瀋陽日記
2005年 春・夏
2005年 春・夏
研究室の昼休み、近くにある大手スーパーのカルフールに出かけて大量の駄菓子を買い込んで教授室に戻ってくると、研究室の院生である王麗さんがパソコンを使っていた。教授室の半分の面積はパソコンや会議テーブルが占めていて、研究室の全員に解放している。彼女と「回来了(ただいま)」「回来了(お帰りなさい)」のやりとりの間に、目敏く大きなスーパーの袋を見つけた王麗さんは目を輝かせて立ち上がった。
「駄目、だめ、ダメよ。これ、豚のエサじゃないんだから。」と私は叫んだ。何しろ王麗さんは豚愛ずる姫君だけあって、食べ物には目がない。昼ご飯の買い物をしてきても、ビニールの袋を机の上に置いた途端にやってきて、さっさと中身を出して、気に入った食べ物は「これは豚が大好きです」と言いながら、止める暇もなく食べ始めてしまう。
今日は椅子から立ち上がったまではよかったけれど、そこで機先を制せられた彼女は「先生、ケチ!」と思いっきり叫んで、「先生ったら、まるで清の厳監生みたい」と続けた。「それ何なの?」と聞と、
「清の時代の厳監生は名高いけちん坊だったんですよ。死ぬときベッドに横になっていて、もう声が出なくなっていてね、布団から手を出して、こうやって」といって指二本を突き出して話を続けた。
「そのとき死の床の横には蝋燭が二本点いていたんですって。さすが奥さんにはそれがもったいない、消して一本にしなさい、というのが分かったんですって。奥さんが一本の蝋燭を消したら、満足げにうなずいたそうですよ。先生は厳監生を上回る大のケチですよ。」と妻を相手に思いっきり意趣晴らしをしている。
「王麗さんなら、死ぬときでも黙って手を突き出したら、あっ、もっと食べたいんだ、と分かって貰えるよ。そのときはちゃんとお菓子を持たせて上げるからね」とこちらも負けずに言い返した。ともかく、今日の買い物は、日本から瀋陽を久しぶりに訪ねてきた友人のために、お土産用に買ってきた駄菓子の類である。豚さんの勝手にさせるわけにはいかない。
日本にいれば場合と状況によってお土産は様々な選択肢から選べるけれど、瀋陽にいると、ケーキのお土産、プリンのお土産みたいなものがない。人を訪ねるときにちょっとお菓子を買って手土産に持っていくという芸当がここではできない。今回は、日本の友人がおでんを保冷剤と一緒に運んでくれたのに応えて、こちらが知恵を絞ったお土産は、駄菓子であった。
近くの小さな超市(スーパー)に行くと、おやつのたぐいが日本と同じように袋菓子として売られている。チョコレート、クッキーなどがあるのは、ブランドが違うだけで日本と同じだけれど、それ以外は結構違っていて、ここでは珍しい材料が多彩である。まず目につくのが、ソラマメのスナックで、形が似ているので蚕豆と呼ばれるソラマメは甘く味付けされたり、辛く味が付いたり、様々の味付けで売られている。
エンドウ豆もピーナツも大活躍で、味付けの種類は日本の菓子を上回ると思う。クルミも、殻を外したものが売られているし、砂糖でコートして食べやすくしたものもある。このクルミが決して高くないのが嬉しい。日本ではとっくに廃れてしまった果物味のグミ(コラーゲンで作ったプリプリした菓子)もあって、15年位前に日本で流行った頃この歯ごたえが好きだった私は大いに満足である。
日本ではあまり見ることのない山査子(サンザシ)は山東省が主要産地で、これは菓子として様々に加工されている。ちょっと甘酸っぱい味である。山査子の味は私の大のお気に入りである。どうしてもはっきりとは思い出せないけれど、子供の頃の記憶とどこかで結びついている。
果物を干して包んだものから、サンザシの実を練って固めて半乾きの飴から乾いた板状の飴に至るまで、それこそありとあらゆる思いつきが形になってサンザシの菓子が作られている。オリーブも、杏も、梅も砂糖漬けになって一つ一つ紙に包まれている。ナツメもいろいろなおやつの原材料だけれど、私は甘く蜜を絡めたのが好きだ。
夜の7〜8時にうちに帰って食事をしたあと、酒の禁じられている私の楽しみはこれらの菓子を食べることである。日本にない菓子をあれこれ品定めしながら味わって見て、結局中国の材料は多彩だけれど、味はいまいちだというのが結論だった。それも今年の夏までは。
この夏というのは、近くにカルフールの第二店ができた時である。カルフールは日本にもあるので大方はご存じだろうけれど、ともかく大きなスーパーである。概してスーパーの困るの は、こちらが気に入ったものでも、売れ筋でないと、別の銘柄に変えられてしまい、それじゃ嫌だと思ってもそれ以外選びようのないとこだと思う。いくら安くてもこちらの欲しい銘柄でないものを押しつけられるので、こだわる人間にとってはスーパーは敵である。
しかし、瀋陽で私たちは車を持っていないから、買い物に行くのが大仕事なので、近くに大きなスーパーが出来たことほどありがたいことはなかった。そのカルフールが出来て大いに日常の買い物が楽で便利になったけれど、もう一つ驚いたのはどれも質がよくて、これまで近くの小さなスーパーに置かれていた駄菓子は、ものが悪くて、したがって美味しくなかったことが分かったことだった。
それに気づいた感激した私達はカルフールの菓子を片端から買って試したことは言うまでもない。どれも美味しくて合格だけれど、味の好みがあるので、やがて落ち着いてみると、カルフールで買う私達お薦めの駄菓子リストが出来上がったというわけである。ほかにこれといって思いつくお土産がないので、今日は日本に帰る友人にカルフールで駄菓子を沢山買い求めてきた。
駄菓子だから王麗さんに食べられたって痛くもかゆくもないのだけれど、今の瀋陽はマイナス20度を上下している寒さである。また買いに行くのではたまらないから、豚除けならぬ王麗封じに懸命だったのだ。
新任の中村先生の自己紹介が到着して、会員欄に写真とともに収録した。
「山形達也教授弁公室(事務室)」という看板がぶら下がっている薬科大学の私たちの部屋は昨年完成した新しい建物の5階にあり東に面している。外から見ると上下左右の中心というとても良い位置にあり、見晴らしも良い。ここは学長の部屋になるはずだったのではないかと思ってしまう。
大学外部からの視察があったりすると、日本から来た先生にこんな良い部屋を与えていますよという大学の気前の良さを示すショールームにもなるわけだけど、居心地の良い部屋を貰って私達は大満足である。
この東側の窓からすぐ下にあって、一周400メートルのトラックを備えている大学の校庭は、瀋陽の冬の間はスケートリンクとなる。この冬はその前に比べて寒さが3週間遅かったように思うけれど、それでも12月に入ってからは係の人がびしょぬれになりながら毎日毎晩水を撒いて、1週間くらいたったある日、見事なスケートリンクが出来上がっていた。
それ以来冬季の体育の授業に使うほか、休み時間には学生が好き勝手に滑っている。私たちの部屋からそれを見ていると、滑っている人影が,男か女かすぐに分かることに気付いた。日本にいたころテレビで世界スケート選手権大会のアイスダンスなどが放映されるといつも目が釘付けになったものだが、あのように華麗なコスチュームを着ている わけではなく、誰もが厚い防寒コートをつけている上に距離が遠い。したがって体型では男か女か分からない。何しろ、今は昼間の最高でもマイナス10度以下の寒さなのだ。
赤や青の女性らしい色のコートの人もいる、赤い帽子をかぶっているので女性らしいことが明らかな人もいる。でも、コートの色や帽子では男女の識別が出来ないことが多い。ところが、その人が何を着ていようと、滑り始めると男か女か、ひと目で分かることに気付いた。あ、あれは男だ、あれは女だな。という具合に。
着ているものから男女の判別ができないのに、それが男か女か分かったことをどうやって証明するんだ?といわれそうだ。
でも、分かるのだ。滑る前は分からなくても、滑り出すと明らかに分かる。身体の動かし方が明瞭に違い、男は男らしく、女は女らしい動きをする。特に男性はアイスホッケー靴を履いているだけなのに頭を低く下げて、スケートらしい滑り方をする。一方女性は、そんな危ない滑り方はしない。
男は男らしく、女は女らしくというと、男女差別論者として糾弾されそうだが、男女の動きは同じではない。この違いは、男女の本質的な違いによるもので、それは血液中のテストステロンの量の違いで説明できる。テストステロンの量の違いが男女の体型、行動の違いを生み出している。テストステロンは男女の考え方の違いも支配してる。
大脳生理学の近年の研究によって、脳の男女差が明らかにされたことはよく知られている。遺伝子型が男性のXYであっても、女性のXXであっても、ヒトは生まれてくる前の性器の原基は男女双方を備えている。胎児期の男性の発生途上でY染色体上の遺伝子にスイッチが入ると、精巣が分化し始めテストステロンを分泌して、男性器が分化する。このスイッチが入らないと女性の性器が分化する。脳の発達もこのテストステロンの影響を受ける。精巣が分泌するテストステロンの影響で、元来何もなければ女性のものとして発達しようとする脳が男性の脳にな る。
このように遺伝子が違って、男と女は身体の作りが違っているだけでなく、その後の生理的行動も血液中のテストステロンの量の違いによって制御されていることが分かってきた。
「テストステロン」(J.M. およびM.G.ダブス著、青土社2001年。この翻訳はきわめて拙劣である)という本を読むと、女性から男性に変わろうとする性転換手術者が、手術前にまずテストステロン投与を受けたときの手記が載っていた。
それによると、「自分の変化をうまく言葉にすることが出来ない。豊かな言葉の表現が出来なくなって、言うことが簡潔かつ直接的、そして具体的になってきている。前よりも想像するのが苦手になって、考えることが減り、直ぐに行動するようになってきた。前にはいろいろ同時に考えられたのに、今は一時に一つのことしかできないし、視野が狭くなってきた。」
この人は女性の脳を持って育ち、それが男性の脳に変わるという劇的な体験をしたわけで、もと彼女でいま彼の言う内容は、今では広く認識されている男女の差と一致している。
一般的に、『うちの亭主は「メシ、フロ、ネル」しか喋らないのよ』という妻の嘆きで象徴されるように、男性は女性に比べて言葉が貧しく、言うことが具体的である。広い視野に欠けるけれど、その代わりに集中力がある。想像力に乏しく、闘争的で、議論は好まず直ぐに行動に移る。
いまでは血液中のテストステロン量を調べることが出来るが、それによると、テストステロン量の高い男性は、集中力が際だっているという。いま私達の研究室にいる胡丹くんは、集中力が特徴的である。中学生の頃、友人と話しているときに後ろから先生に声を掛けられて全然気付かず、返事のないのにいらだった先生が肩に手を掛けた途端、後ろ手に払って先生を殴ってしまったという。論文を読んでいるときもいっさいのことを忘れて没入する。
そのあと部屋を出て行くとあとは散らかり放題である。片づけるなどという「女々しいこと」はいっさい頭の中にはない。席を立ったときには次にやることしか考えていない。外に出かけると忘れ物、落とし物は始終である。実験をするときにはとても丁寧だけれど、なにかに集中するとほかのことにはいっさい気が回らず、それこそ不注意に器具を壊すことがある。
先日胡丹くんは、細胞の数を計る5万円以上する血球計算板を落として壊してしまった。使ったあとそこに置いてあったのを忘れて払い落としてしまったのだ。それから1週間もしないうちに、今度は潭くんが、新品の血球計算板を洗うときに力を入れすぎて割ってしまった。潭くんのテストステロン量も高いに違いない。どのくらい力を入れたら壊れるかを想像することが出来ないのだろう。
もうすぐ卒業研究の学生が3人入ってくる。昨年は三人とも女子だったけれど今度は男子三人である。私は学生の男女に選り好みはないけれど、貧乏所帯の研究室としては男子三人に今度は何を壊されるかと考えると頭が痛い。
私のエッセイに始終登場してきた人に沈慧蓮さんがいる。彼女は瀋陽薬科大学薬学部日語専門コースの出身で、卒業研究では私たちの研究室に来た上に、明るくすべてに積極的な人で、私たちはとても仲がよい。
上海出身の沈慧蓮さんが日本に渡ったのは昨2004年9月だった。その沈慧蓮さんが日本の印象記を送ってきた。『先生の「瀋陽便り」に載せてください。作者は「沈慧蓮さん」と付けてください。』と書いてあったので、ここで公開する。
あまりにも見事な日本語なので、どこからか文章を借りてきたか、誰かが直したかと思いたいところだが、彼女の実力を知っている私は、これは彼女が自分で書いたものだと思う。
大学院の入学試験を受けに京都に着いた一週間あとには、沈慧蓮さんは京都弁でmailを書いてきたくらい語学のセンスがよい。彼女は入試に合格し、4月からは京都大学大学院の院生となる。奨学金がまだ貰えそうもないらしい。誰か「あしながおじさん」になってくれませんか?
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「日本の印象」 沈慧蓮 2005/01/15
ふと気が付くと、日本に来てもう四ヶ月が経ちました。来日の日、上海の浦東空港を離陸し、関西国際空港に近づくにつれて、私の心もドキドキしてきたことを覚えています。「もうすぐ、この足で日本の土を踏む。私と縁のあるこの土地に。」と、思わずにはいられませんでした。しかし、嬉しい気持ちの反面、心配もしていました。一人で海外生活をするというのは今回が初めてであり、日本のみなさんとうまく付き合うことが出来るか、日本での研究生活に慣れることが出来るかなどを考えると心の中は不安でいっぱいでした。
飛行機を降りロビーに出ると、人込みの中に先ず「沈 慧蓮様 Welcome To 京都大学大学院薬学部」という字が目に入りました。そして蒸し暑い夏に、わざわざ京都から迎えてくれた研究室の二人の姿が見えました。日本の人に対する親切さに私はとても感動しました。いつの間にか、さきほどの不安は消えていました。
日本に来て驚いたのは自然の美しさです。私は、関西国際空港から宇治にある京大国際交流会館へ向かう道中、わくわくしながらタクシーの車窓から京都の風景を眺めていました。印象深かったことは、どの家もガーデニングをして、花や緑に溢れていることでした。その手入れの行き届いた綺麗な庭は、家のご主人が心を込めて作ったものであると感じられ、自然を大切にしていることが伝わって来ました。日本は経済大国とも言われて産業が非常に発達しているにもかかわらず、あらゆるところで緑が見られるのは、このような自然を愛する気持ちによるものだと思いました。
また、古都である京都の町並みは味わい深く、世界に誇るべき美しい道が多く、とても魅力的です。晩秋には、山々は紅葉に彩られ、最も美しい時期になります。私は、清水寺や円山公園、哲学の道を訪れて、紅葉の幻想的で美しい景観に心を奪われ、心が洗われたような気がしました。
日本が伝統・文化を守っていることにもまた、私は感銘を受けました。例えば京都の三大祭りの一つの時代祭では、多くの人々が楽しく参加していました。街中でも、着物を着ている女性の姿がよく見掛け、日本の伝統が生活に根付いていると感じました。日本の文化は、その伝統文化と中国や西洋の文化が混じり合った独特な文化でもあります。華道、茶道、演劇、造園などのように高度に形式化され洗練された文化や芸術は、質素で、優雅さや気品に溢れています。さらに、日々鍛錬し、文化を継承するだけに留まらず、現代的要素も取り入れ発展させています。このように、柔軟に他のものを受け入れようとする姿勢は学ぶべきものです。
私は、大学から離れているところに住んでいるため、毎日電車で通学しています。時間はかかりますが、京都の美しさを鑑賞する機会を持つことが出来ました。電車の窓を通して、素晴らしい山並みに囲まれ、風さえ薫る京都を眺めています。一方、車内では、教科書や仕事の資料を読む人の姿がありました。以前、中国にいる時には、日本の経済成長や技術進歩の鍵はいったい何であるかはっきり分かりませんでしたが、私はこの車内の風景を見て、その答えを見つけたよう気がします。それは、"勤勉さ"です。
研究室にきて、実験をしたり、論文を読んだり、真面目な研究生活が始まりました。日本の学生で一番印象的だったことは、日本の学生は研究において独立性がかなり高いこと、また、皆それぞれ個性的で自分が好きなことに夢中になり、明確な目標を持って一生懸命に取り込んでいることです。研究においては、学生は教官と相談して自分の興味ある研究テーマを選び、教官と先輩に指導を受けたり、論文を読んだりして、研究を試行錯誤しながら進めていきます。周りの日本の学生は皆自分の研究テーマの関連文献を多く読み、基礎知識と理論をしっかり身に付けた上で実験を行っているため、素晴らしい研究結果を出しています。
また、以前は、日本人はハードワーク(働きすぎ)という印象がありましたが、実際は息抜きも大切にしています。周りの日本の友達は好きな研究に没頭するだけではなく、趣味にも熱中しています。美術館巡りが好きな人、楽器の演奏に興じる人、映画を見る趣味を持っている人もいます。
中国にいた時、「世界に一つだけの花」という曲の「僕らも世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つその花を咲かせることだけに一生懸命になればいいNo.1にならなくてもいい もともと特別な Onlyone」という歌詞がとても気に入りました。実際、日本の生活の中で日本の人々はこの歌詞のようであると感じました。ただ勤勉であるだけでなく、自分の個性を持ってOnly oneを目指しているようです。
家を離れても、暖かい家族のような研究室の日本人たちに囲まれているため、私は寂しいとは思いません。そして、多くの日本人や各国からの留学生と出会い、日々刺激を受けながら楽しい生活を送っています。私はわが国と一衣帯水の伝統を持ちつつ、かつ最先端を行く日本で、将来に向けて、「世界に一つだけの花」を咲かせるように不断の努力を続けて行こうと思います。
中国生まれの餃子は日本の食生活にラーメンと同じように入りこんでいるけれど、誰もラーメンほどにはうるさいことを言わないようだ。ラーメンだと札幌ラーメンから始まって、全国にご当地ラーメンがあり、味も塩だ、醤油だ、豚骨だと、誰もが自分の好みを主張して譲らないように思う。ただしこのラーメンは日本独自のものである。
皆の好みと主張を反映して、ラーメンには沢山の種類があるのに、餃子はどの店のメニューでも一種類だけだ。もちろん、餃子専門店に行けばそんなことはないけれど、だいたい日本では餃子にうるさく言う人はいない。これは日本の餃子はおかず扱いで、ラーメンにプラスの一品だから、ほどほどに美味しければそれでよということになっているからだと思う。
ところが瀋陽の餃子は主食なので、いずれ将来は中身を味わうために皮は薄くなるかも知れないけれど、皮の薄い餃子なんて今のところお呼びではない。しかも手作りでしっかりと粉から練って歯ごたえのある餃子が食べられることが大きな違いだろう。調理法も焼き餃子が主体の日本とは違って、蒸し餃子と水餃子が普通である。
瀋陽で食べる餃子の皮は厚いけれど、口に入れたときの舌触り、歯ごたえはとても良い。この美味さはうどんの旨い、不味いを思って貰えばよい。良い粉で良く練ってシコシコと腰のあるうどんは美味しい。いい加減に練っただけのうどんが不味いのと同じである。
中国は大きく分けると南の米文化と、北の粉文化に分かれるという。北の地方では米がとれないので、小麦粉が主食である。小麦粉を沢山食べるために、おかずを中に巻き込んだ餃子が発達し、主食だから皮は薄くては意味がないので厚く、しかもその厚みを美味しく食べるために良く練って作ることになったのだろう。今でこそスーパーに行くとフリーザーに凍った餃子が何種類も売られているけれど、むかしは一家を挙げて作っていた。粉を練るのは力仕事だから東北地方では餃子を作るのは男の仕事であり、言い換えると東北の男は誰でも餃子を作ることができる。
以前、私の日本の研究室にいたポスドク(博士号を取ったあと修業期間中の研究者を指す)だった呉培星さんは、瀋陽のある遼寧省の北にある吉林省出身で、子供の頃は起きると毎朝兄弟4人が文字通り力を合わせて粉を練って餃子を作るのが日課だったという。だから、餃子を作るのが上手い。培星くんは研究所の直ぐ近くに住んでいたので、最初私たちは作り方を教わるという名目で彼の下宿に行き、その後は一緒に作って食べようという名目で、仕事の帰りに良く押しかけたものだ。勿論私たちも一生懸命作ったけれど、結局は彼の作る量にこちらが四~五人いても全然敵わなかった。
粉を練るのは力仕事だから私たちにも何とかなるけれど、実際の皮作りの段階で大きな差が付いた。一つ一つの餃子の皮を作るのは、練った小麦粉を棒状にのばして包丁で1cmくらいに切って、それを丸めて、のし棒で円形に薄くのばすことになる。簡単そうだけれど、ところが、これは誰にもまねの出来ない早さだった。さすが、何年も毎日やってきた手練の技である。
中国の餃子では具にニンニクを入れない。一番ポピュラーな具は三鮮と呼ばれるもので、豚肉、エビ、ニラで作る。このほか、豚肉と白菜、豚肉と香菜、豚肉とピーマン、豚肉と白菜などの組み合わせが餃子の具の定番である。どうして具にニンニクを入れないのかと聞くと、ニンニクは茹でると美味しくなくなるからだそうだ。これも日本と決定的に違うところだ。味は、十三香、塩、醤油、生姜で整える。具を作るときにはニンニクだけでなく、酒も加えない。
こうやって作り上げた餃子は、蒸し餃子と水餃子にするのが普通である。焼き餃子は特に鍋貼(guo tie)と呼ばれ、この作り方は、フライパンに餃子を綺麗に並べていれて、そこに小麦粉を溶いて薄く流し込んでから焼く。出すときにはひっくり返して皿に載せるから、餃子同士が綺麗に焼けた薄いぱりぱりの小麦粉で繋がっていると思って欲しい。見た目がとても綺麗だが、この食べ方は一般的ではない。中国で餃子を焼いて食べるのは、蒸し餃子や水餃子を残したときの、翌日の調理法なのである。
ニンニクは、具の中に入れない代わりに、すり下ろしてたれに好みで加える。このたれも中国は多彩である。日本だと、醤油が主で、好みで酢、辣(ラー)油ということになる。辣油に当たるものは唐辛子を刻んで油で炒めて作ったもので、唐辛子ごと、ザクッと掬って黒酢に入れるが、これはワンタンを食べるときにぴったりである。すり下ろしたニンニクを始め、様々なものが薬味として出されるけれど、私は黒酢にニンニク少々というのが気に入っている。
店で野菜や肉を買うときの単位は、1斤(500グラム)である。餃子も料理屋のメニューに1斤あたりの値段で書いてある。大学近くの店だと1斤あたり5元(65円くらい)が普通で、10元というと、一寸した店と言うことになる。瀋陽にある百年老店の一つ老辺餃子館にいくと、1斤あたり50元から始まって75元の値が付いている。
この1斤という単位を、最初は出来た餃子が500グラムだと思っていたが、1斤の餃子は大きな皿に山盛りに載って、二皿も出てくる。べらぼうな量なのだ。つまり、これは主食だから小麦粉として何グラム食べると考えるとわかりやすい。そうめんを茹でるときや、スパゲッティを茹でるとき、一人分の目安は乾重量で100グラムである。それと同じで、餃子だけ食べるなら(ここではそんなことはあり得ないけれど)、4人で1斤(500グラム)を取ればお腹が一杯になる。一人15〜20円くらいのものだろうか。
初めの頃は知らなかったから、二人でいつも半斤の餃子を頼んで、沢山食べ残して打包(テイクアウト)にしていた。そのうち教えて貰って、二両(100グラム、50グラムが1両)という注文の仕方を覚えた。おかずを二つ取って、餃子を二両注文すると、貞子と二人で丁度良いくらいの数だ。おかずの二皿は二人では食べきれないから、これも打包になる。
このように、中国に来て知った決定的な違いは、餃子の皮と調理法にある。瀋陽の餃子は皮が美味しい。讃岐うどん、あるいは稲庭うどんの美味さである。日本では餃子の皮は薄くて焦げ目があって、パリパリと食べた時の触感と香りが餃子の美味さの決め手だった。こうやって両国の違いを書いていると、脳裏に記憶の中の日本の餃子の芳しい香りが蘇ってきて切なくなってきた。ああ、パリパリっ、サクサクっという餃子が食べたいなあ。
私たちの瀋陽薬科大学から2ブロック離れたところに大きな書店があるが、どうも瀋陽には本屋が少ないような気がする。この本屋は5階まであって、1階には文房具、4階には書道の手本(書家の拓本)、筆硯も置いてある。瀋陽駅の近くの繁華街に行くとまた大きな書店があり、一寸離れたところに筆硯を扱う専門店も持っている。
でも、これ以外に本屋を見たことはない。勿論瀋陽中を歩き回っているわけではないから断言できないけれど、印象として本屋を見た覚えがない。それで狭い見聞だけれど、一般の中国人はあまり本を読まないのではないかという印象を持つようになった。それでも学生たちは、世の中の評判の小説はちゃんと読んでいる。
その一つに「射雕英雄伝」という香港の金庸という作者の書いた武侠小説があって、今の中国では大変人気があり、研究室で話題になると誰でも知っているようだ。テレビドラマにもなっているけれど、これはただの小説じゃなくて、天文、地理、歴史、政治、文学などなど含んでいるため、教科書になると言っても過言ではないと、女子学生の沈慧蓮さんは解説してくれた。それでみんはテレビドラマよりも、小説に嵌まっているそうだ。
その小説の中の主人公は郭靖という名の男で、黄蓉という名の可愛い恋人がいる。この郭靖はどんな具合に良いのか、その辺はよく分からないけれど、メッチャ格好いい男らしい。最初の年の私たちの研究室には男子学生が三人いた。そのひとりが背の高い魯くんで、その主人公の郭靖みたいに格好良いと言われている。さしずめ「瀋陽薬科大学のヨンさま」というところだろうか。
「魯くんのクールな目で殺されたいという女の人が沢山います」と同じ学年の王麗さんは言う。王麗さんは「本当ですよ」と強調するから、本当かも知れないし、からかっているだけかも知れない。1年下の沈慧蓮さんはそれを受けて「そうなんですよ。『あの人誰なの。なんて言う人なの』っていろんな人からよく訊かれます」と言う。魯くんの同級生の胡丹くんも、朱くんもニコニコして相槌を打っている。本人の魯くんもそこに一緒にいて、これを聞きながらにんまりしていて、満更でもなさそうだ。
魯くん、胡丹くん、それに朱くんの三人は学部の5年間同じ寮の同じ寝室仲間でとても仲がよい。何をするのも一緒、日本語の勉強も一緒に競い合って誰もが素晴らしい日本語能力を持っている。
魯くんと大学の構内を一緒に歩いていると、確かに魯くんはすれ違う誰彼に、愛想良く頷いたり声を掛け合ったりしている。多くは女性だけれど、女性だけではない。男も結構多い。つまり魯くんは、知人がとても多く、仲間の中の人気者なのだ。人気の秘密は、見かけの格好良さだけではなく、人の面倒見がよいことにもあると思われる。
彼はコンピューターにめっぽう強く、東京の秋葉原に当たる電脳の街である三好街に出掛けてコンピューターを組み立てて貰うときも魯くんの存在が必須だった。親切な魯くんは、友達のためにコンピューターを見立てたり、修理・調整を引き受ける。それでますますコンピューターに強くなり、彼も大事にされると言う良い循環をしているよう だ。
この薬科大学のことを隣の部屋の池島教授は「これじゃまるで恋愛学校ですよ」と言っているが、それは薬科大学なので女子学生が多いことと、仲の良い男女が何時も手をつないで大学の中を闊歩しているのが目に付くからだ。
今まで何度か書いているように、その刺激の強い大学の中で5年間独身を守ってきた胡丹くんは、大学院に入ってからすてきな恋人を見つけた。それは1年前の春節休暇の時、私たちが日本に戻ったあとのことだった。それを日本の私たちに知らせてきた魯くんは、「Mr. Qin has fallen into love. Since then he never goes to dining room with us, and thus I have to eat alone.」と書いてきた。
ついに仲間よりも大事な女性の出現に、魯くんは可哀想に、何時も一緒に行動する胡丹くんなしで一人で食事に行く羽目になってしまった。仲間の胡丹くんがとうとう身を固めたのに煽られたのだろうか、そのあと故郷に帰った魯くんは高校の時の同級生とめでたく結婚の約束をしてきた。休みが終わって瀋陽に戻ってきた私たちに「私にも女朋友 ができました」と嬉しそうに写真を見せてくれた。
この女朋友という中国語は、文字通りガールフレンドを意味しているけれど、日本で使うよりも意味はかなり重く、単に恋人というのではなく、結婚する相手を指している。中国ではただの女の友達では、女朋友と呼ぶことはない。女朋友と言う以上は、本人同士もその気、そして親も認めた関係を指していると思って良い。もちろん、そのとき男の方は女性から見れば男朋友となっていることは言うまでもない。
魯くんは三年前の夏の休暇で故郷に帰ったとき、高校の同級生だった女性と街ですれ違った。「あ、あの子は」と思って少し行き過ぎてから振り返ると、丁度相手も立ち止まってこちらに振り向いたところだったという。これがきっかけで彼女との昔の友情が復活して、そして今やついに女朋友になったわけだが、最後の段階には胡丹くんの恋の成就が影響したに違いない。
というわけで、我が研究室の郭靖と呼ばれた魯くんもめでたく本命の恋人が出来たのだった。魯くんは1年間私たちの研究室にいたあと、昨年秋から韓国の大学に留学した。きっと今頃は「中国のヨンさま」と言われて、韓国の女性に追っかけられているに違いない。
赤一色となって春節(新年)を祝う瀋陽に雪が降って街を白く染め上げ、赤と白の対比の街はいっとき美しかったけれど、翌日には歩道の白い雪はたちまち踏み荒らされ泥が入り交じって茶色のザラメみたいになってしまった。車道も歩道も舗装されていてほとんど土が顔を出していないのに、どこから運ばれてくるのか瀋陽の街は埃っぽく、そして泥っぽい。
大学はまだ春節休みなので、昼間だけれど昼食を食べに行きながら買い物をしてこようと言うことになった。大学から1ブロック離れた所に大きな建物を構えるスーパーのカルフールは、昨年夏に開店したばかりで、東京日本橋のコレド日本橋には及ばずとも、入り口を除けば、華麗な作りである。入り口は人が大勢出入りするから、扉を開け放っている。しかしそれではマイナス二十度の外気が直接入ってしまうので、戸口にはビニールのカーテンがぶら下がっている。このカーテンは、幅20cm位の厚くて重いビニールが隙間なくぶら下がったもので、人々はこれをかき分けて出入りする。こうやって入ったホールからは、更にビニールのカーテンをかき分けて店内に入るという二重扉の仕組みになっている。
中国の建物の床は何処もそうだけれど、このカルフールの床も、表面がピカピカの白い石張りである。夏はよいけれど、こうやって雪と泥の歩道を歩いてくると綺麗な床は可哀想に泥だらけになる。それでも掃除専門の人がいて、まるで賽の河原みたいだと同情してしまうけれど、一生懸命モップで拭いている。
カルフールの建物の1階にはファストフードの店が入っている。ケンタッキーフライドチキンのほか、ピザの店、中華カフェテリアなどがある。ここのカルフールにはないけれど、マクドナルドやケンタッキーはこういうところには必ず出ていて、そしていつも沢山の客が入っている。一人が普通に食べて20〜30元(260円〜400円)掛かるので、学生や私たちが気軽に行けるところではない。ここが混み合っているのはいまや中国にはリッチな人たちが結構いることを意味している。
そういうわけで私たちの入った店は千伊拉面店というラーメンの店だった。ここは大阪の人が中国に作ったラーメンのチェーン店で、牛肉弁当とか焼き肉ランチなどのように、一皿の中にご飯とおかずのすべてが入っていてそれを一品注文することが出来る。ラーメン一つでも注文できる。
このようにレストランに連れなしで来て、一品だけですべて間に合うという注文の仕方は、これまでの中華料理店にはなかった斬新なものである。うんと安い店に行くと、包子だけとか、ラーメンだけを注文する人もいるけれど、普通の店ではあり得ない注文の仕方である。
店の入り口には日本風の衣装を付けた女の子が立っていて、「いらっしゃいませ」と聴くつもりなら聞き取れる声で歓迎されて中に入った。入り口に近い席を勧められたけれど、ドアに近いと寒そうなので奥の方の富士山の大きな写真の下のテーブルに付いた。もう3時近い頃なので店は混んでいない。妻の貞子は味噌ラーメン、私はチャーシューメンを注文した。ボーイさんにその場で24元を払ったけれど4元は細かい硬貨を使ったので、彼はいち、にい、さん、よんと硬貨を数えている。日本語なのだ。「凄いじゃない」と日本語で声を掛けると、彼はにこりとした。
見回すと、床には私たちの歩いてきた跡が付いている。あれ、と下を見ると足許に泥水が水たまりを作っていた。「奥まで来て悪いことしちゃったね」と貞子と話しながら向こう隣の席を見ると、ハイヒールを履いた女性の足許は全然汚れていない。地下の大駐車場に車を入れて買い物をする人たちも増えている。
中国の拉面は日本のうどんと同じで、この日本風ラーメン店でもほかの中国と同じうどん風である。日本に来ている中国の留学生は日本で安上がりに食事をするのに日本のラーメンをよく食べていると言う。だから、中国でも日本式ラーメンが受け入れられないことはないと思うが、まだ中国で日本的なラーメンを見たことは一度もない。
ラーメンを食べて身体が温まったところで、上階にあるカルフールでグローサリーをして、うちに帰った。着替えようとして、はっとした。私のカバンがない。急に空洞が出来たように身体中の力が抜けていく。
「カバンを本当に持っていたの?大学に置いていったんじゃない?」と貞子はいうが、大学を出たときには確かに肩に掛けていた。となると、思いつく唯一の置き忘れ場所はラーメン店である。きっとコートを脱いだとき隣にまずカバンを置いたに違いない。まだあるだろうか?
