じゃないかと思わないでもないが、「教師の会からの実行委員はすでに決めていたので、後の祭りですね」と書いて返事を送った。実は言うまでもなくこちらから参加する先生たちは、選りすぐりの若い妙齢の先生たちなのである。
12月10日のクリスマス会に向けて、実行委員会の初会合は明日開かれるが、教師の会から参加した先生たちを見てきっと他の委員たちは心豊かにクリスマス会の準備を進めることが出来るに違いない。
3人の先生たち、お疲れさま、ありがとうございます。
日 本語クラブ24号は、前年度までの中道恵津編集長に代わって加藤正宏新編集長の下で発行される2006年度の第1号で、発行日は11月11日の予定であ る。順調なら日本語資料室にある機器を使って発行されるわけだが、日本語資料室が閉鎖されて資料・機器はすべて倉庫の中という状況では印刷ができない。
というわけで11月4日土曜日の午後、薬科大学の私たちの教授室を提供した。何度か書いているように、私たちの教授室は60平方米あって、コンピュータは Windowsが3台、Macが3台あり、レーザープリンタ、スキャナプリンタ複合機、コピー機などもそろっている。土曜日午前中のセミナが終わった後な らば編集作業で何時間占領してもかまわない。
ちょうど午後1時になって「お邪魔します」と、加藤、池本、山 田、佐藤先生4人が到着して、挨拶もそこそこに日本語クラブの作業が始まった。幸い、加藤先生は何度もここに来ておられて勝手知った場所なので、私がいち いち説明に煩わされることもほとんどない。2時頃には妻も用事から帰ってきて「頼まれたお菓子、いいのがないのよ、でもないよりましでしょ。」とクッキー を差し出した。これと紅茶のティバックを用意して、後は自分で自由にということになって、作業環境が整った。
見ていると、これから編集というわけではないようだ。皆から集まった原稿は最終的に池本先生のところで編集そして写真も加えて割り付けが済んでいて、プリントアウトした原稿を今日ここで皆が集まって校正して、最終版をプリントしてコピーしようという段階みたいだ。これなら二三日かかることもなく、今日一日で終わるだろう。
しかし、構成が終わったところで原版を直すのは一人の作業だし、編集後記も残ったページにあわ せてそれぞれが書かなきゃと言うわけで、結構皆が忙しそうに時間が経って行く。4時頃にはすっかり空が暗くなって、秋雷の襲来があった。窓を開けて下をす かしてみると傘が歩いている。雨なのだ。
編集作業が終わる頃か、一段落した頃に大学の外に一緒に食事に行こう と私たちは考えていたので、「5時頃に食事をどうしましょう。雨だから近くでは学生食堂しかないけれど。」と言ったけれど、何しろ雨だし、原版からのコ ピーが始まったばかりだし、はかばかしい返事がない。それじゃ、出前にしようか。「出前を頼むにもねえ、最近大学がうるさくなって持ってこないのですよ。 心当たりの店の電話は知らないし。」
ここで思いついたのは私の研究室の陳くんで、今修士課程の1年生になった 陳くんは学部の頃から加藤先生と親しい。とても親切だし、頼めば雨の中でも出前を頼みに行ってもらえるのではないだろうか。というわけで電話をしたら陳く んは快く頼みを引き受けて雨の中を、大学の正門近くにある招待所の餐庁にいってくれた。
「中身は何でもいいよ。ごちそうを食べようと言うわけではないんだから。」というわけで、頼んだのは餃子3人前、炒飯3人前、ニラと卵炒め、豆三鮮。雨に濡れて戻ってきた陳くんは、「ほかに、先生が好きだから、ガーダー湯もたのみましたよ。」
6 時半頃届いた出前に陳くんも入れて7人が集まって食事になった。支払いは66元。一人あたり11元。招待所の食事は学生食堂よりはましだけれど、普段なら ちっとも感心しない味だ。しかし、見ているだけでも共同で何かやっている気になっているし、こうやって仲間と仕事をして食べる食事はそれ自体が美味に感じ られる。その間も、コピー機が1ページのコピーを終えるたびに山田先生は次のコピーを続けて手をちっとも休めない。
食 事の後、遠方の佐藤先生とこの後で用事のある池本先生が二人先に帰って、それでもコピーがすべて終わったのが9時だった。後の製本は学生さんを呼んでやり ますからと加藤先生。雑誌発行がこんなにスムースに進んだのは今回が初めてだとのことだという。編集の実務担当の池本先生が慣れて、全員が集まるまでにほ ぼ完全に割付まで終えていることが大きかったのだろう。加藤先生が新しく編集長になったためではないのだ。
私としては、3年続けてやってきた日本語クラブをwebに載せる仕事から降りるけれど、山田先生の仕事ぶりを見ていると、彼が完全に肩代わりしてやってくれ ると言うだけでなく、HPの運営そのものも任せられそうに思える。日本人教師の会の将来が明るく見えて、とても嬉しかった。
11月1日から地域暖房が入った。大学も、アパートも暖かい。11月初めに寒波が来て日中の最高気温は数度、最低気温は零下数度だから、朝大学に来るときの道の水たまりは凍っている。私たちは日本にいた頃の真冬の服装に身を固めている。
大 学構内の銀杏並木も殆どその黄色い葉を落とした。名前を知らないので便宜上中国ポプラと呼んでいる大木も、葉を落として、この1週間大学の緑色の制服を付 けた掃除の人たちは朝から夕方まで構内の葉の掃除に追われていた。残っているのは松の木などの常緑樹だけだから、大学構内は明るい彩りが消えて暗くなった 一方で、葉を落とした梢を延ばした木々で空が明るくなった。これから3月に再び陽光が訪れるまで、沈陽は長く厳しい冬に入る。
今日10時 になって、いつものように分子生物学の講義に図書館東側の講義室に出掛けた。講義は10時10分からである。講義棟の入り口を入って直ぐの階段の下の守衛 室で、教室の鍵を受け取ってから教室に向かうというのが段取りである。この鍵は教室の中のコンピュ−タを囲った箱の鍵である。私たちは PowerPointで作成したfileを入れたUSBひとつ持って講義に行けばよい。プロジェクタは天井に設置されている。
瀋陽薬科大 学にこの手の設備が出来たのは、東京工業大学よりも、そしてその頃講義に通っていた横浜国立大学、中央大学のどれよりも早かった。多分2-3年先行してい たと思う。大したものである。日本で使っていたOHPを、沢山のOHスライドと一緒に持ってきたけれど、一度も出番がない。
今日は守衛室 でいつもの図4と書かれた鍵を探したがない。係の人と見慣れない別の人が、図6と書いた鍵を差し出して盛んに私に何か言っている。当然がら私には何のこと か分からないので、研究室の学生に電話をした。研究室にいるはずの学生の誰にも携帯が通じない。やむなく教授室にいる妻に電話を入れた。彼女は実験室に 走っていって、学生に替わって何にを言っているのか聞いて貰った。
すると、いつもの講義室の図4の鍵がないから図6を使えということらしい。そんなことを言ったって学生は図4に集まっているはずだ。ともかく、図6の鍵を持って4階のいつもの講義室の図4に行った。係でない別の人も付いてきた。
教室に行くと当然のこと、学生はもう全部集まって私を待っている。この係でない別の人と私は話が通じないから、集まっている学生の代表と話して貰った。すると、ここの図4の鍵はここの箱の中に閉じこめられているから、鍵がないのだとこの人は言っているいう。
つまり前の授業でここを使った先生が鍵を閉じこめてしまったのだ。そして、この係でない別の人がマスタ−キイを取りに1階に降りて行った。その間私はもう話を始めていたが、やがてその係でない別の人がコンピュ−タの箱を開けてくれた。中にはその失われた鍵が入っていた。
こ んなことなら、どうして初めからここに来て箱を開けて鍵を取りだしておかないんだ。係の役目だろう、それが。ここでは先生が鍵を借りるときにノ−トの名前 を書くシステムになっているから、講義が終わって鍵を返還するとき、当然、ここの係の人は異常と原因を知っていたわけだ。
せめて、マスタ −キイを持って直ぐに最初から一緒に付いて来てくれればいいわけだ。時間を無駄に10分空費することもなかった。それなのに、何で別の部屋の鍵を寄越した んだ。実際、行きがけに見てみるとその部屋には別の学生が集まっていたし、元々の部屋には私の学生が集まっていたのだ。
全く、こんな具合にときどき理解に苦しむところである、中国と言うところは。
11 月11日の土曜日の教師会定例会は在瀋陽日本総領事館に場所を借りて開かれた。在瀋陽日本総領事館葉瀋陽市の地図を見ると真ん中よりもちょっと西南に寄っ ていて、運河に近い風明の地にある。東隣がアメリカ領事館、その北が韓国領事館。在瀋陽日本総領事館の北は北朝鮮領事館である。この一画は二重の有刺鉄線 の塀に囲まれ武装警官によって警備されている。
入場者はあらかじめ総領事館に届け出ている。その名簿が守衛に渡されていて、彼らが、私たちのパスポ−トと照らし合わせて入る許可が出る。届け出がないときは、領事と一緒だとしても、必ずパスポ−ト番号が控えられる。
数 年前に北朝鮮の脱北者が日本総領事館に駆け込み、その時の日本側の対応が生ぬるいと行って非難囂々であった。門のところで駆け込んできた脱北者が掴まって いる間、数人は間隙を縫って領事館の建物の玄関ないにたどり着いたにもかかわらず、武装警官は玄関まで入り込んで彼らを捕まえて引きずり出してしまった。 これは日本の主権の侵害であるといって領事館の弱腰が非難された。この騒動の間に武装顕官が構内に落としていた帽子を領事が拾って渡している写真まで掲載 されたから、ますます日本の弱腰外交といって声高に難じられたように思う。
でも、門の外の警備を請け負ってい るのは警備の武装警官である。彼らの手落ちで人が中に入ってしまった場合、それを止めるのは彼らの責務であろう。彼らが脱北者であったから同情的な日本の 論調は「日本の主権を侵す行為だ」といって不満を鳴らしたけれど、彼らが襲撃者だったと考えれば、警備の武装警官の行為は是認できるはずだ。彼は無届けの 不審人物を中に入れないという責務が与えられていて、その職責を果たしたに過ぎない。
勿論、警備にも関わらず、警備の手に捉えられずに塀の内部に入り込んだものは日本政府の保護下に置かれるという取り決めがあったなら別である。それなら、警備の行動はやり過ぎである。人権侵害といって責めてよい。しかし多分、このような取り決めはないのではないか。
この日私は加藤夫人と薬科大学からバスに乗って領事館目指して出掛けた。彼女は日本語クラブ編集の加藤先生の夫人で、加藤先生から新しい日本語クラブ24号を集まりに届けるように預かっている。加藤さんは朝からいつものように古物商巡りに出掛けていてその足で集会に出るつもりだから、荷物になる日本語クラブは邪魔で彼女に預けたのだ。私は手伝ってあげたかったけれど、私も日本人会の新入会員に届けるために預かった沢山の重い書類があって、出来なかった。
バスを降りて領事館目指して歩いていると正門の方から加藤さんが歩いてくる。私が気付いて両手を挙げて振ると、加藤さんは照れ笑いを浮かべて脇見をしながら近づいてくる。夫人めがけて大きく手を振ってニコニコするのは照れくさい年頃らしい。
領事館の鉄格子の潜り戸のところには、私たちの到着を待ちかまえた警官がメモと一緒にいて私のパスポ−トと照らし合わせてOKを出してくれた、二重の門をくぐると中には森領事を始め少し前に到着した教師会の先生たちが集まっておられた。
これでひとかたまりの人数が揃ったようで領事に率いられて建物に入る。玄関を入って直ぐのドアを開けると数人しか入れない空間があり、この中に入って今のドアを閉めないと次のドアが開かないという仕掛けになっている。厳重な仕掛けで不審者は中に入れないという仕組みらしい。だけど内部が火事だったら外に出るのに手間暇掛かりそうだ。外から大きな荷物を運び込むときはどうするのだろう。色々と気になることがある。前に来たときは、このドアを入る前に携帯電話をロッカ−に入れて置いてくる仕組みになっていた。つまり、携帯の種類によっては内部の音(電波?)を拾って外に発信する、盗聴器みたいな携帯があるという ことらしい。
領事に率いられて廊下を歩くとあちこちで曲がる。昔の道が真っ直ぐでなくあちこちで曲がって見通しの悪い城下町を歩いているみたいだったが、また、さっきの落とし戸みたいな仕掛けの小部屋を通る。ここをでると、廊下も広く真っ直ぐ歩く距離も長くなり、「あ、これが昨年出来た新館か」と納得した。森用事に聴くと、そうですという答え。日本語文化サインでキュ雄牛かの多くの会員はここを知っているけれど、私は初めてだった。だから突然大きな広間に出て、そこには日本の風俗が大きなガラス棚に入れられて展示してあるし、浮世絵だのタコだのが壁に掛かっている。雛壇もある。あれ嬉しいとおひな様に近づいたら、どうも足許の感触がおかしい。見ると、いつの間にか何と私は靴のまま畳の上を歩いていたのだ。「これじゃ、まるで中国人じゃない?」と自分のことを言い訳しながら畳を降りたけれど、中国の方々、ここで引き合いに出してごめんなさい。
11月6日日曜日から、研究室の院生二人を遺伝子操作の技術を習得させるために外部の研究機関に派遣した。 私たちの研究室ではRNAを抽出して特定の遺伝子の発現を調べたり、SiRNAを使って特定の遺伝子発現を阻害したりというような分子生物学の基本的、か つ先端的な技術を使ってはいるものの、遺伝子を切ったり繋いだりというごく初歩的なことが出来ない。早い話、教授の私がそれを実際に使ったことがないか ら、教えようがないわけだ。知っているのは原理だけである。
SiRNAを使って特定の遺伝子を抑えたときの現象は、当然のこと、逆にその 特定遺伝子を強制発現させたときの現象と反対になるはずである。反対になれば、その現象がその遺伝子の所為であることが確実に云えるが、しかし実際にそれ をやるまでは、当然そうなるとは誰も断言できない。やってみるしかないのである。
SiRNAを今や日常的に使っているけれど、その裏返し の遺伝子導入の技術を手に入れる必要がある。今博士課程3年の王Puくんはとても良い仕事をしてきたけれど、それを遺伝子を強制発現の実験をすることで更 に証明したい。王Puくんがこの技術を身につければ、博士を取ってポスドクで外国に行ったときに肩身の狭い思いをしなくて済む。
折角技術 を習得してきても王Puくんはあと1年もしないで居なくなってしまうので、それでは私たちの部屋としても困る。というわけで研究室に習得してきた技術を伝 えるために修士課程2年の王毅楠くんも一緒に派遣した。彼らは約4週間の予定で研修をして、実際に強制発現用の遺伝子を発現ベクタ-に入れて持ち帰ってく る予定である。
院生8人のうち2人が今不在だし、妻も火曜日から帰国したから研究室はちょっと淋しくなった。私一人で全部を切り盛りしなくてはならないが、そう意識するだけで結構疲れるものだ。
土 曜日にセミナには、秦さんが初めてのspeakerとして登場した。彼女は修士を出ているけれど私たちの研究室の研究方向のbiotechnology、 glycobiology、tumor molecular biology、signal tranductionには、ここに来るまで触れたことはなかった。それでどのようにJournal Clubで論文紹介をするか心配だった。
今 学期の研究室のセミナには新人学生が数人参加しているので、研究の背景を十分説明しないと彼は理解できないまま取り残されてしまう。ここのところが始めて 論文紹介をする人にはなかなか分からないことで、speakerは論文を内容をまだ知らない人に分かるように説明して内容を分かって貰おうというよりも、 何とか自分が分かったことを言おうとする。
Speakerは、いってみれば講義をする立場に立たなくてはいけないのに、それを忘れて試験を受けている気分になって話をしてしまう。そうすると、初めてこの論文について話を聞く人には最初から取り残されてしまうことになる。
そ れで、秦さんの話に私は時々口を挟んで背景を話すよう促したり、実験結果の図やグラフを、どのような実験をして得たのかを詳しく説明させたり、(聴いてい る人たちにとっての)理解の助けを出した。このように私が色々言っても立ち往生をしなかったということは秦さんがきちんと勉強をしていたことを示してい る。彼女は英語をまだ話慣れていないから分かり難いけれど、決してひどいものではない。85点がつけられる。デビュ−としては上出来といえる。
早速このことを日本にいる胡丹に、mailに書いて送った。胡丹は自分の方が何かに付け彼女よりも良くできると思っているのだ。だから、今度も
「Dear 山形先生
先生のご指導の下で彼女はどんどん進歩してきたのは本当にうれしいことですね、いろいろとありがとうございました。」
という返事が直ぐに届いた。胡丹自身は「今は実験に関してはまだ正式なテーマをはじめていません。訓練の実験をしています、レクチンの抽出、分離をしています。」ということである。
11月の教師の会の定例会は別項に書いたように在瀋陽日本総領事館で開かれた。
出席:森 信幸(特別顧問)
安部玲子、池本千恵、石井みどり、石原南盛、加藤正宏、加藤文子、金丸恵美、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、中田知子、中野亜紀子、中村直子、鳴海佳恵、野崎勉、藤平徳雄、松下宏、南本卓郎、南本みどり、峰村洋、森林久枝、山形達也、山田高志郎、若松章子、渡辺京子、渡辺文江
特別参加:金倉美佐恵(総領事館勤務)
欠席:山形貞子、宇野浩司、岡沢成俊、片山皚、河面弥吉郎、林与志男、林八重子
一番の関心は日本語資料室がどうなるかというものだった。日本語資料室はすでに2ヶ月も閉鎖していて、本棚も中の本も荷物となって片付けられて倉庫の中である。和平区との交渉に当たった森領事から、移転予定先のビルの上部機関の局長が難を唱えている、総領事からの手紙にもうんと言わなかったけれど、総領事が副市長に公式の依頼の文書を送り、それに添え書きがついてその局長の下に送られたので話は進展するだろう、と言うことだった。まだ決まったわけではないけれど、先の暗闇が少しは明るくなったかなと言う感じである。
このほかの議題として、市政府当局は瀋陽日本人会 と定期的に交流していて、日本人会からの商工業の上での苦情を聞いて対処していることを知ったので、この教師の会でも、生活上の苦情や提案があれば、日本人会経由で市当局に伝えることができる。と言うので、会員から言いたいことを訊いてみた。
一番多かったのは郵便物に対する苦情だったが、これはそれぞれ状況をはっきりさせないとただの水掛け論で終わってしまう。しかも市当局に言うことでもないようだ
市のタクシ−運転手の乗務交代が夕方の6時なので、夕方のタクシ−を止めても自分の会社の方面に行くのでないと乗車拒否されることが多い。夕方という一番使いたいことが多い時間帯にこういうことがあるのは困る、と言う意見があった。その通りだ。これは伝えよう。
山田先生が、日本語放送をたとえ5分でも良いからやって欲しい、と言う意見が出た。意図が分からず、彼の顔を見ると、日本人である自分たちが聞きたいというわけではなくて、学生に生の日本語を聞く機会を与えたいというものだった。なるほど。だけど、これを市に言ってどうなるだろうか、全く先が読めないと思うけれど。
