常識とは
設計者のいない川の流れに、あなたは気づいていますか?
私たちの足元には、見えない川が流れています。
社会を動かし、経済を動かし、私たち一人ひとりの選択を、静かに導いている、巨大な川の流れです。私たちは、その深く、そして固く刻まれた川底を、それが当たり前の景色であるかのように、疑いもなく毎日歩いています。
その流れは、あまりに自然に見えるので、私たちはその存在すら意識しません。
私たちは、この流れを「常識」と呼びます。
この物語は、その見えない川の正体をめぐる、思考の旅の記録です。
二つの純粋な願い
川の上流と下流には、二人の人物がいます。
一人は「生産者」。彼らの願いは、とてもシンプルです。
「丹精込めて作ったものを、それを本当に欲しいと願っている消費者の元へ、一つ残らず全部届けたい」
もう一人は「消費者」。彼らの願いもまた、シンプルです。
「自分が本当に食べたいものを、食べたい時に、食べたい」
この二つの願いは、本来、対立するものではありません。むしろ、互いを満し合う、完璧なパートナーのはずでした。生産者が作ったものが、それを本当に欲しいと願う消費者の元へ、過不足なく届く。これ以上に合理的で、美しい経済の姿があるでしょうか。
静かな断絶
しかし、現実の川の流れは、そうなってはいません。
世界のどこかでは、消費者の手に渡る食料のおよそ5分の1が、誰にも食べられることなく捨てられている。その一方で、私たち消費者は、自分の懐事情と、目の前のお店に並んでいる商品の中から選ぶことが当たり前だと思い、時に、本当に食べたかったものを諦めています。
なぜ、こんなことが起きるのでしょう?
それは、生産者と消費者の間に、深く静かな断絶、「情報の非対称性」が存在するからです。
生産者は、聞かない。
「消費者の本当の気持ちなど、全てを聞くのは不可能だ。過去の統計データから未来の需要を“予測”するのが、ビジネスの“当たり前”だ。」と。
消費者は、言わない。
「自分の欲求をわざわざ生産者に伝えるという発想がない。店に並んでいるものの中から選ぶのが“当たり前”だ」と。
この「聞かない」生産者と、「言わない」消費者。(生産者がサンプル調査をすることはあっても、それは全体から見ればごく一部です。)
この静かな断絶こそが、巨大な無駄と、日々の小さな「我慢」を生み出し続ける、すべての始まりでした。
設計者のいないシステム
では、この奇妙で不合理なシステムを、一体「誰」が設計したのでしょう? 政府でしょうか? どこかの大企業でしょうか?
答えは、あまりにシンプルです。
「特定の設計者はいない」のです。
これは、明確な意図を持った設計者を持たないシステムです。歴史の中で、無数の人々の無数の選択が、まるで川の流れのように同じ方向に積み重なり、いつしか誰も逆らえないほど深い「川底」を形作った。ただ、それだけなのです。
そして、その流れの中にいる私たち自身もまた、そのシステムを毎日、無意識のうちに再生産し続けています。誰も悪意はなく、誰もがそれが「当たり前」だと信じている。だからこそ、このシステムは、これほどまでに強力なのです。
シンプルな逆転の発想
この深く刻まれた川の流れを変えるのに、巨大なダムや複雑な機械は必要ありませんでした。
必要だったのは、たった一つの、子供のような、シンプルな発想でした。
「川の流れを、逆にしてみよう」
つまり、こうです。
「まず、消費者が『これが食べたい』と宣言する。生産者をはじめとする川全体の流れが、その宣言に合わせて動く。」
生産者は、もはや利益を最大化するために、常に不確実性を伴う、難しい「判断」に頭を悩ませる必要がありません。消費者の「確定した未来」のデータに従うだけで、丹精込めて作ったものを無駄にすることなく、それを本当に欲しいと願っている消費者に届けられるのです。
そして、消費者は、食べたいものを食べられるのです。
さて、これを読んでいる、あなたへ。
私たちの思考の旅は、ここで終わります。そして、ここからは、あなたの旅の始まりです。
あなたの仕事、あなたの生活、あなたのいる社会。
その足元には、一体どんな見えない川が流れているでしょうか。
その流れは、本当に自然なものでしょうか。
それとも、ただ、誰もが疑わないからという理由だけで、今日も同じ場所を流れ続けているだけなのでしょうか。
その流れの中で、あなたは、そして周りの人々は、無意識のうちに、何を「我慢」させられているのでしょうか。
そして、もし。
もし、あなたがその流れに、ほんの少しだけ逆らって、
「なぜ、こちらへ流れるのが当たり前なのだろう?」
と、問いかけてみたとしたら…?
あなたの目の前には、一体、どんな新しい景色が広がるのでしょう。
常識とは、一体、何ですか?