カバンの中には、手帳、中国語の電子辞書、半年前には新品だったデジカメ、中近距離用の眼鏡、折りたたみ傘、大学の私のID、それに銀行通帳が入っている。「中国で何か置き忘れたらまず出ないと思え」という中国ガイドブックの内容が暗い気持ちで思い出される。気持はどんどん沈みこんでいった。
ともかく行ってみるしかない。妻と互いに重い口でぼやき、嘆きつつ、再び雪だまりに足を取られながら先刻の店に行った。店に着いて、時間的には先刻よりももっと空いている店内を覗き込んで、さっきのボーイさんを探す。いた、いた。店の入り口に立っている女の子も何か言ったようで、ボーイさんはこちらを見て二人の視線が絡み合った。
私が「カバンをさっき置き忘れたと思うけれど、ここにはありませんか?」と英語で言ったのと、彼が手の仕草でカバンの形を示したのが同時だった。「えっ、あるの?」と私は日本語で叫び、彼は奥のレジに行って私のカバンを高々と持ち上げてにっこりとした。そこまで飛んでいった私は、余りの嬉しさにそのあと何を言ったのか覚えていないけれど、気づくと私は財布から百元を出して彼の手に押しつけていた。
そのボーイさんは「とんでもない、そんなもの必要ないよ、当たり前のことをしただけだ。いらないよ」と言っているらしい。こちらは「ありがとう、ありがとう。あなたは正直だ。カバンが見つかってどんなに助かったか分からない。これを貰ってくれないと私はカバンが受け取れない」と言い続けた。この押し問答を何回繰り返したか分からない。店のボーイ、ウエイトレス皆がニコニコとこちらを見ている。誰の顔も善意と幸せに溢れかえっている。
やっと彼にお礼を押しつけて、「非常感謝」を繰り返しながらカバンをしっかりと抱いて店を出た。綺麗な店の中をまた泥靴の跡で汚したことが気になりつつも、心の中は春の日射しのように暖かかった。
手持ちの現金が足りなくなったので、預金を引出そうと銀行に妻の貞子と出かけた。私たちの銀行は中国工商銀行といって大手銀行の一つで、市内至る所に支店がある。私達のアパートの建物の下にも入っているけれど、朝はまだ開いていなかった。昼休みに大学の正門近くの支店に出かけると、窓口が三つ開いていて、店内は大して混んでいなくて嬉しかった。
一般的にこういうところでも、誰も列を作らず、窓口で相手をして貰っている人の後ろではなく横に、たとえば左にくっつく。その次に来た人は今度は右側にくっつく。というわけで、フォーク型整列という受け身の生き方に慣れている日本人としては、こういうときにどうしてよいか分からないのだ。
いつかは郵便局で、次と思って二番目に並んでいたのにいつまで経っても右と左に割り込む人たちに邪魔されて番が廻ってこず、とうとう、窓口の中にいた係員が気の毒に思って私に声を掛けてくれたことがある。
銀行に入っていくとちょうど用の片づいた人がいて、窓口が一つ空いた。貞子は真っ直ぐそこに行って、急いで自分の赤い通帳を出して中の係員に手渡しながら五千元を引き出したいと中国語で言った。私たちが瀋陽に来た1年半前は、店内の机に青い印刷の預金用と、赤い印刷の引き出し用の紙があったけれど、このごろは紙が置いてないので、通帳を出して口で言うだけで用が足りる。
それを見届けて私は電話代を払うための機械に行った。この機械は、キャッシュカードを使って、電話代、ガス代などを自分の口座から払い込む仕組みである。対話式の画面で、何を払いたいかを選び、それが電話代の時は、さらに電話番号を入力し、あとは自分の口座の暗証番号を入れれば支払いが済むという、半自動式公共料金引き落とし装置 である。前の月の電話代を払い忘れていると、やがて郵便で催促が送られてきてしまう。
機械の所に並んで一人待てば自分の番だと思ったときに、先刻の窓口で係と貞子がなにやら話している。というより、係が何か言って、貞子が困っている。それで並んでいたのを放棄して窓口に行くと、係の人は「ここに何年居る?」と訊いている。「何元要る?」ではなくて、滞在年数が訊かれるなんておかしいと思ったけれど、1年半居るよと答えたら、先方は1年半と紙に書いて見せてくれる。
そうだ、そうだ、それなら書いたらよいだろうと思いついて貞子に言ったら、彼女は「我要五千元」と紙に書いて、係員に見せた。ところが中の係員はすぐに金を数えたりしないで、貞子にまた、「現金か?」と言っている。
当たり前じゃないか。待てよ、渡す紙幣の種類を訊いているのかも知れないと思ったけれど、「百元紙幣」でなんてとても言えない。仕方なく財布を出して百元札を見せて、これだよと言ってみたけれど、先方はまた何か言っている。貞子にも私にも分からない。隣の窓口に並んだ人たちもこちらをみて何やら言っているけれど、もちろん私たちには何のことか分からない。
貞子の後ろにというか、私が貞子の左にいたから今度は貞子の右にくっついていると言うべきだけれど、そこに並んでいる中年の女性が手を差し伸べて紙とペンを指し示した。助けてくれると分かったので書くものを渡した。すると、紙に「存否」と書いた。貞子と顔を見合わせたが、わからない。すると今度は「取否」と書いてくれた。学内ポストに行って郵便を取ってくるとき「取信」というから、「取」はお金を引き出すことだろう。お金を出したいのか?と訊いているに違いない。
「取」に○を付けたところで貞子ははっと気づいてカバンを開けた。取り出したのが、赤い銀行の通帳だった。最初に窓口氏に「五千元のお金を出したい」といいつつ渡したのは、銀行の通帳ではなくて、日本政府発行10年有効の赤い表紙のパスポートだった。
以前、二万元を引き出したときに身分証明書が要ると言われて以来、銀行窓口で現金を引き出すときにはIDを持っていくのが習慣になっていた。それでつい、銀行通帳のつもりで同じ色、同じ大きさのパスポートを出していたのだった。
これで話は解決。周り中の笑顔に包まれて無事に彼女は現金を手にすることが出来たが、二人ともあまりにも疲れて、機械で電話代を払うのはまたにしようと言うことになった。こんなことの後でこれ以上この銀行にいるのは一寸ばかりきまりが悪いし。
研究室に戻ってきてことの顛末を学生の胡丹くんに話すと、「良く無事に帰って来られましたね」といってにやにやしたと思うと、「金を出せ、金を五千元出せ」と胡丹くんは大きな声で叫ぶのだ。胡丹くんの説明によると「我要銭」や「我要五千元」は銀行強盗のせりふだという。預金を引き出したければ、「我要取銭。我要取五千元」でなくてはいけなかったのだ。
窓口で銀行の通帳を出さずに「我要五千元」とわめいていたのだから、強盗と思われても不思議はなかったわけだ。それでも慌てず、騒がず、怒らず、警察も呼ばずに窓口氏が対応をしてくれたのは、間抜けな強盗が自分のパスポートを見せつつ「金を出せ」というはずはないと思ってくれたからに違いない。
先日は私がカバンを置き忘れるというドジをするし、今回は貞子が思いこみで間抜けなことをするし、二人揃って嘆いていると、さっき笑っていた胡丹くんも嘆いている。
「1年中国語を教えた弟子がこれじゃ、もう私に誰も教えてくれと言って来ないよ。情けないね。もう弟子じゃないね。」
胡丹くんは私たちの中国語の先生だったのだ。とうとう私たちは破門されてしまった。
第9回瀋陽日本語弁論大会の要項、募集要項が発表になった。日本語弁論大会のページ、あるいはお知らせのページから入っていける。
高温多湿の日本では、一日を過ごしてべとついた肌のまま寝る気にはとてもなれない。汗を毎日洗い流すという習慣は古くから日本では根付いていて、江戸時代の外国から日本を訪れた人が、日本人は世界一きれい好きだと書き留めた記録があるという。
中国では日本に比べると乾燥しているので、日本のように毎日風呂に入る生活の習慣がないと聞いている。しかし、汗をかけばその汗が蒸発したとしても、その汗の痕跡は皮膚に残る。この汗の成分と、汗の成分を栄養として繁殖する微生物の出す物質が汗の匂いとなり、これがあまりにもきつくなると周りの人が秘かに顔をしかめる。
薬科大学で学部学生は全員が寮に入らなくてはならない。その1年間の寮費は光熱費込みで1200元だが、風呂代は含まれていない。風呂といってもシャワーのことだそうだけれど、入浴料は学生2元、院生3元、職員4元、外部の人が6元。学生食堂に行って私たち二人の昼ご飯が5元前後なので、大体安めの昼ご飯代とおなじである。
洗濯は無料だけれど、自分で洗わなくてはならないから洗濯をすると勉強の時間が取られる。従って、お金と時間を倹約しようと思うとシャワーを浴びない生活、洗濯をこまめにしない生活になる。恋人の出来る前の胡丹くんは、この手の節約生活をしているので、時には匂うことがあった。
話は変わるが、今では臓器移植が世界的に行われるようになってきた。臓器移植は今の医学で治療できない人が生き続けることを可能にする魔術だ。たとえば心臓を健康なものに替えれば正常な生活が取り戻せるという、患者にとって切実な要求に応える技術だが、一方で同時に臓器売買が巨大なビジネスとして成り立とうとしている。
この移植に当たっては、「主要組織適合抗原」が、ドナー(臓器を提供する人)とレシピエント(手術で臓器を取り替える人)とで一致しないと組織が定着しないと言うことは、もうよく知られている。
この「主要組織適合抗原」はタンパク質でそれぞれの人のすべての細胞表面にあり、このタンパク質は個人個人で構造が違っている。この構造が違うので他人の細胞が入ってくると、それぞれの人が持っている免疫の力が、「これは自分のものではない」と見分けることが出来るようになっている。
免疫は自分という一個体の整合性を保つために外来生物の進入を許さない仕組みで、人はそのおかげでここまで繁栄してきたとも言える。臓器移植については、一卵性双生児か、クローン人間でもない限り、適合するのは一万人に一人という状態である。
さて、「主要組織適合抗原」は個人識別のために遺伝子で決まるタンパク質で、私たちの身体の免疫組織はこれを頼りに自分か他人かを見分けているけれど、私たちは自分以外の人を見分けるのに、このタンパク質に頼っているわけではない。相手が誰かは、眼で見れば分かるし、見えなくたって声を聞けば分かる。でも、あなたは匂いだけで相手が分かるだろうか?
だいぶ前のことだが、こういう科学実験があった。先ず何人かの若い健康な男性を集めた。匂いのないボディーソープを使ってシャワーを浴びて清潔な身体にした上で、Tシャツを着せてそのまま3日間を過ごさせる。3日も着ればその人の匂いがシャツに染み込む。その匂いの沁みたシャツを回収してビニールの袋に入れて番号をつけて、あとで誰のものだったか分かるようにする。次に全く関係のない若い女性を集めて来て、このTシャツの匂いをかがせてどのTシャツの匂いが好きかを選ばせた。実験に参加した男性も女性も、各人の組織適応抗原が何か、あらかじめ調べてある。
さて結果を「主要組織適合抗原」でいうと、女性は自分の持つ「主要組織適合抗原」と一番遠い関係になる「主要組織適合抗原」を持った男性の汗の沁みたTシャツを、好ましいと言って選んだのだった。これはすごいことだ。生物的に見るとこれは大変理にかなっている。近縁の遺伝子よりは遠い遺伝子を混ぜ合わせようとする生物の本能の現れなのだ。
このテストで、立場を変えて女性がTシャツを着て、それを男が選んだらどうなるだろう?そんなテストを思うだけで嬉しくて頭がくらくらしてしまうが、公式には報告されていない。素人考えでは、男は女性の匂いならどれでも良いということになるのではないか。少なくとも生物学的には、男は誰彼の見境もなく自分の精子を残そうとする存在だと思われているから、匂いで女性を選ぶことは出来ないはずだ。
女性がなぜ匂いを頼りに自分と一番遠い関係になる遺伝子を持つ男性を選べるのか、また主要組織適合抗原の違いがどうやって女性によってかぎ分けられる違う匂いとなるのか、その仕組みはまだ全く分かっていない。しかし男は「自分だよ」という女性の誰かにとっては心地よい匂いを発散しているわけだ。そして女性はそれをかぎ分けるという驚嘆すべき能力を生まれつき持っている。
そしてこの実験は、女性が男を生物学的に正しく選ぶ能力を持つことを示している。逆ではない。ただし、このかぎ分ける能力は女性が避妊薬であるピルを飲んでいると全く発揮できないという。ピルは黄体ホルモンを含んでいるので、ピルを服用すると女性は妊娠しているのと同じ状態になって排卵を起こさない。これがピルの避妊薬としての仕組みである。女性が妊娠しているときには、自分に精子を供給する男を選ぶ必要はないわけだから、その能力がなくても良い。実に理にかなっている。
さて、研究室の胡丹くんには一年前にすてきな恋人が出来たけれど、彼に言わせると自分から彼女を捜したのではない、彼女が自分を見つけたのだと主張している。上に書いたように、女性が好みの男性を見つけるのは自然の摂理だから、彼の汗の匂いの中から彼女は麝香のようなうっとりとする香りをかぎ分けたのだろう。
胡丹くんの彼女は今では胡丹くんの洗濯も一緒に引き受けているという。何時も清潔な服を着るようになったのと、風呂に入る回数が増えたのか、このごろの胡丹くんは汗の匂いをさせなくなった。彼が彼の匂いを発散させて、二万人に一人はいるはずの彼女の競争相手を惹きつけさせたくないという、これも彼女の生物的本能の知らず知らずの表れかも知れない。
長い春節休暇がおわって、久しぶりに教師の会の会合が3月5日に開かれた。そこで、掲示板への対応をどうするかが議論された。
いままでこの掲示板には、質問、照会、案内、挨拶、激励など、様々な投稿が寄せられている。誰かへの個人的連絡はすぐにそちらに回したし、返事をするのに適当な人を思いつけばそちらに回した。また、係として処理できるものにはすぐに対応をしてきたけれど、会の意見が求められるときには困惑する。つまり、このホームページは会の親睦と、この会の活動を広く知らせるためであり、会としてはこれ睦以外特に方針を持っていない。
掲示板は会として討論の場を提供するだけで、教師会は返事を書く必要がないという意見もあったが、それは極論であろう。掲示板は社会に対するこの会の窓であり人であれば顔である。人から挨拶を受けて知らん顔をしているのはどうかと思われる。
様々な意見の交換を経て、掲示板は係が判断して答えの出そうなところに回す、各会員は出来るかぎり返事をする、学習についての質問は受け付けない旨を掲示する、などが決まった。
ホームページは今沢山のセクションがあるので、ホームページ係がそれぞれを担当して面倒を見ようという試みをこの新学期から始めた。
お知らせ: 児崎、日本語関係資料:鳴海、日本弁論大会:岡沢、日本語クラブ:山形、活動の記録:岡沢、会員紹介:児崎、会員交流ページ:山形、学生のページ:岡沢、暮らしの智慧:鳴海、HP係の独り言:係全員、
掲示板:係が毎月交代で面倒を見る
3月 岡沢、4月 鳴海、5月 児崎、6月 山形、7月 岡沢、8月 山形
ホームページはGeocitiesがサーバーで、ftpの時のためにPCにIDもパスワードも記憶させていた。今回、仲間の係に知らせる必要があってパスワードを知らせたところ、パスワードが間違っていた。つまり正しく記憶(記録)していなかったのだ。パスワードを思い出すまでに半日かかって、しかも大騒ぎをしてしまった。
中国人はお祭り好きだ。旧正月は天下晴れての休日が1週間続き、そのあとも元宵節と呼ばれる1月15日(今年は2月23日)までは正月気分である。どのように正月気分かというと、大学はもちろんお休みだし、大学の傍の飲食店もちゃんと開いているとは限らず、店を開いたとしてもある程度その日の日銭を稼ぐと店を閉めてしまうという感じである。この時期は家族、親族や友だちが集まって親睦を深める期間みたいで、朝から、花火を上げたり、爆竹をならしたり、賑やかなことである。
元宵節の1月15日は湯円と呼ばれる甘い餡を入れたお餅を食べる習慣があるという。縁起物だから食べましょうと胡丹くんが買ってきてくれて、昼は皆が集まった。この季節は家楽福に行くと大きく売り場を拡大して冷凍の湯円が何種類も売られている。一つ二〜三センチくらいの大きさに丸めてあって、外は餅米粉で、餡は甘いごま餡(日本のごま餡のおはぎを思って欲しい)、が入っていたり、甘いピーナッツの餡だったりする。冷凍のままの湯円を熱湯に入れて、熱くなったところで椀によそって食べる。
ちなみに、六仁という餡は:白砂糖、白ごま、落花生、葵花子仁、胡桃仁、白瓜仁、榛子仁を含み、八仁いう餡は:白砂糖、白ごま、落花生、胡桃仁、緑豆、干ブドウ、葵花子仁、紅棗、蓮子を含んでいて、ともかく甘い。味は餡によって微妙に違うけれど、全部で8個食べたら、もう沢山という感じだった。
午後時間が経つにつれて、聞こえてくる花火の音の間隔が近くなってきた。窓から見るとあっちの煙突の横、こっちの建物の上という具合に、あちこちで花火が上がっている。この花火は勝手に皆が打ち上げ花火を上げるのと、どこかの団体か役所が花火を打ち上げる大規模な花火とが混在している。
夕方になって、元宵節の祭りを見に行こうという胡丹くんと彼女に誘われてバスに乗るために歩いていると、花火を売る露店が沢山出ていた。台の上には線香花火、爆竹、小さな打ち上げ花火のたぐいを置いて、台の周りにはもっと大々的な打ち上げ花火が積み上げてある。小は10号ケーキの箱くらいから、大は石油缶を超える大きさまで沢山周りに積んであって、更に店の人たちが景気づけに直ぐ傍で花火を打ち上げていた。もし引火したらとぞっとしながら、それでも石油缶くらいの大きい花火はいくらか訊いてみた。かなり高く飛ぶ連発式で300元だという。
今日は大きい花火がいくらでも見られるので自分でやることはなかろうと、一つ3元の爆竹を二つ買って、大混雑のバスに乗り、南の瀋河河畔にある瀋陽で二番目に大きい五里河公園に向かった。最初はこの公園で花火を上げているように見えたのに、近づくとこの公園の隣の河畔花苑とよばれる大きなマンションブロックの中から、矢継ぎ早に盛んに花火が上がっている。ここは日本企業の人などが住む超高級住宅である。バスを降りて大勢の人たちの流れに乗って河岸の公園に向かったが、眼は左手の豪華な花火に惹きつけられ、一方で雪と氷で覆われて危険この上なしという道を歩くので、花火で明るくなった足元も見なくてはならず忙しい。
元宵節の祭りは灯会、つまり提灯祭りと聞いていて、様々な形をした色とりどりの提灯をイメージしていたけれど、簡単に言うと、青森のねぶたのように人の形や建物を張りぼてで造って中から照明する見せ物だった。清代初期には灯会というのが書かれているから、歴史のあるもののようだ。会場は露天の公園で、一人30元という、日本円にすると400円だけれど、生活感覚で考えると三千円くらいに当たるかなり高い入場料を取るけれど、大勢の人たちが解放軍に警備された会場に続々と詰めかける。吹きさらしで気温はマイナス20度以下というのに、よくぞこれだけ人が出てくるものだと寒さでせわしく足を踏みならしながら感心した。
この灯会は公式には国際新春灯会(2005 Chna Shenyang International Lantern Fair of Spring Festival)と呼ばれていて、中国文聯、中共瀋陽市委、瀋陽市人民政府、紅塔遼寧煙草公司の主催だそうだ。会場にはいると、伝説上の黄帝が道を尋ねている構図など歴史に取材した場面の張りぼてが並んでいて、内部からの照明で色鮮やかに輝いている。多くの人が写真を撮っていたけれど、胡丹くんは研究室のカメラを持ってくるはずだったのに忘れたし、私のカメラは電池が残り少なく使い物にならず、胡丹くんの彼女はせっかくの機会なのに写真にとって貰えなくてご機嫌斜めだ。
張りぼての展示の中には各国領事館の名前が付いたお国自慢の企画があり、エジプトは大きなピラミッドを従えた眉目秀麗なスフィンクスを出しているし、フランスはエッフェル塔、英国はビッグベンを作っている。一方日本は大きな板に、小田原提灯、白河提灯など十五個くらいの提灯が貼り付けてあるだけだ。見栄えのしないことおびただしい。どうでも良いことかも知れないが、日本領事館の名前を冠するならこんなことでお茶を濁すのではなく、青森のねぶたそのものを持ってきて練り廻して欲しかった。
出しものは沢山あってそれら全部を廻って見ているとますます身体が冷える。会場の瀋陽河側には10メートルおきくらいに解放軍兵士が不動の姿勢で立っていて、この寒いのにと驚いてしまう。ことによると、凍り付いた河を歩いてきて会場に無料で紛れ込む不心得な市民がいないよう警戒しているのかも知れない。解放軍兵士に見守られたこの会場の中では爆竹を鳴らせそうもないので、私たちは会場から出たあと広い道にたどり着くまでの通路の横にでて爆竹に火を付けた。小さな数百個の火薬の小包が弾帯みたいに並んでいて、端に火を付けると次々に燃え移って派手な音を立てる。
正月に花火を上げるのも爆竹を鳴らすのも、悪霊を脅して追い払い悪霊が今年は自分の家族に近づかないように願っての行事と聞いたので、私は至極真面目に、私たち研究室の全員が健康に恵まれて順調に研究が進むよう願って、生まれて初めての爆竹に火を付けたのだった。
目の前の河畔花苑の花火が連続して打ち上げられ、胡丹くんの彼女は空を見上げながら隣の胡丹くんを軽く叩いている。「カメラを忘れちゃって、本当にしょうがないわね。私のことを本当に大事だと思っているの?来年はきっと持ってくるのよ。」はい、来年は私もカメラをちゃんと充電して来ましょう。
先日のYahooニュースで、中学生のカップルが女子の方の父親を階段から突き落とし、さらに首を絞めて殺そうとして逮捕されたというのを見た。この二人は交際の挙げ句女子学生が妊娠し、女子の父親からどうやって責任を取るのかと迫られたからだという。
うるさいことを言うから消してしまえという、単純で、しかも目先のことしか見ていない粗暴な発想だ。この父親が娘の妊娠の経緯を最初どのようにして知ったか分からないが、娘が妊娠したと聞けば、相手の男に一体どうするつもりだと先ず聞くのは至極当然のことだ。年齢を重ねた父親なら、相手の男を責めたにしても、その先どのような落としどころがあるかを考えていただろう。
今の日本の法律では人殺しと親殺しを区別していない。つまり、親だから他人より大事にしろとは教えていない。しかし、親はたった一人しかいないという特別の存在である。そして親と子の関係は何をもってしても解消のしようがない事実として存在する。そして親だからこそ、娘を妊娠させた男にうるさく迫ったのだ。他人なら、うわさ話には取り上げても立ち入って意見をする人などいはしない。
というわけで、この子たちにとってうるさい意見をしたのが親だったので親殺し(未遂)となったわけだが、この子たちに親孝行という言葉がチラとも浮かんだことがあるだろうか。ことによると「親孝行って何?」と本気で訊かれるかもしれない。
一方、一般論だけれど中国の学生はとても親思いである。私たちの研究室にいる学生たちに聞くと、親孝行をするのは自分の義務だとはっきりと言う。親を大事にしたいと思っているのは日本人の私たちだってそうだ。特に結婚をして子供を持つようになると自分を育ててくれた親の苦労が分かるから、自分を育ててくれた親にやっと(やっとだけれど)感謝の念を持つようになる。
しかし、中国の学生の親孝行志向はもっと強烈である。大学を出たらどうする?という質問には、多くの学生は給料のよい企業に就職して親に楽をさせたいという。大学を選ぶのも、就職するのも、留学するのも、自分の進路を親の意見で決めるのもあたり前と思っている学生が多い。日本人である私たちは親のことは大事には思うけれど、ここまでは入れ込まない。
この違いは、中国にまだ儒教思想が色濃く残っているためではないかとずっと思っていた。しかし、もっと別の理由があるようだ。
中国では大学の学費が所得に対して大きすぎて問題になっていると、3月13日のYahooニュースに載っていた。3月11日に広東省・広州市にある大学でフォーラムが開かれ、子どもを大学で学ばせると、農民だと13年分の所得が掛かってしまうことが指摘され、この解決策を探ることが提案されたという。
このフォーラムに出席者した人たち(大学の先生)は、全国の大学の学費の平均が、1995年の1年あたり800元から2004年には5,000元前後に高騰しているだけでなく、初年度の諸経費や食費、被服費を含めると、4年間の高等教育を受けるためには、4万元の費用がかかるという計算をしている。
2004年の都市部住民の実質的平均所得は9,422元、農村部では2,936元だそうで、子どもに大学教育を受けさせるためには、都市住民は4.2年分の所得を、農村住民は13.6年分の所得を費やさなければならないことになる。
また、学生の25%が、自分の家庭がこれだけの高額の費用負担に耐えられないので、「大学に入るのではなかった」と考えていることも示されたという。この瀋陽薬科大学ではどの程度の学生がこのように考えているかは知らないが、学費は今年度の入学者で5,200元、入学初年度の特別経費が1,475元、寮費が1,200元、なので、食費、衣服費、などを加えて4年間で予算4万元とすると、残りは毎年3,230元、したがって毎月270元なので、毎日9元の食費しか残らないことになる。
しかし、毎月500元くらいは食費、衣服費などのために必要である。つまり4年間であと1万元必要で、この大学では4年間で5万元掛かる。子ども一人を瀋陽薬科大学に入れると、都市住民は5.3年分の所得を、農村住民は17年分の所得が掛かってしまう。薬科大学の日語班、英語班の修行年数は5年だから、都市住民では6.6年分の所得、農村住民では21.3年分の所得が必要だ。
これは、信じられない過酷な数字だ。上記の、人々の収入の計算が違っていて、実はもっと所得が多いか、あるいは大学生活にこれだけの金が掛からないかのどちらか、あるいは両方でなければ、中国における大学生活は成り立たないに違いない。
うちの研究室の学生の半分 は農村出身である。ある男子学生に訊くと、彼にはお姉さんがいるが彼女は中学校をでたところで進学せず、大学まで来たのは彼だけである。ある女子学生は三 人姉妹の真ん中で、上の姉は小学校、下の妹は中学校で終わり、彼女だけが大学に進学したそうだ。どうしてか。
答えは簡単で、金がないの だ。限られた教育費は無駄になるところには一切使わず、一番効果が予測されるところに有効に集中投資したわけだ。この大学に入って来た彼らは親と兄弟の犠牲の上に高等教育を受けていることになる。したがって、それだけの犠牲を払う親兄弟に対して、いつか自分が沢山稼いで、しかも教育を受けられなかった兄弟の分も稼いで親兄弟に恩返しをしなくてはと思うのは、当然すぎるほど当然な成り行きだろう。すべての学生が生活の貧しい農家の出身ではないけれど、これが、中国の学生が親孝行を口にする大きな理由のひとつではないだろうか。
それにしても先ほどの計算では、農民にとっては教育費がべらぼうな負担である。これだと農家でも収入の多い豪農の子弟だけが大学に進学できることになってしまう。実は、以前は大学の学費は殆ど只だったという。言って見れば殆ど全員が政府奨学生だったようだ。今は政府の支援が減って、奨学金を貰う学生の割合が減る一方、学費がどんどん上がってきたというのが、このフォーラムの背景にあったわけだ。
過大な教育費を負担しつつも、自分に夢を託して一所懸命働いている親を持つ中国の学生たちが、日本の親殺し未遂のYahooのニュースを見せたらきっと理解出来ず、目を剥くだろう。
まだ寒い瀋陽でも、春分ともなると朝6時前には空は明るく輝いている。春分を過ぎた今朝は8階にあるアパートのカーテンを開けながら外を見ると、ビルの上を高くヘリコプターが飛んでいた。こんな朝からおかしいなと思いつつよく見ると、このヘリはとても早く移動している。何だか妙だと脳の中の記憶細胞がささやくのでよくよく目をこらすと、風に吹かれて空中高く飛んでいるビニールの買い物袋だった。
大学に行くためにアパートの玄関から外に出ると風が強く吹き付けてきて、耳が痛く、慌てて帽子を深くかぶって耳を覆い隠した。もう真冬の耳まで隠れる毛糸の帽子に替えて野球帽をか ぶっている。空は春の陽光に溢れているのに、この風の冷たさはちぐはぐで東京から来た私たちはまだ慣れることがない。
高い建物に囲まれたアパートの中庭ではつむじ風が舞って、ビニールの袋、煙草のから、爆竹の紙の破片、その他諸々のゴミが渦を巻いて飛んでいる。この数日の暖かさで雪と氷がほとんど溶けて、隠れていたゴミが一斉に出てきたのだ。
全部の人ではないだろうけれど、中国の人は道に物を捨てることに躊躇がない。何でも歩きながら捨てていく。食べ歩きをしながら、包みをちぎって端をポイ、果物の皮をポイ、口から種をポイ、食べおわるとすべてポイ。袋もポイ。このゴミが空を舞う。朝の路上には清掃のための作業員が帚とちりとりを手にして歩いて姿をよく見かけるし、昨年の秋からは目抜き通りに紙くず入れが設置されたけれど、路上のゴミはこういう事情でなかなか減らない。
このあたりの路上ではたいていの人は手鼻をかむので、紙を使って鼻をかむ人はあまり見かけない。先日路上で妙齢の美女が紙を使って鼻をかんでいるのを見てさすが佳人と心がときめい た。しかし彼女は紙をそのまま道に捨てて歩き去って、私のインスタントの恋をたちまちさめてしまった。ゴミを増やさないから手鼻は推奨されるべきかも知れないが、粘液は乾いて微少な粒子となって砂埃と一緒に誰彼なく鼻腔を襲ってくる。瀋陽に暮らすと免疫力が弱いと早々とダウンするだろうし、一方元気な人は免疫力が鍛えられるという効果があるかも知れない。
朝は晴れていたのに午後の空の半天は茶色に染まった。ゴビ砂漠から起こる西風が砂漠の砂を大量に運んできて砂嵐と呼ばれる時期が始まったのだ。これから5月までは、黄砂の季節となる。強い風で時には目が開けていられないほど土砂が飛んでくるだけではなく、細かな粒子が二重窓で締め切った室内にも毎日うっすらと溜まる。したがって毎朝机や椅子の上を拭くところから一日が始まる。
街にはゴミが散乱しているし、埃も多いので、このような環境で育ってきた学生には実験室を清潔にするという発想がない。研究室では最初に、埃にまみれて実験を行っては、その結果は信用できないことをさんざん言って聞かせなくてはならない。
細胞の培養室は、ほかの実験室と完全に隔離されている。部屋の外で上着を脱いで手を洗ってから上履きに替え、部屋に入って白衣を羽織って、さらに手を滅菌してから、操作に取りかかる。操作中に空中や手に付いた雑菌が入り込めばたちまち培養細胞が汚染されて死んでしまうので、清浄な環境というのが飲み込める。床も汚くてはいけないことも覚える。
培養した細胞からRNAを抽出して、その中に含まれているmRNAに基づいてDNAを合成させ、PCRという技術で、この細胞がどんなタンパク質をどれだけ合成しているかを調べることを、私たちの研究室では日常的に行っている。
このRNAはRNAを分解する酵素に弱い。そしてRNA分解酵素は、私たちの唾、汗に含まれていて、しかもこの酵素はべらぼうに強いのだ。手で触ったところにはこの酵素が残っているので、RNAがたちまち分解されてしまう。1960年の初めにtRNAを精製して世界で最初に構造を決めたHolleyのグループは、まだこのようなことが知られていなかったから、精製するRNAはいつの間にか壊れてしまうし、大変な苦労をしたということだ。
それで、RNAを扱う実験スペースはほかのところと全く別にしてあって、使う器具も滅菌している。ここで仕事をするときは、手袋をして、マスクを付けて、そして会話厳禁である。窓も開けてはならないので、実験室が出来たときにどの部屋にもエアコンを買って備え付けた。というわけで、実験室は清掃をまめに行い、恐らく私たちの実験室はこの大学で一番綺麗に片づいていて、しかも清潔である。
研究室で使う小道具にEppendolf Pipetteというのがあり、1ミリリットルの1000分の1という少量の液体を取るのに必須の機器である。1本2〜3万円で、様々の大きさが必要なので、一人で4本を一組として使い分けている。私たちの実験室には、培養室の滅菌環境で使う2組、RNA用に1組、実験室で3組必である。
今日、このpipetteをオートクレーブという高圧蒸気滅菌器で滅菌したあと、学生の一人が「壊れました。ノブは動きますけれど液体が吸えません」と言ってきた。胡丹くんはそれをいろいろと調べてみて、「中でかちゃかちゃ音がしている」と、言う。仕様書を見つけ出して渡すと、分解して子細に見比べて「一つ部品がありません」という ことだった。
それを聞いて貞子はぴんと来て、「きっとどこかに小さな部品をはねとばしたに違いないわ。実験室の実験台の下を調べましょう。」と、学生を率いて実験室に向かった。初めの頃の実験室は実験台の下にゴミと埃をため込んでいたけれど、今では実験台の下にもほこりがない。探すと直ぐに実験台の下から小さなバネが見つかった。
私たちは次の三つのことで大いに満足である。
1. 機器が壊れたときに、直ぐに具合が悪いと学生が言ってきたこと。黙っていても済むわけだから、こういうのは、隠されるともうお終いなのだ。今回は床に飛んで行った小さな部品を直ぐに見つけることが出来た。
2. 胡丹くんがそれを分解して部品が一つないことを見つけたこと。動きがおかしければ何故だろうと調べる気が出てきたことは、科学者の卵として素晴らしい成長の証である。
3. 直ぐに床を探して綺麗な実験台の下の床の上で、失せたバネが簡単に見つかったこと。ゴミと埃だらけでは見つけられなかったかも知れない。
というわけで、外は砂嵐でも、学生も科学者の卵として順調に育ち、私たちの研究室も順調である。
後期が始まって直ぐ、大学の私たちの教授室に一人の女子学生がやって来た。丁度入り口のところにいた妻の貞子に「こんにちは」と言ったと思うと、あっけにとられた貞子を置き去りにして部屋の奥のMacの前に座っている私のところにずかずかやってきて、「Hello, Yamagata」と言った。「そりゃないでしょう。「Dr. Yamagata」というのよ」と貞子にたしなめられている。
一方、私は彼女を認めて「李欣ですね」と言っていた。薬学部日語班の4年生で、日語班は5年制だから卒業まであと1年半残している彼女には、一昨年秋に日本語資料室で会ったことがある。日本語資料室は大阪のあるNGOが瀋陽市に設立して、今では瀋陽日本人教師の会が管理、運営しているところで、日本語の本やビデオ、教科書、雑誌などが置いてあって瀋陽市の日本語教育の一つの拠点となっている。私たちが訪ねて行ったときに、そこに日本語の先生に連れられて勉強に来ていた、日本語の勉強を始めたばかりの彼女に会ったのだった。それ以来顔見知りの学生である。
彼女は英語で続けて言うには、「いま私は英語の勉強をしている。ついては英語の勉強のために、ここに来て先生と英語で話をしたい。」可愛い女の子は何時でも歓迎だけれど、だからといって彼女の英語の勉強に付き合う義理はない。
「英語の勉強をするのは結構だけれど、私は何時も忙しい。それは勘弁して欲しい。」と断った。だけれど、彼女はそんなことを気にもせず「生化学の勉強をして生化学が好きになった。分子生物学も面白い。先生は生化学だから、ここは私の役に立つ。」などと、実に勝手に自分の言いたいことを言っている。
この李欣さんという女子学生は日語の学生だから、1〜2年生の時には英語を学び、国際英語4級試験を受けている。これに通らないと日語クラスから追い出されてしまうのだ。この英語の資格と、ほかの科目に75点以上を取ってはじめて3年生に進学できて、日本語の勉強を始め、ほとんど日本語だけをみっちり一年間勉強することになる。これ以外には後期に日本語で生化学を教わるだけだ。
私は3年生の後期には生化学を教えている。昨年度は彼女のクラスを教えたはずだが、この子はいなかったような気がする。それなのに生化学が好きだって?