定例会の終了後、私たちはいつものように、と言っても3回目だけれど今回は森領事が予約してあった水 上漁港というレストランに向かった。全部で23人が一部屋に入って二つのテ−ブルに分かれて座った。たまたま私の右隣には森林先生、左隣には山田先生が座った。森林先生とはクリスマス会のことを話し、左の山田先生とは先ほどの日本語放送のことを話すことになった。
先ほどの発言を取り上げて市当局に日本語放送をして欲しいと言ったとしても、それを何処が受け入れるのか読めないし、どう扱ってくれるかも分からない。それよりも自分で出来ることで始めたらどうでしょう、と言うのが私の提案である。
この瀋陽で自分が勝手に放送を始めたりしたら、即刻お縄頂戴になりそうだ。放送に代わるものとしてinternetがある。自分で自分のサイトを運営して、 そこを訪ねれば、日本語の放送が聞こえるというのはどうでしょう。Internetのサイトで、音声付きビデオが見られるからビデオにして送り出すようにすればいい。あるいは紅さんの中国語講座のように、クリックすると声が聞こえてくるやり方もあるじゃない。あのようにして、自分でHPを作って、その中に音声を入れたたらいいんじゃないでしょうか。
山田先生は載せるニュ−スはここに朝日新聞もあるし、読売新聞も あるし、元を明かせて載せるならどちらも喜んで話を提供してくれるのではないかという。中国ネタならサ−チナと言うのがinternetに載っているか ら、然るべき手続きを踏めばそれを日本語の音声で読み上げるサイトだって作れるかも知れない。
それじゃ、もう 直ぐにも出来るじゃないですかと私。すると、山田先生はデジタルレコ−ダがあれば直ぐにも出来ますねと言う。言われて思い出したが、私もデジタルレコ−ダ を持っている、5年前だけれど、色々なアイデアを思いついたとき忘れないよう直ぐにも録音しておきたくて買ったのだ。買った頃には、もうアイデアが湧き出 でて困ることなくなっていて、その後は長くしまってあったのだ。たしかソニ−製で、PCにfileが移せるものだった。きっとこれで、山田先生の夢が手作 りながらもともかくも始められるぞ。うちに帰ったら探してみよう。そう、何でも先ず出来ることから始めることが大事なのだ。
教師の会の日本語資料室の中身は荷物となって、今は開元ビルの地下の倉庫にしまわれている。開元ビルのオ−ナ−がビルをホテルに貸すことを決めたとき、彼は和平区政府と交渉して和平区の持つビルに日本語資料室が移転する話はほぼ決まっていた。挨拶に行けばそれでよいという話だった。
8月に在瀋陽日本総領事館森領事、伊藤忠瀋陽支店の高木所長および馮さんに率いられて挨拶に行ったとき、和平区の招商局長は大歓迎だ言ってくれた。その後和平区政府の所有する孵化器ビルを管理する部長も私たちに貸す部屋を見せてくれた。孵化器を管理するところは科技局で、この部長に会ったところ、契約でき れば明日にでも越せるけれど、日本人教師の会と日本語資料室の説明文書が欲しい、ということだった。
私たちはそれを直ちに日本語で用意して、中国語訳には、今までの交渉で全てお世話になっている伊藤忠瀋陽支店の高木所長および馮さんが当たってくださった。9月の初めには先方の要求する書類を出したのに、その後いっこうに音沙汰がない。高木所長および馮さんが先方に訊いてみると、初めは二階で水漏れがあってその修理が大変だとか言っていたようだが、結局「認可されていない非合法団体を入居させることは出来ない」と主張しているようだった。
それで、高木所長と森領事は在瀋陽日本総領事館に働きかけて、教師会と日本語資料室の内容と意義を説明して、保証をした総領事の公式文書が総領事館から局長宛に送られた。しかし、相変わらず公式には何の返事もない。それで、さらに在瀋陽総領事から瀋陽副市長宛にお願いの公式文書が届けられた。瀋陽副市長からは「よしなに頼む」と言う添え書きがついて、科技局長のもとに送られたのが11月9日だった。
このような状況なので話は進むだろうと言うことを、私たちは11月の定例会の時に森領事から聞いて一安心したのだった。
先方に高木所長が電話したところ木曜日に会おうと言う返事があった。それで、高木所長および馮さん、森領事の出張で代わりに川端領事、そして教師会私たちが孵化器ビルに顔を揃えたのは午後3時過ぎだった。会見の約束は3時半である。ビルの部長はにこにこと私たちを迎えてくれた。
時間になってロビ−から6階の会議室に場所を移したが、局長が現れない。暫くすると、急用が出来て来られなくなったという説明で部長が代わりに説明をしますと言うことだった。
科技局としては日本語資料室を歓迎する。和平区もすでに許可している。あとは契約書を交わすだけである。この契約書は開元ビルで使っているものと本質的に同じでよいが、入居して3ヶ月以内に団体の認可申請をして許可を取って欲しいという条項を付け加えたい、という。
瀋陽日本人会も瀋陽で15年活動してきて、市当局から交渉相手として扱われているが認可を受けていない。中国で認可を受けているのは北京の商工会議所だけだという話を私たちは高木所長から聞いている。
局 長の言う団体認可申請を何処にして、何処で認可を受けたらよいと言っているのか、日本人側では領事館も、高木所長もそれを知らない。結局これがこの交渉の 焦点である。こちらは何処で認可がなされるのか全く情報を持たないのだから、局長がそれをこちらに提示する必要がある。それを通訳を買って出ている伊藤忠 瀋陽支店馮さんが部長に言ったが、ここでは答えが出ない。
私たち教師の会の団体としての目的と活動範囲、そし てその質、安全性、有用性は総領事の公式文書で日本側としては最大の保証をしているわけだし、副市長もそれを認めたから和平区に、話を進めるように命じて いる。それをこの局長は蹴っているわけで、話は最初から一歩も前進していないわけだ。「非合法団体をこのビルに入れるわけにはいかない。」
頑 固と言えば頑固だし、彼の内実はこうなのに今日話し合いが出来るようになったから会おうと言うなんていい加減と言えばいい加減だ。結局今日の話は物別れ で、次には川端領事と高木所長が団体認可問題をこの局長とさしで話して見るということになった。教師会の問題だけれど高木所長と在瀋陽日本総領事館、及び 領事に頼り切りの情けない教師会である。しかし客観的に見て私たちにはその能力が全くない。窮地の私たちを一生懸命助けてくださって、私たちは本当に感謝 している。
11月21日と22日の二日間、私の友人が瀋陽を訪れる。ス−パ−糖鎖の研究班を一緒に組んだ仲間だ。彼の 今いる長岡科学技術大学を志願している学生が瀋陽にいて、その面接かたがた瀋陽の我が研究室を訪ねてくれる。この機会に大学院向けのセミナをして貰いたい し、研究室では皆のそれぞれの話を聴いて色々と研究上の示唆を貰いたい。瀋陽はもう冬に入っているけれど、勿論瀋陽の名所旧跡も案内したい。様々な思いが 吹き出してくる。
私たちはここに来てもう3年経ったのだ。私は糖鎖生物学の専門家のつもりなのに、糖鎖の話をまだ大学で一度もしたことが なく、不満も溜まっている。まだここがその話の出来る状況ではないと思って、自分で遠慮していると言えるけれど。私たちの研究室の話を他の人たちとオ−プ ンに議論したこともない。同じ土俵にいる同じ力量の仲間がいない。
水曜日夜はいつものように研究室のprogress reportだった。これはそれぞれの学生に毎月1回廻ってくるもので、自分の研究の1ヶ月分の進展の話をする。こうやって別の人の研究の話を聴けば、分 からない単語も出てくるだろうし、何故そんなことをやっているのか分からないこともあるだろう。あるいは何かおかしなことをやっていると思って注意したく なるかも知れない。progress reportを聴いている人のレベルによって、ちゃんと話を訊いていれば、様々の段階の疑問、質問があるはずだ。
それなのに、大学院のシニアの一人か二人が質問したきりで、残りの10人を超える院生・学生は例によって何も言おうとしない。こんなに無反応で、話が分かったのか?と言うのが私の一番の気になるところである。
貴 重な時間を使って集まっているのだから、誰かの話をただ聞き流してしまうのは勿体ないことだ。聴いて理解して自分の研究の参考にするのでなくては全くの無 駄だ。もし人の話を聴いてちゃんと理解して筋を追って消化していれば、必ず質問・疑問の一つや二つはたちどころに出てくるはずだ。それがでないというのは 聴いていないのか。
『来週は日本から専門家の先生が来られます。セミナをして、更に私たちのprogress reportにも出て、中国の学生はどんなだろうと見るのを楽しみにしていらっしゃいます。その時、こんなシ---ンとしたセミナでは恥ずかしいですよ。 せめてその時の練習と思って、全員が質問の一つや二つをしなさい。それが出来なければ先に進まないからね。』とうとう私は英語で宣言した。
今 急にそんなことを言ったって、練習したからってセミナが急に活発になるものではない。だけど、この何時も受け身の中国人学生の態度に何時もいらいらさせら れているのだ。自主的に進んで疑問を持ち問題を解決しようという積極的な態度がなくして、どうして一流の研究者になれるだろう。私は彼らを一流の研究者に 育てたいのだ。
ともかく質問を発しなければ先に進まないと私が宣言して、皆一様にシ−ンとなり、隣同士でひそひそ話が始まった。それでも 直ぐに手を挙げたのは暁艶だった。彼女はまだ修士1年に入って研究を始めたばかりであるが、とても素直な性格である。更に分からないことは徹底的に尋ねて くる。いまも、その試薬の濃度を使って細胞はどうだったか、痛んでいなかったかを訊いている。阻害剤を使うときは細胞の状態を何時も注意深く観察していな いと、訳の分からないdataが出るだけだと教えているからである。
その後が続かない。「暁東!」と私がいう。修士の2年である。 「Tamophexinとは何ですか」という。エストロジェンリセプタの拮抗阻害剤だとspeakerの敢さんは説明したはずだ。え、化学構造を知りたい の?何処から取られたものか由来を知りたいの?一体何を知りたいのか、Kanさんは戸惑ってしまう。暁東は質問しろと言われてともかく目に付いた馴染みの ない物質が何かを口にしただけに違いない。もうちっと、身のある質問が出るようじゃなきゃ、話が分かっていることにならないぞ。
というわ けで、全員が何か言うまで質問を強制した。まだ学生の、セミナに来るようになって一ヶ月も経っていない寧娜さんは、効果のでなかった阻害剤の濃度を問題に した。この阻害剤の効果が出るかでないかで研究の方向は全く違う方に行くわけである。寧娜さんに指摘されて考えてみると、このような低い濃度で調べるだけ では足りないのではないかと思える。実際にやってみてどうなるかは分からないけれど、彼女は私たちの考えの盲点を突いたのだと思う。彼女は研究の初心者と も言えないくらい初心者である。背負うた子に教えられ、である。質問を皆に強制してよかった。
speakerは合計3人いたし、そのたびに私が大声で叱咤激励したので、終わった9時には、私は声も身体も疲れ果てていた。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
南本 卓郎:
昨日は楽しい探訪をさせていただきありがとうございました。これを企画された山形先生、よくもあんな人の家まで入って行って、瀋陽の歴史を物語る建造物などを見ることができたものだと案内された加藤先生に改めて御礼申し上げます。
その後私たちは、東関教会と周恩来元首相が通った小学校を見て帰りました。
今後もこのような機会がありましたら、ぜひ参加したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
若松 章子:
瀋陽に来る前から日本人教師のホームページなど覗いていたので、旧跡を調べていらっしゃる先生がいらっしゃることは知っていましたが、めったにお近づきになれるチャンスもあるまいと思っていたのでこのようなツアーに入れていただけてうれしい限りです。特に元東北銀行の石碑(?)の「日本帝国主義投降後云 々」などの文言が街のど真ん中にあるのなど、よかったといったらおかしいですが、ああいうものをみて実感したかったわけです。
古物市場で買った挿絵入り講談本、帰ってから学生に話したら、1970年代くらいの古くて数が少なくなっているものは一冊千元ほどもするそうです。また行っていろいろ見て詳しく知りたくなりました。このようなツアー私の中では貴重な「またとない機会」になっていますが、ぜひとも「またの機会」を願いたいとこ ろです。
山形 達也:
全部で17名が10時に大西門に集まりまし た。最初に張学良の創った同澤女子中学校を見ました。古い建物で趣のある作りです。その後午前中は故玩城の近くにでている路上市を先ず加藤先生に案内されたあとは思い思いに散って、好きなところを探索しました。古本を探したり、DVDを買ったり、印鑑のための石を探したりと、様々でした。
昼は歴史の長い金の店を見てから、1796年創設の馬家焼麦に行きました。二つの大きな丸テ−ブルをくっつけて良い感じでした。焼売4種類2kg(作る粉の 量で量ります。通常パスタは一人あたり100gです)おかず4種を取って、ビ−ルも10本、ヨ−グルト、一人あたり22元でした。
その後は、清朝の高官の私宅を外から見ていたところうちの人が中を見ても良いというので、思いがけず、中庭の広いしっかりとした200年くらい古い家を見せ て貰えました。その次が圧巻の瀋陽城壁の残骸です。城壁の石垣が20メ−トルくらい続いているところが、古物商の仕事場の中に取り込まれて外から全くうか がえないのですが、今日は幸い入って良いというので、狭い通路を順に交代で通って石垣を見てきました。
この瀋陽の城壁を壊したときにでた石を自分のうちに取り込んでいる家を見たりして路地の中を歩き回りました。近代化している瀋陽にこんな暮らしが残っているのかと驚くような庶民の暮らしを垣間見ました。
そのあと、瀋陽城よりも古く1318年にできた中心廟、中国人が1928年に作った春天百貨店、中華民国時代の東北銀行、長安寺を見て3時半お開きになりました。
導師の加藤先生、本当にありがとうございました。
11月20日先方から指定されて、午後2時の会見時間に間に合うように孵化器ビルに出向いた。会議の出席するこちら側は総領事館から森領事と、通訳の翁鉄軍さん、伊藤忠瀋陽支店長の高木さん、通訳も兼ねる馮さん、教師の会の南本先生と私。先方は科技局の印局長、朱部長の他、初めて会う賈輝さん、正体の分からない若い人。賈輝さんはこのビルにいるソフト会社の社長だそうだ。
印局長は、和平区は受け入れを決めているし自分も日本人教師の会と日本語資料室をこのビルに歓迎する気持が大いにある。しかし、この教師の会が団体として認可されていることを求める気持は変わらない。
印局長が賈輝さんに訊いたところでは、中国の団体が何かを企画したり主催すれば、申請の手続きも簡単だし、許可も下りやすい。日本の団体では無理なことでも中国企業が主体なら可能である。したがって賈輝さんが表に立つという形ではどうだろう。そうならば全面的に援助する気である、と言う発言だった。
これを受けて賈輝さんは、印さんに言われてここにきたが、中国で活動する団体は合法的な団体でなくてはいけないが、教師会にはその資格がない。教師の会を中国で通る形の団体にするために、印さんからご指名を受けて全面協力する気でいる。
説明では賈輝さんは瀋陽の名門大学である東北大学を卒業して、日本にも10年留学したという。日本を知る身として、日本のためにも故国のためにもなりたいと思い、教師会の保証をしよう、後見人となろうということらしい。
私たちは初めて聞く話で、どのような形であるかと言うことに疑念が残ったが、高木さんが真っ先にお礼を述べ、森領事も印さん、賈輝さんのおかげで、このように日中の架け橋として活躍している教師の会が拠点を持って活動を続けられることは誠にありがたく、と言ってお礼を述べた。引き続き、南本会長も、感謝の言葉を述べている。
印局長は契約書に前に主張したように認可団体登録を3ヶ月以内に申請すべしという文言を盛り 込むという。賈輝さんの会社は当然認可されているわけで、その下部組織にたとえば図書館という形で潜り込むなら、独立の団体として認可を受ける必要はあるまい。認可申請と言うことは、下部組織ではなく、認可を可能にする何らかの方法を使うのだろうか。この辺のところが私には良く飲み込めないまま、話は明後 日の契約書交換、引っ越しは今週の金曜日という具合に進んでいった。
帰りは領事館の車で送ってもらったので、 森領事に聞いてみた。この話は領事館の口利きなのですか?返事はそうですと言うことだった。なるほど。私たちが相手側企業を知らないだけで、お膳立てが出来ていたので、疑心暗鬼で異様に思ったけれど、先の開元ビルのオ−ナ−の、日本にいるとき日本に世話になったから今度は困っている日本人に恩返しする番で すというのと同じような人が現れたと言うことだろう。
私はこの話が壊れた場合には、侠気に富んだ日本企業(会社)を探して、そこの図書館でも、日本語資料室でも名前は何で良いけれど、そこの庇護の元に入ってやっていく道はないかと思っていた。それが何と、日本企業ではなく中国企業がそれを買って出てくれたわけである。
長岡技術科学大学の古川清先生が瀋陽の私たちを訪ねてこられた。11月21日火曜日全日空NH925便で12時40分桃仙空港に到着。私は招待所の徐さんと一緒に学長の車に乗って出迎えに行った。
空 港から予約してあるマリオットホテル(万豪酒店)まではクルマで20分くらい。この万豪酒店は五つ星ホテルで瀋陽では一番のホテルと言われている。古川先 生に頼まれて私が予約しておいたのだ。私が費用を持つのだったら二の足、三の足も踏んだに違いない高級ホテルである。チェックインした部屋は24階の Presidents floorだった。豪華だが落ち着いた作りの部屋で、眼下に2008年の北京オリンピックの時にサッカ−の会場になる五里河体育場がみえ、その先にコン河 (またの名は瀋河)が流れている。この河の北に瀋陽が作られたので瀋陽と呼ばれたわけである。
部屋には綺麗なリンゴ、バナナ、オレンジが コンポ−トに盛ってあって、あまりに見事なので本物かなと気になって触ってしまった。あとでは同じように古川先生も触ってみたのでお互い笑ってしまった。 しかし、この豪華な部屋でゆっくりとはしていられなかった。というのは大学で古川先生のセミナが3時から予定されていたのである。
古川先 生の滞在は21日午後、そして22日だったので、彼のセミナは22日水曜日の午後が良かろうと思って、あらかじめ10日前には国際交流処と研究生処に届け てあった。しかし日曜日になって、セミナの予定されている水曜日の午後は、論文ねつ造問題について学長が院生を全部集めて訓辞をする会が開かれることに なったから、午後2時の開催では時間がぶつかってしまって無理ですとうちの学生が言ってきた。じゃ4時にしようか、と一旦は時間を変えて見た。
ところが、もし学長が学内で同じ午後の4時に別の講演会が予定されているというポスタ−を見ると、自分の講演を早く終わるようにと言われたみたいで面白く思わないだろうから、その時間はやめた方がよい、と言う意見があった。そうなると、水曜日の午前中か火曜日しかない。
