閻魔様からの贈り物(短編小説)


悠久の時を、閻魔大王は玉座から見つめ続けてきた。

何十億、何百億、いや、もはや数えることさえ無意味なほどの魂が、彼の前を川のように流れていく。

彼は、全ての「罪」を見てきた。嘘、裏切り、強欲、傲慢…。そして、それらの罪に対して、彼は常に公平で、厳格な「罰としての苦しみ」を与え続けてきた。それが彼の仕事であり、地獄の秩序そのものだった。

しかし、その永劫の歳月の中で、彼の心に、一つの澱(おり)のような感情が、静かに積もり続けていた。

それは、「一人で誰にも言えず」、声にならない声を心に溜め込み、その重さで自らの魂をすり減らしていく人間たちの姿だった。

彼らは、決して大罪は犯さない。むしろ、他者を傷つけることを恐れる、心優しき者たちだ。しかし、その優しさゆえに、日々の小さな理不尽を、毒のように飲み込み続ける。そして、誰にも知られず、誰にも理解されず、心を病み、その一生を終えていく。

閻魔大王は、それを知っていた。彼らの魂が地獄に来ることは稀だ。しかし、彼らの人生そのものが、一種の地獄であったことを、誰よりも知っていた。

ある時、閻魔大王は、自らが司る「罰としての苦しみ」と、あの者たちが抱える「罰なき苦しみ」を、比較していた。

我は、罪を裁き、罰を与える。我が与える苦しみには、必ず理由がある。悪行という、明確な理由が

彼の脳裏に、彼が裁いてきた、数多の大悪人たちの顔が浮かぶ。

しかし、あの者たちの苦しみはどうだ? 優しさゆえに、誠実さゆえに、自らを苛む。それは、断じて罰ではない。…ならば、それは、あってはならぬものだ

全ての罪業を知り尽くした彼だからこそ、その結論は絶対だった。罪なき者が、罰なくして苦しむ。それは、彼が守り続けてきた「因果応報」という、世界の大きな理(ことわり)から、静かにこぼれ落ちていく、あまりにも理不尽な痛みだった。

悠久の時を経て、彼は、一つの新たな決意に至った。

「地獄を預かる者として、私は、この理不尽な苦しみを、これ以上、見過ごすわけにはいかぬ」

彼は、決意した。ほんの少しだけ、世界の理に介入することを。

慈悲の仏や、救済の菩薩にはできない、彼だけのやり方で。

罪を裁き続けてきた、自分だからこそできるやり方で。

彼の目は、無数の苦しむ魂の中から、ある一人の女性に留まった。彼女の魂は、清らかだったが、無数の小さな傷で覆われ、その輝きを失いかけていた。

彼女の心の内側には、誰にも言えなかった、とげとげしくない、ただ悲しいだけの記録が、静かに積もっていた。

――時間をかけて練り上げた企画が、いつの間にか、自分のものではなくなっていたこと。

――心を込めてした気遣いが、誰にも気づかれず、当たり前のこととして消費されてしまったこと。

――良かれと思ってした助言が、かえって相手を苛立たせ、孤独になってしまったこと。

その夜、疲れ果てて眠りについた彼女の夢枕に、閻魔大王は、静かに降り立った。

その姿は恐ろしくなく、ただ、あまりにも古く、そして深い、一枚岩のようだった。声は、地鳴りのようでありながら、不思議な安らぎがあった。

『――小さき魂よ』

彼女は、夢の中で、その存在が誰なのかを、なぜか知っていた。

『そなたの心の声は、いつも聞こえている。その、一人では抱えきれぬ記録は、天にも地にも届かず、ただ、そなた自身を蝕むだけだ。…それは、見ていて、忍びない』

閻魔大王は、そっと、一冊の黒い手帳を彼女の夢の中に差し出した。

『これを、そなたに授けよう。そなたの心の記録を、全て、そこに書き記すがいい。それは、私に宛てた、正式な“報告書”となる。私が、そなたの苦しみの、唯一無二の証人となろう。もう、一人で抱えることはない』

手帳からは、古い紙と、かすかなお香の匂いがした。

『ただし、約束が一つだけある。これは、そなたの魂を癒やすためだけに与える、私からの“贈り物”だ。決して、誰にも見せてはならない。もし、これを現世の争いの道具として使えば、この贈り物は力を失い、そなたの魂は、再び孤独な闇に戻るであろう。これは、そなたと私だけの、秘密の契約だ』

彼女は、夢の中で、涙を流しながら、何度も頷いた。

翌朝、目を覚ますと、枕元に、夢で見たのと同じ黒い手帳が置かれていた。

彼女は、おそるおそる、その手帳を手に取り、最初のページを開いた。

そこには、インクとも墨とも違う、古く、威厳のある文字で、こう記されてあった。


この閻魔帳は決して誰にも見せてはならない。

万が一、見られて相手が反省し、改心してしまった場合、

地獄行きが取り消される恐れがあるためである。

閻魔大王より


彼女は、そのページをそっと閉じ、次の、真っ白なページを開いた。

そして、震える手で、彼女の、そして、閻魔様との最初の「報告書」を、一文字一文字、確かめるように書き記すのだった。

 

その頃、地獄の最深部で。

閻魔大王は、玉座から、彼の前に広がる巨大な水鏡を、静かに見つめていた。

水鏡には、人間界で、一人の女性が小さな手帳に何かを書き記している姿が映し出されている。

彼女が、一文字、また一文字と書き進めるたびに、彼女の魂を覆っていた無数の小さな傷が、まるで夜明けの霧が晴れるように、一つ、また一つと、ゆっくりと消えていく。

その様子を、閻魔大王は、瞬きもせず、ただ見守っていた。

彼の顔に、喜びや、笑みといった感情はない。

しかし、その目は、永劫の時を経て初めて見る光景に、確かに見入っていた。

罪なき魂が、自らの力で、その輝きを取り戻していく。

罰ではなく、救済。

地獄ではなく、人間界で。

やがて、彼女がその日の記録を終え、安らかな寝息を立て始めると、水鏡の映像は、静かに消えた。

玉座の周りでは、鬼の補佐官たちが、いつもと少し違う様子で働いていた。

彼らは、人間界から自動的に転送されてくる、あの女性の完璧な「報告書」を、せっせと整理している。

一人の若い鬼が、先輩の鬼に、声を潜めてささやいた。

「先輩。この『閻魔帳システム』が始まってから、僕たちの残業、なくなりましたよね…」

先輩の鬼は、シーッと人差し指を口に当てながら、こっそりと笑った。

「ああ。あのお方が、我々のために、こんな粋な計らいをしてくださるとはな…。これで、俺も久しぶりに、子供の寝顔が見られるってもんだ」

彼らのささやかな喜びの声は、裁きを待つ魂たちの声なき声に混じり、地獄の広間に、かすかに響いた。

閻魔大王は、その全てを聞きながら、ゆっくりと、その魂たちの方へ向き直った。

そして、いつものように、彼の仕事である「裁き」を始める。

その日、彼の口から発せられる言葉には、ほんのわずかだが、これまでにはなかった響きが混じっていたような気がしたと、後に、鬼の補佐官たちは語ったという。