それで再度「李欣さんの希望は分かったけれど、あなた一人の英語の相手はしていられない。」と言ったが、彼女はけろりとして、攻める方針を変えた。「授業がなくて空いているときと週末に先生の実験室に来て、実験している先輩を助けたい。」とこの「先輩」だけは日本語にして、丁度コンピューターのところで仕事をしていた二年上に当たる王麗さんを指して言うのだ。
週末に学生を受け入れるというプログラムは、特別待遇の基地クラスの学生にだけ当てはまる。実際、今基地クラスの2年生が一人土曜日の私たちのセミナーに参加している。だけど、ほ かの学生にサービスする義理はない。「学生を研究室に受け入れるというプログラムは日語班にはないし、きっとあなたは実験の手伝いよりも、院生の邪魔になるからお断りですね。」と私は言った。
彼女はそれでもめげず、ニコニコとして、「二人とも大分神経質になっていますね」という。「とんでもない、あなたは神経質になっているかも知れないけれど、まさか私が。」というと、「先生、眼がとても神経質そうですよ。でもこれは冗談です。」と私を手玉に取っている。
「過去4年の間、実験を沢山やって来ました。きっと先輩の研究の役に立ちますよ。」と続ける。しかし学生実習をしたくらいで実験に慣れているなんて言われたらたまらない。試しに「どんな実験をやったの?」と訊くと、「生化学ではタンパク質の・・・」と言い掛けて言いよどんでいたので、「タンパク質の電気泳動による分離実験?それともカラムクロマトグラフィー?」と助けたが、よく分かってくれない。彼女の英語の発音が悪いと思ったのだが、逆に「先生、先生の発音が違いますよ。先生は日本人の発音ですね」と来たもんだ。その通りとしても普通はここまで言わないのに、先生を掴まえて大した心臓の持ち主である。
おまけに「英語の国際6級の資格も取りましたから、今は話すのに慣れていないけれど、英語の本を読むのは全く問題ありません。直ぐに英語も自由に話せるようになりますし、きっと先生の実験室の先輩たちの助けになります。」とあくまでも強気である。
ここまでこのような話を続けるなんて、ずいぶん忍耐強いことだが、この時の彼女は運が好いと言って良いだろう。その朝、別の女子学生が来て来学期に私の研究室の修士になりたいといって訪ねてきたのを、断ったばかりだった。面接の上で人の希望を打ち砕いて彼女の描いている運命を変えてしまったのだから、そのあとずっと後味が悪かった。こういう場面のあとでは、どうしてもその気持ちを補うように心が動いてしまう。
そういう背景があったので、李欣を相手に話をつづけて、もうここまで来ると断るのも面倒になってしまった。それで、「私たちは毎週土曜日に、研究室のセミナーを英語でやっている。それに出てきたらどうですか?8時半開始なので遅れないように来なさい。来られないときは事前に連絡を入れなさい。さもないと、追い出しますよ。」と言ったら、満面の笑顔になって、両手を空に突き上げて「やったー。」といって立ち上がった。そしてぺこんとお辞儀して、「それじゃ、先生、さようなら」と 踊るような足取りで帰っていった。
やれやれ。でも前にもこんな人を見たことがある。彼女の帰ったあと、さっきからこの部屋にいた「先輩」である王麗さん、貞子、私の三人は互いに顔を見合わせて「沈さん、そっくり。」「第二の沈慧蓮さん誕生。」「ミハチンそのものじゃない?」という言葉が飛び交った。
ミハチンこと沈慧蓮さんが京都に去って半年、そのあとを埋める人材が来たらしい。
修士2年の胡丹くんが珍しく朝7時半に教授室にやってきて、「先生、修士の発表会があるそうで、報告書を書かなくてはなりません。こんなこと初めてですよ。」と言う。中国の修士課程は3年間で、最初の1年間はほとんど講義で埋まっている。それで、研究室の配属は決まっていても、研究室で研究を始めるのは2年生になってからということになっている。だから公式には実験をはじめて半年しか経っていない。
1昨年秋に瀋陽に来たとき、私たちを待っていたのは修士の1年に進学したばかりの胡丹くんたちだった。彼らは進学する研究室は決まっていたけれど、この大学のルールでは最初の1年は講義に出るだけで、研究室には行かなくて良いという。そして彼らが言うには、その間、空いている時間を出来るだけ有効に使って新設の山形研究室で勉強したいという。希望を容れて、私たちは彼らの指導教授に会って事情を話し、その研究室所属で派遣という形で、胡丹くん、王麗さん、魯くんがやってきた。このほかに、日本に留学するのを待っていた朱くんも、薛蓮さんも加わって、私たちの研究室が始まったのだった。
始まったと言っても、どの部屋も建築直後でゴミだらけである。大きな教授室には机・椅子が、実験室には実験台が入っているだけで、ほかには何もない。部屋を大掃除し、試薬や実験機材を注文するところから始まって、彼らは研究室作りの仲間となった。一緒に分子生物学・腫瘍生物学の勉強もしたし、教授室の大きな机で一緒に鍋を囲んだりした。半年経って実験も出来るようになり、私たちの研究室に来た学生たちはほかの学生と違って、最初の修士1年生の時から研究を始めることが出来たのだった。
1年生の終わりに胡丹くんは、それまでの指導教官を変えて私たちの研究室の院生となった。王麗さんは、以前の指導教官と共同指導という形になって、私たちの研究室に残った。魯くんは、1年を終わったところで韓国留学の道を選んだ。
中国の修士の年限は3年だが、2年で修了して博士課程に進学するコースもある。その場合には、修士の学位は授与されないが、博士課程に進学する学生はほとんど、この短縮コースを選ぶ。王麗さんは早く博士が取りたいので、この短縮コースにするつもりである。一方、胡丹くんは天然物有機化学から細胞生物学に変わったので、修士課程は落ち着いて修行する時間と位置づけて、最初から3年コースにすると宣言していた。
教務課からは、現在修士課程2年の院生である胡丹くんたちに、今までの進歩状況を書類に書いて出すように、そして審査をかねて報告会があるとの通知が来たのだ。今までこの薬科大学で、このようなことはなかったそうだ。今年から修士の研究・教育に熱心になったみたいだが、2年前の春はSARSですべてのカリキュラムがずたずたになったし、昨年はまだその尾を引きずっていたから、仕方ないのかも知れない。
SARSといえば、その最盛期の4月にはこの大学は外部に対して完全閉鎖を敢行した。大学のキャンパスにいる学生は外に出ることを禁じられた。5千人を超える学生は、それから2ヶ月近く大学構内に閉じこめられた。
この閉鎖命令は突然出されたので、その朝大学の外に出かけた学生は、夜戻ってきても中に入れてもらえなかった。大学は、大学の持つ招待所及び大学のアパートを利用して学生を収容し、大学の中には一歩も入れさせなかった。
王麗さんの男友達の馬さんは瀋陽に実家がある。丁度その日に実家に出かけていた馬さんは戻ってくると、大学に入れないどころか、大学と塀を隔てた一隅にあるアパートに軟禁されてしまった。禁の解けるまでの二ヶ月間、二人はお互い宿舎の窓に立って手を振りながらケータイで話し合ったという。
大学のキャンパスは元々背丈よりも高い石と煉瓦の塀で囲まれているが、越える気になれば足をかけて塀をよじ登ることが出来た。それを断固として防ぐために、大学はSARSの封鎖開始と同時に工事を始めてこの塀をもっと高くし始めた。私たちが瀋陽に赴任したのは丁度SARSの封鎖が解けた直後だった。私たちのアパートは大学に小さな通用門に接しているけれど、この塀の丁度外に建っていて、それまでの通用門も石で塞がれてしまった。
その時は一年振りに薬科大学に来たので、旧知の学生と会おうということになった。彼らは大学の中の寮に住んでいる。大学の正門を廻ってくれば急いでも15分は掛かると思ったら、電話で話し合って何と5分もしないうちに彼らがアパートの中庭に現れた。「どうしたの?」と訊くと。「塀を乗り越えてきたんですよ。『上に政策あれば下に対策有り』ですものね。」と手をぱんぱんとはたきながら、魯くん、胡丹くんたちはニコニコとして答えたのだった。
「志があれば何でも成る」と信じる若者相手には、この高い塀でもまだ足りないのだ。それが大学にも分かったと見えて、その後、塀の上にはさらに鉄枠が植えられて、有刺鉄線が四重に張り巡らされた。さすがこれを乗り越える学生はいなくなったと思うけれど、大学の塀に沿って外を歩くと、中の大学の建物が何か刑務所みたいだ。
さて、修士2年生の書類提出だけれど、胡丹くんも王麗さんも、期日までには書き上げた。「発表会は何時に決まったの?」と訊くと、「まだ分からない。」という。しかし続けて「でも、薬理学研究科も中薬研究科も発表会をやめたそうです。」という。
「どうして?」と、当然の疑問がわく。「だって学生はこの時期忙しいし、先生たちだって忙しいので、それじゃ書類だけ書いて、発表会はやったことにしましょうと言うことになったみたいです。」
なんと、今度は上に立つはずの先生たちも下々の学生に合流して「上に政策あれば下に対策有り」ということになったのだった。
日本人教師の会というのが瀋陽にあって、毎月1回会合が開かれる。春節休暇を挟んで1月と2月の定例会は休みだったので、3月には久しぶりに仲間の先生たちと顔を合わせた。
最初に出合った加藤正宏先生と、「あのときは笑ってしまいましたね。」と思い出話が始まった。というのは加藤先生が1月2日に大学の私の部屋に用事があって訪ねて来られたとき、先 生と顔見知りになっていた院生の胡丹くんが入ってきたので、加藤先生は「おめでとうございます」と胡丹くんに声を掛けた。
胡丹くんは既になじみの加藤先生を見て、ニコニコと挨拶をしようとしたところだったが、びっくりした顔をして「えっ、何が?」と問い返したのだ。これには加藤先生も驚いて「新年おめでとう」と言い直した。胡丹くんはこれでやっと納得して「おめでとうございます」と返事をしたのだった。
中国では旧暦が正月である。新暦で正月を祝う習慣はないから、「新年好」と聞いたならともかく、「好」だけに相当する「おめでとう」だけを言われて、面食らったのに違いない。中国と私たちの風俗の違いを浮き彫りにする格好のネタとなる。
この瀋陽日本人教師の会は瀋陽で日本語教育に携わる日本人教師の集まりで、会の規約には日本語教育の実を上げるための会員相互の助け合いと研修、および親睦が謳われている。私たち夫婦みたいに日本語教育には関わっていない会員も入るようになったので、規約の「日本語教育に携わる」が、瀋陽で「教育に携わる日本人の集まり」という具合に変わって来た。
ここに集まる日本人教師の年齢構成は、年長組と、年少組との二つの山にはっきりと分けられる。私も入る年長組は、日本の学校で定年になったあとさらに仕事を中国に求めてきた人たちである。日中技能者交流協会で研修を受けて派遣されてきた先生たちが半分くらいで、もちろんほかのルートも沢山る。
若い先生はほとんどが女性で、若い男性教師は数えるほどしかいない。半数が青年海外協力隊からの派遣で、あとは県と瀋陽市との交流協定に基づいて派遣された先生、個人的に瀋陽の学校の先生募集に応募した人たちなど多彩だが、ほとんどは女性であることが際だっている。
これは日本の就職事情を反映しているように思う。今日本での就職は厳しい。海外でなら職があるかも知れない。それが自分のためにも、その国のためにもなるならステキじゃないと思い切って、海外に飛びだしたいのは男女を問わないと思う。しかし、海外で仕事をしたあとのことを考えると、恐らく男性は腰が引けてしまうのだろう。日本に数年して戻って職を探すと前よりも探しにくいと案じるだろうし、実際そうだろう。年を重ねるごとに職は見つけにくくなるものだ。
一方、女性だと職を選ぶのに男ほど見栄を張らないのではないだろうか。それほど深刻にならなくても、何かは見つかるさと思えば気軽に海外に出られるのだろう。瀋陽の日本人教師の会 でお会いする、若い女性の先生たちは皆、意欲的で、しかも魅力的である。意欲的な人でなければ、海外の暮らしという冒険をする気にならないのだろうし、こ の意欲が彼女たちに生き生きとした魅力を与えているに違いない。
一方で、年長組を見ていると、ここにも際だった特徴がある。前に書いたように、年長組の赴任はほとんどが定年後の第二の人生である。当然、女性だけの赴任、加藤先生のように男性一人だけの赴任、夫婦揃っての赴任がある。
二人揃って赴任している場合には、私たちみたいに二人とも働いているか、あるいは、妻の方が教師として働いていても夫は仕事をしていない場合がほとんどである。日本では夫が外で働いて、妻は家庭を預かるというのが多いように思われるが、瀋陽ではそれは例外である。
別の言い方をすると、妻が中国で仕事をする場合は、夫は一緒に付いて行くが、夫が仕事をするために中国に行く時は、妻は「私はいいから、あなた一人で行ってきて」ということなのだ。加藤先生がこれに当たる。これは妻がそれまでに築いた生活を投げ捨ててまで一緒に行くことはないという判断を下したからだろう。
男が40年近くせっせと仕事をしている間、妻は家にいて営々と自分の城を築いてきている。夫が定年後どこか別のところで仕事をしたいといっても、夫に付いて行って、それまでの自分の友人、なじんだテニスクラブ、行きつけのレストランやブティークと別れて全く新しい生活を始める気にはならないのだろう。夫の方は、定年になって、それまで先生をしてきた妻が「今度は中国で教師をしたい」と提案しても、自分の拠るべき世界は自分の定年とともに雲散霧消しているから、妻と一緒に動くことに何の抵抗もない。
私の場合は幸い妻も同業者なので、私の選んだ道をともに歩くことが出来る。それでも、妻は中国に来ないという選択もあったわけだから、本当にありがたいことである。
これに気付いて、「一緒に中国に来てくれて、とても感謝しているよ。」とつぶやいたところ、「そうよ。来なくたってよかったんだから。ありがたいと思いなさいよ。」と妻に言われてしまった。こんな話をした翌日は、ちょうど私たちの結婚記念日だったので、妻への感謝の気持ちを込めて、日本から持って来て冷蔵庫にしまってあった貴重なチョコレートを紙に包み、上に「ありがとう」と書いて、朝大学の部屋の机に置いておいた。
離れたところにある実験室から部屋に戻ってきた妻は、これに気付いて包みを取り上げたけれど、「えっ、これ、何が『ありがとう』なの?」
やれやれ。どうもチョコレートくらいでは駄目らしい。だいたいが日本で一緒に買ってきた、共通のお菓子だしね。
会員交流のページに竹林先生から旅行記の投稿があった。雲南旅行記で、以前「月刊宝石」で南のほうの旅行に付き物の困難なトイレ事情を読んだので、大いに心配したけれど、ここでは触れられていない。
会員交流ページの「澤野千鶴子の北京通信」に第三報が寄せられました。沢野先生の喜寿のお祝いを学生仲間でしてもらったそうです。
いま中国では日本の国連常任理事国参加反対に発した反日デモが吹き荒れています。この二週間日本の友人、知人から、様子を尋ねるメイルが頻繁に届くようになりました。
先週の日曜日には中国各地でデモがあったことは、日本のニュースで読みました。瀋陽でも千人規模のデモがあったと言うことです。あらかじめ領事館から注意するように伝達を受けていました。後で聞いたことですが、3回にわたって総領事館に向けた整然としたデモ行進があったと言うことです。明日の日曜日にも瀋陽を含めて各地でデモがあると、日本のニュースには出ていますね。
一般の人はデモのことは知らされていないようにと思います。テレビのニュースには出てきません。新聞にも書いていないと言うことです。でも、メイルで誘い合ってこの反日感情があおられていると思います。実際、私のメイルアドレスもこちらで公開していますので、中国語のメイルが沢山入って来ます。その中には反日、日本製品不買の呼びかけ、デモ参加の誘いがありました。
反日デモでは、いままた、「歴史から目をそらし、過去に責任に負うことの出来ない日本に国連常任理事国になる資格はない」と中国の国民から訴えられています。
私はその通りだと思います。世界に戦争を仕掛け、中国に侵略し多くの人を殺し財産を奪い、そして戦争に負けた日本は、「あのときは悪いことをした」といいました。しかし、今になって平気で歴史の教科書を書き換え、中国に侵略ではなく「進出」したと言い、西欧諸国の支配を受けているアジアの平和のために戦ったと主張しています。日本がそのように行動したには理由があることは分かります。しかし、これは明らかな視点のすり替えで間違っています。日本に戦いを挑んでもいない国々に攻め込み、人々を殺戮したことは事実であり、これを覆い隠すことは嘘つきであれと教えることです。隣国の自由を奪い、人々を殺戮したことは、明らかに消しようのない私たちの歴史の汚点です。
教科書問題は日本の内政問題だと日本の政治家は言います。実際教科書をどうするかは日本が自分で決めることでしょう、しかし、その過程で日本が過去を抹殺して知らん顔をしていることが分かったら、被害を受けた国が抗議をするのは当然だと思います。嘘をつくことはこの上なく恥ずかしいことです。日本は何時から恥知らずの国になったのでしょうか。
これは日本の政治家が間違っているからに違いありません。日本は私たち一人一人の投票による選挙で政治家を選びます。ですから今の政府は日本人に支持されているわけで、これが日本人の大方の意見かもしれません。もちろん私は、今の日本政府を支持していません。何時も選挙で負けていますが、数が少なければ仕方ないことですね。
国連常任理事国についてさらに私の個人的意見を書くと、日本が国連常任理事国になりたいというのはナンセンスです。
第一に、日本はまだ大人の国ではありません。口先でお題目の世界平和を唱えているだけで、世界に平和をもたらしそれを維持するだけの、しっかりとした国際戦略を持っていません。つまりは、理事国になったとしてもアメリカの尻馬にのるだけのことしか出来ず、みっともないだけです。今でもアメリカの意のままに行動している日本を恥ずか しいと思ったことはありませんか。
第二に、国連の分担金のうち22%を日本が出しています。中国は2%です。常任理事国になったとしても、拒否権もありません。こんな不平等なところに顔を出すことはありません。日本は国としては余所の国に借金をしていません が、日本の将来の国民に対しては国債という形でべらぼうな借金を負っています。内情はこんな貧乏国なのにどうして金持ちの顔をしたがるのでしょう。日本は身分不相応に国連に金を出すことはありません。分担金も減らしたら良いし、理事国に立候補するなどもってのほかです。
人々が意思を表明するためにデモをするのは当然です。しかしそのデモが暴力的になると、その結果が一人歩きします。北京で日本大使館が損害を受けました。上海で日本人が殴られました。日本がそれについて中国に抗議をするのは当然ですが、そうなると元の、何故中国の人々が常任理事国への立候補に反対したかという争点がどこかに打ちやられてしまい、やれ打った、やれ蹴ったという枝葉に目が移って、両国民はそれだけで反感を強め合います。
大事なことは、お互い落ち着いて話し合うことでしょう。お互い冷静にならないといけません。日本、中国、韓国がいがみ合って得するのは、アメリカその他の欧米諸国です。
大学の中では何の騒ぎもありません。大学の中に、看板も、ビラも、集会もありません。研究室では心優しい学生たちに囲まれています。街に出ても何時も通りで、私たちは罵声の飛び交う中で暮らしているわけではありません。
日本と中国は隣同士で、この地政学的関係は未来永劫変わりません。隣同士で緊張と喧嘩に明け暮れるよりも仲良くする方が住みやすいのは、隣近所の付き合いを考えてみれば直ぐ分かります。おまけに、隣近所のおつきあいと違って、お互いに助け合わなければ生きていけない社会なのです。
国と国の間の理解は、人々の個人的レベルの付き合いによる相互理解が基本でしょう。お互いに付き合って理解することで、「みんな違って、みんないい」ことが素直に受け入れられます。
日本には留学した学生が沢山います。彼らは報道が十分行き渡った日本で暮らしているので、きっとつらい思いをしているのではないかと思います。彼らがいじめられて反日感情を持ってしまったら、およそ意味ないことだと思います。今こそ良い機会です。彼らがつらい思いをしないように、もし周りに留学生がいたら、ぜひ話しかけてみて下さい。お願いします。
日本語クラブ19号(2005年4月09日発行)を、ホームページに載せた。内容を1ページに入れてしまうとアクセスに時間がかかるので、二つに分けた。日本語クラブ編集係りの皆様、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました
反日デモで惹起された日本と中国のぎくしゃくした関係について、再度私見を述べさせて下さい。私はこの国で政治的な存在ではありませんので、出来れば触れたくないことですが、今の状況はそれを許しません。
昨夜中国のテレビで、中国の外相が大集会で演説しているのを見ました。日本のことらしいとは見当が付いたものの内容は全く分かりませんでした。朝になってinternetのニュースを見て、やっと理解できました。
そしてほっとしました。恐らく、これで中国の大きな反日運動は収束に向かうでしょう。この数週間私たちと距離を置いているように思えた研究室の学生たも、今日はそれ以前の振る舞いに戻った気がします。
【中国共産党中央宣伝部などは十九日、北京の人民大会堂で、党、政府、軍の幹部ら三千五百人を集めた日中関係に関する情勢報告会を開催。反日デモが拡大する中、李肇星外相が両国の歴史摩擦などに触れつつ「日中友好が唯一の正しい選択だ」と両国関係改善の必要性を強調し「無許可デモなどには参加せず、社会の安定を保つべきだ」と促した。新華社電や中国中央テレビが伝えた。】(西日本新聞) - 4月20日2時17分更新
西日本新聞は、さらに演説の内容を伝えています。
【李外相は、日中両国の二千年の交流史を振り返り「中国も日本から多くを学んだ」と指摘。日本の対中侵略を経て国交正常化して以降は「政治、経済、文化、教育、民間往来の大きな進展が両国民に利益をもたらし、地域や世界の平和と発展にも重要な役割を発揮してきた」と述べた。】
【他方、歴史、台湾問題をめぐる日本側の態度を批判し「近年は複雑な局面が生じた」としながらも「日本は重要な隣国。互いの利益は不可分であり、友好協力が両国国民の根本利益に合致する唯一の選択」と訴えた。】
【また、戦略的な大局から胡錦濤政権が日中関係の改善、共同発展を目指している点や中国発展には法治や社会の安定維持が必要と強調。「党と政府が両国間の問題を適切に処理できると信じてほしい」とし「無許可デモには参加せず、愛国の情熱は仕事や勉学に振り向けるべきだ」と話した。】
(西日本新聞)の解説によると、
【中国ではこれまでデモに関する報道はほとんど行われておらず、国営メディアを通じた全国への反日デモ抑制方針の明示は初めて。中国指導部はデモを愛国行動として容認し被害への罪、賠償を拒みつつ、過激行為の横行、日本側での反中感情の高まりに危機感を抱き、事態収拾に本格的に乗り出した格好だ。】
【報告会は緊急措置とみられ、異例の取り組み。指導部はデモの無軌道な拡大や国内不満層と連動した反政府運動への転化を強く警戒しているとみられる。背景にはネット社会で情報統制が取れない政府側の苦慮があり、デモが実際に沈静化するかどうかは微妙な面がある。今回の措置を受け、今後は胡政権の指導力が問われることになる。】
李外相の演説は、日本の近年の態度を非難しつつも、自国民に冷静になるように訴えています。これは、大いに歓迎です。反日デモで日本の財産、日本人への危害が続けば、日本でも中国への反感がたちまち高まります。現に日本の中国関係の施設が、いたずら、攻撃の的になっていることがYahooニュー スに出ています。これはたちまち中国の民衆に伝えられ、それは反日感情の火に油を注ぎます。ますますエスカレートする両国民の間の反感を、これ以上あおないようにしようという措置は、別の見方をすれば、今回の反日デモも自然発生ものではないという分析にもなるでしょう。
広大な国土と膨大な国民を抱える国は、政権が強い力をもち、国民が強い求心力と持たなければ国を維持していくのは難しいでしょう。国民の中の経済格差が大きく広がって行く中で不満が高進するのも避けられないことです。政権維持のために取る選択肢の一つとして、隣の国への反感を高めて国民の求心力を高めていると日本のマスコミによって分析されています。
一方この行き過ぎが政権を脅かすという見方も正しいでしょう。昨夜の発表で、今回の反日デモは収束に向かうでしょうが、火種は残っています。それは今の日本の態度です。歴史認識とその対応について、日本人は中国から責められても仕方ない行動を取っていると思います。
私は日本が言葉を尽くして心から謝ったとは思えませんが、「日本は戦争で悪いことをした」と、中国に何度も公式に謝っています。「もう何百回も謝ったのに、まだぐずぐず言うのか」というのがこのごろの日本の態度です。これを個人の振る舞いに置き換えれば直ぐ分かることですが、「うるせえな。こんなに謝ったのにまだ足んないっていうのかよ」とケツを捲るのでは、本気で悪かったと思っていない証拠です。
かつて中国に経済的野心と領土的野心をもって侵略し、人々を殺し財産を奪たことを本当に済まないことをしたと思っているのなら、日本の歴史を書き換えて、まるでそのようなことがなかったように口を拭っていられるはずがありません。
個人にとっては掛け替えのない命を奪う戦いを仕掛けたことは、もう二度としないつもりならば、いくら謝っても謝り足りません。日本は中国を始め被害を与えた近隣諸国に、謝り続け、「もういいじゃないですか。もう日本は十分謝りました。もう過去のことは済みました。過去は置いて、これからは一緒にアジアと、世界の発展と安定のために努力しましょう。」と、中国および近隣諸国から言われるまでは、過去の罪は消えないということでしょう。
常任安全保障理事国も、近隣諸国がまだそんな資格はないよと言っているのになりたがるなんて、とても傲慢だと思います。是非出て欲しいと言われるだけの信頼を得てのちこそ、なる意味があるでしょう。
恐らくここに書いたことを、今の日本で公言するのは勇気がいるように思います。でも、人の意見が自分と違うからといって、それを言うことを許さない風潮は、是非とも止めなくてはなりません。戦前のことですが、国の言う聖戦の遂行に少しでも反していると見なされれば、たちまち「非国民」と言って皆から非難されました。批判的な言動は全く許されませんでした。今の北朝鮮の体制を誰もが言葉を尽くして非難していますが、ほんの60年間の日本はそっくりその通りだったのですよ。
いまの日本は、いままた統制の道を歩んでいます。いま、式典で国歌を歌わない先生は愛国心がないといって処分を受けています。国は愛国心を強制しています。
誰でも自分の生まれた日本の国を愛したいはずです。しかし、これは強制されてすることではありません。強制されなくても誇りに思い、愛することの出来る国であるようにするのが、政治家も含めて私たち一人一人の責任でしょう。北朝鮮を非難し、韓国、中国を批判するだけでなく、今までの日本の態度を省みて、今後どのように日本は振る舞うべきかよくよく考えて欲しいと思います。
研究室に入れて欲しいと言って押しかけてきた李欣さんに根負けして、彼女の希望を認めてから最初の土曜日が来て、彼女は私たちの研究室のセミナーに出てきた。研究室の構成メンバーは私と妻の貞子もいれて、卒研生以上が10名である。このほかに、以前紹介した(来るのを断ったら泣き出してしまった)基地クラスの2年生である宋さん、薬学英語班4年生の陽さんがいるので、学生メンバーは李欣さんを入れてこれで3人になった。
この日から黄欣さんがメンバーとして加わったので、最初に自己紹介をしてもらった。「天津から来た黄欣です。幸いこの研究室に入れて貰えて、これからセミナーに出たり、実験室に行って皆の手伝いをして勉強しようと思います。」と言った。
「実験室に来たら皆の邪魔になるから駄目と言ったじゃないの。セミナーだけですよ。」とびっくりして口を挟んだが、にこにことして「はい、セミナーに出て一所懸命勉強します。」と、平然としている。そして「私は、食べることが好きだし、水泳や卓球などの身体を動かすスポーツが大好きです。」という。好きなものに勉強が入っていないので「サイエンス以外は何でも好きなんでしょ?」と混ぜっ返したが、平気なもので「サイエンスはもっと好きです。」と全く悪びれたところがない。
どうしても、以前ここにいた上海出身の沈慧蓮さんを思い出してしまう。彼女は留学してこの4月からは京都大学大学院の修士一年生となった。沈さんは、何を言っても、つまり誉めても、叱っても、嫌みを言っても、当てこすりを言っても、皮肉を言っても、ケロリ平然としている人である。何を言われても応えない。きっと「私は誰にでも好かれている」という強い信念の持ち主に違いない。もちろん、沈さんのことは嫌いどころか、彼女の天真爛漫な性質を私はこよなく愛していて、ミーハー、転じてミハチンと呼んで可愛がっているのだけれど。
土曜日の午前中の研究室セミナーは、ジャーナルクラブと名付けている。これは、新着雑誌から論文を読んできて報告する会で、一回に二人のスピーカーが一人1〜1時間半を使って論文の内容を英語で紹介する。取り上げる論文は英文の一流誌に発表された原著論文である。私たちの研究室の公用語は英語なので、最新の様々の領域の研究成果を理解し、さらに論文の構成はどうなっているのか、話の展開を論理的に進めるというのはどういうことなのかを、英語で勉強しながら、英語を読み、そして話す訓練をしていることにもなる。
文献紹介を聴く人たちも勉強の良い機会だから、私たちの研究室では、セミナーに出たら必ず一つや二つは質問しなさいと言って教育をしている。話をきちんと聞いていれば、聴きながら分からないこと、おかしいと思うこと、あるいは糺したいと思うことが必ずあるはずである。その場で疑問を解決すればあとの話の展開に興味が繋がるが、分からないままでいたらば、分からないことだらけになって、最後にはただの子守歌になってしまう。
さらに、質問をすれば、きちんと聴いて理解しているかどうかが私に分かる。つまり聴き手が怠けているか、きちんと聴いているか、これで評価できるのだよと学生に言っている。このような自己表現も大事なことで、学会・講演会で人に覚えてもらうには、機会のある度に立ち上がって質問をすればよい。実際、本当に訊きたくて質問する人だけでなく、自分を売り込むために質問をしているんじゃないかと思いたくなる人も時に見かける。人の話をしっかり理解しながら聴く習慣が身に付くならば、ここの学生が後者のような人になっても良いとも思う。
もう一つは、話す方がいくら一生懸命話したって、話のあとに質問一つ出なければ話す方は悲しい。講演会・学術講演で話が終わってシーンとしているときなど、気の毒で見ていられない。会場から質問の一つも出ないときは、司会者もつらい。質問のないのは講演者の責任が大半だから、実を言えば、反応がなくたって仕方あるまいと思う。
しかし、司会者は講演者に対する礼儀も示さなくてはならないから、全聴衆を代表して何か質問をひねりださねばならない。司会者のこのつらさを知っているから、その話に門外漢だとしても手を挙げて何か口走ってしまうのは私がおっちょこちょいだからでもあるし、礼儀正しいからもある。
そう、どんな小さな話にも質問の一つもするのは話す人への礼儀である、と私は信じているので、学生にうるさく言っているのだ。何しろ、今いる中国は礼儀の国だし。
セミナーでは、もちろんはじめて聞く話について行くためには次々訊きたいことが出てくるし、率先して皆が質問しやすくしないといけない。だから何時でも私が口火を切る。この日は10分の休憩を挟んで3時間の間、皆何かしら質問したり、意見を述べて活発なセミナーだった。ただし王麗さんはひとりどうしてかおとなしかった。わざわざ彼女に「何も言うことはないの?」と訊いたくらいだ。
今回からレギュラーメンバー以外の女子学生が三人になったわけだが、彼女たちはまだ学部の学生なので、活発に質疑に参加したのではない。となると、男性陣が後輩の女子学生に格好良く思われたくて、頑張ったのだろうか。
終わった後、王麗さんに「どうしたの、今日は。おとなしかったじゃない。みんなは若い雄クジャクで頑張っていたよね」と言った。彼女は「なんですか、それ。」と言う。「だって雌の前で張り切って尾羽を広げているみたいで、彼女が来たことは良かったみたい。」と説明した。
すると彼女は「老孔雀開屏、自作多情」とポツンと言った。意味を訊くと「歳をとった雄の孔雀が、自分の歳も忘れてすりきれた尾羽を広げています。でも雌は振り向かないので片想いです。これ先生のことです。先生張り切っちゃって、大丈夫ですか?」
どうも、王麗さんは言うことがきついね。ひょっとして歳の若い雌孔雀を気にしているんだろうか?私も気になるけど。
会員交流ページの「加藤正宏の瀋陽史跡探報」に「5.満鉄付属地その一、和平広場と民主路」が載りました。
数回前の『上有政策 下有対策』に書いたように、この薬科大学では今まで修士課程の学生に対して2年目の中間報告会、あるいは中間審査は行われなかったけれど、今年度は突然それを 開くことになった。これまでのように「何もない」というしきたり通りだと思っていた胡丹くんたちは、大慌てで報告書を書き始めた。話を聞いてから締め切りまでに1週間もなかったのである。私もせかされて、胡丹くんの研究について指導教官としての所見を書き、書類にサインをして彼に返した。