図 書館の5階に講演会場が二つあるが、その使用日程の調整をする係の人が日曜日に掴まらず月曜日もずっと掴まらない。中国では係は役ではなく人なのでその人 が現実的に不在だと、誰も代わりが出来ないのだ、待つしかない。と言うわけで月曜日午後3時になってやっと空いている時間は火曜日の午後3時ということが 分かって、古川先生のセミナは火曜日の3時開催に決まった。うちの学生たちはポスタ作りに励んで、月曜日の外も暗くなった5時頃、ポスタを手分けして貼り に行った。
と言うような事情で、e-mailで古川先生には直ぐに知らせたけれど、長岡市から東京に移動して飛行機に乗った古川先生には 伝わっておらず、彼は到着した空港の出迎えの時に、このあと3時からセミナですよと聞かされたのだ。「まさか。ずっと忙しくてPowerPointを作る のがやっとで、話すことは今晩ゆっくり考える時間があると思っていたのに。」とは古川先生のぼやきである。
幸いマリオットホテル(万豪酒 店)は空港から瀋陽市に入った南端にあり、薬科大学はそこから2-3kmなので、2時には大学に着くことが出来た。USBを私の部屋のPCにさし込んで動 くかどうかを確認して、ついでに一つ一つスライドを見ながら話の内容を聴いた。久し振りのサイエンスである、しかも私の領域の研究である。 internetのおかげで最新の論文には何時も目を通しているけれど、学会には3年後無沙汰しているから、このような研究を直に聞くと無性に嬉しくなっ てしまう。何度も彼の説明を遮って訊きたいことを言い続けているうちに3時15分前になった。
図書館は隣の建物だが一旦外に出ないと行けない。風が冷たい。図書館に入るとうちの学生が管理室にいて、係の人がエレベ−タの鍵を開けてくれた。つまり何時もは誰も乗れないようになっているようだ。節電対策だろうか。
5 階の講堂で開かれた古川先生のセミナ『動物細胞に於けるN-グリカンの役割』には学生が120人くらい集まった。話は糖鎖というものに馴染みのない学生た ちにその構造と意義を説くところから始まって、やがて彼らの先進的な研究の内容に入った。45分くらいの話を終えて質疑応答の時間には結構反応があって全 体が終わったのは4時を大分過ぎていた。話の最後に古川先生は自分の大学で研究をやりたいと熱望する人は歓迎するから、あとで話しに来るようにと言ったと ころ、話のあと10人位に取り囲まれていた。実際ここで全ての人と話すことは出来ないので、翌22日午後私の研究室に会いにいらっしゃいと言うことでお引 き取りを願った。
部屋に戻る道々、私は久し振りにサイエンスのいい話を聴いて満足だったし、古川先生は明日のつもりだったのにセミナが今日終わって、もう気にするものもなくほっとした表情を浮かべていた。
11月22日水曜日午前中古川先生は故宮見物に出掛けた。3時間程度の時間しかとれないときの瀋陽の見所と 言うと、瀋陽のど真ん中にある故宮しかない。故宮は清朝の最初の宮殿で、まだその頃は北京に明朝があった時代に、東北地方を席巻した女真族の族長ヌルハチ が構えた宮殿である。北京に明朝が作った故宮の小型版といってもいいし、小型版と言っても明朝の宮殿と違って女真族の作りの宮殿であると強調してもいい。
私 はまだ薬科大学のお客の訪問教授の時代に一度、そして昨年私の友人たちが瀋陽を訪れたときに一度故宮を訪ねている。今回は私に代わって研究室の修士1先生 の陳陽くんに案内を頼んだ。陳陽くんは背丈が190cmもある上に、ファッションの先端を行く人で髪は長髪、着ている服はそこら辺では見かけない凝ったも のなので、薬科大学では彼のことは誰でも知っている。人と同じでは嫌だ、と言う強烈な主張がある人だが、勉強はよくするし、日本語能力も高く、しかも人 懐っこい。
22日の午後は研究室で古川先生を交えての研究討論会を予定している。討論会と言っても、古川先生の今の研究は昨日公開のセミ ナで聴いているので、今度は私たちの番である。出来れば院生それぞれに話をさせて古川先生と知り合って欲しいけれど、院生8人の研究進展はバラバラだし、 時間も掛かる。それで二人を選んで話をさせた。一人は、博士課程の王Puくん、もう一人は博士課程2年の王麗である。
王Puくんは博士課 程の時から預かった学生である。そのころ生化学教室の張先生のところと共同研究を始めようかという話になった。張先生のところでは民間薬として昔から使わ れているサソリの毒が神経毒だけではなく腫瘍の抑制にも使えるというdataを出していた。このサソリの毒素は精製されて構造が調べられて、大腸菌の中で 作らせた組み換えタンパクである。
腫瘍の抑制と言っても細胞の何処にどのように効くかかという機構がまだ分かっていない。細胞の中のシグナル伝達なら私たちが出来る。というので、張先生のところから学生が一人来て共同研究が始まった。この学生がその頃博士課程に入ったばかりの王Puくんである。
培 養細胞を色々と揃えて、彼の持ってきたサソリの毒素を加えると、どの細胞もよく死ぬ。正常細胞も死ぬ。そして死に方がどの細胞でも同じようである。これ は、サソリの毒素ではなく標品の中に入っている大腸菌のエンドドキシンではないかと疑って、その標品をクロロフォルム-メタノ−ルで抽出して見ると、その 抽出液でも同じように細胞も死ぬ。
つまり大腸菌で組み換えタンパク質を作ってその効果を調べていたつもりが、混ざっていたエンドドキシン が細胞を殺していたのである。王Puくんは博士課程に入って最初の8ヶ月を全く無駄なことをやって潰してしまったのだ。責任は製品の検定をしていない張先 生の研究室にあるが、私も材料を人に頼っていたのでこのようなことが起こったわけだ。
それでどうしようかと張先生に訊くと、そちらで好き なテ−マを与えて好きにやってくれと言う。つまりうちに博士課程の途中の学生をぽんと寄越したことになるわけだ。呆れた話だが、研究熱心な王Puくんを 放っておくのは気の毒である。と言うわけで私たちの研究テ−マから選ぶことにして、彼の博士課程の研究は昨年の5月から始まった。
それか らが凄かった。王Puくんは猛烈な勢いで実験をして、半年後の9月には課程2年になった学生の中間審査があったが、それを軽くクリアできるだけの成果を挙 げていたのである。彼の研究は、ガングリオシドGM3による細胞の挙動の変化がどのような分子を通じて引き起こされるかを明らかにするものであった。
王 麗はFBJ細胞を使ってGD1aがカベオリンやStim1の発現を制御していることを明らかにした上に、まだ他の分子も制御されていること、そしてそれら の制御回路はどのようなものかを明らかにしてきた。私たちの研究室の一番のねらいはGD1aのシグナルが細胞にどのように伝わっていくかを知ることであ り、そのために私たちは様々な実験手法を試みているが、彼女は結果がどう出るか分からない、このような「あたりをつける」実験も嫌がらずに進んで引き受け てやって呉れる姉御肌の女性である。
水曜日の午後2時から研究室の全員が集まって、二人の話を聴いた。全部で16人ここにいるけれど、二 人は古川先生に向けて話している。古川先生に話を分かって貰って、そして研究に対する批判・意見を聞きたいのだ。実際二人の話の熱意と内容は古川先生伝わ り、それぞれ的を得た批評と激励を貰っていた。ひいき目にしても、二人は立派な成果を挙げている。私もこうやって成果を聴いて、ここのような環境で良くも ここまでこれだけの結果を出せる学生を育てたものと思ったのだった。
開元ビルにオ−ナ−の好意で入れていただいていた日本語資料室の移転が必要になったときに、開元ビルのオ−ナ−の口利きで、和平区政府が自分のところの孵化器ビルに入って良いですと言ってくれたのこの8月だった。
それから何度私たちは交渉に出掛け、朗報を待ち望んだことだろう。相手は和平区政府なので私たちに出来ることは何もなく、実際上は伊藤忠瀋陽支店長の高木さん(及び馮さん)と、在瀋陽日本国総領事館の森領事、川端領事が全ての交渉をやってくださっていた。
総領事からは相手の局長宛に公文書も一度送られた(10月9日)。それでも局長は教師の会を受け入れることに首を縦に振らない。日本国阿部総領事からは瀋陽市副市長宛に「日本人教師の会はこれこれこのように御地の日本語教育のために力を尽くしている教師の親睦団体で、決して怪しいものではないことを日本政府が保証するから、和平区政府の孵化器ビルに彼らの資料室を置かせてやって欲しい」と言う公文書も送られた(11月9日)。
副市長はそれに和平区の局長に「よしなに計らえ」と添え書きを付けて送っている。このような状況を受けて私たちは11月16日に日本総領事館川端領事、高木さん、馮さん、日本総領事館通訳翁さん同道の元にふ化器ビルを訪ねたが、面談の約束があったにもかかわらず局長は不在だった。代わりの部長が私たちに応対 して、「契約をしても良いが、契約書には、『3ヶ月以内に日本人教師の会は登録申請をする』と言う条項を入れる」と述べた。
日本人教師の会を何処に登録申請して、許可を貰うのか、と言うのが焦点になるが、誰も、つまり日本側も、さらには驚いたことにはそれを主張する中国側も何処に申請して何処で許可が貰えるのか、大体そんなことが可能なのかを知らないのだ。瀋陽日本人会だってその意味では「非合法団体」になるわけだ。
このときはそれが焦点で、しかも局長不在であり物別れだったが次の月曜日の11月20日は先方から会談を求めてきた。その時の状況はすでに20日の日記に書いているが、中国企業を保証人にしようというものだった。それでその提案を受けてその時は、めでたしめでたしで終わった。しかし実際に契約書を交わすために高木さんと馮さんが契約書の検討に入って先方と連絡を取ると、先方の躊躇がますます顕著になり、引き受けると言った中国側の総経理も弱腰になってきて、結局、ここで無理して教師の会を引き受けて貰っても、本質は日本語資料室を受け入れたくない気持が見え見えである以上、絶えず不安を抱えることになるから、断念するしかない、と言う結論が出された。
和平区が引き受け、直ぐにでも移って良いと言うことだったから、私たちは9月17日には荷造りをし、移転を待っていたのだった。つまりその日以来資料室は閉鎖されているのである。実際にビルの改装開始で開元ビルを最終的にでる日限は10月末日だった。
「瀋陽日本人教師の会は非合法団体」だから局長は自分の責任でビルに入れることを認めることが出来ないのだろう。東北三省は日本語教育に力を入れ、日本企業の進出を待ち望み、大歓迎しているにもかかわらず、日本語教育に自分の時間と身を捧げている日本語教師の集まりに、このような冷たい仕打ちしかできないの だ。
間に入って先頭に立って交渉をしてくださった高木さん(そして馮さん)、森領事・川添領事には、私たちはただただ感謝の言葉しかない。本当にありがとうございました。当事者でありながら私たちは当事者能力に欠けていて何も出来ずに全部頼り切りだった。
結果が、うまく行かず実に残念でしたし、又この先も行き先探しにお世話になりますが、どうかこの先もよろしくお願いいたします。再度、ありがとうございました。
11月25日土曜日午後2時から薬科大学の私の教授室でホ−ムペ−ジ作成のための講習会が開かれた。どうしてこのような話になったかというと、私はHPの係を ずっとやって来てコンテンツを色々と広げてきかが、いまでは一人で全部をまかないきれなくなってきている。それで、前期はほかのそれぞれの係にお願いして、それぞれ担当の原稿を作ってもらってそれを載せていた。しかし今期からは、それもそれぞれにお願いしたいという希望を述べておいた。
定例会記録がこのところHPに載っていないので、係の中野先生にお願いしたところ、原稿は出来ているからwebsiteへの載せ方を教えて貰えば自分でやり ます、と言うことだった。すご−い。それならば、何時か土曜日に大学に来てくださればお教えしましょう、と言うことになった。と言う行きがかりで、 Windows音痴の私がホ−ムペ−ジ作成の手ほどきをすることになったのだ。
土曜日にも何かと用事があって 延ばしのばししていたけれど、とうとう11月の定例会には中野先生のあの目で見つめられて、何時教えていただけるんですか、と言われて、とうとう「じゃ2 週間後の土曜日の2時に」と約束をしてしまった。その時山田先生も横にいて、「私も行きますから」と言うことになった。さらにこの話を聞きつけて、他の先 生もいらっしゃりそうなので、HPの掲示板にも公開しておいた。
土曜日は、中野、安部、池本、若松、山田先生が来られたが、このほかに日本語クラブの増刷りをしたいという加藤先生と文子夫人、その手伝いをしようという南本先生も来られて私の部屋はいちどに賑やかになった。
若松先生は土曜日午前中の中国語の学習で安部先生と一緒なので付いて来たけれど、元々野次馬らしく、私たちの建物の2階にある卓球台で峰村先生が遊んでいる と聞くと、直ぐにそちらに飛んでいってしまった。山田先生の技術はUnixを使って直接HPに書き込むというやり方なので初心者には難しく、私がソフトを 使うhtml文書作成をおしえた。
フォルダ−に一つ原稿を作ってindexと名付け、もう一つ写真を入れたfileを作って相互にリンクを張り、ここまで出来れば、サ−バにサイトを作って実際にサ−バにアップロ−ドするだけである。安部先生は実際にYahoo にwebsiteを登録して、これで自分のHPが始められると張り切っている。
横では加藤先生が黙々とコピ− 機相手に日本語クラブの増刷りを行い、文子さんがそれを助け、池本先生は「あら、ホントは私の仕事ね」と言いつつも、私の頼んだ別の仕事に掛かりきりである。この別の仕事とは、教師の会で愛唱曲集を今までに第1集と第2集と発行したが、近いうちに第3集を発行ししよう、今度は欲しい歌は全部網羅しようという計画で、1000曲を越える歌の歌詞を私が集めたのだ。歌を集めすぎてしまったし、私個人の好みなので皆で希望する曲を選部必要がある。30ペ−ジに及ぶ歌のタイトル、と歌詞から欲しい歌に丸を付ける作業が池本先生を待っていたのだった。
6時頃今日の作業の終 わる目処が付いたので、学生の陳陽くんに近くのレストランに電話をして貰った。近所のイスラムの又一飯店は前夜薬科大学の面子で行ったばかりなので、湘香餐庁に部屋を取った。それなりのレストランに、しかもこの近間で10人の部屋を直前に取るとなると余り選択の余地がないのだ。辛いのと高いのがこの店の欠 点だが、もちろん味は上等である(一人あたり47元だった)。
陳陽くんも加えて割合珍しい顔触れで話もはずみ、激辛料理を楽しんで店を出たときは小雨が降っていた。このあと寒くなりそうだ。
22日水曜日午後は前に書いたように、学長が院生全員を招集して、論文ねつ造事件について皆の注意を喚起す る会があった。それとぶつかるので古川先生のセミナを到着早々の21日に変えたのだが、22日午後、私たちの研究室ではセミナを開いた。学長の話に出られ なくなるわけだけれど、うちの院生にきいたら、この研究室で論文ねつ造をしようと考える人は一人もいないでしょう、ですから出席する必要はありません、と 言うことだった。
そのような状況下で水曜日午後2時に古川先生と私の他に、院生と学生が14人集まって王PUと王麗の研究発表を聴いたのだった。古川先生も所々質問をするけれど、うちの学生たちも色々と聞いている。人の話には質問で応えなさいと叱咤激励した効果が出ているようだ。
質問が出ることで、聴いている私もそうか、こっちのことを調べなくてはいけなかった、など思いついたりするので、このように皆が興味を持って話をフォロ−することはありがたい。
4時半になって、そういえば昨日のセミナで、聴いている学生に長岡技術科学大学への留学に興味がある学生はいらっしゃいと古川先生が言ってあったのだ、と思ってドアを開けると学生が5人外に待っていた。全員女性である。
「古 川先生、先生のところに留学したいのです。」と口々に言っているけれど、古川先生は誰でも直ぐ来られる用意をしてこの席に望んだのではない。成績優秀で、 そして自分のところに来て研究をしたい学生がいれば、奨学金が取れるように努力しようと言うものである。言うまでもなく、中国から来る学生は一般的には奨 学金が得られなければ日本で勉学を続けることは困難である。
ただし今では中国にも結構な数の富裕層が出始めたという話である。富裕層の リッチ振り私などの想像を絶しているようで、このような人たちは子女を日本に留学させることとなど何でもないのである。現に古川先生の一つの瀋陽訪問の目 的はそのような留学志願者に会って面接することで、その学生は昨日もセミナを聴きに来たし、今日もここに来ていた。
古川先生は一人一人に 丁寧に対応しながら、「奨学金を申請することになると、それは成績順になりますから、ともかく学部の成績が良くないと通りません。あなたたち大丈夫です か?」。と言っている。彼女たちそういわれると互いに顔を見合わせているし、さっきまでの元気が弱くなったようだ。「メイルアドレスを教えますから、私の ところに留学を希望する人は、公式の成績証明書の電子アイルを送って下さいね。」と言うことになった。
その翌日には古川先生は次の訪問地 の上海に向けて瀋陽を飛び立ったあとだが、新たな学生二人が訪ねてきた。同じく留学希望である。成績証明書を二人とも持っていて、クラスの1番と8番の子 である。GPAともにいい値である。これなら古川先生のところで受け入れて貰えるかなと思いつつ、彼のアドレスにスキャナで成績を取り込んでから添付書類 で送った。
日曜日になってそのうちの一人が来て、「古川先生のところに留学したいと先生にお願いをしました。その時は両親と電話で話して 留学して良いと言われたのですが、この週末に自宅に帰って親に会ったところ、留学はやめて欲しいと説得されてしまい、考えを変えました。今からやめてもい いですか?先生、ご迷惑を掛けて済みません。」
留学志願をやめたいというなら、いいも、悪いもない、ああそうですかと言って今回は古川先生に連絡するだけである。今回は私が推薦しているわけでも何でもなく、単に志願を中継しているだけである。
で も、いつかのことを思い出してしまう。今から4年前のことで、私が日本にいた頃である。薬科大学に時々来ていたので親しくなっていた当時の薬大の日本語の 先生からクラスの女子学生が日本に留学したい希望なので留学先を見付けて欲しいと頼まれた。本人を知らないのに推薦は出来ないけれど、何しろ知っている先 生に頼まれたのだ。断れない。
と言うわけで彼女とmailのやりとりを何度もして、希望を訊いて東北大学の私の友人に頼んだ。彼は彼女を 研究室で留学生として引き受けようと言ってくれた。これは2月頃のことだった。ところが7月に私が瀋陽に来たときに初めて会った時に、世話になった先生と いうので私たちのことをまめに世話してくれたが、やがて日本に留学したくないという。どうして?母が反対しています、という。
一方受け入れ先の友人は大学の国際宿舎の手配までして待っているのである。行きたくないというならどうしようもないが、私はこれでこの友人の信頼を一切失ってしまった。
それ以来私は留学の世話にはとても慎重である。本人を直接1年以上見ない限り推薦しない、と言う鉄則を設けたのである。きついようだが、隣の池島先生は3年自分のラボにいなければ推薦しないという厳しさである。
日本語資料室の移転問題で、当てにしていた和平区孵化器ビルの態度が頑なで私たちを受け入れるとは思えない状況になった。私たちは他を探さなくてはならない。和平区孵化器ビルの話を持って来てくださった伊藤忠高木さんが、又他のところを探す努力をしてくださるだろうけれど、今まで教師の会は何の能力もな く、全て高木さんと領事館のかたがたに交渉をお願いするしかなかった。
私たちにも出来ることは何だろう。私たちで日本語資料室の移転先を見付けられるだろうか。このような状況で思い出すのは、開元ビルのオーナーの好意的な提案があったときに、別のビルのオーナーからも貸して良いという話があったことである。
3月末の日本人会総会で日本語資料室の移転先がないと教師会が訴えたときに、朝日新聞が「草の根交流ピンチ 日本語資料室の行き先がない」と言う記事を載せてくれた。これに対して中央大学の李廷江先生が、自分は日本人に世話になっている、自分の友人にビルのオーナーがいるからそこに話をして無料で部屋を使って貰おうと申し出て下さった。
4月3日に私たちがその集智ビルのオーナーに会ったところ、自分の友人の李廷江 先生が日本人の窮地を見かねて無料で部屋を貸してあげて欲しいと言っている、友人の言うことだから私も無料であなた方に部屋を貸す、どの部屋でも良いが、部屋の管理をしている別の会社へ管理費・光熱費は払って欲しい。この管理費が1年約2千元と言うことだった。
このあと伊藤忠の高木さんの友人である開元ビルのオーナーから部屋を無料で使って良いという申し出を頂き、管理費・照明費も不要で自分の電話代だけで良いという寛大な条件だったので私たちは開元ビルを選び、そして集智ビルのオーナーには事情を話して丁重にお断りをしたのだった。
あれから半年経っている。再度集智ビルのオーナーに部屋を頼めるだろうか。駄目かも知れないが、私たちは部屋探しが出来るところを他に知らないのだ。先ずここから始めよう、と言うことで、鳴海さんが集智ビルのオーナーに連絡したところ、「いいよ、何平方米の部屋が要るの、見に来ませんか。」と言う返事が直ぐにあった。11月24日金曜日のことである。
状況を高木さんにも領事館にも報告して、27日月曜日午後4時集 智ビルに私たちは出掛けた。森領事、伊藤忠からは馮さん、教師会の南本、峰村、鳴海、そして私である。オーナーは不在だったが係の人が直ぐに次々と部屋を見せてくれた。140平方米は立派で広すぎる、86や110平方米では狭いね。120平方米のところが場所もいいし、これにしよう、などと仲間内で相談し て、オーナーの部屋に行ってオーナー代理と話をした。
部屋は前に言ったように部屋代は無料で貸そう。しかし管 理費は1平方米あたり毎月3元必要で、電気代も別途払う必要があることが分かった。120平方米だと毎年4320元だ。とんでもない。一番小さい部屋が 86平方米なのでこれでも毎年3096元だ。たまたま教師の会は今までの蓄積で現在は3千元を持っているが、私たちにその先毎年3千元を払う財源がない。 しかし、資料室の閉鎖が3ヶ月も続いているのだから、もう選択の余地はない。
毎年3千元の財源は別途考えるこ とにして、先方が良ければここを貸していただくようにお願いしよう、と私たちは即座に決めてオーナーの李暁東さんに電話をした。この電話は伊藤忠の馮さんにお願いした。馮さんは阪大工学部卒で日本語堪能な好青年である。馮さんは出張の予定があったのに、高木さんの配慮で参加して貰えたのだった。
オーナーは良かろう、私たちの教師の会の存在を公安と安全局が別に問題にしないなら、契約しよう、契約書については今までのひな形をこちら(教師の会)が送ってくれれば、それを検討しよう、と言ってくれた。公安と安全局には領事館に出張っていただいて別途お願いすることになっている。
以上のことが馮さんから高木さんに報告されて、高木さんが早速契約書のひな形を作成して下さった。高木さんがこの契約書のひな形を集智ビルのオーナーの李暁東さんに送ったところ、11月29日にはこれでいいから何時でも契約しようという返事が来た。
あとは両者の時間の都合をすりあわせて一緒に出会って契約書を交わすだけである。
帰国した古川先生から連絡があった。長岡技術科学大学 で来年3月に大学院GPプログラム(大学院生の相互交流による研究推進プログラム)会議をすることになった。ついてはこの会議に瀋陽薬科大学の国際交流処 長の程卯生教授に出席して貰うよう頼んで欲しいというものだった。
瀋陽薬科大学における教育・研究の取り組み(日本語学科があるとか、環境学 科の問題点など)を20分ほど話をして貰えたらよい。旅費・滞在費は全て、長岡技術科学大学で負担するという、つまり招待である。この会議には外国から他にも数名出席する予定だそうだ。
こ のような内容なら、先日古川先生の訪問の際に程卯生教授が主催した晩餐会があったから互いに知っているわけだし、古川先生が直接招待状を書けばよい。古川 先生は何しろアメリカに7年間滞在しただけあって、私など足元にも及ばない見事な英語使いである。それなのに自分で直接書かずに私に依頼してきたのは、私 の顔を立ててのことだろう。というわけで、彼の依頼に応じてまずい英語で書いて程卯生教授に頼むことにしよう。
Dear Prof. Dr. Cheng Maosheng:
CC: President Wu ChunFu, Prof. Furukawa
Professor Kiyoshi Furukawa, who visited our University last week and whom you kindly invited to dinner with me, sent me a mail, asking if you could visit to attend a Meeting on Graduate School GP Program to be held at Nagaoka University of Technology, on March 9, 2007.
The meeting may mean the start point of mutual exchange of graduate students and faculty staff between two universities in future.
At the meeting you may talk on the successful education of pharmacology using Japanese language at Shenyang Pharmaceutical University and its benefits to students and society, and start and perspectives of Department of Environment at Shenyang Pharmaceutical University, for example.
You may be allotted 20 minutes for your talk.
Your travel expenses including accommodation for up to three nights would be covered by Nagaoka Universsity of Technology, Professor Furukawa wrote.
Several representatives from abroad would also join the meeting. I understand that, when you will attend the meeting, you will represent Shenyang Pharmaceutical University, and in case when you cannot be present at the meeting, someone else representing the University will attend it.
According to his explanation, GP may stand for Graduate Practice. Graduate School GP Program may mean a budget supporting education and research at the graduate school.
Once you may send me a positive answer, Prof. Furukawa will have direct contact with you.
Yours sincerely,
Tatsuya Yamagata, D.Sc.
P.S. There is a Graduate School for Environmental Research at Nagaoka Universsity of Technology.
私 の出したmailに二日後には程教授から返事があった。古川先生から招待を受けた会議で、薬科大学に於ける日本語による薬学教育の成果の話をするなんて嬉 しいじゃないですか。自分か学長かが出席できるようにしたい、二人とも駄目なら誰か薬科大学を代表出来る人を会議に派遣することにしましょう、と言うもの だった。これで古川先生は私の顔を立てたわけだから、あとは互いに直接話を進めればよいことになったわけだ。
12月4日午後、瀋陽日本人教師の会は集智ビルの李暁東さんと部屋の貸借契約を交わした。
12月5日朝、南本代表から以下のmailが教師の会の全員に届いた。
ーーーーーー ーーーーーー ーーーーーー
8月末から話のあった「和平区国際科技孵化器」への移転は、話し合いをはじめてから約3ヶ月経ちましたが、一向に埒が明かなく、話が進展どころかむしろ後戻りをしている状態でした。そこでこの話は凍結して、他にもあたってみようということになりました。
3月に移転の話が出たときに、瀋陽で資料室を探していると言う記事を朝日新聞が 取り上げてくれ、東京版に載ったことがあります。その際に中央大学教授の「李廷江」先生から、友人の瀋陽市のビル「集智大厦」(瀋陽市和平区南京南街150号)の オーナーである「李暁東」社長を紹介され、ビルの1室を家賃を無料で貸してやろうと言うことで、会ってお話を伺ったことがあります 。そのときには今回のようなことになろうとは夢にも思わず、いろいろと考えて現在の「開元大厦」へ決めて引越しをしたわけです。
その、「集智大厦」へもう一度移転の話を持っていったら、気持ちよく引き受けてくださることになりました。話し始めてからわずか10日足らずで契約をすることができ、今日(12月4日)無事に契約を交わしましたのでお知らせします。
詳しいことは今度の教師会でお話させていただきます。
新しい資料室の場所は「集智大厦」(瀋陽市和平区南京南街150号)で、東北開放記念碑からはそんなに遠くなく、バス停で言えば、新華広場と太原南街の間の高架になっているところです。
後は、安全局(公安関係を含む)との話し合いが残っていますが、それも領事館のお世話で近いうちに日時等が設定されるものと思っています。
つきましては引越しを12月9日(土) 9:00から行いたいと思います。「開元ビル」に9時前にお集まりいただいて「集智大厦」へ運ぶことになりますが、 当日お手伝いいただける先生は12月7日(木)までに峰村先生へ連絡をお願いいたします。(学生にも手伝いを依頼する予定です。)
当日の予定は下記の通りにしたいと思います。
引越し日時
2006年12月9日(土)
* 9時に、業者および教師の会の先生で都合のつく方集合
* 業者名:「多摩運輸」 担当者:朴紅梅さん(日本語堪能)、携帯:138−4018−9430
* すぐに作業開始。地下の倉庫(鍵は南本が持参)から、業者のトラックへの積み込み。
教師側は、壊れ物に注意をするよう、監視?のみで、軽い物以外運搬はしない(原則)。
したがって、係りは、か弱い?女性でも可。
?A 「集智大厦」へは、10時頃一便が到着予定。できたら「開元大厦」出発時に「集智大厦」の賀さんへ一報入れる。
* 当日、「集智大厦」では、トラックは地下のエレベーターの近くまで行けるそうです。
* 第2便が必要な場合は、二人は「?元大厦」に残って、荷物の保管、運搬の指示等を担当し、最後に「集智大厦」へ来る。
「集智大厦」では、8階までエレベーターで荷物を運び、811号室
に入れる。その後、室内の整理をする。
年末のお忙しいときではありますが、お手伝いいただける方はどうぞよろしくお願いいたします。一段と寒さが厳しくなってきますが、どうぞご自愛ください。
南本卓郎
11月30日木曜日の夜うちに帰って晩ご飯を作って食べ始めたが、どうも気が進まずのろのろと少しだけ食べ て後片付けをしたあと、ソファの上に身体を丸くして横になった。どうも気分が悪いのである。テレビを付けて音を聞きながらそのまま1時間ぐらい耐えていた けれど、とうとうトイレに行った。
ひどい下痢だった。その最中にどんどん貧血気味になり胃がむかむかしてきた。何とかトイレを済ませたと ころで、胃の中身が突き上げてきて嘔吐した。これが10時頃のことだった。ひとまず収まって就寝したが、夜中の12時に、又同じことが起こった。トイレに 座っているだけでも気持ちが悪く、頭の中の血が引いていくのが分かる。汗だけがむやみに出る。再び下痢をしたあと、暫くバスル−ムの床に踞って気分の悪さ を耐えたあと思いっきり嘔吐した。しかし気分の悪さはずっと続きもう寝るどころではない。朝の4時になっても同じことを繰り返した。
翌日 になっていつもの時間には出掛けられず、8時頃に学生に電話をして遅くなることを伝えた。10時頃に研究室に行ったが、熱はないと思うけれど自分でも正常 ではないのが分かる。原因の分からないのが気持ち悪い。昨日悪いものを食べた覚えはなく、どうしてひどい嘔吐と下痢に見舞われたのか分からない。結局、こ の日の夜の研究室パ−ティも含めた全ての予定をキャンセルしてうちに帰ることにした。王毅楠と暁艶がうちまで一緒に送ってくれた。帰って直ぐ寝てしまった が、目覚めてからもしやと思って熱を測ると38.3度ある。そうか、これが、風邪のウイルスがお腹に来るstomach fluだなと納得した。
嘔 吐は一晩だったが、下痢が丸二日続いた。熱も二日続いて、3日目の日曜日には微熱になった。お腹をこわすと収まるまで何も食べないというのが私のいつもの やり方である。学生たちが始終電話をしてくれたし、実際毎日うちに見に来てくれて、食べ物の心配もしてくれたが、木曜日の夜以来、金、土、と食べずにやっ と日曜日になって学生の作ってくれたおかゆを食べ始めたのだった。
中国に暮らしていて一番恐ろしいのは病気になることだ。今まで、風邪や 腹痛で休むと学生たちが来て病院に行きましょうと言ってくれるが、何時も私は断っている。私の具合の悪くなるときは決まって、妻が用事で日本に行っている ときである。一人で具合の悪くなるのは、本当に不安だ。一方学生だって一人っきりの老師の具合が悪いとなると心配で心配で堪らないだろう。せめて病院に 入って欲しいに違いない。
でも、病院には入りたくない。妻が救急で病院に運ばれたこともあり、ますます病院忌避症の感じである。その時の ことを一度書いてみたいと思うが、一方で、それを書くのもおぞましい。この8月に妻が緊急入院して、その時はその病院が思ったよりも程度がよかったので、 ちゃんとした病院もあるという認識は持ったが、病院忌避症は抜けていない。
というわけで、健康第一と心がけて中国では暮らしている。一番大事なのはよく寝ることだと思って、何時も10時半には寝て朝5時半に起きるという生活を続けているけれど、とうとう風邪のウイルスにとっつかまってしまったわけだ。
今回は下痢が二日続き、脱水症状になりかけた。身体が水を受け付けないときは、どうしても点滴が必要となるだろう。救急に行かなくてはならない。それで乱雑な救急の広いフロアで点滴を受けている自分の姿が思い浮かんで、苦しい症状が二重に情けない思いだった。
下痢が二日で終わったときはどんなに嬉しかったことか。かさかさ、しわしわになった手を擦り合わせながら歓呼の声を上げた。声は一人切りのうちの中でうつろに尾を引き、響いて消えた。
昨年の12月の何日だったか、私たちの教授室の隣の池島先生が入ってきて、「今日の天皇誕生日祝賀会の招待 が来ているでしょう。一緒に行きましょう」という。在瀋陽日本国総領事館の主催する祝賀会があるらしいことは日本人会幹部の人たちの言葉で聞き知っていた けれど、私たちのところに招待状は来ていなかった。
「いえ、呼ばれていないんですけれど。」と答えざるを得なかった。気の毒に池島先生は非常にばつの悪い思いをしたに違いなく、こちらまで困ってしまったのが昨年のことである。
今年は瀋陽滞在4年目にして初めて天皇誕生日祝賀会の招待状が届いた。在瀋陽日本国総領事館・安部総領事の主催する祝賀会を12月8日シェラトンホテルで開くので出席して欲しいという領事館の紋章入りの招待状だった。
私 の風邪のあと同じような症状で休んでいた池島先生が8日には出てきたので、今日の会に一緒に行こうと思って朝となりの部屋に入っていって声を掛けた。「今 年は天皇誕生日祝賀会の招待を初めて貰いましたよ。後で一緒に行きましょう。」ところが、池島先生は「いえ。今年は貰っていないんですよ、ですから、先生 お一人で。。。」今度は私が大変ばつの悪い思いをしてしまったのだった。
何でこんな、私たちにとって具合の悪い事になるのだろう。薬科大学の日本人教授二人を毎年交代で招くことにしたのだろうか。二人一緒に招んだっていいだろうに。
と もかく5時半開演というので5時過ぎにタクシ-に乗って、五つ星の、中国語では喜来登酒店というシェラトンホテルに出掛けた。シ−・ライ・ダンと言っても タクシ-の運転手になかなか通じない、いや、通じていないのではなく、私のダンの発音がいけないらしく、嬉しそうに盛んに直している。このダンはdeng で、denの発音は出来なくても、dengは日本人には得意な発音のはずなのだが。運転手は私が何度言っても言い直している。私には違いが分からない。
ホテルに着いたらメ−タ−は8元だった。10元出したら1元のお釣りしか寄越さない。1元を持った手を突き出してこちらの出方を伺っている。こんなことでめげる私ではない、きっちり2元のお釣りを取ってタクシ-を降りた。
案 内にしたがって3階に行くと総領事館の領事たちが総出で私たちを出迎えている。部屋はかなり大きなところで、長方形型の部屋の短い壁の一隅に祭壇みたいに 高くなっていて、その後方の壁には左に中国国旗、右に日本国旗が掲げてある。その前にこちらを向いて椅子が12位並んでいる。名前が書いてあって真ん中は 阿部総領事だった。
反対側の隅にはやがて提供される料理が並んでいる。開始時間の5時半頃にはこの部屋に溢れるほどの人たちが集まってき た。部屋の入口で飲み物を片手にした人の数が増えている。日本人会の会員は二百人くらいと聞いていたのに、そんなものではない。五百人近い参列者だったと 思う。着物姿も目に付き、その美しい着物姿の女性にあでやかに挨拶されて、しばし絶句してしまった。私たちの薬科大学に学士入学して4年生に在学して中薬 (漢方)を勉強中の片山さんだった。その時は学生さんという意識が見ていたけれど、彼女は妙齢の婦人で、実は領事夫人なので今日は領事館の接待側の一員と して心を砕いているという。いや、お見それして大変失礼いたしました。
やがて視界の言葉で開会が宣言され、先ず雄壮な中国国歌だった。こ の頃オリンピックゲ−ムの時に聞く機会が増えた国歌である。次いでゆったりとした日本国歌が流れた。私は嫌な思い出に繋がる君が代は好きではないが、こう やって異国で聞くと、自分は日本の国のひとりであり、ある時は自分の行動が日本の代表として見られることもあるのだという気持を強く意識する。