他の有力な研究科では、そんな突然降って湧いた余分な行事を、先生と学生と共謀で会を開いたことにして済ませてしまったらしい。しかし私たちの研究科は生化学や分子生物学などのここでは新しい分野で、したがって製剤など「儲かる」学科中心の大学の中では力が弱いらしく、私たちの研究科では発表会をやるみたいだ。
しかし私は大学から何も知らされていなくて、院生の胡丹くんが仕入れてくる情報で一喜一憂しているだけだった。来週にはあるらしいと聞いていたのが、月曜日には何もなく、火曜日になって胡丹くんが「明日の午後発表会になりました。先生は都合がよいですか?」と言ってきた。もちろん「いい」というしかなく、Powerpointで用意した発表をUSBディスクに入れた胡丹くんと、当日になって本館3階の会議室に出かけていった。
会議室にはすでに知己となっている教授が二人、他に知らない先生らしい二人がいて、審査をする人は私を入れて5人と勘定できた。といっても私は報告書の書類も貰っていなかったし、そこでも廻ってこなかった。学生は胡丹くんを入れて13人が入ってきて着席した。
初めに先生たちの間でやりとりがあって、胡丹くんが最初に中国語で話をすることになった。彼の発表のスライドの図の説明だけは英語だが、本文は中国語で書いてある。きっちりと10分の発表は、スライドに書いた中国語を読み上ているようだった。あと質疑が5分くらいだったろうか。
胡丹くんは細胞膜にあるガングリオシドが細胞内にシグナルを発しているという仮説のもとに実験を進めてきた。ある特定のガングリオシドがあると細胞膜の特別の構造の中でリン酸化を受けるタンパク質の種類が大きく変わることを見つけている。このタンパク質を綺麗に分離するために彼は二次元電気泳動法の腕を磨いて、それに抗体染色(immunoblotting)によるリン酸化タンパク質の検出法を組み合わせて研究を進めて来た。
胡丹くんが話し終わると、ガングリオシドとは何か訊かれたり、どんな人がガングリオシドは研究しているのかなどと訊かれていた。まだ珍しい分野だからだろう。胡丹くんは、スライドで沢山のタンパク質が綺麗に分離されている二次元電気泳動の結果を見せたけれど、それは何処に頼んでやって貰ったのかと聞かれて、「これは自分のところで、自分でやったのです」と、途端に文字通り胸を張って誇らしげに答えていた。
胡丹くんの発表が終わったところで、研究科主任の教授から私はもう外に出ていいと言われて、鄭重にドアの外まで見送られてしまった。中国語が分からないのでいても仕方ないと言うことだと思うが、同じ研究科の教授というよりお客という受け止め方をされているのだと思う。研究科としては別に望んでもいないのに、中国語のわからない教授を大学が招いてしまって困っているということかも知れない。
私の研究室の修士2年に胡丹くんのほかにもう一人いるのが、王麗さんである。彼女は「博士課程に進学するなら、修士課程を2年で終えて博士課程に進学できる」という大学の規定を利用して博士課程進学を考えていた。いままでは、別の薬理学研究室に籍を置いたまま私の研究室に来ていたが、博士課程では私の研究室に所属したいという。そうなると,別のところから私の研究科への移籍になる。このようなケースは少ないと見えて、王麗さんが手続きに走り回っているけれど、よくわからないという。私の研究科からは、私のところへの進学希望候補がいるとも何とも聞こえてこない。
胡丹くんの時もつんぼ桟敷に置かれたままだったけれど、彼の中間報告には別に問題は起こりようがないからまあいい。でも、今度は博士課程に進学できる数が限られているのに希望者はそれより多いという話だし、私のところに博士課程の学生が何人採れるのかも気になって、研究科の先生に伺いを立てた。
すると生化学教室の主任教授から連絡が入るし、生化学教室の主任の助教授からも連絡が入るし、前年度の主任教授からも電話があって大変賑やかなことになった。初めは私も含めて4人の教授のいる研究科なのに、3人しか学生が採れないということだった。だんだん増えて私は二人まで採れるという話になっていった。実は人数よりも、このような進学手続きなどの決まり、申請や審査の期日を私にもきちんと知らせて欲しいと言いたかったのだ。私も同じ研究科なのだから。
木曜日になって、博士進学希望者の審査会を、金、土、日、の三日間のどこかでやるから空けておいて欲しいという連絡が初めて私宛に入った。金曜にあるならば翌日のことなのだけれ ど、それもまだ決まっていない。これが中国式なのだ。結局金曜日になって、翌日土曜日の午後に開くという電話を貰った。
中国では大体の日時は狭めてもぎりぎりまで開催日が決まらないのは、決定は自分が自由に行使できる権利だと、偉い人が見なしているからだろう。あるいは同じ理由で、それよりももっと上の人との予定がぎりぎりまで決まらず、それに合わせなくてはならないので、決めようがないというのかも知れない。日本の感覚から見ると理解しがたいけれど、ともかく、全くの不意打ちではないのだから、組織の一員としては、まあそんなものだと思うしかない。それに今度は自分の属する研究科から正式に連絡を受けたのだから、もちろん文句はない。
それにしても、胡丹くん、王麗さんは私を通じて知らせが来るという公式なルートはなかったわけだから、どのようにして中間報告や、博士進学の申請を知ったか訊いてみた。胡丹くんは「彼女から聞いたのですよ。彼女は薬理学研究科で、知らせがあったのです。」
王麗さんも同様に、彼女の恋人の馬さんの属する研究科の通達を、彼を通して聞いたという。と言うことで、情報過疎地である私の研究室にいる学生たちにとって、恋人をこの大学の別の研究室に持つことは、ここで生き抜くためには必須の条件のようだ。
五月になるとハイネの「美しき五月になれば」という詩を何時も思い出す。美しい詩だけれど春が徐々に訪れる日本ではあまりぴったり来なかったが、瀋陽で暮らしてみるとハイネの気持ちがよく分かる。瀋陽では11月から3月まで寒く長い冬に耐えなくてはならない。高緯度のドイツも同じだろう。4月半ばになるとそれまで零度以下だった気温が,どんどん上昇して、凍った土から芝生が青く芽を伸ばし、木々の芽が一斉に吹き始める。桃が開花して直ぐレンギョウが続き、今はライラックが花盛りだ。長い冬を越して一斉に春に目覚めた生命の躍動に心躍る気持を今瀋陽で味わっている。
5月1日のメーデーから始まる一週間は、中国でも労働節休暇と呼ばれるゴールデンウイークである。今年は後ろの土日も一緒にくっつけると9日間の大型連休となる。故郷まで片道4日 も掛かるような学生はさすがに帰省しないけれど、天津、上海(上海だと片道汽車で28時間という)から来ている学生は、二三日前から休みにして故郷に帰 る。
私たちはこの休みの一日、瀋陽で得た友人である加藤先生に案内されて瀋陽史跡と隠れた名所巡りに出かけた。加藤先生は薬科大学の日本語教師の一人で、昨年秋ここに来るまでは関西の高校で世界史の先生だった。今回が初めての中国ではなく、現役の四十代の教師のころ西安に二年間、そして定年前の二年間は長春で日本語教師をしたという。日本の教職を中断して中国に来て日本語教師をしながら暮らすなど、よほどの興味がなければ出来ないし、たとえそう思ってもなかなか周囲の事情が許さないであろう。加藤先生は、その「よほどのことがある」先生なのだ。
世界史、特に日中の現代史が専門で、調べれば調べるほど興味が募り、とうとう現場に自分の身を置きたいと希求するほどのめり込んでしまったものと思われる。いまの加藤先生の週末の日課は、市内で開かれる古書、骨董市巡りなのだ。そこで現代史に繋がる様々な本、写真、証書などを見つけている。
丁度、加藤先生の奥様も10日間の予定で日本から訪ねてこられていて、ご一緒した。彼女は文子さんと言って以前は学校の先生だったけれど、加藤先生の長春赴任に合わせて学校を辞めて長春では一緒に暮らしたという。でも、今の加藤先生は単身赴任なのだ。これは以前『一緒に来てくれてありがとう』に書いたように、「亭主はともかく、自分の築き上げた生活も大事なのよ。中国に行きたければ一人で行っていらっしゃい。」というケースだろう。
文子さんは水曜日に瀋陽に着いて次の週の金曜日には日本に戻るとのことだ。土日もこちらで一緒に過ごしてから日本に戻ればよいのにと思うが、彼女に言わせると、加藤先生は土日には彼女を放り出して自分は一人で骨董市巡りに行ってしまうから、週末前に帰っても同じことなのだという。
さてこの日曜日は朝8時半に大学の前のバス停で待ち合わせた。もう風は冷たくなく、空も青く澄み渡り、黄砂の気配もない。私たちは数日前までの冬の衣装を脱ぎ捨てて軽装である。加藤先生は古物市までの2kmくらいの距離を普段は歩くそうだけれど、今日は私たちに付き合って一緒にバスに乗った。バスの代金は1元。ワンマンバスで、乗るときに1元を運転席の横の箱に入れる。運転手はおつりを呉れないから、もし1元がなくて大きな札しかないときには、自分がにわか車掌になって、あとから乗る客から自分の釣り銭が出来るまで金を受け取らなくてはならないと聞いている。バスは誰もが遊びに出かける気楽な服装をした人たちばかりでいっぱいだったが、貞子が吊革につかまると、直ぐ若い男に席を譲られていた。
在瀋陽日本国総領事館の近くの停留所でバスを降りた。「2週間前の反日デモの時はこの手前にバリケードが置かれていて、ここまで入れなかったのですよ」とのことだ。領事館は50mくらい先の角にあるが、今は逆の方向に戻って運河に掛かった橋を渡る。瀋陽市内には運河が掘巡らされていて、この河畔は随所に公園となっている。これらの河畔公園を含めて緑地帯が市内面積の25%を占めるという話で、この一帯は市内屈指の風致地区である。その角に「瀋陽魯園花卉文玩中心」という二階建ての奥行きの長い建物があり、一階は生花の問屋、二階が骨董商だという。その関係で、この裏の河畔の広場に週末に古書・古物の市が立つのだそうだ。
店を通り抜けて外に足を踏み入れると、アスファルトの地面に2メートルくらいの幅に布を敷いて、その上に古本が広げてある。古本屋にはそれぞれ得意な分野があると見えて、紅衛兵の 紅い手帳や紅いその手の本だけを置いている店、小説本ばかりの店、人体芸術写真・素描などヌード本の店、昔の教科書が主体の店など様々だ。古本の表に「唐 宋詩選」なんて書いてあると、思わず「あるある」なんて声が出てしまい、店の親父に声をかけられてしまう。貞子は日本の歌の本を見つけて手にとって中を見 ると、「五線紙がない。えっ、これ数字で書いてある」ということだった。
二胡の楽譜は見慣れた五線紙ではなくて数字で書いていると聞いたことがある。きっとそれだろう。知った歌なら数字と音との関係が解読できるということになって、知っている歌の載っ ている歌の本を探し始めた。とうとう日本の歌が中国語となって一緒に書いてある歌の本を見つけて、2元で買っていた。15年前に出版された本で、裏には定価は0.3元と書いてあった。 「同学門 手拉着手 走在田野 和地頭」
これは「おてて、つないで、のみちを、ゆけば」の「靴が鳴る」である。音程は「1123,5565,332112,3212」と書いてある。ドは1,ミは3、ソは5,上のドは上1点付き1であることが直ぐ分かった。
古本屋の中での加藤先生の顔なじみは、教科書、地図、古い写真などを扱っている人たちで、加藤先生はもう半年通ってお互い親しい友だち同士のようだ。文子夫人は「我的太太」、私たちも「我的朋友」といって紹介されて、彼らに暖かい笑顔と親しげな言葉で歓迎された。その一人は、有名大学の出身で定年後、好きなことを始めてこの道に入ったという。そこにはロシアが出版した日露戦争前の満州地方の地図があった。いまちょうど石光真清の書いた四部作「城下の人・曠野の花・望郷の歌・誰のために」(中公文庫)を日本語資料室から借り出して読んでいる。欧米の列強の露骨な圧力におびえながら日本が富国強兵の道を走る明治・大正時代を、明治元 年生まれの石光真清が自分の数奇な軌跡を記述することで描ききっている奇書と言って好い。いまこの時代に惹きつけられていて、とても関心のある時代であり、旧満州という場所である。でも、値段を聞くと千元(約1万3千円)とのことで、とても物好きで買える値段ではないことが分かった。
古書の前で加藤先生はしゃがみ込み、幾つかの教科書を手早く広げて調べている。やがて「ほら、先生」といって見せてくれたのは「高小2修身教科書」というもので、出版は中華民国二十七年と書いてあって1938年に当たるそうだ。「酒を飲むな、煙草を吸うな」から始まっている。高小2年というと、今で言うと中学二年生に当たる。中2といえば子どものようだけれど、日本でも明治時代の初めには高等小学校を出て代用教員になった時代があったから、青年として扱われても不思議ではあるまい。この修身教科書の終わりの方には「中日経済協力」「中日合作東亜和平」などの項目が出てくる。出版は北京だからいわゆる傀儡偽満州国ではない。日本が攻め込んでいた中華民国である
日本が仕掛けた戦争で戦禍が中国全土に広がっていた時代だけど、中国では日本はアジアの一番近代的な工業国で、日本に見習って国力を高め一緒にアジアの平和に尽くそうと子ども達に教えていたのだ。 青空の下の古物市では、本のほかに首飾りの玉や腕飾りを冷やかしたりして2時間以上楽しんでから、先ほど通り抜けた大きな建物の二階に上がった。明るい陽光の下から暗い建物の中に入ったので、両側の店は暗くて全部仕舞た屋に見えてしまったが、目が慣れてくると立派な篆刻の店、貨幣の店、画幅の店、書の店、玉石の店など間口二間、奥行き一間半位の店がずらっと並んでいる。
加藤先生はここでも顔なじみで、あちこちの店に立ち寄って挨拶をしていく。上品な店主のいる書画の店では、とうとう私たちも椅子に座り込んでお茶までご馳走になってしまった。この店主は勤めを持ちながら、週末はここに来て好きな商売をしているとのことだった。 店を出て河畔に立つと、もう初夏といって良い温度の中で、風が頬を優しく撫でて心地よい。河畔にはライラックの樹が立ち並んでいてその全部が満開なので、まき散らす香りに全身が包まれてこれも快い。
この河畔から領事館は直ぐで、南三経街という広い道に面して米国総領事館、この奥の西には日本総領事館と続いている。広い道と日本総領事館に続く道にはトヨタのハイエースに似た公安の車が隙間なく並んでいた。日本総領事館の入り口は二重に閉鎖されていて、警備の警官、武装警官が門の周辺に多数立つほかには人影がなかった。反日デモ発生を厳重に警戒しているのだろう。
米国総領事館から反時計回りに日本総領事館を通り過ぎてその横手に出ると、別の入り口があって、瀟洒な3階建ての建物がほとんど出来上がっていた。かねて聞いていた話によると、総領事館の敷地の中に日本会館を建てて日本文化の紹介、日中交流の場に使うとのことである。この5月23日から28日まで、在瀋陽総領事館と遼寧省人民政府の共催で開かれる「 2005年瀋陽中日経済交流活動週間」がこの会館のオープニングを飾るはずである。4月に火の手の挙がった反日運動がこの「 2005瀋陽中日経済交流活動週間」開催に水をかけたに違いない。
反日デモの燃え広がる最中の4月19日に李外相が党高級幹部を集めて「反日デモの静観は国益に反する」という演説した。それ以来、目に見える反日運動は収まっているが、歴史認識の違いという問題の根本が解決していない以上、不安の種を抱えたままの開催となるであろう。日本からも沢山の経済界の人々が参加して、この催しを成功させて欲しいと願っているのだが、どうなるだろう。
この新築の建物を過ぎてそのまま進むと、日本総領事館の裏手の北に当たる敷地に北朝鮮の旗の翻る建物が出来ていた。加藤先生の解説によると、彼の着任時には建築中だったそうだ。建物はベージュと穏やかな茶色で彩られた高級別荘風の建物だが、日本国総領事館よりも塀が高いこと、門が格子ではなく中が見通せないことがいかめしい印象を与えていた。ここももちろん高い塀の外側がさらに金網の柵で囲まれて、多くの警備兵の姿が見られた。北朝鮮領事館の北側一帯は大きな公園になっていて、休みのことではあり、沢山の家族連れでにぎわっていた。
中国の公園の特徴は、子供用の遊具だけではなくて老人用の遊具が多数用意してあることである。老人が手すりにつかまりながら前後に遊具で足を動かしている。横では老人が鉄棒にぶら下がっている。私も真似をしたけれど懸垂のあと逆上がりが全く出来なくなっていて、いつの間にか老人になったことを自覚した。
子どもを避けながら公園をどんどん歩いていくと、北朝鮮領事館の裏手の東に当たる位置に同じような作りの同じ色の建物が見えて来て、これは韓国の旗を掲げていた。当然これは韓国領事館であろう。どちらも将来一緒になることを考えていて、北が南を併合するから同じ色の建物でいいよと言ったのか、南が北を吸収するつもりで同じにしてお こうと言ったのか、どちらか分からないが、同じ趣向の建物というのはなかなか暗示的でよい。 先刻降り立ったバス停に戻る途中、歩道の煉瓦色の敷石に綺麗な字で大中小学生に学業を教えますという白墨の字を見つけた。「随到随学」というのは何時からでも始めますという意味だろう。大学生のアルバイトだろうか。薬科大学で聞いたことだけれど、日中・中日翻訳などは高額が稼げるので大歓迎らしいが、何時もあるわけではない。高校 生、受験生に受験勉強を教えるのはごく普通のアルバイトなのだそうだ。レストランのウエイトレス、ウエイターなどは学則で禁じられているという。ここでは 大学生はエリートなのだ。
バスに少しだけ乗ってから、瀋陽市の街の昔の中心を目指して歩いた。この昔の街の中心は故宮と繁華街の中街を含む一帯で、戦後まで大きな城壁に囲まれていたという。日本が瀋陽に奉天という昔の名前を付けて、旧満州、今の東北地方の経営に乗り出してからは、瀋陽城の西に奉天駅を作って、そちらが新しい瀋陽の中心として発展したとい うのが加藤先生の解説である。ちなみにこの奉天駅、いまの瀋陽南駅は、辰野金吾設計の東京駅に似た優雅な駅舎である。ただし、奉天駅は1910年完成、東京駅は1914年竣工なので、奉天駅の方が古いから、似ているのは東京駅と言うべきだろう。バスを降りて広い道を歩くとやがて横手に奉天路という広い道が見えてきた。以前の街の名前がここに残されている。
奉天路を北に向いて歩いていくと、歩道いっぱいに車を置いて水洗いしている自動車修理工場があった。加油站と呼ばれるガスステーションでは、そう言えば洗車をしていないみたいだから、別の小さな商売が出来るのだろう。水しぶきを避けながらそこを通り過ぎると直ぐ左に、奉天路に面して南清真寺があった。 ここは回教寺院でここも境内は ライラックの花の盛りである。境内は黒い服を着て白い帽子をつけた人たちで溢れていた。煉瓦作りであることを除けば、回教寺院といっても外観は私たちの知っている一般の寺とほとんど変わりのない造作だった。↗️
内部を覗くと、人々は床に拝跪してメッカの方角を拝むので絨毯を敷いた広々とした空間だった。回教では男女一緒に礼拝することはなく、寺院が男女別に分けられているとか、寺の横に男女別の大きな沐浴室が設けられているとか、加藤先生の説明に初めて知る ことが多かった。本堂の裏手に回ると、本堂奥には三層六角形の望月塔がそびえていた。これも日本の寺の塔と変わらない反りの屋根を持ち、優雅な印象である。加藤先生に言われて気付くと、上部の水煙に代わって先端に「新月と星」というイスラムの印(実際には三日月と星)が高々と掲げられていることが、違っていた。↙️
清真寺を外に出ると加藤先生が「ほら、周りを見てご覧なさい」と指さす。周りは住宅街で、周りは6〜7階建ての住宅ビルが沢山目に入る。言われてみると、周囲のビルには壁に青い模様が入っている。屋上の隈取りも鮮やかな青色である。この青色はこの寺を回教寺院として特徴付けている色である。ここは瀋陽の回教信者の集落で、東北地方では最大であるとのことだった。
回教寺院から東に向いて歩いていくと西順城路に面して道教の寺院があって、一人2元で中に入ることが出来た。ここは私たちの大学から日本語資料室に行くときの通り道で、何か由緒深げな建物で以前から気になっていたところだった。道教の寺は道観(道教宮観)と呼ぶそうだ。建てられたのは1663年 の清代初期である。中にはいると直ぐに関帝殿があった。横浜中華街の豪華な関帝廟を見慣れているのでそれと比べると素朴である。 真正面に関羽、右に義子の関平、左に部将の周倉の像がある。
入ってくる人は皆像の前に拝綺して額ずいている。孝心、忠節の権化として尊敬を集め、武神としてあがめられ、後代になって科挙に受かる神様、無病息災を祈る神様、招財開運、商業の神様にまでなってしまった。両側の壁には関羽の事跡が描かれていた。三国志の有名な劉備、関羽、張飛の桃園の契りが描かれていて、こうやって知っていることが出てくると喜ばしい。おまけに描かれている関羽の顔が、中国で作られた大河テレビドラマの三国演義に出てくる関羽そっくりなので、これまた大いに喜んでしまった。もちろん関羽として世の中に広く流布されている顔の役者を選んだのだろうけれど。関帝殿の左手には馬の石像があり、これはそれ以前は呂布が乗っていて曹操から贈られた赤兎馬であろう。皆通りがかりにこの馬をなでていくので、私も尻と鼻面を撫でて三国志の世界に浸った。
道教寺院の中では、関帝殿の後ろには老君殿、玉皇殿が順番に並んでいて、それぞれ太上老君、玉王大帝が祭られている。太上老君は道家を創始した老子のことで道教では神として崇められている。玉皇殿に祭られている玉王大帝はギリシャ神話で言えばゼウスに当たると考えてよい。老君殿の前では高校生位の女性4人が並んで長い線香の束に火を点けてそれを捧げ持って真剣に拝礼して祈っていた。この火を付けた線香は、こうやって祈った後はその後方にある大きな護摩壇に投げ込まれて盛大に煙を上げている。 頭髪を頭上高く髷に結って黒い衣服を付けて一目で道士と分かる人たちが参拝客の世話を焼いている。
老君殿の回廊の横では若い女性の二人連れが跪き、白い四角い筒のようなものの上部 に火を付けて、下部を手で捧げ持ち、隣に立つ道士の叩く木魚を聴きながら、火が燃え尽きて支える手が危なくなるまで熱心に祈っていた。このように若い人の参詣が多いところを見ると、革命で無宗教を推し進めたはずだけれど、宗教心は人々の心に強く宿っているらしい。
玉皇殿の奥には三官殿があって、伝説上の三官大帝である、尭、舜、禹が祭られている。面白いのは、この隣の建物には唐代の科挙に落ちたけれど剣術を好くし、豪放洒脱で人から好かれた養生術の大家の何某という人が神に祭られている。何でも彼でも都合よく取り込んで神にしてしまって祈るという宗教は、日本人にはなじみがあって、好感が持てる。自分を厳しく律するなんてなかなか私たち凡人には出来ることではないし、偉い人にあやかって楽に生きていきたいと気易く願える宗教は気楽で好 い。
宮観をでた後は西順城路をわたり、加藤先生について細い道を伝って歩く。両側は煉瓦作りの一階建ての共同長屋が続いている。長屋の切れ目から中を覗いて加藤先生は「何だと思います」とのことだった。周りと違う大きな家が見えていて、加藤先生によると奉天軍閥の高官の家だということだった。隣と比べて屋根の水仕舞いが丁寧に作ってあるとか、軒の下の支えの入り方が違うとか加藤先生の説明は丁寧である。この後、大きな韓国料理屋の裏手に入って、細い路地を曲がらずにどこかのうちの横手の階段を加藤先生はすたすたと昇りだした。先頭に立って上まで着いて、その踊り場の突き当たりに張ってある鉄条網から下に首を出して見せて、「覗いてご覧なさいな、これが城壁の残骸ですよ。」ということだ。代わって貰って網の隙間から首を恐る恐る出して左下手を望み見ると、石垣がある。これだ。これがいま評判の瀋陽城の城壁の残骸なのだ。
いきなり瀋陽城の城壁が話に出てきて分かり難いかも知れない。いま私が瀋陽にいて参加している瀋陽日本人教師の会というのがある。この会のホームページを昨年から引き継いで作ってきたのは私である。ホームページを愉しめるものにするために様々な企画を立ててきたが、その一つが会員一人一人のタレント性を紹介する「会員交流のペー ジ」だった。加藤先生はこの企画に乗ってくれて、「瀋陽史跡探訪」という記事を書き始めて、最近の「満鉄付属地その一」に至るまでもう5回も執筆を重ねている。その中に、「瀋陽城市城壁と城門」というのがある。
(http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/sakuhin1kato.htm)
加藤先生のその記事によると、清の初代皇帝となるヌルハチが満州地方を平定したとき、いまの瀋陽の地は既に明の作った瀋陽衛と呼ばれる城市があった。ヌルハチはその中心に宮廷の建 物となる故宮を造営して、この地を都とした。清という国名を名乗る女真族が、山海関で万里の長城を越えて明の支配する中原に侵入する前のことある。城壁は明時代の城壁を改修して頑丈なものに作り替え、上部の幅6メートル、高さ12メートルに及ぶ巨大なものであった。こうやってこの宮廷と付属の地域を高い塀で囲んだ瀋陽城を中心に瀋陽の街が出来た。その後日本が支配した時代は、奉天駅を中心とする満鉄附属地が中心となって広がり、この合体したものが今の瀋陽の原型になっているとのことだった(瀋陽の歴史も、加藤先生の「瀋陽史跡探訪」に詳しい)。
加藤先生の記事によると『しかし、中国建国後1958年の「大躍進」の時に、北順城路に沿った南側の部分の城壁の基礎段を残して、城壁は全て取り壊されてしまった。1982年に、この基礎段は市級文物保護単位に指定されたが、既に城壁の基礎として使われていたレンガは住民によって持ち去られたり、その基礎段の上やその傍らに建てられたバラックの建築資材に化けてしまって姿を消し、市民から忘れ去られてしまった』という。
いま、この一体を訪れると、瀋陽城の西の城門、東の城門、西北の望楼が見られるが、これはその後に再建されたもので、昔の城壁は跡形もないと思われていた。ところが、昨年の12月に城壁の基礎部分の一部が発見されて歴史的に価値のあるものとして一躍脚光を浴びたということだ。瀋陽市はこれを修復して歴史公園を作る計画だという。加藤先生はその新聞記事を頼りに大変な苦労をしてそれを探し出して、「瀋陽史跡探訪」の中の「4.瀋陽城市城壁と城門」に紹介を書いておられる。↗️ (http://www.geocities.jp/mmkato75/shenyang4.html)
今、韓国料理屋の横手の露地を入って階段を上ったところから左下手にわずかに俯瞰できたのは、加藤先生が自分で発見したこの城壁の10メートルくらいの基礎部分なのだ。しかしその北側には直ぐこれに接して建物が建っているので近づくことができない。
それで大回りをして南側に廻るとそこには屑やさんがあった。加藤先生がそこの人に店の裏に通して貰うよう頼んで、ゴミを掻き分けながら奥に廻ると、2メートル位の高さで煉瓦と石の城壁のでこぼこの基礎部分の一部が目の前に続いていた。
幻の瀋陽城城壁の一部を始めて目にしたのだ。しかも、これを目にした人はほとんどいないはずだ。これを訪ね当てた加藤先生の案内なしにはとても見つかるところではない。先ほどから悩まされていた空腹感も忘れて、興奮に暫しそこに佇んでいたのだった。↙️
そのあと私たちが昼ご飯を食べるために目指したのは、正陽街に面した馬焼麦という名の1796年開店のイスラム料理店の老舗だった。瀋陽のどんなガイドブックにも載っている有名店 だけど、私たちも加藤先生もまだ来たことはなかった。1時過ぎなのにひどく混んでいて、1階、2階の大部屋を素通りして幸いなことに包房(小部屋)まで案 内され、おそらくとっておきの豪華なテーブルに導かれた。焼麦は焼売と本質的に同じ感じで、この店では中の餡が二十種類くらい選べる。私たちは羊肉、牛 肉、そして三鮮を選んだ。三鮮はニラ、卵、エビである。それぞれ二両(百グラム)を注文した。このほかにおかず三品を取った。さすがに評判の高い店で、塩辛くなく味がよく、私たちは大いに満足した。これにビールを2本取って、勘定は115元だった。この味でこの値段なら全く文句はない。
昼食を堪能してまた細い路地を歩くと、煉瓦造りの高さの低い長屋が両側に続く。道は狭い。その長屋の壁には、明らかに城壁の煉瓦を利用したと思われる黒い大型の煉瓦や石が組み込ま れているのを見ることができた。今の時代の私たちは、「なんてことを」と思うが、当時としては不要になったものを再利用するのは当然のことだろう。
さらに歩いて、広い道に出た。この道は北順城路と呼ばれていて、瀋陽城の北側を巡る道路である。この道に沿って歩くと、先ほど見た城壁の基礎部分のあった場所よりも少し東側で、「ここにも城壁の一部が見つかったのです」とのことだった。城壁のための盛り土で高くなった段と城壁の一部を利用してバラックが建っていたが、これらは昨年末の瀋陽市の城壁公園計画に基づいた立ち退き命令により、あっという間に取り壊されたそうである。しかし、それから5ヶ月たった。家の取り壊された後の廃墟はそのままになっていて、家造りに利用されていた城壁の黒い煉瓦は今ではほとんど残っていないほど、持ち去られてしまったらしい。「城壁で名高い石や 煉瓦があるそうだから記念に持って行こう」というのか、「使えるものなら何でも手に入れよう」というのか。ま、両方だろう。
この後私たちは中街の西北の一帯の道の両側に布を並べている路上の骨董市に案内された。ここも、古本を置いている店、置物の店、壊れた楽器を並べている店、貨幣の店、鍵の店、小石を置いている店、篆刻の店、玉飾りを置いている店、そのほか有りとあらゆる思いつく物は何でも商品になるという感じで並べられている。その中で私の目指し たのは、石である。石といっても判子の彫れる石で、加藤先生から、1〜2元で売っている石に自分で篆刻が出来ると言うことを聞いて是非やってみたい、それにはまず石を手に入れなくてはということになったのである。
石といっても堅くはなく、 柔らかくて刃物で削れる石だそうだ。コンクリート色の石ではなくて、玉の親戚みたいな少し透明の様々な色あいで、色模様の混ざり具合がまた様々で楽しい。例を挙げると、ちょうど3センチくらいの径で高さ5センチくらいの手にすっぽりと握れるくらいの石である。その下面は平らに磨ってあってここにナイフで刻 むのだという。
しゃがみ込んで石を選ぶと、どれも表情があってその微妙な違いがどれも気に入ってしまってなかなか決め難い。やっと8個選んで買おうとしたら、加藤先生に「またここに来ると、また違う感じの石があるから、今日は5個くらいにしたら」と言われて、5個で10元を支払った。すごく安く貴重な宝石を手に入れた気分である。立ち上がって みると、貞子と文子さんがいない。この道端の古物市のそばに、これまたビルに入った骨董店があって、加藤先生によると、彼女たちはこの中に店を持つ加藤先生のなじみの店に行っているという。
探して行って見ると、店主はかなりの彫刻の匠のようである。店で見本を見せられてすっかり気に入って、貞子は猪を彫って貰うように加藤先生抜きで文子さんの助けを借りて交渉をしたところだったという。加藤先生の中国語の仲介なしで話が成立したので、二人とも興奮している。
これで夕方の4時になって、この日の瀋陽探訪はこれでお終いとなった。加藤先生に案内されて過ごした充実した一日だった。貞子は骨董市で加藤先生の知人に紹介されても挨拶以上のことは言えないし、ものを買おうと思っても言いたいことの百分の一も言えない状態に一念発起したらしい。翌日は研究室で学生の胡丹くんを捕まえて久しぶり に中国語で話し始めた。胡丹くんも以前は「破門ですよ」と言ってはいたけれど、中国語で話しかけられて機嫌の悪いはずがない。たちまち二人で意気投合して中国語が熱く交わされていた。賑やか過ぎるけれど、まだ休みなんだから、ま、いいか。
研究室は後期は2月18日から再開された。卒業研究生3人を迎えて忙しい毎日が始まった。今回は男子学生ばかりなので、どうも華やかな話題が乏しい内に時間ばかり経っていく。
薛蓮さんからmailが大体月に一回の割合で届くけれど、今年に入って更新を怠けていた。今日3月以降の新しいmailを新たに載せた。
沈慧蓮さんからくるmailはいつも短くい京都弁である。少しましな京都弁になったら、載せようと思っているうちに、もう彼女が日本に行って半年余経ってしまった。
慶応大学の朱性宇さんは修士の二年目に入った。春の日本化学会では研究の発表をしたということである。
おそらく後3週間で卒業研究の発表会になると思われる。忙しい春である。
会員に新たに前田節子先生が加わった。自己紹介は会員のページで。
今年の瀋陽日本語弁論大会は諸般の事情で開催が中止になりました。その代わり、総領事館主催の2005日本週間活動の一環として、5月17日金曜日、最終選考会の残った人たちの発表会があるということです。
むかし最初の職を得て10年 間住んだことのある日本の名古屋は風の街だ。そのころ、名古屋にもご当所ソングを作ろうと言うことになって、石原裕次郎が「白い街、名古屋」と歌ったけれど、名古屋にいた私たちは、それは間違いで「風の街、名古屋」じゃなきゃと笑ったくらい、伊吹おろしが強く吹きあれる街だった。そのあと2年住んだシカゴの街も、Windy Cityと呼ばれるくらい風の強い街だった。