阿 部総領事の挨拶が始まったが、会場の後ろ半分は新たに入ってくる人たちもいるし音響が悪くて挨拶が聞こえないので、皆が勝手に談笑している。うるさくてま すます聞こえない。したがって皆が総領事の発言そっちのけで勝手に振る舞うという悪循環が起きていたようだ。仕方なく前の方に行って挨拶に耳を澄ませた。 日本の総理が替わって日中関係が改善される方向に踏み出したことは、総領事の挨拶、続いて立った中国側の来賓の挨拶にも伺われる。結構なことである。
招待側と来賓の挨拶のあとの懇親会では、教師の会の馴染みの南本先生や、瀋陽における知人に出会ったほか、今までに見知っていてもなかなか会えない人たちに会い、あるいは新しい人たちに紹介されたりしているうちに、気付くと瞬く間に1時間半が経っていた。
10月半ばのこと、東京工業大学の以前の同僚だった三原先生からmailが届いた。
『東京 工業大学大学院生命理工学研究科の国際大学院(全国全体の制度)が新しくなり、新規に来年2007年10月入学者から 生命理工学研究科だけで国費留学生 を7名取れるようになります。募集はすでに始まっており、11月10日までにノミネーション(GPAとTOEFL)12月に正式申請です。』
『もしいい学生がいましたら、ご推薦ください。GPA>3.2、TOEFLE >200が理想として要求されます。修士・博士一貫コースです。修士持っている学生も入学できますが、米国などと同様、もう一度修士からです。』
東 工大には以前から国際大学院が開設されている。この国際大学院は留学生に日本語能力を要求せず、英語が公用語だった。じゃ、留学生のために英語環境が十分 用意されているかというと、学生課にも、国際留学生宿舎にも英語を話す職員が誰一人いないという状況だった。講義も修士課程で最低3つの科目の履修が要求 されているのに、急遽用意した英語で開講した科目が3つだけなので、国際大学院の留学生は否応なしにこの3つを取らざるを得ず、評判が悪かった。
生 体分子工学科の教授たちで連合して作ったbiotechnologyの講義で私も数回英語で講義をしたことがある。15人くらいの学生がいて何人かは顔見 知りの日本人学生である。おやおや留学生じゃなくて日本の学生が聴いているのかと思いつつ外国人らしい顔を探して、「Hello. Where are you from?」と訊いたら、「I'm a Japanese.」という答えが返ってきた。彼の研究室とは仕事のつながりがあって、やがて彼の修士論文の審査をしたくらい密接な付き合いになったのだ が、今でも彼のその時の憮然とした顔を思い出す。
私は1993年にポ−ランドで開かれた国際糖質学会の時にクラコフ大学の友人に頼んで、 良い学生を推薦してもらった。翌年こうやってリクル−トした学生が私の研究室に来た。Kasiaというこの女子学生は私の研究室で学位を取り、その後東京 医科歯科大学の職員となった。ヨ−ロッパにあって列強に翻弄され続け、しかし独立不羈の心を失わなかったポ−ランド人のねばり強い根性を持つ一方で、大和 撫子の美しい心情を併せ持ったKasiaはやがて日本人と恋をして、私たちが日本の両親となって結婚をした。このように国際大学院は私たちに深く関わって いる。
文面によると、あの頃の国際大学院は東工大一つのものだったが今では全国規模になったようだ。しかも日本政府の奨学金でサポ−トす る留学生の数も大幅に増えたらしい。インタ−ネットでこの募集を調べてみると、留学生の応募できるところはアジア諸国である。国策としてアジア重視に本気 で転換したように見える。
三原先生と何度もmailをやりとしながら、薬科大学の中に「東京工業大学国際大学院コ−スの募集」という掲示を英語、中文で張り出した。二日のうちに色々な質問を抱えた10人位の学生が私のところにやってきた。
必 要経費のほぼ全額が政府奨学金でまかなえる留学生の募集である。殺到しない方がおかしい、と思ったが、人数が思いの外少なかったのにはわけがあった。一つ にはTOEFL>650点以上の成績を持っていること、一つには成績が上位10%に入る学生であること、という条件が付いていたのだった。薬学部に は日本語クラスがあるが、最初の2年間は英語を勉強して(中国の)英語6級試験に合格しないと日本語クラスの3年生に進学できない。したがって日語班の学 生は英語も良くできるけれど、TOEFLなどの資格を持っていない学生が多い。又、基地クラスを除く学生は3年までの成績で上位10人は大学院入試免除と なり中国のどこでも行きたい大学院に進学できる。こうやって推薦を受けた学生は志望校に登録するとそれは(中国では大学院も研究所も国立が殆どである)国 と契約したことになって、それを取り消すことなどとんでもないことである。ということは、11月という時期では、来年度の学生を募集するには遅すぎると言 うことである。
私のところに来た学生には、私は単に仲介人であること、したがってTOEFLと大学の成績を証明する公的書類を持ってくれ ば東工大の試験委員会に取り次ぐと話したところ、東工大の設定した期日の11月10日までに書類を持ってきたのは3人だけだった。薬学日語の李さん、薬学 英語の呉さん、同じく薬学英語の楊さんである。
もちろん3人分の書類を私は東工大に送った。こうやって集まった書類から東工大の入試委員会は書類選考をして、選ばれた候補者に面接を行うと言うことである。
(続く)
12月10日は瀋陽日本人会のクリスマス会だった。毎年12月はじめに開かれるクリスマス会は日本人会の年間の行事予定の中では会員に一番の関係の深いメインイベントである。毎年、五つ星ホテルのマリオットホテル(万豪酒店)の豪華な大広間を借りて開かれている。クリスマス会については私が前に「日本語クラブ」19号に書いた文章がある。
『教師会の定例会のあるとき、実行委員会のメンバーから年末のクリスマス会への要望を問われて、中道秀毅先生は「クリスマス会で座る所ね。あれは私達はあちこちのテーブルにバラバラに座らされるでしょ。だから、テーブルに座っても周りは会社の人ばかりでね。会社の人たちは互いに知っているけれど、こっちは誰一人知らないから除けもんになっちゃって、ちっとも面白くないですよ。教師の会の会員でテーブルを囲むことは出来ないでしょうかね。今度は是非教師で纏まって坐れるようにして貰いましょうよ。きっと楽しいですよ。」とおっしゃる。』
『たしかに初めての時、私達が割り当てられた席はwife と二人のほかはすべて初対面という厳しさだった。私を含めて日本人は、初対面同士がテーブルを囲んだときに全員の口がほぐれるような話題を出すのが苦手である。何とかしなくちゃと思いつつも、ばつの悪い時間だけが流れる。おまけに、皆が同じように白紙ならともかく、ほかの人たちは互いに話をしているのに、こちらはその話に入っていけない。やむまく隣の会社の人と話そうとしたけれど、会話はぼそぼそとして全く弾まなかった。』
しかし、瀋陽在住の日本人が互いに皆を知っているわけではない。10人のテ−ブルで初対面同士が顔を合わせた時に話の糸口を探るのはお互い様だろう。仲間だけで集まりたいというのは、教師が世間から隔離された特殊な職業なのだということの反映かも知れない。
今年のクリスマス会は、瀋陽日本語補習校の生徒たちのクリスマスの歌で幕開けだった。低学年の子どもたちは一生懸命歌うのだ。とても可愛い。つい引き込まれてしまう。指揮をしているのはサンタの恰好をした東北大学の岡沢さんで、彼は補習校の校長も兼ねている。歌が終わると岡沢さんがマイクを持って子どもたち一人一人にインタビュ−をしている。「どうでした。難しかった?」なんて訊いている。岡沢さんは普段は照れ屋なのかぼそぼそとしか話せない人だが、へえ、やるときにはちゃんと出来るんだ。
昨年まではクリスマス会の演し物は外部から呼ぶ雑伎団が主なものだったが、今年の準備委員会は趣向を変えて会員手作りのクリスマス会という方向を打ち出したのだ。それで外部のプロは獅子舞だけだった。
二人ひと組の獅子舞が二組。横浜の中華街の春節で馴染みの、というかジャッキ−チェンの映画で馴染みのというか、雄壮な踊りの獅子舞で、これは良かった。昨年までの雑伎団は子どもの曲芸が多く、その器用さに感嘆するけれど、やはり小さな子どもにこれだけの演技を強いた残酷さは拭えず、見ていてやりきれない気持にさせられたものだった。
次は赤いサンタの服を着た人がステ−ジに立って、空気で膨らませたゴムの細長い袋 を手際よく折っていって、子どもたちにプ−ドルを作ったり、キリンを作ったりし始めた。良く大道芸人が見せる芸である。どう見ても本職の芸人と思ったのだが、付け髭を取ると何と彼は三菱に勤める森さんだった。子どもたちは喜ぶし、皆もびっくり仰天でその至芸に引き込まれた。
その後の圧巻は、幹事会メンバ−が登場したのど自慢大会の趣向だった。水戸黄門姿で阿部総領事、助さんの恰好の日本人会長の世古さんが審査席に並び、鐘つき係におかしなアメリカ縞模様の服を着た田代さん。司会役が付け鼻と眼鏡とちょび髭の、トニ−谷こと苫谷さんというわけ。出てくるだけで満場が湧いた。予選を勝ち抜いてきたという口上で出てくる人たちが、どれもずっこけ演技で笑いに笑った。衣装に凝りに凝ったのが良かった。
食事はこの値段にしてはまずいという不満が今までは鬱積していた。準備委員会では150元の会費を200元に値上げした食事を試食したと聞いている。事前の 情報では会費が200元に上がると言う話だったが実際には以前と同じに150元に抑えられていた。その食事は、値上げをしなかったにもかかわらず、昨年ま での不平不満が嘘みたいに上等になっていた。文句は言ってみるものである。
クリスマス会の最後に委員会に人たち全員を集めてそれぞれを紹介するという場が今年は見事に設定されていた。皆が実行委員たちに拍手を心から送ることが出来て、とても良かった。
実行委員の方々、ありがとう。会員手作りのクリスマスという路線が早めにでていたら、三十数名を擁する教師の会でも何かできたと思う。来年を目指して頑張ろう。
来年度私たちの研究室の修士に来たいと希望している生命科学基地クラスの学生の一人に曹亭(女偏が付く)さ んがいる。もう一人の徐蘇さんが小柄でぴちぴちと元気なのに比べると、背が高く落ち着いて老成した雰囲気の女子学生である。10月に2週間私たちの研究室 に実習に来たあとは授業や実習に忙しいらしく、週二日の研究室のセミナに参加する以外は二人とも滅多に研究室には来ない。
その彼女が数日前やってきてリボンで飾った巻いた紙を私に差し出した。「何ですか?」「詩を作ったので、先生へのプレゼントです。」開けてみると南画風の険しい山岳の画の上に詩が印刷してある。詩は以下のように読める。何と私の名前が読み込んであるのだ。
山巒霧靄蔵、
形廊不可量。
達変天下事、
也道世無常。
山巒霧靄蔵 shan(1) luan(2) wu(2) ai(3) cang(2)
形廊不可量 xing(2) kuo(4) bu(4) ke(3) liang(2)
達変天下事 da(2) bian(4) tian(1) xia(4) shi(4)
也道世無常 ye(3) dao(4) shi(4) wu(2) chang(2)
聞いてみるとこの詩の意味は、『連山は霧や靄に包まれたりして、時に応じ形が変わり、全容は量り難い。同様に世の中の事象も明確には捉えがたく、原理は分かっていても、どうしようもないことがあるのだ。』
名前を読み込んでいるだけでなく、ちゃんと深遠な意味があり、しかも第一、二、四節の終わりで韻を踏んでいる。びっくりである。どうしてこんな事が出来るのだろう。
私 にこの詩の字は難しくて読みこなせなかったが中国人ならすらすらと読める。中国人なら漢字を駆使して詩を作ることも容易に出来るのではないかと思って他の 学生に聞いたら、とんでもないという。そんなことは普通の人には出来るわけないですという。日本人が何やら紙に時を書き散らして詩ですというのとはわけが 違うようだ。どうも曹さんは特別の才能に恵まれているみたいだ。
曹さんは三国志で名高い曹操の子孫だという。私の子どもの頃は吉川英治の 三国志の影響を受けて悲劇の英雄劉備が善玉で、曹操はとんでもない悪役としてインプットされていたけれど、その後分かってくると曹操は一国を作っただけ あってただ者ではない、それどころか喜怒哀楽の感情がはっきりして人間的魅力に溢れている。おまけに詩人なのだ。かの有名な唐詩の出来る数百年前の詩人で ある。
紀元207年、当時32歳の曹操が北方の袁紹を破って故郷に帰って来たときに作った、「歩出夏門行」という詩の一節に有名な詩句がある。
老麒伏(木歴)
志在千里
烈士暮年
壮心不已
『駿馬は老いて厩の一隅で動けなくなっても、心は千里に飛んでいる
烈士は歳を取っても、なお心は若いときのままである』
曹操の三男も詩人として名高い。特に皇帝になった兄曹丕に兄弟という字を使わずに兄弟を読む詩を直ちに作れ、さもないと首を刎ねると言われてつくった「七歩詩」というのがある。
煮豆持作羹
漉叔以爲汁
其在釜下燃
豆在釜中泣
本是同根生
相煎何太急
『豆を煮て吸い物を作り
味噌を漉して汁物を作る
豆がらは釜の下で燃え
豆は釜の中で泣いている
もともと同じ根から生まれたのに
どうしてこんなにまで煮て、ひどく苦しめるのですか』
曹 操の次男である曹丕は曹操の後継者と決められて文帝となっていたが、直ぐ下の曹植があまりにも優秀なので曹丕には絶えず気になっていた。「三国志演義」に よると、曹丕はある日曹植に七歩いく間に詩を作れ、できなければ死を賜うと命じた。曹植は歩きだして七歩のうちに見事な詩を作ったので、曹丕もその臣下も 感心したが、曹丕はさらに即座に兄弟を題にした詩を、しかも兄弟の二字を使わないでつくれと命じた。
この曹丕の言葉を受けて、直ちに曹操が詠じた詩がこれである。
『もとは同じ父の元に生まれた兄弟なのに、どうしてそんなに私に激しく当たるのですか。』
これには、兄の曹丕は深く恥じ入ったという。
私たちのところの曹さんは、間違いなく曹操、曹植の血を引いている。
12月14日は久し振りに研究室で火鍋パティ-を開いた。昨年小川さん、大貫さんが訪ねてきたとき以来だか ら1年半ぶりである。ということは昨年度の卒業研究生には一度もこの機会がなかったわけだ。もちろん、外のレストランには歓迎・送別などの機会を設けて出 掛けていたけれど、自分たちの部屋で落ち着いて飲み食いするのは又格別である。
今年は最終学年在がすでに6人来ていて私たちの研究室は今から大世帯である。日語クラスは日本語先生たちから日本語を習っているから、彼らの先生たちも招いたところ都合の付いた南本先生が参加したので14日は合計15人が教授室に集まった。
鍋に使う野菜は近くの朝市に朝早くから学生たちが出掛けて手分けして買って来た。午後はカラフ−ルに肉やその他の必要なものの買い出しに行ったようだ。ビ−ルも運んできている。私はお金を出すだけだから楽をしている。
最 初の予定していた日には私がお腹に来た風邪でダウンし、次に決めた日は学生の数人に夜の授業が入ったので延期して今日になったのだった。それでも、急に二 人が欠席すると言ってきた。今週末に大学で就職説明会があり、そのために薬大に出張して来ている企業の人たちにサ−ビスするための要員として担任の先生か ら指名されて、そちらに行かなくてはならない。この人たちは就職しない学生でないとまずいわけで、それで、進学することを決めている学生が駆り出されたと いう。就職説明会に無関係なのに駆り出されるわけで、何とも人使いの荒い大学である。
中国に来て馴染みになったものに「台布」という薄い ビニ−ルがある。食事のテ−ブルに乗せて一回ごとに使い捨てるのである。中級のレストランではよく見かける。言うまでもなく下級の店ではテ−ブル表面をそ のまま使っているし、高級レストランになるとテ−ブルクロスが使われている。この台布は140 x 180 cmの大きさのビニ−ルが10枚入って10元という安さである。私たちも何かの時にはこれを利用しているが、最近は出番がなかった。
5時を過ぎると洗って刻んだ野菜などが続々と実験室から届きだした。学生は実験室を使ってもう用意を始めていたらしい。こちらも慌てて教授室の会議テ−ブルに台布を乗せる。皆が参加してパ−ティの用意をした中で私のしたことはこれ一つだったみたいだ。
6 時には皆も集まり、鍋に火が入りビ−ルを注いだところで私が挨拶をした。冬になったので、鍋をして皆で一緒に楽しく暖まろう!!!中国の初級教科書に「春 天来了。桜花開了。」というのがあったので、「冬天来了」と始めるつもりだったのに、「冬天開了」と言ってしまったので、皆が大笑い。これで座の緊張が一 遍にほぐれたみたいだ。
宴もたけなわとなって、そろそろ皆の隠し芸が見たい時間となった。修士1年生の陳陽くんが音楽に合わせてダンスを するという話を聞いているので、是非見たいと所望した。「だって、まだ早すぎますよ。誰か先に何かしなきゃ。先生、何かやって下さいよ。」という。隣の王 麗も「本職の前には前座が必要でしょ。だから先生、先ず何か始めなさいよ。」と、私を前座扱いである。
この際、興業主の役割だけでなく座 持ちも私の役目と割り切って、「いとしのソレンツアラ」を歌った、イタリアのカンンツオ−ネだと説明して歌ったのに、聴いている彼らは、何さ、日本語じゃ ないの。という。仕方なく「サンタルチア」イタリア語で歌っておまけにした。何しろ歌ではプロはだしの妻がここにいないから、私も気楽に歌えるというわけ である。
さあ、陳陽くんの出番だ。日本の人気歌手に浜崎あゆみがいる。私は彼女の等身大の看板が電気店にあるのを見ているので、彼女の容 姿は脳裏に焼き付いている。中国には蔡依林という台湾生まれの、浜崎あゆみに匹敵する人気歌手がいる。陳陽くんは彼女のファンで、彼女のコンサ−トに聴き に行っただけでなく彼女のDVDを2枚も持っていて、今は私が借りて時々観ている。私も蔡依林のファンである。
蔡依林は身体を激しく動か しながら歌うが、陳陽くんはそれをしようというのだ。部屋の灯りを消したと思ったら、学生が非常用に用意してある懐中電灯2本を持ちだして、これで陳陽を 照らし始めた。まるでライブコンサ−トの雰囲気だ。蔡依林の歌に会わせて、陳陽は激しく踊り出した。背が高くて身体の細い陳陽くんは激しく手を、腕を、脚 を、そして腰を動かす。セクシ−だ。女子学生に混じって私たちも、キャ−キャ−叫ぶ。
一体何処で練習するんだろう。そんな場所が薬科大学の中にあるとは思えない。DVDを観ているだけで踊りが頭の中に入ってしまったのだろうか。
陳陽のダンスのあと皆それぞれに、歌ったり、笑い話を披露したりして、最後にまた陳陽くんのダンスでこのパ−ティを締めくくったのは夜の9時だった。
12月16日今年最後の定例会が、在瀋陽日本国総領事館の一隅で開かれた。
出席者:石井、池本、石原、宇野、加藤(正)、加藤(文)、金丸、佐藤、田中、辻岡、中村、中野、中田(知)、中田(時)、鳴海、野崎、林(輿)、藤平、松下、南本(卓)、峰村、森林、若松、渡辺(文)、山形(達)
特別参加:森領事、苫谷日本人会事務局長
欠席:山形(貞)、安部、片山、林(八)、渡辺(京)、南本(み)、河面、岡沢
1. 日本語資料室が集智ビルの811号室を借りて再開されたことが報告された。
2. 領事館森領事から連絡:2007年は日中友好35周年に当たるので文化・スポ−ツ交流年と名付けて行う企画を外務省が募集している。いいね。教師の会のHPを外注恰好よくする費用を出して貰えないだろうか。
3. 日本語弁論大会実行委員から:最終弁論大会を予定していた4月29日(日曜日)は出勤日の可能性があると指摘されたので、22日に変えるために場所をあらたに探しているとのこと。したがって12月半ばには各単位に弁論大会の日程を通知する予定だったが暫く延期。
4. 資料室係から:半年近く閉鎖していたので、1月13日まで週末開館。開館時間は10時-2時。
5. 今まで多くの本が戻ってこないので、貸し出す相手を制限したい。貸し出しは、教師の会の会員とその紹介者、日本人会員と家族に限る。
6. 山形達也から:教師会の愛唱曲集1と2に替えて、新しい歌を加えて決定版を作る計画している。今度の費用は各自負担して貰えるだろうか。OK。
7. 山形達也から:12月22日に開かれる日本人会幹事会に出席して、教師の会の現状を訴えて援助を求める計画で、当日配布予定の資料を配った。
午後4時からは、森信幸領事の講演で、題して「寒冷地技術を利用した環境対策について」。3階の大ホ−ルで行われた。
森領事は元来国土交通省北海道開発局の出身で、今まで寒冷地対策というと、温暖地方と同じように生活が出来るように、防寒、断熱、水道の保温、排水処理に力が注がれてきたが、それには多額の費用がかかり、結局生活は温暖地のスタイルを真似しているわけで、住むなら寒冷地以外の方がよいということになってしまう。逆に寒冷地であることを利点に出来ないかという逆転の発想で、寒冷地に冬季には豊富にある雪や氷を利用して快適な生活ができるではないかという提案だった。
実際に北海道の美唄市の例が示された。老人ホ−ムの一画に大きな断熱性の良い倉庫を造って、年間降雪8mもある雪を冬季に運び込み、これを夏の冷房に使っているというものだった。
言うまでもなく夏が暑ければ電気利用の冷房を何処のうちでも使うわけで、部屋は快適な温度になるけれど、室外は暑くなる。これが都会のヒ−トアイランド現象といわれているもので、暑ければク−ラ−をつけ、都会の気温は上昇し、暑くなれば更にク−ラ−をつける家庭が増え、外気温は上昇して悪循環になる。ク−ラ−のエネルギ−源である電気は、火力発電なら石油資源を使い、空中の炭酸ガスを上昇させる。
冬場に無尽蔵に出 来る氷を夏まで置いておければそれがク−ラ−のただ同然のエネルギ−として使えるというのが、この説である。夏の北海道から東京への貨物輸送は4分の1が 空荷なので、それを利用して実際に、北海道の氷を東京に運び東京の夏場の冷房に使う実験が始まっているそうである。
瀋陽は札幌に比べて夏は暑く、冬は平均10度以上低い。冬場には十分の氷ができる。瀋陽の冬は地域暖房で、石炭を焚いてボイラ-の湯を循環させてその地域の 建物を暖房している。そこに大きな地下貯氷槽を作って、冬に氷を入れておけば、暖房のため配管がそのまま利用できる。夏場の冷房がまかなえるはずだという。北海道の美唄市の夏の暑さを知らないが、瀋陽が例に出ればよく分かる。夏は東京ほどではないにしても、結構暑くて冷房が必要なのだ。
森領事の話で具体性を欠くのは、瀋陽のように断熱性の高い建物で、その容積の何分の1の体積の(地下倉庫を造って)冬場に氷を溜めればよいのか、その計算と、エネルギ−採算性、コスト計算のバランスが出ていないことだった。しかし、これはこれからの話で、瀋陽市の東北大学がこの話に乗り気で具体的な実験を始めるのだという。
この壮大な話は、夏場の電気代の節約というだけでなく、エネルギ−消費を抑え、炭酸ガス放出を抑え、いいことづくめである。しかも瀋陽だと冬場の氷の切り出しと貯蔵という人出を必要とするので景気対策にもなる。
大変結構な話である。中国のようにトップが一度決断するとことが速やかに進む国で、この話を理解して壮大な実験プロジェクトができるといい。実際に地下貯蔵庫を持つ建物を造って、ほらこの通りという具体例を示せれば話は早いだろう。森領事、がんばれ!!!
12月16日の定例会の終了後、領事館近くのレストラン登瀛泉大漁港2階の瀛泉庁で、教師会の忘年会と、1月に瀋陽を去る二人の先生の送別会兼用の会が開かれた。
野崎、藤平の二人の先生が所用で抜けて、森領事と苫谷日本人会事務局長も加えて総勢24名。三つのテ−ブルに別れて座った。
幹事は峰村、渡辺文江、石原先生の3人だった。会長挨拶、苫谷さんによる乾杯、食事のあと、先ず峰村先生のハ−モニカによる曲のイントロクイズがあった。三つのテ−ブルで競うものである。
いつでも夢を、雪山賛歌、オ−ルドブラックジョ−、もみじ、里の秋、荒城の月などよく知っている曲ばかり26曲。驚いたことに自称音痴の南本先生が一人で10曲近く当てて、そのBテ−ブルが12曲正解で優勝。私のいたAテ−ブルは声の大きい、つまり曲が分かったときに手を挙げると同時に大きな声でハイハイと絶叫していた森林先生と私がいたために8曲で2位、Cテ−ブルは幹事3人が抜けたけれど健闘して6曲を当てていた。
余興は優勝のAテ−ブルから始まり、「世界に一つだけの花」を全員で歌った。Bテ−ブルでは、山田先生と私が替え歌を用意していた。発想は、瀋陽に来て印鑑作りを始めた自分たちのことをからかったもので、どうせ歌うならもっと増やそうと2、3番を私が朝急いで追加したのだった。原曲は「北の宿から/都はるみ /阿久 悠作詞/小林亜星作曲」である。
ナレ−ション:『瀋陽へ来て、作詞家 阿久 悠さんの才能の素晴らしさを改めて実感しました。みなさんは、どんな「北の宿からを」お過ごしでしょうか。お聞きください。私たちの「北の宿から」。』
あなた変わりは ないですか
日ごと寒さが つのります
押しはもらえぬ 印鑑を
寒さこらえて 彫ってます
男心の 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿
吹雪まじりに 汽車の音
すすり泣くよに 聞こえます
見てはもらえぬホ−ムペ−ジを
涙こらえて書いてます
男心の 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿
あなた死んでも いいですか
胸がしんしん 泣いてます
一人淋しく資料室
貴女のおいでを待ってます
男心の 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿
この「北の宿」と「瀋陽」がぴったり重なるのがいい。どうせ見ては貰えぬHPを一生懸命書いている、という空しさもいい。資料室を皆に役立てようと教師会が りきんでいるのに誰も来ないという淋しさもいい。瀋陽で知った印鑑づくりをせっせと励んでも、上げたところで使って貰えぬ悲しさもいい。雪がしんしんと降 る瀋陽の静けさと、あきらめを突き抜けた心境とが奇妙にマッチする。
これ、瀋陽日本人教師の会のテ−マソングにならないか。文字通り自画自賛だけれど。
お別れの中村先生は、はじめは寒くておびえた瀋陽も2年いると大好きになって別れがたい、それには教師の会の存在が大きな中心だったというものだった。彼女はこの春の弁論大会実行委員会の中心人物として活躍した。
金丸先生は、初め本渓にいる頃は瀋陽に来て教師会に出るのが唯一の楽しみだったのに、瀋陽師範大に移ってからのこの1年は教師会も、あ、またかという気分になってしまって、お別れでも涙も出ませんという何とも賑やかな彼女らしいしまらない話だった。
こ の夏に瀋陽を去った先生の中に中道秀毅先生がある。それまでは、送別の先生がある度に中道秀毅先生は、恵津先生が「あなた、いい加減にしなさいよ」という のも聞かばこそ、率先して前に出ていって彼女に捧げる歌を歌っていた。彼女というのは、女性の先生にだけ歌っていたわけだ。
秀毅先生の跡を継ぐと決めている私は、このときも前に出て行って、二人の先生のためにそれぞれの名前を読み込んだ「思いでのソレンツアラ」を歌った。
歌のうまい妻がいると、私の歌を彼女は「死んでも止めてみせる」のだが、妻は今日本に行っているので、私はのびのびと自由に振る舞えるのである、他の先生の迷惑を顧みなければ。
私が最初に歌えば、それを聴いた誰もが安心して歌う気になることは今までの長い経験が証明している。
このように賑やかに5時から8時まで続いた宴会は、最後の森領事の「足を90度に開いて俵を持ち上げるように下から突き上げる」万歳三唱、鳴海さんの「お手 を拝借、三本締め」で終わった。終わって分かったことだが費用は森領事が払ってくださって、全員が感謝。せめてそれなら、というので教師会の基金として全 員がそれぞれ50元のカンパをした。こんな具合にいけば、資料室の維持費が私たちで捻出できるかも知れない。
(12月9日の続き)
11月10日が東工大入試委員会での応募締め切りと聞いていたが、13日には 三原先生からmailがあった。東工大入試委員会で応募者の審査をしたところ、薬科大学から応募した3人とも第一次選考に通って、次は面接だという嬉しい 知らせだった。しかし、この面接というのが急で忙しい。入試委員会委員の一人である大倉先生が丁度北京で学会があって北京に出張するのにあわせて、中国の 応募者と面接をしたいということである。面接の出来る日は17-19日の3日間だ。
忙しい話だ。私は急遽この3人の候補者に第一次審査の 合格を告げ、面接日に会わせて北京に面接に行けますか、出来るだけ行くように、と伝えたのだった。中国の北京で面接をすれば中国の応募者全部が面接に来ら れるのだろうか。瀋陽から北京の距離は、東京から広島くらいである。近いというか遠いというか、人の置かれた状況によって違うだろう。しかも、旅行の費用 がかかる。面接に行かなければ権利放棄になると分かっていても、果たしてわざわざ時間と金を掛けて北京まで出掛けていっても無駄かも知れないという疑い が、志願者にはつきまとう。
最初に連絡が付いたのは薬学日語の李さんだった。彼女はTOEFLの成績は持っていなかったが、 IELTS(International English Language Testing System)という主として英国語圏で普遍的に通用する資格を持っていた。9点満点で7点という実用上全く問題ないというレベルである。実際、彼女と話 してみても日本語から英語へ、英語から日本語へと継ぎ目なくスム−スに言葉が変えられ、自分の考えをよどみなく述べることが出来る学生である。北京で面接 という話も彼女は、ええ、出掛けます、頑張ってみます、と健気な感じで決意を述べていた。
もちろんここまでは私が全てを仲介していたけれど、この時点では李さんは入試の三原先生、大倉先生と面接時間、場所の打ち合わせを直接mailで行うようになり、両者の間に行き違いがないようになっていた。
薬 学英語の二人に北京で面接という話を伝えると、一人はこの週末はとても忙しくていけないという。もう一人もアメリカの大学に出す書類の締め切り期限が週末 でそれにかかり切りだからとても北京には行けないという。時間が作れないなら仕方ないが、一人が気になることを言っていた。北京にわざわざ行っても必ず受 かる保証がないから行くのは無駄だ。なぜなら李さんは薬学日語で先生の教え子だから彼女の順位が良いに決まっている、だから私が行っても意味がないのだと いう。
これには私は唖然とした。しかし一方で、中国を深く覆うもやもやとした情実社会という噂を確認した思いであった。私は何度も書いて いるように今回は単なる仲介者であって、推薦人ではない。一定の水準以上の学生に応募させているだけで、あくまでも選ぶのは東工大の入試委員会である。現 に順位が付かずにここの3人に面接の通知が来たのだ。素直に面接に行けば、誰が通るか分からないし、あるいは全員が通るかも知れない。面接に行かなけれ ば、理由が何であれ、それまでである。国費留学生に選ばれるわけがない。
ともかく、薬学英語の呉さん、楊さんの二人はせっかくの機会だったのに見送ってしまった。もちろん、それで良かったのかも知れないし、大変惜しいことをしたのかも知れない。ここのところは東工大の関係者以外分からないことである。
17日の前日から北京に行った李さんは翌日戻ってくると直ぐに私に会いに来た。面接はどうだったのかを訊くと、自分としては質問に対して言いたいことを言えたので、結果はどうであっても全力を尽くしたという気持だと、嬉しそうだった。
面 接の大倉先生は、東工大の頃の同僚でよく知っている先生だが、李さんが北京に出掛ける前には、私が大倉先生を知っていると言うことを彼女に言うことは良く ないと思って何も言わなかった。ところが李さんは大倉先生から暖かい伝言を持って帰ってくれた、「山形先生、瀋陽で元気にやっている?」。
李さんは面接の時に訊かれて、東工大で採用されたら勿論迷うことなく喜んで進学すると行ったそうである。彼女は成績も優秀だし、目配り気配りが行き届いていて、人柄もいい。かならず有為の人材として育ち、日中橋渡しの掛け替えのない人物の一人になるに違いない。
11 月21日彼女の志望研究室の石川先生から彼女に電話インタビュ−があり、石川先生の審査もパスして、彼女は22日に正式に東工大から国際大学院国費留学生 推薦の内定受けたのだった。あとは12月20日までに書類を東工大経由で文科省に申請を出せば、間違いなく日本政府の国費留学生が決定する。
今日本でノロウイルスが大流行だという。Internetでノロウイルスについて書かれていることに目を通すと、12月初めに私が掛かったのも、ノロウイルスのように思える。
『ノロウイルスによる感染性胃腸炎や食中毒は、一年を通して発生するが、特に冬季に多い。手指や食品などを介して、経口で感染して、嘔吐、下痢、腹痛などを起こす。感染してから発症するまでの時)は24〜48時間。
通常,これらの症状が1〜2日続いた後,治り、後遺症はないが、幼児や高齢者など体の抵抗力が弱い人では、脱水症状を起こして重症になりことがある。』
感染源は、以下の場合が考えられる。
『ノロウイルスに汚染されていた貝類を,生あるいは十分に加熱調理しないで食べた場合。食品を取り扱う人(家庭で調理を行う人も含まれます)が感染していて,その人を介して汚染した食品を食べた場合。患者のふん便や吐瀉物から二次感染した場合』
以前からこの大学でも冬になるとお腹に来る風邪が流行るから気をつけるように言われていた。今年も流行っていると言うことだ。私は自分のことを風邪だと思っていたけれど、接触感染性の胃腸炎だったかもしれない。
『ノ ロウイルスは手指や食品などを介して』感染するとなると、お札がまず気になる。中国の紙幣は紙質が日本と違っているので、お札が汚れているのがはっきり分 かる。瀋陽に来たときの隣の池島先生が、「ぼくはお札に触ったら必ず手を洗います」と言うのを聞いて、私も必ず手を洗うことにしている。お札を触った手で 触れる財布は洗わないから、処置が中途半端であることは自覚しているけれど、お札に触ったあと手を洗わないよりはましだと思っている。
中 国の衛生思想は、日本に比べるとまだまだといって良い。手を洗うという習慣が根付いていないらしく、トイレでばたんとドアを開けて個室から出てきた人で手 を洗う所を目撃するのは数回に一度である。だから、大学の食堂では良く食中毒が出ますと秘かに囁かれているけれど、服務員の手洗いがなおざりにされている とするなら、流行っても不思議はない。
私はこの間の嘔吐と下痢の時、初め症状から急性の食あたりかと思い、しかし原因が思い当たらず悩ん でいたけれど、ノロウイルスかも知れないと気付いて思い出してみると、丁度その2日前には大学の食堂が作った小龍包をたべている。これは夜に研究室のセミ ナ−があるので夕方食堂に食べに行く学生に頼んで、4個1元で買ってきてもらったのだ。小龍包だから蒸かしてあって受け取った時にもまだ暖かい。
小 龍包はプラスチックの袋に入れられていて、割り箸と一緒に、さらにプラスチックの袋に入っている。以前自分で買うときに見たことがあるけれど、服務員は小 龍包をプラスチックの袋に入れるときに、手が小龍包にも袋の内部にも触らないように気をつけている。だから、小龍包が汚染されているとは、先ず考えられな い。
食堂では1年前から現金扱いがなくなり、あらかじめ金をデポジットしたカ−ドしか使えなくなっているから、その意味では現金のやりと りで手が汚れることはない。でも、もしも手が初めから汚染されていたら、どうだろう。入っていた割り箸も手で持って袋に入れてくれたわけだから、汚染の可 能性はあるし、そんなことを言えば、プラスチックバッグの取っ手のところで手で結わえたところも、汚染される可能性がある。
こう思ってみ ると、たとえばパンはプラスチックの透明な袋に入った包装で売られている。内部のパンは綺麗かも知れないけれど、その袋は手で持つわけだから汚染されてい るかもしれない。いままで、洗うことの出来る缶詰や、瓶詰め、ヨ−グルトなどは買ったあとうちで流水で洗っていたが、パンの包みなどを洗うことは考えたこ とがなかった。でも、これからはこのように、人手に直接触れたものが汚染されている可能性を忘れてはいけないのだろう。
日本では今ノロウ イルスが流行っているという。その原因の全てが汚染された、たとえばカキのような二枚貝によるものでもないだろうと思う。集団で発生するのは、日本でも食 品の衛生的な取り扱いがおろそかになっていると言うことだ。食品を取り扱う人たちが手の滅菌を心がけるだけでなく、消費者としても、人手が触れることで汚 染の機会があることを忘れてはいけない。
私が現在在職している瀋陽薬科大学は歴史をたどると名門である。薬科大学の日本語の教師にして私の友人である加藤正宏さんによると、
『瀋陽薬科大学は1931年11月20日 中国工農紅軍軍医学校として江西瑞金において創立されたが、実質は、1932年に中国工農紅軍衛生学校と改称されているので、中国工農紅軍軍医学校を母体としている中国医科大学と兄弟校と言える。
現 政権の建国直前(1949年7月)に、再度、医科大学の一学部となった時期があり、日本の敗戦(満州国の滅亡)の時に、国民党が接収し、国立瀋陽医学院と 名付けた旧満州医科大学の薬学系から、佐藤潤平教授を含む教職工22名に加えて学生110人のほか、実験器具、薬品、設備、標本、図書など受け継いでい る。』
中国には薬学の単科大学としては、瀋陽薬科大学のほかには南京薬科大学しかなかったから、瀋陽薬科大学は長年薬学の最高峰として中 国中で認知されていた。私が瀋陽薬科大学に時々講義に来たときは国立大学だったが、着任した2003年には国立大学から格落ちの遼寧省立大学に変わってい た。
それは、こういうことだろう。国の基本は教育にありということで90年代から大学が急増した。文教予算は中国でそれなりの額があるだ ろうけれど、世界に吾して一流の研究を進めようとすると、為替交換の比率から見て20倍の文教予算が必要となる。もちろんそんなことは不可能に違いない。 どうするかといえば、一極集中しかない。
というわけで、どのような基準で選別したかは知らないが、一定の基準を満たす国立大学と、それ以下の省立大学とにわけ、その中でも重点大学を指定して教育予算を配ってきたということだろう。
重点大学になっていないと言うことは、研究費の申請資格がないだけでなく、隣の池島先生によると、中国に長年働くと申請できる永住権を保証するグリ−ンカ− ドも申請する資格がないという情けない三流大学の悲哀を味わうことになる。大学当局がそれで良しとするわけはなく、その局面打開に色々と画策をしてきてい る。