瀋陽の人たちはどう言っているか知らないが、瀋陽も風の強い街である。冬の冷たい風は容赦なく襟元に吹き込み頭から熱を奪うので、毛糸の帽子とフード付きのコートが欠かせない。フィンランドの友人が彼の地では「真冬に帽子を被り忘れると頭が冷えて頭痛のあと昏倒するのよ」と言っていたけれど、私たちは最初の冬にここでそれを実感した。
長い冬が終わって春になっても風が砂を巻き上げるので、瀋陽の街で頭から埃だらけにならないためには帽子がいる。真冬が過ぎると、私は息子から貰った革で出来た野球帽の形をした帽子を被っている。
瀋陽駅に近い太原街というのはファッションの街で名高いところで、地上だけでなく、太原街という街路の下が3層構造の地下街になっている。3年前に日本から瀋陽薬科大学を訪ねてきた悪友が、何処で聞いてきたのか「肩ひもが透明になったブラ」を売っている情報があると言って、わざわざ私を誘って買い物に行ったのが最初だった。
太原街でめでたく目的のものを見つけて、彼は研究所のすべての女性に土産にするんだと最初は喚いていたけれど、そのうち段々理性的になり、結局大学に入ったばかりの自分の娘に買っただけだった。私は、自分の娘にだってブラを買って帰る趣味はないが、ま、人さまざまである。
翌年日本に戻ってこの悪友に会ったたとき、彼に土産話として、今年の瀋陽のファッションは「全部が透明になった透明ブラ」だよという作り話をした。悪友はこれを本気にして「何で買ってきてくれなかった?」としきりに残念がっていた。自分の娘に透明ブラをつけさせて、どうする気なんだろう?これは娘ではないね、きっと。
太源街の地下街はここで火事になったら?という恐怖を感じてあまり行かないけれど、若い女性向きの楽しいというか可愛らしい品物を売っているので、女子学生が同行すると寄ることがある。その時帽子屋を見つけたので覗いてみると、昔の中国の人民帽みたいなスタイルを保ちながらも、今は素材も色もデザインも昔とは大違いでとても良い感じである。
それで、昔アイルランドを訪れたときに買い損なった緑の帽子のことがずっと残念な記憶だったので、せめてここでそれに似た緑色の帽子を買おうと探したけれど、全くない。店の親父に尋ねても「没有」という。無いとなると欲しくなるもので、その後も心がけたがどこにもない。
よく知られているように、アイルランドは緑が国の色である。アイルランドの国の花は、三つ葉のクローバーに似た緑色のシャムロックで、郵便ポストにも、飛行機にも、至る所に緑色が使われている。シカゴにいたとき、アイルランドの守護聖人、聖パトリックの命日であるセント・パトリックス・デーには、目抜き通りでアイルランドゆかりの人々の祭りの行進があったけれど、誰もが緑一色で着飾っていた。祭りの時にはシカゴの街を流れる河の色まで緑色に染めてしまうのだ。
「グリーンスリーブス」(緑の袖)というアイルランドにはとても古い民謡がある。哀愁を帯びた旋律で日本でもよく知られている。グリーンスリーブスとはヘンリー8世の愛人の名前であり、独身男性が彼女を慕って歌う歌なので、緑という色には、「不倫」という意味があると聞いたこともある。
ある日研究室で緑色の帽子を探していると話したら、日本語の達者な胡丹くんは大笑いして「それは駄目ですよ」という。「何故っていうと」と、説明してくれた。中国では昔から女房を寝取られた男を、「間男に緑色の帽子を被らされた」と表現するのだという。だから中国では緑色の帽子は決して売っていないし、あったとしても誰も決してかぶるわけがないという。洋の東西で緑色が似た意味で使われているところが面白い。
終わりを意味する言葉と発音が同じだから、人には決して時計を贈らないとか(腕時計は発音が違うので別である)、日本と違って奇数ではなく偶数が喜ばれるなどの中国の常識は覚えたけれど、緑の帽子の話は知らなかった。
それで緑の帽子探しは断念したけれど、良いことを思いついた。例の悪友に上手いことを言って、彼が今度中国に来るときに、緑の帽子を被って来させよう。それにはどうしたらよいかといま悪巧みの最中である。
今週前半の火曜日、友人が二人瀋陽に訪ねてきた。一人は修士時代の研究を私が指導したので、私の教え子と言ってもよい大貫洋二さんで、今はバイオ関係の会社の中堅である。もう一人の小川博さんは、最初に出会ったとき私は大学にいて彼はバイオ関係の会社員だった。小川さんの会社が新しく扱おうとしている商品の市場性、将来性について質問されたのが最初で、それ以来妙にウマがあって、いつの間にか友だちになっていた。
小川さんは化学の出身で慶應大学大学院の修士も終了している。もし続けていれば研究者になったに違いない緻密な頭脳を持っているけれど、彼の日常やりたいことは音楽なのだ。空いている時間は、バイオリンを弾き、リコーダーを奏で、歌を歌い、オペラに出演しているか、音楽仲間とビールを飲んでいる。ただし、仕事はプロそのもので、それ故に私の尊敬する友人の一人なのだ。自由になる時間を増やすために、今は自分の会社を持ち、言ってみればバイオのフリーターとして働いている。
この小川さんと一緒に訪ねてくる大貫さんを指導したのは15年前だった。学生のときから妙に老成した雰囲気を漂わせている人で、会社に入ったときも全く新人らしい様子はなく、周囲の様子がまだ全く分からないのにずけずけと思ったことを会社の偉い人たちに提言してのけたと聞いている。大貫さんとは彼の卒業後もバイオの研究会や学会でよく顔を合わせたが、実は彼は大の音楽好きである。小川さんは毎年1回府中芸術の森劇場でオペラにでて歌っているが、数年前から大貫さんがそれを観に行く常連に仲間入りするようになってからは、新橋のアルテリーベでも互いによく顔を合わせるようになった。
この新橋のアルテリーベは、毎夕歌い手が生で出演する音楽レストランで、ビヤレストランといった方がよいかも知れない。瀋陽に来る前は、小川さんに会うというと何時も場所はアルテリーベだった。当然、この二人はビールが大好きで、昨年の夏会ったときもビールを飲めなくなっている私を前に、このアルテリーベで気持ちよく飲んで歌っていた。
この私の友人ふたりが東京から瀋陽5日間の予定で遊びにきた。目的は、餃子を食べて地ビールをたらふく飲んで、どんな音楽会があるか覗いてみて、瀋陽の名所旧跡も廻って、ついでに私のいる薬科大学にも寄ってみようか、と言うものらしい。
瀋陽にはサッポロビールの名残の雪花ビールがあるけれど、この生ビールが何処で飲めるか分からないので、「瀋陽日本人教師の会」の先生たちにメイルで質問をした。さらには瀋陽では音楽会は何処でやっていますか、何処でその情報が入りますかということも尋ねた。
すると、雪花の生ビールは夏になるとあちこちの路上レストランで飲めること、しかし雪花ビール専門のビヤホールはないこと、それ以外の店で作っている地ビールが飲めるレストラン情報など、次々と先生たちからの情報が届いた。音楽会情報は○○新聞を買えば載っていること、大劇場に行けば窓口に公演予定が張ってあることも教わった。加藤先生はわざわざ大劇場に行って窓口の情報を持ってきて下さった。ありがたいことである。しかし、雑伎団は常設ではやっていないし、週日に音楽会もない。この瀋陽は未だ文化都市とは言えないらしい。
友人二人は午後3時半に空港に到着してホテルまでリムジンで運んで貰えるという。それでその日は5時にホテルに迎えに行って、そのあと大学に連れてきて研究室挙げての歓迎会をすることになった。研究室のパーティは時々やっているけれど、今年は卒業研究生が全員男子と言うこともあって、彼らが配属されてから1回しか開かなかった。おまけに4月に入ってからは反日デモに端を発する硬い世情が研究室でパーティをする雰囲気を許さなかった。
その期間、薬科大学の中で何が起きたと言うこともないけれど、研究室の学生は日本人の私たちとは「距離を置きたい」という感じであった。4月10日、17日と瀋陽では初めてこの手の街頭デモがあったが、4月19日に中国政府の李外相が共産党の幹部を一堂に集めて「反日デモの猖獗は中国の国益に反するから鎮めるように」という演説をした翌朝になってやっと、彼らの態度が元に戻ったのだった。
研究室では、電磁炉と鍋が使えるので、いわゆる鍋が出来る。今回も肉を買ってきてしゃぶしゃぶをしようということになった。火曜日の朝、先ず朝市で野菜を買い、その横の専門店でスライスした牛肉を買ってくるからと胡丹くんが言ってくれる。「じゃ予算はいくらにしようか?15人の予定なので、一人牛肉200グラム用意するとして合計3kgだから、200元?」と聞いたら、胡丹くんは「先生、今回はケチですね。そんなことでは先生の大事なお客さんを迎えるのに恥ずかしくありませんか。」という。だって「前回は沢山余って翌日も皆で食べていたじゃないの」と反撃する。何時も私がスポンサーなのに翌日の余り物の会の時には声をかけられなかったので、私は今もそれを根に持っているのである。今回は余分に買いたくない。
結局300元を渡して、こんなものかな?これでビールも買えるだろうか?」と訊くと「1本2元だから20本買っても40元ですよ。」とのことだ。雪花ビールには値段で数種類あるけれど、日本人は高くても安くても大して味の違いはなく、どれも美味しいという。アルコールの飲めない私のためには「飲むヨーグルト」と叫んだら、横で妻の貞子が「ビールは2元なのに、ヨーグルトは6元するわよ。贅沢ねえ。水でいいわよ。」といっている。安い水でも1〜2元だから、水よりも安い雪花ビールというのも嘘ではない。
胡丹くんが今回は全体の段取りをして、当日朝、卒業研究の学生を率いて朝市に行って野菜と牛肉4kgを買ってきた。スライスされて凍っているので嵩張っている。これだけ沢山の牛肉をしまうために実験室の冷蔵庫と冷凍庫を皆で大わらわに整理した。そのあと、王麗さんも加わって、あと何を買いましょう?ということになった。
午後には数人の学生が近くのスーパーのカラフールに、草魚、湯葉、豆腐、粉皮、果物、菓子、酒(白酒と呼ぶ焼酎みたいなもの)などを買いに行った。講義から戻ってくると、教授室の一画にはこれらが大きな場所を占めて置かれていた。ビールも24本1ケースを二人で運んできたという。大瓶660ml入りで何と2元。24本で48元。日本円にして630円である。何とここでは日本の1本分で24本買えるのだ。
彼らが泊まるホテルはHoliday Inn in Shenyangで、瀋陽駅近くの毛沢東の像が高くそびえる中山広場の近くの良い場所にある。彼らはツアー会社の手配でホテルまで送って貰えることになっているというので、ホテルで会うことにした。約束の時間に間に合うように胡丹くんと二人でタクシーで出かけた。タクシーが走り出したら電話が掛かって来た。大貫さんは世界中何処でも使えるケータイを持っている。飛行機が30分遅れて、しかも空港で30分経ったけれどまだツアーの出迎えに会えずリムジーンに乗れないという。
私たちが空港に出迎えれば良かったけれど今更仕方ない。先にホテルに行って待つことにした。瀋陽の街の案内を手に入れておこうと思ってコンシェルジェのところに行った。デスクの横の棚にはわずかのパンフレットしか入っていない。どれも中国の他の都市のホリデイインの案内である。劇や音楽会のチラシもレストランの案内も、名所案内のパンフレットも、市内観光バスのガイドもない。何となく悪い予感を持ちながらコンシェルジェに市内の観光バスの情報を尋ねた。彼は直ぐにどこかに電話をして、代わって話せと電話を差し出した。すると、相手が私に訊くのは、「そちらは何人だ?」
「市内観光をしたいのだが、観光バスがあるのか、何処を廻るのか、何時間かかるコースがあるのか、いくらか」と尋ねたけれど、話の要領を得ない。そこで中国語を話す胡丹くんに替わって貰ったら、結局、市内観光バスはない。この電話は、「こちらの人数と国籍を見てガイドを付けて市内を案内する旅行ガイドで、高いですよ」とのことだった。ここは四つ星ホテルである。コンシェルジェも置いている。だから案内のないのは、つまりここが悪いのではなく、瀋陽に市内観光バスがないかららし い。
二人はなかなか着かない。瀋陽は清朝の発祥の地で沢山の遺跡があるし興味深い観光スポットもある。観光コースを整備して迎えれば、日本からの観光客が沢山来るに違いない。日本と瀋陽は近い。何しろ成田からでも3時間掛からないのだ。退屈する前に着いてしまう。胡丹くんと、勿体ない話だね。観光バスを買って商売をしようか。先ず観光業で稼いでそれを研究費にするのが賢明かも知れないねと、話が弾んだ。
やがて二人がホテルに到着して感激の対面となった。詳しく聞いてみると、今回のツアーに含まれているのは航空券とホテル代だけで、誰の迎えもなかったし、ホテルまでのリムジーンも含まれていなくて、空港で市内連絡バスを探してここに来たそうだ。初めからそう聞いていれば、僕たちが空港に行ったのに。
ともかく大学では研究室の人たちが料理の用意をして待っているので、タクシーで大学に戻った。道々二人は、「瀋陽ってこんなに大きい街とは思わなかった。とても活気に満ちている」と言っていたが、やがて猛スピードで他の車を追い抜き、道を渡っている人や荷車を縫って走るハンドルさばきに段々恐怖が募ってきて、口が凍り付いてしまった。私も今は慣れてしまったけれど、最初はタクシーに乗るたびに身体が凝り固まったものだ。
大学の教授室は広くて一画に大きな会議用テーブルが置いてあり、何時もセミナーの時に12名が集まる場所がある。今日はここにしゃぶしゃぶが用意されている。机の上には薄いビニールの紙が敷かれている。これは中国で初めてお目に掛かったけれど、「十人卓台紙」と言って売られているポリエチレン製の薄いフィルムで、机の上に敷くディスポのテーブルクロスに当たる。この上で宴会をして、あとはくるりとはぎ取って捨てれば、何処も汚れないという仕掛けである。おまけにテーブルの上に何が落ちても、あるいは何を落としてもそのままくるんで捨てられる。うまい仕掛けである。
瀋陽の事歴に詳しい日本語教師の加藤先生も今日は招いてあって、今日の宴会の総勢は15人だった。加藤先生は中国語が自由に話せるので、私たちの研究室の学生の中でも人気が高い。水より安い雪花ビールで、先ず「熱烈歓迎」を口にして、日本式の乾杯をした。日本式と断ったのは中国に来てこちらの風習を知ったからである。日本にいれば、先に料理が来ても来なくても「先ずビールで乾杯」と言うことになるが、中国式では、料理の皿が先ず3皿出たところで主催者が挨拶を始めて、4皿出たところで乾杯をしてそのあと食べ始めるのが普通のスタイルらしい。
この「乾杯」は中国式では、文字通り「乾杯」で全部飲み干すことになる。さらに、中国に来て覚えたけれど、そのあとひとりで自分のコップに口を付けて勝手にビールを飲むなんてことはせず、飲むときは誰かにも声をかけて「誰々先生、乾杯!」といって一緒に飲むことを知った。最初の一杯はともかく、そのあともこの一気飲み方式を続けられる日本人は多くないから、その時は「慢慢喝(マンマンハー:ゆっくり飲んで)」あるいは「一点一点(イーディアル、イーディアル:一寸だけ)」ということになる。
料理も鍋を二つ用意して、片方は普通のスープで、もう一つは四川の辛い味にした。肉も野菜もふんだんにあるし、豆腐、きのこも拉皮も沢山あるので簡単にはなくならない、ビールもそれこそ水のように豊富にある。途中でビールではお腹が張るというので、白酒に切り替えたら二人はこれが大層気に入ってしまった。「中華料理にこんなに合う美味い酒はない」とのことだ。料理は牛肉のしゃぶしゃぶなので無国籍料理みたいだけれど、使っているたれは中国人の好きな味なので、味は中華料理といって良い。実際、今は飲めない私だけれど、白酒は中華料理にぴったりの酒であると思う。何しろ、それで私は飲み過ぎて膵臓を壊したのだから。
白酒はアルコール52度という強い酒なのに、二人ともコップから水のように飲むので、とうとう二人とも酔ってきた。小川さんは何にでも好奇心の強い人だから、歴史が専門の加藤先生に向かって「歴史も、誰が統治したかという見方ではなくて、経済面の発展や相互作用で見ていくと世界歴史もまた面白い」と気炎を上げ始めたが、やがてさらに酔いが廻って、小川さんは立ち上がって歌を歌い始めた。
[Das gibt's nur einmal(1931年ドイツ映画「会議は踊る」の主題歌)]、[Wien, du stadt meine traeume(ウイーン、我が夢の街)] から始まって、アルテリーベで出している歌集を見ながら歌い出した。この歌集は小川さんから私へのお土産である。歌で稼いでいるわけではないが、プロはだしと言いたい美声である。ただし、今日は酔いのために音程が外れまくって、あまりいただけない。貞子は中国語で覚えたテレサ・テンの歌を二つ歌って、全員から喝采を浴びている。彼女の声は実に美しい。私は学生に何か歌えと言われるたびに「詩吟」を唸って、蛮声でみなを驚かせ、呆れさせているけれど、今日はその歌集にあるサンタルチアをイタリア語で歌って気分が良い。貞子と二人で「朧月夜」や、「花」を初めて歌って学生を喜ばせた。博士2年の陳さんもソプラノの美声を聞かせてくれた。小川さんは歌に合わせて一人で踊りまくっている。学生は、「日本人ってこんなにおかしな人種なんだ」という発見に目を輝かせて、喜んだ。メッチャ楽しい晩となったが、明日もあることだし、ともかく世話係の学生二人と一緒にホテルに向けて送り出したのが夜の10時だった。
翌日の水曜日朝は胡丹くんと二人で9時にホテルに迎えに行った。しかし、ロビーにはどちらの友人もいない。小川さんの部屋に電話をしたら低音のがらがら声で「はい。今降りていきます」とぼそぼそと言う。未だアルコールが残っているようだ。私は飲んではいないけれど、友人と久し振りに会えたという興奮のためか、一夜明けたのにまるで昨夜酔ったみたいな気分である。それが実際の二日酔いだったらつらいだろう。昨夜の大貫さんはもっととろんとしていたので、まだ寝ているかと思って電話をしたが、もう起きていて直ぐに降りてきた。顔を見ると昨夜のアルコールの痕跡は全く残っていない。若さというのはたいしたものだ、年上の小川さんはまだ白い顔をしているというのに。
先ず故宮の見学に行きましょう。この故宮は北京を攻略する前の清朝初代のヌルハチと第二代のホンタイジ(皇太極)の王宮の建物である。1637年に完成したというのでざっと370年前の建物である。ホンタイジの息子の順治帝はホンタイジの弟のドルゴンに助けられて北京を占領し、明朝の造った紫禁城を改築して王宮として移り住んでからは、そちらが都となったが、その後の皇帝はたびたびここに巡幸している。北京にある故宮に比べるとこじんまりと小さく可愛い。満族の様式で建てられているという。
故宮の右側の一画には広場があって、奥の突き当たりに八角形の大政殿がある。この大政殿は儀式の時にヌルハチが座った場所だ。大政殿の正面は細長い広場に面していて、この広場を両側から囲んで5個ずつ十王亭と呼ばれる方形の建物が建っている。清朝の旗本は八旗の軍隊に色で分けられていたそうだ。それぞれの隊長で八個の建物、そして全体の政務を見る相談役の大臣が左右に二人ということで十個の建物がある。今、それらの建物には、ヌルハチの使った武具、ホンタイジの衣装、武具、当時の兵装などが飾られている。正白、正黄、正紅、正藍、副白、副黄、副紅、副藍で八色の旗になる。旗にはどれも龍が付いている。中国皇帝は龍がシンボルだが、清朝は関内を征服する前から龍を使っていたらしい。今日の小川さんは草色のシャツ、大貫さんは草色のポロシャツで、まるで示し合わせたみたいに同じ色だ。私のシャツも薄緑なので9番目の草色の旗のヌルハチ軍団が出来たみたいである。
大政殿の横には元の至正12年(1352年)の石碑があって、この地域を瀋陽城と呼ぶと書いてある。ここを瀋陽と名付けた一番古い証拠なのだった。
故宮の奥の一段と高いところは大奥で、ホンタイジと正妻の皇后の寝室、妃4名の建物がきちんと並んでいる。建物にはそれぞれ何々という名前の妃が住んだと書いてある。これ以上妃がいたら何処に住まわせたのかというのが私たちにとりついた疑問だった。また一人増えたから一寸お詰めになって、という具合にはいかないだろうから、その時は何処に置くだろうかという興味を持ちながら他の建物を見て回った。
二代目皇帝のホンタイジの弟にドルゴンという人がいて、彼の軍事的才能と、明朝の将軍の呉三桂の裏切りで満州族は中原を席巻するが、ドルゴンは皇帝とはならなかった。ホンタイジの息子の順治が三代目となって、ドルゴンは幼い彼を補佐した。順治帝を生んだホンタイジの妃はその後ドルゴンの妻となったという。それで、順治帝はドルゴンの息子ではないかという説もあるそうだ。
明の北方から興った満族の帝国はヌルハチからホンタイジに掛けて数十年の間明を攻めたが、明軍も強く、長城の存在にも阻まれて関内に侵攻できなかった。このとき清軍に立ち向かったのが呉三桂将軍の率いる明軍で、決して弱くはなかったのである。しかし衰えてきた明国では李自成の反乱があり明朝を滅ぼした。呉三桂将軍は蘇州生まれの陳円円を北京に置いてきたが、このどさくさの間に陳円円は李自成に奪われてしまったのである。それで、反乱軍の李自成と明軍の呉三桂の戦いとなったが、陳円円を取られた怨みは深い。李自成に恨みを晴らすためには手段を選ばず、長城の山海関を開いて清軍を引き入れ、清軍はこれに乗じて北京を占領したのだった。
史上の人物が人間臭くて面白い。呉三桂はその後は清朝の高官となって引き立てられたが、今の中国から見ると敵に内通した売国奴ということになり評判は良くない。それなら明国の評判が相対的に高いかというと、圧政だったということでこれも高い評価ではないようである。
故宮を西の一画に廻ると文溯閣があった。1783年(乾隆48年)に建てられた四庫全書を収めるための建物である。康煕帝が編纂させた四庫全書は8万冊近い書物で、全国に七カ所設置したという。胡丹くんが説明を読んで、北京の円明園にある四庫全書は1860年の英仏連合軍の攻撃で灰と化し、南の三つの都市の四庫全書も戦乱でなくなり、北京の四庫全書は他の宝物と一緒に蒋介石が台湾に持って行ってしまったので、今は中国に二カ所しか残っていませんと言う。瀋陽の分は無事に残っていて、今は甘粛という地で保存されているとのことだ。
「台湾にあるなら、それも数えて三カ所に残っていると言わなきゃおかしいのでは?」と早速疑問をぶつける。「だって中国は台湾も中国の一部だと言っているじゃない?」しかし胡丹くんはにやにやしている。きっと、そこには二カ所しか残っていないと書いてあるのだろう。
時計を見ると1時になっていて、昼食の時間である。このあたりのレストランで、しかも二人が熱烈に希望している餃子を食べさせる店というと、故宮の面している瀋陽路の一つ北側にある通りの中街にある老辺餃子館がよい。
繁華街の中街まで歩いていくと、ウイークデイの昼間なのに結構人出が多い。小川さんがどうしてなのかと訊いてきた。「恐らく、中国では人が多いので、必要以上の人を雇い、仕事を少なくしているので結構暇な人が多いのではないか」と回りくどい推測を話すと、「あ、ワークシェアリングですね。」という簡潔な返事が返ってきた。なるほど、中国は時代の先を行っているんだ。趣味の世界に生きる小川さんにとっては理想の形態かも知れない。
老辺餃子館は昼食時を過ぎているのに未だ沢山のお客で一杯だった。奥の方に案内されて、メニューを見て焼き餃子を一つ、蒸し餃子を3種類注文した。焼き餃子は三鮮(エビ、卵、ニラ)しかないが、蒸し餃子は20種類位の餡が選べる。このほかにスープとおかず2種類。大貫さんは至って元気で、小川さんは遠慮すると言っているのに、昼間からビールを飲みながら餃子を平らげていく。二人とも刻んだニンニクと唐辛子を酢に入れた「たれ」を付けて食べる方式が気に入ったみたいだ。餃子4皿がみるみるなくなって、胡丹くんが小声で「食べ物が全部なくなったら、お客さんにとって食べるものが足りないと言うことですよ。もっと注文しましょうよ。」と囁く。さらに餃子を1皿増やし た。
どれも3両(150グラム)ずつで頼んだから、150x5で合計750グラムである。一人平均175グラムとなる。餃子の重さは粉の目方だから、スパゲッティでは一人平均100グラムを茹でることを思えば、この昼に私たちが餃子をいかに沢山食べたことか、お分かりだろう。
お茶は八宝茶で、八宝茶にはいろいろの内容がある。蓋をずらしてみた感じでは、菊花、不明の花、薬用人参、桂元(竜眼)、クコ、乾燥棗、氷砂糖などが入っているようだ。これに湯を注ぐ係りは70センチ位の細長い口を持ったやかんから、茶碗めがけて少し離れたところから湯を注ぐ。今日のウエイトレスは10センチ位しか離れられないので未だ新米かも知れない。前に来たときは50センチ位離れたところから湯を注いでいた。大した技術である。
満腹して店をでたのが3時。この老辺餃子館を出たところが中街の通りである。ここを歩いてみたいと二人が言うので、歩行者天国仕立ての中街を歩いた。両側にアパレル、CD、靴、ファッション、デパート様々な店が並んでいる。一昔前の日本の繁華街のように、大きな音で音楽をならしている店があちこちにある。「手を繋いでいる二人の姿が日本より多いですね。」と大貫さん。小川さんは「女性は背が高くて、しかも姿勢も、スタイルも良い人が圧倒的に多いですね。」と、私が瀋陽に来て驚いたことに同じように感じ入っている。
ケンタッキーの先に見慣れた飾りの吉野家を見付けて、「牛丼を腹一杯食べてきたと言って日本に帰って自慢しようか。」なんて二人で言い合っている。吉野家の店のガラスには大きくポスターが貼ってあって、「100%香港企業」「中国人 中国心」と書いてあった。これは、反日デモが起きて襲撃されるのを避けるための用心だろう。何しろ大きな一枚ガラスで、壊し甲斐がありそうだから経営主は心配で、「転ばぬ先の杖」とばかりに張り出したに違いない。
中街には薬屋も多い。二人とも薬に多少の関係があるので気になって覗いてみると、カウンターの中にはその許容できるスペース以上の数の白衣を着た女性が入っていて、やってくるお客の相手をしようと待ちかまえていた。「やせ薬が欲しいと言って入ろうかな?」と恰幅の良い小川さんはつぶやいて中に入った。たちまち何十という眼が集中し、売り子さんの言葉が店内にどよめく。それを振り切って奥まで入ったところで「二日酔いの薬を買おうかな?」と小川さんが言ったのを胡丹くんが中国語にした途端に、近くの白衣の女性が左を向いて声を出し、それがドミノ倒しみたいに次々と伝わっていって、入り口近いところの売り子さんが何か叫んでこちらを見た。そこに二日酔いの薬があったらしい。
無事に二日酔いの薬を買い、外に出てから水を買って薬を飲みながら、小川さんは、「それにして凄いですね。どうしてあんなに売り子が大勢いるんでしょう。あれは、みな薬剤師なんでしょうかね。」と言っている。あんなに薬科大学出身がいるとは思えないけれど、私には答えられない。
中街が正陽街にぶつかったところで南に向かい、少し歩いて張学良帥府に行った。張学良は日本軍によって1928年爆殺された中国東北地方の軍閥の張作霖の息子で、ここは親子二代の軍閥政権の中心となった建物である。大きな門を入ると典型的な四合院造りに出合う。中庭を囲んで四方に建物があるので、なるほどと納得できる。奥に行くと1920年頃建てられた瀟洒な洋館があり、張作霖の家族の写真、生活が展示されていた。張作霖には数人の妻がいた。「妻同士が寄り集まって話をしてはいけない。」 「それぞれの母子は毎月決まった給金の範囲で生活すること。」などの家訓が張ってあった。なるほど、同じところに住んでいても分割統治なのだ。彼らに共同戦線を張られたら何かと困るに違いないと想像して笑ってしまった。
1931年瀋陽の柳条湖という場所で鉄道を爆破した日本軍は、いわゆる満州事変を起こして満州占領を目指した。この事変で張学良はこの地を追われたが、1936年、抗日よりも先ず打倒共産党を掲げる国民党の蒋介石を西安で監禁して、強制的に共産党の周恩来、葉剣英などと会合を持たせた。この結果第二次国共合作ができて、統一抗日戦線が実現できた。張学良は事変のあと蒋介石の手で54年間も台湾で軟禁されて、その後の歴史の表面には出てこなかった。しかも、彼は親のかたきとして日本を敵視していたので日本とは疎遠であり、日本人にとってはなじみが薄い。ただし、中国では中国の統一を実現し発展を押し進めた英雄として高い評価を得ているという。
小川さんと大貫さんが私たちの研究室の研究内容を聴きたいというので、そのあと一緒に大学に戻った。大学の近くの果物屋の店先でイチゴを山盛りにして、ちりとりでイチゴを掬って売るところを見せて、そのイチゴを3kg買ってきた。ちりとりでイチゴを計りとって売る豪快さに二人は言葉も出ない。おまけにこんなにあって9元(約120円)という安さに二度びっくりという顔つきである。
大学に着いて、イチゴを食べてたっぷりと水分を補給して生き返ったところで、研究室の人たちに、informal talk on his/her projectを して貰った。先ず、大学院博士課程の陳さんが説明を始めた。私たちの研究室は、腫瘍細胞の転移のメカニズムの研究に集約している。転移する細胞と転移しない細胞の組み合わせを持っているので、その違いを調べている。ガングリオシドと呼ばれる細胞膜の成分の一つが細胞にあるかないかで転移する能力が左右されることを、私たちは今までに明らかにしてきた。
陳さんはガングリオシドの有無で細胞内のシグナル伝達系がどのように違うかを、シグナル伝達の阻害剤を用いて調べている。最近ではガングリオシド合成を阻害したときの違いを調べて、面白い結果を出している。胡丹くんは界面活性剤に対する溶解性で見ると細胞表面は決して均一のものではないことが今では知られているので、転移性の細胞と非転移性の細胞とでこれがどう違うかを、二次元電気泳動法で調べている。王麗さんはこの二つの細胞ではガングリオシドの組成が違うことがある分子の発現を左右していることを明らかにしている。
今ここにいる卒業研究の学生は、一人が薬学院日語班、一人が薬学院英語班、一人は中薬院の所属である。それぞれ、外国語は日語と英語、英語、英語が使える。卒業実験の学生もここに来てまだ2ヶ月半だというのに、それぞれ堂々と英語で自分のやっていることを説明している。聞き手の小川さんはまだ二日酔いから抜け出せずにいて、話に頷いているだけだけれど、大貫さんは鋭い質問を発している。それにも学生はしっかりと受け答えをしている。大変頼もしい。彼らの全く照れずに話す度胸は日本人の学生よりも上である。
そんなこんなで夜8時近くなり、昼の餃子で満腹したお腹も少し減ってきたところで、私たちは大学の外の春餅店に出かけた。陳さんも食事がまだだと言うことで彼女も誘った。春餅は東北地方の食べ物で,薄く延ばした小麦粉で出来た直径20センチ位の衣におかずを包んで食べる。挽肉の入った卵焼き、香菜と細切り肉炒め、薄切りジャガイモとピーマン炒めなどが春餅には良く合う。おかずはいろいろ取り混ぜて乗せられるので様々な味が楽しめる。これに唐辛子を入れるとまた刺激的で美味しい。私たちは昼の餃子の食べ疲れで食欲旺盛とはいかなかったが、それでも6人で雪花ビールを飲みながらおかず5皿と春餅合計80枚を平らげた。
三日目の木曜日は大学を7時半に出て胡丹くんとタクシーに乗った。「假日(ジャーリー)酒店にやって」とタクシーの運転手に言うのはこれで3回目だが、今回も通じない。3回繰り返し試みたところで、隣でにやにやしている胡丹くんにバトンタッチした。假日の假は暑假(夏休み)にも使う字で、假日は休日という意味である。假日酒店はHoliday Innのことである。中国語の発音は依然として難しい。
朝ホテルで会った二人は至極元気で、小川さんもつやつやした顔色を取り戻していた。やはり昨日の彼は二日酔いだったらしい。今日は目一杯飲むぞという顔付きである。朝早く出かけたのは、観光バスが市政府広場から出ていて、バスの出るのが朝7〜9時という情報を手に入れたので、先ずそこに行ってみれば何か具合の良い観光バスがあるかも知れないということになったからである。
その場所に着いてみると、市外に出て北朝鮮との国境近くに行くバスとか、植物園に行くバスはあったけれど、福陵(東陵)に行くバスはなかったし、市内の観光バスもなかった。それで4人でタクシーに乗って福陵を目指した。5階から7階建ての住民の灰色のアパートが延々と建ち並ぶ市街をぬけて、やっと少し草木の茂る丘が見えるようになったところで、もう福陵だった。25分位で着いただろうか。28元で、思ったよりも安い。
福陵は東陵とも呼ばれていて、清朝創始者であるヌルハチとその正妻エホナラが葬られている。ヌルハチは満族を統合してこの東北地方満州に人口100万 人の満族の国を打ち立てた。ヌルハチはこの後金王朝の初代皇帝で、のちに清と改名したので清朝の太祖となっている。瀋陽の中心地に、今は故宮と呼ばれている立派な構えの王宮を造営したことでも分かるように、すでにこの、北京から見れば化外の地から、遙か西南の関内を望んでいたことは間違いない。この墓陵は子どものホンタイジの時代になって造営された(ホンタイジの天聡3年(1629)に着工、清の順治8年(1651)に完成した)そうで、ホンタイジの墓陵である北陵よりも規模は小さいものの、構えはほぼ同じで、美しさは故宮と相通じるものがある。
門の前には石畳みがひろがり、周りには20メートル位はありそうな大きな槐(アカシア)が数本白い花を付けていた。このアカシアが見えると私の鼻がむずがゆくなり、盛大なくしゃみと鼻水が出てくる。日本で悩まされた花粉症とは昨年春から縁が切れたと喜んでいたが、東京ではなじみのなかったアカシアによって昨年感作されたと見えて、花粉症の再発である。今年の春はつらさのあまり薬のお世話になっている。
門を入ると広い参道が私たちを北に導き、両側はうっそうとした林である。胸に鑑札を下げた小柄な若い女性がやって来て私たちに何か一生懸命言っている。胡丹くんによると彼女はガイドで、ここはガイドを雇うと話がよくわかりますよと言う。胡丹くんは気の優しい青年で、人の勧めをなかなか断れない。50元で雇った彼女は「こんにちは」と最初に言ってくれたが、あとは中国語だった。胡丹くんを介してガイドの説明を聞くので、時間が掛かる。この参道を半分も歩かないうちに、彼女と一緒に雇われた別のガイドがもう戻ってきた位で、彼女は私たちに並の三倍以上の時間が掛かった。私たちは彼女の稼ぎをだいぶ損なって しまった。
ヌルハチの死後二年間墓所が決まらなかったのは、場所選びに時間が掛かったからだった。最終的には風水の診断で、南に渾河が流れていて丘のあるこの瀋陽の東北に当たる景勝の地が選ばれたのだという。この参道を歩いていくと両側に駱駝、馬、獅子などの石像が並んでいる。これらはその後の清朝の歴代皇帝がこのヌルハチの墓に北京から拝礼にくる度に整備されたものということだった。道を囲む背の高い木々は清代約300年の間に植えられたものだという。大きな太い松が真っ直ぐ伸びているのが見事である。
やがて石造りの登りになった。しかし石段ではなく、かろうじて足が引っかかる石の滑り止めで出来ている。ガイドさんが言うには、「ここはヌルハチの霊を尊敬するために頭を下げる場所です。」言われてみると、この坂を登るためには誰もが前屈みの姿勢を執らざるを得ないように出来ている。この先に引き続き108段の石段がある。可愛いガイドさんがさあ数えましょうというので、一緒に並んで声に出しながら、初めて中国語で108まで数を数えてしまった。
この石畳の真ん中は盛り上がっていて左右とは別の石が敷いてある。「この真ん中は神様の通る道です。右は皇帝の道、左は大臣の道です。」とガイドさん。「そんなことを言ったら私たちの通る道はないじゃない?」
「そうです。普通の人々の道はありません。」半分冗談だろうと思って聞いていたけれど、あとで本を調べると、清朝の時代にはこの東陵は聖域として一般に開放されていなかったそうだから、一般の人が通る道はないというのは実は本当かも知れない。
この参道の坂の左右には小さな山があり、左は青龍、右は白虎と呼び、このような造りは大変めでたいのだそうだ。この参道は橋になっていて、山のあいだの谷から持ち上がっている。もし、二つの山の間の道が谷間だとその家族から泥棒が出ると言う説明だ。そうかもしれないが、自分の家の墓に行くのに左右に山を持つような豪気な家ではないから、気にすることもあるまい。
階段を上った先にある正面の建物は、故宮の大政殿に擬することが出来る。大政殿の先に並び立つ十王亭と同じ配置で、松が植えられたとのことだ。今はその1本の巨木だけが右手に残っている。400年近くを経た松の古木である。この建物の先には三階建ての楼閣があり、隆恩門と呼ばれていて、高い城壁で囲まれた区画(方城)への入り口となっている。故宮で言うと奥の院に登るところにある鳳凰楼に相当し、実際これが出来たときはこの地で最高の眺望を得られたという。城壁の上を歩くと、木の間越しに遙か瀋陽の街を望むことが出来た。
この隆恩門をくぐると城壁の中を通るのでトンネルみたいな通路となる。その真ん中に厚い扉があるが、扉を閉め込むためのかんぬきの孔が門扉の外側に付いていた。普通の住宅なら、門扉の内側であるはずである。つまりここは奥津城なので死者の霊をここに閉じこめていることになる。
今日は快晴で皇帝の印の黄色の瓦を戴き青丹で塗られた建物はどれも美しく輝いている。青空によく映える。突き当たり正面の建物は皇帝と皇后の魂の宿るところのようだ。中を覗くと、こちらに向いて大きな黄色の布の椅子が二脚あってその前の台には供物が置かれていた。供物といっても生菓子や生花ではなく、石造りのそれである。したがってこの黄色の椅子は間違いなくヌルハチとエホナラのためだ。このあたりには大型のツバメが盛んに飛んでいる。私たちは勝手に岩ツバメと名付けたが、この堂宇の中も相当の速さで飛び回っている。中に巣があるのだろう。
この建物の石造りの土台の角には雨水をはき出すための口を開いた龍の頭があった。ガイドさんが言うには、「この龍の口の中に手を入れると幸せが来ます。同じように水道の蛇口に手をかざすと幸せになります。」ということだった。手を洗うたびに幸せが来るというのは簡単でよい。衛生観念を植え付けるのにもってこいである。ちなみに、水道の栓を日本では蛇口を言うが、中国では水龍頭と呼ぶそうだ。
この建物の裏に回ると、現世と冥界を隔てる門がある。その先の方城に造られたトンネルを潜っていくと、方城を出たところの北側の壁に大きな陶器タイルで牡丹が描かれていた。何気なく見過ごすところだったけれど、ガイドさんの説明によると、この牡丹は7つの大輪の花と2つの小さい花、そして2つの小さなつぼみ、合計11個の牡丹の花を付けている。
牡丹の活けてある花瓶はヌルハチで、これらの牡丹の花はそれぞれの皇帝に当たるという。康煕帝、乾隆帝を始め元気に治世を全うした皇帝が7人、西太后の旦那の咸豊帝のように長生きしなかった皇帝が二人、ラストエンペラー溥儀のようにつぼみのまま散った皇帝が二人で、これを造ったときに実は清朝の命運がすでに決まっていたのだという。なかなか面白い説明だ。ガイドさんはこれでやっと説明が終わって帰っていった。
ここは実際の墳墓の手前の地下に当たり、その壁は楕円形を描いて両側に張り出している。この壁は上から見ると三日月型で、人生をかたどっているそうだ。その形からこの宝城(墳墓)は月牙城とも呼ばれている。
方城の中の両側にある建物は儀式の時に使われた建物らしい。今は右手の建物の中には清朝12代の皇帝とその妃の蝋人形が飾ってあった。二代目のホンタイジまでは満服を着ていて、3代目の順治帝からは漢族の服装になっている。8代目の咸豊帝は30歳の若さで世を去っているので、若者の顔をしている。一方、その妃の西太后はその後47年に亘り「垂廉の政」を行った人だ。この蝋人形では老年の顔に造られていて、若い夫の咸豊帝との釣り合いが悪く、一寸気の毒である。
西太后は今まで良く言われたことがなく、清を滅亡させた我が儘な化け物的お婆さん位にしか思っていなかったが、最近の浅田次郎の「蒼穹の昴」を読んで大分見直した。一人の人物像を全く違う観点から生き生きと描ききることが出来るとは、浅田次郎は大した小説家である。
左手の建物には歴代皇帝の陵の解説があった。ヌルハチ以前の4代の先祖の墳墓は永陵といって撫順の近くにあるらしい。二代目のホンタイジの墓が昭陵(北陵)で瀋陽市内の北にある。永陵、福陵、昭陵の3陵が清朝にとっては関外の陵で、あとの皇帝の陵は北京の近くにあることを知った。写真を見るとどれも広大な陵である。そして12代皇帝の最後として溥儀の墓の写真もあった。ただし溥儀その人の写真はひどいもので、わざわざひどいものを選んだとしか思えない。溥儀の墓は他の皇帝の陵とは比べものにはならないもので、墓石しかないが、それでも墓誌と庶民にしてはましな墓石の写真があった。ただし他の陵と違って、墓の場所が書いてなかったので、これが実在するものであるかどうかは分からない。
福陵を見終わったのが11時 半だったのでタクシーに乗って九一八博物館に行った。瀋陽市の中心からは北になる柳条湖で発生した満州事変(中国では九一八事変と呼んでいる)を記念して、その後日本軍が建てた炸弾碑が日中戦争の終わりまでここにあった。その場所に中国が「この屈辱の9月18日を忘れるなかれ」と建てた巨大な博物館である。広場の隅には日本の建てた炸弾碑が横倒しになっている。
1931年9月18日の夜、この地に満鉄附属地として権益を持っていた日本の関東軍が自ら南満州鉄道線路を爆破した。関東軍はそれを中国の東北軍の仕業として、東北軍の兵営である北大営を攻撃し、同時に中国東北地方の全域で軍事行動を開始した。満州事変の始まりである。
事変60年後の1991年に江沢民の指導下でこの事変博物館が開館し、その後現在の広々とした新館が建てられた。快晴の空の下から博物館にはいると館内の照明は暗く、第一室の青色の暗い照明に浮かぶ4カ国語の挨拶文を見ているうちに厳粛な気分になってくる。この事変以降だけでも15年間中国を蹂躙した日本を告発する内容を収めた建物なのだ。写真、当時の資料の写真、模型、人形様々なものを使って歴史を再現しようとしている。
初め大貫さんは「日本軍のそんな残虐行為の歴史は見たくない。」と言って、小川さんに「やはり日本人として、それは真正面から受け止めなくてはならないことだ」と言われていた。その意味が段々分かってきたようで、大貫さんが結局一番時間を掛けて熱心に展示を見ていた。
4月に中国各地で反日デモがあった。デモは中国の国益に反するという中国政府の発言で終息したが、それを挑発するような発言や行動が日本の政府筋で今も続いている。両方の歴史認識の乖離はまだ埋まっていないから、このきしみはまた大きな反発に繋がる可能性がある。日本と中国の摩擦は双方の国と国民の利益にならない。他の国を喜ばせるだけである。日本側の態度にまず問題があると思う。双方の政府間の冷静な話し合いを是非続けて欲しいと思う。
博物館を出たのが1時半だったので、ここは中街が遠くないことを思い出して5月初めに加藤先生夫妻と一緒に行ったイスラム教徒の焼売の店である馬焼麦に誘った。「1796年創業なのだそうですよ。」とありがたみも付け加えておいた。
もう2時なので店内は空いていて1階に案内された。焼売6種類を100〜150グラムずつ、合計800グ ラムとおかず3品を頼んだ。小川さんも今日は元気になっていてビールを飲むという。毎回違うのが飲みたいと言うので、私を除く3人のために今日はハルビンビールを注文した。ここの焼麦は日本の崎陽軒の焼売とはだいぶ違うが、大貫さんは「そういっちゃ何ですが、昨日の餃子も美味しかったけれど、今日の焼売は断然美味しいですね。こっちの方が私の好みです。」といってビールをゴクッ、焼売をパクッ。スパゲッティで言うと一人平均100グラムのところを二倍の200グラムを食べたことになる。昨日よりも多い分は大貫さんが大方食べたのである。
この後、市政府広場に最近移転した遼寧省博物館に行き、特別展示の斎白石の絵画をたっぷりと眺めて楽しんだ。ここは上海の博物館を思い出させる瀟洒な建物である。そのあと、大貫さんが「何とかと煙は高いところに登りたがる、っていうでしょ。」というから、「そうそう、こっちもその何とかのたぐいでね。」と言って、テレビ塔を目指した。瀋陽市の中心にそびえるテレビ塔には縦に、何処から見ても読めるよう大きく、雪花ビールと書いてある。だから誰でも、ここに雪花ビールがあると思って しまう。
このテレビ塔は飛行場からも見えるし、瀋陽の良い目印となっている。中のエレベーターは展望台まで一気に196メートルを昇る。エレベーター嬢は私たちしか乗っていないのに、昇っているあいだ早口で何か一生懸命解説をしていた。全く分からなくて申し訳なかった。この塔の唯一の不満は、この塔のレストランで雪花の生ビールが飲めるようになっていないことだろう。置いてさえあれば、きっと誰もが飲むに違いないのに、テレビ塔も雪花ビールも商売が下手である。
地上196メートルの展望台からは瀋陽の市のはずれまで楽に見渡せた。といっても、この瀋陽のあたりはいつも空気が汚れている。今日は晴天だが、それでも遠くは霞の中である。薬科大学、うちのアパート、カルフールが直ぐ南の足下に見える。「そうか。お土産に駄菓子を買うなら、カルフールに行けば教えてあげられる」というわけで、「このあと、あそこまで行きましょ。その後直ぐ近くには地ビールを飲ませる新洪記もあるし。」と誘った。
小川さんは「瀋陽日本人教師の会」のホームページに私たちの書いているレストラン案内をプリントアウトして持って来ているので、「新洪記というレストランで地ビールを飲ませる」ことはちゃんと知っているのである。
展望台から見たカルフールは近かったけれど、地上に降り立つと工事をしていてあちこちが掘り返されているし、ほこりっぽく歩きにくかった。来年園芸博覧会を瀋陽市で開くことになっていて、そのために瀋陽市は植林の真っ最中だと聞いたことがある。この目抜き通りの車道の端を掘り返している。そこに木を植える場所を造っている。歩道も全部作り直しである。うちの近くでも、何でこんなところにと思うようなところまで60センチおきくらいに穴を掘ったかと思うと、柳、ライラック、桃の木がいつの間にか植えられていた。
これだけ大量の木を用意するのも大変だろう。「そうだ、毎年どこかで園芸博覧会をするなら、その街に前の街で植えた木を抜いて持っていけばいいじゃない?簡単、簡単、万事めでたく解決!」なんて私たちは悪い冗談を言い合いながら、足許の溝に足を取られないよう用心して歩いた。
カルフールは日本では撤退することになったそうだが、うちの近くの店は瀋陽で三番目の店で、つい最近中国進出10周年記念売り出しをやっていたから、中国では定着したらしい。今日はウイークデイの夕方だけれど結構混んでいる。早速私たちお気に入りの駄菓子のコーナーに案内して、袋菓子を能書きとともに勧めた。日本の研究室へのお土産にお菓子を買おうと思っても、瀋陽空港で売っているものはお茶とチョコレートだけだ。チョコレートは一寸いただけないし、買うとなるとこういう袋菓子がおすすめである。家庭向きなら鍋に入れる湯葉もよいし、拉皮もよい。
大貫さんは日本にあのうまい白酒(バイジュー)を買って帰るという。白酒は中国で中華料理を食べながら飲むと最高に美味しいけれど、日本に持っていくとただの臭い酒というのが私の経験である。しかしそんなことを言っても、大貫さんは人の話を聞く人ではない。
中国の空港はチェックインで預けるスーツケースに入れてあればよいが、アルコールの機内持ち込みは厳禁である。今買って荷物に入れるのがよい。しかも空港で売っている酒は高い。この売り場で飲んで試すわけでもないのに、大貫さんはあれでもないこれでもないと迷っている。彼の持っている案内書に「貴州のマオタイ酒、山西省のフェン酒、台湾の紹興酒」などと書いてあるので、その通りでないといけないのかもしれない。研究室で飲んだのが美味しかったというので、それを1本、それと高価なマオタイ酒を1本買っていた。
中国では白酒をシェリー酒用のグラスのもっと小型のグラスに注いで飲むけれど、大貫さんはきっと持って帰った白酒をコップになみなみと入れて、自分がここでやったように、「これをぐいっと飲むんですよ」と言って人に勧めるのだろうなあ。
二人とも買い物を入れたビニール袋を二つ三つ持って大通りを渡った。目指すは向かい側にある新洪記である。このあたりの綺麗で美味しく、そして値段が手頃のお勧めレストランである。おまけに二種類の地ビールもある。1階で料理の見本を見て注文する物を選ぶのだが、ついでに果物ジュースも美味しいそうなのを見付けた。
3階に戻って大きなデカンターに入った二種類のビールに、もう一つ絞りたてのハミグア(メロン)ジュースも頼んで、「お疲れさま、乾杯!」と言うことになった。ビールを飲む連中を相手に何時もお茶を飲んでいる私としては、メロンジュースが美味しい。立て続けに飲んでしまう。すると胡丹くんはウエイターが持ってきた注文票をしらべて、「ムムム、ビールのデカンターが一つ18元。二つで36元なのに、このメロンジュースは小振りの一杯で38元ですよ。先生。一人でこれを飲むなんて凄い贅沢ですね!」「私にも飲ませて下さい」と叫んでいる。
ここの料理は美味しいし見た目も綺麗である。小川さんも「旨い。この店はまた来てもいいですね。」と言っている。四川の水煮魚という、唐辛子を山ほど入れて黒魚(淡水の鯉のような魚)を油で煮る料理も、このピリ辛の味が気に入ったようだ。
料理を食べ終わる頃の9時 半に私のケータイが鳴った。研究室からの電話で顕微鏡のカメラに繋いだコンピューターが具合悪い。今細胞の写真を撮っている最中で、困り切っていると関さんが言う。私が行かないと分からないので失礼して大学に戻ることになった。明日は朝ゆっくりして昼前には大学に訪ねてくるという約束をして、二人をタクシーに乗せた。行き先のホテルの名前を運転手に告げたのは、もちろん私ではなく胡丹くんだった。
四日目の金曜日は11時までに大学にいらっしゃいという約束がしてあった。小川さんと大貫さんは朝は少しゆっくりして、そのあと薬科大学に来て大学の(学生)食堂で昼を食べてみたいと言うことだったからである。丁度よかった。私は午前中に、近くの三好街に行ってコンピューターの部品を買ってきた。
大学の昼の授業は12時に終わるので、それを過ぎると食堂へ人がまるで河みたいに流れ込み、溢れた水のように流れ出てくる。12時前でも、早めに終わる授業もあるし、講義に出ない院生もいるから、昼の食堂は11時には開いている。それで混む前の11時過ぎには食堂に行きましょうと言っていたのだ。
10時半頃に二人が到着したので、まず実験室を案内した。二部屋しかないし、狭いからあっという間に見学できる。日本の実験室に比べてあまりにも実験機器が少ないのに二人とも呆れ顔であった。これでも私費を投じて最善の環境になるよう尽くしているのである。
薬科大学の食堂は五階建てで、各フロアで別々の業者が食事を提供している。いろいろと好みがあるけれど5階が一番安心の食事を出している。ここはカフェテリア形式でおかずがざっと 40種類位大きなバットに入っていて、カウンタの中にいる係にこれといって指すと、こちらの盆に装ってくれる。見て気に入った物を選べばよい。ジャガイモの細切りだけが1元、青菜が入っていると1.5元、何らかの肉が使っていると2.5元なのだそうだ。
支払いは全部取ったあとカードで支払う。カードであらかじめ現金をデポジットしておくプリペイド形式である。昨年後半から衛生意識が高まって現金を扱わなくなったのである。
幸いまだ時間が早かったので8人がけのテーブルが一つ空いていて、私たちはここを占領した。私と貞子は今日は二人でおかず4品、饅頭一つを取って、半分ずつにした上で、小川さんと大貫さんに、彼らと重なっていないおかずを分けて上げた。彼ら同士でも分けているし、こちらにも廻ってきた。というわけで私たちはたちまち、この食堂の7品位のおかずを味わうことが出来たわけである。
食べた上での二人の印象は、日本の食堂に比べて選ぶことに出来る品数も多いし、味もよい。値段も考えると、実に感激的だと言うことである。これは1年半前に私たちがここに来たときの感想とピタリ同じである。私たちもここに来た当時は毎日昼を楽しみにして食べに来た。それが一月経ち、二月経ちして、そして、混雑にうんざりしてしまい、今は本当に必要に迫られない限りここには来ない。
瀋陽に来て初めてビールなしの昼ご飯のあと、二人は中街に行って何か土産物を捜したいと言うことだったので、胡丹くんと、そして今度は貞子が付き合って出掛けていった。今までの殆どの経費を私が持ったので、夜の食事は二人が私たち三人を招きたいという。
胡丹くんの話を聞くと、日本語の教師だった野呂先生が昨年6月瀋陽を去る前に胡丹くん達学生3人を招いて、日本総領事館近くの日本食レストラン「東京」に行って別れの食事をした。ウナギ、天ぷら、焼き鳥、すしなどを一人前ずつ取ってそれを皆で分けたので、ウナギは一口、天ぷらのエビは半分食べただけで大いに心残りがあるようだ。それで、夜はその日本食レストランでご馳走になることになった。
というわけで、二人に加えてこちらは胡丹くん、貞子、私がレストランの二階個室に案内された。4日間を一緒に過ごした胡丹くんには二人から謝金が渡された。胡丹くんは「そんなもの、当然のことをしたまでですから、要りません」と言っているけれど「いいから受け取りなさい」と私は口を出した。それで、胡丹くんは「彼女にこれでスカートを買って上げられる」と言って喜んでいる。さらに「今日、金製品を売る店にも行ったけれど、金の指輪はとても高い。いまに買えるように、また何度も来て下さいね」と二人に言っている。
「一緒に四日間を過ごして見ると、先生を入れて三人はとてもよく似ていますね。」と胡丹くんはビールの乾杯のあと言い出した。「えっ。どこが?」
「日本人らしくないところが似ているんですよ。」それぞれはっきりした主張を持っていて、簡単に人の都合に合わせて自分の行動を変えたりしないし、群れることで安心したりするタイプでもないことを指しているらしい。その通り。短期間でよく分かったものだ。私に言わせると、それ故にそれぞれ魅力的だけれど、調和を乱すので、社会的にはあまり偉くなれないわけだ。でもこれが、それぞれ自分で決めた自分の性格なのだから良いも悪いもない。そして三人それぞれ個性が強いのに、お互い仲良くやっていられるところが面白い。
明日は朝7時にホテルを発つというので、これでさようならである。こうして、小川さんと大貫さんの五日間瀋陽の旅の4日目が終わった。遠いところを私たちに会いによく来てくれたと思う。どうもありがとう。どうかお元気で。また何時でも訪ねてきて下さい。
付録
今回友人を瀋陽に迎えて案内するのに当たって、瀋陽に来て知り合った教師の会の先生がたにいろいろと情報をいただいて大いに助かった。生ビールが何処で飲めるかとか、音楽会情報はどうやって得たらよいか、さらにはどこそこのレストランが美味しいなどの貴重な情報だった。なかでも加藤先生は何か見に行ける催し物がないかとあちこち調べて、雑伎団があること、そしてその切符の手配までして下さった。
雑伎団の最初公告されていた予定公演日は火曜日だったが、実際には切符は売り出されていなかった。しかし公演行われることになって、それは木曜日にあることになったという。
それなら行けるというので切符をお願いしたら、いや、一日延びて金曜日になったということだった。最後の晩だけれど是非行きたいとお願いしたら、前の日になってそれが再三延期されて土曜日になった。二人は土曜日の朝瀋陽を発つのでこれでは無理である。予定がくるくる変わるのは中国式なのだと思うしかなかった。
あとで加藤先生に聞くと、丁度24日〜28日に「2005年瀋陽中日経済交流活動」週間が瀋陽市と日本総領事館との主催で開かれたので、雑伎団公演はこれを睨んで最も都合のよい日に変えられたのではないかとのことだった。偉い人の都合に合わせるために何ごとも間際まで決まらないのは、大学の会議でもうなじみになっている。
それにしても、間に入って加藤先生、いろいろありがとうございました。沢山の貴重な情報を下さった先生がた、どうもありがとうございました。おかげさまで、二人はもちろん、私までたっぷりと瀋陽を楽しむことができました。
鳴海先生から「チベット旅行記」が送られてきた。「鳴海マダムの<あなた知ってる?>」コーナーに載せた。送られてきたのが5月20日。そしてアップロードするまでに、2週間掛かってしまった。ひとえに山形の怠慢のためである。鳴海先生、そして楽しみにしておいでの皆様、どうかお許しください。
用事があって日本に二週間行っていた妻の貞子が、午後到着の全日空の便で戻ってきた。私は講義があったので空港まで迎えに行けなかったけれど、大学に着く時間を見計らって下に降りていって、建物の外まで出てみた。
今は日本なら梅雨の時期で、瀋陽には梅雨はないというけれど、今年の6月は殆ど毎日雨模様である。今日も曇っていて今にも降りそうだ。丁度午後の授業が始まる時間なので、学内の道路は教室に向かう学生たちで溢れている。殆どがTシャツ姿だ。と眺めているうちに、車がやってきた。学長の車をこういうときにも使っていて、車はAudiである。
貞子が元気に停まった車から降り立った。大学の運転手さんがトランクを開けてスーツケースを出してくれた。運転手さんと国際交流処の蔡さんに厚くお礼を言って、彼女のスーツケースとカバンを持ってエレベーターに乗った。
「ね。聞いて、聞いて。きっと食べたいだろうと思って、昨日街まで行って鰻と饂飩を買ってきたわ。でも一日あるから冷蔵庫に入れたのよ。今朝、冷蔵庫から出して(こちらに持ってくる研究用の)試薬はスーツケースに入れたけど、鰻と饂飩は、忘れてしまったわ。」と、エレベーターにほかに乗る人がなかったこともあって、貞子が喋り始めた。「多摩プラーザから空港行きバスに乗って、朝早かったでしょ、うつらうつらし始めた途端にはっと思ったけれど、もう遅いでしょ?ドジねぇ。アハハハ。」
「うーん。」こちらは苦笑するしかない。こんなこと聞かされなきゃ好かったのに、知ってしまうと、改めて想像上の鰻の香りが脳を刺激する。エレベーターの中でカバンを持つ手がゆるんで、カバンを取り落としそうになった。
「だから、しょうがないから成田で飛行機に乗るのを待っているときに探して、饂飩の代わりに生蕎麦を買ってきたわ。鰻もあったけれど高いし、美味しそうじゃなかったから止めたの。」「折角買いに行ったのに、あの鰻を忘れてきちゃって残念だったわねえ。うちに連絡して、○○(息子の名)に冷蔵庫を開けて早く食べるように言わなくっちゃね。きっと、あの子たち喜ぶわよ。」
私は鰻が大好きだ。鰻は本質的には美味しいものものではないと思っている。調理の仕方とたれで美味しく食べることの出来る贅沢な食材なのだ。それだけに美味しい鰻を食べさせる店は貴重だ。美味しいと聞けば三島にだってわざわざ車を飛ばして食べに出掛けたものだ。ということはどこそこの鰻屋は美味しいけれど、あの店には二度と行きたくないということになる。保存できる鰻の串は成城石井で一度買ったのが美味しかったので、妻はそこまで出掛けて買ったのだった。
食べ損なった鰻は、生蕎麦位では埋め合わせが付かない。私は蕎麦も大好きだけれど、蕎麦というものも大体が美味しいものではない。小麦粉を混ぜて、つなぎを工夫して何とか美味しく食べられるように工夫しているのだ。だから、そもそも美味しくない蕎麦に出会う確率は大変高い。
横浜港北ニュータウンのセンター北駅にある阪急には蕎麦粉100%というそば屋がある。信じられないことにこれが美味しい。どうしてこのようなことが可能なのだろう?打ち方にこつがあるらしい。という具合に今まで食べ歩いているうちに蕎麦を美味しく食べさせる店と、二度と足を運ばない店と、もうはっきりと選別してしまっている。まずい蕎麦を食べることほど情けないことはないので、私はこのようにして選んできた店以外のところで蕎麦を食べることには大変臆病である。この状況は鰻屋と全く同じである。
でも、今は嬉しい例外が出来た。薬科大学で日本語を教える先生のひとりに峰村先生という方がいる。昨年の暮れ、蕎麦の美味しいのがあるから食べにいらっしゃいと誘われた。峰村先生は単身赴任だけれど、こまめに自分で料理をすると言うことだし、なによりも長野県出身なのだ。信州といえば蕎麦処。信州人が旨い蕎麦といえば美味しいに決まっている。
呼ばれた私たちを部屋に残したまま、峰村先生は台所に閉じこもってひたすら茹でて作った蕎麦を「さあ、出来たから、乾かないうちに食べて」と言いながら机に運んできた。「今、表面が光っているでしょ。置いておくと、この表面の水分を吸って不味くなっちゃうんですよ。」ということだ。「さ、待たずに食べて。」そして次の分を茹でに峰村先生はまた台所に引き返し、私たちは「申し訳ない」と言いつつも、競争でこの美味しい蕎麦に舌鼓を打ったのだった。
今は、南方航空の成田—瀋陽線に乗ると、どこから乗っても蕎麦が出る。しかし一度食べてみて懲りてしまった。最近乗った全日空のはまだましである。峰村先生の蕎麦談義を聞けば、最高の蕎麦でも作りたてが最高で、後はどんどん味が落ちていくというのに、適当に作って茹でて洗って冷やして何時間も経った蕎麦が美味しいはずがない。
きっと成田空港の蕎麦の土産も期待はずれだろうなあ、と思いつつ部屋に着くと、研究室の学生たちが集まってきて、彼女は暖かく歓迎された。どう見ても母親を待ってじっと耐えていた小さな子どもたちが、やっと戻ってきた母親にまつわりつく感じだ。
瀋陽で研究室を持って以来、私たちは研究室の学生一人一人と毎週必ず一回は直接会うことになっている。研究の進み具合を詳しく聞いて、問題点を一緒に考え、次の1週間の方針を立てる。いつもは貞子と二人でやっていたのを、この二週間は一人だったので、私の負担も二倍になったけれど、学生にしてみると物足りない感じだったに違いない。
むかし、子どもたちが小さい頃、妻が一人で出掛けたあとうちで子どもたちを相手に留守番をしたことがある。夕方近くなり、それまでは聞き分け好くしていた子どもたちが、「ママは、まだ?」と言い始め、やがてとうとう、「ママがいい。ママー、ママー。」と泣き出して、こちらこそ泣きたい気持になったことがある。貞子にこうやって寄り添ってくる学生たちを見ていると昔を思い出してしまう。
ともかく、旅の疲れが残っている貞子と早めにアパートに帰って、毎度のことながら私が夕食の用意をした。といっても、妻がいない間炊事がいい加減になっていて食材がほとんどない。ということで早速,蕎麦の登場となった。「沢山のお湯の中で5-6分茹でて下さい」と書いてある。麺を茹でたりするのに気に入っているのが中華鍋で、これは上に向けて面積が広くなっているので煮こぼれることがない。ぐらぐらと煮え立つ熱湯で4分半茹でて、「さあ蕎麦ですよ。」と食べた。
折角成田で買ってきてくれた妻には悪いけれど、飛行機で出される蕎麦にも及ばない。「こんなまずい蕎麦よりも、わたしゃあなたの傍がよい。」という古い都々逸もどきを思い出して我慢しようか。それにしても、あーあ、日本のうちの冷蔵庫に残っている鰻が残念・・・。
私たちの研究室で修士2年に在学している麦都さんを可愛がって育てた新疆のお祖母さんはガンを患っていて、今年の3月に亡くなってしまった。今年初めの春節休暇に麦都さんは故郷に帰って彼女と最後の別れをしてきたのだった。麦都さんは子どもの頃、お祖父さんとお祖母さんに育てられたので、年配には優しい心を持っている。
私はここに来以来、自分で実験をしていないから、殆どMacintoshの前に座っている。Mailを読んだり返事を書いたり、論文を読んだり書いたり、データベースにアクセスしてタンパク質の立体構造を調べたり、PCRをするときの最適なprimer構造を調べたり、siRNAのターゲット配列を調べたり、やることは山のようにある。講義の用意もある。そして、自分のホームページに載せるエッセイも時には書いている。昼間は私的なことで時間を使わないようにしているが、興に乗るとそうもいかない。
麦都さんは故郷を離れて暮らしている間は、故郷の大事なお祖父さんの代わりに私の面倒を見ると決めたらしく、昨年夏からは、食事のあと「運動、運動。運動していらっしゃい。」といって私を椅子から追い立てる。言葉はやや乱暴だけれど、意のあるところは伝わるし、私自身運動不足で大腿筋が落ちてきたことを気にしているので、彼女の意のままに外に出て歩いている。
Yahooニュースを読むと食後直ぐに運動をすると、1万人に一人の割合でアレルギー症状を起こして生命の危険があるという。幸い私はその体質ではなかったらしい。薬科大学の夏期期間の昼休みは2時間ある。10月の国慶節から5月の労働節までの冬期は1時間半になる。それで、私が運動をする時間はたっぷりある。この昼休みは多くの学生は宿舎に戻って昼寝をする。そして先生達は自宅で昼寝をする。ここに来て昼休みに誰かを捜してはいけないことは、来て早々に学んだことの一つだ。
大学のグランドの外周に沿って歩くと600メートルあり、これを5分位で歩くことにして大体20分歩くことを続けてきた。距離にして2kmちょっとくらいが目安である。といっても毎日は歩かない。このグランドは土なので雨が降らないとたちまちもうもうたる埃が立つ。とてもそんなときは歩けない。そして10月まではよかったけれどそのあとは寒くて歩けない。それで、冬の間は、私たちのいる建物が9階建てなので階段の上り下りがこれに取って代わっていた。
大学の中を歩いていると、あちこちの学生から「先生」と声を掛けられて、そのたびにニコニコと挨拶を交わしている。大学の中の数千人の学生のうちの講義に出ている百人位しか知らないはずだけれど、それでも結構知った顔に会ってしまう。時には、見慣れない男の子と手を繋いでいたりして、向こうもばつの悪い様子が見て取れることもある。それで、春になってからは、大学の中を歩くのは朝大学に着いたときだけにして、昼間は外を歩くことにした。
瀋陽の街はだいたい大通りが東西南北に走り、大通りで碁盤の目のように区切られていて、一辺は大体800メートルから1km位である。アメリカでも半マイル(800メートル)が1ブロックだから、同じような感じになる。このブロック一周は計算上3.5〜4kmなので歩くと大体35分位掛かる。一回りに丁度手頃である。
歩道は結構広いけれど、あちこちに好き勝手にいろんな店が広げられている。ござを広げて店にしているので、「店を広げる」という言葉がぴったり来る。並木の一つには車輪の絵が書いてぶら下がっている。自転車修理だ。自転車に乗る人はひと頃よりは大分減ったとは言え、瀋陽は平地だから自転車は都合のよい乗り物である。パンク修理、チェーンの不具合の修理、その他を掲げて歩道をどっかと占領している。この歩道は人のほか、このござを避けながら自転車も通るけれど、店主はそんなことは全く気にしていない。先住者の権利みたいな顔をしている。
大学の塀を通り過ぎるとその一画の建物には小さな工事の店がならんでいる。その中の窓枠作成の工事店は、店の外に電動カッターを持ち出して枠をカットし、電動ヤスリで磨き、歩道の真ん中で窓枠を組み立て、歩道の車道寄りを完成品置き場にしている。歩道を自分の店の工事のために自由に使い、歩く人がそれを避けて通っていても全く気にしていない。作成中の窓枠にぶつかったら、きっとこちらが怒られるのだろう。