その一つが大学合併で、この地区の幾つかの大学を合併すれば、数字の上では学生数何万人となって全国的に数番目、教授の数でこれも数 番目ということになって、目出度し、目出度し国立大学ということになる。私たちがここに来て直ぐの2004年には合併の話が起こっていることを聞かされて いた。しかし、4つの大学が合併するとなると、なかなか纏まらない。事務部門ではそれぞれ縄張り争いがあったりするからだろうか。合併話が進んでいると か、それが壊れそうだと言う噂は何度も聞いた。公式には2005年の終わりの大学主催の忘年会で副学長の口から合併が本決まりとなったと聞いたが、今は国 に断られたらしいとかいう噂が流れている。
合併して引っ越しとなると私たちの研究生活にも、日常生活にも大きな影響が出るので気になるが、噂ばかりである。その中の話に「中国では何時いきなり引っ越しといわれるか分からない」というのがあるが、こればかりはどうしようもない。
と ころが最近、身の回りに関係のある変化が突然起こった。私はここに来て以来、薬学研究に於ける生物学的視野の必要性を訴え、したがってライフサイエンスの 中心をこの大学に作るくらいの気構えで大学を変えて行かなくてはと言っているが、先日、生命科学部を創設するという発表があった。薬学院に属している薬理 学科と、製薬工程学院の生化学・分子生物学科が一緒になって生命科学部となるという。共にこの大学では一番金回りの悪い学科で、私はこの後者に属してい る。
ライフサイエンスを目指そうというこの大学の高尚な理念か、あるいは、お荷物な貧乏学科を放り出してしまえと言うことかも。
学 内internetを見ると、新しい生命科学部の学部長、副学部長になりたい希望者は25日昼までに届け出なさい。26日に公開の講演会をしますという通 知が21日付で載っている。つまり裏ではどのよう談合があるか、そんなものはないのか知らないが、表向きは立候補の募集である。資格のあるのは当該学科に 所属の導師(博士学生を指導出来る資格)教授で、原則として55才以下だそうだ。しかも中国国籍に限るなんて書いてない。
ということは私 にも機会があるということだ。中国語の話せない私が手を挙げたって笑い話で終わるだろうし、私だって研究から離れて管理などやる自分には興味がないから、 ただの話である。しかし、今まで科学研究費の申請では定年を越えている、外国籍だから申請できないと言う具合に、資格外れだけを意識してきたから、今度の 募集を見ると自分が排除されてはいないと感じるわけで、実はとても嬉しいのである。
瀋陽日本人会の幹事会にオブザ−バとして領事館と、瀋陽日本人教師の会が参加していて、私は昨年秋から教師の会の代表として出ている。12月22日に開かれた幹事会では、教師の会の資料室の経過報告をしてさらに、教師の会が日本語資料室の運営費の捻出に苦労している内情を話したところ、幹事から色々と意見が出た。
ある幹事からは、日本語資料室にはこれといった本がないではないか。それで十分に利用されていると言えるのか。こんな資料室を苦労して持つ必要があるのか、という意見があった。
いまは教師の人たちが図書の回収に悩んでいることに話を絞ってみたい。
2000年の資料室の開館以来、日本語のめぼしい本が殆ど失われてしまったと、私たちは昨年まで7年間この教師の会を守り育てきた石井先生から聞いている。
教師の会の集まりでは、日本語の図書を学生や一般の人たちに利用して貰いたいけれど、一方で図書がなくなる現状をどうしたら防げるかと何時も議論している。日本の図書館では図書への書き込み・いたずらが問題になっていると思うけれど、ここの資料室みたいに、貸した本が殆ど返ってこないという悩みはないだろ う。
これは中国の国民性にあるといって良い。お金がそうだ。借りた金は返すというのが日本人の間では当然の感 覚だが、ここでは違う。豊かな人が貧しい人を助けるのは、それが当然という感覚が長年の庶民感覚だから、貸すと言うことはあげると同じだ。ちなみに中国では、貸すと借りるの言葉の区別はない。どちらも借である。お金でそうだから、借りた本は貰ったことと同じと思う人が多いことになる。
もう一つは、共産制のためかどうかは分からないが、私有財産という観念が乏しい。人のものでも必要なときに誰でも使う。研究室でも最初の頃は、私たちの机か らハサミ、ペン、定規、本、何でも置いてあれば持って行ってしまって、返ってこない。私たちは、使っても良いけれど断って持って行きなさい、そして必ずもとの所に戻しなさいと、しつこく繰り返し言い続けた。
今ではものがなくなることはない。彼らも何か良いものを自分のものにするという悪意ではないのだ。必要だから、黙って使うだけなのである。
本も同じで「貸してください」と言われて貸すと、返ってこない、返却を催促するともう誰か他の人に貸しました、今は誰が持っているか分かりません、と言うことになる。したがって研究室の本は室外持ち出し厳禁、実験室に持っていくときも備え付けのノ−トに記入しなくてはいけないことになっている。
資料室の本がなくなるには別の理由もある。学生は移動するわけだし、先生方の瀋陽滞在が平均2年だから、先生がここを去るときまでに返却されていないと、学生の移動は辿りようがなく本も行方知れずになる。
この問題は貸した本の原簿を見てうるさく督促をするにしても、根本的に本がなくならないようにするための対策が、会員の間で真剣に話し合われた。
本を借りるための身分証の発行の時に、50元の発行料と50元の預かり金を申し受け、預かり金は身分証と引きかえで返還する、という案が資料室係から提案さ れた。実際、瀋陽の公共図書館で本を借りるときには、50元あるいは100元のdepositをとり、本を返さない限り金の返却には応じないという。
ところが教師の会で議論されると、金を預かる方はよいが、いきなり返還を求められたときに当番の先生が立て替えなくてはならないという問題がある。日本人が金を取っているのだと言う噂だけが広がると、あとでどんなことになるか分からない。資料室の当番が金を受け取ると、そこに現金があるわけだから、悪い心を誘発するかも知れない。
このように問題点ばかり指摘されて、大体が本はなくなるものですよ、仕方ないじゃない ですか、いままでどおりいきましょう、但し(教師会会員・日本人会会員および)日本語教師の教えている学生以外の素性の分からない人には貸さないことにして会員の紹介者ならいいことにしましょう、と言うことになった。
しかし、会員の紹介者が本を借りて、その会員が帰国してしまい他の先生が本の返却を催促すると「一体アナタはどんな権限で本をかえせというのですか」と逆ねじを食らわせられたという話も聞いている。
この方式ではとても危ない。ますます本が減っていくだろう。良い対策がない以上は、本を増やすように考えなくてはいけない。日本人会の会員にお願いして、帰国時に本を寄付していただくのもその一つであろう。日本から本を送りたい善意の人たちは沢山いるけれど、送料の高いのが大きなネックになっている。せめて教師の人たちが休暇のあと瀋陽に戻ってくるとき、本を出来るだけ持ってくることも役立つだろう。
薬科大学では学部ごとに年末になると盛大なパ−ティが開かれている。私の所属しているのは製薬工程学院だ が、年末のパ−ティに出席したのは2005年のことだった。2003年には恐らく私たちが所属していることを知らなかったのだと思うけれど声が掛からな かったし、2004年末にはパ−ティの3日前に声を掛けられて、その日は総領事館に出掛ける予定だったから参加できなかった。
2005年 の製薬工程学院のパ−ティに初めて出た時、知っているのは生化学科の数人の先生だけで、あとの180人は殆ど未知の人たちだった。にもかかわらず驚いたの は、私の誕生日が間近と知って、私のために誕生日のケ−キと祝いの言葉が用意してあったことだ。司会者が開会を宣言すると直ぐに学院の党書記(言うまでも なく学院長よりも地位が上である)がマイクを引き取って、何やら喋っている。私の隣の小張老師が「前に来なさいと言っているわ」と私を前に押し出す。ふわ ふわと前に出て行った私に大きな60センチはありそうな誕生日のケ−キの入った箱が党書記から手渡され、カラオケの「Happy Birthday」の音楽が高らかに鳴りだして、180人が私のために歌ってくれたのだった。
何十年と生きてきて、このようなことは初め ての経験だった。1月1日が誕生日だから、大体が人が集まるときではなくて家にいるし、うちにいると新年のおめでとうに紛れて誰も私の誕生日を思い出さな い。だから職場の全員が私のために祝ってくれるなんて生まれてはじめての感激の体験で、その後でマイクを握って述べたお礼の言葉がのどにつっかえ気味に なったのだった。
帰りに車で送ってくれた小張老師が、「今日はどうでした。楽しかった?又来年も出ます?」と訊くので、「初めてのことで とても感激したけれど、来年の新年会も同じように誕生日になってしまう、毎年私の誕生日なんて皆がしらけるから、来年はもうやらないと約束してくれるなら 喜んで出ましょう。」と返事したのだった。
この小張老師というのは、若い女性の助教授で、同じ生化学の教授が張先生なので区別のために若 い彼女を小張老師、ボスを老張老師と呼んで区別している。韓国で博士課程を終えそこでの研究で博士を取ったばかりの先生である。英語が堪能なのでもっぱら 私と大学との間の連絡将校を勤めてくれている
これが昨年のこと。今年も新年会があるからと言って招かれた。旧年中に開くのに中国ではこの 手の宴会を新年会と呼び、したがって会の席上では「新年好」と言う挨拶が飛び交うので、日本人にはちょっとなじめないところがある。そしてどうなっている のか仕組みは知らないが、この手の宴会は会費を出すことがないから、費用は学院持ち、つまりは出所は学生の授業料なのだろう。
今年の新年会は12月29日の6時からで、綺麗なレストランの一部屋で開かれた。二部屋をつなげて8 x 40 米くらいありそうな広い空間にテ−ブルが15個。1年経っても相変わらず見知った顔が増えていない。頼りは生化学の3人の若い先生だけである。
端 に舞台があって、まず最初はそれぞれの教室からの演し物があった。それぞれ歌を歌ったり。コントをやったりで、生化学からは掛け合いで研究者であることの つらさをからかった11人のコントだった。聴いていても全く分からないが、原稿を読むと何となく意味が分かる。それから発想を得て、私が勝手に創作した 『今どき大学院生のなげき節』は、以下の通りである。
末は博士か 大臣か 先を夢見て 大学院
一流雑誌に 論文を 載られるよう ひたすらに
毎日がんばる 生活さ
良い研究を やるように 口で言うのは 簡単さ
教授は言ってりゃ 済むけれど 何時も言われる 身となれば
言葉の鞭で 追われてる
寝る間も惜しんで 働いて 仲間は誰もが やつれ果て
目の下真っ黒 ふらふらと 実験しながら 居眠りで
はっと気付くと また失敗
やっと休める 昼飯も 学生食堂は 満員で
見渡す限り 人ばかり 坐れる場所も ありません
5分で済ます 昼ご飯
結婚している 学生は 惚れて一緒に なったのに
妻は暮らしに 不満顔 結果を出して すこしでも
早く世に出て 儲けてね
まだ独り身の 学生は 男ばかりが 多い世に
早く相手を 見付けたい だけどあまりに 忙しく
相手を見付ける 暇もない
こんな苦労を 積み重ね やっとの思いで 博士号
とったところで 訊かれます あなたはいったい 何処出なの
えっえっ?いったい 何処だって?
そんな大学 知らないわ
12月22日に日本人会幹事会が開かれたときに、私は日本人教師の会の代表として、教師の会と資料室の置かれている現状を述べ、日本人会からの資金援助を訴えた。
これは、今度借りることになった資料室はビルの持ち主の好意により部屋代は無料になったけれど、管理費と電気代4千元を毎年負担しなくてはならなくなったた めである。教師の会の財源は会員の会費だけから成り立っている。年間50元の会費は今年度から100元になったが、その値上げにも大変な議論のやりとりが必要だったことから見て、今の会費を2倍以上にすることには問題がありそうに思う。
新しく加入する人の立場に なってみてみよう。日本から瀋陽に日本語の教師に来たときに、瀋陽に教師を助ける会があると聞いて入る人たちが殆どである。会に入ってみると、弁論大会、 文化祭、ホ−ムペ−ジ、資料室などいろいろな役割があって、それぞれどれか一つは分担しなくてはならないと言われる。
資料室というとても役立つ図書館があると知って、それは大変結構と思っても、入ったばかりなのにその運営に責任を持たされるので先ず驚く。それだけではなくその金銭的負担まで強いられる、となるとこの瀋陽日本人教師の会に入ることに二の足を踏む新会員が増えるのではないか。会員が必要経費を負担したときに、会員数が減れば一人当たりの金銭の負担は増える道理である。悪循環になる可能性がある。出来ればこれを避けて、教師の会の会員は運営だけに骨折って欲しい。
そういう思いで、日本人会幹事会に出て、資料室運営に対する援助をお願いした。それに対して、幹事から様 々な意見が出た。その時はそれ以上教師の会の立場を説明する時間がなく、会長から教師の会から改めて日本語資料室の存在の目的と意義、そしてその必要性を、今後の運用と活動計画(予算、事業内容)と共に訴えなさい、ということになった。
幹事会で出された意見を要約すると以下のようである。一つは、日本人会の中に資料室の存在意義を位置づけられるだろうかというものである。
○資料室の存在が日中友好に本当に役立っているという証拠があるのか。
○ 教師の会が資料室を持つことで日中友好をする価値と意義があるのか。
○日本人会との関係が分からない、資料室を支援して日本人会にとってどのように役立つのか。
もう一つは、教師の会が本当に資料室を必要としているのだろうか。なくたって良いじゃないか、ともう一度考えてご覧。なくてやっていけるならこの問題は根本的に解決するよと言うものである。
○資料室を開くための当番などが先生たちの負担となっているとも聞いている、この際、資料室の持ち物を捨てて身軽になれば問題は全て解決するのではないか。
○ 財産を持たなければ、教師の会が集まるだけで済むわけで、資料室を持つ必要があるのか。
このあとの発言は教師の側の意見もよく知っていると思われる、日本語弁論大会にも関わった幹事から出たものである。聞いた途端にはびっくりしたけれど、発想の転換、提案を逆転の発想で吟味するというのはこの頃は何処の企業でも当たり前のことであることに気付いてみると、なるほどと思う。同時に、まだまだ説明の足りないことに気付かされる。
大体、瀋陽に日本人の日本語教師が来た頃には、自分が持ってきている資料以外 に何も頼るものがなかったわけである。日本語を教えるための教え方の教材、辞書、辞典、字典も沢山あるが一人の先生が用意するには限りがあり、誰もが足りなくて口惜しい思いをしただろう。日本語を勉強する学生には、教科書以外の読み物が必要だろう。真面目な副読本も大事だろうが、それが漫画だっていいし、 ニュ−スの載っている新聞でも週刊誌だっていいわけだ。つまり日本語の読み物ならなんでも役立つはずである。
このような日本語教師たちの思いが結集して、日本語の図書を揃えようという大阪の特定非営利活動法人 日中ポランティア活助センターの設立となり、そこが中心となって2000年6月に日本語図書5千冊を揃えた日本語資料室が瀋陽市に発足したのだった。
私は日本語教師ではないが、教師の会に最初に行ったときにこの資料室がどんな苦労と善意で作られたかをその時の会の代表の石井先生から聞いた。『資料室が何とかぼそい線で支えられているのか』と驚いて教師の会を私の出来ることで助けようと思ったのだった。だから、教師の会や資料室の意義は私にとっては自明のことだったけれど、日本人幹事会にとっては、どうということのない話である。身を入れて聞く気になって貰うためにすら、こちらは努力を払わなくてならないわけだ。
日本人会幹事会に働きかけて支援をして貰うためには、日本語資料室の存在の意義を最初からゆっくりと説明し理解して貰う必要がある。ここのところを急いではいけないのだ。
瀋陽大学は1月1日だけが公式には休みだけれど、暮れの30日土曜と31日日曜日を授業の日に振り替えて2 日3日を休みにしている。これは学部の学生の話で、研究はもともと土日も休みというわけではないから、同じような理由で私たちの研究室の2日3日を休日に する理由はない。と言うわけで、私の教授室の白板には『只元旦休息』と書いておいた。休みは1月1日だけだぞと言う意味である。
それで元 旦は休みにしたけれど、私は一人でうちにいても意味がないので土曜も日曜も、そして元旦もラボに出掛けた。11時頃、敢さんが誕生日のケ−キを提げて『生 日快楽』ということで、ご主人と一緒にやってきた。ご主人は飛行機会社の設計部に務めていて、飛行機の機体の設計図を、実際に部品が作れるような行程にわ けてコンピュ−タで設計する部署にいるという。中国にいると言うか、瀋陽に住んでいると、コンピュ−タのソフトに強いという人に良く出会う。
敢 さんのご主人もそのひとりである。私が以前在職していた東工大はさすがに理系の最高学府だけあって、私の研究室にもコンピュ−タのソフトにめっぽう強い仲 田さんのような学生もいたが、一般的には中国の方が理系に強い人が多いような気がする。政治家だって理系出身なのが中国だ。
元旦は公式に は休日にしてあるけれど、瀋陽にうちのある学生は実家に戻ることが出来るが、うちのない学生たちは大学の敷地にある寄宿舎に住んでいる。結婚しているか恋 人のある学生はこの日は一緒に過ごす相手がいる。と言うわけで、独り者の私は、ホ−ムレスの家なき子と、ラブレスの恋なき子たちに夜は一緒に食事をしよう と誘っていたのだった。大学の近くで歩いていけるところで、安くて美味しいところを探して学生に聞くけれど、学生は自分の懐で行けるような所は、あんな所 は美味しくありませんという。この際、連れて行って貰って美味しいものを食べたいのである。
と言うわけで、大学の西門の斜め先にある湘香 餐庁に電話をして予約した。私のほか、大勇、王毅楠、暁東、暁艶、陳陽、楊方偉、秦盛蛍、曹亭の総勢9人である。ここは胡北省の料理で、胡北省は陳陽くん の出身地である。したがって彼がメニュ−を見て決めるのは当然という感じになった。『陳陽に選ばせては、値段の張るものばかり選んでしまって駄目だから、 ほかの人手伝ってよ。』と私が喚く。王毅楠くんと秦盛蛍さんは河南省の出で、私の頭の中の地図では湖北省と近いのだ。でも二人ともにやにやしている。陳陽 の選ぶ方が美味しいに決まっているからだ。
9人くらいで円卓を囲むと、皆で一緒の話題が共有できる。隣とだけぼそぼそと話している食事は ごめんだ、人数は制限されているとはいえ、これは私たちの研究室の新年会なのだ。それで、日本語の『一年の計は元旦にあり』中国語で何というか楊くんに訊 いた。すると彼は『一日之際在于晨』というのであって、一年というのはないという。王毅楠くんに訊いても、そうだという。仕方ない、それじゃ作ろうと言う ことになって、『一日之際在于晨 一年之際在于春』という対句が即席で出来上がった。それにしても、どうして中国には『一年の計は元旦にあり』と言うのが ないのだろう?
料理が3点運ばれて来たところで私はお茶のコップを持って「じゃ、始めましょう。Homelessとlovelessの新 年会です。でも『一日之際在于晨 一年之際在于春』といいますから、食事しながらそれぞれの今年の目標、夢、希望を述べませんか。私は、生きていると毎日 が新しい刺激的な冒険であることに気付きます。この冒険が長く続くよう健康に留意しようというのが今年の決意です。」と挨拶して乾杯の音頭をとった。学生 諸君は青島ビ−ルである。ここは安いレストランではないから、瀋陽産の雪花ビ−ルを置いていない。
皆それぞれ今年の抱負を述べて陳陽くん の番が回ってきた。彼は184cmもあるけれど身体は細いので、彼の第一の希望は筋肉を付けると言うものだ。第二が両親から毎月貰う小遣いが600元にな らないかというのである。大学から貰う奨学金が月に200元ある。合わせて800元になるわけだ。最近の大学での最低賃金と同じである。月に800元も要 るの?と隣の王くんに訊くと、それだけあれば2ヶ月は楽に暮らせますという。贅沢なのだ、彼は。
もっとも、蔡依林のコンサ−トのDVDを 持っていて快く貸してくれるのは彼だし、私も彼の贅沢の恩恵を受けているわけだ。勤め始めた同級生が両親に仕送りを始めているというのに、自分たちは親に 頼っていることを殆どの院生が気にしている中で、彼は異色の存在である。Going my wayと言うと恰好いいけれど、別の言い方をすれば、まだ幼いと言うことになるかも知れない。
年末の12月30日付で発行された瀋陽薬科大学報の第一面に、「『国際薬学合作研究中心』および『生命科学 及生物製薬学院』成立」と大きく出ている。目を通すと、これからの薬学研究と教育は基礎が先ずます重要になり、さらに高度に科学技術的に国際的に発展方向 に向かわなくてはならない、しかも国内及び国外に影響力を与えなくてならないから、この二つを作ったと書いてあるようだ。
すでに本学には 9つの合作研究室があるとも書かれていて、別の表に私たちの研究室の名前が書いてある、隣の池島教授も載っている。大分前に北海道薬科大学先生が兼任教授 となって作った研究室があって、その教授が退官したあとこちらの責任者の助教授が昇格して教授になっている研究室の名前もある。
私も隣の 池島先生も日本人だから、国際的な研究室と言うことなのだろうか。だけど、日本とつながりを持って教育と研究をしているわけではないし、それを目指してい るわけでもない。ここの学生を世界の一流に通じる研究者の卵に育てることこそが念願である。研究に国境はないから、国際的と言うなら研究そのものがそうだ し、そんなことを言えばわざわざ国際と銘打つのもおかしいわけだ
もちろん私たちの所の卒業生で今まで日本を含めて海外に行った学生もいる が、こう言うのを国際協力というのだろうか。日本に行った学生たちも、(感心にも)自分たちで勝手に進学先を選んで日本の大学院に入った学生が半分くらい いるし、カナダの大学院に進学している譚くんも卒業研究の時に自分で大学院はカナダに行くと決めていて、私は推薦書を書いただけである。この夏に博士をで る予定の王くんはアメリカに行きたいといっているけれど、何も私の功績ではない。彼がそうしたいと思っているからである。
この大学の出身 者で今アメリカで教授をしている景先生がこちらに持っている薬理研究室も名前が載っている。私たちと同じフロアなので様子がよく分かる。1年に2回くらい 合わせて1ヶ月くらいこちらに来て学生を指導しているが、先生不在の時が長いのに、学生は何時も真面目に実験をしているように見える。これならば国際的な 合作と言えるだろうと思う。
昨年日揮という日本のプラント会社がこの大学に作った寄付講座も名前が挙がっている。これは日本の企業が金を出しているから、こちら側は何をしているか知らないが、合作の名前に値するかも知れない。
私 たちは生化学に属しているので、今までの製薬工程学院から『生命科学及生物製薬学院』に所属替えで、なおかつ組織横断的に『国際薬学合作研究中心』という 名前の下にも入るのかと思ったが、いろいろと人の話しをきくと、初めから『国際薬学合作研究中心』と言う組織に所属替えをするみたいである。となるとこの ような研究室を集めてひとくくりにすることが、どういう狙いで、どういう効果があるのか気になる。
新聞を読んでも、そういっては何だが、 中国はスロ−ガンの国、美辞麗句の国だから、きれいで格好の良い言葉に操られて何が何だかよく分からない、とぼやいていたら、生化学教師の主任で、私の所 との連絡係(liaison officer)ということになっている小張老師が説明に来てくれた。
彼女の説明によると、『国際薬学合作 研究中心』を作った主要な狙いは、外国人の教授がここで研究費が取りにくいのを何とかするために作ったのだという。どういう戦略があるのか分からないが、 9つの研究室を集めることで研究費が取れるようなら、それは大変結構なことである。主任が学長の兼任で、副主任が今までの研究生処(大学院教務課)にいた 人だそうだ。今まで事務官僚組織にいてこれからは専任でこの任に当たると言うから、当然何か業績を挙げることを狙うだろう。それが外部からの研究費導入な ら、もちろん双手を挙げて賛成である。
ともかく国際中心の方針はまだ確実に決まっているわけではないそうで、私たちはとりあえず『生命科 学及生物製薬学院』に所属するのだそうだ。なるほど。私たちは今までのように生物化学に属しているのが無理がないし、その上で必要なら組織横断的な国際研 究中心の一つとしても数えられるというのならいいだろう。
名刺も作り直さなくてはならない。『国際薬学合作研究中心』はどういう名前にな るだろうか。International Center for Pharmaceutical Researchだろうか。いや、最初の所にresearchを入れた方が良い。International Research Center for Pharmaceuticsかな。
1月13日の土曜日は日本語資料室の当番だった。先の12月から当番は二人、交代なしで午前10時から午後2時までになった。それまでみたいに一日二交代で 複数制だと、当番が頻繁に回ってくるので当番を負担に思う人たちがいると言うことが考慮されたらしい。この新しいやり方だと、もし誰もが均等に当番をやる なら、2ヶ月に1回という計算になる。
借りている本の他に、南本先生が朝日新聞瀋陽支局から貰ってきた新聞を 私の所に「先生新聞読みたいでしょ」と置いていった古新聞がリュック一杯ある。このほかに、新しい資料室に寄贈したい手持ちの本も20冊以上あったので、本を返しに行きたいといううちの学生の楊方偉くんにリュック一つを持って貰って一緒に行った。バスなら1元、タクシ-で12元。前の開元ビルよりは遠くなった。タクシ-に乗って、新華広場、西南角、集智ビルというと、直ぐに話が通じたが、楊くんが直ぐに分かって彼が中継したのだった。
今度の資料室は86平方米の広さだ。前の開元ビルは二部屋あわせて150平方米あったから、ここを見たときは「あれ、狭い」と思ったものだ。でも、もう見慣れて我が家みたいなくつろぎを感じる。入口から入ると部屋は細長く続いているが、奥の方は本棚で仕切って教師用の部屋にしてある。したがって手前がぐるり と本棚に囲まれた閲覧室で、そして会議室も兼ねている。
10時には今日の相棒の池本先生も現れて、先ず部屋の掃除。電気掃除機を掛けて、その後モップで水拭き。いま外は雪で汚れているから、部屋の中まで靴の跡が残っている。一緒に来た楊くんが途中から床ふきに加わってくれて、私たちは大分楽をした。やがて若松先生がひょっこりと現れたが、このあと新年会をやることになっていて、その場所が分からないからあとで一 緒に行くためにここに現れたという。でも、その前に大福源というス−パ−にお土産を買いに行くわと言って出ていった。
電話が掛かってきて学生がこれから来たいという。最初の男子学生は、両親と一緒で、理科系の高校2年生。日本留学を目指していて、質問があるという。この質問には中国語も堪能な池本先生があたってくれた。どういう勉強をしたらよいか、日本にはどういう専門学科があるか、どんな大学がいいか、果ては日本で大学を出てから就職できるだろうか。中国籍だから不利と言うことはないか、そしてどういう会社に就職できるだろうか。などと、日本語勉強のためにはどのようにしたらよいかと答えていた池本先生の手に余ることを、やがて聞き始めた。親も真剣なまなざしで池本先生を見つめている。
私の所から行った学生が修士課程を出てカネボウに就職したが、日本の企業が国籍で区別をしているとは思われなかった。参考までにと思ってそのことを言っても、カネボウなんて知りません、という。ばかばかしくて私は相手にするのを止めた。池本先生は真面目に相手をしている。
このほかにも女子高校生が二人来た。文化系学生で、本を借りて帰りたいというので利用証を作成した。利用証のためには写真を持ってくることになっていて、このことを当然知っているはずなのに、一人の学生が持っている写真はキティちゃんが印刷されている小さなタックシ−ルである。学生証も持っていないが、中野先生と若松先生に習っているという。若松先生はもうすぐ戻ってくるだろうから、いいか、と言うので利用証を作った。
もう一人の女子学生も同じように利用証を必要としたので作ったが、彼女の写真はあまりにも幼いので、池本先生が訊くと小学校6年生の時の写真だという。自分で気に入っていて6年前の写真を使っているのだ。何とも驚きだが、国が違えば考え方も違うのかなあ。私もこの先は老顔になる一方だから、ここでは古い写真を活用してみよう。
学生は昼までに帰り、私たちは2時までが持ち時間でも実際はあとの都合もあって3時半まで、図書の整理などをしながら資料室にいた。
タクシ-で九香堂餐庁という名前のレストランに移動した。池本先生の友人の経営するレストランで、店長には日本留学経験があって、専門はインテリアデザインだが、アルバイトで覚えたという彼の打つソバが絶妙に美味しい。と言うわけで、ここを時々利用させて貰っている。今日は年が明けても瀋陽に残って仕事をしている先生たちの新年会の日。
7人集まった顔触れは中堅層が厚く、教師会の若手と高年者組の二極分布と違って、珍しい顔触れが一堂に会したという感じだった。そして、日本語の教え方、学生の反応とか試験、採点とかの苦労が話題になった。こういうくつろいだ話しが出来るために教師の会があるのだろう。哈爾浜の氷祭りに夜行往復した経験や、瀋陽郊外のスキ−行きの話しもでた。みんな積極的に瀋陽生活を楽しんでいるようで、嬉しいことである。
生化学教室の主任の小張老師から、昨年発表した論文を集計する時期になったと、連絡があった。ただ届けるだけではなく色々とあるようで、英語ではらちがあかず、電話は学生の王麗さんに渡して、後は任せた。
王 麗さんが言うには、論文の別刷りそれぞれ1部ずつと、電子ファイルが要ると言うことで、別刷りは手渡し、電子ファイルはmailに添付して送った。王麗が PCに向かって何やらごちゃごちゃ言っていると思ったらそばに来て、「大学からお金が出ますよ。誰と分けたいですか?」と訊く。
突然こんなことを言われたって何のことか分からない。お金が出るのはいいとして、何で皆にお金を上げなくてはならないんだ?
論文の出版に要した費用かと聞くとそうでないという。大学から出る金は、論文の載った雑誌のインパクトファクタ−が2.0以下だと800元で、それ以上だと3000元だという。つまり報奨金みたいなものらしい。
こ のインパクトファクタ−とは、学術雑誌の評価の基準となっているもので、だれかが論文をある雑誌に出版するとする。すると、その後のある年度1年間に、そ の論文が新しい論文に何回引用されたかを表している。著者が自分の論文に以前の論文を引用するのは普通だから、これは統計には入れられていない。インパク トファクタ−1ならば、その年には1回引用されたことを示している。このインパクトファクタ−を著者ごとに集計して、それを雑誌ごとに出して Science Citation Indexが毎年発表している。
私たちの領域の専門誌であるJournal of Biological Chemistryが5-6くらい。細胞生物学の最高峰のCell、有名なNatureやScienceだと20を越えている。昨年出版された一つの論文 は一昨年夏には送っていて、だから2005年度に出版されると思っていた。これは亡くなった井上康男先生への追悼号で広く原稿を集めたためか出版が遅れて 昨年夏にやっと出版されたものである。このGlycoconjugate Journalは、その頃1前後だった。だからこのfirst authorだった王麗は、この雑誌のインパクトファクタ-が高くないから、大学の奨学金申請を見送ったといっていた。このGlycoconjugate Journalのインパクトファクタ-が高いかどうかにかかわらず、追悼号だから、私としてはその雑誌に出さなくてはならなかったのである。
PC を見ていた王麗が奇声を上げた。驚いて見ると、彼女は2005年度はこの雑誌は3.6ですよ。とうわずった声で言っている。3.6なら、このインパクト ファクタ−は悪くはないわけだ。評価の高い雑誌に自分の論文が出ていたと知って彼女は顔のニタニタが止まらない一方で、奨学金の申請をしなかったよう、と 言って嘆いているわけだ。
ついでに訊くと、もう一つの胡丹くんのMMP-9の論文は3.0なのだそうだ。Biochemical and Biophysical Research CommunicationsよりもGlycoconjugate Journalが高いというのは信じにくいが、近年糖鎖生物学への関心が高まっていることを反映しているのかも知れない。
ともかく昨年の 論文2報がそれぞれインパクトファクタ−が3.0以上なので、それぞれ3000元が貰えるのだという。但し、「ひとり800元以上になると税金が取られる から、受け取るのは分割した方が良いですよ。分けても集めてあとで先生に全部上げますからね。王Pu、私、胡丹、貞子先生、それに先生の5人でわけてうけ とりましょう。」という。
論文を出すと一人一人に大学がお金を呉れるという仕組みを聞いてまだ消化しきれないから、はかばかしい返事が出 来ないが、研究費として返ってくると思えば断る理由は全くない。2004年にも論文を出しているがこのような話しはなかった、と、ついみみっちいことに考 えが及んでいく。どうしてだろう。
大学が呉れる研究以外の研究費は全部私たち個人で出しているから、うちの研究室の学生はこのような報奨 金が入ったら研究費に還元するのは当然と思っているが、これが学生個人の懐に入るなら学生もつい真剣になって研究をするのではないか。何しろ秦の時代、敵 兵を一人殺して首級を挙げれば位が貰えるという恩賞制度で国を強くしたという伝統が生きている国である。
充分な外部研究費があれば、学生 に論文報奨金を上げられる。つい一瞬、学生は賞金に釣られて春節休みも休まず実験をするという贅沢な白日夢を見てしまった。但し学生が春節休みも帰省しな ければ、こちらも日本に戻れない、日本に戻ったら、ソバを食べよう、ウナギを食べよう、温泉に浸かろうという夢が消えてしまう。つまるところ今は、なかな かうまいバランスの上に立って暮らしているのだ。