その先では歩道の端で車道に向けて小さな箱を置いて牛乳やヨーグルトを置いている。歩道を挟んで小さな牛乳屋があるから、出張販売という格好だ。これなら大して迷惑ではない。と思って歩いていると、店先からドバッと水が撒かれた。この水は、日本みたいに埃を鎮めるための、水まきでは違って、店の中で使った不要な水を捨てるためであることが殆どである。自分の店の中以外は外であり、外はゴミを捨てるところなのだ。だから、気を付けていないと、店の内部からゴミが飛んでくる。もちろん全部が全部、このようにしているわけではないだろう。でも、ゴミを外に捨てない清潔な店、汚水を外に捨てないきちんとした店は、こちらの目に触れることはないから、悪い例だけが目に入ることになる。
店から小さな女の子が出てきた。あれれ、と思っている間に店先の歩道にしゃがんでおしっこを始めた。中国の幼児は尻の割れたパンツとズボンを穿いていて、何時でも簡単に用を足せる仕組みになっている。お母さんが幼児を抱えて道にしゃがんで用足しをさせるのは日常茶飯事である。だから子どもにとって歩道にしゃがんでお尻を出すのは何の抵抗もないのだろう。しゃーっと、歩道に水が流れる。はい、それでお終い。女の子はすっと立ち上がって、パンツをたくし上げながら店に入っていった。大人は誰も出てこない。
瀋陽の気候は乾いているから、水は直ぐに乾いてしまう。ベルギーのブリュッセルの有名な小便小僧の近くに、小便少女の像がある。昔行ったときもちろん見てきた。その話を口にして研究室の女性にしらけた顔をされてしまい、一度で懲りたことを思い出しながら、新しい水をまたいで、歩き続けた。
瀋陽日本人教師の会代表の石井康男先生が遼寧大学から寧波に移動されることが急に決まって、石井先生の送別会が東北大学の多田先生の世話で東北大学国際交流処の中の豪華な一部屋で開かれた。今までこの会の中心だった石井先生の急な移転を知って、石井先生との別れを惜しんで、急な知らせにもかかわらず28名が集まった。在瀋陽日本総領事館から、森領事も3日前に瀋陽に到着された夫人を伴って参加してくださった。
寧波では日本語教育を盛んにし、そのひとつとして今年の12月に弁論大会を開くつもりでいいて、石井先生はその盛り上がりの中心として招かれたという。別れはつらいけれど、南の地に新しい発展の種がまかれ育っていくと思えば、喜びでもある。
石井康男先生、7年間瀋陽の地で日本語教育と、日本人教師の会のために全力を尽くしてくださって、ありがとうございました。どうか今後も、お元気でご活躍ください。
日本語クラブ20号をウエブに載せる作業に時間が掛かって、やっと、今日できました。皆様、長らくお待たせしてごめんなさい。
瀋陽の街は東西南北の大通りで区切られている。この一画を大きなブロックと呼ぶとすると、私は瀋陽薬科大学が含まれるブロックの周りを歩いていることになる。日課と言うのはちょっと無理で、三日に1回くらいだけど、麦都さんの愛の鞭に追われながら歩いている。このブロックは、さらに小さなブロックから成り立っている。そのブロックは大学だったり、アパート街だったり、病院だったりする。開口部となる門を大通りに面して持っていて、それ以外はまず例外なしに高い塀で囲まれている。
塀は頑丈な作りで十分に高い。塀は日本で見かける塀のどれよりも高く、人が乗り越えるのを諦めさせる位の高さを持っている。中国の塀は単なる心理的な障壁ではなく、人が中に進入するのを防ぐ物理的な障碍となる。いまの瀋陽の都市部ではまず一戸建てを見掛けることはないが、郊外に行くと農家は数棟が集まって立派な塀で囲まれている。自分の家族親族、あるいは仲間以外は寄せ付けない、外部からは守るという気持ちの表れのようだ。思うにこれが伝統的な中国の生活様式を反映している作りなのだろう。
小さなブロックどうしが接していても、互いに高い塀で仕切られていて決して繋がってはいない。向こうへは通り抜け出来ない。目の前に見えている住宅がもし別のブロックのものなら、表の大通りまでいったん出て行かないと、訪ねることは出来ない。大学の周りを歩きながら、時には中に入り込む冒険をして私はこのことを学んだ。大学の周りを一巡りするときに、通り抜けの近道はないのだ。
近道探しをあきらめて、また一巡りの歩道に戻って歩き続ける。歩道が店先として利用されていなくても、歩道の上は結構何かと問題があるので下を注意深く見て歩かなくてはならない。一番怖いのはマンホールの蓋がずれて開いていることだ。毎年日本からここに来て環境科学の講義をする西川先生は、実際蓋が開いていて穴に落っこったことがあるという。話に聞いただけだが、もしその場に居合わせたとすると、気の毒に思う一方、おかしくて笑ってしまうだろうし、さらにはその汚さに辟易しただろう。直ぐに洗い流すための水道栓を見付けるのも大変だろうし。
瀋陽は土地が平坦なので下水も勾配の少ないところを流れなくてはならない。それでよく下水が詰まるのだ。これはここで道にものを何でも平気で捨てるのを見ていると、下水にも下水管が詰まるかどうか気にしないで捨てるのではないかと想像してしまう。だからマンホールから汚水があふれ出すことになる。これが結構あるのだ。そして、直ぐには直らないから汚水にあふれた歩道をどうやって歩くかということになる。ともかく地面に注意を払わないと危険が一杯である。
そうかといって下だけ見て歩いているのも危険で、歩道を平然と車が走ってくる。瀋陽の車は人が避けるものと信じて走っているから、車より人が優先なんていう日本の感覚でいると命がいくつあっても足りない。
一つには歩道が駐車場所になっているからで、もし歩道との境界が柵で区切られていると、車は都合のよいところから入って歩道を走ってこなくてはならない。もう一つには大通りが片道3車線から5車線あるので、車道の反対方向の車線に入るためには、先ずこちらの3車線から5車線分を走ってくる車を縫って向こうに渡らなくてはならない。それが面倒とばかりに、次の交差点までは歩道を自分の行きたい方角に走ってしまうのである。
歩道は広い。もちろん場所によるけれど、大学のあるブロックを巡る歩道の幅は3メートルから6メートルある。広い歩道は、車道側は自転車道路、内側が人の歩道とわかるように色分けがしてあるけれど、すでに書いたように商店は歩道を自由に占拠して商売に使っているし、自動車も歩道に平気で入ってくるし、もちろん自転車は区分にはお構いなしに人の歩く隙間めがけて突っ込んでくる。これも要注意だ。
ついこの間は、向こうから中年の女性の乗った自転車が来た。まさかと思っているうちにその自転車がまっすぐ私めがけて突っ込んで来た。避ける空間が十分あるのに、避けもしないで真っ直ぐ向かって来る。最後にはとっさに横に避けながら身構えた私の左腕に自転車のハンドルがぶつかって前輪が真横を向いたから、彼女は私と頭同士がぶつかった上で、自転車と一緒に前に転んだ。
転んで直ぐ起きあがった女性は、大変な剣幕で何かまくし立てている。冗談じゃないよ。こちらは歩道を歩いていたのに、そこにまっすぐ突っ込んできたのはそっちじゃないか。中国語では言えないけれど、黙っていてはこちらの損と思って私は日本語で喚き返した。しかしこのままでは厭なことになりそうなので、人が集まる前に、お互い言葉のとぎれたのを機に私はさっさと歩き続けて現場を去った。
隣の教授室にいる中国暮らしの長い大島先生と、以前自転車に乗る話をしたことがある。ここで自転車を持てばとても便利だろうに、大島先生はどうして自転車に乗らないかという話だった。「乗っている自転車が誰かにぶつかったとして、その時まともな中国語で対抗できなければ寄ってたかってすべてこちらの責任にされてしまいますよ。だから、私は中国語を話せるし、自転車にも乗れるけれど、そんなことに巻き込まれるのは厭だから、自転車に乗りません」ということだった。
自転車に乗るなら中国語が必要でも、歩いているだけなら言葉が分からなくても良いと思っていた。しかし、こんな具合に事故に遭うのでは喋ることがどうしても必要である。中国語の学習に身を入れざるを得まい。事故への備えではなくてもっと愉しいことが期待できるなら、学習にも身が入るのだけど。
中国語は以前の先生だった秦くんには見放されてしまった。秦くんと同じように日本語の巧みな麦都さんに教わる手もあるけれど、麦都さんの愛の鞭は恐ろしいだろうなあ。秦くんの可愛い彼女に教わろうか知らん。
一昨年、中国は宇宙ロケットに成功し、世界で有人宇宙ロケットに成功した第3番目の国になった。この時は中国中が成功によって大騒ぎだった。大学の中にも色とりどりのポスターが貼られて、この快挙が祝われていた。このときは直ぐそのあとで日本の衛星ロケットが打ち上げに失敗してしまった。「おめでとう。良かったね、成功して」という私に研究室の王くんは、にそにそと抑えても湧き出る笑いをかみ殺して「日本は失敗してしまいましたね」と同情して見せたけれど、このことが中国中の喜びを更に加速したことは想像に難くない。
宇宙ロケットというのは精密機械であり、精密制御の申し子なので中国は日本も及ばぬ技術を持っていることは確かだけれど、これは一点豪華主義と言うところであって、ほかの民生品は六十年前の日本の敗戦後の混乱期の製品と似たようなものもまだ多い。
たとえばプラスチックのラックを例に取ると、肉厚でがっしりとした製品も勿論あるけれど、それだと値段が張るせいか、肉厚を落として薄くした製品も出回っていて、丈夫さは値段と間違いなく比例している。安いものは間違いなく粗悪品である。粗悪でも、一カ所に置いて動かさなければそれなりに物入れか物置の役は果たす。
しかし椅子ともなると粗悪なためにキャスターが壊れてしまうと椅子の用をなさなくなる。私たちが大学の新設の教授室に案内されたとき、私と妻用の二組の机と椅子が、だだっ広い60平方メートルの広さの部屋に置かれていて度肝を抜かされたのだった。なにしろ、机の広さは畳1畳より大きいくらいで、椅子の背は、こちらが立っていても胸まで来てしまうくらい豪華なのだ。
この二組の机が向かい合わせに置いてあって、隣の池島先生は「先生たちお二人は愛し合っていて、互いにいつも見つめ合っているから、この配置なんです」なんていう馬鹿なことを言っていたけれど、配置は直ぐに互いに真っ正面に向き合わないような配置に直したから良いとして、この椅子は豪華すぎて不自由だった。
豪華で大きいから座面が大きく、脚の短い私としては、深く腰掛けても膝のところで邪魔されておしりが椅子の後ろまで行かない。したがって浅く腰掛けて作業するか、背もたれに寄りかかってトロンとお腹を折ることになってしまい、椅子の豪華さが教授の貫禄を見せるのに役立たない。
中国で会議のテレビ中継を見ていると、偉い人は特大の椅子に座っている。どの椅子も大きくて奥が深いから誰もがペロンと後ろにもたれかかっていて、だらしない印象を受ける。頭を生き生きと使って議論に集中しているようには見えない。
この教授室の椅子は見かけの豪華さと裏腹に二ヶ月もしないうちに椅子の回転が悪くなって、しかも傾きが出てきた。キャスターの一つが壊れたのだ。ひっくり返して調べてみると、薄いプラスチックの柔なキャスターで、鉄で補強された木製の椅子の重さを考えると、壊れないのが不思議な位ちゃちである。
交換して欲しいと思っても、椅子を売ったところは言を左右にして替えてくれない。新しいのを欲しいと思ってもそこでは手に入らない。日本なら、壊れれば直ぐに付け替えてくれるし、自分で修繕したければ東急ハンズに行けば好きなキャスターを自分で選べる。それに第一、今の日本ではキャスターが簡単に壊れるような椅子は売っていない。
壊れた椅子をずっと我慢して使っていたけれど、これでは身体に良くない。豪華でも使いにくい椅子なので、いっそのこと新しいのを買おうと思って家具の専門店に出かけた。家具城と呼ばれている専門店が、瀋陽の西のはずれにあり巨大なビルを構えている。どのくらい大きいかというと、面積がラグビー場くらいといったらよいだろうか、それ程巨大な売り場も、柱で区切られるブロックごとに実は区切られていて、それぞれが別の店である。つまりここでは店ごとに陣取りをしていて、商品で分かれていないので、こちらの店の事務椅子、そしてまた歩いてここにもあったといって事務椅子を検討して行かなくてはならない。
椅子を見てどこでよい椅子を見分けるかというと、座ったときの座面の感触のほか、背もたれの高さ(肩までの高さがあると日常作業に向いていない)と、背もたれが腰骨を押してくる強さ(深く腰掛けたときに腰椎を後ろから押す強さが調節できること)、五脚の金具の長さ、強さ、そしてキャスターの具合である。
何カ所もの店で椅子を見て、触って具合を確かめ店の人と値段を交渉して、買うことを決めたが、欲しい椅子二脚がそこにはなかった。注文を受けて作るので4日待って欲しいという。そして注文するなら今金を払って欲しいという。しばしためらったのは、金を払ってから作ってもらうと、手抜き、あるいは粗悪な部品を使う可能性もあり得るので、今これでよいと思った商品と同じ物を受け取れる保証が、残念ながら、ないのだ。でも、その時はその時のことと思って椅子二脚を注文し、また取りに来るのは敵わないので配送を依頼して現金で支払いをして大学に戻った。
椅子は5日あとの土曜日に配送することになっていたが、土曜日には届かなかった。家具城に一緒に行ってくれた院生の王Puくんが電話をしたところ、月曜日に来るという。
月曜日に配送がなく、夕方また王くんが電話すると、明日火曜日になるという。この時は温厚な王くんが声を荒げて話しているのを初めて聞いたが、火曜日一日待っても届かなかった。水曜日朝、王くんは今日は実験があるので、出かけられないけれど、明日には自分で行って交渉してくるという。タクシーに乗っても片道25分もかかるのだ。何かほかの方はないかと検討したけれど、それ以外なさそうだ。
という具合に私たちのいらいらがどんどん高まった水曜日の午後、やっと椅子が二脚運ばれてきた。それも椅子を運んできた人が大学の門から、王くんに電話してきて正門まで持ってきたから取りに来いという電話があったのだ。遅れて済みませんの言い訳も謝りの言葉もなかったらしい。どうもここではそういうものらしく、そんなことを気にしては毎日が過ごせない。
王くんが正門から運んできてくれた椅子は、幸い、それから3ヶ月経っても、機嫌良く機能を果たしている。
2003年まで瀋陽におられた山崎由紀先生から連絡があり、先生の紹介記事を更新した。山崎先生のブログは以下のとおりです。
http://plaza.rakuten.co.jp/yukic08/
加藤正宏先生から「6、満鉄附属地(その1、和平広場周辺と民主路)補足」が届いた。」
前田先生の友人の「栗原節也さんのメール及びメールに示唆されて」の補足が出来上がった。6月12日の第1回瀋陽史跡フィールドワークに参加された方には大変身近な話題です。
朝、私たちよりも一寸後から研究室に来た関さんが日本では「寿」にあたる喜の字が二つ並んだ字をチリバメタ紅い袋を鞄から出して「はい。これ」と日本語でいった。コンビニで売っている飴の入った袋と同じくらいの大きさで、しかもいろいろの種類の飴が入っている。ただし紅い字で溢れている。これは慶事用、特に結婚のお祝いだ。
彼女は、5年位前に日本の医学部に10ヶ月滞在して実験をしたことがあると聞いている。彼女は、日本語は少し分かるし、このような簡単な日本語なら使うことが出来る。でも、それ以上は無理なので私たちが普段使う言葉は英語である。
関さんが昨日誰かの結婚式に出て、その時景品で貰ってきたのかというのが最初の印象だった。「How was the wedding party?」と聞くと、「I don’t want to have my wedding ceremony.」という返事が返ってきた。とんちんかんなので、「What is this for?」と聞くと、「I got married.」というではないか。彼女は結婚したと言っているのだ、毎日同じ研究室にいてちっとも知らなかった。貞子と二人、しばらく唖然として声が出なかった。その間めまぐるしく頭の中は回転していて、「前は付き合っているボーイフレンドがいるって言っていたけれど、去年の秋には結婚をやめたって言っていたじゃない。いま結婚したというは、はじめ聞いたときの人だろうか、それとも別の人なのかなあ。こんなことを聞いてもいいんだろうか?」と考えていたのだった。
彼女は何年か前に薬科大学を卒業してすぐteacherになった。薬科大学のteacherというのは学生に向かって教科書を使って教える先生のことで、教授の数の数倍はいるらしい。この大学で生物化学の講義数がどのくらいあるか知らないが、教授は私が来て二人になったが、その他はteacherが10人いて、これで全学の講義をまかなっている。
大学を出たばかりで大学生に講義をするのはしんどいだろう。そのためか殆どのteacherは改めて修士コースに入るそうだ。関さんはこのようにしてこの大学で修士を取り、その時に日本に短期間留学したらしい。そして薬理学の主任の王先生に紹介されて博士課程を私たちのところでしたいと希望して入ってきたのだった。実験をほとんどやってこなかったためか、最初はだいぶまごついていたようだけれど、人柄はよく、さらによいのは一生懸命やるぞという気持ちが彼女の丸い身体から何時もいっぱい発散していることだった。小さくてグラマラスなので、昔の言葉で豆タンク、私の学生の頃の言葉だとセクシーダイナマイトと呼べる、元気のよいお嬢さんである。今は実験室の机に小さくて丸い手のひらにのるくらいの遠心機があってチビタンと言う名前なので、今の時代の表現なら、さしずめ関さんはチビタンである。
女性に「Congratulations!」といってはいけないと聞いているけれど、そのチビタンが結婚したと聞いて、思わず口に出てしまった。女性は群がってくる男性の中から一人を選んで結婚するから、結婚できてよかったねという意味でCongratulations!と祝福されるのは男の方だけなのだ。しかし、この大学の中で、そしてうちの研究室の中で彼や彼女のいない「独り者」の学生はほとんどいないから、最年長の彼女に対して、やったぁ、よかったね、という気持ちが出てしまったのだ。
「私は結婚式をしたくなかった。」のだという。話を聞いてみると、そんなことを、以前結婚しないと聞き違えていたのではないかと思う。聞いて納得したけれど、以前この大学の先生に招かれてその先生の息子の結婚披露宴に呼ばれたことを思い出した。
それは料亭の大ホールを借り切った披露宴だったが、これはごくふつうのことで、祝日吉日になると、ちょっとしたレストランの入り口には大きな赤い色のアーチが建てられ、そこに祝結婚、そして二人の名前が並んで書いてある。ホールの奥には段があって、そこでプロの司会者が二人の紹介をし、なれそめを語り、そして二人に芸をさせる。芸をさせるというのはあまり穏当な表現ではないが、壇上に座った両家の両親の前で、そして二百人近い来客の前で、司会者の言葉のままに新婚の二人は言われたことを演じるのである。どんな言葉で結婚の承諾を求めたか、最初のキスをどんな風にしたとか・・・。
それをホールの丸テーブルについた私たちは観ているわけである。約30分間、それは騒々しくしゃべりまくる司会者のショーで、それが終わった後は、皆ひたすら食べて飲みまくるだけで、祝いの言葉の一つもなかった。
中国の結婚は日本と同じで役所に届けることで発効する。結婚式を取り立てて重要視していないので、結婚式を執り行うことはなく、このような披露宴が結婚しましたという宣言になるようだ。関さんはこのような見せ物になる結婚披露宴をしたくないということで頑張っていたらしい。そして初志貫徹をして騒々しい披露宴抜きで実質的に結婚しましたと言うことになったようだ。
彼は瀋陽の出身で瀋陽郊外の大きな航空機製造工場で働いているという。彼女が研究室に二年前に現れたときの彼と同じ人だったようだ。どうでもよいことだが、それを聞いて内心ほっとした。バスで片道二時間くらい掛かるので、普段は今まで通り大学の中の宿舎に住み、週末だけ一緒に暮らす生活をするとのことだった。
この日の朝次々と研究室に入ってくる学生たちは関さんが結婚したそうだと聞いても誰も大騒ぎをせず、飴の袋を貰いながら、そうよかったね、という程度の対応だった。日本でこんなことがあったら皆大騒ぎをしただろう。つまり「1.彼らはこういう時大騒ぎをしない」
これも、ところ変われば品変わる、の一つの例かと思ったが、皆が知っていて私たちだけ知らなかったという可能性もある。でも、そうだとしても、誰もそれを私たちに話さないということもないだろう。秘密にする必要はないのだから。「2.人の結婚話には大して興味がない」ということだろうか。いずれにせよ、日本の若い女性とは反応が違うようである。
Visa、居留証、専家証の更新のために、国際交流処の丘さんに連れられて出掛けた。
連れて行かれたところが、公安局出入境管理処で、後の二つを扱うらしい。一人800元。
Visaの有効期限は7月末日までで、8月第1週に日本に戻る予定だから、更新が出発までに間に合うかどうか心配になってきた。国際交流処の蔡さんに上記の3つを渡したのは6月23日だったのだ。
新たに9種類の遺伝子のプライマーを設計して、今日王麗が発注した。みなの仕事の進展が楽しみである。
胡丹には、GD1a抗体を用いてカベオラを二種類に分けてシグナル分子を二種類の細胞で調べるアイデアを説明した。やる気になったみたい。
Kanさんとmeeting:用いる阻害剤の検討。LYでLL細胞を処理しておいてGD1aを加えたときにどうなるかもやるように指示した。
夜うちの前で茹でたトウモロコシを買う。芸豆、椎茸、豆腐のスープ。
夜はYao老師がうちに。
YahooのGeocitiesが用意している日記帳をホームページ係りの日記として今後利用しようと思っています。書き込みが楽に違いないからです。
というわけで、これは、今日でお蔵入りです。ここに二年間書いてきたのは、瀋陽薬科大学の山形達也です。今までの記録は「活動記録」から辿れるようにしました。
さあ、係の児崎先生、岡沢先生、鳴海先生、出番ですよ。
今日やったことは、ゲストブックとホームページ係の記録のリンクをホームページの表紙に付けたこと。
ゲストブックは今までの掲示板に代わってもっと利用されることを期待している。掲示板は、本来の意味に戻り「お知らせ」でよい。それに、この係の記録をつけたこと。
うまくいきますように。
今日も停電1回。今週になってから昨日までは毎日2回くらいだったので、ちょっとましかもしれない、相変わらず予告なし。ただし今日は5分くらいで通電。
研究室の電話代5月分を明日現金で支払いに来いという電話。6月に通知があってそれ以来毎月銀行に自分で足を運んで、自分の金で払っている。ここは日本の常識が通らない国。
胡丹に新しい研究の仮説を説明。ガングリオシドで仕分けられているカベオラらを別々に取り出して調べよう!というアジテーションに乗ったみたい。
王Puは、B16細胞で、ガングリオシドの有無で発現のOnOffが支配される分子を見つけた。これはガングリオシドの機能に新しい光を投げかけるものである。大棒了!
王麗はFBJ細胞でFasリガンドが押さえられることを見つけた。これも前記と同様、大棒了!
私は論文書き。構想を大きく変えないなら、だいたいの枠組みができたと言って良い。文献も90%網羅した。
国際交流処の蔡さんに電話して貰ったところ、Visaの更新は専家証が1週間後に戻ってきたら直ぐにやりますとのこと。8月2日の航空券を全日空に予約した。
石井康男先生から電話があった。明日帰国されるとのこと。
石井先生は7年間遼寧大学に勤める傍ら瀋陽日本人教師の会の中心となってこの会の円滑な運営に努めて来られた。この秋の活動のよりどころとなっている日本語資料室は大阪のNPOの協力で成り立っているが、これも石井先生の努力のおかげである。
「石井先生、本当に長い間この会のために尽くして下さってありがとうございました。異国の地で皆がほのぼのと楽しく仕事が出来るのも、先生を中心としたこの会のおかげです。寧波に行かれてからは寧波の日本語教弁論大会の開催に向けて努力されるとのことですので、これからも手を携えて中国における日本語教育の発展に尽くしていきましょう。」
石井先生は日本語資料室の運営資金に石井先生個人のお金を加えて資料室のコンピューターを整備してから瀋陽を去ろうという考えをお持ちのようである。資料室のPCは十分に機能しているとは言い難いので、ちゃんとしたものがあるとよい。
しかし、今まで会の中心だったからといって個人的責任を感じる必要はないと思う。今度の9月に会員が一緒に良い方向を考える必要があるだろう。
ところでホームページの仲間に、新しいゲストブックの設置、それとこの日記帳の存在のmailを出したけれど、誰からもまだ反応がない。
今まで自分のホームページに書きためたエッセイをまとめて印刷し、製本に出した。全部で175ページ。
この建物の1階にそのような部屋があり製本を引き受けてくれる。1冊5元。
出来た頃行ってみると、縦印刷で右綴じのはずが、左綴じにされてしまっていた。これでは真ん中のとじしろに余白がなくて読めない。印刷を無駄には出来ない。それで、右綴じにして、封じてしまった左端は出来るだけ損害の少ないように切り落とすよう頼んだ。
瀋陽日本人教師の会の石井先生から電話があった。明日帰国予定。当分会えない。石井先生には大変お世話になった。
カベオリンの論文のDiscussionがまだ不備。関係ある論文を読みあさる。
全日空からe-ticketを受け取るためのfaxが送られてきたが、インクが切れてしまって印刷不能。明日胡丹に行って貰おう。
このごろ頼み事は皆胡丹で、この数週間、何時も胡丹がトマトを切らさないよう買ってきてくれる。
3時のmeetingは胡丹。detergentによる抽出の違いをしらべている。実験ごとに結果をよく眺めて気づいたことは必ず書くように指導した。
今作成中のカベオリンの論文の投稿先を考え直した。その新しい構想に基づいて、王麗に図の作成内容を話した。数日で図が完成し、論文も完成することを夢見ている。
昼は日本語資料室に貞子と出かけた。借りている本を返し、新しく本を借りてきた。食事は下でいつもの豚肉カレーを。研究室に戻って1時半。
帰りのタクシーで「薬科大学」がちっとも通じない。難しい発音なので「科」を気にしすぎるあまり、おかしいのかもしれない。「ああ、薬科大学ね」と運転手から返ってきた返事の発音の無造作なこと。
論文は何度見ても直したくなって、まだ完全版にほど遠い。夕方の6時で今日は打ち切り。
「瀋陽だより」はトラブルがあったけれど一応4部が綺麗にできあがった。20元。この1部は、「瀋陽だより」の最初のファンである谷孝子さんにこの夏帰国の折りに進呈する予定である。
胡丹が三好街に出かけてfax電話のインクを買ってきてくれた。1個で何と230元。
6時半にうちに帰ってインターネットを見ると「午後4時35分、足立区で震度5強」とあるので、真っ青。ここに来るまでお世話になった日本皮革研究所のあるところで、この建物は亀裂だらけなのだ。
研究所の人たちにmailを書く。夜楠畑さんから返信。怖かったそうだ、建物と人は無事。よかった。
HP係の児崎先生から昨23日返信があった。
彼女は今期で瀋陽を離れる。26日に帰国の予定とのことで、もうこれ以上はHP係として何かやっていただくのは無理とわかった。
昨年春相棒の河野先生に去られてどうして良いかわからない私を、児崎先生はほかの係をしながらも助けて下さった。おかげでHPは充実し、さらに発展させることが出来た。
児崎先生からHPへの提案は:
『今後への提案としては、やはり日本語教育に関する情報が増えてほしいなあと感じています。
現在、既に弁論大会や日本語クラブ内の記事など日本語教育に関するものはありますが、現場の様子や教師の体験談など生の声を伝えるものがあると、日本語教育関係者にとってはありがたく、より興味深いものになるのではないかと考えています。
具体的な案としては、<教室でのハプニング><好評だった授業><失敗談>などテーマを設けて書いてもらうのも1つの手かと思います。気楽に書ける感じのものだと書きやすいのではないかと思います。』
「児崎先生。お世話になりました。どうかお元気で。再見!」
昨晩は日本語資料室で借りてきた富島健夫の「恋と少年」を読んで夜更かしをしてしまった。
1931年朝鮮生まれの作家なので自伝的に描かれた小説の時代は、私にもだいたいがなじんだ時代だ。杉良吉という主人公の高校生活が中心である。私にも高校時代の思い出は山のようにあるけれど、さすが作家を志すような人は高校生活を多感に過ごしている。
同じように多感だったと思うけれど、書き残こすとがなかったから、比べようもないわけだ。というのが、真相だろう。人ひとりごとに、小説が書けるのだ。
朝起きて、まだ寝たりなく、昼1時まで寝てしまった。日曜日だから出来ることだ。一つには、私たちは、この歳で働きすぎなのだと思う。毎日の疲れが一晩寝たくらいではとれずに蓄積しているみたいだ。
3時から大学に行って、論文作成の続き。
中国は広いからあちこちで大地震の被害が報告されているが、瀋陽の地には地震の記録がないという。日本を見慣れた上で瀋陽の建築風景を見ていると柱の中に入れる鉄筋の細くて数の少ないことには驚かされる。地震がなければこれでよい。しかし日本なみの地震があったら、まず瀋陽ではたいていの建物が倒壊するに違いない。今私たちは日本に住んでいないけれど、頭は何時も地震のニュースに敏感である。
7月23日土曜日の夕方は6時半頃うちに帰っていつものようにMacパワーブックG4をインターネットに接続した。最初にYahooが出るようなっているブラウザーに「4時35分足立区に震度5強の地震」とあるのを見て、凍り付いた。貞子に知らせようと思っても声が震えてしまう。
瀋陽に来るまで、大学の定年後5年間私たちが世話になった研究所が足立区にある。この研究所は財団法人で、日本が足音も高く軍国主義の道を歩んでいた頃、皮革事業で大もうけをしていた会社が財団法人として作ったものである。昭和のはじめに設立という非常に歴史の古い、そして今時の省庁の利権確保のための外郭団体と違って由緒正しい財団法人である。
この研究所は、皮革本社が持っている研究所と同じ建物の中にあった。研究所の建物は昭和30年代の初めに造られたもので、そのころはやっと「もはや戦後ではない」という言葉を互いに掛け合って生活向上に励んでいたくらいだから、まだ日本は1ドル360円の貧しい時代である。
コの字型に両側にウイングがのびている3階建ての建物は広壮で、当時は人のうらやむ広さと設備を持った白亜の殿堂だったに違いない。この建物が出来た時は、当時日本にはまだほとんどない機器がずらりとそろっていて、当時の東京医科歯科大学の田宮信雄先生など新進のコラーゲン研究者がこの研究所に日参したという話が残っている。
今から50年前の建物なので、補修に手をかけているかいないかで建物の寿命は大きく違ってくるが、足立区ではそれ以前の問題がある。というのは、ここは荒川の堆積層の上に建てられた建物で、当時の建築技術では岩盤まで到達する基礎を打つことが出来ず、松の丸太を縦に何本も沈めた上にコンクリート3階建てを建てたのだった。軟らかい地盤の上に重い建物が乗っているので長年の間に建物が沈むけれど、全部が一斉に沈むことはなく場所で違う不等沈下が起こる。その結果、建物の柱、梁、壁に亀裂が入り、それが年々広がっているというのが私たちの行った頃の状況だった。
どの部屋も床が平らではない。従ってドアがきちんと開かず閉まらず、どの部屋もドアの上下を切って付け替えていたか、ドアを取り外して改めて引き戸を付け直していた。当然ドアには鍵が掛からず、施錠できないけれど、この研究所は本社の敷地に工場と一緒に建てられていて、敷地全体として守られていて、研究所にも外部の侵入者がいないという前提だった。最初は不安だったけれど、私たちが世話になった5年間、泥棒が入ったことはなかった。
ともかく、私が貰った部屋から実験室まで歩いていくと、最初は登りでしかも身体を左側にちょっと傾けないとバランスがとれなかった。角を曲がってからは今度は明らかに下りになることが実感出来るくらい建物はあちこちが傾いでいた。当然のこと、これは研究所の人たちの不安の種となり何時も恐怖が語られていた。地震があると世間では何ともない揺れがここでは大きく、突如建物が揺れ出すと身動きもならず、壁の亀裂をじっと見つめ、それがこの瞬間広がらないことを祈るばかりだった。
研究所の所長がこの状況を放っておく訳がない。機会があるごとに本社の上層部に話をしていると聞いていた。しかし、研究所長は本社の役職にも入っていないし、皮革事業が不況産業でもあるということで建物改修あるいは新築案は、まるで問題になっていなかったみたいである。ある時足立区の消防署員が視察に来て建物の亀裂を見てこれはひどい、これを放置しておいては人命無視と同じだと発言したとか後で聞いたけれど、それが具体的に取り上げられたとは聞かなかった。
このような時法律はどうなっているのだろう。危険な建物を見つけた時に、責任官庁があるとして、そこがこれは使ってはならないと公的な発言が有効に出せるのだろうか?助言か命令か、そういうことが可能だろうか?これの出来る法律があるのだろうか?
そしてそれを聞く側は景気の波に左右される企業なら必ずしも言われたとおりは出来ないかも知れないが、法律はどうなっているだろう?後になって、地震で建物が崩壊し、それが人命にも及んだ時、誰が責任をとるだろうか?
人の出来ることを尽くしてそれでも被害が出た時、私たちはこれは天災だと言ってこのような地に暮らさなくてはならない自分の運命を諦めとともに受け入れる。でも、たいがいの災害は人災なのだ。そしてもし足立区のあの建物が地震で被害を受けて、それが人命にまで危害が及んだら、危険な建物を放置している以上、明らかに人災である。本社の首脳部の責任は逃れられまい。もちろん、研究所の建物がいかに危険な状態であるかを彼らが認識する機会が何度もあったことが証明されればの話だが。
そしてそのとき彼らの責任が追及され、罪となっても、そのときでは遅いのである。そのことが現在明らかに予想されても、今は誰も何もしようとしない。会社の首脳部の人たちは未だに重役出勤の時間で会社に来て、夕方には銀座のクラブで遊んでいるようなところだから不思議はないのかも知れない。
しかし、仲間だったあのまじめで優秀な研究員の人たちが、東京をいつか襲う地震で建物の崩壊とともに命を失うかも知れないと思うと、私を5年間面倒見てくれた会社だけれど、怒りに震える。
直ぐに安否を問うて出したmailに、研究所の人たちから続々返事があった。幸い建物も人も無事だったとのことだった。けれど、地震は必ず来る。そしてこの建物は必ず潰れる。わかっていても、何とも出来ないもどかしさ。今の私には、私たちの面倒を見てくれたという意味で好人物といえる一人一人の首脳たちを呪うしかないのだろうか。
23日の地震のニュースで、ニッピの研究所が耐震性に大きな疑問のあるまま放置されていることを思い出した。
不等沈下により建物の柱、梁、壁のあちこちに亀裂が入り、消防署に危険が指摘されている。しかし本社は予算不足で放置している。今に予測される関東大地震があったら、そして人がそのとき中にいたら、絶対に助からない。
それがわかっていて何もしない本社の偉いさんたちに怒りの火が燃える。
それで、私のホームページのエッセイにそのことを書いた。淡々と。今までに危険が指摘されているのにそれを本社が握りつぶしていることを。
何かの役に立つだろう。一番いやな想像は、地震で研究所が倒壊して、誰も助からず、そして本社の人たちが責任を追及されている図である。そのときここに書いたエッセイが告発の助けになり・・・。
土曜日に安否を尋ねたニッピの友人たちから続々と返事あり。今回は無事で本当に良かった。
一日論文のDiscussionで悩み抜く。再三再四書き直し。これは、決め手になる実験をしていないからなのだ。自業自得。
3時に鄭大勇とmeeting。予想通り無血清でガングリオシドを持たない細胞の方が弱かった。
日本にいる時中国語を習った小陳老師からメイルが来た。早速返事を書く。
朝、呂永俊先生に出会った。その後すぐに、李好枝夫人から電話があって、土曜日に自宅に誘われてしまった。今度はこちらが呼ぶ番なのに。
胡丹が蔡さんに電話したら彼は今海外。8月2日に帰ってくるという。エッ?パスポートはどうなるの? 丘さんが引き受けていて28日に手にはいるという。
Visaの延長も出来ているのでしょうね?さもないと、8月2日に出国できないことになる。
王麗が論文の図を作り出した。meetingではGT1bの効果が確かめられた。SiRNA:FBJ-LL細胞には効果が出ない。配列はS1細胞で証明済み。プラスミドがこの細胞に入らない?
論文のDiscussionはやっと完成。こんなに苦労したのは初めて。後は図の説明を書くこと。
「瀋陽だより抜粋」を作って友人に送った。厳しい審査をして貰うため。
東工大の頃の教え子から相談ごとのメイル。
昔の教え子のことで、北海道の友人にmailを書いた。返事が来てそれに書いてまた、という具合に一日何度もmailの往復をした。互いに共通の知人があることがわかり、そんなこともあって話題が広がった。世間は狭い。
また教え子とも何度もmailをやりとりした。またここでもこちらの知っている人がそうとは知らずに触れられていて、世間は狭いことを実感した。
名古屋大学の教授である友人と今度会う約束。
今日はトマトがなくなっているのに胡丹は買ってきてくれなかった。
王麗の図がだんだん出来てきている。
Kanとのmeeting:Caの阻害剤二つで共通の結果が出た。別の細胞を使ってこの阻害剤の存在下、GD1aの効果を見れば、この経路を通っているかどうかがいえる。
この結果は、ガングリオシドが細胞の中で機能しているという私たちの古い主張を支持する結果になるかも知れない。そのためにはカルモジュリンの機能を押さえて・・・。
週末の休みには瀋陽の市中を流れる運河沿いの緑地帯に、鳥かごを持った人たちが集まり、鳥市が開かれる。公園のなかの木の枝に鳥かごをぶら下げて、商売と言うよりも鳥好きのおおかたは年配者が集まってのんびりと楽しく時間を過ごしているという感じである。鳥の種類に詳しくないので、私だと小鳥、インコ、九官鳥の区別しかできないが、様々の鳥がにぎやかにさえずっている。
でも、街を歩いていて鳥の姿を目にするかというと、見かけない気がする。カラスは見たことがない。大学とうちの往復の間に7階建てアパートの裏の路地を通ることがある。そこには裏庭風に木が植えてあるし、ひまわり、オシロイバナ、ヘチマなどが植えてある花壇もあり、鶏も放し飼いにされているけれど、ここで遊んでいる雀も見たことがない。
そこを歩いて大学の門をくぐると大学の中にはいると緑が多く、大学の校門に○○花苑と書いてあるのもなるほどと納得できる。そして、正門真っ正面の3階建ての主楼の周りにはツバメが舞い、緑地帯には雀が集まってさえずっているので、ほっとする。このツバメは日本で見かけるツバメよりも大型で、しばらく空を見上げていると主楼の遙か高い屋根裏の隙間に巣を持っているように見受けられる。
このツバメの飛ぶスピードはかなりのもので、建物に近づいてぶつかるかと思う間際に羽を広げて減速して下からはどこなのか見えない隙間に飛び込んでいく。もう瀋陽でもアキアカネが舞う季節になって、たくさんのアキアカネが群れて飛んでいるが、住み分けているのかアキアカネの舞う空間よりも上を飛んでいる。
昔子供の頃トンボは飛びながら6本の脚を籠みたいな形にして飛びながらここに蚊のような昆虫を掬い込み、直ぐ口に運んで食べるのだと聞いた。大きな口は目玉の直ぐ下に付いていて、あごの下のえさ箱のえさが食べやすく出来ている。
トンボはよいとしてツバメは何を食べているのだろう。雀と違ってツバメは木の枝にはとまらないし、地面に降りてこない、見ている限り空を飛び続けている。どう考えても空中を飛んでいる間に餌を捕らえるとしか思えない。それもトンボみたいに胸に籠を作って飛びながら餌を入れられないから、飛んでいる時に空中で餌をぱくっとするに違いない。この速さで空を飛ぶ昆虫を見定めて口でくわえてしまうというのは、すごい能力である。目と、羽根との微妙な動きが完全に連動して制御されなくてはならない。おまけに空中を飛んでいる同じ餌を二羽のツバメが狙うことはない、少なくとも同じ餌を狙って二羽空中衝突するところを見たことがない。それほどツバメの飛翔は見事に制御されているのだ。ツバメのあの速さを考えると驚異的である。
宮本武蔵と対戦した佐々木小次郎のツバメ返しは有名である。小次郎が巌流島でツバメの飛翔に目をこらして、ツバメを切り捨てられるくらい技を磨いたというほど、ツバメの速度は人から見て図抜けている。
ツバメの飛んでいる姿も美しいし、見飽きることがない。ある時大学のポストに胡丹くんと行ったあと部屋に向かって歩いている時、空にツバメが舞っているので、それを指しながら胡くんに言った。「ほら、たくさんのツバメが飛んでいるでしょう?あのツバメはあれほど飛ぶ速度が速いのに、建物にも互いにもぶつからないように飛び方をコントロールできるんですよね。空中で餌をとっているのに、お互い同じ餌をとろうとしてぶつかるようなドジもしないし、見事にコントロールされていてすごいじゃないの?どうやってあの速度で飛びながら、餌をとったり、互いにぶつからないように出来るんだろう?」
胡くんはチラと空を舞っているツバメを見てこういった。「ツバメが出来なくって、人が出来ることはたくさんありますよ。」この、私の思ったことと違った返事に戸惑った私に、さらに胡くんは「先生、当たり前なことを面白がるんですね。」といってにやにやしている。
「へエー。面白くないの?どうして?」と私。胡くんは、まじめに私が聞いているので困ってしまって、もじもじした上で「だって、そういう風に出来ているんですよ。驚くことはない、当たり前のことなんですよ。」
この後私たちは部屋に戻ったので、この話は続かないで終わってしまったが、学生の中でも優秀と思われる胡くんでもこの話題に乗ってこないことに違和感を感じたのだった。というのは妻の貞子と夕方帰る時、ツバメの飛ぶ姿に見とれるのは妻も同じである。「どうしてツバメはあんな速さで飛んで、餌がとれるのだろう、どうしてお互いがぶつからないのだろう?」相手が疑問を口にすれば、「本当ね、どうやって、あの速度で飛びながら、素早く飛び方が制御できるのかしらね。」と同じようにどうしてだろうと思う。ツバメの生理学的な神経伝播速度の違いや、目の解像度の違いにまで興味が進むわけではないが、私たちは様々な現象を見て当たり前と受け流すのではなく、なぜだろうと受け止めるのが習性である。
これは科学者としての素質に関わることで、その素質故に未だに科学者を続けているのか、あるいは科学者として訓練されてこうなったのか、どちらかはわからないが、胡くんとはだいぶ違うみたいである。そして厳密な科学的検証で言うわけではないが、中国の学生は、この薬学部の学生でも胡くんのタイプが多いみたいである。
つまり世の中のことは何でも当たり前で、不思議に思うことがない。物事にあまり動じることなく、感動が少ない。しかし、科学の原点は好奇心である。好奇心が、何故だろう、どうしてだろうと、ものごとの仕組みの解明に人を突き動かし、その原理を利用して科学技術が進歩してきたのだ。
私たちの研究でも、実験をしてその結果を見て何が言えるか、そしてその次に何が出来るか、ああでもない、こうでもないと考えることが多いが、うちの院生の多くはこれが苦手である。「先生、こういう結果になりました。」といって結果を見せるるが自身の考察がない。こちらが結果を見て、こういうことが言えるでしょ、だからこういうことなら、次の実験はこれをやったらどう?ということになる。早い話、試験は教科書の丸暗記に強い方がよい成績の取れる仕組みだから、ふだん彼らの多くは考える訓練を受けていないのだと思う。
ただし、丸暗記の詰め込み教育を受けてきたかも知れないが、私はここの学生の方が日本の大方の学生よりも見込みがあると思う。それは、原動力が何であれ、真面目に勉学に取り組んでいるからだ。私の使命は、例えわずかの学生を相手にすることしかできなくても、彼らが自分の頭でものを考えられるようにすることだと思っている。
朝、驚いたことに、そして嬉しいことに北京の小呉から電話があった。internetで送れなかったので原図をCDに焼いて送るとのこと。新しく始めた商売はただもう忙しいらしい。奥さんのうちにいて、「メイヨウ房間」といっていた。まさかそちらの家族と雑魚寝ではないだろうね。
Takara のPCRキットの支払いをしたばかりなのに、Kanさんがまた注文して支払いが生じた。受け取った王麗が支払いは来月といったので、業者はむくれて帰り、そしてKanさんはめちゃむくれ。再度来て貰って金を払ったのだが(もちろんすべて私たちの私費)、こういう面倒は困るね。
丘さんがパスポートを持ってきてくれた。居留証がなくなってビザと一緒になってパスポートに張ってあるという。ビザと書いていないが、これで有効なのだろうか。OKならこれで1年延長できたことになる。
胡丹が昼にトマトを9個買ってきてくれた。先生たちが瀋陽にいる間中の分ですよとのこと。笑ってしまった。5元。ありがとう。
小呉の論文をどうするかで午後中考えあぐねる。その間、今の論文の図の説明を書く。図は王麗が頑張っているが、まだ出来ていない。
王Puとのmeeting : siRNAのtransfectionで、今までの小呉の結果がGM3の増加によることを裏付けることが出来た。目覚ましい成果である。夏の間の研究方向の指示を出す。
隣の池島先生は北京から戻ってきて、お茶のおみやげ。
久しぶりに瀋陽は好天気。
国際交流処の蔡、李さんともに不在。事務の劉さんに帰国の送り迎えを依頼した。伝わったかどうか不安が残るけれど。
隣の池島先生は11日に帰国。全日空を安く買ったという、往復が税金込みで五千元しないとのこと。こちらは6千元で買っているのに。
全日空瀋陽支店の西川さんという美人ちゃんとお話しできるから、ま、いいか。
午前中は、Pkn1, Pdk1の勉強。The Cancer Genome Anatomy Projectでは図から遺伝子をたぐっていくと、Pdk1がPyruvate dehydrogenase kinase1になってしまう。こんなはずはない。とんでもない間違いである。
北京の小呉から原図を入れたCDが昼に届いた。速い。信じられないほどの能率の良さ。
胡丹とmeeting:抽出条件は二つ。リン酸化タンパク質を調べること。
カベオリンを押さえた時の酵素活性を調べること。ガングリオシドで遺伝子発現の抑えられることを確認すること。
王麗の図は後一つ。そのために王Puが追加実験をしている。
今日も朝7時から出掛けた。胡丹も7時過ぎには研究室に来た。
論文の図の説明を書く。一方王麗も一日図の仕上げ。WondowsでPowerPointを使って図を書いているが、Canvasには及ばない。PC用のCanvasを、以前は買う気でいたけれど、今はあまりにも高価でためらっている。
論文の文献を整理。投稿するジャーナル向けに直した。この大変な作業も、EndNoteがあれば出来るのに。これは今度手に入れようか。
論文は、後2日のうちに発送するつもりで最後の仕上げに取りかかろうという気になってきた。
4 時に切り上げて帰宅。4時半に李好枝老師をたずねる。呉永俊老師。昨年8月に35歳の息子が結婚、その時に二人も芸術写真。うち中に張ってあった。李好枝 老師も書がずいぶん上手くなった。呉永俊老師の書がうち中に張ってあったが、これはさすが気品が高い。うちの中は相変わらず綺麗で、モデルルームみたい。 そのあと「孔府餃子」に誘われた。東北大拉皮、武昌魚、鍋包肉など、ご馳走の数々。私に付き合って、ビールなし、露々で請喝一口。こちらが奢る番なのに。 この次はきっと。
夜9時頃、胡丹から貞子に電話。胡丹は親にくっついて歩いている子犬みたいなところがある。
岡沢 成俊
寮の工事の影響&後遺症でずいぶん長い間ネットが使えなかったのですが、ようやくつながるようになりました。
遅れに遅れていた議事録&作文集をアップしました。
作文集はこれまでと形式を変えて個人別ファイルにしてみました。
常時接続の方にとっては見やすくなったと思いますが、ダイヤルアップの方にとっては読むのが面倒かもしれません。
弁論大会のページ本体の方の改訂は再度行います。
岡沢先生
6月定例会の記録と弁論大会の記録をアップロードしてくださってありがとうございました。
個人別のページは、日本語クラブ、記録でも最初は別ページにしていたのですが、そうすると全体のファイル数が膨大になるので、今はまとめています。
ファイル数が膨大になると、係が目を廻してしまい、新人がとりつきにくくなるというマイナス面があります。もちろん、まとめると、閲覧の時に時間が掛かるという欠点がありますけど。
朝7時から夕方7時まで、何時も通り研究室で。
論文はfinal check。PDFへの変換に成功・図もPDFに変換した。これらを一緒にすることも出来た。
午後後半は、次の論文の内容の検討。どのジャーナルを考えるかが問題。cancer関係にしよう。
International J. Cancer Res.
Molecular Cancer
International of Oncology
7月31日に久しぶりにYahooのアドレスのメイルを開けてみたら、前田先生から学校の職員旅行記が入っていた。
31日までべらぼうな忙しさで、8月2日には帰国の予定。というわけで、1日に机を片づけながら、これの編集を行った。
写真がWordファイルに組み込まれているので、一つ一つWordから写真を外してPhotoshopで名前を付けて作成しなくてはならない。それで1時間半くらい掛かってしまった。
字体の大きさなど細かいところも直したかったけれど、今回はパス。サムネイルの写真の拡大も、別のページに飛び出すようにしたいけれど、今回はそれもパス。あしからずご勘弁下さい。
帰国中はWindowsを使わないので、原稿は送って下さって良いですが、編集とウエブの載せるのは8月25日に瀋陽に戻ってからです。
皆様どうか良い夏休みを!!!
朝、学生たちが来る端から
「ハーイ、一番に来て、おめでとう。一番に来たから今夜の食事に招待しましょう!」と胡丹。
「ハーイ、二番に来て、おめでとう。二番に来たから今夜の食事に招待しましょう!」と王PU。
三番が王麗。
四番が大勇。
という具合に皆を誘った。夜の食事の食材はもうなくなったので、ちょうど良い。
セミナーにおける心構えを渡す。
評価をしたのは胡丹だけ。彼は自分で5段階評価の4といっていたが、私が見ると3。
8時半に来た易国際郵便局に胡丹とタクシーで行った。何と、カリフォルニアの仲田大輔からチョコレートが届いた!
嬉しい喜び。綺麗なカードも一緒。
仕事の話:大勇、王PU。
5時に集まったのは、上記の4人。特に言わなかったので、今回の彼らは恋人同伴なし。言わなくても一緒に来ると思ったいたので失態でした。
今回は間に合わず。6人で出掛ける。久しぶりにこぢんまりとした会。新洪記のちょっと先になる孔府餃子に行った。餃子なしで8点とって満腹。この店は美味しい。173元。
帰りは小雨。Karrefourに寄って明日持って帰るお土産を買う。干し椎茸、乾し百合、湯葉など265元。まだ雨だったので私たちが先に帰り、胡丹たちが後から荷物を届けてくれた。
荷物はこれらの土産だけ。
昼から机の片づけ。
朝7時に研究室。机の廻りを片づけて、コンピューターを箱に入れて持って帰るために鞄にいれた。
胡丹、王PU、王麗などくる。8時半にうちへ。
9時半に胡丹から電話があって、培養室の顕微鏡の焦点が良く合わないという。上手く調整できないというので、出掛ける。
見ると、どこも異常なし、来るまでの間に誰かが調整したのだろうか。
うちに戻る途中、4年生に行き会う。研究室の修士には行かないけれど、卒研に来たいという。戻ってから会うことにする。
11時半、迎えの車、胡丹も一緒。NH926で成田行き。出国のところでMacMiniを登録した。今は6,000RMBの価値がある。各書類も増えたし、通関も含めて、検査などが厳しくなっている。
全日空NH926で帰国。待っている間に首飾りの買い物。
全日空は温かい雰囲気で乗った途端に落ち着いた。トラブルもあったが、これは私のHPにすでに書いた。
うちに9時に帰着。長男が夜の食事を作って待っていてくれた。感謝。
ホームページにエッセイを書いてから、夜2時に寝る。
日本は暑い。午前中はエッセイ書き。午後、美容院に出かける。5月以来久しぶり。もう20年馴染みのマスターと気兼ねなしのおしゃべり。
3時半に終わって南林間へ。30分で玉川学園から着くと思ったら、何と50分かかった。駅前には確かにロイヤルホストがあって、そこでハーギスに会う。昔はもっと先のカーサで会ったものだ。聞くとカーサはつぶれたとのこと。
おしゃべり。投稿論文の英語を校正するために原稿を預ける。ハーギスが言うには、私の英語は99%問題ない。だけどこれは会話体だ。立派なジャーナルに出すには教養のある格調の高い英語で書かなくては駄目だ、とのことで、彼が沢山稼ぐことになった。
言われてみると、話し言葉と書き言葉が正確に区別できていない。どうすれば身に付くのだろう?日本語なら何の問題もなく出来るのだから、結局英語の使用頻度の問題なのだ。もっとはっきり言うと、勉強不足と言うだけのこと。
南林間からうちまで帰りは何と、1時間半掛かった。普段30分見ておけばよい路である。車のクーラーが故障しているので、何とも暑いこと。
昨夜胡丹、王麗たちに書いたメイルに返事が来ていた。Kasiaからも,XueLianからも返事。
朝Disneyのスーパーヒーロー映画The incrediblesを見た。アメリカ人は脳天気で、極楽とんぼ。私の仲間。
11時半に出てお茶の水の山の上ホテルに行く。名古屋大学北島先生と会食。-3時まで。
帰りたまプラーザの東急めがねによる。遠くが見にくくなって(遠視が2段進んで)右左の像が合わなかったことが分かった。右の二重焦点を注文、1週間位で出来る。帰って5時半。
夜は猿頭キノコをつかって、ビーフン。梅の乾燥葉っぱと豆腐。どれも珍し料理。隣の石井さんに少し分ける。
今日は暑かった。玉の汗が噴き出す。
朝1時間半掛かって病院に行った。久しぶり。膵臓が暴れるのか瀋陽で下痢が続いたのが気になる。胃の内視鏡。熊谷先生は信じられない元気さ。最近気づいて散歩を心がけ、時にはナムアミダブツと唱えならがジョギングをされるとのこと。4時まで。
帰りヴィラに寄ってママに会う。顔の表情が平板になってしまったけれど、何か話しかけてくれる。101歳。
その後つくし野の大雅庵によって、大エビ天ぷらソバ大盛り。
うちに着いたらハーギスから速達が来ていた。
朝論文の推敲。11:30にうちを出て、溝の口で南部線、分倍河原で京王線に乗って一駅で府中。1時間20分で到着。
グリーンプラザは駅前のビル。近くで焼き菓子を買って、mammamiaさんに「ご褒美」として、始まる前に楽屋であった。情感のある歌い手で、良いコンサートだった。彼女は日本歌曲が中心だった。mammamiaさんのコンサートのことはエッセイを自分のホームページに書いた。
小川さん、大貫洋二さんも呼んであって、その後三人で、府中の店に寄り、そして新橋のアルテリーベにまで行く。6時過ぎに到着。出演者の山越享子さんがとても良かった。
帰って11時。
新横浜9時57分の新幹線で名古屋へ。昨日買ったのにグリーン車しかなかったという混み方。名古屋の地球博覧会のため。
11:30に名古屋駅構内の時計の下で薛蓮が待っていた。ホテルアソシアにいって、食事しながら3時までおしゃべり。
その後国際ホテルにチェックインしてから娘のところに。直ぐにあさひも帰ってきて、8人で食事は手巻き春巻き。終わってから屋上に行って夕涼み。目の前が東山公園の緑で、大変結構な環境だ。
サッカーの韓国戦が始まったところでさよならをして、後半戦をホテルに帰ってから見た。
暑くて汗まみれになった一日。
昨夜電話を入れておいたPaqueちゃん(東大大学院で一緒だった林博司さん)と栄地下で出会っておしゃべり。名古屋大学を定年で辞めて今は淑徳学園の研究科長だそうだ。
昼の新幹線にやっと乗ることができてうちに戻る。
論文の推敲。
ナカジ(三菱の頃の東京薬科大学からの卒研生・そして東工大では博士課程に在学した中島英規さん)にあった。つくし野のスペイン料理店。懐かしいところである。三菱にいた頃出来てそれ以来よく行ったし、東工大の時はすぐ近くだから特によく利用した。東工大の研究室解散もここだった。
ナカジは今の仕事の状況に不満がある。現状が変わりそうな話だった。
夜戻ってきて論文を打ち出そうと思ったらプリンターの印字がかすれている。黒のインクはあるのにキイロがもう足りないから、ノズルの掃除が出来ないとPCが言う。つまりプリンターが使えない。
朝10時に港北のPCデポーに行ったが閉まっている、つぶれたのか。それで青葉台の石丸電気に行ってプリンターのインク。ついでのBook Firstに寄って文庫本をいくつか、瀋陽用に買う。
戻ってきて1時まで論文の作業。
午後2時の約束で南林間にいく。道が混んでいてとてもたどり着けない、つくし野に車を置いて電車に乗った。それでも15分の遅刻。ハーギスさんと夜の食事まで付き合う。
夜論文の続き。11時過ぎから、Fight ClubのDVDを見て寝たのが1時半。
論文の最終チェック。一日中。王麗もE-mailで巻きこんだ。
胡丹は実験がうまくいっていなくて泣きそう。
何とナカジからドイツ菓子が届いた。お礼と書いてある。いったいどういうこと?
夜は駅前のとん楽で久しぶりのロースカツ定食。
夜、The In-LawsのDVDをSaeと見る。マイケル・ダグラス。ふざけた内容だけれど、気分が乗らず、しらけた気持ちのまま見ていた。
HPに明日載せるためのエッセイを書く。中国の男のブラ、日本の女性のローウエストパンツ、ヒップハンガーを取り上げた。
on lineで投稿するための手順がある。AcrobatでPDF化した。
その後もぼろぼろと間違いが出てきて何度も作り直し。発送の最後の直前になって、Supplemental Dataは別にしなくてはいけないというのがあって、これでまた本文、図も作り直し。やっと6時10分発送完了。
昼過ぎ12時半、たまプラーザで谷夫妻と待ち合わせ、会食。イタリア料理。その後喫茶室で3時過ぎまでおしゃべり。
私のHPで最初に認めてくれたノーチャン(谷夫人)に感謝して、エッセイのまとめを二人に贈った。後1冊は、吉田さんに送るため。
めがね(右側)作り直し完了。22K。帰ったら息子が来たところだった。
疲れがひどい。一日休養。
夜7時にナルちゃん夫妻(太田稔久・真理子さん、太田さんは東工大で畑中県の学生だったが、ぼくたちと大の仲良し)と出会って、Genovaに行く。初めての店。シェフが出てきて客に気を配って、まるでイタリアの店にいるみたい。
オマール海老、トリュフ、アサリのスパゲッティなど別のものを取って分ける。デザートの菓子も美味しい。4人で18,900円。
Aichiは昼前に帰った。昼はウナギを食べて、昼寝。
夜はConcpiracy TheoryのDVDを観る。
暑い一日。敗戦記念日。60年前のこと。
銀行の貸金庫へ行く。フジモトに送金。「瀋陽だより」を東大大学院で先輩の三井さんに送る。彼女は明日帰国予定。
6:15青山一丁目で久しぶりにKasia(東工大時代の院生・私たちの研究室で二番目に博士となった)に会う。ヒロキは来られなかった。Torratoria Mikita。美味しい店。一頃よりも疲れがとれたみたいで、一段と美しくなった。
Kasiaの招待となってしまった。次女だから当然でしょう?だって。
Kasiaと共通の友人として、大貫さんが身近に登場した。
雨が降って気温が下がる。
二階のカーテンを洗濯しながら次の論文を考える。Introductionが難点。何故この仕事をしたのか。そして得た結果の説明が難しい。しかし、どうしてもsialytransferaseのsiRNAを使った実験結果を入れることが必要だ。
夕方5時半駅で二年前の東急Be 中国語教室の、小陳老師と仲間の名達さん。久しぶりに会って、おしゃべり、楽しかった。名達さんは、語学を磨いて、今では日本語支援教室で日本語をアジア から日本に来た人達に教えているという。外国人というと3年前に東急Be中国語教室で小陳老師に出会ったのが初めてだったと言うことだ。中国語だけではな く、英語も使えるようになったという。
小陳老師は東急Be中国語教室ではなく、ほかのところで教えているとのこと。英語の勉強も始めたという。お嬢さんは来年が中学受験。
彼女は湯島天神に合格祈願に行って、私たちにまでお守りを。
誰も元気で目標を立てて前進している。さて、私も。
坂本正徳・節子夫妻に会う。藤が丘のGenovaで。感じがよいし、しかもおいしい。お二人ともお元気。坂本先生は明治薬科大学の学長まで務めた方だが、全く偉ぶるところなく、研究大好き小僧の趣があって、ぼくたち大好きである。
FCCAの歴史を調べる。3階の戸棚から昔の資料を出して読みふける一日。
7時20分にうちを出て平和クリニックに向かう。9時に着いた。エコー、CTscan、胃のバリウム検診。Saeはエコーと、胃の内視鏡。問題なし。熊谷先生は相変わらず意気軒高。
前回の血液、やはりtrypsin、phosphorylaseAが多く、尿にはamylaseが多い。膵臓には問題が多いみたいだ。
帰途4時半頃横浜屋による。久しぶりのラーメンはまずい。
JBCから、投稿した論文は、William L. Smithが担当するという返事が来た。
愛知・節子が来た。高校野球決勝。駒澤大学苫小牧5-3京都外。駒澤大学苫小牧は二年夏の連続優勝で38年ぶりだとか。
夕方たまプラーザの野の葡萄にいく。和食のヴァイキング。駅で23日の成田行きのバスの券を買う。二人で5600円。
川西康博先生に電話。明日神田に出てこいという。
昼に愛知たちを送って再びたまプラーザに行き、Gran Divaで昼食。
帰り成城石井で瀋陽に持って帰る菓子のたぐいを買い込む。〜2万円
12時前にうちをでて神田の室町テクノスへ。室町テクノス全員を含めて川西老師は池島と会議があったらしい。終わるのを待たされて、そのあと秋葉原。へぎそば。
東急で、森永製菓の製品を買い集める、森永キャラメル。ビスケット、チョコレート。ココア。これは瀋陽薬科大学のそばの店を経営している老夫婦へのおみやげ。大昔、日本人と働いたとぼくたちに懐かしそうに話ししていた。
夜、貞子とふたりでグルメ寿司に久しぶり。
三階でFCCAの資料を見る。川口吉太郎さんの情熱がいまもほとばしる昔の記録。
夕方杉山夫妻と、あざみ野でそば懐石。突然雨になっ杉山夫妻は濡れてたどり着いたとのこと。
特許のことを教わる。二人は12月にpeace boatに乗るという。三ヶ月掛けて世界一周旅行という話。いいね。
朝11時に慶応大学。佐藤先生とグライコメディックスの話。社長が交代したという。ナカジ(中島英規)はそのままいる模様だ。昼からは、橋本弘信氏、福田、山本両氏を加えて会食。
2時から林原の福田氏のセミナー。題して「でんぷんを極める」。すごい。ホント、すごく勉強になった。終わってから、朱性宇と話が出来た。
帰ると愛知が来ていて夜はとん楽にいく。